Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

RIGOLETTO (Mon, Jan 28, 2013)

2013-01-28 | メトロポリタン・オペラ
”ベガスのリゴレット”。
昨年2月に行われたメトの2012/13年シーズン発表で、
1989年から20年以上存続して来たオットー・シェンクのプロダクションをリプレイスするマイケル・メイヤーの新演出がそんなコンセプトだと聞いていやーな予感が走りました。
そして更に舞台+コスチューム・デザインを見てげんなり。
大体ベガスは私がアメリカで一番嫌っている都市なのでこちらから足を運ぶことを避けているというのに、向こうの方からメトまでわざわざやって来るとは。

実はレポートがすっかりバックログっている(というか、もうこの先も多分書けないだろうと思われる)昨シーズンのSingers' Studioに登場した歌手の一人がベチャワで、
私はヘッドショットの彼がいつも銀行員みたいな格好をしているのと、あのどこかあかぬけない人の良さそうな風貌から、
すごくまじめで大人しく物腰の柔らかい人なんだろうな、と勝手に思い込んでいました。
歌手には大体見た目通りの人と、口を開いたら見た目のイメージとあまりに違ってびっくり仰天!の二パターンがあるのですが、ベチャワはなんと第二のパターン。
特に、作品そのものを尊重せずに演出家のエゴ全開のプロダクションに関しては相当にたまっているものがあるらしく、
これまで実際に出演した演出で馬鹿ばかしいと思ったものの実例をあげながら(南の島に舞台を移したルチアとか何とか言っていたと思います、、。)、
そういった演出がどれだけ糞か、そういう時はどのように演出家に意見するか、ということを、
毒舌ユーモアを交えつつ、頭から火を噴き噴き語っている様子に、”面白いわあ、、この人、、。”とすっかり見直してしまった次第です。

なので私は演出があまりにも行き過ぎたなら、ベチャワがリハーサルでメイヤーに噛み付いてくれるだろう、と安心していたのに、
上演が間近になったある日、メトがリリースしているこんなリハーサルの映像を見てしまったのです。



ベチャワ、、、何鼻の下延ばしとんじゃ。
しかも、”(ヴェガスに舞台を移しても)上手く話の辻褄が合ってる。”だとー!?
「シナトラ的なマントヴァ公」のコンセプトがいたく気に入ったらしく、
嬉しそうに”あれかこれか”を歌っているベチャワに、”この人に期待したあたしが馬鹿だった、、。”とがっくり失望です。

『リゴレット』は私の大好きな演目であるので、メトで上演がある年(そしてそれはほとんど毎年と言ってよい、、。)には
一つのキャストの組み合わせに付き最低一度は鑑賞するようにしているのですが
シェンクの演出が20年存続したということは、これすなわち、私はメトではシェンク以外のプロダクションを観たことがないということなんです。
(日本に住んでいた頃来日公演で他のオペラハウスのプロダクションを見たことは勿論何度かありますが。)
シェンクの演出は『リゴレット』に限らず、旧リングをはじめとする他作品でも超トラディショナル+リブレットに忠実がモットーで、
これは全くもってゲルブ支配人の趣味と相容れないらしく、順調(?)にメトの舞台からシェンク演出が消えて行っています。

ここ数年、私が新演出ものに不満をぶちまけた記事が数本ありますが、
それを読んでMadokakipは演出に関しては超コンサバなんだな、写実的なプロダクション以外は受け入れられないんだな、
と思っている方がいらっしゃるかもしれませんが、それは違います。
私は単に、作品が本来伝えるべき内容・観客の心に引き起こすことの出来る激しい感情、
これらをきちんと伝えられない・起こすことの出来ない出来損ないの演出が嫌いなだけです。

時代や場所の設定を読み変えるのも、どんな悪趣味・反道徳的な舞台でも構いませんが、
それは上で書いたことが出来るという条件つきで、です。
大体オペラの演出というのは、リブレットに忠実に行ったとしても大変な作業なのに、
そこで時代や場所の設定を変えるというのはさらにそこからハードルを高くする行為以外の何者でもなく、それだけの才能が演出家にあればいいですが、
ゲルブ支配人がたまたま無能な演出家ばかりを選りすぐって連れて来ているからなのか、それとも今活躍している大抵の演出家にはそんな才能はないからか、
少なくともメトで私が鑑賞している範囲内では自分で上げたバーをきちんとクリア出来ている演出家はほとんどいません。
だから、60年代のラスベガス、、と聞いた時にいやーな予感がしたわけなんですが、
ミュージカル『スプリング・アウェイクニング』(邦題:『春のめざめ』)の成功(トニー賞を受賞しています)
で知られるマイケル・メイヤーは自分が高くしたハードルをきちんと越えてみせられるのか、それとも見事に足が引っかかってすっ転ぶのか、、?



