Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

La Scala Nights in Cinema: IL TRITTICO

2008-07-24 | 映画館で観るメト以外のオペラ 
いよいよ今回の”スカラ座の夜”シリーズも最後の夜になりました。
メトでの2006-2007年シーズンの中で、公演全体としての出来が最も良かった
レパートリーの一つであるプッチーニ『三部作』
特にライブ・イン・HDの収録日の『修道女アンジェリカ』でのフリットリの熱唱は涙なしでは
聴けませんでした。
家で録画した映像は、もう何度見たかわからないくらいなのに、今でも号泣してしまいます。

そのフリットリがこのスカラ座の公演でも、シスター・アンジェリカとして登場するとあって、
この4日連続の”スカラ座の夜”の中で、『マリア・ストゥアルダ』と並んで
楽しみにしていた今日の上映。

そのフリットリに加え、『外套』のミケーレも、メトの公演と同じポンス、ということなので、
今回はそのメトの2006-7年シーズンの公演も思い出しながら、書いていきたいと思います。

まず、三作に共通して感じたのは、スカラ座の公演、
演出も音楽がややさわりすぎ、凝り過ぎ、で、
観客側をドラマに入り込みにくくさせていたように思います。
特に、詳しくは各作品でふれるつもりですが、
メトの舞台を演出したジャック・オブライエン、
彼の力量を今さらながら感じているところです。
ちなみに、オブライエンは、ブロードウェイや舞台劇でのキャリアが長い人で、
ミュージカル『フル・モンティ』や『ヘアスプレー』の演出を担当したことでも知られています。

まずは『外套』。
オブライエンは、いつぞやのシリウスの放送にゲストで招かれた際、
この作品を、ヒッチコックの映画を思わせる、と語り、演出の際にはその雰囲気を大切にしたといいます。
彼がヒッチコック的、と表現しているのは、”誰もが秘密を隠している”
(これはライブ・イン・HDの上映の際の冒頭の解説での彼本人の言葉)という意味なのですが、
確かに、メトの舞台は、この作品の、すべてが語られているわけではない、
という点を上手く演出に織り込んでいるのが、このスカラ座と比較してみるとよくわかります。

例えば、ミケーレとジョルジェッタの赤ちゃんに何が起こったのか、
いつ頃からジョルジェッタはルイージと恋仲になったのか、
ミケーレはルイージを殺した後、ジョルジェッタをどうするつもりなのか?
(何事もなかったように一緒に居続けるのか、離婚して道をわかつのか、それとも殺してしまうのか。)
これらの事実関係に対する問いに、あえてはっきりと答えたり、説明したりしすぎず、
むしろ、それぞれの登場人物の性格描写に注意が向かっています。
この『外套』のみならず、他の二作品でも、主役はもちろん、
脇役にいたるまで、オブライエンの描写能力は徹底していて、
『修道女アンジェリカ』などでそれが激しく立証されていますので、後ほど。

逆にスカラ座は登場人物の性格描写をほとんど放置状態にしたまま、
事実のみを徹底的に追求しようとするスタンスにあります。
この方法は、歌手にそれこそマリア・カラスのような、自主的にとことんまで
役を追求し極めることができる歌手がキャスティングされていたなら、
結果も出たのかもしれませんが、残念ながら、主役の三人、
特にジョルジェッタ役のマロクにルイージ役のドヴォルスキーには、まだまだそこまでの力がない。

例えば、なぜこのジョルジェッタとルイージが惹かれあっているのか?
ジョルジェッタ役のマロクは舞台にいる間中、何が嬉しいのやら、
いつもけらけらと楽しそうなのですが、
子供を失って以来ミケーレと心が離れてしまっていること、
喜びや楽しみが欠落している結婚生活から引き起こされる倦怠感、失望、不満、
そんな生活から逃げ出したいという感情、
逃げ出した先であるルイージとの恋仲を他の誰にも明かせないという重圧、
しかし、それでもなお、まだミケーレと別れようとしないという事実、、。

これだけでも、いかにこのジョルジェッタが複雑な心情を抱えているかわかるというのに、
けらけら笑っているとは、一体、、?
しかも、ミケーレとルイージそれぞれに対する演技および歌の間で、
何の温度変化もないのをみると、
一体どういう心境からルイージと愛し合うようになったのか!と胸倉をつかんで問い詰めたくなるほどです。




このマロクは、この演技に加えて、少なくともこの役に関しては、
発声に独特の下品さがあって私は全く好きになれませんでした。
これではまるで、何の不自由もないが、夫の部下にちょっかいを出した人妻という風にしか見えません。
夫と夫の部下に囲まれ、うきうきってな感じです。それ、違うと思う。

一方、メトの方の舞台はどうだったかというと、
グレギーナは、はじめから、夫のミケーレのまわりでは、
完全に心が磨耗しきった女性としてこのジョルジェッタを歌い演じます。
しかし、ルイージが現れるほんの短い間だけは、生気が蘇り、いまや彼女にとって、
ルイージとの恋だけが、心のよりどころになっていることがわかります。
また、そのルイージとの恋は、夫の部下に手を出した、とは全く別レベルの、
二人の間に共通しているバックグラウンド、価値観の類似、といった点に根ざしていることも。
だからこそ、フルゴラとタルパの前で、ジェルジェッタとルイージが、
自分たちのふるさとであるベルビューという土地のことを歌うシーンに、
プッチーニは大変美しい旋律を与えているのです。
グレギーナおよびリチトラの歌唱は決して満点といえるものではありませんでしたが、
少なくとも役の描写という面では、オブライエンの指示もあって、ずっと整合性があって、
音楽とも呼応していました。

スカラ座の公演のほうでルイージを歌ったドヴォルスキーは、演技がまだまだ一本槍ですが、
ただ歌唱そのものはむしろリチトラを凌ぐ出来で、
声にしっかりと芯があって、この手のレパートリーを歌うに必要な声の強さがありますので、
今後に期待です。

年齢のせいもあってか、この役にぴったりな雰囲気のポンスですが、
以前はどの公演を観てもほとんど外すことのなかったほどの彼が、
近年、全登場公演数に対するコンディションが良好な日の率が著しく減ってきており、やや心配です。
メトの『三部作』での彼の歌唱は、その意味で、近年ではこれ以上ないほど
気合の入った素晴らしい出来だったので、あれを越えるのは難しいだろうな、と思っていたのですが、
案の定、このスカラ座の公演では、なんとか根性で持ちこたえたものの、
本人が出したい音の長さに体がついていけてないような場面も見られました。

恐ろしかったのは、フルゴラを歌ったポペスク。
メトの同役のブライスとは正反対のほっそりした体型のメゾですが、
このショッピング・バッグ・レディ的な役に怖いほどはまっている。
彼女が舞台に現れたとき、私はメトに時々現れるびりびりばあちゃん
あまりに瓜二つだったため、会場で悲鳴を上げそうになりました。
歌唱そのものは悪くない出来だったとは思いますが、
ブライスの会場全体をゆるがすような張り詰めた高音がフルゴラのアリアでは効果的だったのに対し、
少し個性がないようにも感じました。
このフルゴラがバッグから次々と変なものを取り出す場面がありますが、
歌詞の中に含まれているので、外すことのできない、飼い猫のための、牛の心臓(!!)を含め、
メトの演出では、小道具の仕上がりでのグロテスクさを抑えようという意思を感じますが、
スカラ座では、心臓が血をしたたらせているのに加えて、
使用後と思しきコンドームまでかばんの中から飛びだす始末。
妙なところで芸が細かいスカラ座です。

この作品は、残りの二つに比べて、観客を納得させることの難しい、
極めて上演難易度の高い演目だと私は思っているのですが、
今回のスカラ座の上演も満足からは程遠い出来でした。
いつの日か、この演目の真価を引き出してくれる公演に出会えることを祈っています。

『修道女アンジェリカ』。
一言、このスカラ座の公演は、このセットをデザインした時点で、
失敗という奈落の底へ落ちたと思う。
それに加えてシャイーが率いるオケ、、、。
これではフリットリがかわいそう。

この作品の最初から最後まで通しで使われるセットには、巨大な聖母マリアが
舞台の床に横たわっています。
巨大という言葉はその通りの意味で、舞台の端から端まで(横にも縦にも)聖母。
その顔の大きいことといったら!
そして、修道女たちは、丘のようになった聖母の体の上を歩き回り、
アンジェリカが息絶える場面では、聖母と同じ形でその上に横たわらされるフリットリ。
こういう演出は、本当に歌手に気の毒。
歌唱に加えて無駄な動きをさせられたあげく、それが報われないという事実、、。
演出家のロンコーニとデザイナーのパッリのアイディアは、非常に頭でっかちで、
観客がドラマを感じる邪魔になっているばかり。これでは何の意味もありません。

また、アンジェリカのアリア、”母もなく Senza mamma ”の後、
シスター・ジェノヴィエッファの"Sorella, o buona sorella, la Vergine ha accolto la prece
シスター、ああ、よきシスターよ、聖母はあなたの祈りに答えられた”
という言葉で始まるシスターたちの合唱は、メトの舞台がはっきりと表現している通り、
実際に修道院の中で起こっていることではなく、
すでにアンジェリカの心の中でだけ響いている言葉のはずですが、
そのあたりも、スカラ座の演出は非常にあいまいで、
まるで現実に修道女が飛び出してきたような印象を受けるほどです。

これに加えて、シャイーが『アイーダ』と全く同じアプローチ、
つまり、ある特定の楽器を強調したり、特定の旋律を強く出すなど、
個性を強く打ち出そうとするあまり、オケが大荒れ。特にラストの数分。
オケにきちんと彼のやりたいことが伝わりきっていないか、それとも、
この曲は(三部作概して全体にそうですが)、リズムの移行、曲想の変化、
と複雑な個所も多いからか、
いずれにせよ、無理して個性を打ち出そうとして崩壊するよりは、
きっちりと堅実に演奏してくれた方がよかったのに、と私は思います。

この演出とオケの二重苦では、どんなにフリットリが実力があったとしてもしんどい。
彼女のコンディション自体は悪くはなかったと思いますが、
メトでの歌唱に比べ、彼女が思い切り歌えていないように思われる個所が随所に
ありました。
メトのライブ・イン・HDでのカーテン・コールの際、万雷の拍手の中、
彼女がまだ役から抜け切れずに、呆然とした状態で挨拶にたったのとは対照的に、
今日はにこやかに子役の男の子を抱いて登場したフリットリ。
このテンションの違いが、舞台の濃さの差を物語っています。



メトの舞台のオケがややおセンチだとか、プロダクションがディズニー的だと笑うことなかれ。
いや、特にプロダクションに関しては、
あえて、そのわかりやすさをとったオブライエンの判断力を私は大いに評価したい。
ブロードウェイでの経験がそうさせるのか、彼の最大の強みは、照れなく、
誰にでもわかりやすい舞台を心がけている点にあると思います。
難解なフリをして、”意味がわからない?それは観客の頭が悪いからだ”と言って
結論づけるのは簡単だけれど、私はそれではいけないと思う。
舞台芸術は表現したい内容が観客にきちんと伝わってなんぼ、の世界のはずである。
平易な文体で、かつ、誰にも誤解されることのないように
ドラマを伝えられるオブライエンのような演出家というのは、今やとっても貴重だと思う。
そんなことをこのロンコーニの演出を見ながら思いました。
それはオケも一緒。おセンチでも、メロドラちっくでもいい、
まずは、歌と寄り添う音楽がありき。頭で考えすぎるな、です。

フリットリは本当に歌唱が安定していて、演技にも品がある。今好きなソプラノの一人です。
修道女の諸役は、メトがほとんど歌う個所がない役には若手を配置しつつ、
その他は比較的ベテランで固めていたのに対し、スカラ座は少し若手が
多かったのでしょうか?発声はきれいでしっかりしているのですが、
少し固い感じがする人が多かったような気がします。
『外套』のところで書いたとおり、オブライエンの腕が冴えているのは、
このそれぞれの修道女のキャラクターづけ。
メトの舞台は、このものの数十分の修道女たちの出番の間のうちに、
すでにほとんどの登場歌手の顔が覚えられるほどキャラクターがたっているのです。
厳しいながらもそこはかとない優しさとアンジェリカへの愛を感じさせる修道院長、
食いしん坊、または生き生きと現世と宗教の世界の間を行き来している仲間の修道女
(後者はハイディ・グラント・マーフィーが歌った)など、
まるで私たちもこの修道院に入り込んだような気がして、それぞれの人物を知っているような気になり、
だから、舞台で起こっていることがまるで自分の知っている人に起こっている出来事のように思えてくる。
それなのに、このスカラ座の『アンジェリカ』では、一人一人の修道女がまるで置物のように生気がなく、
あんなにメトの舞台では心もはりさけんばかりだった私が、描かれる全てが全くの他人事のように思われて、
どんどん心が遠いところに行ってしまいました。
フリットリのようないい歌手を登場させておいて、本当にもったいない話です。

プリンチペッサを歌ったリポヴシェクは、昨日のデヴィーアに続き、60歳を超えるキャリアの長い歌手。
デヴィーアと違うのは、声の衰えが著しい点ですが、
メトのブライスが歌ったのに比べると、かなり強面のおばさまで怖い。
その迫力で乗り切ってしまいました。
メトのブライスはやはり歳が若いせいもあってか、こういうのを観ると、
まだまだこの役の迫力を出すには時間がかかるかな、と思わされます。

このスカラ座の公演では、メトの公演ではカットされていた、
アンジェリカが自らの命を絶つために毒草を手折るシーンでの、
”夾竹桃(強烈な毒を有する)も、それから忘れな草(こちらは、
”私を忘れないで”というメッセージを残すために)もね。”という意の
歌詞が歌われる部分も演奏されています。

『ジャンニ・スキッキ』。
先ほどオブライエンが端役に至るまで役の描写が細かい、という話を出しましたが、
その彼の長所がいかんなく発揮されていたのが、メトでのこの作品。
ジャンニ・スキッキがある程度主役ではあるのですが、一にも二にもアンサンブルが重要なこの作品は、
ブオーゾの親戚一人一人が丹念に描かれているのとそうでないのとで大違い。
メトのプロダクションは下世話に走った個所もありますが(トイレを流す音の挿入など)、
気取らず思いっきり大衆的アプローチを突っ走るという決断は大正解で、
こんなに笑った『ジャンニ・スキッキ』は初めてでした。
そのメトのプロダクションでも、時代を少し現代寄りにしていましたが
(衣装の雰囲気からして、40~50年代あたりではないかと思う)
こちらのスカラ座はやや年代不詳系。ジャンニ・スキッキの格好が昔っぽいのですが、
他の登場人物は現代といってもよい格好です。
ラウレッタにいたっては、ぴかぴかした素材の布と、ぴっちりと束ねた髪が、
まるで未来からやってきた人のようにも見える。
要は、今も昔も変わらない物語、ということがいいたいのか、、?



レオ・ヌッチはまるで職人のようなゆるぎない技と自信でこの役を歌っていきます。
というか、ものすごく力強くて、こわいくらいに世慣れた雰囲気のジャンニ・スキッキです。
絶好調だったのか、声もこれまたこわいくらい良く出ているし、、。
メトでのコルベリがどこかかわいらしい隣のおじさん的雰囲気を残していたのとは
実に対照的。
これはどちらが優れている、という問題ではなく、同じ役が演じ方でこうも雰囲気が変わる、
という好例で、私はどちらも大変楽しみました。

そんなこわいジャンニ・スキッキの娘だけあり、ラウレッタを歌ったマチャイーゼ、
メイクのせいもあるのか、これまたものすごい迫力です。



軽い役をいろいろ歌っているようですが、本来この人は重い声の持ち主だと思います。
このラウレッタ役すら声が強すぎて、良いの悪いの、と判断する枠を越えているし、
(なんでスカラ座が彼女をこの役に起用したのか大いに疑問。)
まだまだ表現の面でも荒削りですが、私は面白い素質を持った歌手だと思います。
グルジア出身の彼女、雰囲気も現在の一部のレパートリーも
何となくネトレプコとかぶっているのですが、
(今年のザルツブルク音楽祭では『ロミオとジュリエット』で、
ヴィラゾンの相手役を歌ったそうですが、これはもともとネトレプコが歌う予定だったと記憶しています。)
よりスモーキーな彼女の声が生きる役ということで
精進を積んだ先のアイーダ役なんかを聴いてみたい気がするのですが、
(そしてネトレプコにはアイーダは歌えないと思う。雰囲気も違うし。)
ルックスが良いので、くれぐれも濫用されて潰れないことを祈るのみです。
というか、しかし彼女の巷のエクスポージャーの多さを見るに、
もはや手遅れなのかもしれませんが。

それからさらに観客の注目をかっさらったのは、リヌッチオ役を歌ったテノール。
若いし、ルックスも良いながら、
ちょっと羽賀○二風な水商売っぽい雰囲気が漂っているのがなんともいえませんが、
声はしっかりとしていて、かつまろやかな”男前声”で逸材です。
歌がやや押して押しての一点張りになりがちで、
もう少し引き算が出来るようになれば、もっともっと良くなると思いますし、
この役も少し彼の声の方が役のサイズを凌駕してしまっている感がなきにしもあらずですが、
彼の年齢とキャリアを考えると、破格の出来だったといえるでしょう。

見た事がないテノールだったので、手元に配布された公式のパンフレットを見ると、
ステファノ・セッコの文字が。いやいや、それないでしょう、、、こんな寂しい頭じゃないってば。


どうやら、配役交替が印刷に間に合わなかったようですが、実際に歌ったのは、
セッコではなく、ヴィットリオ・グリゴーロというテノール。



、、って、適当すぎやしないか?
歌手が命のオペラの世界。変更のお知らせくらい入れてほしい。
きっと、会場には、”へー、セッコって男前だし、なかなかいいテノール!”と勘違いした人が
たくさんいたはずです。

演出はあいかわらずやや凝りすぎ、考え過ぎで、ジャンニ・スキッキがブオーゾに
なりすましてベッドに入るために、ブオーゾの体(すでに死体)をベッドから動かすシーンの、
墓穴を思わせる少し窪まった床に、いきなりベッドが傾いて死体が滑り落ちていく様は、
『外套』のコンドーム登場場面に続いて、引きました。
この『ジャンニ・スキッキ』、演出とアンサンブル(歌だけではなく演技も含め)、
公演全体から溢れる温かい空気、とやっぱりメトの公演の方をとってしまう私ですが、
ラウレッタ&リヌッチオの若人コンビとヌッチの職人芸が気を吐いていたスカラ座でした。

”スカラ座の夜”全体について。
いまいちと思う公演&歌手に拍手が多かったり(さくら?)、
それは厳しすぎだろう!という反応があったり(これがスカラ座の常連たち?)、
いろいろでしたが、概して、ヌッチやデヴィーアなど職人の域に達している歌手を除いては、
メトで歌うときとは全く違って、歌手がぴりぴりとしているのが印象的でした。

そんなスカラ座は、貴重な場所ではありますが、
この世の中、歌手が歌うことを楽しめるオペラハウスがあってもよいではないか!
ということで、メトは今までどおり我が道を行くべし!
鞭のスカラ座に対し、飴路線をつきすすむのです!!

