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Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

SUMMER HD FESTIVAL- IL TRITTICO (Sun, Sep 6, 2009)

2009-09-06 | メト Live in HD
今年のメトの夏のイベントはかなりスケール・ダウンしてしまったサマー・リサイタルと、
8/29から10日間にわたって行われるリンカーン・センターのプラザのスペースを利用し、
野外の大スクリーンでHDの映像を鑑賞するという、サマー・HD・フェスティバル。
ライブ・イン・HDの企画が2006-7年シーズンに始まって以来、
上演された演目は余裕で10を越えているので、
サマー・フェスティバルで上演される10本というのは、メトが出来に自信を持っている10作品とも言えるかもしれません。

『連隊の娘』、『ロミオとジュリエット』、『エフゲニ・オネーギン』、
『マクベス』、『セヴィリヤの理髪師』、『ピーター・グライムス』、
『ラ・ボエーム』、『オルフェオとエウリディーチェ』、『三部作』、『蝶々夫人』というラインアップの中で、
私が今回一本だけ鑑賞に選んだのは『三部作』。

しかも、今回のサマー・フェスティバルでは、
毎夜上映前に、演目についてのレクチャーが行われ、
これに参加した人はVIP席で鑑賞できるという特典付き。
テレビで放送された際の映像を録画し何度も観尽くした自家製DVDでなく、
大きいスクリーンと良い音響で、オリジナル・コピーの
フリットリの修道女アンジェリカをVIP席で聴くざんす!!



この週末はアメリカではレイバー・デイの三連休。
9月の三連休にわざわざオペラを見る、しかも、レクチャーにまで足を運ぶ物好きはそうはいないだろう、、
と思っていたら、そんな物好きがたくさんいるのがNY! つくづく恐ろしい、ヘッズ・パワー満開の街です。

レクチャーでは、レナータ・スコットが三作全部のソプラノ役を歌って話題となった
1981年のメトの公演の映像を教材に使用し、
いかに三部作の各作品、すなわち、『外套』、『修道女アンジェリカ』、『ジャンニ・スキッキ』の持ち味が違うか、
よって、三作全部を通しで歌うのがどれほど大変か、ということを検証しました。
2006-7年シーズンの公演(2007年4月28日)がHD上映された時には、
まだビヴァリー・シルズが存命で、HD時のゲストが彼女でした。
彼女もまた三作すべてのソプラノ・ロールを歌ったことがあるそうで、
ホストのマーガレットとの対話の中で、
”一体なんてことに手を染めてしまったのかしら?”と一瞬後悔した、と語っている映像がレクチャーで紹介されました。
このインタビューの部分は公演日当日のオリジナルの上映では存在していた映像なのですが、
残念ながら、今再上映用に出回っているコピーではカットされているものが多いようです。

この公演では、ソプラノではなく、メゾのステファニー・ブライスが、三作全てに登場し、
芸幅の広いところを見せて大健闘していたのですが、
2009-10年新シーズンの『三部作』では、ブライスが三役で再登場するのに加え、
パトリシア・ラセットがソプラノ三役を歌うという、ダブル三役になります。
ラセットは芝居の上手さに定評がある上、ドラマティコから軽めのリリコまで、
両端を少しストレッチしなければいけないかもしれませんが、
きちんとカバー出来そうな予感があるので、本当に楽しみです。
(多分、今の彼女だと、アンジェリカが一番良い出来になるのではないかと予想しますが。)



今回のレポートは、『三部作』ですから、三作全部についてコメントするのがフェアですし、
実際、『ジャンニ・スキッキ』はアメリカ的なドタバタに割り切った演出と
出演者同士のケミストリーが功を奏して、大変良い出来栄えなのですが、
私はもともと全くフェアな人間ではないゆえ、今日はもう個人的な趣味全開で、
『修道女アンジェリカ』のことのみ、話させていただきます。
といいますか、もう当HDは、この『修道女アンジェリカ』のみで十分元がとれる出来でして、
『ジャン二・スキッキ』はさらにおまけで大ボーナスをもらったような、ラッキー!な気分になる位です。

1981年のスコットのアンジェリカも迫真の歌唱と演技で圧倒されるのですが、
ラストの場面で目をひんむいて歌う様子は、演出のせいもあるのですが、
完全に自己完結していて、アンジェリカの頭の中でことのすべてが進行しているような印象を持ちます。

レクチャーで、さらに紹介されたのはやはりオリジナルの上映日には存在し、
最近のコピーではカットされることの多い、レヴァインと演出家のジャック・オブライエンの対話。
ここで、レヴァインはもしかするとこの日体調が悪かったのか、
あるいは虫の居所が悪かったのか、はたまたオブライエンのことが個人的にあまり好きでないのか、
気を使って会話をすすめるオブライエンに対し、
慇懃な中に意地悪な言葉が混じっていたりして、
まるで生理中の女のような感じの悪さでもって受け答えしているのが笑えます。
しかし、会話の内容は実に興味深く、二人がこの作品の中で、
”奇跡”ということに非常に重点を置いて演出、演奏していることがよくわかります。
そして、彼ら二人の方向性が一致してこそ、そして、それをふまえ、
歌で表現しきったフリットリの力があってこそ、のあの公演だったのだ、と実感させられます。

オブライエンの演出は、『修道女アンジェリカ』のみならず、全三作品を通じ、
本当に良い出来なのですが、特に『修道女アンジェリカ』は素晴らしい。
スコットが歌ったときのようなアンジェリカの死に際の空想事のような奇跡ではなく、
本当に奇跡を現出させる手法をとった、そこにこの演出の素晴らしさがあります。
この演出を見て、”子供みたい””稚拙だ”という方とは、私、お友達になれないし、
友達でそういう人がいたら、今すぐ絶交です。
実際、スカラの演出を見ると、ここをかっこよくスマートにまとめてしまったがために、
いかにドラマとしての効果が薄れてしまっているかがわかります。
ここは絶対にべたべたで行かなければならない。
べたと言われることを恐れず、真正面からこの場面に取り組んだオブライエンは偉いのです。



わけありで修道院に放り込まれた良家のお嬢、アンジェリカ。
(このわけというのはオペラの中では詳しくは語られませんが、
話の流れから、おそらく道ならぬ恋に落ち、子供を産み落としたと推測されます。)
7年もの間、親族から音沙汰がなく、子供の身を案じ続けたアンジェリカのもとに、
ついに叔母があらわれます。
家の名誉を汚した姪を許せない叔母。許しの心を持たない叔母に怒りを抑えきれない姪。

決して本来は冷たい人ではないが、姪を許せず頑なになる叔母をステファニー・ブライスが好演しています。
(二枚目の写真で、黒いドレスを着ているのがブライス。)
彼女はザジックに続く世代として期待されているメゾで、その大柄な体躯から出る、
高音に特徴のある声はすぐに彼女のそれとわかります。
アンジェリカの亡くなった両親(つまり叔母のきょうだいにあたる)の遺言どおり、
アンジェリカの妹の結婚に伴い、財産の均等分与を行った叔母は、その書類に署名をさせるため、
修道院に来たのですが、アンジェリカとの会話のうちに、
アンジェリカの息子が重い病に倒れ、亡くなったことを打ち明けざるを得なくなります。
この作品の中で独立した部分としては一番良く知られたアリア”母もなく Senza mamma"が歌われるのはこの場面です。

その後、子供の元に行きたい、という思いに捕われるアンジェリカは
死への誘惑にかられ、ずっと密かに育て続けてきた毒草で自らの命を絶ちます。
キリスト教において、自殺とは最も忌まわしい行為の一つであり、
自殺した人は天国には行けない、と言われています。
死の苦しみの中で、地獄に落ちる恐怖と激しい後悔に襲われるアンジェリカ。
しかし、そこに一条の光が差して、、、
というのがこの作品のあらすじです。
特別複雑なプロットがあるわけでもないですし、またメロディーも同じ旋律が何度も何度も登場したりします。

しかし、作品がすすむにつれ、その同じ旋律がそれぞれの個所で微妙に違った意味と、色合いを持っていく。
ここにこの作品の演奏の難しさがあると思います。
しかし、このHDのフリットリのような素晴らしい歌唱を得ると、
本当に見ているこちらまで魂が浄化されるような気がして、
間違いなくプッチーニ的オペラでありながら、宗教曲のような効用のある、不思議な作品です。

アンジェリカのパートは猛烈な高音はない代わりに、要所要所にトリッキーな音が多く、
”母もなく”のラストの音、その後すぐのシスターとの重唱の最後のAh, lodiam!(さあ、聖母を讃えましょう)の部分、
それから、さらにその後の、”シスター・アンジェリカはいつもよく効く花の調合を知っている”以降の、
低音から大きく高音に上がる部分など、例をあげるとキリがないです。



あらためて、リブレットとこの映像を付け合せると、
オブライエンがほとんど忠実にト書きを視覚化していることがわかり、驚かされますが、
(そして、ト書きにはっきりと、”奇跡が始まる”という一文もあります!)
たった一つだけ、それを大胆に踏み越えた個所があって、
それは”母もなく”をフリットリが歌い終わった直後です。
シスター・ジェノヴィエッファとシスターたちの”聖母様はあなたの祈りを聞き届けられました”云々という言葉から、
パタパタパタパタ、、という音がしてシスターたちが姿を消すまで。
ト書きでは、現実に起こったことなのか、アンジェリカの頭の中でのことなのか、
はっきりさせないような形にしているのですが、
オブライエンはここを思いきって、アンジェリカが天からの言葉を授かる場面として、
まるで幻のように演出します。
上のシスター・ジェノヴィエッファとシスターたちの言葉に続いて、
アンジェリカが"La grazia e discesa dal cielo (天から恵みが下った)”と歌いだす個所がありますが、
ここのフリットリの表情は必見です。
少し俯いたところから、ゆっくりと顔を天に向ける仕草をするのですが、
その表情が、さっきとはまるで違った彼岸を見つめるような表情で、
ついに子供と再び結ばれること、つまり死への誘惑に取り付かれたことがわかる、
見ているこちらがせつなくなる一瞬です。
(残念ながら、ここは下でご紹介する映像の少し前の場面ですので、
アンコール上映、もしくはテレビの放映などで確認いただくしかありません。)
そして、パタパタパタパタ、、という音がして、ふーっとシスターたちの姿が幻のように消えると、
ふっと一瞬現実に戻るような表情をするのですが、もうこの時にはずっと育ててきた毒草
(そう、彼女は子供の死を知る前から、ずっと死ぬ用意をしていたわけです)
を使って自らの命を絶つことだけが彼女の心を占めています。



毒草を愛しそうに摘み、毒薬を調合する様子、
もうこの芝居が本当に自然で美しく、フリットリの面目躍如です。
そして、死への憧れと子供に再会できる喜びで、恍惚とした状態のまま、皿から毒薬を飲み干し、
ふと我に返って”Ah, son dannata! Mi son data la morte, mi son data la morte!
(ああ、私は地獄に落ちた!自分の命を奪ってしまった!自分の命を奪ってしまった!)と歌い、
最後に”Madonna! Madonna! Salvami! Salvami!"と助けを求める場面の歌唱は、、。
陳腐な言葉は並べても意味がないので、ここで止めておきます。



作品の前半にシスターたちの間で、”何かを欲する、ということはいけないことなのか?”という議論がされるシーンがあります。
また、アンジェリカがバックステージでなく、初めて舞台の真ん中で歌う
”I desideri sono i fiori del vivi 欲望は生きているものの間で咲く花
non fioriscon nel regno delle morte それは死者の国では開くことがない”という歌詞が
ふっと最後に思い出される、そんなエンディングになっています。
自らの命を絶った彼女ですが、最後には救済され、子供と再会するという奇跡が起こるのです。
この演出では、フリットリが仰向けになって倒れているところに、
扉が開いて子供が現れるというシーンになっているのですが、
この視線が合わない角度に二人がいる、というのがまた切ない。
おそらくアンジェリカは体全身に救済の喜びを浴びて死んでいくのですが、
少なくとも幕が降りるまではまともに子供を見れる場所にいないわけです。
それでも彼女の瞳には子供の姿が一杯に映っているのか、、、?
それとも何も見えないまま、救済の感覚だけを感じて幸せのうちに息を引き取るのか、、?



と、あれこれと私がごたくを並べてきましたが、
それが実際に舞台にのるとこうなります!という映像がこちら。
皆様もご一緒に心を清められてください。




また、上の映像ではカバーできなかったようなのですが、
こちらの映像では幕が降りてからアンコールまでの様子が見れます。
フリットリが最後に感極まって泣きそうな表情を浮かべているのがまたぐっと来ます。
観客の拍手が本物なのも素敵です。
この日の野外のHDでも、幕が降りた途端、まず観客から溜息のようなものが漏れたのが印象的でした。

上映前に”あのレクチャーで観たスコットの映像よりも、こちらのフリットリの方がいいんですよ。”と、
隣に座っていらしたおば様に話すと、最初は半信半疑でいらっしゃいましたが、
鑑賞後は、”本当だったわー”と大感激されていました。

東京の映画館でもアンコール上映が予定されているようですので、お見逃しなく。




IL TABARRO
Maria Guleghina (Giorgetta)
Salvatore Licitra (Luigi)
Juan Pons (Michele)
Stephanie Blythe (Frugola)
SUOR ANGELICA
Barbara Frittoli (Sister Angelica)
Stephanie Blythe (La Principessa)
Heidi Grant Murphy (Sister Genovieffa)
GIANNI SCHICCHI
Alessandro Corbelli (Gianni Schicchi)
Massimo Giordano (Rinuccio)
Olga Mykytenko (Lauretta)
Stephanie Blythe (Zita)

Conductor: James Levine
Production: Jack O'Brien
Set design: Douglas W. Schmidt
Costume design: Jess Goldstein
Lighting design: Jules Fisher, Peggy Eisenhauer

Original performance from April 28, 2007 at Metropolitan Opera
HD viewed at Lincoln Center Plaza

***プッチーニ 三部作 Puccini Il Trittico***


HD: LA CENERENTOLA (Wed, May 20, 2009)

2009-05-20 | メト Live in HD
5/9(土)はメトの2008-9年シーズン楽日。
マチネは今年のHD最後の公演にあたっている『チェネレントラ』、
夜は正真正銘、最後のシェンクによるリングの公演になってしまう
『神々の黄昏』といういずれも外せない二つの公演を
おかげさまでダブル・ヘッダーでオペラハウスで鑑賞でき、心おきなく私もシーズンを終えることができました。

昨シーズンまでアメリカではHDの再上映がなかったので、
これが去年なら、『チェネレントラ』がどのように映画館で見えたのだろう?
お客さんの映画館での反応はどうだったのだろう?ということが体感できないのが、
唯一の心残りとなるところでした。
しかーし!!
今シーズンは収録された日の数週間後にアンコール上映というものが実施されることになったおかげで、
何一つ悔いを残さず一年を終えることができます。ばんざーい!!!

というわけで、今日はその5/9にオペラハウスで観た『チェネレントラ』の公演を、映画館で観る日です。

私は、HDに関してはメトの横向かいにあるウォルター・リード・シアターを最も贔屓としています。
ここは、やや、いえ、かなり年齢層が高めですが、観客があついヘッズ系の客筋のため、
混じって鑑賞していて、私自身、最も居心地がいい。
観客のマナーも非常に良く、音響も適切で、上映時のトラブル発生率が極めて少ない。
というか、私が観にいった限り、一度もないです。

しかし、残念ながら、この劇場はなぜかアンコール上映を行うネットワークには入っていないため、
アンコールの時は別の映画館を選ぶ必要があります。
それで今までアンコール上映の時に何度か利用したのは、チェルシーにある映画館。
ここは一度『蝶々夫人』で、大きな技術上の問題を起こし、ブラックリストにのりかけたものの、
比較的充実したアメニティ(座席の大きさと心地よさ、売店、トイレの位置と数)と、
割とオペラに新しいと見える若い観客がちらほら見えるおかげで、劇場に活気があり、
最近では、この映画館も捨て難い、と思うようになっています。
(その点、『ラ・ボエーム』で同じく大ちょんぼをかましたユニオン・スクエアの映画館は、
他に大した魅力がないので、すっかり最近足が遠のいている。)

なら、今日もそのチェルシーの映画館に行っておけばいいのに、なぜか、血迷ってしまったのです。
”今日は趣向を変えて、アッパー・イースト・サイドの映画館(ファースト・アヴェニューの62丁目)に言ってみよう。”
これが地獄への坂道となるとは、、。

仕事が終わった足でそのままそのアッパー・イースト・サイドの映画館についたのは、上映30分前。
チェルシーの映画館なら、とっくにいい席は埋まりだす時間なので、
あわてて窓口で予約しておいたチケットをピックアップし、館内に入ると、
シネ・コンと言うにはあまりにお寒く、さびれた様子にぎょっとさせられます。
しかも、もともとは一体何のための建物だったのだろう?と思わされるほど、
シネ・コンとしては、構造的に不可思議な点が多く、
規模としては非常に小さな建物であるにも関わらず、
指定されたオーディトリアムには、裏道のような関係者のためのエリアなどを通らねばならず、
意味もなく、途方もなく、たくさん歩かされるという不思議な建造物です。

早くしないといい座席が埋まってしまう!と息せき切って指定のオーディトリアムにたどりつき、
そこをのぞくと、、、あれ、、?誰もいないんですけど、、。
ウォルター・リードはいつも一時間前から並んでいる人までいて、上映30分前だともう長蛇の列になっているし、
チェルシーの映画館だって、30分前に到着した時にはいい座席は全部押えられてしまっていました。
なのに、誰もいないなんて、、、もしや、オーディトリアムの番号を間違えたか?と不安になっていると、
そこに年配のかなりよぼよぼな夫婦が登場。
いつもこの映画館にいらっしゃる方なら、普段からこんな感じかご存知だろうと思い、
”いつもHDはこちらでご覧になりますか?”と尋ねると”いや。” 、、、沈黙。
あれ、話が終わってしまいました。
仕方がないので、”私はチェルシーの映画館にこれまで行っていたんですが、
いつもこの時間には客席は結構一杯で、、。”とたたみかけても無言。
耳が遠いか、年を取りすぎて、他人と会話をするのもうざいほどか、どちらかなんでしょう。
ま、いいわ。そのうち若い人も来るでしょう、と思っていたら、
ぽつぽつ現れ始めたのは、いずれも彼ら夫婦に負けず劣らずの年配者ばかり。
しかも、ウォルター・リードの観客が、年配でも”オペラが好き!”という熱意のせいで、
よく喋り、休憩時間にはよく動き周り、矍鑠として非常に元気なのに比べると、
言葉は悪いですが、ここの客は片足棺桶に足が入っているのかと思うような、
まったりした観客が多くて、一緒にいるだけでこちらまで20歳くらい一気に年をとりそうで気分が滅入ってきます。

結局開演5分前になっても、埋まった座席は半分強。若い人の姿なんて、ほとんどなし。
ガランチャが出演する演目がこれではきついなあ、、と思いつつ、
しかし、自分の周りに座っている人は誰もいないので、個人的には快適な鑑賞が出来そう!と思っていたところ、
突然、私のすぐ前の列の、5席ほど離れたところの、
列のど真ん中に一人で座っていた小柄な年配の女性が立ち上がり、”こっちよ!”と叫ぶ。
現れた待ち合わせの相手は年配の大女。
きっとあの小柄な女性の隣に座るんだろう、相変わらず私のまわりは席ががらがらだから、快適、快適、、
と思っていたところに、その大女が”私、列の真ん中はいやだわ。”と言い出し、
二人して通路近くに座っていた私のすぐ目の前に腰を下ろしたのです。
っていうか、、、周りに数十席は空席があるのに、なんでわざわざ人の目の前に座るんだろう?
しかも、私のすぐ前の席が大女。この映画館は仕様が古くて席の勾配も少なく、
座席がリクライニングしないので、スクリーンの半分ぐらい視界がブロックされてしまいました。
がらがらなんだから、ちょっとは後ろの人間に気をつかおうよ!と思いつつ、あくまで丁寧に、
”すみませんが、二人一緒に一席内側にずれていただくか、お二人の座席を交代していただけますか?
あなたの背が高くて良く見えなくなったので”と言うと、
大女が振り返りながら、”いやよ。だって彼女(と小柄な女性を指差しながら)が
通路に一番近い席に座りたいって言うから、
私は通路から二番目の席に座るの。だから動かないわよ。”
(そして私は真後ろの列の通路から二番目の席に座っており、
一席挟んだ内側には
これまた高齢の男性が座っていた。なので彼女たちを避けようとして私が内側に一席ずれると、
ガラガラの映画館で意味もなく、彼と隣り合わせに座らなければならない。これはその男性だって迷惑。
一方、彼女たちの列は、彼女たちから内側に10席くらい空席が続いているのである。)
そう言い放つと、みえみえの嘘にかえって恐縮した様子の小柄の女性を相手に、
おしゃべりを続けたのです。

おのれ、、、ばばあだと思って調子に乗りやがって!!
一部の高齢者っていうのは、本当に頑固で嫌になります。
小柄な女性の方が、もともと列のど真ん中で二人のために座席を押えていたという
一部始終を見てるんです。
通路の側に座りたかったのは大女自身で、彼女は自分が動きたくないのと、
こんな小娘(私もたいがいな年ですが、彼女たちに比べれば、、。)に思い通りにさせてなるものか、
という気持ちで嘘まで言ってのけたわけです。
そんなことがMadokakipに通じると思ってるとはいい度胸だな、大女、、。

瞬間、考える間もなく、私の体が勝手に動いて、
会社帰りで担いできた大きなバッグと飲み物をものすごい勢いで抱え、
やおら立ち上がり、私の二つ前の列、つまり、大女の直ぐ前の列の、ばばあの目の前に、
どかっ!!と座ってました。それも、思いっきり背筋を伸ばして。
二人の会話が止まり、大女が”このアジアの小娘が、、”とギリギリしている様子が背中で感じられましたが、
ふんっ!見えにくかったら、あんたの方がそのでか尻を動かしたら?ってなもんです。
そして、脳内では、アッパー・イースト・サイドの映画館の客筋=最悪のインプットが完了。
しかし、”許し”の心を持った女性だからこそ、王子と結ばれるという筋書きのオペラの前に、
どうしてこんなつまらないことでばあさんとやりあわなきゃいけないのか。
私のような許しの心を持たない女にはきっとチェネレントラばりの幸せは訪れないことでしょうが、
まあ、それもよいでしょう。

