Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

『トスカ』に何かが起こる!?/Bravo, ヒュー!!

2009-09-29 | お知らせ・その他
二つ、ニュースです。

① チエカさんのブログに、
”もともとは来年まで登場する予定のなかったA級歌手が来週NY(メト)に登場し、
嬉しい驚きをもたらしてくれそうですが、それは誰?”というポスティングがあがり、
あの人ではないか?この人ではないか?とちょっとした盛り上がりを見せています。
メトから発表されるのは時間の問題と思われ、
この記事を日本の読者の方が読まれる頃にはもう答えがわかっている状態かもしれません。

Operax3では、オペラ警察(久しぶり!)から、
昨日の『トスカ』のパフォーマンスの客席にブリン・ターフェルの姿を見かけた、
という報告を受けていますので、ブリン↓に一票!です。



HDの上映までに演出にも慣れられるよう、
来週(10/5の週)から舞台に登場する、ということではないかという推測です。
彼が『トスカ』でスカルピアを歌ってくれれば、HDの上映にも箔がつきますし、
話題にはなりますね。
ガグニーゼとグエルフィが頑張っても、ブリンの存在感(と多分歌唱も)にはとても叶いませんから。
そう考えると、来週の公演のチケットを購入すべきかもしれない、、。

それにしても、正解は誰でしょう?わくわくしてきました!
この件について続報が入れば、もちろん当ブログでもご紹介します。

追記:
10月の『トスカ』および『ばらの騎士』の全ての公演からレヴァインが降板することになりました。
詳しくはこちら


② 今朝、新聞を読んでいて面白い記事を見つけました。
現在ブロードウェイでかかっている『A Steady Rain (降りしきる雨、とでもいった感じでしょうか)』
というお芝居に登場している、ヒュー・ジャックマン(X-メン。冒頭の写真右。)と
ダニエル・クレイグ(最も直近のジェームズ・ボンド。写真左。)ですが、
そのプレビューの日、お芝居で最も緊迫した部分で、客席から携帯の着信音!
ぶちきれたヒュー・ジャックマンは、芝居のキャラクターになりきったまま、厳しい調子で、
”電話に出たいか?さ、携帯をとれよ。俺は別に気にしやしないからさ。さ、取れ!取れってば!”と、
アドリブの台詞を炸裂。
この事態に縮み上がったであろう持ち主がなかなか携帯を取ろうとも電源を切ろうともしないため、
一分近くにわたって、客に詰め寄る芝居をヒューが続けたそうです。
Bravo! そろそろ誰かがこういうことを言うべきでした!!
メトでも本当によく着信音を聴くようになりましたが、
それこそブリンあたりがこんな台詞を吐いて
無神経な客をボコボコにしてくれればいいのにと思います。

Sirius: TOSCA (Mon, Sep 28, 2009)

2009-09-28 | メト on Sirius
『トスカ』、第三日目。
先週金曜から、ずっと連れに、”月曜はメトに行かないのか、月曜はメトに行かないのか。”と責められっぱなしで、
いつから彼はPG(ピーター・ゲルブ)の手下になったのか?と思うほどです。
あの演出に、汗水垂らして稼いだ金をこれ以上つぎこむわけにはいかないので、今日はシリウスで鑑賞します。
マッティラの不安定なperche, perche, Signoreをうちのわんこにも聴かせてやることにしましょう。

レヴァインが24日の公演を降板したのは、それにすぐ続く週末に予定されていた、
彼のもう一つの活動の場、ボストン響での新シーズンのオープニング・ナイトのためだったのでは?
という説が有力で、なかには、メトでのオープニング・ナイトの後、
すぐにボストンに行ってしまったという事実から、
NYには帰ってこないつもりだった、つまり、もともと24日の公演は演奏するつもりがなかった、
ということを言う人もいるほどです。

腰の具合が悪かった24日から、なぜか、ボストン響のオープニング・ナイトでは
都合よく加減がよくなり(地元紙によれば、元気な姿で指揮をしていたそうです。)、
そして、また、今日、メトの公演からは降板。
レヴァインはこの後、ボストン響とベートーベンの全ての交響曲をカバーする演奏会も予定しているらしく、
この雰囲気では、HDの収録日も含めて、残りの公演すべてを降板する可能性もあるかもしれません。

追記:9/29にレヴァインがHDの収録日10/10を含む10月の公演全てから降板することが発表されました。
代わりに振るのはもちろん、イカ(=ジョセフ・コラネリ)。
ただし、マッティラ&カウフマン&ターフェルのキャストで公演される2010年4月のランはレヴァイン、
デッシ&ジョルダーニ&ガグニーゼのキャストになる4月後半のランはオーグインというのは
今のところ、そのままで、変更なしです。
また、レヴァインは10月に予定されていた『ばらの騎士』の公演も全てキャンセル。
1月の公演には今のところ、登場することになっています。
『ばらの騎士』のHD収録はちなみに1月です。
追々記:『ばらの騎士』の10月の公演でレヴァインに変わって指揮をするのは、
エド・デ・ワールトとの発表がありました。


さらに、ガグニーゼはまだ病気ということなんでしょうか。
今日のスカルピアは、再びカルロ・グエルフィ。
24日と違うのは、今日は私服で舞台の端に立って、二幕だけ、ではなく、
きちんと衣装もつけ、全幕で(といっても三幕で出番はありませんが)
フルの演技をしなければならないことです。どんなスカルピアになるんでしょう?
そのことを考えるとオペラハウスに行きたくなってきました。
それにしても、当初予定されていた今週の金曜から始まる『アイーダ』のアモナズロ役に加えて、
彼には大変なサイド・ビジネスが加わってしまいました。

24日に続いて再びイカ指揮者コラネリの登場。
しかし、この人はただのイカじゃなかった!
今日の公演の出来は一にも二にもコラネリの指揮とそれについていったオケのおかげ!
ひっさびさにメト・オケが燃えている音を聴きました!
こういう音こそオープニング・ナイトで聴きたかったんですよ。
弦セクションの美しさと激しさ、木管セクションの表情の豊かさ、
火を吹く金管と打楽器、と、初日の演奏が嘘のようです。
本当、もうレヴァインに帰って来てもらわなくてもいいかも。この演目に関しては。
コラネリはNYCO(シティ・オペラ)の音楽監督をつとめた後、
レヴァインのカバーの指揮者などとして地味に10年以上メトを支えてきた人ですが、
ここに来て、カバーの意地が炸裂している感があります。
それにしても、実に、今日オペラハウスにいる人が羨ましい!!!
我が家のPGの手下の言うことを聞いておくんだったかもしれない、、、。

歌手はこの指揮とオケに引きづられる形で、熱い歌唱を繰り広げました。
ただ、マッティラに関しては歌が熱くなると、
下品に音を歪めたり、しつこいくらいに音を下に引っ張って歌うなど、行き過ぎたヴェリズモみたいな歌い方になる傾向があり、
今日の彼女の歌唱は、私が許容できなくなるラインあたりを越えたり踏みとどまったりしてました。
熱くなってもいいですが、歌い崩しちゃいかんです。
そして、うちのワンのために大サービスなのか、相変わらずperche, perche, Signoreの部分を
やらかしてくれました。
パターンとしては、初日と全く同じです。
彼女はここをもっと安定して歌えるようにしなければいけないです。
24日の感想で問題にした”私はその刃物で心臓を突き刺したのです Io quella lama gli piantai nel cor"、
ここも今日は若干ましでしたが、そもそも彼女は一番高い音のところがいつも正しくとれなくて、
それが問題の根源になっています。
それでも今日は何とか音が下がってくる間に正しい音に寄せて行き、
かろうじてcorを金管に合わせてきましたが、
音を探っている様子が伝わってきました。
このように、いつもいつも失敗する個所が同じというのは、
オープニング・ナイトで主役を張るレベルのソプラノにしては情けないです。

