Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

ANNA BOLENA (Mon, Sep 26, 2011)

2011-09-26 | メトロポリタン・オペラ
準備編から続く>

開演直前に今日のマイ・シートであるグランド・ティアのサイド・ボックスにたどり着くと、私の隣二席の客の姿がまだありません。
今日はどんな方がいらっしゃるかしら、、と思いを馳せていると、やがてボックスのドアが開いてその隣のお二人が姿を見せました。
なんと!!!またオースティンご一行様じゃないですか!!!

2009年のオープニング・ナイト(『トスカ』)の記事にも書きましたが、彼と相ボックスするのはこれで当ブログが始まってからだけに限っても3回目。
しかも2006、2009、2011と段々間隔が縮まって来てるので、もう来年以降は毎年相席かもしれません。
”また一緒になりましたね&今年もいよいよ始まりましたね。”と握手を交わした後、
オースティンが今年のお連れのお嬢さんを、”こちらはブレアナよ。”と紹介してくださいました。
思わず”2009年の時のお嬢さん(写真がありました!)の方が私は好きだわ、、美人で気立てもよろしかったし、、。”と口走ってしまいそうになりましたが、
このブレアナ・オマラ嬢も超スタイルが良くて美人、ご職業がダンサーと聞いて納得するというものです。
それにしても、こんな二人(↓)の隣に座る身にもなってください、、、来年はもっと派手に行かなきゃ駄目かしら。



さて、今シーズンのオープニング・ナイトは2003年のゲルギエフ指揮によるフレミングの『椿姫』以来8シーズンぶりに、レヴァイン以外の指揮者による指揮となりました。
今年、その大役を務めるのはマルコ・アルミリアートです。

『アンナ・ボレーナ』は今日のオープニング・ナイトの公演がメトでの初演になります。
恥ずかしながら、自分が鑑賞する公演の予習だけで手一杯、もちろんメトで上演がない演目については全く手が回っていない、という体たらくのため、
自慢ではありませんが、我が家のCD棚の『アンナ・ボレーナ』は長年その存在をほとんど無視されて来ました。
数回はCDプレーヤーのターンテーブルにのせてみたこともありますが、大概、狂乱の場に至る前の、二枚組みのCDの一枚目の最後あたりで挫折、、
ということで、きちんと聴いたことがあるのは狂乱の場だけ、、というやばい状況です。
しかし、メトで上演があるとなればこれではいかんだろう!ということで、この夏は一転、CDプレーヤーで彼らがくるくる回転し続ける毎日が続きました。
しかも、同時進行でアン・ブリンの生涯を描いた小説も読みふけるという、超アンナ・ボレーナ一色の夏になりました。

このブログをいつも読んで下さっている方なら私がマリア・カラスを信奉しているのはご存知の通りですが、
それだけでなく、『アンナ・ボレーナ』という演目はカラスを抜きにして語れない演目ゆえ、
もちろんCDのうちの一つはカラスがタイトル・ロールを歌ったもの(指揮はガヴァッツェーニ)で、彼女の歌唱は素晴らしいのですが、
実を言うと、段々ともう一枚のジェンチェルがタイトル・ロールを歌う盤(こちらも指揮はガヴァッツェーニ)の方を好んで聴くようになって行きました。
というのも、カラスのCDは全幕上演のライブ盤、ジェンチェルの方はおそらく公開録音か何かなのだろうと思いますが、
演奏年月日がそう離れていないのに、指揮の雰囲気が随分と違って、私にはカラス盤の方がダルな感じがするからです。
言うまでもなくアンナ役に関してはカラスの方が良いんですけどね、、、上手く行かないものです。
(オケはカラスの盤がスカラのオケ、ジェンチェルはミラノRAIです)

今回のメトでの上演には序曲もきちんとくっついて来ますが、上の二枚のCDには序曲がなく、すぐに合唱のところから始まります。
序曲をカットするのが当時の上演の方法だったからか、演奏されたのにCDに収録されていないのか、
私には確かなことはわかりかねますが(多分前者なのではないかと推測しますけれども)、理由が何であれ、良いチョイスです。
というのも、この序曲はドニゼッティの音楽が大好きな私でも弁護の余地なしな位にいけてないです。
極めて美しいメロディーがあるわけでもなければ、この後に続く物語の内容を予感させる力には不足しているし、
乱暴なことを言えば、正直、メトの上演でもカットしてしまっても良いのに、、、と私なんかは思います。
もしこの私にタイムスリップする能力があったなら、ドニゼッティの存命時に赴き、この序曲を書き直させてみたい。



そういえば、カットといえば、このオープニング・ナイトに至る前に、NYのヘッズを総怒りさせる大問題が起こったんでした。
ニ幕の狂乱の場の直前に、エンリーコ(ヘンリー8世)達がでっち上げた罪によって死罪が決定した
ロシュフォード卿(アンナのお兄さん)とパーシー卿の二人が語り合う場面があります。
この場面にパーシー卿がロシュフォード卿に向かって、”君は生きなくては。この地上で私達の不幸を最後まで見届ける人間も必要かろう。”と語りかける”Vivi tu"が含まれています。
このVivi tuは表現の深さが求められるのはもちろん、技術的にもハイC(Dを入れてしまうテノールもあり。)が含まれる非常に難しい曲で、
よって歌いこなせるテノールがそんじょそこらにわらわらといるわけもなく、カラスのCDでの演奏もこの場面はカットの憂き目にあっています。
しかし、もちろん、この曲を歌える力のあるテノールを確保できたなら、絶対にカットすることがあってはならない、
この作品のハイライトのひとつと言ってもよい感動的な曲なのです。
ところが、『アンナ・ボレーナ』のリハーサルが始まった頃、とんでもない情報が入って来ました。
なんと、メトでの上演から、この二人の場面を丸ごとカットするというのです。
これを聞いて私がまず思ったのは、パーシー役を歌うコステロにこのアリアは無理とメトが判断したのかも知れないな、ということでした。
コステロの声の美しさや潜在的才能については高く買っている私ですが、今までいくつかの記事に書いて来た通り、
彼には精神的にあまり強くない部分が確かにありますので、本人が歌えない、と言い出したのかもしれない、
まあ、本人が歌えないというなら仕方ないな、と、、、。
ところが、Vivi tuはこの作品のハイライトである!!と強く信じるヘッズから徐々になぜカットするのか?という声が上がり始め、
しかも、コステロは以前、ダラスでこの演目を歌ったことがあるそうですが、その時は高音も問題なく出てたぞ!という目撃情報まで上がってきたものですから
(アメリカ全土にまたがるヘッズのネットワークの恐ろしさをメトは忘れたか?)
メトもこれに対抗して、”これはテノールの力の問題ではなく、演出上の理由によるものである。”という声明を出したのですが、
その後、それは、別に演出上の理由といった高尚なことでも、マクヴィカーの意向でもなく、
ゲルブ支配人が単に上演時間が長すぎて、観客が退屈するのではないかという考えからカットを推進したらしい、
『アフリカの女』の経験を基にすると、観客が退屈するのではないか、というよりも、自分が寝てしまわないか、という心配だったのではないかとも思われる、、。)
という、確かにありそうな話まで飛び出して来て、
そのような理由でVivi tuを葬り去り、テノールの一番の聴かせどころを奪うとは何事!?と全米のヘッズワールドは蜂の巣をつついたような騒ぎになりました。

その上、コステロへの思いやりからか、自分が件の場面抜きでいきなり狂乱の場に入るのは調整上若干辛いという個人的な事情からかはわかりませんが、
ネトレプコからもその場面を戻して欲しい、という要請があったそうで、
ネトレプコにそう言われちゃ支配人も引き下がるしかなし、、という訳で、めでたくVivi tuは上演に含まれることになりました。
それにしてもネトレプコの要請くらいですぐに引っくり返せるものだったということは、
やはり演出や歌唱が理由ではなかったのだな、、ということになり、
真のオペラヘッズの思考回路からはおよそ程遠いところにあるゲルブ支配人のそれに思わず溜息をついてしまう私です。
Vivi tuをカットする位なら、あの序曲をカットしろよ!ですよ、本当に。



さて、このレポートを書いている時点ではすでにオープニング・ナイトの評が出切っていて、
ネトレプコのアンナ役の歌唱については色々な評価があるようですが、ほとんどの評者に一貫して批判されているのがマルコの指揮です。
私が思うに彼のこの作品での指揮の問題は、技術的なことではまったくなく(オペラの指揮に多少なりの理解がある方なら、
彼がオペラ指揮者として非常にきちんとした力をもった指揮者であることを疑う人はいないでしょう。)、”熱狂の欠如”と呼びたくなるものです。
まず、一つには彼がこの作品をあまり優れた作品だとは思っていない、そのことがオケに伝播し、
オーディエンスにダルな指揮・演奏と感じさせる元凶になっていると思います。
確かに、『アンナ・ボレーナ』は『ルチア』のような隙のない名作と比べると劣る部分があるゆえに、
ただ漫然と演奏しているだけでは駄目で、アンナ役を歌う歌手がその隙を埋め、越えるものがあると信頼する、
その気持ちがオケをドライブし、一層、歌手が力を発揮する場を生み出すという、このサイクルを作らなければなりません。
ところが、そのサイクルが上手く形成されていない。
一つには、マルコがネトレプコの力をそこまで信じていないのではないか?と感じさせる部分があって、
あのturdな『ルチア』に付き合わされた経験のあるマルコですから、誰もそれを責められない部分もありますし、
また、実際、今回の公演でネトレプコの歌唱が素晴らしかったと絶賛している人は都合よく聴く耳を持たないことにしたようですが、
彼女のアンナ役の歌唱は決して超正確、と呼べるものではなくて、指揮やオケに負担を強いている部分があるのも事実です。
だけれども、だからと言って、やる気を失って、適当にネトレプコに合わせますから、、というスタンスで指揮していいわけはなく、
彼女に合わせるだけでなく、”ここはこっちについて来い!”と彼女の方について来させる部分がもうちょっとあっても良かったのではないかな、、と思います。
先に同じガヴァッツェーニの指揮のCDでも、カラスの時とジェンチェルの時では随分オケの生き生き度が違うということを書きましたが、
もしかすると、ガヴァッツェーニもカラスという大歌手を迎えて、
自分の音楽を作るよりも彼女の歌いやすいように、、という守り姿勢になったのが、オケをダルにした一因かもしれないな、、とも思います。
当然耳に入っているであろう指揮に対する批判にも関わらず、二度目の公演でも全く同じアプローチをとっていたと聞くマルコが、
三度目の公演をシリウスで聴いたところでは、序曲で少しテンポを早めに設定する工夫なども見られ、
ずっとオケにドライブ感があって、内容の良い演奏になっていました。
ここからHDまでどう変化していくか、さらに、”裏のアンナ”(ネトレプコとオルタネートで表題役を歌う)
ミードが登場した時にはどういうことになって行くのか、興味深いです。



