Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

La Scala Nights in Cinema: IL TRITTICO

2008-07-24 | 映画館で観るメト以外のオペラ 
いよいよ今回の”スカラ座の夜”シリーズも最後の夜になりました。
メトでの2006-2007年シーズンの中で、公演全体としての出来が最も良かった
レパートリーの一つであるプッチーニ『三部作』
特にライブ・イン・HDの収録日の『修道女アンジェリカ』でのフリットリの熱唱は涙なしでは
聴けませんでした。
家で録画した映像は、もう何度見たかわからないくらいなのに、今でも号泣してしまいます。

そのフリットリがこのスカラ座の公演でも、シスター・アンジェリカとして登場するとあって、
この4日連続の”スカラ座の夜”の中で、『マリア・ストゥアルダ』と並んで
楽しみにしていた今日の上映。

そのフリットリに加え、『外套』のミケーレも、メトの公演と同じポンス、ということなので、
今回はそのメトの2006-7年シーズンの公演も思い出しながら、書いていきたいと思います。

まず、三作に共通して感じたのは、スカラ座の公演、
演出も音楽がややさわりすぎ、凝り過ぎ、で、
観客側をドラマに入り込みにくくさせていたように思います。
特に、詳しくは各作品でふれるつもりですが、
メトの舞台を演出したジャック・オブライエン、
彼の力量を今さらながら感じているところです。
ちなみに、オブライエンは、ブロードウェイや舞台劇でのキャリアが長い人で、
ミュージカル『フル・モンティ』や『ヘアスプレー』の演出を担当したことでも知られています。

まずは『外套』。
オブライエンは、いつぞやのシリウスの放送にゲストで招かれた際、
この作品を、ヒッチコックの映画を思わせる、と語り、演出の際にはその雰囲気を大切にしたといいます。
彼がヒッチコック的、と表現しているのは、”誰もが秘密を隠している”
(これはライブ・イン・HDの上映の際の冒頭の解説での彼本人の言葉)という意味なのですが、
確かに、メトの舞台は、この作品の、すべてが語られているわけではない、
という点を上手く演出に織り込んでいるのが、このスカラ座と比較してみるとよくわかります。

例えば、ミケーレとジョルジェッタの赤ちゃんに何が起こったのか、
いつ頃からジョルジェッタはルイージと恋仲になったのか、
ミケーレはルイージを殺した後、ジョルジェッタをどうするつもりなのか?
(何事もなかったように一緒に居続けるのか、離婚して道をわかつのか、それとも殺してしまうのか。)
これらの事実関係に対する問いに、あえてはっきりと答えたり、説明したりしすぎず、
むしろ、それぞれの登場人物の性格描写に注意が向かっています。
この『外套』のみならず、他の二作品でも、主役はもちろん、
脇役にいたるまで、オブライエンの描写能力は徹底していて、
『修道女アンジェリカ』などでそれが激しく立証されていますので、後ほど。

逆にスカラ座は登場人物の性格描写をほとんど放置状態にしたまま、
事実のみを徹底的に追求しようとするスタンスにあります。
この方法は、歌手にそれこそマリア・カラスのような、自主的にとことんまで
役を追求し極めることができる歌手がキャスティングされていたなら、
結果も出たのかもしれませんが、残念ながら、主役の三人、
特にジョルジェッタ役のマロクにルイージ役のドヴォルスキーには、まだまだそこまでの力がない。

例えば、なぜこのジョルジェッタとルイージが惹かれあっているのか?
ジョルジェッタ役のマロクは舞台にいる間中、何が嬉しいのやら、
いつもけらけらと楽しそうなのですが、
子供を失って以来ミケーレと心が離れてしまっていること、
喜びや楽しみが欠落している結婚生活から引き起こされる倦怠感、失望、不満、
そんな生活から逃げ出したいという感情、
逃げ出した先であるルイージとの恋仲を他の誰にも明かせないという重圧、
しかし、それでもなお、まだミケーレと別れようとしないという事実、、。