アルヴァレスは彼女に比べると、歌唱が割と安定している点と、
どんなシーンでも歌や声を絶対に極端にゆがめず、最低限の気品を常に保っているのはさすが。
ただ、こうしてシリウスで聴くとすごく力強い声に聴こえますが
(ということはHDでもこういう風に聴こえてしまうんでしょうが)、
オペラハウスで実際に聴くと、こんなには迫力がないことは付け加えておきます。
また、三幕で少し芯を失って聴こえる音が多くなったように感じました。
初日よりも好調な感じが消えてきているのが少し心配です。

グエルフィは普通に発声しているとまあまあの歌唱なんですが、
激しさを出そうとする場面で、いつも声をへしゃげて汚くするのがいけません。
一箇所、二箇所ならともかく、マッティラのベタな行き過ぎヴェリズモ歌唱と対応する、
男版下品な歌唱になってしまいがちなのは要注意です。
また、彼の歌はどこか自分に歌いやすいように微妙に調整されているように感じられる部分があって、
(例えば高めの音はわざと遅めに音に入って音を短くしてしまうなど)、
ディクションではガグニーゼより上ですが(←イタリア人なんだからそうじゃないと困る。)、
音楽という面だけからいうと、ガグニーゼの方が、忠実に歌っているような印象を持ちます。

では、その今日の公演から、二幕でトスカがスカルピアを刺し殺す場面の音源を。
You Tubeでこのオケの演奏の熱さと、丹念に紡いでいる音の感じがきちんと伝わるかわかりませんが。
トスカが Ti soffoca il sangue?(血で息が詰まるのね)と歌う直後の弦の美しさ、
それから、Muori dannato! Muori! Muori! Muori!に重なってくるざわざわざわ、、という弦の音、
今日はどの歌手よりもオケが表情豊かで雄弁でした。
また、そのオケの頑張りを台無しにする観客の笑い声も合わせてお聴きください。





というか、これは観客が悪いのではなくて、ボンディのせいです。
あいかわらずスカルピアが昆虫のような死に方をしたのに、つい笑いが出てしまったのでしょう。
こんなところで笑いが漏れる演出なんてあるでしょうか!?
オケがいくら優れた演奏をしても、その上を遠慮なく土足で歩き回りやがって、、
またしても殺意が湧いて来ました。


Karita Mattila (Tosca)
Marcelo Alvarez (Cavaradossi)
Carlo Guelfi replacing George Gagnidze (Scarpia)
Paul Plishka (Sacristan)
David Pittsinger (Angelotti)
Joel Sorensen (Spoletta)
James Courtney (Sciarrone)
Keith Miller (Jailer)
Jonathan Makepeace (Shepherd)
Conductor: Joseph Colaneri replacing James Levine
Production: Luc Bondy
Set design: Richard Peduzzi
Costume design: Milena Canonero
Lighting design: Max Keller
ON

*** プッチーニ トスカ Puccini Tosca ***

DIE ZAUBERFLOTE (Sat Mtn, Sep 26, 2009)

2009-09-26 | メトロポリタン・オペラ
そもそもの作品自体への人気と、ジュリー・テイモアの演出へのそれが重なっているからでしょう。
ある年はドイツ語のフル上演により、またある年は英語によるアブリッジ版の上演により、と、
手を変え品を変えつつ、毎年ゾンビのごとくメトに帰ってくる『魔笛』の公演日がまたまたやって来ました。

このテイモアのプロダクションがメトに初お目見えしたのは2004-5年シーズンのことですが、
こう毎年毎年舞台にかかると、初めてこのプロダクションを観た時の驚きといったものは色あせはじめ、
あ、次はこの役の人がこういう風な演技をするんだよね、とか、
次は、こういう仕掛けで客を喜ばせたり驚かせたりする場面が来るんだよね、といった風に
ほとんどの場面の仕掛けや演技付けをこちらが覚えてしまっているので、
キャストがただメトに来て漫然と歌うだけではもう面白くないし、
公演の内容が悪いと、プロダクションまで古ぼけて見える時があります。

今日の公演は、歌の精緻さとか完璧さの話をすれば、問題がないわけでは全くないのですが
ビッグ・ネームと言える歌手が一人も含まれていないキャスティングでありながら、
なかなか充実したパフォーマンスだったと思います。
これまでにはパペがザラストロを歌った公演、ダムローがパミーナを歌った公演など、
人気および力のある歌手が登場した際の公演も鑑賞していますが、
今日の公演の方もそれらに負けないくらい、
いや、あるいは全体でみるとそれ以上に魅力的に感じました。
そして今日のような満足感を感じることは実は簡単でないのがこのオペラです。



タミーノを歌うのは、今シーズンの『魔笛』への登場がメト・デビューになった
ドイツ人テノール、マティアス・クリンク。
このクリンクに関しては、鑑賞を終えた今でも、何と判断すべきか、正直迷う部分があります。
彼はドイツ語の台詞の部分を聴いているとわかるのですが、
元々少し喉が締まっているように聴こえる傾向があって、
歌がその延長線上にあるように感じる部分が多かったのは問題です。
しかし、かと思うと、突然柔らかいフレーズを綺麗に歌ってみせたりして、
彼はいつもこのように発声が安定しないのか、今日はたまたまコンディションがすぐれないだけなのか、
よくわかりません。
タミーノ役の歌のなかで、最も肝心な”掴み”の部分にあたるといってもよい、
”なんと美しい絵姿 Dies Bildnis ist bezaubernd shon"では、
まるでこの曲がカバーしている音域では全く声のコントロールが出来ないのか?と思うほど、
ヘロヘロな歌唱で、本人が繊細に音を絞って出そうとしている部分ではことごとく音程が揺らぎ、
耳を覆わんばかりの出来でしたが、残りの部分については無難に歌いこなしていましたし、
パミーナとの二重唱では非常に美しい部分もありました。
演技の方もこれまでこのプロダクションで同役を歌ってきたテノールたちの流れを汲みながら、
のびのびと演じていたと思います。
パパゲーノが色々な刺激にすぐに集中力を欠いてしまう場面で、
舞台監督の指示なのか本人のアイディアによるものかはわかりませんが、
横でそっと座禅のポーズを組んでパパゲーノを完全無視!の状態に入る演技を入れるなどの工夫も見られました。
アジアの架空の国の王子であると考えられているタミーノの設定
(実際、このテイモアのプロダクションでもタミーノがアジアっぽい衣装を身につけています。)
を考えると見ていて無理がなく、所在なげに舞台で立っているよりはずっと気が利いています。



このオペラで最もわかりやすい形で観客の注意をひくのは、夜の女王のアリアで、
実際、メトでもほとんど歌の内容の如何に関わらず、
ただただあの曲の旋律を追えるだけですごい!ということで、無条件に拍手が多い役ですが、
少なくとも私がここ数年生で聴いたソプラノの中には、
本当の意味で目が眩むようなアリアを聴かせた夜の女王は一人もいません。
なので、最近では期待値そのものがすっかり下がってしまって、
このアリアが楽しみでもなんでもないという、悲しい事態になってしまっています。
今日のミクローザはDVDになったアブリッジ版(ただしメトのギフト・ショップのみでの販売)で
夜の女王を歌っていたのと同じソプラノですが、
生の歌声はDVDで聴くよりも一層軽く、すかすかでした。
彼女の場合、音が徹底的に高くなってしまった方が、綺麗な音が出てくる傾向にあって、
そこに至る前の、アリアの出だしの部分、ここが迫力がなく、また音色にあまり魅力がないのが最大のネックです。
音が上昇する一方向的な音型の時はそうでもないですが、
一音ごとに上がったり下がったりする音型では音を外すことが一度や二度ではなく、その点でも不満が残りました。
メトのキャスティングではずっとこのようなもともと声がふわふわに軽いソプラノばかりが配されていて、
実際、現在のオペラ界でこの役を歌うソプラノにそういうタイプしかいなくなっているのかもしれませんが、
一度でいいから少し重めの声で構わないから、この役、このアリアが持っている
怒りを適切に歌に反映させられる人を聴いてみたい、と思っている私です。