オペラの作品としての『アンナ・ボレーナ』は、アンナがどうやって王位についたか、そのいきさつとかそこに至る動機を詳しく描写しないし、
リブレットを辿るだけではオーディエンスにあまり深い感情が湧いて来づらい部分は確かにあって、
そこらが例えば『ドン・カルロ』のような、一切背景を知らなくてもただオペラを鑑賞するだけで深い感動に包まれることが出来る傑作とは違い、
この作品がマルコからも、”つまんね。”と思われてしまう原因かもしれません。
私も正直、CDで聴いた最初の数回は、狂乱の場以外は”つまんねー!!”と思いました。
ところが、アン・ブリンに関する書物を改めて読み、彼女がどのような経緯でオペラの中で描かれるような状態に陥ったかという記憶を新たにしてこの作品を聴き直すと、
ドニゼッティがつけた音楽が非常に陰影に富んだものであることがわかり、全くもって駄作でないことがよくわかります。

なんといっても1500年代のお話ですので、どんな書物を読んだとしても、ある程度の脚色や必ずしも真実とは限らないことが含まれているとは思いますが、
私が読んだ書物の中で、興味深く感じたのは以下の点です。


●アンがフランスの宮廷に派遣されていたローティーンの頃
(そこでアンナはフランスの洗練された流儀を身につけ、それが後に彼女がイギリスの王室で一際目を惹く理由となる。)、
やはりフランスにやって来たアンナの姉が、フランス王の愛人となる。
アンナの姉はいわゆる男好きのする性格で、彼女自身”今がよければそれでいいじゃーん”的な享楽的な性格。
フランス王に捨てられた後も、次々と男性と関係を持ち、その破廉恥ぶりにイギリスに強制送還される。
しかし、皮肉にも、その享楽的・楽天的な性格のせいでいつもそれなりに幸せになってしまい、全く懲りない。
(実際、イギリスに帰って来た後は、アンと結婚する前のヘンリー8世の愛人にもなった。)
しかし、アンはその間、いかにフランスの宮廷、特に女性たちが彼女を軽蔑していたかを観察しており、
王のような権威ある男性にとって、女性は単なる品物にしか過ぎない、という事実も肝に銘じていく。
この、アンの姉のフランスでの行動・存在がアンに与えた影響こそが、『アンナ・ボレーナ』の物語の真のスタート地点だと言える。

●フランスでの勤めを終え、イギリスに戻って来たアンは王室に働き場所を見つける。
洗練された彼女に惹かれ、言い寄る男性は多く、文武に秀で見目麗しい男性の友人も多い。
ところが、アンは大してハンサムでもなく、野心にも欠けるが、優しく純粋な心が取り得のパーシーと恋に落ちる。
ちなみにパーシーは北の名家の出身で、当時は、アンの家よりもずっと上流。
当時の結婚とは、家をさらに繁栄させるための手段に過ぎず、本人が惚れたはれたで結婚できる現代とは大違い。
パーシーの家とではアンの家の方が釣り合わないという理由でアンは結婚を阻止される。
(実はこの時すでにヘンリーがアンに目をつけており、この結婚の阻止に絡んでいたとも言われる。)
この経験を通して、アンは、女性が好きな男性と結婚できるなどということはほとんど起こりえないのだ、という教訓を得る。

●やがてアンへの恋心をあらわにし始めるヘンリー。しかし、そもそもアンはヘンリーに対してパーシーに対して持ったような愛情を持てない。
ましてや、まだキャサリンという女王がいるヘンリーの愛人になって姉のような笑いものになる気はアンにはさらさらなし。
ヘンリーがそのうちあきらめて引き下がることを期待しつつ、頑なに愛人になることを拒否。
自分は潔癖な人間であるので、結婚をするのでなければ一緒になれない、というのを表の理由にして。
しかし、皮肉にもこれが一層王の彼女への思いを燃え上がらせてしまう。
ヘンリーの第一の王妃キャサリンからの無理やりな離婚も、
そしてそれを可能にするためのローマ・カトリック教会との断絶およびイギリス国教会の成立も、
あのフランスでの経験がなければ、アンがこうも誇り高い人間でなければ、
アンが結婚をしないでヘンリーの愛人になることに同意していれば、必要はなかったと言える。

●拒否されて一層燃え上がり彼女を手に入れようと躍起になる王に少し情がほだされるアン。
さらに、決定的だったのは、パーシーとの経験を通して得た、どうせ好きな人と結婚できるわけではない、という教訓転じて、
どうせ好きでない人間と結婚するなら、いっそ王と、、、という発想の転換。

●もともと持つ才気走った性格のせいで、自分よりもずっと位の高い人間に対しても非常に鼻っ柱が強いところがある。
王をひきつけたその性格が、最後には愛想をつかされる原因にもなるのである。
(度重なる男児の流産によるストレスと焦りがさらにそれに輪をかけていく。)
彼女の周りに親身になってくれる友達、特に女性のそれが少ないのは、単に彼女の境遇から来るものではなく、彼女の性格に負うところも大きい。



というわけなので、同じ狂乱の場があるといっても、
アンナ・ボレーナはルチアのような政略結婚の前の無力さにぷっつんしてしまうような繊細なお嬢ではなく、
”お家のための結婚”が支配する世でパーシーとの初恋を犠牲にしつつも、
自分でイギリス王の妻になることを決意し、それに全てを賭け、一瞬それを手にしながら、
強すぎる自己のために、その勝利を指の間からこぼし落としてしまう、そういうお話なのだと思います。

こういう理由から、私はベル・カントを得意とする歌手なら誰でもアンナ役を歌っていいというわけではなく、
実際、この役は低音域が多用されてもいることから、その音域が充実したソプラノが歌わないとドラマも魅力も半減すると思っていて、
歌が上手くても声がたおやかで優し過ぎる、重さが足りない歌手のそれにはあまり興奮させられません。
しかし、一方で、最後の狂乱の場を本当の意味での狂乱にしてしまう、ヒステリー女の雄たけびのような歌も論外で、
ですので、ビヴァリー・シルズのアンナは”ありゃー、すごい!”とは思いますが、
正直、アンナ・ボレーナという人間をきちんと描けているかというと、かなり、???です。
これはオープニング・ナイトのラジオ放送で、ホストのマーガレットやウィルが、
また、インタビューの中でネトレプコ自身が語っていたと思いますが、
この作品の狂乱の場は、歌われている言葉が必ずしもアンナの本当の気持ちを表現しているわけではないところがポイントで、
ネトレプコははっきりと、自分は狂乱の場はアンナが狂っているわけではないと思って歌っている、と語っていましたが、
私もそれが正しいアプローチだと思います。
言葉の上ではアンナは周りの人間を許して死んで行くことになっていますが、音楽が全くそれを裏切っていて、
彼女の煮えたぎるような怒りを表現しているのです。
この作品の狂乱の場の”狂乱”は”狂う位”のやる方ない怒りとそれでも自分はこのようにしか生きられなかった、という思いゆえなのであって、
完全に狂ってしまってはいけないのです。



ネトレプコのアンナなんですが、NYの批評家の評価はかなり広いスペクトラムで分散しています。
私の考えを言えば、まず、彼女の声。これは今、この役を歌うに本当にこれ以上望めないくらいの状態にあります。
いや、この役を歌うのに、という条件をとっぱらっても、今の彼女の声は多分、私がこれまで聴いた彼女のキャリアの中で、
最も素晴らしい状態にあると言ってよいと思います。この声を聴く、それだけでもある一定の価値はあると感じるほどです。
後、以前に比べると声のボリュームのコントロール能力は非常に上がったのを感じます。
わかりやすいところでいうと、”あなたがたは泣いているの? Piangete voi?”を歌い始めて間もなくのl'altare è infioratoのinfioratoの取り扱いなど、
以前の彼女なら割りと考えなく力任せに歌っていただろうと思われる箇所に、より豊かなシェードが出るようになったと思います。



彼女は元々非常に舞台勘が良く、演技が上手いというより、一種の独特のステージプレゼンスがあるというのはよく言われることです。
それは演技らしい演技をしている時よりも、むしろ何気ない舞台上の動作のタイミングなんかに現れます。
彼女が舞台で存在感があるのはそれは見目麗しいせいだからだろう、彼女が人気歌手だからだろう、という人もいるかもしれませんが、それは違います。
もしそれが本当なら、細くてもっと美人に見えた数年前よりも今の彼女の方がさらに存在感が増していることの説明がつかないし、
彼女が人気歌手になったのはそういった類稀な能力がもともとあったからだと考える方が自然です。
事実、彼女に負けず劣らずの美人でも、舞台にあがるとおよそ彼女の華に及ばない、というケースを私は少なからず見て来ました。
しかし、その中でも、このアンナ・ボレーナ役は特別に何かがしっかりと彼女とクリックしているというか、
今まで私が見た彼女の舞台の中でも、ドラマの面では最も満足度の高いものの一つです。
まず、アンナ役を、一面的に可愛そうな女性とも、権力欲に溺れた愚かな女性とも定義付けずに、
ごく普通の感情を持った一人の女性として、終始オーバーアクトせずに演じているのは好感を持ちます。



けれども、先に書いた通り、この物語の根底に流れ、自身を徐々に処刑台に追い詰めて行くのは、
他ならぬアンナの誇り高さと自分はこうしか生きられない!という強い自我です。
ネトレプコのアンナ役の良さはそこをきちんと表現しきっている点で、”よこしまな二人よ Coppia iniqua”の最後の高音を歌った後、
メトがリリースしてNYタイムズなどでも紹介されているリハーサルの映像では、くるくるっと髪を巻いて首を出し、
観客に背を向けて舞台奥、つまり処刑台に消えていく姿で幕となっていますが、
オープニング・ナイトの最後は、長い髪の先をぎゅっと片手で摑んだかと思うと、”きっ!”と、
頭と同じ高さに水平に持ち上げて、その髪を引っ張る強さに少し頭が傾いだ状態で、
”誰が何と言おうと、私は死ぬまで女王よ。さあ、首を切るというならさっさと切りなさいよ!”とでもいうように猛然と処刑台に歩んで行くという、
鳥肌が立つような演技を彼女が見せてくれました。うんうん、これなんですよね、アンナという女性の本質は!!
ネトレプコが以前ジンマーマン演出の『ルチア』に登場した時、同演出のプレミアをつとめたデッセイの物真似演技ばかりでうんざりしましたが、
こういう自らのアイディアで、オーディエンスの記憶に残るような演技を出してくれるというのは本当に嬉しいことです。
このCoppia iniquaで歌われている言葉も、この”二人”というのはもちろんヘンリーとジョヴァンナのことなんですが、
”私はあなたたちに復讐などを求めない。”
これは表身にはあなたたちを恨まずに死んでいきます、という意味にもとれますが、あの音楽を聴けば、その実は全然そうでないことがわかります。
この言葉の真意は、私の誇り高さはあなたたちのいる卑しさより、はるか高いところにある。
それゆえに私は死んでいくのだ。だから、あなたたちに復讐を望むというようなくだらないことはしない。”という宣言に他なりません。
でも、その彼女の誇り高さがものすごい怒りを昇華したらしいことは、他のなによりもあの音楽が表現しています。



