Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

LA DAMNATION DE FAUST (Fri, Oct 30, 2009)

2009-10-30 | メトロポリタン・オペラ
ドレス・リハーサルでは、

① たった一年でがたが来始めたセット
② 声のサイズがやや小さく、マルグリートの二重唱での高音を出さない(出せない?)ヴァルガス、
③ 中低音域では魅力的だけれども、高音域に無理があるために、最大の聴かせどころである
ロマンス(”燃える恋の思いに D'amour l'ardente flamme ”)で
悪い意味で尻すぼみに燃え尽きてしまうボロディナのマルグリート
④ 何よりもこの作品の良さをことごとくぶち壊し、
メト・オケから高校のマーチング・バンドのような音を引き出すという、
耳を覆いたくなるような恐ろしい技を繰り出したジェームズ・コンロンの指揮(もはや犯罪の域!)

この4点に問題は集約されました。
結果、昨シーズンのレヴァイン指揮、ジョルダーニ、グラハム、レリエー共演の時とは
比べるのも無意味と思われるほどに、緊張感のないだれた演奏となってしまっていました。

あのドレス・リハーサルと今日の公演の間にシーズン初日を迎えた『ファウストの劫罰』は、
その初日の演奏がシリウスで放送され、私も聴いていましたが、感じたのは、
ヴァルガスの歌にリハーサルよりも細かい表現や熱さが感じられたこと、
コンロン率いるオケが若干ましだったこと、位で、
ボロディナについてはほぼ同じ印象、
セットについてはリハーサルで聞いたようなびっくりするようなノイズ
(スクリーンを動かそうとする装置と
故障して”てこでも動かないわよ!”とその場に居座るスクリーン側が摩擦を起こして、
音楽が鳴っている途中におかまいなしに、バリバリバリ!!!という轟音がしていました。)
はとりあえずラジオでは確認できなかったので、
さすがに本番までに修繕したのね、と思っていたらば、、。



今日の公演が始まってまず気付いたのは、
ヴァルガスが初日の勢いや良かったところを全て失い、またもやリハーサルの時のような歌を聴かせていること。
というか、リハーサルよりもさらに悪いくらいの。
まるで、声が出てくる時にどこにも重心がないようなふぬけた声で、
これは私がこれまで聴いた彼の中でも、もっともふがいない歌唱で、
どうした?!!ヴァルガス!!??です。
しかも、声量は今までのなかでも最高に小さく、風邪でもひいて喉を守ろうとでもしているかのようです。

しかし、それを言えば昨シーズンのジョルダーニだって、
声のコンディションが悪く(というか、彼は最近万年コンディションが悪いので)、
決して理想的な歌唱ではなく、グラハムとレリエーに混じると一番弱い三角の角だったんですが、
とにかくオケが聴かせてくれ、しかもこの作品は最初から最後までオケの聴きどころが満載なので、
彼の歌の弱さがさほど気にならなかったものです。

それが、ヴァルガスは、なんて運が悪いんでしょう。コンロンの指揮と組み合わされてしまうなんて。
っていうか、もう、ほんっとうにびっくりするくらいオケの演奏がめちゃめちゃなんですけど!
さらに、言わせてもらえば、これはオケのせいじゃないですよ。
オケをまとめられないコンロンのせいです。
だって、たった昨シーズンにあれほど素晴らしい演奏を聴かせたオケが、
しかも、かなりのメンバーが昨シーズンからの居残りになっているオケが、
ひとりでにこんなことになるわけないじゃないですか!!
実際、リハーサルでは、各セクションからは魅力的な音も出ていました。
でも、それが全然セクション同士でかみ合わないのです。
しかも、あれからさらに病魔は進行したようで、
(多分、初日に若干ましだったのはオケ自身の自浄作用でしょう。
たまにあるのです。シリウスやHDのような大事な時に、あまりに指揮者がひどい場合は、
オケが自分たちで勝手に熱演してしまうことが。)
こんな指揮のもとでやってられるか!という空気が漂いはじめているのか、
もはや、各セクションから出てくる個別の音色すらやる気のない音になり始めています。
指揮者は、まず、オケがこの指揮者のためなら本気を出すぞ!と思わせるようでないと話になりません。
何もかもがそこから始まるんです。
『アイーダ』のガッティについて書いたテンポに関する不満なんていうのは、
当然、その先の問題で、逆を言うと、少なくともガッティはオケを本気にはさせていました。
それを言えば、『トスカ』の”イカ”(コラネリ)なんか、代役の指揮者でしたが、
そういう意味ではずっとずっと指揮者としての大事な任務を果たしています。
といいますか、コンロンの指揮は今まで何度か聴いたことがありますが、
この『ファウストの劫罰』での指揮で、
一体どうやって彼がLAオペラの音楽監督にまでたどり着いたのか、私には謎!と
決定的に思わせるに至りました。

今日座ったのはドレス・サークルの最前列で、
この階は客の落下防止を防ぐためのバーに若干幅があり、
それが最前列で普通に座っていると、ちょうどオケピを覆ってしまうような場所に設置されているのですが、
あまりにハンガリー行進曲の演奏がだらだらと覇気がないので、
”一体どういう指揮振りをしているんだ?!”と頭を少し下げて、
バーの下からのぞくようにしてコンロンの姿を見ると、
なんと、びっくりするようなオーバーアクションで暴れまくっているではないですか!!!

なんてむなしい、、
コンロンのオーバーアクションとあまりに対照的なオケのしょぼい音、、、
視覚と聴覚のあまりの一致しなさに、しばらく私の脳が情報処理を戸惑ったほどです。
指揮は、どんな動きもそれが音に結びつかないと意味がないでしょう。
どんなにばたばた動きまわっても、そこからオケが彼の指示を感じ取れなければ、
その動きはないに等しい。
なんだか、彼の指揮は根本のところが間違っていると思います。

また指揮とオケの演奏について気付いたことをまとめてここで全部書いてしまうと、
この作品で最も迫力があり、ここでオケが観客の心をしびれさせなければ嘘、という、
ファウストの地獄落ちのシーンなんかも、
レヴァインの時と比べて全く迫力がありません。
いや、物理的な音量から言うと、昨シーズンと全く同じ位の音がオケの各セクションからは出ています。
ただ、音が一体になっていないのです。
そのために、音の密度が薄く感じられ、本当に一体になればびしっと客席に鋭く入ってくるはずの音が、
各セクション毎にばらばらに飛んでくるので、音の輪郭がぼやけ、同じ迫力を得られないのです。

また、彼のセクションの間のバランス感もセンスが悪くて嫌になってきます。
特に、打楽器と低音の弦楽器をやたら強調したがる癖があって、
ハンガリー行進曲でのクライマックスの部分の打楽器を強調しまくった演奏は、
まるで下手な高校のマーチング・バンドみたいな音で、がっくり来ます。
このあたりも、メト・オケの長所が手に取るようにわかっているレヴァインに比べると
(まあ、その点に関してはなかなかレヴァインを越えるのは難しいでしょうが)、
このオケのいいところをわざわざないがしろにして、
なんでこんなローカル・マーチング・バンドみたいな音にするのか?!と頭を抱えたくなります。

それから、マルグリートのファウストに対する心の鼓動を表現しようとでも言うのでしょうか?
他の楽器の音を極力抑えて、コントラバスのパートをやたら強調している個所があって、
それもすごく安っぽくて嫌でした。



コンロンの指揮を???と思う点については永遠に書き続けることが出来そうですので、
これくらいにしておいて、指揮に続いて私が凍りついたのは、セットでした。

なんと、まだインターミッションにいたる前の、第二部の途中で早くもセットが崩壊。
一番最初の写真の、上段左から三つ目のセル(二人のダンサーが写っているそれ)、
こちらが問題のセルで、リハーサルで問題があったのと全く同じ場所です。
ということは、リハーサルから問題が根本的に改善されていなかった、ということになるでしょうか、、。
第二部ではこれらのセルそれぞれに上部のカーテンレールから下がった布に、
コンピューターからプロジェクトした映像が効果的に使われるシーンが連続します。
しっかりと映像を写すべき場面では布を登場させそこに映写し、
また、メフィストフェレスとファウストを乗せた小船が舞台を下手から上手に移動する場面では、
その布をスライドさせてどかせ、セルの奥行き一杯を使わせる、というように、
この布が自由自在に移動しないとかなり厄介なことになります。

問題のセルにはこのレールに問題があるようで、途中でレールに布がつっかえてそこから移動しなくなるのですが、
それでも装置が無理に布をひっぱろうとするので、布がレールから外れてびろーんと手前に垂れてきてしまいました。
、、、、、。

その垂れてきた布のむこうは本来客席から見えない状態になっているので、
ダンサーやエキストラたちの移動に使われていて、表の舞台で起こっていることとは関係のない
彼らの様子がばっちり丸見えです。
しかし、彼らも猛烈に忙しいので、そんなことに構ってられるか!ということで、
野生の動物群の移動のようにすごいことになっていて、それも丸見えです。
時折、野生の動物(エキストラ)たちの移動が収まると、大道具のスタッフが布をひっぱってみたり、
別の布をあてがおうとしてみたりするのですが、場面によっては布を透かして映写する技術を使用している場合もあって、
お尻に大工道具を下げた親父の影絵がうつりこんでしまう始末。

でも逆にこういうアクシデントがあると、上手くいっているときにはなんでもなく見えていたことが、
物凄く細かい計算や技術の組み合わせによって成り立っているんだな、と気付かされます。
結局インターミッションまではこの状態で突き進んでしまいましたが、
インターミッション中に猛烈に修復したのでしょう、後半は滞りなかったです。

この演出はそういった細かい駒が全部かみ合って、かつ、パフォーマンスが熱ければ、
きちんと真価を発揮する演出だと私は思いますが、
今日のようにミスがあったり、またパフォーマンスそのものがだらけると、
一気に遊園地的なものに堕してしまう危険性もはらんでいます。
私の隣の二人連れも、”安っぽくて先が読める”というような表現をしていましたが、
先が読めるなんていうのは、オペラの世界なら当たり前で、
大体、ほとんどの人がストーリーを知って、もしくは以前に何回も見た事のある作品を観に来るわけです。
先が読めてしまう、としたら、それは観客に感動をあらたに感じさせる熱みたいなものが、
パフォーマンス自体に欠けているからだと思います。
ですから、そのことを演出のせいにするのはお門違いです。



インターミッションがあけて後半(第三部以降)が始まる前に、
マネジメントのスタッフから、
”ヴァルガスがお腹の不調を抱えていますが、
残りのパフォーマンスも歌いますのでご理解のほどを。”という言葉がありました。
だからあんなに体のどこにも重心がないような歌だったんだな、、と納得。
この言葉で少し心の重荷がとれたのか、むしろ後半の方が歌は良かったように思います。
声も前半よりはだいぶ前に飛んでくるようになりました。

ただ、もう初日のシリウスの放送で確認済みだったのですが、
第三部のマルグリートとの二重唱で二度出てくる高音は、もう歌わない、というスタンスにしているようです。
この作品を初めて聴くとか、馴染みのない人なら、多分ほとんど違和感がないほどです。
(一つ前の音をもう一度歌っているのだと思います。)

彼のこの役の歌唱にはいい面もあるのですが(決して乱暴な部分がなく、非常に丁寧に歌っている点とか)、
総合的にみると、何よりもこの作品のオーケストレーションの上を十分に届かすだけの声量とか際立った声質がないという点で、
この作品をずっとレパートリーとしてこの先も歌っていくのは
ちょっと難しいんじゃないかな、というのが私の正直な気持ちですが、
(だし、彼にはもっといいレパートリーが他にあるとも思う。)
この先、彼はどういう決断をするでしょうか?



声量の面では一切問題のないボロディナは、特に低音域から中音域での音が充実していて、
”昔トゥーレの王が Autrefois un roi de Thule"の歌唱は、美しい声でなかなか聴かせます。
しかし、リハーサルの時と全く同じで、この役で求められる最高音あたりになると、
突然問題が噴出す感じがします。
そして、それが、この役で一番美しい部分といってもよい
マルグリートのロマンス(”D'amour l'ardente flamme")に当ってしまっているのが最大の不幸です。
というか、彼女自身にこのあたりの音に不安があって、
それが自由にこの曲での表現に集中する足かせになっていることの方に問題があるかもしれません。
それでもリハーサルや初日の時には何とか果敢にチャレンジしていましたが、
何と今日は、この曲で最も大事と言ってもよい高音を出さずじまい。
、、、オルガさん、それはちょっと、いくらヴァルガスも高音を省略しているからといって、
どさくさにまぎれすぎじゃ、、。

以前の記事でもご紹介したことのある、昨シーズンのHDの公演からの、
グラハムの歌唱の映像をもう一度引用しますと、6'38"に出てくる音で、
(最後に二度繰り返されるVoir s'exhaler mon âme, Dans ses baisers d'amour!の、
二度目のVoir s'exhaler mon âmeのexhaler)
この曲のなかでも最もエモーショナルな一音だけに、これを飛ばされるとがっくり来ます。




結局一番歌が安定しているのはアブドラザコフのメフィストフェレスでしょうか?
私はリハーサルの時の感想にも書いた通り、彼のメフィストフェレスは、
声質のせいもあって、ちょっと優しすぎて、どんな形の不気味さもあまり感じないのですが、
これはこれで魅力と感じる人が多いのか、彼のこの役は観客にはなかなか好評です。
彼もレリエーに負けず劣らず、舞台では割と長身に見え、身のこなしも綺麗なので、
その点では何の不足もないのですが、、。
彼はもうちょっと違う役で聴きたいかな、というのが本音です。
ただ、3人のメイン・キャストの中では最も破綻がなく、
歌もよく準備されている感じがするのは彼で、
かつレリエーよりも音のつなぎ、移行がきれいな部分はあるので、
そのあたりも評価の高さに繋がっているのかもしれません。

それにしても、昨年の公演と比べてパンチが足りない今年の『ファウストの劫罰』。
これを去年聴いていたなら、この作品をこれほど好きにはなっていなかったと思います。
昨年に続いて気を吐いていたのは男性と児童の合唱くらいです。
次回再演される時には、単に名前が通った歌手というのではなくて、
本当にこの作品の真価が出るようなキャストであることを祈っています。
もちろん、そして、何より指揮者の選択を誤らないよう!!!

Ramon Vargas (Faust)
Olga Borodina (Marguerite)
Ildar Abdrazakov (Mephistopheles)
Patrick Carfizzi (Brander)
Conductor: James Conlon
Production: Robert Lepage
Associate Director: Neilson Vignola
Set Design: Carl Fillion
Costume Design: Karin Erskine
Lighting Design: Sonoyo Nishikawa
Interactive Video Design: Holger Forterer
Image Design: Boris Firquet
Choreography: Johanne Madore, Alain Gauthier
Dr Circ A Even
ON

*** ベルリオーズ ファウストの劫罰 Berlioz La Damnation de Faust ***

Sirius: TURANDOT (Wed, Oct 28, 2009)

2009-10-28 | メト on Sirius
今日は『トゥーランドット』の初日でした。
HDの予定もある『トゥーランドット』ですが、ジョルダーニの低音がまともに出ない”誰も寝てはならぬ”といい、
ワブリングの進行度が心配なレイミーのティムール役といい、
いたるところに地雷がばらまかれているような恐ろしい公演です。

そして、あたかもそれだけでは十分ではない!といわんばかりに、
ゲネプロを見た友人からさらにぎょっとするような話を聞きました。
それは、トゥーランドット役に扮するマリア・グレギーナの化粧が、
映画『ソウ(Saw)』のマスクにそっくりだというのです!!!!
きゃああああっーーーー!!すっごく怖いんですけど!!



しかも、彼女が近年登場した演目(『マクベス』の夫人役など)を聴くにつけ、
その強引で危なっかしい歌いっぷりに、このトゥーランドット役が本当に手に負えるのだろうか、、
とキャストが発表になった時から、疑問に思って来た私です。
それでも、リハーサルは結局ずっとグレギーナで通されました。

しかし!!!!
なんと、びっくり!
今日の初日の公演からSawのマスク、いえ、グレギーナが降板。
ほとんど全くと言っていいほどリハーサルを行っていないはずの、
Bキャストのリーズ・リンドストローム(よくぞNY入りしてました!)が急遽登板!!

一幕では全く出番がない設定のトゥーランドット姫なので、
二幕の開始ぎりぎりまで調整にはげんでいたそうで、心なしか、
インターミッションに登場し、最近の演出、およびもうすぐプレミアを迎える『死者の家から』について語る
ピーター・ゲルプ氏の話が長い、長い。時間引き延ばし作戦か?

そして、いよいよ、トゥーランドット姫の登場。
もちろん、リハを全然行っていないのですから、細かい部分でぎくしゃくしている部分はあるのですが、
声は、グレギーナより全然トゥーランドット向けで、全然悪くないではないですか!
グレギーナのあの野太い声は、実はあまりトゥーランドットには向いていない、と思いますが、どうでしょう?
逆にこのリンドストロームは氷のような鋭さ、それでいて耳障りでない声、
かつシリウスで聴く限りは適度なサイズもあって、
最近聴いたこの役を歌ったソプラノの中では、こと声質だけに限っていうと、断トツで適性があると思います。
個人的にはグレギーナに変わって11/7のHDの公演で歌ってくれてもいいかも、、とすら思います。
もちろん、その場合は細かいところを短時間で猛烈に練らなければなりませんが。
まだまだ熟しきっていない部分もありますが、大体出来が想像できてしまう、
また最近大きな失敗をしないことに神経が向きすぎて、全く歌唱がスリリングでないグレギーナよりは、
リンドストロームの方が、賭ける価値があると思います。仮に結果が思わしくない方に出ることになっても。

思わぬ彼女の健闘に観客以上に大喜びだったらしいのはジョルダーニで、
二幕の後、カーテン・コールに現れた時、彼女に花を持たせ観客の歓声を一身に浴びさせながら、
エキサイトして嬉しそうにぴょこぴょこ飛びはねる彼女と、抱き合って喜びを分かち合ったそうです。
(ホストのマーガレット嬢談。注:この日の音源を聴きなおして二人の様子について加筆修整しました。

そのジョルダーニは、”誰も寝てはならぬ”の低音は相変わらずへしゃげてましたが、
最後の高音は125周年記念ガラの時よりはずっと力強く歌っていて、
リンドストロームに負けじ、と頑張っていました。

リュー役については私のベストは数年前に聴いたヘイ・キョン・ホンで、
(っていうか、あんな素晴らしいリューを現役で歌える人を舞台に出さないなんて、
メトはどうかしていると思う!!)
それに比べるとかなり大ざっぱな感じがしますが、ポプラフスカヤもそつなくまとめていました。
彼女は割りと高音が安定しているソプラノだと思います。
ただ、”お聞き下さい、王子様”の最後、もう少しオケの旋律をよく聴いて合わせてほしかった。
この部分は指揮のネルソンズがなかなか巧みな音の置き方をしていて、
これに合わせて歌っていれば、すごく美しい出来になったと思うので。

レイミーのティムールはかなり音がもがもがうがうがしていていました。
この役はもう歌わない方がいいかな、、。


Lise Lindstrom replacing Maria Guleghina (Turandot)
Marcello Giordani (Calaf)
Marina Poplavskaya (Liu)
Samuel Ramey (Timur)
Conductor: Andris Nelsons
Production: Franco Zeffirelli
Set design: Franco Zeffirelli
Costume design: Dada Saligeri, Anna Anni
Lighting design: Gil Wechsler
Choreography: Chiang Ching
ON

***プッチーニ トゥーランドット Puccini Turandot***


GEORGE LONDON FOUNDATION RECITAL (Sun 10/25/09)

2009-10-25 | 演奏会・リサイタル
私がNYにやって来て、一番最初に住んだのはマンハッタンのマレー・ヒルと呼ばれるエリアで、
一般的には、南北でいうと東34丁目から42丁目(グランド・セントラル駅)、
東西では、マディソン・アヴェニューからイースト・リバーまでを指しています。
このあたりはマンハッタンの中でも比較的歴史のあるエリアで、
19世紀の半ばあたりから、南北に走るパーク・アヴェニュー沿いのこのエリアにはお屋敷が立ち並び初め、
東西に走っているストリートは、もともと、それらのお屋敷用の召使の住居、もしくは馬車用の馬の厩舎として
使用されていた時期もある、と本で読んだことがあるのですが、その後、
当時のアッパーミドルクラスがストリート沿いに建てられたブラウンストーンに大量に移り住むようになりました。
ブラウンストーンは3階から5階建て位までで、典型的には各ユニットが横に狭く、どちらかというと奥に長い建物なのですが、
当時はその一ユニットを、1階から最上階まで、一つの家族が住むのが普通だったようですが、
それが現在では、今でも残っているそんな建物を、各階、さらに各階の中でも複数のユニットにわけ、
アパートとして、一般の賃貸などに出し、その賃貸収入で建物のオーナーは生計を立て、
よって、オーナーが建物の一階部分に住んでいる、といったケースが多いです。
私が住んでいたアパートもまさしく、そんなパターンだったんですが、
昔の建物というのは、ディテールがすごく凝っていて、
最上階だった私の部屋には、台所の部分に小さな可愛い天井窓がついていたり、
同じ建物に住んでいた縁でお友達になった女の子の部屋には暖炉もあったりして、それはもう味のある素敵な建物でした。
何よりもすごいのは、当時の、それなりに裕福な層が作った建物だけあって、
本当に構造がしっかりしていて、まるで防音処理が施された建物みたいなのです。
部屋の中にいると、牢獄にいるのかと思うほど静かで何の音もしないのですが、
一旦廊下に出ると、隣の部屋の住人がものすごい轟音で音楽をかけているのが聴こえてきて、
あの音が私の部屋に全く入ってこないというのは、どういう構造になっているんだろう?と不思議に思ったことが何度もあります。

