<準備編から続く>
開演直前に今日のマイ・シートであるグランド・ティアのサイド・ボックスにたどり着くと、私の隣二席の客の姿がまだありません。
今日はどんな方がいらっしゃるかしら、、と思いを馳せていると、やがてボックスのドアが開いてその隣のお二人が姿を見せました。
なんと!!!またオースティンご一行様じゃないですか!!!
2009年のオープニング・ナイト(『トスカ』)の記事にも書きましたが、彼と相ボックスするのはこれで当ブログが始まってからだけに限っても3回目。
しかも2006、2009、2011と段々間隔が縮まって来てるので、もう来年以降は毎年相席かもしれません。
”また一緒になりましたね&今年もいよいよ始まりましたね。”と握手を交わした後、
オースティンが今年のお連れのお嬢さんを、”こちらはブレアナよ。”と紹介してくださいました。
思わず”2009年の時のお嬢さん(写真がありました!)の方が私は好きだわ、、美人で気立てもよろしかったし、、。”と口走ってしまいそうになりましたが、
このブレアナ・オマラ嬢も超スタイルが良くて美人、ご職業がダンサーと聞いて納得するというものです。
それにしても、こんな二人(↓)の隣に座る身にもなってください、、、来年はもっと派手に行かなきゃ駄目かしら。
さて、今シーズンのオープニング・ナイトは2003年のゲルギエフ指揮によるフレミングの『椿姫』以来8シーズンぶりに、レヴァイン以外の指揮者による指揮となりました。
今年、その大役を務めるのはマルコ・アルミリアートです。
『アンナ・ボレーナ』は今日のオープニング・ナイトの公演がメトでの初演になります。
恥ずかしながら、自分が鑑賞する公演の予習だけで手一杯、もちろんメトで上演がない演目については全く手が回っていない、という体たらくのため、
自慢ではありませんが、我が家のCD棚の『アンナ・ボレーナ』は長年その存在をほとんど無視されて来ました。
数回はCDプレーヤーのターンテーブルにのせてみたこともありますが、大概、狂乱の場に至る前の、二枚組みのCDの一枚目の最後あたりで挫折、、
ということで、きちんと聴いたことがあるのは狂乱の場だけ、、というやばい状況です。
しかし、メトで上演があるとなればこれではいかんだろう!ということで、この夏は一転、CDプレーヤーで彼らがくるくる回転し続ける毎日が続きました。
しかも、同時進行でアン・ブリンの生涯を描いた小説も読みふけるという、超アンナ・ボレーナ一色の夏になりました。
このブログをいつも読んで下さっている方なら私がマリア・カラスを信奉しているのはご存知の通りですが、
それだけでなく、『アンナ・ボレーナ』という演目はカラスを抜きにして語れない演目ゆえ、
もちろんCDのうちの一つはカラスがタイトル・ロールを歌ったもの(指揮はガヴァッツェーニ)で、彼女の歌唱は素晴らしいのですが、
実を言うと、段々ともう一枚のジェンチェルがタイトル・ロールを歌う盤(こちらも指揮はガヴァッツェーニ)の方を好んで聴くようになって行きました。
というのも、カラスのCDは全幕上演のライブ盤、ジェンチェルの方はおそらく公開録音か何かなのだろうと思いますが、
演奏年月日がそう離れていないのに、指揮の雰囲気が随分と違って、私にはカラス盤の方がダルな感じがするからです。
言うまでもなくアンナ役に関してはカラスの方が良いんですけどね、、、上手く行かないものです。
(オケはカラスの盤がスカラのオケ、ジェンチェルはミラノRAIです)
今回のメトでの上演には序曲もきちんとくっついて来ますが、上の二枚のCDには序曲がなく、すぐに合唱のところから始まります。
序曲をカットするのが当時の上演の方法だったからか、演奏されたのにCDに収録されていないのか、
私には確かなことはわかりかねますが(多分前者なのではないかと推測しますけれども)、理由が何であれ、良いチョイスです。
というのも、この序曲はドニゼッティの音楽が大好きな私でも弁護の余地なしな位にいけてないです。
極めて美しいメロディーがあるわけでもなければ、この後に続く物語の内容を予感させる力には不足しているし、
乱暴なことを言えば、正直、メトの上演でもカットしてしまっても良いのに、、、と私なんかは思います。
もしこの私にタイムスリップする能力があったなら、ドニゼッティの存命時に赴き、この序曲を書き直させてみたい。
そういえば、カットといえば、このオープニング・ナイトに至る前に、NYのヘッズを総怒りさせる大問題が起こったんでした。
ニ幕の狂乱の場の直前に、エンリーコ(ヘンリー8世)達がでっち上げた罪によって死罪が決定した
ロシュフォード卿(アンナのお兄さん)とパーシー卿の二人が語り合う場面があります。
この場面にパーシー卿がロシュフォード卿に向かって、”君は生きなくては。この地上で私達の不幸を最後まで見届ける人間も必要かろう。”と語りかける”Vivi tu"が含まれています。
このVivi tuは表現の深さが求められるのはもちろん、技術的にもハイC(Dを入れてしまうテノールもあり。)が含まれる非常に難しい曲で、
よって歌いこなせるテノールがそんじょそこらにわらわらといるわけもなく、カラスのCDでの演奏もこの場面はカットの憂き目にあっています。
しかし、もちろん、この曲を歌える力のあるテノールを確保できたなら、絶対にカットすることがあってはならない、
この作品のハイライトのひとつと言ってもよい感動的な曲なのです。
ところが、『アンナ・ボレーナ』のリハーサルが始まった頃、とんでもない情報が入って来ました。
なんと、メトでの上演から、この二人の場面を丸ごとカットするというのです。
これを聞いて私がまず思ったのは、パーシー役を歌うコステロにこのアリアは無理とメトが判断したのかも知れないな、ということでした。
コステロの声の美しさや潜在的才能については高く買っている私ですが、今までいくつかの記事に書いて来た通り、
彼には精神的にあまり強くない部分が確かにありますので、本人が歌えない、と言い出したのかもしれない、
まあ、本人が歌えないというなら仕方ないな、と、、、。
ところが、Vivi tuはこの作品のハイライトである!!と強く信じるヘッズから徐々になぜカットするのか?という声が上がり始め、
しかも、コステロは以前、ダラスでこの演目を歌ったことがあるそうですが、その時は高音も問題なく出てたぞ!という目撃情報まで上がってきたものですから
(アメリカ全土にまたがるヘッズのネットワークの恐ろしさをメトは忘れたか?)
メトもこれに対抗して、”これはテノールの力の問題ではなく、演出上の理由によるものである。”という声明を出したのですが、
その後、それは、別に演出上の理由といった高尚なことでも、マクヴィカーの意向でもなく、
ゲルブ支配人が単に上演時間が長すぎて、観客が退屈するのではないかという考えからカットを推進したらしい、
(『アフリカの女』の経験を基にすると、観客が退屈するのではないか、というよりも、自分が寝てしまわないか、という心配だったのではないかとも思われる、、。)
という、確かにありそうな話まで飛び出して来て、
そのような理由でVivi tuを葬り去り、テノールの一番の聴かせどころを奪うとは何事!?と全米のヘッズワールドは蜂の巣をつついたような騒ぎになりました。
その上、コステロへの思いやりからか、自分が件の場面抜きでいきなり狂乱の場に入るのは調整上若干辛いという個人的な事情からかはわかりませんが、
ネトレプコからもその場面を戻して欲しい、という要請があったそうで、
ネトレプコにそう言われちゃ支配人も引き下がるしかなし、、という訳で、めでたくVivi tuは上演に含まれることになりました。
それにしてもネトレプコの要請くらいですぐに引っくり返せるものだったということは、
やはり演出や歌唱が理由ではなかったのだな、、ということになり、
真のオペラヘッズの思考回路からはおよそ程遠いところにあるゲルブ支配人のそれに思わず溜息をついてしまう私です。
Vivi tuをカットする位なら、あの序曲をカットしろよ!ですよ、本当に。
さて、このレポートを書いている時点ではすでにオープニング・ナイトの評が出切っていて、
ネトレプコのアンナ役の歌唱については色々な評価があるようですが、ほとんどの評者に一貫して批判されているのがマルコの指揮です。
私が思うに彼のこの作品での指揮の問題は、技術的なことではまったくなく(オペラの指揮に多少なりの理解がある方なら、
彼がオペラ指揮者として非常にきちんとした力をもった指揮者であることを疑う人はいないでしょう。)、”熱狂の欠如”と呼びたくなるものです。
まず、一つには彼がこの作品をあまり優れた作品だとは思っていない、そのことがオケに伝播し、
オーディエンスにダルな指揮・演奏と感じさせる元凶になっていると思います。
確かに、『アンナ・ボレーナ』は『ルチア』のような隙のない名作と比べると劣る部分があるゆえに、
ただ漫然と演奏しているだけでは駄目で、アンナ役を歌う歌手がその隙を埋め、越えるものがあると信頼する、
その気持ちがオケをドライブし、一層、歌手が力を発揮する場を生み出すという、このサイクルを作らなければなりません。
ところが、そのサイクルが上手く形成されていない。
一つには、マルコがネトレプコの力をそこまで信じていないのではないか?と感じさせる部分があって、
あのturdな『ルチア』に付き合わされた経験のあるマルコですから、誰もそれを責められない部分もありますし、
また、実際、今回の公演でネトレプコの歌唱が素晴らしかったと絶賛している人は都合よく聴く耳を持たないことにしたようですが、
彼女のアンナ役の歌唱は決して超正確、と呼べるものではなくて、指揮やオケに負担を強いている部分があるのも事実です。
だけれども、だからと言って、やる気を失って、適当にネトレプコに合わせますから、、というスタンスで指揮していいわけはなく、
彼女に合わせるだけでなく、”ここはこっちについて来い!”と彼女の方について来させる部分がもうちょっとあっても良かったのではないかな、、と思います。
先に同じガヴァッツェーニの指揮のCDでも、カラスの時とジェンチェルの時では随分オケの生き生き度が違うということを書きましたが、
もしかすると、ガヴァッツェーニもカラスという大歌手を迎えて、
自分の音楽を作るよりも彼女の歌いやすいように、、という守り姿勢になったのが、オケをダルにした一因かもしれないな、、とも思います。
当然耳に入っているであろう指揮に対する批判にも関わらず、二度目の公演でも全く同じアプローチをとっていたと聞くマルコが、
