Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

ERNANI (Sat Mtn, Mar 29, 2008) Part II

2008-03-29 | メトロポリタン・オペラ
Part I から続く>

幕が開く前に、右隣にお座りになっていた80歳代と思しき女性と少しお話。
彼女のオペラヘッド・デビューは15歳の時で、
『エルナーニ』は、なんと、メトが1966年に現在の所在地であるリンカーン・センターに移る前、
39丁目とブロードウェイにあったいわゆる”Old Met ”と呼ばれているオペラハウスで
鑑賞して以来だそうで、その時のキャストは、ウォーレン、ミラノフを含む豪華キャストだったそうです。
(今、ネットで調べてみたのですが、これはもしかして、1956年の公演でしょうか?
ならば、エルナーニがデル・モナコ、エルヴィーラがジンカ・ミラノフ、
ドン・カルロがレナード・ウォーレン、シルヴァがチェーザレ・シエピ、
指揮がミトロプーロスという、ものすごい超ウルトラ豪華キャストです。
確かに、『エルナーニ』、こういう豪華キャストじゃないと、再び観にいく気にならないかも、、。
そんな豪華なキャストで見た事があるなら、今日のキャスト、きついでしょうね。
この女性が一幕で眠りの国に行かれていた理由がこれでわかりました。)
しかし、こうして、遺産というのか、長い歴史が受け継がれていくのがオペラの楽しみの一つでもあり、
こういう少しお歳を召したオペラヘッドの方とお話するのが私は大、大、大好きです。


第二幕

シルヴァ家の城。
まもなくシルヴァとエルヴィーラの婚礼の宴が始まろうとしています。
どうやらエルヴィーラは、エルナーニを守るためにシルヴァと結婚することにしたらしい、、と思っていたら、
そこに再び、今度は巡礼者に変装したエルナーニ登場。
着飾った人々の間に、ぬぼーっとネズミ男のようないでたちで立っているエルナーニは相当怪しいですが、
一幕の、あんた!どうやって城にまぎれこんだ!?という格好に比べると、
これはなかなか賢い作戦。
うむ、エルナーニも少しは頭を使えるようになったか、と思ったら、やっぱり猿は猿。
シルヴァに手をひかれ、ウェディング・ドレスを付けて登場したエルヴィーラを見て、
こらえきれず、巡礼の衣装をかなぐりすててしまいます。ありゃりゃ。



またしても唐突、一幕ではそんな話、微塵もなかったじゃないか!と言いたくもなりますが、
エルナーニ、どうやら、インターミッションの間に、盗賊として指名手配の身になっており、
その首をとったものには賞金が与えられるそうなのであります。
(これは多分に王が仕組んだものと考えられます。本当に心憎い19歳なのだ!)

エルヴィーラが他の男と結婚するとなった今、完全に自暴自棄モードのエルナーニは、
”さあ!私の首を結婚の祝いにとるがよい!!”と叫んで大暴れしたうえに、
自分の一族の身の上話まで聞かせる始末。

ここは三重唱でそれぞれが自分の気持ちを吐露するという、
ヴェルディが『リゴレット』の四重唱で大輪の花を咲かせた手法の原点が見られます。
一幕が終わって、どんどん自分の後の登場人物がレベルアップしていくのに危機感を覚えたか、
ジョルダーニがこの幕から少し安定した歌を聴かせるようになってきて、
三重唱はなかなかの出来。

さて、大人のシルヴァは、エルナーニの話に心動かされるものがあったのか、
はたまた考えるところがあったか、エルナーニの挑発には乗らず、お付きのものをひきつれ、
”さあ、エルヴィーラ、お前も来なさい。”といいながら、城の中へ。
ここで、”お前も来なさい”と言われているのに、軽くシカトのエルヴィーラ。
都合よく、エルナーニと二人きりになるチャンス到来!!!
シルヴァもすぐにエルヴィーラがついて来ていないことに気付きそうなものなのに、、。
ああ、ご都合主義のベル・カント万歳!

さて、二人きりになった途端、
”なんだよー!お前はシルヴァの奴と結婚する気だったのかよ!”ときれるエルナーニ。
ここでエルヴィーラが吐く言葉が奮ってる。
”いいえ、あなたが死んだと思っていたのよ(その根拠は一体、、?)
だから、私も祭壇の前まで行ったら死のうと思っていたんです。”
エルヴィーラ、嘘付けっ!!!!
私も”シルヴァの奴と結婚する気だったじゃねえか!”に一票だ!!
本当は、”あなたが死んだから、まあ、シルヴァでいいかと思って、、”じゃないのか?
(しかし、彼女の名誉のためにふれておくと、この前に、ティアラも指環もつけていないことを
シルヴァに指摘される場面があるので、一応、婚礼に気乗りはしていないらしい。)
しかし、こんなハチャメチャな言い訳にも情をほだされ、
”そうだったのか!”とひしっとエルヴィーラと抱き合うエルナーニはやっぱり猿です。

一方、相当歩いてから、”エルヴィーラがついてきとらんじゃないか?!”と
気付いたらしいシルヴァが一人で舞い戻って来ます。
そこで目にしたものは若い二人の抱擁!

この時にこそ、シルヴァの心に本格的な復讐の種が撒かれたといえます。
彼の ”(首をとるより)もっと恐ろしい復讐を No, vendetta piu tremenda "
という言葉が怖いです。
フルラネットは怒りをあからさまには表現せず、
まるで心の中でゆっくりと小さい種火が段々大きな炎となっていくような表現で、ひきこまれました。

やがて王ドン・カルロが現われると、シルヴァはエルナーニを城の中にかくまいます。
それもこれも、本音は、ドン・カルロなんかにエルナーニに復讐する役をとられてたまるか、
俺が自分の手で復讐を下すのだ!という思いからなのではないでしょうか?
シルヴァ、怒らせると、かなり怖いおやじです。

王に、”犯罪人をかくまうと、叛逆の罪に問うぞ!”と脅されても、
シルヴァは、”それならば私の頭をおとりください”と平然とのたまう。
王がそんなことは出来ないのを承知の上で。このあたりの駆け引きはなかなか面白いです。
エルナーニのような子猿には絶対真似の出来ない大人の勝負。
エルヴィーラがことをおさめようと進み出ると、王は彼女を担保に引き下がります。

隠れ場所から現われたエルナーニは王がエルヴィーラを連れ去ったことを聞き、
”彼は我々の恋敵なのに、おめおめと彼女を連れ去られるとは何てことをしたんだ!”と激昂。
しかし、最終的には王に頭が上がらないシルヴァには、
エルナーニの隠れ場所についてすっとぼけることはできてもそれが限界。
エルヴィーラを引き止めることが出来たはずがありません。
そこで、二人は一致団結して、彼女を王から取り戻すことを誓います。
エルナーニはその誓いの印として、角笛をシルヴァに預け、
”この角笛が鳴るときには私は自らの命を絶つ”と約束します。
つまり、シルヴァに命を預けたわけです。
ああ、そんな約束さえしなければ、、、。エルナーニの脳たりんぶりには本当にあきれかえるばかり。

この角笛をシルヴァに預けるシーンの音楽は前奏曲にも登場し、
このオペラのキーの場面となっています。

インターミッションをはさんで、第三幕の開始前には、左隣にお座りのご夫婦と会話。
このご夫婦もオペラヘッズで、オペラハウスにもよく足を運ばれているようですが、
またライブ・イン・HDもかなりの頻度で楽しまれているとのことでした。
ライブ・イン・HDは、劇場にいる時とはまた全然違う楽しみ方ができるのがいいですよ、とおっしゃる。
私も映画館で観てみたい!!
続けて、ご主人の方が、今シーズンで一番良かった公演は?とお尋ねになるので、
”それはもう10/27のマチネの『蝶々夫人』がダントツでした。”と言うと、うんうんとうなずかれ、
『ピーター・グライムズ』はどう思われました?”と少しこちらの反応を伺うようにお聞きになるので、
”いやー、あれも素晴らしい作品かつ公演だと思いました!大好きです。”と言うと、
おお、あなたも!!!と嬉しそうな表情をされ、そこからひとしきり『ピーター・グライムズ』の話題に。
『ピーター・グライムズ』には、他の人はどう感じただろう?
これが素晴らしい作品だと思うのは私だけ?と見た側に躊躇させるものがあるようですが、
私がお話させていただいた方はみな絶賛されています。


第三幕

エクス・ラ・シャペル(現ドイツのアーヘンの旧フランス名)にある大聖堂。
ここにはカール大帝が埋葬されています。
舞台には大きな台座にのった、4メートルほどもありそうな馬の銅像が。
闇に包まれる中、神聖ローマ帝国の次の皇帝に選ばれるのは自分か?という期待のもと、
富と権力がいかに無益であるか、もしも自分が選ばれたなら、むしろ、すぐれた統治者になりたい、と
夢を語る ”おお、青春時代の夢と偽りの幻影よ Oh, de' verd'anni miei ”。
歌の内容は感動的ではありますが、よくよく考えてみると、
この急な性格の転換ぶりはどうなんでしょうか?
ハンプソンの歌は安定感はあるのですが、やや深みに欠ける気もします。
その意味では、フルラネットと対照的な歌唱。

人の気配に、ドン・カルロは銅像の台座に身を隠します。
あらわれたのはエルナーニとシルヴァの部下たち。
エルヴィーラを取り戻すには、王を殺すしかない!と、これまた非常に飛躍した理論により、
暗殺という不穏な計画のもとに集まった彼らです。
エルナーニが王を殺害する役回りを与えられるのですが、部下たちがこれでスペインにも
ちょっとはましな未来が訪れるかも、と歌う個所があるのを見ると、
ドン・カルロ、一体今までどういう統治を行っていたのだ?と思わされます。

ここで歌われる陰謀の合唱では、やっと最近のメトの男性合唱らしい勇壮な響きと、
ぴたっとタイミングのそろった歌唱が出て一安心。
こうして聴いてみると、特にテノールのパートの水準の上昇が著しいように思います。

やがて大砲がなり、ドン・カルロが神聖ローマ帝国皇帝カール5世となったことが知らされます。
ここで、いきなりドン・カルロが隠れ場所から出てくるのですが、
ということは、彼がもはやアンタッチャブルな存在になった、ということを表現していると思われ、
スペイン王というだけでも高い地位ですが、神聖ローマ帝国というのはこれまた格別な地位ということなのでしょう。

さて、ついさっき、”皇帝になったら~”などと、あんなにしおらしく歌っていたはずのドン・カルロは、
喉元過ぎれば熱さを忘れる、とばかりに、
”お前ら、俺様に謀反などを図りおって!ちんぴら(エルナーニの部下)は牢獄行き、
貴族(シルヴァ寄りの人々)は処刑だ!!”と吠える。

そこに、”俺様ももとは貴族だ!だから処刑にしてくれ!”と訴えるエルナーニ。
そう、彼も、ドン・カルロに転覆されなければ、スペインの貴族として存在していたはずの人間なんである。
そのあたりのバックグラウンドから来る堂々とした押し出しが、
山賊に慕われ、ボスに奉られた原因の一つでしょうか?



王の皇帝即位を祝って集まった人々の中にいたエルヴィーラが、
”あなたには今やこのうえない力が与えられました。
今、慈悲をひとつ人々にかけることで、さらにあなたの栄光を輝けるものとするのはいかがでしょう?”と、
なかなかに上手い方法で王、いえ今や皇帝でした、に恩赦を進言。
皇帝になって気分は最高のドン・カルロなので、エルヴィーラの言葉に従い、全員の恩赦を決定。
さらに喜びをわかちあうエルヴィーラとエルナーニを見て、二人の結婚まで許してしまうのである。

あれ?皇帝、、、
あなたのエルヴィーラへの思いはそんなもんだったんですかい??!!
かように、この作品では、ベル・カント系のむちゃくちゃなストーリー作りが炸裂し続けます。

しかし、これはベル・カント・レパートリーではなく、ヴェルディの作品だったんだ、
と現実に引き戻されるのは、ひとえにこの後、第四幕でのシルヴァ叔父の行動のおかげです。


第四幕

サラゴサのエルナーニ宅。メトの解説によれば、”宮殿”となっている。
(宮殿持ちなのか?落ちぶれた貴族とはいえ、山賊のくせに。
それとも、ドン・カルロからの結婚の贈り物??)

このメトの舞台では、その宮殿(宮殿そのものは観客からは見えない)から
降りてくる石造りの大きな螺旋階段と、宮殿を守っている石壁が舞台装置。

めでたく結婚することになり幸せ絶頂のはずのエルナーニとエルヴィーラですが、
すでにエルナーニはこの幸せが長くは続かないであろうことを予感しています。
自分の人生には常に呪いがつきまとい、そこから逃れることはできない、と歌うエルナーニ。
猿の次に、鬱モードとは、、、やれやれ。




しかし、彼の予感は正しい。
聴こえる角笛の音は、シルヴァがすぐそこまでやって来ているということ、、。
この期に及んでも、エルヴィーラを手放すことは絶対に出来ないシルヴァ。
このシルヴァという人物は、実は老いるということに非常に恐れを抱いている人物ではないかと思います。
だからこそ、あえて矍鑠(かくしゃく)とし続けているし、
エルヴィーラへの一途な恋もその老いるということを否定するための大事なファクターとなっていて、
エルヴィーラを失った時には、一気に老け込んで、そのまま死んでしまいそうな気すらします。

心配するエルヴィーラに口実をつけて場を去らせたエルナーニのもとに、
とうとうシルヴァがあらわれ、”誓いどおりに命を絶ってもらおう。”と言います。
このエルナーニの人生で、最も幸せな瞬間に!

しかし、約束は約束、と片手に毒薬、片手に剣を持ち、どちらかを選ばせるシルヴァ叔父。非情です!!
ついに観念し、剣を握ったエルナーニの元にエルヴィーラが戻ってきます。
エルナーニは剣で胸をつき、エルヴィーラの腕の中で息絶えます。

その後、フルラネット扮するシルヴァが、何の良心の呵責もない様子で、
石畳の螺旋階段をゆっくり登っていく様子に、背筋が寒くなるものを感じました。

全幕通して、シルヴァの心理描写という意味では、
後のヴェルディの数々の名作を彷彿とさせるものがあり、なかなか見ごたえがありましたが、
少しストーリーに色々詰め込みすぎたか、舞台で見ても
やはりストーリーの展開が唐突すぎるように思える個所がそれはもういくつもありました。

衣装とセットの素晴らしさばかりに気が向くということ自体何をかいわんや。

歌唱に関しては、歌を芸と同義に解釈するなら、フルラネットが一つも二つもぬきんでている感じ。
しかし、シルヴァだけではなく、他のキャストも充実していなければ、
この演目をもう一度見るという気にはなれないかも。
それこそ、デル・モナコ、ウォーレン、ミラノフ、シエピのような強烈なキャストでなければ。


Marcello Giordani (Ernani)
Sondra Radvanovsky (Elvira)
Thomas Hampson (Don Carlo)
Ferruccio Furlanetto (Don Ruy Gomez de Silva)
Wendy White (Giovanna)
Keith Miller (Jago)
Ryan Smith (Don Riccardo)
Conductor: Roberto Abbado
Production: Pier Luigi Samaritani
Set Design: Pier Luigi Samaritani
Costume Design: Peter J. Hall
Grand Tier B Odd
ON

***エルナー二 ヴェルディ Ernani Verdi***

ERNANI (Sat Mtn, Mar 29, 2008) Part I

2008-03-29 | メトロポリタン・オペラ
各作品の改訂版を除いて、タイトルだけ数えても30近い作品を書いているヴェルディの作品中、
初演順で第五作目にあたるこの『エルナー二』。
有名な作品をマイルストーンに使うと、『ナブッコ』と『マクベス』の間に位置しています。
『マクベス』のライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の際に、レヴァインが『マクベス』について、
まだこの頃のヴェルディはその後に生まれる名作のために試行錯誤していて、
その跡が作品に聴かれる、というようなことを言ったという風に聞いていますが、
私からすれば、『マクベス』はかなり完成度は高い。
試行錯誤という言葉は、まさにこの『エルナーニ』のためにあるといってよく、
各人物像の掘り下げ度の甘さや(私の考えでは、この作品で説得力がある登場人物はシルヴァだけ。)、
話のいきなり度は、まだまだベル・カントの作品にどちらかといえば近いし、
曲の端々で、ああ、ここは『マクベス』のあそこに、そこは『椿姫』のあそこに近い、と、
後の作品を彷彿とさせる個所がたくさんあるという意味では
アカデミックな意味で大変興味深い作品ではあるのですが、
しかし、その先にそれを発展し煮詰めた作品があるなら、そっちを聴けばいいんじゃないの?と
いう気がしないでもなく、予習にも悲しいほど力が入らなかったのであります。
この作品の中では比較的有名なアリア、”エルナーニ、私を連れて逃げて Ernani, involami ”も、
後の作品に比べると、すかしっ屁のような盛り上がりそうで盛り上がりきれない感じがあり、どうにもこうにも、、。
これは、相当聴かせてくれるキャストじゃないと厳しい作品だなあ、と思っていたら、
主役のエルナーニは、ジョルダーニ、、、。ため息。

というわけで、このやる気のなさが反映したか、ふと気付くといつもよりも家を出る時間が遅れている!
昨年2007年11月に、休暇と出張をかねてNYに来訪、一緒にメトの公演も鑑賞した、
私のバレエ鑑賞のメンターでもある友人に、彼女のブログ内の記事で
こんな短い距離は歩きなさい!と叱られた私ですが、今日もタクります。

さて、いつもなら5分もかからないうちにメトに到着のはずが、
なんと70丁目あたりで猛烈な道路混雑があり、まったく車がうごかない。
開演まであと9分。
前方にはずっと数珠つなぎになった車の列。やばい!やばすぎます!!!
すぐに車を降りて、猛ダッシュ。すいていると睨んでウェスト・エンド・アヴェニューまで
出てしまっていたので、縦5ブロック、横2ブロック分。
マンハッタンのブロックは横の方が長いので、縦ブロックに換算すると約10ブロック。
これはきつい。
かつて人生で、運動会ですら、これほどまでに早く走ったことはないというくらいの必死さで完走。
しかし、メトのエントランスに到着した時、時間は開演時間を2分過ぎていました。
やっちまったか?私、、、

しかし、その瞬間、耳に響いた鉄琴の音(メトはこの鉄琴の音が”着席ください”の合図になっている)。
ま、間に合ったっす!!!!

もぎりのゲートを走破し、グランド・ティアーで係員の人にチケットを見せたときには、
息切れがして、ついひざに手をついて、ぜーぜーしてしまいました。
思わず係員の人が、このまま私が倒れてしまうと思ったのか、助けの腕を出してくださいましたが、
そんなに死にそうな顔をしていたのだろうか、、?

今日は全国ネットのラジオ放送が入っていたせいもあり、若干開始がおしていたようで、
いつもは、”ちっ!時間通りに始めやがれ!”なんて思っていた私ですが、そのおかげで助かった模様。
座席についた時には、すでにオケのメンバーは全員着席しておりましたから、危なかったです。
いつもならどちらかという寒く感じられるグランド・ティアー、周りにはコートを肩に羽織ったりしている方もいる中、
一人でだらだらと流れる汗をハンカチで抑える異様な様子の私なのでした。
オペラヘッド人生中、ここまで到着時間が危なかったのは後にも先にもこれ一度きり。
さて、酸欠で頭ががんがんし、そのせいか、まるで天井の金の花びら
(うろこのようにも見えるメトの内天井の装飾)が頭にのっかってくるような幻視がおこるほどの中、
容赦なく指揮者が登場。いよいよ開演です。

ん??
何でしょう?この前奏曲でのオケのアンサンブルの息の合わなさは??
もしや幻視に続く幻聴??