声そのものの魅力、声質の役柄への適性、それからドラマ面での役柄とのコネクションという点では
非常に良いものがあったネトレプコのアンナですが、
残念ながら歌唱技術の面ではこの二つのレベルに達していないかな、、というのが私の感想です。
いや、実のところを言うと、turdな『ルチア』を経験してしまったりしたせいもあって、
彼女のベル・カントものの技術には”ほどほどに期待する”癖がついてしまっていて、
今回もあまり期待していなかったのですが、このオープニング・ナイトに関して言えば、
私が予測していたよりはだいぶ技術的にも頑張ったとは言えると思います。少なくとも一生懸命に取り組んだ跡は見られたと思います。
この夏休みにはヘッズの間で、彼女が出演したヨーロッパでのコンサートの映像から、彼女のトリルのスキルがあがっているのが話題になっていました。
(今回、全幕を聴いた感じでは、完全と言えるところまではもう一歩かな、と思いましたが、、。)
ただ、ここで言う”ほどほど”に対して、それならフルに期待できる歌手はどういう顔ぶれなのかというと、
歴代の歌手を取り混ぜ、カラス、サザーランド、シルズ、カバリエ、スコット、デヴィーア、グルベローヴァ、、という感じなので、
”そんな無茶な、、。”と笑われる方もあると思います。
でもこれはメトのオープニング・ナイトであり、『アンナ・ボレーナ』と言えば、
タイトル・ロールを歌うソプラノの力のショーケース的な演目なわけですから、どうせなら、
上にあげたようなクラスの歌手と同等の力をもったソプラノで聴きたい、、と思ってしまうわけです。
ましてや、声や雰囲気がこの役とはかけ離れている、、と思わせる歌手ならともかく、
この二つに関しては非常に優れたものを持っているネトレプコなだけに、微妙な歌唱の技術とか輪郭の甘さが余計に悔やまれるのです。
最近、恒例になりつつありますが、また、カラスの”Piangete voi あなた方は泣いているの?~
私の生れたあのお城 Al dolce guidami castel natio”の歌唱を紹介しておきます。素晴らしすぎ。
(この音源はガヴァッツェーニ指揮のライブ盤ではなく、レッシーニョが指揮したスタジオ録音の音源です。)



以前、このブログにコメントを下さる方のお言葉にありましたが、”天才と言われる歌手・演奏家が天才である所以は、
他の人間がそこまでやることはなかろう、、と思うところまで自分を追い込み高みを目指せる、そこにこそある。”のです。
それを言うと、ネトレプコは非常に才能に恵まれた歌手ではありますが、そういう意味での天才ではないということなのでしょう。
彼女のベル・カントの歌唱技術には、上に名前をあげたような歌手達と比べると、
いつもどこか少し(そして時には非常に)緩いところがありますから、、。
なので、彼女のアンナ役をどう評価するかは、この緩さに対するそれぞれの方の許容量次第なのだと思います。

あ、それから、これは微妙な歌唱技術とか輪郭の枠を越えているので書いておかねば(←鬼!)と思いますが、
彼女は”私の生れたあのお城 Al dolce guidami castel natio”の最後に高音(上のカラスの音源にはない。)を入れて来るのですが、
いつもここでピッチが狂いますね。
(オープニング・ナイトの後に聴いた二度のシリウスの放送のいずれもそうでした。)
そこから音が下がってオケが入って来て閉め、ということになるわけですが、
オープニング・ナイトの時は、”あらあら、こんなに外してこのまま下がったらどうやってまとめる気???オケと不協和音??”とハラハラさせられました。
一回、音を伸ばし切って、劇的効果を狙ってブレスをとって(いるようにみせかけ)、持ち変える形で正しいピッチで入り直す形で逃げ切ったのは、
さすが普段から技術が甘いだけに逃げの小技をきちんと身につけているのね!と、妙なところで感心させられました。
まあ、こういうところでも落ち着いて処理しているのが彼女のすごいところではあります。

件のオープニング・ナイト当日に放送されたインタビューの中で、ネトレプコは歴代のアンナ役で誰のそれを参考にしましたか?という質問をされた時、
”カラスですか?”と水を向けられて、”カラスも聴きましたが、一番参考にしたのはジェンチェルです。”と答えていたのが興味深いな、と思いました。
また、先日のシリウスの放送ではBキャストのアンナ役をつとめるミードがインタビューに登場し、
全く同じ質問をされていましたが、彼女の方は、”サザーランド、カラス、シルズ、スコット”という風に答えています。



このオープニング・ナイトはゲルブ支配人の当初の企みによれば、
ネトレプコとガランチャの美女二人でメトの舞台をぴかぴかに輝かせる!というものだったわけですが、
やたらこういう企みで失敗が多いゲルブ支配人のいつもの例にもれず、
今年もまた、ガランチャがご懐妊により降板ということになってしまい、代わりにメトの日本公演にも参加してくれた
エカテリーナ・グバノーワが代役に抜擢されたのは以前お知らせした通りです。
グバノーワはその日本公演の『ドン・カルロ』での配役(エボリ)といい、
NYで舞台に立った『ホフマン物語』(ジュリエッタ)での歌唱のイメージからも、
どちらかというとまったり系のメゾ・ロールが得意なのかな、と思っていて、ベル・カントの彼女というのは、
正直事前にはあまりイメージが湧かなかったです。
ところが、実際に聴いて見て、私はまったりロールよりも、こういうベル・カントの役の方がもしかすると彼女はいいかもしれないな、と思いました。
彼女はいわゆるブルドーザー系の声ではなくて、どちらかというとややこじんまりした質の声で、
その分、発声には独特の端正な感じがあって、ベル・カントと折り合いが良いように個人的には思います。
ベル・カントに必要な歌唱技術も割りとしっかりしていますし、特にあげつらうような欠点はないです。
声・歌に関して強いていえば、少し声が若いというか、硬い感じがする点でしょうか。
もしかすると、彼女はまだ実際の年齢も若いのかな、、?
これからだんだん声が成熟して、まろやかさが加わるといいな、と思います。
後、こちらはネトレプコが相手では大変だとは思いますが、彼女個人の今後を考えると、舞台での存在感がやや薄いのが泣き所かもしれません。
一途にヘンリーを思っているところとか、表現は悪くないですし、
私の読んだ本によれば、”(ライバルとしては)心配するに足りぬ地味顔の冴えない女”とアンナに評されたジョヴァンナの、
ちょっとダサい雰囲気もきちんと出していて(その点、ガランチャは綺麗過ぎ、、
ヘンリーはアンナの自我の強さにうんざりして、その反動で地味顔の冴えない女に心を移したとも考えられるから、もうちょっと綺麗でなくなってもらわないと。)、
決して悪くはないのですけれど、、。

そういえば、この地味顔の女(に扮するグバノーワ)が、毅然と、”自分はヘンリーを愛してる。”と言い切る場面もいいな、と思います。
ネトレプコが扮するアンナが一瞬気圧される様子を見せるのもいいんですよね。
ここで今まで単なる地味顔のダサ女と見くびっていたジョヴァンナが、自分にないものを二つ持っていることを知るわけです。
一つにはヘンリーを愛する気持ち、もう一つはそれを他人に打ち明けられるというプライドの無さ。
この二つにはアンナは心底恐怖心を持ったはずです。

オープニング・ナイトの公演で最も印象に残った箇所をアンナとジョヴァンナの二重唱("Sul suo capo aggravi un Dio" )とするヘッズも少なくなく、
音楽そのものの出来もさることながら、二人の歌唱も熱気のある優れたもので、
私は声質的にガランチャとネトレプコの声は互いにブレンドしやすいのではないかと推測するのですが、
この曲の場合は、グバノーワみたいに少しネトレプコとタイプの違う声である方が却ってよいのかもな、とも思いました。



今回の公演でタイトルロールのネトレプコよりも緊張して見守ってしまったのが、パーシー役を歌ったスティーヴン・コステロです。
私は今キャリアのプライムにいる歌手の歌を聴くのももちろん好きですが、キャリアはこれから!の若手の歌を聴くのも同じ位好きです。
彼らには絶頂期の歌手のような洗練とかテクニックはないかもしれませんが、独特の原石の輝きのようなものがあるので、、。
彼の歌を初めて聴いたのは2007年のオープニング・ナイトで、その時に”なんと美しい声なんだ!!”と感激したのを昨日のように思い出します。
あれから、まあ、色々ありました。、、、と書くと一体何があったのか?って感じですが、
もちろん、私がぎゃあすか一方的に彼の声の状態や歌唱スタイルに喜んだり、悲しんだり、注文をつけて来たに過ぎません。
あ、その間に彼の舞台での立ち振る舞いの不器用さに頭を抱えたこともありましたっけ、、
(一つ一つ紹介する字数もないので、検索機能で彼の名前を入れて頂くと、わらわら関連記事が現れるはずです。)
もしかすると、ご本人は私の心配をよそに、自分のキャリアは順風満帆、、と思っているかもしれませんが、
私のここ最近の彼に関しての一番の心配は、例えば『ラ・ボエーム』のロドルフォのような役をレパートリーに加えるにあたって、
以前とは全く違う種類の、妙にビーフ・アップした感じの歌い方が身についてしまっていて、
それに伴って以前あんなに美しかった声そのものにまで影響が出始めているように思えた点です。
また、仮に声に心配がなかったとしても、彼の場合、他にも二つ、大きな心配があるんでした。

① 彼の舞台でのぶきっちょさは半端でない。天性の舞台人であるネトレプコの横でかかし状のものが突っ立っている
(だけならまだいいが、その上にバランスを失って勝手に一人で倒れてしまう)、、というようなことにならなければいいが、、。
② 彼にはオペラ歌手としてやって行けるのだろうか、、?とこちらを心配させるほどのあがり癖があって、特に大舞台になるほどひどい。
どうしてこんな人を、メトの、しかもオープニング・ナイトの、しかも難役に、、、?

