Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

2007年 夏の予定

2007-06-29 | お知らせ・その他
メトでのオペラのシーズンが終わってしまったショックで頭がおかしくなってしまい、お金もないのに買い物にてストレス発散。

巷は夏のセールで賑わっているというのに、私の『買い物』とは、
服や靴やバッグでなく、いろいろな舞台鑑賞のチケット。ほんと、好きなんだから。
オペラがないこの期間を利用して、未知の世界へ!!と、
普段あまり慣れ親しみのないものまであれこれ手を出してみました。

まずバレエがその第一弾だったのですが、すっかりはまってしまったありさまは、今までの記事にあるとおり。
ABTのNYシーズン最後の週に、
私のバレエ鑑賞のメンターかつ東京時代からのお友達がNYに出張で来れるかも知れない!ということで、

ABTの『シンデレラ』が早くも候補リストに。



頭の写真のゴメス&ケント組を見れるためには、
今ウェイティング待ちになっているお友達のフライトが確定せねばならない。
ただいま、二人で天に祈っているところ。


7月以降は、リンカーン・センター・フェスティバルから、いくつか。

まず、7月11日のContemporary Legend Theatre of Taiwan による、
『The Tipsy Concubine』(原題:『貴妃醉酒』または『百花亭』)と
『Farewell My Concubine』(原題:『覇王別姫』)の京劇二本立て。



ウェイ・ハイ・ミンさんという、名女優として誉れ高いらしい方が舞台に立つそうなので、とても楽しみ。

そして、7月16日は我らが日本からのフェスティバル参加者、平成中村座による歌舞伎、『連獅子』。



歌舞伎は日本のオペラですからね。見なくてどうする!
あれ?そう考えると、京劇は中国のオペラ。。
オペラ三昧になってる。。

7月21日は、キーロフ・オペラのリング・サイクルから、
個別のチケットが放出されたので、すかさず、『神々の黄昏』をゲット!
メトの今や音楽監督代理となっているゲルギエフ(あまり知られていない事実ですが。。)が、
自兵、キーロフ・オペラを連れてNYで引越し公演。
こういう引越し公演オペラは、メトやNYCOがあるせい(というか、おかげ)で
逆にNYにはあまり来てくれないので、本当に楽しみ!
オネーギンでキャンセルをかまされたゲルギエフですが、今回はお願いします。本当に。



しかし、なぜワーグナーを??

そして、7月28日は、Shun Wei Dance Artsによる、『Second Visit to the Empress』(原題:『二進宮』)。



またまた京劇。この演目は、京劇の中でももっとも音楽的に優れているといわれているとか。
そんなことを聞いてしまった以上は、もちろん行くでしょう!

気が付いたら、全部ある意味、オペラだった。。。



SWAN LAKE -ABT (Tues, June 26, 2007)

2007-06-26 | バレエ
今日は短足倶楽部(私が設立したダックスフントとその飼い主の会。現在会員は私一名。)により、
名誉会長に任命されたゴメス
(当然のことながら、本人は任命されたことを知らない。任命された理由はこちらを参照。)
とヴィシニョーワによる白鳥。

ダックスを飼っている、という事実だけで、もはやポイント高いのですが、
そんな贔屓目が必要ないほど、端正で美しい踊りを披露してくださったゴメス、さすがダックス王子。

ボッレをギリシャ彫刻にたとえる例を目にしますが、
それをいうならゴメスこそ彫刻っぽい。
舞台で見る限りでは、ボッレよりもさらにがっちりした感じで、
その存在感ともあいまって、舞台に登場した途端、思いました。”でかい。”
しかし、ゴメスの良いところは、その大きさが決して鈍重さを感じさせないところ。
どんな細かい動きでも、ものすごく細やかな神経を使っていて、折り目正しい。
例えば、第一幕の誕生日のパーティーの場面。
パ・ド・トロワが始まる前に椅子に着席するところの足裁きとその後の足の置き方、
常に王子であることを忘れず、とっても優雅。
また、その椅子が、私はなぜそんな位置にあるのかとっても気になったのですが、
舞台上手の、踊り手からかなり前方に飛び出た場所に、客席に向かって置かれているのでした。
つまり、パ・ド・トロワの間、王子はずっと着席しながら首はななめ後ろをむいたまま、という、
見ているだけでこちらまで辛くなってくるような体勢。
しかし、その首のつりそうな体勢のまま、顔には優雅な笑みを浮かべて、
じっと王子らしく着席していたのだから、すごい。

また、技を繰り出すときも、きっちりと端を合わせて折られた折り紙のような、気持ちよさ。
回転時の軸もしっかりしているし、回転が止まるときもだらだら終わらずに、すぱっと終わる。
もしこのゴメスに、なんらかの欠点らしきものが仮にあるとしたら、
あまりに踊りが端正すぎるところ、といえるかも知れません。

と、このように端正なお方なので、大きいから踊りががさつなのでは?という心配は無用のようです。
休憩時間中、女子のお化粧室で、前に立っていた少し年配の女性の二人連れの方も、
”ゴメスは体格が立派なので、この役、またヴィシニョーワの相手役はどうかしら?と思っていたけれど、
意外にも、とってもいいわね。”
とおっしゃっていました。

そう、その丁寧さが、ヴィシニョーワと二人で踊る際にはとてもいい方向に働いていて、
全体的には、ヴィシニョーワも心おきなく踊れているように見受けました。

このプロダクションのロートバルトは、真の悪魔の姿をさらしている時のKrauchenkaと、
舞踏会にオディールと登場する際の、人間の姿をしたRadestkyの二人でわけて演じられました。
この悪魔悪魔した側のロートバルトが黄色い衣装で出てくるのですが、あまりにもディズニーランディッシュなデザインで少し興ざめ。
実は悪魔が滅びてしまう最後といい、この真の姿系ロートバルトが結構熱演だっただけに、
この衣装デザインはもったいない。

数週間前に新演出で物議を醸しだしたABTの”眠れる森の美女”。
ものすごく悪評が高くて、その理由の一つとして、衣装とセットデザインの悪さが取りざたされていたのですが、
それとは対照的な、美しいスタンダードな演出、ということで、
この白鳥が引き合いに出されていたので、とっても楽しみにしていたのですが、
うーん、私は正直、セットデザイン、衣装、それから多分振付の一部も込みで、
このプロダクション、少し疑問が残りました。

まず、この白鳥のお話自体が持つ神秘的な雰囲気と、オデットと王子の悲恋の側面の二つには、
静粛な雰囲気の方が合っていると思うのですが、
特にロートバルト絡みのシーンで、
あまりにディズニーランド的な衣装や雰囲気、仕掛けが多く、(ということは、踊りもそう見えてしまう。。)
厳しく言うと少し子供っぽいのではないかと思いました。
確かにバレエと言えば誰もが白鳥を思い浮かべるくらいなので、
あらゆる層の観客に対応せねばならない、という現実的な理由があるのかも知れませんが、
元の話自体、大人な解釈にも十分耐えうる懐の大きさを持っていると思うので、
もっと大人な白鳥を見たいのだけどなー、と感じてしまいました。

そういう意味では、もっともワークしていたのが、
二幕の白鳥のシーン。
ここは、余計なものを全て排したのが功を奏して、
湖とその岸にある大きな岩のみというシンプルなセットをバックに
オデット、王子、群舞の踊りが本当に生きていました。

特にここのオデットと王子のデュエットは圧巻でした。
端正なサポートでゴメスが支える中、ヴィシニョーワが思いのままに技を繰り出し、
それはもうため息ものの美しさ。
しかし、私がヴィシニョーワに感激したのは、むしろ、途中のマイナーミスの部分でした。
ヴィシニョーワがゴメスの手を離して、両手をあげた状態で、
片足を後ろに上げる場面(すみません、またポーズの名前がわかりません。。)、
コンマ何秒の世界だと思われるのですが、ヴィシニョーワが完全にバランスを取る前に、
ゴメスの手が離れてしまったようで、
私のような素人が見ていると、いつも全ての動きが高度なうえに、
ほとんどノーミスのように見えるヴィシニョーワが、珍しく、
少しバランスを失いかけた場面がありました。
かなりバランスを欠いて右に左に動いてしまったので、いろいろ誤魔化す方法もあったかと思うのですが、
あえて彼女はその姿勢で歯を食いしばって持ちこたえたうえ、
さらにはそこからさらに背中の反り返りと上がっている足の角度を大きくするという根性のパフォーマンスでその場を乗り切り、
しかもその大きくした時点で、そのポーズをためて見せたのですから、すごい!

もちろん、失敗はないにこしたことはないのだけれど、
失敗したときこそ、パフォーマーとしての器量が問われるというもの。
この方の失敗に対する対処の仕方にはなみなみならぬ根性のようなものと、
そして、どんなことがあっても振りを犠牲にしない誠実さのようなものが感じられて、
私は感動を覚えました。
観客も失敗に落胆するどころか、彼女のど根性に大拍手。
失敗によっても何かを表現する舞台魂。すごい人です。

この場面が唯一の、傷と呼びたければ傷と言える以外は(そして、私はあえて呼ぶ気は全くないのですが)、
気が遠くなるほどの完璧さ。

今日はヴァイオリンのソロが音を外しまくりで、
金管のあとは弦ですか!と青筋が立ちそうになりましたが、
その弦の雑音(って、ソロが雑音になってしまうって、どういうことよ。。)が
ほとんど耳に入らなくなるほど、二人の踊りに引き込まれてしまいました。

ヴィシニョーワの素晴らしいところは、超絶技巧でものすごくクールに踊っているように見えるのに、
間違いなく演じている役の本質をきちんと観客に伝えている点。
だから、『ロミオとジュリエット』のジュリエットも、オデットも、オディールも、
漂っている雰囲気が違う。
そして、ゆっくりした繊細な踊りもさることながら、この幕でソロで踊るシーンでは、
ものすごく切れ味が鋭くて、なのに力強さもある重量戦車のような踊りを披露。
(ああ、映像は頭に浮かぶのに、ボキャ貧。。
その場で足のポジションをがんがん組みかえるのですが、
すごいパワフルで早いので、まるで地面にフォークをぶすぶすさしているような。)

当然のことながら、舞踏会のシーンでは、
火を噴く32回転のグランド・フェッテで、観客を興奮の坩堝にたたきこんでくださいました。
しかも、さきほどまでの可憐な様子はどこにもなく、
おほほほほ。。と高笑いがどこかから聞こえてきそうな、
だけど、表立ってはいたってクールに振舞うオディール。
こんな女の人、怖いです。

残念だったのは、舞踏会で、人間の姿で現れたロートバルト。
Radestkyといえば、『マノン』で、途中から怪我をしたスティーフェルの代役としてマノン兄を演じた方ですが、
このロートバルト役は少し彼には荷が重たかったか、
全く悪魔的な雰囲気が出せていなかった。
もっと、人間という仮の姿から滲み出る微妙な悪の香りを醸しだしてほしかったのだけれど。

王子がロートバルトのわなに落ちたことを悟り、
生きる望みを失ったオデットは、あの湖のそばの岩から身を投げます。
空には大きな月が。
そのオデットを追って続いて身を投げる王子。
この身投げのシーン、観客からは空中の動きしか見えず、
湖のセットのうしろにマットレスか何かがあって、
そこに二人はジャンプしているのですが、
ゴメスのジャンプが背中を反らせながら、あまりにも美しいポーズのまま
湖の向こうに消えていったのには、
観客から、”すごい!!”の声が。
端正で、慎重すぎるダックス王子ゴメスが、この公演で初めて見せた情熱的な跳躍に、
こんなことができるのなら、ぜひこの先この路線で行ってほしい!
と願う身勝手な短足倶楽部会員の私なのでした。
幕が降りはじめると、月の中に二人の姿がかすかに映っていました。
(かすかすぎて、気が付いていなかった人もいたようですが。。下をよく見てください!見えますね。)



さて、少し群舞の場面に触れておくと、
振付自体は、ものすごく複雑で、幾何学的なフォーメーションが組まれていて、
(特に奇数のダンサーを動かすときに顕著だと思いました)
これが、一糸乱れぬ踊りを披露できるコール・ドの方たちだと、
ものすごく見ごたえがあったかと思うのですが、
残念ながらABTは、プリンシパルの人たちのレベルは世界第一級なのですが、
少し群舞が弱いのかな、と感じました。
なので、その複雑で面白いフォーメーションとか、
色んなダンサーが違った振りを同時にするその掛け合いの面白さとかが、
微妙な踊りのタイミングのずれのせいで、遠くから見ていると、
混沌状態になってしまっている場面が散見されました。
ただし、4羽の白鳥のシーンのダンサーの方たちの、
足の方は相当そろっていて、かなり見ごたえがありました。
(ただし、顔の向きに少し不揃いな部分があったのが残念。)

主役二人の踊りが本当に素晴らしかったので、
これでもう少し大人の演出ならば、なおよかったのにな、と少し残念。
白鳥、奥深いです。


Diana Vishneva (Odette/Odile)
Marcelo Gomes (Prince Seigfried)
Vitali Krauchenka / Sascha Radetsky (von Rothbart)
Gennadi Saveliev (Benno)

Music: Peter Ilyitch Tchaikovsky
Choreography: Kevin McKenzie after Marius Petipa and Lev Ivanov
Conductor: Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
Grand Tier C Odd

(上の写真はPaloma HerreraとMarcelo Gomes。下の写真は6/27の公演より。)

***白鳥の湖 Swan Lake***

ROMEO AND JULIET - ABT 後編 (Sat, June 23, 2007)

2007-06-23 | バレエ
後編 <そして幕が上がり。。>

こうして、いよいよ熱気むんむんの中、フェリのABT引退公演の幕があがりました。

今日は指揮者が違っているのも関係があるのか、多少のミスはあったものの、
オケは18日の公演よりだいぶまし。
そういえば、今日の指揮者はマノンの時と同じ指揮者なんですね。
もしかすると、フェリの公演の時はすべてこの指揮者で、
彼が指揮するときはみんな気をひきしめろよ!という指示が入っていたのかも知れません。
結構熱くて、指揮の方向自体は悪くないと思いました。
18日の指揮者がだらだら演奏させていたところもきびきびしていてよかったし。
ただ、ところどころ、指揮についていけないオケを一生懸命指揮者が煽る姿が見られました。
苦労してる姿が、泣ける。。


第一幕 第一場
さて、いよいよボッレが現れて会場の拍手。
ところが、どうした?ボッレ。少し踊りがもたつき気味。
頭でロミオ、マキューシオ、ベンボーリオ三人で踊るシーンでは、
エルマン・コルネホ(お友達に発音を教えてもらったので、日本語で書いてみたくてしょうがない!)演じるマキューシオと、
ベンボーリオの息が合っているだけに、ボッレが一人乱れているのが目立つ。
この役が得意でないからか、あまり踊りこなしている役でないからか、
これは詳しい方にお聞きしたいところですが、
途中では、振りが心もとなく、微妙に他の二人から遅れる部分も。。
18日のコレーラが、体から振りが自然に流れ出すように、
しかも他の二人とも完璧な調和で踊っていたのを観ているので、
これはちょっと、驚きでした。
これで最後まで、大丈夫かしら。。と不安が募る。
また、マノンの時でも感じ、今日一層強く感じられたのは、
特に振りらしい振りが付いていない場面で、少し動きがもたつく、というのか、
何をしていいかわからない手持ち無沙汰的な雰囲気をかもし出すのが、
観ていて少し気になるときがあります。
それに比べると、コレーラの場合、どんなシーンでも、
意味があって動いていて、それでいて無駄な動きがなく、
役の体への入り方が一回りも二回りも違っているように感じられました。

