Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

SWAN LAKE - ABT (Sat, Jun 27, 2009) 後編

2009-06-27 | バレエ
前編より続く>

すっかり観客をとりこにしたパ・ダクシオンの後に続く、四羽の白鳥たちの踊り。
今日は、加治屋さん、バトラー、コープランド、リッチェットが踊りましたが、非常に良かった!
今まで私がABTで観た中のこの場面においては、最高の出来だったのではないかと思います。
大体途中で誰かが疲れて崩壊していく(崩壊とまでは行かなくても、
足や頭の上げ方、角度が揃わなくなったり、、)パターンが多いのですが、
今日は前半の4人のシンクロぶりが素晴らしく、このまま最後まで通せたらいいな、と思っていたら、
本当に通ってしまいました!
ニーナの最後の晴れ舞台に、他の何物でもないダンスで花を添える、、彼女への最高の贈り物になったと思います。

それに対して、今ひとつぴりっとしないのは、コール・ド。
なんというのか、、、もしかすると、身体的能力というよりはむしろ、コール・ドというものがどういうものか、
自分を殺して全体と合わせるということがどういうことか、という精神的な部分が、
まーったく分かっていないのではないか?と思えて来ます。
なんか、”ABTのコール・ドはねぇ、、”と言われる事に対して開き直っているのではないか、と思われる部分もあって、
観客も最初からコール・ドのシーンは期待もしていないところがあるのですが、そんなことではいけない、と思います。
コール・ドの出来をあきらめる、ということは、バレエ作品の少なからぬ部分の楽しみをあきらめることでもあります。
オペラの全幕で合唱がこんな態度をとった日には(幸いメトはそんなことはありませんが)許されないのと同様に、
コール・ドのこんな姿勢を野放しにしていてはいけないのです!!



二幕の最後に、腕で白鳥の翼を擬しながら、つつつーっ!(当ブログバレエ鑑賞お得意の擬態語!)と
一直線に舞台袖にはけていく場面では(この動き、名前があるのでしょうか?)、
その見事さに途中から轟音のような拍手が巻き起こって、その後はオケの音が全く聴こえないくらいでした。
完璧に左右対称を描く腕の動きと、音楽と調和した移動の速さ、、
決して慌てずにゆっくりと動きをとっているあたりにも、
彼女が決して技に依存せず、いつも、まず、何を表現したいか、という点に重点を置いている事が現れていますし、
私が彼女を好きな理由の一つは、彼女の踊りが常に音楽と調和している点であったのを思い出させてくれました。



インターミッションの後、次の幕に向けて暗転する前に、
”ロットバルトがゴメス”という、プリ・シアター・ディナーの会話を受けて、
”あの最初に出てきた半魚人がダックス飼っている人?”と質問する連れに、
”ちがーーっう!!! ”と思わず絶叫。
”ロットバルトはね、二人一役なの。ゴメスが踊るのは、これから!!
M子師匠が言ったように、紫の衣装よ!紫!!絶対に見逃しちゃだめよ!!”とくどいくらいに繰り返しておきました。

そして、いよいよ、その第三幕の舞踏会のシーン。
オデットのことを思い、いよいよ鬱々とするジークフリート。
残念ながら、今日はチャールダーシュ、そして、スペイン、ナポリの各踊り、そしてマズルカと通して、
特に記憶に残る場面があまりないのが残念。
昨日は少なくとも、ナポリが少し見ごたえがあったのだけれど。

しかし、こんなことを言って叱られるのを承知で言うと、そんなことはどうでもよい!
なぜならば、二度目のらっぱの音がなって、登場したのは黒いチュチュのオディールをひきつれたロットバルト、
そう、紫の衣装を着た我らがダックス王子ゴメスなのだから!!
彼が出てきた瞬間、思わず、私は連れの腕を思い切り掴んで、"It's him!"と「囁き叫び」してしまいました。
オペラの公演でこんな女が横に座っていたら、間違いなく張り倒してますが。

しかし、ちょっと待って。これ、一体、誰、、?

これまでの公演で見て来た、優しげな素敵な王子様系キャラ(『白鳥』、『シンデレラ』)のゴメス、
コンテもので見せたシャープなキャラのゴメス、
気のいいお兄さんキャラ(『海賊』)のゴメス、このどれとも違う、
いかがわしく、かつ、フェロモン満開の”悪の華”な男がそこにいるのです。
こんな人、あたし、知らない!ゴメスの偽者だわ!!ともう少しで叫んでしまうところですが、
いや、このものすごい表現力は、紛れもないゴメス!!なのです。
彼が登場した瞬間から、メトに麝香の香りがし始めたような気がしたのは私の気のせいなのか?

ロットバルトがその催眠術めいた力で舞踏会に来ていた各国の令嬢たち
(のみならず、ジークフリート母までも!)を骨抜きにするシーンでは、
各国の令嬢たちのみならず、私たち観客も、ゴメスの催眠術にかけられていたのでした。


(なぜか、6/22の公演で撮影され、NYタイムズのレビューに使われた上の写真は、
拡大画面用に間違って別の写真がリンクされており、こんな豆粒のような写真しかありません

DVD化されている2005年の公演(ジークフリートがコレーラ、オデットはマーフィー)でゴメスが
同じロットバルト役で登場していて、抜粋はYou Tubeでも見れますが、こちらでは紹介いたしません。
なぜならば、私がこのブログでしつこく吠えている通り、ゴメスに関しては、
ここ1、2年で凄みが増してきた感があり、今日、このニーナのフェアウェルで私達が目にしたものも、
そのDVDの比ではないからです。

例えば、ナポリの令嬢(ブルーの衣装)に目をつけたロットバルトが、
彼女と自分の間にいて、視界の邪魔になっている別の令嬢(ピンクの衣装)をどかす場面がありますが、
DVDではダンサーへの気遣いがつい出てしまっているというか、彼女をそっと床に置くような感じがあります。
しかし、これではこの場面の面白さが伝わりません。
今日の彼は、”おおっ!なかなかの美女がおるぞ!(オデットに続く次のカモ?)”と
ナポリにひたすら色目をつかいながら、
ピンクの女性を、まるでゴミのように、ぽーん!と放り投げてしまうのです。
その冷ややかさがおかしくて、つい観客からも笑いがもれます。

最後に回転しながらジークフリート母の隣の椅子にちゃっかりおさまってしまう場面も、
今日の回転のキレはDVDの数段上。
しかし、私が悔しさに身もだえしたのはまさにこの時で、
このジークフリート母の隣の椅子がかなり舞台の下手にあるため、
なんと、あろうことか、ゴメスが着座したときには、下手の端にあるカーテンが、
半分くらい彼の姿を覆ってしまっているではないか!!
きーっ!!!体を右隣のおじさんに擦り付けるようにして、思わずゴメスの姿を追ってしまう私なのでした。

とにかく、この短い登場時間で、しかも今まで一度も、誰からも感銘を受けたことのない、
このマッケンジー版のロットバルトで、かくも強烈な印象を残したゴメス。
嫌なやつ(なんといっても悪魔ですから!)なはずなのに、憎めない。
いや、それどころか、かなり猛烈にチャーミング、という、このロットバルト役のエッセンスを
見事に掴みきったパフォーマンスに、観客は完全に魅了され、大喝采なのでした。

ちなみに私の連れも、すっかり彼の踊りに魅了され、オペラグラスで最後の瞬間まで
彼の姿を追っていたのを私が見逃すわけがありません。
連れは、踊り終わった後も、”いやー、彼の表現力はすごい!”と感心しきりでした。



そして、このゴメスの怪しくかつ魅力的な、優れたロットバルト役の登場によって、
全く新たな意味を持ってきたのが、ニーナが演じた二幕です。
観客全員をこれほど惹き付けるロットバルトに、
オデットが惹き付けられなかった訳がないではありませんか!
つまり、彼女がロットバルトの魔の手に落ちたのは、そもそも彼女が彼に恋したからではなかったか?
その恋は、白鳥に姿を変えられるという、彼女にしてみればとんでもない結果に終わったわけで、
恋愛不信に陥っても、一向に不思議ではありません。
そこに現れたのがジークフリートです。
そこには、自分が白鳥であるのどうのという以前に、
”彼に恋していいの?彼を信じていいの?”という迷いがあったはずです。
(そして、結果、またしても彼女は彼を信じるという賭けに出、再び手痛い失敗を食らうわけですが、、。)
この公演の二幕でニーナのオデットが表現した孤独、ジークフリートとの距離感は、
これを考える時、実に的確だったと思うのです。
彼女はすでにジークフリートと出会った時点で、あの『ファウスト(の劫罰)』の
マルグリートのような経験(マイナス 天に昇ること)をしていたと言えるのです。

この段階で、ニーナが全く昨年のオデットとは違うオデット像を作っていることを確信しました。
ゴメスがロットバルトを踊ることが確定した時点で綿密に組み立てたのか、
何も考えず、直感でこのような踊り方になったのか、それは私にはわかりませんが、
いずれにせよ、彼女は本当にすごいダンサーなんだ、とあらためて実感しました。
彼女の舞台がいつも共演者を含めてすごく有機的に感じるのは、
彼女に、直感的にせよ、そうでないにせよ、一緒に舞台に立っているダンサーたちに合わせて、
自分の役作りの方を合わせられる能力があるからなのだ、と思います。
それは、もちろん、それを可能にする技術が伴っているからでもあるのですが。



そして、ゴメスの登場で火を吹き始めた舞台はもう止まらない!
パ・ド・ドゥについては、今思い出すだけでも、興奮で血管が広がりそうです。
コレーラも明らかに前半(一幕、二幕)よりテンションがあがっていて、
もはや動きが重いと感じさせる部分がなくなり、ジャンプにも集中力が増し、年齢が5歳くらい若返った感じがします。

そして、コーダ。
これが昨年の二人(ニーナとコレーラ)のパフォーマンスからすると、
一番心配だった部分なのですが、それは、まさに杞憂というものでした。
まず、ニーナの32回のフェッテの前に、コレーラがバランスの整った綺麗な回転を決め、
彼女が舞台に現れ、フェッテを始めるときには鳥肌が立つ思いでした。
そして、ニーナのフェッテは、軸の安定感、回転の美しさ、腕のポジションの美しさ、
どれをとっても否のうちどころがなく、
32度中、どれも失速することも、バランスを失うことも、回転が足りないことも、
位置がずれて行ってしまうこともなく、素晴らしい内容でした。
46歳にして、昨シーズンよりもさらにシャープな踊りを繰り広げるとは、、、
その精神力と、きっとこの日を見つめて精進を続けてきたであろう努力を思うと、
私は、本当に頭を垂れてしまいます。

そしてさらに”ニーナに負けてはおれん!”とその後すぐ続くコレーラの回転技!
前述のマーフィーをパートナーにしてのDVDになった公演では、
舞台の割と奥で踊ってそのままフィニッシュしてますが、
今回はもう少し前方で踊って、最後に”どうだ!”という感じで見得をきる感じだったのが
とってもかっこよかったです。
しかも、あの二年前の『ロミ・ジュリ』を彷彿とさせる超高速回転!!!
くるくるくるくる、、、ひゃーっ、はやいーっ!!!

