Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

ROMEO ET JULIETTE (Mon, Dec 31, 2007)

2007-12-31 | メトロポリタン・オペラ
シリウスで聴いた12/27の公演があまりにものスーパー・パフォーマンスで、
なぜ、オペラハウスにいないで、こんな我が家のスピーカーの前に座っていなければならないのか、私は?
と、地団太を踏む思いだったのですが、
だからこそ、同じようなものが観れるか楽しみのような、
しかし確率論から言って、この短いインターバルで、同レベルの熱い公演を観れるわけはない、
というあきらめのような気持ちも。
私の場合、”今日こそ、スーパー・パフォーマンスの現場に立ち会えるかもしれない”
という思いが足繁くオペラハウスに通う原動力になっているため、
今日はなかなかに複雑な心境といわねばなりません。

今日は大晦日ガラということで、希望して料金を支払った人には、
公演後にグランド・ティアーでのディナーが続くので、着飾った人が多い。
着飾った人の一部には、大のオペラ好きの人もいらっしゃるし、
彼らによる多大なる寄付金によってメトが成り立っていることは否定できませんが、
通常の公演に、おそらく生活を切り詰めて捻出したお金で通いつめている、
年配の、あるいは、若者の、決して裕福でないファンを見ている私としては、
この大晦日のガラが、料金体系といい、雰囲気といい、
それらの真の意味でメトのファン層の大部分を構成している人たちにとって
やや参加しにくいものになっているのが残念です。

そういった意味でも、
12/27こそがノン裕福組オペラヘッドの大晦日公演といえたのかも知れない、
と、その日の公演に行くことを選ばなかった自分の読みの甘さを呪う。
実際、27日の公演では、客の熱気がすさまじく、
それがあのスーパー・パフォーマンスを生み出す一つの大きな要因だったのは間違いない。
来年こそは。

最後の最後でチケットが入手できたので、贅沢をいえないのですが、
それにしても、今日のこの座席は。。
馬鹿者が手すりから身を乗り出しすぎて、通路から平土間に転げ落ちないように、との意図でしょうが、
あまりにも慎重に広範囲にわたって落下防止用のバーが設置されていて、
視界のど真ん中に入って邪魔でしょうがない。
どうにかしてほしい。前から気になっていたので、いつか、メトに意見しようと思います。

さて、今日は、前奏曲の冒頭の弦の音が出てきた時点で、
”今日のスーパーパフォーマンスの夢は絶たれた”と確信。
公演がすすむにつれて盛り返して、かなりよい、というレベルの公演になることはごく頻繁にありますが、
27日に聴いたような、ああいう超ド級のパフォーマンスの時は、最初からその予兆があるものです。

今日はいつものオケと比べると、なんだか非常に疲れた音というのか、
キレにかけているし、ネイドラーの指揮もダルに聴こえる。
あとは、極端にサイドによっているという座席位置のせいもあったかもしれませんが、
音のぬけが今ひとつで、オケピット上でたむろっているように聴こえる。
もう一度確認するまで確かなことはいえませんが、出来れば今後は避けたい座席。

ドミンゴからネイドラーへという、指揮者の交代で生じたことか、
ポレンザーニという相手役を得てそうなったのか、はたまた両方からの影響か、
9月のシーズン初めての『ロミ・ジュリ』公演から、少なくとも12/20の公演まで、
ほとんど変化が感じられなかったネトレプコの歌唱の印象が、
ここ数公演で、ものすごく変化したように思うので、その点について。

とにかく、その原因の少なくとも一部はネイドラーの指揮にあることは間違いない、と思います。
”私は夢に生きたい”のテンポ設定が非常に遅い、ということは、12/27に書いたとおりですが、
今日も基本的にスロー。
このスローテンポで歌われた場合、彼女の歌唱にそれまでと全く違う側面が加わって、それゆえの美点も多く、
これまでただひたすら一生懸命に、まるで私の力はこんなよ!という感じで、
肩にパンパンに力が入っていたような雰囲気だった彼女の歌が、
まるでネイドラーに任せた、というような感じで、力がいい意味で抜けていたのが印象深かったです。
その肩の力を抜けた分、ジュリエットの性格描写にエネルギーが振り向けられていて、
柔らかく歌う部分が、とても柔軟になっていました。

いや、このアリアだけでなく、全体を通して、私が実演で見た公演の中ではダントツで、
歌にエネルギーのほとんどを注ぎ込んでいた最初のほうの公演と比べると、
ジュリエットをどういう人物として描写するか、ということに焦点がシフトしていたのが、
とても興味深かったです。

12/27の公演は特殊なうえに(あれほど声のコンディションと、気合がマッチした公演は珍しい)、
私は実演でみたわけではないので、除くとすると、
今期のメトでの全『ロミ・ジュリ』公演の中で、登場人物の性格描写においては、
今日がもっともすぐれた公演だったのではないかと思います。
彼女は、自分=ネトレプコが、役に出てしまう時があり、
そういうときにはかなり興醒めしてしまう私なのですが、
今日は非常に謙虚に役を描写しようと務めていたのが好ましかった。
最後の数公演で、これほど役を展開、進化させえた彼女の能力を見るに、
逆をいうと、どうしてこの環境をもっと早く彼女に与えられなかったか、
(主に、共演者、指揮者の選出という意味で)残念でもあります。
また、それと同時に、この最後の数回で役を発展させられた、ということは、
こうして一つの役について、複数の相手役で長期の公演日程
(それは、彼女の集客能力あってのことですが)を行ったメリットであり、
私は、ヴィラゾンを観れなかったのは残念ではありますが、
ネトレプコにとっては、非常によいことだったのではないかと思っています。

で、私個人的には、ネイドラーよりも、そのネトレプコの歌唱と演技を変える立役者としては、
ここ数回の公演で、ロミオ役を歌ったポレンザーニの力をあげたい。

以前にも書いたとおり、彼の声には、一種独特の響きと歌いまわしのくせがあって、
好きな人は好きでしょうが、また、苦手な人間にとってはこれはたまらん!という部分があり、
私は、純粋に声のことをいうならどちらかというと、気持ちは後者に偏らなくもないのですが、
ただ、声以外の部分では彼の歌唱をおおいに評価するものです。

まず、彼のアンサンブル能力、これは彼の最大の強みとなっているし、
今後もそうあるでしょう。
これまでの公演で、ロミオ役を歌った歌手で、
カイザーはもちろん(この人は、私に言わせれば、ラジオで聴く限り、
まだネトレプコと太刀打ちできてない。完全に食われまくっていた。)、
若干アラーニャにしても、ネトレプコの声の質と奔放な歌いぶりに飲み込まれてしまっていた感があったのですが、
唯一、対等に渡りあい、それどころか、ネトレプコとオケの間に生まれたギャップを、
そっとサポートする離れ業まで見せていたのは、ポレンザーニただ一人。
この人はタッカー・ガラの時でも、ピンの歌よりも、キーンリサイドとの二重唱のほうで光っていたし、
ピンの時には若干好き嫌いが分かれる歌声が、なぜか、二重唱になると、
一切気にならない。

次いで、彼の歌唱の美点は柔らかい声の使い方。
重ねていいますが、彼の声は、決して”絹のような”美声ではないのですが、
なぜか、観客の注意を強引にひきつけて止まない力があります。

以前、12/15の鑑賞の際に、なぜ、私がアラーニャの歌唱を一級と思うことを躊躇するか、
ということをニ幕のVa! repose en paix! sommeille!(さあ、安らかにお休み)
以降の部分を引用して書いたことがありましたが、
まさにポレンザーニは、私がこう歌ってほしい、という歌い方で歌ってくれるのです。
彼のそれで聴くと、ここの歌詞が、もはや、”歌”ではなくて、ロミオの心から出てくる”呟き”に聴こえる。
それを声そのものの魅力ではなく、歌唱技術とセンスでもって成し遂げているのですから、
それはそれですごいことです。

ところで、ネイサン・ガン歌うマキューシオ役は、回を重ねる度に、
聴衆からの反応があまりよくないこともあってか、
特に歌に関して、元気のないものになってきたように思うのですが、
彼はそこを割り切って、芝居で頑張ってました。
歌をばっさりと捨て去った、このことについては、賛否両論でしょうが、
だからといって、役を投げず、三幕の立ち回りに全てを賭けています。
というか、ここは、何と言っても、マキューシオ含む全キャストの立ち回りが
よくないといけない。
それでこそ、この後につづくロミオの独唱部分が舞台では光るのです。

今日のガンの立ち回りは本当に見事(歌手なのに、立ちまわりで褒めるのも妙ではありますが。)で、
ティボルトとのナイフでの一騎打ちのシーンでは、思わず客席にいた客が身を乗り出すほど。
彼の死に際があまりに美しく、これでこそ、ロミオの怒りと、
ティボルトを殺害するにいたる動機にリアリティが生じるというもの。
ティボルトを演じたヘラーも、今日は死に至る演技が格段に良くなってました。
追放が決まった後のロミオの慟哭のシーンも、ポレンザーニが泣かせる歌唱で、
今日の公演は、この幕が非常に締まったものになっていたように思います。

さて、四幕の寝室の間のシーンの、アダルト・ビデオのような
ポレンザーニの演技は、評価が分かれるところかもしれません。
今までのすべてのテノールの中で、もっとも生々しい演技を披露していたように思え、
アラーニャのそれなんて、今思えばお子様向けで、比較の対象にもならないほど。

しかし、不思議にも、そんな演技があってもなお、アラーニャよりも、
むしろ全体の歌唱においては、ポレンザーニのほうが上品な印象が残るのです。

普通、相手役のテノールで、ラブシーンとはいえ、ここまでされると引くのでは、と思いきや、
ネトレプコもポレンザーニのことは大好きなようで、
公演後に抱きついて彼にキスしていたのが全てを語っているように思います。

優れた芸術性は何物をも越える。

彼女のキスには、彼の芸術性溢れる歌への賞賛が溢れていました。
彼女にしても、役の新しい面を拓くきっかけを与えてくれた相手役ですから、
特別な思いもあったことでしょう。

そうそう、そういえば、逆に、バルコニーのシーンで、
バルコニーの下から手をのばすロミオとジュリエットの指がやっと触れ合うか触れ合わないか、というところで、
身長がたりずに(微妙に傾斜したセットを使ってポレンザーニが巧みな演技を見せた)、
二人の手が離れ、思わずジュリエットから笑いがもれる、という箇所があったのですが、
このシーンで、ここまで二人の間のケミストリーと、同時に子供らしさを感じさせたのは、
ポレンザーニがロミオを歌ったこの回だけでした。
というか、ここでネトレプコが出した笑い声が、芝居ではなく、本物だったです。
というわけで、ポレンザーニ、こんな笑い声を彼女から引き出したのを見るに、
きちんと役の解釈にもとづいた演技付けも出来ていることになります。
(寝室の場のあからさまさに関しては、役の解釈の仕方による問題であり、技術の問題ではない。)



最後のロミオとジュリエット二人の死のシーン、
ポレンザーニが高音をクラックするというアクシデントがありましたが、
そもそも声の魅力で勝負しているわけではないからか、思いのほか気にならなかったのが私も自分で驚くほどでした。
まあ、それだけ、他の部分で、すでに、充分に埋め合わせをしてもらっていましたので。

ただ重ねていうと、ここで、彼の声そのものに魅力がない、といっても、それはたとえば、
アルフレード・クラウスなんかと比べて、という比較であって、
調子のよい日の彼は、高音の土台が非常にしっかりしていて、
ものすごく芯のある声だし、人によっては魅力的な声と充分に感じうるものではあります。

というか、大体、私はかなり厳しくいろんなことを言い放っていますが、
しかし一方で、メトにやってくる歌手、全ての方に、大いなる畏敬の念をもっているのであって、
厳しいコメントもそれを踏まえたうえのものであることは、
誤解ないように付け加えておきたいと思います。

2008年も愛を持ってメトに通う、これが新年の抱負です。

(写真は、ポレンザーニの出演の際のものが存在しないので、いずれもロミオ役はアラーニャ。)

Anna Netrebko (Juliette)
Matthew Polenzani (Romeo)
Isabel Leonard (Stephano)
Nathan Gunn (Mercutio)
Robert Lloyd (Friar Laurence)
Marc Heller (Tybalt)
Charles Taylor (Capulet)
Louis Otey (Paris)
Jane Bunnel (Gertrude)
Conductor: Paul Nadler
Production: Guy Joosten
Grand Tier A Odd
ON

***グノー ロメオとジュリエット ロミオとジュリエット Gounod Romeo et Juliette***

HANSEL AND GRETEL (Sat Mtn, Dec 29, 2007) Part II

2007-12-29 | メトロポリタン・オペラ
第三幕

スクリーンに映し出されたのは、血が飛び散ったお皿と、食べかけのように置かれたフォークとナイフ。
観客の親子から、”やばいぞ!”という声が漏れる。

眠り続ける子供たちのそばに、露の精が現れる。
この露の精を歌ったのは、クックと同じく、リンデマン・プログラムのメンバーのオロペーザ。ソプラノ。
彼女は今期、『フィガロの結婚』のスザンナ役に繰り上がり大抜擢となりましたが、
本来は、まだ、今日のような比較的小さい役で経験を踏んでいくべき段階でしょう。
彼女の歌には、発声が乱雑に聴こえるときもあって、やや繊細さが欠けているような気がするので、
リンデマンのメンバーの中では個人的にはそれほど好みの声と歌唱ではないのですが、
無難にはこの役を歌い演じていました。


やがて、口を開いたおどろおどろしいスクリーンが現れ、オケの音楽が流れる中、
舞台の奥手から登場した、巨大なお菓子。
丁度、口の中で停止。




”きっと罠よ!”と警戒心を見せるグレーテル(さすが姉)を、
執拗な誘惑で説得し、一掴み食べさせるヘンゼル。
”さあ、あなたの番よ!”とのグレーテルの言葉に、やはりお菓子にパクつくヘンゼル。

すると、”私の家にさわったわね!”という声が。
びっくりして食べるのをやめる二人だが、もう、止まらない。
しかも学ばない二人。
”風の音、風の音”と、食し続ける。

これが、二人の恐怖の体験のスタートとなるのである。

やがて、魔女の家に招じ入れられる二人。
この魔女、メゾソプラノによって歌われるのが通例のようですが、
このプロダクションでは、ベテラン・テノールのラングリッジが担当。
男性が魔女役を歌うことで、大変面白い効果が出ていて、私は、よいアイディアだと思いました。

しかも、冒頭の写真で見られるとおり、素顔は非常に細面のラングリッジが、
ほとんどその素顔を伺いしれないほどの特殊メイクかつ詰め物により、
見事に太ったおばあちゃんに変身。
この魔女、お菓子作りが趣味。おいしいお菓子で子供をおびき寄せては
魔法にかけて、ぴちぴちの子供の肉を食べるのが趣味な、こわいばあさんなのでした。
しかも、こういう性別不詳、みたいなおばあさんってたまに存在するので、
このラングリッジが演じる魔女もちっとも不思議に思えないところが、
よく考えると不思議ではありませんか。



むりやり前掛けととんがり帽子を二人に身につけさせ、舌なめずりをする魔女。
しかし、むちっとした子供の肉がお好みの彼女は、
”ヘンゼルが痩せすぎてる!”とけちをつけだすのです。
グレーテルに、”あんた、ヘンゼルに肉付けする手伝いをしなさい!”と命令しつつ、
いきなりヘンゼルを捕獲し、手足を縛り付けて身動きがとれない状態にしたうえで、
自らお得意のお菓子の腕を奮い、得体の知れない食品を作り出したあげくに、
それを大きな漏斗が先についたホースで、無理やりヘンゼルの口に流し込みます。
このお下劣寸前に陥りそうなきわどいシーンを、救っていたのは、なんといってもラングリッジのハチャメチャぶり。
いい歳こいた、普段はワーグナーもの(指輪のローゲ役など)等、
(半)王様、神様系のキャラを歌っているベテラン歌手が、
粉まみれになって嬉々として歌い踊る姿は、痛快でもあり、恐ろしくもあり、、、。



誰か、彼を止めて。



また、こんな激しい振り付けにもかかわらず、歌の方も一切手を抜かない。
実際の細身の体からは意外なほど、しっかりとしたたくましい声で、声量も充分だし、
年齢もそう若くはないというのに、きちんとしたメンテナンスを怠っていない証拠、と感激させられました。

そして、ここからが、ヘンゼルとグレーテルのちょっとした成長物語になっているのです。
特にヘンゼル。弟、弟していたはずが、いつの間にか、
ヘンゼルが食べられそうになって恐怖におののく姉グレーテルを、
手足を縛られながらも叱咤激励、冷静に指示を出し続け、
最後、意外と詰めのあまい魔女が、オーブンを覗き込んだところを、
思い切り二人が後ろから突き飛ばして、あっけなく魔女を殺害。



これにより、魔法にかけられて、部屋に転がっていた、今まで魔女に連れてこられて
行方不明となっていた子供たちが、命を吹き返す。

生き返ったのはよいのですが、子供たちがいっせいに、
”目が見えないよ、視力をとりもどすには、
愛情ある誰かからふれられることが必要なの”と歌います。
憐れに感じたグレーテルが、子供たちに触れると、みんなが視力を取り戻し、
この体験で自分が得た力に、自分でもびっくりのグレーテル。
そう、もう二人は子供ではなくなったのです。

この子供たちの合唱は、声の響きはなかなか美しかったのですが、
高い音で音がややぺしゃり気味か?
でも、一生懸命にギョロ目の指揮者、ジュロウスキを見つめながら歌う姿に、
この演目の内容ともあいまって、これでいいのだ、と思わせられました。

最後に遅ればせながら、父ペーターと母ゲルトルートが到着し、大団円。

幕後に振り返ってみるに、ジュロウスキが引き出したかった音が
全部オケによって再現できていたか、といわれれば微妙な部分もあり、
それを指揮者のせいとするか、オケのせいとするか、は人により、意見もそれぞれでしょうが、
全体の演奏の印象は、悪くはなかったと思います。

子供たちもなかなか楽しんでいたようだし、大人にも見ごたえのあるセットデザインと、
シニカルな笑いを誘うユーモアのセンスで、
大人と子供、どちらの聴衆にも耐える演出を作り上げたのは見事。

作品についていえば、音楽は美しく、非常に聴きやすいですが、ただ、物語としての深みには少し欠けるかもしれません。
逆に、そのおかげで、いつもはオペラ一作品観るとぐったりとしてしまう私ですが、
今日は、気楽な気持ちで楽しめました。

オペラが小難しいと思い込んでいる大人と、子供たちには最良の入門編。
子供たちのために、と、必死になってがんばる上演にかかわった大人たちの姿が感動的でもあり、
メトから子供たちへの、贅沢な冬のプレゼントとなりました。

追記:コメント中でふれられているNYタイムズの記事はこちら
中央にあるビデオの欄で、ライブ・インHD用に収録された映像の一部が見れます。
ラングリッジのはじけぶりを堪能ください。

Christine Schafer (Gretel)
Alice Coote (Hansel)
Rosalind Plowright (Gertrude)
Alan Held (Peter)
Sasha Cooke (The Sandman)
Lisette Oropesa (The Dew Fairy)
Philip Langridge (The Witch)
Conductor: Vladimir Jurowski
Production: Richard Jones
Set and Costume Design: John Macfarlane

ORCH R Odd
OFF

***フンパーディンク ヘンゼルとグレーテル Humperdinck Hansel and Gretel***

HANSEL AND GRETEL (Sat Mtn, Dec 29, 2007) Part I

2007-12-29 | メトロポリタン・オペラ
本当に嘆かわしい。
私の記憶力の話である。

今シーズン開幕前、どの演目を観にいくべきかを審査した際
ヘンゼルとグレーテルは、落選寸前だった。
キャストがシェーファーとプローライトがちょっと、、なんて失礼なことまで言って。
しかし、私が全然好きになれなかったアーノンクール指揮、
ザルツブルク音楽祭でのぬめぬめした『フィガロの結婚』の映像
の中で、
唯一、シェーファーのケルビーノが良い意味で気になったので、突然見たいリストに浮上。
そして、シーズンの開幕以前にたった一枚発表になっていた恐怖のスチール写真のほかにも、
プロダクションの写真が徐々に出てくるにしたがって、鑑賞確定。

一ヶ月前、バーンズ&ノーブルで冒頭の写真にある、カラヤン指揮の全曲盤も入手
シュワルツコップ(1950年代を中心に活躍した
ドイツとオーストリアもののオペラと歌曲を得意とした大歌手。
上品なルックスで、『ばらの騎士』の元帥夫人などが当たり役。
ちなみに、私は、自分のお葬式で流してほしい曲は、大変ベタであるが、
彼女がセル指揮で歌ったリヒャルト・シュトラウスの『4つの最後の歌』。
このときの彼女の歌のような音楽に送られたら、オペラハウスで雑音をたてる輩やら
タクシーの運転手に喧嘩を売るような罪深い私でも、心静かにあちらの世に行ける気がする。)
が、嬉々として声まで違って聴こえるほどのりのりで少女グレーテルを演じているさまと、
カラヤンといえば通常思い出されるきんきらぴかぴかの指揮のスタイルになる前の、
堅実さも残しながら、ぴかりと光る指揮が素敵。
私はこの頃の彼のスタイルの方が好きなのです。
(カラヤンはこのヘンゼルの録音と同じ50年代に、カラスと組んだルチアでも、
気合の入った演奏を聴かせてくれます。)
シュワルツコップとグリュンマーのドイツ語も素敵、、、
とすっかり気分はドイツ!グリムの世界!と盛り上がっていたところ、
つい数日前、メトのサイトを見て、固まった。

sung in English

サング・イン・イングリッシュ、、、、?
って、英語かよーーーーーーっ!!!