三度目の公演をシリウスで聴いたところでは、序曲で少しテンポを早めに設定する工夫なども見られ、
ずっとオケにドライブ感があって、内容の良い演奏になっていました。
ここからHDまでどう変化していくか、さらに、”裏のアンナ”(ネトレプコとオルタネートで表題役を歌う)
ミードが登場した時にはどういうことになって行くのか、興味深いです。
オペラの作品としての『アンナ・ボレーナ』は、アンナがどうやって王位についたか、そのいきさつとかそこに至る動機を詳しく描写しないし、
リブレットを辿るだけではオーディエンスにあまり深い感情が湧いて来づらい部分は確かにあって、
そこらが例えば『ドン・カルロ』のような、一切背景を知らなくてもただオペラを鑑賞するだけで深い感動に包まれることが出来る傑作とは違い、
この作品がマルコからも、”つまんね。”と思われてしまう原因かもしれません。
私も正直、CDで聴いた最初の数回は、狂乱の場以外は”つまんねー!!”と思いました。
ところが、アン・ブリンに関する書物を改めて読み、彼女がどのような経緯でオペラの中で描かれるような状態に陥ったかという記憶を新たにしてこの作品を聴き直すと、
ドニゼッティがつけた音楽が非常に陰影に富んだものであることがわかり、全くもって駄作でないことがよくわかります。
なんといっても1500年代のお話ですので、どんな書物を読んだとしても、ある程度の脚色や必ずしも真実とは限らないことが含まれているとは思いますが、
私が読んだ書物の中で、興味深く感じたのは以下の点です。
●アンがフランスの宮廷に派遣されていたローティーンの頃
(そこでアンナはフランスの洗練された流儀を身につけ、それが後に彼女がイギリスの王室で一際目を惹く理由となる。)、
やはりフランスにやって来たアンナの姉が、フランス王の愛人となる。
アンナの姉はいわゆる男好きのする性格で、彼女自身”今がよければそれでいいじゃーん”的な享楽的な性格。
フランス王に捨てられた後も、次々と男性と関係を持ち、その破廉恥ぶりにイギリスに強制送還される。
しかし、皮肉にも、その享楽的・楽天的な性格のせいでいつもそれなりに幸せになってしまい、全く懲りない。
(実際、イギリスに帰って来た後は、アンと結婚する前のヘンリー8世の愛人にもなった。)
しかし、アンはその間、いかにフランスの宮廷、特に女性たちが彼女を軽蔑していたかを観察しており、
王のような権威ある男性にとって、女性は単なる品物にしか過ぎない、という事実も肝に銘じていく。
この、アンの姉のフランスでの行動・存在がアンに与えた影響こそが、『アンナ・ボレーナ』の物語の真のスタート地点だと言える。
●フランスでの勤めを終え、イギリスに戻って来たアンは王室に働き場所を見つける。
洗練された彼女に惹かれ、言い寄る男性は多く、文武に秀で見目麗しい男性の友人も多い。
ところが、アンは大してハンサムでもなく、野心にも欠けるが、優しく純粋な心が取り得のパーシーと恋に落ちる。
ちなみにパーシーは北の名家の出身で、当時は、アンの家よりもずっと上流。
当時の結婚とは、家をさらに繁栄させるための手段に過ぎず、本人が惚れたはれたで結婚できる現代とは大違い。
パーシーの家とではアンの家の方が釣り合わないという理由でアンは結婚を阻止される。
(実はこの時すでにヘンリーがアンに目をつけており、この結婚の阻止に絡んでいたとも言われる。)
この経験を通して、アンは、女性が好きな男性と結婚できるなどということはほとんど起こりえないのだ、という教訓を得る。
●やがてアンへの恋心をあらわにし始めるヘンリー。しかし、そもそもアンはヘンリーに対してパーシーに対して持ったような愛情を持てない。
ましてや、まだキャサリンという女王がいるヘンリーの愛人になって姉のような笑いものになる気はアンにはさらさらなし。
ヘンリーがそのうちあきらめて引き下がることを期待しつつ、頑なに愛人になることを拒否。
自分は潔癖な人間であるので、結婚をするのでなければ一緒になれない、というのを表の理由にして。
しかし、皮肉にもこれが一層王の彼女への思いを燃え上がらせてしまう。
ヘンリーの第一の王妃キャサリンからの無理やりな離婚も、
そしてそれを可能にするためのローマ・カトリック教会との断絶およびイギリス国教会の成立も、
あのフランスでの経験がなければ、アンがこうも誇り高い人間でなければ、
アンが結婚をしないでヘンリーの愛人になることに同意していれば、必要はなかったと言える。
●拒否されて一層燃え上がり彼女を手に入れようと躍起になる王に少し情がほだされるアン。
さらに、決定的だったのは、パーシーとの経験を通して得た、どうせ好きな人と結婚できるわけではない、という教訓転じて、
どうせ好きでない人間と結婚するなら、いっそ王と、、、という発想の転換。
●もともと持つ才気走った性格のせいで、自分よりもずっと位の高い人間に対しても非常に鼻っ柱が強いところがある。
王をひきつけたその性格が、最後には愛想をつかされる原因にもなるのである。
(度重なる男児の流産によるストレスと焦りがさらにそれに輪をかけていく。)
彼女の周りに親身になってくれる友達、特に女性のそれが少ないのは、単に彼女の境遇から来るものではなく、彼女の性格に負うところも大きい。
というわけなので、同じ狂乱の場があるといっても、
アンナ・ボレーナはルチアのような政略結婚の前の無力さにぷっつんしてしまうような繊細なお嬢ではなく、
”お家のための結婚”が支配する世でパーシーとの初恋を犠牲にしつつも、
自分でイギリス王の妻になることを決意し、それに全てを賭け、一瞬それを手にしながら、
強すぎる自己のために、その勝利を指の間からこぼし落としてしまう、そういうお話なのだと思います。
こういう理由から、私はベル・カントを得意とする歌手なら誰でもアンナ役を歌っていいというわけではなく、
実際、この役は低音域が多用されてもいることから、その音域が充実したソプラノが歌わないとドラマも魅力も半減すると思っていて、
歌が上手くても声がたおやかで優し過ぎる、重さが足りない歌手のそれにはあまり興奮させられません。
しかし、一方で、最後の狂乱の場を本当の意味での狂乱にしてしまう、ヒステリー女の雄たけびのような歌も論外で、
ですので、ビヴァリー・シルズのアンナは”ありゃー、すごい!”とは思いますが、
正直、アンナ・ボレーナという人間をきちんと描けているかというと、かなり、???です。
これはオープニング・ナイトのラジオ放送で、ホストのマーガレットやウィルが、
また、インタビューの中でネトレプコ自身が語っていたと思いますが、
この作品の狂乱の場は、歌われている言葉が必ずしもアンナの本当の気持ちを表現しているわけではないところがポイントで、
ネトレプコははっきりと、自分は狂乱の場はアンナが狂っているわけではないと思って歌っている、と語っていましたが、
私もそれが正しいアプローチだと思います。
言葉の上ではアンナは周りの人間を許して死んで行くことになっていますが、音楽が全くそれを裏切っていて、
彼女の煮えたぎるような怒りを表現しているのです。
この作品の狂乱の場の”狂乱”は”狂う位”のやる方ない怒りとそれでも自分はこのようにしか生きられなかった、という思いゆえなのであって、
完全に狂ってしまってはいけないのです。
ネトレプコのアンナなんですが、NYの批評家の評価はかなり広いスペクトラムで分散しています。
私の考えを言えば、まず、彼女の声。これは今、この役を歌うに本当にこれ以上望めないくらいの状態にあります。
いや、この役を歌うのに、という条件をとっぱらっても、今の彼女の声は多分、私がこれまで聴いた彼女のキャリアの中で、
最も素晴らしい状態にあると言ってよいと思います。この声を聴く、それだけでもある一定の価値はあると感じるほどです。
後、以前に比べると声のボリュームのコントロール能力は非常に上がったのを感じます。
わかりやすいところでいうと、”あなたがたは泣いているの? Piangete voi?”を歌い始めて間もなくのl'altare è infioratoのinfioratoの取り扱いなど、
以前の彼女なら割りと考えなく力任せに歌っていただろうと思われる箇所に、より豊かなシェードが出るようになったと思います。
彼女は元々非常に舞台勘が良く、演技が上手いというより、一種の独特のステージプレゼンスがあるというのはよく言われることです。
それは演技らしい演技をしている時よりも、むしろ何気ない舞台上の動作のタイミングなんかに現れます。
彼女が舞台で存在感があるのはそれは見目麗しいせいだからだろう、彼女が人気歌手だからだろう、という人もいるかもしれませんが、それは違います。
もしそれが本当なら、細くてもっと美人に見えた数年前よりも今の彼女の方がさらに存在感が増していることの説明がつかないし、
彼女が人気歌手になったのはそういった類稀な能力がもともとあったからだと考える方が自然です。
事実、彼女に負けず劣らずの美人でも、舞台にあがるとおよそ彼女の華に及ばない、というケースを私は少なからず見て来ました。
しかし、その中でも、このアンナ・ボレーナ役は特別に何かがしっかりと彼女とクリックしているというか、
今まで私が見た彼女の舞台の中でも、ドラマの面では最も満足度の高いものの一つです。
まず、アンナ役を、一面的に可愛そうな女性とも、権力欲に溺れた愚かな女性とも定義付けずに、
ごく普通の感情を持った一人の女性として、終始オーバーアクトせずに演じているのは好感を持ちます。
けれども、先に書いた通り、この物語の根底に流れ、自身を徐々に処刑台に追い詰めて行くのは、
他ならぬアンナの誇り高さと自分はこうしか生きられない!という強い自我です。
ネトレプコのアンナ役の良さはそこをきちんと表現しきっている点で、”よこしまな二人よ Coppia iniqua”の最後の高音を歌った後、
メトがリリースしてNYタイムズなどでも紹介されているリハーサルの映像では、くるくるっと髪を巻いて首を出し、
観客に背を向けて舞台奥、つまり処刑台に消えていく姿で幕となっていますが、
オープニング・ナイトの最後は、長い髪の先をぎゅっと片手で摑んだかと思うと、”きっ!”と、
頭と同じ高さに水平に持ち上げて、その髪を引っ張る強さに少し頭が傾いだ状態で、
”誰が何と言おうと、私は死ぬまで女王よ。さあ、首を切るというならさっさと切りなさいよ!”とでもいうように猛然と処刑台に歩んで行くという、
鳥肌が立つような演技を彼女が見せてくれました。うんうん、これなんですよね、アンナという女性の本質は!!
