Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

ANNA BOLENA (Fri, Oct 28, 2011) 本編&出待ち編

2011-10-28 | メトロポリタン・オペラ
先週10/21のミードの『アンナ・ボレーナ』の公演に続いては、今頃、10/26のカーネギー・ホールでのネトレプコのリサイタルの感想を書いているはずでした。
ネトレプコは2007年にRCWS(ロシアン・チルドレンズ・ウェルフェア・ソサエティ)のチャリティー・ガラで
ホロストフスキーと共演してカーネギー・ホールで歌ったことはありますが、
ソロとしては今年のリサイタルがカーネギー・ホール・デビューとなるはずで、
しかもオール・ロシア歌曲のプログラムということで、NYのヘッズたちがどんな歌を聴けるのかとても楽しみにしていたイベントです。
それなのに、奇しくもその10/21のミードのボレーナの公演に向かう前にぴろん!と私のメールアドレスにカーネギー・ホールからのお知らせが入って来て、
”ネトレプコはメトで『アンナ・ボレーナ』のタイトル・ロールという非常に負荷の多い役を7公演歌った結果、
医師より10日間声を休めるようにとの指示があり”、予定されていたリサイタルがキャンセルされる旨の連絡がありました。

21日の公演でのミードが素晴らしかったので、これは絶対にもう一度彼女のアンナを聴いておかねばならない!と、
帰宅した足でいそいそとメトのサイトを訪れたことは言うまでもありません。
彼女が歌うのは21日、24日、28日のたった3回で、全て聴きに行きたいのはやまやまなんですが、週なかの24日は仕事との兼ね合いもあって厳しいので
28日の金曜日しか選択の余地がありません。
しかし、さらにじっとスケジュールを見ていて思ったのは24日と21日って、たったのなか2日のスケジュールなんですね、、。
それに比べて28日と24日はなか3日。この面から言っても28日の方が良さそうです。
それにしても、この大変な役の全幕をなか二日で歌わせるなんてちょっときつくないか?と思いますが、
今調べてみるとネトレプコの方は7公演歌ったうち、なんと3公演もなか2日で歌っていたんですね、、。
カーネギー・リサイタルのキャンセルについては、”なんだよー、そんな理由ありかよー。仮病だろー、どうせ!!”と
ヘッズからの失望が入り混じった非難轟々だった彼女ですが、こんなスケジュールでは疲労が貯まっても無理ないよね、、と私は思います。
(そんな時期にリサイタルをブッキングしたことがそもそもの間違いなのだ、という指摘にはもちろん反対しませんが。)

私には今やこのネトレプコのリサイタルからのチケット代返金があるので、何も怖くない!
二度目のミードの『アンナ・ボレーナ』のために、有り金を全てはたいて平土間正面ブロック二列目通路そばのチケットをゲットです。
この至近距離からミードがどのような歌い方、表情、演技をしているかを細かく観察するのは勿論ですが、
現在予定されているキャスティング通りに行けば、これが今シーズン最後のアンナを歌うことになる彼女に
真近からMadokakipの暑苦しいまでの応援&見守りの眼差しを差し向けようという企みなのは言うまでもありません。



実は24日の公演を見合わせる無念さに何とかけりをつけられた理由は、
それが少なくともシリウスで放送される予定になっていたからで、勿論私も拝聴しましたが、
24日のミードはわずかではあるのですが声に疲れが感じられ、
21日の公演から完全にはリカバリーしていないのかな、と感じるところがありました。
高音のピッチが好調な時のように完全にはデッドオンでなく、ほんの少し不安定なところを感じたり、
そのために例えば21日の公演ではより長くホールドしていた音を気持ち早めに畳んでしまう、
以前の記事で触れたトリルでピッチが心もち緩くなる現象が見られる、といったことなどにそれが現れていると感じました。
21日の公演の記事の中で"Coppia iniqua"の音源を紹介しましたが、途中で投入していた高音、
あれもなしにしてスコア通りに歌っていましたし、最後もハイEフラットに上がらずに閉めていました。
(ただし、ハイEbについては最後まで挑戦しようかしまいか迷っていたのか、
それとも前回のマルコとの息の合わなさが頭にあって慎重になってしまったからか、一つ前の音がなんだかとても長かったのが微笑ましかったです。)
ただし、強調しておくと、普通ならこれだけ歌えれば賞賛に値する内容なんであって、
(実際、観客からの喝采も大きかったです。)
上に書いた高音はオプショナルなものであって必ず歌わなければいけないものではないのですし、
自分のコンディションに応じてそういったものの取捨選択をきちんと行えるということは非常に大事なことだと思いますし、
彼女がその時の自分の状態で出来ること、出来ないことを的確に判断しているのも素晴らしいことだと思います。
結局、取り立てて書くような失敗は何一つなかったわけですから。

けれども、私がミードに期待するものは本当に高いレベルのところにあって、
今、彼女の歌を聴く時、それが普通で言うところの単なる良い歌唱であるだけでなく、
現在の彼女が出し得る最高の内容の歌唱であって欲しいのです。
もちろん、彼女が最高の歌唱を出したなら、それは自ずと観客がすごいものを聴ける、その信頼の裏返しであるわけですが。
その面で言うと、24日の公演はもう少しコンディションさえ良ければもっと良い歌唱が聴けたはずなのにな、と思うと同時に、
今回のような過密スケジュールでこの役を歌うということがどれだけ歌手にとって大変か、ということが改めて感じられ、
ネトレプコ・リサイタルのキャンセルも、”ま、しょうがないか、、。”と思えて来ます。
本当にオーディエンスのことを大事に思うなら、
演目や役による歌う・演奏する側の大変さの違いをもっと加味した公演の組み方をメトも考えるべきだと思います。
彼らが疲れていたら良い演奏なんて出て来っこないですからね。



24日の公演からグバノヴァが復帰したので、これでやっと本来意図されたキャスト、
つまり、Aキャストから、タイトル・ロールのみネトレプコ→ミードになった組み合わせで鑑賞することが出来ます。

まずグバノヴァはほとんど風邪が完治したようで、オープニング・ナイト時に近い、安定した歌声になっていて安心しました。
ジョヴァンナ役はかなり高い音域も求められるため、そういった音域になると音が少し軽く・浅くなる傾向がある彼女の歌声は
高音域でも中音域との統一感がある上に鋭さのある音を出せるガランチャに比べて聴き劣りする部分がありますが、
役作りに関してはガランチャとは違う地味な女故の良さと怖さを強調したジョヴァンナ像を作り上げていて、
これはこれで役への優れたアプローチの一つだと思います。
最後の狂乱の場でエンリーコとジョヴァンナの婚礼を伝える大砲が舞台裏から聴こえて来る時、
”あの地味女がとうとう成り上がったか、、。”という深い感慨を覚えると同時に、
彼女は一体どういう思いでその場にいるのだろう?少しはアンナのことが心をよぎっているのか、そうでないのか、、?
グバノヴァがジョヴァンナ役をあまり強い役柄として歌い演じなかったことにより、
かえって”今頃何を考えているんだろう、、?”と考えさせる結果になっているのは面白いです。
ただ、この方法はネトレプコのようなスター性のある歌手が相手に配役されている時には良いかもしれませんが、
毎回毎回使える方法ではないかもしれません。
大きな劇場で、大きな役を負かされるようになったら、もうちょっと彼女自身の自己主張のようなものがあっても良いと思います。
オーディエンスはある歌手の、ある演目・ある役での歌や演技に興味があるのは勿論ですが、
同時にその歌手がどんな歌手なのかを知りたいというか、
その歌手のパーソナリティ(私生活でどんな性格をしているかというような卑近なことだけではなくて、
歌手としての個性という意味でのパーソナリティ)を感じたい、という欲求もありますから。



至近距離から鑑賞して、そうでない時とのギャップに最もびっくりしたのがエンリーコ役のアブドラザコフです。
以前にも書いた通り、彼は今回の一連の公演では今一つ精彩を欠いているというか、
特に王としての威圧感とか鋭さ、いやらしい企みを心に宿しているそのどろどろした感じが声からあまり伝わって来なくて、
ドレス・サークルあたりから歌声を聴くとほとんどへなちょこ王と言ってもよい位です。
ならば、せめてジョヴァンナとのシーンで恋する男のロマンティシズムを感じさせてくれたかというと、
それもあまり無かったと個人的には思っています。
この役での最低音域はちょっと苦しい感じもありました。
しかし、声のハンサムさと歌いまわしの丁寧さ・上手さ、そしてルックスの良さと演技力を持っている彼は、
もしかするとHDにおいては、キャスト中で最も得した人かもしれない、と今日の公演を舞台に近いところから観ていて思いました。
特に演技に関しては、じとっと前を見据えた無表情な視線が何かにとりつかれたような怪しさを帯びていてなかなかに怖かった。
ある種の演技、具体的に言うとスクリーンを介して見せる演技としては、非常に達者な才能を持っている人だと思います。
ただ、彼の演技の上手さというのは、劇場の隅々にまでそれが伝わってくるような種類のそれではないんですよね。
以前にも書いた通り、劇場で顔の表情まではっきり見える距離に座っている観客は一握りなんであって、
そうでない観客にも至近距離に座っている観客が感じているものと全く同じものを感じさせる力、
これがある一定以上のサイズを持つオペラハウスの公演にキャスティングされる歌手に必要な演技力だと思うのですが、
アブドラザコフが持っている演技力はそれとはちょっと別の種類のものなのです。
しかし、『ランメルモールのルチア』にもキャスティングされている二匹のアイリッシュ・ウルフハウンドが、
今回の『アンナ・ボレーナ』の一幕の狩りの場面にも登場しているんですが、
アブドラザコフが楽しそうに彼らの頭を撫でたり、さっきまでの怖い表情の王はどこへやら、犬好きと思しき彼の素顔が伺えて実に微笑ましい。


(『ランメルモールのルチア』に出演中のグレイシーとマーフィー)

そういえばアブドラザコフは『ルチア』でライモンド役を歌ったことがあるので彼らとの共演は初めてではないんでした。
それにしても、しまいには跪いて彼らに顔まで舐めさせん勢いになっているアブドラザコフを見ていると、
いつの日か、うちの息子たちもあの舞台に立たせてやりたい、という野望が燃え上がって来ました。
うちの息子達はシャコタン犬(=ミニチュア・ダックスフント)ですので、
アイリッシュ・ウルフハウンドの場合とは違って、跪いても彼らの顔の位置には届きませんが、
アブドラザコフならば床にひっくり返って彼らと戯れてくれそうな気がします。



スメトン役のマムフォードが21日の公演で少し冒険に走っていたのは感想に書いた通りですが、
今日は堅実に、従来の歌い方で全幕通してみせました。
HDで証明した通り、実力も舞台度胸もある人なので、後は21日のような冒険を成功させられる柔軟性があれば言うことなし、
まだまだ年齢的には若い方に入る彼女なので、これからどのように伸びていくか、楽しみです。

一方でまだ風邪が完治していないのか、全体的にHDの日ほどのキレはなかったコステロ。
どこか自信なげな演技は相変わらずですが、その点についてはもう以前からの鑑賞経験で織り込み済みなのでともかく、
高音で自分の思うようなしっかりした響きが出ないと、指揮をしているマルコを見続けるのが恥ずかしくなるのか、
オケのメンバーにどう思われているか不安になるのか、申し訳なさげ&不安気な視線をオケピに落とす癖、これはやめた方が良いでしょう。
見ているこっちも気の毒でつい自分の足元あたりに視線を落としてしまいそうになります。
オケの奏者はもちろん、この作品の、この役を歌う難しさを理解しているヘッズは決してそんなことで彼を笑ったり馬鹿にしたりしないのですから!
しかし、かと思うと、秋のラン最後の公演ゆえのサービス心か自分の力を突然試してみたくなったのか、
"Vivi tu"の最後にいきなりハイDを入れて来たのには、全然予期していなかっただけにびっくりしてしまいました。
相変わらず度胸があるのかそうでないのかわからない、面白い人だと思います。
今回のメトでの上演に関しては初日の前に"Vivi tu"をカットするかしないかで多少のすったもんだがあった話を以前ご紹介しましたが、
その時にダラスの公演で彼はハイDも出していた、と言っていた人がいたように記憶しているのですが、
当時に比べると今の彼は少し声質が変わってしまって、以前ほど高音が楽に出なくなっているため、
今回のパーシー役では若干苦闘の跡が見られ、メトでこの音を出したのは今日の公演だけなんじゃないかと思います。
(少なくとも私が鑑賞した公演とシリウスで聴いた公演の中にはありません。)
力強くオペラハウスに鳴り渡る種類の音ではなかったので、挑戦するだけの価値があったかどうかは各々のオーディエンスの判断によるものだと思いますが、
(なかにはこれだったらいつも通りに歌ってくれていい、というオーディエンスもいるでしょう。)
きちんとした音にはなっていましたし、私は常に”挑戦する心意気や良し。”という考えの人間ですから、ポジティブに捉えています。

ちなみに、コステロは今回の『アンナ・ボレーナ』の公演前の夏の間に扁桃腺の手術を受けており、
その為にグラインドボーンでの『愛の妙薬』から降板した経緯があるそうですが、
これがどれほどの変化をもたらすかは今後の彼の歌唱を見守るしかなさそうです。



むしろ、私がコステロに関してフラストレーションを感じる点は、ドラマを歌唱の中に盛り込むことが出来るという自分の持っている才能を
自らが非常に過小評価している、もしくは全く気づいていないように見える点です。
例えば(『ルチア』の)アルトゥーロ役位ならそれでもいいかもしれませんが、パーシーはこの作品の中で立派なリーディング・ロールの一つなんであって、
これからこういった主役級の役をレパートリーの中心に据えて歌っていくなら、
彼がHDの時にネトレプコに対して出した馬鹿力のようなもの、これを普段から出せるようにならなければなりません。

今日のオーディエンスはものすごく手強かったです。
というのも、大きく分けて
① ネトレプコのアンナ・ボレーナとは違う種類の、ベル・カントとしての観点から聴いて満足できる『アンナ・ボレーナ』を聴きたい人
② オペラにそれほど興味がなくて、ネトレプコ?ミード?どっちでもいいよ的ノリでチケットを買った人
この二つ、つまり猛烈にヘッズ度、それもベル・カント指向のが高い・強い人か、全くそうでない人、この両極の集団になってしまっていたからです。
①には21&24日のミードのアンナ役に感銘を受けた人やミードをずっと応援している人も含まれていますが、
このグループの人たちはネトレプコの熱狂的なファンとは若干違って、本人が舞台に出て来た事実だけである程度満足するということがなく、
あくまで歌唱力で燃えさせてくれなければやだ!という、厳しい&気難しい人々の集まりですし、
残念ながらミードのルックスと演技力は、②のグループをも瞬時にして魅了できるネトレプコのそれとは同じ種類のものではない事実は、
超プロ・ミードの私ですら否定できないところです。

ついでに言うと、ネトレプコの現在の声そのものには稀にしか見られない魅力的な響きがあるのは間違いなく、
彼女の歌を退屈に感じる人がいたとしたら、それは彼女にその声を有効に使い切るテクニックが不足しているからに過ぎず、
それを彼女の声そのものの魅力の有無と混同することがあってはならないと思います。
特にここ十年かそこらのスパンでその歌声に著しい変化が見られた彼女のような歌手について
(短期間でここまでの変化がある声も珍しく、それもまたレパートリーの変化を含め、
彼女をウォッチする楽しみの一つである点を指摘する人があまりいないのも奇妙なことだと思います。)、
そもそも彼女を生であれ録音であれ、ほとんど聴いたことの無い人が、
どうやってオペラ界での彼女の価値といったようなことを議論できるのか?と不思議でなりません。
(その変化は、最近発売されたLive at the Metropolitan Operaという彼女のCDを聴くと、ある程度は感じることが出来ますが。)
なので私は、”ネトレプコの声が云々、歌が云々”と一言で言われても、それはいつの頃のネトレプコのことですか?と聞きたくなってしまうのです。
歌手の声というのは生きていますから、自戒も含め、ある一時期の歌唱に受けた印象に凝り固まって判断してはならないと思います。



今日の公演の話に戻ると、先述したような客層のせいもあり、特に第一幕の終りまでは、非常に客の反応が重い公演でした。
ミードの声は24日とは違い、しっかりと十分に休養したことが伺える歌声で、コンディションでは21日の公演に全然負けていないか、むしろ良い位で、
歌も非常に丁寧に上手く歌っています。ところがなかなか公演に火がつかない。
何も間違ったことをしていないのに、やたら客の反応が鈍い公演というのがありますが、まさにそれです。
私の隣に座っていた男性は①のタイプの観客と見られ、音楽に合わせて指で指揮をとったり色々していましたが、
彼には一幕から燃え上がるものが感じられなかった上に、気も短いのか、インターミッションの後は座席に戻って来ませんでした。