まず、私が今回の演出で一番びっくり仰天したのは、悪趣味の極みと言ってもよいセットでも、
第三幕に登場する胸丸出しのストリッパー(しかし、日本の皆様、特に男性には残念なことに、HDでは丸出しにはならないそうです。)でもなく、”字幕”です。
演出のメイヤーか誰のアイディアか知りませんが、なんとメトは座席の同時字幕システムで長らくこの演目で使用されて来たスタンダードな翻訳バージョンから、
新演出のために特別に訳し直した、いわゆる”ラスベガス・バージョン”にとりかえてしまったのです。

公爵に迫られるチェプラーノ伯爵夫人の返答の訳がベガス・バージョンでは"Chill out, fella.”みたいなことになっていて私は座席から引っくり返るかと思いました。
これは正直、大・大・大問題です。
原語のイタリア語ではCalmatevi、確かに(そう性急にならずに)落ち着いて頂戴、という大意は同じかもしれませんが、
”お心をお静めになって”(新潮オペラCDブックの永竹さん訳)と言うのと、”ちょっと、あんた、落ち着いてよ。”(ベガス版のMadokakip訳)と言うのでは、
随分ニュアンスが違うと思いませんか?
ましてや、オペラは演劇と違って言葉一つ一つに音楽が付いています。
ここの部分の優雅な(しかし、貴族的な欺瞞に満ちた!)音楽を聴いて、”ちょっと、あんた”みたいな言葉遣いを想像する人はいないと思います。

大体、”あんた”というような言葉をマントヴァ公に吐くというのも問題です。
私はアメリカ人のオーディエンスの多くが完全には理解できない感覚に”生まれ付いて持っている特権”というのがあるのではないかな、と思っています。
イタリアをはじめとする多くのヨーロッパの国には貴族がいるし、日本には皇族があります。
嫁入り・婿入りをする場合を除いて、私達一般ピープルが貴族や皇族に入れる確率はゼロ。
貴族や皇族は”生まれる”ものであって、”なる”ものではないのです。

アメリカにも勿論生まれつき金持ちという特権階級はいますが、金持ちと貴族はちょっと違うな、と思います。
例えば、この私だって金持ちには”成れる”かもしれませんが、さっきも言ったように、貴族に”生まれる”ことは出来ないからです。
シナトラとかディーン・マーティン(この演出でのもう一人のマントヴァ公のインスピレーション源だとか。)のようなスターも、やはり
この区分で言う”成る”ものであって、”生まれる”ものではない。
”誰でも頑張れば成功できる!”という考えが好きなアメリカでは、”なる”ことの出来る希望や可能性が存在する事が重要であって、
”生まれる”という概念はそれを邪魔するものであれ、決して助けるものではないのです。

なので、この国では、どうしても、贅沢とか自分のやりたいことをやれる自由というのが、努力や成功の報酬とイコール、という見方になってしまいがちなのですが、
マントヴァ公のような貴族(しかもマントヴァでは他の誰よりも位が高い)は、なんの努力も成功も必要なく、
それに生まれついた時点で自分のやりたいことを好きに出来る自由を持っていて、その権利をほとんど無意識に行使しています。
それゆえにマントヴァ公には何の悪意もない、その事実が一層、リゴレットやジルダにもたらされる悲劇を悲しく、切ないものにする、、、
これが『リゴレット』のストーリーの一番大切な側面の一つであって、それを誰でもが”なれる”可能性のあるシナトラのような人物と置き換えてしまうあたり、
やっぱりメイヤーはアメリカ人だなあ、、と思ってしまいます。



更に、マントヴァ公をシナトラ/マーティン的人物にしたせいで、
本来宮廷の人々であるはずの役柄(合唱)はすべてラット・パック(60年代に一緒につるんだり仕事をシェアしたシナトラやマーティンを中心とするスターたちの一群。)という設定になってしまい、
宮廷というコンテクストがすっかり抜け落ちてしまったのも問題です。
『リゴレット』の作品で、この宮廷という設定は非常に重要です。
せむしのリゴレット(これもまた彼の性格を語る上で非常に重要なアスペクトなのですがルチーチは全然せむしらしい様子も動作もしておらず、
この新演出で完全無視されています。)に、宮廷の道化をつとめる以外、どんな仕事があるというのでしょう?
彼が生活の糧を得て、ジルダを育てていける唯一の方法は貴族の欺瞞・高慢さに付き合いながら道化に徹することだけです。
だからマントヴァ公を喜ばせるために、本来の彼なら思いもしない言葉を吐いて、モンテローネから呪いの言葉を受ける羽目に陥る。
この作品で面白いのはリゴレットが宮廷の人々に非常にアンビバレントな気持ちを抱いている点で、
宮廷のような閉塞した場所で、毎日顔を付け合わせているせいで、彼らを憎しみ、馬鹿にしながらも、
一方でどこかに彼らからの理解を期待しているような、ほとんど楽観的と言ってもよい気配もあります。
だから、彼らがジルダを誘拐しようとしているとは夢にも思っていなければ、
”悪魔め鬼め Cortigiani, vil raza dannata"でさえ、何もかも投げ打って助けを乞うことで、誰かがきっと手を貸してくれると思っている。
毎日顔を付け合わせて働いている仲間の娘が公爵の慰みものになっている時に、それを見捨てるほど薄情ではないだろう、、と。
だけれども、誰も手を貸さない。
その時に初めて、リゴレットは本当に理解するのです。彼がモンテローネに吐いた一言がどれほど残酷なものだったかを。
そして、その思いが彼をマントヴァ公への復讐へと走らせ、一方でますます呪いの成就への恐怖を強くしていくわけです。

この辺りの微妙さをシェンクの演出は上手く出していて、誘拐してきた女性がリゴレットの妾ではなく娘だと判った時の廷臣たちの動揺、
リゴレットの嘆願から体を背ける様子に良く表現されていました。
彼らも悪人ばかりじゃない。でも、リゴレットを助けるという事はマントヴァ公に逆らうこと、、
宮廷での立場を簡単に失えないという点では彼らもリゴレットと同様に自由のない宮廷の世界にがんじがらめになった存在なのです。

