Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

LA CENERENTOLA (Fri, May 2, 2014)

2014-05-02 | メトロポリタン・オペラ
自分のブログに自費で観に行った公演の正直な感想をそれなりに根拠を添えて書いてすらクレームが来るなんて
あまりにもびっくりしてしまって、驚いている間になんと一年以上が経ってしまいました。
Madokakipがへこんでいるのかな、と心配してくださったのでしょうか、励ましのお言葉、
それからさりげなく記事のupにつながるような心配りで書いてくださったと思われる内容のコメントもいくつかコメント欄に頂きました。
その方々には心からのお礼と、そして長らくお返事を差し上げなかった非礼をお詫び申し上げます。
どうぞ、ご心配なきよう、あのようなコメントをいただきましても、”ああ、これまで書いていたことの本質が全く伝わっていない相手もいるんだな。
時間と労力かけて一生懸命書いていた私が馬鹿だったな。なんか、必死こいて記事を書くのがめんどくさくなったな。”と思うことはあれ、へこむというような脆弱なメンタリティは持ち合わせておりません!
仕事も忙しくなって来たし、これでフェードアウトもありかな、まあ、こうして放置していればだんだん閲覧件数も減っていくだろう、と思っていたのですが、
先日久しぶりに記事の編集ページに行ってみて、あまり閲覧件数が減っていないのにびっくりしまして、
よもやgooの閲覧カウンターが壊れているんじゃ、、、との思いも頭をよぎりましたが、もしかして、もしかすると、書き込みをして下さった方々をはじめとして、
いつかこのブログが復活するのではないかと思って時々のぞき続けて下さっている方がいるのかもしれない、、、と思うと、なんとも申し訳ない気持ちになって参りました。
それに、このブログに終止符を打つのであれば、人のブログに土足で踏み込んで、偉そうな値踏みをしていく輩にタイミングを決められて自然消滅するのではなく、
自分の意志できちんと皆様にご挨拶をして幕を引きたい、とも思いました。

オペラへの愛は子供のしつけに対する考え方と似ていると思います。
ある人は、愛情があるなら厳しいことを言わずにのびのびと育てればよい、と思うし、ある人は愛があるからこそ、厳しいことのひとつやふたつ、、、とも思う。
けれども、人の家にずかずかと入り込んで、あなたのしつけのやり方は子供に厳し過ぎるから、ゆえに子供を愛していない、というようなことを決め付けて、だからもっと優しく接しなさい、と押し着せてみたりだとか、
逆にあなたは甘やかし過ぎだから、もっと厳しくしなさい、なんてことをずけずけ言ってのけるのは、分をわきまえない失礼な行動であるということを自覚して欲しいと思います。
それは、その家の人間が本当に子供を愛している場合、なおさらで、ほんと、余計なお世話とはこのことです。
人の愛情の表現の方法は色々で、どれが絶対に正しいなんてことはないはずです。
他の事ならともかく、私のオペラに対する愛情を疑問視したり、オペラが好きならこういう行動をとるべきだと強制するようなコメントはここでは二度と見たくないので、よろしくお願いいたします。
それから、愛する対象への厳しい言葉は、それがどれほどきつくあろうとも『悪口』とは性質を異にしますので、そこの見分けもつかない方には、このブログは全く向いてないと思います。
他にもたくさんオペラについてブログに書いていらっしゃる方はおられると思いますし、その中にはお花畑のようなブログもあるでしょうから、どうぞそちらを楽しまれてください。

また、私がチエカさんのブログの一部の読者のグリゴーロバッシングに対して苦言を申し上げたのは、彼らがグリゴーロに対してネガティブなことを書いているからでは全くありません。
彼らが実際に公演に足を運んでそう感じられたなら、”ふーん。そういう見方もあるのか。”と思うだけです。
私が軽蔑するのは、実際の公演に足を運ぶことすらしないで(はい、私はどのサインネームの方が実際にグリゴーロの公演を見たこともないということを知る程度にはチエカさんのサイトを頻繁にチェックしています。)、
YouTubeやらでちょい聞きした程度で歌手の歌唱を”二流”と決めつけ、
関係のない歌手の話をしている時にまで、ことある毎にその歌手を引き合いに出して貶める、そういうオペラファンなのであって、そういう人たちは本当に”暇な人”だと思います。
だけど、実際に聴きにいった公演の、ある歌唱に対する印象が全くよくなかった、それをきちんと理由だてて、その公演、もしくはその公演と何らかの関係のある・比較が有効な公演の記事の中で説明するのは全く必要かつ当然なことだと思うし、
それをやったからと言って”その言葉、お返しした”いと言われる筋合いなんてどこにもないと思います。

さっき書きました禁止事項以外のことであれば、どれだけ私のある歌手への評価に反対!という意見であっても、
なぜそう思うのか(単純に声が好きだから、顔が好きだから、、、何でも構いません)を合わせて教えて頂けるのであれば大歓迎! 喜んでお話させて頂きたく思います。

というわけで、この一年は全く公演の感想の覚書もとってませんし、今となっては2013-14年シーズンに見た公演全部の感想をupするのは不可能なんですが、記憶の新しいものや記憶に残った度が高いものを中心に、
またメトのシーズンオフ中にもいくつか観に行く予定の他カンパニーの公演(オペラ以外にも、バレエやみやびさんがコメント欄で教えてくださった歌舞伎のNY公演も含め)がありますので、それらと合わせてメトのシーズン・オフ中も記事をupしていこうかな、と思っております。

で、とりあえず、記憶の新しいところから、またbchamaさんの不運をカバーすべく、フローレスが復帰した、シーズン第四回目の『チェネレントラ』となる5/2の公演のレポートで復活したいと思います。



メトの2013/14年シーズン中、最も話題だった歌手の一人がハヴィエ・カマレナです。
彼は2011/12年シーズンにすでに『セヴィリヤの理髪師』でメト・デビューしているのですが、今シーズンの活躍で一気に認知度が高まったような感があります。
シーズンの終盤は、ベル・カント・ラッシュと言ってもよい感があって、『夢遊病の女』、『清教徒』、そして『チェネレントラ』が前後して、もしくはほぼ同時期に上演されていました。
カマレナはもともと『夢遊病の女』のみにキャスティングされていたんですが、ダムラウと組んだその『夢遊病の女』での歌唱が非常に評価が高く、
それが買われたのか、もしくは元々彼がアンダースタディだったのか、体調不良のため『チェネレントラ』の最初の3回の公演を降板したファン・ディエゴ・フローレスの代役は彼がつとめることになりました。

ところが、その『チェネレントラ』での代役歌唱の評価がものすごく高くて、新しいスターを手ぐすねひいて待っているオペラファンの中には”もうフローレスの時代は終わった。これからはカマレナだ!”とか、
カマレナをパヴァロッティの再来!とまで呼ぶ声まで出て来ている始末です。

あまりに初日の評価が高かったので、ちょうど『チェネレントラ』のチケットを手配しようとしていた私は頭を抱えてしまいました。
なぜならば、現在色々な理由で多忙を極めているため、『チェネレントラ』の公演には一回しか行けそうにないからです。フローレス or カマレナ、どちらかを選ばなければならない、、。
とそこで、メトが、二幕のラミロの”そう、誓って彼女を見つけ出す Si, ritrovarla io giuro" をカマレナがドレス・リハーサルで歌っているところの抜粋映像をアップしてくれていることに気付きました。
いつも繰り返しますが、録音はあくまで録音でしかないので、これだけを頼りにして決めなければならないのは非常に心苦しいのですが、仕方ありません。



なるほど、、確かにベル・カントのレパートリーを歌うにしては強靭で、芯のある、がっちりした輪郭の声をしてるな、と思います。
しかも、高音にものすごく強いんですね、、、フローレスや2008/9年シーズンに同役を歌ったブラウンリーは普通にハイCで処理しているところを、そこにさらにDを重ねて、
その音も申し訳程度に、もしくは苦しげに、もしくは怪しげに、もしくは妙な音で鳴ってます、という感じでは全然なく、
それまでの音と全く遜色ない響きと土台の力強さのまま高い音にエクステンドして鳴り渡っています。
あ、それを言ったら今シーズンの『清教徒』はブラウンリーが歌っているんですが、彼は数年前にマチャイーゼと組んだ『連隊の娘』も安定感を欠いたあまりぱっとしない歌唱で、、
一時期の勢いがちょっとなくなってしまっているような感じを受けるのは残念です。
フローレスに続け!と期待も高かったんですが、そんなゆるいことをしている間に、このカマレナのような人が出てきてスポットライトを奪って行くわけで、
ベル・カントという限られたレパートリーの役を互いに競っていくわけですから、油断できません。
カマレナに話を戻すと、声のカラー、音色に関しては、私個人的にはパヴァロッティを彷彿とさせるものはあまり感じませんが、
安定感から来る力強い響き(実際に劇場で聴いた人の話ではすごく良く音が鳴るそうです)がパヴァロッティの歌唱を思わせるのかもしれません。

しかし、その一方でベル・カント好きの人間からするとちょっと気になる側面もあって、それは彼の歌は興奮度が優先する・させるあまり、
プレシジョン、正確性といったものが軽く犠牲になっているように感じられる部分があるのと、
高音以外の部分、たとえばフレージング全体の美しさとかメロディーのアークの取り方、言葉の音への乗せ方、とか、その辺りではまだまだフローレスの技術の高さには追いついていないかな、という風に思います。
”フローレスはピークを過ぎた、これからはカマレナ。”などという声があるなら余計、それだったら今のうちにフローレスのラミロを聴いとかにゃ、と思ってしまいます。
カマレナはこれからもどんどん聴く機会があるでしょう。その時までにそれらの部分がブラッシュアップされていることを期待することにします。
ということで、これはかなり頭を悩ます選択でしたが、フローレスの公演に決定~!



そこでまた神の思し召しか、フローレスが体調不良から復帰する最初の公演(通算ではシーズン4度目の公演)に、一席だけ、燦然とディレクター・ボックスの座席が残っているではありませんか!!
ディレクター・ボックスとは、グランド・ティアーの最も舞台下手(舞台に向かって座って、左手の側)に近い、ほとんどオケピを横から眺める感じのボックスです。
舞台の一部は見切れてしまいますが、歌手が舞台前方で歌っている限りはまるで手にとるようにその表情が見えるうえ、しかも指揮者やオケの様子もばっちり観察できるので、このボックスは大好きです。

ドン・マニフィコ一家は前回(2008/9年シーズン)と全く同じキャスティングで、ドン・マニフィコをアレッサンドロ・コルべりが、そして意地悪姉妹をレイチェル・ダーキンとパトリシア・リスリーが演じています。
当時の記事にも書いた通り、『チェネレントラ』がメトで初めて上演されたのは1997年のことなんですが(バルトリらが出演)、
2008/9年シーズン、それから今シーズンと、舞台監督を変えつつも、その1997年からの演出が今も引き続いて使用されています。
意地悪ファミリーのコンビは2008年からの記憶がまだきちんと残っているからか、演技・歌唱いずれのアンサンブルもすばらしく息の合ったそれで、
しかも、今回の舞台監督の手腕が良いのか、はたまた主演陣の歌唱のレベルの高さに感化されたのか、2008/9年の公演以上に生き生きとした、
それでいて必要以上のどたばたに陥らない、役の領分をわきまえた歌唱と演技で、主役陣をうまく盛り立てていたと思います。

コルべりはもう60歳を過ぎていますし、声のパワーは以前と比べて衰えている部分はありますが、
もともと声自体は軽めでパワーや音色で聴かせる人では全くなく、安心して観て・聴いていられる歌唱力とタイミングの良いコメディックな演技力(特に後者)に強みがある人だと思います。
特に、自分も舞踏会に連れて行って欲しい、と懇願するチェネレントラを、王子やダンディーニの目前で、虐待すれすれのやり方(ディドナートをステッキで羽交い絞め!)で脅し、いじめ、阻止する”だめ父”ぶりは、
本人が他の場面以上に生き生きと演じていて、実に楽しそうですらあります。



チェネレントラ役のジョイス・ディドナートは、以前からこのブログでも折りあるごとに触れてきた通り、素もすごくチャーミングでポジティブ・オーラに溢れたアーティストです。
彼女の声の少し独特な音色と歌唱技術の長所(特に早いパッセージでの上手さ)のコンビネーションから、個人的には一番ロッシーニのレパートリーが向いていると思っているのですが、
彼女の地のキャラクターとどことなく通じる雰囲気のあるチェネレントラはその中でも特に彼女に向いた作品なのでは?と推測していました。
というのも、彼女の"Non più mesta"はメト・オケのコンサート等で単独で聴いたことはありますが、彼女のチェネレントラを全幕で鑑賞するのは今回が初めてなのです。

彼女は元々あまり高音に強いメゾではなく、レパートリーの最高音域を軽くアタックしてすぐに降りてくるような時は綺麗な音を出すのですが、
フルブラストで長い音を鳴らす時になると少し音にすかすかしたブリージーな感触が混じることがあり、以前はそれでも気合で押してそれをあまり気にならないレベルに押しとどめていたんですが、
メトで『マリア・ストゥアルダ』を歌ったあたりからその傾向が以前よりさらに顕著になり、以前に増して高音が出にくくなっているような印象を持ちます。
大体同時期と思われる2012年のグラミー賞の場でも、"Non più mesta"を披露しましたが、その歌唱にも似た感想を持ちましたし、今日の歌唱もやはり、似た印象でした。
また、少しお疲れモード、もしくは声のコンディションがあまり良くなかったんでしょうか、全体的に声がドライで、
マリア・ストゥアルダの最高音域以外で鳴っていた、劇場にたゆたうような美しい響きがあまり今日は聴かれなかったのが残念です。

2008/9年にチェネレントラを歌ったエリーナ・ガランチャはその点、彼女と全く対照的なタイプの歌手と言ってもよく、彼女はメゾとしては楽々と高音を出しますし、
また低音域から高音域までの統制のとれた均一な響きはトップクラスの歌手の中でもさらに上位何パーセントというようなレベルのそれです。
また声そのものの美しさも印象的で、ディドナートが早いパッセージでちゃきちゃきとした魅力を発するとすれば、ガランチャの方はむしろ、ややゆっくり目のパッセージ、
ラストの部分で言うと、Non più mestaよりは、その前のNacqui all'affannoの部分の美しさで私などは、”おお!”と感嘆してしまったのでした。
ちなみに、その2008/9年の公演での彼女の歌唱はこちら。




また、作品通しで、歌唱技術全体を見て隙がないのももしかするとガランチャの方かもしれないな、と思います。
私は過去にガランチャの歌でしかこの作品を生鑑賞したことがないので、その記憶がかなり鮮明に残っていて、意識しなくとも、ついそれと比較してしまいます。
そうすると、ガランチャに比べると、ディドナートは、より”人間らしい”処理の仕方で歌っている箇所もあったりして(たとえば細かくはありますが、音の粒の揃い方とか、、ガランチャは半分ロボットみたいに正確なので、、)、
「あれ?」と思ったりもするのですが、それではディドナートのチェネレントラはガランチャのチェネレントラよりだめなのか、と言われると、その答えがNoでないところが実にオペラです。

高音の安定感、声そのものの圧倒的な美しさ、低音域から高音域にかけての音色のなめらかな統一性、これらの側面でほんの数ミリガランチャに譲っているディドナートですが、
ディドナートのチェネレントラには言葉では説明の難しい、これぞ役との相性、とでも言うしかないソウルとかハートとでも呼びたくなるようなものがあるため、
全幕を見終わった後でどちらが”ああ、チェネレントラを見たなあ。”という実感が強いかというと、ディドナートだったりするんです。

チェネレントラってよく考えてみると、その行動に結構自信家で図太いところもあったりして、下手すると同性に嫌われやすいタイプではないかと思うんですが、
そんな逞しさを感じさせつつも、それを嫌味でなく、女性から見てもチャーミングにディドナートは表現してくれます。
また、ガランチャは出身地(ラトヴィア)も関係があるのか、若干この役にはウェットで、じとーっと王子が彼女を探し出してくれるのを待っているような雰囲気が漂っているんですが、
ディドナートのチェネレントラはもっとドライでパワフル。
美しく変身した姿で腕輪の片割れをラミロに渡した後に、灰かぶり娘状態に戻ってももう一方の腕輪を身につけ、気高く、
ほとんど自信に溢れた様子でラミロの登場を信じているかのような佇まいは、より現代的で、若い世代のオーディエンスにも共感しやすい役作りなんじゃないかな、と思います。



ガランチャの女性らしい声質・歌唱スタイルに比べて、ディドナートの少し野太目な音色、それから早いパッセージでのばりばり感(ここはガランチャにはないディドナートの最高の強みだと思います)は、
そんな彼女のチェネレントラ像をよく補完していると思います。

2008/9年の公演も良かったんですが、それに増して今回の公演はチェネレントラ役だけに限らず、全体としてもより良くまとまったコヒーシブな舞台だな、と好印象を持ったんですが、
それにはディドナート以外のメインの役における配役の妙があったと思います。



まず、家庭教師アリドーロ。
この演出では、アリドーロって本当に人間の家庭教師なのか、それともこの世の物でない存在なのか(なぜか天使みたいな格好だし、、、)よくわからない感じがあるんですが、
前回の公演で同役を歌ったジョン・レリエは、ばりばりと低音の良く響く声と背が高くて男性っぽいたたずまいのせいか、人間・家庭教師の雰囲気もそれなりに保っているため、
天使みたいなコスチュームも、コスプレ好きな家庭教師が仕組んだ遊び、みたいな雰囲気もあり、それはそれで面白かったのですが、今回キャスティングされている、ルカ・ピサロ二。
彼は以前から、なんか面白い歌手だな、と思っているんですが、ますますその印象を強くしました。
まず、ピサロニは愛犬家で知られていて、飼っている二匹の犬の片方がダックスフントである、という、その点からしてすでに、私個人的にはかなりポイントが高いんですが、
(今回の公演のために、わん二匹もヨーロッパからNYに同行して、随分NYライフを満喫されたようです。FaceBookで確認できるこの親ばかぶりは、私に負けてません。)
それを抜きにしても、彼はアーティストとして、非常に面白い個性を持っているな、と思って注目してます。その彼の個性とは”良い意味で個性がないこと。”
普通メトに登場する位の歌手になってくると、それなりに本人のカラーが前面に出ている人が多く、人によってはそれこそ何の役を歌っても○○だな、と思わされることがあったりもするものですが、
ピサロニはこれまでメトでいくつかの舞台を拝見してますが(『フィガロの結婚』のフィガロ、、『ドン・ジョヴァンニ』のレポレッロ、『魔法の島』のキャリバン、そして、今回のアリドーロ)
毎回カメレオンのように雰囲気が変わるので本人がどんな人なのか、今もって皆目不明なくらいです。
それでいて、どの役も結構器用に説得力を持って歌うんです。キャリバンなんか、ものすごいモンスター姿で本来の顔すらわからないような状態だったのに、
あの激厚メークの下からきちんと表現の意図の伝わってくる演技と歌唱を披露していましたし、
かと思うと、グランデージの演出がプレミエした際は、ちょっとワイルドな男臭いレポレッロも上手く演じてました。
(下はメトのHDの『ドン・ジョヴァンニ』からのカタログの歌の歌唱です。)



声や歌唱には、嫌味な癖がなくて、素直でクリーン、といった言葉が真っ先に浮かんでくるのですが、何色にも染まっていないというか、
演技と同様、歌唱から受けるイメージも毎回役によって違う雰囲気の出てくる不思議な人です。
で、そのピサロニが今回演じたアリドーロは、『ドン・ジョヴァンニ』のレポレッロ役で見せたマッチョな雰囲気とまるで同じ歌手に思えないほどか細く、
ほとんどフェミニンな、それこそその場で消えてしまいそうな、この世のものでない的雰囲気を一人醸しだしてました。
レリエが天使のフリをした家庭教師だったとすると、ピサロニは家庭教師のフリした天使、そんな感じの違いです。



ダンディーニ役はドン・マニフィコ役と共に喜劇的な屋台骨を支える大事な役。
2008/9年の公演では、アルベルギーニが同役にキャスティングされていましたが、王子とそう年の変わらない雰囲気で歌い演じていてそれはそれでなかなかに良かったです。
今回の公演でこの役を歌ったのはピエトロ・スパニョーリ。今シーズンのこの『チェネレントラ』がメト・デビューになります。
アルベルギーニがちょっと突っ走り系おっちょこちょい、だけど根は優しくて憎めないダンディーニだったのに対し、
スパニョーリの方はかなり親父っぽく、突っ走っているというよりは何事につけあまりやる気がなく、ちょっととぼけてる感じの役作りなんですが、、
その親父っぽい風采のおかげで、ラミロと再度アイデンティティ交換を行って、本来の従者の姿に戻った後のドン・マニフィコとのやり取りになんともいえないリアリティが漂ったのが素敵でした。
万時やる気なさげなダンディーニに突然訪れた王子のフリとそれに伴う興奮という”超日常”という楽しみの終焉、
そして、再び従者としての際限ない退屈な繰り返しの”日常”&やる気ないモードに戻らなければならない、という寂寥感とアパシーがドン・マニフィコとの間に感じられて、
チェネレントラはものすごい幸運をつかんでしまいすが、99.9%の人間にとってはこの退屈な日常が普通。
私も間違いなくそういう一般ピープルの一人ですので、それがまたちょっとせつないというか、しかし、それでいて愛しいというか、、、意外なところが美しい場面になりました。
スパニョーリはメトのような大箱で聴いてもよく声の通る人だな、という印象です。
ただ、この役はそれほど奥行きのある役でも繊細な役でもカリスマが必要な役でもないので、
それらが必要とされる役を歌う時にどれ位の力を持っているのか、というのは、また再びメトに戻ってくれる時にじっくり聴いて確認したいと思っています。



そして最後になってしまいましたが、ラミロ王子役のフローレス。
もう第一声が出て来た時のこの色気!これがやはり特別な歌手を特別なものにする一番の要素なんだ、と本当に思います。
カマレナの声のような強さはないですが、さっと広げた上質の絹のような味わいと感触があります。
いくら歌唱技術が優れていようが、どんなに高い音が出ようが、この生まれもった声 ~別にスタンダードな意味での美声でなくてもいいですが、
何か一声でオーディエンスの心に訴えかけてくるようなそんな力を持った声~ これはやはり”色気”としかいいようがないんでしょうが、それがいかに大事かというのを思い知らされます。

告白してしまいますと、実は今日の公演で私が一番驚いたのは、ビジュアル的にフローレスが老けたことです。
いや、もともと若々しい人なので、老けたと言ったら言い過ぎなんですが、以前とは雰囲気が変わったな、と思いました。
私が彼をメトで最後に見たのは2011/12年シーズンの『オリー伯爵』だと思うんですが、あの頃くらいまでは、彼特有の”永遠の青年”的な佇まいを保っていたように思うのですが、
やはりお子さんが出来た(確かオリーのHDの日当日の朝方近くに赤ちゃんが生まれた、というような話だったはずです)ことが関係しているのか、
よく言えばパパらしく、悪くいえばちょっとおじさんっぽくなったな、と思います。
でも、私がれっきとしたおばさんだから言うのではないですが、これもまた素敵なことだと思います。
フローレスはトーク・イベントに参加した時に受けた印象からも、すごく感じがよくて決して傲慢な人ではないですが、
やはり、若い時というのは”自分ががんばらねば!”というのが前面にでてしまうものです。
ましてや、ロッシーニ作品をはじめとしたベル・カントの主役テノールに求められるアクロバティックな歌唱を毎回コンスタントに繰り出さなければいけないのはすごい重圧だし、
それが成功したら”どうだ!”という気持ちになって当然だと思います。
でも今回の彼はなんというのか、、自分のことより何より、周りのキャストへのまなざしがあたたかくて、それは本当に素敵だな、と思いました。

昨シーズンか昨々シーズンだったかに、オペラ・ギルドのトークのイベントで、自分の声が変化して来ているから、色々実験している、というような趣旨のことを言っていたような記憶があるのですが、
その時は正直、へー、そんなことをやっているのか、とちょっとびっくりした記憶があります。
当時は公演を聴く限り、私にはまだまだ以前通り、十分軽く、また高音もしっかり鳴っているように聴こえていたので。
彼の声が以前と同じでないな、というのをはっきり意識したのは今日の公演がはじめてです。
この10年以上、ベル・カント、特にロッシーニ作品の主役テノールとしてほとんど彼はアンタッチャブルな地位をキープして来ましたが、
その理由の一つは彼のゆるぎのない、何があっても失敗するなんてことは絶対にありえないと思えるほどセキュアな高音とその音色の魅力でした。
しかし、彼の声の変化が一番如実に出ているのが、まさにその高音での音の響き・テクスチャーです。
最初の公演三つをキャンセルしているので、コンディションの問題も多少はあるのかもしれませんが、
しかし、そこに至るまでの音域では以前と変わらず全く綺麗な音でインタクトですし、
それに彼は以前、『連隊の娘』の土曜のマチネのラジオ放送で、”風邪引いてます”と堂々宣言していました(たしかダムラウとの共演で、彼女と二人で風邪をひいていたと記憶してます)が、
その時の感じともまたどこか違っていますので、私自身は風邪ではなく、より長期的な変化によるものの可能性が高いと思っています。
一言で平たく言うと、高音に以前ほどの輝きがなくなった、と言えるのかもしれません。
で、そのあたりを指して、フローレスは終わった、みたいな失礼なことを言う人が出て来るんでしょう。

しかし、あなたが高音の音の響きしか聴かないハイC馬鹿でもない限り、そんな断定は無用、
彼の歌はまだまだキング・オブ・ベル・カントの名に恥じないすばらしい内容のものです。
”必要は発明の母”という言葉がある通り、高音が以前のような音で出しにくくなっている、ということが理由になってもいるのかもしれませんが、
彼のフレージング美へのこだわりと、そのエグゼキューションレベルの高さは感動ものですらあります。
高音とかトリッキーな音型、迅速さをもとめられるパッセージは、ともすると、それ自体が手段でなく目的になってしまいがちですが、
彼の今日のラミロ役の歌唱を聴くと、それらが目的には全くなっていなくて、常に役の表現、音楽、といった”全体”が優先されていることがよくわかります。
そのために、(高音はある程度年齢等によって避けがたい部分もありますが)あらゆる歌唱部分は磨きに磨かれ、どんなに難しいフレーズでもいとも簡単に歌いこなしてしまうので、
なんだか、すごく簡単なパートを歌っているような気がしてくるのがなんともおそろしいところです。

以前、アンジェラ・ミードの歌についても同じようなことを書いたのですが、このタイプの歌唱・歌手の損なところはこのマスタリー度の高さゆえに、
かえって、どれほど大変なことを成し遂げているか、あまりオペラやベル・カントになじみのないオーディエンスにはわかってもらいづらい部分がある点です。
大変だ、ということがもはやわからないまでに、歌唱を極める。
それをやってのけているアーティスト達は損得なんて全くもって考えていないのでしょうが、
この彼らのやっていることの素晴らしさ・すごさが通じない相手がいるのを見るにつけ、それが痛いほどわかる人間は臍をかむというものです。
どれ位高い音が出るか、とか、それをどれ位のばせるか、とかだけでなく、こういうところへのこだわり、あくなき探究心、歌いまわしや言葉の乗せ方のセンスとそれを可能にするための鍛錬、
それらこそ、これからフローレスに続く若いベル・カント歌いたちに見習って欲しい点です。



フローレスが出演する公演には最低一公演、時には複数公演、足を向けているにもかかわらず、私がいつも彼のアンコールを逃し続けて来たことはこのブログを継続して読んで下さっている方ならご存知の通り。
あまりに運が悪いので、もう私は死ぬまで生でフローレスのアンコールを聴くことはないのだわ、という悟りに至ってしまって、今日はすっかりそんなことも忘れてしまっていました。

自分の代役で歌ったカマレナの評判については当然フローレスの耳にも入っていたはずですが、
しかし、キング・オブ・ベル・カントにも意地ってものがありますから、ここは彼も負けてられません。
そんな意地が昇華して、”そう、誓って彼女を見つけ出す Si, ritrovarla io giuro"ではものすごい気合が伝わってきました。
彼がこんな気合で歌う時は、素晴らしい内容にならないわけがなく、歌唱後、ト書きにそった退場のため、扉の向こうに出て行くフローレスを追いかけ、
そして、彼をもう一度舞台にひっぱりださん、と、まきあがる大喝采と大歓声と拍手の嵐。すごい観客の熱狂ぶりです。
そうしたら、しばらくして再び扉があいてフローレスが挨拶のため、再登場。
観客のアンコールおねだりの歓声がすごいことになっていて、そこで、”あ、そうだ、ここでアンコールすることもあるんだった。”とようやく気付く私なのでした。おそっ。
まったくもってやみそうのない歓声の嵐に、どういう風にフローレスがコミュニケートしたのかいまだにわからないんですが
(あんなに至近距離に座っていても、特にフローレスから指揮者に何かサインが出たような感じはキャッチできなかったのですが)、
指揮のルイージがオケのメンバーに”楽譜、少し前に戻って。”という手サインを出しているのが見えるではありませんか!

うそ?うそ?まじで????アンコール??????(Madokakip、感涙

ああ、もう夢のようです。何年も夢見たアンコールがこんなにあっさりと起こっていいものなんでしょうか?!
しかも、今日はディレクター・ボックスゆえに、手の届きそうな距離のところでフローレスが歌っている、、あまりにもシュールで気を失いそうです。

彼の歌が素晴らしいのはもう当然のことなんですが、今回この『チェネレントラ』という演目で彼の出演する側の公演を選んで本当に良かった、、と思いました。
それは、彼のルックスです。フローレスって以前より少しおじさんっぽくなったといっても、やっぱり王子役がよく似合う。
ダンディーニと身分の取替えをしても、”こちらが王子です。”というのが歴然と伝わってくるし、
チェネレントラがずっと従者だと思っていた相手が実は王子だった!という、文字通りの”シンデレラ・ストーリー”的インパクトが、フローレスみたいな歌手が王子役だと、100倍にも200倍にも膨れ上がる感じです。
『シンデレラ』に初めてふれる女児の多くは、いつか自分にもこんなハンサムで身分の高い男性が現れるのだ!と、目をハートにするわけで、ハンサムx身分が高い、この二点が入っていることがポイントです。
2008/9年のブラウンリーのラミロ王子は歌は非常によくがんばっていると思いましたが、片方がおっこちている点で(すまない、ブラウンリー、、、)、
彼が王子だと判明しても、今ひとつ子供の時に感じた”いいなあ、シンデレラ~”という羨望の思いを感じない。
むしろ、これでいいのか、シンデレラ?とすら、思ってしまう(重ねて、すまない、ブラウンリー、、、)
申し訳ないが、カマレナでも、その点では似た感じになると思います。
でも、フローレス!
彼のラミロ役でこの作品を見ると、私の奥に眠っていた5歳当時のMadokakipが”うおー!!シンデレラ、うらやまし~!!”と叫びまくって、それはもう大変でした。
やっぱりシンデレラの物語はこうでなければ。

しかし、ふと、こうも思いました。
なんか、こんなこと思ってしまう私って、フランスのエロじじい化してる、、?
そこで、彼に”私がいつの日かあなたとそっくりなことを言い出すことになるとは、誰が想像したでしょう?”という言葉を書き添えて、
フローレスのルックスのおかげで、どれほどシンデレラ・ストーリーがリアルなものに感じられたか、正直に書いてメールしてみました。
そうするとすぐに彼から返事が。
”そうだよ、君もやっとわかってきたようだね。”
でも、言っときますが、フローレスは歌唱も超一級ですから!!


今日の指揮は先にも書いた通り、ルイージ。
ヴェルディとかワーグナーの作品での彼の指揮については、近年個人的には失望続きでしたが、
この『チェネレントラ』のような、猛烈なエモーションを感じさせる必要はないが、娯楽性とかつデリケートさや繊細さが必要な演目での彼の指揮はとっても良いと思います。
音楽が自然に流れていて、とても楽しめました。
しかし、ある方から、彼の『蝶々夫人』もすごく良かった、と聴いてかなりびっくりしてます。
バタフライほどエモーショナルな演目もないですからね、、、うーん、聴いておきたかったです。(聴きのがしました。)


Joyce DiDonato (Angelina, known as Cenerentola)
Juan Diego Flórez (Don Ramiro)
Pietro Spagnoli (Dandini)
Alessandro Corbelli (Don Magnifico)
Luca Pisaroni (Alidoro)
Rachelle Durkin (Clorinda)
Patricia Risley (Tisbe)
Conductor: Fabio Luisi
Production: Cesare Lievi
Set & Costume design: Maurizio Balò
Lighting design: Gigi Saccomandi
Choreography: Daniela Schiavone
Stage direction: Eric Einhorn
Grand Tier DB Front
OL

*** ロッシーニ ラ・チェネレントラ Rossini La Cenerentola ***

OTELLO (Wed, Mar 27, 2013)

2013-03-27 | メトロポリタン・オペラ
Aキャストではボータの不調とそれに伴う代役選びでひやひやさせられた『オテロ』
(初日&二日目の公演についてはこちら。またHDの公演についてはこちら)。
あれから約五ヶ月を経て、Bキャストでの上演が始まってます。

一時期はオテロ役におけるドミンゴの後継者ではないか?とまで言われていた記憶のあるクーラ。
私も映像や音源で彼の『オテロ』を拝見・拝聴したことはありますが、意外にもメトでこの役を彼が歌うのは今シーズンが初。
というわけで、彼のオテロを生で鑑賞するのは私もこれが初めて。
それからデズデーモナ役には私の好きなソプラノの一人であるストヤノーヴァが、
そして、2011年のメトの日本公演(『ルチア』)でカンパニー・デビューを果たしているアレクセイ・ドルゴフが今回カッシオ役でいよいよ実際にNYで舞台に立つとあってこちらも楽しみです。
ところがこういう時に必ず水を差す人がいるもので、さて、チケットを購入しようかな、と、メトのサイトでイアーゴ役のキャスティングを見て口から茶を吹きそうになりました。
トーマス・ハンプソン、、、。
私はいくつかの理由から彼のことが元々かなり苦手なのですが、昨シーズンの『マクベス』は、彼の歌唱とナディア・ミヒャエルの夫人役とが相まって、
今でも思い出したくない悪夢のような公演で、あれ以来、彼のヴェルディは絶対に避けねば!と強く心に刻んでいるのです。
すると、おや?3/27の公演だけ、イアーゴ役がマルコ・ヴラトーニャというイタリア人バリトンになっているではありませんか。しかもこれがメト・デビュー。
普段はランの一日だけ違うキャスト、特にそれがメト・デビュー、という場合はYouTubeでそれなりにその歌手のことをリサーチしてからチケットを購入するのですが、今回は全然ノー・チェック。
ハンプソンでなければ誰だっていいわ、もう!です。


(今日の公演でイアーゴ役を歌ったヴラトーニャを含む舞台写真は残念ながら存在しないので、この写真ではハンプソンがイアーゴです。)

今回、たまたまグランド・ティアの舞台から二番目に近いボックスの前列に一席空きがあったのでそれを抑えました。
Aキャストの指揮はビシュコフでしたが、Bキャストはアルティノグル。
この人は忘れもしない、以前『カルメン』でカウフマンへの視界をブロックされ、後ろから首を絞めてやりたい思いに何度もかられたフランス人指揮者です。
しかし、彼はそのような直接の害がなければ、遠くで見てる分には穏やかで人の良さそうな感じの人で、
むしろ、こんな羊みたいな人に『オテロ』の指揮が務まるんだろうか、、とにこにこしながら観客に挨拶している彼を見て心配になって来ました。
あの『カルメン』の時も、悪くはないけれど、かといって特別なことも何もしない指揮者、、という印象でしたし。

ところが、冒頭、オケがどかーん!とあの嵐を描写する音楽を奏で始める時、このモシンスキーの演出では雷光がばちばちっ!と舞台に走るのですが、
オケの演奏の音圧と相俟ってすごい迫力で、私などは座席から一センチ位お尻が浮きそうになりました。
最初はこの迫力は舞台に近い座席に座っているからなのかな、、、?と思ったのですが、オテロ役のクーラが歌い始める前までの数分の演奏を聴いて確信しました。
今日はオケが超ONだーっ!!!ハレルヤ!!!!

『オテロ』はメト・オケが演奏しなれた演目の1つだと言ってよいと思いますが、それゆえにアルティノグルの“何もしない作戦”“勝手にオケに演奏させる作戦”が功を奏しています。
Aキャストの時のビシュコフは自分なりの演奏をしようとしていて、その意欲は高く評価しますが、
リハーサルの時間が足りなかったのか、彼の意図が今ひとつ上手くオケに伝わっていなかったのか、
特に初日なんか、オケが演奏したい方向と指揮者が目指している方向が微妙に噛み合っていない感覚がありましたが、
今日はもうオケがのびのびと自分たちのやりたいように演奏していて、しかし、緊張感は損なわれておらず、情感豊かな演奏で、
私は指揮者が自分のやりたい方法にがっちりはめようとする演奏よりは、オケの自発性を感じる演奏の方を好む傾向にあるという自覚が前々からあるのですが、今日の演奏でそれを激しく再確認した次第です。

難破しそうな自国の船、そしてそれを飲み込まんとする海を見つめて言葉を交わす合唱やソリストの掛け合いからもう手に汗握る迫力でドキドキしてきました。
嵐を乗り越えた船に人々が歌います。
“All’approdo! Allo sbarco! 着岸したぞ!船を降りたぞ!”
“Evviva! Evviva! 万歳!万歳!”
そして、いよいよオテロ役のクーラが歌い始めます。どきどき。
“Esultate! L’orgoglio musulmano sepolto è in mar; nostra e del cielo è gloria! Dopo l’armi lo vinse l’uragano.
喜べ! 傲慢な回教徒どもは海中に葬り去った。栄光は我らと神のものだ!奴らは敗戦の後に嵐で殲滅した。“

、、、、、、、。

クーラももう50歳、このEsultateの部分を楽々と歌える時期はとっくに過ぎたと見え、歌が走る走る!
言葉の間に十分な間がなく、慌しく畳み掛けるような歌い方で、
“この部分はとっとと終わらせちまいたいぜ!”というのがありありと感じられる歌唱でした。
しかも、ただ早いだけでなく、それぞれの音の長さの正確さや音程もかなり微妙な感じで、
正直、この部分の歌唱が終わった時点では、私の頭の中で“今日のオテロ、もしかしてやばい??”という声がエコーしてました。

ただし、クーラの声の音圧と重量感、これはすごい。まじでバズーカ砲みたいな音です。
Aキャストのボータやアモノフのオテロの記憶なんて、この声の音圧で軽く吹き飛んだ、って感じです。
いや、それを言ったらムーティ指揮のシカゴ響がカーネギー・ホールで演奏会形式で演奏した『オテロ』(感想はまだあげてません。)でタイトル・ロールを歌ったアントネンコも、
その時は割りとロブストな声をしてるな、と思いましたが、今日のクーラと比べたらまだ可愛いもの。
他の歌手との比較だけでなく、クーラ自身がメトで過去に歌った他役と比べても、ここまでの音圧を感じたことがないので、何か役との相乗効果がなせる技なのかもしれないな、と思います。

Esultate!の部分でかなり不安にさせられたクーラでしたが、ストヤノヴァが登場してからの二重唱(“もう夜も更けた Già nella notte densa”)あたりから歌唱が安定して来て、その後はもう!!

