Aキャストではボータの不調とそれに伴う代役選びでひやひやさせられた『オテロ』
(初日&二日目の公演についてはこちら。またHDの公演についてはこちら)。
あれから約五ヶ月を経て、Bキャストでの上演が始まってます。
一時期はオテロ役におけるドミンゴの後継者ではないか?とまで言われていた記憶のあるクーラ。
私も映像や音源で彼の『オテロ』を拝見・拝聴したことはありますが、意外にもメトでこの役を彼が歌うのは今シーズンが初。
というわけで、彼のオテロを生で鑑賞するのは私もこれが初めて。
それからデズデーモナ役には私の好きなソプラノの一人であるストヤノーヴァが、
そして、2011年のメトの日本公演(『ルチア』)でカンパニー・デビューを果たしているアレクセイ・ドルゴフが今回カッシオ役でいよいよ実際にNYで舞台に立つとあってこちらも楽しみです。
ところがこういう時に必ず水を差す人がいるもので、さて、チケットを購入しようかな、と、メトのサイトでイアーゴ役のキャスティングを見て口から茶を吹きそうになりました。
トーマス・ハンプソン、、、。
私はいくつかの理由から彼のことが元々かなり苦手なのですが、昨シーズンの『マクベス』は、彼の歌唱とナディア・ミヒャエルの夫人役とが相まって、
今でも思い出したくない悪夢のような公演で、あれ以来、彼のヴェルディは絶対に避けねば!と強く心に刻んでいるのです。
すると、おや?3/27の公演だけ、イアーゴ役がマルコ・ヴラトーニャというイタリア人バリトンになっているではありませんか。しかもこれがメト・デビュー。
普段はランの一日だけ違うキャスト、特にそれがメト・デビュー、という場合はYouTubeでそれなりにその歌手のことをリサーチしてからチケットを購入するのですが、今回は全然ノー・チェック。
ハンプソンでなければ誰だっていいわ、もう!です。
(今日の公演でイアーゴ役を歌ったヴラトーニャを含む舞台写真は残念ながら存在しないので、この写真ではハンプソンがイアーゴです。)
今回、たまたまグランド・ティアの舞台から二番目に近いボックスの前列に一席空きがあったのでそれを抑えました。
Aキャストの指揮はビシュコフでしたが、Bキャストはアルティノグル。
この人は忘れもしない、以前『カルメン』でカウフマンへの視界をブロックされ、後ろから首を絞めてやりたい思いに何度もかられたフランス人指揮者です。
しかし、彼はそのような直接の害がなければ、遠くで見てる分には穏やかで人の良さそうな感じの人で、
むしろ、こんな羊みたいな人に『オテロ』の指揮が務まるんだろうか、、とにこにこしながら観客に挨拶している彼を見て心配になって来ました。
あの『カルメン』の時も、悪くはないけれど、かといって特別なことも何もしない指揮者、、という印象でしたし。
ところが、冒頭、オケがどかーん!とあの嵐を描写する音楽を奏で始める時、このモシンスキーの演出では雷光がばちばちっ!と舞台に走るのですが、
オケの演奏の音圧と相俟ってすごい迫力で、私などは座席から一センチ位お尻が浮きそうになりました。
最初はこの迫力は舞台に近い座席に座っているからなのかな、、、?と思ったのですが、オテロ役のクーラが歌い始める前までの数分の演奏を聴いて確信しました。
今日はオケが超ONだーっ!!!ハレルヤ!!!!
『オテロ』はメト・オケが演奏しなれた演目の1つだと言ってよいと思いますが、それゆえにアルティノグルの“何もしない作戦”“勝手にオケに演奏させる作戦”が功を奏しています。
Aキャストの時のビシュコフは自分なりの演奏をしようとしていて、その意欲は高く評価しますが、
リハーサルの時間が足りなかったのか、彼の意図が今ひとつ上手くオケに伝わっていなかったのか、
特に初日なんか、オケが演奏したい方向と指揮者が目指している方向が微妙に噛み合っていない感覚がありましたが、
今日はもうオケがのびのびと自分たちのやりたいように演奏していて、しかし、緊張感は損なわれておらず、情感豊かな演奏で、
私は指揮者が自分のやりたい方法にがっちりはめようとする演奏よりは、オケの自発性を感じる演奏の方を好む傾向にあるという自覚が前々からあるのですが、今日の演奏でそれを激しく再確認した次第です。
難破しそうな自国の船、そしてそれを飲み込まんとする海を見つめて言葉を交わす合唱やソリストの掛け合いからもう手に汗握る迫力でドキドキしてきました。
嵐を乗り越えた船に人々が歌います。
“All’approdo! Allo sbarco! 着岸したぞ!船を降りたぞ!”
“Evviva! Evviva! 万歳!万歳!”
そして、いよいよオテロ役のクーラが歌い始めます。どきどき。
“Esultate! L’orgoglio musulmano sepolto è in mar; nostra e del cielo è gloria! Dopo l’armi lo vinse l’uragano.
喜べ! 傲慢な回教徒どもは海中に葬り去った。栄光は我らと神のものだ!奴らは敗戦の後に嵐で殲滅した。“
、、、、、、、。
クーラももう50歳、このEsultateの部分を楽々と歌える時期はとっくに過ぎたと見え、歌が走る走る!
言葉の間に十分な間がなく、慌しく畳み掛けるような歌い方で、
“この部分はとっとと終わらせちまいたいぜ!”というのがありありと感じられる歌唱でした。
しかも、ただ早いだけでなく、それぞれの音の長さの正確さや音程もかなり微妙な感じで、
正直、この部分の歌唱が終わった時点では、私の頭の中で“今日のオテロ、もしかしてやばい??”という声がエコーしてました。
ただし、クーラの声の音圧と重量感、これはすごい。まじでバズーカ砲みたいな音です。
Aキャストのボータやアモノフのオテロの記憶なんて、この声の音圧で軽く吹き飛んだ、って感じです。
いや、それを言ったらムーティ指揮のシカゴ響がカーネギー・ホールで演奏会形式で演奏した『オテロ』(感想はまだあげてません。)でタイトル・ロールを歌ったアントネンコも、
その時は割りとロブストな声をしてるな、と思いましたが、今日のクーラと比べたらまだ可愛いもの。
他の歌手との比較だけでなく、クーラ自身がメトで過去に歌った他役と比べても、ここまでの音圧を感じたことがないので、何か役との相乗効果がなせる技なのかもしれないな、と思います。
Esultate!の部分でかなり不安にさせられたクーラでしたが、ストヤノヴァが登場してからの二重唱(“もう夜も更けた Già nella notte densa”)あたりから歌唱が安定して来て、その後はもう!!
