Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

DON PASQUALE (Fri, Oct 29, 2010)

2010-10-29 | メトロポリタン・オペラ
この記事を書いているのは情けなくも、11月半ば過ぎ。
シーズン初日、10/29の『ドン・パスクワーレ』の公演から20日くらい経ってしまいました。

その間にはHDの収録日の公演が11/13にあって、
私もオペラハウスで生鑑賞して来ましたが、そのHDの公演が、本当に本当に、素晴らしかったです。
作品そのものの優劣、好き嫌いを抜きにすれば、
オペラを観るということの楽しさ、キャスト全員が最高の力を出し切った時に生まれるスリル、
それから観客と舞台の一体感を捕らえた、という点で、今までのHDの中でトップを争う内容になったのではないでしょうか?
『ドン・パスクワーレ』という作品自体は、私個人的には特にリブレットが強力なわけでも(筋自体は他愛のない話!)、
抱腹絶倒なわけでもなく、リブレットだけでもっと笑える作品は他にあると思っていますし、
それに、音楽の面でも、ベル・カント系の他の喜劇、いや、ドニゼッティのそれだけに限っても、
たとえば『愛の妙薬』とか以前HDに乗ったことのある『連隊の娘』とか、
超必殺アリアが含まれている(”人知れぬ涙”にメザミ、、、)作品に比べると、
そこまで有名なアリアがないのが、この『ドン・パスクワーレ』という作品です。
言い換えれば、舞台に立っている歌手の力が非力だと目も当てられない。
ところが、そんな不安は『ドン・パスクワーレ』のHDに関しては不要です!
ネトレプコ、ポレンザーニ、クヴィエーチェン、デル・カルロの4人全てが、
持っている最高の力を出してくれましたから。

HDの企画が始まって以来、収録日にランのベストの公演、また、各人のベストの歌唱が当たる、ということが、
簡単そうに見えて、実は全くそうではない、ということをいやほど目の当たりにして来ました。
このように4人全員が揃ってベストの歌唱を繰り広げるということは、非常に稀で、
ましてやそれがHDの収録日にあたる確率はさらにもっと低い。



このHDを観れば、舞台に乗っている歌手の間にケミストリーがあるというのはどういうことなのか、
なぜネトレプコが天性の舞台勘を持っていると一部のヘッズに賞賛されるのか
(単なるスター性がある・ないといった問題ではなく、
まさに天性の舞台勘という言葉が適切であることが、このHDで判ると思います。
彼女については、歌も好調ですけれども、それ以外の部分で、驚くようなことを成し遂げているので、
詳しくは11/13の記事で書きたいと思います。)、
こういった喜劇作品で、舞台にいる歌手と観客が本当にコネクトするというのはどういうことなのか、
そういったことの答えがすべて、このHDの中にあります。

このシェンクのクラシックなプロダクション(初出は2006年なんですが、あまりにクラシックな雰囲気なので、
もっと昔から存在しているプロダクションだと思っている方が多いようです。)の中で、
自由に泳ぎまわる活き活きしたキャストと、
彼ら一人ひとりから放出されている、このプレッシャーに満ちた大きな場で、
最高の自分を出せているということを彼ら自身が自覚することによって生まれている喜び、
(インターミッションでのインタビュー中にポレンザーニが見せている幸せそうな表情を見よ!!です。
ちなみに、インタビュアーはスーザン・グラハム。
オペラハウスにいるお前がなぜHDの映像も観れるのか?本当にちゃんと公演に行ったのか?と訝しんでいる、
細かいことが気になる方のために一応説明しますと、オペラハウスの中に、HDと同じ映像を流しているモニターがいくつかあるのです。)
心配されながらも無事に登場したレヴァインへの観客の熱狂、
公演の内容、歌手の歌、演出を批判するためではなく、一緒に作品を楽しむためにそこにいる観客、、
こういったあらゆることがかみ合って、オペラの公演で楽しめるおよそ全てのポジティブな要素が、HDの中に詰め込まれています。
一言で言いますと、ライブ・イン・HDが始まりましたら、
ぜひ、出来るだけ多くの方に映画館に足を運んで頂きたい!!!!それに尽きます。

特に私は、ネトレプコの、ポレンザーニの、もしくはベル・カント系の喜劇全般の何が良いの?と
日ごろお感じになられている方にこそ、ぜひ鑑賞していただきたいな、と思っていて、
逆を言えば、このHDを観て、まだ彼らの良さ、ベル・カント系の喜劇を観る楽しさがわからない、という方は、
多分、一生、その良さをわかることはないんではないかと思います。
別にわからなくたって死ぬわけではないですから、それはそれで良いのですが、
それ位良い公演だ、ということなんです。



すっかりHDの日の公演の話でフィーバーしてしまって、
そのまま初日の公演の話に行く前に字数を使い切ってしまいそうな勢いですが、
初日に関する感想を始めるのに腰が重い理由の一つには、
そのHDの日の公演を観てしまったということがあって、あれが相手では、どんな公演も分が悪いのであって、
今更初日の公演についてネガティブなことを一つ二つ書いたせいで、
”あ、『ドン・パスクワーレ』のHD、いまいちなんだ。”と早とちりされる方がいたら、それは大きな不幸だ、とも思ったり、、。

しかし、すでに、HDがどれほどの飛躍であったか
(いや、あれは飛躍というようなものではなく、むしろマジックが起こった、と言った方がいいかもしれませんが)
ということは冒頭で十分説明させて頂いたので、
ここからは、できる限り、初日に鑑賞した時の気持ちを、まんま思い出し、その通りのことを書いてみたいと思います。

まず、シェンクの演出なんですが、先ほども書いた通り、とても保守的でクラシックなものなので、
遥か以前から存在しているかのような印象を多くの方に与えるかもしれませんが、
このプロダクションが初お目見えしたのは2005-6年シーズンのことで、今シーズンの公演はその時以来の上演になります。
2005-6年の公演は、ドン・パスクワーレ役がアライモ、エルネスト役がフローレスで、
残りの2人、ノリーナ役のネトレプコとマラテスタ役のクヴィエーチェンは今シーズンと同じ。
当時は丁度ネトレプコの人気がヨーロッパで爆発し始めた頃で、
その彼女とフローレスという組み合わせが話題を呼び、
まだBB(before blog=ブログ前)時代でしたので、残念ながらこのブログに感想は残っていないのですが、
私ももちろん鑑賞いたしまして、最初は1回だけの鑑賞のつもりが、あまりに面白かったので、2度観にいってしまいました。



当時のネトレプコはまだほっそりしていて(すぐ上の写真のみ2005-6年シーズンの公演からで、
ドン・パスクワーレ役のアライモと。腕が細い!!)、声も今より全然軽かったものですから、
舞台をところ狭しと走り回りながら、でんぐり回りまで含めたアクロバティックな演技をしつつ、
楽々と高音を何度もかっ飛ばす様子は爽快でした。
それからフローレスの歌唱がスタイリッシュで美しかったことは言わずもがな、、。
この2人の歌唱だけでも、十分お釣りが来るほど楽しめたのですが、
それよりも、さらに私が気に入っていたのはアライモが歌い演じたドン・パスクワーレで、
彼の歌と演技のおかしいことと言ったら、やはり当時キャストの一人だったクヴィエーチェンが、
今年のシンガーズ・スタジオでも語っていた通り、”椅子から転げ落ちるくらい”大笑いしたものです。

”やはりイタリア人歌手はいいなあ。”と人が言う時、それは人によって、色んな意味を指し、
ヴェルディの作品とか、ベル・カントの作品を歌った時の、
イタリア人が持っている独特のスタイルについても確かに大いにあてはまるとは思うのですが、
それよりも何よりも、私の場合、個人的にイタリア人と非イタリア人歌手の間で大きなセンスの違いを感じるのは、
まさにこの『ドン・パスクワーレ』のようなイタリアものの喜劇的作品における、イタリア人歌手の歌唱と演技で、
あれだけは、非イタリア人の歌手には本当に真似が難しい、と感じます。

今シーズン、ドン・パスクワーレ役を歌っているのはジョン・デル・カルロ。
彼はほとんどメトのハウス・バス・バリトンみたいな感じで、
超人気歌手がキャスティングされるメガ級の役を除いた、
そのすぐそばの準主役とか脇役で、頑張って来た人です。
このブログが始まってからメトで聴いた彼の役は、『トスカ』の堂守、
『フィガロの結婚』と『セヴィリヤの理髪師』のドン・バルトロ、『ピーター・グライムズ』のスワロー、
『アドリアナ・ルクヴルール』のブイヨン公といった感じで、なんとなく彼のポジションニングが推測できるかと思います。

なので、正直、今シーズンの目玉公演の一つと言ってもよい『ドン・パスクワーレ』のタイトル・ロールに、
アライモのような歌手ではなくて、彼がキャスティングされたのは、私にしてはちょっぴり驚きでした。
これほど出番が多い役で、かつ、HDまで控えている、レヴァイン指揮の演目を彼に任せたというのは、
メト側が、彼のこれまでの頑張りを評価していますよ、という意思表示でもあると思いますが、
同時にちょっとしたギャンブル的な側面もあるんではないかしら、と、、。



そして、この初日ではそのプレッシャーが少し仇になったのかな、と思います。
リハーサルでは、ものすごく伸び伸びとした演技で場にいた人を笑わせていたと聞いていたデル・カルロなんですが、
気持ちが舞い上がってしまっているのか、レヴァインと歌の呼吸を合わせるのに精一杯みたいな感じで、
観客から笑いを取りに行く余裕はあまりなく、
また、公演が始まってまもなく突然頭が真っ白になって歌詞が吹っ飛んだのか、
プロンプターが慌てて出した、フレーズの頭のキューとなる言葉がオペラハウス中に轟きわたっていた場面もありました。
(ただし、HDの日にはこの初日の様子が嘘のような堂々とし、かつ、吹っ切れた歌い・演技っぷりになっています。)

また、先に書いたように、アメリカ人の歌手にはコメディックなセンスがある人はたくさんいますし、
デル・カルロもその一人だとは思うんですが、イタリア人歌手の笑いのセンスとは少し違うところがあるのと、
あと、脇役でぴりっと効かせる笑いと、このドン・パスクワーレ役のようにほとんど出ずっぱりで舞台に立つ中から、
面白さを滲み出させる笑いとは、少し性質が違う部分もあって、
その点で、特にこの初日は、少しデル・カルロの演技が完全には突き抜けていないような感触を持ちました。

ポレンザーニのエルネストは、はっきり言ってフローレスのそれとは全然違います。
フローレスが、あの繊細な声でもって、ほとんど人間業とは思えないような技術を駆使しながら生み出す歌唱、
それと全く同じものを期待すると、ポレンザーニの歌にはがっかりするかもしれません。
ポレンザーニの声はフローレスに比べると、全然芯が太い、全く違う種類の声ですし、
技術がしっかりしている歌手ではあるのですが、フローレスのあの完全無欠さ・繊細さは持ち合わせてはいません。
ただし、彼にはフローレスのエルネストになかったものが二つあります。
それは、エルネストに独特の人間らしさ・リアルさを持ち込んでいること、と、それから、ネトレプコとのケミストリーです。

フローレスのエルネストはあまりに格好良すぎて、筋と言葉を知らないで鑑賞していたら、
どこかの国の王子の話かと見誤ってしまうほどでした。
しかし、この作品をよく観れば、エルネストは決して王子キャラなんかではなく、
使用人が噂話をする合唱のシーンでも歌われている通り、
多くの人間には、”役立たずの出来損ないな甥っ子”として写っていることがわかります。
そんな、人の良さ以外はあまり取り柄のなさそうな彼を心から愛している風の
ノリーナという人間の方に私は興味が湧いてしまう位です。
エルネストが持っているそんな少し間抜けな雰囲気(ノリーナやマラテスタに比べると頭の回転も遅そう、、)を、
ポレンザーニが、観客に好感を持ってもらえる範囲内にとどめながら表現していて、なかなか見事です。

また、フローレスの素晴らしさを賞賛するに全く躊躇のない私をもってしても、
彼の歌と演技には、どこか孤高なところがあって、極端に言うと一人で歌っているような、
あまり共演者との強い舞台上のケミストリーを感じない場合がほとんどなんですが、どうでしょう?
それは例えば、HDの『連隊の娘』や『夢遊病の女』でデッセイと共演した時すら、です。

ネトレプコがポレンザーニと共演すると非常にリラックスして歌えているというのは、
以前に感じていて(『ロミオとジュリエット』ガラ、、)、
彼女自身の言葉でも裏づけされていますが、今回の公演でもそれが良く伝わってきます。
彼らが恋人同士として一緒に歌を歌うのは、最後の第三幕第二場の二重唱
”もう一度愛の言葉を Tornami a dir che m'ami”だけで、
(ニ幕の途中からはエルネストはドン・パスクワーレをかつぐ芝居に参加しているために、
おおっぴらにノリーナと恋人らしい様子は出来ないし、
その前に至っては、芝居の裏にあるノリーナとマラテスタの企みも知らずに悩み続けている、
が、それを引っくり返す行動は自分でしない、まさに”役立たず”のうじうじ君なのです。)

ですから、第三幕第二場が説得力を持つためには、この2人の間に速攻立ち上ってくるようなケミストリーが必要なんですが、
ポレンザーニとネトレプコの間にはそれがあって、2人の間に流れている暖かい雰囲気のせいで、
ちょっと鈍臭いエルネストをしっかりもののノリーナが、その鈍臭さも含めて愛している感じがきちんと伝わって来ます。



三幕ニ場の頭でエルネストが歌うセレナータ(”Com'è gentil”)、
ここでのポレンザーニの歌唱は、フローレスの歌唱の美しさとは少しタイプが違いますが、
あたたかさ、ノリーナへの思いの熱さ(これがあるからエルネストは憎めないのであって、
これがなかったら、魅力的な人物には全く見えない。)が良く表現されています。

しかし、ポレンザーニに加えて、ネトレプコと、もう一段さらに強いケミストリーがあるように感じるのは、マラテスタ役のクヴィエーチェンです。
一応エルネストの友人であり味方のはずなんですが、
なんとなくいかがわしげ&怪しげな雰囲気が漂っているところがおかしい。
歌唱的に彼がとてもしっかり歌ってくれているおかげで、この公演が締まっている点も見逃せません。
彼は役がどんぴしゃにはまるとすごく活き活きとした歌と演技を見せてくれる
(逆を言うと、はまらないと、およそらしくない、冴えない歌になってしまう。
何でも器用に歌える、というタイプではないと思います。)のですが、
このマラテスタは彼の個性と声質にとても良く合っていて、
本人がシンガーズ・スタジオで語っていた通り、彼は決して声量が極めて豊か、というタイプではありませんが、
こういったレパートリーでは声が良く鳴っていて、彼の本領発揮です。

今シーズンは、一幕と二幕をつなげて演奏しているせいもあって、
幕間、場間に舞台転換のための暗転が数回あり、
観客にいくらかの待ち時間を強要する点への埋め合わせと、転換の時間に気が向かないようにする作戦だと思うのですが、
三幕の一場の最後に歌われる、マラテスタとパスクワーレの二重唱
”そっと、そっと、今すぐに Cheti, cheti, immatinente"の早口言葉のような掛け合いの部分を、
舞台転換のために降ろされた書割の前でもう一度歌ってくれるという粋な計らいがあります。
この頃までにはデル・カルロの歌唱もだいぶ落ち着いて来ていて、最高に楽しい二重唱になりました。
(記憶がややおぼろなのですが、2005-6年シーズンにはこのアンコールはなかったように思います。
これには観客も大喜び、大喝采でした。)

しかし、この公演の中心軸となっていたのは、なんといってもネトレプコです。
ポレンザーニは私は非常に優れた歌手だと思うのですが、
これまで今ひとつ彼が大きくブレークし損ねてきた理由のひとつは、
今日の公演を観ていると、自分が公演を引っ張っていいんだ!という強い自信が少し希薄なのかな、という風に思います。
特に今回のように、指揮者がレヴァインのようなビッグ・ネームだと、
彼の方に、自分はレヴァインに引っ張ってもらう存在なんだという遠慮があるようで、
レヴァインはレヴァインで、ベル・カントのレパートリーなんだから、
ある程度、ポレンザーニに自由に歌わせたい、と思って指揮している雰囲気があって、
なんだかお互いに遠慮しあっているような、微妙な距離を感じました。
ポレンザーニは、がんがんひっぱってくれる指揮者やキャスト仲間が相手だと、
本当に巧みに合わせて歌える歌手なんですが、
もうちょっと良い意味で自己主張が強くてもいいかな、と思います。

そこを行くと、ネトレプコは、”私はこういう風に歌うの!”という、
アンサンブルを引っ張る意志が感じられ、
レヴァインはもともと歌手に合わせて指揮をするのが巧みですし、音楽が上手く流れています。
そうそう、遠慮なんてしてないで、こういう風に歌えばいいんだよな、、と思うのです。
もともと、彼女はアンサンブル能力に傑出したものがあって、
今まで彼女が出演した舞台は少なくない数観ていると思いますが、
音がぶらさがったり、音を外したり、技巧が上手く処理できていない、ということはありますが、
アンサンブルを乱したり、指揮者の意図を摑み損ねて音楽に乗り損ねているところは聴いたことがないです。
ネトレプコの舞台勘の素晴らしさについてはHDの日の公演の記事に詳しく書きたいと思いますが、
シェンクの演出指導の成果もあるのか(今回もNYに来て、歌手に直接指導を行ったそうです。
ご高齢なんですが、この仕事に対する倫理観!素晴らしいと思います。)、
2005-6年よりも、さらに舞台上での動き、演技が進化していて、本当に素晴らしいと思いました。
こういう舞台を見ると、彼女がちょっぴり太めになったことすら、すっかり忘れてしまいます。
最も彼女のチャーミングな面が出ていると言ってもよいのではないでしょうか?
ただ、贅沢を言えば、やはりほんの少し音が重い、、。2005-6年シーズンの頃は軽かっただけに特にそう思います。
(ただし、HDの日には、この日とは比べ物にならないくらい、音の重心があがっていて、
彼女の出産後に聴いた歌の中では最高の出来になっています。)

以前、メト・オケの中に何人か、私の贔屓の奏者がいる、というお話をしましたが、
その中の一人である、トランペットの首席奏者のビリーさんが、
第二幕の冒頭のエルネストのアリアで、素晴らしいソロを披露しています。
彼のこのソロの演奏に、どこか、『ゴッド・ファーザー』の世界を感じるのは私だけでしょうか?
ベル・カントに『ゴッド・ファーザー』。
妙な組み合わせに思えるかもしれませんが、これがなんともユニークでいい味を出しているので、
HDをご覧になる方には、そこも合わせて楽しんでいただけたら、と思います。

レヴァインはもはや指揮台に登場するだけで、観客が大喝采、というような状況になりつつあるのですが、
今回、終演後にピットから舞台に上がるのが困難なために、ネトレプコが舞台上から、
指揮台にいるレヴァインの方に向かって両手を差し出し、
両手をキラキラ光る星を表現するように動かしながら彼に向かってお辞儀をし
(この動きだけで、”皆さん、あそこにいるのが今日の公演の本当のヒーローです。”と言いたいのが伝わって来る、、
こんなところ一つとっても、彼女の表現力の豊かさがわかります。)、
レヴァインが手を振ってキャストと観客に答えた時には、
もはや、そんな指揮台から舞台に移動するというちょっとした動きですら大変なのか、、と、
寂しいような、悲しいような、複雑な気持ちになりました。
そんな状態ですら、全幕を指揮してしまう意地はすごいな、と思います。


John Del Carlo (Don Pasquale)
Anna Netrebko (Norina)
Matthew Polenzani (Ernesto)
Mariusz Kwiecien (Dr. Malatesta)
Bernard Fitch (A notary, Malatesta's cousin Carlino)

Conductor: James Levine
Production: Otto Schenk
Set & Costume design: Rolf Langenfass
Lighting design: Duane Schuler
Dr Circ C Even
ON

*** ドニゼッティ ドン・パスクワーレ Donizetti Don Pasquale ***

IL TROVATORE (Tues, Oct 26, 2010)

2010-10-26 | メトロポリタン・オペラ
2008-9年シーズンにプレミアを迎えたマクヴィカーの『イル・トロヴァトーレ』が、
間に一年置いて、今年も帰って来ました。
この演目は今年のHDの予定にも入っていて、そのHDの公演が含まれるCキャストは、
プレミアと同じ、アルヴァレス、ラドヴァノフスキー、ホロストフスキー、ザジックというキャスティングで、
メトがそちらの方を実質的な表(おもて)キャストと見ていることは明らかです。

というわけで、順序で言ったらAだけど実質的には裏キャストな今日のこのシーズン初日の『トロヴァトーレ』。
私の好きなラセット(レオノーラ役)やルチーチ(ルーナ伯爵役)が裏って、どういうこと?!って感じですけれども。ぷんぷん。
そして、今、この役を歌えるテノールが超不足しているせいもあり、
表とか裏とか言ってられません、ということで、両方にキャスティングされているのがマンリーコ役のマルセロ・アルヴァレス。
そして、この裏キャストでアズチェーナ役を歌うのは、アメリカ人メゾ、マリアン・コルネッティです。



ラセットに関しては、私が大好きなソプラノであるということももちろんあるのですが、
彼女はメトにデビューして間もない頃は、ヴィオレッタ役なんかも歌っていて、
私もシリウスが昔の公演の録音を放送している時間帯に、彼女のヴィオレッタを聴いたことがありますが、
ベル・カントの技術は意外にも決して悪くないですし、
何年か前に生で聴いた彼女のエリザベッタ(『ドン・カルロ』)で、
ヴェルディの作品を歌えるスケールが声にあることは十分にわかっているので、
この二つががっちりと結びついたレオノーラ役をどのように歌ってくれるのか、
また、この作品の話の展開の仕方は非常に演技をする側にとって難度が高いと私は思うのですが、
演技の上手さにおいてはメトの舞台に立つソプラノの中でトップ・レベルにあると言ってよい彼女が、
どのような演技を見せてくれるのだろう、という興味も尽きません。



しかし、その期待は開演予定時間後、数秒で粉砕されました。
舞台にマイクを持って現れたマネジメントのスタッフ。やな予感、、。
”ミス・ラセットは風邪、それもひどい風邪(ただの風邪でなく、ご丁寧に”ひどい”と言う言葉までついてる!)に
悩まされていますが、舞台に立ちます。ご理解のほど、よろしくお願いします。”

ラセットが風邪、、、、ひゅるるるる~。
リハーサルでの彼女の歌唱がすごく良かったと聴いていただけに、悔しさ500%です。
それに、舞台に立って歌ってくれるのは、ファンの私は嬉しいですけれど、
まだまだこれから先の長いラン、大丈夫なんだろうか?とか、その風邪をアルヴァレスやルチーチに伝染さないでね、、とか、
色々な考えが頭をよぎります。
私は会社でも、同僚が何度もくしゃみを飛ばしたり、鼻をかんでいたりして、明らかに風邪気味なのに出社して来たな、、と思うと、
”どうして会社に来るわけ?ステイ・ホーム!!!”と叫びます。
そうでなくても休暇を取れない位に皆忙しいのに、こんな時にドミノ式に全員に風邪をうつしてどうするか?と思うわけです。
オペラの公演のキャスト仲間は会社の同僚のようなもの。ひどい風邪の場合は、休んでおくれ、、。



『トロヴァトーレ』は、オケの前奏の後、全幕を通しては決して出番が多いわけではないフェランドに、
いきなり昔話を語る場面を与えていて、この昔話についている音楽がかなりの曲者で、
私がこの役を歌う歌手だったなら、絶対に”ヴェルディの意地悪!”と叫びたくなること間違いなし。
しかも、場所が場所なだけに、ここがあまり出来が良くないと、観客の方の気分も一気に萎えるし、
逆に出来が良ければ後に続く演奏を思って気分が盛り上がるという、
観客側のムード・セッターのような役割もあって、実に恐ろしい箇所です。

2008-9年のAキャストのクワンチュル・ユンは手堅い、Bキャストのビルジリは全く記憶に残らない歌でしたが、
今日の公演でこの役を歌ったツィンバリュクというウクライナのバス・バリトン(二枚目の写真)は今日がメト・デビューで、
ちょっと個性的な歌い方なんですが、オペラハウスにものすごくよく通る深い声で、
今回のフェランドの歌唱に関してはアジリタの技術の面でも申し分なく、
この役でちょっとした印象を残したというのは、大したものです。
半年ほど前にロンドンのローゼンブラット・リサイタルに登場した時の映像を紹介しておきます。




これはなかなかに良いスタートだわ!とわくわくしているうちに、
いよいよレオノーラ役のラセットがイネス役のテイタムと共に登場。
一声聴いて、思いました。
”うわー。これは確かにひどい風邪だわ。これが私の会社だったなら、
私にすぐにゴー・ホーム!と言われていたに間違いないくらいの。”
声にずっと粗さが感じられて、これはとても本来の彼女の声と呼べるものではないです。
彼女はもともと美声で売っている人ではないので、それ自体は大きな問題ではないかもしれませんが、
やはり、ここまで声のコンディションが悪いと、歌唱という行為自体に大きな影響を与えるのは間違いなく、
そちらの方が大きな問題です。私はいつアジリタの部分が崩れてきたりするのではないか、
どこかで音が出なくなったり外したりするのではないか、と、もうドキドキしながら聴いていました。
すごいのは彼女の根性と集中力で、これだけ声そのものがダメージを受けているのに、
それを考慮すれば驚きなほど、必要な歌唱技術の方でのダメージはミニマムに抑えています。
この声でこれだけ歌えるなら、本来は相当良い歌唱だったはずなのに、、とそれだけが悔やまれます。



逆にアルヴァレスはほとんど絶好調でこの初日を迎えたと言ってよく、
彼は、公演によって、時々、声が疲れた響きを出している時があるんですが、今日の彼の歌声はみずみずしさも十分。
ただ、このマンリーコという役には、何か一つ足りない感じがするのです。
スリルかな、、、そう、スリルだと思います。
声は綺麗で、歌もすごく丁寧なんですが、この役はそれだけじゃ駄目なんですよね、、。
あの、役柄設定上の無茶する感じのキャラと釣り合うように、歌唱面でも冒険を感じさせてくれる人でないと、、。
正直、遅咲きと言ってもよい彼のキャリアで、しかも、こんな、ぱっと見には無理目なレパートリーの選択をしているように見える彼が、
今でもあの声を保っているというのはすごいことだと思うんですが、
彼のマンリーコ役の歌唱をよーく振り返ってみると、それは不思議でないと思います。
つまり、マンリーコ役を歌うと聴いて、我々が”無茶するな。”と感じる、
その無茶を、彼は犯していないんです。
言ってみれば、マンリーコについているはずのものがついてない、、そういう感じに近いでしょうか。
無理にならない範囲に自分の歌の方を調節する、、
それはキャリアの選択という意味では非常に賢いとは思うんですが、
結局、彼のマンリーコを聴いても全然スリルを感じない、というのは、その点同士がお互いに相殺し合っているからだと思います。



この作品のヴェルディらしさを最も感じさせてくれるのは、ルーナ伯爵役を歌っているルチーチです。
彼はラセットとは全く反対のタイプで、彼女がほとんどの公演で、
自分がこの役の表現として出来ることは何か?という演技の可能性を際限なく模索するタイプなのに比べて、
ルチーチは、演技では型通り以外のことは、全くと言っていいほどしません。
その代わり、彼の場合は、歌い方のスタイル、そのものが、この作品ととてもよくマッチしていて、
”もうあなたの場合は無理して演技しなくてOK。”と特令を出してしまいます。



このルーナ伯爵については、2008-9年シーズンのAキャストの(そして今年のHDのキャストでもある)ホロストフスキーの、
”とかげのルーナ”のような、ちょっと変わった演じ方も、可能性としては面白いのですが、
やはり私はどちらかというと、スタンダードに、エレガントなルーナを好みます。
あのホロストフスキーの変質者みたいなルーナの表現は、地の彼が男前であるところから来る余裕かもしれません。
あれをルチーチが行った日には、”何あの人!まじで変質者だわ!”と若い女性のオーディエンスに思われること間違いなしです。
なので、頭の悪くないルチーチはそんなことはしない!
とことん正攻法でこの役を歌うのです。そして、それは正解。



巷にはたくさんの優れたバリトンがいますが、
私が今、ヴェルディの作品で歌う現役バリトンを自由に一人だけ選ばせてあげよう、と言われたら、
一番彼で聴きたい、と思うのがルチーチで、
それは、彼の作り出すサウンドには、ヴェルディの作品に似つかわしく、またヴェルディの作品が必要としている、
スケールの大きさ、広がりみたいなものを感じるからです。
残念ながら、先に書いたように、彼は決して演技に特別秀でている歌手ではないので、
実際にメトで見た彼のリゴレットはもう一歩踏み込みが足りない感が私にはあったのですが、
一本気なこのルーナ伯のような役、後は『ドン・カルロ』のロドリーゴとか、
『運命の力』のドン・カルロなどは、彼にぴったりの役だと思います。



もう一つ、ルチーチで残念な点は、公演によって出来の差がやや大きいことで、
私も今までに”今日はどうやらやる気がないらしい、、。”と感じたことが何回かありますが、
もしかすると、彼の場合は、声・歌の不調がはっきりと出ずに、
やる気のなさみたいな形で伝わってしまう損な人なのかもしれません。
けれども、良い時の彼は素晴らしいのです。そう、今日のように。

”Il balen del suo sorriso 君が微笑み”から”Per me, ora fatale 運命の時は来た"での、
息の長い歌唱と、決してオケを圧したり、オケに消されたりするのでなく、
音の上にふわっと毛布をかけるように、もしくは、オケの演奏と一緒に音が湧いて出てくるような、
こういう歌い方がヴェルディの作品で出来るバリトンは、数多くないですから貴重です。
声そのものが良いのは言わずもがな。



アズチェーナを歌ったコルネッティは、演技はなかなかに達者な人なんですが、
ピッチがあまりに緩くて、これは問題と言ってもよいレベルに達しています。
特に、登場してすぐ、とか、しばらく歌う間がなかった後の歌唱でのピッチの甘さは耳に余るほどです。
かえって、決め玉にあたる難しい高音とか、そういうところの方がどんぴしゃに音がはまっていて、
それ以外の場所で頻繁に音程が不安定になるのが不思議です。
もうすっかりキャリアのピークを越えてしまって、時には高音が危ういザジックの方が、
まだ歌に関してはより聴かせるものがあるように私には思えます。
声自体の個性も、ザジックの方がより強いものをもっています。
(ザジックの方が刺すような冷たい透明感の強い音で、コルネッティはどちらかというとあたたかい感じのする音色です。)
ただ、ルーナ伯の時と同様に、ザジックがプレミア・シーズンに演じたアズチェーナは、
少し危ない感じが立った役作りだったのですが、
コルネッティの方が、母親としての温かさを大きく残した表現で、
マンリーコとアズチェーナの間の複雑な親子愛がより哀れに感じられたのは、今日のコンビの方だったかもしれません。



