Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

MARIA STUARDA (Mon, Dec 31, 2012)

2012-12-31 | メトロポリタン・オペラ
早いもので2012年もお終い。今年も例年通り一年の締めはメトで、、というわけで、大晦日ガラの『マリア・ストゥアルダ』です。

メトの2012/13年のシーズン発表、それに伴って宣伝用のスチール写真が出てきた頃から、
”なーんか変な感じがするんだけど、何が変なのかわからない、、、。”とモヤモヤした気分に包まれていて、
だけど、最近考えることがすっかり面倒臭くなってしまって、”ま、いいか。”と良く考えないで放っておいたら、
”そろそろ『マリア・ストゥアルダ』の予習を本格的に、、。”と思って準備し始めた途端、それが何かがわかりました。

『マリア・ストゥアルダ』にはジョイス・ディドナートの写真がずっと使われてましたけど、一体彼女が歌う役は何、、?

メゾが女性陣の中で一番の主役、というオペラの演目はそんなに数が多くないので、
私のモヤモヤは、当初、メゾのディドナートが一人スチール写真にのっているということに対する漠然としたものだったと思うのですが、
『マリア・ストゥアルダ』って、よく考えてみると、初演はソプラノ on ソプラノの組み合わせだったようですが、
ここ数十年の演奏の歴史としては、メゾがエリザベッタ役を歌い、ソプラノがマリア役を歌うパターンの方が多いんじゃないかな、と思います。
スカラな夜のイベントの一貫として映画館で見た『マリア・ストゥアルダ』での人間国宝級のマリアはデヴィーアだったし、
(後注:ただし、エリザベッタ役を歌ったアントナッチは2002年頃からメゾのレパートリーに加えてソプラノのそれも歌い始めていて、それに合わせて公式にはソプラノを名乗っているようです。)
家にあるCDも、マリア役を歌っているのはカバリエとかサザーランドとかグルベローヴァとか、
ソプラノ、それもただのソプラノではなく、ベルカント・ワールドで卓越した声と技術を誇るソプラノばっかりです。
そして、今日ディドナートと共演予定のヴァン・デン・ヒーヴァーは私がこれまで名前も聞いたことのない歌手で、
彼女がソプラノなのか、メゾなのかもよく知らない、、、という事情もこの事態を助けていません。
なぜなら私は、ならばきっとこのヴァン・デン・ヒーヴァーがソプラノでマリア役を歌うのかな、、と思い込みかけていた時期もあったからです。
でも、そういえばスチール写真のディドナートはロザリオを持って悲痛な表情を浮かべていたような、、
ってことは、れれれ?やっぱりディドナートがマリア役??

今回はスカラの夜の時と違って生鑑賞だし、つい予習にも力が入るわけですが、いくつか音源を聴いてみて、
あらためてあのスカラの公演が全然退屈でなかったのは、
デヴィーアと必ずしもベスト・コンディションでないながらも音楽性の高さを誇るアントナッチという二人の歌手の力があったからだなあ、、と思いました。
というのも、『マリア・ストゥアルダ』は、その必要とされる高度なテクニックに聴いてるだけで顎が外れるような気がする
『テンダのベアトリーチェ』のような作品とは違った意味で、
良い公演にするのがすごく難しい作品だからです。



最大の理由は、こういっちゃ元も子もありませんが、まあ、はっきり言ってドニゼッティのベストの作品ではないんです。
ベルカント作品好き、中でもドニゼッティが大・大好きな私がそう言うんですから、まあ間違いありません。
一つにはジュゼッペ・バルダーリによるリブレットのせいもあると思いますが、
音楽の方もドニゼッティの他の人気作品と比べると、鮮烈に記憶に残るような旋律・ドラマの盛り上がりに恵まれておらず、
それこそ、デヴィーアのような歌手でないと、この作品を説得力を持って歌うのは至難の技です。
いえ、デヴィーアだって、例えば30代とか40代の頃に歌っていたらば、スカラの夜の時のような迫力ある歌を繰り広げられたかどうか、、。
あの公演は彼女の歌手としてのストイックさと自信が、マリアの”一つ運命が掛け違えば私が女王だった!”というプライドとシンクロして、
それがすごい迫力になっていた、という、一種特殊なケースだったと思うのです。
で、オケに与えられた音楽も同じ理由で難しい。
これ、ダルな演奏されたら、もうオーディエンスにとっては苦痛以外の何物でもない、という種類の音楽です。
いや、それだけでなく、指揮者がしっかりしていないとこのあたりやばいことになりそうだな、、という”崩壊注意”の標識がかかっている箇所もあり、
カバリエが歌っているライブ音源でのスカラ座の演奏の中にも、
”なんかよくわからないけど、こんな感じで弾いとくか、、。”みたいな怪しいことになっている部分もあります。
ベルカント・オペラを演奏させたら右に出るものがいないスカラですら手を焼く『マリア・ストゥアルダ』。おそるべし。

そして、とどめが、マリア役とエリザベッタ役のキャスティングの難しさです。
エリザベッタの方は、低音域も高音域も充実していなければならず、
その上に、この二つの間を瞬時に跨ぐ旋律が多いので、普通以上に胸声の音色が突出しないで他の部分と出来る限り統一された音色であって欲しい。
例えば、サザーランドの盤でエリザベッタを歌っているトゥーランジューは高音域の音が綺麗で、
低い音域もそこだけ取れば迫力ある音が出ているのですが、なんだか音色がものすごくドスが利いており、高音域の美しい音色とかなり異質なため、
行ったり来たりする度に、黒いトゥーランジューと白いトゥーランジューがかわりばんこに出てくる感じでかなり違和感あります。
カバリエとライブ盤で組んでいるヴァーレットは音色の統一性という点では優れているし表現力もあるんですが、
最高音あたりはトゥーランジューほど楽には出ていない感じがありますし、
私はもしかすると、ドラマの表現の部分を別にすればこの作品はマリア役よりもエリザベッタ役の方が難しいんじゃないかな、、と思っている位です。

ではマリア役が楽かというと、当然そんなことはなく、この役の難しさは一にも二にも表現力です。
スコア通りに歌うなら、そんなに滅茶苦茶な高音はないのでその点は楽に感じられるかもしれませんが
(ただし、オプショナルに高音を入れたり、オーナメテーションを入れることによって、その難度は無限大にあがる。)
音楽がドニゼッティのベスト!とはいえないだけに、その分、そういった歌手の裁量によるエキサイトメントを付け加えるか、
もしくは声そのものの魅力でオーディエンスを魅了せねばなりません。

この作品の男性陣はロベルト(レスター伯)役ですらこの二人の引き立て役の枠を出ていない”この役立たずー!”な存在ですので、
マリア役とエリザベッタ役を歌う二人の歌手の肩にすべてがかかっており、
この二人に、ただでさえも油断したらすぐにダレダレになってしまいがちな音楽を、そうさせず、
逆に高みに引き上げられる実力とドラマティック・センスがないといけない、『マリア・ストゥアルダ』はその点で難しい作品なのです。

この、私たちが単純にメゾvsソプラノと言って一般的に思い浮かべる特徴にはっきり分け切れず、
まるで両方のテリトリーに跨っているかのような不思議な両役のリクワイヤメントのせいか、
実は調べてみると、この50年位の演奏史でも、マリア役・エリザベッタ役いずれも、ソプラノとメゾの両方で歌い演じられたことがあるんだそうです。
ということで、結局、メトではメゾのディドナートがマリア役を歌うんですが、歴史上初めてのメゾの同役への挑戦!ということではないようです。



最初に舞台上に大きく見えるのは獅子と鷲なのかな、、、?
このコンビネーションはメアリー一世の治世の時の王家の紋章で(エリザベス一世のそれは獅子と竜)、
マリアとエリザベッタのどちらが正当な王位継承者か?という議論や二人の確執の元凶となったものをシンボライズしているのかもしれません。

刷り込みというのは強力なもので、突然マリア/エリザベッタ両役でソプラノ/メゾのスイッチOKよ!と言われても、
初めて見た公演(スカラの夜)や耳に慣れた音源の印象というのはなかなか払拭できないので、
私はどうしても、マリア役にソプラノ的なものを、そしてエリザベッタ役にメゾ的なものを期待してしまいます。
で、ディドナートがマリア役を歌うのですらちょっと意外ではあったんですが、そうか、今日はそうするとメゾ on メゾなんだな、と思ってました。

ドニゼッティお得意の焦らしの術(『ルチア』なんかも同じパターン、、)により、
同作品の最大主役であるマリアは一幕の二場からやっと登場~♪なので、一幕一場は完全にエリザベッタ役の独壇場。
先にも書いた通り、エリザベッタ役は本当に大変な役で、高音域も低音域も同等にパワフルで、しかも音色が統一されていて、、なんていうのは無理に近い注文だから、
どれかが優れていれば良しとしなければ、位な気持ちで、それこそヴァン・デン・ヒーヴァーについては何の前知識も無いものですから、
まっさらな気持ちで鑑賞を始めました。



新演出もので、ディドナートのような人気歌手相手に、こんな難しい役でメト・デビューをする、となったら、緊張の極みに達していても全然おかしくないのですが、
登場してすぐに歌う"Ah! quando all'ara scorgemi ああ、私が婚礼の祭壇に導かれる時”での彼女の落ち着きぶりと度胸は大したもので、
きちんとした声、きちんとしたベル・カントのテクニックの両方を持っていることがすぐにはっきりと感じ取れました。
こんなメゾ、これまでどこに隠してたんだ!?です。
全音域に渡って音色の統一のされ方も申し分ないし、エリザベッタの男性っぽさ(それがなかったらあんな政治手腕を発揮できないし、
これこそがエリザベッタと同様にプライドが高くありつつも良くも悪くも頭からつま先まで女っぽいマリアとの対照的な点でもあるわけで、
この点を表現することがこの役では不可欠なのです)、気の強さ&激しさ&気位の高さもきちんと表現されていて、
彼女の歌は、端々からきちんと感情が感じられるのがいいな、と思います。
重箱の隅つつきまくりのこの嫌~なオペラ婆が、後は高音域か低音域のどちらに比重がかかっているかを観察せねば、、と、万全の態勢を整えているわけですが、
まあ、ここまで低音がきっちりしているメゾだから、ものすごい高音を期待するのは酷というもの、、と気を緩めそうになった瞬間、
"Ah, dal cielo discenda un raggio ああ、空から光が一筋射して”の最後に彼女がなんと高音(D)を入れて来て、
それがまた、なんとか頑張って挑戦してみました、、というような生っちょろい音では全くなく、
堂々としたフル・ボディの、ソプラノでもこんなしっかりした綺麗な高音出したら、万々歳というような音で、私は目玉が飛び出るかと思う位びっくりしました。
これにはオーディエンスも大喝采!で、これで一層心に余裕が出来たか、後に続くレスター伯爵との二重唱も素晴らしい出来で、この意地悪婆も完全降参です。
むしろ、あの高音と、その後に続く歌唱の高音域を聴いてしまったら、比較として、どちらか選ばなければならないとしたら、
むしろ高音域の方が良い位かも、、、いや、もうこれは両音域充実している、と言ってよいでしょう!

一体このエルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァーとは何者??とあらためてプレイビルを開けると、、、
あれ?ソプラノなの、この人??
やだー、私はてっきりメゾだと思って聴いてましたよ。異常に高音に強いメゾだな、、と。
それ位、低音域も普通にしっかりしてるから、、、。
さらに帰宅してから調べてみると、彼女は元々メゾでスタートしたものの、
サンフランシスコ・オペラのメローラ・プログラムに在籍していた時に”あなたはメゾではなくソプラノ!”と言われてソプラノにコンバートした経緯があるんだそうです。
ハイG(!)も出るそうですから、今日の高音なんか朝飯前だったんだ、、、。
そして、このあなたはソプラノ!とコンバートを薦めた二人の人物のうちの一人がなんと、ドローラ・ザジックなんだそうです。

ということで、今日は私がこれまで持っていたソプラノ(マリア) on メゾ(エリザベッタ)とは真逆の、メゾ on ソプラノの公演なんです。
面白い。



実は『マリア・ストゥアルダ』がメトで上演されるのは初めて、つまり今日がメトでの初演となります。
2011/12年シーズンに『アンナ・ボレーナ』で始まったチューダー(女王)三部作シリーズの第二弾で(ちなみに第三弾は『ロベルト・デヴェリュー』)、
このシリーズは全てデイヴィッド・マクヴィカーが演出を担当することになっています。

セットや衣装のデザイン・色合いとも『アンナ・ボレーナ』からの繋がりがきちんと感じられるものになっていて、
こういう点は一人の演出家がシリーズで演出する場合の長所だな、と思います。
特に今回の演出では赤の使い方が効果的で、確か『アンナ・ボレーナ』の前のレクチャーで、
チューダーの時代というのは身分によって着用できる繊維の種類や色が決まっていた、というような話があったように思うのですが、
投獄されている身のためにずっと黒い衣服に身を包んでいるマリアが、処刑に赴く前にばっ!と衣装を脱ぎ捨てると、その下から赤いドレスが出てきます。
それまで、全編を通じて赤の衣装で登場したのはエリザベッタだけで(フォルテリンガ城での狩りの場面)、
かつ、他の登場人物の衣装と舞台はほとんど黒か黒っぽい色なために、マリアが赤いドレスになった時のビジュアル的効果は鮮烈で、
これはマリアが死の場に臨んで、心は女王のまま死んでいった、ということを表現するのに非常に有効でした。
また、『アンナ・ボレーナ』の時には抑えモードだった処刑の恐怖も、今回は舞台の上に首切り人を立てて迫力アップしてます。



ニ幕以降は至極真っ当に恐怖と陰鬱さを表現しているマクヴィカーの演出ですが、ユニークなのは一幕でのエリザベッタの取り扱いかもしれません。
ヴァン・デン・ヒーヴァーが100%自分の考えで今回のようなエリザベッタ像を作ったとは考えづらいので、
全部とは言わずとも、最低でもいくらかはマクヴィカーのアイディアによるものだろうと推測するのですが、
ヴァン・デン・ヒーヴァーのエリザベッタは、歌は至極真っ当ですが、演技と役作りはかなり変です。怖いです。奇妙です。
スカラの夜にこの役を演じたアントナッチはマリア役に負けず劣らずにシリアス路線でエリザベッタを演じてましたが、
ヴァン・デン・ヒーヴァーのエリザベッタはそのあまりの変てこさにほとんどコメディックぎりぎりの線を走っていて、
お付きの人も多分、”政治には長けてるけど、変な女。”と思いながら仕えているんだろうな、、と思います。
どこをどう変か、、と言えば、、、こう、、、女装した男性がそのまま女性になったみたい、というか、、
でもそれを演じているヴァン・デン・ヒーヴァーはやっぱり女性で、、と考えるとわけがわからなくなって来ました。
エリザベッタは女王なんだし、ここまで変ってるってことはないだろう、、と、アントナッチ型のシリアス路線を志向する方も多いでしょうし、
そもそもチューダー三部作は史実の器だけを借りて、ドニゼッティが美しく加工して作り上げたものであることを考えると
(オペラで描かれる細かいエピソードはほとんどがフィクションと言ってよいので、これを歴史のまんまだと信じてはいけません!)、
マリアもエリザベッタも美しく悲しいヒロイン達であるべきだと思うのですが、
私はこのヴァン・デン・ヒーヴァーのエリザベッタの演じ方にある種のリアリティを感じて、嫌いじゃないです。いや、むしろ好きかも。
もしかしたら実際エリザベス女王もこんなちょっと変な人だったのかも、、と思ったり、、。



面白いのはマクヴィカーがエリザベッタをこのように設定したせい・おかげで、
リブレットの言葉と音楽だけから受け取るイメージと、舞台の場から受ける雰囲気がかなり違ったものになった点です。
特にレスター伯爵との関係には辛い片思いの相手、というよりは、長年の気心知れたほとんど友人のような上司・部下同士、という感じになっています。
でも、確かに、レスターはエリザベッタの御前に遅刻しても、随分思い切ったことを申し出ても、なぜか彼女に許されてしまう。
だし、エリザベッタだって、馬鹿じゃないんですから、フランスの王とレスターを比べてレスターを夫に取る、なんてことは
政治的な理由から言ってもまずありえない、、、ということ位、わかっているはずであって、
スカラの夜のようにレスターへの悲恋をあまりに強調し過ぎるのは的外れなのかもしれないな、、と思います。

ただ、レスターがエリザベッタにフォルテリンガ城を訪ねるよう説得し、それに成功してしまう場面は、
(それにしても、このレスターという男は本当頭悪いというか、、、二人を会わせて仲直りさせよう、、なんて、どこまで能天気なんだ?と思います。)
怒り半分、一人で立ち去ろうとするエリザベッタに、レスターが執拗に彼女の手を取ろうと手の平を差し出すと、
”またあんたの言う通りになっちまったよ!もう!”という感じでエリザベッタがばしっ!と悔しまぎれでその手を取るあたりは微笑ましく、面白い解釈だな、と思うのですが、
そこに至るまでのプロセスで、彼女がどれほどマリアに恐怖と脅威と、その裏返しの敵意を感じているか、そこが伝わりきっていないと思います。
特にこの物語は彼女たちが血の繋がった関係で、マリアがエリザベッタにしばしばsorellaと呼びかけている位です。
エリザベッタはアンナ・ボレーナ(アン・ブリン)とエンリーコ(ヘンリー8世)の間に生まれた娘で、
マリアは、エンリーコのお姉さんの孫娘なので、この二人は日本語ではどういう関係なんでしょう、、、よくわかりませんが、
まあ、お姉さんというのは言いすぎですが(ですし、もっと広い意味でのsorellaなんだと思います)、血縁関係はあるわけで、
単なる王位をめぐるライバル同士というもの以上の、この血の繋がり、そして、イギリス国教会とカトリックに分断された二人の立場の微妙さがこの物語の肝の一つだと思います。
マクヴィカーはスコットランドの人なので、その辺りは観客全員が当然持っている知識のはず、という前提で、
一幕一場をユーモアを交えた味付けにしたのかもしれませんが、
ニ場で、レスターの”Ove ti mostri a lei sommmessa もし彼女(エリザベッタ)に謙虚な姿勢で対すれば、、
(エリザベッタが恩赦してくれるかもしれない。”という言葉に対し、
マリアが”A lei sommessa? 彼女に謙虚な姿勢をとる?(なんでこのあたしがそんなことしなければならないの?)”と答え、
それに対してレスターが”Oggi lo dei 今日だけはそうしなければ。”と歌った瞬間、
劇場が爆笑の渦に巻き込まれたところを見ると、マクヴィカーはメトの観客を甘く見過ぎたかもしれません。

私が今回、一つだけ、小さな不満がマクヴィカーの演出にあったとすれば、この、ことの深刻さを演出で伝える匙加減だったかな、と思います。
一幕一場で設定したトーンが少し軽すぎて、ニ場に影響を与えてしまったと思います。
ただ、イギリス人でない演出家がエリザベッタをこのような人物像にするにはすごく勇気がいると思うのですが
(下手したら、お前はイギリスを馬鹿にしてるのか!と、イギリス国民の怒りを買いかねない、、。)、
マクヴィカーはそんなハードルを軽く乗り越え、エリザベス一世をあのように描きながら、しかし、彼女への温かい眼差しも感じられるのが面白いな、と思いました。
彼の演技指導にきちんと応えているヴァン・デン・ヒーヴァーも見事だと思います。
舞台でもHDでも彼女の素顔を見る機会はまずないと思われますので、
あのものすごい化粧と不気味な身振りの下にはこんな素顔が、、ということで、彼女の写真を紹介しておきます。