さて、他の映画館では、オーディトリアムの前に、
当日のプレイビルからのキャスト表のコピーを置いてくれているのがHD上映の常識なんですが、
よく考えると、この映画館ではそれもない。
なので、手持ち無沙汰に眺めるものもないままに、上映開始時間の7時が過ぎ、5分経過、10分経過、、。
スクリーンには延々と、上演前の、トリヴィアのような映像が流れ続けています。
いよいよ20分が経過し、さすがにまったりした年配の客までが、”早く始めろー!”と罵声を浴びせる始末。
すると、いそいそと映画館のスタッフが現れ、”これを配り終えましたら、
上映を始めますので、、。”と言いながら、何と手にしたキャスト表のコピーを、
一人一人の観客に手渡しで配り歩くではないですか。
この映画館、馬鹿じゃなかろうか、、?
こんなの、いまどき、メトやHDのチケットを販売しているサイトに行けばいつでも見れるのだし、
それこそ、他の映画館がやっているように、印刷したものを出口に置いておいて、
欲しい人だけが持ち帰るシステムでいいではないですか?
それをすでに20分遅れているというのに、この百人近くいる観客に手渡し、、。
溜息しか出てきません。
しかも、そのスタッフが大女の友達の小柄な女性の側に来ると、小柄な女性が、
”今日の上映は何時終了の予定ですか?”
するとスタッフはきっぱりと”9時半です。”
、、、何の演目と勘違いしてるのか知りませんが、インターミッションを入れたら、
3時間近くかかるこの演目で、しかもこのまま行くと、30分のロス・タイムがあるから、
10時半と言った方が正確でしょう。
ったく、自分たちが手がけている作品の上映時間くらい、正確に把握しておこうよ!です。
結局、ホストのトーマス・ハンプソンがスクリーンに現れたのは、上映開始予定時間を40分超過した7時40分。
ありえない。
脳内にさらなるインプット、アッパー・イースト・サイドの映画館の運営能力=ゼロ。

そして、音楽が流れ始め、見覚えのある、ドン・マニフィコ家の水色っぽい壁紙が、、
あれ?緑になってる!!!!
映写室側の調節が悪いのか、機器が古くて全てこんな色合いになってしまうのか、
とにかく緑色が強くて、色が濃い。
ブラウンリーなんて舞台の奥にいると見えない。黒人なだけに。
舞台の前の方に出てきて、ああ、あなた、いたの!ってな調子。
こんなに画質の悪い映像を現代のシネコンで見るということ自体驚きです。
アッパー・イースト・サイドの映像機器の質=50年前のそれ。

公演については、オペラハウスで見たときのレポートがあり(5/6と収録日であった5/9)、
歌に関しては印象はほとんど生で聴いたときと同じなので、あえて、内容を繰り返す必要もなさそうです。
といいますか、逆にここまで生で聴いたときと印象が変わらない、というのも、ちょっとすごいものがあります。

ガランチャに関しては、声の響きの感じなど、かなり上手く音声で捉えられていて、
生で聴く感じととても近いです。
生ではすごくいいのに、録音ではその良さが伝わりにくいタイプの歌手というのが実際いますが、
彼女の場合は、録音しても良さが伝わる幸運なタイプだと思います。
生で観た際も、この日の公演は6日のそれと比べると、
アジリタも軽やかで安定しているな、と思いましたが、HDではさらにその印象が強まりました。
なので、彼女がロッシーニの役を封印する、という話は、この『チェネレントラ』からは、
技術そのものよりも彼女の歌唱のカラー、テクスチャー、そういったところから、
理由を感じるしかないと思います。

ブラウンリー、アルベルギーニ、レリエー、
この3人については、オペラハウスで実際に聴いたときの印象とほとんど変わりませんが、
強いていえば、コルベリに関しては、オペラハウスで聴くと、もう少し声のサイズが小さめに感じます。

後はオケがHDでは、やや疲れた音に聴こえたのは残念でした。
実際リングやらで疲れていたはずなので、これが実際のところだったのかもしれませんが、
オペラハウスではもうちょっと元気だったような印象がありましたので。

ビジュアルに関しては、オペラハウス内の肉眼では見えないミクロなことが色々見えて楽しかったです。

まず、ガランチャの演技で最も印象に残ったのは、ドン・マニフィコが、
”3人目の娘は死んだ”と、大嘘をつく場面。
ここで彼女は、”信じられない!”という驚きの表情でもなく、
”お父さん、許せない!”という怒りの表情でもなく、
ドン・マニフィコを一瞬憐れむような表情をし、そして反論するのをあきらめるのです。
これは、最後に父親と二人の姉を許す、という超人的なチェネレントラの優しさの
ちょっとした伏線になる役割を果たしていて、
ああ、こういう彼女なら彼らを許してしまうこともあるんだろうなと思わされます。

スクリーンの方がずっとビジュアルに関して印象が良かったのはブラウンリー。
彼の方がガランチャよりかなり背が低いというのはスクリーン上でもごまかしようのないことなんですが、
上半身のショットが多いことでだいぶ助かっているように思います。
以前のレポートでも書いたように、彼は単に背が低いだけはなく、
それに加えて下半身が大きく、足が短い、これが舞台姿において非常なネックになっているので、
それがずっと観客に見えっぱなしの生舞台に比べると、HDは彼には有利です。
しかも、彼は意外と顔の表情による演技が上手く、
これはこれで、素朴で男気があって、という独自の王子像になっていて、
私は彼に関してはスクリーン上の方が好印象でした。

それにしても私がいつも笑ってしまうのは、アルベルギーニ扮するダンディーニが、
なぜ自分たちがドン・マニフィコ家に現れたか(自分はお妃を探していて、云々)、というのを説明する時に、
王子の杖を手のひらにのせて曲芸のように舞台を横切っていくシーンです。
”そんなつまんないこと、どうだっていいんだよね。どうせこの説明も大嘘だし。全部が茶番!”
という、ダンディーニの気持ちをこの杖という小道具一本で表現し、
その部分に抑揚のない棒読みのような歌唱をつけたアルベルギーニのセンスは本当に花丸です。

そのアルベルギーニに向かって、インターミッション中のインタビューで、いきなり、
”ところでアレッサンドロ、、、”と呼びかけ、失礼千万だったのはホスト役のトーマス・ハンプソン。
アレッサンドロはコルベリのファースト・ネーム。
アルベルギーニのファースト・ネームはシモーネです。
ったく、主だったキャストのファースト・ネームもきちんと覚えられないなんて、
ハンプソンはHDのホスト失格です!

オペラハウスで観た際もいい公演だな、と思いましたが、
映画館のスクリーンで観ても、その良さが全く失われておらず、
あらためてこの公演の隙のなさとバランスの良さを思い知らされました。
今シーズンのHD演目の中でDVDにしてほしい作品はやっぱり二つだけ。
『ファウストの劫罰』とこの『チェネレントラ』です!!

Elina Garanca (Angelina also called Cenerentola)
Lawrence Brownlee (Don Ramiro)
Simone Alberghini (Dandini)
Alessandro Corbelli (Don Magnifico)
John Relyea (Alidoro)
Rachelle Durkin (Clorinda)
Patricia Risley (Tisbe)
Conductor: Maurizio Benini
Production: Cesare Lievi
Set & Costume design: Maurizio Balo
Lighting design: Gigi Saccomandi
Choreography: Daniela Schiavone
Stage direction: Sharon Thomas
OFF

Performed at Metropolitan Opera, New York on May 9, 2009
Live in HD (encore) viewed at Clearview First and 62nd Cinemas

*** ロッシーニ ラ・チェネレントラ Rossini La Cenerentola ***

MOVIE: THE AUDITION 一般公開編

2009-04-19 | メト Live in HD
今年のメトのシーズンが始まる直前の8月に試写会で見て以来、当ブログ推薦かつ必修の映画として
強力プッシュしてきた、映画”The Audition ~メトロポリタン歌劇場への扉”。
めでたくその二ヶ月後の10月に東京国際映画祭で特別上映されることになり、
このブログを読んでくださっている方の中にも、ご覧になられた方が少なくありませんが、
今日4/19は、同作品が、ライブ・イン・HDの一環として、一日きりの全米一般公開の日を迎えました。

今日もHDの『蝶々夫人』に続いて、チェルシー地区にあるシネコン、チェルシー・シネマズで鑑賞。
前回の上映ミスを通して、ヘッズのねちっこく、しつこく、うるさい性格に懲り、ゲネプロでもしたのか、
今日の上映では、最初から最後まで全く問題がありませんでした。

試写会編で内容については書いていますし、大体、オーディエンスの反応も同じだったので、
詳しく書いて重複することはさけます。

やはりオーディエンスからの人気ナンバーワンはこの人、アレック・シュレーダー。
本選の直前に、今まで公の場で歌ったことのない、『連隊の娘』のメザミを歌いたい、と言って、
スタッフや我々観客の度肝を抜きつつ、まるでサーファーかと思うようなゆるーいキャラで
見ているこっちを脱力させる好青年。
彼は、ものすごく抜けてるか、ものすごく大物かの、どちらかに違いありません。



つい最近発行されたOpera News 5月号に、彼をフューチャーした記事が掲載され、
映画”The Audition"で描かれたような、極度に競争のはげしい環境についてどう思うか?と聞かれ、
あいかわらず茶目っ気たっぷりに、こう答えています。
”競争っていうのは、ボクにはすごくストレスフルだ。
競争は結果が全て、しかも、誰かに自分のことを判断してもらう、、そのこと自体なんだか落ち着かない。
審査員はボクのことを気に入ってくれるだろうか?彼らはボクのことをどう思っているんだろう、、?
そういうことが心配になり始めたら、こう自分に言うんだ。
自分は自分じゃないか、そうやっていつも自分らしくいることができれば、
競争の結果がどうあろうと、結局何も変わらないよ、、多分、小切手の金額以外はね。”

女性で一番熱い支持を受けていたのは、東京国際映画祭の上映の際に訪日し、
会場で二曲生歌を披露してくれたというアンジェラ・ミード。
映画の中で、オーディション参加者全員によるオケ合わせのシーンがありますが、
彼女の他の歌手からも何かを学ぼうとしている謙虚な表情を見ると、
彼女の素晴らしい歌は、持って生まれた素質に加えて、この姿勢があるからだな、と思います。



彼女は今年、キャラモア音楽祭で、ヴィヴィカ・ゲノーと共に『セミラーミデ』に出演します。
私も観に行く予定にしていますが、猛烈に楽しみです。

そして、歌の素晴らしさだけでなく、このAuditionのプロセスを通して、
一人の歌手として、ブレイク・ポイントを迎え、成長していく姿が感動的なライアン・スミス
(冒頭の写真で舞台に立っているのが彼)。
以前、当ブログのどこかの記事にて、彼のその後についてふれましたが、
まだご存知ない方は、エンディング・ロールの最後の最後に現れますので、お見逃しないよう。

また、おそらく、これは東京国際映画祭でご覧になった方も、
未見の映像のはずですが、一般公開用の映像には、最後に、
このナショナル・カウンシル・オーディションの出身者である、
ルネ・フレミング、スーザン・グラハム、そしてトーマス・ハンプソンの3人による対談の付録がついてきます。
メトのバーテール席で撮影されているのですが、
後ろに、大道具の人が『つばめ』のセットを組んでいる様子が写っているので、
12月以降に撮影されたもののはずです。

30分近くにも及ぶ対談で、彼らクラスの歌手になると、あまりに突飛なこともいえないので、
良識的な発言が多いですが、それでもなかなか興味深い話が多く、観る価値あり、です。

例えば、ハンプソンが、ある参加者があまりに”競争”という点を意識しているのを、
”健康的でない”と言い、”同僚とはお互いに支えあい、協力しあうべき”という旨の発言をしていますが、
それは、オーディションのような、競争の側面が強い環境と、
そこを越えてしまった、通常のオペラの公演のような、共同作業の場であるものとを
同列に比較することはできないと私は思います。
ただし、この映像では、ハンプソンが、発言する時と内容をわきまえ、
思いのほか、”会話上手な人”しているのにはびっくりです。

進行役であるルネ・フレミングが、同じ年のナショナル・カウンシルでの
ファイナリスト同士だったスーザン・グラハムに、
”ナショナル・カウンシルについて、もっとも鮮明(vivid)に覚えていることは?”と質問したときの、
グラハムの答えが最高です。

追記:
日本公開版にはこの対談が含まれていない、という情報をコメント欄で頂きました。
なので、グラハムの答えも開陳してしまうと、
 ”あなたのドレスのあの強烈な青い色” でした。

日本にお住まいの方は6月に上映が予定されています。
東京国際映画祭に行けなかった方、行ったが三者対談のためにもう一度観たい方、、、
理由は何でもよいです。ぜひ、映画館に足をお運びになってください。
オペラ、いえ、舞台芸術を愛する人すべてに、強く、強く、おすすめします。


"The Audition"
Directed by Susan Froemke
Starring 2007 National Grand Council Finalists

Jamie Barton, mezzo-soprano
Michael Fabiano, tenor
Angela Meade, soprano
Alek Shrader, tenor
Ryan Smith, tenor
Amber L. Wagner
Kiera Duffy, soprano
Dísella Làrusdóttir, soprano
Ryan McKinny, baritone
Nicholas Pallesen, baritone
Matthew Plenk, tenor

Viewed at Chelsea Cinemas, New York

*** 映画 The Audition ~メトロポリタン歌劇場への扉 Movie The Audition ***

HD: MADAMA BUTTERFLY (Wed, Mar 18, 2009)

2009-03-18 | メト Live in HD
注:この公演はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。

ガラの興奮もいまだ冷めやらぬうちに、また新たな興奮の日がやって来てしまいました。
3/7の『蝶々夫人』の公演は、オペラハウスでの鑑賞でしたが、
このときほど、映画館で生中継されたライブ・イン・HDを観るための、
自分のダミーが欲しい!と激しく思ったことはありません。
しかし、そんな私を神は見捨てなかった!!
その公演後に、アメリカでも、HDにアンコール上映なるものが存在する
(しかもたった10日ほどのタイムラグで!)と知り、
リアル・タイムではないですが、その時と全く同じ映像が見れる!と大興奮で指折りこの日を待っていたのです。

絶対に遅れてはいけない!と気合満々で会社から映画館に直行したため、一時間も早く着いてしまいました。
開演前までどれほど焦れったかったことか!

ライブ・イン・HDはアメリカでもすっかり人気が定着し、
最初は確か一つの映画館だけでスタートしたマンハッタンも、
今や複数の映画館で再上映が行われるまでになりました。
生のHDの上映の際は、音響の適切さ、客筋の良さ(=オペラヘッドが多い)、
我が家からの地の利などの理由で、メトからすぐ道向かいのウォルター・リード・シアターを贔屓にしている私ですが、
なぜか再上映のネットワークには入っていないようで、
今回私がライブ・イン・HDの鑑賞スポットに選んだのは、チェルシー(西23丁目あたりの界隈)にある、
その名もまんまのチェルシー・シネマズ。
究極のシネコンで、10近くのオーディトリアムがあり、
外のオーディトリアムでは、ハリウッド映画がかんがんかかっている映画館です。
そのため、緊迫した無音状態、例えばピンカートンの乗った軍艦が長崎港に入港する、
という大切なシーンなど、で、他のオーディトリアムから、別の映画の
ごおおおおおおーっ!という効果音がうすら聴こえてくるのは、超興醒めでした。

再上映、しかも、ゲオルギューとか、ネトレプコ、といった超人気歌手は出演していない、
さらに今日は平日の夜、ということで、SFOのシネマキャストの時のような閑古鳥状態を予想しながら
オーディトリアムの扉を開いたのですが、なんとびっくり!
まだ上映開始まで30分以上あるというのに、中央エリアの後方はほぼ満席。
その後もものすごい勢いで座席が埋まって、上映前までには、全エリアほぼ満席状態になってしまいました。
そして、驚くべきは、実に若い客が多い。
高校生や大学生くらいの年齢で、一人で観に来ている女性の姿もちらほら。
素晴らしい。未来のオペラヘッドたちの姿をまばゆい思いで見守る私でした。

しかし、上映が始まって、ますます驚いたのは、客のマナーの良さ。
というか、良さ、という言葉が生ぬるく感じるほど、
一切の私音なく静まりかえって、息苦しくなるほどの沈黙の中で、みんなスクリーンを見つめているのです。
アメリカではほとんど起こりえないと思っていたこの光景に、
一体今日の客筋はどういう人なんだろう?と怖くすらなった私です。
おそらく、私の推測ですが、ほとんどが3/7に生のHDを観たリピーターか、
私のような事情でやむなく映画館に行けなかった客のどちらか。
つまり、明らかに、この蝶々夫人が素晴らしい公演だと知っている客層と見ました。

しかし、上映が始まってすぐ気になったのは、音。
なんだかオケの音がすかすかで、劇場で聴いたときはこんな音じゃなかったのに、、と思っていたら、
すぐに謎が解けました。
音が、スクリーン横のメイン・アンプからしか出ていないのです。
サイドのスピーカーからは全く音が出てない、、、まじかよー??畜生ー!!
普通ならすぐに映写技師に走って文句を言いに行くところですが、
しかし、ラセットの蝶々さんの一挙手一投足を見逃すわけにはいかないのです。ああ、人生最大のジレンマ!!

と思っていたらば、とんでもない事態が発生。
蝶々さんが、ピンカートンに自分の持ち物を見せている場面で、
父親が自害に使用した刀が出てきた瞬間、画面がブラックアウト。
音声は出ているのですが、なんにもスクリーンに映ってません。
数秒で戻る事故だと思いつつも、”ちょっとー!”とぶーたれる客たち。
しかし、これが数秒どころか延々と続き、とうとう客たちが大噴火。
”こっちは金払って見にきてんだぞー。ブラックアウトしたところまで巻き戻せー!”とか、
”勘弁しろよ!”といった怒号が飛び交います。
ああ、おそろしや。
そうするうちに、映画館のスタッフの女性がオーディトリアムの後ろの扉から顔を出し、
そのあたりにいた客たちに事情を説明しはじめると、すでに噴火状態の客が、
”前に行って、全員に向かってちゃんと説明しろ!”ときれる。
”でも、ちゃんと皆さんに聞こえてますから。”としゃらりと口答えをかましたスタッフに、
気が付くと、”No, we can't! (聞こえてないわよ、全然!)”と
オーディトリアムの逆の端から大声を飛ばしているMadokakipがいました。
そんな私を、通路向かいの席から”私、この人たち、こわい、、”という目で見つめている未来のオペラヘッド・ギャル。
まあね、あなたたちもね、順調にオペラヘッドの道を辿ったら、あと数年したら、こうなるんだから。
人生の何にもまして、オペラに関することが最重要事項となるのです。
結局、技師がすぐに修整できると思うので、もう少し待ってくれ、とのこと。

憤懣やるかたなしで着座したあと、隣に座っていた女性二人連れに向かって、
”しかも、この映画館、音響、最悪じゃないですか?”と聞くと、
彼女たちも、”確かに。良く考えてみたら、全然サイドの音が聴こえないわよね。
前回のルチアの時はそんなことなかったのに、。”、、やはり。
しかし、よく考えたら、今、映像を直しているのに便乗して、音のことも文句を言うチャンスでは?
というわけで、オーディトリアムを出て、しつこい客に、
”あと何分でなおるの!?”と、つめられ続けている女性スタッフに、
音響の問題を説明すると、それも技師に取り次いでくれるとのこと。

こういう場合、たいてい言葉と裏腹に修復に時間がかかるNY。
もうこのまま蝶々さんが見れないのでは、、
ああ、アッパー・イースト・サイドの映画館にしておけばこんなことにはならなかったかもしれないのに、、
と悲しみに身をまかせていると、十分ほどで室内の照明が暗転。
ちゃんと再開しました!!!ブラボーッ!!しかも、音の問題も直っていて、
さっきまでのしょぼい音響とは雲泥の差の、クリスプな大音響のサラウンドに。
ちょっと私の好みよりも、音が大き目でしたが、もう不満は言いますまい。

まず、音がきちんと聞こえるようになって、最大の驚きは、
あれほど劇場ではコンディションが悪く感じたラセットが、そう悪くは聴こえないこと。
彼女の場合、調子が悪くても、最低限の声量が十分にあるので、マイクで拾われてしまうと、
劇場でははっきりと感じられた、いつものような迫力、エッジ、ボリューム感に欠けていることが
それほど明らかではありません。
特に、彼女自身が、”この作品を歌っていて、一番ここが好き!”と言っている
ピンカートンの船の入港の後に、ei torna e m'amaと歌う部分では、
劇場では、いつものような、がつーん!と来る感じが乏しいな、と思ったのですが、
(実際、彼女のここの歌唱がすごいと、いつも思わず客席からBravaの声と拍手が飛ぶのですが、
3/7はそれがありませんでした。)
逆にHDにのってしまうと、却ってこの日の歌唱くらいの方がフォームが綺麗にきこえるくらいです。
しかし、それとは引き換えに、彼女がものすごく上手く、
いつも並みに歌っていた部分は、そのすごさが十分には伝わっていませんでした。
それは、ニ幕二部の最後、つまり、公演の最後の最後での、オケの音が、
”劇場ではこんなしょぼい音じゃなかったぞ!”と思うくらい、コンパクトに録音されてしまっていることからも明らかです。
ここは、本当に、グランド・ティアのサイド・ボックスに座っていると、
オケピから地鳴りのような振動を感じた部分なので、こんなしょぼい音に録音されて、、ととっても残念でした。
つまり、HDとは、とても良い部分、あまり良くない部分、両方ともを、
控えめに見せる傾向にあると思います。
なので、仮にラセットが彼女の最高の歌を歌ったとしても、
それと比例するすごさでHDに捉えることは出来なかった可能性もあり、
結果としては、今回のHDでも、十分に彼女の歌の良さは伝わっていると思います。