ミードは演技の微細なところは彼女の考えるアンナ像に合わせて微調整していますが、
基本的な立ち居振る舞いはネトレプコのそれと全く同じ。
座る、立ち上がる、といった動作が”よっこらしょ。”といった感じになってしまい、
特に今日のような豪華な衣装を着ていると、裾を踏んで転ぶのではないかとちょっとどきどきする場面もありました。
ネトレプコも今やミードに負けず劣らずの立派な体格になっていますが、体の動きのテンポは痩せていた頃とあんまり変わっていないので、
舞台で遠めに見ると、体についた重さの割にはあまり太った感じがしない、ということになっているのだと思います。
ただ、ミードの表情とか、無理な動作をしていない時の所作のタイミングなんかは、非常に良いものがあって、
以前、彼女の伯爵夫人(『フィガロの結婚』)を鑑賞した時にも思いましたが、決して基本的に演技の下手な人ではありません。
特に第一幕のパーシーとの対話のシーンで、彼に追い詰められる場面での苦悩の表現は、それまでの頑なな感じを貫いていたアンナが、
唯一、女性として脆い表情を見せる場面になっていて、この表情をパーシーと一緒にいる時だけに見せていることから、
彼が彼女にとって唯一の特別な人間であることが伝わってくる、非常に有効な表現だと思いました。
しかも、その特別な人間に対してさえ、”愛している”ということを口にして認めることが出来ないせつなさ!!
また歌声にその今にも壊れそうな気持ちをミードがきちんと表現しているのも素晴らしいと思います。
もうー、わかってやれよー、パーシーはよー!!言葉が全てじゃないだろうよー、と言いたくもなるってもんです。
しかし、あの、”いいえ、決して(あなたとはもう会わないわ)。”と宣言する場面で、その思いを振り切るアンナ。
女王の座を選んだ時に、好きな人間に対して好きと言える権利も捨てた潔癖さ、
確かにこれがアンナという人の性格の根幹をなしている部分だな、という風に思います。
この場面でコステロがもうちょっと燃え上がってくれたらもっと良いシーンになったと思うのですが、
HDの時のような熱さが今一つ感じられなかったのが残念でした。



私の隣の座席に座っていたのは①のタイプの男性でしたが、一つ前の列の、私から斜め前の位置には②のタイプの女性二人連れが座っていて、
第二幕の幕前、”これが初めてのメトなんです。”と言う彼女達に、
ベル・カントとは、『アンナ・ボレーナ』という作品とは、アンジェラ・ミードとは、などなど、熱弁を奮う私の前のヘッドな親父。
この二人連れがまた美人で、親父の話を一生懸命聞いてあげるものですから、ただでさえ熱弁なのがますます熱を帯びてしまってもう大変なことになってます。
ヘッズ同士、親父の気持ちもよーくわかりますが、彼女たちが引きまくっていることは言うまでもありません。

このまま重い足取りのまま公演が終わるとしたら残念だなあ、、ミードの調子が良いだけに余計、、と思っていたら、
この状況をひっくり返してくれたのはグバノヴァでした。
ニ幕目のアンナとジョヴァンナの二重唱、グバノヴァがミードをリードしてくれたおかげで、
ここから何か公演の空気ががらっと変わって、ずっとくすぶっていたものに一気に火が付いた感じがしました。

冒頭のホルンをバックに一人で演技しなければならない部分は、ネトレプコのような滑らかさはないものの、
一人になった瞬間、まるで子供のように無防備に行き所の無い不安と悲しみを爆発させるアンナをミードはよく表現していたと思います。
この後、神に向かって歌うDio, che mi vedi in core以下の部分、
こういった特に複雑な技巧を必要としない旋律をどれだけ聴かせることが出来るか、という点に、
ベル・カント歌手としてだけではなく、もっと広い意味での歌手としてのセンスが現れると思うのですが、ミードはこういう部分も本当に上手い。

いよいよジョヴァンナが入室して来て、ジョヴァンナが語っているアンナのライバルというのが他の誰でもないジョヴァンナ自身であることにアンナが気づく場面、
ネトレプコは一瞬にして悟りが来て怒りが爆発するような表現でしたが、
ミードのそれにはそれが事実であって欲しくない、その事実を受け入れるのに一瞬の迷いがある様子を、
それまでの語気荒い歌い方から、”どうしてあなたが?”という問いが滲み出るような歌い方でまず表現し、
それから二度目のmia rivale!(私のライバル!)という言葉に達するまでに徐々に怒りが吹き上がって行くように歌っていて、
アンナの感情の変化が歌唱に見事に表現されています。
だけどこれはもちろん一人で出来ることではなくて、ジョヴァンナ役のグバノヴァが素晴らしいカウンターパートを努めてくれているからなのは言うまでもありません。
すごい公演になる時には、何か予感のようなものがある、と常々(とはいえ、最近あまり超ド級の感動的な公演がなかったので今回久々に、ではありますが。)
このブログでも書いて来ましたが、ニ幕になって、遅ればせながら、何かすごいものがやって来る予感がして来ました。
あーあ、あのインターミッションで帰っちゃった隣の男性、なんてお馬鹿さんなの♪

グバノヴァの声はネトレプコと歌う時は音色に対比がありますが、ミードの声とは特に高音域ですごくブレンドしやすくて、
まるで同じ人がダビングして歌っているような錯覚を覚える瞬間もありました。
この二重唱は声に対比がある方が面白いとずっと思っていましたが、ここまで声が似るとこれはこれで非常に面白い!

もうこの後のエンリーコ、パーシー、アンナ三人による三重唱は至福意外の何物でもなし。
一旦舞台に火がつくと、キャスト全員にそれは伝染していくもので、コステロも頑張ってます。(その結果がその後に続くVivi tuのハイDなのかもしれません。)

エンリーコとジョヴァンナの二重唱でのグバノヴァからは、頑なに決してアンナを赦そうとしないエンリーコへの失望と、
その結果として、もはや一途に彼を愛することがなくなった雰囲気がふっと感じられ、これもまた冒頭に書いた、
ジョヴァンナは一体どんな思いで婚礼の式を迎えているのだろう、、と思わせるのに貢献しています。
彼女の表現に比べるとアブドラザコフのエンリーコは少し単調で、彼女の必死の嘆願に同調する王室の人間を足で踏み鳴らして追い散らすところなど、
ちょっと短絡的な表現過ぎるというか、
歌唱も含めて、もう少し複雑で重厚な感情の表現が欲しいかな、と思います。

アンナ兄(ロシュフォード卿)とパーシーの場面については先ほどハイDに絡めて書きました。
ロシュフォード卿はあまり歌うパートがないのに(か、それ故なのか?)、なぜかキース・ミラーの歌唱がここ数公演あまり安定しなくて、
21日に私を大噴火させた”あ~んな~~”な事態が再発するのではないかとどきどきしてしまいました。
(結局今日は何とかきちんと歌ってくれました。)

ああ、しかし!!!!
第三場、合唱が終わって、あの”あなた方は泣いているの? Piangete voi?"の前奏が始まってからの20分強は!!!!
私のオペラ人生の中で最高の20分間だったという以外、本当に適当な言葉が見つかりません。
まず、技術の面だけの話をしても、この狂乱の場が生の公演の通しの演奏でこんなに完璧に歌われることがあるというのが驚異です。
この作品の狂乱の場はアンナの感情が目まぐるしく変化し、それを表現する為のあらゆる音楽的手段が使われており、
それがトリルであったり、上昇下降の早いスケールであったり連符であったり、
一方でゆったりした旋律、弱く歌われる高音(ブラストする高音よりよっぽど難しい)だったりするわけですが、
これを全部完璧に歌うのはほとんど不可能に近く、それこそ、カラスのような歌手でも、全幕公演の録音を聴けば、多少のキズがあったりします。
(もちろんだからと言って彼女の歌唱の芸術的価値がゆらぐものでは全くありませんが。)
それをミードは今日、全部、本当に全部、どの部分も完璧に歌って見せた、、
それも、21日に挑戦したオプショナルの高音やらに全部挑戦しながらです。もちろん最後はハイEb。
トリルについては人によってどこからがきちんとトリルに聞こえるか、という基準が多少違うので議論が難しいトピックではありますが、
私は彼女が今日披露したものは正真正銘のトリルだとみなしますし、どのトリルもピッチが揺るぐことなく、振れ幅も均一な、素晴らしく粒揃いのそれでした。
それにピアニッシモで出した高音のそれは美しかったこと!!!
もう観客は彼女の歌声に釘付けになって、ピンが落ちるのも聞える静寂とはまさにこういう時のことを言うのだと思います。
ベル・カントはほんのちょっとしたエネルギーの緩みとか、音に備える体の準備が瞬間でも狂ったりするとそれが音となって現れるので、
そこには究極の集中力が求められます。
この究極の集中状態を保つのに、20分間強という時間がどれほど長いことか!!
聴く方はうっとりしていてあっという間に時間が流れていくように感じますが、歌っている方からすればこれは大変な長さであって、
この間、ずっとその状態を保ち、かつ、音がその結果を反映して何一つミスがない、これは奇跡に近い話です。

しかし、彼女の狂乱の場が素晴らしかった最大の理由はそれではなくて、その完璧に歌われた音符たちの中のすべてに命が宿っていた、この点にあります。
"あなたたちは泣いているの Piangete voi”~”私の生れたあのお城 Al dolce guidami castel natio”、
それからスメトンやパーシーや兄と交わす言葉(半分あちらの世界に行ってはいるのですが)、それに続くアンナの祈りの言葉("Cielo, a'miei lunghi spasimi")、
やがて聞えてくるジョヴァンナとエンリーコの婚礼を知らせる大砲の音とそれに続く楽しげな音楽、
それから、彼らが結婚しようとも自分が死すとも、私がイギリスの女王である!!という最後の宣言である”よこしまな二人よ Coppia iniquia”。
それぞれのパーツにアンナの違った感情が込められていて、それをあの難技巧にのせ切るというのは人間業と思われないのですが、
ミードはそれを本当に全部やってしまいました。
特に祈りの部分、”神よ、どうぞこの長い苦しみから私を解き放ってください。そして、この最後の心臓の鼓動がせめて希望のそれとなるように、、。”
と歌う場面での、アンナが辿りついた心の安らぎ(そしてそれは婚礼の音で乱されるのですが)を見事に表現したその研ぎ澄まされた美には、
聴いているうちに知らず知らずに涙が出てきて、ボロボロボロ、、と頬を伝った次第です。
そしてその後の怒涛のような"Coppia iniqua"のすごさ!歌の中にアンナのプライドと無念さが燃え盛っているのが感じられて、そのまま大泣き状態のMadokakip!
最後に彼女が正面を向いたまま(ネトレプコでも後ろを向いた状態では最後の音を効果的に響かせることは難しかったのでこの選択は大正解です。)
最後のハイEbを出して、観客に背を向け断頭台に向かっていくその姿に、一人、二人、、と自らの意志で跪いて敬礼を送る王室の人々、、。
この演技はネトレプコの公演の時にももちろんありましたが、ミードのような歌唱と結びついて初めて強い意味を発揮する演技付けだと実感しました。
合唱演じる王室の人々はそれまでにも多くの機会に彼女に跪きますが、ネトレプコが歌っていた時には、
これまでの礼と最後の礼の対比があまり上手く行っていなかったように思います。
しかし、演出のマクヴィカーは、皮肉にも、彼女が死を受け入れ、それに堂々と立ち向かったこの瞬間に、
王室の人々の心の中で初めて真の女王になったのだ、ということをこの最後の礼で表現したかったのだと思います。
これまでの礼が女王に対する義務によるものだったのに対し、最後の礼は初めて人々の心の内から自然に出てきた礼であるということを。
これを区別するためには、ミードのような圧倒的な歌唱が必要なのであって、彼女のような歌手を得て、
彼女がこの大変な狂乱の場を見事に歌い切ったことに対する観客の彼女への畏敬の念と、
王室の人々のアンナへのそれがシンクロして、非常に感動的で効果的なエンディングとなるわけです。
今日の公演を観て、ネトレプコは彼女の力の及ぶ範囲では非常に達者な演技を見せていましたが、
マクヴィカーが表現したかった一番大切なことを、彼女の歌唱力の不足ゆえに表現し切れずに終わっていたのではないか、、という思いが生まれました。
マクヴィカーの演出を退屈だ、と断定した人は非常に多いですが、私はそれに疑問符を呈します。
マクヴィカーの演出が成功するにはミードのような歌手が必要であり、それは大変なリクワイヤメントであるわけですが、
『アンナ・ボレーナ』のような演目はそれを可能にする力のある人が本来歌うべきだと思うのです。

彼女が歌い終わってオケの後奏が終わると同時に、例の美人二人が”すごーい!!”という表情を浮かべて言葉もなく顔を見合わせているのを
すかさず見つけた例のおやじが、”これは最高の時のメトだよ!君たちは良い夜にここに来た!”と狂ったように拍手しながらぶちあげています。
もちろん、おやじの言う通りですが。

歌い終わった直後にミードが一人でカーテンコールを受けるために舞台の照明が灯りましたが、
ものすごい喝采、歓声、拍手に、彼女が思わず泣き出しそうな表情になっているのに、更にもらい泣き、、。
私はといえば、もうあまりに感激し過ぎて胸が一杯になってしまって、
カーテン・コールでBravaと叫ぶことが出来なかったのが痛恨ですが、まあ、こういうこともあります。
二列目というと、カーテン・コールの時には舞台からもまる見えなはず、、
実はボルティモアのヴェルレクを聴きに行った際に帰りの列車を待っている駅で彼女と一緒になって、ほんとに少しだけですがお話したことがあるので、
なりふり構わず手で何度も涙を拭いながら激烈拍手を送っているあの女には何だか見覚えがあるわ、、と思っていてくれたなら嬉しいのですが。

しかし、こんなに素晴らしい公演を聴かせてもらって、それを願っているだけではいけないのではないか、、?という気持ちが湧きあがって来ました。
もうこうなったら出待ちしかないでしょう!!!
その出待ちに向かう道のりで、オケにいる知人から電話がかかって来ました。
”今日の彼女はすごかったね。”というその知人の言葉に、さっき聴いたばかりの彼女の歌声が耳にこだまして来て、
”彼女が素晴らしい歌手だというのはずっとわかっていたけれど、ここまでだとは思わなかったわよー、、、ひくっ(嗚咽←また泣いているらしい。)
ネトレプコも良い歌手だし、そう、彼女は演技も出来る。
でもそれが何?今日のミードのこれ!これこそが歌を歌うということであり、オペラというものなんじゃない?? わーん(また泣いた。)”

出待ちのメンバーはほぼ常連組と言ってよい極く少数。
雪(!)が近づいているという予報通り、激寒のうえ、今日の素晴らしいパフォーマンスに金持ちパトロンが控え室を襲撃していると見え、
なかなかキャストの面々が現れません。
やっと最初に現れたのはスメトン役のタマラ・マムフォード。
『アンナ・ボレーナ』ではズボン役なので髪もつんつん、ほとんどノーメークですが、
地の彼女は長いウェーブした髪と綺麗にお化粧した顔が華やかで、すごく女性らしい素敵な人です。
ヘッズへの対応もすごく丁寧で、このくそ寒いのに相変わらず何枚もの写真にサインをさせる例の中国人の男の子にも実に優しく応対しています。
私なら”一枚にしてね。”って言っちゃいそうですけれど。
私は実は今日は全くキャストからサインをもらう気がなくて、ただ一重に自分がどれだけ感激したか、この思いをミードに吐き出したいだけなので、
マムフォードにも、”とっても良い歌でしたよ。”と声をかけただけだったんですが、最後にお休みなさいを言うまで、
私を含めた一人一人ときちんとアイコンタクトをとっていて、こういうさりげないポジティブ・オーラを持った人って大好きです。

グバノヴァとアブドラザコフは同郷だからつるむことも多いのか、他の友達も含めて一緒に出てきて一緒に去って行きました。
それにしてもアブドラザコフって、以前もネトレプコに尻に敷かれて連れまわされている様子を目撃しましたが、
なんか舞台を降りるとあの素敵な舞台姿が嘘のような、気弱そうな雰囲気になってしまうのは何でなんでしょうね?

