Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

OTELLO (Wed, Mar 27, 2013)

2013-03-27 | メトロポリタン・オペラ
Aキャストではボータの不調とそれに伴う代役選びでひやひやさせられた『オテロ』
(初日&二日目の公演についてはこちら。またHDの公演についてはこちら)。
あれから約五ヶ月を経て、Bキャストでの上演が始まってます。

一時期はオテロ役におけるドミンゴの後継者ではないか?とまで言われていた記憶のあるクーラ。
私も映像や音源で彼の『オテロ』を拝見・拝聴したことはありますが、意外にもメトでこの役を彼が歌うのは今シーズンが初。
というわけで、彼のオテロを生で鑑賞するのは私もこれが初めて。
それからデズデーモナ役には私の好きなソプラノの一人であるストヤノーヴァが、
そして、2011年のメトの日本公演(『ルチア』)でカンパニー・デビューを果たしているアレクセイ・ドルゴフが今回カッシオ役でいよいよ実際にNYで舞台に立つとあってこちらも楽しみです。
ところがこういう時に必ず水を差す人がいるもので、さて、チケットを購入しようかな、と、メトのサイトでイアーゴ役のキャスティングを見て口から茶を吹きそうになりました。
トーマス・ハンプソン、、、。
私はいくつかの理由から彼のことが元々かなり苦手なのですが、昨シーズンの『マクベス』は、彼の歌唱とナディア・ミヒャエルの夫人役とが相まって、
今でも思い出したくない悪夢のような公演で、あれ以来、彼のヴェルディは絶対に避けねば!と強く心に刻んでいるのです。
すると、おや?3/27の公演だけ、イアーゴ役がマルコ・ヴラトーニャというイタリア人バリトンになっているではありませんか。しかもこれがメト・デビュー。
普段はランの一日だけ違うキャスト、特にそれがメト・デビュー、という場合はYouTubeでそれなりにその歌手のことをリサーチしてからチケットを購入するのですが、今回は全然ノー・チェック。
ハンプソンでなければ誰だっていいわ、もう!です。


(今日の公演でイアーゴ役を歌ったヴラトーニャを含む舞台写真は残念ながら存在しないので、この写真ではハンプソンがイアーゴです。)

今回、たまたまグランド・ティアの舞台から二番目に近いボックスの前列に一席空きがあったのでそれを抑えました。
Aキャストの指揮はビシュコフでしたが、Bキャストはアルティノグル。
この人は忘れもしない、以前『カルメン』でカウフマンへの視界をブロックされ、後ろから首を絞めてやりたい思いに何度もかられたフランス人指揮者です。
しかし、彼はそのような直接の害がなければ、遠くで見てる分には穏やかで人の良さそうな感じの人で、
むしろ、こんな羊みたいな人に『オテロ』の指揮が務まるんだろうか、、とにこにこしながら観客に挨拶している彼を見て心配になって来ました。
あの『カルメン』の時も、悪くはないけれど、かといって特別なことも何もしない指揮者、、という印象でしたし。

ところが、冒頭、オケがどかーん!とあの嵐を描写する音楽を奏で始める時、このモシンスキーの演出では雷光がばちばちっ!と舞台に走るのですが、
オケの演奏の音圧と相俟ってすごい迫力で、私などは座席から一センチ位お尻が浮きそうになりました。
最初はこの迫力は舞台に近い座席に座っているからなのかな、、、?と思ったのですが、オテロ役のクーラが歌い始める前までの数分の演奏を聴いて確信しました。
今日はオケが超ONだーっ!!!ハレルヤ!!!!

『オテロ』はメト・オケが演奏しなれた演目の1つだと言ってよいと思いますが、それゆえにアルティノグルの“何もしない作戦”“勝手にオケに演奏させる作戦”が功を奏しています。
Aキャストの時のビシュコフは自分なりの演奏をしようとしていて、その意欲は高く評価しますが、
リハーサルの時間が足りなかったのか、彼の意図が今ひとつ上手くオケに伝わっていなかったのか、
特に初日なんか、オケが演奏したい方向と指揮者が目指している方向が微妙に噛み合っていない感覚がありましたが、
今日はもうオケがのびのびと自分たちのやりたいように演奏していて、しかし、緊張感は損なわれておらず、情感豊かな演奏で、
私は指揮者が自分のやりたい方法にがっちりはめようとする演奏よりは、オケの自発性を感じる演奏の方を好む傾向にあるという自覚が前々からあるのですが、今日の演奏でそれを激しく再確認した次第です。

難破しそうな自国の船、そしてそれを飲み込まんとする海を見つめて言葉を交わす合唱やソリストの掛け合いからもう手に汗握る迫力でドキドキしてきました。
嵐を乗り越えた船に人々が歌います。
“All’approdo! Allo sbarco! 着岸したぞ!船を降りたぞ!”
“Evviva! Evviva! 万歳!万歳!”
そして、いよいよオテロ役のクーラが歌い始めます。どきどき。
“Esultate! L’orgoglio musulmano sepolto è in mar; nostra e del cielo è gloria! Dopo l’armi lo vinse l’uragano.
喜べ! 傲慢な回教徒どもは海中に葬り去った。栄光は我らと神のものだ!奴らは敗戦の後に嵐で殲滅した。“

、、、、、、、。

クーラももう50歳、このEsultateの部分を楽々と歌える時期はとっくに過ぎたと見え、歌が走る走る!
言葉の間に十分な間がなく、慌しく畳み掛けるような歌い方で、
“この部分はとっとと終わらせちまいたいぜ!”というのがありありと感じられる歌唱でした。
しかも、ただ早いだけでなく、それぞれの音の長さの正確さや音程もかなり微妙な感じで、
正直、この部分の歌唱が終わった時点では、私の頭の中で“今日のオテロ、もしかしてやばい??”という声がエコーしてました。

ただし、クーラの声の音圧と重量感、これはすごい。まじでバズーカ砲みたいな音です。
Aキャストのボータやアモノフのオテロの記憶なんて、この声の音圧で軽く吹き飛んだ、って感じです。
いや、それを言ったらムーティ指揮のシカゴ響がカーネギー・ホールで演奏会形式で演奏した『オテロ』(感想はまだあげてません。)でタイトル・ロールを歌ったアントネンコも、
その時は割りとロブストな声をしてるな、と思いましたが、今日のクーラと比べたらまだ可愛いもの。
他の歌手との比較だけでなく、クーラ自身がメトで過去に歌った他役と比べても、ここまでの音圧を感じたことがないので、何か役との相乗効果がなせる技なのかもしれないな、と思います。

Esultate!の部分でかなり不安にさせられたクーラでしたが、ストヤノヴァが登場してからの二重唱(“もう夜も更けた Già nella notte densa”)あたりから歌唱が安定して来て、その後はもう!!

