<前編より続く>
その一幕二場(ここからは、第二幕とされる場合もありますが、
この記事では会場で配布されたパンフレットに基づき、一幕ニ場という扱いのまますすめます。)、
冒頭は、構成的にどことなく『ルチア』の泉の場面を彷彿とさせる場面で、
マリアの幽閉場所である、フォルテリンガ城の庭が舞台。
ルチアが友人のアリサを相手に語るのと、マリアがお付きの女性であるアンナを相手に語るというのが、
シチュエーション的に似ています。
久しぶりに戸外で日の光を浴びた喜びを歌う、このオペラの中で最も有名なマリア役の聴かせどころ、
”ああ、雲よ、なんと軽やかに Oh! Nube, che lieve!”。
マリアの目にいかに外の風景が新鮮に映ったか、ということを表現するためでしょうか、
最初にびっしりと緑の葉がついた背景があらわれ、デヴィーアが歌いはじめると、
上に巻き上がっていくようにその背景が消えていきます。
そういえば、ルチアの泉のシーンも、周囲はヒースの野原っぽいイメージがあり、
自然の中で歌われる、というのも何となく共通項を感じる一つの理由かもしれません。
そして、デヴィーアが一フレーズ歌った途端、私は口があんぐりあいて、
そのまま顎が外れてしまうかと思いました。
すごすぎる!!!これが齢60ともなろうソプラノの歌?!
もちろん、60歳ですから、例えば10年前と比べると、声そのものの瑞々しさという点では
若干後退していますが、コロラトゥーラの技術はいささかも衰えを見せておらず、
それどころか、ほとんど鉄壁ともいえる完璧さを誇っています。
あれだけ細かい装飾音符を歌いながら、それでいてなお、その一つ一つの音符の長さが
はっきりと歌いわけされているそのすごさ、
どんな旋律も決して粗末に扱わず、まるで薄い絹の生地を扱うように、細心の注意をもって実行されるフレージング、
ある意味は残念かつまた将来に不安を覚えさせる恐ろしい事実ですが、
中堅、若手で、こんな職人芸のような歌を歌える人は
今のオペラ界でまず皆無でしょう。少なくとも私が知る限りはいません。
昨日の『椿姫』のゲオルギューを聴いて、彼女のコロラトゥーラも、
まあこんなものなのかもな、これでも今のオペラ界ではましな方かな、
なんて思っていた私は、大反省。
実際そうであっても(というのは、本当にきちんと歌える人が少ないから、
繰り上がり式に彼女が比較的まし、というのは事実なのだ。)、
オペラヘッドたるもの、妥協はいかん!!
この歌を聴いて、そんなゲオルギューの歌唱への感想を撤回したいくらいに
デヴィーアの歌唱には衝撃を受けました。
才能もさることながら、その上に努力に努力を重ねた人だけが到達できる高みに、
(いや、そんなことは前からわかっていたのですが、しかし、私が思っていた以上の高みに)
現在の彼女がいることを本当に思い知らされました。
フレーニが65歳の頃でしょうか、来日して、『ラ・ボエーム』の全幕公演で
ミミを歌ってくれたことがあって、その時も”これが65歳?!すごい!!”とびっくりしたものですが、
今日のこの驚愕はそれ以上かも。フレーニは素晴らしかったけど、
そこは、デヴィーアが40代なかばの女性の役を演じているのにくらべると、
ミミは20歳そこらの女性ということもあって、
歌唱をさておき、役作りでは実年齢とのいかんしがたいギャップがありましたし、
さすがに年齢のためにやや重くなってしまった声に、
”65歳にしては”という枕詞がくっついてしまうのですが(それでも半端ないすごさでしたが)、
デヴィーアのこの歌唱は、かつての名歌手の60歳の余興やノスタルジーなんてものじゃない、
歌唱と役作りの両面で、現役ばりばりの歌唱です。
大体、こうしてスカラ座の舞台に立っていること自体、立派な現役である証なのでしょうが。
(重ねていいますが、フレーニのそれがノスタルジーと言っているわけではありません。
彼女の歌唱はそれはそれで、若手が大いに見習うべき素晴らしい美点がたくさんありましたから。)
彼女のベル・カント一筋に努力してきた姿勢が、このマリアのキャラクターと共鳴するのか、
その誇り高い立ち居振る舞いには神々しさまで溢れていて、私は地面にひれ伏したいような気持ちで
彼女が歌うすべての場面を見守っていました。ほんと、かっこよすぎです。
自分自身をあまやかさない厳しさからでるこの近寄りがたいまでの迫力は、
全盛期のマリア・カラスと共通するものを感じます。
(ただし、意外ですが、マリア・カラスはこの作品を少なくとも全幕では歌ったことがない。)
そして、この高音は、、!!!!!なんでこんなすごい声が出るの?