コステロ。彼はファンとコミュニケートするのがあまり好きでないんでしょうか?
私は少し離れていたところから眺めていただけでしたが、サインをもらいに群がった常連組への対応も他の歌手に比べるとぞんざいで、
早く帰りてー!という態度があからさまであまり感心しませんでした。
オペラの舞台というのは究極的には客とのコミュニケートですからね。
もしかすると、自分の歌にあまり納得していなくて、それが出てしまっているのかもしれませんが、
どんな時でも、出待ちを含めてオーディエンスとのコミュニケーションを大事にしないというのは、舞台に立つ姿勢も疑われてしまいますから要注意です。

”今日の公演は本当にすごかったね!””彼女が歌った公演の中で一番良かった!”と話に花が咲く我々も、
さすがに寒さがこたえてきて、番長が”この寒さ、耐えられない。”と言いながら、
ステージドアの中に入ってしまい(こらこら、、勝手に入っちゃ駄目でしょ!って感じですが、、。)、
”あんたたちもいらっしゃい!!”と私たち全員を屋内に招き入れた頃、やっとミードが現れました。
思わず全員から拍手が沸きあがります。
彼女自身、最高の歌唱を出せた!という充実感があるからでしょう、疲れた表情もなく、とてもにこやかです。
”お腹ぺこぺこだわー。”とは言ってましたが。(公演前はあまり食べていないからだと思います。)
私の番が来て、とにかく今の自分の気持ちを表現したらこうなる!!ということで、
”どれほど感激したか言葉にしては上手く表現できないので、、”と言って、やおら彼女に抱きつくと、
本当に嬉しそうに”ありがとう。”と言いながら、自分の胸をぽんぽんと叩く、”その賛辞、心からありがたく頂きます”という意味のジェスチャーで答えてくれました。

ボルティモアのヴェルレクの後に駅で会った時、”良かったですよ。”と声をかけたものの(実際、最後のリベラ・メは素晴らしかったのですが)
彼女自身が自分の歌に納得しきっていないような雰囲気があって、彼女におざなりな褒め言葉は言えないな、とその時思いました。
それだけに私が心からの賛辞を投げかけ、彼女がなんの躊躇もなくそれを受け止められるような素晴らしい公演を聴ける機会が、
こんなに早く訪れたことを本当に嬉しく思います。

それにしても、”ご飯、ご飯~!”と言ってお友達と連れ立って去って行く彼女の様子はまだまだ学生さんのようなあどけない雰囲気があって、
これがついさっきまであのすごい歌を聴かせていた歌手と同一人物なんだよね、、と思うと不思議な感じがするほどです。
これからもどんどん活躍して私を喜ばせて欲しい!!

Angela Meade (Anna Bolena / Anne Boleyn)
Ekaterina Gubanova (Giovanna Seymour / Jane Seymour)
Stephen Costello (Riccardo Percy / Lord Richard Percy)
Ildar Abdrazakov (Enrico / Henry VIII)
Tamara Mumford (Mark Smeaton)
Keith Miller (Lord Rochefort)
Eduardo Valdes (Sir Hervey)

Conductor: Marco Armiliato
Producation: David McVicar
Set design: Robert Jones
Costume design: Jenny Tiramani
Lighting design: Paule Constable
Choreography: Andrew George

ORCH B Odd
ON

*** ドニゼッティ アンナ・ボレーナ Donizetti Anna Bolena ***

ANNA BOLENA (Fri, Oct 21, 2011)

2011-10-21 | メトロポリタン・オペラ
『アンナ・ボレーナ』のHDの日の公演(10/15)のインターミッションで、
今やすっかりmyオペラ友達となってしまったマフィアな指揮者が、これで今年の『アンナ・ボレーナ』も見納めだねえ、
と口にするのを聞いて、私はびっくりしてしまいました。
”ちょっと!一体あなた何言ってんですか!『アンナ・ボレーナ』はこれからが面白くなるんですよ。
来週のミードが出演する公演のチケットを持ってないの?ヘッド失格!!!!この公演の帰りにすぐボックスオフィスに寄って!!”
いきなりヘッド失格の烙印まで押されてたじたじとなっているマフィアな指揮者に、さらに畳み掛けるように、
ミードという歌手について、そして私が聴きに行った公演・演奏会でいかに彼女が素晴らしい歌唱を披露したか、ということ、
彼女はネトレプコとは全く違うタイプのアンナになるであろうこと、この二人を比べることがどれほどエキサイティングであるか、
そのチャンスをみすみす逃すことがどれほどあんぽんたんなことか、等をインターミッション終了を知らせるアッシャーの鉄琴が聞えてくるまで、
そして彼が”わかった、わかった。ボックスオフィスに絶対寄るから。”と約束するまで、滔々と話し続けてしまいました。

彼女が登場する公演、演奏会、ガラについては、私が地理的に足を運べるものは全て足を運んでこのブログで感想を書きまくり、
(しかし、ふとそこで、ボルティモアでのヴェルレク、カーネギー・ホールでのドヴォルザークのスターバト・マーテル、
パーク・リサイタルなどの感想が手付かずになっていることに気づく、、、。すんません。必ずいつか、、。)
メトの『アルミーダ』の公演中はフレミングが一日風邪をひきますように、、と邪悪な願をかけ(つつも体のやたら丈夫なフレミングに阻止され)たりして
もう度々彼女の名前が出ているのでもはや繰り返すこともないかと思いますが、
私が今その将来に最も期待しているソプラノがアンジェラ・ミードなのです。

その彼女が、『アンナ・ボレーナ』でネトレプコのカバーをつとめると同時に、
三回分の公演をネトレプコとオルタネートでタイトル・ロールを務めると聞いた時には、
”ネトレプコ、あなた、真剣に歌わないとやばいことになるわよ。”と一人不気味な笑みを浮かべるMadokakipなのでした。

ミードはシーズン開幕前の前述のパーク・リサイタル(セントラル・パークでピアノ伴奏で行われるメト主催のリサイタル)でジョヴァンナとの二重唱を、
それからメトロポリタン美術館とメトロポリタン・オペラというダブル・メトが企画したイベントの中では狂乱の場を披露してくれました。
特に後者については、ミードのアンナが、こちらが予想していた以上に素晴らしい仕上がりになっていることがわかる内容の歌唱で、
彼女が歌い終わった後、ついにやにや笑いしてしまったほどです。これはまじでものすごく面白いことになって来たぞ、、と。
(この話もマフィアな指揮者に開陳しておいたことは言うまでもありません。)

ところがどっこいネトレプコもただでは引きさがらない。
オープニング・ナイトで説得力のあるアンナ像を描き出し、オペラハウスで鑑賞したオーディエンスからの評価はまずは上々、
ネトレプコのようなスター性やカリスマ、演技力は持ち合わせていないミードですので、
いくら歌に自信があると言っても、これにはさすがにちょっぴり不安になっているかと思いきや、
ネトレプコが出演している『アンナ・ボレーナ』のシリウスの放送のインターミッションにゲスト出演した折、
”早く歌いたくてうずうずしてます。”と堂々宣言しているのを聞いて、とても頼もしく思うと同時に、本当に心待ちにして来た公演です。

HDの日の次の公演(今日の一つ前の公演にあたる)で、ネトレプコがタイトル・ロールをつとめるのはとりあえず最後
(春にまたネトレプコで二回再演されますが、それは除いて)になったのですが、
一幕が終わったところで、グバノヴァとコステロが風邪のため歌い続けることができなくなり、
それぞれのアンダーであるキャサリン・ゴールドナーとテイラー・ステイトンがニ幕目以降を引継ぎました。
テイラー・ステイトンは奇しくもAVA(アカデミー・オブ・ヴォーカル・アーツ。
フィラデルフィアにあるアメリカで最も優れた声楽の学校の一つ)の出身で、コステロの後輩に当たるのですが、
オペラ警察の報告によれば、ステイトンがこれまたあまりの緊張に右も左もわからないような様子になっていて、
オープニング・ナイトのコステロを彷彿とさせる状態に陥っていたそうです。さすが先輩後輩。



今日オペラハウスに入ると、プレイビルから白い紙がちらちらしているので、
またその二人のいずれか、もしくは両方がキャンセルか?
いや、これでミードがキャンセルだったら暴れるぞ、あたしは、と思いながら開いてみると、
グバノヴァのみがキャンセルということで、代役は前回と同様アンダーのゴールドナーです。
ということは、アンナもジョヴァンナもAキャストとは違うフレッシュな顔ぶれになり、これはこれで面白いかも、、と期待をしてみる。

が、しかし、この作品の歌唱の口火を切るのはジョヴァンナ役で、そのゴールドナーの声は
非常に乾いた感じのする声質というか、響きがほとんど残らず、出たすぐその場所ですっと消えてしまうような音色です。
堅実に歌ってはいるのですが、それ以上のものではない感じ。
彼女は舞台を遠目で観ている分にはすごく若々しい感じがするので、ミードと同じような若手かと思っていたのですが、
ネットで見つけた彼女の写真(↓)やバイオを見るに、フレッシュな顔ぶれどころか、実は結構なおばさんじゃないの、、とびっくりしてしまいました。
あんたに言われたかないよ、と返されそうではありますが。



メトの舞台にも何度か立っているようではありますが、彼女の声、歌唱、佇まいのどれも
もう一度別の公演で彼女を聴いてみたい、観てみたい、と思わせるまでには何かが足りない感じです。
声というのは残酷で、ほんの一フレーズ歌うだけで、特別なものを持っている歌手かそうでないかということがはっきりわかってしまう。
最近メトには3通りのアンダーがいるのではないかと私は思っていて、
①キャリアが本格化するまで、経験を積むための勉強期間としてアンダーをこなしている若手
(まさに今回のミードのようなパターン)
②実力があって、正キャストとして舞台に立ったことも何度もあるのに、
人気歌手が持っているような華がないため、頼りになるアンダーと化してしまっているケース。
(今シーズンの『ドン・ジョヴァンニ』のドウェイン・クロフト、
そして昨年『ロミオとジュリエット』でゲオルギューのアンダーに入っていたホンさんのようなパターン)
③キャリアのどの地点でも正キャストとして一定の期間以上キャスティングされる・たことなく、
地方劇場で大きな仕事をこなしながらメトではほとんどアンダー人生と言ってもよいような道を歩いているケース

アンダーは劇場の中でなくてはならない大事な仕事であって、どのタイプのアンダーであっても彼らに感謝する気持ちに代わりはありませんが、
私の個人的な正直な気持ちを言うと、①>②>③の順で期待度が高いです。
①の場合は荒削りでもびっくりするような面白い才能と出会うことが出来るかもしれない、という大きな楽しみがあります。
②の場合はある一定以上のクオリティが保証される、、
つまり、この二つには正キャストよりも同等以上に良い、もしくは面白い内容の歌が聴ける可能性が残っているわけです。
しかし、③になるとその可能性は俄然低くなるのが現実です。
と、かようにアンダーと一口に言っても色々なんですが、残念ながら、今回のゴールドナーは私は③のカテゴリーに入れます。
ニ幕以降は一幕より音色がしなやかになって、ミードやアブドラザコフともよく力を合わせていたとは思いますがそれでも、、
もうこれは器の問題というか、、残酷なようですが、そういうことなんだと思います。



スメトン役のマムフォードはネトレプコが出演している間はギャンブルをしたくなかったのでしょう、
毎公演全く同じ歌い方で通していて、それをHDの日に向けてしっかり固めてきたような感じでしたが、
タイトル・ロールがミードに替わって少し気楽になった部分もあるのか、
最初のロマンツァ("Deh! non voler costringere)の中で、より高い音を交えた複雑なヴァリエーションにトライしていましたが、
これは必ずしも上手く行っていたとは言いづらい部分があります。
翌週の公演ではまた以前の歌い方にきちんと戻していたのは正解だと思います。

コステロはだいぶ風邪から持ち直しているとは言え、やはり不安を抱えて歌っているらしいことがありありで、
せっかくHDの公演日にばねがついていたのに、ちょっと後戻りしてしまったような感じでしょうか。
ただ、コンディションが万全ではない割には破綻なく良くまとめていたと思います。

ミードですが、歌い始めの数フレーズで、ああ、今日は大丈夫だ、ほとんど万全のコンディションで来てる!と思いました。
本人が早く歌いたい!と言っていただけあって、その意気込みが伝わってくるようです。
それにしても、なんて歌が正確なんでしょう!!!
彼女の歌からはきちんとスコア通りに歌うんだ、どの音も無駄にしないんだ、という執念のようなものを感じます。
多分、一つの音がすっぽ抜けた位、多くの客は気づかないし、また気づいた客もああだこうだ言うことはないでしょう。
だけど、それでもきちんと歌う。これこそベル・カントのスピリットというものです。
それから特筆すべきは、一つ一つの音にとても細かい神経を配っている点です。
ネトレプコがフレーズ全体のトーンそのものにアンナの感情を語らせるような表現だとすると、
ミードの方は一つ一つの音の陰影、表情で勝負していると言ってもいいかもしれません。
彼女が得意としている高音でのピアニッシモ
(これが本当にほとんど音が消えるすれすれのところで高音をサステインするという、こちらの息が出来なくなるような美技なのです。)を有効に使ったり、
音の強弱の付け方、少しブレスをまじえて歌うことで嘆きを表現したり、感情のほとばしりを感じさせる場面では、
音へのアタックの鋭さもそうですが、声そのものに鋭さを加えていたり(!)、
これはもう気が遠くなるほどよくスコアを読み込んでいないと出来ない技です。
彼女の表現のスタイルへの好き嫌いがあったとしても、この工夫と努力の跡を認めない人はいないでしょう。
いたとしたら、その人は鬼です!!

声の鋭さの話に少し戻ると、私は大方の人よりも彼女を多くの機会に聴いて来ていると思いますが、
例えばヴェルレクなんかでは彼女は非常にたおやかな音を出していたし、
これまで彼女の歌声の総合的な印象も、どこか優しさを感じる音色でした。
それがこの『アンナ・ボレーナ』では独特のきんとしたエッジーな音を作っていて、
それを彼女の気性の激しさと迫り来る運命への彼女の不安、焦りを表すのに非常に上手く使っています。
実際、マフィアな指揮者がインターミッション中に、音色がビヴァリー・シルズのそれに非常に似る時がある
(彼はシルズのアンナ・ボレーナをNYで生で聴いたことがあります。)、というのを指摘していて、
私は残念ながらシルズは録音でしか聴いたことがありませんが、それでも彼女のアンナは独特の鋭さがある歌唱だと思いますし、
またマフィアな指揮者と同じ意見が別のヘッドからも後に聴かれたことを考え合わせるに、決して的外れではない分析なのだと思います。
そういえば、以前どこかの記事に書いた通り、彼女は歴代のどの歌手のアンナを参考にしたかとインタビューで尋ねられて、
シルズの名前を最初の方に挙げていたように記憶しています。

有難いことにこの10/21の公演はシリウスで放送され、抜粋をYouTubeにupして下さっている方がいます。
(もちろん私はオペラハウスにおりましたので、upしたのは私ではありません。)
下は一幕最後の、”Giudici ad Anna! アンナに裁きですって!”の部分の抜粋ですが、
私が上に書いたことが良く感じられる箇所なのではないかと思います。



同じ部分をネトレプコが歌った音源が下になりますが(オープニング・ナイトの日の音源です。)、
ミードの声はネトレプコとは重さが違うのもそうですが(ネトレプコの公演に耳が馴染んでいると、
最初のうちはもうちょっとミードの声に重さがあってもいいかな、と感じはします。)、
声の鋭さの違いが一番歌全体の印象に差を与えるファクターになっているように思います。



それにしてもミードの方はこの大変な箇所にごっつい高音(最初の音源の1'30")を入れる余裕があるんですから、本当すごいです。
この高音のすごさ、録音ではわかりづらいかもしれませんが、オペラハウスではいわゆる真芯にあたったホームランのような音で轟き渡って度肝を抜かれました。
最後の高音のヒステリックな響きも、アンナが落ちている精神的状況をネトレプコよりも的確に表現しているように私には思えます。
音源をupしてくださった方に一つ文句を言うなら、なぜ最後をこんなに早くぶちきるのか、という点でしょうか?
(興奮してホストのマーガレット嬢がすぐに喋り始めてしまったからか、、?)
でも、ほんの少し聴こえるオーディエンスの反応からも、我々の熱狂ぶりが伝わるかと思います。
ネトレプコが出演した公演にももちろんものすごく大きな喝采がありましたが、
大きく違うのは、ネトレプコに対してはある程度予定調和的なものが混じっている喝采なのに対し、
ミードへのそれは誰もがここまでの歌を期待していなかった、という驚きと本当の興奮がある点です。