これでも十分血が逆流する位の大興奮なのに、コーダのフィナーレでは、
なんと、ゴメスのロットバルトがニーナをリフトし(これが高い!)、
そこから、直接ニーナが頭を下向けにしてそのままコレーラに飛びこむフィッシュダイブを披露し、
オペラハウスは地鳴りがするほどの歓声と拍手に包まれ、大変な騒ぎとなってしまったのでした。
という私も、思わずバレエでは初の”Bravi"出しをしてしまいました。
”Brava"、”Bravi"、"Bis!"の掛け声が鳴り止まず、おむすびが強引に音楽をスタートさせるしかない有様です。



ゴメスがマントを翻しながら(マント捌きがまた小憎らしいくらい、上手いのだ!
彼にかかっては、すべてが演技のための小道具となって貢献するのである!)、
オディールの手をとるジークフリートの間に割って入り、
”おーっと、そんな簡単にことを運ばれちゃ困るね。君は彼女に永遠の愛を誓うかい?”と、
とうとう最後の崖っぷちにジークフリートを追いやる場面。
ロットバルトの企みも知らず、”はい、誓います!”と宣言してしまうジークフリート。
この後すぐに宮殿の扉に火花が散り、絶望するオデットの姿が見える
(もちろん、ニーナとは違うダンサーによって踊られる)、というのが
このマッケンジー版なのですが、毎回、ロットバルトが直立不動のままか、
せいぜい片手をさっと挙げる程度で、火花と共に、爆竹のような音が上がるのが、間抜けな感じで興をそがれていました。
しかし、今日は、他のダンサーでこれをする人を観たことがないので、
おそらくゴメスのオリジナルなのではないかと思うのですが
その音に合わせて、思い切り地面に爆竹を叩きつけるようなジェスチャーをし、
たったそれだけの動作で、間抜けな感じを払拭したどころか、
”これでも食らえ!”というロットバルトの声が聴こえてくるような、優れたアドリブになっていました。



こんなにかっこよいロットバルトが、なぜ第四幕では半魚人なのか?と、
そのギャップがいつにも増してひどいため、つい問わずにはおれません。
というか、この四幕はそんな格好でも、ロットバルト役として最も大切な演技が求められる
(彼が自分の計画が完全には成就しなかったことを知り、またオデットを失って落胆する)場面で、
ここもゴメスで観たい、と思うのは贅沢か?

昨シーズンでの表現が、ジークフリートと来世で結ばれるために自分の命を絶つオデットだったとすれば、
今日のオデットは、決して現世では愛に縁がない自分への絶望ゆえに死んでいくオデット。
それは、愛という賭けに最後まで勝てなかった悲しい女性の姿で、
ある部分ではすがすがしさや温かい感触が残った昨年の表現に比べ、
とても厳しく、寂しい結末であるように私は感じました。
はらはら、、という感じで身を投げたニーナのオデットに対し、
とりゃーっ!とばかりに、猛烈なハイパー・ジャンプを決めたコレーラの姿からも、
昨シーズンのような、”あの世で一緒になろう!”的な一体感とは違い、
絶望して死んでいくオデットを一生懸命追いかけるジークフリート、という風に感じました。
舞台と言うのは一つ一つ違う。分かっているつもりなのだけれど、いつもこの不思議に驚かされます。



ニーナがカーテン・コールに現れる前には、まるでアフリカ大陸の動物の移住シーズンのように、
彼女の姿を間近に見たいファンが舞台に走り寄り、壮観でした。
そして彼女が登場した時の割れんばかりの拍手と歓声。
でも、ニーナらしいのは、この引退という場面でも、彼女自身もファンも含め、
悲しさよりも、感謝とか愛とか優しさとか、とにかく温かいエネルギーを感じる点です。
彼女は表現という点ではいつも優れたパフォーマンスを見せていましたが、
何と言っても年齢的なことから、ここ最近は、技術に関しては決していつも楽々と
難しい技をこなしているようには見えていたわけではありません。
そんな中で、表現ばかりか技術の面でもこれほど完成度の高い公演をフェアウェルに
持ってこれたことは、彼女自身、大変嬉しかったに違いありません。
フェリの時と同じく、あるいはもしかするとそれ以上に、自分の出来る全てを出し切ったという、
充足感を彼女が感じているのが伝わって来ましたし、
それは何より私達オーディエンスにとっても嬉しいことです。

礼儀正しく舞台の奥に立っているゴメスに向かって、
”さあ、あなたも前に来なさいよ!”という仕草をするニーナ。
今日の彼女の役作りはゴメスがいてこそだったわけで彼女は感謝の気持ちを表現したかったのだと思いますが、
それを固辞するゴメスの姿を見ていると、
いえ、自分が演じるロットバルトを生かした『白鳥』をニーナが踊ってくれた、
そのこと自体で十分なのです、と言っているよう、、。ああ、美しい師弟愛!
(別に二人は直接師弟関係を結んでいるわけではないが、私はゴメスがニーナから
舞台を通して学んだことは実に大きいはずだと見ているのです。)



白鳥の姿のコール・ドたちが全員(その人数を想像してみても下さい!)
一本ずつ花を持ってあらわれ、ニーナの前に捧げていくと、
ニーナは一人ずつに違った、それでいて同じくらいどれも優雅なポーズで答えており、
その仕草だけでも彼女の女優度がわかろうというものです。
今日の公演には出演していない多くのプリンシパルも私服で舞台に登場し、
彼女のこれまでの活躍を祝福しました。
ニーナが深くお辞儀をした年配の女性はABTで彼女の指導やアドバイスにあたった方と思われます。
最後にはまだ歳のいかないニーナのお嬢ちゃん(上の写真のワインカラーのドレスの女の子)が登場。
恥ずかしがってすぐに舞台脇の方へ走っていく彼女を、ニーナが、
”そんな礼儀のなってないこと、だめでしょ!”というジェスチャーで呼び寄せ、何度か二人でお辞儀をした後、
今度はニーナの手を離さなくなった彼女に向かって、
”もう十分、さあ、行って!”と、コミカルに軽く背中を押す姿が笑いを誘いました。

『瀕死の白鳥』冒頭の観客に背を向けて舞台上を移動していく部分を披露した後、
インプロで、コレーラにぽんと飛び乗ってみせたのですが、
その時にコレーラとニーナの間にふっと流れた空気や二人を見守る他のダンサーたちの温かい視線も素敵でした。
観客の私達と同じくらい、彼らもニーナのことが好きなんだな、、。

彼女を通して、私はバレエを”観る”だけでなく、”感じる”ことの楽しさを知った。
ずっと、ずっと、忘れることのない、大好きなバレリーナです。


Nina Ananiashvili (Odette/Odile)
Angel Corella (Prince Seigfried)
Isaac Stappas/Marcelo Gomes (von Rothbart)
Gennadi Saveliev (Benno)
Georgina Parkinson (The Queen Mother)
Renata Pava, Simone Messmer (Two girls from Act I Pas de Trois)
Yuriko Kajiya, Marian Butler, Misty Copeland, Maria Riccetto (Cygnettes)
Leann Underwood, Melanie Hamrick (Two Swans)
Victor Barbee (Master of Ceremonies)
Misty Copeland (The Hungarian Princess)
Sarah Lane (The Spanish Princess)
Anne Milewski (The Italian Princess)
Isabella Boylston (The Polish Princess)
Blaine Hoven, Grant DeLong (Neapolitan)


Music: Peter Ilyitch Tchaikovsky
Choreography: Kevin McKenzie after Marius Petipa and Lev Ivanov
Conductor: Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
Orch BB Odd

***白鳥の湖 Swan Lake***

SWAN LAKE - ABT (Sat, Jun 27, 2009) 前編

2009-06-27 | バレエ
バレエの細かい技術には本当に疎いため、レポートでもつい、
”くるくる”など、擬音語のオンパレードになってしまう私ですが、
彼女のパフォーマンスはいつも、心に直接話しかけて来て、
だから、”技術の細かいことがわからないからって
バレエを観る楽しみをあきらめる必要はないんだ!”と気付かせてくれました。
私にとって、その大事なバレリーナは他の誰でもないニーナ・アナニアシヴィリ。



特に昨シーズンの『ジゼル』は、私の短いながらも濃密なバレエ鑑賞の中にあって、
宝物のような輝きを発している、一番、思い出深いバレエ公演です。
そのニーナが、今日の公演をもってABTを引退、、。
二年前のフェリのフェアウェルは、彼女がどれほどすごい人か
ほとんどわかっていないに近い状態で赴き、その場で猛烈な感銘を受けたという、
バレエ・ファンの方に袋叩きにあってもおかしくない、恥知らずな”豚に真珠”状態でしたが、
ニーナに関しては、いかに彼女が素晴らしいバレリーナであるか、は、
数少ない鑑賞回数ではありますが、すでに痛いほど理解しているつもりなので、
今日以降、二度とメトの舞台で彼女の姿を観ることがないのだ、と思うと、実に残念で寂しい思いです。

今日は開演前に、バレエに於ける我が師匠in NYのM子さん、そしてM子師匠のご主人、
私の連れ、私の4人でプリ・シアター・ディナーをしました。
昨日の公演で、”ボッレを出待ちする!”とおっしゃっていたM子師匠。
私の観察したところでは、バレエのオーディエンスはオペラに比べると、
客筋が若くて、ルックスもいい人が多い。
なので、バレエの場合はきっと心配ないと思うけど、
オペラの場合、ステージ・ドアにたむろっているヘッズは年寄りが多くて、
ちょっと変わった人が多いので(親切ではあるのですが、、)、
異様な雰囲気を発してますよー、とお伝えしたのですが、
早速、今日M子師匠の出待ちについてのご報告を聞いて笑ってしまいました。
”ボッレの出待ちもヘンな人が多かったのー!もう二度と行かないわ!!”
バレタマンも、オペラヘッドも、コアなファンというのは、やっぱり似たもの同士?!

バレエにせよ、オペラにせよ、最近のハリウッド的セレブ主義は非常にわずらわしいことである!
(オープニング・ナイトをレッド・カーペット・イベントに仕立てあげ、
普段はバレエやオペラなんて観てもいないセレブを招待し、
一方で、実際にパフォーマンスをしているアーティストたちの芸そのものへのリスペクトが欠けていること、など)、
最近の若者の自己主張の強さが、コール・ドの質の低下につながっているのではないか、など、
短い時間ながら、とても興味深い話題が次々とテーブルにあがりました。

これまでのレポートの中でも、ニーナが持つ、
共演する男性ダンサーから特別な力を引き出す能力については、何度か言及した通り。
そんなことなので、フェアウェルでは誰がパートナーになっても、きっと素晴らしい公演になるのですが、
結局、アンヘル・コレーラが相手役として正式に発表された時は、
長年のパートナーシップを最後の舞台で!というニーナの思いが感じられました。
ま、『白鳥』、特にこのマッケンジー版のそれで、ロットバルトが印象深かった公演は少ないので、
(かろうじて、ホールバーグが演じた公演が記憶に残っているくらい。)
主役二人のキャスティング以外はすっかり興味を失って調べさえもしていなかったのですが、
突然、ディナーの終わり近くで、M子師匠が爆弾発言を発せられました。
まず、あまりバレエのダンサーの名前に明るくない私の連れにもわかるように親切に、
”そうそう、今日の公演で、紫の衣装を着て踊るダンサーは要注目ですから!”
そして、私の方を見て、”今日のロットバルトはマルセロよ!”



ぎゃーっ!!!!!
つい、M子師匠の肩を掴んで揺らしてしまいましたです!!まじですか?!まじですか?!
ニーナとアンヘルの名前だけ見て済ましている場合ではなかった!
特に私は月曜日(6/22)の公演でのゴメスのロットバルトがNYタイムズで絶賛されているのを見て、
そんな公演を見逃したことに、実に悔しい思いをしていたのだけれど、
今日、ニーナのオデット/オディールに加えて、
その、ゴメスの気障男ロットバルトが観れるとは、ああ、天にも昇る気持ちです!!