音程も含め、きちんと音は出てますね、というレベルではない。
そんな風に守りに入らず、渾身の力を込めて、攻めの歌唱を繰り広げる彼女に、
またしてもひれ伏す私なのでした。
その後に続く、レスター伯がマリアに、エリザベッタとの直談判の場を設定したから、
その場で幽閉を解いてくれるようにお願いするんだ!と、マリアを説得しようとする二重唱、
”世界から見放され、王座から離れても Da tutti abbandonata ”も、美しい曲。
これで、子リスがこうもがんがんと声を張り上げなければ、、。
この作品、女王同士の対決とか処刑場に向かうマリア、といった一見ドラマチックな場面があるようでいて、
やや一本調子な感じがするからか(リブレットが悪いのかな、?)、
『ルチア』なんかと比べて、随分地味な位置にいますが、
美しい曲がたくさん含まれていて、すぐれた歌手を得れれば大化けするポテンシャルのある作品です。
ただ、大化けするにはマリア役だけでなく、エリザベッタとレスター伯の両方、
もしくは少なくともそのどちらかの一人が良くないといけません。
その意味では、この公演、デヴィーアのマリア役だけが図抜けていて、
アントナッチがやや不調、メリは私には問題外、という感じなので、
まだまだ本領を100%発揮しているとは言いがたいです。
作品にご興味のある方には、本領発揮度が高い演奏の記録として、
ネッロ・サンティ指揮の1972年のパリでのライブ盤CDをおすすめします。
カバリエがマリア役を、メネンデスがエリザベッタを、
そして、カレーラスがレスター伯役を歌っています。
デヴィーアと双璧の出来のカバリエ(ただし、この役に関しては
私はデヴィーアの歌唱を僅差でとるかもしれません。
カバリエのフレージングには、デヴィーアよりも少し優しい
もちっとした感触があるように思うのですが、この気位が高く芯の強いマリア役には
デヴィーアのような歌唱の方が私は向いていると思います。)、
そして何よりもレスター伯のカレーラスが素晴らしい。
カレーラス、『椿姫』のレポで書いたスコットとのDVDでも素晴らしいアルフレードを
披露していましたが、このレスター伯役での歌唱がこれまた本当に素敵。
カレーラスは、後年いろいろな重めの役も歌っていますが、
若い頃のこういった軽めの役の方が持ち味がいかんなく発揮されていて、
私はずっと好きです。
このカレーラスの歌唱を聴くと、どうして私がメリにはこの役に必要な
優雅さとか楽々さに欠ける、と感じるか、イメージして頂きやすいと思います。
後半は、いよいよエリザベッタとマリアの対決シーン。
プライドを捨ててエリザベッタに跪いてでも幽閉を解くことを懇願することがどうしてもできない
かなり頑固な女、マリア、
一方、レスター伯に愛されている彼女への嫉妬から一層その彼女の意固地さを許すことのできない
やっぱり頑固な女、エリザベッタ。
このある意味似たもの同士である二人の間には最初からぴりぴりとした空気が漂い、
結局、この会見は大失敗。
マリアをなじりはじめたエリザベッタに対して、マリアも堪忍袋の緒を切らし、
”私こそが本当の王位継承者。あんたはただの私生児でしょうが!!”と
エリザベッタに対してとんでもないことを口走ってしまいます。
もちろん、これでもって恩赦の夢も絶たれ、マリアの暗い運命が半ば決定してしまうのでした。
このエリザベッタを売女の娘呼ばわりするシーンのデヴィーアの、
これで死刑が決まろうが、私は生涯女王よ!と、顔をきっちりとあげ、笑みさえ浮かべている様子は、
長い幽閉生活の後に、はじめて、本来の自分を取り戻した!という喜びとプライドが炸裂していて、
ものすごいド迫力です。
この場面は、比較的アントナッチの出来もよく、気が強そうでいて、
しかし、マリアを100%無視することができない微妙な女心、
思わぬマリアの反応への狼狽、等が巧みに表現されていたと思います。
第二幕。(先にふれたのと同様に、ここを三幕とする場合もあります。)