、、と、彼にはぜひ頑張ってオペラ歌手として大成して欲しい、と願っている私ですら、
本当に大丈夫なんかいな、、?とやきもきさせられる始末なのです。
オケとのリハーサルが始まると、派遣したオペラ警察に尋ねる質問は毎日、”ネトレプコどう?”ではなく、”コステロどう?”
案の定、一回目のリハーサルでは緊張しまくって自分を失っていたそうですが、回を重ねるにつれて良くなってきているとのこと。
、、、、完全に自分を取り戻すまでにランが終わってなきゃいいんですけど。



で、まあ、どんなにリハーサルで自分を取り戻しつつあると言っても、オープニング・ナイトは当然それを帳消しにしてしまう雰囲気があるわけです。
まず客席の空気が普通でない。新シーズンに鼻息荒いコアな客、華やかに着飾った客、
オーディエンスに混じるメトのパトロンや歌手仲間たち、、、、
シリウスやプラザ&タイムズ・スクエアでのスクリーン生上映のためのマイクやカメラも入っている、、。
はい。これでもうコステロが我を失う条件が完全に揃いましたね。

舞台に出て来たときは、”足と手が同時に出てるわよー!!”と教えてあげたくなるほどで、全身硬直しているのかと思いました。
その後も、座席が舞台に近いせいで見えてしまうんですよね、、、コステロくん、頭が真っ白になってるなあ、って。
多分、ご本人も、いつ、どのように歌って、どのように動いたか、とか、記憶に残ってないんじゃないかな、と思います。
とにかく、必死で歌って演技(?なのかな、あれは、、)して終わった、という感じ。
ただ、上に書いたように、史実のパーシーはあまり野心がなくて、父親にも”ダメだ、こいつは。”と思われているような、
情けないところのある、優しさと誠実さがとりえの、一見、アンとは全く釣り合わない感じの人らしいので、
その点では、なんだか書物のイメージ通りのパーシー、、、。

でも。コステロが口を開くとやっぱり思ってしまうんです。いい声してるわ、この人は、と。
歌声に色気がある。もうこれはもって生れたとしか説明のしようがない、生命の神秘ですな。声というのは本当偉大です。
彼の声には、中心に一本の芯があって、その周りにもう一つ別の光(響き)が取り囲んでいるような音で、劇場で聴くと心地よいpingがあります。
多分、オープニング・ナイトの音源を聴いた人は、なんでこんなへぼい歌に拍手が多いのか?またメトの客は耳が腐ってる、と言うでしょう。
例のあがり症のせいで、高音域の支えが弱くなって音がヘロヘロになっていた部分もありましたし、技術がつたない部分もありますから。
この日、必ずしも声そのもののコンディションは悪くなかった、むしろ良かったのでは?と私は見ているのですが、
精神的なプレッシャーに勝ちきれなかったようです。
けれども、彼の声そのものに特別なものを聴いた観客もいたはずで、観客の拍手はそれを表しているのだと思います。

ビーフ・アップ歌唱(彼が近年身につけた妙に男性っぽさを強調したような変な歌い方を私がこう名づけた。)なんですが、
少しその傾向を感じ、完全には抜け切れていないな、とは思いますが、以前よりはだいぶましになっていました。
この日のために色々準備をして来たのだと思いますが、そのベル・カントを歌う、ということ自体が、
彼の声を、より無理の少ない、より健康な歌い方に戻しつつあるように思います。
やっぱり彼は焦らずに、ベル・カントとかフランスものの一部のレパートリーを今は中心にして歌って行くのがよいと思います。
高音はそのビーフ・アップ歌唱と完全に引き換え、もしくは犠牲にしてしまった感があって、以前よりも苦しそうになっているのを感じます。

件のVivi tuですが、オープニング・ナイトは最後に果敢に高音を含む箇所を二度とも歌うという暴挙(?)に出ていましたが、
(ちなみにYouTubeで紹介されているウィーンの公演でのメーリはこの部分を歌わないでエンディングにもっていっているようです。)
特に二度目のそれが危うく、さすがに本人もこれはきつい、と感じたか、10/10の公演ではそれを一回に変えて歌っています。
下にその10/10の公演からのVivi tuを紹介しておきます。
HDの日(15日)はこれよりも良い歌唱になっているのか、それともHDのプレッシャーに完敗してしまうのか、、楽しみなような、怖いような。



今回の公演のキャストの中で一番失望が激しかったのは意外にもアブドラザコフのエンリーコでした。
豪華な衣装は似合っていますが、このプロジェクションに全く乏しい声は一体どうしたというのでしょう?
これでは威厳ある王のキャラクターを描ききることは出来ません。
歌はそこそこ上手いのに、今一つブレークしきれないところのある人ですが、ここまで元気のない歌は聴いたことがありません。
HDの日の公演に期待したいと思います。

一方、スミートン(スメトン)役を歌ったマムフォードはズボン役によく合っている棒っきれみたいな細い体から出てきているとは思えない、
深さのある魅力的な響きを聴かせていてなかなか良かったです。歌いまわしに余裕が出てきたら、もっともっと良い歌を歌える人だと思います。



この公演であまり評判が良くないのがマクヴィカーの演出です。
中にはあまりに歴史に忠実にあろうとした衣装とかセット(の地味さ)のせいにしている人もいましたが、
これってやはりマクヴィカー、ジョーンズ、ティラマーニ女史という、イギリス・チームからすると譲れないところなんではないかと思います。
私たちが蝶々夫人の時代の長崎、というと、きちんとオーセンティックな風景が浮かぶのと同様に、
彼らにとって、チューダーの世界は私達以上にずっと身近なものであって、それに余計な手をくわえたりするのは、
我々が半中華風なミンゲラの蝶々夫人を見て不快に感じるように、許せないものなんだと思います。
その代わり、すごく微妙な、細かいところに、さすが、自国の文化・歴史だけあって良く理解してらっしゃるわ、、と思うこと多数でした。
もしかすると、あまりに彼らにとって自然過ぎて、意識して行っているわけではない部分もあるのかな、とすら思います。
(例えば合唱にあまりアンナに同情的なしぐさをさせないところとか、史実にも沿っているし、私は好きです。
それから最後に娘のエリザベスを舞台に出さないところも。私の知る限り、アンは幽閉された後は娘に会う事を許されずに死んで行ったはずです。)
むしろ、演出に難があったとするなら、衣装やプロップの問題ではなく、ディレクションの存在が薄い点かな、と思います。
どの登場人物をとっても、あまり明確な意図を持った芝居を感じることが出来ませんでした。
思い浮かぶのは、先に説明した、アンナが処刑台に向かうシーンくらいでしょうが、あれもリハーサルからやり方が変わっているところを見ると、
どこからがマクヴィカーで、どこからがネトレプコの意思なのか、よくわからないです。
それから、コステロにはもっと演技指導してあげてください。舞台で立ちつくしてます、彼、、、。


Anna Netrebko (Anna Bolena / Anne Boleyn)
Ekaterina Gubanova (Giovanna Seymour / Jane Seymour)
Stephen Costello (Riccardo Percy / Lord Richard Percy)
Ildar Abdrazakov (Enrico / Henry VIII)
Tamara Mumford (Mark Smeaton)
Keith Miller (Lord Rochefort)
Eduardo Valdes (Sir Hervey)

Conductor: Marco Armiliato
Producation: David McVicar
Set design: Robert Jones
Costume design: Jenny Tiramani
Lighting design: Paule Constable
Choreography: Andrew George

Gr Tier Box 35 Front
ON

*** ドニゼッティ アンナ・ボレーナ Donizetti Anna Bolena ***

ANNA BOLENA (Mon, Sep 26, 2011) 準備編

2011-09-26 | メトロポリタン・オペラ
オープニング・ナイトに何を着ていこうか?というのは、例年、メトが夏休みに入ってから考え始めるのですが、
昨シーズンのオープニング・ナイトの記事(『ラインの黄金』)のコメント欄で、
次のオープニング・ナイトの演目は『アンナ・ボレーナ』なので、”チューダー朝ファッションで攻める手もありますね。”というご指摘を頂いてからというもの、
丸一年、このお題が頭を離れることが片時もありませんでした。

というわけで、早くからデパート、ブティック、その他諸々の小売店、、と、
『アンナ・ボレーナ』にふさわしいドレスを求めて激しく足をのばしてみたのですが、
思い立った時にぽっと気に入ったデザインのドレスが見つかるわけでもなければ、
時間をかけたからといってその保証があるわけでもないのが、ドレス・ハンティングの難しいところ。
その上に私の場合、生活に占めるメト係数の異常な高さと辻褄を合わせるための厳しい予算制限もあり、ドレス選びは難航に難航を極めました。
ドレスが決まらないことには、ヘア/メイクはもちろん、バッグもアクセサリーも靴も決められないってのに、、。

私はCD、DVD、書籍といった類でも、ネットで購入するよりは事前に手にとって自分の目で
(少なくともパッケージだけでも、、)見たい!という、現物購入大好き人間なゆえ、
特にドレスのような自分の身につけるものをネットで買うなんて信じられない!という考えの持ち主ではあるのですが、
もしかすると、この偏狭な考えも限界に来ているのかもしれない、、、と思い始めました。

そこで、稲妻のようにひらめいたのが、私の元上司の奥様(超富裕層)が以前仰っていた、
”ドレスなどで着なくなったものはeBayで売却しているの。ちょっとしたお小遣いにもなるし。”という言葉です。
あなた、そんなに金持ってて、まだお小遣いが必要なの?と突っ込みたくなった事実はひとまず脇に置いておいて、
ドレスは日常着と違って、着て着て着倒すということがなく、同じものはせいぜいニ、三回身につけてお終い、
手元にとっておいても場所取りだし、この奥様のようなマダム達が、まだまだコンディションのよいドレスをサイバースペースに放出するわけです。
とすると、考えてみれば、eBayこそ、私が訪れるべき場所なのではないか?!