以前にもどこかの記事で書いたと思うのですが、クーラという歌手にはどこか得体の知れないところがあって、良い時と悪い時の差があまりに激しいので、
私のヘッド友達にも彼が良い歌手かそうでないのか、今ひとつ判断しかねる、、と言っている人がいるんですが、
私も彼を初めて生で聴いて以来、2008/9年シーズンの『道化師』を聴いてこんなに力のある歌手だったのか?とびっくりするまでの10年近く、あまり高く評価してませんでした。
というのは、彼の歌は往々にして力任せになりがちで、それがドラマと噛み合わないと共演者をそっちのけで単に歌が暴走しているだけ、という印象を与えましたし、
時には歌そのものの乱暴さが程度を越して、正確性の点でこちらの許容度を越えるような公演もあったからです。
しかし、今日の公演はその情熱が単なる力任せにならず、見事に演技と噛み合っている。
歌も単なる乱暴の烙印を貼られるぎりぎり手前のところを走っていてそのスリリングなこと!!
単にカッシオがデズデーモナにオテロとの取りなしを頼んでいるに過ぎない、
その様子をイアーゴが利用して段々とオテロの胸の中に彼らが不倫を働いているのではないか?との不安を広めて行く場面での、
オテロの感情が刻々と変化して行く様子も実に描写が細かくタイミングが的確で、DVD化もされているリセウの2006年の公演(ストヤノーヴァとはこの時も共演してますね。)と比べても
一層解釈が深まっている感じで、これはオテロという役の解釈の1つのあり方として最高のレベルに達していると感じられるものになっています。
また彼は『道化師』の時もそうでしたが、役が正気を失う手前の、神経が極度に過敏になってぴりぴりしている時の歌唱・演技表現が非常に巧みで、
今回のオテロに関しても、イアーゴやデズデーモナに対する当り散らし方もかなり怖いですが、
それ以上に、自分の感情をコントロールできない自分自身への怒り、その表現が本当に素晴らしいと思います。
それから、力を出さないことによってかえってどれほど潜在的にすごい力を持っているか、ということを演技で表現しているのも上手いなあ、と思います。
先に書いたイアーゴが段々とオテロの胸中に疑惑の種を蒔くシーンではイアーゴの喉元を片手で摑んでそのまま机に投げ飛ばしていましたし(ヴラトーニャもハンプソンも決して小柄ではないのに!)、
また、オテロがデズデーモナを殺す場面はせつなくて、オテロが彼女の息が絶える姿を正視できずに、
彼女がいるのとは逆側の自分の肩を向き、その肩に顔を押し付けて泣き声を抑えながら、もう一方の片手だけで彼女の首を絞め上げて殺してしまうのですが、
この場面ではその微かな泣き声も歌唱の一部になってしまっていて、胸を衝かれました。
この『オテロ』の公演の前の週に、私はワシントンDCにオペラ旅行して来たのですが、
日中、スミソニアン国立動物園に立ち寄っている時、ライオンがかなりの長時間に渡って吠えている現場に行き当たりました。
あまりに強烈な吠え声なので、仲間同士で殺し合いでも始まっているのか?とびっくりしましたが、
何匹かいるうちの一頭だけが普通に遠くを見ながら吠えているだけで、ライオンって単独でもこんなにすごい声を出すのか、、とびっくりした次第です。
ものすごい広範囲の半径にわたって空気が震撼しているのが感じられるのです。
まさにこれこそ、録音には絶対に入らない種類の迫力声!
ライオンがオペラ歌手になったら、オペラハウスでは大人気なのに、録音ではいまいち良さがわからん、、とか言われて、
損するタイプの歌手になるんだろうなあ、、などととめどもないことを考えていたのですが、
今日舞台をのし歩いているクーラの姿とバズーカ砲のような声はまさに野放しになったライオンそのもの!