かように、それぞれの歌手の歌唱の内容は決して悪くはなく、個別で聴き応えのある場面はあるのですが、
4人揃ったケミストリーが今ひとつなような気がするのは残念。
(4人のうち2人の掛け合わせの中では、コルネッティとアルヴァレスのコンビが一番良いケミストリーを持っていると思います。)
各々の歌手が、それぞれに違ったスタイルで歌い演じているような感じで、
最後まで完全には舞台が一緒になっていないような感覚を持ちました。
コンディションの悪さのために、今ひとつ集中できなかったのか、
この4人の間にケミストリーがあまりにもなさ過ぎるせいなのか、
それとも、この『トロヴァトーレ』という作品自体の手強さか、
あのラセットをもってしても、舞台を一つの大きな力にまとめあげることは出来ませんでした。

マルコ(・アルミリアート)は、メトで定期的に振る指揮者の中では、
一番好きなグループに入る指揮者の一人ですが、彼はどちらかというと、
ベル・カントものとか、少し軽めの作品の方が良いのかな、と思います。
この『トロヴァトーレ』のようなドラマティックな作品だと、演奏が少し大人しくなってしまうように感じます。
アルヴァレスのところで書いたのと同じく、この作品には、スタイルの上に、
何か、どかーんっ!という爆発力が、演奏にも歌唱(特にテノール!)にも欲しいのです。


Marcelo Álvarez (Manrico)
Patricia Racette (Leonora)
Marianne Cornetti (Azucena)
Željko Lučić (Count di Luna)
Alexander Tsymbalyuk (Ferrando)
Eduardo Valdes (Ruiz)
Renée Tatum (Inez)
Conductor: Marco Armiliato
Production: David McVicar
Set design: Charles Edwards
Costume design: Brigitte Reiffenstuel
Lighting design: Jennifer Tipton
Choreography: Leah Hausman
Stage direction: Paula Williams
Grand Tier D Odd
OFF

*** ヴェルディ イル・トロヴァトーレ Verdi Il Trovatore ***

CAVALLERIA RUSTICANA/LA NAVARRAISE (Mon 10/25/10)

2010-10-25 | メト以外のオペラ
オペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨーク、略してOONY。
その公演の歴史はなんと1971-2年シーズン(実際の公演日は1972年)までさかのぼり、
毎年ニ、三本の演目を、演奏会形式ではありますが、
時に驚くようなビッグ・ネームの歌手を取り揃えつつ、公演の歴史を重ねて来たことは賞賛に値します。
このOONYの創設者かつ音楽監督であり、私の知る限り、ほとんどの公演で指揮を行ってきたのが、
イヴ・クエラーという女性で、こんな団体を40年にわたって率いて来た人なのだから、
どんな厳しそうな、怖い感じの人だろうと思ったら、
実物の彼女は指揮棒を持った優しそうな近所のおばちゃん、といったような雰囲気の人で、拍子抜けしたものです。

かように長い間、メトとは違うスタンスで、NYのオペラ・ファンに充実したオペラ体験を提供して来たOONYですが、
実は今シーズンの予定が発表される前に、おそらく財政的な理由が大きいのでしょうが、
存続の危機が叫ばれていた時期がありました。
なので、その後まもなく、まるで不死鳥のように今シーズン演奏されるニ演目(正式には三演目ですが、、)が発表され、
しかも、そのキャストの豪華さを見た時の我々の驚きと言ったら!
特に一本目のプログラムは、アラーニャ、ガランチャ、グレギーナによる
『ナヴァラの娘』と『カヴァレリア・ルスティカーナ』のダブル・ビル
(よって、後日の『アフリカの女』とあわせて三演目です。)!
アラーニャはOONYとの共演はもちろん、意外にもカーネギー・ホールで歌うのも今回が初めてなんだそうです。
でも、そんなことよりも!ガランチャを連れて来たというのはすごい機動力!OONY、あなどれじ、です。

さらにクエラー女史自身の方にも、そろそろ後継者を作らなければ、という考えがあるのか、
今年から、音楽監督代行としてアルベルト・ヴェロネージの名前が加わっていて、
来シーズンからは、彼が正式に音楽監督になるそうなんですが、
今日のダブル・ビルは、このヴェロネージのOONY指揮デビューの日でもあります。
今回の演奏会のチケットを手配するために、OONYに電話をした時にも、
電話を受けてくださった女性が、”ヴェロネージにも注目してくださいね、
良い指揮者ですから!”とおっしゃっていましたので、その点も楽しみです。



シーズンの演目が発表された時に、『ナヴァラの娘/カヴァレリア・ルスティカーナ(以下カヴと表記)』の順だったので、
てっきり『ナヴァラの娘』の演奏が先だと思い込んでいたのですが、
今回実演で接するのがはじめてで、全く聴きつけない『ナヴァラ』の方ではなく、
なじみのある『カヴ』の冒頭のあの美しい弦のメロディーが出てきました。

それにしても、『カヴ』という演目に手をつける勇気のあるオケと合唱は、
自分たちがどんな困難に足をつっこんでいるか、という、そのことを自覚して欲しい。
ヴェリズモ作品については、どこかヴェルディらの作品に比べると格下で、
演奏も簡単だろう、みたいなイメージを持っている方がいらっしゃるように思うのですが、
『カヴ』ほど演奏が難しい作品もないんです。
メトのような超プロ集団ですら、『カヴ』で良いオケの演奏が出る日というのはそう多くはないんですから、、。

OONYは自己付きの合唱団を持っていないので、ニューヨーク・コーラル・ソサエティが合唱に入っているんですが、
まあ、OONYオケとNYコーラル・ソサエティまとめて、全くこの演目が手に負えてないです。
リズムが変わる場所(この作品はこれが多いのが一つの難関)では脱線列車のようにぐちゃぐちゃ、
個々の楽器の名前を出すのは避けますが、本当に練習して来たの?というような出来のセクションもあるし、
合唱は合唱で、こんな下手くそなイタリア語、一体誰が教えているんだ?と憤慨したくなるようなディクションの悪さ、
その上、本当にもうこれは驚き以外の何物でもないのですが、どのパートも、全く発声の基礎が出来ていない。
彼らのサイトを見てもよくわからないんですが、この団体って、完全なアマチュア合唱団なんでしょうか?
いや、別にプロでなかろうと、人前で歌うからには、この発声のなってなさは、許しがたいものがあります。
特に男声の情けない音色には、いないほうがましだ!帰っちまえ!と叫びたくなるほどです。

はっきり言いまして、オケや合唱があまりにひどすぎて、ヴェロネージの指揮がどうのこうのと判断できるレベルじゃないです。
むしろ、よくこんなひどいオケと合唱をまとめて、一応(ほんとに、一応、ですから、、)演奏会の形にしましたね、と、
そっちの方で賞賛したくなるほどです。
私の見る限りは、ヴェロネージは決してついていくのが難しい指揮者ではなく、指示も非常にはっきりしているんですが、
それでもその指揮とは全く違うテンポや入りで、勝手に演奏している奏者が多数ですから、、。
ただでさえ、演奏するのが難しい『カヴ』で、そんなことをやっている奏者があちこちにいるんですから、
これはもう当然の結果といってもよい演奏内容なわけです。

そんなあまりにも多い障害の中から、私が感じた範囲では、ヴェロネージの指揮は、
強弱の変化が非常にはっきりしていて、(ま、しかし、これもオケが単にその間の微妙な表現を出来ないだけかも、、。)
でも、かと思えば、間奏曲では、普通あまり強調しない楽器を強調したりしていて、
オケに力さえあれば、これもあれもやってみたい、、というアイディアはあるんだろうなあ、、と思って、
また気の毒な気持ちが噴出して来ました。
後、彼はイタリアの地方の劇場を中心にキャリアを築いて来た人のようなんですが、
演奏の端々に、あまりメジャー歌劇場のオケでは聴けないような、
独特の少し寂れたような(決して悪い意味ではなく)ローカル色があるのが面白いな、と思います。

さて、こんな演奏をバックにサントゥッツァ役を歌うのはマリア・グレギーナ。
以前、このブログのどこかで書いたことがあると思うのですが、
グレギーナと『カヴ』といえば、私の生舞台鑑賞の原点となっている組み合わせです。
それまでにも、ビッグ・ネームが登場したものも含めて、生の舞台は見ていましたが、
彼女がメトの日本公演(1997年)に歌った『カヴ』、あの公演ほど、
演技と結びついた優れた歌唱がどれほど観客をノックアウトできるものなのか、ということに
目覚めさせてくれた公演は、それまでにありませんでした。
舞台上で飛ぶエネルギーがすごくて、まさに私は座席でオールモスト感電死状態でした。
休憩でトイレに立つのも億劫に感じるほどに。
トイレで順番を待って立っている間も、指の先まで自分の体に電気が通っているような感触でした。
あの時を境に、私のオペラ鑑賞が極端に”生”重視に移っていったのです。

彼女はその日本公演の後、サントゥッツァはもう歌わない、と宣言していたのですが、
結局、またこの役を歌うようになっていて、メトでも2006-7年シーズンに同役で登場しています。
私もその公演は見ましたが、残念ながらあの日本公演から10年経った彼女の声はもはや同じではなく、
そのせいで演技にも身が入っていないような、残念な結果でした。

彼女の声の衰えは確実に進行していて、最近では聴いていて辛い演目もあります。
私がここ数年、彼女が出演する公演に特にシビアな書き方をしているように聞こえたとしたら、
それは、あの1997年の、プライムにいた頃の彼女を聴いたことがあるゆえに、
それを帳消しにするような最近の歌には余計いたたまれないものを感じる、ということなんだと思います。

もちろん、声の衰えが突然に逆行するようなことは決してないですから、
今日の彼女は、歌声に関しては、2006-7年の公演から比べてもさらに衰退していますし、
それに合わせて歌唱面で、各フレーズの処理の仕方も調節しているのが良くわかります。
1997年の頃なら、無理にねじ伏せてでも大声量で処理していた箇所を、柔らかく歌って見せたり、といった風に、、。
普通に考えれば、こういう制限はやはり少ないほど良いものですが、
一つだけ、2006-7年の公演から、彼女のこの役での歌唱には大きな変化が生じていて、
それゆえに、私は今日の彼女の歌唱に、1997年の頃の歌唱とは全く違った意味で心を打たれたのです。

それは、”自分の声の衰えを受け入れる”ということです。
残念なことですが、プライムの時期の声をずっとキャリアの終わりまで保つことの出来る歌手なんて、
プライムの時期の真っ只中に逝去するのでもない限り、あり得ないことです。
特に、プライムを過ぎ、それにつれて活躍する劇場がマイナーになっていればそうでもないかもしれませんが、
メジャーな歌劇場からオファーが舞い込み続ける歌手ほど、この事実と折り合いをつけることは難しい。
2006-7年の彼女のサントゥッツァは、まだ彼女自身にその折り合いがついていなくて、
全てを昔と同じように歌おうとして、声が思い通りにならない、
そのジレンマから演技まで中途半端になっている、という感じでした。

今回の公演については、玄人および素人の評のいずれの中にも、
彼女の声の衰えを嘆き、よって、演奏自体も今ひとつ、と結論づけているものが少なからずありました。
プライムを大きく越えた歌手の歌は聴く価値がない、最高の時期の声を聴いてこそ、
というオペラの聴き方も確かにこの世の中に存在しますし、そういう聴き方をとやかく言う気は全然ないのですが、
私は全く違う考え方を持っていて、プライムの声を失った後ほど、
その歌手がそれまで素晴らしくあり続けた理由はなんなのか、ということが、はっきりわかる時はないと思っています。
だから、私は、どんなに歳をとった歌手の歌唱でも、その点がはっきりと見える内容の歌であれば、
聴いてよかった、、と思えるのです。

で、グレギーナなんですが、彼女はあの迫力ある声で、長らくドラマティコの世界では並ぶもののないソプラノでした。
けれども、その迫力が去りつつある今の歌唱からわかることは、
声のパワー以前に、彼女が役の中に入り込むことを非常に大切にしていた歌手であった、という事実です。
1997年には、舞台上を走り回り、激情溢れるサントゥッツァを熱唱していた彼女。
役作りも若々しく、リブレットのイメージにより近いのはそちらだったかもしれません。
あれはあれで素晴らしい役作りだったのですが、
今回、演奏会形式のためにほとんど物理的には動けないという制約にも関わらず、
さらに歌の表情と演技の深みが増しているように思えました。
この作品では、合唱と舞台裏から聴こえてくるトゥリッドゥの歌をのぞけば、一番最初に歌うのはサントゥッツァです。
”Dite, mamma Lucia..”(ルチア母さん、教えて)と歌い始める瞬間から、
グレギーナのサントゥッツァは重々しく、疲れ果てていて、すでに相当の期間、
ローラとトゥリッドゥの不倫に心を痛めていたことがわかります。
それから、彼女がトゥリッドゥを呪う”A te la mala Pasqua, spergiuro!”
(”最悪の復活祭を迎えるがいいわ。あたし、呪ってやるから。”)という言葉の直前に、
すっと片手を挙げて、まさに天に誓う、という感じのポーズをとったまま、
上の言葉を歌い終わった後、オケが後奏を奏でるなか、そのまま、天を仰ぎみながら、高笑いして、
その笑い顔が少しずつ泣き顔に変わっていくという演技は、
自分の愛する男性が自分を完全には愛していないことへの怒りとやるせなさが十全に表現されていて、
特に笑っている時は悪魔がとり憑いているのかという迫力で背中に寒気が走るようでした。
最後にトゥリッドゥが殺されたと知る時も、大袈裟な悲しみ方をせず、
まるで彼女自身がその結末を知っていたように、マンマ・ルチアの胸にそっと頭をのせる演技。
確かに彼女自身が呪って、その通りになったわけですから、この演技こそ適切だし、より一層、味わいが出る気がします。
彼女のそういった作品の細かい部分への目配りは、プライムの当時、
あの迫力いっぱいの声の方に圧倒されるあまり、はっきりとは見えなかった、、。
でも、1997年の公演だって、私が感電死寸前まで行ったのは、
やはりそこに緻密な役の分析があって、それが演技や歌とがっちり結びついていたからなんではないか、と思います。

プライムを越えたといえば、マンマ・ルチア役でミニョン・ダンが登場したのには観客が大喝采でした。
彼女はメトで、35年以上に渡り、650を越える公演に出演し続けたメゾです。
1964年にフィラデルフィアでコレッリ、テバルディと共演した
『ラ・ジョコンダ』からの音源がYouTubeにありましたので、ご紹介しておきます。




素晴らしい。なんてコレッリ、素敵なの、、、と、予想通り話がそれてしまいましたが、
ダンの話に戻ると、さすがにもう相当なご高齢ですので、この音源で伺えるような綺麗な歌声の跡形はもはやなく、
マンマ・ルチア役ですら、ほとんど音が棒読み状態でした。
でもいいんです。彼女の場合は、もうそこに立っているだけで喜ばしい、というステータスですから。

アラーニャは一人、大きな楽譜持参で歌ってました。
演奏会形式ですし、別に楽譜を見て歌っちゃいけないとはいいませんが、
つい2008-9年シーズンにメトで歌ったばっかりですし、その後もどこかで歌っていた記憶があるんですけど、
もう忘れちゃったんでしょうかね。『ナヴァラの娘』と違って『カヴ』はメジャーな演目でもあるのに、、。
ちなみに、アラーニャ以外は皆さん暗譜でした。

ただ、一つ気づいたのは、アラーニャの歌は、楽譜を見ながらいっぱいいっぱい状態で歌っている時の方が
かえって良いという点です。
しかし、もう、ここからは大丈夫!と思ったのか、アラーニャが後半でぱしっ!と楽譜を閉じて、
その後に続く ”母さん、この酒は強いねMamma, quel vino e generoso"も含めて暗譜だったんですが、
楽譜を閉じた途端、感情表現が過剰になって、一気にしらけてしまいました。
ふと、思ったのですが、私は彼の声そのものが苦手なわけではなくて、彼の表現のセンスが嫌いなのかもしれません。
ローラを歌ったスワンとアルフィオを歌ったアルマグエルは役目をきちんと果たした、以上のものは特に感じませんでした。


(ローラ役のスワン)

休憩をはさんで『ナヴァラの娘』。
ガランチャって今日のように舞台から近いところで見ると、すごくごつい人なんだなというのを実感します。
彼女は背も大柄ですけれど、肩周りがとてもたくましい。
彼女の高音の豊かな音色は貧相な体躯の人では出ない音だよな、、と前から思っていましたが、案の定です。

オケはこちらの作品の方がだいぶ出来が良い。ナヴァラに時間をかけすぎて、カヴが時間切れになったんだな、、。
それでも、時々金管がすかたんなミスをかまして、アラーニャに我々観客の方を見ながら、
眉をゆがめて、”困っちゃうよね。こういう演奏、、。”という表情をされる始末。
でも、まあ、こういうところがアラーニャもプロ意識に欠けてます。
ガランチャなんか、宙をじっと見つめて全くの無表情ですから。
そして、もちろん、合唱は相変わらず噴飯もののへたくそさ。
そういえば、彼らはタッカー・ガラにも出演するんでした。
彼らのサイトには、メンバー・オーディションの告知が出てましたが、
この際、メンバーを全員総とっかえした方がいいのでは?
こんな一流の歌手を招いておいて、オケや合唱がこういう出来なのは、彼らに失礼もいいところだと思います。

この作品、私はこの演奏会がきっかけで初めて聴いた作品で、今まで全く知らなかったのですが、
短いながらなかなかに魅力的で、かつドラマチックです。
何か別の短めの演目とカップリングして、ぜひ演奏会形式でなく、舞台で一度見てみたい。

マスネが書いた作品なんですが、同じフランスの作曲家(ビゼー)によるエスニックな演目で、
かつ、ガランチャがまもなくメトで歌う作品である『カルメン』を引き合いに出すと、
もう一歩荒々しくて、良い意味で洗練されていないエスニックさが特徴なように思います。
この『ナヴァラの娘』のストーリーは、身分違いのために恋人である軍人アラクィルの父親に結婚を反対された娘アニータが、
その状況を打開し結納金を手に入れる唯一の手段として、
敵対する軍の将軍の陣地に乗りこんでいって賞金がかかっている彼の首を切り落とすのに成功するものの、
その行為が、戦いで致命傷を負ったアラクィルに将軍の愛人兼スパイなのではないかと誤解され、
最後の虫の息の中でアラクィルが聞いた敵方主将暗殺の報と血まみれのアニータの姿が結びつき、
やっと彼が真実を悟るときには、彼は死を迎え、アニータは気がふれてしまっている、、
という実にドラマチックなストーリーです。

ガランチャは声楽的には申し分なくこの作品を歌っているのですが、
カルメン役に比べて、アニータ役に関しては、一番肝心な部分が表現しきれていない感じがします。
それは、カルメンと最も大きな違い、アニータが最後に発狂してしまう女性である、という点です。
カルメンは死の間際まで自分の理性を失わず、自分の生き方も変えない、非常にクールな女性であるのに対して、
アニータは、アラクィルのためには自分自身の生き方も捨て
(彼女が賞金狙いで敵方に女一人乗り込むのはもう正気の沙汰でないし、アラクィルの上司もそう言っている。)、
そして、アラクィルに自分の行動の本当の意図を理解してもらえなかった時には発狂してしまう、、。
カルメンとは全然違うキャラクターであることがわかります。
私はガランチャのカルメンは結構好きで、それはガランチャ自身の知的なところと、
カルメンの決して理性を失わない強さが呼応しているせいでもあるのかな、と思うのですが、
こと、このアニータのようなカルメンとは全く違った種類の濃い情熱を持った女性は、
まだガランチャが表現しうる範疇にはないような気がします。
これからガランチャが年齢を経て、こういったタイプの役をどのように歌いこなしていくようになるか、
楽しみにしながら待ちたいと思います。

『ナヴァラの娘』でのビッグ・サプライズはガリードという、アラクィルが属する軍の将軍役を、
決してそう大きな役ではないにも関わらず、イルダル・アブドラザコフが歌ってくれた点で、
これはもう贅沢以外の何物でもありませんでした。

この作品の中でちょっとした遊びどころとなっている、軍人が歌う踊りの歌のリードをとるブスタメンテ役を歌った
マイケル・アンソニー・マッギーは髪が寂しくなったヴィラゾンみたいなルックスで、かなり強烈ですが、
若手にしては、この歌を魅力的に歌いこなしてみせました。

それにしても、面白かったのは舞台上での各歌手の、自分の歌うパートを待っている間の態度でしょうか。
きっ!と空を見据えて、役に没頭しているガランチャの横で、
ADDでもわずらっているのかと思うほど、ひっきりなしにガランチャの顔を覗き込んだり、
前方に座っている観客とアイ・コンタクトをとったりして落ち着きないことこのうえないアラーニャ、
そして、他の歌手が歌っている間にも、一生懸命楽譜に目を通して自分のパートを予習している様子のアブドラザコフ、、。
(こちらはあまり演奏される演目ではないので、ほとんどの皆さんが楽譜を見ながらの歌唱でした。)
三人の個性がまんま現れていて、おかしかったです。


(今回、ガランチャ、アラーニャ、グレギーナら、メジャーな歌手たちとは、
写真撮影不可という条項でも契約の中にあったのか、彼らの写真が全く見つからなかったので、
冒頭の写真はメトの2009-10年シーズンに『カルメン』で共演した際のアラーニャとガランチャです。)

CAVALLERIA RUSTICANA
Roberto Alagna (Turiddu)
Maria Guleghina (Santuzza)
Mignon Dunn (Mamma Lucia)
Carlos Almaguer (Alfio)
Krysty Swann (Lola)

LA NAVARRAISE
Elīna Garanča (Anita)
Roberto Alagna (Araquil)
Ildar Abdrazakov (Garrido)
Michael Anthony McGee (Bustamente)
Brian Kontes (Remigio)
Issachah Savage (Ramon)

Conductor: Alberto Veronesi
The Opera Orchestra of New York
The New York Choral Society

Parq L Odd
Isaac Stern Auditorium / Ronald O. Perelman Stage, Carnegie Hall

*** マスカーニ カヴァレリア・ルスティカーナ Mascagni Cavalleria Rusticana
マスネ ナヴァラの娘 Massenet La Navarraise ***

BORIS GODUNOV (Sat Mtn, Oct 23, 2010)

2010-10-23 | メトロポリタン・オペラ
注:このポスティングはライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。


会社の帰り道、もう少しで我が家という頃、向こうから手を挙げながら歩いてくる見覚えのある顔が。
なんとグッド・タイミング! my店子友達ではないですか!!
『ボリス・ゴドゥノフ』のMetTalksの記事で、レヴァインとの対話の日に店子友達と交わした会話について書きましたが、
彼と会うのはあれ以来。すでに『ボリス』の初日を鑑賞した後なので、色々聞きたいことがあります。
あら?いつもは髭は綺麗に剃っている彼が、ワイルドな不精髭を生やしているではないですか。
”まあ!その髭、すっごく似合ってるわよ。”と言うと、”『ボリス』のために伸ばしてるんだよー!!”
”ところで、ボリスと言えば、あなた一体何の役で出てるの?
(ここで、彼の才能が生かされていないという、役の名前を聞いておかないと、、。)
”最初の方に出てくる赤いコートを着た警察官と民衆だよ。もう君、公演見たの?”
”見た見た。最後はヴァイオレントだったわね。じゃ、あの大暴れしてる民衆の一人なんだ。”
”そう。長椅子を掲げて、奴らを殺しちまえ、この!この!って叫んでる奴。”
(と、この "Kill them! Kill them!"をブロック中に響き渡るような声と、いつもの迫真の演技で再現し、
本物の喧嘩騒ぎか?殺傷事件か?と、縮み上がりながら我々を振り返る帰宅中の会社員たち、子供連れのお母様方多数。
皆様、本当にいつも店子友達がお騒がせしてしまって申し訳ありませんねえ。
もちろん、彼は周りの注目を一身に浴びているのも気づかず、
舞台と同様に、長椅子を振り上げる演技まで入れて大熱演、、。)



”私はあの演出、悪くないと思ったけど、あなた確か前回話した時、
ワズワースの仕事の方向が気に入らないって言ってなかったっけ?”
”ううん。僕の才能を生かしてない、って言っただけだよ。
でも、結局長椅子を持つ役に格上げしてくれたからね。(ということで、今は彼もハッピーなようです。)
長椅子を持ったら、持ってない時に比べて10ドル賃金アップしたしね。”
なるほど。確かにそれなら私も長椅子持ちたくなると思う。
後はどこで仕入れて来たのやら、どの歌手とどの歌手が仲が悪いらしい、だの(ボリスの出演者同士ではありません。)、
いろんなオペラねたを次々披露してくれて、彼のそのちょっとしたプチ・ヘッドぶりには、いつの間に、、と驚かされました。

店子友達のことを書き始めると、それこそ一本の記事分の字数をとってしまいそうですので、この辺にしますが、
今日はその店子友達の活躍にも注目すべく、二度目の『ボリス』の鑑賞で、ライブ・イン・HDの収録の日でもあります。



同じ演目、同じキャストであっても、どれ一つとして同じ内容の公演はない、、
残念ながら、毎日公演を観にいく金銭的・時間的いずれの余裕もない身である私としては、
事前にその公演がどれ位熱くなるか、知る術があればなあ、、といつも思います。
もちろん、そんなことは不可能なので、後はそうなる確率が高い条件を持った公演を予想することになるんですが、
当ブログが始まって以来、集積したデータを、この数学が苦手な私めが背伸びしてる雰囲気満点に不等号を使ってあらわしますと、
シーズン初日≧HD≧全国ネットのラジオ放送のある日(土曜のマチネ。HDと同じ場合あり。)>シリウスの放送日>それ以外の公演
というような感じになるでしょうか?
これだけ頑張って順序付けをしてみても、芸術とは本当に気まぐれなもので、
”それ以外”のはずが、全ての要素が噛み合って素晴らしい公演になることもありますから、
とてもこんな単純な式で表現しきれるものではなく、あくまで傾向の話をしているに過ぎないことを承知のうえで。

考えれば、結局のところ、公演が熱くなる可能性の高さというのは、
演奏に関わる全ての人たちが、今自分に出来る限りの最良の演奏・公演にしたい、という思いの元に団結し、
その点で、同じ方向を向いているか?という、このことと深い相関関係があるように思えます。
Madokakipによる「公演の熱さの不等式」が、
シーズン初日やHDをはじめとするエクスポージャーが高い公演ほど大なり、になっているのは、
新聞に掲載される初日の公演評や、全世界で上映され、下手すればDVDにまでなってしまう映像に、
自分のミスが永遠に刻印されることは誰でも避けたいし、
願わくば、素晴らしい内容の公演にしたい、という思いが歌手、演奏者、スタッフの中にある、ということなのです。
そして、この不等式は昨シーズンまでかなり信頼性の高いものでした。



ところが。私は今シーズンから、もしかするとこの式を若干調整しなければならないかもしれない、、と思い始めています。
というのは、HDでみんなと同じ方向を向いてくれていない、
または向きの度合いが足りないぞ!と私が感じる人が混じるようになってきたからです。

まず、一人目はレヴァイン。メトの音楽監督ともあろう人が何たること!と思いますが、
彼がボストン響の演奏会と掛け持ちのスケジュールを組んだために、
『ラインの黄金』HDのマチネでは、オケの演奏が今ひとつ燃え上がらないままに終わってしまったのは、
先日のレポートに書いた通りです。

そして、今日も、また一人。
それはなんと、ゲルギエフ、その人です!
この作品の大きさに比して、いかにもリハーサルが少なかったらしいことは、初日の公演でも十分に推測されました。
(他の新演出の公演と比べて数が少なかったわけではないと思いますが、
これだけのスケールを持つ作品では、もっと時間が必要だったのではないか、と思います。)
初日でも、プロローグから第一幕にかけて、アンサンブルの乱れが多々ありましたし、
二度目の鑑賞となる今日の公演でも、初日と全く同じところで崩れていて、
問題となっている箇所がわかっていながら、そのまま放置して今日まで来てしまった感じです。
でも、初日には、後半でそれを逆転させるゲルギエフ・マジックが炸裂。
今考えれば、時には神秘的になったり、静粛になったり、迫力満点になったりしながら作品を盛り上げるオケに、
歌唱と演出が引っ張ってもらった部分も大きかったのかもしれないな、と思います。



オケと違って歌手の方は比較的ゲルギエフと(もしくはメトの音楽スタッフと?)準備する時間が多くあったのか、
こういった期待の大きい新演出の演目には良くあることなんですが、
歌唱の方は、初日の日の時点ですでにかなり完成されたものになっていて、
ランの残りの公演でも、ずっとそのレベルが保たれる、というパターンになっています。
これは前回のHDの演目である、『ラインの黄金』についても似たことが言えました。
実際、今日の公演の歌唱については、ただ一人、クセーニャ役を歌ったゼトランが、
初日とは段違いに落ち着いて歌えていた点が唯一の違いで、
残りの歌手は、良くも悪くも、怖いくらい初日と同じような歌唱を聴かせており、
まるで初日のリプレイを聴いているような感じで、あまり書くことがない位です。

パペに関しては歌い出しは今日の公演の方がコンディションが良さそうかな?と一瞬思ったのですが、
そう時間が経たないうちに、初日でも感じた密度のない音がやはり聴かれるようになって、
全体の印象としては、初日と大きく変わるものではないです。
演技に関しても、公演によって部分的に変えてくる、というようなことは一切なく、
彼の中で、”自分はこのようにボリスを演じるのだ!”という確固としたイメージがあるせいだと思いますが、
それを基にこの役を歌い演じているような印象を持ちました。
(例えば昨シーズンの『トスカ』で、1回1回演技のニュアンスが微妙に違っていたターフェルなんかとは対照的です。)



歌手陣の方には大きな不備もなく、各々の歌手は堅実に歌っているのですが、
待てど暮らせど、ゲルギエフ・マジックが出ない。
そのうちに、歌手は初日とほとんど変わらない調子で歌っている分、
オケに火がつかないせいで、段々歌唱の方が上滑りしているような感覚になって来ました。
ゲルギエフに関しては、私はもともと緻密な技巧がある指揮者だとは全然思っていなくて、
指揮そのものがかなりテキトーになったりする時もあるんですが、
突然、良い意味でオケに放火する(=火をつける)ことがあって、
そういう時にやっぱり凡百の指揮者ではないのだよなあ、、、と思うのです。