一場では、いまだマリアの処刑の決定を躊躇しているエリザベッタに、
顧問役のセシルが、”あんな女を生かしていては危険”と死刑を確定する書面への署名を迫ります。
もちろん、仮に実際にエリザベス女王が迷ったという状況があったとしても、
それはおそらくより政治的な理由によるものだったでしょうが、
この作品では、人間的な理由の迷いとして彼女の気持ちを描きだすことにより、
エリザベッタに人間味を与えることに成功しています。
セシル役のテッラノヴァは、ややしゃくれ気味の顎で、ルックスのインパクトが強いですが、
歌の方も手堅くまとめていました。
この場面でのアントナッチには、もう少しエリザベッタの感情の多面性を出してほしかったかな、という気もします。
特にレスターにマリアの処刑に立ち会うように命令を下すその嫉妬と復讐と悲しみとが
入り混じる感情をもう少し深く歌い演じてほしかった。
第二場。
フォルテリンガ城のマリアの房。
エリザベッタに署名された死刑通告書をセシルから受け取るマリア。
この作品のポイントは、二人が対面しているとき以外では、
エリザベッタは逡巡したあげくにマリアに会うことに同意したり、
会ったあとですら、マリアの処刑に同意することに躊躇したりしているし、
マリアはマリアで、もしかするとエリザベッタは自分の境遇を理解してくれるかもしれない、
という一縷の望みと信頼をもって会見にいどむ、といった風であったにもかかわらず、
結局、二人はお互いがそういう気持ちを互いに持っていたとは全く想像しないまま、
相手は自分のことを憎んでいる、と信じつつ、マリアの死によって、道を分かってしまう、という点でしょう。
その望みが絶たれたとき、マリアは死を受け入れる覚悟をきめる。
史実はわかりませんが、オペラの中では、憎しみとか軽蔑といった複雑な感情の裏で、
実はエリザベッタからの理解と愛情を最も渇望していたのがマリアであった、と思えてきます。
いや、逆にそのような渇望があったからこそ、それが満たされなかったとき、
憎しみと軽蔑が膨れ上がったともいえます。
この場でのタルボ役のアルベルギーニの悲しいまでの不調は先に述べたとおり。
第三場。処刑場の控えの間。
マリアの運命を嘆く”Vedeste? Vedemmo ”以降の合唱は、
これまたどことなく、構成的に、ルチアの狂乱の場の前の、結婚の宴の招待客の合唱を連想させる、
非常に美しい曲で、
これにかぶって始まる最後の幕の最大の見せ場で、エリザベッタをも許して神に歌う
”今死のうとしているこの心が D'un cor che muore reca il perdono ”のデヴィーアの歌唱も
本当に感動的でした。
考えてみれば、タルボやレスター伯がこうして事を急いて強引な方法をとらなければ、
少なくともマリアは処刑されることもなかったかもしれないわけで、
マリアを死に追いやったのは、エリザベッタよりも彼ら二人、という気もしてきます。
とすると、最大の権力を握った女の運命の対決!と見えるものが、
実は男性によって動かされていた、ということで、
女性にふりまわされる歴史上の男性豪傑たちの逆バージョンともいえるかもしれません。
静かに処刑台にのぼり、そっと頭をのせる姿には、
静かな平安の心が、運命への諦念によってマリアにもたらされた、ということを、デヴィーアが巧みに表現。
一にも二にもデヴィーアの人間国宝級の歌が光る公演でした。
すぐに続いた主なキャスト全員でのカーテン・コールで、デヴィーアがアントナッチの健闘を大いに讃える姿からは、
彼女の芸術性を高く評価していること、
また必ずしも本調子ではなかったアントナッチへの温かい思いやりも感じられ、
歌もさることながら、後進をひっぱるベテラン歌手としての気配りも素敵でした。
さらにびっくりだったのは、個々の歌手の挨拶。
アルベルギーニが野次り倒されたのは、仕方なし、としても、
メリが拍手喝采なのは、これいかに?!
録音では捕らえることのできない生特有の輝きがあったのか?