ところが、この新演出では宮廷という枠を取っ払ってしまったので、先に書いたようなリゴレットの思考内容や順序が意味を成さなくなっています。
そもそもこのベガス版でのリゴレットは一体誰&何者なんでしょう?
どうしてラット・パックとつるむ理由があるんでしょう?
リゴレットとマントヴァ公の関係は何なんでしょう?
上に書いたリゴレット嘆願の場面もラット・パックは全くの無表情かあざける様子を見せているかのどちらかで、
宮廷という閉じた場所で起こりがちな、家族関係にも似た愛憎混じる複雑な感情をシェンクの演出のように見せられていません。
また、場所と年代を置き換えて宮廷という大切なコンテクストを抜きながら、それを代替するものの説明がきちんと演出の中で成されていないから、
それぞれのエピソードをつなぐリンクが弱くなって、本来この作品が持っているパワー、観客の胸に巻き起こすことのできる悲しみや興奮を生み出せていないのだと思います。



どんどん指摘を続けましょう。
次は”呪い”です。
この作品の前奏曲は呪いの動機で始まって、全幕を通してリゴレットは何度も呪う・呪い(maledivamiとかmaledizione)という言葉を歌い、作品の最後に彼が吐く言葉もこれです。
つまり、この作品は最初から最後まで呪いとリゴレットがそれに対して感じている恐怖が通奏低音にあるわけです。
その作品のテーマと言ってよい呪いを導き出すのはモンテローネが”Sii maledetto! (貴様の上に呪いあれ!)”と歌う場面なわけですが、
メイヤー演出では、モンテローネがなぜかアラブ人という設定になっていて、横でリゴレット役のルチーチがガトゥラに擬して頭にタオルをのせてうろうろ歩き回ったりしているものですから、
呪いをはく部分も含めてこのシーンをコミカルと感じる馬鹿で幼稚で悪趣味なオーディエンスが結構いたために始終笑いが客席から起こっていて、
この場面が本来持つべき、背中が凍るような怖さを感じることが全くできませんでした。
私がどこかで目にした記事で、メイヤーが”(この呪いをかける場面は)現代の感覚からすると唐突で不思議な感じがするので、
それを解消するためにアラブ人のアイディアを採用した。”と語っていて、
つまり、変なことをやらかすのもアラブ人ならば納得でしょ?というような不思議な論法だったんですけれど、
こう言っちゃ何ですけど、私からすると、アラブ人が変だと言うなら、ユダヤ人も負けず劣らず奇妙ですよ、まじで。(ちなみにメイヤーはユダヤ系アメリカ人)。
そんなだったら、代わりにキッパーをのせたユダヤ人の横で、ルチーチが頭に小皿でも載せてうろうろしていてもいいと思います。
そんなことを非ユダヤ人の演出家がやったら大問題になっていると思いますけどね。
こういう他文化を笑いのネタにするような幼稚なユーモア・センスは私は持ち合わせていないですし、
この作品のどこで笑いを取りに行こうと、ここだけは真面目にやらなければならない!という箇所があるとすればここで、
呪いのテーマとそのトーンの設定をしくじる、ということは、全幕にわたってその影響があるわけで、ここは今回の演出で一番失敗していた部分として私は挙げます。



そして、三幕もむむむ、、です。
スパラフチーレとマッダレーナが営んでいるのは少し町外れと思われるストリップ小屋で、
前奏の部分の音楽(実にせつなく美しい旋律、、)をバックに、ベチャワがまた鼻の下を延ばして例の胸丸出しのお姉さんがポール・ダンスをするのを眺めている、という設定です。
そのストリッパーがいなくなった後に、マッダレーナが登場するのですが、このマッダレーナもストリッパー兼売春婦なんでしょう、
スリップ姿から出ているハイヒールを履いた足が超美脚で足フェチの男性ならずとも、
”おお!!”と一瞬驚きの声をあげそうになりますが、歌声が出てきてその声は”ええ!?”に大転換です。
このメト・デビューのヴォルコワというメゾは、絶対に脚の美しさだけを買われて起用されたのだと思います。
声に深みも色気も何もなく、というか、オケにかき消されて歌声が全く聴こえない、という有様で、
出番は少ないながら、四重唱の一端を担う大切なパートなのに、全くいないも同じ。ほとんど三重唱の世界になってました。
こんな三流メゾ、キャスティングするな!って感じです。

演出で問題、かつ、オペラ演出家としてシェンクとの度量&レベルの違いが悲しい位に露呈してしまうのが、嵐の場面です。



上の映像は25周年記念ガラでそのシェンク演出の『リゴレット』の三幕が抜粋演奏された時の映像なんですが
(パヴァロッティとギャウロフという垂涎コンビにステューダー、スヴェンデン、そしてレヴァインの指揮。
このYouTubeの抜粋には登場しませんが、リゴレットはヌッチお父さんでした。なんという贅沢な、、。)、
ジルダが宿に飛び込んで行った後、時々雷光が走る以外、ほとんど何も見えないのがわかるかと思います。
このはっきりとは見えないということがどれほど恐怖を倍増させるか!
オーディエンスのイマジネーションほど強力なものはないのです。しかもこんな音楽が後ろで鳴っているんですから!!
能無しみたいに何でもかんでも逐一見せるのではなく、もっともっと演出家はオーディエンスの想像力を信じてほしいと思います。