しかし、第一幕の頭の山賊たちの男声合唱がすっころんだのを聴き、これは幻聴ではない!と確信。
指揮がひどい!!ロベルト・アバド!!!クラウディオの甥なのに!!!
(注:クラウディオ・アバドはスカラ座やウィーン国立歌劇場の音楽監督を経て、
ベルリン・フィルの首席指揮者をつとめていた。)
今日は各所で迷走していました。



そんな中、ジョルダーニが歌うエルナーニのアリア、
”色あせた花の茂みの露のように Come rugiada al cespite  ”。
OONYのガラでの猛烈な不調ぶりは記事にも書いたとおりですが、
あれからもう3週間以上経っていることを思えば、風邪のはずとも思えないので、
彼はもしかすると今まで強引な発声をしてきたのか、
最近、声にコアースな(ざらざらとした)響きが混じるようになってきているように感じます。
むしろ、高音を出しているときには目立たないのですが、中音域でそれが顕著になってきています。
しかし、彼の歌は本当に魅力がない。
来シーズンのメトでは『ファウストの劫罰』を歌うようですが、”今観て聴いておきたい~”男性編で紹介した
カウフマンがアリア集の中で、この『ファウストの劫罰』からのアリアを歌っていて、
その出来が素晴らしく、ジョルダーニなんかより、カウフマンで聴きたいと思ってしまいます。

この”色あせた~”では、山賊のヘッドと思しきエルナーニが、
エルヴィーラという女性と出会い、恋に落ちているらしいことが歌われますが、
エルヴィーラはアラゴン王国(今のスペインの一部)に城を持つシルヴァ家の人間。
しかし、どうやって二人が出会い、どうやって恋に落ちていったか、などといったことの説明は一切なく、
いきなり二人は恋におちているのである。だって、まだまだベル・カントの影響濃い作品だから、
そんな細かいことは聞きっこなしなのである。(『トリスタン~』とはえらい違いである。)
しかし、彼女の叔父のドン・ルイ・ゴメツ・デ・シルヴァ(オペラ中では単にシルヴァと呼ばれる)も、
彼女を愛しており、その豊かな財力と権力をバックに無理矢理彼女との結婚に持ち込もうとしています。

そのシルヴァから、エルヴィーラを奪い返すため、みんなの力を貸してほしい、と訴えるエルナーニ。
”それが叶わぬなら、俺は死ぬ。”、、なんて、極端な男なんだ!
しかし、それもこれもベル・カントのせいなので、軽く通りすぎるべし。
どうやらそんな極端な男ながら、みんなの心は掴んでいるようで(で、その理由は後ほど明らかになる。)
よし、奪い返すぞ!と盛り上がる山賊たちなのでした。


その薄暗い山中のセットから一転して一幕二場はシルヴァ家の城の中。
大きな額縁(ゆうに2メートル X 5メートルはあるでしょうか?)がかかった舞台上手側の壁と、
下手側から風をあててなびかせた大きなカーテンが印象的。
奥にある玄関から数段の階段を下りると、手前におかれたエルヴィーラの座る長椅子が置かれている。
まるで玄関とエルヴィーラの部屋が合体したかのような間取りで実際にはありえなないのですが、
これが舞台に現われると一切不自然さを感じさせず、美しい色合いに、観客から拍手。

すかしっ屁アリア、”エルナーニ、私を連れて逃げて Ernani, involami ”。
エルヴィーラ役のラドヴァノスキー、この人は長身で舞台栄えがし、
特にこのプロダクションは非常に衣装が豪華なのですが、その衣装に食われることなく、
たたずまいは非常にエレガントでした。声にやや重みのある彼女なので、
この役にもマッチしていないとは思わないのですが、
立ち上がりのこのアリアで細かい装飾歌唱を歌いきるのは難しいのか、
もう少し滑らかに音を動かしてほしいかな、という不満は残りました。
あと、特に立ち上がりでの高音の出し方が、少しフレミングの歌唱を彷彿とさせる、
あわわわ、、とうがいをしているような響きになるのは残念。
ただ、幕がすすむにつれて段々と消えていったので、立ち上がり特有のものかもしれません。
フレミングよりは彼女の方がアジリタの技術はあるように思います。

エルヴィーラ、叔父シルヴァによる強引な結婚を間近に控えて神経がたっているのか、
侍女にあたりまくるといういやな女ぶり。このプロダクションでは、結婚式用のヴェールをたずさえて
やってきた侍女からそれをひったくって床に叩きつけるという横暴さを発揮。
なぜ、こんな女が、3人もの男性に”清らかな女性よ”と言い寄られるのか。
女の私からすれば、”ぶるんじゃないわよ”ってなもんである。
しかし、このあたりの性格上の不整合ぶりもつっこんではいけない。なぜだかはすでに説明したとおり。
そう、これもベル・カントの影響がなせる業である。

そこに突然あらわれたにやけた男、トーマス・ハンプソン、いえ、ドン・カルロ。
このドン・カルロは、実在した人物で、神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン一世の長男。
16歳でスペイン王となり、19歳で神聖ローマ帝国皇帝となった史実に合わせるとすれば、
このオペラの中では、19歳のはずである。
トーマス・ハンプソンが19歳、、、うぬぬ。
ま、それは置いておいて、エルヴィーラの前に現われるこのシーンでは、まだスペイン王という肩書きです。
シルヴァ家は名家なので、スペイン王とエルヴィーラが顔を見知っていても、
ゆえに、ぶりっ子エルヴィーラにこれまた骨抜きにされていたとしても、話はおかしくありません。
城に入る際、身分を隠してしのびこんだドン・カルロですが、
エルヴィーラには、王であることがすぐにわかります。

トーマス・ハンプソン、この人はいつ舞台で見ても、
ちょっとにやけた彼の素がちらちらするように思うのですが、このオペラの中で描かれている
ドン・カルロの人物像には、これくらい軽薄でもおかしくはないかもしれません。
しかし、歌はここまで、ジョルダーニ、ラドヴァノフスキー、そして、ハンプソンという、
登場順どおりによくなっているように感じます。
特に、ラドヴァノフスキーからハンプソンの間はひょいとスタンダードが上がった感じ。
やはり、にやけてはいても、ここらあたりが、スター歌手といわれる所以なのでしょう。

ただし、ラドヴァノフスキーもだんだんとこのあたりから調子があがりはじめ、
なぜ自分になびかないのか、と問い詰めるドン・カルロに、
”どんな人の心にも秘密があるものです Ogni cor serba un mistero  ”というフレーズは、
彼女の少しスモーキーな声のカラーにマッチしているせいもあり、
また歌いまわしも繊細かつ丁寧で、大変よかったと思います。

自分の欲しいものは手に入れることに慣れている王は、
強引にエルヴィーラを自分のものにしようとしますが、エルヴィーラはナイフで応戦。
しかし、王にナイフなんか向けて、大丈夫なのか、エルヴィーラは??!!

このプロダクション、衣装が非常に豪華で見ごたえがあるのは先にも書いたとおりですが、
エルヴィーラのドレスもそれはそれは布を贅沢に使った、裾のドレープの長い、
見ているだけで、その重さを想像して、こちらの肩がこりそうなものなのですが、
その長いドレスの裾を思いっきり踏みつけていたハンプソン。
それに気付かないまま、怒りを表現しようとその場から勢いよく離れたところに向かって
歩をすすめようとしたラドヴァノフスキーが動けなくなっていたのがまるで漫画のよう、、。
王よ、いくら自分の思いどおりに人生を進めてきたとはいえ、
”自分の妻にならないか?(女王ですよ!女王!)”とまで言っている相手の
女性のドレスの裾を踏むとは失態です。
そんな無神経なことだから、エルヴィーラに袖にされるのだ。
情熱的な表情で歌えばいいってもんじゃないのです。




さて。そこになぜだかいきなりエルナーニ登場!!
もう度重なる強引なストーリーに、”あんた、一体どうやって城にしのびこんだのよ?”と、
聞く気も失せるというものです。

エルナーニの山賊としての悪評はなんと王の耳まで届いていたらしく、
(エルヴィーラよ、つくづく、そんな男とどこでどうやって知り合ったのか?!)
名前からすぐにどういう人物か、気付いた模様の王。
一方エルナーニは、王に向かって、自分の家系の恨みつらみを爆発させます。
これで、どうやら王が今の地位にあがる過程で、エルナーニの一族を破滅させたことがわかります。

ここでは二人の間に入っておろおろするラドヴァノフスキー=エルヴィーラが、
跪いた状態から、おそらく靴がドレスの裾の大量の布に埋もれてしまったか、
なかなか立ちあがれず、四苦八苦しているのに、
男二人は怒り心頭に達するあまり、愛する女性の窮地に気づかず。
ラドヴァノフスキーの奮闘はかなり長い間続いており、つい観客からも笑いがこぼれました。
だめだな。この二人、本当に。

さて、愛する人の窮地にも気付かぬほど我を忘れる怒りで一触即発状態のそこに、
”わしの家で何をやっとんじゃー!!”と怒り心頭の体で入場の、シルヴァ叔父。
いやいや、彼が怒るのも無理ないです。
ほんと、人の家に勝手にあがりこんで、剣をも交えそうな勢いなんですから。この人たちは。
しかも、自分が結婚しようとしている姪っ子の部屋に若い男が二人も!!!
きれろ!シルヴァ!!!!

ここで、自分の人生で、どれほど自分がエルヴィーラを大切に思って来たか、
彼女を百合のように清らかな人間だと思ってきたのにこんな裏切りに合うとは、と切々と歌う、
”悲しや、麗しき人の Infelice! e tuo credevi  ”は、私がこのオペラでは一番好きなアリア。
これを聞くと、歳をとっているという理由でシルヴァを無下に扱うエルヴィーラがひどい女に思えてきます。
というか、この作品で、一番行動と性格に筋が通っていて、
かつエルヴィーラを一途に愛しているのはシルヴァなのであって、
結局、彼のその怖いまでに熱すぎる性格と想いが、最後には不幸を呼ぶという意味で、
この作品は彼が中心にあると思います。
だから、私にとって、この作品の主人公はエルナーニではなく、シルヴァなのです。

さて、その大事な役、シルヴァを歌ったのは、フェルッチョ・フルラネット。
日本でも何度も歌ってくださっているイタリア・オペラの大御所バスですが、今年59歳。
先日『トリスタン~』でマルケ王を歌ったサルミネンは62歳と思えぬ声量でしたが、
フルラネットはさすがに少し声量の面、またワブリング(延ばす音が、細かく大きくなったり、
小さくなったり、を繰り返すので、うわんうわんうわん、、というような音に聴こえる)
が入ったり、で、これで表現力のないバスが歌った日には、かなり聴くのが辛い歌唱になるところですが、
そこをそうさせていないところが素晴らしい。
いや、逆にこの声で、人の心を動かせる歌を歌えるという事実がすごいです。
シルヴァの老いに対する恐怖と、その老いを否定したいがゆえの血気盛んさ、
その隙間に花のように咲いたエルヴィーラへの思い、と、全てを表現していて、
本当に見事でした。
こんな歌を聴くと、3人の中でシルヴァが一番素敵に見えてくるではないですか!

その大事なお花、エルヴィーラに手をつけようとはわしが許さんわ!
わしが直に相手になってやる!!と、エルナーニとドン・カルロを煽るシルヴァ。
”いや、それはやめておきましょう”と、身を明かさぬまま、円く事をおさめようとするドン・カルロ。
一層つめよるシルヴァ。
やむなく、王の従者リッカルドの”王でござる!”宣言と同時に、
ドン・カルロがまるで遠山の金さんのように、がばーっ!と、
かぶっていたケープを脱ぐと、そこにはきらきらの王様服に身をつつんだスペイン王、ドン・カルロが!!!

さっきまで剣を抜け!と迫っていた相手が王とは!!!!!
驚愕の事実にびっくり仰天のシルヴァ。
しかし、悲しい性で、王への服従は絶対というのが身にしみついている。
すぐさま打たれた鉄砲玉のように頭を地面にすりつけ、叩頭礼。

カルロは、人の家に勝手にあがりこんだどさくさを隠蔽するかのごとく、シルヴァを赦し、
(正しくは、メトのプログラムにあるとおり、神聖ローマ帝国皇帝の任命を待つ身であるドン・カルロが、
大きな勢力を持つシルヴァの支持をとりつけるため、というのが真の理由である。)
また、エルナーニの命も救うのですが、王の、この19歳とは思えぬ粋さと計算高さに比べ、
エルナーニは、エルヴィーラに、”今は危険すぎるから、黙ってこのまま逃げて!”とたしなめられるまで、
激昂している猿のような男なんである。
つくづく、エルヴィーラ、こんなエルナーニの、どこがいいの?!

Part II に続く>


Marcello Giordani (Ernani)
Sondra Radvanovsky (Elvira)
Thomas Hampson (Don Carlo)
Ferruccio Furlanetto (Don Ruy Gomez de Silva)
Wendy White (Giovanna)
Keith Miller (Jago)
Ryan Smith (Don Riccardo)
Conductor: Roberto Abbado
Production: Pier Luigi Samaritani
Set Design: Pier Luigi Samaritani
Costume Design: Peter J. Hall
Grand Tier B Odd
ON

***エルナー二 ヴェルディ Ernani Verdi***

ListenLive: TRISTAN UND ISOLDE (Fri, Mar 28, 2008)

2008-03-28 | メト on Sirius
メトからのお詫び&リベンジといえる、本日のリアル・プレイヤーによる『トリスタンとイゾルデ』の
ライブ・ストリーミング
を今聴いていますが、
(早い話、コンピューター上で生の音源を聴ける、ということです)
いやいや、メトのこの力の入りようはすごいですね。
予定通りのキャストで行けば、ヘップナー、ヴォイト、デ・ヤングの同時キャストは実現しないはずが、
なんと、もともとブランゲーネ役に予定されていたウレイを引き摺りおとし、デ・ヤングを投入!!

これにてついに今シーズンの『トリスタン~』の売りであったチームが初めてメトにて顔を合わせることに
なったわけですが、この急遽組まれたライブ・ストリーミングにこれだけの力を入れることにこだわるとは、
メト自身、ライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の公演時にとった
スミスを呼び寄せるという、あの時点での最善の策でさえ、不本意なものだったのかもしれません。
”見ろ!本当はこういう公演になるはずだったんだぞ!!”というメトの主張が聞こえてくるようです。

そして、確かに、今日の演奏は、ライブ・イン・HDの日の公演よりも数倍いい。
ライブ・イン・HDの日に生の公演を見た私には、いかにも悔しいではありませんか、、、。
もうこれは、単純なヘップナーとスミスのどちらのトリスタンがいいか、とか、
そういう単純な比較を超えて、キャストとオケが、
この放送で世界中を唸らせてやる!という気合が感じられる。
こういった特別な機会だけが作れる空気が音に溢れています。

さて、私、普段は一切PCで音楽を聴かないので、ずっとPC用のスピーカーなどという
気の利いたものは所有しておらず、この公演のためだけに、早速コンピューター・ショップに赴き、
高価なスピーカーを売りつけようとしてくるアラブ系と思しき店員のお兄さんと戦って来ました。
いくら高価なものを買ったって、きちんとしたオーディオ・システムにかなうわけはないので
そこそこのものでいい!と、そのそこそこなものを購入したところ、
いやー、本当にそこそこで、音がつながった途端、その痩せた音、
オケの細かいニュアンスの聴き取りにくさにいらいらいたしましたが、
人間の耳というのはすごいもので、聴き取りにくければ聴き取りにくいなりに、
だんだん慣れて、だいぶエッセンスを抽出できるようになってきました。
今、二幕目を聴いていますが、最初のいらいらはだいぶ軽減されました。
ただ、申し上げておきたいのは、今日の公演はそんなお寒い音質で聴いていますので、
シリウスの放送(こちらはいつもきちんとしたオーディオ・システムにつないで聴いています)やら、
実際オペラハウスの中で聴いた音と単純比較するのがやや難しいということです。
しかし、難題になればなるほどやる気が起こるというもの。がんばります。



一幕

こうしてマイクで拾われた音を通して聴く限り、やはり、
3/25(火)の放送でイゾルデ役を歌ったベアードより、ヴォイトの方が数段歌の完成度は高い。
ヴォイトの歌はこうして聴くと、一つ一つの音を丁寧に、どれもおろそかにせず歌っているのがいい。
今日みたいな”たぎっている”公演でない時は、そこが逆にフォルムにこだわりすぎて、
冷めているような印象を与えることになっているのかも知れませんが、
今日はヴォイト、最初からものすごく飛ばしていまして、これはライブ・インHDの時以上の出来です。
これ位パフォーマンスが熱いと、彼女の歌のフォルムの綺麗さとのバランスがとれてきて、
冷めているという風には全く聴こえないです。

ブランゲーネ役のデ・ヤングは少し今週25日の火曜日の公演から調子を落としているように感じられ、
今日も、火曜ほどではないのですが、ややその名残を感じます。

もともと”早く発火したいー!”という空気が満ちみちていましたが、
幕の最後の数分間で、急激にぼっ!!と炎がたった感じで、大盛り上がりのまま幕。
あのライブ・イン・HDの時は、ふーん、なるほど、という感じの拍手だったのに対し、
今日は観客が本当に熱狂している様子が伝わってきます。

ニ幕

このニ幕でオケの音が入ってきた途端、今シーズンのメトのこれまでの『トリスタン~』の公演で、
ほとんど感じられなかった緊張感というものが、やっとやっと音に出てきました。
こういう音を聴かせてほしかったのです。

そして、もうこの幕は、、、なんといったらいいのか!!
ヘップナーとヴォイトの二人が本当に素晴らしい。二人ともががっぷり組んで、一歩も譲っていない。
この二人は、声の相性の面でも、今までのキャスト変更のせいで
数々あったテノールとソプラノの組み合わせ(マクマスター vs ヴォイト、リーマン vs ヴォイト、
リーマン vs ベアード、スミス vs ヴォイト、ヘップナー vs ベアード、そしてこのヘップナー vs ヴォイト。
ふー、まるで数学の組み合わせの問題のようです。)の中でも、もっともよいのではないでしょうか。
この放送で聴く限り、二人の声のボリューム、カラー、ともにぴったりだと思います。

時に(特に疲れて気が入らなくなってきたときか?)、音のずりあげ、ずりさげがヘップナーに
聴かれることは25日に書いたとおりですが、
今日のこの幕では何度か微妙なものがあった以外、総じてよく踏みとどまっています。
しかし、彼は第三幕こそが正念場。そこでこそ、このニ幕のように踏みとどまっていただきたい。

ヴォイトは、今日こそ、私が聴いたなかで最高の歌唱です。
声のコントロールに本当に神経が行き届いていて、それでいて熱さも感じさせる。
ああ、こんな歌唱を家で、しかもこのお寒いスピーカーを通して聴かねばならないとは何の因果か、、。

25日のベアードも悪くはありませんが、私には彼女の金属的でぎすぎすした声は、
(ニルソンをはじめとする、イゾルデ歌いとして名高いソプラノたちも、
多少声が金属的ではあっても、決してぎすぎすした声ではない。)
私には、このイゾルデという役にやや違和感があります。
もともとこのイゾルデという人は具体的にどういう人なのか人物像を把握するのが難しく、
どちらかというと、ある概念や観念を人間として表現したという方がぴったりくるように感じるのですが、
それにしても、イゾルデが一幕のほとんどをいらいらして過ごすのは、
根がヒステリー女だからなわけではなく、自分の愛する男性が、これまた自分を
愛してくれていることに間違いがないのに、
運命に逆らおうとするのが耐えられないからで、
恋におちたとはいえ、自分の許婚の敵である人間を献身的に解放したり、
そのトリスタンのことを一途に思い続けたり、
(だって一度トリスタンは彼女をアイルランドにおいて、海を越えた自国に帰っているわけで、
その間、遠距離恋愛なわけです。いや、遠距離恋愛どころか、当時簡単に連絡もとれたかどうか、、。)、
芯が強いながら、なかなかに情の深い女性のはずです。
ベアードのイゾルデは少し芯の強い方に声と歌唱が傾きすぎているように私には感じられ、
そんな激しさだけではなく、情の深さも声から感じられるヴォイトの方が、
ちょっとおっとりしすぎていると感じる人もいるかもしれませんが、私の好みです。

見張りの歌でデ・ヤングが最後に出した高音は私の寒いスピーカーでは、
非常に音が割れて聴こえたのですが、これは彼女の声のボリュームがすごくて、
マイクが綺麗に音を拾いきれなかったのか、
もともと彼女の声が割れ気味だったのか、ちょっと判断がつきません。