(たまにそのギャップが大きい歌手がいるので、、。)
そして、もっとびっくりだったのは、アントナッチに思いっきり浴びせられた観客のブー。
彼女への期待がそれだけ高かった、ということなのかもしれませんが、
本調子でないことは感じられたとはいえ、とてもブーをもらうような出来ではなく、
メトならば、間違いなく拍手喝采だった出来です。
本人も少し戸惑いながらも、むっとした表情でした。
これだけ歌ってもブーを出されるとは、スカラ座、きびしい、、。
『アイーダ』あたりの公演とくらべると、ベル・カントのレパートリーを観に行こう、という観客は、
歌への指向が高い、つまり歌唱の出来には異常にうるさい傾向があるので、
それも理由の一つかもしれません。
しかし、それだけでは終わらない。
アントナッチへのブーが鳴り止まないうちに、
続いて舞台上のセットがやや高めに組まれたところに姿をあらわしたデヴィーアの、
”あんたら、ふざけんじゃないわよ!これだけの歌を聴かせてもらってブーとは
何様のつもり!”と、
観客をにらみつける表情のその迫力といったら!!
もちろん、デヴィーアにはブーから一転、大喝采とBravaの嵐だったのですが、
それでも、礼をしながら、その表情には嬉しさよりも、怒りが勝っていたのが印象的でした。
共演者を正当に評価しない観客に向かって敢然と立ち向かうデヴィーア。
もう、ほんっとに、かっこよすぎです!!!
そして、アントナッチはもちろん、アルベルギーニよりもたくさんのブーを食らっていたかもしれないのが、
指揮者のフォッリアーニという、聞いたことのない指揮者。
見た目がごっつくて角刈り、オペラ指揮者というよりは、柔道のチームの監督のような雰囲気なのですが、
そんな体育会系の彼にはこのベル・カント作品の真髄を引き出せないのか、
オケはだるだるで、オケの演奏という面では、4日間の中でもっともつまらない仕上がりに。
私も庇って差し上げることが最早不可能なほど、確かにブーでもしょうがないか、の出来でした。
ベル・カントのほとんどの作品は、限りなく歌の伴奏のようなオーケストレーションなので、
そこから何かを引き出すというのは、非常に大変だとは思うので、
何もそこまで期待しているわけではないのですが、
彼の最大の罪は、歌のリズムをきちんと歌手のために設定してあげれていないところにあると思います。
統率力がなく、歌手と、”あれ、ここ、ボク、先にいっていいのかな?
あれ?デヴィーアさん、どうします?もう少しゆっくり行ってみます?”みたいな迷いが
そこここに感じられるのです。
もっとしっかり!まとめるのはあんたなんだから!!
さて、この”スカラ座の夜”の会場になっているシンフォニー・スペースは、
これ以降も、意欲的にいろいろな直近のオペラ公演、さらにバレエの公演の映像も、
上映してくれる予定だそうです。
現在予定されているものには、スカラ座の2008年のシーズン・プレミアの『ドン・カルロ』、
2008年のザルツブルグ音楽祭から、ヴェルディの『オテッロ』、モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』、
グノーの『ロミオとジュリエット』、やはり2008年のグラインドボーンから『ヘンゼルとグレーテル』、
そして数年前のアレーナ・ディ・ヴェローナの公演より、『トスカ』と『ナブッコ』、
年不明でパルマの『リゴレット』などが、
また、バレエでは、ボリショイの『ボルト』(ショスタコビッチの作曲)と『ファラオの娘』が、
そして、スカラ座から『メディテラネア』が予定されています。
ホールの人がこれらの演目を読み上げるたび、
驚きと喜びのどよめきが会場にいたオペラヘッドからあがっていました。
2008年シーズンはメトの生公演に加えて、これらの映画館での上映も加わる
嬉しい大多忙の年になりそうな予感です。
Mariella Devia (Maria Stuarda)
Anna Caterina Antonacci (Elisabetta)
Paola Gardina (Anna)
Francesco Meli (Roberto)
Simone Alberghini replacing Carlo Cigni (Talbot)
Piero Terranova (Cecil)
Conductor: Antonino Fogliani
Director and Set/Costume Designer: Pier Luigi Pizzi
Performed at Teatro alla Scala
Film viewed at Symphony Space, New York