私個人的には今日のキャストで一番色んな意味であっ!と驚かされたのがヴァン・デン・ヒーヴァーでしたので、肝心なマリア役にやっと今頃辿りつきました。
ディドナートは昨年の大晦日の『魔法の島』のシコラックスはともかく、『セヴィリヤの理髪師』のロジーナ、『オリー伯爵』のイゾリエ
そして、ガラリサイタルでの歌唱に普段の明るくてファンを大切にする姿勢(こんなこともありましたっけ、、)で、
NYのファン・ベースにはそのポジなところが超愛されていて、本当に人気があるメゾなんですが、
今日のマリア役のような完全な悲劇のヒロイン役をメトで歌うのは初めてで、
私はあの元気一杯なディドナートがこの役をどのように歌い演じるか、ものすごく楽しみにしてました。
また、これまでは主役級の役を歌っていても、その任を他の歌手と分け合うケースが多かったわけですが、
この作品は、エリザベッタ役も大変とは言え、やはり何といってもタイトル・ロールはマリアなわけですから、
彼女がメトでピンで客を呼べる歌手としての、言ってみれば最終承認をオーディエンスからもらう場になるか否か、という面でも、
彼女にとってものすごく大きなチャレンジのはずです。

まず、先にワーニングしておいた通り、私はこの作品のマリア役はソプラノのイメージが強いし、
また、この作品はドニゼッティの作品なので、出来れば同じベル・カントの中でも、
ドニゼッティの作品を得意としているソプラノに歌って欲しい、という、細かい/個人的な趣味レベルの欲求があるので、
その点では必ずしも私の期待通りではなかったかな、、ということで、まず些細なネガの意見を先に書いてしまいます。

彼女の声はメゾにしては軽やかで高音も綺麗なんですけど、やはりメゾなんですね、、
当たり前のことを言われても、、と言われるかもしれませんが、この作品のマリア役をメゾが歌う、ということは、
私の感覚ではあまり当たり前のことではないので、そこのところでコンフリクトが起きているんだと思います。

この役で必要な最高音あたりになると、力のあるソプラノなら
(そして、ディドナートがメゾとしてものすごく力のある人であることは強調しても強調し過ぎることはありません。)
音が広がって行く感じがすると思うのですが、ディドナートはそれが出来るほどの猛烈な高音は持ち合わせていないので、
どうしてもそのあたりの音域になると、広がって行くのではなく、逆に一点に向かって集約して行くような音になり、若干音が痩せる感じもあります。

後注:チエカさんのサイトでは、コメント欄で彼女が全パートに渡って半音もしくは全音下げている事が指摘されていて
(場所によってトランスポーズする度合いを変えているみたいです。)、その是非を巡ってヘッズの間で議論になっています。
しかし、音を下げてすら、やっぱり上のような印象がありましたので、単純にどこまでの音が出せるか、出せないか、ということだけが問題ではないように思います。
また、リハーサル中や公演前にトランスポーズの指示が出たわけではないようなので、おそらくはじめから下げて歌う予定だったのだと思います。


当然のことながら、ソプラノのようにオプショナルの高音を入れることは難しいため、
そういった歌手の采配で加わる高音の追加の楽しみ、というのもありません。
それからこれはあまり以前は感じなかったんですが、中音域から下にかけて、少しフレミングの発声とも似た独特の粘りが出ます。
この粘りはメゾのレパートリーなら、それなりに一種の魅力になることもあるかな、、と思うんですが、
ドニゼッティの、それも本来ソプラノが歌う役にはあまり似つかわしくないな、、と思います。

後、これは好みの問題が大きく関係するので必ずしも悪いことではないのかもしれませんが、
彼女の歌唱はバロックから、同じベル・カントでもロッシーニに合ったスタイル、という感じがして、
ちょっとドニゼッティの作品には私は違和感を感じる点もあります。
ロッシーニとドニゼッティの違いは何なんだ?と言われると、言葉で説明するのは難しいのですが、
簡単に言うと、カクカクさと滑らかさ、、とでも言うのか、、、
バロックやロッシーニはアクロバティックであることが奨励され、、
そのままアクロバティックなものとしてオーディエンスに聴いてもらうことが歌い手の目標であり、
オーディエンスにとっての美であり、楽しさでもある、、という風に思うのですが、
ドニゼッティやベッリーニは逆にアクロバティックな歌をそうでないかのように歌うところに美があるのではないかな、、という風に個人的には思っているのです。
なので、バルトリが歌う『夢遊病の女』とか、上手だなあ、、とは思うんですけど、一方でなんか違う、、と感じてしまう自分がいます。
で、アクロバティックでなく聴かせる一つの手段に、音の動きの角を少なくする、という方法があると思うのですが、
ディドナートの歌は『マリア・ストゥアルダ』のような作品での私の好みの歌唱に比すと、若干音の角が立つ歌い方に寄っているように思います。
まあ、でもこのあたりのことは、ものすごく細かい、贅沢な注文であることを強調しつつ、たくさんあったポジティブな点に移りたいと思います。

まず彼女の声の美しさ、これは本当に素晴らしい。
声そのものが、マリアという役の、エリザベッタのほとんど男性的と言ってもよい性質に対照的な、女性らしさというエッセンスを表現しつくしていると思いました。
それからボリューム・コントロールの上手さと歌唱技術の確かさ、またオーナメテーションを入れる時のセンス、
この点は以前から彼女の歌唱の大きな武器だと思っていましたが、
この作品での彼女の歌唱はそれを駆使し、あからさまにどうだ!というのではなく、
繊細なクレッシェンド、上品な細かいオーナメテーションなどを駆使し、オプショナルな高音が出せない、というハンデを乗り越えています。

そして、何よりも表現力!!
一幕二場の”ああ、雲よ、なんと軽やかに Oh! Nube, che lieve!”とニ幕ニ場~三場を比べるとそれは明らかです。
一幕二場では彼女の表現力より技巧が勝っているような感じの歌なのですが、ニ幕ニ場から以降、技巧はそのままに表現力が逆転勝ちする感じで、
彼女の歌手としての素晴らしさが感じられるのはこの部分です。
タルボを通して神からの赦しを得る場面と、合唱を従えて歌う"Deh! Tu di un umile preghiera il suono ああ私達の慎ましい祈りを"、
特に後者での彼女の歌唱は、どうやって合唱に対してこのような完全なバランスを取って歌えるのだろう、、?という位、
絶妙な音量で、合唱の中に浮き漂っているように音を響かせて来るのが本当に凄いです。
これは彼女の声質のせいもあるのかな、、と思います。
決して合唱から浮き立つような特殊な声でも、周りを圧するような感じでもなく、
自然に交じり合っているんだけど、だけど、彼女の声が絹のような光沢を放っていて、
オーディエンスが彼女の歌の軌跡を見失うことは決してない、、というそういう感じ。
この合唱との重唱部分は至福でした。

一幕二場で、アンナ・ボレーナがエリザベッタを侮辱する場面、
”Figlia impura di Bolena~Profanato è il soglio inglese, vil bastarda, dal tuo pié!"
(薄汚いボレーナの娘が!~ あんたみたいな卑しい私生児のおかげで、イギリスの王位も地に堕ちたわ!)で、
声を荒げたり、感情過多にならず、思わず口を突いて出た、というよりも、
もうずーっと考えていたことをここで言わせてもらうわ、、という抑制していた怒りが段々と雪だるま式に大きくなって行く感じの表現も彼女らしいな、と思います。

とにかくこの日のために相当な準備をしたであろうことが感じられる歌唱で、
彼女が登場する公演で歌にがっかりさせられた試しがこれまで一度もないのですが
(『魔法の島』も、作品にはがっかりさせられましたが、彼女の歌にはがっかりしてません。)、
この一度請け負ったら、全力で立ち向かい、中途半端な結果を出さない、という姿勢も、彼女がこちらで絶大な支持を受けている理由の一つなのかもしれません。
私もあれこれと細かいことを言いましたが、鑑賞する価値のある公演だったかと聞かれれば、もちろん!と答えます。



先に役立たず呼ばわりした男性陣ですが、それはドニゼッティがいけないのであって、歌手がいけないわけではありません。
今日の公演に参加した男性陣は全員、歌い甲斐があるとは口が裂けても言えない役柄にも関わらず、
一生懸命ディドナートとヴァン・デン・ヒーヴァーを引き立ててました。

レスター役は当初メーリが歌うことになっていたんですが、『リゴレット』でのメト・デビュー失敗!からまだ立ち直れないのか、
シーズンが始まろうか、という頃にキャンセルを発表し、急遽、ポレンザーニが入ることになりました。
史実的にはマリアも40代、、ということは多分、レスターも同年齢か多少上でもおかしくないので、
ポレンザーニの白髪交じりの頭もあれで間違いではないのかもしれませんが、雰囲気までおじさんくさいのはどうなんでしょう、、?
もうちょっと若い雰囲気にしてもいいんじゃないかな、、?
スカラの夜で同役を歌ったメーリは超まんまな若者作りでしたよ、、。
歌唱の方は一瞬高音でひやりとさせられたところがありましたが、それ以外の部分は声も良く伸びていて、主役の女性二人を良く盛り立てていたと思います。

タルボ役のローズ、セシル役のホプキンス共に、役に求められるに十分の歌唱を披露していましたし、
歌う役は本当に少ないながら、アンナ役のジフチャックは私がこれまで聴いた中で、最もエッジの感じられる切れ味のある声で、
こんな風に歌うことも出来る人だったんだな、、とちょっと驚きを新たにしました。

最後にどの歌手にも負けず劣らず称賛しておきたいのはベニーニの指揮!
シーズン・オープニングの『愛の妙薬』でも素晴らしい指揮振りだったベニーニですが、
今回の『マリア・ストゥアルダ』はそれを上回る出来かもしれないです。
『愛の妙薬』は作品自体の出来が良いし、オケも作品を良く知っているので、ある程度勝手に回っていく部分もありますが、
この『マリア・ストゥアルダ』は勝手にまわしておくとどんどん沈没しかねない音楽だし、メト・オケはこの演目を演奏するのが今回初めて、、と
ベニーニにとっては地獄のようなことになっていたのではないかと思うのですが、良く短期間でこんなにまとめたもの、と感心します。
今回はサイド・ボックスからの鑑賞だったので、彼の指揮の様子が良く見えましたが、本当に手取り足取り、物凄くきちんと指示を出していて、感心しました。
普通なら歌手側の采配で、彼らが延ばせる・彼らの好みの音の長さに合わせてオケをなだれこませる、、というようなことをしてもおかしくない場所ですら、
歌手にここまで延ばせ、止れ、の指示を出しており、これ即ち、彼の中できちんと”ここはこう演奏するべき!”という
確固としたアイディアをきちんと持っている、ということに他ならず、
ベル・カント・ファンである私のようなオーディエンスにとって、非常に嬉しい事態です。
この作品でこんなに躍動感のある演奏が出来るなんて本当に驚きで、私が持っているどのCDよりもオケの演奏に関しては良い内容でした。
オケから出てくる音の美しさに溜息が出た箇所も、一つや二つではありませんでした。
数年前の『愛の妙薬』でニコル・キャベルを詰めていた時から只者ではない面白いおっさん、、と思ってましたが、ベル・カントに関しては指揮の腕も確か!
これでシリーズ第三弾の『ロベルト・デヴェリュー』も彼の指揮になるかもしれない、、という予感がして来ました。


Joyce DiDonato (Maria Stuarda / Mary Stuart)
Elza van den Heever (Elisabetta / Queen Elizabeth I)
Matthew Polenzani (Roberto / Robert Dudley, Earl of Leicester)
Matthew Rose (Giorgio / George Talbot, Earl of Shrewsbury)
Joshua Hopkins (Guglielmo / William Cecil, Lord Burghley)
Maria Zifchak (Anna / Jane Kennedy, Mary's lady-in-waiting)

Conductor: Maurizio Benini
Production: David McVicar
Set & Costume design: John Macfarlane
Lighting design: Jennifer Tipton
Choreography: Leah Hausman

Gr Tier Box Even Front
ON

*** ドニゼッティ マリア・ストゥアルダ Donizetti Maria Stuarda ***

AIDA (Sat, Dec 22, 2012)

2012-12-22 | メトロポリタン・オペラ
先週の土曜日はモナスティルスカのアイーダは過去少なくとも10年間にメトで聴いた同役のソプラノの中では一番!と思う位大満足だったんですが、
ボロディナが歌うアムネリスに今ひとつのれなかった、、、。
この二人のコンビでの公演はHDの日が最後で、その後の3つの公演のアムネリス役には誰あろう他ならぬドローラ・ザジックがキャスティングされており、気持ちは揺れまくりです。
12月は超金欠、、、でも聴きに行きたーーーーい!!!

公演の直前にチケットを買う場合、私から見てコスト・パフォーマンスが良い座席は大体売れてしまっていて、
劇場内で最も高価なグループに入る席種にするか、もしくはお金を多少始末して見にくい座席で我慢するか、もっと節約してスタンディング・ルーム、の三択になるわけですが、
鑑賞中に刻々とストレスが貯まっていく見づらい座席は立見席より不快で嫌だけど、3月に『アイーダ』を立ち見した時は正直辛かった、、、
『アイーダ』は結構上演時間が長いから。

ザジックは現在齢60。ってことは、彼女の良い歌を聴ける時期というのは多分もう長くは残っていない、ということで、
もはや彼女が絶対に登場するというのであれば、私はいくらお金を出しても惜しくない位の気持ちなんですが、
怖ろしいのは、これでザジックがキャンセル、なんてことになった場合です。
ザジックは非常にまじめな歌手だと思いますが、いや、だからともいえるのか、
体調がすぐれないと、ちゃんとした歌が歌えないくらいなら降りた方がまし、、とばかりにあっさりとキャンセルしてしまう場合があって、
これまで2~3回、彼女のキャンセルを食らったことがあります。
もしそんなことになったら、アラーニャの蚊のファルセット聴くために300ドルの出費、、、うーん、それはありえない。

というわけで、今日は開演のぎりぎり近くまで待って、ザジックのキャンセルがまずなさそうだということを確認してから平土間最前列のチケットを購入しました。
今回はたまたま色々プラクティカルな原因が重なって最前列の座席になったのですが、
今日と同じフリゼルの演出の『アイーダ』で歌うザジックを、回数なんか思い出すことも出来ない位に鑑賞し倒して来たというのに、
実はこんな至近距離からザジックのアムネリスを見るのは初めてだ、という事実に、なぜか座席に着いた瞬間にやっと気付いてとめどもない感慨に襲われました。

しかし、そんな感慨は前奏曲が始まって吹っ飛びました。
なぜならば、いわゆるハウス・ライト(オーディエンスの視点から向かって舞台右側)に寄ったこの座席は驚くほど音のバランスが悪く、
丁度オケピに張り巡らされた壁のすぐ向こうにチューバの奏者がいて、彼の吹く音が壁に反響してこぼれてくるのか、
他の楽器がどんな風に鳴っているのかはっきりとわからなくなってしまうほどの大音響で、前奏曲が終わる頃にはボー然、、、。
逆側(ハウス・レフト)の一番奥にいるコントラバスの奏者の奏でている音なんか、”なんか遠くで鳴ってるわあ。”という感じで、
オケの演奏についての今日最大の収穫は、全幕にわたって”チューバはここでこんな旋律を吹いてたのね。”ということが確認出来たこと、、
って、そんなピンポイントで良いのか?!
そんな理由で、今日のオケの演奏に関しては各セクション間の音のバランスなんか全然良く判らなかったし、全くフェアなことを書けそうにないので割愛させて頂きます。
平土間一列目でも、指揮者に近い(真ん中寄りの)場所だったらこんな悲惨なことにはならないんですけれど、
前の方に座る場合、ここ以上端に寄ってはいけないんだな、という座席のラインが何となくわかったのが今日の本当の最大の収穫、ということにしておきましょう、、。
ただ、一列目からでも舞台までには多少距離があって、それに救われているんだと思いますが、
歌手の声の聴こえ方の方はオケのそれほど惨いことになっていないのにはほっとしました。



今回の公演はアラーニャがラダメス役に入ってから4回目の公演で、
シリウスで聴いた一回目、HDの公演の時の二回目、そして今日、と、ルイージの指揮・オケの演奏との噛み合い方は回を追って段々良くなって来てはいましたが、
ただ、彼はラダメスを歌うのが初めてなわけでも何でもないのにもうパートを忘れちゃって、その上にきちんと復習が出来ていないんでしょうか?
特に一幕とニ幕が全然頭に入っていないと見ました。
この二つの幕中、彼が凝視していたのはほとんどプロンプターとルイージの方だけで、
私達オーディエンスとのラポートもなければ、アイーダ役のソプラノに対して歌っているはずの時ですら彼女を見ていない、、ということがしょっちゅうで、
歌に余裕がないせいで演技にまで気が回っていないところが散見されました。

しかし、このプロンプターをガン見しなければならない事実を恥ずかしがるどころか、
場の転換時の時のカーテンコールで、しつこくプロンプターに投げキッスを送り続け、
退場しようとするガグニーゼにほとんどお尻を蹴られそうになっていたのには、
このずれぶりは相変わらずアラーニャしてるわね、と思わされました。
急遽予定外の代役をつとめることになった、とか、何かハプニングがあって、プロンプターのお世話になりまくるのも成り行き上当然、という場合を除き、
オーディエンスの前でプロンプターにこういう普通以上の感謝のジェスチャーをする歌手は全員Madokakipの閻魔帳行きです。
こんなの見て、”あらアラーニャって良い人だわ~。”なんと思うオーディエンスは相当なお人好しで、
むしろ、一年以上前からキャスティングが確定していた演目で、プロンプターに普通以上に感謝しなければいけないような状況を作っていること自体おかしくないか?
ちゃんと準備してないのか?と疑問に思うべきです。
そして、私は見逃しませんでしたよ、、、ガグニーゼに蹴られながら緞帳の向こうに消えて行くアラーニャに、
スコアに目を落としながら、”やれやれ、、、。”という表情を隠せなかったルイージを。

HDの日(先週の土曜の公演)に”何なの、、それ、、、?”と思わされた”清きアイーダ”のラストに関しては、
今日の方がppppから段々膨らませていって、最後に余韻を残す、、という意図がより伝わりやすい歌になっていたと思います。
私のようなヘッズに”逃げたな。”と思われないためか、”俺はヴェルディのスコア通り歌ってるぜ!”とばかりにかなり強調してppppにしてました。
後、HDの日には蚊の鳴くようだったファルセットも、今日は吸血前の蚊と吸血後の蚊、位の差はありました。
でも、ヴェルディには申し訳ないですけれど、ここは観客としてはがつーん!と歌ってくれる方がいいんですよね、、
今のアラーニャの力の範囲内で、ヴェルディのスコア通りに歌うという意図のもとではまあまあの結果が出ていたと思いますが、
客はしらーっと白け気味で、拍手もなんとなく力ないものでした。
多分、彼らにも”逃げたな、、。”と思われてしまったのでしょう。努力の甲斐なく。
まあ、それ位、ここはフルブラストを期待するお客さんが多い、ということなのだとも思います。