この抜粋が終わる箇所でインターミッションになりますので、お茶休憩に向かうとすでにマフィアな指揮者がテーブルでワインを飲んでました。
どういう風にしてそんなに早く座席から抜け出して来れるのか?といつも不思議なのですが、
どの公演でもインターミッションの時は私がテーブルに到着する頃にはすでにすましてワインを飲んでいて、
大体いつも、”しょうもない公演!””しょうもないプロダクション!”と喚きながら怒っている、というのがパターンなんですけれども、
ところが、今日はどうでしょう。怖いくらいににこにこしながら、私が近づいて行くと、何もいわずにただ何度も頷いているのです。
うんうん、そうですよね。私も同じ気持ちです。

私がミードのアンナでもったいないな、、と思う点は彼女があまりに簡単そうにこの役を歌うので、
一部のオーディエンスにはこの作品をこのように歌うことがどれほどすごいことかというのが伝わりにくい部分があるように思える点です。
その点、どこかつたない部分を感じさせるネトレプコは、”ああ、大変な作品を歌っているんだなあ、、。”とオーディエンスに感じさせ、得してます。

もうせっかくupして下さっている音源ですから、全部紹介してしまおうと思います。
狂乱の場から"Al dolce guidami 私の生まれたあのお城”と”Coppia iniqua よこしまな二人よ”
それぞれ、先にミードの歌唱、そしてネトレプコの歌唱、という風に一つのポスティングにまとめてあげて下さっています。
”私の生まれた~”では顔がモザイクの間はミードの歌唱、ネトレプコに変わったらネトレプコの歌唱ということになります。
(ミードの歌唱はすべてこの10/21の日のものです。)





どちらの音源もそうですが、例えばトリル。ミードの方が丁寧にきちんとそれを行う意志をもって歌っていることがわかります。
トリルは実はミードはあまり得意なわけではなく、トリルをしているうちにピッチが甘くなったり振れ幅が変わってしまう、ということがこれまでにも何度かありました。
だけど、多くの歌手がやっているように、逃げて避けたり、適当な、それこそあるのかないのかわからないようなトリルで誤魔化したりせず、
失敗のリスクもとって真正面から向かって行く、これが彼女の一番素晴らしいところです。
それは一にもニにも、この作品でトリルを適当に済ますことが致命的であって、
それはアンナ・ボレーナであってアンナ・ボレーナでない、ということを彼女が理解していることの表れだともいえます。
実際、Coppia iniquaで、トリルをきちんと歌わない、歌えないことでどれほど歌の印象が違うかは、
上の音源のミードとネトレプコの歌唱を比べて聴くと良くわかります。
(upした人が説明につけているように、録音側の問題があって、ミードの音源の方で繰り返しのトリルを含め、何箇所か音飛びが起きているのは痛恨です。)
今日の彼女は集中力も素晴らしくて、トリルは全て成功させてしまいました。

"Coppia iniqua"ですが、後は1'32"から1'35"にかけてのパッセージのこの疾走感(本当、早い!)、
それからその後しばらくして二つの高音(1'42"と1'44")を入れてますが、この二つもこの場面のマッドネス
(そしてそのマッドネスは以前にも書いたように、単なる狂気ではなくて、やはり究極の怒りの表現だと私は思っているのですが)を良く音化していると思います。

ものすごく完成度の高い狂乱の場をずっと聴かせてきて、
最後の最後に、せっかくのハイEフラットの高音がマルコと全くタイミングが合わなかったのはずっこけましたが、
(これはマルコに非があり!とシリウスを聴いていたヘッズからは非難轟々でした。)
彼女はこういう失敗を必ず糧にするはずなので、無駄ではないでしょう。

あ、それから狂乱の場で、現実とあっちの世界を行ったり来たりしているアンナに、
”アンナ、、”と呆然としながらアンナ兄が呟く(もちろん歌で)場面で、キース・ミラーの声がひっくり返って、
”あ~~~~~んな~~”となってしまって、劇場から思わず笑いが漏れたのはこれこそ断頭台行きに値します。
本人も死ぬほど固まったと思いますが。全身から”あちゃ~っ。”という声が聞こえてくるようでした。
ミードが素晴らしい歌唱を披露していた真っ最中だっただけに、Madokakipがめらめらと怒りの炎を燃やしたことは言うまでもありません。

それにしても、映画『The Audition』をご覧になった方なら覚えていることでしょう。
当時の審査員の中にすら、今のルックス重視のオペラの世界では彼女のような歌手は存在が難しいのではないか?という心配をしていた人がいたことを。
今日の公演はそのような考え方が本当に正しいのか、ということを確認する、大変貴重な機会だったと思います。
私は今の、特にメトの観客はビジュアル志向がものすごくすすんでいて、ミードがどんなに優れた歌を聴かせても、
”ああ、やっぱりネトレプコのスター性には適わないよね。””あの演技力には適わないよね。”
と、ばっさりと切り捨てられてしまうかもしれない、、という心配をしていましたが、
ネトレプコと同等、もしかしたらそれ以上の熱狂でもってカーテン・コールに現れたミードを迎えた観客を見て、
オペラハウスの天井から一条の光が射して来たような思いがしました。

私が書きたいのはどっちが優れた歌手である、といったようなことではなくて、
(もちろん、アンナ役についてどちらの歌手の歌の方が好きか、という好みの問題を言えばもちろんミードですが。)
色んな違ったタイプの歌手を受け入れられる土壌がまだメトには残っている、そのことを非常に嬉しく感じたという、そういうことなのです。


Angela Meade (Anna Bolena / Anne Boleyn)
Katherine Goeldner replacing Ekaterina Gubanova (Giovanna Seymour / Jane Seymour)
Stephen Costello (Riccardo Percy / Lord Richard Percy)
Ildar Abdrazakov (Enrico / Henry VIII)
Tamara Mumford (Mark Smeaton)
Keith Miller (Lord Rochefort)
Eduardo Valdes (Sir Hervey)

Conductor: Marco Armiliato
Producation: David McVicar
Set design: Robert Jones
Costume design: Jenny Tiramani
Lighting design: Paule Constable
Choreography: Andrew George

Dr Circ B Even
ON

*** ドニゼッティ アンナ・ボレーナ Donizetti Anna Bolena ***

呪われる『ジークフリート』、タイトルロールで(こんな間際に)キャスト・チェンジ決定

2011-10-19 | お知らせ・その他
『ラインの黄金』から数えると数々のトラブル、頭痛のタネが続いている新リングですが、
すでにルイージの指揮によるオケのリハーサルも始まっている『ジークフリート』で、タイトル・ロールの交替が発表されました。

今シーズン、10/27にプレミエを迎える『ジークフリート』は当初キャスティングされていたベン・ヘップナーが同役卒業宣言をして、
新シーズン発表前に秋の3公演はすべてギャリー・レーマン、
そして年が明けてからのリング・サイクルはレーマンとグールドのダブル・キャストで乗り切るということで一応一件落着しました。
なのに、シーズン・ブックや各種のブックレットの印刷にも、なんとかレーマンが表題役に扮したスチール写真が間に合って、ほっと胸をなでおろせばこの始末、、。
レーマン降板の理由は”病気”としか発表されていませんが、本当のところはどうなのでしょうか、、。

最近も新演出の『ドン・ジョヴァンニ』の最初の数公演で表題役のキャスト・チェンジがあったばかりですが、
これまではたまたま同時期に力のある歌手がNYにいたり、急な要請にも答えてくれるなど、数々の修羅場を強引に切り抜けて来たメトですが、
さすがに今回は運が尽きたようで、初日が一週間後に迫った今頃にジークフリートを歌えるテノールがそんじょそこらに転がっているわけもなく、
アンダースタディのジェイ・ハンター・モリス(写真)の肩にこの大任務がのしかかることになりました。

下は彼のサイトにあるスケジュールですが、私を心配させるのはFall 2011のところにある文字です。

Cover Siegfried at the MET!

、、、、。ジークフリートのカバーというのはいいでしょう。でも、そのあとのat the METのうしろにあるこの”!”は一体、、?



いや、”メトでカバーなんだ!!”と嬉しくなってしまう気持ちはわかります。
でも、カバーになれた!とはしゃいでいるような状態で本当にこの大任が務まるのか、、実に心配です。
HDもありますから、これは本当に大変なミッションですよ。幸運を祈ります。

それにしても。
今日リハーサルに居合わせたオペラ警察から、”テノールが実にまずいことになっていた。”という報告を受けまして、
まだこのニュースを聴く前だったので、”そうか、、レーマンがやばいか、、。”と勝手に思い込んでいたのですが、
もしかすると、そのテノールはモリスだったのかもしれない、、、。
怖いです、、、まじめに。


DON GIOVANNI (Mon, Oct 17, 2011)

2011-10-17 | メトロポリタン・オペラ
以前お知らせカテゴリーの記事に書きました通り、グランデージによる新演出の『ドン・ジョヴァンニ』、
当初タイトルロールに予定されていたクヴィエーチェンは初日直前のドレス・リハーサルでヘルニアの症状が大爆発、という痛恨の事態となりました。
(メトの日本公演の時からずっと痛みを抱えていたようですが、『ドン・ジョ』の準備などに忙しく、きちんと治療を受けずに来てしまっていたようです。)

結局初日を含めたトータル3公演に、たまたま同じ時期に『セヴィリヤの理髪師』でフィガロを歌うためにNYにいた
ペーター・マッテイが急遽リリーフに入ってくれることになって、初日もなんとか無事に済んだ、という状態でした。
(しかし、ドレス・リハーサルでクヴィエーチェンの後を引継いだアンダースタディのドウェイン・クロフトによるドンも
悪くなかった、という話があり、それも聴いてみたかったぞ、、と、欲はつきないヘッズ魂、、。)
現役でドン・ジョヴァンニを歌える歌手の中ではマッテイが最高なのではないか?という意見が少なからずヘッズの間にあり、
私も激しく同意するゆえ、もともとはHDの日にオペラハウスで見るだけの予定だったこの演目ですが、
HDにはクヴィエーチェンが復帰するらしい、というニュースを聞き、速攻今日の公演のチケットをゲットした次第です。
マッテイのドン・ジョは見とかないと。



さて、私は初日(10/13)の公演をシリウスで聴きましたが、こと歌に限って言うと、マッテイは初日のたった数日前に交代が決定したとは思えないほど余裕のある歌いぶりで、
一度もオケとのリハーサルなしで歌っているせいで、多少のミスコーディネーションとか歌いにくそうにしている部分はあるものの、
(そして後に理由を書きますが、私はそれはマッティのせいだとは全く思っていないのです。)
全体的には、まずは大変良い内容の歌だったと思っています。
ところが、です。こう、何というのか、、シリウスを通してあまり観客の熱狂が伝わって来ない。歌の内容の割りに観客が妙に醒めているのです。
これはいかに?一体何が舞台で起こっているのか?演出の問題なのか?あまりに急な交代劇過ぎて、マッテイがほとんど演技をしていないのか?
一体何なのー!?誰か教えて~~~~!!!!と思っていたら、あらま、タイミングよくマフィアな指揮者から電話がかかって来たではありませんか。
”マッテイのドン、良かったでしょ?”
”うーん、、、彼はすごく良い歌手だし歌も悪くないんだけど、何なんだろう、、彼の歌や芝居が演出と上手くかみ合ってないのかな、、。”
結局翌日以降に出て来た批評家筋の評も、ヘッズの感想も、彼の意見に似た物がとても多くて、
どんなことになっているのか、これはしっかり見ておかねば、という気持ちと、
初日を経て二度目の公演になる今日はその辺の問題が改善されているといいな、という思いで今日はメトにやって来ました。
というか、その気持ちがあまりに昂じて、普段ほとんど座ることのない平土間4列目正面という至近距離からマッティをガン見する気満々のMadokakipです。



しかし、マッテイをガン見するに至る前にもう早速問題発生です。
ルイージの指揮するオケから出て来た序曲は最初からつい昨日のメト・オケ演奏会と全く同じ種類のモコモコ感満載。嫌な予感的中です。
すごく不思議なのは、R.シュトラウスの作品なんかではメト・オケからあれほどクラリティ高く、各セクションのバランスと掛け合いに気を配った音を引っ張り出せるルイージが、
なぜかモーツァルトの作品になると、このように音楽に毛布をかぶせたような演奏になってしまう点で、
ということは能力の問題ではなくて、解釈とかテイストの問題なのかもしれない、、と思うのですが、なぜこのような音を志向するのか、私にはよくわからないです。

こうなったらまとめて先にオケのことを書いてしまいますが、
こういうベースの部分で問題(少なくとも私にとっては問題に思える)があるまま、
例えばシャンパンの歌("Fin ch'han dal vino")を猛烈に煽って躁的に演奏しても、
おそらくルイージが目指しているであろう効果が得られていないのが問題だと思います。
今ここに音楽の友社によるスタンダード・オペラ鑑賞ブックがありますが、このアリアについて、
”これは常軌を逸した興奮と、一種破壊的なパワーを持った”アリアであり、”ただ元気な歌というだけじゃな”く、
”異様な興奮”を描かなければならない、とあって、それは確かにそうなんですが、
ただ闇雲に早く演奏すればその興奮が得られるわけでは全くなくて、それを可能にするベースの音作り(オケ)と
歌手がそれを実現させられるスペース、そこにはそれが出来るテンポも含まれると思いますが、それを確保しなければなりません。
マッテイは優れた歌手ですし、ルイージが設定したテンポに技術的にはついていっていますが、
彼がこのアリアで”異様な興奮”を表現する目的のためには少し速過ぎると私は思いました。
歌手が何かを表現する時には、そこにそれを可能にするためのスペースがなければいけなくて、テンポの設定というのもその一つだと思うのですが、
それが十分になかったのが今日のこのアリアの演奏と歌唱での問題点だと思います。
結果、曲が終わった後、観客も一緒になってドン・ジョヴァンニの血が滾るような興奮を共有する代わりに、
何か置いてけぼりを食らったような不思議な感覚が残り、とまどいがちな観客の拍手にそれが現れていたと思います。
こういう歌手の呼吸、彼らがどういうテンポやベースなら何が出来る/出来ないかを読む能力に非常に長けているのがレヴァインです。
だから、レヴァインの演奏はすごく奥深かったり哲学的だったりすることはないかもしれませんが、
こういう観客に置いてけぼりの感覚を持たせることは非常に稀であることが特徴の一つと言えると思います。
インターミッションで席を外す途中、近くに座っていたおじ様が憮然とした表情で
奥様に”テンポが速過ぎるよ。これじゃ音楽を楽しめない。”と不満を漏らしてらっしゃいましたが、彼も私同様置いてけぼりを食らった組なのでしょう。



シャンパンの歌は一つの例に過ぎず、他にも何かその部分だけが浮き上がってしまっているような違和感がある箇所は全体を通していくつかありました。
楽器のソロが一つ音をミスしても全体として感動的な演奏になることはありますが、
こういう根本が狂っていると、それを歌だけで覆すのは非常に難しく、マッテイが演出に慣れていない云々の前に、
指揮とオケの演奏自体に、公演を本当の意味でエキサイティングなものにするのを難しくする、その障害となるものが内包されていたように私には思えます。

今日のオケの演奏で、やっとすべてがぴたっとはまった感じがしたのは地獄落ちの場面
(こちらでは地獄という表現を避けたいからか、騎士長の場面 Commendatore Sceneと呼ぶのが普通。)です。
ここはこの世のすべてのオペラ作品の中でも最高の名場面の一つですので、音楽そのものの力ももちろんありますが、決してそれだけではなく、
オケのドライブ感がすさまじくて、ひしひしとドン・ジョヴァンニに迫り来る地獄のフォースのようなものが観客席まで押し寄せて来ました。
きゃあ、恐いわ~、うかうかしたら、私まで地獄に連れて行かれてしまう~、と思う一方で、
でも、このままこの音の渦にさらわれるのも良いかも、、、と思わせる部分があるのがこわい。
そういえば、クヴィエーチェンがシリウスの放送のインタビューだったか、ドン・ジョヴァンニという人物を分析して、
”例えば多くの女性と関係を持つといったようなことに現れているのは、彼が世の中の全てに退屈しきった人間であるということ。
最後に彼がすすんで地獄に落ちるのは、そんな中で死への好奇心が彼を退屈から救い出すものだったからではないかと思う。”
というような趣旨のことを語っていて、なるほど、、と思ったのですが、
その解釈には今日のこの場面のオケの演奏はぴったりだったと思います。
(残念ながらHDの日の演奏にはこの日のようなドライブ感は感じませんでした。)