*** ドニゼッティ マリア・ストゥアルダ Donizetti Maria Stuarda ***
その一幕二場(ここからは、第二幕とされる場合もありますが、
この記事では会場で配布されたパンフレットに基づき、一幕ニ場という扱いのまますすめます。)、
冒頭は、構成的にどことなく『ルチア』の泉の場面を彷彿とさせる場面で、
マリアの幽閉場所である、フォルテリンガ城の庭が舞台。
ルチアが友人のアリサを相手に語るのと、マリアがお付きの女性であるアンナを相手に語るというのが、
シチュエーション的に似ています。
久しぶりに戸外で日の光を浴びた喜びを歌う、このオペラの中で最も有名なマリア役の聴かせどころ、
”ああ、雲よ、なんと軽やかに Oh! Nube, che lieve!”。
マリアの目にいかに外の風景が新鮮に映ったか、ということを表現するためでしょうか、
最初にびっしりと緑の葉がついた背景があらわれ、デヴィーアが歌いはじめると、
上に巻き上がっていくようにその背景が消えていきます。
そういえば、ルチアの泉のシーンも、周囲はヒースの野原っぽいイメージがあり、
自然の中で歌われる、というのも何となく共通項を感じる一つの理由かもしれません。
そして、デヴィーアが一フレーズ歌った途端、私は口があんぐりあいて、
そのまま顎が外れてしまうかと思いました。
すごすぎる!!!これが齢60ともなろうソプラノの歌?!
もちろん、60歳ですから、例えば10年前と比べると、声そのものの瑞々しさという点では
若干後退していますが、コロラトゥーラの技術はいささかも衰えを見せておらず、
それどころか、ほとんど鉄壁ともいえる完璧さを誇っています。
あれだけ細かい装飾音符を歌いながら、それでいてなお、その一つ一つの音符の長さが
はっきりと歌いわけされているそのすごさ、
どんな旋律も決して粗末に扱わず、まるで薄い絹の生地を扱うように、細心の注意をもって実行されるフレージング、
ある意味は残念かつまた将来に不安を覚えさせる恐ろしい事実ですが、
中堅、若手で、こんな職人芸のような歌を歌える人は
今のオペラ界でまず皆無でしょう。少なくとも私が知る限りはいません。
昨日の『椿姫』のゲオルギューを聴いて、彼女のコロラトゥーラも、
まあこんなものなのかもな、これでも今のオペラ界ではましな方かな、
なんて思っていた私は、大反省。
実際そうであっても(というのは、本当にきちんと歌える人が少ないから、
繰り上がり式に彼女が比較的まし、というのは事実なのだ。)、
オペラヘッドたるもの、妥協はいかん!!
この歌を聴いて、そんなゲオルギューの歌唱への感想を撤回したいくらいに
デヴィーアの歌唱には衝撃を受けました。
才能もさることながら、その上に努力に努力を重ねた人だけが到達できる高みに、
(いや、そんなことは前からわかっていたのですが、しかし、私が思っていた以上の高みに)
現在の彼女がいることを本当に思い知らされました。
フレーニが65歳の頃でしょうか、来日して、『ラ・ボエーム』の全幕公演で
ミミを歌ってくれたことがあって、その時も”これが65歳?!すごい!!”とびっくりしたものですが、
今日のこの驚愕はそれ以上かも。フレーニは素晴らしかったけど、
そこは、デヴィーアが40代なかばの女性の役を演じているのにくらべると、
ミミは20歳そこらの女性ということもあって、
歌唱をさておき、役作りでは実年齢とのいかんしがたいギャップがありましたし、
さすがに年齢のためにやや重くなってしまった声に、
”65歳にしては”という枕詞がくっついてしまうのですが(それでも半端ないすごさでしたが)、
デヴィーアのこの歌唱は、かつての名歌手の60歳の余興やノスタルジーなんてものじゃない、
歌唱と役作りの両面で、現役ばりばりの歌唱です。
大体、こうしてスカラ座の舞台に立っていること自体、立派な現役である証なのでしょうが。
(重ねていいますが、フレーニのそれがノスタルジーと言っているわけではありません。
彼女の歌唱はそれはそれで、若手が大いに見習うべき素晴らしい美点がたくさんありましたから。)
彼女のベル・カント一筋に努力してきた姿勢が、このマリアのキャラクターと共鳴するのか、
その誇り高い立ち居振る舞いには神々しさまで溢れていて、私は地面にひれ伏したいような気持ちで
彼女が歌うすべての場面を見守っていました。ほんと、かっこよすぎです。
自分自身をあまやかさない厳しさからでるこの近寄りがたいまでの迫力は、
全盛期のマリア・カラスと共通するものを感じます。
(ただし、意外ですが、マリア・カラスはこの作品を少なくとも全幕では歌ったことがない。)
そして、この高音は、、!!!!!なんでこんなすごい声が出るの?