これだけでも、いかにこのジョルジェッタが複雑な心情を抱えているかわかるというのに、
けらけら笑っているとは、一体、、?
しかも、ミケーレとルイージそれぞれに対する演技および歌の間で、
何の温度変化もないのをみると、
一体どういう心境からルイージと愛し合うようになったのか!と胸倉をつかんで問い詰めたくなるほどです。




このマロクは、この演技に加えて、少なくともこの役に関しては、
発声に独特の下品さがあって私は全く好きになれませんでした。
これではまるで、何の不自由もないが、夫の部下にちょっかいを出した人妻という風にしか見えません。
夫と夫の部下に囲まれ、うきうきってな感じです。それ、違うと思う。

一方、メトの方の舞台はどうだったかというと、
グレギーナは、はじめから、夫のミケーレのまわりでは、
完全に心が磨耗しきった女性としてこのジョルジェッタを歌い演じます。
しかし、ルイージが現れるほんの短い間だけは、生気が蘇り、いまや彼女にとって、
ルイージとの恋だけが、心のよりどころになっていることがわかります。
また、そのルイージとの恋は、夫の部下に手を出した、とは全く別レベルの、
二人の間に共通しているバックグラウンド、価値観の類似、といった点に根ざしていることも。
だからこそ、フルゴラとタルパの前で、ジェルジェッタとルイージが、
自分たちのふるさとであるベルビューという土地のことを歌うシーンに、
プッチーニは大変美しい旋律を与えているのです。
グレギーナおよびリチトラの歌唱は決して満点といえるものではありませんでしたが、
少なくとも役の描写という面では、オブライエンの指示もあって、ずっと整合性があって、
音楽とも呼応していました。

スカラ座の公演のほうでルイージを歌ったドヴォルスキーは、演技がまだまだ一本槍ですが、
ただ歌唱そのものはむしろリチトラを凌ぐ出来で、
声にしっかりと芯があって、この手のレパートリーを歌うに必要な声の強さがありますので、
今後に期待です。

年齢のせいもあってか、この役にぴったりな雰囲気のポンスですが、
以前はどの公演を観てもほとんど外すことのなかったほどの彼が、
近年、全登場公演数に対するコンディションが良好な日の率が著しく減ってきており、やや心配です。
メトの『三部作』での彼の歌唱は、その意味で、近年ではこれ以上ないほど
気合の入った素晴らしい出来だったので、あれを越えるのは難しいだろうな、と思っていたのですが、
案の定、このスカラ座の公演では、なんとか根性で持ちこたえたものの、
本人が出したい音の長さに体がついていけてないような場面も見られました。

恐ろしかったのは、フルゴラを歌ったポペスク。
メトの同役のブライスとは正反対のほっそりした体型のメゾですが、
このショッピング・バッグ・レディ的な役に怖いほどはまっている。
彼女が舞台に現れたとき、私はメトに時々現れるびりびりばあちゃん
あまりに瓜二つだったため、会場で悲鳴を上げそうになりました。
歌唱そのものは悪くない出来だったとは思いますが、
ブライスの会場全体をゆるがすような張り詰めた高音がフルゴラのアリアでは効果的だったのに対し、
少し個性がないようにも感じました。
このフルゴラがバッグから次々と変なものを取り出す場面がありますが、
歌詞の中に含まれているので、外すことのできない、飼い猫のための、牛の心臓(!!)を含め、
メトの演出では、小道具の仕上がりでのグロテスクさを抑えようという意思を感じますが、
スカラ座では、心臓が血をしたたらせているのに加えて、
使用後と思しきコンドームまでかばんの中から飛びだす始末。
妙なところで芸が細かいスカラ座です。

この作品は、残りの二つに比べて、観客を納得させることの難しい、
極めて上演難易度の高い演目だと私は思っているのですが、
今回のスカラ座の上演も満足からは程遠い出来でした。
いつの日か、この演目の真価を引き出してくれる公演に出会えることを祈っています。

『修道女アンジェリカ』。
一言、このスカラ座の公演は、このセットをデザインした時点で、
失敗という奈落の底へ落ちたと思う。
それに加えてシャイーが率いるオケ、、、。
これではフリットリがかわいそう。

