今日は久々に連れと一緒にカーネギー・ホールです。
昨年聴いたシカゴ交響楽団(以下CSO)の演奏会で彼らをすっかり気に入ってしまった私は、
それ以来、ずっとうるさく、”来年、彼らがNYに来る時には、絶対一緒に観に行くのでよろしく。”と言い続けて、
チケットが発売されるやいなや、勝手に2枚購入し、
半年前くらいから、この日は絶対に開けておくように!との通達を出しておいたのが、とうとう実現することになりました。
私はオペラを好きになったことから芋づる式に交響曲系のオケも時々聴くようになっていったという経緯を辿っているので、
年数にしても、公演の数にしても、いわゆるクラシックのコンサートというものを、
そんなにたくさん鑑賞して来たわけではないのです。
逆に連れの方は私とルートが逆で、”ずっと”若かった頃(と、”ずっと”を付けないと、
今が若くないみたいではないか!と叱られる。)、
それこそ70年代くらいから、ヨーロッパ、そして、アメリカのオケの演奏会に通っていた時期ががあったようです。
そんな彼も、最近では、オケの演奏のクオリティの問題(上手い下手ではなく、わくわくさせられるかどうか、、という)
も含めたいくつかの理由から、私がこのように強制連行する時以外は興味を失っている状態なんですが、
今日のCSOの演奏会に強制連行したのは、ショルティ時代のCSOを生で聴いたことのある彼が、
今のCSOのサウンドをどのように感じるか、すごく興味があったからでもあります。
私の連れは日常生活では私の数万倍穏やかで優しい人なんですが、
こと音楽の話になると豹変する時があって(ここでのアラーニャへのコメント等)、
その彼が開演前にプレイビルを見ながら座席で浮かない顔をしているので、”どうしたの?”と聞くと、
”指揮がブーレーズだ、、、、。”
あれ?言っといたと思うんですけどね。半年前に。
”彼の指揮は音楽性に欠けるからやだ。”
(笑)あらららら、、、。
でも、『死者の家から』の予習のために見たDVDでの、マーラー室内管を率いた時の指揮は悪くなかったよ、と言うと、
”彼は昔、変てこりんな音楽を作っては、それが世界を席巻するだろう、と豪語してた。
「オペラ・ハウスを破壊せよ。」なんてことまで言ってた時期があったなあ。”
再び彼が繰り返す、そのブーレーズが言ったという、
"Destroy the opera house!"(もちろん、オリジナルはフランス語だったんでしょうけど、、。)のフレーズに、
パンクじゃあるまいし、、とつい笑ってしまう私なのでした。
ブーレーズの若気の至りの頃、、。
でも、既述の『死者の家から』では、それから年月が流れて、すっかり歳を食ったブーレーズ(2007年公演当時、82歳!)が、
そんな年齢を感じさせない、いや、もしかしたら、年齢を経たことでより研ぎ澄まされたのかもしれないテンションの高さと、
非常に細かいところに目線の届いた指揮を見せていて、
CSOは十分その二つを受けて立ってくれそうなオケなので、
連れの心配をよそに、私は、問題は、プログラムの一番初め、ブーレーズ自身作の『弦楽のための本』とやらを、
いかにサバイブするかだな、、とそちらに注意が向かってしまっていました。
そして、案の定、この作品、私にはとても辛かった。
You Tubeに、ブーレーズの指揮のもとで、ウィーン・フィルがこの作品を演奏している映像がありますが、
ウィーン・フィルくらいの音色そのものの美しさと、一人一人の技量があって、
ようやく、私には何とか興味を持って聴ける作品で、
そんな力のあるウィーン・フィルの奏者ですら浮かべている、眉間に皺のよった表情を見ているだけで、
こちらも同じ表情になって来ます。
それにたった10分そこらの作品ですが、多分、これより5秒長くなったら、
ウィーン・フィルが演奏するものでも痺れを切らしてしまうかもしれない私です。
それにしても、ブーレーズ、今回、CSOとは細かいところまでつめる時間がなかったか何かなんでしょうか?