メロート役のガートナー、がんばってますね。
ほんのちょい役ですが、こういうちょい役を丁寧に歌う歌手が私は大好きなのです。

そしてマルケ王を歌ったサルミネン。
25日のシリウスの放送の時と同じく、お歳が微妙な旋律の取り方に出ている気がしますが、
この方は、実際にオペラハウスで聴く方がずっと良く聴こえる歌手のような気がします。
こういった放送媒体では、もちろん、しっかりした声だな、という印象は十分受けますが、
それでも直で聴いたときの、あのどしーんとした重さに比べたら、
その70~80%くらいの雰囲気しか伝わっていない気がします。

ニ幕と三幕の間のインターミッションでのインタビューは、
またしてもやる気満々のメトが送り込んできた秘密兵器。
それはジャニス・ベアード。そう、3/14のヴォイト腹痛事件では幕の途中からイゾルデ役のカバーに入り、
3/25には体調不良でキャンセルをしたヴォイトに代わって全幕を歌った彼女です。
もうこの際、スミスもインタビューに連れてきたら?と思うほどの全兵器投入ぶり。
NY出身の彼女、キャリアがヨーロッパで始まり、
ドイツに住んで15年以上経つ云々という話がありましたが、
そのせいで英語を忘れてしまったのか(そんな馬鹿な、、)、会話のテンポに独特の妙な間があって、
気さくながらやや天然っぽい雰囲気がある人です。
写真や声から、”きりきりきりっ”としたタイプの女性を想像していたので、少し意外でした。


三幕

ここはヘップナー最大のふんばりどころ、かつ危険地帯。
なぜなら、この幕で彼の歌が感情に流れてフォルムをあまりにも崩しすぎるように、
25日の放送では感じられたので。
彼は高音の方が逆に綺麗なように感じます。
そこから跳躍して下がった音とか、中音域での音の移動の時に、
表現が難しいのですが、”むにゅーっ”と音が動くような声の出し方をするのが時に許しがたい。
しかし、今日はずっとずっと25日よりムニュ度が少ないです。
ウェブで聴く限り、高音の安定感もあります。
また、目の前に現われたイゾルデに向かって、死の間際に吐く最後のトリスタンの言葉も、
25日には虫の息なのを表現しようとしすぎて、音が下がりすぎていたのですが、
今日のこの微妙な下げ方は適切。これ位なら、こちらもぎょっとせずに聴けます。

”愛の死”のヴォイト。
今日の彼女の”愛の死”は他のどの日とも歌い方が違っていて、
まるで、オケと一緒に呼吸をしているような歌を聴かせています。
この箇所で、役の魂らしいものを彼女が感じさせたのは私が聴く限り今回が初めて。
出だしのところなんかは、イゾルデの心の奮えが伝わってくるようでした。
これでこそ、『トリスタンとイゾルデ』です。

放送のパーソナリティであるマーガレット嬢とウィリアムも、幕が降りた後しばらくは感極まって、
喋るのが億劫そうだったのが印象的でした。
こんな歌が聴けるとわかっていたなら、アラブ系のお兄さんに導かれるまま、
もう少し上等なスピーカーを購入してもよかったのかも。

メトのリベンジが見事に成功した金曜の夜となりました。
”見ろ!本当はこういう公演になるはずだったんだぞ!!”
確かに。これがライブ・イン・HDにのっていたなら、、、とそのことが悔やまれます。
たった今、ヘップナーとヴォイトががっちりと抱き合って喜びをわかちあった模様。
この日が、この『トリスタン~』で最初で最後の共演となった二人もさぞ嬉しかったことでしょう。
ウェブ・ストリームを決定したメトに感謝。


Ben Heppner (Tristan)
Deborah Voigt (Isolde)
Michelle DeYoung (Brangane)
Matti Salminen (King Marke)
Eike Wilm Schulte (Kurwenal)
Stephen Gaertner (Melot)
Mark Schowalter (A Shepherd)
Matthew Plenk (A Sailor's Voice)
James Courtney (A Steersman)
Conductor: James Levine
Production: Dieter Dorn
Set and costume desing: Jurgen Rose
Lighting design: Max Keller
SB

***ワーグナー トリスタンとイゾルデ Wagner Tristan und Isolde***

急遽決定! ヘップナーとヴォイト共演の『トリスタン~』 ライブ・ウェブ・ストリーム

2008-03-27 | お知らせ・その他
3/28(金)に予定されている今シーズン最後の『トリスタンとイゾルデ』は、
シリウスなどの放送がもともと一切予定されていなかった公演ですが、
あまりにあまりのキャスト変更劇へのメトからのお詫びの意味もあってか、
急遽この公演が、ウェブ上でライブ・ストリーミングされることに決まりました。

最後のどんでん返しがない限り、この公演で遂にヘップナーとヴォイトのコンビが聴けるはずです。
(ただし、ブランゲーネはデ・ヤングではなく、ウレイ。これはもともとのキャスティング通り。)

公演はNY時間の3/28(金)の夜7時から。
日本時間は3/29(土)の朝8時からとなります。

PCとスピーカーと『トリスタン~』への愛をお持ちの方は(三つ目は必須ではないですが)
上の時間にこちらのURLにアクセスを。ライブ・ストリーミングの画面への案内が出るそうです。

http://www.metoperafamily.org/metopera/

追記:事前にRealPlayerのインストールがされていることが必要です。

http://www.real.com/


Sirius: TRISTAN UND ISOLDE (Tues, Mar 25, 2008)

2008-03-25 | メト on Sirius
今シーズンの『トリスタン~』のキャスティングは番狂わせの連続ですが、
どうやら最後の最後まで混乱状態で突っ走るようです。

今日は、ウィルスへの感染およびアレルギーでプレミアの公演からトリスタン役を全て降りていた、
(そして、その交代劇は3/22の『トリスタン~』のレポでふれたとおり。)
ベン・ヘップナーが初めて舞台にあがるということで、大いに期待が高まりましたが、
何と今日の公演では、まさかのまさかで、ヴォイトが欠場。
かわりに、腹痛事件でヴォイトのカバーに入ったジャニス・ベアードがイゾルデ役を再び歌うことになりました。
(最初の写真はその腹痛事件が発生した3/14の公演で、トリスタン役のリーマンを相手に歌うベアード。)

最後に一つだけ残っている3/28の公演では、もともとブランゲーネ役がデ・ヤングではなく、
Wray(ウレイと読むのでしょうか?)の予定だったので、
これでとうとう、もともとこの公演のセールス・ポイントの一つであった、
トリスタン=ヘップナー、イゾルデ=ヴォイト、ブランゲーネ=デ・ヤングの三人同時キャストは
一度も実現せず、終わってしまうことになりました。

しかし、観客は今シーズンの今までの『トリスタン~』の公演に比べると、最もあついかもしれません。
これは、いつも週の頭の月曜と火曜の観客が冷めていることが多いメトでは珍しいことです。
みんな、ヘップナーへの期待大です。

一幕に関して言えば、音作りはほとんど3/22の公演で受けた印象と同じ。
レヴァインの指揮とオケの演奏は、小ぎれいにまとまってはいるのですが、
私にはやや表面的に聴こえます。

ベアードはがんばっていますが、高音になるとかすかに空虚な音が入るのが少し気になりました。
吐き出している息全てが音となって消化されて出ているわけではないような、、。
オペラのどんな役もそうですが、特にこの消耗度の激しいイゾルデ役を歌うには、
1立方ミリの息たりとも無駄にしてはいけない。
その息の無駄遣いがなくなれば、もっともっとパワフルな歌も歌えるのではないかと思います。
ということで、全音域を通しての音の安定感となめらかさは、ヴォイトの方が上のように感じました。
ベアードの強みは、役に体当たりなところ。ヴォイトのスマートな演唱に比べると、熱い歌唱です。

さて、ヘップナー。
ラジオで聴いただけ、しかもブーイングの嵐を受けていた初日のマクマスターはもちろん、
実際にオペラハウスで聴いたスミスと比べても、一幕だけで判断するなら、
私はヘップナーをとるかもしれません。


(この日の公演のヘップナー)

やはり、この役にはある程度のロブストさ、というか、強さを感じたい。
欠場が続くヘップナーに、一時は、”もしや、この人、この役を歌えないのか?”とまでの疑問を持ちましたが、
すみませんでした、と今、私はこうべを垂れております。
歌だけで言えば、役の雰囲気には結構合ってます。
少なくとも私の好みには合っている。
こんなに今日歌えるなら、3/22の土曜もきっと歌えたんだろうなー。
でも、ゲルプ氏も、”22日は歌ってもらうかもしれませんし、歌ってもらわなくても大丈夫かもしれません”
なんてふざけた条件では、スミスと交渉が出来なかったでしょうし、
連れてきた以上は歌ってもらわなければならない、という辛い事情があったのでしょう。
もし、ライブ・インHDの日に、スミスに来てもらうことにしないで、
それでヘップナーが回復しなかった日には最悪の事態に陥ってしまったところですから、
これが最善の策ではあったと思うしかないのでしょう。
ああ、でも22日はヘップナーで聴いてみたかったかも、、

しかも、もう、憎たらしいくらい、一幕のヘップナーはがんばっていました。
降板さわぎの穴埋めをしようと、それはそれは一生懸命、、。

観客の熱い拍手と声援に、ニ幕がはじまりました。




ベアードの声が一幕に比べると、よく出てくるようになりました。
ただ、彼女はこのあたりの役を歌う歌手にしては細身だからか、
発声に少し振り絞るような、やや人によってはヒステリックにも感じられる響きが入ります。
二重唱の中の高音には、”そのまま強引に出して大丈夫?”とちょっとひやひやさせられるところもありました。
対するヴォイトのイゾルデはもっとまろやかな印象の歌唱。

そのベアードの歌から受ける感覚は、デ・ヤングの歌がかぶってくるところでも、強調されます。
デ・ヤングの声はわりとふくよかな感じの声なので。
しかし、全体的には、きっちりと歌っているし、ベアード、この役の大変さを思うと、大健闘です。

さて、22日はオケが厚い箇所で、スミスとヴォイトの声量のアンバランスさが気になりましたが、
Siriusの放送で聴く限りは、ヘップナーにはそういう不満がなく、
ベアードとの声量のバランス、それから、声のカラーの相性も悪くはないのではないかと思います。
そんな二人なので、二重唱の出来が悪いわけがない。

ただ、一つだけ不満を挙げるなら、特にこの二重唱で、ヘップナーが
スクーピング(ある音を歌うのに、どんぴしゃをアタックせず、下からずりあげる。)まがいの
音をいくつか聴かせたこと。
歌唱の構成上考え抜かれた、意図的な、かつ、趣味の悪くない程度でもちいられるものしか、
スクーピングに関しては許せない私ですので、これには思わず、右の眉がぴくっ!となりましたです。
(ワーグナー歌手ではありませんが、イタリア人歌手マルチェロ・ジョルダーニは、
そのスクーピング罪のかどで私の中ではオペラ刑務所送りになっております。)
ただ、以前からヘップナーは軽度の”ややスクーピング”が見られることが多かったので、
これからも要注意人物としてウォッチしていこうと思います。

あと、気になったところでは、デ・ヤングが今日は少し本調子でないのか、
彼女にしては珍しく、やや音が下がり気味になっている箇所が複数ありました。
彼女からこのような歌を聴いたのは初めてかもしれません。

しかし、ヘップナー、こんなに飛ばして、三幕まで持つの?というくらいの熱唱。
バーンアウトしないように!!
現在、二重唱の終わりに差し掛かっていますが、今のところ疲れらしきものは見えていないです。

マルケ王を歌うサルミネンは、こういった放送で歌唱を聴くと、
ああ、やっぱり声がお歳を召してるなあ、と感じてしまいました。
微妙な声の揺れも拾われてしまっています。
オペラハウスでじかに聴いた時には、ラジオで聴こえるよりはもっとずしーんと体に響く声で、
そちらに圧倒されて、衰えはあまり感じなかったのですが、、。
放送媒体とは恐ろしい、、。

三幕。

今日のクルヴェナルは22日とは変わり、フィンクが担当。
シュルテよりも少し年増な声で、少し老けた部下風。

ヘップナー、イゾルデを待つ場面の頭の方では、少し音が高めに入ったり、
コントロールがほんの少し甘くなったように感じさせられます。
声量はまだまだしっかりしてますが、微妙にお疲れか?
長距離を走るときと同じで、ある部分で突然疲れが襲ってくるのかもしれないです。
しかし、”イゾルデの船か?!”、笛の音が聴こえて、いや、違う、とがっかりするあたりから、
また調子を取り戻しはじめました。
踏みこたえてます、ヘップナー。
ただし、突然、そこから少し泣き節が強い歌唱になりました。
うーむ。泣き節が趣味の悪い一線を通りこしたら、これもオペラ刑務所直行ですぞ。
これ以上、下品にならないようにお願いします。

残念ながら、オケの演奏はここまで聴きすすめても、全体の印象としては、変わらず。
レヴァインの指揮は、作品によっては嫌いでないのですが、
こと、『トリスタン~』に関しては、もしかしてご本人があまりこの作品に思い入れがないのでは?と
思わせるほど、妙なよそよそしさ、作品との距離感みたいなものがあるように私には感じられます。
なので、つい、オケだけの演奏箇所になると、トイレに立ったりしてしまいました。すみません。
本当言うと、がっちり私のハートを掴んで、トイレに行く間も惜しい!という風に思わせてほしいんですが、、。

さて、イゾルデの船が見えてからは、声が裏返るのも辞さぬ大熱唱のヘップナー。
この歌唱表現は非常に評価がわかれるところかもしれません。
私はこの三幕に関しては、”もう少し声量があったなら”という条件つきで、
スミスのトリスタンをとります。
オペラは、芝居ではなく、あくまで歌がベースにありますから、
絶叫で声が度々裏返るというのは、私はあまり好きでないゆえ。
スミスのあの三幕での丁寧な歌、あれでもう少しオケの上を通ってくれれば、、。
ただ、ヘップナー型の表現が好きだ、という人もいらっしゃるには違いありません。

三幕では、イゾルデ役を歌う歌手はトリスタンとの再会の場面まで出番がないのですが、
ベアードはよく声を保ち、出てきたときには、丸みを感じさせる綺麗な声でした。
この方はペース配分がなかなか上手で、一、二幕よりも、声がのってきているようですので、
”愛の死”がどういう出来になるか楽しみ。

こうして通して聴いてくると、ヴォイトの演じるイゾルデよりも、
このベアードが演じるイゾルデは若々しい感じがします。
10歳くらい年齢が違う感じでしょうか。

そのベアードのイゾルデが歌う”愛の死”に入りました。
うーん、言葉の扱い、細かく言うと、言葉の音節の音符への当て方の微妙なタイミングに
改善の余地があるでしょうか。
あと、彼女の発声の仕方に原因があるのかも知れませんが、ヴォイトに比べると言葉が不明瞭。
極端に言うと、子音がふっとんで、母音しか聴こえない、という感じに近いです。
まるで、あいうえおの歌を聴いているような、、。

しかし、スタミナを最後まで持続させたのはお見事。

22日の公演と比べての良し悪しは、結局好みの問題に落ち着くでしょう。
一幕直後には、”ヘップナーで聴いてみたかった”と言った私ですが、
今日の三幕での歌唱にやや引いてしまいましたし、ヴォイトのイゾルデは悪くなく、
全体的なバランスから言うと、22日を観て、それはそれでよかったのかも、という気がしています。


Ben Heppner (Tristan)
Janice Baird (Isolde)
Michelle DeYoung (Brangane)
Matti Salminen (King Marke)
Richard Paul Fink (Kurwenal)
Stephen Gaertner (Melot)
Conductor: James Levine
Production: Dieter Dorn
Set and costume desing: Jurgen Rose
Lighting design: Max Keller
OFF

***ワーグナー トリスタンとイゾルデ Wagner Tristan und Isolde***

THE FEAST OF THE RESURRECTION (Sun, Mar 23, 2008)

2008-03-23 | 演奏会・リサイタル
人種のるつぼ、宗教のるつぼ、のNYですが、
キリスト教を最も勢力のある宗教の一つに数えることに
異論のある人はいないと思います。
今日は、そのキリスト教において、ある意味、キリストの誕生日であるクリスマスよりも
重要であるともされている復活祭の日曜日(イースター・サンデー)。

そのイースター・サンデーに教会で行われるセレモニーでは、主に金管楽器が使われます。
NYにどれほどの数の教会があるか、正確な数字はわかりませんが、
このイースター・サンデーの日には金管楽器の奏者はひっぱりだこに。
クラシックのオーケストラのメンバー、ブロードウェイで演奏している人たち、
フリーランスの奏者、はたまたジュリアードをはじめとする音楽学校の生徒までが、
教会に狩り出されることとなります。

NYの中でも比較的に裕福な人たちが暮らすとされているアッパー・イースト・サイドに位置する
このとある教会では、例年、メトロポリタン・オペラのオケの金管奏者を何人か確保しており、
私、本当のところを申し上げると、典型的な日本人と同じく無宗教、
強いていえば、今は、仏教の教えが一番しっくり来る、というのが本音なのですが、
その、メト・オケの奏者たちが含まれている演奏者の方々の音楽の演奏が聴きたい、ということもあり、
今日はその教会にやってまいりました。
というわけで、罰当たりにも、この記事のカテゴリーも演奏会扱い。
でも寛容なイエス・キリストはお許しくださる、と身勝手に解釈して。

とはいえ、さらに説明させて頂くと、小さい時に英語を習ったのが地元の教会だったため、
いつの間にか英語のレッスンの後には土曜学校にデフォルトで通うことになってしまっていたり、
十代の中頃、一年だけ住んだアメリカでは毎週教会に通ったし、
またその後進んだ大学はカトリック系だったこともあり、色々聖書に関する授業をとったり、
クリスチャンではありませんが、人並みにはキリスト教に興味も敬意も持っていることは付け加えておかねばなりません。
いえ、キリスト教はある意味、西洋の世界観を形作っている基礎ですから、
オペラヘッドである以上、興味を持たないわけには行かないのです。

少しだけ宗教の話をすれば、私個人はキリスト教の教えそのものには、
素晴らしいものがあると思いますが、しかし、教会が発達していったその過程で、
複数の流派とその対立を生み出し、派によっては聖書を自分たちの都合のよいようにしか読まない、
といった姿勢が見られるのが気になります。
キリスト教に限らず、今や世界中の宗教が多かれ少なかれその傾向にあるようにも感じますが、
人々の間に素晴らしいものをもたらすと同時に、邪悪なものももたらしている場合もあるのではないかと、、。

話がそれましたが、今日のこの教会は、米国聖公会という派に属する教会で、
信者には富裕層が多く、全てのキリスト教諸派の中で、最もリベラルとも言われている流派です。

朝の十時、まずは金管の五重奏でスタート。
曲はジョヴァンニ・ガブリエリのCanzona per sonare No. 4。
実は去年も、この教会でイースター・サンデーを過ごしたのですが、
去年は、アマの奏者と思われる方が何人か含まれていたうえに、
曲も妙に野心的な新しい作品が多く、アンサンブルがぐちゃぐちゃで、
???とびっくりさせられた重奏ナンバーもあったのですが、
まず、今年は選曲がとてもよいうえに、プロの奏者率があがって、ずっと聴き応えのあるものとなっています。
(↑ だから、演奏会じゃないっつーのに!)
非常に短い曲ながら、きらびやかな金管の音が、これからの式の気分を盛り上げます。

続いて、その5人にオルガンとティンパニー(珍しい!)が加わって、
リチャード・ヒラートの”Three Pieces for Brass Quintet, Timpani, Organ"から、Canzonaを。
このヒラートという人は比較的現代の人なのですが(1923年生まれで、
まだ生きていらっしゃるようですから、比較的現代という言い方はいけませんね。
きっぱり、現代、です。)、
曲はむしろトラディショナルな宗教曲のような雰囲気。
ティンパニー??と最初は思うのですが、意外と全く違和感がなく、
ティンパニーがスパイスを効かせた感じでなかなか。

続いてはオルガンの演奏で、ハーバート・ハウエルズの"Six Pieces for Organ, No. 2"から、
Saraband (For the morning of Easter)。
いやー、本当に色んな曲があるんですね、この世には。
あえてイースター用に書かれた曲。なんともニッチな、、。
演奏されたとしても、年に一回ですからね、、。

そして、式の前の最後の音楽は、ヘンデルの『メサイア』から
”ラッパが響いて The Trumpet Shall Sound  ”。
新約聖書のコリント人への手紙 第一 第15章51-52節にある、
”聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、
みな変えられるのです。終わりのラッパと共に、たちまち、一瞬のうちにです。”
というレチタティーヴォ(叙唱)の部分から始まって、
その後に、”ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。”
というアリアが続きます。
通常はバスによって歌われるアリアのようですが、
今日歌ったのはバリトンのデイヴィッド・マクフェリン David McFerrinという方。
今すぐ、メトの舞台に立って歌えるかというとそれは厳しいですが、
しかし、歌の基礎はきちんとしているし、なかなかまろやかでかつ繊細な魅力的な声で、
きちんと観客の目を見据えて歌う度胸もなかなか。(←これ、オペラ歌手になる人には大事な要素です。)
帰宅して調べてみるに、すでにサンタフェ・オペラや、フロリダ・グランド・オペラの舞台に立っており、
なんと今年のナショナル・カウンシル(メト版スター誕生)の、
ニュー・イングランド地区二位に選ばれた実力の持ち主のようです。



しかも、この方、写真の通り、かなりの美青年。
はい、教会の中だって、見るべきものはきちんと見ますよ、私は。
いつの日にか彼が歌でブレイクして、
『今”観て”聴いておきたいオペラ歌手~男性編』に食い込んでくれるのを本当に楽しみにしております。
少し前半緊張していたのか、細かい音符の動きが少し甘く感じられるところもありましたが、
繰り返しの部分が重なるにつれて、どんどん良くなっていったので、研鑽あるのみ!

