Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

La Scala Nights in Cinema: MARIA STUARDA 後編

2008-07-23 | 映画館で観るメト以外のオペラ 
前編より続く>

その一幕二場(ここからは、第二幕とされる場合もありますが、
この記事では会場で配布されたパンフレットに基づき、一幕ニ場という扱いのまますすめます。)、
冒頭は、構成的にどことなく『ルチア』の泉の場面を彷彿とさせる場面で、
マリアの幽閉場所である、フォルテリンガ城の庭が舞台。
ルチアが友人のアリサを相手に語るのと、マリアがお付きの女性であるアンナを相手に語るというのが、
シチュエーション的に似ています。
久しぶりに戸外で日の光を浴びた喜びを歌う、このオペラの中で最も有名なマリア役の聴かせどころ、
”ああ、雲よ、なんと軽やかに Oh! Nube, che lieve!”。
マリアの目にいかに外の風景が新鮮に映ったか、ということを表現するためでしょうか、
最初にびっしりと緑の葉がついた背景があらわれ、デヴィーアが歌いはじめると、
上に巻き上がっていくようにその背景が消えていきます。
そういえば、ルチアの泉のシーンも、周囲はヒースの野原っぽいイメージがあり、
自然の中で歌われる、というのも何となく共通項を感じる一つの理由かもしれません。

そして、デヴィーアが一フレーズ歌った途端、私は口があんぐりあいて、
そのまま顎が外れてしまうかと思いました。
すごすぎる!!!これが齢60ともなろうソプラノの歌?!
もちろん、60歳ですから、例えば10年前と比べると、声そのものの瑞々しさという点では
若干後退していますが、コロラトゥーラの技術はいささかも衰えを見せておらず、
それどころか、ほとんど鉄壁ともいえる完璧さを誇っています。
あれだけ細かい装飾音符を歌いながら、それでいてなお、その一つ一つの音符の長さが
はっきりと歌いわけされているそのすごさ、
どんな旋律も決して粗末に扱わず、まるで薄い絹の生地を扱うように、細心の注意をもって実行されるフレージング、
ある意味は残念かつまた将来に不安を覚えさせる恐ろしい事実ですが、
中堅、若手で、こんな職人芸のような歌を歌える人は
今のオペラ界でまず皆無でしょう。少なくとも私が知る限りはいません。

昨日の『椿姫』のゲオルギューを聴いて、彼女のコロラトゥーラも、
まあこんなものなのかもな、これでも今のオペラ界ではましな方かな、
なんて思っていた私は、大反省。
実際そうであっても(というのは、本当にきちんと歌える人が少ないから、
繰り上がり式に彼女が比較的まし、というのは事実なのだ。)、
オペラヘッドたるもの、妥協はいかん!!

この歌を聴いて、そんなゲオルギューの歌唱への感想を撤回したいくらいに
デヴィーアの歌唱には衝撃を受けました。
才能もさることながら、その上に努力に努力を重ねた人だけが到達できる高みに、
(いや、そんなことは前からわかっていたのですが、しかし、私が思っていた以上の高みに)
現在の彼女がいることを本当に思い知らされました。



フレーニが65歳の頃でしょうか、来日して、『ラ・ボエーム』の全幕公演で
ミミを歌ってくれたことがあって、その時も”これが65歳?!すごい!!”とびっくりしたものですが、
今日のこの驚愕はそれ以上かも。フレーニは素晴らしかったけど、
そこは、デヴィーアが40代なかばの女性の役を演じているのにくらべると、
ミミは20歳そこらの女性ということもあって、
歌唱をさておき、役作りでは実年齢とのいかんしがたいギャップがありましたし、
さすがに年齢のためにやや重くなってしまった声に、
”65歳にしては”という枕詞がくっついてしまうのですが(それでも半端ないすごさでしたが)、
デヴィーアのこの歌唱は、かつての名歌手の60歳の余興やノスタルジーなんてものじゃない、
歌唱と役作りの両面で、現役ばりばりの歌唱です。
大体、こうしてスカラ座の舞台に立っていること自体、立派な現役である証なのでしょうが。
(重ねていいますが、フレーニのそれがノスタルジーと言っているわけではありません。
彼女の歌唱はそれはそれで、若手が大いに見習うべき素晴らしい美点がたくさんありましたから。)