音程も含め、きちんと音は出てますね、というレベルではない。
そんな風に守りに入らず、渾身の力を込めて、攻めの歌唱を繰り広げる彼女に、
またしてもひれ伏す私なのでした。
その後に続く、レスター伯がマリアに、エリザベッタとの直談判の場を設定したから、
その場で幽閉を解いてくれるようにお願いするんだ!と、マリアを説得しようとする二重唱、
”世界から見放され、王座から離れても Da tutti abbandonata ”も、美しい曲。
これで、子リスがこうもがんがんと声を張り上げなければ、、。
この作品、女王同士の対決とか処刑場に向かうマリア、といった一見ドラマチックな場面があるようでいて、
やや一本調子な感じがするからか(リブレットが悪いのかな、?)、
『ルチア』なんかと比べて、随分地味な位置にいますが、
美しい曲がたくさん含まれていて、すぐれた歌手を得れれば大化けするポテンシャルのある作品です。
ただ、大化けするにはマリア役だけでなく、エリザベッタとレスター伯の両方、
もしくは少なくともそのどちらかの一人が良くないといけません。
その意味では、この公演、デヴィーアのマリア役だけが図抜けていて、
アントナッチがやや不調、メリは私には問題外、という感じなので、
まだまだ本領を100%発揮しているとは言いがたいです。
作品にご興味のある方には、本領発揮度が高い演奏の記録として、
ネッロ・サンティ指揮の1972年のパリでのライブ盤CDをおすすめします。
カバリエがマリア役を、メネンデスがエリザベッタを、
そして、カレーラスがレスター伯役を歌っています。
デヴィーアと双璧の出来のカバリエ(ただし、この役に関しては
私はデヴィーアの歌唱を僅差でとるかもしれません。
カバリエのフレージングには、デヴィーアよりも少し優しい
もちっとした感触があるように思うのですが、この気位が高く芯の強いマリア役には
デヴィーアのような歌唱の方が私は向いていると思います。)、
そして何よりもレスター伯のカレーラスが素晴らしい。
カレーラス、『椿姫』のレポで書いたスコットとのDVDでも素晴らしいアルフレードを
披露していましたが、このレスター伯役での歌唱がこれまた本当に素敵。
カレーラスは、後年いろいろな重めの役も歌っていますが、
若い頃のこういった軽めの役の方が持ち味がいかんなく発揮されていて、
私はずっと好きです。
このカレーラスの歌唱を聴くと、どうして私がメリにはこの役に必要な
優雅さとか楽々さに欠ける、と感じるか、イメージして頂きやすいと思います。
後半は、いよいよエリザベッタとマリアの対決シーン。
プライドを捨ててエリザベッタに跪いてでも幽閉を解くことを懇願することがどうしてもできない
かなり頑固な女、マリア、
一方、レスター伯に愛されている彼女への嫉妬から一層その彼女の意固地さを許すことのできない
やっぱり頑固な女、エリザベッタ。
このある意味似たもの同士である二人の間には最初からぴりぴりとした空気が漂い、
結局、この会見は大失敗。
マリアをなじりはじめたエリザベッタに対して、マリアも堪忍袋の緒を切らし、
”私こそが本当の王位継承者。あんたはただの私生児でしょうが!!”と
エリザベッタに対してとんでもないことを口走ってしまいます。
もちろん、これでもって恩赦の夢も絶たれ、マリアの暗い運命が半ば決定してしまうのでした。
このエリザベッタを売女の娘呼ばわりするシーンのデヴィーアの、
これで死刑が決まろうが、私は生涯女王よ!と、顔をきっちりとあげ、笑みさえ浮かべている様子は、
長い幽閉生活の後に、はじめて、本来の自分を取り戻した!という喜びとプライドが炸裂していて、
ものすごいド迫力です。
この場面は、比較的アントナッチの出来もよく、気が強そうでいて、
しかし、マリアを100%無視することができない微妙な女心、
思わぬマリアの反応への狼狽、等が巧みに表現されていたと思います。
第二幕。(先にふれたのと同様に、ここを三幕とする場合もあります。)