パパゲーノを歌ったクリストファー・モルトマンは、昨シーズン、
アラーニャクーラとの『道化師』で、シルヴィオを歌っていたバリトンで、
その時は特に印象的な歌ではなかったのですが、
(シルヴィオ役に関しては、2006-7年シーズンでラセットと組んだ時のクロフトが素晴らしかったので、
この役を見る目は厳しいのです。)
『魔笛』のパパゲーノは役得というか、この役の歌唱で客に愛されなかったとしたら、
あなた、相当やばいですね、という感じではあるのですが、
それでも、この公演ではとてもチャーミングに同役を演じていて、
もしかするとシリアスな役より、このようなコミカルな役の方が合っている歌手かもしれないな、と思います。
この演出でパパゲーノが与えられる魔法のベルというのが、
普通良く用いられる、取っ手がついた鈴のようなものではなくって、
なぜか、箱みたいなもののてっぺんに鈴がついていて、箱の横のハンドルを回して音を出す仕組みになっているのですが、
鈴を鳴らすシーンで、やおらその箱状のものを肩にのせ、
まるでブームボックスでラップをがんがん鳴らしながらストリートを歩いている
黒人キッズのようなリズムの取り方をしながら舞台を歩いていたのは、
メトがあるNYにぴったりの振付で、観光客と思しき方がたくさん混じっていると見える観客からも笑いが出ていました。
こういうオペラハウスの所在地に合わせた演技とかアドリブというのは楽しいものです。
また、イギリス人であるモルトマンがそれをやるところにウィットを感じます。
シルヴィオを歌ったときよりも、声が円く温かく聴こえる点も、
私が彼がこの役に向いていると感じるもう一つの理由です。



登場場面が非常に短いながら、非常に美しい凛と響く声が印象的だったのは、
パパゲーナ役のキャスリーン・キム。
韓国出身のソプラノで、そういえば、彼女は昨シーズンの『ルサルカ』の第1の水の精でも、
残りの二人の水の精が全くかすんでしまうような、
美声を聴かせていましたが、小さい役でも観客の耳を捉える力は今回も変わらず。
さらに一つ前の2007-8年シーズン、『フィガロの結婚』で、バルバリーナ役を歌っていたのも彼女だったんですね。
その『フィガロの結婚』では少し癖のある発声が気になりましたが、
『ルサルカ』とこの『魔笛』での彼女の歌唱はすごく素直で良かったです。



彼女は昨年のアブリッジ版の『魔笛』の公演でもパパゲーナ役を演じていて、
すぐ上の写真はその公演からのものですが(パパゲーノ役はポゴソフ。
この写真以外はすべて今シーズンの公演のものです。)、
写真でもわかるとおり、ルックスが猛烈にアジア人していて、かつ、ものすごく小柄なので、
一線で活躍していくにはハンデはありますが、
メトだけでも、上にあげた公演以外にも『仮面舞踏会』のオスカルなど、
脇の役で、ずっと地道にがんばってきた人のようです。
ブログで過去検索をかける前から、どこかで聞いた名前だな、、と思っていたら、
彼女、今年、『ホフマン物語』で、ネトレプコ、ガランチャ、ヴィラゾン、パペら、
人気歌手に混ざって、オリンピアにキャスティングされていたソプラノでした。
(その後、ガランチャ、ヴィラゾン、パペ、それぞれが違った理由で降板してしまったので、
地味なキャスティングになってしまいましたが。)
また、シーズン後半の『ナクソスのアリアドネ』ではツェルビネッタを歌うようです。
頑張ってほしいですね。期待してます。

弁者役のデイヴィッド・ピッツィンガーは、現在『トスカ』のアンジェロッティ役とかけもちで
メトの舞台に立っています。いろんな意味で、ご苦労様、、。
演出にぶちきれるあまり、『トスカ』での彼の歌唱の印象を何も感想に書かずに終わってしまいましたが、
アンジェロッティ役に通常観客が期待するものを大きく超えたエレガントな歌唱で、
声自体も悪くなく、好印象を持ちました。

テイモアのプロダクションの人気に貢献しているキャラクターの一人がモノスタートスだと思うのですが、
今回同役を歌ったのはグレッグ・フェダリー。
彼も同じプロダクションで同役を過去に歌ったことのある出戻り組。
前述のDVDになっているアブリッジ版で歌っているのも彼。
この役もパパゲーノと同じく、観客の人気をとらないと嘘、という、
同プロダクションでは成功を約束された役の一つなのですが、
今まで数々の歌手がこの役を歌ってきた中でも、一番、生き生きと感じられるのがフェダリーです。
彼も地道にメトで頑張っている歌手の一人で、
『フィガロの結婚』でもドン・バジリオ役を意地悪なゲイとして表現した公演で光っていた怪演脇役系ですが、
昨シーズンの『蝶々夫人』で、ゴロー役をつとめた際には、
この役でしばしば用いられるわざとらしい演技や作った声音を下手に用いず、
誠実な役作りが逆に印象的で、
こういった脇役としてのリズム、出所をきちんとわかっている歌手というのは、非常に貴重です。
黒のハイヒールをはき、出っ張った腹(しかも地肌!)を見せつつ、
舞台をぴょんぴょん飛び回る姿に笑わされますが、歌がおざなりにならず、しっかりしているのが○です。

今日の公演で、しかし、私が何に魅力を一番感じたかというと、
今まで『魔笛』を生で観た際にはあまり感じたことがなかった種類の、
人間らしさ、血が通った感じを、二人の登場人物から体験できた点です。

まず、一人目は、ザラストロを歌ったゲオルク・ゼッペンフェルト。
ドイツ人バスで、今シーズンのメトの『魔笛』への出演がメト・デビューとなっているのは、
タミーノ役のクリンクと同じです。
ドイツのバスでこの役をメトで歌った人と言えば、まず、すぐ思い浮かぶのがパペですが、
パペのような誰をもすぐに印象づけるスケールの大きさはない代わりに、
地味ながらとても細かい表情が感じられる歌です。
それほど押しの強い声でも強大な声でもないので、
観客からの評価も控えめだったのが本当に残念ですが、私はこの役としては非常にすぐれた歌唱だと思いました。
ゼッペンフェルトの声と歌唱には独特の温かみがあって、
これがこのザラストロという役と上手くかみ合っています。
この役から威厳だけでなくこれほどの慈愛を感じたのは、これまでの私の鑑賞歴の中ではあまりなかったことです。
ザラストロを超越的な存在として観たい、聴きたい方には物足りないかもしれませんが、
父親的存在のザラストロとしては魅力的な歌です。
ゼッペンフェルトの声は低音もきちんとは出ていますが、
魅力があるのはむしろ高い方の(もちろんバスとして高い方、という意味ですが)音域で、
一切の無理がなく、自然に広がっていくような歌声は聴いていて大変快く、
ものすごい細面とひょろりとした体からこんな声が出てくるとは意外です。

そして、もう一人の立役者は、パミーナを歌ったスザンナ・フィリップス。
昨シーズンの『ラ・ボエーム』でムゼッタ役を歌ってメト・デビューを果たし、
他の誰でもないこの私に、”あかぬけない女”呼ばわりされた彼女
ですが、
(ただし、何日か後に鑑賞した公演のムゼッタでは、よい歌唱を聴かせてもいました。)
今日の彼女のパミーナ役は垢抜けない女どころか、大変魅力的でした。
というか、いつの間にかオフィシャルサイトまで出来て、すっかり垢抜けた姿にびっくりです。
こうしてサイトを見ると肌の色が(日本の)東北の人かと思うほど、
透きとおった色白で、なかなか綺麗な人です。
あの去年の姿は何だったのでしょう?プレイビルに掲載されているバイオの写真も、
早くこのサイトの写真に取り替えた方がいいです。