昨シーズンの『ファースト・エンペラー』の時も実感したのですが、私、英語のオペラがどうも苦手。
正直言うと、ミュージカルもかなり苦手なのですが(例外はありますが)、
その理由の大きなものの一つが、英語で歌われる、という点にあります。
日本語で歌われるミュージカルを聴いて、違和感というか、気持ち悪さを感じられる方って結構いらっしゃると思うのですが、同じ感覚ですね。
英語はロックならOK,でもオペラは駄目!という激しい思い込みの持ち主です。

英語だなんて!
気分はドイツ!グリムの世界!が彼方に消えていくぅー。

しかし、その、シーズン開幕前の記事に、私自身がこう書いているじゃありませんか。

出た!英語のオペラ。危険度高し。

記憶力悪すぎ。

さて、なぜ、こんなことをくどくどと書いたかというと、
今日のこの『ヘンゼルとグレーテル』、予想に反してDavid Pountneyによる英訳がすばらしかったのです。
細かい部分の訳出を思い切って切り捨て、
各場面のキーワードとなる言葉を大事にしながらそれを軸に展開させつつ、
適度に英訳独自のユーモアも加えていて、大変楽しめました。
これ以上巧みに英訳出することはまず不可能なんじゃないでしょうか?
もちろん、自分が日常使っている言葉がオペラの音楽に載る、
ということから来る違和感は多少はあるのですが、これなら、ほとんど気にならない範囲です。

今日は演目のせいと、土曜のマチネであることが重なって、子供たちの姿がたくさん。
というか、ほとんどの観客が、子供たちとその引率係の親という組み合わせ。
むしろ、私のような大人一人で鑑賞組はわずか。
年齢の低い方は相当低くて、赤ちゃんの泣き声と思しきものが、途中聴こえてきましたが、
赤ちゃんにオペラとは、、、子守唄代わりか?贅沢。
チケットを手配した際、すでに平土間は二席しか残っておらず、
前から三列目の一番右端か、今日座った、平土間ど真ん中という選択で、
もともと平土間の息詰まるような窮屈さと、前に背の高い人に座られると一巻の終わりという恐怖から、
ほとんど三列目を選びかけた私ですが、予約係の女性が執拗に中央をすすめるので、
仕方なくそちらにして大正解。キッズが多いのが吉と出た。
私の前に座っていたのは、日本人の親子づれと思われる方の女の子。故に前方の視界が全開!!!
この状態だと、この席はこれ以上ないくらい良席です。

通常の幕の下に、薄いスクリーンが設置され、その後に続く幕を象徴するようなイメージがあらわれます。

一幕目は、真っ白い大きなお皿と、綺麗に並べられたフォークとナイフ。

なかなか評判が良いと聞く、1972年生まれの若いロシア人指揮者ジュロウスキは、
現在ロンドンフィルの首席指揮者だそうです。
見た目は目がぎょろんとしていてちょっと怖いですが、なかなか繊細な指揮ぶり。
オケからどういう音を引き出したいかということを表現する技術が巧みで、
そうかといえば、ほとんどオケにまかせっきりで、”あんた、さぼってんじゃないの!”と思うほど、
なーんの動作もない瞬間もあり、、。面白い。他の演目でも聴いてみたい。

さて、童話からの勝手なイメージから、まだ電化製品のない時代の、
ドイツの田舎の、森にほどちかいお家がヘンゼルとグレーテルの住まいかと思いきや、
今回の公演では、なんと、ヘンゼルとグレーテルの家のセットに冷蔵庫発見!
インテリアを見るに、なにやら1950年代を思わせる。

どうやら、お父さんはブラシのセールスマン(オリジナルのドイツ語版では箒の行商人)、
お母さんは会社勤めだが(オリジナルでは無職。というか、女性が仕事に出れるようになるのは、
ずっとオリジナルよりも後の話のはずだ。)
家族揃って、常に貧乏、という設定のよう。

グレーテルを歌うソプラノのシェーファー。かわいい!かわいすぎる!!!
多分、ライブ・インHDなんかの大画面で、顔のどアップなんかを見た日には印象も違うとは思うが、
舞台で見ているかぎり、本当の女の子みたい!!
彼女は身のこなしを含めた演技が非常に巧み。
もともと繊細な声質だとは思うので、メトでは少しボリューム不足に聴こえるのはさておき、
今日はそれに加えて、少し高音にキレを欠いていたように思えたのですが、
それを帳消しにしてしまうほどのこのかわいらしさ。

対してメゾのクートが演じるヘンゼル。クートは初めて聴いたので、
この役のためなのかを判断することが出来ないのですが、
独特の男っぽい、ドライな響きがあって、なかなか役にあってます。
この役は、高音のレンジで歌う箇所が少ないにもかかわらず、
声が不足しているように感じることは皆無でした。

最初の方の幕のこの二人が、いい味を出していて私は好きなのです。
すぐに親のいいつけを忘れて遊びほうける。ふざけて悪さをする。
でも、その遊び方、ふざけ方が、ど貧乏の只中にいるのをものともしないほど、
想像力に溢れていて、元気いっぱいで、非常にほほえましい。
親は辛い暮らしだー、食べ物欲しい、金欲しい、と不満いっぱいなのに引き換え、
彼らは結構楽しい生活を送っているのです。
ただし、いつも腹を空かして、がりがりですが。

さて、例にもれず、いいつかった用事もそっちのけでいつの間にか遊びほうける二人。
そこへ、母ゲルトルートが帰宅。
このゲルトルート役を歌ったプロウライト。でかい。異様にでかい(縦に)。
シェーファーが小さいので、余計に、私は、ゲルトルートが家の扉を開けて
部屋に入ってきたとき、竹馬か何かが足にくっついているのかと思いましたが、
履いているのは、普通のパンプスだけでした。
プロウライトの演技は、あまりにもお決まりの動作、といった感じで、
歌われている内容やその時の登場人物の感情ときちんとコネクトしていないのがきつい。
歌唱もやはりそれと似た傾向があって、表面だけ子供に対して怒っているような印象。

ただ、ここは演出的にはかなり面白い部分で、安賃金で働いて、苦労に苦労を重ねる母親の気持ちも理解せず、
遊びほうける子供たちに大切な料理も台無しにされ
(不注意により、ライス・プディングが入っていた容器もろとも破壊される)、
子供を家から追い出した後、自殺をしようと薬まで口にする、という場面で、
実は、世界中にこうした母親がたくさんいるに違いないことを思うと、
なかなか切ないシーンであり、プロウライトの表現力がもっと豊かだったら、と思わずにはいられませんでした。

また、このライス・プディングが駄目になる瞬間については、母親も一枚かんでいるので、
必ずしも子供だけの責任ではないにもかかわらず、
”苺をとってこい!”と、呪われた森に、夕方近い時間に二人を家から追い出すとは、
この母親、幼児虐待をも思わせ、怖いです。

ヘンゼルとグレーテルが呪いの森に向かった後、
ちょっとした幸運により、久しぶりにブラシや箒を売り切った父親が、
たくさんの食料を抱えて帰宅します。
父親ペーターを演じたアメリカ人のバリトン、ヘルドは、
私、メトでこんなに大きな声の人、聴いたことがない!と思うほど声がでかい。
というか、正直言って、うるさい。
大きい声だからいいってものではない、という典型例。
プロダクションとセットデザインも含め、主要キャストが全員ヨーロッパ人という面子の中で、
キャラクターも浮いていたのは否めません。
(アメリカ人だから駄目ということはないんであって、結局は彼の歌にまわりのキャストの人とブレンドするような
繊細さが感じられなかった、ということが問題なんだと思います。)

久しぶりのごちそうにしばし夫婦で喜ぶも、ペーター、やっと気付く。
”子供はどこだ?”

ここで、母親ゲルトルート、さりげなく嘘をつきやがるのです。
”さあ、知らないわ”
ひどい女!あんた、さっき、呪いの森に二人をやっただろうが!!

しかし、とうとう真実はばれ、いかに呪いの森が恐ろしい場所かをペーターに力説され、
二人を助けに行くことを決意するゲルトルートとペーター。
親として当たり前だ!早く出発しなさい。


ニ幕

深々とした森のセットで攻めてくると思いきや、大きな部屋の中に、
葉っぱで埋まった壁が二つ、長テーブルをはさむようにして、舞台の両側に立っているだけ。



その両方の壁に平行に、頭が葉っぱになっている男が並んでいます。



大変ユニークだと思ったのは、苺を摘む、ということを表現するために、
グレーテルが、この葉っぱ男の内ポケットを探ったりすること。
なんでこんなエア・プラントのような葉っぱから苺が出来るのか?
という疑問が湧かないわけではないが。

せっかくボールいっぱいになりかけていた苺を、またしても遊びふざけるうちに、
全部食してしまうヘンゼルとグレーテル。。。
(頭悪いんじゃないか?と思えるほどに、同じ間違いを繰り返す、
ここが面白くて私は好き。)

ここのカッコーの声が効果的。
そうそう、今日の聴衆はすばらしく優秀。このカッコーのシーンでは、本当に水を打ったように
静まり返ってました(赤ちゃんが泣いてましたが、まあ、赤ちゃんはしょうがない。)
ここだけでなく、みんな本当に各シーンを一生懸命見ているのが伝わってくる。
こんなに子供たちが多いのが信じられないくらいのマナーの良さに、
ますます他の公演日の大人の方のマナーの欠落ぶり(特に最近オペラヘッドの間でも観察される)が
許しがたく思えてくるのでした。

見る間に夜の闇が近づいてきて、帰り道がわからなくなってしまったヘンゼルとグレーテルが
おびえているところに現れるのが眠りの精。
日本語では”眠りの精”なんて呼び名でかわいらしいですが、英語ではsandman。
そのsandmanの言葉どおり、ものすごいおじいの特殊メイクで現れたクック。
全くご本人の顔の原型をとどめてませんが、実はこのクック、
リンデマン・プログラムのワークショップで、私が好印象を持ったメゾ。
本当はすごくかわいらしい人なのに、このメイク、ひどすぎる。
でも、歌の方は、あいかわらず、非常に繊細で、うっとりするような響きを聴かせてくれて、
とても嬉しかったです。彼女はやはりいいです!

眠りの精が、金色の粉を振りまくと、眠りに誘われていく葉っぱ男たち。
やがて、ヘンゼルとグレーテルも眠りの世界に。。

その眠りの中で、二人は、14人の天使に守られ、豪勢な食事まで振舞われて有頂天になります。



このプロダクションでは、14人の天使が、なぜか、コックのような格好をしていて、
しかも大きな面をかぶっていて、不気味。
ゴムで出来た大統領のお面、あれを思わせる怖さです。

また、この天使による晩餐会を取り仕切る執事がこわい。
いきなり床板を外して床下から舞台に現れるのですが、頭が魚なのです。
なのに、思い切り裾が長い燕尾服で、きびきびと取り仕切る。
私は、この魚の面をかぶったお兄さんが、嬉々として執事を演じている姿を見て、
これは何と贅沢なエンターテイメントか、と思いました。
いや、彼だけではなく、この舞台にのぼる全ての人 -お面のせいで、本当の顔が見えない人も含めて- が、
ものすごい全力で役になりきっているのです。
誰一人として、子供向けのオペラだから、と手を抜いている人がいない。
すばらしすぎます。
こういうのを見ると、感謝の念と、なんとNYの子供たちは恵まれているのか、と思ってしまいます。

余談ですが、デザイン画では、この執事の頭はワニだったのですが、
なぜ、魚になったのか、、気になる。

幸せな気持ちで夢を見続けるヘンゼルとグレーテルを舞台にのせたまま幕が降り、
インターミッションへ。

<Part II につづく>

Christine Schafer (Gretel)
Alice Coote (Hansel)
Rosalind Plowright (Gertrude)
Alan Held (Peter)
Sasha Cooke (The Sandman)
Lisette Oropesa (The Dew Fairy)
Philip Langridge (The Witch)
Conductor: Vladimir Jurowski
Production: Richard Jones
Set and Costume Design: John Macfarlane

ORCH R Odd
OFF

***フンパーディンク ヘンゼルとグレーテル Humperdinck Hansel and Gretel***

Sirius: ROMEO ET JULIETTE (Thurs, Dec 27, 2007)

2007-12-27 | メト on Sirius
指揮がドミンゴからネードラーに代わって初の『ロミオとジュリエット』のシリウスでの放送。

前奏曲、なかなかキレがあっていいし、おっ?と思わせる瞬間もありましたが、
その後も早い、早い。
ドミンゴのまったりした指揮に慣れていたオケや合唱がアジャストするのに苦労してます。
指揮者があおってもあおっても、遅めになりがちなオケと合唱とソリストたち。
まるで、体がなまってしまった運動選手が一生懸命、走ろうとしているような、、。
早さについていけずに、ほとんど音がすっぽぬけてしまいそうな箇所も。

しかし、ネードラー氏。相当天邪鬼と見た。
突然、ジュリエットのアリア ”私は夢に生きたい Je veux vivre"は、
がっくーんとスロー・テンポにしてきました。
もともと、ここの部分はわりとドミンゴの指揮がアップテンポだったのと、
最初からがんがん飛ばすネードラーをみて、これはきっと相当早いに違いない、と、
ネトレプコが思ったかは知りませんが、
最初のフレーズ、彼女が飛ばしまくる中、ネードラーは、”うふふ、そんなに早く行かないよーん”と、超ゆっくり。
ネトレプコが遅くしても、遅くしても、まるでどんどんネードラーの方が遅くなっていくような気がするほど、
ネトレプコとオケのテンポが最初かみ合わない。
最初は、きっと私に合わせてくれるはず、と思っていたであろうネトレプコが
とうとう観念して、これ以上ゆっくり歌うのは無理、というくらいに譲歩。
しかし、この二人のテンポがあったところからが素晴らしかった。
ドミンゴが振っていたときは、いつも、何だかあたふたと、雑に聞こえがちだったこのアリアを、
この超ゆっくりモードにすることで、ネトレプコからおそらく今シーズンの『ロミ・ジュリ』中、
このアリアの最高の出来を引き出したんではないでしょうか?
このテンポのおかげで、最後の音を渾身で延ばさなければならなくなった彼女ですが、
見事、応えて、素晴らしい音を出してました。
また途中の一音一音の音の動きがクリアになって、これで最初から息が合えば、かなり聴き応えがありそう。
12/31の公演が非常に楽しみになってきました。

ポレンザーニは、少し独特の声質で、これが好みが分かれるポイントとなるかもしれませんが、
彼の場合、声がぽかんとしている(ように私には聴こえる)わりには、
歌い方のせいか、聴衆に知的な印象を与えられるところが得な性分だと思います。
あの神経質そうなルックスのせいか。
”太陽よ、のぼれ Ah! leve-toi soleil”の最後の音からデクレッシェンドして
そのままソット・ボーチェに持ち込んで終わらせた部分が、やや急いでしまった感があったのと、
高音の支えが少し下がってしまったように聞こえたのは残念でしたが、
(ただ、音が外れている、というほどではない。)
凛とした声が聴けた箇所が多々あって、今までの全てのロミオ(アラーニャ、
ジョルダーニ、カイザー、そしてポレンザーニ)の中で、
最もオール・ラウンドで出来がよかったかもしれません。

さて、お楽しみのインターミッションのゲストは、なんと、パティ・スミス!!
パティ・スミスといえば、NYパンクの女王と呼ばれ、70年代終わりから、
チェルシー・ホテルを拠点に活動していたため、NYのロック姉さんというイメージが強く(本当はイリノイ出身、ニュージャージー育ちだそうですが。)、
この、ロバート・メイプルソープが撮影した彼女のアルバム”Horses”の写真を
見たことがある!という方はきっと多いと思います。
ただ、私個人的には、パンクの女王というよりは、どちらかというと、
女性版ボブ・ディラン、というか、ちょっと、詩人ロッカーっぽい感じがするのですが。



なんと、このパティ・スミス姉が、1976年からのオペラヘッドなんだそうです。
(年号まで覚えているところがすごい。)
スーザン・グラハムがお気に入りらしく、今期の『タウリスのイフィゲニア』は二回も見に行ったそうです。
そういえば、何かの公演の際、女性化粧室で、下の写真(比較的最近のパティ・スミス)そっくりの女性を見て、
”まるで、パティ・スミスみたいだ。。”と思った覚えがあるのですが、
その時は、彼女がオペラヘッドだなんて知る由もないので、まさかね、、、とそれっきりだったのですが、
今考えると、もしかしたら、ご本人だったのかも知れません。



彼女のオール・タイム・オペラ・アイドルは、カラスだそうで(ぱちぱち)、70年代から、
よく彼女のレコードを聴いていたそうです。
そこですかさず、パーソナリティのマーガレット嬢が、
”当時のロック・シーンの他の人たちもオペラを?”と聴くと、
”いえ、それはなかったわね(笑)”
MC5のメンバー(そのメンバーの一人がパティが死別したご主人のフレッド・スミス)とか、
聴かなさそうだもんなあ、オペラ。

しかし、”じゃ、周りの人になぜオペラが好きか、と説明しなければいけないような気分になったり?”と
マーガレットに尋ねられたパティが、穏やかに、しかし、きっぱりと、
”私は、いかなるときでも、他人に自分を説明しなければいけないと思ったことはないわ。”
と言っていたのが、さすが、パティお姉さま、という感じでした。

時間いっぱいいっぱいまで語って下の座席(スタジオはグランド・ティア正面後方にあるので、
平土間かパーテールにて鑑賞していたと思われる)に戻るため、スタジオを後にしたパティ・スミスに、
”that was a trip!"(ここでいうtripとは、滅多におこらないようなすごいこと、というような意味)と、
大興奮だったマーガレットと相手の男性のパーソナリティ。
”彼女の歌への入りこみ方は、マリア・カラスにルーツがあったのか!”と感心しきりなのでした。

さて、今日の公演は、そんなパティお姉さまのエネルギーが波及したか、
全キャスト気合のこもった歌唱を繰り広げ、今シーズンの同演目中、最高の出来ともいえるのではないでしょうか?
特に、ネトレプコの出来が本当に今日はよい。
今までの『ロミ・ジュリ』の記事で時々例をあげてきたような、アリアでない、
なんでもない一言が、今日は、心がこもっていて素晴らしい。
普段でもわりと平均して歌唱の出来がいい彼女ですが、
今日はラジオを通してでも、”宿っている”のが聴こえてきます。
ライブ・インHDの時がこんな歌唱だったら、と、悔しい気持ちにならずにいられません。

しかし、ポレンザーニも負けていない。
最後の二人の死のシーンは、他のことをする手を全部止めて、聴き入ってしまいました。
今、オペラハウスにいる人たちに、身のよじれるほどの嫉妬を感じてます。
今日はすごい名演。そして、この素晴らしい歌唱を引き出したネードラーにも拍手。

12/31もこんな歌唱で、聴衆によい年越しをプレゼントしてくれることを祈ります。


Anna Netrebko (Juliette)
Matthew Polenzani (Romeo)
Kate Lindsey (Stephano)
Nathan Gunn (Mercutio)
Robert Lloyd (Friar Laurence)
Marc Heller (Tybalt)
Charles Taylor (Capulet)
Louis Otey (Paris)
Jane Bunnell (Gertrude)
Conductor: Paul Nadler
Production: Guy Joosten
ON

***グノー ロメオとジュリエット ロミオとジュリエット Gounod Romeo et Juliette***

Sirius: WAR AND PEACE (Wed, Dec 26, 2007)

2007-12-26 | メト on Sirius
今週土曜日の『ヘンゼルとグレーテル』鑑賞あたりをもって、年越か?と思いきや、
『戦争と平和』の残された3回の公演、
12/17の『仮面舞踏会』でなかなか面白い指揮を披露した(しかし、21日はちぐはぐだった。)
ノセダ氏がゲルギエフの後を引き継いで指揮するということ、
また、12/1012/17ともに、ナターシャ役がポプラフスカヤ、アンドレイ役がマルコフというコンビだったので、
できればマターエワ&Ladyukコンビも聴いてみたいということもあり、
『戦争と平和』三度目の鑑賞の可能性が突然浮上してきたのでした。

しかし!その一方で、その長さが結構きつい上演時間(特に前半、死ぬ。)と、
残り三日とも平日な上、その長さのために、通常の8時の開演時間から30分前倒しにされることもあり、
仕事をばたばたと終わらせて、間に合うのか?
また間に合ったとしても、疲れが一気に出て、前半、記憶がふっとぶのではないのか?
そのばたばたも、素晴らしい公演なら報われるが、”...... ”な公演だったらどうしよう?
チケットも安くはないし、、などと、葛藤の渦に巻き込まれていたところ、
そんな悩めるオペラヘッドを神はお見捨てにならなかった!