第二場、フェリが登場。
観客のすごい拍手で、音楽が長らく聞こえないほど。
DVDで見られたのと少し違って感じたのは、動きの軽さ、というのか、
DVDでは、まるで羽毛が舞ってるか、と思うような浮遊感があったのが、
今日の踊りでは、少し重みが出てきていて、これは長年踊るうちに意図的にこうしていったのか、
年齢によるやむを得ない事情なのか、興味あるところです。
この役のフェリは、先ほどロミオのコレーラについて述べたのと同様、
もうジュリエット役そのもの。
私の座席から見える彼女の動きは、どう見ても10代の少女にしか見えません。(顔ははっきりとは見えないので。)
マノンを演じたときとは、歩いているときの動作など、
何気ない動きを含め、体の根本的な動きが違うというか、
全然違うキャラクターになっているのだ、ということがはっきりわかるのがすごい。
例えば、立っているときの微妙な足の角度なんかの違いで、
その10代らしさが出ているのですから、驚異的です。

第四場の舞踏会で二人が出会うシーンは、やはり、ボッレのサポートが少し不安定。
なんとか微妙にしのぎましたが、バルコニーのシーン、不安が残る。。。

そして、第六場のバルコニーの場面。
18日のヴィシニョーワのあまりにも美しい冒頭のポーズでいきなり頭をかち割られた私ですが、
あれはデフォルトのポーズかと思いきや、少しづつ、踊る人で振りが違うのだということを発見。
フェリの場合は、少し音楽を流したあと、観客に向かって横を向いた姿勢で窓から現れて、
その後、伸びをしたり、バルコニーの手すりによりかかる、という振りでした。
10代の少女らしい動きに徹したのがフェリ版、
そのリアリティを犠牲にして、感情をシンボリックに表現し、見た目の美しさを重視したのがヴィシニョーワ版。
これは、もう見る人のテイスト次第なのでしょうが、
とにかく私は18日のバルコニーのシーンは最初から最後まで息がつけないかと思うほど、かつ、
途中では涙が出てしまった人なので、ヴィシニョーワ版に一票。
さて、悪い予感的中で、このシーン、ボッレのサポートが不安定なゆえに、
フェリとしても、少し不本意な出来になってしまったのではないかと思います。
まず、ボッレがどこかもたもた、ばたばたとした(時々、振りがうろ覚えなのではないか?と思えるくらい)動きであることと、
リフトなどで、あの大きい体でフェリみたいな小さな(小さく見える。。)女性を抱えるのだから、
もうちょっと力強く抱えてよ!と思うのですが、
なんだか、よろよろ~よろよろ~と、心もとない。
彼女がベストに見える角度に彼がリフトしていないせいで、
せっかくそうでなければ、ものすごく綺麗に見えていたはずのポーズが乱れていたのが、悔やまれ。。。
フェリが一生懸命踊っていただけに、至極残念!!
また、コレーラが虎バターとなった、超高速回転シーンでは、
おったまげるほど回転がスローで、
全然熱い思いが表現されていない。
うーん、この場に関しては、ヴィシニョーワ&コレーラ組にかなり水をあけられる形となりました。
お客さんはそれでも大歓声だったので、これだけ見ればそれはそれで良かったのかも知れませんが、
あのヴィシニョーワ&コレーラの火花の散るような、エモーショナルな踊りを見た後では、
残念ながら物足りなく感じてしまいました。(なんて贅沢な。。)
例えば、二人がバルコニーのシーンで初めて体をふれる場面をとっても、
ヴィシニョーワ&コレーラはまさに”ひしっ!”と抱き合う感じだったのに比べて、
フェリ&ボッレは少しそのあたりの温度も低いというか。。なんだか、雰囲気的には、
ロミオが、ちょんちょん、とジュリエットの肩をたたいて”もしもし。。”と言っているような。。。
大恋愛してる二人ですよ!そんな遠慮勝ちしてる場合?!と私は思ってしまったのでした。

また、ジュリエットが片足を上げたまま、ロミオが彼女を支えて、
床に残っている足を滑らせるシーンの、止め方のセンスも、ボッレ、コレーラにかなわず。
あの独特の、ずっと一直線に滑って、最後に一瞬ほんの少しもどるかのような絶妙なリードは、
コレーラの力でしょう。

インターミッションで隣の男性とおしゃべりしながら、お菓子をほおばる。
彼はとにかくものすごいフェリ・ファンで、フェリがやめたらこの後ABTはどうなってしまうんだ?と嘆いていました。
しかし、その彼がしゃべる間、私は、この公演、この後持ち直すといいのだけど。。と思っていたのでした。

第二幕 第一場。
ここもジュリエット結婚承諾という幸せな知らせを受け取るロミオの反応がぬるめ。
コレーラが生き生きとしていたのとは大違い。
結論をいうと、この後、ボッレが尻上りによくなっていくのですが、
今日の公演を見る限り、脳天気なくらい元気で、少し切れ物的なキャラ(またはある人物のそういう側面)というのは、
少しボッレの苦手とするところなのかな、と思いました。
同じ脳天気でも、デ・グリューのようなぼんぼん的な脳天気さは、うまく表現できるし、
ノーブルな感じも表現できる人だとは思うのですが、
元気で生き生きしたキャラ、というのはちょっと今の彼に描ききれない盲点キャラであるように感じました。
しかし、気を吐いたのが、コルネホ。
途中で、その場で(助歩、助走なしの)ジャンプをするシーンで、
突然ありえない高さのジャンプ。あまりにすごくて、観客から、
おーっ!!!という声が。
あまりに高かったので、私など、人間が飛んだとはとても思えず、
カンガルーか何かが混じっていて、突然跳躍したのかと、ぎょっとしました。
すごい!
しかもその後の、連続回転(すみません、技の名前がわかりません。。)、
ものすごい切れ味と安定感ぶりで、最後のポーズが決まったときには、
観客から、大、大歓声!!

第二場、結婚式。
また金管失敗。何度演奏しても駄目らしい。。
このあたりから、少しボッレが立ち直りはじめました。
(もしかすると、コルネホの大活躍が彼の心に火をつけたのかもしれません。)

第三場、市場のシーン。
ボッレ、剣を使った踊りはうまい!
コレーラのそれが、本当の闘いのように一途!(下手するとちゃんばら的になりかねない微妙なところでふみとどまっている)なのに比べると、
ボッレのそれは、踊りの一部であることを忘れていないかのような、
優雅さが身上。
コルネホが最後まで緊張感のある踊りで我々を圧倒した後、
(コルネホに関しては、18日も安定した踊りでしたが、今日の踊りはより、パッションがあって、よかったです。)
ロミオがティボルトを殺害するシーンで、ティボルトが、最後、
ロミオに飛び掛ってくるのですが、その飛び方がおかしかったのか、
(たしかに、大砲の弾のようにこちらに向かって飛んできた。)、
周りの席の女性が噴き出してました。
今日のキャプレット母はいまいちだなーと思ったら、やはり前回とは違うダンサー。
前回キャプレット母を演じたVeronica Partは、今週一日、白鳥で主役を演じるようです。
こういう小さな役でも技量が伝わるところがバレエのこわいところ。
Veronica Partはこの小さな役の割りにすごい存在感でしたから。。

第三幕。
ここから、フェリとボッレが本領を発揮して、この公演、すばらしいものになっていきました。
まず、第一場の寝室のシーン。
ここは、フェリとボッレの息が、バルコニーのシーンとはうってかわって、
ぴったりと合って、素晴らしいシーンに。
特に、フェリが跳躍しながら、ボッレにリフトされる、その一回目の跳躍が、
足さばきも含め、ありえないくらいに美しい動きで、観客からため息が。
このシーンは、すぐ後に訪れる悲しい二人の運命を予感させるような重苦しさをフェリが動きで描き出したうえに、
ボッレのサポートもよく、胸があつくなりました。

第三場のジュリエット仮死状態。
ここも、バルコニーのシーンの冒頭と同じ意味合いで、フェリとヴィシニョーワの対照的なアプローチが際立った部分でした。
フェリの、あくまで役に徹した寝姿(かわいらしい10代の女の子そのもの)に比べ、
ヴィシニョーワのそれはある意味、少し役を逸脱した、ヴィジュアルの美に焦点を置いたポーズでした。

第四場。
ここはもう、ボッレとフェリが素晴らしい踊りで、とにかく観客を圧倒しました。
これは、あの、私のお友達が送ってくださった、マノンの沼地のシーンの映像に匹敵するすごさ。
マノンのデ・グリューといい、このような悲劇的な役では、ボッレ、大変良い。
ジュリエットが死んだと勘違いしたロミオが毒薬を一気飲みするシーンでは、
ボッレがフェリの片手を握り締めながら、別の手で一気飲み。
一緒に死にたいんだ!という熱い気持ちがその何気ない動作に表現されていて、
心を打たれます。
ロミオがジュリエットのそばに倒れた後、フェリが目を覚まして起き上がるシーンからは、もう金縛り状態。
よーく考えると、この場面、ジュリエットはまず、パリスが死んでいるのをみつけ、
それからロミオの死に気付き、そして自らも自害、と、
ものすごくたくさんのことが押し込められているのに、音楽が異常に短い。
しかし、フェリのジュリエットで見ると、このシーンがまるでスローモーションを見ているように、
一つ一つの動作が味わいを持って演じられており、時間がゆっくり経っていくように感じるのがすごいです。
(もちろん、もっと見ていたい、という観点では、レトリックな意味で、
”早すぎる!”と感じる人もいるでしょうが。。)
最後は、コレーラとのDVDとはまた違って、ヴィシニョーワと基本的に同じポーズで死んでいくのですが、
最後の息絶えたときのポーズが、曲線の美の極みというのか、
もう、絶妙なラインで、これまた、言葉で上手く言えません。
しかも、のたうちまわる、その回転の絶妙の滑らかさ、スローさが、
一つ一つ花びらが散るかのような、ジュリエットの薄命さを表現していて、
この公演では、私、ここで涙してしまいました。
この死のシーンに関しては、フェリ版ジュリエットが圧倒的な説得力で、
こんな風に踊れる人が早くも舞台から去ってしまうとは、残念でなりません。

幕が降りたあと、ものすごい拍手と歓声。
そして、カメラを手に、舞台近くに走り寄る人々。
フェリとボッレが登場した瞬間、雷が百万回落ちたかと思われるほどの、
すごいフラッシュの嵐。
こんなフラッシュの数は、今まで、メトで見たことがありません。
周りでは本当にたくさんの人が涙してました。
私の隣の男性も。。
各ソリストのバウイングが終わったあと、
再び幕が上がって、ボッレやコルネホと抱きあうフェリ。
観客からの花束の数もおびただしく、
さらにその後、ABTのメンバーの多くが花束を持って舞台に現れて彼女の引退を惜しみました。
(ジュリー・ケントやカレーニョと思しき姿を確認。)
また、夫と思われる男性と、二人のお嬢さんも。
お嬢さんが一生懸命花を拾い上げている様子が笑いを誘っていました。
最後には舞台の両サイドから、メタリック色の紙ふぶきを噴出する機械を使用。
舞台上に虹のように紙ふぶきが舞いました。
しめっぽいのが嫌いなのか、一瞬こみ上げるものがあるように見えたものの、
それ以外は始終微笑みを浮かべて、手を振りながら全身で観客に応えるフェリ。
まっすぐに自分のキャリアを生きてきた人だけができる充実した表情を浮かべて、
何度とない観客からのコールに応えてくれました。

私の件のお友達が教えてくださったところでは、彼女がこのように言っていたといいます。

「あでやかにお辞儀をして舞台から去りたいの、ローラン・プティのバレエの登場人物のように、
シャンパン・グラスを手にして。今最高の踊りが出来るこの時に。」

まさに、その思い描いたとおりの理想の形で、最後の舞台を終えたのではないでしょうか。
舞台に立つ人間として、最高の幸せを手にしたフェリ。
最後の最後、彼女の舞台姿に間にあってよかった。
観客として、また最高の幸せを体験させていただきました。

追記:私のバレエ鑑賞のメンター/東京のお友達が、NYタイムズのウェブで、この公演の映像を発見!
いつまで見れるのかわかりませんが、こちらからどうぞ!

Alessandra Ferri (Juliet)
Roberto Bolle (Romeo)
Herman Cornejo (Mercutio)
Isaac Stappas (Tybalt)
Jared Matthews replacing Sascha Radetsky (Benvolio)
Gennadi Saveliev (Paris)
Victor Barbee (Lord Capulet)
Georgina Parkinson (Lady Capulet)
Maria Bystrova (Rosaline)
Susan Jones (Nurse)
Frederic Franklin (Friar Laurence)
Jennifer Alexander (Lady Montague)
Roman Zhurbin (Lord Montague)
Wes Chapman (Escalus, Prince of Verona)

Music: Sergei Prokofiev
Choreography: Kenneth MacMillan
Conductor: Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
ORCH X Even

(写真は終演後、観客の拍手に答えるAlsessandra FerriとRoberto Bolle)

***ロミオとジュリエット Romeo and Juliet***

ROMEO AND JULIET - ABT 前編  (Sat, June 23, 2007)

2007-06-23 | バレエ
前編 <チケットへの長い道のり>


数週間前まで思ってもみなかった、私のバレエへのはまりぶり。
私のお友達の”フェリの最後のマノン全幕公演に行かないとはこのあほが!”
(って、優しい彼女はもちろんこんな口調ではなく、”行かなくっていいの?”という質問調でしたが。)
という私のブログへの書き込みが発端でした。

NYCBのくるみやロミ・ジュリでちょっとがっかりだったのもあって、
バレエにはご縁がないのかも。。と思っていたので、
すでにその後のヴィシニョーワ&コレーラのロミ・ジュリ、ヴィシニョーワ&ゴメスの白鳥に行く予定もあるし、
そんなとーしろの私が一気にたくさん見ても真価がわかるのかしら?というのもあって、
迷いに迷っていた6/16のNY時間0時(はい、公演当日です。。)、
彼女のお友達から彼女経由で送られてきた沼地のパ・ド・ドゥ(マノンのなかの名場面です)の映像が決定打となり、
当日チケットをゲットして観にいったのがすべてのはじまり
この日の夜の公演はもともとレイエスがマノン役に予定されていたのが、数日前に怪我をしてフェリと交代したために、
(レイエスには申し訳ないですが、フェリを見たい人には幸運にも)チケットがまだ残っていたようです。
そのマノンの公演にすっかりノック・アウトされ、バレエって素晴らしい!と開眼。

そして、その翌週(っていうか、つい5日前。。)に見たヴィシニョーワ&コレーラのロミ・ジュリで涙がでるほど
(というか、実際に出た。)感激し、
これにて、私の場合はもっぱら鑑賞だけですが、すっかりバレエのとりこになってしまったのでした。

結論。オペラも同じですが、とーしろこそ、優れた公演を見るべき!
いまいちの公演をどんなにたくさん見るよりも、たった一本の真に優れた公演を見るほうが、
その芸術を理解する助けになるとはまさにこのこと!!