トランペットの演奏を務めたのは、
今日のメンバーの中で数少ないノンプロのアーサー・マレーという方。
後で聞いたところでは、なんと、この曲のスコアを持ってくるのを忘れたらしく(ちょっと、、あなた、、)、
記憶のみで吹いたそうです。すごすぎ、、。
この方、少し見た目がアンドロイドっぽいのですが、それが功を奏したか、
ものすごく落ち着いて見えたし、この話を聞くまで、そんなことがあったとは
思いもよらないような演奏でした。
少し肺活量が少ないのか、長めの音のお尻が苦しそうでしたが、大健闘といわねばなりません。
しかし、この曲は名曲ですね。もう一気に気分は復活祭です!!!

いよいよ式次第本体に突入。

聖書からの抜粋が読み上げられる隙間に、教会に参列した人は賛美歌を歌うのですが、
いやー、日本人に比べてアメリカ人は楽譜を読めない人が多いんでしょうか?
言っておきますが、私は音楽といえば、学校で習ったことしか知りませんし、
楽器を弾けるわけでもありませんが、音の長さと音が上がるか下がるかの違いくらいはわかります。

もう、あちこちから聞こえる奇声、変な拍子のオン・パレードに、
”ここは音が上がるんだってば!!”とか、
”四分音符二つじゃなくって、ここは付点四分音符と八分音符でしょうが!!!”
と叫びたくなりました。
音楽の心得のある方には耐えられない場所だと思います。

そんなアッパー・イーストサイドの住民の珍歌唱が聴けた曲は、
ラルフ・ヴォーン・ウィリアムズが作曲した、"Salve festa dies"、
パレストリーナの”Victory"、ヒンツェの "Salzburg"、
1708年に書かれたLyra DavidicaからのEaster Hymnなど。

また、合唱隊によって、ウィリアム・バードの"Anthem"なども歌われました。
この合唱隊、曲によっては、参列者とともにうたう中、通路を歩き過ぎていったりするのですが、
二、三人、お、これは?と思わせられる素晴らしい声の人もいるのですが、
あとは、若い子が多いせいか、喉声歌唱のメンバーが多い。
もう、これは基本的に発声をトレーニングしなおしていただきたい、合唱指揮の人に。
あのバリトンの方も、どさくさにまぎれて一緒に歩かされていて、私のすぐ横を通り過ぎていきましたが、
やはり、側で聴いても、全然発声方法が違いますね。
明日から、猛トレーニングに励んでください!合唱隊の方!!!

あと、ハンドベルのチームもいて、我々の頓珍漢歌唱に合わせて、ベルを鳴らしてくださいました。

やがて、ヨハネの福音書の20章1-18節の朗読があり、牧師のお話に続くのですが、
このヨハネの福音書からの抜粋が、もはや宗教の枠を越えて、非常に感動的な場面なので、
ここに紹介しておきます。

”さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。
そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
それで、走って、シモン・ペテロと、イエスが愛された、もうひとりの弟子とのところに来て、言った。
「だれかが墓から主を取って行きました。主をどこに置いたのか、私たちにはわかりません。」
そこでペテロともうひとりの弟子は外に出て来て、墓のほうへ行った。
ふたりはいっしょに走ったが、もうひとりの弟子がペテロよりも速かったので、先に墓に着いた。
そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中にはいらなかった。
シモン・ペテロも彼に続いて来て、墓にはいり、亜麻布が置いてあって、
イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、
離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
そのとき、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。
彼らは、イエスが死人の中からよみがえらなければならないという聖書を、
まだ理解していなかったのである。
それで、弟子たちはまた自分の所に帰って行った。
しかし、マリヤは外で墓の所にたたずんで泣いていた。
そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、
ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」
彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。
しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」
彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、
どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」
彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(=先生)。」とイエスに言った。
イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。
わたしはまだ父のもとに上っていないからです。
わたしは兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、
わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。
マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、
また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。”

牧師のお話は、コロサイ人への手紙 第3章1-2節にある、
”こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、
上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。”という聖書の言葉をベースに、
上にあるもの、天にあるものとは、すなわち自分の中にあるもの。
世の中を変えるために天の助けを借りるとは、すなわち、私たち自身の力を信じ、私たちの中から変えていくこと、
そうすれば、この世の不幸やいさかいにも少しは解決が見えるはずです、と、
その簡潔なメッセージの中に、この牧師の方の、今のアメリカが陥っている戦争をはじめとする
数々の不条理な事態に対するやるせない怒りが感じとれ、
短いながらも感動的な説教となっていました。

同じ牧師さんの去年の説教は長々としていて、途中で気を失いそうになるほどでしたが、
今年の説教の方がずっと参列した人の心に響いたはずです。

その後、牧師の言葉をきっかけにまわりの方と"Happy Easter"と声を掛け合いながら、
握手をしたり、抱き合って挨拶したり。

やがて、各列に銀色のお皿がまわってきて、いよいよ寄付の時間。
これは強制されるべきものではないので、額はいくらでもよいのですが、
場所柄もあり、中には高額そうな小切手を折って載せる人も。
開いてどんな金額が書かれているのか、確認したい衝動をぐっとこらえる。
このお金の一部は、このミサのすぐ後に開かれるホームレスの人たちのための、
無料ランチサービスなどに使われるよう。

間あいだに賛美歌が挟まる中、ホスチア(小麦粉を薄く焼いた白い食べ物で、
イエスの体をあらわす)と
ぶどう酒(イエスの血をあらわす)を頂きに、参加者一人づつ、順番に祭壇のそばまで行きます。
何列かにわかれているとはいえ、大きい教会だと、相当な時間がかかります。

座席に戻ると、隣のかなりお歳を召した女性に、”今日でこの教会に来るのは何度目?”
と聞かれたので、”二度目です”と答える。
(前回は去年のイースター。それから今日まで一度も来てません、とはとても言えない、、)
すると、その女性、どんどんおしゃべりのモーターがかかりはじめ、
”もうずっといらしているんですか?”と尋ねると、”もう何年もよ!”
そして、”毎年、『トッカータとフーガ』の演奏を楽しみにしているのに、
今年は、『メサイア』になっちゃったのよ。なんでかしらね。”とおっしゃる。
いや、そんな、来るのが二度目の私に聞かれても、、、。
後で確認すると、確かに、この女性がおっしゃるとおり、
去年までは、毎年、『トッカータとフーガ』が演奏されていたそうです。
音楽を楽しみにしていた人がいるというのは嬉しいものです。

と、そんな会話をしていたら、オルガンと合唱隊の歌で、
ドナルド・フィシェルという作曲家の"Alleluia No. 1"が。
すると、このおばさま、”ああ!これは私の大好きな!”と叫ばれ、
確かに美しいメロディーだな、と思いながら、二秒後におばさまを見ると、
瞼にハンカチをあてて涙ぐんでおられました。早っ!
でも、何か思い出、思い入れのあるメロディーなのかもしれませんね。
または、純粋に信仰の力で出た涙?
いずれにせよ、微笑ましいものです。音楽の力は偉大なり。

最後にいくつか賛美歌を歌って、Alleluia!と叫んで、全ての式次第が終了。

金管楽器と合唱によって、再びヘンデルの『メサイア』から、
”ほふられた小羊こそは Worthy is the Lamb "が演奏される中、
人々はお互いに挨拶しながら教会を後にしたのでした。

教会の外にでると、先にふれた無料ランチをあてにして、集まりはじめたホームレスの人々が。
私のような超よそ者(だいたい、私はこの教会に通っている信者でもないし、
そもそもこの教会に通っている人たちのアジア系率も猛烈に低い。)でも、
イースターという特別な機会ということもあってか、色々と話しかけてくださったり、
あたたかく受け入れてくれたのに対し、
教会の外のホームレスの人たちには、優しい言葉も、Happy Easter!という言葉すらも
かける人は一人もおらず、あの銀の皿に乗った小切手の姿が目に浮かんでは、
”お金は出すから、私たちには関わらないで。”ということなのかな、と
やや寂しい気持ちで帰途についたのでした。

***Easter Day The Feast of the Resurrection of Our Lord***

TRISTAN UND ISOLDE (Sat Mtn, Mar 22, 2008) Part II

2008-03-22 | メトロポリタン・オペラ
Part I から続く>

ニ幕が始まる前に、座席が隣合わせになったワグナー作品好きと思われる
同年代のオペラヘッドと思しき男性と少しおしゃべりをしました。
彼が思うには、特に前奏曲が非常にスローで、やや曲を殺しているように感じたそうですが、
それ以外の部分はなかなか演奏は良いように思うとの意見でした。
歌手も頑張っているし、特にトリスタン役を歌っているスミスは悪くないのでは?とも。

私は三幕が一番好きなのですが、彼はニ幕派らしく、
私が、”ニ幕はあの、トリスタンとイゾルデがずーっと、昼と夜がどうのこうのだとか、
二人で一体云々と延々と哲学的な会話をする場面が辛いです。
二人はメイク・ラブ中でしょ?なのに、そんな会話をまだしてんの?と思っちゃいます。”と言うと、
”ワグナーの作品が好きな人はそこがたまらないんだけども。”と笑われてしまいました。
しかし、彼が付け足した”でも、音楽は最高でしょう?”と言う言葉には賛成。


では、その第二幕。

結局マルケ王の妻となったイゾルデですが、その後もトリスタンと逢瀬を重ねています。
今日も夜狩りに出かけるマルケ王とお付きのものたちの隙をついて、トリスタンと会おうとしています。
セットは下の写真のように左右から木の枝を出すことで森を表現し、
黄色い部分にマルケ王が登場し、イゾルデの額にキスをし、狩に出かけていきます。
黄色がマルケ王、昼の世界=現世を表しているのは一幕で書いたとおり。
夜は唯一トリスタンと忍び会うことの出来る時間であり、
段々と、イゾルデの心の中に夜の世界、つまり死への渇望が強くなっていきます。
マルケ王のいる、現世(黄色)では、トリスタンとは永遠に一緒になれないからです。
このセットの青や黒い部分はその死の世界を表現しています。
写真では少しわかりにくいですが、中央の黒いものは塔状になっていて、
ブランゲーネはこの上に立って、見張りの歌を歌うことになります。



さて、一幕の航海のシーンですでに登場している
トリスタンの最も忠実な部下であるクルヴェナル(彼は三幕で大活躍します)の他に、
マルケ王の家臣でトリスタンの友人でもあるメロートという男がいますが、
ブランゲーネはイゾルデに彼に気をつけるよう進言します。
まったく取り合わないイゾルデですが、いかにもブランゲーネは正しい。
だいたいが、オペラの世界では、侍女や召使の方が頭がいいことが多いですね。
『蝶々夫人』のスズキもしかり。
この夜狩、実はトリスタンとイゾルデのただならぬ関係を疑い始めたメロートが
王にその証拠を見せようとわざとしくんだ罠なのである。
しかし、まだ狩の者たちの角笛が近くに聞こえるから、あわてるな、
それどころか、今日は嫌な予感がするからトリスタンと会わない方がいい、
とまで言い張るブランゲーネを一笑に付し、早くトリスタンと会えるように、
たいまつを消そうとするイゾルデ。
それが、トリスタンへの”今なら来ても大丈夫”というサインなのである。

一幕で書くのを失念しましたが、この演出では火が効果的に使われていて、
一幕の船のセットの船首には、火がかかげられていますし、
このニ幕では、もちろんこのたいまつという具体的な小道具がありますから、
大きな棒切れ状のものに火をともしたものが、
上の写真の黄色い部分から開いている向かって右手の扉の取っ手に掲げられています。

たいまつをとり、自ら火を消すイゾルデ。そしてあらわれるトリスタン。




まもなく私が苦手だと上で言った長大な禅問答の始まりともいえる
二重唱”O sink hernieder, Nacht der Liebe おお降り来よ、愛の夜よ”が始まります。

しかし。今日のこの二人で聴く二重唱は素晴らしいです。
今回の公演の中で、最も良かった場面の一つ。
オケが厚くないところでは、スミスは持ち味を存分に出してきます。




”それなら一緒に死のうか?”と二人が初めて死の意志を確認する前に
効果的に挟まれるブランゲーネの見張りの歌。
私には少しデ・ヤングの歌はオケに埋もれすぎているように感じましたが、
聴く人の好みでこれはこれでいい、と感じる人もいるかもしれません。

この後も、私たちの愛はトリスタン”と”イゾルデということで
二人で一体なのだから、トリスタンが死ぬならイゾルデも死なねばならない、云々、
(というわけで、『ヘンゼルとグレーテル』というようなケースで使われる
”AとそしてB ”という意味の単純な”と”とは違い、
この『トリスタンとイゾルデ』の”と”は、二人が一体である、というニュアンスがあり、
このオペラのタイトル『Tristan und Isolde』もそういう深い意味があるのだ、と納得させられます。)
といった、私のような哲学な苦手な人間には、頭がうにになりそうな会話が延々と続くのですが、
しかしヴォイトとスミスの歌は良いです。
特にヴォイトは疲れを感じさせるどころかますます声量が豊かになっていくような気がするほど。

やがて、三幕最後のイゾルデの”愛の死”でも繰り返されるメロディーが登場し、
盛り上がる二人ですが(はい、まだ二重唱は続いてます。長い!)、
最後にイゾルデの絶叫に変わります。

ブランゲーネが睨んだ通り、狩に出かけたと見せかけたマルケ王の一行が現われたのです。
”どうですか?”と鼻高々のメロート。
このメロート役を歌ったのが、先日のOONYガラで地味ながら端正な歌を聞かせていたガートナー。
彼は、今シーズンの最初の方で『ルチア』の幕中に急に体調がすぐれなくなった
クウィーチェンに代わって、途中からエンリーコの役をカバーしたこともありました。
いやー、彼はいいですね、なかなか。
今日のこの本当に出番の少ない役でも、しっかりと足腰の強さ(実際の足腰ではなく声の足腰)を
感じさせる美声で、歌い方がとにかく丁寧。
地味ささえ克服できればもっと活躍してもいい歌手なのでは?と思います。
ただ、彼は声域はバリトンのはず。
で、メロートは通常テノールによって歌われると思ったのですが、
なぜ彼が歌うことになったのか、その経緯も、
こういったケースが時にあることなのか、そのあたりはよくわかりません。
まあ、ソプラノとメゾ両方が同じ役を歌うこともありますし、
歌える人が歌えばそれでよく、彼の歌唱には何の不満もなかったのですが。
(ちなみに、2000年のベルリン・フィルが来日して演奏したザルツブルク・イースター・フェスティバルの
『トリスタン~』でも、バリトンがこの役を歌っているので、珍しいことではないのかもしれません。)

”これで王の名前と名誉を恥からお守りすることができました”という彼に、
”本当にそうだろうか? (Tatest du's wirklich?)”と歌い始めるマルケ王の嘆きの場面。



私、こういう愛されない人間の嘆きに弱いのであります。
『ドン・カルロ』のフィリッポしかり、『アイーダ』のアムネリスしかり。
しかも、マッティ・サルミネン、1945年生まれの現在62歳ですが、
ほとんど声の衰えを感じさせない朗々とした声ですごい存在感。
パペが歌うこの役もいいですが、サルミネンの場合は本当に歳をとっているので、
この役とシンクロして思わず胸が痛みます。
二重唱も良かったですが、私がこの公演でたった一つだけ好きなシーンを選べ、と言われたなら、
このマルケ王の嘆きになるかもしれないです。

しかし、イゾルデと共に死ぬことしかもはや頭にないトリスタンは、マルケ王の前で、
”一緒に死んでくれるか?”と最後の確認。
もちろんついて行きます、と答えるイゾルデ。
あまりのその王への無礼さに剣をとるメロートに、
トリスタンはその剣に自ら身を投げ出すようにして怪我を負います。
死の薬を煽ったときに続いて二度目の自殺の試みです。
今回の公演では、そのトリスタンの姿にメロートが大慌てする、
(つまり剣を抜いたのは威嚇であり、本当に怪我をさせる気はなかった、ということか?)
という演技付けがされていました。


第三幕

瀕死の重傷を負い、意識がないまま、
最良の従僕クルヴェナルに自らの領地まで運ばれてきたトリスタン。
彼の領地はカレオールという、フランス西北部ブルターニュにある土地。
そもそも、この土地だって、マルケ王がトリスタンの素晴らしい働きに対して与えた褒賞ですから、
せつない話です。

前奏曲の悲劇的な響きもせつなければ、イングリッシュホルン(ホルンという名前ですが、
でかくなったオーボエのようなルックスです。)が奏でる牧人の吹く笛も悲しい。
このイングリッシュホルンのソロはオケの演奏の中の聴き所の一つ。
今日のソロは、メト・オケのペドロ・ディアス氏が担当。
彼は数々の公演で名ソロを披露していますが、今日の演奏も素晴らしかったです。
観客もみんな座席から前に乗り出して、聴き入っていました。

セットは一幕の船のセットの使いまわしで、奥に行くほど空間が閉じていくように、
壁がセットされています。

さて、クルヴェナルを歌ったシュルテについては、私はややミックスした感想を持ちました。
しっかり声が出ている箇所ではなかなか聞かせるのですが、突然気合がぬける瞬間があって、
そんなことで、歌にいい部分と悪い部分が混合しているのです。
ルックスもずんぐりしていて、メロートの方がむしろ素敵なのがやや痛い。

このトリスタンの重傷を治せるとしたら、それを出来るのは秘薬を使いこなせるイゾルデしかいない、
と考えたクルヴェナル(またしても賢い家来!)は、
イゾルデをカレオールの土地に呼ぶため、最高の舵手を用意し(実行能力にも長けているらしい)、
ひたすら彼女の到着を待ちわびています。

笛の音に意識をとりもどしたトリスタンにイゾルデが来ることを告げるクルヴェナル。
ここからまたしても始まる長いトリスタンの歌はまさに歌手殺し。
しかも、瀕死の重傷を負っている、という役作りをしながら歌わなければならないので至難の技です。

しかし、まだ来ない、まだ来ない、という失望の連続の後、
トリスタンが遠くにイゾルデの乗る船を見つけ、クルヴェナルと大喜びし、
イゾルデが現われる前のはやるような気持ちは観客としてもなんともいえないものがあります。

この幕のセットおよび演出に関しては、私は一言も二言もあります。
まず、船の使いまわしなので、床が船の甲板の床のような板張りになっているのですが、
トリスタンが横たわり、それを介抱するクルヴェナルの後ろで、
おもむろに7~8箇所、床にとりつけられた戸が上がって、
中から、へんてこりんなオブジェが出てくるのです。


(こちらの写真は3/18の公演から。トリスタン役はリーマン。)


放牧をしている様子の少年が見えたので、イゾルデの船の見張りに出ている牧童と、
彼がいる牧羊地を表現しているのかと思いきや、
戦いをあらわす旗やら、いろんなものが混在し、一体何を表現したいのか不明。
しかも、それらのオブジェが物語に何の貢献もしていないところも、何だかなあ、といった感じです。
そして、トリスタンがイゾルデの船を見つけたあたりで、またそのオブジェが床下に下がっていきます。
確かに感動的な二人の再会の場面を邪魔しないように、ということなんでしょうが、
いっそ最初からそんなものは出さない、という手はどうでしょう?