彼女の演技についてですが、全くHD用に大人しく演技する、というような手心を加えず、
生の劇場モード全開で演技してます。
ここが私がラセットを好きである由縁なんですが。
(アラーニャの言うHDモードの、”スクリーンのための”演技なんて、クソ食らえ、です。)
オペラは何よりも、その公演のために劇場に来た観客に何かを伝えなければならない、というその信念。
HDのスクリーンだけで見ると、仕草や表情がものすごく大きく感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、
メトのオペラハウスでは、しかし、これが、完全に正しい、適切な大きさの演技であることは、
私が自信を持って申し上げます。

一方で、実際の劇場ではちょっと演技が繊細すぎて、
客席に全部が伝わっているとは言い切れないところもあるのですが、
スズキ役のマリア・ジフチャックの演技は、HDで観ると見事です。
彼女の、基本は無愛想なのに、ちょろり、と、蝶々さんのためだけに見せる優しい微笑みや、
彼女のために本気になって泣いたり怒ったりする表情など、本当に上手い。
(彼女は、あの思い出の出待ちの日にサインを頂いた歌手の一人ですが、
側に立っているだけで、温かいオーラが発散されている、素敵な人でした。
その彼女の人柄は、このHDの幕前のインタビューでも伺われます。)

この蝶々さんの公演は、2006年にミンゲラ演出が初演されてから
ほとんど脇役のキャストが変わっていなくて、この脇役陣がものすごくしっかりしているのも魅力になっています。
なかでも、ヤマドリを歌うデヴィッド・ウォンは、声だけ聞いていると、
とてもアジア系とは思えない豊かな深い声で、『ルサルカ』の狩人役の時も思いましたが、美声です。
また、彼もジフチャックと同様に、演技が繊細すぎて、
実演では魅力のすべてが伝わりきっていないのが残念ですが、
同じ日本人として何とか蝶々さんを必死で助けようとしているかのような、
優しさのあるヤマドリを好演していて、HDではその魅力が発揮されています。
ヤマドリが去っていくときに、ふっとラセットが見せる、
”私はこれで日本という国との最後の接点を自分の手で断ち切ってしまったのかもしれない。”
という不安気な表情が見事です。

ボンゾを歌っているキース・ミラーはHDで観ると、なんとなくおわかりになるかもしれませんが、
日系の血が入ったアメリカ人で、彼も、劇場で聴いても、このHDと同様の、深く、良く通る声をしています。
このほか、ゴロー役を歌っているフェダリーも、毎回安定した歌唱を繰り広げているキャストの一人です。

最も実演で観ているときと印象に相違がないのは、シャープレスを歌うクロフトかもしれません。
実演のレポートで、彼が緊張で、手紙のシーンで苦労していた、という部分は、
よーくご覧になると、緊張で手が震えてくると、すぐに腿などに手をおいて、
それを止めようとしていることから伺えます。
しかし、HDとは不思議なもので、劇場では少し離れた席でもあれほど震えているように見えたのが、
スクリーンではそこまでには見えない。
生の舞台というのは、物理的に目で見えることだけでなく、
歌手の感じている気持ちとか、エネルギーを感じる場なんだな、ということがよくわかります。

そして、実演より一層悪い出来に見えるアンラッキーな人はジョルダーニ。
彼はこの日、声の調子があまり良くなかったと思われ、声に独特のざらつき感が目立ち、
高音での勢いも全くなかったのですが、
この手の不調は、容赦なくHDに写し、録りこまれてしまっています。
むしろ、声量はある人なので、実演での方が、良く聴こえたかもしれません。
今日の映画館の客から多くのブーを食らってしまったのは彼一人でした。
(明らかに役のキャラクターに対するブーではなく、パフォーマンスに対するブーでした。)

SFOのシネマキャストの時の公演のラセットの演技が非常にintimate(親密)な感じがするのに比べ、
このメトの公演では、彼女の演技や歌が少しグランドな感じになっているのが興味深かったです。
結果として、SFOが泣ける蝶々さんであるのに対し、メトの蝶々さんは、
むしろ、観客は泣くことも忘れてその迫力に圧倒されて打ちのめされる、といった種類の公演になっています。
私個人的にはSFOのような種類の歌唱と演技の方が好きですが、
メトのこれはこれで、”パワーハウス仕様”といった感じで、また違った種類の歌唱として感銘を受けます。

その一つの原因は、やはりミンゲラの演出にあるように感じます。
ミンゲラはご存知、映画『イングリッシュ・ペイシェント』などの監督で知られる映画畑の人ですが、
彼の初のオペラ演出が、このメトでの『蝶々夫人』(2006年に新演出が初演)です。
彼の生前のインタビュー(彼は昨年、がんが間接的な理由となって逝去しています。)や、
出演者のコメントを聞くと、これでもかなり抜き・引きのコンセプトを演出に取り込もうとしたようですが、
私から見ると、まだまだ詰め込みすぎです。

そのことが、やたら蝶々さん(ラセット)を舞台上で動かす結果になっていて、
SFOがなしとげていた感情表現への集中というものを不可能なものにしています。
ラセットは、ばたばた動かさなくても、自分できちんと感情を歌や演技で表現できる人なので、
こんな枠は必要ありません。

また、この公演で使用されている文楽人形は、やっぱり怖すぎます。
二幕二場の初めに舞が入る部分でも、ピンカートンを演じているダンサーに
へばりついていく蝶々さん人形は、チャッキー(映画『チャイルド・プレイ』に登場する、
人形の形を借りた殺人鬼)も顔負けの怖さです。
しかし、私が言うのは、見た目の怖さだけではなく、蝶々さんの子供を演じる文楽人形について、
今まで何度も言ってきたとおり、大人が意図したとおりに動かせるゆえの、
不気味さを感じるのです。
生前のミンゲラやHDのインタビューでも登場する、彼の奥様であり、コラボレーターでもある、
カロリン・チョアが語っているところによると、
子役を使用すると、演出家が望んでいるとおりに芝居をしてくれない、という問題があり、
文楽人形の使用は、それを解決した、ということになっています。
でも、私は、子役は、自分の境遇をわかっていなければいないほどいい、と思っていて、
舞台で、蝶々さん役のソプラノに抱きしめられながら、身をすくめたり、
呑気に舞台で遊んでいたり、全くオペラで進行していることに興味のない素振りをしたりするのを見ると、
”おお、これだよ、これ!”とわくわくしてしまいます。
子供が自分の身の不幸をわかっていないからこそ、蝶々さんの
”お前のお母さんはお前を抱いて Che tua madre dovra"(シャープレスに、
ピンカートンが戻ってこなかったら?とほのめかされて、それなら、芸者に戻るか、
それかいっそ死ぬわ!”と歌う場面)や、
最後の”さよなら坊や Tu! Tu! piccolo iddio!"での絶唱が光るのです。
親の心、子知らず、、、そして、この子のアメリカでの運命はどうなってしまうのだろう、、。
それを、この文楽人形は、訳知り顔で、かわいこぶって蝶々さんにしっかりと抱きつき、
しなを作ったりして、その計算ずくの可愛らしさ、蝶々さんの気持ちをわかってそうな感じが、私には許せません。
怖すぎるのです。こんな子供いるかっての!と。

ラセットは普段から、非常にユーモアのある会話をする人で、
幕間のインタビューでもそれが全開です。
一幕の最後に、桜吹雪が舞台の床にふりしきって、すべりやすくなっているのを冗談に、
ジョルダーニに舞台袖まで彼女を抱えて行くように指示し、
(ラセットはがっちりしているので、それこそジョルダーニのような大きい男性でないと、
それも難しいと思うのですが)
ジョルダーニがインタビュアーであるフレミングのところまでラセットを連れて来て、
床に下ろすと、”Thank you for carrying my ass.”とジョルダーニに言い放ち、
映画館中大爆笑でした。
訳すと、”私のデカケツを運んでくれてありがとね!”というような意味ですが、
日本のHDではどのように訳されるでしょうか。

今回は彼女が主役ということで、彼女自身も一生懸命気をつかってアップビートな
受け答えに終始していましたが、
第二幕第二場(自決する場面の直前)のインタビューで、フレミングが話しかける前に、
顔の表情がすでに蝶々さんモードになっているのがみものです。
インタビューのおかげですっかり地に引き戻され、
インタビュー後、また一から役に入りなおしたんだろうな、と思うと気の毒でした。
このインタビュー、観ている方は楽しいですが、もうちょっと歌手のことを気遣ってあげてもいいのにな、
といつも思います。

まあ、好き放題書きましたが、どうか、映画館に足をお運びになり、
頭をがつんとやられて、しばらくは言葉も発したくなくなるような
素晴らしいこの公演をご自身で体験していただきたいと思います。


Patricia Racette replacing Cristina Gallardo-Domas (Cio-Cio-San)
Marcello Giordani (Pinkerton)
Dwayne Croft (Sharpless)
Maria Zifchak (Suzuki)
Greg Fedderly (Goro)
David Won (Yamadori)
Keith Miller (Bonze)
Conductor: Patrick Summers
Production: Anthony Minghella
Direction & Choreography: Carolyn Choa
Set Design: Michael Levine
Costume Design: Han Feng
Lighting Design: Peter Mumford
Puppetry: Blind Summit Theatre, Mark Down and Nick Barnes
ON

Performed at Metropolitan Opera, New York on Mar 7, 2009
Live in HD (encore) viewed at Chelsea Cinemas, New York

*** プッチーニ 蝶々夫人 Puccini Madama Butterfly ***

HD: ORFEO ED EURIDICE (Sat Mtn, Jan 24, 2009)

2009-01-24 | メト Live in HD
注:この公演はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。


演目数でいうとちょうど今日の『オルフェオとエウリディーチェ』が
折り返し地点(予定されている全10演目中、第6演目目)にあたる
今シーズンのライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)ですが、
残りの4演目はオペラハウスで実演を観る予定にしておりますので、
私にとっては今シーズン最後の映画館での鑑賞です。

ライブ・イン・HDの演目は、オペラ作品として非常にメジャーなものか
(今年の例で言うと『蝶々夫人』、『サロメ』)、
逆にあまり頻繁には上演されない貴重な演目(『ファウストの劫罰』、『ドクター・アトミック』)か、
スター歌手で観客を釣る演目(『ランメルモールのルチア』)か、
そのコンビネーション(『つばめ』や『タイス』)に分けられるかと思うのですが、
それでいうと、今日の『オルフェオとエウリディーチェ』は、
滅多に演奏されない、というほどマイナーな演目でもないですし、
名前だけで集客を見込めるビジュアルに秀でたスター歌手がキャストされているわけでもない、
という点で異色の一本で、最も集客に不安が残る演目かも知れません。

しかし!!そんなうわべに騙されてはいけない!!
今日の公演、嬉しいことに、ブライスの今シーズンで最もすぐれた歌唱、プラス、
合唱の熱唱により、全オペラ・ファン、特に、普段、グルックの作品をあまり
聴かない、という方に、ぜひ観ていただきたい出来となりました。
はっきり言って、ワタクシ的には、現在のところ、
『タイス』や『つばめ』をごぼう抜きし(『つばめ』は私お気に入りの演目ではありますが)、
公演の出来としては、私がべた褒めした『ファウストの劫罰』に僅差で続く
ライブ・イン・HD演目となっています。

この作品の上演時間は約一時間半。
通常のオペラ・レパートリーの中では、割と短い演目のグループに入りますが、
このメトの公演では各幕の間のインターミッションがありません。
(暗転すらなく、音楽はぶっ通しで演奏されます。)
インターミッションなしで一時間半もの間ぶっ続けで演奏するのは、
ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の第一幕くらいに相当するわけで、
そのあたりの苦労を含めて、今日のホストである、メゾのジョイス・ディドナートが、
レヴァインに聞く直撃インタビューで今日のHDはスタートしました。
インターミッションがないので、いつもの幕間のインタビューなんかはどうなってしまうんだろう?
と思っていましたが、簡単に解決しましたね。
しかし、開演予定時間の一時を過ぎてからこのインタビューが始まったので、
実際にオペラハウスにいた客は15分ほど手ぶらで開演を待たされたことになります。
私がオペラハウスにいたらば、きれてます。

さて、このジョイス・ディドナートは、2006年シーズンの『セビリヤの理髪師』のロジーナ
(これはライブ・イン・HDの演目でもあり、NHKなどでも何度か放送されたようですので、
ご覧になった方も多いと思います)や、昨シーズンのタッカー・ガラでNYの観客を魅了し、
何を隠そう、私も彼女の歌から溢れるポジティブ・パワーに感染した一人です。



その彼女がライブ・イン・HDのホスト役を受け持つのは私が知る限り初めてで、
珍しいな、と思っていたらば、良く考えてみると、明日日曜日(1/25)の、
メト・オケのコンサート
のゲスト・アーティストが彼女でした。

袖に白いジオメトリック柄の入ったちょっぴり60年代っぽい黒のワンピースがとっても似合ってます。
ディドナートが一時間半の長丁場をどのようにペース配分するのでしょう?とレヴァインに尋ねると、
”この作品は、音楽はどこもドラマがてんこ盛りで、
ペース配分して気を抜くような場所が実際ないんですよね。”と答えてましたが、
本当にその通りだと思います。

ヴェルディやプッチーニはおろか、ベルカントもの(ドニゼッティ、ベッリーニ、ロッシーニ)あたり
の演目と比べても やや古風な感じがする音楽スタイルに惑わされそうになるグルックの作品ですが、
しかし、良く聴くと、グルック以前と以後では、
音楽作品としてのドラマティックさの面で圧倒的な差があり、
現在のレパートリーの中核をなしているオペラ作品群のスタート地点がどこにあるか、
という問いに、 グルックの名前を出す人が少なからずいるのは、
前回の実演の鑑賞レポでも書いたとおりです。
で、私が今日のライブ・イン・HDの公演を、『ファウストの劫罰』と比肩するまでに評価する理由は、
そのことがとてもよくわかる公演になっているからです。

まず圧倒的に評価したいのは合唱です。
数年前までは、スター歌手やオケの力、豪奢なセットの間で、
メトでは最も非力な要素に感じられた合唱ですが、もうそんなことを言う人はおりますまい。
ライブ・イン・HDの演目でも、実演でも、めきめき力がついているのが伝わってきていましたが、
この『オルフェオ~』の公演での合唱は、私が今までに聴いたどの公演よりも
素晴らしい合唱だったと思います。
合唱に限って言えば、『ファウストの劫罰』のさらに上を行っているといってもいいかもしれません。
特に、第二幕にあたる、冥界の入り口でオルフェオが
合唱歌い演じる死霊たちに取り囲まれるシーンは圧巻で、
Chi mai dell'Erebo fra le caligni(この冥界の暗闇にあえて踏み込むものは誰か?)
で始まる合唱部分での 彼らの熱唱に、私は金縛りに合いました。
この合唱で込み上げてくる熱さは、ヴェルディ作品の合唱を聴いて沸き起こる気持ちと
基本、何も変わるところがないと思います。
それを支えているオケも出すぎず、おとなしすぎず、完璧なバランスで見事でした。
この部分の演奏の良さは、これまで実演で聴いた舞台でも、
シリウスで何度か聴いた放送からも感じられなかったレベルのもので、
それが映画館で鑑賞できるのですから、これからチャンスがある方は、見逃してはなりません。

さて、この公演のもう一本の大車輪は、ブライス。
私はコレッリに、カウフマンに、フローレスに、、と、生まれ国と生まれ年に関わらず、
私の好みに合う(ここ大事!)見目麗しい歌手はそれはそれで大好きですが、 一方で、
ビジュアルにそれほど恵まれないために歌の良さが正当に人気や評価に反映されていない歌手たち、
名づけてVCS (visually challenged singers)も サポートしたい!という、
一人プロジェクトを当ブログにてこっそり立ち上げておりまして、
しかし、当然のことながら金をばら撒いてサポートするほど資産のない私なので、
出来ることといえば、このブログでご紹介するくらいのものなのですが、
実は、少し前に、オフリンの歌をご紹介したのもその一環です。
あまりにこっそり始めたので、どなたも気付けるわけがないプロジェクトですが、、。
その中にどんな歌手が入っているかというと、パトリシア・ラセット、そして、
このステファニー・ブライスなどがおります。
(マリエッラ・デヴィーアも名誉会員としたいくらいですが、
彼女の場合は、オペラヘッドからのリスペクトがすごいので、
ちょっとクライテリアにあてはまらないかもしれないです。)

というわけで、ブライスに関しては、2006年シーズンの『三部作』(三部全てに出演し、
見事に違うキャラを歌い演じ分けた。)などを通し、その実力にずっと注目していたメゾなのですが、
なぜだか、その『三部作』がHDにのったときは実演で接したときよりも 少し元気がなくて、
”割と歌の上手い太ったおばちゃん”くらいな印象しか残せなかったような気がするのですが、
今回はものの見事に、主役(それもほとんど出ずっぱりで歌うのはこのオルフェオ役だけ)の
プレッシャーをはねのけ、彼女の、この役における最高の歌唱を聴かせてくれました。
すごいのは、今回、1/9にプレミアを迎えて以来、
四回目の公演(五回目になるはずでしたが、一日降板しているので、四回)ですが、
このたった四回の間においてすら、歌が目覚しく進化した点です。
まるでスポンジのような人です。

初日のシリウスの放送では分断した高音域と低音域の響きが課題だと感じましたが、
実演で聴いたときには少し低音が引いているものの、格段の進歩が見られ、
そして、今日のHDでは低音を高音と同じくらいに前に持ってきて、
その上に響きを高音域と統一感のあるものにするという
当初の課題を完全にクリアしており、私は彼女の歌を聴きながら我が耳を疑ったほどです。
今日、初めて彼女のこの役を聴いた人なら、高音域と低音域が分断して聴こえる公演が
たった数週間前にあったとは誰も思わないでしょう。

しかも、アリア”Che faro senza Euridice エウリディーチェを失って”の、
”ne dal ciel (地上にも)天にも(望みは何一つない)”の
neの音に装飾音を足して歌っているのですが、
これが今までの公演では重くて上手くまわりきっていなかったのですが、
今日、このライブ・イン・HDで成功させているところも彼女の集中力を感じます。
例えば、『ルチア』の狂乱の場なんかは鼻歌で歌えと言われても難しいですが、
このオルフェオのアリアは、装飾音の部分以外の実際にスコアに書かれた部分なら、
一緒に口づさめる気がするほど、簡単なメロディーですし、
音域も、女性なら、そんなに大変ではありません。
(you tubeに、楽譜に沿ってマリリン・ホーンが歌ったそれが聴ける
ポスティングがこちらにありましたので、どうぞご一緒に歌ってみてください。
ただし、この音源がどういうものなのかわからず、ライブで歌詞を間違えたものか、
よくわからないですが、ホーンは上でふれた個所、cielとは言っていないです。)



しかし、この単純なメロディーの中にいかにオルフェオの心を込められるか、
まさに歌手の音楽性が問われる恐ろしいアリアです。
このアリアをブライスは淡々と歌いますが、それがまた良い。
ここが、実演の感想で書いた、マーク・モリス・ファンのギャルたちを涙させたシーンです。

実演の鑑賞で、彼女は舞台の動きが少しぎこちない、と書きましたが、
まあ、あれだけ大柄ですので、無理ないのかもしれません。
HDでみると、顔の表情を使った演技は悪くないのがよくわかります。

実演の鑑賞時に彼女の立体的な声が、きちんとHDに捉えられるか確認したい、
と書きましたが、ブライスに関してはそちらも申し分ないと思います。
そのおかげで、デ・ニースの声や歌唱が平べったい、という私が実演で持った感想も、
かなり忠実に再現されることになってしまいました。
デ・ニースはルックスは非常に魅力的ですが、こうしてHDで演技を見ると、
まるでティーンエイジャー向けのテレビ・ドラマに出演している
演技力のない女優ばりの深みのない演技でがっくり。
劇場ではこんなにひどく見えなかったんですが、、。
こういうHDのような媒体では、ブライスくらいの演技の方がぴったり来るんですから、
匙加減が難しいです。

一方、ハイディ・グラント・マーフィーが演じるアモーレは、
今日は鍛冶場の馬鹿力で、ブライスと同じく、今までで最も出来のいい歌を出してました。
彼女は遠目でみると若々しいんですが、HDでみると、ヒラリー(・クリントン)にそっくりでびっくり。
えらい年増のアモーレですが、まあ、それもいいでしょう。

順序が前後しますが、冒頭のレヴァインのインタビューの後、
ディドナートが突撃したのは、実演のレポートで私がこれでもか!と叩き切った
振付および演出担当のマーク・モリスでした。
見た目はがっしりとしたおじさんなのですが、
首に真珠のネックレスを巻きつけ、ピンクのショールをひらひらさせながら、
”クィーン(注:ゲイの男性を指す言葉。しばしばプライドに満ちたゲイ、といった
ニュアンスがある。)の私に言わせていただければ、、”
といきなりゲイ宣言をかまして語りだした口調がこれまたいかにもクィーンっぽく、
映画館は温かい笑いに包まれました。
そのモリスの振付、これが、HDではそう悪く観えないのには正直、驚きました。
ダンサーがみんな若々しくて可愛いからかな、、。なんだろう、、?
あれだけ遠目で観たときには寒く見えたダンスが、こうしてスクリーンでアップで観ると、
さほど気になりません。
また、エンディング直前のダンス・シーンでは、男性と女性、男性と男性、など、
いろいろなコンビネーションのペアが組んで踊り、
世界には色々な愛の形がある(”ゲイ・カップルもその一つ!”)というメッセージなどが
こめられており、これらはスクリーンで大写しで観て、初めてきちんと伝わってきました。
映画館の中の観客の受けもポジティブでした。

合唱とブライスの渾身の歌唱がなんといっても光っていましたが、
またそれ以外の部分の要素も、実演よりもHDでの方が効果があがっているという、
HDをご覧になる方には幸せな例です。
先週の舞台を練習台にした効果もあって、舞台交換、ライティング、など、
全くケチのつけどころのないような完璧な出来でした。
犠牲になった甲斐もあったというものです。

しかし、これだけの演奏を聴いておきながら、私の隣に座っていた年配のご夫婦は、
”わたし、ブライスを見てたらいらいらするわ。
だって、全然美しくないんですもの。太ってるし。
この作品はラブ・ストーリーなのよ!とにかくこんなの、全然私にはぴんと来なかったわ。”

、、、、。
なんて罰当たりな。

そうかな?私はこの作品、普通でいうところのラブ・ストーリーでは
ないと思っているので、全然平気ですね、ブライスが男装の麗人じゃなくても。
この作品は普通のラブ・ストーリーではなくって、
人間は情けない誤りを繰り返し犯してしまう馬鹿みたいな生き物だけど
その一方で、尊い感情(その一つの例が愛だけれど、別に愛でなくてもいいと思う。)
も持てる愛すべき存在でもある、
ということが言いたいのではないかな、と思っています。
それは、オルフェオのアリアに感激し、むせび泣いたすぐ後に、
あっけなくエウリディーチェが生き返って、観客が”なんだよー”と、
照れ隠しに笑ってしまうところにあらわれていると思うのです。
NYの映画館ではここでどっと笑いが出ましたが、
でも、それは、なんだこれ?馬鹿みたいな単純な話!という笑いではなく、
ちょっと涙しちゃった自分が照れ臭い、というような笑いのように私には思えるのです。
このテーマをきちんと一部の観客に伝達できたこの公演は、
やっぱり優れている!と思うのです。
もちろん、当作品をあくまでラブ・ストーリーとして観たい方には
そうやって観ていただいて、一向に差し支えないことはいうまでもありません。
でも、そういった方には、やや鑑賞に障害が出る可能性のある公演である、と警告します。

一方、
1)この作品をあくまでラブ・ストーリーとして観たい人、および、
2)映画館のスクリーンには美人しか出てはいけない!と思っている人、
このどちらにもあてはまらない方には、ぜひ、鑑賞をおすすめします。


Stephanie Blythe (Orfeo)
Danielle de Niese (Euridice)
Heidi Grant Murphy (Amor)
Conductor: James Levine
Production: Mark Morris
Set design: Allen Moyer
Costume design: Isaac Mizrahi
Lighting design: James F. Ingalls
Choreography: Mark Morris
OFF

Performed at Metropolitan Opera, New York
Live in HD viewed at Walter Reade Theater, New York

*** グルック オルフェオとエウリディーチェ Gluck Orfeo ed Euridice ***

HD: LA RONDINE (Sat Mtn, Jan 10, 2009)

2009-01-10 | メト Live in HD
今日は久々の、ダブルヘッダー。
演目はいずれもプッチーニの作品で、まずはマチネ公演の『つばめ』のライブ・イン・HDを映画館で鑑賞です。

今日もウォルター・リード・シアターはほとんど満席状態。
開演前、ホスト役のルネ・フレミングが一通りの前振りの後で、
”ここで、ゲルプ支配人から一言あるようです”と言い放った時、
その満席状態の客から、不安のざわめきが巻き上がりました。
誰が出演できなくなったのか、、?!まさか、アンジェラ?まさか、ロベルト、、!?