今回の演出ではネオンライトが雨と雷を表現しており、ジルダ殺害中もこうこうと照明はついたまま。
しかも、この場面って、暗がりで音楽を聴いているとそうは思わないのですが、殺す様子をいちいち視覚化しようとすると、
すごく慌しくてせかせかして、時間が足りないのが目立つ感じがします。(人はそう簡単には死なないですからね、。)

観客に胸がバクバクするような恐怖を与える能力、また音楽の長さと表現すべきことを統合する能力、
いずれの面でもメイヤーはシェンクのセンスの足元にも及ばない感じです。



相当にネガティブなことを書き並べて来ましたが、それは私がメトのような劇場はオペラとその作品を、きちんとした形で次の世代に渡して行く義務があると思っていて、
初心者が見てもその作品の言いたいことと真価がきちんと伝わるようなそういう舞台を作っていかなければならない、という信条に立っているからです。
このメイヤーという演出家はある種の舞台を作る能力やスキルは高いものを持っていると思うし、
『リゴレット』のパロディーとして、『リゴレット』という作品の本来の形を知っている人間があくまでバリエーションとして鑑賞するにはエンターテイニングなものに仕上がっているとは思います。
そして、そのためにそれなりにきちんと頭で考え、努力を積んだ形跡は十分感じられるので、
ボンディの『トスカ』を見た時のような”手を抜きやがって、、”という怒りは感じません。
また、延臣がジルダを誘拐する場面でリゴレットが娘が連れ去られたことに気付くまでの成り行きはリブレットの設定自体に”そんな馬鹿な、、。”な要素があるので、
シェンクの演出をも含めて、多くのプロダクションが苦労し、かつぎこちない結果に終わってしまっている非常に難しい部分だと思うのですが、
メイヤーはこの部分を二台のエレベーターを使うことで非常に上手く処理しています。

ただ、じゃ、これが『リゴレット』という作品ですか?と言われたら、字幕の書き換え
(そういえば、リゴレットがジルダを指して言うmia figlia(わしの娘)という言葉もmy babyになっていて、ダムラウがbaby..とちょっとひきました。)や上で書いたこと全ての理由で、私はそうは思わないし、こういうものが堂々とメトの舞台に上がるようになった、ということに非常に複雑な気分を持っています。
entertaining(娯楽としては良く出来ている)だけど、本来作品があるべき姿を伝えていないし、moving(心に響いてくるもの)でもない、そういう感じです。
オペラの演出家はブロードウェイの演出家と違って、エンターテイニングなものを作るだけでは駄目で、後者が出来ないと。

私の隣にいらっしゃった三人連れは『リゴレット』の鑑賞が初めてか、限りなくそれに近い感じで、
最後に7:3位の感じでブー(3の方)が出たのに、”えー、ブー出してる人がいるよー。なんでー??”って言ってました。
もう少しでMadokakipが彼らの方を向いて、”これは『リゴレット』のパロディーであって、本物の『リゴレット』ではないからです!”と説明してしまいそうになりましたが、
このプロダクションはなまじそこそこ(パロディーとしては)良く出来ているので、
こういうリアクションのお客さんも出て来てしまう、そういう意味ではちょっと性質の悪い演出だと個人的には思います。



キャストで最も感銘を受けたのはダムラウです。
彼女の声はお子さんが産まれてから随分野太くなって来たな、と思います。
メディアの評でも、そこを指摘し、彼女がジルダには向いていない、と指摘しているものが少なからずありました。
確かに声の響きと質の話だけに限った話をすれば、ジルダ役を歌うギリギリか、もしくはアウトグローしているととられてもおかしくない部分はあります。
以前の彼女の声を特徴・個性づけていた硬質でメタリックな美しさは減少し、その分声が温かく野太くなって、
ジルダ役を歌うような歌手からは普通まず聴くことのない、ちょっとぎょっとするようなドスのようなものを感じる時もあります。
また、テクニックには定評のある彼女なんですが、この声の変化のせいで、アジリティに以前程の軽さや鋭さが感じられなくなっている部分もあります。
でも、それを全部加味しても、私は今まで彼女で聴いたイタリアン・レップの全ての公演の中で今日の歌唱を一番高く評価します。
私がこれまで彼女に対して不満があったとしたら、歌があまりにスキルに走っていて、魂みたいなものが十分に感じられない、というものでした。
特にイタリアもので魂が感じられない歌唱というのは私にとっては致命的な欠陥です。
今回の彼女はテクニカルな部分では上のような変化はありますが
(しかしそれはあくまで過去の彼女との比較であり、絶対的な尺度で言うと今だってぶっちぎりの上手さで、
今日彼女が披露したような技術的に卓越した"慕わしい人の名は Caro nome”はそう聴けるものではありません。)
一つ一つの音符が以前よりもずっと表情豊かで、かつ、ジルダの感情を表現しようとする意図や目的意識を感じるもので、
また子供の誕生・成長といったプライベートが関係しているのか、歌に愛が溢れている!! 私にはそのことが何よりも喜ばしいことでした。
音の響きの美しさや技術の完璧さは年と共にやがて衰えて行くものですが、表現力と音楽性は永遠です!
メト・オケとのコンサートでドイツ歌曲を披露してくれた時に、その表現力に驚き、
表現の面でもこんなに力のある人なのか、、この表現力がイタリアン・レップにも及んでくれればいいんだけどな、、と思っていたのが、ついに現実になったのを聴けた感じです。
以前はシーズン発表などでダムラウがイタリアン・レップに登場すると知ってもふーん、、、という感じだったんですが、
これでこれから先彼女のイタリアものも聴くのが本当に楽しみになりました。
マフィアな指揮者と”今日のダムラウは素晴らしいね。”と盛り上がっていると、そこに招かざる客、フランスのエロじじいの登場!です。
ダムラウは超美人というわけではないし、オポライスみたいに手足は長くないかもしれないけれど、
さすがにこんな素晴らしい歌に文句はつけられまい、、と思っていたら、
”僕は彼女がもっと上手く歌う時を聴いたことがあるし、あの彼女のフォルクス・ワーゲン並みのでか尻では、とても純粋で可憐な処女ジルダには見えないねえ、、。”
もうほんっとにこのじじいはどこまで失礼な奴なんだ!?と殴りかかりたくなる衝動を抑えるのに一苦労でした。
しかも、でか尻って、一寸法師のお前が言うな!って感じです。(彼はちなみに私の2/3くらいしか身長がない。)
彼の言葉の前半部分(もっと上手く歌うのを聴いたことがある)は、それは先に書いたような事情で一部真だと思いますが、
オペラの歌唱というのは技術だけではないんですよ、本当。私は今の彼女の歌唱の方がずっと好きです。