アイーダ役を歌ったフイ・へは、新国立劇場のサイトなんかを見ると、日本ではへー・ホイと呼ばれているんですね。
もうー、新国立劇場が変なバリエーション加えるから、最近では彼女の名前を言う前に”えーっと、ホイ・へだっけな、フイ・ホーだっけな?”
などと余計なことを考えなければならなくなったではありませんか!
彼女を初めて生で聴いたのは2008年の初夏のNYフィルとの『トスカ』で、私は彼女について
① 声のボリュームとカラーのコントロールが未熟。
② 肝心な個所の高音で音がずり下がる。
③ 演技、体の使い方が滅茶苦茶へた。
④ ディクションが最悪
と結論付け、まあ、このソプラノはしばらくメトの舞台に立つこともないだろうな、、と思っていたんですけれども、
怖ろしいのは最近のメトはそういう人でもデビュー出来る場所になってしまったことで、彼女は2009/10年シーズンに『アイーダ』でデビューを果たしています。
アイーダのような大役でメト・デビューをする歌手の公演はまず聴き逃さないようにしているんですが、
シリウスで聴いた彼女の歌唱がびっくりする位ひどくて、そのシーズンは珍しく彼女を劇場で聴くのはパスすることにしました。
全世界にも配信されたはずのマチネの放送で”ああ我が故郷 O patria mia”の後半、曲の原型を留めないほど音程がずれまくって行って
収拾がつかなくなったのをお聴きになられた方もいるかもしれません。
それに、あの『トスカ』の時の、決して超肥満なわけでもないのにぼてーっとしただらしない体型と、
股の間に何か挟んで歩いているのかと思うようなどてどてとした不細工な歩き方、、
これらを思い出すと今日の『アイーダ』に私が全く期待をしていなかったとしても、何の不思議もありません。

ところが、彼女が舞台に登場してびっくりしたのは、『トスカ』の時と比べると同じ人に思えない位雰囲気が垢抜けたこと。
今回の記事で使用している彼女の写真は全て2009/10年シーズンのものなのですが(今シーズンの写真がどこにも見つからないので、、)、
『トスカ』からはもちろん、その頃に比べてもだいぶ痩せたんじゃないかな、、、
今日見た彼女はもっとリーンな体型で動きはシャープになっているし、
演技が控え目なせいで、もう少し動きがあった方がいいかな、と思う部分はありますが、
彼女が動いている部分に関しては”不細工だな。”と感じたことは一度もなかったです。

この体重の変化と関係があるのか、声の音色が『トスカ』で聴いた頃のそれとは少し違っているのも印象に残りました。
『トスカ』の頃はどちらかというと”太っている人の音色”だったんですが、今回はリーンな体型の人の音になっていて、基本的な音色そのものが以前聴いた時と全く違う感じ。
音色だけに関して言うと以前の方が楽に出ていた感じがあって、今の彼女の声は少し音に硬さが加わった感じがするのと、
時に、出している空気全部が音になっていなくて、息の多い音が出てしまう(そしてこれは体型が比較的貧相なアジア人により多く見られると私は思っているのですが)時があって、
今現在の時点で、へー・ホイと今年『トロヴァトーレ』で聴いたグアンクァン・ユー(と英語読みではなるのですが、本来はグワンチュン・イーという発音に違いとの説あり。)、
どちらがアジア人とわからない声を出すか、と聴かれれば、私は迷いなくユー(イー)の方をとりますが、
ではへーが駄目かと言うと決してそんなことはなく、硬質な音の割りには良く伸びる声で、
ユーの方が柔軟性のある劇場を包むような音とすれば、へーの方は固い一直線に飛んで来るボールのような音で、
彼女のような音が好きな人はそれはそれで十分楽しめるんじゃないかと思います。



『トスカ』の頃と比べて随分スキルアップしたと言えば、声のコントロール力もそうで、
モナスティルスカの幅の広いダイナミック・レンジと比べると、多少ボリューム、カラー共に狭い感じがしてしまいますが、
声の行き先に収拾つかない感じすらあった『トスカ』の頃と比べたら4年半で良くここまで進歩したものよ、、と思います。
それとも、『トスカ』の時が余程不調だったのか、、、。

だがしかし!なのです。
残念なことに彼女の最大のアキレス腱がピッチである、という点はやっぱり変っていませんでした、、。
『トスカ』や2009/10年の『アイーダ』と比べたら大きな進歩を遂げていることは強調しておきますが、
例えば、因縁の”ああ我が故郷”。
頭からずっと良い内容で、これはこれでモナスティルスカとはまた違った魅力があるな、、と感心しながら聴いていたところ、
終盤にno, mai piùでCまで音が上がっていくその肝心のCで音がぶら下がってしまい、
「画竜点睛を欠く」というのはこういうことを言うのだな、、、と思いました。
良く気を取り直して、その後に二度出てくるA(最後のoh patria mia, mai più ti rivedroの頭と最後)は綺麗に出していましたが。
他の部分が本当に良く歌えていたので、ルイージが指揮台で彼女に向かって一生懸命拍手を送っていて、私もその気持ちは良くわかるんですが、
やっぱりアイーダ役を歌うんだったら、絶対抑えなければならない音ってものがあって、どんなに他の部分が素晴らしい出来でもこれを外していてはいけないんです。
たった一音、されど一音。
モナスティルスカはこんなところで音を外したりしないし、それどころかものすごく綺麗な音でそれを鳴らしていましから。
一級のアイーダか、そうでないか、というのはこういうところにもあらわれるんだと思います。

ただし、歌い終わった後、どんなにルイージが褒めても、やっぱりCを外したのは痛恨と見えて、へー自身が全然嬉しそうでなかったのはとっても良いことだと思います。
4年半でこれだけ歌が進歩している彼女が負けず嫌いなわけはないでしょう。
今回の彼女の歌唱は良い点もいっぱいあったので、このピッチの不安定さだけはぜひ克服して欲しいと思います。



今日の公演を鑑賞するそもそもの唯一の理由だったザジックのアムネリス。
彼女の歌唱と演技には、どれほど彼女がこの役を深く摑んで歌っているか、
また、彼女がずっと優れたアムネリスを歌ってこれた理由ががぎっしりつまってました。
15年前位なら、彼女が多少無理なポジションから無理矢理に音を出していたとしても、出てきた音からそれを感じることはほとんどなく、
その音のイーブンさ、無駄のないフレージングは鉄壁でした。
60歳になった今の彼女にはさすがにそんな力技は出来ないし、無理な音の出し方をするとそれは以前よりははっきりとそうとわかるようになっているし、
使っている息の量の強弱がより直接的に、あからさまな形で音のボリュームに影響を与えるようにもなっています。
でもそのおかげで、彼女がどこにアクセントを置いて、どの音を一番のターゲットにするためにどの音あたりから準備をしているのか、
またフレージングを滑らかにするためにどういう風に音符を取り扱っているか、休符も含めてどのようなためを入れているか、などなど、
彼女がアムネリス役の歌唱をどのように組み立てているかがわかってすごく面白かった。
彼女があれだけパワフルなアムネリスを歌って来れたのは、もちろん素晴らしい声・音色を持っていたこともあるけれど、
それをただめくら滅法に使っていたわけでは決してない、
その声をどう使うべきなのか、そこからマックスの効果を引き出すにはどのように歌えばよいか、
そこには、彼女の歌唱にどんな瑕もアンイーブンさも存在しなかった頃には私が気づきもしなかったような、
奥深い配慮と工夫があったことが今日の歌唱から良く良く感じられたのでした。
今考えて見ると、彼女のアムネリス役の基本的な歌い方は私が初めて聴いた時からほとんど変ってなくて、
特定の場所を指定されれば彼女のそこの歌い方をすぐに頭の中でシュミレーション出来るくらいです。
それもまた、彼女の歌唱がどれだけ思考に裏打ちされたものであったかを裏付けているな、と思います。
だから私は今シーズンの『アイーダ』初日にボロディナが審判の場で失敗したり、
他にも日によって同じ箇所なのに全く歌い方が違ったりするのにびっくりし、不思議に思い、”なんだか行き当たりばったりな歌だな、、。”と思ったわけです。

ザジックはガッティが指揮した時よりも今日の方がずっと歌いやすそうにしていたんですが、
唯一の例外は審判の場で三回登場する、ランフィス&合唱のTraditor!に続いて入ってくるAh, pietà! ah, lo salvate, Numi, pietà! Numi, pietà!の部分の旋律で、
16分休符のところからがネックで、三度ともルイージの率いるオケと彼女の歌唱のタイミングがぴったりとは収まっていなくて、そこだけは少し残念でした。

今回舞台に近い座席から鑑賞して、彼女の演技の細かいところまで生で見れて、
今まで貯まりたまったザジックのアムネリスの思い出に新しい章が一つ加わった感じがします。
全幕にわたって彼女の演技は私にとってしっくり来るもので、その解釈がベースにあるからこそ、
遠くの座席からあまり細かい演技が見えない状態で歌を聴いていても彼女の歌は私に説得力を持って響いてくるのだと思いますが、
いくつか記憶に残った部分を上げておくと、ニ幕一場でアムネリスが黒人の子供の踊りを見る場面、ザジックのアムネリスはここで全然踊りを見ていないんです。
手鏡を持ってじーっと物思い(もちろんその物思いはラダメスのことなわけですが)にふけっていたかと思うと、
片手で頬を触れ、自分が自分であることに嫌悪感が湧きあがって来たかのように鏡を伏せるのですが、
その瞬間ラダメスに愛されているアイーダとと自身を比べて、”なぜ私じゃない?”と問いかけているようでもあります。
ボロディナはこの場面では私が座っていた座席からはのんびりと黒人の踊りを見て、優しく指輪を与えたりしているように見えたんですが、
もし私がアムネリスだったなら、すでにアイーダが恋敵なのではないか?と心穏やかでない今、黒人の子供の踊りなんか心あらずに眺めるだろうと思うし、
どんな時にも気位のガードが落ちず、高飛車な様子でザジックが踊り子に指輪を与えている様子もずっとぴったり来ます。

それから凱旋の場の最後、アムネリスを褒美にとらせよう、とエジプト王が宣言した後、
ボロディナは”私の勝ちね。”とばかりにきっとアイーダを見返してから、つーん!と言う感じで前に向き直ってラダメスと退場して行きましたが、
私はザジックのように一度もアイーダの方なんか見ずにその場を去るのが正解だと思います。
アイーダの方を向いてしまったら、それは私はまだあなたと同じ場所にいるわよ、というジェスチャーになってしまう。
アイーダの方を見ないことによって、あなたは単なる奴隷、私は王女でラダメスは私のもの、
あなたと私は全く別の場所にいるのよ、という決定的なメッセージを、思い切り冷や水のように浴びせかけて去っていくことになるはずで、
その方がアイーダだってずっとこたえるはずです。
アムネリスはラダメスの心が自分にないことは十分にわかっているから、今やこの身分の違いが彼女の持ち札のすべてであって、
だからこそ、そこにすがりついているアムネリスの姿がまた切ないわけで、
ボロディナのアムネリスはそこの所をカバーせず、全くわかりやすい幼稚な演技に置き換えてしまったのは私の不満な点です。

また、ラダメスに自分と結婚してくれれば命を助けるようとりなしてみせる、という説得にも耳を貸さないラダメスへの懇願、再燃する怒り、失望、後悔、、
ザジックのこの変化の表現も素晴らしかったです。
今まで何の苦労もなく、望めば全てが与えられる環境で育って来たアムネリスが初めて経験する自分の思い通りに行かない事態、
駄々っ子のようでありながら、しかし、一方で、この取り返しのつかない事態を招いたのは自分のせいでもあるという苦い気付き、、
まさにこれはアムネリスが少女から大人になる瞬間そのものだと思うのですが、
Ohimè! morir mi sento..(ああ、死にそうだわ、、)の部分を歌い終わって、祭司達の合唱が始まるまで、
床に転がっている大きな石に座って、どうしていいのかわからない、、と片手で頭を抱えて声を潜めて泣いている様子は、
その容貌のせいで我が家では”トロールみたい、、。”とさえ言われているザジックが、一瞬少女に見えたマジカルな瞬間でした。

男性陣はあいかわらずの出来。
先週の公演の記事で、HDの日の一つ前の公演で”ガグニーゼ一人、colpireのreの音のお尻が残ってしまって”、、と書きましたが、
今日もまた少し彼の声が残っていて、半ケツくらいな感じになってました。
なのに、三幕終了後のカーテン・コールでは”すごく良い歌を出せたぜ!”とばかりに満面の笑みでオーディエンスにこたえていて、訳がわかりません。
心なしか、またルイージがスコアに目を落としながら溜息をついたような、、。本当、お疲れ様です、、。


Hui He (Aida)
Dolora Zaick (Amneris)
Roberto Alagna (Radamès)
George Gagnidze (Amonasro)
Štefan Kocán (Ramfis)
Miklós Sebestyén (The King)
Jennifer Check (A Priestess)
Hugo Vera (A Messenger)
Conductor: Fabio Luisi
Production: Sonja Frisell
Set design: Gianni Quaranta
Costume design: Dada Saligeri
Lighting design: Gil Wechsler
Choreography: Alexei Ratmansky

ORCH A Even
ON

*** ヴェルディ アイーダ Verdi Aida ***

AIDA (Sat Mtn, Dec 15, 2012)

2012-12-15 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。


昨(2011/2年)シーズン3月の『アイーダ』でメト・デビューを果たしたラトニア・ムーアが、2013年3月の新国立劇場の同演目にカロージに代わって登場するそうですね。
(blueさん、情報ありがとうございます!)
その時の公演で久しぶりに若手で面白いアイーダを歌える人が出てきたなあ、、と喜ばしく思っていたところ、
ヘッズ仲間のおば様から、”新(2012/3年)シーズンに歌うモナスティルスカもすごく良いのよ。”という噂を聞いていて、かなり楽しみにしていた今シーズンの『アイーダ』です。

リハーサルの段階からAキャストのラダメスに予定されていたマルコ・ベルティが散々な歌唱を聴かせている、という話を聞き、
”うへーっ。”と思っていたんですが、ありがたいことにベルティもメトも常識/良識というものを完全には失っていなかったようで、
11/23の初日はカール・タナーが代役に入ることになり
(そして結局、ベルティが歌う予定だった他の公演も全部タナーが歌ったようです)、
その初日の公演は私もシリウスで拝聴いたしました。
タナーは世界一級と言えるテノールでは決してないし、今後そうなることも決してないでしょうが、
ルイージの意図にきっちりと寄り添おうとする真摯な歌(元々彼がカバーだったのかもしれません。)とベストを尽くそうとする姿勢が好感を呼んだと思われ、
オーディエンスおよび批評家筋から概ね好意的な評を受けていました。
しかし、初日の公演は、私に言わせるなら何と言ってもモナスティルスカのアイーダとルイージ/メト・オケの指揮・演奏に尽きます。
モナスティルスカの歌はアイーダ初日の少し前に催されたタッカー・ガラで初めて耳にする機会を得たわけですが、
彼女の歌は全幕に限る!と、『アイーダ』初日の演奏を聴いて強く確信しました。
タッカー・ガラでは選曲のせいもあるでしょうが、
彼女の強靭な声とアジリティ(まだ前進する余地はありますが、それでも普通に言ったら高い能力の持ち主ではあります。)
をオーディエンスにアピールする感じだったんですが、彼女の一番の長所はそこではなくて、
全幕を通して素晴らしいドラマティック・センスを持っているのと、声の強靭さだけに頼らないフレキシビリティ、この二点だと思います。
歌手には同じ旋律を歌ってもまーったくその底にある感情がオーディエンスに伝わってこないタイプ
(新国立劇場でムーアが代役に入る前に予定されていたカロージなんか、私はこちらに分類します。)と、
仮に多少技術が拙い・荒いところがあってもそれがひしひしと観客に伝わってくるモナスティルスカやムーアのようなタイプがいて、
だから、私は新国立劇場にムーアが代役登場する件については鑑賞される方に”おめでとうございます。”と申し上げるわけなのです。



それからオケ!
私がブログを休止している間にメトで起こった一番大きな出来事の一つはルイージに対する失望、失望、失望の嵐です。
一年前まであんなにルイージに関して盛り上がっていたMadokakipが一体どうした!?と、
久しぶりに再開したブログ上での手の平返すようなトーンを不思議に思われた方も多いことでしょう。
いや、全くもってその答えは私が聞きたい位で、首席客演指揮者となるまではあんなにエキサイティングな指揮を繰り広げていた彼が、
皮肉にも、そのポストについて、以前よりは自分の行きたい方向性を自由に追求できるようになったあたりから、段々おかしくなっていったのです。
駄目な指揮者だとは全く思いません。
むしろ、他の数多いる、時にはなんでこんなのが国際的な舞台に上がってこれるのか?と首を傾げたくなるような指揮者に比べたら、
彼の方が10000倍まともだし、テクニックの確かさではトップの何パーセントのうちに入る方だと思ってます。
だけど、オペラの指揮者として彼が致命的なのは演奏の正確さ、美しさ、きちんとさばかりに気をとられて、
オペラで一番肝心なこと、つまりオーディエンスに何かを、
いや願わくば、今まで感じたことのないような激しい感情のうねり、揺れ、爆発を感じさせることが出来ない、この点に尽きると思います。
彼の『マノン』の修道院でのシーンの、『ワルキューレ』でヴォータンがブリュンヒルデに別れを告げるシーンの、
『仮面舞踏会』でアメーリアがグスタヴォに恋情を認めるシーンの、いかに退屈だったことか!!!