早速eBayに出かけてみると、あるわ、あるわ、、、なかなかに素敵なドレスが沢山放出されているではありませんか!
中にはブティックやデパートで買うのと全く変わらないような高値をつけているものもあって、
”マダムよ、小遣い稼ぎしすぎだろう!それは!!”と言いたくなるものもありますが、
丁寧に見ていくと、中にはとても良いコンディションで、かつセカンドハンドとしてきちんと適正な値段をつけているものもあります。
私は背に関しては日本人としてはもちろん、アメリカ人の中に混じっても決して小さくはなく、平均的だと思いますが、
日本人の典型的なパターンで体に厚みがないので(父が楊枝のような人だからこればかりは遺伝で仕方なし。)、
求めるサイズがやや小さめになってしまって、その分、選択肢が多少限られた部分はありますが、
それでも、二着、これならば購入してもいい!と思うものを見つけることが出来たので、これは上出来です。やるな、eBay!!

さて、この二着のうち、どちらにするか、これが頭を悩ませるタネとなりました。
一着は、ジョン・ガリアーノのドレスで(ジョン・ガリアーノといえば、あの反ユダヤ発言の、、、。)、
黒い地のヴェルヴェットにぼやーんと植物(葉っぱや花)のパターンが入ったもの。
『アンナ・ボレーナ』のレクチャーでジェニーさんがヴェルヴェットについて言及しているのをご紹介しましたが、
このドレスに使われているのも、まさにどしっとした重量感のあるヴェルヴェットで、
真っ黒なドレスというのはこの世に掃いて捨てるほどありますが、
イヴニング・ガウンで、ヴェルベットのような生地を部分使いでなく、全部に、それも重厚感を持って使用して、
しかもその上に植物のパターンをちりばめるというのは、かなり個性的で、
すっきりしたコンサバなカットとしかしなかなかに凝った襟元のデザインと合まって、
レトロ(それも1950年代といった中途半端なレトロでなく、それこそ1500-1600年代的な、、)な雰囲気を醸しだしていて、大変面白いドレスだと思いました。
公演前の忙しいお着替えの時間に”きーっ!”となること間違いなしの、夥しい数の共布のボタンもついています。
簡単に言うと、どことなく、チューダーのスピリットを感じるデザインなのです。
ただ、あまりに個性あるデザインゆえ、私がこの色やデザインに似合わないと、
とんでもない悪趣味なドレスに見えてしまう可能性があって、そのぎりぎり感につい尻込みしてしまいそうになります。

もう一着はバレンシアガのデザインで、こちらはその掃いて捨てるほど存在するオール黒の無地のドレス。
元の持ち主の方によるとこれまで”未着用”で(確かにまだプライスタグがくっついたまま、、)、
彼女が”着用するとこんな風になりますよ~”という参考のために試し着してくださった写真を見ると、
肩、それからバックに至るサイドのラインがなかなかに凝っていますが、一方でエレガントさを失っておらず、
こちらはガリアーノのドレスと違って、はずしてしまう可能性が極めて低い、安全なドレスと言えます。

うーん、両方欲しい!!!が、一着に決めねばならない!!!
一人でどれだけPCの画面を眺めても答えが出ないので、そこにタイミング良く帰宅した連れを捕獲しPCの前に連行。
交互に両方のドレスの写真を見せた後、
”オープニング・ナイトはどっちを着て行けばよいと思う?”
”うーん、どちらもいいと思うけど、ガリアーノのドレスは確かにちょっとギャンブルかもね。”
”やっぱり私には着こなしが難しいと思う?”
”いや、ドレスの問題もあるんじゃない?なんか家のカーテン巻いて来たの?と聞きたくなるような、、、。”

、、、、カーテン、、、、?

と言われてじっと見てみると、確かにこの生地はカーテンっぽくはある。
そして、絶対にこのドレスを着こなせる自信があるかと問われれば、試着しないで”ある”とは言えない。
あ~ん、この試着不可な点がeBayの泣き所ざんす!!
でもギャンブルして惨敗してしまったら、もう一着ドレスを買うお金はないのよ~。
ということで、カーテンに後ろ髪をひかれつつも、ここは連れの直感を信じて、無難なバレンシアガにしておこう。ポチッ!

すると数日後、でかい箱に入ってドレスが到着しました。
無難なデザインゆえ、大外しすることはまずないと思うけど、一応、、、とドレスを取り出し、試着してみる。
下半身はサイズもぴったりで着心地よし。
しかし、最後に肩の部分を引き上げようと布を握って嫌~な予感が走りました。
なんと、肩の部分に見たこともないような巨大なパッドが入っていて、
両肩をドレスに通した時にはでかいリュックサックを背負う時と同じような動作になってしまいました。
それにしても、パラシュートでも背中についているのかと思うような立派なパッドです。
80年代に青春を過ごしたこの私ですら、こんなすごい肩パッド、見たことない。
よって、もちろん、着用してからもランドセルを背負っているような妙な感じが肩の周りにずっとつきまとっています。
”まさか、、、。”と思いながら鏡を見て、思わず叫んでしまいました。
”なんじゃ、こりゃあああああああ???!!! まるでガンダムじゃないのーっ!!!!”



先ほど、日本人というのは体が薄っぺらく、私もその典型に漏れないという話をしました。
しかし、このドレスの元の持ち主の女性は典型的な欧米体型、つまりきちんと上半身に厚みがある方ゆえ、
彼女が着用した見本写真では肩のラインに全く違和感がなかったのです。
しかし、肩から腕にかけてボリュームがないこの私が着ると、肩パッドが猛烈にその存在を主張していて、ガンダム以外の何者でもなし、、、。
ああ、また試着不可ゆえのeBayの罠にひっかかってしまった、、、。そして、もちろんeBayは返品不可。嗚呼!!!

そこにまたタイミング良く帰宅した連れ。
”いや、そんなに君が思っているほど変じゃないよ。”と彼が慰めた瞬間、
パッドの重みに耐えられなくなった肩の布の部分がするりと落ちて、遠山の金さん状態になってしまいました。
いやーっ!!!!メトで遠山の金さんになるわけには行かないのよー!!!!!と泣き叫ぶMadokakip。
こんなことになるなら、カーテンに一点賭けしておくんだった、、、。

この非常事態に頼りにできる人と言えばエレンちゃんしかいまい!というわけで、彼女のお店に直行です。
事情を説明して、持って来たドレスを着用すると、
”まあ、このパッドにデザインした人の意志がこめられているというか、
これがあるせいでちょっとedgyというか、ランウェイ的(ファッションショーで着用されるドレスのような)雰囲気があるわね。
パッドを小さくしたり取っ払ったりすると、個性のない普通のドレスになっちゃうかもしれないわよ。”とエレンちゃん。
”いえ。もうこの際、正直言ってバレンシアガのデザイナーの意向なんて、どうでもいいの。とにかく私の身に合うようにして頂戴!!”
とバレンシアガのデザイナーが聞いたら頭から湯気を噴出しそうなお願いをすると、エレンちゃんが、
”OK, OK。落ち着いて。じゃ今取ってあげるから。”と、ぷちぷちぷち、、と、
私の両肩にずうずうしくのさばっているパッドを一瞬にして取っ払ってくれました。
おお!!とてもすっきりしたではないですか!!
さらにエレンちゃんが少し肩の布を絞るようにつまむとさらに良い感じ!!
思わず”Much better!!"というと、エレンちゃんも微笑んで頷きながら、"I think so, too!"
さらにエレンちゃんが、”あなたは上半身が小さいから、パッドを取ってさらに少し肩と脇をつめましょう。
それから靴はどの位の高さのものを履く予定?”といって、たくさん並んでいる靴の中からどれが一番近い感じか選ぶよう促されました。
一足選ぶと、”OK、3インチね。”と言って、その靴をはいた状態で裾が一番良い長さになるよう、
ばしっ!ばしっ!と機械(ちゃこペンを自動化したような機械があるんですね。)で寸法をとっていきます。
その間、ものの10分ほど。プロのお仕事というのは見ていて本当に気持ちが良いです。
”一週間で出来上がるから取りに来てね。”

その間にハリケーン、アイリーンがNYに上陸した週末には、私はエレンちゃんに”あたしのドレス、大丈夫よね?”と電話までしてしまいました。
なにせエレンちゃんの店は地上一階にあるので水が店内になだれ込んで来るのではないかと心配になってしまったのです。
住民が命の心配をして、水やら何やら生活必需品を買い込んでいる時にドレスの心配とは、
暢気な話に聞えたようで、エレンちゃんに笑われてしまいましたが、
私に取っては命ほど大切なオープニング・ナイトゆえ、もしドレスに危険があるならば、それは絶対にレスキューせねば、なのです。
結局ドレスは無事にあがって着て、これ以上身に合わせようがないほどの出来栄えに大満足!
もはや、これはバレンシアガのドレスであるだけでなく、エレンちゃんによる半カスタム・メイド!
彼女は、本当いつも頼りになります。

さて、私は普段からアクセサリーというアクセサリーをほとんど全く身につけない人間なのですが、
このドレスのデザインの襟の深さは、さすがに首に何かを持って来ないとちょっと寂しい。
真珠だとちょっとコンサバになり過ぎるように感じたので、どうしようかと思っていたら、
近所で毎週行われるフリマにアンティーク・ジュエリーを取り扱っているブースがあって、
そこにトップが素敵なネックレスがあったのでそれを購入してみることにしました。
ただし、件のドレスと組み合わせるにはチェーンが少し長過ぎたので、
”あまりに店員の感じが悪くて、時計のチェーンを直す依頼をするだけで気が重くなる”と言われている近所の性悪ジュエラーに持ち込んでみることにしました。
”こんな安物持って来るなよ。”とか言われるのかな、と思っていたら、あまりに安物過ぎて怒る気も失せたのか、感じよくその場で直してくださいました。