ネトレプコが以前ジンマーマン演出の『ルチア』に登場した時、同演出のプレミアをつとめたデッセイの物真似演技ばかりでうんざりしましたが、
こういう自らのアイディアで、オーディエンスの記憶に残るような演技を出してくれるというのは本当に嬉しいことです。
このCoppia iniquaで歌われている言葉も、この”二人”というのはもちろんヘンリーとジョヴァンナのことなんですが、
”私はあなたたちに復讐などを求めない。”
これは表身にはあなたたちを恨まずに死んでいきます、という意味にもとれますが、あの音楽を聴けば、その実は全然そうでないことがわかります。
この言葉の真意は、私の誇り高さはあなたたちのいる卑しさより、はるか高いところにある。
それゆえに私は死んでいくのだ。だから、あなたたちに復讐を望むというようなくだらないことはしない。”という宣言に他なりません。
でも、その彼女の誇り高さがものすごい怒りを昇華したらしいことは、他のなによりもあの音楽が表現しています。
声そのものの魅力、声質の役柄への適性、それからドラマ面での役柄とのコネクションという点では
非常に良いものがあったネトレプコのアンナですが、
残念ながら歌唱技術の面ではこの二つのレベルに達していないかな、、というのが私の感想です。
いや、実のところを言うと、turdな『ルチア』を経験してしまったりしたせいもあって、
彼女のベル・カントものの技術には”ほどほどに期待する”癖がついてしまっていて、
今回もあまり期待していなかったのですが、このオープニング・ナイトに関して言えば、
私が予測していたよりはだいぶ技術的にも頑張ったとは言えると思います。少なくとも一生懸命に取り組んだ跡は見られたと思います。
この夏休みにはヘッズの間で、彼女が出演したヨーロッパでのコンサートの映像から、彼女のトリルのスキルがあがっているのが話題になっていました。
(今回、全幕を聴いた感じでは、完全と言えるところまではもう一歩かな、と思いましたが、、。)
ただ、ここで言う”ほどほど”に対して、それならフルに期待できる歌手はどういう顔ぶれなのかというと、
歴代の歌手を取り混ぜ、カラス、サザーランド、シルズ、カバリエ、スコット、デヴィーア、グルベローヴァ、、という感じなので、
”そんな無茶な、、。”と笑われる方もあると思います。
でもこれはメトのオープニング・ナイトであり、『アンナ・ボレーナ』と言えば、
タイトル・ロールを歌うソプラノの力のショーケース的な演目なわけですから、どうせなら、
上にあげたようなクラスの歌手と同等の力をもったソプラノで聴きたい、、と思ってしまうわけです。
ましてや、声や雰囲気がこの役とはかけ離れている、、と思わせる歌手ならともかく、
この二つに関しては非常に優れたものを持っているネトレプコなだけに、微妙な歌唱の技術とか輪郭の甘さが余計に悔やまれるのです。
最近、恒例になりつつありますが、また、カラスの”Piangete voi あなた方は泣いているの?~
私の生れたあのお城 Al dolce guidami castel natio”の歌唱を紹介しておきます。素晴らしすぎ。
(この音源はガヴァッツェーニ指揮のライブ盤ではなく、レッシーニョが指揮したスタジオ録音の音源です。)
以前、このブログにコメントを下さる方のお言葉にありましたが、”天才と言われる歌手・演奏家が天才である所以は、
他の人間がそこまでやることはなかろう、、と思うところまで自分を追い込み高みを目指せる、そこにこそある。”のです。
それを言うと、ネトレプコは非常に才能に恵まれた歌手ではありますが、そういう意味での天才ではないということなのでしょう。
彼女のベル・カントの歌唱技術には、上に名前をあげたような歌手達と比べると、
いつもどこか少し(そして時には非常に)緩いところがありますから、、。
なので、彼女のアンナ役をどう評価するかは、この緩さに対するそれぞれの方の許容量次第なのだと思います。
あ、それから、これは微妙な歌唱技術とか輪郭の枠を越えているので書いておかねば(←鬼!)と思いますが、
彼女は”私の生れたあのお城 Al dolce guidami castel natio”の最後に高音(上のカラスの音源にはない。)を入れて来るのですが、
いつもここでピッチが狂いますね。
(オープニング・ナイトの後に聴いた二度のシリウスの放送のいずれもそうでした。)
そこから音が下がってオケが入って来て閉め、ということになるわけですが、
オープニング・ナイトの時は、”あらあら、こんなに外してこのまま下がったらどうやってまとめる気???オケと不協和音??”とハラハラさせられました。
一回、音を伸ばし切って、劇的効果を狙ってブレスをとって(いるようにみせかけ)、持ち変える形で正しいピッチで入り直す形で逃げ切ったのは、
さすが普段から技術が甘いだけに逃げの小技をきちんと身につけているのね!と、妙なところで感心させられました。
まあ、こういうところでも落ち着いて処理しているのが彼女のすごいところではあります。
件のオープニング・ナイト当日に放送されたインタビューの中で、ネトレプコは歴代のアンナ役で誰のそれを参考にしましたか?という質問をされた時、
”カラスですか?”と水を向けられて、”カラスも聴きましたが、一番参考にしたのはジェンチェルです。”と答えていたのが興味深いな、と思いました。
また、先日のシリウスの放送ではBキャストのアンナ役をつとめるミードがインタビューに登場し、
全く同じ質問をされていましたが、彼女の方は、”サザーランド、カラス、シルズ、スコット”という風に答えています。
このオープニング・ナイトはゲルブ支配人の当初の企みによれば、
ネトレプコとガランチャの美女二人でメトの舞台をぴかぴかに輝かせる!というものだったわけですが、
やたらこういう企みで失敗が多いゲルブ支配人のいつもの例にもれず、
今年もまた、ガランチャがご懐妊により降板ということになってしまい、代わりにメトの日本公演にも参加してくれた
エカテリーナ・グバノーワが代役に抜擢されたのは以前お知らせした通りです。
グバノーワはその日本公演の『ドン・カルロ』での配役(エボリ)といい、
NYで舞台に立った『ホフマン物語』(ジュリエッタ)での歌唱のイメージからも、
どちらかというとまったり系のメゾ・ロールが得意なのかな、と思っていて、ベル・カントの彼女というのは、
正直事前にはあまりイメージが湧かなかったです。
ところが、実際に聴いて見て、私はまったりロールよりも、こういうベル・カントの役の方がもしかすると彼女はいいかもしれないな、と思いました。
彼女はいわゆるブルドーザー系の声ではなくて、どちらかというとややこじんまりした質の声で、
その分、発声には独特の端正な感じがあって、ベル・カントと折り合いが良いように個人的には思います。
ベル・カントに必要な歌唱技術も割りとしっかりしていますし、特にあげつらうような欠点はないです。
声・歌に関して強いていえば、少し声が若いというか、硬い感じがする点でしょうか。
もしかすると、彼女はまだ実際の年齢も若いのかな、、?