以前にもどこかの記事で書いたと思うのですが、クーラという歌手にはどこか得体の知れないところがあって、良い時と悪い時の差があまりに激しいので、
私のヘッド友達にも彼が良い歌手かそうでないのか、今ひとつ判断しかねる、、と言っている人がいるんですが、
私も彼を初めて生で聴いて以来、2008/9年シーズンの『道化師』を聴いてこんなに力のある歌手だったのか?とびっくりするまでの10年近く、あまり高く評価してませんでした。
というのは、彼の歌は往々にして力任せになりがちで、それがドラマと噛み合わないと共演者をそっちのけで単に歌が暴走しているだけ、という印象を与えましたし、
時には歌そのものの乱暴さが程度を越して、正確性の点でこちらの許容度を越えるような公演もあったからです。

しかし、今日の公演はその情熱が単なる力任せにならず、見事に演技と噛み合っている。
歌も単なる乱暴の烙印を貼られるぎりぎり手前のところを走っていてそのスリリングなこと!!
単にカッシオがデズデーモナにオテロとの取りなしを頼んでいるに過ぎない、
その様子をイアーゴが利用して段々とオテロの胸の中に彼らが不倫を働いているのではないか?との不安を広めて行く場面での、
オテロの感情が刻々と変化して行く様子も実に描写が細かくタイミングが的確で、DVD化もされているリセウの2006年の公演(ストヤノーヴァとはこの時も共演してますね。)と比べても
一層解釈が深まっている感じで、これはオテロという役の解釈の1つのあり方として最高のレベルに達していると感じられるものになっています。

また彼は『道化師』の時もそうでしたが、役が正気を失う手前の、神経が極度に過敏になってぴりぴりしている時の歌唱・演技表現が非常に巧みで、
今回のオテロに関しても、イアーゴやデズデーモナに対する当り散らし方もかなり怖いですが、
それ以上に、自分の感情をコントロールできない自分自身への怒り、その表現が本当に素晴らしいと思います。

それから、力を出さないことによってかえってどれほど潜在的にすごい力を持っているか、ということを演技で表現しているのも上手いなあ、と思います。
先に書いたイアーゴが段々とオテロの胸中に疑惑の種を蒔くシーンではイアーゴの喉元を片手で摑んでそのまま机に投げ飛ばしていましたし(ヴラトーニャもハンプソンも決して小柄ではないのに!)、
また、オテロがデズデーモナを殺す場面はせつなくて、オテロが彼女の息が絶える姿を正視できずに、
彼女がいるのとは逆側の自分の肩を向き、その肩に顔を押し付けて泣き声を抑えながら、もう一方の片手だけで彼女の首を絞め上げて殺してしまうのですが、
この場面ではその微かな泣き声も歌唱の一部になってしまっていて、胸を衝かれました。



この『オテロ』の公演の前の週に、私はワシントンDCにオペラ旅行して来たのですが、
日中、スミソニアン国立動物園に立ち寄っている時、ライオンがかなりの長時間に渡って吠えている現場に行き当たりました。
あまりに強烈な吠え声なので、仲間同士で殺し合いでも始まっているのか?とびっくりしましたが、
何匹かいるうちの一頭だけが普通に遠くを見ながら吠えているだけで、ライオンって単独でもこんなにすごい声を出すのか、、とびっくりした次第です。
ものすごい広範囲の半径にわたって空気が震撼しているのが感じられるのです。
まさにこれこそ、録音には絶対に入らない種類の迫力声!
ライオンがオペラ歌手になったら、オペラハウスでは大人気なのに、録音ではいまいち良さがわからん、、とか言われて、
損するタイプの歌手になるんだろうなあ、、などととめどもないことを考えていたのですが、
今日舞台をのし歩いているクーラの姿とバズーカ砲のような声はまさに野放しになったライオンそのもの!
下手したら次の瞬間にも誰かの頭を食いちぎりそうな緊張感が常にあります。
と同時に、ボータやアモノフのオテロに決定的に欠けているのはこの感覚なんだ!と思いました。
ボータやアモノフはクーラに比べると声も佇まいも本当おっとりしていて、獅子というより象みたい。

第三幕では実際にテキストの中にオテロを指してLeon/Leone(獅子)という言葉が登場しますが、
ボータやアモノフみたいなオテロだと、この言葉が単なる強者を表す比喩の意味で使われているようにしか感じられません。
クーラのような演じ方をしてこそ、イアーゴが失神して倒れたオテロに向かって吐く“Ecco il Leone! これが獅子だとよ!”という言葉が何倍も生きて来ると思うのです。

この“Ecco il Leone!”の前に、“Chi può vietar che questa fronte io prema col mio tallone? こいつの頭を俺のかかとで踏みつけるのを誰が妨げられるか?”というイアーゴの言葉があるので、
私がこれまでに見たメトのモシンスキー演出の公演では、“Ecco il Leone!“の言葉に合わせてイアーゴ役のバリトンが
(さすがに頭を踏みつけるのは抵抗があるため)床に倒れたオテロ役のテノールの胸の辺りに足をのせて踏みにじるような動作をする、というパターンが多いのですが、
クーラのオテロ役が迫力あり過ぎで、あまりに怖かったんでしょう、
イアーゴ役のヴラトーニャが頭どころか胸の上ですら足を置くことをためらって、空中に足を浮かせたまま片足立ちになって“Ecco il Leone!”と歌っていたのはちょっと間抜けでおかしかったです。
この期に及んでオテロに遠慮するイアーゴ、、。
確かにかかとがクーラの胸に触れた瞬間、“てめえ!何まじで足のせてんだよ!”とか言いながら
いきなり立ち上がって殴りかかって来そうな感じがありますからね、、、ま、気持ちはわからなくはないです。

考えてみれば、その予兆はニ幕に既にあったのでした。
ニ幕の最後のオテロとイアーゴの二重唱(“そう、大理石のような空にかけて誓う Sì, pel ciel marmoreal giuro!”)は
アルティノグルが良い感じで野放しにして爆発したオケとクーラの歌声がまさに丁々発止という感じで盛り上がって行って、
ヴラトーニャもそれに引きずられ健闘、、、と、最近のオペラの公演ではだんだん体験することが少なくなって来た、良い意味での爆音合戦になりました。
なんだか最近では歌手の声のパワーを賞賛すると“繊細な耳を持っていない。”という風にとらえられてしまったり、
中には“デカ声は嫌。”とか“声がでかいだけ”といった意見など、パワフルな歌声がネガティブな意味でとらえられることも少なくないように思うのですが、
そういった方たちは優れたデカ声というのを本当に聴いたことがあるのかな?と思います。
クオリティの低いデカ声ばかり聴いて“声の大きいのは駄目”と即決するのはちょっともったいない。質の高いデカ声にはやっぱりそれ特有の魅力があると私は思います。
アンチ大声派が増えて来ているとしたら、それはクオリティの高いパワフルな歌唱を出せる歌手が今オペラの世界からものすごい勢いで消滅している、
というか、もうほとんどいない、、という、それも原因の一つだと思います。
それゆえに今日のクーラのような歌唱は貴重。Viva, でか声!
こういう声を聴いてしまうと、少なくともこれからしばらくはこの路線で『オテロ』を歌えるテノールはいないな、、と思えて、それはそれですごく寂しい。