巷では、2007-8年シーズンにダムローが演じたパミーナが歌も見た目もぴったり!との評判でしたが、
チャーミングさではこのフィリップスは一歩もひけをとっておらず、
着こなしが難しいはずの衣装も、すっごく似合ってます。
ただ、こうしてダムローの頃の写真と比べてみると、今年のフィリップスの方は
衣装に濃い青の部分が増えているんですね。
歌手のスタイルとか顔色に映えるように、との衣装係の配慮なんでしょうが、大成功してます。

彼女はまだ少し声のトーンのコントロールに課題があって、
意図した以上に、声がきついトーンを帯びてしまう時があるのですが、
(役柄によっては、こういったきついカラーが出せるのも有益でしょうが、
パミーナ役には必要がありません。)
抑制がきちんと効いている時の彼女の声は非常に美しく、
また、響きがリッチで、どこか芯の強さを秘めているように聴こえるのが魅力です。
今はまだアメリカの中堅から比較的小さいオペラハウスを中心に歌っているようで、
その中のレパートリーとして、『椿姫』のヴィオレッタが含まれていますが、
実際、私は彼女のコロラトゥーラの技術がどれほどのものか知らないので断定的なことはいえませんが、
こと声の音色に限っていうと、ヴィオレッタは彼女に向いた役に成りえると思います。
実際、ダムローが歌ったパミーナとは対照的に、きわめて生身の人間らしさを感じるのが彼女のパミーナで、
ストーリー自体には何の共通性もないのに、
それこそ、『椿姫』を鑑賞している時と同じ種類の、イタリア・オペラ的熱さを感じさせるのです。
パミーナがどうしてタミーノは自分と口をきいてくれないのだろう?それならいっそ死ぬわ!と嘆くシーンでも、
なぜか、『椿姫』とオーバーラップするようなインテンシティを彼女の歌から感じました。
私は『魔笛』を鑑賞していても、いつもパミーナには感情移入できなくて、
それはダムローが歌った時も全く同じだったのですが、
初めてこの役の気持ちを観客にきちんと伝える歌唱に出会った気がします。

ドイツ・オペラにこのようなイタリア・オペラ的な歌唱で取り組むある種のエキセントリックさ、
また、歌唱技術としてはダムローよりずっと未熟な部分がある点を問題視する観客の方もいるかもしれませんが、
私は、見慣れたオペラにこのように全く新鮮な感じ方や見方があることを気付かせてくれるならば、
いつだって、ダムローの歌唱より、フィリップスのそれをとります。

また、彼女が繰り出した長く引っ張る高音の中のいくつかは、その美しさに、
私の周りにいた年季の入ったヘッズたち(インターミッション中に交わした会話から、それとわかる)からも、
”Wow”という驚嘆の溜息の声が上がっていたことも付け加えておきます。
安定感ともっと研ぎ澄まされたコントロール能力がつけば、彼女は面白い存在になる可能性があるかもしれません。

カナダのケベック出身の指揮者、ベルナール・ラバディは、
適切なテンポの設定は良いと思いましたが、少し指示に曖昧なところがあるんでしょうか、
細かいアンサンブルの乱れや、ソロの楽器のちょっとした部分での雑な音の出方が気になりました。
ドレス・サークルの最前列は目の前にある柵のせいで、普通に座っていると、
指揮者の姿が全く見えないのが難です。
悪いのは指揮者の方か、最近目に見えて集中力を欠いているオケのせいか、
判断は別の機会にゆだねたいと思います。

それにしても、テイモアの『魔笛』の演出はそれほど好きでなかったはずなんですが、
今シーズンデビューした『トスカ』の演出を観た後では、これも悪くないのかも、、と思えるところが怖いです。
こうやって、まずい演出はこちらのスタンダードを段々下げていく悪魔のような力も持っているのでしょう。
嘆かわしいことです。


Matthias Klink (Tamino)
Susanna Phillips (Pamina)
Christopher Maltman (Papageno)
Erika Miklosa (Queen of the Night)
Georg Zeppenfeld (Sarastro)
Greg Fedderly (Monostatos)
Wendy Bryn Harmer, Jamie Barton, Tamara Mumford (First/Second/Third Lady)
David Pittsinger (Speaker)
Kathleen Kim (Papagena)
Conductor: Bernard Labadie
Production: Julie Taymor
Set Design: George Tsypin
Costume Design: Julie Taymor
Lighting Design: Donald Holder
Puppet Design: Julie Taymor, Michael Curry
Choreography: Mark Dendy
Stage direction: David Kneuss
Dr Circ A Odd
OFF

*** モーツァルト 魔笛 Mozart Die Zauberflote ***

TOSCA (Thurs, Sep 24, 2009)

2009-09-24 | メトロポリタン・オペラ
今日、会社で仕事中に、連れから電話あり。
”今日のトスカ、観に行くんでしょ?”
あら、やだ。観に行きませんよ、そんなの。
チケットも持ってないし、オープニング・ナイトを観て、演出のあまりのばかばかしさに、
あたしは少なくとも先のBキャストの公演日まで、二度とこのプロダクションは鑑賞しない、と決めたんざんす。
”へえ。そうなんだ。でも、今日は二回目の公演だし、初日よりもコアなお客さんが多いかもしれないから、
お客さんの反応がどんな風に出るか、興味ないの?
ブログでそのあたりのことを皆さんにお伝えしたいんじゃないかと思ったんだけどね。
しかも、シリウスの放送がないみたいだから(←さりげなく調べたらしい。)、
今日の公演の様子を知るには、オペラハウスで鑑賞するしかないみたいだよ。”

、、、、、


”もし行く気があるなら、チケットプレゼントしようか?”

、、、、、 


今日はゆっくりうちのぼん(犬)たちと遊びたかったんですが、
メトが崩れ落ちるようなブーイングをこの耳で聞きたい誘惑と”チケットプレゼント”の言葉に落ち、
気がつけば、”はい、行きますです。”と口走っていました。
しかし、チケットが調達された後、再び、彼から電話。
”でもさあ。よく考えたら、二日目以降は演出家を舞台にあげないのが普通だよね。
そうなったら、客はどこでブーイングしたらいいんだろうね?”
ちょっと!!そんなこと、もっと早く気づいてよー!!
これで割れるようなブーイングを聞けなかったら、
手元に残るのは、あのわけのわからない演出と、すかすかのマッティラの高音だけになってしまう、、。
まさに数時間にわたる拷問。もしかすると、カヴァラドッシが受ける拷問よりきついくらいの!!

ってなわけで、オープニング・ナイトからたった中二日を置いて、再びメトに足を踏み入れることになりました。
今日は裾にからまってすっ転んだり、また自分で踏んだフレア部分の裾にひっぱられて
胸の部分まで下に下がってくる心配200%!のドレス姿ではなく、
いつもの自分の洋服で来ましたから、心も耳も完全なリラックス・モードで、より舞台に集中できます。
しかも、手配されたチケットは舞台をほとんど真正面に見る座席なので、
前回、サイド・ボックスのためによく見えなかった部分を徹底的に鑑賞することができます。

いよいよオケがチューニングを始め、シャンデリアがあがりはじめると、
なんとあろうことか、舞台袖から、マネジメントのスタッフがマイクを持ってあらわれました。

ちょっと待った!!何!!?? 何!!??誰が不調なの?
マッティラ?アルヴァレス?ガグニーゼ?、、、それとも、もしや、
”オープニング・ナイトでの演出への評判があまりに悪かったので、
今日はゼフィレッリのプロダクションで舞台をかけます!”とか??だといいな。

”残念ながら、今日の指揮をする予定だったマエストロ・レヴァインが、
背中(または腰)の異常(back problem)により、キャンセルすることになりました。”
観客からは、あ~あ!と失望の声。
カバーの指揮者は、ジョセフ・コラネリ。
2007-8年シーズンのルチアでもレヴァインのカバーをつとめた、あのイカ系指揮者です。
なぜ、イカ系かというと、なかなかコラネリという名前が覚えられず、つい、カラマリと呼んでしまうから。

オープニング・ナイトに関しては、演出を叩くために意図的に引き合いに出された部分も多分にあるのですが、
レヴァインの指揮とオケの音はさすが!みたいな評がメディアに多かったですが、
私は全然そう思っていなくて、あの日の演奏は、レヴァインにしては雑な指揮で、
オケ側も従来のオープニング・ナイトになく、集中力を欠いた、
メト・オケの良さがあまり出ていない演奏だったと思います。
また、私は、そもそもレヴァインはあまりプッチーニを得意としていないのではないか?と考えていて、
オープニング・ナイトは全幕を通して非常に淡白な演奏で、
どちらかというと空回りする位でもいいからこてこての演奏の方が好きな私は不満が残りました。
ですから、この指揮者交代の報は私は嬉しかったです。
こんな直近で二人の違った指揮者での演奏が聞けるなんて、ラッキー!