なので、今年の『アイーダ』の指揮がルイージだとわかった時から実はあまり期待していなかったんですが、
初日の演奏ではその予想が良い方に外されて、こういう演奏をいつもして欲しいのよー!と、何度も思いました。
『アイーダ』の前奏曲はその後に続く演奏を図るバロメーターで、
ここの演奏を聴くと大体その日のオケの集中度とテンションの高さ、
それから指揮者のこの作品に取り組むスタイルと自分の好みの相性がどれ位のものか推測がつくという嬉し・オソロしの箇所ですが、
(ここで今日は駄目そうだ、、と思うと、これから3時間の拷問が始まる、、とぞっとします。)
表情の豊かさ、ドラマティックさ、テンポや音量のコントロールなど、どれもしっくり来て、今日オペラハウスに行っとくんだった、と何度悔しく思ったことか。
第三幕のナイルの河畔で、アイーダがアモナズロにラダメスをはめろ、と言われて、No, no, giammai!(絶対にいやです)と歌う場面では、
モナスティルスカの劇的な歌唱と同時になだれこんで来るオケの燃え上がる音に、
”これこそヴェルディなのだ!!”と、我が家のリビング・ルームにいながらにして血管がぼこぼこ言う感じを味わいました。
凱旋の場面でアイーダ・トランペットが入って来る(メトのこの演出では、一頭目の馬が登場する)ところでは、
かっくーんとテンポがスローダウンして、いつもの私ならここは音楽だけの話をするともうちょっと早い方が好みなので、
”わざとらしい!”と敬遠してしまいかねないところですが、
ああ、これで馬の足並みを描写しているんだな、、とわかると、これも一つの描写の仕方だな、、と思いました。



モナスティルスカとルイージ&オケの出来に比べて情けなかったのは男声陣で、
特にランフィス役のコーツァンとアモナズロ役のマストロマリノ、
この二人、特にマストロマリノは本来はメトには一切縁がないはずのレベルの歌手で、
どうやってまんまと紛れ込んでくるのやら、二度と戻ってこなくてよし!と思いました。

それからボロディナのアムネリス。
彼女は歌手としては良い歌手だと思うのですけれど、アムネリス以外に彼女の良さが出る役は他にいっぱいあるし、
また、それに加えて、年齢のせいなんでしょうか、今シーズンの歌を聴くともうアムネリスを歌うのはやめた方がいいな、と思います。
特に四幕の審判の場面、ここがきちんと歌えないアムネリスってのは問題です。
初日の公演では、スタミナ切れをおこしたか、Ah no, ah no, non è(合唱とランフィスは後ろでè traditor! morrà, morràと歌う)の後、
一人でèを一音ずつ上昇しながら歌って行く四分音符、ここを歌うのを諦めて、お経のような低い声でè~と呟いてましたし、
場の最後のanatèma su voi!(お前達に呪いを!)のvoiが絶叫調で、そして短い、、。
ここって、坊主どもを殺してやりたいくらいアムネリスが憎んでる、っていう、
その気持ちをこのvoiにこめなければならないわけで(楽譜上も全音符です)、
そこが何かインコンプリートな感じがするのは、この場面の歌唱として一級とは言えないと思うのです。
それから彼女の歌にはヴェルディのレパートリーで一番大切!と多くの歌手たちが口を酸っぱくして言うレガート、
これもなんだか今一つで、だから私は彼女の歌うエボリとか、アムネリスに今一つ燃え上がれないのだと思います。

とは言え、とにかくモナスティルスカのアイーダは一聴の価値がある上、
それにオケがこんなに良く演奏してくれるなら、、、と、HDの日の収録日の公演のチケットを購入することにしました。
しかし!ここに大きな罠がありました。元々ベルティにHDの任は重すぎる、とゲルブ支配人は考えていたのでしょう、
HDの日のラダメスはアラーニャを投入することになっていて、彼の最初の舞台でHD、というのはさすがに厳しい、という配慮と、
HDの一つ前の公演はHDのバックアップ用の映像を収録するのが定例になっているため、
そこからラダメスがアラーニャにスイッチするようなスケジューリングになっていたのです。



で、そのHDの一つ前の公演もシリウスの放送があったので、聴いてみましたが、、、ただ一言、
”どうしてこんなことになっちゃったのーーーーーっ!?”です。
当然のことながらオケとのリハーサルに一度も参加していないアラーニャは自分勝手な方法で歌いまくっているし、
それに合わせるので必死のルイージ(汗だくになっている様子が目に浮かぶ、、)とメト・オケは、
そのために初日までに作り上げた音を全部捨てなければいけないことになってしまっていて、
初日のような演奏を聴きたい、、と思ってチケットを買った私は泣くに泣けない状況です。
この辺も、私は一体ゲルブ(もうこの際呼び捨て)は何を考えてるんだ?と思うわけです。
緊急事態ならともかく、最初からリハーサルもろくすっぽにしてないような人間をHDにスケジュールするなんて、オーディエンスをなめてると思いませんか?
彼の頭の中には人気歌手でないと客が喜ばない、というような妙な思い込みがあるみたいで、
だからメトのオープニング・ナイトが三年連続ネトレプコ、、というようなわけのわからないことにもなるんでしょうが、
(2011年の『アンナ・ボレーナ』、2012年の『愛の妙薬』、2013年の『オネーギン』)
そんな田舎臭い考えの人間は実はあんただけなんじゃないの?と思います。
こんなだったらまだタナーのラダメスの方がよっぽどましじゃんよ(だし、少なくともオケの演奏はちゃんとしたものになる)、、と思いました。
それから、ついでにアモナズロもマストロマリノからガグニーゼに変っていて、
こちらはまあ、マストロマリノが史上最低か?という位ひどいアモナズロだったので、喜びたいところではあるのですが、
ガグニーゼも凱旋の場の、エチオピアの捕虜たちとそれに同情するエジプトの民衆達を従えて王に寛大さを乞う場面で、
doman voiと歌い始める前に、全ソリストと合唱がそれぞれ違う言葉を歌いながら重唱・合唱して同時に休符に入りますが、
そこでガグニーゼ一人、colpireのreの音のお尻が残ってしまって、
沈黙したオペラハウスにそのreと歌う声がとどろいてました。あらあら、、、HDの日はちゃんとストップしてね、って感じです。

予行・バックアップ用とはいえ、劇場にカメラが入っているというのは独特の雰囲気があるのでただでさえ緊張度がアップするってのに、
横でばたばたとこんなことされた日にはたまったもんじゃありません。本当、リュドミラ嬢に同情します。
そのせいか、彼女までなんだか不調になってしまって、登場してからしばらくピッチがかなり不安定で、
HDの日大丈夫かな、、とちょっと心配になってしまいました。



と、かなり長い前置きになってしまいましたが、今日の公演のことを語る場合、それらが無関係でないのでご容赦を。
で、いよいよその本題のHDの日の公演です。

まず、ラダメスのアラーニャから行きましょうか。
さすがに前回の公演での歌唱はあまりにひどい、という自覚があったからか、オケがどのような演奏をするか多少学習したからか、
もしくはその両方か、若干はましになってます。
おそらく、この公演・HDの上演後、ヘッズが議論した・するであろう箇所は、”清きアイーダ”の最後のvicino al solの処理の仕方だと思います。
今回、彼はここをファルセットで歌って、さらにもう一回vicino al solと低音で繰り返して歌う方法をとりました。

スコアではergerti un trono vicino al solの頭のeがフォルテでそのすぐ後のvicino al solはピアノが4つ、
そして、続くun trono vicino al solがディミニュエンド付きのピアノ3つ、
で、最後のun trono vicino al solがtronoのnoからピアノ2つになって、solのところでモレンド(音をゆっくり小さくする、消す)となっているのですが、
ご存知の通り、長い公演の歴史の中で、ヴェルディがスコアで指示したピアノxピアニッシミで歌う方法よりも、
solをフルブラストで鳴らす方が慣例となっていって、どれ位ここの音をテノールが輝かしく鳴らせるか、というのを聞くのもオーディエンスの楽しみの一つになっています。
また、そうなっていった理由の一つにはsol(太陽)という言葉に、オーディエンスは柔らかい消えて行くような音よりも、
ぎらぎらと輝かしい音の方がふさわしい、と感じた、ということもあるのかもしれない、と個人的には思います。

私は2007年にやっぱりアラーニャがラダメスを歌った『アイーダ』を聴いた、というか、半分聴かされたと言った方がいいですが、ことがあって、
確かあの時はフル・ブラストで歌っていたよな、、と思って、一応確かめてみましたら、ブログを書いておくというのは、こういう時に助かりますね。
ここの部分に関してすごく細かな描写が残ってました(→こちら)。
なもので、正直言うと、今日のここの部分の歌唱については、”ああ、ヴェルディの意図通り歌いたいんだな。”というよりは、
”上手く逃げたな。”という印象の方が強かったです。
アラーニャなんか全然ラダメスを歌える声じゃない、と思っている私ですが、それに加えて彼も50歳近くなって(ただいま49歳)、
かなり最近声にウェアというか、ざらざらとした質感がはっきりと伴うようになって来ていて、
ラダメス役で必要な高音なんか全然楽に出ている感じではないし、
”だってヴェルディがそう書いているんだもん。”ということにして逃げた、と私が解釈しても仕方がないというものです。

さらにもう一個、vicino al solを低音でくっつけるやり方に関しては、他のテノールがそれをやるのをメトで聴いたこともありますが
(リチトラだったかな、、、すみません、ブログ前のことで、ちょっと記憶が定かでないです。
ただ、アラーニャのようなピアニッシモとのコンビネーションとは違い、フルブラストとのコンビネーションだったのは憶えています。)、
その時もなんかあまり綺麗に鳴らなかった高音の物足りなさを誤魔化すための手段みたいでやだな、、とあまり良い印象を持たなかったんですが、
今回も情けない蚊の泣くようなファルセットのsolの後に、これじゃ申し訳なさ過ぎるんで、
もう一回vicino al sol付けときますって感じに聴こえなくもなかったです。
それ付けたからって、全然帳消しになんかならないんですけどね。

さっき、声にウェアが目立つ、高音が楽に出ていない、と書きましたが、それは例えば第三幕のラストでも顕著で、
アモナズロとアイーダを逃がして、剣を差し出しながら歌う Sacerdote, io resto a te(祭司殿、私の身はあなたに)の高音、
ここも音が全然鳴ってなくって(音程は正しく出てますけど、音がドライで全く劇場に響いていない)、
ラダメス役を歌うテノールがここで観客に”うおーっ!!”と腕を振り回して叫びたくなるような興奮を喚起できないなら、
やっぱりそのテノールはこの役を歌っちゃいかん、と私なんかは思います。
下は1988/89年のメトでのドミンゴの歌唱ですが(Sacerdote~は12'16"から)、ああ、何という違いでしょう。
だし、よく考えたら、この時のドミ様はちょうど48歳になられる頃で、今日のアラーニャとほとんど同じ年齢なんですよね、、。



アラーニャが少しだけ前回よりましになった分、それに比例してオケの演奏も良くはなっていました。
大きな失敗もないし(あ、ピットのトランペットがちょろっと失敗してましたね、そういえば。)、
格段あげつらいたくなるような妙な箇所も特になく、無難にきちんとした演奏はしてます。
でも、初日に聴けたような特別なマジックはなくなってしまって、いつものルイージ流、つまり、ニートにきちんと、
その代わり、大きな興奮はなく、、の王道パターンを行ってました。
まあ、でも、一つには先に書いたように、ゲルブ支配人が無理矢理HDにアラーニャを引っ張って来たところからこうなる運命だったのだとも言え、
すべてをルイージのせいにするのはちょっと気の毒かもしれません。
ちょっとはましになった、と言ったって、まだまだ一杯ルイージとオケが必死のフォローを見せていた箇所がありましたからね。
大体、アラーニャはちゃんとパートを憶えてないんじゃないかな?特に一幕と二幕。
(それを裏付けるエピソードは次回の記事で書きたいと思っています。)



この公演を観に行くとすれば、ひとえにそれはアイーダ役を歌ったリュドミラ・モナスティルスカを聴くため、
という私の考えは、今日の公演を観た後でも変りませんでしたし、むしろ、その思いが強くなった感すらあります。
シリウスの放送を聴くだけでは完全にはわからなかった彼女の歌唱のダイナミクス、その繊細なボリューム・コントロールの術、など、
本当に存分楽しませてもらいました。
一つ前の公演であんな調子っぱずれなことになってしまったせいもあるし、また、メトのHD初登場ということで少し慎重に走った部分はあって、
どちらがエキサイティングな歌唱だったか、と言えば、多分初日の公演だと思いますが、
今日の公演も彼女の良さが十二分に伝わる内容だったと思います。

特に"我が故郷 O patria mia"の歌唱、これは本当に素晴らしかったと思います。
あのタッカー・ガラのマクベス夫人の歌唱やら、今日の公演の残りの部分を聴けば、彼女の声のパワフルさを疑う人は誰もいないはずで、
普通、あんなパワフルな歌を歌う声を持っている人は、いくらここを優しく歌うといっても限度があるというものですが、
彼女がこのロマンツァを歌う時、信じられないくらいに良い意味で力が抜けていて、ほとんど呟いているかのように優しく歌うのです。
またドラマティックに盛り上がって行く部分(同じロマンツァで)でも、そのドラマティックさになんとも言えないリリシズムとロマンティシズムがあって、
それを可能にしているのは彼女の声のトーン、音量、カラーにおける限りないフレキシビリティで、
これは彼女の今後のキャリアで大きな大きな財産になると思われます。
またそのフレキシビリティさのどのディメンションにあっても、音程がすごくセキュアで、冒頭少しだけ緊張していたのか、
若干シャープ目に入っている音もありましたが、一幕が終わるまでには落ち着きを取り戻していて、
それ以降はばしばしと綺麗な高音がデッドオンで決まってました。
マクベス夫人を歌える、というので、そこらあたりのレパートリーばかりを歌って行く人になってしまうのかな、という危惧がありましたが、
彼女の今日の歌唱を聴くと、そこに留まらず、ものすごく広い可能性を感じさせる人です。

演技は若干ワンパターンなところがありますが、動きが上品で妙に動き回ったりしないのは私は良いことだと思います。
なんか最近の演出のトレンドのせいもあるんでしょうが、ばたばたばたばたと舞台を動き回って、それに対応できるのが演技出来る歌手、というような、
誤った認識を時に見かけますが、
たった一本指を、顎をあげる、これだけの動作に、舞台で大きな意味をもたせられる人、これが本当に舞台で演技出来る人なのであって、
彼女の演技には、ばたばたしないでじっとしている、そのことが余計にオーディエンスの目を引き寄せる効果になっているような個性が感じられ、
もう少しだけ体の動きにバリエーションが増えて、それを今の演技の中に効果的に使うようになれば、もっと良くなると思います。

”勝ちて帰れ Ritorna vincitor"の最後のNumi, pietà del mio soffrirの三連音符で音が下がってくるところで、
妙なアクセントをつけたのはフレミングが乗り移ったのか?と思うような趣味の悪さで、ここは普通に歌って欲しかったな、と思い、ちょっと残念ですが、
(しかも、このフレーズは後でもう一度、凱旋の場の直前で再登場しますが、そこでもダメ押しで同じ歌い方だった!)
それ以外のところは、全幕を通しての歌唱の組み立てから細かい表情付けまで文句の付けようのない歌唱でした。
彼女は本当にこれからが楽しみな歌手です。



アムネリス役のボロディナは、すごく良かった点と初日の演奏から感じた今一つ彼女のアムネリスに乗れない感じが混合した結果になりました。
タッカー・ガラの時に、彼女の女性の弱さの表現がすごく良くなった、と感じたのですが、
それは今日のアムネリスも同様で、アムネリスの悲しみとか後悔とか戸惑いとか、そういうところの表現はすごく良かったと思います。
多分、彼女もそこを重視した歌唱と演技を目指しているんでしょう。
ニ幕一場では優しい眼差しでちびっ子奴隷(実際の舞台では大人のダンサーですが、、)の踊りを見つめ、
ご褒美に大きな石が付いた指輪を上げる仕草も優しく、実はアムネリスも優しい女性なのだ、というのを強調した演技になってます。
王がラダメスにそれでは褒美にアムネリスを妻に与えよう、という、お父さん、余計なお世話~の場面で、
ラダメスに手を取られつつ舞台を去りながら、アイーダに”ふん!”という見返りの一瞥を投げていたりして、
とてもわかりやすいアムネリス像、、、なんですが、なんか、こう、そこからどうして四幕一場のような表現につながって行くのか、
そこが今一つ説得力がない。
四幕一場の前半、ラダメスとの対話のシーンでのボロディナの歌唱の、アムネリスの必死さの表現は単体ではすごく良いのですけれど、
なぜ、そのように必死になるのか、ここがこの役の最大のポイントであって、そこの描写はニ幕が終わるまでに終了してなければいけないのですが、
そこが消化不足気味なんです。

それからこれは先に書いたのと重複しますが、やっぱり彼女は審判の場面(四幕一場の後半)が駄目です、、。
さすがに一フレーズすっ飛ばして読経、という、初日のような惨憺たる事態は免れていましたが、
ここでスタミナが切れてしまう&そもそもあの最後のvoiの高音は彼女にはきついのか、なんか不完全燃焼です。
一方で、ニ場のラストのpaceの歌唱は素晴らしかったんですけどね、、、
ここの部分も含めて彼女のアムネリスはちょっと行き当たりばったり感があるかな、、。
表現はさすがだな、、と思う箇所が一杯ある一方で、歌の組み立てに関しては、ザジックのような経験と技術に裏打ちされたがっちりとしたものがなくて、
ふとしたフレーズに途切れ感があったりする。

ということで、私はボロディナは今の彼女の持っている力は全て出し切っていたし、それなりに良い歌唱を聴かせてもらったと思う一方で、
だけど、アムネリスはこうじゃないんだよな、、という不完全燃焼感も残り、
たまらなくザジックのアムネリスが恋しくなって、つい、彼女がアムネリスに入るランの終盤の公演のチケットを買い求めてしまいました。
というわけで、年末の『マリア・ストゥアルダ』の前に、もう一本『アイーダ』で、その感想も年内に上げたいと思っています。
フイ・へのアイーダは二年前だったかシリウスで聴いた”我が祖国”がワンフレーズまるごと
”一体、どういう旋律を歌おうとしているのだろう?”というぐらい音程外れまくりの大変なことになっていて、
また、それよりも前にNYフィルとのコンビで聴いた『トスカ』も全然良くなかったし、もう生ではあまり聴きたくないソプラノのリストに入っているのですが、
トスカからは何年か経ってますし、アイーダ役をどのように歌うか、声に適性があるのか、を本当に知るには劇場に行くしかないですから、まあ、貴重な機会です。
後はどうやってアラーニャにキャンセルしてもらうか、だな、、。



話は今日の公演に戻って、アモナズロ役のガグニーゼ。
彼はこれまで妙にリアルなリゴレットとか、ボンディ・トスカでのごきぶりスカルピアなど、
一風変った芸風の持ち主で、今日もそれが全開。
エチオピア王に扮するための黒塗り顔で、どうしてそこまで、、と思う位に目をひん剥いて歌うので、
彼の歌よりも白目の動きに気を取られてしまって、途中から笑いがこみ上げて来て歌に集中できませんでした。
でも、もしかすると、それは作戦、、、?
なぜならば、今日は一つ前の公演の凱旋の場の”お尻が出ちゃいました”な事態は避けられてましたが、
その代わりにどこぞで全くオケの演奏しているタイミングと彼の歌唱のリズムが合わなくなっている箇所があって、
正確さ第一!のルイージは、それこそ”きーっ!!!”となっていたに違いありません。
最近のメトで嘆かわしいことの一つは、脇役(アモナズロなんて、登場時間から言えば準主役とも呼べないような役ですよ、
まったく、、。)をきちんと歌える歌手がものすごい勢いで減少している、ということです。
それを言ったら今日エジプト王役を歌っているセバスティエンはきちんと歌っているだけが取り柄で声には全く魅力がないし、
私的にはアモナズロと同等か、もしかするとそれ以上に大事な役であるランフィス役のコーツァンなんか、
本当に何年経っても歌にリズムが出てこないというか、歌が棒読み調で、
声も変なうえに、歌の技術も駄目なのにどうしてメトに何度も舞い戻って来るのか、実に不思議です。
もっと歌える人が世界探せばもっといるでしょうが!!!と思います。

ガグニーゼ、セバスティエン、コーツァン、全部、歌う役に比して声がライト級なのは、どういうことなんでしょう。
キャスティングのミスなのか、世界的に男性の低声陣の声が軽くなっていっている、ということなのか、、?
アモナズロを歌うバリトンって、もっと父性を感じさせる、声に豊かさと広がりと重みのあるバリトンが歌うもんだと思ってましたが、、、
ガグニーゼの声って彼自身はきばって歌っているようですが、どんなに踏ん張っても本当軽いんですよね、、、。
アイーダに”お前はわしの娘なんかじゃない!ファラオの女奴隷に過ぎぬわ!
Non sei mia figlia! Dei Faraoni tu sei la schiava!"と言い捨てるところの歌いまわしは、マストロマリノより巧みで、そこだけが慰めでした。
それにしても、考えてみたらアモナズロとして説得力があるな、と感じたバリトンはフアン・ポンスが最後かな、、うーむ、実に嘆かわしいです。

男性陣のだめだめぶりに比して、女性の脇役(というか、舞台に登場すらしない、、)の巫女役のジェニファー・チェックはすごく良い歌唱を披露しています。
ピッチの正確さ、発声に苦しそうなところとか固苦しさが全くなく、伸びやかな歌唱で、この役でこれ以上の歌唱を望むのは無理というものでしょう。


Liudmyla Monastryrska (Aida)
Olga Borodina (Amneris)
Roberto Alagna (Radamès)
George Gagnidze (Amonasro)
Štefan Kocán (Ramfis)
Miklós Sebestyén (The King)
Jennifer Check (A Priestess)
Hugo Vera (A Messenger)
Conductor: Fabio Luisi
Production: Sonja Frisell
Set design: Gianni Quaranta
Costume design: Dada Saligeri
Lighting design: Gil Wechsler
Choreography: Alexei Ratmansky
Gr Tier D Even
ON

*** ヴェルディ アイーダ Verdi Aida ***

BEATRICE DI TENDA (Wed, Dec 5, 2012)

2012-12-05 | メト以外のオペラ
昨年の『モーゼとファラオ』の公演ではフレッシュな顔ぶれ(ただし老モリスは除く)の歌手たちが大健闘し、
聴きごたえのあったカレジエート・コラールによる演奏会形式オペラ公演シリーズ。
今年もアンジェラ・ミードが登場するとあっては当然鑑賞しないわけにはいかないのですが、ここで大問題発生。
ベッリーニの『テンダのベアトリーチェ』、、、? 実演どころかCDですら一回も聴いたことな~い!!!

