この記事を書いているのは情けなくも、11月半ば過ぎ。
シーズン初日、10/29の『ドン・パスクワーレ』の公演から20日くらい経ってしまいました。
その間にはHDの収録日の公演が11/13にあって、
私もオペラハウスで生鑑賞して来ましたが、そのHDの公演が、本当に本当に、素晴らしかったです。
作品そのものの優劣、好き嫌いを抜きにすれば、
オペラを観るということの楽しさ、キャスト全員が最高の力を出し切った時に生まれるスリル、
それから観客と舞台の一体感を捕らえた、という点で、今までのHDの中でトップを争う内容になったのではないでしょうか?
『ドン・パスクワーレ』という作品自体は、私個人的には特にリブレットが強力なわけでも(筋自体は他愛のない話!)、
抱腹絶倒なわけでもなく、リブレットだけでもっと笑える作品は他にあると思っていますし、
それに、音楽の面でも、ベル・カント系の他の喜劇、いや、ドニゼッティのそれだけに限っても、
たとえば『愛の妙薬』とか以前HDに乗ったことのある『連隊の娘』とか、
超必殺アリアが含まれている(”人知れぬ涙”にメザミ、、、)作品に比べると、
そこまで有名なアリアがないのが、この『ドン・パスクワーレ』という作品です。
言い換えれば、舞台に立っている歌手の力が非力だと目も当てられない。
ところが、そんな不安は『ドン・パスクワーレ』のHDに関しては不要です!
ネトレプコ、ポレンザーニ、クヴィエーチェン、デル・カルロの4人全てが、
持っている最高の力を出してくれましたから。
HDの企画が始まって以来、収録日にランのベストの公演、また、各人のベストの歌唱が当たる、ということが、
簡単そうに見えて、実は全くそうではない、ということをいやほど目の当たりにして来ました。
このように4人全員が揃ってベストの歌唱を繰り広げるということは、非常に稀で、
ましてやそれがHDの収録日にあたる確率はさらにもっと低い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/22/d424d6da92ac7503ae3678a966907aad.jpg)
このHDを観れば、舞台に乗っている歌手の間にケミストリーがあるというのはどういうことなのか、
なぜネトレプコが天性の舞台勘を持っていると一部のヘッズに賞賛されるのか
(単なるスター性がある・ないといった問題ではなく、
まさに天性の舞台勘という言葉が適切であることが、このHDで判ると思います。
彼女については、歌も好調ですけれども、それ以外の部分で、驚くようなことを成し遂げているので、
詳しくは11/13の記事で書きたいと思います。)、
こういった喜劇作品で、舞台にいる歌手と観客が本当にコネクトするというのはどういうことなのか、
そういったことの答えがすべて、このHDの中にあります。
このシェンクのクラシックなプロダクション(初出は2006年なんですが、あまりにクラシックな雰囲気なので、
もっと昔から存在しているプロダクションだと思っている方が多いようです。)の中で、
自由に泳ぎまわる活き活きしたキャストと、
彼ら一人ひとりから放出されている、このプレッシャーに満ちた大きな場で、
最高の自分を出せているということを彼ら自身が自覚することによって生まれている喜び、
(インターミッションでのインタビュー中にポレンザーニが見せている幸せそうな表情を見よ!!です。
ちなみに、インタビュアーはスーザン・グラハム。
オペラハウスにいるお前がなぜHDの映像も観れるのか?本当にちゃんと公演に行ったのか?と訝しんでいる、
細かいことが気になる方のために一応説明しますと、オペラハウスの中に、HDと同じ映像を流しているモニターがいくつかあるのです。)
心配されながらも無事に登場したレヴァインへの観客の熱狂、
公演の内容、歌手の歌、演出を批判するためではなく、一緒に作品を楽しむためにそこにいる観客、、
こういったあらゆることがかみ合って、オペラの公演で楽しめるおよそ全てのポジティブな要素が、HDの中に詰め込まれています。
一言で言いますと、ライブ・イン・HDが始まりましたら、
ぜひ、出来るだけ多くの方に映画館に足を運んで頂きたい!!!!それに尽きます。
特に私は、ネトレプコの、ポレンザーニの、もしくはベル・カント系の喜劇全般の何が良いの?と
日ごろお感じになられている方にこそ、ぜひ鑑賞していただきたいな、と思っていて、
逆を言えば、このHDを観て、まだ彼らの良さ、ベル・カント系の喜劇を観る楽しさがわからない、という方は、
多分、一生、その良さをわかることはないんではないかと思います。
別にわからなくたって死ぬわけではないですから、それはそれで良いのですが、
それ位良い公演だ、ということなんです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/63/96b912d11deedce91f0cc0b5f73c69cb.jpg)
すっかりHDの日の公演の話でフィーバーしてしまって、
そのまま初日の公演の話に行く前に字数を使い切ってしまいそうな勢いですが、
初日に関する感想を始めるのに腰が重い理由の一つには、
そのHDの日の公演を観てしまったということがあって、あれが相手では、どんな公演も分が悪いのであって、
今更初日の公演についてネガティブなことを一つ二つ書いたせいで、
”あ、『ドン・パスクワーレ』のHD、いまいちなんだ。”と早とちりされる方がいたら、それは大きな不幸だ、とも思ったり、、。