これからだんだん声が成熟して、まろやかさが加わるといいな、と思います。
後、こちらはネトレプコが相手では大変だとは思いますが、彼女個人の今後を考えると、舞台での存在感がやや薄いのが泣き所かもしれません。
一途にヘンリーを思っているところとか、表現は悪くないですし、
私の読んだ本によれば、”(ライバルとしては)心配するに足りぬ地味顔の冴えない女”とアンナに評されたジョヴァンナの、
ちょっとダサい雰囲気もきちんと出していて(その点、ガランチャは綺麗過ぎ、、
ヘンリーはアンナの自我の強さにうんざりして、その反動で地味顔の冴えない女に心を移したとも考えられるから、もうちょっと綺麗でなくなってもらわないと。)、
決して悪くはないのですけれど、、。
そういえば、この地味顔の女(に扮するグバノーワ)が、毅然と、”自分はヘンリーを愛してる。”と言い切る場面もいいな、と思います。
ネトレプコが扮するアンナが一瞬気圧される様子を見せるのもいいんですよね。
ここで今まで単なる地味顔のダサ女と見くびっていたジョヴァンナが、自分にないものを二つ持っていることを知るわけです。
一つにはヘンリーを愛する気持ち、もう一つはそれを他人に打ち明けられるというプライドの無さ。
この二つにはアンナは心底恐怖心を持ったはずです。
オープニング・ナイトの公演で最も印象に残った箇所をアンナとジョヴァンナの二重唱("Sul suo capo aggravi un Dio" )とするヘッズも少なくなく、
音楽そのものの出来もさることながら、二人の歌唱も熱気のある優れたもので、
私は声質的にガランチャとネトレプコの声は互いにブレンドしやすいのではないかと推測するのですが、
この曲の場合は、グバノーワみたいに少しネトレプコとタイプの違う声である方が却ってよいのかもな、とも思いました。
今回の公演でタイトルロールのネトレプコよりも緊張して見守ってしまったのが、パーシー役を歌ったスティーヴン・コステロです。
私は今キャリアのプライムにいる歌手の歌を聴くのももちろん好きですが、キャリアはこれから!の若手の歌を聴くのも同じ位好きです。
彼らには絶頂期の歌手のような洗練とかテクニックはないかもしれませんが、独特の原石の輝きのようなものがあるので、、。
彼の歌を初めて聴いたのは2007年のオープニング・ナイトで、その時に”なんと美しい声なんだ!!”と感激したのを昨日のように思い出します。
あれから、まあ、色々ありました。、、、と書くと一体何があったのか?って感じですが、
もちろん、私がぎゃあすか一方的に彼の声の状態や歌唱スタイルに喜んだり、悲しんだり、注文をつけて来たに過ぎません。
あ、その間に彼の舞台での立ち振る舞いの不器用さに頭を抱えたこともありましたっけ、、
(一つ一つ紹介する字数もないので、検索機能で彼の名前を入れて頂くと、わらわら関連記事が現れるはずです。)
もしかすると、ご本人は私の心配をよそに、自分のキャリアは順風満帆、、と思っているかもしれませんが、
私のここ最近の彼に関しての一番の心配は、例えば『ラ・ボエーム』のロドルフォのような役をレパートリーに加えるにあたって、
以前とは全く違う種類の、妙にビーフ・アップした感じの歌い方が身についてしまっていて、
それに伴って以前あんなに美しかった声そのものにまで影響が出始めているように思えた点です。
また、仮に声に心配がなかったとしても、彼の場合、他にも二つ、大きな心配があるんでした。
① 彼の舞台でのぶきっちょさは半端でない。天性の舞台人であるネトレプコの横でかかし状のものが突っ立っている
(だけならまだいいが、その上にバランスを失って勝手に一人で倒れてしまう)、、というようなことにならなければいいが、、。
② 彼にはオペラ歌手としてやって行けるのだろうか、、?とこちらを心配させるほどのあがり癖があって、特に大舞台になるほどひどい。
どうしてこんな人を、メトの、しかもオープニング・ナイトの、しかも難役に、、、?
、、と、彼にはぜひ頑張ってオペラ歌手として大成して欲しい、と願っている私ですら、
本当に大丈夫なんかいな、、?とやきもきさせられる始末なのです。
オケとのリハーサルが始まると、派遣したオペラ警察に尋ねる質問は毎日、”ネトレプコどう?”ではなく、”コステロどう?”
案の定、一回目のリハーサルでは緊張しまくって自分を失っていたそうですが、回を重ねるにつれて良くなってきているとのこと。
、、、、完全に自分を取り戻すまでにランが終わってなきゃいいんですけど。
で、まあ、どんなにリハーサルで自分を取り戻しつつあると言っても、オープニング・ナイトは当然それを帳消しにしてしまう雰囲気があるわけです。
まず客席の空気が普通でない。新シーズンに鼻息荒いコアな客、華やかに着飾った客、
オーディエンスに混じるメトのパトロンや歌手仲間たち、、、、
シリウスやプラザ&タイムズ・スクエアでのスクリーン生上映のためのマイクやカメラも入っている、、。
はい。これでもうコステロが我を失う条件が完全に揃いましたね。
舞台に出て来たときは、”足と手が同時に出てるわよー!!”と教えてあげたくなるほどで、全身硬直しているのかと思いました。
その後も、座席が舞台に近いせいで見えてしまうんですよね、、、コステロくん、頭が真っ白になってるなあ、って。
多分、ご本人も、いつ、どのように歌って、どのように動いたか、とか、記憶に残ってないんじゃないかな、と思います。
とにかく、必死で歌って演技(?なのかな、あれは、、)して終わった、という感じ。
ただ、上に書いたように、史実のパーシーはあまり野心がなくて、父親にも”ダメだ、こいつは。”と思われているような、
情けないところのある、優しさと誠実さがとりえの、一見、アンとは全く釣り合わない感じの人らしいので、
その点では、なんだか書物のイメージ通りのパーシー、、、。
でも。コステロが口を開くとやっぱり思ってしまうんです。いい声してるわ、この人は、と。
歌声に色気がある。もうこれはもって生れたとしか説明のしようがない、生命の神秘ですな。声というのは本当偉大です。
彼の声には、中心に一本の芯があって、その周りにもう一つ別の光(響き)が取り囲んでいるような音で、劇場で聴くと心地よいpingがあります。
多分、オープニング・ナイトの音源を聴いた人は、なんでこんなへぼい歌に拍手が多いのか?またメトの客は耳が腐ってる、と言うでしょう。
例のあがり症のせいで、高音域の支えが弱くなって音がヘロヘロになっていた部分もありましたし、技術がつたない部分もありますから。
この日、必ずしも声そのもののコンディションは悪くなかった、むしろ良かったのでは?と私は見ているのですが、
精神的なプレッシャーに勝ちきれなかったようです。
けれども、彼の声そのものに特別なものを聴いた観客もいたはずで、観客の拍手はそれを表しているのだと思います。
ビーフ・アップ歌唱(彼が近年身につけた妙に男性っぽさを強調したような変な歌い方を私がこう名づけた。)なんですが、
少しその傾向を感じ、完全には抜け切れていないな、とは思いますが、以前よりはだいぶましになっていました。
この日のために色々準備をして来たのだと思いますが、そのベル・カントを歌う、ということ自体が、
彼の声を、より無理の少ない、より健康な歌い方に戻しつつあるように思います。
やっぱり彼は焦らずに、ベル・カントとかフランスものの一部のレパートリーを今は中心にして歌って行くのがよいと思います。
高音はそのビーフ・アップ歌唱と完全に引き換え、もしくは犠牲にしてしまった感があって、以前よりも苦しそうになっているのを感じます。
件のVivi tuですが、オープニング・ナイトは最後に果敢に高音を含む箇所を二度とも歌うという暴挙(?)に出ていましたが、
(ちなみにYouTubeで紹介されているウィーンの公演でのメーリはこの部分を歌わないでエンディングにもっていっているようです。)
特に二度目のそれが危うく、さすがに本人もこれはきつい、と感じたか、10/10の公演ではそれを一回に変えて歌っています。
下にその10/10の公演からのVivi tuを紹介しておきます。
HDの日(15日)はこれよりも良い歌唱になっているのか、それともHDのプレッシャーに完敗してしまうのか、、楽しみなような、怖いような。
今回の公演のキャストの中で一番失望が激しかったのは意外にもアブドラザコフのエンリーコでした。
豪華な衣装は似合っていますが、このプロジェクションに全く乏しい声は一体どうしたというのでしょう?
これでは威厳ある王のキャラクターを描ききることは出来ません。
歌はそこそこ上手いのに、今一つブレークしきれないところのある人ですが、ここまで元気のない歌は聴いたことがありません。
HDの日の公演に期待したいと思います。
一方、スミートン(スメトン)役を歌ったマムフォードはズボン役によく合っている棒っきれみたいな細い体から出てきているとは思えない、
深さのある魅力的な響きを聴かせていてなかなか良かったです。歌いまわしに余裕が出てきたら、もっともっと良い歌を歌える人だと思います。
この公演であまり評判が良くないのがマクヴィカーの演出です。
中にはあまりに歴史に忠実にあろうとした衣装とかセット(の地味さ)のせいにしている人もいましたが、
これってやはりマクヴィカー、ジョーンズ、ティラマーニ女史という、イギリス・チームからすると譲れないところなんではないかと思います。
私たちが蝶々夫人の時代の長崎、というと、きちんとオーセンティックな風景が浮かぶのと同様に、
彼らにとって、チューダーの世界は私達以上にずっと身近なものであって、それに余計な手をくわえたりするのは、
我々が半中華風なミンゲラの蝶々夫人を見て不快に感じるように、許せないものなんだと思います。
その代わり、すごく微妙な、細かいところに、さすが、自国の文化・歴史だけあって良く理解してらっしゃるわ、、と思うこと多数でした。
もしかすると、あまりに彼らにとって自然過ぎて、意識して行っているわけではない部分もあるのかな、とすら思います。
(例えば合唱にあまりアンナに同情的なしぐさをさせないところとか、史実にも沿っているし、私は好きです。
それから最後に娘のエリザベスを舞台に出さないところも。私の知る限り、アンは幽閉された後は娘に会う事を許されずに死んで行ったはずです。)
むしろ、演出に難があったとするなら、衣装やプロップの問題ではなく、ディレクションの存在が薄い点かな、と思います。
どの登場人物をとっても、あまり明確な意図を持った芝居を感じることが出来ませんでした。
思い浮かぶのは、先に説明した、アンナが処刑台に向かうシーンくらいでしょうが、あれもリハーサルからやり方が変わっているところを見ると、
どこからがマクヴィカーで、どこからがネトレプコの意思なのか、よくわからないです。
それから、コステロにはもっと演技指導してあげてください。舞台で立ちつくしてます、彼、、、。
Anna Netrebko (Anna Bolena / Anne Boleyn)
Ekaterina Gubanova (Giovanna Seymour / Jane Seymour)
Stephen Costello (Riccardo Percy / Lord Richard Percy)
Ildar Abdrazakov (Enrico / Henry VIII)
Tamara Mumford (Mark Smeaton)
Keith Miller (Lord Rochefort)
Eduardo Valdes (Sir Hervey)
Conductor: Marco Armiliato
Producation: David McVicar
Set design: Robert Jones
Costume design: Jenny Tiramani
Lighting design: Paule Constable
Choreography: Andrew George
Gr Tier Box 35 Front
ON
*** ドニゼッティ アンナ・ボレーナ Donizetti Anna Bolena ***
開演直前に今日のマイ・シートであるグランド・ティアのサイド・ボックスにたどり着くと、私の隣二席の客の姿がまだありません。
今日はどんな方がいらっしゃるかしら、、と思いを馳せていると、やがてボックスのドアが開いてその隣のお二人が姿を見せました。
なんと!!!またオースティンご一行様じゃないですか!!!