下手したら次の瞬間にも誰かの頭を食いちぎりそうな緊張感が常にあります。
と同時に、ボータやアモノフのオテロに決定的に欠けているのはこの感覚なんだ!と思いました。
ボータやアモノフはクーラに比べると声も佇まいも本当おっとりしていて、獅子というより象みたい。
第三幕では実際にテキストの中にオテロを指してLeon/Leone(獅子)という言葉が登場しますが、
ボータやアモノフみたいなオテロだと、この言葉が単なる強者を表す比喩の意味で使われているようにしか感じられません。
クーラのような演じ方をしてこそ、イアーゴが失神して倒れたオテロに向かって吐く“Ecco il Leone! これが獅子だとよ!”という言葉が何倍も生きて来ると思うのです。
この“Ecco il Leone!”の前に、“Chi può vietar che questa fronte io prema col mio tallone? こいつの頭を俺のかかとで踏みつけるのを誰が妨げられるか?”というイアーゴの言葉があるので、
私がこれまでに見たメトのモシンスキー演出の公演では、“Ecco il Leone!“の言葉に合わせてイアーゴ役のバリトンが
(さすがに頭を踏みつけるのは抵抗があるため)床に倒れたオテロ役のテノールの胸の辺りに足をのせて踏みにじるような動作をする、というパターンが多いのですが、
クーラのオテロ役が迫力あり過ぎで、あまりに怖かったんでしょう、
イアーゴ役のヴラトーニャが頭どころか胸の上ですら足を置くことをためらって、空中に足を浮かせたまま片足立ちになって“Ecco il Leone!”と歌っていたのはちょっと間抜けでおかしかったです。
この期に及んでオテロに遠慮するイアーゴ、、。
確かにかかとがクーラの胸に触れた瞬間、“てめえ!何まじで足のせてんだよ!”とか言いながら
いきなり立ち上がって殴りかかって来そうな感じがありますからね、、、ま、気持ちはわからなくはないです。
考えてみれば、その予兆はニ幕に既にあったのでした。
ニ幕の最後のオテロとイアーゴの二重唱(“そう、大理石のような空にかけて誓う Sì, pel ciel marmoreal giuro!”)は
アルティノグルが良い感じで野放しにして爆発したオケとクーラの歌声がまさに丁々発止という感じで盛り上がって行って、
ヴラトーニャもそれに引きずられ健闘、、、と、最近のオペラの公演ではだんだん体験することが少なくなって来た、良い意味での爆音合戦になりました。
なんだか最近では歌手の声のパワーを賞賛すると“繊細な耳を持っていない。”という風にとらえられてしまったり、
中には“デカ声は嫌。”とか“声がでかいだけ”といった意見など、パワフルな歌声がネガティブな意味でとらえられることも少なくないように思うのですが、
そういった方たちは優れたデカ声というのを本当に聴いたことがあるのかな?と思います。
クオリティの低いデカ声ばかり聴いて“声の大きいのは駄目”と即決するのはちょっともったいない。質の高いデカ声にはやっぱりそれ特有の魅力があると私は思います。
アンチ大声派が増えて来ているとしたら、それはクオリティの高いパワフルな歌唱を出せる歌手が今オペラの世界からものすごい勢いで消滅している、
というか、もうほとんどいない、、という、それも原因の一つだと思います。
それゆえに今日のクーラのような歌唱は貴重。Viva, でか声!
こういう声を聴いてしまうと、少なくともこれからしばらくはこの路線で『オテロ』を歌えるテノールはいないな、、と思えて、それはそれですごく寂しい。
で、クーラ自身もこの二重唱は会心の出来だったのでしょう、もうかなりのアドレナリン・ラッシュ状態になっていて、
幕が降りてインターミッション前の舞台挨拶にヴラトーニャと二人で登場した際、
“やったな!”という感じでぼかっ!とヴラトーニャの胸を殴りつけていて、本人はメト・デビューの後輩を労わっているつもりなんでしょうけど、
いたわっているというよりは、いたぶっている、という表現の方がぴったり来る感じ、、。
ヴラトーニャの顔に喜びと恐怖の入り混じった表情が走るのを私は見逃しませんでした。
先述したリセウ劇場の2006年の公演でもクーラと共演していたストヤノヴァ。
そのせいもあってか二人の間の信頼感を今日の公演の端々から感じました。
全幕終わってのカーテンコールでは二人ががっちりと抱き合ったまま数秒そのまま、、という場面もあって、
またクーラがストヤノヴァの肋骨の一本、二本、折るようなことになってなきゃいいけど、、とはらはらさせられましたが。
ストヤノヴァの声には独特の固さに金属的な響きが少し混じったような感じがするのが特徴かな、と思います。
(スラヴ系のハイ・パートの歌手~テノールとソプラノ~にその傾向を共通して感じるのは私の気のせいでしょうか?)
Aキャストのフレミングのまったりした声とはその点で対照的だと思います。
これみよがしな歌唱も、本人の個性全開の演技もないですが、いつも真摯な歌唱を聴かせてくれるので私は現役では好きなソプラノの一人です。
ただ、二、三年位前から他の劇場での歌唱の音源を聴いていても高音域でピッチが不安定になることが増えて来たように感じるところがあって、
1962年生まれだそうですので彼女もほぼ50歳(クーラと同い年くらいなんですね。)、そろそろ年齢の影響かな、、と思っていたんですが、
シカゴ響との演奏会形式の『オテロ』(2011年4月)では音を外そうものならムーティに半殺しに遭いかねないという緊張感があったからか、
完璧な音程で歌いこなしていたので、ネットの音源で聴いたと思った年齢による衰え云々も私の気のせいだったのかな、、と流してました。
しかし、ほぼ二年振りに今日の公演で彼女の歌声を聴いて、
“ああ、やっぱり年齢が段々声に現れるようになっていたんだな。”と思いました。
彼女の声にもともとちょっと固いテクスチャーと金属的な響きがあるのは先に書きましたが、年齢による歌声の変化により、今では音にものすごく角立った感触を感じるようになってしまっていて、
たった二年前の歌唱と比べても、かなり与える印象が変わって来ている程です。
特にこのデズデーモナ役は人を疑うことを知らない、というのがキャラクターの大きな要素になっていて、
リブレットには具体的な年齢設定の記述はありませんが、年の若さがそれに貢献していることはほとんど間違いなく、