で、クーラ自身もこの二重唱は会心の出来だったのでしょう、もうかなりのアドレナリン・ラッシュ状態になっていて、
幕が降りてインターミッション前の舞台挨拶にヴラトーニャと二人で登場した際、
“やったな!”という感じでぼかっ!とヴラトーニャの胸を殴りつけていて、本人はメト・デビューの後輩を労わっているつもりなんでしょうけど、
いたわっているというよりは、いたぶっている、という表現の方がぴったり来る感じ、、。
ヴラトーニャの顔に喜びと恐怖の入り混じった表情が走るのを私は見逃しませんでした。



先述したリセウ劇場の2006年の公演でもクーラと共演していたストヤノヴァ。
そのせいもあってか二人の間の信頼感を今日の公演の端々から感じました。
全幕終わってのカーテンコールでは二人ががっちりと抱き合ったまま数秒そのまま、、という場面もあって、
またクーラがストヤノヴァの肋骨の一本、二本、折るようなことになってなきゃいいけど、、とはらはらさせられましたが。
ストヤノヴァの声には独特の固さに金属的な響きが少し混じったような感じがするのが特徴かな、と思います。
(スラヴ系のハイ・パートの歌手~テノールとソプラノ~にその傾向を共通して感じるのは私の気のせいでしょうか?)
Aキャストのフレミングのまったりした声とはその点で対照的だと思います。
これみよがしな歌唱も、本人の個性全開の演技もないですが、いつも真摯な歌唱を聴かせてくれるので私は現役では好きなソプラノの一人です。
ただ、二、三年位前から他の劇場での歌唱の音源を聴いていても高音域でピッチが不安定になることが増えて来たように感じるところがあって、
1962年生まれだそうですので彼女もほぼ50歳(クーラと同い年くらいなんですね。)、そろそろ年齢の影響かな、、と思っていたんですが、
シカゴ響との演奏会形式の『オテロ』(2011年4月)では音を外そうものならムーティに半殺しに遭いかねないという緊張感があったからか、
完璧な音程で歌いこなしていたので、ネットの音源で聴いたと思った年齢による衰え云々も私の気のせいだったのかな、、と流してました。
しかし、ほぼ二年振りに今日の公演で彼女の歌声を聴いて、
“ああ、やっぱり年齢が段々声に現れるようになっていたんだな。”と思いました。
彼女の声にもともとちょっと固いテクスチャーと金属的な響きがあるのは先に書きましたが、年齢による歌声の変化により、今では音にものすごく角立った感触を感じるようになってしまっていて、
たった二年前の歌唱と比べても、かなり与える印象が変わって来ている程です。
特にこのデズデーモナ役は人を疑うことを知らない、というのがキャラクターの大きな要素になっていて、
リブレットには具体的な年齢設定の記述はありませんが、年の若さがそれに貢献していることはほとんど間違いなく、
とすると、年齢的にもかなり若いはずの役ですので、そのあたりの違和感を観客に感じさせずに聴かせるのは段々難しくなって来ているかな、、と思います。
デズデーモナはそろそろ封印しても良い役柄かもしれません。
彼女はもともと佇まいなんかがちょっとおばさん臭くて地味なところがあるので
(そしてそれこそが、キャリアの一番良い時期にどれだけ素晴らしい歌を聴かせても、彼女がメトではあまり重用されることがなかった原因の一つだと思っていて、
本当に嘆かわしい事態!とずっと私なんかは怒って来たのですが、、。)、
年齢を感じさせるようになるとしたら、そっち方面からだろう、とずっと思っていたのですが、
この役で、容姿や舞台上の動きよりも先に声で年齢を感じるようになってしまったのは大変意外でもあり、
こうなってしまうと、ますますメトでキャスティングされることは減って行ってしまうのかもしれないなあ、、と寂しい気持ちになります。
声の変化がここまでネガティブに影響しない役が他にあると思うので、そちらに上手くシフトして行ってくれるといいな、と思います。
もともと声の美しさそのもので勝負!というタイプの人ではなく、誠実感溢れる歌いぶりと地味ながら的確な表現力を持った人なので、
そのあたりも生かせるレパートリーを中心にしていってくれたら私は嬉しいのですが。
今日も若干ピッチが甘くなっていた箇所が二、三ありましたが、“アヴェ・マリア“のような絶対に外してはいけないところは見事にきちんと抑えていますし(最後の高音も綺麗でした)
精神力さえ緩まなければまだまだ観客の心に訴える歌を歌える歌手のはずです。

ボータ&フレミング組と全然違う味付けで面白いな、と思ったのは、オテロがデズデーモナに“A terra… e piangi! 地面に伏して、、、泣くがいい!”と言う場面。
ボータ&フレミング組はリブレットの“デズデーモナをつかまえ荒々しく”~“デズデーモナは倒れ、エミーリアとロドヴィーコが助け起こす”のト書きに割りに忠実に演じていたのに対し、
意外にもクーラのオテロはデズデーモナの手をつかんで地べたに放り投げたりしないんです。
クーラの個性を考えたらこれは一瞬意外です。
だって、さっき、あんた、ヴラトーニャを突き飛ばしてたじゃないか!ついでにデズデーモナも放り投げたらどうなんだ?という。
しかし、“A terra… e piangi!”という言葉と共に彼が指を地面に指すと、
ストヤノヴァのデズデーモナは自らの意志でがっくりと膝まずくのです。
これによりオテロがデズデーモナに対して持っている絶対的な力を強調する一方で、
彼自身が落ちて行っている罠から自分を救い出す術は何一つ持っていないというオテロの無力さと彼がデズデーモナに対して行使している力の空しさが強調され、
ト書き通りではないのにきちんと物語に沿っていて、非常に面白い効果を上げていると思いました。



イアーゴ役のヴラトーニャははげ、、いえ、スキンヘッドの面長顔でギョロ目という、なかなか個性的なルックスで、
開演前にプレイビルの写真を見た時は期待が高まったのですが、先のエピソードでもわかる通り、強面のルックスの割りにへたれなキャラで終始クーラの迫力に押されっ放し。
声はボリュームの面でも、トーンやカラーの面でも、際立った個性がなく、歌唱はそれなりに無難にこなしていますが、
なんの面白みも彼らしさもない歌唱で、長所と言えば、ハンプソンみたいにこちらが積極的に嫌いになる個性すらないこと位でしょうか。
、、、って、あれ?これは長所なのかな?
このような歌しか歌えないとしたら、彼の家族を除いて、彼の歌を聴きたくてわざわざ劇場に行く!という物好きはいないでしょう。
クーラとでは舞台上の存在感、オーラ、個性、パワー、何から何まで違い過ぎ。
普通だったら、こんなへなちょこなイアーゴ、罵倒して、して、しまくるところですが、こんないるのかいないのかわからないようなイアーゴを抱えてすら、観客全員をほとんど一人で舞台に引きずりこんだクーラの力に押し切られてしまって、罵倒する気があまり起きないのが不思議です。
それでも、これでイアーゴがAキャストのシュトルックマンみたいな人だったらもっとすごい公演になっていたかもしれないな、、と思います。
いや、そもそもHDのオテロとデズデーモナを、ボータ&フレミングというぬるま湯コンビじゃなくて、
こちらのクーラとストヤノヴァを立てて、シュトルックマンと組み合わせていたら、これは結構見物な公演になっていたかもしれません。
また失敗しましたね、メト。