それもそのはず、NYでは1961年のアメリカン・オペラ・ソサエティによる演奏(サザーランド、ホーンにレッシーニョの指揮という垂涎の組み合わせ!)以来、
一度も演奏されたことがないのではないか?と言われている、生で聴けること自体が非常に貴重な作品なのです。

ある演目を初めて鑑賞する時、ストーリーや歌われる言葉を全く知らないと、
その分音楽に向けられたはずの注意をかなり奪われてしまうような気がして損した気分になる貧乏性な私ですので、
初めて聴く演目については絶対にリブレット付きのCDで予習したい。
そこで、今やNYでオペラの全幕もののCDを店頭売りしている場所はメトのギフト・ショップとここだけなのでは?
と思われるダウンタウンの某電気屋のCD売り場に赴き、リブレット付きの『テンダのベアトリーチェ』という条件で探してみたところ、
在庫で該当した盤は一種類だけ。
ナイチンゲール・レーベルのスタインバーグ指揮オーストリア放送交響楽団(現在のウィーン放送交響楽団)の1992年のライブ盤で、
グルベローヴァ、カサロヴァ、モロソウというキャストです。
私はこれまでにも何度かこのブログで告白して来た通り、正直言うとグルベローヴァのベル・カントがあまり好きでないんです。
だけどそれはどちらかというと彼女の歌い方とか表現とかセンスに対する私のテイストの問題であって、
技術的には当時世界で最高レベルのものを誇っていたソプラノであることには代わりなく、
彼女が歌っているならば絶対にがっかりするようなことはないだろうし、
むしろ、『テンダのベアトリーチェ』がどういう作品なのかを知る、という目的のためには、
正確さに定評のある彼女のような歌唱を聴いておくのがかえってよかろう、と、何の迷いもなく購入したわけです。

ところが、家に帰って実際に盤に耳を通してみてびっくり仰天!
何なの!?これ!?!?
あまりにひどい、惨すぎる歌唱なのです。それもほとんどキャスト全員。
言っときますが、ヨーロッパの片田舎に二流歌手たちを集めて録音した廉価版CDじゃないんですよ。
天下のグルベローヴァに、カサロヴァがタッグを組み、音楽の都ウィーンで開かれた演奏会の録音で、
件の店では堂々と30ドル以上の価格をつけて販売されている代物なのです。
しかし、私などはまだラッキーなのかもしれない。なぜならば、CDならOFFボタン一つでストップ出来るんですから。
それに引き換え、この演奏会を実際にホールで聴いていたオーディエンスは延々この歌に付き合わなければならなかったわけで、
一体彼らはどんな思いでこの演奏を聴いていたのだろうか、、と、そこのところだけは心底興味があります。
ナイチンゲールって、ほとんどグルベローヴァの私設レコード・レーベルのようなものと私は理解しているのですが、
それならば最低限でもグルベローヴァの歌のクオリティだけは保証されているはず、、と思うじゃないですか?
ところがこの盤での彼女は全く冴えない。どころか、はっきり言ってその歌唱は聴くのが苦痛のレベルに達してます。
わざわざこんな歌唱の時の彼女をCDにして後世に残そうとする意味がわかりません、ナイチンゲール。
カサロヴァも本来はすごく良い歌手なのに、登場してすぐ歌う旋律のピッチがぼろぼろで、
良い感じでグルベローヴァとどっちが不調か?コンテストを繰り広げてますし、
モロソウに至ってはどっからこんな三流バリトンを連れて来たのか?と思うような、
まるで読経中の坊主って感じの歌唱でげんなりさせられます。唯一まともなのはテノールのベルナルディーニくらい。

またこのCDを買った最大の理由であるリブレット。これがまた信じられないくらい劣悪な品なのです。
ナイチンゲール・クラシックスのドクター・ウマン(フマン?ヒューマン?)・サレミという人物が翻訳したという英語訳、
これだったらまだグーグルの自動翻訳機能にかけた方がまだまともなものが出て来るんじゃ、、という位、
意味不明な英語のオンパレードで、誤訳・不適切な言葉はもちろん、英語としてちゃんとした文章になっていない箇所も数え切れないほどあって、
ドクターって一体何の??と聞きたくなります。
まさかこんなに粗悪な訳をリブレットにつけたものを商品として売るとはこっちは思いもしないので、
初めて意味不明な箇所が出てきた時には私の読み方が悪いのか、と何度も読み返してしまいましたが、
その後も、あるわ、あるわ、珍訳、誤訳の嵐!!!
ドクター・サレミの正体は実はグルベローヴァの故国の近所のおじさんか何かで、
翻訳代のコスト・セーブのために彼が辞書と首っ引きで適当に訳したものをリブレットに貼り付けたのだ、と聞いたとしても、私はちっとも驚かないでしょう。

そのあまりなことに、二枚組みCDの一枚目が終わらないうちにこれ以上聴き続けることは苦痛以外の何者でもない!というレベルに達してしまいました。
そして、もちろん、これまで書いて来た通り、歌手の不調や三流バリトンを混入するという痛いキャスティングも大きな理由ではあることに間違いないのですが、
もう一つ、とても重要で、とてもやばいことに気づいてしまうのでした、、。
『テンダのベアトリーチェ』の歌のパートは本当に半端なく難しい!!!
この作品がNYで60年代から一度も演奏されていないのも当然です。
こんな難しい作品、いくらミードが実力のある歌手だからと言っても、本当に歌えるんだろうか、、
いや、ミードだけじゃないです。メゾもバリトンも(テノールのパートは若干ましか?)大変ですよ。
これを、若手の歌手たちで演奏会にのせる、、、、ちょっと無謀過ぎやしないか?カレジエート・コラール、、、。

しかし、かといってこちらも予習で頓挫するわけにはいかないので、最後の頼みの綱として、
今度はサザーランド、ヴィセイ、オプソフ、パヴァロッティという組み合わせのボニング指揮ロンドン交響楽団盤をAmazonからダウンロードしてみました。
もしサザーランドも歌えない、、ということであれば、これはもう歌唱不能の作品として歴史に葬り去るしかないでしょう。
ところが、さすがはサザーランド!!!! 
いえ、サザーランドだけではありません。残りの三人も素晴らしい歌唱内容で、オケの演奏もちょっと音色が明るいですが悪くありません。
贅沢を言えば、もう少しアンブロジアン・オペラ・コーラス(特に男性)が頑張ってくれていたなら、、と思いますが、
この作品の難しさを考えると、ほとんど奇跡的な内容の演奏で、『テンダのベアトリーチェ』はこの音源さえ持っていれば他には何も要りません。
もちろんスタジオ録音で取り直しがある程度きく、ということもありますが、
さっきまで聴いていた苦行のような音楽と同じ作品なのか?と思う位素晴らしい演奏で、
こういう演奏を聴くと歴史に葬り去るにはもったいない面白い作品ではないか!と思います。
ベル・カント作品というのは他のレパートリー以上に歌唱・演奏する側の力量で、面白くもつまらなくも苦痛にもなるところが、
楽しさであり、また、怖ろしさでもあるわけですが、ナイチンゲール盤とサザーランドの盤はその良い見本でしょう。

では、この作品のどこが難しいのか、どうしてグルベローヴァやカサロヴァのような歌手でさえ手を焼くことになるのか、と言えば、
それは一言で言うとベッリーニが書いている音楽のawkwardさにあると思います。
例えば、カサロヴァが苦労していた、アニェーゼ役が一番最初に歌う”Ah! non pensar che pieno”、
この部分のテッシトゥーラの嫌らしさはどうでしょう?!
メゾにとって、すごく歌いにくい音域に旋律がのっかっているので、ピッチがぶらさがりやすい。
それから各パートの歌手にとって非常に歌いにくい種類の音のアップダウン、不自然な音程の移行、、、
これらがこの曲を大変難しいものにしていると思います。
いや、この曲、というより、ベッリーニの作品には若干その傾向があるように思うのは私だけでしょうか?

ベッリーニとドニゼッティはキャリアがオーバーラップしていた時期があったせいで、
しばしば一緒に、もしくは比較して語られることが多いですが、
私の耳にはドニゼッティの音楽の方がずっとナチュラルで、歌を歌うということの生理に忠実に書かれているように思えます。
もちろんドニゼッティの作品も、絶対的なスケールでは決して歌うのは簡単ではないですが、
訓練に訓練を重ねた歌手の手にかかると、その歌唱は、とてもナチュラルで、ほとんど苦労して歌っているように聴こえなくて、
それで私などは催眠術にかかったようにうっとりしてしまったりするわけです。
ところが、ベッリーニの作品の中には、どんなにすごい歌手が訓練に訓練を重ねて歌っても、
どこか旋律の動き方が不自然に感じられる(音型として不自然なのではなく、歌唱のメカニズムに反するような音の移動の仕方をする)、
そのために歌手が苦労して歌っているな、、と感じられる箇所が存在するものがあって、
それはサザーランドが『ベアトリーチェ』のCDでほとんど信じられないような高レベルの歌唱を披露していても、
やっぱりそれをちらっと感じてしまう時があるし、”清き女神”のような名曲でもやはりそのawkwardさを感じる部分があって、
だからドニゼッティの作品を歌う難しさとベッリーニの作品を歌う難しさは厳密に言うと少し違っているな、と思うのです。
ベッリーニがドニゼッティほどには歌を歌うということのメカニズムへの理解もしくは作曲中に上手く取り込む能力に優れていないからなのか、
それともそれを十分持ちつつ敢えて、、なのか私にはわかりませんが、後者だとすると、相当なサディストぶりで、
今回の『テンダのベアトリーチェ』の予習・鑑賞を通じて、ベッリーニ=サディストという等式が私の頭に刻み込まれました。
それ位、この作品は歌うのが大変な作品なのです。

話のあら筋だけ聞くと、びっくりするほどドニゼッティの『アンナ・ボレーナ』に酷似していて(作曲は『アンナ・ボレーナ』の方が3年早い)、
舞台をイギリスからイタリアに変えただけやんけ!と突っ込みたくもなりますし、
『アンナ・ボレーナ』に比べると、かなり話の進行の仕方がぎこちなくて、
”んな馬鹿な、、。”と思うところや、正直、リブレットを読んでいるだけでは何が何やら、、のシーンもあります。
私の隣のボックスにいたおば様も、一幕が終わったところのインターミッションで、
”何だか全然意味が良くわからないんだけど、説明してくれる?”と一緒に鑑賞されていたお友達にヘルプを求められていました。
ということで、カレジエイト・コラールが作成してプレイビルに掲載しておいてくれたあらすじをこちらにつけておきます。
特にアニェーゼとオロンベッロの相手取り違えのシーンはリブレットからだけだとかなり意味が摑みずらいし、
ベアトリーチェと前夫のことやフィリッポとの再婚の経緯は詳しく語られないので
(いきなり前夫ファチーノの名前が出て来たりして、誰よそれ?って感じです。)おば様が混乱されるポイントとなっていました。

しかし、一方で『アンナ・ボレーナ』とは決定的に違っている部分がいくつか『テンダのベアトリーチェ』にはあって、
それがこの作品を非常にユニークなものにしています。
一番ユニークな点は、この作品における合唱の役割です。
さすがにカレジエイト・コラールが企画している演奏会だけあって、合唱が単なる添え物になってしまっている作品では全くないのです。
一幕の冒頭近くでは、まず宮廷のフィリッポ派として、フィリッポにベアトリーチェとの離縁をそそのかす邪悪な役割を果たしているのが印象的です。
その一方でベアトリーチェのお付きの女性たちがいかにベアトリーチェを慕い、最後に彼女の処刑を悲しむか、これを表現するのも合唱の役割だし、
かと思うと、兵士達としての合唱は、オロンベッロにはもちろん、フィリッポにさえ一歩退いた冷ややかな視点を持っていて、
この兵士の合唱の使い方はこの作品に独特のレイヤーを与えています。
しかもニ幕には男声合唱にオロンベッロが拷問に折れて虚偽の告白をしてしまうまでのいきさつを説明する語り部的な役割まで与えられているのです。
合唱の使い方に定評がある作曲家というとすぐにヴェルディが頭に浮かびますが、
彼の場合は民衆とか宮廷の人々といったマスを主役にした合唱(ナブッコ、アイーダ、オテッロ、ドン・カルロ、シモン・ボッカネグラ、、)で
オーディエンスがマスの一人になったような気分にさせるところに特異な才能があるわけですが、
(これまでアイーダを聴きながらエジプト人の気分になったり、ナブッコを聴きながらヘブライ人になったり、、ということが何度あったか。)
『テンダのベアトリーチェ』の合唱は、そういうヴェルディ型の合唱とは違って、
まるでソリストたちと並んで、フィリッポ派の宮廷人、ベアトリーチェのお付きの女性、兵士達という独立した、それも重要な役柄があって、
それをたまたま合唱という複数の人数で歌い演じている、そういう感じなのです。
ということなので、合唱は技術のみならず演じている役柄に合わせた表現力も求められるわけで、
そういう意味では前回の『モーゼとファラオ』よりも難易度が高いように思うのですが、
案の定というか、そこまでカレジエイト・コラールに期待するのが間違いなのかな、、
何とか楽譜を辿っている(いや、場所によっては辿れていないところもありましたが、、、)という感じで、
役の表現なんていうレベルには全然。

もう一つ、『テンダのベアトリーチェ』が『アンナ・ボレーナ』と決定的に違っている点は、
アンナ・ボレーナが最後にほとんど狂気と正気の境のような特殊な状態になって処刑台に向かって行くのに対して、
ベアトリーチェは徹頭徹尾正気のまま、その過程でアニェーゼやフィリッポを許しさえして、死に向かう、という、このキャラクターの差です。
アンナ・ボレーナの強さが彼女の片意地や気の強さに現れるとすれば(彼女は絶対にエンリーコやジョヴァンナを許したりはしない。)、
ベアトリーチェの強さは、正しい生き方をした人間には心の平安が訪れるという信条から来るもので、
それがあれば本来恨んで死んでいってもおかしくない相手ですら許すことが出来る、という独特のしなやかさに特徴があります。
この作品のベアトリーチェのパートは純粋な技術上の難易度だけ言っても成層圏外級ですが、
それ以上に、本当の難しさは、それをやりながら、ベアトリーチェのしなやかな強さを表現しなければならないところにあるんだと思います。
ナイチンゲール盤のグルベローヴァのような絶叫モードが延々続く、、という歌唱ではそれは絶対に無理なのであって、
サザーランドの独特のおっとりした雰囲気と、それから超難易度の高い歌をそうと感じさせず軽やかに歌いこなせる技術があってこそ、
この役の本当の姿が見えてくるというものです。
話の筋としては非常にドラマティックでありながら、ここが『ノルマ』のような作品とは決定的に違う点で、
ベアトリーチェ役はそのようなしなやかさをもって歌われるのが理想であり、
もし力のあるソプラノがこの役に入ったなら、そういう歌い方をするだろう、という理解と予想をもってオーケストラは演奏しなければならない。
ところが今回私がカレジエート・コラール以上に失望したのが、アメリカン・シンフォニー・オーケストラの演奏です。
小さな部屋で象が暴れまわっているかのような力任せの演奏に、歌手たちの歌唱が象の鼻やしっぽでなぎ倒される花瓶や額縁のように見えました。
例えば、第一幕第一場のフィリッポの最初の聴かせどころで、
最後に合唱を伴って大きく盛り上がる"ああ、神々しいアニェーゼよ Oh! divina Agnese"、
ここはバリトンが最後にハイノートを(おそらくオプショナルだと思いますが)決められる箇所で、
今日フィリッポ役を歌ったポーレセンは高音域に強みがある人ですので、当然のことながらここで高音を入れてくれたのですが、
あろうことか、アメリカン・シンフォニー・オーケストラのまるでワーグナー作品を演奏しているかのような大音響に完全にかき消されてしまい、
これはないよな、、、と本当に気の毒に思いました。
それから第四場の、こちらもハイライトの一つであるベアトリーチェの"私の悲しみと怒り、無為な怒りを Il mio dolore, e l'ira, inutil ira"は
ベアトリーチェ役のソプラノのパートとホルンとの掛け合いが非常に美しいんですが、
決してか細くないミードの声をいとも簡単になぎ倒す大音響のホルン・ソロに私が怒りで肩を震わせていたことは言うまでもありません。
アメリカン・シンフォニー・オケのメンバーのセンスの無さもあまりといえばあまりですが、
しかし、これは指揮のバグウェルがばしーっ!と、”ベル・カント・オペラの演奏はそんなに力任せでなくてよろし。”
というメッセージを出さなきゃいけないんじゃないでしょうか?
ベル・カント・オペラのオケ演奏は、歌手の歌の美しさを引き立てつつ作品のドラマを観客に伝えなければならない、という独自の難しさがあって、
ベル・カントのオケ演奏を簡単だと言ったり貶めたりする批評家や演奏家やオペラファンはなーんもわかってないのね、、と思います。