とすると、年齢的にもかなり若いはずの役ですので、そのあたりの違和感を観客に感じさせずに聴かせるのは段々難しくなって来ているかな、、と思います。
デズデーモナはそろそろ封印しても良い役柄かもしれません。
彼女はもともと佇まいなんかがちょっとおばさん臭くて地味なところがあるので
(そしてそれこそが、キャリアの一番良い時期にどれだけ素晴らしい歌を聴かせても、彼女がメトではあまり重用されることがなかった原因の一つだと思っていて、
本当に嘆かわしい事態!とずっと私なんかは怒って来たのですが、、。)、
年齢を感じさせるようになるとしたら、そっち方面からだろう、とずっと思っていたのですが、
この役で、容姿や舞台上の動きよりも先に声で年齢を感じるようになってしまったのは大変意外でもあり、
こうなってしまうと、ますますメトでキャスティングされることは減って行ってしまうのかもしれないなあ、、と寂しい気持ちになります。
声の変化がここまでネガティブに影響しない役が他にあると思うので、そちらに上手くシフトして行ってくれるといいな、と思います。
もともと声の美しさそのもので勝負!というタイプの人ではなく、誠実感溢れる歌いぶりと地味ながら的確な表現力を持った人なので、
そのあたりも生かせるレパートリーを中心にしていってくれたら私は嬉しいのですが。
今日も若干ピッチが甘くなっていた箇所が二、三ありましたが、“アヴェ・マリア“のような絶対に外してはいけないところは見事にきちんと抑えていますし(最後の高音も綺麗でした)
精神力さえ緩まなければまだまだ観客の心に訴える歌を歌える歌手のはずです。
ボータ&フレミング組と全然違う味付けで面白いな、と思ったのは、オテロがデズデーモナに“A terra… e piangi! 地面に伏して、、、泣くがいい!”と言う場面。
ボータ&フレミング組はリブレットの“デズデーモナをつかまえ荒々しく”~“デズデーモナは倒れ、エミーリアとロドヴィーコが助け起こす”のト書きに割りに忠実に演じていたのに対し、
意外にもクーラのオテロはデズデーモナの手をつかんで地べたに放り投げたりしないんです。
クーラの個性を考えたらこれは一瞬意外です。
だって、さっき、あんた、ヴラトーニャを突き飛ばしてたじゃないか!ついでにデズデーモナも放り投げたらどうなんだ?という。
しかし、“A terra… e piangi!”という言葉と共に彼が指を地面に指すと、
ストヤノヴァのデズデーモナは自らの意志でがっくりと膝まずくのです。
これによりオテロがデズデーモナに対して持っている絶対的な力を強調する一方で、
彼自身が落ちて行っている罠から自分を救い出す術は何一つ持っていないというオテロの無力さと彼がデズデーモナに対して行使している力の空しさが強調され、
ト書き通りではないのにきちんと物語に沿っていて、非常に面白い効果を上げていると思いました。
イアーゴ役のヴラトーニャははげ、、いえ、スキンヘッドの面長顔でギョロ目という、なかなか個性的なルックスで、
開演前にプレイビルの写真を見た時は期待が高まったのですが、先のエピソードでもわかる通り、強面のルックスの割りにへたれなキャラで終始クーラの迫力に押されっ放し。
声はボリュームの面でも、トーンやカラーの面でも、際立った個性がなく、歌唱はそれなりに無難にこなしていますが、
なんの面白みも彼らしさもない歌唱で、長所と言えば、ハンプソンみたいにこちらが積極的に嫌いになる個性すらないこと位でしょうか。
、、、って、あれ?これは長所なのかな?
このような歌しか歌えないとしたら、彼の家族を除いて、彼の歌を聴きたくてわざわざ劇場に行く!という物好きはいないでしょう。
クーラとでは舞台上の存在感、オーラ、個性、パワー、何から何まで違い過ぎ。
普通だったら、こんなへなちょこなイアーゴ、罵倒して、して、しまくるところですが、こんないるのかいないのかわからないようなイアーゴを抱えてすら、観客全員をほとんど一人で舞台に引きずりこんだクーラの力に押し切られてしまって、罵倒する気があまり起きないのが不思議です。
それでも、これでイアーゴがAキャストのシュトルックマンみたいな人だったらもっとすごい公演になっていたかもしれないな、、と思います。
いや、そもそもHDのオテロとデズデーモナを、ボータ&フレミングというぬるま湯コンビじゃなくて、
こちらのクーラとストヤノヴァを立てて、シュトルックマンと組み合わせていたら、これは結構見物な公演になっていたかもしれません。
また失敗しましたね、メト。
カッシオ役のドルゴフ。
この人、、、、中学生じゃないんですよね?(笑)
なんか本当初々しくて子供みたいなんですけど!!!
カッシオはちょっと色男っぽい雰囲気が欲しいので、どんぐり君みたいな彼が舞台に出て来た時は、
あれ?高校の文化祭を見に来たんだっけ?と一瞬錯覚し、そして次に、大丈夫なのかな、、とちょっぴり不安を感じました。
初めて口を開いてからの数フレーズは、声もこちらがはっとするような特別な美声ではないし、素直な発声で、歌は丁寧に歌ってるな、、と感じる以外はあまり強い個性を感じないんですが、
彼の人柄と歌を歌う楽しさと喜びを感じている様子のせいなんでしょうか、
なんだか公演がすすんで行くにつれて、好感度が増して行っている自分がいました。
一幕が始まったばかりの時は、こんな中ボーみたいな子に、“ビアンカのキスには飽きたよ。”と言われてもなあ、、と三幕に不安を感じていたのですが、
いざ、その三幕になってみると、逆にその子供のような風貌を利用して、若い男の子が無邪気にとっかえひっかえ女の子を取り替えている雰囲気で上手く乗り切ってしまっていて、
なんか、不思議な魅力を持ったテノールだと思います。
彼はシベリアの出身なんですね。“シベリアの中坊“か、、。
ただAキャストを歌ったファビアーノが余裕でリリコ、それからもしかしたらさらに一歩進んだ重い役も将来的には歌える感じのがっちりとした歌声なのに対し、
このドルゴフ君は軽めの声で、少なくとも私に見える将来の範囲ではそれが劇的に変わることはないように思うので、
しばらくはベル・カントなんかが良いのではないかな、と思うのですが、マネジメントのサイトを見ると、まあ、何かあれこれ歌ってますね。
ベル・カントに混じって見えるのは、、、ん?トスカのカヴァラドッシ?!アリアドネのバッカス!?