ゲルプ氏が舞台上に登場。
”アンジェラ・ゲオルギューがひどい風邪をひいておりますが、
観客の皆さんを失望させたくない、ということで、本日の公演に出演します。
どうぞ、私と一緒に彼女の健闘を祈ってください。”

こういうアナウンスメントって、それだけで歌手の気が楽になる効果があるというのもわかりますし、
結果がいまいちでも、これが私の本領じゃなくってよ!ってことを言いたいんでしょうけれど、
客の方はどう思えばいいのやら、、。
”今日の公演は素晴らしいものにはならないからね。”って最初に宣言されるのは複雑な気分です。

ただ、この”風邪”っていうのもほんとかな、、?
あの初日の大緊張っぷりとその後にメディアに出た”彼女の中低音域が驚くほど弱かった”という批評を見るに、
それに対する防護策かな、という穿った見方もできます。
とにかく、聴いてみるしかありません。

ストーリーなどについてはシーズン・プレミアを実演で観た際に多く書きましたので、
今日は歌唱の出来などを中心にまとめたいと思います。

注:この公演はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。

登場してすぐのゲオルギュー。確かに少し風邪気味を感じさせる兆候はあるかもしれません。
高音域より、中・低音域での乾いた音に、よりそれが感じられます。
初日の公演では観ているこちらまで彼女の緊張が波及して倒れ死ぬかと思った
頭の”ドレッタの夢”。
今日も、少し声のコントロールに苦労している様子が伺われ、
高音でほとんど体を振り絞って出しているような様子があったのと、
その保持にも余裕がなく、美しい後半のフレーズで歌い急いで聴こえたのが残念。
しかし、がちがちに緊張していた初日と比べたら、それほど大差のない出来で、
これならば、風邪とはいえ、全くへろへろなコンディションではなさそうに思いました。
むしろ、この一幕は、彼女が最も苦手にしている幕のように見受けられ、
今日もフレーズの頭の音がオケよりも走り勝ちになっている個所がいくつかありました。
ただ、この役での彼女は、こんなスクリーンの大写しで見ても、
生の舞台で見ているときと、ほとんど違いがないのがすごいところ。
舞台でそこそこ素敵!と思っても、スクリーンで見て、
そのギャップ(主に年齢と体重による、、)に”うわっ!”と引かされることが多いことを思えば、
こんなにアップで見ても、全く印象が変わらないのは奇跡的でもあります。
(ゲオルギューに関しては、昨シーズンの『ラ・ボエーム』のHDのミミでは、
少し体重を落としすぎたのもあったのか、年を取ったなあ、、と思わされたのですが、
今回の方が体に適度なボリュームもあって、瑞々しく、若返った感じがするほどです。)
ある場面で、ソファの上で彼女が腕で膝をかかえたところをカメラが大写しで捕らえていましたが、
腕も足も毛一本なくつるつるで、肘なんかもがさがさしたところがなく、
きっと前日にスパにでも行って徹底的に磨きあげて来たに違いない!と思わされます。
そんな風にスパで”まっぱ”でひっくり返っているうちに軽く風邪を引いたのかもしれません。
こんなところにまで気を使わなきゃいけないなんて、つくづく、このライブ・イン・HDという企画は、
歌手にとってはなんと大変な負担だろうか、と思います。

意外と舞台よりもスクリーンで観た方がいい印象だったのは、プルニエ役を歌ったテノールのブレンチウ。
歌に関しては相変わらず驚嘆させられるほどの出来ではなく、
声がひっくり返り気味になった個所があったり、見せ場の音が近くなると緊張して
その前の音を歌い急ぐ傾向がありますが、
シーズンプレミアで私が”遊びが少ない”と評したやや地味目の歌唱を、
細かい演技力でカバーしているのが新しい発見でした。
スクリーンで観た方がずっといいです、彼のこの役は。
彼の独特の皮肉屋っぽい風貌(特に顔)、比較的痩せていて小柄な体型、
しかも、少し内股っぽい独特の体の動き、などに助けられていますが、
演技がものすごく細かく、こちらをにやっとさせるようなおかしみのある芝居に長けていて、
スクリーンで映えるタイプの人だと思います。
舞台では、彼の演技は細かすぎて全てがオペラハウスに伝わっていないのがこの映像でよくわかりました。
前述のシーズン・プレミアの時の記事で触れた1996年のEMI盤で同役を歌ったマッテウィッツイの
超高音も可能な軽い声に比べると
(そのことがマッテウィッツィが歌だけでこの役をコミカルに聴こえさせるのに貢献しているのですが)、
ブレンチウは、声のサイズは絶対的な基準でいえば小柄で軽めの声とはいえ、
完全にリリック・テノールのレパートリーに向いた声なのではないかな、と思います。
マッテウィッツィに比べると圧倒的に高音が苦手な感じがするのは、
そのあたりが関係しているかもしれません。
かように声質が二者間ではかなり違っているので、この役を声だけで聴くと、随分印象が違って聴こえます。
ちなみに、このブレンチウは、ゲオルギューと同じ、ルーマニア出身のテノールです。

それから、今日の公演で私には意外な大活躍を見せたのはリゼット役のリゼット・オロペーザ。
いやー、今日の彼女は本当に良かったんじゃないでしょうか?
私がこれまで彼女を生で聴いた経験では、(リンデマン・ヤング・アーティスト・プログラムという、
メトの新人向けのプログラムのワークショップでのルチアのアリア、
『ヘンゼルとグレーテル』の露の精、『フィガロの結婚』のスザンナ、など)、
常に高音が痩せる印象があって、この『つばめ』の初日の公演でも全く同じ印象を持ったのですが、
今日の彼女はどうでしょう?
こんなに彼女の高音が全て綺麗に、しかも密度の濃い響きが出ているのを初めて聴きました。
この大舞台に自分を最高のコンディションに持っていった力と、舞台度胸の良さは、評価したいです。
幕間のフレミングとのインタビューで、以前にスザンナを歌っていることをふまえて、
女中役専門?とからかわれていましたが、スザンナとリゼットはだいぶキャラクターが違います。
そして、このリゼット役は、演出を1920年代に移動させたこともあって、
演目自体にもっと人気があったなら、彼女の切り札の役ともなるのに!と思えるほど、
オロペーザはこの役にはまっています。
何より、彼女の顔や表情がものすごく1920年代っぽい。
演技も歌もやりすぎていないのも好感が持てますし、
ブレンチウのプルニエとなんともいえないケミストリーを生み出しているのも見事です。
彼女は正直、まだ、存在感の面でも、カリスマの面でも、また歌唱の安定感という意味でも、
主役級の役で全幕を通して聴くのは辛いのですが、このあたりの準主役なら、
役次第では、十分持ち味を発揮できるように思いました。



逆に登場した瞬間からあれ?と思わされ、残念だったのはアラーニャ。
本当は風邪でコンディションが悪かったのはゲオルギューではなくて
彼の方だったのではないかと思います。
夫婦で同公演に出演中ということで、ゲオルギューが風邪なら、
彼も風邪気味でもちっとも不思議ではありません。
もともと彼に関しては、近年、登場場面が長く続くと、声にざらっとしたテクスチャーが入ることは
いろいろな公演の感想で書いてきましたが、今日はそれだけではない、
最初から鼻腔に何かつまっているような音で気になっていたのですが、
インターミッションの後の第三幕でそれがはっきりと顕在化したように思います。
声が荒れてきて、これで最後までもつのかとひやひやするくらいでした。
ゲオルギューの負担を軽くするために、彼女が風邪だと発表させたせいで、
自分は言いにくくなったのか、それとも開演前までは本当に大丈夫だと思っていたのか、
そのあたりはよくわかりませんが、より風邪っぽい歌唱だったのはアラーニャのほうだと思いました。
ゲオルギューに関しては、軽い風邪はひいていたのかもしれませんが、
(一幕の不安定さと、三幕幕切れの音がやや短かったあたりにその兆候はあります。)
それでも全体的には二幕、三幕と、高音もよく延びるようになっていましたし、
多少、中音域、低音域がらしくないとはいえ、
初日の歌唱と、風邪といって公言しなければならなかったほど、ギャップは大きくありません。
今でも、どちらかというと一幕に絡むメンタル・ファクターの方が、
公演前のアナウンスメントにつながったのではないかと個人的には思っています。

むしろ、初日とのギャップが大きかったのはアラーニャの方でした。
アラーニャは初日の歌唱が良かったので、今日の出来はちょっと残念。
それでも、ゲオルギューが踏ん張っている今、自分が降りることは出来ないと観念したか、
一生懸命歌ってはくれましたが。
第三幕で、マグダに”別れないでくれ”とすがるシーンでは、本当に涙を流しての熱唱も。
ただ、歌唱面で気になることがあると、役の表現にまで気がまわりにくくなるのは仕方がなく、
そういった意味で、初日よりは役としてのキレを欠いていたように思います。

しかし、そんなコンディションでもアラーニャらしくあろうとするところが彼の良さかも知れません。
自分のセルフ・イメージをわかっているからなのか、
どうやってもそうなってしまう”真正”のおちゃらけ君なのか、
三幕で、まだマグダと幸せいっぱいの暮らしを送っている場面では、
ゲオルギューを膝にのせながら、彼女の胸にキスをしてみたり、
幕間で次の出番に急ぐゲオルギューのお尻を叩いて送りだしてみせたり、
”まったくあいかわらずなんだから、アラーニャは、、”という笑いが映画館から沸き起こっていました。
極めつけは、前半(ニ幕)終了後すぐの、ルネ・フレミングによる、
ゲオルギューとアラーニャへのインタビュー中に、
”お二人は夫婦でいらっしゃいますが、一緒に仕事するのはどんな感じですか?”と聞かれて、
散々二人で歌うとどれだけケミストリーが合って素晴らしいか、ということを並べ立てた末に、
”でも、もちろん、あなた(フレミング)と歌っても同じで、
素晴らしい結果になるでしょうが。あははは。”
とみえみえのおべっかをアラーニャが言い放った後、
その冗談が面白くなくってふくれるゲオルギューを心配そうに何度も見やる姿が傑作で、
会場は爆笑の渦でした。
フレミングの、”痴話喧嘩に私巻き込まれたくないわ、、、特にこの二人の場合は、、”といった風情の、
ろくにThank youとも返さず、次の話題に突入していく様もまたおかしかったです。
初日の公演で、フレミングが見にきていたことを書きましたが、
今回のホスト役をするための下仕事だったのですね。
ちなみに、このインタビューの中で、アラーニャがHDの日は演技の仕方を少し違うものにしている、
という話をしていますが、
初日の公演では、そういえば、ゲオルギューへの胸キスはありませんでしたので、
これも、HDを鑑賞しているオーディエンスのためのアラーニャからの特別な贈り物(?)のようです。

終演後、映画館から出掛けに、ご夫婦でしょうか、お年を召したお二人が、
”ストーリーが薄いなあ、、”と言っているのが聞こえましたが、
そんな風に感じられる人がいるのが信じられません。
こんなに濃く、読めば読むほど味が出るリブレット、滅多にないと思うのですが。
一度全聴してから、またあらためて読むと、将来への暗示とか、
その時登場人物がどう考えてある言葉を発するか、とか、ヒントがちりばめられていて、感嘆します。
例えば、二幕のマグダとルッジェーロが恋に落ちてキスする前のロマンチックな重唱部分ですら、
マグダが、Parlami ancora, lascia ch'io sogni(もう一度言って。夢を見せて。”)
と歌っているときに、ルッジェーロはどう返すかというと、
Ah! Questa e vita, e questa e realta(ああ、これこそ人生だ、これこそ真実だ)
彼があくまで現実の恋の相手としてマグダを見ているのに対して、
マグダにとって、彼は自分の夢の一部にすぎなかった、ということがよくわかります。
この後の幕で何が起こるのか知りながら聴くと、初めて聴くときとは違って、
なんともいえない、甘酸っぱさ、ほろ苦さを感じます。
HDでの英訳でもオペラハウスの字幕システムでも、
歌われるスピードのせいもあり、全部を完璧に訳出することは不可能なようなのですが、
当作品、プッチーニの音楽も素晴らしいですが、リブレットとしてもとても良く出来ていると私は思います。

そうそう、スクリーンで見ても、レイミー演じるランバルドは素敵な”大人の男”してました。
ランバルドも、お金でしか愛情表現が出来ないある意味可哀想な人ですが、
でも、彼なりにマグダを愛しているのだと、これもリブレットから伝わってきます。
愛なんてテーマは古臭い、と最初は言っていた彼が、
”ドレッタの夢”で燃えるような恋を熱く歌い上げたマグダに、
Che calore!(なんと情熱的なんだろう!)と褒め言葉をいう場面は、
マグダに、あら、”現実男(金で女性を買うような男性)のはずのあなたまでどうしちゃったの?”
と揶揄されてしまいますが、ここは、彼が皮肉で言ったのではなく、
彼の奥密かに隠れている純情な部分が表現されているように思います。
その後、照れ隠しに真珠のネックレスをプレゼントしてしまうのが彼っぽいのですが、
でも、クラブでのマグダに対する態度、最後まで彼女を見捨てないところに、
彼なりの優しさと愛情を感じます。
そして、彼もマグダと同様、自分の生き方を曲げられない人です。

この作品のよさは、まさに何もかもを白黒で決着をつけないで、
人間の心のグレーな部分、心の機微というものに真っ向から取り組んだ点。
ゲオルギューが風邪気味であろうと、アラーニャが本調子でなかろうと、やはり必見の作品です。


Angela Gheorghiu (Magda)
Roberto Alagna (Ruggero)
Lisette Oropesa (Lisette)
Marius Brenciu (Prunier)
Samuel Ramey (Rambaldo)
Monica Yunus (Yvette)
Alyson Cambridge (Bianca)
Elizabeth DeShong (Suzy)
Tony Stevenson (Gobin)
David Won (Perichaud)
David Crawford (Crebillon)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Nicolas Joel
Set design: Ezio Frigerio
Costume design: Franca Squarciapino
Lighting design: Duane Schuler
OFF
Performed at Metropolitan Opera, New York
Live in HD viewed at Walter Reade Theater, New York

*** プッチーニ つばめ Puccini La Rondine ***

HD: LA DAMNATION DE FAUST (Sat Mtn, Nov 22, 2008)

2008-11-22 | メト Live in HD
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)を鑑賞しての感想です。
これからご覧になる予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。


演奏会形式で演奏されることを前提に作られている作品であることから、
なかなかオペラハウスの舞台で演奏される機会が少ない『ファウストの劫罰』。
メトでも通常のオペラシーズンのレパートリーとしては過去100年以上演奏されたことがなかったのは、
以前の記事にも書いた通りです。

またそれは作品の構成そのものにも影響していて、
例えばグノーの『ファウスト』のように、”これがこうなってね、そしてあれがああなってね、、”
ということを物語の順を追って会話でお芝居のように丁寧に語っていくのではなく、
どちらかというと、印象的な場面が細切れで描出されるスタイルで、
その意味では、グノーの『ファウスト』的なアプローチに慣れていると、
同じ題材でも、やや、唐突な感じのする場面もあるかもしれません。
しかし、決してそれが欠点に堕していないところがこの『劫罰』の素晴らしいところ。
私はむしろリブレットだけをとっても、グノーの『ファウスト』より『劫罰』の方が好きです。

グノーの『ファウスト』を見て、なぜ知恵にも人生経験にもすぐれた
ファウスト博士が、いくら若さへの憧憬からとはいえ、
”後でボクに完全服従するという条件で、青春を差し上げよう”という
メフィストフェレスの顔いっぱいに”いっしっし!”とマジックで書いてあるような
見え透いたオファーに最初からのってしまうのか、変だよな、と思ったことはありませんか?
私はあります。




『劫罰』ではこの点が実にスマートに描かれているのです。
こちらのファウスト博士は全く用心深く、メフィストフェレスに酒場の馬鹿騒ぎを見せられても、
ふんっ!こんなもんで楽しめるか!ってな感じで醒めまくってますし、
それどころか、”もっとすげーものはないのかよ。”と更なる要求までしてしまう傲慢ぶりです。
(そして、そこで、マルグリートの像が提示されるのです。)
実に博士らしいひねくれものぶりではありませんか!
この『劫罰』は、博士の側が自分の頭の良さに自信がある、その自信ゆえに、
まんまとメフィストフェレスの罠にはまって絡め取られていく、という設定に転換している点が素晴らしい。
そして、メフィストフェレスは最後まで表立ってそれを誇示することはありませんが、
その博士の性格を十分に把握したうえで、蟻地獄のように巧妙に博士を陥れていくのです。
グノーの作品の”もうー、どうしてそうなっちゃうかなあ?!”と頭を掻き毟りたくなる
博士の間抜けぶりとは大違いで、地獄に落ちるまでの流れが実に自然であるところが見事です。
それは、最後の、マルグリートのもとへ馬を走らせる直前まで、”悪魔との契約”
が結ばれないことにもあらわれています。
この契約をグノーのオペラのように作品の最初に置かないことにより、
博士が決して間抜けに見えず、それでいて抜き差しならない状況に陥ってしまったことが、
うまく両立できており、また音楽的なテンションを高める結果にもなっています。
もちろんそれは支えるベルリオーズの素晴らしい音楽があってこそですが。

だから、グノーの『ファウスト』では”博士もお馬鹿さんだったんだから、
その責任は自分でとってもらわなきゃね。”と思ってしまう私ですが、
この『ファウストの劫罰』はとてもそう思えない。
この作品には、賢い人ほどもろく足元をすくわれる、というような怖さがあります。

さて、このメトの新プロダクションの話題の一つは、シルク・ド・ソレイユの
『KÀ 』を手がけたロバート・ルパージによる演出で、
今までメトでは使用されたことがないコンピューター・テクノロジーによる
視覚技術を多用した演出が、
初日前から大々的にメディアやメトのサイトでフィーチャーされ、
観客の注目を集めていたのですが、いざ蓋を開けてみると、批評家・オペラファン共に
評価は辛く、せっかくの作品が、too muchな演出のために舞台に集中することを難しくし、
作品を台無しにしている、といった趣旨の意見が多く見られました。

今日開演前に近くの座席の方と三人で雑談していたところ、
すでに今年メトで実演の『劫罰』をご覧になったという女性が、
”批評家は彼(ルパージ)がやろうとしていることにもうちょっと理解があってもいいんじゃないかしら。
あの評価は厳しすぎよ。とにかく見てみて。絶対あなたたちなら気に入るわ!”
”あなたたちなら”の言葉とその”絶対”という断言の根拠は不明ですが、
少なくともできるだけ偏見なしで見ることだけは心に誓ったのでした。

そして、鑑賞後。
その女性の言葉は正しかった。
この演出を支持する人がほとんど皆無ならば、私が大声で百人分支持いたしましょう。
この演出のどこが気が散るのか?どこがtoo muchなのか?
私にはさっぱりわかりませんでしたし、
むしろ、以下の3点において素晴らしいと思いました。

1)ストーリーを追うだけでない、豊かなイマジネーションを感じる。
せこい小道具で異様なまでにシーンや筋立ての細かい説明に燃える『蝶々夫人』のミンゲラ演出とは正反対で、
自然に関する要素(水、火、木といったものが舞台に現れるのでもわかるとおり)をちりばめ、
最新の技術を使いながらも、生命や自然とか愛といった大きなテーマへの視線が失われておらず、
懐の深さとか余裕が演出から感じられます。

2)そのイマジネーションを形にする能力にも長けている。
メフィストフェレスがマルグリートの像を眠りの中でファウストに見せる場面を
水中に結びつけるという発想がすごいと思います。



しかも、居眠りに入ったファウストが舟もろごとひっくり返って水中に落ち、
あの宣伝用スチールにも使用されているジョルダーニが水中を泳ぐ映像に切り替わるところなんて、
普通なかなか出てこないアイディアだと思います。
またその後の、まどろみながらマルグリートへの恋慕の情に漂う気持ちとそれを表現している音楽と、
水中で泳ぐ人物のなんとシンクロしていることか、、。
そして水面に浮かぶマルグリートの姿。



これを見るまで、一体水中で泳ぐ人とこの作品と何の関係があるのか?といぶかしい気持ちで一杯でしたが、
その突拍子のないアイディアが、作品におさまると決して突拍子なくないところがすごい。
この人は並の演出家ではありません!