音はきちんと鳴っているんですが、この曲の精神が上手く奏者に伝わっていなくて、
ウィーン・フィルの映像では音が空気の色をさっと変えるように感じる瞬間があるのに比べ、
CSOの演奏は、”鳴っているだけ”という感じを持ちます。
不思議なのは、昨年の演奏会であれほど魅力的に聴こえた弦セクションが、音色そのものまで精彩を欠いて聴こえる点です。
普段から、こういう曲って実際に演奏会で選択の余地なく聴かされるか、
もしくはそんな演奏会の予習として聴く以外に、わざわざ、
”今日はこれをCDで聴きたい。”なんてのりで、好んで聴く人なんているんでしょうか?と疑問を呈している私ですが、
上で紹介したYou Tubeのコメント欄を見るに、いるんですね。そういう人がやっぱり。
今日、ブーレーズとCSOの演奏を聴いていて、私がこの手の作品が苦手なのには、
人前で演奏され、聴いてもらうことの価値が何より先に来ているからなんじゃないかと思いました。
もちろん、どんな作曲家の作品だって、聴衆に聴いてもらうために書かれているんですが、
聴いてもらうことの前に、何か表現したいことがあって、それがきちんと伝わってくる作品だってたくさんあります。
その点、ブーレーズのこの作品は一言で言えば、私にはアカデミック過ぎるんだと思います。
簡単で、もしくは、欠陥があっても、観客の心をどきどきさせる音楽よりも、
”高度な音楽”として感心してもらうことの方に関心が向いているような印象を持ちます。
心でなく、頭で書いた音楽、というか、、、。
それと呼応するものを、今日のブーレーズの指揮する様子にも感じました。
音楽家というより、大学の先生が滔々と学術論を述べているような、そういう雰囲気の指揮なんです。
上で紹介したウィーン・フィルの演奏が成功しているのは、ブーレーズでなく、
一人一人の奏者が、学術論を音楽にする、という作業を成し遂げているからだと思います。
それは、裏を返すと、もしかしたら、CSOはそういうことが苦手で、
指揮者が指示するとおりにしか動けない、ということにもなるのかもしれませんが。
私の我慢が限界に達しそうになった時、その音楽は終了し、ほっとしました。
私の隣にすわっていたクラおたみたいなおじさんは、この作品が好きなのか(もしや、You Tubeにコメントしたのと同じ人?)、
大興奮で立ち上がって腕もちぎれんばかりの勢いで拍手していましたが、
その間に、私と私の連れが、”究極のマスターベーション(自己満足)音楽”と断罪していたと知ったら、
髪の毛をつかまれ、場外に放り出されていただろうことは間違いないと思います。
次のバルトークの作品もこんなかしら?と憂鬱になって、連れに聴いてみると、比べちゃいかん!という調子で、
”いや。バルトークはいい作曲家だし、『2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲』は、
上手く指揮・演奏されると、エモーショナルでもある作品だ。”とのこと。
そういえば、前日(土曜)の演奏会では、同じバルトークのオペラ、『青ひげ公の城』が取り上げられて、
本当はそちらに行きたかったのですが、スケジュールが上手く合わずにあきらめたのでした。
舞台で楽器のセッティングの変更が行われている間に、そのことを連れに話した後、
”で、この『2台のピアノと~』には、何かストーリーみたいなものがあるの?”と聞くと、
連れがわが意得たり、の表情で、力強く、”うん、ある。”
”あるところに侯爵だか、なんだか、金持ちの男がいてね、
この男が結婚するたびに相手の女性が姿を消し、彼は次々結婚していくんだよ。
何人かそんなことがあった後に、彼と新しく結婚した女性が先妻たちが殺されてとじこめられている部屋を見つけるんだ。”
『2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲』と銘打ちながら、そんなてんこ盛りで具体的なストーリーが、、、。
でも、ちょっと待てよ?それ、どっかで聞いたことのあるストーリーなんだけど、、。
あれ?それって『青ひげ』じゃないですか?
”そう。青ひげだよ。”
違うよー!!私は『2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲』にストーリーがあるか聞いているのよー!!!