IL TABARRO
Paoletta Marrocu (Giorgetta)
Miro Dvorski (Luigi)
Juan Pons (Michele)
Anna Maria Popescu (Frugola)
SUOR ANGELICA
Barbara Frittoli (Sister Angelica)
Mariana Lipovsek (La Principessa)
GIANNI SCHICCHI
Leo Nucci (Gianni Schicchi)
Nino Machaidze (Lauretta)
Cinzia De Mola (Zita)
Vittorio Grigolo replacing Stefano Secco (Rinuccio)

Conductor: Riccardo Chailly
Director: Luca Ronconi
Designer: Margherita Palli
Costumes: Silvia Aymonino
Performed at Teatro alla Scala
Film viewed at Symphony Space, New York

*** プッチーニ 三部作 Puccini Il Trittico ***

La Scala Nights in Cinema: MARIA STUARDA 後編

2008-07-23 | 映画館で観るメト以外のオペラ 
前編より続く>

その一幕二場(ここからは、第二幕とされる場合もありますが、
この記事では会場で配布されたパンフレットに基づき、一幕ニ場という扱いのまますすめます。)、
冒頭は、構成的にどことなく『ルチア』の泉の場面を彷彿とさせる場面で、
マリアの幽閉場所である、フォルテリンガ城の庭が舞台。
ルチアが友人のアリサを相手に語るのと、マリアがお付きの女性であるアンナを相手に語るというのが、
シチュエーション的に似ています。
久しぶりに戸外で日の光を浴びた喜びを歌う、このオペラの中で最も有名なマリア役の聴かせどころ、
”ああ、雲よ、なんと軽やかに Oh! Nube, che lieve!”。
マリアの目にいかに外の風景が新鮮に映ったか、ということを表現するためでしょうか、
最初にびっしりと緑の葉がついた背景があらわれ、デヴィーアが歌いはじめると、
上に巻き上がっていくようにその背景が消えていきます。
そういえば、ルチアの泉のシーンも、周囲はヒースの野原っぽいイメージがあり、
自然の中で歌われる、というのも何となく共通項を感じる一つの理由かもしれません。

そして、デヴィーアが一フレーズ歌った途端、私は口があんぐりあいて、
そのまま顎が外れてしまうかと思いました。
すごすぎる!!!これが齢60ともなろうソプラノの歌?!
もちろん、60歳ですから、例えば10年前と比べると、声そのものの瑞々しさという点では
若干後退していますが、コロラトゥーラの技術はいささかも衰えを見せておらず、
それどころか、ほとんど鉄壁ともいえる完璧さを誇っています。
あれだけ細かい装飾音符を歌いながら、それでいてなお、その一つ一つの音符の長さが
はっきりと歌いわけされているそのすごさ、
どんな旋律も決して粗末に扱わず、まるで薄い絹の生地を扱うように、細心の注意をもって実行されるフレージング、
ある意味は残念かつまた将来に不安を覚えさせる恐ろしい事実ですが、
中堅、若手で、こんな職人芸のような歌を歌える人は
今のオペラ界でまず皆無でしょう。少なくとも私が知る限りはいません。

昨日の『椿姫』のゲオルギューを聴いて、彼女のコロラトゥーラも、
まあこんなものなのかもな、これでも今のオペラ界ではましな方かな、
なんて思っていた私は、大反省。
実際そうであっても(というのは、本当にきちんと歌える人が少ないから、
繰り上がり式に彼女が比較的まし、というのは事実なのだ。)、
オペラヘッドたるもの、妥協はいかん!!

この歌を聴いて、そんなゲオルギューの歌唱への感想を撤回したいくらいに
デヴィーアの歌唱には衝撃を受けました。
才能もさることながら、その上に努力に努力を重ねた人だけが到達できる高みに、
(いや、そんなことは前からわかっていたのですが、しかし、私が思っていた以上の高みに)
現在の彼女がいることを本当に思い知らされました。



フレーニが65歳の頃でしょうか、来日して、『ラ・ボエーム』の全幕公演で
ミミを歌ってくれたことがあって、その時も”これが65歳?!すごい!!”とびっくりしたものですが、
今日のこの驚愕はそれ以上かも。フレーニは素晴らしかったけど、
そこは、デヴィーアが40代なかばの女性の役を演じているのにくらべると、
ミミは20歳そこらの女性ということもあって、
歌唱をさておき、役作りでは実年齢とのいかんしがたいギャップがありましたし、
さすがに年齢のためにやや重くなってしまった声に、
”65歳にしては”という枕詞がくっついてしまうのですが(それでも半端ないすごさでしたが)、
デヴィーアのこの歌唱は、かつての名歌手の60歳の余興やノスタルジーなんてものじゃない、
歌唱と役作りの両面で、現役ばりばりの歌唱です。
大体、こうしてスカラ座の舞台に立っていること自体、立派な現役である証なのでしょうが。
(重ねていいますが、フレーニのそれがノスタルジーと言っているわけではありません。
彼女の歌唱はそれはそれで、若手が大いに見習うべき素晴らしい美点がたくさんありましたから。)

彼女のベル・カント一筋に努力してきた姿勢が、このマリアのキャラクターと共鳴するのか、
その誇り高い立ち居振る舞いには神々しさまで溢れていて、私は地面にひれ伏したいような気持ちで
彼女が歌うすべての場面を見守っていました。ほんと、かっこよすぎです。
自分自身をあまやかさない厳しさからでるこの近寄りがたいまでの迫力は、
全盛期のマリア・カラスと共通するものを感じます。
(ただし、意外ですが、マリア・カラスはこの作品を少なくとも全幕では歌ったことがない。)
そして、この高音は、、!!!!!なんでこんなすごい声が出るの?
音程も含め、きちんと音は出てますね、というレベルではない。
そんな風に守りに入らず、渾身の力を込めて、攻めの歌唱を繰り広げる彼女に、
またしてもひれ伏す私なのでした。

その後に続く、レスター伯がマリアに、エリザベッタとの直談判の場を設定したから、
その場で幽閉を解いてくれるようにお願いするんだ!と、マリアを説得しようとする二重唱、
”世界から見放され、王座から離れても Da tutti abbandonata ”も、美しい曲。
これで、子リスがこうもがんがんと声を張り上げなければ、、。

この作品、女王同士の対決とか処刑場に向かうマリア、といった一見ドラマチックな場面があるようでいて、
やや一本調子な感じがするからか(リブレットが悪いのかな、?)、
『ルチア』なんかと比べて、随分地味な位置にいますが、
美しい曲がたくさん含まれていて、すぐれた歌手を得れれば大化けするポテンシャルのある作品です。
ただ、大化けするにはマリア役だけでなく、エリザベッタとレスター伯の両方、
もしくは少なくともそのどちらかの一人が良くないといけません。
その意味では、この公演、デヴィーアのマリア役だけが図抜けていて、
アントナッチがやや不調、メリは私には問題外、という感じなので、
まだまだ本領を100%発揮しているとは言いがたいです。

作品にご興味のある方には、本領発揮度が高い演奏の記録として、
ネッロ・サンティ指揮の1972年のパリでのライブ盤CDをおすすめします。
カバリエがマリア役を、メネンデスがエリザベッタを、
そして、カレーラスがレスター伯役を歌っています。
デヴィーアと双璧の出来のカバリエ(ただし、この役に関しては
私はデヴィーアの歌唱を僅差でとるかもしれません。
カバリエのフレージングには、デヴィーアよりも少し優しい
もちっとした感触があるように思うのですが、この気位が高く芯の強いマリア役には
デヴィーアのような歌唱の方が私は向いていると思います。)、
そして何よりもレスター伯のカレーラスが素晴らしい。
カレーラス、『椿姫』のレポで書いたスコットとのDVDでも素晴らしいアルフレードを
披露していましたが、このレスター伯役での歌唱がこれまた本当に素敵。
カレーラスは、後年いろいろな重めの役も歌っていますが、
若い頃のこういった軽めの役の方が持ち味がいかんなく発揮されていて、
私はずっと好きです。
このカレーラスの歌唱を聴くと、どうして私がメリにはこの役に必要な
優雅さとか楽々さに欠ける、と感じるか、イメージして頂きやすいと思います。

後半は、いよいよエリザベッタとマリアの対決シーン。




プライドを捨ててエリザベッタに跪いてでも幽閉を解くことを懇願することがどうしてもできない
かなり頑固な女、マリア、
一方、レスター伯に愛されている彼女への嫉妬から一層その彼女の意固地さを許すことのできない
やっぱり頑固な女、エリザベッタ。
このある意味似たもの同士である二人の間には最初からぴりぴりとした空気が漂い、
結局、この会見は大失敗。
マリアをなじりはじめたエリザベッタに対して、マリアも堪忍袋の緒を切らし、
”私こそが本当の王位継承者。あんたはただの私生児でしょうが!!”と
エリザベッタに対してとんでもないことを口走ってしまいます。
もちろん、これでもって恩赦の夢も絶たれ、マリアの暗い運命が半ば決定してしまうのでした。
このエリザベッタを売女の娘呼ばわりするシーンのデヴィーアの、
これで死刑が決まろうが、私は生涯女王よ!と、顔をきっちりとあげ、笑みさえ浮かべている様子は、
長い幽閉生活の後に、はじめて、本来の自分を取り戻した!という喜びとプライドが炸裂していて、
ものすごいド迫力です。
この場面は、比較的アントナッチの出来もよく、気が強そうでいて、
しかし、マリアを100%無視することができない微妙な女心、
思わぬマリアの反応への狼狽、等が巧みに表現されていたと思います。

第二幕。(先にふれたのと同様に、ここを三幕とする場合もあります。)

一場では、いまだマリアの処刑の決定を躊躇しているエリザベッタに、
顧問役のセシルが、”あんな女を生かしていては危険”と死刑を確定する書面への署名を迫ります。
もちろん、仮に実際にエリザベス女王が迷ったという状況があったとしても、
それはおそらくより政治的な理由によるものだったでしょうが、
この作品では、人間的な理由の迷いとして彼女の気持ちを描きだすことにより、
エリザベッタに人間味を与えることに成功しています。
セシル役のテッラノヴァは、ややしゃくれ気味の顎で、ルックスのインパクトが強いですが、
歌の方も手堅くまとめていました。
この場面でのアントナッチには、もう少しエリザベッタの感情の多面性を出してほしかったかな、という気もします。
特にレスターにマリアの処刑に立ち会うように命令を下すその嫉妬と復讐と悲しみとが
入り混じる感情をもう少し深く歌い演じてほしかった。

第二場。
フォルテリンガ城のマリアの房。
エリザベッタに署名された死刑通告書をセシルから受け取るマリア。
この作品のポイントは、二人が対面しているとき以外では、
エリザベッタは逡巡したあげくにマリアに会うことに同意したり、
会ったあとですら、マリアの処刑に同意することに躊躇したりしているし、
マリアはマリアで、もしかするとエリザベッタは自分の境遇を理解してくれるかもしれない、
という一縷の望みと信頼をもって会見にいどむ、といった風であったにもかかわらず、
結局、二人はお互いがそういう気持ちを互いに持っていたとは全く想像しないまま、
相手は自分のことを憎んでいる、と信じつつ、マリアの死によって、道を分かってしまう、という点でしょう。
その望みが絶たれたとき、マリアは死を受け入れる覚悟をきめる。
史実はわかりませんが、オペラの中では、憎しみとか軽蔑といった複雑な感情の裏で、
実はエリザベッタからの理解と愛情を最も渇望していたのがマリアであった、と思えてきます。
いや、逆にそのような渇望があったからこそ、それが満たされなかったとき、
憎しみと軽蔑が膨れ上がったともいえます。
この場でのタルボ役のアルベルギーニの悲しいまでの不調は先に述べたとおり。

第三場。処刑場の控えの間。
マリアの運命を嘆く”Vedeste? Vedemmo ”以降の合唱は、
これまたどことなく、構成的に、ルチアの狂乱の場の前の、結婚の宴の招待客の合唱を連想させる、
非常に美しい曲で、
これにかぶって始まる最後の幕の最大の見せ場で、エリザベッタをも許して神に歌う
”今死のうとしているこの心が D'un cor che muore reca il perdono ”のデヴィーアの歌唱も
本当に感動的でした。

考えてみれば、タルボやレスター伯がこうして事を急いて強引な方法をとらなければ、
少なくともマリアは処刑されることもなかったかもしれないわけで、
マリアを死に追いやったのは、エリザベッタよりも彼ら二人、という気もしてきます。
とすると、最大の権力を握った女の運命の対決!と見えるものが、
実は男性によって動かされていた、ということで、
女性にふりまわされる歴史上の男性豪傑たちの逆バージョンともいえるかもしれません。

静かに処刑台にのぼり、そっと頭をのせる姿には、
静かな平安の心が、運命への諦念によってマリアにもたらされた、ということを、デヴィーアが巧みに表現。



一にも二にもデヴィーアの人間国宝級の歌が光る公演でした。

すぐに続いた主なキャスト全員でのカーテン・コールで、デヴィーアがアントナッチの健闘を大いに讃える姿からは、
彼女の芸術性を高く評価していること、
また必ずしも本調子ではなかったアントナッチへの温かい思いやりも感じられ、
歌もさることながら、後進をひっぱるベテラン歌手としての気配りも素敵でした。

さらにびっくりだったのは、個々の歌手の挨拶。
アルベルギーニが野次り倒されたのは、仕方なし、としても、
メリが拍手喝采なのは、これいかに?!
録音では捕らえることのできない生特有の輝きがあったのか?
(たまにそのギャップが大きい歌手がいるので、、。)
そして、もっとびっくりだったのは、アントナッチに思いっきり浴びせられた観客のブー。
彼女への期待がそれだけ高かった、ということなのかもしれませんが、
本調子でないことは感じられたとはいえ、とてもブーをもらうような出来ではなく、
メトならば、間違いなく拍手喝采だった出来です。
本人も少し戸惑いながらも、むっとした表情でした。
これだけ歌ってもブーを出されるとは、スカラ座、きびしい、、。
『アイーダ』あたりの公演とくらべると、ベル・カントのレパートリーを観に行こう、という観客は、
歌への指向が高い、つまり歌唱の出来には異常にうるさい傾向があるので、
それも理由の一つかもしれません。

しかし、それだけでは終わらない。
アントナッチへのブーが鳴り止まないうちに、
続いて舞台上のセットがやや高めに組まれたところに姿をあらわしたデヴィーアの、
”あんたら、ふざけんじゃないわよ!これだけの歌を聴かせてもらってブーとは
何様のつもり!”と、
観客をにらみつける表情のその迫力といったら!!
もちろん、デヴィーアにはブーから一転、大喝采とBravaの嵐だったのですが、
それでも、礼をしながら、その表情には嬉しさよりも、怒りが勝っていたのが印象的でした。
共演者を正当に評価しない観客に向かって敢然と立ち向かうデヴィーア。
もう、ほんっとに、かっこよすぎです!!!

そして、アントナッチはもちろん、アルベルギーニよりもたくさんのブーを食らっていたかもしれないのが、
指揮者のフォッリアーニという、聞いたことのない指揮者。
見た目がごっつくて角刈り、オペラ指揮者というよりは、柔道のチームの監督のような雰囲気なのですが、
そんな体育会系の彼にはこのベル・カント作品の真髄を引き出せないのか、
オケはだるだるで、オケの演奏という面では、4日間の中でもっともつまらない仕上がりに。
私も庇って差し上げることが最早不可能なほど、確かにブーでもしょうがないか、の出来でした。
ベル・カントのほとんどの作品は、限りなく歌の伴奏のようなオーケストレーションなので、
そこから何かを引き出すというのは、非常に大変だとは思うので、
何もそこまで期待しているわけではないのですが、
彼の最大の罪は、歌のリズムをきちんと歌手のために設定してあげれていないところにあると思います。
統率力がなく、歌手と、”あれ、ここ、ボク、先にいっていいのかな?
あれ?デヴィーアさん、どうします?もう少しゆっくり行ってみます?”みたいな迷いが
そこここに感じられるのです。
もっとしっかり!まとめるのはあんたなんだから!!

さて、この”スカラ座の夜”の会場になっているシンフォニー・スペースは、
これ以降も、意欲的にいろいろな直近のオペラ公演、さらにバレエの公演の映像も、
上映してくれる予定だそうです。
現在予定されているものには、スカラ座の2008年のシーズン・プレミアの『ドン・カルロ』、
2008年のザルツブルグ音楽祭から、ヴェルディの『オテッロ』、モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』、
グノーの『ロミオとジュリエット』、やはり2008年のグラインドボーンから『ヘンゼルとグレーテル』、
そして数年前のアレーナ・ディ・ヴェローナの公演より、『トスカ』と『ナブッコ』、
年不明でパルマの『リゴレット』などが、
また、バレエでは、ボリショイの『ボルト』(ショスタコビッチの作曲)と『ファラオの娘』が、
そして、スカラ座から『メディテラネア』が予定されています。
ホールの人がこれらの演目を読み上げるたび、
驚きと喜びのどよめきが会場にいたオペラヘッドからあがっていました。

2008年シーズンはメトの生公演に加えて、これらの映画館での上映も加わる
嬉しい大多忙の年になりそうな予感です。


Mariella Devia (Maria Stuarda)
Anna Caterina Antonacci (Elisabetta)
Paola Gardina (Anna)
Francesco Meli (Roberto)
Simone Alberghini replacing Carlo Cigni (Talbot)
Piero Terranova (Cecil)

Conductor: Antonino Fogliani
Director and Set/Costume Designer: Pier Luigi Pizzi
Performed at Teatro alla Scala
Film viewed at Symphony Space, New York

*** ドニゼッティ マリア・ストゥアルダ Donizetti Maria Stuarda ***

La Scala Nights in Cinema: MARIA STUARDA 前編

2008-07-23 | 映画館で観るメト以外のオペラ 
スカラ座の夜第三弾は、いよいよ、デヴィーア出演の『マリア・ストゥアルダ』。
なんでいまさらこれを映画館で?と思わされた、昨日&おとといの、
2006年公演の『アイーダ』『椿姫』と異なり、
こちらは、どうやら、2008年1月にスカラ座で上演されたと思しきもので、
やっと、リアルタイムに近づいてきました。こうでなければ!

ドニゼッティは1816年から1843年の間に実に70本以上のオペラを作曲しています。
今でもよく演奏されるか、少なくとも比較的によく名前が知られているものをあげると、
『アンナ・ボレーナ』(1830年)、『愛の妙薬』(1832年)、『ルクレツィア・ボルジア』(1833年)、
『マリア・ストゥアルダ』(1834年原典版、1835年現行版)、
『ランメルモールのルチア』(1835年)、
『ロベルト・デヴリュー』(1837年)、『ポリウート』(1838年)、
『連隊の娘』、『ラ・ファヴォリータ』(ともに1840年)、
『シャモニーのリンダ』(1842年)、『ドン・パスクワーレ』(1843年)あたりで、
1830年以降の作品に集中しています。

ここにあがった作品のうち、『アンナ・ボレーナ』(アン・ブリンのイタリア語読み)、
この『マリア・ストゥアルダ』(メアリー・スチュワートの)、そして、
『ロベルト・デヴリュー』(エセックス侯 ロバート・ダドレーの)は、
イングランドおよびスコットランドの王室を扱ったもので、女王の悲劇三部作とも呼ばれています。
また、『ランメルモールのルチア』もスコットランドが舞台。
ブリティッシュかぶれなドニゼッティなのです。

特にこの『マリア・ストゥアルダ』、私は同年に作曲された『ランメルモールのルチア』と
何となく作品のつくりが似ているな、と思いました。
主役(マリア/ルチア)が出てくるまでがやたら長い、
出てきてすぐにソプラノに大きな見せ場がある(庭のシーン/泉のシーン)、
バリトンとバスにも、端役ながら存在感が求められる(セシル&タルボ/エンリーコ&ライモンド)、
同性異パートの対決シーンがある(マリアvsエリザベッタ/エドガルドvsエンリーコ)、
作品のかなり後ろの方に合唱の見せ場がある(処刑前のシーン/ルチアの狂乱の場前)などなど。

『ルチア』のはちゃめちゃな筋立てに比べると
(『ルチア』の原作であるウォルター・スコットの作品は実際の事件に基づいて書かれたものですが、
家が仇敵同士であるとか、ルチアの恋人(オペラではエドガルドにあたる)が
外国から戻ってくるなどといった都合のよいシチュエーションはすべてフィクション。)
史実に基づいているせいか、『マリア・ストゥアルダ』の方が、確固とした一本の話の筋があり、
逆をいうと、それが退屈と同義にもなりえて、『ルチア』よりも地味な感じがしてしまうのですが、
しかし、いい歌手をそろえられれば、歌唱的には聴き所の多い作品で、私は一度も退屈せず、
むしろ、先に観た『アイーダ』や『椿姫』よりもあっという間に時間が経ってしまったような気がしたほどです。
(まあ、『アイーダ』は実際やや長いのですが。)
そう、この作品は、いい歌手を据えてくれないと、観客にとっては地獄のような作品、
逆に今回のデヴィーアのような素晴らしい歌手を持ってきてくれると、耳への最高のご馳走となります。

メアリー・スチュワートとエリザベス一世のそれぞれの人生と二人の関係については、
ご存知の方も多いことでしょうし、書いているとそれだけで3本くらい記事を費やしてしまいそうです。
私がつたない言葉で書くよりも、簡潔でありながら要領を得た文章で説明してくださっている文章が、
ネットにはたくさんあがっているので、ここでは割愛させていただきますが、
例えば、こちらの川島道子さんという方がお書きになっているものは、
ビジュアルも充実していて、しかも微妙な政治情勢、当時の人民の感情などをとりまぜながら、
非常に巧みにマリアとエリザベッタ(メアリーとエリザベス)がどのような経緯で
このオペラで描かれているような状況に至ったか、ということが要領よく説明されており、おすすめです。

このドニゼッティによるオペラは、シラーによって書かれたお芝居の台本を転作したもので、
一幕二場の二人の対決シーンなどは実際に起こったことではなく
(対決どころか、二人はじかに顔をあわせたことすらないそうです。)、
お芝居のために作られたものを、オペラにそのまま持ってきた結果によるもの。