3)音楽への心配りがある。
ルパージの演出はビジュアル面でものすごく色々なことが起こっているような錯覚を起こしがちですが、
実は、非常に緻密に歌手の歌の邪魔にならないような演出がなされている。
この公演で歌っている歌手たちのレベルが高いのは間違いないけれども、
今日聴かれたスーザン・グラハムによる素晴らしい歌唱のようなものは、
演出がそれを邪魔するようなものだった場合、決して出てくる類のものではありません。

メトの新リングを彼が演出することになっている点について、
オペラヘッズの中には心配の声をあげている人もいますが、
私は、以上のことにより、新演出に作り変えるなら、彼は非常に適任だと信じますし、
新リングを見るのが、今からとても楽しみです。

この『劫罰』の演出へのネガティブな意見としては、
① 複数の人間が同じ動きを繰り返し行う動きがやたら多い、とか、
② ガーゴイルを思わせる姿かたちのメフィストフェレスの手下がちょろちょろと柱をのぼったりおりたりするのが安物の吸血鬼映画のようでいやだ、とか、
③ インターミッション中の主要キャストへのインタビューのシーンでもわかるとおり、
歌手には舞台上に写されている像の全体を把握することは不可能で、
見えているのはプロジェクションをするための、
碁盤の目のような無地の台とバックドロップだけなんだそうです。
実際の目で舞台美術を確認できない状態でどうやって真に心のこもった歌が歌えるのか?
といったことが挙がってくるでしょうが、

①については、これが彼の手がけるどの作品でもそうならちょっと問題でしょうが、
この『劫罰』においては、ファウストと同じ過ちを犯した人間が他に山といること、
また人間は永遠に同じ過ちを犯していく存在である、というメッセージともとれるし、
また、感覚を麻痺させるような効果もあって、この作品では私はそれほどマイナスな点とは思えませんでした。

②については趣味の問題なので、ま、そう思う方がいても仕方がありません。
私はこのチープな不気味さもご愛嬌というか、作品の”らしさ”として一つのカラーを
作っていたと思うので、これもそれほど気になりませんでした。

③については確かに、この舞台上のスクリーンにイメージを映し出す手法をとるには、
セットなどが目の前に見えなくても、共演者の姿だけを相手に、
きちんと自分の役になりきって歌える実力のある歌手が必要であるのはその通りだと思います。
力のない歌手をあてがうと目もあてられない結果になる可能性は大いにあります。

その求められている以上の実力で、公演を支えたのはレリエー。



ガーゴイルばりの怪しい手下に囲まれても、その場面が決して下品に落ちなかったのは
彼のたたずまい、歌唱、両方における上品さのおかげ。
先に書いた通り、この作品では頭のよいファウスト博士のさらに上を行く
理知さが求められるメフィストフェレスですが、
その冷ややかな頭のよさみたいものが本当にうまく表現されていて、
彼はどんな作品でも、心持ち感情をリザーブしたような歌い方なのが持ち味だと思うのですが、
その彼の個性とこの役は本当によくマッチしていると思います。
しかし、この悪魔はかっこよすぎる。
この赤い甲虫のような衣装を着て、なおまだかっこいいなんて、どういう人なんだろうと思ってしまいます。
最後に馬を駆りながらそのままファウストを地獄に引きずりおとしてしまう場面では、
ばか喜びするのではなく、あたかも頭脳ゲームか何かに勝利したような満悦感だけを
顔に浮かべているのが逆にとても怖いのです。



シリウスを通して聴く限り、初日からずっと最後の観客からの拍手が一番大きかったのは
レリエーだったのですが、
今日のこの公演については、とにかくグラハムの歌唱が圧倒的でした。



そういえば今日のライブ・イン・HDのホスト役までトーマス・ハンプソンと2人でこなした彼女。
第一部はマルグリートの登場場面がないので、ホストを担当したのはともかく、
第二部への登場の前に、ハンプソンからいろいろ役についての質問を受けた彼女が、
スタンバイの指示が入った途端、”どうしましょう、こんなに喋って喉が干上がっちゃったわ。”と
独り言をこぼす場面もありました。
確かに、これからその作品で歌おうという本番直前の歌手にインタビューをするのは
どうなのかな?とは思います。

それから、トーマス・ハンプソン、
私は以前から彼のなんとなく気さくに見せかけて、実はナルシスティック、な雰囲気が苦手なのですが、
一部が終わった後の、ジョルダーニとレリエーに対してのインタビューでも、
二人をそっちのけのカメラ目線で、”私が『タイス』のライブ・HDで歌うトーマス・ハンプソンです。”
といきなり自己紹介に入ってました。
こらこら、今日の主役はあんたじゃないぞ!、、まったく、相変わらず俺様な人です。

さて、肝心なグラハムの歌唱の話に戻ると、今日の彼女はそんな苦境にも負けず、
絶好調と思えるコンディションで、すべての登場場面において素晴らしい歌を聴かせていました。
特に、今日の ”燃える恋の思いに D'amour l'ardente flamme ”。
これはもう本当に素晴らしかった!!!
とりわけ、胸の高まりをあらわすようにテンポが早まっていくところでは、
オケと彼女の歌唱が完全に一体化するという、そう頻繁にはおこらない現象まで体験。
竜巻に完全に飲み込まれたような感覚に襲われながら気が付けば涙しているMadokakipなのでした。
いやー、オペラの最大の醍醐味はこれですよ、これ!!
技術の優れた歌、真実味のある演技、うまい演奏、美しい声、どれも
単体でも楽しく、感動的ではありますが、
作品そのものとオケと歌とドラマ、公演にかわっている人の努力が完全に
一体化する瞬間にまさるものはありません。



同公演時期であるばかりか、連日連投でこのファウスト役と『蝶々夫人』のピンカートン役をダブルで歌っている
ジョルダーニ。
今日は一番いい時に比べると少し声ががさついていますし、
音を外している個所、また超高音に行くのにそれじゃ踏みきりが弱いだろう、と思っていたら、
案の定すっ転んだり、といろいろありましたが、
何とかボーダーラインで、公演に決定的なキズをつけない範囲で歌い終えてくれました。
先の二人、グラハムとレリエーに比べると、三角形の一番弱い角であることは否定しようがなく、
カーテンコール時の彼への拍手(ライブ・イン・HDの観客も、映画館とはいえ、
オペラハウスでいるときと同じように、みんな、誰が良かったか、という意思表示を拍手の大きさで表わします。)に力が入っていない私を見て、
隣のおばさまが、”私の逆隣の方もジョルダーニはいまいちだわ、、とおっしゃっていたけれど、
あなたも同感なのね。”と指摘が入りました。
すまない、ジョルダーニ。どんなに大きなサインをもらったとしても
拍手とBravo/a/iは正直に!のポリシーは曲げられないのです。



そして、もちろんこの作品の音楽の素晴らしさはすでに今までの記事でもふれてきたとおりです。
旋律の美しさもそうですが、ベルリオーズのオーケストレーションが本当に巧みで、
何度もいうようですが、こんな名作がオペラハウスで頻繁に上演されないとは本当に嘆かわしい!
土曜のマチネのお客さんは一般に少し”大人”かつ”大人しい”ところがあって、
いい演奏でもあまり熱狂してくれないのが時々じれったくもあるのですが、
今日のハンガリー行進曲(ラデツキー行進曲ともよばれます)なんか、
私がオペラハウスにいたら、大興奮におちいっていたはずです。
先ほどふれたマルグリートの独唱の部分、それから、騎馬から地獄落ちにかけて、をはじめとして、
とにかくオケは全編すみずみまで素晴らしく緊張感のある演奏を聴かせ、
オケの演奏という意味では今のところ今シーズン最高の出来であるのはもちろん、
おそらく、年間通しでもトップの公演に入ってくるのは間違いありません。



いい音楽の後はおいしい食事を!ということで、公演後に連れとイタリアンを食べていたら、
レストランで私の携帯に入ってきた一本の電話。
私のローカルのオペラヘッド友達からです。
”今、オペラハウスにいる?”といきなり来た。
”ううん、マチネの劫罰をHDで観たよ。今は夜ご飯食べてるところ。
今オペラハウスにいるの?ラセットの蝶々さん見るの?”と尋ねると、
”そう。バンクーバーからお友達が来ててね、そのお友達の誕生日だから、
今日は二人でメトはしご。マチネの劫罰は実演を観たよ。そして、夜は蝶々さん。”
誕生日にメトの公演をはしご、、どんな友達だ?(笑)類は友を呼ぶとはまさにこのこと。
そして、なんとその友人からの情報に驚愕!!!
なんと、その夜のピンカートンの代役はまたまたジョルダーニだったそうです。
ってことは、、、

ええええええええっっっ!!!!!!同日のダブル???!!!
(昼にファウストを歌い、夜にピンカートン、ということです。)

マルチェッロよ、”ボクは土曜は歌わないよ”と言っていたではないか?
それとも、マフィアより怖いゲルプ氏に”君も川に沈められてもいいのかい?”と脅されたか?
かわいそうに、、、本当に惨い酷使のされ方してます。
ジョルダーニはNOと言えない人なのか?声を大事に。もうそれだけしか言えません。


Marcello Giordani (Faust)
Susan Graham (Marguerite)
John Relyea (Mephistopheles)
Patrick Carfizzi (Brander)
Conductor: James Levine
Production: Robert Lepage
Associate Director: Neilson Vignola
Set Design: Carl Fillion
Costume Design: Karin Erskine
Lighting Design: Sonoyo Nishikawa
Interactive Video Design: Holger Foerterer
Image Design: Boris Firquet
Choreography: Johanne Madore, Alain Gauthier
ON
Performed at Metropolitan Opera, New York
Live in HD viewed at Walter Reade Theater, New York

*** ベルリオーズ ファウストの劫罰 Berlioz La Damnation de Faust ***

MOVIE: THE AUDITION 試写会編

2008-09-15 | メト Live in HD
昨シーズンのライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の『連隊の娘』の上映中、
我慢強く、インターミッション間もトイレに立たず、スクリーンをずっと見ておられた方には、
(ちなみに私はいつもそうです。何ものも見落としてはいけない!と、、。)
きっと、”おや?”と思われたはずの、『The Audition ジ・オーディション』という映画の短い予告編。
こちらの記事のコメント欄にも、”あれはなんですか?”というご質問を頂いていましたが、
いよいよこの映画が完成いたしました!
一般公開は来春を予定しているそうですが、今日は、アメリカ自然史博物館の中にある
カウフマン・シアターという劇場で、プレビューが行われました。

以前に、ナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズの記事をあげたことがありますので、
そちらも参考いただきたいのですが、
このメト版スター誕生!ともいうべきオーディションの、2007年に行われたもの
(上の記事は2008年のものですので、2007年ということで、一つ前の回ということになります)の、
セミファイナルの勝者が決定する時点から、ファイナリストを決定するグランド・ファイナルズの
コンサートまでの一週間をおさめたドキュメンタリー映画が、この『The Audition』なのです。

一言で申しますと、このドキュメンタリー、素晴らしい仕上がりです。
予告編では、ほとんど内容を伺いしれるような映像が出なかったので、
私は、お互いを蹴落とそうと激しくしのぎをけずる歌手の卵たちの涙と根性の物語、、みたいな
作風になっているのではないか、と危惧していたのですが、
監督をつとめたスーザン・フロムケの感性と着眼点の良さか、
温かさとユーモアとメトのスタッフや歌手たちへの愛情に溢れ、
それでいて、オペラの世界の微妙な、または複雑な部分への目配りも忘れず、
そして、観客をだれさせず、かといって、ジェットコースター映画のような
せわしない感じもしない非常に適切なテンポ感を持った作品となっていました。
これは、一瞬スクリーンに出たお名前を失念してしまったのですが、
編集を担当した方の力も大きいかもしれません。
ちなみにスーザン・フロムケは、カラヤンやホロウィッツについてのドキュメンタリーの
監督の経験もあり、ゲルプ支配人との知己も長く、メトがらみのプロジェクトも
これまでにいくつかプロデューサーとして参加しています。

登場するこの2007年のセミファイナリストたちが、これまた映画化にはこれ以上望めないほど
面白い顔ぶれとコンビネーションなのも幸運でした。
厳しい実力と精進の世界で、極限のプレッシャーと闘いながらも、
ユーモアの心を忘れずこの”オーディション”に体当たりする彼ら一人一人の姿に、
一緒に笑い、どきどきし、そしてほろっとくる、、、これは、そんな映画です。

プレビューでの客席からの評判も上々でしたので、ぜひ、アメリカ国内のみならず、
海外での上映も希望する次第。
日本については、ライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)と同じネットワークにのせられないなら、
NHKあたりに権利を買い取っていただき、TV上映するなり、
一人でも多くの方に見ていただかなくてはならない!それくらいの佳作です。

吉報!! 日本での上映が決定している旨の情報を頂きました。コメント欄をご覧ください。


** これ以降、激しく映画の内容に言及いたします。読み進められる方は、その点、ご了承ください。 **

映画はフィラデルフィアにあるAVA(アカデミー・オブ・ボーカル・アーツ)という、
全米髄一の音楽学校で、セミファイナルの準備に燃える、若干22歳のテノール、
マイケル・ファビアーノの姿で始まります。
この最初のたった数分で、声楽の先生とのやり取りと彼へのインタビューから、
彼が、猛烈に野心的かつ努力家だけれども、いや、それゆえというべきか、
少し”難しい”部分ももった人間であることがわかり、
このあたりは監督と編集者の腕が冴え渡っています。
アメリカでは、”リアリティー・ショー”というジャンルがいまだテレビでも人気です。
これは、極めて簡単にいうと、筋書きなどがない状態に出演者を置いて、
現実世界での彼らの反応や行動を映像におさめる番組形態ですが、
そういう意味でいうと、この映画はまさにリアリティー・ショーなわけで、
そして、リアリティー・ショーを盛り上げるのに欠かせないと考えられているのは、
性格がきわめて悪かったり、ネガティブな意味で強烈な性格であったり、
物事の波をやたら荒立てる、などのキャラクターを備えた、”クセモノ”キャラ。
この映画で、まさにその役を与えられているのがこのファビアーノといえるでしょう。
ただし、フロムケの鮮やかなのは、彼を全くの憎むべき人物としては描いておらず、
彼の行動に、どこか微笑ましいところ、また、我々観客にも理解できなくはない部分もあることを、
きちんと描いているところです。
もちろん、それには彼にきちんとそれなりの実力がある、という事実がベースにあることも見逃せませんが。

さて、そんなファビアーノを含む11人がセミファイナルで勝ち残ります。
彼らを前に、メトの観客の平均年齢が60歳代と極めて高いことを嘆き、
オペラをもっと若者に近づけるためには、君たちが頑張らねばならない!と叱咤激励するゲルプ支配人。
高齢者の方にはちょっぴり失礼ともとれる発言も混じっていて、
今日のプレビューも60歳あたりの人が多そうだけど、そんなこと口走って、
しかも映像にまで納められて、大丈夫、、?と心配になったのは私だけではあるまい。

さて、この時点から、本選まではたったの一週間。
この一週間のあいだに、彼らには、メトのボイス・トレーナーやブレス・テクニシャンによる歌唱のアドヴァイスや、
本選で歌うアリアの選出に関するアドヴァイスに始まり、
マルコ・アルミリアート(メトの公演にも何度も登場している指揮者)との、
ピアノ伴奏、そしてオケとのリハーサル、などが行われます。

特に、ブレス・テクニシャンによる指導のシーンは圧巻。
『リゴレット』から”慕わしき名は"を歌うキーラ・ダフィは、背も小さく、
しかも、一般の基準で言っても痩せている方。
(デッセイのような体型を思い出していただければよいか。)
一生懸命声を振り絞り、”十分にブレスできてますか?”と先生に尋ねる彼女に、
”十分すぎるわね。”と言って、手を体の前に持ち上げて、
ブレスのイメージを作りながら、先生が一緒に歌わせると、
一瞬にして、それまでのいっぱいいっぱいな感じのする発声から、
まろやかでより自然な美しい歌声を伴った歌唱にみるみる変わっていく様子は、
まるで魔法のようで、本人も他の参加者たちもびっくり。
正しい指導というものがどれほど歌手にとって大切か、ということがわかります。
オーディションそのものもさることながら、この一週間、メトのスタッフから受ける
アドヴァイスやレッスンやリハーサルこそ、
彼らにとってはかけがえのない経験になっているのでは?と思います。
そして、一週間を通して、メトのスタッフの側にも、彼らへの愛情と思い入れが
育っていく様子もわかります。

ライアン・スミスはセミファイナリストの中で唯一の黒人のテノールですが、
ナショナル・カウンシルに参加するまでは、自分にどれだけの実力があるのか、
よくわからない状態だったといいます。
しかし、レッスンを受けるうち、どんどんドラマティックに表現できる能力をしめしはじめ、
スタッフからも感嘆の声が出るまでに。
これらの経験が、”自分がこの世界でやっていける”という強い自信につながった、
と、彼はインタビューで語っています。

さて、いよいよマルコ・アルミリアートの指揮で、ピアノ伴奏での練習が始まります。
マルコがこれまた指揮台にいるときのニコニコ顔どおり、とっても”いい人”してるのです!
細かに参加者たちの意見やリクエストを聞き、それに合わせようとするマルコ。
例えば、『ノルマ』から”清き女神”を歌うアンジェラ・ミードから、
歌合せ後に、”もうほんの少しだけ、テンポをゆっくりにしてもらえるでしょうか?”というリクエストが。
そして、本選からの映像では、きっちりと彼女のリクエストどおりに、テンポがゆっくりになっていました。
彼女のこの『ノルマ』のアリアは、まだこの映画の撮影当時、
本格的なキャリアがスタートしていなかったとは思えないほどに、完成度が高く、
このアリアに限って言えば、今主要歌劇場で舞台をふんでいる人でも、
ここまで歌える人は少ないのではないか?と思えるほどです。
彼女はやや体重があるのですが、インタビューの中で、
”今のオペラ界には、体重のある人間に問題を感じる人がいるでしょ?
(歌だけでなく、見た目など全てのファクターを含めた)パッケージが大事だと言って。
でも、私から言わせてもらえれば、それはどうなんでしょうね?
歌えない人が舞台に立つというのは、、。”と語っていましたが、
その言葉には悔しさがにじみでていました。
彼女の場合、この言葉が嫌味にならないのは、歌と声が本当に素晴らしいから。
『ノルマ』にはなぜだか特別な思い入れがある、と言い、その言葉を裏付ける実力の持ち主です。

さて、特別な思い入れ、といえば、この映画の中でも、
最もプレビューの観客に愛された登場人物の一人、アレック・シュレーダーを忘れてはなりません。



上の写真でも垣間見れるでしょうか?ちょっぴりアシュトン・クッチャーと
昔のレオナルド・ディカプリオを足して二で割ったような甘いルックスで、
かつ、一本頭のどこかのネジが緩んでいるのかもしれない、、と心配させるほどに
ゆるーいキャラクターがなんともいい味を出しています。
その彼が、マルコを前に、いきなり、”本選では、(『連隊の娘』の)メザミを歌いたい”と言い出すのです。
それも、今まで一度もオーディションやコンクールなどで歌ったことがなく、
ほとんどきちんとした練習もしてこなかったのに!たった一週間しか時間がないのに!
その場で固まるヴォイス・トレーナーとマルコ。
”なんでかな?このアリアを聴いたときから、絶対にこれをいつか歌ってみたい、と思った。”
そんな賭けは危険すぎる、、とトレーナーやマルコが匂わせても、
”絶対に歌いたい。”と異様な執念を見せる彼。
結局、”もちろん、君が歌いたいもの、何でも歌っていいんだけどね。”と折れるマルコたち、、。

後に挿入されるインタビューでは、
”9個のハイC全部がうまく決まるなんて思ってないよ。7~8個決まれば、やった!って感じかなあ。
特に最後のハイCさえ上手くいけば、最初の方にあったあまり上手く行かなかったハイCは
オーディエンスも忘れてくれるんじゃないかな。。。だといいな。”と、
普通なら、ふざけるな!!とオペラヘッドに袋叩きに合いそうなコメントなのですが、
彼の個性と、あまりに無邪気な語りぶりもあって、全く憎めなく、むしろ笑いを誘う始末。
ものすごくひどい歌が飛び出すのでは?と観ているこちらもどきどきなのですが、
マルコとピアノで音合わせをするシーンでは、
”公の場で歌ったことがない”と本人が宣言するだけに、
リズムはうやむやなところがあるし、ディクションもかなり悪い。
しかし、声そのものは決して悪くなく、伸びから言って、もしかしたらハイC,
きちんと出るかも、、、という予感が。
しかし、ここは編集の妙で、まだ彼のハイCは聞かせてくれないのです。

彼を魅力的に見せているのは、ファビアーノのように、野心的で、どうしたらファイナリストになれるか、
ということに固執しているタイプとは、全く違う次元でこのナショナル・カウンシルに
取り組んでいるところ。
自分の昔からの夢であるメザミを観客の前で歌う、という夢を、こんな大きな舞台で
歌うという賭けに出るなんて、クレージーだけど、すごい度胸じゃないですか!
そう、彼が嫌味に見えないのは、言っていることは滅茶苦茶だけれど、
実はその奥には、メザミのような高難度のアリアを、ほとんど準備期間なしに、
メトのオケをバックに、マルコの指揮で、メトで、メトの常連たちを前に歌う、という、
普通の歌手を目指す人間なら誰でも怖くなって尻込みしてしまうような果敢なチャレンジに、
何の恐れもなく飛び込んで行っている、という事実があるからなのです。

やがて、初めてのメト・オケとのリハーサル。場所はメトのリハーサル室。
オケを前にすると、みんな負けじ、と、大声を張り上げてしまいがちになる、ということで、
スタッフから、今日大事なのはマルコとの調整なので、
声は張り上げなくてもいいですよ、という注意が。

いよいよ、ネジの吹っ飛んだ美青年、アレックの番。
メザミのハイCを次々と決めて行く彼に、他の参加者は眉毛を吊り上げて驚く。
最後のハイCが少し潰れてますが、これだけ歌えたら、決しておかしな思い付きでは
済ませない位置に彼はつけてきました。
多分、他の参加者もそれは感じているはずです。
悔しそうに、しかし真剣にそれを見つめる、クセモノキャラの男、ファビアーノ。
リハーサルで、彼自身なかなかの歌を聴かせていたファビアーノですが、
リハーサル後のインタビューで、
”個人的にはハイCがそんなに特別なものとは思えない。
いいテノールにハイCが必要かといえば、そうとは限っていない。”
と、確かにそれはそうなのだが、負け惜しみとも、また、なんとかアレックの
評価を引き摺り下ろそうという姑息な手にも見えてしまう言葉を吐くという、
クセモノキャラとしての仕事をきっちりこなしてくれてます。
そういえば、”こういったオーディションでは、必ずポリティックスがつきもの”と、
これまた爆弾発言をかましてましたっけ。
常に一言多い、というクセモノキャラの典型パターンを行ってます。

とうとう本選当日。午前中に実際にオペラハウスで、オケとともにランスルーが行われます。
初めて、メトの舞台で歌う参加者たちは緊張の面持ち。
このような大きなオペラハウスで、オケと一緒に歌った経験がない参加者も少なくなく、
”オケの演奏が、マエストロの指揮棒のタイミングと合ってない”
(そんなわけない、、オケのメンバー全員がそのタイミングで演奏しているのだから!)、
”ピアノ伴奏と違って、自分の声が全く聴こえない。”とパニックする参加者も。
オペラハウス独特の音の反響の仕方に戸惑うばかり、なのでした。
”マエストロにあわせようとつとめた方がいいんでしょうか?”と泣きが入っている参加者に、
”マルコとオケがあなたに合わせる方が、あなたが彼らに合わせるよりずっと容易なのよ。
彼らはプロよ。信じなさい。”と、勇気付けるスタッフ。
彼らの最後のリハーサル後のパニックぶりに、実際にメトの舞台に立って歌う、
ということがどれほど大きなプレッシャーであるか、ということが伝わってきます。
組合の規定が厳しいオケは一時間半ごとに休憩をとらなければいけない、ということで、
クセモノ男ファビアーノがアリアを歌っている真っ最中であるにもかかわらず、
いきなりオケのマネージャーが飛び出して、顔色一つかえず、”はい、オケ、休憩です。”
の一言に、ファビアーノを舞台に放置して、わらわらと立ち上がり始めるオケのメンバー達。
”まじかよ?アリア途中だぞ!!”という表情で立ちすくむファビアーノがキュートです。
世の中には、一生懸命と野心だけでは動かないこともあるのです、ファビアーノ君!!