女性陣の中で私が唯一心地良く聴けたのはドンナ・エルヴィーラ役を歌ったフリットリです。
近年の彼女は時にトップが痩せがちになる傾向にあって、今日も例外ではなかったと思いますが、
彼女の歌唱にはスタイルがあって品が良く、アンサンブルでも自分を主張しすぎることなく、決して全体のバランスを見失わないのがいいな、と思います。
彼女はすごくコメディエンヌとしての才能もある人で、エルヴィーラの役の表現にさりげなく挿入されるコミカルさの分量も実に適切です。
ただ、正確に時間や言葉の数を計ったわけではないですが、同役はドン・ジョヴァンニと同等、もしかするとそれ以上にレポレッロと絡む場面が多く、
後に書きますがこの演出がレポレッロ役に与えている際立った性格づけのせいで、今回のエルヴィーラはなんとなく抑圧された可愛そうな女性に寄っています。
新演出では最後にドンとの過去を置いて、それぞれの登場人物がそれぞれの人生を歩み出す、ということを表現するために、
観客に背を向けて、何もない舞台の奥に向かってみんなが走り去って行くところで幕、となるのですが、
エルヴィーラ役のフリットリだけがなんとも甘酸っぱい、寂しい空気を漂わせていて、他のキャストとの演技力の差を感じるところです。

私はフリットリの個性、キャパシティから言っても、一つ前のマルタ・ケラーの演出で見た時のような、
ドン・ジョヴァンニやレポレッロと堂々タイマンを張って、でもちょっとどこか抜けているところのある、おきゃんなエルヴィーラ像の方が好きですが、
これはオーディエンスの好みの問題かもしれません。



ツェルリーナを歌ったモイカ・エルトマンですが、最近のOpera Newsに掲載されていた写真でも、またこちら(↓)の写真でも判るとおり、なかなかの美人で、



これはまたイザベル・レナードと同系列の、”こんな美人な村娘がいてたまるかっての!”なツェルリーナになるんだろうな、、と思っていたのですが、
彼女が舞台に出て来てびっくりです。
すっごく田舎っぽいんですもの、、、。
しかも、彼女ってば真近で見るとほんとに痩せていて、首に青筋立てて歌っている様は、今いくよ・くるよのいくよもびっくりです。
というか、あまりに田舎臭く、貧乏臭いので、なんか見てるうちに腹が立って来ました。
以前にもどこかで書きました通り、私はオペラの作品に出て来る、身分が低いくせにやたら要領の良い女というのが大嫌いで、
まさしくツェルリーナはその代表のような役なんですが、
一つにはむちっと肉付きの良い村娘や女中が、彼女らとは身分からして不釣合いな、そしてしばしば素敵な男性をたらし込む、という
シチュエーションにむかっと来るのかな、と自己分析していました。
というのも、レナード以外は、実際そういう体型の歌手でこの役を聴くことが多かったので、、。
しかし、今日のエルトマンのツェルリーナを見て、痩せた女でも同じ位むかつくことが良くわかりました。
いや、むしろ、その駝鳥のような首とぎすぎすした体型&化粧っ気のないそばかすだらけの顔を見ていると、むちむち系のツェルリーナ以上に嫌悪感を感じます。
”痛んでいるのは心でしょ?”と言いながらおっぱいをさわらせる薬屋の歌("Vedrai, carino")も、豊満な歌手がそれをやると”ふんっ。あざとい女!”で済みますが、
エルトマンみたいな歌手がそれをやると”なんでそんなに色気がないのに無理するわけ?格好悪い女!”となってしまうのです。
そんな女性的な魅力に欠けた体型を補う魅力的な歌声とか歌唱があればまだ良いのですが、エルトマンには今日の歌唱を聴く限り、それがない。
駝鳥の首とシンクロするかのように、その声はぎすぎすとして魅力なく、特に高音での音のぎすぎす度、音の鳴らなさ度は悲しくなるほどです。



ただし、レポートを書くのが遅くなってしまったので、ここで短絡的な誤った印象を皆様に植え付けてはいけませんので少し書いて置きますが、
この後の二度目の『ドン・ジョヴァンニ』、それから『ジークフリート』の小鳥の役での歌唱を聴いた際は、少し違った印象を持ちました。
好調な時の彼女はうにゅーっ!と伸びだすような独特の面白い高音を持っていて、音のプロジェクションもそう悪くはありません。
多分、そういうところを青田買いされたのでしょう。DG(ドイツ・グラモフォン)からアリア集のCDも発売されているみたいですが、一つ言えるのは、
仮にいくら面白い素質を持っているからと言って、今の彼女にアリア集を録音させるのはちょっと早いのでは?ということです。
良い素質を持っているかもしれないということと観客を唸らせるような完成度の高い歌を歌うことは全く別次元の問題で、
実際、今の段階の彼女の舞台での歌唱は、DGがどういうところにポテンシャルを感じているか、ということをかろうじて感じさせる段階に過ぎず、
まだまだこれから磨くべき部分が一杯一杯あると思います。

彼女の場合、先に書いたように声自体はやはり基本的に痩せている人の声で、ともするとふくよかさのないぎすぎすした声になりがちなので、
まずは彼女が持っている範囲での魅力的・個性的な声を安定して出せるようになることと、そこに表現力とか技術を重ねて行くことが必要になってくるだろうと思います。



ドンナ・アンナ役を歌ったマリーナ・レベカですが、これは私の趣味の問題なんでしょうか?非常に攻撃的で不快な声だと感じます。
空気を貫く、という表現がぴったりの、極めて強く鋭い音(特に高音)を持っていて、個性的なのは間違いありません。
もっと声が重たくてサイズもあれば、トゥーランドット姫とかエレクトラとか任せられるかもしれないのに、、、とちょっと残念に思います。
私が『ドン・ジョヴァンニ』での彼女を高く買わない理由はいくつかあって、
1)今の彼女にはこの鋭い音以外にフレキシビリティがあまりなく、どこもかしこも強い音の連続になってしまってしまう。
このせいでドンナ・アンナが始終何かにいらいらし、怒っているかのように聴こえる。
もしかすると、ドン・ジョヴァンニに惹かれつつ、ドン・オッターヴィオとのしがらみから逃れられないイライラか、と推察してみたりもしましたが、
ドンナ・アンナの持っている感情はもうちょっと複雑なものなのではないかなあ、、と思います。
2)アンサンブルの中での自分のポジションにあまり敏感でなく、一人で大声を張り上げていることが多い(ここはフリットリを見習って欲しい、、。)。
モーツァルトのオペラにおいてこれは非常に痛い。
3)演技・歌唱とも一人で完結気味で共演者とのラポートが希薄
といったあたりでしょうか。
ただ”今こそ判ったでしょう Or sai chi l'onore"、そして”もう言わないで Non mi dir”、共に非常に難しい曲で、
音が段々ぶら下がってくるケース、音がまわらずもたもたするケースなど色々見て来ましたが、
レベカはどの公演でも安定したピッチを誇っていて、テッシトゥーラの面では良く合っているし、技術も安定しています。
まとめると、個性があって技術もしっかりしているけれど、若干舞台で絡みにくい人、という印象です。



女性陣より男性陣の方が私は見所・聴き所が多いと思いました。
まず男性陣の中で最も魅力的に役を演じていたのはレポレッロ役のルカ・ピサローニです。
もともとレポレッロは役自体が魅力的というか、『魔笛』のパパゲーノと同様、オーディエンスに愛されないように歌う方が難しい、という感じはありますが、
ピサロー二は(もちろん演出家の指示があって、でしょうが)レポレッロを愛すべき人物としてよりは、
むしろ、ちょっと意地悪でシニカルな人物として歌い演じています。
カタログの歌では、エルヴィーラが怒り、悩み、悲しむ様、その反応を喜んで眺めているような、いたぶり好きキャラを発揮してます。
ルカ・ピサロー二といえば、二年前に出待ちで捕獲し損ねたことを思い出しますが、
その理由というのが年季の入った出待ちの常連メンバーでも今一つ彼がどういう顔なのか摑めない、というものでした。
それは今考えてみるになかなかシンボリックであり、というのも、そのことは彼の舞台についても言えると思うからです。
どんな役を歌ってもその歌手のプレゼンスが滲み出して来るタイプの歌手というのがいますが、というか、人気歌手は大体そのタイプが多いのですけれど、
ピサローニはそれとは全く逆で、あまり本人のプレゼンスを感じさせず、役によってカメレオンのように雰囲気の変わる、得体知れない感があるのが特徴だと思います。
そのせいなんでしょうか、今一つブレークしきれない感じがあるのですが、
歌は丁寧で(むしろあまりあまり遊ばないところが堅苦しいと思われてしまうのか、、?)、
メトでも十分プロジェクトする声を持っていますし、もう少し評価されても良い歌手かな、という風に思います。



初日の公演を鑑賞した友人から絶賛されていたドン・オッターヴィオ役のヴァルガス。
このブログを始めた頃は、まだ彼が本当にぴかぴかの声を持っていた頃で、また彼の端正な歌は結構モーツァルトの作品にはまるのか、
『皇帝ティートの慈悲』で聴いた彼の美しい声は今でも記憶に残っています。
正直言うと、その頃に比べると、私には最近のヴァルガスの声はだいぶウェアが激しくなって来た様に聴こえるので、
シリウスで聴いたその初日の公演も、その点の方が気になって”そんなに素晴らしかったかな、、。”という感じだったんですが、
生で聴かないとわからない種類の良さって、やはりあります。
声そのものの輝きが以前より衰えている、という見解はやはり変わりませんが、まあ、彼のテクニックの強固なことよ!!
まるで囁きながら歌っているかと思うような弱音を多用(これがどれほど大変なことか!!)した
”彼女こそ私の宝 Dalla sua pace”の美しさには陶然とさせられました。
まるで蜘蛛の糸のような繊細な音で、聴いているとこちらの体が引きずり込まれそうな感じがします。ヴァルガスは蜘蛛男だった!!
初日の日にもすごい拍手が出ていたこのアリアなので、指揮やオケも気が引き締まるのか、ルイージのタクトが動く前に若干の間があって、
オケの前奏が始まった瞬間、オペラハウスの空気がざーっと一瞬にして変わるのを感じました。
それにしてもこういう歌を聴くと、まるで時間軸がねじれるような感覚に襲われます。プロの歌というのはこういうのを言うのでしょう。
マゼット役のブルームはメトで歌う時にはなぜかこの役が多く、もしかするとマゼ専(=マゼット専門)なのかな?と思い始めているのですが、
さすがに専門にしているだけあって、手堅くこの役をこなしています。
演技は今回の演出の方が彼にはしっくり来る部分があるのか、以前のケラー演出の時よりも活き活きした役作りになっていました。



マッテイのドン・ジョヴァンニですが、歌唱の面では今の彼のこの役での良さを凌駕するのは難しいと思います。
まず彼の声。全然無理をしている感じがしないのに朗々と鳴り渡る、その上に声の美しさが半端ない!!!
彼の歌うセレナード(”おいで窓辺に Deh, vieni alla finestra”)の彼の声の色気と歌唱の美しさにはもううっとりしてしまって、
ふと気がつけば、窓辺にはエルヴィーラの小間使いではなくMadokakipが佇んでいて、オーディエンスがぎょっとすること請け合いです。
(面白いのはかえってこういう小唄のような作品の方が、彼のアーティストとしての資質がどれほど素晴らしいか如実にわかる点でしょうか。)
マッテイは何を歌っても、そこはかとない余裕を感じさせるのですが、
それがこのドン・ジョヴァンニという役柄とシンクロしていて実に心憎い。
これだけでもものすごいアドバンテージなのに、その上に背が高くて舞台姿が美しいですからね、、。
ピサローニがこれまたすらっとして舞台ではすごく背が高く見えるので(実際の身長は捕獲し損ねたので知りませんが。)、
こんな召使と張り合って、なおかつより魅力的に見えなければいけないのですからドン・ジョヴァンニ役を歌う歌手は大変です。
しかし、マッテイにかかればノー問題。ピサローニよりもまだ背が高いよ~ん!とばかりに舞台に聳え立っていて、
この二人がつるんでいると、すごいど迫力。村人が気圧されるのも無理ないってもんです。



ただ気の毒だったのはほとんど演出に関わる部分では準備らしい準備をする時間がないまま舞台に立って、
しかも、クヴィエーチェンの代役としての彼への期待がやたら高かった点で、
確かにマッテイの歌と演技に、この演出でのドン・ジョヴァンニ役を完全に咀嚼できていないまま舞台に立っている居心地の悪さのようなものを感じました。
ケラーの演出がこのグランデージの演出に比べて演じやすかったとは思わないし、むしろあの演出の方が難しい部分があるのではないか?と思う位ですが、
その時の方がずっと魅力的でかつ説得力溢れるドン・ジョヴァンニ像をマッテイは築き上げていたと思います。
多分、今回より事態を厄介にしたのはマッテイ本人よりも、むしろ周りのキャストの演技がクヴィエーチェンのドンを基にしてすでに出来あがって固まってしまっていた点で、
クヴィエーチェンのそれとはタイプの異なるマッテイのドン・ジョヴァンニに、周りが十分に合わせる余裕がなかった、ということもあるかと思います。

また、先にも書いたシャンパンの歌のあの躁的な速さはいかにもクヴィエーチェン仕様で、
ルイージはどうしてもうちょっとマッテイの歌いやすいテンポに設定してあげなかったんだろう?と思います。
クヴィエーチェンの軽い声質とマッテイのどっしりした声質ではモビリティが違うのは当たり前のことで、
こういうところの融通、歌手が一番歌いやすいように瞬時にアジャスト出来る能力という点で、
レヴァインの方がずっと優れたものを持っているな、、と再確認せざるを得ませんでした。
音楽上のアイディアがあってそれを通したい!という気持ちはわかりますが、歌手がそれを達成できない場でやっても意味がないですから。



私はコーツァンをあまり評価してなくて、というのも彼の歌唱でこれはいい!!と思ったことがこれまで一度もないからなんですが、
どうしてか良く分らないのですけれど、彼はエクスポージャーの高い場(マチネのラジオ放送、HDなど)に登用されることが少なくなく、
挙句の果てに今年は日本にまでついて行ってしまいました、、、。なぜ、、、?
私がコーツァンを評価しない理由のひとつは声の魅力のなさです。少なくとも今の彼の声は硬質で青竹のような声で、
一体どこのすかたんが彼を一にも二にも成熟した声の魅力が必要な騎士長(『ドン・ジョヴァンニ』)やら宗教裁判長やら(『ドン・カルロ』)に
キャスティングしているのか?と、メトに問い合わせたくなるほどです。
まだまだ歳の若いコーツァンをドンナ・アンナの親父の歳に近づけようとメトが苦心した結果、
この公演で彼がつけている鬘はまるでやくざのおっさんのような角刈り(しかも白髪!)で、
若干カマキリを思わせる造形ながら実物はなかなか見目麗しい彼も、これは全く似合っていないです。
声も見た目もこんなに無理のある人を起用する意味がわかりません。



私は今日の公演を見て、この演出は非常に手強い演出かもしれないな、、という風に思いました。
正直、マッテイからクヴィエーチェンにタイトル・ロールが交代し(戻っ)たところで、
それほどドラマティックに結果が変わるものなのか、、、そこも懐疑的です。
演出というものは、セットやアイディアより何より、各登場人物の関係性とそれに基づいた各人物のキャラクターとか考え方を浮き彫りにして
オーディエンスに提示するということが一番大事で、どんなオペラも人間に関することなのですから、まず人間、これがしっかりと描かれていなければなりません。
セットや衣装というものはそれに貢献するものでなければならないはずで、逆を言うとそれが出来ているなら、私は超トラディショナルな演出でも、
かっとんだ演出でも構わないと思います。
『アンナ・ボレーナ』の演出はNYでは”退屈だ。”といわれてかなり評判が悪いですが、少なくともこの目的を果たそうという意志は見られるのですが、
このグランデージの演出は、私には何より人間不在に感じられるのが不満です。
唯一何らかのパーソナリティを感じたのは先にも書いた通りレポレッロだけです。
ドンナ・アンナにいたってはレベカの歌唱のせいもあると思いますが、彼女が一体何を考えているのか、さっぱり不明です。

この演出では地獄落ちの場面で本物の火を使うことが話題になっていて、今日の座席だと舞台の炎の熱さが観客の頬に感じられるほどで、
思わず周りの人と、”顔が熱いよね?”と確認し合ってしまいましたが、
しかし、火などの道具は、綿密に人間関係が描かれた上に使用されて初めてその効果が生きて来るものではないかと思うのです。



Peter Mattei replacing Mariusz Kwiecien (Don Giovanni)
Luca Pisaroni (Leporello)
Marina Rebeka (Donna Anna)
Ramón Vargas (Don Ottavio)
Barbara Frittoli (Donna Elvira)
Mojca Erdmann (Zerlina)
Joshua Bloom (Masetto)
Štefan Kocán (The Commendatore)

Conductor: Fabio Luisi
Production: Michael Grandage
Set & Costume design: Christopher Oram
Lighting design: Paule Constable
Choreography: Ben Wright
ORCH D Odd
OFF

*** モーツァルト ドン・ジョヴァンニ Mozart Don Giovanni ***

MET ORCHESTRA CONCERT (Sun, Oct 16, 2011)

2011-10-16 | 演奏会・リサイタル
先日、忙しい一日の仕事を終えて帰宅し、郵便受けから郵便物を取り出していると、久しぶりに例の店子友達と遭遇しました。
”『ナブッコ』、最高だねえ!!”と相変わらず元気一杯に階段を駆け下りて来る彼。
ってことは、今は『ナブッコ』のエキストラなのね。
”ストーリーははちゃめちゃだけど、あの合唱の場面は堪らないよね!鳥肌が立つよ。”と、
ひとしきり”Va, pensiero 行け、我が思いよ、金色の翼に乗って”のメロディーを口ずさんだかと思うと、
”君、この曲、知ってる?”、、、、はいはい、もちろん知ってますよ(笑)
そういえば、いつだったか、私の連れも彼にアパートの入り口で捕まって、
他の作品(『トスカ』だったかな、、?)のメロディーを聴かされた、って言ってたっけ。
しばらくオペラ絡みの話をした後、”君、今日ちょっと疲れてるね?”と言うので、
”うん、今日はちょっと忙しかったしね。”と答えてから、しまったー!!と思いました。
というのも、私が彼と会う度に、”あの話が始まるんじゃ、、。”と恐れている話題があるのですが、
うっかりして、まさにその”あの話”への落とし穴に自分から飛び込んでしまったではないですか!!あ~ん、私の馬鹿!!