カッシオ役のドルゴフ。
この人、、、、中学生じゃないんですよね?(笑)
なんか本当初々しくて子供みたいなんですけど!!!
カッシオはちょっと色男っぽい雰囲気が欲しいので、どんぐり君みたいな彼が舞台に出て来た時は、
あれ?高校の文化祭を見に来たんだっけ?と一瞬錯覚し、そして次に、大丈夫なのかな、、とちょっぴり不安を感じました。
初めて口を開いてからの数フレーズは、声もこちらがはっとするような特別な美声ではないし、素直な発声で、歌は丁寧に歌ってるな、、と感じる以外はあまり強い個性を感じないんですが、
彼の人柄と歌を歌う楽しさと喜びを感じている様子のせいなんでしょうか、
なんだか公演がすすんで行くにつれて、好感度が増して行っている自分がいました。
一幕が始まったばかりの時は、こんな中ボーみたいな子に、“ビアンカのキスには飽きたよ。”と言われてもなあ、、と三幕に不安を感じていたのですが、
いざ、その三幕になってみると、逆にその子供のような風貌を利用して、若い男の子が無邪気にとっかえひっかえ女の子を取り替えている雰囲気で上手く乗り切ってしまっていて、
なんか、不思議な魅力を持ったテノールだと思います。
彼はシベリアの出身なんですね。“シベリアの中坊“か、、。

ただAキャストを歌ったファビアーノが余裕でリリコ、それからもしかしたらさらに一歩進んだ重い役も将来的には歌える感じのがっちりとした歌声なのに対し、
このドルゴフ君は軽めの声で、少なくとも私に見える将来の範囲ではそれが劇的に変わることはないように思うので、
しばらくはベル・カントなんかが良いのではないかな、と思うのですが、マネジメントのサイトを見ると、まあ、何かあれこれ歌ってますね。
ベル・カントに混じって見えるのは、、、ん?トスカのカヴァラドッシ?!アリアドネのバッカス!?
、、、、なんというはちゃめちゃさ、、、。いやあ、、、本当に不思議な人だわ。


José Cura (Otello)
Krassimira Stoyanova (Desdemona)
Marco Vratogna (Iago)
Alexey Dolgov (Cassio)
Eduardo Valdes (Roderigo)
Stephen Gaertner (Montano)
Jennifer Johnon Cano (Emilia)
Alexander Tsymbalyuk (Lodovico)
Alexey Lavrov (A herald)
Conductor: Alain Altinoglu
Production: Elijah Moshinsky
Set design: Michael Yeargan
Costume design: Peter J. Hall
Lighting desing: Duane Schuler
Choreography: Eleanor Fazan
Stage direction: David Kneuss
Grand Tier Side Box 30 Front
LoA

***ヴェルディ オテロ オテッロ Verdi Otello***

PARSIFAL (Fri, Mar 8, 2013)

2013-03-08 | メトロポリタン・オペラ
『パルシファル』の公演の全体像についてはこちら

**第七日目**

いよいよラン最後の公演。
第六日の公演を追加で見に行くことに決めた理由の一つは、目玉演目でもHDが終わってしまうとメインのキャストが一公演お休みしてしまうことが時にあって、
楽日をブッチし、そのまま故郷、もしくは次に歌うことになっているオペラハウスのある国に飛んで行ってしまう、というケースをこれまでに実際見たことがあるからだ。
だから楽日のチケットが手元にあっても、カウフマンが、パペが、マッティが、降板してしまうのではないか、、と思うと、第六日も見ておいた方がいいのではないか、、との不安にかられてしまったのだ。
しかし、このオペラヘッドの過剰な心配をよそに、結局楽日の公演はダライマンも復帰し、チーム全員揃って迎えることが出来た。実にめでたい。

そして、この日は、ランの最後を飾るにふさわしい良い公演にしたい、というキャスト全員のエネルギーが漲っていた。
それは無能な演出だったならばとことん食いちぎったる!気満々のサメのようなヘッズたちや公演評を書くために来ている批評家達のリアクションが心配な初日とか、
また下手な歌と演技を出したらそれが全世界に配信され、それどころか後世のためにソフト化までされてしまう心配のあるHDの収録日とか、
そういった外から与えられるプレッシャーとは全く逆の種類の、
作品そのもの、そして、今回の演出での共同作業を通して培われたチーム全体(キャストだけでなく演出チーム、そしてオペラハウスのスタッフ全部を含む)に対するリスペクト、愛情、責任感、
そういったものから自発的に出て来ているポジティブな緊張感で、今回の『パルシファル』を誰もが実りあるプロジェクトとして捉えているのが明らかだ。
キャスト全員がここまでのレベルの充実感を感じていることがわかるメトでのプロダクションというのは、他にあまり思い出せない。少なくともこのブログが始まってからは。
ガッティの指揮からアッシャーの指揮にシフト・チェンジをしようとするプロセスの中で全7公演中最もオケの戸惑いと凡ミスが目立ったのは残念。
特にパルシファルの頭の上で槍が止まる場面でトランペットの首席奏者が音をクラックさせたのには、座席でこけると同時に猛烈な殺意。
しかし、今日のキャストはそんなことをものともしていないのだ。
トランペットがあそこで楽器の代わりにおならをふったとしても、カウフマンはまじ顔で歌い続けるに違いない。それ位全員気合が入っているのだ。
指揮者がフィッシュに変わってから歌手の中で最も歌いにくそうにしていたのはマッティかもしれない。
とにかくアンフォルタスの歌唱パートでのフィッシュの指揮のテンポが重いのだ。いくらマッティが力のある歌手と言ってもこれは辛いだろう。
パペは良くついて行っていたが、フィッシュはなんだか男性の低声パートに思い入れがあるのか、私の感覚では度を越して音足が重くなる。
テノールやソプラノのパートに関しては全くといっていいほどそういうことがなかったので、不思議だなと思う。