今日の公演の観客は結構タフ(注:ここでいうタフとは丈夫という意味ではなく、
喜ばせることが難しい、無感情系観客という意味。)だったのは事実だと思います。
実際、インターミッション中に化粧室で列に並んだ前の女性と会話した際、
その女性も、”もうちょっと観客の反応が良くてもいいと思うんだけど、、。”とおっしゃっていました。
なので、私も、”ああ、残念だけど、今日は観客の方にも熱さがないから、
ゲルギエフも今一つのれないのかなあ、、。”位に思っていたわけです。
やはり、本当に良い公演が出てくる時というのは、独特の熱気や暖かさが客席からも流れているもので、
それがない観客というのは、自分の身の丈に合った、つまり、熱さの欠けた公演をあてがわれる、
それが因果応報というものだ、という風に思っている私なので、
まあ、今日の公演の結果も仕方がないのかな、、と。



しかし、一番驚いたのは、いかに演出が大打撃を受けたか、という点です。
初日ではあれほどオケが奏でる音楽と一体化し、暴力的なステージングとともに、
民衆の怖さ(単に暴れる様子が怖い、ということだけでなく、
人間とは機会を与えられれば、立場に関わらず、喜んで暴力的にもなりうる存在である、という点が怖い。)
がいかんなく伝わっていた第四幕三場(最後の場)が、今日は合唱やエキストラが熱演すればするほど空回り、、。
さすがにここはもっとオケが頑張らないと、釣り合いがとれず、
ここで演出家が打ち出したかったメッセージもきちんと伝わってきません。

初日の舞台挨拶での温かい観客の承認に気を良くし、あの拍手を再び!と考えたのか、
もしくは昨シーズンのボンディ『トスカ』で失った威信をここで取り戻そうとするゲルブ支配人の企てにのせられたのか、
珍しく、演出家のワズワースが今回の公演でも舞台挨拶に出て来ました。
初日と同じような熱い拍手を受けられると期待して、おしゃれな格好で舞台に登場したワズワースなんですが、
このぬるま湯のような微妙な観客の反応に、登場時に思い切りあげた両手が段々しなだれていくように見えたのは気のせいか、、?
まあ、気の毒ではあります。初日の、あの演奏とがっちり結びついた条件下のもとでは、なかなかの公演でしたので、
演出そのものが悪いわけでは決してないんですが、今日はあまりに演奏されている音楽と
舞台上で起こっていることが噛み合わな過ぎた。
”なんとなくのれない舞台”のその原因を、演出家のせいにした観客も少なからずいたかもしれません。

ワズワースよ、お気の毒に、、今日ののりの悪い客を恨んでおくれ、、、と思いながら、帰路につきましたが、
自宅に着いてから、ある情報をネットで目にし、今、私はとっても怒ってます。

それはNYの州立大学である、パーチェス・カレッジのパフォーミング・アーツ・センターの
オープニング・ナイトのイベントで、マリインスキー・オケがマーラーの交響曲5番を
10/23の夜の8:30から演奏するというもの。
あれ?それって、このHD『ボリス』と同じ日では、、?
しかも、ここアメリカで、マリインスキー・オケを指揮する人と言えば、一人しかいません、、、もちろん、ゲルギエフです。
そう!彼もレヴァインに続いて、ダブル・ヘッダーだったというわけです。
それも夜の公演がマーラーの作品というところまで一緒、、。
ゲルギエフの、あの半分心ここにあらず、といった風の燃え上がらない指揮は、
観客ののりの悪さのせいだけではなく、体力を温存するためだったのか、、。
けしからん話だ。


René Pape (Boris Godunov)
Aleksandrs Antonenko (Grigory)
Ekaterina Semenchuk (Marina)
Andrey Popov (Holy Fool)
Mikhail Petrenko (Pimen)
Evgeny Nikitin (Rangoni)
Oleg Balashov (Prince Shuisky)
Vladimir Ognovenko (Varlaam)
Nikolai Gassiev (Missail)
Olga Savova (Hostess of the Inn)
Jonathan A. Makepeace (Feodor, son of Boris)
Jennifer Zetlan (Xenia, daughter of Boris)
Larisa Shevchenko (Nurse)
Alexey Markov (Shchelkalov, a boyar)
Dennis Petersen (Khrushchov, a boyar)
Valerian Ruminski (Nikitich, a police officer)
Mikhail Svetlov (Mitiukha, a peasant)
Gennady Bezzubenkov (Police officer)
Brian Frutiger (Boyar in attendance)
Mark Schowalter (Chernikovsky, a Jesuit)
Andrew Oakden (Lavitsky, a Jesuit)

Conductor: Valery Gergiev
Production: Stephen Wadsworth
Set design: Ferdinand Wögerbauer
Costume design: Moidele Bickel
Lighting design: Duane Schuler
Choreography: Apostolia Tsolaki

Dr Circ E Odd
OFF

*** ムソルグスキー ボリス・ゴドゥノフ Mussorgsky Boris Godunov ***

LA BOHEME (Sat, Oct 16, 2010 ) 出待ち編

2010-10-16 | メトロポリタン・オペラ
公演本編から続く>

すでにオペラの公演やらレクチャーに参加するのやらで多くの時間を費やし、
うちの息子(犬)たちがその間二匹ぼっちになっていることに負い目を感じている私としては、
残りの時間は出来るだけ彼らと一緒に過ごしたく、
単に自分の好きな歌手が登場しているというだけでは、出待ちをしたいと思うに十分ではなくて、
その公演自体が非常に素晴らしかったり(『蝶々夫人』『トスカ』)、
優秀な、しかし、まだ若手のアーティストがメトの舞台に立たせてもらえる数少ない機会(『フィガロの結婚』のミード)であるなど、
歌手や指揮者に、”すばらしい公演を本当にありがとうございます!!”とか、”メトへの登場おめでとう”という、
お礼とか祝福などの、強いメッセージを伝えたい時にステージ・ドアに駆けつけたくなるんだと思います。

人気歌手の場合は、私が行かなくても誰かが出待ちに行くだろうて、と思えるのですが、
若手の場合は、特に歌唱内容が優れていた場合、
私が行かなかったら、ステージ・ドアの外に出ても誰一人もヘッズがいないなんてことになってしまうのではないだろうか、
そして、あんなに頑張って素晴らしい歌を歌ってその仕打ちはなかろう、、というお節介な気分になるのです。
実際、ステージ・ドアに行ってみて、私一人だったことなんてこれまで一度もないんですけど。

どんな歌手でも、メト・デビューの公演というのは一生に1回しか訪れない特別な機会です。
それをグリゴーロは、控え目に言っても成功、人によっては大成功とも呼ぶかもしれない結果にしてみせたわけですが、
私はその結果もさることながら、その成功の仕方、成功の内容に非常にエキサイトさせて頂いたので、
これはなんとしてもメト・デビュー成功のお祝いを伝えて、
観客がどのように今日の公演を受け止めたか、ということを、彼が短い出待ちの時間の中から感じ取ってくれればいいな、と思い、
終演後、ステージドアに参上しました。

NYはこの日の公演の少し前くらいから、ものすごく気温が低くなる日が出てきて、
今日の夜は冷え込んでいるせいもあるのか、それとも土曜の夜だからか、
私がステージドアにたどり着いた時には、(公演を観ないで)出待ちだけにあらわれる常連メンバーすら少なめで、
これまでで、最も自分が全体の出待ち人数に貢献している率が高いように感じられ、ひたすら来てよかった、、とほっとするのでした。

シーズンの初日の公演というのは、大パトロンたちが終演後に歌手たちの控え室を訪れて健闘を称えることが多く、
今日もその例にもれず、歌手たちが外に出てくるのに普通以上に長い時間がかかっています。
と、そのうちにいつの間にか、どこからか、出待ちの常連=オペラ虫たちがうようよと現れ始めました。
そうか、パトロンとの会合時間を見越してこの時間に現れたのか、、、さすがだわ、、。
いつも、彼らの現れるタイミングのそのどんぴしゃなことには、驚かされるばかりです。

そんな出待ち常連メンバーの中で、番長的な存在であると言っても過言でない、一人のおばあさんがいらっしゃいます。
髪はオール白髪、50年代から一度も買い換えたことがないのでは?と思うようなめがねをかけ、
その出待ち歴の長さゆえに、出待ち常連組はもちろん、歌手のマネージャーたちですら一目置くという、名物ヘッドです。
彼女は現在は必ずしも全ての公演を鑑賞しているわけではなく、というよりもむしろ、
ほとんどの公演を鑑賞していないと言った方が近い、つまり、出待ちをするためだけにメトにやって来られるのですが、
あまりに毎回パーフェクトなタイミングで現れるさまは、
家から望遠鏡でステージ・ドアを覗いているのではないか?と思うくらいなのですが、
どうやらそうではないらしいことは、以前、私が彼女とおしゃべりをさせて頂いた時に、
”イースト・サイドにあるアパートメントからバスでここまで来ている”と聞いて、仰天したことからも確かなようです。
さすがにセントラル・パークをはさんだイースト・サイドからメトのステージ・ドアが見えるわけはないと思うので、、、。

私が初めて出待ちをした時、一応、ステージ・ドアから列らしきものが形成されているのに、
(どうせ、そんなものは歌手が出て来た時点で崩れるのですが、当時の私はそれを知らなかった。)
その番長が私や他の出待ち人たちの横をすり抜け、何食わぬ顔で、列の先頭に立っているのを見た時は、
”ちょっと、一体何なの、このばあさん?!”と思ったものです。
しかし、その後、複数の機会にわけて、何度も、見事なタイミング&人を油断させる巧みな話術で、
次々と割り込み・横入りを成功させている彼女の様子を見るうちに、
その技術に惚れ惚れすることはあれ、怒る気持ちはすっかり失せてしまいました。
初出待ちの際、どうして周りの出待ち常連組は彼女に抗議しないんだろう?と不思議に思ったものですが、
今の私と全く同じ心境だったんだと思います。

メトの出待ち常連組の人たちは、かなり個性的な方たちの集団ではありますが、
まずは親切な方たちの集まりと言ってよく、海外からいらした方や出待ちが初めての方でも、
何かを尋ねると、とても丁寧に教えてくれるはずです。
しかし、そこから突っ込んで、オペラ(というよりはメトと言った方がいいかもしれませんが)について、
ある程度の知識がこちらにあることがわかると、さらに”我々の仲間”という感じで温かく迎え入れてくれます。

丁度、この日も、常連組の間で、”コヴァレフスカとゲオルギュー、どちらが優れたミミか?”という議論が待ち時間の間に始まって、
私は最初、特に会話に参加せず、”あの控え目な感じがミミに合っている”とコヴァレフスカを支持する女性が、
”いやいや、ゲオルギューのリアリティーのある演技に比べたら全然!”と他の方たちにやりこめられていて、
まあ、ゲオルギューの演技をリアリティーがあると感じるとは、
人のリアリティーの感じ方とは千差万別なことよ、、、と思いながら、聞くともなく聞いていると、
”そういえば、昨年のミミは誰だっけ?”という話になって、
NYのヘッズはあまりにたくさんの公演を追いかけているために度忘れすることがあり
誰も思い出せないようなので、”ネトレプコではありませんでしたか?”と私が言うと、”おお!そうだ!”という声と共に、
一気に円陣が私の方まで広がってきて、”で、あなたはどのミミが好き?”とあっという間に議論に吸い込まれてしまいました。

以前の出待ちで、それまでは私の存在になど気づいていないかのように振舞っていた番長の前で、
キャラモアの『セミラーミデ』で、ミードの歌に感銘を受けた”と発言した途端、
”そう、あなたもキャラモアに行ったの。”と、突然、50年代のめがねの奥の番長の目が
きらきらし始め、その後、一緒に列に割り込ませてくれたり、
何くれとなく話しかけてくれたりして、とても良くして頂いた、ということもありました。
不思議はありません。この番長こそ、あのフィガロの出待ちで、
”『アルミーダ』では、フレミングに病気になってもらいたい。”と言ってのけた女性ですから。
番長もミードの大ファンなのです。

やがて、議論はゲオルギューもコヴァレフスカもミカエラを歌ったことがあるね、という話から、
ガランチャはカルメンに向いているか?また、カルメン歌いとしてすぐれていた歌手は誰か?という新しいトピックに移っていきました。
円陣のみんなが各々、”私の思い出のカルメン”について語った後、
いつの間にか円陣に加わっていた番長(また割り込み?)が、
”ガランチャはね、カルメンには向いてないの。彼女は良い歌手だけど、カルメンじゃない。
色んなタイプの優れたカルメンがいたけれど、、、ちょっと、名前を挙げてみましょうか?”
と言って、出てくる名前が、フェードラ・バルビエーリ(彼女がメトでカルメンを最後に歌ったのは1954年のことですから、
番長がいかに長い間、オペラを聴き続けて来たか、わかります。)、
リーズ・スティーヴンス、レジーナ・レズニク、グレース・バンブリー、
シャーリー・ヴァーレット(ご冥福をお祈りします。)、マリリン・ホーン、、

我々が目を輝かせて聞き入っていると、とうとうステージ・ドアの扉が開き、誰かが出てきました!
動物園から脱走して来た熊かと思ったら、マルチェッロ役のファビオ・カピタヌッチです。
ネットで出回っている彼のプロフィール写真では、髭が綺麗に剃られていますが、
今回の『ラ・ボエーム』では本編の写真からもわかるとおり、あごから頬にかけて髭をはやしていて、
なんだか、服で隠れている場所以外、全部「毛」という感じで、大柄でコロコロした雰囲気が本当に熊のよう、、。
彼も今日がメト・デビューだったので、出待ちの常連でも、彼に実際に会うのは初めての人ばかりで、
どんなパーソナリティか、全く想像がつかなかったのですが、
全く気さくで温かい感じの方で、一人一人とても丁寧に応対してくださるので、
早くも、待ち時間がやや長めだったために、すでに血に飢えたコヨーテ状態になっていた
ヘッズたちの良き餌食となっています。
それにしても、番長、いくら今回彼に会うのが初めてで、写真と実物をマッチさせるのに苦労しているといっても、
本人の目の前で、周りのヘッズに、”これ、カピタヌッチ?これ、カピタヌッチ?”と、
ミスターもつけずに大声で苗字を連呼するのはちょっと失礼なんでは、、?さすが、番長、怖いものなしです。

いよいよ、次は私のサインの番!
カピタヌッチも私の方に体を向け、後はサインペンとプレイビルを渡すだけだったのに、
いきなり彼の背後からあらわれたロシア人系と思しき出待ち常連組の男性が、
イタリア語で、”あなたは世界で最高のイタリア人バリトンです!”と話しかけ始め、
話は延々と続く、、ちょっと勘弁してよね、と思った瞬間、むこうに見えるのは、マイヤ・コヴァレフスカではないですか!
しかも、多くのヘッズがカピタヌッチに気をとられているため、
いち早く彼女に近寄った中国人系の常連組の男の子以外、ノーマークです。
これは急がなければ、彼女のサインをもらい損ねてしまう!と、半渡し状態だったプレイビルとサインペンを奪い返し、
カピタヌッチを放置して、コヴァレフスカにダッシュ!

彼女に息を切らせて駆け寄り、ふと顔をあげてびっくりしました。
”で、でかい!”
そうなんです。舞台で想像した以上に背が高くてびっくり。
もしかしたら、178センチ以上あるのではないかと思います。
彼女はものすごく痩せている、というイメージがあった(し、実際スリムな)んですが、
一つにはこの高い身長がさらにそのイメージを増長しているのかもしれないな、と思いました。
身長がこんなに高いのは意外でしたが、雰囲気は舞台から受ける感じのまま、
控え目かつ穏やかそうな方で、まさに、優しいお姉さん(実年齢は私の方が上かもしれませんが)といった雰囲気の方です。
サインのお願いにも、優しく笑って、”もちろん!”と応じてくださいました。
下手すると、日本人よりもずっと礼儀正しい感じで、気配りも細かそうで、
すぐ後に出て来た指揮のブリニョーリに、”マエストロ、今日はお疲れ様でした。”と、
丁寧に挨拶をしている様子を見るにつけ、ますます、一昔前の日本人みたいな人だわ、、と思いました。

では、ついでに、そのブリニョーリも捕獲!と、”マエストロ、、”と声をかけようとしたところ、
またしてもあのロシア人が横から飛び出してきて、
”マエストロ、あなたは世界で最高のイタリア人指揮者です。”
、、、、この人、てっきりイタリア語を流暢に喋れるものとばかり思っていたけれど、
もしかして、”あなたは世界で最高のイタリア人○○”の○○の部分を変えているだけ?

ブリニョーリは奥様とローティーンのお嬢さん(このお嬢さんが父親に似ずとても可愛いらしい!)という、
ご家族と思しき2人を引き連れていて、そのお嬢さんの方が、じりじりとした様子で待っていた私に気づいて、
”ごめんなさいね。”という感じでにこっと微笑むと、
ブリニョーリの背中を、”パパ、パパ”と軽く突いて、”この女性が待っていらっしゃるわよ。”という手振り。
ああ、なんという素敵なお嬢さんなの!!
ブリニョーリ、指揮よりも子育ての方が上手なんじゃないか、と一瞬思ってしまいましたが、
これは奥様の力か?

という間に、カピタヌッチの周辺がややおとなしくなって来たようなので、ここでリベンジ。
どうやら、さっき、もう少しでサイン!というところで、放置して去って行ったことを覚えていたようで、
とても申し訳なさそうに(カピタヌッチのせいでは全くないのに、、)、
手を太もも横に合わせ、ニ、三度、微妙に体が前に傾いたような、、。
これは、もしかしてお辞儀?! もう、あのロシア人のせいで、カピタヌッチにこんなに気を使わせてしまったじゃないよ!!
この方はもう徹頭徹尾、いい人オーラが発散されていました。

次に現れたのはシェンヤン。こう考えると、『ラ・ボエーム』って、結構登場人物が多いんだな、というのを実感します。
彼の場合、舞台では痛いほどアジア人しているのに、
意外にも素の方が、上背もあるためか(シェンヤンは体格もごついですが、身長でも、カピタヌッチよりもずっと大きいと思います。)、
アジア人男性にしては珍しい押し出しの強さみたいなのもあって、舞台よりも素敵な感じがします。
舞台より素の方が素敵とは、これいかに、、?
アジア人同士というのはやはりちょっとほっとするところもあるのか、
他のヘッズに対する時と比べて、丁寧に応対してくださったような気がします。
隣には可愛いアジア人の女性を伴ってらっしゃっていて、
このすぐ次の月曜日のカーネギー・ホールの演奏会にも、お2人ご一緒に来場されていました。

その後しばらくあって登場したのが、ムゼッタ役のタキーシャ・メシェ・キザート。
もう少しでまたしてもロシア人にしてやられそうになっていたところを、
ミミ議論で意気投合した出待ちの常連の女性が、自分がサインをもらった後、
すかさず、タキーシャに、”今、私の友達のMadokakipを紹介するわね!”と言って、
私を招いてくれたため、タキーシャの”Hi, Madokakip!"の一言で、ロシア人が割り込む余地はなくなりました。
あ、でも、彼女はアメリカ人だから、例の必殺文は使えないですね。
それとも、イタリア人のところを、アメリカ人に置き換えるのか?
よく考えると、今日のキャストは結構名前の綴りが長い人が多くて、
なかにはファースト・ネームをアルファベットでサインする人もいたのですが、
彼女はフル・ネーム、全てきちんと綴って、しかも、サインには、
その名前の前に、Be blessedという枕詞まで入れてくれるので、
名前の方がプレイビルのページの端で切れそうになって、大変なことになっていました。
彼女ももう舞台で見たままの、豪快な黒人の今時のお嬢さん、という感じで、
彼女も今回、メト・デビューで、しかも彼女の場合はグリゴーロやカピタヌッチと違い、
まだまだインターナショナルな活躍が始まる前の人なので、相当プレッシャーを感じていたのではないかと思っていましたが、
この豪快で元気一杯の様子を見ていると、そうでもなかったのかな、、?とも思えてくるほどです。
(でも、やっぱり歌声には少し緊張している様子が感じられました。緊張しないほうがおかしいです。)

タキーシャから離れた後、ナイスな気遣いをしてくださった出待ち常連の女性にお礼を申し上げると、
”もうね、あんな人(ロシア人)が喋り終わるの待ってたら、いつまで経ってもサインがもらえないもの!”
”ほんとに!”と言って笑っていると、噂をすればで、タキーシャにサインをもらった後、
再びカピタヌッチを捕獲して雑談に興じていたそのロシア人が私の側にいきなり近づいてきて、
”君のサインペン、しばらく貸してもらえないかな?”
ええっ??!!ちょっと、もういつグリゴーロが出てきてもおかしくないし、困るんですけど!!
”絶対にグリゴーロが出てくるまでに返してね。”と釘を刺した上でペンを渡し、
例の女性と思わず顔を見合わせ、呆れた、、という表情をし、
女性に”大丈夫。もし間に合わなかったら、私のペン使って。”と慰められていると、
ステージ・ドアが開いて、みんなの、”メト・デビュー、おめでとう!ヴィットリオ!!”の声が!!
やおらカピタヌッチとなにやら筆談している様子のロシア人に向かって、
”早くーっ!!私のペンーっ!!”と腕を振り回しながら大声で叫ぶと、ペンを握ってロシア人が走って来ました。

グリゴーロは、舞台で見るよりさらに華奢で小柄な感じで、後、写真で見て想像していたよりは、頭部が大きい。
これは、決して悪い意味ではなく、私は自分なりに、良い声が出る人の頭の形に関するセオリーがあって、
彼の頭の形と大きさはそれに近かったので、おおいに納得したのです。

彼はもうこういう状況に慣れっこなのか、かるたみたいにたくさんの自分のブロマイドみたいなのを手にしていて、
出待ちのメンバーと言葉を交わしたり
(ロシア人が、また、”君は世界で最高のイタリア人テノールだ、、”とのたまっていたことは言うまでもない。)、
写真に納まりながら、そのブロマイドにサインをしつつ、みんなにばら撒くという、究極のマルチ・タスキングでした。

グリゴーロは黒いコートの下にタキシードを着ていて、ディナーの予約か何かにすでに遅れているのでしょう、
横では彼の奥様かマネージャー(おそらく前者)が、”早く!早く!”とグリゴーロをせかしています。
私はブロマイドではなく、自分が持参したCDとプレイビルにサインが欲しかったので、
それらを差し出すと、にこやかにサインしてくれました。
単純に自分がそこにサインをしてほしいからそうしただけなのですが、
考えてみたら、ただで配っているブロマイドに群がる出待ち人と、
自分のCDを買ってくれて、そこにサインをしてくれ、という出待ち人、どちらが印象が強いかといえば、
それはもう日の目を見るより明らかな話です。
しかも、出待ちの常連組は、中国人系の男の子を除いて、番長を筆頭にじじばばばっか。
比較で、私が若く見え、常にグリゴーロがリーチ・アウトしたい、と言い続けて来た、
若い世代(自分で若い、ということには全く抵抗がありますが、あくまで比較で)から、
最も至近距離にあるのが、中国人系の男の子とこの私といえます。

私は普段、どの出待ちでもカメラを持参しないし、なぜだか、特に歌手の写真を撮りたいとも思わない人なので、
この日もカメラなし、サインをもらえたことだけでひたすら大満足していると、
別の出待ち人の女性に、”グリゴーロと一緒のところの写真を撮ってほしい。”と頼まれました。
頼まれるままに撮影して、その女性にカメラを返すと、
私が誰にも写真をとってもらえない状況にあると思ったグリゴーロ君(あ、とうとう君づけになった、、)が、
次に写真を一緒に撮ろうとする別の出待ち人にもみくちゃにされながら、
私を指して、”君、後で一緒に写真撮ろうね。”

       

これにはやられました、Madokakip!!!
普段、美男子には全く興味のない私ですが、歌の歌える美男子は別ざんす!!!
グリゴーロ君がそう言ってくれているのに、断るのは無粋の極みですから、
速攻で中国系の男の子のカメラで撮影してもらってメールで送ってもらう、という交渉(というか強制、、)にたどり着いたのに、
その時、むなしく、”あなた、時間切れ!”という奥様の声が、、。
まだまだ一緒に写真を撮りたい、とむらがるヘッズたちから、
タキシードの襟をつかまれて、無理やり奥様にひっぱがされ、
引きずられるようにして、”ごめんね、ごめんね。”とみんなに手を合わせつつ、
夜の闇に消えていくグリゴーロ君の姿に、
”おやすみなさーい、残りのラン、頑張ってねー!!”と、手を振る我々なのでした。

というわけで、ツーショットの夢は露と消えたのであります。残念無念! 

(注:この出待ちの時のサインが入ったプレイビルを、keyakiさんがご自身のブログでとても素敵に紹介して下さいました!)


Vittorio Grigolo (Rodolfo)
Maija Kovalevska (Mimi)
Takesha Meshé Kizart (Musetta)
Fabio Capitanucci (Marcello)
Shenyang (Colline)
Edward Parks (Schaunard)
Paul Plishka (Benoit/Alcindoro)
Daniel Clark Smith (Parpignol)
Conductor: Roberto Rizzi Brignoli
Production: Franco Zeffirelli
Set Design: Franco Zeffirelli
Costume Design: Peter J. Hall
Lighting Design: Gil Wechsler
Stage Direction: David Kneuss
Gr Tier D Odd
OFF

*** プッチーニ ラ・ボエーム Puccini La Boheme ***

LA BOHEME (Sat, Oct 16, 2010)

2010-10-16 | メトロポリタン・オペラ
残念な結果に終わったメーリの『リゴレット』でのメト・デビューから約半月、
今日は注目のもう一人のイタリアン・テノール、ヴィットリオ・グリゴーロのメト・デビューの日です。
私、彼を生で聴くのは今回が初めてなのですが、生でなく録音した音源で彼の声を初めて聴いたのは、
スカラ座の夜シリーズ(スカラのHD)の『三部作』での『ジャンニ・スキッキ』のリヌッチオ役でした。
その時にも、若くて良い歌手なのでこれからが楽しみだな、と思いはしたのですが、
録音から本当の歌手の生の声を推し量る事は非常に難しくて、
その時は、彼の声はリヌッチオ役に普通求められるよりはサイズのある声のテノールなんじゃないかと思っていました。
その後、その記事のご縁でお話をさせて頂くようになり、
現在もグリゴーロのことだけでなく、オペラに関するあらゆる面で色々教えて頂くことの多い
keyakiさんが運営なさっている、彼をフィーチャーしたサイトから
彼の色々な音源や映像を教えて頂いているうちに、少しその時に持ったイメージと違うところがあるのかな、と思い始めました。
そして、その思いは、最近発売されたThe Italian Tenorという彼のCDを聴いて強くなり、
さらに、彼がこの『ラ・ボエーム』のリハーサルのためにNY入りした後に、
アメリカの三大ネットワークの一つ、ABCの朝の番組『グッド・モーニング・アメリカ』で放送された、
彼が生で歌った『愛の妙薬』からの”人知れぬ涙”
が決定打となりました。



keyakiさんが教えてくださったおかげで、私はリアル・タイムの映像を、PCでなく、テレビの大画面で見聞きでき、
かつ、私が感じた限り、この手の番組にしては音声も非常に良く捕らえられていましたので、
歌唱、顔による表情はもちろん、彼がどのように細かい技術を使ってこのアリアを歌っているかということが大写しで観れまして、
”私は彼が今まで予想していたのとはやや違うタイプの、
でも、今まで思っていたよりさらに優れた歌手だ、、。”という感想を持ちました。
keyakiさんのブログでも言及されていますが、しかし、持ち時間が足りなくなって、
このアリアの最後の音が消えるまで、あと10秒もないのではないかというところで、
いきなりコネチカット州知事の選挙運動がらみのコマーシャルに移り変わった時には、
彼がこのラストの部分を、特に繊細な表現でもって歌い終わろうとしているところだっただけに、
テレビのモニターに向かってライフルをぶっ放したい気持ちに駆られ、
この候補者(トム・フォーリー)は絶対落選!と、ヘッズの呪いをかけておいたMadokakipなのでした。
(そして実際に落選してしまったようです。ヘッズの呪いは効果抜群。)



また、リハーサルに居合わせた友人から、彼のロドルフォの歌唱が本当に素晴らしい、という風評も事前に耳に入って来ていましたので、
この二つが重なり、ものすごい期待満々でメトにやって来た、シーズン初日の今日の『ラ・ボエーム』です。

シリウスが放送できる公演の数は、基本的に週毎に枠が決まっていて、
かつ、今まで土曜の夜の公演がシリウスで生中継されるということは一度もありませんでした。
(これはHDや全国ネットのFM放送が常に土曜のマチネ公演を放送するため、それと重複しないようにということで、
マチネが放送されない日も、習慣として土曜の夜はシリウスの枠外ということになっていたのです。)
実際、この週も、当初は週の中日の『リゴレット』が放送される予定のはずだったんですが、
あの不甲斐ない『リゴレット』は放送しても意味がなかろう、ということになったのか、
いつの間にか、今夜の『ラ・ボエーム』に摩り替わっていて、
平日の公演の間で放送される公演が変わる、ということはこれまでにも稀にありましたが、
今までの慣例を破って、土曜の夜の公演であるこの『ラ・ボエーム』を放送することにしたその裏には、
グリゴーロのレコード会社やマネジメントの働きかけもあったかもしれませんが、
それ以上にメト側がリハーサルを通してこの公演に大きな自信を持ったからなのは間違いないと思います。



前述のリハーサルに居合わせた友人が”パヴァロッティのような声のサイズはないけれど”と言っていましたが、私も同感です。
歌い方とか音色が時にパヴァロッティに似ることはあるのですが、
パヴァロッティの声がもっとうわ~んとメトのオーディトリアム中を包む感じだったのに比べ、
(それは私が聴いた彼の最もキャリアの末期に近い段階ですらそうでした。)
グリゴーロの声は、年月を経るともうちょっと変わってくるかもしれませんが、
今の段階ではもう少し繊細で、音が広がるというよりは、直線的にこちらに飛び込んでくるようなタイプの声です。
ただし、今の彼の声のサイズがパヴァロッティほどでない、というのは、
それはレパートリーに注意すれば全く問題がないことで、
(この『ラ・ボエーム』も含め)正しいレパートリーを歌っている分においては、
決して声量が足りないわけではなく、むしろ、十分すぎるくらい声量はあります。
けれども、彼の声量があるのは、元々大声なテノールがわんわんと声を出した時の”声量がある”とは少し意味合いが違って、
”正しい発声をしている”ゆえの”声量がある”なのです。
実際、彼の発声の仕方は、音域の一番高いところから低いところまで、
全く無理をしていると感じさせる響きがどこにもなく、自然で、聴いていて本当に快い。
ここまで徹底して、発声の仕方が全音域で統一されているというのは、
非常にしっかりとした堅固な発声のテクニックが身についていることの証だと思います。
(そんなのメトで歌うほどの歌手なら当たり前じゃないか、と言われるかもしれませんが、
彼ほどそれがしっかりしている人ばかりでは決してないのです。)