ベチャワは批評家はおしなべてポジティブな評を出してましたが、私は歌唱の方ではトップ・フォームだとは思いませんでした。
もっと良い歌を披露している時の彼をメトで聴いたこともあるし、それと比べると今日は特に一幕でピッチのコントロールに微妙に苦労していたように見受け、
経験もある彼なのでなんとか許容範囲に収めてましたが、楽にデッドオンのところに音が入っていなくて一生懸命調整しているようなもどかしさがありました。
”あれかこれか Questa o quella"ではもう少しホールドして欲しい高音をすっと早く畳んでしまったりしていて、
この曲の、ひいては公爵役のグランドさが今一つ出てなかったし、それに伴ってオーディエンスが感じるべきわくわく感も割引されてしまいました。
かえって第二幕の冒頭のアリア、それからその後延臣たちとのやり取りをはさんでのPossente amorの部分、
こちらの方がシナトラ/マーティン的人物造形と音楽を上手く統合した魅力的な歌だったと思います。
三幕の最後でリゴレットの耳に舞台裏から聴こえてくる”女心の歌”での最後のpensierは綺麗な高音が響いていてあの場面のテンションを一気に高めるのに貢献してましたし、
トップ・フォームでなくても、こういうところを外さないのはさすがだな、と思います。
また、主役3人の中で最も無理なくメイヤーの演出に溶け込んでいたのはべチャワでした。
無理なく、というよりも、かなり喜々として演じてたと思います。銀行員みたいなルックスのくせに、意外とすけべなの。
ただ、マントヴァ公は好きに生きていればいいだけで、他の登場人物とは一切深いレベルでのインタラクションがないので
それもこの演出でも彼が演じやすく感じる理由かもしれません。



そうは簡単に行かないのがルチーチ演じたリゴレット役で、この演出の問題点をもろに被ってしまった感じですが、
メイヤーだけでなく、ルチーチにも責任の一端があると思います。
とにかくこのブログでも何度も書いて来た通り、彼のパフォーマンスには波があって、歌も演技も別人のようにスイッチがonになったりoffになったりするのですが、
今日の彼は声と歌の技術についてはon、歌での表現と演技についてはとことんoffでした。
私は彼の声はすごく好きだし、彼のどこか温かく、歌い方自体は洗練されていながら、
それでいてアーシーな感じのする音色はリゴレットに本来はすごく向いていると思っていて、
今日の公演も何度もやっぱり綺麗な声だな、、と感じる箇所があるし、アリアや重唱もものすごく丁寧に上手く歌っているのですが、
ダムラウの歌とは逆に全くハートが感じられないんですよ、、、
リゴレットみたいな大役でハートがないというのは、これはまずくないですか?
演技にいたってはもう完全放棄!という感じで、正直、ルチーチ的には全くメイヤーのビジョンに同意できないか、もしくは全く理解できていないんではないかな、と思います。
先に書いたように、せむしでもなく、普通のおっさんで、しかもマントヴァ公との関係性もはっきりしないものですから、
どのようにこの役を解釈して演じればいいのか、見当もついていない、という感じに私には見えました。
なので演じる部分をあきらめて、歌に重点を置いたのではないかな、と推測してます。
よって声も歌唱の技術も水準以上の内容だったのですが、しかし、歌による表現は役をどのように理解しているかということと切り離すことは出来ませんから、
歌唱技術からすると奇妙なまでに釣り合わない、味気ない歌唱になってしまったのだと思われます。
NYポストでは、車のトランクに瀕死のジルダを発見する(そう、袋の中ではなく車のトランクなんです、この演出では。)ルチーチの驚き方が、
車のスペアタイヤを忘れたのに気付いた時の程度の驚き方にしか見えなかった、と皮肉られてました。
それにニ幕のジルダを奪い返しに行く場面も本当にフラットで、上手く歌えてる割にこんなに胸に迫って来ない”悪魔め、鬼め”も珍しいな、と思いながら聴いてました。

これはヌッチお父さんが東京で歌った時の”悪魔め、鬼め”ですが、なんという雲泥の差の、胸を抉られるようなパッション!!
オケの演奏も火を吹いてますね。素晴らしい。これこそ『リゴレット』です!!