ああ、もう本当に危なかった。
私が子供の頃、母に買ってもらった絵本で、青ひげの話を読んでいなかったら(あの絵本、こわかったなあ。)、
青ひげのストーリーを思い浮かべながら、『2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲』を聴いて、
?????となっているところでした。
その『2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲』ですが、今日のCSOの演奏にはいくつか問題点があったと思います。
まず、ソリストの問題。
ピアノはピエール・ローラン・エマールとタマラ・ステファノヴィッチ、
打楽器はシンシア・イエとヴァディム・カルピノスという、
それぞれの楽器でたまたま男性と女性というコンビネーションになっていて、
打楽器の2人はCSOの正団員で、イエは首席です。
私は、男性が女性を見下すのはもちろん、行き過ぎたフェミニズムも大嫌いで、
最もセクシストから離れた位置にいる人間だという自負がありますので、
これはたまたまな結果であることを強調しつつ言いますが、
今日のソリストは、両方の楽器で、女性の奏者に不満がありました。
まず、ピアノのステファノヴィッチですが、今日の彼女の演奏がとても退屈だったので、
CSOはソリストで経費をけちったのかと思いましたが、経歴を見ると優秀なオケと共演もたくさんしているようですし、
訳がわかりません。(別に色んなオケと共演をしているからといって、優れたピアニストとは限りませんが。)
逆に男性のピアニスト、エマールの方が、全体の作品を見渡しながら、音の受け渡しにも神経を配っていて、
音作りに余裕があり、ずっと好感を持ちました。
打楽器のイエ、彼女は遠目に見ている限り、かなり若そうなアジア系の女性で、
この人は音だけ聴いていたらいいのかもしれませんが、
自分が演奏した音の後、定位置に戻る時の動作に
きゃぴっとでも吹きだしをつけたくなるような変な癖があって、
これを見て私が何を思いだしたかというと、レヴァインのマスター・クラスで、”ます”を歌っていた彼女です。
レヴァインが、あの女の子に”かわいこぶらなくていいんです。”という言葉を放ったときは、
”きついなあ、、、、。”と思ったものですが、それは私の方に、
彼女はまだ勉強中の学生なんだし、、という割引する気持ちがあったからで、
イエのように、もう一人前の、それもCSOの首席奏者である奏者に対しては、
容赦なく同じ気持ちが湧いて来て、それであの時のレヴァインの気持ちがわかったというものです。
特に目の前でもう一人の奏者(カルピノス)が無心に音楽に打ち込んで、その結果としていい演奏をしているのを見ると、
もうちょっとなりふり構わなくなってほしい、、と思うのです。
何というのでしょう、、優秀な奏者かもしれませんが、まだ演奏に殻があるように感じます。
それから二つめの問題は、またブーレーズの指揮です。
連れは、”上手く指揮・演奏されると、エモーショナルですらある作品”と言ったけれど、私はもう退屈で退屈で、
斜め前の座席の女の子が音楽専攻なのか、この作品のスコアを持ち込んで鑑賞しているのに途中で気付いたのですが、
もうそろそろ終わりかと思っていたのに、まだスコアの半分あたりのページを彼女がめくっているのを見た時は、
気を失いそうになりました。
演奏が終わった後、連れが、”やっぱりブーレーズはブーレーズだったね、、。
この作品は本当はもっと面白い作品なのになあ、、。”と残念そうでした。
最後の『火の鳥』こそは頑張ってもらわないと。
連れも、『火の鳥』なら、作品自体に備わっている性格のおかげで、
ブーレーズでも何とかなるかも、、、と今や神頼みに入ってます。
開演前に連れが今日の演奏会は割りと短いね、というので、
なんでだろう、、?演奏予定時間は2時間なんだけどな、、と思っていたのですが、
彼の感覚ではこれを短いというのだろうか、、と勝手に解釈して、適当に相槌を打っておきました。
すると、演奏が始まってすぐ、連れが”え!全曲版!?”と叫びながら呆然としてました。
そう、どうやら、彼は勝手に組曲の方だと思いこんでいて、それで短い演奏会だと早合点していたようです。
連れよ、すまない。もう少し付き合ってやっておくれ、ブーレーズの指揮に!
しかし、、、、本当に、この作品でもこんなに熱くなく指揮できるなんて、ある種の才能かもしれないと思います。
彼の指揮からは本当に楽譜以上の何も感じない。
その淡々と物理的な意味での曲だけを演奏していく様子に、
アカデミー賞の受賞式のバックで演奏しているオケじゃないんだから、、、と不満の一言でも言ってしまいたくなります。
これはCSOで、曲はストラヴィンスキーなんだから、もうちょっと何かを引き出してくれよ、、と。
そんな彼が名誉指揮者、、、これでいいんですか、CSO?
来シーズンからは、ムーティが音楽監督をつとめることになっていますが、
何と来年のカーネギー・ホールでの演奏会には演奏会形式の『オテッロ』を持って来てくれるそうなので、
これは激楽しみなんですが、まだ聴いたことのない指揮者とのコンビネーションについては語ることができません。
私は去年聴いたハイティンクとのコンビネーションはすごくいい、
(少なくともこのブーレーズとよりは全然!)と思ったので、ムーティが就任することで、
ますますNYではハイティンクとのコンビが聴けなくなりそうなのが残念です。
(ただし、ムーティが就任後も首席指揮者として残るそうですので、シカゴまで行けばいいだけの話かもしれませんが、、。)
ハイティンクは割とストイックな感じがするので、オケ側が鬱陶しく感じるんでしょうか?