、、、、なんというはちゃめちゃさ、、、。いやあ、、、本当に不思議な人だわ。
José Cura (Otello)
Krassimira Stoyanova (Desdemona)
Marco Vratogna (Iago)
Alexey Dolgov (Cassio)
Eduardo Valdes (Roderigo)
Stephen Gaertner (Montano)
Jennifer Johnon Cano (Emilia)
Alexander Tsymbalyuk (Lodovico)
Alexey Lavrov (A herald)
Conductor: Alain Altinoglu
Production: Elijah Moshinsky
Set design: Michael Yeargan
Costume design: Peter J. Hall
Lighting desing: Duane Schuler
Choreography: Eleanor Fazan
Stage direction: David Kneuss
Grand Tier Side Box 30 Front
LoA
***ヴェルディ オテロ オテッロ Verdi Otello***
(初日&二日目の公演についてはこちら。またHDの公演についてはこちら)。
あれから約五ヶ月を経て、Bキャストでの上演が始まってます。
一時期はオテロ役におけるドミンゴの後継者ではないか?とまで言われていた記憶のあるクーラ。
私も映像や音源で彼の『オテロ』を拝見・拝聴したことはありますが、意外にもメトでこの役を彼が歌うのは今シーズンが初。
というわけで、彼のオテロを生で鑑賞するのは私もこれが初めて。
それからデズデーモナ役には私の好きなソプラノの一人であるストヤノーヴァが、
そして、2011年のメトの日本公演(『ルチア』)でカンパニー・デビューを果たしているアレクセイ・ドルゴフが今回カッシオ役でいよいよ実際にNYで舞台に立つとあってこちらも楽しみです。
ところがこういう時に必ず水を差す人がいるもので、さて、チケットを購入しようかな、と、メトのサイトでイアーゴ役のキャスティングを見て口から茶を吹きそうになりました。
トーマス・ハンプソン、、、。
私はいくつかの理由から彼のことが元々かなり苦手なのですが、昨シーズンの『マクベス』は、彼の歌唱とナディア・ミヒャエルの夫人役とが相まって、
今でも思い出したくない悪夢のような公演で、あれ以来、彼のヴェルディは絶対に避けねば!と強く心に刻んでいるのです。
すると、おや?3/27の公演だけ、イアーゴ役がマルコ・ヴラトーニャというイタリア人バリトンになっているではありませんか。しかもこれがメト・デビュー。
普段はランの一日だけ違うキャスト、特にそれがメト・デビュー、という場合はYouTubeでそれなりにその歌手のことをリサーチしてからチケットを購入するのですが、今回は全然ノー・チェック。
ハンプソンでなければ誰だっていいわ、もう!です。
(今日の公演でイアーゴ役を歌ったヴラトーニャを含む舞台写真は残念ながら存在しないので、この写真ではハンプソンがイアーゴです。)
今回、たまたまグランド・ティアの舞台から二番目に近いボックスの前列に一席空きがあったのでそれを抑えました。
Aキャストの指揮はビシュコフでしたが、Bキャストはアルティノグル。
この人は忘れもしない、以前『カルメン』でカウフマンへの視界をブロックされ、後ろから首を絞めてやりたい思いに何度もかられたフランス人指揮者です。
しかし、彼はそのような直接の害がなければ、遠くで見てる分には穏やかで人の良さそうな感じの人で、
むしろ、こんな羊みたいな人に『オテロ』の指揮が務まるんだろうか、、とにこにこしながら観客に挨拶している彼を見て心配になって来ました。
あの『カルメン』の時も、悪くはないけれど、かといって特別なことも何もしない指揮者、、という印象でしたし。
ところが、冒頭、オケがどかーん!とあの嵐を描写する音楽を奏で始める時、このモシンスキーの演出では雷光がばちばちっ!と舞台に走るのですが、
オケの演奏の音圧と相俟ってすごい迫力で、私などは座席から一センチ位お尻が浮きそうになりました。
最初はこの迫力は舞台に近い座席に座っているからなのかな、、、?と思ったのですが、オテロ役のクーラが歌い始める前までの数分の演奏を聴いて確信しました。
今日はオケが超ONだーっ!!!ハレルヤ!!!!
『オテロ』はメト・オケが演奏しなれた演目の1つだと言ってよいと思いますが、それゆえにアルティノグルの“何もしない作戦”“勝手にオケに演奏させる作戦”が功を奏しています。
Aキャストの時のビシュコフは自分なりの演奏をしようとしていて、その意欲は高く評価しますが、
リハーサルの時間が足りなかったのか、彼の意図が今ひとつ上手くオケに伝わっていなかったのか、
特に初日なんか、オケが演奏したい方向と指揮者が目指している方向が微妙に噛み合っていない感覚がありましたが、
今日はもうオケがのびのびと自分たちのやりたいように演奏していて、しかし、緊張感は損なわれておらず、情感豊かな演奏で、
私は指揮者が自分のやりたい方法にがっちりはめようとする演奏よりは、オケの自発性を感じる演奏の方を好む傾向にあるという自覚が前々からあるのですが、今日の演奏でそれを激しく再確認した次第です。
難破しそうな自国の船、そしてそれを飲み込まんとする海を見つめて言葉を交わす合唱やソリストの掛け合いからもう手に汗握る迫力でドキドキしてきました。
嵐を乗り越えた船に人々が歌います。
“All’approdo! Allo sbarco! 着岸したぞ!船を降りたぞ!”
“Evviva! Evviva! 万歳!万歳!”
そして、いよいよオテロ役のクーラが歌い始めます。どきどき。
“Esultate! L’orgoglio musulmano sepolto è in mar; nostra e del cielo è gloria! Dopo l’armi lo vinse l’uragano.
喜べ! 傲慢な回教徒どもは海中に葬り去った。栄光は我らと神のものだ!奴らは敗戦の後に嵐で殲滅した。“
、、、、、、、。
クーラももう50歳、このEsultateの部分を楽々と歌える時期はとっくに過ぎたと見え、歌が走る走る!
言葉の間に十分な間がなく、慌しく畳み掛けるような歌い方で、
“この部分はとっとと終わらせちまいたいぜ!”というのがありありと感じられる歌唱でした。
しかも、ただ早いだけでなく、それぞれの音の長さの正確さや音程もかなり微妙な感じで、
正直、この部分の歌唱が終わった時点では、私の頭の中で“今日のオテロ、もしかしてやばい??”という声がエコーしてました。
ただし、クーラの声の音圧と重量感、これはすごい。まじでバズーカ砲みたいな音です。
Aキャストのボータやアモノフのオテロの記憶なんて、この声の音圧で軽く吹き飛んだ、って感じです。
いや、それを言ったらムーティ指揮のシカゴ響がカーネギー・ホールで演奏会形式で演奏した『オテロ』(感想はまだあげてません。)でタイトル・ロールを歌ったアントネンコも、
その時は割りとロブストな声をしてるな、と思いましたが、今日のクーラと比べたらまだ可愛いもの。
他の歌手との比較だけでなく、クーラ自身がメトで過去に歌った他役と比べても、ここまでの音圧を感じたことがないので、何か役との相乗効果がなせる技なのかもしれないな、と思います。
Esultate!の部分でかなり不安にさせられたクーラでしたが、ストヤノヴァが登場してからの二重唱(“もう夜も更けた Già nella notte densa”)あたりから歌唱が安定して来て、その後はもう!!