さすがにこのニーナの公演はチケットの人気が半端でなく、
私もほんの数日発売日から乗り遅れただけなのに、平土間の、猛烈に後ろの、
猛烈に端寄りの座席しか残っておらず(特に二人分のチケットを取ろうとすると
こういうことになりがちで、だから私はオペラでは常に単独行動を好むのです。)、
しかも、メトに到着してみれば、大入りの大入りで、スタンディング・ルームまで、
ぎっしりとオーディエンスで埋まっています。
この特別な公演において、座席を持っているだけ幸せだと思え、ということなのです。
そして、実際に座って見ると、思ったほどには視界は悪くなく、
私はいつもどおり、オペラグラスなしで通しました。
さすがにダンサーの顔の表情までは見えないものの、体の動きは十分満足に見えます。
舞台下手側が端のカーテンに遮られるというのが唯一の難なのですが、
余程ダンサーが下手に寄らない限り、問題はありません。
しかし、この”余程ダンサーが下手に寄らない限り”の、その”余程”が、後に、
超肝心なところで起きてしまい、Madokakipは歯が折れるかと思う位、歯軋りをして悔しがることになるのですが。
そして、遂に、私の連れがオペラグラスを握りしめる中、音楽がスタート。

そういえばプリ・シアターのディナーの席であがったもう一つの話題が、
このおむすび、いえ、オームズビー・ウィルキンズの指揮。
彼の指揮はひどい!という線でM子師匠と私は激しく意見が一致したのですが、
リハで、ダンサーが”テンポが少し速すぎるのですが、、”と、
もう少し遅めにしてほしい、ということを婉曲的に伝えようとしたところ、
おむすびが”速くなんてない!”と一喝したという話もあるそう。
っていうか、踊るのはダンサーであって、あんたじゃないでしょうが!
オペラでも同じなんですが、ダンサーがついて踊れない、歌手がついて歌いにくいテンポで振って、
指揮者も一体何の得になるんだか?って話です。
いやですね、こういう自己満足な指揮者。
そんな単純なテンポの設定からはじまって、私の連れにも、
”何だか音楽との距離を感じる(detached)指揮だなあ”と言われてしまう始末。
この人が首席指揮者みたいなんですが、
もうちょっとましな人にそろそろ変わってもらう時期なんじゃないかと思います。

それから、遠目で見てもやっぱり苦笑させられるのが、イントロダクションの場面の、
半魚人ロットバルトがオデットを白鳥にして生け捕る、”おまる生け捕り”のシーン。
昨日の公演のレポの追記で、M子師匠がおっしゃっているところの、
”ちんどん屋的舞台”と呼ばれる由縁の一例がここにあります。

しかし、それをものともしない孤高の存在感を感じさせるのがニーナ。
登場した瞬間に割れんばかりの拍手が。
”くるくる”回りながら、ロットバルトの魔法にかかり、白鳥の姿に変えられることを表現する最初の場面から、
彼女のものすごい気迫が伝わってきます。
彼女の繰り出す一つ一つの振付の要素が、すべて、これで最後、、。
そう思うと、見ているこちらも気持ちが引き締まる思いです。

コレーラは2006年のメト(オペラの方)の『ジョコンダ』でのゲスト出演時や
(ああ、あの頃はコレーラの名前すら知らなかった、、)
2007年のヴィシニョーワとの『ロミオとジュリエット』で観た強烈にキレのある踊りに比べると、
昨年あたりから、その持ち味であるキレのよさに若干の翳りが出てきているように感じるのですが、
今日も前半は、彼にしてはやや重いかんじがしました。
しかし、ベンノたちが踊るのを見守るシーンでは、
一瞬だけ連れのオペラグラスを奪い取って、彼の表情をアップで見た所、
浮かない表情をきちんと浮かべていて、昨日のボッレよりは濃い演技を繰り広げています。
(ボッレより薄味だったらそれはちょっとやばいのですが。)

今日のベンノはサヴェリエフ。
うーん、私は彼の踊りが好きでないんですね、きっと。
脇でよく登用されているところを見ると技術は安定しているのかもしれませんが、
彼の踊りには観客の心をわくわくさせるものに欠けているように思います。
昨日のロットバルトは”いるだけのロットバルト”などという辛辣なコメントを発してしまいましたが、
今日は今日で、”いるだけのベンノ”、、
ベンノ役に関しては昨日マシューズの代役を務めたホーヴェンの方がずっと生き生きしていて素敵でした。
いや、彼のみでなく、パ・ド・トロワ全体(サヴェリエフにパヴァ、メスマーを加えたコンビ)としても、
昨日のチームの方がこのシーンが持つわくわく感が多少なりとも表現されていたと思います。

毎年思うのですが、後に続く農民の群舞のシーン(ポロネーズ)は、
割と若手のダンサーが多いんでしょうか?
時に目を覆いたくなるような人が混じっていて困ります。
ステップが適当な(というか、細かい部分を勝手に省略している)人までいるのには、本当にがっかり。

一幕のフィナーレでの、ジークフリートとベンノのシーンは、
昨日のボッレとホーヴェンの二人のフレッシュな二人も悪くないと思ったのですが、
やはり、こうしてコレーラの表現を見るとやはり年季が違うな、と実感。
ジークフリートの焦燥感を心もち前寄りにテンポをとることで、的確に表現しています。
このような微妙な匙加減というのは、センスの問題で、訓練してどうなる、というものでもないのかもしれませんが。

そして、二幕でニーナが登場すると、まるでオペラハウス全体が固唾を呑んで見守っているような、
息苦しいまでの沈黙が訪れました。
というのが、彼女の表現一つ一つが実に濃く、かつ研ぎ澄まされていて、
本当にナノ・セカンドですら、目を離すことができないからです。
昨年、ゴメスと共演した『白鳥』では、聖母のような愛を感じさせるオデットでしたが、
今回は、ニーナ特有の大らかさや優しさに加えて(特に腕の使い方から、私はそれを感じます)、
より、凛とした様子、それから、もう少し言えば、オデットの孤独さが滲み出るような踊りです。



ジークフリートとの間に感じる空気も、明らかにゴメスと組んだ時とは違っていて、
その時のオデットよりも今回は聖母度は低く、よりジークフリートと対等な感じのするオデットです。
前回が、ジークフリートを、彼の過ちも含めていつも大きい愛で包んでいる感じなのに比べると、
今回のオデットは、ジークフリートと同様に、彼女も迷い、傷つき、絶望するオデットなのです。

インターミッション中にM子師匠が、ニーナについて、
昨シーズンよりも体が絞られたような気がする、とおっしゃっていましたが、
ビジュアルに加え、彼女の踊りと表現からも、それが感じられました。
踊りに関しては、昨年よりシャープになったような印象があり、
それがまた、今回、彼女が表現しようとしているオデット像にとても上手くはまっています。

ゴメスとの公演では、ジークフリートのことがいとおしくてたまらず、
最初から彼に全身全霊を投げ出している、という感じのオデットでしたが、
なぜか、今回は、ジークフリートに魅かれているのに、
どこか恋に踏み込めないような雰囲気があって、それは、第二幕の最大の見所の一つである、
ジークフリートとオデットの二人で踊るパ・ダクシオンにその切なさが炸裂していました。
コレーラはさすがにニーナがどのように踊りたいかを敏感に察知し、
二人の思いの熱さではなく、何かが二人が結ばれるのを阻んでいる、その”冷たさ”と"悲しさ"を表現するために、
非常に巧みなサポートを見せています。

私は最初、これが、オデットの”白鳥に変えられた自分には恋なんて無理なのよ。”という
あきらめゆえの表現なのか、と思っていましたが、とんでもない!
ニーナがもっと大きな企みをもって、この部分をこのように演じていたことが後半にあきらかになるのです。

後編では、そのニーナの企みと、それを可能にした恐るべきものは何であったか、を暴きます!

後編に続く>


Nina Ananiashvili (Odette/Odile)
Angel Corella (Prince Seigfried)
Isaac Stappas/Marcelo Gomes (von Rothbart)
Gennadi Saveliev (Benno)
Georgina Parkinson (The Queen Mother)
Renata Pava, Simone Messmer (Two girls from Act I Pas de Trois)
Yuriko Kajiya, Marian Butler, Misty Copeland, Maria Riccetto (Cygnettes)
Leann Underwood, Melanie Hamrick (Two Swans)
Victor Barbee (Master of Ceremonies)
Misty Copeland (The Hungarian Princess)
Sarah Lane (The Spanish Princess)
Anne Milewski (The Italian Princess)
Isabella Boylston (The Polish Princess)
Blaine Hoven, Grant DeLong (Neapolitan)


Music: Peter Ilyitch Tchaikovsky
Choreography: Kevin McKenzie after Marius Petipa and Lev Ivanov
Conductor: Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
Orch BB Odd

***白鳥の湖 Swan Lake***

SWAN LAKE - ABT (Fri, Jun 26, 2009)

2009-06-26 | バレエ
22日からの一週間、ABTの上演演目は『白鳥の湖』。
フェリのさよなら公演の時のような、チケットを準備し損ねる、という頓馬な真似はできない!と、
(あの時は幸運の女神が微笑んだからよかったようなものの、、)
土曜の夜のニーナのフェアウェル公演は事前にチケットも抑えて、
月曜から心の準備に励んでいたところ、ローカルのバレエの師匠からお電話をいただきました。
私にはありがたいことに、バレエについては日本(yol嬢)とここNY(M子さん)の二箇所に
バレエ鑑賞の師匠がおりまして、いってみれば私は超英才教育を受けているのであります。
その割に出来の悪い生徒ですみません

で、M子師匠は以前から、ぜひ私にヴェロニカ・パルトのパフォーマンスを観て欲しい、とおっしゃっていて、
それは、金曜のパルト&ボッレの『白鳥の湖』を観ませんか?というお誘いのお電話だったのです。
パルトは何度か準主役や脇で踊るのは見た事があるのですが、
”なんだかやたら背の高いバレリーナ”という印象が強くて、
実は一部の人たちの間にはカリスマ的人気を誇る彼女なのですが、
私自身は、まだ彼女の一番いいところを観ていない気がする、、。
それが、『白鳥』でオデット/オディール役を演じるというのですから、これを見逃す手はありません。

彼女はそのカリスマ的人気の一方で、表現力の確かさに比し、若干テクニックが不安定、
いい時と悪いときの差が大きいとも言われており、
それが原因の一つか、なかなかプリンシパルになれず、一時はABTを脱けるのではないか?という噂まであったのですが、
ABTに入団して7年目の今年、やっとプリンシパルの座を手に入れた彼女ですから、
今日の公演には気合が入っているはずです!