イゾルデの船の姿を見たトリスタンは興奮状態になり、その動き回ったことが、
傷を広げ、結局、イゾルデがかけつけたと同時に息を引き取ります。

スミスさん、本当にご苦労様でした。そして、出演してくれてありがとう!!!

イゾルデが悲しみにくれ、自分も後を追うことを宣言する中、
別の船が到着します。それはマルケ王の船。
王の船であることを確認したクルヴェナルは、トリスタンとイゾルデを取り押さえるためにきたもの、
と勘違いし、上陸したメロートを刺し殺した後、
王の部下にも剣を向けたため、やむなく殺されてしまいます。

実際には、ブランゲーネが二人に愛の薬を飲ませたことを王に告白し、
二人のいる状況をあわれに感じ、
かつ、自分が考えていたようなやり方でトリスタンに裏切られたわけではないことを知って安堵した王が、
自分は身を引き、二人を結ばせてあげようとやってきたにもかかわらず、、。

そして。
ここから、この演出の非常に見苦しい箇所がはじまります。

まず、最初に殺されたメロート。
殺された後、彼がもともと立っている床(使いまわしの船の甲板部分にあたる)と
実際のメトの舞台の床には1メートルほどの段差があるのですが、
死んだときに、その段差を転げて、本当の舞台の床の方に転げ落ちます。
これが、ゴロゴロゴロ、ばったーん、という感じで、
かなり実際にオペラハウスで見ている観衆には見苦しく、聞き苦しい。
で、船のちょうど影になる箇所に落ちたので、ああ、最後のイゾルデの”愛の死”のシーンの
邪魔にならないように、ということなのか、まあ、しょうがないか、と思っていたら、
クルヴェナルの死の場面では、瀕死のクルヴェナルが
よろよろとトリスタンの方に歩き(それもかなり長い距離。これがまず不自然。)、
しかし、そのトリスタンに身を重ねて死ぬというト書きは台本に実際あるので、
この後、どうするのか?メロートは船の影になってもらい、クルヴェナルは
一段高い(船の甲板にあたる)舞台にのせたまま、”愛の死”に突入するのかと思いきや、
なんと、マルケ王が悲しみを歌い上げる中、
息絶えたはずのクルヴェナルがずるずると匍匐(ほふく)後進を始め、
メロートが死んでいる側の反対の船首側に落ちていきました。

いやー、これは変でしょう!!!!!!!

この変な一連の動きのために、すっかり感動は薄れ、その後、入っていった、
このオペラ中の白眉、イゾルデによる ”穏やかに、静かに、彼が微笑み 
Mild und leise wie er lachelt (愛の死)”も、一切感情移入することが出来ませんでした。

なんたること!!!!
オペラのなかの最も感動的な場面を、こんな演出でぶちこわしにされるとは!!!!
これですよ、私が最も許せない演出のパターンは!!!!

ヴォイトの”愛の死”は声量は十分ですが、もう少し感情の奔流というか、
ほとばしるようなものを感じさせてほしい。まだまだ歌がクリーンすぎます。
表見はクリーンでいいのですが、その底にはもっともっと感情のたぎりがなければ。
彼女の歌にはいつもフォルムは綺麗なのだけど、何かがかけている、という印象を持つことが多いのですが、
今回もコンディションは絶好調ながら、やっぱりそんな印象が残ってしまいました。

しかし、あの許しがたい演出ですっかりめちゃくちゃにされたこのシーンなので、
彼女が歌い出す前から、私の気そのものも乗っていなかったことは認めねばなりません。

歌とオケに関しては平均して良い出きばえではありましたが、
(メトのオペラギルドのサイトでは、ここ数十年のトリスタンの放送で、最もすぐれた出来とまで言っている人がいましたが、それはちょっと褒めすぎか、、?)
ただ、この作品の真価はもっともっとすごいんじゃないかなあ、というのが私の正直な意見でもあります。

ああ、あのフルトヴェングラーの演奏のようなすごいものを見せてくれる指揮者と歌手は
もう出てこないのだろうか?
いやいや、オペラヘッドたるもの、信じて待ち続けなければ。

Robert Dean Smith (Tristan)
Deborah Voigt (Isolde)
Michelle DeYoung (Brangane)
Matti Salminen (King Marke)
Eike Wilm Schulte (Kurwenal)
Stephen Gaertner (Melot)
Mark Schowalter (A Shepherd)
Matthew Plenk (A Sailor's Voice)
James Courtney (A Steersman)
Conductor: James Levine
Production: Dieter Dorn
Set and costume design: Jurgen Rose
Lighting design: Max Keller
Grand Tier F Even
SB
***ワーグナー トリスタンとイゾルデ Wagner Tristan und Isolde***

TRISTAN UND ISOLDE (Sat Mtn, Mar 22, 2008) Part I

2008-03-22 | メトロポリタン・オペラ
メトの発表によれば、ウィルス感染とアレルギーが原因だった模様の、
ベン・ヘップナーのトリスタン役降板ですが、
すったもんだのあげく、本日のライブ・インHDにのる公演は、
ロバート・ディーン・スミスをこのたった一回の公演のために
NYへ招くことで解決をみました。(その経緯は、。)

バイロイトを初め10年近くメジャーな歌劇場でワーグナー作品の主役を歌い続けてきた
アメリカ人の彼が、なぜ今までメトの舞台に立つことがなかったのか、
大変疑問ではありますが、今日が彼のメト・デビューとなります。
とにかく、ただでさえ歌うのが大変な役であるうえに、
このプロダクションで一度も歌ったことがなければ、
オケとのきちんとしたリハーサルも一度もない状況で、
しかも、ライブ・インHDということでマイクやカメラが並ぶ中で歌うわけですから、
彼の負担はいかばかりか。つい応援するこちらも力が入ります。


一幕

前奏曲。
やっぱりこの曲は全幕の中で聴いてこそ、とつくづく思う。
最近、ウィーン・フィルの演奏で聴いたばかりで、もちろんテクニックだけの話をすれば
彼らの方が上なんでしょうが、この曲はテクニックだけじゃだめ。
今日の演奏は、頭の方で低弦のセクションが入ってくるところなんか、
この後に続く物語を予感させて、よい。
こういう”予感”みたいなものが、ウィーン・フィルのあの日の演奏にはなかったのだ、と実感。
ただし、贅沢を言わせてもらえば。
私はこの『トリスタン~』に関して唯一素晴らしいと感じる録音は、
フルトヴェングラー&フラグスタート&ズートハウスの正規録音のそれのみで、
それと比べると、ベームのバイロイト盤のような、どんなに素晴らしい歌唱が聴ける盤ですらも、
滅多に聴く気が起こらない人なので、そのフルトヴェングラー盤の演奏に比べると、
まだまだ薄っぺらいとは言わねばなりません。
そのフルトヴェングラー盤は、最初の一音から、トリスタンとイゾルデの死に急ぐような
切迫感が感じられて本当にすごい演奏です。
しかし、それはサーバタ指揮でカラスが歌う『トスカ』を取り出して、今日(こんにち)の演奏と
比較するようなもので、あまりに現実離れした厳しさになってしまうので、やめておきます。
ただ、私が今日の記事で、オケの演奏をほめたとしても、
過去の名演と比べるとだいぶ隔たりがある、ということだけは強調しておきます。

今日の公演で多用されたのは、縦横の黒いスクリーンで段々と舞台をブロックしていく手法。
客席から見ると、舞台がどんどん黒でぬりつぶされていくような。
これは、このオペラの重要なコンセプトである、夜、つまり死を暗示していると思われます。

それ以外にはライティングで使われている色が重要な演出の構成要素となっていて、
黒の他には、青やグレーが同じく夜(死)=トリスタンとイゾルデの目指す世界を、
黄色が、昼の世界、ひいては現世を表現しています。

一幕のセットは舞台いっぱいに広がる巨大な船首。
そこにいるのはイゾルデと彼女の侍女であるブランゲーネ。
この船首、舞台の奥から前に向かって下がるように勾配がついているのですが、
この勾配がかなり急。
なので歌手は常に前のめりになるのに逆らうようにして立って歌わなければなりません。
船先がほとんどオケピットに突出していて、そのすぐ真下にファゴットの演奏者の方などが
いらっしゃるのですが、聞いた話によれば、いつかの公演では、この船先が
だんだん勾配のせいでオケ・ピットに下がりはじめたことがあるそうで、
あんな大きな船が頭にのっかった日には即死ですよ!即死!!
ぜひ、気をつけていただきたいです。
しかし、ビジュアル的には鋭角を多様した非常に面白いもので、この船のセットは、
私はなかなか気に入りました。



この作品、意外とストーリーとしてはシンプルで、むしろ、禅問答のようなトリスタンとイゾルデの
会話が中心になっているように思います。

で、そのシンプルなストーリーですが、イゾルデはアイルランドの王女。
母親は魔術のようなものも使えるらしいという設定です。
彼女はこれから、この船に乗って、戦で負かされた相手であるコーンウォール(今のイングランド)の
マルケ王に嫁ぎに行くところですが、超不機嫌。

アメリカでは、鼻っ柱の強いのがアイルランド女性の典型とされている節がありますが、
まさにこの公演のイゾルデもそんなイメージで、イゾルデ役を歌うデボラ・ヴォイトは、
この公演ではこれまたアイルランド女性に多い赤毛のかつらをかぶって登場。
これで顔にそばかすがついていた日には完璧です。
そのヴォイトは、そんな鼻っ柱の強いアイルランド人女性、特にイゾルデのようなキャラクターには、
少し声が綺麗で優しすぎる印象もあるのですが、前半はウォーミング・アップ・モードだったものの、
幕の中盤からものすごく声がよく出だし、今まで生で聴いた彼女の歌と比べても、
またシリウスで聴いた『トリスタン~』のラジオ放送の歌唱と比べても、
ずっと良く、ほとんど彼女のベストとも言える出来だったように思います。
腹痛の件の心配が吹き飛ぶほど、声のコンディションがよかったです。
ただし、彼女は脂肪摘出の手術をしてから度々指摘されていることですが、
少し声が明るくなった、と言われており、その分、声のどっしり感が昔よりも弱くなったようです。
声が綺麗で優しすぎて聴こえるのも、そのあたりが関係しているかもしれません。

さて、このイゾルデが不機嫌なのには理由がありました。
彼女にはモロルトという許婚がいましたが、戦でトリスタンに殺され、
その首だけがイゾルデのもとに送り返されて来ます。
しかし、トリスタンも、モロルトから瀕死の重傷を負わされ、秘薬使いとして知られていた
イゾルデのところに身分を隠して助けを求めに来ました。
すぐにトリスタンがモロルトの敵であることを見破ったイゾルデですが、
トリスタンに見つめられるうちに、恋に落ち、結局自国の民をだましたまま、彼を手厚く介抱。
やがてトリスタンは元気な姿でコーンウォールに戻りますが、再びアイルランドに舞い戻ります。
しかし、それは彼女を、コーンウォールの王であり、トリスタンの叔父にあたる
マルケ王の妻として迎えるためでした。
イゾルデは、トリスタンが自分のための妻としてではなく、
マルケ王の妻として彼女を迎えに来たことにショックを受け、
それが自分に対する最大の侮辱だと感じています。

そんな中で始まった航海。それが、この幕の冒頭シーンです。

さて、侍女のブランゲーネ。彼女はイゾルデの母親から、何かの時のために、と、
数々の秘薬をもたされています。
その中には死の薬とそして愛の秘薬が混じっています。

イゾルデは、結局、死の薬でトリスタンと自分の命の両方を消す決意をブランゲーネに語ります。
表向きにはトリスタンに対する復讐と、自分の恥辱を晴らすため、という風にとれるのですが、
この幕の後につづく、二人で共に死ぬことへの執着への伏線となっています。
もともと、二人に定められている運命の暗示というか、、。

ブランゲーネを歌うデ・ヤングは非常に堅実な歌を聴かせる人で、
ナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズの時に書いたように、
オケと溶け込むような歌を聴かせるのが持ち味ですが、今日に関しては、
もう少し声量をあげてほしいような気がします。
ニ幕の”見張りの歌”など特にそう感じました。
彼女は声量自体はある人なので、あえてのことかも知れませんが、オケが分厚いときには、
少し声がかき消される傾向にあったように思います。

船の舵をとっていたトリスタンをイゾルデが呼び寄せ、彼の行動に対しての償いの言葉を求めます。
というよりも、表向きは償いの言葉ということになっていますが、
彼女が本当に求めているのは、彼からの、愛の言葉であることは明らか。
このまま駆け落ちしよう、と言われたら、イゾルデならきっとそうしたことでしょう。
それをきちんと理解しているトリスタンは、それだからこそ、何も言えなくなってしまいます。
彼が忠誠を尽くしている叔父のマルケ王を裏切ることがどうしてできるでしょうか?
二幕のマルケ王の歌で明らかになるのは、彼にイゾルデとの結婚を奨めたのは
トリスタン自身ということです。
ここは、観客に”なんでまた、、、”と思わせないでもないのですが、
これは、先にも述べた、二人に定められた運命、ということなのでしょう。
すべてが、二人で共に死ぬ、という、この一点に向かって進んでいく。
本人たち自身も、その運命をせっせと助けている、そんな人間の性が悲しくもあり、、。

さて、イゾルデが身振りでブランゲーネに死の薬を用意させようとしますが、
その命令に従う振りをしながらも、彼女を死なせるのが忍びないブランゲーネは、
代わりに愛の秘薬をあたかも死の薬であるかのようにしてイゾルデに差し出します。

死の薬であることを覚悟しながら飲み干そうとするトリスタン、
それをひったくって自分も死のうとするイゾルデ、、、。

音楽が愛の秘薬の効果を描出する中、舞台では、今までの暗い色合いのライティングから、
突然、赤い光がぽわわわ~~~ん。

何ですか?これ、、、。

また、その赤い光がまるで『パンチDEデート』のハートの電光掲示板を彷彿とさせるような色で、
思わず観客から笑いが漏れる。
いやー、観客は話の筋と、音楽から、何が起こっているか理解しているのですから、
こんな幼稚であからさまな、色による描写は不要です。

このシーンについて、ドイツの有名な作家であるトーマス・マンはこのような言葉を残しているそうです。

”このとき彼らは媚薬でなく、水を飲んでもよかったのだ。”

名言ですね。死の薬だと二人が信じ込んでその液体を飲んだことが彼らの心を解放し、
今まで侮辱だの、マルケ王への忠誠だ、などと言っていた、その枷を外した、というわけです。
愛の秘薬が本当に効果があろうとなかろうと、実は関係がない、というわけです。

やがて船はイングランドに到着。
抱き合う二人を無理矢理引き剥がしたところに、小船で迎えにきたマルケ王が、
船に乗船してきます。
マルケ王が現われた瞬間、舞台は黄色い光でいっぱいに。
ここは、最初、なぜ突然黄色なんだろう?と思わされますが、だんだんシーンを重ねていくにつれ、
先に述べたとおり、マルケ王=昼の光=現世を表現するものであることがわかります。
(実際の色は、Part IIの、二幕のマルケ王の嘆きのシーンの写真をご覧ください。)
これは、パンチDEデートとは違い、きちんと話の大きな流れの中での
シンボリックな色としての役目を果たしており、悪くはないと思います。

さて、かなりひっぱってしまいましたが、肝心のトリスタン役のスミス。
まろやかな美声ですね。歌も丁寧。
ただし、約2000と言われるバイロイトの劇場の席数と、4000近いメトでは、
やや勝手が違うようで、今日の彼の歌唱に関しては、
ラジオやライブ・インHDで鑑賞した人たちには絶賛されていますが、
メトのオペラハウスの中ではもう少し声量があればなあ、と感じたことは付け加えておきます。

特に、オケが大きく鳴り出すと、ヴォイトはそれに合わせて声を大きくできるキャパがあるのに対して、
スミスの方はあるところから声量が大きくならないので、
二人の掛け合いのところでは、ヴォイトの声ばかりが聴こえてきて、
まるで一人で歌っているように感じてしまう箇所もありました。

しかし、逆にオケの伴奏が静かな箇所では、素晴らしいアンサンブルを聴かせていましたので、
彼はもう少し小さい劇場で聴いてみたい気もします。

ライブ・インHDやラジオ放送用には舞台すぐそばのマイクが歌手の歌声を拾っているので、
むしろそれらの媒体で聴く方が、メトの中で聴くよりもよく聴こえたかもしれません。


Part II に続く>

Robert Dean Smith (Tristan)
Deborah Voigt (Isolde)
Michelle DeYoung (Brangane)
Matti Salminen (King Marke)
Eike Wilm Schulte (Kurwenal)
Stephen Gaertner (Melot)
Mark Schowalter (A Shepherd)
Matthew Plenk (A Sailor's Voice)
James Courtney (A Steersman)
Conductor: James Levine
Production: Dieter Dorn
Set and costume design: Jurgen Rose
Lighting design: Max Keller
Grand Tier F Even
SB
***ワーグナー トリスタンとイゾルデ Wagner Tristan und Isolde***

今”観て”聴いておきたいオペラ歌手 ~男性編

2008-03-21 | お知らせ・その他
女性編では結局9名を今”観て”聴いておきたいオペラ歌手として選びましたので、
平等に、男性側も9名を選出することにしました。
ただし、男性編では一層私のえこひいきが炸裂し、何人かにいたっては掟をやぶって写真も多くのせてしまいます。

しかし、女声編に比べると男性の方が見栄えと実力の間でやや乖離があるケースが多く、選出は難航。
両方を備えているためにすぐに名前が出てきた人と、そうでない人がいた、と申し上げておきましょう。

選抜ルールは女性編に同じ。
1)最初に歌唱力が一定のレベルに達していないと思われる方を削除。
2)一般的にルックスがよい、とされていても、私が”いや。それは違う。”と感じたら、やはり削除。
(ルネ・パぺよ、トーマス・ハンプソンよ、アラーニャよ、すまん。)
3)私が舞台で実際に公演に接したことがある人に限る。よってメトに定期的に登場する歌手が中心。
4)顔のつくりだけでなく、体型、造作も判断基準のひとつ。

当ブログの評価、イコール、単純に私がどれくらい好きか。
まあ、御託はいいです。今回も偏見独断炸裂で行きます。

 アーウィン・シュロット Erwin Schrott (バス・バリトン)

男性編では低い声域から高い方にあがっていくことにいたします。



女性編のアンナ・ネトレプコの赤ちゃんのお父さん。
(早く結婚してくれ。そしたら、”だんなさん”の一言ですむのに。)
少し前まではターザンのようなルックスだったのに、だんだん最近垢抜けてきた。
今年の『フィガロ』では、非常にハンサムな新鮮なフィガロ像を披露。
ネトレプコでなくとも惚れました。歌も悪くありません。



原産地  :ウルグアイ
得意技  :脱ぐこと。引き締まった体が自慢。その得意技を利用したドン・ジョバンニ役で評価を固めた。
生態   :しかし、歌も演技も含め、”オペラの登場人物がおしゃれでスマートで何が悪い!”
というアプローチは新鮮で、新しい世代だなあ、と感じます。
隅に置けない度: いつの間にネトレプコと、、、、。
当ブログの評価: しかし、いつまでも若者的アプローチはできない。今後の進化が楽しみ。


 ジョン・レリエー John Relyea (バス・バリトン)

私の知っているほとんどの女性は、彼の舞台を見ると”素敵~ ”とうっとり。私のおばも激褒め。



今年のメトでは、『ルチア』のライモンド、『マクベス』のバンクォーと大活躍。
公演による当たり外れが非常に少なく、いつも安定した歌を聴かせるのでメトの常連客にも人気。
まだまだ若いので、渋さが要される役はこれからますます円熟味を増していくのでは、と思われます。