この作品の最初から最後まで通しで使われるセットには、巨大な聖母マリアが
舞台の床に横たわっています。
巨大という言葉はその通りの意味で、舞台の端から端まで(横にも縦にも)聖母。
その顔の大きいことといったら!
そして、修道女たちは、丘のようになった聖母の体の上を歩き回り、
アンジェリカが息絶える場面では、聖母と同じ形でその上に横たわらされるフリットリ。
こういう演出は、本当に歌手に気の毒。
歌唱に加えて無駄な動きをさせられたあげく、それが報われないという事実、、。
演出家のロンコーニとデザイナーのパッリのアイディアは、非常に頭でっかちで、
観客がドラマを感じる邪魔になっているばかり。これでは何の意味もありません。

また、アンジェリカのアリア、”母もなく Senza mamma ”の後、
シスター・ジェノヴィエッファの"Sorella, o buona sorella, la Vergine ha accolto la prece
シスター、ああ、よきシスターよ、聖母はあなたの祈りに答えられた”
という言葉で始まるシスターたちの合唱は、メトの舞台がはっきりと表現している通り、
実際に修道院の中で起こっていることではなく、
すでにアンジェリカの心の中でだけ響いている言葉のはずですが、
そのあたりも、スカラ座の演出は非常にあいまいで、
まるで現実に修道女が飛び出してきたような印象を受けるほどです。

これに加えて、シャイーが『アイーダ』と全く同じアプローチ、
つまり、ある特定の楽器を強調したり、特定の旋律を強く出すなど、
個性を強く打ち出そうとするあまり、オケが大荒れ。特にラストの数分。
オケにきちんと彼のやりたいことが伝わりきっていないか、それとも、
この曲は(三部作概して全体にそうですが)、リズムの移行、曲想の変化、
と複雑な個所も多いからか、
いずれにせよ、無理して個性を打ち出そうとして崩壊するよりは、
きっちりと堅実に演奏してくれた方がよかったのに、と私は思います。

この演出とオケの二重苦では、どんなにフリットリが実力があったとしてもしんどい。
彼女のコンディション自体は悪くはなかったと思いますが、
メトでの歌唱に比べ、彼女が思い切り歌えていないように思われる個所が随所に
ありました。
メトのライブ・イン・HDでのカーテン・コールの際、万雷の拍手の中、
彼女がまだ役から抜け切れずに、呆然とした状態で挨拶にたったのとは対照的に、
今日はにこやかに子役の男の子を抱いて登場したフリットリ。
このテンションの違いが、舞台の濃さの差を物語っています。



メトの舞台のオケがややおセンチだとか、プロダクションがディズニー的だと笑うことなかれ。
いや、特にプロダクションに関しては、
あえて、そのわかりやすさをとったオブライエンの判断力を私は大いに評価したい。
ブロードウェイでの経験がそうさせるのか、彼の最大の強みは、照れなく、
誰にでもわかりやすい舞台を心がけている点にあると思います。
難解なフリをして、”意味がわからない?それは観客の頭が悪いからだ”と言って
結論づけるのは簡単だけれど、私はそれではいけないと思う。
舞台芸術は表現したい内容が観客にきちんと伝わってなんぼ、の世界のはずである。
平易な文体で、かつ、誰にも誤解されることのないように
ドラマを伝えられるオブライエンのような演出家というのは、今やとっても貴重だと思う。
そんなことをこのロンコーニの演出を見ながら思いました。
それはオケも一緒。おセンチでも、メロドラちっくでもいい、
まずは、歌と寄り添う音楽がありき。頭で考えすぎるな、です。