2009年のオープニング・ナイト(『トスカ』)の記事にも書きましたが、彼と相ボックスするのはこれで当ブログが始まってからだけに限っても3回目。
しかも2006、2009、2011と段々間隔が縮まって来てるので、もう来年以降は毎年相席かもしれません。
”また一緒になりましたね&今年もいよいよ始まりましたね。”と握手を交わした後、
オースティンが今年のお連れのお嬢さんを、”こちらはブレアナよ。”と紹介してくださいました。
思わず”2009年の時のお嬢さん(写真がありました!)の方が私は好きだわ、、美人で気立てもよろしかったし、、。”と口走ってしまいそうになりましたが、
このブレアナ・オマラ嬢も超スタイルが良くて美人、ご職業がダンサーと聞いて納得するというものです。
それにしても、こんな二人(↓)の隣に座る身にもなってください、、、来年はもっと派手に行かなきゃ駄目かしら。
さて、今シーズンのオープニング・ナイトは2003年のゲルギエフ指揮によるフレミングの『椿姫』以来8シーズンぶりに、レヴァイン以外の指揮者による指揮となりました。
今年、その大役を務めるのはマルコ・アルミリアートです。
『アンナ・ボレーナ』は今日のオープニング・ナイトの公演がメトでの初演になります。
恥ずかしながら、自分が鑑賞する公演の予習だけで手一杯、もちろんメトで上演がない演目については全く手が回っていない、という体たらくのため、
自慢ではありませんが、我が家のCD棚の『アンナ・ボレーナ』は長年その存在をほとんど無視されて来ました。
数回はCDプレーヤーのターンテーブルにのせてみたこともありますが、大概、狂乱の場に至る前の、二枚組みのCDの一枚目の最後あたりで挫折、、
ということで、きちんと聴いたことがあるのは狂乱の場だけ、、というやばい状況です。
しかし、メトで上演があるとなればこれではいかんだろう!ということで、この夏は一転、CDプレーヤーで彼らがくるくる回転し続ける毎日が続きました。
しかも、同時進行でアン・ブリンの生涯を描いた小説も読みふけるという、超アンナ・ボレーナ一色の夏になりました。
このブログをいつも読んで下さっている方なら私がマリア・カラスを信奉しているのはご存知の通りですが、
それだけでなく、『アンナ・ボレーナ』という演目はカラスを抜きにして語れない演目ゆえ、
もちろんCDのうちの一つはカラスがタイトル・ロールを歌ったもの(指揮はガヴァッツェーニ)で、彼女の歌唱は素晴らしいのですが、
実を言うと、段々ともう一枚のジェンチェルがタイトル・ロールを歌う盤(こちらも指揮はガヴァッツェーニ)の方を好んで聴くようになって行きました。
というのも、カラスのCDは全幕上演のライブ盤、ジェンチェルの方はおそらく公開録音か何かなのだろうと思いますが、
演奏年月日がそう離れていないのに、指揮の雰囲気が随分と違って、私にはカラス盤の方がダルな感じがするからです。
言うまでもなくアンナ役に関してはカラスの方が良いんですけどね、、、上手く行かないものです。
(オケはカラスの盤がスカラのオケ、ジェンチェルはミラノRAIです)
今回のメトでの上演には序曲もきちんとくっついて来ますが、上の二枚のCDには序曲がなく、すぐに合唱のところから始まります。
序曲をカットするのが当時の上演の方法だったからか、演奏されたのにCDに収録されていないのか、
私には確かなことはわかりかねますが(多分前者なのではないかと推測しますけれども)、理由が何であれ、良いチョイスです。
というのも、この序曲はドニゼッティの音楽が大好きな私でも弁護の余地なしな位にいけてないです。
極めて美しいメロディーがあるわけでもなければ、この後に続く物語の内容を予感させる力には不足しているし、
乱暴なことを言えば、正直、メトの上演でもカットしてしまっても良いのに、、、と私なんかは思います。
もしこの私にタイムスリップする能力があったなら、ドニゼッティの存命時に赴き、この序曲を書き直させてみたい。
そういえば、カットといえば、このオープニング・ナイトに至る前に、NYのヘッズを総怒りさせる大問題が起こったんでした。
ニ幕の狂乱の場の直前に、エンリーコ(ヘンリー8世)達がでっち上げた罪によって死罪が決定した
ロシュフォード卿(アンナのお兄さん)とパーシー卿の二人が語り合う場面があります。
この場面にパーシー卿がロシュフォード卿に向かって、”君は生きなくては。この地上で私達の不幸を最後まで見届ける人間も必要かろう。”と語りかける”Vivi tu"が含まれています。
このVivi tuは表現の深さが求められるのはもちろん、技術的にもハイC(Dを入れてしまうテノールもあり。)が含まれる非常に難しい曲で、
よって歌いこなせるテノールがそんじょそこらにわらわらといるわけもなく、カラスのCDでの演奏もこの場面はカットの憂き目にあっています。
しかし、もちろん、この曲を歌える力のあるテノールを確保できたなら、絶対にカットすることがあってはならない、
この作品のハイライトのひとつと言ってもよい感動的な曲なのです。
ところが、『アンナ・ボレーナ』のリハーサルが始まった頃、とんでもない情報が入って来ました。
なんと、メトでの上演から、この二人の場面を丸ごとカットするというのです。
これを聞いて私がまず思ったのは、パーシー役を歌うコステロにこのアリアは無理とメトが判断したのかも知れないな、ということでした。
コステロの声の美しさや潜在的才能については高く買っている私ですが、今までいくつかの記事に書いて来た通り、
彼には精神的にあまり強くない部分が確かにありますので、本人が歌えない、と言い出したのかもしれない、
まあ、本人が歌えないというなら仕方ないな、と、、、。
ところが、Vivi tuはこの作品のハイライトである!!と強く信じるヘッズから徐々になぜカットするのか?という声が上がり始め、
しかも、コステロは以前、ダラスでこの演目を歌ったことがあるそうですが、その時は高音も問題なく出てたぞ!という目撃情報まで上がってきたものですから
(アメリカ全土にまたがるヘッズのネットワークの恐ろしさをメトは忘れたか?)
メトもこれに対抗して、”これはテノールの力の問題ではなく、演出上の理由によるものである。”という声明を出したのですが、
その後、それは、別に演出上の理由といった高尚なことでも、マクヴィカーの意向でもなく、
ゲルブ支配人が単に上演時間が長すぎて、観客が退屈するのではないかという考えからカットを推進したらしい、
(『アフリカの女』の経験を基にすると、観客が退屈するのではないか、というよりも、自分が寝てしまわないか、という心配だったのではないかとも思われる、、。)
という、確かにありそうな話まで飛び出して来て、
そのような理由でVivi tuを葬り去り、テノールの一番の聴かせどころを奪うとは何事!?と全米のヘッズワールドは蜂の巣をつついたような騒ぎになりました。
その上、コステロへの思いやりからか、自分が件の場面抜きでいきなり狂乱の場に入るのは調整上若干辛いという個人的な事情からかはわかりませんが、
ネトレプコからもその場面を戻して欲しい、という要請があったそうで、
ネトレプコにそう言われちゃ支配人も引き下がるしかなし、、という訳で、めでたくVivi tuは上演に含まれることになりました。
それにしてもネトレプコの要請くらいですぐに引っくり返せるものだったということは、
やはり演出や歌唱が理由ではなかったのだな、、ということになり、
真のオペラヘッズの思考回路からはおよそ程遠いところにあるゲルブ支配人のそれに思わず溜息をついてしまう私です。
Vivi tuをカットする位なら、あの序曲をカットしろよ!ですよ、本当に。
さて、このレポートを書いている時点ではすでにオープニング・ナイトの評が出切っていて、
ネトレプコのアンナ役の歌唱については色々な評価があるようですが、ほとんどの評者に一貫して批判されているのがマルコの指揮です。
私が思うに彼のこの作品での指揮の問題は、技術的なことではまったくなく(オペラの指揮に多少なりの理解がある方なら、
彼がオペラ指揮者として非常にきちんとした力をもった指揮者であることを疑う人はいないでしょう。)、”熱狂の欠如”と呼びたくなるものです。
まず、一つには彼がこの作品をあまり優れた作品だとは思っていない、そのことがオケに伝播し、
オーディエンスにダルな指揮・演奏と感じさせる元凶になっていると思います。
確かに、『アンナ・ボレーナ』は『ルチア』のような隙のない名作と比べると劣る部分があるゆえに、
ただ漫然と演奏しているだけでは駄目で、アンナ役を歌う歌手がその隙を埋め、越えるものがあると信頼する、
その気持ちがオケをドライブし、一層、歌手が力を発揮する場を生み出すという、このサイクルを作らなければなりません。
ところが、そのサイクルが上手く形成されていない。
一つには、マルコがネトレプコの力をそこまで信じていないのではないか?と感じさせる部分があって、
あのturdな『ルチア』に付き合わされた経験のあるマルコですから、誰もそれを責められない部分もありますし、
また、実際、今回の公演でネトレプコの歌唱が素晴らしかったと絶賛している人は都合よく聴く耳を持たないことにしたようですが、
彼女のアンナ役の歌唱は決して超正確、と呼べるものではなくて、指揮やオケに負担を強いている部分があるのも事実です。
だけれども、だからと言って、やる気を失って、適当にネトレプコに合わせますから、、というスタンスで指揮していいわけはなく、
彼女に合わせるだけでなく、”ここはこっちについて来い!”と彼女の方について来させる部分がもうちょっとあっても良かったのではないかな、、と思います。
先に同じガヴァッツェーニの指揮のCDでも、カラスの時とジェンチェルの時では随分オケの生き生き度が違うということを書きましたが、
もしかすると、ガヴァッツェーニもカラスという大歌手を迎えて、
自分の音楽を作るよりも彼女の歌いやすいように、、という守り姿勢になったのが、オケをダルにした一因かもしれないな、、とも思います。
当然耳に入っているであろう指揮に対する批判にも関わらず、二度目の公演でも全く同じアプローチをとっていたと聞くマルコが、
三度目の公演をシリウスで聴いたところでは、序曲で少しテンポを早めに設定する工夫なども見られ、
ずっとオケにドライブ感があって、内容の良い演奏になっていました。
