Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

SFO との書簡交換

2008-04-30 | お知らせ・その他
メトのライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)に続け、と企画された
SFO(サン・フランシスコ・オペラ)のシネマキャストで上映された
『蝶々夫人』がいかに素晴らしい公演であったかということは、
先日、当ブログにも書いたばかりですが(予告編序編本前編本後編)、
ブログに書くだけでは飽き足らず、SFOにまでメールを送りつけてしまいました。


”Madokakip(もちろん本文ではここは本名ですが)というオペラ・ヘッドです。
NYに住んでいるため、メトに身も心も捧げまくっており、いつもなら、
メト以外の他のオペラハウスが、超ド級の素晴らしい公演を行っているなどとは、
認めたくもない!という類の人間ですが、今日はどうしてもメールを差し上げねばならないと思いました。
というのは、日曜に観に行ったシネマキャストの『蝶々夫人』にどうしようもなく心を打たれ、
これはぜひともDVD化することを検討していただきたいと思ったからです。

おそらくは、まだあまり多くの人がSFOのシネマキャストのことを知らないということ、また、
NYはメトの存在のせいで、常に他のオペラハウスにとって入り込みにくい土地であるという現実のために、
映画館にはあまり多くのお客さんが入っていませんでした。
これは、大変残念なことで、来シーズン以降はぜひマンハッタンで上映して頂きたい、と思います。

しかし、お知らせしておきたいのは、その場にいた全員がとにかく公演に魅了され、
私も含め、涙すら浮かべていたことでした。上映終了時には、客席から拍手と喝采が起こりました。

メトのライブ・イン・HDは、私の出身国である日本でも上映されており、
私は友人、家族、親戚と思いつく限りの方に、観に行くようにすすめています。
同じことを、この『蝶々夫人』についても出来れば、と思うのですが、
残念ながら、シネマキャストには日本での上映がなかったと理解しています。

もしこの公演をDVD化して頂ければ、日本の人たちにもこの優れた公演を見てもらうことができます。
私だけでも間違いなく数本購入することでしょう。
パトリシア・ラセットは私が唯一現役のソプラノの中で溺愛している歌手であり、
彼女は同役をNYでも歌って、それはそれは素晴らしい歌唱を披露してくれたので、
このシネマキャストも素晴らしいものになると想像はしていましたが、
彼女の歌唱の中でもこれほどまでに最高の出来のものを、このように映像に残せるというのは、
そうそうあることではなく、それこそがDVD化していただきたい最大の理由です。
リリースされた暁には、私たちオペラヘッドにとって、宝物のような映像になるでしょう。

ただ一つ、私が映像編集について好ましく思えなかったのは、
最後の幕(三人がピンカートンの到着を待つ部分)で、猛烈な数のフラッシュバックが
挿入されていた点です。
私の意見では、ただ3人が灯篭の横で立っている姿を見せた方が良かったのでは?と思います。
なぜなら、その方が、彼らがいかに長い間、焦がれる思いでピンカートンの姿を待ち望んでいたか、
ということが伝わってくるからです。

しかし、とにかく、この素晴らしいSFOの公演を私たちとシェアしてくださったことに感謝したいと思います。
来シーズン以降も、成功をお祈りしております。”

勢いで書いて送りつけ、それだけですっかり満足していたところ、
一昨日、きちんとSFOの方からお返事を頂いたのでここにご紹介したいと思います。

”Madokakip様(ここももちろん本名で)、

マーケティング・ディレクターのマルシア・レイザーに代わり、
ビガー・ピクチャー提供のSFOシネマキャストに関するお手紙にお礼を申し上げます。
オペラハウス内の実際の公演のみならず、スクリーン上でも我々が想像した以上に素晴らしいものとなり、
私たちも大変誇らしい思いです。
わざわざお時間を使って感想をお伝えいただき、ありがとうございます。

SFOにこうして関心を持っていただくことは喜ばしく、また、
シネマキャストの『蝶々夫人』を大いに楽しまれたとのこと、嬉しい限りです。
おっしゃるとおり、あの公演は素晴らしいDVDになると私たちも思うゆえ、
この先、ぜひDVDで発売できたら、と考えています。
発売が可能となれば、必ずお知らせいたします。

このシネマキャストのプロジェクト、今シーズンが初めての試みであったために、
できるだけ何もかもがスムーズにすすんでほしい、と思う一方で、
いくつかの、不手際も予測しておりました。
これから先の上映分については、ビガー・ピクチャーのパートナーたちと、
特にパブリシティおよび広告の面で、改善策を打っていきたいと思います。

頂いたメールは、ビガー・ピクチャー側のスタッフにも転送させていただき、
シネマキャストを見、心待ちにしている方々がいるということをしっかりと伝えていくつもりです。
引き続き、SFOのプロダクションおよびイベントを楽しまれますように。

また、近いうちに、SFOのオペラハウスの方にもお越しください。”


と、このような大変丁寧な内容のメールを、しかも、何日もたたないうちに頂き、
そして、何よりも嬉しいのは、DVDについて、”それは無理ですね”という
完全ネガティブ・モードではない点。

”ある晴れた日に”の蝶々さんと同様、私も一縷の望みを信じて、
DVDのリリースを待ち続けたいと思います。

Sirius: LA FILLE DU REGIMENT (Tue, Apr 29, 2008)

2008-04-29 | メト on Sirius
4/26のライブ・イン・HDで素晴らしい公演を見せてくればかりの『連隊』。
今日のシリウスに乗る公演はどうでしょうか?

まず、聴き始めて思うのは、やっぱりこの作品、特にこの演出では、
コメディックな演技という、視覚の部分も大きいので、シリウスで聴いているだけでは、
フラストレーションがたまる。
あの、デッセイのアイロンがけを、パーマーのおかしな叔母ぶりを、
フローレスのぴかぴかの舞台姿を、コルベリのつるっぱげ頭を見たい!

というわけで、片翼がない状態のものを語るのは難しいので、
今日は歌唱の印象を、それもピン・ポイントで。

まず、素晴らしい公演のすぐ次の公演ではたまにあることですが、
テンションを前回と同じほどに保つことが難しく、少しエンジンがかかるのに時間が。

デッセイの歌唱、特に頭のシュルピスとの二重唱、そしてその後に続く連隊の歌に、
そのような印象を持ちました。
ライブ・イン・HDの時のほうが、もっとエッジがあって良かったように思います。
(とはいえ、今日の歌唱でも素晴らしいのですが。)
フローレスとの二重唱あたりからくらいでしょうか?歌がのってきたのは。

さて、そのフローレスの方も、今日は立ち上がりが少し、ライブ・イン・HDのときと比べて、
彼の基準からすると、やや微妙に苦労しているような印象を受けました。
当然、音が外れているわけでも、明らかな失敗をしているわけでもないのですが、
いつもだと楽々に出ているような印象を受ける声が、今日は一生懸命コントロールしているおかげで、
おさまっている、というような感じとでもいいましょうか。

Mes Amisの高音も、最後の長く延ばす音を含め、後半4つほどの音は、
ややざらっとしたテクスチャーもあって、初日(NYタイムズで公開されている音源)、
ライブ・イン・HDの日、今日と聴き続けてきた中では、一番元気がない出来に思えました。
それでも、猛烈に盛り上がってアンコールさせずに終わらせるかと吠え続ける観客たち。
いやー、しつこいですね、今日の観客は(笑)。
ライブ・イン・HDの日の公演の客に足りなかったのは、このしつこさだな。
しかし、観客とは本当に獰猛で欲張りな動物だ、と実感。

でも。この一回目の出来を聞くに、もう一回歌うのはリスクがありそうだし、
どうするんでしょう?と思っていたら、なんと、王子、アンコール!!
来ました!!
ええっ?!本当に??!!!

思わず耳を傾ける観客とスピーカーの前の私。
しかし、ここが彼のすごいところ。
なんと、二度目の出来が最高。素晴らしいじゃありませんか!!
すごい精神力です。やっぱり彼は只者じゃない。
この二度目の出来は、ライブ・イン・HDで聴いたハイC9連発と同じくらい素晴らしかったです。

ということで、私の中では仮説が出来上がりました。
もちろん、客とのケミストリー(というか、客のしつこさ?)というのも大事なポイントなんでしょうが、
それに加えて、フローレス自身が、一度目のハイC9連発の出来を自分でどう評価しているか、
というのもアンコールのあるなしを決める重要なファクターなんではないでしょうか?
今までのところ、一回目にほんの少しでも出来に不足があったときに、
必ずアンコールがあるという法則になっているように思います。
次の公演は金曜日。この法則が真か偽か、オペラハウスの中で、しかと確かめて来たいと思います。
そのためには、今日から、私もしつこくする練習をしておかなくては。

この二度目のハイC9連発が大成功してから、一気に公演がヒート・アップ。
デッセイが丹念に歌う”さようなら Il faut partir"が泣かせます。

ニ幕の”富も栄華の家柄も Par le rang et par l'opulence "でも、
デッセイが、ディテールに及ぶまで、これ以上ないほど完璧な歌唱を聴かせて観客から大喝采。
高音のなんとまた綺麗だったことか、、。
デッセイはこの後、幕が降りるまで、ありえないほど完成度の高い歌を披露し続けてくれました。

そして、フローレスの”マリーの側にいるために Pour me rapprocher de Marie ”。
こ、これは!!!!す、す、す、素晴らしい!!!!
ライブ・イン・HDで少し危なっかしい感じもしたDフラットが完全に決まって、
お客さんも大熱狂。

いやー、第二幕以降については、これはライブ・イン・HDの日をもしのぐ出来になってます。
この二人はどこまで行けるのか、、、本当にすごいです。

あまりの盛り上がりぶりに、パーマーがピアノを弾きながらおどける場面では、
アドリブで、『魔笛』の夜の女王のアリア”復讐の心は地獄のように燃え”からの
フレーズまで飛び出す始末。
(これはライブ・イン・HDの日にはなし。)

いやー、最後にはビジュアルがないことなど忘れて、スピーカーの前で
微笑み、笑い転げ、そして、ほろっと来てしまいました。
これこそ、音楽の力。

ニ幕に関しては、冒頭でコンマスのニック・エネット氏が弾くヴァイオリンもつややかで、
なんともいえない色気があったうえ、それに応えるかのように、
”富も栄華の家柄も Par le rang et par l'opulence ”にのるチェロの演奏も美しく、
オケも見事に公演を支えていました。

今日オペラハウスにいる方たちはこんなすごい公演(特にニ幕!)を見れた幸運を喜ぶべし!!!
しかし、やや重かった出だしをひっくり返したのは、やはり、フローレスのあのアンコール。
アンコール・パワー、恐るべし、なのです。

Natalie Dessay (Marie)
Juan Diego Florez (Tonio)
Alessandro Corbelli (Sgt. Sulpice)
Felicity Palmer (Marquise de Berkenfield)
Donald Maxwell (Hortensius)
Roger Andrews (Corporal)
David Frye (Peasant)
Marian Seldes (Duchesse de Krakenthorp)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Laurent Pelly
Set Design: Chantal Thomas
ON

***連隊の娘 ドニゼッティ La Fille du Regiment Donizetti***

HD: LA FILLE DU REGIMENT (Sat Mtn, Apr 26, 2008) ②

2008-04-26 | メト Live in HD
一連の公演で、当初、クラケンソープ公爵夫人に予定されていた
ゾーイ・コールドウェルは、マリアン・セルデスに交代になっていた模様です。
本文を訂正いたしました。


(注意:全文、ネタバレありの言いたい放題。これからライブ・イン・HD/ライブ・ビューイングをご覧になる予定の方は、
読み進められる場合、その点をご了承いただきますようお願いします。)


より続く>

フローレスが歌うと、アクロバティックさが売りのアリアも、
その裏にきちんと意味があったんだ、と気付かされる。
今日の彼の歌唱もまさにそう。
俗にメザミ(Mes amis)と言われているこのアリア、
前半で、入隊させてもらって、これでマリーとずっと一緒に居れる!と有頂天になって、
さらにごり押し!とばかりに、居眠りを決め込んでいる他の兵士たちに、
マリーとの結婚を認めさせようと説得させようとするところ、など本当に上手い。
やがて、彼の本気度に居眠りどころではなくなって来た兵士たちも
全員起き上がって、そうはさせるか!と合唱が入るところが楽しい。
トニオの”だけど、彼女だって僕を愛してるんだ”の一言に、
二人が愛し合っているんなら、しょうがないか、、と、簡単に兵士たちが陥落するところも、
なんともご都合主義のベル・カントっぽいところだが、気にしない、気にしない。
”では我々も許そう”という正式の許しが出た後、
”僕にとっては何という幸運 Pour mon ame ques destin"で始まる後半の部分が、
先日紹介したNYタイムズの記事の中に含まれていた音源と映像にあった、ハイC連発の個所。

今日のフローレスはもう公演の頭からものすごく調子がいいのがわかる歌唱だったので、
全く心配はしていなかったのですが、これはもう、すごい。
本当に素晴らしい出来です。
ダイヤモンドの鑑定書なんかを見ると、質のよいダイヤモンドでも、
拡大鏡で見たときに少しキズが、、なんてことがあって、
グレードがA-になったりする場合がありますが、
そんなレベルの比較でいうと、やや一つ目のハイCがA-という感じもしましたが、
残りは、全てこれ、A+。
いやいや、計8個のハイCがA+なんて、これはフローレスの歌唱の中でも最高の出来です。
こんなもう上の上のレベルでの微妙な比較をするのもどうかと思いますが、
あのNYタイムズにあった音源よりも、断然今日の方が上。
いやー、こんな9連発を出してしまったら、アンコールしても何になるのか、、と複雑な気分。
これはもう完璧といってもいい歌で、これに足すものなんて何もないでしょう。
むしろ、このままにしておいて欲しい気すらするほど。
映画館の中も大きな拍手がとび、オペラハウスもすごい盛り上がりよう。



長い拍手と歓声に、フローレスも一旦芝居モードを解き、一歩下がって深々とお辞儀。
いっそう高まる拍手にどうする?どうする?と思っていたら、
オケの演奏が始まり、次の場面へ。
結局、アンコールはなし。正しい判断です。
残念に思う人も多いかもしれませんが、後のインターミッションで、
映画館にいた観客の一人がお友達に言っていたとおり、
”アンコールなんていうのは期待されてするものではない。
その時の雰囲気とか、客とのケミストリーとか、いろんな要素が決めるものなんだ”
という言葉に私も賛成。
特に今日のように、一回目でこれだけ素晴らしい歌が出てしまった場合はなおさらで、
もう一回歌ってくれたとしても、9つのハイCがAレベルのものになるであろうことは
間違いなく、そんなことを証明するためだけにアンコールをする必要はないのであって、
自分を安売りしないその姿と、適切に自分の歌のクオリティを判断しているところは、
さすが、王子!!という感じです。
むしろ、今日の客はアンコールがなかったことを嘆くより、こんな素晴らしいハイCを、
9つ連続で聴けたことに感謝すべき。本当に素晴らしかったです。


”彼女は僕のものだ!”と有頂天になっているトニオに、そんな主張を出来るのは、
彼女のおばさんのみだ!と、トニオと連隊の他の兵士にとっては
衝撃の言葉を発しつつ登場するシュルピス。

もう少しで結婚できる!というこの時に、なんという不幸な、、。

ここでマリーが、連隊との生活とも離れなければならない、と歌う、
”さようなら Il faut partir ”では、デッセイがしみじみとした
これまた優れた歌唱を聴かせてくれます。



結局、マリーが出した条件はのまれず、シュルピスのみが付き添いで同行することに。
”僕もついていく!”と言うトニオに、”何を言うか、お前はもう軍隊の一員だろうが。”と、
するどいところをついてくるシュルピス。
時にはベル・カントもご都合主義を廃して、突然まともになる時があるのです。
この突然まともになるところも広い意味ではご都合主義なのでしょうが、、。



とうとう引き離されてしまうマリーとトニオ。二人はこの先どうなってしまうのでしょうか?
というところで幕。

舞台を飛び回った後でぜーぜー言いながら引き上げてきたデッセイと、フローレスを、
司会のルネ・フレミングが捕獲。
この大変なプロダクションで幕間にインタビューをするのは少し二人に気の毒な気もしますが、、。

特にフローレスが言っていた、ベル・カント的には、Mes amisの歌唱よりも、
この後に続く二幕でのアリア、”マリーの側にいるために Pour me rapporocher de Marie "
の方がずっとずっと難しい、という話に納得。
レガートに、ピアニッシモの数々、
そして、Dフラット(もちろんハイCよりもさらに高音)、、と本人が言うので、
フレミングがびっくりして、Dフラット?この曲にそんな高音が入ってたなんて知らなかったわ、というと、
”うん、僕が勝手に入れてるだけなんだけどね。楽譜にはないんだけど。”と答えて、
映画館にいた観客を爆笑の渦に落とし込む王子。
(このアドリブで楽譜にない超高音を含む超絶技巧が入ったりするのも、
ベル・カント作品を聴く楽しみの一つです。)

いろいろ興味深い話を聞かせてくれた後、デッセイが最後に一言言わせて!と、
ルネ・フレミングが言葉を挟めないでいる間に、このライブ・イン・HDが
フランスにも生放送されていることを受けて、フランスに向けてのメッセージを
機関銃のようなフランス語でまくしたてる姿にまたまた観客は爆笑。
彼女はフランス人だし、このオペラもナポレオン軍をフィーチャーしたもので、
歌われる言語もフランス語、とあれば、そんなメッセージを送りたくなるのもわかります。
その後、フローレスが、彼の出身国、ペルーに向け、
”ペルーにもhello!このオペラとは何の関係もないけど!”と言って笑わせ、
またしても王子、なかなかお茶目な一面を垣間見せていました。

後半のインタビューは、キャラクターが立っている脇役を演じた二人、
パーマーとコルベリ。
フレミングの、どうやったらそんな風にコミカルに演じられるのでしょう?という質問に、
二人は、”面白く演じようとしすぎないこと。おかしみというのは、
状況から来るものなのであって、まじめに演技すればするほど、おかしさが引き立つものなんです”
と答えていました。

突然歌の部分から、普通の会話部分になるあたりは難しくないですか?という質問に、
コルベリが、一つか二つ、音を選んで、その音にのせて、言葉を言う練習をするんだ、
というような非常に面白い話を聞かせてくれている途中で、ルネ・フレミングが、
”あ!オケのチューニングに入ってしまいました!”と時間切れ状態に。
もっといろいろな話が聞きたかったのに。

このインターミッションの時に初めて客席の様子が写されましたが、
この客席の様子、また、時々引いたアングルで舞台を撮影している時に写る、
サイド・ボックスにともった明かりなどが非常に美しく、
なんだか、通り一本はさんだところでこんな絵面が展開していると考えると非常に奇妙な感じがし、
またいつも行きなれた自分の知っているメトとはちょっと違ったお澄ましさんの表情を
オペラハウスが見せていたのが印象的でした。


第二幕

間奏曲。
ヴァイオリン・ソロが大フューチャーされた美しい曲でありながら、
ベルケンフィールド家での豊かな生活においても、
空虚な気持ちが拭いきれないマリーの気持ちも表現されていて、
CDだけで聴くと素敵なのですが、このプロダクションでは、この曲中、
バレエのレッスンのような動きを、やる気のない召使たちが掃除をしながら見せるという
おかしな演出。しかも、この召使たち、全員男性。
たくましい足でプリエなんかをしている様子がおかしい。