26日の公演が、シリウスのライブ放送枠にあたっているではありませんか!
なーんだ、これを聴いて、行くべきか判断すればいいではないの!
あたまいい!!(って、たいした思いつきでは全然ないが。)

というわけで!
本日26日のシリウスの放送は、我が家では、”戦争と平和を三回観るかどうか決める選考会”
として、いつもは、いろいろな用事をしながら、聴きたいところのみを重点的に聴くという聴き方をすることが多い私ですが、
今日は本気モードです。

ノセダ氏の指揮。
うーむ、なんと言っていいのか、全然ゲルギエフの指揮と違う!
ゲルギエフ氏の指揮よりもドライな、さくさくした感じがします。
ところどころ、まるで『トゥーランドット』を思わせる音が響いている箇所あり。
興味深かったのは、そんな感想を持って前半を聴き終え、インターミッションになったところ、
二人目のゲストとして招かれた、このプロダクションでゲルギエフのアシスタント・ミュージック・ディレクターとして参加した、
現アリゾナ・オペラを率いる男性のお話(すみません、お名前を忘れてしまいました)。
この方、ゲルギエフのかわりにリハなんかで指揮をすることもあったそうですが、
彼曰く、
『戦争と平和』の平和の部分(前半)は、ある意味プッチーニの作品に通じる部分がある、
ということです。奇遇。
でも、ゲルギエフが振ったときは、プッチーニっぽく聴こえるとは、あんまり感じなかったんだけどな。

奇しくも、そのインタビューと、後半の公演の始まりの間に、ジングルとして使われた抜粋が、
(いつも、シリウスの放送では、ここの部分で、放送中のものと同じ演目の過去の録音分からの抜粋を使用しているようです)、
第二場の、舞踏会のシーンの冒頭、金管で華やかに始まる箇所で、
おそらくゲルギエフが指揮した回の録音からの抜粋と思われるのですが、
こうして、短時間のインターバルでノセダ氏のものと聴き比べすると、
やはりテンポの設定とか、各楽器の絡め方、そして何よりも楽器の音の色気、というのかが、
今日の演奏よりは一枚も二枚も上手。

しかも、後半、戦争の部で、大荒れ。
合唱とオケが完全に外れてしまって、このまま崩壊か?と冷や汗をかいた箇所も。
(合唱が入る場所を失ったように音だけでは聴こえましたが実際何が起こったかは不明。)
その大荒れの後半に、とどめを刺すかのように、レイミーが歌うクトゥーゾフ将軍、
なんと、歌詞を忘れたのか、一小節、まるまるすっとばして歌ってしまった箇所が!
それはノセダ氏のせいではないのですが、あせりまくったに違いありません。
オケがなんとか先回りして(すごい。。)何とか完全崩壊の危機を逃れましたが、
ノセダ氏の汗だくの姿が目に浮かぶようです。。

実際に複数回の公演を観た人の話では、声はポプラフスカヤが、芝居とか役作りの面ではマターエワが勝っている、
とのことなのですが、今日は残念ながら声の比較しかできません。
確かに、ポプラフスカヤに比べると、マターエワの歌唱には、若さがないかもしれません。
特にこのナターシャの役では、この若さが、役のキャラクターを構成する非常に重要な要素の一つになっているので、
無視するわけにはいかないのが辛いところ。
声を伸ばしたときに、最後の最後のコンマ1秒ぐらいで音がぐらつく、またはかすれるのも、
元気一杯な歌唱を披露したポプラフスカヤに比較すると、聴き劣りしてしまう。

そして、アンドレイ役を歌ったLadyukは一生懸命歌っていて、その健気さをつい応援したくなるのですが、
ふと、ちょっと待てよ?と思うのです。
そんなキャラクターじゃないだろう、アンドレイは、と。
この役に関しても、少し固さはあったけれども、世慣れている風に見えて、
その世慣れてる中に不器用なところを隠しもっているアンドレイの性格を、
マルコフが持ち前の声で表現していたのと比べると、やや弱いと言わなければならないでしょう。
今考えて見ると、マルコフ、声が男前なんです、なかなかに。
特に死のシーンは、今日Ladyukで聴いて、
ああ、やっぱりマルコフは良かったんだな、と実感した次第。
前にも書きましたが、あの、ピチピチ、、と繰り返す箇所では、音が出てくるタイミングがこれ以上ないくらい巧み。
それに比べると、今日のLadyukはタイミングが甘い。
そうじゃないだろう!とラジオに向かって叫びそうになってしまいました。
マルコフ、もう一歩、歌唱と役作りが深くなると、とてもいい歌手になるんではないか、
と思えてきました。

これらの理由から、もちろん、どんな公演も観にいくのは無駄だとは思わないのですが、
諸事情を勘案した結果、私の今シーズンの『戦争と平和』鑑賞は、
二回で終了することとなりました。

ということは、今年の最後の鑑賞は冒頭に書いたとおり、『ヘンゼルとグレーテル』か?
いいえ。
私の連れが、数日前、言ってはいけない言葉を私に吐いてしまったのです。
”オペラヘッドが大晦日をオペラハウスで過ごさないなんて、駄目だねー。”

............。

大晦日の、『ロミオとジュリエット』のチケットが売り切れで手に入らず、
泣きが入っていたこの私に、そんなことを言うなんて。ひどすぎる。

しかし!
神はまたしても救いの手をさしのべてくださったのでした。
このシリウスの放送終了後、ふとメトのサイトに立ち寄ったところ、
今まで、むなしくSOLD OUTの文字が並んでいたチケット購入の画面に、
なんと!キャンセルであがってきたチケットが出ているではありませんかー!!

よっしゃー、もらったー!!!

というわけで、大晦日は、正しいオペラヘッドとしての姿をまっとうするため、オペラハウスに出没、
ポレンザーニが歌うロミオが楽しみな、そして指揮がドミンゴからネードラーに代わる(ほっ。)
12/31の『ロミオとジュリエット』が私の年越しの演目となりました。

Irina Mataeva (Natasha Rostova)
Vasili Ladyuk (Prince Andrei Bolkonsky)
Kim Begley (Count Pierre Bezukhov)
Samuel Ramey (Field Marshal Kutuzov)
Ekaterina Semenchuk (Sonya)
Vassily Gerello (Napoleon Bonaparte)

Conductor: Gianandrea Noseda
Production: Andrei Konchalovsky
Set designer: George Tsypin
ON

***プロコフィエフ 戦争と平和 Prokofiev War and Peace***

IPHIGENIE EN TAURIDE (Sat, Dec 22, 2007)

2007-12-22 | メトロポリタン・オペラ
なんと、メトで舞台にかかるのは90年ぶりという『タウリスのイフィゲニア』。
スーザン・グラハムが世界の主要劇場でこの役を歌って成功をおさめ、作品の復活に貢献。
シアトル・オペラとの共同制作という形で、メトがついにこの作品を舞台にかけることになったのも、
そのグラハムがイフィゲニア役を歌うことを前提としたものだったそうですから、
歌手冥利につきる、というものでしょう。
(シアトルではヌチア・フォッチレがイフィゲニア役を歌っていたようです。)

そんないきさつなので、長年上演されなかったのにはわけがあるはず、
音楽がつまらなくても我慢、我慢、と思いながらCDを聴き始めたのですが、
いやいや、なかなか、この作品、いい出来なのです。
同じグルックが作曲した作品、『オルフェオとエウリディーチェ』よりも私は好きかもしれないくらい。
なのに、なぜこんなに『オルフェオ~』と比べてマイナー感が漂っているのか。よくわかりません。
私も、今回、メトでかからなければ、まずは一生素通りの作品となっていた可能性が高いので、
そういった意味では、リバイバルに貢献したグラハムに大感謝、なんですが。。

そのシアトルとの合同制作で演出にあたったのが、スティーブン・ワズワース。
彼の演出には一言も二言もあるので、また吠えてしまいますが、よろしく。

まず、この作品、冒頭の音楽が私は好きなのです。
あらすじとおよそ結びつかないほどに脳天気なメヌエットがしばらく奏でられ、
あれ?CDプレイヤーにセットするCDのディスクを間違えたかしら?と一瞬思う。
しかし、すぐに嵐を描写する音楽になり、このへんのいきなりぶりが、
しかし、舞台ではそういきなりとも思えない、実にたくみな運びになっているのです。
そんな素晴らしい冒頭なので、これに何かを足そうなどという、妙な考えを持つ人がいること自体、
私には信じられない。

しかし、やってしまうのです、このワズワース。
まず幕が開くと、音楽が一切ない中、イフィゲニアと思われる女性が部屋に走り込んでくる。
父アガメムノンにおいつめられ、とっくみあいとなり、祭壇上で剣で刺された後、
上空からするすると降りてきた、ダイアナ(ワイヤーで吊り下げられている)がイフィゲニアを抱えて、
またまっすぐ上空に消えていく、というもの。

このオペラの、幕が始まる前のバックグラウンドについて少しふれておくと、
トロイ戦争に向かうことになったギリシャ軍を集めたアガメムノンの前に、
ダイアナが現れ、航海を妨げるような風を送り始めます。
航海をしたければ、娘をいけにえにすることをアガメムノンに要求するダイアナ。
この要求を聞きいれ、アガメムノンは娘のイフィゲニアを祭壇の上で殺害します。

このオペラの台本では、この後、ダイアナがイフィゲニアの命を救ったという仮定になっていて、
イフィゲニアの肉親兄弟姉妹は、イフィゲニアが死んでしまったと思っていますが、
実は、彼女は、タウリスという国で、ダイアナ付きの高女僧として、敵人であるスキタイ人に仕えています。

どうやらこれを説明するために、付け足されたと思われるこのシーン。
ビジュアル的には、非常に派手でアイ・キャッチングなスタートなんですが、
観客がワオ!などと叫んでいるうちに、これで、すっかり冒頭の音楽の印象が半減。
CDで聴くと、一音目から含めて全てが作品を構成する要素となっているのに、
この舞台では、イフィゲニアが歌いはじめるあたりからが、音楽のスタートであるかのような印象を与える。
しかも、この、イフィゲニアがダイアナに救われた、といういきさつは、
後の歌詞の中に出てくるので、なぜあえてしつこく説明しなければいけないのかが意味不明でもあります。

そういえば、こういう、音楽が始まる前に、ちょっとしたビジュアルを入れたものには、
現在の『蝶々夫人』のプロダクションもありました。
私、こういうわざとらしい演出、嫌いなんです。

一幕

それから15年後(メトのウェブにあるあらすじによると、こうなっているが、
年数に関しては特に歌詞では言及はない。
ただ、彼女が兄弟であるオレステをすぐにそうと判断できないところからも、
相当の年数がたっていることがほのめかされる。)、
嵐がダイアナの神殿を襲い、イフィゲニアと、イフィゲニアと共にギリシャから連れてこられた
他の女僧たちが、神に怒りをおさめるよう祈る。
ここで、ダイアナが、しばしばいけにえとして人命を要求し、
その命を奪う役目をイフィゲニアをはじめとする女僧に課していること、
そんな役目に彼女たちがうんざりしていることが示される。

嵐の場面の音楽をバックに、くるくると踊るイフィゲニアの仲間の女性司祭たち。
しかも、なんと、しまいには、グラハム演じるイフィゲニアまでまきこんで、軽く振りを披露。
そして、思った。なんか、安室奈美江とスーパーモンキーズみたい。
スーザン・グラハムが安室ちゃん、、、??!!

昨年の『オルフェオとエウリディーチェ』のときも思ったのですが、
どうして、こういう中途半端なダンスを挿入するんだろう?
こういう隙間もなく埋め込まれる振りやダンス、ビジュアル・エフェクトなどを見ると、
あまりに躁的で、そして、何よりも、
演出家自身が、作曲家の音楽の力を信じていないような気がする。
もうちょっと、グルックの音楽の力を信用しましょうよ、と言いたくなるのです。

さて、その嵐を見て、イフィゲニアが最近見た悪夢を語り始める。
父アガメムノンは、母クリテムネストラによって殺害され、
そのクリテムネストラが、イフィゲニアに兄弟であるオレステの殺害を強要する、というもの。



さて、歌い始めたスーザン・グラハム。
記憶が抜け落ちていなければ(昔行った公演は、最近思い出せないものも多い。)はじめて彼女の歌を聴きました。
もっと繊細に歌うタイプかと思いきや、わりと大きな声でごりごりと押してくるタイプでびっくり。
というか、ちょっと、私にはうるさく感じられるかも。。
声が大きい、そのことは必ずしも悪いことだとは思わないのですが、
それは、その大きさを効果的に使えて初めて意味のあることで、
彼女のとにかく押しの一点張り的な歌は、繊細さに欠け、ワンパターンで退屈。
特に、アリアでメロディーの二回繰り返しが多いこの作品、
せめて、一回目と二回目でもう少し歌い方が違ってもいいんではないかと思うのですが、
ひたすら、ごりごりごりごり。

仲間の女僧たちがなぐさめるなか、イフィゲニアが歌う
”おお、私の命を永らえてくださった神よ O toi qui prolongeas mes jours"は、
あまりにも美しい旋律のアリア。しかし、ここでもごりごり。
せっかくのメロディー、もっと慈しむように歌ってほしいものです。

さて、そこへスキタイ王、トアスが、失墜の不安から逃れるため、
国内の全ての外国人をいけにえにせよという神からのお告げを受けた、と言ってあわられます。
そこへ、タイミングよく、二人のギリシャ人が、連行されてきたので、
トアスはイフィゲニアに、彼らをいけにえにするよう要求します。

第二幕

この連行されてきたギリシャ人の片割れはオレステといい、もう一人は、そのオレステの小さいころからの親友、ピラーデス。
オレステは、母親殺しの罪から、復讐の三女神に追われて、ほとんど、気が狂う一歩手前の状態で生きているうえ、
こうしてスキタイ人につかまって親友まで死に巻き添えにしてしまうのは自分のせいである、と嘆きます。

この、オレステ、特に出番の最初の方では、いじいじしていて、
下手をすると、大変、頭にくるキャラクターなのですが、
ドミンゴが見事に救っている。もうこの人の歌は至芸の域に達しています。
残念ながら超高音が必要とされる役はもう昔と同じようには歌えないですが、
こういう役を歌うと、解釈の深さという最大の強みのおかげで、
この年齢になってなお、これ以上ないというほど素晴らしい歌を聴かせてくれます。
いや、むしろ、この年齢だからこそ歌いだせる深みというのか。
もともと、ドミンゴの声は重ためな質感なうえに、加齢による分も加わって、
速いパッセージのところになると、少しその声の重たさがひっかかる部分もありますが、
それ以外のところでは、もう、何も言うことはないほどの完璧ともいえる出来でした。
それぞれのフレーズにこめられた感情の豊かさと、どんなフレーズ、どんな一音も無駄にしない姿勢には神々しささえ感じました。
彼の芸術性にくらべると、グラハムの歌は、、、比べるのが酷というものでしょうか?

グラハムよりも、むしろ、ドミンゴをしっかり支えて見事だったのは、グローブズ。
この人は、『ファースト・エンペラー』にも出演していたので、よく考えると、ドミンゴとは始皇帝コンビなのです。
彼がそんないじいじ君、オレステをなぐさめて、二人で一緒に死ねるなら、
これほどの幸せはない、といじらしく歌う
”ほんの幼い頃から仲良しだった Unis des la plus tendre enfance”は、
ドミンゴの深い渋めのテノール声と相性のよい、若い輝かしさを感じさせる声(同じくテノール)で
(二人は同い年ぐらいじゃないのか?という、せこいつっこみをする気も失せるのです。)
とつとつと、しかし、ほとんど男女間の恋愛をも思わせる熱いものを感じさせる歌声で、
ふと、今日の観客には男性のゲイのカップルの方が多いように感じたのですが
(私のお隣もそうだった)、謎がとけた気がします。



その、二人で死ねるなら!とやっと意気高揚したところに、兵があらわれ、
ピラーデスだけをしょっぴいて行ってしまいます。
この二人が引き離される場面は、お隣のカップルもぎゅっ!と手を握り締め、
私も胸が張り裂けんばかりの思いで見つめました。

そして、この後のアリアがこの作品のすごいところなのです。
”静けさが私の胸に戻り Le calme rentre dans mon coueur"、
このアリアでは、あの胸も張り裂けんばかりの別離を経たばかりのオレステが、
なんと、”あまりの逆境と辛さに、静けさが自分の胸に生まれてきた”と歌うのです。
感情を爆発させるイタリア・オペラとは対照的な、この達観ともいえる境地。
これまた、泣かされます。
ドミンゴが、また上手いのです。本当に。

そのまま眠りに入ってしまったオレステを夢の中まで追い回す復讐の三女神。
目を覚ましたオレステの目の前にはイフィゲニアが。
一目見たときから、オレステに絆のようなものを感じるイフィゲニアですが、
確信が持てないため、自らの素性を明かさないまま、ミケーネの王の一家はどうなったか?と質問します。
オレステが明かす、クリテムネストラがイフィゲニアの仇を討とうとアガメムノン王を殺害したこと、
そして、そのアガメムノン王の仇をうつためにクリテムネストラを殺害したオレステ。
しかし、彼はここで、オレステは自害した、と、嘘をつきます。
家族のほとんどと、国も希望も全てを失った、と嘆くイフィゲニアのアリア、”おお、不幸なイフィゲニア O malheureuse Iphigenie”。
ここでも、この話の筋を知らなければ、ほとんど、この悲惨な歌の内容が想像できないような美しいメロディー。
しかし、この美しいメロディーのコーティングの下に見える悲しみがなんともせつないのです。

第三幕

この囚われ人に、さらなる強い絆を感じたイフィゲニアは、少なくとも二人のうちの一人を救い、
その救ったほうのギリシャ人にミケーネに残された唯一の妹エレクトラへの手紙を託そうと計画します。
拷問を受けた後にオレステとの再会を許されたピラーデス。
オレステに生き残ることを命じ、手紙を運ぶように伝えるイフィゲニア。
三重唱 Je pourrais du tyranで、暴君トアスの裏をかいてやる、と歌うイフィゲニア、
突然与えられた生へのチャンスにもあまり嬉しそうでないオレステ、
逆にオレステのために心から喜ぶ、あまりにも心が男前な男、ピラーデスの、
三者三様の心が描かれます。
ピラーデスのアリア、”ああ、友よ Ah! mon ami”では、またグローブズが端正な歌唱を披露。
しかし、この期に及んでもいまだにいじいじ君なオレステは、
いきなりナイフをつかんで自らにつきたて、ピラーデスと役割を交代させてくれなければ、
自らの命を絶つ!と脅します。
しかたなく、イフィゲニアはピラーデスに手紙を託し、彼を逃してやることにします。

四幕

残ったオレステをいけにえにすることがどうしてもできないイフィゲニア。
しまいにはダイアナへ怒りの言葉を吐きます。
やがて、いけにえの儀式のためにイフィゲニアの前に連れてこられたオレステ。
イフィゲニアの苦悩と彼への思いやりに心を動かされたオレステは、
勇気を持って、自らの任務を遂行するよう諭します。
ここでのオレステは、すでにもはやあのいじいじ君ではなく、
ドミンゴの演技力と歌唱力もあいまって、自らが死に直面しているというのに、
イフィゲニアに深い思いやりを示す素晴らしい男性へと変化を遂げているのです。
最後の瞬間に、オレステが口にする、
”愛する姉妹、イフィゲニアよ。そなたもこのようにアウリスで事絶えたのであろう!”という言葉によって、
一瞬にして事態を理解するイフィゲニアとオレステ。と、そこへ、
イフィゲニアが、勝手にピラーデスを逃がしたことを知り、怒り狂ったトアスがやってきます。
すぐにもいけにえにされそうなオレステ。
そこに、間一髪で、ギリシャ兵たちを率いたピラーデスがオレステを救うために戻ってきます。
スキタイ兵とギリシャ兵が戦いを交える中、トアスは命を落としますが、
やがてダイアナがあらわれ、オレステを許し、復讐の三女神の怒りを鎮め、
皆を無事にミケーネに送り届けることにします。

と、ここで普通にハッピー・エンディングでよいのに、あろうことか、
歌のパートが全て終わって、オーケストラの演奏だけになったところで、
演出家ワズワースは、イフィゲニアを抱擁しようとするオレステの腕をかわし、
イフィゲニアに、クリテムネストラを連想させる黄緑の布(彼女が王を殺害するシーンがフラッシュバックのように演じられるシーンがあるが、
そこで彼女が着ていたドレスの色がこの黄緑色。)を顔に押しあて、
泣き崩れさせるのです。