ここからHDまでどう変化していくか、さらに、”裏のアンナ”(ネトレプコとオルタネートで表題役を歌う)
ミードが登場した時にはどういうことになって行くのか、興味深いです。
オペラの作品としての『アンナ・ボレーナ』は、アンナがどうやって王位についたか、そのいきさつとかそこに至る動機を詳しく描写しないし、
リブレットを辿るだけではオーディエンスにあまり深い感情が湧いて来づらい部分は確かにあって、
そこらが例えば『ドン・カルロ』のような、一切背景を知らなくてもただオペラを鑑賞するだけで深い感動に包まれることが出来る傑作とは違い、
この作品がマルコからも、”つまんね。”と思われてしまう原因かもしれません。
私も正直、CDで聴いた最初の数回は、狂乱の場以外は”つまんねー!!”と思いました。
ところが、アン・ブリンに関する書物を改めて読み、彼女がどのような経緯でオペラの中で描かれるような状態に陥ったかという記憶を新たにしてこの作品を聴き直すと、
ドニゼッティがつけた音楽が非常に陰影に富んだものであることがわかり、全くもって駄作でないことがよくわかります。
なんといっても1500年代のお話ですので、どんな書物を読んだとしても、ある程度の脚色や必ずしも真実とは限らないことが含まれているとは思いますが、
私が読んだ書物の中で、興味深く感じたのは以下の点です。
●アンがフランスの宮廷に派遣されていたローティーンの頃
(そこでアンナはフランスの洗練された流儀を身につけ、それが後に彼女がイギリスの王室で一際目を惹く理由となる。)、
やはりフランスにやって来たアンナの姉が、フランス王の愛人となる。
アンナの姉はいわゆる男好きのする性格で、彼女自身”今がよければそれでいいじゃーん”的な享楽的な性格。
フランス王に捨てられた後も、次々と男性と関係を持ち、その破廉恥ぶりにイギリスに強制送還される。
しかし、皮肉にも、その享楽的・楽天的な性格のせいでいつもそれなりに幸せになってしまい、全く懲りない。
(実際、イギリスに帰って来た後は、アンと結婚する前のヘンリー8世の愛人にもなった。)
しかし、アンはその間、いかにフランスの宮廷、特に女性たちが彼女を軽蔑していたかを観察しており、
王のような権威ある男性にとって、女性は単なる品物にしか過ぎない、という事実も肝に銘じていく。
この、アンの姉のフランスでの行動・存在がアンに与えた影響こそが、『アンナ・ボレーナ』の物語の真のスタート地点だと言える。
●フランスでの勤めを終え、イギリスに戻って来たアンは王室に働き場所を見つける。
洗練された彼女に惹かれ、言い寄る男性は多く、文武に秀で見目麗しい男性の友人も多い。
ところが、アンは大してハンサムでもなく、野心にも欠けるが、優しく純粋な心が取り得のパーシーと恋に落ちる。
ちなみにパーシーは北の名家の出身で、当時は、アンの家よりもずっと上流。
当時の結婚とは、家をさらに繁栄させるための手段に過ぎず、本人が惚れたはれたで結婚できる現代とは大違い。
パーシーの家とではアンの家の方が釣り合わないという理由でアンは結婚を阻止される。
(実はこの時すでにヘンリーがアンに目をつけており、この結婚の阻止に絡んでいたとも言われる。)
この経験を通して、アンは、女性が好きな男性と結婚できるなどということはほとんど起こりえないのだ、という教訓を得る。
●やがてアンへの恋心をあらわにし始めるヘンリー。しかし、そもそもアンはヘンリーに対してパーシーに対して持ったような愛情を持てない。
ましてや、まだキャサリンという女王がいるヘンリーの愛人になって姉のような笑いものになる気はアンにはさらさらなし。
ヘンリーがそのうちあきらめて引き下がることを期待しつつ、頑なに愛人になることを拒否。
自分は潔癖な人間であるので、結婚をするのでなければ一緒になれない、というのを表の理由にして。
しかし、皮肉にもこれが一層王の彼女への思いを燃え上がらせてしまう。
ヘンリーの第一の王妃キャサリンからの無理やりな離婚も、
そしてそれを可能にするためのローマ・カトリック教会との断絶およびイギリス国教会の成立も、
あのフランスでの経験がなければ、アンがこうも誇り高い人間でなければ、
アンが結婚をしないでヘンリーの愛人になることに同意していれば、必要はなかったと言える。
●拒否されて一層燃え上がり彼女を手に入れようと躍起になる王に少し情がほだされるアン。
さらに、決定的だったのは、パーシーとの経験を通して得た、どうせ好きな人と結婚できるわけではない、という教訓転じて、
どうせ好きでない人間と結婚するなら、いっそ王と、、、という発想の転換。
●もともと持つ才気走った性格のせいで、自分よりもずっと位の高い人間に対しても非常に鼻っ柱が強いところがある。
王をひきつけたその性格が、最後には愛想をつかされる原因にもなるのである。
(度重なる男児の流産によるストレスと焦りがさらにそれに輪をかけていく。)
彼女の周りに親身になってくれる友達、特に女性のそれが少ないのは、単に彼女の境遇から来るものではなく、彼女の性格に負うところも大きい。
というわけなので、同じ狂乱の場があるといっても、
アンナ・ボレーナはルチアのような政略結婚の前の無力さにぷっつんしてしまうような繊細なお嬢ではなく、
”お家のための結婚”が支配する世でパーシーとの初恋を犠牲にしつつも、
自分でイギリス王の妻になることを決意し、それに全てを賭け、一瞬それを手にしながら、
強すぎる自己のために、その勝利を指の間からこぼし落としてしまう、そういうお話なのだと思います。
こういう理由から、私はベル・カントを得意とする歌手なら誰でもアンナ役を歌っていいというわけではなく、
実際、この役は低音域が多用されてもいることから、その音域が充実したソプラノが歌わないとドラマも魅力も半減すると思っていて、
歌が上手くても声がたおやかで優し過ぎる、重さが足りない歌手のそれにはあまり興奮させられません。
しかし、一方で、最後の狂乱の場を本当の意味での狂乱にしてしまう、ヒステリー女の雄たけびのような歌も論外で、
ですので、ビヴァリー・シルズのアンナは”ありゃー、すごい!”とは思いますが、
正直、アンナ・ボレーナという人間をきちんと描けているかというと、かなり、???です。
これはオープニング・ナイトのラジオ放送で、ホストのマーガレットやウィルが、
また、インタビューの中でネトレプコ自身が語っていたと思いますが、
この作品の狂乱の場は、歌われている言葉が必ずしもアンナの本当の気持ちを表現しているわけではないところがポイントで、
ネトレプコははっきりと、自分は狂乱の場はアンナが狂っているわけではないと思って歌っている、と語っていましたが、
私もそれが正しいアプローチだと思います。
言葉の上ではアンナは周りの人間を許して死んで行くことになっていますが、音楽が全くそれを裏切っていて、
彼女の煮えたぎるような怒りを表現しているのです。
この作品の狂乱の場の”狂乱”は”狂う位”のやる方ない怒りとそれでも自分はこのようにしか生きられなかった、という思いゆえなのであって、
完全に狂ってしまってはいけないのです。
ネトレプコのアンナなんですが、NYの批評家の評価はかなり広いスペクトラムで分散しています。
私の考えを言えば、まず、彼女の声。これは今、この役を歌うに本当にこれ以上望めないくらいの状態にあります。
いや、この役を歌うのに、という条件をとっぱらっても、今の彼女の声は多分、私がこれまで聴いた彼女のキャリアの中で、
最も素晴らしい状態にあると言ってよいと思います。この声を聴く、それだけでもある一定の価値はあると感じるほどです。
後、以前に比べると声のボリュームのコントロール能力は非常に上がったのを感じます。
わかりやすいところでいうと、”あなたがたは泣いているの? Piangete voi?”を歌い始めて間もなくのl'altare è infioratoのinfioratoの取り扱いなど、
以前の彼女なら割りと考えなく力任せに歌っていただろうと思われる箇所に、より豊かなシェードが出るようになったと思います。
彼女は元々非常に舞台勘が良く、演技が上手いというより、一種の独特のステージプレゼンスがあるというのはよく言われることです。
それは演技らしい演技をしている時よりも、むしろ何気ない舞台上の動作のタイミングなんかに現れます。
彼女が舞台で存在感があるのはそれは見目麗しいせいだからだろう、彼女が人気歌手だからだろう、という人もいるかもしれませんが、それは違います。
もしそれが本当なら、細くてもっと美人に見えた数年前よりも今の彼女の方がさらに存在感が増していることの説明がつかないし、
彼女が人気歌手になったのはそういった類稀な能力がもともとあったからだと考える方が自然です。
事実、彼女に負けず劣らずの美人でも、舞台にあがるとおよそ彼女の華に及ばない、というケースを私は少なからず見て来ました。
しかし、その中でも、このアンナ・ボレーナ役は特別に何かがしっかりと彼女とクリックしているというか、
今まで私が見た彼女の舞台の中でも、ドラマの面では最も満足度の高いものの一つです。
まず、アンナ役を、一面的に可愛そうな女性とも、権力欲に溺れた愚かな女性とも定義付けずに、
ごく普通の感情を持った一人の女性として、終始オーバーアクトせずに演じているのは好感を持ちます。
けれども、先に書いた通り、この物語の根底に流れ、自身を徐々に処刑台に追い詰めて行くのは、
他ならぬアンナの誇り高さと自分はこうしか生きられない!という強い自我です。
ネトレプコのアンナ役の良さはそこをきちんと表現しきっている点で、”よこしまな二人よ Coppia iniqua”の最後の高音を歌った後、
メトがリリースしてNYタイムズなどでも紹介されているリハーサルの映像では、くるくるっと髪を巻いて首を出し、
観客に背を向けて舞台奥、つまり処刑台に消えていく姿で幕となっていますが、
オープニング・ナイトの最後は、長い髪の先をぎゅっと片手で摑んだかと思うと、”きっ!”と、
頭と同じ高さに水平に持ち上げて、その髪を引っ張る強さに少し頭が傾いだ状態で、
”誰が何と言おうと、私は死ぬまで女王よ。さあ、首を切るというならさっさと切りなさいよ!”とでもいうように猛然と処刑台に歩んで行くという、
鳥肌が立つような演技を彼女が見せてくれました。うんうん、これなんですよね、アンナという女性の本質は!!