そんな素敵な建物をなぜ退去してしまったかというと、メトから遠いから、で、
今はおかげさまでメトに歩いて行ける距離になりましたが、戦後に建てられた建物の典型で、超安普請。
建物の中の夫婦喧嘩から何から聴こえてきて、嫌になってきます。
最近では歌の勉強をしている女性が移り住んで来たせいで、スケールの練習にまで付き合わされてます。
もちろん、私の部屋が発する大音量のオペラも、”うるせえんだよ!”と思っている住人がいることでしょう。
うちのアパートの真下にやはり犬を二匹飼っている女性がいるのですが、
ここの犬が、朝っぱらからやたらうるさくて、一度など、我が家の犬と勘違いされたか、
”アメリカから出て行きやがれ!”と建物のどこかから叫ぶおやじが居たので、
”うちの犬じゃないっつってんだよ!今度人種差別まがいの失礼な発言をした日には、
あんたこそ管理会社に訴えてやる!”と怒鳴り返したこともあります。
扉越し、天井越し、壁越しに自由に他の住人と会話が可能な建物、、。

マレー・ヒルに話を戻すと、その私の以前のアパートのすぐ隣のブロックに、
モルガン図書博物館という建物があって、住んでいた時期の大部分が改装工事にあたっていたのですが、
引っ越す直前位に改装が終了し、もともとの歴史ある建物の部分に、
非常にモダンな空間を組み合わせた新しい博物館として生まれ変わりました。

このモルガンとは、アメリカの金融成金(今や時が経ちましたので、成金と呼んでは失礼かもしれませんが、
まあ、きっかけは成金です。)として有名な、J.P.モルガンのモルガンで、
金融危機を乗り越えて、現役の銀行として今も頑張っているJ.P.モルガン・チェースのモルガンです。
この図書博物館には非常に貴重な蔵書もあって、図書館のスペースの内装の美しさはなかなかのものです。
(下はこんな風にイベント・スペースにも使えますよ、という写真で、普段はテーブルはもちろんありません。)



この博物館のスタッフの中にヘッズが混じっているのか、改装してから、
音楽がらみのイベントが頻繁に行われ(今回もプッチーニに関する展示もあって、
自筆のスコアなどを見ることができました。)、
リサイタル・ホールまで出来たと聞いていたので、
ずっと行ってみたいと思っていたのですが、ついぞ機会がないまま来てしまいました。
それが、今年は、このジョージ・ロンドン・ファンデーションのリサイタル・シリーズのおかげで、
何度か足を踏み入れることになって、嬉しい限りです。
ジョージ・ロンドンは1950~60年代にメトを中心に活躍したバス・バリトンで、
彼の名の下に設定された基金の援助を受けた歌手は多く、
各年に選ばれる最優秀者のリストには、半引退状態およびベテランでは、
バトル、マルフィターノ、モリス、ポラスキ、シコフ、ヴァネス、ユーイング、
そして、現役でばりばり活躍中の歌手としては、フレミング、バイラクダリアン、
ブリューワー、ラドヴァノフスキー、ディドナートらの名前が見られます。
また、最優秀者以外も含めた、援助の対象になった全ての歌手のリストは膨大で、
当ブログが最も期待したい若手としてこれまで名前を挙げてきたアンジェラ・ミードや、
スティーブン・コステロもすでにリスト入りしており、優秀な新人たちをがっちり取り込んでいます。

今年のリサイタル・シリーズでは、このリストの中から毎回二名が登場、
ピアノの伴奏で歌うという形式になっていて、
第1回目の今日は、ジョイス・ディドナートとエリック・オーウェンズのコンビ。
ピアノ伴奏は、あの、『The Audition』でファイナリストたちに惜しみない愛情と心遣いを見せていた、
メトのアシスタント・コンダクターであるキャリー・アン・マセソン。
ライアン・スミスの歌唱の後にひしっ!と彼と抱き合っていたあの女性です。

まず、びっくりしたのは、こんな素敵なホールが(前の)家の近所に出来ていたとは!ということ。
240~280名(舞台の設定の仕方によって変わるようです)収容のこのギルダー・レーマン・ホール、
こんな親密な感じのするセッティングで、ディドナートの歌を聴けるなんて、幸せすぎます。
実際、観客とのコミュニケートを非常に大事にしているディドナートのような歌手だと、
もう、おしゃべりや歌の間中、ずっと彼女と目が合っているような気がしました。



オーウェンズは、昨シーズンの『ドクター・アトミック』の、グローヴス将軍役のバス・バリトンといえば、ご記憶の方もあるかもしれません。
彼とディドナートとは、実はヒューストン・グランド・オペラの研修所に
一年違いで入所した、旧知の仲だそうですが、
その研修所時代に共演して以来(作品は『ジャッキー・O』)、これまで一度もオペラの舞台に一緒に立ったことがないので、
”すっごく嬉しいの!”というディドナートの言葉がありました。
二人のレパートリーは確かにあまりオーバーラップしていないので無理もありません。



まずはウォーム・アップがてらにディドナートとオーウェンズの二人で、
エドゥアルド・ラロの”林の奥深く Au fond des halliers"。
ディドナートが最初からぶっ飛ばしているのに比べると、
オーウェンズの声は少しフォーカスを欠いているというか、ぼやっとした声で、あれれ?と思いました。

この曲の後、各人の歌唱になっていくのですが、
今日のリサイタルでのディドナートの選曲は私はすごくいいと思いました。
彼女の得意なレパートリーとしてすでにしっかり認知されているロッシーニものをはさみつつも、
フェルナンド・オブラドルスやフランチェスコ・サントリクィードという20世紀の作曲家の作品を中心に据えた選曲です。

ディドナートのスペイン歌曲(オブラドルス)というのは聴くまであまりイメージが湧かなかったのですが、
聴くと実にしっくり来ます。
彼女の温かい声と情熱的だけど、重くなりすぎない歌唱のせいだと思います。
オブラドルスの古典歌曲集はどの曲も美しい旋律ですが、なかでも、
"一番細い髪の毛で Del cabello más sutil”はカバリエ、ドミンゴ、クラウス、デ・ロス・アンヘレスといったスペイン出身の歌手たちに、
レコーディングやリサイタルで多く取り上げられているようです。
ディドナートはこの曲を以前からリサイタルのレパートリーに入れているようで、
2003年にカンザス・シティで歌った時の音源がYou Tubeにありました。




若干心配なのは、彼女は最近少しオーバーワーク気味なのか、
発声の仕方によって、時々声に疲れが混じって感じられる部分があって、
それがそうでない部分とコントラストをなしてしまう点です。
相変わらずフォーカスした時の彼女の声は、まさにビームと呼びたくなるような強力なパワーを持っているので。
ただ、この傾向は先日鑑賞した『セヴィリヤの理髪師』の時にも感じたのですが、
その時よりは今日の方が元気でしたので、一時的なものだとは思います。
今や色々な劇場からひっぱりだこで、レコーディングも多く、
その上サービス精神が旺盛なので、ついオーバーワークになりがちなんでしょうが、
無理をし過ぎないで欲しいな、と心から思います。
それでも頑張るところが彼女の魅力でもあるので、矛盾してしまいますが。

サービス精神といえば、彼女は観客とのコミュニケーションに重きを置いているので、
こういうリサイタルでも、澄まして舞台に立って歌だけ歌って退場するというのが、
何かしっくり来ないんでしょう。
機会がある毎に”今日特別におしゃべりなわけじゃないんですけど、、”といいながらも、
MCを入れてくれて、そこで、普段から新しいレパートリーを求めてリサーチしている様子も伝わって来たのですが、
そんな中で見つけたらしいのが、後半に歌ったイタリアのサントリクィードの曲で、
”私が(一般的には声域から言っても、彼女からはほど遠いと思われているレパートリーである)
プッチーニに最も近づける作品”という微笑ましい表現で紹介していました。

私はサントリクィードの曲を初めて聴いたのですが、
実際、この”夕べの歌 I Canti della Sera"の曲群は、
彼女の言葉どおり、実にプッチー二の曲っぽくてびっくりします。
”あ、あのアリアのあそこに似てる!”とか、”あの作品のあの個所”と具体的な個所が思い浮かぶほどです。
プッチーニの作品も、一部の人には俗っぽく聴こえるらしいおセンチな部分がしばしば批判の対象になって、
どうやら、このサントリクィードの作品にもおそらくそれと共通する部分があるのでしょう。
観客の反応が少し曖昧、というか、まあ、はっきり言うと、
オーウェンズが歌ったシューベルトの歌曲などに比べると、あからさまに冷ややかでしたが、
私はこういう俗っぽい曲も、大、大、大好きで、
このサントリクィードの作品ももっと知られていいと思います。
なので、ディドナートのこういったあまり知られていない作品を発掘する試みと彼女のセンスを支持しますし、
機会があれば、ぜひ、レコーディングもしてほしい。
実際、You Tubeでもほとんど音源がありません。(いくつかあがっていたものは、
歌唱のクオリティが低くて、今日ディドナートが体験させてくれたものとは比べるべくもないので、あえて却下です。)
そして、驚くのが彼女のこの曲への適性で、ロッシーニのレパートリーで聴いていただけでは
イメージできなかった独特の魅力が引き出されていました。
実際、彼女に高音さえあれば(って、そう簡単に言うな、って感じですが。)、
声のテクスチャー的には、例えば、優れたミミ(『ラ・ボエーム』)になり得る、そんな感じです。
というか、むしろ、彼女の歌の魅力を形づくっているのは、
ロッシーニのレパートリーに必要な技量では必ずしもなくて、もっと別のところ、
温かい声のテクスチャー、表現力等にあるということが露になった選曲で、
それがあれば、ロッシーニ以外の作品にも優れた歌唱を示しうる可能性大なので、
彼女のこれからがすごく楽しみです。

とはいえ、順序は前後しますが、彼女のロッシーニがいいのは言わずもがな。
前半のプログラム、ラストの『湖上の美人』から”胸の思いは満ち溢れ Tanti affetti"は、
”昨日の『セヴィリヤ』でパワーを使い果たしてなければいいんだけど!”と言いつつ、技巧炸裂。
ああ、やっぱりしばらくはずっとロッシーニを歌っていてもらおう、と思うMadokakipでした。

一方で歌う曲によってかなり印象が違っていたのはオーウェンズの方です。
最初の二重唱は、ほんのウォーム・アップだったのでしょう。
シューベルトの歌曲では、ものすごくパワフルな声を聴かせ、同じ人とは思えないほどでした。
彼の場合は、彼の個性にあった、力が思い切り出せるレパートリーでないと、
輝きが死んでしまう部分があるように思います。
今日彼がソロで歌ったレパートリーの中ではシューベルトが断トツでよく、
なかでも『白鳥の歌』からの”アトラス Der Atlas"はすごい迫力と表現力で、度肝をぬかれました。
ディドナートによると、今日のリサイタルはウェブストリーミングのため(注:彼女の言葉によるもので、
確認はしていません。)に録音されていたそうなのですが、
ステージ裏にいるエンジニアたちが、彼のシューベルトの一曲一曲が終わるたびに、
感嘆の声を漏らしていたそうです。
私も彼のシューベルトの作品での良さは驚きでした。

一方で彼の手に負えていない感じがしたのは後半一曲目のヴェルディ『ドン・カルロ』からの
”彼女は私を愛していない Ella giammai m'amo”。
この曲の一筋縄でいかなさ、この曲を表現しきることの難しさを感じさせられます。
パワーはもちろんないと困るのですが、パワーだけでは駄目だし、
生じかな表現では観客の心に真に響くことは出来ない、
さらに、オペラの中の、あのフィリッポ王をきちんと感じさせなければならない、という点で、
ある意味、制限もある、実に手強いアリアです。
オーウェンズのこのアリアは、まだまだ磨き続けていかなければいけない段階にある、そのように思います。

また、意外なのが、ミュージカル曲群ではそれほど彼の力が出ない点で、
乱暴な一般化で申し訳ないのですが、私などはつい黒人ならミュージカルの曲は上手いだろう、、と思ってしまうのですが、
”ナイト・アンド・デイ”、””もしもあなたと別れるようなことがあったら If Ever I Would Leave You”、
”魅惑の宵 Some Enchanted Evening"、どれをとっても”オペラ歌手の余興”的な雰囲気が漂っていたのが残念です。
奇遇にも、後の二曲は、パウロ・ショットがメトのサマー・リサイタルで取り上げた曲ですが、
この二曲に関しては、断然ショットの歌の方が魅力がありました。
また、そのサマー・リサイタルのコメント欄で紹介したピンツァの”魅惑の宵”のように、
オペラ歌手でもミュージカルの曲を余興としてでなく本物として歌うことは可能だと思うので、一層残念です。
(と思ったらロジャース&ハマースタイン協会によって、You Tubeから映像が取り下げられてしまっているようです。
これまた残念!)

しかし、このリサイタルの最も美しい瞬間は最後にやって来ました!
ディドナート、オーウェンズ二人による『アルジェのイタリア女』から、
イザベッラとタッデオの二重唱”運命の気まぐれに Ai capricci della sorte”。
ディドナートはこれまでの曲で登場した時の笑顔とは一転して、
舞台袖から二重唱の内容に合わせ、ぷりぷりと怒り姿で登場。
二重唱の間中、コメディエンヌとしての魅力が炸裂し、
最後の音が鳴り終わるまで、リサイタル用のホールがオペラハウスのように感じられました。
前半の互いをけなしあう掛け合いの部分の生き生きとした歌唱、
そして、二人が段々と仲直りしていく場面では、
ディドナートがオーウェンズのネクタイを直してあげる仕草などをアドリブで取り入れるなど、
いい音楽と、才能ある歌手たちがいれば、木の床以外何もなくても、
またつけている衣装がドレスとスーツでも、オペラの一シーンにきちんとなって、
目の前に光景がぶわーっと浮かんで来るという、
その瞬間があまりに美しく、またいとおしかったです。
二人、特にディドナートは”やっぱりオペラ歌手なんだ!”、
つまり歌を歌うだけではなくって、物語を語れる歌手なんだ!というのをひしひしと実感しました。

色々細かいことを書きましたが、終わった時にはなんともいえない幸せな気持ちに包まれるリサイタルでした。
やはり、今日もジョイス嬢にハッピーにさせてもらってしまった、、、
仕事に疲れた体に猛烈に効く、最高の療法!

The George London Foundation Recital

The Morgan Library & Museum
in collaboration with
The George London Foundation for Singers

Joyce DiDonato, mezzo-soprano
Eric Owens, bass-baritone
Carrie-Ann Matheson, piano


EDOUARD LALO
"Au fond des halliers"
(DiDonato & Owens)

FERNANDO OBRADORS
Canciones Classica
1. La mi, sola, Laureola
2. Al Amor
3. ¿Corazón, porqué pasáis
4. El majo celoso
5. Con amores la mia madre
6. Del cabello más sutil
7. Chiquitita la novia
(DiDonato)

FRANZ SCHUBERT
"Prometheus"
"Der Atlas"
"Ganymed"
"Gruppe aus dem Tartarus"
(Owens)

GIOACHINO ROSSINI
"Tanti affetti" from La Donna del Lago
(DiDonato)

GIUSEPPE VERDI
"Ella giammai m'amo" from Don Carlo
(Owens)

FRANCESCO SANTOLIQUIDO
I Canti della Sera
1. L'assiolo canta
2. Alba di luna sul bosco
3. Tristezza crepuscolare
4. L'incontro
(DiDonato)

COLE PORTER
"Night and Day" from Gay Divorce
(Owens)

FREDERICK LOEWE & ALAN JAY LERNER
"If Ever I Would Leave You" from Camelot
(Owens)

RICHARD RODGERS & OSCAR HAMMERSTEIN II
"Some Enchanted Evening" from South Pacific
(Owens)

GIOACHINO ROSSINI
Duet "Ai capricci" from L'Italiana in Algeri
(DiDonato & Owens)

The Morgan Library & Museum
Gilder Lehrman Hall
Row K

*** ジョージ・ロンドン・ファンデーション・リサイタル ジョイス・ディドナート エリック・オーウェンズ
The George London Foundation Recital Joyce DiDonato Eric Owens ***

AIDA (Sat Mtn, Oct 24, 2009)

2009-10-24 | メトロポリタン・オペラ
注:この公演はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。

日本で会社勤めをしていた頃、後輩に”NYに彼氏でもいるんですか?”と言われる位、
有給をとってはNYに旅行してました。というか、正確には”メトに”ですけれども。
そして、たった一人だけ、どのメト旅行でも公演を見逃さなかった歌手がいました。
日本に全然来ないから、私が行くしかなかったのです。
特に1990年代後半から2000年代前半にかけての彼女は経験とパワーのバランスが一番良かった時期で、
この頃の彼女の声は、高音域の透明度が本当に高くて、
クリスタルのような澄んだ声で、このままメトが崩れ落ちるんじゃないか、と心配になるような、
空気が震えてびりびり言っているのがわかるような声を、聴きに行く度に出していました。
座席から自分が吹っ飛ばされるような気がしたものです。
数百人が入るようなホールでの話をしているんじゃないですよ。4000人の客が入るメトでの話です。
彼女はまた非常にレパートリーに慎重で、いくつかの限られた役しか歌っていませんが、
(もともとメゾはその傾向がありますが、それにしても。)
その中でアムネリスこそは彼女の持ち味が一番良く出る演目でもありました。


(ラダメス役のボータと手前に見えるのは、、)

私がオペラを生で鑑賞し出してからというのは、特に『アイーダ』のような演目で、
少なくともメトでは(そしておそらく世界の他の劇場でも)、
どんどんテノールやソプラノがスケール・ダウンして行った時期にあたってしまって、
彼らにそれほど期待することは出来ませんでしたが、
それでも、彼女のアムネリスを聴ける限り、『アイーダ』を観るのが楽しみ、
という時期がずっと何年も続いて来たのです。
私にとっては、彼女こそがアムネリスであり、他の誰もアムネリスではない。
多分、NYでオペラ・ファンを自認している人なら、私と同じ気持ちの人はたくさんいると思います。


(上の写真はアイーダ役のウルマナ)

このブログを読んで、私のことを特定の歌手を好きになったり、
追っかけたりする気持ちがわからない人間だと思っておられる方も多いかもしれませんが、
私は彼女を、初めて聴いた時から、ずっとファンであり続けて来ましたし、
メトだけでは飽きたらず、ヨーロッパまで追いかけて行ったこともあります。
そして、彼女が太めで美人でないのがいけないのか、
”イタリア人よりもイタリアものでは劣っているにちがいない”アメリカ人だからいけないのか、
メトを含めた色々な歌劇場が次々と日本公演を打っても、
新国立劇場が彼女の得意とするレパートリーを上演しても、
決して彼女がキャストに含まれはしないのを、ずっとずっと悔しい思いで我慢して来たのです。
そして、今年、やっと、スカラ座の日本公演に同行した彼女ですが、
私の胸にあるのは、正直、何で今頃、、という思いだけです。
そのスカラの公演で、”大したことないな。”と感じた人だけでなく、いや、むしろそれ以上に、
”すごかった。”と感じてくださった方にこそ、
いえ、そんなもんじゃないんですよ、と言いたい気持ちなのです。


(同じくアイーダ役のウルマナ)

三年前くらいからでしょうか?彼女の歌声に年齢の影がちらついているように感じるようになったのは。
以前までは、ほとんど何も考えなくても自然に声が出てきているように思えるほど、
どんなポジション(体だけではなくてその直前にある声の位置も含め)からでも、
強引な印象を与えずにすぐに適切な音を出せていた彼女が、
今日の一幕で、何気ないフレーズで失敗しないように猛烈に慎重になっているのを見たときにまず、
ああ、彼女も年をとったんだな、というのが急にものすごい実感として湧いて来ました。
一昨年の『アイーダ』あたりまでは、好調不調の波というレベルで説明しても
まだぎりぎり許されるような感じがありましたが、今日の彼女のアムネリスを聴いて、
もう、二度と昔のような歌が聴けることはないんだ、ということを悟りました。
アップダウンのダウンの地点にたまたま今日が当てはまってしまったのではなく、
もう始まってしまった長いダウンヒルの途上に彼女がいる、ということを
認めなければならない時期がとうとう来てしまったのだ、と。


(ラダメス役のボータ)

シリウスの放送のようにマイクで拾っていると逆にわかりづらいのですが、
(なのでもしかするとHDの方が生ほどあからさまに感じないかもしれませんが)、
生で聴いていて、一番変化が激しいと思うのは音の均質度です。
さきほど書いたように彼女はどんなポジションからでも瞬時に自分の思っている音色、音量に移行できる
稀有な才能を持っていたので、彼女の歌唱の素晴らしかった点の一つは、
驚くべきまでに、音(声)の密度が一定でイーヴンだったということです。
ところが今日の歌唱では、それがもはや完全には遂行できなくなっていることが伺われ、
一つのフレーズの中ですら、エア入りのチョコレートのようにふかふかで軽い部分があったかと思うと、
以前の音色に近い、音の密度が高い部分も混じっている、という感じで、
これが発される言葉にまで影響してしまうので、極端に言うと、
単語の音が歯抜けに聴こえるように感じる部分もあるほどです。



それから、高音が痩せる、これも最もわかりやすい変化の一つで、
彼女の高音を特徴づけていたクリスタルのような鋭い、それでいて澄んで美しい音は、
以前の輝きを失っていて、昔よりも音がずっと軽い感じがします。

4幕の頭のラダメスとのシーンでは、ヨハン・ボータの声に押し負けていると感じましたが、
こんなことはこれまでに一度もなかったことです。
どんなに声がでかいテノールと共演しても、絶対に最後は彼女が勝ち、でしたから。
それでも、裁判の場は、彼女の意地でしょうか?
今の彼女が持てる全てを出し切ったと思います。
でも、彼女が全てを出し切ったからこそ、この裁判の場が終わったときに気付いたのです。
もう次の『アイーダ』を楽しみにしている自分がいない、ということに。
ザジックに関して言えば、まだ数年は、コンディションのいい時は普通の意味では満足できる歌が聴けるでしょう。
でも、普通のレベルに収まりきらない超ド級の歌と声の楽しみを教えてくれたのは、他でもない彼女ですから。
歌う役を工夫することでまだまだ歌い続けていくことはもちろん可能ですし、
そうなっていくのでしょうが、私にとって、彼女はやはり、”アムネリス”なのです。