さらにパルトに気合が入るである理由のもう一つはジークフリート役のボッレ。
ボッレといえば、スカラ座でアラーニャを辱めた超美形ダンサーで、バレエ・ファン、特に女子からの人気はすさまじい。
ま、こんな美男子に年甲斐もなく嫉妬したアラーニャの方が身の程知らずだったとも言えるでしょう。

顔はこんなで、


体はこんな。


いかにアラーニャの嫉妬が向こう見ずだったかということがよくわかる、、。

そのボッレ様がABTの舞台に初めて立ったのは、既述のフェリのさよなら公演ですが、
あれから二年経った今年のメト・シーズンより、
彼もプリンシパルとしてABTに入団することになりました。
ということで、今日は新プリンシパル同士の共演、ということになります。

ABTの『白鳥』は序奏の部分で半魚人の方のロットバルト(舞踏会の場面を踊るのは
別のダンサーで、二人一役。)がオデットを捕らえて白鳥にする場面が描かれているので、
ほんの短い間ですが、パルトが登場します。
うーん、やっぱり、でかい!!
私は彼女に関してはちょっとバレエのダンサーにしては背が高すぎるような気がしていて、
ジゼル役やジュリエット役はなんだか想像がつきません。
この二つの役は、私の勝手な思い込みかもしれませんが、小柄な女性、というイメージがあるので、、。

バレエはビジュアルの比重が大きいアート・フォームなので、
オペラでは顔なんて見えなくてもどうでもよい!とまで思っている私なのですが、
バレエはできればダンサーの表情も見たい!
それが、今日はM子師匠が舞台に至近距離の座席を手配してくださったので、
ダンサーの表情が怖いくらいよく見える。
そればかりか、第一幕では、ボッレのお尻も目の前に。ぽよん!

そんな至近距離なので、パルトがすっと舞台から消えた後に、半魚人のロットバルトが、
毛で出来たおまるのような白鳥(=オデットの化身)を抱えて出て来た時には、ちょっとぎょっとしました。
私は超がつく動物愛護の人なので、本物の白鳥の剥製を使うのは論外ですが、
このあまりに白鳥らしくない小道具もどうかと思う、、。
いや、別にこのような具体的な小道具がなくても十分にこのシーンの持つ意味を表現できるんじゃないかな?
しばしば批判の多い、ABTのマッケンジー版ですが、振付の良し悪しといったバレエ特有の点以外でも、
この、稚拙な舞台づくりが批判のタネの一部になっていることは疑いの余地がないように思います。

ボッレはやはり華があるというのか、舞台に現れた瞬間、
舞台が明るくなるような、独特の存在感があります。
しかし、バレエもオペラもそうなんですが、本人のカリスマだけで持たせるには限度というものがあって、
美は細部に宿る、と言いますが、ボッレはその細部の詰めがやや甘く、
そのせいで、せっかく盛り上がった緊張の糸が、ゆるんでしまうのが残念です。
舞台芸術は一瞬一瞬が綱渡り。
もちろん、いつ失敗してもおかしくありません!という文字通りの綱渡りでは困るのですが、
そうではなくて、一つ一つの技を最高の状態で繰り出されるのを目にする、耳にする、
その緊張感が舞台芸術の醍醐味なわけで、真に優れたダンサーや歌手、演奏家のパフォーマンスからは、
必ずそういった至高の緊張感を感じるものです。
で、またバレタマンの女子に刺し殺されるのを覚悟で言うと、私はボッレからそれをあまり感じない、、。
フェリのフェアウェルの時も、そして今日も、なぜか彼の踊りからは”微妙なゆるさ”を感じてしまうのです。
ちなみに、今、ABTで最も緩みのない男性ダンサーはダックス王子ゴメスであることに疑いはなく、
そのあまりの緊張感に呼吸困難を感じるほどの細部への異常なこだわり、演じることへの執着、、、
私がゴメスを同じ演目でも何度でも観たくなる理由はそこにあります。

逆にボッレの美点は、緩んでいるのかと思いきや、突然軽やかかつ優雅に技を決めてくる点で、
もしかするとこの涼やかさが、ゴメスの呼吸困難喚起系の踊りの対極にある、
彼のアピール・ポイントなのかもしれません。
そういえば、体のつくりも、こうして至近距離で見ると、ボッレは男性にしては、
筋肉質ながらも割と細作りなような、、。

ボッレは演技の方も私の好みに比すと若干淡白で、例えば一幕で、
母親に”あなたもそろそろ結婚を、、”と言われてしまう後のジークフリートの表情も、
少し表情に影が入る程度で、”ちょっと心にひっかかるヤなことが出来てしまったな。”という位の表現にとどまっています。

ジークフリートの友人ベンノ役はコール・ドのホーヴェンが予定されていたマシューズの代わりに入りましたが、
隅々に神経を行き届かせようとする意図が伝わる踊りで、私は好感を持ちました。
彼を含むパ・ド・トロワでむしろ気になったのは女性の方。
リッチェットとアブレラという、この辺りの役を踊るには十分に力があるはずの二人で、
このパもきっとこれまで何度も踊って来たのではないか、と推察するのですが、
腕の動きが硬くて色気がないのが気になります。
特に二人ともダンサーとしても、痩せている方の部類に入るので、
一歩間違うと痩せぎすの色気のない村娘、に見えてしまう危険大。
この日は、そのあたり、非常に危ういところを漂っていたと思います。
また、ホーヴェンと片方の女性ダンサー(おそらくリッチェット)の息はぴったりなのに、
もう一人の女性ダンサーが息が合っていないのも気になりました。
いつも思うのですが、この3人というのは魔の数字で、結構コンビネーションのあらが目立つ難しい人数だと思います。

さっき、私の好みには薄味過ぎる、と文句をつけてしまったボッレの演技ですが、
一幕から二幕への橋渡し部分にあたる、ベンノがジークフリートを森の中に追ってくる部分、
この場面で、ベンノはジークフリートの母親がジークフリートに贈った弓矢を持って
ジークフリートを追いかけてくるのですが、
この後に続くやりとりを、私はこれまで恥ずかしながら、単純に、
ベンノ:”これで獲物でもとって楽しんで来いよ!”
ジークフリート:”いや、何か気が乗らなくってさ、、”という会話なのかと思っていたのですが、
とんでもない勘違いでした!!
この弓矢を使っての会話は、結婚相手の女性を定めて落とす、ということのメタファーだったんだ、、。
ですから、ベンノが執拗に、”いいからさー、絶対に楽しいからさー、狩に行って来いよ!!”と言っているように見えていたのは、
同時に、”まだその気にならなくっってさ、、”と煮え切らないジークフリートに、
”お前、まだそんなこと言ってんのかよ。自分の立場考えて、
そろそろ嫁さん決めろよ!”と突き放す友人の一言だったんだ、、と、今さらながら気付きました。
まだまだ一緒に遊んで愉快に過ごせると思っていた友人からこれを言われて
大ショック!なジークフリートが一層ブルーになる、
そこに、あの湖の畔でのオデットと運命の出会いが続くのです。
いや、オデットとの出会いこそは、ロットバルトの仕組んだ罠ではなかったか?
そんな隙間だらけの心理状態だから、ロットバルトにつけ入られるんだぞ!ジークフリート!!!
この場面をこんな風に解釈できることに気付いたのは、ボッレとホーヴェンの二人のおかげです。

しかし、何よりも今回の鑑賞の収穫はパルト。
フェリやニーナが引退をしてしまった・するのに伴って、
ボッレとゴメスの対比の部分でも書いたとおり、技がどれくらい正確に美しく決まっているか、ということよりも、
何がどのように表現されているか、という点に比重が寄った見方をしている私のような人間にとって心配なのは、
残るABTの女性ダンサーたちには、”淡白さん”タイプが多いように感じる点です。
(ジュリー・ケントは私に言わせると淡白さんタイプに入ってしまいます。)
そうでなければ、ヴィシニョーワのように、
逆に技を極限まで磨きあげ、それ自体から何かを生み出そうとするタイプのいずれか、、。
(技を突き詰めたところにドラマが生まれるデヴィーアの歌が好きな私ですから、
このようなタイプのダンサーも、ヴィシニョーワのように技が突き詰められていれば、
それはそれで好きなんですが。)

その中にあって、このパルトという人は少なくともこの『白鳥の湖』を観る限り、
役の器次第で、ものすごく濃密な表現が可能な人で、
ABTの他の女性プリンシパルとは全く違う個性を持っており、
ゆえに一部のファンにカリスマティックな人気があるのもよくわかります。
特に上半身の表現力は特筆もので、小さい役では背の高さゆえにドン臭そうな感じを与えてしまう彼女ですが、
このオデット/オディールのような大きな役で、同じ背の高さに表現力がコンビネーションで加わると、
どん臭さではなく、堂々とした大輪の花を思わせるようになるから不思議です。

特にニ幕のような、曲のテンポがゆったりした場面では、
同じ振付でも、足や腕の動きの直径が大きいので、小柄なダンサーが踊るときとは
全然違う振りに見えるほど、迫力があります。
また、一つ一つのポーズが言葉を発する、というのか、
彼女が何を表現したいのか、ということが的確に表現されていて、
この点においては、私好みの、実に表現の濃いダンサーです。

一方、技に関しての安定度が不足している、という前評判ですが、
この日の公演では安定度が不足している、というより、スタミナの問題かな、と感じました。
ニ幕は、私が観る限り、技が不安定に思われる場面は皆無でしたが、
三幕の舞踏会の場面の後半でややスタミナが切れたか、極細かいミスが見られるようになりました。
特に32回のフェッテの最後の一回の回転が足りなかったのは、とても残念。
こういうところがぴっちり決まると、ぐっと印象が上がるのですが、、。
それまでが綺麗だっただけに惜しまれます。
ただ、ヴィシニョーワのような、完璧な技を誇るタイプではもともとなく、
表現力やそのユニークさに強みのあるダンサーだとは思うのですが、
フェリ、ニーナの抜けた後を埋められる大きなダンサーになるには、
もう一回り、演技へのそれと同じくらいの、技術へのこだわりが出るといいな、と思います。



ここで、パルトについてまとめると、、

1.この背の高さはパートナーを選ぶ。
 ボッレくらいが相手で丁度いい感じ。
 ということは、カレーニョやコレーラのような背の高さの男性ダンサーが相手だと漫画のようになってしまう。

2.この背の高さはレパートリーを選ぶ。
 堂々としたヒロインは適役だけれど、村や町の小娘風はちょっとイメージが違うし、
 体の動きにも合わない気がする。

3.彼女の表現力はレパートリーを選ぶ。
 彼女の評価が分かれているというのは、大いに役のせいによると思う。
 私も脇の彼女を観たときはあまり強い印象を持たなかった。 
 完璧な技ではなく、個性的な表現力に強みのある彼女は、あまり表現の余地のない小さめの役では、
 本来の力が出ないと思う。

一言で言えば、もう一段高い技術へのこだわりが出れば、
一部の役に限定されはするかもしれませんが、
彼女は非常に面白い存在になるポテンシャルを持ったダンサーだと思います。

M子師匠からは彼女の白(オデット)はとてもいい!と聞いていて、実際危なげのないのは白の方だったのですが、
黒(オディール)になってからの妖艶さも捨てがたく、前述の細かいミスを除けば、
表現としてはいずれ甲乙つけ難い出来です。
三幕での、いたずらっ子のような表情でジークフリートを誘惑し、
”どう?あたし、やるでしょ?”という声が聞こえそうな表情でロットバルトと目配せしている様は、
彼に操られているというよりは、自ら進んで彼と組んでいるような積極性を感じさせ、面白い表現だと思いました。



また偏執的な意見ではあるのですが、私は彼女がポーズをとった時に残る後ろ足の
アーチが好きです。
ちょっと若干反り気味なんですが、なんともいえない色気と美しさがあって、、。

ボッレとのケミストリーは前半はどこかぴったりはまっていない感じもあったのですが、
後半に尻上がりによくなっていったように思います。
ただ、最初にも書いた通り、ボッレはもともと表現が涼やかなタイプで、
細かく、かつ濃い表現を身上とするパルトとはちょっとタイプが違うのかな、という気もします。
表現に於いてはゴメスと方向性が似ているように思うので、
来年、彼と組む演目があれば、ぜひ見てみたいです。

なお、私が座っている座席からは確認しづらかったのですが、
M子師匠によると、三幕の舞踏会のシーンは、
通常は舞台上で各国の招待客が踊るのをジークフリートが見ている、という設定なのですが、
今日のボッレは舞台脇にはけてしまっていたということなので、
もしかすると、この日の彼は万全なコンディションではなかったことも考えられます。

7/6からはいよいよABTのメト・シーズンの最終週となりますが、
『ロミオとジュリエット』を、ゴメスの回(ジュリエットはヴィシニョーワ)と
ボッレの回(ジュリエットはドヴォロヴェンコ)の二回、鑑賞する予定にしています。
M子師匠によれば、ロミオ役でのボッレは良い!ということなので、
ゴメスとの一騎打ちが楽しみです。

ついでのようで申し訳ないのですが、他の役にもふれておくと、
ナポリの踊りを踊ったサルステインとフィリップスの二人が元気だった以外は、
舞踏会のシーンで特に目を引いたキャストはなし。

非半魚人、つまり、舞踏会に出てきてジークフリート母まで眩惑させる、
いけてる方のロットバルトを演じたサヴェリエフ。
うーん、、、この人は身長に対して頭が占める比率が大きくて、
ダンサーとして、この先、特にノーブルな役を演じて行くとしたら、この体型がちょっとネックかもしれません。
踊りもミスはないのですが、どこといってあまり魅力的な部分もなく、
ぬるま湯のような温度感のパフォーマンスです。
きつい言い方ですが、いるだけのロットバルト、という感じでしょうか、、?