ネトレプコが以前ジンマーマン演出の『ルチア』に登場した時、同演出のプレミアをつとめたデッセイの物真似演技ばかりでうんざりしましたが、
こういう自らのアイディアで、オーディエンスの記憶に残るような演技を出してくれるというのは本当に嬉しいことです。
このCoppia iniquaで歌われている言葉も、この”二人”というのはもちろんヘンリーとジョヴァンナのことなんですが、
”私はあなたたちに復讐などを求めない。”
これは表身にはあなたたちを恨まずに死んでいきます、という意味にもとれますが、あの音楽を聴けば、その実は全然そうでないことがわかります。
この言葉の真意は、私の誇り高さはあなたたちのいる卑しさより、はるか高いところにある。
それゆえに私は死んでいくのだ。だから、あなたたちに復讐を望むというようなくだらないことはしない。”という宣言に他なりません。
でも、その彼女の誇り高さがものすごい怒りを昇華したらしいことは、他のなによりもあの音楽が表現しています。
声そのものの魅力、声質の役柄への適性、それからドラマ面での役柄とのコネクションという点では
非常に良いものがあったネトレプコのアンナですが、
残念ながら歌唱技術の面ではこの二つのレベルに達していないかな、、というのが私の感想です。
いや、実のところを言うと、turdな『ルチア』を経験してしまったりしたせいもあって、
彼女のベル・カントものの技術には”ほどほどに期待する”癖がついてしまっていて、
今回もあまり期待していなかったのですが、このオープニング・ナイトに関して言えば、
私が予測していたよりはだいぶ技術的にも頑張ったとは言えると思います。少なくとも一生懸命に取り組んだ跡は見られたと思います。
この夏休みにはヘッズの間で、彼女が出演したヨーロッパでのコンサートの映像から、彼女のトリルのスキルがあがっているのが話題になっていました。
(今回、全幕を聴いた感じでは、完全と言えるところまではもう一歩かな、と思いましたが、、。)
ただ、ここで言う”ほどほど”に対して、それならフルに期待できる歌手はどういう顔ぶれなのかというと、
歴代の歌手を取り混ぜ、カラス、サザーランド、シルズ、カバリエ、スコット、デヴィーア、グルベローヴァ、、という感じなので、
”そんな無茶な、、。”と笑われる方もあると思います。
でもこれはメトのオープニング・ナイトであり、『アンナ・ボレーナ』と言えば、
タイトル・ロールを歌うソプラノの力のショーケース的な演目なわけですから、どうせなら、
上にあげたようなクラスの歌手と同等の力をもったソプラノで聴きたい、、と思ってしまうわけです。
ましてや、声や雰囲気がこの役とはかけ離れている、、と思わせる歌手ならともかく、
この二つに関しては非常に優れたものを持っているネトレプコなだけに、微妙な歌唱の技術とか輪郭の甘さが余計に悔やまれるのです。
最近、恒例になりつつありますが、また、カラスの”Piangete voi あなた方は泣いているの?~
私の生れたあのお城 Al dolce guidami castel natio”の歌唱を紹介しておきます。素晴らしすぎ。
(この音源はガヴァッツェーニ指揮のライブ盤ではなく、レッシーニョが指揮したスタジオ録音の音源です。)
以前、このブログにコメントを下さる方のお言葉にありましたが、”天才と言われる歌手・演奏家が天才である所以は、
他の人間がそこまでやることはなかろう、、と思うところまで自分を追い込み高みを目指せる、そこにこそある。”のです。
それを言うと、ネトレプコは非常に才能に恵まれた歌手ではありますが、そういう意味での天才ではないということなのでしょう。
彼女のベル・カントの歌唱技術には、上に名前をあげたような歌手達と比べると、
いつもどこか少し(そして時には非常に)緩いところがありますから、、。
なので、彼女のアンナ役をどう評価するかは、この緩さに対するそれぞれの方の許容量次第なのだと思います。
あ、それから、これは微妙な歌唱技術とか輪郭の枠を越えているので書いておかねば(←鬼!)と思いますが、
彼女は”私の生れたあのお城 Al dolce guidami castel natio”の最後に高音(上のカラスの音源にはない。)を入れて来るのですが、
いつもここでピッチが狂いますね。
(オープニング・ナイトの後に聴いた二度のシリウスの放送のいずれもそうでした。)
そこから音が下がってオケが入って来て閉め、ということになるわけですが、
オープニング・ナイトの時は、”あらあら、こんなに外してこのまま下がったらどうやってまとめる気???オケと不協和音??”とハラハラさせられました。
一回、音を伸ばし切って、劇的効果を狙ってブレスをとって(いるようにみせかけ)、持ち変える形で正しいピッチで入り直す形で逃げ切ったのは、
さすが普段から技術が甘いだけに逃げの小技をきちんと身につけているのね!と、妙なところで感心させられました。
まあ、こういうところでも落ち着いて処理しているのが彼女のすごいところではあります。
件のオープニング・ナイト当日に放送されたインタビューの中で、ネトレプコは歴代のアンナ役で誰のそれを参考にしましたか?という質問をされた時、
”カラスですか?”と水を向けられて、”カラスも聴きましたが、一番参考にしたのはジェンチェルです。”と答えていたのが興味深いな、と思いました。
また、先日のシリウスの放送ではBキャストのアンナ役をつとめるミードがインタビューに登場し、
全く同じ質問をされていましたが、彼女の方は、”サザーランド、カラス、シルズ、スコット”という風に答えています。
このオープニング・ナイトはゲルブ支配人の当初の企みによれば、
ネトレプコとガランチャの美女二人でメトの舞台をぴかぴかに輝かせる!というものだったわけですが、
やたらこういう企みで失敗が多いゲルブ支配人のいつもの例にもれず、
今年もまた、ガランチャがご懐妊により降板ということになってしまい、代わりにメトの日本公演にも参加してくれた
エカテリーナ・グバノーワが代役に抜擢されたのは以前お知らせした通りです。
グバノーワはその日本公演の『ドン・カルロ』での配役(エボリ)といい、
NYで舞台に立った『ホフマン物語』(ジュリエッタ)での歌唱のイメージからも、
どちらかというとまったり系のメゾ・ロールが得意なのかな、と思っていて、ベル・カントの彼女というのは、
正直事前にはあまりイメージが湧かなかったです。
ところが、実際に聴いて見て、私はまったりロールよりも、こういうベル・カントの役の方がもしかすると彼女はいいかもしれないな、と思いました。
彼女はいわゆるブルドーザー系の声ではなくて、どちらかというとややこじんまりした質の声で、
その分、発声には独特の端正な感じがあって、ベル・カントと折り合いが良いように個人的には思います。
ベル・カントに必要な歌唱技術も割りとしっかりしていますし、特にあげつらうような欠点はないです。
声・歌に関して強いていえば、少し声が若いというか、硬い感じがする点でしょうか。
もしかすると、彼女はまだ実際の年齢も若いのかな、、?