メトでのエキストラの仕事は当然のことながら彼の本職ではなく、彼の本業はモデル兼俳優兼パーソナル・トレーナーです。
とあるボクサーに直伝で薫陶を受けた(本人の弁)という、とてもマニアックなトレーニング・メソッドに、
自分のバレエ・ダンサーとしての経歴を加えて改良し、それをワン・オン・ワン、もしくは数人のグループに、
出張もしくは自宅の教室で教えていて、実際、彼の自宅は各種のダンベルやら器具やら本格的なものが一式揃ったジムになっているのです。
時々真夜中や早朝にワークアウトしているらしく、ぎっこんばったん建物中にものすごい音が響き渡っている時もあります。
私は実を言うと学生時代に常軌を逸した厳しさを誇る体育会系の部活動に所属していて(それはもう最早一生分の運動をしてしまったと感じるほどの厳しさでした、、)
スポーツやワークアウトというとそのいやーな思い出が甦ってくるため、
今ではヨガくらいまでならともかく、やっていて息があがるようなスポーツやワークアウトは全くやる気がありません。
なのに、彼と来たら、事ある毎にエクササイズの大切さを説き、すぐにでも彼のトレーニングのクラスに参加するように!と激しいセールス・トークで迫って来るのです。
ABTのダンサー達にまで自らのトレーニング・プログラムを売り込んだこともある彼ですから何の不思議もないのですけれど。
しかし、私の方も一歩も引くつもりはないので、ずっと上手く彼のセールス・トークを交わし続けて来て、
さすがの彼も諦めたか、最近はその話題が出ることが少なくなって来たな、よしよし、、と思っていた矢先の大失敗です。

彼の瞳にいやーな輝きが宿り始め、”疲れやすいのは、体力が落ちているからだね。”
”体力作りというのは、手遅れになってしまってからじゃ駄目なんだよ。君があちらの世界(over there)に行ってしまってからでは僕も助けてあげられないからね。
今がぎりぎりだよ。すぐにでも始めないと。”
、、、、、、はあ、、私ってばそんな切羽詰ってますか?もうあちらの世界に片足突っ込んでますか?

”確かにあなたは年齢よりもずっと若々しいし、立っている時の姿勢も綺麗だよね。”と言うと、
我が意を得たり、という風に、”そう、背筋は全ての基本だよ!僕のプログラムにも背筋を強化するルーティンがしっかり組み込まれているよ。
最近僕の生徒になった女性はもうかなりのお歳だけど、腰を悪くしてからほとんど寝たきり状態のような生活だったのに、
僕と一緒にワークアウトするようになってから、立って歩き回ったり出来るようになったからね。僕のプログラムのおかげ。”
そっか、じゃ寝たきりになってからトレーニングを受ける手もあるわけだな、さっき彼が言ってた”今始めなきゃ”というのと矛盾してるけど、、と思いつつ、
”へえ、すごいね!”と言った途端、ふと、ある人のことが頭に浮かんで来たので口にしてみました。
”あ、ちょっと待って。あなたのトレーニングを必要としてる人、いるいる!!!”
一層瞳を輝かせて、”誰?誰??”と問いかえす店子友達。
”ジェームズ・レヴァイン!! 彼、腰を悪くして年内の公演の指揮キャンセルしちゃったの知ってるでしょ?”
もちろん、半分冗談のつもりで。
すると人差し指を立てて頷きながらしたり顔で彼が”君、ずっと前に僕の指揮者の友達紹介したの覚えてる?”
はいはい、以前やっぱりこの場所で、メトでアシスタント・コンダクターの仕事をしたことがある、という彼のお友達を紹介して頂いたことがありました。
”レヴァインが腰を痛めて年内の公演をキャンセルするという新聞の記事を見た時、ちょうどその友達がうちに遊びに来てたんだよ。
だから、受話器を渡して、たった今レヴァインに電話するように彼に言ったんだ。”
!!!!! えええええっ???? ま、ま、ま、まじで??(笑)
そのお友達がレヴァインに電話して、自分の友人であなたの腰を治せる人がいる、というような趣旨のことを話してきかせたそうです。
もう私はびっくりしたのとおかしいのとで、お腹を抱えながら、”本当に??”というのがやっとだったのですが、
私の店子友達は大真面目な顔で、”うん、本当だよ。彼がレヴァイン本人を相手に電話で話しているのを、僕は横でじゃが芋の皮を剝きながらちゃんと聞いてたから。”
当然のことながらレヴァインには丁重に断られたそうですが。

私の店子友達のトレーニングを受けていたなら奇跡が起こってレヴァインが指揮台に立てたかもしれない今日のメト・オケ演奏会。
残念ながら上のような経緯でその奇跡は起こりませんでしたので、代わりに振るのは今シーズンよりメトの”首席客演指揮者”から”首席指揮者”となったルイージです。

メト・オケの演奏会でこれまでコンスタントに守られて来たルールと言えば、
① レヴァインの趣味全開!の無調音楽系の曲が必ずといっていいほど含まれていること
② ソリスト(歌手だったり楽器だったり、、)を招いた曲が必ず含まれていること
ということ位で、何のポリシーも脈絡もない”ごった煮”的なプログラムでこれまで何度もオーディエンスを消化不良に陥れて来ました。
(それから①でオーディエンスを爆睡に陥れることも。)

今回、元々レヴァインのもとで予定されていたプログラムはモーツァルトのピアノ協奏曲25番、
アリス・マンローによる言葉にハービソンが曲をつけたCloser to My Own Lifeという世界初演作品、
そして、ガーシュウィンの『パリのアメリカ人』でした。

私は実はメト・オケによる『パリのアメリカ人』というのを非常に楽しみにしていたのですけれど、
結局ルイージが指揮することになって、”こんな曲、興味ありませんね。第一、あたし、アメリカ人じゃないし。”ということなんでしょう、
見事ばっさりとカットされてしまいました

ルイージはきっと、このごった煮プログラムを見て”なんじゃ、こりゃ?!”とも思ったに違いありません。
自分が関わるとなったら、せめてもう少しプログラムに何らかの統一性と意味を持たせねば、と考えたのか、
オープニングにモーツァルトの『魔笛』序曲が演奏されることになりました。
一応オペラ・オケとしてのアイデンティティをここで主張し、続くグードとのピアノ協奏曲と作曲家つながりにしようというささやかな試みでしょうか?
うふふ、無駄ですよ。だって、プログラムの真ん中にハービソンの新作が鎮座してますでしょう?
今更、”レヴァインが振れないので、作品をお返しします。”とハービソンに言える訳もなければ、
『パリのアメリカ人』のようにばっさり切り落とすことも出来ない。
BSOの時と同様、相変わらず姿を見せずとも自分の存在を主張するレヴァインなのです。
しかし、ここでやられっぱなしのルイージではないのでした。
どうせまとまりようのないプログラムなんだから、もうこの際!!とばかりに『パリのアメリカ人』の代わりに投入して来たのは、
日本公演時のコンサートでも取り上げた、彼の得意技『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』です。
かように、決して寄せ鍋的運命から逃れられないメト・オケ演奏会なのでした。

さて、私は実は今日の演奏会を聴いてちょっぴり嫌な予感に襲われています。
それは、ルイージはあまりモーツァルトが得意でないのではないか?という不安です。

『魔笛』の序曲なんですが、まず、オケの音がとてもマフり気味で失望しました。
これは、実はオープニング・ナイトの『アンナ・ボレーナ』の演奏で感じたこととも共通しています。
今はまだシーズンが開幕して20日ほどしか経っていないわけですが、
例年ならこの時期のオケはレヴァインがシーズン前に行うリハーサルの効果あって、非常にクラリティの高い音を出すのにな、と思います。
今年のオープニング前は、代わりにマルコ(・アルミリアート。『アンナ・ボレーナ』の指揮者)やルイージとリハーサルをしたわけですが、
この二人ではレヴァインがなし得るのと同等のクラリティをオケのサウンドにもたらすことは出来ないんだな、というのを感じました。
私はモーツァルトの演奏にはあるレベルのクラリティを保ってほしい、という願望があって、というのも、
それがなかったらモーツァルトのオーケストレーションの妙を十分に感じることが出来ないからです。
モーツァルトの作品ほど、それが達成されていない時に、モコモコと何をやっているのか良く判らなく聴こえて、
鑑賞自体がストレスフルになる音楽は少ないんではないかと思うのです。

それから、この序曲の一番の存在意義って、オーディエンスが、これからタミーノやパパゲーノと一緒に冒険
(単なるアドベンチャーではなくて、そこに色々な意味や教えがあるわけですが、
この際、それもひっくるめての冒険としておきます。)に行くぞー!と感じる、そこにあると思うのですが、
演奏からおよそそういうわくわく感が感じられなくて、ついでに言うと、ルイージの指揮からもそういうものを引き出そうという意図が余り感じられないのです。
うーむ、いつもならこの曲の終盤あたりには座席から飛び上がって駆け出したくなるような気持ちになるのに(←自分も冒険に行く気分が押さえられなくて。)、
今日はさっぱり。こんなに盛り上がらない『魔笛』序曲も珍しいです。
タミーノ達と一緒に冒険に行こう!という演奏では全然なくて、”いやー、皆さん何か楽しそうですね。いってらっしゃーい。”という感じ、、、。
、、、、こらこら、手を振って見送ってないで、ちゃんとみんなを一緒に連れて行ってよ!!!と歯軋りしてしまいます。
こういう演奏を聴くと、125周年記念の時の、レヴァインの異常に躁的な演奏が俄然懐かしくなってしまいます。

続いてのリチャード・グードを招いてのピアノ協奏曲25番。
彼は現在68歳。もう決して若くはない、、というか、はっきり言うとお爺なんですが、意外と出て来る音が瑞々しくて、タッチも結構しっかりしています。
ただ、音色の引き出しがあまり多くないように感じるのは歳のせいかな?それとも元々、、?(私は彼の演奏は今回初めて聴きました。)
なので、最初は”ほおほお、、。”と思って聴いているのですが、気がつけば周りで居眠りしている人、多数。
確かに演奏としては私も単調で退屈だな、、と感じました。
ピアノを技術的に上手く弾く人なら一杯いるでしょう。
作品が演奏されている間、観客をエンゲージするものは、例えば以前、ブレハッチがリサイタルでやってのけたような
音の輝きがシャボン玉に映った虹のように表情を変える、、
そういう、音が、音楽が、生きている感じ、なんじゃないかな、と思います。
また、これはグードだけでなくて、一緒に演奏したオケの方にも言えることで、
『魔笛』のところで書いたように音の明晰性を欠いているので、色々な楽器同士、それからピアノとの掛け合いの面白さがあまり感じられなくて、
だらだらだらだら~と単調な演奏が続いて行くのです。
この二作品の演奏が終わった後のインターミッションで、”まだこれで半分なのか、、、。”と思ってしまいましたから。

それにしても、以前、『フィガロの結婚』の指揮でもルイージはいまいちだったんですよね。
明日の『ドン・ジョヴァンニ』がまじで心配になって来ました。

インターミッションをはさんで、いよいよレヴァインの陰謀=ハービソン&マンローの新作 "Closer to My Own Life"。
ハービソンはメトで世界初演された『華麗なるギャツビー』の作曲家でもあるので、レヴァインとはその当時からの陰謀仲間かもしれません。
"Closer to My Own Life"は、体裁としては声楽曲で、ソロを歌ったのはイギリスのメゾ、クリスティーン・ライス。
ライスは今回始めて歌声を聴きました。歌声自体には強力な個性や魅力があるわけではないですが、まずはこの難しい作品を良く自分のものにしていたと思います。
彼女のおかげでこの曲がどういう曲なのか、大変良くわかりました。
なんて書くと、ふざけてるのか?それとも彼女を馬鹿にしているのか?と言われそうですが、そうではないんです。
この作品、私はちょっと『ルル』を思わせる部分もあるな、と思ったのですが、時にオケが非常に雄弁になる箇所もあって、
そんな作品ですから、歌い手がしっかりと曲の骨格を摑んでいないと、何が何やら??の状態になってもおかしくないところです。
ですから、深い感動があったか?と言われれば答えに躊躇してしまいますが、
世界初演の作品で演奏のスタンダードを作る、という点ではきちんとした良い歌唱だったと思います。
オーケストレーションは面白い音の重ね方やなかなかに美しい部分もあるし、
ほとんど自分だけわかればよい!と思いながら作曲しているんではないか?と思われるような自己完結型の作曲家(現代音楽の作曲家に多い気がする、、。)とは違い、
聴き手の存在をきちんと意識している感じがあるのはいいな、と思うのですが、
その一方で、全体的には”どこかで聴いたことのある音楽”的でもあり、革新さという点では特に目を惹くものはあまりなかったです。

一つ気になったのはアリス・マンローの詩でしょうか、、?
この作品では、”The View from Castel Rock (キャッスル・ロックからの眺め)”からのテキストを使用しているのですが、
そもそも私は彼女の作風があまり好きでないのも一つなのですが、
さらに、詩の中で歌われている内容とそれからイメージする情景が必ずしもハービソンのつけた音楽と私の中で上手く結びつかないというか、
全く違う作品のための曲を無理やりこの詩に引っ張って来たような違和感がありました。
これがハービソンによる意図的なものなのか(だとしたら変わった感覚してるなあ、、と思う)、彼の詩を音にする力の不足によるものかはよくわからないです。

最後の『ティル』。
やっと、やっと、この曲でオケの音がキラキラするのを目撃、ならぬ、耳撃することが出来ました。
第一ホルンが冒頭のソロで音を引っくり返してしまった時は”あちゃーっ!”と思いましたが、
(日本での演奏会でも、リハーサルでも、この奏者は鉄壁の演奏を続けていたそうですから、
よりにもよってカーネギー・ホールでこけるとは何と皮肉な、、と気の毒になります。
でも、まあ、演奏者は人間であって機械ではないのですから、こういうこともあります。その部分を除けば、素晴らしい演奏でいらっしゃいました。)
これぞシュトラウスの作品を聴く喜び!!と膝を打ちたくなるような、次々と畳み掛ける楽器たち。
どのパートも責任重大、かつ、この曲に関してはルイージが相当なこだわりがあると見え、それぞれのパートにとても細かい指示を出しているのも見え、
奏者たちの間に良い意味での緊張感が漲っています。
演奏の全体的な構成、パーツのつなげ方等も良く考えられていたと思います。
ルイージはこういう割りと構造が複雑な作品の方が得意なのかもな、、と思いました。
モーツァルトは、それとは対極で、シンプルであるゆえに難しい、というタイプの作品だから、
彼の指揮が今一つふるわないのは偶然ではないのかもしれないな、、と思います。