そして、半魚人の方のロットバルトを演じたズルビン。
昨シーズンよりもずっと表現が細かくなっていいます。
湖から浮き上がって来た13金のジェイソンも真っ青のあんな衣装で舞台に立たされて
この役を演じるダンサーには気の毒以外の何物でもないのですが、
実は最後の一番大切なシーンでその演技力を問われる大事な役でもあります。
彼は気を抜かず精進しているようで嬉しい限り。

コール・ドは、、、、。
何も言わないでおきましょう。

M子師匠に”終演後にボッレを出待ちしましょう!”と嬉しいお誘いを受けるも、
仕事からほとんど直行状態だったため、家でうちの息子たち(犬)が腹をすかせているので、
今回は残念ながらあきらめる。
明日のニーナのフェアウェル公演の前に、
M子師匠、師匠のご主人、私の連れの4人でプリ・シアターのお食事をする予定なので、
その時にゆっくり出待ちの様子を聞かせて頂くことを楽しみにすることにして。

ちなみに、M子師匠がボッレを追いかけるのは”一目ぼれ的”状態だからであり、
(この公演の少し前に某書店で開かれたボッレのサイン会にもきちんと参加されていて、
携帯電話に保存されたその時のボッレとのツー・ショット写真も見せて頂いた。)
ABTで最も好きな、かつ素晴らしいと思うダンサーは、”もちろん、マルセロ(・ゴメス)!”
好きの種類もちゃんと区別されておられるのである。さすが、my 師匠!!!

追記:当レポートをあげた後、M子師匠よりメールを頂きました。あまりにおかしく、かつ興味深い内容なので、抜粋をご紹介します。

”ブログで書いてあったこと、私も同意です!
ヴェロニカ(・パルト)は万能ではないの。アダージョは良いのだけれど、アレグロは駄目。
というのも、彼女は早く動けないから。(だって、、、彼女はでかいもの。)
『眠りの森の美女』ではひどかったという噂を聞きました(あのローズ・アダージョをしくじったらしい。)
どういうわけか、今年の彼女は去年ほどには良くなかったような気がしました。
それは、多分、パートナーの問題もあるかな。去年はマルセロ(・ゴメス)がパートナーだったのよね。
でも、彼女はポール・ド・ブラと足の伸びがすごく綺麗。
それから、私にも、ボッレは少し”淡白”です。
モデルみたいな顔なんだから、何でもっとそれを有効利用しないか!と思っちゃう。
そうそう、それからケヴィン・マッケンジーについても同意見で、
彼の手がける作品は、『白鳥の湖』だけでなく、全部大嫌い!
あれほど無才能で、カリスマに欠けた、給料泥棒のディレクターはいないと思う。
まじで、彼が関わると何もかもがちんどん屋みたいな舞台になるのよ!『白鳥』も例外じゃなく。
本当彼にはむかむかさせられることがたくさん!
ところで、ボッレとミシェル・ワイルズの『シルヴィア』を観たのだけれど、
彼らのケミストリーは、パルトとボッレのそれよりずっと良かったよ。
ワイルズに関しては、これまで観た出演作品・役の中でも最高だったんじゃないかな。
(中略)
昨日、マルセロ(・ゴメス)に道でばったり会ったから、
「あなたの方がボッレよりいいダンサーだわよ。」って言っといた(笑)!”

もう、本当に、my師匠、面白すぎます!!

(冒頭の写真はボッレとパルトのコンビのものが見つからないゆえ、
どさくさにまぎれて、ゴメスとパルトのペアを。)

Veronika Part (Odette/Odile)
Roberto Bolle (Prince Seigfried)
Roman Zhurbin/Gennadi Saveliev (von Rothbart)
Blaine Hoven replacing Jared Matthews (Benno)
Maria Bystrova (The Queen Mother)
Maria Riccetto, Stella Abrera (Two girls from Act I Pas de Trois)
Gemma Bond, Marian Butler, Anne Milewski, Jacquelyn Reyes (Cygnettes)
Simone Messmer, Nicola Curry (Two Swans)
Victor Barbee (Master of Ceremonies)
Misty Copeland replacing Melissa Thomas (The Hungarian Princess)
Leann Underwood (The Spanish Princess)
Renata Pavam (The Italian Princess)
Hee Seo (The Polish Princess)
Joseph Phillips, Craig Salstein (Neapolitan)

Music: Peter Ilyitch Tchaikovsky
Choreography: Kevin McKenzie after Marius Petipa and Lev Ivanov
Conductor: Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
Orch J→G Even

***白鳥の湖 Swan Lake***

SAVE THE DATE!! 2009年タッカー・ガラ出演者予定発表

2009-06-23 | お知らせ・その他
今日帰宅したら配達された郵便物のなかに”Save the Date!"(予定を明けておいてください!)
と印刷されたはがきが混じっていました。
差出人はリチャード・タッカー・ミュージック・ファンデーション。

ぎゃーっ!!!2009年のタッカー・ガラの出演者予定がいよいよ発表ですね!!!
そして、裏に列記されたラインアップを見て、私はクラクラ来そうになりました。

一言、”ほんとにこれ全員呼べるの??”
いや、呼べたらすごいです。
例年(2006年2007年2008年)タッカー・ガラはなかなか豪華な顔ぶれだとは思っていましたが、
その中でも、これは一介の(といっては失礼か?)ファンデーションが企画しているとは思えぬほど、
ここ数年で最も気合の入ったメンバーではないでしょうか?
一体、DVDでも作る気なのか?

では、はがきにあるとおりの順番で予定されている歌手をご紹介します。
(声種の表記はメトのシーズン・ブックのアーティスト・ロースターに拠っています。)

 アンナ・ネトレプコ(ソプラノ)



来ましたねー、いきなり。
彼女はもしかするとタッカー・ガラは初登場でしょうか?
彼女の歌にはいろいろ厳しい言葉を浴びせてしまう私ですが、それは別に彼女が嫌いだからではないんです。
力のある人間の手抜き。これが嫌いなだけで。
いずれにせよ、彼女のせいで、今年のガラのチケットが争奪戦になることは間違いなし。
気合を入れてなんとしてでもゲットせねば。

 ステファニー・ブライス(メゾ・ソプラノ)



メトの2008-9年では、『オルフェオとエウリディーチェ』に登場し、
ヴェルディ・メゾ系のイメージを覆し、器用なところを見せた彼女。
(彼女の器用さは2007-8年シーズンの『三部作』の三役連続歌唱でも証明済みでしたが。)
メトでヴェルディの諸役を一手に引き受けて来た感のあるザジックにも年齢の影が忍び寄り始めている今、
彼女がその代わりを埋める最右翼か?
その通り!と思わせるような力強い歌唱を期待してます。


 エリーナ・ガランチャ(メゾ・ソプラノ)



!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
2008-9年メト・シーズン最後のHD『チェネレントラ』でも大活躍だった彼女。
彼女の出演は、私、まじ、嬉しいです!!狂喜です!!
彼女もタッカー・ガラは初登場のはず。
何を歌ってくれるんでしょう?? 今から期待が高まります。
後注: 降板したゲオルギューに代わって大晦日からのメトの『カルメン』に登場するため、
ガランチャは『ホフマン物語』をキャンセルすることになりました。
『ホフマン』のリハーサルの時期がこのガラと重なっていたので登場が予定されていた彼女ですが、
スケジュールの変更に伴い、ガランチャのタッカー・ガラへの登場はキャンセルとなりました。残念!


 ジョセフ・カレイヤ (テノール)



つい最近メト新シーズンの『ホフマン物語』でヴィラゾンの代わりを務めることが発表されたカレイヤ。
ネトレプコ、ガランチャ、カレイヤ、、、
なるほど。よく考えてみれば、メトの『ホフマン物語』のリハーサル時期とこのガラが重なっているんですね。
メトのおこぼれ、、
いや、それでもいい!!どんどんガラに来て歌っておくれ!!
2008-9年シーズンは『リゴレット』のマントヴァ公『愛の妙薬』のネモリーノ
そして125周年記念ガラとメトでの出番が多かった彼。
気がつけばすっかり主力戦力になっているではないですか。いつの間に、、。

 ゼリコ・ルチーチ (バリトン)



なぜか異常に存在が地味なんですが、私は彼の歌、結構好きなんです。
昨年のタッカー・ガラに続き、二年連続の出場。
去年の『ドン・カルロ』からの”終わりの日は来た Per me giunto"、
そして『運命の力』からの二重唱、いずれも私は大変良いと思いました。
早くこれらの演目でメトに来てほしい!!
2008-9年シーズンの『トロヴァトーレ』のルーナも、歌唱に関しては、
私はホロストフスキーよりも、ルチーチの歌唱の方が好みでした。
(かっこよさはホロストフスキーに勝てるわけがない。そんな比較は野暮というものだからしない。)

 ジェームズ・モリス (バス)



あのインタビューの後、コメント欄で頂いた情報通り、
しっかりとヴォータンの槍をゲットした模様のモリス。(左からゲルプ支配人、レヴァイン、モリス)
こんな写真じゃ顔がわからん!と叱られそうですが、なぜだか彼はネット上でも
非常に限られた数の写真しか出回っていないので、とうとうネタぎれです。
インタビューの方に地顔(もちろんアイパッチ抜き)のアップの写真がありますのでご覧ください。
今年彼が出演した『ワルキューレ』当ブログのBest Momentsの、しかも大賞
いえ、今年のみならず、私の全鑑賞歴の中でも10本の指の中に必ず入る素晴らしい公演でした。
もし彼がこのガラでワーグナーを歌うようなことがあったら狂喜乱舞、
もしも『ワルキューレ』だったりしたら、そのままわたくし失神してあの世に行ってしまうかもしれません。

 ルネ・パペ(バス)



これは微妙ですねー。
おそらくガラにブッキングされた時はまだ『ホフマン物語』に出演する予定だったんでしょうが、
その『ホフマン』から降板することになった今、ガラはどうなってしまうのか。
理屈から言えば、『ホフマン』は病気ではなく、レパートリーに加えない、という理由での降板なので、
ガラに出場できないわけではなく、また、しても何ら咎められる理由はないのですが、、。
『ホフマン』の埋め合わせにNYのファンへのサービスとして出演してくれるのか、
もしくは、どかっと空いた日程を使って違うオペラハウスや演奏会に行ってしまうのか。
考えれば考えるほど、実に微妙なのです。
キャンセルしそうな最大候補。
後注:結局、パペは危ぶまれていた通り、その後、出演者リストから姿を消してしまいました。
こちらを参照ください。

 サミュエル・レイミー (バス)



、、、、どうしちゃったんでしょう、、レイミー、、。
このオペラ歌手と思えぬポートレイト。
私は新しい料理の鉄人かスティーブン・セガールのライバルかと思いましたよ。
これがまた彼のCD ”A Date with the Devil (悪魔とデート)”のジャケ写だと言うんだから驚きです。
こんなのCD屋で見たら、誰もが引きますって。
しかし、彼ほどの大歌手でありながら(2008-9年シーズンの『ドン・ジョヴァンニ』の
レポレッロ
もさすがでした。)、このユーモアのセンス!!
いや、もしかしてユーモアじゃなくてまじめなのか? よくわからないけれど、素敵!!
やっぱり”おじパワー”はいけてます!!!
しかし、去年、レイミーは予定出演者に入っていながら、
途中でさりげなくブリン・ターフェルにすりかわっていたのを思い出しました。
今年は出演してくれるかしら、、?