続いて、オリジナルにない、クラケンソープ公妃とベルケンフィールド女侯爵の
ダイアローグが入り、マリーがクラケンソープ公妃の子息と結婚させられそうに
なっていることがわかります。
(オリジナルでは、クラケンソープ公妃は最後の最後で登場するのみ)
このクラケンソープ公妃、爵位もベルケンフィールド女侯爵よりもさらに上の、傲慢で、
鼻持ちならない強烈な公妃を、映画にも出演し、
ブロードウェイでトニー賞を一度獲得、候補には何度もなっているマリアン・セルデスが怪演しています。
女性の年齢を云々するのも無粋ですが、彼女はなんと今年で80歳になられるそうです。



何とか、クラケンソープ公妃を追い払った後、
淑女になるべくマリーに課されている数々のレッスンの一環として、
マリーがベルケンフィールド女侯爵のピアノに合わせて歌の練習をするシーン。
側ではシュルピスが座って歌を聴いているのですが、レッスンに使われる、
”小さい森に陽が昇り Le jour naissait dans le bocage ”が退屈でたまらない様子。

シュルピスが、いつも連隊と一緒に歌っていたメロディーを横で囁いたりするので、
マリーも脱線していく様子がおかしい。



そして、”小さい森に~”に含まれている言葉が、”連隊の歌”と重なっているのをきっかけに、
いつの間にか、シュルピスとマリーが、”連隊の歌”を大合唱。
ピアノ伴奏をしていたパーマー演じるベルケンフィールド女侯爵が、
”そんなメロディーどこにあんのよ!!”という感じで、楽譜を気が狂ったように
めくる姿が観客の笑いを誘います。
ここは三人のコメディアン&コメディエンヌぶりが炸裂し、この公演の中でも最も楽しい場面の一つ。
曲が自然な調子で変わっていくところは、ドニゼッティもなかなか冴えてます。

どたばたの後、マリーは、ドイツで一番の領主、クラケンソープ公妃の子息と結婚するのだ、と、
ベルケンフィールド女侯爵に言い渡されます。

大ショックのマリーが、連隊やトニオのことを思い出し、
どんなに宝石やレースに囲まれたって、トニオに会えなければ、人生の意味なし、と
チェロの印象的なフレーズに乗せて歌う、
”富も栄華の家柄も Par le rang et par l'opulence ”。



コメディの中で、こういう一瞬まじめになる瞬間の大事なアリアを、
ぴたっとモードを切り替えて、歌ってしまうデッセイがまたしても素晴らしい。
一幕とは対象的に、柔らかく歌わなければ味が出ないアリアなので、大変な曲。

しかし、遠くに行進曲が聞こえてきて、21連隊が近づいてきていることを知ったマリーは、
元気を取り戻し、”フランス万歳 Salut a la France ”を歌います。

マリーのため、と軍隊でも活躍を続け、勲章まで獲得して現われたトニオと固く抱き合う二人。
マリーがクラケンソープ家に嫁がされそうになっていることを知ったトニオは、
それこそ捨て身で、ベルケンフィールド女侯爵の前で、
自分がマリーのために連隊に入隊したこと、そして、マリーを連隊に返してほしい、
と訴える感動的なアリア、”マリーの側にいるために Pour me rapprocher de Marie ”
を歌います。
フローレスをして、インターミッション中に、Mes amisよりも難しい、と言わしめたアリア。

なんと心のこもった歌唱なのか。
ばかばかしい、ありえない、はちゃめちゃな設定のベル・カント。
そんなストーリーの中にあって、一瞬、人生の真実の瞬間を切り取ったようなアリアがあり、
そんなアリアが、適切な歌手を得た時に、宝石のような輝きを放つ、、。
それこそがベル・カントの作品を聴き、観る楽しみであるのですが、これはまさにそんな瞬間。
彼の声の美しさと、稀有なテクニックとが結晶したような歌唱。
私の連れの、私とは逆の隣に座っていた女性は、このアリアで、そっと涙を拭っておられたそうです。

こんな風に請われたら、私ならすぐにマリーとの結婚を許してしまいそうだが、
気持ちはよくわかるけど、こればっかりは譲れないのよ、とつれない素振りのベルケンフィールド伯爵。

彼女はシュルピスと二人きりになった時、なぜ自分がかたくなにマリーをクラケンソープ家に
嫁がせようとしているか、その秘密を語ります。
実は、ロベール大尉と恋愛関係にあったのは、彼女の妹ではなく、まさに彼女その人であったのです。
行かず後家になって30代で軍人の間に子供を身ごもったなどということは
家柄上、許される話でなく、仕方なくマリーを手放したこと、
今、彼女を母親として幸せにしてあげられる一番の方法は、
おばとして身を隠しながら、彼女とクラケンソープ家との縁談をまとめることであること、
などを訴えるその姿に、親心を感じたシュルピスは、彼女を支えることにします。

いよいよ、結婚を祝う客人が訪れはじめますが、みんなよぼよぼ。
地面を見ながら小股で歩く姿に、映画館からは笑いがもれましたが、
(ここは、私と連れの間でも、座りたくて椅子を探している、という説と、
その前にある台詞に呼応して、本人たちはダンスを踊っているつもりなのではないか?という説にわかれ、
見方によって色々解釈できると思います。)
客席の皆さんもたいがい似たような感じなのに、と意地悪なことを思ったのは、
私も私の連れも同様でした。

やがて、結婚公証人とクラケンソープ公妃があらわれ、後はマリー本人が姿を見せるのみ。
”花嫁が姿を見せないとはどういうこと?!”と怒り心頭のクラケンソープ公妃を見て、
心臓発作を起しそうな様子のベルケンフィールド女侯爵に、
マリーがこのままではてこでも公証人とのサインに姿を見せないつもりであることを理由に、
この際は、ベルケンフィールド女侯爵が実の母親であることを告げるしかありません!と、
力説するシュルピス。
ベルケンフィールド女侯爵も折れて同意します。
彼女が実の母親であることを知ったマリーは、母親を悲しませるわけにはいかない、と、
結婚する気で、姿を現します。
(マリー、君はなんていい子なんだ!!)

そこに”ちょっと待った!!!”と現われたのが、カタカタカタ、、という音と共に、
戦車にしがみついて現われたトニオ!!! 会場は爆笑の渦!!
そして周りに控える第21連隊の兵士=マリーのお父さんたち、、。



オリジナルでは、最後までとことんマリーを愛し続けるトニオの姿に、
ベルケンフィールド女侯爵が良心の呵責を感じて、
自ら真実を暴露し、マリーとトニオの結婚を認めてやる、というストーリーになっていますが、
このプロダクションでは、トニオが、”結婚させてくれないなら、僕がみんなの前で、
真実を暴いてやるぞ!!”と脅迫に入り、
観念したベルケンフィールド女侯爵が、とうとう二人の結婚を認める、という筋立てに変更されています。

しかし、トニオ、、、どうやって”真実”を知ったんだろう、、?

演出家のペリー、最後の最後で、”僕もベル・カントの毒気にやられてしまいました!”と
ばかりのご都合主義。わざと、とすれば、恐ろしいユーモアの発揮ぶりです。

トニオと晴れて結ばれることとなったマリーを兵士たちが祝いなら高くかかげ、
デッセイがその空中で横になったポーズで高音を決めて幕。
(彼女は一幕でも抱きかかえられたまま高音を出すという離れ業を決めていました。)



こわいまでのはちゃめちゃなストーリーが美しいメロディーと素晴らしいキャスト、
一級の演出に恵まれると、こんなに素敵な舞台に昇華されるという見本のような公演。
いつもはデッセイの演技はオーバーで好きじゃない、と公言していた連れも、
今回の彼女を大絶賛。昨日までの様子はどこへやら、”見に来て良かった!”と大興奮しておりました。

フローレスとデッセイを主役に据えたこの演出は、『連隊の娘』の新しいスタンダードになる!と、
オペラヘッドたちから絶賛されていますが、それも納得。
だた一言、観ていて、本当に楽しかった。
超絶技巧が必要な役を彼らが歌っている、ということを忘れさせられる瞬間がたくさんあった、
そのことが、フローレスとデッセイのすごさを物語っています。

私たちが鑑賞した劇場は、音の設定も非常に適切。
音が割れるということは一度もなく、このように歌そのものを楽しむタイプの演目では、
本当にありがたいことでした。
日本では、映像に比べ、音声の方でいまいち、、という声を聞くライブ・ビューイングですが、
少なくともウォルター・リード・シアターでは、かなりオペラハウスで聴ける音を
忠実に再現していて(もちろん限界はありますが)、
私は全く不満はありませんでした。
これは、各劇場の裁量に大きく左右されるものなのかもしれません。

映像に関しては、さすがにオペラハウスで観ているときと比べると、
舞台の全体像が把握しにくく、アップで登場人物が映っている際、彼らは舞台上の
どのあたりにいるんだろう?と思わされることがあった点と、
メトの舞台の特徴となっている高さが全く画面から伝わってこないのが、
感想として残りましたが、その代わりに、歌手たちの表情がしっかりと見えるのですから、
これは不可避なトレード・オフといえるでしょう。

編集はさすがに上手くて、画面の切り替えからくるフラストレーションはほとんどなく、
各場面で採用されているアングルも適切。

金曜はいよいよ生舞台の鑑賞。楽しみです。

(参考までに、インタビューの場面で、デッセイが小さなマイクをつけているのが映っていますが、
これはダイアローグの部分のみで使用され、歌唱部分では一切マイクは使用していない、
とのことです。)


Natalie Dessay (Marie)
Juan Diego Florez (Tonio)
Alessandro Corbelli (Sgt. Sulpice)
Felicity Palmer (Marquise de Berkenfield)
Donald Maxwell (Hortensius)
Roger Andrews (Corporal)
David Frye (Peasant)
Marian Seldes (Duchesse de Krakenthorp)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Laurent Pelly
Set Design: Chantal Thomas
OFF
Performed at Metropolitan Opera, New York
Live in HD viewed at Walter Reade Theater, New York

***連隊の娘 ドニゼッティ La Fille du Regiment Donizetti***

HD: LA FILLE DU REGIMENT (Sat Mtn, Apr 26, 2008) ①

2008-04-26 | メト Live in HD
会社勤めの身の私、メトで実際に舞台を見るのは、ウィークデイよりも、
土曜の公演に集中しがち。
ライブ・イン・HD用の公演は、全て土曜のマチネのものなのですが、これまで、
どの演目も、私がオペラハウスで鑑賞するマチネ公演にあたってしまうという星の巡り。
アメリカではその名の通り、”生放送”のゆえ、
体が一つしかない私は両方を見るわけには行かないので、
まだ一度も映画館でライブ・イン・HDを体験したことがないのでした。
しかし、今シーズン最後のライブ・イン・HD『連隊の娘』は映画館で見れることに!
というわけで、今日は記念すべき、私のライブ・イン・HDのデビューの日なのです。

作品そのものを楽しませていただくのはもちろん、
当ブログにコメントを寄せてくださっている方や、私に半ば強制されて、
今シーズンのライブ・イン・HDを全制覇している私の両親とおばから聞いている
日本での上映状況との比較、SFO(サン・フランシスコ・オペラ)のシネマキャストとの比較、
また、NYの観客たちの反応等、観察したいことが山ほどあるので、
今日の私は、やる気が充満しています。

そして、その勢いに乗り、先日、”実はオペラよりバレエが好き”という、
私を地蔵状態に陥れる爆弾発言を振り出した私の連れも強制連行です。

ライブ・イン・HDの人気が定着しているせいもあり、マンハッタンでは現在、
4箇所の映画館で上映が行われていますが、
今日、我々が鑑賞するのは、メトから通りをはさんだ向かいにある、
ウォルター・リード・シアターという映画館。
昨日まで、全く気乗りのしない様子だった私の連れなのに、
いきなり映画館で落ち合う約束の時間の20分前に電話をしてきて、
”もう映画館に着いちゃったんだけど、今どこ?”

どこって、もちろん、まだ家ですけど、、、。

結局、いつもどおりにキャブを飛ばして映画館のあるメトの方向へ。
(注:私は余裕で歩いて行ける距離にあるメトに、いつもキャブで乗り付けてしまう。
渋滞にはまって、歩くよりも時間がかかり、結局途中下車してメトまで全力疾走しなければ
ならない羽目に陥った事件
も今年はあった。)

到着したのは上映開始の1時間前。
ロビーにはすでに開場を待つ人の列が出来ていました。
しかし、年齢層が高い。
これは、オペラハウスの観客よりもさらに平均年齢が高い感じがする。
連れの姿を確認し近寄る私に、彼が大声でおもむろに一言。
”今日君が一番若い客みたい。”
全くしゃれになってません。
さらにしゃれになってないのは、その私も、絶対的な尺度で言うと、
決してそう若くはない、というこの事実、、。
ゲルプ支配人が、メトの未来のためには、若い観客層を開拓せねばならない!と、
よく言っていますが、こんな図をみると、確かに、、と思わされます。

開演のおよそ45分前に開場。
少なくとも、30分くらい前から、オペラハウスの客席の様子などを見せてくれるのかと思っていたのですが、
スクリーンに映るのはライブ・イン・HDの宣伝ばかり。
映画館の中の皆さんは、心得たもののようで、開演直前まで、客席でコーヒーをすすったり、
軽食をつまんだりと、リラックス・モード。

この日のチケットは売り切れ、と聞いていましたが、まずはその言葉どおり、
268の座席があるこの映画館の、最前方の数列を除いては、ほとんど満席状態。

(注意:ここからは、ネタバレありの言いたい放題。これからライブ・イン・HD/ライブ・ビューイングを
ご覧になる予定の方は、読み進められる場合、その点をご了承いただきますようお願いします。)



およそ定刻どおりにいきなり画面が切り替わり、本日のホストを務める
ルネ・フレミングが登場。
いよいよ開演!ということで、映画館の客席からも拍手が起こります。
裏方さんの、”マエストロ、どうぞ!”の合図で、私の大好きなマルコ(・アルミリアート)が
袖から指揮台へ登場。
この人は、オペラハウスで見ているときも、、”指揮が出来て幸せ!”という
ものすごいポジティブ光線が座席まで飛んでくるのですが、
アップで見て、これまた予想通りの表情だったのが嬉しかったです。
この作品には、心がうきうきと軽くなってくるような
ハッピーな雰囲気が演奏に漂っていることが絶対不可欠。
その意味で、彼をこの公演に配したのは、正しい選択です。


第一幕

印象的なホルンの音で始まる序曲。一気に目の前にチロルの風景が広がります。
そう、舞台は、スイス、チロル地方の山間にある村。時はナポレオン戦争の頃。

フランス軍の侵攻に抵抗しようと、チロルの村人たちが家財道具で組んだバリケードが
舞台上に見えますが、
しかし、頭には鍋をかぶり、手にした鍬や鋤でフランス軍と戦おうとする男性たちの姿は、どこかのどか。
女性はそんな男性の安全を願って一生懸命聖母像に祈りを捧げるのですが、
この女声合唱について一言。
最近、合唱の出来がすごく良くなって来ていると喜んでいたのに、
今日はまたまた以前のようなおばさん臭い声でがっかり。
このシーンの合唱は人数も少なく、一人一人への依存度が非常に高いので、
一人、二人の好ましくない歌唱と声質が全体の印象に大きく影響してしまった
可能性があります。



そんな村にやって来たのが、ホルテンシウスという召使を引き連れたベルケンフィールド女侯爵。
(正式には一度も結婚したことがないようなので、侯爵夫人ではない。)
フランス軍に攻め入られるのを恐れ、自らの城から、貴重品を持ち出し、
馬車で逃げ出してきたのでした。
ベルケンフィールド女侯爵を歌うのは、今シーズン、メトの『ピーター・グライムズ』で、
”いやなばばあ”ミセス・セドレーを見事に歌い演じたフェリシティ・パーマー。

ルネ・フレミングがキャスト紹介の中で、彼女を”歌う女優”と形容した途端、
”Yes, she is!(その通り!)”という言葉が映画館の中で飛んだことからもわかるとおり、
彼女は、その確かな表現力でオペラヘッドの厚いリスペクトを受けている歌手の一人です。

今日はイギリスの漁港町のいやーなオバサマから一転、くせがあるのにどこか憎めない
ベルケンフィールド女侯爵を上手く演じています。
このベルケンフィールド女侯爵はこのオペラの中である意味、話の鍵を握る、
重要なポジションを占めているので、彼女の言葉、一挙手一投足に要注目です。

後のインターミッションでも、パーマーとコルベリによって触れられますが、
このプロダクションでは、テキストがオリジナルから変更されている個所があります。
特にお芝居のように話言葉で交わされるダイアローグの部分は、
かなり観客側に話の筋がわかりやすくなるように組みなおされ、オリジナルにない言葉も見られます。
確かにオリジナルのダイアローグどおりだと、やや話がわかりにくく感じられたり、
また、登場人物の行動に不審な部分があり(しかし、それはベル・カントの常なので、
私はもはや気にしない体質になってしまっているのですが、、。)、
こちらのプロダクションの方が随分親切になっているような気がします。
その一環として、すでにこの一幕頭の方で、よく注意して見ていると、
ほとんどオペラの筋の種明かしともいえる、ベルケンフィールド女侯爵が、
”姪っ子”というつもりで、つい、”むす・・(娘)”と口走ってしまう場面が入っており、
英語でもそれが訳出されていましたが、ライブ・ビューイングでの和訳はどうなっているでしょうか?