次に彼女と肩を並べるほど素晴らしいヴェルディ・メゾが現れるのを待つことになるわけですが、
もし出てこなかったなら、、、
私が今まで体験できたような、上演を心待ちにし、実際に歌を聴いて、
血管の中で血が沸騰するような感覚を覚える『アイーダ』を観ることは、
もう二度とないのかもしれない、と思います。
どんなに優れた歌手にだって、いつかはこういう時が来る、とわかっていても、やはり寂しいものです。
ドローラ・ザジックは、私の『アイーダ』鑑賞の歴史そのものでした。




と、これで終わってはあまりなので、他の歌手や指揮についても一言ずつ。

ヨハン・ボータはこの公演の一つ前の公演(シリウスで放送された)で、
ものすごく調子をあげているのが感じられ
(凱旋の場で誰よりも高音が綺麗に飛んでいてラジオを聴きながらびっくりしました。)、
とにかくこのHDに賭けてきたことが忍ばれます。
特にどこが悪いわけでもなく、むしろ、全体としては全くといっていいほど目だった欠点がない位に歌っています。
高音も力強いですし、この人、こんなに声量があったんだ、という位、大きな声で歌ってます。
彼は声が綺麗なので、大きな声で歌っても、うるさく、むさ苦しく感じられないのは美点です。
強いていえば、それ故に、まれに出てくるややがなりたてるような汚い音が気になる程度でしょうか?
ただ、上手く言えないのですが、彼には何かこの役をこの役らしくする何か、
熱いものが足りないような気がします。
今、この役を歌唱面のみでクリアできるテノールすら数多くはないのですから、
贅沢な注文なのかもしれませんが。


(ラダメス役のボータ)

それをもっと突き詰めた感じなのがウルマナのアイーダです。
彼女はどの声域も美しい音色をしているとは思うのですが、
こちらもまたパッションを感じないというか、淡白なことではボータの上を行ってます。
しかも、今日の彼女は相当緊張していたのか、かなり長い間、
音が高めに入ってピッチが狂ってしまうという症状に悩まされていました。
ウルマナに関しては、アイーダだけでなく、どの役を見てもいつもこのような淡白な印象を持ちます。


(ランフィス役のスカンディウィッツィ)

ひどかったのはランフィス。
っていうか、このロベルト・スカンディウィッツィ、
私は深刻な精神障害を疑います。簡単な数が数えられない、という。
本当にすごく不思議なのですが、
あのガッティですら、スカンディウィッツィには難しいテンポやリズムは扱いきれないと読んだか、
かなりオーセンティックに振っていたと思うのですが、それでも、見事に拍が狂うのです。
児童が1,2,4、、と数字を飛ばしてしまった時のような奇天烈さに仰天させられます。
もしくは一応数が数えられている場合でも、1,2は早く、突然3、4が遅い、とか。
声そのものは深くていい声なんですけど、深いブレスをしたりしているうちに拍がわからなくなるんでしょうか。
いや、それ、やばいでしょう。プロの歌手なんだから。
なんだか、何をしでかすかわからない人を見ているようで、どきどきして、
つい彼が歌うたびに、ガッティの指揮に合わせて、1,2,3..とカウントしてしまう私でした。

アモナズロを歌ったグエルフィは、『トスカ』のスカルピアよりはさすがによく準備が出来ていましたが、
生で見たものの中で印象に残っているポンスとか、1988年の公演のDVDのミルンズ
に比べるといかにも小粒です。
この役は出番が少ないからこそ、力で持っていかなければならない部分があるのですが、
彼は地味です、あらゆる意味で。


(アモナズロ役のグエルフィ)

ラッキーにも後ろを向いて影法師になっている写真を見つけた(二枚目の写真)ガッティについて少し。

実際の指揮振りとオケから出てきた音を聴いて、一部の人が彼を良い、と感じる理由はわかる気がしました。
彼の指揮のテクニックは決してまずくなく、むしろ、非常に的確でわかりやすいです。
(特に先日『ファウストの劫罰』のドレス・リハーサルでコンロンの???な指揮を見た後では余計に、、。)
多分、彼の長所になりうる点を一つ上げるなら、各楽器のセクションのバランス感でしょうか?
下品になりすぎることなく、面白いバランスを引き出す能力は持っていると感じました。
また弦のセクションの扱いは結構凝ってます。
最初のインターミッションで、かなり年配のおじ様同士の、
”ところでガッティの指揮をどう思うね。”
”好きだよ。彼はいい。”という会話も聞こえてきました。

メトでのザジック人気を肌で感じたか、
彼女をのろのろした指揮でいらいらさせても、HDで誰も得しない、
いや、むしろ、自分が損する、と冷静になったのか、
今日の彼の指揮は、最初の頃ほどテンポがノロノロのグニャグニャではなく、
どの歌手ともそこそこ合わせて行こうとする意志は感じました。
(おそらくキャスト中、一番彼の指揮を良く理解していたのはボータです。)
つい先日はボロディナをじくじくいじめていたのに、えらい変わりようです。



ただ、彼がどんなに面白いバランスを楽器間から引き出してきても、
それが”あ、ここいいね。””あ、ここもいいね。”という、ばらばらな瞬間で終わってしまっていて、
一体オペラ全体の流れにどのようにそれらが貢献しているのか、私には全くよくわかりませんでした。
だから、一つの焦点に向かってぐーっと盛り上がっていくという感覚が希薄で、
ゆえに、心を動かされる、という風にならないのです。
それはあの凱旋の場ですらそうです。

彼の指揮はオケの演奏をどういう風に楽しみたいか、という、観客のスタンスによって
評価が大きく分かれるのではないかなと思います。
(それはどの指揮者でもある程度そうなんですが、特に彼の場合。)

ところで、凱旋の場といえば、舞台上で二手に分かれて吹くトランペットの、
舞台下手側チーム。
オケの正式メンバーではなく、サブのメンバーだと思うのですが、
これはちょっとHDにないんじゃないかな、という出来でした。
上手側の美しく揃った温かいサウンドに比べて、下手チームは一人でカラーの違う音を、
しかも大音量で出している奏者がいて、げんなりです。

また、バレエのシーンの振付に、ABTのラトマンスキーの手が入ることが話題になっていましたが、
今日たまたま座席が隣になったおば様ヘッドもこの私も、まったくぴんと来ませんでした。
というか、前の振付から何が変わったのか?と聞きたいくらい。
いや、もちろん、細かい振付は変わっているのですが、
どうしてそんなに前のバージョンのフォーメーションに拘るのだろう?という位に大きな線がそっくりなのです。
もっと、枠から自由にはみ出るような、独創的な振付を期待していたのにがっかりです。
また、ダンサーたちの踊りがいちいちぴりっとしないのも、ラトマンスキーを助けてはいませんでした。



各キャストの歌の出来をはじめ、あらゆる面で1988年のDVD(演出も全く同じ。
出演者はミッロ、ドミンゴ、ザジック、ミルンズら。指揮はレヴァイン。)より小粒な今日の公演、
私がメトの最近の、特にこういった人気演目での、公演の質の低下を嘆く理由がおわかりいただけますでしょうか?
HDが1988年の映像よりアップグレードされるのは、画質だけといってもいいかもしれません。

最後にその1988年の映像から、第四幕の裁判の場のザジックの歌唱部分をご紹介し、
私が聴くことの出来た、彼女の全てのアムネリス役での歌唱に心から感謝しつつ、
私のアイーダ、いえ、アムネリス鑑賞黄金期に幕を引きたいと思います。





Violeta Urmana (Aida)
Dolora Zajick (Amneris)
Johan Botha (Radames)
Carlo Guelfi (Amonasro)
Roberto Scandiuzzi (Ramfis)
Stefan Kocan (The King)
Jennifer Check (A Priestess)
Adam Laurence Herskowitz (A Messenger)
Conductor: Daniele Gatti
Production: Sonja Frisell
Set design: Gianni Quaranta
Costume design: Dada Saligeri
Lighting design: Gil Wechsler
Choreography: Alexei Ratmansky
Grand Tier C Even
SB

*** ヴェルディ アイーダ Verdi Aida ***

映画 『The Audition~メトロポリタン歌劇場への扉』  DVD化決定!

2009-10-23 | お知らせ・その他
今シーズンのプレイビル第1号(9月/10月版)で発表されていて、
ずっとこれを記事にしなくちゃ!と思っていたのに、ついつい後回しになってしまいました。
朗報です。

当ブログ推薦かつ必修映画で、今までしつこく記事にし(試写会編東京上映決定編アメリカ一般公開編)、
皆様にも大好評だったドキュメンタリー映画、『The Audition ~メトロポリタン歌劇場への扉』が
DVD化されることになりました!!!
11月発売予定です。
『魔笛』のアブリッジ版と同じく、メトの直接の製作販売となるようですので、
メトのギフト・ショップかそのオンライン・ショッピング用のサイトで購入する形になりそうです。
リージョン・コードが心配な方、もちろん私は発売開始次第即ゲットを目論んでおりますので、
購入した暁にはリージョン・フリーか否かをご報告いたします。

なお、日本語の字幕入りの日本版が発売されるかどうかについては不明。
松竹のやる気次第でしょうか?

それにしても、あの興奮とどきどきとほろり、を、いつでも自宅で体験できるとはなんという幸せ!
大人買いをしてクリスマスに誰彼構わずばら撒きそうな自分が怖い、、。

(写真はこの映画に登場するファイナリストたちで、
左からキーラ・ダフィー、アンバー・L・ワグナー、ライアン・スミス、アンジェラ・ミード(←当ブログ一押し。)、
マシュー・プレンク、マイケル・ファビアーノ、ライアン・マッキニー、
アレック・シュレーダー、ニコラス・ポールセン、ディセラ・ラルスドッティール、ジェイミー・バートン。)

大きい穴は大きく埋めろ?

2009-10-21 | お知らせ・その他
少し前の記事に、ライブ・イン・HDの公演を含むランで、多数の公演で主役級の役を歌う歌手には、
HDでない公演で行使できる”お休み”権があるようだ、と書きました。

また、同じ記事で、私はゲルプ氏の主役級の役で発生したキャンセルに、
カバーでなく、人気歌手を連れて来る手法も、本来はあまり好きではない、ということも書きました。

なのに、また、これです。

いよいよ今週土曜(10/24)のマチネに迫ったHD対象日の『アイーダ』の公演ですが、
今日(10/21)シリウスででも放送されたHD直前の『アイーダ』の公演から、
アムネリス役のドローラ・ザジックがキャンセル。
同役のカバーに入ったのは、二日前(10/19)にドレス・リハーサルがあり、
また二日後にシーズン初日を迎える『ファウストの劫罰』に出演するオルガ・ボロディナ。

ガッティのねちっこい性格がここでも爆発し、ザジックが歌っていた公演以上に
のろのろとオケをすすめ、ボロディナをいぢめるガッティ。
ボロディナの歌はほとんど崩壊寸前でした。
本当、尻の穴の小さい男!!絶対私の生活圏内に入ってきて欲しくないタイプの人間です。
彼女はメトでもアムネリス役は歌ったことがありますが、こんなに可哀想な状態に陥っているのは聴いたことがありません。
いくら舞台で歌ったことのある役とは言え、彼とはリハーサルなしで歌いに入るのですから、
出来るだけ彼女が歌いやすい範囲で、自分の音楽とやら(そんなものがあったらの話ですが。)を作るのが紳士であり、
よき同僚というものです。
ますますこのおっさんが嫌いになりました。

ザジックが深刻な病気である可能性は低く、コンディション調整のための降板だと思いますが、
土曜のマチネ、登場してくれますように!!

DR: LA DAMNATION DE FAUST (Mon, Oct 19, 2009)

2009-10-19 | メト リハーサル
昨(2008-9年)シーズン、もしも土壇場のリングがなかったなら、
Best Moments Awardsの大賞になっていたはずの『ファウストの劫罰』。

優れた解釈でマルグリート役を歌ったスーザン・グラハムと
これまでの”いい人”系のキャラから脱皮して悪魔がはまり役だったレリエー、
(ちょっぴり歌唱に問題があったジョルダーニはこの際スルー、、、)
それからレヴァインの指揮のもとで、非常に緊張感のあるスリリングな演奏を聴かせたオケのおかげで、
この作品の素晴らしさを知り、堪能することが出来ました。
そして、賛否両論あれど、ルパージの演出は決して今年のボンディの『トスカ』のような迷子系自己満足に陥っておらず、
きちんとストーリーに沿いながら、旺盛なチャレンジ精神を感じさせるもので、私は好きです。

そんな『ファウストの劫罰』が今シーズンもメトに登場しますが、
キャストはブランデル役以外総とっかえで、ファウストにヴァルガス、
マルグリートとメフィストフェレスには、ボロディナ&アブドラザコフ夫妻、
そして、指揮にジェームズ・コンロンという顔ぶれで、今週の金曜日(10/23)のシーズン初日を控えています。

シーズン開始の数ヶ月前に、今年もドレス・リハーサルが公開されると聞き、
昨年、演出での色々な仕掛けに感嘆したこともあって、
リハの段階で実践面でどのようにこの演出を組み立てているのか非常に興味が湧きました。
ドレス・リハーサルは午前11時の開始なので、早朝から仕事をして、無理矢理半休のための時間を捻出、
相変わらずオペラのことになると強引な人です。

今日は舞台下手側のサイド・ボックスから鑑賞したので、去年実演を正面席から観た時よりも舞台に近く、
細かいところまで本当によく見えます。
リハーサルでは平土間正面ブロックの前方が主に写真撮影
(メトのサイトで使用されている舞台写真などは、こういったリハーサルで撮影されているものがほとんどなのですが、
これで上手い写真を取れなければ嘘、という位に絶好のポジションに望遠カメラが設定されています。)や
スタッフのためのスペースになっていて、
この演出で多用されているコンピューター・グラフィックスをモニターする画面や、
それにつながれた操作用のラップトップ型コンピューターがいくつも見え、その側にはルパージの姿も確認できました。
二シーズン目からは舞台監督に指示を残して、物理的にはメトに姿を現わさない演出家もいると聞きますが、
やはりこういう込み入った演出の場合は本人も気になって出席したくなるのかもしれません。

合唱はこうして聴くと、本当に昨シーズン時間をかけて丁寧に練習したんだな、というのがよくわかります。
練習したことが体に染み付いてしまっているんでしょう。
口を開ければ条件反射のように、美しく、かつ、言葉や音のよく揃った声が出てきて、
他のレパートリーより、一段完成度が高い感じがします。特に男声。
メトで久しぶりにかかる、または一度もこれまでかかったことのない作品を、
一から現在のコーラス・マスターのパルンボ氏について練習した作品は概して合唱の出来が良いような気がします。

また、久しぶりの舞台に関わらず、ものすごくきちんと準備をしてきた感じが伝わってきたのが、ダンサーたちです。
特に第3部で鬼火のメヌエットを踊る女性のダンサーたちにそれを感じました。
もちろん、ワイヤーを使って舞台上の壁を縦横無尽に動き回る男性陣たちの活躍も健在です。
ただ、昨年、HDに収録された公演も、また私が実演を観た公演も、
全てがスムーズそのもの、といった感じで進行していきましたが、
そういう全てが上手く行った時というのは、なかなかその裏にある苦労というのを伺い知るものが難しいものです。
今日のリハーサルの途中では、壁から壁に飛んで移動していた、メフィスト一味の男性同士が
すんでで空中接触になるような場面もあって、
自分が吊られているワイヤーの振り幅を読みながら、すぐ側にいるダンサーの動きに注意して自分の振りを行わないと、
怪我に巻き込まれてしまんだわ!と、
豪胆に飛び回っているように見えて、実はものすごく細かい計算をお互いに行っているのだということが、
近くで見てわかりました。

今日のリハーサルを見て若干不安だったのは、セットにいくつかの問題が散見されたことで、
特に升目に組んだ壁がスライドしたりする時に、ぎぎぎぎぎっ!!と、
これまで聞いたことのないような、それこそセットが崩壊しそうな大きな音を立てていましたが、
あれは何なんでしょう、、?
この部分はコンピューター・グラフィックスと組み合わせた手法になっているのか、
実際の壁が詰まって動かなくなると、投影されているグラフィックスまで、乱れて止まってしまいます。

また、第4部の、もっとも盛り上がるファウストの地獄落ちの部分で、
舞台下手側から順に一つの枡ずつ、馬の影絵が増えていく(ことで、馬が前にすすんでいる様子を描写している)のですが、
一番上手に近い枡で、影絵を遮断しているスクリーン
(これが取れて、はっきりと影絵が写るようになる)が完全に落ちなくて、
べろーんとスクリーンが枡に張り付いたままで、肝心の影絵がはっきりと見えませんでした。

いくらリハーサルと行っても、本番を数日後に控えているドレス・リハーサルなので、
普段はこんなことはないんじゃないかな、、と思うのですが、こんなものなのか、、?
本番という緊張感がいつも本公演では全てを魔法のように解決してきたのか、、?
つい去年までちゃんと動いていたものが、突然100年間倉庫に入っていたような音をたてるのはなぜ、、?
と、謎は深まるばかりです。
昨シーズンの公演では、初日に水の中を人が踊るシーンで、
その姿があまりにぼやぼやしていて、人に見えなかった、という、
割とマイナーなものがあった以外は、全くと言っていいほど、ミスがなかったので、
今日のリハーサルでの細かい技術上のミスはルパージも内心びっくり仰天!だったのではないでしょうか?

ただ、結局、これはリハーサルであって、本番ではないのだし、文句を言う筋合いのものでもないですし、
むしろ、いかに多くの細かいパーツが、一つ一つきちんと実行され、噛みあって、
一つ一つの舞台が出来上がっているか、という、
わかっているようでつい忘れがちなことを思い出しました。
(この演出が特に平均以上に複雑で込み入っている、という面はありますが。)
どのパーツも簡単にミスになりうるということをこうやって実際に目にして、
毎日毎日ほとんどの本番で技術上のミスがないというのはどれほどすごいことかと実感するというのは皮肉なことではあります。



今日のドレス・リハーサルには地元の小学校と中学校のキッズたちが招待されていて、
ドレス・サークルから上の座席はちびっ子でぎっしり埋まっているのが見えます。
開始してしばらくは、”しーっ!しーっ!”という
引率の先生が子供たちを静かにさせようとする声がひっきりなしに聴こえて来て、
”先生の方がうるさいんですが、、。”って感じでしたが、
音楽がすすむにつれ、子供たちはすっかり作品に引き込まれてしまったようで、
いつの間にか、先生の声は全く聴こえなくなっていました。

むしろ気になるのはスタッフが進行表をめくる音で、
いわゆるスパイラル・リングで閉じて製本しているために、ページをめくるたびに、
ばりばりっ!ばりばりっ!という不快な音が鳴り響きます。
こういう音には反射的に、”しっ!!”という癖がついているヘッズたちは、
何度も思わず口にでかかったその言葉を押し殺して、
ルパージの隣あたりに座っている助手の女性を忌々しく睨みつけるしか、なすすべがないのでした。
さすがに演出スタッフを叱りとばすわけにもいかず、、。このフラストレーションをどこにぶつけていいか、わかりません。

歌手について。

ファウストを歌うヴァルガスについては、実際に鑑賞する前は
割と適役じゃないかと思って楽しみにしていたんですが、
実際にオペラハウスで聴いてみると、彼らしく、非常に丁寧に歌ってはいるんですが、
彼の声のサイズや持ち味は、この作品で観客にカタルシスをもたらすような歌を歌うのに若干の障害になっているかもしれません。
ヴァルガスは歌唱が中心に据えられた、伴奏系オーケストレーションがついている作品にのって歌う分にはとてもよいのですが
(だから、ベル・カントのレパートリーとか、同じフランスものでも、マスネのような作品はいい。)
この作品のようにオケが凝っていてヴォーカル・パートもオケの一部になっているに近い作品の場合には、
それなりにオケと対峙できる声が必要で、
そういう意味では高音が非常に厳しかった昨シーズンのジョルダーニですが、
声のテクスチャーという面では、ヴァルガスよりも向いていたかもしれません。
ヴァルガスは、ジョルダーニが公演日によっては半分ファルセットのような声で出さざるを得なかった高音も
実声でしっかりと出している場面もあったので、
第三部に出て来る高音も大丈夫かも、と思ったのですが、
二重唱 ”Grands dieux!”で二度出てくる厄介な高音では、
二度とも最高音に昇りきらず、低い音に置き換え、音型を変型させて歌っていました。
リハーサルだから、ということであればいいのですが、私のいた座席からは、
彼がこの音に若干不安がある様子を感じましたので、本番がちょっぴり心配です。
音だけ聴いていても、この音型が始まるところから気持ちがうわつくのか、
オケよりも走ってしまって、タイミングまで損なってしまった様子が伝わって来ました。
あとは去年の新演出時に比べて圧倒的にリハーサルが少なかったのだと思うのですが、
まだ少し演技が板についていないように見受けられる部分もあります。
ただ、ジョルダーニが力技で歌っていたような部分も、
とても丁寧には歌っているので、ジョルダーニとは違う持ち味はあります。

マルグリート役を歌ったボロディナに関しては、最大の聴かせどころである
マルグリートのロマンス(”D'amour l'ardente flamme")”以外”の部分は、
登場してすぐの”昔トゥーレの王が Autrefois un roi de Thule"を含め、
歌唱そのものはそう悪くはありません。
どことなくマルグリートがカルメンになってしまったような、
まったりとした歌唱は好き嫌いが分かれるかもしれませんが。
歌唱の面で一番気になるのは、その最大の聴かせどころであるはずのロマンスが、
必ずしも彼女の声が一番活きる声域にないことです。

スーザン・グラハムのこのロマンスの歌唱がいかにすぐれていたかは
以前このブログでご紹介したことがありますが
グラハムに比べると、ボロディナの歌はドラマティックに流れすぎて、
それが逆に観客の心を少し引かせてしまう要因の一つになっていますし、
また、オケが沈静化していく直前の、最後の大切な高音も、この高さが辛いのかもしれませんが、
もう一ため欲しいところです。