わけがわからずおろおろするオレステ。
しかし、最後には、その布を捨て、オレステと抱擁するイフィゲニア。




要はイフィゲニアの、自分のために父を殺してくれた母、
その母の命を奪った、しかし大事な兄弟であるオレステへの葛藤する感情を表現しようとしたものだと思うのですが、

①音楽ではその逡巡はとっくの昔に終わっていて、最後のオーケストラの音楽は、
あくまでハッピーエンディングの音楽である。
②グラハムはここで一切歌を歌えないので(なぜなら歌のパートは終わってしまっているから)、
この演技を支えるものが何もない。
③とにかくこの短いオーケストラの後奏に、そんな複雑な葛藤の感情の全てを押し込むのは無理。
あまりにも唐突な感じがぬぐえない。

というわけで、またしても、私の、
”音楽と関係のないことを舞台で行わないでください”という切実な願いは無視されたのでした。

このわざとらしい演出がなければ、もっともっとよい公演になっていたようにも思いますが、
ドミンゴの歌唱の芸術度の高さにとにかく圧倒された夜となりました。

そうそう、ラングレというこの指揮者も、なかなか適切なテンポ設定などで、
音楽に忠実に奉仕する姿が好印象でした。

その指揮者もまじえ、キャスト全員が舞台上にならんでお辞儀をした後、
グローブズとドミンゴとの3人だけで、もう一度、前に進み出ようとしたグラハムに、
申し訳なさそうに、ラングレの方を見やり、下がったときには、
あわててそのラングレの手をとって、もう一度バウイングをしようとしたドミンゴの優しさも印象的でした。
それにひきかえ、グラハムのやや勘違いな態度には興ざめ。
自分のためのプロダクションなのよ!ということなのかもしれませんが、
彼女の歌には、とにかくドミンゴのそれと同じレベルの深みというものが、私には全く感じられませんでした。


Susan Graham (Iphigenie)
Placido Domingo (Oreste)
Paul Groves (Pylade)
William Shimell (Thoas)
Conductor: Louis Langree
Production: Stephen Wadsworth
Grand Tier C Even
OFF
***グルック タウリスのイフィゲニア Gluck Iphigenie en Tauride***

WAR AND PEACE (Sat Mtn, Dec 22, 2007)

2007-12-22 | メトロポリタン・オペラ
Texacoが(おそらく金銭的な理由で)二シーズン前にスポンサーを降りて以来、
すわ、放送が廃止か??と心配されたFM全国ネット放送版のライブ・ラジオ放送。
トール・ブラザーズという、自ら曰く、”高級”住宅建築販売業を営む会社
(America's luxury home builderがキャッチコピー)がその任を引きついでくれたおかげで、
めでたく今も継続中。(NYでは、96.3のWQXRという局で放送されています。)

衛星ラジオのシリウスよりも、放送回数は少なく、土曜のマチネのいくつかを12月の頭あたりから放送するのみですが、
この番組、非常に歴史あるラジオ放送で、これまでに収録されたものは、すばらしいライブ録音の宝庫。
その音源は、現在シリウスで、メニュー代わりで毎日放送されています。
以前、シリウスと普通のラジオの放送が重なっている日に、同時に二つのラジオの電源を入れてみたのですが、
片方に、もう一方よりも(どっちがどっちかは忘れた)10秒ほどのディレイがあり、どちらもライブという触れ込みなのに、これはいかに??
しかし、電気系に弱い私なので、これ以上踏み込まないことにします。

というわけで、ライブ・イン・HD収録日もさることながら、このFMでのラジオ放送の日も、
キャストやカンパニーの力が入る公演日となっているので今日は期待大。

また、今日の公演は私のサブスクリプション・シリーズの中の一公演なので、
DCからのご夫婦と再会。
”Happy Holidays!!"と、にこやかに挨拶してくださる。
前回のサブスクリプションの公演、フィガロはご都合が悪くていらっしゃれなかったので、
あの感動の『蝶々夫人』以来の、感動の再会である。
と、ふと見ると、私の右隣はまたしても、その『蝶々夫人』で大粒の涙をこぼしていた女の子。
そうか、このへんの座席は、みなさん、サブスクリプションの方だったのですね。

今シーズンの『戦争と平和』では今日が最後の指揮となるゲルギエフがさっそうと登場。
(残りの回はノセダ氏が指揮予定。)

頭のアンドレイがナターシャを見初めるシーンから、ナターシャ役のポプラフスカヤが
かなりコンディションの良い声。
初日のときよりも、声にのびがあり、音量の微妙なコントロールもとれていたし、
高音に美しいりんとした響きが出ていました。
最後まで、今日の彼女は歌唱的に非常に出来がよかったと思います。
あのぶりっこ演技は、あいかわらず健在で、ちょっと勘弁してほしい、という感じでしたが、
調子のよさに助けられてか、ナターシャ役の解釈が10日よりもずっとクリアになっていたのが
私には嬉しかった。


前回今ひとつピンボケだった、なぜアンドレイとの婚約を解消するか、という理由についても、
彼女は今日の公演では、これを、彼女のプライドがなせる業である、という解釈をしっかり打ち出して、
父親と、アンドレイの父と姉を訪れるシーンで力強い歌唱を披露。
彼女の中の強さと激しさに焦点を置くことで、初日の公演よりもずっと説得力のあるナターシャ像をつくりあげていました。




アンドレイ役のマルコフは、初日と同様に、
丁寧に歌っているし、声そのものはノーブルなキャラクターにむいた美声だとは思うのですが、
もう少し役作りに彼らしさが欲しいし、
アンドレイはこういう人間!というより強い主張があってもいいと思う。
少しお人形さんのような、形だけの人物造形に終わっているという不満があります。



そうそう、今日調子がよかったという意味ではソニヤ役のセメンチャクの名前も挙げておきます。
冒頭、アンドレイの頭上のバルコニーではしゃぐ、ナターシャとソニヤの二重唱の場面はなかなか聴き応えがありました。

しかし、この作品、やたら前半が長く感じられるのは私だけでしょうか?
特にナターシャとアンドレイが相当存在感のある歌手が歌わない限り、
後半の、アンドレイの死の場面は感動的で大好きな場面の一つですが、
そこへの前振りとしては、あまりに長い。
まあ、しつこく言うようですが、このオペラ版ナターシャのキャラクターが今ひとつ好きになれない私なので
余計にそう感じるのかもしれませんが。

そんな不届きものは私だけかな、なんて思っていたら、
インターミッションでテーブルをシェアすることになったアメリカ人の女性二人と、
ひょんなことで会話が始まり、お二人ともロシアの芸術は大好きなようですが、
”この前半だけは、居眠りしたいくらい”とおっしゃっていたので、
”私も数分、記憶を失いそうになりました(本当の話)”と告白。

このテーブル、このアメリカ人の女性二人と、私、そして、日本人の女性二人という5人の相席で、
アメリカ人女性が立ち去られた後、その日本人の女性の方たちが、
”Are you Japanese?"と話しかけてくださったので、”はい、そうです。”と返答。
それから、短い間でしたが、楽しくお話させていただきました。
嬉しいのは、本当に日本からいらっしゃる方はまじめに予習されている方が多いこと。
このお二人、なんと、今日の私と同じく、この『戦争と平和』と『タウリスのイフィゲニア』のダブルヘッダー。
旅行でいらしてダブルヘッダーとは、本当にオペラヘッドとして、こうべを垂れたくなるくらい尊敬してしまいます。
いずれも、いわゆるオペラのメジャー作品ではないのに、
『戦争と平和』はきちんとDVDで予習鑑賞、
片方の方は、私の観たのと同じ、パリ(バスティーユ)版をご覧になっていて、
私がそのDVDのことにつれて触れた途端、
”あ、あのネイサン・ガンのですね!”と顔が輝かれていたので、
そうか、この方も私と同じく、ガン版アンドレイを結構気に入られたのだな、と直感。
しかし、『タウリス~』はほとんど上演される機会のない作品であることもあり、
「予習が不足しているんですが、大丈夫でしょうか?」とお聞きになるので、
私もCDだけしか聴いていないので(というか、現段階でDVDが存在するかも知らない。)、
無責任に、「大丈夫ですよ、全然!!」と保証。
だって、大丈夫じゃなかったら、私も困るんですもの。

やがて、後半の開始が間近であることを伝える鐘が鳴って、
「あ!私たち、列の真ん中だから、早く戻らないと、また怒られちゃうね。」と、
急いで座席に戻られたお二人。
日本の方たちは、本当に気遣いの細かい方が多くて、これも嬉しいことです。
もう、メトでは、座席が列の真ん中であろうとも、幕があくぎりぎりに戻ってきて、
平気でみんなを立たせて席につこうとする人がざらにいますからね。
という私も、お二人が去られた後もまだしつこく紅茶をすすり、ブラウニーにかぶりつく。
いいんです、今日は私は座席が通路に近いから。

さて、後半。



多くの歌手については、かなり初日(10日)の公演と印象が重なっているのですが、
その中では日によってわりと出来にむらがあると聞くレイミー。
(10日と今日の公演の間の公演では、かなりやばい歌唱の日があったそうです。)
しかし、さすが、このあたりは長い経験のなせるわざか、
きちんと今日のライブ放送には調子を合わせてきて、今日もワブりながらも、
存在感のある歌を聴かせてくれました。



さすがにエキストラの方も、もう公演回数がだいぶ重なってきているからか、
今日はなかなか息のあった兵隊さん歩きを見せてくれました。

何度見ても、この後に続いていく、ナポレオン陣営と、ロシア陣営の葛藤を描いた
第九場、第十場はいいし、
そして、モスクワ炎上の場面(第十一場)、それから、アンドレイの死のシーン(第十二場)、と、
やっぱり後半は見所がつまっている!記憶を失う暇なし!

ただ、十場の、クトゥーゾフ元帥のアリアは、レイミーの希望があってそうなったのか、
あくまでゲルギエフの判断なのか、初日でも遅いと思いましたが、
今日はそれを上回るスローなテンポ設定。
レイミーが今日はきちんと歌い上げていたので、ボーカルの方はともかく、
オケ、このスローテンポにあわせるのは本当に大変だと思います。
若干、音にその苦労が伺われました。



今回は、10日よりも、より正面で、より近くで見れたので、セットがよく観察できたのですが、
炎上のシーンは、実際に建物のセットの中に蒸気みたいなものを流すことで、
あの、炎がゆらめく感じを表現しているようです。

歌唱の面で、これほど、複数回の公演の印象が似通っている例も珍しいのですが、
というわけで、手を抜いているわけではなく、
今日はあまり、以前のレビューに付け加えることがないのです。
それだけ、ソリッドな実力をもった歌手たちが歌ってくれている、といえるのかもしれません。

逆に不遜なことを言うようですが、聴く回数を重ねるにつれ、
作品として、少しダルに思える場面とか箇所があるように思えてきました。
もう少しストーリーをカットし、凝縮すれば、もっともっと
人気作品になるポテンシャルがあるように思うのですが。。
あれだけの壮大な原作なので無理がないとはいえ、これでもまだ詰め込みすぎているような気がします。

Marina Poplavskaya (Natasha Rostova)
Alexej Markov (Prince Andrei Bolkonsky)
Kim Begley (Count Pierre Bezukhov)
Samuel Ramey (Field Marshal Kutuzov)
Oleg Balashov (Prince Anatol Kuragin)
Ekaterina Semenchuk (Sonya)
Mikhail Kit (Count Ilya Rostov)
Ekaterina Gubanova (Helene Bezukhova)
Vassily Gerello (Napoleon Bonaparte)
Nikolai Gassiev (Platon Karatayev)
Alexander Morozov (Lieutenant Dolokhov)
Vladimir Ognovenko (Old Prince Nikolai Bolkonsky)
Elizabeth Bishop (Maria Bolkonskaya)

Conductor: Valery Gergiev
Production: Andrei Konchalovsky
Set designer: George Tsypin
Grand Tier D Odd
ON

***プロコフィエフ 戦争と平和 Prokofiev War and Peace***

UN BALLO IN MASCHERA (Fri, Dec 21, 2007)

2007-12-21 | メトロポリタン・オペラ
レナート役をホロストフスキーが歌う予定で買ったチケットが、
ロシアのとある政治家の陰謀(12/17の『仮面舞踏会』で頂いたコメントをご覧下さい。)により、番狂わせに合いましたが、
考えてみれば、こんな事情で『仮面~』の全公演中たった一度、
ディ・フェリーチェなるバリトンが歌う日も観にいくことになったのは、何かのご縁。
物は見様、考え様。
そんなことを思いながら、一幕の幕が開くのを待ちつつ、ぱらぱらとプレイビルを見ていると、
ディ・フェリーチェのプロフィールが。
今日のこのメトでの舞台が、ほとんど初めての大舞台と言える感じで、
それ以外は、イタリアの中堅どころの劇場を中心に、あとは、スペインのリセウ劇場、東京の新国立劇場、云々。
ん?東京の新国立劇場???蝶々夫人のシャープレス??
今、帰宅して、確認してみると、1999年の新国立劇場での公演に、確かに、
シャープレス役、マルコ・ディ・フェリーチェとなっておりました。

なーんだ、初めて聴くのじゃないのか。がっかり。
しかも、まったく記憶にございません、ってことは、これは。。。
そんななか、幕は上がるのでした。

リチトラの歌唱の印象は、ほとんど17日と同じ。
17日はどうやら、ひどい風邪をひいていたらしいのですが、
今日もあまり変わりはありませんでした。ということは、今日もひどい風邪なのか?
ただ、17日よりは、声がドライに聴こえる箇所は多少減ったかもしれません。

二、三、つけくわえるなら、もし、こういったノーブルな役を今後歌っていくのであれば、
彼は歌いまわしに再考が必要かもしれません。
こぶしの回り方が、どうも、田舎の男っぽい。
こぶしが入っていない、素直に歌っている箇所は、割といいのに。
あの、舟歌を歌い終わって、王であるという正体を明かすシーンで、
漁師の格好のうえに、王のケープをかけられるのですが、
なぜか、漁師という仮の姿から本来の王の姿へ、というよりも、
漁師が王の仮装をこれからするような錯覚を覚えて、一瞬、話の筋を誤りそうになりました。
あと、大きい声でとばすのも、『道化師』のような演目だとよいのですが、
このグスタヴォ三世(リッカルド)のような役の場合は、もう少し、
抑制する箇所があってもいいし、微妙なコントロールが欲しい気がします。



アメーリアを歌ったクライダー、今日は作曲(原型をとどめないほど音を外すこと)率は17日より低かったにもかかわらず、
音程のコントロールに四苦八苦しているような印象を受けました。
特に、17日よりもぶらさがって聴こえる音が多かった。
彼女の強みは、ピアノ~ピアニッシモでの声のコントロール。これに関しては、
今日のように音程がふらつきがちな日でもわりとしっかりしていたので、
本人も、得意技であるという自信があるのでしょう。
ニ幕のアリア、”あの草を摘み取って Ma dall'arido stelo divulsa””よりも、
三幕の”私の願い Morro, ma prima in grazia”の方が常に出来がよく感じるのは、
その得意技を生かしやすいからかもしれません。

オスカルのSala。ここまで言うのは気の毒だけど、彼女こそ、誰かにリプレイスしてほしかった。
ばっさり、一言。彼女は、この役を歌えていないです。
三幕一場の、レナート、アメーリアに掛け合って歌う大事な箇所で、彼女が足をひっぱっている。
復讐の野望に燃えるレナートと、愛する人が暗殺されようとしているばかりか、
その暗殺の首謀者が夫であるというダブルの恐怖におののくアメーリアが歌うところに、
まるで、そんな二人の気持ちなんて知ったことかとばかりに、軽やかにのるオスカルのメロディー。
これは、お汁粉に入れる塩と同じで、
あくまで軽やかに歌われてこそ、レナート&アメーリア夫妻の暗い心の渦が引き立つというもの。
なのに、Sala、軽さにかけるばかりか、高音も音が無理やりで聞き苦しいし、
そればかりか、今日は音も外す始末。
主役の足をひっぱるオスカルなんて、言語道断、許せません。

さて、それでは問題のディ・フェリーチェ。
登場してすぐ、いや、これは思っていたよりもいいんじゃないか?と思い、
心がはやったのですが、話がすすんでいくにつれ、その期待もぺしゃんこになってしまいました。

誤解のないようにいうと、声の質も歌も悪くはないのです。
だから、一瞬、これはよいんじゃないか?と錯覚させられたのですが、、、
なのに、幕がすすむごとに、
ホロストフスキーのレナートとは天と地との差があると思わざるをえなかった。

ホロストフスキーのレナートは、寡黙で、それでいて上司に忠実で、実にかっこよい。
しかも、妻の裏切りが明るみに出るとき、彼は怒りを大げさに表現しないのです。
それが逆に怖い。
ディ・フェリーチェ演じるレナートが、アメーリアを床に押し倒し、
首をしめようとして、観客から笑いがもれた時には、
まるで、ジェリー・スプリンガー・ショー(一般人の痴話喧嘩をスタジオにもちこんで、取っ組み合いの喧嘩までさせるテレビ番組。
出演者のほとんどが、いわゆるホワイト・トラッシュと呼ばれる白人貧困層で、
それを、NYをはじめとする都会の視聴者が見て小ばかにするという、実にいやな番組。
ただし、その痴話喧嘩はやらせがほとんどである。)を見ながら、
リビング・ルームで笑いこけている人たちを想像させられて、ぞっとしました。
笑いこけた人たちもいやですが、
ジェリー・スプリンガー・ショーと同じ構図を作ってしまったディ・フェリーチェに罪あり。
妻の不貞に対して抱いた怒りを表現するのに、暴力ほど幼稚な手段はないのです。

このシーンでのホロストフスキーは、仮に首を絞めていたとしても、
(と、このように思い出せないくらい、暴力の部分はさりげなかったのです。)
その手よりも、むしろ、目元と体中から、怒りの妖気を漂わせていました。

それは歌唱も同じで、ディ・フェリーチェが、オーバーに感情を入れて歌うほど、こちらが冷めていってしまったのに対し、
ホロストフスキーは、ほとんど、冷血漢を思わせる冷ややかさで、あっさりと
”お前こそ心を汚す者 Eri tu che macchiavi quell'anima”を歌うのです。
しかし、その一見、淡白に見える歌の底にこそ、怒りが爆発しているのです。

と、このように、声と歌唱がある程度よくても、そこから役を本当に生きる、ということには、
山ほどの隔たりがあって、このディ・フェリーチェが中堅どころの劇場からなかなか大きな劇場に抜け出せないのも、
残念ながら故あること、と思わざるをえませんでした。

ただ、例えば、暗殺者三人組の合言葉を決めるシーンで、
”死 (Morte!)"と一言レナートが言う場面がありますが、
ここでのディ・フェリーチェは、ありがちに”死だ!”と声高に叫ぶよりも、
”死なんていうのはどうだ?”というニュアンスまで、この短い一言にこめていて、
言葉に対するセンスは決して悪くはないと思うのですが。




今日のブライスは、本調子ではないように感じられ、
いつもの迫力を若干欠いたうえに、あくまで、いつもの素晴らしい歌唱と比較しての話ですが、
一つのフレーズの中で音がぼこぼこして、均質に聴こえない箇所がありました。

公演がいったんちぐはぐになりはじめると、いろいろと奇妙なことがおこるもので、
デ・ホルン侯爵(トム)を演じたGangestadはアメーリア役のクライダーのドレスの裾を踏みつけて、
クライダーが動けなくなったり、
草が生えている荒れ野のシーンでは、岩場にディ・フェリーチェがつまずいたり。
極めつけは、最後の仮面舞踏会のシーンで、バックにつり橋のようにかかるはずの大きな板がうまくささえの柱におさまらず、
かなり長い間、担当の人(衣装を着けてはいる)が舞台上で奮闘していました。
この板の上をダンサーが踊るので、いい加減なことは出来なかったようですが、
オスカルの歌の間中、この板ががたがたしていたのは大変気になりました。
Salaの歌だからどうでもいいか、と思えたものの、上手い人がオスカルを歌っていたら、
かなり、私、キれていたと思います。

そして、今日のノセダ氏は一体どうしたのか?と思えるほどに、
指揮に迷いがありました。
ところどころ、大きくなりがちなオケの音を押さえ込もうとしているように聴こえた箇所もあり、
17日の新聞の批評の一つに、繊細さに欠いたうるさいばっかりの指揮、といったようなものがあって、
もしやそれを気にしているのでは?と思えるほど。
(逆に、非常に生き生きとした指揮、と絶賛している新聞もありました。)

ノセダ氏、新聞なんか、気にせず行きましょう!

