Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

OTELLO (Sat Mtn, Oct 27, 2012)

2012-10-27 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。


やっぱり気になって、来てしまいました、、、。

『オテロ』の初日(10/9)での思いがけない事態については、こちらの記事でお話した通りですが、
ボータがその後に続く公演を全部降板したまま、今日のHDの日の公演まで時間が流れてしまいました。
通常、HDの一つ前にあたる同演目の公演はバックアップ用の映像を撮影する日になっているんですが、
その公演も歌わなかったということは、相当具合が悪くて舞台に立てなかったか、
HDの公演に一点賭けするつもりで猛烈に慎重を期しているか、そのどちらかということになります。

ボータは2007/8年シーズンの『オテロ』(共演者がフレミングなのも、指揮者がビシュコフなのも今シーズンと同じだった、、)をはじめ、
連年メトで歌声を聴いていますけれど、私にとっては、残念ながら彼は歌は上手いけれど、羽目を外さない、
手堅さばかりが目立つつまんないテノール、という位置づけになっていて、
本当なら、そんな手堅い公演をランのどこかで一公演聴いて、”やっぱり手堅くてつまんなかったな。”とか思いながら家路について終り、のはずでした。

しかし、結局、私が鑑賞することに決めていた公演で、ボータでなくアモノフが歌うことになってしまったのは、やはり上で紹介した記事の通り。
アモノフは彼なりに頑張っていたとは思うので、悪く言いたくはないのですが、しかし、歌手の器としては、
私が退屈だと断罪しているボータと比べても、一回り、いや、二回り、いやいや、三回りくらい直径が短かかった。

今日メトで起こりうることとして、3つのパターンが考えられます。
① 公演当日の朝の段階でメトのサイトに掲載されている通り、ボータが歌う。
⇒ まだ、今シーズンは彼のオテロを生では聴いていないし、初日にあんなことがあったので、どんな歌唱になるのか興味はそそられるので、このパターンなら行って損なし。
② メトに行ってから、結局やっぱりボータの回復間に合わず、再びアモノフが舞台に立つことを知らされる。
⇒ ああ、これこそは絶対に避けたい超ルーザーなパターン!!!しかし、可能性はゼロとは言えない。そして、この可能性がある限り、今日はスタンディング・ルームに限る。
③ メトに行ってから、結局やっぱりボータの回復間に合わず、、とここまでは②と同じだが、代役にアントネンコ、クーラ、ドミ様(ドミンゴ)のいずれかが舞台に登場する。
⇒ これを見逃してちゃ、いかんでしょう!!

というわけで、またしても朝っぱら(10時だけど、私にとって週末の10時は立派な朝っぱら。)からメトに電話。
10時に立見席の販売が始まって、たった3分でつながったというのに、もう最前列は売り切れていた、、、むー。ヘッズたちめ、どれだけすばしっこい?!



ラッキーだったのは到着してみると、二列目とはいえ、真ん中寄りの通路に一番近い場所だったこと。
一歩横に移動すれば、目の前は通路で、前に何も遮るものがない状態で舞台を眺められます。
特に前に立っているのが岩のような体格のおやじなので、これは助かった、、、ふぅ。
と、そこで、いつの間にか私のすぐ側ににじり寄っていた小柄なおばさんが私の立ち席を指して、”そこ、私の場所だと思うわ。”と主張してきます。
これまでにずーずーしいローカルのヘッズを嫌ほど数見て来た私ですからね、そう簡単には騙されません。
”あら、どうしてですか?さっきチケット見て確認したら、確かに私の番号でしたけど。なら、あなたのチケットには何番って書いてあるんです?”と言うと、
”ちっ!メトに不慣れな旅行者じゃないのか。”という表情を一瞬浮かべ、私の質問に答えないまま、
他に騙せそうな相手がいないかを探しに、再び放浪の旅に出て行きました。

いよいよ開演!という頃になり、結局そのおばさんは私の隣のスポットに戻って来たのですが(思いの外、旅行者が少なかったか、、?)、
まだしつこく、”一列目の男性、本当、大きいわ。あなた、私より背が高いじゃない?だから私と場所を交替した方がいいと思うの。”と言って来ます。
ついうっかり間違って”そうですね、なら替わって差し上げましょう。”と口走ってしまいそうになる論理ですが、
よく考えてみれば、その男性が私がより小さければ話は別ですけれども、彼は私よりもずっと縦にも横にもでかくて、私とおばさんの両方の前方に跨っているような状態ですからね。
おばさんと場所を交換したら、今度は私が見えなくなってしまいます。
”お気の毒ですけど、それだけは絶対にありえませんわ。”と即刻撃沈しておきました。



先ほどからずっと、アントネンコとかクーラとかドミ様の名前が出るのを今か、今かと待っているというのに、
家を出る前にメトのサイトをチェックした時は今日のオテロ役はボータとなっていた、
そして今手にしているプレイビルにも歌手の交替を通知するお知らせが入っていない、
それにいつまで経っても代役の名前を発表するハウスマネージャーの姿が見えない、
と思ったら、あれよあれよという間に指揮のビシュコフが出て来てしまった、、
この妙なデジャ・ヴ感は何?、、、と思えば、ついこの間の火曜日(フィラデルフィア管弦楽団のヴェルレク)とまったく同じパターンではないですか、、。
ということで、結局、②番でも③番でもなく、無難に①番のシナリオとなりました。

ボータに関しては、一つ前の公演もあきらめて、ずっと休みをとったのは正解だったと思います。(最善策は初日を歌わないことだったと思いますが。)
今日のタイミングでの復帰は、本当ぎりぎりでなんとか形になった、という感じでした。
まだ少しこちらをひやっとさせるような声を出している場面が何度かありましたが、
経験のなせる技も大きいんでしょう、良く踏みとどまって、初日のようなあからさまな破綻に陥ることからは回避できていました。
でも、それは逆を言うと、好調時でも私が今一つ彼に夢中になれない理由である、例の”手堅さ””つまんなさ”といった側面に油を注いでいる感じです。
だって、『オテロ』みたいな作品で、歌手がいつものコンフォート・ゾーンから一歩踏み出て全力で役柄に体当たりするのでなかったら、一体どの作品でそうするって言うんでしょう?
我々オーディエンスが血管の中で血がぼこぼこ言っているのを感じる位の興奮を引き起こしてくれなかったならば、そんなの『オテロ』じゃない!とすら私は思います。

一つには、彼は巨体なら巨体なりに、自分をエレガントに見せつつ演技する術を身につけなければならないと思います。
イケメンか?痩身か?といったような意味での”ビジュアル”はどうでもいいと思いますけど、
オペラが視覚も伴う舞台芸術である以上、演技をも含めた意味でのビジュアルは、今に限らず、昔からずっと大切なオペラの一面でした。
その大切な演技、特に体を使った表現が、彼は全く出来ていない。



例えば、第三幕の最後で、自分の部下も含めたキプロス島の人々の目の前で、いわれのない不倫の罪をデズデーモナにかけた挙句、
自分から逃げ去れ!と全員をその場から追い出し、ヤーゴと二人きりになった後、

Fuggirmi io sol non so..      私だけが自分から逃げるすべを知らずにいるのだ、、
Sangue!               血(復讐)だ!
Ah! l'abbietto pensiero!      ああ、汚らわしい考えが
cio m'accora!            私を苦しめる
Vederli insieme avvinti..      彼ら二人が抱きあっているのが見えるようだ、、
il fazzoletto! il fazzoletto! ハンカチだ! ハンカチ!
Ah!                 ああ!

と言いながら錯乱し、気を失って倒れてしまう場面がありますが、まあ、その倒れ方の不細工なことには、私のいる立見席一帯で失笑が漏れていました。
感謝祭で七面鳥を食べ過ぎてお腹一杯になってひっくり返っているのとはわけが違うんですから、もうちょっと何とかならないか?と思います。

この後、舞台裏から聴こえてくる民衆の

Evviva! Evviva Otello! 万歳!万歳、オテロ!
Gloria al Leon di Venezia! ヴェネツィアの獅子に栄えあれ

という合唱を受けて、ヤーゴが倒れたオテロの体を足で踏みつけながら、軽蔑心モロ出しで、

Ecco il Leone! 獅子がこのざまか!

と歌って、(しかもその後にヤーゴ役のシュトルックマンが小馬鹿にしたようにぽとーんとボータの体の上にハンカチを落とす、
この演技のタイミングが大変巧みで唸らされます。)幕が下りるわけですが、
つまり、ヴェネツィアの獅子とまで歌われる強い人間(であるはず)のオテロが、とうとうヤーゴの悪巧みに、
いや、というよりは、ヤーゴの悪巧みによって引き出された自分自身の(そして人間誰しもが持っている)弱さに陥落した、、、
オテロの倒れる姿には、その瞬間の、獅子が倒れるような様子が重なっていかなければならないのです。
ったく、”腹いっぱい食べ過ぎたで。げふーっ。”ってやってる場合じゃないでっせ!ボータさん!!

大体、ボータの声質は、このオテロを歌うにはやや明るすぎることも、彼が自覚しておかなければならない点じゃないかな、と思います。
例えば、アントネンコ、クーラ、ドミ様といったテノールたちは、同じ言葉、同じフレーズを歌っていても、声が暗くて重いので、
もうそれだけで歌の内容の深刻さが20%位アップして聴こえるというか、
50メートル競争に例えるなら、スタート地点を10メートル有利に動かしてもらっているのと同じ位得しているわけです。
ボータの声はややもすると、明るく能天気に聴こえがちなので、歌い方や表情のつけ方、それから演技、全部を稼動させて、その損している部分を埋めなければいけないのです。
なのに、、、。

YouTubeの音源・映像は著作権の問題などからクレームが来たりして、いつ視聴不可になるかわからないですし、
映像の性質からいってその可能性が高そうなのでここで紹介はしませんが、このHDの日の映像をすでに入手している方が
オテロとデズデーモナの二人がデズデーモナの不倫(もちろん事実ではなく、オテロがそれを疑っているだけなのですが、、)をめぐって口論になる場面をYouTubeにアップされていて、
それを見ると、ボータは嫉妬と疑惑という狂気に憑依されているような様子で、ほっぺたをぴくぴくさせながらデズデーモナに対して怒り狂っていて、
ヘッズの中には”あのサイコ熊みたいなアプローチも、あれはあれで怖くて面白い。”と評している人がいましたし、
私も、へー、意外と顔だけはちゃんと演技してるんだな、、、と感心しましたが、
ただ、そういう顔だけの演技って、HDとかDVDではいいかもしれませんけど、劇場の私がいる立見席のような場所には全然伝わってこないんですよ。
だから、もっと体全体をつかって演技表現をするべきだ、と思うのです。

それから、”嫉妬と疑惑という狂気に憑依されて”と書いたついでに言うと、実際のところ、オテロを襲ったのは狂気なんでしょうか?
私は全然そうではないと思っていて、オテロが狂気なんかからではなく、正気からあのような行動を起こしているところが、
この物語・作品の、恐ろしく、また憐れな部分だと思っていて、オテロを仮に一時的にでも狂人として演じるようなことは、
この話が私達の誰にも起こりうる、というアンダーカレントと相反する方向に持っていこうとすることになってしまうと思うので、個人的には賛成しません。



このボータが苦手なことの全てを巧みになしとげているのがヤーゴ役のシュトルックマンです。
彼の歌唱は以前の感想でも書いた通り、決してスタイリッシュではないし、時にはやり過ぎ、歌い崩し過ぎ、、と感じることもあります。
(ただし、今日はHDがあることも念頭に置いていたのか、私が前回鑑賞した公演よりは多少やり過ぎ感が影を潜めていました。)
しかし、劇場の端々にまで、きちんとその意図が伝わる演技は素晴らしいと思います。
それこそ合唱を伴ったアンサンブルのシーンでも、立ち姿一つとっても気を抜いている瞬間がなく、足の置き方、開き方、
腕の位置(下に下ろす、組む、ちょっとした動作をさしはさむ、、)、頭のかしげ方まで本当にたくみに計算されていて、
その時その時のヤーゴの気持ちが手に取るように伝わってくるほどです。
クレード(”残酷な神を信じる Credo in un Dio crudel")での気合の入り方もこれまでの公演で一番だったのではないかと思う内容で、
良く声も鳴っていて、彼に関してはHDで実力通りのパフォーマンスが出せていると思います。

実際、前述のヤーゴがオテロの体を踏みつけにする場面での彼の歌唱や演技からは
”俺は俺の信条(クレード)が世の中の基準では悪に類されるものであったとしても、何の迷いもなくひたすらそれを信じて実行しているぞ。
それがどうだ、お前は、地位、素晴らしい妻、上司思いの部下(カッシオ)、すべてを手にしながら、
その事実に気づくことも、感謝することも、守ることもなく、ちょっとした嘘を信じて女々しく迷っている。”というような、
オテロに対する人間としての侮蔑が溢れていて、それがあまりにも説得力があるので、オーディエンスも、
”そうだよね、オテロ、なんか女々しいよね。こうなって当然だよね。”という気がしてくるほどなんです。

で、ここでボータが、いや、しかしオテロにだって彼が持っている感情を感じざるを得ない理由があるのだ、ということを、
しっかり歌と演技で表現してくれれば、オーディエンスがオテロとヤーゴのどちらの気持ちにもシンパシーを感じることの出来る、
二役ががっぷり組んだ素晴らしい公演になるのですが、
悲しいかな、ボータにその力がないので、なんだかヤーゴだけがとても活き活きして見えて、バランスの悪いことになってしまっているのです。
ということで、この記事のトップ写真の栄誉は、オテロ役のボータではなく、ヤーゴ役のシュトルックマンに献上することにしました。

フレミングはいつもそうなんですが、少しHDの時にブレーキがかかってしまう傾向があるように思います。
失敗をするのが嫌なんでしょうか、リスクを取らずに安全運転、守りの歌唱です。
ただ、初日や私が前回鑑賞した公演の時ほどには声のコンディションが良くなかったのかもしれないな、と感じるところもあって、
もしそれが正しかったとすると、その状態、かつあの年齢で、それでも今日くらいの内容の歌唱をデリバーできるということは、
彼女がこのデズデーモナ役と比較的相性が良いということの証拠だな、とは思います。
そうでなければ、もっとクオリティの低い歌唱になっているでしょう。
ただ、彼女もボータと同じで、何か、一つ突き抜けたものが感じられない、、、そこが私の不満です。
『オテロ』みたいな作品で、無難な歌、上手い歌だけ聴いたって意味がないですから、、。

ランの最初の頃はなんだかエキセントリックなことを色々繰り広げていた指揮のビシュコフも、
リハーサルなしで舞台に立った不慣れなアモノフの相手をしているうちに、それどころではない!という覚醒にいたったのか、
今日の演奏ではかなりノーマルになってました。
ただ、彼もフレミングと同じで慎重派なのか、
(ま、久しぶりに戻って来たボータのために、彼の歌いやすいように指揮することに専念した、ということもあるのかもしれません)
安全運転しているうちに、なんとなくゆるーい演奏になってしまったのは残念。
オケに関しては、エキセントリックだけど、勢いという面では初日や二日目(私が前回鑑賞した公演)の方が勝っていたように思います。


Johan Botha (Otello)
Renée Fleming (Desdemona)
Falk Struckmann (Iago)
Michael Fabiano (Cassio)
Eduardo Valdes (Roderigo)
Stephen Gaertner (Montano)
Renée Tatum (Emilia)
James Morris (Lodovico)
Luthando Qave (A herald)
Conductor: Semyon Bychkov
Production: Elijah Moshinsky
Set design: Michael Yeargan
Costume design: Peter J. Hall
Lighting desing: Duane Schuler
Choreography: Eleanor Fazan
Stage direction: David Kneuss
ORCH SR left mid
OFF

***ヴェルディ オテロ オテッロ Verdi Otello***

VERDI REQUIEM: THE PHILADELPHIA ORCHESTRA (Tues, Oct 23, 2012)

2012-10-23 | 演奏会・リサイタル
8月に鑑賞したスカラのヴェルレクという壮大な前振りを経て、
ようやく、10/23にカーネギー・ホールで聴いたフィラデルフィア管弦楽団の演奏の感想です。

NYは常にどこぞで興味深い公演・演奏会が企画されていて、それはそれで非常にありがたいことなのですけれども、
それは稀に、”これはどっちに行けばいいのーっ?!”と頭を抱えて一つしかない我が身を恨む、、というような事態も引き起こします。
私の場合、オペラが絡んでいれば、大抵はそっち(大概メト)の方を優先することになるわけで、
仮にメトの公演ではない方を優先することになっても、オペラは普通複数回の公演があるので、どうしても初日を見たい!とか、
一日しかキャスティングされていない特定の歌手を聴きたい!というような特殊な事情でない限り、大きなコンフリクトは避けられるわけです。
しかし、今シーズン、私はどうしてもメトの『テンペスト』の初日を観たい理由があって、
その『テンペスト』の初日の日程が思いっきりカーネギー・ホールで予定されている
フィラデルフィア管弦楽団によるヴェルレクにバッティングしているのを発見した時は、身もよじれんばかりのジレンマを感じました。
というのも、前述のスカラのヴェルレクの記事で書いた通り、私はヴェルディの『レクイエム』という作品に
偏執的な愛情を持っている、つまり、ヴェルレク・フェチなものですから、
この作品が一定以上の力のあるオケ、興味を引かれるソリストなどによって演奏される場合は、
ほとんどパブロフの犬的な条件反射でもって、”聴きに行かなきゃ。”と思ってしまうのです。