さて、そんなわけで、『ロミオとジュリエット』、激しくフェリ&ボッレの公演のチケットも取っておかなかったことを悔やむも、
時すでに遅し。
当然オフィシャルのチケットは全てソールド・アウト。
フェリのABTでの最後の舞台姿を見たい!と、インターネットやらでチケットの転売を求める人も見られ、
そういう私もcraiglist(求人、友達募集、貸アパート情報など、あらゆる種類の情報を載せられるweb掲示板)やら、
アメックスのチケット・サービスなど、考えられる手は全てうったものの、
とうとう公演前日までチケットは手に入りませんでした。
公演当日の朝10時配布開始の立見席を狙う手もありましたが、
この年齢で、3時間立ちっぱなしの辛さはすでにオペラで何度か経験があったので、
もう、こうなったら、お得意の”あれ”しかない!!
そう、”あれ”とは、開演直前オペラ・ハウス前でのチケット強奪戦(ダフ屋からの入手も含め。。)です。
今まで『蝶々夫人』やら『マイスタージンガー』プッチーニ『三部作』で磨いてきたスキルを駆使する時が来たっ!!!
武者震い。

今日は、チケットの人気沸騰ぶりも考慮に入れ、1時間半前に会場であるオペラハウスに到着。
いい席のチケットを売りたい人はわりと身なりがきちんとしている人に最初に話しかける、
という傾向があるということが分析済みだったので、
今日はできるだけドレッシーに(パンツでしたが。。)、
そして、こちらの表情を見られぬうちに相手の観察が出来るよう、
夏日だったのもあって、サングラスを持参。
家を出る前には、わんこのえさやりをしながら、その合間に画用紙に"NEED ONE TICKET"と書かれたサインも作成。
なぜならば、以前の経験により、もっとも困難な部分は、
いかにチケットを売りたい人に、”ここに買いたい人がいますよ!”ということを伝えるか、という部分であることを学んだので。
オペラファンはバレエファンに比べ、なりふりかまわぬ、それこそオペラ”きちがい”な人が多いので、
こんな画用紙のサインは当たり前。むしろ、そんな準備をして行かなかった私は、前回、本当に苦労したのでした。

さて、いよいよオペラハウス前に到着。
サングラスを装着して、まずはまわりを観察して作戦を練るところから開始。
ここは、全身耳&目となって情報収集。
ところどころ聞こえる会話から、夕方の4時からチケットを求めて立ち続けているおばさまがいることも把握。
その横に立つ気さくなゲイっぽいおじさんもやはりチケットを探してます。
今日は不利なことに、リンカーンセンターの広場ではサマーフェスの一貫か、
音楽が流れて、大勢の人がたむろ。
こんなに人が多いと、チケットを売りたい人を探し出すのも困難であれば、
売りたい人が買いたい人を探すのも困難。

しかし!!うふふ、そのために、このサインがあるのよね!と、
画用紙を取り出そうとしたところに、
まだ開場前のオペラハウスから、見覚えのある男性が。。
向こうは私がサングラスをかけているので、気付かぬよう。
それは、80年代はモデルをしていたという、私のアパートの部屋の真下に住む男性。
今はパーソナル・トレーナーみたいな仕事をしていて、
そういえば、引っ越してきたばかりのころに、会話の中で、
ABTのダンサーのトレーニングもしたことがある、と言っていたっけ。
(ああ、当時は興味がなかったので、耳をほとんど素通り。。)
”あなた、ここで何してるの?”と声をかけると、気付いてくれたようで、
”働いてるんだよ!!”との答え。
なんと、彼はダンサーではないのですが、芝居だけのエキストラの役で、
ABTの公演に何年も出演していて、
何と今シーズンはほとんどの公演に参加しているというではないですか!!
マノンの公演では、GMにお供する従者を演じて、フェリの肩から外套を外したり、
ロミ・ジュリでは、冒頭のヴェローナの大公が両家にぶちきれるシーンで、
大公のとなりで旗を持って立っている鎧をつけたお付きの騎士が彼だし、
それから、ジュリエットのなきがら(まだそのときは実際には死んでいないのですが)のまわりを取り囲む僧の一人もそう、と、
たくさんの役を持ち回りで演じているそう。
”知らなかったわよー”というと、
”白鳥もボールルームのシーンで、ピンクのタイツ履いて立ってるからチェックしてよね。”ですと。
今日は土曜日でマチネと夜の二つのパフォーマンスがあって、その間白鳥のリハもあったので、
ずっとオペラハウス周辺でたむろっていたそうです。
この彼、日ごろからとっても話好きでエネルギッシュ。
アパートでも顔を合わす度、弾丸のようなトークをぶっぱなし、
最後にはきちんと自分のビジネスのセールスも怠りません。
”君もいつまでも若くないからね。今からちゃんと体を鍛えておかないと。。
で、そこで、僕のトレーニング・システムは。。”とセールス・トークへ。
しかし、ただでさえ、オペラやらなんやらでいっぱいいっぱいなうえ、
ヨガのように自分のペースでできるものが好きな私は、彼のトレーニング法は若干ストイックすぎるように思われ、
話がセールス・トークになると、いつも、”うーん。。”とお茶を濁していたのでした。
”僕ね、ABTのダンサーにもアプローチしてみたんだけどさ”と、
いきなり言い出したので、
アプローチって何?誰かとお付き合いでもしようっての?と聞くと、
”そうじゃなくって、僕のトレーニング・システムさ!”
。。。あ、あのトレーニング・システムですね。。。
だけれども、残念なことに、みんなに”時間がないから。。”とことごとく
断られてしまったそう。まあ、確かにABTの皆さん、忙しいですものね。
ひとしきり嘆いた後、彼。
”おっと、そろそろ行かなくちゃ。
バックステージに入れてあげたいのはやまやまなんだけど、
一応、特にこういうハイ・プロフィールの公演では入れてはいけないルールになってるからね、
がんばってチケットゲットして。こんなところに立ってちゃだめだよ。もっと前に出なきゃ!!”
と励まされ、彼とはとりあえずお別れ。

確かに彼の言うとおり!と、高々と例の画用紙を掲げ、
同じくチケットを求める人たちの前に出てみました。
ふふふ、広場の人がみんな見てる、見てる。
指差して笑ったり、微笑んでいる人も。。
効果抜群だわね。

しばらくすると、少し年配の女性が、”チケットを探しているの?”
と聞くので、はい、と答えると、
”ファミリー・サークルでよければ。。”と一番上階の7列目の席のチケットを見せる。
万が一、他にチケットが出てこなかったときのことを考え、額面で購入することに。
これで一応保険を買ったように、少しだけ気分が楽になったけれど、
でもできればもうちょっといい席で見たい!!

先ほどのゲイのおじさんが、
”その紙、効果あるわね。今までそれで何回チケットゲットしたの?”
と聞くので、今日が初めてなの、実は。と答える。
確かに、紙の効果、絶大。

そのすぐ後、ファミリーサークルの第一列目のチケットや(ファミリーサークルなら、
7列目も1列目も同じこと、とパス。)、
パーテールのボックスの後ろの座席(前にどこかでのべたように、
ボックスの前はいいけれど、後ろはやめたほうがよい。
特にバレエは見えてなんぼ、はっきり言っていい席じゃありません。よってパス。)
などが出てきましたがすべてパス。

すると、少し離れたところで、狂喜乱舞する我々の仲間の女性。
どうやら、かなりいい席をゲットできたよう。
画用紙パワー、どうした??!!
と自分に自信をなくす。
いよいよ開演一時間前。

すると、Tシャツにジーンズのいでたちというお兄さんが来て、
”君、チケット探してんの?”というので、”そう。”と言うと、
”僕にまかしとけ!僕はここで働いてるから、絶対誰かからチケットもらえると思うから。”
と、いきなり同僚に電話を始める。
多分服装や雰囲気から、大道具の人じゃないかと思われ。。
しかし、ありがたい話ですが、今日のチケットがいかに人気が高いか知らないのね。。
色んな同僚に確認している間、”もしチケットがなければ、バックステージに連れて行ってあげられるかもしれないし。。”
と言うので、それはありがたい話かも知れないけれど、
さきほどの同じアパートの男性の話もあるし、面倒なことにまきこんではいけないので、辞退。
そうしてこのお兄さんが同僚からの返事を待っている間、
例のゲイのおじさんがまた寄ってきて、
”あなた、ペン持ってる?”
おっ、このおじさんも私のサインの真似する気ね、だけど、お気の毒さま、
”いえ。このサインはもう家で書いて来ちゃったからペンはないのよ。”
(実際、そうでした。)
というと、
”そう、あなたのサイン、ticketのeが抜けてるから、直してあげようと思ったのだけれど。。”というので、
”ええええっっっ!!”と画用紙を見ると、
なんと、NEED ONE TICKTになってるーーーーーーーー。はずかしーーっ!!!
わんのえさやりの隙間に急いで書いたから、確認しなかったのね、私の馬鹿、馬鹿!!
我ながらあまりにおかしくって、へなへなとおじさんにもたれかかると、横で電話してくれていたお兄さんも、周りでチケット探していた人も大笑い!!
もしや、みんなが注目していたと思ったのは勘違いで、
これを見て笑ってたのかしら?
しかし、間違いを認めるのは悔しいので、
”これも私の作戦よ。綴りが違うとみんなの注意を引くでしょ?”と言うと、
おじさんが、
”そうよね、あのかわいそうな子、綴りも知らないのね、ってね!”と切り返され、みんなでさらに爆笑。

大笑いした後、恥ずかしいので、ちょうどほんとはeがくるはずだったあたりに、
親指をおくことに。
結局お兄さんも、”ごめんね。チケットは全然ないみたい。。”
そんなことは予想範囲内だったので、
丁重にお礼を申し上げて、
どんどん時間が迫って来た今、さらなる活動に励む!

この後、一番つらいスランプが訪れ、全然チケットを売りたそうにしている人すら見当たらない状態に。
ちゃんとチケット購入済みで、時間に合わせて現れたお客さんの姿が多くなり、
我々の姿をみて、”よくやるわねー”と言う感じで、微笑む人、
あきれる人、そんな人気公演に苦労せず入れて嬉しそうな人、などさまざま。
日本人も結構いましたが、冷たい目で見られました。
”まあ、無理だと思うけど、頑張ってね。”みたいな感じで。
気が付けば、一本指(チケット一枚希望)、二本指(二枚希望)、画用紙(私だけ。。)を掲げた人が、
それこそ何十人という単位でうようよ。。
これではスランプのまま終わってしまう!と場所がえを決意。
今までいたよりももっと玄関の中央よりに寄ってみました。

そこで、隣に立った、その話しぶりからイギリス人と思われる私と同い年くらいと思われる男性が、これまた品が良くて、素敵な方。
話しはじめてみると、私の殺気立った様子とは違い、
”今日の天気はすごく気持ちいいし、仮にチケットがとれなくっても、
まあ夕涼みしに来たと思えばいいし。。”なんていうので、
ああ、こういう余裕のある人、素敵と感激。

とうとう開演15分前。ある女性が、我々のそばに来て、
”まだ立ち見の残券があるみたいだから、行って来たら?”と情報を下さる。
ファミリーサークルと、立ち見。。
ある意味では立ち見の方がよく見えるので微妙。。
くだんのイギリス人男性と相談するも、それは最後の手段にしよう!との同意に達し、引き続き売り手を物色。

すると、小柄で感じのよい、これまた私と同じ年くらいの男性が、
”チケット、105ドルで譲りますけど、払う気ありますか”と私に尋ねるので、
”座席にも寄りますけど。。”と言って、チケットを見てびっくり!!
オーケストラ(平土間)19列目。
しかも端じゃない!!!105ドルは額面通り。
”買います!!!買います!!!”と狂喜乱舞の私。
彼が二枚チケットを持っているので、二枚売る気があるのかと思ったイギリス人男性が、
もう一枚は?とたずねると、
”一枚は僕が見るつもりなので。。”と申し訳なさそう。
”もしかして、二人ご一緒ですか?それなら残念ながら。。”
と売り手の方がチケットを引っ込めようとするので、
私、その素敵なイギリス人男性のことを指差して、
”いえ、この人とは関係なんてありません、今日あったばかり!!(←我ながら、事実だけど、冷た。。)”
と言い放ち、他の人にこのチケット取られてなるか!と財布を取り出す。
事情は知らないけれど、とにかくこんな良い席で見れることになるなんて夢のよう。
お金を渡して、”では座席でお会いしましょう”と隣席となるこの男性と別れる。
そこで、ふと、ファミリーサークルのチケットが余っていることを思い出した私。
どうせ、私が使わなければ、無駄になってしまうじゃない!と思い、
イギリス人の男性に差し出す。
”だけど、僕、お金、払ってないし。。”というので、
”どうせ、このままだと、誰も座らなくて無駄になってしまうのだから、
立ち見よりはましだし、とりあえず、キープにとっといて!”と、
開演前にトイレに行きたかったのもあって、押し付けるように渡すと、
大感激してくださって、
”ではせめてお礼に公演の後、飲み物でもご馳走しましょう”というので、
今考えると、こんな素敵な男性のお誘いをお断りするとはなんてもったいないことか、
と思いつつ、
”いいえ、開演後、我が家では愛しのわん(犬)が私のことを待っているので!”と、辞退し、
”それではお互いに公演を楽しみましょうね!”と約束しつつ、お別れしたのでした。
サングラスで顔を大幅に隠していると、男性が良くしてくれる、という新たな法則も今日発見。

さて、いよいよ座席に向かうと、例の売り手の男性が隣席に登場。
あらためてお礼を申し上げ、辛い事情を聞くことになりませんように
(例えば、チケットを購入したあと、彼女と別れたとか。。)
と思いながら、好奇心からなぜチケットが余ったのかを質問したところ、
彼は長年のバレエ・ファンで、今日スケジュール的にも急遽公演に行けることになったので、
朝の8時から並んで立見席をゲットしたところ、
帰ろうとしたところに、イタリア人と思しき女性が何枚かチケットを持って立っているので、
だめもとで売るつもりなのかたずねたところ、そうだというので、
席種を見て、彼もびっくり。
必要なのは一枚か、二枚か、と言われて、一緒に行くあての人もいないけれど、
これだけの人気公演なら、絶対土壇場でも額面で売却できるはず、ととりあえず2枚を購入。
その一枚が私のもとに来たというわけです。
そう考えると、いくつもの偶然が重なって私の手元に来たチケット。
なんて愛しいのー!!!
私の件の友人が日本から念力で送り続けた願いと、私の執念が実をむすび、
かくして、この、フェリ最後の全幕『ロミオとジュリエット』、
素晴らしい座席で鑑賞できる幸運に恵まれたのでした。

(補足:ちなみに、今日は本職と思われるダフ屋は一切おらず、
売り手はほとんど、なんらかの事情があってチケットを手放した
普通のバレエファンの方のようにお見受けしました。
また、NYではチケットの額面から一定以上(5パーセントだったか。。)
の金額を上乗せして転売することは法律で禁止されていて、
警察に違反行為を見咎められると厳しく罰せられるため、
日本にくらべて圧倒的にダフ屋文化というものの存在が希薄です。)

後編 <そして幕が上がり。。> に続く。

Alessandra Ferri (Juliet)
Roberto Bolle (Romeo)
Herman Cornejo (Mercutio)
Isaac Stappas (Tybalt)
Jared Matthews replacing Sascha Radetsky (Benvolio)
Gennadi Saveliev (Paris)
Victor Barbee (Lord Capulet)
Georgina Parkinson (Lady Capulet)
Maria Bystrova (Rosaline)
Susan Jones (Nurse)
Frederic Franklin (Friar Laurence)
Jennifer Alexander (Lady Montague)
Roman Zhurbin (Lord Montague)
Wes Chapman (Escalus, Prince of Verona)

Music: Sergei Prokofiev
Choreography: Kenneth MacMillan
Conductor: Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
ORCH X Even

(写真はAlessandra Ferri)

***ロミオとジュリエット Romeo and Juliet***

ROMEO AND JULIET -ABT (Mon, June 18, 2007)

2007-06-18 | バレエ
2007年はなぜだかひそかにロミ・ジュリイヤーになってました。
NYCBシェイクスピア・イン・パーク(演劇)につづく第三弾は、
ABTのヴィシニョーワとコレーラのペアによるバレエ。(第四弾はネトレプコ、ヴィラゾンペアによるメトでのオペラ。)

おとといの土曜に見たフェリとボッレのマノンがあまりに素晴らしく、
その興奮の冷めやらぬうちに、
ヴィシニョーワとコレーラのロミ・ジュリが見れるとは。

今日は、少し前もってチケットを入手していたので、
勝手にマイ・セクションとさせて頂いているGrand Tierで鑑賞。
階の最後列でしたが、もともとGrand Tierには7列しかないうえに、
勾配がかなりかかっているので、Orchestra(平土間席)より断然見やすい。
しかも、左右ど真ん中で、マノンの時と違って、一人一人のダンサーの顔まで裸眼で確認することはきびしいですが、
舞台全体を見るという意味では大変良い席でした。