今日観たブーレーズのコンビの方が和やかな雰囲気だったかもしれませんが、
でも、オケ側が窮屈に感じても、オケのいいところをちゃんと引き出してくれているのは
ハイティンクの方だと思うんですけどね、、。
私が昨年の演奏会でCSOがすごいな、と思った点の一つは、弦セクションの優秀さもさることながら、
彼らの金管セクションの音で、特にトロンボーンの首席、ジェイ・フリードマンに関しては、
あの痩せて禿げた冴えない親父風の風貌のどこからこんな音が出てくるんだろう?とびっくりした覚えがあります。
彼の音はしかもパワーで押すだけでなく、きちんとリリカルで節度のある知的なところもあって、素晴らしい奏者だと思いました。
金管セクションは他にも優秀な奏者が多く、なので、今日は連れに、”金管要注目!”と豪語していて、
今日のプログラムでは、何と言ってもその金管を一番堪能できるのは『火の鳥』のはずでした。
ところが、作品の頭の方で、ホルンの首席が”?”と思うようなスカ音をかましました。
シカゴ響の演奏会でこれはちょっとお粗末だなあ、、、と思いましたが、
オケの奏者も人間、ミスをすることだってあります!
この後の演奏の内容が良ければOK、と思って軽く流そうとしたのですが、
またホルンのフレーズでミス。、、そして、また!!
奏者が”おっかしーな?今日は楽器がおかしいのかな?”とベルを覗き込むようなジェスチャーをするので、
”楽器じゃねーんだよ!あんたの吹き方なんだよ!”と叫びそうになりました。
それでも、この首席、楽器がおかしいのかな?というジェスチャーはしても、
まずい、自分のミスのせいで全体の演奏に傷がついている!と気にしている様子も、
恥ずかしそうにしている様子も、一向に感じられず、かなりいけしゃあしゃあとした態度なのです。
思わず曲の中盤で、連れに”何これ!”という表情を向けると、彼も同じ表情でこちらを向いてました。
その後も、この首席、ほとんど音を出す度ごとにミスをしまくり、
(というか、まともな音で一つのフレーズを吹ききることができない)、
この作品で最も印象的な最後のホルンのフレーズまで外した時には、
私、ほとんど彼を撃ち殺したい衝動にかられました。
演奏が終わって、私が憤懣やる方なし!といった調子で、”なんなの、あのホルン!”と言うと、
連れがしみじみと言いました。
”彼はデイル・クレヴェンジャーと言ってね、今CSOに残っているなかでは、
最もキャリアの長いメンバーの一人じゃないかな。
今は歳をとってしまってああだけど、彼の全盛期の頃と言ったら、
それはもう神のように信じられないくらい上手いホルン奏者だったんだよ。
僕も当時の彼をCSOの演奏会で聴いているけど、本当、すごかった。
今オケで吹いている彼より若い世代のホルン奏者で、かつての彼に敵うような人はまずいないと思う。
だけど、こんなになるまでしがみついて、、、本当、悲しいね。
彼が演奏している時の、まわりの金管奏者の様子、見たかい?
みんな、床をじっと見詰めて、何か聴いてはいけないようなものを聴いているような態度だっただろう?
かつて素晴らしかった奏者が、まずい演奏をする時、あれが仲間の奏者が見せる典型的なリアクションなんだよ。”
そうだったんだ、、。
それにしても、音楽に携わる人は、楽器であれ、歌であれ、本当に引き際って難しいです。
でも、かつて、どんなに素晴らしい奏者であったとしても、
こんな風にオケ全体の演奏をぶち壊すような結果しか出せなくなったら、潔く身を引くしかないのかも、、。
彼は今回、NYタイムズの批評でも、敬意をこめながらも名指しでその辺りを指摘されましたので、
もしかしたら来年のNY公演ではもう姿がないかもしれないな、と思います。
特にムーティが音楽監督に就任したら、容赦なくそういう事態を回収しにかかるでしょうから、、。
それでも、最後に連れが、
”でも、面白いね。
思ったより、全然オケとしての音色が昔と変わってなかった。
もしかすると、他のどのオケと比べても、70年代頃からのサウンドがそのまま残っている感じがするのがCSOかもしれないな、と思ったよ。
ある意味、その点では、ベルリン・フィル以上に。
まあ、それはクレヴェンジャーみたいなメンバーが残っているからかも知れないけれど、
サウンドのカラーがきちんと引き継がれているのは素晴らしいことだね。”
この意見が聞けただけでも、2人で行った価値があったというものです。
(冒頭の写真は前日土曜の演奏会のもの。)
PIERRE BOULEZ Livre pour cordes