コラネリの指揮とオケについて言うと、
オケはずっとレヴァインの指揮でリハーサルおよびオープニング・ナイトを演奏してきたせいか、
特に第一幕の前半で、若干ぎこちない、もしくはかみ合わない部分があり、
もう少し調整の時間があったなら、、と思わせる部分はありましたが、
途中からコラネリのスタイルを読み取り始めたオケと息が合い始め、
レヴァインの指揮の時にはおよそ見られなかった、
各セクションの音が自主的に歌っている、魅力的な部分が多々聴かれました。
レヴァインの四角四面的な演奏よりも、ずっと大きな流れとリリシズムを感じさせる演奏で、
私個人的には、今日のコラネリの指揮の方が好きです。
また、弦セクションに関しては今日の方が圧倒的に良かったです。

アルヴァレスは初日よりも、ほんの少しなんですが、声が荒れ始めているように感じました。
風邪とかでなければいいのですが。
こうやって改めて聴くと、彼の声は、男らしさと甘さのバランスが丁度よく、
聴いていて非常に耳に心地よい声であること、
また歌い方が端正である点はポイントが高いのですが、
オープニング・ナイトの感想でも書いた通り、やはりこの役には若干声が軽く、
全てがすーっと流れていってしまうのがもったいない感じがします。
彼は高音に入る時にひゃらん、という、声が裏返る手前のような独特な音が頭に入る癖があって、
これはある種のレパートリーでは魅力的ですらあり得ますが、
このカヴァラドッシ役では、あまり魅力的に感じません。
また、歌の作りこみが90%位までしかなされていないように聴こえる部分があって、
例えば、音を絞って歌うのが割と上手いのですから、もっとそれを極めれば、
リリカル路線でも面白いカヴァラドッシになると思うのですが、
どこか詰めの甘い感じがあるというか、長く延ばす音も最初は綺麗なのに、
途中で緊張感がとけてしまっている場合が多く、
この役については、原石からダイヤになる途中で止まってしまっているような感じがします。

一幕のマッティラは演技は初日より幾分良くなったような気がします。
彼女はこの役をコケティッシュに演じて頑張りすぎるきらいがあるのですが、
今日は指揮者の交代など、色々他に気にすることが多かったからか、
演技の方から意識が少し抜けた、これが却って演技にナチュラルさを生み出す結果になったように思います。
初日は全編、『トスカ』を演じるラ・マッティラ!という感じでしたが、
今日は実際、部分部分で、ふっとトスカとしての自然な表情や動きが出るようになっていました。
ただし、歌は初日よりほんの少し良い程度でほとんど印象に差なし。相変わらず浅い高音域も含め。

スカルピア役のガグニーゼ。
登場したしょっぱなのフレーズが不安定だったので、
一瞬、今日は調子が悪いのかな?と思いましたが、
テ・デウムでの歌唱はオープニング・ナイトよりも力強く感じました。

一幕では下手側に祭壇があるという設定になっていて
オープニング・ナイトの前編の記事の写真を参照ください)、
オープニング・ナイトで私の座席から見えたのは木の椅子までだったので、
それは視界が悪いだけで、真正面の座席に座れば何か祭壇らしきものが見えるのか、知りたかったのですが、
今日の座席に座って、あえて祭壇を見えるようには設定していないことがわかりました。
マグダラのマリアの絵以外に、ここが教会であると感じさせるものはセットの中に一切ないということです。

第二幕の前に入るインターミッションがやや長めだったので、なんだろう?と思っていたら、
二幕開始前に、またまたマネジメントのスタッフが登場。
今度は何!?
指揮者の可能性はほぼないですから、今度こそ、歌手か演出のどちらかです!
二幕以降は、ゼフィレッリの演出で行きます!かな?

”スカルピア役のガグニーゼが声のコンディションが悪く、これ以降、歌えない、ということです。
彼は二幕、舞台での演技は続けますが、歌は、現在『アイーダ』のリハーサルに参加中の
カルロ・グエルフィが入ってくれることになりました。”
(グエルフィが『アイーダ』で歌うのはアモナズロ役です。)
そしてやおら、舞台の下手端に置かれた譜面台。
そして、うんともすんとも言わず、拍手すらろくにしない観客、、、。
彼が誰だか知らない人が多かったのでしょうか?
グエルフィはメトでAキャストを歌ったことのある歌手ですし、リゴレットのタイトル・ロールを張ったりする人ですよ。
あるいは、こちらのヘッズには今ひとつ人気が乏しいので、そのせいか、、。
オペラに馴染みのない方には、
”なんだ、その中途半端な上演形態は!!”と思われる気持ちもわからないではないですが、
それでも、こんな風に、リハーサルもしていない指揮者と、
もしかすると、しばらくは歌ってもいないかもしれないレパートリーで、
いきなり代役に入るのはどんなに大変なことか、、!!
もうちょっと喜んであげましょうよ、、、本当に。
グエルフィが可哀想になってきました。
だし、こういう滅多に起きない状況を楽しむのがオペラヘッズの精神というものです!
この非常事態の中で多くの観客が盛り下がる中、異常にテンションがあがってきたMadokakipなのでした。
濃い色のシャツにネクタイ、その上に濃い色目のスーツを着て現れたグエルフィは
ミネラル・ウォーターのボトルを握り締めてます。
大丈夫か??!!頑張れ!!!



それにしても、ウーシタロが降板してガグニーゼが繰り上がったためにカバーを用意していなかったのかと思いましたが、
以前の『アイーダ』の時と同様に、カバーがきちんといて、そのコストも払っているのに、
パブリシティと観客のために、あえてグエルフィを引っ張ってきた、という説が有力になっています。
確かに、この演奏形態のおかげで、そっちに気がとられて、
演出のまずさに意識が向きにくくなりました。変なところで冴えてますね、ゲルブ支配人。

舞台の真ん中で動き回るガグニーゼが口パクで迫真の演技。
やっぱり歌を歌わないでよくなると、負担が大幅に減るんでしょう、
演技が細やかになりました。
彼はもともと割と演技が上手い人ですが、
今日のそれはオープニング・ナイトよりも、きれがあります。
初めは、ガグニーゼが真ん中にいるのに、舞台の端の方から歌声が聴こえてくることや、
ガグニーゼと会話している相手の方が下手側にいるのに、
スカルピアの声が上手側ではなく、下手側から聴こえてくるという、
接続方法を間違ったスピーカーのような違和感が最初はありましたが、
ガグニーゼの演技のせいでしょうか、それとも、グエルフィの歌のせいでしょうか、
いや、両方でしょう、段々と二者が一体化していくプロセスはすごく新鮮で、
幕の終わりまでには、ほとんど気にならなくなりました。
実際、この幕の後のインターミッションでは、女性用化粧室のなかで、皆さんが、
”もっと変な感じになるかと思ったけど、全然そんなことなかったわね。”と盛り上がっていました。
それは、演じ、歌う人の力次第だと思います。