しかし、幕が開いて、超びっくりだったのが、オーケストラの演奏。
木管もぴりっとしませんが、ひどいのは金管。
どの楽器とは敢えて申しませんが、あまりのひどさに、私の中では、打ち首の刑確定!
ここまでひどければ、本人も気付いているはずで、次回からは自主的に辞退していただきだいくらい。
なぜならば、舞台で、世界第一級のダンサーが、渾身の力で芸術的な踊りを披露しているときに、
ぱーすかぱーすかしょぼい音を横でたてまくって、美しい瞬間を台無しにするとは、
これが犯罪でなくてなんでしょうか!!
いくらバレエ・ファンの方が音楽については寛大とはいっても(Ballet 101の著者の言葉参照)、
許容範囲を超えてます。
なんと一応、このオケ、ABTオーケストラという専属になっている。。
土曜のマノンではここまでひどくなかったような気もするのですが。。
ABT、踊りが第一級なのですから、オーケストラもそれに見合ったものにグレードアップしてほしいです、本当に。

と、のっけからこのような厳しい指摘で始めた理由は、
それは、この公演、オケ以外があまりにも素晴らしかったから!!!
いやなことは早く済ませてしまいたかったのです。

いやー、本当に、私、不覚にも涙してしまいました。
それは以下に詳しく述べるとして。。

ミラノ・スカラ座のDVD(フェリとコレーラが出演のもの)と、
建物などの細部まで同じとは言いませんが、
おおむね似たステージ・デザインを想像していただければ、遠くありません。

おもしろかったのは、衣装に使われている布地の微妙な色味の違い。
イタリア(スカラ座)の方がすこし、スモーキーというか、あの色の微妙な感じは、さすが。
その点、アメリカ(ABT)は同じ色でもトーンが少し明るめでした。

また、このプロダクションでは、ライティングが本当に素晴らしく、後述しますが、
各所で、ヴィシニョーワの姿が彼女のポージングの美しさとあいまって、
本当に厳かなくらい、まるで絵画のように舞台に浮かびあがっていたのが、特筆ものでした。

第一幕第一場の市場のシーン、コレーラの登場でわきかえる観客。
もう何度もこの役を踊っているからか、DVDの頃より一層確信を持って踊っているような、そんな自信が感じられました。
しかし、後で考えてみるに、この場面は後のシーンのために、まだ少し余裕を持って踊っていたようにも思えます。
マキューシオ役のプリンシパル、Herman Cornejo(読み方がわからない。。)と、
ベンボリーノ役のジャレッド・マシューズ共、安定した踊りなうえに、
お互いのキャラクターの相性もよいのか、本当にいきいきと、
一緒に従兄弟、友達として育ってきた親しさが描き出されていて楽しいシーンになりました。

第二場、いよいよヴィシニョーワのジュリエットの登場。
いやあ、本当におもしろいですね。
振付は同じなのに、フェリとはまた趣が違う。
ヴィシニョーワは、フェリと比べると、まろやかな動きとか滲み出るような叙情には欠けるかもしれませんが、
ものすごくシャープな踊りが身上のように見受けました。
また、動いた後、一瞬ポージングをして、それを解くまでの、その間がほんの少しフェリより長いのですが、
特にまっすぐな線(足をまっすぐに伸ばすとか)を基調とするポーズでは、本当にありえないくらい綺麗に決めてくるので、
まるで、写真集か何かをぱらぱらとめくっているような、
完璧なポーズが次々と繰り出されるのでした。
流れ重視のフェリと、コマっぽいヴィシニョーワとでもいいましょうか。。
それぞれに持ち味が違いますが、それぞれに素晴らしい。

第四場、舞踏会で二人が出会うシーンは、少し静止状態を長めにとって(二人の視線が出会うところです)、
あえて、その後動き出すところで、ヴィシニョーワが少しぎこちなさを感じさせる動きにしたのは上手い!!と思いました。
そう、運命の出会いをしたのだから、歩く行為すらぎこちなくなって当然なのです!!
ロミオとジュリエットが一緒に踊りはじめ、あまりにお互いに夢中になるあまり、
回りの目も忘れてしまうまでの場面は、
もうあまりの優美さにうっとり。
コレーラのサポートがまた素晴らしくって、
ほんとに何もかも楽チンにこなしているように見えるのだからすごいです。

そして第六場のバルコニーのシーン。
バルコニーにたたずむジュリエット。
片方の腕は天に伸びていて、もういっぽうの手でその腕をかかえるようなポーズなのですが、
後ろから月が逆光になっていて、片側の体の線だけが白く浮き上がっている他は、
それ以外の体の部分は黒くて、まるで影絵のよう。
このポーズのとり方が、ヴィシニョーワ、また絶妙で、
このポーズだけで、真の恋に落ちてすっかりアンニュイになっているジュリエットの様子が手にとるように伝わってくるのでした。
そして、ロミオが現れたのに気付いて、もどかしさで気も狂わんばかりの勢いで、階段をかけおりるジュリエット。
この二人がお互いを求めて走り寄って抱き合う場面は、
もう、初恋のことなど普段はとうに忘れた、下手すりゃ”おばさん”のカテゴリーに入りかねない微妙な世代の私でさえ、胸がきゅんとなりましたです。
特に二人の恋の結末を知るだけに。。
燃え上がる恋心を表現するコレーラのターンの、ありえないほどの早さ
(いや、本当にどんどん早くなって、しまいにはすごいことになっていたので、
ちびくろサンボに出てきた虎のように、このまま溶解してしまうのではないかと思いました。
これ、本当に大げさでなく!!
しかも、芯がずっとぶれないのだからすごい!!
ここはもう、観客、大熱狂でした。)
まさに空をナイフで切るような鋭さ。
しかも、それが、テクニックの見せびらかしに終わらず、
あくまでロミオの恋心を表現する手段として、きちんと機能していた点がなおすばらしい。



そして、その熱いロミオの思いに応えるヴィシニョーワの、一見クールそうでいて、その奥に炎を感じさせる動き。。
ヴィシニョーワのその動きをきちんと揺らぎなく支えるコレーラのサポート。。
もう、この場面の踊りはただただ素晴らしすぎて、言葉というちんけな媒体では、とてもその真価をお伝えできない!!!
なんてもどかしい!!!
これは、もう本当に見て感じるしかありません!!!
ブログを書いていてこんなことを言うなんて、それこそ卑怯の何者でもありませんが、
それほど素晴らしくて、あまりの美しさに気が付いたら涙が出ておりました。
悲しさではなく、美しさで涙が出たのは私、舞台鑑賞上、初めての経験かも知れません。
これは、ヴィジュアルのバレエ、ならではのことだとしみじみいたしました。

興奮さめやらぬまま、インターミッション。
私の連れが一言。
”なんでNYCBと同じ演目で(そういえば、一緒にNYCBのロミ・ジュリも見に行った。あまりにNYCBのロミ・ジュリが、???だったので、
今日のABTの公演、全く期待していなかったようなのですが、
私と同様、すっかり興奮+感激しておりました。)、こうも違うものになるのか?”
それは、私が聞きたいです。

第二幕、第一場。
乳母がジュリエットからことづかった手紙をロミオに手渡し、
ロミオは、ジュリエットが、秘密に結婚することに同意したことを知ります。
ここの部分、演劇だと、結構ながながとして感じられるのですが、
バレエはとってもスピーディー。
コレーラ演じるロミオの本当に幸せそうな様子がほほえましい。

第二場、結婚式。
ここの踊りもまた二人がものすごくエモーショナルな踊りを披露してくれたのに、
ここですよ、ここ!!最大の犯罪現場。
司祭が二人が夫婦であることを告げる大事な場面で、金管、音がへしゃげた。
ありえない、本当にありえない!!!!
ところで、この司祭を演じた方、ものすごい拍手をもらっていたのですが、
往年の名ダンサーか誰かでしょうか?
(後日、この方がバレエ=リュス・ド・モンテ・カルロのダンサーであったことが判明。)

第三場、市場でティボルトがマキューシオを、そしてロミオがティボルトを殺害する場面。
剣のシーンは、ダンサーの息が合っていて、観客に息をもつかせぬテンションの高さ。
マキューシオ演じるCornejoの、壮絶な死に、ロミオ、とうとう切れた。
そのロミオの、正気を失って、ティボルトに食ってかかって行くシーンは、コレーラ、迫真の演技。
あまりの迫真の演技のため、剣の先が折れて空中に飛んでいくというハプニングも。
(いやー、でも、これ危ないです。後ろのダンサーの人の頭に直降下して刺さりでもしたら。。)
マノンで、スティーフェル負傷後、元気一杯のレスコーを演じたラデツキーの演じるティボルトも、
最後、ロミオの剣に、見事にふっとびながら、事切れました。
キャプレット家母を演じたVeronica Part、
いわゆるバレエらしい動きの少ない、しかも出番の少ない難しい役ですが、
見事に母親の嘆きを表現していて、よかったです。
(おお、そういえば、マノンでGMを演じた若エロの貴公子、Roman Zhurbin、
今日は、モンタギュー家父として登場。親父役、専門なのかな。すごい。)

二回目のインターミッションをはさんで、第三幕。
第一場。
ジュリエットとロミオが一夜を過ごした後、別れの時が来るシーン。




ロミオを見送って、窓から外を見続けるジュリエットの姿がせつない。
父親からパリスとの結婚を強制されるジュリエット。
昔のように何も考えずに親の操り人形になれないことを知る彼女ですが、
しかし、ロミオがジュリエットのいとこであるティボルトを殺してしまった今、
八方ふさがり。
パリスと踊るシーンでは、その破れかぶれな気持ちがうまく表現されていました。
また、パリス&父親に追い詰められるシーンでは、窓に寄ったその立ち姿で、
”これ以上強制したら、この窓から飛び降りるわよ!”という台詞が聞こえてきそうでした。

第三場の、ジュリエットが薬によって仮死状態に入るシーンも、
またヴィシニョーワの面目躍如。とにかく、どんなポーズをしても絵になる。。
ベッドがヘッドボードを舞台奥に向けて、足側が舞台手前に向くように設置されているのですが(なので、客の視線と平行)、
うまく腕の角度を使うことで、観客から見てもっとも美しいポーズになっていました。

なぜ、このベッドの向きについて言及したかというと、そのベッドがそのまま、第四場の、
遺体安置所のシーンにつながっていくからです。(舞台真ん中に下りていた薄い幕をあげることで、
ジュリエットの部屋から遺体安置所の背景に変更。)
ジュリエットが死んだと勘違いしたロミオ、パリスを殺害し、毒薬で自害するシーン、
これがまたノーブルな死に際で、我々の心を締め付けます。
そして、目を覚ますジュリエット。パリスの命を絶ったナイフで自害。
DVDでのフェリの、ロミオに手を伸ばしつつも届かず、という演技も涙ものでしたが、
ヴィシニョーワのジュリエットは、この世で一緒になれなかったのだから、
この時だけは、と、しっかりとロミオの腕をつかんで死んでいく、という、
これまた涙を誘う演技。
彼女は、ベッドに登ったあと、ベッドに対して垂直(なので、舞台の下手と上手を結ぶ線に平行。)になって、
上半身を、ほとんどベッドに沿わすようにえびぞりになって息絶えました。
まさに、直線の美を実践して。。

私の連れはちなみにこの最後のシーンで涙しておりました。
あのインターミッションでの質問の答えは、私的にはこうです。

素晴らしい振付と、真摯な、奇をてらわない演出&プロダクション・デザインに、
とんでもない才能を持ったダンサー達の妥協のない努力、テクニック、表現力、
これらすべてが有機的に、うまくかみあった例がこの公演。
これらの一部または全部が欠けていたり、かみあわなかった例がNYCBと申しておきましょう。

このような公演を見れて本当に幸せでした。

Diana Vishneva (Juliet)
Angel Corella (Romeo)
Herman Cornejo (Mercutio)
Sascha Radetsky (Tybalt)
Jared Matthews (Benvolio)
Gennadi Saveliev (Paris)
Victor Barbee (Lord Capulet)
Veronika Part (Lady Capulet)
Maria Bystrova (Rosaline)
Susan Jones (Nurse)
Frederic Franklin (Friar Laurence)
Jennifer Alexander (Lady Montague)
Roman Zhurbin (Lord Montague)

Music: Sergei Prokofiev
Choreography: Kenneth MacMillan
Conductor: Charles Barker
Lighting: Thomas Skelton

Metropolitan Opera House
Grand Tier G Odd

(写真もDiana VishnevaとAngel Corella)

***ロミオとジュリエット Romeo and Juliet***

MANON -ABT (Sat, Jun 16, 2007)

2007-06-16 | バレエ
当ブログにもたびたびコメントを返していただいている私の東京のお友達。
彼女のブログは、私のはじまったばかりのバレエ鑑賞のメンターともなっていますが、
その彼女より、この公演に行かないとは何たること!と嘆きのメッセージを頂くこと数回。

そのドラマティックな演技力と確かなテクニックで長らくバレエ界のディーヴァとして君臨してきたフェリ。(ABTに加わったのが1985年で、すでにそれ以前にロイヤル・バレエでスターとしての地位を確立していたそうですから、すでに相当長いキャリア。)
マノンとジュリエットは、彼女のシグナチャー・ロールと言われており、
今年をもって引退の予定の彼女の、最後のマノンが今日の公演。
私のお友達に毎日、なぜチケットをとらないのか?!としかられるのも無理からじ。。

しかも、(公演中、私のそばに座っていた超バレエ・ファンと思しきおばさまの話しているのを盗み聞きしたところでは、)
フェリのご指名により、今回ボッレが相手役を務めることに。
このボッレは、スカラ座のDVD、『白鳥の湖』でそのお姿を拝めるとおり、超美形&長身なゆえにその人気もすさまじい。こんな人、ちなみにテノールではいません。。
(フローレスが最右翼か?)
オペラ・ファンには悔しいことに、スカラ座では、”アラーニャよりもスター”な事件もありました。。
そして、マノンの兄、レスコーを演じるのが、イーサン・スティーフェル。
こんな豪華なキャスト、見逃してどうする!!と、バレエファンの方が嘆くこと、無理からじ。。

そんなわけで、私、勉強不足を覚悟で急遽、行って参ることにいたしました、フェリの最後のマノン。

オペラでは、マノン/マノン・レスコーを見に行ったことがあるので、
若干違いがあるとはいえ、大まかなストーリーはすでに知っているのが何よりのなぐさめ。
あとは、最近購入したバレエの本でにわか勉強。
見所を一夜漬けで頭に叩き込みましたが、今まで実演を鑑賞した経験がないのでそこが不安。

座席は、なぜこんな席がいきなり出てきたのかよくわからないが、
B列(前から二列目)のセンターブロック横の通路をはさんで、二、三席、上手に近い側。
メトで、きちんとダンサーのつまさきまで見るには多分N列とかO列(前から15列目くらい)あたりが理想で、
B列は普通に着席していると、着地時、微妙につま先の頭が切れてしまうのが難ですが、そのかわり、
顔の表情から、手の表情は、もうこれ以上はっきり見れません!というくらいにはっきり見えるので、
それはそれで面白かったです。
ただし、オペラでも同じですが、少し近すぎて、全てに注意を向けるのが難しい。。
なので、誰かをじっと見ていると、その他の部分を見るのがおろそかになり。。という感じ。
この席は、誰かはっきりとお目当てで見たいダンサーがいるような場合には、良いかも知れません。

今、読んでいるBallet 101という、辞典のようなバレエの本に、
現役のWall Street Journalのバレエ評論家である筆者が、
”バレエファンにとって、音楽は踊りの、二の次。極端な話、たとえば、音楽を全て消して、
踊りだけ見たとしても、バレエファンはかなりの確立で満足できる”というような趣旨のことが堂々と書いてあって、
”えーっ!”と驚いたのですが、
確かに、そこまで極端ではないとしても、その傾向があることを今日の公演の観客のリアクションから感じて、二度びっくり。
ここがオペラと全く違うところかも知れません。