彼女のベル・カント一筋に努力してきた姿勢が、このマリアのキャラクターと共鳴するのか、
その誇り高い立ち居振る舞いには神々しさまで溢れていて、私は地面にひれ伏したいような気持ちで
彼女が歌うすべての場面を見守っていました。ほんと、かっこよすぎです。
自分自身をあまやかさない厳しさからでるこの近寄りがたいまでの迫力は、
全盛期のマリア・カラスと共通するものを感じます。
(ただし、意外ですが、マリア・カラスはこの作品を少なくとも全幕では歌ったことがない。)
そして、この高音は、、!!!!!なんでこんなすごい声が出るの?
音程も含め、きちんと音は出てますね、というレベルではない。
そんな風に守りに入らず、渾身の力を込めて、攻めの歌唱を繰り広げる彼女に、
またしてもひれ伏す私なのでした。

その後に続く、レスター伯がマリアに、エリザベッタとの直談判の場を設定したから、
その場で幽閉を解いてくれるようにお願いするんだ!と、マリアを説得しようとする二重唱、
”世界から見放され、王座から離れても Da tutti abbandonata ”も、美しい曲。
これで、子リスがこうもがんがんと声を張り上げなければ、、。

この作品、女王同士の対決とか処刑場に向かうマリア、といった一見ドラマチックな場面があるようでいて、
やや一本調子な感じがするからか(リブレットが悪いのかな、?)、
『ルチア』なんかと比べて、随分地味な位置にいますが、
美しい曲がたくさん含まれていて、すぐれた歌手を得れれば大化けするポテンシャルのある作品です。
ただ、大化けするにはマリア役だけでなく、エリザベッタとレスター伯の両方、
もしくは少なくともそのどちらかの一人が良くないといけません。
その意味では、この公演、デヴィーアのマリア役だけが図抜けていて、
アントナッチがやや不調、メリは私には問題外、という感じなので、
まだまだ本領を100%発揮しているとは言いがたいです。

作品にご興味のある方には、本領発揮度が高い演奏の記録として、
ネッロ・サンティ指揮の1972年のパリでのライブ盤CDをおすすめします。
カバリエがマリア役を、メネンデスがエリザベッタを、
そして、カレーラスがレスター伯役を歌っています。
デヴィーアと双璧の出来のカバリエ(ただし、この役に関しては
私はデヴィーアの歌唱を僅差でとるかもしれません。
カバリエのフレージングには、デヴィーアよりも少し優しい
もちっとした感触があるように思うのですが、この気位が高く芯の強いマリア役には
デヴィーアのような歌唱の方が私は向いていると思います。)、
そして何よりもレスター伯のカレーラスが素晴らしい。
カレーラス、『椿姫』のレポで書いたスコットとのDVDでも素晴らしいアルフレードを
披露していましたが、このレスター伯役での歌唱がこれまた本当に素敵。
カレーラスは、後年いろいろな重めの役も歌っていますが、
若い頃のこういった軽めの役の方が持ち味がいかんなく発揮されていて、
私はずっと好きです。
このカレーラスの歌唱を聴くと、どうして私がメリにはこの役に必要な
優雅さとか楽々さに欠ける、と感じるか、イメージして頂きやすいと思います。