いよいよ本選。メトの常連たちの温かい拍手の中、スタート。
セミファイナルやレッスンではなかなかの歌を聞かせていたのに、
プレッシャーに潰れて実力が出せない参加者もいました。

その中で、黒人のテノール、ライアン・スミスは、まるで一世一代の歌、というような
気合の入ったドラマティックな歌唱を披露。
あまりの会心の出来に、舞台袖からじっと見守っていたボイス・トレーナーが、
感極まって舞台裏で彼に抱きつく場面も。
このたった一週間とはいえ、自分が育てた歌手なのだ、という自負と愛情が、
私達をもほろりとさせます。
それにしても、こんな才能が、少し前までは歌をやめようか、とすら思っていたとは、、。
(彼はその後、シカゴ・リリックなどで歌っているようです。)

”ここに至るまでの準備も大変だったけど、この舞台で、プレッシャーをハンドルし、
心理的なコントロールをきちんとする、ということはそれに負けず大変。
だって、一瞬でもフォーカスを失ったらそれでおしまいなんですもの。”
と語っていた、アンバー・L・ワグナーは、『タンホイザー』からの歌を。
ワーグナーものを歌えて、ボリュームと美しさを兼ね備えた声を持っているので、
将来が大いに楽しみです。

ミードの『ノルマ』は、本選でも素晴らしい出来。
こんなにすごい歌を聞かせているのに、審査員のディスカッションのシーンでは、
”あの見た目(もうちょっと言い方は婉曲でしたが)に、このレパートリーで、
歌う場があるかどうか、、”とのたまった男性審査員がいて、
まさに、彼女自身が悔しさを噴出させていたタイプの意見が出たのは、
いかにも皮肉です。
しかし、このような場で、そんな意見を吐く審査員がいること自体、私にはかなり驚きでした。
ナショナル・カウンシルこそは、見た目にだまされない、真に優れた歌手を発掘してほしいのに。
(たまたま両方が備わっている場合は問題ありませんが、まずは歌ありき、でしょう。)
しかし、22歳にも関わらず、頭髪が薄く、背も決して高くないファビアーノのような
タイプも、実はキャリア的には厳しいのかも知れず、
太目の女性だけではなく、同じ問題は男性にだって存在するのかもしれません。
(ちなみに、最近目にしたファビアーノの写真では、明らかに髪が増えていました。
野心的な彼はさすがに、きちんと打てる手は打っているようです。)
そして、これも参考までですが、ミードは2007年シーズン、
ソンドラ・ラドヴァノフスキーの代役として、
エルヴィーラ役で『エルナーニ』の舞台でメト・デビューを果たし、評判を博しました。

本選の審査員が意外と数が少ないのも驚きだったのですが、メトのスタッフ数名と、
サンフランシスコ・オペラやヒューストン・オペラからのスタッフも一名ずつ入っていました。
しかし、どの人も、オペラヘッドの常で、かなり頑固。
しかも、たいてい正反対の意見を言い出す人がいて、全然意見がまとまらない。
これで人数が多いと、しっちゃかめっちゃかになってしまうので、これで丁度いいのかもしれません。

一方、”今日は朝起きたときからすっごく気分がいいよ。”とまたしてもいい感じで
ネジのゆるみぶりを発揮しているシュレーダー。
本番前でかなりナーバスになっているみんなをよそに、むしゃむしゃりんごを
丸かじりしている姿もすごいです。
本番では、舞台上のぎこちない動きといい、相変わらずリズムが微妙な最初のフレーズといい、
ひやひやしますが、なんと9個全部ハイCを決めて本人も大興奮。
そして、なんだろう、これは?
歌の上手い参加者は他にもたくさんいますが、彼のどうしてもこの歌を歌いたい!
という熱狂がオーディエンスに伝染するのか、
彼の歌への大らかなスタンスにオーディエンスが反応するのか、、。
俗にイット・ファクターと呼ばれるものが彼にはあるのです。
観客を引き付ける歌以外の”何か(イット)”が。
そう、歌が上手ければいい、という簡単なものでも、オペラはない。
だからこそ、こういった場で勝者を選ぶということは大変な作業です。
興奮状態で控え室に戻ったシュレーダーに、”よかったよ”と声をかけるファビアーノ。
それはポリティックスでも社交辞令でもなく、心から出た言葉のように私には聴こえました。
何気に、ファビアーノも、いいところあるじゃない、、。
しかし、本当に心を掴む歌というのはそういうものかもしれません。
何もかも忘れて、つい”すごい”、”よかった”という言葉を人から引き出てしまうような歌。

この映画を観て、さらにメトを愛する理由が増えたと思いました。
愛情に溢れたスタッフに、歌手たちのいろいろな歌への思いが交錯するのを
ずっと見つめ続けてきた場としてのオペラハウス。

このすべてを巧みにとらえているのが、この映画の素晴らしさの一番の理由かもしれません。

(最初の写真は2007年ナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズの受賞者たち。
左からライアン・スミス、アレック・シュレーダー、アンバー・L・ワグナー、
アンジェラ・ミード、マイケル・ファビアーノ、ジェイミー・バートン。)


"The Audition"
Directed by Susan Froemke
Starring 2007 National Grand Council Finalists

Jamie Barton, mezzo-soprano
Michael Fabiano, tenor
Angela Meade, soprano
Alek Shrader, tenor
Ryan Smith, tenor
Amber L. Wagner
Kiera Duffy, soprano
Dísella Làrusdóttir, soprano
Ryan McKinny, baritone
Nicholas Pallesen, baritone
Matthew Plenk, tenor

Previewed at Kaufmann Theater, American Museum of Natural History

*** 映画 The Audition ~メトロポリタン歌劇場への扉 Movie The Audition ***

HD: LA BOHEME (Sat Mtn Apr 5/Wed May 14, 2008)

2008-05-14 | メト Live in HD
線香花火が消える直前には猛烈な火花を出すように、
私も今週が最終週となってしまったメト2007-2008年シーズンの最後を飾るため、
怒涛の鑑賞スケジュールに突入いたしました。

今日は、オペラハウスで生の舞台を鑑賞したために、ライブ・イン・HD
(ライブ・ビューイング)を見ることができなかった、4/5の『ラ・ボエーム』の公演の映像が
マンハッタンはユニオン・スクエアそばの、リーガル・ユニオン・スクエア
というシネマコンプレックスでアンコール上演されるということで、見に行ってきました。

今日、メトのオペラハウスの方では、ゲルプ氏が来年度の方針を語る!という企画もあって、
質疑応答も多少受け付けてくれるようなので、話も聞きたいし、質問したいことも色々あるのですが、
このアンコールのボエームのチケットの方が早く買ってあったのと、
いくら私のあまり好きでないゲオルギューとはいえ、
ゲルプ氏の顔を小一時間眺めているのと、ゲオルギューを比べれば、
やっぱりゲオルギューに行っておくか、、という消極的な理由、プラス、
もちろん、あの生で観た公演が、スクリーン上ではどのように見えるか、というのを確認するという
超積極的な理由で、こちらのライブ・イン・HDをとることにしたわけです。

ライブ・イン・HDデビューとなった『連隊の娘』を見たウォルター・リード・シアターが、
ちょっとしたリンカーン・センター御用達といった、
地味で堅実な雰囲気を醸しだしているのにくらべ、こちらのリーガルは思いっきり商業用シネコン。
『アイロン・マン』を見に来たキッズに混じって、ポップコーンやら飲み物やらを購入する年長組のオペラ鑑賞者多し。

アンコールなんだから、観に来る人も少ないだろう、、などとたかをくくっていたのに、
開演20分前に到着してみれば、劇場後方の座席は一杯。
仕方がないので、前方の比較的空いていた個所に腰掛けていたら、
すぐ前の列に、奥様と思しき女性と座席についた男性に見覚えが、、。
なんと!この公演でロドルフォ役を歌ったラモン・ヴァルガスでした!!!




座席に腰掛ける前に、”びっくりした?”という感じで、
にかっと真後ろの人に微笑んだりしてましたが、
明かりを落としているせいもあって、周りのほとんどの人が気付いていない様子。
今週、彼はメトの『皇帝ティートの慈悲』に出演中なので、丁度NYに滞在していたわけです。
(その『皇帝ティートの慈悲』の明日の公演には私も観に行く予定です。)
結局、その後も開演直前までぞろぞろ観客が現われ、ほとんど会場はいっぱいになってしまいました。

『連隊の娘』は、同日の公演ではありませんでしたが、まずライブ・イン・HDを観て、
そして生舞台、という順序だったのに対し、
こちらの『ラ・ボエーム』は、生舞台から映画へという逆の順序(そして、こちらは同一日の舞台。)
結論から言うと、私にはラ・ボエーム型(生を先に見て、映画を観る)の方が、
二つを比較するということをしたい際には、有効でした。
連隊型(先に映画を見て実演へ)では、初めにスクリーンで見る際に、
映画の音から舞台の音を推測するしかなく、
また舞台を見てしまうと、映画の時の印象が思いだしにくくなって、両方で障害があるのに対し、
ラ・ボエーム型(先に実演を見る)は、オペラハウスの中で聴いた音が耳に焼付いているので、
映画の画面を観ながら、色々な比較を行うプロセスが連隊型よりも楽でした。

さて、第一幕。
いやー。びっくりしました。
ゲオルギュー、、、、気持ち悪すぎないですか!!??

彼女は、実演の際も、ライブ・イン・HD用に演技を変えるようなことをしていないせいもあって、
(で、私も特に変える必要はないと思ってはいますが)
演技そのものが、大きくなるのはわかるのですが、
日常生活でも誰かに必要以上にオーバーなボディ・ランゲージをされると引いてしまうのと同様に、
このあまりにべたべたとした演技に私は思いっきりひきました。
そう、キーワードは”必要以上に”。
演技が大きいのもいいでしょう。でも、彼女のそれは”必要以上に”大きいのです。

で、そういう直接的かつ反射的な”気持ち悪い!”という側面に加えて、
もう一つ別の”気持ち悪い”側面がありました。
それは、彼女の演技が、全く歌っている言葉とリンクしていないところ。
一生懸命、手や顔の表情を使ったりしているのですが、観ているうちに、
『ラ・ボエーム』の一シーンではなく、ゲオルギューのリサイタルを見ている、
いや、聴かされている、ような気分になってきました。
リサイタルでも、本来はそのオペラの一シーンを見せてくれるような歌と演技を見せてくれるタイプが
私は好みですが、その一方で、リサイタルには、その歌手を聴きにいくという側面もあるので、
ある程度、物語と逸脱した表現も大目に見ることが出来ます。

しかし、この公演は、『ラ・ボエーム』の公演であって、
アンジェラ・ゲオルギューのリサイタルでは、決してない!!!
どうして、自分のつましい生活を語るときに、意味のない大きな手のジェスチャーが入るのか?
(ミレッラ・フレーニがこの役を実演で歌うのを聴いたときには、
本当に訥々と語るような歌と演技で、心に染みたのとは大違い!)
どうして音楽が、ロドルフォとミミが恋に落ちたということを表現しているときに、
まだキャピキャピと、英語で言うflirting(じゃれあって戯れる、というような意)な
動作をしているのか、、、。

で、そういう動作や表情をする、ということは、彼女の解釈自体がそうなので、
当然のことながら、歌唱による表現にまで影響しているのはいうまでもありません。
こんなに落ち着かない気分にさせられるミミ、私はいやだ。
そういった意味で、”気持ち悪い”のです。

しかし、一言、フェアであるために付け加えておくと、
このライブ・イン・HDでは、彼女の声そのものの美質が完全にはとらえられていない気はしました。
オペラハウスで聴くと、もう少しヴェルヴェット的な感触があって、
音が消えた後も空間にしばらく浮いているような良さがあるのですが、、。

一方、ヴァルガスの歌は、かなりオペラハウスで受けたとおりの印象でした。
ルイゾッティが音を鳴らしたがるタイプなので、こういうベタな演目では、
もう少しそれに乗って、心持ち音が延びれば、
歌がよりエキサイティングになる個所があったような気もしますが、それをしないところが、彼らしい。
ある意味、そこが彼の歌の美質でもあるのかも知れないので、微妙なんですが。
しかし、映像で観ると、彼は演技が本当に上手です。
『オネーギン』のDVDを見たときにも思いましたが、このロドルフォも本当に器用に演じていて、
ビジュアル系のルックスではないにも関わらず、演技の方で、
この手の映像化に耐えうる力を持っているというのは、今後、彼の強みになっていくことでしょう。

第二幕

演技でぎょっとさせられたゲオルギューに対し、生の舞台ではアンサンブルを壊しかねないほど
大きな声で歌いまくって、本公演日に私と隣席のおじさんから顰蹙を買っていた
ムゼッタ役を歌ったアルテータは、逆に映画で観る方が全然いい!
ゲオルギューよりも自然で、キャラクターをとらえた表情、体の動きといい、
映像で見る限り、このムゼッタはかわいくってとってもよい。
歌唱の方もマイクが、舞台から遠い座席で聴いているよりは、
他のキャストとのバランスが増幅される前に声を捕らえてしまうのか、
実演で聴いたほどには、他を圧しているようには聞こえませんでした。

実演のレポで書いた、馬のウ○チについては、
上手く馬車や子供たちで隠されて見えませんでしたが、(見えても困る!)
ムゼッタが登場する場面では、帽子の箱を撒き散らした後で、アルテータが
”やだ!どうしよう!!”と、びっくりした表情で口を覆い、
その後で観客の笑いが入っているのですが、ここが、箱がオケ・ピットに転がり落ち、
弦の奏者の方がそれをキャッチしたという場面です。



アルテータの生き生きとした演技に我々観客も引き込まれ、”私が街を歩くと Quando men vo ”に
聴き&観入っていると、突然、画面がブラック・アウト。
真っ黒な画面にのって聞こえるアルテータの声。
え~~~~~。これはちょっとひどいですぅ。観客からも非難轟々。
ほとんどアリアの最後で、やっと画面が戻ってきたのですが、もしや、ゲオルギューの念力?
”私より演技が上手い女はこうしてやる!”ってか?怖い女(ひと)です。

この公演、演出と素晴らしいセットが、キャストに負けるとも劣らず、いや、
もしかするとキャスト以上の売り物だったのかもしれませんが、
残念ながら、幕中の映像では、このニ幕のセットのすごさは伝わりきっていないです。
どうしても、映像の場合、どこかにフォーカスをおかなければならず、
馬が映ったかと思えば、熊が映り、子供の姿に、竹馬で歩くおやじに、、と、
くるくると映像が変わっていくのですが、
この場面のすごさはそれら全部が”同時に”舞台で進行している、というグランドさにあるので、、。
むしろ、ニ幕直前にこのセットを表舞台に移動させてくる映像やスタッフや合唱の人たちの様子、
そして、幕後にそのセットを解体している様子などの方に臨場感が溢れていたような気がします。


第三幕

この幕のゲオルギューの出来は他の幕と比べると、アップで観ていても、決して悪くなく、
今日の上映の中では、変な演技がほとんどなくて、もっとも集中して観れた幕。
一点、残念だったのは、これもテクニカルな問題なのですが、
このシーン、舞台で観ると非常に美しいのですが、光の量が少ないので、
画面にうまく細かい色彩の妙が映し出されず、黒っぽく霞がかかっているように見えていたこと。

そういえば!インターミッション中に行われた司会のルネ・フレミングによる主役への突撃インタビューで、
舞台から引き上げてきたゲオルギューとヴァルガスの、まずはゲオルギューに、
”とっても素晴らしかったわ!今舞台袖で私も見ていたのたですが、
涙が出てきてしまいました”とフレミングがいうと、
ゲオルギューが、”あら、舞台袖に?”そして、その後、私の聞き間違いでなければ、
彼女、”じゃ、私のカバー(代役)に入ってもらおうかしら?”、、。

冗談を言ったつもりかもしれませんが、もしそうだとしたら、演技のみならず、
冗談のセンスも最悪です。
少なくとも同じくらいのキャリアの長さを持ち、人気でも負けていないフレミングに、
自分のカバーに、なんてことを言うのは失礼千万じゃないでしょうか?
人の良いフレミングは、こんなパンチを食らうとは思っていなかったのもあって、
それには特に応じず、次の質問に入っていきましたが、
私なら、”そうね。すぐに舞台から消えていなくなったり、
歌劇場にクビにされる歌手にはカバーの歌手が大切だもの。”
と言ってやるところです。
(注:ゲオルギューは、リハーサルに遅刻したり欠席したり、
自分の、やむをえ”なくない”都合で公演をキャンセルすることで有名。
実際、メトでのこの『ラ・ボエーム』の公演は、このライブ・イン・HDの収録後、
数回、いや一回だったかもしれない、を歌って、後はキャンセル。
また、リハーサルへの欠席事件が、シカゴのリリック・オペラにクビを言い渡される
原因となったのも周知の通り。)

また、フレミングが、
”このミミ役は、病気であることが設定に加わっているのも難しいところですね。
私は一度だけ、この『ラ・ボエーム』を歌ったことがあるのだけど、
あまりに、病気らしくしなくちゃ!と思うあまり、死んだ後まで咳をしてしまいそうになったわ!”
と冗談を言った後、
”あなたはどうやってそんな上手に?何か特別なことでも?”と尋ねると、
アンジェラ、”別に特には。何をやればいいのか、わかっちゃうの。”

・・・。こんな演技で、何をやればいいかわかってると、本当に思っているんだろうか、、。
違った意味で、怖い女(ひと)です。

少なくとも、演技に関しては、ルネ・フレミングの方がゲオルギューより、数倍女優度が高いのに、
この勘違い発言の嵐に、私は座席に座りながら、発熱しそうになりました。

心なしか、ヴァルガスがルネ・フレミングを見つめる目も、
”助けてください、、、ルネさん、、”と言っているような、、。
(ヴァルガスは、『オネーギン』でルネ・フレミングと共演しているせいもあり、
二人の間の会話は、終始、リラックス・ムードでした。)

実際、私のお隣に座っていた老ご夫婦のご婦人の側も、舞台の途中から、
”彼女の歌、私、好きじゃないわ、、”と旦那さんに囁いたりしていたのに、
さらに、この暴言の嵐を聞いて、やれやれと、首を何度も横に振ってらっしゃいました。

今日は、映画館側の技術的な問題も散見され、
今度は、フレミングの児童合唱へのインタビューの途中で、画像・音ともに静止してしまい、
私たち全員、フレミングと児童の静止画像をずっと座って見つめているという奇妙な状態に。
”誰か直してくれー!”と催促する口笛や拍手が飛ぶ中、劇場の関係者が現われ、
”大丈夫、今、機器の具合を確認してますから。”というと、
観客から、”大丈夫じゃないんだよー”という野次。しかし、それでも、今日のお客さんは、
全般に本当におだやかで、ゲオルギューの念力によるアルテータのブラック・アウト事件の時も、
この画像静止事件のさいも、かなり大人しい。
やがて、画像のスイッチを切るために、真っ暗になったスクリーンに、
誰かが携帯電話についている懐中電灯を取り出し、その明かりを使って、
影絵ごっこを始めて、一同なごむ。
特に、ネッシーのようなものが水面を泳ぐように、
スクリーンを水平に横切っていったのには、観客一同爆笑。
そうこうしているうちに、不具合は直され、続きの場面を見ることが出来ました。
こうやって見ていると、フレミングは、こうして子供たちと話しているときは
本当にリラックスしているように見え、
結構しゃべるのが上手な彼女でも、同僚の歌手たちや指揮者にインタビューするのは、
気を遣う、ストレスフルな任務なんだろうな、と、思いました。
それをかなりの頻度で司会役としてこなしてくれている彼女には感謝ですね。