ボッレが登場すると、観客から大きな拍手が。
舞台で見ると、本当に大きくて、確かに華があります。
少し、第一幕第一場、不安定な部分がなきにしもあらず、でしたが、
(静止するはずのポーズがバランスを失いそうになって、アジャストする場面も。。)
尻上りによくなっていきました。

こんなとーしろが言うのもなんですが、私個人的には、しかし、
一幕に関しては、スティーフェルの踊りが素晴らしいと思いました。
この方の強みは、普通に立っている、立ち姿までが美しい。
それぞれのダンサーの持ち味というのもあるでしょうから、一概にどちらがいい、というものではなく、好みの問題もありますが、
ボッレが、ただ立っているときには、少し弛緩してしまう時があるのに比べて、
スティーフェルは、どんなときも常に全身に神経が行き届いている感じ。
踊りの折り目も正しくて、とても小粋なマノン兄でした。
しかも、写真で見るよりも舞台で見るほうが素敵に見えるという幸運な方。
(この方も長身なので、本当に男性陣、映えました。)
オペラでは、いやらしい感じのマノン兄しか見たこと、聴いたことがないので、
このスタイリッシュな兄は大変新鮮でした。
でも考えてみれば妹が魅力的なのですから、兄だって魅力的な方が、
生物学的にも確立が高そう。

ケネス・マクミランの振付は、オペラで言うところのヴェリズモに相当する、
と前述の評論家が言っていたのですが、確かに。
バレエってもっと抽象的、シンボリックな動きが多いのかと思っていましたが、
マクミランの振付は、もっと直接的、というのか、生々しい動きが多くて、
特にこのマノンに関しては、官能的な振りが多く、私のクラシック・バレエのイメージが覆されました。
これは、表現力に定評のあるフェリが演じていたので余計にそう感じられた面も大きいかと思われます。

第一幕第二場の”寝室のパ・ド・ドゥ”はその官能的な部分もさることながら、
マノンの、恋に落ちた喜びが本当にうまく表現されていて、思わずため息。
この場のマノンは、ニ幕以降に、本人がどんどん無意識にファム・ファタル風な雰囲気を身につけていく前の、
まるで子供のような無邪気な喜びがあふれていて、本当にかわいらしい。
全幕通して、官能性をあらわすのに、足のなまめかしい動きが多用されていて、
この幕でも、そういった動きがあるにはあるのですが、
ここでは、まだ自分の性的な魅力を完全には理解しきっていない、
ましてやそれを利用することなど、まだ思ってもいないような無邪気さをフェリがうまく表現しています。
おぼこいデ・グリューと二人、こちらがつい微笑んでしまうような、初々しさを感じさせるラブ・シーンなのでした。

しかし、デ・グリューが手紙を出しに外出してしまって(デ・グリューの馬鹿、馬鹿!!)いる間に、
GMというすけべ爺とレスコー(マノン兄)が現れたところから、どんどん話が暗転します。

GMをマノンのパトロンにして、一財産儲けようとたくらむレスコー。
GMを演じたダンサーがまたいやらしい顔で、これ以上ない適役。
GMがマノンを品定めし、金銭で彼女の心をつろうとするあたり、
マノン兄も加わって、三つ巴で、とても印象的な振りなのですが、
(マノンの足先をつかんで1回転ねじるetc)
この三人がそれぞれ巧者で、それぞれのキャラクターをうまく演じ分けていて、
見ごたえがありました。
ここでもスティーフェルのレスコーが本当にエレガントでため息もの。
兄なのに、こんなに色気があるんですもの、ホント、罪作りです。
先ほど見せていた無邪気さに変わって、だんだん金銭に目がくらむマノン。
マントを身につけて、二人につきしたがって行くときには、
さっきの無邪気な少女とは、顔の表情まで違っているのでした。

さて、いよいよ第二幕が始まるというところで、場内アナウンス。
”レスコー役のスティーフェルが負傷のため、ニ幕以降は、サシャ・ラデツキーが演じます”
これには観客一同、失望大。
”彼、良かったのにねー。”
”いつ怪我したんだろう、わからなかったよね?”とまわりでもざわざわ。
結構、ここまで、彼が出たシーンはぐっとしまるというか、
彼がドライブしていた部分も大きかったので、このあとどうなっていくのか不安も。
でも、怪我では仕方がありません。じわじわと、代役の方を迎える拍手があがって、
いよいよ幕があがりました。

レスコーの愛人役を演じているステラ・アブレラという方、見た目がアジア人っぽくって、
体の線は痩せているのにぎすぎすしていなくて、とっても綺麗だし、
踊りもとっても丁寧なのだけれど、
顔がいかんせん、あまりにアジアンで、これはオペラ歌手にもいえることですが、こういった西洋もののお話のとき、かつらなんかかぶると、あまりにもバタ臭く見えて、
ちょっとげんなり、ということがよくあるのですが、
一幕はまさにそんな雰囲気で、とくに、ここまで舞台に近い席で見ていると、
本当に気になってしようがなかったのです。

ところが、高級娼館を舞台に踊られる、このニ幕の”酔っ払いのパ・ド・ドゥ”では、
そのバタ臭さが、一層の滑稽さを引き出す結果となって、成功。
彼女の踊りもこのシーン、よほど踊りこんだのか、代役のラデツキーとのコンビネーションもすばらしく、見せてくれました。
ラデツキーは、”レスコー、あなた突然ものすごく縮んじゃったのね。。”というくらい背が低くて、
もちろん、とてもスティーフェルのあのエレガントさの比ではないのだけれど、
小さい体の割にはジャンプ力を駆使して、一生懸命踊っている姿が大変けなげで、
観客もつい応援したくなるような雰囲気がありました。
確かに、この場面を怪我をした状態で踊るのは無理だな、とは思いましたが、
スティーフェルで見たかったこともまた事実。。残念!

このあと、娼館を訪れている男性客3人が踊るシーンがあるのですが、
この中の一人がちょっとにわかに信じられないくらい、あまりにあまりな踊りでびっくり。
他の二人がぴたっと息があっているのに、役を覚えていないのか何なのか、
遅れまくるわ、ジャンプやポーズは適当だわ、で、
ABTのメンバーに突然どこかのとーしろが混じったよう。

あまりにもびっくりしたので、この後、じっとウォッチしていると、
なんと、その後、女性男性共に群舞で踊るシーンでは、
アジア系の女性と思しきダンサーの方とペアになっていて、これまた適当な踊りを披露。
適当のみならず、結構女性を放り投げてキャッチ、みたいな場面もあったのですが、
女性を取り落とすのではないかと思うぐらい危なかしく、みているこっちがはらはらしました。
ホント、下手すると怪我にもなりかねない、超危険人物です。

マノンが男性を従えて踊るシーンは、先にも触れた、足を駆使した振付。
特に男性数人(だったと思う)にリフトされながら、スカートの中から、
天井に向かって一本だけあがっている足の角度で、マノンの性的魅力を全部表現している部分は、
これはもう表現力、テクニックのない踊り手の方が演じたら惨憺たる結果になりかねないのでは?と思わせました。
しかし、そこはフェリ。足がこんなにエロティックとは。
どうしたらこのようにまるで観客にどのように見えているかわかっているかのように踊れるのか。。。

デ・グリューのソロでは、少し一幕で不安定だったボッレがいよいよ、
なるほど、これが評価の高い理由か!と納得させる、ソリッドな踊りを披露。
大技をばんばん、綺麗に決めてくれました。
特にあの長身から繰り出される跳躍は本当に美しく、またこの人の踊りには、
嫌味にならない程度に男性らしさがきちんと感じられるところが持ち味ではないかと思いました。

女性に往々にしてありがちな、自分が振った男には冷たい、という、
薄情な態度をとっていたマノンもだんだんデ・グリューの熱意に打たれ、
ついに心を動かされます。
このあたりのフェリの巧みな心理描写は絶品でした。

いかさま賭博のシーンは、トランプのカードが大きくて、
ボッレが上着のジャケットに隠し
入れるのに四苦八苦している様がおかしかったです。
多分遠くの席でもトランプであることがわかりやすいように大判にしたのだと思いますが、
その分上着のポケットも大きくしようよ!っていう。。

第二場、いかさま賭博がばれて逃走したマノンとデ・グリューがパリの宿屋で二人踊るシーン。
ついてきてくれたマノンのことが嬉しかったのか、うきうきのデ・グリューとマノンとのロマンチックな掛け合いと、
その後、この場においてまだ高価なブレスレットに執着するマノンに気付いたデ・グリューの失望と、怒りと、どうしたらいいんだ?という悩みにいたるまで、
ここは、もちろんフェリの力もあってのことですが、ボッレがものすごい表現力を見せて、実は私が今日一番心を動かされた場面かもしれません。
短いなかに、ロマンティックな要素、突然にわきあがる失望、彼女は一生変わらないのでは?という疑惑、
そして、でもついにはほれた弱みからマノンを許してしまう男心、とめまぐるしく変わる感情の機微を踊りで表現尽くしていたのは素晴らしかった。

いよいよ第三幕。
オペラの”マノン・レスコー”では、アメリカに出航する前の、フランス側での港が舞台になっている、
また最後、命を落とすシーンは沼地ではなく、砂漠(この違いはどうよ!)である、等の違いがありますが、
何といっても最大の違いは、オペラには、看守にマノンが乱暴されるというシーン(どころかそんな言及すら)がない点。
考えてみれば、(皆無なわけではないですが)、オペラには、
直接的な性描写が描かれているスタンダードなレパートリーがほとんど皆無なのに気付きました。
両者合意系なら、蝶々夫人とか、トリスタンとイゾルデとか、その描写である、と言われているシーンがなくはないのですが、
それも、もっとオブラートに包まれている、というか、気付かなければ気付かないですんでしまう、というケースもなきにしもあらず。。。
両者非合意系だと、トスカが頭に浮かびますが、彼女の場合はなんとかスカルピアの魔の手を逃げて、
最後には彼の手に落ちる前に殺害してしまうし。。
なので、第二場のマノンが乱暴されるシーンでは、ちょっとあまりにもあからさまで、
オペラファンであるところの私は少し引いてしまいました。
バレエ版ヴェリズモの実践者であるところのマクミランのこのシーンの振付は、
かなりリアルで、
マノン、ひいてはデ・グリューとの二人の悲劇がこれで一層強調され。。ということなのかもしれないですが。
フェリの演技力があるだけに、ちょっと見ていて辛いシーンでもあります。
映画なんかとも共通するのだと思いますが、乱暴される、ということを表現するのに、
直接的な描写というアプローチが一番なのか?という問題がつい頭に浮かんでしまいました。

第三場、いよいよ、”沼地のパ・ド・ドゥ”。
この場面についてはくだんのお友達が送ってくださったyoutubeでの画像(ロミオとジュリエットのコメント内にあります。)を先に見ていたので、
その印象がとっても強かったのですが、
今日の二人の踊りは、それともまた違っていて、
いかに表現には無限の可能性があるかということを痛感。
まず、今日のこの場面の踊りのキー・ワードはへろへろ感でしょうか。
港を脱出し、ろくに飲み食いしないままに沼地にまぎれこんで、
二人で死んでいく場面なので、へろへろであたりまえなのですが、
youtubeで見た画像では、へろへろ感がありつつも、踊りの美しさも重視しているように感じられたのですが、
それに比べると、今日の踊りはもっとエモーショナルで、
マノン、デ・グリューとも、まさにへろへろで、それを描写するために、あえて踊りの美しさをも犠牲にしたとでもいうか。
どうしたの?というくらいに、あえて、時にフォームを崩すボッレとフェリ、
それまでを見るに、この二人なら、このシーンで、美しく踊ることもたやすく出来たと思うのですが、
そこであえて感情表現を優先させた英断に、二人の心意気を感じました。
”崩しの美学”とでもいいましょうか。。
ボッレのサポートはさすが。フェリが心おきなくその乱れ放題を出来たのも、ボッレのサポートがあってこそ。
youtubeのような表現を好むか、こちらの表現を好むか、はもはや見る人の好み次第。
素晴らしい公演でした。

最後、観客の拍手を受けてあらわれたフェリ。観客に愛されている、というのはまさにこういう人のことを言うのでしょう。
パフォーマーとして、もっとも幸せなことではないかと思いました。
また、ボッレがあくまでフェリをたてまくっているのには、
アラーニャ事件によって、ものすごく生意気な雰囲気の人を想像していた私としては、意外にもの好青年ぶり。
また、レスコーを代役で演じたラデツキーは、全員一列でバウイングしているときでも、この二人よりも一歩下がってお辞儀。
まるで、”僕はこの二人とはまるで違うクラスなので。。”と言っているよう。
バレエの世界はものすごい謙譲の精神が残っているのだ、と驚きました。

はじめてフェリの舞台を見たにもかかわらず、つい周りの皆さんの熱い声援に、
あたかも今までずっと彼女を見続けてきたかのように、目頭が熱くなり。。
観客からの彼女に対するリスペクトには並々ならぬものがありました。
ロミオとジュリエットのDVDで見た彼女の初々しさも素敵でしたが、
あれから年月もたって、今日の、踊り手として、本当にストイックな、
強さのようなものを感じさせる彼女の表情には心を打たれるものがありました。

また、踊っているときにはあれほど男らしかったボッレが、挨拶に出てきた瞬間、
結構素で、その素がなんだかかわいらしいのに拍子抜け。
全然イメージと違いました。

さて、余談ですが、インターミッション中、配られたプログラム内におさめられた記事に、私の注意は釘付けになったのでした。
”Petit Paws"というタイトルのもと、ABTのスタッフやダンサーたちがどんなわんこを飼っているのかという特集。
ABTでは、お稽古の時などに犬を同伴してくる人たちも多いらしく、うらやましい限り。
その記事の中、来週観にいく白鳥で王子を踊るマルセロ・ゴメスが、わたくしの二匹の愛息(プロフィール欄参照)と同じ、
ダックスフント(それも超かわいい!)を飼っていて、勝手に親近感倍増!
床でウォーム・アップしながら、そのダックスと戯れる白黒の写真がまた絵になってる。
うちのわんこと遊ばせたい。。


Alessandra Ferri (Manon)
Roberto Bolle (Des Grieux)
Ethan Stiefel/Sascha Radetsky (Lescaut)
Stella Abrera (Lescaut's Mistress)
Roman Zhurbin (Monsieur G.M.)

(写真もAlessandra FerriとRoberto Bolle)

Music: Jules Massenet
Choreography: Kenneth MacMillan
Conductor: Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
ORCH B Even
***マノン Manon***

FAUST (Wed, Jun 13, 2007)

2007-06-13 | メトロポリタン・オペラ
昨日は夕立により、キャンセルになってしまったメトの野外公演ですが、
今日は肌寒いながら、なんとか天気ももちこたえました。

ブランケット持参で、セントラル・パークへ。

去年の『椿姫』と『リゴレット』の強力なタッグに比べると、
今年は、『ラ・ボエーム』はともかく、『ファウスト』はねー、どうでしょう?と思っていたら、
案の定、不安定かつ肌寒い天気のせいもありますが、観客少な目。

どうせ相当前でないと歌手の顔なんて見えないし、
セットもなければ衣装もないので、歌さえ聴ければいい!と、
一番後ろのブロックでブランケットを広げたものの、
目の前を警官が右に左にうろうろ。(一応、警備のため。。)

スピーカーを通してですが、久しぶりに(って、まだ一ヶ月ですけど。。)聴く歌手たちの歌声に、
ああ、やっぱり私、オペラが大好きなのだ、と実感。
しかし、スピーカーで聞く声って、やはりあのオペラ・ハウスで聴く生の声と違って人工的なのが、ちょっと。。
早く、あのオペラハウスでしか体験ができない、空気の揺れを感じたいです。
はー、あと、3カ月。死んじゃうかも。(←大げさ。)

と、そんな状態なので、厳密な意味での声の判断は全く無理なのですが、
マイクを通して聴いた印象で。。


(メフィストフェレス役のモリスとファウスト役のポメロイ)

ジェームズ・モリス。あの、マイスタージンガーの枯れた親父ぶりを見て、
あれ以来、結構好きなのです。
ファウストのメフィストフェレスも、マイスタージンガーのザックスと同じく、絶頂期の声を失くした今でも、
彼の持ち味の別の部分で埋め合わせが出来る、
キャラにあった、貴重な役だと思いました。
一度、オペラハウスで聞いてみたい。
しかし、くれぐれも、トスカのスカルピアは、もうやめておきましょう。
あの、残虐なキャラは、あなたには似合わない!!
メフィストフェレスは悪魔だけど、お茶目なところがあるからよいのです。

ファウストを歌ったデイヴィッド・ポメロイは、初めて名前を聞きました。
立ち上がり、もう少し力強くてもいいかな、とも思いましたが、
徐々に安定感を増して、マイク越しで聞いたところでは、
もしかすると、少し声量が少ないかもしれませんが、
美声だし、歌いまわしもていねい。
もし、ファウストがシーズン復活する暁には、この人もぜひ、劇場で一度聴いてみたい。
ラモン・ヴァルガス(ファウスト役を2006-2007年シーズンで歌った)が、
あまり好きでない私なので、このようなニューカマー、大、大歓迎です!!