以前にもどこかの記事で書いたと思うのですが、クーラという歌手にはどこか得体の知れないところがあって、良い時と悪い時の差があまりに激しいので、
私のヘッド友達にも彼が良い歌手かそうでないのか、今ひとつ判断しかねる、、と言っている人がいるんですが、
私も彼を初めて生で聴いて以来、2008/9年シーズンの『道化師』を聴いてこんなに力のある歌手だったのか?とびっくりするまでの10年近く、あまり高く評価してませんでした。
というのは、彼の歌は往々にして力任せになりがちで、それがドラマと噛み合わないと共演者をそっちのけで単に歌が暴走しているだけ、という印象を与えましたし、
時には歌そのものの乱暴さが程度を越して、正確性の点でこちらの許容度を越えるような公演もあったからです。
しかし、今日の公演はその情熱が単なる力任せにならず、見事に演技と噛み合っている。
歌も単なる乱暴の烙印を貼られるぎりぎり手前のところを走っていてそのスリリングなこと!!
単にカッシオがデズデーモナにオテロとの取りなしを頼んでいるに過ぎない、
その様子をイアーゴが利用して段々とオテロの胸の中に彼らが不倫を働いているのではないか?との不安を広めて行く場面での、
オテロの感情が刻々と変化して行く様子も実に描写が細かくタイミングが的確で、DVD化もされているリセウの2006年の公演(ストヤノーヴァとはこの時も共演してますね。)と比べても
一層解釈が深まっている感じで、これはオテロという役の解釈の1つのあり方として最高のレベルに達していると感じられるものになっています。
また彼は『道化師』の時もそうでしたが、役が正気を失う手前の、神経が極度に過敏になってぴりぴりしている時の歌唱・演技表現が非常に巧みで、
今回のオテロに関しても、イアーゴやデズデーモナに対する当り散らし方もかなり怖いですが、
それ以上に、自分の感情をコントロールできない自分自身への怒り、その表現が本当に素晴らしいと思います。
それから、力を出さないことによってかえってどれほど潜在的にすごい力を持っているか、ということを演技で表現しているのも上手いなあ、と思います。
先に書いたイアーゴが段々とオテロの胸中に疑惑の種を蒔くシーンではイアーゴの喉元を片手で摑んでそのまま机に投げ飛ばしていましたし(ヴラトーニャもハンプソンも決して小柄ではないのに!)、
また、オテロがデズデーモナを殺す場面はせつなくて、オテロが彼女の息が絶える姿を正視できずに、
彼女がいるのとは逆側の自分の肩を向き、その肩に顔を押し付けて泣き声を抑えながら、もう一方の片手だけで彼女の首を絞め上げて殺してしまうのですが、
この場面ではその微かな泣き声も歌唱の一部になってしまっていて、胸を衝かれました。
この『オテロ』の公演の前の週に、私はワシントンDCにオペラ旅行して来たのですが、
日中、スミソニアン国立動物園に立ち寄っている時、ライオンがかなりの長時間に渡って吠えている現場に行き当たりました。
あまりに強烈な吠え声なので、仲間同士で殺し合いでも始まっているのか?とびっくりしましたが、
何匹かいるうちの一頭だけが普通に遠くを見ながら吠えているだけで、ライオンって単独でもこんなにすごい声を出すのか、、とびっくりした次第です。
ものすごい広範囲の半径にわたって空気が震撼しているのが感じられるのです。
まさにこれこそ、録音には絶対に入らない種類の迫力声!
ライオンがオペラ歌手になったら、オペラハウスでは大人気なのに、録音ではいまいち良さがわからん、、とか言われて、
損するタイプの歌手になるんだろうなあ、、などととめどもないことを考えていたのですが、
今日舞台をのし歩いているクーラの姿とバズーカ砲のような声はまさに野放しになったライオンそのもの!