そして、忘れてはいけないのはこのガラのもう一つの大事な役目。
それはタッカー・ファンデーションが毎年選ぶタッカー賞の受賞者による歌唱を披露する場。
すでにモントリオールの『ルチア』のレポートの中でもご紹介した通り、
2009年のリチャード・タッカー賞の受賞者は、、、

 スティーヴン・コステロ (テノール)



メト2007-8年シーズンの『ルチア』でのアルトゥーロ役で初めて彼を聴いて以来、
密かに応援して参りました。
フィラデルフィアに足をのばしモントリオールでは劇的な運命を感じ、、。
しかし、このフィラデルフィアとモントリオールでの歌唱は
私が魅了された彼の歌とは違った方向に進まんとしているような気がして残念な限り。
ここが正念場、タッカー賞受賞者として大事なこのガラの場で彼の良さを発揮してほしいです。
がんばれ!

そして、もう一人忘れてならない人がいました。

 ファビオ・ルイージ (指揮者)



こう言っては何ですが、歌手の顔ぶれの豪華さに比し、
例年、フィッシュとかロヴァリスとか、指揮者の方がちょっと落ちる感じがあったのが唯一の不満と言えば不満でした。
せっかくメト・オケが演奏するんだから、もうちょっといい指揮者を呼んでくれよ、という、、。
しかし、今年はこれは楽しみ!!
ルイージがメト・オケを振るのは、確か2006-7年シーズンの『トゥーランドット』以来!!
メト新シーズンの全幕では『エレクトラ』の指揮も予定されています。

これで現在予定されている歌手及び指揮者として具体的に名前が挙がっている全てですが、
その後ろにmany moreの文字があるので、まだまだ他にも出演してくれる歌手が追加になるかもしれません。

ただ、ここで忘れてならないのは、ここ数年、予定通りの出演者で当日を迎えたことがないこと。
2008年のガラでは、レイミーからターフェルに変更になったのは先に書いた通りですし、
ヘイ・キョン・ホンの出演が予定されていたのがキャンセルになっています。
さらに2007年のガラでは、ターフェル→ドバー、ザジック→ディンティーノという
ちょっとがっかりな交代もあれば、
グラハム→ディドナートという、総客大喜びの交代もありました。

なので、2009年のガラがどうなるかはまだまだわかりません。
変更等あれば気が付いた範囲で取り上げて行きたいと思います。

肝心な日時は2009年11月22日(日)の夜6時から。
場所はエイヴリー・フィッシャー・ホール。
Save the date!です。

(冒頭の写真はリチャード・タッカー。)

OPERAx3 BEST MOMENTS AWARDS 2008-2009

2009-06-20 | お知らせ・その他
2006-2007年2007-2008年シーズンに続き、今年もやって来た当ブログ版”ゆく年くる年”、
Best Moments Awardsの発表です。
今シーズン、最も印象に残った演奏を一本、大賞とし、
その大賞を含め、”これぞオペラを観る喜び!”と感じさせてくれる瞬間があった公演を振り返る企画。
対象は生で鑑賞した、メトのオペラの舞台とします。

過去二年と比べ、今年は大賞に何の迷いもなく選べるダントツの一本があった一方で、
残りのBest Momentsの選択が難航。
その難航ぶりをよく伝えるため、例年は最後に大賞の公演をご紹介しているのですが、
今シーズンは少し趣向を変え、いきなり大賞からいきます!

幕が降りた瞬間に、”もう今年のBest Momentsの大賞はこれしかない!”と確信を持った
その公演とは、今シーズンのリング第1サイクルの『ワルキューレ』(4月11日)
多くのオペラ・ファンたちに”理想的な演出の一つ”として敬愛されてきたオットー・シェンクのプロダクションが
とうとう今年で姿を消してしまうこともあり、ヘッズたちのリング・サイクル自体への熱気と
シェンク演出へのノスタルジックな気分が妖気のように漂っていた今年のリング・サイクル。
その一方でキャスティングでは思わぬ災厄が続き、
ブリュンヒルデはブリューワーから直前にテオリンに交代。
そして、ジークフリートはなんと当日にボータからレーマンに交代。
ところが、ベテランのマイヤーらの歌唱に混じって、彼らが大健闘を見せました。


(ブリュンヒルデ役のテオリンとヴォータン役のモリス)

しかし、なんといってもこの公演ですばらしかったのはジェームズ・モリス!!
ここ数年声の衰えが指摘されている彼ですが、あの最後のヴォータンの告別は、
ヴォータンという役とモリスという歌手が不可分になった歌唱で、
歌手として、あんな風に舞台で役を生きられるのは最高の喜びなのではないかと思います。

メトのシェンクの演出はDVDにもなっていて、ヴォータン役も同じモリス。
ベーレンスがブリュンヒルデ役を歌ったこのDVDの収録時から今回の公演は約20年を経ています。
今あらためてその映像を見ながらこの文章を書いていますが、
モリスに関しては、純粋に声の面ではほとんど彼のプライムと言ってよい時期のDVDの映像と比べてなお、
私は今シーズンのこの公演をとります。

同じ役を歌い続けた歌手の、それも一部の人しか辿り着けない特別なレベルに達している彼の歌唱を、
メトの大舞台に広がるシェンクによるワーグナーの世界をバックに聴けたのはこのうえない幸せでした。



今でもこの日の公演を思い出すと、
”さらば、勇敢で素晴らしい我が子よ Leb' wohl, du kuhnes, herrliches Kind!"の歌い出しで感じた、
今日の公演は特別なものになる、という不思議なオーラを追体験し、
ヴォータンがブリュンヒルデを抱きしめる瞬間の、
20年前の公演とは比べ物にならないほど巧みに、うちからほとばしるような娘への愛情を
ひしっとテオリンを抱きしめる姿に表現したモリスのヴォータンに涙し、
”Der Augen leuchtendes Paar お前の輝く瞳に”で一言一言優しくかみしめるように歌うフレーズに鼻水をたれ、、
この繰り返しです。
今でもこの告別のシーンに関しては、観たもの聴いたものをすべて頭でプレイバックできるほど、
それくらい強烈に、頭に、心に、刻み込まれています。



公演の頭でやや不安定だったオケもこのラストは大爆発。
やがて炎と舞い上がる煙に包まれる舞台、、。
作品そのものと、歌手、指揮、オケ、演出、大道具や照明などのすべてのスタッフらが
同じ方向を向いて作り上げた世界に、身と心を任せる。
これこそ、オペラを観る究極の喜びです!!!
一生忘れることのない、素晴らしい公演でした。
また、リングの別サイクルのシリウスの放送中、インターミッションのインタビューにモリスが登場し
リングについてのエピソードや、彼のヴォータン役の捉え方などを披露してくれたのも
この素晴らしい公演を観た後だったため、一層感慨深かったです。

この超ド級の公演が出るまで大賞最右翼だったのが『ファウストの劫罰』(11月29日)
日本のサイトウ・キネンでもかかったロバート・ルパージ(ロベール・ルパージュ)の演出のリサイクルは、
NYのヘッズ間には賛否両論(どちらかというと否が多し。)を巻き起こしましたが、
私は”賛”派。



映像の多用と、観客をトリップさせるような複数の人物による動きの執拗なまでの繰り返しなどに、
否の意見が集中していたようですが、私は一回の鑑賞だけではとても消化できない
この情報の多さこそが、同演出の魅力だと思いました。
シェンクに変わって次のリングの演出を担当することが決定しているのがルパージ。
シェンク派のヘッズからは、”くだらないものを作りやがったら半殺しにしてやる!”くらいな勢いで、
ルパージの登用を案ずる声が出ていますが、私はもしかすると彼は
面白いものを作ってくれるかもしれない、と期待しています。

また、一年を通して演目単位で最もオケの演奏が優れていたと私が感じたのが
この『劫罰』で、メト・オケの長所が大いに出ていたと思います。

演出、オケ、合唱の勢いに比べて、明暗がはっきりしていたのが歌手陣。
ジョン・レリエーは私が今まで見た人の良いキャラクターから一転、
ゲームでファウストを落として喜ぶような、スタイリッシュで冷徹なメフィストフェレスを、
彼のトレード・マークといってよい、ばりばりと響く深い声で好演。


(メフィスト役のレリエー)

肝心の主役のファウスト役を歌うマルチェッロ・ジョルダーニが
あいかわらず声が荒れているのが気になりましたが、
それを補ってあまりあったのがスーザン・グラハム。
今まで押して押しての一点張りで苦手だった彼女の歌唱ですが、
初めて彼女の歌を聴いて、ああ、いいな、と感じたのがこの公演でのマルグリート役です。


(マルグリート役のグラハム)

ライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)に収録された11月22日の公演でも確認されるように、
特に”燃える恋の思いに D'amour l'ardente flamme ”での歌唱が良いです。
たった一つbest momentを選ぶなら、美しいイングリッシュ・ホルンのソロ
(オケのディアス氏がいつもどおり、素晴らしい演奏を披露しています!)と
彼女の歌声が感動的なこのマルグリートのロマンスでしょう。

ちなみに、HDの公演からそのロマンスの部分をYou Tubeにあげてくださっている方がいるので、
こちらで紹介しておきます。




はぁ、、、何度聴いても心を打つ曲/歌唱/演奏です

また、この曲以外にもファウストの地獄落ちのシーンから、合唱が意味不明の言語
(悪魔の言葉ということで、そのようにわざと書かれている。)で歌いまくる場面、
それからマルグリートが天に召されていく部分の美しさ、など、プチ best momentsが一杯。
何よりベルリオーズの音楽の素晴らしさが生きていたのがこの公演が評価されるべき点だと思います。
(生かされないとどうなるかは、こちらのフィラデルフィア管の演奏会についてのレポをどうぞ。)


さて、ここ以降が選考が難航するところで、まともな選考基準ですと、5月9日の『チェネレントラ』
4月24日の『ドン・ジョヴァンニ』12月31日の『つばめ』
特殊な選考基準では、4月4日の『愛の妙薬』4月25日のBキャストによる『トロヴァトーレ』など、
公演全体として印象深かったものはあるのですが、
Best Momentsという観点から考えて頭一つ図抜けていたのは、
クーラへの見方を全く変えることになった4月10日の『カヴ・パグ
(カヴァレリア・ルスティカーナ/道化師)』の公演で、特に『道化師』の方。