BARTÓK Concerto for Two Pianos, Percussion, and Orchestra
STRAVINSKY The Firebird (complete)
Chicago Symphony Orchestra
Pierre Boulez, Conductor Emeritus
Pierre-Laurent Aimard, Piano
Tamara Stefanovich, Piano
Center Balcony G Mid
Carnegie Hall Stern Auditorium
*** シカゴ交響楽団 Chicago Symphony Orchestra ***
昨年聴いたシカゴ交響楽団(以下CSO)の演奏会で彼らをすっかり気に入ってしまった私は、
それ以来、ずっとうるさく、”来年、彼らがNYに来る時には、絶対一緒に観に行くのでよろしく。”と言い続けて、
チケットが発売されるやいなや、勝手に2枚購入し、
半年前くらいから、この日は絶対に開けておくように!との通達を出しておいたのが、とうとう実現することになりました。
私はオペラを好きになったことから芋づる式に交響曲系のオケも時々聴くようになっていったという経緯を辿っているので、
年数にしても、公演の数にしても、いわゆるクラシックのコンサートというものを、
そんなにたくさん鑑賞して来たわけではないのです。
逆に連れの方は私とルートが逆で、”ずっと”若かった頃(と、”ずっと”を付けないと、
今が若くないみたいではないか!と叱られる。)、
それこそ70年代くらいから、ヨーロッパ、そして、アメリカのオケの演奏会に通っていた時期ががあったようです。
そんな彼も、最近では、オケの演奏のクオリティの問題(上手い下手ではなく、わくわくさせられるかどうか、、という)
も含めたいくつかの理由から、私がこのように強制連行する時以外は興味を失っている状態なんですが、
今日のCSOの演奏会に強制連行したのは、ショルティ時代のCSOを生で聴いたことのある彼が、
今のCSOのサウンドをどのように感じるか、すごく興味があったからでもあります。
私の連れは日常生活では私の数万倍穏やかで優しい人なんですが、
こと音楽の話になると豹変する時があって(ここでのアラーニャへのコメント等)、
その彼が開演前にプレイビルを見ながら座席で浮かない顔をしているので、”どうしたの?”と聞くと、
”指揮がブーレーズだ、、、、。”
あれ?言っといたと思うんですけどね。半年前に。
”彼の指揮は音楽性に欠けるからやだ。”
(笑)あらららら、、、。
でも、『死者の家から』の予習のために見たDVDでの、マーラー室内管を率いた時の指揮は悪くなかったよ、と言うと、
”彼は昔、変てこりんな音楽を作っては、それが世界を席巻するだろう、と豪語してた。
「オペラ・ハウスを破壊せよ。」なんてことまで言ってた時期があったなあ。”
再び彼が繰り返す、そのブーレーズが言ったという、
"Destroy the opera house!"(もちろん、オリジナルはフランス語だったんでしょうけど、、。)のフレーズに、
パンクじゃあるまいし、、とつい笑ってしまう私なのでした。
ブーレーズの若気の至りの頃、、。
でも、既述の『死者の家から』では、それから年月が流れて、すっかり歳を食ったブーレーズ(2007年公演当時、82歳!)が、
そんな年齢を感じさせない、いや、もしかしたら、年齢を経たことでより研ぎ澄まされたのかもしれないテンションの高さと、
非常に細かいところに目線の届いた指揮を見せていて、
CSOは十分その二つを受けて立ってくれそうなオケなので、
連れの心配をよそに、私は、問題は、プログラムの一番初め、ブーレーズ自身作の『弦楽のための本』とやらを、
いかにサバイブするかだな、、とそちらに注意が向かってしまっていました。
そして、案の定、この作品、私にはとても辛かった。
You Tubeに、ブーレーズの指揮のもとで、ウィーン・フィルがこの作品を演奏している映像がありますが、
ウィーン・フィルくらいの音色そのものの美しさと、一人一人の技量があって、
ようやく、私には何とか興味を持って聴ける作品で、
そんな力のあるウィーン・フィルの奏者ですら浮かべている、眉間に皺のよった表情を見ているだけで、
こちらも同じ表情になって来ます。
それにたった10分そこらの作品ですが、多分、これより5秒長くなったら、
ウィーン・フィルが演奏するものでも痺れを切らしてしまうかもしれない私です。
それにしても、ブーレーズ、今回、CSOとは細かいところまでつめる時間がなかったか何かなんでしょうか?