一方、マルグリート役のケイティ・ヴァン・クーテンは、
声質もあまりこの役に合ってないようだし、あまりぴんと来ませんでした。

シーズン後に少しお休みがとれて、充電できたか、
オケと合唱、なかなか好調でした。

あまりに警官が目の前をうろうろするので、とうとう我慢の緒が切れた私は、
場所移動。
こうなったら、一番前のブロックに行ってやる!!と突進してみて、びっくり。
一番前のブロックは、仕切られていて、一部の人がそこで鑑賞しているものの、
私、入れない。。。
去年もこんな風だったか、憶えてないのですが。

そこで、メトの関係者と思しき係員に、”ここは特別なブロックなのか?”と聞くと、
”そう。招待状がないと入れないよ!”と言われ、
こんなにメトに入れ込んで、毎月激しく注ぎ込みまくっているこの私に、
なんたる仕打ち!!と、がっくり来ていたのですが、
ふと、これは今後のオペラ警察(重ねて申し上げますが、私の一人警察です)の調査案件として調べをすすめるべき!ということで、
今後、どういう人たちが招待されているのかを調べ上げ、
来年はこの招待者ブロックに潜り込むことを目標にしたいと思います。

とまあ、つれない仕打ちを受けたので、仕方なく、
特別招待客ブロックを囲む柵のすぐ後ろのブロックに着席。
なんと、ここは、後ろのブロックに向かって設置された大スピーカーの少し前なので、
歌手の生の声が聴こえる!!!
これよ!!これ!!!と、久々に聴く生の歌声にうっとり。

しかし、うっとりしている間にもものすごい勢いで気温が降下し、
もはや、長袖Tシャツ、フリース、ナイロン合羽という三大防御の私も、
震えが。。



風邪を引いて、来週のバレエの公演に行けないようなことになってはことなので、
最後の幕は残念ながらあきらめて、帰途の道についたのでした。

(一枚目の写真は私が実際に座っていた場所から撮影したもの。)

David Pomeroy (Faust)
James Morris (Mephistopheles)
Katie van Kooten (Marguerite)
Kate Lindsey (Siebel)
Hung Yun (Valentin)
Jane Bunnell (Marthe)
Keith Miller (Wagner)

Conductor: Maurizio Benini

Central Park, Great Lawn

***グノー ファウスト Gounod Faust***

LA BOHEME (Tues, Jun 12, 2007)

2007-06-12 | メトロポリタン・オペラ
メトロポリタン・オペラが毎年シーズン後に開催している
セントラル・パークをはじめとするNYおよびニュー・ジャージーの公園での無料演奏会、Parks Concerts。
フル・オペラを、野外のリラックスしたムードで、しかもおつまみなどを食べながら聴けるとあって、
ニューヨーカーのfavorite eventの一つとなっています。
嬉しいことに例年若い人たちもいっぱい。
潜在的にはオペラを聴いてみたい、と思っている人がたくさんいるのではないかと思えてきます。

今年の演目はラ・ボエームとファウスト。

残念ながらこの日のパーク・コンサートは夕方から降りだした雨により中止。
ホンさんと、12月のドン・カルロで大注目だったAndrew Gangestadが聴けるうえに(しかも無料で!!)、
私が溺愛しているわんこも連れて行けるという至福の夜になるはずが。。
号泣です。

明日のファウストに期待!

予定されていたキャスト

Hei-Kyung Hong (Mimi)
Roberto Aronica (Rodolfo)
Mary Dunleavy (Musetta)
Dwayne Croft (Marcello)
Andrew Gangestad (Colline)
Jeff Mattsey (Schaunard)
Paul Plishka (Benoit)

Conductor: Gareth Morrell

Central Park Great Lawn

***プッチーニ ラ・ボエーム Puccini La Boheme***

ROMEO & JULIET -PUBLIC THEATER (Sun,Jun 10, 2007)

2007-06-10 | 演劇
毎年夏季に、セントラル・パークのDelacorte Theaterという野外劇場を会場に上演される、
Shakespeare in the Parkシリーズ。
今年でなんと、40周年という、NYの夏を代表するイベントです。

去年の『マクベス』と、メリル・ストリープ出演の『Mother Courage and Her Children
(なんと、邦題が”肝っ玉おっ母とその子供たち”。すごすぎる。。)』、
とっても見たかったのですが、さすがにこういう有名俳優が出演するときは、
入場料無料のイベントゆえ、チケットの人気もすさまじく、
最前列の人は朝の5時半から並んだというので(チケットの配布は昼の1時)、
オペラならともかく、演劇についてはそんな根性のない私はなくなくあきらめたのでした。

また、NYは夏の間、結構夕立が多くて、午前中快晴のなか、必死にならんでとったチケットが、
夜には土砂降りになって、公演キャンセルなんていう悲しいケースも。
このあたりの駆け引きがとっても難しいのです。

そのShakespeare in Park、今年の演目は、なんと、『ロミオとジュリエット』と、『真夏の夜の夢』!
どっちもすごく見たいー!!!!

今日、6月10日は、朝から、今にも雨が降り出しそうなどんよりした天気。
そうでなければ、今年のチケットは、メリル・ストリープのようなビッグ・ネームが出演していないので、
8時くらいから並べば十分とれる、という噂もあったので、並んでみてもいいかな、と思っていたのですが、
この天気では。。とあきらめる。

だがしかし、NYの天邪鬼な天気、降りそうに見えて、一向に降り出さない。
今のうちに、うちのわんこの散歩をしてしまおう、と、3時過ぎに家から近いセントラル・パークへ。
最近、とみに記憶力が悪くなっているので、その頃にはすっかりShakespeare in Parkのことなどすっかり忘れ去っていたのですが、
いつもの散歩コースのちょうど最後、
Delacorte Theaterの窓口に行き当たるところでチケットを持って出てくる人を発見。
”もしや、チケットが残ってる?”
窓口に行って確認すると、”ええ、ありますよ”との答え!!
まじ、まじ、まじ?こんなに簡単に入手してしまっていいのですか?!
まだ天気の方はなんともいえない感じでしたが、家からこんなに近いし、
しかも無料だから、最悪雨で流れてしまったとしても、失うものは何もなし、と速攻ゲット。
あとは、ひたすら夜の8時まで、天気がもってくれるのを祈るのみ。。

7時半。なんと、一日中雨は降らず、逆に夕方からは涼しい風が出て、
野外観劇には最良のコンディション!!
このDelacorte Theater、散歩中に、Belvedere Castleという人工のお城の展望台から
眺めたことはあったのですが、実際に入るのは初めて。
こんな気の利いた野外劇場が夏にしか利用されないとは、贅沢な話です。

また、一人だったせいもあり、座席の割り当てがフレキシブルだったと見え、
最前列ブロックから通路をはさんだ最前列席で、しかも、ほんの少し下手側にずれているけれど、とっても見安い!

舞台は、大きな、ごく浅く(せいぜい10センチくらいの)水の入った池の上に張り出しています。
スタッフが開演前、その池にホースで水をはっているのですが、
水が流れる音が癒し系で、開演前のBGMとして効果的でした。
空には、5メートルほどの高さの鉄の丸橋がかかっていて、基本的には全シーン、
この舞台装置の組み換えや移動によって上演されました。

夜8時、段々空の色に深みが出始めたころ、(NYの夏は7時くらいまでは余裕で明るいのです。)いよいよ開演!

この公演では特に序詞役はおかず、
マキューシオ役のChristopher Evan Welchによる、

Two households, both alike in dignity,
In fair Verona, where we lay our scene,
From ancient grudge break to new mutiny,
Where civil blood makes civil hands unclean.
(舞台も花のヴェロナにて、いずれも劣らぬ名門の
両家にからむ宿怨を今また新たに不詳沙汰‥
というのが新潮文庫の訳ですが、これまた、すごい文章。。
英語の方がまだわかりやすい!?)

というおなじみのプロローグで幕は開きました。

アメリカの高校に留学していた頃、
英語(アメリカでいう国語の時間)の授業はあなたには大変でしょうから、ということで、
二年下のフレッシュマン(日本の中学3年)のクラスに入れてくれたのですが、
その時の課題がなんと、このロミ・ジュリで、クラス全員、
持ち回りで台詞暗記の朗読会をやらされ、
むしろ二年下のクラスになど入らなかった方が楽だったのでは。。と、
死にそうになりながら暗記した記憶があります。

アメリカの片田舎の中三には、ロミ・ジュリに登場する英語は古文=難解だったようで、
私はもちろんのことですが、ネイティブの中坊でも結構単語の正しい発音ができない子がいたりして、
”へー、そんなものなのか。。”と驚いたものです。

そんな状態なので、クラスの朗読会は惨憺たる出来、
堂々たる発音の間違い、つっかえつっかえ読み、
あやしげな文体、記憶から完全抹消のゆえの立ち止まり現象、などなど、
その後、いかにシェイクスピアの(原語による)台詞の響きの美しさを説かれようとも、
当然のことながら、そんな美しさはその朗読会で感じられたはずもなく、
あまりにもその原体験でのトラウマが大きかったために、恥ずかしながら、
今日の今日まで、原語でのロミ・ジュリは観劇したことがなかったのでした。

しかし、あれからの20年の月日は偉大なり!
トラウマも薄れ、何度となくオペラや音楽を鑑賞する機会に恵まれたことにより、
今ならわかる!!
本当にシェイクスピアの台詞のなんと美しいこと!!!
もうその響きがまるで音楽。
もう、これは演劇をみているというより、半分音楽を聴いている感覚に近い。
ある意味、オペラです。
しかも、古文なので、単語がわかりにくくて聞き取りにくいのでは?と恐れを抱いていたのですが、
先日のオニールの戯曲より、私的には、圧倒的に今日のシェイクスピアの方が断然聞き取りやすい、という衝撃の事実!!
これは、台詞を書き上げていった段階で、劇場で発声されるときの効果まできちんとシェイクスピアが計算していたのではないか、と思われ、
つくづくすごい才能だと思いました。
アメリカの片田舎の中坊による上演ではさすがに真価が発揮できなかったシェイクスピアの台本が、
ちゃんとした俳優さんを得て、輝いておりました。

さて、他の公演を見たことがないので演出の比較ができないのが辛いところですが、
ディカプリオ主演の映画”ロミオとジュリエット”と同様、
今の若者も当時の若者も一緒なのだ!というような、変に頑張っているところが私には少しきつかった。
演技のテイストしかり、衣装しかり。。
(そうそう、衣装は一部の役、たとえばヴェローナの大公などは、きちんとしたコスチュームっぽいのですが、
主役のロミオは黒いパンツに白いシャツをオーバーシャツで -ちなみに今その格好で街を歩いても全く違和感なし。マキューシオはおしゃれなスーツに中のシャツは立て襟、というように、今昔混在型でした。)

ロミオとジュリエットの中に普遍のテーマがあることは否定するものではないのですが、
オペラでも、スタンダードな演出を好む私、
どんな昔の時代背景で演じたとしても、
観客が、想像力を働かせる、話の中からエッセンスをとる、という作業をすることで、
きちんとそのテーマは伝わる!と考えているので、
現代を意識した演出を見ると、
つい、”いらないおせっかいしちゃって。。”と思ってしまうのです。
むしろ、そういう余計なものがくっつくと、逆に話(オペラなら歌)に集中できなくなって困ることもあります。

で、この演出が先にあってか、それとも配役が先にあってこういう演出になったか、
そのあたりはよくわかりませんが、
ロミオ役のOscar Issacの演技が何だか渋谷にたまってる若者風で、
でもそうして、役を現代に引き寄せたことが逆に普遍性を損ねることになってしまっているという、
皮肉な結果になってました。
まず声の質が、まず、ノーブルさに欠けるというか、
これだと、偶然にジュリエットと舞踏会で出会って恋に落ちる、というよりは、
夜な夜な酒場に現れて、
女の子を狙ってそうな雰囲気。こわい。
そして、演技の質そのものも、今のアメリカのテレビ・ドラマ風というのか、
器用だけど、少しスケールが小さい。
例えば、テレビや映画で見ると、それなりにいい演技に見えるだろうと思うのですが、
お芝居の舞台、ましてや野外の舞台というのは、全然画面という二次元の世界とは違うものが必要とされていて、
その空間にある空気さえも使わなければいけない、
そんなスケールの大きさが少しこの方には欠けているようにお見受けしました。

それは、ジュリエット役のLauren Ambroseにも言えて、
というか、むしろ、一層顕著で、
表向きはすごく熱演しているのだけど、どうも小手先というのか、
全然この物語の真の悲劇性が伝わってこないのです。

逆にわきを固めていた俳優さんに、”おっ?”と思わされる人が何人か。

まず、意外なところでびっくり、ジュリエットの父、Michael Christofer。
ずっと、温厚な父、という感じで、前半、めちゃくちゃ影が薄かったのに、
ジュリエットがパリスとの結婚を拒んだために、雷をおとすシーン、
いきなり切れる父に観客、びっくり。
あまりの気迫に舞台の空気が変わってしまいました。
こういう空気の変化こそ、先ほどの話ではありませんが、舞台芸術の真髄。
今日のロミ・ジュリでこの空気の変化を感じさせたのは、このシーンと、
かろうじて、ロミオがティボルトを殺害するシーンだけでした。

それからNurseを演じたCamryn Manheimが非常にユニークな役作りで見せてました。
お人よしの、ちょっと太めの小柄な白人のおばさん、というイメージが強いこの役を、
なんとヒスパニック系のパワフルなおばちゃんを思わせる役作りで、
やり手ばばあでありながら、どこか抜けているところがあって、
でも、ジュリエットのことを心から愛している、という、
若干エキゾチックだけれども、なかなか面白いアプローチで演じていたと思います。
しゃべり方も、シェイクスピアというよりは、
なんだかどこかのヒスパニックのコミュニティの元気なおばちゃんという感じなのですが、
それがネガティブな要素にならず、むしろ長所として生かされていて、
しかも体が大きいので、ロミオとの絡みのシーンは、
小さなロミオ(そう、ロミオ役の人、結構背が小さかったのです)をいたぶるでかいおばさんという感じで、大変生き生きとしていて面白く、
前半、このNurseが観客の歓声と拍手をさらうという場面もありました。

それから僧(司祭?)ローレンスを演じたAustin Pendelton は、
映画”いとこのビニー”で、普段は横柄なのに、
大事な場面では、激しいどもりを起こしてしまう弁護士を演じていた俳優さんで、
私はつい、あのコミカルなキャラを思い出してしまうのですが、
今日は、全然対照的な、抑え目の、それでいてつぼを押さえた演技で、
心の優しそうなローレンスを演じていました。

若者組みでは、序詞役兼マキューシオ役のChristopher Evan Welchが、
ロミオと同じやさぐれ系の雰囲気を出しながらも、
どこか血の気の多い、それでいて傷つきやすさも感じさせるマキューシオを演じていて、
舞台上の存在感もあるし、
むしろ、この人がロミオを演じていたら、結構面白くなったのではないかな、と思ったりしました。

あとは、例えば、劇場の後ろに建つベルヴェデール城、
セントラル・パークの展望台を兼ねた建物で、
いつもはヨーロッパの本物のお城と比べようのないディズニー・ランド的な雰囲気を、
小馬鹿にしまくっていた私ですが、
こうやって、劇場のバックにそびえていると、なかなか効果的に見えてくるから不思議。
両家で争いが勃発するシーンでは、数分間小雨が降って、なんともいえないムードが漂い。。
と、野外劇場の楽しさを満喫。

浅く水の張った例の池の中を、出演者が歩くシーンは、
ライティングのせいもあって、水のしぶきが美しく、
ドラマの中でどんな役割があったのでしょう?と聞かれると、
うまく答えられませんが、これはこれでよかったんじゃないでしょうか?