以前にもどこかの記事で書いたと思うのですが、クーラという歌手にはどこか得体の知れないところがあって、良い時と悪い時の差があまりに激しいので、
私のヘッド友達にも彼が良い歌手かそうでないのか、今ひとつ判断しかねる、、と言っている人がいるんですが、
私も彼を初めて生で聴いて以来、2008/9年シーズンの『道化師』を聴いてこんなに力のある歌手だったのか?とびっくりするまでの10年近く、あまり高く評価してませんでした。
というのは、彼の歌は往々にして力任せになりがちで、それがドラマと噛み合わないと共演者をそっちのけで単に歌が暴走しているだけ、という印象を与えましたし、
時には歌そのものの乱暴さが程度を越して、正確性の点でこちらの許容度を越えるような公演もあったからです。

しかし、今日の公演はその情熱が単なる力任せにならず、見事に演技と噛み合っている。
歌も単なる乱暴の烙印を貼られるぎりぎり手前のところを走っていてそのスリリングなこと!!
単にカッシオがデズデーモナにオテロとの取りなしを頼んでいるに過ぎない、
その様子をイアーゴが利用して段々とオテロの胸の中に彼らが不倫を働いているのではないか?との不安を広めて行く場面での、
オテロの感情が刻々と変化して行く様子も実に描写が細かくタイミングが的確で、DVD化もされているリセウの2006年の公演(ストヤノーヴァとはこの時も共演してますね。)と比べても
一層解釈が深まっている感じで、これはオテロという役の解釈の1つのあり方として最高のレベルに達していると感じられるものになっています。

また彼は『道化師』の時もそうでしたが、役が正気を失う手前の、神経が極度に過敏になってぴりぴりしている時の歌唱・演技表現が非常に巧みで、
今回のオテロに関しても、イアーゴやデズデーモナに対する当り散らし方もかなり怖いですが、
それ以上に、自分の感情をコントロールできない自分自身への怒り、その表現が本当に素晴らしいと思います。

それから、力を出さないことによってかえってどれほど潜在的にすごい力を持っているか、ということを演技で表現しているのも上手いなあ、と思います。
先に書いたイアーゴが段々とオテロの胸中に疑惑の種を蒔くシーンではイアーゴの喉元を片手で摑んでそのまま机に投げ飛ばしていましたし(ヴラトーニャもハンプソンも決して小柄ではないのに!)、
また、オテロがデズデーモナを殺す場面はせつなくて、オテロが彼女の息が絶える姿を正視できずに、
彼女がいるのとは逆側の自分の肩を向き、その肩に顔を押し付けて泣き声を抑えながら、もう一方の片手だけで彼女の首を絞め上げて殺してしまうのですが、
この場面ではその微かな泣き声も歌唱の一部になってしまっていて、胸を衝かれました。



この『オテロ』の公演の前の週に、私はワシントンDCにオペラ旅行して来たのですが、
日中、スミソニアン国立動物園に立ち寄っている時、ライオンがかなりの長時間に渡って吠えている現場に行き当たりました。
あまりに強烈な吠え声なので、仲間同士で殺し合いでも始まっているのか?とびっくりしましたが、
何匹かいるうちの一頭だけが普通に遠くを見ながら吠えているだけで、ライオンって単独でもこんなにすごい声を出すのか、、とびっくりした次第です。
ものすごい広範囲の半径にわたって空気が震撼しているのが感じられるのです。
まさにこれこそ、録音には絶対に入らない種類の迫力声!
ライオンがオペラ歌手になったら、オペラハウスでは大人気なのに、録音ではいまいち良さがわからん、、とか言われて、
損するタイプの歌手になるんだろうなあ、、などととめどもないことを考えていたのですが、
今日舞台をのし歩いているクーラの姿とバズーカ砲のような声はまさに野放しになったライオンそのもの!
下手したら次の瞬間にも誰かの頭を食いちぎりそうな緊張感が常にあります。
と同時に、ボータやアモノフのオテロに決定的に欠けているのはこの感覚なんだ!と思いました。
ボータやアモノフはクーラに比べると声も佇まいも本当おっとりしていて、獅子というより象みたい。

第三幕では実際にテキストの中にオテロを指してLeon/Leone(獅子)という言葉が登場しますが、
ボータやアモノフみたいなオテロだと、この言葉が単なる強者を表す比喩の意味で使われているようにしか感じられません。
クーラのような演じ方をしてこそ、イアーゴが失神して倒れたオテロに向かって吐く“Ecco il Leone! これが獅子だとよ!”という言葉が何倍も生きて来ると思うのです。

この“Ecco il Leone!”の前に、“Chi può vietar che questa fronte io prema col mio tallone? こいつの頭を俺のかかとで踏みつけるのを誰が妨げられるか?”というイアーゴの言葉があるので、
私がこれまでに見たメトのモシンスキー演出の公演では、“Ecco il Leone!“の言葉に合わせてイアーゴ役のバリトンが
(さすがに頭を踏みつけるのは抵抗があるため)床に倒れたオテロ役のテノールの胸の辺りに足をのせて踏みにじるような動作をする、というパターンが多いのですが、
クーラのオテロ役が迫力あり過ぎで、あまりに怖かったんでしょう、
イアーゴ役のヴラトーニャが頭どころか胸の上ですら足を置くことをためらって、空中に足を浮かせたまま片足立ちになって“Ecco il Leone!”と歌っていたのはちょっと間抜けでおかしかったです。
この期に及んでオテロに遠慮するイアーゴ、、。
確かにかかとがクーラの胸に触れた瞬間、“てめえ!何まじで足のせてんだよ!”とか言いながら
いきなり立ち上がって殴りかかって来そうな感じがありますからね、、、ま、気持ちはわからなくはないです。

考えてみれば、その予兆はニ幕に既にあったのでした。
ニ幕の最後のオテロとイアーゴの二重唱(“そう、大理石のような空にかけて誓う Sì, pel ciel marmoreal giuro!”)は
アルティノグルが良い感じで野放しにして爆発したオケとクーラの歌声がまさに丁々発止という感じで盛り上がって行って、
ヴラトーニャもそれに引きずられ健闘、、、と、最近のオペラの公演ではだんだん体験することが少なくなって来た、良い意味での爆音合戦になりました。
なんだか最近では歌手の声のパワーを賞賛すると“繊細な耳を持っていない。”という風にとらえられてしまったり、
中には“デカ声は嫌。”とか“声がでかいだけ”といった意見など、パワフルな歌声がネガティブな意味でとらえられることも少なくないように思うのですが、
そういった方たちは優れたデカ声というのを本当に聴いたことがあるのかな?と思います。
クオリティの低いデカ声ばかり聴いて“声の大きいのは駄目”と即決するのはちょっともったいない。質の高いデカ声にはやっぱりそれ特有の魅力があると私は思います。
アンチ大声派が増えて来ているとしたら、それはクオリティの高いパワフルな歌唱を出せる歌手が今オペラの世界からものすごい勢いで消滅している、
というか、もうほとんどいない、、という、それも原因の一つだと思います。
それゆえに今日のクーラのような歌唱は貴重。Viva, でか声!
こういう声を聴いてしまうと、少なくともこれからしばらくはこの路線で『オテロ』を歌えるテノールはいないな、、と思えて、それはそれですごく寂しい。

で、クーラ自身もこの二重唱は会心の出来だったのでしょう、もうかなりのアドレナリン・ラッシュ状態になっていて、
幕が降りてインターミッション前の舞台挨拶にヴラトーニャと二人で登場した際、
“やったな!”という感じでぼかっ!とヴラトーニャの胸を殴りつけていて、本人はメト・デビューの後輩を労わっているつもりなんでしょうけど、
いたわっているというよりは、いたぶっている、という表現の方がぴったり来る感じ、、。
ヴラトーニャの顔に喜びと恐怖の入り混じった表情が走るのを私は見逃しませんでした。



先述したリセウ劇場の2006年の公演でもクーラと共演していたストヤノヴァ。
そのせいもあってか二人の間の信頼感を今日の公演の端々から感じました。
全幕終わってのカーテンコールでは二人ががっちりと抱き合ったまま数秒そのまま、、という場面もあって、
またクーラがストヤノヴァの肋骨の一本、二本、折るようなことになってなきゃいいけど、、とはらはらさせられましたが。
ストヤノヴァの声には独特の固さに金属的な響きが少し混じったような感じがするのが特徴かな、と思います。
(スラヴ系のハイ・パートの歌手~テノールとソプラノ~にその傾向を共通して感じるのは私の気のせいでしょうか?)
Aキャストのフレミングのまったりした声とはその点で対照的だと思います。
これみよがしな歌唱も、本人の個性全開の演技もないですが、いつも真摯な歌唱を聴かせてくれるので私は現役では好きなソプラノの一人です。
ただ、二、三年位前から他の劇場での歌唱の音源を聴いていても高音域でピッチが不安定になることが増えて来たように感じるところがあって、
1962年生まれだそうですので彼女もほぼ50歳(クーラと同い年くらいなんですね。)、そろそろ年齢の影響かな、、と思っていたんですが、
シカゴ響との演奏会形式の『オテロ』(2011年4月)では音を外そうものならムーティに半殺しに遭いかねないという緊張感があったからか、
完璧な音程で歌いこなしていたので、ネットの音源で聴いたと思った年齢による衰え云々も私の気のせいだったのかな、、と流してました。
しかし、ほぼ二年振りに今日の公演で彼女の歌声を聴いて、
“ああ、やっぱり年齢が段々声に現れるようになっていたんだな。”と思いました。
彼女の声にもともとちょっと固いテクスチャーと金属的な響きがあるのは先に書きましたが、年齢による歌声の変化により、今では音にものすごく角立った感触を感じるようになってしまっていて、
たった二年前の歌唱と比べても、かなり与える印象が変わって来ている程です。
特にこのデズデーモナ役は人を疑うことを知らない、というのがキャラクターの大きな要素になっていて、
リブレットには具体的な年齢設定の記述はありませんが、年の若さがそれに貢献していることはほとんど間違いなく、
とすると、年齢的にもかなり若いはずの役ですので、そのあたりの違和感を観客に感じさせずに聴かせるのは段々難しくなって来ているかな、、と思います。
デズデーモナはそろそろ封印しても良い役柄かもしれません。
彼女はもともと佇まいなんかがちょっとおばさん臭くて地味なところがあるので
(そしてそれこそが、キャリアの一番良い時期にどれだけ素晴らしい歌を聴かせても、彼女がメトではあまり重用されることがなかった原因の一つだと思っていて、
本当に嘆かわしい事態!とずっと私なんかは怒って来たのですが、、。)、
年齢を感じさせるようになるとしたら、そっち方面からだろう、とずっと思っていたのですが、
この役で、容姿や舞台上の動きよりも先に声で年齢を感じるようになってしまったのは大変意外でもあり、
こうなってしまうと、ますますメトでキャスティングされることは減って行ってしまうのかもしれないなあ、、と寂しい気持ちになります。
声の変化がここまでネガティブに影響しない役が他にあると思うので、そちらに上手くシフトして行ってくれるといいな、と思います。
もともと声の美しさそのもので勝負!というタイプの人ではなく、誠実感溢れる歌いぶりと地味ながら的確な表現力を持った人なので、
そのあたりも生かせるレパートリーを中心にしていってくれたら私は嬉しいのですが。
今日も若干ピッチが甘くなっていた箇所が二、三ありましたが、“アヴェ・マリア“のような絶対に外してはいけないところは見事にきちんと抑えていますし(最後の高音も綺麗でした)
精神力さえ緩まなければまだまだ観客の心に訴える歌を歌える歌手のはずです。

ボータ&フレミング組と全然違う味付けで面白いな、と思ったのは、オテロがデズデーモナに“A terra… e piangi! 地面に伏して、、、泣くがいい!”と言う場面。
ボータ&フレミング組はリブレットの“デズデーモナをつかまえ荒々しく”~“デズデーモナは倒れ、エミーリアとロドヴィーコが助け起こす”のト書きに割りに忠実に演じていたのに対し、
意外にもクーラのオテロはデズデーモナの手をつかんで地べたに放り投げたりしないんです。
クーラの個性を考えたらこれは一瞬意外です。
だって、さっき、あんた、ヴラトーニャを突き飛ばしてたじゃないか!ついでにデズデーモナも放り投げたらどうなんだ?という。
しかし、“A terra… e piangi!”という言葉と共に彼が指を地面に指すと、
ストヤノヴァのデズデーモナは自らの意志でがっくりと膝まずくのです。
これによりオテロがデズデーモナに対して持っている絶対的な力を強調する一方で、
彼自身が落ちて行っている罠から自分を救い出す術は何一つ持っていないというオテロの無力さと彼がデズデーモナに対して行使している力の空しさが強調され、
ト書き通りではないのにきちんと物語に沿っていて、非常に面白い効果を上げていると思いました。



イアーゴ役のヴラトーニャははげ、、いえ、スキンヘッドの面長顔でギョロ目という、なかなか個性的なルックスで、
開演前にプレイビルの写真を見た時は期待が高まったのですが、先のエピソードでもわかる通り、強面のルックスの割りにへたれなキャラで終始クーラの迫力に押されっ放し。
声はボリュームの面でも、トーンやカラーの面でも、際立った個性がなく、歌唱はそれなりに無難にこなしていますが、
なんの面白みも彼らしさもない歌唱で、長所と言えば、ハンプソンみたいにこちらが積極的に嫌いになる個性すらないこと位でしょうか。
、、、って、あれ?これは長所なのかな?
このような歌しか歌えないとしたら、彼の家族を除いて、彼の歌を聴きたくてわざわざ劇場に行く!という物好きはいないでしょう。
クーラとでは舞台上の存在感、オーラ、個性、パワー、何から何まで違い過ぎ。
普通だったら、こんなへなちょこなイアーゴ、罵倒して、して、しまくるところですが、こんないるのかいないのかわからないようなイアーゴを抱えてすら、観客全員をほとんど一人で舞台に引きずりこんだクーラの力に押し切られてしまって、罵倒する気があまり起きないのが不思議です。
それでも、これでイアーゴがAキャストのシュトルックマンみたいな人だったらもっとすごい公演になっていたかもしれないな、、と思います。
いや、そもそもHDのオテロとデズデーモナを、ボータ&フレミングというぬるま湯コンビじゃなくて、
こちらのクーラとストヤノヴァを立てて、シュトルックマンと組み合わせていたら、これは結構見物な公演になっていたかもしれません。
また失敗しましたね、メト。

カッシオ役のドルゴフ。
この人、、、、中学生じゃないんですよね?(笑)
なんか本当初々しくて子供みたいなんですけど!!!
カッシオはちょっと色男っぽい雰囲気が欲しいので、どんぐり君みたいな彼が舞台に出て来た時は、
あれ?高校の文化祭を見に来たんだっけ?と一瞬錯覚し、そして次に、大丈夫なのかな、、とちょっぴり不安を感じました。
初めて口を開いてからの数フレーズは、声もこちらがはっとするような特別な美声ではないし、素直な発声で、歌は丁寧に歌ってるな、、と感じる以外はあまり強い個性を感じないんですが、
彼の人柄と歌を歌う楽しさと喜びを感じている様子のせいなんでしょうか、
なんだか公演がすすんで行くにつれて、好感度が増して行っている自分がいました。
一幕が始まったばかりの時は、こんな中ボーみたいな子に、“ビアンカのキスには飽きたよ。”と言われてもなあ、、と三幕に不安を感じていたのですが、
いざ、その三幕になってみると、逆にその子供のような風貌を利用して、若い男の子が無邪気にとっかえひっかえ女の子を取り替えている雰囲気で上手く乗り切ってしまっていて、
なんか、不思議な魅力を持ったテノールだと思います。
彼はシベリアの出身なんですね。“シベリアの中坊“か、、。

ただAキャストを歌ったファビアーノが余裕でリリコ、それからもしかしたらさらに一歩進んだ重い役も将来的には歌える感じのがっちりとした歌声なのに対し、
このドルゴフ君は軽めの声で、少なくとも私に見える将来の範囲ではそれが劇的に変わることはないように思うので、
しばらくはベル・カントなんかが良いのではないかな、と思うのですが、マネジメントのサイトを見ると、まあ、何かあれこれ歌ってますね。
ベル・カントに混じって見えるのは、、、ん?トスカのカヴァラドッシ?!アリアドネのバッカス!?
、、、、なんというはちゃめちゃさ、、、。いやあ、、、本当に不思議な人だわ。


José Cura (Otello)
Krassimira Stoyanova (Desdemona)
Marco Vratogna (Iago)
Alexey Dolgov (Cassio)
Eduardo Valdes (Roderigo)
Stephen Gaertner (Montano)
Jennifer Johnon Cano (Emilia)
Alexander Tsymbalyuk (Lodovico)
Alexey Lavrov (A herald)
Conductor: Alain Altinoglu
Production: Elijah Moshinsky
Set design: Michael Yeargan
Costume design: Peter J. Hall
Lighting desing: Duane Schuler
Choreography: Eleanor Fazan
Stage direction: David Kneuss
Grand Tier Side Box 30 Front
LoA

***ヴェルディ オテロ オテッロ Verdi Otello***

PARSIFAL (Fri, Mar 8, 2013)

2013-03-08 | メトロポリタン・オペラ
『パルシファル』の公演の全体像についてはこちら

**第七日目**

いよいよラン最後の公演。
第六日の公演を追加で見に行くことに決めた理由の一つは、目玉演目でもHDが終わってしまうとメインのキャストが一公演お休みしてしまうことが時にあって、
楽日をブッチし、そのまま故郷、もしくは次に歌うことになっているオペラハウスのある国に飛んで行ってしまう、というケースをこれまでに実際見たことがあるからだ。
だから楽日のチケットが手元にあっても、カウフマンが、パペが、マッティが、降板してしまうのではないか、、と思うと、第六日も見ておいた方がいいのではないか、、との不安にかられてしまったのだ。
しかし、このオペラヘッドの過剰な心配をよそに、結局楽日の公演はダライマンも復帰し、チーム全員揃って迎えることが出来た。実にめでたい。

そして、この日は、ランの最後を飾るにふさわしい良い公演にしたい、というキャスト全員のエネルギーが漲っていた。
それは無能な演出だったならばとことん食いちぎったる!気満々のサメのようなヘッズたちや公演評を書くために来ている批評家達のリアクションが心配な初日とか、
また下手な歌と演技を出したらそれが全世界に配信され、それどころか後世のためにソフト化までされてしまう心配のあるHDの収録日とか、
そういった外から与えられるプレッシャーとは全く逆の種類の、
作品そのもの、そして、今回の演出での共同作業を通して培われたチーム全体(キャストだけでなく演出チーム、そしてオペラハウスのスタッフ全部を含む)に対するリスペクト、愛情、責任感、
そういったものから自発的に出て来ているポジティブな緊張感で、今回の『パルシファル』を誰もが実りあるプロジェクトとして捉えているのが明らかだ。
キャスト全員がここまでのレベルの充実感を感じていることがわかるメトでのプロダクションというのは、他にあまり思い出せない。少なくともこのブログが始まってからは。
ガッティの指揮からアッシャーの指揮にシフト・チェンジをしようとするプロセスの中で全7公演中最もオケの戸惑いと凡ミスが目立ったのは残念。
特にパルシファルの頭の上で槍が止まる場面でトランペットの首席奏者が音をクラックさせたのには、座席でこけると同時に猛烈な殺意。
しかし、今日のキャストはそんなことをものともしていないのだ。
トランペットがあそこで楽器の代わりにおならをふったとしても、カウフマンはまじ顔で歌い続けるに違いない。それ位全員気合が入っているのだ。
指揮者がフィッシュに変わってから歌手の中で最も歌いにくそうにしていたのはマッティかもしれない。
とにかくアンフォルタスの歌唱パートでのフィッシュの指揮のテンポが重いのだ。いくらマッティが力のある歌手と言ってもこれは辛いだろう。
パペは良くついて行っていたが、フィッシュはなんだか男性の低声パートに思い入れがあるのか、私の感覚では度を越して音足が重くなる。
テノールやソプラノのパートに関しては全くといっていいほどそういうことがなかったので、不思議だなと思う。

三幕に入ると、惜別の情が一気に押し寄せて来た。これで本当に最後なのだ。
一ヶ月近くかけて公演の軌跡を追い、それぞれの歌手の歌唱がどのような変貌を遂げ、また演出がどのように段々とキャストの間に、そしてオーディエンスの間に馴染んで行ったか、
その過程を観察していると、言葉では上手く説明しきれないような思い入れが出来てしまう。
でも、この日の公演の三幕で聴いたものは、そんな思い入れだけのせいではなかったはずだ。
私はいわゆる”花の沃野の動機”が初出する部分から鼻水の大洪水を起こしてこの幕だけでハンカチ一枚をお釈迦にし、真後ろの座席に座っていた男性は声を出して泣き続け、
すぐ横に座っている男性はさぞこんな二人に呆れていることだろう、と思いきや、私は見逃さなかったのだ。
作品の最後の音がなり終わった後、こっそり眼鏡をはずして彼も涙を拭っているのを。
美しい弦楽器の演奏が終わるあたりからオケが暗く重い旋律を奏でるのにかけて、
地平線の向こうに槍の先、そして槍の全体、そしてボロ布にまとってほとんど倒れそうになりながら歩いて来るパルシファルの姿、が順に見えてくると、
とうとう彼が、迷いの世界を抜け出し、聖なる世界に歩み入ったのだ、という感慨で胸が一杯になる。
そして、グルネマンツが彼をパルシファルだと認知する場面の静かな感動はどうだろう。
パペのあえて抑制された歌い方の中にいまだこの奇跡を信じられない思いで見守っているグルネマンツの心情が過不足なく表現されている。
ここから彼らが聖杯の広間に向けて出発するまでの音楽は、どんな言葉で説明しても陳腐になってしまう。音楽が到達出来る最高の境地に達していると思う。
パルシファルの”これぞ、我が最初の務め。洗礼を受け、救済者を信じよ。
Mein erstes Amt verricht' ich so: -
die Taufe nimm, und glaub an den Erlöser!”という言葉と共に洗礼を授けられたクンドリの涙が、
乾いた土地に突如流れ始める水として表現されるのは先の公演の感想で書いた通りだ。

そしてこの後、パルシファルは自分の周りに広がる世界を全く違う目で見つめるようになる。
初日にこの場面を見た時は、花もなければ春らしさもなく、何だろう、、?という感じだったが、
今日のような公演を聴くと、ほんの少しだけ空気が暖かくなるのを感じる。とても細かな変化だが、これも一つの”春”の描き方だろう。
世界がどうあるのか、が問題なのではなく、私達が世界をどのように見るのか、それが大事なのだ、というのがこの演出の一つのメッセージなのではないかと思う。
その目的のためには花を咲き乱れさせたりして世界のあり方そのものを変えてしまう必要はなく、ほんの少しだけでも私達の方が変わった、その温度を感じさせるだけで十分なのかもしれないな、と思う。
そして続いてグルネマンツが歌う言葉、ここにこの作品でワーグナーが伝えたいことの全てが集約されている。
”罪を悔い改めた人々の涙がこの日聖なる露となって野や畑を潤し、これほど豊かな命を育んだのです。
救い主の御跡を慕う生きとし生けるものは喜びをかみしめ祈りを捧げようとしています。
十字架の救い主をじかに見ることのかなわぬ彼らは救いに与かった人間を仰ぎ見るのです。
罪の重荷と恐怖から解き放たれ、愛ゆえの神の犠牲によって浄福に包まれた人間を。
野の草花にもわかるのです。今日ばかりは人の足に踏みにじられることはないと。
神が広大無量の心で人間を憐れみ人間のために苦しまれたように、今日は人間も慈愛の心で草花を踏みつけぬよう、心して足を運びます。
すると地に花を咲かせ、はかなく枯れ行くものたちはこぞって感謝を捧げるのです。
罪を浄められた自然が今日こそ無垢の日を迎えたのですから。”
続くパルシファルの
”かつて笑いかけて来た花は萎れてしまった。あの者たちも、今日は救いの手を待ち焦がれているだろうか。
お前の涙も恵みの露となった。まだ泣いているのか。ごらん、野は微笑んでいる。”
カウフマンは本当に柔らかくこの部分を歌う。
耳を澄ませばきちんと聴こえる音量なのだが、まるで囁いているかのように聴こえるので、オペラハウスではついみんな耳をそばだててしまうのだ。
観客席がまるで水を打ったように静かになり、そこで最後のsieh! es lacht die Aue(ごらん、野は微笑んでいる)が一つ一つの単語を強調するように、しかし柔らかさをもって発音され、
このフレーズが終わる時にはため息が出そうになる。
カウフマンは声そのものでなく、それが出て行く劇場の空間・空気に対するコマンド力も持っている。これは良い歌手には絶対不可欠の能力だ。
またこの日の彼の歌唱で印象深かったのはラストだ。
”その泉をこれ以上ふさいではならぬ。 Nicht soll der mehr verschlossen sein:
聖杯をあらわせ!厨子を開け! enthüllet den Gral! Öffnet den Schrein!"

この最後のÖffnet den Schreinを彼はこれまでの公演ではずっと一つ一つの単語にアクセントをつけるかのように発音していた。
ガッティの指揮の時はオケの演奏もそれを意識した演奏になっていたので、おそらくガッティの意向なのではないかと思う。
しかし、この最後の公演では彼は逆にこの三つの言葉がまるでつながっているかのように一息で歌ってみせた。
私はこちらの方が好きだ。聖なる血が聖杯の光の波に流れ入る、、という少し前の部分と上手く呼応し、まるでこのフレーズ自体が永遠に続く流れを表現しているように聴こえるからだ。
それにしても、この最後の最後に及んでまだ色々な表現の可能性にチャレンジするその精神には感服する。

表現の可能性といえば、随分変化したのは”愚か者”の時期のパルシファルの演技だ。
初日のカウフマンは幼児がやるように靴の外側に体重をのせて内側を浮かせO脚みたいなポーズをとってモジモジしたりしていた。
しかし、それ以外はあまりあから様に”愚者”演技をしない。
インターミッションでその話をすると、友人のマフィアな指揮者が原作(『パルツィヴァル』のことか?私は残念ながら未読)では
この時点でのパルシファルはティーンエイジャー位の年齢設定になっている、という指摘をしていて、なるほど、、と思った。
ニ幕のクリングゾルがパルシファルの童貞を奪ってしまえばこっちのもの!という趣旨の発言をしていることからも辻褄は合う。
”愚者”というから、なんとなくあっぱらぱーな元気一杯の小僧を想像してしまうが、”どのように愚かなのか”という説明はリブレットにもどこにも書いていない。
愚かと一口に言っても、馬鹿・頭の悪さを意味することもあれば、若さゆえに世の中のしくみや体制や人の気持ちに不慣れな愚かさだってあるし、
全く何も考えていない、という愚かさもあるだろう。
興味深かったのは、公演の回数が重なれば重なるほど、一幕に関しては”何もしない”演技に近付き、極端な若さの表現すら排除するようになっていったことで、
これはある意味非常に大胆なアプローチだ。
そして、そんなパルシファルが三幕でボロ布を脱ぎ捨て、真っ白になった頭を見せる時、
我々観客はクリングゾールの魔法の城を出た後も彼がどれほど長い旅を重ねて来たか、、それを思って一層敬虔な思いになる。



今日はグランド・ティアー一列目のどセンターで鑑賞したため、歌手達がまるで自分に向かって歌ってくれているような感覚を味わい、至福の思いを味わった。
テクニカルな面ではHDの日の公演が一番内容が良かったと思うが、今日の公演はラン中で一番ハートを感じるというか、独特の魅力がある公演だった。

カーテンコールではカウフマンがガッツポーズを出していたが、この作品で無事に7公演をつとめあげるというのはやはり相当プレッシャーだったはずだ。
メトの公演でバーンアウトしたか、直後にウィーンで予定されていた『パルシファル』はキャンセルしてしまったと聞いている。
ウィーンで鑑賞する予定だった方に対しては申し訳ないが、しかし、今回の公演を連続して鑑賞するとバーンアウトする気持ちもわかる。
私もこの『パルシファル』を鑑賞した後、余韻があまりに長く大きくて、しばらく他演目の公演に行きたくなくなったし、実際、必要最小限の数しか行かなかった。
それ位、今回の公演はかかわった全ての人(そしてそれはオーディエンスも含む)を良い意味で消耗させる内容のもので、
カーテン・コールでのキャストたちの充実感あふれる表情を見れば、今回のジラールとの作業が非常に有益な体験だったと彼らが感じていることがわかる。

初日の日はブーを出す観客が何人かいて、キャストの間に”こんな演出でもブーを受けるのか?”という驚きと戸惑いの表情が走り、
歌手たちが懸命に舞台挨拶に現れたジラールを擁護する拍手を舞台上で出す、というようなこともあったが、
日を追うにつれて段々ブーが少なくなって、楽日までにはオーディエンスの大多数がこの演出を支持していることに疑いの余地がなくなった。
今日のオーディエンスにはリピーターもかなりの数含まれていたと推測するが、それはカウフマンとかパペといった個別の歌手の力だけではなく、
公演全体に、もう一度観たい!聴きたい!もっとこの作品が伝えようとしていることを深く知りたい!と感じさせる力が大きかったからだと私は思っている。
少なくとも私が当初予定していた倍の公演数を観にいくことになった理由はそれだ。

リハーサルが徹底していたからか、マイナーな失敗ですらほとんど皆無だったこのプロダクションだが、楽日に可愛らしいアクシデントがあった。
ニ幕で花の乙女が槍を前に立て歌手の後ろで立っている場面があるのだが、この槍を立てられるよう小さなスタンドのようなものが地面に埋め込まれているのだと思われる。
ところが途中で一本の槍がバランスを失って倒れてしまい、この槍担当の花の乙女(ダンサーだと思う)が懸命にスタンドの中にもう一度収めようとするも、
スタンドがやや小さすぎるからか、まるで槍が”そこに戻るのは嫌よ~。”と言っているように、言う事を聞いてくれない。
その間、ずっと一本だけ聞かん坊の槍がぐらぐら~と揺れ続けていて、ダンサーの方の焦りが手に取るように感じられた。
しまいには彼女が素手で槍を持ち続けるはめになってしまったのだが、こういう誰の責任でもないアクシデントというのは生の舞台ではつきものだし、
みんな舞台に引きこまれていたので、ご本人が焦っているほどにはオーディエンスは気にしていないものだ。

Jonas Kaufmann (Parsifal)
Katarina Dalayman (Kundry)
René Pape (Gurnemanz)
Peter Mattei (Amfortas)
Evgeny Nikitin (Klingsor)
Rúni Brattaberg (Titurel)
Maria Zifchak (A Voice)
Mark Schowalter / Ryan Speedo Green (First / Second Knight of the Grail)
Jennifer Forni / Lauren McNeese / Andrew Stenson / Mario Chang (First / Second /Third / Fourth Sentry)
Kiera Duffy / Lei Xu / Irene Roberts / Haeran Hong / Katherine Whyte / Heather Johnson (Flower Maidens)

Conductor: Asher Fisch
Production: François Girard
Set design: Michael Levine
Costume design: Thibault Vancraenenbroeck
Lighting design: David Finn
Video design: Peter Flaherty
Choreography: Carolyn Choa
Dramaturg: Serge Lamothe

Gr Tier A Odd
OFF (LoA)

*** ワーグナー パルシファル パルジファル Wagner Parsifal ***



PARSIFAL (Tues, Mar 5, 2013)

2013-03-05 | メトロポリタン・オペラ
『パルシファル』の公演の全体像についてはこちら

**第六日目**
今日もドレス・サークルの最前列。
ここから二回は指揮がアッシャー・フィッシュに交代。
しかし、この6日ははそれだけでなく、クンドリ役が病欠のダライマンに変わり、ミカエラ・マルテンスになった。
今シーズン『パルシファル』で歌手の交代があったのはこの一件のみ。
マルテンスというと、確か2007-8年とその翌シーズンのの『ランメルモールのルチア』でアリーサを歌っていたメゾではなかったか?と思ったらやはりそうだった。
ワーグナーの作品を歌えるメゾだったとは意外だが、おそらく彼女がクンドリ役のアンダースタディだったのだと思われる。
きちんと演出の意図は理解し、彼女なりに真摯に努力しているのは伝わってくるのだが、
やはり他人が歌い演技しているのを目で見て頭の中で理解するのと、実際に舞台の上の相手がいる場でそれを再現するのとでは大違いで、細かいところでぎこちなさが目立った。
一幕でグルネマンツとパルシファルが聖杯城に向かう(とはいえ、この演出では具体的な城はないので、そうリブレット上ではなっている)場面の前に、
クンドリは眠りに落ちながら草の茂みに隠れていく、ということになっている。
ダライマンは眠りに落ちる場所を出来るだけ舞台袖の近くにしておくことで、少し這えばすぐに姿を消せるようにしていたが、
マルテンスはそれよりずっと舞台の中央寄りで眠りについてしまったので、いくら這っても舞台袖に辿りつかず、そのままあきらめて舞台上でぐったりと静止してしまったので、
あの舞台転換の感動的な音楽の中をこのまま彼女はずっと舞台の上で寝て過ごすつもりなのだろうか?とびっくりしたが、
少し舞台が暗くなるのをきっかけにむっくりと立ち上がってすたすたと舞台袖に消えて行った。
うーん、それはあんまりだろう。
それからラストでは、マルテンスが聖杯をカウフマンの近くに掲げすぎたために、カウフマンが自分の持っている槍の先を聖杯に入れる動作に四苦八苦していた。
こういう作品の要の部分で気分がそがれるような事態になるのは残念だ。



ダライマンに比べると、彼女が歌いやすい範囲の声域においては、よりみずみずしくがっちりとした音色で悪くないのだが、高音域になるとその音色が失われてしまい、
本人もそれに自覚があるからか、薄氷を踏むような歌い方になってしまうのもいただけない。
クンドリはそのレベルの歌手が歌う役柄ではないし、今回のように周りを見渡せば男性陣は誰も彼もが優秀なキャスト、、という環境の中ではなおさらだ。
ダライマンだって声楽的に欠点がないわけでは決してないのだが、それなりにねじ伏せて一つのクンドリ像を作っているのに対し、マルテンスはどこか遠慮がちだ。
これだとやっぱり二人のどちらかを採れといわれればダライマンを選ぶことになってしまう。
ランの途中で指揮者が交代する場合、交代した最初の公演はまだ前の指揮者の演奏の雰囲気が残っている、というケースをこれまでにも何度か体験したことがあるが、
今回もまさにそのパターンで、いまひとつフィッシュがどういう演奏をしたいのか見えなかった。
一方でもちろんガッティの演奏を面白くしていた部分を徹底させることの出来る本人(ガッティ)はもういないわけで、これまでの演奏と同じレベルの細部への拘りや音のきらめきを維持出来ているわけではない。
指揮者のスケジュールとの兼ね合いもあるのは良くわかるが、こういうランの最後の数回だけ別の指揮者、、というのもやめてほしいな、と個人的には思う。
どんな優れた指揮者でも、『パルシファル』みたいな作品でリハーサルもなしにいきなり指揮台に立って思い通りの指揮が出来るわけがないし、こんなことは指揮者、オケ、オーディエンス、誰の得にもならないと思うのだ。


Jonas Kaufmann (Parsifal)
Michaela Martens replacing Katarina Dalayman (Kundry)
René Pape (Gurnemanz)
Peter Mattei (Amfortas)
Evgeny Nikitin (Klingsor)
Rúni Brattaberg (Titurel)
Maria Zifchak (A Voice)
Mark Schowalter / Ryan Speedo Green (First / Second Knight of the Grail)
Jennifer Forni / Lauren McNeese / Andrew Stenson / Mario Chang (First / Second /Third / Fourth Sentry)
Kiera Duffy / Lei Xu / Irene Roberts / Haeran Hong / Katherine Whyte / Heather Johnson (Flower Maidens)

Conductor: Asher Fisch
Production: François Girard
Set design: Michael Levine
Costume design: Thibault Vancraenenbroeck
Lighting design: David Finn
Video design: Peter Flaherty
Choreography: Carolyn Choa
Dramaturg: Serge Lamothe

Dr Circ A Odd
OFF (LoA)

*** ワーグナー パルシファル パルジファル Wagner Parsifal ***

PARSIFAL (Sat Mtn, Mar 2, 2013)

2013-03-02 | メトロポリタン・オペラ
『パルシファル』の公演の全体像についてはこちら

注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。

**第五日目**

HDの日。ドレス・サークルの最前列で鑑賞。
第四日の公演が若干いびつながらエキサイティングな公演だったとすれば、第五日の公演は完成度の高さと公演のエネルギーの高さのバランスが最もよく取れていた公演だったと言ってよいだろう。
個々の歌手のベストの歌唱は他の日に跨っているのだが、全公演の中で一本だけDVD化する公演を好きに選んでいい、と言われれば、全体としての完成度の高さから、この日の公演を私も選ぶことになると思う。
ランの残りの二つの公演は指揮がフィッシュに変わってしまうので、ガッティの指揮する公演はこれで最後になってしまったわけだが、
彼のためにも今日はいい演奏をしたい!という意欲がひしひしとオケから感じられた。
カウフマンの歌唱には前回のような自分でアクセルを踏みすぎているのにも気付かないような暴走(そして、私はそういう暴走が結構好きだ。)はなかったが、
最初から最後まで見事な歌唱のコントロール配分と完全にフォーカスの定まった発声(そのために他の日の歌唱と比べて声の重量感・重圧感が若干違って感じた程だ)で、
前回のように危うげな音が出てそれをきっかけにコントロールに注意を払わなければならなくなる、ということがなく、末広がりに、最後に向かうほど良くなって、
クライマックスに最も良いポイントを合わせられる、という、声楽的には理想的な展開の歌唱になっていたと思う。
HDの日には暴走型よりもやはりこのような歌唱になるのは当然だし、この長さの作品になると、どこに自分の声や歌唱の一番良いところを持っていくか、という、マラソン選手にも似た計算が重要になってくる。
ラストで舞台下手に近い客席から始まって、センター、そして舞台上手に近い客席、と順にパルシファルが指先からオーディエンスにエネルギーを送るかのような仕草をするが、
これは聖杯と聖槍が出すエネルギーを、そして、それを可能にした”共苦”というコンセプトをオーディエンスと分かち合うためにある。
だから、これは単なる”振り付け”ではない。『パルシファル』という作品のメッセージそのものであり、この一見簡単に見える動きの中からオーディエンスがそれを感じるように演技しなければならない。
オペラハウスにいた我々はそのエネルギーの波及を確かに感じ取った。
今回、感想を書くにあたって、歌唱パートの日本語訳は白水社の『ワーグナー パルジファル』(日本ワーグナー協会監修 三宅幸夫/池上純一編訳)に拠っているが、
この場を借りて、この三宅さんと池上さんという会ったこともないお二人に心からの感謝を述べたい。
今回、カウフマン、パペ、マッティ、ダライマン、二キーチン、ブラッタバーグという素晴らしいソリスト陣、優秀な演出に指揮・オケ・合唱に恵まれて、『パルシファル』という作品を堪能したが、
そこにさらなるレイヤーを与えてくれたのはこの書物だ。
今回公演前の再学習として英訳とこのお二人が手がけられた邦訳、両方拝読したが、
お二人が翻訳と解説を通して見せているほとんど執念と言ってもよいこだわりとこの作品への奉仕の精神はそれ自体が一つのアートになっている、と私は感じた。
作品中何度も歌われ、この作品のキーワードと言ってもよいMitleidという言葉に与えられている”共苦”という訳も素晴らしいと思う。
私が使用した英訳、そしてメトの字幕でもそうだが、この言葉が単にcompassionという風に訳されていて、
この言葉は現代では同情というニュアンスも多分に含むようになっている(し、compassionの一般的な和訳は”同情”だ)が、
苦しんでいる人を外から見て”同情”するのと、苦しんでいる人の心に自分も居て”共苦”するのとでは大違いだ。
それを言うとメトの『パルシファル』の英語字幕は人がオペラの舞台を見ながら文字を読める時間との関係との兼ね合いもあるのだろうが、訳が随分荒く、
NYのワグネリアンたちからも”原文の意味が出来っていない。”と多く嘆きの声が上がっている。
HDの日本上映はメトの英訳字幕からの和訳になるのだろうが、出来ることならば、三宅さん/池上さん訳を採用して頂きたいと強く思う。

**出待ち編**

公演の内容が本当に良かったので、『パルシファル』で出待ちをするなら今日だろう、、ということで出待ちです。
事前に打ち合わせたわけではないのですが、ステージ・ドアにはゆみゆみさんとKinoxさんもいらっしゃっていて、
後、日本からいらっしゃっていたお着物がお似合いで本当に素敵でいらしたパペ・ファンの女性の方を含めた4人で楽しくお喋りしながらでしたので、
本当はそうでもなかったのかもしれませんが、いつもよりも早く、あっという間に全員が出てきたような気がしました。
最初に捕獲したのは演出家のジラール。気の毒にこのHDの日すら一名激しくブーを食らわせていた人がいて、出てきた時は憮然とした表情でしたが、
カナダかフランスから来たと思しき可愛いギャルに”良かったですう~。”とフランス語で話しかけられるといきなりでれでれ。
ったく、フランス語圏のおやじはどいつもこいつも。
それにしても、煙草吸いながらサインするの、やめて欲しい。ええ、思いっきり上昇して来た煙が煙草嫌いのMadokakipの鼻腔を直撃しましたとも。

次に現れたのはティトゥレル役のルニ・ブラッタバーグ。
彼はカーテンコールの時以外、舞台には現れないし、プレイビルのソリスト紹介の欄にも載せてもらっていないので、出待ち常連陣にも彼の正体が見破れなかった様子。
ふふふ。私はですね、この日の公演の一週間前にNYのワーグナー・ソサエティの『パルシファル』勉強会に参加したんですが、
ゲストがダライマンとこのルニさんだったんですよ。だから顔ははっきり覚えてるの!
というわけで、彼は私がもらった~!と駆け寄って行って、ペンを差し出すと、”僕の名前は何でしょう?”
うーん。名前は、、、なんだっけ?忘れちゃった(笑)
”僕が誰だかわからずにサインもらおうとしてるの?”と言うので、
”知ってるわよん。ティトゥレル役を歌ったもの。”と言うと、”Very good!"と大喜びでサインしてくれました。
その後は、ルニさん、ルニさん、と常連組にもみくちゃにされてました。彼もお喋りが大好きみたいだし、よかった、よかった。

と、次はニキーチンだ!
体に対して頭が横と前後両方にでかい。あの頭蓋骨の中で声が良く響きそうだなあ、、と見とれてしまった。
だけど、やっぱり、なんかこの人、あたし、こわい(笑)
それでもおそるおそる近付いてサインをお願いします、と言ってペンを差し出すと、
サインしてくれるのはいいんですが、あの、それ、握ってるの、ペンだけじゃなくて私の手ごと握ってるから、、という、、。
だけど、怖くて何も言えない、、。というわけで、私の手ごとつかんでサインをしてくれました。プレイビルのど真ん中にすっごくでかく。
もー!!カウフマンがサインする場所がなくなっちゃったじゃないのよー!!!