やがてフランス軍が攻撃の手を止めたという知らせがあり、ほっとするチロルの村人と女侯爵。
そこへ、フランス軍第21連隊のシュルピス軍曹が現われ、フランス兵を野蛮人と思いこんでいる
みんなはちりぢりに。

後に召使のホルテンシウスがベルケンフィールド女侯爵をシュルピス軍曹にひきあわせる場面で、
シュルピスのことを、”顔は不細工ですが、気のいい男でして、、”と説明する台詞があるのですが、
オリジナルでは、どこでこの二人が顔を合わせる機会があったのか謎なのに対し、
ここで逃げ遅れたホルテンシウスをシュルピスがお咎めなしで解放してやる、というシーンを
入れることにより、つじつまが合うようにしています。

ここでバリケードがはけ、一気に舞台上全部が見渡せるようになるのですが、
セットは地図をはりつけた山々。その山の角度のとり方が非常に巧みで、
引いた視点から見ると、見事にアルプスの山!という雰囲気です。

いよいよデッセイが演じるマリーの登場。



捨て子だったマリーをこのシュルピス率いる第21連隊が拾い上げて手厚く育てたという経緯があり、
いわば、21連隊の兵士全員がマリーの父親。
シュルピスはそのたくさんいる父親の親玉のような存在です。
兵士っぽい粗野な行動の中にも、優しさと人のよさが光る親父を、
昨年のプッチーニ三部作の『ジャンニ・スキッキ』の表題役でこれまたコミカルな持ち味で唸らせた、
アレッサンドロ・コルベリがつるつる頭のかつらを着用しつつ、熱演しています。

最初の聴きどころ、マリーとシュルピスの二重唱、
”戦火の中で私は生まれた Au bruit de la guerre "。
この曲一曲だけで、マリーがいかに軍隊生活をエンジョイしているかということが伝わってくるような、
聴いているだけで楽しくなる曲。
パヴァロッティと組んだCDで素晴らしい歌唱を披露しているジョーン・サザーランドなんかは、
戦地暮らしといえ、どこかたおやかな感じがあるのに比べて、
デッセイのマリーは、見た目と表現が”おとこおんな”もしくはトム・ボーイのようなマリー。
しかし、彼女の声自身には柔らかい女性らしい響きがあるので、これがなんともいえない
アンバランスの妙を生み出しています。
彼女に関しては、喉の故障を経験してから、以前ほどの輝きが声になくなった、という声があり、
確かに、細かいことを言えば、この二重唱の最後の高音なんかも、
少しざらっとしたテクスチャーがあるにはあるのですが、
しかし、彼女の場合は、それをものともしない、役を表現する力があるので、
私にとってはノー・問題。
しかし、彼女は本当によく動く。この二重唱の中で、アイロンを右左に動かしたり、
洗濯物を手ですぱすぱと切るようにたたむ姿など、おかしくて笑ってしまいました。
こんな動作を、直立して歌っているだけでも難しいパッセージを歌いながらこなすんですから、
この人は本当に只者じゃないといつも思います。
『ルチア』の狂乱の場でウェディング・ヴェールをびりびりに破りながら、
歌も正確にこなしていたのと、共通するものがあるかもしれません。
『ルチア』の時のドラマチックな演技もすごいと思いましたが、
彼女は、コメディエンヌとしての才能も図抜けています。

歌で盛り上がった後、親父シュルピスが突然娘のマリーに、
”最近、お前、見慣れない男と会っているようだが、、”と鋭いつっこみを入れます。

それは、自分が花を摘もうとして崖から落ちそうになったのを、
自分の命も顧みず助けてくれたのがきっかけで知り合ったチロルの男性で、
それ以来、彼は自分に恋をしているのだ、と打ち明けるマリー。

とそこへ、第21連隊の兵士たちが、若い男性をしょっぴいて現われます。
敵がスパイしていたものと思い込んで連行してきたその男性こそ、
少しでもマリーの姿を見たい、と、危険を承知で野営地に現われた、
マリーに恋するトニオでした。

このシーンではチロリアンっぽいセーターに、短パンという姿で現われ、
ほとんど”かっぺ”のような純朴な青年を演じるフローレス。
ああ、フローレス王子ってば、こんなに短パンまで似合ってしまうとは、、。
しかし、彼が一声発すると、もうその声の美しさにうっとり
なんて男前な声なのか!その上に、本当に見た目も男前なのだから、
天とは思いっきりニ物を与えるものなのである。
この『連隊の娘』ではハイC連発といったアクロバティックな面ばかりが取りざたされているのですが、
彼の歌の魅力のベースにあるのは、この声そのものの美しさ。
アクロバティックな面も含む技術のすごさは、この声があって生きてくるもの。
この登場のシーンからしばらく続く、超絶技巧が全くない場面での、
彼の声の美しさと表現力の豊かさは出色で、ここだけ聴いても、
彼がいかに稀有な存在であるかということがわかろうというもの。
出てきた瞬間から舞台に花が咲く感じが、スクリーンを通しても伝わってきます。

この役で名を馳せた歴代のテノールといえば、先ほど名前を挙げたパヴァロッティが思い浮かび、
彼の歌唱も素晴らしいですが、この場面で一気に観客すらトニオに恋させるその手腕は、
このフローレスの方がが数段上だという思いを強くします。
あと、声が比較的(特に若い頃は)軽かったパヴァロッティですら、
このフローレスと聴き比べてみると、かなり重たい感じがします。
どちらが好きかは好みの問題でしょうが、この独特の声の軽さが
フローレスの歌の魅力の一つなのは間違いありません。

たった今殺さん!とトニオに銃口を向ける連隊の兵士たちに、
自分の命を救ってくれた恩人なのだと説明するマリー。
”なーんだ、それなら事情も違うじゃないか”と、戦いにおいては敵でありながらも、
娘の恩人なら、と、トニオを温かく迎え入れる第21連隊。
常日頃から兵士をねぎらうために歌を歌ったりするのを得意にしているので、
”さあ、恩人のためにも、21連隊の歌を聞かせてやれ!”とシュルピスに押しやられるマリー。
ここでは、トム・ボーイのようなマリーが、恥じらいを見せていて本当に可愛らしい。
ラララ La la la...で始まり、21連隊の兵士たちの合唱を伴う”連隊の歌”は、
これまた楽しい曲。
この曲のなかの歌詞が、ニ幕の中で生きてくるのでこの曲も要注目曲。
いわば、マリーの人生のテーマ曲ともいえる曲なのです。
この”連隊の歌”の最後の高音をデッセイはこれ以上ないくらい綺麗に決めていて、
今日の公演の中で彼女が出した最も美しい高音。
彼女が喉の故障を経験する前は、このような音が毎回出ていたのかもしれないな、
と思わされます。

やがて、兵士の集合を求める太鼓の音が聞こえ、遊びはここまで、といそいそと、
準備を始める兵士たち。
”君も帰りなさい”と言われたトニオですが、マリーと離れがたい彼は、帰ろうとしない。
マリーと彼を二人きりにさせたくない父親心満載の兵士たちは、では自分たちと一緒に来るまで、
と彼も連れていってしまいます。
”お前も一緒に来るか?”とシュルピスに聞かれたマリーはふくれっつらで、”私は行かないもん!”。
このあたりは、マリーの乙女心が出ていて、これまた非常にかわいい。
彼女自身は一言もまだ認めていませんが、すでに、
マリーがトニオにしっかり恋におちているのがよくわかります。
父親たちが自分の気持ちを慮って二人きりにしてくれないことに腹を立てているというわけです。
そして、そんな娘の我儘を許すか!と、思い切り父親しているシュルピスも微笑ましい。



しかし、そこは根性の入ったチロリアン、トニオ。
上手く兵士たちをまいて、マリーのもとに戻ってきます。
”みんなは彼を手荒く連れて行った Ils ont emmene butalement ”から、
二重唱”なんですって?あなたが私を愛してる? Quoi! vous m'aimez ”は、
ベル・カント作品好きにはたまらない、美しい旋律が続く一幕の山です。
マリーがジャガイモの皮をむく横で、自分の恋心を打ち明けるトニオ。
この愛の告白の場面のフローレスがまた本当に素晴らしい。
ここでフローレスがださいチロルの村人という人物像に、
意外と恋愛上手な部分も表現していて、やるな、と思わされます。
この後、トニオは軍人としても成長していくのですが、彼の表現には、
ベル・カントでは歌唱力がないと表現するのが非常に難しいその人物の心の軌跡とか、
成長の過程がきちんと歌いこまれているのもすごいところ。
そして、同じ旋律を繰り返す形で、今度はマリーが自分の恋心を打ち明ける。
お互いの気持ちを確認して、二重唱の最後にはしっかりと抱き合う二人



二人のケミストリーもあるのですが、
双方、実力のある歌手が歌うベル・カントの二重唱を聴くのは至福の時だと再確認。

その抱き合った二人を引き返してきたシュルピスが見つけてひっぺがす。
敵であるチロルの男なんかに娘をやれるか!というわけです。

ここで、マリーとトニオの二人は一緒に舞台から消えるというのがオリジナルですが、
後でマリーが呼び戻される時まで二人は何をしていたのか?
また、なぜマリーが一人で戻ってくるのか、という点がはっきりせず、
ここもつじつまを合わせやすくするため、このプロダクションでは、
オリジナルにはないダイアローグが加えられ、マリーとトニオは別々に退場するようになっています。

やがてベルケンフィールド女侯爵とホルテンシウスが現われ、
自分たちの城に戻るには、兵士がたむろっている山を越えて行かねばならず、
物騒なので、警護をお願いできないか、とシュルピスに依頼します。
彼女の高い位に圧倒されたシュルピスは了承しますが、
ベルケンフィールド城という名前を聞いて、”ロベール大尉から聞いた名前だ!”とびっくり仰天。
女侯爵は女侯爵で、”ロベール大尉をご存知で?”とこれまた仰天。
結局、二人の話は、女侯爵の妹とロベール大尉の間に出来た娘が事情あって捨て子に出され、
その女の子こそが、第21連隊が育ててきたマリーである、ということで一致します。
マリーがとんでもない身柄の高い女性であったという事実に驚愕のシュルピス。
そして、やがて現われたマリーの淑女とは程遠い身のこなしに固まる女侯爵。

事情をのんで、第21連隊全員も同行させるという交換条件つきで、
女侯爵について城まで同行することに同意したマリーらが舞台からはけると、
兵士たちが”タラタタ、タラタタ、タラタタ、タタ! Rataplan Rataplan Rataplan"という、
太鼓の音を模した合唱の中、登場。
この兵士たちを歌い演じた男声合唱は、兵士の格好でいろいろと演技付けも多く、
大変でしたが、
なかなか聴かせてくれたと思います。

地図の山で伏せる兵士たちの間に、”朝のあの男だ!新兵だ!”という伍長の声が響きます。
シュルピスから聞いた、”マリーは21連隊の誰かとしか結婚できない”という言葉のために、
トニオはなんと21連隊に入隊してしまったのでした。
(なぜ敵にあたる男が簡単にナポレオン軍に入隊できるのか?それはベル・カントだから、としか
いいようがない。)

眠っている様子の21連隊の兵士たち=マリーの父親たちに、マリーと結婚させてくれ、と頼むのが、
例の9連発ハイCを含む ”ああ!友よ、なんと楽しい日~僕にとっては何という幸運
Ah! mes amis, quel jour de fete ~ Pour mon ame quel destin!"。
軍服を着て一層男前になったフローレスが歌うこのアリア、今日のハイCはいかに?!

に続く>

Natalie Dessay (Marie)
Juan Diego Florez (Tonio)
Alessandro Corbelli (Sgt. Sulpice)
Felicity Palmer (Marquise de Berkenfield)
Donald Maxwell (Hortensius)
Roger Andrews (Corporal)
David Frye (Peasant)
Marian Seldes (Duchesse de Krakenthorp)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Laurent Pelly
Set Design: Chantal Thomas
OFF
Performed at Metropolitan Opera, New York
Live in HD viewed at Walter Reade Theater, New York


***連隊の娘 ドニゼッティ La Fille du Regiment Donizetti***

4/21 『連隊の娘』プレミア フローレスのハイC18(!)連発

2008-04-24 | お知らせ・その他
2008-9年シーズンのライブ・イン・HDのライン・アップ、また、
パーク・コンサートに関する発表などで、俄然メトまわりが忙しく、
当ブログでの記事のアップが追いついていない状態で、
ずっとあげたかったこんな大事な記事が今日まで後回しになってしまいました。猛反省!

いよいよ、4/21にメトのプレミアを迎えたフローレス、デッセイ共演の『連隊の娘』。
このプレミアで、我がブログ公認の王子様、フアン・ディエゴ・フローレスが
アリア "ああ!友よ、なんと楽しい日~僕にとっては何という幸運
Ah! mes amis, quel jour de fete ~ Pour mon ame quel destin!"で、ハイCを決めまくり、
大喝采をさらった、という記事がNYタイムズに掲載されています。(こちらをどうぞ。)

しかし、当ブログの記事のタイトルを見て、Mes amisのハイCは9つでは?と思った方。
その通り!!
では、なぜ18かというと、あまりの観客の興奮ぶりに、なんと、すぐにアンコールで
そのハイCが含まれている後半部分をもう一度披露。
二回とも、完璧に18個のハイCを決めたフローレスに、メトの観客はもうおなかいっぱい状態。
(上のNYタイムズの記事から、別の日に行われたドレス・リハーサルの映像が見れ、
また、4/21の公演でのそのアンコール込みの歌唱の音源にアクセスできます。
映像の方もさることながら、音源の方がおすすめ!)

フローレスはイタリアの歌劇場などでも、このアンコールを試み、
スカラ座では1933年以来の”アンコール禁止”という無言の掟を破った最初の歌手になりました。
観客の反応は賛否両論だったようですが(出来にではなく、アンコールを歌う事に。)
しかし、ここNYでは、全然OK!!!
”大は小を兼ねる”、”二回は一回よりもなおよし”というお国柄ゆえ。

アンコールをやるかやらないかは、”観客の希望次第”と言っているらしいフローレス。
私はライブ・イン・HD収録日の4/26は映画館で鑑賞予定ですので参加できないのが残念ですが、
最初の歌唱が素晴らしかったならば、実際にオペラハウスにいる方にぜひ轟音で、
”アンコールくれ~~~っ!!”とアピールしていただきたい。
素晴らしい18個のハイCを我々も聴きたいではないですか!!

うちのわん達も悔し泣き ~ メト・パーク・コンサート

2008-04-24 | お知らせ・その他
大ショーーーック!!!

例年、NY地元のオペラヘッドばかりか、あまりオペラに関心のない方たちにも
オペラを聴く素晴らしい機会を与えてくれているパーク・コンサート。
去年までは、セントラル・パークをはじめとするNYおよびニュー・ジャージーの
大規模な公園いくつかで、メトでおなじみの歌手や指揮者、
そしてもちろんメトのオケと合唱が揃い、全幕ものを野外で公演してくれていたのです。
それも無料、食べ物&飲み物持込可、赤ちゃん&ペット連れ可、で!!!

セントラル・パークでは、お昼くらいから、座る場所確保のための戦いが始まり、
オペラヘッドもそうでない人たちも、折りたたみの椅子やブランケットを握り締め、
デリやスーパーで調達した食料やワインを持って現われるのでした。

しかし、なんと、この素晴らしいイベントが、今年は、たった一日のみの、
しかもガラ形式のコンサートになってしまいました。
(メトのサイトでの発表はこちら。)

そして、その一日がセントラル・パークではなく、ブルックリンの
プロスペクト・パークで開催されるというこの事実、、。
実はこの噂を事前に耳にしていたこともあり、偵察をかねて先日のSFO(サン・フランシスコ・オペラ)の
シネマキャスト、『蝶々夫人』をプロスペクト・パークまで見に行った私ですが、
”この遠さ、ありえない、、”との思いを強くしたのみでした。
(本当はそれほど遠くないのかも知れないですが、私にとっては遠い。)

そして!さらにありえないのは、なんとそのたった1回きりのコンサートが、
ゲオルギュー&アラーニャ夫妻のガラである、ということ!!
逆に、これで私の見たいキャスト、演目だったなら、あきらめがつかずに困ったと思いますが、
これで一気に未練が断ち切れましたので、良かったです。

しかし、2006年の夏、セントラル・パークで夏風に吹かれながら、
持ち寄ったチーズやワイン、そして、暮れていく闇の中に浮かぶマンハッタンの様子を楽しみながら、
うちのわんと共に『リゴレット』の演奏を聴いたのが懐かしい、、。


(2006年のパーク・コンサート『リゴレット』の開演を待つ長男)

うちの長男は、その『リゴレット』で、指揮者が指揮棒を構えた間に訪れた静寂と、
聴衆がはりつめて耳を澄ますそのプレッシャーに耐えられなくなったか、
指揮棒が下りるまさにその瞬間、”わんっっ!!!”というものすごくでかい声で吠えてしまい、
私にマズルをがしっ!とつかまれたのでした。
うちの犬のような人がオペラハウスにいたなら、私に睨み殺されていたと思いますが、
パーク・コンサートでは、みんながゆったり。
そんな事件もいい思い出です。
そして、『慕わしい人の名は』のフルートのソロを、彼が首をかしげながら聴き入っていたことも、、、。
どうやら小鳥が鳴いていると思ったようです。

またうちのわん達と一緒に野外でオペラを楽しみたい!!

ということで、来年からの予定がどうなるのかまだわかりませんが、
ぜひ、もう一度、セントラル・パークに(夫妻ぬきで)戻ってきてほしいです。

こちらは2007年のパーク・コンサート『ファウスト』のレポです。)

Sirius: UN BALLO IN MASCHERA (Wed, Apr 23, 2008)

2008-04-23 | メト on Sirius
今シーズン、風邪でダウンしそうになりながらも、なんとかグスタヴォ三世(リッカルド)役を
歌い続けてきたリチトラですが、4/21の『連隊の娘』のシリウスの放送時にゲストで出演した際に、
体調が芳しくない、という言葉を吐いたそうで、それが理由か、
なんと、今日4/23、最後の『仮面』の公演は、同役をラモン・ヴァルガスが歌うことに変更になりました。

年齢的にも、性格的にも、もはや、全くナイーブなところがない私なので、
実は、売れ残っていたチケットをさばくためのゲルプ氏の方策ではないのか?とも見ているのですが、
実際、この日の公演は彼が歌うと決まった途端、ソールド・アウト状態に。
リチトラが悪いわけではありませんが、オペラヘッドというのは、
いつも同じ役を色んなキャストで聴いてみたい、と思っている贅沢な人種ゆえ、、。

ましてや、ヴァルガスは、ヒューストンなどで同役を歌っていて、
線は細いが非常に音楽的な歌唱、と言われているので、多くの人が聴きたい!と思っても
誰も責められますまい。

実際、私もオペラハウスに行きたい、、と思い、ほとんど前日はチケットを購入する気でいたのですが、
何かが私を引き止めるのでした。”買ってはいけないよ、、”と。

そしてそんな予感が当日になって見事に的中。
会社で急用発生!家に帰って服を着替えてオペラハウスに向かう時間どころか、
シリウスの放送開始にも間に合わない始末。いや、間に合わないどころか、帰宅したのは夜10時15分。
大幅にミスってしまいました。

三幕途中、アメリアのアリアから参加。

今日のブラウンはどうしたの?というくらい、ヴィブラートの嵐で、音程も不安定。
少しいつもの彼女らしくありません。

またオケがどうしたことか、足に鉛がついているような重々しさ。
今日はテンポというよりも、なぜかみんなの気が乗っていないかのような重苦しさがありました。
決して悪くはないのに、何かみんな無理矢理がんばらされているような、、。
もっとヴェルディの作品は自分で転がっていくような自発的な感じが演奏の中に欲しいところです。

と、そんな鉛足をバックにホロストフスキーは今日もがんばる。
”お前こそ心を汚すもの Eri tu che macchiavi quell'anima  ”。
一生懸命、丁寧に歌っているのですが、その歌の下でオケが沈没しそうになっています。
下手という意味ではなく、なんか水面に出しても、ぶくぶくぶく、、と、
海底に沈んでいくような感じ。
これは何なのでしょう?
ヴァルガス出演!で熱くなっているかと思ったのに、なんだかそうでもないようです。

結局、ホロストフスキーのレナートに関しては、私が聴いたなかでは、初日(去年の12/17)が、
気合といい、声のコンディションといい、一番良かったのではないかと思います。

さて、いよいよ登場のヴァルガス。
実は”線が細い”という意見を聞いたときに、そうだろうなあ、という思いが強く、
聴いてみたいとは思ったものの、実はそんなには期待していなかったのですが、
いやいや、これはなかなか良いではないですか!