グエルフィはさすがに準備が不足している部分もあり(というか、準備しなければいけない理由はそもそもないので、、。)、
かつてスカルピアを歌ったことがあるんでしょう、出来るところはほとんど楽譜を見ないで歌うようにしていたのですが、
突然細かい部分で記憶が飛んだか、あわてて眼鏡(老眼鏡?)を取り出して楽譜を見る、
その間、歌はちょっと微妙だったりする部分もあったりして、
名唱と呼べるようなものでは決してありませんが、それでも落ち着いて歌いきったのはさすが。
この舞台のピンチを助けてくれたことに、観客は感謝せねば。
また、彼はディクションが綺麗。さすが、イタリア人。
彼の歌をこうやってすぐにガグニーゼの後に連続して聴くと、
ガグニーゼの発音は若干クラリティに欠けているのかな、と思わされます。

残念なのは、そんな貢献をしてくれたグエルフィに一度もカーテン・コールに立たせてあげなかったこと。
メト、それはちょっと無粋じゃないかなあ。
スカルピアは二幕で死んでしまうために、三幕では出番がなく、
グエルフィは三幕の終わりまで待たずに帰ってしまったようです。
もともとメトは何か理由がない限り、各幕の挨拶は省く傾向にあるのですが、
(終演時間を出来るだけ早くすること、歌手の負担を減らすこと、という二つの理由からではないかと思います。)
こういう時はちゃんと幕後の挨拶を儲けて、観客に感謝の気持ちを表す機会を作ってほしいです。

今日の第二幕のマッティラ。
ここの出来が意外とよかったのはちょっとした驚きでした。
彼女の声がこれほど力強く、イーブンに聴こえたのは、私の生マッティラ体験の中で初めてです。
もともと声そのものの音色は美しいものを持っているので、
このような歌い方が出てくると、彼女を高く評価する人がいるのも理解できます。
この幕での高音はどれも芯がきちんと通っていて、一幕が嘘のような出来でした。
コラネリの指揮のせいもあるんでしょうか?
レヴァインの時よりも伸び伸びと歌っているような気もしました。
リハーサル、それからオープニング・ナイトで問題があった
”歌に生き 恋に生き Vissi d'arte, vissi d'amore"ですが、
例の Perche, perche, Signoreの部分、
今日は思いきってSignoreの最後に音が下がって行く前に、大きくブレスを入れました。
オープニング・ナイトの日は、今考えると、このブレスをなしで歌おうとしていたんじゃないかと思うのですが、
(もしくはあっても、今日ほど大胆なブレスでなかったです。)
いっそ、今日のように割り切って歌って正解だと思います。
今日はその後に続く二つの下降していく音がとても綺麗に入っていました。
彼女は歌がのっている状態のときは、台詞回しが割と上手いのも驚きでした。
『トスカ』には台詞調で吐く言葉が結構ありますが、
"人殺し! Assassino!"、”おいくら~値段よ! Quanto? Il prezzo!"、
"彼の前にローマ中が震え上がっていたんだわ E avanti a lui tremava tutta Roma”、
そして、最後の”死ね!死ね!死ね! Muori! Muori! Muori!"といった言葉が、
オープニング・ナイトの時とは別人のように巧みでした。
トスカ役がこれ位頑張ってくれると、ほんの少しではありますが、
演出のまずさの埋め合わせができます。
レヴァインがいない、ろくに音あわせもしていないカバー指揮者、
スカルピア役がマペット状態、、、
これらのネガティブ因子が逆にマッティラを本気にさせたともいえ、
ここまで公演を持ってくるのに、これだけの事件が必要なのか、、と思うとちょっと複雑な気分ですが。

しかし、当然のことながら、この演出を受け入れているわけでは全くありません!
やっぱり、相変わらずの出来損ない演出であることを再確認しました。
といいますか、この演出は、『トスカ』を初めて見る方にはそれほどでもないかもしれませんが、
作品を良く知っている、リブレットの言葉を良く理解していればしているほど、
見ていて辛い演出です。
というのは、歌手の演技付けが言葉とリンクしていない個所が多すぎるからです。

私は二幕の最初でスカルピアが孤独に食事をしている(はずの)場面が好きです。
ここに、彼の寂しさ、一人で悪をひた走っている感じが集約されているからです。
なのに、このボンディ演出にはきちんと食事をしている場面がありません。
それなのに、カヴァラドッシへの拷問が終わった後で、
スカルピアが”私のささやかな食事が中断された”という台詞を吐くのはご存知の通りです。
つい叫びたくなります。”食事なんてしてなかったじゃんよ!”

それから、カヴァラドッシがVittoria!を叫んだ後、連行されてしまう場面、
ここも、カヴァラドッシが目の前で連れ去られているのに、でくの棒のように立ち尽くすトスカ。
彼が姿を消し、扉が閉められた後になって、ようやくその扉に向かい、
”マリオ、あなたと一緒に Mario, con te”
そして、スカルピアに、”あなたはだめだ Voi no!"と止められる。
全然タイミングがちぐはぐです。カヴァラドッシの姿が見えている間に、
”あなたと一緒に”と言い、二人の間にスカルピアが割って入って、あなたはだめだ、というのが自然じゃないでしょうか?
このように、あげれば、おかしい個所はきりがありません。

特に私は食事のシーンがないのは、この演出の最大の欠陥であると確信するに至りました。
というのは、トスカがスカルピアに体を許す同意をした後、
偶然、テーブルの上にナイフを見つけ、彼を殺害するという手がある!という気付きに至り、
信心深い彼女の心との葛藤を繰り広げながら、ついにスカルピア殺害に至るというこの流れ、
心の動きを、演技と歌でトスカ役のソプラノがどのように表現するか、というのがこのオペラの最大の肝です。
スカルピアの食事のシーンがない、ということは、トスカがナイフを見つける必然性を奪うことであり、
実際、この演出では、気が付けば、いつの間にかマッティラがもうナイフを携え、
ソファでスカルピアを待っている振りをしている状況に入っていて、
どのようにナイフを手にしたのか、実際にオペラハウスで見ていると全然記憶にないほどです。
すなわち、この場面で最も肝心なトスカの心の動きを観客が体験できる部分がごっそり抜け落ちているのです。
これでは、この幕が歌手の出来によって、退屈に感じられても何の不思議もありません。

今日、マッティラは、彼女自身の判断でしょうか?
スカルピアの股間ではなく、お腹の辺りを刺していて、
こちらの方がずっとエレガントで良いです。
ここまでは、マッティラの熱演のおかげで、いい感じで観客が舞台にひきこまれていたのですが、
刺されたスカルピアを演じるガグニーゼがソファより頭から落ちながら仰向けにひっくり返る、
この姿勢はどうかと思う、、。
黒い衣装と彼の体型のせいもあって、裏返って死んでいるごきぶりみたいです。
彼はオープニング・ナイトでも全く同じ体勢で死んでいたので、これもボンディの差し金に違いありません。
今日の客からはここで大きな笑い声が漏れました。
ここでスカルピアが美しく死んでいれば、なかなかの出来の幕だったのに、、残念です。

三幕では、マッティラが二幕の歌唱を忘れて、もしくは、魔法がとけて、
また元の木阿弥でいつもの浅い高音域全開の歌唱に戻ってしまいました。
この三幕にやっぱりマッティラが苦手としている個所があって、
ここはオープニング・ナイトも今日も失敗していました。
トスカがカヴァラドッシにスカルピアに襲われそうになって、刺し殺したいきさつを話す場面の、
”私はその刃物で心臓を突き刺したのです Io quella lama gli piantai nel cor"の個所ですが、
このlamaがいつも音が外れて、残りの部分をそこを基準にして音を下がっていくので、
corで金管が被ってきたときに、全く音が合っていなくて、こけます。