しかし、すでに、HDがどれほどの飛躍であったか
(いや、あれは飛躍というようなものではなく、むしろマジックが起こった、と言った方がいいかもしれませんが)
ということは冒頭で十分説明させて頂いたので、
ここからは、できる限り、初日に鑑賞した時の気持ちを、まんま思い出し、その通りのことを書いてみたいと思います。
まず、シェンクの演出なんですが、先ほども書いた通り、とても保守的でクラシックなものなので、
遥か以前から存在しているかのような印象を多くの方に与えるかもしれませんが、
このプロダクションが初お目見えしたのは2005-6年シーズンのことで、今シーズンの公演はその時以来の上演になります。
2005-6年の公演は、ドン・パスクワーレ役がアライモ、エルネスト役がフローレスで、
残りの2人、ノリーナ役のネトレプコとマラテスタ役のクヴィエーチェンは今シーズンと同じ。
当時は丁度ネトレプコの人気がヨーロッパで爆発し始めた頃で、
その彼女とフローレスという組み合わせが話題を呼び、
まだBB(before blog=ブログ前)時代でしたので、残念ながらこのブログに感想は残っていないのですが、
私ももちろん鑑賞いたしまして、最初は1回だけの鑑賞のつもりが、あまりに面白かったので、2度観にいってしまいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/7d/2190305ba6300e2e2f73ed48d66fa1dd.jpg)
当時のネトレプコはまだほっそりしていて(すぐ上の写真のみ2005-6年シーズンの公演からで、
ドン・パスクワーレ役のアライモと。腕が細い!!)、声も今より全然軽かったものですから、
舞台をところ狭しと走り回りながら、でんぐり回りまで含めたアクロバティックな演技をしつつ、
楽々と高音を何度もかっ飛ばす様子は爽快でした。
それからフローレスの歌唱がスタイリッシュで美しかったことは言わずもがな、、。
この2人の歌唱だけでも、十分お釣りが来るほど楽しめたのですが、
それよりも、さらに私が気に入っていたのはアライモが歌い演じたドン・パスクワーレで、
彼の歌と演技のおかしいことと言ったら、やはり当時キャストの一人だったクヴィエーチェンが、
今年のシンガーズ・スタジオでも語っていた通り、”椅子から転げ落ちるくらい”大笑いしたものです。
”やはりイタリア人歌手はいいなあ。”と人が言う時、それは人によって、色んな意味を指し、
ヴェルディの作品とか、ベル・カントの作品を歌った時の、
イタリア人が持っている独特のスタイルについても確かに大いにあてはまるとは思うのですが、
それよりも何よりも、私の場合、個人的にイタリア人と非イタリア人歌手の間で大きなセンスの違いを感じるのは、
まさにこの『ドン・パスクワーレ』のようなイタリアものの喜劇的作品における、イタリア人歌手の歌唱と演技で、
あれだけは、非イタリア人の歌手には本当に真似が難しい、と感じます。
今シーズン、ドン・パスクワーレ役を歌っているのはジョン・デル・カルロ。
彼はほとんどメトのハウス・バス・バリトンみたいな感じで、
超人気歌手がキャスティングされるメガ級の役を除いた、
そのすぐそばの準主役とか脇役で、頑張って来た人です。
このブログが始まってからメトで聴いた彼の役は、『トスカ』の堂守、
『フィガロの結婚』と『セヴィリヤの理髪師』のドン・バルトロ、『ピーター・グライムズ』のスワロー、
『アドリアナ・ルクヴルール』のブイヨン公といった感じで、なんとなく彼のポジションニングが推測できるかと思います。
なので、正直、今シーズンの目玉公演の一つと言ってもよい『ドン・パスクワーレ』のタイトル・ロールに、
アライモのような歌手ではなくて、彼がキャスティングされたのは、私にしてはちょっぴり驚きでした。
これほど出番が多い役で、かつ、HDまで控えている、レヴァイン指揮の演目を彼に任せたというのは、
メト側が、彼のこれまでの頑張りを評価していますよ、という意思表示でもあると思いますが、
同時にちょっとしたギャンブル的な側面もあるんではないかしら、と、、。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/f3/cd27ae59506a96a46ab3af3876262d26.jpg)
そして、この初日ではそのプレッシャーが少し仇になったのかな、と思います。
リハーサルでは、ものすごく伸び伸びとした演技で場にいた人を笑わせていたと聞いていたデル・カルロなんですが、
気持ちが舞い上がってしまっているのか、レヴァインと歌の呼吸を合わせるのに精一杯みたいな感じで、
観客から笑いを取りに行く余裕はあまりなく、
また、公演が始まってまもなく突然頭が真っ白になって歌詞が吹っ飛んだのか、
プロンプターが慌てて出した、フレーズの頭のキューとなる言葉がオペラハウス中に轟きわたっていた場面もありました。
(ただし、HDの日にはこの初日の様子が嘘のような堂々とし、かつ、吹っ切れた歌い・演技っぷりになっています。)
また、先に書いたように、アメリカ人の歌手にはコメディックなセンスがある人はたくさんいますし、
デル・カルロもその一人だとは思うんですが、イタリア人歌手の笑いのセンスとは少し違うところがあるのと、
あと、脇役でぴりっと効かせる笑いと、このドン・パスクワーレ役のようにほとんど出ずっぱりで舞台に立つ中から、
面白さを滲み出させる笑いとは、少し性質が違う部分もあって、