ノセダ氏の指揮は、文句あっか!とばかりに、歌手が歌いやすい音量など無視した大暴れなところが魅力。
歌手にはたまったものではないと思いますが、17日の演奏は、ある意味、この作品のエッセンスを引き出した、
非常にダイナミックでスリリングな指揮でした。

それが、今日は中途半端な迷いが加わったせいで、全体としてのまとまりが全くなかった。
17日は、うるさいながらもそのうるささが全体に貢献するうるささであったのに対し、
今日みたいな演奏だと、うるさい箇所がただうるさいだけ、で終わってしまう。
次回は、もう、好きなだけ暴れてください。お願いします。

というわけで、ホロストフスキーという求心力を失った今日の公演は、
どこかぴりっとしないものに終わってしまいました。
その人がいなくなって、その力を思い知らされた好例。

Salvatore Licitra (Gustavo III/Riccardo)
Michele Crider (Amelia)
Marco Di Felice (Captain Anckarstrom/Renato)
Stephanie Blythe (Ulrica Arfvidsson)
Ofelia Sala (Oscar)
Hao Jiang Tian (Count Ribbing/Samuel)
Andrew Gangestad (Count de Horn/Tom)
Conductor: Gianandrea Noseda
Production: Piero Faggioni
Grand Tier C Even
SB

***ヴェルディ 仮面舞踏会 Verdi Un Ballo in Maschera***

Sirius: ROMEO ET JULIETTE (Thurs, Dec 20, 2007)

2007-12-20 | メト on Sirius
今日はシリウスで『ロミ・ジュリ』鑑賞。
主役と準主役の歌手の歌唱についての印象を、メモ程度に少し。

ネトレプコのジュリエット。
今まで実演で聴いたもの、ラジオで聴いたものを合わせて、最も声が重たく聴こえる。



12月に始まったロミ・ジュリの後半の公演(前半は9月から10月だった)から、
前半にあったのびと軽やかさが失われているような気がするのが大変残念。
特に一幕で、この重たさは辛い。
そのことと関係があるのか、細かい音符の動きが今日は追えていないのと、
高音も音は出ているのですが、無理やりに押し出しているような響きになってしまっています。
ライブ・イン・HDの日の歌唱について、
ローカルのオペラヘッドの間でも、彼女の(そしてアラーニャの、も)歌について
真っ二つに意見が分かれていて、
傾向的に実際にオペラハウスにいた人、もしくは映画館で観た人はわりと擁護する人が多いのですが、
ラジオ聴衆組からかなり厳しい声があがっていたような気がします。
確かに、今聴いているように聴こえていたとしたら、
厳しいことを言える要素はあるかもしれません。
ただ、それでも私は調子のよい時の彼女の歌うこの役は、とてもいいと思っています。

高音もさることながら、少し低めの音を聴くと、彼女が調子がいいか、悪いかがわかりやすいかもしれません。
今日も絶好調ではないのですが、それは、低い音を歌うたびに、
土台を失ってふらふらしていることでもわかります。
彼女が調子のいいときは、もっとどしっとした音を出します。

ああ、今、毒薬を前に逡巡 Amour ranime mon courage、のシーンですが、
冒頭の高音、まるで、くぎ抜きをまわしながら無理やり釘を抜いているような強引な音を出してます。
後に続くさびの部分も、同じように根性で乗り切ってましたが、このような声に負担となるような発声がキャリアを縮めるのです。
いけません!!断固、いけません!!!!

カイザーのロミオ。
こうして改めて聴いてみると、少し声そのものの魅力と個性に欠けるか。
(ただし、私は彼の歌は、オペラハウスで生で聴いたことはないので、
あくまで今日のラジオから受けた印象で。)
丁寧に歌ってはいますが、これから活躍していくには、
もう少し、声そのものに、彼らしさがないときついかな、という気もします。
”太陽よ、のぼれ Ah! leve-toi soleil"の最後の音は、音程は正しくアタックしているのですが、
まるで喉が閉まっているように感じられるような、聴いているこっちが辛い声でした。
両家が争って死者が出るシーンあたりから、かなり声が出てきてはいますが。



カナダのモントリオール出身だそうで、モントリオールのケベックなんかは
フランス語と英語がちゃんぽんの都市なので、
フランス語へのエクスポージャーが幼少から高いのではないかと思うのですが、
なぜか、彼の歌うフランス語には柔らかさが欠けているように思います。
ディクションの面では、圧倒的にアラーニャの勝利。
カイザーの優れているところは、アンサンブル力か?
寝室のシーンでは、ネトレプコとの音量のバランスと掛け合いのタイミングが絶妙でした。
ただ、声の質が二人、マッチしているか?と聞かれると、最悪の組み合わせでも、
最高の組み合わせでもない、と答えましょう。

ガンのマキューシオ。
この人こそは、舞台で見てこそ魅力が光る歌手かも。
舞台での立ち回りと役の光らせ方が上手なので。
ラジオで聴くと、舞台で見た場合の80%くらいしかよさが伝わっていないように思います。


(メトの前で、『魔笛』に出演した際のパパゲーノの衣装のまま
ミッキーマウスとのツー・ショットに走るガン。こののりが舞台で生きるわけです。)

今日の放送、インターミッションでメトに出演中の歌手を呼んでのインタビューは、
パーソナリティのマーガレットに、”たった今死んだばかりの”
(注:両家の争いで、マキューシオが命を落とす場面のすぐ後にインターミッションがある。)
と紹介されながら、なんとそのガンが登場。

今日の公演では、けんかが始まる際に回転を始めるはずだった中央の円形の床が、予定よりも何音か後まで動かず、フレーズが終わるタイミングと立ち位置が非常に細かく決められているシーンなので、
つじつまをあわせるのが大変だったようです。
最近、歌手の話し声と歌声の関連性についてリサーチをすすめている私ですが、
今日のガンは、歌声が、まんま話し声という、興味深いサンプルでした。
しかも、話しているときも歌っているときのように表情(声音)がくるくる変わるのがおもしろかった。

『フィガロの結婚』で大変魅力的なケルビーノを演じたリンゼイが歌うステファーノ。
メゾが歌うズボン役。
今までの公演で歌ったイザベル・レナードと比べると、しっかりしたメゾ声で、
レナードの声がソプラノ的な響きである、と確かNYタイムズだったかが
指摘していたように記憶していますが、確かに、という気がします。
ただ、リンゼイのケルビーノは、ややその声の質のせいで、音だけ聴いていると、若い男の子というよりは、ちょっとおばんくさく聴こえる気も。
ケルビーノの時は全然気にならなかったのですが。
付け加えておくと、レナードも、リンゼイも、二人とも、実際はうら若くて、かなり美人。


(写真はレナード。リンゼイの写真は上でリンクを貼ったフィガロの記事中にあります。)

フィガロのケルビーノでは、演技が上手いのが印象的だったリンゼイなので、
トータルでの判断はできませんが、今回のステファーノに関しては、
歌だけなら、私はレナードをとるかもしれません。



Anna Netrebko (Juliette)
Joseph Kaiser (Romeo)
Kate Lindsey (Stephano)
Nathan Gunn (Mercutio)
Robert Lloyd (Friar Laurence)
Marc Heller (Tybalt)
Charles Taylor (Capulet)
Louis Otey (Paris)
Jane Bunnell (Gertrude)
Conductor: Placido Domingo
Production: Guy Joosten
ON

***グノー ロメオとジュリエット ロミオとジュリエット Gounod Romeo et Juliette***

UN BALLO IN MASCHERA (Mon, Dec 17, 2007)

2007-12-17 | メトロポリタン・オペラ
あらかじめチケットを用意していた『仮面舞踏会』のチケットは4月の公演分。

そんなに待てないんではないか?

そんな簡単に想像できそうだった自らに対する疑問に遅ればせながら気付き、
ほんの4,5日前に、今週金曜日(21日)のチケットを追加購入して、
これで仮面はOK、アメリア役もクライダー、ブラウンの両方を見れるし、、
なんて思っていたら、それで終わるわけがなかったのでした。。

21日の公演で予定されていたホロストフスキーがディ・フェリーチェに急遽交代。
どうしてこんな2,3日のうちに予定が変わっちゃったのよ、、、と気を失いそうになる。
(チケットを購入した時点では、まだホロストフスキーの予定だった。)
歌を聴いてもいないディ・フェリーチェ氏には申し訳ないけれど、
やっぱりホロストフスキーの歌うレナートがどんなものか聴きたいし、
その意味ではまた振り出しに戻ってしまいました。

4月。
やっぱり待てん。

そこで初日の月曜日のチケットで、いい座席が残っていたら行くことにしようね、
と自分に話しかけながら、
メトのサイトをチェックすると、グランド・ティア、最前列が一枚だけ残っているではありませんか。
おお!神も、”行きなさい!”と言っている!

しかし、正直なところを告白してしまうと、私が勝手にヴェルディの作品群を好きな順にならべた場合、
まず間違いなく二軍と言ってよいエリアに甘んじているのがこのオペラなのであります。
ニ幕の冒頭とか、スポットで好きなシーンはあるにはあるし、
音楽の面では良く出来ている作品だとは思うのですが、一軍(『リゴレット』、『椿姫』、『アイーダ』、『ドン・カルロ』、『オテッロ』あたり。)と比べると、
今ひとつドラマに求心力がない、というのか、、
そうそう、仮面に比べたら、『マクベス』の方がずっと私にとっては面白い。

と、そんなわけで、メトでの『仮面~』のこのファッジョーニのプロダクションは、
もう古典といってもいいプロダクションの仲間に入っているにもかかわらず、
実は生で見たことがなかったのです。

幕があがると、おおっ!!! これは美しい!!

この作品、実際にあったスウェーデン国王暗殺事件にフィクション(特にロマンスの部分)を加えて出来上がった作品で、
ヴェルディが作曲後に台本に検閲が入り、仕方なくボストンに舞台を差し替えて初演された、といういきさつがあり、
どちらかというと、現在でも、ボストン舞台版の上演の方が多いような気がするのですが、
メトではスウェーデン・バージョン。
(なのでリッカルドはグスタヴォ三世に設定が変わっており、歌詞もそれにあわせてボストン版とは、
単語が違う箇所があります。)

このプロダクションでは、その北欧らしい色彩(淡い黄色とか水色といった色)が実に巧みに舞台装置に使用されていて、
なんともいえない異国情緒を醸しだしています。

ただ、セットはかなり書割的で、基本的に歌手は真ん中に出てきて歌えばいい、という感じで、
歌手に動きを強要しないタイプの演出およびセットの究極を行っています。
面白いのは、アメリアが草を摘みにいく処刑場の場と、最後の仮面舞踏会のシーンをのぞいては、全体に、横の線を強調したセットになっていて、
視覚的には、ワイドスクリーンにしたテレビを見ているような印象。

横に長いテラス、横に長い部屋、等々。

しかし、処刑場のシーンでは、舞台の高さを利用して、
かなり背の高い処刑台のセットを設置
(しかもバックに、山がちな地形に囲まれた湖か、湾と思われるものが見えているのが北欧らしい。)し、その場の威圧的な雰囲気を出しているのと、
さらに、印象的なのは仮面舞踏会のシーン。
ここの宮廷のホールのセットは、まるで、客席からみて、舞台奥むこうにずっと延びていくように見えて、
おそらく、奥に二面分の舞台を使用していると思われるのですが、
これも、奥行きのある舞台を持つメトでこそ可能なセット。

ずっと横が強調されてきたところで、いきなり、高さ、または奥行きのあるものが出てくると、
実際以上に拡張されて見えるという錯覚のしくみと、それによって引き起こされる心理的な反応を巧みに利用した豪華なセットでした。

ノセダ氏の指揮は、私、大変、注目しました。
時として、指揮者によっては、お行儀のよいかしこまった音になってしまうメトのオケから、
非常に生き生きした音を引き出しているし、ダイナミックさがあるのがいい。
あんまり細かいことを気にしないタイプなのか(もう少ししてもいいかもしれない。)、
それを反映して、オケからも細かいミスが見られる箇所がありましたが、
それを補ってあまりある音色の豊かさとドラマに寄り添う姿勢に好感を持ちました。
少し音がパワフルすぎる、と感じる人もいるかもしれないし、
このサウンドをバックに歌わなければならない歌手の皆さんは本当に大変だと思いますが、
(あまりにオケの音が大きくて、歌手の声が聴きづらかった場所もありましたが、
あれだけ大きいと、歌手の方にそれを超えた声をだしてください、というのも酷な注文。)
”失敗はないが、ちまちまとまとまった演奏”よりは、
私はこっちの方が好きです。

頭の合唱、男声だけだから、今日もいい。
(女声の合唱に対する苦言はいつもの通り。ただ、今日は作品中欠点と感じるほどひどくはありませんでしたが。)

グスタヴォ役のリチトラ。

出だしの一声は、なかなか張りがあっていいのですが、どの幕も、途中で、
風船の空気が除々に抜けていくように声に元気がなくなっていくのは、
スタミナに欠けるからなのか?休憩をはさんで、次の幕では、また頭が調子よくって、
だんだんまた抜けていく、、、というこの繰り返し。
私、彼の声は、ややディ・ステーファノを彷彿とさせる、どこか能天気な、
リチトラカラーとでもいえる個性があって、嫌いではないし、
また、昨シーズンの『道化師』で見せた、あまりにあまりにもイタリア片田舎の駄目亭主ぶりがはまっていて、
ある種の役では、なかなか聴かせてくれる、と思うのですが、
この役は、まだ駄目かも。
役作りの面もさながら、彼の弱点が露呈した気がします。
リチトラ、わりと大ぶりなメロディーを歌うのは上手なんですが、
このグスタヴォ三世(ボストン版ではリッカルド)役、結構曲者で、
ヴェルディのいたずらか、そこここに、
まだしつこくベル・カントの影響を強く思わせる細かいスキルが要されるのですが、
それが手に負えていない感じを受けました。
例えば、一幕で、王という身を隠し、船乗りのふりをして占い師に未来を占ってもらおうと歌う
舟歌(”今度の航海は無事だろうか Di' tu se fedele")では、
連音符がもたもたしたり、高音からすべりおりてきた後に出す低音がまるで違う人の声のようで、
声域によって声のカラーに切れ目が出来てしまっています。


(右から、レナート役のホロストフスキー、グスタヴォ三世役のリチトラ、オスカル役のSala。)

今日、しかし、私がオペラ警察に書類送検させたい歌手は、しかし、リチトラではなく、
オスカルを歌ったSala。
スペイン出身、この舞台がメト・デビューだそうで、これは彼女のせいではないかも知れませんが、
誰が彼女をオスカルに配役したんでしょうか。私はそれが知りたい。
このオスカルは、小姓という立場を利用して、グスタヴォ三世にいろいろ意見まで出来てしまう、
(占い師ウルリカの扱いについてまで、口をだしてます。)
得な、おきゃんな性格。(役の設定は男の子ですが、ソプラノが歌う。)
なので、そのちょこまか感を出せることが最低条件なんですが、
とにかく彼女の声は軽さがない。その上に、高音では軽々と音が出ないのを何とかしようと、
押し出すような強引な響きが入って、それがまた聞き苦しく、
さらには音を微妙に外させる要因ともなっているという悪循環。
歌が駄目なら、せめて見た目や演技で貢献してもらいたく、
私の理想は、割りとほっそりしていて、小柄で、敏捷そうな歌手なんですが、
このSala、ラテン人としてあるまじきほど、頭が身長に占める割合が大きく、
しかも、背が低いのにおなか周りに異常に恰幅があって、絶対にオスカルに見えない。
私の『仮面~』鑑賞上(日本にいたころに見たもの)、オーディオ的にもビジュアル的にもかつてないほど異様なオスカルでした。
彼女が”黒い顔が星を見上げる時 Volta la terrea"を歌い始めたとき、
私の目の前に黒雲が広がる錯覚を覚えました。

グスタヴォ三世の腹心の部下レナートの妻でありながら、
グスタヴォ三世との道ならぬ恋(プラトニックに終わるわけですが)に悩むアメーリア役のミシェル・クライダー。
彼女は久々に生で聴いたのですが -そして、久々に聴く、ということは、
頻繁に聴くほど好きではない、というのと同義である -
実は声そのものは、ほとんど彼女のキャリアにおいて、今がまさにプライム時期なのではないかと思えるほど、
状態がいいのに驚きました。
少なくとも10年前から大きな舞台に歌っていて、あまり最近メトでは名前を見なくなってきたように思っていたので、
声に衰えが出てきたか、と思っていたら大違い。
そして、そんな幸運を生かしきれていないのが彼女の悲しいところ。
とにかく、一言。作曲活動はやめていただきたい。
特に一幕目で登場してすぐのシーンと、ニ幕の冒頭、”あの草を摘み取って Ma dall'arido stelo divulsa”の出だし。
いきなり、もしもし、そんなメロディーじゃないですよね?という、不思議な節回しで、
度肝を抜かれましたです。
ただ、”あの草を~”の途中から調子があがってきて、調子があがるにつれて、
作曲率が下がってきたので、これは彼女が緊張していることのあらわれなのかもしれません。
まあ、微妙に後の幕でも不思議な旋律を歌っていたときがありましたが。。
音がぶら下がる、というのは多くの歌手で見られ、
まさに、ぶら下がる、ということは、もともとどの音を狙っていたかは
判断可能ということでまだかわいらしい。
しかし、クライダーの場合は、一瞬こちらが、あれ?ここってどんなメロディーだっけ?
と頭で反芻しなければならないくらい独自のメロディーをうちだしている。
ゆえに作曲活動。
これは、最近『ノルマ』を歌ったメシェリアコーヴァでも見られた症例なので、
これから広がっていかないように、厳しく見守っていきたいと思います。
作曲活動が一段落したあたり、第三幕の”私の願い Morro, ma prima in grazia”は聴かせるものもあったと思いますが、
全体的に役の構成感が希薄で、4月にやはりアメーリア役を歌う(そういえば二人とも黒人歌手なのは単なる偶然か。)
アンジェラ・ブラウンに負けず劣らずの大根ぶりもこれから治療していかなければならないところ、
というわけで、彼女の歌、演技には結構課題が多くて、
これが、なぜメトに頻繁に呼び戻してもらえないか、という理由の一部を暗示しているようにも思われます。
声自体はよく出ているので、本人は何でこれだけ歌ってこうも拍手が少ない?と思っているかもしれませんが、
まあ、観客もよく聴いている、ということです。

と、こういう厳しい状況の中で光っていた2人と一組を次に。

まず、ウルリカ役のステファニー・ブライス。
彼女に関しては、昨シーズンの『三部作』全作制覇(三作すべてに出演)および、そのすぐれた歌唱で大いに期待していたのですが、
見事、その期待を裏切らない歌唱。
彼女の最大の強みは、上から下までどの音域も共通した音色を持っていて、
(リチトラ氏、聞いてますかー?)
特に高レンジの響きが綺麗なこと。
その分、とんでもない贅沢を言うなら、”地獄の王よ Re dell' abisso”の出だしに、
もう少し、どすというか、迫力もあってもいいかな、とは思うのですが、
例えば、バルビエーリのように、低音ド迫力だと、高音が弱かったり、ということになりがちなので、
ないものねだりというものかもしれません。
ただ、彼女の場合、歌の完成度が高く、しかも楽々と歌っているように見えるので、
それが逆にあだになる、ということがあるかもしれません。
ブレイクするには、もう少し必死で歌うふりをするとか、どこかを壊して自分らしいカラーを出す、というようなあざといことが必要なのかもしれません。
私は、彼女のそういうことをしない、直球勝負な、ちょっとのんびりした感じがするところが好きなのですが。


(そのウルリカ役を歌うブライス)

このウルリカ役、よく、どこの化け物屋敷に生息しているんだ、というような、
妖婆のような格好で歌われることがありますが、
このブライスが演じたウルリカは、きちんとした身なりで、霊感があるから占い師やってますけど、
普段はちゃんと仕事持って生活してます、みたいな雰囲気で、
私は断然こっちの方がいいと思いました。
アメリアのような身分の人が、頭にくもの巣がはったような妖婆に会いに行くのはどうかと思う。

さて、そんなブライスを一幕の後のカーテン・コール(ウルリカ役はこれで出番終了)で讃えまくったホロストフスキー。
ブライスの方に体を向けたうえ、個別に拍手を送る讃えよう。
氏は、かなり思ったまんまの行動をおこすタイプと見ました。
芸術性の高い歌を披露した人は思いっきりたたえ、そして、そうでない人にはシカト。
全幕終了後、クライダーやSalaには、一切微笑もうともしませんでしたが、
それは、正直すぎるんじゃないですか、、、大丈夫ですか?