アデスは数年前にベルリン・フィルのカーネギー・ホールの公演でその作品『Tevot』を聴いて
現代音楽が激苦手な私でさえ、なかなかに面白い個性と才能を持った作曲家である、ということで、連れと意見の一致を見ました。
その彼のオペラ作品をはじめてメトで鑑賞できる機会が『テンペスト』であり(で、やはりそういう意味での興奮は初日が一番なんです)、
サイモン・キーンリーサイド、トビー・スペンス、イエスティン・デイヴィス、
イザベル・レナード、オードリー・ルーナ、アレック・シュレーダー(映画『The Audition』でメザミを歌っていたゆるキャラの。)といった
ベテラン、中堅、若手を取り混ぜたキャストで激しく誘惑してきます。

片や、私の偏執的愛情の対象であるヴェルレクの方はといえば
ネゼ・セギャンとフィラデルフィア管弦楽団がこの作品をどのように演奏するか、という真っ当な興味の他に、
2008/9年シーズンの『ルチア』で最後に歌声を聴いて以来、
メトでもキャンセルの嵐で(ただし、2011年の日本公演で一公演だけ『ルチア』に登場しましたね。)、
彼は喉を潰したのではないか?もうオペラの全幕の世界には戻って来れないのではないか?という風評が後を絶たない
ロランド・ヴィラゾンがテノール・パートに配されていたり、
この際、目玉だけじゃなくなくエラもついでに飛び出しておきましょう、という配慮なのか、
ソプラノ・パートにマリーナ・”箱ふぐ”・ポプラフスカヤまで付いてくる、という周到なフィラ管の作戦により、
ほとんど、こわいものみたさに近い低俗な興味が湧いて来ました。

結局こわいものみたさの誘惑に見事に陥落したMadokakipは『テンペスト』は後の公演を見ればいいか、、ということで、
初日の興奮を犠牲にし、フィラ管の演奏会のチケットを手配するわけなのですが、
実は演奏会の数日前まで、やはり箱ふぐのヴェルレクを聴いている場合ではないかもしれない、、と、
『テンペスト』への執着も断ち切れない優柔不断な私なのでした。

しかし、そんな未練が吹き飛ぶ大事件が発生!です。
フィラ管はカーネギー・ホールにやって来る直前の週末に、同じヴェルレクをホーム、つまりフィラデルフィアで演奏したのですが、
その週末の公演を箱ふぐがキャンセルして、アンジェラ・ミードがカバーに入りましたよ、と、
その公演を実際にご覧になったCSTMさんがKinoxさんのブログのコメント欄に書き込まれたのです。
ハレルヤ!!!!!
このブログをしばらく読んで下さっている方ならご存知の通り、
ミードは私の大好きなソプラノであり、なかでもヴェルレクは彼女のレパートリーの中でも最高の部類の歌唱を聴いたことがある作品の一つなので、
これで瞬時にして『テンペスト』への迷いが吹っ飛んだというものです。

音質が良くなく、オケがヘッポコ(コーラスはまあまあなのに、、)&アプレアという指揮者の動きが面白くて気が散ることこのうえないですが、
私がピッツバーグやボルティモアで彼女のヴェルレクを聴いたのと大体同じ頃と思われるパーム・ビーチ・オペラとの演奏会の時の様子がYouTubeにありました。
8月のスカラ座でのハルテロスの歌も綺麗に歌うだけではなくて、こういう種類のパッションがあったらもっともっと良かったんじゃないかな、と思います。
そして、メゾがザジックなんですね、、、羨ましい。
何にせよ、箱ふぐの体調が週末に優れなかったのだとしたら、火曜のカーネギーに間に合う公算は少ないな、ということで、ぐしししし、、です。



週明けにはミードのオフィシャル・サイトにもフィラデルフィアでつとめた代役の件が掲載されましたし、
これでカーネギー・ホールが箱ふぐからミードへの代役発表をするのも時間の問題、、、と、
演奏会を夜に控えた当日仕事中もこっそりウェブチェックに燃えてしまいましたが、なしのつぶてです。
もったいぶりやがって、、会場で発表してみんなを喜ばせようというつもりだな、カーネギー・ホール。
いよいよホールに到着し、”ああ!何か小さい紙がプレイビルにはさまっているぞ!これだな~!!”とその紙を大喜びで引っこ抜いてみれば、
Subscribe today!と書かれたカーネギー・ホールのサブスクリプションをすすめる広告でした、、、 なんだよ、まぎらわしい!!
ってことは、印刷が間に合わなかったんですね、きっと。開演前にホールのマネージャーか誰かが出て来て発表するんでしょう。

隣に座っている男性が開演前からかなりハイ・テンションになっていて、
今日の公演をどれほど楽しみにしているか、熱く周りの人に語っています。
聞けば彼はフィラデルフィアが住まいなのですが、やはり週末の演奏会を鑑賞していて、
それがあまりに素晴らしかったので、つい今日の公演を聴きにNYまで追いかけて来てしまったのだ、と言います。
”ミード、良かったでしょう?”というと、大きく頷き、さらにこう大絶賛です。
”しかし、何よりもネゼ・セギャンの指揮が最高なんですよ。彼の振るヴェルレクは誰とも違う!”
ふーん、、、おじさんがそこまで絶賛するもんですから、こちらの期待値も俄然あがってきました。

しかし、オケのメンバーがチューニングを終え、携帯のスイッチをオフに!というメッセージがスクリーンとスピーカーで流され、
ホールが静まり返っても、ホールのマネージャーが出て来ません、、、
ついにネゼ・セギャンとソリストたちが舞台に出て来てしまいました。そして、、、

えーーーーーーーーーーーっ!!!!!箱ふぐがいるーーーーーーっ!!!なんでーーーーーーーっ!?

Madokakip、もはや、いつ泡吹いて両手を鋏状態で横向きに走り出してもおかしくない状態です。
ミードのヴェルレクが、、、、、ひゅるるるる。
頭が真っ白なMadokakipの前で、ネゼ・セギャンがお辞儀をかまし、隣のおやじが大興奮で拍手を送ってます。
むむむ、、、ここはやはり『テンペスト』に行っておくべきだったか、、、?
期待が大きかっただけに大ショックですが、こうなったら、彼の”誰とも違”って素晴らしいというオケの演奏を楽しむしかないんでしょう。

レクイエム(永遠の安息を与え給え、主あわれみ給え)の冒頭の弦楽器は表情のある良い音がしていて、
”おお、このまま行けば、、。”と軽く期待が膨らみます。
しかし、そこにウェストミンスター・シンフォニック・クワイヤーの合唱が入ってきて、椅子から転げ落ちるかと思いました。
もうこんなの全っ然駄目!
前にピッツバーグの記事で書いた通り、この作品は合唱が5人目のソリストである、と言っても過言でない位大事なんです!
そして、合唱がソリストやオケと同じ位に雄弁にこの作品によって表現されるべきことを語るためには、
それを可能にするためのサウンド/音色と、きちんとしたディクションをマスターしていること、これが最低条件です。
ここの合唱はどういうメンバーで構成されているのか知りませんが、
この『レクイエム』のような作品で一級のオケとパートナーシップを組めるようなレベルにはないです。少なくともこの日の内容を聴く限り。
やたら芯のないへなへなした音で、これでどうやって怒りの日やらリベラ・メに込められた激しい感情を表現できるっていうんでしょう?
それから、ディクション!特にtの音!!
アメリカとかイギリスとか、英語圏のへたれ合唱団がこの作品を歌う時に一番顕著に見られるみっともない欠点が、
このtの音での発音の誤りです。
ラテン語とかイタリア語のtの音って、舌の上顎へのアタックがゆっくりで濁りの少ない音ですが、
英語圏の人のtは、舌のアタックが早く&強くなる傾向にあって、そのせいでチャチュチョ、、、という音が混じっているかのように聞こえてしまうんです。
これは本当に耳障りだし、こういうのが聴こえてきた時点で、あ、ここの合唱は二流だな、と思ってしまいます。
しかも、悲しいかな、時間はかかりません。冒頭の

Requiem aeternam dona eis, Domine
et lux perpetua luceat eis.

だけでそれがわかってしまうんですから。
実際に歌われる場合は、いくつかの言葉やフレーズで繰り返しがあって、ハイライトした以上の数のtが出て来るので余計気になります。
嘘だと思ったら、スカラの(いつの年代のものでも構いません)合唱と、アメリカの(二流の)合唱団が歌っているものをYouTube等でお比べになってみてください。
上の最後のルーチェアテイスのテがテェとでも表記したくなるような、ルーチェのチェにtを混ぜたような音になってしまっているのがわかると思います。
まあ、市民合唱団ならそれでもいいでしょう。
でも、フィラ管のようなオケと一応世界レベルで活躍しているソリスト達を揃えた公演にお供するのにこういうことではいけません。
こういう基本的なことも教えられない合唱団のコーラス・マスターは私だったら速攻クビにしますけどね。

これで6つの大切なエレメント(4人のソリスト、オーケストラ、合唱)のうち、一個はハイ、消えた!
(基本的なことがきちんとできていないので、作品を通して全く期待できない。)



では、指揮とオーケストラがどうだったかという、こちらも泣きたくなるような出来です。
オーケストラは前奏部分でちらりと感じられた通り、決してオケの基礎体力で劣っているわけではないと思います。
正直、今日の演奏では、全体的に、フランスものを演奏しているんじゃないんだから、、と突っ込みたくなるような、
ふわふわした腑抜けた音作りとヴェルレクの演奏で必ずオーディエンスに感じさせなければならない
血管が沸きたがるような思いを逆に押さえつけるかのような味付けに辟易しましたが、時々、
ちらっと出て来る金管の音なんかを聴くと、本当はもっと違う演奏の仕方も出来るオケなんじゃないかな、、と感じさせられる部分もあって、
モントリオール出身のネゼ・セギャンの意向なのか、もともとのオケの個性でもあるのか、
私はメト・オケのことを知っているほどには、フィラ管の演奏は聴いても知ってもいないので、はっきりしたことは言えませんが、
どちらかというと前者だったんじゃないかな、、と思います。
(もちろん、両方がある程度寄与した可能性も排除しませんが。)

なぜならば、音作り以外のところの、明らかにネゼ・セギャンの責任の領域の部分で、頭を抱えたくなるような勘違いが続出だったからです。
まず、彼のこの作品への取り組み方が間違ってる。
彼はこの作品が、小手先の工夫や独自の解釈や見かけの興奮や盛り上がりだけでなんとかなると思っているんですよね。
WRONG! WRONG! WRONG!!!超浅はか!!!

もったいぶったレクイエム(第一曲目)のスロー・テンポさにも、”まさか、この人、、。”と思わされましたが、
一転、ディエス・イレ(怒りの日)で”ここは一発盛り上がってオーディエンスを乗せてくださいよ~。”とばかりに
踊り狂うネゼ・セギャンの指揮姿を見て、実に空回りしている、、、と思いました。
ディエス・イレは、最後の審判を描写しているわけです。

”ダヴィドとシビッラとの予言のとおり、この世が灰と帰すべきその日こそ、怒りの日である。
すべてをおごそかにただすために審判者が来給うとき、人々のおそれはいかばかりであろうか。”

この歌詞が歌う通りの内容を、謙虚に、誠実に、心をこめて描きつつ、あの音楽にのせることで、
あくまで結果としてとてつもない興奮と怖れの感覚がオーディエンスの中に生じるのであって、
それを伴っていないディエス・イレは単なる音のサーカスでしかない。
必死で金管や打楽器や合唱を煽っているだけのネゼ・セギャンを見て、”ヤニックよ、間違ってるぞ、、。”と、どんどん気分が冷めていくMadokakipなのです。

またびっくり仰天させられ、信じられずに思わず頭を振ってしまったのが、曲同士のつなぎの処理です。
一応、私の手持ちの楽譜上も、日本語で曲という表記になっているのと、そう言う以外にはどう説明しようもないのでそのように表記していますが、
ヴェルレクの特徴は、レクイエム、ディエス・イレ(その中でさらにティエス・イレ、トゥーバ・ミルムなど、、)、といった曲を単に順番に演奏すればいいのではなく、
それらが一続きとなって、感情の流れを伴った一つの大きな物語にもなっている点で、
ですから、単純にそれらを独立した曲や交響曲の楽章のように演奏してはいけないし、
曲の合間に堂々とハンカチを取り出して汗を吹いたりするなんてもっての他だと私は思っています。
(実際には聖なるかなの前後などは、合唱が立ち上がったり座ったりする間があるので、多少のブレークは生じるとは思いますが。)
そして、この作品においては、それぞれの曲の間でどのように違った間を持たせるか・持たせないか、というのも、
オーディエンスの感情の流れをコントロールする大事なツールであり、
変なところで間延びしたブレークを入れられたり、逆に余韻を楽しむために少しホールドして欲しいところでせかせかと次の曲に入られたりすると、
やっぱり、ヤニック、あなたこの作品のことを全くわかってないのね、、ってことになるんです。
すぐに次に入るべきところで、ハンカチを取り出して額を拭かれた日には、
私のすわっていたバルコニー席から指揮台にいるネゼ・セギャンに向かってドロップ・キックを決めてやろうかと思ったくらい。

他にもあまり普通は強調しないセクションの音を強調してみたり、
先にも書いたように、水彩画風のヴェルレクというか、妙に淡いタッチの演奏で押し通りたり
(でもそれじゃこの作品で感じられるべきものが何も感じられないと思う、、。)
あれやこれやと”僕風”のヴェルレクを振ろうとしてたみたいですけれど、
ま、一言で言うと、血肉化されてなくて、すごくうわべだけの音楽になってしまっているんです。
フィラ管の皆さんはすごく従順で、一生懸命ネゼ・セギャンの指示する通りに演奏しようとしてましたけど、
やっぱり彼らの中にそれが自然に流れているわけではないものですから、演奏していてもすごく難しいんだと思います。
なんだかすごくぎくしゃくした演奏で、奏者の人はどんな思いで演奏してるのかな、、とつい考えてしまいました。
最後の審判を描こうとしている時に、水彩絵の具では、、、ね、、。

ということで、オケと指揮もはい、消えました。



で、歌手に目を向けてみる。

メゾのクリスティーン・ライス。
彼女は以前、メト・オケのコンサートで歌声を聴いたことがありますが、
ヴェルレクみたいな作品で聴くと、あまり声自体に魅力のある人ではないな、、と感じました。
かなりドライな声質のせいもあるんでしょうが、ヴェルレクのオーケストレーションに上手くのれていないし、
それから、歌う時に妙な力が入っていて、楽譜を肩の高さまで持ち上げたその腕にすごい筋肉が盛り上がっていて、
なんだかよくわからないんですが、それを見ているうちに、げんなりしてしまったことも告白しておきます、、、。
ピッチもあまり正確でなく、特にソプラノとの重唱の場面で、??と思わされることが多かったし、
また、彼女の歌には内包されるべきリズムが欠落していて、なんとなく、なのりで処理している部分がそこかしこにあって、
その点では、箱ふぐの方がまだきっちりとした歌を歌っているな、と思いました。

バスのミハイル・ペトレンコ。
もしこの人が8月のスカラのヴェルレクでバス・パートを歌っていたら、発声やフレーズの処理がロシア的!とか言って非難轟々だったと思いますが、
喜んでいいのか、悲しんでいいのか、今日の演奏で一番まともな歌を聴かせていたのは彼だったと思います。
実際、高音での響きがすごくロシアっぽくって、ちょっと違和感ありますが、低音はなかなか魅力的でしたし、
スカラのパペの歌唱では思い入れたっぷり過ぎてひいてしまったトゥーバ・ミルム(くすしきラッパの音)の表現も適切で、
歌唱表現に関しては特に不満な箇所も問題にしたくなる箇所もありませんでした。

ソプラノの箱ふぐ(ポプラフスカヤ)。
うーん、、、、。
彼女はすごく演技が上手い人なんで(以前からそれは思っていましたが、昨シーズンの『ファウスト』での彼女の演技は
オペラの舞台の演技も、こんなレベルに到達することが可能なんだ、、と感じさせられるほどの内容で、本当びっくりしました。)、
オペラでは多少の誤魔化しがきくのですが、ヴェルレクではそれは全く無理である、ということが今日証明された感じです。
彼女の声自体の魅力のなさ、それからソプラノに普通に必要な高音域すらまともに出すことが出来ない、、などなどの欠点は、
これまで皆様をはじめとするオペラファンの多くに指摘され続けていることですが、まさにその通りの内容です。
オフェルトリウムでソプラノが歌う

sed signifer sanctus Michael 旗手聖ミカエルが
repraesentet eas in lucem sanctam かれらを聖い光明に導かんことを

特に最初のsedの音は天上の世界を感じさせるような陶然とした美しさでもって歌われなければならないですし、
それを言ったら、同じオフェルトリウムのラスト、

Fac eas, de morte transire ad vitam 彼らを死から生命へと移したまえ

のviの音も同じで、この箱ふぐの声では、、、って感じですし、
これではどれだけ楽譜通りにきちんと歌っていても、障害ありまくり、なのですが、
その上に、もしかすると、多少は彼女の方にそのあたりの自覚があるのかもしれないな、、と思うのは、
それを一生懸命、熱い、悪しき意味でのオペラティックな歌唱で埋め合わせしようとしている姿のせいですが、
スカラの記事でも書いた通り、ヴェルレクは日常言語が使われているオペラとは違い、典礼の音楽ですから、
内容を抑えずに、感情だけがそこからはみ出ているような種類の表現は、
ネゼ・セギャンがディエス・イレで各楽器を意味無く煽りまくった姿に似て、実に表面的で空回りな行為です。
最後のリベラ・メ(我を許し給え)での表現なんか、本当下品で、
今日舞台に立って歌っているのがミードだったならどれだけ良かったか、、と本当悲しくなりました。
(ミードのリベラ・メは上の音源で聴けます。)
でも、一方で、今日みたいなオケの演奏だったら、ミードの歌は宝の持ち腐れ。箱ふぐの歌唱こそがふさわしかったのかもな、とも思います。