その点で、特にこの初日は、少しデル・カルロの演技が完全には突き抜けていないような感触を持ちました。
ポレンザーニのエルネストは、はっきり言ってフローレスのそれとは全然違います。
フローレスが、あの繊細な声でもって、ほとんど人間業とは思えないような技術を駆使しながら生み出す歌唱、
それと全く同じものを期待すると、ポレンザーニの歌にはがっかりするかもしれません。
ポレンザーニの声はフローレスに比べると、全然芯が太い、全く違う種類の声ですし、
技術がしっかりしている歌手ではあるのですが、フローレスのあの完全無欠さ・繊細さは持ち合わせてはいません。
ただし、彼にはフローレスのエルネストになかったものが二つあります。
それは、エルネストに独特の人間らしさ・リアルさを持ち込んでいること、と、それから、ネトレプコとのケミストリーです。
フローレスのエルネストはあまりに格好良すぎて、筋と言葉を知らないで鑑賞していたら、
どこかの国の王子の話かと見誤ってしまうほどでした。
しかし、この作品をよく観れば、エルネストは決して王子キャラなんかではなく、
使用人が噂話をする合唱のシーンでも歌われている通り、
多くの人間には、”役立たずの出来損ないな甥っ子”として写っていることがわかります。
そんな、人の良さ以外はあまり取り柄のなさそうな彼を心から愛している風の
ノリーナという人間の方に私は興味が湧いてしまう位です。
エルネストが持っているそんな少し間抜けな雰囲気(ノリーナやマラテスタに比べると頭の回転も遅そう、、)を、
ポレンザーニが、観客に好感を持ってもらえる範囲内にとどめながら表現していて、なかなか見事です。
また、フローレスの素晴らしさを賞賛するに全く躊躇のない私をもってしても、
彼の歌と演技には、どこか孤高なところがあって、極端に言うと一人で歌っているような、
あまり共演者との強い舞台上のケミストリーを感じない場合がほとんどなんですが、どうでしょう?
それは例えば、HDの『連隊の娘』や『夢遊病の女』でデッセイと共演した時すら、です。
ネトレプコがポレンザーニと共演すると非常にリラックスして歌えているというのは、
以前に感じていて(『ロミオとジュリエット』やガラ、、)、
彼女自身の言葉でも裏づけされていますが、今回の公演でもそれが良く伝わってきます。
彼らが恋人同士として一緒に歌を歌うのは、最後の第三幕第二場の二重唱
”もう一度愛の言葉を Tornami a dir che m'ami”だけで、
(ニ幕の途中からはエルネストはドン・パスクワーレをかつぐ芝居に参加しているために、
おおっぴらにノリーナと恋人らしい様子は出来ないし、
その前に至っては、芝居の裏にあるノリーナとマラテスタの企みも知らずに悩み続けている、
が、それを引っくり返す行動は自分でしない、まさに”役立たず”のうじうじ君なのです。)
ですから、第三幕第二場が説得力を持つためには、この2人の間に速攻立ち上ってくるようなケミストリーが必要なんですが、
ポレンザーニとネトレプコの間にはそれがあって、2人の間に流れている暖かい雰囲気のせいで、
ちょっと鈍臭いエルネストをしっかりもののノリーナが、その鈍臭さも含めて愛している感じがきちんと伝わって来ます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/e3/8fad71422f8767b7ee2134f3de81c923.jpg)
三幕ニ場の頭でエルネストが歌うセレナータ(”Com'è gentil”)、
ここでのポレンザーニの歌唱は、フローレスの歌唱の美しさとは少しタイプが違いますが、
あたたかさ、ノリーナへの思いの熱さ(これがあるからエルネストは憎めないのであって、
これがなかったら、魅力的な人物には全く見えない。)が良く表現されています。
しかし、ポレンザーニに加えて、ネトレプコと、もう一段さらに強いケミストリーがあるように感じるのは、マラテスタ役のクヴィエーチェンです。
一応エルネストの友人であり味方のはずなんですが、
なんとなくいかがわしげ&怪しげな雰囲気が漂っているところがおかしい。
歌唱的に彼がとてもしっかり歌ってくれているおかげで、この公演が締まっている点も見逃せません。
彼は役がどんぴしゃにはまるとすごく活き活きとした歌と演技を見せてくれる
(逆を言うと、はまらないと、およそらしくない、冴えない歌になってしまう。
何でも器用に歌える、というタイプではないと思います。)のですが、
このマラテスタは彼の個性と声質にとても良く合っていて、
本人がシンガーズ・スタジオで語っていた通り、彼は決して声量が極めて豊か、というタイプではありませんが、
こういったレパートリーでは声が良く鳴っていて、彼の本領発揮です。
今シーズンは、一幕と二幕をつなげて演奏しているせいもあって、
幕間、場間に舞台転換のための暗転が数回あり、
観客にいくらかの待ち時間を強要する点への埋め合わせと、転換の時間に気が向かないようにする作戦だと思うのですが、
三幕の一場の最後に歌われる、マラテスタとパスクワーレの二重唱
”そっと、そっと、今すぐに Cheti, cheti, immatinente"の早口言葉のような掛け合いの部分を、
舞台転換のために降ろされた書割の前でもう一度歌ってくれるという粋な計らいがあります。
この頃までにはデル・カルロの歌唱もだいぶ落ち着いて来ていて、最高に楽しい二重唱になりました。
(記憶がややおぼろなのですが、2005-6年シーズンにはこのアンコールはなかったように思います。