三幕に入ると、惜別の情が一気に押し寄せて来た。これで本当に最後なのだ。
一ヶ月近くかけて公演の軌跡を追い、それぞれの歌手の歌唱がどのような変貌を遂げ、また演出がどのように段々とキャストの間に、そしてオーディエンスの間に馴染んで行ったか、
その過程を観察していると、言葉では上手く説明しきれないような思い入れが出来てしまう。
でも、この日の公演の三幕で聴いたものは、そんな思い入れだけのせいではなかったはずだ。
私はいわゆる”花の沃野の動機”が初出する部分から鼻水の大洪水を起こしてこの幕だけでハンカチ一枚をお釈迦にし、真後ろの座席に座っていた男性は声を出して泣き続け、
すぐ横に座っている男性はさぞこんな二人に呆れていることだろう、と思いきや、私は見逃さなかったのだ。
作品の最後の音がなり終わった後、こっそり眼鏡をはずして彼も涙を拭っているのを。
美しい弦楽器の演奏が終わるあたりからオケが暗く重い旋律を奏でるのにかけて、
地平線の向こうに槍の先、そして槍の全体、そしてボロ布にまとってほとんど倒れそうになりながら歩いて来るパルシファルの姿、が順に見えてくると、
とうとう彼が、迷いの世界を抜け出し、聖なる世界に歩み入ったのだ、という感慨で胸が一杯になる。
そして、グルネマンツが彼をパルシファルだと認知する場面の静かな感動はどうだろう。
パペのあえて抑制された歌い方の中にいまだこの奇跡を信じられない思いで見守っているグルネマンツの心情が過不足なく表現されている。
ここから彼らが聖杯の広間に向けて出発するまでの音楽は、どんな言葉で説明しても陳腐になってしまう。音楽が到達出来る最高の境地に達していると思う。
パルシファルの”これぞ、我が最初の務め。洗礼を受け、救済者を信じよ。
Mein erstes Amt verricht' ich so: -
die Taufe nimm, und glaub an den Erlöser!”という言葉と共に洗礼を授けられたクンドリの涙が、
乾いた土地に突如流れ始める水として表現されるのは先の公演の感想で書いた通りだ。

そしてこの後、パルシファルは自分の周りに広がる世界を全く違う目で見つめるようになる。
初日にこの場面を見た時は、花もなければ春らしさもなく、何だろう、、?という感じだったが、
今日のような公演を聴くと、ほんの少しだけ空気が暖かくなるのを感じる。とても細かな変化だが、これも一つの”春”の描き方だろう。
世界がどうあるのか、が問題なのではなく、私達が世界をどのように見るのか、それが大事なのだ、というのがこの演出の一つのメッセージなのではないかと思う。
その目的のためには花を咲き乱れさせたりして世界のあり方そのものを変えてしまう必要はなく、ほんの少しだけでも私達の方が変わった、その温度を感じさせるだけで十分なのかもしれないな、と思う。
そして続いてグルネマンツが歌う言葉、ここにこの作品でワーグナーが伝えたいことの全てが集約されている。
”罪を悔い改めた人々の涙がこの日聖なる露となって野や畑を潤し、これほど豊かな命を育んだのです。
救い主の御跡を慕う生きとし生けるものは喜びをかみしめ祈りを捧げようとしています。
十字架の救い主をじかに見ることのかなわぬ彼らは救いに与かった人間を仰ぎ見るのです。
罪の重荷と恐怖から解き放たれ、愛ゆえの神の犠牲によって浄福に包まれた人間を。
野の草花にもわかるのです。今日ばかりは人の足に踏みにじられることはないと。
神が広大無量の心で人間を憐れみ人間のために苦しまれたように、今日は人間も慈愛の心で草花を踏みつけぬよう、心して足を運びます。
すると地に花を咲かせ、はかなく枯れ行くものたちはこぞって感謝を捧げるのです。
罪を浄められた自然が今日こそ無垢の日を迎えたのですから。”
続くパルシファルの
”かつて笑いかけて来た花は萎れてしまった。あの者たちも、今日は救いの手を待ち焦がれているだろうか。
お前の涙も恵みの露となった。まだ泣いているのか。ごらん、野は微笑んでいる。”
カウフマンは本当に柔らかくこの部分を歌う。
耳を澄ませばきちんと聴こえる音量なのだが、まるで囁いているかのように聴こえるので、オペラハウスではついみんな耳をそばだててしまうのだ。
観客席がまるで水を打ったように静かになり、そこで最後のsieh! es lacht die Aue(ごらん、野は微笑んでいる)が一つ一つの単語を強調するように、しかし柔らかさをもって発音され、
このフレーズが終わる時にはため息が出そうになる。
カウフマンは声そのものでなく、それが出て行く劇場の空間・空気に対するコマンド力も持っている。これは良い歌手には絶対不可欠の能力だ。
またこの日の彼の歌唱で印象深かったのはラストだ。
”その泉をこれ以上ふさいではならぬ。 Nicht soll der mehr verschlossen sein:
聖杯をあらわせ!厨子を開け! enthüllet den Gral! Öffnet den Schrein!"

この最後のÖffnet den Schreinを彼はこれまでの公演ではずっと一つ一つの単語にアクセントをつけるかのように発音していた。
ガッティの指揮の時はオケの演奏もそれを意識した演奏になっていたので、おそらくガッティの意向なのではないかと思う。
しかし、この最後の公演では彼は逆にこの三つの言葉がまるでつながっているかのように一息で歌ってみせた。
私はこちらの方が好きだ。聖なる血が聖杯の光の波に流れ入る、、という少し前の部分と上手く呼応し、まるでこのフレーズ自体が永遠に続く流れを表現しているように聴こえるからだ。
それにしても、この最後の最後に及んでまだ色々な表現の可能性にチャレンジするその精神には感服する。

表現の可能性といえば、随分変化したのは”愚か者”の時期のパルシファルの演技だ。
初日のカウフマンは幼児がやるように靴の外側に体重をのせて内側を浮かせO脚みたいなポーズをとってモジモジしたりしていた。
しかし、それ以外はあまりあから様に”愚者”演技をしない。
インターミッションでその話をすると、友人のマフィアな指揮者が原作(『パルツィヴァル』のことか?私は残念ながら未読)では
この時点でのパルシファルはティーンエイジャー位の年齢設定になっている、という指摘をしていて、なるほど、、と思った。
ニ幕のクリングゾルがパルシファルの童貞を奪ってしまえばこっちのもの!という趣旨の発言をしていることからも辻褄は合う。
”愚者”というから、なんとなくあっぱらぱーな元気一杯の小僧を想像してしまうが、”どのように愚かなのか”という説明はリブレットにもどこにも書いていない。
愚かと一口に言っても、馬鹿・頭の悪さを意味することもあれば、若さゆえに世の中のしくみや体制や人の気持ちに不慣れな愚かさだってあるし、
全く何も考えていない、という愚かさもあるだろう。
興味深かったのは、公演の回数が重なれば重なるほど、一幕に関しては”何もしない”演技に近付き、極端な若さの表現すら排除するようになっていったことで、
これはある意味非常に大胆なアプローチだ。
そして、そんなパルシファルが三幕でボロ布を脱ぎ捨て、真っ白になった頭を見せる時、
我々観客はクリングゾールの魔法の城を出た後も彼がどれほど長い旅を重ねて来たか、、それを思って一層敬虔な思いになる。