そして、さらにふと、私がこれまで聴いて良かったな、と感じたルイージの指揮による演奏は、
もしかするとレヴァインが行ったグラウンド・ワークの上に築いた、言ってみれば、レヴァインとのコラボ作業だったのかもしれないな、と思いました。
レヴァインがクラリティ&べたな盛り上げ方を普段からしっかりメト・オケに植えつけておき、
その上にルイージが彼の得意とする細かい楽譜の読み込みとか独特の構成感を持ち込んで生まれたのがルイージ首席客演指揮者時代の演奏だったのかもしれない、
つまり言ってみれば、二人の良いとこ取りだったのかもしれないな、、と。

でもこれからはおそらくレヴァインにその役目を期待することは出来ないわけで(戻って来たとしても、以前ほどの精緻さは保てないと思う。)、
ルイージが一人でその任務を果たさなければいけない、、彼にとってはこれからが大変な時期、正念場となりそうです。
今日の『ティル』のような演奏を聴いて”大丈夫、大丈夫。”と思う一方で、あのモーツァルトは、、とも思う、、。
とりあえず、明日(10/17)の『ドン・ジョヴァンニ』の公演に注目したいと思います。


The MET Orchestra
Fabio Luisi, Principal Conductor
Richard Goode, Piano
Christine Rice, Mezzo-Soprano

MOZART Overture to Die Zauberflöte, K. 620
MOZART Piano Concerto No. 25 in C Major, K. 503

HARBISON / MUNRO Closer to My Own Life

R. STRAUSS Till Eulenspiegels lustige Streiche, Op. 28


Carnegie Hall Stern Auditorium
Second Tier Center Left Front
OFF/OFF/OFF/ON

*** メトロポリタン・オペラ・オーケストラ リチャード・グード クリスティーン・ライス
MET Orchestra Metropolitan Opera Orchestra Richard Goode Christine Rice ***

ANNA BOLENA (Sat Mtn, Oct 15, 2011)

2011-10-15 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。


オープニング・ナイトから約3週間を経た『アンナ・ボレーナ』。
そのオープニング・ナイトから今日に至るまで数回シリウスの放送があって、
今日の公演から数えて最も直近の放送となったのは10/10の公演でしたが、
その10/10の公演では”シーモア役のエカテリーナ・グバノーワが風邪で不調ですが歌いますのでご理解ください。”の前説がありました。
”あら、大丈夫?早く良くなって。”と優しい言葉をかけるどころか、
”かーっ!!!!HDを週末に控えたこの大事な時になにやっとんじゃー!!!
あんた一人ならまだしも、ネトレプコをはじめとするその他のキャストにうつしたりしてないでしょうね!!”
と鬼婆モードでスピーカーに向かって吠えてしまった私です。

私は歌手でも何でもありませんが、歌手や演奏者に最高の歌唱・演奏を望むなら、
鑑賞する側もゲホゲホ咳をしたりするのはあるまじき行動!をモットーに、日々健康管理に気を使っているつもりです。
この頻度で劇場に通い、しかも、一年の鑑賞スケジュールがほとんどシーズンの初日までに決定しているという状況下では、
夏の数ヶ月以外、好きな時に風邪をひくというような贅沢は私には認められていないので、
よって、職場に風邪気味で現れる人間は私から殺意の眼差しを向けられることになるのです。
私みたいな一介のオーディエンスでこれなのですから、
同じ舞台に立つキャストの中に風邪引きの人間が混じっていることを発見した時の歌手たちの気持ちはいかばかりか、と思います。

というわけで、もし、今日の公演で誰かがキャンセルになっていたり、本調子でなかったら、
アンナのかわりにエカテリーナを処刑台に送ってやるところでしたが、幸いなことにその事態は避けられ、グバノーワも姿を見せました。
(ただし、すぐ次の公演では、グバノーワとコステロがニ幕以降風邪を理由に降板することになりました。)



まず、(ジョヴァンナ・)シーモア役を歌ったそのグバノーワですが、印象は大体オープニング・ナイトの日と同じです。
ジョヴァンナ役は彼女の心の葛藤をきちんと表現できる歌手が歌わないと、非常に偽善的にも見える役なのですが、
グバノーワの歌からは、
① エンリーコ(ヘンリー8世)に結婚を要求する時、実は彼女自身、yesの返事をもらえるとは思っていないこと
② それゆえに肯定の返事をもらった時の喜びとそれと同時にそれが意味することへの恐怖、そしてなんとしてでもアンナを救わねば、という思い
③ その根底にある自分が女王の座についた時、神に罰されるのではないか?という永遠の恐怖
がきちんと感じられるので、オーディエンスからの共感・シンパシーを得られるものになっています。

ちなみに①の場面はアンナが女王になった時もこのような感じだったのだろうな、、と思われる場面になっていて、
アンナ自身が前女王キャサリンを傷つけたのと同様の方法で、今度はアンナが苦しめられる側に立っている、という点でなかなかせつない。
(実際、この王とジョヴァンナの逢引の場面は、私が読んだ書物の中でアンナと王の間に起こった出来事として描写されていることに極似しているのが興味深いです。)
また③については、史実上、ジョヴァンナが王と結婚し、目出度く男児を産んだ後、ほとんどすぐに命を落としているところになんともいえない暗いオーメンを感じ、
この作品の中でジョヴァンナが感じている恐怖に説得力を与えています。)



歌に関してもまずは安心して聴いていられる感じで(ピッチが激甘になってしまった高音が一つありましたが、全体的には良く歌えていたと思います。)、
何よりも歌に真摯さがあるのが彼女の歌唱の良いところだと思います。
今回二度目の鑑賞を終えて確信したのは、『ホフマン物語』のジュリエッタで聴いて私が彼女に対して持っていたイメージほどには彼女がまったり声ではない点で、
むしろ、メゾとしてはわりとさばさばした声で、高音域がやや乾いた響きになりやすく、ぴーん!と射るような鋭い音色があるわけでもないので、
この作品ではまだ大丈夫ですが、もっとオーケストレーションに厚みのある作品を歌った時には少し歌い負けするのではないかな、、という風に思ったりもしました。
日本で『ドン・カルロ』のエボリを歌ったはずですが、この声質では、少しコンパクトな歌唱にならざるを得なかったのではないかな、と思ったりします。



ただ、一つ言うと、彼女は舞台上のプレゼンスが少し弱いのに加えて、
きちんと歌うことに慎重になりすぎて、今ひとつ歌に火が感じられないのが痛いと思います。
ネトレプコと一緒の場で彼女と比べて霞んでしまう、というのはまだわかるのですが(ネトレプコをプレゼンスで負かすのはなかなかに大変です)、
エンリーコを歌うアブドラザコフとの場面も後一歩の盛り上がりに欠け、二人一緒にまったりしてしまう感じなのですよね、、。
エンリーコとジョヴァンナが相対で歌う場面は二つありますが、今日は他のキャストが熱気という点で健闘しただけに、
歌をきちんと歌っているだけでは心に訴えて来るものがないというか、
彼らのシーンが、全部の場の中で実は一番弱い鎖だったのではないかと私は思っています。
メトの日本公演からの映像・画像を見ていてもグバノーワご本人はすごく心優しい感じの方で、
それが今回上手くジョヴァンナの役と共鳴していたので良かったですが、
メゾの諸役にはソプラノ以上に一癖も二癖もある女どもがいっぱいで、
役の方を自分のキャラに引き寄せるにも限界というものがあって、自分から役に近づいて行くことが必ず必要になると思うので、
これからどういう役柄をメトで歌うことになるのか、またどのように役にアプローチするのか、という点で、来シーズン以降注目したいと思います。



HDの上映を観に行った方からは概ね好評なアブドラザコフは、はっきり言ってマイクロフォン・マジック以外の何者でもありません。

実は私の両親がNYに来て鑑賞するはずだったのが今日の公演でして、常日頃から美人に滅法弱いmy父が初の生ネトレプコを非常に楽しみにしており、
(もちろんそこにはネトレプコとガランチャの両方を、、という下心が当初あったわけですが、ガランチャの方はご懐妊で降板してしまい、父の作戦失敗。)
その体験をマックスのものとし、存分彼女を至近距離から見て・聴いてもらおうと、最も舞台寄りのサイド・ボックスを準備していたのですが、
諸般の事情があり、旅行自体が取りやめになってしまいました。
そこで浮いたチケットのうちの一枚を、いまや私の良きオペ友であるマフィアな指揮者にお譲りしたところ、
彼はインターミッションで、”僕のいる座席からはアブドラザコフの声は良く聴こえてたけどね。”と言ってましたが、
それはあなた、舞台に一番近いボックスはほとんど舞台の真上横のようなものなんですから、
そこにいても聴こえなかったらそれ問題でしょ、、という感じです。



ちなみに今日私が座ったドレス・サークルの正面席には彼の声は全然届いて来ませんでした。
特にオーケストレーションが少しでも厚くなると、歌声が完全に埋没してしまって、歌詞も聴き取れない有様で、低音域の音も全然響いて来ないので、
見た目はともかく、声楽的に王としての威厳が全く表現されていないこと、甚だしい。
私の周りの座席からは最後のカーテン・コールで、キャスト全員のうち彼一人に対してはブーすら飛んでいました。
オープニング・ナイトにも、なんだか随分声のプロジェクションが悪いな、、と感じましたが、
その日座ったサイド・ボックスは音響的に若干特殊な席でもあるので、それ以上の言及を避けていましたが、
今日座ったドレス・サークルの正面前列は、ここできちんと声が聴こえなかったらどこで聴こえるのか?という種類の座席です。
大体、メトが箱としてサイズが大きいといっても、きちんとした発声をしている歌手なら、
どの座席にもそれなりに声が届くようには作られているのであって、その”それなり”のレベルにも達していないのはやはりまずいでしょう。
これは単純な声量の問題ではなくて、声のプロジェクションの問題。
彼はこれまでも決して劇場が震撼とするような朗々とした声を聴かせるタイプではないですが、
『アッティラ』『ファウストの劫罰』の時には、
上で言うところの”それなり”にはきっちり劇場で鳴っていたのので、一体どうしたことだろう、、という感じです。
彼の声の音色自体は上品で綺麗なので(この役にはもうちょっと迫力とか貫禄があっても良いとは思いますが)、
プロジェクションの問題がもう少し何とかなればもっと印象に残る王になったと思うだけに少し残念です。
ただし。ルックス的には上背もあってがっちりした体格で割りと男前であるところの彼ですし、
繰り返しになりますが、音色そのものは端正で、ディクションや歌いまわしも綺麗なので、
HDで鑑賞する分には問題ゼロ、の、”HD限定型”とでも名づけたくなるパフォーマンスだったように思います。



ネトレプコのアンナ役は今日の公演を含めると、実演とシリウス合わせて5回鑑賞したことになりますが、
この役の歌唱については常に一定以上のクオリティは維持されているので、その部分は高く評価します。

声そのものの話をすると、今日の公演では、本当に僅かなのですが、音にウェア(疲れ)を感じる部分があって、
役の表現に没頭して飛び込みすぎると、思い切って出した高音のピッチが微妙に甘くなりそうになって、
慌ててそれを修整しようと、少し冷静になる、、ということが何度か見られ、
オープニング・ナイトのような、自分をかなぐり捨てて役にのめりこんでも声がついて来る、といった種類の絶好調さはなかったかな、と思います。
それに加えてHDで大ミスをしたくない、という気持ちもあったのでしょう。
彼女にしては若干コントロールの強い慎重な歌い方になっていたように感じました。
彼女が一番良い時の歌唱というのは、そういったコントロールを意識する必要のないレベルに声のコンディションが整っていて、
それを基盤にして役と歌に没入した結果、テクニックを越えて
(というか、彼女はいつまで経ってもテクニックを完璧にしてくれないので、そこは目をつむるしかない、と言った方が適当か?)
感情が彼女の声にトランセンドするような感じがします。
オープニング・ナイトではまさにそのような”ぎらぎらっ!”とでも形容したくなるような音がいくつか聴かれましたが、
今回はその点で少し大人しかった印象を持ちます。
ただ、HDになってしまうと、むしろ、このような大人しい歌唱の方がまとまって良く聴こえることもままありますし、
また、今日の彼女は自分のコンディションを鑑みながら、狂乱の場まで上手くペース配分を行い、最初から最後まで平均的に良く歌えていたとは思いますので、
HDのことを考えれば、今日の彼女のコンディションではこのような歌唱で良いのかもしれません。
私は個人的な趣味として、物凄く細かい技術の問題や場による多少の出来の凸凹があったとしても、
ものすごくエキサイティングな場面や音があれば、そっちの方がよいと思う性質ですので、
彼女の歌唱に限って言うと、オープニング・ナイトのそれの方が好きですけれども。



彼女のスタミナ計算がペイオフしたのは最後の狂乱の場で、特に”Coppia iniqua”以降は音も彼女にしては良く転がっていて、
なかなか良い出来だったと思います。
しかし、彼女の舞台人としての才能を一番感じさせられたのはラストのシーンです。
オープニング・ナイトの感想で、彼女が髪を”がっ!”と手でひっつかんで頭の高さまで持ち上げ、猛然と処刑台に向かっていく演技をしていたと書きました。
ところが今日は、くるくるっと髪をツイストするとそれを軽くたわんだ状態にして、比較的ゆっくりと舞台奥に向かって歩いて行きました。
これにより、死を前にして、アンナが自分の運命を静かに受け入れる心の状態になったことを表現していて、
オープニング・ナイトとは全く印象の違うアンナ像になるけれども、これはこれでまた優れた演技だったと思います。
奥に歩いて行った先で最後の音を出すのですが、(ここはかなり舞台奥に行ってしまっているうえに、
観客に背を向けて歌うので、ネトレプコのようなパワーのある歌手でも、本来観客がこの音から感じるべき迫力やスリル、
エモーションを十全に感じられなくなってしまうのが、この演出で私がマイナスに感じる点の一つです。)
歌い終わった後に、今日はその髪を放り投げると同時に頭をかくーんと折り曲げることで、首をはねられる瞬間まで表現していました。
この首ちょんぱの演技は、私はオープニング・ナイトで見た記憶が全くないのですが、
(最後は彼女が舞台奥に向かって猛然と歩いていく姿で記憶が終わっている。)
もしかすると、サイド・ボックスに座っていたために見切れてしまったのかもしれない、と思い、
初日に正面座席に座っていたマフィアな指揮者に、オープニング・ナイトの公演で首ちょんぱの演技があったかどうか聞いてみたところ、
彼もそのような演技があった覚えはない、ということでした。



私個人的にはオープニング・ナイトの演技の方が、私が持っているアンナの人物像と上手く嚙み合っていて、
ある種のカタルシスも感じるので支持しますが、確かにあの演技はあのオープニング・ナイトの、
もう何も怖くない!という感じの声のコンディションと、それを元にしたいくつもの迫力満点の音と、
ラストに来るまでにずっと積み上げてきた演技の連続によって可能になったエンディングであって、
今日のように抑制の利いた歌唱が続いて来た中で、突然そういう演技を入れても唐突で嘘っぽくなってしまう、
それを直感的に感じ取った結果、今回のようなオープニング・ナイトとは全く違うエンディングになったのではないかな、と思います。
彼女の優れた点は、こういう、自分の声のコンディションと、それに応じて積み上げて来た歌唱の内容に応じて、
ほとんど本能的に演技をアジャストしてしまう、そこにあるのだと思います。



アブドラザコフとグバノーワ二人のシーンがドラマ+歌唱的にややフラットに感じられ、
一方でネトレプコが上に書いたような理由から特に序盤で固さがあったのに対し、気を吐いたのが若手だったのは嬉しいことです。