第一幕 第一場

夫殺しのかどを理由にエリザベッタに幽閉状態におかれているマリア。
当然、エリザベッタの本当の恐怖は、血筋としては自分よりも正統な王位継承権を持っている
マリアに自分の女王としての地位を奪われるのではないか?ということであり、
マリアとエリザベッタの間はすでに険悪になっている、という前提で話がすすんでいきます。
このことと、第二幕で処刑台に向かうシーンがあることより、
このオペラでは、マリアの長きに渡る幽閉生活の最後の日々、
つまり年齢でいうと、40歳代中頃を描いています。(処刑されたのは44歳のとき。)
ということで、これはうら若い女性の話ではなく、人生経験を積んだ、
それも同様に気位の高い二人の女性の物語。
なので、この公演でマリアを歌ったデヴィーアの60歳!という年齢について、
観るまでは、”さすがにちょっぴりきついんだろうなあ、、”と思っていたのですが、
信じられないような声のコンディションと歌唱力もあって、
全くといっていいほど違和感がなかったです。
むしろ、どんなに歌唱が達者でも、この役の雰囲気を出すには、
可愛らしい若手歌手では無理なのでは?という気がするほど。
一方、エリザベッタを歌ったメゾのアンナ・カテリーナ・アントナッチは1961年生まれの46歳で、
年齢的にはぴったりなのですが、
この素顔は綺麗すぎるとスカラ座が判断したのか、



実際の顔の造作があとかたもないほどの白塗りメイクと、エリザベス女王といえば、あの!の、
ノー眉毛メイクで、体当たり歌唱です。



この方、メトで聴いたことがないなあ、と思っていたら、2006年の英デイリー・テレグラフ紙によると、
メトの『ドン・ジョヴァンニ』のエルヴィーラ役に予定されていたにもかかわらず、
ゲオルギューを同役に放り込みたくなったメトに、
”将来予定されている別の作品の役に必ずキャスティングするから代わってもられないだろうか?”
と言われたらしく、”それならば、将来も何ももう結構です。”と、
それ以来メトへの出演を一切とりやめてしまったというガッツの持ち主。
ゲオルギューのために、こうやって優秀な歌手を取り逃がしているとは、メトのなんとお馬鹿さんっ!!!!
おかげさまで、NYのオペラへッドにとっては大きな損失です。
同記事によれば、彼女はtop D(三点二)の音まで出るため、
ソプラノともメゾとも区別をつけがたい、と言われ続けてレパートリーが定まらず、
今の地位を確立するまでにはそれなりの苦労があったようです。

ウェストミンスター宮殿が舞台になる第一幕では、マリアは一切登場せず、
このアントナッチ歌うエリザベッタと、二人の王女をとりまく人物、すなわち、
エリザベッタに片思いされつつも、両思いの相手であるマリアを幽閉状態から救おうと
奔走するレスター伯ロベルト、この二人をいつもそっと支えるシュルーズべリ伯タルボ、
そして、エリザベッタ側の政治顧問のようなことをしているらしいセシル、らが
物語の背景をこの幕で次々と歌によって紡いでいきます。

イングランド女王としての立場としては、
フランス王からの結婚の申し込みを受けるしかない、と頭では理解していても、
心がレスター伯を追ってしまうエリザベッタ。
マリアの幽閉を解くには、エリザベッタの心に入り込み、懇願をすることしかない!
と画策を練るレスター伯とタルボ。
この動きを怪しむ、さすがは顧問!のセシル。
そして、自分が慕っているレスター伯が、自分の最大の脅威であり、敵ともいえるマリアに
心を寄せていると知ったときの、一人の女性として感じる嫉妬の一方で、
一国の主として、またマリアの肉親(従姉妹)として、なすべきことは何なのか、
苦渋するエリザベッタの姿など、なかなかのてんこもりです。
そして、タルボに励まされつつ、マリアの開放を懇願し続けるレスター伯の熱意に折れ、
ついにエリザベッタは一場が終わるまでにマリアと会見することを渋々承知します。

さて、メトを切った根性の歌手、アントナッチですが、その根性をのぞかせる激しい役作り。
ただし、声からは、しょっぱなの”清らかな愛が私を祭壇に導くとき Ah! quando all'ara scorgemi”から
特に高音で無理に声を絞りだすような響きが聴かれ、完全な本調子ではない様子。
一幕の見せ場の一つである、”Ah, dal ciel discenda un raggio (日本語での曲名がわかりませんが、”智と正義の光を”というような意味)でも同様。
それでも、本調子でないながら、音程は正確だし、技術もしっかりしていることは伺われます。
本来のコンディションで聴いてみたい。

一方、レスター伯を歌ったフランチェスコ・メリは、声量もあって、
登場後すぐは期待をさせるのですが、ごりごりごりごりと声を張り上げ、
段々と聴いているこっちまで肩がこってきそうになる歌唱。
この第一幕のアリア、”ああ!美しいこの面影を Ah! rimiro il bel sembiante ” で、
すでに私も一緒にぜーぜーしそうでした。
この役に求められる声のタイプとしては、『ルチア』のエドガルドなんかと共通していると思いますが、
現在のオペラ界で、このあたりのレパートリーを優雅に楽々と歌えるテノールが本当に少ないような気がします。
日本での『椿姫』の公演でデヴィーアと共演したころのフィリアノーティをDVDで観た時には、
あのまま好調を維持してくれれば最右翼!と大いに期待していたのですが、
メトの2007年シーズンでのエドガルドを聴く限り、その夢も絶たれたのではないか、と私はとても悲しい。
あとに残っているのは、メトに登場した人でいうと、
ジョルダーニ(私的には全然だめだと思う)、新進のカイザー(まだまだ小粒)、と絶望的な状況です。
この二人よりは、むしろ、ポレンザーニ(最近ではこのあたりのレパートリーを歌うには
声が重くなってしまったかもしれませんが)や、いっそもっと新人でコステロに期待したい。
メリの歌唱もジョルダーニのそれと共通するものを感じるのですが
メリの方は、声は良くでているが、ほとんど”うるさい”というレベルに達しているし、
ジョルダーニはジョルダーニで、そこまでうるさくは思わないけれど、折り目折り目が甘く、
彼らの強引で繊細さの微塵もない歌唱は、特にこの辺のレパートリーでは、
私には全く魅力的に感じられません。

それから、このメリ、顔を含むルックス自体は決して悪くないのですが、
歌い始めると、子リスのように前歯をひん向いて歌うのはやめてほしい。
深刻な内容の歌詞なのに、ずっと”いひひ!”と笑っているかのような顔なんですもの。
オペラも映画館で鑑賞される時代、
歌っているときの顔までチェックされるのだから、オペラ歌手も本当に大変です。

しかし、ルックスといえば、マリアとレスター伯を陰に日向に支えるタルボ役を歌うシモーネ・アルベルギーニ。
(注:配布されたスカラ座HDの資料では、カルロ・チーニとなっていましたが、
以後、これは間違いで、アルベルギーニであることが発覚しました。)
この公演の映像の、この役では、なんとなく私のアイドル、コレッリを彷彿とさせるルックスで、
一瞬ときめきましたが、歌が絶不調。
後の幕では、声がかれはじめ、大きく咳払いをして、喉を潤そうとしても、全く効果なし。
最後のカーテン・コールでは案の定強烈なブー出しを食らっていましたが、本人も大いに自覚があったようで、
穴があったら入りたい!という様子でした。
それがこんな風に映像に残ってしまって、、。
やっぱりオペラ歌手には大変な時代になったものです。
というわけで、彼に関しては、あまりにコンディションが悪すぎて、何をどう評していいのやら、、
なので、コメントは控えさせていただきます。

プロダクションについては、セットは写実的なものを廃し、直線を生かしたモダン
(というこの言い方自体が古さを感じるが、、)なデザイン。




決してわけのわからない抽象的なものにはなっておらず、また何か意外なことを提示しようとするのでもない。
ベースにはストーリーや状況に忠実、かつ歌を決して邪魔しない路線が流れており、
その意味では、結局書割中心の古色蒼然としたセットと、役割的には大して違いない気もします。
衣装も全体的にはシックで悪くないのですが、唯一、続く一幕二場でのマリアとエリザベッタの対決シーンでの、
エリザベッタの男装の麗人風の衣装は、”これはなんでしょう、、?”と思わされました。
女王としての身を隠し、男性の振りをしてお忍びでマリアに会いに来た、ということなのかも知れませんが、
高い帽子をかぶり、それこそ”女王様”(二重の意味です、、)のように、
乗馬用の鞭を振り回す姿、しかも眉毛なし、は、とっても怖いです。



なぜ、ドレスではいけないのでしょう?よくわかりません。
特にこの場面は、”女同士”の意地とメンツをかけた二人の女王
(イングランドvsスコットランド)の対決なのであって、
私としては二人が女性であるという事実をむしろ強調してほしかった。
片方が男のようでは、このシーンのエッセンスがぶち壊しです。

後編に続く>

Mariella Devia (Maria Stuarda)
Anna Caterina Antonacci (Elisabetta)
Paola Gardina (Anna)
Francesco Meli (Roberto)
Simone Alberghini replacing Carlo Cigni (Talbot)
Piero Terranova (Cecil)

Conductor: Antonino Fogliani
Director and Set/Costume Designer: Pier Luigi Pizzi
Performed at Teatro alla Scala
Film viewed at Symphony Space, New York

*** ドニゼッティ マリア・ストゥアルダ Donizetti Maria Stuarda ***

La Scala Nights in Cinema: LA TRAVIATA

2008-07-22 | 映画館で観るメト以外のオペラ 
映画による”スカラ座の夜”シリーズ第二日目はゲオルギューとヴァルガスの『椿姫』。

スカラ座の『椿姫』といえば、1955~56年にマリア・カラスが出演したものが
伝説の舞台となっています(55年の公演のライブは、EMIからCDも出ています)。
そのあまりの完成度(歌もさることながら、役の表現としての)の高さに、
ミラノの聴衆は、これ以上何を聴くのだ?という気持ちだったのに違いありません。

1964年に一度新プロダクションの『椿姫』がカラヤンの指揮で復活することになりましたが、
そのカラヤンが指名したのは、当時のミラノの観客たちが望んだレナータ・スコットではなく、
当時まだキャリアが開けたばかりだったミレッラ・フレーニでした。
結局、本人の準備不足とスコット・ファンの不満が重なったうえ、
まだカラスの公演からたった8年後、カラスの舞台を観た観客もたくさんいたことでしょう、
舞台は荒れに荒れ、フレーニは野次り倒され、その後のパフォーマンスをキャンセル。
現代の美形ソプラノのはしりともいえるアンナ・モッフォが代役をつとめたそうです。


(1966年のメトでの『椿姫』の公演の際にバックステージで撮影されたモッフォの写真。)

この公演の失敗により、ますます強くなった聴衆間の、
”カラス以外には誰もこの役を歌わせない!”という意志もあり、
なんとその後1990年(その間実に26年!!)まで、スカラ座は『椿姫』を舞台にのせることができませんでした。
この1990年の公演でヴィオレッタを歌ったのはファブリッチーニ。
相手役はアラーニャ、指揮はムーティ。
こちらも廃盤になっていなければ、現在もCDが発売されているはずですが、
1963年の公演のスコット、フレーニ、モッフォという錚々たるメンツをもってしても、
『椿姫』が27年の長きにわたる封印に追い込まれたことを思うと、
私個人的には、こんなんで復活していいんですか?と思わなくもない出来なのですが、
この1990年当時、スカラ座はミラノのオペラヘッドを追い出して、
絶対にブーが起こらないように仕組んだ、という話です。そりゃそうでしょう。

実際、日本での、NHKイタリア・オペラの1973年の公演がVAIから発売されていますが、
この時のスコットは明らかにファブリッチーニの数倍上を行く出来で、
また、まだキャリアが始まったばかりのホセ・カレーラスが素晴らしいアルフレードを聴かせています。
(いや、むしろ、私はこの公演の魅力はカレーラスにあると思うほど、彼の出来が素晴らしい。)



カラヤンの野望が邪魔をしたとはいえ、そんなスコットですら救えなかった『椿姫』ですから、
本当を言うと、ファブリッチーニでまたまた30年の眠りに入る可能性も十分あったわけですが、
スカラ座の根回しもさることながら、カラスの公演を観たオペラヘッドの中には1990年まで生きながらえなかった人も多かったに違いなく、
聴衆の方にも再演を受け入れる下地が出来上がりつつあったのかもしれません。
しかし、この90年の公演を聴いたならば、すでに亡くなったオペラヘッドも墓場から歩いて
スカラ座に抗議しにやってきたに違いない、と私は思う。

まあ、しかし、そのおかげで、現在スカラ座は自由に『椿姫』をかけられるようになったわけで、
そうでなければ、こうしてゲオルギューがヴィオレッタを歌う『椿姫』を映画館で見れるという状況もなかったかもしれないことになります。

そのゲオルギューのヴィオレッタ役は、彼女が国際的なキャリアを築く足がかりとなった役。
それまでほとんど無名だった彼女が、ショルティが指揮したコヴェント・ガーデンの『椿姫』の公演で
一気にブレイクしたのは、オペラ・ファンの方ならご存知の通り。
この公演はDVDにもなっていますし、抜粋の映像もたくさんYouTubeで公開されています。
このコヴェント・ガーデンでの公演が1994年。ルックス的にはゲオルギューが最も美しかった時期で、
(1965年生まれなので、当時29歳。)
最近の彼女は顔の表情に段々と年齢を感じさせるようになってきた(まだ42歳なのに!)のと、
少し痩せすぎなのではないか?と個人的には思うので、
見た目の話をすれば、コヴェント・ガーデンをとる人も多いでしょうが、
私は新進歌手特有の自信と野心に満ち溢れた態度もそれはそれで面白いと思う一方で、
最近ゲオルギューが身につけ始めた年齢から出てくる落ち着きと余裕が、
そっと身をひく、という精神的に大人の女性であるところの、
このヴィオレッタのキャラクターに非常にマッチしていると思うので、
実はこのスカラ座でのゲオルギューの方がパーソナリティとしては好きかもしれません。




この記事を書くにあたって、あらためてそのコヴェント・ガーデンからの録音を聴いてみたのですが、
久しぶりに聴くと印象が違ってびっくりです。
現在の彼女の歌唱に比べると、声にも肩にもものすごく余計な力が入ってます。
あの頃は、こんなに力を振り絞って歌っていたんだなあ。

彼女はもともとこのヴィオレッタ役に非常に向いた声質を持って生まれたようで、
声域的にもほとんどパーフェクトと思えるほどマッチしていて、上から下までどの音も危なげなく出ているし、
また、彼女の声に特有の少し暗いカラーがほんとうにこの役にぴったり。
これほど役にぴったり声が合っている幸運な例というのも少ないでしょう。

今回彼女の歌を聴いて、さすがに40歳代の女性が決して20歳代の女性と同じには見えない、
というのと同じ意味での声の加齢は感じさせます。
その結果でしょうか、若干アジリタが重たくなっている点は残念ですが
(例えば、一幕最大の見せ場、”ああ、そは彼の人か Ah! fors'e lui che l'anima " の最後、
”花から花へ Sempre libera "に入る直前の、gioire(喜び)という言葉の装飾音が、
コヴェント・ガーデン時代は一音一音しっかりと音の輪郭がたっていたのですが、
このスカラ座での公演はかなりうやむやです。
しかも、Sempre liberaの中でも同じ旋律が出てきますが、どちらとも全く同じ状況に陥っていました。)
歌唱全体の印象としては、むしろ、コヴェント・ガーデンの頃よりも
大きな進歩が見られます。
まずは、歌唱から余計な力がそぎ落とされたこと。
難関な音でも、聴いているこちらを全く疲れさせず、コヴェント・ガーデンの頃より
楽々と出しているような印象を受けるほどです。
歳を重ねても声の響きに衰えが見られないというのは、どんなトレーニングをしているのか知りませんが、
正しい方向に向かっている証拠。喜ばしいことです!
発声の良さは『ラ・ボエーム』の際にも感じたので、単にこの日が好調だっただけではないと思います。

それから、その点と同等か、それ以上に、”お?”と思わされたのは、
言葉の扱い方。コヴェント・ガーデンでは随所で大げさな表現が散見され、
それが今ひとつ私が手放しで気に入れない理由の一つとなっていたのですが、
彼女本人の長年の経験によるものか(きっとヴィオレッタ役は何度も歌っているでしょうから)、
それとも、このスカラ座でコーチから指導されたものか、それらがことごとく改善されていて、
私はとても嬉しかった。



例えば、同じ一幕の”そは彼の人か”の中で、自分が立場の不似合いな相手であるアルフレードに
(ヴィオレッタは高級娼婦。アルフレードは田舎出のぼん特有の穢れのなさと、常識のなさから、
ヴィオレッタのパトロンにではなく、本当の恋人になりたい!と宣言するのである。)
本当に恋に落ちそうになっているのに気付いて、何て馬鹿な自分なの!と自嘲する、
"Follie, follie! どうかしてる、どうかしてる!"。
この言葉をまるで爆発させるように乱暴な息を込めて発音する人がいますが、
私はそれを聴いただけで、”だめだ、このソプラノは。”とレッテルを貼ってしまいます。

カラスの録音を聴くと、この言葉をいかに大切に発音しているかがわかると思います。
ゲオルギュー、かつての彼女は、”だめだ、このソプラノは”系だったのですが、
このスカラ座での公演ではうってかわり、素晴らしい抑制のきいた歌い方になっていて、◎。




また、ニ幕での父ジェルモンとの会話のシーン。
ジェルモンの、娘の縁談にキズがつかないよう、娼婦のあなたは息子のアルフレードから、
未来永劫手を切ってください、と嘆願され、ついに折れるヴィオレッタ。
偽善もはなはだしい父ジェルモンが、”あなたのために何かしてあげられることは、、?”と、
ふざけたことをのたまう個所で、ヴィオレッタがほとんど泣き崩れんばかりに、
”Morro!..(私は死んでしまうでしょう!)"と歌いだすシーンは、
気分が高まって叫ぶように歌ってしまう歌手が本当に多いのですが、
それをやられると私は安物のソープオペラを見せられたような気がして、
一気に冷めてしまいます。
しかし、このスカラ座の公演でのゲオルギューは、今にも崩れてしまうような
脆さを感じさせながら、Morroという言葉を大事に歌ってみせてました。



この作品の中で、3度出てくる E strano(不思議だわ)という言葉も、
各々が全く違う状況の中で歌われる、その違いを同じ言葉にどのように反映させて歌うか、というのも、
よく注目される点ですが、この歌い分けもなかなか見事だったと思います。
特に天に召される直前、さっきまで苦しかったのに、急に力がわいてきたわ!という言葉が続く最後のE strano。
呟くように限りなく台詞調で歌うケース、ほとんどメロディがついているかのように歌うケースといろいろですが、
ゲオルギューは、今回、思いっきり後者。
前者に比べ、後者は下手な旋律づけをすると大コケする可能性があり、
このゲオルギューの歌い方も非常に個性的な部類に入るものだと思いますが、
これがこけずに効果的だったのはなかなか大したものです。

三幕では、病に苦しむ様子が、『ラ・ボエーム』のミミでの大根っぷりを若干しのばせる
微妙なエリアに何度か足を踏み入れそうになっていましたが、何とか許容範囲内。
また、アルフレードに向かって”あなたが私を救えなければ、この世に私を救えるものは何もない。”という、
ヴィオレッタが神をののしる場面は、歌唱の出来という意味ではほとんど満点に近い出来。
彼女は、『ラ・ボエーム』の時にも感じましたが、要所要所を締めることに関しては、非常に巧みだし、
いつも後の幕になるほど出来がよいので、公演全体での彼女の印象も底上げされていて、
それが私を、ネガティブな意味で”省エネ歌唱”と呼ばせる原因にもなっているのですが、
(それに対して、ポジティブな意味での省エネ歌唱は、『三部作』でのフリットリのような、
表現に寄与しない無駄なエネルギーを一切使わないことを言う。
同じ省エネ歌唱にもネガ・バージョンとポジ・バージョンがあるのです。)
しかし、歌唱全般に関しては、かなりよい出来だったといえると思います。

ただし、彼女が全幕に出演するといつも思うのは、
今ひとつ相手役とのケミストリーみたいなものが全く感じられないこと。
アラーニャと共演するときはどうなのか知りませんし(こわくて観に行ったことがない。)、
最近アラーニャ以外の歌手たちと意欲的に共演している彼女ではありますが、
どの歌手と歌っても、今ひとつ、私には熱いものが感じられないのです。
むしろ、一人で歌っているときの方が熱いという、自己完結型。
それが彼女の歌唱を”冷めている”と評したくなる原因の一つであることを今日確信しました。