今日はグランド・ティアー一列目のどセンターで鑑賞したため、歌手達がまるで自分に向かって歌ってくれているような感覚を味わい、至福の思いを味わった。
テクニカルな面ではHDの日の公演が一番内容が良かったと思うが、今日の公演はラン中で一番ハートを感じるというか、独特の魅力がある公演だった。

カーテンコールではカウフマンがガッツポーズを出していたが、この作品で無事に7公演をつとめあげるというのはやはり相当プレッシャーだったはずだ。
メトの公演でバーンアウトしたか、直後にウィーンで予定されていた『パルシファル』はキャンセルしてしまったと聞いている。
ウィーンで鑑賞する予定だった方に対しては申し訳ないが、しかし、今回の公演を連続して鑑賞するとバーンアウトする気持ちもわかる。
私もこの『パルシファル』を鑑賞した後、余韻があまりに長く大きくて、しばらく他演目の公演に行きたくなくなったし、実際、必要最小限の数しか行かなかった。
それ位、今回の公演はかかわった全ての人(そしてそれはオーディエンスも含む)を良い意味で消耗させる内容のもので、
カーテン・コールでのキャストたちの充実感あふれる表情を見れば、今回のジラールとの作業が非常に有益な体験だったと彼らが感じていることがわかる。

初日の日はブーを出す観客が何人かいて、キャストの間に”こんな演出でもブーを受けるのか?”という驚きと戸惑いの表情が走り、
歌手たちが懸命に舞台挨拶に現れたジラールを擁護する拍手を舞台上で出す、というようなこともあったが、
日を追うにつれて段々ブーが少なくなって、楽日までにはオーディエンスの大多数がこの演出を支持していることに疑いの余地がなくなった。
今日のオーディエンスにはリピーターもかなりの数含まれていたと推測するが、それはカウフマンとかパペといった個別の歌手の力だけではなく、
公演全体に、もう一度観たい!聴きたい!もっとこの作品が伝えようとしていることを深く知りたい!と感じさせる力が大きかったからだと私は思っている。
少なくとも私が当初予定していた倍の公演数を観にいくことになった理由はそれだ。

リハーサルが徹底していたからか、マイナーな失敗ですらほとんど皆無だったこのプロダクションだが、楽日に可愛らしいアクシデントがあった。
ニ幕で花の乙女が槍を前に立て歌手の後ろで立っている場面があるのだが、この槍を立てられるよう小さなスタンドのようなものが地面に埋め込まれているのだと思われる。
ところが途中で一本の槍がバランスを失って倒れてしまい、この槍担当の花の乙女(ダンサーだと思う)が懸命にスタンドの中にもう一度収めようとするも、
スタンドがやや小さすぎるからか、まるで槍が”そこに戻るのは嫌よ~。”と言っているように、言う事を聞いてくれない。
その間、ずっと一本だけ聞かん坊の槍がぐらぐら~と揺れ続けていて、ダンサーの方の焦りが手に取るように感じられた。
しまいには彼女が素手で槍を持ち続けるはめになってしまったのだが、こういう誰の責任でもないアクシデントというのは生の舞台ではつきものだし、
みんな舞台に引きこまれていたので、ご本人が焦っているほどにはオーディエンスは気にしていないものだ。

Jonas Kaufmann (Parsifal)
Katarina Dalayman (Kundry)
René Pape (Gurnemanz)
Peter Mattei (Amfortas)
Evgeny Nikitin (Klingsor)
Rúni Brattaberg (Titurel)
Maria Zifchak (A Voice)
Mark Schowalter / Ryan Speedo Green (First / Second Knight of the Grail)
Jennifer Forni / Lauren McNeese / Andrew Stenson / Mario Chang (First / Second /Third / Fourth Sentry)
Kiera Duffy / Lei Xu / Irene Roberts / Haeran Hong / Katherine Whyte / Heather Johnson (Flower Maidens)

Conductor: Asher Fisch
Production: François Girard
Set design: Michael Levine
Costume design: Thibault Vancraenenbroeck
Lighting design: David Finn
Video design: Peter Flaherty
Choreography: Carolyn Choa
Dramaturg: Serge Lamothe

Gr Tier A Odd
OFF (LoA)

*** ワーグナー パルシファル パルジファル Wagner Parsifal ***



PARSIFAL (Tues, Mar 5, 2013)

2013-03-05 | メトロポリタン・オペラ
『パルシファル』の公演の全体像についてはこちら

**第六日目**
今日もドレス・サークルの最前列。
ここから二回は指揮がアッシャー・フィッシュに交代。
しかし、この6日ははそれだけでなく、クンドリ役が病欠のダライマンに変わり、ミカエラ・マルテンスになった。
今シーズン『パルシファル』で歌手の交代があったのはこの一件のみ。
マルテンスというと、確か2007-8年とその翌シーズンのの『ランメルモールのルチア』でアリーサを歌っていたメゾではなかったか?と思ったらやはりそうだった。
ワーグナーの作品を歌えるメゾだったとは意外だが、おそらく彼女がクンドリ役のアンダースタディだったのだと思われる。
きちんと演出の意図は理解し、彼女なりに真摯に努力しているのは伝わってくるのだが、
やはり他人が歌い演技しているのを目で見て頭の中で理解するのと、実際に舞台の上の相手がいる場でそれを再現するのとでは大違いで、細かいところでぎこちなさが目立った。
一幕でグルネマンツとパルシファルが聖杯城に向かう(とはいえ、この演出では具体的な城はないので、そうリブレット上ではなっている)場面の前に、
クンドリは眠りに落ちながら草の茂みに隠れていく、ということになっている。
ダライマンは眠りに落ちる場所を出来るだけ舞台袖の近くにしておくことで、少し這えばすぐに姿を消せるようにしていたが、
マルテンスはそれよりずっと舞台の中央寄りで眠りについてしまったので、いくら這っても舞台袖に辿りつかず、そのままあきらめて舞台上でぐったりと静止してしまったので、
あの舞台転換の感動的な音楽の中をこのまま彼女はずっと舞台の上で寝て過ごすつもりなのだろうか?とびっくりしたが、
少し舞台が暗くなるのをきっかけにむっくりと立ち上がってすたすたと舞台袖に消えて行った。
うーん、それはあんまりだろう。
それからラストでは、マルテンスが聖杯をカウフマンの近くに掲げすぎたために、カウフマンが自分の持っている槍の先を聖杯に入れる動作に四苦八苦していた。
こういう作品の要の部分で気分がそがれるような事態になるのは残念だ。