で、そのホロストフスキーのレナート。
私は昨シーズンの、『ドン・カルロ』のロドリーゴよりも全然こっちの方をとりたい。
まず、最大の違いは、彼自身の姿から滲み出てくる役の解釈に対する自信。
舞台に現れた瞬間から、レナートになり切ってました。
ホロストフスキーは、役に葛藤が多いほうがはまるように思います。
ロドリーゴは、まあ、多少王と王子の間にははさまれますが、それ以外は、
恋人がいるようにも見えないし、ほとんど思想バカともよべるほどに
フランドル解放に燃えてます。そして、王子との友情。
ロドリーゴの世界にはこの二つのことしか存在していないのではないか?と思わせる単細胞ぶりに比べ、
レナートは、グスタヴォ三世に命をもささげる優れた部下でありながら、
その三世に妻の心を奪われ、苦悩し、やがて、暗殺計画者と組んで三世を殺害、
しかし、三世の最後の言葉に、この後も永遠に続いていくであろう良心の呵責を背負ったまま生きていく、という、多面的な役です。

ホロストフスキーのこの役における最大の成功点は、三世の裏切りを知るまで、
真心をこめて彼に仕える、その部分を非常に丁寧に歌い演じたこと。
そのせいで、裏切られたときのせつなさと怒りが大変説得力のあるものとなりました。
特にリチトラ演じるややちゃらんぽらんな三世に対し、
ほとんど堅物とも思える融通の利かなさを演じだしていたのは、大変興味深く見ました。
また、王を暗殺する際に、3人(サミュエル、トム、レナート)のうち、
誰が実際に手をくだすか、ということをアメーリアにくじを引かせて決めようというシーンで、
暗殺の計画であることを予感し、躊躇しまくるアメーリアに対し、
客席に向かい、上体を横に40度ほどまげて、”ひくんだ!”とつめよる、
そのポーズが、普段日常生活であまりしない体勢で、非常にシンボリックな表現になっていおり、
迫力があってこわかったです。
(竹が何かが横にしなっているようなポーズなのです。)

歌に関していうと、一幕で歌う最初のアリア ”希望と喜びに満ちて Alla vita che t'arride”の最後の音の処理がややあやしげでしたが、
三幕の”お前こそ心を汚す者 Eri tu che macchiavi quell'anima”では、
感情豊かな見事な歌を披露。


(アメーリア役のクライダーとホロストフスキー)

ただし、このアリアの感情表現が豊かすぎたか、
この後、サミュエルとトムが入室してきたシーンでの彼の演技があまりにクールすぎたか、
ちょっとちぐはぐな感じがしたのが残念。
レナートはもちろん、観客まで、じーんときていたのに、
おもむろに立ち上がって、”やあ!”とばかり二人を迎えるレナートの姿に、
あれ??と拍子抜けしてしまいました。
たった今吐露していた激しい感情を忘れてしまったのかい?とでも聞きたくなるほどに。
ここは、もう少し、演技の流れに自然さが欲しいところ。

声に関しては、先ほども言ったとおり、オケが爆音をたてているうえに、
もともと溢れんばかりの声量!というタイプではないホロストフスキーなのですが、
実は少しメトのようなホールで彼の声の通りが悪く感じられるのは、
声量自体の問題だけではなく、言葉の歌われ方のせいもあるのかな、という気もしました。
ヴェルディものに関しては、もう少し、言葉の輪郭を際立たせるために、
子音が前に出てきてもいいかな、と思う箇所が数箇所ありました。

しかし、このあたりは些細なことで、とにかく今日の公演に関しては、
ブライスとホロストフスキー、この二人の歌がダントツで光っていました。

そうそう、それから忘れていけないのが、ホロストフスキーが、
ブライスにつづいてねぎらっていた、サミュエルとトムの暗殺計画者二人組。
なんと、いずれもアジア人系の歌手で、特にトムを歌ったAndrew Gangestadについては、
昨シーズンの『ドン・カルロ』の先帝役で、非常に短い出番ながら、好印象を残していましたが、
今日もバスなのにどこか透明感のある個性的な声でがんばっていました。

碁石のなかに、ダイヤモンドが混じっているような、不思議な公演。
しかし、21日の公演は、そのダイヤモンドが一つ消えて碁石になるのか、
はたまた、別のダイヤにすげかえられるだけなのか、それともルビーになるのか。。
がんばっておくれ、ディ・フェリーチェ。

Salvatore Licitra (Gustavo III/Riccardo)
Michele Crider (Amelia)
Dmitri Hvorostovsky (Captain Anckarstrom/Renato)
Stephanie Blythe (Ulrica Arfvidsson)
Ofelia Sala (Oscar)
Hao Jiang Tian (Count Ribbing/Samuel)
Andrew Gangestad (Count de Horn/Tom)
Conductor: Gianandrea Noseda
Production: Piero Faggioni
Grand Tier A Odd
OFF

***ヴェルディ 仮面舞踏会 Verdi Un Ballo in Maschera***

ROMEO ET JULIETTE (Sat, Dec 15, 2007)

2007-12-15 | メトロポリタン・オペラ
今日のロミジュリの公演で、今シーズンのライブ・イン・HD
(昨シーズンから始まった、全米の映画館でメトでの土曜のマチネ公演のいくつかを生中継する企画。
また時間差で日本を含む海外でも上映あり。日本での上映については、
松竹が配給しているので、サイトをごらんください。)
がキックオフ。

シーズン前には、ネトレプコとヴィラゾンの二人が歌う予定だったのですが、
ヴィラゾンが体調不良により降板。
これまで、アラーニャ、カイザー、ジョルダーニ(カイザーが風邪で歌えなくなった際に、一度だけカバー)が歌い、
そして、12月末の公演ではポレンザーニが予定されているロミオ役。

ところが、今日のこの公演はライブ・イン・HDというハイ・プロフィールさのために、
なかなか配役が決まらず、やきもきしたものですが、
結局『アイーダ』での運命の逆転ぶりを買われたらしいアラーニャに決定しました。

今までこのブログでも、決してアラーニャのことを諸手をあげて褒めたことのない私ですが、
しかし、誰が歌っても、素晴らしい公演であればなんでもよろしい。

さて、ロミオ役の発表前に、働かなくていいのに、私の冴えない第六感が働きまくって、
ヴィラゾン、この公演から復帰の可能性があるのでは?と、妙な妄想にとらわれ、
大博打を張って買ったパーテール席。
(このあたりの経緯についてはこちらを。)
もちろん、大負けを喫し、ヴィラゾンのヴィの字も発表にはありませんでしたが、
今年度末の自分をねぎらう会として、パーテールに座るという贅沢を今日は満喫させていただきます。
私の座っているところから一つボックスをはさんだ場所には、ライブ・イン・HDのためのメインのカメラの一つが設置され、
よく観察してみると、平土間の前から3-4列目あたりにももう一つメインのカメラが。
そのカメラの真後ろの座席になってしまっていた男性、あれは見えないだろうなあ。。
今後の参考に。ライブ・イン・HDの日は、平土間正面ブロック前方に座ることは避けること。
また、舞台のヘリにレールを張って、その上を走る自動操作用のカメラもちょこまかと大活躍でした。

いよいよ指揮のドミンゴ、登場。
いやー、指揮がやっぱりひどい!
技術という点だけみても、あの振り方で、よくオケの方、入る箇所がわかるな、と思います。
というか、多分わかりにくいからなんでしょうが、序曲では楽器のたての線が乱れてる。
それから、表現がまったりしてますねー。もうちょっと、ロミオとジュリエットの運命を暗示する、
あの台風のような激しさを表現できないものか、と思ってしまいます。

合唱は、男性がすごく前シーズンよりよくなったのに比べ、
女性が入るとにわかに音の響きが男性のみのときよりも汚くなるんですが、
なんなんでしょう?これは。
声の響きそのものが、メトの合唱のカラーにそぐっていないように聴こえる人が少なくとも2、3人はいるようにも感じます。
今後、改善されていくことに期待。
そんな合唱が、ジュリエットの愛らしさを讃える中、
ネトレプコの最初の、言葉。

Ecoutez! ecoutez!
C'est le son des instruments joyeux
Quis nous appelle et nous convie! Ah!

まず、あれ?と思ったのが、声が9-10月に聴いたときよりも少し軽くなっているように思えたこと。
普通は、声は、重くなっていく方向に一方通行、というケースが多いので、ちょっと驚きました。
それから、始まったばかりで、だいぶ緊張していたのか、上の言葉の中で、
延ばしている声が針飛びをおこしたように一瞬消えてしまった箇所がありました。
裏返ったのではなく、つまずいたというのか、
スケートでたとえれば、ブレードのなめらかなところでずっとすべるはずが、
前方のぎざぎざのところにひっかかってしまったような。
彼女にしては非常に珍しいミスだったと思います。
(彼女の場合、ミスは、音が若干ずれる、とか、声にボディがなくなる、
トリルなんかがもたもたする、といったような微妙なものがほとんど。)

今日のマキューシオはネイサン・ガン。
9-10月の公演で同役を歌っていたDegoutに比べると、
舞台での華があるように思います。
歌そのものは、二人とも甲乙つけがたいのですが、役を魅力的に見せる術をガンの方が心得ている、とでもいうのか。
この二人、『魔笛』でも、シーズン違いで同じパパゲーノの役を歌っているのですが、
そこでも、印象が似ているのです。
つまり、歌だけとりだすと、全く甲乙つけがたいのに、
舞台で役として見たときには、ずっとガンの方が魅力あるものを提示してくれるような気がします。
Degout、損してるぞ、がんばれ!
ただ、ガンの声は、今日は朗々と響かず、少し音そのものが後方に引いているような聴こえ方をしていました。
『魔笛』のときはもう少し前に飛ぶ声だったように記憶しているのですが。。

マブ(個人的には、このマブというばったの羽根がついているという妖精がとっても気になる!)の歌でも、
やや拍手が少ないのは、そのせいもあったかな?と思います。

そうそう、少し脱線になりますが、ライブ・イン・HDでご覧になった(またはなる)方、
今日のメトの客は冷めてるなー、と思われたかもしれませんが、それは、
ネトレプコが登場したところで、拍手が出そうになったのですが、
どこかのオペラヘッド(私ではありません、ちなみに。)が、”しーっ!!”と言って、
制してしまったからなのです。
これのせいで、その後、みんなが拍手したり、歓声をあげたりしにくくなってしまいました。
ホント、無粋なオペラヘッドもいるもんです。
私は、喜びの拍手、歓声はいつでも大賛成派。
ぺちゃくちゃ雑談されて聴こえないときは怒り狂う私ですが、
こういう時には、多少オケの音とかが聴こえにくくなっても、ま、いっか、と思えるのです。

さて、アラーニャ。
この人は今日のこの公演に賭けてきましたね。
まず、声のコンディションがすごく良い。
今まで聴いた中で、10/27の『蝶々夫人』の時とならぶベスト・コンディション。
出番の少ないピンカートン(『蝶々夫人』)に比べ、
断然登場場面が多いこのロミオでは特に、これは非常なプラス。
それから、9月に歌った時に比べて、かなり舞台での動きとスコアの読みが練れてました。

9/29に絶賛した、”私は夢に生きたい”での二人の舞台での絡みは、
その場面のおかしさや本質はキープしつつ、やや表現を抑えることで、さらに洗練されました。
おかしさという点では、9/29の方が上だったかもしれませんが、
トータルでは、私は今日の二人の表現がよかったと思います。

また、ジュリエットとロミオ、二人でいたところに、
ティボルトが登場し、ロミオの素性を怪しむ場面では、
アラーニャが、立ち去る前に歌う、Dieu vous garde, seigneurの箇所で、
わざと、手にしていたハンドル付きの仮面をぎゅっと顔に押し付けることにより、
声がくぐもって、そのテクスチャーがかわり、
これだけで、ロミオが渾身の思いで自らの正体を隠そうとしていることが瞬時に伝わってきます。
そして、それでもなお、いや、そんな風に隠しても俺にはわかるぞ!という感じで、
ティボルトの、
Ah! je le reconnais a sa voix! a ma haine!
C'est lui! c'est Romeo!
(ああ、彼の声は、俺の恨みの心に聞き覚えがあるぞ。
奴だ、ロミオだ!)
がかぶってくるのです。
隠してもなお、宿命であるかのように敵につかまってしまうロミオ。
前回アラーニャが仮面をおしつけず他と同じ声で、Dieu vous~を歌ったときに比べると、
断然、こちらの方が、まさに、この作品のテーマの一つでもある、
逃げられない宿命というのを強調できていて、非常にスリリングなシーンとなっていました。

アラーニャ、これをアドリブで行ったのだとしたら、あなどれない舞台勘を持っているといわざるを得ません。

少し前後して、ネトレプコ=ジュリエットの”私は夢に生きたい”の印象を。

まず、コンディションそのものの話をすると、今日のネトレプコは100%絶好調とは言いがたかった、と思います。
今シーズン、この公演を含めて3回、この役で彼女を見た中では一番弱かったかな、とも思います。
ライブ・イン・HDの日にそんな日があたってしまうとは、彼女を見守ってきた私としては少し残念ではありますが、
しかし逆に、ポジティブな点を。
まず、不調でもこれだけ歌えるということ。これは本当にすごいことだと思います。
ある歌手の絶好調の公演を観るのは非常に嬉しいものですが、
私は逆にその歌手の度量は、実はコンディションが良くないときのものを聴くとよくわかると思っています。
例えば、私の大好きなソプラノ(今、ネトレプコよりも好きかもしれない。)、ラセットは、
不調なときでも、その底のレベルが非常に高い。
それに似たものを、今日のネトレプコに私は感じました。
ネトレプコの去年の『清教徒』は、もう、コンディションがどうの、というよりも、
役不適合、しかも彼女の役の研究も不足していたので、あまり語りたいとも思わないのですが、
この『ロミオとジュリエット』に関しては、私は、彼女に非常に合った作品だと思っていて、
コンディションがよかったときの歌唱も聴いているので、このライブ・イン・HDの印象だけで(とはいえ、重ねていいますが、レベルの高いものです。)
彼女のこの役の歌唱の評価が決まらなければいいな、と思います。

なんだか、持って回った言い方になってしまって大変申し訳ないのですが、
え?結構すごいと思うけど。と、たいていのライブ・イン・HDをご覧になる方が思うと思うのですが、
そのすでにすごい、と思われる歌のさらに上をいく歌を歌える(それも結構頻繁に)日が彼女にはある、ということです。

また、今日の彼女の自分のコンディションへの対処の仕方には非常に優れた面と、
それからこれからの彼女のキャリアにおいて大変興味深い示唆があったのではないかと思います。

今日のコンディションのせいで、やや、いつも聴かれるあの会場を埋め尽くすようなリッチな音の響きに欠けていたと思うのですが、
そこで彼女は、あえて、本当に少しですが、今日は音の響きを特に前半(三幕まで)、
やや小さめに設定してきていました。
これを、物足りない、と感じた方もいるかもしれませんが、
私は、この方法により、彼女が、ある意味、普段よりも上手く音を制御し、
かつ、音にすかすか感を残さないようにできたのではないかと思います。
逆を言えば、普段の彼女はフル・ボリュームで歌っていて、
まあ、それが彼女の歌の魅力の一部でもあるわけですが、
そのせいで、声のコントロールを失ったり、また声がぱさつくのを促進していることになっていたような気もするのです。
そのことに気付いた上での今日の歌なのか、やむなくそうなってしまっただけなのかは、
わかりませんが、いずれにせよ、今までのそれとは違う声へのアプローチを彼女が手に入れ始めているのをみて、
これからの彼女の歌がすすんでいく方向が大変楽しみになりました。
以前はこのまま磨耗して、キャリアが短く終わってしまうのではないか、と心配していましたので。

で、そのややスケールを小さくして歌った、”私は夢に生きたい”。
そうそう、彼女は、フランス語、なんとかしないといけないですね。

アラーニャは逆にフランス語のディクションが巧みなので、
学生時代にフランス語を2年勉強しただけの私でも、字幕を見ていると、
彼の歌っているフランス語の単語がそこここに、結構、つかまえられるのですが、
ネトレプコは、歌っている内容がわかっていても、一切、何の単語を歌っているのかわかりません。
(例えば第四幕、ローレンス神父とジュリエットが互いに交わすA demain!=明日に、という言葉、
ローレンス神父役のロイドはしっかりと発音してますが、ネトレプコのそれは、同じ言葉を歌っているとは思えないほどあいまいです。)

今日の”私は夢に生きたい”では、ドミンゴが、
今までにないスローテンポの指揮でしたが、逆にそれが吉と出たのか、
非常にコントロールされた巧みな歌唱で、段々早めていくところもオケとうまくあわせていて、
こういうところに彼女の音楽性の高さを感じます。
いつものあの輝かしい歌もいいのですが、私は、今日のコントロールされた歌の中にもいろいろ美点を見ましたので、
むしろ、そのコントロールされた歌で体現できる美点を失わない範囲で、
どこまでスケールを大きくするか、という調整の仕方をしてもいいのかな、とも思います。

一幕でむしろ気になったのは、いつも均等な響きに聴こえる低音が少し押し出すというのか、
強制的な響きをともなうときがあったこと。
作品中、頻繁に歌われる
La haine est le berceau de cet amour fatal.
(憎しみ、それがこの運命の恋のゆりかご)
などがその例。

二幕のアラーニャの、”太陽よ、のぼれ Ah! leve-toi soleil!”。
彼のフランス語のディクションの良さのおかげで、聴いていて非常に心地よい。
しかも、今日は声の調子がいいのだから、鬼に金棒もの。
セット上の、彼のうしろで広がる星雲の映像が、下手すると意味不明に見えてしまうところですが、
こういう歌と重なると、一体となって、素晴らしい効果をあげています。

二重唱もまたよかった。
特にネトレプコの今日の歌のなかで、この二重唱の最後の別れの言葉、
"Adieu mille fois! (千度のさようならを!)"
ここを歌ったときには、完全にオペラハウスの空気が止まったように感じられたくらい。
その感じがライブ・イン・HDでとらえられていることを祈ります。

この言葉に続く
Va! repose en paix! sommeille!(さあ、安らかにお休み)
からのロミオの旋律が美しくて、このオペラの中で最も好きな箇所の一つなのですが、
ここでのアラーニャの歌が少し平板的になったのが今日の彼の歌唱の中で唯一残念だったところ。
こういうところをしめてくれると、私の好きなテノールリストの候補に入るんですが。。
彼を手放しで褒めたことがないのはこういったところが理由なのです。

第三幕。
ステファーノ役を歌うレナード。
以前書いたような気がしますが、まだジュリアードを出たばかりとは思えない、すごい舞台度胸。
ライブ・イン・HDから来るプレッシャーをものともせず、生き生きと役を演じていて、
シャンソン("Que fais-tu, blanche tourterell")の出来は、今までで最もよかったくらい。
以前微妙だった最後高音に駆け上がっていく部分が、今日は断然よくなってました。

この後、両家が剣で争うシーンでは、またしてもガンがノーブルさを備えた
立ち回り上手さで光ってました。
それに比べて、ティボルトを演じるヘラーはちょっと、野生児みたいな雰囲気で、
あれはどうにかしたほうがよいと思う。
ガンの立ち回りがあまりに綺麗なので、その後のアラーニャのへっぴり腰な戦いぶりがちょっと悲しい。
なぜ、そんなへっぴり腰のロミオ(アラーニャ)が、
マキューシオ(ガン)すら負けたティボルト(野生児ヘラー)を刺し殺せるのか、謎ではあります。

あと、おや?と思わされたのは意外にも、キャプレットを歌ったテイラー。
普通、公演ではあまり目立たない地味な役なのに、
ティボルトが死の間際に歌う
”Un dernier mot! et sure votre ame... exaucez-moi!"
(最後に一言!あなたの魂にかけて、、私の願いをかなえてください。)
つまり、ロミオに復讐してください、というお願いに、
"Tu seras obeis, je t'en donne ma foi"
(そなたの言葉は守られるだろう。私が固く誓おう。)
と答える、この言葉に、ものすごい無念さと復讐の念がこめられていました。
主役の周りを固める歌手たちのがんばりに拍手!