そして、続け様にでかい人が二人出て来たと思ったらマッティとパペだ。でけ~っ。
パペもすごく大きいけど、マッティはさらに彼の頭の上から首が出てる位。
ゆみゆみさんが聞きたい!と仰っていた質問をマッティに直撃。
”トロヴァトーレのルーナは歌わないんですか?”
”実は指揮者からは君に絶対向いてるから、って薦められてるんだけどね。でも、まだ完全には準備出来てないかな、って思うから。”
あなた、そんなこと、アンフォルタス役についても言ってたじゃないですか。
案じるより産むが易し!!ルーナももう歌っちゃいましょう!!
だけど、”Someday!"って言ってましたから可能性がないわけではなさそう。楽しみですね。
彼は本当にぶったところや気取ったところがないのが格好いい!

今回の出待ちで思いの外(ん?)素敵だったのはパペ。
私からは一言も日本語では話しかけていないのに、さらさら、、とサインをした後、きちんと目を見ながら物静かな声で”アリガト。”って言ってくれました。
これまで出待ちした中で佇まいが素敵な人ナンバーワンかもしれません。

その間にメークも完全にはとれない状態で出てきていたのがダライマン。
そばで見ると結構おばちゃんだな。私も人のこといえないけど。
字は人柄を表すというけれど、彼女の字はなんかはんこか何かみたいに几帳面で、まめな人なのかな~と思います。

と、そこにやっと現れたカウフマン!!
いやーん、どうしたのー!?
数年前『トスカ』の出待ちの時に身につけていた花輪君みたいなキュートなネッカチーフとスーツから大変身、今日は革ジャンじゃないのー!
それにあの頃と比べると、やっぱりスター歌手っぽい佇まいになって来ましたね。
本当の話なのか単なるガセなのかは知りませんが、彼がヨーロッパのどこかの国で出待ちのファンに対して
”君達が僕に風邪をうつしたりするからもう一緒に写真を撮ったり握手をしたりしない。”と宣言したことがある、という話を聞いたことがあったんですが、
今日は全然皆と普通に写真を撮っているので、私も便乗してiPhoneで一枚パチリして頂きました。
件のお着物の女性がすごく上手に撮ってくださって、しかも、そのままじゃフレームに納まりきらないからもう少し寄って下さい、と、とんでもないナイスな一言を発して下さったおかげで、
ヨナス(あ、ファーストネームベースになってる、、)が肩を組む準備をしてくれたので、これ勿怪の幸い!とばかりに彼の胸にとびこんだせいか、
撮影された写真を見てみたら、私がカウフマンに抱きつかんばかりに近寄っている写真になっていて、思わず”こらこら、、。”と自分に駄目出ししたくなる位です。
内心、彼も”そこまで寄らなくても、、、。”と思っていたことでしょう。
まあ、いいです。今日の公演の思い出と共にこれは私の一生の宝物。プリントアウトしてサインの入ったプレイビルと一緒に額に入れたいと思います。

残念ながらガッティは捕獲できずじまい。ぬぼーっとしてるように見えて、結構逃げ足が早い。巻かれました。


Jonas Kaufmann (Parsifal)
Katarina Dalayman (Kundry)
René Pape (Gurnemanz)
Peter Mattei (Amfortas)
Evgeny Nikitin (Klingsor)
Rúni Brattaberg (Titurel)
Maria Zifchak (A Voice)
Mark Schowalter / Ryan Speedo Green (First / Second Knight of the Grail)
Jennifer Forni / Lauren McNeese / Andrew Stenson / Mario Chang (First / Second /Third / Fourth Sentry)
Kiera Duffy / Lei Xu / Irene Roberts / Haeran Hong / Katherine Whyte / Heather Johnson (Flower Maidens)

Conductor: Daniele Gatti
Production: François Girard
Set design: Michael Levine
Costume design: Thibault Vancraenenbroeck
Lighting design: David Finn
Video design: Peter Flaherty
Choreography: Carolyn Choa
Dramaturg: Serge Lamothe

Dr Circ A Even
OFF (LoA)

*** ワーグナー パルシファル パルジファル Wagner Parsifal ***

PARSIFAL (Wed, Feb 27, 2013)

2013-02-27 | メトロポリタン・オペラ
『パルシファル』の公演の全体像についてはこちら

**第四日目**

グランド・ティアーの最前列で鑑賞。
第五日はHDの上映があるので、この日は予備用の映像が収録される日(いつもHDの一つ前の公演には、HDのテクニカル・リハーサルを兼ねて予備の映像が収録される。)なのだが、
オケの演奏の締りが悪く、凡ミスもいくつか聴かれた。ガッティが指揮した公演の中ではオケの演奏がもっとも荒れた日。
予備用の映像は時にDVDとして商品化される際にも、当日の映像に問題があった部分と差し替えて用いられることもあるのに、これではその目的にも使えないのではないか?
もうこれはHD当日の映像をすべてDVDに使うしかない。
リハーサルとのダブルヘッダーでオケの疲労がピークに達しているのかもしれないな、、と思う。
『パルシファル』を演奏する大変さがわかるなら、もうちょっとオケのスケジューリングをなんとかしてあげて欲しい。
今更ながらで恥ずかしいが、この公演では一つ発見があった。
第一幕の最後、アンフォルタス、騎士達、グルネマンツが姿を消すと、乾いた大地が裂け、まるで谷間のような真っ赤な深い裂け目を好奇心一杯の目で見つめながらパルシファルが手を伸ばして幕、となる。
この真っ赤な谷のような裂け目を降りていったその先こそが二幕の舞台であるクリングゾルの魔法の城なのだ。
二人のパーソナリティが全く違っているので、受けた罰へのリアクションも、またその後に辿る運命も全く違ったものになってはいるが、
アンフォルタスの罪もクリングゾルの罪も根幹は同じ、ということがこの作品では一つのポイントとなっている。
ワーグナーは山を境に片側を聖なる世界、もう一方をクリングゾルの支配する邪悪な世界と設定しているが、
このプロダクションでは、それを90度動かして、地上が聖域、地下が魔法の世界とすることで、
両世界のコインの裏表のような、根っこでつながっている関係をきちんと維持しながら舞台化しているのは実につぼを押さえていると思う。

また、二幕の舞台はバックドロップに裂け目があるのだが、その裂け目の隙間に体液のようなものが流れる(こちらもコンピューター・グラフィックスによるもの)ので気付いたのだが、
これは女性の膣の表現ではないのか?
ということは、花の乙女達やクンドリやクリングゾルやパルシファルが歩き回っているあの空間は子宮そのものであり
(地上の世界から聖槍を持った人間が入って来るというのは、これも性行為を示す以外の何ものでもないだろう。)、
多用されている血はアンフォルタスの血でもあるが、また一方で女性の性を表現しているのではないかとも思うのだ。
この作品では最高の愚かさが最高の智になる、など、一見矛盾した要素の組み合わせが大きな真実をもって迫ってくるところに特徴があるが、
この二幕の演出では、血を通して、苦しみ&死と喜び&生がつながっていることを表現しているのは巧みだ。

ルパージの演出がリングで大コケしたのと対照的に、ジラールが今回の『パルシファル』の演出で成功した一つの理由はハイテクに依存しなかった点だ。
どちらの演出もビデオ・グラフィックスの多用という点では共通しているが、ルパージがそれに”マシーン”を加えて自分の首を絞めたのに対し、ジラールの演出は意外とプリミティブだ。
二幕でクリングゾルが投げる槍がパルシファルの頭の上で止まるという超常現象の表現はその好例で、
同演出ではクリングゾルだけでなく、花の乙女達全員が槍を持っており、彼らがそれを掲げながらパルシファルの方に近寄っていくと、パルシファルが片手を挙げて制止する、
するとそれ以上槍は進むことが出来ず、パルシファルが
"Mit diesem Zeichen bann' ich deinen Zauber:
die mit ihm du schlugest, -
in Trauer und Trümmer
stürz' er die trügender Pracht!"
(この印により汝の魔力を封じる。お前があの人に負わせた傷はこの槍がふさいでくれよう。さあ、絢爛たる虚飾の城を廃墟に変えて葬り去れ!”)
と歌って、クリングゾルと乙女達がばたばたばた、、と倒れる。
しかし、これで十分この場面の本質は表現しているし、この片手を挙げて槍を止める、という動作はどことなく東洋的で、このあたりにもあらゆる文化のミクスチャー的なアプローチが見られる。
コリオグラフィーのせいでこの二幕は若干冷たい印象を与える、という感想は基本的には変わらないが、何度か見ているとこの幕の演出もそう悪くはない、、と思えて来た。
また、騎士達は聖杯に食べ物を供給されている、という、こちらの超常現象も、食べ物を突然現出するようなハイテクを駆使したマジックはなく、
アンフォルタスから騎士達に次々と指を通してエネルギーが伝達されるような演技付けだけだが、これで十分それが彼らの食料・エネルギー源である意図は伝わってくる。



そして、この日、とうとう待ち望んでいたことが起こった。
これまでの公演と同じように始まったと思えた二幕だが、段々とクンドリとパルシファルの会話が異様な青白い炎のような色を呈して行ったかと思うと、クンドリのキスの後、パルシファルのモノローグでそれが炸裂した。
"Die Wunde sah ich bluten: -
nun blutet sie in mir -
hier - hier!"
(あの傷から血が流れ出すのを私はこの目で見た。その傷が今私の中で血を流している。ここだ、ここだ!)"
でのhier(ここ)は、これはもう歌なんかではなく心の叫びそのものだった。
パルシファルがキスを通してアンフォルタスの苦しみを理解したように、私達観客はカウフマンの歌を通して、パルシファルが追体験したアンフォルタスの苦しみ・痛みそのものを聴いたのだ。
この後もまるで流れ出した血が止まらないかのようにカウフマンの歌唱にアクセルがかかり、この間自分が息をしていたのかどうかも思い出せないくらいだ。
このカウフマンの熱唱に感応するかのように、クンドリ役のダライマンが他の公演では聴かせなかったような歌でこたえる。いや、歌で、というのは正確ではないかもしれない。声で、と言った方がより近い。
他の公演では乾いて角のない声だったダライマンが、この日の二幕はまるで人が違ったような歌声を聴かせたからだ。
lachte!(笑ってしまった)=クンドリ役のパートの中で最も大きな難所と言ってよい、ハイBからローC#へのリープでの、
このハイBは空気がまるで切っ先鋭いクリスタルで出来たナイフか何かで切られたような感触があって、声が停止した後の数秒はオペラハウスが震撼し、完全静止したのを感じたし、
その後の畳みかけるようなフレーズ、そして最後に迷いの呪いをかけるまで、全く文句の付け所がない出来だった。
他の公演ではどことなくのんびりさんなイメージを残したダライマンのクンドリだが、今日のような歌唱を聴くと、メトが彼女の何を聴いてこの役にキャスティングしたのか、その理由がよくわかるような気がした。
残念なのは、他のどの公演でもここまでの歌唱は彼女から聴けなかった点だ。
この日は彼女のコンディションと公演のエネルギーが本当に上手くマッチしたのだと思う。
当然、ダライマンのこの歌唱に刺激されて、カウフマンの歌唱も更に熱を帯びたわけだが、幕の最後の方で出した音で、カウフマン自身が意図した以上にアクセルを吹かせすぎたのに気付いたような様子があった。
車の運転でたとえるなら、”あれ?こんなにスピードが出てたの?”という感じか。
その音自体はエキサイティングだったが、そのまま突き進んだらちょっとまずいかも、、と思わせるような音色が微妙に混じっていた。
次回はHDなので、そのあたりも考えてか、その音以降はもう少しコントロールの効いた歌唱に戻ってしまったが、
今日の二幕のような歌唱が可能だということがわかってしまった今、残りの公演は全部観なければ、との決心を固める。
舞台挨拶の様子からも、カウフマン自身、この日の公演は自らの歌唱に関して会心の出来だったのが伝わって来た。


Jonas Kaufmann (Parsifal)
Katarina Dalayman (Kundry)
René Pape (Gurnemanz)
Peter Mattei (Amfortas)
Evgeny Nikitin (Klingsor)
Rúni Brattaberg (Titurel)
Maria Zifchak (A Voice)
Mark Schowalter / Ryan Speedo Green (First / Second Knight of the Grail)
Jennifer Forni / Lauren McNeese / Andrew Stenson / Mario Chang (First / Second /Third / Fourth Sentry)
Kiera Duffy / Lei Xu / Irene Roberts / Haeran Hong / Katherine Whyte / Heather Johnson (Flower Maidens)

Conductor: Daniele Gatti
Production: François Girard
Set design: Michael Levine
Costume design: Thibault Vancraenenbroeck
Lighting design: David Finn
Video design: Peter Flaherty
Choreography: Carolyn Choa
Dramaturg: Serge Lamothe

Gr Tier A Odd
OFF (LoA)

*** ワーグナー パルシファル パルジファル Wagner Parsifal ***

PARSIFAL (Mon, Feb 18, 2013)

2013-02-18 | メトロポリタン・オペラ
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**第二日目**

キャストが全体に渡って高レベルなのは素晴らしいことだが、やはりカウフマンのパルシファルに火がつく瞬間を見たい。
すると、まるで”そうおしなさない。”と天も言っているかのように、平土間最前列センターブロックのチケットが公演直前に放出された。
前奏曲が始まって、紗幕の向こうに日々の生活に疲れた様子でネクタイをはずし、白シャツと黒パンツになる男性合唱団員たち。
その間に紛れ込んでいる黒シャツ、黒パンツのパルシファル=カウフマンはやがて二つのブロックに分かれていく男性たちのどちらのグループにも属することが出来ず、
自分が何者なのか困惑したまま立ち尽くしている。
そう、既存のルールによってしか生きられない騎士達ではなく、そんなルールから自由な存在で、だからこそ他者の痛みへの気付きを得たパルシファルのような人間こそが救世主として選ばれるのだ、、、

などと思いながら舞台を眺めていると、あの前奏曲に奏でられる至高の美しさの音楽に混じって、”うにゅー。んがー。”と不気味な音?声?が聴こえて来る。
何事かと思ったら、ガッティの唸り声だった。クンドリもびっくりの何の動物か?と思うような。
最前列センター!という喜びに、前回の公演のインターミッションでせっかく聞きつけた会話をすっかり失念しておりました、、。
うーん。それにしても本当うるさい。(笑)

しかし、オケの演奏自体は最高に素晴らしく、今振り返ってみれば、ランの中で一、二を争う出来だった。
初日で聴かれた凡ミスが全く姿を消し、こんなにどアップで、各セクションの音が立って聴こえる場所で聴いても、それでも全く隙がない。
一幕で森から聖杯城に舞台が転換する(とリブレット上ではなっている)場面は、この演出では実際に城らしきものが登場するわけではなく、
強い円形の光が指してそれがどんどんこちらに近づいて大きくなって来るという、SFチックな演出になっていて(どことなく『2001年宇宙の旅』の冒頭を思い出す、、)、
ビデオ/コンピューター・グラフィックスの力だが、この場面が与える不思議な感覚はこれまでメトで見たどの作品のどの演出とも似ていない非常にユニークなものになっている。
このビジュアルに重なってくる部分のオケの演奏がまたいいのだ。
レヴァインならもっとオケをストレートに爆発させるところだが、ガッティは逆にすごく抑制が効いている。
だけど、その抑制がかえってその下で沸騰しまくっているオケのパワーをオーディエンスに感じさせる結果になっているのが面白い。
もちろん、その間ガッティの唸り声も最高潮に達している、、。
初日では長すぎて感じられた休符が今日は不自然には感じられない。
残念ながらHDの日の演奏ではまた若干初日に似た感じに戻って行ってしまったが。
クーベリック盤の前奏曲を聴けば、休符やフレーズの緊張感が落ちるまさに直前にきちんと次の音が入ってくるので、音が永遠に続いているような独特の感覚をもたらす。
この感覚が失われてしまうのを”不自然”と表現しているが、この日の演奏はきちんとその感覚があった。
とにかく、この日は最初から最後までオケに関しては何も言うことなし。こういうのを耳福というのだと思う。



さて、この演出をオペラハウスで一回だけ見るなら、平土間席は厳禁だ。
平土間に座ったら、この演出が伝えんとしている全容の軽く15%は見逃してしまっていると考えた方がよい。
初日の感想で書いた地面が肌に変化して行く様子、それから一幕最後で地面が割れる様子(これは第四日のレポートでふれる)が良く見えないし、
第二幕の舞台一面に張った血もほとんど見えないありさまだ。
なので、HDの映像もいつものように歌手のデンタル・ワークまで見えるようなどアップでなく、若干高さのあるところからきちんと距離を保った全体像のショットを入れてくれていることを望むばかりだ。
(HDの映像はこれを書いている時点では未見。)

この日の公演でオケと並んで印象深かったのはパペの歌唱。
ラン全体を通して本当にレベルの高い歌唱を維持し続けた彼だが、この日は特別に何かのスイッチが入っているかのような情熱的な歌唱で、彼について一番印象に残っているのがこの日の公演だ。
第三幕で聖金曜日の意味をグルネマンツが歌いあげる箇所(前述した通り、オペラのラストと並び、もしくはそれ以上にエモーショナルな場面)の最後、
da die entstündigte Natur heut ihren Unschulds-Tag erwirbt
(罪をきよめられた自然が、今日こそ無垢の日を迎えたのですから。)の後、
手を体の前で合わせてぶつぶつと祈りを唱えている様子は、演技などではなく本当にトランス状態に入ってしまったいるかのようだった。

ジラールの演出はキリスト教だけでなく、複数の宗教・スピリチュアリティのエレメントを取り入れていることは先に書いた。
洗礼の場面でのパルシファルは後ろに現れる光と合わせてまるで仏陀のようだし、
既存のメジャーな宗教には属さない独自の動き(先述のパペの祈祷や騎士達が腕を持ち上げて体の前でわっかを作るポーズなど)はある種の新興宗教的な雰囲気すらもあって、
どの個別の宗教にも拠っていないようで、しかし、どの宗教のようでもある。

カウフマンについては初日と似た感想を持った。歌唱の完成度は非常に高い。
言葉の取り扱いが非常に繊細で、オケが演奏する音楽との兼ね合いがこれ以上考えられないほど高いレベルのそれになっているのだ。
それは例えば一幕のクンドリとの会話の中で、騎士達のようになりたい!と母親を置き去りにして駆け回るようになったなれそめを説明する部分のようなところでも徹底されている。
ドラマ的にさらに重要なシーンではなおさらだ。
それはカウフマン一人だけで達成できることではなく、ガッティとの共同作業の賜物であることはいうまでもないが。
しかし、これらを達成しようとする用心深さが真に自由な表現を微妙に妨げている感じが初日の演奏に引き続きあるのがもどかしい。
演奏が終わった時、この完成度の高さを達成するためにどれほどの努力が費やされたか、それを思う尊敬の気持ちは湧き出てくるが、
それを考える前についスタンディング・オベーションを送りたくなるとか、あまりに心が動かされて座席を立てない、、とか、そういう感じではないのだ。
カウフマン自身の舞台挨拶の様子もそれを反映したものになっているように思うのは気のせいではあるまい。
マッティやパペが全力を尽くした充実感に溢れているのに比べて、何かまだ”そこ”に完全には行けていない、という自覚がある風なのだ。
残念ながら、今日もその日ではなかったようだ。


Jonas Kaufmann (Parsifal)
Katarina Dalayman (Kundry)
René Pape (Gurnemanz)
Peter Mattei (Amfortas)
Evgeny Nikitin (Klingsor)
Rúni Brattaberg (Titurel)
Maria Zifchak (A Voice)
Mark Schowalter / Ryan Speedo Green (First / Second Knight of the Grail)
Jennifer Forni / Lauren McNeese / Andrew Stenson / Mario Chang (First / Second /Third / Fourth Sentry)
Kiera Duffy / Lei Xu / Irene Roberts / Haeran Hong / Katherine Whyte / Heather Johnson (Flower Maidens)

Conductor: Daniele Gatti
Production: François Girard
Set design: Michael Levine
Costume design: Thibault Vancraenenbroeck
Lighting design: David Finn
Video design: Peter Flaherty
Choreography: Carolyn Choa
Dramaturg: Serge Lamothe

ORCH A Even
OFF (LoA)

*** ワーグナー パルシファル パルジファル Wagner Parsifal ***

PARSIFAL (Fri, Feb 15, 2013)

2013-02-15 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事にあるリンクから飛んだ先にはライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想も含まれています。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。



実は、ワーグナーの作品を頭ではすごいな、、と理解できてもそこからなかなか前にすすめない時期が私の場合オペラを聴き始めてからしばらくありました。
『パルシファル』はワーグナーの最後の作品なのでオペラ本の中でもワーグナーの項の最後に取り上げられることが多くて、
しかも、大抵の解説文からはなんだか”難解な作品である。”という印象を受けるので、この作品を実際に聴くまで大きな回り道をしてしまったのですが、
初めてメトで生鑑賞するにあたり(このブログを始める前のことです)、予習のためにクーベリック盤で初めてこの作品をきちんと聴いた時、
本当に自然に音楽と作品が頭ではなく、心に響いて来て、オペラ本はお尻から読んどくんだった、、と激しく後悔したものです。
それ以来、『パルシファル』は何度聴いても飽きることのない作品。
やがてワーグナーの他の作品の素晴らしさに開眼するようになったのもすべてこの作品のおかげとも言え、だから、私にとってはすごく思い入れの深い作品なのです。

また、現役の歌手で私が”この人が歌うなら絶対聴きに行きたい!”と思う極く少数(二名くらい、、)の歌手の一人がカウフマンであることはこのブログでは何の秘密でもなく、
私の大好きな作品xカウフマンがコンボになって迫ってくる今シーズンのメトの『パルシファル』は当然最も楽しみにしていた演目です。
しかし、いざ蓋を開けてみればそれ以外のあらゆる側面で期待を超える内容で、一度公演を見る度にもっと鑑賞したい!ということになってしまって、
どんどん追加でチケットを購入するうち、気がつけば7回予定されていた公演中、一公演を除いて全部鑑賞、、という恐ろしい事態を招いていました、、。
ラン中は浮かれていましたが、最後の公演が終わってからクレジット・カードの請求書を見てボー然、、、どうするのよ、これ、、?です。破産です。
でも、いいのです!!!こんな公演を見れるなら、もう私、ホームレスになっても構わない!!

また、クレジット・カードの支払いと共に頭を悩ませたのは、この6回分の公演の感想をどうやってレポにまとめよう、、?という問題です。
ランの最後の公演では周りの観客(特に男性、、)とともに客席で思い切り涙したMadokakipですが、最初の公演からそんな風だったか、というと決してそうではなく、
少なくとも私は演奏のスタイルと新しい演出に完全に馴染むまで数公演はかかりましたし、おそらく歌う・演奏する側が変わって行った部分もあると思います。
ということで、最もロジカルな方法として、各公演を時系列順に並べ、出来るだけ鑑賞時に感じたことを忠実にまとめるよう心がけることで、
その変遷を辿っていけたらいいな、と思います。
ただし、字数が多すぎて全部のレポを一つに納めることが出来ないので、第2,4,5,6,7公演日の演奏については、各公演日をクリック頂くとその日の公演についての感想に飛べるようにしました。
公演数が多いので各レポートではです・ます体を排し、それぞれの公演単位ではかなり短めの感想になってしまっているものもありますが、
全公演の感想を通して読んだ時にラン全体の演奏の全貌が少しでもわかるような感じになっていればいいな、と思います。

それから声を大にして言いたいのは、この作品は全然難解なんかじゃないということ!!
過去の私みたいにオペラ本に騙されている人がいては本当にもったいないので、念のため!!

**初日(Fri, Feb 15, 2013)**
ドレス・サークルの二列目で鑑賞。
オケの演奏に関して”遅い”という意見が批評家・ヘッズの両方から多くあがっていたようだが、テンポが遅いのではなく、休符の取り方が長い、と言った方が適当だと思う。
特にこの日の演奏の前奏曲でそれが顕著で、ガッティはランの前にこの作品での休符の重要さを説いていたが、
その重みに耐え切れなくて緩んでいる、とまでは言わないものの、私にはわざとらしい・不自然と感じるテリトリーに微妙に足を踏み入れているように感じた部分もある。
しかし、たとえば二幕の花の乙女たちの場面の音楽はむしろ私の感覚ではかなりスピーディーな演奏に感じられたし、
一幕の舞台転換の音楽も、ラジオなどの音源だけで聴くとゆったりし過ぎて感じるかもしれないが、その雄大さは舞台で進行している演出効果(後に触れる)と良くシンクロしており、
劇場で聴くと適切なテンポに感じられる。
過去のレヴァインの演奏(これは、まじで遅い!)と比べても、今日の演奏は決して”遅”くはない。
もし、それでも”遅い”という印象を払拭できないとしたら、それは瞬発力の欠如のせいではないかと思う。
この作品には突然の気付き、突然の感情の奔流、という瞬間がいくつかあって、歌手が言葉でそれを表現する前にオケの演奏がそれを先取りするようにワーグナーが音楽を書いているが、
そういった瞬間にオケの演奏が、どぱーっ!と出て行くのではなく、むにゅむにゅ、、と残り少ないマヨネーズをひねり出しているような感じで演奏される時があった。
今シーズンの『パルシファル』の演奏で、ガッティはオケに力任せではなく、繊細で柔らかな表現を求めているのが感じられ、それは一方では素晴らしい音楽的効果をもたらしているのだが、
感情の奔流の表現と繊細さを統合するのはかなりハードルが高く、この点では若干の課題があったかもしれない。
それでも、全体としては大変に優れた解釈と演奏で(これまでイタものを含めたガッティの演奏を全く好きになれなかった私でもそう思う)、
一幕でオケかららしくないミスがいくつか聴かれたのは残念だが、それでもガッティの音作りとそれに答えてオケが出している音はオペラハウスで聴くと音のバランスが素晴らしく、
また、それを損なわずに大切な場面で音をきちんと鳴らすことを怖れていないのも賞賛に値する。ワーグナー作品でこのようなエモーショナルな演奏をメトで聴いたのはレヴァイン以来。
今シーズンの『パルシファル』の公演がオケの演奏の面からだけ見ても特別なものになっているのは明らかで、これだけでガッティが振る残りの公演をすべて鑑賞したくなった。
また、ガッティが舞台で進行していることにも神経を使いながら音作りをしているのは、
演出チームと音楽チームの意思の疎通が上手く行っている証で、これは上演上多大なプラス。
ただし、インターミッション中に、平土間席前方中央に座っていると思しき女性二人の”ガッティの歌声・唸り声がうるさくてオケの音が聴こえない。”発言が耳に入って来たので、
それは覚えておかなきゃな、、と思う。
演出はコンセプト型とでもいおうか、確かに我々が普段着用・使用しているような衣服・小道具が登場するのだが、
それは単に物語を普遍的なものにする目的の一部に過ぎず、セットもイメージとかアブストラクトさ、コンセプトを重視した舞台で、
よって、キャストが現代服を着ている、という点では同じでも、60年代のヴェガスという固有の場所に舞台を移したメイヤーの『リゴレット』とは全く対照的な舞台づくりである。
だから、MetTalksの際にゲルブ支配人がやっていたような、”現代服をキャストが着用する演出”というようなカテゴライズの仕方はなんらの意味も持たないし、
よって、演出をモダンvsトラディショナルの枠組みだけで捉えるのも無理があるだろう。
オペラの演出のカテゴリーとして存在するのは、優れた演出と出来損ないの演出、この二つだけ、という、この気付きが今回の『パルシファル』で得た収穫の一つだ。
MetTalksの記事で演出家のジラールが語っていた通り、当演出はポスト・アポカリプティックな世界を舞台にしているので、舞台は始終曇っていて暗い。
干上がった地面には水一滴なく、よって、一幕でクンドリが母の死を聞いてショックを受けたパルシファルの額に水をかけてやる場面はちょっと無理があるかもしれない。
(クンドリ役のダライマンは必死で水をかき集める動作をするが、それでも歌われている言葉との違和感は隠し得ない。
三幕でもクンドリがパルシファルに気付けのために水をかける場面があって、同じ轍を踏みそうになるが、ここはグルネマンツが”そうでなく、、”と、
洗礼のためにとっておきの汲み貯めした水を持って来ることで救われている。)
アンフォルタスが一幕で自らの傷とそれを引き起こした自分(それ、すなわちすべての人間)の弱さを嘆いた後、舞台の中央を走る細い溝に血が流れ始める。
やがて、ビデオ・グラフィックスにより、血が走る乾いた土地は人間の皮膚のクローズアップに変化したり、
後ろに見えていた連綿とした乾いた土地がしばらく砂丘のようになったかと思うと、それがそのまま人間の体の一部(背中?)にモーフィングしていく。
つまり、この世界は、私の、あなたの、体そのもの、ということであり、世界(他者)の痛みは私の痛みであり、その逆も真なり、というこの作品のテーマを良く捉えていると思う。
また、クンドリが、”あの人”(限りなくイエスのイメージだが、この演出ではワーグナーが意図した通り、個別の宗教としてではなく、
あらゆる宗教に共通した・を越えたスピリチュアリティをテーマにしたものになっているので、”あの人”のままにしておく。)を笑ってしまったため、
後悔と懺悔を繰り返しても救済の瞬間に笑いが漏れて再び劫罰に落ちるという、
”泣けない”という恐ろしいカルマ(これをジラールが輪廻転生と重ねて見ているのはMetTalksの記事の通り)。
パルシファルから洗礼を受ける時に彼女が落とす涙によって、とうとう彼女が終わりない懺悔から解放され、ついに”あの人”に赦されたことをオーディエンスが知る、
作品の中でも最もエモーショナルな場面だが、ここで干上がった土地の、例の溝に、水が流れ始める。まさに奇蹟、ということなのだろう。
また、永劫の罰から解放されたということは、すなわち、彼女が待ち望んだ死が訪れる、ということであり、この演出ではエンディングに彼女の死も視覚化されている。
この演出でおそらく最もユニークな点は聖なる槍と聖杯の再会・再結合にクンドリが物理的に大きな役割を果たしている点で、
クンドリがささげ持った杯に向かって血を流し込むべくパルシファルが聖槍を立て、その血を受け終わった瞬間、クンドリが死を迎えアンフォルタスをしばし見つめた後
(クンドリがアンフォルタスに対して特別な感情を持っていたことの顕れともとれる。もちろん、長い間彼を苦しめたことに対する彼女なりの謝罪の表現ともとれるが。)、
グルネマンツに抱えられながら、息を引き取ってゆく。
この場面でクンドリに大きな役割を持たせたことにより、救済者としてのパルシファルはアンフォルタスはもちろんクンドリなしでも存在し得なかったということ、
汚れた愚かな存在から、最高の智が生まれる、という構図(愚かなのは過去のパルシファルだけでなくクンドリもアンフォルタスも、、)が強調される効果が生まれ、
この世界に無駄な存在は一切なく、昨日の無知は今日の智である、というこの作品のメッセージを強く感じさせるものとなっている。
また、もちろん、この場面の演技付けには性的な側面もあり、聖杯と聖槍の再会の場面は性交の描写そのものといってよく、
これによって、限られた男性のみが騎士として特別な地位を許されていたのが、救済者としてのパルシファルの登場を通して、女性も男性も、愚かなものも智あるものもすべて一体となった、ということを言わんとしているのを感じた。



初見時にこの演出で私が若干の違和感を感じたのは三幕。
10年程前にケニアを訪れた際、何度か自分が世界・他の生命と完全に一体化するような圧倒的な感覚を味わい、そのことは自分のその後の生き方を考えるうえで大きな転機となった。
信仰深い人たちは宗教を通してこういった感覚を体験するのかもしれないが、具体的な宗教の形でなくてもそれをもたらしてくれるものが、非常に数は少ないが、ある。
良く演奏された時の『パルシファル』はその一つで、そして、オペラ作品でそのような感覚を引き起こす力を持った唯一の作品が『パルシファル』ではないか、と思う。
ワーグナーはこの作品を単なるオペラとしてではなく、舞台神聖祝典劇としているのでそれは当然とも言え、
また、”オペラ作品”とひとからげにするな!という人が必ずいると思うが、この作品を”オペラ”として鑑賞している人もたくさんいる、という事実も厳然としてある。
その証拠に、2005-6年シーズンの公演までは一・二幕の後は拍手をしない、という伝統が守られていたように記憶しているのだが、今シーズンの公演でそれは完全に崩壊した。
音楽が完全に止まる前に拍手が出るのは言語同断で、特にこの作品の場合、すでに手が動いている人間を絞め殺してやりたい位頭に来るが、
音楽が停止してからの拍手が一幕と二幕で出るようになったのは、少なくともここNYではこの作品を典礼としてでなく、オペラとして鑑賞する人が圧倒的に凌駕した、ということで、
ワーグナーが知ったら悲しむと思うが、いつかはその時が訪れる運命でもあるのかもしれないな、とも思う。

私はジラールの必ずしもキリスト教のそれにこだわらない演出アプローチは正しいと思うし、
ワーグナーはドラマとしての力を増幅させるため、キリスト教の中で観客がリレートしやすいイメージ(例えば三幕でパルシファルの足をクンドリが髪で拭う様子はルカによる福音書などに登場し、
マグダラのマリアと同一人物とされることもある女性のイメージだ。)の力を借りてはいるが、その一方で、キリスト教だけに拠ったものにならないよう、心を砕いてリブレットを書いている。
演出をする場合はこのバランスの取り方が肝であり、また難しいところだ。
私が一番好きな音源は先にも書いたようにクーベリック盤だが、この盤の三幕の洗礼の場面を、ほとんど宗教的とも言ってよい深い感動を覚えずに聴くことは難しい。
というわけで、ワーグナーがこの場面を命の芽吹きを感じさせる時と場所に設定しているのは当然理由あることなのだが、ジラールの演出はなぜかここの描写が控え目だ。
舞台ではほんの少しだけ、雲が晴れて、そこから見える空の色が少し明るくなるだけ。野の花もなく、相変わらず土地は荒涼としたままだ。
あまりに変化が微細過ぎて、これでは観客の中には私のように人間の他者の痛みを共有する力を信じていいのかどうか不安になってしまった人もいるだろう。
ヘッズの間でもこの場面はもうちょっとカタルシスが欲しい、、と感じた人が少なからずいたようだ。
この場面を見て、私はジラールはすごくペシミストなのかもしれないな、と思った。
現代のように自分勝手な人間がどんどん幅を利かせている世界では、彼のような感じ方の方がリアリティはあるのかもしれないが、
しかし、ワーグナーはそれでも人間を信じたい、そういう思いでこの作品を書いたのではなかったか。
個人的には、もう少しオプティミスティックに行って欲しいところだ。

また、二幕目の花の乙女(実際にこのパートを歌う歌手に加えて、ダンサーを補強している)の表現は演技ではなくダンスの範疇に入るもので、
私は情熱的で濃厚な感情はもっと気ままに表現されるべきだと思うので、
動き、シークエンス、タイミングまでががっちりと決まってしまっている今回のような表現は”コリアグラフされ過ぎ”との印象を初日には持った。
結果、エロティックさが薄められ、割とクールな感じの花の乙女になっている。(コリアグラファーはミンゲラ版『蝶々夫人』と同じキャロリン・チョイ。)
花の乙女達がパルシファルにくらいついてカウフマンの着ている洋服をはぎとって、彼が上半身まっぱになってステージ前方に転がり出て来ても、
このコリアグラフィー度の高さのせいで、全然エロティックな感じがしないのだ。ほとんど意図的に生々しいエロティックさを除去しているようにも感じられる。



歌手に関しては今回キャストがかなり強力なのでがっかりさせられることはないと思ってはいたが、一番期待を上回る幅が大きかったのがアンフォルタス役のペーター・マッティ。
彼が素晴らしい歌手なのも、、当代髄一のドン・ジョヴァンニなのも実際に聴いて知っているが、ワーグナーをこんなに素晴らしいスキルと豊かな感情を込めて歌うとは!!
彼はこれがロール・デビューで、この初日の数日後にマッティを招いてのSingers' Studioのイベントがあったが、
そこでも、まだ、”自分でも役との相性がいいのかどうか、まだ完全には確信を持てないのですが、初日での皆さんの反応を見たところ、まあまあなんでしょう。”なんてびっくりするような発言をしていた。
こんな素晴らしいアンフォルタスを歌える歌手、今、世界のどこを探しても他にいない!それ位すごい歌唱を披露しているのに。
それどころか、歴代の名アンフォルタスと比べても、引けをとってない。
そのSingers' Studioで、彼の発言を聞くうち確信したのは、彼は圧倒的な天然の才能を持っているということ。
彼の主張は始終”練習はきちんとするけど、特別にこうしてやろう、ああしてやろう、といった努力は何もしない。
声に無理なことをさせてはいけない。無理をしなければ歌えないようであれば、それは役が合っていないということ。”
彼の歌が素晴らしいので、その秘訣を聞き出してやろうと躍起になっている鉄仮面(Singers' StudioでモデレーターをつとめるOpera Newsの編集長)を相手に、
純粋に鉄仮面の尋ねている質問にどう答えていいのかよくわからない、、という表情を浮かべているのだ。
マッティの主張は言うは易し、だが、ほとんどの歌手は特別な努力をして、声に負担をかけている。
”秘訣なんて何もない。普通に歌うだけ。”
こんな発言、生まれつきの才能に欠ける歌手が聞いたら歯軋りして悔しがるような発言だろう。
歌唱表現の機微を一切損なわず、ワーグナーのオーケストレーションを楽々と越えてオペラハウスを包み込むベルベットのような声。
カウフマンやパペのソロ部分では繊細な表現を心がけているガッティも(そして、言っておくが、この二人だって声量がない歌手では全くない。)、
マッティが歌う時には場面がそれを要求しているからということもあるが(アンフォルタスに与えられたパートは音楽的にこの3役の中でもとりわけエモーショナルだ。)遠慮なくオケを鳴らしまくっている。
またマッティの歌唱が非常にスポンテニアスなのも、今回印象に残った。
毎公演、毎公演、その日の公演のエネルギーやオケの演奏に合わせて、同じフレーズでも違うカラーリング、違うパッションの込め方で歌い、歌の表情が豊かだ。
これまで何度もグルネマンツ役を歌っているパペはランを通して割と完成された、公演毎でぶれのない歌唱を聴かせたのに対し、マッティやカウフマンの歌は一回一回かなり内容が違う。
三人ともそれぞれのやり方で完成が高いので、どっちが良いということではなく、単なる比較の問題で。