後半は、いよいよエリザベッタとマリアの対決シーン。




プライドを捨ててエリザベッタに跪いてでも幽閉を解くことを懇願することがどうしてもできない
かなり頑固な女、マリア、
一方、レスター伯に愛されている彼女への嫉妬から一層その彼女の意固地さを許すことのできない
やっぱり頑固な女、エリザベッタ。
このある意味似たもの同士である二人の間には最初からぴりぴりとした空気が漂い、
結局、この会見は大失敗。
マリアをなじりはじめたエリザベッタに対して、マリアも堪忍袋の緒を切らし、
”私こそが本当の王位継承者。あんたはただの私生児でしょうが!!”と
エリザベッタに対してとんでもないことを口走ってしまいます。
もちろん、これでもって恩赦の夢も絶たれ、マリアの暗い運命が半ば決定してしまうのでした。
このエリザベッタを売女の娘呼ばわりするシーンのデヴィーアの、
これで死刑が決まろうが、私は生涯女王よ!と、顔をきっちりとあげ、笑みさえ浮かべている様子は、
長い幽閉生活の後に、はじめて、本来の自分を取り戻した!という喜びとプライドが炸裂していて、
ものすごいド迫力です。
この場面は、比較的アントナッチの出来もよく、気が強そうでいて、
しかし、マリアを100%無視することができない微妙な女心、
思わぬマリアの反応への狼狽、等が巧みに表現されていたと思います。

第二幕。(先にふれたのと同様に、ここを三幕とする場合もあります。)

一場では、いまだマリアの処刑の決定を躊躇しているエリザベッタに、
顧問役のセシルが、”あんな女を生かしていては危険”と死刑を確定する書面への署名を迫ります。
もちろん、仮に実際にエリザベス女王が迷ったという状況があったとしても、
それはおそらくより政治的な理由によるものだったでしょうが、
この作品では、人間的な理由の迷いとして彼女の気持ちを描きだすことにより、
エリザベッタに人間味を与えることに成功しています。
セシル役のテッラノヴァは、ややしゃくれ気味の顎で、ルックスのインパクトが強いですが、
歌の方も手堅くまとめていました。
この場面でのアントナッチには、もう少しエリザベッタの感情の多面性を出してほしかったかな、という気もします。
特にレスターにマリアの処刑に立ち会うように命令を下すその嫉妬と復讐と悲しみとが
入り混じる感情をもう少し深く歌い演じてほしかった。

第二場。
フォルテリンガ城のマリアの房。
エリザベッタに署名された死刑通告書をセシルから受け取るマリア。
この作品のポイントは、二人が対面しているとき以外では、
エリザベッタは逡巡したあげくにマリアに会うことに同意したり、
会ったあとですら、マリアの処刑に同意することに躊躇したりしているし、
マリアはマリアで、もしかするとエリザベッタは自分の境遇を理解してくれるかもしれない、
という一縷の望みと信頼をもって会見にいどむ、といった風であったにもかかわらず、
結局、二人はお互いがそういう気持ちを互いに持っていたとは全く想像しないまま、
相手は自分のことを憎んでいる、と信じつつ、マリアの死によって、道を分かってしまう、という点でしょう。
その望みが絶たれたとき、マリアは死を受け入れる覚悟をきめる。
史実はわかりませんが、オペラの中では、憎しみとか軽蔑といった複雑な感情の裏で、
実はエリザベッタからの理解と愛情を最も渇望していたのがマリアであった、と思えてきます。
いや、逆にそのような渇望があったからこそ、それが満たされなかったとき、
憎しみと軽蔑が膨れ上がったともいえます。
この場でのタルボ役のアルベルギーニの悲しいまでの不調は先に述べたとおり。

第三場。処刑場の控えの間。
マリアの運命を嘆く”Vedeste? Vedemmo ”以降の合唱は、
これまたどことなく、構成的に、ルチアの狂乱の場の前の、結婚の宴の招待客の合唱を連想させる、
非常に美しい曲で、
これにかぶって始まる最後の幕の最大の見せ場で、エリザベッタをも許して神に歌う
”今死のうとしているこの心が D'un cor che muore reca il perdono ”のデヴィーアの歌唱も
本当に感動的でした。