あと、少し気になったのは、以前はこんな癖はなかったと思うのですが、
この『椿姫』の映像では、彼女が、自分の歌う番を待つ間、
頻繁に口をもぐもぐさせる動きが捉えられていて、これがかなりおばさんくさくてがっかりです。
(三幕の前奏曲で、SFOの蝶々さんと同様にスカラ座も幸せな時代の回想ショットを入れるという
最悪な編集技を繰り出して来たのですが、
スタッフの意地悪か、そのどれもこれもが口をもぐもぐさせるショットばかり、、。)

さて、共演者とのケミストリーの話に関連して、アルフレードのヴァルガス。
この人は相変わらず、ほんとにわずかながら、声のサイズが小さい。
その感じは録音でも伝わってきます。
丁寧には歌っていますが、この日はあまり本調子でなかったか、
らしくなく、彼にしては微妙に歌が荒れている個所もあります。
しかし、それでも、三幕でヴィオレッタと歌う”パリを離れて Parigi, o cara ”は、
今年のメトのサマー・コンサートでアラーニャと歌ったときと同じ曲とは思えないほど、
気品のある出来に仕上がっているのは、ヴァルガスの力。演技もいつもどおり達者です。

何の大判風呂敷的なものもありませんが、地味ながら舞台をしめていたのは、
父ジェルモン役を歌ったフロンターリ。
田舎の親父特有の、だささ、頑固さ、見栄っ張りさ、でも、それでも本来人間として持っている温かさ、
そのどれもを上手く歌ににじみださせていて、最初は”なんかぱっとしないおっさん、、”と思うのですが、
徐々に引き込まれていきます。
”プロヴァンスの海と陸 Di Provenza il mar ”も、”歌は”(なぜ強調するかは後ほど)
非常に感動的。
ニ幕二場で、札束をヴィオレッタにたたきつけたアルフレードを叱責するシーンでは、
冴えない田舎のおっさんが、突然、”わしはもうきれた!”という、息子への怒りを
一世一代の激しさで爆発させる風で、かなり格好いいし、
その後に続く、激しくヴィオレッタに同情しながら、娘のことを思うと引くに引けない、という
ジレンマに苦しんでいる表情も、胸にしみました。




フローラを歌ったトラモンティ、アンニーナを歌ったペトリンスキーといった
端役の歌手に至るまで、声の芯がきっちりとしていてお芝居も上手なのは、
スカラ座の力が垣間見れます。

第二幕第二場の夜会のシーンで女性の合唱が入ってくる個所では、
そのあまりの響きの美しさにぶっとびました。スカラ座の女声合唱は声の美しさ、
技術共素晴らしいです。

演出は、名作『愛の嵐』で知られるイタリアの女性映画監督のリリアーナ・カヴァー二。
何の奇天烈なこともせず、メトのゼッフィレッリの演出同様に、
ほとんど拍子抜けするくらい王道ともいえる、
実に物語に忠実な演出であるところに、逆に作品への愛を感じさせます。
しかし、一幕でヴィオレッタが "Oh, qual pallor (何と青白い顔)!”と自分の不健康な様子を嘆く言葉があるために、
食事をしている場所から別の部屋にアルフレードとヴィオレッタを移して、
鏡を持たせながらこの言葉を言わせようとする、なんともばたばたする演出が多いなか、
カヴァー二はそのままヴィオレッタをダイニング・テーブルに座らせ、
腕をなでながら"Oh, qual pallor ”と歌わせるという珍しいアプローチをとっています。
これで十分言葉の意味は伝わってくるうえに、じたばた感がなくなって、大変巧み。
王道と見せて、こういった細かい工夫がそこここにちりばめられています。
ヴィオレッタが死にいく場面も、それ自体が幻想だったという解釈など知ったことか、とばかりに、
(デュマ・フィスの原作では、実際、ヴィオレッタに相当するマルグリートは、
アルフレードにあたるアルマンと再会することもなく、ひっそりと一人で亡くなっていくことになっており、
それを踏まえた解釈なのでしょうが)、
カヴァーニは、きちんとアルフレードと父ジェルモンを彼女の死に目に間に合わせてくれます。
私もこちらの王道の解釈の方が断然好き。
このスカラ座の公演は衣装も本当に素敵です。

素敵でないのはマゼールの指揮。
この人は、この一年で、ワーグナー(メトの『ワルキューレ』)、プッチーニ(NYフィルの『トスカ』)、
そしてこのヴェルディ(スカラ座の『椿姫』)と、
違った作曲家の作品を、それぞれ違ったオケで聴く機会がありましたが、
どれ一つとしてオペラ指揮者としての才覚を感じさせるものはなく、
何よりもそのセンスの悪さといい、ドラマの掴み損ね具合といい、
彼が指揮するオペラの全幕は二度と聴きたくない、というところにまで至りつつあります。
先ほど、父ジェルモンのアリア、”プロヴァンスの~”の”歌は”いい、と書きましたが、
マゼールがだっさいリタルダントをかけなければ、もっともっといい出来になっていたはずです。
一幕でのヴィオレッタの見せ所でも、聞かせどころの音にオケの音をかぶせてくるのが早過ぎて、
せっかくゲオルギューが綺麗な音をだしているのも台無し。
というわけで、歌に対する理解も薄っぺらいし、
また各幕の閉めでいつも、”ボクの音楽は重厚なんだよ”といいたげに、妙な重みを出そうとするのも本当にださい。
実際に重厚だったならばともかく、そうでないだけに。
威厳も何もないくせにやたら威張りたがるおっさんのよう。
昨日の『アイーダ』では作品によくマッチしていた金管の明るめな響きが
この『椿姫』の三幕でも炸裂していて、違和感を感じたのですが、
オケの柔軟性のなさか、マゼールの指示によるものかは不明。
『アイーダ』でのシャイーに比べて、オケが全くだるい仕上がりになっているところを見ると、
スカラ座オケといえど、どんな指揮者がふってもすごいものを出せる、ということではないらしいです。
当たり前か。
それでも、ニ幕一場の、ヴィオレッタからの手紙をあけようかどうかとアルフレードが逡巡する場面の
弦の音なんかは、アルフレードの気持ちを語りまくっていてこわいくらい。
オケの力を指揮者が引き出しきれなかった典型例だと思うのですが、
意外や、観客の受けはいい。
スカラ座の指揮者の趣味がよくわからない私です。

メトではいつも自信満々にふるまっているゲオルギューですら、
カーテン・コールでは一歩幕の前に踏み出した瞬間に恐怖が目に浮かんでいました。
フレーニのような歌手でさえ野次り殺される歌劇場ですから当然の感情ですが、
一人、二人、ブーが出ていた以外は、おおむね好評で、
本人もほっとした様子を浮かべていました。


Angela Gheorghiu (Violetta)
Ramon Vargas (Alfredo Germont)
Roberto Frontali (Giorgio Germont)
Natascha Petrinsky (Annina)
Tiziana Tramonti (Flora)
Enrico Cossutta (Gastone)
Alessandro Paliaga (Baron Douphol)
Piero Terranova (Marchese d'Obigny)
Luigi Roni (Doctor Grenvil)

Conductor: Lorin Maazel
Director: Liliana Cavani
Design: Dante Ferretti
Costumes: Gabriella Pescucci
Performed at Teatro alla Scala
Film viewed at Symphony Space, New York

*** ヴェルディ 椿姫 Verdi La Traviata ***

La Scala Nights in Cinemas: AIDA 後編

2008-07-21 | 映画館で観るメト以外のオペラ 
前編より続く>

と、アラーニャはさておき、ウルマナにしろ、コムロジにしろ、
きちんと合う役を与えてもらっているあたり、やや冒険的な(無茶な、と言ってもいい場合もあるかも)
配役をする例が時にあるメトに比べると、
スカラ座のスタッフの方の、各歌手の持つ声に関しての並々ならぬ理解と洞察力、
そしてそれを実行に移す際の妥協のなさを感じます。

アモナズロ役のグエルフィについてふれておくと、これがまた、
首を斬られた後の落ち武者のようなすごい髪型でびっくりしました。
これをエチオピアの長と言われても、、、服装でかろうじてそうとわかるが、
肩から上だけ見ていると、平家のようです。
彼は何度か生で聴いているのですが、前からこんなに癖のある歌い方だったでしょうか?
(記憶がない。)
口を回転させながらむにゃむにゃ言っているような独特の発音が気になりますが、
聴かせどころではそれが消えて、きちんと歌うというのは、一体どういうことなのか?
のろまのドバーと同様、アムネリスに捕らえられそうになる場面での切迫感のなさもがっかり。

この作品の中での影番(影の番長)と言ってもいいランフィス。
裏でおそろしい支配力を持つ存在としての宗教(同じヴェルディの『ドン・カルロ』にも似た構図があります。)
民衆の懇願にもかかわらずアイーダとアモナズロを怪しいものとして一歩もゆずらず(確かに正しいのだが)、
ラダメスを死に追い詰めていく、この物語の実は大事な役なのですが、
ややジュゼッピーニはその点迫力不足。もっと影番として、ばしっ!としめてほしいところ。
まあ、スポッティの歌う王がそれに輪をかけて情けないので(歌唱が)、
力関係としては逆転していないのでですが、、。



シャイーの指揮は、テンポの揺らし方や、特定の楽器やセクションが奏でる旋律の強調の仕方を含め、
音作りがわざとらしくて私は大変苦手なタイプでした。
通常は高音パートがメインで聞こえてくる個所で中音や低音を強調してみたり、
ああ、こういう風に演奏するとこう聴こえるんだな、と、そういう意味でははっと
させられる場面もあるのですが、
それが作品のその場面の表現に貢献しているのか?と聞かれれば、私にはそうは聞こえない、と答えます。
しかし、そんな指揮でありながらも、上で言った意味とは違う、真に、いい意味ではっとさせられる瞬間もあって、
このオケはどんな指揮者でも上手に演奏してくれるんじゃないか、、と一瞬思わされました。
翌日のマゼールの『椿姫』でそうではないことが判明するのですが。
それにしても、シャイーに、マゼール、、、。
スカラ座の上層部の趣味?とちょっとぎょっとしましたが、
演奏後のこの二人への観客の反応が割りといいということは、
スカラ座の観客にも受け入れられているということ、、?
私には彼らのどこがいいのか、よくわかりません。

しかし、4日連続観た上映の中で、オケの演奏が一番良かったのはこの『アイーダ』だと私は思います。
さっき、”このオケはどんな指揮者でも上手に演奏してくれるんじゃないか”と書いたのに少し注釈を入れると、
スカラ座のオケを”上手”と一言で表現する人も多いですが、
私はいわゆる”上手い”、というのとはちょっと違うかな、と思っていて、
各楽器のソロなんかを聞くと、楽器によってはそれほどでもなく、
むしろ、メトを含む他のオペラ・オケの方が通常の意味では”上手い”かも、とすら思う部分もあるのですが、
スカラ座のオケのすごいところは、全体として音を奏でたときに、
その音が歌手と一緒に、あるいはオケだけで、
その場面のすべてを語っているような感覚をおこさせる瞬間があること、これに尽きると思います。
このオケは明らかにきちんとオペラの筋を理解している、”語るオケ”。
これを、”上手い”という言葉で表現するなら、確かにこれほど上手いオペラ・オケは他にないか、
あったとしても非常に少ないと思います。
そして、私が”このオケはどんな指揮者でも上手に演奏してくれるんじゃないか”という時の
”上手に”というのは、そのような意味において、です。
ただし、やる気のないときの彼らは全くそんな瞬間がないため、
”ちょっとこれどういうことよ?”と問い詰めたくなる演奏も繰り出してきます。
それはまた続く他の演目のレポで。
まあ、いつもいつもすごいオケなんていうのはありえないのでしょう。
いつもいつも調子がいい歌手がいないのと同様に。

音色をメトと比較すると、かなり乱暴な言い方ではありますが、
スカラ座の方がドライで明るい音色のような気がします。
特に金管はかなり明るい音で、この『アイーダ』のような演目ではとてもはまっているのですが、
火曜に観た『椿姫』の最終幕までもその音色で通していて、ちょっと違和感を感じる部分もありました。
(マゼールの仕業か?)

合唱は女性に比べてやや男性が弱いような印象を受けましたが、
発声の細かいニュアンスが統一されているせいか、
声が同じ方向に飛んで力強い響きを生んでいるのはさすが。
メトの合唱は2007年シーズン、ものすごく良くなりましたが、
しかし、これを聴くと、まだまだ先はあるぞ!と思わされます。

さて、このプロダクションでは、ニ幕二場の凱旋の場で長身美形の男性バレエダンサー、
ロベルト・ボッレがバレエ・シーンに登場したのも話題の一つ。
バレエのシーンといえば、他にもニ幕一場のアムネリスの部屋で子供たちが踊るシーンがあるのですが、
この両方とも、振り付けはアフリカン・ダンスのエレメントが取り入れられています。
一場に関しては明らかに子供たちは黒塗りで、黒人、つまりエチオピア人、という設定になっていて、
要はエジプト王女を喜ばせるための、奴隷の子供たちの踊り、ということになっています。
この設定は確かにありそうなので問題はないのですが、
私が非常に違和感を感じたのは凱旋の場の方。
ボッレも相手役の女性ダンサーも”やや黒”塗りで、
ボッレが身につけているのは皮でできているらしい郷ひろみもびっくりの超ビキニパンツ一丁。
限りなく半裸に近い状態で、これだけでもファンのイタリア人女性は鼻血噴水状態でしょうが、
私も一緒に鼻血ブーしたいのに、できない。なぜなら、気になって気になってしょうがないのです。

「彼は何人なの?」

この衣装と微妙な黒塗りからして、エチオピア人の捕虜(つまりアイーダの同胞)とも見えるのだが、
それならば、なぜ嬉しそうにアフリカン・ダンスなんか踊っているのか?
たった今、自国がエジプトに征服されたというのに、踊っている場合??!!

って、それはおかしいから、じゃ、エジプト人なのかな?というと、
格好がすでに述べたとおり違和感があるし、それになぜエジプト風の踊りではなく、
アフリカン・ダンスを踊るのか、、。
考えれば考えるほど謎が深まるのです。

メトはこのシーンは思いっきりエジプト風のダンス。
私もそうあるべきだと思うのですが、確かにアフリカン・ダンスを取り入れた振り付けは
面白いし、魅力的。
ということで、もしかすると、踊りとしてアフリカン・ダンス的振り付けの方が面白いから、
”ストーリー?関係ないよ。これでいこーよ!”という、
振付担当のワシーリエフの鶴の一声でこうなったとか、、?
誰も何も言えなかったのかい、、、?スカラ座をもってしても、、?

ということで、私には全くもって意味が不明だったこのダンス・シーンですが、
最後のボッレの連続回転(またしても技の名前は不明)に観客は大熱狂。
結局、一番この公演でもらった喝采が大きかったのは彼かもしれません。



(↑ 跳躍をきめるボッレ。この写真ではあまり黒く見えませんが、実際にはブロンズ色。
そして右に見えているお供で踊っている男性たちは明らかな真っ黒塗り。)

ただし、彼は、ABTに客演したときにも感じたのですが、
一人で踊っているときは素敵なのだけど、女性のサポートに入る時に、
もたもたもた、、としていて、一つ一つのポーズが折り目正しく決まらないうちに
次のポーズに入ってしまうような印象があります。

さて、前編でふれたアラーニャのスカラ座の舞台途中放棄事件ですが、
私は実は、この日の公演の中にその始まりを見たように思うのでその話を少し。

メトでは、いかに有名なバレエ・ダンサーが客演したとしても
2006年シーズンの『ジョコンダ』ではアンヘル・コレーラが踊ってくれましたが、
そういえば、2008年シーズンに『ジョコンダ』が戻ってくるはず!!
今度も彼があの素晴らしい踊りを再現してくれるのか?それとも別のダンサーが、、?)、
その登場した幕の最後に舞台挨拶をするだけで、終演後のカーテン・コールには登場しません。

ところが、この『アイーダ』の公演では、おそらくプレミアの公演だと思われ、
それもあってか、終演後のカーテン・コールにもボッレが登場。
ボッレも含む出演者のみの挨拶で、アラーニャに対してよりもむしろ自分への喝采の方が大きいことに勢いを得たか、
何と、先に舞台からはけることをアラーニャがボッレに暗に指示しているというのに、
ボッレは澄まして”お先にどうぞ”というジェスチャーをアラーニャに返し、テコでも舞台から動かない様子。
”この喝采はあなたのためではなくって、ボクへのものですから”とでも言っているよう。
らちがあかないことを見てとったアラーニャが先にカーテンの後ろに消えますが、
すでにここで、アラーニャの頭から湯気が出ているのが見えるような気がしました。

案の定、次の、シャイーとゼッフィレッリを加えた挨拶では、
いきなりボッレが飛び出してきたものの、なかなかアラーニャを含む歌手陣が登場してこない。
アラーニャがふくれてる、、私はそう見ました。
ようやく登場したときには、時すでに遅く、すでにボッレが真ん中でにこにこと
シャイーの手をとって挨拶中。場所を失ったアラーニャらは、何と列の末席にあたる
一番舞台上手に近い、普通なら端役の歌手が立つ場所に追いやられる羽目に。

オペラのプレミア公演で、主役の歌手が指揮者のすぐ隣に立たずに列の端に立って挨拶し、
代わりにバレエのダンサーが真ん中で挨拶、、??!??
こんなの、前代未聞。
私はこの時点で、アラーニャにいらいらの種が撒きつけられたものと思います。
そして、数日後の公演でのブーイングで、すでにいらいらしていたところに火がつき爆発!
と、そんな感じだったのではないでしょうか?

ボッレが、マスコミのインタビューで、主役のアラーニャよりボッレの方が拍手が多かったことをどう思うか?と聞かれ、
”実際、彼の歌は大したことなかったしね。”みたいな趣旨のことを言った、という話は聞いていましたが、
この二人の間にはプレミア、かリハーサルの時点から、不穏な雰囲気が漂っていたのかもしれません。

ただし、一言言うなら、少なくともアラーニャは一言もボッレをこきおろしてはいません。
(言ったところで、世の女性から袋叩きに会うのは目に見えているが。
オペラ界で比較的ビジュアルがいい、と言ったって、バレエのダンサーに比べると、
こんなもんなんである。)
ロベルト君ももう少し大人になりましょう。
”たいしたことない歌”でも、『アイーダ』を全幕通しで歌うということは大変なことなのです。
アラーニャ・ファンでない私がそういうのだから、本当に!
バレエもオペラも共に素晴らしいアートフォームなのだから、
こんなエゴのむき出しあいは、二人ともみっともないです。


Violeta Urmana (Aida)
Roberto Alagna (Radames)
Ildiko Komlosi (Amneris)
Carlo Guelfi (Amonasro)
Giorgio Giuseppini (Ramfis)
Marco Spotti (King)
Antonello Ceron (Messenger)
Sae Kyung Rim (Priestess)

Conductor: Riccardo Chailly
Director and Set Designer: Franco Zeffirelli
Costume: Maurizio Millenotti
Choreography: Vladimir Vassiliev
Performed at Teatro alla Scala
Film viewed at Symphony Space, New York

*** ヴェルディ アイーダ Verdi Aida ***

La Scala Nights in Cinemas: AIDA 前編

2008-07-21 | 映画館で観るメト以外のオペラ 
メトのオペラもABTのバレエ・シーズンも終わって、今頃は生きる気力を
失っている予定だったのですが、
今年は気力を失う暇がないほどに忙しく、充実してます。

メトのライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の世界的な成功をきっかけに、他の
オペラハウスも、この”オペラ・イン・映画館”のマーケットに次々と参入しはじめているのは、
4月に鑑賞したサン・フランシスコ・オペラ(SFO)のシネマキャストの例にもある通りですが、
そんな中、大御所のスカラ座もいち早く参入。
残念ながら一回目の上映では、メトのシーズンと重なってしまって、どの演目も観にいけず、
『マリア・ストゥアルダ』でのマリエッラ・デヴィーアの歌唱がすごかった、という噂を聞いて
臍をかむ思いでいたのですが、
公演会場である、95丁目とブロードウェイにある、シンフォニー・スペースの英断により、
なんと、その『マリア・ストゥアルダ』を含む4本が再映されることになったのです!やった!

というわけで、今週は月曜日から木曜日まで、4日連続で
仕事を終えた後直行でスカラ座の公演を映画館で見るという、
メトの本シーズンでも試みたことがない強行軍ですが、
以前このブログでも絶賛したデヴィーアの歌を聞くためなら、この強行軍さえもが喜び!
それから、プッチーニ三部作で『修道女アンジェリカ』を歌うのは、
2006-7年シーズンのメトの公演での同役でも素晴らしい歌唱を聴かせたフリットリ。
スカラ座での歌唱がメトの時とどう違っているか、じっくり聴きたい!