今日の演奏はおしなべて歌手の歌唱が力任せに寄っていたように思うのですが、
これはバグウェルとアメリカン・シンフォニー・オケのセンスない力任せ演奏に対抗しなければ、、
(じゃないとオーディエンスに声が聴こえないのではないか、、という心配で)と、歌手達の歌が押し気味になったのも一因だと私は思ってます。
これじゃしなやかに歌おうと思っても無理ってもんで、ほんと、ベル・カントの世界においては犯罪行為に等しい演奏でした。
バグウェルはオペラ刑務所行き確定。
こういうのを聴くと、キャラモアのクラッチフォード氏のベル・カントものの指揮は、オケの地力の差もあるかもしれませんが、
きちんとおさえるところをおさえてくれているな、、と思います。



今回の演奏で興味深いのはキャストに映画『The Audition』でとりあげられた
2007年のナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズのファイナリストが3名も含まれている点です。

フィリッポ役を歌うバリトンのニコラス・ポーレセン。
フィリッポ役はミラノ公としての威厳と気品を表現するためにも低音域がしっかりした成熟した感じのするサウンドが必要で、
それは『アンナ・ボレーナ』のエンリーコ役にも共通するところかな、と思うのですが、
フィリッポ役が大変なのはその上に先にも書いたような高音で勝負しなければならない箇所もある点で、
この両方を二つ満たすのはなかなかに大変です。
件のサザーランドの盤でこの役を歌っているコーネリアス・オプソフというバリトンはこの二つを上手くクリアしていて、
私は今回の盤で知るまで名前も存じ上げない歌手だったのたですが、カナダのバリトンで2008年にお亡くなりになっているようです。
ポーレセンは何と言ってもまだバリトンとしては年若いこともあって、成熟した男性というよりは若竹のようなサウンドで、
中音域以下にまだ魅力的な音が出来上がっていないのが残念。
役を良く準備して来たのは良く伝わって来るのですが、それだけではカバーし切れないサウンド面での不足が物足りなさを誘います。
またフレージングの固さも今後改善すべき課題かもしれません。
ただし、高音の美しさ、これは注目に値するものがあって、本当に響きの美しい音を楽々易々と出してくるので
(第二幕第一場のラストで合唱を伴って歌うNon son io che la condanno以降の部分の最後の高音なんか、本当に綺麗でした。)
彼の持っている音域は普通のバリトンよりもちょっと高い方に寄っているような印象を持ちます。

アニェーゼ役のジェイミー・バートンは先日のタッカー・ガラでの若手にしては非常に完成された『フォヴォリータ』からのアリアが印象に残っていて、
今日の公演での彼女の歌唱を大変楽しみにしていたのですが、
アリア一曲歌うのと、全幕を歌うことの違い、というのはこういうことを言うんだろうな、、と思います。
彼女は高音に関してはソプラノに負けない破壊力ある音を持っていて、これは今後のキャリアで大きな切り札で、
将来いつか、ミードのノルマ、バートンのアダルジーザで『ノルマ』なんてことも十分可能性があると思います。
第一幕の最後の合唱も加わった四重唱でのミードとの高音の戦いはまさにゴジラvsガメラ!で、一騎打ちという言葉がぴったりでした。
でも今回の彼女の歌唱に限って言えば、それが多少仇になった部分もあるかな、、と思います。
バグウェルの指揮が足を引っ張っていたのは承知で言うと、今日の彼女の歌には全く引きがなくてあまりに押して、押して、押して、で、
これじゃオーディエンスも疲れてしまいます。
全幕で主役・準主役級の役を歌う時は、単に旋律を歌うではなくて、やはり物語のストラクチャーとかそういうことも考えながら、
歌を構成していかなければなりません。
そう、彼女の全幕の歌にはまだストラクチャーが感じられない。
カサロヴァが苦労していた例の一幕でアニェーゼが初めて歌うフレーズは今回舞台袖から歌われたのですが、
バートンもやっぱりピッチを納めるのに苦労していて、その上に例の押して~が加わるので、全く美しくなかった。
ここって、先にも書いた通り、旋律がとても嫌らしい音域に乗っているので、歌うメゾも本当に大変だと思うのですが、
ここでフィリッポとオーディエンスを骨抜きにするような色気のある歌を歌うのと、
なんか聞苦しい音が必死の体で鳴ってる、、というような歌を歌うのでは、
その後のアニェーゼ像に大きなインパクトがあると思うのです。

それにしてもこのアニェーゼという人は、妙な突っ走り方といい、ああ勘違い!な度合いといい、
ヴェルディの『ドン・カルロ』のエボリと良い勝負をしてます。
いや、人のものを勝手に盗んだりするところなんか、実にそっくりで、まことにいやらしい!!!
でもオーディエンスに完全な勘違い女のレッテルを貼られないためには、歌で、この女性の魅力を100%伝えなければならない。
なんてったって、フィリッポはもうベアトリーチェからこのアニェーゼにすっかりほだされている状態で、
しかもオロンベッロさえ落とせる!と思っているらしい自信満々の様子からして、アニェーゼも相当美人のはずです。
こういう女が作品が違うと、”呪われし美貌”なんてアリアを歌ってしまうわけですな。
メトの2010/11年シーズンの『ドン・カルロ』ではスミルノヴァの歌があまりに駄目駄目なせいで、エボリの役に全く説得力がなく、
”美貌?何の話?”ってなことになってしまっていましたが、
魅力的な歌を歌わなければ、同じようなことがこのアニェーゼ役にも起こってしまうわけです。
その点で言うと、バートンの歌は、んな馬鹿な、、、というレベルにまでは落ちていませんでしたが、
じゃ、十分に説得力のある色気ある歌だったか、というと、そこまででもない、、という感じで、まだまだ精進の余地はありそうです。

難役ベアトリーチェにチャレンジしたミード。
オペラハウスでの全幕公演のように数公演回数があるものと違い、たった一回の演奏会形式での演奏のためだけに、
よくここまで準備のエネルギーを注ぎ込めたもの、と本当に感心します。
いや、この役で舞台に立つ勇気があるソプラノはどんなソプラノでも、まずその心意気だけで称賛されるべき。本当、それ位大変な役だから。
今まで彼女の出演しているオペラの公演や演奏会を鑑賞して、彼女がきちんと準備して来なかったな、と感じたことは一度もないのですが、
今回もその例に漏れず、音楽的にはかなりレベルの高い内容の歌唱で、特にベアトリーチェがフィリッポ、アニェーゼ、オロンベッロ、
すべての人間を許して死の場所に向かうニ幕ニ場(ここは『アンナ・ボレーナ』の狂乱の場に対応する場面なんですが、
先に書いた通り、ベアトリーチェは最後まで狂っているわけではないので、狂乱の場という呼称はふさわしくないのかもしれません。
しかし、ソプラノが持っている全ての歌唱技術を披露しつくす場面、という意味では、まさに狂乱の場以外の何物でもありません。)での歌唱の完成度の高さは、
多分、今、このような難役を歌わせてこんな内容の歌を歌える人が他に一体何人いるのか?と聞きたくなる位です。
しかし、表現の話をすると、このニ幕ニ場で彼女が見せた表現の豊かさに比べると、若干他の部分の味付けが薄かった感じがあって、
さすがに深くこの役を読み込んで、それを歌に反映し切るだけの時間はなかったのかな、
もしくは彼女のような技術的に卓越したものを持った人でもこの作品でそれを成し遂げるまでに至るにはさらに長い長い道のりが必要なのかな、と思います。
彼女がメトで『アンナ・ボレーナ』を歌った時は本当に一つ一つのフレーズが細かく練れていて、アンナの感情が歌に完全に織り込まれていたし、
今日も狂乱の場に関してはそれを成し遂げていたわけですから、それが出来る歌手であることは間違いないのですけれど。
後、ニ幕一場前半の重唱での彼女の歌唱もすごく良かったです。ここはオケなしでベアトリーチェの声一本で進んでいく箇所があったりして、
この作品の中でもすごく面白い箇所の一つ。
そういえば、ここの部分には、『ワルキューレ』の最後でヴォータンがブリュンヒルデを火で包むべく、ローゲに呼びかける直前の金管のフレーズまんまの部分があって、
ワーグナーが『ノルマ』を評価していたという話は聞いたことがありますが、この『テンダのベアトリーチェ』からも軽く失敬していることが発覚しました。
エボリやアニェーゼ並みのずる賢さですな。

ミードの歌唱がオケの薄い箇所ほど良かった、というこれらの事実により、再び罪状を重ねた感があるのはバグウェルです。
彼女も他の箇所に関してはバートンと同様に押しがちになる傾向があって、オケがあんなに爆音を立ててなかったら、
もうちょっと違う結果になったかもしれないな、、と思います。
ただ、バートンに比べると、ミードの方が作品の全体を考えながら歌う、ということが既に出来ていて、
『The Audition』組の中ではやはり頭一つ、二つ、三つ位図抜けていると言ってよいと思います。

ミード以外に面白い歌手がいたとすれば、それは『The Audition』組でなく、意外にもオロンベッロ役を歌ったマイケル・スパイアーズでした。
彼は今年のキャラモアの二つの公演の片割れ(ロッシーニの『バビロニアのシーロ』)にも出演していたそうなんですが、
私は『カプレーティとモンテッキ』の方を観に行って、バビロニア~の方を鑑賞しなかったので、彼の名前は今回全くのノーマークでした。
公演前にちらっと目を通したプレイビルにはミズーリ出身のアメリカ人とあって、
アメリカ人の歌手は大抵アメリカのオペラハウスのヤング・アーティスト・プログラム等でキャリアを積むケースが多いので、
ここアメリカであまり名前を聞かないということは、それほど期待できない、ということなんだろうな、、と思いつつ公演を聴き始めました。
ところが、これがどっこい、彼の歌唱を聴きすすめるうち、予想を裏切るしっかりした歌で、
彼も若手に違いないのに、バートンやポーレセンに比べて明らかにフレージングもこなれていて歌に落ち着きがあるし、
表現力もあるし、一体どこで歌って来た人なんだろう?と嬉しい驚きを感じました。
私はちょっと昔の歌手っぽい、レトロな感じの歌い方をする・ティンバーを持っているテノールに弱い(甘い)ところがあるので、
それも一因かもしれませんが、そんなに歌唱量の多くない、しかもダメ男の代表のようなこのオロンベッロという役で大きな印象を残すとは将来が楽しみです。
彼のトップのきちんと開いたサウンドは本当に魅力的ですので、このまま研鑽を続けて頂いて、ぜひメトにも登場して欲しいと思います。

YouTubeに彼の歌唱がアップされていましたので一つ紹介しておきます。
一緒に組んでいるソプラノが彼のレベルでないのが悲しいですが、グノーの『ロメオとジュリエット』からの二重唱で、
彼の歌唱の魅力の一部が良く出ている音源だと思います。



このスパイアーズとかコステロとか、若手で面白いロメオを歌えるテノールが出て来ているのに、
どうしてメトではひっきりなしにアラーニャとかジョルダーニとかおっさんテノールばっかり投入してくるんでしょう、、。
ロメオは何歳だと思ってんだ、って話ですよ、全く。


Angela Meade (Beatrice di Tenda)
Nicholas Pallesen (Filippo Maria Visconti)
Jamie Barton (Agnese del Maino)
Michael Spyres (Orombello)
Nicholas Houhoulis (Anichino)

Conductor: James Bagwell
American Symphony Orchestra
The Collegiate Chorale

Carnegie Hall Stern Auditorium
Second Tier Center Right Front

*** ベッリーニ テンダのベアトリーチェ Bellini Beatrice di Tenda ***

マイナー・オペラのあらすじ 『テンダのベアトリーチェ』

2012-12-05 | マイナーなオペラのあらすじ

『テンダのベアトリーチェ』 Beatrice di Tenda

作曲:ヴィンチェンツォ・ベッリーニ
台本:フェリーチェ・ロマーニ
初演:1833年3月16日 ヴェネツィア フェニーチェ劇場

第一幕

軍司令官ファチーノ・カーネの未亡人ベアトリーチェはミラノ公フィリッポと再婚した。
フィリッポは彼女が再婚前に治めていた領地の人々が、自分ではなく彼女の方に忠義を尽くしているのではないかと内心恐れている。
フィリッポは延臣たちにすでにベアトリーチェから心が離れ、アニェーゼに恋していることを打ち明ける。
延臣たちは、ならばベアトリーチェを捨てればいいではないか、と彼にすすめる。

匿名の手紙に誘われ、オロンベッロがアニェーゼの部屋に現れる。
自分が恋しているのがオロンベッロであることを仄めかそうとするアニェーゼ。
しかし、オロンベッロは彼女の言わんとすることを誤解し、
胸のうちに隠して来たベアトリーチェへの思慕にアニェーゼが勘付いているものと勘違いしてしまう。
オロンベッロがベアトリーチェへの愛を認めると、アニェーゼは怒り狂い、自らの恋敵への復讐を誓う。

ベアトリーチェが愛のない結婚と彼女に仕える者たちへのフィリッポの冷遇振りを嘆いているのを、お付きの女官たちが慰めていると、
そこにフィリッポが現れ、彼女が不実な妻であり、自分に対しての謀反を周りの人間に働きかけ扇動している、となじり始める。
彼はベアトリーチェの部屋から盗み出した手紙を見せ、これが両方の罪の証拠であると主張する。

兵士たちはフィリッポの普通でない様子をいぶかしがり、彼から目を離さないでおこう、と語り合う。

ベアトリーチェが亡き前夫の像にいかに自分が孤独で愛されていないか嘆いているところにオロンベッロが現れ、
私ががあなたに代わってフィリッポへの謀反を扇動・計画するから、自分と一緒に逃げてもらえないか、と申し入れる。
ベアトリーチェは彼ら二人が恋人なのではないか?という誤った疑念に火を注ぐような行動はしたくない、とオロンベッロの申し出を拒否するが、
しかし、実は自分はあなたを愛しているのだ、と告白するオロンベッロの言葉に、
これは大変なことになってしまった、、と恐怖におののく。
オロンベッロがベアトリーチェに懇願しようとひざまずいた丁度その時、
アニェーゼに導かれてフィリッポが現れ、そんな二人の姿を見て、彼らをすぐに投獄せよ、と命令する。


第二幕

ベアトリーチェの裁判のために宮廷の人々が集まった。
男性達がオロンベッロが受けた拷問について、
また、その拷問に挫けたオロンベッロが罪を認め、ベアトリーチェを共犯者として名指したことなどを語り合っている。
ベアトリーチェは自らの身の潔白を主張し続け、
彼女の勇気に自分の行動が恥ずかしくなったオロンベッロも、罪を認める告白を撤回しようとする。
裁判官たちは彼らが罪を告白するまで拷問を続けるよう言い渡す。

ベアトリーチェに対する裏切りを後悔するアニェーゼはフィリッポにどうか二人に慈悲を見せてあげてほしい、と嘆願する。

拷問を受けてさえ、ベアトリーチェは自分の無実を主張し続けた。
しかし、それでも結局審議会は彼女を死刑に処す決定を下す。

自らの行動に迷いを感じ始めたフィリッポは、ベアトリーチェに恩赦を授けようと考え始める。
しかし、ちょうどその時、兵士たちより、ベアトリーチェに味方する軍隊が城に攻撃をしかけて来た、との報告を受ける。
フィリッポは恩赦の考えを捨て、死刑の執行を許可する書類に署名する。

友人たちが差し迫る死を嘆く一方で、ベアトリーチェは偽の告白をすることなく自らの潔癖と声価を守りぬいたことを喜ぶ。
しかし、フィリッポに罪を信じさせる原因となった私信類を彼に手渡した謎の人物には天から復讐が下るようにと願う。
後悔に突き動かされたアニェーゼは嫉妬に狂った自分こそがその書類を盗んだ張本人である、と、べアトリーチェに告白する。
はじめは怒りを感じていたベアトリーチェも、オロンベッロの”敵をも許す強さを持ってほしい。”と訴える声に心動かされ、
アニェーゼとフィリッポを許して死の場所に向かうのであった。

(出自:カレジエイト・コラールによるカーネギー・ホールでの公演のプレイビルより。
トップの写真は1961年にミラノ・スカラ座で行われた『テンダのベアトリーチェ』の舞台より。
ベアトリーチェ役はジョーン・サザーランド。)

*** ベッリーニ テンダのベアトリーチェ Bellini Beatrice di Tenda ***

MET ORCHESTRA CONCERT (Sun, Dec 2, 2012)

2012-12-02 | 演奏会・リサイタル
毎年三度行われるメト・オケ・コンサート。
今シーズンはなぜだか第一弾と第二弾の間がとても短くて、10/14の演奏会に引き続き早くも二度目の演奏会がやって来ました。

10/14の変則・反則プログラムから一転して、今回はメト・オケ・コンサートの黄金の3法則、すなわち、

① 現代音楽を発掘・広くオーディエンスに紹介する(aka レヴァインの趣味全開の)作品
② ソリストを招いてのコラボ
③ 比較的メジャーなシンフォニー・オケのレパートリー

が徹底されたプログラムになりました。

まず、一曲目は①の法則に基づき、ソフィア・グバイドゥーリナによるヴァイオリン協奏曲”今この時の中で”。
アンネ=ゾフィー・ムターのために書かれ、2007年に彼女のソロにラトル指揮ベルリン・フィルの演奏で世界初演された作品で、
カーネギー・ホールで演奏されるのは今日がはじめて。
今日の公演のプレイビルによると、グバイドゥーリナはソ連崩壊後にハンブルクに移住、
ロシア人とタタール人の血を半分ずつ受け継ぐ女性作曲家で、
ソ連時代のロシアで政府のセンサーシップに抵抗し、耳障りの良いだけのシンプルな音楽を拒む一方、複雑さを備えた新規性にこだわり、
ウェーベルンらの音楽にインスピレーションを受け、そこからやがて17~18世紀のドイツ、特にバッハのそれに大きく感化され、
その音楽は非常に複雑で、数学・哲学・神学への愛を音楽的シンボリズムを通して描いたものであり、
フィボナッチ数列、ルーカス数、そして、”バッハ・シークエンス”
(彼女が発見したというバッハの音楽の数学的パターン)を自らの作品の音楽構成に組み込んでいる、、

、、らしいんですが、開演前にこれを読んでいるうち、つい”怪しーい!”と心の中で叫んでしまいました。
なんでかわからないのですが、オーラソーマとかにのめりこんでいるニューエイジ系の人を前にした時と似た感覚に襲われて。
バッハ・シークエンス、、、

さらに”今この時の中で”の作品解説に目を移すと、作品のサブテキスト”ソフィア”は、
作曲家自身およびムターの両方の名前とかぶっているだけでなく、
東方正教会の教えに見られる、神の智慧を言語化・人物化する概念のことを指し、
この作品でのヴァイオリン・ソロは智慧の声であり、オケにはそれに対抗する悪(ダークネス)の声の役割が与えられているそうです。

ああ、彼女が耳障りの良いだけのシンプルな音楽を嫌うのと同様に、
私はまさにこういう現代音楽の理屈っぽくて講釈たらたらなところが苦手なんですけれども、、、
演奏の最後まで起きていられるかしら、、?