これからだんだん声が成熟して、まろやかさが加わるといいな、と思います。
後、こちらはネトレプコが相手では大変だとは思いますが、彼女個人の今後を考えると、舞台での存在感がやや薄いのが泣き所かもしれません。
一途にヘンリーを思っているところとか、表現は悪くないですし、
私の読んだ本によれば、”(ライバルとしては)心配するに足りぬ地味顔の冴えない女”とアンナに評されたジョヴァンナの、
ちょっとダサい雰囲気もきちんと出していて(その点、ガランチャは綺麗過ぎ、、
ヘンリーはアンナの自我の強さにうんざりして、その反動で地味顔の冴えない女に心を移したとも考えられるから、もうちょっと綺麗でなくなってもらわないと。)、
決して悪くはないのですけれど、、。
そういえば、この地味顔の女(に扮するグバノーワ)が、毅然と、”自分はヘンリーを愛してる。”と言い切る場面もいいな、と思います。
ネトレプコが扮するアンナが一瞬気圧される様子を見せるのもいいんですよね。
ここで今まで単なる地味顔のダサ女と見くびっていたジョヴァンナが、自分にないものを二つ持っていることを知るわけです。
一つにはヘンリーを愛する気持ち、もう一つはそれを他人に打ち明けられるというプライドの無さ。
この二つにはアンナは心底恐怖心を持ったはずです。
オープニング・ナイトの公演で最も印象に残った箇所をアンナとジョヴァンナの二重唱("Sul suo capo aggravi un Dio" )とするヘッズも少なくなく、
音楽そのものの出来もさることながら、二人の歌唱も熱気のある優れたもので、
私は声質的にガランチャとネトレプコの声は互いにブレンドしやすいのではないかと推測するのですが、
この曲の場合は、グバノーワみたいに少しネトレプコとタイプの違う声である方が却ってよいのかもな、とも思いました。
今回の公演でタイトルロールのネトレプコよりも緊張して見守ってしまったのが、パーシー役を歌ったスティーヴン・コステロです。
私は今キャリアのプライムにいる歌手の歌を聴くのももちろん好きですが、キャリアはこれから!の若手の歌を聴くのも同じ位好きです。
彼らには絶頂期の歌手のような洗練とかテクニックはないかもしれませんが、独特の原石の輝きのようなものがあるので、、。
彼の歌を初めて聴いたのは2007年のオープニング・ナイトで、その時に”なんと美しい声なんだ!!”と感激したのを昨日のように思い出します。
あれから、まあ、色々ありました。、、、と書くと一体何があったのか?って感じですが、
もちろん、私がぎゃあすか一方的に彼の声の状態や歌唱スタイルに喜んだり、悲しんだり、注文をつけて来たに過ぎません。
あ、その間に彼の舞台での立ち振る舞いの不器用さに頭を抱えたこともありましたっけ、、
(一つ一つ紹介する字数もないので、検索機能で彼の名前を入れて頂くと、わらわら関連記事が現れるはずです。)
もしかすると、ご本人は私の心配をよそに、自分のキャリアは順風満帆、、と思っているかもしれませんが、
私のここ最近の彼に関しての一番の心配は、例えば『ラ・ボエーム』のロドルフォのような役をレパートリーに加えるにあたって、
以前とは全く違う種類の、妙にビーフ・アップした感じの歌い方が身についてしまっていて、
それに伴って以前あんなに美しかった声そのものにまで影響が出始めているように思えた点です。
また、仮に声に心配がなかったとしても、彼の場合、他にも二つ、大きな心配があるんでした。
① 彼の舞台でのぶきっちょさは半端でない。天性の舞台人であるネトレプコの横でかかし状のものが突っ立っている
(だけならまだいいが、その上にバランスを失って勝手に一人で倒れてしまう)、、というようなことにならなければいいが、、。
② 彼にはオペラ歌手としてやって行けるのだろうか、、?とこちらを心配させるほどのあがり癖があって、特に大舞台になるほどひどい。
どうしてこんな人を、メトの、しかもオープニング・ナイトの、しかも難役に、、、?
、、と、彼にはぜひ頑張ってオペラ歌手として大成して欲しい、と願っている私ですら、
本当に大丈夫なんかいな、、?とやきもきさせられる始末なのです。
オケとのリハーサルが始まると、派遣したオペラ警察に尋ねる質問は毎日、”ネトレプコどう?”ではなく、”コステロどう?”
案の定、一回目のリハーサルでは緊張しまくって自分を失っていたそうですが、回を重ねるにつれて良くなってきているとのこと。
、、、、完全に自分を取り戻すまでにランが終わってなきゃいいんですけど。
で、まあ、どんなにリハーサルで自分を取り戻しつつあると言っても、オープニング・ナイトは当然それを帳消しにしてしまう雰囲気があるわけです。
まず客席の空気が普通でない。新シーズンに鼻息荒いコアな客、華やかに着飾った客、
オーディエンスに混じるメトのパトロンや歌手仲間たち、、、、
シリウスやプラザ&タイムズ・スクエアでのスクリーン生上映のためのマイクやカメラも入っている、、。
はい。これでもうコステロが我を失う条件が完全に揃いましたね。
舞台に出て来たときは、”足と手が同時に出てるわよー!!”と教えてあげたくなるほどで、全身硬直しているのかと思いました。
その後も、座席が舞台に近いせいで見えてしまうんですよね、、、コステロくん、頭が真っ白になってるなあ、って。
多分、ご本人も、いつ、どのように歌って、どのように動いたか、とか、記憶に残ってないんじゃないかな、と思います。
とにかく、必死で歌って演技(?なのかな、あれは、、)して終わった、という感じ。
ただ、上に書いたように、史実のパーシーはあまり野心がなくて、父親にも”ダメだ、こいつは。”と思われているような、
情けないところのある、優しさと誠実さがとりえの、一見、アンとは全く釣り合わない感じの人らしいので、
その点では、なんだか書物のイメージ通りのパーシー、、、。
でも。コステロが口を開くとやっぱり思ってしまうんです。いい声してるわ、この人は、と。
歌声に色気がある。もうこれはもって生れたとしか説明のしようがない、生命の神秘ですな。声というのは本当偉大です。
彼の声には、中心に一本の芯があって、その周りにもう一つ別の光(響き)が取り囲んでいるような音で、劇場で聴くと心地よいpingがあります。
多分、オープニング・ナイトの音源を聴いた人は、なんでこんなへぼい歌に拍手が多いのか?またメトの客は耳が腐ってる、と言うでしょう。
例のあがり症のせいで、高音域の支えが弱くなって音がヘロヘロになっていた部分もありましたし、技術がつたない部分もありますから。
この日、必ずしも声そのもののコンディションは悪くなかった、むしろ良かったのでは?と私は見ているのですが、
精神的なプレッシャーに勝ちきれなかったようです。
けれども、彼の声そのものに特別なものを聴いた観客もいたはずで、観客の拍手はそれを表しているのだと思います。
ビーフ・アップ歌唱(彼が近年身につけた妙に男性っぽさを強調したような変な歌い方を私がこう名づけた。)なんですが、
少しその傾向を感じ、完全には抜け切れていないな、とは思いますが、以前よりはだいぶましになっていました。
この日のために色々準備をして来たのだと思いますが、そのベル・カントを歌う、ということ自体が、
彼の声を、より無理の少ない、より健康な歌い方に戻しつつあるように思います。
やっぱり彼は焦らずに、ベル・カントとかフランスものの一部のレパートリーを今は中心にして歌って行くのがよいと思います。
高音はそのビーフ・アップ歌唱と完全に引き換え、もしくは犠牲にしてしまった感があって、以前よりも苦しそうになっているのを感じます。
件のVivi tuですが、オープニング・ナイトは最後に果敢に高音を含む箇所を二度とも歌うという暴挙(?)に出ていましたが、
(ちなみにYouTubeで紹介されているウィーンの公演でのメーリはこの部分を歌わないでエンディングにもっていっているようです。)
特に二度目のそれが危うく、さすがに本人もこれはきつい、と感じたか、10/10の公演ではそれを一回に変えて歌っています。
下にその10/10の公演からのVivi tuを紹介しておきます。
HDの日(15日)はこれよりも良い歌唱になっているのか、それともHDのプレッシャーに完敗してしまうのか、、楽しみなような、怖いような。
今回の公演のキャストの中で一番失望が激しかったのは意外にもアブドラザコフのエンリーコでした。
豪華な衣装は似合っていますが、このプロジェクションに全く乏しい声は一体どうしたというのでしょう?
これでは威厳ある王のキャラクターを描ききることは出来ません。
歌はそこそこ上手いのに、今一つブレークしきれないところのある人ですが、ここまで元気のない歌は聴いたことがありません。
HDの日の公演に期待したいと思います。
一方、スミートン(スメトン)役を歌ったマムフォードはズボン役によく合っている棒っきれみたいな細い体から出てきているとは思えない、
深さのある魅力的な響きを聴かせていてなかなか良かったです。歌いまわしに余裕が出てきたら、もっともっと良い歌を歌える人だと思います。
この公演であまり評判が良くないのがマクヴィカーの演出です。
中にはあまりに歴史に忠実にあろうとした衣装とかセット(の地味さ)のせいにしている人もいましたが、
これってやはりマクヴィカー、ジョーンズ、ティラマーニ女史という、イギリス・チームからすると譲れないところなんではないかと思います。
私たちが蝶々夫人の時代の長崎、というと、きちんとオーセンティックな風景が浮かぶのと同様に、
彼らにとって、チューダーの世界は私達以上にずっと身近なものであって、それに余計な手をくわえたりするのは、
我々が半中華風なミンゲラの蝶々夫人を見て不快に感じるように、許せないものなんだと思います。
その代わり、すごく微妙な、細かいところに、さすが、自国の文化・歴史だけあって良く理解してらっしゃるわ、、と思うこと多数でした。
もしかすると、あまりに彼らにとって自然過ぎて、意識して行っているわけではない部分もあるのかな、とすら思います。
(例えば合唱にあまりアンナに同情的なしぐさをさせないところとか、史実にも沿っているし、私は好きです。
それから最後に娘のエリザベスを舞台に出さないところも。私の知る限り、アンは幽閉された後は娘に会う事を許されずに死んで行ったはずです。)
むしろ、演出に難があったとするなら、衣装やプロップの問題ではなく、ディレクションの存在が薄い点かな、と思います。
どの登場人物をとっても、あまり明確な意図を持った芝居を感じることが出来ませんでした。
思い浮かぶのは、先に説明した、アンナが処刑台に向かうシーンくらいでしょうが、あれもリハーサルからやり方が変わっているところを見ると、
どこからがマクヴィカーで、どこからがネトレプコの意思なのか、よくわからないです。
それから、コステロにはもっと演技指導してあげてください。舞台で立ちつくしてます、彼、、、。
Anna Netrebko (Anna Bolena / Anne Boleyn)
Ekaterina Gubanova (Giovanna Seymour / Jane Seymour)
Stephen Costello (Riccardo Percy / Lord Richard Percy)
Ildar Abdrazakov (Enrico / Henry VIII)
Tamara Mumford (Mark Smeaton)
Keith Miller (Lord Rochefort)
Eduardo Valdes (Sir Hervey)
Conductor: Marco Armiliato
Producation: David McVicar
Set design: Robert Jones
Costume design: Jenny Tiramani
Lighting design: Paule Constable
Choreography: Andrew George
Gr Tier Box 35 Front
ON
*** ドニゼッティ アンナ・ボレーナ Donizetti Anna Bolena ***