いよいよ当日。
私の彦星=メト関係のイベントでは必ずお世話になることにしているヘアスタイリストのお兄さんJとのアポイントメントの時間がやって来ました。
今日もこれまたオープニング・ナイト効果か、サロンはフル稼働。
スタイリストが忙しく立ち働くなか、彼が”またこの日がやってきたのねー!”と私を歓迎してくれました。
一年に数回しか来ないのに、感激、、、(涙)
”さ、今年はどんなドレス?”と尋ねる彼にドレスの特徴を説明し、
”なので髪はシックでシンプルで、そうは言っても粗末ではなく、エレガントさを失わず、、、
要はあなたがいつもして下さるようにして頂ければOKよ!”と言うと、嬉しそうにしては下さったけれど、
まだどのようなデザインにすれば良いか、具体的には決めかねている様子です。
数ヶ月前に彼に髪をカットしてもらった時に、彼はイギリスの出身で、
このサロンに入る前は、豪華客船の中のヘアサロンに勤務していたというお話をしてくださいました。
船???と一瞬思いますが、たしかにクルーズシップの中というのは、色々な社交イベントも沢山あるので、
スタイリングの技を磨くには恵まれた環境だと言え、彼の技術や手早さというのはそこで身に付いたものなんだな、と納得した次第です。
そうだ、彼はイギリスの出身だったんだ!ならば、これを早く言わねば!と、
”そうそう、今回のオペラはチューダー朝の話なんで、そのエッセンスも少しスタイリングに取り入れてもらえれば、、。”と言うと、
”チューダー?That's so sexy!!!"と彼の目が爛々とし始めました。
(最近、アメリカでもチューダー朝に時代が設定されたテレビ番組がヒットしていたり、ちょっとしたチューダー・ブームなのです。)
そして、その後の数秒間、彼が頭の中でイマジネーションを膨らませていると思しき時間があって、
それは、アーティストがクリエイティビティを発揮している時の表情に他ならず、
最後に”よし、これで行こう!”という表情に変わった時には、もう私の方は”どんな風になるのー、どんな風になるのー??”と、
頼もしい気持ちで一杯でした。

彼のエグゼキューション能力はもう本当にすごくて、
アイディアさえ固まってしまうと、ひたすらそこに向かって突き進んで行く感じで、本当にあっという間に作業が終了してしまいます。
今回彼のアイディアで私が”そう来たかー!”と感心したのは、前髪に近いところから三編みを施して、
それを横から後ろに回してアップの中に織り込み、さらにスヌードを使っている点で、
コスプレのレベルになってしまわないように気を使いながら、さりげなくチューダー朝テイストを感じさせる要素を取り込んでいるのはさすがです。
いつものことですが、彼に任せておけば、間違いなし。

最後にメークですが、残念ながら、今年はメークのアポイントメントが取れなかったので、
出来上がりホヤホヤの頭を伴って、今度はデパートの化粧品売り場に駆け込み。
運が良ければ腕の良い美容部員にあたるかも、という期待を込めて。
NYでメイクをお願いした場合、起こりがちな過ちは、腕のないアーチストほど、
妙な東洋顔の思い込みが強く、出来上がった顔がまるで京劇の人物のようになってしまうことです。
ただでさえ吊り目なアジア人の目を強調するどぎついアイメイク、
外人と違って目が小さいから負けてしまうのがどうしてわからない?とつい問いただしたくなるほど多用される濃いアイシャドウ、
そして3Dで飛び出して来るかと思うような、ド派手な口紅の色、、、。
一方、腕とセンスのあるアーチストはアジア人相手でも、華やかでありながらやり過ぎ感のないナチュラルな化粧を編み出してくれます。
今、私の顔に熱心に覆いかぶさって作業をしているお姉さんが後者だと良いのですが、、、。
しかし、”うん、すごく素敵!”と言いながら、自身満々にお姉さんが渡した手鏡、そこに映った私の姿はまぎれもない京劇の人でした、、、
異常に吊りあがった目、真っ赤な唇、、

あのね。こんな珍問屋みたいな顔、5番街の角に立ってタクシーを捕まえる数分の間ですら、恥ずかしくて生きているのが嫌になりますよ、私は。
向こうのカウンターから別のブランドの美容部員数人が呆然とした顔をしてこちらを見ているのも気のせいではあるまい!
湧き上がって来る怒りをこらえながら、
”まず、アイシャドウ、この色でなく、もう一つ別の色を薦めてもらえますか?”
彼女が持って来た別の色は濃いスモーキーなネイビーのような色ですが、今塗ったくられている赤よりはずっとまし。
”じゃ、これ、今塗ってある色の上に塗って下さい。比べたいから。”
”でも、それじゃ目がかたちんばになってしまうし、青の方が濃いので気に入らない、、と思っても元に戻せませんが、、。”と戸惑う美容部員。
”どうせ車で帰るし、誰も見ちゃいないから平気。さ、早く塗って!”と美容部員に顔を向けて迫るMadokakip。
さっき言っていたことと矛盾するじゃないか!と思われた読者の方、いいんですよ。
絶対青の方が合うという確信が私にはあったのですから。だてに40年この顔と付き合って来たわけじゃないんです。
”あ、本当だ、、青の方がいいですね。”
当たり前でしょうが!さ、そう思うなら、早くもう一方の目にも塗って!!
それからこの口紅!なんてひどい色!まるで他の人の唇が張り付いているのかと思うほど、顔から浮き上がってます。
これは一旦落としてしまう以外、手の施しようなし。”リムーバーとティッシュ下さい。”
完膚なきまでにこの悪趣味な口紅を落としてやりました。
代わりに彼女お勧めの少しワイン色がかったリップグロスをつけてみました。
なんだ、こんないい色持っているんだったら最初からこれにしてくれればいいのに。
これで何とか外に出ても恥ずかしくない状態になったのでキャブをつかまえ帰宅。

服、髪型、化粧とか、やはりずっとその髪・顔・体に付き合って来た本人が一番良く長所も欠点も、何が似合うか、何が似合わないかも知っているわけです。
それでもプロにお願いするのは、自分でもまだ知らなかった良さとか面白さをその人が引き出してくれるかも、、と期待するから。
それを何が客に似合うか、似合わないか、模索するところから始めなければいけないなんて、プロと言えません。
服、ヘア、メイク、、、どんな世界もエレンやJのような真のプロばかりだと良いのですが、、、。

うちの息子達に食いちぎられないようにケースに入れてあったドレスを取り出し準備完了!
昨年、皆様に確かにお約束しましたゆえ、今年のオープニング・ナイトの私の衣装の写真をこちらに掲載しておきます。
顔については私の好きな歌手のそれでOK、ということでしたので、最愛のマリア・カラスをくっつけさせて頂きました。
カウフマンの顔は毛深過ぎて、接続が上手く行かなかったゆえ、、

家でさらにメークの手直しをしていると、リムジンの運転手から”お迎えにあがりました。”コール。
今回は女性の運転手で、これもなかなか素敵だな、と思いました。
いよいよ2011-12年のオープニング・ナイトが目の前です!!

本編に続く>


Anna Netrebko (Anna Bolena / Anne Boleyn)
Ekaterina Gubanova (Giovanna Seymour / Jane Seymour)
Stephen Costello (Riccardo Percy / Lord Richard Percy)
Ildar Abdrazakov (Enrico / Henry VIII)
Tamara Mumford (Mark Smeaton)
Keith Miller (Lord Rochefort)
Eduardo Valdes (Sir Hervey)

Conductor: Marco Armiliato
Producation: David McVicar
Set design: Robert Jones
Costume design: Jenny Tiramani
Lighting design: Paule Constable
Choreography: Andrew George

Gr Tier Box 35 Front
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*** ドニゼッティ アンナ・ボレーナ Donizetti Anna Bolena ***

ANNA BOLENA & HANS HOLBEIN: MET MEETS MET

2011-09-21 | メト レクチャー・シリーズ
いよいよ来る月曜はメトの2011/12年シーズンのオープニング・ナイトです。
いまやすっかり良きオペ友となったマフィアな指揮者からも、”月曜は行くかい?”と電話がありました。
先シーズンの閉幕以来、一度もお喋りしてませんので、もうすっかり4ヶ月ぶりなんですが、オペラという共通の話題があるせいで話がつい盛り上がってしまう。気が付けば1時間半も話してました。
それにしても、経済不況に伴って、アメリカで暮らすのも全く楽でなくなりました。
彼も私もこれまで出来るだけ多くの演目を、できるだけ多くの違ったキャストで鑑賞したい!という一心で、
しかも座席にそれなりのこだわりがあって決まった場所にしか座らないポリシーの故、狂ったようにメトにお金を注ぎ込んで来ましたが、
そんな彼も、いよいよ会計士に、”あなた、もう少しメト行きをカットバックして、本格的に将来に備えないと、99歳になるまで引退できませんよ。
それまであなたが生きていればの話ですが、わははは。”と言われてしまったそうです。
なのに、メトはもちろん、カーネギー・ホール友の会やらニューヨーク・フィル友の会と名乗る人たちからとめどなく電話がかかって来て寄付をせがまれるので、
”わしは誰の友でもないっ!!”と電話で一喝してみたとか。
そして、最近のメトのチケットの値段の付け方も侮れないものがあります。
ガラなどの特別な機会はもちろん、金曜の夜や土曜になると追加料金、列の前の方に座ればこれまた追加料金、ついでに通路側の座席にも追加料金、、と、
なんだかんだ理由をつけて値段を吊り上げて来る。
メトに来たら安くオペラを見れるなんて、もはや昔のことか、座席を選ばなければ、の話です。
私はオペラは金のかかる芸術である、という理論の信奉者なので、それなりに内容のあるものを見せてくれるのであれば、チケットの値段が上がって行くのもやむなし、、と思えるのですが、
最近のメトのがらくたのような新演出(『トスカ』、リング、、、)とそれに伴う不必要な高出費に観客が付き合わされるのはおかしい!と思っていて、
大体、リングのあのマシーンにかかったコストの少なからぬ部分は、それを支えるためのオケピの天井の補修工事に割かれているわけで、
”観客の目に入りすらしないものに、観客やパトロンが汗水垂らして稼いだ金が消えているのはどういうことなのか?
支配人の判断の誤りをなぜオーディエンスが肩代わりせねばならないのか!?”と、つい私も電話口でエキサイトしてしまうのでした。

しかし、かように文句を垂れつつもやはりメトに足を向けてしまうのが、我々ヘッズの悲しい性。
そんな我々のために、オープニング・ナイトに向けて、大変面白い企画が組まれました。
ヘッズであるところの私は、日本に住んでいる頃、”NYでメトに行って、、”というと、必ず”メトロポリタン美術館?”と聞き返して来る人がいて、
最初のうちこそ彼らの頭を張り倒したい衝動に駆られたものですが、
メトというと、メトロポリタン・オペラよりもどちらかというとメトロポリタン美術館を想起する人の方が多いという事実にやがて気づき、一層どんよりしたものです。
そんな因縁深い(と私が勝手に思っている)メトロポリタン美術館とメトロポリタン・オペラがタイ・アップで、”メト・ミーツ・メト”と銘打ち、
オープニング・ナイトの演目である『アンナ・ボレーナ』をテーマにしたレクチャー「アンナ・ボレーナとハンス・ホルバイン」を開催することになりました。
二つのメトがこのように共同でレクチャーを行うのは少なくとも私が知っている限りでは初めてのことです。
場所はブレハッチのリサイタルの時と同じ、メトロポリタン美術館にある、グレイス・レイニー・ロジャース・オーディトリアム。