このヴァルガスの歌を聴くと、リチトラの歌が雑だったんではないか?と思えてきます。
声ももっと役にそぐわないかと思いましたが、そうでもなく、
ラジオで聴く限りでは、聴けた三幕以降については問題がないように感じました。
特に中音域での甘い響きは彼の声の一番の強みではないかと思います。
なんともリリカルな響きがあって、旋律のまわし方も巧み。
彼は歌が本当に上手だな、と、再確認しました。
(それは歌手の方はみんな上手いんですが、その中でも非常に高いレベルで。)

うーむ。この役あたりも歌えるとなると、彼の芸域はさらに広まりそうです。

Ramon Vargas (Gustavo III/Riccardo)
Angela M. Brown (Amelia)
Dmitri Hvorostovsky (Captain Anckarstrom/Renato)
Ofelia Sala (Oscar)
Conductor: Gianandrea Noseda
Production: Piero Faggioni
OFF

***ヴェルディ 仮面舞踏会 Verdi Un Ballo in Maschera***

発表!2008/9年シーズン ライブ・イン・HDの演目

2008-04-23 | お知らせ・その他
今か今かと心待ちにしていたメト2008/9年シーズンの
ライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)のライン・アップですが、
いよいよ発表になりました。
(メトのサイトでの関連ページはこちら
さらに新しい上映国も加わり、この企画はまさにゲルプ氏が手がけた仕事のうち、
最高の成果をあげているようです。

演目は10個、これにアメリカ本土限定のシーズン・プレミアのガラの上映が加わった、
計11回の予定です。
(ちなみに2007/8年シーズンは8演目。)

ライン・アップは次の通り。
日付はNYでのもとの公演日のもので、日本での上映日とは異なりますのでご注意を!
(日本での上映に関しては松竹のサイトでご確認ください。)

 9/22/08
オープニング・ナイト・ガラ (アメリカのみ)
(ヴェルディ『椿姫』第二幕、マスネ『マノン』第三幕、R.シュトラウス『カプリッチョ』最終場面)
出演:フレミング、ヴァルガス、ハンプソン、クロフト 指揮:レヴァイン、アルミリアート
また、フレミング、歌っちゃうんですね、ヴィオレッタを、、

 10/11/08
R.シュトラウス『サロメ』
出演:マッティラ、ウシタロ(牛太郎??!!) 指揮:フランク
何年か前の公演では、同じマッティラがまっぱになって歌いまくったという話題のプロダクション。
作品もかっこいいです。

 11/08/08
アダムズ『ドクター・アトミック』
出演:フィンレー、クック、オーエンズ、フィンク 指揮:ギルバート
新シーズンの新プロダクション。見るのが怖いような気もする、、。こけないでくれ。

 11/22/08
ベルリオーズ『ファウストの劫罰』
出演:ジョルダーニ、グラハム、レリエー 指揮:ルページ(ルパージュ、ラパージ?知らん、こんな人。)
新プロダクション。あまり上演されないので楽しみ。

 12/20/08
マスネ『タイース』
出演:フレミング、ハンプソン 指揮:ロペス=コボス
またまた新プロダクション。そして、またまたフレミング。やっぱり彼女は人気あるのかな。

 01/10/09
プッチーニ『つばめ』
出演:ゲオルギュー、アラーニャ(うぎゃーっ!!死ぬ。) 指揮:アルミリアート
この夫婦があまり好きでない私はこんなことを書きましたが、
『ラ・ボエーム』で、”わしはゲオルギューが嫌い”と断言していたオペラヘッドおじいさんも、
サン・フランシスコで同役を彼女が歌うのを聴いたそうで、
”しかし、『つばめ』での彼女はすごくいいぞ。”と断言。
この主役のやな女(マグダ役のこと)に、いかにも雰囲気があっとるんじゃ。”
全然褒めてることになってないんですけど、それ、、。ま、それでもいいものはいいってことで。

01/24/09
グルック『オルフェオとエウリディーチェ』
出演:ブライス、デ・ニース 指揮:レヴァイン
昨シーズンのカウンター・テノール・バージョンに代わり、メゾ版。なかなか興味深い顔合わせで楽しみ。

 02/07/09
ドニゼッティ『ランメルモールのルチア』
出演:ネトレプコ、ヴィラゾン 指揮:アルミリアート
あ~あ。これをライブ・イン・HDで上映するなら、絶対デッセイが出演した今年の公演にすべきだった、と、
私は思う。ネトレプコのルチア、、。
一番人気の公演の一つになることは予想できるのですが、『ルチア』が大好きな私にとっては
納得のいかないライブ・イン・HDの人選。
しかし、アルミリアート、私はこの人のいつも幸せそうな雰囲気が好きだけれど、
その性格が災いしてか、スター歌手のお守り指揮者になっているような。
フレミングに、ゲオルギューに、ネトレプコ、、。ご苦労様です。

 03/07/09
プッチーニ『蝶々夫人』
出演:ガイヤルド=ドマス 指揮:サマーズ
今年は当プロダクションで演出をしたミンゲラ氏が急逝されたため、追悼の意も込め、
きっとこの演目はライブ・イン・HDに食い込んでくるとは予想していましたが、なんでドマス、、。
一昨年前のオープニング・ナイトへの出演に敬意を表したか、
同役をダブル・キャストで歌うラセットがサン・フランシスコ・オペラのシネマキャスト
この役を歌ってしまったからDVD化や契約上の不具合があるのか、、?
しかし、これは絶対ラセットに出演してほしかった、、。
ミンゲラ氏の演出から何かを引き出せるとしたら、絶対に彼女の方。
いや、まだあきらめずにいましょう。何があるかわからないのが最近のキャスティングですから。

03/21/09
ベッリーニ『夢遊病の女』
出演:デッセイ、フローレス 指揮:ピド
同じベル・カントものなら、『ルチア』よりもこちらが断然楽しみ。
今シーズンの『連隊の娘』と同じコンビ。新プロダクション。

 05/09/09
ロッシーニ『ラ・チェネレントラ』
出演:ガランチャ、ブラウンリー 指揮:ベニーニ
一番個人的に楽しみなのがこの演目!考えれば、これもベル・カントものでした。
ガランチャのシンデレラ、素敵でしょうね。歌でもノック・アウトしてくれるはず。

と、以上のようになっております。
演目の選択としては全体的には悪くないとは思うものの、
キャストの選び方で疑問のあるものがニ、三(『ルチア』と『蝶々夫人』が特に!)。
それから、なんとなく、登場する人の顔ぶれが今シーズンとだいぶかぶってる。
もっと色んな歌手をみせてほしいのに!というのが二つ目の不満。
そして、『トロヴァトーレ』、これがなぜライン・アップに入っていないのか?というのが第三の不満。
というか、ヴェルディ作品は、ガラで『椿姫』の一幕が歌われる以外は(そして、これは
アメリカ以外での上映がない、、)全くなし。
そういえば、ワーグナー作品もなし。

さらにメトのサイトを読みすすめると、このライブ・イン・HDの企画、
今や、プリンセス・ラインというクルーズ(つまり船の上!)でも上映しているそうです。
バケーション中に、海風にあたりながらオペラ、、これは相当うらやましいぞ!

SFO Cinemacasts: MADAMA BUTTERFLY <本後編>

2008-04-20 | 映画館で観るメト以外のオペラ 
本前編より続く>

我々観客がインターミッションでトリヴィアを読んだり、インタビューを見ているうちに、
蝶々さんの家では三年が経ってしまったという設定の第二幕。

この蝶々さんのやる気のなさはどうでしょう!!幕が開いていきなりごろ寝ですよ!ごろ寝!!



実際のところは、彼女は戻ってこないピンカートンのことを思ってアンニュイになっているのでした。
そしてスズキは、上の写真に写っている肖像画(誰の?!)をこのすぐ後売ってしまいます。
それほど、二人の生活は窮状に陥っているということです。

少しこの写真では見えにくいですが、壁にはびっしりとイラスト入りの半紙が貼られていますが、
”an old man 年とった男”というような文字が見られ、さながら、英和の単語帳です。
蝶々さんが本気でピンカートンとコミュニケートしようとし、またいつの日か
アメリカに行くことを夢見ていることがわかります。

スズキ役のカオがインターミッションで話していたとおり、ニ幕からは本当に
エモーショナルな場面と音楽が続くうえ、ラセットの歌がさらに良くなっていくところ。

その日暮らしのような貧乏さの上に、すでにピンカートンが二度と戻ってこないのではないか、と、
感じて泣き崩れるスズキに、”お聞きなさいよ!彼は絶対に帰ってくるんだから!!”と
蝶々さんが歌うあまりにも有名な”ある晴れた日に Un bel di ”。
お客さんの中にはこのアリアを聴いたことがあっても、こういうくだりでこの曲が入ってくると
いうことを知らなかった方もいたようで、会場からは、”あら!”という声も聞かれました。

SFO(サン・フランシスコ・オペラ)のウェブサイトで公開されていたこのアリアの
抜粋をPCで聴いたときには、少しラセットの声が軽く聴こえるような気がしたのですが、
映画館の中では、オペラハウスで聴くときに近い、どしっとした歌声になっていました。



さて、この公演でキャスト上一番弱かったのはカオのスズキかもしれません。
歌はそう悪くはありませんが、スズキをどういう人物像にしたいのか伝わってこない。
彼女はインタビューの中で、彼女がいかに蝶々さんに忠実で優しいか、ということを言っていましたが、
私の基準からすると、彼女のスズキはあまりに優雅さに欠ける。
ラセットの動きが非常に綺麗なので、どうしてこんな女主人にこんなお下劣な女中がくっついているのか?
と問いたくなるほど。

後に続くシーンで例を挙げるなら、例えば、ゴローが、父親なしで生まれた子は
アメリカでだって仲間はずれだ!というような陰口を叩いて、蝶々さんとスズキを怒らせるシーンでは、
まるで非行少女のようにゴローにけりを入れて、私を震え上がらせましたし、
ピンカートンの船が入港したのを喜んで花を撒くシーンでは、
突然きゃぴきゃぴ喜んだかと思うと、まるで子供がバケツから
水を撒いているような品のなさで籠から花をばらまき、
横ではらはら~っと優雅に花びらを撒いているラセットとはあまりに対照的。
はっきり言って、この方はスズキとはどんな人物か、全く理解していないばかりか、
蝶々さんとの舞台所作上のコンビネーションも上手くとれていない。猛省を促します。
見た目がアジアっぽい、という理由だけでキャスティングされるべきではない、
大事な役なのに。スズキは。

一方で、全く名前を聞いたことがなかったのですが、シャープレスを演じたパウエルは、
少なくともこの役で見る・聴く限り、安定した歌唱と卓越した演技力で、なかなか魅了されました。
私が今までみたシャープレスが、比較的、渋い大人のおじさま系の役作りの人が多かったせいもあり、
パウエルが一幕で現われ、ピンカートンとの会話を始めたときには、
”なんだ?!このちゃらちゃらしたおやじは!?”と不安が募りましたが、
どうして、どうして、彼のシャープレスはこれはこれで非常に良く練れていると思います。
彼自身の、少し長めで、下手をするとやや俗っぽくなりがちな顔の雰囲気(またまた失礼なことを、、)
を上手く利用しているな、と思いました。
つまり、彼のシャープレスは、良識のある、思いやり深い紳士、というよりは、
彼自身、過去にいろんな遊びも経験し、世慣れた部分のある”昔は遊び人”系おやじなのです。
しかし、遊びにはきちんと遊びのルールがある、ということを知っているおやじ。

だから、一幕でシャープレスがピンカートンをたしなめるとき、
それは、女遊びをするな、と言っているのではない。相手を見てしろよ、と言っているのです。
だから、シャープレスの歌う、”蝶々さんの声を聞いたが、
あれは自分がこれから結婚する相手を信じている人間の声だった”とピンカートンを戒める言葉が胸にしみる。
良識からでしか物が言えない人に言われると、ふーん、としか思えないことが、
人生経験豊かな人に言われると、重みが生まれるのと同様に。

だから、彼が、ピンカートンとの間に子供が生まれていたことを
蝶々さんに打ち明けられるときの、彼の動揺ぶり、、。これもまた心を打ちます。
こんなことは、彼の遊びのルール・ブックには絶対にありえないこと、
この時、彼はそれまでやや及び腰だった姿勢をあらため、
きちんとピンカートンと蝶々さんの間に入ってあげよう、と決意するのです。
人物描写という観点からだけで言うと、今まで見たシャープレスの中で、彼は
トップクラスに入る出来でした。

ラセット、パウエル、この二人が非常に演技が上手いため、
シャープレスがゴローと一緒になって蝶々さんがヤマドリと結婚してくれたら、、と願うシーン、
シャープレスがピンカートンから言付かった手紙を蝶々さんに読むシーン、
続いてシャープレスが、”もし、このままピンカートンが帰ってこなかったらどうしますか?”
という言葉を発して蝶々さんを悲しませるシーン、
蝶々さんに子供が生まれていたことをシャープレスが知るシーン、
そして、シャープレスが蝶々さんに子供のことをピンカートンに伝えることを約束するまで、と、
とにかくものすごいテンションの高さで、気が付くと私の頬にも涙が伝っているのでした。

いや、頬の涙をハンカチで拭っている私などはかわいいもので、
例のオペラヘッドのおばさまが座っている方向(そして、その方向にはおばさましかいない)からは、
嗚咽の声が聞こえ、やがておんおんというすごい泣き声に変わっていったのでした。



しかし、ここで泣くのはまだ早い!
シャープレスが去った後、船の入港を知らせる大砲の音が聴こえて一瞬舞台が静まり返るところからは、
観客(たった10人ですが)も息を呑んで食い入るように画面を見ています。

ピンカートンの船?!とはやる心を抑えて望遠鏡をとるも、
手が震えて位置を定めることが出来ない蝶々さんの様子が、ラセットってば、
歌も演技も心憎いくらい上手い。

そして、ラセット自身も歌っていて一番ここが好き!と断言する、

Trionfa il mio amor!
la mia fe'trionfa intera
ei torna e m'ama
(私の愛の勝利、私の愛と信じる心が勝ったのよ!
あの人は戻ってきた。
そして、私を愛している!)

”もうっ!!”

私はこの一言しか言えません。それくらい素晴らしい。
こういう一瞬のために私たちはオペラハウスに行くのだ、ということを思い出させてくれます。

しかし、全体的にSFOのお客さんは上品な感じがします。
メトの昨年の10/27の公演では、ちょうどサブスクリプションの日にあたっていたので、
周りがオペラヘッドの巣となっていたせいもあってか、彼女がe m'amaを歌い終わると、
轟音のような拍手が出ていましたが(みんな泣いているので声は出せない)、
しかし、このSFOの公演では静かに皆さん聴いておられます。
それぞれのオペラハウスのカラーってあるのだなあ、と実感。

続いてやさぐれスズキと蝶々さんの花の二重唱。ここでの乱暴なスズキの花撒きは先述の通り。
しかし、二人の声の相性は悪くありません。
いや、これで声の相性が悪かったら、カオのスズキにはほとんど何も残りませんから、
がんばってもらわないと。



さて、ピンカートンが来るのは今か、今かと待ちながら身繕いをする蝶々さん。
鏡に写った自分の姿を眺めて思わず、”なんて自分は歳をとってしまったか、、”と
呆然とする蝶々さんの様子が悲しい。
スズキ、蝶々さんの子供と障子の側にたってじっとピンカートンの来訪を待ちわびます。

このプロダクションでは下のようにスクリーンに影絵で大写しになる軍艦が。
その大きさが舞台におおいかぶさるように巨大で、またその黒さが不気味でもあり、
この巨大な軍艦に象徴される威圧的なまでの強さこそ、蝶々さんがアメリカに対して
自分がはみだしてしまった日本という国から救ってくれるのでは?と期待する理由になっていたものであり、
しかし同時に、それは救ってくれるどころか、彼女の運命もろとも破壊してしまう存在になり始めていて、
その瞬間がひたひたと迫っていることをシンボライズしていて、なかなか効果的。



この三人が立った姿のまま、ハミング・コーラスへ。
新国立劇場の栗山昌良さん系の演出です。
栗山さんの演出の素晴らしかったところは、とにかくこの3人を完全にストップモーションにして、
そのまま通常第三幕と言われているシーンまで突入し、朝が明けて、初めて彼らが動き始めるようにした点。
見ている観衆は、”なんでこんなに長いんだよー!”と痺れを切らしそうになるのですが、
それこそまさに栗山さんの思う壷。
実際にはこの後に続くハミング・コーラスを経て朝焼けに至るまではそう長くはないのに、
この静止状態を置くことによって、異様に時間が長く感じられるのですが、
それは、まさに蝶々さんがピンカートンを待ちわびて死ぬほど時の歩みが遅く感じられた気持ちと
シンクロしているのです。

この演出では、ほとんどそれと同じ手法を踏襲しながらも、失敗を犯してしまったのは、
バックの色が段々夜の闇の色に変わっていくに応じて、灯篭を用意するために、
スズキを舞台で横に歩かせた点。
明かりを灯すことで夜になったことを強調したかったんでしょうが、ここは
3人ともじっとしていてほしかった、、。

今日の指揮はラニクルズ。テンポ設定も適切だし、指揮そのものは良かったと思うのですが、
彼の指揮の良さを十全に引き出すには少しオケの力量が不足しているか?
各セクションで部分的に粗雑な演奏があるのが少し気になりました。
同じラニクルズが指揮したメトの『ピーター・グライムズ』のオケの演奏が素晴らしかったことを考えると、
メト・オケの方が一回り実力があるのかな、という気がします。
もちろん、SFOに関して一回きりの演奏を聴いて判断するのはフェアではありませんが。

そして合唱。これは新しいコーラス・マスターになってから、
ものすごく実力をつけ始めているメトとかなり差が開いているように思います。
SFOの合唱、がんばりましょう。

また、このハミング・コーラスに関しては、私の好みからすると、少し音が大きすぎた。
私は、ここは、柔らかく、柔らかく演奏してもらうのが好みなので、
かなり力強く飛び出してくるハミングに、”ちょっと何なの?この無粋な音楽は、、。”
と引いてしまいました。

さて、このハミング・コーラスが終わったので、余韻にひたりながらも、
また蝶々夫人のトリヴィアを勉強するインターミッションかな?と思っていたら、
何とそのまま通常第三幕と数えられる幕に突入!!!
(ただSFOの資料では、全ニ幕ということになっていて、ここは幕ではなく、
次の”場”という扱いになっているようです。)

やるじゃないですか!!SFO!!!
メトではここでいつもインターミッションが入ってしまうので、
(それは現在のミンゲラ氏の演出でも、以前の演出でもそうだった)
これには私は大感激!!
そう!絶対にこうでなければなりません!!!

感激で胸が打ち震えている私に、その後SFOが氷水をふっかけてくるとは誰が予想だにしたでしょうか??