こんな非常に楽しみな二本にこっそりまぎれているのが、
アラーニャがラダメスを歌い、ロベルト・ボッレがバレエのシーンに登場する『アイーダ』、
そして、ゲオルギューの『椿姫』、、、
この二人がやたら露出が多いゆえの当然の成り行きなのか、それとも彼らと
私の間に謎の因縁ともいえる何かがあるのか(そうではないことを祈る、、)、
なんでスカラ座の公演にまで彼らを見るはめに陥っているのか、わけがわかりません。
(ちなみに、何度も言うようですが、レポは出来るだけ公正に書くように心がけてはいるものの、
私は基本的にアラーニャ&ゲオルギュー夫妻が苦手なのです。特にアラーニャ。)

題してLa Scala Nights in Cinemas
(命名したのは私ではなく、配給しているEmerging Picturesという会社。)は、
そのアラーニャの『アイーダ』でキック・オフです。

『アイーダ』の上映が行われたのは大・小二つの上映室を持つシンフォニー・スペースの小の方。
目計算で200名ほどあると思われる客席のうち、8~9割ほどが埋まっていて、
月曜の夜にしてはまずまずの客足。
しかし、これまた平均年齢が異様に高く(どれくらい高いかというと、
多くの方が足腰が弱っていてどんどん通路が詰まっていくため、
休憩に上映室から退室するだけで気が狂うくらい時間がかかる。)
『連隊の娘』の時の再現か、またしても一番若い客になってしまいそう。
しかし、この企画に携わっているホールの方(館長という説もあり。)が
舞台にてこれからの上映の宣伝に続いて開演の旨を告げると一気に拍手!
歳はとっていても、やる気は満々。さすがはオペラヘッドです。

このスカラ座のシリーズでの唯一の大きな不満は、スクリーン上にも配られたパンフレットにも、
はっきりした公演日が表示されないことなのですが、
この『アイーダ』は2006年12月の公演で、同じ映像がすでにDVDにもなっています。
(DVDのジャケット写真は後編の冒頭の写真を参照ください。)

メトのライブ・イン・HDがリアル・タイム(アメリカ国内はライブ。日本は訳をつける作業があるため、
若干タイムラグがありますが、それでも限りなくリアル・タイムに近いと言ってよい。)さを
売りにしているのに比べると、なんで昨シーズンのものを今さら映画館で?
という気がなきにしもあらず。
さらに、ライブ・イン・HDでは、歌手や裏方さんへのインタビューといったインターミッション中に
見れる映像も大きな魅力になっていますが、スカラ座の方はこういったギミックは一切なし。
いずれも、”公演だけで判断してくれたまえ、わはははは。”という自信のあらわれなのかもしれません。

この『アイーダ』に関しては音質はかなり良く、もしかするとオケの音なんかに関しては
ライブ・イン・HDよりも理想的な音を再現しているかも、という気がしましたが、
後に続いた3演目(『椿姫』、『マリア・ストゥアルダ』、『三部作』)ではそれほどでもなかったので、
これは、この公演のDVD化ということもあってオペラの録音技術では定評のあるレコード会社のデッカが
かんだせいかもしれません。
また、生上映(またはその録画。メトのライブ・ビューイングもそう。)ではなく、
後の編集が可能なため、映像の方もがんばってます。
メトに比べると、舞台上、人物上の影をスクリーン上で生かすのが本当に上手い。
これを見ると、メトの映像はちょっと何もかもはっきり見えすぎなのかな、という気もします。
ただ、上演日が表示されないという欠点どころではないもう一点の最大の欠点をたった今思い出しました。
それは、編集のスタッフの中に、異様な布フェチがいること。

エジプトっぽい生地を使った衣装がたなびく映像を、
歌手たちが歌っている真っ最中、ドラマが盛り上がっている真っ最中でもおかまいなく、
これでもか、これでもか、と、挿入してくるのです。
最初は何かを表現しているのかと、考えてしまいましたが、はっきり言って、考えるだけ無駄。
何の表現もしてません、布フェチの編集スタッフの仕業以外の何物でもなし。
あまりに頻繁にその映像が入ってくるので、最初は観客も笑っていたのですが、
しまいにはあまりに気が散るので腹が立ってきて、
”むー!”という唸り声まで聞こえる始末でした。
スカラ座ともあろうものが、この映像はないでしょう、、。

さて、この変てこりんな編集の一因となってしまっているのが、もしかするとプロダクションかもしれません。
ついクローズアップし、その映像を何度も挿入して観客を発狂させたくなってしまうほど、
確かに細部が凝っているのです。
衣装に使われる布地しかり、セットに使われている材質しかり、、。
しかし、私にはその細部へのこだわりが、『アイーダ』という物語全体にはあまり寄与していないように感じました。
”全体のための細部”というよりは、”細部のための細部”というような。
一体、誰よ、こんなプロダクション作ったのは?と、インターミッション中にパンフレットの名前を見ると、
なんと!!ゼッフィレッリではありませんか!!!

メトでは、かの『ラ・ボエーム』をはじめ、
『トゥーランドット』『カルメン』『椿姫』『トスカ』
『カヴ・パグ(カヴァレリア・ルスティカーナ/道化師)』などといった超人気作品で、
いまだ彼のプロダクションが現役でかかっており、中には何十年もの歴史があるものも。
特に『ラ・ボエーム』、『トゥーランドット』、『カヴ・パグ』では、
その異常ともいえる細部へのこだわりが感動的なまでに徹底しており、
それが大きなパワーとなって作品全体に貢献していて、
理想的なプロダクションの一つのあり方となっています。

この全体に貢献する細部という構造が、この『アイーダ』では全く見られず、
私にはおよそゼッフィレッリのプロダクションだと信じられないくらいでした。

一幕二場の、ラダメスが軍を率いる命を受ける儀式のシーンの最後、
Immenso Phta!という合唱に合わせて、いきなり大きな黒い鳥が舞台の天井近く、
左右両方に飛び出してきたのにはびっくり。
しかも、この鳥が第四幕のアイーダとラダメスの死を待ち受けるシーンにも登場するので、
おそらく一幕二場で、私が”でかいカラス”と思ったのは、どうやら不死鳥らしく、
”戦争でも、不死鳥のように何度も蘇って、勝って帰ってこい(で、その後のニ幕一場のアイーダのアリア、
”勝ちて帰れ Ritorna vincitor "にもつながっていく)”ということと、
”二人の愛は不死鳥のように永遠である”というメタファーになっているらしいのですが、
私が彼のプロダクションで好きなのは、そういった下手な解釈とかメタファーというものを一切考えない
(考えていたとしても、それをこんな不死鳥のような明らかなやり方で見せない)ところなのに、
どうしたことか?
2006年の新プロダクションだそうですが、細部で全体を支えるということはものすごくエネルギーが要ることだと思うので、
ゼッフィレッリもお歳だし、そういうやり方はもうきついのでしょうか。

それと、もう一つは、スカラ座の舞台のサイズ、ということもあるかもしれません。
この『アイーダ』のセット、映像ですら、スカラ座の舞台ではかなりぎちぎちに感じられ、
しかも、メトほど自由自在に数多いセットを変える装置がないのか、
セットがものすごく固定されている感じがして、
メトと比べると、なんだかフットワークの軽さというか、浮き浮き感に欠ける点は否めません。
特に二幕二場(凱旋の場)では、どんなにきらびやかに舞台を飾ってみたとしても、
メトのプロダクションでの、天井から兵士がのった塀が降りてきて、
段々とその向こうにエジプトの王家を中心に勝利を祝う民衆たちの様子が見えてくる、
そこに金管が鳴り渡り始める、あのわくわく感とはくらべようもありません。





ただ、ゼッフィレッリは基本的にリブレットを忠実に再現するタイプの演出家ではあるので、
第三幕など、メトのプロダクションと驚くほど似ている部分もありますし、
凱旋の場も基本的なコンセプトは同じです。
(ということは、『アイーダ』については、少なくともこの一点に関して、
メトのソニヤ・フリセルも似たタイプといえるのでしょうが、、。)
フリセルがほとんどゼッフィレッリのお株ともいえるグランドなプロダクション、
動物の動員、などということをメトでやってしまっているので、
ゼッフィレッリもやりにくいというのもあるかもしれません。

さて、この公演の数日後に、ラダメス役のアラーニャに客席からブーが飛び、
怒ったアラーニャがスカラ座を飛び出し、アンダースタディーのパロムビが私服姿のまま続きを歌ったと聞く
曰くつきのこのスカラ座の『アイーダ』ですが、
この日の観客は比較的アラーニャには好意的。



相変わらず細かいことを言えばいろいろ課題はあるのですが(低声域でまるで別人のような声になる、など)、
メトで急遽代役に入った公演のときと比べると、さらに声のコンディションが良く、
彼にしては最高の域に入る出来だと思います。

またこのスカラ座の時からメトの公演までには役作りに発展が見られ、
自分でそうしたのか、誰かに指示されたのかはわかりませんが、
特に四幕一場のアムネリスとのシーンでそれが顕著でした。
メトでははっきりとアムネリスを軽蔑する表情が出ていましたが、
スカラ座の公演では、もう少しニュートラルな感じがします。

一方、アイーダ役を歌ったウルマナ。彼女はメトで直近では2006年シーズンに『ジョコンダ』
『アンドレア・シェニエ』のマッダレーナなどを歌っていて、その二つを聴いた限りでは
あまりぴんと来なかったのですが、この『アイーダ』はずっとずっといい。
このアイーダ役と聞き比べると、ジョコンダやマッダレーナは少し重過ぎで、
本来彼女の声にはこのアイーダあたりが一番向いているのではないかという気がします。
重い役を歌える歌手が少ないせいで、どうしても繰り上がりでこうなってしまうのでしょうが、
彼女本人にとっても、観客にとっても、向いていない役を歌う・聴くのは喜ばしくないことで、
歌える人がいないなら、無理にそんな演目を上演しなくてもいいとすら私は思います。

声の芯もしっかりしているし、上品な響きの声なので、役にもぴったりなのですが、
この日の公演では、少し高音が高めに入る個所が多かったように思います。
一幕でそれがやや顕著だったので、緊張しているのかな、と思ったのですが、
一番大きく外したのは、なんと四幕の最後の最後、ラダメスと共に墓の中で歌うシーン。
もしかすると、緊張というよりは、彼女の歌唱の傾向なのかもしれません。

しかし、それらの細かい点を除けば、まずは理想的なアイーダだったと思います。
特に三幕は出来が良かったです。

アイーダ役と双璧で大事な役、アムネリスはコムロジというメゾ。
本人のオフィシャル・サイトでの、髪をショートにした写真では、
気さくそうで顔立ちの整った方に見えるのに、なぜか、このプロダクションのアムネリスのかつら、
これが彼女に実に似合わないことはなはだしい!
そのまるでシェール(60年代から活躍し続けている女性ロック歌手)のようないで立ちに
私はかなり最初引きました。


(↑ シェール。これで髪を黒くしたら、まさにアムネリスを歌うコムロジ!)

というわけで、少し役にのめりこむのに時間がかかりましたが、歌唱力は確か。
私はこの役についてはドローラ・ザジックがデフォルトになっている旨を
今までのレポにも書いて来た通りですが、
ザジックのあの独特の高音の美しさと迫力には及ばないとはいえ、
中音域の美しさや低音の強さにこのコムロジ・ア・ラ・シェールの歌唱の美点があると思います。
やや地味ですが、最後まで破綻のない歌唱で聞かせます。

ただ、スカラ座の趣味なんでしょうか?この3人とも、歌唱まずありき、という感じで、
あまり個性的な演技はなく、そこがメトで(実力があれば)比較的好き放題暴れさせてもらえるのと違っている、
といえば違っているかもしれません。
ウルマナにしろ、アラーニャにしろ、メトではついぞ見せたことのないような、
観客の反応が非常に気になるような素振りが見られたのも印象的でした。
メトは余程ひどい歌唱でなければ、まずは温かく拍手してもらえるのですが、
スカラ座には独特の厳しい空気が流れていて、この『アイーダ』はまだ良い方で、
二日後の『マリア・ストゥアルダ』で私は恐ろしい光景を目にすることになります。

後編に続く>

Violeta Urmana (Aida)
Roberto Alagna (Radames)
Ildiko Komlosi (Amneris)
Carlo Guelfi (Amonasro)
Giorgio Giuseppini (Ramfis)
Marco Spotti (King)
Antonello Ceron (Messenger)
Sae Kyung Rim (Priestess)

Conductor: Riccardo Chailly
Director and Set Designer: Franco Zeffirelli
Costume: Maurizio Millenotti
Choreography: Vladimir Vassiliev
Performed at Teatro alla Scala
Film viewed at Symphony Space, New York

*** ヴェルディ アイーダ Verdi Aida ***


メトのオーストリアっ子

2008-07-18 | お知らせ・その他
ABTのメト・シーズンが先週土曜日に終了しましたが、
この後、オペラの新シーズンのリハーサルまで、他団体も含め、
何の公演の予定も入っていないようなので、
あのスペースを空けておくとはもったいない、、と思っていたところ、
”私、全然暇なわけじゃなくってよ!”という
メトの主張が聞こえてくるようなNYタイムズの記事を見つけました。
(原文:Bright Lights of the Met Opera Lobby Are Put Out for Repair)

メトのシンボルともなっている、お花状のシャンデリア。



以前から、これはいつ誰が綺麗にしているのだろう?
ちゃんと取り付けられているか、定期的に確認しているのだろうか?と思っていたのですが、
このメンテがこんなに大変な作業だったとは知りませんでした。

ロビーに11個、オーディトリアム内に21個あるこのシャンデリアは、
1966年、ブロードウェイの39~40丁目にあった旧メトから
現在のリンカーン・センターに場所が移った最初の公演で初お目見えとなったわけですが、
開演間際に天井に向かって登っていくオーディトリアム内のシャンデリアの様子に、
観客から大きな歓声が湧いたといいます。
観る側の公演への期待感と見事に呼応した素晴らしいアイディア、
実際私も、おそらく多くの他のメトの観客の方たち同様、
今でもこのシャンデリアが上がっていく瞬間が大好きです。

このシャンデリアをデザインしたのは、ウィーンにある
J.&L.ロブマイヤというシャンデリア製造会社のハンス・ハラルド・ラスという方だそうですが、
代々、同社がこのシャンデリアのメンテにあたっており、
今年はハンス氏の孫で、マネージング・パートナーであるヨハネス氏(若干31歳!)
率いるチームが、シャンデリアの解体に挑むため、NYに滞在。
ロビーにあるシャンデリアだけでも数日を要した模様です。
クリスタルとそれを支えているロッド(放射線状に生えている金属)
を取り外された、花の芯にあたる、木材と金属で構成されている部分は”スプートニク”と呼ばれるそうですが、
このスプートニクたちは、NYからウィーンに三台の航空機で空輸され、
現地で補修された後、またメトに帰ってくるそうです。

また、49,000個(!)におよぶクリスタルについては、
またまたオーストリアの会社であるスワロフスキ製の新品に取り替えられるそうです。
メトのシャンデリアはオーストリアっ子だった!

さて、ハンス氏は、メトの1966年のオープニング・ナイトを観客の一人としてご覧になったそうですが、
なんと孫のヨハネス氏は、自らが手がけるシャンデリアが輝くメトで一度もオペラを見た事がなく、
ウィーン国立歌劇場やザルツブルク音楽祭などで仕事をしながらも、
”オペラは特に自分の趣味じゃない”と言い放ってらっしゃるそうです。
なんと、まあ、オペラヘッドにとっては脳震盪を起しそうなコメントですが、気を取り直して。

クリーニングは毎夏定期的に入っているそうですが、ここまで徹底した、
解体をともなうリファービッシング作業は、
なんと、シャンデリアが初めて設置された時以来だそう。



というのも、想像はつきますが、膨大なコストに対応できなかったからだそうで、
今年のこの作業は、スワロフスキが全クリスタルを無償で提供し、
しかもロブマイヤ社が行う補修作業のコストを全て肩代わりしてくれているそうです。
コストは何と、百万ドル以上(!)だそうで、ちなみにオリジナルのシャンデリアは、
オーストリア政府からメトに贈与されたものだそうです。
来夏には、オーディトリアム内のシャンデリアに同様の解体およびクリスタルの取替え作業が必要か、
ラス氏が点検、決定されるそうです。

さて、スワロフスキにコストを肩代わりさせたうえに、まだまだ商魂たくましいメトは、
オリジナルのシャンデリアについていたクリスタルを、秋に再オープン予定のギフト・ショップで、
我々観客およびメト・ファンに売りつけるつもりだそうです。
本当にちゃっかりしてます。

ちなみに、今回埋め込まれる新しいクリスタルは、正確さを求めて機械で製造されたものを使用しますが、
オリジナルのシャンデリアのクリスタルは、手でカットされたもの。

さて、お花状と最初に書きましたが、実はこのシャンデリア、星が輝く様子をデザインしたもので、
おじいさん(ハンス)・ラス氏に、建築家のウォラス・K・ハリソンが手渡した
ビッグ・バン説の本の中からヒントを得たのだそうです。

何十年に一度の大補修作業。2008-9年シーズンの公演をメトでご覧になる方は、
ロビーのシャンデリアのクリスタルの新品度もお楽しみください。

(NYタイムズの記事に作業の様子をおさめたスライドショーもあります。)

この『歌声』は・・・

2008-07-17 | お知らせ・その他
情報を追うのが大変なのもあり、このブログでは歌手のPRネタ等、
実際のオペラの公演以外のことは、私が個人的にこれは「何なの?」、「面白い!」、
「びっくり!」などと感じた、メトに絡むネタでない限り、
基本的に書くのを控えているのですが、にもかかわらず、
すぐ前のポスティングに続いて、PRもの二連発目。
それも、またしてもルネ・フレミングとは、これは当ブログでは異例の大快挙です。

最近、自分の名前のついたアパレル・ラインや香水を発売する有名人が後をたちませんが、
女優、スポーツ選手だけではないわよ!と満を持して、なんと、オペラ界から、
ルネ・フレミングが、『ラ・ボーチェ』なる香水をコティーから発売することになりました。

フラグランティカというサイトによると、
トップ・ノートはパッション・フルーツとホワイト・トリュフ、
ミッド・ノートにジャスミンとすずらん、
ベース・ノートにチョコレート・ムースと黒檀の香り、という構成で、
アン・ゴットリープとカルロス・ベナイムのチームによって調合されたものだそう。
お花の香りにこくっとしたオリエンタルな甘みを足した雰囲気でしょうか。

香り自体は、嗅いでみたい、と思わせるものの、パッケージのデザインにびっくり仰天!
こ、これは、、、!!!



小瓶の下に広がる、メトのシャンデリアの模型に、
メトの座席や絨毯に使われているメト・レッドを思わせる赤い布、
その間に光る、もう一つのメト・カラーであるゴールド、、。
限りなくメトに似ているが、なぜだか限りなく安っぽい、、。
くらくらしてきました。

そんな『ラ・ボーチェ』は50ml入りで200ドル(ひーっ!高い!パッケージ代と言われても、
こんなデザインじゃ、、。)
売上金の一部はメトに寄付されるという噂もあります。
それにしても、一体、どんな人が買うのだろう?

しかし。9/22のフレミング・ガラに備えて、一度は匂いを嗅いでおきたい。
そして、気に入ったなら、買ってしまうかも、、。
あれ?もしかして、私のような人が顧客ターゲット?!

オープニング・ガラ、フレミングをモデルに3デザイナー対決!

2008-07-15 | お知らせ・その他
NYサン紙の7/11の記事によると、メトの2008-2009年シーズンのスタートを飾る、
9/22のオープニング・ナイト・ガラで、3人の大御所ファッション・デザイナーが、
一人ずつ各幕の衣装デザインを担当することになりました。

もはや、ルネ・フレミング・ファッション・ショーの様相を呈しつつあるこのオープニング・ガラ、
『椿姫』第二幕をクリスチャン・ラクロワが、
『マノン』第三幕をカール・ラガーフェルドが、
そして、『カプリッチョ』の最終場面を、ジョン・ガリアーノが担当することになっているそうです。
いやいや、これはファッショニスタには見逃せないなかなか豪華な顔ぶれです。

さて、ファッション・ショーを見ていて、”???”という珍奇なデザインに何がいいのかわからん、、
と頭をお抱えの男性(女性も?)諸氏も多いと思われますが、
あれはあくまでファッション・コンセプトを表現するためのもので、
あんなものを街で着て歩いている人がいないのも道理。

一方で、同じデザイナーが、アカデミー賞授賞式やらに出席する有名人のために、
きわめて美しいドレスを作ったりしているのはご承知の通りです。

そこで、このメトのオープニング・ナイトを飾る3人のデザイナーたちの、
”???”なデザインと、最近のレッド・カーペット・イベントで評判の良かったドレスをご紹介。
これで、ファッションはちょっとよくわからない、、という男性も、
オープニング・ナイト当日のルネ・フレミングのドレス・デザインの予想をするもよし、
詳しくなったついでにこれらのデザイナーのお洋服を奥様や恋人にプレゼントして差し上げるもよし!
もちろん、私へのプレゼントも大歓迎。

では、行きます!