それから、フレージングの、考え尽くされ、計算されていることは、
彼の年齢から言うと信じられないほどの細やかさです。
そして、それをドラマに完全に埋め込んで、客にそれを感じさせずに歌うという技術も。
(というお前は気づいているじゃないか、と言われるかもしれませんが、
それは今回、特に彼に注目していたせいもあって、姑のようにねちねちとした注意を向けていたからです。)
中には、今まで聴いたテノールの多くが、ブレスのためにフレーズをぶち切れにするような感じで歌ってしまうところを、
ほとんどブレスを感じないように一息で歌って、旋律と一体化したその美しさに惚れ惚れした箇所もあって、
彼の歌う歌には、フレーズの中にきちんとアーク(弧)があるのが素晴らしいと思います。
それから、言葉に込められたニュアンスも。
一幕で仲間とふざけ合って発する短い単語一つ一つにすら、活き活きとしたカラーを与えているのには驚かされます。





”冷たい手を”なんですが、私はこれまで聴いたテノールとは全く違った意味で彼の歌唱に感銘を受けました。
一昨年までメトで当たり前のように横行していて私がうんざりしていたこのアリアでの半音下げ・全音下げですが、
昨シーズンのべチャーラがきちんと元の(一般に歌われるべき)調に戻してくれて
もちろん、今回のグリゴーロも、”本当の”(=半音や全音下がりでない)ハイCを轟かせてくれたのですが、
このポイントに行くまで、やはりほとんどのテノールが緊張して体が固くなっているのが伝わって来るため、
私の方まで手に汗握る!という感じで、体が緊張し、この音が終わってやっとほっとさせてもらえる、というのが慣わしでした。
半音や全音下げてもまだそういうテノールもいますから、何をかいわんや。
しかし、今回のグリゴーロのこのアリアから、私は一切、そういう固さを自分の中に感じなかった。
そこに至るまでの道のりはもちろん、ハイCすらあまりに楽々と歌うので、
アリア通しで完全なリラックス・モードで聴き続け、終わった時には
”あれ?こんな簡単だっけ、このアリアは?”と思った程です。
もしかすると、”もっとパヴァロッティみたいなCのスリルを!”と感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、
それが先ほど書いた、グリゴーロはパヴァロッティとは違う、と私が感じる部分なのです。
しかし、そのグリゴーロの歌唱によってもたらされる美点は、
多くの公演でこのアリアが単なるハイCを聴かせるイベント
(まあ、先述のように、それすら叶わぬことも多いのですが、、。)に堕してしまう危険性をはらんでいるのに対し、
このアリアで歌われている一語一語の意味が、こちらに伝わってくる点です。
これほど、歌詞の内容をしっかり感じながら聴いた”冷たい手を”は初めてです。

あと、マイクを通したもので聴くと、彼の声に独特の細かい音の揺れ
(人はこれをヴィブラートと呼ぶのかもしれませんが、私はこの言葉をあまり安易に使いたくないので、、)を感じる場合があり、
また、この後の公演を二回、シリウスで聴いた時にも、やはり同様のものを感じたのですが、
実際にオペラハウスで聴くと、マイクを通しては揺れに聴こえるものが、
きちんと像を結ぶように、中心に一本の線が通っているような音で、
かなり印象が違うことも強調しておきたいと思います。



というわけで、彼はこのような(写真をご覧下さい)ルックスですので、
その点で、アイドル的な人気を得ることができるかもしれない、というアドバンテージはありますが、
そのわかりやすいすごさで通常オペラを聴かない層にまでアピールしたパヴァロッティとは違って、
こと歌唱に関して言うと、むしろ、非常に巧みで細かいスキルと表現力で観客を魅了するタイプで、
ある程度、オペラに通じている人にこそ、その良さが理解されるタイプだと思うので、
こちらの記事のコメント欄でkeyakiさんが書かれているような
非クラシックの経歴ゆえに(また、彼のルックスの良さも、この場合、損な働きをしていると思う)、
ハードコアを自認する、しかし、まだ彼を劇場で聴いてはいないヘッズから軽んじられている部分があるのは実に皮肉で、
私は、彼に限らず、どんな歌手についてもそう思うのですが、
”歌手のことを非難するときは、せめて1回は生できちんと聴いてからにしようよ!”と思います。



実際、オペラハウスでこの日の公演を聴いた批評家によって書かれた評は、
彼について概ね好意的な内容であったことを書き添えておきます。
ただし、NYタイムズのトマシーニ氏はこの期に及んで、まだ”彼については最終的な判断を保留したい。”などと
寝ぼけたことを言っていて、こんなに優れた歌を聴いてまだ保留なんて、
そしたら一体いつ判断できるんですか?と聞きたい。
彼は数年前、ワシントン・ナショナル・オペラの『ルクレツィア・ボルジア』で彼を聴いた時も、
全く同じことを言っていました。
彼がローカルのヘッズから尊敬されなくなっている理由は、
彼は自分の評がどのようにヘッズに受け入れられるかを意識するあまり、
自分が”これは良い”と思うもの、あるいは”悪い”と思うものを、そのまま正直に書けなくなっている、
その腰抜けな態度にあると思います。
今回は特に、多くのヘッズたちが、公演前に、その経歴ゆえに、
グリゴーロのことをきわもの扱い(本当のオペラ歌手ではない、など、、)するようなコメントを、
ブログに書き込んだりしていたので、そのせいもあるのでしょう。
私に言わせれば、彼は非常に優れたオペラ歌手であり、妙な思い込みのために彼を聴かないでいるとすれば、
誰でもないその方自身の損になりますよ、と申し上げたいです。



一つだけ言うと、彼の演技は、その体当たりさゆえに評価が高いようなんですが、
私は逆に、歌の方で彼が見せている成熟度とは、ちょっと釣り合わない感じがしました。
多分、彼には歌でも演技でも、彼が意図するところがきちんと伝わらなければ!という思いがあるのでしょうが、
演技というのは、押すばかりではなくて、少し抑えた方が、ぐっとリアリティが増すことがあるということを、
これから経験で学んでいってくれるといいな、と思います。
メトは大きな箱ですので、余計、観客に伝わっていないのでは、、?と大きな動きになるのかもしれませんが、
客席からは十分にもっと細かい演技でも見えますので、、。
終始、演技に関してはややばたばたした感があったのですが、
一箇所、素晴らしかったのは、最後の幕で、みんながいなくなって、ミミと2人きりになる、
夕焼けに染まるパリの景色にのみこまれそうなロドルフォの後ろに、
オケがあの一幕の”うるわしい乙女よ”の旋律を奏でて、
(ここはゼッフィレッリのプロダクションで最も感動的な瞬間だと私は思う、、)
ふと後ろを振り向くと、ミミが起き上がって手を差し伸べている、、、
(ミミ役のコヴァレフスカのこの部分のそっと手を伸ばしたたおやかな演技がまた泣ける!)
ここで彼女に駆け出していって、キスで言うならまさに”ぶちゅーっ!"という感じで
彼女を抱きしめる演技をするセンスのないテノールが多いのですが、
グリゴーロはそっと側に駆け寄って行って、ものすごく大切なものをそっと包むように、
ゆっくりとミミを抱き寄せたのです。
これは素晴らしい演技で、私も思わず涙腺がゆるみました。
そうそう、そういう風に演技は”抜く”方が効果的よ!と、、、、。



とにかく今日の彼は本来の力をきちんと出し切ったといってもよく、
この大舞台で肝が据わっているのも頼もしいです。
プレッシャーに潰された感じのあるメーリと明暗をわけた感じです。
最初のインターミッションに入る前の第二幕の終わりに、観客のためにもう一度カーテンが上がった際、
彼自身も、メト・デビューの成功をすでに感じたのか、観客の割れるような拍手の中、
ミミ役のコヴァレフスカの顔をがっちりと両手でロックして、
覆いかぶさるようにして、無理やり熱いキスを浴びせていました。相当嬉しかったのでしょう。
この時点での、ロドルフォとミミの幸せな状況ともシンクロしていて、微笑ましいカーテン・コールでした。



またしてもグリゴーロでフィーバーしてしまって、他の歌手について書くスペースがなくなって来ましたので駆け足で。

まずミミ役のコヴァレフスカ。私は彼女のたおやかな感じがこのミミ役にはとても合っていると思っていて、
今日も最初の登場場面でのドアのノックの仕方や、ろうそくの火が消えて鍵も失くしてしまった時のうろたえ方、
先述したちょっとした手の差し伸べ方などにミミの控え目なパーソナリティが出ていて、
演技の方では、とても良いミミだったと思います。
ミミは、貧乏人バージョンの娼婦でしたたかな女だ、という考え方もあるかもしれませんが、
(以前にも書いた通り、お針子という彼女の設定には、
サイド・ビジネスとして体を売っている、というコノテーションがあります。)
それをあまりに強調したゲオルギューのようなケースは、私はあんまり好きでありません。
ただ、今日のコヴァレフスカは、声にざらざらしたテクスチャーがあって、高音の延びも今ひとつだったので、
風邪でもひいているのかな?と思っていたら、この後の10/20の公演では、
公演開始前に、”コヴァレフスカが風邪を引いていますが歌います”というアナウンスがあったので、
多分、この日、すでに本調子ではなかったのだと思います。
それから、彼女は以前に純朴女子の準主役系(リューとかミカエラとか、、)を専門にした方がいいのでは?と私が提唱したように、
少しミミ・クラスの主役を張るスターらしさが欠如しているようで、損をしていると思います。

マルチェッロを歌ったカピタヌッチはなかなかの美声で、発声も素直で綺麗なんですが、
演技がやや単調で、彼らしいマルチェッロというところにまでは至っていなかったのが残念です。
今まで私が観た中で、最も活き活きとしていて魅力的だったクヴィエーチェンのマルチェッロには全然適いません。

コッリーネ役のシェンヤンは、歌は可もなく、不可もなく、なんですが、
舞台姿やたたずまいが悲しいくらいアジア人、、。
出待ち編でふれますが、舞台で観て持った印象より素ではずっと上背があって、
アジア人男性らしからぬ堂々とした雰囲気もあり、割りと素敵な人なので、ちょっと不思議な感じがします。
声にもうちょっと深みがあったらなあ、、と思いますが、年齢のせいもあるのかもしれません。
まだ若いですから、、。

もともとロドルフォのダチの中では最も地味な役ではあるのですが、
本当に”あ、あんた、いたの?”くらいの存在感しかなかったのは、ショナール役のエドワード・パークス。
彼は2007-8年シーズンのナショナル・カウンシルのファイナリストで、あの時は素晴らしい歌声で我々観客を魅了してくれたのに、
今回、何か周りに遠慮しまくっている感じで、すごく影が薄かったのは残念です。本来はもっと力のある歌手のはず!頑張れ!!

当初予定されていたクリスティーン・オポライス(楽しみにしてたのに、、)が、
バイエルン歌劇場でルサルカ役をキャンセルしたニーナ・シュテンメの代役を引き受けるためムゼッタ役を降板し、
代わりにメト・デビューを飾ることになった、タキーシャ・メシェ・キザートは黒人のソプラノ。
YouTubeで事前に聴いていた感じでは、割とどっしりしたレオンタイン・プライスのようなタイプを想像していたのですが、
実際に劇場で聴くと、意外と小回りな声でした。
でも、同じ黒人であるという部分を差し引いても、実際、響きは結構プライスに似ている部分もあり、
形容するなら、ものすごく小さくなったプライス、という感じです。
急遽決まったこの大舞台で、萎縮するでもなく、伸びやかに舞台を務め上げたガッツは評価に値します。

ブリニョーリの指揮は、本人が音楽にどっぷり浸り過ぎて、肝心の指示をきちんとオケに与えられていなかった部分が散見され
(それでもこの初日はまだましで、この後、どんどんひどくなって行きました。)、
また指揮の動きが意味なく躁的で、一体どこにビートや入りがあるのやら、
あれではオケに指示が伝わらないよね、、と思うところが多数ありました。

ゼッフィレッリの演出こそが、最大の魅力である、というような評も見かけましたが、
私はこの演出でも、つまらない歌や演技のせいで舞台が死んでいるのを観たことがあります。
演出が輝いていたとしたら、それは舞台にいる歌手たちの力があったからこそだ、ということを忘れてはならないでしょう。

出待ち編に続く>

Vittorio Grigolo (Rodolfo)
Maija Kovalevska (Mimi)
Takesha Meshé Kizart (Musetta)
Fabio Capitanucci (Marcello)
Shenyang (Colline)
Edward Parks (Schaunard)
Paul Plishka (Benoit/Alcindoro)
Daniel Clark Smith (Parpignol)
Conductor: Roberto Rizzi Brignoli
Production: Franco Zeffirelli
Set Design: Franco Zeffirelli
Costume Design: Peter J. Hall
Lighting Design: Gil Wechsler
Stage Direction: David Kneuss
Gr Tier D Odd
OFF

*** プッチーニ ラ・ボエーム Puccini La Boheme ***

THE SINGERS’ STUDIO: ANNA NETREBKO

2010-10-12 | メト レクチャー・シリーズ
今日のシンガーズ・スタジオのゲストは、『ドン・パスクワーレ』の公演に向けてすでにNY入りしているアンナ・ネトレプコ。
彼女が華奢で可愛らしかったのはそんなに昔のことではないのに、
ブルーのブラウスに、ベージュのロング・カーデをはおって現れた彼女はもはやロシアのおばちゃんのような風格をたたえています。

今日のインタビュアーは、再びオペラ・ニュースの鉄仮面編集長ドリスコル氏。
オペラ・ニュースの最新号(11月号)にも、彼女のインタビュー記事がフィーチャーされていて、
今回の内容と重複する部分もあるのですが、
それ以外にも、非常に興味深い内容が多く、彼女というアーティストを知るのにとても有益なことが含まれていますので、
いつも通り、思い出せる内容をすべて意訳でご紹介したいと思います。
しばしば誤解されやすいところもある、彼女の人となりが伝われば幸いです。
彼女をAN、鉄仮面編集長をFPDと表記します。

FPD: もうすぐメトで『ドン・パスクワーレ』のノリーナを歌われますね。
AN:  ええ、マノンとかヴィオレッタのような死ななくてよい役なのでハッピーよ。
私はコメディーが大好きだし、なかでもこのノリーナのキャラクターが好きなので。
ベル・カントの、特に喜劇的作品は、音楽的演劇とでもいえばいいかしら?
アンサンブルが多く、一人で歌い上げる場面が少ない。でも歌っていて、すっごく楽しいわ。
また、より演技に集中する必要があって、歌詞を(音楽的な)音として発するよりも、
より言葉の意味をきちんとのせて歌うことが大事だと思う。
今回の(シェンクの)プロダクションは、ビジュアル的にもすごく綺麗ですね。
FPD: ドニゼッティとベッリーニの作品の違いについて、どう思われますか?
AN:  (鼻の付け根に皺を寄せて、”げーっ!”という表情)
FPD: (編集長特有のいつもの鉄仮面顔のまま)だから、音楽に関する質問もしますよ、と事前に申し上げたではないですか。
AN:  でも私もその場で、そういう質問、やめて下さいね、って言ったじゃないですか!(会場爆笑)
もちろん、どちらも素晴らしい音楽よ!でも、うーん、そうだな、、、ベッリーニの方が、歌声がより美しく聴こえるような気がするかな。
でも!私、聴くのは、ワーグナーの音楽が一番好きなのよ。(鉄仮面と会場、共にどよめく。) 『ローエングリン』とかね。
FPD: 話を『ドン・パスクワーレ』に戻しましょう。今回、ノリーナをどのように演じるつもりですか?
前回(2005-6年シーズンの公演で、フローレス、アライモ、クウィーチェンと共演)のあなたのノリーナは元気一杯、
フィアース(激しい)といってもよいキャラクターでしたね。
AN:  とにかく、スコアを見て、、直感に頼る!スコアにすべてが書かれているから、そこからあとは自分で色々取り出していくの。
FPD:  今までに歌った役の中で、これは自分に向いた役じゃないな、と感じたものはありますか?
AN:  特にないですね。声の変化のせいで、歌わなくなった、もしくは歌わなくなるだろうと思う役はあるけれど。
FPD: 出産を経験されてから、何か変わったことは?
AN:  声がすんごく大きくなったの!(笑)
FPD:  お子さんが生まれてすぐ?
AN:  初めて歌ったのはティアゴが生まれて数ヵ月後だったはずだけど、
何もしなくても以前の3倍くらいの声量が出るようになっていたの。
FPD:  これから数年で新しく挑戦したいレパートリーについて話していただけますか。
(少し躊躇する様子のネトレプコに)話したくないの?
AN:  (しどろもどろになりつつ)そうじゃないんだけど、、、
たぶんお考えになっているので合っていると思います。(注:『ローエングリン』のエルザのことか?)
これまで歌って来たレパートリーでまだまだ歌い続けたいと思っているのは、マスネの『マノン』ね。
『ロミオとジュリエット』(グノー)なんかもそうですが、作品が長いという意味では大変なんだけど、
私にとっては、無理をしなくても比較的楽に歌えるレパートリーがこのあたりなんです。
ただ、ジュリエットのキャラクターは段々歳をとりつつある自分にはきつくなって来ているかな、とも思うけれど。
FPD: 少しあなたの初期の経歴に目を移しましょうか。声楽の学校に行かれたのですよね?
AN:  音楽学校(musical college)に2年、コンセルヴァトワールに5年通いました。
コンセルヴァトワールでは演技はもちろん、バレエ、舞台上の動き、ファイティングの方法、
それから16世紀、18世紀等、各時代ごとの身のこなしの違い方、といったものまで勉強しました。
FPD:  当時、自分が歌手としてこれほど成功すると思っていましたか?
AN:  全然!! もちろん、そうなればいいな、とは思ってはいましたが、夢の夢だと。
FPD: 以前はモーツァルトのオペラもよく歌ってらっしゃいましたね。
AN: ええ。ただ、今は声の変化のために歌いにくくなって来たので、少しずつ減らしているところです。
FPD: 新演出ものとリバイバルの公演、どちらが好きですか?
AN: 実を言うと、新しいプロダクションで、スタッフや共演者と一緒に時間をかけて公演を作り上げていく方が、
リバイバルの演出にぽん!と入っていきなり歌うよりずっと好きなんです。
でも、子供が出来た今、2、3ヶ月の長期にわたって家を空けるのは辛い。
今はまだいいけれど、ティアゴが学校にあがる頃は、もう少しセーブしなければならなくなるかもしれないな、と思います。
FPD:  現在自宅はオーストリアでいらっしゃって、NYにもアパートメントをお持ちなんですよね。
AN:  ええ。でも、ほとんど家にいることがなくてあちこち飛び回っているような気がするわ。
ただ、ティアゴが旅行好きなのは助かっているの!
FPD: つい最近コヴェント・ガーデンと日本にツアーに出られましたよね?その時ももしかして一緒に?
AN:  ええ。日本にいる間に、ティアゴが日本語を喋り始めたわ。
FPD: ええ??まさか!?(笑)
AN:  もちろんまだ二歳だから、きちんとした意味の通る日本語を喋っているわけではないけれど、
*&^#@)^%^$(と日本語の語感を真似しながら)みたいな音をたてているのよ!
だから、”これは絶対に日本語を喋っているつもりに違いない!”って(笑)
FPD: あなたのパートナーでいらっしゃるアーウィン(・シュロット。ウルグアイ出身のバス・バリトン)の母国語はスペイン語、
あなたはロシア語、それから2人で会話される時は英語、なんですよね?
AN: そう!だから、ティアゴはかなり混乱してるわよ(笑)
FPD: あなたは最初から声楽を勉強したのですか?
AN: いえ、ピアノが最初、でも全然才能がなかった(笑)
音楽理論は右の耳から入ったと思ったら、すぐに左の耳から出て行くような状態だし、、。
オペラの公演を準備する時に、私にとって一番興味があのは物語の背景、歴史を知ることなんです。
FPD: そういえば、あなたは2011-12年シーズンの(オープニング・ナイト演目!)『アンナ・ボレーナ』に出演しますね。
そうすると、その準備も進んでますか?
AN: まだ一回もスコアを見てないわ。
(固まる編集長。)
もちろん、歴史的背景なんかは調べてますけど。
FPD: 2006年にオペラ・ニュースがあなたにインタビューを行った際、あなたはこのような趣旨のことを言っていました。
”大きな声で歌っている方が体がリラックスしている状態になるので楽なんです。
ピアノと指定されている音を歌う方がずっと難しい。”
AN: そんなことを言ってました?
多分、私が言いたかったのは、ピアノのように音の緊張度が高まる場面ではついナーヴァスになってしまう。
リラックスした方が良い音が出る、という程度のことだったんだと思います。
でも、ここ5年くらいかな?自分には経験がある、とやっと思えるようになったの。
今年のザルツブルクで(グノーの)ジュリエットを歌った時、ある日、朝起きてみたら、声が出なくなっていたことがあったの。
でも、主催者側には、どうしても出演してほしい、と言われて、
とりあえず会場に向かう車の中で、アーウィンに”どうしよう、こんなで歌えないわよね。”と囁き声で話していたくらい。
でも、これで地球が滅亡するわけでもあるまいし、今の私には経験があるんだから!
と思い切って舞台に立ってみたら、私が朝にそんな状態だったとは誰も気づかなかったわ。
FPD: 声が出なかった理由はなんだったんでしょうね。
AN: 今でもあれがなんだったのかよくわかりません。
ベッリーニの『カプレーティとモンテッキ』は本当に美しいメロディで、いつも泣いているような感じね。
でも、難しくて、、、多分、もう歌わないと思うわ。
グノーの『ロミオとジュリエット』は対照的に、とても強いキャラクターで、
私の声にも向いていて、声楽的には良いと思うのだけれど。
FPD: 特に思い入れのある役、良くレッスンで歌う役というのはありますか?
AN: ないわね。練習は10分くらいして、後は、、(ぱたん、とスコアを閉じる仕草。)あまり好きじゃないの。
(普段よりも一層鉄仮面状態、歌手としてあるまじき姿勢!とばかりに、憮然とした表情になる編集長。)
大事なのはリハーサル!!すべてはリハーサルの中にあるの。
だから、役を覚えるのは一気にやって、あとはリハーサルで細かい肉付けをしていく感じです。
私の耳は、学ぶのにはあまり向いてなくて、聴いたものをそのまま再現する力の方が強いと思うの。
役を覚えるのは本当に早いわよ。ロシアにはあまり自国のレパートリーが多くない、というのも一因かも、、。
キャリアの初期には、本当にたくさんの非ロシアもののレパートリーをすごい速さで覚えなければならなかったですから。
FPD: かつてメトで合唱のスタッフもつとめていた私の同僚が、バーデン・バーデンで
あなたが出演した、チャイコフスキーの最後のオペラ作品である『イオランタ』(注:2009年7月)を鑑賞したんですが、
私の生涯に聴いた中で、最も記憶に残るオペラの公演の一つ、と言っていました。
彼の経歴からもわかるとおり、ものすごくたくさんのオペラの公演を聴いて来た人ですし、
その彼がそのように言ったというのは、ちょっとしたことだと思います。
AN: ありがとうございます。でも、あの『イオランタ』も一週間で覚えたのよ。
FPD: 一週間?! (また、この女は、、という呆れ顔とまじ驚きと賞嘆が混じったような、
滅多に見ることが出来ない人間的な表情を浮かべる編集長。)
AN: ええ、一週間です。
FPD: 私なら一週間CDを聴き続けても、一緒に歌うことすら出来ないでしょうに、、(会場、笑いと頷き。)
ところで、『エフゲニ・オネーギン』の全幕に出演する予定があると伺いましたが?
AN: ええ、やるわよ、ここメトで!!
『オネーギン』はずっと避けていたんですけど、ピーター(・ゲルブ支配人)に説得されてしまって、、(笑)
『オネーギン』をやるなら、絶対メトでやらなきゃ!と、、。
FPD: 今までNYでは、ガラでディミトリ・ホロフストフスキーと抜粋を歌ったことがあるだけですよね?
AN: これからも、タチアナはそんなに多く歌うつもりのない役です。
タチアナ役は、テッシトゥーラがあまり高くなくて、ほとんどの音がファースト・オクターブの中にあります。
『オネーギン』の主役はオケだと私は思っていて、手紙の場なんかも、
美しい旋律を奏でているのは実はオケで、ソプラノは合いの手みたいなものですから。
FPD: ロシアのオペラで、、
AN: (と質問する編集長を遮って、冗談めかしながらも、もうロシアのオペラに関する質問はやめてほしい、という雰囲気で)
どうしてロシアのオペラの話ばっかりするの?
FPD: わかりました。じゃ、ロシア以外のオペラでは何が好きですか?
AN: ドイツもの!!!なんてね。
まじめな話、『ルル』(作曲家のベルクはオーストリアの人ですが)は大好き。
ただ、私は他の言語に比べてドイツ語の単語を覚えるのが苦手だから、そこが大問題ね。
それでなんでウィーンに住んでいるかって?だってみんなが英語を喋ってくれるんですもの。
私の英語は完璧じゃないけれど、一応生活するに苦労しない程度には話せますから、、。
もちろん、ワーグナーの作品には大きな敬意を持っています。
ワーグナーの作品に出演することになったら、準備も一週間というわけにはいかないわね(笑)。
実際、私になんとか歌えるかもしれない役は『ローエングリン』のエルザだけなんですが、
もし、歌えることになったら、ティーレマンに指揮してほしい!!
それから、めちゃくちゃ厳しいドイツ語の先生も必要だわ。
FPD: あなたはビジュアルも重視されるようになったオペラのトレンドの中で非常に有利な存在で、
あなたを羨ましく思っている同僚もたくさんいると思いますが、
ライブ・イン・HDのような試みについてどう思うかお聞かせください。
AN: HDは嫌い。(あまりにもはっきりとした一言に息を呑む編集長と会場)
だって、あまりにもストレスが大きすぎるんですもの。
HDが好き!なんて本気で思っている歌手や劇場のスタッフは一人もいないわ。
HDの舞台をつとめる歌手は一週間くらい前からみんな胃が痛くなるような緊張に悩まされているのよ。
ストレスは体に余計な緊張を生み出して、一層歌うのが難しくなるし、
舞台裏(HDの司会役の歌手のこと)や客席では他の歌手が見ている、、タフでなきゃ、とてもつとめられないわ。
FPD: そんな状態を解消するのに役立つことはなにかありますか?
AN: ないわ、何も。経験と鉄のような強い神経、それだけが味方。
FPD: 公演がない日にはどんなことをしてますか?
AN: 演奏会に顔を出すこともありますが、あとはショッピングと料理、そう、料理ね!
時間があれば料理をしてます。美術館とかにはあまり行かないわ。
え?何を料理するかって?ロシア風サラダとか、、即席で新しいメニューを作るのが好きなの。
特に家族とか親しい友人のために料理するのは、とてもリラックスできるし楽しいわ。
映画は最近はティアゴの喜ぶものばかりを観ているので、漫画オンリー!頭がどんどん悪くなってるわ!(笑)
FPD: 過去に活躍した歌手、現役の歌手を問わず、ロール・モデル、目標にしている人はいますか?
AN: ええ、それはたくさんいるわ!現役の歌手は全員よ。
現役の歌手の方たちが出演している公演を観にいくと、いつも必ず何か学ぶものがあるもの。
現役以外の人だと、カラス、テバルディ、フレーニ、スコット、、
そして、ジョーン・サザランド!!(注:この日はサザランドの訃報が出た翌日のことでした。)
あの美しい声とコンピューターのように完璧なコロラトゥーラ!
あんなことを今出来る人はいないし、これからもいないと思うわ。
FPD: 今専任のヴォーカル・コーチはいますか?
AN: 今はいません。5年前くらいまでは、とにかく、いつも、もっと勉強しなくちゃ!早く!早く!という感じだった。
やっとこの5年くらいで、自分にもそれなりの経験がついてきた、という自信のようなものが出て来たかな、、。
契約を結ぶときは、マネージャーたちとあまりに違う種類の役の間を行ったり来たりしないように注意しています。
また新しい役については、5年くらいの余裕をみるようにしています。
FPD: 今シーズン登場する、デッカーによる(メトにとっては新演出になる)『椿姫』は、
当初あなたを念頭において企画されたものでしたね。
AN: 2005年にザルツブルクでかかったものと同じ演出ですが、
あのザルツブルクの『椿姫』は私のキャリアで最も大切なパフォーマンスで、
私にとっては、あれで完結してしまったような気がするのです。
あれ以上出来ることは私にはもう何もない、、。
だから、別のソプラノの方にお願いした方がいいな、と思ったのです。
FPD: 良い健康状態と体型を保つためにしていることは?
AN: 私は食べるのも飲むのも好きだし、それをごまかすつもりもありません。
ジムに通ったり、健康的な食事を、たいていの場合は(笑)心がけています。
ただ、脅迫観念のように、”痩せなきゃ!”と自分を追い込むつもりもないの。
もちろん、ある程度、舞台上で魅力的に見えるように自分をきちんとメンテする責任は感じていますが。
FPD: 『ドン・パスクワーレ』で指揮をするのはマエストロ・レヴァインですね。
AN: 彼は非常にクリアな独自の音楽的ビジョンを持った指揮者ですね。
私たちにとって多少歌いにくい部分があったとしても、彼のテンポの設定などはすごくいいな、と思います。
結局、指揮者がボスだと私は思っていて、
時に指揮者たちが望むものが、私の望むものと違っている場合もありますけれど、仕方ありません。
FPD: 指揮者もそうかもしれませんが、演出家でも同じことが言えるかもしれませんね。
あなたの場合は素晴らしい演出家と仕事をしてきていますから、そういうことは少ないかもしれませんが、、
AN: 良い演出家、、、?んー、中にはそういう人もいたかな、、、(笑)
役作りに当たっては、自分なりに”こうしたらいいのにな、、”と思うこともあるけれど、結局、私は演出家じゃないですから。
ただ、一つ、いつも言うのは、ださい衣装は持ってこないでね!ということ。
別にきらきらと私が目立つような衣装、という意味ではなくて、何か、面白さを感じる衣装じゃないと嫌なの。
FPD: いわゆるレジーを含めた、現代的演出についてはどう思いますか?
AN: 全然OKよ。好きです。
例えば先ほど話にあがったデッカー演出の『椿姫』なんか、ミニマリスティックだけど、
ちゃんと物語の要素がパッケージされていて、素晴らしい演出だったわ。
日本にも持っていったロイヤル・オペラのペリーの『マノン』も、私にはきちんと筋が通った演出に感じられる。
ただ、当初のアイディアでは、ペリーはもっとマノンを小さなティーンエイジャーみたいな感じで描こうとしていたの。
それで、私が”それは無理だわ。”と言ったら、彼は快く調節してくれたわ。
FPD: あなたとローランド・ヴィラゾンは長い間、良きオペラの舞台上でのパートナーでした。彼とは今でも話をしますか?
AN: 彼とはコンタクトが途絶えてしまいました。
正直、私が自分で受話器をとって彼に電話をしたわけではないけれど、
私サイドのスタッフの誰が連絡をしても、彼は出て来ないんだそうです。
彼は私にとって、とてもとても特別な人でしたし、ずっと、皆さんと同様に、彼の幸せを願っています。
(この言葉の後に彼女が口をつぐんで流れた数秒の沈黙から、彼女が心からそう願っていることが伝わってくる瞬間でした。)
FPD: 公演当日に気をつけていることは?
AN: 開演までは一切お酒を飲まないこと、外出もしないこと、重いものは食べないこと、
相手役のテノールのために、にんにく厳禁!鶏肉やパスタなど、蛋白質を多く摂れる食事を心がけています。
公演のない日は朝早く起きて、息子と遊んで、ただ母親であることを楽しむようにしています。
ティアゴが生まれるまでの私は、いつも退屈してましたが、今は退屈するということだけははなくなったわ!
FPD: 先ほどボーカル・コーチはいないという話がありましたね。
AN: 自分自身に耳を傾けるようにしています。自分が舞台に立っている様子を収めたDVDは良く見ます。
良い所、悪い所、全てそこに記録されていますから。
ロシア時代のコーチには、オーケストラに流されずにどのように自分の声をきちんとのせるか、など、
今でもとても役に立っている色々なことを教えてもらいました。
CDも聴きますよ。ただ、音に関しては、自分のではなく、過去の優れた歌手のものを聴くようにしています。
あとは出来るだけ早く自分が学んでいる役で舞台に立つこと。
役を本当に自分のものにするためには、実際に舞台に立つことでしか学べないことがあります。