コーツァンは私あんまり好きな歌手ではないのですが、このメイヤー演出のスパラフチーレのいかがわしいヒットマンみたいな人物像にはすごく合っていて◎。
ドン・カルロの宗教裁判長、ドン・ジョヴァンニの騎士長、アイーダのランフィス、、と、何をやってもいまいち役にフィットしなくてうーん、、と思っていたのですが、
やっと、彼のどこかいかがわしくちんぴらっぽい個性を活かせるプロダクションが出て来て良かったですね。
プロダクションに個性が合っていると歌いやすいのか、シェンクの演出時代に聞いた彼のスパラフチーレより断然良かったし、一幕の低音も決まってました。
ただ、彼のリズム感のないのは相変わらずで、今日もどうしてそんなところで躓くかな?というところで小ミスを出してました。

ミケーレ・マリオッティは1979年生まれですのでまだ30歳代前半の若い指揮者。
ボローニャ歌劇場で指揮していて、日本公演にも同行したようですので彼の指揮を生で聴かれた方もたくさんいらっしゃると思います。
今日のキャストはいずれもキャリアの豊かな歌手たちで、彼らがちゃんと歌えないようならもうあんたは指揮者を辞めた方がいいよってな位のもので、
彼らの力、そしてオケ自身の力(リゴレットは彼らが最も多く演奏している演目の一つですから、、。)に助けられたところもたくさんあったと思いますし、
まだまだ技術的に未熟な部分もある彼ですが、出てくる音には彼らしい個性があって、私は決して嫌いなタイプの音作りではないですし、
放っておいたらメト・オケが鳴らすであろう音楽とはかなり違う彼なりのサウンドが出ているだけでもこの若さを考えれば大したものです。
ルイージの流麗で凝った音作りに比べると、素朴ですがイタリアの演奏の伝統を踏襲しているのを感じる音作りで、
これで技術が付いて来たら面白い指揮者になるかもしれないな、と思います。
歌を押し潰さないように、と、歌手を気遣った音作りをしている点も好感を持ちました。


Željko Lučić (Rigoletto)
Piotr Beczala (The Duke of Mantua)
Diana Damrau (Gilda)
Štefan Kocán (Sparafucile)
Oksana Volkova (Maddalena)
Maria Zifchak (Giovanna)
Robert Pomakov (Monterone)
Jeff Mattsey (Marullo)
Alexander Lewis (Borsa)
David Crawford (Count Ceprano)
Emalie Savoy (Countess Ceprano)
Catherine Choi (A Page)
Earle Patriarco (Guard)
Conductor: Michele Mariotti
Production: Michael Mayer
Set design: Chiristine Jones
Costume design: Susan Hilferty
Lighting design: Kevin Adams
Choreography: Steven Hoggett
Dr Circ A Even
BS

*** ヴェルディ リゴレット Verdi Rigoletto ***

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33 コメント

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お父さんのリゴレット (コバブー)
2013-02-11 16:50:06
 伝説の93年ボローニャ来日のリゴレットでしょうか。凄い…、凄すぎる。
 結婚直後でお金がなくて涙を飲みました。今でも後悔してます。新婚の○○を質に入れても…。イヤ冗談です。

 今年スカラとリゴレットで来日するようですが、来てくれるでしょうかね。
 マリオッティは一昨年のボローニャ来日で聴きましたが、いい指揮者でした。
 おっしゃる通り、伝統的なイタリアン・テイストを持っています。ホントはあまり売れっ子にならずに、素直に伸びて欲しいと思ってるんですが、このご時世ですから、仕方がないでしょうかね。
返信する
読み替????? (Kew Gardens)
2013-02-11 19:17:45
Madokakipさん、

このレポを拝見しながら、演出って何? と今更ながら考えてしまいました。 いくら名作といっても同じものばかりだと観客にあきられてしまう、作品そのものがすたれてしまう等々、諸事情でいわゆる読み替えなるものが幅を利かせる背景もわからなくもないですし、そういう形で新たな問題提議がされるのは、我々観客にも刺激になっていいのかもしれない。 では、どこまでを変えていいのか。 その線引きが一番の問題では何でしょうね。 私は、少なくとも元の音楽とリブレットを使うのであれば、そこに表現されているものは尊重してほしいです。 そして、言葉はそれだけでも文化なので、その背景を含めて考慮が必要かと。 歌手だって、歌詞を大切にしています。 そうそう、Muti先生は、字幕すら嫌っていて、全く無ができないと、目につかないところにディスプレイを置くよう強要することがあるようです。 今回のRigolettoがパロディーなら、なにもMETで、それもオリジナルテキストでやる必要はないでしょう。 20ブロックほど南下したブロードウェイで、英語で歌うMusical Rigoletto in Vegasとでも銘打ったほうがいいのでは? 