『椿姫』を担当するクリスチャン・ラクロワはフランス人。
エルメスなどで修行を積み、独立。
私の勝手な思い込みでは、彼のデザインは明るくて、ややクレージーという印象があったのですが、
(↓ そのラインは最近でも健在らしい、、。)



しかし、2007年のアカデミー賞で、女優のヘレン・ミレンが来たドレスが大好評。
大人の女性によく似合うこんなシックなデザインもできる人でした。



3人のなかでは、デザインがオペラ的世界から最も通い人のように個人的には感じるので、
そのあたり、どう切り抜けてくるのか、大変楽しみ。
『椿姫』ですから、みんなの期待は大きいですよ!ラクロワ氏、がんばってください。

そして、『マノン』担当のカール・ラガーフェルドはドイツ生まれ。
一時は恰幅のある体型だったのに、数年前に何をどうしてそうなったのか、超スリムに。
まるで、どこぞの女性オペラ歌手のよう、、。
自ブランドに加え、シャネルのデザインも手がける超大御所です。
スカラ座で衣装デザインも経験しているようですので、安心して見ていられそうです。



↑ クレイジーにしていても、どこかシック。

つい最近の2008年のアカデミー賞でペネロペ・クルスのためにデザインした
濃い青(この写真では黒に見えますが、、)のドレスが好評だったようですが、
私はあんまり好きじゃないかも、、。



写真家としても活躍しているラガーフェルドですが、その彼本人が撮影した写真の中のこのドレス、
おそらくデザインも担当したのでは?と思われるのですが、
この感じの方がオペラらしくて、期待が高まります。
『マノン』も、『椿姫』と似た世界のお話なので、ラクロワのデザインとの対決も見ものです。



しかし、私が一番楽しみにしているのは、『カプリッチョ』を担当するジョン・ガリアーノ。
ジブラルタル人とスペイン人の両親を持つロンドン育ち。
現在は自ブランドと共に、クリスチャン・ディオールのデザイナーとしても大活躍中で、
彼の手がけるデザインは、レッド・カーペット・イベントでも本当に素敵なものが多くて溜息もの。

↓ こーんなクレイジーなデザインもしてしまいますが、



今年(2008年)のアカデミー賞で最高のドレスとの評価が高かった
ハイディ・クルムが来たもの ↓ をはじめとして、全部はとてもここで紹介できないほどです。



MoMA(ニューヨーク近代美術館)の
"Costume Institute Party of the Year: Anglomania Exhibition" で
展示されたこの黒の絹のドレスの美しさはどうでしょう!





ということで、このデザイナー対決、私の大本命はガリアーノですが、
これは何としてもルネ・フレミングに頑張って着こなして頂かなければなりません。

オープニング・ナイトについては、彼女の歌もさることながら、
衣装についても猛烈に詳しくレポしたいと思っておりますので、お楽しみに!

GISELLE (Sat Mtn, Jul 12, 2008)

2008-07-12 | バレエ
感動とか感銘とかいう言葉ですら安っぽく聞こえるほどの
類稀な鑑賞体験を与えてくれた昨夜のニーナとカレーニョの公演

字数がいっぱいでその昨日のレポに書くことができなかったのですが、
平土間の一列目でヴィシニョーワと思しき女性が鑑賞していました。
昨夜は怪我でなければ、彼女が本来踊る予定だったわけですが、
そのヴィシニョーワとならんで私が楽しみにしていたのが今日のドヴォ・マキ
(イリーナ・ドヴォロヴェンコ&マキシム・ベロセルコフスキー夫妻)コンビの公演。
しかし、昨日のニーナ&カレーニョの公演のインパクトがあまりにも大きすぎて、
今日は半分抜け殻状態の私ですが、連れが同伴なので、私が極端な感想に走らぬよう、
見張ってもらうことにします。

一幕

どんな役をやってもノーブルな雰囲気のマキ、その分、役によっての変化が乏しい気がします。
それに比べると、ドヴォの方は変幻自在。
彼女に関しては、水曜マチネのレポで、美人系ジゼルで来るのではないかと
予想していた私ですが、舞台にあらわれた彼女は意外や純粋な村娘系。
登場した瞬間、なんだか少し太ったのかな?という錯覚をおこしたのですが、
ニ幕のウィリになってからの場面ではいつもどおりのスリムな体型に逆戻りしていたので、
彼女は踊りで体型の雰囲気を変えることが出来るということなのでしょうか?おそるべし。
そして、相変わらず彼女は動きがきちんと音楽とリンクしているところが私は好きです。
どんなささいな動きでもそう。

さて、やはり夫婦である二人が演じるとこうなってしまうのかもしれませんが、
一幕から二人はラブラブで、今までに観た二公演と比べても、
アルブレヒトのジゼルへの本気度が最も高いのはこのドヴォ・マキ・ペアでした。
昨日のレポで、アルブレヒト役を踊る男性ダンサーのこの役の描き方を
端的に、かつはっきりと示している場面に、ジゼルの死のあとの、彼とヒラリオンとの口論のシーンがあると書きましたが、
今日の公演でのマキの、ヒラリオンに”君のせいだろう!”と言われたあとの反応は、
”俺のせいだと?ふざけんな、ばかやろう!”という強烈な反応で、そのままヒラリオンに
怒りを爆発させる、という流れになっています。
コルネホの”お、おれですか?”という驚きよりは、もっともっと積極的な怒りで、
マキのアルブレヒトは、ジゼルが死んで”気付き”があるというよりは、
すでに、最初から、彼女にかなり本気で恋していた、ということがわかります。

今日のヒラリオンは水曜マチネと同じ田舎もの系スタッパスだったのですが、
今日はどうしたことでしょうか?少し踊りに迷いがあるように感じられました。
ださ度が減少して、その分、スタンダードなヒラリオンに近づいたともいえるのかもしれませんが、
水曜にニ幕での退場の場面ででんぐり返りまで炸裂させたのとは違い、
今日は普通に駆け抜けながら舞台袖にはけていきました。
誰かに指摘されて変更したのでしょうか?確かにものすごいダサい動きではありましたが、
しかし、水曜日には、そのスピリットと思い込みが全編に及んでいて、
格好悪さと思い込みの美学ともいえるものがあったのですが、今日は対照的。
格好は多少良くなったかもしれないけれど、逆にどこか思い切りの悪いダルさが
踊りに忍び込んでしまったように思います。
私は水曜のあの垢抜けないヒラリオン、決して嫌いではなかったのにな、、。

しかし、ヒラリオンよりも何よりも、私がほとんど許せないまでに腹立たしかったのは、
ペザントのパ・ド・ドゥを踊ったコープランドとロペス。
また暴言を吐かせていただくなら、この二人にこのパ・ド・ドゥははっきり言って
まだ無理ではないでしょうか?
恐れ多い仮定ですみません、ですが、もしも、私が芸術監督だったならば、
稽古時の段階で、こんな出来だとわかったら、本番には彼らを登場させないと思います。
それくらいにひどい。
若手にチャンスを与えて、、というのもわかりますが、ここは地方のバレエ団の発表会じゃない。
ABTなんだから、舞台にのるときにはある程度のレベルには達しているべきだし、
ペザントのパ・ド・ドゥだから、お客さんも大目に見てくれるかな?なんて思っているとしたら、
それは主役や準主役のダンサーたち、そして観客に対する侮辱ってもんです。
実際、このペザントのシーンで、すっかり場が盛り下がってしまったのを感じた方は観客の中にも多いはずです。
バレエもオペラもどんな小さな(そして、このペザントのパ・ド・ドゥは決して小さくもない!)場面も、
手抜きするな!といいたい。すべてのシーンが作品を構成する大切なピースなんですから。

特にコープランドに関しては、私はダンサーとしての彼女の将来に不安を覚えます。
ある特定の側面では非常に優れた身体的能力を持っていることを伺わせる彼女ですが、
本人もそれを知ってか、それとも自分の欠点を補うために無意識にその能力に頼ってしまうのか、
とにかくあまりにも強引な踊りで辟易します。
バレエのテクニックについての専門的な知識は限りなくゼロに近い私ですが、
彼女が本当の意味では正しく体を使えていないこと、これだけはわかります。
こんなに観ているだけで疲れるダンサー、他にはいないですもの。
他の優れたダンサーだってもちろんものすごく体のあらゆる部分を使っているわけなのですが、
正しく体が使われていると、観ていて疲れる感じがしないし、何より美しい。
オペラだって、正しく発声が出来ていると、本人も比較的楽だし
(そうでなければ長丁場のオペラを歌いきれるわけがない。)
その声も、観客の勘にさわる性質のものにはなりえず、真に美しい声だな、と感じるのと同じことです。
彼女のダンスからは、動きそのものに備わった妙なリズム(これまた変な力が入っている証拠)と、
どんなポーズもあまりに美しさに欠け、本人が自分が得意だと思っているらしい
スピード感や体のバネを多用しようとすればするほど、その欠点が増幅されるという悪循環に陥ってます。
苦しいことですが、一旦今すべて持っているものを一度アンロードして、
もう一度基本に返ることが彼女には必要ではないでしょうか?
そうでなければ、多分、このまま今の路線でつきすすんでも、もしもいつか古典もののヒロインなどにも
挑戦したいと思っているとしたら、彼女の将来、私には明るいものが見えません。
こんなラインの汚い踊りで、白鳥やジゼルやらに到達するとはとても思えないですから。

一方のロペス。コープランドほどに悪い癖がある感じはしませんが、とにかくまだ未熟。
ジャンプの場面にしても、ただ、ばたばたばたばた慌てているだけ、という感じ。
最後の回転からフィニッシュについては、バランスを失い、両手を床についてしまう始末。
これまでに観たイリーインやマシューズとはあまりに差がありすぎます。
本人の精進不足もあるでしょうが、むしろ私はこの二人をキャストにもってきたABTに苦言を呈したいです。

このパ・ド・ドゥの不出来が影響したのか、もともとドヴォが演じるこの役につきまとっている問題なのか
良くわかりませんが、意外なまでにぎこちないドヴォの狂乱の場は少し残念なものとなりました。

彼女は『バヤデール』の例にあげられるように、彼女の解釈がぴたっとはまると、
素晴らしい踊りを見せてくれるので、もしかすると、この場面がまだ咀嚼できていないかも、という気もします。

バチルドの手の甲にキスをするアルブレヒトを見て、全てを悟り、ショックのあまり、
彼女に”婚約”のお祝いとしてもらった首飾り(その首飾りを渡したときバチルドは
ジゼルの婚約者が自分の婚約者であるアルブレヒトと同一人物だとは夢にも思っていない。
もちろん、ジゼルの方の婚約とは、バチルドの”家”に裏打ちされた婚約とは全く次元が違う。
それは、ジゼルがアルブレヒトと関係を持った、ということを示唆する以外の何物でもないのである。)を、
ひきちぎり、自ら地面に体を投げ出す。
ここまではものすごいテンションでよかったのですが、ここから以降が、なぜだか、突然非常にぎこちない。
彼女にしては、花を引きちぎっていく時のリズムも、なにもかもが、あえて、
音楽と一体化するのを拒否しているような気がするくらい。
もしかすると、それこそが彼女の、狂気を表現するための手段なのかもしれませんが、
あまり上手く機能していないように思いました。
ニーナの、あの音楽とドラマと踊りが渾然一体となった表現と比べると、
各要素が浮き立ってしまっています。
私の連れは、非常にリリカルな踊りではあるが、まるで、すーっとなぞって終わってしまったような
感じかなあ、、との感想を持っておりましたが、
私の感想は、それ以上に、ところどころ、積極的に違和感を感じる場面があった、というほうが近いかもしれません。
多分、そう感じた理由の一つに、正気と狂気の切り替えの際の、ぎこちなさがあると思います。
バレエもオペラも、狂乱の場の最大の肝は、狂気の間に微妙に正気がまじる、ここにあって、
それがせつなさを煽るわけで、意味不明の狂人の戯言だけならば、ちっとも感動的でもなんでもないわけです。
その正気と狂気がかわるがわる現れるさまを表現するところに、バレエ、オペラともに、
演じる側の腕の見せ所だと思うのですが、その二つの現れ方が、ドヴォの場合、
少し極端かつ唐突で、不自然に感じる場所がありました。
この点も、ニーナの正気かと思えば狂気が染み出してきて、気がつけばまた逆になって、という、
微妙な色彩の変化が素晴らしく、
あれを超えるのは本当に難しいとは思ううえ、その記憶もまだ新しいうちに比較されてしまうわけですから、
ドヴォにとってはたまったものではないでしょうが、あのニーナの域に届くには、
まだ道のりが長いような気がします。

そうそう。水曜のマチネ、そして金曜のニーナの公演では今までのヘボさを返上する
演奏を聴かせていたオケですが、今日はお疲れモードでかなりヘロヘロでした。
その狂乱の場での、大切な大切な場面でフルートがクラックした時には、
”やっぱりABTオケ、、、”と思わされました。
いつも正確に楽器を演奏するのは大変だとは私も理解しているつもりですが、
しかし、絶対に外せない一音というのがあって、あのフルートの一音は、
ジゼルがあちらの世界に足を踏み出しつつも、現世の幸せだったころの記憶に思いをはせている、
ということを表現している大事な音なので、”何があってもここだけは失敗しちゃいかんだろう!!”
という箇所なわけです。

ペザントのパ・ド・ドゥの混迷ぶり、そして、ドヴォなら、この狂乱の場ですごいものを
見せてくれるのでは?という期待がやや肩透かしを食らったのもあって、
少しインターミッションではへこんでしまった私なのでした。


ニ幕

しかし、そのドヴォ・マキ、このニ幕は健闘し、我々は報われました。

今日のミルタはパルト。彼女は本当に大柄(背が高い)で、それがやや仇になっているのか、
それとも彼女の踊りのキャラクターなのか、どことなく、大らかな、温かい感じがしてしまいます。
これは、ミルタ役にはちょっと厳しい、、。
もちろん、それを逆手にとった、本当は優しいミルタ像というものの存在の可能性を
否定するわけではなりませんが(そして、完成度の高いものであれば、
そんなミルタ像も見てみたい。)、
その方向で観客を納得させるのは至難の技であり、彼女の表現は残念ながらそこまでにはいたっていません。
だから、極めて中途半端な感じ。観ているうちに、あの『ドン・キホーテ』
森の女王役とキャラが一緒になってませんか、、?と問いたくなってしまいます。
もっと、もっと、マーフィーのような、仲間のウィリすら寄せ付けない冷たさが欲しい!

こうしてみると、今日のドヴォ・マキは、彼ら以外のキャスティングにもやや足を引っ張られた形で、
若干気の毒ではあります。

ジゼルとアルブレヒトのパ・ド・ドゥの最初の方で、ジゼルがものすごくゆっくりと
片足をあげてポーズをとる場面がありますが、
こういった場面ではドヴォは強い。さすがにこのあたりは体力的にまだ勢いのあるダンサー特有の強さを発揮していました。
足が上がっていく速さ(遅さ、といったほうがいいか?)に全く切れ目やぶれがなく、
本当に綺麗。
また、片足のトゥでたったまま舞台横に移動していく様子や回転の美しさなど、
このニ幕の後半になって、勢いがつき、彼女の地の力が思いっきり噴出、大変見ごたえがありました。
また、どんなにアルブレヒトの命を守ろうと必死になっているときにも、
独特の冷やっとした感じが常に残されていて、それがウィリらしさとなっていて、とてもよかったと思います。

しかし、それらすべての技術もさることながら、私がもっともこの幕、
いえ、この公演全体を通しで、心を動かされた場面は、夜が空けてアルブレヒトの命が救われたことが
はっきりした後、アルブレヒト=マキに、空中でほとんど真横になって抱かれるジゼル=ドヴォ。
この時、ドヴォは、それまでに漂わせていたウィリの浮遊感から一転し、
全体重をマキに投げ出します。
そのことにより、突然ジゼルがウィリではなく、一瞬人間に返ったように感じられ、
この束の間に、やっと現世できちんとアルブレヒトと別れを交わす機会がジゼルに訪れたことを示す、
最高に切ない場面でした。
しかし、それは本当に一瞬で過ぎ去り、やがてジゼルはウィリとしての運命も終え、
永遠にアルブレヒトと別れることになるのです。
(ドヴォはここで普通に、墓の後ろから舞台袖に後ずさりながら消えていきましたが、
昨日のニーナは、後ろに控えているダンサー目がけて立ったまま頭から後ろに倒れていったので、
ジゼルはウィリとしての姿も終えて、清らかな死の世界に旅立ったのだ、と解釈しています。)


(写真はいずれもドヴォ・マキのペア。)

このたった一瞬の体の重さを使って、ジゼルが最早ウィリではなくなって、
現世とクロスする場所でアルブレヒトに別れを告げにきたことを
表現したのは非常に巧みで、かつユニークな表現だと思いました。

過去二回の公演とも、このニ幕でのコール・ドについては、笑ってごまかしたり(コメント参照)と、
言及するのを避けてきましたが、今日は比較的出来がよかったのと、
ミルタ直属の部下の二人のうちのズルマが加治屋さんだったので少しだけ。

これまでは、足の下りるタイミング、腕の角度、てんでばらばらで、コメントする気にもなれないほどで、
『バヤデール』ではもうちょっとましだったのになー、と思っていたのですが、
今日のコール・ドは、まあまあだったのではないでしょうか。

ズルマの加治屋さん。
彼女は本当に踊りと体型から受ける印象が”エアリー”とでもいいましょうか、
ものすごく軽くて、浮遊感があります。
なので、このウィリのプチ・ボス・キャラなんかははまり役で、上半身の表現力もあるので、
もう一人のプチ・ボス・キャラであるモイナ役のメスマーがお気の毒になるくらいなのですが、
しかし、今後演じる役によっては、”重さ”をある程度感じさせられないといけない場面というのも
出てくると思うので、その時にどのような踊りを見せてくれるのか、非常に楽しみなところです。

ニ幕目の健闘で一気にインターミッションの憂鬱をくつがえしたドヴォ・マキ。
連れも、エレガンスを感じさせたドヴォの踊りにうっとり状態でした。
(まあ、前回彼が観たのはレイエスのジゼルだったので、確かに雰囲気はかなり違う、、。)
マキについてはあまりぴんと来なかったようです。
私もそういえば、マキを初めて観たときはぴんと来なかったので、彼の気持ち、良くわかります。
しかし、今日のマキ、私は決して悪くなかったと思います。
細部も丁寧で、好印象を持ちました。
最後に、デイジーの花を一つ一つこぼしながら、墓から舞台上手に向かって、
後ずさりする場面では、
デイジーの花がほぼ一直線に並んでいて(意図してそのようにマキが撒いた)、
ジゼルが死の世界に旅立った軌跡を見せているようでこれまた感動的でした。

うーん、バレエのベル・カント悲恋もの、『ジゼル』。
何度観てもいい作品です。


Irina Dvorovenko (Giselle)
Maxim Beloserkovsky (Count Albrecht)
Isaac Stappas (Hilarion)
Jared Matthews (Wilfred)
Maria Bystrova (Berthe)
Vitali Krauchenka (The Prince of Courland)
Kristi Boone (Bathilde)
Misty Copeland, Carlos Lopez (Peasant Pas de Deux)
Veronika Part (Myrta)
Simone Messmer (Moyna)
Yuriko Kajiya (Zulma)

Music: Adolphe Adam
Choreography: after Jean Coralli, Jules Perrot, and Marius Petipa
Conductor: David LaMarche replacing Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
Grand Tier D Odd

*** ジゼル Giselle ***

GISELLE (Fri, Jul 11, 2008)

2008-07-11 | バレエ
公演の半年前にしてキャストの変更がさりげなく行われる様子を見て(ドヴォ・マキ事件参照)、
もともと観たかったヴィシニョーワの『ジゼル』の公演のチケットも、買うのをずっと躊躇していました。
そのうちに時は流れ、いよいよシーズンが開幕した頃、久しぶりにメトのサイトをチェックすると、
が~ん、、、乗り遅れたらしい、、。
めぼしい席はほとんど売れてしまっていました。
これがさらに躊躇する原因となっているうちに、
やがて怪我が理由で全演目からのヴィシニョーワのキャンセルが確定し、
『白鳥~』に続いて、この『ジゼル』でニーナが代役をつとめることが発表されました。
来シーズンをもってABTから引退する意向を発表している彼女なので、
来年のレパートリー次第では、これがABTでニーナの『ジゼル』を見れる最後のチャンスになるかもしれない!
そのうえに、私は今シーズン、『バヤデール』のソロル役で全幕を初めて通しで観る予定だったカレーニョにも
キャンセルを食らってしまったのですが、、今日7/11の公演のアルブレヒト役はそのカレーニョ。
もう観るしかないでしょ、これは!
しかし、時すでに遅し、、残っているチケットは、”メトの外野席後方”ファミリー・サークルの、
それも限りなく後ろの壁に近い席である。
オペラなら、音楽は場所に関係なく聴こえて来るし、ホールの構造によっては
(メトもそうだと個人的には思う)外野席後方が一番音響的にはいい席だったりするので問題はないのだが、
バレエは本当に観てなんぼ、のアートフォームである。
私はオペラではどんな席に座っても絶対にオペラグラスを使わないが、
バレエに関してはファンの方がなぜオペラグラスを使うのか、よくわかる。
いよいよ外野席でオペラグラスを片手に舞台を眺める日が来たのだわ、、と観念し、
$25のチケットを購入したのでした。ニーナとカレーニョを$25で観れるなんて、破格なのだから、、、と自分に言い聞かせて、、。
ありそうにはないけれど、もしこの後にいいチケットが出てくることがあれば、
$25なら、寄付返し(窓口で不要になったチケットを返還すること。返金はされず、
メトへの寄付金扱いになる。)にしてもダメージは少ないし、、と。

そして公演前日の深夜。メトのサイトを徘徊するMadokakipに神はまたしても救いの手を差し伸べられた!