続いて恒例のオーディエンスからの質問タイム。
Q: 舞台で緊張はしますか?
AN: もちろん!舞台裏では猛烈に緊張しています。でも、一旦舞台に立ったら無我夢中で、あまり何も考えないですね。
Q: リサイタルやCD、DVDの発売の予定はありますか?
AN: リサイタルはあまりやらない方向に進んでいます。
というのも、色んなレパートリーからの、違った言語の曲を短時間の間に歌うというのは結構大変なんですよ。
リサイタルとオペラの全幕を行ったり来たりするということが上手く出来ないし、時間もないので、
どちらかを取らなければいけないのなら、私はオペラの全幕公演をとります。
そして、CDですが、作る以上、何か私にしか出来ないものを作らなければいけないと思うのです。
私はCDを生み出す機械じゃありませんし、
今は録音できる段階にあるようなレパートリーも手元にないので、その時期が来るまで待ちたいと思います。
Q: 来シーズン(2011-12年)の予定は?
AN: アンナ・ボレーナ、愛の妙薬といったあたりが決定しています。
Q: 若いオーディエンスにメッセージやしてあげたいことはありますか?
AN: まず、生の舞台に接しましょう!ということ。
CDもいいですが、やはり生には叶いません。私が生まれ育った場所にはオペラハウスさえなかったの。
とにかく、生にふれてほしい、と思いますね。
ただ、オペラのチケットが非常に高価だ、という問題は私も感じています。
ザルツブルクなんて400ユーロですから!主催者、オペラハウス側も、
一公演だけは学生のために安価なチケットを提供するなどの企画を考えてほしいですね。
歌手を目指す若い人たちのために何ができるか、、私はあまりコンクールというコンセプト自体が好きでないので、
私の名前のついたコンクールを作るようなことはないと思うわ。
Q: オペラハウスによってオーディエンスの雰囲気に違いはありますか?
AN: ウィーンが一番スノッブね。”さあ、どれ位歌えるのか見せてごらん。”みたいな(笑)
Q: 相手のテノールによって歌唱が左右されたりしますか?
AN: もちろん!例えば日本で一緒に『マノン』を歌ったマシュー・ポレンザーニとはすごく相性がいいわ。
彼は情熱的で本当に素晴らしいの!
Q: オペラ歌手が実生活のパートナーというのはどういう感じですか?
AN: 色々と大変(笑)。やっと会えない間にたまっていた話を全部し終えた、と思ったら、
またどちらかが別の場所に移動、という感じで、、。
私が長距離電話する時に限って、彼が急がしくて電話を取れなかったりして、
”もう、何してんの!?”って思うことがしょっちゅうよ。

The Metropolitan Opera Guild
The Singers' Studio: Anna Netrebko with F. Paul Driscoll

Kaplan Penthouse, Rose Building

*** The Singers' Studio: Anna Netrebko シンガーズ・スタジオ アンナ・ネトレプコ ***

BORIS GODUNOV (Mon, Oct 11, 2010) 後編

2010-10-11 | メトロポリタン・オペラ
前編から続く>

この作品で合唱が重要なのは、単なる音楽上の理由からだけでなく、
私の隣の女性が仰っていたように、民衆がこの作品の劇的ポジションとしても、
ボリスと同じ位か、もしくはそれ以上といってもよい役割を与えられているからです。
現在メトのコーラス・マスターをつとめているドナルド・パルンボ氏は非常に優れたコーラス・マスターで、
それは、毎年頻繁に上演されているような演目よりも、むしろ、上演が稀で、
一から彼が合唱の指導に当たらなければならないような演目の方が、合唱の出来が良い点に現れています。
ありがたいことに、『ボリス』も例外ではなく、旧演出の公演から6年が経過していますし、
今年の公演は新演出で、かつHDの対象、
ゲルギエフが指揮(ただし彼は1997-8年シーズンにもメトでこの作品を指揮しています)、ということもあり、
相当力の入った準備を行ったようで、合唱は見事にその期待に答えています。
欲を言えば、少し音色が上品かもしれません。
先に触れ、後に詳しく紹介するCDのボリショイの合唱を聴くと、
そのサウンドから、民衆がもっとあーぱーに描かれていて、びっくりします。
それに比べると、メトの民衆は少し頭が良さそうな感じに聴こえるのですが、
あのボリショイのような表現は、自国の作品だから出来ることなのかな、とも思います。
今回、合唱のメンバーには歌だけでなく、演技にも非常に高いものを要求する演出で、
その点でも、合唱は素晴らしいパフォーマンスを見せています。



この作品はボリス以外にも、かなりの人数の登場人物がいて、しかも、先に書いたように、
彼ら一人一人がこの物語を重層的なものにしている、個性的で大事な人物ばかりです。
これらの準主役、脇役に占めるロシア人キャストの多さも、今回のボリスの特徴と言えるかもしれません。
聖愚者役を歌ったポポウは昨シーズンの『鼻』でも素っ頓狂な高音を出して大活躍していましたが、
今回もこの難しい役を大熱演・熱唱で、この人はこういったキャラクターの強い役で、
厚いゲルギエフの信頼を勝ち取っていると見ます。

ピーメン役を歌ったペトレンコは、与えられた美しい音楽にも助けられていますが、
これまで聴いたハーゲンフンディングスパラフチーレのどれよりも個性に合った、
上品でかつこの役に必要な質素さを称えた歌唱で、最も観客から大きな拍手を受けたキャストの一人です。
彼は先にあげたような諸役で聴くと、ちょっと物足りない感じがあるのですが、
この役での歌唱を聴くに、繊細な表現が得意な人なのかもしれないな、と思います。

ランゴーニ役を歌ったニキーチンは、昨年の『エレクトラ』での、朴訥ながら品のあるオレストが素晴らしかったので
注目している歌手なのですが、この聖職者にあるまじきいやらしさ満点のランゴーニ役での彼を見て、
”こんなの、私の好きなニキーチンじゃない、、。”と呆然としました。
それだけ、引き出しが多いということで、喜ぶべきことではあるのでしょうが、、。

この悲劇的な作品にコミカルな側面を与える役割があって、決して大きな役ではないのですが、
ヴァルラーム役を歌ったバスのオグノヴェンコの歌も活き活きしていて存在感があります。

シュイスキー役を歌ったバラーショフだけは、もうちょっと灰汁があったなら、、と思い、残念だったのですが、
それ以外の男性ロシア人キャストは歌うパートがそう多くはない貴族たちにいたるまで、非常に充実していたと思います。



今回の公演は、プロローグ、一幕、ニ幕が一回目のインターミッションの前に一気に上演される、
つまり、まる2時間、1回も休憩がないので、ここが観客にとって、一番辛いところかもしれません。
その長丁場の後に、ポーランドの幕を鑑賞すると、この幕は美しい音楽はあるのですが、
ボリスは一度も登場しませんし、劇的な盛り上がりには、他の幕に比べると若干欠けるところがあるので、
一瞬、”この幕、要らないんじゃないの?”という考えが頭をかすめますが、それはノン!!
この幕で、マリーナにさんざん恋心を足蹴にされた時、
最初は愛する女性の言葉だからと我慢して聞いていたグリゴリーが、もう堪忍袋が切れた!とばかりに、
”ふざけるな、この野郎!私はロシアの皇子のディミトリーだぞ!
俺がツァーリの座に就いた時、お前は後悔の念をもって、俺の前にかしづくことになるだろう!”と歌う時、
それまでは、ディミトリーの振りをしてやろうと企んでいるグリゴリーに過ぎなかった彼が、
本人ですら、本当にディミトリーの化身であることを信じるようになったことを感じさせる、大きな物語の転換点です。
ここを境に、彼は本気でツァーリへの道に乗り出す、
つまり、何を犠牲にしてもツァーリという地位を手に入れようとする、いわば、第二のボリスになるのであり、
そこに彼を導いたマリーナはやはりすごい女なのです。



このやり手のポーランド女マリーナを歌うエカテリーナ・セメンチャクは、
MetTalksのゲルギエフの話しぶりからも、マリインスキーが自信を持って送り込んできたメゾであることが伺えましたが、
確かに、今回の公演に第三幕を挿入するアイディアが何とか成功しているのは、
この大きな転換点という物語上の理由もさることながら、彼女の歌唱力に負うところも大きいです。
これが、彼女ほどには歌唱力のない歌手によって歌われていたら、
もっと、”ポーランドの幕はなくていいな。”という感想が多くてもおかしくなかったかもしれません。
2007年のキーロフ・オケの演奏会形式の『雪娘』でも、存在感のある歌唱を聴かせていました。

一方、偽ディミトリー皇子ことグリゴリーを歌うのは、アレクサンドルス・アントネンコで、
この人は、今もって、どう判断すればいいのか私には良くわからないテノールです。
一つには、彼の歌唱は非常に不安定で、聴く度に、基本的な発声の仕方が異なっているような印象を与えるのが理由です。
一昨年の『ルサルカ』では、強引な発声が耳に快くないな、と思っていて、
私は彼の歌唱は全く高く買っておらず、同じ年の125周年記念ガラの『トスカ』からのアリアでも、全く同じ印象だったのですが、
なぜだか、昨シーズンの『三部作』の『外套』タッカー・ガラでは、歌唱が良くなっていて、このまま上昇していくのかと思ったら、
なんと今回の『ボリス』では、またまた一昨年みたいな感じに逆戻りしているのです。
もしや、隔年で歌唱の良い年と悪い年がローテートするのか、、?
それは困ります。なぜなら、来る4月のムーティ率いるシカゴ響の演奏会形式の『オテロ』で、タイトルロールを歌うのは彼ですから!!
歌唱に独特の熱さというかパッションがあるのは認めますが、もうちょっと歌に安定感が欲しいと思います。



ボリスの死後にあたる第四幕三場のクロームイでの革命のシーンは、
ものすごくヴァイオレントで、急場にかかわらず、よくここまで合唱やエキストラ(我が店子友達大活躍!)に
きめ細かな演技付けを出来たものだと、素直にワズワースの力を称えます。
実際、この場面があまりにパワフルなので、お隣の女性の、この演出家はボリスと民衆のどちらを選ぶのだろう?という問いに、
”民衆”と即答したくなるほどです。

しかし、ちょっと待てよ?と思うのです。
本当はワズワースは、ボリスの物語と民衆の物語を拮抗させたくて、
パペの力を予測し、それに合わせて民衆側の物語をここまで強烈にしたのではないか?と。
とここで、ようやく、タイトルロールを歌っているパペについて言及することになるのですが、
私は彼が非常に高いレベルで、丁寧にこの役を歌っていることを認めるにはやぶさかでなく、
おそらく現在活躍しているバスで、ここまで上手くこの役を歌える人もいないとは思います。
だけれども、彼の持っている素質、能力から期待していたものよりは、役作りがあまりにコンパクトで、
この大役が歌手に求める強烈な存在感とか観客側が根こそぎ座席から吹き飛ばされそうな迫力というのを感じませんでした。
確かにこの演出では、ボリスを、子供思いの、”もう一人の父親”として強調している部分は無きにしもあらず、ですが、
その一方で、彼が邪魔者を殺害してまでもその地位にたどり着いた、ロシアの皇帝である、という事実は、
既成の事実として、必ずこの役に盛り込まなければならない一面として存在しているはずです。
今回のパペの役作り、歌唱からは、そこが少し抜け落ちている感じがします。
つまり、良いパパ過ぎて、権力者としての顔が良く見えないのです。
また、2006年辺りまでは、彼の声はいつもすごく実がつまった、密度の高い声として私は記憶しているのですが、
ここ最近、メトでは彼には小さ過ぎるように思える役での登場(『マクベス』)や降板(『ホフマン物語』)が続いたせいもあって、
久々にこのような大きな役で彼の歌声を聴いたような気がするのですが、
その私の記憶の中の声より、少し声の密度が軽く聴こえる音が多くなったような印象を受けます。
私の単なる記憶違いかと思ったのですが、そうではないことは、時々出てくる、
”おお!これが私の記憶にあるパペです!”と思うような、どしーっ!とした密度の高い重低音によって確認されます。
公演中、トイレで前に並んでいた女性が、”私がこの前に見たボリスといえば、レイミーが歌った公演だったけれど、
ボリスの死の場面では、長い階段の上から、レイミーが転がり落ちて来たのよ。もうすごい迫力だったんだから!”

なにも私はパペに階段落ちをすすめているわけではないですが(だし、この演出では、死の場面に階段はありませんので。)
このボリスのような大役を歌い演じるには、巧みな歌だけでない、何か観客の心をわしづかみにするような、
強烈なスピリットが必要だと思うのです。
それがあったなら、もっと民衆のヴァイオレンス・シーンとボリスの死のインパクトが拮抗して面白くなったと思うのですが、
鑑賞後に、どう見ても民衆の物語の方に完全にウェイトが傾いてしまったように感じるところに、
今回のパペの歌はこの役には少しクリーン過ぎて、
ワズワースとしても少し誤算だった部分もあったのではないかな?と思ったりします。



MetTalksで、ゲルギエフがボリスのリハーサル中であるメト・オケへの感想を聞かれた時に、
良いとも悪いとも即答しなかったので、少し嫌な予感がしていたのですが、
若干アンダー・リハース気味だったようで、それは特に今回の初日では、プロローグから一幕にかけて顕著でした。
軽く崩壊気味になっている部分もあって、これで最後まで持つのかな?と心配だったのですが、
ニ幕あたりから、よくまとまり始め、三幕、四幕は、ゲルギエフの指揮で時々見られる不思議なマジックが働き、
非常に魅力的な演奏をオケが繰り広げていました。
サウンドは全くロシア的ではありませんが、そんなものが一朝一夕のリハーサルで生まれてたまるか、という話で、
それを求めるのが間違いというものです。
ただし、この作品は、オケが非常に大事な役割を果たしていて、オケの演奏が良くないと、
公演全体の印象に大きく波及する、という事実を、
約10日ほど後のHD収録日(10/23)の公演でいやほど思い知ることになりますが、
それはまたその公演の記事で詳しく書きます。

そうそう、ボリスの子供、クセーニャとフョードルのコンビには、ロシア人でなくアメリカ人の歌手がキャスティングされていて、
特にフョードルはメゾが歌うことが多いようですが、これまで『魔笛』の童子や『トスカ』の羊飼いの役などで、
下手な大人の歌手より余程多い回数メトの舞台に立っているジョナサン・メイクピース君
(HDの『トスカ』でも彼が羊飼いの役を務めていました。)が配されていて、
クセーニャ役のゼトランもまだジュリアードの学生さんだそうですので、
出来るだけ実年齢に近くなるよう、子供らしさを強調したキャスティングです。
ゼトランの方は、この初日の公演は相当緊張してしまったのか、音程が狂いっぱなしでかなり苦労していましたが、
(HDの日は、本来の力を出せていました。)
メイクピース君の声は、まさに鈴を鳴らした、という形容がぴったりで、
この重たい作品の中に、一瞬、風が通っていくようなすがすがしさを感じさせます。
それにしてもこんな大舞台でいつもどおりの歌を歌えるなんて、実に肝が据わった男の子です。

ブーイングも覚悟していたのか、最初はおそるおそる固い表情で舞台挨拶に現れたワズワースは、
一つもブーイングなく、熱い拍手でもって彼の演出を支持する意志を表した観客に、本当にほっとし、かつ嬉しそうな表情でした。
よく、あれだけの短期間で、他人から引き継いだ演出をここまでまとめあげたものだと思います。

最後になりましたが、前編でふれたCDは、ゴロワーノフが指揮するボリショイ劇場のオケとコーラスによる演奏を1949年に録音したもので、
ピロゴフがタイトルロールを歌っています。
今のCD録音に見られるそつない歌唱とは違い、ソリストの歌唱には時に大きなキズもあるのですが、
オケと合唱も含めた表現力はものすごいものがあり、この作品をより良く知るためのマストアイテムと言えます。
このCDを聴くと、タイトルロールを歌う歌手の存在感、オケの迫力、そして合唱のパワー、
これらが均等に揃ってこそ、この作品の真価が出る、ということがよくわかります。
(ただし、先にも書いた通り、リムスキー・コルサコフ版による演奏ですので、
今回のメトが採用している版と同じではありません。)


René Pape (Boris Godunov)
Aleksandrs Antonenko (Grigory)
Ekaterina Semenchuk (Marina)
Andrey Popov (Holy Fool)
Mikhail Petrenko (Pimen)
Evgeny Nikitin (Rangoni)
Oleg Balashov (Prince Shuisky)
Vladimir Ognovenko (Varlaam)
Nikolai Gassiev (Missail)
Olga Savova (Hostess of the Inn)
Jonathan A. Makepeace (Feodor, son of Boris)
Jennifer Zetlan (Xenia, daughter of Boris)
Larisa Shevchenko (Nurse)
Alexey Markov (Shchelkalov, a boyar)
Dennis Petersen (Khrushchov, a boyar)
Valerian Ruminski (Nikitich, a police officer)
Mikhail Svetlov (Mitiukha, a peasant)
Gennady Bezzubenkov (Police officer)
Brian Frutiger (Boyar in attendance)
Mark Schowalter (Chernikovsky, a Jesuit)
Andrew Oakden (Lavitsky, a Jesuit)

Conductor: Valery Gergiev
Production: Stephen Wadsworth
Set design: Ferdinand Wögerbauer
Costume design: Moidele Bickel
Lighting design: Duane Schuler
Choreography: Apostolia Tsolaki

Gr Tier D Odd
OFF

*** ムソルグスキー ボリス・ゴドゥノフ Mussorgsky Boris Godunov ***

BORIS GODUNOV (Mon, Oct 11, 2010) 前編

2010-10-11 | メトロポリタン・オペラ
シーズン開始の一ヶ月半ほど前でしょうか?
オーダーしておいた一年分のチケットを取りに行き、開いた封筒の中身を見て、手が震えました。
私は今シーズンのシーズンのプレ・オーダーが始まる前に、
メトのスタッフの方からの電話での、”プレ・オーダー分の座席も、
寄付金のレベルの順に良い座席をアサインしますから、、。”という口車にすっかり乗って、
メトへの年間の寄付金を50%増やし(といっても、元の金額が小さいので、絶対金額では全く大したことのない金額ですが)、
これで、最前列も夢じゃない!と、うきうきでチケットを取りに来たのに、
開けて見れば、寄付金をアップグレードする前の年よりも、ことごとく座席が後ろになっているではないですか!
あまりの怒りに、連れに”メトに騙された!きーっ!!!”と言って電話をかけると、
彼まで、”君のような忠実なファンにそんな仕打ちをするとはメトも地に堕ちた!”と言い、
さらに、なぜ、そんな座席になったのか、パトロン・デスクに電話をしてみなさい、と
発破までかけてくれたのですが、私は中途半端な怒りだと、あちこちにそれを炸裂させるのですが、
マジぎれすると自分の殻に閉じこもる癖があるので、
”いいよ、もう。来年からびた一文寄付しなけりゃいいだけだから。”と言って、
今年は、この、愛するメトに騙されて押し付けられた後ろの方の座席に座って
公演を観てやろうじゃないの!と思いで新シーズンに挑みました。

ところが、シーズンが始まって今回の『ボリス・ゴドゥノフ』ですでに5公演ほど
(この記事を書いている時点ではさらに公演数が加わって8本くらいになってますが)の今、思っているのは、
怒りに任せて電話しなくて良かった、、、ということ。
というのも、どの座席もすごく観やすくて、舞台の全体像を観るには最適だし、音響も良い。
一、二列下がっても、それ自体、まったく問題がないどころか、
むしろ、以前より、視覚的・聴覚的に、舞台をかけている側の意図がこれ以上良くわかる座席はないのでは?と思う位です。
それは、今回あてがわれた座席は、出来るだけ、オペラハウスの左右の中心になるように工夫してくれているからで、
前後ばかりに気をとられていた私は、昨年までは、列は前でも、
若干左右に寄った座席になっていたことに気づいてなかったようです。
良い座席というのは、観る側が何を重視するかによっても変わってくるので、
一概に定義できるものではないですが、舞台全体を楽しむ、という意味では、まぎれもなく、非常に良い席です。
ほんと、これで”なんでこんな座席を回してくるんですか?!今から座席交換してください!!”と絶叫しながら電話していたら、
”頭のおかしい女がわけのわからない電話をしてきたぞ、、。あれより良い座席はもうないのに。”と思われるところでした。
(それこそ、最前列のど真ん中は、もっと多額な金額を寄付している方たちによって、がっちり押さえられているはずです。)
時には自分の考えを放出するばかりでなく、一歩下がって、人の言う通りにしてみるという事も大事、という教訓になりました。
というわけで、来シーズンも私の銀行口座の財政状況が許せば、寄付を続けるつもりでいます。

で、なぜ、こんな話を長々と書いたかというと、
先に書いた”舞台全体を楽しむ、という意味では良席”の言葉を裏付ける事実があるからです。
今日のこの『ボリス・ゴドゥノフ』初日の公演で隣に座っていた、私と同年齢と思しき女性は、
一回目の休憩の前の、プロローグからニ幕にいたるそこここで、
そっとペンを取り出しては紙に何かを書き付けているので、
どこか別のオペラハウスの方か、オペラに関することを学校か何かで勉強されている方かと思い、
三幕が始まる前に尋ねてみると、
”ええ、実はクラシック専門の音楽サイトで、メトの公演評を書いているんです。”
しかも、彼女の隣に座っている男性も、彼女とは別のところで批評を書いている人でした。
ということで、辺りは批評家の巣窟です。
”私は次の日に原稿をあげなければいけないのですが、オペラの評を書くのは大変でつい時間がかかってしまって、、。”とおっしゃるので、
”実は私もブログでメトの公演の感想を書いていて、もちろん、批評とは重さが違いますし、気楽なものですが、
それでも公演について書くことの、その大変さは良くわかります。”とカミングアウトすると、
”まあ!じゃ、あなたもメトに招待されてこの座席に?”

そこで眉がぴくっ!とするMadokakip。
言っておきますが、私は1回たりとも、正規の金額以外でメトの公演を鑑賞したことはないざんす!!
これは、メトほどのオペラハウスがかけてくれる公演には、観る側もきちんと金を払うべきである!という、私のポリシーであり、
また、特にこのブログではメトの公演に特化して、パフォーマンスの内容を云々していることもあり、
演奏してくれる歌手、オケ、合唱に出来るだけフェアであるために、
舞台を観る条件を出来る限り同じに近づけたく、
座席の種類も、事情が許す限り、限定しているつもりです。
(だから好きな歌手が出ていても、平土間には滅多に座らないし、最上階のファミリー・サークルにも座らないのです。)



このお隣の女性とは色々興味深いお話をさせて頂きました。
彼女は生まれはドイツなのですが、イギリスの大学で学ばれるまで、ベルギーのブリュッセルで育たれたそうで、
彼女は子供の頃から両親に連れられてよくモネ劇場に通ったそうなのですが、
ちょうど、当時のモネ劇場は、あのムッシュー・Mこと、モルティエが大活躍(?)していた頃で、
”彼は当時からあんなクレージーな演出ばかりかけていたのですか?”と思わず尋ねてしまった私です。
”いいえ、そうでもないのよ。
彼のおかげで、私にとっては、オペラというのは常に演出と密接に結びついているものであり、
何か新しい観点を提示してくれるものである、という考え方が身に着いてしまったので、
例えば、何日か前にここで見た『リゴレット』のような公演を見ると、退屈で退屈で仕方がないの。”
私は逆に、オペラというものは歌を中心にした音楽がまずありき、音楽は演出を越える、という考え方で、
彼女が話しているのと同じシェンクの演出の『リゴレット』でも、
退屈とはほど遠い、優れた公演を観たことがあるし、
また、この『ボリス・ゴドゥノフ』の後に感想を書く予定の『ラ・ボエーム』でもそれを裏付けるような例を目撃しましたので、
彼女の意見に異論がないわけではなく、”それは歌手の力の不足でしょう。”と言いたいところもあるのですが、
しかし、批評家を含めたそれぞれの観客の鑑賞の仕方には、それぞれのバックグラウンドというものがあって、
それは尊重されるべきであるし、また、誰の感想も、そのバックグラウンドからは逃れられないものなのだ、ということは、
他の方が書いた感想・批評を読む際に、覚えておかなければいけない点だな、と思います。

彼女はメトでは主に新演出ものを中心に批評を書いているということでしたので、
話はおのずと『ラインの黄金』におよびました。
彼女によると『ラインの黄金』でのターフェルのドイツ語の扱いは素晴らしかったそうで、
一部、音域によって発声の仕方のせいで少し聴き取りにくい部分があった
(しかし、それはネイティブの歌手でも見られる程度のものだそうです。)以外は、
何を歌っているか、一語一語はっきりと聴き取れたそうです。

先に書いた通り、彼女は演出を非常に重視する方なので、
基本的には、ゲルブ支配人になってからの時代の方が、面白いと感じる公演が多いそうで、
『ラインの黄金』のルパージュの演出についても、特別感動的!というものではなかったかもしれないけれども、
セットはアイディアに富んでいるし、非常に野心的な演出家の選択である、と、
かなりポジティブなご覧のなり方をしてらっしゃいました。
ただし、彼女も初日の公演を鑑賞されたということなので、
あの日のワルハラ入城シーンは舞台機構上のミスがあって、本来あるべき姿で上演されておらず、
私はその後に、あるべき姿でも鑑賞しましたが、初日の方がイマジネーションに富んでいて良かったです、と申し上げると、笑ってらっしゃいました。

今回の『ボリス・ゴドゥノフ』は、どういうところに注目してご覧になってらっしゃいますか?と尋ねると、
”『ボリス』を上演する場合、たいてい、演出家は、これをボリスの物語として演出するか、
民衆の物語として演出するか、どこかでその選択をはっきりさせるものなのだけれども、
今のところ(この話題は、三幕が終了した後、二度目のインターミッション中にワインをご一緒させて頂いている時に出ました。)
ワズワースがどちらを選んだのか、まだはっきりとわかりかねる部分があるので、
最後の幕で、どういう締め方になるのか、すごく楽しみだわ。”

私が”今回、ご存知の通り、演出家の交代劇がありましたけれども、
シュタインのビジョンとワズワースのビジョンが違っていた可能性もありますし、
それを折衷しようとして、どちらの物語なのか、今の時点では今ひとつわかりにくくなっている部分もあるかもしれませんね。
最後の幕ではっきりするかもしれませんが。”と言うと、
”そうそう!それも一つですね。私はずっと、それぞれのシーンについて、
これはどちらの演出家のアイディアなんだろう、、?と、考えながら見ているのですけど、
演出が思った以上にシームレスで、ほとんど切れ目を感じさせないので、
その点、ワズワースはとても良い仕事をしたと思うわ。”
感想を詳しく書く前に何ですけれども、私も同感です。



私は新シーズンの演目に『ボリス』が含まれていて、その指揮がゲルギエフであると知った時点で、
彼がマリインスキーと録音した、1869年版と1872年版のダブルCD(リブレットをも含めると、死ぬほど分厚い)を、
きっと上演はこのどちらかの版に依拠したものになるだろうと思って、聴き続けて来ました。
結局、このどちらとも少し違う版であるということをMetTalksで知った時には、
”まじかよーっ!1872年版からどれくらい違うのよ??相当違ったらわたしゃ切れるよ。”という思いでした。
しかし、結論から言うと、ゲルギエフの1872年版を聴いておけば、
今回のメトの公演はそう違和感なく聴ける内容で、予習には十分です。
私は公演が終わってから、初めてリムスキー・コルサコフ版によるこの作品をCDでじっくり聴くという、
もしかすると、多くの方とは逆のルートを取ったのですが、
ムソルグスキーのオーケストレーションに馴染んでしまった後でしたので、
リムスキー・コルサコフのそれの華麗なことに、びっくりいたしました。
このCDなんですが、版の違いはともかく、演奏自体が本当に素晴らしいので、
今回の公演の内容と絡めて、記事の後の方でゆっくりご紹介したいと思いますが、
ただ、強調しておきたいことは、予習、本公演を通して、
ムソルグスキーのオーケストレーションでも、十分、この作品のすごさは伝わってきた、ということです。
なぜ、ここを強調するかというと、今回のメトの公演をご覧になって物足りなく感じた方が仮にいたとしたら、
それを、ムソルグスキーのオーケストレーションがリムスキー・コルサコフのそれに劣っているからだ、と、
そこにすべてを結論付ける人がいるのではないか、と危惧するからです。
私自身は、ムソルグスキーのオーケストレーションはやや粗野でシンプルで男っぽいですが、
力のある歌手を得れれば、他者の手(リムスキー・コルサコフなどのオーケストレーション)を借りずとも、
ものすごい劇的効果が出るようにすでに書かれている、素晴らしい作品だと思いますし、
メトが(というよりは多分ゲルギエフのアイディアなんでしょうが)ムソルグスキーの、
それも、このちょっと変わった版で上演することにしてくれたおかげで、
リムスキー・コルサコフ版が激しく頭にインプリントされる前に、
ムソルグスキーの書いた版の価値を感じることが出来たのは、ある意味、幸運でした。