例のおとなりのおばさまと、最終幕の映像が始まるまでお話をしていた折に、
”私はパヴァロッティがロドルフォ役で出演した公演をメトで観たりしているので、
色々とこの公演には思うところもあるのだけど、でも、このテノールはなかなかいいと思うわ。”と、
ラモン・ヴァルガスをお褒めになるので、”彼、すぐ側に座ってますよ。”と言うと、
”え?どこに?”
”私たちのすぐ前の列を左に追っていってみてください。
あの、黒い髪で、めがねをかけている、、、。”と指し示すと、笑いながら、
やおら、私の肩をぴしゃりと叩いて、”やーだ。全然違う人だわよ!”
あんなにまぎれもなくそうなのに、わからないとは、
おばさんが、違う人を見ているのではないかと思って、再度確認すると、
確かに正しくヴァルガス氏を見ているようではあるのですが、、。
まあ、おばさんが信じようと信じまいと、私はどうでもいいんだけど、、と思っていると、
そこにトイレ休憩から戻ってきた旦那さんも交え、
”いえね、この彼女がね、あそこに座ってる男性が、あのテノールだ、って言うんですよ。”
と、まるで、私のことを、頭のおかしい人間のように言うので、やれやれ、、と思っていると、
旦那さんも、”いやー、あれは違うだろう。”
二人揃って、”Are you 100% sure? ”と言ってくるので、200%そうです!と断言したところで、
第四幕がスタート。

それ以来、ラモン・ヴァルガスが画面に大写しになるたびに、おばさまが、
座席に座ってる実物のヴァルガスと見比べているのが、とってもおかしかったです。

ここで少し、ロドルフォの友達たちにふれておかねばなりません。
まず、マルチェッロのテジエ。この人は、アップで見ると、どこか心ここにあらず、というような
表情が多いのは私の気のせいでしょうか?
笑ったりしているところなんかは、生き生きとしていて、とってもいいし、
歌も決して悪くはないのに、どこか血の気が通っていないような、不思議なマルチェッロでした。

コッリーネ役のグラデュス。この人は逆に、演技上手なのだけど、歌のパンチが今ひとつ。
ニ幕のカフェ・モミュスで、ムゼッタが歌い踊る中、横でむしゃむしゃとパンを頬張っている様子は、
あまりに素で、ここまでカメラを意識せずにいられる人もすごいです。
しかし、外套の歌は、オペラハウスで聴いた以上に、細かい部分の音の扱いに、
改善の余地がある個所が多く聞こえました。

ショナール役のケルシー。生舞台では、恰幅のよさばかりが目立ちましたが、
こうやって映像で見ると、彼はなかなか歌と芝居のバランスが良いです。
こういってはとっても失礼ですが、客席から想像していたよりは、
顔の表情が理知的で、映画の方が好印象に残りました。

主役の二人に話を戻すと、ミミがロドルフォとやっと二人きりになって会話を始める場面での、
ミミの言葉、
Ho tante cose che ti voglio dire...
o una sola, ma grande come il mare
(あなたにお話したいことがたくさんあるわ、、
いえ、むしろ、たった一つだけれど、海のように大きなこと、、)
この個所のゲオルギューの表現には素晴らしいものがあって、
今日の公演で、もっとも引き込まれた瞬間でした。
これくらいのテンションの歌を他の場面でも聴かせてくれれば、
彼女の歌をもっと聴きたい、という気持ちになるのかもしれません。

ただし、全般的に、彼女は、歌詞よりもメロディーへの指向が高い、と思います。
それはつまり、同じメロディーでも、違う歌詞がのっていたら、歌い方が違って当然だと私は思うのですが、
彼女は歌詞よりもメロディーに表現を左右させる傾向があるために、
歌詞の違い、状況の違いにも関わらず、同じメロディーが登場する個所では、
表現が互いに似通っていて(どの音を表現の山にするかという選択など)、
この四幕は、第一幕と重複するメロディーが多いので、特にそう感じました。
これは、第一幕でふれた、歌や演技が言葉とリンクしていない、
という点に帰ってきてしまうのかもしれませんが。

ゲオルギュー以外のキャストは、なかなかしっかりとした演技を見せていて、
特にヴァルガス、彼の演技を見ているほうが、ゲオルギューを見ているより、泣けてくる。

これまた、しらじらしいミミの最期の姿(ガクッ、、!って、
小学校の学芸会の芝居でもあるまいに、、)に、映画館から失笑が漏れたものの、
ヴァルガスの演技でカバー。
最後にロドルフォがミミー!と二回叫ぶ場面では、ミミに駆け寄るのではなく、
そばにいたマルチェッロの胸に泣き崩れていたのが、余計、悲しみをそそりました。

終演後、会場から出るタイミングを失ってしまったらしいヴァルガスは、
観客をやりすごそうと地味に隠れていたのですが、ほとんどの人が退出して、
会場に残っている数少ないお客さんにやがて気付かれることとなりました。
中には、”あのメキシコ人のテノール!”と叫んでいる人やらもいて、
映画まで見たんだから、名前くらい覚えようよ、、と思ってしまいます。

お隣のご夫婦も本物だとわかって、さっきまでの姿はどこへやらの大興奮。
奥様は、サインをもらうつもりなのか、旦那さんに、”早くペンを貸して!”と指示をとばしてました。
本人が、あまり気付かれたくない様子だったし、このライブ・イン・HD、
実質の公演以外の映像とインターミッション、それから先に書いたテクニカルな問題のせいで、
かなり上映時間が長く、私もぐったりしてしまったので、
明日の『皇帝ティートの慈悲』ではヴァルガス氏に素晴らしい歌を聴かせていただかないと困る!
そのためにはしっかり休養してもらわねば!ということで、私は声もかけず、
サインももらわず、帰ってきてしまいました。

公演そのものには、若干問題点もあったと思いますが、やっぱり映像作品としては、
非常に良く出来ている、このライブ・イン・HD。観に来て良かったです。


Ramon Vargas (Rodolfo)
Angela Gheorghiu (Mimi)
Ainhoa Arteta (Musetta)
Ludovic Tezier (Marcello)
Oren Gradus (Colline)
Quinn Kelsey (Schaunard)
Paul Plishka (Benoit/Alcindoro)
Conductor: Nicola Luisotti
Production: Franco Zeffirelli
OFF

Performed on April 5, 2008, at Metropolitan Opera, New York

Live in HD viewed on May 14, 2008, at Regal Union Square Stadium 14
Auditorium 8, New York


***プッチーニ ラ・ボエーム Puccini La Boheme***

HD: LA FILLE DU REGIMENT (Sat Mtn, Apr 26, 2008) ②

2008-04-26 | メト Live in HD
一連の公演で、当初、クラケンソープ公爵夫人に予定されていた
ゾーイ・コールドウェルは、マリアン・セルデスに交代になっていた模様です。
本文を訂正いたしました。


(注意:全文、ネタバレありの言いたい放題。これからライブ・イン・HD/ライブ・ビューイングをご覧になる予定の方は、
読み進められる場合、その点をご了承いただきますようお願いします。)


より続く>

フローレスが歌うと、アクロバティックさが売りのアリアも、
その裏にきちんと意味があったんだ、と気付かされる。
今日の彼の歌唱もまさにそう。
俗にメザミ(Mes amis)と言われているこのアリア、
前半で、入隊させてもらって、これでマリーとずっと一緒に居れる!と有頂天になって、
さらにごり押し!とばかりに、居眠りを決め込んでいる他の兵士たちに、
マリーとの結婚を認めさせようと説得させようとするところ、など本当に上手い。
やがて、彼の本気度に居眠りどころではなくなって来た兵士たちも
全員起き上がって、そうはさせるか!と合唱が入るところが楽しい。
トニオの”だけど、彼女だって僕を愛してるんだ”の一言に、
二人が愛し合っているんなら、しょうがないか、、と、簡単に兵士たちが陥落するところも、
なんともご都合主義のベル・カントっぽいところだが、気にしない、気にしない。
”では我々も許そう”という正式の許しが出た後、
”僕にとっては何という幸運 Pour mon ame ques destin"で始まる後半の部分が、
先日紹介したNYタイムズの記事の中に含まれていた音源と映像にあった、ハイC連発の個所。

今日のフローレスはもう公演の頭からものすごく調子がいいのがわかる歌唱だったので、
全く心配はしていなかったのですが、これはもう、すごい。
本当に素晴らしい出来です。
ダイヤモンドの鑑定書なんかを見ると、質のよいダイヤモンドでも、
拡大鏡で見たときに少しキズが、、なんてことがあって、
グレードがA-になったりする場合がありますが、
そんなレベルの比較でいうと、やや一つ目のハイCがA-という感じもしましたが、
残りは、全てこれ、A+。
いやいや、計8個のハイCがA+なんて、これはフローレスの歌唱の中でも最高の出来です。
こんなもう上の上のレベルでの微妙な比較をするのもどうかと思いますが、
あのNYタイムズにあった音源よりも、断然今日の方が上。
いやー、こんな9連発を出してしまったら、アンコールしても何になるのか、、と複雑な気分。
これはもう完璧といってもいい歌で、これに足すものなんて何もないでしょう。
むしろ、このままにしておいて欲しい気すらするほど。
映画館の中も大きな拍手がとび、オペラハウスもすごい盛り上がりよう。



長い拍手と歓声に、フローレスも一旦芝居モードを解き、一歩下がって深々とお辞儀。
いっそう高まる拍手にどうする?どうする?と思っていたら、
オケの演奏が始まり、次の場面へ。
結局、アンコールはなし。正しい判断です。
残念に思う人も多いかもしれませんが、後のインターミッションで、
映画館にいた観客の一人がお友達に言っていたとおり、
”アンコールなんていうのは期待されてするものではない。
その時の雰囲気とか、客とのケミストリーとか、いろんな要素が決めるものなんだ”
という言葉に私も賛成。
特に今日のように、一回目でこれだけ素晴らしい歌が出てしまった場合はなおさらで、
もう一回歌ってくれたとしても、9つのハイCがAレベルのものになるであろうことは
間違いなく、そんなことを証明するためだけにアンコールをする必要はないのであって、
自分を安売りしないその姿と、適切に自分の歌のクオリティを判断しているところは、
さすが、王子!!という感じです。
むしろ、今日の客はアンコールがなかったことを嘆くより、こんな素晴らしいハイCを、
9つ連続で聴けたことに感謝すべき。本当に素晴らしかったです。


”彼女は僕のものだ!”と有頂天になっているトニオに、そんな主張を出来るのは、
彼女のおばさんのみだ!と、トニオと連隊の他の兵士にとっては
衝撃の言葉を発しつつ登場するシュルピス。

もう少しで結婚できる!というこの時に、なんという不幸な、、。

ここでマリーが、連隊との生活とも離れなければならない、と歌う、
”さようなら Il faut partir ”では、デッセイがしみじみとした
これまた優れた歌唱を聴かせてくれます。



結局、マリーが出した条件はのまれず、シュルピスのみが付き添いで同行することに。
”僕もついていく!”と言うトニオに、”何を言うか、お前はもう軍隊の一員だろうが。”と、
するどいところをついてくるシュルピス。
時にはベル・カントもご都合主義を廃して、突然まともになる時があるのです。
この突然まともになるところも広い意味ではご都合主義なのでしょうが、、。



とうとう引き離されてしまうマリーとトニオ。二人はこの先どうなってしまうのでしょうか?
というところで幕。

舞台を飛び回った後でぜーぜー言いながら引き上げてきたデッセイと、フローレスを、
司会のルネ・フレミングが捕獲。
この大変なプロダクションで幕間にインタビューをするのは少し二人に気の毒な気もしますが、、。

特にフローレスが言っていた、ベル・カント的には、Mes amisの歌唱よりも、
この後に続く二幕でのアリア、”マリーの側にいるために Pour me rapporocher de Marie "
の方がずっとずっと難しい、という話に納得。
レガートに、ピアニッシモの数々、
そして、Dフラット(もちろんハイCよりもさらに高音)、、と本人が言うので、
フレミングがびっくりして、Dフラット?この曲にそんな高音が入ってたなんて知らなかったわ、というと、
”うん、僕が勝手に入れてるだけなんだけどね。楽譜にはないんだけど。”と答えて、
映画館にいた観客を爆笑の渦に落とし込む王子。
(このアドリブで楽譜にない超高音を含む超絶技巧が入ったりするのも、
ベル・カント作品を聴く楽しみの一つです。)

いろいろ興味深い話を聞かせてくれた後、デッセイが最後に一言言わせて!と、
ルネ・フレミングが言葉を挟めないでいる間に、このライブ・イン・HDが
フランスにも生放送されていることを受けて、フランスに向けてのメッセージを
機関銃のようなフランス語でまくしたてる姿にまたまた観客は爆笑。
彼女はフランス人だし、このオペラもナポレオン軍をフィーチャーしたもので、
歌われる言語もフランス語、とあれば、そんなメッセージを送りたくなるのもわかります。
その後、フローレスが、彼の出身国、ペルーに向け、
”ペルーにもhello!このオペラとは何の関係もないけど!”と言って笑わせ、
またしても王子、なかなかお茶目な一面を垣間見せていました。

後半のインタビューは、キャラクターが立っている脇役を演じた二人、
パーマーとコルベリ。
フレミングの、どうやったらそんな風にコミカルに演じられるのでしょう?という質問に、
二人は、”面白く演じようとしすぎないこと。おかしみというのは、
状況から来るものなのであって、まじめに演技すればするほど、おかしさが引き立つものなんです”
と答えていました。

突然歌の部分から、普通の会話部分になるあたりは難しくないですか?という質問に、
コルベリが、一つか二つ、音を選んで、その音にのせて、言葉を言う練習をするんだ、
というような非常に面白い話を聞かせてくれている途中で、ルネ・フレミングが、
”あ!オケのチューニングに入ってしまいました!”と時間切れ状態に。
もっといろいろな話が聞きたかったのに。

このインターミッションの時に初めて客席の様子が写されましたが、
この客席の様子、また、時々引いたアングルで舞台を撮影している時に写る、
サイド・ボックスにともった明かりなどが非常に美しく、
なんだか、通り一本はさんだところでこんな絵面が展開していると考えると非常に奇妙な感じがし、
またいつも行きなれた自分の知っているメトとはちょっと違ったお澄ましさんの表情を
オペラハウスが見せていたのが印象的でした。


第二幕

間奏曲。
ヴァイオリン・ソロが大フューチャーされた美しい曲でありながら、
ベルケンフィールド家での豊かな生活においても、
空虚な気持ちが拭いきれないマリーの気持ちも表現されていて、
CDだけで聴くと素敵なのですが、このプロダクションでは、この曲中、
バレエのレッスンのような動きを、やる気のない召使たちが掃除をしながら見せるという
おかしな演出。しかも、この召使たち、全員男性。
たくましい足でプリエなんかをしている様子がおかしい。

続いて、オリジナルにない、クラケンソープ公妃とベルケンフィールド女侯爵の
ダイアローグが入り、マリーがクラケンソープ公妃の子息と結婚させられそうに
なっていることがわかります。
(オリジナルでは、クラケンソープ公妃は最後の最後で登場するのみ)
このクラケンソープ公妃、爵位もベルケンフィールド女侯爵よりもさらに上の、傲慢で、
鼻持ちならない強烈な公妃を、映画にも出演し、
ブロードウェイでトニー賞を一度獲得、候補には何度もなっているマリアン・セルデスが怪演しています。
女性の年齢を云々するのも無粋ですが、彼女はなんと今年で80歳になられるそうです。



何とか、クラケンソープ公妃を追い払った後、
淑女になるべくマリーに課されている数々のレッスンの一環として、
マリーがベルケンフィールド女侯爵のピアノに合わせて歌の練習をするシーン。
側ではシュルピスが座って歌を聴いているのですが、レッスンに使われる、
”小さい森に陽が昇り Le jour naissait dans le bocage ”が退屈でたまらない様子。

シュルピスが、いつも連隊と一緒に歌っていたメロディーを横で囁いたりするので、
マリーも脱線していく様子がおかしい。



そして、”小さい森に~”に含まれている言葉が、”連隊の歌”と重なっているのをきっかけに、
いつの間にか、シュルピスとマリーが、”連隊の歌”を大合唱。
ピアノ伴奏をしていたパーマー演じるベルケンフィールド女侯爵が、
”そんなメロディーどこにあんのよ!!”という感じで、楽譜を気が狂ったように
めくる姿が観客の笑いを誘います。
ここは三人のコメディアン&コメディエンヌぶりが炸裂し、この公演の中でも最も楽しい場面の一つ。
曲が自然な調子で変わっていくところは、ドニゼッティもなかなか冴えてます。

どたばたの後、マリーは、ドイツで一番の領主、クラケンソープ公妃の子息と結婚するのだ、と、
ベルケンフィールド女侯爵に言い渡されます。

大ショックのマリーが、連隊やトニオのことを思い出し、
どんなに宝石やレースに囲まれたって、トニオに会えなければ、人生の意味なし、と
チェロの印象的なフレーズに乗せて歌う、
”富も栄華の家柄も Par le rang et par l'opulence ”。



コメディの中で、こういう一瞬まじめになる瞬間の大事なアリアを、
ぴたっとモードを切り替えて、歌ってしまうデッセイがまたしても素晴らしい。
一幕とは対象的に、柔らかく歌わなければ味が出ないアリアなので、大変な曲。

しかし、遠くに行進曲が聞こえてきて、21連隊が近づいてきていることを知ったマリーは、
元気を取り戻し、”フランス万歳 Salut a la France ”を歌います。

マリーのため、と軍隊でも活躍を続け、勲章まで獲得して現われたトニオと固く抱き合う二人。
マリーがクラケンソープ家に嫁がされそうになっていることを知ったトニオは、
それこそ捨て身で、ベルケンフィールド女侯爵の前で、
自分がマリーのために連隊に入隊したこと、そして、マリーを連隊に返してほしい、
と訴える感動的なアリア、”マリーの側にいるために Pour me rapprocher de Marie ”
を歌います。
フローレスをして、インターミッション中に、Mes amisよりも難しい、と言わしめたアリア。

なんと心のこもった歌唱なのか。
ばかばかしい、ありえない、はちゃめちゃな設定のベル・カント。
そんなストーリーの中にあって、一瞬、人生の真実の瞬間を切り取ったようなアリアがあり、
そんなアリアが、適切な歌手を得た時に、宝石のような輝きを放つ、、。
それこそがベル・カントの作品を聴き、観る楽しみであるのですが、これはまさにそんな瞬間。
彼の声の美しさと、稀有なテクニックとが結晶したような歌唱。
私の連れの、私とは逆の隣に座っていた女性は、このアリアで、そっと涙を拭っておられたそうです。

こんな風に請われたら、私ならすぐにマリーとの結婚を許してしまいそうだが、
気持ちはよくわかるけど、こればっかりは譲れないのよ、とつれない素振りのベルケンフィールド伯爵。

彼女はシュルピスと二人きりになった時、なぜ自分がかたくなにマリーをクラケンソープ家に
嫁がせようとしているか、その秘密を語ります。
実は、ロベール大尉と恋愛関係にあったのは、彼女の妹ではなく、まさに彼女その人であったのです。
行かず後家になって30代で軍人の間に子供を身ごもったなどということは
家柄上、許される話でなく、仕方なくマリーを手放したこと、
今、彼女を母親として幸せにしてあげられる一番の方法は、
おばとして身を隠しながら、彼女とクラケンソープ家との縁談をまとめることであること、
などを訴えるその姿に、親心を感じたシュルピスは、彼女を支えることにします。

いよいよ、結婚を祝う客人が訪れはじめますが、みんなよぼよぼ。
地面を見ながら小股で歩く姿に、映画館からは笑いがもれましたが、
(ここは、私と連れの間でも、座りたくて椅子を探している、という説と、
その前にある台詞に呼応して、本人たちはダンスを踊っているつもりなのではないか?という説にわかれ、
見方によって色々解釈できると思います。)
客席の皆さんもたいがい似たような感じなのに、と意地悪なことを思ったのは、
私も私の連れも同様でした。

やがて、結婚公証人とクラケンソープ公妃があらわれ、後はマリー本人が姿を見せるのみ。
”花嫁が姿を見せないとはどういうこと?!”と怒り心頭のクラケンソープ公妃を見て、
心臓発作を起しそうな様子のベルケンフィールド女侯爵に、
マリーがこのままではてこでも公証人とのサインに姿を見せないつもりであることを理由に、
この際は、ベルケンフィールド女侯爵が実の母親であることを告げるしかありません!と、
力説するシュルピス。
ベルケンフィールド女侯爵も折れて同意します。
彼女が実の母親であることを知ったマリーは、母親を悲しませるわけにはいかない、と、
結婚する気で、姿を現します。
(マリー、君はなんていい子なんだ!!)

そこに”ちょっと待った!!!”と現われたのが、カタカタカタ、、という音と共に、
戦車にしがみついて現われたトニオ!!! 会場は爆笑の渦!!
そして周りに控える第21連隊の兵士=マリーのお父さんたち、、。



オリジナルでは、最後までとことんマリーを愛し続けるトニオの姿に、
ベルケンフィールド女侯爵が良心の呵責を感じて、
自ら真実を暴露し、マリーとトニオの結婚を認めてやる、というストーリーになっていますが、
このプロダクションでは、トニオが、”結婚させてくれないなら、僕がみんなの前で、
真実を暴いてやるぞ!!”と脅迫に入り、
観念したベルケンフィールド女侯爵が、とうとう二人の結婚を認める、という筋立てに変更されています。

しかし、トニオ、、、どうやって”真実”を知ったんだろう、、?