私のバレエの師匠であるところのyol嬢に私のバレエ鑑賞における運の強さを指摘され、
確かに昨年のフェリの『ロミ・ジュリ』における土壇場チケット獲得事件といい、
今年のコルネホ『ジゼル』アルブレヒト役デビュー目撃事件といい、
言われてみればそうかもしれない、、と思いはじめているところですが、
その強運はまだ終わっていなかった。

暗闇の中に浮かび上がるコンピューター・スクリーン。
昨日まで確かにファミリー・サークルを除き、全席SOLD OUTの文字だったのが、Side Parterre Boxに空席を発見!
しかし、サイド・パルテール、、、しかも、どうやら空席は最前列ではなく、二列目。
これは微妙である、、。
私はオペラで何度かこのサイドボックスの二列目以降に座り、苦い思いをしているので、
今では決して座らないようにしている席種のひとつである。
ただし、最前列はいい。むしろ、私は最前列は好き。
サイドのボックスはすべてパーシャル・ビューとチケットにも印刷されている通り、
最前列に座っても、舞台の端は多少切れる。
(どのボックスに座っているかにもより、舞台に近いボックスになるほど、切れ度は高い。)
けれども、最前列なら、デメリットはそれだけ。
逆にパーテール、グランド・ティアで、サイドの真ん中くらいにあたるボックスに座ると、
舞台からも結構近くて、かなり臨場感を味わえる良席です。
さて、空席が出来たボックスは8番。これは上手側のサイドの真ん中にあたる、良ボックス。

ということで、ボックス自体は問題なし。むしろ大問題なのは、この二列目という事実、、。
サイドのボックスの二列目以降といえば、前の人、横のボックスの人の頭で視界は遮られ、
有効視界=全視界のうち実際に舞台が見えている率は25%くらい。
つねに観たい対象を求めて、前の人たちの頭のシルエットの間を縫って首を動かしているため、
目が舞台に慣れるまで乗り物酔いに似た反応をおこすこともあります。
しかし、肉眼で、ダンサーの表情まで見れるというこのメリットも捨てがたい。
ああ、悩んでる暇はない!もしもこの瞬間にも他の誰かがこのチケットを持っていくことがあったら
私は一生悔やみながら生きていかねばならないかもしれない!!

かちっ!

気がつけば、マウスに乗せた手が勝手に購入手続きを始めてました。
恐ろしい我が手!

当日、実際に座席に座ってみると、これがまた記憶の中のそれよりもひどい。
ボックスの最後列にあたる三列目の座席は、ひな壇のようなものにのっているのだが、
そのひな壇のぎりぎりまで私の椅子は下がっているのでもうこれ以上下がれない。
なのに、私の前の一列目の女性が足を組もうと椅子を下げて来た。
私の膝が彼女の椅子と自分の椅子に挟まってギロチン状態である。これはたまらん。
”申し訳ないですが、あんまりスペースがないので下がらないで!”と叫んでしまいました。
ただ、彼女だって足を組むといっても最低限のスペースしかとっていなかったし、
私もそんなことを言うのを気兼ねしたくらい。
とにかく場所が狭いのだ!
オペラでこの座席を利用したときから常々思っているのだが、
これでグランド・ティア正面の座席と大して値段が違わないなんて、何か間違っていないだろうか?
列数を二列に減らすか、そうでなければ、こんな席こそ$25にすべきである!!

そして、舞台が始まってから、これがまた苦行の連続。
25%の視界を30%に近くしようと私も必死なのだが、あまりに首を動かしすぎて酔ってきた。
このレポはそんなサイドボックス酔いの苦しみの中から、
芸術の神さまが舞台に降りた瞬間を目撃したドキュメンタリーです。

第一幕

今日のヒラリオンは前回水曜マチネのださださ激烈思い込み系描写のスタッパスに代わり、
なぜだかちょっぴり都会的な風を吹かしているサヴェリエフ。
前回、スタッパスの踊りに吹き出しがつくなら、”オラはオラの信じたことをやるずら。”
”おまえのせいずら!!”という感じだと書いたが、
サヴェリエフのそれは、”ボクはボクの信じたことをやるまでさ。”、
アルブレヒトに対し、ジゼルが死んだのは、”君のせいなんじゃないか!”という雰囲気。
つまり、どこかスマート。
私はヒラリオンも農民かと思っていたのだが、プレイビルによれば、
ヒラリオンは貴族の狩のお手伝いもしている狩人だそうなんである。
ふーん、、、貴族のお手伝いもするならこちらのサヴェリエフの雰囲気が本来の姿なのかもしれない。
あんなスタッパスのような、激烈さにまかせて、いつ勘違いなことを突然しださないとも限らない雰囲気の人間を
狩のお供に雇っているアルブレヒトの許婚のパパもパパである。
そんな風に見る目がないから娘の許婚にも、村娘に手を出してしまうアルブレヒトのような人間を選んだのだな、
と思われてしまうというものです。


(↑ 過去シーズンより、ケントとカレーニョのコンビ。冒頭の写真はニーナ。)

この一幕は、”狂乱の場”(幕の最後に、アルブレヒトの嘘を知ってジゼルが絶望のあまり
命を失ってしまうまでに至る場面)とペザント(農夫、農民)のパ・ド・ドゥが
しっかりしていないと、退屈になりかねない幕だと思うのだが、
今日の女性ペザントをつとめたリッチェットは『海賊』のオダリスク・ガールズに続き、
私は好印象を持ちました。水曜マチネのレーンよりもずっとディテールが丁寧だし、
どんな姿勢をとっていてもバランスが安定しており、踊りに変な癖もなくて綺麗。
あとほんの少しだけ伸びやかさとか大きさがでるとさらに良くなる気がしますが、
このあたりの役を踊っているダンサーたちの間では期待できる存在です。

一方の男性ペザントのマシューズは、ソロの最初二つの二回転とも
膝が伸びきってしまっていて、あまり美しくなかったのですが、
少し膝の柔らかさ、使い方の安定度に課題があるのかな、という気がします。
残りの回転はうまく決まりましたが、上手く決まったときは非常に膝が柔らかく美しく動いていたので、
これが毎回再現できるようになるといいのにと思います。

しかし、二人の全体の出来としては私が観た今シーズン3回の公演(水曜マチネのレーン&イリーイン、
このリッチェット&マシューズ、そして土曜マチネのコープランド&ロペスのコンビ)のうち、
最も良いペアで、安心して観ていられました。
今日の公演は、主役の二人、ニーナとカレーニョが素晴らしかったのもさることながら、
このペザントの二人、また後ほど大いに言及するつもりのミルタ役のマーフィー、
そしてヒラリオンのサヴェリエフと、主役および準主役のどの役にも
全く穴がなかったことも特筆すべき点だと思います。

たった一点残念だったのはバチルド役のビストロヴァ。
水曜マチネのトーマスに比べると、かなり平たい役作りで
この役がストーリーを展開させるための単なるお人形さんのような存在になってしまったこと。

カレーニョのアルブレヒト。
私は正直、最初、このアルブレヒトはなんて嫌な奴なんだ、と思い、
あまり好きになれませんでした。
ジゼルと接する態度も、にやにやにやにや、へらへらへらへら。
そのあまりの態度に、ジゼルよ!こんな顔に”俺と遊ぼうぜ!”と書いてあるような男に
なぜに引っかかる?!とほぞを噛む思いで見守っていた私です。

しかし、それが大きく揺らぎ展開するのが、ジゼルが真実を知り、だんだん正気を失うあたり。
呆然と見守るカレーニョの姿から、”自分はとんでもないことをしてしまったんじゃ、、、。”という
焦りと激しい後悔の念が伝わってきます。

そして、私が個人的に、そのダンサーがどういう風にアルブレヒト役を描こうとしているかが
わかりやすく提示される場面だと思っている、ヒラリオンとの口論のシーン。
前回水曜マチネのコルネホは、基本はまじめ人間。ちょっとの遊び心と、
あまりに献身的なレイエス=ジゼルに情がほだされ恋仲になった、、という展開で、
この口論のシーンでは、田舎モノ系激情ヒラリオン=スタッパスの、例の、
”おまえのせいずら!!”という叫びに、”お、おれかよ?!”と、ただただびっくり仰天であわてる、という表現で、
運命に翻弄されるアルブレヒトという感じでしたが、
ヒラリオンに”君のせいだろう!”と責められたとき、カレーニョは、
慌てるでも、怒るでもなく、ほんの少しだけ顎をひき、うつ向くのです。
コルネホ=アルブレヒト、土曜マチネのマキ=アルブレヒトが、共にヒラリオンに向かっていく、
前に出て行くアルブレヒトだったのに対し、
後ろに引くアルブレヒトを見せたのは私が観たなかではカレーニョ唯一人でした。
そこには、自分が出来心で引き起こしてしまった不幸のために自分が背負わなければならない
心の呵責と、そして自分を襲う不幸(ウィリによる取り殺し)な運命をまるで
黙って受け入れたかのようで、
ここで初めて、それまでちゃらんぽらんだったアルブレヒトの思いがけない人間性が垣間見えるという、
非常に面白い表現になっていました。
それまでのアルブレヒトの様子から当然前に出て行くのだろうと思いきや、
予想外に引いてみせたカレーニョ。見事です。

一方のニーナ。彼女のジゼルがこれまた至芸の域に達しています。
私は彼女の公演を観た回数が極めて浅く、
熱心なバレエ・ファンの方に比べると、彼女のキャリアの歴史に対する思い入れが少ないため、
『ドン・キホーテ』のレポで書いたような厳しいことを書けてしまうのだと思い、
ファンの方には大変申し訳ない気持ちでいっぱいなのですが、しかし、やはり、
今の彼女の加齢による身体的能力の低下を思うと、あのキトリのような役は、
観客がよくても、多分本人が辛いのではないか、というのが正直な気持ちです。
キャリアのピーク時にその役が素晴らしかったとすればなおのこと、、。
しかし、『白鳥の湖』や、いやそれ以上にこの『ジゼル』のように、
超絶技巧ではなく、表現で役を語るタイプの演目では、彼女は今もって本当に素晴らしいものを見せてくれます。
まず、可憐で元気な村娘だけどどこかに迫り来る不幸の影を感じさせるはかなさをも表現している一幕前半、
何一つ、役として、余分なものも足りないものもない、素晴らしいはまりぶりです。
これが40代の女性とは絶対に見えない。こんなに舞台に近い場所で見ていてもそう感じるのだから、
彼女の表現がいかにすごいかということがわかります。
いや、その表現は正しくないかも。
彼女のジゼルには、年齢とか、美人か不細工か、というような具体性を超えた、
全女性を抽象的に表現しているような気すらしました。
ですから、恋する気持ちがわかる女性なら(そして男性も!)
絶対にニーナが演じるジゼルとコネクトできるはずです。

そして、狂乱の場は、、。
水曜マチネのレイエスに満足している場合ではなかった。
正気と狂気の間を行ったり来たりしている、そのどちらとも、無理をしている感じが一切せず、
あまりにその切り替えが自然で、観ているうちに、これ以外の表現はありえない気がしてきます。
花占いを思い出す個所では、ただ思い出に浸っているだけではなく、
アルブレヒトとの恋が最初の占いの結果どおり悲恋に終わって、
それを確認して心が崩れていく様が、段々早く花びらをちぎっていく姿と呼応しています。
アルブレヒトの剣を拾って、床に円を描いていくときには、
”ここが彼と私の世界なの!だから、誰もここには入ってこないで!”という叫びが聞こえてきそうだし、
どの振りからも、ジゼルの心の叫びが聞こえてきそうで、こんなに切なく、
心がかきむしられる狂乱の場は、レイエスはもちろん、
残念ながら土曜マチネのドヴォからも観ることのできないものでした。

ニーナ、カレーニョともに、ダンサーとしては年齢が高いため、
今が体力的にプライムにある他のダンサーたちにはないハンデはあるし、
それが踊りににじみ出てしまうときもあります。
しかし、逆に、他のダンサーたちにはなくて、彼らにあるものが、
体力的な不足を圧倒的に凌駕している。
何度も役をこなし、自分のものにしたダンサーだけが出来る種類の踊りであった、といえばいいでしょうか。
それから、ニーナの持つ磁力、というのか、彼女と共演すると、
他のダンサーたちも一緒に輝き、もしかすると、いつも以上の実力を発揮するという事実を、
前回の『白鳥~』のゴメスに続き、今日のカレーニョ、マーフィーにも感じました。


第二幕

この幕で私が体験したことを言葉できちんと表現できればいいのですが、、。
これほど、言葉がもどかしく感じられることはありません。

まず、マーフィーのミルタについて触れておかねばなりません。
水曜のマチネで、さわるとひんやりしてそうな冷酷なミルタを演じ、
私に、これこそは彼女の当たり役!と言わしめたマーフィーですが、
今日の彼女は、さらにパワーアップしていました。
もともとテクニックはしっかりしている人だと思うのですが、
役によっては少し色がないような気がしてしまうという、
欠点と紙一重な彼女の踊りの特徴が、この役に関してはすべてポジティブにはたらいてしまう。
怖いくらいのはまり役です。
まるで部下のウィリたちですら、話しかけるのを躊躇しそうな、
この鉄壁の、氷のように静かな、冷ややかさはどうでしょう?
こんな残虐なバレリーナは、今、彼女をおいて地球上に他にはいないのではないか?と思えてきます。

彼女の若干色のない確かなテクニックというのが、見事にミルタの頑固で冷たそうな雰囲気とマッチしてます。

そして、私は、今日、あまりに無理な体勢で舞台を臨んでいるために、
いつ首や腰がはずれてもおかしくない、と思っていたのですが、
それが報われる瞬間がやって来ました。

それは、ヒラリオンをまさに取り殺さんと、ウィリたちが舞台上ななめに
フォーメーションを作り、最も舞台袖に近いウィリのそばに、ミルタが観客に背を向けて立つシーン。
もんどりうって踊り続け苦しむヒラリオン。ミルタが、後ろを向いたまま、
そっと顔を横に向けるポーズをとるのですが、その時のマーフィーの表情といったら!
冷たいサディスティックな表情から、くくくく、、としのび笑いを浮かべる様子に、
足を次々にちぎられていく昆虫を見て楽しんでいるような残虐さを私は感じて、
本当に本当に怖かったです!!マーフィー、あなたは一体何者なのっ?!

しかし、それだけではなく、度重なるミルタの残虐な攻撃にも関わらず、
身を呈してアルブレヒトを守ろうとするジゼルのおかげで、命を失わないまま、
朝の訪れを知らせる鐘が聞こえて、朝焼けが舞台に広がるシーン。
ここに至るまでにも、ジゼルの執拗なねばりに、”この小娘やるわね、、”
というミルタの焦りを静かな中にもかもし出したり、
鐘が聞こえてきたときの、誇り高い様子の中にも敗北を感じている、、といった微妙な表現にも唸らされます。
とにかく、この役での彼女は素晴らしい、この一言につきます。

ニーナとカレーニョが踊るパ・ド・ドゥ以降、ラストまでの20分ほど(でしょうか?
正確に測ったわけではないのでわかりませんが、、)の間に私は、
オペラ鑑賞歴を足してもほんのまれにしかめぐりあえない種類の体験をしました。

それは、完全な作品や音楽との踊りの調和、といいましょうか、
そして、自分もその中に一緒にいる、という、ほとんど超現実的な現象です。
ニーナの踊りのすごさというのは、この作品や音楽と一体化する能力なのではないかと、
『白鳥~』とこの『ジゼル』を観て思い始めています。
踊りが踊りでなくなるといいますか、、彼女が演じている人物そのもの、もしくは作品そのものとなってしまうのです。
そして、観る側も、彼女を通してそれを体験するといえばいいでしょうか、、。
なので、具体的に踊りがどうだった、ということよりも、
私が自分の体に感じた感覚の方がこの日の公演の印象として、強烈に残っています。
カレーニョが救われる場面までの間、私は完全に自分のボックス席を離脱してしまいました。
前の人の頭がうっとうしいとか、首や腰が痛いという感覚も全く消えていました。
ニーナがデイジーの花をカレーニョの上に撒きながら、
彼女のお墓の向こうに後ろ向きに倒れて行ったときに、やっと我に返った状態でした。
アルブレヒトを救った瞬間、その時こそが彼を自分の目に焼き付けられる最後の瞬間になるというジレンマ、
それを越えて彼を助けたいという彼女の気持ちが、これほどリアルに感じられるとは、、。


(↑ アンヘル・コレーラがアルブレヒト役をつとめた公演日からのニーナ)

そして、それを支えていたのが、カレーニョ。
このシーンを通して、彼のそのサポートの流れが途絶えない、そこにいるのだけど、
ほとんどいるのだとわからない、透明な感じはどうでしょう?
彼が腰を支えてニーナが空中を飛んでいるのだと、目には見えても、
感覚的にはニーナが一人で空を飛び回っているような気がしました。
他のダンサーが踊るアルブレヒトからは、全く感じなかった(というか、彼のバチルドとの
いきさつなど、考えもしないことの方が多い。)のですが、
なぜだか、カレーニョのアルブレヒトからは、きっと許婚との婚約を破棄したに違いない、
という確信を彼の踊りから持ったのも、不思議といえば不思議です。

素晴らしいダンサーたちの踊りにふれる機会を与えてくれているABT、
そしてキーロフのNY公演もあった、、。
それでも、こんな感覚を与えてくれた公演はバレエでははじめて。

おそらく、残りの人生、毎シーズンオペラやバレエを観続けたとしても、同級の体験をすることは、
あったとしても、ほんの数度でしょう。もしかすると一度もないということも考えられます。

これは、技術がどうのというレベルを越えた、舞台の神さまがメトに降りた瞬間でした。
私がオペラやバレエに飽きることなく通い続けるのは、まさに10年単位でしかめぐり合えない、
こんな体験をしたいからだ、という私の鑑賞の原点に立ち返る思いがした公演となりました。

Nina Ananiashvili replacing Diana Vishneva (Giselle)
Jose Manuel Carreno (Count Albrecht)
Gennadi Saveliev (Hilarion)
Alexei Agoudine (Wilfred)
Karen Ellis-Wentz (Berthe)
Victor Barbee (The Prince of Courland)
Maria Bystrova (Bathilde)
Maria Riccetto, Jared Matthews (Peasant Pas de Deux)
Gillian Murphy (Myrta)
Melanie Hamrick (Moyna)
Hee Seo (Zulma)

Music: Adolphe Adam
Choreography: after Jean Coralli, Jules Perrot, and Marius Petipa
Conductor: David LaMarche replacing Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
Parterre Box 8 Mid

*** ジゼル Giselle ***

GISELLE (Wed Mtn, Jul 9, 2008)