(メトの『ロデリンダ』でのガリバルド役)

原産地:  カナダ
得意技:  どんなレパートリーも器用にこなすが、今まで見た中ではヴェルディがあっている気がする。
生態 :  すらりとした長身で舞台姿も美しいが、どんどん声に深みが出てきているので今後注目。
メト御用達度: 毎シーズン重要な役を担当。複数演目の掛け持ちも。
当ブログの評価: 本当はもっと高くていいんですが、後があるんで、、。


 ネイサン・ガン Nathan Gunn (バリトン)

声域が上がってバリトンです。



今回もっとも迷った人物。数シーズン前の『魔笛』のパパゲーノでは素晴らしい歌唱を披露していたのに、
やや最近歌そのものがぱっとしない。
売りは鍛えられた体。舞台でもすぐに脱ぐ。よって上半身裸でない写真を見つけるのが難しい。
運動神経がよく体の動きがきれいなので、それで十分なのだから、何もそこまでしなくても、、と思う。


(メト2005/6年シーズンの『アメリカン・トラジディー』)

原産地:  アメリカ
得意技:  脱ぐこと。しかし、コミカルな演技も実は上手。総じて舞台上の動きが綺麗な体育会系。
生態:   最近ややスランプか、メトではどんどん歌う役が小さくなっていっているようで気がかり。
写真は上半身裸のものか、パパゲーノのように被り物を身に着けているものしか手に入りにくい。
肉体美度: 
当ブログの評価: 本来もっと歌える人のはず!歌で挽回しましょう。がんばれ。

 サイモン・キーンリサイド Simon Keenlyside (バリトン)

そんなガンと180度対照的なのがイギリス紳士、キーンリサイド。
彼が舞台で脱ぐなんて考えられません。脱がずとも、そこはかとなく上品な魅力が漂ってくるお方。
(追加訂正:なんと、NYでは全くお脱ぎになりませんが、他の劇場ではよくお脱ぎになっているそうです。
コメント参照。)



今シーズンの『フィガロ』の伯爵役でのそのお美しさは溜息もの。
声がいたって繊細なので大事にしていってほしいです。
タッカー・ガラでの『真珠とり』の二重唱での素晴らしい歌声も忘れられません。


(2007年メトの『フィガロの結婚』)

原産地  :イギリス
得意技  :繊細な陶器を思わせる歌唱。おもにモーツァルト作品で持ち味を発揮。
生態   :時々、ヴェリズモ作品のアリアを歌おうなどと突拍子もないことを考える。(ガラの記事参照)
意外とはじけやすい度: 舞台で他の出演者に飛び蹴りをくらわせたことあり。
当ブログの評価: 得意な役にこだわりつづけてほしい。『道化師』のアリアは禁止。

 ディミトリ・ホロストフスキー Dmitri Hvorostovsky (バリトン)

英語で言っても日本語で言っても舌を噛みそうな、なかなか覚えられない名前。
ついに発音と綴りを覚えた日には妙な達成感すら感じる。



眉毛の色からして濃い色の髪だと思われるが、常にプラチナム・ブロンドに染め上げている。
(追加訂正:あの髪は地毛らしい、という情報を頂きました。やはりコメント参照。)
これは大正解。”あの白い髪の人”として記憶され、名前が覚えにくいというハンデも吹っ飛ぶ。
ロシア系のレパートリーでは他の追随を許さない。
ヴェルディもよいが、役によってぴたーっとはまるものとそうでないものがある。


(メト 2006/7年シーズンの『ドン・カルロ』のロドリーゴ役)

原産地  :ロシア
得意技  :男心の葛藤、複雑さを表現する役で持ち味を発揮。オネーギン、レナート(『仮面舞踏会』)は
はまり役。
生態   :まわりのキャストをひっぱる立場の歌唱もよいが、
相手役に恵まれると新しい側面が歌や演技に次々と出てくる柔軟さあり。
表と裏が違う度: 思ったとおりが顔と行動に出る。見てるこちらがひやひやする。
当ブログの評価: レリエー、キーンリサイドと同じく、まだ先があるので。


 スティーヴン・コステロ Stephen Costello (テノール)

うーむ。こうしてみると、低声系の人たちはいい男度が高い!
テノールもうかうかしておれません。そんな強力な低声陣に立ち向かうにはまずこの人。



今年の『ルチア』ではアルトゥーロという超脇役を歌いながら、オペラヘッドの注目を一身に集め、
なんと一日だけではありますが、エドガルドを歌う栄誉をゲット。
まだ歌を勉強中の学生さんの身で、メトの主役級デビューとはすごいことです。
オペラヘッドにゲイの方が多いというのはよく知られたことですが、
そのゲイのオペラヘッドたちから、”かわい~い!”とのラブ・コール多し。
ゲイの方たちはヘテロの男性より平均美的センスが高いのも、これまたよく知られたこと。
そんなゲイ系オペラヘッドの承認の印もあるのだからこわいものなし!


(メト、2007/8年シーズンの『ルチア』のアルトゥーロ役)


(ハドソン・リバーフロント・パフォーミング・センターの2007年のコンサートから)

原産地  :アメリカ
得意技  :少し線が細めで柔らかい(声が小さい、という意味ではない)美声が特徴。
生態   :あまりの評判ぶりに段々とメジャーな劇場からのオファーが殺到し始めている。
舞台で立っているときに、手持ち無沙汰な様子になる瞬間があるのが悲しい。
立ち姿から研究すべし。
期待度  :
当ブログの評価: 久々に登場したスリリングな歌声を聴かせる逸材。大、大期待してます。

 ヨナス・カウフマン Jonas Kaufmann (テノール)

ドイツ人でありながら、イタリア、フランスもののレパートリーをこなす
今まであまりいなかったタイプの男性歌手。



実はこの方、2006/7年シーズンのBest Moments Awardsで堂々第一位だった『椿姫』で、
ストヤノヴァのヴィオレッタに対し、アルフレードを歌ったテノール。
当時、歌は上手いのだから、そのマイケル・ボルトンのようなうざい髪型をどうにかしなさい!
と思っていたら、最近デッカとレコード契約を結び、徹底したオーバーホールを実施。
ものすごい男前にイメージチェンジ!!!ちょっと、ヨナス!あなたってば、そんなにいい男だったの!?
(ちなみに女性編のゲオルギューの写真でアルフレードを歌っているのが、イメチェン前のカウフマンです。)



すでに彼のいい男ぶりは、ゲイ系オペラヘッズの間で大フィーバーを巻き起こしております。
そのデッカから発売されたアリア集は、もう今後二度とCDを発売できないと本人が思い込んでいるのでは
ないか?と思わせるほど、あらゆるメジャーなアリアてんこもりの珍品となっていますが、
”冷たい手を(『ラ・ボエーム』)”、『椿姫』からのシーンなど、一途な役を歌わせるとかなり聴かせます。
特に、”冷たい手を”は、私には最近のテノールの中で最も興奮させられた出来栄え。
バリトンのような彼の声があの高音にあがっていくのは非常にスリリングです。
ヴィラゾンやヴァルガスなんかより、ヨナスのロドルフォ(『ラ・ボエーム』)を生で聴いてみたい!
私がゲルプ氏なら今からでもライブ・インHDの『ラ・ボエーム』のロドルフォ役をヴァルガスから彼に変える。


(メト2005/6年シーズンの『椿姫』)

原産地 :ドイツ
得意技 :バリトンをひきのばしたような独特の声。そういう意味では少しドミンゴを思わせるが、
ドミンゴほどロブストではない。クーラに似ている、と感じる人もいるようだが、
クーラより、ずっと繊細さを感じて好き。イタリア語の扱いも巧み。
生態   :今までも堅実な舞台をこなしてきたが、むさくるしいルックスのせいでブレイクできなかった。チャンス到来!!
びっくりイメチェン度:
期待度  :
当ブログの評価: また応援したいテノールが加わりました。

 ホセ・クーラ Jose Cura (テノール)

と自分の趣味を二連大爆発させてしまったので、ここらで一旦クール・ダウン。



90年代の末にはポスト3大テノールの一人なんて言われていたのに、最近やや影が薄い。
(レリエーを気に入ったうちのおばも、最近手紙で、”クーラって今どうしてるの?”と聞いてきた。)
オペラヘッドをしていると、どうも相性が悪い歌手というのがいて、行く公演ことごとく
いまいち、と思わせられるケースがあるが、私にとってクーラはその一人。彼の乱暴な歌唱が嫌いです。
しかし、彼の歌を絶賛する人もいるので、単に私が彼と縁がないのかもしれません。
正直、私にとっては、このクーラは女性編のゲオルギューに近い位置づけです。



原産地 :アルゼンチン
得意技 :ロブストな声。どんどん重い役に挑戦していったが(”オテロ”、”カヴァレリア/道化師”)、私が納得したことは一度もない。
そうそう、指揮もします。最近では映像作品も手がけている様子。
生態  :マルチな才能の持ち主だとは思いますが、私は歌手としてすぐれていればそれで十分なので、、。逆にそこがすぐれていないと、、。ま、男前ではありますが。
期待度 : 何を期待していいのか、よくわからない。
当ブログの評価: (ファンに刺されるな、これは。)
後注: 2009年4月10日の公演で、状況は激しく大逆転。こちらをお読みください。

 フアン・ディエゴ・フローレス Juan Diego Florez (テノール)

最後はやっぱり総合点一位のこの方を。別名、王子。



もう、今、この人をオペラハウスで聴かないということは犯罪である!と思わせるほどの
ものすごい歌唱力と稀有な声、そしてルックスが揃ったスーパーな人。
ルックスを抜きにして、純粋に歌唱力だけで選んでもトップになる。
彼と同時代に生きているというこの幸運に、すぐにでもオペラハウスに走るべき。
(彼が歌っている公演が上演中であることを確認のうえで。)
フローレスの歌を聴いた日には、クーラの雑い歌はもう聴けません。
レパートリーの種類が何であれ、彼のように一音一音を大事に歌ってほしいものです。


(2004年 ペーザロ・ロッシーニ・オペラ・フェスティバルでの『シャブランのマティルデ』)

原産地  :ペルー
得意技  :オペラになじみのない方にはやや特異に感じられるかもしれないほどの軽い声で超絶技巧を放つ。
真のロッシーニ・テノール。
生態   :女性編のネトレプコとは対照的に、彼はできればやや小さめの劇場で聴きたいタイプ。
声の迫力ではなく、美しさと技巧を聴くタイプの歌手です。
王子度  : たたずまいもおっとりしていてまさに王子!
当ブログの評価: これほど誰からも文句が出ないであろうと、確信を持って満点を捧げられる歌手は彼だけ。

以上9名が男性編で選ばれた顔ぶれでした。
いやー、男性編には力入りましたです。ビジュアル重視の皆様もぜひ、彼らの歌唱をご堪能ください。

今”観て”聴いておきたいオペラ歌手 ~女性編

2008-03-21 | お知らせ・その他
オペラの国に通じる道は一本ではなく、無数なり。
ある歌手の声を聴いて、雷に打たれたような感動を覚え、オペラヘッドにまっしぐらな人もいれば、
作品の魅力から入る人、いろんな演出の見比べが楽しい人、
もちろん、それらのコンビネーションもあり、、。
そして、中にはビジュアル重視、という方がいても当然です。
そもそも、オペラは聴覚にも視覚にも訴えるものなのですから。
メトが今まで得意にしてきた(最近少し傾向は変わりつつありますが)ゴージャスな舞台演出も、
そんな欲求、要求を満たすために生まれたともいえるでしょう。

さて、かつては、ビジュアル重視の人にとっては、”オペラはちょっときついなあ、、”
という時代がありました。
歴代の歌手で、美人歌手、美男歌手でならした人といえば本当に少ない。
(私が挙げられる名前といえば、コレルリ、モッフォ、無理してデル・モナコくらい。)
顔の造作もさることながら、そんなビジュアル重視の方の気持ちを一層萎えさせるのは、その体型。
オペラ歌手といえば、パヴァロッティとかカバリエのような巨大な人というラベルが
長らくべったりと貼られてしまっていました。

しかし。時代は変わりました。
舞台と客席という距離があった昔とは違い、今ではDVDだ、映画(ライブ・ビューイング)だ、
you tubeだ、テレビだ、と、視覚の比重が大きくなったのです。
時代の流れがニーズを作る。これはオペラ界も同じで、
”ビジュアル重視な私には、オペラはちょっときついなあ、、”は昔の話。
今や、見目麗しい歌手たちがわんさか登場しはじめています。

数日前の記事のコメント欄では、エルモネラ・ヤホ嬢の美形ぶりが話題になったばかり。

というわけで、その”美形歌手がわんさか生まれている”を証明すべく、
この私めが、今”観て”聴いておきたいオペラ歌手、と銘打ち、
ビジュアルが伴っていないと舞台芸術は辛い、という方たちにもおすすめの歌手たちをご紹介したいと思います。

しかし!選考委員は私だけ、ということもあり、当ブログと同様、独断偏見満載。
以下が選出の基準です。

① 歌のレベルがある程度に達していない方は、最初に振り落とさせていただきました。
どこぞの女優のように(誰だ?!)、”顔がきれいなだけで、あの大根芝居が!”と陰口を叩かれるような人は
この中にはおりません。まず、実力ありき。
というか、大体オペラヘッドというのはこうるさく、また期待度の高い人種なので、
見目が麗しくなったからといって、歌の方を犠牲にする気はさらさらないのであります。
なので、ここに登場する方は、好き嫌いのレベルを抜きにすれば、
まず、聴きにいって損をすることのない歌手たちのはずです。
というか、中にはそれどころか、超ド級の歌を聴かせる人も混じっています。

② 一般的にルックスがいい、とオペラファンに言われていても、
ルックスが私の好みでなければ残念ながら落選。
なので、ここに名前のない歌手の方も、なーんの気落ちすることもございません。

③ 私がおすすめする以上、舞台で実際に見たことのない方は極力少なくしました。
というか、ほとんどそういう人は入っていないと思います。
その結果、必然的にメトであまり歌っていない歌手は選ばれていません。

④ 私はめったにオペラグラスを使って舞台を見ないので、造形的な美もさることながら、
舞台での立ち居振る舞いの美しさも重要。
なので、顔の造作がわかる写真のほかに、舞台写真を入れることにより、さらに説得力のある
リストとなるよう心がけました。

では、スタート。
”当ブログの評価”の欄は、単に私の個人的な好き度でハート5つが最高点。

 エルモネラ・ヤホ Ermonela Jaho (ソプラノ)

といいながら、いきなりメトで見逃したばかりで一度も舞台で見た事がない彼女を選ぶのも
なんですが、そもそもこの企画は彼女がきっかけですから、敬意を表して。


(おそらくヴェローナでの『夢遊病の女』から。)

やっぱりかわいいですね。

原産地  :アルバニア
得意技  :ヴィオレッタ(『椿姫』)やリリコの諸役。
生態   :比較的マイナーな劇場に登場し続けながら、大劇場で有名歌手たちのカバーを努めている模様。
噂に聞いた実力によれば、ルックスとあいまって、これからブレイクする可能性あり。
そのいまだブレーク前という状況のため、ヘッドショットのようなものがほとんど存在せず。
なので、彼女だけは舞台写真のみ。
期待度  :
当ブログの評価:N/A (実際に聴くまで判断不可)


 ワルトラウト・マイヤー Waltraud Meier (メゾ・ソプラノ)

このリストの中ではもっとも物議を醸す人選かもしれません。


(バイロイトの『トリスタンとイゾルデ』)

この面子の中ではお歳も一番上だし、中には”彼女って美形かー?!”と思う人もいることでしょう。
そして、私の答えは、はい、美形です。
彼女がそうは見えないのは、素の時の、垢抜けない髪型と化粧のせい。
誰か、どうにかしてあげてください。素は美人なのだから。
しかし、歌の上手さと役を表現する能力は天下一品。
このリストの中で、歌の能力では彼女は間違いなく最上級。


(バイエルン歌劇場『アイーダ』のアムネリス役)

原産地  :ドイツ
得意技  :ワーグナー作品のメゾの諸役。それらの役の表現に関しては右に出る人がいない。
生態   :オペラヘッドの間ではもはや説明がいらないほどの大御所メゾ。
歌の上手さ:
化粧の上手さ:
当ブログの評価:


 ルネ・フレミング Renee Fleming (ソプラノ)

メトで人気のアメリカ人歌手といえばこの方。



気さくな人柄もあって、ファンも多く、メトへの貢献度も大。
ただし、このブログで何度も書いたように、レパートリーによって、出来不出来の差が大きい。
合う役を歌った時には、非常にいい舞台を見せてくれます。
ヴィオレッタは避けた方がいいでしょう。
しかし、下の舞台写真はそのヴィオレッタ。
この方は年齢を重ねるほど綺麗になってきたような気がする幸運な例。


(2007年メトの『椿姫』でのヴィオレッタ)

原産地  :アメリカ
得意技  :人気にまかせてかなり何でも歌っているが、演技力が必要とされる役で本領を発揮する。
注意点  :時にベル・カントのレパートリーを歌うという毒を発する。
生態   :素晴らしい演技力と、くせのある発声。好き嫌いが分かれるのもその発声が原因。
メトでの人気度:
個人的な好み: (最後のハートが小さいのは気のせいではありません。
レパートリーによって、ということで、2.5点。)


 ケイト・リンゼー Kate Lindsey (メゾ・ソプラノ)

ここで超若手を。



今シーズン、メトでは『ロミオとジュリエット』のステファーノと、『フィガロの結婚』のケルビーノを歌いました。
写真でも確認できる通り、わりとクールな感じのルックスで、
ケルビーノ役での身のこなしは素晴らしいものがありました。


(ウォルフ・トラップ・オペラ『レトワール』のラズリ役)

原産地  :アメリカ
得意技  :これからさらに開拓されていくと思われるが現在はズボン役(男の子の役)が得意技か?
生態   :孵化中。成虫になってからが楽しみ。
期待度  :
個人的な好み:  まだまだこれから。

 イザベル・レナード Isabel Leonard (メゾ・ソプラノ)

もう一人、超若手を。



ジュリアード音楽院を卒業したばかりで、今シーズンの『ロミオとジュリエット』
Aキャストのステファーノに選ばれた幸運の持ち主。
もともとダンスからスタートした方だけあって、まるでモデルのような体型。
(舞台の上で見ると本当に細い!)
上のリンゼーと共にメゾであることはもちろん、レパートリーといい、年齢といい、
かぶっている部分があるので、どちらが抜けてくるか、大変楽しみ。


(カーネギーホールでのリサイタル)

原産地  :アメリカ
得意技  :ダンス歴を生かした、動きのある演技。
生態   :同じく孵化中。歌はまだまだ磨くべき点があるものの、動ける、踊れる歌手として差異化を図る。
期待度  :
個人的な好み:  舞台上の存在感はリンゼーよりやや上か。


 エリーナ・ガランチャ Elina Garanca (メゾ・ソプラノ)

一気にメゾで突っ走ります。



歌唱上のキズがあっても(やや高音がフラットになる場合がある)、それでもなお、
非常に面白い歌唱を聴かせる彼女は、今私のお気に入りなので、冷静な判断はできません。
今年のメトでは、『セビリヤの理髪師』に出演。
バーデン・バーデンで、ネトレプコ、ヴァルガス、テジエと共演したガラのDVDが発売されていますが、
彼女の歌の方がネトレプコのそれよりもずっとずっと上手いことがわかるという残酷なDVDになっています。
(まあ、それでもネトレプコには声そのものの魅力があるので、好き嫌いの問題ですが。)

そして、この『ばらの騎士』のオクタヴィアンの写真、、、。
この役を生で観たいーーーーー!!!!