下手したら次の瞬間にも誰かの頭を食いちぎりそうな緊張感が常にあります。
と同時に、ボータやアモノフのオテロに決定的に欠けているのはこの感覚なんだ!と思いました。
ボータやアモノフはクーラに比べると声も佇まいも本当おっとりしていて、獅子というより象みたい。
第三幕では実際にテキストの中にオテロを指してLeon/Leone(獅子)という言葉が登場しますが、
ボータやアモノフみたいなオテロだと、この言葉が単なる強者を表す比喩の意味で使われているようにしか感じられません。
クーラのような演じ方をしてこそ、イアーゴが失神して倒れたオテロに向かって吐く“Ecco il Leone! これが獅子だとよ!”という言葉が何倍も生きて来ると思うのです。
この“Ecco il Leone!”の前に、“Chi può vietar che questa fronte io prema col mio tallone? こいつの頭を俺のかかとで踏みつけるのを誰が妨げられるか?”というイアーゴの言葉があるので、
私がこれまでに見たメトのモシンスキー演出の公演では、“Ecco il Leone!“の言葉に合わせてイアーゴ役のバリトンが
(さすがに頭を踏みつけるのは抵抗があるため)床に倒れたオテロ役のテノールの胸の辺りに足をのせて踏みにじるような動作をする、というパターンが多いのですが、
クーラのオテロ役が迫力あり過ぎで、あまりに怖かったんでしょう、
イアーゴ役のヴラトーニャが頭どころか胸の上ですら足を置くことをためらって、空中に足を浮かせたまま片足立ちになって“Ecco il Leone!”と歌っていたのはちょっと間抜けでおかしかったです。
この期に及んでオテロに遠慮するイアーゴ、、。
確かにかかとがクーラの胸に触れた瞬間、“てめえ!何まじで足のせてんだよ!”とか言いながら
いきなり立ち上がって殴りかかって来そうな感じがありますからね、、、ま、気持ちはわからなくはないです。
考えてみれば、その予兆はニ幕に既にあったのでした。
ニ幕の最後のオテロとイアーゴの二重唱(“そう、大理石のような空にかけて誓う Sì, pel ciel marmoreal giuro!”)は
アルティノグルが良い感じで野放しにして爆発したオケとクーラの歌声がまさに丁々発止という感じで盛り上がって行って、
ヴラトーニャもそれに引きずられ健闘、、、と、最近のオペラの公演ではだんだん体験することが少なくなって来た、良い意味での爆音合戦になりました。
なんだか最近では歌手の声のパワーを賞賛すると“繊細な耳を持っていない。”という風にとらえられてしまったり、
中には“デカ声は嫌。”とか“声がでかいだけ”といった意見など、パワフルな歌声がネガティブな意味でとらえられることも少なくないように思うのですが、
そういった方たちは優れたデカ声というのを本当に聴いたことがあるのかな?と思います。
クオリティの低いデカ声ばかり聴いて“声の大きいのは駄目”と即決するのはちょっともったいない。質の高いデカ声にはやっぱりそれ特有の魅力があると私は思います。
アンチ大声派が増えて来ているとしたら、それはクオリティの高いパワフルな歌唱を出せる歌手が今オペラの世界からものすごい勢いで消滅している、
というか、もうほとんどいない、、という、それも原因の一つだと思います。
それゆえに今日のクーラのような歌唱は貴重。Viva, でか声!
こういう声を聴いてしまうと、少なくともこれからしばらくはこの路線で『オテロ』を歌えるテノールはいないな、、と思えて、それはそれですごく寂しい。
で、クーラ自身もこの二重唱は会心の出来だったのでしょう、もうかなりのアドレナリン・ラッシュ状態になっていて、
幕が降りてインターミッション前の舞台挨拶にヴラトーニャと二人で登場した際、
“やったな!”という感じでぼかっ!とヴラトーニャの胸を殴りつけていて、本人はメト・デビューの後輩を労わっているつもりなんでしょうけど、
いたわっているというよりは、いたぶっている、という表現の方がぴったり来る感じ、、。
ヴラトーニャの顔に喜びと恐怖の入り混じった表情が走るのを私は見逃しませんでした。
先述したリセウ劇場の2006年の公演でもクーラと共演していたストヤノヴァ。
そのせいもあってか二人の間の信頼感を今日の公演の端々から感じました。
全幕終わってのカーテンコールでは二人ががっちりと抱き合ったまま数秒そのまま、、という場面もあって、
またクーラがストヤノヴァの肋骨の一本、二本、折るようなことになってなきゃいいけど、、とはらはらさせられましたが。
ストヤノヴァの声には独特の固さに金属的な響きが少し混じったような感じがするのが特徴かな、と思います。
(スラヴ系のハイ・パートの歌手~テノールとソプラノ~にその傾向を共通して感じるのは私の気のせいでしょうか?)
Aキャストのフレミングのまったりした声とはその点で対照的だと思います。
これみよがしな歌唱も、本人の個性全開の演技もないですが、いつも真摯な歌唱を聴かせてくれるので私は現役では好きなソプラノの一人です。
ただ、二、三年位前から他の劇場での歌唱の音源を聴いていても高音域でピッチが不安定になることが増えて来たように感じるところがあって、
1962年生まれだそうですので彼女もほぼ50歳(クーラと同い年くらいなんですね。)、そろそろ年齢の影響かな、、と思っていたんですが、
シカゴ響との演奏会形式の『オテロ』(2011年4月)では音を外そうものならムーティに半殺しに遭いかねないという緊張感があったからか、
完璧な音程で歌いこなしていたので、ネットの音源で聴いたと思った年齢による衰え云々も私の気のせいだったのかな、、と流してました。
しかし、ほぼ二年振りに今日の公演で彼女の歌声を聴いて、
“ああ、やっぱり年齢が段々声に現れるようになっていたんだな。”と思いました。
彼女の声にもともとちょっと固いテクスチャーと金属的な響きがあるのは先に書きましたが、年齢による歌声の変化により、今では音にものすごく角立った感触を感じるようになってしまっていて、
たった二年前の歌唱と比べても、かなり与える印象が変わって来ている程です。
特にこのデズデーモナ役は人を疑うことを知らない、というのがキャラクターの大きな要素になっていて、
リブレットには具体的な年齢設定の記述はありませんが、年の若さがそれに貢献していることはほとんど間違いなく、
とすると、年齢的にもかなり若いはずの役ですので、そのあたりの違和感を観客に感じさせずに聴かせるのは段々難しくなって来ているかな、、と思います。
デズデーモナはそろそろ封印しても良い役柄かもしれません。
彼女はもともと佇まいなんかがちょっとおばさん臭くて地味なところがあるので
(そしてそれこそが、キャリアの一番良い時期にどれだけ素晴らしい歌を聴かせても、彼女がメトではあまり重用されることがなかった原因の一つだと思っていて、
本当に嘆かわしい事態!とずっと私なんかは怒って来たのですが、、。)、