正直に告白すると、そもそもこのレクチャーに私が足を向ける気になったのは、
ネトレプコとダブル・キャストでアンナ役に配されているアンジェラ・ミードが、最後の幕から狂乱の場
(”あなたがたは泣いているの? Piangete voi?”~”私の生れたあのお城 Al dolce guidami castel natio”)を、
ピアノ伴奏で披露してくれることになっていたからで、
しかも、あの小さなオーディトリアムで彼女の歌を聴けるとはなんと贅沢なことよ!と思っていたのですが、
大きく分けて三つのパーツで構成されたこのレクチャーは非常にインフォーマティブ、
かつ、来るオープニング・ナイトを含む全幕公演の鑑賞に役立つことばかりで、歌以外の部分も含めて非常に充実したレクチャーでした。
両メトに大感謝です。

とにかくレクチャーの構成、これが非常に良く考えられていたと思います。
まず、第一のパートは、日本人により馴染みの深い方のメト、つまり、メトロポリタン美術館のキュレーター、マリアン・アインズワースによる、
ハンス・ホルバインの肖像画と、それを通して見た、アン・ブリン(オペラでのアンナ)、ジェーン・シーモア(ジョヴァンナ)、そしてヘンリー8世(エンリーコ)らが生きた時代の背景について。
アン・ブリンが女王の座にあったのは1533~6年のことで、ホルバインは1536年からヘンリー8世お抱えの宮廷画家になっています。
よって、ヘンリーには計6名の妻(もちろん一夫多妻制ではないので、順番に、、)が存在しましたが、
残念ながらホルバインの手による肖像画は三番目の妻であるジェーン・シーモア(↓)と、



四番目の妻となったアンナ・フォン・クレーフェ(↓)



のものしか残っておらず、アン・ブリンの肖像(↓)は描き手不詳、しかも、どれくらい本人に似ているのかも良く判らないものが数枚残っているに過ぎません。
(その理由としては、オペラに描かれているようなことがあったために、彼女が処刑された後、
彼女にまつわる品を手元に留めておくのを嫌うヘンリー8世の意向やそれに影響を受けた風潮があって、
多くのものが破棄されたからではないかと考えられています。)



当時、肖像画というのは現在の写真のような役割を果たしていて、王の妃候補の女性達も、特に国外からの候補の場合、
本人同士が出会う前に、王が肖像画で相手の女性を品定め、時にそのまま却下!ということもあったそうなので、
それこそホルバインのような優れた腕を持つ画家に肖像画を書いてもらうということがいかに大切であったかということがわかります。
下の女性はジョヴァンナが亡くなった後に妃候補となった、美人との誉れ高かったミラノの女公爵クリスティーナで、
肖像画はやはりホルバインの手によるものです。
彼女は美人であるのみならず、その優雅な手の動き(!!)でも良く知られており、その彼女の長所をいかんなく強調するため、
ホルバインは、わざわざ、手の部分だけ別にスケッチをとったといい、この複雑かつ絶妙に計算された手指の置き方にもそれが現れています。



このエピソードでも感じられるように、ホルバインという人は当時活躍していた肖像画家の間では極めて細部にこだわりをもっていたことで知られ、
特に服の素材の質感、髭などの毛の感じなど、上で紹介した絵はサイズが小さくて少しわかりにくいかもしれませんが、
プロジェクターなどでアップにしたものを見ると、その偏執的なまでの細かさに気が遠くなりそうになります。
上の絵のうち、アン・ブリンの肖像だけがホルバインではない画家の手によるものですが、
確かに衣服などの描写の細かさはホルバインと段違いであることが一目でわかります。

さて、そんな指の所作にまで拘ったホルバインの力作=クリスティーナの肖像ですが、なぜか、ヘンリー8世は彼女を妃にはしませんでした。
理由は良くわかっていないそうなのですが、それでもヘンリー8世はこのクリスティーナの肖像画だけはいたくお気に召し、
彼の死後、ちゃっかり遺物品の中に含まれていたのが確認されています。
やだ、、ヘンリーってば、時々この肖像画を取り出してはにまにましていたのかしら、、、このすけべ親父!

で、そのすけべ親父=オペラのエンリーコがどんな顔だったかと言うと、こんな顔なんです(↓)。
こちらもホルバインが描いた肖像画なんですが、この豪華な衣服!!!またしてもそれを偏執的に細かく描写するホルバイン!!



ここで、プレゼンターは今回のメトのプロダクションで衣裳を担当したジェニー・ティラマーニに交替。
ジェニーさんはおかっぱ頭に大きな赤いめがね、黒のトップ、黒のスカート、黒の靴下に黒の靴、と全身総黒で、
昔、コム・デ・ギャルソンにこういう店員さんがたくさんいたなあ、、とふと懐かしくなってしまいました。
こんな格好なので、クールですかしたキャラのデザイナーかと思ったら、とんでもなくて、
口を開くとブリティッシュ・アクセントが素敵なかわいいおば様でした。しかも、時々入るユーモアも素敵で、話が面白い!!

でも、やがて気づいたのは、話が面白いのは、彼女の話術のせいだけじゃないということ。
彼女は衣装デザインの仕事において、本当にプロ中のプロというか、そのこだわりに溢れた仕事ぶりは、まさにホルバインの偏執さと互角の戦いになっています。
妥協を許さぬ仕事ぶりが伝わって来る彼女のお話を聞くうち、
私はオペラ、特にメトでの仕事に関わっている人たちの話を聞いたり、彼らの仕事ぶりを見て、
もう言葉には出来ないような畏敬や感謝の念を感じることがしばしばありますが、彼女も例外ではありませんでした。

ジェニーさんには『アンナ・ボレーナ』の演出を担当しているマクヴィカーから今回のプロダクションの衣装デザインをやってみないか?という打診があって、
二つ返事で請け負ったものの、その時にはこれがどれほど大変なプロジェクトになるか想像もついていなかったと言います。
彼女は2005年までグローブ座で衣装デザインのディレクターを務めており、『十二夜』の衣装で2003年のオリヴィエ賞も受賞しているのですが、
おそらくグローブ座での経験によって培われたものなのでしょう、彼女の衣装における時代考証の正確さへのこだわりはすさまじいものがあります。
アン・ブリーン自身に関するビジュアル的資料は非常に数が限られているわけですが、
その分、同時代の人物達を衣服の細部に渡るまで描き残したホルバインの肖像画は今回の衣装デザインのプロセスにおいて、
このうえなく大きな助けになったそうです。
ただ、彼女の素晴らしさというのは、単に歴史的資料を正しく衣装に反映させている、ということに留まらず、
それを実際に身につけていた人物たちの日々の生活とか、どのようにその服装を身につけていたか、またそれはなぜなのか、ということを考え、想像するプロセスと、
その時代の人たちのリアル・クローズ(日々実際に身につけ生活している服装)としての衣装という側面を非常に大事にしている点です。
それを感じさせるジェニーさんのこんな発言がありました。
今回のレクチャーでは、ジェニーさんがリハーサルからのスチール写真を何枚か見せて下さったのですが、
その中に、合唱の女性たちが演じる王室関係の女性達の写真がありました。
女性の衣装の袖口には、当時の服装の慣習にならって、袖のフリルをまとめるための紐が通っています。
本当はその紐を手首の周りに巻いて結ぶのが正しい着用の仕方なのですが、一人の合唱の女性が時間がなかったのか面倒臭かったのか、
紐をたらんと袖から垂らして着崩しています。それについてジェニーさんいわく、
”デザイナーとしては、つい駆け寄っていって結んでしまいたくなるところなんでしょうが、でも私はこれ、逆になんか素敵だな、と思いましたね。
これだけ王室で沢山の人が働いていれば、中には服を着崩す人も出てくるでしょう?
日々の生活で誰もがホルバインの描いた肖像画の中の人物のようにきちんとした着こなしをしているわけではないですから。”
そう、この感覚が大事なんだな、、と思います。
6月のメトの日本公演の『ラ・ボエーム』の舞台写真を眺めていた時に、何かNYの公演と違う、違和感があるな、、と感じたんですが、
もちろん、舞台の大きさの問題などもありましたが、
一つには、日本のスタッフの方が絡むと、舞台セットやエキストラの衣装の着せ方に”抜き”がなくて、きっちりし過ぎてしまう、
そこにも原因があったのではないかな、と私は思っていて、
舞台が生き生きと、リアルなものになるためには、このほんの少しの抜きというのがすごく大事なのではないかと思うのです。


(ジェニーさんの手による衣装デザイン画)

ジェニーさんらしいエピソードをもう一つあげると、今度は男性の合唱陣の衣装なんですが、いよいよ全員のデザイン画も完成!という頃、
当時の人々の生活をイラストで描いた資料に再び目を通していた時に、”!!!!!!!!”と目玉が飛び出るようなものを見つけてしまうジェニーさん。
それは、上着の下に重ね着をするように身につけられ、上着の下にほんのかすかに細く見えている真っ白いシャツ状の衣服の端の部分でした。
はっきり言って、その絵ですらよーく目をこらさなければ重ね着になっていることもわからないような代物なのですが、
”これで合唱の男性全員についてもう一着作らなければならないアイテムが増えたわ、、。”
どんなに小さなディテールでも、それが存在するということは、理由があるから。それを決して無視しないのがジェニーさんのやり方なのです。

ホルバインは肖像画以外にもスケッチなども存在していて、その中に、同一人物を違った角度から描いたものがあります。
これまた非常に貴重な資料で、衣装デザインのために多くの示唆を与えるもので、
例えば、上で紹介したデザイン画の一番右の女性、これはほとんどホルバインのデッサンを借用したもので、
この絵を見ると、当時の女性のドレスはウェストのラインがやや高めで、後にフランスの宮廷で見られるようになった
マリー・アントワネットが着ていたようなこんもりとしたドレスはまだ存在しておらず、
そのまま下に流れるようなラインのドレスであったことなどが伺われます。

さらにジェニーさんは、先に紹介した5人の人物の肖像画のうち、
圧倒的に派手で豪華な衣服を身につけているのは、アン・ブリンを含めたどの女性でもなく、ヘンリー8世であることを指摘します。
確かに。ヘンリー8世のファッショナブルさに比べると、女性は結構地味ですよね、、、。
これがチューダー朝時代のファッションの基本的なトーンだったことがわかります。