で、演奏について。
まず、神の声役を務めたメト・オケのコンマス、デイヴィッド・チャンさんの手によるヴァイオリンのヴィルトゥオーシティを讃えたいと思います。
作曲家が耳障りの良いだけのシンプルな音楽に反抗するあって、実に耳障りの悪い複雑な旋律のソロで、
神の声と言っても、全く温かさや慈愛を感じるものではなく、
残りのオケのメンバーだけでなく、オーディエンスまでもが厳しく叱られている気がしてくるような、攻撃的なメロディーなんですが、
低音から高音に急激に上昇するところなども実に正確なピッチと的確なボリューム・コントロールで対処しているし、
次々と繰り出される技に、オケのメンバーもオーディエンスも惚れ惚れとして聴いている、、という状態でした。

しかし、まあ、この作品のしつこく長いことは一体どうでしょう?!
余程オケのメンバーが悪の限りを尽くしているのか、何度神が言い聞かせてもその度に彼らの力が甦り(=オケの演奏が再燃する)、
それはもう叩いても叩いてもなかなか死なない虫を思わせる作品なのです。
いい加減に終わってくれ~!!と何度心の中で思ったことか。

プレイビルにも”lengthy and serious"と書かれていて、曲のプロフィールに”長い”(=長ったらしい)と書かれるなんてよっぽど、、と思うのですが、
しかし、この作品の演奏時間は約33分で、これって別に特段長いわけでもないです。
実際、この後に続くベートーベンの『皇帝』の演奏は約35分、『火の鳥』は約28分ですから、、。
だから、実際の演奏時間の長さが問題なのではなく、心理的に”長ったらしい”と思わせる何かがこの作品にはあるということで、
それは私は作曲家が哲学とか数学にこだわり過ぎている結果だろうと思っています。

しかし、こういう正確性・精巧さを求められる作品でのルイージは悪くない。
また、チャンさんと相当綿密にリハーサルを重ねたのだろう、と思わせる、息の合った演奏ぶりで、
作品としては全く魅力がないけれど、演奏にはそれなりの魅力がありました。

オーディエンスとしてはこの一曲目でかなり疲弊させられたので、
インターミッションをはさんでベートーベンのピアノ協奏曲『皇帝』(法則②)が始まった時には、
安堵の空気がカーネギー・ホールのオーディトリアムに広がる様子が目に見えるような気がしたほどです。

ピアノはイェフィム・ブロンフマン。
彼の演奏を聴くのは2008年の3月のゲルギエフ指揮ウィーン・フィルとの共演以来です。
その時もなんかピアニストにしてはすごくでかい(横に)人だな、というイメージがあって、
弾いている時の姿勢もどこか少しだらしなく、まるで悪党がたまるバーか何かの雇われピアニストって感じで、
次にブロンフマンがフォルテで音を鳴らした瞬間銃声が鳴り、
暗殺されたギャングが床に血まみれで倒れる、、みたいな妙な妄想が湧いて来たのを思い出します。
だけど、その2008年の時の演奏は豪快でありながら軽妙で、見かけによらずすばしっこいところのあるおっさんだな、、と思った記憶も。

今日舞台に登場して来た彼はなんか更に一層太った感じで、
左右に体を揺らしながら足をひきずるようにして舞台にあらわれる様子は、はっきり言ってエレガンスの欠片もなく、
こんなに体中から場末のバーのピアニストみたいな雰囲気を醸しだしている人、クラシック音楽のソリストでは珍しいわあ、と思います。
ピアニストが演奏会の舞台に現れる時、それもカーネギー・ホールで演奏するともなれば、
ちょっと緊張の面持ちで、ピアノを弾くまでの動きも洗練されて美しい人が多いのですけれど、
”あいよ、今宵もちょいと弾かせてもらいまっせ。”と一気にカーネギー・ホールが場末のバーに変身~。
ある意味すごい個性だと思います。

今日の演奏はウィーン・フィルとの時とはまた雰囲気がかなり違っていて、”あれ?この人はこんな演奏する人だったかな。”と思いました。
というか、今日の方がバーのピアニスト的彼の個性とは一致しているのかもしれませんが。
ピアノの最初の音がいつ入ったのかわからないソフトな音で、その次の音あたりからやっとふわーっと立ち上って来る感じで、
”あんた、いつの間に忍び寄って来てたの?!”と、ストーカーばりの導入部にびっくりです。
その後に続く部分も、すごく軽妙なタッチで、この曲で私の聴いたことがある他のピアニストの演奏・録音はもうちょっと骨格ががっちりしていて、
アクセントを付けたい音もはっきりそれと感じられるものが多いのですけれど、
ブロンフマンの演奏はむしろそういった演奏をするのを拒んでいるかのように、限りなくさらさらと流れていく皇帝で、
本当に最後の最後まで、ここは力強く演奏したい!とか、ここはこのような表情をつけたい、というような意図・意思が感じられず、
今日は見た目のまんま、徹頭徹尾バーのピアニスト的!!
次の楽章の前には、ピアノの上に置いたウィスキー・オン・ザ・ロックのグラスからちびりとやるんじゃないか、、と新しい妄想がもたげて来ます。

もちろん彼は実際にはバーのピアニストではなく、カーネギー・ホールの舞台に立つピアニストであるからして、
同じぽろろん、、と軽妙に弾いているといっても、その達者なことは議論の余地なし、で、
テクニックはセキュアだし、こんな人がそこらのバーにいたらば大変なことです。
こういった淡白な演奏を好きな人もいるかもしれませんが、私には彼があまりに易々、軽々、ぽろろん、、と弾くので、
第一楽章と第三楽章で、作品から立ち上がるべき、オーディエンスに伝わるべき何かが欠けているように思われました。
後、第一楽章の一番最初の音がほとんど聴こえなかったのはそこだけ彼の解釈によるものかな?と思っていたのですが、
その後もずっと、一まとまりのフレーズの一番最初の音が軽くて、
日常の会話でいうと、各文の最初の言葉のはじめの子音がほとんど聴こえなくて母音から入る癖のある人の喋り方のようで、
途中から気になってたまりませんでした。

彼の滑らかな音作りが一番上手くはまっていたのは第二楽章だったと思います。
彼の紡ぎ出す粒の揃った高音は美しく、軽やかな演奏のせいで、べたべたしたり感傷的に過ぎないのがかえって好印象で、
この楽章での彼の演奏は私は好きでした。

第三楽章ではペダルの使用の仕方のせいか、それに対する指のタッチが柔らかすぎるからなのか、
もうちょっと音の粒が立っていてもいいのにな、と思うところで、私にはあまりに”もやーん”とした音になり過ぎているように感じる箇所があり、
ちょっと残念に感じるところもありました。
ここも第一楽章と共通して、あまりにさらさら、、と軽々と流れ過ぎる傾向にあって、個人的にはもうちょっとパンチのある演奏の方が好みです。
また終盤にかけての盛り上がりも結構あっさりして感じました。

まあ、でもこういう制服を着崩した時のそのセンスを楽しむというか、必死なのがあまり表に出ないような演奏が受けるのかな、、
オーディエンスからのブロンフマンへの喝采は大きかったです。

ピアノのソロより、バックのオケの演奏の方がさりげないながらもかっちりとしたアクセントを感じる演奏で、なかなか良かったのではないかと思います。
チャンさんはもう神の声の準備で手一杯(あんな作品なら、それは無理もない、、。)だったと思われ、
『皇帝』と『火の鳥』はもう一人のコンマス、エネットさんのリードによるものだったのですが、
(そうそう、エネットさんはこんなこともありましたが、現在では再びメトに戻ってきてコンマスの任をつとめておられます。)
このニ作品とも音楽が自由に放逸に流れていて、良く考えてみるとヴァイオリン・ソロがフューチャーされる作品では
チャンさんが活躍することの方が多いですが(『タイース』の瞑想曲のソロもチャンさんでしたね、そういえば、、。)
後半の二作品はエネットさんのコンマスとしての力量を十分感じられる演奏になっていたと思います。

最後は法則③にのっとっての『火の鳥』組曲。
今回は1945年版の演奏で、この版が一番バレエ全曲版からの抜粋を多く含んでいる版なんだそうです。
Wikipediaによると、

”指揮者によってはこの版を非常に好むが、全曲版や1919年版組曲に比べると、演奏機会が多いとは言えない。
その原因の一つは、ストラヴィンスキーが後年大きく変えた作風が如実に反映されている版となっていることにある。
顕著な特徴の1つが、「終曲の賛歌」の最後 Maestoso の部分に見られる。
全管弦楽が終曲の主題を繰り返す箇所で、全曲版・1919年版組曲では4分音符の動きで朗々と旋律を奏でているところだが、
この1945年版では、「8分音符(または16分音符2つ)+8分休符」という、とぎれとぎれのドライな響きで旋律が奏でられる。
組曲全体の後味を大きく変える相違点であり、この版の評価を分ける1つの要因になっていると思われる。
なお、前記の理由により、この1945年版を用いながらも、「終曲の賛歌」のみ1919年版の「終曲」に差し替えて演奏する指揮者もいる(演奏者独自の判断により)。”

そうだったのか、、、全曲・1919年版にもあまり通じていないうえに、エンディングにこんな違いがあったとは、、。
というわけで、終曲の部分がどうだったか、もはや全くもって思い出せません、、、もっと予習をきちんとしておくんだった。すみません。

今回の演奏、最後の最後の直前まで、これはすごく良い演奏になるのでは、、?と思ったのですが、、
序奏の部分では、まるで舞台の上にかかっていた靄が段々はけてその奥にカスチェィの魔法の庭園が現れてくるような
ロシアのバレエの物語の多くに独特の、幻想的な雰囲気が感じられたし、
終曲の冒頭のホルンも、どこから音が立ち上がって来たのかと思う位に入りが綺麗で、
フレーズの全てに魔法のような美しい力と幻想的な響きが宿ってました。
NYタイムズの評では木管や弦を褒めて、全然このホルンのソロ(演奏したのは首席のジョセフ・アンダラーさん)についての言及がなかったんですが、
一体何を聴いてるんだ?と思います。
終演後にルイージが真っ先に讃えた奏者は彼だったし、一度のみならず、二度も指名されての称賛でした。
本当にそれに値する素晴らしいソロだったと思います。
とはいえ、確かに木管や弦の演奏も表情が豊かで素晴らしかったですし、
中盤から終曲のホルンのソロまでの感じでこのまま行けば、、と大きく期待が高まってました。
なのに! 終曲ではあと一センチでそんな爆発状態に届く!という高度での飛行が延々続いたかと思うと、
ついにそのまま最後の音まで辿りついてしまったではありませんか!

あれ??ですよ、、まったく、、。

これが最近のルイージのオペラ全幕の指揮で私がしばしば体験する現象そのもの。いけそうでいけない。
レヴァインが元気だった頃は、途中が多少荒れようとも、いつも最後にねじ伏せてオーディエンスに興奮を起こすということが出来ていたのです。
ルイージはその過程ではむしろレヴァインよりも凝ったことをしていたり、緻密なことをしていたり、
それがちゃんと成功してすごく面白いものを聴かせていることが多々あるのに、
なぜかオペラ全幕のクライマックスとかこういった作品のエンディングで、はばたき舞い上がりきれずに終わってしまうことがままあるように思います。
なぜなんでしょうね、、、。

レヴァインといえば、今シーズンのメト・オケ・コンサートの第三弾(来年の5/19)でいよいよ復帰だそうです。
本当に戻って来れるのか、私はまだ懐疑的な部分もあるのですが、
レヴァインが実際に指揮台に現れたなら、それはオーディエンスにとってもかなりエモーショナルな瞬間になることでしょう。
5月までぜひ順調にリハビリをすすめて頂きたいな、と思います。


The MET Orchestra
Fabio Luisi, Conductor

SOFIA GUBAIDULINA In tempus praesens
David Chan, Violin

LUDWIG VAN BEETHOVEN Piano Concerto No. 5 in E-flat Major, Op. 73, "Emperor"
Yefim Bronfman, Piano

IGOR STRAVINSKY The Firebird Suite (1945 version)

Carnegie Hall Stern Auditorium
Second Tier Center Left Front
OFF/OFF/OFF

*** メトロポリタン・オペラ・オーケストラ デイヴィッド・チャン イェフィム・ブロンフマン
MET Orchestra Metropolitan Opera Orchestra David Chan Yefim Bronfman ***

LA CLEMENZA DI TITO (Sat Mtn, Dec 1, 2012)

2012-12-01 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。
(でもこのアラートだけ読まれて本文をスキップされる方に一言だけ、、、
これまで6年にわたってメトのHDにのった公演の中で、私なら最高の一本に数えるであろう素晴らしい舞台でした。
日本での上映はお正月早々のようですが、どうぞお見逃しなきよう、、このHD見なかったら何見るの?です。本当に。)


キャストのうちの誰かがすごい歌を聴かせたり、オケが燃え上がってたり、
作品の良さを引き出す演出であったり(←最近のメトの新演出ものでは滅多にないことですけど)、
こういった条件が単独でもしくは組み合わせで加点法的にポイントを稼いで”良い公演だな。”と感じるものは年に数回あります。

でも、数年に一度レベルの「すごい」公演は、そんな風な単純なロジックで説明することは難しい。
なぜなら複数の理由がお互いに絡み合った結果、単純な加点法で得られる数字以上の大きさに総和が膨らんだり、
それどころか、本来なら欠点に数えられていてもおかしくない、つまり減点になるはずのものが、
あまりの公演の素晴らしさにもはやマイナスにならなくなったり、それどころかある種の魅力=プラスになってしまっていたり、、、
舞台の不思議を解明するのに数学的なロジックは全く通用しないことに気づくわけですが、
今日の『皇帝ティートの慈悲』はまさにそのような公演でした。

『ティート』は実にやっかいな作品だと思います。
今回の鑑賞を控えて『ティート』モードに入るため、まず、チューリッヒの公演のDVDを見てみました。
勘の良い方ならすでにぴんと来られた通り、このDVDはカウフマンが出演しているので購入したようなものなんですけれども、
はっきり言ってこのDVDでいいなと思ったのはカサロヴァのセストだけで、後はカウフマンも含めてダメダメです。
というか、このDVDから入ったら、多分、『ティート』が嫌いになると思いますので、注意が必要です。
でも逆に、このDVDを鑑賞すれば、どこをどう間違うとつまらない『ティート』になってしまうか、というヒントが隠されているので、
そういう意味ではためになります。
カサロヴァはもちろんですが、このDVDの公演に出演しているメイ(ヴィッテリア役)もカウフマン(ティート役)も普通に言ったらとても良い歌手のグループに入ると思います。
でも、この作品には、いや、モーツァルトの作品は全部そうだと言ってよいかもしれませんが、
歌唱の大変さが少しでも感じられると、途端に作品の美しさが損なわれるという、すごい罠があって、
そこが、いつものやり方で”良い歌手”していても、『ティート』をはじめとするモーツァルト作品には全く通用しないのが怖いところなのです。
例えばメイ。彼女はベル・カントのレパートリーなんかすごく巧みに歌う人だと思うのですが、
トップの音色と中音域以下の音色に意外にも結構なギャップがあるということに、このDVDを鑑賞すると気づかされます。
トップの情熱的に絞り出すような音はベル・カント・レップやヴィオレッタのような役ではそれが一種の魅力になったりすることもありますが、
モーツァルトの作品では欠点以外の何者でもない、と思いました。
後、この日の彼女はピッチにかなり問題があって、最後まで完全にセトルダウンすることがないまま公演が終わってしまっているように思うのですが、
それがなかったとしても、上で書いた問題がある限り、作品の良さを引き出す歌唱にはなりえないと思います。
そして、カウフマンの歌唱から溢れるティートの苦悩のあまりの濃さは聴いているうちにこちらが息苦しくなる位です。
もちろん、ティートには支配者ゆえに誰からも理解されない孤独・苦悩という側面もあるのですが、
また、それだけではなく、この作品の最後、彼はセストやヴィッテリアを許すことで、自分の心を自由にし、身軽になっている部分もあって、
孤独・苦悩が最後までムンムン、というのはちょっと違うと思うのです。
これは、やたら陰気臭いジョナサン・ミラーの演出のせいもあると思いますが。
はっきり言って登場人物のどいつもこいつも陰気臭くて、アンニオやセルヴィリアまで何かたくらんでそうな雰囲気に見えてくるほどです。
そして、その演出に呼応するかのようにヴェルザー・メストとチューリッヒ歌劇場のオケの演奏もやっぱりどんよりと重苦しい。
なんか聴き終わった後、”うへー。”と気分が陰鬱になる恐ろしいDVDなんです。
そしてとどめはレチタティーヴォの部分を音楽なしの台詞にしてしまって、さらにその上に大幅なカットを取り入れていることで、
はっきり言って、この作品を初見のオーディエンスには物語をフォローしずらいレベルに達しているのではないか?と思うようなひどさです。
この作品はオケ付きのレチタティーヴォの中に切って捨てるに勿体ない美しい箇所が含まれているので、
はっきり言って、このチューリッヒの公演は『ティート』であって『ティート』でないというような代物です。

あまりに気分がどんよりしたので、今度はCDに目を向けてみる。
マッケラス盤はコジェナー以外はあまりこちらでは名前を聴かない歌手がたくさん含まれていますが、
音色が高音から低音まで統一されていて、軽やかにたやすく歌っている(ように聴こえる)のはチューリッヒよりずっと良いな、と思います。
また、もったりじくじくだったチューリッヒと比べてオケの音運びも軽やか。
だけど。ずっと聴いているうちに、こんなに軽くていいんだろうか、、?という疑念が頭をもたげてきました。
気が付けば、ヴィッテリア役の歌もすごく軽やか、、。
歌詞を知らなければ何か幸せなことを歌っているのかもしれない、と勘違いしそう。
コジェナーは達者には歌っているのですが、今一つセストの苦悩が伝わって来ないし、ティート役のトロストが魅力がないのも問題です。

そう、『ティート』の難しさは登場人物全員の苦悩がオーディエンスの胸を打つレベルにまで高めて表現されながら、
最後の最後にはどんより陰鬱だけで終わらない、きちんとしたリデンプションの感覚も残さなければならない。
そのバランスが歌、演奏、演出の全てに求められる。ここにこの作品の一番の難しさがあると思うのです。