グルネマンツはアンフォルタスのように爆発的な感情を吐露する場面はほとんどないが、一見淡々として見える歌唱の中に複雑な思いを込めなければならず、
また三幕の洗礼の場面の、グルネマンツが歌うパートは作品のエンディングと並んでこの作品の最も感動的な場面であり、オケが奏でる音楽に負けない存在感と表現力が求められる。
しかも二幕には全く登場しないものの、全体に渡って歌うパートが大変に多いので、力のない歌手が歌うとオーディエンスにとっては退屈で目も当てられない、、ということになってしまう。
パペは私が見るところちょっと照れ屋なところがあるのか、オーバーでわざとらしい演技が苦手で、そういうのをやれ!と強制されたりすると、
逆にそっけなくしたくなる天邪鬼さんみたいなところがあるように思う。
例えば昨年の『ファウスト』のメフィストフェレスなんかも、初日ではすごくはじけた演技をしてたのに、
HDでは”そんな恥ずかしいところを映像に残せるか。”とばかりに大人しくなってしまっていて、それはがっかりしたものだ。
しかし、彼のそんなそっけなさ、良い意味での朴訥さが、グルネマンツという役、特にこのジラールの演出でのグルネマンツにはすごく合っている。
髭を伸ばした長老、、というティピカルなグルネマンツのイメージではなく、ほとんど彼の実年齢くらいのイメージでこの役を演じているようだが、本当に等身大でリアリティがあるのだ。
歌にも変に誇張したところがなく、淡々と歌っているように見えるが、その完成度の高さは、けちをつけたくなるようなところが何もない程で、
逆にその淡々としたところが三幕の洗礼のシーンで爆発的な感動を生み出す結果になっている。
パペに関してはフィリッポ、マルケ王、ボリス、メフィストフェレス、、と多くの役で素晴らしい歌唱を何度もメトで聴かせてもらっているが、
今シーズンの『パルシファル』での彼の歌唱は単なる優れた歌唱を超えて、作品や演出とのシナジーがプラスαを生み出し、今まで聴いた彼の中でも最も記憶に残るものとなった。
パペはまだまだこの先何年も舞台で歌い続けていくだろうが、私が足腰弱ってオペラ通いを止める時、パペの最高の舞台を一つあげよ、と言われたら、おそらくこの『パルシファル』をあげるだろう。
オペラ通いを続けていると、このクラスの公演がどの位の頻度で起こりうるか、大体の予想がつくからだ。



クリングゾル役の二キーチン。初日の歌唱からは大変な気迫を感じた。
彼は見かけによらず(?)、声は非常にエレガントで意外と軽く、いわゆるノーブルなキャラクターに向いていて、例えば、数年前の『エレクトラ』でのオレストはすごく印象に残っている。
クリングゾル役へのキャスティングというのはちょっと意外でもあり、彼の個性にすごく向いているか?と言われると、私は必ずしもそうは思っていないところもあるのだが、その割には良く健闘していたと感じた。
今回の演出で一番演じにくい役はクリングゾル役ではないかな?と感じるところもあって、同役が若干カリカチュア化された悪役に見えてしまうのが残念なのだが、
歌唱でそれを引っくり返すところまではいかず、むしろその演出に引っ張られてしまった部分があったかもしれない。
しかし、NYのオペラ人口に占めるユダヤ系の率はおそらくオペラハウスが存在する世界の他都市のどこよりも高いはずで、
そのNYで、しかもワーグナーの作品に登場するということは、MetTalksの記事で触れたような経緯があった彼にとって大きなプレッシャーだったに違いない。
オーディエンスの喝采が若干彼の頑張りに比して少ないように感じたが(特に初日)、もし歌唱の内容がXだったら何のためらいもなくブーするヘッズだって必ず混じっていたはずだ。
良い歌手なのだから、先のシーズンでもメトで歌ってくれるのを期待している。

ティトゥレル役の歌唱はマイクを通してしまったので(またこの演出では彼は舞台上には一切登場しない)、完全な生声を聴けたわけではないが、
マイクを通しても豊かで深く美しい声を持っていることが感じられたのはル二・ブラッタバーグというフェロー諸島(現在はデンマークの自治領)出身のバス。
メトではずっとハーゲン役などのカバーを務めてきているようだが、少なくとも声楽の面では既に表にキャスティングしても十分通用するものを持っているように感じる。
ティトゥレルのパートは”間”がすごく大事なのだが、慌てている様子が一切なく堂々とした歌いぶり。
良い公演というのは、こういう比較的小さな役もきちんとしまっているもので、その見本のような歌唱だ。

今回のキャストは男性陣が本当に充実しているので、これにふさわしい歌唱を出すのは本当に大変だと思う。
今シーズンの前に『パルシファル』がかかったのは確か2005-6年シーズンのことではなかったかと思うが、その時のワルトラウト・マイヤーのクンドリが印象に残っている。マイヤーに比べるとダライマンのクンドリはちょっとまったりとおばさんくさい。
彼女の鋭さのないおっとりした歌い方がそれに貢献しているのは間違いないが、佇まいにも、もうちょっとシャープさがあれば、、と思う。
特に第一幕でのクンドリは非常に複雑で、グルネマンツや騎士達との会話の中にも彼女の自分の運命そして自分自身への苛立ちが表現されていなければならない。
マイヤーの歌唱と演技は幕中のどこからもそのひりひり感を感じるものだったが、ダライマンのクンドリはその点でもう一歩だ。
ただし、二幕、三幕、と幕を追うごとにクンドリの変貌がダライマン自身の個性に近くなっていくのはラッキーで、
三幕でクンドリが歌うのは”Dienen... dienen!"という二語だけだが、先述したようにこの演出は三幕のクンドリに大きな役割を与えているので、馬鹿にならない。
MetTalksの時にダライマンが初日を間近に控えて風邪をひいていたことが開陳されていたが、その影響か、
もしくは年齢・レパートリーによるもっと大きな流れの中での声の変化のせいか、以前聴いた時よりも声が少し乾いた感じに聴こえるのは若干気になった。

一番意外な歌唱を聴かせたのはカウフマンだった。
彼は普段から色んなタイプのレパートリーを歌って行きたい、と語っているが、メトでの舞台はそれを反映したものとなっていて、
私は『椿姫』、『トスカ』、『カルメン』、『ワルキューレ』、『ファウスト』、そしてこの『パルシファル』と、イタリア、フランス、ドイツものをそれぞれ2演目ずつ全幕鑑賞する機会があったわけだが、
(他にもOONYの演奏会形式の演奏では『アドリアナ・ルクヴルール』もあった。)
このうちで最も繊細な歌唱だったのが今回の『パルシファル』だったからだ。
過去に鑑賞した・もしくはこれまでCDで聴いたことのあるパルシファルたちでこんなに繊細に、柔らかくこの役を歌っているテノールもまずいない。
例えば『トスカ』、『カルメン』、『ファウスト』といった演目で、彼がアリアの中で弱音を入れることはあったが、
今回の『パルシファル』はそういうこの音単位でピアノ・ピアニッシモにしよう、という意図を越えて、全体においてソフトなのだ。
あまりにもソフトなので私はカウフマンの声量がなくなってしまったのか、、と最初は心配になった位だ。
第二幕のAmfortas!以降の部分で、決してそういうわけではないことがわかるのだが。
しかし、その場面以降も決して力任せに音を発することはなく、歌全体にものすごいコントロールが働いていて、
正直、初日の段階ではそれが表現の結果としてなのか、それともこの大役を歌うにあたってペース配分に気を遣うあまり、こうなってしまうのか、判断しきれなかった部分がある。
カウフマンがonな時にどのような表現をするか十分に知っているつもりの身としては、前者なら、まだ完全には役作りが練り切れていないのか?
またもしも後者なら、この役に対して彼の声と歌唱がほんの少しアンダーパワー気味なのか、、?との危惧も持った。
普通の尺度で言ったら十分に素晴らしい公演だったが、カウフマンが火を吹く公演はまだ先にあるのではないか、と見た。そしてそれは正しかった!


**第二日 (Mon, Feb 18, 2013)**


**第三日 (Thurs, Feb 21, 2013)**
オペラハウスで鑑賞できなかった日。シリウスで放送を聴く。
初日と比べると徐々に演奏がこなれて来て、歌手達の表現が少し自由になった感じがする。
一方でHDが近づいているからか、歌のフォーカスが高まって来ている。
他の公演日とあまりに鑑賞条件が違い過ぎるので(生鑑賞vsシリウス)、これ以上の感想は省略。キャストは初日と同じ。


**第四日 (Wed, Feb 27, 2013)**

**第五日 (Sat Mtn, Mar 2, 2013) & 出待ち編**

**第六日 (Tues, Mar 5, 2013)**

**第七日 (Fri, Mar 8, 2013)**

**聖金曜日の典礼 (The Solemn Celebration of the Lord's Passion) (Fri, Mar 29, 2013)**
いくつかの理由で、過去5年ほどは、アッパー・イースト・サイドにあるエピスコパル派の教会での日曜の復活祭ミサに参列して来たのだが、
『パルシファル』モードがずっと続いているのと、金曜日に完全なオフがとれることになったので、
今年は家から一ブロックという超近所にあるアッパー・ウェスト・サイドのカトリック教会での聖金曜日の午後三時からの典礼に参加してみた。
ジェントリフィケーションが進むマンハッタンではあるが、私の住んでいるエリアはヒスパニック系の住民も多く、
今年はフランシス法王という新しい法王が南アメリカから誕生したということも関係があるのか、なかなか活気に溢れている。
たくさん書きたいことはあるのだが、ここはオペラ・ブログであり、『パルシファル』に関する記事の中なので、三つの点だけに絞って書きたい。
① 典礼が始まると司祭があらわれ、いきなり地べたに腹ばいになった。あんな綺麗な装束で、またこんな冷たい床に、、と気の毒に思い始めたまさにその時、
”この姿は!!”とMadokakipの頭の中で稲妻がなりまくった。
パルシファル役のカウフマンが第三幕で聖なる槍を前に腹ばいになる場面があった。
ぼろきれという衣装のせいだろうか、舞台で見た時は単に体で十字架を作っているのだな、、としか認識できなかったのだが、
あれはまさに、今私の目の前で司祭が見せているのと同じ行為ではなかったか。
今頃あの演技をカトリックの儀式と結びつけることが出来たなんて、私も相当鈍いが、遅くても気付ける機会があって良かった!
② ここの教会専属の歌唱チーム(合唱だけではないのであえてこう呼ぶ、、)はプロの集まりらしく、それを事前に知らない私は
件のエピスコパル教会で毎年聴かされているようなへっぽこ地元合唱団(しかも、参列者も歌がど下手)を想像していたので、
綺麗な歌声ときちんとした歌唱が飛び出して来たのには本当にびっくりしてしまった。
しかも、ヨハネの福音書からのイエスの受難・死の場面の抜粋が普通の朗読ではなく、レチタティーヴォ的な音楽にのせてずっと語られるのだ。
ソプラノがナラティヴの部分を詠むと、バス・バリトンがイエスの言葉を歌い、そして、それに応えて人々(合唱)が応える、、というように。
やはり音楽の力というのはすごいな、と思う、朗読で聴く以上にものすごいドラマを伴ってあの場面が胸に迫って来るのだ。
しかも、参列者の歌もこちらの方が一枚も二枚も上手だ。なかなか音楽的に恵まれた教会で今後も通いたくなった。
③ その死の場面で、イエスはI thirst.(渇く)と言い、人々がぶどう酒にひたした海綿をヒソプに付け差し出したところ、それを受け、”成し遂げられた”という言葉を最後に息を引き取る。
司祭からのお話でも、今回、この"渇く”という言葉がテーマとして取り上げられていた。
パルシファルがクンドリに洗礼を施し、クンドリが流す涙とそれを機に舞台上の大地に流れ始める水は、彼女と世界が救われたことを現すと同時に、
その水・涙はまた、救済者の渇きを潤すもの、救済者に救済を与えるものである、ということを表現していたのではないか?
他人を救済し、そのことによって、また自分も救済される。
『パルシファル』を締めくくるのは、合唱によって歌われる”Erlösung dem Erlöser!(救済者に救済を)”という言葉だが、それと合わせて考えると大変興味深い。


Jonas Kaufmann (Parsifal)
Katarina Dalayman (Kundry)
René Pape (Gurnemanz)
Peter Mattei (Amfortas)
Evgeny Nikitin (Klingsor)
Rúni Brattaberg (Titurel)
Maria Zifchak (A Voice)
Mark Schowalter / Ryan Speedo Green (First / Second Knight of the Grail)
Jennifer Forni / Lauren McNeese / Andrew Stenson / Mario Chang (First / Second /Third / Fourth Sentry)
Kiera Duffy / Lei Xu / Irene Roberts / Haeran Hong / Katherine Whyte / Heather Johnson (Flower Maidens)

Conductor: Daniele Gatti
Production: François Girard
Set design: Michael Levine
Costume design: Thibault Vancraenenbroeck
Lighting design: David Finn
Video design: Peter Flaherty
Choreography: Carolyn Choa
Dramaturg: Serge Lamothe

Dr Circ B Odd
OFF (LoA)

*** ワーグナー パルシファル パルジファル Wagner Parsifal ***

RIGOLETTO (Mon, Jan 28, 2013)

2013-01-28 | メトロポリタン・オペラ
”ベガスのリゴレット”。
昨年2月に行われたメトの2012/13年シーズン発表で、
1989年から20年以上存続して来たオットー・シェンクのプロダクションをリプレイスするマイケル・メイヤーの新演出がそんなコンセプトだと聞いていやーな予感が走りました。
そして更に舞台+コスチューム・デザインを見てげんなり。
大体ベガスは私がアメリカで一番嫌っている都市なのでこちらから足を運ぶことを避けているというのに、向こうの方からメトまでわざわざやって来るとは。

実はレポートがすっかりバックログっている(というか、もうこの先も多分書けないだろうと思われる)昨シーズンのSingers' Studioに登場した歌手の一人がベチャワで、
私はヘッドショットの彼がいつも銀行員みたいな格好をしているのと、あのどこかあかぬけない人の良さそうな風貌から、
すごくまじめで大人しく物腰の柔らかい人なんだろうな、と勝手に思い込んでいました。
歌手には大体見た目通りの人と、口を開いたら見た目のイメージとあまりに違ってびっくり仰天!の二パターンがあるのですが、ベチャワはなんと第二のパターン。
特に、作品そのものを尊重せずに演出家のエゴ全開のプロダクションに関しては相当にたまっているものがあるらしく、
これまで実際に出演した演出で馬鹿ばかしいと思ったものの実例をあげながら(南の島に舞台を移したルチアとか何とか言っていたと思います、、。)、
そういった演出がどれだけ糞か、そういう時はどのように演出家に意見するか、ということを、
毒舌ユーモアを交えつつ、頭から火を噴き噴き語っている様子に、”面白いわあ、、この人、、。”とすっかり見直してしまった次第です。

なので私は演出があまりにも行き過ぎたなら、ベチャワがリハーサルでメイヤーに噛み付いてくれるだろう、と安心していたのに、
上演が間近になったある日、メトがリリースしているこんなリハーサルの映像を見てしまったのです。



ベチャワ、、、何鼻の下延ばしとんじゃ。
しかも、”(ヴェガスに舞台を移しても)上手く話の辻褄が合ってる。”だとー!?
「シナトラ的なマントヴァ公」のコンセプトがいたく気に入ったらしく、
嬉しそうに”あれかこれか”を歌っているベチャワに、”この人に期待したあたしが馬鹿だった、、。”とがっくり失望です。

『リゴレット』は私の大好きな演目であるので、メトで上演がある年(そしてそれはほとんど毎年と言ってよい、、。)には
一つのキャストの組み合わせに付き最低一度は鑑賞するようにしているのですが
シェンクの演出が20年存続したということは、これすなわち、私はメトではシェンク以外のプロダクションを観たことがないということなんです。
(日本に住んでいた頃来日公演で他のオペラハウスのプロダクションを見たことは勿論何度かありますが。)
シェンクの演出は『リゴレット』に限らず、旧リングをはじめとする他作品でも超トラディショナル+リブレットに忠実がモットーで、
これは全くもってゲルブ支配人の趣味と相容れないらしく、順調(?)にメトの舞台からシェンク演出が消えて行っています。

ここ数年、私が新演出ものに不満をぶちまけた記事が数本ありますが、
それを読んでMadokakipは演出に関しては超コンサバなんだな、写実的なプロダクション以外は受け入れられないんだな、
と思っている方がいらっしゃるかもしれませんが、それは違います。
私は単に、作品が本来伝えるべき内容・観客の心に引き起こすことの出来る激しい感情、
これらをきちんと伝えられない・起こすことの出来ない出来損ないの演出が嫌いなだけです。

時代や場所の設定を読み変えるのも、どんな悪趣味・反道徳的な舞台でも構いませんが、
それは上で書いたことが出来るという条件つきで、です。
大体オペラの演出というのは、リブレットに忠実に行ったとしても大変な作業なのに、
そこで時代や場所の設定を変えるというのはさらにそこからハードルを高くする行為以外の何者でもなく、それだけの才能が演出家にあればいいですが、
ゲルブ支配人がたまたま無能な演出家ばかりを選りすぐって連れて来ているからなのか、それとも今活躍している大抵の演出家にはそんな才能はないからか、
少なくともメトで私が鑑賞している範囲内では自分で上げたバーをきちんとクリア出来ている演出家はほとんどいません。
だから、60年代のラスベガス、、と聞いた時にいやーな予感がしたわけなんですが、
ミュージカル『スプリング・アウェイクニング』(邦題:『春のめざめ』)の成功(トニー賞を受賞しています)
で知られるマイケル・メイヤーは自分が高くしたハードルをきちんと越えてみせられるのか、それとも見事に足が引っかかってすっ転ぶのか、、?



まず、私が今回の演出で一番びっくり仰天したのは、悪趣味の極みと言ってもよいセットでも、
第三幕に登場する胸丸出しのストリッパー(しかし、日本の皆様、特に男性には残念なことに、HDでは丸出しにはならないそうです。)でもなく、”字幕”です。
演出のメイヤーか誰のアイディアか知りませんが、なんとメトは座席の同時字幕システムで長らくこの演目で使用されて来たスタンダードな翻訳バージョンから、
新演出のために特別に訳し直した、いわゆる”ラスベガス・バージョン”にとりかえてしまったのです。

公爵に迫られるチェプラーノ伯爵夫人の返答の訳がベガス・バージョンでは"Chill out, fella.”みたいなことになっていて私は座席から引っくり返るかと思いました。
これは正直、大・大・大問題です。
原語のイタリア語ではCalmatevi、確かに(そう性急にならずに)落ち着いて頂戴、という大意は同じかもしれませんが、
”お心をお静めになって”(新潮オペラCDブックの永竹さん訳)と言うのと、”ちょっと、あんた、落ち着いてよ。”(ベガス版のMadokakip訳)と言うのでは、
随分ニュアンスが違うと思いませんか?
ましてや、オペラは演劇と違って言葉一つ一つに音楽が付いています。
ここの部分の優雅な(しかし、貴族的な欺瞞に満ちた!)音楽を聴いて、”ちょっと、あんた”みたいな言葉遣いを想像する人はいないと思います。

大体、”あんた”というような言葉をマントヴァ公に吐くというのも問題です。
私はアメリカ人のオーディエンスの多くが完全には理解できない感覚に”生まれ付いて持っている特権”というのがあるのではないかな、と思っています。
イタリアをはじめとする多くのヨーロッパの国には貴族がいるし、日本には皇族があります。
嫁入り・婿入りをする場合を除いて、私達一般ピープルが貴族や皇族に入れる確率はゼロ。
貴族や皇族は”生まれる”ものであって、”なる”ものではないのです。

アメリカにも勿論生まれつき金持ちという特権階級はいますが、金持ちと貴族はちょっと違うな、と思います。
例えば、この私だって金持ちには”成れる”かもしれませんが、さっきも言ったように、貴族に”生まれる”ことは出来ないからです。
シナトラとかディーン・マーティン(この演出でのもう一人のマントヴァ公のインスピレーション源だとか。)のようなスターも、やはり
この区分で言う”成る”ものであって、”生まれる”ものではない。
”誰でも頑張れば成功できる!”という考えが好きなアメリカでは、”なる”ことの出来る希望や可能性が存在する事が重要であって、
”生まれる”という概念はそれを邪魔するものであれ、決して助けるものではないのです。

なので、この国では、どうしても、贅沢とか自分のやりたいことをやれる自由というのが、努力や成功の報酬とイコール、という見方になってしまいがちなのですが、
マントヴァ公のような貴族(しかもマントヴァでは他の誰よりも位が高い)は、なんの努力も成功も必要なく、
それに生まれついた時点で自分のやりたいことを好きに出来る自由を持っていて、その権利をほとんど無意識に行使しています。
それゆえにマントヴァ公には何の悪意もない、その事実が一層、リゴレットやジルダにもたらされる悲劇を悲しく、切ないものにする、、、
これが『リゴレット』のストーリーの一番大切な側面の一つであって、それを誰でもが”なれる”可能性のあるシナトラのような人物と置き換えてしまうあたり、
やっぱりメイヤーはアメリカ人だなあ、、と思ってしまいます。



更に、マントヴァ公をシナトラ/マーティン的人物にしたせいで、
本来宮廷の人々であるはずの役柄(合唱)はすべてラット・パック(60年代に一緒につるんだり仕事をシェアしたシナトラやマーティンを中心とするスターたちの一群。)という設定になってしまい、
宮廷というコンテクストがすっかり抜け落ちてしまったのも問題です。
『リゴレット』の作品で、この宮廷という設定は非常に重要です。
せむしのリゴレット(これもまた彼の性格を語る上で非常に重要なアスペクトなのですがルチーチは全然せむしらしい様子も動作もしておらず、
この新演出で完全無視されています。)に、宮廷の道化をつとめる以外、どんな仕事があるというのでしょう?
彼が生活の糧を得て、ジルダを育てていける唯一の方法は貴族の欺瞞・高慢さに付き合いながら道化に徹することだけです。
だからマントヴァ公を喜ばせるために、本来の彼なら思いもしない言葉を吐いて、モンテローネから呪いの言葉を受ける羽目に陥る。
この作品で面白いのはリゴレットが宮廷の人々に非常にアンビバレントな気持ちを抱いている点で、
宮廷のような閉塞した場所で、毎日顔を付け合わせているせいで、彼らを憎しみ、馬鹿にしながらも、
一方でどこかに彼らからの理解を期待しているような、ほとんど楽観的と言ってもよい気配もあります。
だから、彼らがジルダを誘拐しようとしているとは夢にも思っていなければ、
”悪魔め鬼め Cortigiani, vil raza dannata"でさえ、何もかも投げ打って助けを乞うことで、誰かがきっと手を貸してくれると思っている。
毎日顔を付け合わせて働いている仲間の娘が公爵の慰みものになっている時に、それを見捨てるほど薄情ではないだろう、、と。
だけれども、誰も手を貸さない。
その時に初めて、リゴレットは本当に理解するのです。彼がモンテローネに吐いた一言がどれほど残酷なものだったかを。
そして、その思いが彼をマントヴァ公への復讐へと走らせ、一方でますます呪いの成就への恐怖を強くしていくわけです。

この辺りの微妙さをシェンクの演出は上手く出していて、誘拐してきた女性がリゴレットの妾ではなく娘だと判った時の廷臣たちの動揺、
リゴレットの嘆願から体を背ける様子に良く表現されていました。
彼らも悪人ばかりじゃない。でも、リゴレットを助けるという事はマントヴァ公に逆らうこと、、
宮廷での立場を簡単に失えないという点では彼らもリゴレットと同様に自由のない宮廷の世界にがんじがらめになった存在なのです。

ところが、この新演出では宮廷という枠を取っ払ってしまったので、先に書いたようなリゴレットの思考内容や順序が意味を成さなくなっています。
そもそもこのベガス版でのリゴレットは一体誰&何者なんでしょう?
どうしてラット・パックとつるむ理由があるんでしょう?
リゴレットとマントヴァ公の関係は何なんでしょう?
上に書いたリゴレット嘆願の場面もラット・パックは全くの無表情かあざける様子を見せているかのどちらかで、
宮廷という閉じた場所で起こりがちな、家族関係にも似た愛憎混じる複雑な感情をシェンクの演出のように見せられていません。
また、場所と年代を置き換えて宮廷という大切なコンテクストを抜きながら、それを代替するものの説明がきちんと演出の中で成されていないから、
それぞれのエピソードをつなぐリンクが弱くなって、本来この作品が持っているパワー、観客の胸に巻き起こすことのできる悲しみや興奮を生み出せていないのだと思います。



どんどん指摘を続けましょう。
次は”呪い”です。
この作品の前奏曲は呪いの動機で始まって、全幕を通してリゴレットは何度も呪う・呪い(maledivamiとかmaledizione)という言葉を歌い、作品の最後に彼が吐く言葉もこれです。
つまり、この作品は最初から最後まで呪いとリゴレットがそれに対して感じている恐怖が通奏低音にあるわけです。
その作品のテーマと言ってよい呪いを導き出すのはモンテローネが”Sii maledetto! (貴様の上に呪いあれ!)”と歌う場面なわけですが、
メイヤー演出では、モンテローネがなぜかアラブ人という設定になっていて、横でリゴレット役のルチーチがガトゥラに擬して頭にタオルをのせてうろうろ歩き回ったりしているものですから、
呪いをはく部分も含めてこのシーンをコミカルと感じる馬鹿で幼稚で悪趣味なオーディエンスが結構いたために始終笑いが客席から起こっていて、
この場面が本来持つべき、背中が凍るような怖さを感じることが全くできませんでした。
私がどこかで目にした記事で、メイヤーが”(この呪いをかける場面は)現代の感覚からすると唐突で不思議な感じがするので、
それを解消するためにアラブ人のアイディアを採用した。”と語っていて、
つまり、変なことをやらかすのもアラブ人ならば納得でしょ?というような不思議な論法だったんですけれど、
こう言っちゃ何ですけど、私からすると、アラブ人が変だと言うなら、ユダヤ人も負けず劣らず奇妙ですよ、まじで。(ちなみにメイヤーはユダヤ系アメリカ人)。
そんなだったら、代わりにキッパーをのせたユダヤ人の横で、ルチーチが頭に小皿でも載せてうろうろしていてもいいと思います。
そんなことを非ユダヤ人の演出家がやったら大問題になっていると思いますけどね。
こういう他文化を笑いのネタにするような幼稚なユーモア・センスは私は持ち合わせていないですし、
この作品のどこで笑いを取りに行こうと、ここだけは真面目にやらなければならない!という箇所があるとすればここで、
呪いのテーマとそのトーンの設定をしくじる、ということは、全幕にわたってその影響があるわけで、ここは今回の演出で一番失敗していた部分として私は挙げます。



そして、三幕もむむむ、、です。
スパラフチーレとマッダレーナが営んでいるのは少し町外れと思われるストリップ小屋で、
前奏の部分の音楽(実にせつなく美しい旋律、、)をバックに、ベチャワがまた鼻の下を延ばして例の胸丸出しのお姉さんがポール・ダンスをするのを眺めている、という設定です。
そのストリッパーがいなくなった後に、マッダレーナが登場するのですが、このマッダレーナもストリッパー兼売春婦なんでしょう、
スリップ姿から出ているハイヒールを履いた足が超美脚で足フェチの男性ならずとも、
”おお!!”と一瞬驚きの声をあげそうになりますが、歌声が出てきてその声は”ええ!?”に大転換です。
このメト・デビューのヴォルコワというメゾは、絶対に脚の美しさだけを買われて起用されたのだと思います。
声に深みも色気も何もなく、というか、オケにかき消されて歌声が全く聴こえない、という有様で、
出番は少ないながら、四重唱の一端を担う大切なパートなのに、全くいないも同じ。ほとんど三重唱の世界になってました。
こんな三流メゾ、キャスティングするな!って感じです。

演出で問題、かつ、オペラ演出家としてシェンクとの度量&レベルの違いが悲しい位に露呈してしまうのが、嵐の場面です。



上の映像は25周年記念ガラでそのシェンク演出の『リゴレット』の三幕が抜粋演奏された時の映像なんですが
(パヴァロッティとギャウロフという垂涎コンビにステューダー、スヴェンデン、そしてレヴァインの指揮。
このYouTubeの抜粋には登場しませんが、リゴレットはヌッチお父さんでした。なんという贅沢な、、。)、
ジルダが宿に飛び込んで行った後、時々雷光が走る以外、ほとんど何も見えないのがわかるかと思います。
このはっきりとは見えないということがどれほど恐怖を倍増させるか!
オーディエンスのイマジネーションほど強力なものはないのです。しかもこんな音楽が後ろで鳴っているんですから!!
能無しみたいに何でもかんでも逐一見せるのではなく、もっともっと演出家はオーディエンスの想像力を信じてほしいと思います。

今回の演出ではネオンライトが雨と雷を表現しており、ジルダ殺害中もこうこうと照明はついたまま。
しかも、この場面って、暗がりで音楽を聴いているとそうは思わないのですが、殺す様子をいちいち視覚化しようとすると、
すごく慌しくてせかせかして、時間が足りないのが目立つ感じがします。(人はそう簡単には死なないですからね、。)

観客に胸がバクバクするような恐怖を与える能力、また音楽の長さと表現すべきことを統合する能力、
いずれの面でもメイヤーはシェンクのセンスの足元にも及ばない感じです。



相当にネガティブなことを書き並べて来ましたが、それは私がメトのような劇場はオペラとその作品を、きちんとした形で次の世代に渡して行く義務があると思っていて、
初心者が見てもその作品の言いたいことと真価がきちんと伝わるようなそういう舞台を作っていかなければならない、という信条に立っているからです。
このメイヤーという演出家はある種の舞台を作る能力やスキルは高いものを持っていると思うし、
『リゴレット』のパロディーとして、『リゴレット』という作品の本来の形を知っている人間があくまでバリエーションとして鑑賞するにはエンターテイニングなものに仕上がっているとは思います。
そして、そのためにそれなりにきちんと頭で考え、努力を積んだ形跡は十分感じられるので、
ボンディの『トスカ』を見た時のような”手を抜きやがって、、”という怒りは感じません。
また、延臣がジルダを誘拐する場面でリゴレットが娘が連れ去られたことに気付くまでの成り行きはリブレットの設定自体に”そんな馬鹿な、、。”な要素があるので、
シェンクの演出をも含めて、多くのプロダクションが苦労し、かつぎこちない結果に終わってしまっている非常に難しい部分だと思うのですが、
メイヤーはこの部分を二台のエレベーターを使うことで非常に上手く処理しています。

ただ、じゃ、これが『リゴレット』という作品ですか?と言われたら、字幕の書き換え
(そういえば、リゴレットがジルダを指して言うmia figlia(わしの娘)という言葉もmy babyになっていて、ダムラウがbaby..とちょっとひきました。)や上で書いたこと全ての理由で、私はそうは思わないし、こういうものが堂々とメトの舞台に上がるようになった、ということに非常に複雑な気分を持っています。
entertaining(娯楽としては良く出来ている)だけど、本来作品があるべき姿を伝えていないし、moving(心に響いてくるもの)でもない、そういう感じです。
オペラの演出家はブロードウェイの演出家と違って、エンターテイニングなものを作るだけでは駄目で、後者が出来ないと。

私の隣にいらっしゃった三人連れは『リゴレット』の鑑賞が初めてか、限りなくそれに近い感じで、
最後に7:3位の感じでブー(3の方)が出たのに、”えー、ブー出してる人がいるよー。なんでー??”って言ってました。
もう少しでMadokakipが彼らの方を向いて、”これは『リゴレット』のパロディーであって、本物の『リゴレット』ではないからです!”と説明してしまいそうになりましたが、
このプロダクションはなまじそこそこ(パロディーとしては)良く出来ているので、
こういうリアクションのお客さんも出て来てしまう、そういう意味ではちょっと性質の悪い演出だと個人的には思います。



キャストで最も感銘を受けたのはダムラウです。
彼女の声はお子さんが産まれてから随分野太くなって来たな、と思います。
メディアの評でも、そこを指摘し、彼女がジルダには向いていない、と指摘しているものが少なからずありました。
確かに声の響きと質の話だけに限った話をすれば、ジルダ役を歌うギリギリか、もしくはアウトグローしているととられてもおかしくない部分はあります。
以前の彼女の声を特徴・個性づけていた硬質でメタリックな美しさは減少し、その分声が温かく野太くなって、
ジルダ役を歌うような歌手からは普通まず聴くことのない、ちょっとぎょっとするようなドスのようなものを感じる時もあります。
また、テクニックには定評のある彼女なんですが、この声の変化のせいで、アジリティに以前程の軽さや鋭さが感じられなくなっている部分もあります。
でも、それを全部加味しても、私は今まで彼女で聴いたイタリアン・レップの全ての公演の中で今日の歌唱を一番高く評価します。
私がこれまで彼女に対して不満があったとしたら、歌があまりにスキルに走っていて、魂みたいなものが十分に感じられない、というものでした。
特にイタリアもので魂が感じられない歌唱というのは私にとっては致命的な欠陥です。
今回の彼女はテクニカルな部分では上のような変化はありますが
(しかしそれはあくまで過去の彼女との比較であり、絶対的な尺度で言うと今だってぶっちぎりの上手さで、
今日彼女が披露したような技術的に卓越した"慕わしい人の名は Caro nome”はそう聴けるものではありません。)
一つ一つの音符が以前よりもずっと表情豊かで、かつ、ジルダの感情を表現しようとする意図や目的意識を感じるもので、
また子供の誕生・成長といったプライベートが関係しているのか、歌に愛が溢れている!! 私にはそのことが何よりも喜ばしいことでした。
音の響きの美しさや技術の完璧さは年と共にやがて衰えて行くものですが、表現力と音楽性は永遠です!
メト・オケとのコンサートでドイツ歌曲を披露してくれた時に、その表現力に驚き、
表現の面でもこんなに力のある人なのか、、この表現力がイタリアン・レップにも及んでくれればいいんだけどな、、と思っていたのが、ついに現実になったのを聴けた感じです。
以前はシーズン発表などでダムラウがイタリアン・レップに登場すると知ってもふーん、、、という感じだったんですが、
これでこれから先彼女のイタリアものも聴くのが本当に楽しみになりました。
マフィアな指揮者と”今日のダムラウは素晴らしいね。”と盛り上がっていると、そこに招かざる客、フランスのエロじじいの登場!です。
ダムラウは超美人というわけではないし、オポライスみたいに手足は長くないかもしれないけれど、
さすがにこんな素晴らしい歌に文句はつけられまい、、と思っていたら、
”僕は彼女がもっと上手く歌う時を聴いたことがあるし、あの彼女のフォルクス・ワーゲン並みのでか尻では、とても純粋で可憐な処女ジルダには見えないねえ、、。”
もうほんっとにこのじじいはどこまで失礼な奴なんだ!?と殴りかかりたくなる衝動を抑えるのに一苦労でした。
しかも、でか尻って、一寸法師のお前が言うな!って感じです。(彼はちなみに私の2/3くらいしか身長がない。)
彼の言葉の前半部分(もっと上手く歌うのを聴いたことがある)は、それは先に書いたような事情で一部真だと思いますが、
オペラの歌唱というのは技術だけではないんですよ、本当。私は今の彼女の歌唱の方がずっと好きです。




ベチャワは批評家はおしなべてポジティブな評を出してましたが、私は歌唱の方ではトップ・フォームだとは思いませんでした。
もっと良い歌を披露している時の彼をメトで聴いたこともあるし、それと比べると今日は特に一幕でピッチのコントロールに微妙に苦労していたように見受け、
経験もある彼なのでなんとか許容範囲に収めてましたが、楽にデッドオンのところに音が入っていなくて一生懸命調整しているようなもどかしさがありました。
”あれかこれか Questa o quella"ではもう少しホールドして欲しい高音をすっと早く畳んでしまったりしていて、
この曲の、ひいては公爵役のグランドさが今一つ出てなかったし、それに伴ってオーディエンスが感じるべきわくわく感も割引されてしまいました。
かえって第二幕の冒頭のアリア、それからその後延臣たちとのやり取りをはさんでのPossente amorの部分、
こちらの方がシナトラ/マーティン的人物造形と音楽を上手く統合した魅力的な歌だったと思います。
三幕の最後でリゴレットの耳に舞台裏から聴こえてくる”女心の歌”での最後のpensierは綺麗な高音が響いていてあの場面のテンションを一気に高めるのに貢献してましたし、
トップ・フォームでなくても、こういうところを外さないのはさすがだな、と思います。
また、主役3人の中で最も無理なくメイヤーの演出に溶け込んでいたのはべチャワでした。
無理なく、というよりも、かなり喜々として演じてたと思います。銀行員みたいなルックスのくせに、意外とすけべなの。
ただ、マントヴァ公は好きに生きていればいいだけで、他の登場人物とは一切深いレベルでのインタラクションがないので
それもこの演出でも彼が演じやすく感じる理由かもしれません。



そうは簡単に行かないのがルチーチ演じたリゴレット役で、この演出の問題点をもろに被ってしまった感じですが、
メイヤーだけでなく、ルチーチにも責任の一端があると思います。
とにかくこのブログでも何度も書いて来た通り、彼のパフォーマンスには波があって、歌も演技も別人のようにスイッチがonになったりoffになったりするのですが、
今日の彼は声と歌の技術についてはon、歌での表現と演技についてはとことんoffでした。
私は彼の声はすごく好きだし、彼のどこか温かく、歌い方自体は洗練されていながら、
それでいてアーシーな感じのする音色はリゴレットに本来はすごく向いていると思っていて、
今日の公演も何度もやっぱり綺麗な声だな、、と感じる箇所があるし、アリアや重唱もものすごく丁寧に上手く歌っているのですが、
ダムラウの歌とは逆に全くハートが感じられないんですよ、、、
リゴレットみたいな大役でハートがないというのは、これはまずくないですか?
演技にいたってはもう完全放棄!という感じで、正直、ルチーチ的には全くメイヤーのビジョンに同意できないか、もしくは全く理解できていないんではないかな、と思います。
先に書いたように、せむしでもなく、普通のおっさんで、しかもマントヴァ公との関係性もはっきりしないものですから、
どのようにこの役を解釈して演じればいいのか、見当もついていない、という感じに私には見えました。
なので演じる部分をあきらめて、歌に重点を置いたのではないかな、と推測してます。
よって声も歌唱の技術も水準以上の内容だったのですが、しかし、歌による表現は役をどのように理解しているかということと切り離すことは出来ませんから、
歌唱技術からすると奇妙なまでに釣り合わない、味気ない歌唱になってしまったのだと思われます。
NYポストでは、車のトランクに瀕死のジルダを発見する(そう、袋の中ではなく車のトランクなんです、この演出では。)ルチーチの驚き方が、
車のスペアタイヤを忘れたのに気付いた時の程度の驚き方にしか見えなかった、と皮肉られてました。
それにニ幕のジルダを奪い返しに行く場面も本当にフラットで、上手く歌えてる割にこんなに胸に迫って来ない”悪魔め、鬼め”も珍しいな、と思いながら聴いてました。

これはヌッチお父さんが東京で歌った時の”悪魔め、鬼め”ですが、なんという雲泥の差の、胸を抉られるようなパッション!!
オケの演奏も火を吹いてますね。素晴らしい。これこそ『リゴレット』です!!