この場面、サンタンジェロ城の周りが夜の闇というより、海のように見える不思議なセットなんですが、
多分、二人がこの幕で歌う、海を越えて遠くに!という部分をイメージしているんだと思います。
最後にトスカが城から身を投げるのは、自分がカヴァラドッシと幸せな暮らしを夢見た
海の向こうの世界に目がけて飛んだ、ということが言いたいのかもしれません。
最後に身を投げる場面は、マッティラが塔を駆け上る間、一瞬姿が見えなくなるのですが、
この間にボディ・ダブルとスイッチをしているようで、そのマッティラにすりかわった役者さんが扮したトスカの
身を投げたシルエットが一秒ほど闇に浮かんでふっとライトが落ちる、というラストになっているのですが、
今日はタイミングが少し狂ったか、飛び降りるシルエットが浮かぶ時間が短く、
座っている場所によっては、何が起こっているか非常にわかりにくかった可能性があります。
逆にオープニング・ナイトはここが少し長く、それはそれで間抜けていました。
結局、どのようになっても、あまり効果的には思えないエンディングです。

メトでトスカを歌ったカラスを生で観た、という老ヘッズの方が私に語ってくださった、
”彼女が飛び降りる時に、体に巻いていたショールのようなものが空でなびいたんだが、
そのなびく様まで美しくてね。
カラスという人は、舞台にそういう魔術のようなものを起こせる天性の舞台人だと思ったよ。”
という言葉がなぜだか思い出されてしまいました。

ちなみに今日の公演ではブーはほとんどなし、でした。ゲルブ氏の作戦勝ち。


Karita Mattila (Tosca)
Marcelo Alvarez (Cavaradossi)
George Gagnidze / Carlo Guelfi (Scarpia)
Paul Plishka (Sacristan)
David Pittsinger (Angelotti)
Joel Sorensen (Spoletta)
James Courtney (Sciarrone)
Keith Miller (Jailer)
Jonathan Makepeace (Shepherd)
Conductor: Joseph Colaneri replacing James Levine
Production: Luc Bondy
Set design: Richard Peduzzi
Costume design: Milena Canonero
Lighting design: Max Keller
Dr Circ Row B Even
ON

*** プッチーニ トスカ Puccini Tosca ***

TOSCA (Mon, Sep 21, 2009)  後編

2009-09-21 | メトロポリタン・オペラ
前編より続く>

けれどもマッティラが絡まない場面については別に可哀想でもなんともないので遠慮なく書くと、
アルヴァレスは歌が最近コンパクトにまとまりすぎているように思うのはわたしだけでしょうか?
本来の彼の声よりも大きめの役を歌うことが多いからこうなってしまうのか、
マッティラよりは、自分の持ち味をわかって、器用に、無難にまとめているな、とは思いますし、
最近聴いた彼の公演の中では声のコンディションが良く保たれていて、
”星は光りぬ E lucevan le stelle"のソット・ボーチェで歌う高音などに彼の良さはそれなりにあったと思いますが、
それだけでは十全に魅力が出ないのがこのカヴァラドッシという役です。
特に”妙なる調和 Recondita armonia"は、緊張もあったのか、
まるでお風呂の湯水の温度を足先で試しているような歌唱で、全く盛り上がりに欠けました。
この役は最初からエンジンをふかしまくってくれないときつい。
そして、もうこれは言うだけ野暮というものですが、
二幕のVittoria! Vittoria!の部分も、いかにも無難で全くエキサイティングじゃない。
トスカ役、カヴァラドッシ役共に、メトのオープニング・ナイトで歌う歌手がこんな感じということは、
今、この作品を歌って観客を熱くすることができる歌手がいないんだな、という現実を思い知らされます。



一幕の後半は若干退屈さが減退しましたが、それは別に演出が面白くなったわけではなく、
私の店子友達が舞台に現れたから。黒いコート、似合ってるじゃないですか!(下の写真参照。)

実はキャストで意外と健闘していた感があるのはスカルピアを歌ったガグニーゼ。
トスカ&カヴァラドッシと同じく、過去のスカルピアと比べると、
全く特別ではありませんが、舞台に立ったのがドレス・リハーサルからであることを考えると、
それなりにボンディの指示を自分なりに消化しようとした跡が見えるのは立派です。
ただ、彼はそれほど抜ける大きな声をしているわけではなく、
どちらかというとちょっとした歌唱の機微や不気味な演技で見せるタイプなので
昨シーズンの『リゴレット』もなかなかの怪演でした。)、
テ・デウムのような場面ではあまり映えません。
このテ・デウムの最後に、スカルピアが聖母像の胸に顔を埋める、という演技があるのですが、
同じNYタイムズの記事のボンディの説明によると、ここは、
”スカルピアの、トスカ、お前は私に神をも忘れさせる、という言葉に呼応している”そうです。
ったく、あほくさくてやってられません。

あほくさくてやってられないといえば、
二幕の幕があがった瞬間、3人の娼婦にいちゃつかれるスカルピア(上の写真)。
って、いつからスカルピアはこんなポン引きみたいなちんけな悪玉になったんでしょう??!!
彼は泣く子もだまるローマの警視総監ですよ!!
このスカルピアという人物の怖さは、上品さと権力と一見至極まともな人間に見える中に、
ねじれた残虐性を有しているところにあるんです。
部下はいるかもしれませんが、孤独に悪の道を走っている人です。
ここで、また、ボンディのわけのわからない説明を引用しましょう。
”リブレットには必要とは書かれていないが(中略)スカルピアははっきりと、
女性を次々と所有し捨てるのが好きだ、と述べている”。

、、、、そこまでリブレットを読んだなら、なぜ、ついでに、
”凶暴な征服の方が甘い承諾よりも一層深い味わいがある”
”渇望するものを追い求め、味わい尽し、そして新しい餌食と引き換えに棄て去るのだ。”
と言っているところも読まないんでしょう?
彼は娼婦なんか興味ないでしょう、今さら。
普通ならとても手をつけられないような高嶺の花的女性を権力を利用して強引に自分のものにする、
そのことに喜びを感じる人物だということをなぜこのボンディという人は都合よく忘れ去れるのでしょう?
本当に不思議です。

しかも、ナポレオン勝利の報が入ってくる場面(Vittoria!の直前)では、
スカルピアが悔しさを表現するために、また鉄のものさしのようなもので、
ぺちぺちとソファの背を叩いていたりしてるんですが、
ガグニーゼの演技はこれがオペラの『トスカ』でなければ怪演ですが、
スカルピアの人物像としてはあまりに小者ちっくな表現で違和感があります。
どうせボンディの指示でしょう。



さらにNYのヘッズが多く口にしていて、私も同感なのが、
これだけリブレットを都合よく曲解、飛ばし読みしているのだから、
さぞ、独創的なものが生まれるだろう、と思いきや、
全くそういった面白い新しい視点というものに欠けており、
根本的な線ではゼフィレッリの演出と何一つ大きく変わったところがない点です。

ゼフィレッリの演出は、確かにあまりにオーソドックスでつまらない部分もありましたが、
優れているのは歌手に自由な演技や解釈を行う余地を与えているところで、
これにより、歌手によって全く雰囲気の違う舞台が見れる、また、
もし、歌手に実力さえあれば、それなりにドラマ性のある舞台が見れるという楽しみがありました。

結局、ボンディの演出はゼフィレッリの演出から豪華なセットと歌手のための演技を発展させる余白をとって、
意味のない、表面的な、躁的な細かい演技付けでこてこてに塗り固めたもの、と言ってよいと思います。
セットに関してはHDのようなアップではわかりにくいかもしれませんが、
実際に舞台で見ると、空間が実にすかすかで、色彩も美しくなければ、照明も薄暗く、
メトでなく、どこかのド貧乏なオペラハウスで鑑賞をしているような錯覚をおこします。
優れた能力を持つメトの裏方の力が発揮できないこれほど貧乏くさいセットも珍しい。



さて、そんなボンディの手抜き演出が最も露になるのがこの二幕。
ここはもうはっきり言って、面白いと思える、演技らしい演技も、
解釈らしい解釈も何もありません。
カヴァラドッシが拷問を経て、調子にのってスカルピアを挑発し、
とうとう最後に連れ去られてしまう場面。
ここでのマッティラは、彼女お得意の柔軟体操ポーズで体を90度に横に曲げたりして、
本人は熱演しているつもりのようなんですが、彼女って、こういうヴェリズモ的、
リアリズムが必要な演技が全く出来ない人なんですね。
今回、歌に全く余裕がないのがそれに拍車をかけているのはわかるのですが、
歌と芝居が完全に分離してしまって、音を出して、はい、次は泣き崩れて、はい、
という感じで、どうしてそれを同時に行ってくれないかなー、と、頭を掻き毟りたくなることしばしばでした。