考えてみれば、タルボやレスター伯がこうして事を急いて強引な方法をとらなければ、
少なくともマリアは処刑されることもなかったかもしれないわけで、
マリアを死に追いやったのは、エリザベッタよりも彼ら二人、という気もしてきます。
とすると、最大の権力を握った女の運命の対決!と見えるものが、
実は男性によって動かされていた、ということで、
女性にふりまわされる歴史上の男性豪傑たちの逆バージョンともいえるかもしれません。

静かに処刑台にのぼり、そっと頭をのせる姿には、
静かな平安の心が、運命への諦念によってマリアにもたらされた、ということを、デヴィーアが巧みに表現。



一にも二にもデヴィーアの人間国宝級の歌が光る公演でした。

すぐに続いた主なキャスト全員でのカーテン・コールで、デヴィーアがアントナッチの健闘を大いに讃える姿からは、
彼女の芸術性を高く評価していること、
また必ずしも本調子ではなかったアントナッチへの温かい思いやりも感じられ、
歌もさることながら、後進をひっぱるベテラン歌手としての気配りも素敵でした。

さらにびっくりだったのは、個々の歌手の挨拶。
アルベルギーニが野次り倒されたのは、仕方なし、としても、
メリが拍手喝采なのは、これいかに?!
録音では捕らえることのできない生特有の輝きがあったのか?
(たまにそのギャップが大きい歌手がいるので、、。)
そして、もっとびっくりだったのは、アントナッチに思いっきり浴びせられた観客のブー。
彼女への期待がそれだけ高かった、ということなのかもしれませんが、
本調子でないことは感じられたとはいえ、とてもブーをもらうような出来ではなく、
メトならば、間違いなく拍手喝采だった出来です。
本人も少し戸惑いながらも、むっとした表情でした。
これだけ歌ってもブーを出されるとは、スカラ座、きびしい、、。
『アイーダ』あたりの公演とくらべると、ベル・カントのレパートリーを観に行こう、という観客は、
歌への指向が高い、つまり歌唱の出来には異常にうるさい傾向があるので、
それも理由の一つかもしれません。

しかし、それだけでは終わらない。
アントナッチへのブーが鳴り止まないうちに、
続いて舞台上のセットがやや高めに組まれたところに姿をあらわしたデヴィーアの、
”あんたら、ふざけんじゃないわよ!これだけの歌を聴かせてもらってブーとは
何様のつもり!”と、
観客をにらみつける表情のその迫力といったら!!
もちろん、デヴィーアにはブーから一転、大喝采とBravaの嵐だったのですが、
それでも、礼をしながら、その表情には嬉しさよりも、怒りが勝っていたのが印象的でした。
共演者を正当に評価しない観客に向かって敢然と立ち向かうデヴィーア。
もう、ほんっとに、かっこよすぎです!!!

そして、アントナッチはもちろん、アルベルギーニよりもたくさんのブーを食らっていたかもしれないのが、
指揮者のフォッリアーニという、聞いたことのない指揮者。
見た目がごっつくて角刈り、オペラ指揮者というよりは、柔道のチームの監督のような雰囲気なのですが、
そんな体育会系の彼にはこのベル・カント作品の真髄を引き出せないのか、
オケはだるだるで、オケの演奏という面では、4日間の中でもっともつまらない仕上がりに。
私も庇って差し上げることが最早不可能なほど、確かにブーでもしょうがないか、の出来でした。
ベル・カントのほとんどの作品は、限りなく歌の伴奏のようなオーケストレーションなので、
そこから何かを引き出すというのは、非常に大変だとは思うので、
何もそこまで期待しているわけではないのですが、
彼の最大の罪は、歌のリズムをきちんと歌手のために設定してあげれていないところにあると思います。
統率力がなく、歌手と、”あれ、ここ、ボク、先にいっていいのかな?
あれ?デヴィーアさん、どうします?もう少しゆっくり行ってみます?”みたいな迷いが
そこここに感じられるのです。
もっとしっかり!まとめるのはあんたなんだから!!