フリットリは本当に歌唱が安定していて、演技にも品がある。今好きなソプラノの一人です。
修道女の諸役は、メトがほとんど歌う個所がない役には若手を配置しつつ、
その他は比較的ベテランで固めていたのに対し、スカラ座は少し若手が
多かったのでしょうか?発声はきれいでしっかりしているのですが、
少し固い感じがする人が多かったような気がします。
『外套』のところで書いたとおり、オブライエンの腕が冴えているのは、
このそれぞれの修道女のキャラクターづけ。
メトの舞台は、このものの数十分の修道女たちの出番の間のうちに、
すでにほとんどの登場歌手の顔が覚えられるほどキャラクターがたっているのです。
厳しいながらもそこはかとない優しさとアンジェリカへの愛を感じさせる修道院長、
食いしん坊、または生き生きと現世と宗教の世界の間を行き来している仲間の修道女
(後者はハイディ・グラント・マーフィーが歌った)など、
まるで私たちもこの修道院に入り込んだような気がして、それぞれの人物を知っているような気になり、
だから、舞台で起こっていることがまるで自分の知っている人に起こっている出来事のように思えてくる。
それなのに、このスカラ座の『アンジェリカ』では、一人一人の修道女がまるで置物のように生気がなく、
あんなにメトの舞台では心もはりさけんばかりだった私が、描かれる全てが全くの他人事のように思われて、
どんどん心が遠いところに行ってしまいました。
フリットリのようないい歌手を登場させておいて、本当にもったいない話です。

プリンチペッサを歌ったリポヴシェクは、昨日のデヴィーアに続き、60歳を超えるキャリアの長い歌手。
デヴィーアと違うのは、声の衰えが著しい点ですが、
メトのブライスが歌ったのに比べると、かなり強面のおばさまで怖い。
その迫力で乗り切ってしまいました。
メトのブライスはやはり歳が若いせいもあってか、こういうのを観ると、
まだまだこの役の迫力を出すには時間がかかるかな、と思わされます。

このスカラ座の公演では、メトの公演ではカットされていた、
アンジェリカが自らの命を絶つために毒草を手折るシーンでの、
”夾竹桃(強烈な毒を有する)も、それから忘れな草(こちらは、
”私を忘れないで”というメッセージを残すために)もね。”という意の
歌詞が歌われる部分も演奏されています。

『ジャンニ・スキッキ』。
先ほどオブライエンが端役に至るまで役の描写が細かい、という話を出しましたが、
その彼の長所がいかんなく発揮されていたのが、メトでのこの作品。
ジャンニ・スキッキがある程度主役ではあるのですが、一にも二にもアンサンブルが重要なこの作品は、
ブオーゾの親戚一人一人が丹念に描かれているのとそうでないのとで大違い。
メトのプロダクションは下世話に走った個所もありますが(トイレを流す音の挿入など)、
気取らず思いっきり大衆的アプローチを突っ走るという決断は大正解で、
こんなに笑った『ジャンニ・スキッキ』は初めてでした。
そのメトのプロダクションでも、時代を少し現代寄りにしていましたが
(衣装の雰囲気からして、40~50年代あたりではないかと思う)
こちらのスカラ座はやや年代不詳系。ジャンニ・スキッキの格好が昔っぽいのですが、
他の登場人物は現代といってもよい格好です。
ラウレッタにいたっては、ぴかぴかした素材の布と、ぴっちりと束ねた髪が、
まるで未来からやってきた人のようにも見える。
要は、今も昔も変わらない物語、ということがいいたいのか、、?



レオ・ヌッチはまるで職人のようなゆるぎない技と自信でこの役を歌っていきます。
というか、ものすごく力強くて、こわいくらいに世慣れた雰囲気のジャンニ・スキッキです。
絶好調だったのか、声もこれまたこわいくらい良く出ているし、、。
メトでのコルベリがどこかかわいらしい隣のおじさん的雰囲気を残していたのとは
実に対照的。
これはどちらが優れている、という問題ではなく、同じ役が演じ方でこうも雰囲気が変わる、
という好例で、私はどちらも大変楽しみました。