だって、せっかく舞台では、朝が明けていく音楽をバックに、
三人がじっと障子のそばで控えているというのに、あろうことか、
何と、映画のスクリーンでのみ(よって映像編集により)、
今までの思い出の場面のフラッシュバックが、次々と写し出され始めたではありませんか!!!
しかも、スローモーション&霞がかかったような画面に修正して、、。

私はこれを見たとき、その場でぶっ倒れるかと思いました。
一体、この映像を編集した責任者は、いや、SFOは何を考えているんでしょうか?!
これではせっかくの演出家の意図が台無し、、。
ホールマーク・チャンネル(*誕生日などのカードの製造販売でお馴染みのHallmark社が
ケーブルTVで保有しているチャンネル。ださいソープオペラまがいのテレビ映画が次々と放送される。)
もびっくりのこの安っぽい映像編集・・。ありえない。

だいたいロン・ダニエルズという演出家のこのプロダクション、
少し練れていない個所もありますが、演出の全体の方向としては決して悪くない。
例えば、ゴロー、ヤマドリ、シャープレスが何とか蝶々さんを助けようとしている、
その心理も比較的うまく描けているし、
この第三幕突入作戦をとったということだけでも、私としては頭に月桂冠をのせてあげたい位なのに、
このべたな映像編集が一瞬にしてこの演出の良い個所に土足であがって泥を塗りまくったのでした。
これは演出家がかわいそすぎます。
せっかく浸っていた感動の嵐が、一瞬にしてさーっと引く思いがしました。

ずっと静止画面のような舞台だから観客が退屈すると思ったのか?
観客を舐めんなよ!です。

さて、気を取り直して。なぜなら、ここからのラセットは独壇場だから。
罪の意識(何をいまさら、、)で蝶々さんに合わせる顔もないピンカートンに変わって、
彼女に子供はアメリカに引き取って育てることを伝えようとするシャープレスと
ケイト=ピンカートンのアメリカ人の正妻。
もちろん蝶々夫人は長崎に残って。

ここでのシャープレス役のパウエルの苦渋の表情も上手いです。
ケイトに”彼に愛されてあなたは世界で一番しあわせな女性だ”と蝶々夫人が歌う個所。
ここは歌われ方ではちょっと怖い感じもするのですが(蝶々さんの恨み、いやみ、ともとられかねない。)、
ラセットのそれは心底から羨ましがって、蝶々さんが最後に見せる少女らしさのようなものも感じさせて、
また涙。斜めうしろ45度(オペラヘッドのおばさんがいるあたり)からも、再び嗚咽の声が。

子供は、ピンカートンが自分で引き取りに来たら、手放しましょう、という蝶々さん。
もちろん、彼女の心はもう自害を決めています。

父親が切腹に使用した刀を捧げ持ち、”名誉をもって生きれぬものは、名誉を持って死ぬべし。”
と呟くように歌う蝶々さん。

とここで、白人とアジア人カップルの女性の方がおもむろに立ち上がり、
足早に映写室を退室。ええっ?!こんな大事なシーンで?!
だから、デートには向かない、とワーニングを出したのに、、。
アメリカ人とアジア人の二人の運命ってこうなの?と悲観したのか、
自害シーンが苦手なのか、、。
慌てて追いかける白人の男性、、。かわいそう。これからが見所なのに。

一旦刀を首につきたてたものの、傍らで遊ぶメグ・ライアン似のかわいい男の子の姿に
つい心がくじける蝶々さん。
彼を抱きしめながら歌うアリア”かわいい坊やよ、さようなら Tu, piccolo addio "。
言葉ではこの気持ちは説明できません。
ただただ涙がとめどなく溢れて止まりませんでした。
この曲をこんな歌唱で聴いて、それ以外、何が出来るというのでしょう?
これだけは、ぜひ、彼女の歌をぜひ生の舞台なり映画なりで体験していただくしかありません。

このアリアが始まってすぐ、例の白人の男性がいそいそと、一秒でも見逃すのが
惜しい!といった風情で、映写室に駆け戻ってきたのが印象に残りました。
いやあ、これは見逃したくないでしょう!!



アリアの最後の、”さあ、遊んでおいで”と泣きながら言うのに合わせて、子供に、
母親の死に目を見なくていいよう、白布で目隠しをする蝶々さん。

各演出、各歌手によって自害の仕方も様々で、ここも見所のひとつ。
このアリアの後、歌がなく、オケの演奏をバックにとつとつと演じなければいけないので、
演技力のない人がやると見てられません。
しかし、ラセットなので、そんな心配があるわけがない。

首にさっと刀の切っ先をあてて、そのまま刀を背中に沿って滑らせる方法で、
血らしきものを想起させる小道具は一切なし。
(ちなみにメトのミンゲラ演出版では黒子がさっと長い赤布を広げて、血の流れを描写します。)
すべてはラセットの演技力にかかっていますが、刀が首に入って行くに従って、
観客からも”うわっ!”という呟きが聞こえたほど。
とにかく、死に際までエレガントなのが本当に素晴らしい。



崩れ落ちた蝶々さんの後ろで、鳥居を想起させるバックが赤色に変わって幕。
これも、結局、アメリカにあれだけ心酔し、期待していた蝶々さんも、
最後は日本のスピリットに基づいて死んでいかねばならなかった、と
いうことを表現していると思われ、この演出家は少なくともこの作品の、コアとなっている部分というのを、
本当によく把握していると思います。



最後の舞台挨拶でびっくりしたのが、ピンカートン役のジョヴァノヴィッチが登場した途端、
ブーイングの嵐が出たこと。
実際にオペラハウスにいたわけではないので、本当のところはわかりませんが、
映画館で聴いている限りは素晴らしい出来だったので、ピンカートンという役に対する
ブーイングととるしかないのですが、実際はどうなんでしょう?
オペラハウスで聴いた方に確認してみたいものです。
本人も笑いながら、おいおい!という感じで肩をすくめて見せ、
続いて、喝采の嵐の中登場したラセットは、指をたてて”ちっちっち!”と、
「そういうひどいことを蝶々さんにするからブーイングなのよ!」というジェスチャー。
仮に何かジョヴァノヴィッチの歌に欠点があったとしても、
彼女がこのジェスチャーをしたことで、役に対するブーイングという風に意味合いが転換され、
彼女は本当、こういうところが機転が利くな、と思います。

しかし、このブーイングが本当に役そのものへのブーイングだったとしたら、
これはある意味、ジョヴァノヴィッチに対しての最大の賛辞とも言えるのではないでしょうか?

ブルックリンにまで足を延ばした甲斐大有りの、最大級の賛辞を送りたい公演。
”絶対にDVD化してほしい!!”とSFOのシネマキャストの担当者の方にメールをしておきました。
ただし、”あの変なフラッシュバックはなしでよろしくお願いします。”とも。

メトの来シーズンの『蝶々夫人』のライブ・イン・HD、
ドマスではなく、ラセットに歌わせてほしい、と私が吠えているのは、こんな理由なのです。


Patricia Racette (Cio-Cio-San)
Brandon Jovanovich (Pinkerton)
Stephen Powell (Sharpless)
Zheng Cao (Suzuki)
Matthew O'Neill (Goro)
Eugene Chan (Yamadori)
Raymond Aceto (The Bonze)
Katharine Tier (Kate Pinkerton)
Dylan Hatch ("Trouble", Cio-cio-san's child)
Conductor: Donald Runnicles
Production: Ron Daniels
Performed at the War Memorial Opera House, San Francisco
Cinemacasts viewed at Pavilion Park Slope, Brooklyn, New York

*** プッチーニ 蝶々夫人 Puccini Madama Butterfly ***

SFO Cinemacasts: MADAMA BUTTERFLY <本前編>

2008-04-20 | 映画館で観るメト以外のオペラ 
序編より続く>

いよいよ始まったSFO(サン・フランシスコ・オペラ)のシネマキャスト、『蝶々夫人』。

まず画質にぶっとぶ。悪い。悪すぎる。
昨シーズンのメトのライブ・イン・HDのうち二作品がDVD化されていますが、
その鮮明な映像に比べると、異様に解析度が悪い。
この小さな試写室もどきの小さなスクリーンでこれですから、
大スクリーンに映った日にはどんなことになるのだろう?
これはもしかすると、映画用の機材で撮影しているんでしょうか?
画面のテクスチャーそのものがアナログな感触で、全然デジタルっぽい感じがしません。

音が出てきて更にびっくり。
音が画像と微妙に合ってない、、、。これはあまりにお粗末。
特に歌手がどのような表情、筋肉の使い方で声を出しているのか見れるのが
映画館で見る醍醐味の一つなのに、音とその顔が合ってないという、、。
一幕の途中まで、ずっと、質の悪いアフレコのような音声で非常に気持ち悪い思いをしました。
(途中でぶちっ!と言う音がして、突然画像と音がマッチしはじめました。ふう。)

最近のトレンドとして、あくまで私見ですが、『蝶々夫人』に関しては、
家を細かに再現したようなセットよりは、非常に簡素な、例えば、障子や階段といった
もののみをシンボリックに舞台に置き(メトの新プロダクションが一例)、
シンプルなものにしたその代わりに、照明などを多用し、
色彩のイメージにこだわったものが非常に多くなってきたような気がします。
このSFOのプロダクションはちょうどその中間を行くようなセット。



日本という国を表現するには、まず、この色彩ということと、光の感じ
(アメリカと比べると、日本に帰国したとき、まず違うなあ、と思うのは光の色です。)を
掴んでいてほしい、と思うのですが、このプロダクションは色彩の点で悪くありません。
少なくともメトのミンゲラ・プロダクションの原色使いよりは私は何倍も好感を持ちました。

ピンカートンを歌うのは、昨秋のタッカー・ガラに一番手で登場していた
ブランダン・ジョヴァノヴィッチ。
あの時は錚々たる面子に囲まれて固くなっていたのか、
声の線も細く、歌も個性がない、と感じたのですが、
今日のこの見事に軽薄そうなピンカートンを堂々と歌っている様子はどうでしょう!
こんなに実力があったのか、と嬉しくなりました。



タッカー・ガラでの様子やヘッドショットの写真に見られる実直そうな素顔とは裏腹に、
無邪気と軽薄さゆえの残酷さが声や立ち振る舞いからも滲み出ています。
今まで見た公演のピンカートンは、アラーニャですら
少し位が上の軍人さんかしら?と思う恰幅のよさがありましたが、
このジョヴァノヴィッチはまだまだ若しく、こういうのりの兵隊さんって、
六本木あたりで遊んでいる姿を今もたまに見かけます、という雰囲気で、なかなかに新鮮。
蝶々さんとのことは、もしかすると若気の至りという面があったのかもしれないな、と
思わせる役作りで面白く感じました。

歌に関しては、時々音がおろそかになったり、二重唱の最後で少し音を外していたり、と、
まだ改善の余地はありますが、しかし、これくらい歌ってくれればまずは上出来です。
声に関しては、タッカー・ガラの時にはこんなにからんとした声を出せるとは
全く想像だに出来なかった上、
へらへら笑って立っている仕草の演技など、若手とは思えぬ堂の入りっぷり。
お見それしました。

さて、蝶々夫人のラセット。
登場してすぐの合唱に続く蝶々さんの旋律の最後のオプショナル高音はなし。
彼女はもうここの高音はなし、ということにしているようで、今まで聴いた3回とも音をあげずに済ませています。

しかし、私はここから彼女の表情に釘付けに。
オペラハウスで遠目に見ていても、芝居が上手な彼女ですが、
こうしてどアップで見ていると、表情にもものすごく細かい感情が次々と現われては消え、
を繰り返していて、特に目の表情、これが素晴らしい。
さっと瞳にかげりが出たり、嬉しそうになったり、、、。
これが、ピンカートンとの会話、一語一句ごとに起こっているのです。
しかも、その表情がいちいち的確。
もうこれを見ただけで、いかに彼女がこの役をよく理解しているか、わかろうというもの。
遠めに見て上手い、と感じる演技は、このような緻密な役の分析と理解に
基づいたものなのだ、と納得。



彼女は日によって、立ち上がりの発声が少し固くなることがあるのですが、
今日は頭から大全開。ほとんど全くといっていいほど、固さを感じませんでした。
特に二重唱に入ってからのこの声の豊かさはどうでしょう!

ただ、このプロダクションに私は二、三、不満な点があって、その一つがこの二重唱から
おもむろに舞台に出てきたベッド。
そして歌われる言葉にあわせたんでしょうが、後ろに満点の星、、。
コンセプト的には、メトの『ロミオとジュリエット』の空飛ぶベッドに近いんですが、
これはなんか変。こてこての和風家屋になぜベッド??
しかも、ベッドにはせいぜい腰掛ける程度の二人なので、
一体このベッドに何の役割があるのか、私にはよくわかりません。
これで蝶々夫人がアメリカという世界に足を踏み入れたということを表現しようとしている?
だとすれば、メトの『トリスタン~』のパンチdeデートと同じく、観客を甘く見た、
意味のない幼稚な小道具です。

ラセットがここの歌唱で、ものすごく高度な艶っぽさを見せているので、
余計にこのちゃちな小細工が寒く見えます。
ここはメトのプロダクションのように余計なものを置かずに、直立で歌ってもいいのでは?
さて、ラセットの歌の艶っぽさについて言及しましたが、それは、愛の二重唱の中の、
Siete alto, forte (あなたは背が高くて、強くて)という言葉から。
それまでとは違う、この言葉の微妙な歌い方の変化により、その時点まで、
すでに盛り上がりまくりのピンカートンに対しても、まだ非常にガードが固く、
恥ずかしがりやの少女らしい様子だった蝶々夫人が、まるでがばっ!とおもむろに
仮面を脱いだかのように、なまめかしい大人の女性の表情を見せ始めるのです。
ほんのちょっとしたフレージングの差で、そんな蝶々夫人の心の変化を
歌い描くのですから、ラセット、恐るべし!
そして、ここから最後までは、もう私を奪ってちょうだい!とばかりに蝶々さん大爆発。
イタ・オペで最もエロティックな二重唱と言われるのもむべなるかな、なのです。



蝶々さんが、”外国では蝶々をピンでさして台の上に留めるんでしょう?”
という、この蝶々夫人の未来をも暗示する質問を放つときの激しさ
(すでに彼女は無意識に自分の不幸を感じ取っているのかもしれません)の表現も
非常にすぐれたものがありました。

先にも触れたとおり、二重唱最後の音をジョヴァノヴィッチがやや外していたのに加え、
ラセットも少しピッチが下がり気味でしたが、許容範囲。

第一幕は、試写室もどきに響きわたる、オペラヘッド連盟=おばさんと私の
二人の大拍手を持って終了したのでした。

さて、メトのライブ・イン・HDがこのシネマキャストに比べるとよく出来ているな、と、
感じさせられるのは、
その画質と画像編集の技術。カメラの性能と数の多さが違うからでしょうか、
メトの方がずっと画像のアングルが多彩だと思います。
シネマキャストは基本的には、アップか引いた画面のどちらかしかなく、
この二つの間を行ったり来たりするのみ。
そして、もう一点は、インターミッションの使い方。
ライブ・イン・HDについては、たった数回、
それもほんのちらっとオペラハウスで流れているのを見ただけですが、
それでも、登場歌手やスタッフへのインタビューあり、舞台裏の様子の映像あり、
客席の映像あり、と、
仮に日本のように実際のNYでの公演から何日か経った後で上映される場合でも、
生っぽさというのがきちんと保存されている気がします。
それに比べて、このシネマキャスト、固定した映像をバックに、
『蝶々夫人』についてのトリヴィアのような文章が次々と写されるのみ。
ええっ!!これで10分の休憩時間全部使ってしまうんですか、、?と思っていると、
やっと最後になってほんの短いものですが、蝶々さん役のラセットと、スズキ役のカオへの
インタビューが入りました。ああ、油断してトイレに立たなくて良かった、、。

まず、この公演では、かつらの似合う、ふっくらとした女中顔のカオが、



なぜだかインタビューでは地で登場。80年代の女性ロッカーのような頭にびっくり。
そんな風貌で、”ニ幕のほとんど最初っから来ますよ。もう途中からは客席から、
がんがんすすり泣きが聴こえます”と言われても、、。
しかし、蝶々さんはともかくスズキすら世界の主要劇場で歌ってくれるような
日本人歌手がいないのは何でなんでしょうか?
韓国勢や中国勢の歌手のがんばりに比べると寂しいものがあります。

一方のラセットは、実際の公演のインターミッション中に撮影したのか、
蝶々さんの衣装、およびメイクのまま登場。
インタビュアーの”この作品を見たお客さんに望むことは?”という質問に対して、
ラセットが”これは、お客さまへの愛情を込めて言うのですが、
演奏が終わった時、どうしようもなく打ちのめされたような気分(devestated and wrecked)になってくれていたら最高です。”と言っていたのが印象的でした。
また、歌っていて一番好きなシーンは?という質問に、
”それはもう、蝶々さんがピンカートンの船が入ってくるのを見つけて、
ei torna e m'ama(と、ここで実際に鼻歌程度ですが歌ってみせてくれた)と歌うところ!”。
ここは昨年の10/27の公演でも素晴らしかった個所で、やっぱり歌っている彼女本人も
好きだからあんな歌になるのだ、と納得。

彼女は喋っているときもとてもウィットに富んでいて頭の回転が早そうなので、
これまでもメトの土曜のマチネの全国FM放送のミニ・コーナーの司会を担当したり、
シリウスでもゲストで招かれたりしていますが、このインタビューもこんな短い時間でなく、
もっといろいろ話を聞いてよ!と思ったのは私だけではないはず。

本後編に続く>

Patricia Racette (Cio-Cio-San)
Brandon Jovanovich (Pinkerton)
Stephen Powell (Sharpless)
Zheng Cao (Suzuki)
Matthew O'Neill (Goro)
Eugene Chan (Yamadori)
Raymond Aceto (The Bonze)
Katharine Tier (Kate Pinkerton)
Dylan Hatch ("Trouble", Cio-cio-san's child)
Conductor: Donald Runnicles
Production: Ron Daniels
Performed at the War Memorial Opera House, San Francisco
Cinemacasts viewed at Pavilion Park Slope, Brooklyn, New York

*** プッチーニ 蝶々夫人 Puccini Madama Butterfly ***

SFO Cinemacasts: MADAMA BUTTERFLY <序編>

2008-04-20 | 映画館で観るメト以外のオペラ 
予告編から続く>


メトがライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)を成功させて以来、
今年は、イタリアのオペラハウス(スカラ座やフィレンツェ歌劇場などの共同企画)、
さらにはSFO(サンフランシスコ・オペラ)なども競って映画館でオペラの公演を上映する
企画を始めました。
やはり、メトのライブ・イン・HDを意識せざるを得ないようで、
それぞれ、各々の強み、カラーを打ち出そうと頑張っているようです。

前者については、上映ホールが自宅から歩いて行けるという距離なのにも関わらず、
なんと、デヴィーアが出演したスカラ座の『マリア・ストゥアルダ』を、
怒涛の鑑賞スケジュールにどっぷりつかっているうちに見逃すという、自分でも許せない過ちを犯してしまい
(ちなみに、それはそれは素晴らしい公演だったそうです、、)、
後者のSFOの『蝶々夫人』を見逃すようなことがあったら、蝶々夫人ではなく、
この私が切腹をせねばなるまい!ぐらいの覚悟で、事前に映画館のチケットも手配し、
道順までもプリントアウトして、準備万端。

しかし、知り合いの方から、NYCO(NYシティオペラ)で公演されている『キャンディード』が、
歌手陣の健闘のおかげで素晴らしいものになっているらしいこと、
そして、その最後の公演が、『蝶々夫人』を見る予定にしていた4/20(日)、
しかもどんぴしゃの時間帯に行われることを知り、悶絶するような苦しみを味わいました。
生舞台の『キャンディード』をとるか、仕事で平日の鑑賞は無理なため今日しかチャンスのない、
映画館で見るSFOの『蝶々夫人』をとるか、、。

そして、普段は生舞台と生でない媒体のものを比較すれば、まず必ず生の方をとる私が、
今日は『蝶々夫人』をとったのでした。
それもこれもパトリシア・ラセットの歌う蝶々さんを聴きたいから。
ここでカミング・アウトしてしまうと(いや、もうすでに微妙な形で何度もカミング・アウトしてきたのだが)、
私が今世界で最も敬愛してやまないソプラノが彼女。
彼女の出演する舞台を、見れば見るほど、聴けば聴くほど、彼女は本当にすごい!という感が
どんどん強くなってきて現在に至ります。
特にこの『蝶々夫人』に関しては、歴代の蝶々さんを当たり役にしてきた歌手たちよりも、
私は彼女の方が圧倒的に好き。

メトのライブ・イン・HDの『ピーター・グライムズ』でエレン役を歌った彼女ですが、
主役度、見せ所・聴かせどころの多さは圧倒的に蝶々さんの方が上で、
その彼女の晴れの舞台を見逃すわけにはいかない。
大体、一時は本気でサン・フランシスコにまで本公演を観に行こうか、と思ったくらいなのですから。

さて、チケットを手配するときにびっくりしたのは、我が家から一番近い上映場所が、
なんと、ブルックリンのプロスペクト・パークだったこと。
マンハッタンには大小おりまぜ山ほど映画館があるってのに、なんでまたブルックリンなんだろう?
やっぱりメトの牙城に食い込むにはSFO側の気が引けるのか、
それともゲルプ氏がマンハッタン中の映画館に札束をばらまいて、
SFOの企画にはのらないように!とのキャンペーンを打ったのか?