テノールのヴィラゾン。
、、、、どう書きましょうか、彼の歌唱は。
このブログを読んで下さっている方の中にも彼を応援している方が結構いらっしゃると思うので、書くのに幾分気がひけるのですが、
もし、私が劇場のアーティスティック・ディレクターか何かで、彼をキャスティングするか否かを決めなければいけない立場だったとしたら、
きっと、今後、彼を舞台に招くことはないだろうな、と思います。
はっきり言うと、彼はすでにオペラの舞台をつとめられるような声を失ってしまった、という判断をするだろう、ということです。
中音域の音はまだ何とか出てはいますが、響きがすかすかで、高音に至っては彼の恐怖心が手に取るようにわかる。
オペラ歌手というのは、自分の楽器、つまり声に全幅の信頼をおけて、それではじめて、表現とか芸術の領域に入れるんです。
次の音は出るだろうか、、?とおっかなびっくりで、それに合わせて歌い方を調整しなければいけないような状態で、
どうやって作品が持っている真価とか新しい側面を声で表現できるっていうんでしょう?
実際、彼の声の壊れ方が想像以上だったので、正直、彼が高音に登るたびに、次はクラックしてもおかしくないぞ、、と、
こちらも身が固まる思いでした。
そんな状態で、一応、なんとか高音をものしていたのは、それはそれで大変なことだったとは思いますが、
実際出てきた音は、フルブラスト(となるべきところでも)とは程遠い危なっかしいもので、
当然のことながら、フォルテからピアノにわたる微妙なスペクトラムも出せないわけで、
これでヴェルレクを歌うのは無理だと思います。
先ほどから、何度もオフェルトリウム(オフェルトリオ)の話が出ているので、お手本サンプルとして、
カラヤン指揮、スカラのオケと合唱、プライス、コッソット、若き日のパヴァロッティ、ギャウロフの演奏をここ紹介しておきますが、



特に4'45"から始まる

hostias et preces tibi, Domine, laudis offerimus 主よ、称賛のいけにえと祈りとをわれらは主に捧げ奉る

は、この作品の中でも最も美しい旋律の一つと言ってもよいでしょう。
テノールはこの旋律を繰り返して歌いますが、ヴィラゾンはそれをいずれも全く楽譜通りの音程で歌えませんでした。
ピッチが狂っている、というのでは済まされない、はっきりと音程
(というか、フレーズの全部が狂っていたので、キーといってもいいかもしれない、、)が狂っている状態でした。

また、そんな不安定な声の状態で歌うことに本人もすっかりナーバスになっている様子で、
何度も何度も楽譜をほとんど取り落としそうになりながら持ち替えている姿は痛々しくて、
正直、こういう場で歌うのはもうやめてほしい、、と私は思いました。
彼が出演するオペラやリサイタルはこういう理由から、今後、もう二度と鑑賞しないと思います。

そんなことで、まともなパフォーマンスだったのはペトレンコ1人で後はもう何が何やら壊滅的な状態、、、だったのにもかかわらず、
リベラ・メの最後の和音が鳴り終って、何秒か経ってもネゼ・セギャンの指揮棒が降りません。
当然その間、オケの奏者たちはいつでもすぐに音が出せるよう、ヴァイオリンの弓はすべてあがったままで、
管の奏者も口元から楽器を下ろしていない状態なわけです。
それで、5秒、10秒、15秒、20秒、、、嘘でしょ?
しかもこんなわざとらしい猿芝居にオケの奏者もオーディエンスもつきあってるわけです。
勘弁してくれよ、、と、私は思わず目玉を回してしまいました。
だって、あのすさまじいスカラのオケと合唱の表現力に大感激した8月の演奏でさえ、
バレンボイムはそんなもったいぶったことをせず、すぐに指揮棒を下ろしたものですから、
ものの数秒のうちに拍手が起こり始めて、実にさりげないものだったんですよ。
どれ位待たされたでしょう。やっとネゼ・セギャンの指揮棒が降りて、オーディエンスから大きな拍手です。

もうあまりの勘違いぶりに笑うしかないというか、私はもう速攻で会場を後にしましたら、
階段で同じように苦笑いを浮かべた幾人かのオーディエンスの人たちと鉢合わせになりました。

私の隣のおじさんの”彼の振るヴェルレクは誰とも違う!”という言葉。
いや、文字通りの意味でそれが本当であることを心から祈ります。
こんなわけのわからない指揮をする人が他にもたくさんいたら、困りますもん!


GIUSEPPE VERDI Requiem

Marina Poplavskaya, Soprano
Christine Rice, Mezzo-Soprano
Rolando Villazón, Tenor
Mikhail Petrenko, Bass

Westminster Symphonic Choir

Conductor: Yannick Nézet-Séguin
The Philadelphia Orchestra

Center Balcony A
Carnegie Hall Stern Auditorium / Perelman Stage

*** フィラデルフィア管弦楽団 The Philadelphia Orchestra ヴェルディ レクイエム Verdi Requiem ***

MET ORCHESTRA CONCERT (Sun, Oct 14, 2012)

2012-10-14 | 演奏会・リサイタル
昨日の土曜日はマチネにHDの『愛の妙薬』を演奏して夜には『オテロ』、
そして今日はカーネギー・ホールでの演奏会、、と、とっても働きもののメト・オケです。

これまでこのブログで、メト・オケの演奏会の特徴が”寄せ鍋プログラム”である点
(一年に三度開催される演奏会であるけれども、三つ合わせて寄せ鍋なのではなく、一つの演奏会の中ですでに寄せ鍋状態!)
を指摘してきましたが、それ即ちレヴァインの意向であったことは疑いの余地がありません。
しかし、今シーズン第一弾のメト・オケ・コンとなる今日の演奏会のプログラムは、こりゃ一体どうしちゃったのか?
ワーグナーの『タンホイザー』序曲、同じくワーグナーの『ヴェーゼンドンク歌曲集』、
そしてリヒャルト・シュトラウスの『アルプス交響曲』という、まことに統一性のあるプログラムで、
これは絶対にレヴァインが決めたプログラムではないな、、と思います。
レヴァインが手術やら何やらでメト・オケ・コンどころの状態でなくなっている間に、
ルイージが決めたものではないか、と私は推測するのですが、
プログラムを決めておいてから、本当にスケジュール上のコンフリクトがあったのか、
思いの外、ヘビーなプログラムにやる気が失せたか(自分でプログラムしたくせに、、、)、
相変わらずレヴァインに対しての特別待遇を可能にするためにルイージに対する態度が煮えきらないメトに、
段々自分が利用されている気がして、無理して都合つけるのが馬鹿らしくなって来たのか、
なんとこの大変なプログラムを指揮するのは、昨日の夜の『オテロ』に続いて、セミヨン・ビシュコフです。

おそらく同時期にメトの全幕公演を指揮している指揮者のなかで、
唯一、このプログラムを振ってきちんと形に出来るのは彼しかいなかろう、ということでこうなったんでしょう、、、
『愛の妙薬』のベニーニはベル・カントものに関しては良い指揮者ですが、ワーグナー&シュトラウスは守備範囲外ですし、
『トロヴァトーレ』を振ってるカリガリ博士(カレガリ)なんか連れて来た日には、
もう何もかもが崩壊!ということになってしまうこと必至なので、ビシュコフは妥当な人選なんだと思います。

昨日の『オテロ』の感想にも書きました通り、5年前のビシュコフの『オテロ』での指揮はメト・オケの良さを活かした自然な演奏になっていて、
私は結構好印象を持っていたんですが、なんだか昨日の公演の演奏はビシュコフらしさを出そうと頑張りすぎて失敗してしまったというか、
エキセントリックな味付けが炸裂し、まだシーズン二度目の公演ということもあるからかもしれませんが、
今一つオケの方も咀嚼できていない感じで、どうしちゃったんだろうなあ、、と思いました。

それを言えば、ルイージも、数シーズン前のタッカー・ガラみたいな単発ものの指揮や、
レヴァインの体に激しくがたが来出した頃に代わりにピットに入って振ってた頃はすごく良い演奏を出していたのに、
なんか、首席指揮者に任命されて、自分のカラーを出し始めた頃からでしょうかね、私にはぴんと来なくなりました。
いや、ぴんと来なくなったどころか、音楽監督としての演奏レベルを期待した場合、
その期待水準以下、と感じられるようなものまで出て来るようになって、
リング・サイクルもなんだか細部ばかりにこだわったちまちました音作りで、
作品の大きなアークを見失っているなあ、、と感じさせる、まったくもって私の苦手なタイプの演奏だったんですけれども、
そういうテイストの問題を脇においても、これまではありえなかったような大きなミスがオケから飛び出したりしていましたし、
なんかこう、”この指揮者が指揮してたら絶対ミスは出来ない、、。”と奏者に思わせるような厳しさとか緊張感がないんですよね、ルイージには。
こんなことではとても次期音楽監督は任せられん、、と思います。
これは別に私だけがそう思っているわけではなくて、私が懇意にしているヘッズ友達のほとんど全員が
”He's no Levine. (彼はレヴァインとは違うよな。)”と口を揃えて言ってます。

新しいアイディアを試みたり、人と違うことをやるのは結構なんですけれども、
与えられた時間との兼ね合いから、現実的にそれを徹底出来る力が自分にあるか?という、その辺の分析が、
昨日のビシュコフとか最近のルイージにはもうちょっと必要なんじゃないだろうか、、と感じたりもします。
それを言うと、限られた準備期間内で、明らかに普段のメト・オケとは違うサウンドを作って、
それでなおかつ良い結果を出せたムーティ(『アッティラ』)とかラトル(『ペレアスとメリザンド』)はやっぱり力のある指揮者、
ということになるんだと思います。

この二人ほどの徹底した実力やオケのメンバーを動かすカリスマ性がない指揮者は、
思い切ってある程度メト・オケに好きにさせる、そういう演奏を試みた方が概して結果が良い。
オケが初めて演奏する作品やあまり慣れていない作品ならそうも行かないでしょうが、
『オテロ』とかリングみたいに結構な頻度で上演されている作品なら、
はっきり言って、下手な指揮者よりよっぽど作品のことを良く知っている奏者がこのオケにはいるんだから、
カリガリ博士みたいなオケを撹乱してしまうような指揮者は問題外ですが、
一定以上の技術がある指揮者なら、それなりに結果が付いてくるし、
一時期のルイージや、5年前のビシュコフの『オテロ』はそのアプローチが成功していた例だと思うのです。

今日のビシュコフが昨夜の『オテロ』みたいなことをやり始めると、危険だな、やだな、と思っていたのですが、
『オテロ』に加えてこの演奏会まで細かく手を回す余裕がなかったんでしょう、
それがゆえに、幸運なことに今日の演奏会はメト・オケの持ち味が良く発揮された、近年で最もエキサイティングな演奏になりました。

私がメト・オケ・コンで座るボックスはほとんどがサブスクライバーで占められているため、大体毎回同じメンバーに囲まれて鑑賞することになるんですが、
その中に1人薀蓄語るのが好きなおじいがいて、今日も演奏開始前から、周りの人間に
”ヴェーゼンドンクはわしの大好きな作品だから今日は良い演奏じゃないと困る。”と、ぶちあげてます。

演奏会をキックオフしたのは『タンホイザー』序曲で、演奏が終わった時、
同じおじいが”わしにはゆっくり過ぎる!”と言ってあまりお気に召さない様子でしたが、本当、人の感覚は色々だな、と思います。
確かに今日の演奏は早いか遅いかと聞かれればどちらかと言えば遅い方に入るのでしょうが、別に止ってしまいそうなほど激オソな訳ではありません。
だし、私なんかは、最近のティーレマンの演奏(バイロイト)みたいのは、なんかせかせかしてせわしないなー、と思います。
なんだか聴いてるうちに、じっと座ってないで、家の掃除か何かを始めなければならないような気がして来ます。
今日の演奏では、巡礼の合唱の主題のところなんか、息の長いアークがある演奏で、
こういうタイプの演奏は、金管セクションがへたれなオケが演奏したら、目も当てられないことになるかもしれませんが、
メト・オケのブラスが集中力を発揮してビシュコフの指定しているテンポについていきつつ、がっちりとした美しい響きを出してくれていたので、
こういう演奏は力のある歌手がゆったりめのテンポで歌いあげているような雄大さがあって私は好きです。
遅いテンポでも、バックボーンがしっかりしている演奏なら、私は何の問題も感じませんし、
どの速さがある作品にとって最適か、というようなことは、私にはあまり意味のある議論に思えません。
どんなテンポであっても、そこにきちんとした緊張感・ドラマが保持されていて、
その速さをきちんと支えるものが存在していればそれで良いのであって、
(そして、あまりに度を過ぎた遅過ぎ・早過ぎな演奏は自ずとそこから外れていくと思うので、、)
その点はきちんとクリアされていたと思います。
それから、今日のコンマスはチャンさん(『タイス』のHDでヴァイオリン・ソロを披露していた演奏者です)でしたが、
特に第一ヴァイオリンのセクションの音色が本当、素晴らしかったです。
メト・オケの弦セクションが出せる最高の美音に部類されるような音色が今日は何度も飛び出ていて、
『アルプス交響曲』ではあまりの美しさに息が止るかと思うような箇所もありました。
それから、つい最近聴いたシカゴ響の『オランダ人』序曲が記憶に新しいので、その絡みで言うと、
このようなオケの演奏会の場であっても、メト・オケがオペラ絡みの曲を演奏する時、
必ず演奏の後ろに物語が感じられ、そのままメトのオケピに入っても全く違和感のないようなスタイルの演奏をするところも、
シンフォニー系のオケの演奏やCDで聴く演奏ではなくて、
オペラの生での全幕演奏こそが基準になっている私のようなオーディエンスにとってはポイントが高い。
演奏が終わったらそのままばったりと虫のように奏者たちが死んでしまうのではないか、、とこちらが心配になるほどに、
”聴かせたろうやんけ!”ムードでがしがし演奏されるよりは、
こういう、曲が終わってもまだ全幕演奏できまっせー!位の余裕をオケに感じるような、
そう、まさにメトの全幕公演の序曲を聴いているかのような、何気ない、ちょっと素っ気無い位の演奏の方が私は好きなんです。
それは別にワーグナーの作品だけでなくて、イタものでも同じ。

でもこの世の中には逆にそのあたりが物足りない、と感じる人も当然いて、私と親しい間柄の人の中には、
”普通演奏会でこの曲を演奏する時には金管の旋律、それから弦が入ってくるところなど、
随所にアクセントを効かせたりするものなのに、それが全くなくて、なんかすらすらーと抑揚なく流れていくから、瞑想のための音楽みたいだった。
トイレットペーパーからからからから、、と紙を引っ張って、気が付いたら足元にごっそり溜まってた、、みたいな光景が思い浮かんだ。”
というようなことを言っている人もいましたね。
この下品な表現で、このブログをずっと読んで下さっている方なら、それが誰かはすぐにおわかりになると思いますが。

ほんの少し欲を言えば、最初の一曲ということで、まだ空気がほぐれていないというか、
ちょっとフォーマルで固さが若干感じられる部分はありましたが、まあ、それでも私は悪くない演奏だと思いました。

ああ、それにしても、今日の序曲みたいなので始まる『タンホイザー』をメトのオペラハウスで聴きたいな、、。
しかし、今調べてみると『タンホイザー』は2004/5年シーズン以来、一度も舞台にかかってないんですね。
しかも、メトの舞台にかかる回数が多い演目のトップ50演目(ちなみに『タンホイザー』は合計470公演で第17位)の中で、
最も長い間、上演されていない演目であることもわかりました。
そう言えば、今日のメト・オケ・コンには珍しくゲルブ支配人の姿があったことだし
(彼って本当このメト・オケ・コンのシリーズに顔を見せないんです。オケ単体=人気歌手のいない場には興味がない人なんだな、と思います。)、
そろそろ再演をお願いしたいと思います。

続いて『ヴェーゼンドンク歌曲集』。
この作品に関しては、当初、エヴァ・マリア・ウェストブロックの登場が予定されていたんですが、
公演の5日前くらいでしたか、彼女が体調不良のために降板するという連絡が、カーネギー・ホールからメールと電話の両方でありました。
しかし、彼女のオフィシャルサイトを見ると、今ちょうどROHの『ワルキューレ』に出演中(9/26、10/4, 10/18, 10/28)で、
今日の演奏会は言ってみればそのど真ん中に落ちているんですね。
公演日にはかぶっていないし、4日と18日の間は結構日が空いているので、
当初はNYに来てまたロンドンにとんぼ返り、、ということを考えていたのでしょう。
実際、10/4の公演後にあまり体調が思わしくなくその後のROHの公演のために大事をとってキャンセルを決めた、ということなのだとは思いますが、
もしかして、レヴァインやルイージが指揮するならいざしらず(この二人とはそれぞれ先々シーズンと先シーズンのメトの『ワルキューレ』で
一緒に仕事をしてますので、そもそもその縁で今日の演奏会にもキャスティングされたのではないかな、と思います。)、
ビシュコフならトンズラしても、ま、いっか、、、ってなことをまさか考えてたりはしないですよね、、、。