これには観客も大喜び、大喝采でした。)
しかし、この公演の中心軸となっていたのは、なんといってもネトレプコです。
ポレンザーニは私は非常に優れた歌手だと思うのですが、
これまで今ひとつ彼が大きくブレークし損ねてきた理由のひとつは、
今日の公演を観ていると、自分が公演を引っ張っていいんだ!という強い自信が少し希薄なのかな、という風に思います。
特に今回のように、指揮者がレヴァインのようなビッグ・ネームだと、
彼の方に、自分はレヴァインに引っ張ってもらう存在なんだという遠慮があるようで、
レヴァインはレヴァインで、ベル・カントのレパートリーなんだから、
ある程度、ポレンザーニに自由に歌わせたい、と思って指揮している雰囲気があって、
なんだかお互いに遠慮しあっているような、微妙な距離を感じました。
ポレンザーニは、がんがんひっぱってくれる指揮者やキャスト仲間が相手だと、
本当に巧みに合わせて歌える歌手なんですが、
もうちょっと良い意味で自己主張が強くてもいいかな、と思います。
そこを行くと、ネトレプコは、”私はこういう風に歌うの!”という、
アンサンブルを引っ張る意志が感じられ、
レヴァインはもともと歌手に合わせて指揮をするのが巧みですし、音楽が上手く流れています。
そうそう、遠慮なんてしてないで、こういう風に歌えばいいんだよな、、と思うのです。
もともと、彼女はアンサンブル能力に傑出したものがあって、
今まで彼女が出演した舞台は少なくない数観ていると思いますが、
音がぶらさがったり、音を外したり、技巧が上手く処理できていない、ということはありますが、
アンサンブルを乱したり、指揮者の意図を摑み損ねて音楽に乗り損ねているところは聴いたことがないです。
ネトレプコの舞台勘の素晴らしさについてはHDの日の公演の記事に詳しく書きたいと思いますが、
シェンクの演出指導の成果もあるのか(今回もNYに来て、歌手に直接指導を行ったそうです。
ご高齢なんですが、この仕事に対する倫理観!素晴らしいと思います。)、
2005-6年よりも、さらに舞台上での動き、演技が進化していて、本当に素晴らしいと思いました。
こういう舞台を見ると、彼女がちょっぴり太めになったことすら、すっかり忘れてしまいます。
最も彼女のチャーミングな面が出ていると言ってもよいのではないでしょうか?
ただ、贅沢を言えば、やはりほんの少し音が重い、、。2005-6年シーズンの頃は軽かっただけに特にそう思います。
(ただし、HDの日には、この日とは比べ物にならないくらい、音の重心があがっていて、
彼女の出産後に聴いた歌の中では最高の出来になっています。)
以前、メト・オケの中に何人か、私の贔屓の奏者がいる、というお話をしましたが、
その中の一人である、トランペットの首席奏者のビリーさんが、
第二幕の冒頭のエルネストのアリアで、素晴らしいソロを披露しています。
彼のこのソロの演奏に、どこか、『ゴッド・ファーザー』の世界を感じるのは私だけでしょうか?
ベル・カントに『ゴッド・ファーザー』。
妙な組み合わせに思えるかもしれませんが、これがなんともユニークでいい味を出しているので、
HDをご覧になる方には、そこも合わせて楽しんでいただけたら、と思います。
レヴァインはもはや指揮台に登場するだけで、観客が大喝采、というような状況になりつつあるのですが、
今回、終演後にピットから舞台に上がるのが困難なために、ネトレプコが舞台上から、
指揮台にいるレヴァインの方に向かって両手を差し出し、
両手をキラキラ光る星を表現するように動かしながら彼に向かってお辞儀をし
(この動きだけで、”皆さん、あそこにいるのが今日の公演の本当のヒーローです。”と言いたいのが伝わって来る、、
こんなところ一つとっても、彼女の表現力の豊かさがわかります。)、
レヴァインが手を振ってキャストと観客に答えた時には、
もはや、そんな指揮台から舞台に移動するというちょっとした動きですら大変なのか、、と、
寂しいような、悲しいような、複雑な気持ちになりました。
そんな状態ですら、全幕を指揮してしまう意地はすごいな、と思います。
John Del Carlo (Don Pasquale)
Anna Netrebko (Norina)
Matthew Polenzani (Ernesto)
Mariusz Kwiecien (Dr. Malatesta)
Bernard Fitch (A notary, Malatesta's cousin Carlino)
Conductor: James Levine
Production: Otto Schenk
Set & Costume design: Rolf Langenfass
Lighting design: Duane Schuler
Dr Circ C Even
ON
*** ドニゼッティ ドン・パスクワーレ Donizetti Don Pasquale ***
シーズン初日、10/29の『ドン・パスクワーレ』の公演から20日くらい経ってしまいました。
その間にはHDの収録日の公演が11/13にあって、
私もオペラハウスで生鑑賞して来ましたが、そのHDの公演が、本当に本当に、素晴らしかったです。
作品そのものの優劣、好き嫌いを抜きにすれば、
オペラを観るということの楽しさ、キャスト全員が最高の力を出し切った時に生まれるスリル、
それから観客と舞台の一体感を捕らえた、という点で、今までのHDの中でトップを争う内容になったのではないでしょうか?