さて、このブルックリン、私の基準(注:ただしこの基準は相当狂っているという説もある。)では、
決してマンハッタン、特に私の住むエリアから近くなく、しかも、
地下鉄を乗り換えるときに猛烈に歩かされる。
だいたい、メトに行く際にも歩くのが嫌でキャブに乗るってのに、
映画館での上映を見るのになんでこんなに歩かにゃならんのだ!と歩いているうちに怒りがこみ上げてきた。

しかし、道順しらべをしているときにこんなこともあろうかと、今日は
山登りのような格好をして来たからノー・問題。
「メトに登山服のような服装で現れる輩には殺意を覚える」との主旨の発言(原文はこちら
をした張本人の私が、である。、、、すみません。

そして、地下鉄15th St Prospect Park駅の階段を登り、地上に出た途端、びっくり。
素敵な街だけど、どっちかというと、オペラを観るというよりも、うちのわんこを連れて来たい感じ。
それももっとも。なぜなら、駅の目の前に開けているプロスペクト・パークは、
規模でセントラル・パークと競うほどの、NYきっての大きな公園なのです。
夏のパーク・コンサートの会場の一つでもあります。

そして。大きなシネマ・コンプレックスで上映されるのを想像していた私は、
まさに”地元の映画館”しているPavilion Park Slopeの姿に愕然。
ち、小さい、、、。
しかも、正午の開演の30分前ですが、まだシャッターが半開き。

仕方がないので、開始前に腹ごしらえを!と、カフェっぽいものを探すが、
こんな公園前のベスト・ロケーションにもかかわらず、開いているカフェは一軒のみ。
なかなか評判のカフェなのか、それとも他にカフェがないからここにみんなが殺到するのか、
まるでブルックリンの住民全部が集まったような長蛇の列。
仕方がないので列の最後に並ぶと、むこうからオペラヘッド臭をぷんぷんさせたおばさまが
歩いてきて、私のうしろにつかれました。
おばさまも私のオペラヘッド臭に気付いてか、気付かずか、
”私、これからパヴィリオンで、オペラを見るの。”と私に話しかけてこられたので、
私もです、と告白。
おばさまは数日前に上映された同じくSFOの企画の『ドン・ジョバンニ』を見たのが
初オペラin映画館だそうなのですが、大変楽しまれたそうで、それが今日『蝶々夫人』を
見に来た理由だそうです。
このおばさまはメトの生公演を頻繁に観に行けるほどには経済面および時間面で余裕がないけど、
SFOのシネマキャストは、この内容で$20ちょっとという設定は安いわー、とおっしゃってました。

このおばさま自身の言葉どおり、見た感じからだけ判断すると、決して裕福な感じでいらっしゃらず、
この日のチケット代とカフェでの食事代のために財布から慎重にお札を出される様子を見ていると、
メトのライブ・ビューイングについて、日本の観客の一部の方から、(もちろん全員ではありませんが)
日本ではやや価格設定が高めとはいえ、”チケット代が高い!”という意見が
聞かれるというのとは、対照的だなあ、と思わざるを得ませんでした。

おばさまはこのSFOの企画がきっかけでメトがライブ・イン・HDを行っているのを知る、という、
通常とは逆ルートを走っておられて、SFOシネマキャストの『ドン・ジョバンニ』を観た後、
26日の『連隊の娘』のライブ・イン・HDをどうしても見たくなって、
マンハッタンの映画館のみならず、それこそ行けるロケーションの映画館はすべてあたったものの、
ソールド・アウトだそうです。
私がそのライブ・イン・HDを観に行くんです、という話をすると、本当に羨ましそうにされていました。

食糧をゲットし、映画館に戻り、窓口でチケットを引き取ろうとしたところ、
前に並んでいたそのおばさまが、”この間、ドン・ジョを見たときには、
キャスト表とあらすじが載ったプリント・アウトをくれたんだけど!”と
窓口にいるうら若い少女を攻撃。いやー、オペラヘッドは頼りになるなあ。
私も絶対、キャスト表がほしいもの。
それこそオペラなんかにはまーったく興味のなさそうなその少女は、
探すふりだけして、にべもなく、”そんなものありません”。
どこの国も、この年代の女の子ってやつは、、、。
”キャスト表がないだとーっ!!??”とオペラヘッド二人で頭から湯気を出しながら映画館に入ると、
あの少女よりはずっと感じ良さそうで仕事もできそうなもぎりのお兄ちゃんが、
”手元に一部しかないので、今コピーしてきますね。”と、
昨日土曜日の残りと思われるよれよれになったプリントアウトをかざす。
白黒コピーかよ、、、寒いなあ、全く。でも、ないよりましか。

そのお兄さんによれば、土曜は結構客が入ったらしいです。
とはいえ、上映室そのものが小さいので、入ったといっても数十人規模ですが。

カフェから食べ物やら飲み物やらを持ち込んでも全くおとがめなし。
なので、館内のベンチに座って食べ物にぱくついていたら、別のお兄さんが、
ご丁寧に"Miss"と言って、白黒コピーのパンフレットを持ってきてくださった。
最初の少女は別として、小さい映画館ならではの、今やマンハッタンでは決してお目にかかれない
パーソナルなサービスと従業員の感じよさで、私はなかなかこのさびれた映画館、気に入りました。

といっているうちにいよいよ開演時間も間近。
上映室に入ってさらに愕然。座っている人は、3名。
しかもこのまるで試写室のような小さな部屋は一体、、。
それからスクリーン。せいぜい、高校の授業でオーバーヘッド・プロジェクターの
ためによく使用されていたスクリーンくらいの大きさしかありません。

SFOのこの企画は、メトよりも最新のテクノロジーを駆使した画質と音質、のはずだったが、
大丈夫なんだろうか、、。

一足先に入室していたおばさまが、手をあげて、”来たわね!”。
座席が上手く設定されているので、仮に満席だったとしても、かなり快適に鑑賞できそうですが、
今日はそれに加えてがらがらなので、思いっきり好きな座席をえり好み。
真正面で鑑賞です。

結局観客は10人ほど。
ほとんどが年配の女性。全員一人でいらっしゃっている。
『蝶々夫人』を、日曜日に、女性一人で見に来る観客なんて、自分も含め、相当ヤパイです。
しかし、もっとやばいのは、2組のカップル。
いずれも白人男性とアジア人女性の取り合わせ。
”私のこと、もしかしてこんな風に見てたの?!”なんて、後で男性がつめられたりしないんだろうか、、。
しかも蝶々さんが自害して幕、、。
オペラを多くの人に普及させたい!と願う私ですら、デートには全くおすすめできない作品です。

さあ、いよいよ上映開始!!!

本前編に続く>

Patricia Racette (Cio-Cio-San)
Brandon Jovanovich (Pinkerton)
Stephen Powell (Sharpless)
Zheng Cao (Suzuki)
Matthew O'Neill (Goro)
Eugene Chan (Yamadori)
Raymond Aceto (The Bonze)
Katharine Tier (Kate Pinkerton)
Dylan Hatch ("Trouble", Cio-cio-san's child)
Conductor: Donald Runnicles
Production: Ron Daniels
Performed at the War Memorial Opera House, San Francisco
Cinemacasts viewed at Pavilion Park Slope, Brooklyn, New York

*** プッチーニ 蝶々夫人 Puccini Madama Butterfly ***

SFO Cinamacasts: MADAMA BUTTERFLY <予告編>

2008-04-20 | 映画館で観るメト以外のオペラ 
4/26の『連隊の娘』でライブ・イン・HD初体験の予定でしたが、それよりも早く、
サン・フランシスコ・オペラのシネマキャストで『蝶々夫人』を見てきました。

ライブ・イン・HDに遠慮するかのように(それともゲルプ氏の根回し?)、
ひっそりと、ブルックリンの小さな映画館Pavilion Park Slopeで行われた上映。
あらわれた観客は10名ほど。

メトよりも最新のシステム!という触れ込みの割には、画面も音のクラリティもいまいち、
画像編集にも難あり(ださいフラッシュバックは余分)、
試写室のようなわびしい上映室に映画館と思えぬ小さなスクリーン、、。

しかし、それをいつの間にか忘れさせるような公演そのもののパワー、
特にパトリシア・ラセットの蝶々夫人が言葉を絶するくらい素晴らしいです。
私が大感激した10/27のメトの公演と甲乙つけがたい出来。
オーバーでなく、ほとんど全ての観客からすすり泣きの声が聞こえ、終演後には拍手が。

上映は22日まで。アメリカにお住まいで、お時間のある方はぜひ!
この画面でzip codeを入れると最寄の映画館が表示されます。
抜粋の映像もありますが、こんな抜粋なんかでそのすごさがはかれる公演ではない!
実際の上映では英語の字幕つき。

http://sfopera.com/cinecast.asp

鑑賞レポもじき挙げます。
今はまだ一人で余韻に浸っているゆえ、、。

序編に続く>

Patricia Racette (Cio-Cio-San)
Brandon Jovanovich (Pinkerton)
Stephen Powell (Sharpless)
Zheng Cao (Suzuki)
Matthew O'Neill (Goro)
Eugene Chan (Yamadori)
Raymond Aceto (The Bonze)
Katharine Tier (Kate Pinkerton)
Dylan Hatch ("Trouble", Cio-cio-san's child)
Conductor: Donald Runnicles
Production: Ron Daniels
Performed at the War Memorial Opera House, San Francisco
Cinemacasts viewed at Pavilion Park Slope, Brooklyn, New York

*** プッチーニ 蝶々夫人 Puccini Madama Butterfly ***

UN BALLO IN MASCHERA (Sat, Apr 19, 2008)

2008-04-19 | メトロポリタン・オペラ
4/3のキーロフ・バレエの公演のレポで、オケのシステムはどのようになっているのか?
と問題提起をした私ですが、同じレポでふれた"Valery Gergiev and the Kirov
- A Story of Survival"を読み進めるとそこに答えが。

原書の217ページによれば、キーロフ・オケと一口にいえど、バレエ用のオケ、
オペラ用のオケ、そして演奏旅行用のオケという三形態をカバーしており、
オケのメンバーは、この3つの間でローテーションするそうです。
(なので、別々のオケが3つ存在しているわけではない。)
特にゲルギエフお気に入りのオケの団員たちは、彼が指揮する公演は基本的に全て参加、
ゆえに、演奏旅行用のオケは彼らも参加必須。
なれば、カーネギー・ホールで聴いたオケはゲルギエフが思うところの
最強メンバーだったということになり、大体、演奏から受けた印象もそれと合致しています。
(ただし、今回のキーロフ・バレエの公演は、ゲルギエフによって指揮された日が
一日だけありましたが、あれはツアー・オケではなく、バレエ・オケだったと思います。)

さらに、興味深いのは、257ページ。キーロフにはジュニア・オケというものもあって、
この本が発行された2001年時点、そのジュニア・オケを任されていたのが、
ジャナンドレア・ノセダ氏。
そう、今日の公演も含む、今シーズンのメトの『仮面~』の指揮者です。
ノセダ氏はイタリア人ですが、キーロフ・オペラをさらに活力のあるオペラ・ハウスにするには
ロシアもの以外のレパートリーもきちんと演奏できねば!と、
キーロフ・オペラにイタリア・オペラとは何ぞや?という薫陶を授けるべく、招かれたのが
彼だったのだそうです。
そして、かわりに、ロシアものについてはノセダ氏の方がゲルギエフ氏について勉強し、
徐々にそれらのレパートリーで、ゲルギエフのおこぼれを頂戴するようになっていったようです。
そういえば、今年のメトの公演の『戦争と平和』で、ゲルギエフの後に、ノセダ氏が
何日か引き継いで振っていました。

ゲルギエフは例えばレヴァインなんかと比べると、振る日によって出来、雰囲気の
振れ幅が大きい、と言われていますが、(これは同書でヴォルピ前メト支配人もそう
言っていますし、私自身も公演を比較してそう感じます。)
ノセダ氏もその路線を突っ走っているのは、師弟関係にあったからなのですね。納得。

というわけで、今日はどんな暴走を見せるのか、ジャナンドレア・ノセダ。
シリウス鑑賞時にも警告を発したとおり、あまりにのったりした演奏だった日には、
私が平土間、指揮台横まで行って、頭突きを入れます!と、気合満々でオペラハウスに。

しかし、今日は拍子抜けするほど中庸。
前奏曲の頭が意外なほどソフトに奏された以外は、音も大きすぎず小さすぎず、
テンポはややゆっくり寄りかもしれませんが、それほど気になるほどでもなく、、。
ただ、一点、気になったのは、オケへの指示がクリアでないのか
(残念ながら、指揮の姿は、目の前にあるバーに隠れて見えず)
テンポが代わる節目節目の移行でオケをまとめきれておらず、演奏がばらばらになっている個所が、
一つや二つではなかったこと。
今日の公演は第三幕が一番締まっていましたが、その第三幕でやっとオケに聴きごたえが
出てきた以外は、総じて、プレミアの日の演奏の方がスリリングで私は面白かったと思います。

しかし。オケを脇において、歌唱の方に注目すれば、これは断然今日がよかった。

なんといっても立役者は、リチトラ。
シリウスの放送日(4/16)と今日、どちらも生を聴いた人の話でも、
彼に関しては今日の公演の方がよかったそうです。

シリウスの日の歌を聴いて、やや彼の声に危惧を表し、
しかもこの役はもう歌わない方がいいのでは?とまで言った私ですが、
シリウスで聴いたのと今日は全く印象が違う。
実際に16日よりも今日の方が調子が良かったのか、ラジオ放送では彼の声の良さがとらえきれないのか、
どちらかはなんともいえませんが、今日のような歌を歌ってくれるなら、
私は前言を謹んで撤回せねばなりません。

本当に細かいことを言えば、息の使い方が少しでも一番いい形を外れると、
音がドライに聴こえる傾向にあり、疲れからか、出番が続く個所でいくつかそんな音が聴かれましたが、
これはテクニックの的中率とスタミナ配分の問題で、声そのものの問題ではないと思います。
今日はとにかく、その数箇所を除き、息の使い方が非常に効率的かつ有効になされており、
声にぴしっ!と背骨が通っていて◎。
以前にも書きましたが、彼のぽよんとした声質は、この背骨があってこそ、
魅力的になるのです。
こういう時の彼の高音はきらんとした輝きのようなものがって、
こういう響きを出せるテノールが最近意外と少ないので、
よって、私は調子がいい時のリチトラが結構好きなのです。

声の調子がいい時の彼は、ものすごく芝居のテンションもあがる
(昨シーズンの『道化師』など)。
しかし、これは、逆を言うと、声の調子が悪かったり、何か足をひっぱるファクターがあると
(たとえば、同じく昨シーズンの三部作の『外套』)、
それに引っ張られて芝居も駄目になってしまうということでもあり、彼の歌唱は
花丸と出るかバッテンとでるか、大きな賭け、運次第という面があるように思います。
来シーズンの『トロヴァトーレ』は花丸の日にあたりますように!!と願わずにはいられない。
と、今日は演技のテンションが高かったので、一幕からお茶目な王様像を作り出してます。
だいたい、”じゃ、みんなでその占い師(ウルリカ)のところに行ってみよう!”
なんて思いつくところもお茶目なら、
のりのりで漁師の扮装をして、他の誰よりも早くウルリカのところに一番乗りしてしまうような
王なんである。いいキャラしてます。

さて、今日苦戦を強いられているように見えたのはホロストフスキー。
コンディションが良くなかったように思います。
さすがに今日はあの殺人的な遅さの演奏ではなかったので、それには救われていましたが、
今日は公演中通して、ものすごくブレスの音が目立って聴こえていて、
またそのブレスに、ごーっ!という濁った音が入っていたので、もしかすると喉の調子が良くなかったのかもしれません。
彼の舞台でブレスの音そのものが、しかもあんなに大きく聴こえる、ということ自体、
私は体験したことがないので、これはいつもの彼らしくない、ということを申し添えておきます。
声量の方も、初日に聴いたのに比べるとやや元気がなかったように思いますし、
何よりも声のコントロールをしにくそうにしていたのが気の毒でしたが、
しかし、そんな気の毒な状態であったからこそ、余計に彼の今日の歌唱は賞賛もの。
特にアリア、”お前こそ心を汚す者 Eri tu che macchiavi quell'anima ”。
あの声の不調ぶりからすれば、まずい結果に陥っても決しておかしくなかったところを、
彼は、強い精神力で乗り越え、気合で感動的な歌に変えてしまいました。
声が不調なのですから、技術的にはここはもうちょっとこうだったら、とか、
あそこはもう少しああだったら、なんてことは言えますが、
逆にこの不調ぶりでこんな歌を歌った、ということが驚き。特に調子が悪いからこそ、
一層丁寧に言葉を扱い、最後の一音まで気を抜かなかったところが素晴らしかったです。
彼のこの役は本当に良い。もう一度絶好調の時の彼が歌うこの役を聴いてみたいものです。

それに比べてお仕置きを加えたい一番手はアンジェラ・ブラウン。
誤解なきように言うと、やっぱり声はみずみずしく、第一ランでアメーリア役を歌った
クライダーより何倍も歌唱的には安心して聴けるのですが、

問題点 その1、
”歌がまるでアイーダみたいである。”
歌唱が、『アイーダ』で聴いたときの彼女の歌唱と同じなのです。
場所によっては、”あれ?私、今、『アイーダ』見てるんだっけ?『仮面』見てるんだっけ?”
と思ったほど。
つまり、ここで私が言わんとしているのは、彼女の歌唱には、役の解釈とか、
人物像の投影といったものが欠如している、ということです。
だから、アイーダを歌っても、このアメーリアを歌っても、
あれ?同じ人?みたいなことになってしまう。
しかし、この両作品をご存知の方ならお分かりのとおり、アイーダとアメーリアは
かなり違う人物像をしています。
このあたりの違いというのが、彼女の歌からは全く感じられないのです。
『アイーダ』のレポで書いたとおり、
”もう少し言葉への深い解釈と、言葉の意味を表現するための音色の探求と
いうのを究めていってほしい”の一言です。

問題点 その2、
”やっぱり大根すぎ!”
もう今日の公演に関しては、私は額に手を当てて、固まる場面が盛りだくさんでした。
まず一つには、1とも関係することですが、きちんと言葉を解釈し切れていない。
例えば、第二幕の二重唱。
草を摘もうとやってきた処刑場にグスタヴォ三世(リッカルド)があらわれ、
アメーリアに愛を告白、君はどうなんだ?ボクのことを愛してるのか?と詰め寄る場面で、
彼女が何度も言葉にするのを避けながら、最後には負けて、Ebben, si, t'amo (そうよ、愛してるわ)と
言ってしまうところ。
この二重唱の歌詞のあらゆる場所で、アメーリアは何度もリッカルドに、
”どうか、自分の心に負けないよう助けてちょうだい”と言い、
なおかつ、”愛が成就するのは死の時だけなのかしら?”とも言っているように、
リッカルドへの気持ちを認めながらも、彼女は最初から最後まで、
夫を裏切る気はないのです。
この葛藤、この苦しみ、この自分の気持ちを消さなければならない辛さ、、
そんな時にアンジェラ・ブラウンはどうしているか?とふと舞台を見れば、
笑っているではないですか!!!
何がおかしいのか!と、私は聞きたい。
いや、演技の下手くそな彼女なので、どうやら笑っているのではなく、恋の喜びに微笑んでいるらしいのですが、
微笑むこと自体もおかしいと私は思う。
苦しみと葛藤はどこ行った?なぜ、歌っている言葉と違う表情をするのか?本当に理解に苦しみます。
(もちろん、それが意図的な、的を得た表現であれば、
言葉と違う表情も一つの演技法だとは思うが、彼女の場合は、ひたすら的がずれている。)

そして、さらにびっくりしたのは、最後、リッカルドがレナートの手によって殺害される場面。
リチトラが虫の息でリッカルドを熱演する横で、おろおろもせず、驚愕もせず、
ぼさーっと突っ立って見ているブラウンを見て私はまたしても、

うぎゃーーーーっ!!この大根、どうにかしてくれーーーーっ!!