そんなこわいジャンニ・スキッキの娘だけあり、ラウレッタを歌ったマチャイーゼ、
メイクのせいもあるのか、これまたものすごい迫力です。



軽い役をいろいろ歌っているようですが、本来この人は重い声の持ち主だと思います。
このラウレッタ役すら声が強すぎて、良いの悪いの、と判断する枠を越えているし、
(なんでスカラ座が彼女をこの役に起用したのか大いに疑問。)
まだまだ表現の面でも荒削りですが、私は面白い素質を持った歌手だと思います。
グルジア出身の彼女、雰囲気も現在の一部のレパートリーも
何となくネトレプコとかぶっているのですが、
(今年のザルツブルク音楽祭では『ロミオとジュリエット』で、
ヴィラゾンの相手役を歌ったそうですが、これはもともとネトレプコが歌う予定だったと記憶しています。)
よりスモーキーな彼女の声が生きる役ということで
精進を積んだ先のアイーダ役なんかを聴いてみたい気がするのですが、
(そしてネトレプコにはアイーダは歌えないと思う。雰囲気も違うし。)
ルックスが良いので、くれぐれも濫用されて潰れないことを祈るのみです。
というか、しかし彼女の巷のエクスポージャーの多さを見るに、
もはや手遅れなのかもしれませんが。

それからさらに観客の注目をかっさらったのは、リヌッチオ役を歌ったテノール。
若いし、ルックスも良いながら、
ちょっと羽賀○二風な水商売っぽい雰囲気が漂っているのがなんともいえませんが、
声はしっかりとしていて、かつまろやかな”男前声”で逸材です。
歌がやや押して押しての一点張りになりがちで、
もう少し引き算が出来るようになれば、もっともっと良くなると思いますし、
この役も少し彼の声の方が役のサイズを凌駕してしまっている感がなきにしもあらずですが、
彼の年齢とキャリアを考えると、破格の出来だったといえるでしょう。

見た事がないテノールだったので、手元に配布された公式のパンフレットを見ると、
ステファノ・セッコの文字が。いやいや、それないでしょう、、、こんな寂しい頭じゃないってば。


どうやら、配役交替が印刷に間に合わなかったようですが、実際に歌ったのは、
セッコではなく、ヴィットリオ・グリゴーロというテノール。



、、って、適当すぎやしないか?
歌手が命のオペラの世界。変更のお知らせくらい入れてほしい。
きっと、会場には、”へー、セッコって男前だし、なかなかいいテノール!”と勘違いした人が
たくさんいたはずです。

演出はあいかわらずやや凝りすぎ、考え過ぎで、ジャンニ・スキッキがブオーゾに
なりすましてベッドに入るために、ブオーゾの体(すでに死体)をベッドから動かすシーンの、
墓穴を思わせる少し窪まった床に、いきなりベッドが傾いて死体が滑り落ちていく様は、
『外套』のコンドーム登場場面に続いて、引きました。
この『ジャンニ・スキッキ』、演出とアンサンブル(歌だけではなく演技も含め)、
公演全体から溢れる温かい空気、とやっぱりメトの公演の方をとってしまう私ですが、
ラウレッタ&リヌッチオの若人コンビとヌッチの職人芸が気を吐いていたスカラ座でした。

”スカラ座の夜”全体について。
いまいちと思う公演&歌手に拍手が多かったり(さくら?)、
それは厳しすぎだろう!という反応があったり(これがスカラ座の常連たち?)、
いろいろでしたが、概して、ヌッチやデヴィーアなど職人の域に達している歌手を除いては、
メトで歌うときとは全く違って、歌手がぴりぴりとしているのが印象的でした。

そんなスカラ座は、貴重な場所ではありますが、
この世の中、歌手が歌うことを楽しめるオペラハウスがあってもよいではないか!
ということで、メトは今までどおり我が道を行くべし!
鞭のスカラ座に対し、飴路線をつきすすむのです!!

IL TABARRO
Paoletta Marrocu (Giorgetta)
Miro Dvorski (Luigi)
Juan Pons (Michele)
Anna Maria Popescu (Frugola)
SUOR ANGELICA
Barbara Frittoli (Sister Angelica)
Mariana Lipovsek (La Principessa)
GIANNI SCHICCHI
Leo Nucci (Gianni Schicchi)
Nino Machaidze (Lauretta)
Cinzia De Mola (Zita)
Vittorio Grigolo replacing Stefano Secco (Rinuccio)

Conductor: Riccardo Chailly
Director: Luca Ronconi
Designer: Margherita Palli
Costumes: Silvia Aymonino
Performed at Teatro alla Scala
Film viewed at Symphony Space, New York

*** プッチーニ 三部作 Puccini Il Trittico ***