また、歌以外の部分での役の表現もグラハムに一歩も二歩も譲る気がします。
ライブ・イン・HDの時に、グラハムもインタビューで語っていた通り、
この作品は、一般的なオペラの作品に比べると、細かいストーリー描写が少なく、
(それは、グノーの『ファウスト』と比べると一目・聴瞭然です)
むしろ、場面場面を切り取ってそれを深く掘り下げ音楽で表現している作品なので、
細かいストーリー・テリング的な演技に頼るのではなく、
歌う曲の歌唱の雰囲気で役の本質を伝えなければならない、という難しさがあります。
その点でボロディナのマルグリートは少しキャラクターが淡白で、よく伝わって来ない部分があります。
ボロディナが滅茶苦茶に悪いわけではないので、グラハムの昨年のこの役の解釈が
いかに優れていたか、ということを、痛感します。

またメフィストフェレスが水面に映し出したマルグリートの姿を見て、ファウストが心を奪われ、
水の精の合唱(”Dors! Dors! Heureux Faust")にのせてMarguerite!と呼びかける非常に美しい個所があります。
上の写真はその場面ですが、グラハムは実物はさばさばした感じの人でありながら、
見た目はわりと女性的な部分もあるので、こうして写真が大写しになっても感動的でしたが、
今回使用されたボロディナの写真、、、これはどうにかした方がいいと思う。怖すぎます。
というか、ボロディナも地は綺麗な人なので(今のように体重がついてしまう前は、
美人歌手に分類されていたのです!)、もうちょっといい写真があったでしょうに、、と思うのですが、
迫力満点のロシアのおばちゃん!という感じで、ばーん!と彼女のどアップが飛び出て来た時には
座席から飛び上がるかと思いました。

メフィストフェレスを歌ったアブドラザコフ。
彼はいい人なんだろうな(って実際のところは知りませんが。)と思わせるような、
温かみのある声で、レパートリーによっては魅力的だと思うのですが、
ことこのメフィストフェレスに関して言うと、少しキャラ違いな印象を持ちます。
どう聴いても、最後にファウストを地獄に突き落とすような雰囲気にはとても感じられません。
『ルチア』のライモンドの延長線上にあるようなメフィストフェレスです。
丁寧に歌っているし、しっかり役の準備をしてきたのは伝わってくるのですが、
努力だけではどうにもならないことがある、ということなのかもしれません。
昨シーズンのレリエーの、バリバリした迫力ある低音と、
頭脳ゲーム的にファウストを陥れる、あの冷たい感じが懐かしい。

というわけで、昨シーズンほどにはどんぴしゃじゃないキャスティングではありますが、
それぞれの歌手が勤勉ですし、致命的というほどではありません。
致命的なのはジェームズ・コンロンの指揮です。

というか、彼はこの作品をきちんと勉強して振っているんでしょうか?
とてもそのように感じられません。
指揮振りだけは異様に大きく、本人は盛り上がっているみたいなんですが、
個々では魅力的なサウンドを出せているそれぞれのセクションを、きちんとまとめあげるということが全く出来ていない。
全く格好悪いです。
今日のリハーサルを聴く限り、とても単純なことが、極少ないセクションの間で行われている間はそうでもないのですが、
たくさんのセクションが絡み、構造が複雑になると彼はすぐに崩壊を来たすようで、
肝心な指示が抜け落ちるので、それぞれのセクションが手探りで音を出している状態で、
まるで各セクション、それどころか、各楽器単位が、別個に演奏しているみたいです。
昨シーズン、あんなに一体となって全ての奏者が息が合った演奏を聴かせていた同じオケとは思えない、、。
これまで、レヴァインの指揮に、深みがない、面白みに欠ける、という批判を寄せる人が多いけれども、
深みや面白さどころか、最低限、きちんとオケに作品を演奏させられる指揮者すら少ない、という
指摘をずっとこのブログでして来ましたが、まさにこのコンロンのような指揮のことを私は言っていたのです。
深み、面白さ云々のレベル以前に、この作品のきちんとした演奏を提示できていない。

レヴァインはこの作品が好きだ、と公言しているだけあって、
大事にしなければいけない瞬間というのを本当によく心得ています。
例えばハンガリアン・マーチ(別名 ラデツキー行進曲)の頭にトランペットが高らかに鳴り響き、
やがて他の楽器が入って来ますが、
レヴァインの指揮で聴いた公演では、他の楽器が入ってくる前に、
一瞬(本当に何分の一秒という長さですが)、トランペットの最後の音の僅かな残響をオペラハウスに遊ばせる間みたいなのがあって、
あの美しい残響が耳にこびりついています。
この”間”をまったく理解していないのがコンロンです。
せわしなく、トランペットの音が消えるのも早々にどかどかと他の楽器をのせて来たときにはがっかりしましたし、
一時が万事こんな調子で、とにかくどったんばったんと不器用に音が鳴るばかりで、
この作品のオーケストレーションから感じるべき、はっとさせられるような美しい瞬間というものが皆無です。

また、このリハ中にたびたびリズムが砕けるというのか、
まるで道端の石ころに毛躓いたたような雰囲気になった個所がありましたが、あれは何なんでしょうか?

昨年、あれほど時間が立つのが早く思えたこの作品が、
レヴァインではないもう一人のジミー(・コンロン)の手にかかると、
これほどまでに、長く退屈に感じるとは、、。
はっきり言って、この公演で、一番準備が出来ていない人はコンロンなんじゃないかと思います。
ヴァルガス、ボロディナ、アブドラザコフが昨シーズンのキャストより物足りない感じがするのも、
実はこの男の仕業なのかもしれません。
今年も出来れば同じレヴァインの指揮で歌わせてあげてほしかった、、。
それでこそ、観客も純粋にキャスティングの違いから来る雰囲気の差を感じることが出来るわけで、
今の状態ではあまりに指揮が足をひっぱっていて、単純に昨年の公演と比べることが罪に思えてきます。

そんなことを考えながら苦々しい気持ちになっているMadokakipをよそに、
子供たちは第三部、第四部とすすむうちに、ますますストーリーに引き込まれ大フィーバー。
ファウストが地獄に落とされ、男声合唱がエピローグの”そして地獄は静まった~ああ、なんと恐ろしい”の部分を歌い終えると、
普通ならここで天国の場面に移る前に、沈黙があって、それが素晴らしい効果をあげるのですが、
ここで、キッズから、”うぎゃーっ!!!”、ピーッ!(口笛らしい)の猛歓声。
まだ終わってないんですよっ!まだ!!死んで終わり!じゃないの!

キッズの歓声に最高の瞬間が台無しにされつつも、舞台は天国に。
確かグラハムの時は片足ずつ上の段に足をかけて、するするする、、と
梯子を上っていってしまったようなイメージがあるのですが、
ボロディナは体が重たいのか、高所恐怖症なのか、よっこらせ、よっこらせ、と、
残った足を必ず先に上に上がった足の横に沿えるため、一段昇るのに二拍ある感じで、
これはちょっと野暮ったい。
天国に上って行くのだから、もうちょっとすーっと上がっていってほしいものです。

地獄に落ちて騒いだなら、天国に上った後も騒いで置かにゃ、と、ここでもまたキッズのすごい歓声。

カーテン・コールでまずアブドラザコフが出てきたときに、
”うおーっ!!”という物凄い雄たけびが飛んだので、
やっぱりキッズには悪魔が人気なのだわ、わかりやすいものね、と微笑ましい気持ちでいると、
次にボロディナが出てきてさらに大きな歓声。ええっ!!!???
そして、最後のヴァルガスにはさらにパワーアップしたオペラハウス中を包む大歓声に、
この3人がまるでロック・スターか何かか、と錯覚しそうになったほどです。
これには3人も顔を見合わせて照れながらも、かなり嬉しそう。
確かに、やたら平均年齢の高いヘッズが観客に多い一般の公演では、こんな黄色い歓声を聞くことはないですから。

しかし、メフィストフェレスはビジュアル的にもキッズに受けること間違いなしのキャラですが、
それ以上の歓声と拍手がボロディナとヴァルガスに向けられたのは意外でした。
ちびっ子といえど、やはり何か彼らの歌うパートに心を揺さぶられるものがあったのでしょう。


Ramon Vargas (Faust)
Olga Borodina (Marguerite)
Ildar Abdrazakov (Mephistopheles)
Patrick Carfizzi (Brander)
Conductor: James Conlon
Production: Robert Lepage
Associate Director: Neilson Vignola
Set Design: Carl Fillion
Costume Design: Karin Erskine
Lighting Design: Sonoyo Nishikawa
Interactive Video Design: Holger Forterer
Image Design: Boris Firquet
Choreography: Johanne Madore, Alain Gauthier
ON

*** ベルリオーズ ファウストの劫罰 Berlioz La Damnation de Faust ***

DER ROSENKAVALIER (Fri, Oct 16, 2009) 後編

2009-10-16 | メトロポリタン・オペラ
 感想でふれている場面により合った写真があがってきましたので、前編・後編ともに入れ替えました 


前編より続く>

一幕が終わって、休憩に立つため、同じ列の女性の前を通り過ぎようと、
”ちょっと失礼します”と言って、目を合わせたら、なんとその方の目から涙が滝のように流れ出ていて、
手にはくちゃくちゃになったティッシュが握られていました。
マルシャリンのモノローグの場面で、もうすっかり堤防決壊されたようです。
一幕からこんなだったら、三幕なんて大変なことになってしまうのでは??
周りの観客も彼女の様子に気付いて、みんな優しいんですね、
”わかるよ、わかるよ。””思う存分お泣きなさい。”という声がかかるなか、
”もう、歳なのかしら、自分のこれまでのこととか思うと(何があったんだ?!)、
こみ上げて来て、こみ上げて来て、、。”と照れ笑いなさるその女性。
そうか、、、私はまだまだひよっ子だから、一幕ではまだうるっと来る程度なんだわ、、。
ある男性の、ティッシュは十分持っている?少し差し上げようか?という言葉に、
”いえ、今日はこんなことになると思ってたくさん持ってきたので。”と女性が答えると、
座席の通路を挟んだむこうのご夫婦の奥様の方が、”わたくしもよ!”と、
携帯用のティッシュをやおらバッグから取り出し、両手の指の間にはさんで高々と持ち上げるポーズ。
数えたら、4袋も! みなさん、一体どれだけ涙するつもりなのか!
でも、こういう年配のファンの方の、作品を愛して、観ているうちに泣いてしまったりする気持ち、本当に素敵です。
私ももう少し歳をとったときには、この作品で周りを顧みないくらい泣いてみたい。


第二幕

10/13のシリウスの放送で歌声を聴いて、登場を楽しみにしていたゾフィー役のミア・ペルション。
(カタカナはシリウスでのマーガレットの発音に基づいて表記しています。)
思っていたよりは声のサイズが小さめで、ややドライで硬い声質です。
そのせいで、この幕から三幕にかけて、特に掛け合う相手がグラハムやフレミングの場合、
彼女たちは二人とも割りとリッチでまろやかな感じのする声質なので、
個所によっては少し歌い負けして感じる部分もあります。

けれども、私は彼女のゾフィーが嫌いではありません。いや、むしろ、積極的に面白いと思いました。
なぜなら、ぽよよんとしたブルジョワのお嬢とは違い、
彼女のゾフィーは、自立心旺盛で、頭がまわり、ちょっぴりおきゃんで、
とてもしっかりした、ほとんど気の強い感じがする位だからで、
活発で男の子らしい感じのするグラハムのオクタヴィアンともいい相性です。

三幕のフレミングのマルシャリンの演じ方とも関わって来るので後にもふれますが、
彼女のゾフィーを見ていると、決してゾフィーが可憐さだけで幸運を掴んだわけではなく、
自分の嫌なことは嫌!と運命にも堂々と刃向かう強さで、
自らの力で、オクタヴィアンの心を決定的に掴んだように見えます。



たった一箇所だけ、私がこの演出で違和感があった個所をあげるなら、
この二幕のオクタヴィアンとゾフィーが初めて出会う場面で、
オクタヴィアンがMir ist die Ehre widerfahren 私にまかされた誉れの役として、、”と歌い始める時には、
すでに二人が目を合わせた後で、すっかり恋に落ちている様子が音楽に描写されていると私は思うのですが、
なぜか、しばらく二人とも正面、つまり客席の方を向いたままで、
オクタヴィアンが口上を歌い終わって、ゾフィーにばらを受け渡す時点になって、
初めて向き合い、”おお!!!なんと素敵な人なんだ!”と
互いに驚く演技付けになっており、音楽と完全には沿っていないように感じるうえ、
その時点まで互いの顔を全く見ないというのは、ちょっぴり不自然に感じます。

ただ、歌唱面では、ペルションの高音は、先に書いたような性質はあるものの、しっかりしていて、
高音をクレシェンドする時のコントロールも上手く、二重唱は大変美しかったです。



先だって『フィガロの結婚』の感想を書いた際に、マルチェッリーナ役のウェンディ・ホワイトの怪演について触れ、
彼女は今シーズン6演目に登場する予定、と書きましたが、早速のもう一本がこの『ばらの騎士』で、
胡散臭い(でも最後にはおそらく金につられてオクタヴィアン派になるわけですが)イタリア人コンビ、
ヴァルツァッキとアンニーナのアンニーナを歌い演じています。
私は彼女の声が結構好きなんですが、彼女はメトではほとんど脇専門なので、
主役キャストと違って、わざわざ彼女の登場日に合わせて公演を見るということはさすがにできないのですが、
私の場合、舞台に出てくるまで、または最初のインターミッションにプレイビルを広げるまで、
誰が脇役を歌うか知らない、という場合も多く、
”へー、今日はいい声の歌手が脇に入っているな。”と思うと、彼女だった、という例が多いのです。
ちなみに、今日もそうでした。
彼女が素晴らしいのは、同じ道化師的な役回りでも、『フィガロ』の時とこの『ばらの騎士』では、
全く違う風に歌い・演じ分けていることで、同じコミカルな脇役でも作品に合わせていくつも引き出しがある人です。
こういう歌手が脇に入っていると、主役陣も安心して歌えるというものです。



ファニナルを歌ったケテルセンは2006-7年シーズンの『マイスタージンガー』でベックメッサーを歌っていた歌手で、
堅実に歌ってはいますが、少しポイントポイントの表現が弱い感じがします。
特に一番大切な、三幕の、マルシャリンのJa, jaの前の、
”若い人たちはこういうもんかね。”が、さらりと流れてしまうのが残念です。
この言葉は、ファニナルが、おそらくはマルシャリンとオクタヴィアンの関係がどういうものだったか勘付いているのに、
あえて彼女のために、また自分の家運と娘の幸せのために素知らぬ振りをして、
マルシャリンを慰める言葉でもあるわけで、その辺の何層にも重なった色々な気持ちを表現して欲しいのですが。
オックスよりは若干物腰がスマートでも、大して根本は変わらない
成金精神丸出しの性格を描写するシーンはまあまあなだけに、この大事な場面の薄さが痛いです。


第三幕

グラハムの演技がなかなかはじけているいかがわしい居酒屋(兼ラブホ)の場面。
優雅な二幕のオクタヴィアンからめりはりをつけた切り替えが上手いです。
オクタヴィアンがマルシャリンのにせ女中マリアンデルに化けて、
”だめ、だめ、だめ、だめ。あたしは飲めないの。”と歌う有名なNein, nein, nein, neinの部分は、
”女性歌手(グラハム)が(マリアンデルに)女装している男性(オクタヴィアン)”を演じるという、
非常にねじれた難しいシーンですが、グラハムは思いっきり声音を変え、
頭の回転がにぶそうなかっぺの女中になりきって、笑わせてくれます。
全幕中、演技の面では、彼女が一番生き生きとしている場面かもしれません。
こんなところがあったんですね、グラハム、、イメージが変わりました。

比較的小さな役ですが、警部役のバス・バリトン、ジェレミー・ギャリオンは、
若々しさを感じさせながらも深くてしっかりした声で、舞台姿も美しく、印象に残りました。
彼はそういえば、昨シーズンの『夢遊病の女』にアレッシオ役で出演していて、
その時もなかなかいい声だな、と思った記憶があります。

ゾフィーと婚約中の身でありながら、マリアンデルに手を出したオックスの悪事をファニナルに暴いたその時、
オクタヴィアンが計画していた以外のことが起こってしまう、、
それは、マルシャリンがその場にやって来てしまう、ということなのですが、
ここでいかがわしい酒場が一瞬にしてマルシャリンの高貴さに呑み込まれるような感じが出せてなんぼ、
とよく言われますが、フレミングはそれを見事にやってのけています。



オックスへの、ファニナルへの、そしてオクタヴィアンへの、
あなたのような男性たちが私達女性を傷付ける、とそっとなじっているような雰囲気
(しかし決して怒ると言うような無粋なことにはなっていない)。
それから、オクタヴィアンが、マルシャリンからは”ゾフィーのところに行きなさい”、
また、ゾフィーには”マルシャリンのところに戻るべきなのでは?”と両方から拒否され、
どっちつかずになる一瞬、そのほんの一瞬にフレミングが浮かべる、
”もしかしたら私を選んでくれるのでは?オクタヴィアン、どうか、私を選んで!”という表情。
でもその後で、オクタヴィアンが”私はあなたを離さない”とゾフィーの手をとった瞬間に、
とうとうオクタヴィアンとの別れという来る時が来てしまったのだ、
自分の望みは消えたのだ、というあきらめ。
そして、自分は元帥と結婚した時、自分にとって幸せでない運命を受け入れたのに引き換え、
このゾフィーという子のガッツはどうだろう?
彼女は彼女の欲しいものを手に入れるにふさわしい子だ、
今の自分と違う人生があるかもしれない、という望みはこの子に賭けよう、
だから私はオクタヴィアンをあきらめる、という慈しみの感情。
(そう、彼女なら、本当にオクタヴィアンを離したくなければ、簡単にそうすることが出来るのです。
だから、バーデンの公演のようにマルシャリンがゾフィーに嫉妬を感じるなんて、辻褄が合わない。)
こういった何層にも重なった感情が全部全部フレミングの歌と演技に表現されているのです。
本当に素晴らしいです。

そうして、いつまでたっても二人の間に挟まって身動きがとれないでいるオクタヴィアンの代わりに、
ゾフィーの側に行き、”あなたのお顔色のわるいのは、このいとこが療法を知っていましょう”と、
そっと二人の背中を押してやるマルシャリン。
ここならひよっ子の私でも泣ける。

しかし、この後がまたすごかった。
オクタヴィアンが”マリー・テレーズ、あなたはなんというよい人だ。僕は何と言ってよいか”と言うと、
マルシャリンの”私も判らない、ちっとも判らない Ich weiss auch nix. Gar nix."と言う言葉を
フレミングがほとんど半べそを書くように感情を込めて歌うのです。
今まで冷静だったマルシャリンが初めて自分の気持ちの動揺を見せる本当にせつない瞬間で、
私はここで、どーっ!(涙です、もちろん)と来ました。
マルシャリンは一幕で、オクタヴィアンとの別れが来ることについて、
”軽い気持ちで、そして軽い手で、受取り、支え、そして逃がしてやる、、それの出来ない人には罰がくだります。
Leicht muss man sein, mit leichtem Herz und leichten Handen halten und nehmen, halten und lassen..
Die nicht so sind, die straft das Leben"と言っていますが、
それを言った張本人の彼女が、そうしようともがき苦しみ、二人の背中を押してしまった後でも、
本当にそれが自分のしたいことだったのか、すべきだったことなのか、わからないままでいる。
どんなに達観したつもりになっても、心が痛むのを止めることは出来ない。それが人というものです。



そして、このマルシャリンの言葉のすぐ後に始まるのが、
先日のシリウスの放送の感想でYou Tubeの音源をあげた”マリー・テレーズ Marie Theres'!
~ 私が誓ったことは彼を正しい仕方で愛することでした Hab' mir's gelob, Ihn lieb zu haben in der richtigen Weis'”
いわゆるマルシャリン、オクタヴィアン、ゾフィーの三重唱
(後半の”夢なのでしょう Ist ein Traum”からは二重唱)の部分で、
ここからエンディングまで、この世のものとは思えぬ音楽が続きます。
ここの歌詞は本当に美しく、またせつなく、ところが3人が同時進行で全く別の言葉を喋っていくので、
HDの字幕で多分全部を追うのは無理だと思われ、ぜひ、事前にこの三重唱だけでも、
全部の歌詞を読まれていくことをおすすめします。

三重唱でのフレミングがこれまた見事で、オケが鳴り響いても、
その上を、美しいクリーミーでリッチな響きを保ったまま、
絶妙の音量で客席に声を届かせてくるのには本当にびっくりしました。
グラハムは普段から声量がある人ですが、その彼女と全く対等に引き合っているのですから、すごいです。
二重唱になった後は、グラハムがきちんと歌のベースをとってくれるので、
ペルションがとても歌いやすそうにしているのも印象的でした。
彼女はこの二人に混じると、やっぱり迫力負けしてしまいますが、
先輩に胸を預けて健闘する、今のアプローチでいいと思います。

二重唱の途中に、例のファニナルの”若い人たちはこういうもんかね。”に続く、
マルシャリンの”Ja, ja. そうですとも”という歌詞があるのですが
(前述You Tubeの二つ目の音源の2'15"から2'33"あたりです)、
このJa, jaも、マルシャリンを歌うソプラノの力と役に対する解釈の仕方が現れる決めの部分として、
ヘッズが耳を澄ます部分です。
フレミングは、”私も判らない、ちっとも判らない”という言葉に
すごく重心を置いて今回のメトでの公演を歌い演じているのは先に書いた通りで、
Ja, jaもそれをきちんと反映したものになっています。
そこには、”これでよかったのかしら?よかったのよね。”と自分に呟くような寂しさに溢れています。



ファニナルに付き添われ先にマルシャリンが退場した後、
二人っきりで一緒になれた幸せをかみしめながら、キスと抱擁を交わし、
喜びではじけるように後に続いて出て行くオクタヴィアンとゾフィー。
そして、床に落ちたハンカチを探して戻ってきたモハメッドが駆け出して行って幕。
リブレットのト書き通りの演出で、なんともいえない余韻を残して終わっていきます。

フレミングとグラハムが今日のように歌ってくれるなら、この作品、
今シーズンのHDでもっとも見応え・聴き応えのある演目になるかもしれません。
特に今までフレミングの良さが今ひとつわからない、と感じている方にこそおすすめしたいです。
音楽での3人のハーモニーもさることながら、演出など、すべてが調和した素晴らしい公演でした。 

Susan Graham (Octavian)
Renee Fleming (Princess von Werdenberg)
Kristinn Sigmundsson (Baron Ochs)
Miah Persson (Sophie)
Hans-Joachim Ketelsen (Faninal)
Wendy White (Annina)
Rodell Rosel (Valzacchi)
Ramon Vargas (Italian Singer)
Jennifer Check (Marianne)
Nicholas Crawford (Mohammed)
Bernard Fitch (Princess' Major-domo)
Belinda Oswald/Lee Hamilton/Patricia Steiner (Three noble orphans)
Charlotte Philley (Milliner)
Kurt Phinney (Animal Vendor)
Sam Meredith (Hairdresser)
James Courtney (Notary)
Stephen Paynter (Leopold)
Craig Montgomery/Kenneth Floyd/Marty Singleton/Robert Maher (Lackeys and waiters)
Ronald Naldi (Faninal's Major-domo)
Tony Stevenson (Innkeeper)
Jeremy Galyon (Police Commissioner)
Ellen Lang (Widow)
Conductor: Edo de Waart
Production: Nathaniel Merrill
Set and Costume design: Robert O'Hearn
Stage direction: Robin Guarino
Grand Tier C Odd
OFF

*** R. シュトラウス ばらの騎士 R. Strauss Der Rosenkavalier ***

DER ROSENKAVALIER (Fri, Oct 16, 2009) 前編

2009-10-16 | メトロポリタン・オペラ
さて、何から書けばいいのでしょう、、?