『ドン・パスクワーレ』という作品自体は、私個人的には特にリブレットが強力なわけでも(筋自体は他愛のない話!)、
抱腹絶倒なわけでもなく、リブレットだけでもっと笑える作品は他にあると思っていますし、
それに、音楽の面でも、ベル・カント系の他の喜劇、いや、ドニゼッティのそれだけに限っても、
たとえば『愛の妙薬』とか以前HDに乗ったことのある『連隊の娘』とか、
超必殺アリアが含まれている(”人知れぬ涙”にメザミ、、、)作品に比べると、
そこまで有名なアリアがないのが、この『ドン・パスクワーレ』という作品です。
言い換えれば、舞台に立っている歌手の力が非力だと目も当てられない。
ところが、そんな不安は『ドン・パスクワーレ』のHDに関しては不要です!
ネトレプコ、ポレンザーニ、クヴィエーチェン、デル・カルロの4人全てが、
持っている最高の力を出してくれましたから。
HDの企画が始まって以来、収録日にランのベストの公演、また、各人のベストの歌唱が当たる、ということが、
簡単そうに見えて、実は全くそうではない、ということをいやほど目の当たりにして来ました。
このように4人全員が揃ってベストの歌唱を繰り広げるということは、非常に稀で、
ましてやそれがHDの収録日にあたる確率はさらにもっと低い。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/10/22/d424d6da92ac7503ae3678a966907aad.jpg)
このHDを観れば、舞台に乗っている歌手の間にケミストリーがあるというのはどういうことなのか、
なぜネトレプコが天性の舞台勘を持っていると一部のヘッズに賞賛されるのか
(単なるスター性がある・ないといった問題ではなく、
まさに天性の舞台勘という言葉が適切であることが、このHDで判ると思います。
彼女については、歌も好調ですけれども、それ以外の部分で、驚くようなことを成し遂げているので、
詳しくは11/13の記事で書きたいと思います。)、
こういった喜劇作品で、舞台にいる歌手と観客が本当にコネクトするというのはどういうことなのか、
そういったことの答えがすべて、このHDの中にあります。
このシェンクのクラシックなプロダクション(初出は2006年なんですが、あまりにクラシックな雰囲気なので、
もっと昔から存在しているプロダクションだと思っている方が多いようです。)の中で、
自由に泳ぎまわる活き活きしたキャストと、
彼ら一人ひとりから放出されている、このプレッシャーに満ちた大きな場で、
最高の自分を出せているということを彼ら自身が自覚することによって生まれている喜び、
(インターミッションでのインタビュー中にポレンザーニが見せている幸せそうな表情を見よ!!です。
ちなみに、インタビュアーはスーザン・グラハム。
オペラハウスにいるお前がなぜHDの映像も観れるのか?本当にちゃんと公演に行ったのか?と訝しんでいる、
細かいことが気になる方のために一応説明しますと、オペラハウスの中に、HDと同じ映像を流しているモニターがいくつかあるのです。)
心配されながらも無事に登場したレヴァインへの観客の熱狂、
公演の内容、歌手の歌、演出を批判するためではなく、一緒に作品を楽しむためにそこにいる観客、、
こういったあらゆることがかみ合って、オペラの公演で楽しめるおよそ全てのポジティブな要素が、HDの中に詰め込まれています。
一言で言いますと、ライブ・イン・HDが始まりましたら、
ぜひ、出来るだけ多くの方に映画館に足を運んで頂きたい!!!!それに尽きます。
特に私は、ネトレプコの、ポレンザーニの、もしくはベル・カント系の喜劇全般の何が良いの?と
日ごろお感じになられている方にこそ、ぜひ鑑賞していただきたいな、と思っていて、
逆を言えば、このHDを観て、まだ彼らの良さ、ベル・カント系の喜劇を観る楽しさがわからない、という方は、
多分、一生、その良さをわかることはないんではないかと思います。
別にわからなくたって死ぬわけではないですから、それはそれで良いのですが、
それ位良い公演だ、ということなんです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/50/63/96b912d11deedce91f0cc0b5f73c69cb.jpg)
すっかりHDの日の公演の話でフィーバーしてしまって、
そのまま初日の公演の話に行く前に字数を使い切ってしまいそうな勢いですが、
初日に関する感想を始めるのに腰が重い理由の一つには、
そのHDの日の公演を観てしまったということがあって、あれが相手では、どんな公演も分が悪いのであって、
今更初日の公演についてネガティブなことを一つ二つ書いたせいで、
”あ、『ドン・パスクワーレ』のHD、いまいちなんだ。”と早とちりされる方がいたら、それは大きな不幸だ、とも思ったり、、。
しかし、すでに、HDがどれほどの飛躍であったか
(いや、あれは飛躍というようなものではなく、むしろマジックが起こった、と言った方がいいかもしれませんが)
ということは冒頭で十分説明させて頂いたので、
ここからは、できる限り、初日に鑑賞した時の気持ちを、まんま思い出し、その通りのことを書いてみたいと思います。