第四幕の寝室の間のシーン。
空に浮かぶベッドには、思わずみんなから拍手とおーっ!というどよめきの声が。
無粋なオペラヘッドの意見なんて、この際シカトです。



前回の公演で、ここでの二重唱の最後にジュリエットが歌う
"Adieu mon ame! adieu, ma vie! Anges du ciel, a vous, a vous je le confie!"
(さようなら、私の愛する人、さようなら、私の命!
天使たちよ、彼のことをお願いね)
でネトレプコがいかに心に訴えかける歌を聴かせてくれたか、ということを書いたか、と思いますが、
今日はそのあたりのきれがなくて、それこそがまさに彼女のコンディションの悪さを疑う理由となっているのです。

今日突然気付いたのですが、
バレエ版(プロコフィエフ作曲)のロミ・ジュリと違って、
オペラの中では、パリスという、ジュリエットが父親に結婚させられそうになる相手が、
四幕一場の終わりでやっと本格的に登場するにいたります。
結局、このことがジュリエットをがけっぷちに追いやってしまうわけですが、
パリスの存在は、ジュリエットをがけっぷちに追いやるきっかけとしか、
オペラ版ではとらえられていないようです。

一方、バレエ版の方では、原作に忠実に、
最初から彼が許婚であることがはっきりしていて、
(オペラ版でも、最初に彼が許婚であることはほのめかされるが、ジュリエットの側は、
”パリスと結婚?それ、ないでしょ”くらいに一掃できる範囲である。)
ロミオに出会う前までは、ジュリエットも、
”まあ、(気乗りしないけど)この人と結婚することになるのかな”くらいな気持ちでいます。

オペラ版のジュリエットは、何にもわからないまま、竜巻のようなロミオとの出会いに巻き込まれて、
いわば、運命に翻弄される感じですが、
原作およびバレエ版では、もう少し、ジュリエットに積極性を感じるというか、
許婚がいるにもかかわらず、ロミオに魅かれ、
そして許婚を捨てても、ロミオと一緒になりたい、という意志がある。
オペラ版とは、少しキャラクターが違うようにも感じます。

そして、カットされる場合もあると聞く、眠り薬を飲むシーン。
メトではカットされてなくてよかった。
なぜなら、ネトレプコは、このシーンが、この作品中で一番よいからです。
今日も、眠り薬を前に、Amour ranime mon courageを歌い、
考えを逡巡させ、悩みながらも心を決め、一気に飲み干すところまで、
一番見ごたえ、聴き応えのあった箇所ではないかと思います。

第五幕
ジュリエットが眠る墓場。
運命のいたずらとしか思えないタイミングの悪さが重なって、結局共に自らの命を絶つ二人。
ジュリエットが目を覚ましたあたりからの二人の掛け合いは見事。
少しアラーニャの瀕死のうめきがうるさく思われる箇所もありましたが、
ジュリエットが胸に短剣をさした後に歌う、
”Va! ce moment est doux! (ああ、なんていう素敵な瞬間)
ここもネトレプコの音楽性が感じられる一フレーズでした。

アラーニャは市販されているヴァドゥーヴァと共演したDVDを楽々超える素晴らしい歌唱。
意外なネトレプコの不調が番狂わせでしたが、全体的にはすぐれた公演だったと思います。

序曲ではどうなるかとはらはらさせられたオケ(というか指揮)でしたが、
前半の中間あたり(ニ幕あたりからか?)から、まるで、指揮で読み取れないニュアンスは私たちが作ってやる!といわんばかりの、
自発的な演奏で、特に大爆発するような箇所では、メンバーの息があっていて、素晴らしかった。

これがドミンゴの指揮のおかげ、ということになってしまうとしたら、
非常に腑におちない、複雑な気分。
今日のパーテールの席からは、指揮の様子が丸見え。
あの指揮で、なぜあんな音がオケから鳴ったのか?
私なら、賞賛の言葉はすべてオケのメンバーに捧げたいです。


Anna Netrebko (Juliette)
Roberto Alagna (Romeo)
Isabel Leonard (Stephano)
Nathan Gunn (Mercutio)
Robert Lloyd (Friar Laurence)
Marc Heller (Tybalt)
Charles Taylor (Capulet)
Louis Otey (Paris)
Jane Bunnell (Gertrude)
Conductor: Placido Domingo
Production: Guy Joosten
Parterre Box 16 Mid
OFF

***グノー ロメオとジュリエット ロミオとジュリエット Gounod Romeo et Juliette***

検索がきちんとかかるようにしてみました。

2007-12-14 | お知らせ・その他
gooブログで常々不満だったこと。
検索機能が本文にしかかからず、タイトルが対象にならない。

このブログがスタートしたときから、観にいった作品の名前をタイトル欄だけに綿々と入れ続けてきたので、
観にいった日付が思い出せないから、検索機能を使って探してみよう、と思ったら、
本文でその作品の名前がふれられていないかぎり、検索結果にひっかかってこない。
というわけで、私のブログにおいて、検索機能はほとんどその本来の機能を果たしていないのでありました。

しかし、そこでgooにクレームをする度胸もない私なので(嘘つけ。めんどくさいだけ。)、
もっと記事の数が増えて手に負えなくなってしまう前に、根本的な改革を!ということで、
今までの全ての記事の本文の最後に、英語と日本語の両方で作品名と、作曲者の名前を入れてみました。
これで、検索は完璧なはず。
(ただし、検索作品とは直接関係のない公演の記事であっても、その作品名が本文中でふれられていると、
それもひっぱってきてしまいます。)

これで、”あの作品はたしか、1月ごろの公演で、、”などとぶつぶつつぶやきながら、
その月の記事をクリックしまくる手間から解放されました。

画面左側、プロフィールの下の検索欄の下、”このブログ内で”を選んだまま、
Verdi、戦争と平和、など、いろいろ入力してみてください。
かなり使えます!

WAR AND PEACE (Mon, Dec 10, 2007) Part III

2007-12-10 | メトロポリタン・オペラ
<Part II から続く>

第十一場
<モスクワの街で。1812年9月2日。>
元帥のモスクワからの撤退決定により、ほとんど打ち捨てられた様子を呈しているモスクワの街。

街をさまようピエールは偶然モスクワから疎開しようとしていたロストフ家(ナターシャの家)の女中と再会。
彼女から、ナターシャが一家の所有する別荘で傷ついたロシア軍兵士を看病していること、
(ナターシャ、やっと立派になったのね、、。私たち観客は嬉しい。)
そんな兵士の中に、まだナターシャが知るところではないはずだが、
アンドレイも含まれていることを知ります。

あまりの状況に、実行か、そうでなければ死を!”Ja dolzhen savershyt', il pagibnut"と、
ナポレオン暗殺の夢を抱きはじめるピエール。
ピエール、結構、いつも行動がいきなりです。

そんな中、ナポレオンの軍が街に入り始め、兵士たちによる略奪、暴行が始まります。



ものすごい混沌状態が舞台上に展開し、兵士たちに暴行されそうになった女性が素っ裸にされて
舞台から逃げ惑う姿も。
一瞬、ぎょっ!とさせられ、嫌悪感(演出にではなく、兵士がしていることに)を催しますが、
この嫌悪感は戦争を描くうえで素通りできない感情であり、このような醜いことを直視する強さを
私たちは持たなければいけないのだと思います。
これらのことは過去に終わってしまったことではなく、
今でも世界の紛争の続く地域では日常のように起こっている出来事であり、
そのために私たちは何ができるか、という問題提起にこそ、この作品を今も上演し続ける意義がある、
いや、現在こそ、一層その必要が増している、という気がしました。

あまりのナポレオン軍の兵士のやりたい放題ぶりに、
モスクワの街を彼らに好きにさせるよりは自らの手で火を!
(またそのことにより、一切の食物、財産を彼らの手に渡さないという実際的な理由もあります。)
と決起し、モスクワの街に火をつける市民たち。

暴行を受けそうになった女性を助けようとして兵士につかまったピエール(そのおかげで女性は逃げられた)は、
この騒ぎに巻き込まれ、放火をしくんだ一味として銃殺刑をいいわたされます。

釈明にも耳を貸さない兵士たちに、目の前で一人、また一人と銃殺される市民たちを見て、
もはやこれまでか、と観念するピエール。

しかし、銃殺は免除され、かわりに捕虜として捕らえられるピエール。
やがて、放火を計画した首謀人、農民兵士プラトンとの間に交友がめばえ、
彼の人間性と、尊厳ある死の受け止め方(やがてナポレオン軍兵士に銃殺される)に大いに感銘を受けます。


やがて、燃えさかるモスクワに入城するナポレオン。



とにかくこのシーンは音楽の力も伴って、ものすごい場面に仕上がっています。
背景には、燃え盛るクレムリン様の建造物が立ち並び、
どのようにしてそういう効果を出しているのかわからないのですが、
本当に火が燃え立って、空気がゆらめいている感じがするのです。
兵士を引き連れ、白馬にのってあらわれるナポレオン。
やがて、灰を表現する黒い紙ふぶきが舞台天井からゆっくりと舞い始め、首をうなだれる白馬。
(この白馬がものすごい演技派で、うなだれてじっとしはじめてからの数秒間は、
まるで絵画でも見るような荘厳さでした。)
やがてナポレオンが発する一言 「なんて野蛮な奴らなんだ。。」
この、他愛もないと思われる一言のなかに、
ナポレオンがロシアの人民の強さに対して感じ始めている底知れない恐怖と、
もしやこの戦い、自軍が負けるのではないか?という彼の予感のはじまりを凝縮していて、
実に見事なシーンになっています。

おしむらくは、その直後、合唱に重なりながら現れる、火の鳥を思わせる赤い布で出た巨大な鳥。



この鳥が出てきた瞬間、ロシア人でない私はちょっと引いてしまうほどの、
ロシア万歳!精神を感じて、
ドラマを大事にするなら、むしろ、ナポレオンがモスクワの街で立ちすくんだまま
合唱を続けたほうがよかったのでは?と思いました。
このプロダクション、本当に素晴らしいのでDVDとかライブ・インHDに組み込めば?と思うのですが、
このローカル色のあまりの強さがのせてもらえない要因か?もったいない。

しかし、『魔笛』的な路線にあやうく入り込みそうになりながらも、
(ある意味、ややディズニーランド的と感じる人もいるかも知れません)
演出家とセットデザイナーの、何か、ロシアという国と、
自国が生んだ素晴らしい文学作品と、プロコフィエフの音楽へのプライドというか、
有無を言わせぬ、ほとばしるような愛国精神があふれ出ていて、その気合というか本気度が、
ジュリー・テイモアが『魔笛』を演出するに持って臨んだ
仕事のためにやってます程度の軽々しさとは大違いで、
たとえば火の鳥のような、人によっては欠点と感じられる点すらも
ポジに変えるような強力なパワーがあり、我々観客は完全にねじふせられてしまいました。

メトの演出、西(イタリアもの)の横綱が、『アイーダ』、もしくは『トゥーランドット』あたりとすれば、
東(ロシアもの)の横綱は、間違いなくこの『戦争と平和』。
第一部の長さと、第二部に比べてのストーリーの冗長さに負けて、
インターミッションで帰ってしまったお客さんもいましたが、絶対、第二部を見ずに帰ってはいけません。
どうしても長さに耐えられずどちらかを捨てたいのであれば、第二部の方を観ることを強くおすすめします。

また短いながら、印象的だったのは、この戦いによって正気を失ったロシア人を演じた二人。
おそらくダンサーか俳優の方かと思うのですが、ほとんど前衛ダンスと思われる動きが、
自己満足的な動きにならず、戦争が引き起こす悲しみの一局面を非常に有効に表していたと思います。

第十二場
<ナターシャ疎開先のヤロスラブルで、負傷し瀕死のアンドレイと再開。1812年9月3日。>
戦いで大怪我を負い、ボランティアで兵士の面倒を見ている貴族の別荘に送られるアンドレイ。
彼が送られた先は奇遇にも、ナターシャのロストフ一家の屋敷。
意識が朦朧とする中、第十場で元帥が歌ったのと同じメロディの一部が効果的にアンドレイの役にも使われています。
また、記憶が遠くなるたびに、合唱が、ピ、ピ、ピ(箇所によってはピの他に別の一音があるように聴こえるのですが、ピ、ティ?
ロシア語の歌詞が手元にないので、すみません。調べておきます。)と歌い、
さらにそこにやがてアンドレイも絡み、非常に効果があがっています。
この、ピピピの箇所は、やはりさすがロシア人、自国語に敵うものはなし。
アンドレイを歌ったマルコフが、合唱と絶妙なタイミングで絡んでいて、
そこは例えばオペラ座でのガンなんかとは全くレベルの違う完成度でした。
で、原作でも、またそのオペラ座の演出でも、実際にアンドレイとナターシャは再会を果たすのですが、
このメトでの演出でユニークだったのは、降りしきる雪の中、アンドレイの眠るベッド以外は舞台上に何一つなく、
ナターシャの現れ方も、なにやら亡霊のように心許ないのです。



そう、この演出ではおそらく、このナターシャとの再会は、完全なアンドレイの幻想という設定になっているのです。
ナターシャが受けるアンドレイからの許しの言葉も、結局は、アンドレイの許したいという心の投影、という解釈とでもいいましょうか。
そして、ナターシャに捧げる、”生きる意味を死の間際にやっと見つけた”という言葉もすべて幻想...。
愛される人に看取られることもないまま、ひっそりと野戦病院まがいの場所
(まあ、貴族の屋敷ではありますが)で一人ぽっちで死んでいくアンドレイ。
これはせつないです。
多くの戦死する兵士たちが、そうやって死んでいった、また死んでいくことを思えば、
現代に問題提起をするスタンスなら、こういう解釈もあってよいと思います。
原作には忠実ではありませんが。
やがて、またピピピが聞こえて天に召されるアンドレイ。涙。

第十三場
<フランスの撤退、スモレンスクの街道にて。1812年10月22日。>
冬将軍によって壊滅的なダメージを受け、ピエールを含む捕虜を引き連れて撤退を始めるナポレオン軍。



なんと、そこにデニーソフ(ナターシャに拒絶された歴史を持つあの士官です。)が農民兵士を率いて登場。
ナポレオン軍を攻撃し、ロシア人捕虜を奪回します。
喜びに湧き、次々とナポレオン軍の軍旗をうち捨てるロシア軍。
元帥の感謝の言葉に答える農民と兵士たち。



このフィナーレの前に、ピエールはアンドレイの死とナターシャが元気でいることを知るのですが、
オペラ上直接には言及されない、この後の原作での結末
(やがてピエールとナターシャは結婚し、ナターシャは良き母親となっていく。)
をふまえて、ナターシャをまた舞台に最後に戻し、
ピエールと再会させ、二人の未来を匂わす、という演出もありますが、
今回は、一切ナターシャは最後に舞台に現れず(なので、アンドレイの死のシーン以外は第二部では舞台に登場しない。)、
ピエールの姿も全く強調されず、
原作での結末については何のほのめかしもない終わり方になっています。
むしろ、農民や兵士たちを正面にすえたフィナーレとなっていました。

プロコフィエフの音楽は、シリアスなシーンの中でも、
楽器の使い方にユーモアがある箇所が多く、これが、バレエの『ロミジュリ』でサックスを使用するという
ユニークな発想にもつながっているのかな、と感じさせられました。

とにかく、話のテンションの高さ、音楽のパワー、演出のパワフルさ、と、
第二部に圧倒的に見所が揃っています。
体力を整えて公演に臨むべし。


Marina Poplavskaya (Natasha Rostova)
Alexej Markov (Prince Andrei Bolkonsky)
Kim Begley (Count Pierre Bezukhov)
Samuel Ramey (Field Marshal Kutuzov)
Oleg Balashov (Prince Anatol Kuragin)
Ekaterina Semenchuk (Sonya)
Mikhail Kit (Count Ilya Rostov)
Ekaterina Gubanova (Helene Bezukhova)
Vassily Gerello (Napoleon Bonaparte)
Nikolai Gassiev (Platon Karatayev)
Alexander Morozov (Lieutenant Dolokhov)
Vladimir Ognovenko (Old Prince Nikolai Bolkonsky)
Elizabeth Bishop (Maria Bolkonskaya)

Conductor: Valery Gergiev
Production: Andrei Konchalovsky
Set designer: George Tsypin
Dr Circ E Even
ON

***プロコフィエフ 戦争と平和 Prokofiev War and Peace***

WAR AND PEACE (Mon, Dec 10, 2007) Part II

2007-12-10 | メトロポリタン・オペラ
<Part I から続く>

インターミッションで、60歳代くらいのご夫婦とそのお友達の男性とテーブルをシェアしつつ紅茶をすする。
このお友達の男性が、ものすごいロシア・マニアで、話の端々から、
これまでも何度もロシアに旅行している風であることが伝わってきます。
そのうち話はこの『戦争と平和』の時代のロシアにおける階級制度にまでおよび、
階級の違いを理由に引き離されるナターシャとアンドレイですが、
その階級の差の違いがどれほどのものか、という感覚を
大変懇切丁寧にこの男性が説いてくださり、あまりに興味深げに私が耳を傾けていたもので、
(というか、顔にモロに、”私も話に入れてください”と書いてあったに違いない。)
途中から親切にもお話に加えてくださったのでした。
英語でPrincessと訳出されている肩書きは、ロシアの場合、
必ずしも王室関係の人に限ったものではなく、いわば”自称”のPrincessというのもあるそうです。
自称プリンセス、、、言ったものがちってところがすごい。
とにかく、この男性、どこかの大学のロシア学の先生かと思うくらい滔々とお語りになるので、
ロシアの階級制度というニッチな話題にもこんなおたくのような人がいるとは、と
あらためてメトに来る観客の奥深さを思い知らされたのでした。
しかし、何事につけてもおたくであるということは格好いい。

いよいよ、第二部”戦争”が始まります。

第八場
<ボロジノの戦地。1812年8月26日になる前の夜>
いきなり舞台上にならんだ兵士たちから銃を向けられる観客。非常に印象的な始まりです。



銃が出てくるオペラはたくさんあるのですが、こうやって銃を観客に向かって真正面に、
それもあらゆる座席に向けて立つという配置は私が知る限り珍しく、
(たいていは銃を構えた登場人物を観客が横から眺める角度というのが多い。)
なんだかこれだけで観客まで不安な気分にさせられます。
自分が狙われているような異様な感覚で、一気に兵士と同じ気持ちを味わっているような。

アンドレイと士官のデニーソフとの会話から今にもナポレオンが踏み込んできそうな勢いであること、
また、多くの農民兵士が登場し、すでに彼らがこの戦争におけるロシア側の大きな戦力となっていることがわかります。



また、この農民兵士(合唱)が讃える様子から、クトゥーゾフ元帥が老いてなお、
厚い支持を受けている様子が伝わってきます。
これまでも何度か触れましたが、男性の合唱は本当に今シーズンからよくなった。
聴き応えあります。

さて、先ほどアンドレイが会話を交わした士官デニーソフは、
昔ナターシャに求愛して却下されたことのある経歴の持ち主。
それがきっかけでふとナターシャのことを思い出すアンドレイ。
あの第二場の、サンクト・ペテルブルクでの舞踏会のことが記憶に蘇り、一瞬せつない気持ちになるアンドレイ。
この回想のシーン、たとえば前述のパリ・オペラ座の演出のDVDでは
実際にナターシャ役のソプラノを舞台に一瞬もどしてその回想を表現していますが、
ここでは、野営地にいる農民兵士の子供たちのうちの女の子の一人が、
人形を相手にダンスを踊ってそれをアンドレイが見つめる、という表現になっています。

”本当の愛を信じるなんて自分はなんておろかだったんだ”と自嘲気味に語り、
おセンチな気持ちを振り払おうとするアンドレイのもとにいきなりあらわれるピエール。
ピエールは戦士として現れたわけではなく、戦地の様子を見に来たかったから、
と言う口実で(もちろんアンドレイに会うというのが大きな理由だったはず。)平服で登場。
アンドレイがなんとしてもロシアを守ってやる!
そして、この戦いは一人一人の戦士にかかっていて、
全員が自分の命を忘れて戦ったときにこそ勝利が転がり込む、という考えをピエールに語った後、
お互いに、会うのはこれが最後になるだろう、という予感を抱きながら別れます。

”Ura, ura"という合唱の後、クトゥーゾフ元帥が登場。
それほど実際に歌う時間が長いわけではないにもかかわらず、第二部の印象を決める重要な役。
サミュエル・レイミー。華々しい経歴を持つ彼ですが、寄る年波には勝てないか、
英語でいうワブル(声を延ばしたときに、音が同じ周期で大きくなったり小さくなったりすること)が激しかった。
声のサイズそのものは健在なのですが、そこが痛い。
ただし存在感はさすがです。

舞台上のおびただしい数の兵士。ほとんどが、今回一般公募で集まったエキストラたちです。
俳優志望や卵の人たちから一般人まで選ばれた人はさまざま。



上の写真で見られるような、各連隊の頭のほうにおそらく俳優の人たちをまわしたと思われ、
彼らは、兵隊さん歩き(足を前に90度上げながら飛び跳ねるように歩く)も上手なのですが、
連隊の後ろの方になると、足があがってない人やら、
太鼓の音に合わせてのステップを、みんなとは逆の足から踏み出してしまい、
そのまま押し通してしまえばそれほど目立たないのに、
まわりを見てその場に立ち止まって足を直したために却って目だってしまった人たちなど、
素人集団ゆえのおもしろい場面が散見されました。
でも、みんな一生懸命でほほえましい。ものすごく緊張しているのがこちらまで伝わってきます。



次々と連隊が現れ、舞台は素人戦士でぎっしり。壮観な眺めです。
このエキストラ一人一人のために調達された軍服だけでも相当な数のはず。
これもきちんと選抜された人たちのサイズをとって準備したそうです。
そう、このようにエキストラ一人にも手を抜かない、そんなメトが私は好きなのです。



やがて、大砲が鳴って、戦闘の火蓋が落とされます。



第九場
<ナポレオンの指令本部。1812年8月26日の朝。>
見所がてんこ盛りの第二部の中でも、特に私が好きなのが、この第九場と第十場のシークエンス。
お互いの軍の葛藤ぶり、モスクワをめぐる対照的なアプローチに、上質の戦争映画を見ているようなスリルがあります。

次々とフランス軍の兵士がナポレオンのもとにきて、
フランス軍にとってあまり思わしくないロシア軍の健闘ぶりを報告します。
そんな兵士の一人(もちろん男性という設定)が女性歌手によって歌われるのも、おっ!と思わせる。
またズボン役発見。
そんな報告にだんだんいらいらを募らせるナポレオンが、自分の勝利に固執するあまりに強行な前進を決定してしまうのに対し、
続く第十場でのクトゥーゾフ元帥の対応が見ものです。
多くの部下の意見に耳を傾けながら意見を決めていくクトゥーゾフ元帥に対して、
この第九場での、ナポレオンの孤独さが見ていて痛々しい。
ナポレオン役を歌ったGerello、もう少し尊大さと力強さがあってもいいように思いますが、
手堅い歌唱ではありました。