音はきちんと鳴っているんですが、この曲の精神が上手く奏者に伝わっていなくて、
ウィーン・フィルの映像では音が空気の色をさっと変えるように感じる瞬間があるのに比べ、
CSOの演奏は、”鳴っているだけ”という感じを持ちます。
不思議なのは、昨年の演奏会であれほど魅力的に聴こえた弦セクションが、音色そのものまで精彩を欠いて聴こえる点です。
普段から、こういう曲って実際に演奏会で選択の余地なく聴かされるか、
もしくはそんな演奏会の予習として聴く以外に、わざわざ、
”今日はこれをCDで聴きたい。”なんてのりで、好んで聴く人なんているんでしょうか?と疑問を呈している私ですが、
上で紹介したYou Tubeのコメント欄を見るに、いるんですね。そういう人がやっぱり。
今日、ブーレーズとCSOの演奏を聴いていて、私がこの手の作品が苦手なのには、
人前で演奏され、聴いてもらうことの価値が何より先に来ているからなんじゃないかと思いました。
もちろん、どんな作曲家の作品だって、聴衆に聴いてもらうために書かれているんですが、
聴いてもらうことの前に、何か表現したいことがあって、それがきちんと伝わってくる作品だってたくさんあります。
その点、ブーレーズのこの作品は一言で言えば、私にはアカデミック過ぎるんだと思います。
簡単で、もしくは、欠陥があっても、観客の心をどきどきさせる音楽よりも、
”高度な音楽”として感心してもらうことの方に関心が向いているような印象を持ちます。
心でなく、頭で書いた音楽、というか、、、。
それと呼応するものを、今日のブーレーズの指揮する様子にも感じました。
音楽家というより、大学の先生が滔々と学術論を述べているような、そういう雰囲気の指揮なんです。
上で紹介したウィーン・フィルの演奏が成功しているのは、ブーレーズでなく、
一人一人の奏者が、学術論を音楽にする、という作業を成し遂げているからだと思います。
それは、裏を返すと、もしかしたら、CSOはそういうことが苦手で、
指揮者が指示するとおりにしか動けない、ということにもなるのかもしれませんが。
私の我慢が限界に達しそうになった時、その音楽は終了し、ほっとしました。
私の隣にすわっていたクラおたみたいなおじさんは、この作品が好きなのか(もしや、You Tubeにコメントしたのと同じ人?)、
大興奮で立ち上がって腕もちぎれんばかりの勢いで拍手していましたが、
その間に、私と私の連れが、”究極のマスターベーション(自己満足)音楽”と断罪していたと知ったら、
髪の毛をつかまれ、場外に放り出されていただろうことは間違いないと思います。
次のバルトークの作品もこんなかしら?と憂鬱になって、連れに聴いてみると、比べちゃいかん!という調子で、
”いや。バルトークはいい作曲家だし、『2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲』は、
上手く指揮・演奏されると、エモーショナルでもある作品だ。”とのこと。
そういえば、前日(土曜)の演奏会では、同じバルトークのオペラ、『青ひげ公の城』が取り上げられて、
本当はそちらに行きたかったのですが、スケジュールが上手く合わずにあきらめたのでした。
舞台で楽器のセッティングの変更が行われている間に、そのことを連れに話した後、
”で、この『2台のピアノと~』には、何かストーリーみたいなものがあるの?”と聞くと、
連れがわが意得たり、の表情で、力強く、”うん、ある。”
”あるところに侯爵だか、なんだか、金持ちの男がいてね、
この男が結婚するたびに相手の女性が姿を消し、彼は次々結婚していくんだよ。
何人かそんなことがあった後に、彼と新しく結婚した女性が先妻たちが殺されてとじこめられている部屋を見つけるんだ。”
『2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲』と銘打ちながら、そんなてんこ盛りで具体的なストーリーが、、、。
でも、ちょっと待てよ?それ、どっかで聞いたことのあるストーリーなんだけど、、。
あれ?それって『青ひげ』じゃないですか?
”そう。青ひげだよ。”
違うよー!!私は『2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲』にストーリーがあるか聞いているのよー!!!