で、このプログラムで急な交替を快諾してくれるといえば、あの人しかいませんよ!というわけで、ミシェル・デ・ヤングなんです。



いやー、デ・ヤングはもうすっかりメト・オケ・コンの”カバー”化してますね。
彼女は2006/7年シーズンのメト・オケ・コンでデセイが演奏会の5日前にキャンセルを発表した際にも、穴埋めしてくれたことがあって、
彼女はメゾですし、さすがにデセイと同じレパートリーは歌えないので、あの時はプログラム自体もがらっと変ったんでした。
『ヴェーゼンドンク』は彼女のレパートリーにも入っているので、今回はそのまま引継ぐ形になるのですが、
『ヴェーゼンドンク』とデ・ヤングの組み合わせって、何か覚えがあるぞ、、と思ったら、
その5年前の交替劇の時にアンコールで歌ったのが『ヴェーゼンドンク』の”夢”だったんですね。
ブログって書いとくもんだな、とこういう時に思います。

デ・ヤングが舞台に登場して来て、そういえば彼女を聴くのは何か久しぶりだな、、と、妙なノスタルジーを感じてしまいました。
こう言っては何ですが、私の考えでは、彼女もゲルブ支配人が実際にキャスティングに力を持つようになってから
(彼の任期の最初の時期はまだヴォルピ前支配人が決定した演目・キャストによる上演だった。)
冷遇されるようになった歌手のグループ(他にルース・アン・スウェンソン、一時期のソンドラ・ラドヴァノフスキーやヘイ・キョン・ホン、エリザベス・フトラル、
ドウェイン・クロフトあたりの名前が浮かんで来ます。)に入っていて、
レヴァインが結構見込んでいたこともあって、以前はワーグナーの作品などでよくメトの舞台に立っていたのに、
最近では全くメトでキャスティングされておらず、いつの間にかロースター(カバー要員も含めたアーティストのリスト)からも姿を消してしまっています。
ということで、彼女の歌声を最後にメトで聴いたのは2008年の『トリスタンとイゾルデ』ですから、4年ぶりに接する彼女の歌唱です。

彼女が再びゲルブ・エラのメトに戻って来たい意志があるのなら、二つ改善しなければならない点があります。
まず第一点は特大のビブラート。
彼女は昔からこんなすごいビブラートだったかなあ、、、、?ここまでではなかったような気がするのだけれど。
しかも今日はピッチも何となく不安定で、ビブラートの真ん中の線が完全には歌うべき旋律と重なっていない感じがして、
聴いていて、なんだかすごく収まりが悪かったです。
後、彼女は先述した通り、メトでもワーグナーを歌っているんですが、
そのレパートリーを保って行く為にはそうしなければならない!と彼女自身が思い込んでいるところもあるのか、
歌唱が常に必要以上にパワフルで、悪く言うと力任せな感じがします。
この作品は『タンホイザー』の演奏が終わった時にごっそり奏者が退場したことでもわかる通り、実はそんなにオケが厚い作品ではないし、
パワフルに歌うことに向けられたエネルギーを、もうちょっと内省的な表現の方に向けた方が良かったのにな、、と思います。
(ちなみに、ワーグナーの作品ではあるのですが、ワーグナー自身が一曲手がけた以外は、オケ用の編曲は別の人間の手によるものです。)
そして第二点目は、まさにHideous!と形容するしかない、衣装センスです。
彼女は長い(多分天然の)ブロンドのちりちりロング・ヘアーと堂々とした体格(背も結構高いのではないかと思います。)が相まって、
遠めで見る分にはある種の美しさを持った人ではあるし、すごく感じの良いポジティブ・オーラに溢れた人であるので、
その雰囲気を活かせるようなシックなドレスはいくらでもあると思うのですが、
なぜか、横に何段もレース編みのような透かし模様が入った(ふくよかな人がこれを着るとちょっと、、。)
くるぶしまでの長さのドレス(くるぶしまでの長さって、最も着こなしが難しい長さだと思う、、。)を身につけていて、
自分の体型をどれだけ最悪に見せられるか?というコンテストに参加中なのかと思いました。
私は現支配人の、歌唱力をも犠牲にする極端なビジュアル志向には大反対ですけれども、
だからと言って、自分をエレガントに、最も美しく見せる方法を知らなくても良い、とは言ってません。
どれだけ彼女に実力があったとして、これではまず支配人に”メトに帰っておいで。”と言われることはないでしょう。
緊急に開始してください、垢抜けるための努力を!!!!


そして今日の演奏会のメイン・ディッシュ、『アルプス交響曲』。
いやー、これは理屈抜きに本当に楽しい演奏だった!!!
私がシュトラウスを好きな理由の一つは、あんなにシリアスであんなに甘美であんなに官能的な曲を書ける能力がありながら、
それで全部押し切ってしまうのは照れるのか、不粋だと思うのか、
しばしば作品(こういうオケものでもオペラでも)の中で、
”でも、やっぱりこういうのも止められないなあ。”とでも言いながら舌をぺろんと出しているように思えるような、ひょうきんな部分を見せずにおれない点です。
シュトラウスは『ばらの騎士』とか『アリアドネ』はもちろん、例えば『エレクトラ』みたいな作品でもそれをやってしまうので、”えー?!”と思うんですけれども、
もうこの『アルプス交響曲』ではそんな私のシュトラウスの大好きな一面が爆発してます。
本人もすごく楽しんで作曲したんじゃないかな?そんな風に感じる曲です。

曲は最初から最後まで登山(もちろんアルプス)での情景を描写したもの、、
と書くと、非常に身も蓋もなく、”そんなもの聴いてどこが面白いのか?”と言われそうですが、今日のような演奏を聴くと”すべてが。”と答えたくなります。

まず、シュトラウスのオーケストレーションのその素晴らしいこと!!
シカゴ響の演奏会の時にフランクの交響曲で若干退屈した、ということを書いたと思いますが、
今日のこの演奏を聴くと、作曲家によるオーケストレーションの表情の豊かさのレベルが段違いなのが一つの原因じゃないかと思います。
山登りですからね、水がさらさら言ってたり、カウベルがからから音を立てたり、雷が来たり、、、なわけです。
そんなことを音にして、ホールですまして聴いて何が面白いのか?と思う向きもあるかもしれませんが、
ここまで徹底したオーケストレーション(もちろん、それはオケがきちんとそのオーケストレーションを見事な音にしてくれているからですが)、
しかも、その中に常に美が生じている種類のオーケストレーションを聴くと、
単なる山登りの情景を音で聴いているだけではなくて、、段々自然とチャネリングしているような感覚が起こってくるんです。
こんなこと書いて、危ない人化してますか、私?ここはニュー・エージ・ブログか?って感じですか?
いや、そんなことないですよね。
多分、誰もが、深い森に囲まれた時、海の塩っぽい空気を胸いっぱい嗅いだ時、地平線に広がる草原を見た時、そういう感覚を持ったことがあるはずだと思います。
そういう感覚は大抵 -少なくとも私の場合は- 自然の中に身を置いた時に起こるものですが、
この作品は音でそれを体験させてくれる、、、そこがすごいところです。

オーケストレーションを駆使して様々な情景をあまりに的確に表出してくれるので、
プレイビルとかウィキとかには、何が表現されているのかとか色々なことが書いてありますが、全然そんなもの読む必要ないです。
オペラの作品も作曲している人で、オーケストレーションで情景を描く二大達人といえば、私はシュトラウスとプッチーニだと思っているんですが、
あらためてやっぱりすごいなあ、、と思わされました。

個々の楽器/セクションの演奏は本当にどれも素晴らしい出来で、どれかだけに言及するのはフェアじゃない気がする位なんですが、
先述した通り、第一ヴァイオリン・セクションの今日の音色の美しさは本当度肝抜かれました。

演奏にほとんど1時間かかるこの曲、曲が終わった時には、ビシュコフやメト・オケのメンバーと一緒にアルプスに登って帰って来た感じがして、
快い疲れすら覚えたほどです。
ビシュコフのこの作品での指揮は、この作品に慣れているとは言い難いオケに、必要最低限の指示を与えながらも、
頭ごなしに彼のやり方を押し付けるのではなく、オケのメンバーが先に歩いて行くのを、後ろからがっちりとサポートしながら付いて行く登山者のようでした。
それでも、昨夜の『オテロ』に続いてこの長丁場の作品で神経を使い切ったと見え、
指揮台から降りたり舞台挨拶に出て来る時のビシュコフは本当よろよろで、そのまま倒れなきゃいいけど、、という感じでした。
しかし、オーディエンスの方は、彼が倒れても知るか!位に盛り上がっていて、
ビシュコフはもうこれで終り、と思って引き下がった後も、再度舞台に姿を見せるよう要求する拍手が多くの人から出てました。
かく言う私もそんな1人。
こんなに盛り上がったメト・オケ・コンは久しぶりです。

それにしても、NYにいながらにしてアルプス登山を満喫出来るなんて誰が想像したでしょう?
シュトラウスとビシュコフ、メト・オケに感謝。


The MET Orchestra
Semyon Bychkov, Conductor
Michelle DeYoung, Mezzo-Soprano replacing Eva-Maria Westbroek

RICHARD WAGNER Overture to Tannhäuser
RICHARD WAGNER Wesendonck Lieder

RICHARD STRAUSS Eine Alpinsinfonie, Op. 64

Carnegie Hall Stern Auditorium
Second Tier Center Left Front
ON/OFF/OFF

*** メトロポリタン・オペラ・オーケストラ ミシェル・デ・ヤング
MET Orchestra Metropolitan Opera Orchestra Michelle DeYoung ***

OTELLO (Sat, Oct 13, 2012)

2012-10-13 | メトロポリタン・オペラ
先日(10/8)『トロヴァトーレ』を鑑賞したのにはジャンナッタジオを聴くことと、実はもう一つ目的があって、
それは来る週末に予定されていたHDの収録日の『愛の妙薬』のチケットを、同日の夜の公演の『オテロ』に交換してもらうことでした。
チケットの交換やアップグレードは電話やウェブでは受け付けてもらえなくて、メトのボックス・オフィスまで足を運ぶ必要があるのです。
新演出の『愛の妙薬』の公演については、オープニング・ナイトの公演を見て、
この演出とキャストでは作品の本当の良さを引き出すのに限界があるな、と感じましたので
(しつこいようですが、私はコプリーの旧演出が大好きでしたので、、)、
ベニーニ率いるオケの演奏が非常に良いので(これはオープニング・ナイト後のいくつかの演奏をシリウスで聴いてもコンスタントに同じでした)、
それをもう一度聴けないのはちょっと残念ではあったのですが、
それよりも、気がつけばまだチケットの準備すらしていなかった『オテロ』の方を一度は鑑賞しておかなくては!というわけで、
『オテロ』のシーズン初日の公演は10/9の火曜日だったんですが、
それだと『トロヴァトーレ』に続いて連日で会社から慌しく駆けつけることになってしまうので、
初日の公演はシリウスで聴いて、そのすぐ後の土曜の公演を鑑賞することにしました。

今シーズンの『オテロ』はHDの対象演目でもあるのですが、
主役のボータとフレミングは2007-8年シーズンの公演と全く同じコンビで、
5年経てもめぼしいフレッシュなオテロ/デズデーモナ・コンビをキャスティングできないとはメトも芸のないことよ、、と思います。
その上、ボータもフレミングも決して悪い歌手ではないし、歌唱も安定しているとは思うのですが、
(ま、フレミングはエキセントリックな歌い方が炸裂してぎょっとさせられることも多々ありますが。)、
その分、彼らの歌はいつもどこか”手堅い”という印象が強くて、真に興奮した!という経験が私はあまりないんです。
そんなことなので、シーズン・プレミエの日の夜は、
”さあ、手堅い『オテロ』でも聴くか。”と、大してわくわくするでもなく、シリウスのスイッチを入れました。
ところが、もう冒頭から仰天するような出来事が起こってしまって、違う意味でどきどきしっ放し、なことになってしまいました。
こちらがその日の音源の抜粋で、指揮はセミヨン・ビシュコフです。
音源は三箇所の抜粋になっていて、一番目の、オケが最初に音を出す瞬間からオテロが”Esultate! 喜べ!"と歌い始めるまでで若干時間がありますが、
この間ずっと観客は、手に汗握りつつ、どきどきし、それが最高潮に達したところで、"Esultate!"が聴こえてくる、
この時間の流れが大事(と、そこでこけた時のショックの大きさがオーディエンスにとってどれほどのものか、、)ですので、あえて全部入れました。



ボ、ボータ、、、

言っておきますが、私はボータの歌を、手堅すぎて面白みに欠けるな、とか、上手いけど味がないよなあ、、と感じたことはこれまでにありますが、
技術がない、とか、下手だと思ったことは一度だってありません。
テノールの中では、その歌唱が最もリライアブルなグループに入る、とすら思います。
ですから、この初日の歌唱はもう彼であって彼でない、と言っていいくらいで、
どういう事情があってこんな最悪のコンディションでも歌わなければならないことになってしまったのか、、、気の毒すぎて言葉がないくらいです。
多少オペラに親しんでいる人間なら、これが彼の本来の歌唱ではないことは重々過ぎるくらいわかっているので、
異例なことに、シーズン初日の公演ながらあえて評を出していないメディア媒体もあるくらいです。

私も正直なことを言うとここで音源を紹介することについて大変な迷いがあって、
当然のことながら、彼のキャリアの中でもワースト・ナイトに違いない日の歌唱を面白がるためにアップしたわけではありません。
いつぞやの『ロミオとジュリエット』のベチャーワのような一過性のクラックなら、後で音源を聴いてなごむことも出来ますが、
(ただ、劇場で生で聴いている時は、オーディエンスも冷や汗が出るような思いをするので、笑いが出ることはまずないです。)
これはそういう種類の失敗でないことは明らかで、
それこそが、NYの批評家たちの中にさえ、ボータを気遣って初日の歌唱を葬り去ろうとしている人がいる中で、
私があえて、その意図を聴く人に誤解される可能性があるのを承知で、音源を紹介することに決めた理由です。
一体こんな状態で彼が歌わなければならないような状況に陥ったのは、誰の責任なのか?ということを追求したかったし、
そのためにはどんなに言葉をつくして彼の歌唱がボロボロだったかを書くよりも、
音源を一聴して頂く方が、この日のオーディエンスがどんな思いでこの公演を聴かなければならなかったか、ということが良く伝わるはずだと判断したからです。

結局、ニ幕と三幕の間のインターミッションで、ボータがアレルギーで不調であること、しかし、このまま歌い続ける旨のアナウンスがありましたが、
音源を聴けば判るとおり、すでに音がへしゃげる前のEsultate!からいつもの彼の声でないことは明らかですし、
音が引っかかってつぶれるパターンが毎回同じで、とても『オテロ』のような作品の表題役を全幕歌える状態になかったことが一耳瞭然です。
以前、ROHの日本公演でエルモネラ・ヤホ(ヤオ)嬢が不調のために散々な結果を出してオーディエンスから非難轟々だった事件がありました。
その時も思いましたが、オペラハウスは公演前に出演する歌手のクオリティ・コントロールを行う義務がある!と感じるのは私だけでしょうか?
それであらゆる歌唱の不調をキャプチャーできるとは思いませんし、舞台で歌ってみないとわからない類の不調もあるとは思います。
しかし、日本公演の時のヤホ嬢のような、そして、今回のメトでのボータのようなケースは絶対に防げたはずです。
先に書いたように、私のようなトーシロでさえ、何度か彼の歌声を聴いたことがあれば、
"Esultate!"と歌い始めた時の音色から、何か変だぞ、、と感じた位なのですから、
何らかのチェックがあれば、メトの音楽スタッフが気づかないわけがありません。

でも、もっと怖く、忌むべき可能性は、ボータもスタッフもとても歌える状態じゃない、と降板を希望・推奨していたにも関わらず、
支配人が”どうしてもあなたに歌ってもらいたい。”と、頼み倒したのではないか?ということです。
この可能性を私が捨てきれない理由は、仮にボータが”歌いたい!!”と泣き叫んだとしても、
私が支配人だったならば、絶対にニ幕の後のインターミッションまで待たずに一幕後の舞台転換のタイミングで彼を舞台から引き摺り下ろしたであろうに、
あろうことか、インターミッションで降板させるどころか、全幕歌わせた、、、、そこに疑問の念を感じずにはいられないからです。
一体カバーは存在したのか?(昨シーズンの『ワルキューレ』みたいなことになっていたんじゃないでしょうね?
詳細はこちらの記事のコメント欄を参照ください。)、
存在しているならなぜ彼を登場させないのか?
大事な初日をカバーには任せられないから、こんな無理な状態のボータに全幕歌わせたのか?
なら、カバーの存在意義は何なのか?そんな頼りにならないカバーをどうしてメトは雇っているのか?、、、、と、疑問はつきません。

私がなぜにこれほどまでに熱くこの件を語るかというと、こんなことは歌手にとってもオーディエンスにとってもフェアでないからです。
普段力のある歌手であればあるほど、このような不本意な歌唱を、劇場はもちろん、シリウスやらライブ・ストリーミングやらこんな場で配信されて、
どれほど本人は悔しく残念な思いでいることかと思います。
それに『オテロ』のHDは10/27に迫っているんですよ。
具合が悪いのなら、ちょっとでも早く休養させて、その日に備えられるような環境を作ってあげるのが筋ってものではないですか?
それをこんなに無理させて全幕歌わせて何のメリットがあるっていうんでしょう?本当、支配人は何を考えているのやら、です。
それからオーディエンス。
私達は作品を味わうために劇場にいるのであって、こんなに全幕通して”彼は大丈夫だろうか、、。”とはらはらさせられた日には、
『オテロ』を鑑賞した気になれないというものです。

私が鑑賞することになっている公演は初日からたったの4日後ですので、
この歌いっぷり+全幕歌わされてしまった事実からして、”土曜にボータが出演する可能性はまずなくなったな。”と思いました。
そこで、誰が代わりにオテロを歌うのよ?という大問題の浮上です。
今シーズンの『オテロ』はBキャスト(何度も言うようですが、BキャストのBはB級のBではなく、単純に”二番目の”という順序の問題です。)に
クーラ&ストヤノヴァの二人が予定されていて、個人的にはこのBキャストの方を余程楽しみにしているのですが、
スケジュールが空いていればそのクーラを引っ張ってくるか、後はアントネンコかドミンゴ様(←これは話題になるでしょう!)、、
このあたりのテノールでないと、NYのヘッズたちは納得しないんじゃないかな、、と思っていて、誰が代役をつとめるのかしら?とちょっぴりわくわくして来ました。
なのに、その私の気持ちをじらすかのように、メトのサイトで土曜の公演からボータの名前がなかなか消えません。
いやーん、誰!?誰!?!?!?