コーツァンは私あんまり好きな歌手ではないのですが、このメイヤー演出のスパラフチーレのいかがわしいヒットマンみたいな人物像にはすごく合っていて◎。
ドン・カルロの宗教裁判長、ドン・ジョヴァンニの騎士長、アイーダのランフィス、、と、何をやってもいまいち役にフィットしなくてうーん、、と思っていたのですが、
やっと、彼のどこかいかがわしくちんぴらっぽい個性を活かせるプロダクションが出て来て良かったですね。
プロダクションに個性が合っていると歌いやすいのか、シェンクの演出時代に聞いた彼のスパラフチーレより断然良かったし、一幕の低音も決まってました。
ただ、彼のリズム感のないのは相変わらずで、今日もどうしてそんなところで躓くかな?というところで小ミスを出してました。

ミケーレ・マリオッティは1979年生まれですのでまだ30歳代前半の若い指揮者。
ボローニャ歌劇場で指揮していて、日本公演にも同行したようですので彼の指揮を生で聴かれた方もたくさんいらっしゃると思います。
今日のキャストはいずれもキャリアの豊かな歌手たちで、彼らがちゃんと歌えないようならもうあんたは指揮者を辞めた方がいいよってな位のもので、
彼らの力、そしてオケ自身の力(リゴレットは彼らが最も多く演奏している演目の一つですから、、。)に助けられたところもたくさんあったと思いますし、
まだまだ技術的に未熟な部分もある彼ですが、出てくる音には彼らしい個性があって、私は決して嫌いなタイプの音作りではないですし、
放っておいたらメト・オケが鳴らすであろう音楽とはかなり違う彼なりのサウンドが出ているだけでもこの若さを考えれば大したものです。
ルイージの流麗で凝った音作りに比べると、素朴ですがイタリアの演奏の伝統を踏襲しているのを感じる音作りで、
これで技術が付いて来たら面白い指揮者になるかもしれないな、と思います。
歌を押し潰さないように、と、歌手を気遣った音作りをしている点も好感を持ちました。


Željko Lučić (Rigoletto)
Piotr Beczala (The Duke of Mantua)
Diana Damrau (Gilda)
Štefan Kocán (Sparafucile)
Oksana Volkova (Maddalena)
Maria Zifchak (Giovanna)
Robert Pomakov (Monterone)
Jeff Mattsey (Marullo)
Alexander Lewis (Borsa)
David Crawford (Count Ceprano)
Emalie Savoy (Countess Ceprano)
Catherine Choi (A Page)
Earle Patriarco (Guard)
Conductor: Michele Mariotti
Production: Michael Mayer
Set design: Chiristine Jones
Costume design: Susan Hilferty
Lighting design: Kevin Adams
Choreography: Steven Hoggett
Dr Circ A Even
BS

*** ヴェルディ リゴレット Verdi Rigoletto ***

LA RONDINE (Sat Mtn, Jan 26, 2013)

2013-01-26 | メトロポリタン・オペラ
こちらで書いたような事情で、実際に劇場で鑑賞するまでは何を言ってみたところで、
”ラジオじゃ良さはわからん。”とか”聴く前から良くないと決め付けとる。”とフランス人の友人に言われ続けることになるので、
堂々とオポライスに対する意見を言う権利を得るため、今日は土曜のマチネの『つばめ』にやって来ました。

実はあの後も彼はまるで初恋相手への思いを吐露するかのように熱く&しつこく彼女のことをメールで語るので、
私はもうすっかりうんざりしてしまって”いい歳こいてこのエロじじいが!”(ちなみに彼の御子息と私が同い年。)とこっそり、
いや、もう返事の文面にもそのニュアンスを丸出しにしておいたので全然こっそりではないんですけれども、思っておりました。
いつもは同じ公演を見に行くとわかると事前にインターミッションで落ち合う段取りなどを確認し合うのがならわしで、
年末年始にバカンスでNYを離れていた彼と会うのはほとんど一ヶ月ぶりですのでこの件があるまでは会うのを楽しみにしていたのですが、
もうあと一言彼からオポライスへのラブ・コールを聞いたならば、間違いなくその場で彼を絞め殺してしまうと思うので、
今回は会わないのがお互いの身のため、、、ということで、
今日は一人でインターミッションを過ごすつもりでベルモント・ルームに向かい、
飲み物のオーダーと勘定を済ませ、振り向いたところで思わず”きゃっ!!” です。
フランスのエロじじいが”Madokakip~!"と両腕を広げて立っているではありませんか!
そして久々の再会を喜び合う抱擁の後に、彼が私の両手を握りしめながら大真面目な顔で言うのでした。
”君の言う通り、僕は彼女に恋してしまったようだよ、、



私がオポライス個人に対して過剰な反応を示しているように感じられたり、
あるいは、彼がオポライスにぞっこんなのを私が嫉妬しているのでは、、?
という的外れな推測をされている方がいてはいけないので少しここで説明しておかなくては、と思います。

もちろん美人なのが悪いわけでは決してありません。
オペラが視覚も伴うアートフォームであることを考えれば、一般的に言って歌手も見目麗しい方が有利なのに決まってます。
しかし、視覚的な美しさはプラスα以外の何者でもなく、また、それ以外の何者になってはいけない、
ルックスや演技も含めたビジュアルは決して歌唱(音楽による表現も含む)の不備や欠点や物足りなさを補うものではないはずです。
だから、私は歌唱にまずきちんとした公平な評価を与えないでおいて、ビジュアルとの単純な加算合計が大であればOK、という考え方にはまったく反対だし、
そこを混同するような間抜けはまさか私の身の回りにいないでしょうね、、と思っていたのが、
『ファウスト』のポプラフスカヤにメロメロになり、ミードのアンナ・ボレーナをぼろくそけなし、
『マリア・ストゥアルダ』のディドナートやヴァン・デン・ヒーヴァーを貶めかと思うと
オポライスをまるで不世出のソプラノであるかのように褒めちぎる、、、
彼の度重なる蛮行にとうとう私の堪忍袋の緒も切れたというわけです。

この話を連れにしたら、あっさり一言。
"That's because he is listening with his dick."
(それは彼が耳じゃなくチン○で聴いてるからだな。)
おお!!!こんなぴったりの表現、もっと早く教えてくれればいいのに!



シンガーズ・スタジオの記事にも書いた通り、
『つばめ』の初日の公演でのオポライスは批評家から大絶賛されて、
メトが慌てて先のシーズンに彼女をキャスティングする交渉(特にHDがその一部であるだろうことは想像に難くありません。)に出た、という話もありました。

私が同じ日にシリウスで聴いた彼女の歌唱からは、そこまで大騒ぎするほどのものを感じなかったので、
それを説明できる唯一の可能性として、彼女の声のグランドさや響きの豊かさがラジオのような媒体では十分にトランスミットされないケースか、と思っていて、
なので私は彼女をテバルディに似たタイプの歌手なのかな、、と想像してました。
オポライスがシンガーズ・スタジオの時に、自分の声種はスピントであると何度も言い張っていた、それも理由の一つです。
『つばめ』のマグダ役は冒頭からすぐに登場し、”ドレッタの夢”のような聴かせどころもすぐにやって来るので、
この役を歌うソプラノは最初からエンジンをかけようとしているはずなんですが、
それにも関わらずオポライスの声が私のイメージしていたのと全然違っていて拍子抜けしました。
声のボリューム・ふくよかさいずれも、シリウスに乗り切らないどころか、私がシリウスで聴いて想像していた”以下”です。
仮に今回のように前評判のせいで期待が膨れ上がっていたわけでなく、ニュートラルな状態で彼女の声を聴いたとしても、
”割と小さな、劇場であまり響かない声だな。”というのが第一印象になったと思います。

彼女の歌唱でこの日一つだけ耳をひいたものがあったとしたら、それは”ドレッタの夢”のFolle amore! Folle ebbrezza!の両方のfolleで彼女が出した音で、
舞台の彼女の立ち位置とは全く違う、それでいてどこと特定出来ない場所から音が鳴って来ているような感覚を起こす不思議な音色で面白いなと思いました。
ただし、全幕を通してこのような音を彼女が出したのはこの箇所だけでしたが。



シンガーズ・スタジオの時に彼女が、かつて、ある先生Aは彼女をドラマティコだといい、
また別の先生Bはルチアやヴィオレッタを歌わせようとし、
結局最終的にはその二人とは更に別の先生Cの主張するスピント説で落ち着いた、という話を披露していて、
この三つはかなりディスティンクティブに違う種類の声だと思うので、
”変なのー。”と思いながらその話を聞いていたのですが、
彼女の声を生で聴くと、何となくですがその紆余曲折の理由がわかるような気がしましたし、
そして、それと同時に彼女が本当にスピントかどうか、その点について私はかなり懐疑的になっています。

やはりスピントと聞けば連想されるレパートリーというものがあり、
さらにそのレパートリーから想像されるオーケストレーションの厚さ、というものがあって、
だから、ある歌手が”私はスピントです。”と言う時、当然、オーディエンスとしては、
それらのレパートリーのオーケストレーションをきちんと越えて響いてくる声を想像するわけです。
ところが彼女の声はかなり軽くて小さくて、ルチアやヴィオレッタを歌わせようとした先生がいた、というのは全然不思議じゃないです。
しかし、彼女の発声には通常べル・カントを得意とする歌手が持っている、
そのお陰で小さな声でも劇場の隅々にまで音が届くのを可能にする音の響きや鳴り方が備わっておらず、
また彼女は一般的に言って、音を力いっぱいフォースするような歌い方をするので、
それがまるでスピントやドラマティコに向いている・であるような印象を一部の人に与えるのではないかな、と思います。
でも、スピントやドラマティコのレパートリーを歌うのを可能にするのは歌い方だけではなくて、
それを支える声の方も大事な要素の一部なんであって、
私が聴いた限りでは彼女の声はドラマティコはおろか、スピントのレパートリーですら、
こんな声で実際の劇場の全幕公演を歌って通用するのかな、というような種類のそれです。
歌唱で消費されている力が全部音になっていないため、音が薄っぺらくすかすかですし、、。
彼女はスピントのロールを歌っている時が一番楽、と言っていて、それは素晴らしいことだと思いますが、
彼女が”歌っている”つもりでも、こんな声で歌われるスピントおよびドラマティコのロールは、
聴いているオーディエンスの方が満足感を得れないと思います。

またこんなことを言うと、フランスのエロじじいと第三次世界大戦並みの戦いが勃発しそうですけれども、
そもそも、彼女が世界で一級レベルのソプラノという前提で、どの声質かに無理矢理カテゴライズしようとするから
どうやっても辻褄が合わない、説明しきれない、、ということになってしまうのであって
私に言わせれば、彼女をどの声種にもカテゴライズしにくい理由の一つは、どのカテゴリーにおいても彼女がB級であるからで、
つまり、彼女は少なくとも今は世界一級レベルのソプラノなんかでは全くないのであって、
どうしてこんな簡単なことが70年以上も生きてきてあのエロじじいはわからないかな、、と思います。



ここまでは彼女の素質や声の話でしたが、次に表現、特にこの『つばめ』のマグダに関して。

彼女のマグダを聴いていて、一番良くわかったのは、”ああ、彼女の蝶々さんはこんな感じに歌うんだな。”ということ。
そう、マグダを聴いているのに、蝶々さん、なんです。
蝶々さんは15歳かそこらの少女で、どんな時も心情を正直に吐露するし、
ピンカートンが彼女を現地妻と見ていようが、彼女の方はピンカートンの奥さんと会うまで自分は堂々の本妻!と思っていて、
プッチーニが蝶々さんに与えているパートはそれを反映するものになっていると思います。
一方、マグダは自分のグリゼット(お針子など本職を持ちつつ、男性と金・プレゼントなどを対価に寝る女性たち)人生に”そろそろこのままではいれない、、。”と思いつつ、
しかし、最後にはそこに戻って行くことを選ぶわけで、そこには人生への諦観もある、、、俗な言葉で言えば蝶々さんよりずっと”大人”の女性です。
だから、蝶々さんの表現に必要な一目盛りとマグダの表現に必要な一目盛りは幅が違っていて、
マグダを歌う時にその微妙な匙加減を表現し尽くせず繊細さを失うと、この話の肝心なメッセージが観客に届かない、ということがあると思うのです。
オポライスは先の素質の部分について書いたような、歌唱方法の問題(音を響かせるよりも力で音を押そうとする)も関係しているのかもしれませんが、
マグダを歌う際にもアプローチがすごく蝶々さん的=マグダの表現に必要とされるそれに比べて表現が大味で、
大切なディテールが落ちていたり、マグダがどのような感情を持ちながらある言葉、フレーズを歌っているのか、それが全く伝わって来ない箇所がいくつもあって、
まるで蝶々さんを歌っている、その言葉だけが『つばめ』の作品のそれになっているような妙な感覚でした。

例えば、一幕でマグダが
Denaro! Nient'altro che denaro! Ma via! (お金!お金以外は何もない!私の人生!)と歌いますが、
このDenaroという言葉を彼女は単純に音として歌っているだけで、
それを本気で嘆いているのか、自虐的にそう言っているだけなのか、、マグダのスタンスを表現する何らの感情も伝わって来ないのです。
ゲオルギューが2008/9年にこの役を歌った時
彼女はマグダがお金に対して持っている飽くなき憧れ・執着をdenaroというたった一つの言葉に込めていて、上手いなあ、、と思った覚えがあります。
プッチーニがこの単語につけた音楽を聴けば、そして、この『つばめ』の話をきちんと消化していれば、
ゲオルギューのこのアプローチが最も適切だと私は思っていますが、違うアプローチでも構わないから、何かをきちんと表現して欲しい、と思うのですけれど、
オポライスの表現は本当のっぺらぼうでがっかり。



それからラスト、ここも大問題です。
オポライスはシンガーズ・スタジオで、マグダのことを”段々死んで行っている”と表現していました。
ルッジェーロと出会うまではそういう解釈の仕方も出来ると思います。
でも、ルッジェーロに出会ってから、それから別れる決心をするまで、マグダの気持ちはどのように変わっていくのでしょう?
最後に別れる決心をしますが、あれはマグダにとって死を意味するの?それとも死から抜け出たの?
彼女は最後のAhをきっちり歌うことに相当神経を使ってたようで(この最後の音を出すのにかなり硬くなっているのが伺えました。)、
その甲斐あって、音そのものはきちんと出てましたけど、メトに来て、きっちり音を出すので精一杯、というのもなんだか寂しい話です。

このAhはマグダ役を歌うソプラノがどのようにこの作品を解釈しているかがわかる大事な音です。
私はこの作品はマグダが結局自分の望むライフスタイルを再確認し
(だからゲオルギューのようにお金への未練が絶ちがたい、ということを先に表現しておくことが大事なのです。)、
それを選ぶ自由のために、愛を捨てる、
つまり、人生において、何かを採れば、何かを犠牲にしなければならない、というメッセージがあって、
それが表現出来てこそ、この作品が老若男女問わずにオーディエンスにアピールする公演になると思うのです。

私はだからこのAhには自分が解放され、居るべきところに戻っていけるという気持ちと、
そのために失ったもの(愛)への寂寥感、この両方、特に後者がきちんと描けているのが理想で、
残念ながら生で聴くことは出来ませんでしたが、以前こちらの記事で紹介したオフリンの歌がこれを完璧に歌唱で表現しています。
先述の2008/9年シーズン中、ゲオルギューが出演をキャンセルした日にオフリンがカバーに入った公演で、
この最後のAhを聴くと、なぜ、この作品が『つばめ』というタイトルなのか、そして幾重にも重なったマグダの複雑な気持ちを見事に表現しきっています。



同年のHDでのゲオルギューの歌唱はより失った愛と自分の人生に普通の恋愛とか結婚は決して存在しないのだ、
なぜならお金に囲まれた愛人生活が自分の居場所で、そこを捨てることは出来ないから、、という気付きへの悲しみを強調した表現になっていますが、
彼女の表現したいことはきちんと伝わって来ます。



一番いけないのはここで何を表現しようとしているのか、したいのか、が全く伝わってこないAhで、
オポライスのAhから私は何らの感情も感じることが出来なかったし、これが私が彼女の歌を聴いて”音楽性に欠ける。”と思う理由なのです。
実際、公演後、劇場の階段を降りている途中、若いカップルからこんな会話が聞えてきました。

”お母さんの許可とか言ってないで、二人で駆け落ちすればいいじゃないの。”

ああいう歌を聴いたら、そういう風に思ってしまうのも当然だな、、と思います。
それに、マグダだって、どうしてもルッジェーロと別れたくなければ、一々昔のことを告白する必要もない。
ルッジェーロを愛しているから嘘をつきたくなかった、というのも一つの見方かもしれませんが、私はその解釈をとりません。
実際、ルッジェーロは彼女が過去を告白しても、”そんなことは自分にとっては大したことじゃない。”と言っています。
ポイントは、マグダ自身が、お金と自由に囲まれた生活を捨てられない、ルッジェーロと比べてもそちらを採りたい、
ここに気付いてしまった点であって、その意味ではこの話は最早男女二人の悲恋話なんかではなくて、
マグダという女性が自分の身勝手さに気付きながらも、でも”私はこういう風にしか生きられない!”という選択と、
それについて来る代償(彼女の将来が限りなく寂しいものであろうことは誰にでも想像がつきます。)を受け入れる、そういう話なんであって、
それがきちんと歌唱で伝わらないと、上のカップルのような、”何、この話、、?”というリアクションになってしまうのだと思います。



手足が長く長身なのは下手をするとでくの坊になってしまう危険がありますが、オポライスは動きがエレガントで、
舞台でどう動けば綺麗に見えるか、ということは良くわかっていて、それは良く実践しています。
ただ、動きが綺麗なことと演技が上手いというのは全く別の問題で、
本能的な舞台勘の良さを持つネトレプコとは全く違うタイプだし(オポライスはどちらかというと事前にがっちりと演技も固めてくるタイプに見受けました。)、
また、普通に言うところの”演技の上手さ”では現在のオペラ界でトップ・レベルに入るポプラフスカヤ(歌は下手だけど、彼女の演技力はすごいと思います。)と比べて、
特別に秀でているものがあるかというと、そこまでとは私には思えないのですが、この点についてはもう少し他の役でも見てみてから判断したいな、と思っています。

というわけで、私の結論としては彼女についてはシリウスを聴いた持った感想とほとんど同じか、
下手すると未知数だった部分(声の良さ)が大したことない、と確定してしまった分、余計に評価が下がった位で、彼女のどこがそんなに特別なのか、まったく良くわかりません。
それなりにきちんと歌ってはいるのでポプラスカヤみたいな”えーっ!?”というような歌唱ではないですが、
個性とかこの人なりの表現というのが全く感じられなくて、こんなに美人でなければヨーロッパの地方劇場で活躍、のレベルで終わってもおかしくない感じです。

この公演の数日後に『リゴレット』の公演でマフィアな指揮者とインターミッションを過ごし、その際、彼女のことを話題に出したら、
この記事と同じ公演で劇場にいたらしい彼もまったく同じ意見で、”彼(エロじじい)が彼女に一体どんな特別なものを見ているのかわからんねえ、、。”と言うので、
”私の連れが、それは彼が耳でなくチン○で聴いてるからだって言ってた。”と言うと、大笑いで同意してました。
これでちょっと気が晴れたな、、と思っていたら、何とその数分後にエロじじいが我々のテーブルに現れ、
今度は『リゴレット』のジルダ役で素晴らしい歌唱を披露していたダムラウに向けてとんでもなく失礼な言葉を吐いたので、
私が再び”このチンカス野郎!!!”と噴火状態に陥ったことは言うまでもありませんが、その話は『リゴレット』のレポートに譲りたいと思います。



ルッジェーロ役のフィリアノーティはシンガーズ・スタジオの時に、モーツァルトはあまり向いていなくて、
このルッジェーロ役を含めたリリコの役の方が自分に合っていると思う、と言っていましたが、
私はこのルッジェーロ役は音のリープが多く、それが彼のまだ完全復活に100%至っていない部分を強調するような結果になっているように思えます。
それから、プッチーニの作品は歌手に遊びとか冒険を求める部分があって、そこをやり過ぎると下品になるし、やらなさ過ぎると物足りないし、で、
そこがプッチーニの作品を歌う場合に、最も歌手のセンスが問われる難しいところではないかな、と個人的には思っているのですが、
その辺、フィリアノーティはこの作品でもう少し冒険してもいいかな、、ちょっと端正で真面目過ぎるように思います。
彼の端正・真面目・スマートな個性はどちらかというと、ベル・カント・レップやモーツァルト作品の方が合っていると私は思うのですが、
ご本人がそう思っていないのは面白い点だな、、と感じます。
2008/9年の公演では駄目男を歌わせたら天下一品のアラーニャが同役を歌ったのも、フィリアノーティには不利だったかもしれません。
フィリアノーティだったら、マグダからの別れ話なんか、その奥の奥の彼女の気持ちまでさり気なく読んで、
”よしわかった、これっきりにしよう。”と大人な別れ方をしてくれそうな感じがしてしまいます。
アラーニャみたいに鼻をたらしながら(HDの時みたいに、、)”別れないでくれ。”と懇願するようにはとても見えないし、聴こえません。
リブレットには鼻をたらす、とは書いてないですが、”別れないで”と懇願はしますからね、ルッジェーロは。



プルニエ役のマリウス・ブレンチュウはこれが唯一の持ち役といった感じで、メトにはこの役でしか登場しないのですが、どうなっちゃっているんでしょう?
彼はルーマニア出身みたいなので、ゲオルギューの口利きでこの役にキャスティングされたのかな?
2008/9年と同じプロダクションなので、勝手知ったる、、という感じでのびのび歌っていましたが、以前ほど声に軽さを感じられなくなったように思いました。

リゼット役のアンナ・クリスティは今回初めて生の歌声を聴きましたが、こういう脇役ではいいかもしれませんが、
ここから主役級の役をメトで歌って行くようになって行くポテンシャルのようなものは私はあまり感じません。
どんなにきちんとした歌を歌っていても、彼女の声自体にオーディエンスに生理的な心地良さを生みだすものがないからです。
コミカルな演技はそれなりに上手い人ではあるので、キャスリーン・キムと同様、ニッチな路線に活路を見出す必要があると思います。
(ただし、声の綺麗さではキムの方が何倍も上だし、演技の間口もキムの方が広いと思います。)

ゲオルギューの口利きと言えば、指揮のイオン・マリンもそうなのかな、と思います。
彼もルーマニア出身だし、2007/8年シーズンの後の夏にメトのパーク・コンサートの一貫として行われたゲオルギュー&アラーニャ・ガラを振ったのも彼でした。
彼の指揮はなんかあっさりしてますよね、、、
私は2008/9年シーズンの時のマルコのようなべったりメロドラマティックな味付け(先に紹介したオフリンの音源の弦のメロメロぶりなんて、たまりまへん!)
が好きなので、ちょっと物足りなかったです。


Kristine Opolais (Magda)
Giuseppe Filianoti (Ruggero)
Anna Christy (Lisette)
Marius Brenciu (Prunier)
Dwayne Croft (Rambaldo)
Monica Yunus (Yvette)
Janinah Burnett (Bianca)
Margaret Thompson (Suzy)
Keith Jameson (Gobin)
Edward Parks (Périchaud)
Evan Hughes (Crébillon)
Daniel Clark Smith (Adolf)
Stephanie Chigas (Georgette)
Sara Stewart (Gabriella)
Christina Thomson Anderson (Lolette)
Jason Hendrix (Rabonnier)
Lei Xu (A Singer)
Roger Andrews (A Butler)
Conductor: Ion Marin
Production: Nicolas Joel
Set design: Ezio Frigerio
Costume design: Franca Squarciapino
Lighting design: Duane Schuler
Dr Circ C Odd
ON

*** プッチーニ つばめ Puccini La Rondine ***

LES TROYENS (Sat Mtn, Jan 5, 2013)

2013-01-05 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。


それは昔、まだ連れと知り合って間もない頃のこと。
私のあまりのオペラ気違いぶりに、”僕が持っているよりも、、。”と言ってプレゼントしてくれたものがあります。
それはレヴァインのメト25周年を記念してパトロン/ドナー用に作成されたCDコレクションで、
金色の刻印が入ったメト・レッドのボックスに納まった3枚のCDに、
過去のラジオ放送の音源から選りすぐった名場面の名演奏が収録されているという代物です。
その中に『トロイ人』第五幕の一場ディドーンのモノローグ以降が収録されており、
1983/84年シーズンの『トロイ人』と言えばDVD化もされたノーマン(カサンドル)/トロヤノス(ディドーン)/ドミンゴ(エネ)の公演があるので、
それと同じ音源?と思いきや、ノン!
さすがレヴァイン25周年記念としてものものしいパッケージに包まれてくるだけあって、既出の音源の焼き増しではないのです。
収録されているのは1984年2月18日の公演なんですが、この日は先述と同じキャストでの再演をラジオ放送するはずがトロヤノスが体調不良で降板、
ノーマンがカサンドルとディドーンの両方のパート全部を一つの公演の中で歌う、という離れ業を成し遂げた公演なのです。
(その二つ前の公演でも、ノーマンはディドーの一部の幕を掛け持ちで歌っていますが、全幕を通して完全に両役を歌ったのはこの2/18きりのはずです。)
コレクションに付いてきたブックレットによると、この作品がメトで初演された1973年10月22日にも、
ディドーンを歌う予定だったクリスタ・ルートヴィヒがキャンセルし、カサンドル役のシャーリー・バーレットが両役を掛け持ちしたことがあるそうなんですが、
一人の歌手が単体ずつでも大変なカサンドルとディドーンの両方を歌うなんて、本当にすごいことだと思います。

そんなわけで、25周年コレクションに収められている公演はオーディエンスにとっても大変思い出深い、メト史に残る公演の一つであり、
先述のDVDでは聴けないノーマンのディドーンの歌唱場面を収録しているところに、
このコレクションの企画に関わったスタッフ(とおそらくレヴァインも、、)の粋な計らいを感じます。
この時の彼女のディドーンの歌唱(抜粋ではありますが)は素晴らしく、このコレクションはずっと私の大切な宝物の一つであり続けて来たのですが、
その25周年記念のCDが作成された15年後の2010年、レヴァインはメトでの活動40周年を迎えて、
その折に新たなCDとDVDのボックス・セットを一般発売したのは以前に記事にした通りです。
この40周年記念ボックス・セットにはかなり多くの作品、それも必ずしも私の好みのレパートリーでないものたちが含まれているので、
もしかしたら一生かかっても全部は見れ・聴けないかな、、、と思っているのですが、
そういえばCDセットの方に2003年2月22日の『トロイ人』の公演(全幕)が含まれていたな、というのを思い出し、
今回せっかくの機会なので、、と耳を通してみたのですが、これはMadokakip、これまで封を開けるか開けないかの状態でこのCDを放置していたことを猛省!です。
というのも、ディドーン役を歌っているロレイン・ハント・リーバーソンの歌唱が実に素晴らしい!



こちらの記事のコメント欄で名古屋のおやじさんが書いていらっしゃる通り、
この時の『トロイ人』のディドーン役には元々ボロディナが予定されていたのですが、彼女が産休のために代わって歌ったのがリーバーソンでした。
リーバーソンの声にはノーマンのような骨太さ・雄大さはないし、彼女のような繊細で細い声の持ち主に、しかもメトのような場所で、
よくディドーン役を任せたもの、と、当時のスタッフの英断に驚きます。
しかし、その繊細さを逆手にとり、ノーマンが完璧な歌唱でディドーンを歌い切ったとすれば、リーバーソンは自分の弱点さえ表現に転化するアプローチで、
ノーマンと同じ位か、もしかしたらそれ以上に説得力のあるディドーン像を作り上げ、見事にその期待に応えています。
登場してすぐに歌う”Nous avon vu finir sept ans à peine ようやく7年の月日が経ちました”からすでに声そのものに説明し難い悲劇の影がちらついており、
五幕ニ場の"ああ、私は死んでしまうのでしょう Ah! Ah! Je vais mourir"でそれがピークに達する様は聴いているこちらまで胸が塞がります。
上で紹介したのは同じ公演の音源から、その"Je vais mourir"です。

本当に残念なことにリーバーソンはたった52歳という若さで2006年に癌で亡くなっているのですが、
彼女のキャリアのほとんど終盤と言ってよい時期の歌唱が、ボロディナの出産という偶然をきっかけに、
全幕でこのように音源に残ったというのはその中で唯一の慰めと言ってもいいかもしれません。
NYのヘッズの中には今でも彼女が登場した公演・演奏会がいかに素晴らしかったを熱く語る人が多いですが、
この『トロイ人』の音源を聴けば彼らの言う意味が本当によくわかります。

40周年記念ボックスには全くリブレットが付いてこないのが不便ではありますが、
その場合はデュトワ盤でも買って、CD放置でそれに付いてくるリブレットだけ見ながら、メトのリーバーソンの名唱を聴く。
鑑賞の準備はこんな感じの方法でよろしいかと存じます。



私には今、メトの舞台にのられると共演者とオーディエンスが迷惑する、よって、のらないで欲しい、と激しく思っているテノールが二人いて、
このブログのあちこちでこれまで書いて来ましたよように、それはロベルト・アラーニャとマルチェッロ・ジョルダーニの二人です。
今年の『トロイ人』のエネ役に予定されていたジョルダーニは、本当に歌を歌うことが好き、かつ、お人好しなまでに性格の良い、つまり俗に言う”いい人”だという噂を度々耳にし、
これまでも、他のテノールがダウンした時、時には昼の公演と夜の公演のダブルヘッダー!というような無理をしてまでカバーに入ってメトのピンチを救ったり、
若手の育成に熱心だったり(ジョルダーニ・ファンデーションなんてのも作ってましたよね、そういえば。記念のガラを聴きに行きましたがな。)、
それを裏付けるエピソードにも事欠きません。
だけど、彼が最近歌いたがっている、そして実際にメトで歌ってしまったドラマティックな役どころ(カラフ、ディック・ジョンソンなどなど、、)を
彼の声が支え切れていないのは明らかで、若手の育成に熱心な人が、観客が満足できる歌唱を聴かせられないにも関わらず
これらの役に固執することで次世代の歌手たちの活躍する場を奪っているかもしれないのはすごく皮肉なことだと思うし、
特にこの4~5年は彼がキャストに混じっていると聞くだけで、”これで瑕のない公演になる可能性はなくなったな。”とあきらめるほどで、
昨シーズンの『エルナーニ』(ブログ休止期間でこれまた感想が落ちてますね。すみません。)なんか、
ミード、フルラネット、ホロストフスキー、とここまでキャスティングを頑張っておきながら、
どうしてジョルダーニでトッピングするという大馬鹿をやるかな、メトは!?と怒りに燃えてました。

かつては彼も綺麗な声を持っていてNYで良い歌唱を聴かせていたのと、先述の誰もが認めるいい人ぶりも加わって、
普段は遠慮なく厳しいことを言ってのけるヘッズもあまり彼の最近の低調振りを厳しく追及したくなかったのだと思いますが、
『トロイ人』初日の彼のエネ役の歌唱には残りの公演に対する不安の声がヘッズから爆発し、
ジョルダーニは三公演だけ歌って、同役を完全封印することになりました。
それを言ったら他にも完全封印した方がいい役はいっぱいあると思うんですけどね、、、。

で、急遽ブライアン・イーメルが四つ目の公演からエネ役に入ることになったわけですが、
彼は昨年6月ROHの『トロイ人』でもキャンセルしたカウフマンの代わりに同役を歌っていて、その時の結果が買われたものと思われます。
実を言うと、私は2007/8年シーズンのOONY(オペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨーク)のガラで彼の歌を聴いたことがあるんですが、
そういえばその時も、スティーヴン・コステロの歌が聴ける、というので楽しみにしていたのに、彼が病欠してイーメルが出てきたんでした、、。代役専門か?
もう4年も前のことになってしまうんですが、その頃のイーメルは、歌がかなり不安定で、声にも特別なものが感じられず、正直全然良い印象が残ってなくて、
代わりにこんな良いテノールを発掘出来た!と興奮することもなく、やっぱりコステロを聴きたかったな、、と感じたのみに留まりました。
だけど、ROHの『トロイ人』やメトの『トロイ人』の直前に同じROHで出演していた『悪魔ロベール』では手堅い歌唱を披露していたという風に聞いていますので、
今回はこの4年間での成長をおおいにNYのヘッズにアピールして頂きたいと思います。



この作品はあまりに長大(演奏時間的にはワーグナーのリングに負けてないんですが、
日本でHD上映される場合はやっぱり一回りお高い金額設定になったりするんでしょうか、、?)で、かつ、ステージングが困難なため、
一部と二部通しのフランス語完全版を一日で連続して上演するようになったのはここ40~50年位の話で、
それまでは世界的にも、片方の部だけの演奏だったり、短縮版を採用したり、、という状況でした。
ストーリー的には一部と二部を繋いでいる存在はエネ位のもので、それぞれが全く独立したものになっているので、
CDで音だけ聴いている時は、”別に片方の部だけの演奏というのも、そう突拍子ないものではないな、、。”と思って聴いていたのですが、
今回の公演を見て、やはりこの作品は両方を通しで見てこそ伝わってくるものがある!と思いました。
まず第一部、第二部、それぞれの話をして、その後になぜそのように感じたか、理由を書こうと思います。

<第一部>

第一部で最も大きな存在と言ってもよいカサンドル役には2003年の公演と同じデボラ・ヴォイトが配されています。
ヴォイトは最近の歌唱、特に『西部の娘』やリングのブリュンヒルデ役がかなりこちらのヘッズの間で評価が低く、
私がジョルダーニにもうメトの舞台に立って欲しくない!と思うのと同様か、それ以上の激しさで、彼女にはもう今後あまり歌って欲しくない、という声をよく聞きます。
彼女の場合はジョルダーニのようにヘッズの言葉に屈することなく、むしろ、”そんな言葉には負けないわ!”とばかりに頑張ってしまうところがあって、
それがまた一層、ヘッズの腹立たしさを倍増させているところがあるようにも感じます。
今回もジョルダーニのエネと、ヴォイトのカサンドルを差し替えて欲しい!!という声は同じ位に強かったのですが、結局ヴォイトは今日も逞しく舞台に登場して来ました。
2003年の音源を予習で聴いていて興味深かったのは、当時、まだヴォイトは胃のバイパス手術前の巨体でしたが、
すでに今ヘッズが問題にしている歌唱の欠点(過度なビブラート、高音域の浅さ)の兆しが見られるようになっている点で、
なので、彼女に関しては手術をしてもしなくても、歌唱が今のような状態になっていた可能性は十分にあって、
むしろ、私は今日の歌唱に関しては、2003年の時の歌唱から想像していたほどには変わっていないな、、と感じました。
なので、2003年の歌唱を生で聴いた人は実際のところ、彼女の歌唱に関してどういう感想を持っていたんだろう、、?と思います。

ヴォイトはそれ以外にもディクションの甘さ、そして、演技が表面的でいわゆるpark & bark (立ったままで吠えてるだけ、の意)の典型であることもよく非難の対象になるのですが、
こちらについては、多分、もう一生彼女が変わることはないんじゃないかな、、と思います。
彼女の手術以降のキャリアを見ていて皮肉だな、と感じるのは、今の彼女のように痩せてルックスが綺麗になっても、
役としての表現力・演技力にはほとんど何ら貢献することがなかった点です。
痩せて綺麗になることの意味はそれによってコンプレックスが抜けて照れや迷いなく演技に打ち込めることだと思うのですが、
彼女はまだそういうコンプレックスが抜け切らないのか、もっと単純に演技をするということに才能がないのか、
とにかく彼女の演技には完全に役と一体になっていないような、役からのいくらかの距離を感じる。
太っていた頃は、それを言い訳に出来たけれど、痩せて綺麗になってしまったことでかえってその言い訳も利かなくなった。
だから一層ヘッズは彼女のなんとなくノン・コミッタルな表現に不満を感じ、、というような悪循環に陥っているのだと思います。
歌唱の内容自体には10年弱の月日が声に当然及ぼす影響を除けばそんなに大騒ぎするほどレベル・ダウンしているわけではないのに、
今年の彼女の歌唱に大きな非難が向くのはそのあたりにも原因があるのかな、、と個人的には感じています。



実は今日の第一部が始まって、”こりゃやばい、、。”と思わされたのはルイージの指揮/オケの演奏です。
ヴォイトが元々あまり役に没入するタイプではないのは彼女自身の問題ではありますが、
それを一向に助けていないのが、第一部でのオケの演奏です。
例えば、一幕が始まってすぐ。
トロイアにたった今押し寄せんとしているオーメンと陥落をただ一人(正しく)予知しているカサンドルを、
ギリシャ軍を撃退したと勘違いして束の間の喜びに浸っているトロイア人たちは半分気ちがい扱いしています。
そんな彼女が父親である王の運命を嘆いた後(Malheureux Roi!)、さらに思いを許婚のコレーブに向け、
"ああ、コレーブも!彼すら私が気が狂ったものと思っているではないの!
彼のことを思うと私の怖れは何倍にも膨らむ、、、ああ!コレーブ、、、彼は私を愛し、私も彼を愛している”

この最後の Chorèbe! il m'aime! Il est aimé!の部分は、第一部で最初から最後まで鉄のような強さを保ち続けて死んでいくカサンドルが、
唯一女性らしい素顔をほんの一瞬オーディエンスに見せる部分で、それに見合った非常に美しい音楽をベルリオーズがつけていて、
2003年の音源のレヴァインが、照れなくここをロマンチックに盛り上げているのは全くもって正解です。
ところが、今日のルイージ&オケはどうでしょう!?
さらーっとここを流していて、”ちょっと!ここで盛り上がらなかったらいつ盛り上がんのよーっ!”と髪をかきむしりたくなるような有様なのです。
この間の『仮面舞踏会』の時も、昨年の『マノン』の時もそうでしたけど、
ルイージはこういう恋する女の気持ちを描く場面に来るとまったく駄目なのはどういうことなんでしょう?
そんなことしてたら奥さんにも逃げられますからね、気をつけて欲しいもんです。
いや、良く考えたら、奥さんだけではない!
こんな盛り上がらない演奏を正味4時間(HDはこれに二回分の休憩が加わりますのでよろしく~。)に渡って聴かされるオーディエンスにも逃げられるかもしれませんぜ。



2003年から継続してキャスティングされている歌手にはヴォイトに加えてコレーブ役のドウェイン・クロフトがいるんですが、
なんだか今回は精彩を欠いていて、段々メトでは脇役やらカバーに回ることが多くなってきた昨今、このままキャリアが先すぼみにならなければいいのですが、、。

2003年の公演に比べて今回圧倒的にグレード・アップしているのは合唱で、今回は男性だけでなく、女性の合唱もなかなかに健闘していると思いました。
2003年のキャストと指揮&オケに今回の合唱が組み合わさればなあ、、と思ったりもするのですが、
キャスト(それも多岐に及んだ、、)、指揮&オケ、合唱、演出すべてが揃うのはこのようなスケールの大きな作品ではなかなか難しいことではあります。

ところで2003年のエネは誰だったんだ?というご質問はごもっとも。言うのを忘れてましたが、ベン・ヘップナーです。
今日エネ役を歌ったイーメルの声はヘップナーと比べると軽くて細身だし、正直言うと、私はやっぱり2008年のOONYガラと同様、
彼の声自体、特に低音域~中音域、そしてそのちょっと上あたりにはあまり特別な魅力を感じなくて、どちらかという個性の薄い、比較的平凡な声だな、、と思います。
ただ、2003年にはすでにいい歳こいたおっさんだったヘップナーに対し、イーメルは年齢が若い(1979年生まれなので現在33歳)せいもあるのでしょうが、
もしジョルダーニが出演していたら聴き苦しいと形容する以外の何物でもなかったであろう最高音がすごくしっかりしていて、そこはヘップナーよりも全然良い位です。
普通のテノールだったらむしろ恐怖を感じるこれらの音の方が綺麗な音色が出ていて、しかも響きとしても安定しているのが面白いな、と思います。
この日のHDの幕間のインタビューで、イーメルがグラハムと共にインタビューされていましたが、
そこで彼自身も、”高音は以前からあったのだけれど、中音域と低音域を開拓するのに時間がかかったし、今でもまだその努力を続けているところです。”
というようなことを言っていて、なるほどなあ、、と思いながら聞いていました。