『皇帝ティートの慈悲』はメトで初演されたのが1984/85年シーズンのことで、ポネルの演出はその当時からのもの。
ですので、もうかれこれ28年経っていることになっているのですが、この演出がまず素晴らしいのです。
最近の新演出ものは1、2シーズン上演されると、いや、下手すると初めて舞台に上がった時から手垢のついた古臭い感じがするものがあって、
(今年のオープニングの『愛の妙薬』とか、、)一体あれは何なんだろう、、?と思います。
それに比べてこのポネルの演出はとても28年前のものとは思えない。
もし、今、これが新演出ものです、と言って目の前に現れても、”あ、そうですか。”と思う位、フレッシュな感じがするし、
今回はソリストたちの力もあったのだと思いますが、まるで新しい達磨に目を入れたような力が漲っていました。
嘆きながらべレニーチェを見送るティートの白いかつらが家来の手によってはずされ、地毛の黒髪が現れる、、、
冒頭近くの、たったこれだけのシークエンスで、私達オーディエンスは彼の孤独と無防備さを感じて一瞬にして大きなシンパシーを感じますし、
セストの手によって火が放たれ、ローマが燃え上がるシーンの、ほとんど夢の中にいるような感触は、
セストも含めた全員の呆然自失の感情をオーディエンスにも共有させます。
また、その時の彼らの気持ちにオーディエンスの注意をフォーカスさせるために、
ローマの人々を演じる合唱を、舞台上でなくオケピットの中に置き、彼らの姿はなく歌声だけを舞台に響かせたのも効果的だと思いました。
火事から逃れ、いまだ心の傷のいえない民衆達をバルコニーから見つめながらティートが歌うようにしたのも、
いつの時も人民の心を思うセストの性格を良く反映しているし、
セスト本人の口から自分が裏切られたことを証明され、怒りで彼を牢に送った後、
ティートが皇帝としてセストを処刑するか、友人として彼を助けるかの葛藤に迷い続けるシーンで、
メトの舞台の奥行きを思い切り使用し、舞台奥に牢に繋がれながら座って夜空を見上げるセストの姿は
舞台が終わった後も何度も心に思い出される美しいイメージでした。
また、審判が下る場面で、今度はティートを思い切り舞台の奥に置き、彼と民衆の前に現れたセストとの間に途方もない物理的な距離があるのも、
親しい友人でもあった二人は過去のことで、今やセストにとってティートが星よりも遠い存在になっていることが一瞬にして肌で感じられるシーンです。
とにかく全部書けばそれだけでこの記事の字数制限をヒットしてしまうほどで、
演出がテキストや音楽と一体となっているというのはこういうことを言うのだろう、というような、素晴らしい演出です。
ポネルは1988年に亡くなっているのですが、演出の意図がこうして隅々まで生き続けていて、
そしてそれを十二分に舞台の上に反映させられる実力のある歌手達が今年の公演に揃っているのはなんと幸せなことだろうと思います。
セットも衣装もトラディショナルと言って良いものですが、これをつまらないというオペラファンなんて一体いるんでしょうか?
セットや衣装がトラディショナルなことが退屈につながるわけではない、ということの最たる見本だと思います。



歌手陣に関してはプブリオ役のグラデュスが若干心許ない(特に冒頭。後半少しずつ落ち着いて行っていますが)ですが、
それ以外の歌手は、音域を通して音色が統一されているし、メイやカウフマンに対して私が持った違和感のようなものを感じさせる人は誰一人キャストに入っていません。
全員、『ティート』を歌える歌手たちです。

ティート役を歌ったフィリアノーティは先日のタッカー・ガラの記事でも書いた通り、
手術前の声に完全復活しているわけではなく、それが歌の中に感じられないと言えば嘘になります。
高音は少しピンチ(音がつまんだようになっている)気味だし、音を早く転がす部分では、少しきついのか、若干テンポを落としたりもしていて
(オケの方も明らかに意図的にテンポを落としているので、指揮者と相談の上、決めたものではないかと思います。)
普通だったらそれは”マイナス”になるはずなんですが、
この作品での彼がそうなっていないところが、数学で説明できない舞台の魔法です。
彼は性格的なものもあるんでしょう、音を一つ一つきちんと出すことに決して妥協がありません。
例えば上で書いたようなところも、テンポを重視して、音の回し方の方を妥協したくなる、また実際にする歌手はごまんといます。
だけど、彼はそうしない。ちょっとくらいゆっくりになっても全部きちんと歌う。
このほとんど生真面目といっても良い姿勢が、ティートのパーソナリティとシンクロしていて、これもありかな、、と思えて来ます。
どちらかを選ばなければならないなら(ゆっくり歌うか、音の回し方を妥協するか)、絶対にこちらが正解です。
彼の端正な歌声と歌い口、それからエレガントな舞台姿(あのタッカー・ガラの時の冴えない身のこなしが嘘のようでした)は、
本来、ティートの役にはすごく合っていると思います。
これで彼に本来の声が戻って来ていたならもっとすごいものが出て来ていただろうと思いますが、
そうでなくとも、ティートの心の変化を歌と演技で巧みに表現出来ていた(←書くのは簡単だけど、実際にやるのは大変!)のは素晴らしいことだと思います。
セストを説得しようと抱きしめる場面に、ほんの少し友情以上のものもあるのかな?と思わせるような色気がありましたが、
その部分をあまり強調し過ぎず、オーディエンスに判断を委ねるその演技の匙加減のセンスなんか、彼はこんなに演技が上手だったんだな、と感心しました。



アクロバティックな歌唱という意味ではもっとも大変な役であろうヴィッテリア役のフリットリ。
彼女に関しては以前からその素晴らしい表現・演技のセンスに感心させられ続けて来ましたが、今日も例外ではなかったです。
ヴィッテリア役を最初からフル・スロットルで気性の激しい意地悪女として表現してしまうと、
改心する段階で”んな馬鹿な、、。”ってことになってしまいます。
なので、彼女は特に一幕で、その彼女の意地悪さをコミカルさに転換してしまう。
”本当、面白いまでに意地悪な女だな。”と客を笑わせるような、そういうヴィッテリアの役作りにしているので、
劇場では彼女が出て来る度にオーディエンスがにやりとしたり、実際に笑いがあがったりしますが、
だけど、多分、オーディエンスの誰一人として彼女を本気で憎んでいる人はいない、という状況をさっさと作りあげてしまうのです。
こういうところがフリットリって本当に頭の良い人だな、と感心させられます。
一幕の冒頭なんて、アンニオにまで色目を使っていて、この調子でティートも落とそうとしていたし、セストも落としたんだろうな、と思わせるんですが、
しかし、アンニオと一緒に歌う箇所と、セストと一緒に歌う箇所では、明らかに声と歌の艶を違えていて、
もうそこで、彼女のセストへの愛が後に本物になる萌芽を感じさせる歌になっているんです。さすがだなあ、、と思います。
その部分ではオケもきちんとそれとシンクロした色気のある音を出していて、本当に素敵でした。
しかし、これが段々幕が進んで、セストをティート暗殺に導いたのは自分であることを告白する決心をし、
もう自分は誰とも結婚することもなくただ死を迎えるのだろう、と歌う
"今はもう、花で美しい愛の鎖を Non più di fiori"にがっちりと焦点があたるよう巧みなペースでだんだんとヴィッテリアをシリアスにしていって、
このロンドを歌う頃には、彼女のイノセンスさ・父のための復讐やティートへの嫉妬の裏にある本当の彼女が前面に出るようになっているため、
オーディエンスは彼女に多大なシンパシーを感じることが出来るのです。
ヴィッテリア役は一幕のど意地悪な彼女からここに至るまでの経過の表現が難しいんですが、
フリットリの舞台勘の良さと緻密な歌唱と演技で本当に無理を感じさせない自然な流れになっています。
彼女はここ数年、声の艶・ふくよかさや高音の音の出易さが昔とは違って来ているな、と感じる部分もあって、
今日の公演でも高音が易々と出ているか、といえば決してそうではなく、
あまりぶっ飛ばさないようコントロールに気を配って歌っている感じもありますが、
上述のロンドでの殺人的な低音にも果敢に挑戦していて、
技術のセキュアさ、どんなに激しい感情を歌っていても絶対に下品にならないモーツァルト作品のスタイルを損なわない歌は彼女ならではだな、と思います。



声、歌唱スタイル、演技、すべての面で今日のキャストの中で誰よりもプライムの時期に近いと言えるセスト役のガランチャ。
8月のスカラのヴェルレクで歌声を聴いた時は、少し声がパワーダウンしたような気がしたんですが、
今日の歌声を聴く限り、そんな印象も吹っ飛ぶというもの。
もう、本当に素晴らしいです。言葉で言い尽くせないくらい。
先日のシンガーズ・スタジオで、今回のメトの公演でセスト役を封印すると言っていた彼女ですが、本当に勿体ない、、。
彼女はこれまでHDでは『チェネレントラ』と『カルメン』に出演していて、
それを見て彼女のファンになった方もたくさんいらっしゃるのではないかと思いますが、それですごい!と驚いている場合ではありません。
この『ティート』でのセストに比べたら、あの二つがまだ序章に思える位、それ位今回の彼女の歌と表現はすごいです。
というか、このセスト役は彼女の歌手としての美点と長所をすべて結集したような役だと思うんです、、、
本当しつこいようですが、どうして封印しちゃうんだろう?と思います。
彼女の声は本当に上から下までこれ以上不可能という位統一された音色で、こういった長所は残念ながらカルメンのような役では生かすのが難しい。
でも、セストならば、それを心行くまで満喫することが出来ます。
一幕で歌われる”行きます、でも愛するお人よ Parto, parto"はメゾの人気アリアと言ってもよいと思いますが、
この”行きます”は単なるさようなら~ではなくて、ヴィッテリアにローマに火を放ってティートを暗殺するようほのめかされたセストが、
もう一度、その美しい瞳を見せてくれたなら、あなたのために放火なり暗殺なり何でもしてみせよう、という、
これから火をつけに、人を殺しに行きます(それも皇帝を!)という歌なわけです。
ヴィッテリアのためならなんでもやってしまうセストのやるせない思いをガランチャが
生のオペラの舞台で、これ以上の歌を歌うことが可能と思えない位、美しい歌声と技巧でもって十全に表現しつくしてくれます。

下の映像はスタジオ・セッションでの録音ですが、これと全く同じレベルかもしくはそれ以上にセキュアなテクニックとコントロールで歌いながら、
そこにセストの衣装、表情、演技がくっついてくるのが今日の舞台で、
しかも、この難しい歌を歌いながら、直立どころか、舞台中を相当動き回っているんですから、本当すごいです。



最初のParto, partoという言葉が凛と劇場に鳴り渡る様子とか、
Guardami (”私を見て”)のところなど、優しく歌われる箇所では、
声が一瞬たゆたう様に空中に漂ってそして消えて行くその美しさは聴いていて眩暈がしてくるほどで、
このアリアの間、私は完全金縛り状態でした。
これらの美しさの全てがHDで感じられるようにと祈るばかりです。
このアリアで絡むクラリネットの首席はマクギルさん。
彼は本当に素晴らしい奏者で、演奏自体は素晴らしく、これが歌なしのクラリネットのソロだったら何の不満もないところですが、
私が座っている場所だと若干音が逞しく聴こえて、もうほんとにちょっとだけなんですが柔らかかったらもっと良かったのにな、、というのは贅沢過ぎるでしょうか?

セストとティートが対面する場面の素晴らしさも、筆舌に尽くし難かったです。
ティートに放火と暗殺に至ったのには何か理由があるに違いない、正直に話してみよ、と促され、
もう少しで真相を話してしまいそうになりながらも、ヴィッテリアを裏切ることが出来ずに友情と恋愛の狭間で葛藤し、沈黙を続けるセスト。
そのセストの沈黙の理由を知ることが出来ないティートが苛立ちを募らせ、セストに詰め寄り、
セストが申し開きを出来るのはこれが最後、という緊迫の場面です。

ティート:さあ、話してみよ。今私に何と言おうとした? Parla una volta, che mi volevi dir?
セスト: それは、、私は神の怒りを買い、最早自分の運命に顔向けすることが出来ない、Ch'io son l'oggetto dell'ira degli Dei, che la mia sorte non ho più forza a tollerar
そして、私は自分が裏切り者であることを告白し、自らを悪党と呼び、ch'io stesso traditor mi confesso, empio mi chiamo,
そんな私は死に値する存在であり、それを望むということです! ch'io merito la morte, e ch'io la bramo.

自分の死と愛する皇帝との友情に対する裏切りの確定を意味する言葉を、自分の意志に反して言わなければならなくなった時、
ガランチャのセストは、この最後のe ch'io la bramoを、既に歌ではなく、話し言葉でしかも叫ぶように処理していて、
人によってはモーツァルトの作品でこういうまるでヴェリズモまがいの表現は場違いだというかもしれませんが、
私にはセストの心の痛みと葛藤の大きさがダイレクトに伝わって来る素晴らしい処理の仕方だったと思います。
彼女がこの言葉を叫んだ時、私の周りでも何人もの人が、びくっと体を震わせたり、息を呑んだりしていました。

日本のオーディエンスの方には意外に感じられるかもしれませんが、
ガランチャはこれまでアメリカのオーディエンスにすごくアンダーレートされているところがあって、
このセスト役が来るまで彼女に本当に合った役をメトで歌える機会がなかったことも一つだと思うのですが、
もう一つ、よくこちらのヘッズに言われて来た批判は、”彼女の歌はクールでいつもコントロールが効き過ぎていて熱さがない”というものでした。
でも、今日の歌を聴いたら、それってどこが、、?と思います。
コントロールが効いている、というのはその通りですが、こんな歌を聴いて熱くないと思う人は頭のどこかがおかしい。
多分、この『ティート』のHDでガランチャに対する考えを変えた・変えるオペラ・ファンはたくさんいる・出ることと思います。



セストとヴィッテリアでギャラ代と才能を探すエネルギーを劇場側が使い果たすことなく、
アンニオ役とセルヴィリア役にも良い歌手を置くとどれ位この作品の公演の完成度があがるか、という見本のようだったのが
今日のケイト・リンゼーとルーシー・クロウの二人。

実は私の友人が一週間先に鑑賞していて、
リンゼーのことを”舞台上の動きはロボットかと思う位ひどいけれど、歌は悪くない。というか、すごく良い。”と言っていて、
2009/10年シーズンの『ホフマン物語』を鑑賞した時はそんなに演技がひどい人だとは思わなかったので、”???”と思いながら話を聞いていたんですが、
今日の公演を見て、何となく彼の言いたいことはわかりました。
多分、ズボン役なのを意識するあまり、動きを男の子っぽく、男の子っぽくしているんですが、
女性が男性の動きをするのはやはり簡単なことではなく、彼女はまだそのあたりの引き出しが少ないせいで、似たような動きが連続してしまい、
それがロボットみたいに見えなくはない、ということなんだと思います。
だけど、彼の、彼女の歌に対する評価、こちらは実に正しい!!
私はこのリンゼーと『テンペスト』に出演していたレナードの二人をメトに登場し始めたのが同時期なことなどから、
勝手にライバルに仕立てあげ、どちらが抜けてくるかをずっと楽しみにしていて、
「今観て”聴いておきたいオペラ歌手 ~女性編」の記事を書いた2008年頃からずっとそんなことを言っていたわけですが、
今日のリンゼーの歌を聴いて、いよいよ彼女の方が抜けて来たかもしれないな、、という感触を持ちました。
彼女の声は『ホフマン』の頃ですら、若干高音域の音色が浅い感じがあったんですが、ここの音域に温かさと厚みが出てきたし、
以前みたいな高音域が少し辛そうだな、、という印象がなくなって、伸びやかに音が出るようになっています。
それから表現力、、すごく表現力がつきましたね、彼女は、、、歌に。言葉をすごく大事に丁寧に歌っているのが伝わって来ます。

自分の最愛の女性セルヴィリアをその事情を知らないティートに后として召し取られそうになった時、
アンニオはその運命を、”この帝国にふさわしい美と徳を兼ね備えた人間は彼女しかいないのだから。”と言って受け入れ、彼女を諦めようとする。
なんという究極の愛情表現でしょう!!こんな愛情表現の前では”愛してる”なんて言葉が安っぽく聞こえてしまいます。
このシーンは私の周辺の座席でも男女共に泣いている人多数でした。いや、それはもう、もちろん私も鼻につーんと来てました。
で、そこに続くのが反則の二重唱"ああ、これまでの愛に免じて許してください Ah, perdona al primo affetto
(ちょっとこの邦題は意味が違っているように思うのですが、一応、これがCDで使用されているようですので、、。
実際には、ああ、すでに過去の恋人となったあなたよ、うっかりした言葉を許してください、という意味のはずです。
この直前に彼女を”愛する人よ”と言ってしまったことに対して、もうあなたはお后になる人なのだから、そのように呼んではいけないのだ、という、そういう意味です。)

この二重唱での二人の声と歌唱が、この世のものとは思えないくらい美しくて、もうどうしましょう?って言うくらいのものでした。
この二重唱が終わった時点で、”ああ、今日は来て良かった。これ聴けただけでももう満足。”と思ってしまった位。
もちろん、まだまだすごいのが続いて行ったわけですが。

それから順序が前後しますが、興味深かったのがセストとの小二重唱”どうか、心こもる抱擁を Deh, se piacer mi vuoi”で、
ガランチャとリンゼーの声が一瞬どちらがどっちか区別がつかない位、シンクロしていた点。
この二つの例からもわかる通りリンゼーは重唱で相手と呼吸を合わせて歌うのが本当に上手い人だな、と感心したんですが、
それと同時にこんなにシンクロして聴こえるということは、
もしかすると私が思っている以上に二人の声には似通っている部分があるのかもしれない、、とも思いました。
あと何年か経てばリンゼーもセスト役を歌いこなすようなメゾになっていくのかもしれないな、、と思うと、すごく楽しみです。

セルヴィリア役のルーシー・クロウは私はほとんど名前も知らなくて、当然生で聴くのは初めてだったんですが、
鈴のような凛とした残響のある、本当綺麗な声の持ち主だと思います。
今日の歌では、ものすごく細かくて早いビブラートのある歌い方をしていたので、その辺はもしかすると好みをわけるかもしれませんが、
涙流してるだけじゃ、単なる無駄泣きよ!と、ヴィッテリアに真相の告白を促す
アリア”涙する以外の何事も S'altro che lacrime per lui non tenti"での高音のコントロールもすごくしっかりしていて技術もあるし、
音域の上下で響きの変らない歌声もモーツァルト向きでいいな、と思います。
どうしてこういう人がいるのに、エルトマンみたいなのをメトに呼ぶんだろう、、本当不思議。

最後にオケ。
前から何度も言っているように、メトは古楽オケじゃないし、それを言ったところで始まりません。
古楽オケみたいな敏捷な小回りは絶対にきかないし、彼らと同等のレベルの極めて精巧、繊細なアンサンブルで聴かせることもまず無理でしょう。
ビケットの指揮はそれを承知で、ならメト・オケがこの作品で出来ることは何なのか?というポジティブ志向に変えたのが素晴らしい点だと思います。
コップに半分しか水がない、という人と、半分は入っているな、と考える人の違いというか。
冒頭、少し落ち着かない感じがありましたが、一旦落ち着いた後は歌手たちの歌を後ろからがっちり支え、時にはリードし、
歌手や演出と一体となってドラマを盛り上げる、、、これでいいのだ!です。
最初に話をふったのでそのフォローも一応しておくと、レチタティーヴォは多少のカットがあったようですが物語の理解を損なうものでは全くなく、
もちろん台詞ではなく、ちゃんと音楽も付いていて、それぞれの歌手のレチタティーヴォの処理の上手さ
(特にセストのそれは美しい箇所が山とあります)もまた楽しみの一つとなっています。

そういえば、オペラx3大賞(一年を振り返って最もすばらしかった公演を選び出す記事)をここ何年かお休みしてましたけど、
もうこの『ティート』をここ数年まとめての一位にしてもいいや、、、

作品、歌唱、オケと合唱、演出、すべてがかみあったこんな素晴らしい舞台がHDとして形に残ることを本当に嬉しく思います。

Giuseppe Filianoti (Tito)
Elīna Garanča (Sesto)
Barbara Frittoli (Vitellia)
Kate Lindsey (Annio)
Lucy Crowe (Servilia)
Oren Gradus (Publio)
Toni Rubio (Berenice)

Conductor: Harry Bicket
Production: Jean-Pierre Ponnelle
Set and Costume design: Jean-Pierre Ponnelle
Lighting design: Gil Wechsler
Stage director: Peter McClintock

Dr Circ A Even
OFF

*** モーツァルト 皇帝ティートの慈悲 Mozart La Clemenza di Tito ***