複雑で、繊細で、一筋縄で行かなくて、
だけど、一定の年齢に達した人なら誰でも理解できるこのほろ苦い感情を
信じられない位美しい音楽と物語構成の巧みさで表現したこの作品。
私が『ばらの騎士』の舞台に願うことは、ただ、ただ、それをその通り描き出してほしい、
観終わった後に、シュトラウスの作品を鑑賞した、と心から感じさせて欲しい、それだけです。

先日のエントリーでご紹介したバーデン・バーデンの2009年1月の公演のDVD
(ティーレマン指揮 ミュンヘン・フィル、フレミング/コッホ/ダムロー/ホーラタ/カウフマン)の
ヴェルニッケのプロダクションなどは”さわりすぎ””解釈し過ぎ”です。
実は、メトのHDの『ばらの騎士』をご覧になる予定の方には、このDVDを先に観て頂きたい気持ちがあって、
というのは、共演者にそれなりの実力があって、歌唱面が悪くなくても、
プロダクション如何で、いかにこの作品の本当の良さが損なわれてしまうか、
ということを体験するのにもってこいだからです。
そんな反面教師的映像にお金をつぎ込むのも変な話ではあるのですが。

このDVDとメトの公演両方にフレミングが元帥夫人(マルシャリン)役で出演していますが、
DVDの方のマルシャリンは、まるで自分が老いて行くことへの恐れを、
若い男性との恋愛でまぎらす有閑マダムみたいでげんなりします。
そして、ボーナス映像としてついてくるインタビューでダムローが語っていることからして、
これは演出家の指示なんでしょうが、マルシャリンは心のどこかで最後までオクタヴィアンをめぐって
ゾフィーと張り合い、負けて散っていくおばん、みたいな感じで描かれています。
最後の、”若い人たちはこういうもんかね? Sind hald aso, die jungen Leut'!"という
ファニナルの言葉に対するマルシャリンの”そうですとも Ja, ja.”のフレミングのバーデンでの歌い方に、
悔しさがじわーっと溢れているのを聴くと、なんだか、マルシャリン、こわい、、と思ってしまう私です。

私が思うマルシャリンのあるべき姿とは、そんな風に簡単に観客が”彼女はこう思っている!”と
言い当てられるものではなくて、もっと複雑で、色々な感情のニュアンスが溢れていて
本人も自分の気持ちをこれ!とは言えない感じ、これが大事です。
オクタヴィアンとゾフィーの為に、オクタヴィアンとの恋愛関係から身を引くマルシャリンに、
”マリー・テレーズ、あなたはなんというよい人だ。僕はなんと言ってよいか、、”とオクタヴィアンが歌うと、
結局、マルシャリンは”私もわからない、ちっともわからない Ich weiss auch nix. Gar nix."と歌うのですから。
これこそ、マルシャリンが歌う中でももっとも大事な個所の一つで、
今日の公演でのフレミングのこの部分の歌唱は、万感の思いに溢れていて、鳥肌が立ちました。

そのメトの公演の演出は過去40年にわたって舞台にのって来た超クラシックと言える演出で、
2001年のメトの引越し公演で日本にも持って行ったことがあるので、ご覧になった方も多いかと思います。
そして、奇しくも、その時の公演も、フレミングがマルシャリン、グラハムがオクタヴィアンでした。
(ちなみにゾフィーはハイディ・グラント・マーフィーでした。)
ついでに言うと、歌手役までもヴァルガスで、一体この9年間、
オペラの世界は時間が止まってしまってでもいたのか?と思うほどです。
(そして、オックスはバーデンで歌っているのと同じホーラタです、、。)

実はその引越し公演の直前、2000年にメトの舞台でマルシャリンを歌って以来、
フレミングは一度もメトで同役を歌っていません。
なので今回は9年ぶりに、メトでのマルシャリンとして、カムバックしたわけですが、
2000年当時の彼女のマルシャリンには、”見た目は綺麗だけど、かなり空っぽな感じ”という評があって、心底驚きます。
なぜなら、今日の彼女のマルシャリンを観た後では、とてもそんなことが信じられないほど、
ニュアンスに富んだ歌と、実に細かい繊細な演技を見せていて、
彼女がこの9年でいかに同役を深く把握するようになったかがわかるからです。
というか、実際、今の彼女は年齢から来る雰囲気、容色、歌唱力のバランスが、
今、このマルシャリン役を歌うのには絶妙な時期にあって、ですから、来日公演で彼女のマルシャリンを観て、
”ああ、あれね。いいよ、別に見なくても。大したことなかったから。”と思っている人にこそ、
1月のHDの上映を観て頂きたい、と強く思います。
というか、デッカはバーデン・バーデンの公演なんかより、HDの映像を商品化するべきでした、絶対に。
なぜなら、バーデンの演出は、せっかく現在の彼女が歌い出せるようになった、
この『ばらの騎士』の複雑で微妙なニュアンスを殺してしまう演出だからで、
逆にメトの演出は、それを生かしきっているからで、ここまでクラシカルな演出は、逆に味です。
序奏の部分ではきちんと幕を落としたままでオケの演奏に集中させてくれるところや、
各幕の最後で幕を降ろしていく時のゆっくりさなど、
特に一幕の最後なんて、その幕の動きまで物語とシンクロしていて、
レトロさゆえの素敵さも満喫しました。

結論を言うと、夜の12時15分頃にオペラハウスを出て家路につきながらこう思ったわけです。
歌と演技(特に女性陣)、作品の内容を全く損なわず、音楽に物語をきちんと語らせた演出、
そして、最近のシュトラウス作品の演奏の中ではダントツでまともなオケ、、
ああ、やっぱりシュトラウスの作品は最高だー!


第一幕

今日の公演は、私の周りでは、観客に目立って私より少し上の世代以上のご夫婦が多く、
開演前からリング・サイクルの上演時ともやや共通するすごい熱気に溢れていて、
『ばらの騎士』への人気と今日のキャストへの期待が伺いしれます。
確かに自分の経験から言っても、この作品はある程度、観る側の年齢とか人生経験が関係があるように感じます。
20代の初めくらいまでは私も『ばらの騎士』が、正直言って、退屈で退屈でたまらなくて、
生鑑賞で睡魔から記憶がしばらく飛んだことがある唯一の演目が、その当時観たこの作品なのです。恥ずかしい。
今なら『ばらの騎士』のどの部分の音楽を聴くだけでも、
胸がぎゅっ!と来るくらいなので、絶対ありえないことですが、
でもまだまだこの演目は聴く度、観る度に新しい感覚を引き出されることが多くて、
私の場合は、この歳になって、この作品の良さとすごさを
きちんと感じられる入り口にやっと立ったくらいの、ひよっ子です。

先にオケはまとも、と書きましたが、贅沢な話をするなら、
もう少し音に爆発力、また陰影とか微妙なカラーリングとかがあってもいいかな、と思います。
一幕の幕が開く前の、序奏の部分は、
オクタヴィアンとマルシャリンのベッドの上での様子を描写していて、
つまり金管が鳴る場面は、またもこのブログならではの下世話な表現で申し訳ありませんが、
オクタヴィアンが”行って”しまったことを表現しているわけですが、
テンポの設定などは良いものの、やや大人しめな果て方です。
まあ、このメトの公演は指揮がデ・ヴァールトで、70近いおじいなので仕方がないのかもしれませんが、
既出のDVDのティーレマンまで大人しいのはどういうことでしょう?彼は公演時、まだ50になる前だってのに。
淡白な人なんでしょうか。

今回何よりも強く感じたのは、キャスティングの賢明さで、
フレミング、グラハムとも、単体で若い相手役と組まされるとさすがに年齢が目立つと思いますが、
(観た目というよりも、むしろ歌唱の成熟度でそういう印象が生まれてしまうと思う。)
この二人が組んだことで、逆に互いの年齢やベテラン度が二倍になるよりは、
むしろ中和される感じがあったのは面白いことです。
二人はもうこれまで何度も舞台で共演したりしていて、親しいせいもあって、
幕が開いた瞬間のベッドの上での気心の知れた感じが本物なのもいいです。



グラハムのオクタヴィアンはとにかく元気一杯で無邪気そのもの。
今まで彼女に関してはドラマティックな役でしか実演の舞台で観たことがないように思うのですが、
彼女のコミカルな演技は、演じ方がチャップリン的というか、ちょっと古風な感じがするので、
観る人によっては、わざとらしく感じる人もいるかもしれませんが、
私はこういう演技の仕方、最近ナチュラル指向が多い中で新鮮に感じられるからか、結構好きなんです。
彼女のオクタヴィアンはとにかく元気一杯で、少年(17歳!)ゆえのナイーブさがまた初々しい。
グラハムは声そのものに美しさとか魅力があるかというと、
私個人的にはあまりそうは思わないのですが、彼女の優れたところは、
作品をきちんと自分の血肉にしているというか、歌が自然に溢れてくるように感じるところで、
それはオケの演奏をきちんと感じながら歌っているところにも現れています。




むしろ歌声の方で、こんなに魅力的な人だっけ?と思わされたのはフレミングの方で、
声のまろやかさ、リッチさ、どれをとっても私が今まで生で聴いた彼女の最高の歌唱であることに間違いなく、
イタリアものの一部のレパートリーでは気になって仕方がない独特の発声の癖がほとんど感じられないのが不思議です。
彼女はこの公演で、演技面で信じられないほどたくさんのことをなし得ているのですが、
それを差し引いて歌唱だけとっても優れた内容です。

グラハムは割といつもパワーのある歌声なので、それほど驚きはしないのですが、
フレミングが厚いオケがバックにのっても、絶妙の音量で、
美しい音色を損なわないで、その上に歌声をのせてくるのには本当に感嘆しました。



彼女の演技に関しては、本当にたくさん優れた個所があったので、
とても全部を書く事はできないのですが、思いつくままにいくつか挙げると、
まず、マルシャリンを完全無欠な素敵過ぎる女に仕立て上げたり、
逆にDVDのような嫉妬深い嫌な女になり下げたりしなかったことに私としては拍手を送りたいです。
一幕で彼女が置いたマルシャリンの基本トーンが素晴らしく、
特にオクタヴィアンに対する愛情の温度感とか、
髪結いの係りに言う”ヒポリットよ、今日、あなたは私をおばあちゃんにしてしまったのね。”
という台詞をきっかけにして、なだれのように心に入り込んでくる何者も永遠ではない、という不安感の表現、
それからついそれをオクタヴィアンにぶつけてしまう心理、、

そう、この”何者も永遠でない”という感覚こそ、マルシャリンを、そして私たち観客の心を揺さぶるもので、
老いの感覚というのは、その一面でしかありません。
だから、マルシャリンの年齢を強調した既述のDVDのような演出はちょっとピントがずれている、と私は感じます。
”何者も永遠でない”から、元帥は夫人を放りっ放しにして狩に明け暮れ、
”何者も永遠でない”その戯れのために、
平気でゾフィー(そしてそれはかつての元帥夫人自身でもある)のような女性の心を踏みにじる
オックスの無粋さが、マルシャリンは許せないのです。
そして、それはオックスが俗な人間だからだけでは決してなく、
オクタヴィアンのような優しさと洗練に溢れている青年でさえ、
いつかは”何者も永遠でない”から、マルシャリンのもとから去って行くだろうという予感と寂しさ。



ですから、彼女の心の虚ろさ、人生はなぜこうなのか?という気持ちは、
元帥にないがしろにされた時点から始まっていて、
もっと極端に言えば、彼女が本当に願っているのは元帥が愛情深い人間で、
今も自分を大事にしてくれることなのではないか、と私は思っています。
だから、オクタヴィアンとの逢瀬の間にも元帥の夢を見たり、
元帥に浮気の現場を押さえられるかも!と思った瞬間、異様に慌てたりするわけです。
なので、オクタヴィアンの情事にあまりにおぼれているマルシャリンというのも違和感があって、
むしろ、オクタヴィアンについては、”何者も永遠でない”ということを
もしかしたら反証してくれるかもしれない、
別れを予感しながらも、そんな存在として、はかない望みをかけているようにも見えます。
(この点については三幕でもふれたいと思います。)
フレミングとグラハムがこのあたりを実に巧みに演じていて、
オクタヴィアンが無邪気な風に”僕のことが心配で不安になったんでしょう?”と言えば言うほど、
マルシャリンの気持ちは全然違う、もっとプライベートな、
オクタヴィアンも誰も存在しない、時というものの中に迷い込んだ自分の世界にどんどん入っていってしまって、
その時に生まれる、この二人の間の距離感が実にせつないです。
その時点では、愛してる、愛してない、という二元論でしか物をみれないオクタヴィアンですから、無理もありません。
(物語の後ではきっとそうではなくなっているでしょうが。)
オクタヴィアンと出会って自分の年齢や時が気になり始めたのではない、
オクタヴィアンと出会う前から、マルシャリンは全然変わっていないのです。



フレミングがオクタヴィアンに”今はどうぞ、私の言うように行って頂戴。”という毅然とした姿に、
あえて召使や下々の者への命令であるような冷たいニュアンスを込めたのは秀逸で、
そこで、はっと自分と彼女の距離を理解して、かしこまった礼をしながら
去って行く演技にその気付きの気持ちを込めたグラハムの演技も上手いです。

この公演で若干残念なのは、女性陣のパワーに比して男性陣が弱いことで、
特にオックス男爵は『ばらの騎士』という作品の中で非常に大事な役割を与えられているのでなおさらです。
先にも書いた通り、あまりにこの役を下品かつ低俗に演じすぎると、
一連の出来事がオックスという人の性格から来る特異な事態として、普遍性を失ってしまい、
マルシャリンがついゾフィーに若い頃の自分を重ねてしまうという大事な部分からリアリティを奪ってしまいます。
適度に野蛮でありながら、根は憎めない、こういう人がたくさんいる&いたんだろう、と思わせないといけません。
また、あまりに老人老人しているのも問題で、マルシャリンが30代のせいぜい半ばくらいな感じの設定になっていて、
オックスはその彼女の従兄弟、ということであれば、60にもなろうかというような老人っぽい雰囲気はありえないと思います。
若い女の子好きの変態老人ではなくって、日本人男性にもしこたまいるように見受ける、
”女は若いほどいい!”と思っている30代なかばからせいぜい40歳くらいまでの男性。
自分の歳を考えなさいよ、と私のような同世代の女性に思われているけれど、
完全に現役枠の外ではない、この雰囲気が大事です。

野蛮さに関しては、今日歌ったジークムントソンは、許容範囲の下にはなんとかひっかかっています。
アイスランドの出身の彼は、演技の上手さはまあまあですし、
洗練されすぎていない適度な田舎さ加減があるものの、低俗すぎて目も当てられない、ということにはなっていません。
ただ、58歳という実年齢が見た目、演技、歌すべてに充満しているのは、これは考え物です。
特に歌の部分が問題で、声の張りのなさ、まともな音が出る音域の狭さが気になり、
低音域はまともに出ない(音が出て来ない)、高音域はシャローという二重苦です。
その上に見た目がおじいさんっぽいので、まさに上で書いた変態老人の域に達してしまう寸前です。
彼は、『ロミオとジュリエット』の神父役などでこれまで聴きましたが、
今日の歌を聴く限り、そういった脇役専門にこれから限って行った方がいいかもしれません。
オックスのような準主役は、ちょっと今の彼には声楽的に荷が重過ぎるように思います。

イタリア人歌手役のヴァルガスはテクニックがきっちりとしていて、
初日に、ん?と感じた出のフレーズのまずさが今日は完全に修復されていたのはさすがです。
ただ、2007-8年シーズンの『ラ・ボエーム』あたりからでしょうか?
彼の歌声の良さを特徴づけていた声のイーブンさ、均質感から来る美しさが損なわれているように感じるのですが、
今日の歌ではそれがものすごく進行した形のようになっていて、びっくりしました。
一つの音の中でも波を感じるほどです。
(音の高さは均一なのですが、音色が浅くなったり深くなったりするのです。)
たまたま今日が不調であっただけなら良いのですが、、。
少し高音で音がつっかえた感じもあったので、コンディションが良くなかった可能性もあります。

そうそう、もう一つ、モハメッドという名前の黒人の男の子が、要所要所に出てきますが、
この役で、実際に黒人の男の子を使うことをこわがる演出も私は嫌いです。
人種の問題から、抵抗を恐れてのことなんでしょうか?
またまた引き合いに出してなんですが、バーデンのように、黒い仮面をつけた大人が出てくるなんて、問題外です。
このメトの演出では、きちんと黒人の男の子が出て来ますが、この子の可愛さといったら!
HDも絶対このニコラス君で行ってほしいと思います。
NYで人種差別的な表現があったらそれこそ大問題ですが、
この演出では、この少年に実にユーモラスな演技付けをすることで、
黒人の少年だからおかしい、と言うよりは、どんな人種の子が演じても微笑ましいというレベルに持っていったことで、
馬鹿げた人種差別論をかわしてしまう勢いなのは見事です。
とはいえ、観客にはほとんど黒人がいないので、どのようにこれが彼らに受け取られるかはわかりませんが。
一幕でチョコレートを持って出て来るシーン、
それから三幕の最後で、マルシャリンに言いつけられてゾフィーが落としたハンカチを拾いに来るシーン、
(この子が部屋から走り出して行く姿で公演の幕が降りる、という大事なシーンです。)
黒人の子だけに出せる躍動感がとても効いていると思いました。

<第二幕と第三幕は後編に続く>


Susan Graham (Octavian)
Renee Fleming (Princess von Werdenberg)
Kristinn Sigmundsson (Baron Ochs)
Miah Persson (Sophie)
Hans-Joachim Ketelsen (Faninal)
Wendy White (Annina)
Rodell Rosel (Valzacchi)
Ramon Vargas (Italian Singer)
Jennifer Check (Marianne)
Nicholas Crawford (Mohammed)
Bernard Fitch (Princess' Major-domo)
Belinda Oswald/Lee Hamilton/Patricia Steiner (Three noble orphans)
Charlotte Philley (Milliner)
Kurt Phinney (Animal Vendor)
Sam Meredith (Hairdresser)
James Courtney (Notary)
Stephen Paynter (Leopold)
Craig Montgomery/Kenneth Floyd/Marty Singleton/Robert Maher (Lackeys and waiters)
Ronald Naldi (Faninal's Major-domo)
Tony Stevenson (Innkeeper)
Jeremy Galyon (Police Commissioner)
Ellen Lang (Widow)
Conductor: Edo de Waart
Production: Nathaniel Merrill
Set and Costume design: Robert O'Hearn
Stage direction: Robin Guarino
Grand Tier C Odd
OFF

*** R. シュトラウス ばらの騎士 R. Strauss Der Rosenkavalier ***

Sirius: DER ROSENKAVALIER (Oct 13, 2009) + α

2009-10-13 | メト on Sirius
今、これを書いているのはNY時間の15日(木)です。
昨日、シリウスの『トスカ』の放送を聴いての感想と、
13日の『ばらの騎士』の放送についての感想を夜の2時ごろまでかかってまとめて、
ほとんど完成しかかっていた文章を一旦セーブしようと思ったら、
サーバーがダウンし、全部の文章がふっとびました。
頭から湯気を吹き出しながら、ふて寝に入ったことは言うまでもありません。
というわけで、これから出来るだけ元の文章をそのまま再現しようと思いますので、
24時間さかのぼって昨日(14日)のつもりで読んでいただけたらと思います。

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いろいろ話題をふりまいた『トスカ』もAキャストはいよいよ今週の土曜(17日)が最終公演で、
4月から始まるBキャストの公演がマッティラ/カウフマン/ターフェル(←しかしこのおっさんは
最後まで油断がなりません。HD代役拒否疑惑の過去がありますからね。)、
その直ぐ後に続くCキャストの公演はデッシ/ジョルダーニ/ガグニーゼとなっているので、
アルヴァレスは土曜の公演が今シーズンメトで最後のカヴァラドッシになります。
そんな中、HDでの緊張で抜け殻になってしまったのか、今日、シリウスで放送される
『トスカ』の公演から、マッティラが降板。
(ただし、これまで、人気歌手が長期に渡って主役を歌い、
特にその公演の一つがHDに入っている場合は、
HD以外の公演日のどれかで予告なしの当日発表の降板をする例が時々見られますので、
契約の中にそれを認める条項があるのかもしれません。
これまで、ゲオルギュー、ラセットらが似たような”ドタ降板”をしています。
逆に記憶にある限り、かなり長期の主演にもかかわらず、予定通り全ての公演をこなしている歌手としては、
フレミング、ネトレプコ、デッセイ、フローレスらの名前が浮かびます。)

というわけで、今日、代わりにトスカ役を歌うのは、マリア・ガヴリローワ。
どこかで聴いたことのある名前だな、と思ったら、以前、
ラセットの代役で蝶々さんを歌ったことのあるソプラノでした。
その蝶々さんでも全くぴんと来ない歌唱でしたが、今日のこのトスカはこりゃまた一体、、
いきなり最初の"Mario,Mario,Mario"で全部音が外れていてびっくり仰天です。
これはマッティラのピッチが狂っている、なんていうレベルの話ではなく、完全に音が外れている。
この部分だけで、地面が斜めにぐらつくような錯覚を覚えました。
私は基本、ゲルブ氏の”人気歌手の降板は人気歌手で埋める”作戦には反対で、
優秀な無名のカバーにどんどんチャンスを与えてほしいと思うし、
もし私が、オペラハウスであまり知られていない代役から素晴らしい歌を聴けたら、ものすごく嬉しくなると思いますが、
今日、どうしてメトはこんなカバーしか雇ってないんだろう、、?と疑問に思いました。
正直、ある程度オペラが好きで来ている観客が”メトの舞台で聴けるもの”としてのレベルに全く達していないと思いますし、
私がマッティラの歌を聴くつもりでこの『トスカ』の公演を大枚はたいて観に行って、
代わりにこんなものが出て来たら、文句の一つも言ってやりたくなるところです。
そのマッティラだって、トスカ役としてはすでに不満があるっていうのに。
まさか、これで、”ほら、だから有名歌手が代役の方がいいでしょ?”と、正当化するつもりなのか、、?
ゲルブ氏、やり方がせこい!!