しかし、ようやく前日の金曜になってサイトに現れた代役の名前を見て私は固まりました。
アマノフ、、、、? 誰、それ?

ということで、早速調査開始!したところ、どうやらマリインスキー劇場系のテノールのようです。
マリインスキー劇場系といえば、月曜の『トロヴァトーレ』のザジックの代役、ニオラーゼもそうだったよな、、と、
彼女の怪しい歌唱を思い出して、実に不安な気分になって来ました。
さらにYouTubeに上がっている彼の歌唱を聴いて、嘘、、、と思いました。
オテロを歌っている彼の声はひょろひょろと頼りなく、どうしてオテロなんかを持ち役にしているのか?と思うほどだし、
下の写真を見てもわかる通り、先に名前を挙げた3人の堂々とした(少なくともオペラ的基準では)良い男振りと比べると、
悲しくて泣きたくなってくるようなうだつのあがらない風采で、
このうだつのあがらない風貌はどれほど顔を黒塗りにしても隠せまい、、と、暗鬱とした気分になって来ました。



モシンスキーのプロダクションは1993/4年シーズン(このプロダクションの初演のオテロはドミ様でした)から存続しているもので、
再演を重ねるうちに当初のモシンスキーのアイディアが薄まっていったこともあると思いますが、
実にオーソドックスで、何ということのない、演出志向の強いオーディエンスには間違いなく”つまんね。”とレッテルを張られてしまうであろう演出です。
支配人の”次にスクラップするべきプロダクション”のリストの上位に食い込んでいるであろうことは間違いありません。
私はこのブログですでに何度も開陳している通り、演出を楽しみにオペラハウスに通っているわけでは全くないので、
正直、よっぽど出来の悪い、もしくは作品の妨げになっていると思われる演出以外なら、それなりに楽しめてしまいます。
むしろ、アイディアががちがちに決め込まれている新演出ものよりは、
ちょっと古ぼけた演出の方が、歌手に自由な演技・歌唱を許す余白があって、彼らの実力がよりはっきりわかって面白い、と思う時すらあります。
そんなことなので、まったくもって物語に忠実なモシンスキーのプロダクションは本来ならMadokakipの許容範囲内に収まっているはずなのですが、
どっこい、この演出はある欠陥のせいで、私としては実に珍しく、支配人の”そろそろ引退させても良いプロダクション”の判断に賛成です。
このプロダクションのセットはメトの舞台の奥行きを存分に利用したものになっているのですが、
その上に舞台上のプロップの配置の仕方のせいで、歌手の声が異常に大きく聴こえるスポットと、まるでその逆のエリアが混在しています。
フレミングとシュトルックマンに関しては、以前違う演目で歌声を聴いていますが、
彼らが舞台の奥行きのせいで声量が舞台後方に向かって大量に拡散してしまう、いわゆる”聴こえずらいスポット”に入った時は、
”彼らの声はこんなに小さくないのに、、、。”と気の毒になるほどです。
しかし、逆にすぐそばに背の高いプロップ(例えば柱など、、)がある場合は、声が異常に反響して、
作品の内容が内容だけに歌手に豊かな演技が求められるせいもああり、彼らが舞台上で良く動くのですが、
その度に歌手の声の聴こえ方が不自然に大きくなったり小さくなったりして、実に鑑賞しづらい。
デズデーモナがオテロに殺害される場面に関しては、それまでの半分位の舞台スペースしか使用しておらず、
しかも、ベッドの少し後ろに大きな壁があって、非常に音が聴き易く、ビジュアル、アコースティック共に優れた場面になっていますが、
それ以外の場面はビジュアルとしては悪くないものの、音響の面でほとんど欠陥があるとみなしてよい位ひどいです。
『愛の妙薬』をとっかえてる暇があったら、『オテロ』に手をつけるべきでした。



個々の歌手についてふれる前に先にオケの演奏の話を。
そういえば、フレミングとボータが再キャストされているだけでなく、指揮のセミヨン・ビシュコフまで5年前の公演と同じなんですね、、。
まるで、メトのアーティスティック部門は頭を使うことを拒否しているのではないか?と思えるほどのワンパターンです。
しかし、実は5年前の公演のことを言うと、ビシュコフの指揮は決して悪くなかった、、、
音楽作りが自然で、メトのオケのサウンドを尊重した演奏を心がけたのが勝因だったと思います。
しかし、今回はどうしたっていうんでしょう!?
5年の間にどこかで転んで頭でも打ったんでしょうか?それともHDにも乗るということで、変に肩の力が入っているんでしょうか?
妙なやり方で音楽をさわりすぎです。今回の彼は。
特に気になったのはヴェルディがせっかく流れを大切に書いている部分で、音楽をチョップアップするような味付けが散見されること。
例えば三幕でデズデーモナが、嫉妬に狂って完全に自分を見失なったオテロにあらぬ疑いをかけられ、
腕をつかまれたはずみで倒れたところに、”地に伏して泣くがよい!”と公衆の面前で唾棄され、
"A terra!... si...nel livido fango..percossa... io giacio"と歌い始める、オーディエンスの胸が最高に張り裂ける場面、
彼女の旋律に絡むように入ってくる金管がエキセントリックなまでにスタッカートになっていたり、だとか、枚挙に暇がありません。
そのようなビシュコフ節の中で10発中1発くらいは面白いな、、と思う箇所もありましたが、
全体的には、ムーティなんかが聴いたら頭から湯気を出して怒りそうな、ちょっぴり変った演奏になってます。
インターミッション中に、とあるカップルの会話が聴こえてきて、男性が女性に”なんかこの作品、プッチーニみたいだよね。”と言っているので、
”『オテロ』がプッチーニに聴こえるとは、変った感性だな、、。”と思いながら盗み聞きしていましたが、
今考えてみると、もしかすると、ビシュコフの、わざとヴェルディらしさを抹消するかのような指揮の仕方にも
そんな意見の一因があったのかもしれないな、と思えて来ます。



ルネ・フレミングのデズデーモナ。
彼女が歌ういわゆる”イタリアもの”の中では、一番の当たり役と言ってもよいのがデズデーモナ役でしょう。
相変わらず奇妙なねばっこい母音や独特のディクション炸裂!で、”いつものルネ様”してしまっている部分があるのは否めませんが、
最近少し声の響きの美しさに翳りが出てきた彼女にしては、この役で必要とされる全ての高音が思いの外綺麗に響いていて、
良くコントロールが利いており、全く危なっかしいところがなく、安心して聴いていられるのはポイントが高いです。
また、回数をこなしているだけあって、ペース配分も巧み。
逆にこなれ過ぎている感じがして、それがほんの少し興奮を殺いでいる部分がある、と言ったらちょっと厳しすぎるでしょうか?

”柳の歌~アヴェ・マリア”は私の好みからするとちょっとべたべたし過ぎている感じはあるのですが、
柳の歌での声のボリューム・コントロールは優れたものがあったと思います
(salceの繰り返しの表情の付け方、それからAh! Emilia, Emilia, addioでのAh!の爆発の仕方も適切だったと思います)し、音の響き自体は非常に綺麗です。
アヴェ・マリアも表現力はあるので(それだけに余計、ねばねば母音が惜しい!と思う)、
究極的にはヴェルディが書いた音楽の素晴らしさだとは思いますが、彼女が歌い終わって、オテロが寝室に入ってくる前に
ビシュコフが指揮棒を下ろして観客の拍手を待っても、オペラハウスは水を打ったように静かになったままで、
結局、オテロが舞台に現れるまで、この場面の悲しさ・せつなさを静けさの中で存分に堪能出来たのは幸いでした。
(シリウスで聴いた演奏は初日のそれもこの日の後の公演もここで拍手が出ていましたので、本当、ラッキーでした。)



シーズン・プレミエから批評家からの評価も高く、
この日の公演でももしかすると一番拍手が多かったのではないかと思われるイアーゴ役のシュトルックマンなんですが、
確かに演技や役作りにきちんとしたメリハリもあって、歌にパッションがあるのは良いと思いますが、
彼の歌だけに限って言うと、私のこの役での好みから言うと、少し歌い崩しが過ぎるかな、と思います。
彼をメトで初めて聴いたのは2010/11年シーズンの『トスカ』なんですが、
あの時も、生で聴いた時はすごく良いな、と思ったのですが、後日の公演を音だけで聴いた時には、あれ?結構崩してるなあ、、と感じました。
彼は生で鑑賞すると、演技との相乗効果で、そのあたりの崩しが気になりにくくなる、もしくは気づいても、ま、いいか、、となりやすいのですが、
私の場合、イアーゴはスカルピアより崩しの許容範囲が狭いので(ここがヴェルディとプッチーニの違いの一つかな、、と思う)、
歌に関しては少し不満が残りました。
ただし、彼は演技は本当に上手いな、と思います。そして、彼の演技の良いところは、いつも正攻法なところ。
あの糞『トスカ』でも、ガグニーゼがボンディの言いなりになっていたのに比べて、
彼は真っ当なスカルピア像で押し通すという、一つ間違えたら舞台で浮きまくっていたかもしれないリスクを犯しながら、説得力を持って歌い通してしまいましたし、
今回も、イアーゴと聞いて大部分の人がイメージする、そのままを舞台に再現してくれてます。
これは言うに易し、ですが、ここ最近メトでイアーゴを演じた歌手で、ここまで黄金正攻法のイアーゴ像を描出出来た人はいないです。
小悪党みたいなアプローチが多くて。



さて、いよいよオテロ役のアモノフ。
まずは、この大変なオテロという役を、リハーサルも立ち会っただけで、おそらくきちんとオケと一緒に歌う機会は一度もなかっただろうと思われる中で、
ひやひやしないで聴かせてくれただけでも感謝しないといけないと思います。
"Esultate"を乗り切った時は、客席から思わず安堵の吐息が聴こえたように感じたほどです。
結構背丈があってがっちりした幅をした体型のせいでしょうか?思いの外、写真で予想していたほどにはうだつのあがらない感じはなかったです。
また声もYouTubeで聴いて予想していたよりは、暗めの声で、
先ほど書いたようにセットの配置のせいで聴こえにくくなってしまった部分があったのは気の毒で、
こちらのトーシロ(ってトーシロのお前が言うな!ですが)・ブログで、彼には声量がない、と一刀両断していた人がいますが、
実際にはそう声量のない人ではないと思います。
とりあえず、『トロヴァトーレ』のヒューズ・ジョーンズのマンリーコ役のような、
”なんであんたがそんな役歌ってるわけ?”と詰め寄りたくなるようなレベルのものではありません。
また、既に実際の舞台で結構な回数歌っているせいか、代役としては演技も歌唱も落ち着いていました。
(ただし、5年前の公演で、オテロがデズデーモナを殺害する場面で、
ボータがフレミングを羽交い絞めにして、オケが演奏するタイミングに合わせて三度ぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっ、と首を絞めていた演技に比べると、
アモノフは体ごとフレミングにのしかかったまま、ずっと静止状態で、
扼殺というよりは、オテロの腹の脂肪で口をふさがれての窒息死か、もしくは彼の体重による圧死という感じがしてしまったのと、
そのせいで、フレミングの体の動きが制約されて、かろうじて、客席側に見えている腕だけで
気が遠くなった瞬間を表現しなければならなかったのが大変そうだな、、とは思いました。)
インターミッション前のカーテン・コールでフレミングをはじめとする共演者が本当にほっとしたような表情を浮かべていましたが、
今回、ボータの件があったり、また、このアモノフという代役がどういう歌を歌うか、心配しながら聴いたからでしょうが、
改めて、このオテロ役は、本当に大変な役だ、、という思いを新たにしました。
なので、それなりにこの作品をきちんとオーディエンスに味わわせてくれた、という点で私は感謝してます。

しかし、もし、聴き手が、メトでオテロを歌うというなら、最高のものを聴かせてくれ!というタイプの人なら、
彼の歌唱を物足りなく感じるだろうな、とは思います。
一幕、ニ幕では高音が少し浅い音になっていて、先に名前を出した3人のテノールの確固とした音の出し方に比べると、
いかにも自信なさそう、、という感じがします。結果としてはきちんと音は出ているので思い切りの問題もあると思うのですが。
後、彼にはカリスマが不足しているので、では、この先、彼をメトでこの役に配役し続けて、客がずっと満足するか?と言われれば、
かなり苦しいといわねばなりません。
実はこの感想を書いている時点で、『オテロ』のAキャストについては、HDが予定されている10/27の一公演を残すのみとなっているんですが、
結局、初日以外、ボータは一日も歌っておらず、このアモノフがずっと代役をつとめています。
どうなっちゃうんでしょうね、HDは、、、。
ボータが元気で戻って来ていつもの歌唱を聴かせられるよう、願掛けのために、トップの写真は初日のもの(ボータ+フレミング)を貼っておきました。

そうそう、もう1人。
Aキャストのカッシオ役は映画『The Audition』でいい味を出しまくっていたマイケル・ファビアーノが務めています。
彼はメトでは2009/10年シーズンの『スティッフェリオ』に続いて二度目の準主役での登場ですが、
彼は一回一回メトへの登場を大事にしているな、、という感じは伝わって来ます。
まだ主役級の役ではないから、ということもありますが、どの公演でも出来の差が本当に少なくて、自己管理もしっかりしてそうです。
彼の泣き所は、一声でそれとわかるような個性的な声でも美声でもない点と、
この役に必要な優男風、根は善良なのだけど、酒や女に弱い、という雰囲気が不足している点で、
この点で数年前にザルツブルクで同役を歌った、彼と同じ学校の先輩にあたるコステロの歌唱に比べると説得力で劣ります。
しかし、そのコステロがリリコの役への脱皮で苦労しているのに比べて、
ファビアーノはきちんとそれらの役を歌える素地やサウンドがあることをのぞかせる歌唱で
(トップに上がった時のしっかりしたよく開いた響きなどにそれを感じます。)、焦らずこのまま精進を続けて欲しいと思います。
そして、Bキャストのカッシオは2011年のメトの日本公演でメト・カンパニー・デビューを果たしたドルゴフ。
彼はまだNYでは一度も歌ったことがなくて、カッシオが正真正銘のメト・デビューになるのでこちらも大変楽しみです。


Avgust Amonov replacing Johan Botha (Otello)
Renée Fleming (Desdemona)
Falk Struckmann (Iago)
Michael Fabiano (Cassio)
Eduardo Valdes (Roderigo)
Stephen Gaertner (Montano)
Renée Tatum (Emilia)
James Morris (Lodovico)
Luthando Qave (A herald)
Conductor: Semyon Bychkov
Production: Elijah Moshinsky
Set design: Michael Yeargan
Costume design: Peter J. Hall
Lighting desing: Duane Schuler
Choreography: Eleanor Fazan
Stage direction: David Kneuss
Dr Circ B Odd
ON

***ヴェルディ オテロ オテッロ Verdi Otello***

IL TROVATORE (Mon, Oct 8, 2012)

2012-10-08 | メトロポリタン・オペラ
10日と間が空いていない公演同士でこんなに差があっていいものなのでしょうか?というよりも、こんなに差が出得るものなんでしょうか?
、、、いやー、びっくりしました&おそろしかったです、まじで。

決して簡単ではないレオノーラという役で、なかなかに優れた、しかもパッションのある歌唱を聴かせて印象的なメト・デビューを果たしたユーと、
長いキャリアで幾度となくアズチェーナ役を歌った中でも、彼女をこれまでフォローして来た私が、
これまでで最高の出来だったんじゃないかと思うほど壮絶な歌唱を聴かせたザジックのおかげで、
先週末のマチネの『トロヴァトーレ』が大変にエキサイティングな公演であったのは、感想にも書いた通りです。

あれから約一週間、本来Aキャストでメト・デビューを果たす予定だった(にもかかわらず、病欠で任をユーに譲ることになった)
カルメン・ジャンナッタジオがシーズン二度目の公演から舞台に立っていることを知り、
ここはやはり彼女も聴いておかねば、、ということで、再びメトにやって参りました。

前回はずっと立って見ているとはいえ、30ドルかそこらのチケット代であんな良い公演を見せてもらって、なんか申し訳ない気すらしてくるほどでしたし、
今日は仮にジャンナッタジオがすっ転んでも、少なくともザジックがちゃんといるわけだし、
座って鑑賞しようかな、、、という思いも一瞬頭をかすめたのですが、こういうのを虫の知らせというのでしょうか、
ま、ジャンナッタジオがとても聴いていられないほどひどいという可能性もゼロではないし、何があるかわからん、、、ということで、今日もスタンディング・ルームです。

前回鑑賞した公演を思い出しながら、”しかし、ザジックの先週の歌唱はほんと素晴らしかったから、あれを越えるのは難しいだろうなあ、、。
もしかすると、彼女を長らく応援して来た身としては、あれを彼女の最後のアズチェーナとして記憶に留めた方が幸せだったかな、、。”
などと考えているうちに、カリガリ博士が指揮台に登場して来ました。