まず、シェンクの演出なんですが、先ほども書いた通り、とても保守的でクラシックなものなので、
遥か以前から存在しているかのような印象を多くの方に与えるかもしれませんが、
このプロダクションが初お目見えしたのは2005-6年シーズンのことで、今シーズンの公演はその時以来の上演になります。
2005-6年の公演は、ドン・パスクワーレ役がアライモ、エルネスト役がフローレスで、
残りの2人、ノリーナ役のネトレプコとマラテスタ役のクヴィエーチェンは今シーズンと同じ。
当時は丁度ネトレプコの人気がヨーロッパで爆発し始めた頃で、
その彼女とフローレスという組み合わせが話題を呼び、
まだBB(before blog=ブログ前)時代でしたので、残念ながらこのブログに感想は残っていないのですが、
私ももちろん鑑賞いたしまして、最初は1回だけの鑑賞のつもりが、あまりに面白かったので、2度観にいってしまいました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/7d/2190305ba6300e2e2f73ed48d66fa1dd.jpg)
当時のネトレプコはまだほっそりしていて(すぐ上の写真のみ2005-6年シーズンの公演からで、
ドン・パスクワーレ役のアライモと。腕が細い!!)、声も今より全然軽かったものですから、
舞台をところ狭しと走り回りながら、でんぐり回りまで含めたアクロバティックな演技をしつつ、
楽々と高音を何度もかっ飛ばす様子は爽快でした。
それからフローレスの歌唱がスタイリッシュで美しかったことは言わずもがな、、。
この2人の歌唱だけでも、十分お釣りが来るほど楽しめたのですが、
それよりも、さらに私が気に入っていたのはアライモが歌い演じたドン・パスクワーレで、
彼の歌と演技のおかしいことと言ったら、やはり当時キャストの一人だったクヴィエーチェンが、
今年のシンガーズ・スタジオでも語っていた通り、”椅子から転げ落ちるくらい”大笑いしたものです。
”やはりイタリア人歌手はいいなあ。”と人が言う時、それは人によって、色んな意味を指し、
ヴェルディの作品とか、ベル・カントの作品を歌った時の、
イタリア人が持っている独特のスタイルについても確かに大いにあてはまるとは思うのですが、
それよりも何よりも、私の場合、個人的にイタリア人と非イタリア人歌手の間で大きなセンスの違いを感じるのは、
まさにこの『ドン・パスクワーレ』のようなイタリアものの喜劇的作品における、イタリア人歌手の歌唱と演技で、
あれだけは、非イタリア人の歌手には本当に真似が難しい、と感じます。
今シーズン、ドン・パスクワーレ役を歌っているのはジョン・デル・カルロ。
彼はほとんどメトのハウス・バス・バリトンみたいな感じで、
超人気歌手がキャスティングされるメガ級の役を除いた、
そのすぐそばの準主役とか脇役で、頑張って来た人です。
このブログが始まってからメトで聴いた彼の役は、『トスカ』の堂守、
『フィガロの結婚』と『セヴィリヤの理髪師』のドン・バルトロ、『ピーター・グライムズ』のスワロー、
『アドリアナ・ルクヴルール』のブイヨン公といった感じで、なんとなく彼のポジションニングが推測できるかと思います。
なので、正直、今シーズンの目玉公演の一つと言ってもよい『ドン・パスクワーレ』のタイトル・ロールに、
アライモのような歌手ではなくて、彼がキャスティングされたのは、私にしてはちょっぴり驚きでした。
これほど出番が多い役で、かつ、HDまで控えている、レヴァイン指揮の演目を彼に任せたというのは、
メト側が、彼のこれまでの頑張りを評価していますよ、という意思表示でもあると思いますが、
同時にちょっとしたギャンブル的な側面もあるんではないかしら、と、、。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/f3/cd27ae59506a96a46ab3af3876262d26.jpg)
そして、この初日ではそのプレッシャーが少し仇になったのかな、と思います。
リハーサルでは、ものすごく伸び伸びとした演技で場にいた人を笑わせていたと聞いていたデル・カルロなんですが、
気持ちが舞い上がってしまっているのか、レヴァインと歌の呼吸を合わせるのに精一杯みたいな感じで、
観客から笑いを取りに行く余裕はあまりなく、
また、公演が始まってまもなく突然頭が真っ白になって歌詞が吹っ飛んだのか、
プロンプターが慌てて出した、フレーズの頭のキューとなる言葉がオペラハウス中に轟きわたっていた場面もありました。
(ただし、HDの日にはこの初日の様子が嘘のような堂々とし、かつ、吹っ切れた歌い・演技っぷりになっています。)
また、先に書いたように、アメリカ人の歌手にはコメディックなセンスがある人はたくさんいますし、
デル・カルロもその一人だとは思うんですが、イタリア人歌手の笑いのセンスとは少し違うところがあるのと、
あと、脇役でぴりっと効かせる笑いと、このドン・パスクワーレ役のようにほとんど出ずっぱりで舞台に立つ中から、
面白さを滲み出させる笑いとは、少し性質が違う部分もあって、