なんとヘンリーは服装に関する勅令も出していたそうで、そこには、きちんとした身分の人間はヤード辺り5ポンド以下の布地は使用してはいけない、とか、
あれやこれやと細かいことが規定されています。
かように安っぽいものは身につけるな、と言ったかと思うと、
逆に、絹には、サテン、ヴェルヴェット、ダマスク、シルク、タッフェッタというレベルがあって(先ほど上質とされる)、
ヴェルベットは衣服の内側(肌に近い場所)に身につけるのは良いが、上着など一番目につくところには身につけないこと、という規定もあります。
それはなぜかといえば、もちろん、ヴェルベットを外に身につけてよいのは王その人、ヘンリー8世だけだからです。(ほんと、嫌な奴~。)
たかだか服装のルールと侮ってはいけない。王にしか着用を許されていない紫色を身につけて処刑された人もいた、そんな時代なのです。
スチール写真で見た、エンリーコ役のイルダル・アブドラザコフが身につけている衣装は、
全ての登場人物の中でも一際豪華でため息が出るような美しさでした。
(しかも、彼は体格も良いので、すごく似合ってます。ヘンリー8世本人よりも素敵。)
出回っているドレス・リハーサルの写真の中に彼の姿がないのは、彼の衣装が目玉であることをメトも知っていてのことでしょう。
実際の公演、HDを楽しみにして頂きたいと思います。


(ドレス・リハーサルから、アンナ役のネトレプコ。アン・ブリンの肖像画と比べると、非常に再現度の高い衣装であることがわかります。)

さて、ジェニーさんが一番苦労したのは素材の質感だといいます。
上からもわかるように、当時、重要な位にあった人たちの衣服に欠かせないのが絹でした。
アンたちが生きた時代の絹は、金に糸目をつけずに豪華に織ったものが多く、どしっとした重厚感があります。
ところが、現代の生地を使ってもなかなか同様の重量感が出ず、どうしても軽い素材感になってしまう、、
この問題を解決するため、結局、ジェニーさんはメトの衣装部と共同で、ウールと絹を混紡にしたオリジナルの布を作って、
その重みを出すのに成功したそうです。

また、絹にステッチを施すことで、革のような質感を出せるテクニックがあって、それも今回のプロダクションの衣装の中で採用されている手法です。

アンナ役のドレスの中に、金の紐が入っている衣装があります。
本当に金を使用するのが輝きという舞台上の効果の上から最も望ましいのですが、高価なのと、
現在、金を布地としと扱うという高度な技術を持っている職人がほとんどいなくなっているのだそうです。
そこで代替案として、金色のポリエステルを他の素材と混ぜ合わせ、それを代わりに使用しているそうで、
本当に数え切れないほどの工夫が今回の衣装には盛り込まれています。

ホルバインの肖像画の中には、女性の衣服の袖の部分のステッチがきちんと描きこまれているものがあって、
非常に複雑なパターンは、当時、高度な裁縫の技術を持った人だけが完成させることのできるものでしたが、
こちらは、今はコンピューター搭載のミシンがあるので、パターンさえ入れてしまえば、とても簡単に縫いあがってしまうんだそうです。

興味深い話を次々と披露してくださり、ここにとても全部は書ききれないくらいなのですが、最後に、
写真や舞台で見るだけでなく、ぜひ、衣服がどのように着用されていたかを知り、衣装を見るだけでなく感じて欲しい、という
ジェニーさんの意向により、スティーヴン・コステロが演じるパーシー役の衣装の一つを、
ジェニーさんのアシスタントの男性が、モデルに一から着用させるところを見せて頂く、という、大変に面白い企画がありました。
さすがにコステロはオープニング・ナイトを間近に控えて衣装モデルをやっている場合ではなかったらしく、
おそらく合唱のメンバーの方なんでしょうか、似た体格の男性が連行されて来たのですが、この男性(ちなみに名前はネイサン)がすごく美形で、
会場にいる女性(それから何人か男性も?)が一斉に座席から身を乗り出す音が聞えて来そうでした。
というのも、これから衣装を着せてもらうわけですから、下に着用するシャツ一枚きりで、生足全開で舞台に立っているわけですよ、このネイサンが!!
まあ、現代でいうなら、Yシャツ(と多分パンツ)だけを身につけた美形男性が目の前にいるようなもんです。
いやん、恥ずかしいわ、ぽっ!と言いながら、思い切り瞳孔が開きっぱなしのMadokakip。

さて、下の写真の右のコステロが着用している、このちょうちんブルマーがこれからネイサン君に着用させようとしている衣装なんですが、
おなかのところにゴムか何かが入っていて、スウェットパンツを履くようなノリで履けるんだろう、、と思いきや、
さすがジェニーさん、服の作りもまったくチューダー朝当時から変えていないんですから妥協のなさが徹底してます。
ということは、そう、当時の人とまったく同じ要領で衣装を着なければならないということです。
そして、一言、これはもうとても自分で着れるような代物じゃありません。



まず下半身を覆う白く薄い長い布、これが言って見れば当時の下着にあたるわけですが、
それを紐のようなもので数箇所結わえて、ちょうちんブルマーが入るスペースを作った後、いよいよちょうちんがセットされるのですが、
上着の身ごろの裾に、いくつかわっかがあって、ブルマー側に付属している紐をそこに縛り付けるという構造になっています。
コステロがこの衣装を身につけた時、”ここまで衣装に体が縛り付けられていると、衣装が脱げる心配がなくていいね。”と、
ジェニーさんに言ったそうなのですが、まさに体も一体で上下紐で縛りつける、そういうイメージです。
また、この上着というのが、非常に体に密着するようなデザイン(ジェニーさんがそうしたわけではなくて、当時のデザインそのものが)になっていて、
上着を着用してしまうと、上半身を動かすのが困難なほどなんだそうです。
誰でも銃を携行して良かった開拓時代のアメリカとは違い、当時のイギリスでは剣という武器を身につけられるのは身分の高いものの特権、というわけで、
このオペラに登場するような人物は基本的にみんな剣をきちんと携行している、ということで、最後に剣をつけてお着替え終了。

ジェニーさんのパートはここまでで、いよいよミードによる狂乱の場の歌唱。
タングルウッドの直後に、パーク・リサイタルで『アンナ・ボレーナ』からの抜粋を少しだけ披露してくれたミードですが、
あの時はそれぞれの歌手の割り当て時間や構成の問題もあって、ジョヴァンナとの二重唱でした。
その時にも良くスコア、役を勉強している感じが伝わって来ましたが、
今日の狂乱の場を聴いて彼女が半端ない情熱を傾けてこの役を準備して来たのが本当に手に取るようにわかり、
ラストの部分では、もう思わず笑みが出てしまいました(私の顔から)。
スター性、カリスマ、これに関しては、まだネトレプコには適わないでしょうが、これは本当に面白いことになりましたよ。




ネトレプコは爆発するような情熱でこの狂乱の場を歌うでしょうが、ミードの方はぶくぶくと煮えあがっているような、
爆発していないだけに、いつそうなってもおかしくない、エレガンスの下に膨張したパワーを感じる、そういう狂乱の場を聴かせてくれるはずです。
オプショナルの高音を入れたりして、難易度をあげる冒険までやってのけ、きちんとした結果を伴っていましたし、
Coppia iniqua以降に見せた毅然な歌の表情は、いつか演技に対する照れや苦手意識が抜けた時に、
何か大きく開花するものがあるのではないか?というポテンシャルを感じさせます。
彼女は歌い始めに少し、舞台上で居心地の悪そうな感じを見せることが多いのですが(演奏会でも)、
歌にのめりこんで音楽しか見えなくなった後は、こちらがはっとするような表情をしたり、歌唱の表現をしてみせることが多いので、
『アンナ・ボレーナ』の公演がブレークスルーのポイントになるといいな、と思います。

とにかく、この二人、全く違うタイプのアンナ役になるでしょうが、これは本当にどちらも聴き逃すことがあってはなりません。
というわけで、件のマフィアな指揮者にも”絶対ミードも聴かなきゃ駄目!”と電話で脅しをかけておきました。


Anna Bolena & Hans Holbein: Met Meets Met

Maryan Ainsworth, Curator, Department of European Paintings
Jenny Tiramani, costume designer and historian
Angela Meade, Soprano

ORCH C Even
The Grace Rainey Rogers Auditorium
The Metropolitan Museum of Art

*** Anna Bolena & Hans Holbein: Met Meets Met アンナ・ボレーナとハンス・ホルバイン ***

レヴァイン、メトの年内の公演を全て降板。リリーフはルイージ。

2011-09-06 | お知らせ・その他
メトの日本公演への同行を諦め、夏の間に二度に渡る腰もしくは背中の手術を受けて順調に回復に向かっていたはずのレヴァインですが、
メトの発表によると、ヴァーモントで静養中に転んだことがきっかけで、またまた先週の木曜日に再度の手術を余儀なくされていたことがわかりました。
これにより、今日(9/6)に予定されていた夏休み明け初の活動となる『神々の黄昏』のオケのリハーサルはおろか、
新シーズン、秋に上演される『ドン・ジョヴァンニ』、『ジークフリート』、そして10月に予定されているメト・オケの演奏会からも指揮を降りることが発表されました。
これら二つの演目については、ルイージが可能な範囲でカバーに入ることが発表されており、
(ただし、『ドン・ジョヴァンニ』でルイージが振るのは5公演のみで、残りはラングレとデイヴィス、
また『ジークフリート』は三公演のうちニ公演を担当、残りの一公演はイノウエさんの指揮になります。
さらに、リング・サイクルに含まれる『ジークフリート』は来年春の公演になりますので、現在のところはまだレヴァインの名前になっています。)
また、これまでのルイージのタイトルは首席客演指揮者でしたが、新シーズンからは”客演”が抜けて、”首席指揮者”となるそうです。
『ドン・ジョヴァンニ』や『ジークフリート』の指揮にまわるために、ローマ歌劇場、
ジェノヴァの歌劇場(テアトロ・カルロ・フェリーチェ)などでのコントラクトをキャンセルしたルイージ。
レヴァインがボストン交響楽団の音楽監督を退任したのも、本当に指揮するのかしないのかわからない彼の状況に振り回されるのはご免!というオケ側の不満の噴出によるものでした。
メトでのレヴァインの功績は大きいですから、今は辛抱強い態度を見せているメトですが、
そろそろレヴァインの方も何が現実的か、そうでないかを考えて、進退を決める時期が来ているのではないか?というのが大方のヘッズの意見でもあります。
なのに、年が明けてからの公演となる『神々の黄昏』はまだ現在の段階では振る気でいるんだそうです。レヴァイン、おそるべし。