クーラに関しては、10年前位から、ラダメス(『アイーダ』)、カヴァラドッシ(『トスカ』)、
トゥリッドゥ(『カヴ』)など、複数の役で生を聴いているのですが、
歌があまりに力任せに聴こえることが多く、巷での彼に対する評判に疑問を感じるようになった私は
徐々に彼を目当てに公演を観に行くということが少なくなっていたのですが、
Aキャストのアラーニャの歌唱が冗談かと思うほどひどかったのとは対照的に、
『道化師』のカニオ役でのクーラは、光り輝いていました。


(『カヴ』から、サントゥッツァ役のコムロジとトゥリッドゥ役のクーラ)

役に合った声質と歌唱に、妥協のない役作り。
若干若々しい感じのするカニオですが、側に寄っただけで、ぱっくりとかみそり傷をつけられそうな、
鋭さとぴりぴり感が漂い、実に怖いDV(ドメスティック・バイオレンス)系のカニオで、
ニコニコしているときですら、時限爆弾のような、いつ爆発するかわからない雰囲気が漂っていて、
観客までびくびくしてしまいます。

10年前に比べると、歌が実に丁寧になった印象で(か、たまたま私が昔聴いた彼の公演が
コンディションの悪い日だったのか、、?)
彼の”衣裳をつけろ Vesti la giubba"を聴くと、今こういう風にこの曲を歌えるテノールは他に皆無か、
いても実に数が少ないのではないかと思います。


(”衣裳をつけろ”を歌うクーラ)

さらに凄いのはこの曲からラストまで、どんどん歌と芝居のテンションがあがっていくところで、
彼がネッダを追い詰め、刺し殺すまで、息もつけません。
そして最後の"La commedia e finita 喜劇は終わりだ”の台詞のなんとセンスのあることよ!
クーラは、カーテン・コールでも客に媚びない強面のまんまで、かっこよさ満点でした。

というわけで、今年のBest Moments Awards、全幕の公演からはたった三公演の選択となりました。
しかし、今回はおまけを。

ガラで歌われる歌唱を全幕と同列で比べることには少し抵抗があるのですが、
3月15日の125周年記念ガラから、ドミンゴとハンプソンがタッグを組んだ『パルシファル』からの抜粋で、
”哀しや、哀しや、この身の上!~願いをかなえる武器はただ一つ Ja, Wehe! Wehe!...Nur eine Waffe taugt"。
いつもの自意識過剰なハンプソンはどこへやらの謙虚な歌唱と、
あの年齢でなお後続の歌手たちを圧倒する歌声と存在感のドミンゴ。
抜粋と思えないテンションの高いパフォーマンスに、”ああ、これが全幕だったら、、”と
どれほど思ったことか!
この部分については全くオフィシャルの写真がないので、
You Tubeに掲載され、メトからクレームがついて引き摺り下ろされ、と、
いたちごっこを続けている、ヘッズが手持ちのカメラで撮影したと思しき海賊映像からの写真を。
いい歌というのはヘボい録音も録画も越えるという見本のような映像ですので、
いたちごっこの隙間にYou Tubeでポスティングを発見した方は、ぜひご一聴ください。
(そんないたちごっこの状態ですので、リンクを張っても意味がないので、やめておきます。)



そういえば、『ワルキューレ』のモリス、『ドン・ジョヴァンニ』のレイミー(レポレッロ役)、
そしてこのドミンゴ、と、今シーズンはおじんパワー炸裂の年でもありました。
衰えが進む自らの声に臆することなく、何かを表現するという挑戦心と強靭な意思が美しい。
おじん、万歳!!なのです。

(冒頭の写真はヴォータン役を歌うモリス。)

『ホフマン物語』 ヴィラゾンの代役はカレイヤに決定、そしてパペ、キャンセル。

2009-06-18 | お知らせ・その他
毎シーズン、必ず一本か二本、大きなキャスト・チェンジが必要となる、
”呪われた演目”が混じっているのが常のメトですが、
来る2009-10年シーズンで早くも”問題児化”しているのが『ホフマン物語』。

ヴィラゾン、ネトレプコ、ガランチャ、そしてパペという、クアドループル的キャスティングで、
ゲルプ支配人としては、新シーズン最も客を呼べる勝算のもとに企画したはずだった
新演出のこの作品が大変なことになってます。

まず、2008-9年シーズンの『ルチア』事件(最初の二回だけ歌い、残りはキャンセル)
そして『愛の妙薬』からの完全撤退事件を経て、
メトのシーズン後に喉の手術を受けるらしいことが発覚したヴィラゾン。
術後療養も兼ね、メトの『ホフマン物語』への出演は取りやめることがすでに発表されていましたが、
キャストの変更は、かねがね噂があった通り、ジョセフ・カレイヤ(写真)で結末を見ました。
(メトやOpera Newsのサイトで発表されていますので、正式決定です。)

現在の時点ではヴィラゾンよりも地味な感があるカレイヤですが、
2008-9年シーズンの『リゴレット』、そして『愛の妙薬』での安定した歌唱が評価を受けての大抜擢のようです。
(もちろん、スケジュールの都合がついた、という実際的な理由もあるでしょうが。)
『ホフマン物語』はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の対象演目でもありますので、
これは彼にとっても大きなチャンス。
コンディションが良い時の彼は、凛とした声でとってもいい歌を聴かせるので、期待したいと思います。

一方、ヴィラゾンが降板して、看板演目という前評判に傷がついたのが気に入らないのか、
すっかりやる気をなくしてヤな感じなのがパペ。
同演目で四つの曲者役(リンドルフ、コッペリウス、ダぺルトゥット、ミラクル博士)で登場予定だった彼ですが、
結局、”これらの役をレパートリーに入れないことにした”という何じゃそりゃ?な理由で降板を表明。
代わりに歌うのは、2007-8年シーズンの『ヘンゼルとグレーテル』
父親ペーター役を歌った声のでかい男、アラン・ヘルドだそうです。
パペは役によっては素晴らしい歌唱をきかせる歌手だとは思いますが、
最近とみに、真剣勝負で歌ってくれる時と、そうでない時の落差が激しく、
2007-8年シーズンの『マクベス』では、バンクォーのような、
今さらなぜその役を歌う?というようなものまで歌っているので、
今回のキャンセル発表はアーティスティックな理由だけではないのではないか、と、
当ブログは疑念の目を向けます。

一方の女子陣は、現在のところ、当初からキャスティングされていた
ネトレプコ、グバノーワ、キム、ガランチャという布陣通り変わらず。
しかし、ネトレプコは今シーズンの『ルチア』のように、本番で爆弾を落とすかもしれないですから、
公演当日まで全く気が抜けない『ホフマン』です。

GISELLE - ABT (Mon, Jun 8, 2009)

2009-06-08 | バレエ
ABTの公演、それから昨年のマリインスキーのNY公演、、
(なにげにニューヨークシティバレエの『ロミ・ジュリ』は除外。)
友人yol嬢の導きにより数年前にやっとバレエ鑑賞の戸口に立ったばかりの人間にしては、
ほとんど身の程知らずといってもよいような素晴らしいものばかりに触れる機会を与えられている私は
考えてみると本当にラッキーです。

フェリの全幕さよなら公演コレーラとヴィシニョーワの『ロミ・ジュリ』
ロパートキナの瀕死の白鳥など、今まで鑑賞した思い出深い公演・演目の中で、
しかし、もう一度だけ同じ公演をタイム・スリップして見せてあげよう、と言われたら、
迷わず私が選ぶであろう公演は昨シーズンの、
ニーナ・アナニアシヴィリとホセ・マヌエル・カレーニョのコンビの『ジゼル』です。



私はそもそもこの作品が大好きなんだと思います。というのも、個人的に、一番オペラの、
いや、”オペラの優れた公演”を観ているときの感覚に近くなるバレエ作品がこの『ジゼル』なのです。

『白鳥の湖』を作曲したチャイコフスキーが『オネーギン』や『スペードの女王』、
バレエの『ロミオとジュリエット』を作曲したプロコフィエフは『戦争と平和』という、
オペラのレパートリーでも優れた作品を残しているのに比べ、
この『ジゼル』を作曲したアダンのオペラの作品の名前を挙げられる人って、
ヘッズの中にもそうたくさんはいないんじゃないでしょうか?
実は40近い数のオペラ作品を残しているそうなんですが、代表作が、
『我もし王なりせば Si j'etais roi』、、、、って、そんな作品知らん。

なのに、なぜそのアダンの『ジゼル』から私が最もオペラっぽさを感じるのか。
多くの人がバレエ作品におけるチャイコフスキーの音楽を褒め讃え、
私の連れもその一人で、『白鳥の湖』を観るといつも泣いてますが、
その感じは私には少し、ヴェルディとかワーグナーの、歌手がイマイチでも、
音楽そのものがある程度公演をひっぱって行ってくれるあの感じに似ているように思えます。
その点、アダンの作品は、オペラで言うとベル・カント。
音楽だけで観客をひっぱることはできないかもしれませんが、
素晴らしい踊りと一緒になったときの、その効果は絶大で、
それはヴェルディやワーグナーを崇拝する一部のオペラヘッドや批評家に、
ドニゼッティやベッリーニの音楽は小馬鹿にされながらも(かつてのカプテイニス氏も含む!)、
素晴らしい歌唱とコンビを組むと無限大の感動を与えてくれるのと似ています。
そしてそのことを痛感したのが前述のニーナとホセの『ジゼル』で、
ミルタ役のマーフィーを含めた3人の踊りが音楽を引き上げ、
至高のドラマを生み出す様は本当に圧巻でした。

以前の記事で書いた時代背景とか設定や雰囲気の類似以外にも、このような共通点から、
ますます、『ジゼル』はバレエのベル・カント作品である!という思い込みは強くなり、
もともとベル・カント的なオペラのあり方が大好きである私は、この『ジゼル』を偏愛しつつあるのです。

で、今年は、その大好きな『ジゼル』がABTメト・シーズンで私が初鑑賞する作品。
(注:メトと言えばオペラ!と思っているオペラファンにはややこしい呼称ですが、
オペラのシーズンの後、ABTはメトのオペラハウスで定期公演を行います。
これをABTのメト・シーズンと呼んでいます。ちなみにオケはABTオケで、
チケットの販売ルートや会場が共有される以外は、メトロポリタン・オペラとは関係がありません。)
ニーナのジゼル、ジリアン・マーフィーのミルタを初め、
多くのキャストが前述の昨シーズンからの公演とかぶっているのに加え、
アルブレヒトが今回は、マルセロ・ゴメス!!!!!!

バレエの鑑賞で泣かされるのは、怪我などの理由でキャストが変更になる場合が多く、
それは、オペラの公演で歌手が降板する頻度の比ではありません。
また単純に一人だけ交代するだけではなく、パートナーとの関係などから、
玉突き的に全スケジュールに渡ってキャスティングが影響を受けることが少なくなく、
あらかじめあるダンサーを目当てに購入していたチケットが当て外れになることもままあります。
そんななかで、一度も当てが外れたことがないばかりか、
チケットを購入後にキャストが発表された場合や、キャストに変更があった場合でも、
ゴメスに当たることが多いのは、これは彼が極端にキャンセルや怪我の少ないダンサーだからなのか、
はたまたダックスフントつながりがなせる縁の技なのか?