(2006年ウィーン国立歌劇場『ばらの騎士』のオクタヴィアン)

原産地  :ラトヴィア
得意技  :お茶目な役(セビリヤのロジーナなど)はお手のもの。まじめな役もいけそう。歌唱技術も確か。
生態   :オペラの舞台に立つとその存在感でまわりの歌手がかすむ。大歌手と組ませてあげてください。
個人的な好み:  もう一個ハートをつけたいくらい。


 ジョイス・ディドナート Joyce DiDonato (メゾ・ソプラノ)

レナードにリンゼーというライバルがいるように、ガランチャにもライバルが。



彼女を典型的な美形とカテゴライズするのに躊躇する方もいるかもしれませんが、
その観客にポジティブなパワーを撒き散らす力はすごいです。
歌もめちゃくちゃうまい。彼女はキャリアが開けるまで、
ありとあらゆる劇場のオーディションで駄目だしをくらったというのですから、
選抜する人の耳を疑ってしまいます。
しかし、そんな苦労があるからでしょうか、歌うのが本当に楽しい、という感じで、
観てるこちらが幸せになるような歌を聴かせてくれます。
タッカー・ガラで、NYの聴衆のためにわざわざ公演中のヨーロッパから
日帰りで飛んできてくれるなんて、泣かせるではないですか。


(サンフランシスコでの『ばらの騎士』)

写真は上のガランチャと同じ『ばらの騎士』のオクタヴィアン役。
ずいぶん雰囲気が違いますね。


原産地  :アメリカ
得意技  :ロッシーニ作品。彼女はこれで名声を得た。シュトラウスやモーツァルトもよさそう。
生態   :とにかく彼女が歌うと役が生き生きとしていて、観客まで元気が出る。
元気教度 : 下手なカウンセリングや宗教より断然効く。
当ブログの評価: 限りなく5に近い4つハート。しかし、私はガランチャを応援しなければならない、、。


 アンジェラ・ゲオルギュー Angela Gheorghiu (ソプラノ)

こうやって見ると、メゾががんばってます。
ソプラノも負けてられん!ということで、そろそろ真打を出しましょう!



今のオペラ界に敷衍しはじめたルックス重視のトレンドの走りは彼女だったのかも、
と個人的には思います。
彼女がショルティと組んだ『椿姫』は、それはそれは話題になったものでした。
しかし、あまりに人気が出て頭がおかしくなったか、もともとそういう人なのか、
いわゆるディーヴァちっくな行動に事欠かないのでも有名。
メトの日本公演でのかつら装着拒否事件、シカゴでのリハぶっち事件
夫アラーニャ、職業 オペラ歌手、のメトでの公演
つきそいたい、という理由でリリック・オペラの『ラ・ボエーム』の
リハーサルを欠席。役をおろされた。)などなど、、。

それらをさておいても、私は、彼女のどことなく冷めて聴こえる歌があまり好きではないのですが、
下手では決してないですし、美人なのはまぎれもない事実。
オペラ歌手で美人といえば?と聞かれれば、最初に名前があがる歌手の一人でしょう。
今シーズンは、これからライブ・インHD(ライブ・ビューイング)にのる『ラ・ボエーム』で
ミミを歌う予定です。
シカゴで解雇になった因縁の演目、、。
これをキャンセルするようなことがあったら、アメリカではもう後がないと思って
ライブ・インHDは全力投球で!!


(メト2005/6年シーズンの『椿姫』)

原産地  :ルーマニア
得意技  :何だろう?美貌?リリコ系の役はかなりいろいろ歌ってますが、決め玉に欠ける感じ。
生態   :とにかく自分勝手。これで顔が不細工だったら絶対今のように世界で歌えてはいないと思う。
教育係をつけるべき。夫アラーニャがさらに油を注いでいる。似たもの夫婦。
個人的な好み: あなた、それは、もう、、、 (半ハート一つ)です。


 アンナ・ネトレプコ Anna Netrebko (ソプラノ)

長い間、アンジェラを唯一の美人歌手として調子づかせていた状況をひっくりかえした。
今や飛ぶ鳥をおとす勢いで、美人オペラ歌手の代名詞とも言える存在。
そういう意味ではどうしてもこのリストに順位をつけなければならないとしたら、
総合点で一位か。



ゲオルギューとは対照的な、熱い歌唱が持ち味。
正直、細かい技術については、”?”と思うところもありますが、
声のカラーの魅力とパワーはゲオルギューより上。
特に、彼女の歌の魅力は録音したものでは伝わりにくいので、ぜひ、劇場、
それもメトのような大きな劇場で体感していただきたい。
記事最初の写真は、彼女のキャリア上、大ブレイクへの一ステップとなった
メトの『戦争と平和』でナターシャ役を演じた際のネトレプコ。
時は2002年。今より初々しくて、かわいいです。



(メト2005/6年シーズンの『ドン・パスクワーレ』)

原産地  :ロシア
得意技  :ゲオルギューと同じ美人なのに、ネトレプコの方が、役への体当たりぶりを観客に伝える技術にたけており、観客はついそれに反応してしまう。
その天性の舞台勘とやや暗めでリッチな声のカラーが最大の武器(美貌をのぞいて)。
ベル・カント系のレパートリーを中心に歌いたかったようだが(そして、実際歌っていたし、歌っている)、
声が重くなってきたので、リリコの役もレパートリーに加わった。
彼女のドニゼッティやベッリーニ、さらにヴェルディの椿姫やリゴレットなどは、
少し技術が伴ってなくて、辛い部分もある。もう少し技術を磨ければ、
ノルマは意外と声にマッチしていて、面白いかも、と思わせる役の一つ。
ミミも聴く度によくなっているので、期待できます。
そういえばモーツァルトやフランスものも歌っているし、かなり何でもトライしてます。
生態   :最近、バリトンのアーウィン・シュロットとの間に子供ができた(現在妊娠中。)
声の変化と、人生設計との兼ね合いもあり、この後どのようなキャリアをたどっていくのか、楽しみ。
個人的な好み:  何だかんだいっても、どのように歌ってくれるのだろう?という期待をいつもさせてくれる。


というわけで、以上が女性編でした。
個人的には次の男性編がさらに選び甲斐がありそうで楽しみです。
ご期待ください。

『トリスタンとイゾルデ』 ライブ・インHDの配役決定

2008-03-20 | お知らせ・その他
リレーで乗り切るトリスタン ”、および、”激動のトリスタン~ ”で追ってきた
『トリスタンとイゾルデ』がらみのすったもんだですが、ついに決着を見たようです。

野次り倒されたマクマスターが降板したあと、
リーマン(*アメリカ人のようですので、リーマンの表記で通します。)の
トリスタンが何とか踏ん張っていたので、
(というよりも、何とかまともな歌なので、メトの観客もほっとした。
もはや多くは望むまい、という感じに近いか。)
このまま今週土曜(3/22)のライブ・インHD(ライブ・ビューイング)の収録用の公演も
リーマンで突っ走るかと思いきや、なんと、メトは、”リレーで~”で書いた噂どおり、
ロバート・ディーン・スミスのトリスタンで勝負に打ってでるようです。
すでにメトのウェブサイトでも発表されていますので、本決まりです。

写真はマドリードのテアトロ・レアルでトリスタンを歌った際のスミスですが、
バイロイトでの『マイスタージンガー』や『トリスタン』、『ローエングリン』、『ワルキューレ』の他、
数々のメジャーな歌劇場に登場しており、ベン・ヘップナーの欠場で不満が募る観客を黙らせるには
妥当な人選と言えるかもしれません。
彼はヨーロッパで予定されていたコンサートだか公演だかをキャンセルして
この3/22に臨んで下さるようで、その観客の皆様には本当にすみません、という感じですが、
彼にとっても世界中に配信される映像に乗る、というこのチャンスは魅力的なことでしょう。
また、そんなことがないことを祈りますが、もし、スミスが病欠することになっても、
リーマンがカバーで控えているはず。
ゲルプ氏、なかなか手堅い策を見せてます。

しかし、スミス、このプロダクションでは一度も歌ったことがなく、
オケとのリハも一切なしで本公演にのぞむわけですから、
これで素晴らしい歌を聴かせた場合、観客からおおいに賞賛されることでしょう。
頑張ってください。

イゾルデはお腹も復調した模様のデボラ・ヴォイト。

これで土曜日が楽しみになってきました。

激動のトリスタン。そして、椿姫での大喝采デビュー!

2008-03-16 | お知らせ・その他
久しぶりにオペラ警察から仕入れた情報を二つ。

① ベン・ヘップナーが体調不良によりランの前半の公演をキャンセル、
その交代劇にゆれる『トリスタンとイゾルデ』についてはすでに数日前に記事をあげたとおりですが、
3/14(金)の公演では、なんとニ幕の途中でイゾルデ役のデボラ・ヴォイトまでがダウン。
(公表されている理由は腹痛。メトのカフェテリアで変なものを食べたか?!)
歌の途中でいきなり舞台から立ち去り、オケの演奏もそこでストップ。
カバーに入っていたジャニス・ベアードが10分ほどして代役に入り、
何とか公演は最後まで行われた模様ですが、
とうとうこれで、トリスタンもイゾルデも両方激動になってしまいました。。。
さあ、土曜日(3/22)のライブ・イン・HDはどうなってしまうのか???
(AP通信からも関連記事が出ています。リンクはこちら。)

② 3/15の『ピーター・グライムズ』のマチネ公演後、夜の『椿姫』を見ようか見まいか迷い、
結局、ヴィオレッタのルース・アン・スウェンソンも、アルフレードのヨナス・カウフマンも、
そしてジェルモン父のドウェイン・クロフトもそれぞれの役で聴いたことがあるし、
ま、今日はいいか、とマチネの公演後、家で愛犬と戯れていた私に脳天直下の出来事が。
その夜の公演途中(一幕の後のインターミッション)で、
オペラ警察から通報が入り、なんと、風邪でダウンしたルース・アン・スウェンソンに代わり、
ヴィオレッタ役を歌っている歌手が、観客から大歓声を浴びているというのである!
”すごい歌手だから今からでもいい、見に来なさい”と言われたが、
ボックス・オフィスはもう閉まっているし、そんなに素晴らしい公演なら誰も途中で席を立たないだろう、
ということで泣く泣くあきらめたが、悔しい~~~!!!
さて、この3/15の『椿姫』がメト・デビューとなったこの歌手、エルモネラ・ヤホ Ermonela Jahoといいます。
頭の写真が彼女ですが、写真で見る限り、綺麗な方ですね。
アルバニア出身だそうです。
オペラ警察によれば、”彼女はこれで大きくキャリアがスタートするかもしれません。”
ぎゃーっっ!言わないでくれ~!そんな世紀のメト・デビューを見逃したかと思うと、
絨毯の毛をむしりとりたくなるくらい、悔しいではないか!!!!






PETER GRIMES (Sat Mtn, Mar 15, 2008)

2008-03-15 | メトロポリタン・オペラ
"The more vicious the society, the more vicious the individual."
(社会が邪悪であればあるほど、個人も邪悪になる。)

作曲家が自分の作品について語った言葉なんて関係ない、
すぐれたオペラは説明や言葉を越えて、作品自身が観客に語りかけてくるもの、
というのが基本的には私の考えですが、
あえて、作曲者ブリテンが、1948年に『ピーター・グライムズ』のメト初演にあたって、
タイム誌の取材で語った言葉を引用させていただきました。

それは、この言葉が、この作品を理解するのに非常に重要な鍵を握っており、
さらには、ここを見失うと、演出によっては作品全体が非常に理解しずらいものとなるからです。

今日のこのマチネの公演は、ライブ・インHDの本放送&収録日。
とはいえ、シリウスの放送も週に3~4回あれば、
ライブ・インHDの本収録日の一つ前の公演も、バックアップ用の映像として録画しているので、
(DVD化するにあたって、本公演であまりに大きな失敗や技術系のミスがあったときに、
その予備の録画からつぎはぎをするようです。)
最近では、年がら年中、マイクやらカメラやらがオペラハウス内に設置されているのに、
だんだん慣れっこになってきました。

このプロダクションでは、セットらしいものといえば、
舞台の横と高さを目一杯使った木造の建物の外壁のみ。
ほとんど黒に近いグレー色で、全面にちりばめられた壁の扉(窓枠)から、
村人たちが、客席側をのぞいたり、歌ったり、
グライムズになげかけられる、村人の容赦ない、遠慮ない、好奇の視線を、
観客も感じられるようになっていて、
いつも誰かに見られ続けることがいかに不愉快なことかがわかります。



また、各場面で壁全体が奥に行ったり手前に出てきたりするのですが、
実際に舞台を見ていると、その壁の動きがうるさく感じられることが私にはありました。

プロローグ

ここで、観客は、ピーターが3日間漁に出ている間にしけにあい、
見習いの少年を死なせてしまったことを知ります。
大事なポイントは、本当はその死の直接の原因は船上で水が枯渇したことによって、
少年の体力がもたなかった、つまりこれは全くの不慮の死であった、という点なのですが、
(これは、最後の幕で、ピーターがこの少年が死に至る幻想を見る場面でも、
”もうさっき最後の水を飲んでしまったじゃないか”と歌いかけていることからも、
事実であることが裏付けられます。)
村人はピーターが変わり者であることから、あたかも少年を虐待して死なせたように
事実をねじまげ、今まで以上に彼を村で仲間はずれにしてやろう、という気満々。
結局彼に対して、”今回のことは不慮の事故とし、無実とするが、
見習いの少年は今後雇わないように”と申し渡します。
つまり言外に、”君は少年虐待の趣味があるから”ということを匂わせているわけです。

このプロローグで、この作品に出てくるメインの村人たちが一気に登場するのですが、
それぞれが個性的な人物でおもしろいです。

ぺちゃくちゃうるさい、いえ、はっきりいって”うざいばばあ”であるところの、
ミセス・セドレー。
気がよさそうではあるが、村の社会にどっぷり染まっているボアという居酒屋兼宿屋の女主人、アウンティー。
引退船長で、村人からも一目置かれているバルストロード。
抜け目のない村の薬屋、ネッド・キーン、などなど、、。

ピーター役を歌うアンソニー・ディーン・グリフィーは、少しこの役には声が優しいかな、
という気がしなくもありませんが、たたずまいはこの役にぴったり。
大柄で、なろうと思えば粗野にもなれそうで、あまり見目麗しくなく(だって、この役が
あまりに美男子だったら困ります)。

メインのキャストの中で、ミセス・セドレーを歌ったフェリシティ・パーマーと、
バルストロードを歌ったアンソニー・マイケルズ・ムーアの二人のみが
イギリスの出身で、あとはピーター役のグリフィーを含むほとんどがアメリカ人歌手だったのですが、
一番歌から受ける印象の違いはtの音にあるように思います。
パーマーとマイケルズ・ムーアに比べると、アメリカ人の歌手たちはtの音が弱く発音されるため、
(それは日常会話でも同じですが)
それが全体的に歌唱がやわらかく聞こえてしまう一因になっていたように思います。
これからライブ・インHDでこの作品をご覧になる方は、パーマーがいかにtを強く発音しているか、
またそれがセドレー夫人役の頑固でうざい性格を表現するのにいかに効果的かをお聴きになってみてください。

さて、ここで全員がピーターの敵かというと、そうではなく、エレン・オーフォードという女性がいるのでした。
彼女は未亡人で、村の学校の校長先生。
”良心から”(ここ重要です)、ピーターを励まし、また村の人たちに受け入れられるよう
がんばりましょう!とピーターを支えるのでした。



ピーターはこの作品のあらすじを読んでもわかるとおり、ことごとく不運な人ですが、
もしかすると最大の不運は、エレンの気持ちを勘違いしたことかもしれません。
つまり、ピーターは、エレンが味方をしてくれるのは、良心のみならず、
いつか愛情を持って自分を見てくれるはずだ、
そして、自分のことを本当に理解してくれるようになるのはエレンだけだ、と考えてしまったのです。

第一幕 第一場

しかし、漁師という仕事は、一人で切り盛りできるほど生易しいものではない。
見習いを雇えないピーターは、村人に作業の助けを求めますが、
ピーターのことを誰一人快く思っていない彼らなので、無論助けようとするものはありません。

結局、自分たちが直接に助けるのも嫌なので、ネッド・キーン(薬屋の男)が、
ピーターに新しく住み込みの見習いとして雇えそうな少年を見つけた、と言い出しますが、
誰かがその少年を引き取りに行かなければなりません。
新しい少年にも虐待を加えるのでは?そんなことに手を貸していいものか?と尻込みする村人の中から、
その役を勝手出たのは、もちろん、ピーターの新しい人生の再出発を信じるエレンなのでした。
嵐が訪れた村を後にして、御者のホブソンと、少年を迎えにでかけるエレン。



嵐の中、バルストロード(引退船長)はピーターと会話を始めます。
この会話から、ピーターのことを真に理解できるのは、
実はエレンではなく、このバルストロードなのではないか?とおぼろげながら観客が感じ取れるシーンでもあります。

この村にいてもピーターに幸せはない、と感じるバルストロードは、どこか他の土地に行ったらどうだ?
といいます。
しかし、ここで、ピーターは思いもかけないくらい強い調子で、
”どこに行くというんだ?自分はこの村に根付いているんだ!”と主張します。
こんなに周りの村人に冷たくあしらわれ、決して彼にとって、居心地のよい村でないというのに、、。

村人をぎゃふんといわせるほど漁で金持ちになって、自分の汚名を返上したら、
エレンと結婚したい、と熱い思いをバルストロードに打ち明けるピーター。
この会話のシーンは非常に大事です。
なぜならば、今やピーターの人生の目的は、漁で成功して金持ちになることと、
エレンと結婚することの二つしかなく、
逆を言えば、この目的がなくなったらピーターは生きる意味を失ってしまうことになるのです。

”じゃ、今すぐにでもエレンに結婚を申し込めばいいじゃないか。”と煽るバルストロードに、
”No, not for a pity."と答えるピーター。
そう、同情で結婚してもらうのではなく、村人の汚名を返上して、エレンには誇りを感じながら
自分と結婚してもらいたい。
そんな純粋な願いが彼にはあるのです。

せつないですね。
こんな針のむしろのような村でも出て行くことはできず、出て行くことができないから、
漁で成功して、自分のことを理解してくれそうな唯一の人間であるエレンと結婚したい。
彼が、よし、どこか違う土地でも行くか!と思える人ならば、この後の悲劇はなかったはず。
いえ、もしかすると、逆に、彼は、どこに行っても、人なんて、社会なんて同じ、
と達観していたのかもしれません。


第一幕 第二場

嵐が激しくなる間、村人はアウンティーの店、ボアでたむろっています。
店の看板娘二人は表向きにはアウンティーの姪っ子たちということになっていて、
ジョーカー的な役割をこの作品の中で演じていますが、
リブレットには、”実際の姪っ子かどうかは不明。
若くて美しいが、頼りなく、まるで二人で一人といったような印象を与える”
と説明されています。
まさに彼女たちに与えられた音楽はそんな感じで、やや”不思議ちゃん”とでもいえる雰囲気をたたえています。

やがて、新しい見習いの少年は来たか!といきなりボアに乱入してきたピーター。
彼が歌うアリア”Now the Great Bear and Pleiades (大熊座とスバル星は)”は、
まるで詩のようなアリアで、彼を恐ろしいモンスターのようにしかとらえていない村人には、
すぐに、”彼は気が狂ったか、酔っ払ってでもいるんだろう”と言われてしまいますが、
エレンへの気持ちや、どんなに辛い境遇であろうと、いつか村人に受け入れられたい、
と切望する彼の気持ちを知ってしまった観客には、心に響く美しい曲です。

そこに、ずぶぬれの体で、新しい見習いの少年を連れて戻ってきたエレンとホブソンがボアに入ってきます。
村人からの非難を一身に受けながらも、祈るようにピーターと少年の未来を信じようとするエレン。



今日のラセットは、いつもの彼女の特徴で、少し立ち上がりが硬いですが、
この難しい音階だらけの曲をよくこなしています。
もう少し、エレンの無邪気な良心ゆえの残虐さが歌に出ていてもよかったかな
(特にこの後の幕)、とは思いましたが。
彼女のいつもの歌唱力と演技力を持ってすれば、全く可能なはずです。


第二幕 第一場

間奏曲の後に歌われるエレンの
”Glitter of waves and glitter of sunlight (波の輝きと太陽のきらめきと)も、美しい曲。
(一幕とニ幕の間には休憩がなく、間奏曲が演奏される。)



日曜日。村人の多くは教会にいて、壁越しに彼らの歌う賛美歌が聞こえます。
エレンと新しい見習いの少年の二人、というよりは、少年は一言も話さないので、
エレンが一人でしゃべっているわけですが、
彼女の言葉と、賛美歌の歌詞が交互に現われて、美しい効果をあげています。

やがて、少年の衣服の破れとあざを見つけたエレンは、ピーターがまたしても児童虐待を始めたものと決め付けます。



日曜であるにもかかわらず大漁の予感があるから、少年を連れて海に出ようと現われたピーターに、
このあざはどうしてついたのか?と食い下がるエレン。
”ごたごたのうちについたのさ”と答えるピーター。
私が今回の公演で、たった一つ不満があるとすれば、この場面の演出で、
あまりにピーターをモンスターのようにしたてあげてしまったことでしょうか?