ダライマンに比べると、彼女が歌いやすい範囲の声域においては、よりみずみずしくがっちりとした音色で悪くないのだが、高音域になるとその音色が失われてしまい、
本人もそれに自覚があるからか、薄氷を踏むような歌い方になってしまうのもいただけない。
クンドリはそのレベルの歌手が歌う役柄ではないし、今回のように周りを見渡せば男性陣は誰も彼もが優秀なキャスト、、という環境の中ではなおさらだ。
ダライマンだって声楽的に欠点がないわけでは決してないのだが、それなりにねじ伏せて一つのクンドリ像を作っているのに対し、マルテンスはどこか遠慮がちだ。
これだとやっぱり二人のどちらかを採れといわれればダライマンを選ぶことになってしまう。
ランの途中で指揮者が交代する場合、交代した最初の公演はまだ前の指揮者の演奏の雰囲気が残っている、というケースをこれまでにも何度か体験したことがあるが、
今回もまさにそのパターンで、いまひとつフィッシュがどういう演奏をしたいのか見えなかった。
一方でもちろんガッティの演奏を面白くしていた部分を徹底させることの出来る本人(ガッティ)はもういないわけで、これまでの演奏と同じレベルの細部への拘りや音のきらめきを維持出来ているわけではない。
指揮者のスケジュールとの兼ね合いもあるのは良くわかるが、こういうランの最後の数回だけ別の指揮者、、というのもやめてほしいな、と個人的には思う。
どんな優れた指揮者でも、『パルシファル』みたいな作品でリハーサルもなしにいきなり指揮台に立って思い通りの指揮が出来るわけがないし、こんなことは指揮者、オケ、オーディエンス、誰の得にもならないと思うのだ。


Jonas Kaufmann (Parsifal)
Michaela Martens replacing Katarina Dalayman (Kundry)
René Pape (Gurnemanz)
Peter Mattei (Amfortas)
Evgeny Nikitin (Klingsor)
Rúni Brattaberg (Titurel)
Maria Zifchak (A Voice)
Mark Schowalter / Ryan Speedo Green (First / Second Knight of the Grail)
Jennifer Forni / Lauren McNeese / Andrew Stenson / Mario Chang (First / Second /Third / Fourth Sentry)
Kiera Duffy / Lei Xu / Irene Roberts / Haeran Hong / Katherine Whyte / Heather Johnson (Flower Maidens)

Conductor: Asher Fisch
Production: François Girard
Set design: Michael Levine
Costume design: Thibault Vancraenenbroeck
Lighting design: David Finn
Video design: Peter Flaherty
Choreography: Carolyn Choa
Dramaturg: Serge Lamothe

Dr Circ A Odd
OFF (LoA)

*** ワーグナー パルシファル パルジファル Wagner Parsifal ***

PARSIFAL (Sat Mtn, Mar 2, 2013)

2013-03-02 | メトロポリタン・オペラ
『パルシファル』の公演の全体像についてはこちら

注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。

**第五日目**

HDの日。ドレス・サークルの最前列で鑑賞。
第四日の公演が若干いびつながらエキサイティングな公演だったとすれば、第五日の公演は完成度の高さと公演のエネルギーの高さのバランスが最もよく取れていた公演だったと言ってよいだろう。
個々の歌手のベストの歌唱は他の日に跨っているのだが、全公演の中で一本だけDVD化する公演を好きに選んでいい、と言われれば、全体としての完成度の高さから、この日の公演を私も選ぶことになると思う。
ランの残りの二つの公演は指揮がフィッシュに変わってしまうので、ガッティの指揮する公演はこれで最後になってしまったわけだが、
彼のためにも今日はいい演奏をしたい!という意欲がひしひしとオケから感じられた。
カウフマンの歌唱には前回のような自分でアクセルを踏みすぎているのにも気付かないような暴走(そして、私はそういう暴走が結構好きだ。)はなかったが、
最初から最後まで見事な歌唱のコントロール配分と完全にフォーカスの定まった発声(そのために他の日の歌唱と比べて声の重量感・重圧感が若干違って感じた程だ)で、
前回のように危うげな音が出てそれをきっかけにコントロールに注意を払わなければならなくなる、ということがなく、末広がりに、最後に向かうほど良くなって、
クライマックスに最も良いポイントを合わせられる、という、声楽的には理想的な展開の歌唱になっていたと思う。
HDの日には暴走型よりもやはりこのような歌唱になるのは当然だし、この長さの作品になると、どこに自分の声や歌唱の一番良いところを持っていくか、という、マラソン選手にも似た計算が重要になってくる。
ラストで舞台下手に近い客席から始まって、センター、そして舞台上手に近い客席、と順にパルシファルが指先からオーディエンスにエネルギーを送るかのような仕草をするが、
これは聖杯と聖槍が出すエネルギーを、そして、それを可能にした”共苦”というコンセプトをオーディエンスと分かち合うためにある。
だから、これは単なる”振り付け”ではない。『パルシファル』という作品のメッセージそのものであり、この一見簡単に見える動きの中からオーディエンスがそれを感じるように演技しなければならない。
オペラハウスにいた我々はそのエネルギーの波及を確かに感じ取った。
今回、感想を書くにあたって、歌唱パートの日本語訳は白水社の『ワーグナー パルジファル』(日本ワーグナー協会監修 三宅幸夫/池上純一編訳)に拠っているが、
この場を借りて、この三宅さんと池上さんという会ったこともないお二人に心からの感謝を述べたい。
今回、カウフマン、パペ、マッティ、ダライマン、二キーチン、ブラッタバーグという素晴らしいソリスト陣、優秀な演出に指揮・オケ・合唱に恵まれて、『パルシファル』という作品を堪能したが、
そこにさらなるレイヤーを与えてくれたのはこの書物だ。
今回公演前の再学習として英訳とこのお二人が手がけられた邦訳、両方拝読したが、
お二人が翻訳と解説を通して見せているほとんど執念と言ってもよいこだわりとこの作品への奉仕の精神はそれ自体が一つのアートになっている、と私は感じた。
作品中何度も歌われ、この作品のキーワードと言ってもよいMitleidという言葉に与えられている”共苦”という訳も素晴らしいと思う。
私が使用した英訳、そしてメトの字幕でもそうだが、この言葉が単にcompassionという風に訳されていて、
この言葉は現代では同情というニュアンスも多分に含むようになっている(し、compassionの一般的な和訳は”同情”だ)が、
苦しんでいる人を外から見て”同情”するのと、苦しんでいる人の心に自分も居て”共苦”するのとでは大違いだ。
それを言うとメトの『パルシファル』の英語字幕は人がオペラの舞台を見ながら文字を読める時間との関係との兼ね合いもあるのだろうが、訳が随分荒く、
NYのワグネリアンたちからも”原文の意味が出来っていない。”と多く嘆きの声が上がっている。
HDの日本上映はメトの英訳字幕からの和訳になるのだろうが、出来ることならば、三宅さん/池上さん訳を採用して頂きたいと強く思う。