今シーズンIl trovatoreでManricoを(なぜでしょうね)歌わせらったHughes-JonesがWNOでDucaを歌ったRigolettoは、やはり60年代アメリカに舞台を移していましたが、現代にも通じる悲しい人間のサガを表現していて見事な読み替え演出だと思いました。 DucaはKenneyを彷彿させ、よって宮廷はKennedy 政府。Rigolettoは小児ポリオかなにかで片足が麻痺したKennedyの裏の私設秘書というか、彼に一夜限りの女性の斡旋している人物。 身体障害を持っている人間は、社会から下流の人間と見下されて、まともな職につけないという設定のようでしたが、荒唐無稽な物語が、身近に感じられるつくりでした。 

元々荒唐無稽なオペラを、その上をいくような設定にかえて、これが何だかわかるものならあててみな? みたいな挑戦状をつきつけられるような読み替えもありでしょう。 でも、謎解きばかりで、はて何を見に来たのだっけ? というのは勘弁してもらいたいです。 演出は大切なエレメントですが、演劇とは違って、オペラはコンサート形式でも感動を伝えられるアートフォームですから。 昨年、Avery Fisher Hallで鑑賞したWozzechは舞台装置も特別な衣装もなく、オケの前のちょっとした空間しかないのに、観客が目にしたのは、切迫した人間ドラマでした。 あれ、演出家はいないのですよ。 

ところで、お友達のエロおじさんは、Maddalenaもお気に召したのかしら?
返信する
もう20年! (violetta)
2013-02-11 20:44:11
ヌッチお父さんのリゴレット、映像があるのですね、知らなかった。これ、1階の左サイドのかぶり付きで見てました。2幕が終わった時はしばらく立てなかったです。涙がこぼれそうでした。この時はギャウロフも出ていてすばらしいキャストでしたね。ブルソンのリゴレットも良かったけれど、未だにこれを超えるのにはお目にかかれていないと思います。
以前から「リゴレット」はいろいろな形で演出されては物議をかもしていますけど、やはり、ドラマの進行が納得出来るシチュエーションがあってこそ、歌う方も気持ちが乗る、乗らないってあるでしょうね。同じヌッチ=リゴレットを翌年スカラで見ましたが、マントヴァ公がアホすぎてドラマにならず、同じような興奮は味わえませんでした。

後先になりましたが、秋にmadokakipさんが復活してくださってから、とても楽しみに読ませていただいています。ニューヨークの雪は大丈夫だったのでしょうか?
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Rentと同じ発想? (ぬー)
2013-02-12 07:36:05
Madokakip様、9日は有難うございまいした。
リゴレット、8日(ブリザードの日)に拝見しました。
劇場に行っての第一印象は「よくまあ、この雪の日に」。
(かくいう私もその一人ですが)

さて、舞台ですが時代設定の変更は最近の流行なのでしょうか?私は全てでないにしても、今回のように無理のある設定はいかがなものかと思います。
これではリゴレット風のミュージカルで、レントを彷彿とさせます。
原作者(台本作者、作曲家)ともある場面を想定して作品を作っているわけで、その点でオマージュが欠けていると感じるのは私がコンサバなせいでしょうか?

歌手陣はMadokakip様ご指摘の通り、ダムラウの歌唱に何ケチがつくのか私にはわからないほどよかったです。確かに産後で少しふっくらとしましたが、それと歌唱は別の問題ですよね。
ベチャワはメトにおけるヴィラゾンの後釜になったのでしょうか?シナトラの譬え、笑ってしまいました。
ルチッチは役作りに苦しんだでしょうね。何せ背虫でない背虫の、しかもラスベガスでの道化役ですから。
シルクドソレイユでもあるまいし。

ということで、音楽的には満足、しかし演出は??でした。
最後になりますが来春(もしくは今秋)の詣での時に再開できることを楽しみにしております。例のおじ様にもよろしくお伝えください。
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コバブーさん (Madokakip)
2013-02-13 13:50:12
本当、すごいですよね。
今回の公演も歌自体は悪くはなかったと思いますが、この熱さとは次元が違いすぎます。
こんなものを生で見れるならば、何を犠牲にしても、、、と思います。
(私もまだ当時は社会人一年生だったものですから、とても引越し公演に行けるようなお金はありませんでした、、、泣)
しかし、○○は最初“指輪”かな、と思ったのですが、
もしや、、、これ、“ヨメ”じゃないですよね、、(笑)

>今年スカラとリゴレットで来日するようですが、来てくれるでしょうかね。

メトでは一度“なんちゃって”事件がありましたが、その時の私の落胆はとても言葉で言い表せるものではありませんでした、、。

http://blog.goo.ne.jp/madokakip/e/b7606ab8cc2257ab6ec57d8f2956fc22

今、スカラの日本公演の配役表を見ていたのですが、
スパラフチーレがツィンバリュクなんですね。
これは是非ご覧になった後、もちろんヌッチお父さんの歌唱を中心に感想を教えて頂きたく思います。
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Kew Gardensさん (Madokakip)
2013-02-13 13:51:51
はい、今回の演出はメイヤーがやろうとしていたことの範囲内では悪くない出来なのだと思うのですが、
そもそも、この“やろうとしていたこと”の方に、これでいいの?という疑問を感じてしまいます。

WNO(ウェルシュ・ナショナル・オペラの方ですよね、きっと)の『リゴレット』は伺う分にはメイヤー演出よりは全然ポイントを抑えているように思います。
ケネディ家はアメリカの中では最も特別なポジションを占めている“家”ですし、
身体障害というところから逃げてないのもいいな、と思います。

本当に変な演出で見せられるくらいなら、演奏会形式の方がずっといいですよね。
今回ルチーチなんか、すごく良いコンディションだったと思うのですが、
なーんか(合わせて演技をするのを)あきらめながらも気になっているのか心あらずというか、
これなら演奏会形式の方がよっぽど集中できるんではないかな、、と思います。