演出家のペリー、最後の最後で、”僕もベル・カントの毒気にやられてしまいました!”と
ばかりのご都合主義。わざと、とすれば、恐ろしいユーモアの発揮ぶりです。

トニオと晴れて結ばれることとなったマリーを兵士たちが祝いなら高くかかげ、
デッセイがその空中で横になったポーズで高音を決めて幕。
(彼女は一幕でも抱きかかえられたまま高音を出すという離れ業を決めていました。)



こわいまでのはちゃめちゃなストーリーが美しいメロディーと素晴らしいキャスト、
一級の演出に恵まれると、こんなに素敵な舞台に昇華されるという見本のような公演。
いつもはデッセイの演技はオーバーで好きじゃない、と公言していた連れも、
今回の彼女を大絶賛。昨日までの様子はどこへやら、”見に来て良かった!”と大興奮しておりました。

フローレスとデッセイを主役に据えたこの演出は、『連隊の娘』の新しいスタンダードになる!と、
オペラヘッドたちから絶賛されていますが、それも納得。
だた一言、観ていて、本当に楽しかった。
超絶技巧が必要な役を彼らが歌っている、ということを忘れさせられる瞬間がたくさんあった、
そのことが、フローレスとデッセイのすごさを物語っています。

私たちが鑑賞した劇場は、音の設定も非常に適切。
音が割れるということは一度もなく、このように歌そのものを楽しむタイプの演目では、
本当にありがたいことでした。
日本では、映像に比べ、音声の方でいまいち、、という声を聞くライブ・ビューイングですが、
少なくともウォルター・リード・シアターでは、かなりオペラハウスで聴ける音を
忠実に再現していて(もちろん限界はありますが)、
私は全く不満はありませんでした。
これは、各劇場の裁量に大きく左右されるものなのかもしれません。

映像に関しては、さすがにオペラハウスで観ているときと比べると、
舞台の全体像が把握しにくく、アップで登場人物が映っている際、彼らは舞台上の
どのあたりにいるんだろう?と思わされることがあった点と、
メトの舞台の特徴となっている高さが全く画面から伝わってこないのが、
感想として残りましたが、その代わりに、歌手たちの表情がしっかりと見えるのですから、
これは不可避なトレード・オフといえるでしょう。

編集はさすがに上手くて、画面の切り替えからくるフラストレーションはほとんどなく、
各場面で採用されているアングルも適切。

金曜はいよいよ生舞台の鑑賞。楽しみです。

(参考までに、インタビューの場面で、デッセイが小さなマイクをつけているのが映っていますが、
これはダイアローグの部分のみで使用され、歌唱部分では一切マイクは使用していない、
とのことです。)


Natalie Dessay (Marie)
Juan Diego Florez (Tonio)
Alessandro Corbelli (Sgt. Sulpice)
Felicity Palmer (Marquise de Berkenfield)
Donald Maxwell (Hortensius)
Roger Andrews (Corporal)
David Frye (Peasant)
Marian Seldes (Duchesse de Krakenthorp)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Laurent Pelly
Set Design: Chantal Thomas
OFF
Performed at Metropolitan Opera, New York
Live in HD viewed at Walter Reade Theater, New York

***連隊の娘 ドニゼッティ La Fille du Regiment Donizetti***

HD: LA FILLE DU REGIMENT (Sat Mtn, Apr 26, 2008) ①

2008-04-26 | メト Live in HD
会社勤めの身の私、メトで実際に舞台を見るのは、ウィークデイよりも、
土曜の公演に集中しがち。
ライブ・イン・HD用の公演は、全て土曜のマチネのものなのですが、これまで、
どの演目も、私がオペラハウスで鑑賞するマチネ公演にあたってしまうという星の巡り。
アメリカではその名の通り、”生放送”のゆえ、
体が一つしかない私は両方を見るわけには行かないので、
まだ一度も映画館でライブ・イン・HDを体験したことがないのでした。
しかし、今シーズン最後のライブ・イン・HD『連隊の娘』は映画館で見れることに!
というわけで、今日は記念すべき、私のライブ・イン・HDのデビューの日なのです。

作品そのものを楽しませていただくのはもちろん、
当ブログにコメントを寄せてくださっている方や、私に半ば強制されて、
今シーズンのライブ・イン・HDを全制覇している私の両親とおばから聞いている
日本での上映状況との比較、SFO(サン・フランシスコ・オペラ)のシネマキャストとの比較、
また、NYの観客たちの反応等、観察したいことが山ほどあるので、
今日の私は、やる気が充満しています。

そして、その勢いに乗り、先日、”実はオペラよりバレエが好き”という、
私を地蔵状態に陥れる爆弾発言を振り出した私の連れも強制連行です。

ライブ・イン・HDの人気が定着しているせいもあり、マンハッタンでは現在、
4箇所の映画館で上映が行われていますが、
今日、我々が鑑賞するのは、メトから通りをはさんだ向かいにある、
ウォルター・リード・シアターという映画館。
昨日まで、全く気乗りのしない様子だった私の連れなのに、
いきなり映画館で落ち合う約束の時間の20分前に電話をしてきて、
”もう映画館に着いちゃったんだけど、今どこ?”

どこって、もちろん、まだ家ですけど、、、。

結局、いつもどおりにキャブを飛ばして映画館のあるメトの方向へ。
(注:私は余裕で歩いて行ける距離にあるメトに、いつもキャブで乗り付けてしまう。
渋滞にはまって、歩くよりも時間がかかり、結局途中下車してメトまで全力疾走しなければ
ならない羽目に陥った事件
も今年はあった。)

到着したのは上映開始の1時間前。
ロビーにはすでに開場を待つ人の列が出来ていました。
しかし、年齢層が高い。
これは、オペラハウスの観客よりもさらに平均年齢が高い感じがする。
連れの姿を確認し近寄る私に、彼が大声でおもむろに一言。
”今日君が一番若い客みたい。”
全くしゃれになってません。
さらにしゃれになってないのは、その私も、絶対的な尺度で言うと、
決してそう若くはない、というこの事実、、。
ゲルプ支配人が、メトの未来のためには、若い観客層を開拓せねばならない!と、
よく言っていますが、こんな図をみると、確かに、、と思わされます。

開演のおよそ45分前に開場。
少なくとも、30分くらい前から、オペラハウスの客席の様子などを見せてくれるのかと思っていたのですが、
スクリーンに映るのはライブ・イン・HDの宣伝ばかり。
映画館の中の皆さんは、心得たもののようで、開演直前まで、客席でコーヒーをすすったり、
軽食をつまんだりと、リラックス・モード。

この日のチケットは売り切れ、と聞いていましたが、まずはその言葉どおり、
268の座席があるこの映画館の、最前方の数列を除いては、ほとんど満席状態。

(注意:ここからは、ネタバレありの言いたい放題。これからライブ・イン・HD/ライブ・ビューイングを
ご覧になる予定の方は、読み進められる場合、その点をご了承いただきますようお願いします。)



およそ定刻どおりにいきなり画面が切り替わり、本日のホストを務める
ルネ・フレミングが登場。
いよいよ開演!ということで、映画館の客席からも拍手が起こります。
裏方さんの、”マエストロ、どうぞ!”の合図で、私の大好きなマルコ(・アルミリアート)が
袖から指揮台へ登場。
この人は、オペラハウスで見ているときも、、”指揮が出来て幸せ!”という
ものすごいポジティブ光線が座席まで飛んでくるのですが、
アップで見て、これまた予想通りの表情だったのが嬉しかったです。
この作品には、心がうきうきと軽くなってくるような
ハッピーな雰囲気が演奏に漂っていることが絶対不可欠。
その意味で、彼をこの公演に配したのは、正しい選択です。


第一幕

印象的なホルンの音で始まる序曲。一気に目の前にチロルの風景が広がります。
そう、舞台は、スイス、チロル地方の山間にある村。時はナポレオン戦争の頃。

フランス軍の侵攻に抵抗しようと、チロルの村人たちが家財道具で組んだバリケードが
舞台上に見えますが、
しかし、頭には鍋をかぶり、手にした鍬や鋤でフランス軍と戦おうとする男性たちの姿は、どこかのどか。
女性はそんな男性の安全を願って一生懸命聖母像に祈りを捧げるのですが、
この女声合唱について一言。
最近、合唱の出来がすごく良くなって来ていると喜んでいたのに、
今日はまたまた以前のようなおばさん臭い声でがっかり。
このシーンの合唱は人数も少なく、一人一人への依存度が非常に高いので、
一人、二人の好ましくない歌唱と声質が全体の印象に大きく影響してしまった
可能性があります。



そんな村にやって来たのが、ホルテンシウスという召使を引き連れたベルケンフィールド女侯爵。
(正式には一度も結婚したことがないようなので、侯爵夫人ではない。)
フランス軍に攻め入られるのを恐れ、自らの城から、貴重品を持ち出し、
馬車で逃げ出してきたのでした。
ベルケンフィールド女侯爵を歌うのは、今シーズン、メトの『ピーター・グライムズ』で、
”いやなばばあ”ミセス・セドレーを見事に歌い演じたフェリシティ・パーマー。

ルネ・フレミングがキャスト紹介の中で、彼女を”歌う女優”と形容した途端、
”Yes, she is!(その通り!)”という言葉が映画館の中で飛んだことからもわかるとおり、
彼女は、その確かな表現力でオペラヘッドの厚いリスペクトを受けている歌手の一人です。

今日はイギリスの漁港町のいやーなオバサマから一転、くせがあるのにどこか憎めない
ベルケンフィールド女侯爵を上手く演じています。
このベルケンフィールド女侯爵はこのオペラの中である意味、話の鍵を握る、
重要なポジションを占めているので、彼女の言葉、一挙手一投足に要注目です。

後のインターミッションでも、パーマーとコルベリによって触れられますが、
このプロダクションでは、テキストがオリジナルから変更されている個所があります。
特にお芝居のように話言葉で交わされるダイアローグの部分は、
かなり観客側に話の筋がわかりやすくなるように組みなおされ、オリジナルにない言葉も見られます。
確かにオリジナルのダイアローグどおりだと、やや話がわかりにくく感じられたり、
また、登場人物の行動に不審な部分があり(しかし、それはベル・カントの常なので、
私はもはや気にしない体質になってしまっているのですが、、。)、
こちらのプロダクションの方が随分親切になっているような気がします。
その一環として、すでにこの一幕頭の方で、よく注意して見ていると、
ほとんどオペラの筋の種明かしともいえる、ベルケンフィールド女侯爵が、
”姪っ子”というつもりで、つい、”むす・・(娘)”と口走ってしまう場面が入っており、
英語でもそれが訳出されていましたが、ライブ・ビューイングでの和訳はどうなっているでしょうか?

やがてフランス軍が攻撃の手を止めたという知らせがあり、ほっとするチロルの村人と女侯爵。
そこへ、フランス軍第21連隊のシュルピス軍曹が現われ、フランス兵を野蛮人と思いこんでいる
みんなはちりぢりに。

後に召使のホルテンシウスがベルケンフィールド女侯爵をシュルピス軍曹にひきあわせる場面で、
シュルピスのことを、”顔は不細工ですが、気のいい男でして、、”と説明する台詞があるのですが、
オリジナルでは、どこでこの二人が顔を合わせる機会があったのか謎なのに対し、
ここで逃げ遅れたホルテンシウスをシュルピスがお咎めなしで解放してやる、というシーンを
入れることにより、つじつまが合うようにしています。

ここでバリケードがはけ、一気に舞台上全部が見渡せるようになるのですが、
セットは地図をはりつけた山々。その山の角度のとり方が非常に巧みで、
引いた視点から見ると、見事にアルプスの山!という雰囲気です。

いよいよデッセイが演じるマリーの登場。



捨て子だったマリーをこのシュルピス率いる第21連隊が拾い上げて手厚く育てたという経緯があり、
いわば、21連隊の兵士全員がマリーの父親。
シュルピスはそのたくさんいる父親の親玉のような存在です。
兵士っぽい粗野な行動の中にも、優しさと人のよさが光る親父を、
昨年のプッチーニ三部作の『ジャンニ・スキッキ』の表題役でこれまたコミカルな持ち味で唸らせた、
アレッサンドロ・コルベリがつるつる頭のかつらを着用しつつ、熱演しています。

最初の聴きどころ、マリーとシュルピスの二重唱、
”戦火の中で私は生まれた Au bruit de la guerre "。
この曲一曲だけで、マリーがいかに軍隊生活をエンジョイしているかということが伝わってくるような、
聴いているだけで楽しくなる曲。
パヴァロッティと組んだCDで素晴らしい歌唱を披露しているジョーン・サザーランドなんかは、
戦地暮らしといえ、どこかたおやかな感じがあるのに比べて、
デッセイのマリーは、見た目と表現が”おとこおんな”もしくはトム・ボーイのようなマリー。
しかし、彼女の声自身には柔らかい女性らしい響きがあるので、これがなんともいえない
アンバランスの妙を生み出しています。
彼女に関しては、喉の故障を経験してから、以前ほどの輝きが声になくなった、という声があり、
確かに、細かいことを言えば、この二重唱の最後の高音なんかも、
少しざらっとしたテクスチャーがあるにはあるのですが、
しかし、彼女の場合は、それをものともしない、役を表現する力があるので、
私にとってはノー・問題。
しかし、彼女は本当によく動く。この二重唱の中で、アイロンを右左に動かしたり、
洗濯物を手ですぱすぱと切るようにたたむ姿など、おかしくて笑ってしまいました。
こんな動作を、直立して歌っているだけでも難しいパッセージを歌いながらこなすんですから、
この人は本当に只者じゃないといつも思います。
『ルチア』の狂乱の場でウェディング・ヴェールをびりびりに破りながら、
歌も正確にこなしていたのと、共通するものがあるかもしれません。
『ルチア』の時のドラマチックな演技もすごいと思いましたが、
彼女は、コメディエンヌとしての才能も図抜けています。

歌で盛り上がった後、親父シュルピスが突然娘のマリーに、
”最近、お前、見慣れない男と会っているようだが、、”と鋭いつっこみを入れます。

それは、自分が花を摘もうとして崖から落ちそうになったのを、
自分の命も顧みず助けてくれたのがきっかけで知り合ったチロルの男性で、
それ以来、彼は自分に恋をしているのだ、と打ち明けるマリー。

とそこへ、第21連隊の兵士たちが、若い男性をしょっぴいて現われます。
敵がスパイしていたものと思い込んで連行してきたその男性こそ、
少しでもマリーの姿を見たい、と、危険を承知で野営地に現われた、
マリーに恋するトニオでした。

このシーンではチロリアンっぽいセーターに、短パンという姿で現われ、
ほとんど”かっぺ”のような純朴な青年を演じるフローレス。
ああ、フローレス王子ってば、こんなに短パンまで似合ってしまうとは、、。
しかし、彼が一声発すると、もうその声の美しさにうっとり
なんて男前な声なのか!その上に、本当に見た目も男前なのだから、
天とは思いっきりニ物を与えるものなのである。
この『連隊の娘』ではハイC連発といったアクロバティックな面ばかりが取りざたされているのですが、
彼の歌の魅力のベースにあるのは、この声そのものの美しさ。
アクロバティックな面も含む技術のすごさは、この声があって生きてくるもの。
この登場のシーンからしばらく続く、超絶技巧が全くない場面での、
彼の声の美しさと表現力の豊かさは出色で、ここだけ聴いても、
彼がいかに稀有な存在であるかということがわかろうというもの。
出てきた瞬間から舞台に花が咲く感じが、スクリーンを通しても伝わってきます。

この役で名を馳せた歴代のテノールといえば、先ほど名前を挙げたパヴァロッティが思い浮かび、
彼の歌唱も素晴らしいですが、この場面で一気に観客すらトニオに恋させるその手腕は、
このフローレスの方がが数段上だという思いを強くします。
あと、声が比較的(特に若い頃は)軽かったパヴァロッティですら、
このフローレスと聴き比べてみると、かなり重たい感じがします。
どちらが好きかは好みの問題でしょうが、この独特の声の軽さが
フローレスの歌の魅力の一つなのは間違いありません。

たった今殺さん!とトニオに銃口を向ける連隊の兵士たちに、
自分の命を救ってくれた恩人なのだと説明するマリー。
”なーんだ、それなら事情も違うじゃないか”と、戦いにおいては敵でありながらも、
娘の恩人なら、と、トニオを温かく迎え入れる第21連隊。
常日頃から兵士をねぎらうために歌を歌ったりするのを得意にしているので、
”さあ、恩人のためにも、21連隊の歌を聞かせてやれ!”とシュルピスに押しやられるマリー。
ここでは、トム・ボーイのようなマリーが、恥じらいを見せていて本当に可愛らしい。
ラララ La la la...で始まり、21連隊の兵士たちの合唱を伴う”連隊の歌”は、
これまた楽しい曲。
この曲のなかの歌詞が、ニ幕の中で生きてくるのでこの曲も要注目曲。
いわば、マリーの人生のテーマ曲ともいえる曲なのです。
この”連隊の歌”の最後の高音をデッセイはこれ以上ないくらい綺麗に決めていて、
今日の公演の中で彼女が出した最も美しい高音。
彼女が喉の故障を経験する前は、このような音が毎回出ていたのかもしれないな、
と思わされます。

やがて、兵士の集合を求める太鼓の音が聞こえ、遊びはここまで、といそいそと、
準備を始める兵士たち。
”君も帰りなさい”と言われたトニオですが、マリーと離れがたい彼は、帰ろうとしない。
マリーと彼を二人きりにさせたくない父親心満載の兵士たちは、では自分たちと一緒に来るまで、
と彼も連れていってしまいます。
”お前も一緒に来るか?”とシュルピスに聞かれたマリーはふくれっつらで、”私は行かないもん!”。
このあたりは、マリーの乙女心が出ていて、これまた非常にかわいい。
彼女自身は一言もまだ認めていませんが、すでに、
マリーがトニオにしっかり恋におちているのがよくわかります。
父親たちが自分の気持ちを慮って二人きりにしてくれないことに腹を立てているというわけです。
そして、そんな娘の我儘を許すか!と、思い切り父親しているシュルピスも微笑ましい。



しかし、そこは根性の入ったチロリアン、トニオ。
上手く兵士たちをまいて、マリーのもとに戻ってきます。
”みんなは彼を手荒く連れて行った Ils ont emmene butalement ”から、
二重唱”なんですって?あなたが私を愛してる? Quoi! vous m'aimez ”は、
ベル・カント作品好きにはたまらない、美しい旋律が続く一幕の山です。
マリーがジャガイモの皮をむく横で、自分の恋心を打ち明けるトニオ。
この愛の告白の場面のフローレスがまた本当に素晴らしい。
ここでフローレスがださいチロルの村人という人物像に、
意外と恋愛上手な部分も表現していて、やるな、と思わされます。
この後、トニオは軍人としても成長していくのですが、彼の表現には、
ベル・カントでは歌唱力がないと表現するのが非常に難しいその人物の心の軌跡とか、
成長の過程がきちんと歌いこまれているのもすごいところ。
そして、同じ旋律を繰り返す形で、今度はマリーが自分の恋心を打ち明ける。
お互いの気持ちを確認して、二重唱の最後にはしっかりと抱き合う二人



二人のケミストリーもあるのですが、
双方、実力のある歌手が歌うベル・カントの二重唱を聴くのは至福の時だと再確認。

その抱き合った二人を引き返してきたシュルピスが見つけてひっぺがす。
敵であるチロルの男なんかに娘をやれるか!というわけです。

ここで、マリーとトニオの二人は一緒に舞台から消えるというのがオリジナルですが、
後でマリーが呼び戻される時まで二人は何をしていたのか?
また、なぜマリーが一人で戻ってくるのか、という点がはっきりせず、
ここもつじつまを合わせやすくするため、このプロダクションでは、
オリジナルにはないダイアローグが加えられ、マリーとトニオは別々に退場するようになっています。

やがてベルケンフィールド女侯爵とホルテンシウスが現われ、
自分たちの城に戻るには、兵士がたむろっている山を越えて行かねばならず、
物騒なので、警護をお願いできないか、とシュルピスに依頼します。
彼女の高い位に圧倒されたシュルピスは了承しますが、
ベルケンフィールド城という名前を聞いて、”ロベール大尉から聞いた名前だ!”とびっくり仰天。
女侯爵は女侯爵で、”ロベール大尉をご存知で?”とこれまた仰天。
結局、二人の話は、女侯爵の妹とロベール大尉の間に出来た娘が事情あって捨て子に出され、
その女の子こそが、第21連隊が育ててきたマリーである、ということで一致します。
マリーがとんでもない身柄の高い女性であったという事実に驚愕のシュルピス。
そして、やがて現われたマリーの淑女とは程遠い身のこなしに固まる女侯爵。

事情をのんで、第21連隊全員も同行させるという交換条件つきで、
女侯爵について城まで同行することに同意したマリーらが舞台からはけると、
兵士たちが”タラタタ、タラタタ、タラタタ、タタ! Rataplan Rataplan Rataplan"という、
太鼓の音を模した合唱の中、登場。
この兵士たちを歌い演じた男声合唱は、兵士の格好でいろいろと演技付けも多く、
大変でしたが、
なかなか聴かせてくれたと思います。

地図の山で伏せる兵士たちの間に、”朝のあの男だ!新兵だ!”という伍長の声が響きます。
シュルピスから聞いた、”マリーは21連隊の誰かとしか結婚できない”という言葉のために、
トニオはなんと21連隊に入隊してしまったのでした。
(なぜ敵にあたる男が簡単にナポレオン軍に入隊できるのか?それはベル・カントだから、としか
いいようがない。)

眠っている様子の21連隊の兵士たち=マリーの父親たちに、マリーと結婚させてくれ、と頼むのが、
例の9連発ハイCを含む ”ああ!友よ、なんと楽しい日~僕にとっては何という幸運
Ah! mes amis, quel jour de fete ~ Pour mon ame quel destin!"。
軍服を着て一層男前になったフローレスが歌うこのアリア、今日のハイCはいかに?!

に続く>

Natalie Dessay (Marie)
Juan Diego Florez (Tonio)
Alessandro Corbelli (Sgt. Sulpice)
Felicity Palmer (Marquise de Berkenfield)
Donald Maxwell (Hortensius)
Roger Andrews (Corporal)
David Frye (Peasant)
Marian Seldes (Duchesse de Krakenthorp)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Laurent Pelly
Set Design: Chantal Thomas
OFF
Performed at Metropolitan Opera, New York
Live in HD viewed at Walter Reade Theater, New York


***連隊の娘 ドニゼッティ La Fille du Regiment Donizetti***