その点で、特にこの初日は、少しデル・カルロの演技が完全には突き抜けていないような感触を持ちました。
ポレンザーニのエルネストは、はっきり言ってフローレスのそれとは全然違います。
フローレスが、あの繊細な声でもって、ほとんど人間業とは思えないような技術を駆使しながら生み出す歌唱、
それと全く同じものを期待すると、ポレンザーニの歌にはがっかりするかもしれません。
ポレンザーニの声はフローレスに比べると、全然芯が太い、全く違う種類の声ですし、
技術がしっかりしている歌手ではあるのですが、フローレスのあの完全無欠さ・繊細さは持ち合わせてはいません。
ただし、彼にはフローレスのエルネストになかったものが二つあります。
それは、エルネストに独特の人間らしさ・リアルさを持ち込んでいること、と、それから、ネトレプコとのケミストリーです。
フローレスのエルネストはあまりに格好良すぎて、筋と言葉を知らないで鑑賞していたら、
どこかの国の王子の話かと見誤ってしまうほどでした。
しかし、この作品をよく観れば、エルネストは決して王子キャラなんかではなく、
使用人が噂話をする合唱のシーンでも歌われている通り、
多くの人間には、”役立たずの出来損ないな甥っ子”として写っていることがわかります。
そんな、人の良さ以外はあまり取り柄のなさそうな彼を心から愛している風の
ノリーナという人間の方に私は興味が湧いてしまう位です。
エルネストが持っているそんな少し間抜けな雰囲気(ノリーナやマラテスタに比べると頭の回転も遅そう、、)を、
ポレンザーニが、観客に好感を持ってもらえる範囲内にとどめながら表現していて、なかなか見事です。
また、フローレスの素晴らしさを賞賛するに全く躊躇のない私をもってしても、
彼の歌と演技には、どこか孤高なところがあって、極端に言うと一人で歌っているような、
あまり共演者との強い舞台上のケミストリーを感じない場合がほとんどなんですが、どうでしょう?
それは例えば、HDの『連隊の娘』や『夢遊病の女』でデッセイと共演した時すら、です。
ネトレプコがポレンザーニと共演すると非常にリラックスして歌えているというのは、
以前に感じていて(『ロミオとジュリエット』やガラ、、)、
彼女自身の言葉でも裏づけされていますが、今回の公演でもそれが良く伝わってきます。
彼らが恋人同士として一緒に歌を歌うのは、最後の第三幕第二場の二重唱
”もう一度愛の言葉を Tornami a dir che m'ami”だけで、
(ニ幕の途中からはエルネストはドン・パスクワーレをかつぐ芝居に参加しているために、
おおっぴらにノリーナと恋人らしい様子は出来ないし、
その前に至っては、芝居の裏にあるノリーナとマラテスタの企みも知らずに悩み続けている、
が、それを引っくり返す行動は自分でしない、まさに”役立たず”のうじうじ君なのです。)
ですから、第三幕第二場が説得力を持つためには、この2人の間に速攻立ち上ってくるようなケミストリーが必要なんですが、
ポレンザーニとネトレプコの間にはそれがあって、2人の間に流れている暖かい雰囲気のせいで、
ちょっと鈍臭いエルネストをしっかりもののノリーナが、その鈍臭さも含めて愛している感じがきちんと伝わって来ます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/e3/8fad71422f8767b7ee2134f3de81c923.jpg)
三幕ニ場の頭でエルネストが歌うセレナータ(”Com'è gentil”)、
ここでのポレンザーニの歌唱は、フローレスの歌唱の美しさとは少しタイプが違いますが、
あたたかさ、ノリーナへの思いの熱さ(これがあるからエルネストは憎めないのであって、
これがなかったら、魅力的な人物には全く見えない。)が良く表現されています。
しかし、ポレンザーニに加えて、ネトレプコと、もう一段さらに強いケミストリーがあるように感じるのは、マラテスタ役のクヴィエーチェンです。
一応エルネストの友人であり味方のはずなんですが、
なんとなくいかがわしげ&怪しげな雰囲気が漂っているところがおかしい。
歌唱的に彼がとてもしっかり歌ってくれているおかげで、この公演が締まっている点も見逃せません。
彼は役がどんぴしゃにはまるとすごく活き活きとした歌と演技を見せてくれる
(逆を言うと、はまらないと、およそらしくない、冴えない歌になってしまう。
何でも器用に歌える、というタイプではないと思います。)のですが、
このマラテスタは彼の個性と声質にとても良く合っていて、
本人がシンガーズ・スタジオで語っていた通り、彼は決して声量が極めて豊か、というタイプではありませんが、
こういったレパートリーでは声が良く鳴っていて、彼の本領発揮です。
今シーズンは、一幕と二幕をつなげて演奏しているせいもあって、
幕間、場間に舞台転換のための暗転が数回あり、
観客にいくらかの待ち時間を強要する点への埋め合わせと、転換の時間に気が向かないようにする作戦だと思うのですが、
三幕の一場の最後に歌われる、マラテスタとパスクワーレの二重唱
”そっと、そっと、今すぐに Cheti, cheti, immatinente"の早口言葉のような掛け合いの部分を、