だって、夫よりも愛してしまった男性が目の前で今や死のうとしているんですよ!
しかも夫の手にかかって!!
たまたま通りの交差点で交通事故が発生、知らない人が倒れているのを見ている、というのとは、わけがちがう!!!
あまりのショックで放心状態?それならそういう演技をしてくれ!
放心状態は、ただ何も考えずぼさーっと立っているのと同義ではない!
そこに陥る前に、雷に打たれるほどのショックがあるはずです。

ということで、彼女に現在あるのは声のみずみずしさと安定した声のみ。
およそ、表現ということから遠すぎます。
声のみずみずしさと安定した声がある、ということだけでもすごいことですが、
それに安住して、さらに高みを目指さないとは、なんと怠惰なことか!
彼女がこの声で、なにがしかのきちんとした表現を志してくれていたなら、
もっともっといい公演になったはずなのに、と残念でなりません。

それに引き換え、今日のリチトラは、本当に演技も光っています。
この人は、のると結構演技も上手。
オペラにはアリアのほかに、裏momentsとも呼べる、一つのアリアに匹敵するような
ドラマティックな短いフレーズがあって、
(例えば、『椿姫』の”私を愛してね、アルフレード”とか、
『蝶々夫人』で、蝶々夫人とスズキの二重唱に入る前の”そして彼は私を愛している!”など)
そういうところで歌手がいい歌唱を聴かせると、拍手が出たりすることがあり、
こういう拍手ができるフレキシブルさと土壌があるオペラハウスが私は好きです。
メトは拍手のタイミングが早いとか、作品を知らないのか!と、小馬鹿にされたりしてますが、
その後に続くのがオケが弱音もしくはソロで演奏する個所(『オテッロ』の二重唱の後など)
は別として、いや、別にそんな場合でも、感動したり、素晴らしいと思ったなら、
拍手くらいしてもいいじゃないの、と思う。
今日は、リッカルドが ”永久に君を失えば Ma se m'e forza perderit "の後、
仮面舞踏会が催されている部屋に舞台が転換する直前に歌う、
Si, rivederti, Amelia
E nella tua belta, 
Anche una volta l'anima
D'amor mi brillera
(アメリア、もう一度君に会おう。君の美しさに、私の心はもう一度愛に輝くのだ。)
のところで、オケの演奏が続く中、リチトラの素晴らしい熱唱に思わず観客から拍手。

最後の死に際もたくみに演じ、私はこの『仮面舞踏会』、実は感動的な上演がむずかしい
手ごわい作品と見ているのですが、実演で見た中では、一番説得力あるリッカルド像を
今日のリチトラは描き出していたと思います。

ブライスのウルリカは、相変わらず巧み。
ただ、彼女の声は特にオペラハウスの中で聴くと、高音がぴーんとした音ながらも、
どことなく、温かい人間らしい響きがあるので、
このプロダクションのウルリカは割と品のよいウルリカ像なので、そう違和感はないですが、
時に他のプロダクションで見られる化け物・魔女系のウルリカ、
その路線で演じられるアズチェーナ(『トロヴァトーレ』)を歌ったときには、
どうかな?と思います。
彼女は化け物系より、コメディ(三部作の『ジャンニ・スキッキ』、『ファルスタッフ』)、
もしくは三部作の『修道女アンジェリカ』のPrincipessaのような、
本当は悪い人ではないが、ゆえあって冷たい、みたいな役が合っているような気がします。

オスカル役のサラは、第一ランに比べると、だいぶ良くなっていました。
特に歌のリズムの正確さでは今日はだんとつだったかもしれません。
ただ、彼女は声自体があまり魅力的ではないし、また高音が少し不安定
(音程ではなく、響きそのものが)なので、一級のオスカルというには躊躇します。

今日のレポは時系列順ではなく、キャスト別に追ってしまったので、
ここで”今日のオペラヘッドたち”をまとめて紹介。

まず、最初のインターミッション、
ベルモント・ルームでテーブルがご一緒になった老齢の男性。
”リチトラが今日は頑張ってるので聴かす公演になっている”ということで意見が一致。
彼はワグネリアンの為、油断をするとすぐに話題がワーグナー作品に行ってしまうのですが、
そんななか、今シーズンの『トリスタン』の話になりました。
彼は3回見に行ったので、”それはもうひどかった!”というマクマスター
そして”彼よりは良かった”というリーマン(それも、ヴォイトがおなかを壊して、
幕の途中からベアードに代わった日)
、そして、最終日のヘップナー
という、3人のトリスタンを聞けたそうです。
彼がライブ・イン・HDで歌ったスミスを聴いていないので、彼についてどう思ったのか
聴けなかったのが残念。
ヴォイトに関しては、最後の公演が一番良く、やっと聴きたいレベルの歌になっていたが、
他の回は、大人しすぎる、とのご意見でした。
また、以前は、このプロダクション、薬をのむところどころか、
二重唱の場面でも『パンチdeデート』(それも正真正銘のピンク、、)だったそうで、
こちらはあまりの不評ぶりに、今年から普通に青になっていた、ということでした。
あの薬を飲むシーンだけでもきつい!と思ったのに、二重唱でしかもピンク、、ありえん。

やっとワーグナーの話から抜け出し、シーズン回顧モードに入り始めた私たちは、
次に『ルチア』の話。
総合的には良い公演だったが、惜しむらくはゲルプ氏の作戦なのか(←おじいさんの言葉)、
デッセイの演技が熱すぎた。彼の意見では、ベル・カントには、歌そのもので
感情を表現する、というスタイルがあるのであって、熱い演技は不要!とのことでした。
私も基本的にはその意見に賛成なのですが(なのでデヴィーアが好きである)、
デッセイのあの熱い演技を歌に組みあわせたところはなかなかそれはそれで面白い、
という気持ちもあります。
非難の的であった、カメラマンや幽霊を登場させたりする場面、
あれはそれほど悪くない、というご意見でした。

『ピーター・グライムズ』
いい作品だが、ある意味、ブリテンという作曲家の置かれていた
閉塞していた状況がわかる作品、とも。
つまり、ワーグナーに比べると(また、そこに返るんですね、、)、
国民性、本人の気質、はたまた周りの環境もあって、つきぬけきれていない、と。
この方は、『ピーター・グライムズ』は本来もっとホモ・セクシュアリティを追求した作品に
なっていたはず(例えば、弟子とピーターの関係)と考えていて、
もしブリテンがワーグナーだったら、もっと恐れずに、そのゲイとして思うところを炸裂させたはずだ、と。
(ちなみにブリテンは、世界初演で『ピーター・グライムズ』の表題役を歌った
ピアーズと同性愛関係にあった。
というよりも、二人が中心になってこの作品を作り上げていった、といった方がよい。)
その、ブリテンがワーグナーだったらという仮定もオペラヘッドらしく、
そんな無茶な仮定、、などと口をはさめる余地もなかったのはいうまでもありません。

二度目のインターミッションでは、チリからいらっしゃった弁護士のご夫妻とおしゃべり。
結婚20周年のアニバーサリー旅行で、NYへ。
記念にメトの公演をご覧になるとは、素敵です。

そして、最終幕開始まで隣の座席のペルー出身、NY在住の同年代の男性と会話。
同業者なこともあって、話に花が咲く。
やや出遅れてチケットを取ったため、離れ離れの座席で
お母様と鑑賞していらっしゃいましたが、お母様、本人ともにリチトラの大ファン。
というのも、やはり2002年にお母様とメトに鑑賞に来た際、パヴァロッティが歌うはずだった『トスカ』で、
パヴァロッティがキャンセル。がっくり来たところに代役で入ったのがリチトラ。
このときの彼の歌唱は今でも語り草になっているほど素晴らしく、
その時以来、彼の大ファンなんだそうです。
今好きなテノールの話になって、フローレスの名前が出たので、
”私も大好き!”と言ったところ、”彼はペルーの出身だよ!”と嬉しそう。
そりゃ、私も日本からあんな素晴らしい歌手が出たなら自慢です。
”彼は今世界で一番だと思う!”と言ったら、”えっ!リチトラよりも?”と残念そう。
そうそう、彼はリチトラ・ファンだったんでした。
終演後、お母様と腕を組んでオペラハウスを出られる姿が微笑ましく、
オペラハウスは、各人それぞれの思いと思い出が溢れる場所であることを実感した夜でした。

Salvatore Licitra (Gustavo III/Riccardo)
Angela M. Brown (Amelia)
Dmitri Hvorostovsky (Captain Anckarstrom/Renato)
Stephanie Blythe (Ulrica Arfvidsson)
Ofelia Sala (Oscar)
Hao Jiang Tian (Count Ribbing/Samuel)
Jeffrey Wells (Count de Horn/Tom)
David Won (Christiano/Silvano)
Conductor: Gianandrea Noseda
Production: Piero Faggioni
Dr Circ A Even
ON

***ヴェルディ 仮面舞踏会 Verdi Un Ballo in Maschera***

Sirius: UN BALLO IN MASCHERA (Wed, Apr 16, 2008)

2008-04-16 | メト on Sirius
今日の私が昨日(4/15)のキーロフ・バレエの公演のレポにてんてこ舞いになっていると思ったあなた!
読みが甘い。
タイピングのための両手と早く思い出さないとすぐに風化していく記憶力を一生懸命呼び起さん!と、
頭は忙しくて働いていても、どっこい両耳は空いているのです。
というわけで、今日も衛星ラジオ放送シリウス鑑賞会、行きます!

昨12月(12/1712/21の生の舞台鑑賞レポはこちら)の第一ランから約四ヶ月ぶりの
『仮面舞踏会』第二ラン。

アメーリア役がクライダーからアンジェラ・ブラウンに代わった以外は主役キャスト、
指揮者共に第一ランと同じ。

特にリチトラのグスタヴォ3世(一般的にはボストン版での役名で、リッカルドと呼ばれることが多いが、
メトの現プロダクションではスウェーデンを舞台にした版を採用しているのでグスタフ三世)については、
かなり第一ランでの出来がひどかったのですが、一応、”風邪”という説明で済まされてしまったので、
今日はそこのあたりもしっかり確認したいと思います。
4ヶ月も風邪ひきが続くわけはないですから。

まず、今日の演奏でとにかくびっくり仰天させられたのはノセダ氏の指揮。
シーズン・プレミアにあたる12/17の公演では、オケがそれこそ歌手を無視した大爆音ながら、
これはこれで、なかなか面白い演奏で、私はおおいに楽しませてもらったのですが、
その初日が批評家連からオケの音がでかすぎる!と叩かれ、迷いが生じたか、
日に日にアプローチを変え、第一ランはとにかく大迷走状態のまま終わって行った経緯があります。
4ヶ月も間があったので、少し気分も落ち着いたかしら?と思いきや、今日のこの演奏は!!??
、、愕然。

遅い!!!もんのすっごく遅~~い!!
っていうか、これ、歌手の方たち、辛いだろうなあ、、。

特にホロストフスキーが歌うレナートのアリアは、なんでそこまで、、とあきれる位、
まるでゴムをべろんべろんになるまで引き延ばしたくらいにスロー・テンポ。
この演奏にちゃんとついて歌っただけでも、ホロストフスキーは表彰ものだというのに、
(実際、曲の頭の方では少しオケと音のタイミングがはまっていない個所が二、三。
しかし、ホロストフスキーのせいでないことはいうまでもない。
こんな遅いテンポで歌えるか!ですよ。)
その上に観客から大歓声を浴びていましたので、さすがです。
ただ、私個人的には、彼の歌はそんな小ざかしい作為的なことをしなくても、
いえ、むしろしない方が、この役では本当に素晴らしいものを聴かせてくれるので複雑な気分。
正直に言えば、その”伸びきったゴム”系の演奏に合わせて歌わなければいけなかった分、
そちらに神経が向かってしまったように思え、彼のレナートはこんなもんじゃありませんぜ!
と言いたくなりました。

今週末の土曜の夜の公演で、この第二ランの『仮面舞踏会』を観にいく予定にしておりますので、
その時にこんな”伸びゴム”系の演奏が聴こえてきたらば、私は平土間まで降りて行って、
ノセダ氏を後ろから羽交い絞めにしてしまうことでしょう。
お願いですから、初日を思い出し、きびきびと行っていただきたい。代わりに爆音にしてもいいから。

アメーリア役のアンジェラ・ブラウンは、11月の『アイーダ』で怖いくらいの
大根役者ぶりを発揮していたソプラノですが、今日は衛星ラジオということで音声のみ。
音だけではさすがに、演技の大根っぷりが観察できないのが残念。
あの演技力で、本当にアメーリアの不倫の恋に悩むせつない女心が演じきれるのか、
私は今から非常に不安ではありますが、これは土曜の楽しみにとっておくことといたしましょう。
声はさすがに、第一ランのクライダーに比べると、年齢が若いせいもあってか、
みずみずしいし、高音も全く危なげがなく、安心して聞ける。
ただ、その安心できすぎてしまうところが彼女の歌唱の難点にもなっているかも。
もう一歩、歌唱にスリリングさが加わればなおいいのですが、、。

Salaのオスカルに関しては、若干第一ランよりも聞けるようになっているように思いますが、
それでも、ぜひ他の歌手に配役を変えてほしい、と思う気持ちはほとんど変わりません。
このオスカル役、いい歌手が歌うと、ぴりっと公演がひきしまる大事な役なんですが、、。

逆にブライスは、さすが、いつもどおりの安定したウルリカで観客を湧かせました。

そして、私的には今日一番の注目どころだったリチトラ。
結論。この役を歌うのはこのシーズン最後にしましょう。
で、この役を歌うのをやめるだけでことが済めばいいのですが、他にも数点気になる点がありました。

まず、彼の声質には独特のひょろん!とした響きがあるのですが、
コンディションがいいときの彼は、そのひょろんとした音に、がっちりとした背骨を加えることが出来て、
そのコンビネーションが個性的な魅力になっているように思うのですが、
この声の背骨がないときの彼は、単にへろへろに聴こえてしまう。
で、第一ランの際は、まさにその通りでへろへろだったわけですが、
風邪をひいたいた、ということで、そのせいなのかな?と思っていました。
しかし、今日の歌唱を聴いてそうではないんじゃないか?という気が。
もっと慢性的な声の変化が起こっているようにも感じられ、正直、非常に心配です。

で、そのことと関係があるかも知れないのですが、この役に必要なレンジの声が出ていない。
時に、通例歌われる音から一オクターブ下げた音に変えて歌っている音が確認され、
(舟歌では、同じフレーズの繰り返しがありますが、一つ目を通例歌われる音で歌って失敗。
繰り返しの時には下げて歌っていました。)
彼が今まで得意にしてきたレパートリーのテノール・パートに必要とされるレンジを歌うには厳しいくらいに
彼の声が下がり始めているのかな?という懸念も起きました。

そのユニークさを絶賛した彼の『道化師』ですが、もしかすると、
このカニオあたりの役は、彼の声には重いのも事実であり、
これらの役に挑戦したのが声を消耗させる結果になったのではないかと心配です。

何年か前のメトでの『アイーダ』のラダメスでは、ものすごくみずみずしい声を聞かせていた彼なので、
これが慢性的な変化でないことを祈るばかりです。

(なぜか、今シーズンの『仮面舞踏会』、
ホロストフスキーやリチトラといった有名歌手が出演しているにもかかわらず、
深刻な写真不足をきたしております。
よって、写真は2005年シーズンでアメリアを歌ったデボラ・ヴォイト。
衣装やセットは現在と同じです。)


Salvatore Licitra (Gustavo III/Riccardo)
Angela M. Brown (Amelia)
Dmitri Hvorostovsky (Captain Anckarstrom/Renato)
Stephanie Blythe (Ulrica Arfvidsson)
Ofelia Sala (Oscar)
Hao Jiang Tian (Count Ribbing/Samuel)
N/A (Count de Horn/Tom)
Conductor: Gianandrea Noseda
Production: Piero Faggioni
ON

***ヴェルディ 仮面舞踏会 Verdi Un Ballo in Maschera***

KIROV BALLET (Tue, Apr 15, 2008)

2008-04-15 | バレエ
約三週間にわたるキーロフ・バレエのNY公演もとうとう最終週を迎えてしまいました。
今週はフォーサイス・プログラムとバランシン・プログラム。
古典もののプログラムで始まったこのNY公演ですが、
フォーサイスはNY生まれ、バランシンもNYシティ・バレエと縁が深いということで、
今週のプログラムはキーロフからのちょっとしたNYへのトリビュートともなっています。

そして私が鑑賞する公演は、今日のフォーサイス・プログラムが最後。
すべて、80年代から90年代に初演されたコンテンポラリーもので構成されています。
やっとダンサーの名前と顔が一致し始めたところだったのに、これでまたしばらく
ダンサーの皆さんとお会いできないのだと思うと万感の思い。
しかし、今日の公演は、私のバレエの師匠のアイドル、コールプが出演するわ、
今回のNY公演で私がコールプと同じくらい、いや、もしかするとそれ以上に
盛り上がってしまった(もちろん、師匠には言えない。)ファジェーエフ
も出演するわ、で、
とにかくしっかりと、その踊りを瞼に焼き付けなければ、と今日もかなり必死です。


 STEPTEXT

フォーサイスの作品は英語での語感を大切にした、和訳しにくいタイトルばかりなので、
そのまま英題で行きます。
(そもそも和訳があるのか、ない場合、カタカナでの標準表記もよく知らないゆえ。)

バッハのパルティータ第二番ニ短調 BWV1004の”シャコンヌ”が用いられているこの作品。
今日はちなみにオケの演奏はなく、すべて録音された音楽にのせて踊られる。
プレイビルには仰々しく、ヴァイオリン演奏 by ナタン・ミルシテインと書かれているが、
ものすごいサンプリングの嵐で、これじゃ、ミルシテインだろうが、ハイフェッツだろうが、
誰だろうが関係なーい!!と思うのは私だけか?