まず、スミートン(リブレットのイタリア語ではスメトン)を歌ったタマラ・マムフォード。
彼女に関してはラジオで聴くと少しビブラートが強くて嫌だ、と言っている人がいたようなんですが、
これをいわゆる”忌むべきビブラート”に区分けしている人がいるとしたら、全くもって彼女に気の毒過ぎます。
実際にオペラハウスで聴く彼女の声は深く、声のサイズが特大なわけではないのによくプロジェクトする声で、
まだ若手の部類に入る彼女ですが、非常に成熟した響きをもっており、その”ビブラート”も、私には好ましい個性のうちに思えます。
彼女の名前でブログ内検索するだけで、本当にたくさんの公演が出てくることからもわかる通り、
これまで『ナクソス島のアリアドネ』、『ラインの黄金』、『魔笛』(いずれの演目もキャンディーズ=3人娘の一人)など、
大きくはないけれども大事な役で舞台を踏んで来ただけあって、度胸もあるし、
オープニング・ナイトにほんの少しつたないところのあったメロディーの回し方も、今回の公演で完璧な状態にして来たのは賞賛に値します。
とにかく、スミートンの役で今日の彼女の歌唱ほど完成度が高いものは滅多にあるものではないだろうと思います。
オペラが始まってほとんどすぐに(リュートを持って)歌うことになる
”Deh! non voler costringere a finta gioia il viso(無理して喜びの表情を繕わないで、という意味ですが、
格調高い日本語に訳すのが難しい、、。)"も非常に完成度が高いです。
スミートンは、監禁中の激しい拷問の後、アンナとの情事を認めればアンナを恩赦する、というヘンリーの差し金による偽の申し出にのせられて、
ありもしないアンナとの関係を告白することになります。
私が予習に読んだ本によると、高くない身分ながら音楽の才を見込まれて王室に出入りするようになり、
アンナにも可愛がられる、”まだほんの子供”のような若い男性なんですが、
自分の生まれとはまったく違う華やかな王室で、しかもアンナに可愛がられて有頂天になっている、
そんな彼がある日突然王室から姿を消す(もちろんヘンリーの命でロンドン塔に投獄された)、という怖い展開になっていて、
そのことにより、アンナもいよいよそこまで迫った自らの身の危険をも感じるという、物語の中でも一番心臓がバクバクする場面です。
ついほんの少し前まで人生を謳歌していたはずの、まだ少年の域を出たばかりのような男の子が、
大きな王室の運命に巻き込まれて、なんのいわれもないでっちあげの罪によって命を落とす、、。
ある意味、私に一番憐れを催させる登場人物がスミートンで、
この役を愛情深く歌い演じ、単なる音楽的箸休め以上の存在に引っ張りあげてくれたマムフォードの力に感謝です。

オープニング・ナイトの公演ではあまりの緊張にナーバス・ブレークダウンを起こし、
特に高音ではことごとく恐怖が先に立って呼吸が浅くなるのか、しっかりした足場のないところに声を出そうとするので、
音色がへろへろ、、という結果になってしまって、舞台脇にはける時に彼が頭を抱えている様子を目撃した
オーディエンスもいたというパーシー役のスティーヴン・コステロ。
その後、連続してオペラハウスで鑑賞した友人から、公演の回を重ねる毎に歌唱は良くなっていると聞いてはいたのですが、
HDの日の公演ではまたもオープニング・ナイトと同様に場の特殊な空気
(カメラが目の前にあるという物理的なプレッシャー、これが世界に配信されているという心理的なプレッシャー、、)
にのみこまれて壊れてしまう、ということはまったくもってあり得るな、と思っていて、
HDでボロボロの歌唱を世界中に配信、という事態になった場合に備え、
一応、壊れる前にはこの位は歌えていた、という記録として、10/10の公演からの歌唱をオープニング・ナイトの記事でご紹介したわけです。



それが。
いやはや、私もびっくりです。
ナーバス・ブレークダウン系テノールのコステロにこんなガッツがあったとは誰が想像したでしょうか?
あなた、意外と神経強かったのね、、と思わず呟いてしまいました。鍛冶場の馬鹿力とはこのこと。

まず、何よりも今日は声が彼の味方をした、これが大きかったと思います。
私はオープニング・ナイトも、あの精神的な重圧に負けていなければ、決して悪いコンディションではなかったと思っているのですが、
今日の彼は一声目から好調オーラが漂っていて、本人はすでにウォームアップの時からわかっていたからでしょうが、
オープニング・ナイトの時にあった迷いのようなものが一切なくなって、すっかり別人のような思い切りのよい歌い方に変わっていました。
特にパーシーの最初の出番である、アンナ兄=ロシュフォード卿との再会を経て、狩り中のヘンリーが登場する直前に歌われる、
”Ah! così nei di redenti”、ここの出来が今日の彼のパフォーマンスを決定づけたと言っても過言でないと思います。
パッセージワークも丁寧でした。

話は少し逸れますが、その直後のヘンリーの言葉は意味深で怖いです。

Molte mi stanno in petto e gravi cure.. pur mia mente ognor a voi fu volta
né un momento solo da voi ritrassi il mio vegliante sguardo.
(気にかかる重要なことがあってな、、。だが、私の心はこれまで以上にそなたに向けられておった。
そなたをじっと見つめ、片時も目を離したことはないぞ。)

どうやればアンナと離婚できるかを模索し、成り行き次第では彼女を殺してやろうと思っている、それがこの言葉に表れているというわけです。
恐ろしい人です、全く、、、。



今日の公演の中で良かったシーンを選べ、と言われれば、一番に一幕三場のアンナとパーシーの二重唱から一幕のラストまで、
それから次に第二幕の第二場のアンナとパーシーの裁判が始まる前の場面、この二つを選びます。
つまり、基本的にアンナとパーシーの二人が絡む場面、ということです。
今日のコステロの歌唱には長い目で見た場合、問題(それも軽視できない種類の)は確かにあったと思いますが、
今の彼の出来る範囲内では最善を尽くしていて、それがネトレプコに火をつける結果になっていて、
狂乱の場を含めて全体的に少し堅苦しい感じのあった今日の彼女の歌唱の中で、唯一、彼女らしいパッションがあったのが一幕三場だったと思います。
ですから、私は今日の公演については狂乱の場よりも、むしろアンナとパーシーが絡むシーンが聴き所だと感じました。

それにしても、何より私がたまげたのは、今日のコステロは演技をしている!!!という事実です。
というか、こんなにちゃんと演技しているところ、初めて見ましたよ。やれば出来るんじゃん、、、。
あのオープニング・ナイトの、頭真っ白状態から、大きな進歩です。
それとも、あれからメトのスタッフについて、猛烈に演技の総ざらいをしたのか、、、。

そして、声のコンディションが良かったことで、却ってはっきりと見えてしまった問題も書いておかなくては、と思います。
それは、彼はもう一度、発声を根本的に一から見直す必要がある、ということです。
以前から、何度かこのブログで取り上げて来た通り、ここ数年、彼は何かとても間違ったことを、とても間違ったやり方で身につけてしまった、という風に思います。
例えば調子良く歌っているように見えているところで突然音が砕けそうになる、といったことがあるのもそのことの表れだと思います。
(今日の公演でもそういった箇所がありました。)
彼が素材としては素晴らしいものを持っている、と、私は今も思っているし、
今回一連の『アンナ・ボレーナ』の公演を聴いてそれを再確認した部分もあります。
まず第一に声の良さ。第二に感情を歌声に乗せられる力。そして第三に声や歌唱の存在感。
今日の公演の中で、唯一、ネトレプコと歌声で存在感を張っていたのは、経験ではずっと豊かなはずのアブドラザコフやグバノーワではなく、
彼であった点は私も期待していなかった驚きでした。
その素材が間違ったテクニックによって覆い隠されている、、、これは本当にもったいなく、残念なことです。
実際、劇場で彼を聴くと、間違ったテクニックの下から時に姿をのぞかせるその素材を感じることが出来るので、概してオーディエンスの反応も彼に温かいわけですが、
しかし、素材だけではやっていけないのも、またオペラという世界であって、これを打開できるのは彼本人以外の誰でもないでしょう。
早く彼の発声の問題点の根本をきちんと直してくれるコーチにめぐり合って欲しい、と思いますが、その判断は彼にしか行えないことです。
今のままの発声だと、体への不必要な負担が大きすぎて、主役級の役を全幕通して何公演も歌うことは出来ないんじゃないかと思います。



重ねて鑑賞して、やはり、マクヴィカーの演出が悪いとは私は特に思わないです。
舞台が薄暗くて、ずっと地下室に閉じ込められているような気がする、、という意見を言っているヘッズもいるようですが、
でも、アンナがいた状況はまさにそれです。
ロンドン塔に入れられる前からずっと王室の閉塞感に息が詰まりそうだったことでしょう、
アンナのように進取の精神に富んだ性質の人間にとって、まさにそれは牢獄のような場所だったはずです。

衣装に対しても、これまた史実を大切にしすぎていてつまらない、との意見があって、
ネトレプコもNYのラジオ局WQXRのインタビューで”着用するのに二人の助けが必要でそれでも25分かかる。”とか
”暑い(warmという婉曲な表現を使ってはいましたが)”とか、色々言ってましたが、
あの重たそうな衣装も、私はそのアンナが感じていたはずの王室の空気を上手く表現していたと思いますから、
苦労はわかりますが、我慢してください、という感じです。

一つだけ良くわからない場面があるとすると、一幕三場でパーシーが剣を抜く場面でしょうか?
これはリブレットでは、せめてこれから先、逢瀬だけは許して欲しい、と食い下がるパーシーに、
アンナが”No. Mai più. いいえ、もう二度と。”(ここの音楽は短いながら彼女の性格を雄弁に表現していて素晴らしいと思います。)と宣言した後、
それなら自分は自害する!とパーシーが取り出した剣を、隠れていたスメトンがアンナに切りかかろうとしているものと勘違いして飛び出してくる、
という流れになっているのですが、なぜかマクヴィカーはこの場面でパーシーに二本剣を持たせます。
おそらく、アンナを殺してそれから自分も、、という解釈にしたのだと思われ、スメトンが飛び出してくる理由を強調するという意図があったのかもしれませんが、
パーシーの本来の行動がわかりにくくなってしまうだけでなく、これではリブレットとニュアンスも違ってしまって、
劇場で見ていても、何が起こっているのか若干わかりにくくなっている事実は否めないです。
オープニング・ナイトはコステロの演技のせいかと思っていましたが、
今日改めて見て、これはどのように演技しても、この演技付けでは内容が上手く伝わらないと感じました。

しかし、それ以外のディレクションが欠落しているように感じた部分は、マクヴィカーが歌手の演技力を信頼していることの現われかな、と感じました。
それから、歌。すごい歌があれば、却って下手なディレクションは不要だ、と判断したのだ、と思います。
確かに『アンナ・ボレーナ』はそういうオペラですから。

今日の公演はこれでこれで楽しめるものでしたし、ネトレプコのアンナは一つの解釈のあり方として、ヘッズとして見逃すべきではないとも思います。
また、役に適した声というのが、その事実だけでどれだけゲインが大きいか、というのを改めて感じることも出来ました。
しかし、この公演を観て、まだほんの少し、何かが欠落しているように感じる人(例えば私を含めて、、)がいるとするなら、
それは多くのヘッズが主張しているような演技とか演出の問題ではなくて、歌唱の問題ではないのか、、?
多くのヘッズがネトレプコのアンナは素晴らしかった、問題があったとすればそれは演出の問題だ、と言いますが、本当にそうなのか、、?
それに対する答えを、10/21のアンジェラ・ミードをタイトル・ロールに据えた公演で確認することになるのですが、そのレポートは後日に。


Anna Netrebko (Anna Bolena / Anne Boleyn)
Ekaterina Gubanova (Giovanna Seymour / Jane Seymour)
Stephen Costello (Riccardo Percy / Lord Richard Percy)
Ildar Abdrazakov (Enrico / Henry VIII)
Tamara Mumford (Mark Smeaton)
Keith Miller (Lord Rochefort)
Eduardo Valdes (Sir Hervey)

Conductor: Marco Armiliato
Producation: David McVicar
Set design: Robert Jones
Costume design: Jenny Tiramani
Lighting design: Paule Constable
Choreography: Andrew George

Dr Circ A Even
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*** ドニゼッティ アンナ・ボレーナ Donizetti Anna Bolena ***

新演出『ドン・ジョヴァンニ』、残念なクヴィエーチェンの降板と、そして不幸中の幸い

2011-10-12 | お知らせ・その他
10/14現在のUPDATE
クヴィエーチェンが10/25の公演よりタイトル・ロールに復活することが発表されました。つまり、10/29のHDの公演もクヴィエーチェンが出演です。
クヴィエーチェンがこの予定通りに出演をこなせるとすれば、マッティのドン・ジョヴァンニを鑑賞できる機会は、残る10/17と10/22の二日のみ。
ご覧になりたい方・なれる方は急いでチケットの手配を!


こちらの記事のコメント欄でKinoxさんが教えてくださっている通り(Kinoxさん、ありがとうございます。)、
初日が明日10/13(木)に迫った新演出の『ドン・ジョヴァンニ』で、大変大きな配役変更が出てしまいました。
ええ、もうこれ以上大きくなりようがない、タイトル・ロールのドン・ジョヴァンニで、です。

現在このタイトル・ロールを歌える歌手のうち、最も優れた解釈者の一人に数えられ、
メトの日本公演の『ラ・ボエーム』でも多くの方々を楽しませてくれたはずのマリウシュ・クヴィエーチェン(写真左)が、
いよいよメトで、しかもマイケル・グランデージの手による新演出に登場するということで多くのヘッズが期待を寄せていた『ドン・ジョヴァンニ』ですが、
なんと、初日の公演をわずか数日後に控えた今週月曜日(10/10)のドレス・リハーサル中(おそらく一幕の剣を交える場面で)に
背中もしくは腰の激痛により病院に運ばれるという事態になってしまいました。
彼自身は、だいぶ以前に痛めた箇所が時を置いて再発したのだと思う、と言っているようですが、
結局、初日どころか、最低でも一ヶ月の安静を言い渡されたとも言われ、おそらくは10/29土曜マチネのHDの公演への出演も難しい状況です。

メトのリンデマン・ヤング・アーティスト・プログラム出身の彼が、メトで順調にキャリアを積んで来て、
キャリア最大級の桧舞台に、しかもきっとさんざん準備・リハーサルを重ねて来て、いよいよ、、というこんな時期に
このようなことになってしまうなんて、彼の心中を思うとなんと言って力づければよいか、言葉もないほどですが、
我々は待ってますので、体調が万全になってからまた舞台に戻って来て、エキサイティングな歌唱を聴かせてほしいと思います。

結局ドレス・リハーサルでは残りの部分をカバーのドウェイン・クロフトがつとめあげたそうで、
彼もなかなか素敵なドン・ジョヴァンニとなり得る可能性を秘めているような気もしますが、
ドウェインには気の毒なことに、しかし、我々にとっては大幸運なことに、
さらに素晴らしい、おそらく現役では最高のドン・ジョヴァン二といっても良いであろうお人がたまたまNYにいらっしゃいました。
現在上演中の『セヴィリヤの理髪師』のフィガロ役にキャスティングされている、いえ、いたペーター・マッテイ(写真右)です!!!!

2008-9年シーズンにマルタ・ケラーの演出の舞台で、彼のドン・ジョヴァン二を聴いた時には、
こんなところに素晴らしいジョヴァンニ歌いがいるではないか!!と大興奮し、花丸を10個も献上してしまいましたが、
そう思っていたのは私だけではないようで、クヴィエーチェンを聴けないのは残念な一方で、今回のこの代役にNYのヘッズは総大喜びです。
写真を見て、”え、、、?こんな近所の普通のおっさんみたいな人がドン・ジョで大丈夫なの?”と思ったあなた!
まあ、見ていてください。この一見普通のおっさんが大化けしますから!!

ただし、マッティは同演目同役でスカラのシーズン初日も歌うことになっていて、
そのために必要なリハーサルには参加しなければならないという理由から、
現在メトのサイトで発表されている限り、代役をつとめられるのは13日、17日、22日の三公演のみで、25日と29日はいまだTBAとなっています。
(注:Kinoxさんによると、29日までマッテイという情報もあるようですが、まだ正式な発表がありません。
出た時点でこの記事にupdateを入れさせていただきます。)
HDはどうなってしまうのでしょうか、、。
今頃ゲルブ支配人がマッテイへの必死のくどきに入っていると見ます。
ちなみにマッテイが『ドン・ジョヴァンニ』の公演にうつれるよう、『セヴィリヤの理髪師』の方はロディオン・ポゴソフが代役に入ります。
(彼も若手ながらなかなかいい素質を持った歌手です。)