さて、この”スカラ座の夜”の会場になっているシンフォニー・スペースは、
これ以降も、意欲的にいろいろな直近のオペラ公演、さらにバレエの公演の映像も、
上映してくれる予定だそうです。
現在予定されているものには、スカラ座の2008年のシーズン・プレミアの『ドン・カルロ』、
2008年のザルツブルグ音楽祭から、ヴェルディの『オテッロ』、モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』、
グノーの『ロミオとジュリエット』、やはり2008年のグラインドボーンから『ヘンゼルとグレーテル』、
そして数年前のアレーナ・ディ・ヴェローナの公演より、『トスカ』と『ナブッコ』、
年不明でパルマの『リゴレット』などが、
また、バレエでは、ボリショイの『ボルト』(ショスタコビッチの作曲)と『ファラオの娘』が、
そして、スカラ座から『メディテラネア』が予定されています。
ホールの人がこれらの演目を読み上げるたび、
驚きと喜びのどよめきが会場にいたオペラヘッドからあがっていました。

2008年シーズンはメトの生公演に加えて、これらの映画館での上映も加わる
嬉しい大多忙の年になりそうな予感です。


Mariella Devia (Maria Stuarda)
Anna Caterina Antonacci (Elisabetta)
Paola Gardina (Anna)
Francesco Meli (Roberto)
Simone Alberghini replacing Carlo Cigni (Talbot)
Piero Terranova (Cecil)

Conductor: Antonino Fogliani
Director and Set/Costume Designer: Pier Luigi Pizzi
Performed at Teatro alla Scala
Film viewed at Symphony Space, New York

*** ドニゼッティ マリア・ストゥアルダ Donizetti Maria Stuarda ***

La Scala Nights in Cinema: MARIA STUARDA 前編

2008-07-23 | 映画館で観るメト以外のオペラ 
スカラ座の夜第三弾は、いよいよ、デヴィーア出演の『マリア・ストゥアルダ』。
なんでいまさらこれを映画館で?と思わされた、昨日&おとといの、
2006年公演の『アイーダ』『椿姫』と異なり、
こちらは、どうやら、2008年1月にスカラ座で上演されたと思しきもので、
やっと、リアルタイムに近づいてきました。こうでなければ!

ドニゼッティは1816年から1843年の間に実に70本以上のオペラを作曲しています。
今でもよく演奏されるか、少なくとも比較的によく名前が知られているものをあげると、
『アンナ・ボレーナ』(1830年)、『愛の妙薬』(1832年)、『ルクレツィア・ボルジア』(1833年)、
『マリア・ストゥアルダ』(1834年原典版、1835年現行版)、
『ランメルモールのルチア』(1835年)、
『ロベルト・デヴリュー』(1837年)、『ポリウート』(1838年)、
『連隊の娘』、『ラ・ファヴォリータ』(ともに1840年)、
『シャモニーのリンダ』(1842年)、『ドン・パスクワーレ』(1843年)あたりで、
1830年以降の作品に集中しています。

ここにあがった作品のうち、『アンナ・ボレーナ』(アン・ブリンのイタリア語読み)、
この『マリア・ストゥアルダ』(メアリー・スチュワートの)、そして、
『ロベルト・デヴリュー』(エセックス侯 ロバート・ダドレーの)は、
イングランドおよびスコットランドの王室を扱ったもので、女王の悲劇三部作とも呼ばれています。
また、『ランメルモールのルチア』もスコットランドが舞台。
ブリティッシュかぶれなドニゼッティなのです。

特にこの『マリア・ストゥアルダ』、私は同年に作曲された『ランメルモールのルチア』と
何となく作品のつくりが似ているな、と思いました。
主役(マリア/ルチア)が出てくるまでがやたら長い、
出てきてすぐにソプラノに大きな見せ場がある(庭のシーン/泉のシーン)、
バリトンとバスにも、端役ながら存在感が求められる(セシル&タルボ/エンリーコ&ライモンド)、
同性異パートの対決シーンがある(マリアvsエリザベッタ/エドガルドvsエンリーコ)、
作品のかなり後ろの方に合唱の見せ場がある(処刑前のシーン/ルチアの狂乱の場前)などなど。