2008-07-09 | バレエ
ジゼル。
ヴィシニョーワの回とドヴォロヴェンコ(以下略してドヴォ)の回を見るつもりだった。
確か今から半年前、ついにバレエのサブスクリプションにまで手を伸ばしてしまったのは
この二つの公演の個別チケットの優先予約権目当て。
そして、希望通り、ドヴォの出演する回のチケットを購入した。
なぜって、郵送されてきた最初のパンフレットには、確かに、7/9 ドヴォ・マキ(*マキシム・べロセルコフスキー。
ドヴォのご主人かつパートナー。)の文字があったから。
これで準備万端、と思った。甘かった。
数ヵ月後、新しいパンフレットが送られてきた。7/9の欄、そこにはドヴォ・マキの文字が消えていた。
かわりにレイエスの文字。頭に雷が落ちた
アルブレヒトに入ったのは誰だったか、あまりのショックで目に入らなかったのか、記憶なし。
サブスクリプションのチケットなら交換もしてもらえるが、サブスクリプションを買った結果得た
優先購入権で買ったチケットは通常のチケットの販売時のルールが適応されるため、
他の公演日との交換は不可。
しかも、連れの分まで2枚も買ってしまったのだ、、、
しかもグランド・ティアー、、
しかもマチネ、、、もう会社に有給休暇の申請もしているというのに。
そして、ドヴォ・マキのペアは、何と7/12にスライド。ということは、この期に及んで7/12の公演を
再度手配しなければならないのか?!
当然のことながら、速攻ABTに電話。
怪我で直前に変更になるならともかくこんなに早い時点でキャストを変更するなんて詐欺同然!と吠えまくり、
来年からはサブスクリプションなんて意味ないから買いません!と捨て台詞まで吐いて。

しかし、まだ公演日まで3カ月以上あるのだから、またキャストの変更があるかも、、
7/12はとりあえず追加で抑えたけれど、だからと言って、この7/9のチケットを誰かに譲るのは時期尚早では、、?
ということで、ずーっと握りしめてきたチケットです。
そして、思惑通り、一時は、この公演、ドヴォとホールバーグのコンビに変更になり、
とりあえずドヴォが見れるなら、、とほっとしたところ、
ヴィシニョーワの怪我によるキャンセル、そして、ホールバーグの怪我
(プレイビルの説明によればですが、真偽のほどは不明。)により、
なんと、再び週全体にわたって大幅なキャスト変更。
7/9のマチネ公演については、レイエスとコルネホのコンビで決着を見ました。
実は秋シーズンやメトシーズンの準主役で観たレイエスが私には全くぴんと来なくて、
この決着には正直、かなり落ち込んでます。
しかし、”バレエ、バレエ!!ジゼル、ジゼル!!”と浮かれている私の連れにこの状況、とても話せない、、。
彼がダンサーの名前にうといのをいいことに、何事もなかったように今日我々はメトに到着。
多分、彼はまだ”確か今日はロシアの夫婦のダンサーとか何とか言ってたな、、”と思っているはず。
レイエスとコルネホ、どう見てもロシア人には見えないけど、私はこのまま誤魔化し続けます!
(ちなみに二人はラテン系。)

平日のマチネ、しかもレイエスとコルネホのコンビの『ジゼル』で客が集まるの?と思いきや、
私のように騙されてチケットを買って、そのままキープした人たちが多いのか、
すごい人、人、人!!
そして、さらにじっと観察すると、実にお年を召した有閑マダム系の多いこと、多いこと、、。
夜の公演は夫婦連れの方も結構多いですが、平日のマチネは圧倒的に、
女性のお友達同士が多し!
しかも彼女たちのパワフルなこと!この夏日にものすごい厚化粧で、おしゃれをして駆けつけました!風なのです。
私の連れは、”男は僕一人なのかな、、?”と不安そう。


鑑賞前に小腹が減ったので、グランド・ティアーのバー・カウンターへ。
見ると、なんと新メニューが加わっている!
白いフロスティングたっぷりのカップ・ケーキ。おいしそうです。
メトの食べ物の新メニューは絶対にすぐにトライしなければ気がすまないので、
早速購入し、連れと二人でつついていると、大きなガラス越しに、
有閑マダムが4名、テラスに置かれた椅子でおくつろぎ中なのが見えます。
私の連れは少し私よりも年齢が上のせいもあって、最近の口癖は、”歳はとりたくないなー”。
特に今日のお歳を召したマダム連の”世界は私を中心に回る”的様子を見て
一層切実にそれを感じているよう。
突然、彼がカップ・ケーキを食べる手を止め、
”自分が歳をとったなーと感じるとき。
それは自分に色目を使ってくる女性の年齢が上がったとき。”
とボソッと呟くので、”誰が色目使ってるの?”と聞くと、”ガラスの向こうのマダムたち。”
私が、”まっさかー!私が真横にいるんだから、それないでしょ。”と言うと、
超真顔で、”アメリカの女性はアグレッシブなんだよ!!”と力説するので、
よく見ると、確かに、彼の気のせいではなく、マダムがうっとりとした表情でこちらを見ている。
おやおや、歳をとるとやーね、恥じらいがなくなって!(←という私も決して若くはないが。)と
思っていると、そのマダムのうちの一人が立ち上がって、テラスから、私目がけて歩いてくるではありませんか!
きゃーっ!!マダムに勝負を申し込まれるのかしらー!?とドキドキしていると、
お上品なマダムが一言、”そのカップケーキ、おいしくって?”

カップケーキ、、、ですか?

予想だにしなかった質問に、”意外といけます!”と答えると、
”そう、お二人が食べているのがとてもおいしそうだったので、私たちも頂くわ。”とそのまますたすたカウンターへ。
その間、マダムは一瞥たりとも私の連れに視線を投げることはなく、
瞳はカップケーキに釘付けだったのは言うまでもありません。
色目、、アメリカ人女性はアグレッシブ、、ああ、何て勘違い、、

”あれを色目づかいと勘違いするとは、ヤキが入った、、それこそ歳とった証拠だ、、”とさらにへこむ連れなのでした。
ちなみにこのカップケーキ、少し食感が軽めでメト・プライス(=お高い)ですが、
なかなかおいしいので、私のインターミッションおやつリストの仲間入りです。
ちなみに、リストのトップはいちごのチョコがけです。

さて、やっと本題の『ジゼル』の公演。
予習に使用したDVDは日本から取り寄せたヴィシニョーワ&マラーホフ with 東京バレエ団の公演のもの。
このDVDにより、初めて物語の全体像を知ったのですが、いやー、このお話、私、好きです!!

私のオペラで好きなレパートリーの中核を占めるものの一つに、
ベル・カントもの、特にロッシーニ作品”以外”の、
つまり、ドニゼッティとかベッリーニあたりの作品があります。
それも特に悲恋もの。
で、この『ジゼル』を観たとき、非常にそのあたりのオペラのレパートリーと共通するものを感じました。
例えば、第一幕の最後など、まさに、バレエ版”狂乱の場”。
それからニ幕の、あの世とこの世が交わる感じにも共通項を感じます。
プレイビルによれば『ジゼル』の初演は1841年、
ドニゼッティの代表作『ランメルモールのルチア』の初演が1835年。
ほとんど同時期なのです。なので、ドニゼッティ&ベッリーニ好きの私が『ジゼル』に
すっと入っていけたのも道理です。

特に私はこの作品の無駄をそぎ落とした単純なストーリーがいいと思います。
それから、ニ幕の、超現実的なシーンを用いて、人間の持てる最も崇高な精神(犠牲とか愛とか)を、
描ききっているところ。エンディングは本当に感動的です。

今日もおむすび、いえ、オルムスビー・ウィルキンズの指揮。
またへぼい演奏を聞かされるんだろうなあ、、と思いきや、
今日のABTオケは全員メンバーをとっかえたのかと思うほどでした。
金管の安定感がいつもに比べると格段に上がっているのに、まず、おや?と思わされましたが、
金管だけじゃなく、弦セクションも良かったですし、何が起こったのでしょうか、ABTオケ、です。
一ヶ月ほど前、バーンズ&ノーブルズ前で、若い女性(ジュリアードの学生さんか?)が
ヴァイオリンで、『白鳥の湖』のヴァイオリン・ソロを弾いていたのですが、
それこそ音程も正確だし、このまま腕を引いて、ABTのオケピに連れて行ってしまおう!
と思ったくらいですが、今日のような演奏を普段から聴かせてくれるのであれば、
そんな必要もないのです。

私にとっては、バレエもオペラと同じく総合芸術ですので、どんなにダンサーの踊りが優れていても、
寒いオケの演奏だと、本当に心が凍えます。
今日の公演全体について、先に公言してしまうと、私は予想外の好印象を持ったのですが、
オケの出来が今までとは段違いでよかったことが影響していることは間違いないと思います。

一幕のセットはDVDの東京バレエ団の公演とほぼ同じ。
遠くに城をのぞみ、舞台下手にジゼルの家。
ヒラリオン役のスタッパス、大柄な印象を与えるダンサーです。
役作りはひたすらいかつい。
東京バレエ団のヒラリオンが、なよなよジクジク系なのに比べると、
体だけは丈夫そうな、下々っぽい村人感が出ていて私は嫌いではないです。
大変申し訳ないが、東京バレエ団のヒラリオンにはニ幕でも一切同情できなくて、
「早くウィリにやられちゃってください。」としか思えない。
どうしても私には、東バのヒラリオンからは、
ヒラリオンの劣等感がアルブレヒトを策略に絡めて行くような印象を受けてしまうのです。
それに比べて、このスタッパスのヒラリオンは、もっとカラッとしてます。
”オラはオラの信じたことをやるずら。”
その勢いで、アルブレヒトの正体を暴くヒラリオン!!!
しかし、その思い込みがあまりに激烈なため、策略家のような感じがせず、
ニ幕でウィリに取り殺されるシーンでは、ちょっぴり同情してしまうほどです。
一幕での、”おまえのせいずら!!”とジゼルが死んでしまったのを、
アルブレヒトのせいにする勢いにも、その思い込みが現れています。
ニ幕のウィリに取り殺されるシーンは凄惨ですらあり、観客は思わず息を呑みましたが、
しかし、もんどり打ちながら、最後に舞台の床で後ろにでんぐり返りをしながら
舞台からはけるあの振り付けはスタンダードなんでしょうか?
あまりの強烈なはけ方に思わず観客の多くが笑ってしまいました。
強烈にださいのになぜか目を惹いてしまうヒラリオン、
このだささが演技から出たものだとすれば、あなどれない存在のダンサーです。

レーンとイリーインの農民のパ・ド・ドゥ。
イリーインは肩の力が抜けるともっと良くなると思うのですが、
特に前半、ぱんぱんでした。後半でやっと良さが出てきたように思いますが、
少し技の出来にムラがあるのが気になります。
レーンは残念ながら、パ全体を通して、私にはあまりぴりっとしない、
詰めの甘い踊りのように感じられました。

踊りらしい踊りがないにも関わらず存在感があったのは
アルブレヒトの婚約者を演じたメリッサ・トーマス。
彼女は『ドン・キホーテ』での森の女王も見所がありましたし、今後が楽しみです。
気位の高さと、身分の高い人特有の高慢さ、それでいて、しかしどことなく憎めない感じ、と、
このバランスのとり方が見事でした。

一幕の主な脇役を固めたので、いよいよ主役について。

アルブレヒトを踊るコルネホ。
彼はヴィルトゥオーゾ的な踊りがトレードマークのようになっていて、
実際、『ロミ・ジュリ』のマキューシオなどが強烈な印象があって、
こういった古典ものの主役というのは、観るまで正直全然ピンと来なかったのですが、
彼のアルブレヒト、私はとっても素敵だと思いました。
地のルックスが貴族にあるまじき暑苦しさなので、一瞬見た目には違和感があるのですが、



一旦踊りが始まってしまうと、全く気にならなくなります。
むしろ、あれほど超絶技巧を売り物としている彼が本当に抑えて抑えて、
感情表現を大事に、一つ一つの動きを丁寧に踊っているのをみるにつけ、
本当に頼りになるダンサーだな、という思いを強くします。
これからもっともっと表現力がついていくのでしょうが、今、ABTのプリンシパルの中でも、
表現力と体力が最も理想的なバランスで拮抗しているダンサーの一人なのではないでしょうか?
ラテン系のダンサーは、古典ものにはどうだろう、、?という
思い込みをくつがえす素晴らしい出来だったと思います。
特に二幕の表現、やり過ぎないことによってかえって滲み出てくる味がありました。
また、レイエスへのサポートも上手。
リフトではびくともしないし(DVDでマラーホフがヴィシニョーワを抱えながらふらふらしていたのとは対照的に、
まるで大木のようにどしーっとレイエスをリフトし、微動だにしませんでした。)
また、決して本人はそれほど背が高いほうだとは思わないのですが、
リフトしたときのレイエスの位置がそれにしては驚くほど高い。
まるで、指の第一関節だけを使ってリフトしているのではないかと思うほどです。
それから、レイエスを本当によく観て踊っているし、その結果でもあるのでしょうが、
二人が重なったポジションで、違う足のステップを踏んでいるときも、その違うステップの縦の線の揃い方がすごい。
レイエスの足の真後ろから、コルネホの足が出てきて、レイエスの両足の間で、
きれいなステップを見せる、という具合で、これは、まるで上手な二重唱を聴いているのと同じような感覚です。

一方のレイエス。
彼女については、今日全幕で観て、私が彼女の踊りについて今ひとつ好きになれない点が
はっきりしました。
それは、ぼてっとした腕、特に手の使い方だと思います。
彼女の踊りはどちらかというと足の強さの方が勝っていて、腕や手が申し訳程度についているような感じがする。
これは、私的には、何としても直してほしい点です。
しかし、そのような致命的な欠点はありつつもなお、今日の公演での彼女は悪くはなかったというのが私の意見です。
これは本当に意外でした。多分、観た後、けちょんけちょんなレポを書かねばならないのだろう、、と
どんよりした気分だったのですが、踊りそのものの欠点はあげることはできますが、
この役の一つのあり方を提示していましたし、私としては観た甲斐がありました。



(↑ ヘレーラがジゼル役をつとめた公演の写真。)

まず、村娘時代のジゼル。これは彼女の幼く見えるルックスもあって、結構はまっています。
DVDでのヴィシニョーワのジゼルが、村娘でありながら美人!のような感じがするのに対し、
レイエスのジゼルは、もっと普通の娘的。
けれども、これが逆にせつなさを煽ります。
こんな普通の、特に美人ではないジゼルに、貴族の身のアルブレヒトが本気で恋するわけがない。
というわけで、よりアルブレヒトにとって、最初は戯れ同然の恋だったことが強調されています。
しかし、この美人でないことが、ニ幕での彼女のアルブレヒトへの献身度に
一層のリアリティを与えています。
冴えないルックスの女の子が、精一杯の真心でウィリから自分の愛する人を守ろうとするニ幕、、。
私はヴィシニョーワの美人ジゼルより、こちらの方にホロッときました。
そうなんです。このジゼル役、美人である必要は全然ない。
むしろ、美人系ジゼルでない方が説得力があるように思えるくらい。
これは土曜マチネのドヴォ、ピンチです!
何となく彼女はヴィシニョーワと同様に美形ジゼルで来そうな予感がするので、、。

一つ言えば、”バレエ版狂乱の場”と勝手に名づけさせていただいた一幕の最後。
ここだけは、どうしようもなくレイエスの表現が物足りなかった。
もっともっと、感情の動きを緻密に分析して、失望、悲しみ、驚き、呆然、あきらめ、などなど、
色んな感情のあやを表現してほしいし、その感情が爆発しなくては。
狂乱ですよ!狂乱!!!
ここに関しては、ヴィシニョーワの方が数段上です。

ニ幕、ヒラリオンが木を十字に組んで作ったジゼルのお墓が下手に。

コール・ドによるウィリたちの踊りは、、うーん、、、、、。厳しい。
ここはみんながぴたーっとそろうとものすごい効果が出ると思うのですが、
常に、バランスの怪しげな人、足の所作のタイミングがずれている人、
足の上げ方の角度が甘い人、が一人はいて、振り付けの真価が出ていなかったと思います。

ミルタ役のマーフィー。これがまた、もう一つの発見。
『バヤデール』のレポで根拠の全くないままに私に意地悪女呼ばわりされた彼女。
しかし、私の大計算違いでした。
ガムザッティのようなアグレッシブなタイプの意地悪女より、
この無感覚系静かな意地悪女(人の命を奪う指揮をするわけですから、意地悪というより、
残虐、か。)ミルタの役が本当に良く合ってる!!
無表情のまま、”殺せ!殺せ!”とウィリたちを冷たく煽る姿が怖いです。
マーフィー、観客に背中を向けていても、無表情なのが伝わってきます。
この怖さは、さわるとひんやりしてそうな感じ。
意地悪、残虐にもいろーんなタイプがあることを実感。
マーフィーには、この役をライフ・ワークとして極めて頂きたいです。

マーフィー”ひんやり”ミルタが見守る中、着々と死に近づいていくアルブレヒト。
ここで出てくる技の数々は、コルネホの得意とするところで、観ていて全く危なげなし。
相変わらずキレのよい回転と高いジャンプに観客からの拍手も大きかったです。
しかし、それだけではなく、最後に、ジゼルが消えた後から、幕が降りるまでのたたずまいも、
それはそれは美しく、余韻のあるものでした。

観終わった後に、この作品を観た時本来感じるであろうはずの胸にじーんとくる感じが
きちんと感じられた公演でした。
ダンサーの技術がどうの、スタイルがどうの、とはいっても、結局最後に一番大事なのは、
その作品そのものの良さが伝わったか、という点ではないかと思うのですが、
その意味では、地味ながら良い公演だったと思います。

連れも今日の公演には満足したらしいので、いよいよ真実を開陳。
”ロシアのペアは土曜になったから。今日はラテン・ペアだったからね。”
観た後に言うな!って感じですが、しかし、本人は全く気にしておりませんでした。
公演のクオリティーはすべてを越える!のです。


Xiomara Reyes replacing Irina Dvorovenko (Giselle)
Herman Cornejo replacing David Hallberg (Count Albrecht)
Isaac Stappas (Hilarion)
Carlos Lopez replacing Jared Matthews (Wilfred)
Susan Jones replacing Maria Bystrova (Berthe)
Vitali Krauchenka (The Prince of Courland)
Melissa Thomas replacing Kristi Boone (Bathilde)
Sarah Lane, Mikhail Ilyin (Peasant Pas de Deux)
Gillian Murphy (Myrta)
Melanie Hamrick (Moyna)
Hee Seo (Zulma)

Music: Adolphe Adam
Choreography: after Jean Coralli, Jules Perrot, and Marius Petipa
Conductor: Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
Grand Tier A Even

*** ジゼル Giselle ***

メト・オープニング・ナイトは誰が振る?

2008-07-09 | お知らせ・その他
7/9のNYタイムズの記事によると、メトの音楽総監督であるジェイムズ・レヴァインが、
嚢胞による腎臓摘出手術のため、現在指揮中だったタングルウッド音楽祭の残りの演奏を
キャンセルすることになったようです。

メトのシーズン開幕までには復帰予定だそうですが、一昨年も同じようなことを言いながら、
結局、間に合わなかったような、、。
(2006年シーズンの開幕前の夏、ボストン響を指揮中に椅子から転げ落ち、腕を怪我。
シーズン開幕演目『蝶々夫人』に間に合わず、別の指揮者が指揮をつとめた。)

現在発表されている2008年シーズンのスケジュールでは、
9/22のオープニング・ナイト・ガラで、アルミリアートと共にルネ・フレミングのワン・ウーマン・ショー
(『椿姫』、『マノン』、『カプリッチョ』から一幕ずつ演奏の予定。)を
指揮するのがレヴァインの最初の指揮日。
アルミリアート・ファンの私としては、レヴァイン氏に万事をとってしっかり休養していただき、
アルミリアートのソロ指揮に変更していただいても全く問題はないのですが、しかし、
レヴァインが出てこないとメトのオープニング・ナイトという感じがしない!
と感じる観客も多いかもしれません。

このオープニング・ナイト・ガラを逃すと、次のレヴァインの登場日は、
11月に予定されている『ファウストの劫罰』、その次は1月の『オルフェオとエウリディーチェ』、
その次は3月の125周年記念ガラ、これを全部逃したとしても、
シーズン終末を飾るリング・サイクル、これだけは這ってでも登場したいに違いありません。

しかし、シーズン開幕前にはオケのリハがあるはず、、。
ゲルプ氏、またしてもシーズン開幕前から頭が痛いですね。

(写真はNYタイムズの記事より、タングルウッドで指揮中のレヴァイン。)