舞台転換のために降ろされた書割の前でもう一度歌ってくれるという粋な計らいがあります。
この頃までにはデル・カルロの歌唱もだいぶ落ち着いて来ていて、最高に楽しい二重唱になりました。
(記憶がややおぼろなのですが、2005-6年シーズンにはこのアンコールはなかったように思います。
これには観客も大喜び、大喝采でした。)
しかし、この公演の中心軸となっていたのは、なんといってもネトレプコです。
ポレンザーニは私は非常に優れた歌手だと思うのですが、
これまで今ひとつ彼が大きくブレークし損ねてきた理由のひとつは、
今日の公演を観ていると、自分が公演を引っ張っていいんだ!という強い自信が少し希薄なのかな、という風に思います。
特に今回のように、指揮者がレヴァインのようなビッグ・ネームだと、
彼の方に、自分はレヴァインに引っ張ってもらう存在なんだという遠慮があるようで、
レヴァインはレヴァインで、ベル・カントのレパートリーなんだから、
ある程度、ポレンザーニに自由に歌わせたい、と思って指揮している雰囲気があって、
なんだかお互いに遠慮しあっているような、微妙な距離を感じました。
ポレンザーニは、がんがんひっぱってくれる指揮者やキャスト仲間が相手だと、
本当に巧みに合わせて歌える歌手なんですが、
もうちょっと良い意味で自己主張が強くてもいいかな、と思います。
そこを行くと、ネトレプコは、”私はこういう風に歌うの!”という、
アンサンブルを引っ張る意志が感じられ、
レヴァインはもともと歌手に合わせて指揮をするのが巧みですし、音楽が上手く流れています。
そうそう、遠慮なんてしてないで、こういう風に歌えばいいんだよな、、と思うのです。
もともと、彼女はアンサンブル能力に傑出したものがあって、
今まで彼女が出演した舞台は少なくない数観ていると思いますが、
音がぶらさがったり、音を外したり、技巧が上手く処理できていない、ということはありますが、
アンサンブルを乱したり、指揮者の意図を摑み損ねて音楽に乗り損ねているところは聴いたことがないです。
ネトレプコの舞台勘の素晴らしさについてはHDの日の公演の記事に詳しく書きたいと思いますが、
シェンクの演出指導の成果もあるのか(今回もNYに来て、歌手に直接指導を行ったそうです。
ご高齢なんですが、この仕事に対する倫理観!素晴らしいと思います。)、
2005-6年よりも、さらに舞台上での動き、演技が進化していて、本当に素晴らしいと思いました。
こういう舞台を見ると、彼女がちょっぴり太めになったことすら、すっかり忘れてしまいます。
最も彼女のチャーミングな面が出ていると言ってもよいのではないでしょうか?
ただ、贅沢を言えば、やはりほんの少し音が重い、、。2005-6年シーズンの頃は軽かっただけに特にそう思います。
(ただし、HDの日には、この日とは比べ物にならないくらい、音の重心があがっていて、
彼女の出産後に聴いた歌の中では最高の出来になっています。)
以前、メト・オケの中に何人か、私の贔屓の奏者がいる、というお話をしましたが、
その中の一人である、トランペットの首席奏者のビリーさんが、
第二幕の冒頭のエルネストのアリアで、素晴らしいソロを披露しています。
彼のこのソロの演奏に、どこか、『ゴッド・ファーザー』の世界を感じるのは私だけでしょうか?
ベル・カントに『ゴッド・ファーザー』。
妙な組み合わせに思えるかもしれませんが、これがなんともユニークでいい味を出しているので、
HDをご覧になる方には、そこも合わせて楽しんでいただけたら、と思います。
レヴァインはもはや指揮台に登場するだけで、観客が大喝采、というような状況になりつつあるのですが、
今回、終演後にピットから舞台に上がるのが困難なために、ネトレプコが舞台上から、
指揮台にいるレヴァインの方に向かって両手を差し出し、
両手をキラキラ光る星を表現するように動かしながら彼に向かってお辞儀をし
(この動きだけで、”皆さん、あそこにいるのが今日の公演の本当のヒーローです。”と言いたいのが伝わって来る、、
こんなところ一つとっても、彼女の表現力の豊かさがわかります。)、
レヴァインが手を振ってキャストと観客に答えた時には、
もはや、そんな指揮台から舞台に移動するというちょっとした動きですら大変なのか、、と、
寂しいような、悲しいような、複雑な気持ちになりました。
そんな状態ですら、全幕を指揮してしまう意地はすごいな、と思います。
John Del Carlo (Don Pasquale)
Anna Netrebko (Norina)
Matthew Polenzani (Ernesto)
Mariusz Kwiecien (Dr. Malatesta)
Bernard Fitch (A notary, Malatesta's cousin Carlino)
Conductor: James Levine
Production: Otto Schenk
Set & Costume design: Rolf Langenfass
Lighting design: Duane Schuler
Dr Circ C Even
ON
*** ドニゼッティ ドン・パスクワーレ Donizetti Don Pasquale ***