『ルチア』のはちゃめちゃな筋立てに比べると
(『ルチア』の原作であるウォルター・スコットの作品は実際の事件に基づいて書かれたものですが、
家が仇敵同士であるとか、ルチアの恋人(オペラではエドガルドにあたる)が
外国から戻ってくるなどといった都合のよいシチュエーションはすべてフィクション。)
史実に基づいているせいか、『マリア・ストゥアルダ』の方が、確固とした一本の話の筋があり、
逆をいうと、それが退屈と同義にもなりえて、『ルチア』よりも地味な感じがしてしまうのですが、
しかし、いい歌手をそろえられれば、歌唱的には聴き所の多い作品で、私は一度も退屈せず、
むしろ、先に観た『アイーダ』や『椿姫』よりもあっという間に時間が経ってしまったような気がしたほどです。
(まあ、『アイーダ』は実際やや長いのですが。)
そう、この作品は、いい歌手を据えてくれないと、観客にとっては地獄のような作品、
逆に今回のデヴィーアのような素晴らしい歌手を持ってきてくれると、耳への最高のご馳走となります。

メアリー・スチュワートとエリザベス一世のそれぞれの人生と二人の関係については、
ご存知の方も多いことでしょうし、書いているとそれだけで3本くらい記事を費やしてしまいそうです。
私がつたない言葉で書くよりも、簡潔でありながら要領を得た文章で説明してくださっている文章が、
ネットにはたくさんあがっているので、ここでは割愛させていただきますが、
例えば、こちらの川島道子さんという方がお書きになっているものは、
ビジュアルも充実していて、しかも微妙な政治情勢、当時の人民の感情などをとりまぜながら、
非常に巧みにマリアとエリザベッタ(メアリーとエリザベス)がどのような経緯で
このオペラで描かれているような状況に至ったか、ということが要領よく説明されており、おすすめです。

このドニゼッティによるオペラは、シラーによって書かれたお芝居の台本を転作したもので、
一幕二場の二人の対決シーンなどは実際に起こったことではなく
(対決どころか、二人はじかに顔をあわせたことすらないそうです。)、
お芝居のために作られたものを、オペラにそのまま持ってきた結果によるもの。


第一幕 第一場

夫殺しのかどを理由にエリザベッタに幽閉状態におかれているマリア。
当然、エリザベッタの本当の恐怖は、血筋としては自分よりも正統な王位継承権を持っている
マリアに自分の女王としての地位を奪われるのではないか?ということであり、
マリアとエリザベッタの間はすでに険悪になっている、という前提で話がすすんでいきます。
このことと、第二幕で処刑台に向かうシーンがあることより、
このオペラでは、マリアの長きに渡る幽閉生活の最後の日々、
つまり年齢でいうと、40歳代中頃を描いています。(処刑されたのは44歳のとき。)
ということで、これはうら若い女性の話ではなく、人生経験を積んだ、
それも同様に気位の高い二人の女性の物語。
なので、この公演でマリアを歌ったデヴィーアの60歳!という年齢について、
観るまでは、”さすがにちょっぴりきついんだろうなあ、、”と思っていたのですが、
信じられないような声のコンディションと歌唱力もあって、
全くといっていいほど違和感がなかったです。
むしろ、どんなに歌唱が達者でも、この役の雰囲気を出すには、
可愛らしい若手歌手では無理なのでは?という気がするほど。
一方、エリザベッタを歌ったメゾのアンナ・カテリーナ・アントナッチは1961年生まれの46歳で、
年齢的にはぴったりなのですが、
この素顔は綺麗すぎるとスカラ座が判断したのか、