第十場
<クトゥーゾフ元帥との作戦会議。1812年9月1日の夜。>
直属の部下の意見に耳を傾け、葛藤と迷いの末に、兵士を守るため、
再び立ち上がるチャンスを狙いながら、モスクワからの一時撤退を決定する元帥。
部下が引き取った後、一人クトゥーゾフ元帥がモスクワひいては祖国への愛を歌いあげる
"kagda zhe kagda zhe reshylas' eta strashnaje dela?"
(日本語での訳が不明ですが、英語ではWhen, oh when was this dreadful business decided?と訳出されており、
”いつ、ああ、いつこの恐ろしい出来事は定められたのか?”という感じでしょうか?
ここでの”出来事”というのは戦争、特にモスクワをめぐる苦渋の選択を迫られるに至る一連の状況のことを指していると思われます。)
非常に感動的な曲で、元帥役の腕の見せ所。
レイミーがワボりながらも、健闘してました。
ただ、ここまで曲がいいと、よほど歌がひどくない限り、心が動かされてしまうとは思いますが。

<Part IIIに続く>

Marina Poplavskaya (Natasha Rostova)
Alexej Markov (Prince Andrei Bolkonsky)
Kim Begley (Count Pierre Bezukhov)
Samuel Ramey (Field Marshal Kutuzov)
Oleg Balashov (Prince Anatol Kuragin)
Ekaterina Semenchuk (Sonya)
Mikhail Kit (Count Ilya Rostov)
Ekaterina Gubanova (Helene Bezukhova)
Vassily Gerello (Napoleon Bonaparte)
Nikolai Gassiev (Platon Karatayev)
Alexander Morozov (Lieutenant Dolokhov)
Vladimir Ognovenko (Old Prince Nikolai Bolkonsky)
Elizabeth Bishop (Maria Bolkonskaya)

Conductor: Valery Gergiev
Production: Andrei Konchalovsky
Set designer: George Tsypin
Dr Circ E Even
ON

***プロコフィエフ 戦争と平和 Prokofiev War and Peace***

WAR AND PEACE (Mon, Dec 10, 2007) Part I

2007-12-10 | メトロポリタン・オペラ
なんだか今月はやたらロシアづいているな、と思ったら、それはゲルギエフ氏の仕業だった。
公演で世界中を飛び回る氏ですが、今回は、キーロフ・オケを連れてのカーネギー・コンサート(12/112/2など)と、
メトでの『戦争と平和』をうまく同時期にスケジュール。
効率よく世界を飛び回ってらっしゃるようです。

さて、今回のプロダクションは、2002年にメトで上演されたもののリバイバル。
その2002年の公演では、ネトレプコがナターシャを歌って、
ニューヨークのオペラファンにその存在を知らしめるブレイク・ポイントとなり、
(冒頭の写真は、そのネトレプコが2002年に演じたナターシャ。第六場の、駆け落ち失敗のシーンから。)
また、アンドレイ役がホロストフスキーという、垂涎のキャストだったのです。
キャストが魅力的なのもさることながら、もう一つ話題だったのが
George Tsypinが担当したセット・デザイン。
その手腕もあり、今夏のリンカーン・センター・フェスティバルのリング・サイクルにも起用されたのでしょうが、
『神々の黄昏』の、ほとんど悪趣味とまでいえる、安っぽいデザインには脳震盪を起こしそうになりました。
私は2002年の公演は観ていないのですが、すばらしいセット・デザインと演出だから、
今回は絶対見たほうがよい、と烈しくすすめられ、
それでもあの『神々~』のセットデザインがフラッシュバックする度に尻込みする私を見て、
なんとチケットのプレゼントまでしていただいたので、これはそこまで言うのだから、
本当にすごいのだろう、と、公演が始まるまでにはすっかり
”謹んで観させていただきます”モードに入っていたのでした。

このプロコフィエフによる、オペラ版『戦争と平和』は、
トルストイの原作が1805年から1813年をカバーする中から、あえて1809年から1812年のみ、
つまり、ナターシャとアンドレイの二人が出会ってから再会までが話の軸になっており、
強いていえばピエールの人生が中心にすえられている原作とはそこがまず違っているといえるでしょう。

第一部”平和”(第一場から第七場およびエピグラフ)と休憩を挟んで
第二部”戦争”(第八場から第十三場)という二部構成になっています。


第一場
<1809年春。ロストフ公爵邸でアンドレイ、ナターシャを見初める。>
舞台の真ん中に印象的に、バルコニーとその下に続く扉だけが天井から降りてきます。
夜中の一時頃なのにも関わらず、そのバルコニーでロストフ家の娘、ナターシャと、
従姉妹で居候のソニヤが少女らしくきゃぴきゃぴと騒ぐ中、
(ちなみに計算すると、このときナターシャ、16歳。)
アンドレイがそのナターシャの姿を見かけ、恋におちます。
この人もこんな夜中に人様のお家の庭をほっつき歩いて、何をしてるんだ?という疑問はこの際、
置いておいて。
アンドレイは、最初の奥さんをなくし、齢31にして、すでにやもめ。
なぜ、これほどまでに役の年齢とバックグラウンドにこだわるかというと、
非常に簡単ではあるのですが、これらの事実に関してはきちんとオペラの中でも言及されているため、
役のキャラクターを決める大切なファクターになっているのです。

まず、ナターシャ。この役、はっきり言って私、嫌いです。
というか、オペラで取り上げられている箇所が、ナターシャにとって非常に不利だともいえるのですが、
オペラ版がカバーしている年代が終わってしまったあとに、原作では、
ピエールと結婚、子供にも恵まれ、やがて良きお母さんになっていく、という感慨深い結末があるのですが、
このオペラの中では、戦争で負傷した兵士を介抱するなど、やっと若気の至りを越えて、
”ナターシャ、あなたはやっと目覚めたのね!”とこちらが思う頃にオペラ版の方は話が終わってしまうのです。
特に”平和”の部でのナターシャときたら、
若さと考えなしゆえに人を傷つけまくり、自分が男性にもてる事をいいことに、完全に自分を見失ってしまっているのです。
そんな風にしてアンドレイをも深く傷つけてしまう彼女なので(詳しくは後ほど)、
苦労している様を見ても、”ちょっとはそうやってあなたも辛酸をなめたほうがよくってよ。”と、
意地悪な私は思ってしまうのですが、
しかし、そんな最悪な役でも、オペラ版はそういう役になってしまったのだから
それなりにリアリティを持って演じてもらわなくては。
で、ナターシャを演じたポプラフスカヤ。
彼女の声は悪くないのですが、声自体がものすごく落ち着いた思慮深い人のような響きがあって、
キャラクター的には、『ばらの騎士』のマルシャリンを思わせるほど。
そんな、公爵夫人系キャラの声なのに、なんと、演技がぶりっ子系なのにびっくり。
まさに、こぶしを握ってひじをまげたまま、きゃぴきゃぴとひじを体につけたり開いたり。
これはなんだか、歳相応の身だしなみをしてくれれば上品で素敵な人が、
妙な若作りをしているときに感じるような、違和感があるのです。
見てはいけないものを見てしまったような。

第四場と第六場との絡みになりますが、
なぜアンドレイとの婚約中、彼を待たずに、アナトーリと駆け落ちをするという
軽率な企てをたてたかについては私が思うに二つ違った見方があると思います。

一つは、アンドレイのお父様に冷たくあしらわれた悲しみと、傷つけられたプライ
ドに投げやりな心が加わって。
これは、どんなに思慮深い女の子にも起こりうることだと思うので、私はポプラフスカヤの声質から言って、
こちらで行った方が役と声質との統一感が出ると思ったのですが、
しかし、どちらかというと、そうでないアプローチで彼女は演技をすすめていくのです。
つまり、若くて生命力あふれる彼女には、この先どうなるかわからない恋を待ち続けるよりも、
今、烈しい愛情をぶつけてくれる人に人生を賭けてみたい、と。
で、その烈しい生命力を表現したい故のあのぶりっ子演技になってしまうと思うのですが、
残念ながら彼女の声質にそぐっていない。
この前半の部中、ずっと、彼女の、役全体としてのイメージがどこかうまくファンクションしないで、
ぎこちないのが気になりました。
歌の技術の方は悪くなかっただけに残念。
二番目のような解釈やアプローチには、まさにネトレプコのような声質(以前の少し軽さが残っていた頃の)
とキャラクターが生きるだろうな、と思わずにはいられなかったです。

アンドレイ。
ロシアもの好きの方にはあんなのロシアっぽくない!といわれるかもしれませんが、
実は、私、パリ・オペラのDVDで歌っているネイサン・ガンのアンドレイが結構好きなのです。
オペラでのこの役は、若くにして、最初の奥様をなくす、という辛さを経ても、
なお、自分を甘やかさず、仕事もできて、それでいて、一途に戦場でもナターシャを想い続けながら死んで行く、という、
こんな素敵な男性、世の中にいません!くらいな素敵な人。
特に、私には、奥様を失くしている、ということがポイントで、
その寂しさが登場の場面から、役のどこかに現れていないと物足りないのです。
その点で、マルコフの役作りは少し物足りなかった。
端正に歌い上げていて好感は持てるのだけど、何かが足りない。。

この一場はアンドレイの歌うメロディーなど、非常に美しいのですが、
この場のみならず、全体の傾向として、ゲルギエフの指揮は、
各セクションの音のたたせ方が、私の好みにしてはうるさすぎるように感じました。
極端にいえば、全員がソリストのような演奏のさせ方をする、というのか。。
うるさい、というのは、実際のデシベルが大きい、というような物理的な音の大きさという意味ではなくて、
聴こえてくる各セクションの旋律の目立ち方、という意味です。
私は、もう少し、こういった歌手の歌うメロディーが美しいシーンでは、
間引きではないけれども、もう少しオケの音を刈ってじっくり歌の旋律を楽しませてほしい!と思ってしまうのでした。

第二場
<6ヶ月後、サンクト・ペテルブルクの大晦日の舞踏会でアンドレイとナターシャ再会。
一気に恋に落ちる二人。>



ナターシャに”誰か素敵な人、紹介して!”と頼まれたピエール。
ナターシャのよき兄貴分みたいな位置づけになってます。
そのピエールが彼女に引き合わせたのがアンドレイ。もちろん二人は恋に落ちまくり。
この作品は、およそ全ての場を通して、ゆるく傾斜(奥が高くなっている)をかけた床の真ん中が
回転する仕組みになっていて、
この場面も上手くその床を利用し、舞踏会の参加者がその回転床にのって回っていくなか、
ナターシャとアンドレイの二人は前景の床が動いていない立場所での歌唱と演技となります。
しかし。後ろにある宮殿の柱なんかの色使いがどことなく『神々~』を思わせる激烈な赤。
色の趣味は昔からってことか。
ただ、このメトのプロダクションはお金がかかっているだけに、
そんな趣味の悪さすれすれの色使いでも、安っぽく見えない。
同じ手法でも、お金をかければこのプロダクションのようになり、
お金がなければ、あの『神々~』のようになってしまう、ということなのかもしれません。

この場面は、第二部(戦争)の、アンドレイの死の場面で、彼の人生の最も楽しかった一場面として
回想される大事な箇所。
この舞踏会のシーンの音楽は、同じくプロコフィエフが作曲したバレエ『ロミオとジュリエット』を強く連想させます。

第三場
<1811年、ボルコンスキー老公爵に未来のアンドレイの花嫁として挨拶に訪れたナターシャとナターシャ父、冷たくあしらわれる>
1809年大晦日から、二人の仲はさらに深まり、ナターシャとアンドレイはすでに婚約中。
しかし、身分の違いを理由にナターシャを息子の後妻として受け入れることを躊躇するアンドレイ父、ボルコンスキー老公爵は、
二人を引き離せば、ナターシャもあきらめるだろうと、息子を軍隊に入れてしまいます。
まあ、ある意味、このアンドレイ父の読みは正しかったところがなんとも皮肉ですが。
そして、アンドレイの未来の花嫁として挨拶に来たナターシャとナターシャ父の父に関しては黙殺、
ナターシャには徹底的に嫌味をいって、充分彼の本意を彼女に伝えます。

原作では登場人物が500人を越えると言われますが、このオペラでは当然かなりカットされています。
それでも一般のオペラのスタンダードからいうと、登場人物が異常に多い。
(エキストラや合唱をのぞく、ソリストだけで70名くらい。)
なので、わりと印象に残る役、例えばこのシーンのボルコンスキー老公爵のような役でも非常に登場場面が短く、
ナターシャ、アンドレイ、ピエール、そしてかろうじてクトゥーゾフ(ロシア軍側の将軍)
以外の役のソリストは、みんなその短い登場場面の中で、いかにその役のエッセンスを抽出して、
歌のなかで表現できるか、という難しさがこのオペラにはあります。
なので、この作品では(まあオペラ全てそうですが、特にこのオペラでは)、
小さい役が決しておろそかにされるべきでない。
ボルコンスキー老公を演じたオグノヴェンコは、高慢で周りの人間には耐えられないかもしれないけれど、
どこかオーディエンスにはそれゆえのおかしみを感じさせる老公の性格を一瞬に描きだして見事。
ここで、ナターシャは、自分の恋がおそらくは決して実らぬこと(しかし、彼女が辛抱強く待っていれば、
アンドレイが戦死する前に、老公は亡くなったので、一緒になれた。運命の皮肉。)を悟り、
身分の違いという自分にはどうすることもできない理由によって差別されなければいけないことへの屈辱と怒り、というものを感じるのです。
彼女の歌詞を聴くと、ナターシャは運命に押し流されただけではなく、
彼女自身が、アンドレイと結婚しない、ということを無意識に選択したのだ、ということがわかります。
この場面はまさに、玄関先で追い返される、といった趣で、家の玄関あたりを表現した簡素なセット。

第四場
<そのすぐ後の日曜日、ピエールとエレン夫妻宅のパーティーにて、
エレンのろくでなしの弟、アナトーリに恋心を寄せられていることを知るナターシャ。
ただし、アナトーリは既婚者!>
って、そんな弟をナターシャに薦めるエレンという女はどういう女なんだ!と思いますが、
彼女は社交界きっての美人で、退廃的な雰囲気が売り。
なんとちゃっかりピエールの妻におさまっている。
オペラでは、ここが少し腑におちないというか、どうして人間的に優れている、とみんなに一目置かれているピエールのような人物が、
エレンのような女性を妻にしたか、という描写や説明が一切ないので。。
しかし、エレンの常識のなさはともかく、付け入られる心の隙間を作ったのはナターシャ自身の責任ともいえるでしょう。
兄のアナトーリも、超享楽的な人間で、享楽人間仲間のドーロホフという友人に
ナターシャへのラブレターまで代筆してもらうという駄目男ぶりなのですが、
なんと心の隙間とはおそろしい。そんなアナトーリが心に入ることをナターシャは許してしまうのです。
ただし、ナターシャは、アナトーリが既婚男性であることは知りません。
この後、ナターシャはアンドレイとの婚約を一方的に破棄し、
アナトーリにもちかけられた駆け落ちの計画に乗っていくのです。
アナトーリを歌ったバラーショフは、その駄目男ぶりをかすかに漂わせつつ、
横柄かつ更正不能者の雰囲気をきちんと出してました。

第五場
<その後の木曜日、享楽仲間ドーロホフの家にて、愛人のジプシーに別れを告げるアナトーリ>
ほんと、どうしようもない人です、このアナトーリ。
ナターシャの扱いなんかについても、ドーロホフにいちいち指南を受けてるんですから。
愛人のジプシー役のメゾが、おお、これぞロシアメゾ!ともいうべきまったりとした声を聞かせており、
こういう役ではそんな声質が良く合っている。
”あたしゃ別に気にしないけどね”と、恋人に捨てられるときも勝気なジプシーなのでした。

このシーンで、アナトーリがナターシャ同意の上での略奪&駆け落ちをその日に企てていることが語られます。
絨毯が、空中の、裾が少し床に広がるくらいの高さから吊り下げられていて、
床にはクッションが散らばり、後半の非常にグランドな雰囲気のセットとコントラストをつけるかのように、
前半では、舞踏会などのシーンをのぞいては、わりと空間を小さく使うセットが多いのが印象的でした。

ドーロホフ役のモロゾフは、どこか心の底でアナトーリのことを小ばかにしていそうな、
ちょっと一筋縄でいかない複雑な性格も歌に反映させていたのがよい。こんなちょっとの登場場面でなかなかできることではありません。

第六場
<その日の夜。アクロシモーヴァ夫人宅。ソニヤの密告により、アナトーリの計画を知ったナターシャの
お母さん代わりのような存在であるアクロシモーヴァ夫人、計画を阻止。
アナトーリは追い払われ、計画失敗に意気消沈するナターシャ。>
アナトーリのろくでもなさは有名なので、ナターシャのことを心配するソニヤは、
ナターシャから秘密に打ち明けられた駆け落ちの計画を、アクロシモーヴァ夫人に相談をかねて密告します。
母親のいないナターシャのために、養母のような役割を果たしてきた夫人は当然のことながら全力で計画を阻止。
計画は頓挫しますが、このことにより、アンドレイのもとへも完全に戻れなくなったナターシャ。
アクロシモーヴァ夫人に、あなたのお母さんがこんなところを見たらどんなに悲しがるか、と言われたナターシャ。
”お母さんなら気持ちをわかってくれるわ。”
ナターシャ、、、本当にあまったれた女だ。根性をたたきなおした方がいい。

アクロシモーヴァ夫人は事態の収拾役として、ピエールに白羽の矢をたてます。
理由として、夫人に素晴らしい心の持ち主だから、なんて言われてますが、
まあ、アナトーリの義理の兄にあたるわけですから、妥当な人選。

ピエールはナターシャを優しく慰め、アナトーリが既婚者であることも伝えます。
呆然とするナターシャ。
ナターシャは、後半、アンドレイと再会するシーンをのぞいて、
これが最後のシーンとなるのですが、それでもなぜか彼女には全く感情移入ができません。
あまりに失望の激しいナターシャを慰めるために、同じく既婚者であるところのピエールは彼女への思慕を告白します。
これ、あらすじで読むと”ええっ??”と言う感じで、
ピエール、君もかよ、、、とがっくり来るのですが、意外と実演でみると、
はっきりと、あくまでピエールは、ナターシャを慰めたい一心で、あくまでその延長として、
図らずもずっと心に隠していた思いが噴きだしてしまった、という感じで、結構せつないシーンになっています。
決して、これがチャーンス!、アンドレイとアナトーリが消えた今、
俺様が彼女を頂いちゃうもんね!という下卑な感覚とは違うのです。
それはここの音楽を聴くと伝わってきます。
ピエールが伝えようとしているのは、”君のことを魅力的に思う男はこのように山ほどいる。
だから強く生きていかなくちゃ。まだ人生が終わったわけじゃないんだ!”
というメッセージであって、一個人の恋愛感情のレベルを超えた告白となっているのです。
このピエールの役を歌ったBegleyが、最も今日のキャストのなかで説得力のある歌唱と演技を見せてくれた歌手の一人でした。


第七場
<同じ夜、エレンとピエール夫婦宅。計画の頓挫などまるでたいしたことでもなかったように、
エレンと共に遊びほうけるアナトーリを呼びつけ、ピエール、厳しく叱責。
一切一連の出来事を口外しないことを約束させ(まあ、多分破るんでしょうけど。)、
金をたたきつけ、アナトーリをモスクワから追放(どこに、かはオペラの内容からは不明。
原作ではその後、ロシア軍に参加して負傷するので、国外に行ったわけではないと思われる。)>
ここは、ピエール役のBegleyと、アナトーリ役のバラーショフの力量なら、
もっと緊張感のある場面になってもよかったと思うのですが、
なんだか風船の空気がぷすーっと抜けてしまったようでした。


エピグラフ
ここは、第一部から、第二部への予告編ともいうべきシーン。
プロジェクターに写された雲(この雲が流される早さで、時間の経過が感じられるようになっている。
たとえば、第二部での戦士の行軍のシーンで、雲が早送りになるシーンでは、
彼らがそれだけたくさん歩いたということがわかる、と言う具合に。)をバックに、
ロシアの人々が、ナポレオン率いるヨーロッパ12カ国がロシアに攻め込んでくるぞ、
自分たちは死んでもロシアを守るんだ!という決意を歌う合唱のシーン。
ここの音楽はすこし不思議な感じで、なんだかとってつけたような感じもなきにしもあらず。
こういう曲なんだと思うが、どのように演奏しても、演奏が困難なように聴こえる妙な曲。
しかし、第二部への期待は高まる!

<Part IIに続く>


Marina Poplavskaya (Natasha Rostova)
Alexej Markov (Prince Andrei Bolkonsky)
Kim Begley (Count Pierre Bezukhov)
Samuel Ramey (Field Marshal Kutuzov)
Oleg Balashov (Prince Anatol Kuragin)
Ekaterina Semenchuk (Sonya)
Mikhail Kit (Count Ilya Rostov)
Ekaterina Gubanova (Helene Bezukhova)
Vassily Gerello (Napoleon Bonaparte)
Nikolai Gassiev (Platon Karatayev)
Alexander Morozov (Lieutenant Dolokhov)
Vladimir Ognovenko (Old Prince Nikolai Bolkonsky)
Elizabeth Bishop (Maria Bolkonskaya)

Conductor: Valery Gergiev
Production: Andrei Konchalovsky
Set designer: George Tsypin
Dr Circ E Even
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***プロコフィエフ 戦争と平和 Prokofiev War and Peace***