年齢を感じさせるようになるとしたら、そっち方面からだろう、とずっと思っていたのですが、
この役で、容姿や舞台上の動きよりも先に声で年齢を感じるようになってしまったのは大変意外でもあり、
こうなってしまうと、ますますメトでキャスティングされることは減って行ってしまうのかもしれないなあ、、と寂しい気持ちになります。
声の変化がここまでネガティブに影響しない役が他にあると思うので、そちらに上手くシフトして行ってくれるといいな、と思います。
もともと声の美しさそのもので勝負!というタイプの人ではなく、誠実感溢れる歌いぶりと地味ながら的確な表現力を持った人なので、
そのあたりも生かせるレパートリーを中心にしていってくれたら私は嬉しいのですが。
今日も若干ピッチが甘くなっていた箇所が二、三ありましたが、“アヴェ・マリア“のような絶対に外してはいけないところは見事にきちんと抑えていますし(最後の高音も綺麗でした)
精神力さえ緩まなければまだまだ観客の心に訴える歌を歌える歌手のはずです。
ボータ&フレミング組と全然違う味付けで面白いな、と思ったのは、オテロがデズデーモナに“A terra… e piangi! 地面に伏して、、、泣くがいい!”と言う場面。
ボータ&フレミング組はリブレットの“デズデーモナをつかまえ荒々しく”~“デズデーモナは倒れ、エミーリアとロドヴィーコが助け起こす”のト書きに割りに忠実に演じていたのに対し、
意外にもクーラのオテロはデズデーモナの手をつかんで地べたに放り投げたりしないんです。
クーラの個性を考えたらこれは一瞬意外です。
だって、さっき、あんた、ヴラトーニャを突き飛ばしてたじゃないか!ついでにデズデーモナも放り投げたらどうなんだ?という。
しかし、“A terra… e piangi!”という言葉と共に彼が指を地面に指すと、
ストヤノヴァのデズデーモナは自らの意志でがっくりと膝まずくのです。
これによりオテロがデズデーモナに対して持っている絶対的な力を強調する一方で、
彼自身が落ちて行っている罠から自分を救い出す術は何一つ持っていないというオテロの無力さと彼がデズデーモナに対して行使している力の空しさが強調され、
ト書き通りではないのにきちんと物語に沿っていて、非常に面白い効果を上げていると思いました。
イアーゴ役のヴラトーニャははげ、、いえ、スキンヘッドの面長顔でギョロ目という、なかなか個性的なルックスで、
開演前にプレイビルの写真を見た時は期待が高まったのですが、先のエピソードでもわかる通り、強面のルックスの割りにへたれなキャラで終始クーラの迫力に押されっ放し。
声はボリュームの面でも、トーンやカラーの面でも、際立った個性がなく、歌唱はそれなりに無難にこなしていますが、
なんの面白みも彼らしさもない歌唱で、長所と言えば、ハンプソンみたいにこちらが積極的に嫌いになる個性すらないこと位でしょうか。
、、、って、あれ?これは長所なのかな?
このような歌しか歌えないとしたら、彼の家族を除いて、彼の歌を聴きたくてわざわざ劇場に行く!という物好きはいないでしょう。
クーラとでは舞台上の存在感、オーラ、個性、パワー、何から何まで違い過ぎ。
普通だったら、こんなへなちょこなイアーゴ、罵倒して、して、しまくるところですが、こんないるのかいないのかわからないようなイアーゴを抱えてすら、観客全員をほとんど一人で舞台に引きずりこんだクーラの力に押し切られてしまって、罵倒する気があまり起きないのが不思議です。
それでも、これでイアーゴがAキャストのシュトルックマンみたいな人だったらもっとすごい公演になっていたかもしれないな、、と思います。
いや、そもそもHDのオテロとデズデーモナを、ボータ&フレミングというぬるま湯コンビじゃなくて、
こちらのクーラとストヤノヴァを立てて、シュトルックマンと組み合わせていたら、これは結構見物な公演になっていたかもしれません。
また失敗しましたね、メト。
カッシオ役のドルゴフ。
この人、、、、中学生じゃないんですよね?(笑)
なんか本当初々しくて子供みたいなんですけど!!!
カッシオはちょっと色男っぽい雰囲気が欲しいので、どんぐり君みたいな彼が舞台に出て来た時は、
あれ?高校の文化祭を見に来たんだっけ?と一瞬錯覚し、そして次に、大丈夫なのかな、、とちょっぴり不安を感じました。
初めて口を開いてからの数フレーズは、声もこちらがはっとするような特別な美声ではないし、素直な発声で、歌は丁寧に歌ってるな、、と感じる以外はあまり強い個性を感じないんですが、
彼の人柄と歌を歌う楽しさと喜びを感じている様子のせいなんでしょうか、
なんだか公演がすすんで行くにつれて、好感度が増して行っている自分がいました。
一幕が始まったばかりの時は、こんな中ボーみたいな子に、“ビアンカのキスには飽きたよ。”と言われてもなあ、、と三幕に不安を感じていたのですが、
いざ、その三幕になってみると、逆にその子供のような風貌を利用して、若い男の子が無邪気にとっかえひっかえ女の子を取り替えている雰囲気で上手く乗り切ってしまっていて、
なんか、不思議な魅力を持ったテノールだと思います。
彼はシベリアの出身なんですね。“シベリアの中坊“か、、。
ただAキャストを歌ったファビアーノが余裕でリリコ、それからもしかしたらさらに一歩進んだ重い役も将来的には歌える感じのがっちりとした歌声なのに対し、
このドルゴフ君は軽めの声で、少なくとも私に見える将来の範囲ではそれが劇的に変わることはないように思うので、
しばらくはベル・カントなんかが良いのではないかな、と思うのですが、マネジメントのサイトを見ると、まあ、何かあれこれ歌ってますね。
ベル・カントに混じって見えるのは、、、ん?トスカのカヴァラドッシ?!アリアドネのバッカス!?
、、、、なんというはちゃめちゃさ、、、。いやあ、、、本当に不思議な人だわ。
José Cura (Otello)
Krassimira Stoyanova (Desdemona)
Marco Vratogna (Iago)
Alexey Dolgov (Cassio)
Eduardo Valdes (Roderigo)
Stephen Gaertner (Montano)
Jennifer Johnon Cano (Emilia)
Alexander Tsymbalyuk (Lodovico)
Alexey Lavrov (A herald)
Conductor: Alain Altinoglu
Production: Elijah Moshinsky
Set design: Michael Yeargan
Costume design: Peter J. Hall
Lighting desing: Duane Schuler
Choreography: Eleanor Fazan
Stage direction: David Kneuss
Grand Tier Side Box 30 Front
LoA
***ヴェルディ オテロ オテッロ Verdi Otello***