ワズワースはMetTalksの場で、シュタインの演出プランはセットの変更が多く、
作品の流れを壊す恐れがあると考え、いくつかセットの転換を削り、
それに伴い、セットそのものにも、多少の変更を加えたことを明かしていました。
今回のセットそのものは、非常にシンプルですが、決して安っぽくなっていないのにはほっとさせられます。
同じワズワースが演出した『タウリスのイフィゲニア』を思い出すと、
彼の作り出す舞台には、壁とそれが作り出す圧迫感が効果的に使われているセットが多くて、
今回の『ボリス』でも、少し似た雰囲気を感じるところがあって(聖ワシリー大聖堂前の広場のシーンなどにそれを感じます)、
ワズワースも、彼独自の世界を持った人だなと思います。

先に紹介した隣の座席の女性との話しにも出た通り、どこからどこまでがワズワースのアイディアで、
どこからがシュタインのアイディアなのか、正直、全く区別がつかないのですが、
最後にはワズワースの承認を得て舞台に乗っているということで、
一応、すべてが彼の仕事、もしくは、少なくとも彼が承認した仕事であるという仮定で書きますが、
今回の演出で印象的だったのは、空間の使用の仕方の自由な発想で、
セットがシンプルなのを逆手にとって、ピーメンの語りの場面のバックに、
ボリスの統治とそれがロシアの歴史の中の一部に過ぎないことをシンボライズするため玉座を置いたかと思うと、
グリゴリーがディミトリー皇子が暗殺された経緯を知り、
生きていれば同じ年頃だったはずの皇子になりすますことを思い立って修道院を脱走する場面では、
その空間を舞台上で円を描くように走りまわっていて、
そこはすでに、グリゴリーが駆け抜けたモスクワの街と国境近くに辿りつくまでの全ての場所を表している、といった具合です。
また、その彼がたどり着く国境近い旅籠屋も、完全な家屋ではなくて、建物の一辺の壁だけを、
思い切り舞台の前方に設え、残りの広大な舞台スペースにボリスが放った追っ手をちりばめるなど、
ワズワースが作る舞台というのは、(例えばシェンクやゼッフィレッリのように)物理的に忠実であることよりも、
その時に進行している物語の、心理的なバランスを表現することに重点を置いているように感じました。

それが最も効果的に現れているのが、第一幕第一場のチュードフ修道院の場で、
先に書いたように、後ろにはボリスの玉座と、盲目的に彼に付きしたがう民衆や臣下を表現するダンサーたちの姿があって、
舞台の前面には、極端に大きな、それこそ人の体のサイズくらいある年代記があって、
それにまたがるようにして、ピーメンが歴史を綴っています(上から3枚目の写真)。

私のいる座席からそれを見ると、玉座よりも年代記の大きさの方がインパクトがあって、
どんなツァーリの心の葛藤も、大きなロシアの歴史の中では塵のようなものに過ぎず、
一方で、ボリスのモノローグから、彼の苦しみがどれほどのものであるかが観客には伝わってくるので、
一層、ロシアの歴史の大きさ、重みが拡大される効果があって、
さらに、そんな苦しみを経てまでツァーリに成り上がったボリスが得たものは、
ロシアの大きさのまえに、蟻のように踏み潰される、、、
その空しさが、しかし、それを求めてやまない人間の愚かさという空しさと、二重になって伝わってきます。

また、この年代記はさらに大活躍で、いわゆるポーランドの幕と言われる第三幕にも、
再び一幕と同じ場所に、ででーん!と居座っていて、
音楽が始まった瞬間、あんた、また帰って来たのか!と思わずびっくりします。
この幕では、年代記はポーランドのビッチ、マリーナに自由自在に踏みつけられ、
前の幕ではあれほど大きく見えたロシアという国が、今度は、彼女のいつか自分が皇后に!という野望をはじめとする、
色んな人々の野心と陰謀に翻弄されている様子が良くわかり、
同じ大きさの年代記が、ロシアの偉大さ(一幕)と傷つきやすさ(三幕)の両面を表現していて見事です。
一見ボリスに付き従っているように見えるシュイスキーですら、とっくに寝返って、影でボリスを転覆させようとしているし、
(そして、それをわかっていながら表面的には上手く付き合っていかなければならないボリス!)
信仰の拡大という隠れ蓑を借りて、自分の個人的な政治的野心を満たそうとしているランゴーニもしかりで、
彼らの暗躍がまたこの作品を奥行き深いものにしています。

第二幕で、息子に帝王学を教える場面に使われるロシアの広大な地図は、
同じ幕の最後に登場するこの作品の最大の聴かせ所のひとつである時計の場で、
自らが暗殺したディミトリー皇子の幻影におびえ錯乱するボリスを表現するのに、
パペが効果的に使っているプロップで、摑んでも摑んでも自分の指からこぼれてしまうような、
ロシアという国における権力のつかみどころのなさとはかなさが上手く表現されています。

後編に続く>


René Pape (Boris Godunov)
Aleksandrs Antonenko (Grigory)
Ekaterina Semenchuk (Marina)
Andrey Popov (Holy Fool)
Mikhail Petrenko (Pimen)
Evgeny Nikitin (Rangoni)
Oleg Balashov (Prince Shuisky)
Vladimir Ognovenko (Varlaam)
Nikolai Gassiev (Missail)
Olga Savova (Hostess of the Inn)
Jonathan A. Makepeace (Feodor, son of Boris)
Jennifer Zetlan (Xenia, daughter of Boris)
Larisa Shevchenko (Nurse)
Alexey Markov (Shchelkalov, a boyar)
Dennis Petersen (Khrushchov, a boyar)
Valerian Ruminski (Nikitich, a police officer)
Mikhail Svetlov (Mitiukha, a peasant)
Gennady Bezzubenkov (Police officer)
Brian Frutiger (Boyar in attendance)
Mark Schowalter (Chernikovsky, a Jesuit)
Andrew Oakden (Lavitsky, a Jesuit)

Conductor: Valery Gergiev
Production: Stephen Wadsworth
Set design: Ferdinand Wögerbauer
Costume design: Moidele Bickel
Lighting design: Duane Schuler
Choreography: Apostolia Tsolaki

Gr Tier D Odd
OFF

*** ムソルグスキー ボリス・ゴドゥノフ Mussorgsky Boris Godunov ***

DAS RHEINGOLD (Sat Mtn, Oct 9, 2010)

2010-10-09 | メトロポリタン・オペラ
注:このポスティングはライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。


NYからボストンまでの距離は約200マイル、すなわち約320キロメートルで、車で片道4時間はかかる道のりです。
一体、なぜ、この、ライブ・イン・HDの収録がある、メトの『ラインの黄金』の公演日に、ボストンの話などしなければならないのか?
それはレヴァインが10/8のマチネと10/9の夜に、ボストン交響楽団と、マーラーの『復活』を演奏するからです。
それも、NYのカーネギー・ホールでボストン響のNY公演があるわけではなく、
ボストン現地で、ボストン響を指揮するのです。
メトのライブ・イン・HDの『ラインの黄金』はその間に挟まっており、このスケジュールは、正気の沙汰とは思えません。

彼ほどの人になれば、おそらく移動はプライベート・ジェットでしょうけれど、
それでも、前日にボストンからNYへの移動を行って、
さらに、1時に開演するメトの『ラインの黄金』の終演は3時半、
カーテン・コールを加味すると、メトを後に出来るのは優に夕方の4時過ぎ、
その後4時間も経たない夜の8時には、再びボストンのシンフォニー・ホールの指揮台に立っていなければならないわけで、
こんなスケジュールは、若くて健康な指揮者にとっても十分ハードだというのに、
私が密かにオープニング・ナイトでの登場確率は50%以下なんじゃないか、
と予想していたレヴァイン
のような、健康状態の怪しげな指揮者がそれにチャレンジしようというのですから。



しかも、今日(9日)の夜のボストン響の演奏もインターネットによる生中継があるため、
昼のメトのHDと合わせ、ダブルで演奏の内容がリアル・タイムで全世界に配信されるわけで、
今日は軽くレヴァイン・デーと化しています。
(HDは日本ではリアル・タイムで上映されないので、一部の地域を除いて、という注釈付きですが。)
HDやインターネットでの中継がなければ演奏がだらけていい、というわけでは決してありませんが、
しかし、これらのハイ・プロフィールな公演では、演奏する側のプレッシャーも普通以上に大きいものです。

そんな理由があって、また今日も、私は、もしかしたら、レヴァインはずっとボストンに滞在し続けることにするのではないか、
よって、『ラインの黄金』は違う指揮者が振るということもあるのでは?と、
まるでオープニング・ナイトのデジャ・ヴ状態で客席に着きました。

今日はオープニング・ナイトと違い、真正面の座席からの鑑賞なので、
もう一つ、忘れてはならないチェック・ポイントである、最後のワルハラ入城のシーンも、
舞台の端から端までしっかり見えます。



と、おや? 指揮台にあの見覚えのある鳥の巣が!!
レヴァイン、本当にNYに来てました!!
このマラソンのようなスケジュールを本当にこなすつもりなんですね。
やはり観客としては、一球入魂の演奏を聴きたいし、
ボストンに回す力が余っているなら、メトでなぜ燃焼してくれないか?と思わないでもなく、
こういうスケジュールをたてたこと自体には全く賛成ではないのですが、
しかし、それなりの名声も財力もすでに築いたレヴァインなのですから、
ゆっくり療養していても一向実際的な支障はないはずなのに、
ここまで自分を追い込むほどの”何が何でも自分が指揮をしたい!”という強い執念は、
なかには、”早く後進に道を譲れよ。”と思う方もいるかもしれませんが、
私にとっては心を動かされるものであったことも事実で、つい、拍手をする手に力が入ってしまいました。



最近はスケジューリングがきつくてリハーサルが全体的に少なめなのか、
必ずしもそうではなくなっている部分があるのは心配ではありますが、
レヴァインが指揮する演目というのは、一般的に言って、歌手、オケともに良く準備されているのが特徴で、
公演ごとの出来、不出来の差が割りと小さい傾向にあります。

歌手のほとんどが、初日とは遜色ない(むしろ、あまりに初日と変化がないので、
かえってスリルの欠如として感じられるほどに、、、。)感じで、
やはり、公演が終わった時に、最も印象深かったな、と思うのは、アルベリヒ役のオーウェンズの歌です。
同じ舞台に立っているターフェルが世界のトップの歌劇場で活躍しているのに比べたら、
彼の今までの活躍の場は、アメリカのメト以外の歌劇場が中心でしたが、
(メトには『ドクター・アトミック』でデビューしていますが、
それはサンフランシスコで作品が初演された時のオリジナルのキャストだったことが大きな要因だったと思います。
つまり、SFOでの初演時に違う歌手が歌っていたら、彼がメトにたどり着くことはなかったか、
たどり着いてももっと時間がかかっていた可能性があります。)
全然ターフェルに存在感負けしていなくて、相当な舞台度胸を持った歌手だと思います。
声にはすぐに彼の声とわかる特徴的な響き(平たく言えば黒っぽい。というか、黒人なので本当に黒なんですけれども。)
があって、音の深さ、サイズともに申し分ないので、
後は演技にもう少しだけ繊細さが加われば、これからさらに活躍の場が増える人ではないかと思います。
ということで、彼がこの公演で最大の聴き所であるというのは、
初日がまぐれだったわけではなく、彼の本来の力と言っても差し支えないでしょう。



一方、私が初日の公演を聴いて、ヴォータンを歌うには、一回り声のサイズも深みも足りないのでは?と感じたターフェルは、
初日がたまたまトップ・フォームでなかっただけなら良いな、と思っていたのですが、
オーウェンズと同じく、まぐれではなかったようです。しかし、残念ながら、彼の場合は逆の意味で。
今日座っている座席は、私の考えでは、音響的に最もフェアに聴こえる場所の一つで、
ここできちんと声が聴こえなければ、まず、オペラハウスの他の座席に座っている観客のほとんどが不満を感じるだろう、という場所です。
初日に座ったサイドのボックス席は少し音の聴こえ方がいびつな部分があるので、
その点も、少し判断を保留したい理由だったのですが、今日はもう断言してしまいますと、
彼のこの声ではメトでヴォータンを歌うのはかなりきついです。
何度か、彼の声が全く聴こえてこない箇所もありました。一応口は動いていたので、音が出ていなかったわけではないはずです。
この公演の一つ前の公演だったと思うのですが、シリウスで生中継されていたのを聴いていましたら、
終盤、かなり”がなり調”がきつくなって、声が出なくなりかけている箇所もあり、
聴いているこちらがどきどきしました。
そういう歌い方をしなければいけなくなること自体、
彼がこの役を、ここで歌うことには無理があるんじゃないか、と思う根拠にもなっています。



それはオケの演奏にも現れていて、モリスがヴォータンを歌っていた頃は、遠慮会釈なく、ばりばりと音を鳴らせたオケを、
少しトーンダウンするようにレヴァインが指揮しているように感じます。
よって、オケから受ける演奏の雰囲気も、これまでレヴァインが指揮したものからは、少し変わっています。
(それでも音が厚くなると、ターフェルの声はどこ?という状態になってしまうのです。)
リングをそんな風にばりばりと鳴らさなくてよい、いや、鳴らさない方がいい、という考え方もあるでしょうが、
それは表現の選択としてそうするべきであって、
歌手の声のスケールに縛られているからそうするというのでは、ちょっと残念です。
実際、ターフェルとローゲを歌うクロフト兄(リチャード)以外の歌手は、
オケがもう少したくましくなっても、全然通る声を持っていますから、
このニ役が違うキャスティングだったら、オケの演奏もまた違うものになっていたかもしれないな、という風に思います。
また、初日の感想にも書いた通り、単なる声量の問題以上に、
ターフェルの声の、どちらかというと乾いた音の響きが、
オケの演奏と一緒になると、この演目では一層彼の声を聴こえ辛いものにしているように感じます。



ターフェルの方は、”ああ、ヴォータンを歌うとこうなっちゃうかあ、、。”と、
聴いてみて、初めてなるほどな、、と思う部分もありますが、
それとは全然違うのはローゲを歌っているリチャード・クロフトです。
彼は声自体は本当に綺麗で、ローゲの役には持ち味が生かされてきれておらず、もったいない、、と思う部分があるのですが、
他のキャストと比べて、あまりに個性が違いすぎて、ここまで違うと、
きっとこういう線の細い美しい声の彼をローゲにキャスティングした
レヴァインやメトのスタッフの方に何か考えがあったのだろうと思うのですが、
残念ながら、その意図が伝わらないままに、キャストの中で最も弱い鎖というような印象を観客に与えてしまっています。
終演後にも執拗なまでのブーイングが飛んでいて、
キャストでここまで激しいブーイングを受けている歌手は他におらず、
大きな失敗なく、彼の出来る範囲でのことはきちんとやっているだけに、本当に気の毒です。



後、やっちまった!と言えば、初日の公演の感想で、このブログにおける運命を宣告されたフロー役のアダム・ディーゲルで、
あろうことか、この役で最も大事な、神たちをワルハラにイニシエートする言葉で、蛙になってしまったのです、、。
(注:蛙になる=蛙の泣き声のようなとんでもなく汚い音が予期せず出ること。)
アルベリヒだけでなく、フローまで蛙になっちゃって、、と、思わず涙してしまいました。
それにしても、歌っている側も人間ですから、ミスはありますが、
ここは彼のパートの中だけでなく、作品全体の中でも最も感動的な部分で、
誰よりも、彼自身が、”しもたーっ!”と思ったことでしょう。
まさにこれこそ、穴があったら入りたい系の、痛恨のミスです。
ただ、私が初日の感想で言っていたのはまさにここで、彼の歌にはどこか、
すぐにすっと、常に最も理想的な形で歌唱に入るのを妨げるような固さがあって、
私はそれは歌唱における不備だ、と思うのですが、
それがこの、作品中で最も美しい場面、、という精神的なプレッシャーと結びついて、蛙化したのだと思われます。
この失敗を糧に、何がいけなかったのか、という原因を突き止め、これからの歌唱に反映されるといいなと思います。



待望のワルハラ入城ですが、初日のプリズムのむこうは真っ暗!で、
ワルハラは観客の想像力の中にある、、という、あの、革新的、かつ、イノベイティブなセットはどこへやら、
今日はセットがきちんと予定通り、作動して”しまった”ようで、
舞台奥に向かって走る虹色のプリズムのむこうには、さらに虹色の川状のものが水平に流れていて、
いつトラボルタがあのポーズを決めながら乱入してくるかとどきどきするような代物で、
ワルハラは70年代のディスコのような場所なのか?と自問してしまいます。
やがて、神々は、地面に垂直になったプランクの上を歩き始め、
このプランクが最後には角度を変えて、地面に水平になり、彼らは虹の彼方に歩き去っていくのですが、
地面に垂直になったプランクの上を歩くということは、
頭を観客の方に倒してワイヤーで吊られながら舞台の天井方向に向かって歩を進めるわけで、
ここはおそらく、歌手たちが歌い終わった後、舞台手前にあるプランクと、
角度を変えるプランクとの間にある溝に一瞬消えて、その間にボディ・ダブルと交代しているのだと思います。
なので、実際に城に入城していく時点では、歌手自身ではなく、別の人物と摩り替わっています。
神々は光の中に吸い込まれて行く、という感じで、以前のシェンクの演出のような実際の城は見えません。
(城が見えないのはそう意図されたもので、初日のようなテクニカル上の失敗ではありません。)
おそらく非常に手の込んだ技術が投入されているのだと思うのですが、あまりそれが報われていない感じもあり、
どうせ城自体が見えないなら、初日の時のように真っ暗なほうが効果的だったのにな、、と私は感じました。

一通りキャストが挨拶した後、体を動かすのが大儀になっているレヴァインが、
せっかくブライスの助けを借りて、もう一度全員で挨拶を、と足を踏み出しているのに、
ほとんどのキャストたちが”我々はもう疲労困憊です、、。”とばかりに散り散りに舞台脇にはけ始めてしまって、
ブライスの手を握ったまま取り残されるレヴァインの姿が悲しかったです。
指揮している姿ではわかりにくいですが、立って歩くとやはり体を動かすのがだいぶつらそうなのが良くわかります。
こんな状態で、この後、本当にボストンに行って指揮なんか出来るのか?
ブライスが一瞬ナースに見えたのは私だけではあるまい、、。
観客の側の反応が熱狂的でなかったのも、この締りのない幕切れに貢献していたのですが、
これこそが、端的に、ルパージの新演出への平均的なレスポンスを表していると思います。
決してブーするようなものではないけれど、あんな大金を投入してシェンクの演出と取り替えるほどのものでもないかな?という。
カーテン・コールにルパージが登場しなかったのも、この辺りの雰囲気を彼が敏感に感じているからかもしれません。

ちなみにレヴァインは無事夜の8時にはボストンのシンフォニー・ホールの指揮台に立ち、『復活』の演奏をこなして見せました。
私もインターネット・ラジオによる生中継を聴いていましたが、オケの演奏だけで言うと、
もしかすると、むしろ『ラインの黄金』よりも気合が入っていたかな?と思うくらいで、
レヴァインの”もう駄目なんじゃないか?”と思わせておいて、どっこい!なエネルギーには毎回驚かされます。


Bryn Terfel (Wotan)
Eric Owens (Alberich)
Richard Croft (Loge)
Franz-Josef Selig (Fasolt)
Hans-Peter König(Fafner)
Gerhard Siegel (Mime)
Stephanie Blythe (Fricka)
Wendy Bryn Harmer (Freia)
Patricia Bardon (Erda)
Adam Diegel (Froh)
Dwayne Croft (Donner)
Lisette Oropesa (Woglinde)
Jennifer Johnson (Wellgunde)
Tamara Mumford (Flosshilde)
Conductor: James Levine
Production: Robert Leparge
Associate director: Neilson Vingnola
Set design: Carl Fillion
Costume design: Francois St-Aubin
Lighting design: Etienne Boucher
Video image artist: Boris Firquet
Dr Circ E Odd
OFF

*** ワーグナー ラインの黄金 Wagner Das Rheingold ***

LES CONTES D’HOFFMANN (Wed, Oct 6, 2010)

2010-10-06 | メトロポリタン・オペラ
9/24のドレス・リハーサルの鑑賞に続き、今シーズン二度目の『ホフマン物語』です。

時々、ああ、このキャスト、もしくはこの演出の公演ならもう一回観ておきたい!と、
直前にチケットを追加購入することもあるにはあるのですが、
シーズン中に観に行く公演の90%以上は、シーズン開幕の数ヶ月前にチケットを買い揃えてしまうので、
計画を立てた時点では、理由があって特定の日の公演を選んでいたとしても、
実際その公演日がやって来る頃には、全然その理由を忘れてしまっている、ということがよくあります。
それが3月とか4月の公演ならともかく、今はまだシーズンが始まって一ヶ月も経っていないところが、
私の加速度的に進行する記憶力の低下を物語っていて、悲しくはありますが。

そんなわけで、今日はメトに向かう途上、ドレス・リハーサルの内容もなかなか良かったし、
二度目の『ホフマン』を観れるのは、総合的に言って非常に嬉しいのだけれども、
あの、オランピアの幕が残念だな、クリスティじゃなくて、別のもうちょっと力のある歌手が歌っていたら、
もっと全体の公演がしまるはずなのにな、と思っていたら、
座席についてプレイビルを開けた時には、私は歓喜の声をあげてしまいました。

”そうだった!今日からオランピア役はエレナ・モシュクになるんだった!”

そう。また忘れてたんですよ。
それに合わせて、わざわざこの日の公演のチケットを手配したのだ、ということを、、。ほんと、記憶力悪過ぎ。

しかし、記憶力が最低だったおかげで、今、突然にふって湧いて来た、
モシュクを聴けるという楽しみに、俄然わくわく感が増して来ました。
モシュクは今日の公演が正真正銘のメト・デビュー
(デビュー・シーズンという意味だけでなく、メトの本公演の舞台に初めて立つのが今日)です。



それから、今日、私がどんなパフォーマンスを出してくれるだろう?と、
最も大きな期待と興味を持って聴きに来たのは、ホフマン役を歌うフィリアノーティです。
一つには、彼がドレス・リハーサルでは、本公演の初日に向けて声をセーブするため、
特に前半、ややマーキング気味に歌っていたせいもあって、
彼が全編を通して全力で歌ったら、どのくらいの声が出て、かつどれ位スタミナがあるのか、
という点が、若干わかりにくかった部分があるのですが、
初日の公演をシリウスで聴いたところでは、熱さが最後まで持続する歌唱で大健闘していて、
あれに似た歌唱を今日も聴かせてくれるとしたら、これは面白いことになりそうだ、という風に思っているからです。



もう一つは、ドレス・リハーサルの記事のコメント欄の最初の方で情報を交換させて頂いた通り、
『ホフマン』初日の公演が終わって、メディアにポジティブな公演評が出た後、フィリアノーティが、
おそらく、アメリカで公表したのはこれが初めてだと思うのですが(日本ではすでに公になっていたようですが)、
NYポストに、彼が2006年に甲状腺の癌と診断されて以来、手術を含む辛い闘病生活と
すでに契約のある公演には出来る限り登場するため、リハビリを重ねる日々であったことを明らかにしました。
癌であるとわかる前に、メトに登場して歌った『ランメルモールのルチア』では、
彼はヘッズたちからも大変好意的な評を得ていたのですが、
手術後の彼のパフォーマンスは、彼本来の力が出ていなかったわけですから、十分に故あることですが、
精彩を欠いた歌唱が続いていました。
今回のNYポストの記事も、もっと反響があるかと思ったのですが、予想したほどではなく、そのこと自体が、
どれほど彼の病気がNYでの彼の評価の足を引っ張り、遠回りさせたか、ということを間接的に示していると思います。
つまり、ここ数年続いた精彩を欠いたパフォーマンスのせいで、
NYのヘッズたちの”ウォッチすべき面白い歌手”のレーダーから、
彼がこぼれかけていたと言っても良い状態だったわけです。



彼は病気のことについて、アメリカではこれまで全く口を閉ざしていましたから、
その彼の意思は尊重し、また、個人的には、非常に誇り高い行為だと思いますが、
不調の裏にある本当の理由を知らないNYのヘッズが、彼の歌を高く評価できなかったのも、これまた当然のことであり、
その不調も聴き取れずに彼を褒め称えるような頓珍漢なオーディエンスではない、
ということが実証されたのは、唯一の慰めです。

しかし、彼が『ホフマン』初日の好評を経て、闘病について語る決意をしたのは、
彼が、本格的なリカバリーへの手ごたえを感じているからではないか?と考えられ、
逆に言えば、それを公にした以上は、あの初日のレベルのパフォーマンスを
彼が残りの公演でもキープしなければならない、また、おそらく、するつもりでいるのだろう、ということでもあり、
件のNYポストの記事が出た後の、最初の公演となる今日の公演は、その点でも注目に値します。



ニクラウス役のリンゼーの歌は、もう何度も書いているような気がするのですが、
役作り、歌唱、演技、すべての面で上手くまとまっているとは思うのですが、
全体的にコンパクトで、しかも、相当ぎちぎちに自分で役を作り上げてしまっているからか、
公演毎にちがった面が現れる、というようなマージン、面白みがなくて、
毎回判で押したような歌唱と演技なのが、贅沢ですが、やや不満としてあります。
なので、特に今日の彼女の歌唱について、他の公演と変わった点があるわけではないので、
彼女をとばして早速フィリアノーティに行きます。

いやー、彼のこんなに元気のある歌唱は、私、初めて聴きました。
実際に、良く声が出るようになっていたり、スタミナが戻って来ている、という実際的な面も当然あるのですが、
何よりも、彼自身がその事実を感じることで、歌に勢いが生まれ、
また、コンフォート・ゾーンよりも、常に少し上に自分をプッシュしようとする、
ハングリー精神とでもいうべきものが、彼の歌唱を非常にスリリングなものにしています。
昨シーズンまでは、やはりプッシュすることに、いくらかの恐怖心があったのでしょう、
こういう歌のスリリングさは去年まで全然なかったですから。
聴いているこちらも、危なっかしくて、恐怖、という、感じでしたし。

昨シーズンまでは、ほとんど聴くことの出来なかった、非常に美しい音が歌唱に混じるようになっていて、
本来はこういう音色を持っている人なんだな、というのも、感じることが出来ます。
(彼を『ルチア』のDVDで観て、初めて知った時の音色と共通したものをライブで初めて感じることが出来ました。)
その美しい音が本来の音色とすれば、まだ、完全には絶好調時の彼に100%戻っているわけではないように思いますが、
これまでのシーズンと比べると、大変な差であることは間違いありません。



音色と同じことはスタミナでも言えて、特にドレス・リハーサルの時と違い、
今回は、しょっぱなのしょっぱなから全力モードでしたので、
最後の幕で、少しスローダウンしたかな、と感じる部分もあり、
スタミナ面では、もしかするとまだ元の85%くらいしか戻っていないのかもしれないな、と思う部分もあります。
それでも、彼はこの『ホフマン物語』を良く手中に収めていて、
最後の最後にばてることはできないのだ、ということを良く理解していて、
一旦スローダウンした後に、もう一度、ラストに向けて力があげていくための余力をきちんと残していたのは見事です。
そのおかげで、尻切れトンボのような印象がなく、
全体的なパフォーマンスへの観客の印象は、ポジティブなまま、維持できました。

先シーズンのカレイヤには少し厳しい感じのあった高音も、
次々と思い切り良く決めていたりなど、
テクニックの面だけでも、この役に関してはカレイヤよりは、数段上な感じがしますが、
(カレイヤは確か初役だったはずで、かつ、ヴィラゾンが突然降板したのを、
初日のたった数ヶ月前に引継いだ、ということで、役の準備をする時間が十分なかったでしょうから、
この役をしっかりものにしているフィリアノーティと比較するのはちょっと気の毒な部分もありますが。)
フィリアノーティのホフマンを魅力的にしているのは、それだけではなくて、役に与えている微妙なトーンです。
昨シーズンのカレイヤのホフマンは、クスリか何かでもやっているのではないか?と思うような雰囲気が若干あって、
私はあの閉塞した感じ、あれはあれで嫌いではないのですが、
直情さゆえに、何度も恋をして転ぶ、ホフマンのロマンティストな面を強調したフィリアノーティの役作りの方が、
多分、より多くの人に受け入れられやすいし、私もこの役作りは魅力的だと思います。
一言で言うと、彼の描くホフマンを、オーディエンスとして嫌いになるのは難しい、そういうことです。

今シーズンの『ホフマン』は客席があまり埋まっていなくて、せっかくこのような内容の良い公演になっているのに残念ですが、
シリウスなどで放送を聴いたヘッズは多いでしょうから、彼の元気な歌唱を聴いて、驚き、喜んだ人は少なくないはずです。



アブドラザコフは不思議な人で、私は似た印象を、昨シーズンの『ファウストの劫罰』の
ドレス・リハーサル本公演からも感じたのですが、
ピークがドレス・リハーサルの方に行ってしまうタイプの歌手なのかな?と今回も思いました。
歌手の中には、リハーサルのプロセスが一番楽しくて、実際の公演になると、
それを単純に吐き出すプロセスになってしまって、リハーサルほど充実した気分になれない、ということを仰る人がいます。
アブドラザコフに尋ねたわけではありませんが、彼の歌や演技を見ると、なぜか、そのことが頭に浮かびます。
今回の『ホフマン』もドレス・リハーサルの方が、表現・歌唱ともに、最も高みにある感じで、
今日の公演、また後に何度か聴いたシリウスの放送いずれも、あのドレス・リハーサルでの歌唱に比べると、
勢いが薄れ、決まったものをアウトプットしているに近い雰囲気を感じます。