しかし、今回は、とにかくシェイクスピアの偉大さに目覚めさせられた(何をいまさら。。)。トラウマ克服!!

THE PUBLIC THEATER
SHAKESPEARE IN THE PARK "ROMEO & JULIET"

Lauren Ambrose (Juliet)
Oscar Isaac (Romeo)
Christopher Evan Welch (Mercutio)
Austin Pendelton (Friar Laurence)
Camryn Manheim (Nurse)
Brian Tyree Henry (Tybolt)
Michael Christofer (Capulet)
Opal Alladin (Lady Capulet)
George Bartenieff (Montague)
Saidah Arrika Ekulona (Lady Montague)
Timothy D. Stickney (Escalus)
Dan Colman (Paris)
Owiso Odera (Benvolio)
Orville Mendoza (Friar John)

Guitar: Lucas Papaelias
Guitar, Flute: Alexander Sovronsky

Director: Michael Greif
Scenic Design: Mark Wendland

Delacorte Theater, Central Park
Block L Row H

***ロミオとジュリエット Romeo & Juliet***

家で聴くオペラ (2) ラ・トラヴィアータ (椿姫) 後編

2007-06-08 | 家で聴くオペラ
またしても熱く語りすぎてgooブログの字数制限をオーバーしてしまいそうでしたので、
後編を別にたててみました。

ところで前編で目論んだたくらみがいかに無茶であったか、あらためて思い知った私。
実際に公演に行く際にヴィオレッタ役の女優度を知るのに目安にしている点って、
それは全部ではないか!ということに気付いたのです、いまさらながら。。
しかし、それでは一記事の字数制限どころか、記事数制限(そんなものがあるのか知りませんが)すらオーバーしてしまうこと間違いないので、
あくまで、これは、氷山のほんの一部であること、
またこれは、私の感じ方に過ぎないということを改めて強調したうえでいくつかのポイントを選んでみました。
ああ、無謀。
しかし!この作業によって、各箇所に、どれほど無数の演じ方があるかということに気付かされたと同時に、
また、カラスの演奏が、いかに筋の通った、鋼鉄のような、役へのゆらぎない解釈にもとづいたものであったかということが再確認でき、ますます尊敬してしまいました

あらためて、各盤のコードネーム(かっこ内はヴィオレッタ役のソプラノ)をここで。

AG(アンジェラ・ゲオルギュー)
TF(ティツィアーナ・ファブリッチーニ)
MC(マリア・カラス)

なお、では、私の勝手な望み、お願いを書き散らかしてみました。

第一幕

① 乾杯の歌が高らかに歌われた後、ヴィオレッタがめまいをおこすシーン。

ヴィオレッタ:Usciamo dunque .. Ohime
(さあ、行きましょう...ああ!←めまいが起こってます)
全員:Che avete? (どうしました?)
ヴィオレッタ:Nulla. Nulla. (何でもないの、何でも)
全員:Che mai v'arresta? (どうして立ち止まったの?)
ヴィオレッタ:Usciamo ... Oh Dio!
(行きましょう... ああ!←英語でいうOh god。)

歌い方でヴィオレッタの性格が違って聴こえるから不思議。

TF:三箇所とも、あくまでさりげない。かなり我慢強い性格とみた。みんなの前で”私、気分が悪いの。”というところを見せるのが嫌いな、けなげな性格。
しかし、不治の病を我慢して見せるとはすごすぎる。

AG:TFの対極。ものすごく辛そう。逆にここまで辛そうにしているのに医者に連れて行かないまわりの人たちの常識を疑う。もし、グレンヴィル先生(三幕で登場するお医者さん)がこのパーティーに出席しているなら、今すぐ診察しましょうよ!という感じ。少し他の二人に比べると我慢にかける現代っ子っぽいヴィオレッタ。

MC:のっけからカラスの面目躍如。三箇所がそれぞれきちんと意味を持って歌われているところがすごいです。最初の部分は、自分でも思いがけずめまいを起こして驚いているOhime。
そして、Nullaといいながらも気分がすぐれない様子が伝わってくるうえに、
最後のOh Dioは決して大げさではないけれども、今にもくらーっと倒れそうな雰囲気がよくでている。
まさに不治の病に苦しみながらも気丈に振舞う大人のヴィオレッタ。

 不治の病の症状で相当つらいはずなのに、周りの人には迷惑をかけないように気を配る..
これが、後に、アルフレードに事情を話さずに、誤解されたまま身を引こうとするヴィオレッタの性格をあらわす伏線になっているので、
そこの感じを出してほしい。

② 三点セット”E strano”の第一回目

アルフレードと客が去った後、一人になったヴィオレッタが、
E Strano, e strano (不思議だわ)とつぶやくシーン。
私と同じ世代の方(私の年齢は非公表だけれども。)なら覚えていらっしゃるか、
昔、フジテレビで放送されていた『Opera Lirica』という深夜番組でオペラ布教活動をされていた永竹由幸先生が、
カラスのいろいろな音源について、ストップウオッチでこのE Stranoの長さを測るというほとんど変質的な詳しさの研究をすでに行っていらっしゃるので、
私は感覚的な感想を言うだけにとどめておきますが、この一フレーズ(繰り返されるので二フレーズ?)で、
ソプラノの方のセンスと演技力が出てしまう恐ろしい箇所でもあります。
なお、このE stranoは後、二回、違った場面で歌われるのですが、
同じ言葉の、その歌いわけも聴き所となります。
第一回目のE stranoは、娼婦である自分が、初めて、恋に落ちそうになっている自分の心に気付いて、あら?この気持ちは何かしら? E strano(不思議だわ)、
とつぶやくシーン。

TF:”もっのすごく不思議!!”と、驚き+不思議さが強調された E strano。
恋する自分にびっくり仰天なヴィオレッタ。

AG:一つ目は、あれ?何かしら?と、今、こんな感情が自分にあったのね、ふと気付いた、気付きのヴィオレッタ。そのふとした感じがなかなかきいてます。繰り返しは、TFの驚きのヴィオレッタに近いE strano。

MC:一つ目はあっさりと、繰り返しでは戸惑いの底に若干の喜びが聴こえるE strano。とまどいながらも、恋する嬉しさを感じているヴィオレッタ。

このあとに、そんな感情は娼婦という自分の身分には不釣合いよ!と歌うシーンがあるので、そこにつなげるためには、自分の中にも本当の恋を求める気持ちがあったんだ!という驚きだけでなく、カラスのように恋に落ちた戸惑いと嬉しさも表現されるとなお説得力あり。

③ アリア『花から花へ』の最後の高音
女優度にはあまり関係がないのですが、おまけで。。
実演では、どちらかというと高音で歌われない方が多いように思われる昨今ですが、
やはりできることならば、高音で閉めていただくと、興奮度高し。

TF: ↑

AG: ↓

MC: ↑

高音聴きたい。それも力強い高音。

第二幕 第一場

① 三点セット”E strano”の第二回目

パリから少し離れた田舎でなかなか豪勢な生活を営む二人。
その生活はヴィオレッタが自分の持ち物を切り売りして成り立っていたことを、
女中のアンニーナからアルフレードは知ります。
(鈍感すぎ。。)
そこで、売却してしまったものをヴィオレッタに内緒で買い戻そうとパリに向かうアルフレード。
そうして、アルフレードがパリに発ってしまったところに、
ヴィオレッタが現れ、アンニーナに”アルフレードは?”と尋ねます。
”パリに向かわれました”という答えに、
"E strano.. 変ね”とヴィオレッタがつぶやくのが、第二回目のE strano。

AG:ふーん、何でかしらね?パリで買い物でもしてるのかしら?靴下でも買ってんのかしら?(とそんなことまでは言ってないが。。)とあくまで、軽く、何も疑ってない、脳天気系ヴィオレッタ。

MC: ほんの一瞬不安と不吉さで心が曇るのがわかるヴィオレッタ。この微妙な加減が素晴らしい。
まるで、このつかの間の幸せの日々がもう長くは続かないことを予見しているよう。。

TF: MCと同じ系列の表現。

ここが無神経に歌われると、私には、心優しいがちょっと頭の弱いヴィオレッタに感じられてしまいます。リブレットのそこここに、まわりの人に気をつかいまくるヴィオレッタ像が描かれているので、彼女は頭のよい女性のはず。
なので、不吉な予感を感じさせる方がしっくり来ます。

② いよいよアルフレード父ジェルモンとのさしでの対話のシーン。
この幕の、このジェルモンとの会話のシーン以降は、すべてあまりにも密度が濃くて、
一字一句分析したいくらいですが、泣く泣く厳選!

ジェルモンの巧みな心理操作と話術により、娘の縁談が破談とならないよう、
娼婦の君はアルフレードと別れてくれたまえ、といういきなりかつ一方的なお願いに、
最初は怒りと抵抗を示しているヴィオレッタもついに心を折ります。

その怒りと抵抗から、陥落する第一歩となるのが、

ジェルモン:Poiche dal ciel non furono tai nodi benedetti (二人の絆は神の祝福を受けていないのですからね。)
ヴィオレッタ:E vero. (それは本当にそうですわね。)

という場面。神の名前を出されちゃあ終わりです。

TF:かなり投げやりな、怒りを感じさせる”そうですね”。運命に腹をたてている”そうですね”か?若干気の強いヴィオレッタ。

MC:それもそうですね。。。と最後が消え入りそうなのが、哀れをさそう。
ジェルモンの言葉に打ちのめされていることがわかります。
返す言葉がないうえに、そうか、神に祝福されていないのなら。。と、
ここが父の要求に応じる転機となっていることが伝わって来る。

AG:基本的にはMCと同じ路線。ただ、打ちのめされ度はやや低く、ああ、そういう解釈もあったか、という、ジェルモンの言葉に気付かされた、という雰囲気。
①といいこの場面といい、白痴系ヴィオレッタか?

歌い方でかなり印象が違ってくるシーン。役としての一貫性があればどちらの歌い方も面白い。でももちろん私の好みはこんな短い言葉ですらほろっとさせられるMC。

③ 裏番長系名場面

このオペラのクライマックスはヴィオレッタが息絶えるシーンと思われがちですが、
私を含め、多くのオペラ・ファンにとって、真のクライマックスはこちら。(なので裏番。)

泣く泣くアルフレードに別れの手紙をしたためるヴィオレッタ。
そこにパリから戻ったアルフレードが背後に忍び寄ります。

Che fai? (何をしているの?)

ここから、ヴィオレッタ退場直前の、

Amami, Alfredo
Amami quant'io t'amo
Addio
(アルフレード、私のことを愛してね。
私があなたを愛しているのと同じくらい。
さようなら!)

までは、もう涙なくしては聴けません。

本人は、お庭で花を摘んでくるから、と言って部屋から出ていってしまう(アルフレードもしばらくそれを信じ込んでいる)のですが、
それは嘘っぱちで、
ジェルモンとの約束を守るため、金輪際アルフレードとは会わないつもりで、
再びパリのドゥミ・モンド(裏社交界)にヴィオレッタが戻って行こうとしているのがこのシーンです。
すなわち、ヴィオレッタからすれば、アルフレードと恋人同士として一緒に居れる最後の時間であり、
しかも、別れの本当の理由を告げることもできないのですから、感極まるのも無理なし。
ここはそんなせつなさを爆発させて頂きたい。

TF:かなり取り乱しているうえに、絶叫系。

AG:声の、音符以外の部分で勝負している感じで、ややフォームが崩れ勝ち。
やはり取り乱しが激しく、その取り乱し方も、TFに比べると少し少女っぽい感じ。

MC:もうお見事というしかありません。どんなに感情が込められていても、フォームと、音符がないがしろにされていないところが素晴らしい。他の二人に比べると、芯がしっかりしている一直線のヴィオレッタ。
何度聴いても、胸がかきむしられるよう。。本当にせつないです。

上では細かいことを言いましたが、実は実演で、ここで心が揺さぶられなかった例しなし。
このオペラ中、最もエモーショナルな場面、劇場で泣いてくだされ。


第二幕 第二場

この場も私、大好きなので、一箇所とは苦渋の選択。。

① 痴話喧嘩

ヴィオレッタがパリに戻ったのを知って、
その彼女がドゥフォール男爵という昔のパトロンと出席しているパーティーまでストーキングしてきたアルフレード。
とうとう彼女と一対一で話す機会を得ますが、
事情を知らないアルフレードは、ヴィオレッタが心変わりしたもの、と怒りで我を忘れています。
ジェルモンとの約束もあってヴィオレッタは、
”あなたに会ってはいけないと言っている人がいる”というのが精一杯。
ジェルモンのことなど思いも寄らないアルフレードは、
”それはドゥフォールか?彼のことを愛しているのか?”と詰め寄ります。
追い詰められたヴィオレッタが吐く一言が、

Ebben, l'amo. (それは。。愛してますわ。)

TF: そうよ!彼のこと愛してんのよ!と、投げやりに吐き捨てるヴィオレッタ。不本意なことを口にしなければならない境遇にも腹が立っていると見ました。

AG: 愛しておりますわ!と大宣言。わざとあてこすって宣言することで、アルフレードの怒りを買ってでも約束は守る!というキップのよいヴィオレッタ。

MC: わざと、l'amoの部分をほんの気持ちゆっくりためて歌うことで素晴らしい効果が上がってます。いやいやながらも嘘をつくしかない気持ち、
でも、よーくアルフレードが聞けば、愛してるという言葉など、本心ではないこともわかるその嘘感まで醸し出しいるのだから信じられない神業です。

ここも本当に千差万別の歌い方があって興味深い。MCみたいに多面的な感情を込めるのは至難な業だと思いますが、その効果は絶大。


第三幕

① 手紙の朗読からアリア”さらば過ぎ去った日々よ”直前まで

とうとう命が風前の灯火となったヴィオレッタ。
あの後、男爵と決闘し、そして頭を冷やしに外国(どこかは不明)へ飛んでいたアルフレードはついに父親からヴィオレッタの行動の真意を聞きます。
アルフレードはあなたに会いにくるでしょう、という父ジェルモンの手紙を心の支えに毎日をやっとの思いで生きているヴィオレッタ。

一幕でアルフレードが歌った旋律(愛の旋律と呼ばれているらしい。。)を弦楽器が奏でるのに合わせて、ジェルモンの手紙を朗読するシーン。
そして
E tardi!
Attendo, attendo.. ne a me giungon mai..
Oh, come son mutata
(遅いのよ!待っても、待っても、来ないじゃないの。
<自分の姿を鏡で見ながら>
ああ、なんて変わってしまったことか。。)

AG:実演で、他の歌手でもよくこの系列で歌われることがあるのですが、手紙の朗読にメロディーがついている(ように聴こえる)。
好き嫌いがわかれるかもしれません。弦の音が美しい。
E tardi!以降はひたすら怒っています。

TF:AGとはまた違った趣ですが、こちらも弦が、がんばってます。
AGよりももっと自然に、本当に誰かが手紙を朗読している感じ。
リアリティを重視する人には一番ぴったり来るかも。声が以外と野太くてびっくりします。
E tardi以降は、怒りというよりも、どうすればよいか途方に暮れている雰囲気。

MC:弦がちょっと昔の映画音楽っぽいですが、録音のせいか?
そしてまたMCの朗読が、昔の映画からの台詞のようで素敵すぎる。
E tardi!では、心が泣いていることが、しかし、その後のAttendo, attendoのところでは、
すでにあきらめの境地に入っていることが伝わってきます。せつない。

 私の好みはあんまり感情をこめずにとつとつと読んでほしい。その方が逆に心に沁みます。どの歌手の方だったか、
実演で、ここを手紙を見ずに、文章を暗記してしまっている、という前提で演じた方がいて、なるほどなーと思った記憶があります。
この手紙だけを支えに生きているから、何度も読んで覚えてしまっているということなんですね。せつなさ百倍。

② 外出する体力も残っていないヴィオレッタ、神を呪う

アルフレードとついに再会!喜びにあふれるヴィオレッタは、神様に感謝の気持ちを伝えに教会に行くのだ、と言って聞きません。
女中のアンニーナやアルフレードを止めるのも聞かず立ち上がろうとしますが、
しかし、そのような体力がもはや残っていないことに気付きます。

Gran dio, non posso! (<立ち上がろうとするが、崩れ落ちて>ああ、神様、無理だわ!)