前奏の部分で、先週の公演よりも少しオケの音が重いので、お疲れモードかしら、、?とも思いましたが、
彼らは歌手の歌の内容が良い時はそんな時でもすぐに追いついて来るのをこれまで何度も聴いたことがあるので大して心配していなかったのですが、
フェランド役のロビンソンが、伯爵家にまつわる不吉な話を語る部分のうち一番恐ろしい箇所といってよい、
E d'un bambino, ahimé l'ossame 
bruciato a mezzo, fumante ancor!
(そして、ああ、子供の骨は半分焦げて、そこからまだ煙がくすぶっていた!)
のbruciato a mezzoが繰り返される最初の方で思いっきり言葉を噛んでしまって余計な音が増えてしまったためにオケの演奏とずれまくり、
カリガリ博士はそれですっかりパニックしてしまったのか、立て直し方が全くわからないのか、
ロビンソンの歌うパートが終わって合唱が入ってくるところでオケが自力でその混乱を抜け出すまで、全くなすすべなし、、の体で立ち尽くしているではありませんか。

まさか、この指揮者、、、。
一般に優れた歌劇場と言われている劇場のオケはどこもそうだと思いますが、
良いキャストが揃っていれば、指揮者が無能でもオケが勝手に上手く演奏してくれる時があって、
それで助かっている・得している指揮者の名前を挙げよ、と言われたら、すぐに頭に浮かんで来る人が何人もいます。
そういう時は、はっきり言って、私が指揮台に立って腕を振り回していても多分同じ結果が出て来るでしょう。
先週の演奏は、もしかすると、この、私が指揮台に立っても大丈夫な状態になっていたのかもしれない、、、。
指揮者ってのは、力のないキャストが失敗をしてしまったり(また、力のある人でも稀に失敗をすることはあるでしょう)、
力はあっても老齢や妙な自信とエゴから自分勝手な歌唱を出してくる歌手(キャリア末期のパヴァロッティや最近のネトレプコ、
ただ、ネトレプコの場合はそれだけでなくて、技術の鍛錬や声質がレパートリーで求められる最低限を満たしていない、ということも理由にあると思いますが。)
にも対処していかねばなりませんが、もしかすると、この指揮者はそういった修整・調整能力のない指揮者なのかも、、、。
舞台が始まってまだそう時間が経っていないうちからこんなことになって、嫌~な予感が立見席のMadokakipの周りに渦巻いて来ました。



いよいよレオノーラ役のジャンナッタジオの登場。
上は彼女のFacebookから借用して来た、今回の『トロヴァトーレ』の衣装合わせの時に撮影したと思しき写真ですが、
見てお分かりの通り、小柄で華奢ななかなかの美人です。
いや、なかなかどころか相当美人と言ってよく、おそらく彼女自身も彼女のエージェントもそれをセールス・ポイントにしていかねば!とばかりに、
彼女のFacebookもファッション・モデルのそれか?と思うほどに、そのルックスを強調した写真のオン・パレードです。
確かに、どんな種類のどんな時代・スタイルの衣装でも似合っていて、それはオペラが視覚も含めた舞台芸術であることを考えるとプラスであることは間違いありません。
また、ネトレプコやガランチャの美人さがどことなく大造りなのに比べると、日本人にも受けやすい繊細なタイプの美人です。
彼女のその美人さは、当然のことながらルックスの良いアーティストに目がないゲルブ支配人の目に留まるところとなり、
オープニング・ナイトの『愛の妙薬』のライブ上映(オープニング・ナイトのライブ上映はリンカーン・センターのプラザとタイムズ・スクエアのみで行われる)でも、
『オテロ』に登場するルネ・フレミングと共にフューチャーされて、司会のデボラ・ヴォイトにインタビューされたり、
上演後のパーティーにネトレプコらと一緒に写真に納まっていたり、と、メト・デビューの歌手としては破格の待遇を受けているのですが、
おそらくその時にイヴニング・ドレスのような薄着で一気に気温の下がったNYの夜を外で過ごしたりしたのが、
風邪をこじらせて初日を降板しなければならなくなった理由なんじゃないかと思います。

歌手には出演するどの公演も貴賎なく常に全力を尽くして欲しい、と思うのがオーディエンス心というものですが、
やはり歌手にはこの公演は絶対外してはいけない、今出来ることをこの公演で100%、いや願わくばそれ以上、を発揮せねばならない、という特別な公演というのがあって、
メト・デビューというのは間違いなく、そういった”外せない公演”の一つだと思うのです。
彼女の歌を聴く前から小言で申し訳ないですが、本来メト・デビューになっていたはずの先週の公演を休まなければならなくなった、
これだけで、私は”駄目だな、、この人は、、。”とちょっと思ってしまいます。
人間は誰でも風邪をひいたり、具合が悪くなったりするものですが、メト・デビューの日にそれをやってちゃいかんのです!
運が悪かった、、というかもしれませんが、運も実力のうち、とは良く言ったもので、
そういう隙があるから、その間にユーが力を発揮して、NYのオーディエンスに”面白い素材の歌手が出てきたぞ。”と注目され、
メディアからも軒並み好意的な評を受け、
たった一公演遅れでメト・デビューを果たしたジャンナッタジオは彼女のことを良く知らないオーディエンスの話の隅にあがることもなく、
もちろん彼女の公演に改めて評が出ることはないので仮に彼女の歌が素晴らしかったとしてもそれが広く伝わることもなく、、ということになってしまうのです。
あれだけ期待されて特別なお膳立てまでしてもらっておいて、なんてもったいない。

彼女はレイラ・ジェンチェルが先生&メンターだった時期があるらしく、そのジェンチェルが、
”メトで歌わなかったことをとても残念がっていた”ことから、
メト・デビューを決めた、というようなことが彼女のFacebookのページに書いてありましたが、
”メトで歌う”ってことは単に舞台に出て行って、口を開けて、舞台をつとめる、ってことだけじゃないんですよ。
メトで歌うからには、自分という歌手を世界によりよく知ってもらって、より広いオーディエンスにリーチ・アウトする、
そのための始まりの場所なのだ、という気構えがないと。
ユーが良かったのは、彼女の歌唱から、こういった目的意識、良い意味での野心が漲っていたことです。
またジェンチェルが言わんとしていたことは、”メトで歌うことでNYの観客に自分の実力を生で感じでもらえなかったことが残念だった”のであって、
単に”メトに登場す”という記録をバイオに残すためだけにメトで歌いたかった、と言っているわけでは決してないでしょう。



まあ、歌を聴く前からあれこれ言うのも何ですから、歌を実際聴いてみましょう。
ということで、その彼女の歌なんですが、うーん、、、何ていうのか、、
ジャンナッタジオの歌唱からは、上で書いたような、良い意味での野心が全く感じられないですねえ。
別にこれが駄目でも次があるわ、ってな感じ?(その点、ユーはこの機会を逃してはいけない!という使命感みたいなのがありました。)
イタリアでそこそこ成功しているからなんでしょうか、、なんか、のんびりしてますよ、彼女は。

声や歌に関しては、まだ彼女が風邪から完全には回復していない可能性もあることは念頭に置いておかないといけないと思いますが、
まず、レオノーラ役で求められるテッシトゥーラにおける彼女の声はあまり魅力的ではないですね。
サイズはややユーより小さいですが、それ自体はあまり問題ではなく、むしろ響きというのか、その辺にあまり個性がないのが辛いし、
中音域以上は比較的ドライな音なのに、低音域にちょっと今のネトレプコを思わせるねっとりとした響きが混じるのが嫌だな、と思います。
イタリア人のよく訓練されている歌手はどの音域も割とすぱっと音が出て来る人が多いという思い込みが私にはあるので、
彼女のことを良く知らずにこの辺の音だけ聴くと、ロシア圏出身の歌手なのかな?と勘違いするくらいです。
ただし、この役で求められる最高音域あたりや、彼女が自分の意志で入れている高音、これは線は細めですが、ものすごく綺麗な響きが聴ける時があって、
彼女自身、高音域・もう少しテッシトゥーラが高めの役の方が歌っていてより心地良く、楽なのかな、と感じる部分はありました。
(やはりFacebookに、ジェンチェルが『トロヴァトーレ』を歌う際には取り入れていたという、Dフラットの音を含むカデンツァを、
今回彼女へのトリビュートとして、取り入れている、とも書いています。)
このことから、レオノーラ役ではなく、もっと他の役に適性があるのかもしれないな、という風にも思います。

しかし、もし、一点だけ、私が彼女の歌のどうしても苦手!なところをあげるとするならば、
リズムのapproximation、ここに尽きるかもしれません。
そう、彼女の歌にはリズムによるパルスが欠けていて、”大体このあたり”的な感じで歌っているような感じがするのです。
音を転がしたり、そういうことはきちんと出来ているので、技術の問題ではなくて、リズムに関しての、生まれもったたセンスや能力の(無さの)問題なのかな、と思うのですが、
今日の歌だけからだと、彼女は正確に歌う、ということがどうにもこうにも出来ない人のように見受けました。
歌手が、感情の表現の目的のために、ある箇所だけ、少しだけ前のめりで歌う、またはためて歌う、ということは当然良くありますが、
良い歌手の場合、まず正しいビートが歌の中にあって、前のめりで・ためて歌っていながらも、
この基本のビートが常にその後ろに感じられる、ここがポイントで、
だからこそ、観客にも、ああ、ここは怒りの表現のために前に出たんだな、とか、迷い、あるいは、深い愛情を表現するために溜めて歌っているんだな、
ということがはっきりわかるわけです。
その後ろのビートが常にぐにゃぐにゃしていたら、本人はタメたり前のめりに歌っているつもりでも、その意図は全然観客には伝わってこなくて、
リズム感のない歌手だな、という感触だけが残ってしまいます。
ユーはジャンナッタジオよりもきちんとしたリズム感を持っている上に、そういうタメや前のめりを多用しないんですが、
ジャンナッタジオの方はなぜだか音色でなく圧倒的にリズムの揺らしで感情を表現しようとすることが多く、
指揮者がこれに応えられるような、”ここはこう歌って!!”という圧倒的な指示を出せる人で、しかも彼女が緩くなった時にはさっとサポート出来る人ならまだ良いですが、
カリガリ博士は前例で見た通り、そのあたりがからっきしなので、二人してごちゃごちゃとリズムを乱しまくって、オケを混乱状態に陥れていました。

それからとどめをさすような感じになりますが、彼女はこんなに美人なのに、演技が無茶苦茶下手くそなのにびっくりしました。
写真なんかではすごくフォトジェニックに写っているので、すごく意外だったです。
舞台で動いている時に、自分がどのようにオーディエンスに見えているか、ということを本能的に感じる能力が不足しているし、
動きのテンポや間も悪い。
先週の公演の感想にも書きました通り、このマクヴィカーの『トロヴァトーレ』は、決して演技するのが簡単な演出ではありません。
背景はシンプルで固定しているし、合唱を除くと極めて登場人物が少なく、
しかも演技力の無さを誤魔化したり、せかせかと立ち演じています、という振りを可能にするような、
今○○して、次はXXして、、というような忙しい連続したコリアグラフィーもありません。
要は、自分で、少ない動きをテンポや間を上手く使いつつ、客に説得力をもって見せなければならない。
だから、マクヴィカー版『トロヴァトーレ』は体の動きの美しさ、間、テンポといったものに欠けている歌手にとっては地獄のように苦しい演出なのです。
それにしても、いくら今オペラ界がビジュアル重視になって来てると言ったって、演技が出来ないのでは美人の意味なし!



先週の公演ではプロの公演に一人アマチュアが混じっているのかと思うような歌唱を繰り広げていたマンリーコ役のヒューズ・ジョーンズ。
正直言っていいですか?なんか、このテノール、見てて・聴いてて腹が立って来るんですよね。
歌手に対してこういう気持ちになることって、私の場合、本当稀、というか初めてじゃないかな?
メトに来る歌手のほとんどは、やはりそれなりに力のある人で、力のある人というのは自分の力をやっぱり良くわかっているんです。
昨シーズンの『ジークフリート』で急に降板したギャリー・レーマンに替わって表題役をつとめた若モリス(ジェイ・ハンター・モリス)なんかも、
舞台を見るまでは”大丈夫なんかいな、、”と思いましたが、
ちょっと一本頭のネジがゆるいように見えて、実は意外と冷静に自分の出来ること、出来ないことを判断しながら歌っているのには感心しましたし、
カーテン・コールでオーディエンスから大きな拍手が出ても、特に馬鹿喜びするでもなく、割りと淡々とした様子なのを見ると、まともな歌手なんだな、と思いました。
先週の公演は公演全体としてとてもエキサイティングだったので、メディアの評も、女性陣(ユーとザジック)を絶賛、
ヴァサロはパー(もちろん、頭がくるくるパーのパーではなく、ゴルフで使うのと同じ意味のpar)、と来て、まあ、ここまでは妥当な評なんですが、
ここで4人が主役の作品で、ヒューズ・ジョーンズだけ落とすのは気の毒だろう、、ということなんでしょう、
彼もパー、みたいな書き方になっていて、これは私がヴァサロだったら絶対切れるよな、という評なんですが、
まあ、メトに来る歌手なら、批評家が気を使ってそうしてくれたことくらい、読み取るよな、と思ってました。
それが、どうしたことでしょう。
あの評をまともに受け取っているのか、今日の彼は”俺って結構いけてる。”とでもいうような自信満々&得々とした様子で歌っているではありませんか!
アルマヴィーヴァ伯爵かと思うような声でマンリーコを歌っているところも、嫌といえば嫌なんですが、
その上にジャンナッタジオの上を行く自由奔放なリズム!!!
しかも、彼のリズム感のなさは間違いなく技術の不足によるもので、発声のきちんとした基礎も出来ていないし、
何をどう間違ってこんなテノールがメトの舞台に立てることになったのか?
自分の完全なる力の不足を恥ずかしがるどころか、気づいている様子もなく、気持ちよさげに妙な音で歌い上げている(←これこそが二流歌手である証)
のを見ていると、どうしようもない田舎もん(であるために、きちんとした比較対象がない)か、それこそ頭のネジがとんでいるんだと思います。

一幕でまともな歌を歌っているのはルーナ伯爵役のヴァサロだけ、、、助けてくれーっ!!!!



二幕。ザジックも登場することだし、ここで取り返してもらわないと。
で、アンヴィル・コーラス。
なーんかまた演奏の足取りが重たくなっているけど、これは何?オケ?指揮者?
やがて、舞台上で上半身裸の男性たちがどんちゃんと槌を振り下ろす(←ゲイのオペラファン垂涎のシーン)のと一緒に歌われる
Chi del gitano i giorni abbella? (ジプシーの男達の一日を明るくするのは誰?)の部分で、
あれあれあれあれ~~~~~ オケピの演奏と裸のお兄さんたちの槌が下りるタイミングがどんどんずれて行ってますよ~。
そして、それを修整しようとあせるカリガリ博士!!
しかし、これは舞台にいる裸のお兄さん達と合唱とオケピにいるオケのメンバー全員に指示を飛ばさなければならないという超難問!!
こんなことが、当然カリガリ博士の手に負えるわけもなく、
オケの中には何か舞台でおかしなことが起こっとる!と自主的に調整しようとしているセクションがあれば、
カリガリ博士の指示がそれに追いついていないのを見て当惑しているセクションもあり、
La zingarella!(それはジプシーの娘!)に至るまでには、オケが大崩壊、大脱線、、、それをまたしてもなすすべなく見守っているカリガリ博士、、、。
つい、”見事にやっちまいましたね、博士。”と声の一つもかけたくなるような出来です。
いやー、メトのアンヴィル・コーラスでこんな見事な大脱線、私、初めて聴きました。
そもそもどうしてそんな風にずれていってしまったわけ??と不思議に思っている間に、また繰り返しで同じ箇所がやって来てどきどきしましたが、
さすがに同じミスは出来ない!とばかりに、異様に大きな振りで舞台上とピットに指示を出すカリガリ博士が涙を誘いました。

もうこうなったらザジックに頑張ってもらわねば!
アンヴィル・コーラスに続けて始まる”Stride la vampa 炎は燃えて"
!?!?!?
最初のフレーズから思いっきりピッチが狂ってる!!!!
っていうか、、、Stride la vampa! La folla indomita の全部の音(おおげさでなく本当に、、)がずれてるので移調かと思いましたよ。
しかし、こんなにたくさんの音数にわたってオケを無視して一人移調、、、すごいなあ、、って感心してる場合か!っての。
いや、しかし、待てよ。何か声が違わないか?これ、ザジックじゃないよね?絶対にザジックじゃなーーーーい !!!!!
(そりゃそうだ。ザジックは絶対にこんなミスしないもの。)
そして、続くcorre a quel foco lieta in sembianza!もまた一人移調、、、本当すごいなあ、、、ってまた感心してしまったじゃないですか。
しかし、ならば、Who the hell is she!?!?!?!
開演前にプレイビルを見た時はスリップ(キャスト・チェンジを知らせるための細長い紙)は入ってなかったのに!!!
Madokakip、ぼー然。

いや、確かに先ほどは先週の歌唱をザジックのアズチェーナの最後の記憶として留めておくのもよいかも、、なんて思ってしまいましたよ。
だから、ばちが当たったのかしら。でもだからといってこんな歌を聴くために今日ここに来たのではないのに、、、。
このメゾの歌は本当あまりにひどくて聴くに耐えなかったので多くは語りますまい。
(マンリーコとの対話のシーンで出て来る高音も、途中で怖くなったのか、周りの音もろともわけのわからん音に下げて歌っていて、しかも音符の長さも無茶苦茶で、何それ、、、?って感じでした。)
Madokakip、しょぼーん。
結局、私のプレイビルからスリップが抜け落ちていただけだったようで、インターミッション中に改めてもらったプレイビルにきちんと入っていたお知らせによると、
このメゾはムツィア・ニオラーゼという歌手で、ここから二つ上の写真が彼女なんですが、
マリインスキー劇場のプロフィールページに掲載されているところを見るとゲルギエフの息のかかった歌手なのかもしれません。