まず、このシーンでの、”大漁になるから!”と取り付かれたようにわめくピーター。
確かに怖いくらいですが、今や、彼には、漁で成功することだけが
人生の最大の目的の一つになっていることはすでに書いたとおりです。
彼が気が狂ったように必死になってしまうのも、理解できなくはありません。
この大漁が、一生に一度のチャンスかもしれないというときに、冷静なんかでいられますか?

”ごたごたのうちにあざがついた”。
とりようによっては、あたかも実際にピーターが少年の虐待を行っていたように聴こえますが、
私はそうではないと思う。というか、少なくともピーターの心の中では虐待という意識はなかったはずです。
実際、よくリブレットを読み返してみると、歌詞の中には何一つ、彼の虐待を裏付けるものがありません。
少年が足を滑らせて海に落ちてしまうシーンの前にも、
”気をつけて降りろよ。さもないと首をへし折ることになるからな。”という言葉があるのみです。

子供を持つ母親がいらいらしているときに、子供につい当たり散らす、
またいらいらしていなくても、体罰を与える、
今の若い子達の中には親に手をあげられたことがない、という子が多いので、
彼らには理解しづらいことかもしれませんが、私が子供の頃は、
親にたまに体罰をくらうのは普通のことでしたからね。
(私だけでなく、他の子もそうでした。)
ましてや、荒くれた漁師が、作業中に気がたって見習いの少年に”ごたごたのうちにあざをつけ”ても、
それが虐待と呼べるのでしょうか?
逆に、彼の、その漠然とした説明こそが、虐待ではないことを物語っていないか?と私は思います。
いらいらしているときに子供を叩いてしまった母親に、”なんでそんなことを?”と聞いたなら、
”つい、、”という言葉がせいぜいで、きちんとした釈明なんて出来ないはずです。

ですから、ここを、ピーターが本気で虐待を働いたかも、と微塵でも思わせるような
演出があってはいけません。観客を混乱させるのみです。
いえ、観客どころか、演出家自身もつじつまが合わなくなって混乱することでしょう。
そして、今回の公演では、そのあたりがやや混乱モードになっているように私には感じられました。

さて、エレン。彼女は、ピーターのその必死さが最後まで理解できません。
なぜなら、彼女が彼を支えているのは良心がなせるわざであって、愛ではないから。
そして、決して本当にピーターを理解していたわけではないから。

このあざを発見したとき、エレンの心は、他の村人と全く同じように、
”やっぱりね。やっぱり、ピーターは子供を虐待するんだわ。”と、そう考えたのです。
いや、彼はそんなことをする人ではない、と信じて、彼にきちんと説明させたり、あざの理由をよく理解するかわりに、、。
そして、彼女は、”we failed (私たちは失敗してしまったのよ)”と宣言してしまうのです。



このエレンの本心を目の当たりにして、いかにピーターが失望し、怒りを感じたか。
だから、彼はエレンからかごをひったくり、彼女を殴るという、
乱暴な行動に出るのです。
これは、彼が生来横暴な性質だからそうしたのではなく(まあ、海の男なので、多少乱暴ではあるのですが)、
彼が自分の人生で唯一大切なものと信じてきたことに裏切られた、そのことへの怒りが表出したにすぎません。


第二幕 第二場

少年を自分の小屋に連れ帰ったピーター。
まだ一緒に漁に出させようと、少年に無理矢理準備をさせます。
ここも、この公演の演出ではあまりに少年の扱いが乱暴すぎて、非常に困惑させられる場面となっていました。

ここはむしろ、エレンとの将来はない、と気付きながらも、まだその希望にすがりつかずにはいられない、
ピーターの姿に重心を置いた方が説得力があると思うのですが。

教会から一部始終を聞いていた村人たちは、”もう許さん!”と、ピーターの家に行進してきます。
あわてて少年だけを、海につづく崖に出る裏戸(この公演では、床の一部が裏戸としてもちあがって、
床下に下りていくことで、崖を降りていくことを表現していました。)
から送り出すピーター。
しばらくすると、崖から足を滑らせ、海に落ちていく少年の叫び声が聞こえます。
結局、彼はこれをもって二人目の見習いの少年も、”不慮の事故”によってなくしてしまうことになるのです。

村人たちがピーターの小屋に到着した頃には、ピーターも逃げ出したため、
もぬけの殻となった小屋を見て、
”なんだ、何事もなかったか”と、いぶかしがりながらも立ち去る村人。
しかし、バルストロードだけは、開いた裏戸と崖を見て、何が起こったかを察していたのでした。

第三幕

村にこっそり舞い戻ってきたピーターですが、もはや、気がふれはじめています。
プロローグで申し渡された判決の言葉、”不慮の事故”という言葉を自嘲気味に発するピーター。



悲しいのは、実際、両方の事故とも不慮の事故であるのに、もはや村人は決してそのようには見ないであろう、ということ、
そして、彼の、村に受け入れられる、という夢が絶たれた、ということです。
夜の村を徘徊していたピーターに、”家に帰りましょう”と(まだこの期に及んで!)言うエレンに対し、
バルストロードはこう言います。
”陸が見えなくなるまで船をこげ。そして、船を沈めるんだ。
いいな?沈めるんだぞ。じゃあな、ピーター”
つまり、エレンがまだ頓珍漢なたわごとを言っているのに対し、バルストロードだけは、
ピーターがどんな人間であったか、何を人生に求めていたものを理解し、
もはや、彼がこの村に生きていくこともできなければ、生きる意味もない、ということを
察したのであり、村人の中で、彼だけがピーターの真の理解者となりえたのです。
二人目の見習いの少年も殺したのだから君も死にたまえ、という意味で
自殺を奨めたのでは決してないのは言うまでもありません。
だから、ピーターも、バルストロードの言葉に素直に従って死んでいくのです。
バルストロードの言葉がなくても、きっとピーターは同じ道を選んでいたことでしょう。

結局、ピーターはだんだん村という社会に生きる選択肢を奪われ、死ぬことを余儀なくされる。
この構図がはっきりと見え始めるあたりからは、とにかく迫り来る不幸に胸が痛くなるオペラです。
いわゆるメジャーどころのオペラと違ってとっつきの悪い部分もありますが、
美しいメロディー、間奏曲も多くちりばめられているし、テーマが非常に現代的。
このオペラをライブ・インHDにもってきたメトの野心を、高く評価したいと思います。

今回、まず賞賛したいのは合唱。以前から女声パートの弱さを指摘してきましたが、
この作品では、こうあってほしい!という響きを実現させていて、大いに嬉しく感じました。
英語の作品ということもあってか、今まで聞いた全公演中で、
最も音(子音)の発声のタイミングが合っていたように思います。

オケは尻上がりによくなっていき、最後の三幕、これは聴きものです。
その前までの幕と、温度がすっと変わったのが印象的でした。
ラニクルズの指揮、大変よかったと思います。
特にその三幕でのオケのリードの仕方は見事。

バルストロード役のマイケルズ・ムーア、
ネッド・キーン役を歌ったテディ・タフー・ローズ、
セドレー夫人役を歌ったフェリシティ・パーマー、
アウンティー役を歌ったジル・グローヴ、
脇を固める歌手たちがきちんと歌っていたのも印象的でした。

NYに住みはじめてからよく聞き、使うようになった言葉にrelevantという言葉があります。
”~に大いにかかわりがある”というような意味ですが、
子供たちのいじめの問題、自分と違う種類の人間を受け入れることのできない大人たち
(人種、宗教、政治、性的嗜好などなど)、と、
この『ピーター・グライムズ』がイギリスで初演された1945年から、
このオペラで表現されていることと何ひとつ変わらない問題を現代は抱え続けていると言う意味で、
今という時代にとって、非常に”relevant”なオペラだと思います。


Anthony Dean Griffey (Peter Grimes)
Patricia Racette (Ellen Orford)
Anthony Michaels-Moore (Captain Balstrode)
Felicity Palmer (Mrs. Sedley)
Jill Grove (Auntie)
Teddy Tahu Rhodes (Ned Keene)
John Del Carlo (Swallow)
Leah Partridge / Erin Morley (Nieces)
Dean Peterson (Hobson)
Greg Fedderly (Bob Boles)
Bernard Fitch (Rev. Horace Adams)
Logan William Erickson (Boy)
Conductor: Donald Runnicles
Production: John Doyle
Grand Tier D Odd
OFF
***ブリテン ピーター・グライムズ Britten Peter Grimes***


ありえない話

2008-03-14 | お知らせ・その他
3/6のOONYのガラについてのNYタイムズの記事に、出演者と曲名が間違って記載されたのは
当ブログでもふれたとおり。
その後、そのエラーを上塗りするかのような信じられないミスが続き、
(経緯は上の記事の中にあります。)
これには事実関係およびものごとの白黒に関して、人一倍うるさいオペラヘッド達の逆鱗に触れることとなり、
NYタイムズにクレームを入れた人たちも出た模様です。
かくなる私も、二度目の表記が誤っていたときには、怒りを通り越し、
”公共の目にふれるものに、誤記があってはいかん!”と、正しく表記してほしい、という気持ちだけで、
単純に間違いの内容だけを指摘した非常に短いメールを送信してみました。
仕方ないですよ、私もまぎれもないオペラヘッドですから。

もちろん、最終的には記事は正しく記載され、一件落着。
そんな事件があったことも忘れ去っていた今日、NYタイムズのアドレスからメールが。
そこには、”メールを頂き、ありがとうございました。訂正が入る前のプログラム・リストを使用してしまったことと、
自分の単純な勘違いのせいです。”と原因を釈明した上で、BHという、
この記事を書いたバーナード・ホランド氏のイニシャルが入っていました。

舞い込んだ鬼のような数のメールに対し、
アシスタントが死ぬほどコピー&ペイストをして返信したものかもしれませんが、
きちんと読者からのメールに応じ、釈明を試みたのは誠実な姿勢で、
こんなメールが来るとは思いも寄りませんでした。

驚いた話ついでに、もう一つ。

芸術関係のイベントで、日本とアメリカが大きく違っている点の一つに、
日本のそれは基本はビジネス(公演でいうと招聘元、企画者)が主導であるのに対し、
アメリカのそれは、ビジネスであるのはもちろんですが、それと同時に
観客たちの寄付が活動を支えている比率が大きい、ということが挙げられると思います。

そして、この恐ろしき情報社会、誰がどこにどれくらい寄付しているか、
誰がどれくらい何の公演に出かけているか、ということは簡単に把握できるようで、
寄付をすればするほど、次々と電話やら郵便やらで依頼が舞い込んでくるのであります。
そして、毎年毎年、寄付の金額を増やしてほしい、という依頼も、、。

さて、寄付なんていえば、Madokakipはすごい資産家なのか?と思われそうですが、
はっきり言って、すんごい貧乏です。激貧です。
メルセデス・バスやアグネス・ヴァリス(いずれもメトに膨大な寄付金を入れている女性達)
とはちがって、普通に雇われ人として会社勤めをしている私には、
巨額の寄付なんてできるわけもなく、一回数百ドルとか、せいぜい合計でも年に数千ドル、と
いったレベルの話なんですが、そんなことは問題じゃないんです。
私が思うに、寄付とは、絶対金額ではなく、年収に占める”寄付係数”こそが、
オペラヘッド度を計るものさしなのであります。
小額でも、切り詰めたお金から出した寄付金は、かくも尊い。
しかも、寄付金は寄付金であって、チケット代はこれとは別にかかるわけですから、
私が出せる金額は今くらいが限界です。

とまあ、そんな状況の私ですが、そんな私にも容赦なく度々かかってくるメトからの電話。
ある日はラジオ放送を存続させるため、またある日は新しいプロダクションの資金のため、
またある日はギルドのメンバーシップを次のグレードに上げませんか?
と、まあ、よくもそんなにたくさん理由があるもんだ!といつも感心してしまいます。
メトを愛している私なので、もちろん出来る範囲の協力はしたいと思っているのですが、
本当に金欠な時には、正直に”すみません、今、お金が底をついてます。”と言います。
で、その出来る範囲で協力したくさせるもう一つの理由は、メトの方達が非常にいつも感じがよい、ということがあります。
たとえば、そうやってお断りしても、”では次回にはぜひ”と、とても感じよく電話を切られます。
どの方からも、お金をもらって当たり前、といった傲慢な姿勢を感じたことが一度もないのです。
しかも、直近の電話では、”メトロポリタン・オペラでございますが、”とはじめるかわりに、
なんと、”ゲルプ総支配人よりぜひMadokakip様にお電話を差し上げるように、とことづかり、
こうしてお電話を差し上げておりますメトの○○です。”
と、寄付をする側の心をくすぐる見事なテクニックを披露する始末。
しかし、支配人の名前を出してくるとは、、、。あっぱれ、メト、です。

さて、電話や郵便が舞い込んでくるのは、メトからだけではありません。
ASPCA(The American Society for the Prevention of Cruelty to Animals
動物の虐待などを防ぐための活動を行っているメジャーな団体。
うちの犬は子犬の頃、ここでパピークラスに参加したのでとてもお世話になっている。)、
その他の動物のシェルターを運営している団体、
ユニセフ、NYの警察官たちの福祉を守る団体(私と何の関係があるのかよくわからないが、、、)、
セントラル・パーク、NYCB(NYシティ・バレエ)、リンカーン・センター(メトとは別に。何てこった!)、、、
リストは延々と続きます。

そして、その中に、かのカーネギー・ホールも。

さて、このカーネギー・ホール。
こちらも、将来音楽家をめざすちびっこをサポートするためのファンドなど、
いろいろと、こちらが”援助できません”と言いにくい理由を考えてくるのですが、
しかし、私の場合、限りある(しかも非常に微小な、、)資金。
しかも、今年はメトを中心にサポートしたい、と考えているので、
申し訳ないですが、私の頭の中では、カーネギー・ホールへのアロケーションはゼロ。
そんな中、かかってきた一本の電話。

カーネギー・ホール、以下CH。今回は♀。
()の中はそうは実際に言わなかったが、そんなニュアンスがぷんぷん。

CH:”カーネギー・ホールです。XXXの理由で、XXXドルの寄付をお願いしたいのですが。”
私:”すみません。もう今年は他に使途があって、寄付できそうにないんですよ。”
CH :”ああ。でも、寄付金は税金控除の対象になりますし。
さ、クレジットカードの番号は何番ですか?”

私、ここで”なんだ?この女?いきなり人のクレジットカードの番号を聞くとは失礼な!”と、きれる。

私:”私、寄付するなんて、まだ一言も言ってませんけど。”
CH:”でも、今年はたくさん公演をご覧になっていらっしゃいますね。
(だからそれくらいの金はあんだろ?早く出せ。)
で、クレジットカードの番号は?”

このクレジットカード番号は?とオウムのように繰り返す女性に腹立った私が、
それ以上何もいわず電話を切ったのは言うまでもありません。

しかし、数週間もすると、また別の今度は♂から電話がかかってきたのであります。

CH:”カーネギー・ホールです。”
私:”ああ、この間、別の方からお電話いただいた時にお話したんですが、
今年はメトに注ぎ込むことにしてますので、寄付はできません。”
CH: ”(メトにやる金があるんなら、それをこっちにまわせ!)メトもいいですが、
カーネギー・ホールの活動は非常に意義がありまして、、。”
私:”そうでしょうとも。でも、私の鑑賞数はメトの方が圧倒的に多いですから。メトの活動も意義深さでは負けてませんよ。”
CH: ”まあ、それはそうですが。寄付されたお金は税金控除の対象になりますし、、”
私: ”(またそれかいな。)ま、今まだボーナス前でいずれにしてもお金がないんです。
こっちが誰かに寄付してもらいたいくらいなんですよ。
ですから、お金が入って、寄付できる段階になったらこちらからお電話します。”
CH: ”こちらからお電話、って、私の名前も電話番号も知らないくせに。”
私、ここで、”なんだこいつ!逆切れしたぞ!”とびっくり。
溜息をつきながら、
私:”ペンを持ってますんで、名前と電話番号をどうぞ。”
CH: ”結構です。(皮肉たっぷりに)Have a good day。”

彼が電話を一方的に切りました。
こんな無礼な寄付のお願いの電話は初めて。本当に唖然、とはこのことです。
この話を聞いた私の連れも、”カーネギー・ホールのマネージメントに電話しろ!”と
オペラヘッドも真っ青な大変なお冠ぶりでした。

私は、マネージメントに電話なんてしませんよ。
二度とカーネギー・ホールには寄付しない。それだけです。
寄付は、どんな小額であっても、ありがたく頂戴するもの。
それを当たり前のように請求してくる彼らには、びた一文、
いえ、アメリカですから一セントですね、払う気なんてありません。
これで心おきなくメトにお金を回せるというものです。
小額寄付者だからといって、なめんじゃないわよ!

リレーで乗り切るトリスタン

2008-03-13 | お知らせ・その他
月曜日(3/10)の『トリスタンとイゾルデ』は、トリスタン役を歌う予定だったベン・ヘップナーが
体調不良によりキャンセルになり、突如代役のジョン・マクマスターがトリスタンを歌いました。
この公演、シリウスで聴いてまして、いろいろ思うところもありましたが、
最後にこのマクマスターに観客が思い切りブーを飛ばすという非常に不愉快なことがあり、
すっかり書く気力も失せたというものです。
というか、ブーを出すなら健康管理のできないベン・ヘップナーに出せ!といいたい。

ジョン・マクマスター、もちろん素晴らしいといえる歌唱ではなかったのは事実ですが、
逆にブーを喰らうほどひどい歌とも私は思いませんでした。

というか、大体、一日や二日のノティスでこの大役を歌うのがどんなに大変なことか。
彼が歌ってくれなかったら、公演すら出来なかったかも知れないというのに、
(いや、歌う人はいたでしょうが、もっとひどい歌唱になっていた可能性高し。)
それにあんなブーを飛ばすとは、あまりに恩知らずな。
最後に舞台に出てきたマクマスターは、もちろん大歓声とまでは行かなくても、
少なくとも感謝の念の拍手はもらえるだろうと思っていたようで、
それこそ、ブーが出たときには豆鉄砲を食らった鳩のような表情になっていたそうです。
そして、デボラ・ヴォイトにはすごい拍手。

マクマスターの歌に厳しくというなら、それもいいでしょう。
でも、それなら、デボラ・ヴォイトの歌にも同じように厳しく行きましょうや。
(単刀直入に言って、彼女の歌が、そんなすごい拍手をもらえるほどのものだったでしょうか?
ということを私は言いたいわけです。)
有名歌手なら拍手で、比較的無名な歌手にはブーってこと?
名声などに左右されず、もっと耳で聴いたとおりのことを観客は拍手や歓声で表現すべきで、
そのために観客は、自分の耳を磨いていく義務があるのです。

さて、現在のところ、最後の二公演以外をキャンセルしてしまった模様のヘップナーですが、
当然、こんな冷たい仕打ちをメトに喰らったマクマスターは歌いたくもないだろうし、
メトも彼ではやばい!と思ったか、次々と替え玉を用意している模様です。

とりあえず、今週金曜(3/14)の公演は、Gary Lehmanが代役にたち、この役でメト・デビュー。
(こちらはすでにメトのサイトで公式発表になっています。)
そして、3/18とライブ・インHD(ライブ・ビューイング)の収録日に当たっている3/22の公演を、
ロバート・ディーン・スミスが歌うらしいという噂が出ています。
(こちらは現在メトのサイトではTBA。)

ヴォイト&ヘップナーという顔合わせが呼び物だったはずのライブ・インHDですが、
またしても波乱含み。
私は3/22の公演を鑑賞する予定なので、この変更が吉と出てくれることを祈るのみです。

(写真は、トリスタン役のマクマスターとイゾルデ役のヴォイト。3/10の公演より。)