ただし、ROHの二つの演目でポジティブな評価を得ていることが自信になっているのか、度胸はOONYガラの頃に比べると格段に成長していて、
急遽決定したメト・デビューのシーズン(しかもエネ役のような大変な役で!)という気負いとかプレッシャーに負けずに、普段通りの力を出しているのは賞賛に値します。
今の彼の堂々とした姿を見ると、OONYガラでびくついていた頃の彼が懐かしい気すらしてきました。

第一部で私があまり感心しなかったのは歌のないアンドロマク役を演じたジャクリーン・アンタラミアンという女優(なんだと思います、、)の演技で、
周りとの調和、音楽、歌唱、すべてを無視したオーバーアクティングには辟易しました。
戦士した夫であり、カサンドルの兄であるエクトルの葬儀の場面で、いよいよ死体から引き離されるとなると、
大きな声で泣き喚き、周りの男性だったかの胸をドコドコ叩いたりしているんですが、
2003年の録音には一切そんな声や音は入っていないので、目立ちたがり屋な女優が演出のザンベロを説得してこんな変な演技を入れてしまった可能性も感じます。
この場面にうちの店子友達も混じっていたならば、また後で大変な愚痴話を聞かされるところでした。(なぜ、”また”なのかはこちら。)

後、もしかすると、この第一部だけを見て、(メト基準では、でありますが)過剰に暴力的な演出にうんざりされるオーディエンスもいた・いらっしゃるかもしれませんが、
第二部を見ると、それが意味なくヴァイオレントなのでは決してなく、必要な描写であることがわかってくるので、しばしの我慢が必要です。



<第二部>

第二部からの登場になるものの、一・二部を通して最大の主役となるディドーン。
今回この大任を請け負うのがスーザン・グラハムで、彼女のディドーンは初日の公演に対するメディア評もかなり好意的なもので大変期待してたんですが、
その後しばらくして風邪をひいてしまったらしい彼女は結局、ニ、三回、公演をキャンセルすることになってしまって、
今日の公演日にはちゃんと登場出来るのか、また登場したとしても良いコンディションで歌えるのか??かなりやきもきさせられました。
彼女はガタイがごつくてすごく丈夫そうに見えるのに、HDと言うと毎回風邪をひいている(『ばらの騎士』しかり、『タウリスのイフィゲニア』しかり。)
ような印象があるんですよね、、。

結局のところ、今回の公演に関してはきちんといつも通りのコンディションに戻っていて心配無用!
声楽的にはほとんど何もケチをつけることがない位、きちんとした歌唱でした。
表現力や歌唱の内容は置いておいて、声の質だけの話をすると、役に対して若干過剰に感じられるノーマンの声や、
そして逆に線が細すぎるように感じるリーバーソンの声に比べても、個人的にはグラハムの声が一番ディドーン役に適性があると思います。
声に適性はある、歌唱もしっかりしている、演技もヴォイトに比べたらそれはもうずっと深いコミットメントを感じる、、で、素晴らしいディドーンになる条件は全て整っている!
のですが、これが以前にもどこかの記事で書いた通り、1+1が必ずしも2にならない、オペラの神秘なんです。

リーバーソンのディドーンは、この役を歌うにおいて、本来なら欠点として認識されてもおかしくない彼女の声の特性(線の細さ、振り絞るような高音、、)を
すべて表現の面でのプラスに転化しているのが素晴らしい、と先に書きました。それは1+1が3にも4にも5にもなるような魔法です。
逆に、グラハムのディドーンは、この役を完璧にする何もかもが揃っているのに、なぜか、それが総和の0.00001少ないところに落ちているか、
もしくは、その総和のまま、それ以上のものになっていないような感じなんです。
多分、何の前知識もなくこの公演を鑑賞したなら、十分過ぎるほど満足出来たディドーンだったと思うのですが、
リーバーソンの胸を抉られるような歌唱を聴いてしまった後では、”ああ、あの高みには達していないなあ、、。”と思ってしまう。
贅沢ですみません、、、が、この、大抵のものでは満足出来ない、、という現象は、ある作品で優れた歌唱を聴いてしまった後に誰もが経験する事だと思います。



しかし、彼女とイーメルの間になかな良い感じのケミストリーがあるのは今回の公演で大きなプラスです。
映画館のスクリーンでどアップで見てしまうと、年増のおばはん(ごめんね、スーザン、、)が若い男を丸め込んでいる感じでちょっと怖いかもしれませんが、
劇場で見ている限りは、歌唱がなく、ずっとオケの演奏が続いて行く狩りと嵐の場面の演技はなかなかロマンチックで、
恋に落ちていく二人の様子が大変上手く描かれていたと思います。
また後ほどこのトピックに戻って行く事になると思いますが、今回、ザンベロの演出、特にダンスの取り込み方は、
コリアグラファー(ダグ・ヴァローン)の力もあるのでしょうが、素晴らしかったと思います。
リブレット通りに演出すると、ここは狩りに出たカルタゴとトロイアの人々が嵐に合い、嵐の気配が去った頃にエネとディドーンが手を取り合って現れ、
それを見てオーディエンスは”あ、この二人、もう出来てやがるな。”とわかる、、ということになっているのですが、
ザンベロの演出では、この嵐の音楽のところに、カルタゴ・トロイヤの合同チーム vs ヌミディアの戦いの様子と、
そこから披露困憊で帰って来た兵士たち、そして、最後にエネの姿を見つけて喜ぶエネの幼い息子アスカーニュと、
自分の命を守ってくれた愛するエネへの思いが爆発するディドーンと彼女の思いを受け止めるエネ、、、と、ここまでが全て描写されており、
音楽の素晴らしさとも相まって、公演の中の一つのクライマックスになっています。

第一部では全く冴えない感じだった指揮とオケも、この狩りと嵐の場面あたりからきちんとはまり出した感じがあって、第二部の方が第一部よりも全然良い出来です。
狩りと嵐に続くバレエの場面なんかダンサーの踊りのテンポにも配慮しつつ躍動感もあるなかなか優れた演奏で、
ルイージはバレエのレパートリーの指揮の方が向いているんじゃないの?と思ったりしました。
いえ、別にメトから彼を追い出そうとしているわけではないんですよ、念のため。



2003年にイオパ役を歌っているのはマシュー・ポレンザーニで、今やメトの主力戦力として新演出ものなどで活躍している彼も当時はまだ初々しい歌唱なのが微笑ましい。
私が今回の公演で大変興味深く感じていたのはこのイオパ役にエリック・カトラーが起用されている点です。
2003年のエネはヘップナーで、イオパはポレンザーニ。この二人にははっきり言ってテノールである、という事以外は全く何の共通項もありません。
ヘップナーが得意としていたレパートリーとポレンザーニがこれまで歌って来ているレパートリーは全くと言っていいほど被っていないし、
全然違うタイプのテノールであることは明らかです。
しかし、イーメルとカトラー、これはヘップナーとポレンザーニよりもずっとずっとお互いに近いところにいるテノールと言ってよいと思います。
2011年に鑑賞したカレジエート・コラールの『モーゼとファラオ』で私はカトラーを過小評価していたかもしれない、、と、
彼を少し見直すきっかけになったのですが、あの『モーゼとファラオ』の時の歌声が本来の力だったとすると、
イーメルがエネを歌えるなら、彼にだってエネを歌える力はあるはずだ、と私は思っていて、
イーメルよりも早くオペラ・シーンに登場して、それなりにチャンスも与えられながら(ネトレプコの相手役として『清教徒』のHDに登場していた位なのですから、、。)、
あのむさくるしいルックスや、ここ一番で今一つ自分の能力をアピール出来ない鈍臭さなどが重なって、ブレークするきっかけを逸している彼が、
後輩であるイーメルがこの稀なチャンスをものにしてスポットライトを我が物にしているのを、
同じテノール、しかも先輩として、どのような思いで見ているのだろう、、、という、ちょっと下世話な興味も湧いてくるわけです。



長時間に渡ってその歌唱を披露出来るエネ役に対し、イオパの方はほとんど4幕の”おお、黄金のセレスよ O blonde Cérès”一発で勝負!という、
エネ役とはまた違った種類の難しさとプレッシャーがあります。
しかも、その前のバレエのシーンでは延々と他の主要登場人物に混じって舞台で座って踊りを鑑賞しなければならず、
これ即ち、ウォームアップなしでほとんどすぐにあのメロディーを歌わなければならないということで、ぱっと見よりはずっと大変な役で、
しかもあんな大変な歌を歌った後に、”ごめんなさい、あなたの歌ですら私の心を明るく出来ないわ、、。”とディドーンに言われてしまうという、
全くもって踏んだり蹴ったりの役柄です。
しかし、カトラーがこのイーメルとのバトルをかなりシリアスに受け止めており(まあ、イーメルの方はバトルと思っちゃいないでしょうが、、)、
並々ならぬやる気を持って挑んでいることはすぐに感じられました。

カトラーの声が出て来てすぐに感じたのは、”イーメルより彼の方がエネっぽいサウンドだよなあ、、。”ということ。
彼は高音が強いためベル・カント・レップを歌うことがこれまで多かったように思うのですが、
以前に比べてかなり声に重量感が出て来ているので、ベル・カント以外のレパートリーにも手を広げていけるのではないかな、と思います。
まあ、その結果が今回のイオパ役でもあるのでしょうが。
ベル・カントを歌って来ているだけあって、基本的な技巧は割としっかりしていますし、
高音でオーディエンスの喝采を奪って来たイーメルに”これでどうだ?”と勝負をかけるかのように、
この曲の途中で高音(おそらくスコアにはないオプショナルの音ではないかと思います。)をトスして来たのには”やるな、おぬし、、。”とニヤニヤさせられました。
こういう遊び&勝負心のある歌手、私は嫌いではありません。
ま、高音も楽しかったのですが、最近の彼の歌唱が以前より良くなったな、と思うのは、そこに至るまでの前半の部分なんかを、実に丁寧に歌っている点です。
あともう一越え、歌唱のダイナミクスが豊かになれば、もっと良い歌になると思うんですが、、。
ところが歌の内容に比して、相変わらずオーディエンスの反応が緩く(何なんでしょうね、、あの熊みたいなむさ苦しい感じが観客受けしないのかな、、?)、
おそらく心の中では”満点歌唱だぜ!これは大喝采が来るぞ!”とガッツポーズを決めていたはずのカトラーがこけたように見えたのは私の気のせいでしょうか。
いやいや、オーディエンスがどんな反応をしようと、なかなか良い歌唱でしたよ。これでめげず、進歩し続けていって欲しいと思います。

主要キャストの中でもう一人言及しておきたい人がいるとすれば、それはアナ役のカレン・カージルです。
2003年の公演ではこの役をエレーナ・ザレンバが歌っていて、私は彼女の歌を何度か生で聴いたこともありますが、
こんなまったりした、しかも激しいビブラートの人だっけ?とびっくりしました。
もうビブラートの幅が広すぎて、しかもそれがことごとく微妙にずれているので、一体どこに本来の旋律があるのかわからないくらいのひどいことになってます。
それに比べて今日のカージルは適度な重量感がありながら、素直な発声に加えて変な歌い癖や誇張がなく、丁寧に旋律を追っており、誠実な感じの歌い振りに好感を持ちました。



今回、私が最も感嘆したのはザンベロの演出です。
まず、『トロイ人』を舞台にのせるのが大変な最大の理由は、
トロイの木馬、狩り、戦争、といった次々と現れるスペクタクルな場面をどのように実際に舞台上に視覚化するのか?という点であるのは間違いないでしょう。
これを成し遂げるだけでも壮大なプロジェクトで、結果としてそれ以外のことには何も手が回らない、、ということになっても決しておかしくない、
それ位演出家からすると『トロイ人』は難作だと思うのですが、ザンベロはこのメトの演出で、トロイの木馬をはじめとする基本スペクタクルをきちんとおさえつつ、
(あの巨大なトロイの木馬が舞台上に現れて、舞台袖に消えて行くまで、
特に馬の中からギリシャ兵たちの鎧兜の音が聴こえて舞台とピットが静まり返るシーンは、実際に劇場にいるとすごい緊張感です。)
そこに留まらずにそれ以上のことをきちんと成し遂げているところがすごい!

彼女はこの演出で、攻めや戦いの世界が、守りと平和の世界を侵食していく様を、
それがいかに簡単に、小さなきっかけで伝染していくかをきちんとオーディエンスに伝えようとしています。
このメッセージを伝えるためには、トロイアの国で起こった出来事をことごとく暴力的に描き、
逆に暴力に汚染される前のカルタゴはまるで平和の夢の国のように美しく描く必要がある。

私が特に強い印象を受けたのは、ダンサーが登場するシーンです。
リブレットを読み、音源を聞いただけでは単純な余興のための踊りとして思えなかった一つ一つの場面が、
コリアグラファーの力もあって、非常に意味のある場面になっていて、ストーリーの流れが一時中止しても歌がなくても、退屈するどころか、片時も目が離せませんでした。
これまで、メトの舞台に登場するバレエのシーンで、これほどまでに密接に作品と結びつき、すべてに意味がある!と感じさせられたことは一度もないです。
ヴァローンのコリアグラフィーの独特の浮遊感やリズム自体も心地良いのですが、
トロイアの男性が次第にカルタゴの女性と混じり合っていく表現とか
(しかし、カルタゴの男女比がよっぽど狂っていない限り、辻褄が合わないぞ、、という質問はしてはいけないのです。)、
平和(カルタゴ)の世界が戦い(トロイア)の世界を包むかと思いきや、最後には戦いの世界が勝ってしまう表現
(そして、考えてみれば、トロイアもギリシャと戦う前には平和な世界があったのかもしれない、、)など、
どの場面をとってもそのコリアグラフィーから演出の意図が感じられるもので、オペラのバレエ・シーンにこんな可能性があったのか!と驚きました。

今日の公演は2003年に初演された演出のリバイバルで、一般的には再演ものの舞台挨拶に演出家が登場することは珍しいのですが、
今回はそのザンベロが最後に舞台に登場して、私の隣に座っているご夫婦も”ぎゃーっ!!フランチェスカ!!ミス・ザンベラ!!!ブラボー!!”と大熱狂でした。
しかし、ザンベラって、、、苗字まで女性名詞扱いにする必要はないと思うんですよ。
ザンベです、ザンベ


Part I: La Prise de Troie
Deborah Voigt (Cassandre / Cassandra)
Dwayne Croft (Chorèbe / Coroebus)
Bryan Hymel (Énée / Aeneas)
Julie Boulianne (Ascagne / Ascanius)
Julien Robbins (Priam)
Theodora Hanslowe (Hécube / Hecuba)
Eduardo Valdes (Helenus)
Richard Bernstein (Panthée / Panthus)
David Crawford (L'ombre d'Hector / Hector's Ghost)
Jacqueline Antaramian (Andromaque / Andromache)
Connell C. Rapavy (Astyanax)

Part II: Les Troyens à Carthage
Susan Graham (Didon / Dido)
Karen Cargill (Anna)
Kwangchul Youn (Narbal)
Eric Cutler (Iopas)
Julie Boulianne (Ascagne / Ascanius)
Richard Bernstein (Panthée / Panthus)
Bryan Hymel (Énée / Aeneas)
Kwangchul Youn (La dieu Mercure / The god mercury)
Paul Appleby (Hylas)
Paul Corona / James Courtney (Trojan soldier)
Julien Robbins (Priam's Ghost)
Dwayne Croft (Coroebus' Ghost)
Edyta Kulczak (Cassandra's Ghost)
David Crawford (Hector's Ghost)

Conductor: Fabio Luisi
Production: Francesca Zambello
Set design: Maria Bjønson
Costume design: Anita Yavich
Lighting design: James F. Ingalls
Choreography: Doug Varone

Dr Circ A Even
SB

*** Berlioz Les Troyens ベルリオーズ トロイ人 トロイアの人々 ***

MARIA STUARDA (Mon, Dec 31, 2012)

2012-12-31 | メトロポリタン・オペラ
早いもので2012年もお終い。今年も例年通り一年の締めはメトで、、というわけで、大晦日ガラの『マリア・ストゥアルダ』です。

メトの2012/13年のシーズン発表、それに伴って宣伝用のスチール写真が出てきた頃から、
”なーんか変な感じがするんだけど、何が変なのかわからない、、、。”とモヤモヤした気分に包まれていて、
だけど、最近考えることがすっかり面倒臭くなってしまって、”ま、いいか。”と良く考えないで放っておいたら、
”そろそろ『マリア・ストゥアルダ』の予習を本格的に、、。”と思って準備し始めた途端、それが何かがわかりました。

『マリア・ストゥアルダ』にはジョイス・ディドナートの写真がずっと使われてましたけど、一体彼女が歌う役は何、、?

メゾが女性陣の中で一番の主役、というオペラの演目はそんなに数が多くないので、
私のモヤモヤは、当初、メゾのディドナートが一人スチール写真にのっているということに対する漠然としたものだったと思うのですが、
『マリア・ストゥアルダ』って、よく考えてみると、初演はソプラノ on ソプラノの組み合わせだったようですが、
ここ数十年の演奏の歴史としては、メゾがエリザベッタ役を歌い、ソプラノがマリア役を歌うパターンの方が多いんじゃないかな、と思います。
スカラな夜のイベントの一貫として映画館で見た『マリア・ストゥアルダ』での人間国宝級のマリアはデヴィーアだったし、
(後注:ただし、エリザベッタ役を歌ったアントナッチは2002年頃からメゾのレパートリーに加えてソプラノのそれも歌い始めていて、それに合わせて公式にはソプラノを名乗っているようです。)
家にあるCDも、マリア役を歌っているのはカバリエとかサザーランドとかグルベローヴァとか、
ソプラノ、それもただのソプラノではなく、ベルカント・ワールドで卓越した声と技術を誇るソプラノばっかりです。
そして、今日ディドナートと共演予定のヴァン・デン・ヒーヴァーは私がこれまで名前も聞いたことのない歌手で、
彼女がソプラノなのか、メゾなのかもよく知らない、、、という事情もこの事態を助けていません。
なぜなら私は、ならばきっとこのヴァン・デン・ヒーヴァーがソプラノでマリア役を歌うのかな、、と思い込みかけていた時期もあったからです。
でも、そういえばスチール写真のディドナートはロザリオを持って悲痛な表情を浮かべていたような、、
ってことは、れれれ?やっぱりディドナートがマリア役??

今回はスカラの夜の時と違って生鑑賞だし、つい予習にも力が入るわけですが、いくつか音源を聴いてみて、
あらためてあのスカラの公演が全然退屈でなかったのは、
デヴィーアと必ずしもベスト・コンディションでないながらも音楽性の高さを誇るアントナッチという二人の歌手の力があったからだなあ、、と思いました。
というのも、『マリア・ストゥアルダ』は、その必要とされる高度なテクニックに聴いてるだけで顎が外れるような気がする
『テンダのベアトリーチェ』のような作品とは違った意味で、
良い公演にするのがすごく難しい作品だからです。



最大の理由は、こういっちゃ元も子もありませんが、まあ、はっきり言ってドニゼッティのベストの作品ではないんです。
ベルカント作品好き、中でもドニゼッティが大・大好きな私がそう言うんですから、まあ間違いありません。
一つにはジュゼッペ・バルダーリによるリブレットのせいもあると思いますが、
音楽の方もドニゼッティの他の人気作品と比べると、鮮烈に記憶に残るような旋律・ドラマの盛り上がりに恵まれておらず、
それこそ、デヴィーアのような歌手でないと、この作品を説得力を持って歌うのは至難の技です。
いえ、デヴィーアだって、例えば30代とか40代の頃に歌っていたらば、スカラの夜の時のような迫力ある歌を繰り広げられたかどうか、、。
あの公演は彼女の歌手としてのストイックさと自信が、マリアの”一つ運命が掛け違えば私が女王だった!”というプライドとシンクロして、
それがすごい迫力になっていた、という、一種特殊なケースだったと思うのです。
で、オケに与えられた音楽も同じ理由で難しい。
これ、ダルな演奏されたら、もうオーディエンスにとっては苦痛以外の何物でもない、という種類の音楽です。
いや、それだけでなく、指揮者がしっかりしていないとこのあたりやばいことになりそうだな、、という”崩壊注意”の標識がかかっている箇所もあり、
カバリエが歌っているライブ音源でのスカラ座の演奏の中にも、
”なんかよくわからないけど、こんな感じで弾いとくか、、。”みたいな怪しいことになっている部分もあります。
ベルカント・オペラを演奏させたら右に出るものがいないスカラですら手を焼く『マリア・ストゥアルダ』。おそるべし。

そして、とどめが、マリア役とエリザベッタ役のキャスティングの難しさです。
エリザベッタの方は、低音域も高音域も充実していなければならず、
その上に、この二つの間を瞬時に跨ぐ旋律が多いので、普通以上に胸声の音色が突出しないで他の部分と出来る限り統一された音色であって欲しい。
例えば、サザーランドの盤でエリザベッタを歌っているトゥーランジューは高音域の音が綺麗で、
低い音域もそこだけ取れば迫力ある音が出ているのですが、なんだか音色がものすごくドスが利いており、高音域の美しい音色とかなり異質なため、
行ったり来たりする度に、黒いトゥーランジューと白いトゥーランジューがかわりばんこに出てくる感じでかなり違和感あります。
カバリエとライブ盤で組んでいるヴァーレットは音色の統一性という点では優れているし表現力もあるんですが、
最高音あたりはトゥーランジューほど楽には出ていない感じがありますし、
私はもしかすると、ドラマの表現の部分を別にすればこの作品はマリア役よりもエリザベッタ役の方が難しいんじゃないかな、、と思っている位です。

ではマリア役が楽かというと、当然そんなことはなく、この役の難しさは一にも二にも表現力です。
スコア通りに歌うなら、そんなに滅茶苦茶な高音はないのでその点は楽に感じられるかもしれませんが
(ただし、オプショナルに高音を入れたり、オーナメテーションを入れることによって、その難度は無限大にあがる。)
音楽がドニゼッティのベスト!とはいえないだけに、その分、そういった歌手の裁量によるエキサイトメントを付け加えるか、
もしくは声そのものの魅力でオーディエンスを魅了せねばなりません。

この作品の男性陣はロベルト(レスター伯)役ですらこの二人の引き立て役の枠を出ていない”この役立たずー!”な存在ですので、
マリア役とエリザベッタ役を歌う二人の歌手の肩にすべてがかかっており、
この二人に、ただでさえも油断したらすぐにダレダレになってしまいがちな音楽を、そうさせず、
逆に高みに引き上げられる実力とドラマティック・センスがないといけない、『マリア・ストゥアルダ』はその点で難しい作品なのです。

この、私たちが単純にメゾvsソプラノと言って一般的に思い浮かべる特徴にはっきり分け切れず、
まるで両方のテリトリーに跨っているかのような不思議な両役のリクワイヤメントのせいか、
実は調べてみると、この50年位の演奏史でも、マリア役・エリザベッタ役いずれも、ソプラノとメゾの両方で歌い演じられたことがあるんだそうです。
ということで、結局、メトではメゾのディドナートがマリア役を歌うんですが、歴史上初めてのメゾの同役への挑戦!ということではないようです。



最初に舞台上に大きく見えるのは獅子と鷲なのかな、、、?
このコンビネーションはメアリー一世の治世の時の王家の紋章で(エリザベス一世のそれは獅子と竜)、
マリアとエリザベッタのどちらが正当な王位継承者か?という議論や二人の確執の元凶となったものをシンボライズしているのかもしれません。

刷り込みというのは強力なもので、突然マリア/エリザベッタ両役でソプラノ/メゾのスイッチOKよ!と言われても、
初めて見た公演(スカラの夜)や耳に慣れた音源の印象というのはなかなか払拭できないので、
私はどうしても、マリア役にソプラノ的なものを、そしてエリザベッタ役にメゾ的なものを期待してしまいます。
で、ディドナートがマリア役を歌うのですらちょっと意外ではあったんですが、そうか、今日はそうするとメゾ on メゾなんだな、と思ってました。

ドニゼッティお得意の焦らしの術(『ルチア』なんかも同じパターン、、)により、
同作品の最大主役であるマリアは一幕の二場からやっと登場~♪なので、一幕一場は完全にエリザベッタ役の独壇場。
先にも書いた通り、エリザベッタ役は本当に大変な役で、高音域も低音域も同等にパワフルで、しかも音色が統一されていて、、なんていうのは無理に近い注文だから、
どれかが優れていれば良しとしなければ、位な気持ちで、それこそヴァン・デン・ヒーヴァーについては何の前知識も無いものですから、
まっさらな気持ちで鑑賞を始めました。



新演出もので、ディドナートのような人気歌手相手に、こんな難しい役でメト・デビューをする、となったら、緊張の極みに達していても全然おかしくないのですが、
登場してすぐに歌う"Ah! quando all'ara scorgemi ああ、私が婚礼の祭壇に導かれる時”での彼女の落ち着きぶりと度胸は大したもので、
きちんとした声、きちんとしたベル・カントのテクニックの両方を持っていることがすぐにはっきりと感じ取れました。
こんなメゾ、これまでどこに隠してたんだ!?です。
全音域に渡って音色の統一のされ方も申し分ないし、エリザベッタの男性っぽさ(それがなかったらあんな政治手腕を発揮できないし、
これこそがエリザベッタと同様にプライドが高くありつつも良くも悪くも頭からつま先まで女っぽいマリアとの対照的な点でもあるわけで、
この点を表現することがこの役では不可欠なのです)、気の強さ&激しさ&気位の高さもきちんと表現されていて、
彼女の歌は、端々からきちんと感情が感じられるのがいいな、と思います。
重箱の隅つつきまくりのこの嫌~なオペラ婆が、後は高音域か低音域のどちらに比重がかかっているかを観察せねば、、と、万全の態勢を整えているわけですが、
まあ、ここまで低音がきっちりしているメゾだから、ものすごい高音を期待するのは酷というもの、、と気を緩めそうになった瞬間、
"Ah, dal cielo discenda un raggio ああ、空から光が一筋射して”の最後に彼女がなんと高音(D)を入れて来て、
それがまた、なんとか頑張って挑戦してみました、、というような生っちょろい音では全くなく、
堂々としたフル・ボディの、ソプラノでもこんなしっかりした綺麗な高音出したら、万々歳というような音で、私は目玉が飛び出るかと思う位びっくりしました。
これにはオーディエンスも大喝采!で、これで一層心に余裕が出来たか、後に続くレスター伯爵との二重唱も素晴らしい出来で、この意地悪婆も完全降参です。
むしろ、あの高音と、その後に続く歌唱の高音域を聴いてしまったら、比較として、どちらか選ばなければならないとしたら、
むしろ高音域の方が良い位かも、、、いや、もうこれは両音域充実している、と言ってよいでしょう!

一体このエルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァーとは何者??とあらためてプレイビルを開けると、、、
あれ?ソプラノなの、この人??
やだー、私はてっきりメゾだと思って聴いてましたよ。異常に高音に強いメゾだな、、と。
それ位、低音域も普通にしっかりしてるから、、、。
さらに帰宅してから調べてみると、彼女は元々メゾでスタートしたものの、
サンフランシスコ・オペラのメローラ・プログラムに在籍していた時に”あなたはメゾではなくソプラノ!”と言われてソプラノにコンバートした経緯があるんだそうです。
ハイG(!)も出るそうですから、今日の高音なんか朝飯前だったんだ、、、。
そして、このあなたはソプラノ!とコンバートを薦めた二人の人物のうちの一人がなんと、ドローラ・ザジックなんだそうです。

ということで、今日は私がこれまで持っていたソプラノ(マリア) on メゾ(エリザベッタ)とは真逆の、メゾ on ソプラノの公演なんです。
面白い。



実は『マリア・ストゥアルダ』がメトで上演されるのは初めて、つまり今日がメトでの初演となります。
2011/12年シーズンに『アンナ・ボレーナ』で始まったチューダー(女王)三部作シリーズの第二弾で(ちなみに第三弾は『ロベルト・デヴェリュー』)、
このシリーズは全てデイヴィッド・マクヴィカーが演出を担当することになっています。

セットや衣装のデザイン・色合いとも『アンナ・ボレーナ』からの繋がりがきちんと感じられるものになっていて、
こういう点は一人の演出家がシリーズで演出する場合の長所だな、と思います。
特に今回の演出では赤の使い方が効果的で、確か『アンナ・ボレーナ』の前のレクチャーで、
チューダーの時代というのは身分によって着用できる繊維の種類や色が決まっていた、というような話があったように思うのですが、
投獄されている身のためにずっと黒い衣服に身を包んでいるマリアが、処刑に赴く前にばっ!と衣装を脱ぎ捨てると、その下から赤いドレスが出てきます。
それまで、全編を通じて赤の衣装で登場したのはエリザベッタだけで(フォルテリンガ城での狩りの場面)、
かつ、他の登場人物の衣装と舞台はほとんど黒か黒っぽい色なために、マリアが赤いドレスになった時のビジュアル的効果は鮮烈で、
これはマリアが死の場に臨んで、心は女王のまま死んでいった、ということを表現するのに非常に有効でした。
また、『アンナ・ボレーナ』の時には抑えモードだった処刑の恐怖も、今回は舞台の上に首切り人を立てて迫力アップしてます。



ニ幕以降は至極真っ当に恐怖と陰鬱さを表現しているマクヴィカーの演出ですが、ユニークなのは一幕でのエリザベッタの取り扱いかもしれません。
ヴァン・デン・ヒーヴァーが100%自分の考えで今回のようなエリザベッタ像を作ったとは考えづらいので、
全部とは言わずとも、最低でもいくらかはマクヴィカーのアイディアによるものだろうと推測するのですが、
ヴァン・デン・ヒーヴァーのエリザベッタは、歌は至極真っ当ですが、演技と役作りはかなり変です。怖いです。奇妙です。
スカラの夜にこの役を演じたアントナッチはマリア役に負けず劣らずにシリアス路線でエリザベッタを演じてましたが、
ヴァン・デン・ヒーヴァーのエリザベッタはそのあまりの変てこさにほとんどコメディックぎりぎりの線を走っていて、
お付きの人も多分、”政治には長けてるけど、変な女。”と思いながら仕えているんだろうな、、と思います。
どこをどう変か、、と言えば、、、こう、、、女装した男性がそのまま女性になったみたい、というか、、
でもそれを演じているヴァン・デン・ヒーヴァーはやっぱり女性で、、と考えるとわけがわからなくなって来ました。
エリザベッタは女王なんだし、ここまで変ってるってことはないだろう、、と、アントナッチ型のシリアス路線を志向する方も多いでしょうし、
そもそもチューダー三部作は史実の器だけを借りて、ドニゼッティが美しく加工して作り上げたものであることを考えると
(オペラで描かれる細かいエピソードはほとんどがフィクションと言ってよいので、これを歴史のまんまだと信じてはいけません!)、
マリアもエリザベッタも美しく悲しいヒロイン達であるべきだと思うのですが、
私はこのヴァン・デン・ヒーヴァーのエリザベッタの演じ方にある種のリアリティを感じて、嫌いじゃないです。いや、むしろ好きかも。
もしかしたら実際エリザベス女王もこんなちょっと変な人だったのかも、、と思ったり、、。



面白いのはマクヴィカーがエリザベッタをこのように設定したせい・おかげで、
リブレットの言葉と音楽だけから受け取るイメージと、舞台の場から受ける雰囲気がかなり違ったものになった点です。
特にレスター伯爵との関係には辛い片思いの相手、というよりは、長年の気心知れたほとんど友人のような上司・部下同士、という感じになっています。
でも、確かに、レスターはエリザベッタの御前に遅刻しても、随分思い切ったことを申し出ても、なぜか彼女に許されてしまう。
だし、エリザベッタだって、馬鹿じゃないんですから、フランスの王とレスターを比べてレスターを夫に取る、なんてことは
政治的な理由から言ってもまずありえない、、、ということ位、わかっているはずであって、
スカラの夜のようにレスターへの悲恋をあまりに強調し過ぎるのは的外れなのかもしれないな、、と思います。

ただ、レスターがエリザベッタにフォルテリンガ城を訪ねるよう説得し、それに成功してしまう場面は、
(それにしても、このレスターという男は本当頭悪いというか、、、二人を会わせて仲直りさせよう、、なんて、どこまで能天気なんだ?と思います。)
怒り半分、一人で立ち去ろうとするエリザベッタに、レスターが執拗に彼女の手を取ろうと手の平を差し出すと、
”またあんたの言う通りになっちまったよ!もう!”という感じでエリザベッタがばしっ!と悔しまぎれでその手を取るあたりは微笑ましく、面白い解釈だな、と思うのですが、
そこに至るまでのプロセスで、彼女がどれほどマリアに恐怖と脅威と、その裏返しの敵意を感じているか、そこが伝わりきっていないと思います。
特にこの物語は彼女たちが血の繋がった関係で、マリアがエリザベッタにしばしばsorellaと呼びかけている位です。
エリザベッタはアンナ・ボレーナ(アン・ブリン)とエンリーコ(ヘンリー8世)の間に生まれた娘で、
マリアは、エンリーコのお姉さんの孫娘なので、この二人は日本語ではどういう関係なんでしょう、、、よくわかりませんが、
まあ、お姉さんというのは言いすぎですが(ですし、もっと広い意味でのsorellaなんだと思います)、血縁関係はあるわけで、
単なる王位をめぐるライバル同士というもの以上の、この血の繋がり、そして、イギリス国教会とカトリックに分断された二人の立場の微妙さがこの物語の肝の一つだと思います。
マクヴィカーはスコットランドの人なので、その辺りは観客全員が当然持っている知識のはず、という前提で、
一幕一場をユーモアを交えた味付けにしたのかもしれませんが、
ニ場で、レスターの”Ove ti mostri a lei sommmessa もし彼女(エリザベッタ)に謙虚な姿勢で対すれば、、
(エリザベッタが恩赦してくれるかもしれない。”という言葉に対し、
マリアが”A lei sommessa? 彼女に謙虚な姿勢をとる?(なんでこのあたしがそんなことしなければならないの?)”と答え、
それに対してレスターが”Oggi lo dei 今日だけはそうしなければ。”と歌った瞬間、
劇場が爆笑の渦に巻き込まれたところを見ると、マクヴィカーはメトの観客を甘く見過ぎたかもしれません。

私が今回、一つだけ、小さな不満がマクヴィカーの演出にあったとすれば、この、ことの深刻さを演出で伝える匙加減だったかな、と思います。
一幕一場で設定したトーンが少し軽すぎて、ニ場に影響を与えてしまったと思います。
ただ、イギリス人でない演出家がエリザベッタをこのような人物像にするにはすごく勇気がいると思うのですが
(下手したら、お前はイギリスを馬鹿にしてるのか!と、イギリス国民の怒りを買いかねない、、。)、
マクヴィカーはそんなハードルを軽く乗り越え、エリザベス一世をあのように描きながら、しかし、彼女への温かい眼差しも感じられるのが面白いな、と思いました。
彼の演技指導にきちんと応えているヴァン・デン・ヒーヴァーも見事だと思います。
舞台でもHDでも彼女の素顔を見る機会はまずないと思われますので、
あのものすごい化粧と不気味な身振りの下にはこんな素顔が、、ということで、彼女の写真を紹介しておきます。



私個人的には今日のキャストで一番色んな意味であっ!と驚かされたのがヴァン・デン・ヒーヴァーでしたので、肝心なマリア役にやっと今頃辿りつきました。
ディドナートは昨年の大晦日の『魔法の島』のシコラックスはともかく、『セヴィリヤの理髪師』のロジーナ、『オリー伯爵』のイゾリエ
そして、ガラリサイタルでの歌唱に普段の明るくてファンを大切にする姿勢(こんなこともありましたっけ、、)で、
NYのファン・ベースにはそのポジなところが超愛されていて、本当に人気があるメゾなんですが、
今日のマリア役のような完全な悲劇のヒロイン役をメトで歌うのは初めてで、
私はあの元気一杯なディドナートがこの役をどのように歌い演じるか、ものすごく楽しみにしてました。
また、これまでは主役級の役を歌っていても、その任を他の歌手と分け合うケースが多かったわけですが、
この作品は、エリザベッタ役も大変とは言え、やはり何といってもタイトル・ロールはマリアなわけですから、
彼女がメトでピンで客を呼べる歌手としての、言ってみれば最終承認をオーディエンスからもらう場になるか否か、という面でも、
彼女にとってものすごく大きなチャレンジのはずです。

まず、先にワーニングしておいた通り、私はこの作品のマリア役はソプラノのイメージが強いし、
また、この作品はドニゼッティの作品なので、出来れば同じベル・カントの中でも、
ドニゼッティの作品を得意としているソプラノに歌って欲しい、という、細かい/個人的な趣味レベルの欲求があるので、
その点では必ずしも私の期待通りではなかったかな、、ということで、まず些細なネガの意見を先に書いてしまいます。

彼女の声はメゾにしては軽やかで高音も綺麗なんですけど、やはりメゾなんですね、、
当たり前のことを言われても、、と言われるかもしれませんが、この作品のマリア役をメゾが歌う、ということは、
私の感覚ではあまり当たり前のことではないので、そこのところでコンフリクトが起きているんだと思います。

この役で必要な最高音あたりになると、力のあるソプラノなら
(そして、ディドナートがメゾとしてものすごく力のある人であることは強調しても強調し過ぎることはありません。)
音が広がって行く感じがすると思うのですが、ディドナートはそれが出来るほどの猛烈な高音は持ち合わせていないので、
どうしてもそのあたりの音域になると、広がって行くのではなく、逆に一点に向かって集約して行くような音になり、若干音が痩せる感じもあります。

後注:チエカさんのサイトでは、コメント欄で彼女が全パートに渡って半音もしくは全音下げている事が指摘されていて
(場所によってトランスポーズする度合いを変えているみたいです。)、その是非を巡ってヘッズの間で議論になっています。
しかし、音を下げてすら、やっぱり上のような印象がありましたので、単純にどこまでの音が出せるか、出せないか、ということだけが問題ではないように思います。
また、リハーサル中や公演前にトランスポーズの指示が出たわけではないようなので、おそらくはじめから下げて歌う予定だったのだと思います。


当然のことながら、ソプラノのようにオプショナルの高音を入れることは難しいため、
そういった歌手の采配で加わる高音の追加の楽しみ、というのもありません。
それからこれはあまり以前は感じなかったんですが、中音域から下にかけて、少しフレミングの発声とも似た独特の粘りが出ます。
この粘りはメゾのレパートリーなら、それなりに一種の魅力になることもあるかな、、と思うんですが、
ドニゼッティの、それも本来ソプラノが歌う役にはあまり似つかわしくないな、、と思います。

後、これは好みの問題が大きく関係するので必ずしも悪いことではないのかもしれませんが、
彼女の歌唱はバロックから、同じベル・カントでもロッシーニに合ったスタイル、という感じがして、
ちょっとドニゼッティの作品には私は違和感を感じる点もあります。
ロッシーニとドニゼッティの違いは何なんだ?と言われると、言葉で説明するのは難しいのですが、
簡単に言うと、カクカクさと滑らかさ、、とでも言うのか、、、
バロックやロッシーニはアクロバティックであることが奨励され、、
そのままアクロバティックなものとしてオーディエンスに聴いてもらうことが歌い手の目標であり、
オーディエンスにとっての美であり、楽しさでもある、、という風に思うのですが、
ドニゼッティやベッリーニは逆にアクロバティックな歌をそうでないかのように歌うところに美があるのではないかな、、という風に個人的には思っているのです。
なので、バルトリが歌う『夢遊病の女』とか、上手だなあ、、とは思うんですけど、一方でなんか違う、、と感じてしまう自分がいます。
で、アクロバティックでなく聴かせる一つの手段に、音の動きの角を少なくする、という方法があると思うのですが、
ディドナートの歌は『マリア・ストゥアルダ』のような作品での私の好みの歌唱に比すと、若干音の角が立つ歌い方に寄っているように思います。
まあ、でもこのあたりのことは、ものすごく細かい、贅沢な注文であることを強調しつつ、たくさんあったポジティブな点に移りたいと思います。