**出待ち編**

公演の内容が本当に良かったので、『パルシファル』で出待ちをするなら今日だろう、、ということで出待ちです。
事前に打ち合わせたわけではないのですが、ステージ・ドアにはゆみゆみさんとKinoxさんもいらっしゃっていて、
後、日本からいらっしゃっていたお着物がお似合いで本当に素敵でいらしたパペ・ファンの女性の方を含めた4人で楽しくお喋りしながらでしたので、
本当はそうでもなかったのかもしれませんが、いつもよりも早く、あっという間に全員が出てきたような気がしました。
最初に捕獲したのは演出家のジラール。気の毒にこのHDの日すら一名激しくブーを食らわせていた人がいて、出てきた時は憮然とした表情でしたが、
カナダかフランスから来たと思しき可愛いギャルに”良かったですう~。”とフランス語で話しかけられるといきなりでれでれ。
ったく、フランス語圏のおやじはどいつもこいつも。
それにしても、煙草吸いながらサインするの、やめて欲しい。ええ、思いっきり上昇して来た煙が煙草嫌いのMadokakipの鼻腔を直撃しましたとも。

次に現れたのはティトゥレル役のルニ・ブラッタバーグ。
彼はカーテンコールの時以外、舞台には現れないし、プレイビルのソリスト紹介の欄にも載せてもらっていないので、出待ち常連陣にも彼の正体が見破れなかった様子。
ふふふ。私はですね、この日の公演の一週間前にNYのワーグナー・ソサエティの『パルシファル』勉強会に参加したんですが、
ゲストがダライマンとこのルニさんだったんですよ。だから顔ははっきり覚えてるの!
というわけで、彼は私がもらった~!と駆け寄って行って、ペンを差し出すと、”僕の名前は何でしょう?”
うーん。名前は、、、なんだっけ?忘れちゃった(笑)
”僕が誰だかわからずにサインもらおうとしてるの?”と言うので、
”知ってるわよん。ティトゥレル役を歌ったもの。”と言うと、”Very good!"と大喜びでサインしてくれました。
その後は、ルニさん、ルニさん、と常連組にもみくちゃにされてました。彼もお喋りが大好きみたいだし、よかった、よかった。

と、次はニキーチンだ!
体に対して頭が横と前後両方にでかい。あの頭蓋骨の中で声が良く響きそうだなあ、、と見とれてしまった。
だけど、やっぱり、なんかこの人、あたし、こわい(笑)
それでもおそるおそる近付いてサインをお願いします、と言ってペンを差し出すと、
サインしてくれるのはいいんですが、あの、それ、握ってるの、ペンだけじゃなくて私の手ごと握ってるから、、という、、。
だけど、怖くて何も言えない、、。というわけで、私の手ごとつかんでサインをしてくれました。プレイビルのど真ん中にすっごくでかく。
もー!!カウフマンがサインする場所がなくなっちゃったじゃないのよー!!!

そして、続け様にでかい人が二人出て来たと思ったらマッティとパペだ。でけ~っ。
パペもすごく大きいけど、マッティはさらに彼の頭の上から首が出てる位。
ゆみゆみさんが聞きたい!と仰っていた質問をマッティに直撃。
”トロヴァトーレのルーナは歌わないんですか?”
”実は指揮者からは君に絶対向いてるから、って薦められてるんだけどね。でも、まだ完全には準備出来てないかな、って思うから。”
あなた、そんなこと、アンフォルタス役についても言ってたじゃないですか。
案じるより産むが易し!!ルーナももう歌っちゃいましょう!!
だけど、”Someday!"って言ってましたから可能性がないわけではなさそう。楽しみですね。
彼は本当にぶったところや気取ったところがないのが格好いい!

今回の出待ちで思いの外(ん?)素敵だったのはパペ。
私からは一言も日本語では話しかけていないのに、さらさら、、とサインをした後、きちんと目を見ながら物静かな声で”アリガト。”って言ってくれました。
これまで出待ちした中で佇まいが素敵な人ナンバーワンかもしれません。

その間にメークも完全にはとれない状態で出てきていたのがダライマン。
そばで見ると結構おばちゃんだな。私も人のこといえないけど。
字は人柄を表すというけれど、彼女の字はなんかはんこか何かみたいに几帳面で、まめな人なのかな~と思います。

と、そこにやっと現れたカウフマン!!
いやーん、どうしたのー!?
数年前『トスカ』の出待ちの時に身につけていた花輪君みたいなキュートなネッカチーフとスーツから大変身、今日は革ジャンじゃないのー!
それにあの頃と比べると、やっぱりスター歌手っぽい佇まいになって来ましたね。
本当の話なのか単なるガセなのかは知りませんが、彼がヨーロッパのどこかの国で出待ちのファンに対して
”君達が僕に風邪をうつしたりするからもう一緒に写真を撮ったり握手をしたりしない。”と宣言したことがある、という話を聞いたことがあったんですが、
今日は全然皆と普通に写真を撮っているので、私も便乗してiPhoneで一枚パチリして頂きました。
件のお着物の女性がすごく上手に撮ってくださって、しかも、そのままじゃフレームに納まりきらないからもう少し寄って下さい、と、とんでもないナイスな一言を発して下さったおかげで、
ヨナス(あ、ファーストネームベースになってる、、)が肩を組む準備をしてくれたので、これ勿怪の幸い!とばかりに彼の胸にとびこんだせいか、
撮影された写真を見てみたら、私がカウフマンに抱きつかんばかりに近寄っている写真になっていて、思わず”こらこら、、。”と自分に駄目出ししたくなる位です。
内心、彼も”そこまで寄らなくても、、、。”と思っていたことでしょう。
まあ、いいです。今日の公演の思い出と共にこれは私の一生の宝物。プリントアウトしてサインの入ったプレイビルと一緒に額に入れたいと思います。

残念ながらガッティは捕獲できずじまい。ぬぼーっとしてるように見えて、結構逃げ足が早い。巻かれました。


Jonas Kaufmann (Parsifal)
Katarina Dalayman (Kundry)
René Pape (Gurnemanz)
Peter Mattei (Amfortas)
Evgeny Nikitin (Klingsor)
Rúni Brattaberg (Titurel)
Maria Zifchak (A Voice)
Mark Schowalter / Ryan Speedo Green (First / Second Knight of the Grail)
Jennifer Forni / Lauren McNeese / Andrew Stenson / Mario Chang (First / Second /Third / Fourth Sentry)
Kiera Duffy / Lei Xu / Irene Roberts / Haeran Hong / Katherine Whyte / Heather Johnson (Flower Maidens)

Conductor: Daniele Gatti
Production: François Girard
Set design: Michael Levine
Costume design: Thibault Vancraenenbroeck
Lighting design: David Finn
Video design: Peter Flaherty
Choreography: Carolyn Choa
Dramaturg: Serge Lamothe

Dr Circ A Even
OFF (LoA)

*** ワーグナー パルシファル パルジファル Wagner Parsifal ***