いやー、でも今日は立ち見にしておいて本当よかった、、、良い座席に座ってたら憤死するところでした。

結局、4人の中でまともに歌っていたのは一幕の後もヴァサロだけ。
カリガリ博士は今日は至るところでなすすべなく立ち尽くしてぼーっとしたり、かと思うと
”君が微笑み Il balen del suo sorriso”では、異常にまったりとフレーズを長めにとったりして、
もう半分正気を失っている感じなんですが、これ、バリトンは歌うの大変だろうなあ、、と思いながら聴いていたんですけれども、
よくヴァサロが食い下がって、良い歌唱を聴かせていました。
その上、ゆっくりなのを逆に利用して、先週の公演では入れていなかった高い音を含んだオーナメテーションを二度入れてたりして、
おぬし、やるな、、という感じだったんですが(このあたりのオーナメテーションの処理の上手さを聴くと、
彼はベル・カント作品でも手堅い結果を出していたのを思い出します。)
何を思ったか、カリガリ博士が終盤にいきなり脈絡なく曲のテンポをあげてしまって、これにはヴァサロもびっくり!
Madokakipなどは”こいつ、今日、ドラッグでもやってんじゃねえだろうな?”と思わず疑惑の目を向けてしまったほどです。
さすがにヴァサロもゆっくりなフレージングからいきなりギアを切り替えるのが間に合わなかったようで、
軽くオケとミスコーディネーションになってしまったのが、それまですごく良い内容の歌唱だっただけに残念でした。
きちんとまともに歌っている歌手の歌までおかしくするカリガリ博士、、、嗚呼。

こんな内容でしたので、もうインターミッションで帰ってしまおうかな、とも思ったのですが、ここまで来たら、
私の好きな”恋はばら色の翼に乗って D'amor sull'ali rosee”でのジャンナッタジオの歌唱も聴いておこう、と、いうわけで、
その”恋は~”なんですが、、、あっぷあっぷ感が少ない、また、高音でピアノの音を出せていたのはユーより良かったと思いますが、
ピッチのコントロールが上手く行っておらず、トリルはほとんど存在してしません、って感じのそれでしたし、
先週の公演の感想の中で紹介したカラスの音源で言うと3’26”あたりにある高音から、するするする、、、と下がってくる音型、
高音はほとんどアタックしただけで、すぐ下りて来てしまったし、その後の音の動きもなんだかぎこちなくてがっかりしました。
今日の彼女の歌からは、ユーよりエキサイティングなものはほとんど何も感じられなかったです。

”これぞ立ち見の利点”とばかりに、このアリアが終わってすぐに心おきなくオペラハウスを後にした私ですが、
その後、友人から実はその後にこそ、今日の公演のハイライトがあったと聞いて、早くオペラハウスを出過ぎたー!と後悔した私です。
ただ、そのハイライトというのが、カリガリ博士が再び歌手とのコーディネートに失敗し、オケを崩壊させ、
今度という今度はオケが数秒完全停止してしまった、という内容であるので、後悔すべきかどうかは微妙なところですが。

Gwyn Hughes-Jones (Manrico)
Carmen Giannattasio (Leonora)
Mzia Nioradze replacing Dolora Zajick (Azucena)
Franco Vassallo (Count di Luna)
Morris Robinson (Ferrando)
Hugo Vera (Ruiz)
Maria Zifchak (Inez)
Brandon Mayberry (A Gypsy)
David Lowe (A Messenger)
Conductor: Daniele Callegari
Production: David McVicar
Set design: Charles Edwards
Costume design: Brigitte Reiffenstuel
Lighting design: Jennifer Tipton
Choreography: Leah Hausman
Stage direction: Paula Williams
SR right front
OFF

*** ヴェルディ イル・トロヴァトーレ Verdi Il Trovatore ***

CHICAGO SYMPHONY ORCHESTRA (Thurs, Oct 4, 2012)

2012-10-04 | 演奏会・リサイタル
ムーティと言えばメトの2009/10年シーズンの『アッティラ』で思う存分帝王様ぶりを発揮され、
リハーサル中から数々の笑えるエピソード(そのいくつかは上でリンクした『アッティラ』の記事をどうぞ。)で我々を魅了してくださいました。
そして、その『アッティラ』の公演から半年後の2010/11年シーズンよりシカゴ交響楽団の音楽監督としての任につかれ、
シーズン終盤(4月)にはカーネギー・ホールにアントネンコ、ストヤノヴァらを従えた演奏会形式の『オテロ』を持って来てくださいました。
(ややっ!今考えると、この『オテロ』もブログに感想をあげてないですね。申し訳ありませぬ、、。)

メトの『アッティラ』でのムーティの指揮に(おそらく私以上に)強い感銘を受けた私の連れは、
彼とシカゴ交響楽団の組み合わせに猛烈な興味を引かれるらしく、
その『オテロ』の演奏会のチケットをとってしまった後で、その日の夜の9:00頃からどうしても抜けられない仕事が入っていることが発覚した時には大悶絶してました。
これまでにも似たような事態はあったので、その時と同じように割りとあっさりとあきらめるかと思いきや、
”一幕だけでも見に行く!”としつこく食い下がり、実際にそうしてしまった時には、相当ムーティ&CSOのコンビのことが気になるんだな、と驚かされました。
その『オテロ』は一幕での演奏が意外と大人しくて、またムーティも割とオケに自由に演奏させている感じで、
”ふーん、、。”という感じだったのですが、
ニ幕以降、帝王様らしい味付け&締め付けが炸裂し、ストヤノヴァの素晴らしい歌唱もあって、演奏はヒート・アップ、
終演後は”ああ、ムーティらしい演奏を聴いたな。”という充実感がありました。
それをそのまま帰宅した連れに伝えた時、猛烈に悔しがったことは言うまでもありません。

そんな彼らがカーネギー・ホールの今シーズンのオープニング・アクトをつとめることになり、
オープニング・ナイト・ガラの『カルミナ・ブラーナ』を含めた3日間の公演をNY滞在中にこなしてくれることになりました。
シンフォニー・オケが歌ものを持ってくる場合、大抵はデフォルトでそれが私達の鑑賞する演奏会になるのですが、
私はあまり『カルミナ・ブラーナ』が好きではないのと、
連れが二日目のプログラムに『さまよえるオランダ人』の序曲を見つけてしまい、”絶対これに行きたい!!”と言い出し、
私が”でもこの日は変なNY初演ものも含まれてるよ。””しかもメインがフランクだよ。”とワーニングを出しても、
”なら序曲だけ聴いて帰ってもいい。”と言います。
”演奏会全体で二時間以上あるうち、オランダ人序曲の演奏時間はたったの10分強くらいだよ?それでもいいの?”
”うん。シカゴの金管でオランダ人が聴いてみたい。”
、、、きっとショルティ&CSOの演奏が頭の中を駆け巡ってるんだな。



こうなると音楽上のワグネリアン(演出のトレンドとかリブレットの意味を執拗に考えたり議論するタイプのワグネリアンではなく、
もっぱら興味の対象が音楽に向かっている。)である彼に何を言っても無駄、
私自身もオペラがらみの曲がプログラムに入っているのは楽しみが一つ増えることになりますし、
もちろんオランダ人序曲は私も大好きな曲ですので、まあいいでしょう。
ということで、二日目の演奏会に決定~。

カーネギー・ホールに到着すると、エントランスのところに指揮中の帝王のポスターが掲げられています。
連れがぼそりと”相変わらず郵便ポストの投函口みたいな、、、。葉書でも入れたくなるなあ。”というので、ポスターを見上げると、
確かに相変わらず”俺様に逆らう奴は殺す!”とでも言いたげな迫力満点の一文字口顔で棒を振っているムーティの姿がありました。

実は私は『オランダ人』という作品は全幕どころか序曲だけとっても、
何気に”そこはそう来ないで!!”とこちらに突っ込みたい気分にさせる危険スポットに溢れた、手強い作品だと思っていて、
演奏技術ではなんら申し分のないオケでも、9割9分は満足な演奏なのに残りの1分のところで”そこ惜しい!”と思う部分があったりして、
いまだこれさえあれば!!と思うような種類の名演奏・名録音に出会っていないように思うのです。
大野さんから紫綬褒章を剥奪しに行かなきゃな、、と思っているメトの2009/10年シーズンの『オランダ人』(ドレス・リハーサル本公演)は惜しいどころの騒ぎじゃなかったし、
例えば上のCSOの音源でも、すごく達者な演奏だな、、とは思いつつも、
私の思うオランダ人とは何か違う、、と不遜なことを思ってしまったりするわけです。



ところで、今回、なぜCSOがわざわざメトのいるNYで『オランダ人』を、、、?とずっと疑問に思っていて、
例えば前回の『オテロ』みたいな作品はムーティ帝王の大得意とするレパートリーなので、
”メトもよろしいが、こういう解釈もありまっせ。”というのをNYのオーディエンスに提示するという意味で非常に意義深い試みだと思いましたが、
はっきり言って”ムーティのワーグナーはさすがだ、、。”というような話はあんまり聞いたことがないし、
彼がヴェルディ作品のエキスパートであるほどにはワーグナーの作品のエキスパートであるとも思わないし、
逆に、メトは多分ドイツ圏のオケに続いて優秀なワーグナー演奏を聴かせることのできるオケを抱えていて、
しかもCSOはオペラ・オケですらないんですから、どうしてそんなものをわざわざNYに持ってくるんだろう、、?
そして比較的選択肢の多いワーグナーの作品群の中でなぜあえて『オランダ人』なんだろう、、?というのが本当に不思議でした。

しかし、今ふと気づいたのですが、ムーティがメトで『アッティラ』を振った時期は2010年の3月、
大野さんの『オランダ人』は同年の4月、と、非常に時期が近いですね。
これはもしや、ムーティが『アッティラ』上演期間中にメトをぶらついていた、
するとどこからともなく聴こえる『オランダ人』のオケ・リハーサル、思わずひくつくムーティ帝王の眉!
そのリハのあまりの覇気のなさに、”『オランダ人』っちゅうのはなあ、こう演奏するんじゃあ!”とつい行動を起こさずにおれなくなって、
ついつい二年後(それが今年)のカーネギー・ホールでのCSOの演奏会の演目に入れてしまった、、、、
いやー、大野さん、数年後のCSOの演奏会の演目にまで影響を及ぼしてしまうなんて、まったくあなたって人は、、、ってな妄想が膨らんで困ります。

まあ、この妄想が事実であってもそうでなくても、オペラハウスのある街でオペラ絡みの曲を演奏するということは
”俺達のこの演奏を聴いてみろ!”というちょっとした挑戦でもありますからね、
ならば私もいよいよ10割納得!のオランダ人序曲が聴けるか?!と期待しても誰も責められないというものです。



帝王が現れると拍手の嵐。
それにしてもムーティは今いくつでしたっけ?1941年の7月生まれだから、今日の公演時点で71歳?
その歩く姿勢の颯爽としていること、動きのきびきびしていること、体型が昔からほとんど全くと言っていいほど変っていないことは、
彼より少し若い(1943年6月生まれ)はずなのにすでに半隠遁生活に入ってしまっているレヴァインとあまりに対照的過ぎます。
この二人を比べると、イタリア式食生活 vs アメリカ式食生活を一生継続した場合の実験サンプル!って感じで、
私もオープニング・ナイトでは大変な事態になったことだし、もっと食べるものに気をつけねば、、と、つい音楽とは全く関係ない考えが頭をよぎります。

いよいよ、『オランダ人』序曲。
弦のあとを追ってホルン、続いて他の金管もなだれ込んで来た時、なんじゃこりゃーっ!?!?と思いました。
音がでかいーっ!鼓膜が破れるぅ~!!!
まあ、オペラハウスのオケピで演奏するのと違って、ステージの上で演奏してますし、その分音が大きく聴こえるのはわかるんですけど、
本当にここまで大きな音で演奏しなきゃいけないの?って位、ばりばりと吹きまくってます。
やだ、、NYフィルみたい、、
私はメトの大音響リングもサバイブしたことがあるし、爆音が持っている魅力というものもそれなりに理解しているつもりなので、
ちょっと大きな音が出てきたら”下品!”と騒ぎ立てるインテリ・リスナーでは全くないですが、
そんな私でもこれはちょっとどうなの?と耳を覆いたくなるほどの激音なのです。
『アッティラ』の時はメトのオケが暴走しないよう、音量も含めて細かく指示を出していたと聴くムーティなのに、、、。
”メトの暴走がいけなくて、どうしてこれがOKなの!?”と葉書にしたためて、その口に投函したいくらいです。

また、細かいことを言うと、最初の弦のトレモロのところもただ鳴っているだけで、
これから始まるオペラ本体の物語を描写・予感させるものがないなあ、、というので、
曲が始まってほんの数秒で今日の『オランダ人』は私の求めている10割の演奏にはならないな、というのを感じてしまって、
そして、結局、これら二つの印象がそのまま全体に対する印象にもなってしまいました。

私は一口に大きな音・声と言っても、二通りあるのではないかな、と思っていて、
その時に鳴っている全ての音の方向と表現しようとする内容が調和した時、
物理的には極めて大きい音量であっても、それをうるさいと感じることはなく、むしろ心地よく感じられるような状態になって、
まるでその音の中に包まれ一体化するような感覚が起こります。
なんですが、個々の奏者・歌手の技術がどれだけ卓越していても、何か完全に方向や気持ちがかみ合わない状態でばりばりと演奏されると、
その大きさが気に障りますし、そのような種類の大きな音とは決して一体感が得られず、
あくまで外にいる敵が体に侵入してくる様なアグレッシブさを感じます。
私はこの両方を生の演奏で感じたことがあるし、前者の快感を低俗なものと決め付ける気にはとてもなれないので、
物理的に音量が大きいこと、その点だけをとれば特に問題はない。
今日の問題は演奏が後者の方に陥ってしまっている、その点にあったと思うのです。

かなりムーティ色だな、、と思った昨年の『オテロ』の演奏会に比べて、
今年の演奏会はこの『オランダ人』に限らず、全体的にかなりデモクラティックな雰囲気の演奏会だな、という印象を持ちました。
ムーティはメトの『アッティラ』の時のように自分のサウンドをオケに強要していないし、
一方で、オケはオケで、過去のシカゴ・サウンドとは違う新しいサウンドをムーティと一緒に模索しようとしている風にも見えます。
それ自体はロング・スパンで見ると良いことなのだと思いますが、
こと、今日という日に『オランダ人』を演奏するという観点で見ると、まさにそこがネックになってしまったのではないかな、という風にも思えます。
どのように演奏すべきか、というビジョンがはっきりしないまま、
オペラの全幕公演のための序曲としてではなく、演奏会でこの曲を単独で演奏するという設定のせいで一層、
奏者にそれでは自分のヴィルトゥオシティを堪能してもらう場にしよう、と思わせてしまうような
(簡単に言うと各セクションの上手さ自慢の)場になってしまったように思うのです。
なので、上手で迫力ある割りに、なんか全体からコヒーシヴさとか物語性というものを感じない演奏になってしまったのではないかな、、と。

実は連れにこの話をした時、まず、私が”音が大きい。”と感じた点を驚かれました。
演奏会の一部として単独でこの曲を演奏する、ましてそれがその演奏会のキック・オフとなる場合、
アメリカのオーディエンスはやはりこういうどっかーん!という演奏を期待する傾向にあるのは否めず、
演奏する側もそれを期待されているのがわかっているし、
この曲に関しては、技術的には今日のようにパワフルに演奏する方が難易度は高くなるわけで、
その技術があるならやっぱ見せたいよな、という心理が働き、”それでは期待にお応えして、、。”と奏者が大ハッスル&大サービスしてしまう、、ということのようです。
今回の演奏条件や上に書いたようなことを考えると、”ああいう音量になってしまうんじゃないかな。”と言うのが連れの意見でした。

連れの言っていることの中で、私が最初にあまり深く考えていなくて、”なるほどなあ、、。”と思わされた点は、
この曲をCSOのようにパワフルに演奏することは、それが良いか悪いかは別として、
奏者にとっては私たちトーシロが考える以上に大変だし、技術的には難易度が高い、という指摘です。
実際に歌ったことや楽器を演奏したことのない私のようなちんぴらブロガーは、
”音でけー!うるせー!下品!!”と簡単に文句を言いますが、
大きな音を出すとということを可能にするために奏者の側で具体的にどれほどの技術・鍛錬、更なるスタミナが必要であるか、
本当にきちんとわかっているだろうか?それをわかったうえで文句を言っているだろうか?と考えさせられました。

幸いにも、NYは声楽のマスタークラスを聴講できる機会が多いですし、
メトをはじめとした場所で色々なステージにいる色々な歌手を自分の耳で聴くことが出来るので、
歌に関してはほんの少しはそのあたりの理解を深めて来れた、と思っているんですが、
その中で得た教訓は、優れた歌手の良さを完全に知るには、あまり良くない歌手の歌を聴かなければならない、ということです。
(当然ながら、良くない歌手ばっかり聴くのは問題外!)
この二つの両方を聴くことで、歌唱に必要な数々のテクニックを身につけることがどれほど大変なことなのか、ずっしりとした実感を持って感じることが出来るのです。
しかし、残念ながら、楽器について同じ種類の理解を持っているか?と尋ねられたら、私の場合、まだまだです、、と答えるべきでしょう。