まず彼女の声の美しさ、これは本当に素晴らしい。
声そのものが、マリアという役の、エリザベッタのほとんど男性的と言ってもよい性質に対照的な、女性らしさというエッセンスを表現しつくしていると思いました。
それからボリューム・コントロールの上手さと歌唱技術の確かさ、またオーナメテーションを入れる時のセンス、
この点は以前から彼女の歌唱の大きな武器だと思っていましたが、
この作品での彼女の歌唱はそれを駆使し、あからさまにどうだ!というのではなく、
繊細なクレッシェンド、上品な細かいオーナメテーションなどを駆使し、オプショナルな高音が出せない、というハンデを乗り越えています。

そして、何よりも表現力!!
一幕二場の”ああ、雲よ、なんと軽やかに Oh! Nube, che lieve!”とニ幕ニ場~三場を比べるとそれは明らかです。
一幕二場では彼女の表現力より技巧が勝っているような感じの歌なのですが、ニ幕ニ場から以降、技巧はそのままに表現力が逆転勝ちする感じで、
彼女の歌手としての素晴らしさが感じられるのはこの部分です。
タルボを通して神からの赦しを得る場面と、合唱を従えて歌う"Deh! Tu di un umile preghiera il suono ああ私達の慎ましい祈りを"、
特に後者での彼女の歌唱は、どうやって合唱に対してこのような完全なバランスを取って歌えるのだろう、、?という位、
絶妙な音量で、合唱の中に浮き漂っているように音を響かせて来るのが本当に凄いです。
これは彼女の声質のせいもあるのかな、、と思います。
決して合唱から浮き立つような特殊な声でも、周りを圧するような感じでもなく、
自然に交じり合っているんだけど、だけど、彼女の声が絹のような光沢を放っていて、
オーディエンスが彼女の歌の軌跡を見失うことは決してない、、というそういう感じ。
この合唱との重唱部分は至福でした。

一幕二場で、アンナ・ボレーナがエリザベッタを侮辱する場面、
”Figlia impura di Bolena~Profanato è il soglio inglese, vil bastarda, dal tuo pié!"
(薄汚いボレーナの娘が!~ あんたみたいな卑しい私生児のおかげで、イギリスの王位も地に堕ちたわ!)で、
声を荒げたり、感情過多にならず、思わず口を突いて出た、というよりも、
もうずーっと考えていたことをここで言わせてもらうわ、、という抑制していた怒りが段々と雪だるま式に大きくなって行く感じの表現も彼女らしいな、と思います。

とにかくこの日のために相当な準備をしたであろうことが感じられる歌唱で、
彼女が登場する公演で歌にがっかりさせられた試しがこれまで一度もないのですが
(『魔法の島』も、作品にはがっかりさせられましたが、彼女の歌にはがっかりしてません。)、
この一度請け負ったら、全力で立ち向かい、中途半端な結果を出さない、という姿勢も、彼女がこちらで絶大な支持を受けている理由の一つなのかもしれません。
私もあれこれと細かいことを言いましたが、鑑賞する価値のある公演だったかと聞かれれば、もちろん!と答えます。



先に役立たず呼ばわりした男性陣ですが、それはドニゼッティがいけないのであって、歌手がいけないわけではありません。
今日の公演に参加した男性陣は全員、歌い甲斐があるとは口が裂けても言えない役柄にも関わらず、
一生懸命ディドナートとヴァン・デン・ヒーヴァーを引き立ててました。

レスター役は当初メーリが歌うことになっていたんですが、『リゴレット』でのメト・デビュー失敗!からまだ立ち直れないのか、
シーズンが始まろうか、という頃にキャンセルを発表し、急遽、ポレンザーニが入ることになりました。
史実的にはマリアも40代、、ということは多分、レスターも同年齢か多少上でもおかしくないので、
ポレンザーニの白髪交じりの頭もあれで間違いではないのかもしれませんが、雰囲気までおじさんくさいのはどうなんでしょう、、?
もうちょっと若い雰囲気にしてもいいんじゃないかな、、?
スカラの夜で同役を歌ったメーリは超まんまな若者作りでしたよ、、。
歌唱の方は一瞬高音でひやりとさせられたところがありましたが、それ以外の部分は声も良く伸びていて、主役の女性二人を良く盛り立てていたと思います。

タルボ役のローズ、セシル役のホプキンス共に、役に求められるに十分の歌唱を披露していましたし、
歌う役は本当に少ないながら、アンナ役のジフチャックは私がこれまで聴いた中で、最もエッジの感じられる切れ味のある声で、
こんな風に歌うことも出来る人だったんだな、、とちょっと驚きを新たにしました。

最後にどの歌手にも負けず劣らず称賛しておきたいのはベニーニの指揮!
シーズン・オープニングの『愛の妙薬』でも素晴らしい指揮振りだったベニーニですが、
今回の『マリア・ストゥアルダ』はそれを上回る出来かもしれないです。
『愛の妙薬』は作品自体の出来が良いし、オケも作品を良く知っているので、ある程度勝手に回っていく部分もありますが、
この『マリア・ストゥアルダ』は勝手にまわしておくとどんどん沈没しかねない音楽だし、メト・オケはこの演目を演奏するのが今回初めて、、と
ベニーニにとっては地獄のようなことになっていたのではないかと思うのですが、良く短期間でこんなにまとめたもの、と感心します。
今回はサイド・ボックスからの鑑賞だったので、彼の指揮の様子が良く見えましたが、本当に手取り足取り、物凄くきちんと指示を出していて、感心しました。
普通なら歌手側の采配で、彼らが延ばせる・彼らの好みの音の長さに合わせてオケをなだれこませる、、というようなことをしてもおかしくない場所ですら、
歌手にここまで延ばせ、止れ、の指示を出しており、これ即ち、彼の中できちんと”ここはこう演奏するべき!”という
確固としたアイディアをきちんと持っている、ということに他ならず、
ベル・カント・ファンである私のようなオーディエンスにとって、非常に嬉しい事態です。
この作品でこんなに躍動感のある演奏が出来るなんて本当に驚きで、私が持っているどのCDよりもオケの演奏に関しては良い内容でした。
オケから出てくる音の美しさに溜息が出た箇所も、一つや二つではありませんでした。
数年前の『愛の妙薬』でニコル・キャベルを詰めていた時から只者ではない面白いおっさん、、と思ってましたが、ベル・カントに関しては指揮の腕も確か!
これでシリーズ第三弾の『ロベルト・デヴェリュー』も彼の指揮になるかもしれない、、という予感がして来ました。


Joyce DiDonato (Maria Stuarda / Mary Stuart)
Elza van den Heever (Elisabetta / Queen Elizabeth I)
Matthew Polenzani (Roberto / Robert Dudley, Earl of Leicester)
Matthew Rose (Giorgio / George Talbot, Earl of Shrewsbury)
Joshua Hopkins (Guglielmo / William Cecil, Lord Burghley)
Maria Zifchak (Anna / Jane Kennedy, Mary's lady-in-waiting)

Conductor: Maurizio Benini
Production: David McVicar
Set & Costume design: John Macfarlane
Lighting design: Jennifer Tipton
Choreography: Leah Hausman

Gr Tier Box Even Front
ON

*** ドニゼッティ マリア・ストゥアルダ Donizetti Maria Stuarda ***

AIDA (Sat, Dec 22, 2012)

2012-12-22 | メトロポリタン・オペラ
先週の土曜日はモナスティルスカのアイーダは過去少なくとも10年間にメトで聴いた同役のソプラノの中では一番!と思う位大満足だったんですが、
ボロディナが歌うアムネリスに今ひとつのれなかった、、、。
この二人のコンビでの公演はHDの日が最後で、その後の3つの公演のアムネリス役には誰あろう他ならぬドローラ・ザジックがキャスティングされており、気持ちは揺れまくりです。
12月は超金欠、、、でも聴きに行きたーーーーい!!!

公演の直前にチケットを買う場合、私から見てコスト・パフォーマンスが良い座席は大体売れてしまっていて、
劇場内で最も高価なグループに入る席種にするか、もしくはお金を多少始末して見にくい座席で我慢するか、もっと節約してスタンディング・ルーム、の三択になるわけですが、
鑑賞中に刻々とストレスが貯まっていく見づらい座席は立見席より不快で嫌だけど、3月に『アイーダ』を立ち見した時は正直辛かった、、、
『アイーダ』は結構上演時間が長いから。

ザジックは現在齢60。ってことは、彼女の良い歌を聴ける時期というのは多分もう長くは残っていない、ということで、
もはや彼女が絶対に登場するというのであれば、私はいくらお金を出しても惜しくない位の気持ちなんですが、
怖ろしいのは、これでザジックがキャンセル、なんてことになった場合です。
ザジックは非常にまじめな歌手だと思いますが、いや、だからともいえるのか、
体調がすぐれないと、ちゃんとした歌が歌えないくらいなら降りた方がまし、、とばかりにあっさりとキャンセルしてしまう場合があって、
これまで2~3回、彼女のキャンセルを食らったことがあります。
もしそんなことになったら、アラーニャの蚊のファルセット聴くために300ドルの出費、、、うーん、それはありえない。

というわけで、今日は開演のぎりぎり近くまで待って、ザジックのキャンセルがまずなさそうだということを確認してから平土間最前列のチケットを購入しました。
今回はたまたま色々プラクティカルな原因が重なって最前列の座席になったのですが、
今日と同じフリゼルの演出の『アイーダ』で歌うザジックを、回数なんか思い出すことも出来ない位に鑑賞し倒して来たというのに、
実はこんな至近距離からザジックのアムネリスを見るのは初めてだ、という事実に、なぜか座席に着いた瞬間にやっと気付いてとめどもない感慨に襲われました。

しかし、そんな感慨は前奏曲が始まって吹っ飛びました。
なぜならば、いわゆるハウス・ライト(オーディエンスの視点から向かって舞台右側)に寄ったこの座席は驚くほど音のバランスが悪く、
丁度オケピに張り巡らされた壁のすぐ向こうにチューバの奏者がいて、彼の吹く音が壁に反響してこぼれてくるのか、
他の楽器がどんな風に鳴っているのかはっきりとわからなくなってしまうほどの大音響で、前奏曲が終わる頃にはボー然、、、。
逆側(ハウス・レフト)の一番奥にいるコントラバスの奏者の奏でている音なんか、”なんか遠くで鳴ってるわあ。”という感じで、
オケの演奏についての今日最大の収穫は、全幕にわたって”チューバはここでこんな旋律を吹いてたのね。”ということが確認出来たこと、、
って、そんなピンポイントで良いのか?!
そんな理由で、今日のオケの演奏に関しては各セクション間の音のバランスなんか全然良く判らなかったし、全くフェアなことを書けそうにないので割愛させて頂きます。
平土間一列目でも、指揮者に近い(真ん中寄りの)場所だったらこんな悲惨なことにはならないんですけれど、
前の方に座る場合、ここ以上端に寄ってはいけないんだな、という座席のラインが何となくわかったのが今日の本当の最大の収穫、ということにしておきましょう、、。
ただ、一列目からでも舞台までには多少距離があって、それに救われているんだと思いますが、
歌手の声の聴こえ方の方はオケのそれほど惨いことになっていないのにはほっとしました。



今回の公演はアラーニャがラダメス役に入ってから4回目の公演で、
シリウスで聴いた一回目、HDの公演の時の二回目、そして今日、と、ルイージの指揮・オケの演奏との噛み合い方は回を追って段々良くなって来てはいましたが、
ただ、彼はラダメスを歌うのが初めてなわけでも何でもないのにもうパートを忘れちゃって、その上にきちんと復習が出来ていないんでしょうか?
特に一幕とニ幕が全然頭に入っていないと見ました。
この二つの幕中、彼が凝視していたのはほとんどプロンプターとルイージの方だけで、
私達オーディエンスとのラポートもなければ、アイーダ役のソプラノに対して歌っているはずの時ですら彼女を見ていない、、ということがしょっちゅうで、
歌に余裕がないせいで演技にまで気が回っていないところが散見されました。

しかし、このプロンプターをガン見しなければならない事実を恥ずかしがるどころか、
場の転換時の時のカーテンコールで、しつこくプロンプターに投げキッスを送り続け、
退場しようとするガグニーゼにほとんどお尻を蹴られそうになっていたのには、
このずれぶりは相変わらずアラーニャしてるわね、と思わされました。
急遽予定外の代役をつとめることになった、とか、何かハプニングがあって、プロンプターのお世話になりまくるのも成り行き上当然、という場合を除き、
オーディエンスの前でプロンプターにこういう普通以上の感謝のジェスチャーをする歌手は全員Madokakipの閻魔帳行きです。
こんなの見て、”あらアラーニャって良い人だわ~。”なんと思うオーディエンスは相当なお人好しで、
むしろ、一年以上前からキャスティングが確定していた演目で、プロンプターに普通以上に感謝しなければいけないような状況を作っていること自体おかしくないか?
ちゃんと準備してないのか?と疑問に思うべきです。
そして、私は見逃しませんでしたよ、、、ガグニーゼに蹴られながら緞帳の向こうに消えて行くアラーニャに、
スコアに目を落としながら、”やれやれ、、、。”という表情を隠せなかったルイージを。

HDの日(先週の土曜の公演)に”何なの、、それ、、、?”と思わされた”清きアイーダ”のラストに関しては、
今日の方がppppから段々膨らませていって、最後に余韻を残す、、という意図がより伝わりやすい歌になっていたと思います。
私のようなヘッズに”逃げたな。”と思われないためか、”俺はヴェルディのスコア通り歌ってるぜ!”とばかりにかなり強調してppppにしてました。
後、HDの日には蚊の鳴くようだったファルセットも、今日は吸血前の蚊と吸血後の蚊、位の差はありました。
でも、ヴェルディには申し訳ないですけれど、ここは観客としてはがつーん!と歌ってくれる方がいいんですよね、、
今のアラーニャの力の範囲内で、ヴェルディのスコア通りに歌うという意図のもとではまあまあの結果が出ていたと思いますが、
客はしらーっと白け気味で、拍手もなんとなく力ないものでした。
多分、彼らにも”逃げたな、、。”と思われてしまったのでしょう。努力の甲斐なく。
まあ、それ位、ここはフルブラストを期待するお客さんが多い、ということなのだとも思います。



アイーダ役を歌ったフイ・へは、新国立劇場のサイトなんかを見ると、日本ではへー・ホイと呼ばれているんですね。
もうー、新国立劇場が変なバリエーション加えるから、最近では彼女の名前を言う前に”えーっと、ホイ・へだっけな、フイ・ホーだっけな?”
などと余計なことを考えなければならなくなったではありませんか!
彼女を初めて生で聴いたのは2008年の初夏のNYフィルとの『トスカ』で、私は彼女について
① 声のボリュームとカラーのコントロールが未熟。
② 肝心な個所の高音で音がずり下がる。
③ 演技、体の使い方が滅茶苦茶へた。
④ ディクションが最悪
と結論付け、まあ、このソプラノはしばらくメトの舞台に立つこともないだろうな、、と思っていたんですけれども、
怖ろしいのは最近のメトはそういう人でもデビュー出来る場所になってしまったことで、彼女は2009/10年シーズンに『アイーダ』でデビューを果たしています。
アイーダのような大役でメト・デビューをする歌手の公演はまず聴き逃さないようにしているんですが、
シリウスで聴いた彼女の歌唱がびっくりする位ひどくて、そのシーズンは珍しく彼女を劇場で聴くのはパスすることにしました。
全世界にも配信されたはずのマチネの放送で”ああ我が故郷 O patria mia”の後半、曲の原型を留めないほど音程がずれまくって行って
収拾がつかなくなったのをお聴きになられた方もいるかもしれません。
それに、あの『トスカ』の時の、決して超肥満なわけでもないのにぼてーっとしただらしない体型と、
股の間に何か挟んで歩いているのかと思うようなどてどてとした不細工な歩き方、、
これらを思い出すと今日の『アイーダ』に私が全く期待をしていなかったとしても、何の不思議もありません。

ところが、彼女が舞台に登場してびっくりしたのは、『トスカ』の時と比べると同じ人に思えない位雰囲気が垢抜けたこと。
今回の記事で使用している彼女の写真は全て2009/10年シーズンのものなのですが(今シーズンの写真がどこにも見つからないので、、)、
『トスカ』からはもちろん、その頃に比べてもだいぶ痩せたんじゃないかな、、、
今日見た彼女はもっとリーンな体型で動きはシャープになっているし、
演技が控え目なせいで、もう少し動きがあった方がいいかな、と思う部分はありますが、
彼女が動いている部分に関しては”不細工だな。”と感じたことは一度もなかったです。

この体重の変化と関係があるのか、声の音色が『トスカ』で聴いた頃のそれとは少し違っているのも印象に残りました。
『トスカ』の頃はどちらかというと”太っている人の音色”だったんですが、今回はリーンな体型の人の音になっていて、基本的な音色そのものが以前聴いた時と全く違う感じ。
音色だけに関して言うと以前の方が楽に出ていた感じがあって、今の彼女の声は少し音に硬さが加わった感じがするのと、
時に、出している空気全部が音になっていなくて、息の多い音が出てしまう(そしてこれは体型が比較的貧相なアジア人により多く見られると私は思っているのですが)時があって、
今現在の時点で、へー・ホイと今年『トロヴァトーレ』で聴いたグアンクァン・ユー(と英語読みではなるのですが、本来はグワンチュン・イーという発音に違いとの説あり。)、
どちらがアジア人とわからない声を出すか、と聴かれれば、私は迷いなくユー(イー)の方をとりますが、
ではへーが駄目かと言うと決してそんなことはなく、硬質な音の割りには良く伸びる声で、
ユーの方が柔軟性のある劇場を包むような音とすれば、へーの方は固い一直線に飛んで来るボールのような音で、
彼女のような音が好きな人はそれはそれで十分楽しめるんじゃないかと思います。



『トスカ』の頃と比べて随分スキルアップしたと言えば、声のコントロール力もそうで、
モナスティルスカの幅の広いダイナミック・レンジと比べると、多少ボリューム、カラー共に狭い感じがしてしまいますが、
声の行き先に収拾つかない感じすらあった『トスカ』の頃と比べたら4年半で良くここまで進歩したものよ、、と思います。
それとも、『トスカ』の時が余程不調だったのか、、、。

だがしかし!なのです。
残念なことに彼女の最大のアキレス腱がピッチである、という点はやっぱり変っていませんでした、、。
『トスカ』や2009/10年の『アイーダ』と比べたら大きな進歩を遂げていることは強調しておきますが、
例えば、因縁の”ああ我が故郷”。
頭からずっと良い内容で、これはこれでモナスティルスカとはまた違った魅力があるな、、と感心しながら聴いていたところ、
終盤にno, mai piùでCまで音が上がっていくその肝心のCで音がぶら下がってしまい、
「画竜点睛を欠く」というのはこういうことを言うのだな、、、と思いました。
良く気を取り直して、その後に二度出てくるA(最後のoh patria mia, mai più ti rivedroの頭と最後)は綺麗に出していましたが。
他の部分が本当に良く歌えていたので、ルイージが指揮台で彼女に向かって一生懸命拍手を送っていて、私もその気持ちは良くわかるんですが、
やっぱりアイーダ役を歌うんだったら、絶対抑えなければならない音ってものがあって、どんなに他の部分が素晴らしい出来でもこれを外していてはいけないんです。
たった一音、されど一音。
モナスティルスカはこんなところで音を外したりしないし、それどころかものすごく綺麗な音でそれを鳴らしていましから。
一級のアイーダか、そうでないか、というのはこういうところにもあらわれるんだと思います。

ただし、歌い終わった後、どんなにルイージが褒めても、やっぱりCを外したのは痛恨と見えて、へー自身が全然嬉しそうでなかったのはとっても良いことだと思います。
4年半でこれだけ歌が進歩している彼女が負けず嫌いなわけはないでしょう。
今回の彼女の歌唱は良い点もいっぱいあったので、このピッチの不安定さだけはぜひ克服して欲しいと思います。



今日の公演を鑑賞するそもそもの唯一の理由だったザジックのアムネリス。
彼女の歌唱と演技には、どれほど彼女がこの役を深く摑んで歌っているか、
また、彼女がずっと優れたアムネリスを歌ってこれた理由ががぎっしりつまってました。
15年前位なら、彼女が多少無理なポジションから無理矢理に音を出していたとしても、出てきた音からそれを感じることはほとんどなく、
その音のイーブンさ、無駄のないフレージングは鉄壁でした。
60歳になった今の彼女にはさすがにそんな力技は出来ないし、無理な音の出し方をするとそれは以前よりははっきりとそうとわかるようになっているし、
使っている息の量の強弱がより直接的に、あからさまな形で音のボリュームに影響を与えるようにもなっています。
でもそのおかげで、彼女がどこにアクセントを置いて、どの音を一番のターゲットにするためにどの音あたりから準備をしているのか、
またフレージングを滑らかにするためにどういう風に音符を取り扱っているか、休符も含めてどのようなためを入れているか、などなど、
彼女がアムネリス役の歌唱をどのように組み立てているかがわかってすごく面白かった。
彼女があれだけパワフルなアムネリスを歌って来れたのは、もちろん素晴らしい声・音色を持っていたこともあるけれど、
それをただめくら滅法に使っていたわけでは決してない、
その声をどう使うべきなのか、そこからマックスの効果を引き出すにはどのように歌えばよいか、
そこには、彼女の歌唱にどんな瑕もアンイーブンさも存在しなかった頃には私が気づきもしなかったような、
奥深い配慮と工夫があったことが今日の歌唱から良く良く感じられたのでした。
今考えて見ると、彼女のアムネリス役の基本的な歌い方は私が初めて聴いた時からほとんど変ってなくて、
特定の場所を指定されれば彼女のそこの歌い方をすぐに頭の中でシュミレーション出来るくらいです。
それもまた、彼女の歌唱がどれだけ思考に裏打ちされたものであったかを裏付けているな、と思います。
だから私は今シーズンの『アイーダ』初日にボロディナが審判の場で失敗したり、
他にも日によって同じ箇所なのに全く歌い方が違ったりするのにびっくりし、不思議に思い、”なんだか行き当たりばったりな歌だな、、。”と思ったわけです。

ザジックはガッティが指揮した時よりも今日の方がずっと歌いやすそうにしていたんですが、
唯一の例外は審判の場で三回登場する、ランフィス&合唱のTraditor!に続いて入ってくるAh, pietà! ah, lo salvate, Numi, pietà! Numi, pietà!の部分の旋律で、
16分休符のところからがネックで、三度ともルイージの率いるオケと彼女の歌唱のタイミングがぴったりとは収まっていなくて、そこだけは少し残念でした。

今回舞台に近い座席から鑑賞して、彼女の演技の細かいところまで生で見れて、
今まで貯まりたまったザジックのアムネリスの思い出に新しい章が一つ加わった感じがします。
全幕にわたって彼女の演技は私にとってしっくり来るもので、その解釈がベースにあるからこそ、
遠くの座席からあまり細かい演技が見えない状態で歌を聴いていても彼女の歌は私に説得力を持って響いてくるのだと思いますが、
いくつか記憶に残った部分を上げておくと、ニ幕一場でアムネリスが黒人の子供の踊りを見る場面、ザジックのアムネリスはここで全然踊りを見ていないんです。
手鏡を持ってじーっと物思い(もちろんその物思いはラダメスのことなわけですが)にふけっていたかと思うと、
片手で頬を触れ、自分が自分であることに嫌悪感が湧きあがって来たかのように鏡を伏せるのですが、
その瞬間ラダメスに愛されているアイーダとと自身を比べて、”なぜ私じゃない?”と問いかけているようでもあります。
ボロディナはこの場面では私が座っていた座席からはのんびりと黒人の踊りを見て、優しく指輪を与えたりしているように見えたんですが、
もし私がアムネリスだったなら、すでにアイーダが恋敵なのではないか?と心穏やかでない今、黒人の子供の踊りなんか心あらずに眺めるだろうと思うし、
どんな時にも気位のガードが落ちず、高飛車な様子でザジックが踊り子に指輪を与えている様子もずっとぴったり来ます。

それから凱旋の場の最後、アムネリスを褒美にとらせよう、とエジプト王が宣言した後、
ボロディナは”私の勝ちね。”とばかりにきっとアイーダを見返してから、つーん!と言う感じで前に向き直ってラダメスと退場して行きましたが、
私はザジックのように一度もアイーダの方なんか見ずにその場を去るのが正解だと思います。
アイーダの方を向いてしまったら、それは私はまだあなたと同じ場所にいるわよ、というジェスチャーになってしまう。
アイーダの方を見ないことによって、あなたは単なる奴隷、私は王女でラダメスは私のもの、
あなたと私は全く別の場所にいるのよ、という決定的なメッセージを、思い切り冷や水のように浴びせかけて去っていくことになるはずで、
その方がアイーダだってずっとこたえるはずです。
アムネリスはラダメスの心が自分にないことは十分にわかっているから、今やこの身分の違いが彼女の持ち札のすべてであって、
だからこそ、そこにすがりついているアムネリスの姿がまた切ないわけで、
ボロディナのアムネリスはそこの所をカバーせず、全くわかりやすい幼稚な演技に置き換えてしまったのは私の不満な点です。

また、ラダメスに自分と結婚してくれれば命を助けるようとりなしてみせる、という説得にも耳を貸さないラダメスへの懇願、再燃する怒り、失望、後悔、、
ザジックのこの変化の表現も素晴らしかったです。
今まで何の苦労もなく、望めば全てが与えられる環境で育って来たアムネリスが初めて経験する自分の思い通りに行かない事態、
駄々っ子のようでありながら、しかし、一方で、この取り返しのつかない事態を招いたのは自分のせいでもあるという苦い気付き、、
まさにこれはアムネリスが少女から大人になる瞬間そのものだと思うのですが、
Ohimè! morir mi sento..(ああ、死にそうだわ、、)の部分を歌い終わって、祭司達の合唱が始まるまで、
床に転がっている大きな石に座って、どうしていいのかわからない、、と片手で頭を抱えて声を潜めて泣いている様子は、
その容貌のせいで我が家では”トロールみたい、、。”とさえ言われているザジックが、一瞬少女に見えたマジカルな瞬間でした。

男性陣はあいかわらずの出来。
先週の公演の記事で、HDの日の一つ前の公演で”ガグニーゼ一人、colpireのreの音のお尻が残ってしまって”、、と書きましたが、
今日もまた少し彼の声が残っていて、半ケツくらいな感じになってました。
なのに、三幕終了後のカーテン・コールでは”すごく良い歌を出せたぜ!”とばかりに満面の笑みでオーディエンスにこたえていて、訳がわかりません。
心なしか、またルイージがスコアに目を落としながら溜息をついたような、、。本当、お疲れ様です、、。


Hui He (Aida)
Dolora Zaick (Amneris)
Roberto Alagna (Radamès)
George Gagnidze (Amonasro)
Štefan Kocán (Ramfis)
Miklós Sebestyén (The King)
Jennifer Check (A Priestess)
Hugo Vera (A Messenger)
Conductor: Fabio Luisi
Production: Sonja Frisell
Set design: Gianni Quaranta
Costume design: Dada Saligeri
Lighting design: Gil Wechsler
Choreography: Alexei Ratmansky

ORCH A Even
ON

*** ヴェルディ アイーダ Verdi Aida ***

AIDA (Sat Mtn, Dec 15, 2012)

2012-12-15 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。


昨(2011/2年)シーズン3月の『アイーダ』でメト・デビューを果たしたラトニア・ムーアが、2013年3月の新国立劇場の同演目にカロージに代わって登場するそうですね。
(blueさん、情報ありがとうございます!)
その時の公演で久しぶりに若手で面白いアイーダを歌える人が出てきたなあ、、と喜ばしく思っていたところ、
ヘッズ仲間のおば様から、”新(2012/3年)シーズンに歌うモナスティルスカもすごく良いのよ。”という噂を聞いていて、かなり楽しみにしていた今シーズンの『アイーダ』です。

リハーサルの段階からAキャストのラダメスに予定されていたマルコ・ベルティが散々な歌唱を聴かせている、という話を聞き、
”うへーっ。”と思っていたんですが、ありがたいことにベルティもメトも常識/良識というものを完全には失っていなかったようで、
11/23の初日はカール・タナーが代役に入ることになり
(そして結局、ベルティが歌う予定だった他の公演も全部タナーが歌ったようです)、
その初日の公演は私もシリウスで拝聴いたしました。
タナーは世界一級と言えるテノールでは決してないし、今後そうなることも決してないでしょうが、
ルイージの意図にきっちりと寄り添おうとする真摯な歌(元々彼がカバーだったのかもしれません。)とベストを尽くそうとする姿勢が好感を呼んだと思われ、
オーディエンスおよび批評家筋から概ね好意的な評を受けていました。
しかし、初日の公演は、私に言わせるなら何と言ってもモナスティルスカのアイーダとルイージ/メト・オケの指揮・演奏に尽きます。
モナスティルスカの歌はアイーダ初日の少し前に催されたタッカー・ガラで初めて耳にする機会を得たわけですが、
彼女の歌は全幕に限る!と、『アイーダ』初日の演奏を聴いて強く確信しました。
タッカー・ガラでは選曲のせいもあるでしょうが、
彼女の強靭な声とアジリティ(まだ前進する余地はありますが、それでも普通に言ったら高い能力の持ち主ではあります。)
をオーディエンスにアピールする感じだったんですが、彼女の一番の長所はそこではなくて、
全幕を通して素晴らしいドラマティック・センスを持っているのと、声の強靭さだけに頼らないフレキシビリティ、この二点だと思います。
歌手には同じ旋律を歌ってもまーったくその底にある感情がオーディエンスに伝わってこないタイプ
(新国立劇場でムーアが代役に入る前に予定されていたカロージなんか、私はこちらに分類します。)と、
仮に多少技術が拙い・荒いところがあってもそれがひしひしと観客に伝わってくるモナスティルスカやムーアのようなタイプがいて、
だから、私は新国立劇場にムーアが代役登場する件については鑑賞される方に”おめでとうございます。”と申し上げるわけなのです。



それからオケ!
私がブログを休止している間にメトで起こった一番大きな出来事の一つはルイージに対する失望、失望、失望の嵐です。
一年前まであんなにルイージに関して盛り上がっていたMadokakipが一体どうした!?と、
久しぶりに再開したブログ上での手の平返すようなトーンを不思議に思われた方も多いことでしょう。
いや、全くもってその答えは私が聞きたい位で、首席客演指揮者となるまではあんなにエキサイティングな指揮を繰り広げていた彼が、
皮肉にも、そのポストについて、以前よりは自分の行きたい方向性を自由に追求できるようになったあたりから、段々おかしくなっていったのです。
駄目な指揮者だとは全く思いません。
むしろ、他の数多いる、時にはなんでこんなのが国際的な舞台に上がってこれるのか?と首を傾げたくなるような指揮者に比べたら、
彼の方が10000倍まともだし、テクニックの確かさではトップの何パーセントのうちに入る方だと思ってます。
だけど、オペラの指揮者として彼が致命的なのは演奏の正確さ、美しさ、きちんとさばかりに気をとられて、
オペラで一番肝心なこと、つまりオーディエンスに何かを、
いや願わくば、今まで感じたことのないような激しい感情のうねり、揺れ、爆発を感じさせることが出来ない、この点に尽きると思います。
彼の『マノン』の修道院でのシーンの、『ワルキューレ』でヴォータンがブリュンヒルデに別れを告げるシーンの、
『仮面舞踏会』でアメーリアがグスタヴォに恋情を認めるシーンの、いかに退屈だったことか!!!

なので、今年の『アイーダ』の指揮がルイージだとわかった時から実はあまり期待していなかったんですが、
初日の演奏ではその予想が良い方に外されて、こういう演奏をいつもして欲しいのよー!と、何度も思いました。
『アイーダ』の前奏曲はその後に続く演奏を図るバロメーターで、
ここの演奏を聴くと大体その日のオケの集中度とテンションの高さ、
それから指揮者のこの作品に取り組むスタイルと自分の好みの相性がどれ位のものか推測がつくという嬉し・オソロしの箇所ですが、
(ここで今日は駄目そうだ、、と思うと、これから3時間の拷問が始まる、、とぞっとします。)
表情の豊かさ、ドラマティックさ、テンポや音量のコントロールなど、どれもしっくり来て、今日オペラハウスに行っとくんだった、と何度悔しく思ったことか。
第三幕のナイルの河畔で、アイーダがアモナズロにラダメスをはめろ、と言われて、No, no, giammai!(絶対にいやです)と歌う場面では、
モナスティルスカの劇的な歌唱と同時になだれこんで来るオケの燃え上がる音に、
”これこそヴェルディなのだ!!”と、我が家のリビング・ルームにいながらにして血管がぼこぼこ言う感じを味わいました。
凱旋の場面でアイーダ・トランペットが入って来る(メトのこの演出では、一頭目の馬が登場する)ところでは、
かっくーんとテンポがスローダウンして、いつもの私ならここは音楽だけの話をするともうちょっと早い方が好みなので、
”わざとらしい!”と敬遠してしまいかねないところですが、
ああ、これで馬の足並みを描写しているんだな、、とわかると、これも一つの描写の仕方だな、、と思いました。



モナスティルスカとルイージ&オケの出来に比べて情けなかったのは男声陣で、
特にランフィス役のコーツァンとアモナズロ役のマストロマリノ、
この二人、特にマストロマリノは本来はメトには一切縁がないはずのレベルの歌手で、
どうやってまんまと紛れ込んでくるのやら、二度と戻ってこなくてよし!と思いました。

それからボロディナのアムネリス。
彼女は歌手としては良い歌手だと思うのですけれど、アムネリス以外に彼女の良さが出る役は他にいっぱいあるし、
また、それに加えて、年齢のせいなんでしょうか、今シーズンの歌を聴くともうアムネリスを歌うのはやめた方がいいな、と思います。
特に四幕の審判の場面、ここがきちんと歌えないアムネリスってのは問題です。
初日の公演では、スタミナ切れをおこしたか、Ah no, ah no, non è(合唱とランフィスは後ろでè traditor! morrà, morràと歌う)の後、
一人でèを一音ずつ上昇しながら歌って行く四分音符、ここを歌うのを諦めて、お経のような低い声でè~と呟いてましたし、
場の最後のanatèma su voi!(お前達に呪いを!)のvoiが絶叫調で、そして短い、、。
ここって、坊主どもを殺してやりたいくらいアムネリスが憎んでる、っていう、
その気持ちをこのvoiにこめなければならないわけで(楽譜上も全音符です)、
そこが何かインコンプリートな感じがするのは、この場面の歌唱として一級とは言えないと思うのです。
それから彼女の歌にはヴェルディのレパートリーで一番大切!と多くの歌手たちが口を酸っぱくして言うレガート、
これもなんだか今一つで、だから私は彼女の歌うエボリとか、アムネリスに今一つ燃え上がれないのだと思います。

とは言え、とにかくモナスティルスカのアイーダは一聴の価値がある上、
それにオケがこんなに良く演奏してくれるなら、、、と、HDの日の収録日の公演のチケットを購入することにしました。
しかし!ここに大きな罠がありました。元々ベルティにHDの任は重すぎる、とゲルブ支配人は考えていたのでしょう、
HDの日のラダメスはアラーニャを投入することになっていて、彼の最初の舞台でHD、というのはさすがに厳しい、という配慮と、
HDの一つ前の公演はHDのバックアップ用の映像を収録するのが定例になっているため、
そこからラダメスがアラーニャにスイッチするようなスケジューリングになっていたのです。



で、そのHDの一つ前の公演もシリウスの放送があったので、聴いてみましたが、、、ただ一言、
”どうしてこんなことになっちゃったのーーーーーっ!?”です。
当然のことながらオケとのリハーサルに一度も参加していないアラーニャは自分勝手な方法で歌いまくっているし、
それに合わせるので必死のルイージ(汗だくになっている様子が目に浮かぶ、、)とメト・オケは、
そのために初日までに作り上げた音を全部捨てなければいけないことになってしまっていて、
初日のような演奏を聴きたい、、と思ってチケットを買った私は泣くに泣けない状況です。
この辺も、私は一体ゲルブ(もうこの際呼び捨て)は何を考えてるんだ?と思うわけです。
緊急事態ならともかく、最初からリハーサルもろくすっぽにしてないような人間をHDにスケジュールするなんて、オーディエンスをなめてると思いませんか?
彼の頭の中には人気歌手でないと客が喜ばない、というような妙な思い込みがあるみたいで、
だからメトのオープニング・ナイトが三年連続ネトレプコ、、というようなわけのわからないことにもなるんでしょうが、
(2011年の『アンナ・ボレーナ』、2012年の『愛の妙薬』、2013年の『オネーギン』)
そんな田舎臭い考えの人間は実はあんただけなんじゃないの?と思います。
こんなだったらまだタナーのラダメスの方がよっぽどましじゃんよ(だし、少なくともオケの演奏はちゃんとしたものになる)、、と思いました。
それから、ついでにアモナズロもマストロマリノからガグニーゼに変っていて、
こちらはまあ、マストロマリノが史上最低か?という位ひどいアモナズロだったので、喜びたいところではあるのですが、
ガグニーゼも凱旋の場の、エチオピアの捕虜たちとそれに同情するエジプトの民衆達を従えて王に寛大さを乞う場面で、
doman voiと歌い始める前に、全ソリストと合唱がそれぞれ違う言葉を歌いながら重唱・合唱して同時に休符に入りますが、
そこでガグニーゼ一人、colpireのreの音のお尻が残ってしまって、
沈黙したオペラハウスにそのreと歌う声がとどろいてました。あらあら、、、HDの日はちゃんとストップしてね、って感じです。

予行・バックアップ用とはいえ、劇場にカメラが入っているというのは独特の雰囲気があるのでただでさえ緊張度がアップするってのに、
横でばたばたとこんなことされた日にはたまったもんじゃありません。本当、リュドミラ嬢に同情します。
そのせいか、彼女までなんだか不調になってしまって、登場してからしばらくピッチがかなり不安定で、
HDの日大丈夫かな、、とちょっと心配になってしまいました。



と、かなり長い前置きになってしまいましたが、今日の公演のことを語る場合、それらが無関係でないのでご容赦を。
で、いよいよその本題のHDの日の公演です。

まず、ラダメスのアラーニャから行きましょうか。
さすがに前回の公演での歌唱はあまりにひどい、という自覚があったからか、オケがどのような演奏をするか多少学習したからか、
もしくはその両方か、若干はましになってます。
おそらく、この公演・HDの上演後、ヘッズが議論した・するであろう箇所は、”清きアイーダ”の最後のvicino al solの処理の仕方だと思います。
今回、彼はここをファルセットで歌って、さらにもう一回vicino al solと低音で繰り返して歌う方法をとりました。

スコアではergerti un trono vicino al solの頭のeがフォルテでそのすぐ後のvicino al solはピアノが4つ、
そして、続くun trono vicino al solがディミニュエンド付きのピアノ3つ、
で、最後のun trono vicino al solがtronoのnoからピアノ2つになって、solのところでモレンド(音をゆっくり小さくする、消す)となっているのですが、
ご存知の通り、長い公演の歴史の中で、ヴェルディがスコアで指示したピアノxピアニッシミで歌う方法よりも、
solをフルブラストで鳴らす方が慣例となっていって、どれ位ここの音をテノールが輝かしく鳴らせるか、というのを聞くのもオーディエンスの楽しみの一つになっています。
また、そうなっていった理由の一つにはsol(太陽)という言葉に、オーディエンスは柔らかい消えて行くような音よりも、
ぎらぎらと輝かしい音の方がふさわしい、と感じた、ということもあるのかもしれない、と個人的には思います。

私は2007年にやっぱりアラーニャがラダメスを歌った『アイーダ』を聴いた、というか、半分聴かされたと言った方がいいですが、ことがあって、
確かあの時はフル・ブラストで歌っていたよな、、と思って、一応確かめてみましたら、ブログを書いておくというのは、こういう時に助かりますね。
ここの部分に関してすごく細かな描写が残ってました(→こちら)。
なもので、正直言うと、今日のここの部分の歌唱については、”ああ、ヴェルディの意図通り歌いたいんだな。”というよりは、
”上手く逃げたな。”という印象の方が強かったです。
アラーニャなんか全然ラダメスを歌える声じゃない、と思っている私ですが、それに加えて彼も50歳近くなって(ただいま49歳)、
かなり最近声にウェアというか、ざらざらとした質感がはっきりと伴うようになって来ていて、
ラダメス役で必要な高音なんか全然楽に出ている感じではないし、
”だってヴェルディがそう書いているんだもん。”ということにして逃げた、と私が解釈しても仕方がないというものです。