ああ、もう本当に危なかった。
私が子供の頃、母に買ってもらった絵本で、青ひげの話を読んでいなかったら(あの絵本、こわかったなあ。)、
青ひげのストーリーを思い浮かべながら、『2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲』を聴いて、
?????となっているところでした。
その『2台のピアノと打楽器と管弦楽のための協奏曲』ですが、今日のCSOの演奏にはいくつか問題点があったと思います。
まず、ソリストの問題。
ピアノはピエール・ローラン・エマールとタマラ・ステファノヴィッチ、
打楽器はシンシア・イエとヴァディム・カルピノスという、
それぞれの楽器でたまたま男性と女性というコンビネーションになっていて、
打楽器の2人はCSOの正団員で、イエは首席です。
私は、男性が女性を見下すのはもちろん、行き過ぎたフェミニズムも大嫌いで、
最もセクシストから離れた位置にいる人間だという自負がありますので、
これはたまたまな結果であることを強調しつつ言いますが、
今日のソリストは、両方の楽器で、女性の奏者に不満がありました。
まず、ピアノのステファノヴィッチですが、今日の彼女の演奏がとても退屈だったので、
CSOはソリストで経費をけちったのかと思いましたが、経歴を見ると優秀なオケと共演もたくさんしているようですし、
訳がわかりません。(別に色んなオケと共演をしているからといって、優れたピアニストとは限りませんが。)
逆に男性のピアニスト、エマールの方が、全体の作品を見渡しながら、音の受け渡しにも神経を配っていて、
音作りに余裕があり、ずっと好感を持ちました。
打楽器のイエ、彼女は遠目に見ている限り、かなり若そうなアジア系の女性で、
この人は音だけ聴いていたらいいのかもしれませんが、
自分が演奏した音の後、定位置に戻る時の動作に
きゃぴっとでも吹きだしをつけたくなるような変な癖があって、
これを見て私が何を思いだしたかというと、レヴァインのマスター・クラスで、”ます”を歌っていた彼女です。
レヴァインが、あの女の子に”かわいこぶらなくていいんです。”という言葉を放ったときは、
”きついなあ、、、、。”と思ったものですが、それは私の方に、
彼女はまだ勉強中の学生なんだし、、という割引する気持ちがあったからで、
イエのように、もう一人前の、それもCSOの首席奏者である奏者に対しては、
容赦なく同じ気持ちが湧いて来て、それであの時のレヴァインの気持ちがわかったというものです。
特に目の前でもう一人の奏者(カルピノス)が無心に音楽に打ち込んで、その結果としていい演奏をしているのを見ると、
もうちょっとなりふり構わなくなってほしい、、と思うのです。
何というのでしょう、、優秀な奏者かもしれませんが、まだ演奏に殻があるように感じます。
それから二つめの問題は、またブーレーズの指揮です。
連れは、”上手く指揮・演奏されると、エモーショナルですらある作品”と言ったけれど、私はもう退屈で退屈で、
斜め前の座席の女の子が音楽専攻なのか、この作品のスコアを持ち込んで鑑賞しているのに途中で気付いたのですが、
もうそろそろ終わりかと思っていたのに、まだスコアの半分あたりのページを彼女がめくっているのを見た時は、
気を失いそうになりました。
演奏が終わった後、連れが、”やっぱりブーレーズはブーレーズだったね、、。
この作品は本当はもっと面白い作品なのになあ、、。”と残念そうでした。
最後の『火の鳥』こそは頑張ってもらわないと。
連れも、『火の鳥』なら、作品自体に備わっている性格のおかげで、
ブーレーズでも何とかなるかも、、、と今や神頼みに入ってます。
開演前に連れが今日の演奏会は割りと短いね、というので、
なんでだろう、、?演奏予定時間は2時間なんだけどな、、と思っていたのですが、
彼の感覚ではこれを短いというのだろうか、、と勝手に解釈して、適当に相槌を打っておきました。
すると、演奏が始まってすぐ、連れが”え!全曲版!?”と叫びながら呆然としてました。
そう、どうやら、彼は勝手に組曲の方だと思いこんでいて、それで短い演奏会だと早合点していたようです。
連れよ、すまない。もう少し付き合ってやっておくれ、ブーレーズの指揮に!
しかし、、、、本当に、この作品でもこんなに熱くなく指揮できるなんて、ある種の才能かもしれないと思います。
彼の指揮からは本当に楽譜以上の何も感じない。
その淡々と物理的な意味での曲だけを演奏していく様子に、
アカデミー賞の受賞式のバックで演奏しているオケじゃないんだから、、、と不満の一言でも言ってしまいたくなります。
これはCSOで、曲はストラヴィンスキーなんだから、もうちょっと何かを引き出してくれよ、、と。
そんな彼が名誉指揮者、、、これでいいんですか、CSO?
来シーズンからは、ムーティが音楽監督をつとめることになっていますが、
何と来年のカーネギー・ホールでの演奏会には演奏会形式の『オテッロ』を持って来てくれるそうなので、
これは激楽しみなんですが、まだ聴いたことのない指揮者とのコンビネーションについては語ることができません。
私は去年聴いたハイティンクとのコンビネーションはすごくいい、
(少なくともこのブーレーズとよりは全然!)と思ったので、ムーティが就任することで、
ますますNYではハイティンクとのコンビが聴けなくなりそうなのが残念です。
(ただし、ムーティが就任後も首席指揮者として残るそうですので、シカゴまで行けばいいだけの話かもしれませんが、、。)
ハイティンクは割とストイックな感じがするので、オケ側が鬱陶しく感じるんでしょうか?