以前、映画『The Audition』を鑑賞した父が、『連隊の娘』のアリアでハイCを連発していたアレック・シュレーダーのことを、
”ぴょんぴょんと蛙みたいに高い音を出しているだけでは芸術とは言えん。”と言うので、国際電話で軽く喧嘩になったことがあります。
オペラの歌唱に馴染みのない人は”ぴょんぴょんと蛙みたいに高い音を出す”ことがどれ位大変か理解できない、というのは頭ではわかっているつもりなんですが、
つい年老いた父を相手に熱くなってしまいました。ごめんなさい、お父さん。
確かにぴょんぴょんだけでは芸術にはなりませんが、芸術に到達するためにはぴょんぴょんを極めなければならない、それがオペラという世界なんだと思います。
ちなみに当時はまだメトのHDの上映に通い出したばかり位だった父も、
ほとんど皆勤賞に近いペースで通いつめているおかげで(というか、私に通いつめさせられている、ともいう。)、
今では相当な数の作品を鑑賞したことになるんですが、やはり、その「鑑賞を継続する」という行為は偉大なもので、
最近では”なるほど、、。”と思わせるような鋭い感想をどんどん繰り出してくるようになって来ました。
多分、今ならば、ぴょんぴょんのことも、少しだけ違う風に感じているのではないかな、、という風に思っています。
(しかし、私の父のことであるから、次の電話の時に”何を言うねん。わしの考えは全然変わっとらへんで。”と頑なになることも考えられるのであった、、。)

連れは私よりも全然楽器の演奏に関しては理解が深いので、私にやんわりと”君の意見はぴょんぴょん発言入っていないかい?”と言おうとしていたのだと思います。
あまりにもさりげない表現だったのでもう少しでスルーしてしまうところでした。
このあたりが性格の温厚な連れと、同じことをしてすぐに父と喧嘩になってしまった私とのキャラの違いかしら、、とも思います。

しかし、彼はまた、このようにも申しておりました。
”CSOがショルティと組んでこの曲を演奏した時は、確かに大音響なんだけれども、その大音響に迷いがなく、一つの方向となっていて
、それがすごい魅力になってた。”
そう、私が今一つのれなかった理由は、多分、そこなのだと思います。
私には今日の『オランダ人』の演奏にそこまでの確固とした方向性としての大音響というのを感じなかったし、
それだけでなく、一体どんな方向で演奏しようとしているのか、どのようにあの物語を描こうとしているのか、が混沌として今一つ良く見えなかった。
大体ムーティがオケの意見を尊重するなんて変!そんなキャラじゃないでしょうが、あなた、、という。
だし、かといってオケが本当に本当に好き放題しだしたら、”おまえら殺す!”とか言い出すんですよ、きっと。
だからそんなムーティを恐れて(良く言えば、”尊敬して”、ということなんでしょうが、、)オケも遠慮してる。そんな印象を持ちます。
どうせオケを脅すのであれば、メトを振った時みたいに独裁者になってくれた方が、
よりはっきりしたビジョンが見えて面白い演奏になったんじゃないのかな?
シカゴだったらそれを受けて立つ実力もあるわけだし、、、と私なんかは思ってしまうのです。



一時はオランダ人だけ聴いて帰ってもいい、というようなことも言ってましたが、さすがにそれはもったいな過ぎることに気づいたようで、
結局連れは最後まで一緒に鑑賞することになったのですが、
”で、残りの曲は何?”
、、、、やっぱりオランダ人のことだけに気をとられて私の話を聞いてなかったか、、。
”メイソン・ベイツのオルタナティヴ・エナジー。”
”何?それ、誰?それ。”
”さあ、、、。”
それもそのはず、この曲は昨2011年に作曲されたばかりのNYプレミエものなのですから。
ベイツは1977年生まれの35歳。CSOのミード・コンポーザーズ・イン・レジデンスの一人、
要はCSOが新しいジェネレーションの作曲家を育てるために作曲の委託を行っているアーティストで、
簡単に言うと、地元期待の青年作曲家、ということになります。
開演前に一切プレイビルを読まずに鑑賞したので、作品については何の知識もないまま拝聴したのですが、
コンベンショナルなオーケストラの楽器を使用しつつも、フルートの音色が非常に東洋風に聴こえたり
(牛若丸が吹いているような日本の笛っぽいサウンドだな、、と思いました)、
スタンダードな交響曲系のレパートリーで聴きなれた各楽器のサウンドとは別の面を引き出しているのは面白いな、と思いました。
またガムランみたいに聴こえる部分とか、その他にも世界の色んな音楽がちょっとずつ顔を出していて、
上演時間25分ほどの作品なんですが、『25分間世界一周』的な雰囲気をかもし出しています。
後でプレイビルで知ったのですが、この曲は一応四つのパート(楽章?)に分かれていて、
フォードの農場 1896年より、シカゴ 2012年、Xian Jian Province(新彊のこと?)2112年、レイキャビク 2222年、
という構成になっているので、あながち世界一周も遠からじ、なんではないかと思いますが、そうか、そういえば、確かに時代も変ってたな、、と思いました。
というのは途中から、通常のオケの楽器に加えて、ラップトップをシンセサイザーのように奏でてドゥワーンという低音を出すもやしのような奏者(上の写真)が舞台上に加わりまして、
確かにそういわれてみれば、段々後に行くにつれて、曲調が未来的になってましたね。

この曲、演奏するのは決して簡単でなく、複雑な変拍子が含まれていたり、
旋律が繰り返し続いてたかと思ったら、違う音型に変っていくなど、奏者としては全く気の抜けない作品で、
また、やはりオケがサポートしているプログラムのアーティストなんだから皆で支えねば!という温かい思いがあるのか、
オケの奏者は真剣そのものです。
いや、奏者だけでなく、ムーティも真剣そのもので、オランダ人よりも全然こちらの作品の方が、コミットメント度が高い。
一言で言うと、これはオーケストラによるクラブ・ミュージック、ダンス・ミュージックとでも形容したくなる作品なんですが、
猛烈に早く複雑なリズム・パターンが延々と(クラブ・ミュージックですからね、、)ルーピングしたりして、その間、ムーティの指揮はまさにダンスそのもの!という状態になっていて、
はい、次そこ!今度はあっち!と各奏者に指示を出しながらクラバーのように踊り狂っている帝王様を見れただけでも
今日はカーネギー・ホールに来た甲斐があったわあ、、と思いました。
しかし、彼のように優れた指揮者というのは、オペラや交響曲の時だけでなくて、こういうクラブ音楽のような作品の指揮の時でも動きが実に美しいなあ、、と見とれてしまいました。
そういえば、レヴァインもあんなにコロコロしていて、間違いなくダンス下手そう!な雰囲気なのに、
いつだったか、こちらはオペラの作品だったと思いますが、やはりテンポの早い部分を指揮している時に機敏で動きが美しいのに驚いたことがあります。

それにしても、この作品を聴くと、ほんと今時の人の作品だなあ、、と思いますねえ。
オケにエレクトロニック・サウンドを絡めるというDJ的発想もそうなんですけれども、
それ以上に、作品の中の情報量というか、音やその組み合わせを詰めるだけ、詰め込みました!という感じ。
今の若い人たちを見ていると、本当、空いた時間を思索の時間に使う、ということがなくて、
しょっちゅう何かやってないと(で、大概それはiPhoneをチェックしたり、とか、そういうことになっているみたいなんですけど)
気が済まないって感じの人が多いですよね。
それから、今の女性は働きながら子供産んで育てて、、っていう方が多いですけれども、
もちろん、金銭的事情から仕方なくその選択をしている人もいて、その方たちは全くあてはまりませんが、
NYに特に多いのかな、、お金は十分持ってるのにナニーに子供を預けながら仕事をばりばりやってたりして、
それは仕事にやりがいを見出してるからよ!というかもしれないけれど、
中にはブランド物の洋服や靴やバッグを揃えるのと同じ感覚で、結婚も、赤ちゃんも、充実したキャリアも、、、ってなことになっているように見える人が結構いたりとか、
大した付き合いのない相手とまでソーシャル・ネットワークでbefriendしてその”友達”の数に悦に入っている人とか、
今って、数や量の多さとか”あれもこれも”が異常に評価されている時代じゃないかな、と思います。

、、、あれ?どうしてこんな話になって来たんでしたっけ? あ、そうそう、メイソン・ベイツの音楽の話をしてたんでした。
そう、私は今日の彼の作品の中に、金持ってるくせに日中ナニーに赤ん坊を預けて仕事ばりばりして、
帰宅したら乳母車を押しながらわき目もふらずにセントラル・パークをランニングする女
(いるんですよ、これが意外とたくさん、、。)と同じ匂いを感じたわけです。

この曲は意外と全部の楽器が鳴っている部分は少なくて、二つ、三つの違った楽器の響きの絡みの妙を楽しむ方にウェイトが置かれているように思います。
実際、ベイツはこのセンスに関しては非常に良いものを持っているとは感じましたが、
これも、お洒落に異様な情熱を傾けている男の子が洋服のコーディネートに燃えている様子を思わせるものがあって
(このシャツにはあのパンツをコーディネート=この楽器にはあの楽器をコーディネート)、
ま、そういう子達は一様に”ぬけ感”を大切に、
つまり、どうやったらがんばってない感じを出しつつ自分をお洒落に見せるか、ということに執念を燃やすわけですが、
彼が行っているクラブ・スタイルとクラシック・オケのサウンドの融合という試み自体、
”クラブ音楽もクラシック音楽も僕にとってはどっちもクール。”とそう思っている自分がクール、みたいな、
マトリョーシカ的メンタリティを感じてしまうのでした。

、、、なんか、気がついたらシカゴ全体で大プッシュしている若手有望作曲家をめちゃめちゃ書いてませんか、私、、?
やばいな。これでLOC(リリック・オペラ・オブ・シカゴ)を鑑賞する機会が出来ても、その折には生きて帰れないかもしれない、、、。
ただ、取り繕うために言うのではありませんが、ある種の面白さは持った作品だとは思いましたし、
オケの演奏に限って言えば、この作品のための演奏としては、もうこれ以上望めないほど、素晴らしいものでしたし、
今日の演奏会の中で一番エキサイティングな”演奏”は、この作品だったと思います。
自分の作品をCSOがこんな風に演奏してくれるなんて、あんたどれだけ幸せか、わかってんの?ちょっと、顔くらい見せなさいよ!と思ったら、
作曲家紹介~!ということでムーティが舞台袖からノーマン・ベイツ、いえ、メイソン・ベイツを連れて登場。
なんだ、さっき舞台上でコンピューター・サウンドを奏でていたもやしみたいな男の子ではないですか!
なんか、書く音楽のままの雰囲気の人でした(↓)。

ちなみに、オーディエンスの反応からすると、NYの聴衆、特に若年層を中心にかなり好意的に受けとめられていたようです。



最後の演目はフランクの交響曲ニ短調。
YouTubeで見つけたクルト・ザンデルリンク&シュターツカペレ・ドレスデンの演奏が良いなあ、と思ったのですが、
この音源はもうCDでは廃盤なのかな、、、ちょっと手に入りにくかったので、
仕方なく(帝王になんてことを!)ムーティ&フィラデルフィア管弦楽団による演奏のCDを買ってみました。
前者ほどではないですが、このムーティ盤も悪くなかったです。

いよいよ演奏が始まり、弦の音にうっとりしていると30秒も立たないうちに相の手のように入るホルンが妙なすかし音を立てました。
何でこんなところでまた、、と思うのも束の間、ま、まさか、、という嫌な予感に襲われ、ホルンのセクションを見ると、、
でたーっ!!!!! クレヴェンジャーです!!!
CSOの黄金時代を作った立役者の一人であり、かつては並ぶもののない名奏者だった、
しかし、2010年1月のカーネギー・ホールのコンサートでは立て続けにスカ音をかまして
同僚もオーディエンスも思わず床に目を落としてしまったあのクレヴェンジャーです!!
去年の『オテロ』の演奏の時には目立ったホルンのミスは一切記憶にないので、
さすがにあの後猛練習してかつての自分を取り戻したか、そうでなければムーティに粛清されたんだろうな、と思ってました。
もしかすると、単純に別の奏者が首席をつとめたのかもしれません。
ミスがなかったので、彼がいたかどうかもチェックしなかった、、、。
しかし、今日はいますよー。確かなスカ音で、”僕はここにいますよー!”と激しく主張してます。
それにしても、出だしにこんなミスを平気でかますホルンの首席、、、
それをムーティが特に手を打たず、相変わらずそのまま野放しになっているのにはMadokakip、またもやびっくりです。
ムーティはなぜ彼に引退を促さないのか?彼になんか弱みでも握られているんだろうか?
まあ、それだけ黄金時代の彼が凄かった、ということなのでしょうね、きっと、、、。誰も何も言えない、という。

ネガティブな意味で相変わらずがクレヴェンジャーだったとしたら、
ポジティブな意味で相変わらずで驚かせてくれたのはトロンボーンのフリードマンです。
そう、なぜか戦勝国に生まれながら敗戦国に生まれた私の父親そっくりにがり痩せのトロンボーン首席です。
彼も1962年にCSO入りしてその二年後に首席になってますからクレヴェンジャーと同じく黄金時代からのメンバー。
考えてみれば、私が生まれる7年前からCSOで演奏しているんですよ。
しかも、彼の場合はクレヴェンジャーみたいな演奏能力の崩壊が見られず、今もきちんとした結果を出しているんですから、本当すごい。
第一楽章をはじめ、畳み掛けるように金管が鳴る場面が続くので、
こんなおじいちゃんに演奏させて大丈夫??と心配したくもなるのですが、ノー問題。もう淡々と吹きまくっているではありませんか。
彼は前にも書いた通り、アメリカ人としてはあまりばりばりと吹くタイプではなく、音の線も太くはないですが、
私は彼みたいな演奏の仕方、結構好きなんです。
いつも分をわきまえた演奏という感じで変なエゴがなくて素敵だな、と思います。
しかし、演奏そのもの以外でも驚かされたところがあって、
それは演奏をしない箇所で、他の彼よりもずっと若い同じセクションの奏者たちが旅の疲れと第一楽章での畳みかける金管攻撃で体力を消耗して疲れたか、
ぼーっと焦点の合わない視線を前に向けていたり、下手すると”今寝てましたね。”みたいな姿勢になっているのに比べ、
このフリードマンはムーティの指揮振りを見るのが楽しくてしょうがない!とでもいう様子で、
子供のように目を輝かせながら、ぴちーっと背中を伸ばした姿勢で食い入るようにムーティの姿を見つめていることです。
この年齢でこの体力と集中力!!!本当、すごい人です。

ただ、今回本当にわずかなことなのですが、トランペットと他の金管のセクションが完全には息が合っていないように感じる部分があって、
2009年に感じたような、音が一体になってこちらに飛び掛ってくるようなパワーを演奏から感じられなかったのが残念です。
先にも似たことを書きましたが、今日のフランクの作品の演奏にも、
今、CSOはトランスフォメーションの時期なのかな、という風に感じさせるものがあります。
昨年の『オテロ』の演奏の時は、オケの個性よりムーティの個性が前面に出た感じでしたが、
今年はよりデモクラティックな雰囲気になって、ムーティがオケに自発的にさせている分、
オケの微妙な個性の変化が見えて来たのかな、というようにも思います。
そこが一番上手くかみ合っていたのが、今日の演目の中ではベイツの作品だったかもなあ、、ということなんですが、
作品自体に関しては新作ものよりもスタンダード・レパートリーの方が好きな私にはちょっと残念だったかもしれません。

それにしても、このフランクの交響曲は、なんか盛り上がりきりそうで完全には盛り上がらない、
みたいなのが延々と続いているように感じられる曲だなあ、と思います。
正直、ちょっと退屈した部分もあって、ホールから出る時にあくびをしながら連れを見たら、
向こうも大あくびしていて、同じ顔になってました。
と、そこで彼が一言。
”(正確にはフランクはベルギーの人ですが、パリで活動してますので)なんかフランスのオーガズムって感じの曲だったなあ。延々続くぞ、これは、、みたいな。”
私も激しく同意。
”そうそう、それもなんか下手な男とのエッチを思わせるというか、、、
途中で言いたくなったもん。いい加減早よイけや、こら、って。”
でも、そういえば我々って、2010年の演奏会の時もブーレーズの曲を”究極のマスターベーション(自己満足)音楽”呼ばわりし、
その下品な表現の仕方も全く変っていない、、、ちょっと反省。

変っていない、と言えば、、、、
今日はみんなモバイルの電源を切っとかないと、
ムーティ帝王の場合、着信音が鳴りはじめたら演奏をとめかねないよね、という話をしていて、
それはさすがにオーディエンス全員感じ取っていたのか、そのような最悪な事件は避けられましたが、
時節柄、最近急に寒くなったものですから、風邪気味の人がオーディエンスに混じっていて、
フランクの交響曲の第二楽章で、平土間のおばさんが激しい咳の発作に見舞われた時、
ムーティがゆっくり振り返りながら指揮を続けつつそのおばさんを睨み倒していたのには、
帝王も相変わらず全く変ってないわ、、、と思わされました。



RICHARD WAGNER Overture to The Flying Dutchman
MASON BATES Alternative Energy
CESAR FRANCK Symphony in D Minor

Chicago Symphony Orchestra
Riccardo Muti, Music Director and Conductor


Center Balcony A
Carnegie Hall Stern Auditorium / Perelman Stage

*** シカゴ交響楽団 Chicago Symphony Orchestra ***