さらにもう一個、vicino al solを低音でくっつけるやり方に関しては、他のテノールがそれをやるのをメトで聴いたこともありますが
(リチトラだったかな、、、すみません、ブログ前のことで、ちょっと記憶が定かでないです。
ただ、アラーニャのようなピアニッシモとのコンビネーションとは違い、フルブラストとのコンビネーションだったのは憶えています。)、
その時もなんかあまり綺麗に鳴らなかった高音の物足りなさを誤魔化すための手段みたいでやだな、、とあまり良い印象を持たなかったんですが、
今回も情けない蚊の泣くようなファルセットのsolの後に、これじゃ申し訳なさ過ぎるんで、
もう一回vicino al sol付けときますって感じに聴こえなくもなかったです。
それ付けたからって、全然帳消しになんかならないんですけどね。

さっき、声にウェアが目立つ、高音が楽に出ていない、と書きましたが、それは例えば第三幕のラストでも顕著で、
アモナズロとアイーダを逃がして、剣を差し出しながら歌う Sacerdote, io resto a te(祭司殿、私の身はあなたに)の高音、
ここも音が全然鳴ってなくって(音程は正しく出てますけど、音がドライで全く劇場に響いていない)、
ラダメス役を歌うテノールがここで観客に”うおーっ!!”と腕を振り回して叫びたくなるような興奮を喚起できないなら、
やっぱりそのテノールはこの役を歌っちゃいかん、と私なんかは思います。
下は1988/89年のメトでのドミンゴの歌唱ですが(Sacerdote~は12'16"から)、ああ、何という違いでしょう。
だし、よく考えたら、この時のドミ様はちょうど48歳になられる頃で、今日のアラーニャとほとんど同じ年齢なんですよね、、。



アラーニャが少しだけ前回よりましになった分、それに比例してオケの演奏も良くはなっていました。
大きな失敗もないし(あ、ピットのトランペットがちょろっと失敗してましたね、そういえば。)、
格段あげつらいたくなるような妙な箇所も特になく、無難にきちんとした演奏はしてます。
でも、初日に聴けたような特別なマジックはなくなってしまって、いつものルイージ流、つまり、ニートにきちんと、
その代わり、大きな興奮はなく、、の王道パターンを行ってました。
まあ、でも、一つには先に書いたように、ゲルブ支配人が無理矢理HDにアラーニャを引っ張って来たところからこうなる運命だったのだとも言え、
すべてをルイージのせいにするのはちょっと気の毒かもしれません。
ちょっとはましになった、と言ったって、まだまだ一杯ルイージとオケが必死のフォローを見せていた箇所がありましたからね。
大体、アラーニャはちゃんとパートを憶えてないんじゃないかな?特に一幕と二幕。
(それを裏付けるエピソードは次回の記事で書きたいと思っています。)



この公演を観に行くとすれば、ひとえにそれはアイーダ役を歌ったリュドミラ・モナスティルスカを聴くため、
という私の考えは、今日の公演を観た後でも変りませんでしたし、むしろ、その思いが強くなった感すらあります。
シリウスの放送を聴くだけでは完全にはわからなかった彼女の歌唱のダイナミクス、その繊細なボリューム・コントロールの術、など、
本当に存分楽しませてもらいました。
一つ前の公演であんな調子っぱずれなことになってしまったせいもあるし、また、メトのHD初登場ということで少し慎重に走った部分はあって、
どちらがエキサイティングな歌唱だったか、と言えば、多分初日の公演だと思いますが、
今日の公演も彼女の良さが十二分に伝わる内容だったと思います。

特に"我が故郷 O patria mia"の歌唱、これは本当に素晴らしかったと思います。
あのタッカー・ガラのマクベス夫人の歌唱やら、今日の公演の残りの部分を聴けば、彼女の声のパワフルさを疑う人は誰もいないはずで、
普通、あんなパワフルな歌を歌う声を持っている人は、いくらここを優しく歌うといっても限度があるというものですが、
彼女がこのロマンツァを歌う時、信じられないくらいに良い意味で力が抜けていて、ほとんど呟いているかのように優しく歌うのです。
またドラマティックに盛り上がって行く部分(同じロマンツァで)でも、そのドラマティックさになんとも言えないリリシズムとロマンティシズムがあって、
それを可能にしているのは彼女の声のトーン、音量、カラーにおける限りないフレキシビリティで、
これは彼女の今後のキャリアで大きな大きな財産になると思われます。
またそのフレキシビリティさのどのディメンションにあっても、音程がすごくセキュアで、冒頭少しだけ緊張していたのか、
若干シャープ目に入っている音もありましたが、一幕が終わるまでには落ち着きを取り戻していて、
それ以降はばしばしと綺麗な高音がデッドオンで決まってました。
マクベス夫人を歌える、というので、そこらあたりのレパートリーばかりを歌って行く人になってしまうのかな、という危惧がありましたが、
彼女の今日の歌唱を聴くと、そこに留まらず、ものすごく広い可能性を感じさせる人です。

演技は若干ワンパターンなところがありますが、動きが上品で妙に動き回ったりしないのは私は良いことだと思います。
なんか最近の演出のトレンドのせいもあるんでしょうが、ばたばたばたばたと舞台を動き回って、それに対応できるのが演技出来る歌手、というような、
誤った認識を時に見かけますが、
たった一本指を、顎をあげる、これだけの動作に、舞台で大きな意味をもたせられる人、これが本当に舞台で演技出来る人なのであって、
彼女の演技には、ばたばたしないでじっとしている、そのことが余計にオーディエンスの目を引き寄せる効果になっているような個性が感じられ、
もう少しだけ体の動きにバリエーションが増えて、それを今の演技の中に効果的に使うようになれば、もっと良くなると思います。

”勝ちて帰れ Ritorna vincitor"の最後のNumi, pietà del mio soffrirの三連音符で音が下がってくるところで、
妙なアクセントをつけたのはフレミングが乗り移ったのか?と思うような趣味の悪さで、ここは普通に歌って欲しかったな、と思い、ちょっと残念ですが、
(しかも、このフレーズは後でもう一度、凱旋の場の直前で再登場しますが、そこでもダメ押しで同じ歌い方だった!)
それ以外のところは、全幕を通しての歌唱の組み立てから細かい表情付けまで文句の付けようのない歌唱でした。
彼女は本当にこれからが楽しみな歌手です。



アムネリス役のボロディナは、すごく良かった点と初日の演奏から感じた今一つ彼女のアムネリスに乗れない感じが混合した結果になりました。
タッカー・ガラの時に、彼女の女性の弱さの表現がすごく良くなった、と感じたのですが、
それは今日のアムネリスも同様で、アムネリスの悲しみとか後悔とか戸惑いとか、そういうところの表現はすごく良かったと思います。
多分、彼女もそこを重視した歌唱と演技を目指しているんでしょう。
ニ幕一場では優しい眼差しでちびっ子奴隷(実際の舞台では大人のダンサーですが、、)の踊りを見つめ、
ご褒美に大きな石が付いた指輪を上げる仕草も優しく、実はアムネリスも優しい女性なのだ、というのを強調した演技になってます。
王がラダメスにそれでは褒美にアムネリスを妻に与えよう、という、お父さん、余計なお世話~の場面で、
ラダメスに手を取られつつ舞台を去りながら、アイーダに”ふん!”という見返りの一瞥を投げていたりして、
とてもわかりやすいアムネリス像、、、なんですが、なんか、こう、そこからどうして四幕一場のような表現につながって行くのか、
そこが今一つ説得力がない。
四幕一場の前半、ラダメスとの対話のシーンでのボロディナの歌唱の、アムネリスの必死さの表現は単体ではすごく良いのですけれど、
なぜ、そのように必死になるのか、ここがこの役の最大のポイントであって、そこの描写はニ幕が終わるまでに終了してなければいけないのですが、
そこが消化不足気味なんです。

それからこれは先に書いたのと重複しますが、やっぱり彼女は審判の場面(四幕一場の後半)が駄目です、、。
さすがに一フレーズすっ飛ばして読経、という、初日のような惨憺たる事態は免れていましたが、
ここでスタミナが切れてしまう&そもそもあの最後のvoiの高音は彼女にはきついのか、なんか不完全燃焼です。
一方で、ニ場のラストのpaceの歌唱は素晴らしかったんですけどね、、、
ここの部分も含めて彼女のアムネリスはちょっと行き当たりばったり感があるかな、、。
表現はさすがだな、、と思う箇所が一杯ある一方で、歌の組み立てに関しては、ザジックのような経験と技術に裏打ちされたがっちりとしたものがなくて、
ふとしたフレーズに途切れ感があったりする。

ということで、私はボロディナは今の彼女の持っている力は全て出し切っていたし、それなりに良い歌唱を聴かせてもらったと思う一方で、
だけど、アムネリスはこうじゃないんだよな、、という不完全燃焼感も残り、
たまらなくザジックのアムネリスが恋しくなって、つい、彼女がアムネリスに入るランの終盤の公演のチケットを買い求めてしまいました。
というわけで、年末の『マリア・ストゥアルダ』の前に、もう一本『アイーダ』で、その感想も年内に上げたいと思っています。
フイ・へのアイーダは二年前だったかシリウスで聴いた”我が祖国”がワンフレーズまるごと
”一体、どういう旋律を歌おうとしているのだろう?”というぐらい音程外れまくりの大変なことになっていて、
また、それよりも前にNYフィルとのコンビで聴いた『トスカ』も全然良くなかったし、もう生ではあまり聴きたくないソプラノのリストに入っているのですが、
トスカからは何年か経ってますし、アイーダ役をどのように歌うか、声に適性があるのか、を本当に知るには劇場に行くしかないですから、まあ、貴重な機会です。
後はどうやってアラーニャにキャンセルしてもらうか、だな、、。



話は今日の公演に戻って、アモナズロ役のガグニーゼ。
彼はこれまで妙にリアルなリゴレットとか、ボンディ・トスカでのごきぶりスカルピアなど、
一風変った芸風の持ち主で、今日もそれが全開。
エチオピア王に扮するための黒塗り顔で、どうしてそこまで、、と思う位に目をひん剥いて歌うので、
彼の歌よりも白目の動きに気を取られてしまって、途中から笑いがこみ上げて来て歌に集中できませんでした。
でも、もしかすると、それは作戦、、、?
なぜならば、今日は一つ前の公演の凱旋の場の”お尻が出ちゃいました”な事態は避けられてましたが、
その代わりにどこぞで全くオケの演奏しているタイミングと彼の歌唱のリズムが合わなくなっている箇所があって、
正確さ第一!のルイージは、それこそ”きーっ!!!”となっていたに違いありません。
最近のメトで嘆かわしいことの一つは、脇役(アモナズロなんて、登場時間から言えば準主役とも呼べないような役ですよ、
まったく、、。)をきちんと歌える歌手がものすごい勢いで減少している、ということです。
それを言ったら今日エジプト王役を歌っているセバスティエンはきちんと歌っているだけが取り柄で声には全く魅力がないし、
私的にはアモナズロと同等か、もしかするとそれ以上に大事な役であるランフィス役のコーツァンなんか、
本当に何年経っても歌にリズムが出てこないというか、歌が棒読み調で、
声も変なうえに、歌の技術も駄目なのにどうしてメトに何度も舞い戻って来るのか、実に不思議です。
もっと歌える人が世界探せばもっといるでしょうが!!!と思います。

ガグニーゼ、セバスティエン、コーツァン、全部、歌う役に比して声がライト級なのは、どういうことなんでしょう。
キャスティングのミスなのか、世界的に男性の低声陣の声が軽くなっていっている、ということなのか、、?
アモナズロを歌うバリトンって、もっと父性を感じさせる、声に豊かさと広がりと重みのあるバリトンが歌うもんだと思ってましたが、、、
ガグニーゼの声って彼自身はきばって歌っているようですが、どんなに踏ん張っても本当軽いんですよね、、、。
アイーダに”お前はわしの娘なんかじゃない!ファラオの女奴隷に過ぎぬわ!
Non sei mia figlia! Dei Faraoni tu sei la schiava!"と言い捨てるところの歌いまわしは、マストロマリノより巧みで、そこだけが慰めでした。
それにしても、考えてみたらアモナズロとして説得力があるな、と感じたバリトンはフアン・ポンスが最後かな、、うーむ、実に嘆かわしいです。

男性陣のだめだめぶりに比して、女性の脇役(というか、舞台に登場すらしない、、)の巫女役のジェニファー・チェックはすごく良い歌唱を披露しています。
ピッチの正確さ、発声に苦しそうなところとか固苦しさが全くなく、伸びやかな歌唱で、この役でこれ以上の歌唱を望むのは無理というものでしょう。


Liudmyla Monastryrska (Aida)
Olga Borodina (Amneris)
Roberto Alagna (Radamès)
George Gagnidze (Amonasro)
Štefan Kocán (Ramfis)
Miklós Sebestyén (The King)
Jennifer Check (A Priestess)
Hugo Vera (A Messenger)
Conductor: Fabio Luisi
Production: Sonja Frisell
Set design: Gianni Quaranta
Costume design: Dada Saligeri
Lighting design: Gil Wechsler
Choreography: Alexei Ratmansky
Gr Tier D Even
ON

*** ヴェルディ アイーダ Verdi Aida ***

LA CLEMENZA DI TITO (Sat Mtn, Dec 1, 2012)

2012-12-01 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。
(でもこのアラートだけ読まれて本文をスキップされる方に一言だけ、、、
これまで6年にわたってメトのHDにのった公演の中で、私なら最高の一本に数えるであろう素晴らしい舞台でした。
日本での上映はお正月早々のようですが、どうぞお見逃しなきよう、、このHD見なかったら何見るの?です。本当に。)


キャストのうちの誰かがすごい歌を聴かせたり、オケが燃え上がってたり、
作品の良さを引き出す演出であったり(←最近のメトの新演出ものでは滅多にないことですけど)、
こういった条件が単独でもしくは組み合わせで加点法的にポイントを稼いで”良い公演だな。”と感じるものは年に数回あります。

でも、数年に一度レベルの「すごい」公演は、そんな風な単純なロジックで説明することは難しい。
なぜなら複数の理由がお互いに絡み合った結果、単純な加点法で得られる数字以上の大きさに総和が膨らんだり、
それどころか、本来なら欠点に数えられていてもおかしくない、つまり減点になるはずのものが、
あまりの公演の素晴らしさにもはやマイナスにならなくなったり、それどころかある種の魅力=プラスになってしまっていたり、、、
舞台の不思議を解明するのに数学的なロジックは全く通用しないことに気づくわけですが、
今日の『皇帝ティートの慈悲』はまさにそのような公演でした。

『ティート』は実にやっかいな作品だと思います。
今回の鑑賞を控えて『ティート』モードに入るため、まず、チューリッヒの公演のDVDを見てみました。
勘の良い方ならすでにぴんと来られた通り、このDVDはカウフマンが出演しているので購入したようなものなんですけれども、
はっきり言ってこのDVDでいいなと思ったのはカサロヴァのセストだけで、後はカウフマンも含めてダメダメです。
というか、このDVDから入ったら、多分、『ティート』が嫌いになると思いますので、注意が必要です。
でも逆に、このDVDを鑑賞すれば、どこをどう間違うとつまらない『ティート』になってしまうか、というヒントが隠されているので、
そういう意味ではためになります。
カサロヴァはもちろんですが、このDVDの公演に出演しているメイ(ヴィッテリア役)もカウフマン(ティート役)も普通に言ったらとても良い歌手のグループに入ると思います。
でも、この作品には、いや、モーツァルトの作品は全部そうだと言ってよいかもしれませんが、
歌唱の大変さが少しでも感じられると、途端に作品の美しさが損なわれるという、すごい罠があって、
そこが、いつものやり方で”良い歌手”していても、『ティート』をはじめとするモーツァルト作品には全く通用しないのが怖いところなのです。
例えばメイ。彼女はベル・カントのレパートリーなんかすごく巧みに歌う人だと思うのですが、
トップの音色と中音域以下の音色に意外にも結構なギャップがあるということに、このDVDを鑑賞すると気づかされます。
トップの情熱的に絞り出すような音はベル・カント・レップやヴィオレッタのような役ではそれが一種の魅力になったりすることもありますが、
モーツァルトの作品では欠点以外の何者でもない、と思いました。
後、この日の彼女はピッチにかなり問題があって、最後まで完全にセトルダウンすることがないまま公演が終わってしまっているように思うのですが、
それがなかったとしても、上で書いた問題がある限り、作品の良さを引き出す歌唱にはなりえないと思います。
そして、カウフマンの歌唱から溢れるティートの苦悩のあまりの濃さは聴いているうちにこちらが息苦しくなる位です。
もちろん、ティートには支配者ゆえに誰からも理解されない孤独・苦悩という側面もあるのですが、
また、それだけではなく、この作品の最後、彼はセストやヴィッテリアを許すことで、自分の心を自由にし、身軽になっている部分もあって、
孤独・苦悩が最後までムンムン、というのはちょっと違うと思うのです。
これは、やたら陰気臭いジョナサン・ミラーの演出のせいもあると思いますが。
はっきり言って登場人物のどいつもこいつも陰気臭くて、アンニオやセルヴィリアまで何かたくらんでそうな雰囲気に見えてくるほどです。
そして、その演出に呼応するかのようにヴェルザー・メストとチューリッヒ歌劇場のオケの演奏もやっぱりどんよりと重苦しい。
なんか聴き終わった後、”うへー。”と気分が陰鬱になる恐ろしいDVDなんです。
そしてとどめはレチタティーヴォの部分を音楽なしの台詞にしてしまって、さらにその上に大幅なカットを取り入れていることで、
はっきり言って、この作品を初見のオーディエンスには物語をフォローしずらいレベルに達しているのではないか?と思うようなひどさです。
この作品はオケ付きのレチタティーヴォの中に切って捨てるに勿体ない美しい箇所が含まれているので、
はっきり言って、このチューリッヒの公演は『ティート』であって『ティート』でないというような代物です。

あまりに気分がどんよりしたので、今度はCDに目を向けてみる。
マッケラス盤はコジェナー以外はあまりこちらでは名前を聴かない歌手がたくさん含まれていますが、
音色が高音から低音まで統一されていて、軽やかにたやすく歌っている(ように聴こえる)のはチューリッヒよりずっと良いな、と思います。
また、もったりじくじくだったチューリッヒと比べてオケの音運びも軽やか。
だけど。ずっと聴いているうちに、こんなに軽くていいんだろうか、、?という疑念が頭をもたげてきました。
気が付けば、ヴィッテリア役の歌もすごく軽やか、、。
歌詞を知らなければ何か幸せなことを歌っているのかもしれない、と勘違いしそう。
コジェナーは達者には歌っているのですが、今一つセストの苦悩が伝わって来ないし、ティート役のトロストが魅力がないのも問題です。

そう、『ティート』の難しさは登場人物全員の苦悩がオーディエンスの胸を打つレベルにまで高めて表現されながら、
最後の最後にはどんより陰鬱だけで終わらない、きちんとしたリデンプションの感覚も残さなければならない。
そのバランスが歌、演奏、演出の全てに求められる。ここにこの作品の一番の難しさがあると思うのです。



『皇帝ティートの慈悲』はメトで初演されたのが1984/85年シーズンのことで、ポネルの演出はその当時からのもの。
ですので、もうかれこれ28年経っていることになっているのですが、この演出がまず素晴らしいのです。
最近の新演出ものは1、2シーズン上演されると、いや、下手すると初めて舞台に上がった時から手垢のついた古臭い感じがするものがあって、
(今年のオープニングの『愛の妙薬』とか、、)一体あれは何なんだろう、、?と思います。
それに比べてこのポネルの演出はとても28年前のものとは思えない。
もし、今、これが新演出ものです、と言って目の前に現れても、”あ、そうですか。”と思う位、フレッシュな感じがするし、
今回はソリストたちの力もあったのだと思いますが、まるで新しい達磨に目を入れたような力が漲っていました。
嘆きながらべレニーチェを見送るティートの白いかつらが家来の手によってはずされ、地毛の黒髪が現れる、、、
冒頭近くの、たったこれだけのシークエンスで、私達オーディエンスは彼の孤独と無防備さを感じて一瞬にして大きなシンパシーを感じますし、
セストの手によって火が放たれ、ローマが燃え上がるシーンの、ほとんど夢の中にいるような感触は、
セストも含めた全員の呆然自失の感情をオーディエンスにも共有させます。
また、その時の彼らの気持ちにオーディエンスの注意をフォーカスさせるために、
ローマの人々を演じる合唱を、舞台上でなくオケピットの中に置き、彼らの姿はなく歌声だけを舞台に響かせたのも効果的だと思いました。
火事から逃れ、いまだ心の傷のいえない民衆達をバルコニーから見つめながらティートが歌うようにしたのも、
いつの時も人民の心を思うセストの性格を良く反映しているし、
セスト本人の口から自分が裏切られたことを証明され、怒りで彼を牢に送った後、
ティートが皇帝としてセストを処刑するか、友人として彼を助けるかの葛藤に迷い続けるシーンで、
メトの舞台の奥行きを思い切り使用し、舞台奥に牢に繋がれながら座って夜空を見上げるセストの姿は
舞台が終わった後も何度も心に思い出される美しいイメージでした。
また、審判が下る場面で、今度はティートを思い切り舞台の奥に置き、彼と民衆の前に現れたセストとの間に途方もない物理的な距離があるのも、
親しい友人でもあった二人は過去のことで、今やセストにとってティートが星よりも遠い存在になっていることが一瞬にして肌で感じられるシーンです。
とにかく全部書けばそれだけでこの記事の字数制限をヒットしてしまうほどで、
演出がテキストや音楽と一体となっているというのはこういうことを言うのだろう、というような、素晴らしい演出です。
ポネルは1988年に亡くなっているのですが、演出の意図がこうして隅々まで生き続けていて、
そしてそれを十二分に舞台の上に反映させられる実力のある歌手達が今年の公演に揃っているのはなんと幸せなことだろうと思います。
セットも衣装もトラディショナルと言って良いものですが、これをつまらないというオペラファンなんて一体いるんでしょうか?
セットや衣装がトラディショナルなことが退屈につながるわけではない、ということの最たる見本だと思います。



歌手陣に関してはプブリオ役のグラデュスが若干心許ない(特に冒頭。後半少しずつ落ち着いて行っていますが)ですが、
それ以外の歌手は、音域を通して音色が統一されているし、メイやカウフマンに対して私が持った違和感のようなものを感じさせる人は誰一人キャストに入っていません。
全員、『ティート』を歌える歌手たちです。

ティート役を歌ったフィリアノーティは先日のタッカー・ガラの記事でも書いた通り、
手術前の声に完全復活しているわけではなく、それが歌の中に感じられないと言えば嘘になります。
高音は少しピンチ(音がつまんだようになっている)気味だし、音を早く転がす部分では、少しきついのか、若干テンポを落としたりもしていて
(オケの方も明らかに意図的にテンポを落としているので、指揮者と相談の上、決めたものではないかと思います。)
普通だったらそれは”マイナス”になるはずなんですが、
この作品での彼がそうなっていないところが、数学で説明できない舞台の魔法です。
彼は性格的なものもあるんでしょう、音を一つ一つきちんと出すことに決して妥協がありません。
例えば上で書いたようなところも、テンポを重視して、音の回し方の方を妥協したくなる、また実際にする歌手はごまんといます。
だけど、彼はそうしない。ちょっとくらいゆっくりになっても全部きちんと歌う。
このほとんど生真面目といっても良い姿勢が、ティートのパーソナリティとシンクロしていて、これもありかな、、と思えて来ます。
どちらかを選ばなければならないなら(ゆっくり歌うか、音の回し方を妥協するか)、絶対にこちらが正解です。
彼の端正な歌声と歌い口、それからエレガントな舞台姿(あのタッカー・ガラの時の冴えない身のこなしが嘘のようでした)は、
本来、ティートの役にはすごく合っていると思います。
これで彼に本来の声が戻って来ていたならもっとすごいものが出て来ていただろうと思いますが、
そうでなくとも、ティートの心の変化を歌と演技で巧みに表現出来ていた(←書くのは簡単だけど、実際にやるのは大変!)のは素晴らしいことだと思います。
セストを説得しようと抱きしめる場面に、ほんの少し友情以上のものもあるのかな?と思わせるような色気がありましたが、
その部分をあまり強調し過ぎず、オーディエンスに判断を委ねるその演技の匙加減のセンスなんか、彼はこんなに演技が上手だったんだな、と感心しました。



アクロバティックな歌唱という意味ではもっとも大変な役であろうヴィッテリア役のフリットリ。
彼女に関しては以前からその素晴らしい表現・演技のセンスに感心させられ続けて来ましたが、今日も例外ではなかったです。
ヴィッテリア役を最初からフル・スロットルで気性の激しい意地悪女として表現してしまうと、
改心する段階で”んな馬鹿な、、。”ってことになってしまいます。
なので、彼女は特に一幕で、その彼女の意地悪さをコミカルさに転換してしまう。
”本当、面白いまでに意地悪な女だな。”と客を笑わせるような、そういうヴィッテリアの役作りにしているので、
劇場では彼女が出て来る度にオーディエンスがにやりとしたり、実際に笑いがあがったりしますが、
だけど、多分、オーディエンスの誰一人として彼女を本気で憎んでいる人はいない、という状況をさっさと作りあげてしまうのです。
こういうところがフリットリって本当に頭の良い人だな、と感心させられます。
一幕の冒頭なんて、アンニオにまで色目を使っていて、この調子でティートも落とそうとしていたし、セストも落としたんだろうな、と思わせるんですが、
しかし、アンニオと一緒に歌う箇所と、セストと一緒に歌う箇所では、明らかに声と歌の艶を違えていて、
もうそこで、彼女のセストへの愛が後に本物になる萌芽を感じさせる歌になっているんです。さすがだなあ、、と思います。
その部分ではオケもきちんとそれとシンクロした色気のある音を出していて、本当に素敵でした。
しかし、これが段々幕が進んで、セストをティート暗殺に導いたのは自分であることを告白する決心をし、
もう自分は誰とも結婚することもなくただ死を迎えるのだろう、と歌う
"今はもう、花で美しい愛の鎖を Non più di fiori"にがっちりと焦点があたるよう巧みなペースでだんだんとヴィッテリアをシリアスにしていって、
このロンドを歌う頃には、彼女のイノセンスさ・父のための復讐やティートへの嫉妬の裏にある本当の彼女が前面に出るようになっているため、
オーディエンスは彼女に多大なシンパシーを感じることが出来るのです。
ヴィッテリア役は一幕のど意地悪な彼女からここに至るまでの経過の表現が難しいんですが、
フリットリの舞台勘の良さと緻密な歌唱と演技で本当に無理を感じさせない自然な流れになっています。
彼女はここ数年、声の艶・ふくよかさや高音の音の出易さが昔とは違って来ているな、と感じる部分もあって、
今日の公演でも高音が易々と出ているか、といえば決してそうではなく、
あまりぶっ飛ばさないようコントロールに気を配って歌っている感じもありますが、
上述のロンドでの殺人的な低音にも果敢に挑戦していて、
技術のセキュアさ、どんなに激しい感情を歌っていても絶対に下品にならないモーツァルト作品のスタイルを損なわない歌は彼女ならではだな、と思います。



声、歌唱スタイル、演技、すべての面で今日のキャストの中で誰よりもプライムの時期に近いと言えるセスト役のガランチャ。
8月のスカラのヴェルレクで歌声を聴いた時は、少し声がパワーダウンしたような気がしたんですが、
今日の歌声を聴く限り、そんな印象も吹っ飛ぶというもの。
もう、本当に素晴らしいです。言葉で言い尽くせないくらい。
先日のシンガーズ・スタジオで、今回のメトの公演でセスト役を封印すると言っていた彼女ですが、本当に勿体ない、、。
彼女はこれまでHDでは『チェネレントラ』と『カルメン』に出演していて、
それを見て彼女のファンになった方もたくさんいらっしゃるのではないかと思いますが、それですごい!と驚いている場合ではありません。
この『ティート』でのセストに比べたら、あの二つがまだ序章に思える位、それ位今回の彼女の歌と表現はすごいです。
というか、このセスト役は彼女の歌手としての美点と長所をすべて結集したような役だと思うんです、、、
本当しつこいようですが、どうして封印しちゃうんだろう?と思います。
彼女の声は本当に上から下までこれ以上不可能という位統一された音色で、こういった長所は残念ながらカルメンのような役では生かすのが難しい。
でも、セストならば、それを心行くまで満喫することが出来ます。
一幕で歌われる”行きます、でも愛するお人よ Parto, parto"はメゾの人気アリアと言ってもよいと思いますが、
この”行きます”は単なるさようなら~ではなくて、ヴィッテリアにローマに火を放ってティートを暗殺するようほのめかされたセストが、
もう一度、その美しい瞳を見せてくれたなら、あなたのために放火なり暗殺なり何でもしてみせよう、という、
これから火をつけに、人を殺しに行きます(それも皇帝を!)という歌なわけです。
ヴィッテリアのためならなんでもやってしまうセストのやるせない思いをガランチャが
生のオペラの舞台で、これ以上の歌を歌うことが可能と思えない位、美しい歌声と技巧でもって十全に表現しつくしてくれます。

下の映像はスタジオ・セッションでの録音ですが、これと全く同じレベルかもしくはそれ以上にセキュアなテクニックとコントロールで歌いながら、
そこにセストの衣装、表情、演技がくっついてくるのが今日の舞台で、
しかも、この難しい歌を歌いながら、直立どころか、舞台中を相当動き回っているんですから、本当すごいです。



最初のParto, partoという言葉が凛と劇場に鳴り渡る様子とか、
Guardami (”私を見て”)のところなど、優しく歌われる箇所では、
声が一瞬たゆたう様に空中に漂ってそして消えて行くその美しさは聴いていて眩暈がしてくるほどで、
このアリアの間、私は完全金縛り状態でした。
これらの美しさの全てがHDで感じられるようにと祈るばかりです。
このアリアで絡むクラリネットの首席はマクギルさん。
彼は本当に素晴らしい奏者で、演奏自体は素晴らしく、これが歌なしのクラリネットのソロだったら何の不満もないところですが、
私が座っている場所だと若干音が逞しく聴こえて、もうほんとにちょっとだけなんですが柔らかかったらもっと良かったのにな、、というのは贅沢過ぎるでしょうか?

セストとティートが対面する場面の素晴らしさも、筆舌に尽くし難かったです。
ティートに放火と暗殺に至ったのには何か理由があるに違いない、正直に話してみよ、と促され、
もう少しで真相を話してしまいそうになりながらも、ヴィッテリアを裏切ることが出来ずに友情と恋愛の狭間で葛藤し、沈黙を続けるセスト。
そのセストの沈黙の理由を知ることが出来ないティートが苛立ちを募らせ、セストに詰め寄り、
セストが申し開きを出来るのはこれが最後、という緊迫の場面です。

ティート:さあ、話してみよ。今私に何と言おうとした? Parla una volta, che mi volevi dir?
セスト: それは、、私は神の怒りを買い、最早自分の運命に顔向けすることが出来ない、Ch'io son l'oggetto dell'ira degli Dei, che la mia sorte non ho più forza a tollerar
そして、私は自分が裏切り者であることを告白し、自らを悪党と呼び、ch'io stesso traditor mi confesso, empio mi chiamo,
そんな私は死に値する存在であり、それを望むということです! ch'io merito la morte, e ch'io la bramo.

自分の死と愛する皇帝との友情に対する裏切りの確定を意味する言葉を、自分の意志に反して言わなければならなくなった時、
ガランチャのセストは、この最後のe ch'io la bramoを、既に歌ではなく、話し言葉でしかも叫ぶように処理していて、
人によってはモーツァルトの作品でこういうまるでヴェリズモまがいの表現は場違いだというかもしれませんが、
私にはセストの心の痛みと葛藤の大きさがダイレクトに伝わって来る素晴らしい処理の仕方だったと思います。
彼女がこの言葉を叫んだ時、私の周りでも何人もの人が、びくっと体を震わせたり、息を呑んだりしていました。

日本のオーディエンスの方には意外に感じられるかもしれませんが、
ガランチャはこれまでアメリカのオーディエンスにすごくアンダーレートされているところがあって、
このセスト役が来るまで彼女に本当に合った役をメトで歌える機会がなかったことも一つだと思うのですが、
もう一つ、よくこちらのヘッズに言われて来た批判は、”彼女の歌はクールでいつもコントロールが効き過ぎていて熱さがない”というものでした。
でも、今日の歌を聴いたら、それってどこが、、?と思います。
コントロールが効いている、というのはその通りですが、こんな歌を聴いて熱くないと思う人は頭のどこかがおかしい。
多分、この『ティート』のHDでガランチャに対する考えを変えた・変えるオペラ・ファンはたくさんいる・出ることと思います。



セストとヴィッテリアでギャラ代と才能を探すエネルギーを劇場側が使い果たすことなく、
アンニオ役とセルヴィリア役にも良い歌手を置くとどれ位この作品の公演の完成度があがるか、という見本のようだったのが
今日のケイト・リンゼーとルーシー・クロウの二人。

実は私の友人が一週間先に鑑賞していて、
リンゼーのことを”舞台上の動きはロボットかと思う位ひどいけれど、歌は悪くない。というか、すごく良い。”と言っていて、
2009/10年シーズンの『ホフマン物語』を鑑賞した時はそんなに演技がひどい人だとは思わなかったので、”???”と思いながら話を聞いていたんですが、
今日の公演を見て、何となく彼の言いたいことはわかりました。
多分、ズボン役なのを意識するあまり、動きを男の子っぽく、男の子っぽくしているんですが、
女性が男性の動きをするのはやはり簡単なことではなく、彼女はまだそのあたりの引き出しが少ないせいで、似たような動きが連続してしまい、
それがロボットみたいに見えなくはない、ということなんだと思います。
だけど、彼の、彼女の歌に対する評価、こちらは実に正しい!!
私はこのリンゼーと『テンペスト』に出演していたレナードの二人をメトに登場し始めたのが同時期なことなどから、
勝手にライバルに仕立てあげ、どちらが抜けてくるかをずっと楽しみにしていて、
「今観て”聴いておきたいオペラ歌手 ~女性編」の記事を書いた2008年頃からずっとそんなことを言っていたわけですが、
今日のリンゼーの歌を聴いて、いよいよ彼女の方が抜けて来たかもしれないな、、という感触を持ちました。
彼女の声は『ホフマン』の頃ですら、若干高音域の音色が浅い感じがあったんですが、ここの音域に温かさと厚みが出てきたし、
以前みたいな高音域が少し辛そうだな、、という印象がなくなって、伸びやかに音が出るようになっています。
それから表現力、、すごく表現力がつきましたね、彼女は、、、歌に。言葉をすごく大事に丁寧に歌っているのが伝わって来ます。

自分の最愛の女性セルヴィリアをその事情を知らないティートに后として召し取られそうになった時、
アンニオはその運命を、”この帝国にふさわしい美と徳を兼ね備えた人間は彼女しかいないのだから。”と言って受け入れ、彼女を諦めようとする。
なんという究極の愛情表現でしょう!!こんな愛情表現の前では”愛してる”なんて言葉が安っぽく聞こえてしまいます。
このシーンは私の周辺の座席でも男女共に泣いている人多数でした。いや、それはもう、もちろん私も鼻につーんと来てました。
で、そこに続くのが反則の二重唱"ああ、これまでの愛に免じて許してください Ah, perdona al primo affetto
(ちょっとこの邦題は意味が違っているように思うのですが、一応、これがCDで使用されているようですので、、。
実際には、ああ、すでに過去の恋人となったあなたよ、うっかりした言葉を許してください、という意味のはずです。
この直前に彼女を”愛する人よ”と言ってしまったことに対して、もうあなたはお后になる人なのだから、そのように呼んではいけないのだ、という、そういう意味です。)

この二重唱での二人の声と歌唱が、この世のものとは思えないくらい美しくて、もうどうしましょう?って言うくらいのものでした。
この二重唱が終わった時点で、”ああ、今日は来て良かった。これ聴けただけでももう満足。”と思ってしまった位。
もちろん、まだまだすごいのが続いて行ったわけですが。

それから順序が前後しますが、興味深かったのがセストとの小二重唱”どうか、心こもる抱擁を Deh, se piacer mi vuoi”で、
ガランチャとリンゼーの声が一瞬どちらがどっちか区別がつかない位、シンクロしていた点。
この二つの例からもわかる通りリンゼーは重唱で相手と呼吸を合わせて歌うのが本当に上手い人だな、と感心したんですが、
それと同時にこんなにシンクロして聴こえるということは、
もしかすると私が思っている以上に二人の声には似通っている部分があるのかもしれない、、とも思いました。
あと何年か経てばリンゼーもセスト役を歌いこなすようなメゾになっていくのかもしれないな、、と思うと、すごく楽しみです。

セルヴィリア役のルーシー・クロウは私はほとんど名前も知らなくて、当然生で聴くのは初めてだったんですが、
鈴のような凛とした残響のある、本当綺麗な声の持ち主だと思います。
今日の歌では、ものすごく細かくて早いビブラートのある歌い方をしていたので、その辺はもしかすると好みをわけるかもしれませんが、
涙流してるだけじゃ、単なる無駄泣きよ!と、ヴィッテリアに真相の告白を促す
アリア”涙する以外の何事も S'altro che lacrime per lui non tenti"での高音のコントロールもすごくしっかりしていて技術もあるし、
音域の上下で響きの変らない歌声もモーツァルト向きでいいな、と思います。
どうしてこういう人がいるのに、エルトマンみたいなのをメトに呼ぶんだろう、、本当不思議。

最後にオケ。
前から何度も言っているように、メトは古楽オケじゃないし、それを言ったところで始まりません。
古楽オケみたいな敏捷な小回りは絶対にきかないし、彼らと同等のレベルの極めて精巧、繊細なアンサンブルで聴かせることもまず無理でしょう。
ビケットの指揮はそれを承知で、ならメト・オケがこの作品で出来ることは何なのか?というポジティブ志向に変えたのが素晴らしい点だと思います。
コップに半分しか水がない、という人と、半分は入っているな、と考える人の違いというか。
冒頭、少し落ち着かない感じがありましたが、一旦落ち着いた後は歌手たちの歌を後ろからがっちり支え、時にはリードし、
歌手や演出と一体となってドラマを盛り上げる、、、これでいいのだ!です。
最初に話をふったのでそのフォローも一応しておくと、レチタティーヴォは多少のカットがあったようですが物語の理解を損なうものでは全くなく、
もちろん台詞ではなく、ちゃんと音楽も付いていて、それぞれの歌手のレチタティーヴォの処理の上手さ
(特にセストのそれは美しい箇所が山とあります)もまた楽しみの一つとなっています。

そういえば、オペラx3大賞(一年を振り返って最もすばらしかった公演を選び出す記事)をここ何年かお休みしてましたけど、
もうこの『ティート』をここ数年まとめての一位にしてもいいや、、、

作品、歌唱、オケと合唱、演出、すべてがかみあったこんな素晴らしい舞台がHDとして形に残ることを本当に嬉しく思います。

Giuseppe Filianoti (Tito)
Elīna Garanča (Sesto)
Barbara Frittoli (Vitellia)
Kate Lindsey (Annio)
Lucy Crowe (Servilia)
Oren Gradus (Publio)
Toni Rubio (Berenice)

Conductor: Harry Bicket
Production: Jean-Pierre Ponnelle
Set and Costume design: Jean-Pierre Ponnelle
Lighting design: Gil Wechsler
Stage director: Peter McClintock

Dr Circ A Even
OFF

*** モーツァルト 皇帝ティートの慈悲 Mozart La Clemenza di Tito ***