>お友達のエロおじさんは、Maddalenaもお気に召したのかしら

召してると思います、きっと。
ただ、彼女の出番は三幕だけで、その後は休憩時間がないので、すぐの感想は聞けずじまいでした。
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violettaさん (Madokakip)
2013-02-13 13:53:08
こんにちは。長い間お休みしてしまっていてすみませんでした。
こうして読んでくださっていると聞いてとても嬉しいです♪
雪はもしかすると1978年(だったかな?)以来の大雪になる!と警告されていたのですが、
結局はそれほどではなく、普通の雪の日、、という感じでした。
でもサンディ以来、電気が落ちる、水が出ない、といったことが一番怖いので、
そうならなくて本当良かったです。

>2幕が終わった時はしばらく立てなかったです。涙がこぼれそうでした。

生でご覧になったのですねー。羨ましいです。
ここの部分を聴いただけで、すごい公演だったんだな、、というのが伝わって来ます。
お父さんの歌もすごいですが、オケもすごいなあ、、と思って聴いてました。
歌手、オケ、合唱全部が一体となって迫って来ますよね。

それから、この映像を見ると、シェンクの演出と同様に絶対に外してはいけない点を外していないな、と思います。
延臣の誰一人としてリゴレットを軽薄にあざ笑っている人はおらず、
冷たい方の端でも、“なんだ、こいつ、、”という無関心、
中にはちょっと申し訳ないことをした、、と思いながら、仕方なくリゴレットから目を背ける人もいたりして、
宮廷の人間の側の気持ちもきちんと伝わって来て、舞台上のどこも緩んでいないのがいいな、と思います。
作品の中で一人でもおかしな描写の人物がいると、全体に波及してしまいます。
(violettaさんがご覧になったアホなマントヴァ公がいるスカラの公演にも当てはまってしまったのではないかな、と推測します。)
本当、つい最近観たような気がする公演が10年近く前だったのに気づいて呆然、、ということ、あります、、。
オペラは特に同じような公演を何度も何度も鑑賞するので、そんなに昔のことだっけ?みたいになりやすいのかもしれませんね。
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ぬーさん (Madokakip)
2013-02-13 13:54:36
こちらこそお会いできて良かったです。
本当大変な時期(ブリザードの、、)にいらっしゃいましたが、なんとか全日程無事にご覧になれたようで何よりです。

>これではリゴレット風のミュージカルで、レントを彷彿とさせます。

もう皆様はご存知でしょうが、うちの年老いた両親も時々このブログを読んでおりますので、
一応彼らのために書いておきますと、ミュージカル『レント』は音楽こそオリジナルですが、ストーリーは『ラ・ボエーム』を基にしており、つまりはミュージカル版『ラ・ボエーム』です。

ミュージカルとオペラの違いは何か、というのを定義するのはなかなか難しいのですが、
私が今回の鑑賞を通して、ミュージカルというのはentertainmentであればとりあえず合格だけど、
オペラというのはそれだけでは足りない、という風に思いました。
それは自分がミュージカルとオペラの両方を鑑賞する時の経験からそう思います。
確かに私はオペラへッドですので、ミュージカルに期待するものと、オペラに期待するものが違うのだろう、と言われればそれはそうなのですが。

メイヤーはエンターテイメントを作る能力はかなり高いと思いますが、
オペラはそれだけじゃ足りないんです、、。

>来春(もしくは今秋)の詣での時

はい、お待ちしております。
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ボローニャの公演 (Violetta)
2013-02-14 20:49:00
>それから、この映像を見ると、シェンクの演出と同様に絶対に外してはいけない点を外していないな、と思います。

1幕始めにモンテローネの娘が半裸で引っ張りだされて来て、そのまま放っておかれるんです。誰一人として助けてくれない。それを笑っていたリゴレットがモンテローネに呪われ、せむし仲間(子供を使っていました)に慰められて1幕前半が終わります。普通は名前だけ出てくるモンテローネの娘を実際に舞台に出す事によって、リゴレットのこれからを暗示させる演出でした、と記憶しています。20年前なんであやふやですが。
この公演では、幕間、徳島から朝一で飛んで来るはずが飛行機が飛ばなくて1幕が見られなかった男性の嘆きを聞きました。別の日には、山手線で乗り合わせたヴァイオリンとコーラスの女性が、降りた上野駅で、見当違いの方向に行きそうになったのを文化会館へ案内。『アドリアーナ』では後ろの席で、ただ券で入ったと覚しき音大生が「先生がフレーニは絶対いいから聞いてこいって言ったの」とのたまわるのを聞いて、音大生のくせにフレーニの価値も知らないの????と仰天したり。なかなかに思い出深い日々でした。
この前年にはバイエルンの『影のない女』、この年の秋にはコロの『トリスタン』と幸せな時期でしたね!
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Violettaさん (Madokakip)
2013-02-15 11:28:38
モンテローネの娘が舞台に出てくる、それからせむし仲間がいる、というのは私は観たことがないです。面白いですね。
モンテローネの娘はいいアイディアだと思いますが、仲間がいるとなると少しせむしであることの意味が違って来るのかな、、と思うのですが、
彼らはリゴレットがジルダを取り返しに来た時、どうしたのでしょう?
一緒に加担してくれたのかしら、、それとも延臣たちと同じで見て見ぬふり、、?
と、次々に質問ですみません。
私なんか今回観た『リゴレット』を20年後に細かく思い出せるか?と言われると、
このブログがなかったら絶対無理!なんですけれども、
Violettaさんが驚異的な記憶力で覚えていらっしゃるものですから、つい調子にのって質問攻めしてしまう、、(笑)
でも、そうして今でもきちんと覚えていらっしゃるというのは、やはりそれだけ素晴らしい公演だったということの証ですね。
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