ああ、ゴメスもルアちゃんも素敵 私もそこに混ぜてー!




オペラやバレエ鑑賞を頻繁にしていると、ある歌手との縁、また縁のなさ、というのを感じることがあって、
振られる人には毎回振られ、そうかと思うとまたあんたか!と思うほど同じ人に当たってしまうことがあります。
さらに、またあんたか、、のその相手があまり好きな歌手でない場合、悲惨です。
私の場合のアラーニャのような、、、。
その点、いい意味で”またあなたなのね!”と思わされるパターンがこのゴメスで、
私がバレエを観始めて以来、ダントツで生で観た回数が多い男性ダンサーが彼です。

また、彼に関しては、本当に幸せなことなんですが、
彼のキャリアの一番面白い時期に私の鑑賞歴がはまったような気もしていて、
毎回観る度に激しく進歩している彼を観るのは本当にエキサイティング。
ABTは実力のあるプリンシパルを抱えていて、すでに成長の曲線の勾配がゆるやかになった、
ベテランのダンサーたちの、完成に近い技を見るのも素晴らしい体験ではあるのですが、
彼のように、非ベテラン・ダンサーで、その成長を見守らせてもらえるという、この楽しみはまた格別です。
というわけで、彼は私が最も応援しているABTのダンサーである、と言ってもよいかもしれません。

そして、今日の公演は、その期待通りの、いえ、期待以上のゴメスの進歩にまたも驚かされる公演となりました。
というか、毎年パワーアップするその幅が大きくなっているような気すらします。

彼の踊りは、例えばマリインスキーのNY公演の際に多くの男性ダンサーから感じた軽やかさのようなものは希薄で、
その重量感(鈍重という意味ではなく、踊りに備わった男性的と言ってもいい重さ。)をどう捉えるか、が、
彼を魅力的なダンサーと感じるかどうかの分かれ目になるかもしれません。

彼の踊りの長所である、端々にまで神経が通った美しさ、男性的でダイナミックでありながら備わったエレガントさ。
それらの方向性は全く変わっておらず、長所がそのままパワーアップしていたのはとても嬉しかったです。



またその一方で、彼の決意というか、”彼らしさ”をこれまででも最も強く感じたのが今日の公演でもありました。
彼がコンテものでも素晴らしい実力の持ち主であることは以前のレポの通りですが、
そういったコンテンポラリーの新作を踊ることで得たものが、血肉となっている、という感じで、
今日の彼の踊りからは、古典レパートリーなのにもかかわらず、
良い意味でのコンテものの影響を感じました。
古典は古典らしく!という考えの方もいらっしゃるでしょうが、
古典の中にすっと一瞬吹き込む現代っぽさというか、は、私はとても新鮮だと感じました。

また、もともと演技力に関して評価が高い彼ですが、完全に次の圏に突き抜けた感じがします。
彼が特に今回の公演で素晴らしかったと私が感じたのは、
もはや、彼が美しくないことを恐れていない、ということです。
ジゼルを死に追い込み、ヒラリオンらに責められる場面でよろよろよろめくその格好悪さ、
その場から全速力で逃げ出してしまうことしか出来ないアルブレヒトのだささ、、。
美しく踊ることは彼のようなダンサーなら簡単なことでしょうが、
そこを越えて、何かを表現するという強烈な意思。
これがあるからこそ、第二幕でのウィリに半殺しにされるまで踊り続けなければならない凄惨さの表現が可能なのです。
ヒラリオン役のサヴェリエフがその少し前に、似た状況でそのまま死に至りますが、
そのサヴェリエフの踊りと比べても、緊迫した感じと凄惨さの違いが明らかです。
こういった、同じ、または似た振付の個所で、ダンサーの力量がおのずと明らかになるのが、
バレエのベル・カントならではのこの作品の面白いところです。

また、さらにすごいのは、凄惨さの向こう、つまりウィリに課された肉体的な辛さを越えたところに、
本当にアルブレヒトを苦しめていること=ジゼルを死に追いやってしまったことへの
激しい後悔と彼女への思慕の情という、精神的な苦しみをゴメスが見事に表現している点です。
彼の踊りを見ていると、この場面で、この肉体的な苦痛から逃れ抗う、というよりは、
このままジゼルがいる場所に行ってしまいたい、
つまり、死んでしまいたい、とアルブレヒトが思っているようにさえ感じられるほどです。




だから、ジゼルが彼を身を呈して助けた後、彼が彼女の墓(木で作った十字架)の前から身を起こし、
花を撒きながら一歩、二歩と立ち去るラストの場面には、
その彼女の優しさの記憶だけが、その後の彼の生きるたった一つの理由になっていくような、
独特のせつなさが溢れます。

ゴメスのこの表現力の進化を可能にしているのが、まさに先に触れた、
① 格好悪さを恐れない
② 手段を選ばない (古典レパートリーにコンテらしい振りのテンポやシャープさを取り込むことを厭わない)
ということの二点で、その結果、今や、他のどのダンサーとも違う、
”ゴメス・スタイル”を感じ、彼は本当に今後も要注目である!との思いを強くしました。

一方、昨年の公演で、氷のように冷ややかなミルタを演じて私を魅了したジリアン・マーフィーですが、
今日の公演ではどこか人間らしさを感じる表現に変わっていたのが興味深かったです。
ミルタにもジゼルのような悲しい過去があったのかな?と思わせるような、、。



テクニックも安定していて、彼女のこの役はいつも一定以上の、
それも高いレベルのパフォーマンスが期待できるように感じますが、
私個人的には、彼女には昨シーズンのような、徹底的に体温の低そうな、
”バッタの足ををむしって喜ぶ女”系のミルタの方が彼女の個性に合っていると思います。
”去年のあたしはちょっと怖すぎたかしら?”などという邪念を抱くことなく、
せっかくの意地悪に見える美人顔を生かし、怖いミルタを追究して頂きたい!

リッチェットとマシューズのペザント組は昨シーズンに続いて健闘。
サヴェリエフのヒラリオンは昨年よりも踊りにキレ感が増し、
ソロで踊る個所はそれなりに見せてくれたのですが、
先ほども書いたとおり、ウィリに踊り狂わされる部分のうち、
ゴメスがつい数分前にサヴェリエフが踊ったのと似た振付部分を踊る個所は、
”ああ、やっぱりゴメスとサヴェリエフの間には何か決定的な差がある!”と
観客がはっきりと思い知るという、芸術というものの残酷さを垣間見る瞬間になっています。
このたった少しの、しかし、決定的なギャップ、というものをどれだけ埋めていけるかが、
今後の彼の頑張りどころだと思います。

ミルタの直属の部下、モイナとズルマのうち、ズルマ役を踊ったのが加治屋さん。
あの回転時に独特のためのある”加治屋ターン”と、上半身の美しさが私は好きなのですが、
今日はコンディションが良くなかったのか、いつもの彼女の良さが出切っていませんでした。
モイナ役のボイルストンと舞台上で交差する時には、
加治屋さん側のミスでボイルストンとほとんど接触寸前になり、その動揺が若干後を引き摺っていたように思います。
しかし、その後に続くコール・ドと一緒に踊る場面までには持ち直し、
そのコール・ドとの群舞は、”ABTのコール・ドはなあ、、”とよく言われる中にあっては、
非常に良い出来で、大変良く揃っていたと思います。
ここは音楽と振付のおかげもあって、こうして上手く決まると、すごくわくわくさせられるシーンであることも発見。
ここらあたりも、合唱が時にぴりりとスパイスを利かすベル・カント・オペラとそっくりです。
ABTの群舞の場面で、これほど拍手が多かったのを聞いたことがないくらいの盛り上がりようでした。



ニーナのジゼルは、もう今さら何を言うこともないのかもしれません。
彼女の年齢を考えると、当然肉体的にキャリアのプライムにいる
20代から30代のダンサーのような技の精緻さやキレを求めるのは無理な話で、
特に今回は相手役がまさに自らのプライム・タイムにさしかかりつつあるゴメスであったため、
必要以上にそれが強調されてしまった結果になっていた部分はあります。

しかし、そんなことが些細なことに思えるような、何か特別なものが彼女の踊りにはあって、
彼女の動きの一つ一つから、私達はジゼルの気持ちを痛いほど感じ取れる。
もはや”役を踊って”いるのではなく、”役を生きて”いる、
それがニーナのジゼルです。



バレエ版”狂乱の場”と私が名づけた一幕最後で、
アルブレヒトとの数少ない幸せな思い出の一つである冒頭の花占いを思い出しながら、
一枚ずつ花びらを抜いていく場面では、その仕草から、
彼女の”どうして?どうして?”という叫びが聞えて来ますし、
混乱したまま息絶えてしまう場面の、本当に一瞬でありながら、
なお、体の足元側から徐々に上に向かって力が抜けて行くのがはっきりと
観客側に感じられるあのリアルさは息を呑みます。

昨年の『白鳥の湖』の時にもそうだったのですが、
ニーナが踊る白系の作品での女性たちからは、聖母のような優しさを感じます。
ラストの、十字架でバランスをとりながら、アルブレヒトに最後の別れを告げるシーンでの彼女はあまりに優しく、
それが一層、アルブレヒトを後悔させることになるのです。
全く状況は違っているのですが、自分の過ちのために愛する人を失い、
罪と後悔の意識に苦しめられながら、残りの人生を過ごさなければならないというこのアルブレヒトの状況は、
『アイーダ』のアムネリスと通じるところがあり、
実際、『ジゼル』を見終わった後の切なさは、『アイーダ』の鑑賞後感にも少し似ています。
ベル・カントでありながら、最後にヴェルディに変態、とは、『ジゼル』、全く侮れない作品です。



ニーナという人は、共演するダンサーたちから最高の力や潜在能力を引き出す力があると昨年も感じましたが、
ゴメスとのコンビは、彼にものすごく大きなインスピレーションを与える結果になっているように感じます。
もともと演技の素養に恵まれていた彼が、同じく表現に秀でたニーナと共演することで得たものは
計り知れなかったはずです。
ということは、今日のゴメスの大熱演も、ニーナの貢献があってこそ、なわけで、
彼のこの一年の大成長ぶりは、今シーズンでABTを引退するニーナがたくさん残して行ってくれる
ABTの観客へのプレゼントの一つといえます。

そんな彼女が今年でABTを去るとは本当に本当に残念。
ニーナのABTでのさよなら公演『白鳥の湖』はコレーラとの共演で、
彼女の聖母のようなオデットを私もしっかりとこの目に焼き付けて来たいと思います。

(公演の写真はNYタイムズからで、全てこの日の公演のもの。
レポートの内容と呼応するよう、実際の順番とは少し組み替えています。)


Nina Ananiashvili (Giselle)
Marcelo Gomes (Count Albrecht)
Gennadi Saveliev (Hilarion)
Carlos Lopez (Wilfred)
Susan Jones (Berthe)
Victor Barbee (The Prince of Courland)
Maria Bystrova (Bathilde)
Maria Riccetto, Jared Matthews (Peasant Pas de Deux)
Gillian Murphy (Myrta)
Isabella Boylston (Moyna)
Yuriko Kajiya (Zulma)

Music: Adolphe Adam
Choreography: after Jean Coralli, Jules Perrot, and Marius Petipa
Staging: Kevin McKenzie
Costume: Anna Anni
Lighting: Jennifer Tipton
Conductor: Ormsby Wilkins
American Ballet Theatre Orchestra

Metropolitan Opera House
Grand Tier C Even

*** ジゼル Giselle ***