実際の顔の造作があとかたもないほどの白塗りメイクと、エリザベス女王といえば、あの!の、
ノー眉毛メイクで、体当たり歌唱です。



この方、メトで聴いたことがないなあ、と思っていたら、2006年の英デイリー・テレグラフ紙によると、
メトの『ドン・ジョヴァンニ』のエルヴィーラ役に予定されていたにもかかわらず、
ゲオルギューを同役に放り込みたくなったメトに、
”将来予定されている別の作品の役に必ずキャスティングするから代わってもられないだろうか?”
と言われたらしく、”それならば、将来も何ももう結構です。”と、
それ以来メトへの出演を一切とりやめてしまったというガッツの持ち主。
ゲオルギューのために、こうやって優秀な歌手を取り逃がしているとは、メトのなんとお馬鹿さんっ!!!!
おかげさまで、NYのオペラへッドにとっては大きな損失です。
同記事によれば、彼女はtop D(三点二)の音まで出るため、
ソプラノともメゾとも区別をつけがたい、と言われ続けてレパートリーが定まらず、
今の地位を確立するまでにはそれなりの苦労があったようです。

ウェストミンスター宮殿が舞台になる第一幕では、マリアは一切登場せず、
このアントナッチ歌うエリザベッタと、二人の王女をとりまく人物、すなわち、
エリザベッタに片思いされつつも、両思いの相手であるマリアを幽閉状態から救おうと
奔走するレスター伯ロベルト、この二人をいつもそっと支えるシュルーズべリ伯タルボ、
そして、エリザベッタ側の政治顧問のようなことをしているらしいセシル、らが
物語の背景をこの幕で次々と歌によって紡いでいきます。

イングランド女王としての立場としては、
フランス王からの結婚の申し込みを受けるしかない、と頭では理解していても、
心がレスター伯を追ってしまうエリザベッタ。
マリアの幽閉を解くには、エリザベッタの心に入り込み、懇願をすることしかない!
と画策を練るレスター伯とタルボ。
この動きを怪しむ、さすがは顧問!のセシル。
そして、自分が慕っているレスター伯が、自分の最大の脅威であり、敵ともいえるマリアに
心を寄せていると知ったときの、一人の女性として感じる嫉妬の一方で、
一国の主として、またマリアの肉親(従姉妹)として、なすべきことは何なのか、
苦渋するエリザベッタの姿など、なかなかのてんこもりです。
そして、タルボに励まされつつ、マリアの開放を懇願し続けるレスター伯の熱意に折れ、
ついにエリザベッタは一場が終わるまでにマリアと会見することを渋々承知します。

さて、メトを切った根性の歌手、アントナッチですが、その根性をのぞかせる激しい役作り。
ただし、声からは、しょっぱなの”清らかな愛が私を祭壇に導くとき Ah! quando all'ara scorgemi”から
特に高音で無理に声を絞りだすような響きが聴かれ、完全な本調子ではない様子。
一幕の見せ場の一つである、”Ah, dal ciel discenda un raggio (日本語での曲名がわかりませんが、”智と正義の光を”というような意味)でも同様。
それでも、本調子でないながら、音程は正確だし、技術もしっかりしていることは伺われます。
本来のコンディションで聴いてみたい。

一方、レスター伯を歌ったフランチェスコ・メリは、声量もあって、
登場後すぐは期待をさせるのですが、ごりごりごりごりと声を張り上げ、
段々と聴いているこっちまで肩がこってきそうになる歌唱。
この第一幕のアリア、”ああ!美しいこの面影を Ah! rimiro il bel sembiante ” で、
すでに私も一緒にぜーぜーしそうでした。
この役に求められる声のタイプとしては、『ルチア』のエドガルドなんかと共通していると思いますが、
現在のオペラ界で、このあたりのレパートリーを優雅に楽々と歌えるテノールが本当に少ないような気がします。
日本での『椿姫』の公演でデヴィーアと共演したころのフィリアノーティをDVDで観た時には、
あのまま好調を維持してくれれば最右翼!と大いに期待していたのですが、
メトの2007年シーズンでのエドガルドを聴く限り、その夢も絶たれたのではないか、と私はとても悲しい。
あとに残っているのは、メトに登場した人でいうと、
ジョルダーニ(私的には全然だめだと思う)、新進のカイザー(まだまだ小粒)、と絶望的な状況です。
この二人よりは、むしろ、ポレンザーニ(最近ではこのあたりのレパートリーを歌うには
声が重くなってしまったかもしれませんが)や、いっそもっと新人でコステロに期待したい。
メリの歌唱もジョルダーニのそれと共通するものを感じるのですが
メリの方は、声は良くでているが、ほとんど”うるさい”というレベルに達しているし、
ジョルダーニはジョルダーニで、そこまでうるさくは思わないけれど、折り目折り目が甘く、
彼らの強引で繊細さの微塵もない歌唱は、特にこの辺のレパートリーでは、
私には全く魅力的に感じられません。