ガブリローワはむしろ、高音域まで音が上がってしまうと欠点が解消し、
マッティラよりはトスカ向きの声が出ている音もあるのですが、
中~低音域での、ロシア系歌手のべたべたした歌い方が、体をむずむずと這い上がって来そうで、
聴いていて実に落ち着きません。
ひゃらひゃらとした妙な歌いまわしが気になる場所が散見され、
また、”おいくら?””おいくらとは?””(カヴァラドッシを解放するのに必要な)値段よ! Il prezzo!"
この部分は台詞のように言って、その”台詞の吐き方”で演技力を勝負するのが普通なんですが、
あろうことか、prezzoの最後のoを大伸ばしにした上、高い音を乗っけて来たのには目が点になりました。

イル・プレッツォ~~~ 

、、、こんな変わったil prezzo、聴いたことがありません。

そして、”歌に生き、恋に生き Vissi d'arte, vissi d'amore"。
一番最初のViをどういう風に入ってくるか、たった一瞬でその歌手のセンスや歌唱力がわかる部分で、
ここをすーっと自然に入って来れるソプラノはいいな、と思います。
このガヴリローワのように、うにょ~~っと入って来られると、もうそれだけで、
このアリアの半分は死んだようなものです。
マッティラはこの音を割と上手に歌うので、その差は歴然。
しかし、マッティラも手こずっていたperche, perche, Signore、
高音はましなんだから、ここはマッティラよりもきちんと歌って欲しいな、と思ったのですが、
最後のoの短いことと言ったら、、。
マッティラは最後に泣き崩れに入るのが嫌ですが、音の長さからいったら、
このガヴリローワはマッティラよりもずっと短く、
突然ぶちっ!とコードを抜いたような音の切れ方にがっくり。
このアリア、いつからこんなに難しく聴こえるようになったのでしょう、、?
いや、もちろん難しいんですが、従来はそれをきちんとこなせるソプラノだけがこの役を歌っていたと思うのですが、
最近はこの二人といい、LOC(シカゴ・リリック・オペラ)のオープニング・ナイトで、
びっくり仰天するようなひどい"Vissi d'arte"を聴かせたデボラ・ヴォイトといい、
一体どうなってるんだろう?と思います。
ヴォイトはメトで何度かこの役を歌うのを聴いたことがありますが、その時はまともに歌えていたのに、です。

そんなガヴリローワの横で、アルヴァレスとガグニーゼはひたすら自分の仕事をこなすことに専念していました。
好調な時のアルヴァレスが歌う”星は光りぬ E lucevan le stelle"の、
Oh, dolci baci, o languide carezzeの部分は繊細で本当に美しいので、
これからHDをご覧になる方はぜひ楽しみにして頂きたいと思います。
ガグニーゼも相変わらず丁寧に歌っていました。彼は顔を見ず、声だけ聴いていた方が、
声の美しさが立つような気がします。

と、今まで舞台に立って来た二人が落ち着いた歌唱を聴かせる横で、
溺れかけのトスカがいる、という不思議な公演でしたが、
これだけでは何なので、13日放送の『ばらの騎士』について少し。

13日はこの演目のシーズン初日の公演でした。
私は昨(2008-9年)シーズンのオープニング・ナイト”ルネ・フレミング・ワン・ウーマン・ショー”での

『カプリッチョ』抜粋
や、そのすぐ後に続いた全幕公演の『サロメ』(そういえばマッティラ主演!)で、
もしかすると、現在のメト・オケはR.シュトラウスの作品をあまり得意としていないのではないか?と
という恐ろしい疑惑を抱いたのですが、指揮がいずれもサマーズだったので彼のせいにしておこう、と思っていました。
ところが、去る3月の125周年記念ガラで演奏された『ばらの騎士』の抜粋が、
レヴァインの指揮でも半崩壊状態に陥っているのを聴いて、呆然としました。
ま、歌手陣の歌の方もその混沌にかなり貢献していましたが、、。

なので、レヴァインが振る予定になっていた今年の『ばらの騎士』もあまり期待していなかったのですが、
以前このブログでお知らせした通り、レヴァインが腰の手術で10月の『トスカ』および『ばらの騎士』から降板。
『ばらの騎士』の指揮に代役で急遽呼ばれたのがエド・デ・ヴァールトです。

そして、13日の公演は、これが思いがけなく良い出来で、
シュトラウスの音楽が大好きな私としては、どれほど安心し嬉しかったことか!!

というわけで、この13日の公演から、125周年ガラに演奏されてカオスを巻き起こしたのと全く同じ、
”マリー・テレーズ!Marie Theres'!~私が誓ったことは Hab' mir's gelobt"以降の部分の音源をご紹介します。
(一本に収まりきらなかったので、一本目が終わったら、すぐに二本目を再生してください。)
マルシャリンはルネ・フレミング、オクタヴィアンはスーザン・グラハム、ゾフィーはミア・ペルションです。







フレミングとグラハムについては安定した歌唱を期待できるとは思っていましたが、
今年がメト・デビューとなるゾフィー役のペルションの健闘ぶりに強い印象を受けました。
観た目もこの通りで、イメージにぴったりです(写真はサンフランシスコ・オペラの公演から。)



3人の声の相性、言葉に言葉がミル・フィーユのように絶妙に重なっていくこの美しさ、
女性陣はすごく良いと思います。
残念なのは、HDの収録日の1/9の公演ではペルションではなく、シェーファーがゾフィー役を歌うこと。
今日の放送を聴く限り、ペルションをゾフィーに持って来たほうが良いのではないかと思います。

それにオケ!125周年記念ガラのように、カオスしてなくて、本当にほっとしました。
HDの日の指揮も、レヴァインじゃなく、このままデ・ヴァールトでもいいかも、、。
『トスカ』に続いて降板かな。

この公演で歌唱面で若干足を引っ張っているのはオックス役のジグムンドスンでしょうか?
大事な役なんですけれども。

ここで音源は紹介しませんが、歌手役はラモン・ヴァルガス。
”固く武装せる胸もて Di rigori armato il seno contro amor mi ribellai"は
なかなか難しい曲で、
最近DVD ↓ で発売されたフレミング/コッホ/ダムローのミュンヘンでの公演で、
カウフマンも苦労している通りです。



ヴァルガスは久しぶりに声を聴いたように思うのですが、更に一層声が重くなったように感じました。
少し最初のヴァースの旋律の取りかたにもたもた感がありましたが、
高音をきちんと綺麗に歌っているのはさすがです。
残念と言えば、この歌手役も、HDの収録日はエリック・カトラーになってしまいます。
(カトラーはDVD化されたHDの『清教徒』でネトレプコの相手役をつとめているテノールです。)
全幕公演で、パヴァロッティがこの役を歌ったこともあるメトとしては、
あまりに面白みのないキャスティングではないでしょうか?
せっかくのHDなんですから、もうちょっと知名度と実力のある、
わくわく感を与えてくれるテノールを配してほしいものです。

『ばらの騎士』は明日(16日の金曜)が実演鑑賞。
今からとっても楽しみです。


TOSCA
Maria Gavrilova replacing Karita Mattila (Tosca)
Marcelo Alvarez (Cavaradossi)
George Gagnidze (Scarpia)
Paul Plishka (Sacristan)
David Pittsinger (Angelotti)
Joel Sorensen (Spoletta)
James Courtney (Sciarrone)
Keith Miller (Jailer)
Jonathan Makepeace (Shepherd)
Conductor: Joseph Colaneri
Production: Luc Bondy
Set design: Richard Peduzzi
Costume design: Milena Canonero
Lighting design: Max Keller
ON

DER ROSENKAVALIER
Renee Fleming (Marschallin)
Susan Graham (Octavian)
Miah Persson (Sophie)
Kristinn Sigmundsson (Baron Ochs)
Hans-Joachim Ketelsen (Faninal)
Ramon Vargas (A Singer)
Conductor: Edo de Waart
Production: Nathaniel Merrill
Set & Costume design: Robert O'Hearn
OFF

*** プッチーニ トスカ Puccini Tosca R. シュトラウス ばらの騎士 R. Strauss Der Rosenkavalier ***

TOSCA (Sat Mtn, Oct 10, 2009)

2009-10-10 | メトロポリタン・オペラ
注:この公演はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。


観客から特大のブーを喰らったあのオープニング・ナイトの『トスカ』から約一週間後に、
APが、ボンディの新演出に関して、マルセロ・アルヴァレスが語った言葉を扱ったニュースを配信しました。

この中で、アルヴァレスは同演出を car wreck=自動車事故に例え、
”道路のど真ん中で起こった交通事故みたいなもんだよ。
みんな、ああ、そんなの見たくないな、と口では言うが、血が流れるのは見たい、というね。”とコメントしています。
car wreckとかtrain wreckと言う言葉には、物事の事態がめちゃめちゃというニュアンスもあるため、
ユーモラスな表現でありながら、今回の演出への正面きった批判ともいえ、
まだまだ継続中の公演で(しかもライブ・イン・HDの前に!)
こういうコメントを主演歌手が出すというのは珍しいことなので、
彼の”car wreck発言”は主演歌手として許されることか、否か?と、
再びかしましく議論を戦わせるローカルのオペラファンたちなのでした。

アルヴァレスは、この演出を”明らかにアンチ・カトリック”と説明、
二幕のセットについては”ローマのファルネーゼ宮殿というよりは、ドイツの地下壕”と形容、
”二幕は、音楽に物語を語らせる変わりに、わけのわからないコンセプトやらに舞台を支配させたために、
プッチーニが書いた音楽と全く調和しなくなってしまった。”、
トスカがスカルピアを殺害後、スカルピアの周りに燭台と胸に十字架を置くというト書きに従う代わりに、
窓の外を見て飛び降りようかと躊躇した様子を見せた後、
やおらソファに戻ってきてアッタヴァンティ侯爵夫人の扇であおいで幕になる点については、
”このシーンを見ると、(ボンディが)目的もなく
ただ空白を埋めようとしてるんだな、ということがわかってしまう。
彼にはもともと、すごくたくさんのアイディアがあったのに。
本当にたくさんの、、、多分、みんなには想像がつかないほどの、、。”
(↑ と、ここで軽くボンディの才能についてフォローしているアルヴァレスですが、
実際、ボンディの過去の演出には優れたものもあるというヘッズも多いです。)
”演出家はブーをもらえばもらうほど、仕事が来る。
だから、彼らは、俺様のコンセプトをわからないのは観客の方の問題だ、と考えるようになるだけで、
ブーも特に気にしてないと思うよ。”など、
もう、このままアルヴァレスの言葉をもってこのまま私の感想も終了してしまおうか、と思うほど、
私の言いたいことを、がんがん本音で語ってくれてます。
また、アルヴァレスは『トスカ』が実在の建造物や場所で物語が進行していくのには、
作った側にそれなりのはっきりとした意図があるのであって、
それを無視した今回の演出のアプローチは特に問題だ、といいます。
”プッチーニはスコアをはっきりとした意図をもって書いているんだ。
こんなにはっきりとしているものを、無理に曖昧な形にしようとすれば、
結果がダークなものになってしまうのも無理ないよね。”
アルヴァレスさん、あなたのおっしゃる通りです。



今日の公演はもともと映画館でHD鑑賞する予定だったのですが、
スカルピアにはブリン・ターフェルが入るかも!という噂に、
普段はほとんど座ることのない平土間最前列のチケットまで張り切って購入したというのに、
どういうわけだか、配役変更の発表が前日になっても出てこない。
これは当日に”今日のスカルピアはブリン・ターフェルが歌うことになりました。”とぶちあげて、
観客を盛り上げるつもりだなー、とわくわくしながらこの日を待ってました。
オペラハウスに到着し、プレイビルを受け取る。配役変更の通知の紙片、なし。
キャスト表はスカルピア役=ガグニーゼのまま。

うーむ。もったいぶってるな、メト。
舞台開始直前に舞台でアナウンスする気なんだな。
すると、案の定、開演直前と思われる時間に、
マネジメントのスタッフが舞台端にマイクを持って現れました。
来たっ!!来たっ!!!
頭の中で”スカルピアは、ブリン・ターフェル”の声がこだましてます。
なのに、おじさんから出てきた言葉は、
”テクニカルな理由により、開演時間が10分遅れます。ご了承ください。”

え?????? ちょっと何?! それだけ?????
あなた、他に肝心なことをアナウンスするの、忘れてるわよーっ!!!

そして、10分後。
髭面のイカ(指揮者のコラネリ)がオケピットに予定通り登場し、客席から巻き起こる拍手。
ひゅるるるる、、、ブリンのスカルピアが消えていくぅ、、、。

ただ、賭けに敗れた負け惜しみに言うのではないのですが、
ターフェルが一時期、ガグニーゼの代役に名前が挙がっていたことは間違いがないと思います。
チエカさん自身、コメント欄の中で、マッティラ/アルヴァレス/ターフェルというスター・キャストだったなら、
という例えを出して、暗に例の問の答えはターフェルであったことをほのめかしていらっしゃいます。
ということは、さすがのターフェルもこの間抜けな演出には引いた、ということなのか、、?
アルヴァレスもcar wreck呼ばわりしたことだしな、って。
こうなってくると、もともと彼がキャスティングされている4月の公演の方まで、
本当に歌ってくれるのか、心配になってきました。

今日は舞台上手側に少し寄った真ん中の通路から二番目の座席で、HD用のカメラのすぐ側。
私は先にも書いた通り、もともと平土間席が全然好きでなく、滅多に座ることがないので、
HDでこんなにカメラの近くに座ったのは今回が初めてです。
カメラを設置するために、オケピットの壁を二箇所、上から下まで外してしまっているんですね。
初めて気付きました。
私の座っているところからだと、カメラの下の、そのぶち抜いた空間を通してオケの弦と木管セクションが丸見えです。
これはいい!!舞台が退屈だったらオケを眺めるという選択肢もできました。
それにしても、一番壁際に座っている弦セクションの女性の頭を舐めんばかりの位置にHD用のカメラはあって、
よくこんな邪魔にも耐えて演奏してくださるものだ、と感謝の念が湧いてきます。



演出をcar wreck呼ばわりしたアルヴァレスは、
そういうあんたの歌唱がcar wreck!と呼ばれないように気合が入ったか、
今までの公演と比べても、最高の歌唱を今日は聴かせてくれましたので、
これからHDをご覧になる方はご安心を!

最初から彼は本当に良く落ち着いていて、
特にしょっぱなの”妙なる調和 Recondita armonia”でイカの指揮との呼吸がぴったりなのは注目です。
これが会心の出来だったのが、今日の公演での彼の歌唱の全てを運命づけた気がします。
彼は最近聴く機会によっては声が若干荒れているように感じる時もあって、
オープニング・ナイトのコンディションは非常に良かったのに、
その後の公演で少しその気配があったので、少し心配していたのですが、
今日の公演に、今の彼のベストのコンディションを持ってきたのはさすがです。
アルヴァレス自身、この”妙なる調和”の出来は本当に嬉しかったみたいで、
そこからだいぶ経って、マッティラが舞台の端に寄っていく場面で、
カメラが彼女を追っているはずなので、自分は写っていないだろう、と判断したのでしょう、
舞台の真ん中でやおら前の方に出て来て、
両手を握り合わせて”やった!”というポーズを取った後、
指揮者を指差して”ありがとよ!”というジェスチャーまでしていましたから、
どれくらい嬉しかったかということがわかろうというものです。
はじめは、一体何の芝居だろう、これは、、?とぎょっとしましたが、あ、素に戻っているのね、とわかると、
ここまで喜ぶのも、なんだか微笑ましく感じて来ます。



アルヴァレスの絶好調ぶりと落ち着きとは対照的に、
緊張で大変なことになってしまっていたのがマッティラでした。
アルヴァレスがきちんと指揮を見ながら落ち着いて歌っているのに対し、
マッティラの方はその余裕が全くなく、緊張から、
イカの指揮よりも歌が前に前に行きたがっているのが手に取るようにわかります。
しかも、出てくるフレーズ、出て来るフレーズ、どれもピッチが微妙に狂っていて痛々しい。
アルヴァレスと一緒に歌うところでは、ほら、アルヴァレスの息に合わせたら、
ちゃんとイカとも合うから!とつい手に汗を握って聴いてしまいましたが、
そのアルヴァレスと合わせる余裕もないみたいですから、かなり舞い上がってしまっているようです。
ピッチが狂う問題は一幕の最後あたりでやっと少し落ち着いたかな、という感じで、
かなり長い間、苦闘の時間が続きました。
しかし、こんなことで、二幕のアリアは大丈夫なんだろうか、、。
後で聞いたところでは、開演が10分遅れたのは、なんと太陽の位置の関係で、
HDのトランスミッションが上手く行かず、太陽が動くのを待っていたそうです。
テクニカルな問題、というのは、本当のことだったんですね。
しかし、緊張している時の10分は長いでしょうから、マッティラはこの間、”くそ太陽が!”と罵っていたはずです。

体調不良のため、前のいくつかの公演を降板したガグニーゼも、
今日は万全のコンディションでのぞんでいて、歌唱の安定度では、
これまでで一番の出来だったと感じます。
ただ、彼の場合はそこが仇になる可能性があるというのか、
歌う度に感じるエネルギーが違う、というような部分が希薄で、
毎公演、金太郎飴のように歌唱と演技が同じになりがちなので、
同じ演目でもう1回彼を観たい!聴きたい!という風になかなかなりにくいのが、
問題といえば問題かもしれません。
ただ、歌唱は非常に丁寧で、変な癖がなく、大変聴きやすい歌唱ではあります。



二幕の冒頭、オープニング・ナイトでは保守的なパトロンの反発を恐れたか、
三人の娼婦が着衣状態でスカルピアに絡みついているシーンから始まったと記憶しているのですが、
今回はガグニーゼの取り巻きの娼婦の一人は、一幕のマグダラのマリアの絵と同様に、片胸出しでソファに座っています。
もう、やけっぱちですね、ボンディ。
ただ、彼女のポーズにマリアの絵との相似を強く感じるので、こちらが元々のアイディア通りなんだと思います。

この幕の前半では、私の店子友達(下の写真右端)がカヴァラドッシを拷問したり、牢屋に連れ去ったりと大活躍。
ここまで近くで顔の表情までよく見えると、知人の方を目が追ってしまって、
危うくアルヴァレスやガグニーゼが放置寸前になるところでした。



この幕の問題点については、すでにアルヴァレス先生が語っている通りなので、
いちいち私が繰り返すこともないのですが、今回、今までになくはっきり見えたのは、
”歌に生き、恋に生き Vissi d'arte, vissi d'amore"の途中で、
しょぼいサイドテーブル状のもの(娼婦といちゃいちゃし始める前、ここで夕食をとっていたらしい。)から、
トスカがナイフを持ち上げ、そのまま降ろす、という動作(下の写真)。
何ですか?これは、、? 
トスカは急にロボットにでもなったんでしょうか、、?
というのは、歌われている言葉とこのナイフを持ち上げ再びテーブルに置くという行為が、全然リンクしていないからなのです。
っていうか、このアリアの中に、ナイフとか、スカルピアを殺すこととか、
そういうことにつながる言葉や音楽って一つもないと思うんですけど、、。
しばしば、このアリアはドラマの流れを止める、と批判の的になりますが、私はそれでいい、と思います。
ここに、アリアの前と後ろのドラマにつながるような動作を入れようとすること自体に無理があるのです。

今日の彼女のperche, perche, Signoreの出来は、今までの公演の中ではましな部類に入ると思いますが、
あいかわらず音の終わりまでしっかり聴かせられないのを誤魔化すために
泣き崩れる演技をするのは辞めなさい、、と苦々しい思いで舞台を見つつ、
ふとオケの壁の隙間に視線を落とすと、奏者の中にも、目玉をまわして、
”やれやれ、またいつものパターンだよ、、”というような表情を作っている人が見えました。
皆さん、同じことを思ってるんですよね、、、やっぱり。
ただ、最初の幕をあれだけがちがちの緊張で始めたことを思うと、
よくこの程度にふみとどまったとは思います。



スカルピアを殺害する場面は、しかし、一つ、大きな変化があって、
ほとんど息を失いかけているスカルピアを二度刺しする場面が付け加えられました。
これは実に効果的で、今まで全く締まらない感じだったこの場面が、
たった一つ、この”もう一つの刺し”を入れるだけで、
ものすごく緊張感のある場面に変わり、この判断は大成功だったと思います。
ガグニーゼも、今日は割と綺麗に死んでくれました。
ただ、彼女は歌も演技も、のってくると、ついやり過ぎてしまう傾向があって、
ここも二度目を刺してMuori! Muori! Muori!と叫んだ後、沈黙に支配させた方がずっと効果が上がるのに、
最後のMuori!の後に、まるでネコ科の動物が他の動物を威嚇するかのように、
”シャーッ!”とヒスる音を出したのには、私のお隣の女性もまたそのまた向こうのHDのカメラマンも、
肩をひくひくさせて笑っていました。
どうしてこういう風にやり過ぎになっちゃうんでしょう、、彼女は。
それから、いつも、その後のE morto!の部分の入りが急いでいるように聴こえるのも気になります。