今日観たブーレーズのコンビの方が和やかな雰囲気だったかもしれませんが、
でも、オケ側が窮屈に感じても、オケのいいところをちゃんと引き出してくれているのは
ハイティンクの方だと思うんですけどね、、。
私が昨年の演奏会でCSOがすごいな、と思った点の一つは、弦セクションの優秀さもさることながら、
彼らの金管セクションの音で、特にトロンボーンの首席、ジェイ・フリードマンに関しては、
あの痩せて禿げた冴えない親父風の風貌のどこからこんな音が出てくるんだろう?とびっくりした覚えがあります。
彼の音はしかもパワーで押すだけでなく、きちんとリリカルで節度のある知的なところもあって、素晴らしい奏者だと思いました。
金管セクションは他にも優秀な奏者が多く、なので、今日は連れに、”金管要注目!”と豪語していて、
今日のプログラムでは、何と言ってもその金管を一番堪能できるのは『火の鳥』のはずでした。
ところが、作品の頭の方で、ホルンの首席が”?”と思うようなスカ音をかましました。
シカゴ響の演奏会でこれはちょっとお粗末だなあ、、、と思いましたが、
オケの奏者も人間、ミスをすることだってあります!
この後の演奏の内容が良ければOK、と思って軽く流そうとしたのですが、
またホルンのフレーズでミス。、、そして、また!!
奏者が”おっかしーな?今日は楽器がおかしいのかな?”とベルを覗き込むようなジェスチャーをするので、
”楽器じゃねーんだよ!あんたの吹き方なんだよ!”と叫びそうになりました。
それでも、この首席、楽器がおかしいのかな?というジェスチャーはしても、
まずい、自分のミスのせいで全体の演奏に傷がついている!と気にしている様子も、
恥ずかしそうにしている様子も、一向に感じられず、かなりいけしゃあしゃあとした態度なのです。
思わず曲の中盤で、連れに”何これ!”という表情を向けると、彼も同じ表情でこちらを向いてました。
その後も、この首席、ほとんど音を出す度ごとにミスをしまくり、
(というか、まともな音で一つのフレーズを吹ききることができない)、
この作品で最も印象的な最後のホルンのフレーズまで外した時には、
私、ほとんど彼を撃ち殺したい衝動にかられました。
演奏が終わって、私が憤懣やる方なし!といった調子で、”なんなの、あのホルン!”と言うと、
連れがしみじみと言いました。
”彼はデイル・クレヴェンジャーと言ってね、今CSOに残っているなかでは、
最もキャリアの長いメンバーの一人じゃないかな。
今は歳をとってしまってああだけど、彼の全盛期の頃と言ったら、
それはもう神のように信じられないくらい上手いホルン奏者だったんだよ。
僕も当時の彼をCSOの演奏会で聴いているけど、本当、すごかった。
今オケで吹いている彼より若い世代のホルン奏者で、かつての彼に敵うような人はまずいないと思う。
だけど、こんなになるまでしがみついて、、、本当、悲しいね。
彼が演奏している時の、まわりの金管奏者の様子、見たかい?
みんな、床をじっと見詰めて、何か聴いてはいけないようなものを聴いているような態度だっただろう?
かつて素晴らしかった奏者が、まずい演奏をする時、あれが仲間の奏者が見せる典型的なリアクションなんだよ。”
そうだったんだ、、。
それにしても、音楽に携わる人は、楽器であれ、歌であれ、本当に引き際って難しいです。
でも、かつて、どんなに素晴らしい奏者であったとしても、
こんな風にオケ全体の演奏をぶち壊すような結果しか出せなくなったら、潔く身を引くしかないのかも、、。
彼は今回、NYタイムズの批評でも、敬意をこめながらも名指しでその辺りを指摘されましたので、
もしかしたら来年のNY公演ではもう姿がないかもしれないな、と思います。
特にムーティが音楽監督に就任したら、容赦なくそういう事態を回収しにかかるでしょうから、、。
それでも、最後に連れが、
”でも、面白いね。
思ったより、全然オケとしての音色が昔と変わってなかった。
もしかすると、他のどのオケと比べても、70年代頃からのサウンドがそのまま残っている感じがするのがCSOかもしれないな、と思ったよ。
ある意味、その点では、ベルリン・フィル以上に。
まあ、それはクレヴェンジャーみたいなメンバーが残っているからかも知れないけれど、
サウンドのカラーがきちんと引き継がれているのは素晴らしいことだね。”
この意見が聞けただけでも、2人で行った価値があったというものです。
(冒頭の写真は前日土曜の演奏会のもの。)
PIERRE BOULEZ Livre pour cordes
BARTÓK Concerto for Two Pianos, Percussion, and Orchestra
STRAVINSKY The Firebird (complete)
Chicago Symphony Orchestra
Pierre Boulez, Conductor Emeritus
Pierre-Laurent Aimard, Piano
Tamara Stefanovich, Piano
Center Balcony G Mid
Carnegie Hall Stern Auditorium
*** シカゴ交響楽団 Chicago Symphony Orchestra ***