一フレーズ、いや時には数音だけで音楽が止まって空白の時間があって、
また音楽が始まって、、という繰り返しが何回かあってから、
少し長めの演奏があって、またストップ、という感じで、
この作品は静と動の対比が中心軸にあります。
とくに動に入るときが、一気にアクセルをぶおん、と吹かす感じ。
また動モードの時の振りがかなり速いです。
ということで、この作品の良さを引き出すには、動モードをアクセル全開で踊れるダンサーが
必要不可欠だと感じました。

この動の部分でのリズムを的確に踊りきっていたのはヴィシニョーワが一番。
とにかく彼女の踊りのキレは、他の男性ダンサー3人に囲まれても群を抜いていて、
ほとんど全編を通して、音楽のリズムから一度も遅れずに正確に踊りぬいていたのはさすが。
彼女の身体能力の高さが際立ったパフォーマンスとなりました。
ただ彼女の踊りを持ってしても、この作品がおそらく求めているようなスタイルの
激しさは出切っていない気もします。
やや気の毒だったのは、動の部分の表現がのって、火の玉のような踊りになりかけると、
それはそれで、サポート、特にセルゲーエフがついていけてなかった点。
彼は、一度など、中腰になって構えた姿勢の腕に、彼女が飛び込んで来た瞬間
バランスを失って、あわや後ろ向けにひっくり返りそうだったほど。

作品のスタイルを一番追求していたのはコールプでしょうか?
彼の踊りは、4/9のそれとは違って、ほとんど雑とも見えるほど。
しかし、4/9にはあんな純愛アリを演じ踊れた人ですから、この一見乱暴と見える動きも故意としか思えません。
確かに、この作品のみならず、今日の公演全作品を通していえるのは、
キーロフが踊るフォーサイスは少し、綺麗すぎてこじんまりして見える、ということで、
その中で、このコールプのアプローチはそれを打開する可能性のある、
たいへん興味深いものではあるのですが、
いかんせん、他のダンサーたちが彼ほどには突き抜けていないので、下手をすると、
比較として彼が単に雑に踊っているようにしか見えなくなる瞬間があるのは残念。
ダンサーたちの間でこの作品に対する解釈とアプローチの仕方にややずれがあるのかな?と
いう後味が残ってしまったパフォーマンスでもありました。

一番サポートの面でヴィシニョーワと息が合っていた(ということは、彼らのアプローチが
比較的近い、ということになるのかもしれませんが)のは、ターザン男、ロブーヒン
最後のカーテン・コールでも、ヴィシニョーワが唯一、”やったわね!”という感じで
視線を投げていた相手がロブーヒンでした。

コールプは、ちらちらとすごいダンサーであるという片鱗が見えるものの、
”そう簡単には全部見せないよ~~~ん!”とばかりに、私の見た公演では、
まだまだ彼の実力はこんなもんじゃないだろう、、という不満がありました。
実際、師匠から送っていただいたyou tubeの映像の数々と比べると、その感を強くします。
そんなにじらすんなら、ファジェーエフに本当になびいちゃうわよ!と思う私なのでした。
師匠、すみません。
次回彼を観れることがあったなら、その時こそは彼のベスト・オブ・ベストを見たい!!


 APPROXIMATE SONATA

曲はトム・ウィレムズのもの。トリッキー(注:マッシブ・アタックの初期のメンバーで、
トリップ・ホップのジャンルを確立した人)の曲『パンプキン』もフィーチャーされています。
ニュー・ヨーク・サン紙は、この作品がこの日の公演で最もつまらなかった一品、と
こきおろしていますが、私は全然そうは思いませんでした。

まず、最初からすごいインパクト。
イワーノフが顔をくちゃくちゃにしながら、まるで化け物のような歩みで登場。
サイ・ファイ映画、もしくはホラー映画で、段々人間が顔をくちゃくちゃにしながら、
別の星からの生物、もしくはモンスターに変身していく過程が描写されることがありますが、
それに近い。
まるで顔の筋肉が麻痺しているような、すごい動き。
そう、この場面で踊るダンサーには、体の筋肉はもちろんのこと、
顔面でも、ものすごい筋肉の動きを要するのです。
イワーノフ、その状態でだんだん舞台の前面に少しずつ歩み寄ってくるので、観客も思わずしのび笑い。
いや、笑ってはいけないんでしょうが、あまりのインパクトについ、、。
私も思わず下を向いて笑ってしまったです。

しかし、ふっと、その麻痺がとれて、手がなめらかに動きだす、、
その自由に体を動かせる、という思いがけない喜びをダンサーが表現するところから、
私は一気にこの作品に引き込まれてしまいました。

そして、さらに仰天はその後、すぐに登場する女性ダンサー、シェシーナ。
今日の公演まで、多分一度もお目にかかっていないと思うのですが、
この体型は、、、!!??
本当にキーロフのダンサーなんだろうか、、。
なんだか遠目に見ても、歳をだいぶ食っているように見えるし、
それよりも何よりも、このピーマンのようなお尻とたぷたぷした太ももはどうでしょう??
偉そうに人の体型のことを言えるような私ではありませんが、しかし、私はバレエを、
それも天下のキーロフのバレエを見に来ているのであって、そこでこんな強烈なお尻を
目にすることになるとは、、。
で、そんな体型であるからして、当然踊りも重たい。
あまりのショックに、最初は座席で固まっていた私ですが、ふと気付いたのです。
そういえば、このシェシーナとコンビで踊っているイワーノフも、
わざとなのか、体育の先生のようなだっさい衣装を着て、他のダンサーと比べると、
なんだか鈍重な感じ、、。
これは、もしかして、わざと、、、?

と思っているうちに、次のペア、ジ・ヨン(と読むのでしょうか?)とポポウが登場。
二人ともすらーっとしていて安心。ああ、これでこそキーロフだわ。
しかし、ジ・ヨン、針金のように細いのはいいとしても、骨盤が異様に目立つ体型で、
何だかじっと見ていると、体がムズムズっとしてきたのは私だけでしょうか?
また、彼女は後に踊った他のダンサーに比べると、少し股関節が固いのか、動きが若干不自由な感じがしました。

最初のインパクトを切り抜けて、彼らの踊りを見ているうちに、
気持ちが落ち着いたのと同時に、少しテンションが下がったのも事実。
しかし!ここからこの作品は上に向かっていくのです。

3組目のヤーナ・セリーナとピモノフ。セリーナが本当に素晴らしい。
この彼女の美しい動きを見ていると、あの1組目の強烈ペア、シェシーナとイワーノフと、
まさに対極に置くためのこの第三組であることがわかります。
セリーナは、その完璧な動きのなかにもどこか優雅な持ち味があってそれが素敵。
私は彼女が舞台にいる間、目が釘付けになりました。
よって、ピモノフの踊りがどんなだったか、全く覚えていません、、。



そして、第四組目のコンダウーロワとジュージン。コンダウーロワは
大柄なゆえのスケールの大きさが、こういったコンテものではとてもよく生きています。
彼女はもしかしたら、コンテの方がいいくらいかもしれません。
しかし、彼女の足はすごい筋肉ですね、、。古典ものではタイツで見えませんでしたが、
こうやって生足を見ると全脚筋肉!という感じでびっくり。
セリーナのそれに比べると、少し男性的な雰囲気すら漂う踊りではありますが、
踊りにほとんど厳しさのようなものまで漂っていて、見事。
こうやって順に追ってみると、まるで、同じダンスが段々と進化していく
その過程を追っているようで、大変面白い。
また、拡大解釈すれば、二人の人間の関係性の進歩を表現しているようでもあり。
トライアル&エラーを繰り返して、成長していく二人、、というような。
最初はぎこちなく、だんだんよそよそしくはありながら、それでも二人は近づき、
やがて完全にお互いを理解し、その先には厳しいまでに研ぎ澄まされた関係が完成する、、。

最後に、また衝撃の一組目、シェシーナとイワーノフが出てきて、
ダンスの練習をし始め、”いやいや、そうじゃない”とストップしたり試行錯誤を繰り返す場面があるのですが、それを見ると、余計、そのようなストーリーを連想しました。

もし、このストーリー性を構築するために組んだキャストであるとすれば、
最高のキャスティング。
というか、このメンバーでなければ、このストーリーは絶対に見えてこない。
そうでなく、たまたまのキャスティングであるならば、、、
うーん、シェシーナ。こんな体型の人がキーロフ・バレエにいるということが衝撃的です。
ということで、この演目では、いつもこのように一組目に
少しださめな二人をキャスティングするのか、確かめたい気持ちでいっぱいにさせられました。


 THE VERTIGINOUS THRILL OF EXACTITUDE

これまでの二作品が非常に研ぎ澄まされた振りで、
ダンサーの体型と踊りのスキルを暴露する恐ろしい作品であるとするならば
(で、音楽もそれを反映している、、)、
この作品は、シューベルトの交響曲第9番を使用、
振り付けも打って変わって何も考えずに見れる美しさで、とても楽しい作品。
フォーサイスの振り付けは、3人が舞台にいる時のそれぞれのダンサーの扱い方に
ユニークさがあるように感じましたが、この作品ではそれが特によく見られるように思います。
もう少し行き過ぎると、ばらばらに見え過ぎるぎりぎりの線でとどめた
三人三様に違った腕の使い方やらは、大変魅力的でした。
ああ、こんな振り付けもフォーサイスは出来るんだなあ、と、その間口の広さを確認。



しかし、なんといっても今日のこの演目の魅力はダンサー全員の間のケミストリー。
全員がとにかく楽しそうに踊っていて、しかも、本当によく一緒に踊っている相手を見ている。
今日の全演目の中で、最もオーガニックな印象を受けたのがこの演目でした。

特に、男性陣、ファジェーエフとサラファーノフの素晴らしさは特筆もの。
4/6の『薔薇の精』ではユニ・セックスとも違う、そもそも性の存在そのものすら
感じさせない不気味な子供版薔薇の精を踊り演じたサラファーノフが、
今日は幕が上がった瞬間から、持ち場にぴったりはまった若々しい満面の笑みで、
踊るのが楽しくてしょうがない!
といった表情。しかも、その笑みが作品中ずっと絶えることはありませんでした。
そして、ファジェーエフは、なんといったらいいのでしょう、、。
さりげなくサラファーノフをひっぱりつつも、ずっと彼のことを目で追いながら、
合わせるところは合わせていて、それでいて、自分が出すぎることは決してなく、
あくまでアンサンブルを大切にしています。
もう、まさに素敵なお兄様!という感じ。私にもこんなお兄さんが欲しいー!!
サラファーノフからのファジェーエフへの信頼もひしひしと感じられ、
実の兄弟のような素晴らしいコンビネーションでした。

二人がユニゾン(バレエでもユニゾンというのでしょうか?)で踊る個所は、
もう、あまりの美しさに見とれっぱなし。
二人のジャンプやポージングがまた本当に綺麗なんです。。
本当に申し訳なく、私のボキャ貧ではこれ以上説明のしようがないのですが、
それくらい、素晴らしかったということで、、。
サラファーノフは、実際の公演で見た中でも最高の、
今日のような踊りこそは、私が彼をyoutubeなんかで見て楽しみにしていた、
彼らしい踊りそのものでした。

女性陣も全員きちんとこなすべき仕事をこなしていて、さらに、嬉しかったのは、
ずっと初日から降板続きだったノーヴィコワが、この公演から復活、
遅れを取り戻さん!とばかりに、気合の入った踊りを披露してくれたこと。

全員から漂ってくるポジティブな”気”のようなものに浸っているだけで癒される、
というような大変魅力的なパフォーマンスでした。大満足。
ファジェーエフお兄様、またいつかお目にかかれる日を楽しみにしております。

さて、In the Middle,~ の前のインターミッションで、
お隣の、眼鏡をかけて伊達ひげを生やした同年齢くらいの男性と会話。
この男性はコンテものがお好みらしく、今回のキーロフの公演も古典ものは一つも見てなくて、
このフォーサイス・プロとバランシン・プロを鑑賞するのみだそう。
フォーサイス・カンパニーが踊るフォーサイスものは、もっとfluid(滑らか)で、
エネルギーとパワーに溢れているけれど、それに比べると、やはりキーロフが踊るフォーサイスものは、
スタイルのせいもあって、ややお行儀がよいというのか、
少し堅苦しい感じがある、という印象を持たれたそうです。
とにかく、今日は、In the Middle, ~を最も楽しみにして来られたようですが、
メインを踊ることになったテリョーシキナの名前を聞いたことがない、とおっしゃったので、
”彼女の技術は素晴らしいですよ!”と、私も数週間前までは全く知らなかったくせに、
太鼓判を押しておきました。

さて。そういえば、Approximate Sonataのピーマン尻のダンサーについて尋ねるなら、
彼なんかいいかも、、、と、この作品はいつもこんな風に、
最初の組に衝撃のダンサーを持ってくるものなのか?と尋ねると、
彼も、この作品は初めて見たそうで、
”ボクも同じことを疑問に思ってたんだ!彼女、年増だし、太くて踊りも重たかったもんね!”
やっぱり、みんなそう思ってたんですね。

やがて、彼の逆隣りの席に、ややお歳を召したふくよか気味の、
バレトマンと思しき女性が戻って来たのですが、
なんとしたことか、髭面の彼は、無邪気にも、彼女にも同じ質問を、、!!

”あの、シェシーナというダンサー、年増で、太ってますけど、
あの作品では、わざとそういうダンサーを起用するものなんですか?”

同じく”年増”で、”太り”気味のその女性は、憮然とした表情で、
”別に。私は彼女、年増とも太っているとも思わなかったけど!”とプイ!
あっちゃー。聞いちゃいかんだろう、そんなどんぴしゃな人に、、と思ったけれど、時すでに遅し。
でも、私の疑問のために、そんな爆弾を発してくださったのだから、髭面の男性に感謝。
ということで、もしその彼女の発言が正しいとすれば、
わざとしたキャスティングではないということ、、。
恐るべし、シェシーナ!なのでした。


 IN THE MIDDLE, SOMEWHAT ELEVATED

もともと予定されていたイリーナ・ゴルプが欠場、ノヴィコーワもその前の公演まで
降板続き、ということで、どんなメンバーで踊られることになるのか、
やきもきさせられたIn the Middle,~ですが、
ノヴィコーワが先にも書いたとおり今公演から復帰のため予定通り出演、
そして、ゴルプの代わりに、強力な技術で定評があるテリョーシキナ姉さんが入るという幸運。

まず、悲しいくらいの80年代的なこの音楽に、まさにその頃に中高生時代を過ごした
世代の私としては、少し赤面してしまうのですが、しかし、この作品は、
最初の二作品と似たややストイックな雰囲気を醸しだしながらも、
それらよりはずっとThe Vertiginous~寄りの、見ているだけでも十分楽しめる世界をつくりあげていて、
そのバランスが非常にいいな、と思いました。
エイティーズしてますが名作!



技術のしっかりしたテリョーシキナをはじめとするダンサーたちが踊っているので、
悪かろうはずがないのですが、ただ、敢えていうなら、髭面のお兄さんが言っていたことに
つながっていくのかもしれませんが、少しスタイルの違和感というのはあるかもしれません。

この作品のみならず、フォーサイスの作品は静と動の切り替えというのが、
一番振り付けの中で大事なファクターになっているように思うのですが、
その動が止まって静に入るところ、ここはもっとぴしっ!!としている方が私は
この作品らしいのかな、と思います。
このIn the Middle, ~の映像を見た事があるのは、ギエムのそれだけですが、
彼女の踊りはまさにその静と動のギアの入れ替えがダイナミックで、
これこそ!と思わされるのですが、キーロフのダンサーたちは、
そこまでぱきぱきっとした切り替えではなく、もう少しゆるやかな
じわーっとした切り替えになっています。たおやか、と言ってもいいのかもしれませんが、
これがフォーサイス作品とうまくミックスするか、と聞かれれば、
ちょっと躊躇するものがあります。
せっかく振り付けに備わっているスピード感が少し減速してしまうような印象を受けました。

また、ポーズをとった端々に、どうしても古典ものを連想させる雰囲気があり、
たとえば、テリョーシキナがIn the Middle, ~の中でとったポーズの一つは、
まさに『ドン・キ』!という感じでした。

どんな作品をやっても、ア・ラ・キーロフになってしまう、
その強い個性が、このカンパニーの良いところでもあり、またネックともなるのかもしれません。
しかし、このスタイルの違和感を除いては、非常に丁寧な、技術面では申し分のない
パフォーマンスだったことは強調しておきたいと思います。
(私は先にも書いたとおり、他のバレエ団が踊るこの作品を見たわけではありませんが、
作品の良さが若干損なわれている、と感じさせること自体が
スタイルの違和感のせいではないか、と考えさせる理由になっています。)

髭面のお兄さんも、公演後、
”テリョーシキナ、いいダンサーだね。
名前を覚えて、今日家に帰ったら早速googleしてみよっと。”とじっとプレイビルとにらめっこ。
続いてピーマン尻のダンサー、シェシーナの名前を指で弾きつつ一言。
”それから、彼女。ボクにもバレエが出来るんじゃないか、って気にさせてくれたもんなあ。”
確かに(笑)。


Kirov Ballet Forsythe Program

STEPTEXT
Diana Vishneva, Igor Kolb,
Mikhail Lobukhin, Alexander Sergeev

APPROXIMATE SONATA
Elena Sheshina, Andrey Ivanov, Ryu Ji Yeon, Sergey Popov,
Yana Selina, Anton Pimonov, Ekaterina Kondaurova, Maxim Zyuzin

THE VERTIGINOUS THRILL OF EXACTITUDE
Elena Androsova, Olesia Novikova replacing Nadezhda Gonchar, Ekaterina Osmolkina,
Leonid Sarafanov, Andrian Fadeev

IN THE MIDDLE, SOMEWHAT ELEVATED
Victoria Tereshkina, Ekaterina Kondaurova, Olesia Novikova, Elena Sheshina,
Yana Selina, Ksenia Dubrovina,
Mikhail Lobukhin, Alexander Sergeev, Anton Pimonov

Orch J Even
New York City Center

***キーロフ・バレエ Kirov Ballet***