後、至近距離で見てわかったのは、この二幕でのスポレッタ役のソレンセンが、
実に細かい演技をしていて、かなり変質的で怖いこと。
ただ、この手の演技は遠目の座席から見た場合に、全部は伝わらないのが難点です。



二幕の後のインターミッションで、ヘッズのおじ様・おば様グループの会話に紛れこんでみたところ、
NYCO(ニューヨークシティオペラ)のトスカの演出の評価が高くて驚きました。
説明していただいたところでは、時は第二次世界大戦の頃で、
カヴァラドッシが銃殺されるシーンも、従来良く見られる演出および今回のボンディの演出のような、
銃殺隊によるものではなく、いきなり、シャローネだかロベルティだかが
つかつかとカヴァラドッシの側に歩いて行って、銃で頭を吹っ飛ばすという、迫力満点の演出だそうです。

このうち一人のおば様は、マッティラ贔屓で、しかもボンディの演出もそう悪くはない、とおっしゃるツワモノ。
二度刺しは効果的だった、という点では意見が一致しましたが、
”シャーッ!”というヒスりで、マッティラの演技力はさすがだ!と感じたそうですから、私とは感覚が違い過ぎます。
Vissi d'arteでナイフを持つところも天才的だと感じられたとか。ええっ??
ただスポレッタの怖さは再び同意。おばさまによると、”スカルピアよりもスポレッタの方が怖かったわ。”
それは確かに。



ラストの、トスカがサンタンジェロ城から飛び降りる場面は、
今回のHDのために、かなり綿密かつ慎重な打ち合わせをしたと見られ、
10/3のような失敗もなく、一応、演出チームが意図したとおりの身投げのシーンとなりました。

最前列に座った時の常で、オケの音がセクション毎に非常に分散して聴こえ、
また、オケ・ピットから出てオペラハウスの空間を飛ぼうとする間際の音しか聴こえないので、
音質的にまともな座席でどのように聴こえていたか、ちょっと想像するのが難しい部分もあるのですが、
指揮およびオケの演奏とも安定したものだったと思います。
HDということでやや慎重気味だったことと、イカが一生懸命マッティラにあわせようとしていたこともあって、
これまで聴いたイカが指揮をした公演よりは、少し自由度に欠けていたように感じた部分もありました。
弦も一番良かった公演に比べると少し研ぎ澄まされた緊張感に欠ける部分はありましたが、
総合的には悪くはない出来だったと思います。

HD撮影用のカメラでは、実際の上映にそのカメラの画像が採用されている間は赤いランプがつくようで、
この間はクルーも慎重に撮っているのですが、それ以外の間は割とリラックスしていて、
たまに本上映に使われているモニターと切り替えたりしてくれるので、
映画館で上映されている様子も横目で観察できて、一石二鳥でした。

それらのモニターを眺めていると、今日のインターミッションでは、
ホストのスーザン・グラハムが、衣装デザインのカノネロと、
なんとリュック・ボンディへのインタビューを行っているではありませんか!
雰囲気から言って生に間違いがないので、ボンディ、オペラハウスに一応はいたようです。
なので、一瞬最後に彼らを舞台に出す気かと淡い期待を抱いたのですが、
結局、ブーを恐れたか、彼らは舞台挨拶に出てきませんでした。臆病者!!
ま、HDのモニターで見ているうちに、自分でいかに恥ずかしい演出か、実感が湧いてきたのかもしれません。
深く反省してください。


Karita Mattila (Tosca)
Marcelo Alvarez (Cavaradossi)
George Gagnidze (Scarpia)
Paul Plishka (Sacristan)
David Pittsinger (Angelotti)
Joel Sorensen (Spoletta)
James Courtney (Sciarrone)
Keith Miller (Jailer)
Jonathan Makepeace (Shepherd)
Conductor: Joseph Colaneri
Production: Luc Bondy
Set design: Richard Peduzzi
Costume design: Milena Canonero
Lighting design: Max Keller
Orch Row A Even
ON

*** プッチーニ トスカ Puccini Tosca ***

LE NOZZE DI FIGARO (Fri, Oct 9, 2009)

2009-10-09 | メトロポリタン・オペラ
ルックスがいい歌手は、余程の実力がない限り、かしこぶらない方がいいと思う。

現役では例えばガランチャのような人は、ルックスと実力が伴っていて、さらに頭も良く見える典型。
美人だけれど、言うことなす事、どこかずっこけているゲオルギューの場合は、
彼女くらい実力があれば、それもまたよいかな、と思えます。
ネトレプコはそのあたり、意外と聡いというか、かしこぶったことを言うのは
自分には似合わない、ということをきちんとわきまえているし、
彼女は歌唱に問題のある部分もあるのだけれど、オペラハウスで聴くと、
またそれと同じくらい、魅力的な部分もあって、
きちんとレパートリーを絞れば、一般に思われているほどハイプな人ではないと個人的には思います。

そして、この人、ダニエル・デ・ニース。
気取りがなさそうに見えるキャラクターとエキゾチックな美しさ、
スリムな体型、歌って踊れるという風評が重なって、注目を浴びているソプラノ。
今シーズン、メトの『フィガロの結婚』のスザンナ役で出演するにあたり、
メディアからの注目度も(オペラの世界にしては)高く、いくつかのメディアで取り上げられた彼女ですが、
引き受けたそんなインタビューの一つで大失敗。
インタビュアーから尋ねられた
”ゲルブ氏がメトで実行していることからもわかるとおり、
今のオペラ界では、ますます見た目や動き回りながら演じられることへの比重が高まっていますが?”
という問に対する彼女の答え、
”だってオペラの舞台にいつまでも象をあげておくことはできないでしょ?”という言葉が活字化され、
これが、大波紋を呼んでしまいました。
彼女が舞台で一緒に立つ人の少なからざる数が、彼女と比べたら”象”の範疇に入るってのに、
この無用心な発言、、、。
本音でそう思うのは彼女の勝手ですが、それを口に出して言うとは、
頭が悪いというのはこういうことを言うのでしょう。

この言葉は早速12月の『フィガロ』の公演で共演することになっている、
アンジェラ・ミードの、”私は自分の(太った)体型のせいでキャスティングされることが困難だったことすらある”
という言葉と並んで紹介されることとなり、結果として、デ・ニースの無神経さが浮き彫りにされてしまいました。
(しかも多くの公演にキャスティングされているデ・ニースとは違い、ミードが出演するのは一公演のみ。)
彼女の言葉に、額にでこぴんマークが浮き上がった先輩歌手も少なくないはずです。

ここで、彼女のマネジメントは”これではいかん!”と考えたか、
早速、ダメージ・コントロールとして、別のインタビューを企画し、
デ・ニースの問題発言を弁明する機会を設けました。
そこでの彼女の発言は、要約すると、”最後に問題になるのはもちろん実力で、
その前にはルックスなんてものの助けにもならない。
実際、舞台で活躍している人で、ルックスや体重のせいで役につけなかったり、
降ろされたりする歌手がいるとは思えない。”

、、、、。
全っ然ダメージ・コントロールになってないんですけど。
メトの例に限っても、彼女はルネ・フレミングのために『椿姫』を歌う機会を奪われた
ルース・アン・スウェンソン姉さんの一件を知らないんでしょうか?
まだまだ優れた歌を歌えるのに、もはや歌う機会を与えられていないヘイ・キョン・ホンのことも?
デ・二ースがいいたいのは、そうすると、彼女たちやミードに役がつかないのは、
彼女たちがただの象ではなく(ホンはスリムですが、見た目がデ・ニースのような美形ではない)、
実力の伴わない象だ、ということが言いたいんでしょうか?
言っておきますが、メトがもし、一切のビジュアル面をキャスティングに考慮しなくなったら、
真っ先に消えるのはスウェンソンでもホンさんでもミードでもなく、
デ・ニース、あなたでしょう、と思います。

彼女は少なくともネトレプコと同じくらいには賢くなって、
誰も自分に喋ることは求めていない、と割り切り、一生口を閉じておく方がいいと思います。
今のオペラの世界が、雇う側もオーディエンスも含め、
本当に歌手の歌唱力をフェアに判断しているとでも思っているんでしょうか?
彼女のような無知から来る傲慢は、本人に悪気がないだけに、たちが悪いです。



彼女は昨シーズンの『オルフェオとエウリディーチェ』でも感じましたが、とにかく声が浅い。
そこそこ豊かに聴こえるのは、ごく狭い中音域のレンジのみに限られ、
そこから高音に向かうと極端に声の響きが浅くなり、
逆に低音に向かうと全く魅力的でないがまがえるのような音が出てくる時すらあります。
それはもはや”音”であって”声”ではない。
中音域がリッチに感じられるのは、その音域に限っては音のわっかとでもいうものがあって、
独特のぼやーんとした霞がかかったような、それでいてわりとよく通る声になるのですが、
このぼやーんとした声は、すきっとしたストレートな発声を好む観客には好まれない可能性もあります。

しかし、今回、それ以上に失望したのは、彼女のアンサンブル能力の欠如。
もしかするとまだ自分のパートで歌うのにいっぱいいっぱいなのかもしれませんが、
とにかくオケの音、周りの歌手の声が聴けていない。
今回、周りを取りまく歌手陣が経験のある、アンサンブル能力に割と富んだメンバーであったのは、
彼女にとって幸でもあり不幸でもあり、、。
というのは、そのせいで、彼女のアンサンブル能力の低さが目立ったとはいえ、
それでも、周りのメンバーに支えられて自由に歌わせてもらっても何とかなったという面があるからです。
重唱場面が多くをしめ、かつ、それが作品の美しさの根本にもなっているモーツァルトの作品で、
自分勝手な独唱場面ののりでしか歌えないというのは、本当にまずいです。
今日の重唱の場面で、スザンナが彼女でなかったらなあ、、と思わされた場面は一つや二つではありませんでした。



彼女の場合、アンサンブルの能力に欠けているのは歌だけではなくて、演技もそうかもしれません。
こちらは『オルフェオとエウリディーチェ』のように、
登場場面と動きに限りがある作品ではまだましでしたが、
この『フィガロの結婚』での、彼女の演技のうるささ、邪魔くささは、見ていて腹立たしいほどです。
歌と同様、彼女だけが浮いているだけならまだいいのですが、
このようなアンサンブルが大事な作品では、彼女のそういう行為が共演者にも波及してしまう。
特にレリエーは、本来はコメディックな演目でも割とノーブルな演じ方をする人なのですが、
気の毒なほど彼女のドタバタ的な演技に合わせようと、振り回されていました。
『オルフェオとエウリディーチェ』の時にも感じた、
オペラの公演をアメリカの安っぽいティーンエイジャー向けのドラマ風に変える彼女の能力は健在です。



最後にフィガロが伯爵夫人に化けたスザンナを、
スザンナだとわかっているのに伯爵夫人だと勘違いしている演技を続け、
ちょっとしたしっぺ返しのために、わざと彼女に嫉妬させる場面で、
2007年のシュロット/オロペーザ組は、怒ってばちばちっとシュロットの胸を叩いてみせるオロペーザを、
”君だとわかっていたに決まっているじゃないか。”とシュロットが優しく抱き寄せる、という、
非常に上品でこちらをほろっとさせる演技を見せていたのに比べ、
デ・ニースはレリエーのお尻を蹴り上げるわ、殴り殺さんばかりの武闘系。
レリエーが暴れ馬を押さえつけるようにデ・ニースを押さえつけて、やっと大人しくなる、という始末ですから、
そっと抱き寄せるなどという芸当はとても無理です。
このシーンは、おきゃんなスザンナが実際にフィガロが浮気をしているかも!と思った瞬間、
ぽろっと女性としての弱さとフィガロに負けないほどの嫉妬心を見せるシーンで好きなんですが、
それは決して醜い嫉妬心であってはならず、観客の心に、ああ、スザンナも、
(そしてこの世の中の全ての女性にも)可愛いところがあるなあ、と思わせるシーンでなくてはならないはずです。
私の歳のせいなんでしょうか?デ・ニースのハイパーな演技を見ていると、
かわいい、と感じるよりは、なんだか疲れてしまうのです。



レリエーは相変わらず上手いのですが、ただ、この役に彼が合っているか?と聞かれると、
躊躇するものがあります。
彼は、メトのシーズン・ブックをはじめとする資料で、オフィシャルにバス・バリトンとなっていて、
実際、声のテクスチャーは、ちょっとドライな感じながら、かなりバス的だと感じます。
声域的にはフィガロ役に合っているはずなんですが、彼の歌はこの役に必要な
(声の軽さではなく)キャラクター的な軽みに若干欠け、
荘重な感じがしすぎるのが難といえば難かもしれません。
この声の質による理由と、また彼が背が高くて舞台姿がうるわし過ぎることからも、
なんだか、とてもえらい人が召使に化けているようにも見え、
役から本人がはみ出てしまっているような不思議な感覚を持ちました。

個人的には彼は、『ファウストの劫罰』のメフィストフェレスのような役の方がぴったりだと思います。
歌は非常に丁寧に歌っているので、これはもう本人の努力を超えた、役との相性、
キャスティングの問題だと思うのですが。



一方、デ・ニースのどたばたにもマイペースを保ち、すごくいい雰囲気で夫婦らしさを醸していたのが、
ボー・スコウフスとエマ・ベルの二人。
この二人は歌唱に全く問題がないわけではなく、例えばスコウフスは、
ある部分になると声が消えるというのか、全く声が聴こえなくなる瞬間があります。
声量がないのか、というと、決してそうではなく、強く歌う部分では申し分ない声が
オペラハウス中に鳴っていましたし、消えていない部分ではきちんとアンサンブルを通しても、
声がきちんと聴こえてきていましたので、物理的な問題ではなく、何か歌い方の問題ではないかと察します。
しかし、あのでかい体躯、いかつい顔からは想像のできない、
むしろある部分ではちょっと気弱すぎて感じるほど、柔らかくて温かみのある声で、
それがこの演出で強調されているアルマヴィーヴァ伯爵のおっちょこちょいなキャラクターに
いい感じでマッチしています。
彼はDVDにもなっている2006年のザルツブルク音楽祭の『フィガロの結婚』でも同役を演じていますが、
メトの演出の方が彼の個性にあっていて伸び伸びと歌っているように感じます。
(といいますか、大体、私はそのザルツブルクの演出が陰気臭くて大嫌いです。)



エマ・ベルは今シーズンのこの『フィガロの結婚』がメト・デビュー。
彼女は、歌唱と歌声が、伯爵夫人の役で一般に聴衆が期待するよりは、
ドラマチックで激情系なので、好き嫌いが別れるかもしれません。
また、これはコンディションによるもので、今日に限ったことなのかもしれませんが、
高音がやや不安定かつ絶叫調になりがちで、美しく弧を描くように消えていってほしいところで、
叫ぶように短めに音が切れてしまう個所が多かったです。
”愛の神よ Porgi Amor”、”楽しい思い出はどこへ Dove sono”、
いずれも高音がもう少し安定して美しい音が出ればもっと良くなるのに、と感じました。
表現力はあるので残念です。
ただし、彼女の舞台姿の美しさ、演技のエレガントさ、細かさは素晴らしく、
デ・ニースはこういう演技をもっと学ぶ必要があると思います。
とくに、伯爵夫人が初めて舞台に登場する場面、”愛の神よ Porgi Amor”を歌い始める前に、
窓の外をぼーっと見つめている後姿には、もうその姿だけで伯爵夫人がどのような気持ちでいるのかが、
一瞬で観客に伝わる素晴らしいものでした。
その後も、あらゆる細かい場面で伯爵夫人の気持ちが表現されているのは見事でした。
スコウフスとベルは、カーテン・コールで立っている場面でも、
まるで実際の夫婦のような雰囲気が漂っていたのがすごかったです。



ちょい役ながらデ・ニースを突きとばしたり、怪演を見せていたのが、マルチェッリーナ役のウェンディ・ホワイト。
彼女もどちらかというと象タイプに属しますから、マジぎれの結果だったのかもしれません。
象のパワーを思い知りな!!って、、、いいぞ、ウェンディ!!
(上の写真のピンクのドレスの女性。下のベルの侯爵夫人との気品の違いは明らか!
この場合は褒め言葉で。)

ホワイトはこのブログで彼女の名前で検索をかけるとたくさんの公演が出てくる通り、
ほとんどメトの専属歌手かと思うような勢いで、ずっと脇役としてメトの舞台を支えている人です。
今シーズンもなんと6本の演目に登場する予定ですからその重宝されぶりがわかります。
どちらかというとこれまでシリアスな演目で見ることが多かった彼女ですが、
この『フィガロの結婚』での、コミカルな演技がとても達者なのに驚きました。
あまりの達者ぶりに、昔の有名歌手か誰かがカメオ出演しているのかと思ったくらいです。



ケルビーノ役を歌ったイザベル・レナード(下の写真)は以前このブログでも紹介した通りのビジュアル系で、
HDの『ロミオとジュリエット』にも出演していたので、記憶にある方も多いと思います。
昨シーズンの『ドン・ジョヴァンニ』でツェルリーナ役を演じる彼女を観たときは、
こんな美人でスレンダーな農民がいてたまるか!と思いましたが、
私は彼女はズボン役での方が個性が生きて素敵だと思います。
もともとダンサーを目指していただけあって、舞台での動きが本当に綺麗。
三シーズン彼女の歌を連続して聴いて思うのは、彼女は声そのものに特別なものがあるわけではなく、
ロッシーニも挑戦し始めているようなんですが(『セヴィリヤの理髪師』のロジーナ)、
彼女の声はメゾ的カラーが薄いというのか、ほとんどソプラノのようにテクスチャーが軽いので、
この後、どのようにキャリアを進めていくのだろう?と興味深いです。
『ばらの騎士』のオクタヴィアンなんかは彼女の雰囲気にぴったりですし、
今日の公演で、ケルビーノが女装するシーンも本当に上手く演じていたので将来歌う可能性のある役の一つですが、
こういったわけで、声の面で若干不安があります。
彼女はまだ若いので、もう少し年数を経るとまた声の感じも違ってくるのかもしれませんが。



ただし、彼女は舞台でのプレゼンスとかフォーカル・ポイントを作るという点で優れた才能を持っていて、
最初は、”まあまあかな、、。”と思って見・聴き始めるのに、
段々と彼女の役作りに引き込まれていく、というパターンが多いのです。
今回も生き生きとケルビーノ役を演じながら、上品さから一線を越えないのが魅力です。
また、指揮者の力もあるのですが、”恋とはどんなものかしら? Voi che sapete che cosa e amor"での、
最後のヴァースのVio che sapete che cosa è amorの部分では、
ものすごく音を落としたオケの上を繊細に歌ってみせて、
劇場中が息を呑んだように静まり返って、時が止まったようでした。
こういう瞬間があると、本当に公演を見に来て良かった、と思います。

それを言うと、最後に伯爵夫人が歌う
”私はあなたよりも心が優しいの。だから、ええ、(あなたを許す)といいましょう。
Piu docile io sono. E dico di si.”
というフレーズでのベルの表現の上手さは素晴らしいものがあって、
この作品は、このフレーズにすべてが集約されているのだ、と実感させられました。



フィリップ・ラングリッジのドン・バジリオ
(なんという贅沢!『ヘンゼルとグレーテル』の魔女に続くこちらも怪演!)も含め、
デ・ニースを除いては、脇にいたるまでしっかりしたキャストで、
公演全体としては大変楽しめたのですが、
それは歌だけでなく、オケのせいもあったと思います。
オケと言うよりは、指揮と言ったほうが適当でしょうか?
今日の指揮はダン・エッティンガーで、彼も今シーズンの『フィガロ』がメト・デビューなんですが、
プレイビルによると東京で『イドメネオ』と『コジ・ファン・トゥッテ』、
さらに『ジークフリート』と『神々の黄昏』を振った・振るとの記述があるので、
新国立劇場の常連なんでしょうか?
2010年からは東フィルの首席指揮者になる予定との記述もネットで見かけました。



彼はクレッシェンドとデクレシェンドの使い方、また休符を効果的に生かす、
これらの技術に非常に優れていると思います。
休符を単なる音の休みととらえず、あえて少し長めに取ることで、
登場人物が驚いて”はっ!”と息を呑む、その長さをきちんと表現しているのが見事だと思いました。
また、音を絞って演奏したVoi che sapete che cosa e amorのフレーズで、
どのような結果が出たかは、すでに書いたとおりです。
序曲は拍子抜けするほどあっさりと流していて、これではあまり公演も期待できないのではないか、?と
一瞬不安になりましたが、一旦ストーリーが流れ出すと、
モーツァルトの演奏でこれほど登場人物の気持ちを生き生きと的確にとらえたオケの演奏は、
ここ最近メトではあまり聴いたことがなかったなあ、と感じたくらいです。



若干手法がワン・パターンに陥りがちな点があるのはご愛嬌ですが、
なかなか魅力的な演奏だと思いました。
1971年生まれというと、指揮者にしてはまだ若手ですし、
(そうでもないのかもしれませんが、自分より若い人は全て若手に入れてしまいたい。)、
写真を見る限り、指揮者にしてはなかなかの男前ですから、今後が楽しみです。
ただし、彼もビジュアル系ですから、実力が広く認められるまでは、
かしこぶって、下手なことを口走ったりしないように、デ・ニースの例に学んでいただいて。


John Relyea (Figaro)
Danielle de Niese (Susanna)
Emma Bell (Countess Almaviva)
Bo Skovhus (Count Almaviva)
Isabel Leonard (Cherubino)
Maurizio Muraro (Don Bartolo)
Philip Langridge (Don Basilio)
Wendy White (Marcellina)
Patrick Carfizzi (Antonio)
Ashley Emerson (Barbarina)
Tony Stevenson (Don Curzio)
Conductor: Dan Ettinger
Production: Jonathan Miller
Set design: Peter Davison
Costume design: James Acheson
Lighting design: Mark McCullough
Choreography: Terry John Bates
Dr Circ A Even
OFF