アンニーナとのやりとりがあり、金管楽器の音のあと、

Ma se tornando non m'hai salvato,
A niuno in terra salvarmi e dato.
(でも、もしあなたが戻ってきたのに私を救えないとしたら、
この世で誰も私をすくえるものはいないわ。)

ここで、ついに神を信じる力をもヴィオレッタが失いはじめたことがわかります。

AG: 悲しみと怒りの無理だわ! そして、金管の音がやたらばかでかくて、雰囲気をすっかり壊した後(重罪!)、
Ma se~の部分は、じわじわと、自分の死が目前に来ていることに気付いしまった!という様子。
最後がやや下品な響きになってしまうのが残念。

TF:AGとアプローチが同じ。ただし、金管は全然こっちの方がよい。

MC:AGやTFと対極で、無理だわ!は、あきらめと自分の無力さを知った悲しさがベースになってます。全然歌われ方が違う。
金管(こちらもよい)の一音の後、Ma se~はものすごい迫力。無念さがぎりぎりと音をたてているかのよう。。こわいです。

今年のメトのシーズンで見たStoyanovaの金管の音の後の絶妙な間の取り方が今でも忘れられない!無音もまた音楽なり!

③ ヴィオレッタ、遺言モードに入る

とうとう、辞世の句を口にし始めるヴィオレッタ。
すでに心が穏やかになっているようです。

Se una pudica vergine degli anni suoi nel fiore
A te donasse il core.. sposa ti sia lo vo'
Le porgi questa effigie: dille che dono ell'e
di chi nel ciel fra gli angeli prega per lei, per te.
(もし年頃の心の優しいお嬢さんが、いつかあなたに心をささげて
あなたと結ばれるとしたら、
この肖像画を渡して、この人は天使たちの間で僕たちのために祈ってくれている人だよ、
と伝えてちょうだい。)

AG:とつとつと訴えてます。

TF:慈愛を感じさせる。やや母親っぽい慈愛か?

MC:同じ慈愛でも、あくまで恋人としての慈愛。しかし、そんな慈愛を見せながらも、どんどん死が近づいているのを忘れさせない。
命の火が消えていっているのが、見える(聴こえる?)よう。

今の感覚でいうと、そんな肖像画をもらった若い彼女はひいてしまうと思うのですが、
感動的なシーンのため、そんなことは気にしない、気にしない。

④ 三点セット”E strano”の最終回と最後の言葉

とうとう天からのお迎えがやってきたヴィオレッタ。
弦楽器がそのお迎えの瞬間を描きだしていて、泣けます。
例の三点セット"E strano(不思議だわ)”の最終回から最後の言葉が始まります。

ヴィオレッタ:E strano!...(不思議だわ)
全員:Che! (どうした!)
ヴィオレッタ:Cessarono gli spasmi del dolore.
In me rinasce... m'agita insolito vigor!
Ah! io ritorno a viver.. Oh gio..ia!
(急に苦しみがなくなったの。
いつもとは違う力が体によみがえってきたわ。
ああ、生き返るのだわ。嬉し‥い。)

TF:E strano!ですでにこの世から遠くに行ってしまっているよう。その後もそのまま向こうに歩き続けて、
そのまま一気に三途の川を渡ってしまいました、という雰囲気。

AG:E strano!ですでに遠くに行ってしまっているのはTFと同じなのですが、
その後で、またまたこちらの世界に戻ってきてしまいました、という感じか。
三途の川を渡る前にこの世に忘れ物をしたことを思い出したヴィオレッタ。

MC:ほとんど聞こえるか聞こえないかの超弱音でのE strano!で始まって、
その次の言葉が、こわいくらいにフラットな調子で発せられるのに意表をつかれる。
このフラットさが、逆にあちらの世界に足を踏み入れたことを現していて悲しい。
しかしその後、renasce(蘇ってくる)とかio(私)の響きに、
ヴィオレッタが言っている”いつもとは違う力”を感じます。

演出によっては、ヴィオレッタが見ているアルフレードやジェルモンは幻で、
実は一人寂しく死んでいくというパターン(デュマ・フィスの原作はそう)もありますが、
素直にみんなに見守られて死んでいく、というパターンの方がいいな。

いろいろ勝手なことを書き散らしましたが、名作のパターンにもれず、多くの解釈に耐えうる力をもった椿姫なので、
この三つ、どれも三者三様素晴らしいことを再度強調しておきたいと思います。

そして、実際の舞台にしろ、CDにしろ、
まだ私の接していない椿姫の名演が存在しているのではないか、と、
いてもたってもいられず新たな探索に励む日々。
これはほとんど病気、それも深刻な病です。

***ヴェルディ 椿姫 ラ・トラヴィアータ Verdi La Traviata***

家で聴くオペラ (2) ラ・トラヴィアータ (椿姫) 前編

2007-06-07 | 家で聴くオペラ
第二回でいきなり『椿姫』をとりあげるこの無謀さはどうでしょうか!
しかし、一度きりタイム・トラベルをできるとしたら、
第一回でとりあげた1955年の『ルチア』か1958年のスカラ座での『椿姫』の、
いずれかのカラスの公演を見に行くと断固決心している私、
ましてや、ブログでもお世話になりっぱなしの私のお友達が、
近々『椿姫』でオペラ鑑賞本気デビューをされるためCDも購入したと聞けば、
何を迷うことがありましょう!というわけで、今日は椿姫がテーマです。
オペラの本来のタイトルは『ラ・トラヴィアータ』(道を外した女)で、本来の意味とは外れてしまうとしても、
私は日本語では『椿姫』と呼ぶ方を好んでいます。
『椿姫』のモデルとも言われているパリの高級娼婦、マリー・デュプレシスは、身につけた椿の色(赤か白)によって、
男性に”今日はご一緒できます”もしくは”できません”というメッセージを送ったそうで、
そこに姫という言葉をつけたセンス、名意訳

例によって、あらすじはこちらをどうぞ。

このオペラの難しいところは、ほとんど出ずっぱりとなるヴィオレッタが、
第一幕、第二幕、第三幕で違った資質を求められる点でしょう。
第一回のルチアで軽くふれましたが、それまで声と技術の見せびらかしに重点が置かれる傾向にあったイタリアオペラは、
ヴェルディの作品群によって、よりドラマに重点を置いたものと変わっていきますが、
丁度この『椿姫』は、ベルカントのレパートリーの影響を受けた技術見せびらかし系とドラマが混在している時期の作品といえます。

第一幕でのヴィオレッタは(うわべは)華やか&享楽的な生活にどっぷり浸かっているころ。
おぼこい田舎青年アルフレードに恋心をうちあけられ、つい心が動く自分さえもあざ笑って、
自分には享楽的な生活しかないことを、最後のアリア(”ああ、そは彼の人か”~ ”花から花へ”)で、自分に説き伏せるように歌いますが、
このアリアは、思い切りベルカント系。
装飾音符、オプショナルの高音等、ソプラノの力の見せどころです。
ここはとにかく身軽く華やかに歌ってほしいところ。
技術に欠けると結構聞いていて辛い箇所でもあります。
最近の私の鑑賞経験では、この一幕で結構苦労している方が多い。
二幕の感情表現が上手いと、この一幕の技術がいまいちだったり、その逆だったりと、
この一幕で必要とされるスキルと二幕以降で必要とされるスキルを両方兼ね備えるのは至難の業なのです。

さて、その第二幕の第一場では、すでにヴィオレッタはアルフレードと同棲中。
一幕で見せた享楽的な顔はなくなって、彼女本来の優しさをかもしだしつつも、
アルフレードの父、ジェルモンとの対面のシーン(アルフレードの妹の縁談を成功させるために、アルフレードと縁を切ってほしいと頼まれる)では、
怒り、抵抗、あきらめ、悲しみという感情の変化を、劇的な歌唱で表現しなければなりません。

第二幕の第二場の夜会のシーンでは、アルフレードに誤解をされたまま怒りを一身に受ける辛さを歌と演技両方で表現しなければならないうえに、
最後には、合唱の上を突き抜ける声のパワーも必要とされます。

第三幕。ここではほとんど死の寸前。どんなに声をはりあげようとも、
そこには健康な人とは違う、死の影を漂わせなければならず、
そのうえに、手紙を朗読したりシーンもあって、ディクション(言語の発声の正確さ)も試され、
アルフレードやジェルモンとの再会と、最後には死という、
もうこれは一級の女優でないと演じきれないシーンのオンパレード。
書いてるだけで、消耗してきました。

ヴィオレッタに焦点をあてると、こんな感じになりますが、
アルフレードの父、ジェルモンも大変重要な役で、特にヴィオレッタとのシーンは、
子煩悩でありながらも結構世俗的、という悲しい性(さが)をうまく歌い描かなければなりません。
アルフレードは、最初の乾杯の歌以外は大きなアリアはないのですが、
私が思うには声の質に”アルフレードっぽさ”みたいなのがあって、
その質がない人がこの役を歌うと、これまた辛いものがあります。
どちらかというと、細かいテクニック(あればそれに越したことはありませんが)よりも、
この田舎の純真なぼんぼんらしさを醸し出せる声の質を重視したい。

さて、名作なので、CD、DVDもあまたあって、たくさん紹介もしたいのですが、
今回は3点のCDを選び、
私がこの作品を鑑賞する際、特に注目する箇所が、それぞれの盤でどのように演じられているか、コメントしてみたいと思います。


それでは各盤のご紹介。

① コードネーム AG(007チックだけど、単にソプラノのアンジェラ・ゲオルギューの頭文字。)

この記事の冒頭の写真がジャケ写です。
ショルティの指揮で、ほとんど無名だったゲオルギューがこの作品で一気にスターになったのももはや10年以上前!
私も歳をとるはず。。。
ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウス(コヴェント・ガーデン)でのライブです。
ショルティの指揮のおかげもあってか、オケ、ゲオルギューともに渾身の演奏を行っている、そのやる気が素晴らしい。
テンポ、歌の解釈ともに、割りと最近の演奏のトレンドに近いというか、(このようなまとめ方は危険ですが)
聞いていて嫌味のない演奏。
ヴィオレッタは見た目もきれいじゃなきゃ!という流れを生み出したのも、
この録音あたりな気がします。
ちなみにDVDも出ているので、映像も見ると、見た目&歌のパワーを感じることができると思われます。
ただし、私が実際に生で数回みたゲオルギューの『椿姫』はどこか冷めたところがあって、
このCDで聴ける彼女の印象とは多少違っていたように思いました。
あとは、イタリア人ではないので、しょうがないといえばしょうがないのですが、
彼女のイタリア語の扱いが少し??というところ(あとで紹介するムーティ盤と比べるとわかりやすいかと。。)があるのと、
多少歌い方が大芝居的な部分があるのはご愛嬌。
でも最近(っていっても10年も前。。)の録音の中では出色の出来だと思います。


② コードネーム TF (ティツィアーナ・ファブリッチーニの頭文字。)



一時はスカラ座に君臨し、”帝王”(だったと思う。。)とも呼ばれたムーティの指揮によるスカラ座のライブ。
私のお友達が購入されたCDがこちら。
はずかしながら未聴だったので、早速私も購入してみました。
いやー、ムーティが暴れてますねー。
テンポを換えてみたり(すごく早くなったかと思えば、超スローな箇所があったり)、
特定の楽器を強調してみたり、と、かなりツイストかかってます。
効果的に決まってる箇所もあれば、ええっ??!!という箇所もありますが、
これは聴く人の好みにもよるかも知れません。
ただし、スカラ座のオケ、それから合唱の響きというのは私、好きなのです。
オケは上のコヴェント・ガーデンに比べると大らかさと爆発力を感じさせます。
特に第二幕第二場での合唱(特に女性)が素晴らしい。
このオケと合唱のゆえに、少しソリストがか細く感じられるのが残念。
ファブリッチーニは、ゲオルギューと比べると少し高音が弱い気がしますし、
一幕の出来が少し思わしくないのですが(装飾音がちょっと雑いです)
さすが、イタリア人、ディクションの素晴らしさは出色もの。
演技の部分ではゲオルギューよりいいかもしれません。
アルフレードを歌うアラーニャは、ゲオルギューの夫(離婚するといううわさが絶えなかったので、もう”元夫”かも。。)で、
ただ超一級の歌手となるには何かプラスアルファが足りない感じ。
先日ももう演目を忘れてしまいました(『アイーダ』だったか。。)が、
スカラ座の公演に出演したらしいのですが、歌の出来がよくなく、
主演のテノールよりも、その演目のバレエシーンに出演していたロベルト・ボッレの方が拍手が多いという前代未聞の事件が!
この件をどう思うか?というインタビューを受けたボッレに、
”うん、確かに彼の歌はいまいちだったしねー”ととどめを刺されたそうです。。
指揮がムーティじゃなかったらどうなったかなーと思わせる一枚。

③ コードネーム MC (マリア・カラス)

冒頭でふれたカラスの1958年スカラ座のライブ。ジュリーニ指揮。
CDの写真は後編に掲載しました。
この盤にはあまりに思い入れが深すぎて、公平に判断できないかもしれないのが自分でも怖い!
テンポのゆっくりさ(ショルティ盤のきびきびさに比べると、このゆっくりさはどうよ!現代人はせっかちなんだなーと思ってしまいます。)、
暑苦しいまでの演技、と人によってはマイナス要素になってしまう点も、
私にとっては、もはや、すべてプラス!
アルフレードを歌うディ・ステファノの声、なかなかの田舎のぼんぶりでよいし、
ヴィオレッタを罵倒するシーンでの絶叫には、つい観衆も大歓声。
でも、もう何よりもカラスのヴィオレッタが素晴らしすぎる。
一幕、立ち上がり、少しピッチが甘い部分もありますが、アリアでのこの軽やかさはどうでしょう?
なのに、二幕以降の劇的表現が輪をかけてすごい。そう、カラスのすごさは、
この普通両立しえないスキルを持っているところなのです!!
音のひどさが半端じゃないですが(当然モノラル録音)、
そのくぐもった音の中から、とてつもないドラマが聞こえてきます。
この公演の画像が残っていないのが、つくづく残念!!

後編では、私が実際に公演に行く際に、ヴィオレッタ役の”女優度”を知るのに目安にしている箇所についてお話し、
上の3人がどのように歌っているか検証してみたいと思います。

***ヴェルディ 椿姫 ラ・トラヴィアータ Verdi La Traviata***