一場では、いまだマリアの処刑の決定を躊躇しているエリザベッタに、
顧問役のセシルが、”あんな女を生かしていては危険”と死刑を確定する書面への署名を迫ります。
もちろん、仮に実際にエリザベス女王が迷ったという状況があったとしても、
それはおそらくより政治的な理由によるものだったでしょうが、
この作品では、人間的な理由の迷いとして彼女の気持ちを描きだすことにより、
エリザベッタに人間味を与えることに成功しています。
セシル役のテッラノヴァは、ややしゃくれ気味の顎で、ルックスのインパクトが強いですが、
歌の方も手堅くまとめていました。
この場面でのアントナッチには、もう少しエリザベッタの感情の多面性を出してほしかったかな、という気もします。
特にレスターにマリアの処刑に立ち会うように命令を下すその嫉妬と復讐と悲しみとが
入り混じる感情をもう少し深く歌い演じてほしかった。
第二場。
フォルテリンガ城のマリアの房。
エリザベッタに署名された死刑通告書をセシルから受け取るマリア。
この作品のポイントは、二人が対面しているとき以外では、
エリザベッタは逡巡したあげくにマリアに会うことに同意したり、
会ったあとですら、マリアの処刑に同意することに躊躇したりしているし、
マリアはマリアで、もしかするとエリザベッタは自分の境遇を理解してくれるかもしれない、
という一縷の望みと信頼をもって会見にいどむ、といった風であったにもかかわらず、
結局、二人はお互いがそういう気持ちを互いに持っていたとは全く想像しないまま、
相手は自分のことを憎んでいる、と信じつつ、マリアの死によって、道を分かってしまう、という点でしょう。
その望みが絶たれたとき、マリアは死を受け入れる覚悟をきめる。
史実はわかりませんが、オペラの中では、憎しみとか軽蔑といった複雑な感情の裏で、
実はエリザベッタからの理解と愛情を最も渇望していたのがマリアであった、と思えてきます。
いや、逆にそのような渇望があったからこそ、それが満たされなかったとき、
憎しみと軽蔑が膨れ上がったともいえます。
この場でのタルボ役のアルベルギーニの悲しいまでの不調は先に述べたとおり。
第三場。処刑場の控えの間。
マリアの運命を嘆く”Vedeste? Vedemmo ”以降の合唱は、
これまたどことなく、構成的に、ルチアの狂乱の場の前の、結婚の宴の招待客の合唱を連想させる、
非常に美しい曲で、
これにかぶって始まる最後の幕の最大の見せ場で、エリザベッタをも許して神に歌う
”今死のうとしているこの心が D'un cor che muore reca il perdono ”のデヴィーアの歌唱も
本当に感動的でした。
考えてみれば、タルボやレスター伯がこうして事を急いて強引な方法をとらなければ、
少なくともマリアは処刑されることもなかったかもしれないわけで、
マリアを死に追いやったのは、エリザベッタよりも彼ら二人、という気もしてきます。
とすると、最大の権力を握った女の運命の対決!と見えるものが、
実は男性によって動かされていた、ということで、
女性にふりまわされる歴史上の男性豪傑たちの逆バージョンともいえるかもしれません。
静かに処刑台にのぼり、そっと頭をのせる姿には、
静かな平安の心が、運命への諦念によってマリアにもたらされた、ということを、デヴィーアが巧みに表現。
一にも二にもデヴィーアの人間国宝級の歌が光る公演でした。
すぐに続いた主なキャスト全員でのカーテン・コールで、デヴィーアがアントナッチの健闘を大いに讃える姿からは、
彼女の芸術性を高く評価していること、
また必ずしも本調子ではなかったアントナッチへの温かい思いやりも感じられ、
歌もさることながら、後進をひっぱるベテラン歌手としての気配りも素敵でした。
さらにびっくりだったのは、個々の歌手の挨拶。
アルベルギーニが野次り倒されたのは、仕方なし、としても、
メリが拍手喝采なのは、これいかに?!
録音では捕らえることのできない生特有の輝きがあったのか?