***モーツァルト フィガロの結婚 Mozart Le Nozze di Figaro***

『カルメン』からゲオルギューが降板した理由

2009-10-09 | お知らせ・その他
頂いたコメントにもとづき、加筆・修整いたしました。 

もう数々のオペラ系ブログで話題になっていますが、
ル・フィガロブカレスト・ヘラルド(ということでルーマニアの新聞だと思うのですが、
ものすごく寒いデザインのサイトでびっくりします。)などによると、
アンジェラ・ゲオルギューとロベルト・アラーニャが
13年の結婚生活にピリオドを打つ方向で話がすすんでいるようです。

8月に、メト新演出の『カルメン』からゲオルギューが一部の公演から降板するという話が出た際の記事で、
降板の理由を、可能性が高い順に、
① 役の準備が追いついていない
② アラーニャとの仲がうまくいってない
③ 懐妊?
と予測しましたが、②だったとは、、。

出回っている情報も錯綜していて、
divorce(離婚)ではなくてseparation(別居)である、とか、
アラーニャは別れる気があるのだけれど、ゲオルギューの方がそうしたくない、とか、
今まで同じレパートリーで共演しようと努力してきたが、その場合、常に
苦労していたのはアラーニャの方ではなくゲオルギュー側であった、という
(これらは内容から見ておそらくアラーニャからの)情報が出たかと思うと、
ゲオルギューのサイトには、
”アラーニャがこの件で苦々しい感情を持っているのはわかるが、
我々はもう過去二年別居しており(つまり、今さら別居の話ではない)、
そのトライアル期間も失敗に終わったのであり、
(まるで事を荒立てているのがゲオルギュー側であるかのような報道があるが、
アラーニャが”静かに平穏にこの件を乗り越えたい”と思っているのはお門違いで)
私の方こそ静かに平穏に過ごしたい”という声明が出るなど、
今度はアラーニャが歯軋りしている音が聞えて来そうで、
すでに友好的でない雰囲気が濃厚に漂っています。

アラーニャ、『カルメン』ではゲオルギューを刺し殺せたのに残念でしたね。

いずれにせよ、そうすると、メトで全幕の舞台に二人が一緒に立つのは、
昨シーズンの『つばめ』が最後になってしまったのかもしれません。


(写真は2008年夏、メトとのパーク・コンサートでのゲオルギュー。)

IL BARBIERE DI SIVIGLIA (Sat, Oct 3, 2009)

2009-10-03 | メトロポリタン・オペラ
昨(2008-9年)シーズンにはレパートリーに入っていなかった『セヴィリヤの理髪師』ですが、
その一年のブレークを置いて、再びメトの舞台にこの演目が帰ってきました。

2006-7年シーズンにシャーの新演出が登場し、
その年に始まったライブ・イン・HDにもカバーされたので、
フローレス、ディドナート、マッテイのキャストの公演を映像でご覧になった方もたくさんいらっしゃると思います。
ところが、その年、私は頭への血のめぐりが悪かったのでしょうか?
今考えても理由がわからないのですが、なぜか、Aキャストしか鑑賞せずにいて、
そのAキャストではロジーナがダムローだったので(フローレスとマッテイは同じ)、
ディドナートのロジーナを生では見逃してしまい、ずっと後悔してきたというわけです。ちっ!
特に2007年のタッカー・ガラで、彼女の”今の歌声は Una voce poco fa”を聴いた時には、
我が身の愚かさ呪いまくり!でした。

2007-8年シーズンにはガランチャがロジーナで登場
彼女のロジーナは本当に素敵で彼女の生声にはすぐその場で惚れましたが、
その彼女の輝きが、ザパタ&ヴァサロといった共演者を食ってしまった感がありました。

今年の『セヴィリヤ』はお馬鹿な私への神様からのセカンド・チャンスでしょうか?
なんと、ロジーナは再びディドナート!!
ただし、アルマヴィーヴァ伯爵とフィガロがバリー・バンクスとロディオン・ポゴソフのコンビ、と聞いて、
ああ、これも2007-8年シーズンのように、ロジーナが一人で輝いてしまう系かな、と覚悟を決めました。
だって、ディドナートの舞台でのハッピー・オーラはすごいですから。

バリー・バンクスは、イギリス出身のテノールで、
失礼ながら、もはや、”フローレスの影法師”とでもあだ名したいような存在。
フローレスがメトに登場する度、毎度カバーをつとめているんですが、
そのご褒美として、毎年一公演だけ主役を歌わせてもらえる日があるのです。
ただ、彼はフローレスのあの麗しいルックスに比べると、若干冴えないシュルピス軍曹系なので、
わざわざ生で観に行く気になれないうちに、シリウスで彼の歌声を聴いてしまい、
ラジオで聴いただけで判断するのはいけない、と思いながらも、あまり心を動かされるなかったので、
結果、これまで、チケットを買う時、彼が主役を張る日は積極的に避けていました。
しかし。
今回はディドナートを聴きたければ、もれなくバリーがくっついてくる!というわけで、
逃げられなくなりました。観念します。

それから、フィガロ役を歌うポゴソフ。
彼は昨シーズンの『魔笛』のアブリッジ版の公演でパパゲーノ役をつとめたバリトン。
歌唱は安定しているけれど、特に声自体が魅力的だとは当時は思えず、
また、演技のテンポに若干問題があるように感じたので、
フィガロなんてちょっと身に余る配役なんじゃないか、と今回思っていました。

だから、今日はまたしても2007-8年シーズンに続き、ロジーナ狙い!!だったはずなんですが、
これがなんと意外な方向にすすんで行ったことか!
オペラとはこういうことがあるからやめられません。



まずアルマヴィーヴァ伯爵役を歌ったバンクスですが、
彼の声は確かにラジオの放送だけを聴いて判断するのはフェアでない、
生でしか伝わらない種類の良さはあります。
フローレスの声がシャープで輪郭がはっきりしている声とすれば、
バンクスの声は、音が出てきた後にしばらく周りに温かいエコーがたゆたうというのか、
その独特の温かさが持ち味で、特に中音域の美しさはあなどれないものがあります。
声はフローレス以上に大きくよく通るわけでもないですが、
しかし、小さすぎると不満に感じるほどではありません。
実際、2007-8年シーズンのザパタよりは私は彼の声の方が好みですが、
ただ、最大かつ致命的な欠点は、高音に安定性を欠き、ややもすると、
最後まで響きがもたずに声がひっくり返ってしまいそうになったり、
息切れしているのがあからさまにわかってしまう点です。
フローレスほどに各フレーズのニュアンスを繊細に歌うことは期待していませんが、
それが出来ないなら、例えば高音だけは確実に決めて行くとか、他の部分でカバーしなければ。
その点、ブラウンリーの方がフローレスとは全く違ったアプローチ、
つまり、繊細さの代わりに体育会系の高音のスリルと力強い音で
独自の路線を打ち出すことに成功しているような気がします。
このままだと、バンクスは、声は良いんだけど最後の一ひねりがなあ、、というところに落ち着いてしまい、
それこそ、ずっと影法師、なんてことになりかねません。
とにかく、高音、彼はこれが課題なような気がします。
『連隊の娘』でメザミをそれなりにきちんと歌っている人なので、
高い音が出せないわけではないのですが、長く引っ張る高音に苦手な部分が詰まっているような気がします。

ディドナートのポジティブ光線は健在。
彼女が歌うと観客はその役を好きになってしまう。
これは努力して身につく種類のスキルではなく、天性のものだなあ、といつも感嘆させられます。
今日の彼女は決して絶好調だったわけではなく、
二幕で微妙に音がはずれてひやっとさせられる場面もありましたが、
優れた歌手の常である、”不調な時でも歌唱の下げ幅が低い”のルールに忠実でした。
特に彼女は一つの音をクレッシェンドしていく時に、音がぎらぎらっ!と灼熱するのが持ち味で、
それは今日の彼女の”今の歌声は Una voce poco fa"でも感じることが出来ました。
声そのものが持つ美しさとか技術の手堅さ、特に前者では、もしかするとガランチャの方が有利ではあるのですが、
けれども、ディドナートの歌は決してダルではなく、常に観客に”面白い””観ていたい”と感じさせる点で、
決してひけをとっておらず、今、同じ時代に、このようにチャーミングなロッシーニを歌える歌手が
複数存在しているというのは、本当に喜ばしいことです。
また、ロッシーニの『セヴィリヤの理髪師』のロジーナと
モーツァルトの『フィガロの結婚』の侯爵夫人は同じ人物なのです(後者が前者の後日談となっている)が、
『セヴィリヤ』を観ているとそうとは思えない、つまり、『セヴィリヤ』のロジーナを
あくまで独立した人物として歌っているように感じる歌手が多いです。
違う演目、ましてや違う作曲家による作品なので、それでも良いのかもしれませんが、
今日のディドナートを観ていると、ふっとした瞬間に、
きちんと『フィガロの結婚』の侯爵夫人の顔がのぞいている瞬間があったりして、
それがすごく面白く感じました。



今日のチケットは個別購入したものですが、
どうやら、長年その席のサブスクライバーだった方が今年解約されたものが回って来たようです。
隣のご夫婦はずっとその方とサブスクライバー仲間だったそうで、
”何十年も一緒に観てきたのに、解約だなんて残念だわ、、”と寂しそうにしておられました。
ゲルブ氏が支配人に就任して座席による料金が見直されて以来、
昨シーズンは各レベルの最前列のチケット代が大幅に引き上げられ、
なんと今シーズンからは、その魔の手が第二列目にまで及んでいるようで、
これが、その長年サブスクライバーだった方に解約の決心をさせた直接の理由になっているそうです。
これまでサブスクライバーでずっと二列目とか最前列を持っていた人が、
突然有無を言わさず代金大幅引き上げの宣告を受けるというのは、確かにちょっと変ではあります。
個別にチケットを買っている私のような人はいいですけど。
隣のご夫婦は、”私達は20年かけて、後ろの方の列からここ(前から二列目)までのし上がって来たのよ!”
とおっしゃっていて、多分、元々私の座席を持っていた人も、
そうやって長い間を経てこの良席を手に入れられたのでしょう。
私もグランド・ティアでサブスクライブしていた頃、
”もっと前に!”というリクエストをかけても、
”前列でキャンセルが出ていないので、、”と断られ続け、ずっと同じ席なのにしびれを切らせて
解約してしまったので、こうやって良い席にサブスクライブできるまでに至るのがどれだけ大変だったかはよくわかります。
今は金で何でも買える時代になってしまいました。
(今なら最前列は結構高額なので、その代金を払う気さえあれば、
結構簡単にサブスクライブできてしまうかもしれませんが、
昔は同じフロアなら、どの列も料金が一律だったので、何年もかけて前列にあがっていくしかなかったのです。)

この日はまわりにかなりの数のサブスクライバーたちが混じっていて、
ということは、熱いヘッズが混じっている率もおのずとあがっていくわけですが、
特に私がいた二列目以降にそういった方が多かったようです。
おそらく、最前列は、”金でそれを買った系”でしょう。
おしゃれななりをしたインテリを気取ったゲイ・ピープル四人衆でしたが、
鑑賞時の常識も知らないのか、最前列なのに、前に身を乗り出すことしばしば。
この行為が後ろに座っている人の視界を半分近くブロックすることになるのを知らないのか、、?
私のすぐ前ではなかったのでよいようなものの、目の前に奴らが座っていた日には、
否が応でも背中が座席にくっつくよう、後ろからバッグのストラップで首を締め上げてやるところです。
ところが、そう思っていたのが私だけでなかったところが、サブスクライバーの園の恐ろしいところです。
歌が一段落する毎に、三列目のサブスクライバーのおやじから、
”てめえら、のりだすな、馬鹿やろう!”、”これ以上その体勢を続けやがったら、
頭を蹴り倒すぞ!”という罵声がとびはじめました。
しまいにその声は、”今の歌声は”のイントロの部分にまでかぶる始末、、、
ちょっと、気持ちはわかりますけど、アリアの前には止めてくださいます?って感じです。
そして、それが聴こえていながらわざと前かがみの姿勢をとりつづけるゲイ・メンたち、、。
これは戦闘勃発必至でしょう。
第一幕が終了した途端、”乗り出すなって言ってるだろう!”by おやじ、
”いやなら座席を変わればいいじゃないか(んな不条理な!!)”by ゲイ・ピープル、
”なんだとー?!”by おやじ、
おやじの袖をひっぱりながら、”あなた、もういいわよ。”by おやじの妻、
”なんだと?お前は黙ってろ!”by おやじ、と激しい応酬が炸裂。
どうなるんでしょう、この結末は?と、自分に関係がないのでちょっぴり楽しく、余裕で観察してしまったのですが、
(もちろん、これが自分に実害のあることだったら、
今頃ゲイ・ピープルの横っ面に私のヒールの後が残っているはずです。)
第二幕の直前にアッシャーがゲイ・メンの側に現れ、
”後ろの方のご迷惑になりますので、上演中は前に乗り出さず、背中を座席に出来るだけくっつけて
鑑賞されるようお願いします。”
アッシャーに反抗すると席を追い出されることもあるので、ぐうの音も出ないゲイ・ピープルたち、、。
ふふふ。また正義が勝利したようです。



さて、肝心な公演の方に話を戻すと、ディドナートの輝きもさることながら、
私にとって今回の公演で最大の嬉しい驚きだったのはポゴソフのフィガロです。
『魔笛』のパパゲーノ役で持った印象、特にあまり魅力的でない声、というこのステートメントは、
謹んで撤回させていただかなくてはなりません。
今日の公演での彼の歌声は本当に魅力的でした。
彼は2004年の『魔笛』でもパパゲーノを歌っていたそうで(その時はアブリッジ版ではなく、
ドイツ語のフル・バージョンの公演)、当時26歳だったそうですから、
今、31歳ということになると思うのですが、
ロシアの音楽院を卒業した後、そのまますぐにメトの
リンデマン・ヤング・アーティスト・ディベロップメント・プログラム(LYADP)に入ったようです。
今はもうプログラムからは卒業してしまっていますが、
LYADPでは、メトの公演での小さい役を振ってもらえることが多く、
彼も2001年から、『リゴレット』のマルッロとか、この『セヴィリヤ』のフィオレッロといった役を歌ってきたようです。
今年、その同じ演目で、フィオレッロからフィガロに到達したのですから、本人にとってもこれは相当嬉しいでしょう。
今日は同演目の初日ということもあったからでしょうが、
その嬉しさが伝わってくるような歌唱を繰り広げてくれました。
こういう舞台は本当に観ている私達も嬉しいものです。




この役は実力のある歌手たちが歌って来た役ですから、まだまだそれに比べると
磨き足りない部分だとか、やや押しに一手になりがちである、
また、言葉が完全にリズムに乗っていない個所など、これから直すべき点はたくさんあります。
けれどもそれを差し引いても、これは聴いてよかった、と思わせるものが今日の彼の歌にはありました。
特に声の美しさ、彼がこんないい声をしているということに、
『魔笛』のパパゲーノ役で聴いた時は、全く気付かなかったとは、私、どうしたことでしょう?
特に”町のなんでも屋 Largo al factotum”の
最後のdella citta(町の何でも屋、の”町の”にあたる部分)のcittaのiを、
指揮のベニーニがポゴソフに思う存分伸ばさせたのですが(ナイスな判断!)、
バットに当った野球のボールがものすごい勢いでまっすぐにスタンドに飛んでくるような、美しくて力強い声で圧倒されました。
このアリアの後に、拍手にまじって、サブスクライバー/ヘッズの園から、
”Beautiful voice!!!"という声が飛んでいました。激しく同感です。

上のYou Tubeの映像は約一年前のもので、今日の公演での歌唱はもっと進歩していますが、
上で書いた欠点と長所の両方がある程度伝わるのではないかと思います。
(この映像ではiが短いのが残念ですが。)
演技ももう少し変化が欲しい部分もありますが、全体的にはパパゲーノよりも、
彼のキャラクターが上手く出ています。
ヌッチのような酸いも甘いも知り尽くしたようなフィガロを私が好むのには、
若い歌手にはこの役が手に負えない場合が多い、という実際的な理由もあるのですが、
本来はリブレットにも、フィガロは若くて素敵で、
ロジーナだって彼と話す時にはわくわくしてしまうと言うくだりがあるくらいですから、
魅力的な歌を歌える限りにおいては、若いことはむしろプラスかもしれません。
2006-7年シーズンのマッテイは歌唱の全体の安定感では、ポゴソフよりも上だったと思いますが、
実際の年齢はポゴソフよりも一回り位上であるはずなのに、
知恵のまわる若者というよりは地元のやんちゃ坊主のようなフィガロだった点に私は少し違和感を感じました。
ただ、2006-7年は新プロダクションということで、
演出家の意向がより強く尊重された結果であった可能性もあります。

何にせよ、自分が言っておいて何ですが、ポゴソフについては、
”声に魅力がない。””演技がつまらない。”という言葉で、
忘却の彼方に葬り去るのは間違っているような気がするものがありますので、
これからの活躍をおおいに期待したいと思います。



このポゴソフの嬉しい驚きに比べて、前回聴いた時と全く印象が変わらないのが、
ドン・バジリオを歌ったアナスタソフ。
この人は本人のキャラなんでしょうか?どこか鬱陶しい感じが歌唱にまで波及している感じがします。
前回聴いた時は『ジョコンダ』のアルヴィーゼ役だったので、まだ良かったですが、
この楽しい『セヴィリヤの理髪師』という演目にまで、暗い雰囲気を持ち込むのはやめてほしい。
ドン・バジリオはずるく怪しくとも、からっと演じて欲しいのですが、
(だって、考えていることはせいぜい、それでバルトロからお金をもらえりゃそれでOK!という程度のものなのですから。)、
なんだかアナスタソフのバジリオが出てきた瞬間、
アルマヴィーヴァ侯爵をなき者にしようとする暗殺計画を練っているのではないかと思うほどの、
濃厚な不気味さと怪しさが漂うのです。やりすぎでしょう、それは。
それから、彼は声がそれほど重くないというか、バスにしては私には軽すぎて感じます。

ひどかったのはベルタ役を歌ったウェイト。
唯一のアリア(”年寄りは妻を求め Il vecchiotto cerca moglie")で音を外しまくり。
こういう役で、しめるべきところをしめられないのは、本当に痛いです。

ベニーニの指揮は悪くはなかったですが、少しアンサンブルの詰めが緩い個所があるのは改善を要します。
それはオケだけではなくて、重唱の部分でも感じました。

この演出が初お目見えした時から、細かい部分に手直しが入ったりしているのですが、
そのせいでしょうか?少しずつ、オーバーアクティングのために、
初演の時は面白かったはずの場面が、わざとらしく鼻について感じられるようになった部分もあります。
特にゆるい召使(アンブロージョという名前が一応あるらしい、、)を演じているベスラーは、
俳優さんかと思っていたら、どうやらモダン・ダンスのダンサーらしく、
それでつい体を使って大きく表現する方に気持ちが行ってしまうのか、
初演の時よりオーバーアクティングが過ぎて、逆に場面が白々しく見えてしまう個所が多くなっているので、
以前の少し控えめな表現に戻った方がよいように私には思えます。


Barry Banks (Count Almaviva)
Joyce DiDonato (Rosina)
Rodion Pogossov (Figaro)
John Del Carlo (Dr. Bartolo)
Orlin Anastassov (Don Basilio)
Claudia Waite (Berta)
Edward Parks (Fiorello)
Rob Besserer (Ambrogio)
Conductor: Maurizio Benini
Production: Bartlett Sher
Set design: Michael Yeargan
Costume design: Catherine Zuber
Lighting design: Christopher Akerlind
Dr Circ B Even
OFF

***ロッシーニ セビリヤの理髪師 Rossini Il Barbiere di Siviglia***

早く飛んでくれーっ!!! 『トスカ』で再びアクシデント

2009-10-03 | お知らせ・その他
いよいよHDの上映・収録日が来週の土曜(10/10)にせまった『トスカ』ですが、
今日10/3のマチネを鑑賞したオペラ警察より、公演中に発生した面白いアクシデントについて報告がありました。

すでにあげた感想のコメント欄でも話題になったとおり、
この新しいプロダクションでは、最後の場面で、トスカがスカルピアの手下を
”つかまえるものならつかまえてみなさいよ!”と挑発しながら塔をかけあがり、
塔のてっぺんに着いて窓から飛び降りる瞬間に暗転、という演出になっています。

塔をかけあがっている間にトスカ役のマッティラの姿が見えなくなる瞬間があるのですが、
塔の中にマッティラのボディ・ダブルがいて、マッティラの姿が見えなくなる間にバトン・タッチ、
塔から飛び降りる演技をするのは、このボディ・ダブルの方だといわれています。

なぜ本人ではなくボディ・ダブルが必要かというと、
塔から飛び降りる瞬間、黒いスクリーンをバックに足の一部以外を残した体が宙に浮く姿が映るのですが、
これは体にワイヤーをつけたボディ・ダブルが演じなければならない、というわけです。
(ワイヤーがついていないと実際に落下せずにあの体勢をとるのは無理です。)

ところが初日からどうもこのラストのシーンがワイヤーやスクリーンやら、
色々頭を悩ませる要素があるのか、なかなかパーフェクトなタイミングで作動することがなく、
暗転する瞬間にオケの音をちょうど終了させるように指揮しなければならない指揮者は一苦労のようです。

今日の指揮も再びイカ
オケが最後のフレーズ、パパーーーー!という部分を轟音でぶっぱなし、
後は指揮者が音の終わりを指示するのを待つのみ、となったところ、
なんと、スクリーンには一向に飛び降りるトスカの姿が映らない。
冷や汗をかきながら、延々と音を延ばすよう指示し続けるイカ!
オケのメンバー、特に金管が、”もう駄目だ、これ以上吹き続けたら酸欠を起こす!”という表情をし始めた頃、
やっとトスカが飛び降りてくれて、無事に音楽が止まったそうです。

早く飛び降りろよな、トスカ。