ドレス・リハーサルで素晴らしい歌を聴かせていたゲルズマーワですが、今日は風邪気味か何かなのでしょうか?
登場してすぐの、”逃げて行ってしまった山鳩は Elle a fui, la tourterelle!"での歌声が少し不安定でした。
中盤から後半にかけて、ドラマが盛り上がるに連れ、不調をほとんど感じさせなくさせたのは立派ですが、
彼女の最も好調な日ではなかったと思います。
それでも、彼女の表現力、これは私、やはり素晴らしいものを持っているな、と思います。
例えば、ホフマンのために歌をあきらめることを彼に誓った後、
一人になって、結局ホフマンも父親そっくりなんだわ、、、と嘆く
"De mon père aisément il s'est fait le complice!”という言葉の表情の豊かさや、
死の間際に、父親に”聴いて!お母様よ!”という訴えかける場面の上手さなどに、彼女の優れた表現力を聴きます。

順序が逆転してしまいましたが、キャストで最後にオランピア役のモシュクのことを書いておくと、
彼女の技術は決して鉄壁でも完璧でもなく、むしろ、どちらかというとスロッピー(雑)なところがあるし、
日による出来の差も結構大きいように感じます(後に聴いたシリウスの放送などと比べて)。
ただ、スロッピーと言っても、ネトレプコみたいなスロッピーさではなく、
本人にはきちんと歌う意志があるのに、声が完全には思い通りになってくれないような
もどかしさを感じるとでも言えば良いでしょうか?
ただ、彼女は非常に面白い歌手で、それは、その欠点を十分に補う魅力的な面もたくさん持っている点です。
特に彼女の魅力の一つは、客席に向かってびよ~んと伸びてくるような、
強烈なエラスティックさを持った声質で、これは、もしかすると、
彼女が自分の声の扱いに時にてこずっているような感じがするのと、表裏一体なのかな?という風にも思います。
また、彼女の歌には、独特のキャラクターがきちんとあって、テクニックが完璧ではないのに、
なぜか観客を引きつける力を備えています。
あと、もう一つ言うと、彼女の身体表現における演技能力の高さ。
残念ながら、オランピアは人形の役なので、複雑な感情表現を見せる場がないですから、
ドラマティックな役を任されたときに、彼女がどれ位の演技力を見せるか、というのは、
また別の機会まで判断を待たなければならないと思いますが、
こと、オランピア役に必要な、体の動き、表情、コメディックなセンス、
動きのタイミングの良さ、などは、素晴らしいものを感じます。

最初の二回の公演に登場していないところを見ると、スケジュールにコンフリクトがあったのかな?と思うのですが、
リハーサルから何からに十分参加したクリスティよりも、
おそらく、昨年のHDの映像を見て、何回かスタッフと舞台上の動きをさらっただけのはずのモシュクの方が、
断然、演技が魅力的なのはこれいかに?
こういうのこそ、センスとしか表現しようがないな、と思います。
昨シーズンのキムよりもかわいいオランピアを演じるのはほとんど不可能なのではないか、と思っていたのですが、
キムの漫画から出て来たようなキャラとはまた違う、
より血の気を感じる役作りでモシュクもそれに負けない存在感でした。
キムの方が歌は正確なんですが、モシュクの自由度溢れる歌唱は、
彼女のオランピアの役作りと呼応していた部分もあったのだと思います。

フランスのオペラの一部は、時に、音楽が(ドラマのためではなく)
お飾りを第一の目的として書かれているような印象を受ける箇所があって(というか、多くて、と言った方が良いか?)、
”やってられないよなー、このあほくささ。”と指揮者が思ってもおかしくないような気もするのですが、
このフルニイエーという指揮者は自国の文化への誇りも手伝ってか、
どんな箇所でも、なぜそんなに楽しそうなのか、、?と聴きたくなる位、
元気一杯、真剣に振ってくれているのが、実にほほえましいです。
部分部分に、レヴァインの指揮よりも、しなやかでいいな、と感じた場所も結構ありました。

(写真はリハーサル時からのもののため、オランピア役は今回の公演のモシュクではなく、クリスティです。)

Giuseppe Filianoti (Hoffmann)
Elena Mosuc (Olympia)
Hibla Gerzmava (Antonia/Stella)
Enkelejda Shkosa (Giulietta)
Ildar Abdrazakov (Lindorf/Coppélius/Dappertutto/Dr. Miracle)
Kate Lindsey (Nicklausse/Muse)
Joel Sorensen (Andrès/Cochenille/Pitichinaccio/Frantz)
Dean Peterson (Luther/Crespel)
David Cangelosi (Nathanael/Spalanzani)
Jeff Mattsey (Hermann/Schlemil)
Wendy White (Mother's Voice)
Conductor: Patrick Fournillier
Production: Bartlett Sher
Set design: Michael Yeargan
Costume design: Catherine Zuber
Lighting design: James F. Ingalls
Choreography: Dou Dou Huang
Dr Circ C Even
ON

*** オッフェンバック ホフマン物語 Offenbach Les Contes d'Hoffmann ***

VIENNA PHILHARMONIC ORCHESTRA (Sun, Oct 3, 2010)

2010-10-03 | 演奏会・リサイタル
昨日は一人寂しくディナーして、デートの相手さえ見つけられないうえに、
観客仲間に手当たり次第ナンパをしかける変な女、という、屈辱的な勘違いをされた
私ですが、
今日はそういうことにならないよう、連れとカーネギー・ホールにやって来ました。

彼の好きなベルリン・フィルは隔年でしかNYに来てくれないので、
代わりに、全然違うタイプのオケですが、ウィーン・フィルの演奏会に強制連行です。
私たちはお互いに仕事のスケジュールが全然違うので、
日時的に一緒に行ける演奏会という条件だけですでに、相当数が絞られてしまうのですが、
その中で、私が今シーズン目をつけたのは、ウィーン・フィルが何日か行う演奏会のうち、
ドゥダメル指揮、ヨーヨー・マが客演の日のものです。

よくよく考えれば、ここ数年、ウィーン・フィルについては毎年連れと最低一公演は一緒に鑑賞しているような気がするのですが、
このオケほど、演奏の内容だけでなく、佇まい・空気・態度までがあからさまに変わるオケも少ないのではないかと思います。
固定した音楽監督がいて、その指揮者と毎回NYにやってくるオケと違って、
毎回指揮者が違っている、ということも大きな要素なのでしょうが、
それはもう、生理中の女かと思うくらい感じ悪く傲慢な時があるかと思えば、
突然借りてきた猫のようにおとなしくなってみたり、
全くやる気がなくなってみたり、一応頑張ってる振りをしてみたり、と、
このブログが始まってからだけでも、ウィーン・フィルが繰り広げる百面相の一部を我々も見せて頂きました。
しかし、ふと気づくのは、演奏の内容は常に一定のレベル以上に保たれていて、
そして、それはそれですごいことなのですけれども、
一方で、記憶に鮮烈に残るような彼らの生の演奏に、私はこれまで出会ったことがないということ。
そこで連れにその話をしてみると、彼もやっぱりそうで、
だから自分はベルリンの方が好きなのだよ、わはは!と言います。

さて、最近の、若くて割と見栄えの良い指揮者なら誰でもが必要以上にちやほやされるトレンドに、
私自身は必ずしも賛成していない部分もあるのですが、
彼らのパフォーマンスについてネガティブなことを書いたり、批判するからには、
彼らの音楽をちゃんと聴かなくてはなりません。
また、中には、面白い個性とそれを音に出来る実力が同居した若手指揮者ももちろんいるはずです。
ドゥダメルは間違いなく現在注目されている若手指揮者の一人であると思うのですが、
以前、別の記事のコメント欄で紹介頂いた、ユース・オーケストラを指揮する彼の様子を収めたYouTubeの映像からは、
躍動感と音楽を演奏することの楽しさというものが溢れていて、
1981年生まれ(この若さ!メーリの時に続けてくらくらして来ました。)という若さながら、
彼らしさ・個性がきちんとあるのには、好感を持ちました。

けれども、今回の演奏は、素直な若人たちが集まった自国のユース・オケが相手ではなく、
指揮者によって態度がコロコロ変わる海千山千オケのウィーン・フィルです。
ウィーン・フィルは、指揮者の選抜に関してもオケのメンバーのコンセンサスが必要、と聞いたことがあるのですが、
それでも、私はもしかしたら、ドゥダメルが、この海千山千オケに、あからさまな態度で軽くあしらわれるか、
控え目にいっても、冷ややかな態度で、必要最低限のところだけ押さえるような気のない演奏を
オケが繰り出す現場を目撃させられるのではないかと、ちょっぴり心配していた部分もあります。
さすが、人に、家に遊びに来ますか?と聞いておいて、”では伺います。”と言うと、
”あの人、ほんまに家来はるで!”と陰口を叩く京都人と共通したところがあるというウィーンの人々だな、
指揮に呼んでおいて、意地悪するとは、、と、演奏会前に、どんどん妄想は広がります。
京都的しきたりにのっとると、ドゥダメルは3回くらい辞退して、
それでもウィーン・フィルが、”どうしても!!”というなら、
真剣に誘われているんだな、と解して、コントラクトにサインしてもよいですが、
その前にサインしてしまうと、”さすが南米の田舎もん。”と陰口を叩かれてしまいますよ、と忠告さしあげなきゃ、とか、、。
(注:ここで京都出身の方は、どうぞ、かりかりされませんよう。かく言う私も京都出身ですから。)



そんな妄想いっぱいで聴きはじめた今日の演奏会ですが、
まず驚くのは、ドゥダメルの丁寧な指揮。
どんなに細かい部分にも、きちんと入りの指示があり、しかも、一つ一つの指揮の動き、
それによって何を指示しようとしているかが本当にわかりやすい。
というか、これなら、何の楽器もまともに弾けないこの私が、たった今ウィーン・フィルに飛び入り参加しても、
きちんと演奏が出来てしまいそうな、、って、さすがに、そんな大それた妄想は許してもらえそうにありませんが
まあ、それ位、指揮がクリアだということが言いたいのです。

ここ数年、生で接した若手と言えば、ジュロウスキ、ネゼ・セギャン、ネルソンス(全員70年代生まれ)などの名を思い浮かべますが、
その中でも、断然指示がわかりやすくて、いい意味で指示が細かいという印象を持ちました。

そして、さらにびっくりは、ウィーン・フィルが、いささかの踏ん反り返った態度も、
ひねくれた姿勢もなく、一丁、こいつの言う通りにきちんと演奏してみるか、という、
少なくとも私がこれまで聴いた中では、最も素直な姿勢で演奏をしている点です。
どうした、ウィーン・フィル!JFケネディ国際空港のエスカレーターで転んで頭でも打ったのか??

しかし、こう、じっと見ていると、これはドゥダメルの人柄もあるのかもしれませんが、
あの一生懸命な指揮振りと音楽に対するまじめで真摯な姿勢には、つい、オケのメンバーをして、
この人のためなら、真剣に演奏してみようか、と思わせるような何かが彼にはあります。
指揮には、当然、技術、知識、センスといったものも求められますが、
何よりも、それらを実際に音にしてくれるオケの奏者の気持ちをつかむことができなかったら、
それらは何の意味も持たないでしょう。
もちろん、技術も知識もセンスもない指揮者について行きたいと思う奏者はいないわけで、
それらは相互に絡み合っているわけですが。
嬉しい発見は、ドゥダメルがオケの奏者の心を摑む手腕については、まず心配がなさそうという点で、
もうこの時点で、私は、”おぬし、なかなかやるな、、。”という気にさせられました。
とりあえず、意味無くちやほやされている指揮者ではなさそうだ、という予感が、まずこの一曲目でありました。

プログラムの最初の曲である、ブラームスの『悲劇的序曲』では、まだ少しオケが、
音が乗り出す前の段階のような感じもありましたし(例えばホルンのセクションは若干精彩を欠いていたと思います。)、
あと、これはドゥダメルの若さゆえのせいもあるのかもしれませんが、
彼の場合は、彼の個性が生きる曲と生きない曲で、演奏から受ける印象にかなりの違いがあって、
この曲の、隙のないくそまじめさ(私にはそう思える)は、
彼の個性にはあまり合っていない感じがあって、少し演奏がコンサバで堅苦しかったかな、と思います。

もちろん決してこんなもの聞かせやがって!!というような内容のものではなく、
料理で言うと、特別想像性に富んだ一品でもないけれども、
シェフの才能を予感させるに十分な皿ではあるので、
続く料理に期待!という、そういう感じとでも言えばいいでしょうか?

で、その次に続く第二の皿は、オーディエンスの期待度でいえば、
メイン・ディッシュのドヴォルザークの交響曲第9番(『新世界より』)と、限りなく同等、
もしくは人によってはそれ以上かも?とも思える、
ヨーヨー・マを迎えての、シューマンのチェロ協奏曲イ短調作品129です。

私、実は、ドゥダメルだけではなく、ヨーヨー・マを生で聴くのも今回が初めてで、
ヨーヨー・マは、ものすごく評価の高いチェリストですから、チケットを購入した後、
連れに、”ヨーヨー・マ!ヨーヨー・マ!”と日々連呼し続けたくらいです。
私たち、すごいチェリストを聴きに行くのよ!というアピールです。
その時に、心なしか、連れの反応が鈍いな、とは思ったのですが、
ま、仕事で疲れているか、私のしつこい山びこのようなヨーヨー・マ!にうんざりしているのだろう、
と勝手に思っていました。

マが舞台に登場すると、さすがに、一気にカーネギー・ホールの温度が数度あがった感じでした。
ところが、出てきた音を聴いて、目が点になりました。
”音、ちっさ、、、、。”

オペラも同じで、別に音や声の小ぶりな奏者、歌手が悪い・駄目とは、私も全然思ってないですが、
やはり、その曲のエモーショナルな波をオーディエンスにダイレクトに伝えるには、
最低限、備わっていて欲しい音量というものはあると思うのです。
いや、音量というと、単純なデシベルの話みたいになってしまうので、語弊を生みますね。
体感音量とでも言うべきでしょうか。
歌手でもよくあるのですが、声が小ぶりでも、備わっている響きによっては、
大きな会場でも、十分、後ろの方まで観客に音の波が伝わってくる歌手というのがいます。
それと同じことを、やはり、ソロで楽器を演奏する奏者には、こちらは期待するものではないでしょうか?
彼のチェロの音色は、少し響きが乾いているというのか、カーネギー・ホールのような、
割と残響がしっかりしているホールでも、あまり音が残らなくて、
確かに私はこの日、かなりステージから離れた座席に座っていたことは事実なんですが、
カーネギー・ホールはメトと違って、特に巨大なホールというわけでもありませんし、こりゃ一体?という感じでした。
(座席数は2800ほど。ちなみにメトは立ち見を除いて3800席、立ち見込みで約4000人収容可。)

それから、もう一つ驚いたことは、彼の持つ音色は、彼の名声から期待していたほどには、
特別・強烈な個性があるわけではない点です。
むしろ、この個性のなさが、個性なのか?と、演奏を聴きながら考えてしまいました。
今回演奏されたチェロ協奏曲には、途中で、オケのチェロの首席奏者と絡みながら演奏する箇所がありますが、
音色で言ったら、ウィーン・フィルの首席の方がよほど個性があります。
(NYタイムズによると、この日演奏したチェロの首席はフランツ・バルトロミーという方だそうです。)
以前、私はメト・オケのチェロの首席奏者のラファエル・フィグェロアさんの音が大好きだ、
というのを記事にも書いたことがあると思いますが、
このバルトロミーさんやフィグェロアさんの音なら、もしかしたら目隠しでも言い当てられるかもしれない、と思いますが、
ヨーヨー・マのサウンドについては、全く自信がないです。
もし、私が彼が世界に名の知れたチェリストということを知らずに、彼の音色(演奏ではなく音色だけ)で、
特別なチェリストだということがわかるか?と聞かれたら、恥をしのんで、答えはノーです。

私が感じるところでは、ヨーヨー・マの個性は、あの精緻極まりないテクニックにあるのかな、と思うのですが、
私自身のオペラ歌手への趣味からも、おそらく全開な通り、
私はもちろんテクニックのある奏者、歌手は素晴らしいと思うのですが、
それが多少犠牲になっても(あまりにもの犠牲は問題外ですが)
演奏から強烈なドラマやエモーションを感じる歌手や奏者をより好む傾向にあるので、
まあ、簡単に言えば、ヨーヨー・マの今日の演奏スタイルとは、あまり相性が良くないのだと思います。
全編通して、サロンでさらっと演奏しているような雰囲気の演奏で、
オケの奏者との掛け合いの場面も、対等に一対一でぶつかり合うというよりは、
ウィーン・フィルの奏者を、余裕で見守るヨーヨー、という雰囲気で、
どこか一歩退いた感じがします。
それは彼の芸術的選択なのでしょうが、
演奏会の数日前から、ジャクリーヌ・デュ・プレの演奏によるこの作品を聴いて、
勝手にヨーヨー・マも、このような演奏を聴かせてくれるに違いないと思い込んでいた私は、
すっかり肩透かしを食らってしまいました。




アンコールはバッハの無伴奏チェロ組曲第1番ト長調 BWV1007で、こちらの方が、
彼の個性と曲がマッチしているという風に私は思いました。

インターミッションに入って私が浮かない表情になっているのを見て、
連れが”どうした?”というので、昨日まで名前を連呼していた元気はどこへやら、
”ヨーヨー・マがなんか期待外れでした、、期待が大きかっただけに、、。”と告白すると、
”いやー、君の好きなタイプの演奏をする奏者ではないんじゃないかな、と思っていたんだけど、
言えなかったんだよね。”
だから私の”ヨーヨー・マ”一人エコーにも反応が鈍かったのか。
しかも、彼は1980年代に彼の演奏を聴いたことがあるらしいのですが、
”こわいくらい当時と演奏が変わっていない、、。”と言ってました。
それって、良いのか、悪いのか、、、なかなかに面白い意見です。

セカンド・ディッシュでマのセンスと噛み合わなかったので(ドゥダメルはひたすら
マが演奏しやすいようにオケを導いた、完全伴奏系でした。)、
こうなったら、ドゥダメル・シェフの『新世界より』に一点賭け!!!

私が通った小学校では、下校時にかかる音楽が、『新世界より』の、
あの、”遠き山に~”の部分で、当時、我が家にあったクラシック名曲全集のLPのうち、
親しく知っている、そこそこ長さのあるメロディーが含まれている曲は、ゆえに『新世界より』だけで、
よって、その全集で何度か取り出して聴いたことがあるのは、その一枚だけだったように思うのですが、
(ただ、その全集には、編集者がワグネリアンだったのか、
なぜだかワーグナーの作品の抜粋が全体の作品数に対して異常にたくさん含まれていて、解説書を眺めながら、
子供心ながらに、ワーグナーって、すごいおじさんなんだな、、と思った覚えがあります。)
多分、それで勝手に十分聴いた気になって、その後、大人になってからは、
ほとんどまともにこの作品を通して聴いたことがなかったことに今回気づきました。

そして、興奮のままに書いてしまいますと、こんなに生のウィーン・フィルの演奏でわくわくしたのは、
私、本当に初めてです!
今回じっくり聴いて、この作品って、こんなにソロの聴かせどころが多かったっけ、と思ったのですが、
子供の頃の記憶は当てにならないのと同時に、今回はどの奏者の演奏も素晴らしかったから、特にそう思うのかもしれません。
一瞬たりともテンションが下がらずに、次々バトンタッチしていくソロや、各楽器の掛け合いに、もう本当わくわくしました。
やっぱりウィーン・フィルはすごい腕を持った奏者の集団なんだな、というのを今回ほどしみじみ感じたことはありません。
また、その凄い腕、というのが、ソロや各楽器のアンサンブルが、”俺が俺が”的なでしゃばり演奏になってしまうのではなく、
全体のまとまりの中できちんと分をわきまえ、音楽の大きな流れを壊さずに、
作品全体の中でどういう役割を与えられているのかを、理解しながら演奏するという、とても美しい結果になって現出しているのです。

ドゥダメルはスコアなしの暗譜で指揮をしていて、
必ずしも暗譜で指揮する指揮者の方が優れているとは限ってはいませんが、
彼の場合は、またしても、この私にもわかる!な、非常に明晰な指揮をこの作品で繰り広げていて、
かつ、ウィーン・フィルが出来る限り、それに則って演奏しようとしているものですから、
ああ、こういう演奏で出て来た結果こそ、”ドゥダメルとウィーン・フィルの”と形容できるものだな、と思います。

私が例えば昨シーズンの『トゥーランドット』でのネルソンスの指揮につい?マークをつけたくなるのは、
彼の場合、ドゥダメルのように指示がクリアじゃなく、オケにお任せ状態になるような箇所が見られるからなのです。
メト・オケや、その他の、一定以上の力のあるオケなら、それなりに自分たちで形になるように取り繕ってしまいますが、
それは、”メト・オケの”演奏であって、”ネルソンスとメト・オケの”演奏とは言わないんじゃないかな、と思うのです。

小学校の下校時間を激しく思い出すあの旋律が含まれた第二楽章は、
おセンチに思い入れたっぷりにならずに、むしろ淡々と、しかしやや幻想的に演奏して行くことで、
かえって曲全体の美しさが際立っていたのは、指揮、オケ両方のセンスの良さを感じましたし、
第4楽章も、ラテンな青年ドゥダメルなので、なりふり構わず爆発するかと思いきや、
決してそうではなく、常に作品全体への視点を忘れない、冷静なところがあるんだなと、良い意味で感心しました。
まだ物凄く深みのある演奏を聴かせる、というレベルには達していないかもしれませんが、
(この年齢で達していたら、それもちょっと不気味です!)
大きなポテンシャルを持つ、いい指揮者だな、と思います。
わかりやすい指揮をする、ということに引け目を感じない、その素直な姿勢は好感がもてますし、
また、その素直なアプローチに、きちんと敬意を持ってこたえて、
優れた演奏を出したウィーン・フィルの意外(?)な一面も称えたいです。

ウィーン・フィルとドゥダメル、
一見ミスマッチに思える食材の組み合わせから、思いがけなく美味なものが生まれる時のことをふと考えた公演でした。
このコンビなら、またぜひ聴きに行きたいと思います。


Vienna Philharmonic Orchestra
Gustavo Dudamel, Conductor
Yo-Yo Ma, Cello

JOHANNES BRAHMS Tragic Overture, Op. 81
ROBERT SCHUMANN Cello Concerto in A Minor, Op. 129
encore by Yo-Yo Ma
JOHANN SEBASTIAN BACH Cello Suite No. 1 in G Major, BWV 1007
ANTONÍN DVOŘÁK Symphony No.9 in E minor, Op. 95, "From the New World"

Carnegie Hall Stern Auditorium
Balcony9 Odd

*** ウィーン・フィル Vienna Philharmonic Orchestra ***

CABARET AT CAFE SABARSKY (Fri, Oct 1, 2010)

2010-10-01 | 演奏会・リサイタル
昨日、会社で仕事に燃えているところに、連れから電話があり、
”今、職場の掲示板で、ある情報を見たんだけど、絶対に君、興味があるだろうと思って。”と言います。
あらま、何かしら? でも今まじで超忙しいですから、
100万ドル差し上げますとか、そういう話じゃないと興味ないですから。かたかたかたかた、、(引き続きコンピューターのキーを叩く音。)
すると連れが続けて、”パトリシア・ラセットが今夜と明日の夜、
ノイエ・ギャラリーにあるカフェ・サバルスキーでキャバレー・ソングを歌うみたいだよ。”
えええっっっ!!?? ほんと、ほんと、ほんと?!?!?
”僕は残念ながら、仕事で両日とも行けないんだけど、、、。”と続ける彼をそっちのけで仕事を放り出し、
ペンを握りながら叫んでしまいました。”で、チケットを購入するにはどこに電話すればいいの?”

強力なマネジメントやレコード会社がついている歌手と違い、
ラセットはオペラハウスの公演以外の活動については、
地道に自分で色んなところからデータを集めないと、なかなか情報が入ってこないうえに、
私がそういう検索活動があまり得意でないせいもあり、今回のこのキャバレー・ソングの企画は全然知りませんでした。
連れの機転に大感謝です。

しかし、電話をする前に、ノイエ・ギャラリーのサイトで同企画の紹介のページを見て、
一つ、問題があることに気づきました。
それは、7時から2時間にわたる食事があって、その後、9時からキャバレー・アワーが始まることで、
チケットはこのお食事とキャバレー・アワー(歌の部分)がセットになっており、ばら売りはしていない点です。
今日はこの調子で行くと、とても食事の開始に間に合う時間に職場のコネチカットからマンハッタンに戻るのは無理だし、
大体、着ているものがカジュアルすぎて、こんな格好でノイエ・ギャラリーに行くのははばかられます。
だけれども、明日は6時半から一時間、メトで『ボリス・ゴドゥノフ』のレクチャーがあるではありませんか、、。
Madokakip、人生最大のピンチ!
しかし、こういう時は無駄に考えることに時間を費やせず、交渉をするに限ります。
というわけで、早速ノイエ・ギャラリーに電話。

”キャバレー・アット・カフェ・サバルスキー”は、ラセットだけでなく、
色々な内外のボーカリスト、インストメンタリストを招き、
1890~1930年代のドイツおよびオーストリアの音楽を紹介する企画なのですが、
その担当でいらっしゃるリアさんはとても親切で、
仕事で(さすがにメトのレクチャーとバッティングして、とはいえなかった、、、。)
一時間ほど遅刻しそうなので、料金はもちろん食事分も支払いますが、明日のリサイタルだけ参加することはできないでしょうか?というと、
食事も配膳するペースを工夫すれば何とかお召し上がりになれると思いますよ、と言って融通をつけてくださいました。
”ただ、相席にはなるかもしれませんが、、。”とおっしゃるので、そんなことはノー問題!
椅子に座れなくても、そこに居れるだけで、私は満足です!という気分でした。

当日、『ボリス』のレクチャーが終わると、速攻でキャブをつかまえ、セントラル・パークを渡ってイースト・サイドに移動。
ほどなく、5番街の86丁目にある、ノイエ・ギャラリーに到着しました。



順序が後回しになってしまいましたが、ノイエ・ギャラリーについて簡単に説明しておきますと、
周りにあるメトロポリタン美術館やグッゲンハイム美術館の影に入ってしまって、やや知名度が低い感じもしますが、
20世紀のオーストリアおよびドイツ美術のコレクションに特化した小さめの規模の美術館で、
特にクリムトやシーレ、バウハウスの作品に魅力的なものがあり、
1914年築の、かつてヴァンダービルト家によって所有された邸宅の中にコレクションが展示されています。
コレクションは、アート・ディーラーのサバルスキー(カフェの名前は彼からとられた)の力を得て、
ロナルド・ローダー(化粧品メーカー、エスティ・ローダー創始者の息子にあたる)が収集した、
個人のコレクションがべースになっています。

カフェ・サバルスキーはこのギャラリーの中にあって、シェフはクルト・グーテンブルナー。
キャバレーの企画には60人収容可とありますが、
今回、実際に食事をしていたオーディエンスの人数はもう少し少なかったのではないかと思われ、
それでも、かなりスペース一杯にテーブルがしつらえられていました。

ここのカフェのスタッフは非常に良く教育が行き届いていて、
私が遅刻して現れた際も、非常に感じの良いエスコートで、しかもびっくりしたのは、
当然相席だろうと思っていたのに、私専用の一人テーブルが、
ラセットが立って歌うであろう位置の、真正面にしつらえられていた点です。
電話でリアさんに私がラセットの猛烈なファンであることを滔々と訴えたために気を利かせて下さったのか?