それから、このメリ、顔を含むルックス自体は決して悪くないのですが、
歌い始めると、子リスのように前歯をひん向いて歌うのはやめてほしい。
深刻な内容の歌詞なのに、ずっと”いひひ!”と笑っているかのような顔なんですもの。
オペラも映画館で鑑賞される時代、
歌っているときの顔までチェックされるのだから、オペラ歌手も本当に大変です。

しかし、ルックスといえば、マリアとレスター伯を陰に日向に支えるタルボ役を歌うシモーネ・アルベルギーニ。
(注:配布されたスカラ座HDの資料では、カルロ・チーニとなっていましたが、
以後、これは間違いで、アルベルギーニであることが発覚しました。)
この公演の映像の、この役では、なんとなく私のアイドル、コレッリを彷彿とさせるルックスで、
一瞬ときめきましたが、歌が絶不調。
後の幕では、声がかれはじめ、大きく咳払いをして、喉を潤そうとしても、全く効果なし。
最後のカーテン・コールでは案の定強烈なブー出しを食らっていましたが、本人も大いに自覚があったようで、
穴があったら入りたい!という様子でした。
それがこんな風に映像に残ってしまって、、。
やっぱりオペラ歌手には大変な時代になったものです。
というわけで、彼に関しては、あまりにコンディションが悪すぎて、何をどう評していいのやら、、
なので、コメントは控えさせていただきます。

プロダクションについては、セットは写実的なものを廃し、直線を生かしたモダン
(というこの言い方自体が古さを感じるが、、)なデザイン。




決してわけのわからない抽象的なものにはなっておらず、また何か意外なことを提示しようとするのでもない。
ベースにはストーリーや状況に忠実、かつ歌を決して邪魔しない路線が流れており、
その意味では、結局書割中心の古色蒼然としたセットと、役割的には大して違いない気もします。
衣装も全体的にはシックで悪くないのですが、唯一、続く一幕二場でのマリアとエリザベッタの対決シーンでの、
エリザベッタの男装の麗人風の衣装は、”これはなんでしょう、、?”と思わされました。
女王としての身を隠し、男性の振りをしてお忍びでマリアに会いに来た、ということなのかも知れませんが、
高い帽子をかぶり、それこそ”女王様”(二重の意味です、、)のように、
乗馬用の鞭を振り回す姿、しかも眉毛なし、は、とっても怖いです。



なぜ、ドレスではいけないのでしょう?よくわかりません。
特にこの場面は、”女同士”の意地とメンツをかけた二人の女王
(イングランドvsスコットランド)の対決なのであって、
私としては二人が女性であるという事実をむしろ強調してほしかった。
片方が男のようでは、このシーンのエッセンスがぶち壊しです。

後編に続く>

Mariella Devia (Maria Stuarda)
Anna Caterina Antonacci (Elisabetta)
Paola Gardina (Anna)
Francesco Meli (Roberto)
Simone Alberghini replacing Carlo Cigni (Talbot)
Piero Terranova (Cecil)

Conductor: Antonino Fogliani
Director and Set/Costume Designer: Pier Luigi Pizzi
Performed at Teatro alla Scala
Film viewed at Symphony Space, New York

*** ドニゼッティ マリア・ストゥアルダ Donizetti Maria Stuarda ***