(たまにそのギャップが大きい歌手がいるので、、。)
そして、もっとびっくりだったのは、アントナッチに思いっきり浴びせられた観客のブー。
彼女への期待がそれだけ高かった、ということなのかもしれませんが、
本調子でないことは感じられたとはいえ、とてもブーをもらうような出来ではなく、
メトならば、間違いなく拍手喝采だった出来です。
本人も少し戸惑いながらも、むっとした表情でした。
これだけ歌ってもブーを出されるとは、スカラ座、きびしい、、。
『アイーダ』あたりの公演とくらべると、ベル・カントのレパートリーを観に行こう、という観客は、
歌への指向が高い、つまり歌唱の出来には異常にうるさい傾向があるので、
それも理由の一つかもしれません。
しかし、それだけでは終わらない。
アントナッチへのブーが鳴り止まないうちに、
続いて舞台上のセットがやや高めに組まれたところに姿をあらわしたデヴィーアの、
”あんたら、ふざけんじゃないわよ!これだけの歌を聴かせてもらってブーとは
何様のつもり!”と、
観客をにらみつける表情のその迫力といったら!!
もちろん、デヴィーアにはブーから一転、大喝采とBravaの嵐だったのですが、
それでも、礼をしながら、その表情には嬉しさよりも、怒りが勝っていたのが印象的でした。
共演者を正当に評価しない観客に向かって敢然と立ち向かうデヴィーア。
もう、ほんっとに、かっこよすぎです!!!
そして、アントナッチはもちろん、アルベルギーニよりもたくさんのブーを食らっていたかもしれないのが、
指揮者のフォッリアーニという、聞いたことのない指揮者。
見た目がごっつくて角刈り、オペラ指揮者というよりは、柔道のチームの監督のような雰囲気なのですが、
そんな体育会系の彼にはこのベル・カント作品の真髄を引き出せないのか、
オケはだるだるで、オケの演奏という面では、4日間の中でもっともつまらない仕上がりに。
私も庇って差し上げることが最早不可能なほど、確かにブーでもしょうがないか、の出来でした。
ベル・カントのほとんどの作品は、限りなく歌の伴奏のようなオーケストレーションなので、
そこから何かを引き出すというのは、非常に大変だとは思うので、
何もそこまで期待しているわけではないのですが、
彼の最大の罪は、歌のリズムをきちんと歌手のために設定してあげれていないところにあると思います。
統率力がなく、歌手と、”あれ、ここ、ボク、先にいっていいのかな?
あれ?デヴィーアさん、どうします?もう少しゆっくり行ってみます?”みたいな迷いが
そこここに感じられるのです。
もっとしっかり!まとめるのはあんたなんだから!!
さて、この”スカラ座の夜”の会場になっているシンフォニー・スペースは、
これ以降も、意欲的にいろいろな直近のオペラ公演、さらにバレエの公演の映像も、
上映してくれる予定だそうです。
現在予定されているものには、スカラ座の2008年のシーズン・プレミアの『ドン・カルロ』、
2008年のザルツブルグ音楽祭から、ヴェルディの『オテッロ』、モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』、
グノーの『ロミオとジュリエット』、やはり2008年のグラインドボーンから『ヘンゼルとグレーテル』、
そして数年前のアレーナ・ディ・ヴェローナの公演より、『トスカ』と『ナブッコ』、
年不明でパルマの『リゴレット』などが、
また、バレエでは、ボリショイの『ボルト』(ショスタコビッチの作曲)と『ファラオの娘』が、
そして、スカラ座から『メディテラネア』が予定されています。
ホールの人がこれらの演目を読み上げるたび、
驚きと喜びのどよめきが会場にいたオペラヘッドからあがっていました。
2008年シーズンはメトの生公演に加えて、これらの映画館での上映も加わる
嬉しい大多忙の年になりそうな予感です。
Mariella Devia (Maria Stuarda)
Anna Caterina Antonacci (Elisabetta)
Paola Gardina (Anna)
Francesco Meli (Roberto)
Simone Alberghini replacing Carlo Cigni (Talbot)
Piero Terranova (Cecil)
Conductor: Antonino Fogliani
Director and Set/Costume Designer: Pier Luigi Pizzi
Performed at Teatro alla Scala
Film viewed at Symphony Space, New York
*** ドニゼッティ マリア・ストゥアルダ Donizetti Maria Stuarda ***