猛烈な腹空きモードで駆け込んだうえ、私はすでにメイン・ディッシュに手をつけている人もいる
他のオーディエンスたちに一気に追いつかねばならないので、
前菜、メイン、デザート、それぞれ二種の中から一種を選べるようになっている半プリ・フィックス・メニューから、
食べたいものを選び、それに赤ワインを注文すると、
”待ってました!”と言わんばかりに、すごい勢いで食べ物が出てきました。
食事は期待していたよりもおいしくて、非常に満足だったのですが、
ふとワインを飲みながら周りを見回してみると、
皆さん、ご夫婦、家族、カップル同士(男女、男男の組み合わせ両方。
)でいらっしゃっていて、
一人で来て食事している人など、他に誰もいない、、、、?
と思ったら、少し離れた斜めのテーブルに、猛烈にめかしこんだ老人男性が一人で座っていました。
テーブルにはもう一つ、食器がセットされているのでですが、すでにその男性は一人で食事を始めていて、
”あらら。一時間立ってもお連れ合いが現れないなんて、ブッチされたのかしら?
でも大丈夫。私も一人ですから。”と、
目が合った瞬間に軽くスマイルしてみたら、”わしはお前のような一人もんとはわけが違うのだ!”と、思いっきりシカトされました。
んまっ!何なの、このおやじ!!
まさか、私があんたみたいな爺をナンパしようとしてるなんて、勘違いしたんじゃないでしょうね!
あたしにも好みってものがあるざんす!!と、頭から蒸気を出しながら、デザートの菓子にフォークを突き刺した丁度その時、
肩から大きなバックをかけて、いかにも仕事からかけつけた、という様子の、
長身で、なかなか素敵なやや年配の女性がカフェの入り口に現れました。
すると、あの勘違い甚だしいじじいが、鼻の下をのばしながらテーブルから立ち上がり、
女性の両手を握りしめ、”ごめんなさいね。本当に遅くなってしまって、、。”と平謝り状態の女性を、
”何を、何を。全然待ってないさ。”と、彼女をエスコートしようとするウェイターを押しのけて椅子に座らせるのでした。
この雰囲気はどう見ても夫婦じゃないから、老いらくの恋だな、、と思いつつ、
まあ、しかし、こんな素敵な彼女がいたら、
わしを独り者扱いするな!ときれる爺の気持ちもわからないではないか、と納得しました。
しかし、これで、今や、オフィシャルに私が現在カフェで唯一の一人客、、、。
オペラハウスでは一人客など、掃いて捨てるほどいますが、
さすがに食事がついてくるとなると、一人で来る人はいないんだな、、、と今更実感。
ラセットが出演するというので、自動的にオペラと同じモードになってしまっていた私、ぬかりました。



ゆっくり(私は1時間しかなかったので普通のスピードでしたが)時間をかけて食事し、
食事相手(そして、それは私にはいませんでしたが、、)と楽しく語らっていると、2時間は丁度良い時間で、
やがて、カフェのスタッフから紹介があって、ラセットとピアノを担当するクレッグ・テリーがカフェに現れました。
ラセットの紹介によると、テリーはLOC(リリック・オペラ・オブ・シカゴ)のピアニストもつとめているそうです。

昨シーズンのメトの『三部作』でソプラノ三役を歌うタイミングと合わせて
ニューヨーク・タイムズに掲載されたラセットへのインタビューによると、
彼女はニュー・ハンプシャーのブルー・カラーの家庭の出身。
ずっとジャズ歌手になることが希望で、北テキサス大に入学したのもジャズを勉強するためだったそうで、
大学の先生たちが彼女をオペラ歌手になるようにすすめ始めた時は、かなりへこんだそうです。
そんな彼女がオペラに目覚め、その道を進む決心をするきっかけになったのは、
レナータ・スコットが歌った『修道女アンジェリカ』を聴いた時で、
その後、彼女がほとんど毎年メトでキャスティングされるソプラノとなったのは、皆様もご存知の通りです。
(新シーズンは『イル・トロヴァトーレ』のレオノーラ役で登場します。今回のキャバレー・リサイタルは、
その『イル・トロヴァトーレ』のリハーサルの開始時期にひっかけたもののようです。)
しかし、彼女は同じインタビューで”この先、キャバレー・ソングを歌うキャリアが開け、
自分の心に訴える曲のみを集めてテーラーしたプログラムを歌えればいいな、と思っています。
オペラ歌手という職業は、もちろん愛していますが、
どこかに、オペラの世界には完全にはまれない自分もいて、
キャバレー・ソングはルーツともいうべき場所に私を引き戻してくれます。”と語っています。

ということで、この彼女の言葉を元にすれば、彼女のルーツであり、
本来彼女が歌いたいジャンルに最も近いレパートリーの曲を披露してくれるのが今日のイベントと言えます。
先に”キャバレー・アット・カフェ・サバルスキー”は、
ドイツ/オーストリアのキャバレー・ピースを紹介する場、と書きましたが、
今回のラセットが歌うプログラムに関しては、
”ドイツ/オーストリアのキャバレー・ソングのカウンターパートとも言うべきアメリカやフランスの歌を紹介します。”と説明されており、
つまり、ジャズ・シンガーによってもしばしば取り上げられる
アメリカ人の作曲家によるスタンダード・ピースや、
シャンソン・ピースを歌ってくれるということであり、
彼女が歌いたいと公言しているジャンルそのもの、と言い切ってもいいかもしれません。



キャパは60人弱と書きましたが、かなり一杯一杯にテーブルが設定されているため、
カフェの面積は決して大きくありません。(上の写真を参照。)
ラセットがもう目の前にいて、一人一人の聴衆とアイ・コンタクトを取りながら歌えるような場所ですし、
マイクも使用していますから、メトのオペラハウスのような場所で歌うのとは全く条件が違います。

彼女の声はメトでも決して小さいと感じたことがなく、それも、蝶々夫人のようなドラマティックな役でそうなのですから、
こんな小さな会場で、マイクを使って歌ったら、こちらの鼓膜が破れるのではないか、と心配です。
実際、歌い始めて感じたのは、やっぱり彼女の声量はすごい、ということ。
もともとの声量もそうなんでしょうが、それよりも、彼女はおそらくオペラを歌うことを通して、
無駄に息を使わず、全てを音に転化する技法が身に染み付いてしまっているので、
ジャズ・シンガーがしばしば曲によって披露する、力を抜いたけだるい歌唱というものとは、かなり異質な歌唱です。
それから、オペラを歌っている時とは、歌い方が異なっているために、
オペラで聴いて慣れている彼女の声の音色とは、少し違うトナリティが入るのは興味深いです。
オペラでの彼女よりも、キャバレー・ソングでのほうが、よりコケティッシュな味わいはあると思います。
ただ、この声量と声の音色の違いを加味すると、やはり、私は彼女の声のクオリティとしては、
オペラの世界に彼女をプッシュした大学の先生の判断が正しかったと思います。
せっかくのこの声量、それからオペラ的発声をした時にだけ出てくる彼女の魅力的なピュアなサウンドというのは、
ジャズのレパートリーの範疇では、ほとんど無用の長物、宝の持ち腐れとなっています。

彼女がいかにオペラで優れた歌唱を披露するかということを私が知らなかったとして、
こういったノン・オペラティックなジャンルの曲を歌う彼女を聴いて、
すぐに彼女を特別なジャズ、もしくはスタンダード、もしくはキャバレー歌手として認識するだろうか、
と自問しながら聴いていたのですが、Yesと即答しにくい部分もあります。
ジャズ・シンガー、キャバレー・シンガー、呼び名は何でもいいですが、
マイクを通して歌を聴かせる歌手として、声の面だけの話をすれば、
彼女は特に傑出した音色を持っているわけではないと思います。
NYのヘッズの中には、オペラにおける彼女ですら、
決して声に特別恵まれているわけではない、という意見を言う人があって、
それと繋がる部分もあるのかもしれません。

しかし、オペラでの彼女と同様に、歌に語るべきストーリーや観客に伝えたい強烈なエモーションがあると、
突然、見違えるようなパワーと繊細な声のカラーによる表現力を発揮するのが彼女です。
それは例えば、ボイドの詞とグランドの曲による、”Guess Who I Saw Today"のようなナンバーに顕著です。
この曲はナンシー・ウィルソンらも取り上げている、ジャズのスタンダード・ナンバーと言ってもよい作品ですが、
もともとは、『ニュー・フェイセズ・オブ・1952』というブロードウェイのミュージカル・レビューに含まれていた曲です。

夫が他の女性に心を移しているのをなんとなく感じ取っている女性が
気晴らしに街に買い物に出かけた帰りに立ち寄ったお洒落なカフェで、見るからにラブラブな男女を見かける。
自分と夫の関係と比べて、如何に相違のあることか、、と思ってよく見てみれば、
その男性は他の誰でもない、自分の夫だった。
相手の女性しか目に入らず、ショックで彼のすぐ横を通ってカフェを飛び出した女性が
自分の妻であることにすら気づかない夫、、。
いつも通り帰宅が遅かった夫に、このいきさつを語りで再現しながら、
最後に”今日誰に会ったと思う?(Guess who I saw today?)"と問いかけるそのプロセス自体が歌詞になっています。

淡々と語るように歌い始めたラセットは、なんと、彼女からスペースをはさんで真正面に座っているこの私を、
”夫”と設定したようで、
”Guess who I saw today?”という歌詞の後、次のフレーズに入るまでに息づまるような間を取りながら、
主人公の女性が男性が自分の夫であると気づく瞬間を再現するために、
首をほんの少し横にかしげながら、まさに虚と形容したくなるような視線を
私にじっと向けた時は、この歌の主人公の女性の胸の痛みを、
そのまま感じて、私は金縛りに合うような思いでした。
そして、その後、そっと突き放すように歌った”I saw you."(あなたよ。)というフレーズのニュアンスの素晴らしさ!
彼女が一人で帰宅して、夫が帰って来るまで悶々としながら、
自分の知らない女性と夫がいかに愛し合っているかということの認識と、
自分と夫はすでにとっくに終わっていたのだ、という諦観に彼女が至り、
そこには最早怒りすら存在していないという、
歌詞の中ではっきりと内容が語られているわけではない部分の経過すら見えてくる歌唱で、
こういうところが、彼女のすごいところだなあ、と思うのです。

今夜のプログラムは書面はおろか、口頭でもはっきりした曲名の紹介がないものがほとんどで、
(だから、歌われた曲名の全部はわかりません。)
各曲の前に、曲の内容と関連したおしゃべりが少しあって、すぐに曲になだれこんで行くという、
まさにジャズ・クラブ的な運びになっているのですが、
ラセットは非常に話術が巧みなので、このあたりはお手のものです。

彼女のウィットに富んだ個性がとても良く出たのは、『マッド・ショウ』というオフ・ブロードウェイのレビューからの、
ロジャースとソンドハイムのペアによる曲、
”The Boy From Tacarembo La Tumbe Del Fuego Santa Malipas Zatatecas La Junta del Sol y Cruz”。
この曲は、Tacarembo La Tumbe Del Fuego Santa Malipas Zatatecas La Junta del Sol y Cruzという、
ものすごく長い名前の(架空の)村からやってきたラテン・ボーイに入れあげているギャルの歌で、
たどたどしいスペイン語で、長々と村の名前を読み上げる箇所が何度も出てきて笑いを誘います。
しかも、歌詞から、ラテン・ボーイがゲイであることをほのめかす様子がたくさん描写されているのに、
このギャルが全く気づいていなくて、彼に相変わらずぞっこん!という、そのずれぶりがまたおかしいのです。
また、ラセット自身がホモセクシャルである(彼女自身がオペラ・ニュースなどで公言しているのは、
以前どこかの記事で書いた通りです。)ことを知っていると、さらににやっとさせられる粋な選曲です。
彼女はメトでは本当に色々な役を歌って来ましたが、その中に『道化師』のネッダ役もあって、
公演を観たときには、劇中劇における笑いのタイミングの良さにも感心させられましたが、
(劇中劇のみでなく、カニオとの対決シーンのすさまじかったことは言わずもがな。)
今日のこの歌で、あらゆる声色・演技を駆使して、客を爆笑させる彼女を観ていると、
コメディックな役柄もお手の物だということがよくわかります。

他に取り上げられたナンバーで面白かったのは、彼女の当たり役の一つが蝶々さんであることにひっかけて歌われた、
”かわいそうなバタフライ”というハッベル作曲による作品で、まさに『蝶々夫人』のダイジェストのような曲なんですが、
(ただし、プッチーニの旋律を感じさせるものは全くありません。)
こんな曲が存在しているとは知りませんでした。
ただ、当然とも言えますが、作品としては、全幕の蝶々さんでの彼女の素晴らしさに対等するようなものを
彼女から引き出すものではありません。

意外なことに、私が最も今夜感銘を受けたのは、スタンダードもスタンダードの、
エディット・ピアフの代表曲として誰もが知っている”ラ・ヴィ・アン・ローズ”です。
私は実はこの曲が大の苦手でして、あのこてこてのさび、
それを高らかに歌い上げる歌手(それがピアフであっても、、)の歌声を聴いていると、
ぞわぞわぞわ、、と一気に鳥肌が立ってくるのですが、
今日のラセットの解釈によるこの曲は素晴らしくて、歌う人によってはすごくいい曲なんだな、と初めて思いました。
彼女はこの曲のさびでは、がんがんとオペラで訓練された喉でもって押しまくることも出来たでしょうが、
それをせずに、繊細に歌い上げていました。
また、さびの、高音に連続して駆け上っていく丁度その場所に、
彼女の声区が変わる部分があたるようなキーで歌っていて、
声区の切れ目の扱いが下手な歌手に当たると目も当てられないのですが、
彼女はこれを非常に巧みに利用していて、すごく色気のあるカラーを生んでいました。

はっきりと曲名がわかったものは下にあるものだけなんですが、
彼女のノイエ・ギャラリーとのインタビューによると、他に、
ハロルド・アーレン、アーヴィング・ベルリン(What'll I Doではなかったかな、と思うのですが、確信が持てません。)、
ロジャース&ハートのコンビによる曲などが取り上げられていたそうです。


The Boy From Tacarembo La Tumbe Del Fuego Santa Malipas Zatatecas La Junta del Sol y Cruz (Mary Rodgers / Stephen Sondheim)
Mon Dieu (Michel Vaucaire / Charles Dumont)
La Vie en Rose (Edith Piaf / Louis Gugliemi)
Guess Who I Saw Today (Elisse Boyd / Murray Grand)
Poor Butterfly (John Golden / Raymond Hubbell)

Cabaret at Café Sabarsky
Patricia Racette, Soprano
Craig Terry, Piano

Neue Galerie

*** Cabaret at Café Sabarsky with Patricia Racette キャバレー・アット・カフェ・サバルスキー パトリシア・ラセット ***

MetTalks: BORIS GODUNOV

2010-10-01 | メト レクチャー・シリーズ
新シーズンの開始直前に催された”レヴァインとの対話”に向かおうとアパートのドアを開けると、
ちょうど、階段をかけ上がってきた例の店子友達と鉢合わせになりました。
彼はアパートの住人を捕獲するとノン・ストップで話し続け、かつ、さらに声が大きいので、
最近も、廊下から聞こえてくる彼と他の住人の会話が、私の部屋から丸聞こえ、というケースが多々あったのですが、
お互いに生活サイクルが違うと、実際に顔を合わせる機会というのは、同じアパートに住んでいてもそうはないもので、
”おお!久しぶり!!元気だった?”と尋ねると、
”忙しいよ!今は毎日ボリスのリハーサル!”と言います。
なんと、今度は『ボリス・ゴドゥノフ』に登場するのね!
『ボリス』については、演出家の交代劇もあったし、彼に尋ねたいことは山ほどあります。
なので、”ボリス、大変だね。演出家も変わっちゃったし、、。ワズワースはどう?”と聞くと、
”いまいちだね。”
それは大変だ!と思い、”どうして?演出の引継ぎが上手く行ってないの?それともパペとのそりが合わないの?”と言うと、
”ううん、彼は僕の才能の生かし方を全くわかってなくってさ、、。”

、、、、、、。

そもそも、歌のない黙役で、彼が”自分の才能が生かされていない”と感じるほど目立った役がボリスにあるのかどうかも疑問ですが、
それにしても、黙役であろうと、主役のパペとあくまで同じ地平で自らを語ろうとする我が店子友達のその心意気や良し!!
しかし、あんな間際にシュタインからバトンを受けて、エキストラの個性まで見てる時間はさすがにないわな、、と、
ちょっぴりワズワースにも同情してしまう私でした。
”それは嘆かわしいことだわね、、。”と言いながら、ふと時計を見ると、あと15分でレヴァインのイベントが始まってしまう!
”今日はこれからレヴァインと会話してこなきゃいけないから!”と伝え、その日は”じゃ、またね!”ということになりました。

今シーズン二回目にあたるMetTalksシリーズは、その『ボリス・ゴドゥノフ』がテーマで、
前回の『ラインの黄金』の回ではブリン・ターフェルが登場してくれたので、
今回はもしかして、パペも?と期待満々のオーディエンスです。

オーディエンスの中にはすでに新演出の『ラインの黄金』を鑑賞した人も多く、
座談会開始までの待ち時間、周りはその話で持ちきりで、
私のすぐ横で立ち話をしていた初老の男性4人のグループの間では、
しまいに初日の公演の翌日に出たニューヨーク・タイムズの評にまで話が及び、
トマシーニ氏の公演評は、”あんなくそみたいな文章は批評と呼ばない!”とか、
”第一行目から論理性に全く欠けとる。”とか、ぼろくそ言われてました。
トマシーニ氏の評が、こんな感じで、すでにNYのヘッドの間では権威失墜しまくっているのは事実なんですが、
それにしてもヘッズとは何と凶暴な生き物、、こわ!と思っているうちに、
メトのアーティスティック部門のトップをつとめるビリングハースト女史が、
演出のスティーヴン・ワズワース、セットのデザインを担当したフェルディナンド・ヴォーゲルバウアー、
そして、指揮のゲルギエフを連れて壇上に登場しました。残念ながらパペは参加しないようです。

また、ゲルギエフは30分後にキャストとオケとの音合わせがあって、途中で抜けなければなりません、との説明がありました。
相変わらず、ぎちぎちのスケジュールで動き回るゲルギエフ!

以下は、いつもと同様、各人の発言の意訳を再構築したものです。
SBはビリングハースト女史、SWはワズワース、VGはゲルギエフ。
ヴォーゲルバウアーはとてもシャイな人で、ほとんど一言も発しなかったので、略記号はなし。
(でも、終始にこにこと、暖かい雰囲気をふりまく、癒し系の方でした。)

SB: 
今シーズン新演出を迎える『ボリス・ゴドゥノフ』は、皆さんご存知の通り、
演出がペーター・シュタイン氏からスティーブン・ワズワース氏に直前で変更になるというアクシデントがありました。
ワズワース氏が演出代役のオファーを受けたのは、キャストとのリハーサルが始まるたった6週間前のことでした。
『ボリス』は、メトではあまり上演回数が多くない演目ですが、
マリインスキーでは最もよく上演される演目の一つであり、短かったムソルグスキーの人生の中でも、
彼の若かった頃の作品で、書きあがってから2年後に日の目を見るようになりました。
(注:この作品は作曲プロセスの経緯が複雑なので、2年後という数字は、一つの見方でしかありません。)、
『ホヴァンシチナ』と並び、ムソルグスキーがいかに優れた作曲家であったかということがわかる作品でもあります。

VG:
この作品には色々な版がありますが、今回の公演ではポーリッシュ・アクト(ポーランドの幕)を含めることにより、
より幅の広い背景を提示し、同時に、マリーナとドミトリー(グリゴリー)の役に奥行きを与えています。
(注:今回のメトの公演は1875年版をベースに、一部1869年版を採用した折衷版です。
この1875年という数字は、実際の公演のプレイビルにそのように書かれており、1872年のタイポではありません。)
また、政治的側面が大きいこの物語に、ロマンス的要素を加える働きもあります。
私の考えでは1869年の原典版は、ある意味では現代向きとも言えるのかもしれませんが、
まるで最近の映画のように、要点だけを手早く述べるような感じがするのが少し物足りない点でもあります。

SW:
演出的には、プロローグの合唱をはじめとするコロス的要素と、
ある人間(ボリス)が、ツァーリに選ばれ、戴冠され、そこから死に至るまでの道のり、
この二つを両方きちんと描きたいと思っています。

SB:
今回の公演はボリス役のパペを除いた主だったキャストは全てロシア人キャスト、
それも素晴らしい歌手ばかりで、上演時間は4時間に及ぶ大作ですが、聴き応えのあるものになっていますね。
ところで、ワズワースさんにもう少し、今回の交代劇のいきさつをお伺いしたいのですが。

SW:
7月の中旬に、ゲルブ支配人から電話で依頼がありました。5週間後
(注:さっきは6週間後とビリングハースト女史が言ってましたが、、。)に始まるリハーサルに間に合わせてくれ、と。
そこで私がお返事に24時間頂いていいでしょうか?と尋ねると、
ゲルブ支配人は、率直に言って、24時間も差し上げられない、
1時間したらかけなおしますので、そこで返事を頂きたい、と言われました。
普通、オペラの演出というのは、構想とそれを形にするのに、最低2年は必要とします。
それを二ヶ月と少しで遂行してくれ、というのですから、それは躊躇もします。
しかし、今回の場合、私が『ボリス』の物語に個人的に魅かれていたこともあって、
35~40年にわたって良く作品を知り、すでに物語の内容がきちんと消化されて自分の中にある、というそれなりの自信はありました。
結局オファーを受けることにし、その週があけた月曜にはヨーロッパに飛び、
火曜日にはフランクフルトでルネ(・パペ)やヴァレリー(ゲルギエフ)と夕食を取り、
翌日には別の場所に発たなければいけないヴァレリーの、飛行場に向かう車に同乗し、
打ち合わせを続けるという、
なかなかに楽しい時間をすごしました。(横でにやにやするゲルギエフ)
もちろん、ペーター(・シュタイン)によるセットや演出案はほとんど出来上がっていましたので、
それも短期間で、居残ってくれたフェルディナンド(・ヴォーゲルバウアー)をはじめとするスタッフにサマライズしてもらいました。

SW:
ところで、先ほどの話とも少し関連しますが、この作品には多数の違った版がありますね。
原典版を含むムソルグスキーの手による版、それから、リムスキー=コルサコフ版、
シンフォニックな感じがより強いショスタコーヴィチ版もあります。

VG:
それぞれどの版も長所短所がありますが、ムソルグスキーの書いたオリジナル(注:原典版という意味ではなく、
作曲家本人が意図したもの、という意味)に回帰すべき時ではないかな、と私は思っています。
ムソルグスキーは素晴らしい作曲家であり、彼が作曲した管弦楽曲などからもわかる通り、
オーケストレーションにも優れた腕をもっています。
ただし、オーケストレーションに関しては、『ボリス』でその手腕が十全に発揮できているかというと、
そうでもない部分もあって、それが、他の作曲家による版を生ませた原因の一つでもあります。
しかし、彼の音楽・オーケストレーションが持つ、
ロシアらしさ、ロシア的大きさ(注:hugeと言う言葉が使われていました。)は彼独自のものであり、
色づけという面では、リムスキー=コルサコフやショスタコーヴィチに一歩譲るかもしれませんが、
心理的な深さをそこに感じます。
言ってみれば、彼ら2人が24色の色を使って表現する代わりに、
ムソルグスキーは一つの色の濃淡で物語を描ききっているような、そういう印象を持ちます。
ロシア的、と一言で言うのは簡単ですが、プロコフィエフもチャイコフスキーもいずれロシア的でありながら、
彼らの音楽が全く違うものであることは、我々も良く知るとおりです。
私に言わせれば、”ロシア的サウンド”には10くらいの違った種類があります。

SB:
マリインスキーではどの版を使っていますか?

VG:
ムソルグスキーが書いた版を使用しています。
面白いのは、若い頃、ムソルグスキーがあまり上手く書かなかったな、と感じたところに限って、
今では演奏するのが楽しい箇所になっている点です。

SB:
オーケストラについてはどのようにお感じになられましたか?

VG:
メトのオケとマリインスキーのそれは、あの生き物は何と言うんでしたっけ、、えっと、、
そう、カメレオン! ”カメレオン的”なキャラクターを持っているという点で共通しています。
それは、両方のオペラハウスとも、上演の組み方のせいで、
今日はイタリアもの、明日はドイツ、次はロシア、、というように、
レパートリーの切り替えが頻繁に求められるせいです。
カメレオン的でない、つまり切り替えが即座に出来ないようでは、問題です。
例えば、先シーズン指揮した『鼻』は非常に演奏するのが難しいスコアですが、オーケストラは巧みにこなしました。
『ボリス』に限って言うと、今は歌手をサポートすることに、より焦点を置いています。

SB:
今回はルネ以外は主だった役はオール・ロシアン・キャストで、
脇の小さな役にも、ロシア語を自由に操れるロシア系アメリカ人歌手が入っていますね。

VG:
アントネンコはラトヴィアの出身ですね。
ルネはドレスデン育ちですが、当時のドレスデンは東ドイツの一部であったこともあり、
学校でロシア語を習った時期もあったそうで、彼はロシア語を非常に上手く歌っています。
ルネとは6年前、メトの『パルジファル』でも共演しました。
また、多くがロシア人キャストとはいえ、マリインスキーのメンバーの中にも、
今回歌う役が初役だ、という人もいます。
例えば、マリーナ役を歌うエカテリーナ・セメンチャクは素晴らしい歌手ですが、マリーナは初役です。
また、ランゴーニ役を歌う(エフゲニ・)ニキーチンは、ボリス役と『ラインの黄金』のヴォータン役のカバーも兼任しています。
彼も素晴らしい歌手ですから、メトは『ラインの黄金』で緊急事態が起こっても(注:ブリンが歌えなくなっても、の意)、
安泰ですので、ご安心を!!(笑)
(と、そこで、いきなりつーっと後ろのスクリーンが上がるのを見て)
あ、これ、僕のためだね。
(と言って、皆に手を振りつつそのスクリーンの隙間からリハーサルに向かって別のフロアに走って行くゲルギエフに、オーディエンスから拍手。)


(『ボリス』リハーサル中のワズワースとキャスト)

SB:
(ワズワースに)あなたは一番初めのキャストとのリハーサルで、5分ものスピーチを
全てロシア語で行って、キャストを驚かせたそうですね。

SW:
テキストをより深く理解するためには、ロシアの言語はもちろんですが、
ロシアらしさ、ロシアの流儀というものを理解する必要があります。
私の今のロシア語の能力では、せいぜい、”Yes"、”No"、”ありがとう”、”お疲れさま”、”あのテノールをくびにして”(笑)
くらいのことしか言えませんが、このスピーチにあたっては、ロシア語のコーチにつきっきりで教えてもらい、
自分の考えがよく伝わるようにしたつもりです。
スピーチが終わった時に、ロシア人のキャストの1人に”ご両親はロシア人ですか?”と聞かれました(笑)

SB:
シュタイン氏から演出を引継がれましたが、この点について少しお話し願えますか?

SW:
引継ぎでシュタイン氏のアイディアを見た時、まず思ったのは、あまりに多くの場面の変更があり過ぎるということでした。
私は1957年頃、幼少だった時期からメトでオペラを見ていますが、
当時の公演で印象深かったのは、シーンに切れ目がなく、物理的な動きに連続性がきちんとある点で、
それは今でも守るべきことではないかと思っています。
ですので、最初の課題は、いかにいくつかの場面転換を削るか、という点でした。
私は歌手と一緒に働くのと同じ位、デザイナーと仕事をするステップが好きで、
今回もフェルディナンドをはじめとするスタッフと腹を割って話ができたのは大きな収穫でした。
本来2年かかるところを、リハーサルの始まるまでの5週間で詰め込もうというのですから、
それはもうお互いに弾丸のようにアイディアを出し合いましたよ。
メトの大道具のスタッフには”ええ?また新しいアイディアかよ!”と思われていたかもしれませんが(笑)
フェルディナンドをはじめとするデザイナーとは、再度マテリアルを集め、再構築するプロセスも経験しました。
私達2人は演出におけるスタイル、考え方には違いがあるかもしれませんが、
それを越えて、同じビジョンを見れたのは幸いです。
(うんうん、と癒し度100%で横でうなずくフェルディナンド。)

SB:
この作品は合唱の存在が非常に大きいですね。

SW:
そう、演目名が『ボリスとコーラス』とか『コーラス・グドゥノフ』
(注:ラの音にイントネーションを置いて、ボリスと韻を踏むように発音したワズワース製おやじギャグ)
でもいいくらいですね。
戴冠のシーンの前に民衆が”クレムリンに行かなきゃならないんですか?”と歌う場面がありますが、
民衆が感じている皮肉的な気分が良く出ていると思います。
決して新しいものに心底賛成しているわけではないのに、旧体制にあまりにうんざりしているので、
それを受け入れるしかない、という、、。常に歴史は繰り返しますね。
ボリスに関していうと、彼は別に誰に暗殺されるわけでもない。
5年、6年、7年と時間が経っていくうちに、罪を感じる自分の良心によって消耗し、引き裂かれていくだけです。
この間の時間を埋めるのはグリゴリーで、彼が修道院を出て、ポーランドに赴き、
ボリスを引きずりおろすに必要なパワーをかき集め、それを実行に移す姿が描かれます。
その点から、この演目には、非常に多層的な側面があると思います。
マリーナは1869年の原典版には登場せず、1872年のいわゆる改訂版から登場するようになった人物ですが、
主要人物に全く女性がいないという問題を解消するために足されたプリマ・ドンナ的存在のキャラクターです。
プーシキンが原作の戯曲を書いた1820年代後半から1830年代前半というのは、
そもそも、オペラで王室や貴族の実在の人物をこのようなある種ネガティブな形で取り扱うものは、
まだご法度な時代でもありました。
そして、もう1人、ポーランドの幕に登場するランゴーニ。
彼はこの物語に、カトリックの要素を加えると同時に、非常に政治的な人物でもあります。
グリゴリー、マリーナ、ランゴーニ、この三人がお互いを利用し合っているわけです。

SB:
物語を現代に移そう、というアイディアはありましたか?

SW:
いいえ。
ムソルグスキーはこの作品で、ロシアがヨーロッパに組み込まれていく時期の闇を描こうとしたと私は考えており、
その点で、例えば同じロシア人であるチャイコフスキーと比べても、全く違うタイプの作曲家だと思います。
ですので、作品の時代背景から演出を切り離すわけにはいかないと感じます。
そういうこともあって、衣装の方も、デザインは出来るだけ当時のロシアの雰囲気を生かし、
そこに若干、ファンシーさを加えたものになっています。
シュタインから引継いだメモに、”必ずしも動きを制限せずに、本質的な動きに達すること
(to get to essential action not to neccesarily take out the actions)を目指したい”という一文がありました。
大事なのは役を演じる人間を中心に置き、スペースの使い方を極限にまで煮詰めることにです。

SB:
これだけ大人数のキャスト、合唱、またダンサーたちと働いての印象は?

SW:
いつも大きい声で喋らなければならない、ということかな?(笑)
合唱のダイナミックさには、リハーサル中からも涙が出そうになりました。
私はオペラの公演を相当な数見ていますし、滅多に泣かない。その私が、です。
今回のプロセスでは合唱というかたまりでなく、一人一人がアーティストとして優れた自覚をもっている
メトの団員が相手ということもあり、より深く個別の人物のパーソナリティをも表現することが出来たと思います。
この作品は登場人物に強烈な個性の人物が多く、まさに狂気の沙汰と思える箇所もありますが、
その狂気の沙汰(madness)の中に、真実を貫くものがある、それがこの作品の素晴らしいところです。
聖愚者の最後の言葉とも重なりますが、”あわれなロシアよ、いつか元の姿に戻ることがあるのだろうか?”
これこそ、ムソルグスキーの問いかけたかったことではないかと思います。
ロシアの音楽作品には色々な要素が取り込まれていて、ある意味では非常に洗練されていると思いますが、
フランスの作品と違うのは、そこにどこか、粗さ、生々しさがある点ですね。

と、ついに、デザイナーのフェルディナンドが一言。
FW:チャイコフスキーとは違い、ムソルグスキーの音楽はお腹から来る感じですね。
力強さ、それから奇天烈さ、のバランスを上手く保つのが難しい。

SW: 私にとってははじめて手がけたロシア・オペラですが、
この作品はこれからも長い間、興味を持って取り組めそうです。
他の作品なんかに手を回してる時間はないくらいです!(笑)
プーシキンの戯曲の『ボリス』は、もっとストーリーがパノラミックなのに対し、
ムソルグスキーはボリスという人物にフォーカスしたかったのだと思います。 
原典版は、今回使用している版よりも、さらに余計な肉がなく、
ムソルグスキー自身、本来はストーリーとして、ボリスの葛藤を軸にした、非常にタイトなものにしたかったのだと思いますが、
ただ、出来上がったのがちょうどワーグナーの『指輪』やトルストイの『戦争と平和』と同じ時期だったこともあり、
もう少し肉付きを厚くする必要を感じたのかもしれません。

最後にオーディエンスから質問。
Q: 先ほどスペースを煮詰める、という話がありましたが?

SW:
具体的にはたとえば大きな人数を狭い空間に集めると、ドラマ度がぐっとアップする、とか、
人間の知覚の錯覚を利用した一種のテクニックなのですが、一例ですね。

(最初の写真は新演出の中で非常に印象的なプロップとしてパペがモノローグでも利用するロシアの大地図。)

MetTalks Boris Godunov Panel Discussion

Stephen Wadsworth
Ferdinand Wögerbauer
Sarah Billinghurst

Metropolitan Opera House

*** MetTalks Boris Godunov ボリス・ゴドゥノフ ***