かなり前になってしまいますが、
新国立劇場で観た『トスカ』(トスカがヴァレル、スカルピアがポンスだったと思います)は、
この場面で、トスカが連行されるカヴァラドッシの足首にしがみついて離れず、
引き摺られたまま舞台を半分くらいすすんで振り落とされる、という迫真の演技で、
ああいう、こちらが観ていて胸が張り裂けるような思いを感じさせてくれなかったら、
このオペラは駄目なんだと思う。
そう、小手先の読み替えとか、気取ってかしこぶった演出なんか、
『トスカ』にはものの役にも立たないということです。



マッティラの歌で高音の浅さと同時に気になったのは低音の使い方。
一部のヘッズはそれを魅力的だと感じたようですが、
私はこの半分ドスを聞かせたような低音が、最後にはtoo muchに感じられたくちです。

問題の”歌に生き、恋に生き Vissi d'arte, vissi d'amore"。
出だしは言われていたほど悪くないと思いました。
中盤もそのまま来たので、どこがその苦手と言われるフレーズなのか?といぶかしく感じたころに、
”そこ”は来ました。
Perche, percheの後Signoreのニョの部分から三つ連続する音。
ここが、彼女、歌えないんですね、、、。
最初の音が来た途端、もう駄目だ!という意識が先に来てしまうようで、
初めの二つの音が短すぎ(それに伴って音程が揺れるのも問題)、
根性で最後の音を何とか頑張って伸ばしていましたが、息切れしてしまって、
あたかも演技の一部として、泣き崩れたために最後の音が潰れたように見せかけていましたが、
これはある程度オペラを聴いている人なら、歌えないから逃げたのがばればれです。
ここが繊細に決まってこそのアリアなんですけどね、、。
逆を言うと、ここがきちんと歌えないのに、なぜトスカを歌おうなどと考えるのだろう。
それにしても、リハーサル、今日の公演、両方観た人の意見だと、
マッティラに関しては圧倒的に今日の公演の方が良かったというんですから、実に恐ろしいです。



最後の”トスカの接吻”(要はナイフによる一突き)は、スカルピアの股間へ。
まあ、この演出家の考えそうなことで、もはや退屈以外の何物でもありません。
この後、当作品の名場面である、燭台を置き、スカルピアの胸に十字架を置く演技がないのは、
先に触れたとおり。

今日のように柔らかい生地のドレスを着ていると、本当に身動きがままならず、
特に昇りの階段では、自らのドレスの裾に靴のヒールがからまって非常に面倒くさく、
かつ、危険であるということを、最初のインターミッションで実感したので、すっかり怠惰になって、
二回目のインターミッションは座席に座ったままでいたら、
隣に座っているオースティンの友人の女の子も全く同じ考えだったようで、
二人でボックスに残っておしゃべりを楽しみました。

良く似合っている白いドレスは何とオースティンが作ってくれたものだとか。
道理で既製品とは違って、ご本人の雰囲気にも体にもぴったりなわけです。
今回オペラを観るのは全くの初めてだそうで、オースティンともう一人の友人にも、
一回目のインターミッションで、いかに以前のゼフィレッリのプロダクションが豪華だったか、
それに比べてこのセットはちんけか、ということを教えてもらったそうです。
やっぱり、オースティンは真性オペラヘッドだわ、と微笑ましく感じました。
今時の若いお嬢さんなので、”オペラヘッズって説明したがりでちょっと変!”と思っていてもおかしくないのに、
オペラハウスのアコースティックや、今日の歌手のことなどについて、一生懸命質問し、
礼儀正しく答えに耳を傾けてくださるので、つい調子にのってぺらぺらとしゃべってしまうもう一人のヘッド=私なのでした。

この世代の方、特に今までオペラを見た事がない、という方とお話するのは本当に珍しい機会なので、
”正直なところ、今日の公演をどう思いますか?”と尋ねた時の、
彼女の意見がとても的を射ていて興味深かったのでご紹介しましょう。

”トスカって、もうちょっと強く心を掴んで、離さないような、
そういうオペラだというイメージがあったのですが、ちょっとそれとは違うな、と思いました。”

飾らない言葉ながら、実にこの演出の問題点を的確にとらえていてはっとさせられます。
ヘッズがどんな過去の経験や専門知識を持ち出して云々し、それにボンディが反論しようと、
彼女の素朴な言葉に全てが集約されています。
つまり、どんな手法やスタイルをとってもよいし、議論を巻き起こすような演出部分があってもよい。
けれども、作品自体が持っているはずのパワーを観客に伝えられなかったとしたなら、
それら全てのことには何の意味もなく、その演出は失敗である、ということです。



第三幕ではマッティラが問題のアリアが終わって、少し肩の荷が下りたのか、
演技に少し自然さが出始めていたのですが、最後にサンタンジェロ城から飛び降りるシーンで、
完全には飛び降りないで、フリーズ・フレームの手法と言うんでしょうか?
飛び始めたシルエット(まだ足は城の壁についたまま)が一秒ほど闇に浮かび上がって暗転して幕。

幕が降りた途端、ブーが飛び始めましたが、歌手には総じて温かい拍手が送られました。
こんな演出で歌わされて気の毒に、、という同情の拍手も多かったのではないかと思います。

マッティラがその後、レヴァインを引っ張り出すと、またもや大きな拍手。
私は実を言うと、今日のオケの演奏は全くもって緊張感が足りないと思っていて、
特に弦と木管の集中力のなさは、全くらしくない程でした。
ただ、レヴァインやオケのメンバーはドレス・リハーサルの前から、ある程度
この演出に対する予備知識はあるわけで、彼らの士気が下がったとしても、
責められない部分があるでしょう。
それが、単体オケと歌手の寄せ集め形式で演奏している新国立劇場とは違うところです。
悪い演出は、歌手だけでなく、オケ、合唱、他すべてのスタッフに伝播するということです。

そして、さらにマッティラがボンディら演出チームを舞台にあげると、
ものすごい数のブーイングが客席から飛びはじめました。
これは、あの月光仮面の『トロヴァトーレ』を彷彿とさせる事態になっています。
『トロヴァトーレ』と違うのは、『トロヴァトーレ』は少なくともオープニング・ナイトの公演ではなかった、という点で、
紳士的なオーディエンスが多いといわれるメトのオープニング・ナイトで
こんなにたくさんのブーが飛ぶのは記憶にある限り、かつてなかったことだと思います。
オペラヘッズの、ナンセンスなものには黙っちゃおれん!というスピリットがちゃんと健在なのは本当に嬉しいことです。
そして、強調しておきたいことは、この日、”いや、この演出はそう悪くはなかったぞ”という意思表示にあたるような
Bravoの声も、積極的な拍手も一切ボンディ・チームには向けられていなかった、という事実です。
つまり、あの日、オペラハウスにいた観客のなかで、あの演出を良いと言う人はいなかったと言ってもよいと思います。
私が個人的にお話した人も、皆一様に、この演出にはネガティブな意見を持っていました。

NYタイムズら各メディアは、異例の速さでオープニング・ナイトをカバーした記事をあげ、
珍しくトマシーニ氏が今回の演出に批判的な批評を出しました。
しかし、NYタイムズにコネのあるゲルプ氏の差し金でしょう。
翌日には、ダメージ・コントロールともいえる、
ゲルブ支配人&ボンディ組の、自分たちのとった選択は間違っていない、という記事を掲載。
(それが先に紹介したボンディのコメントが含まれている記事です。)
ボンディを三流演出家呼ばわりしたゼフィレッリのコメントに対し、
ボンディが、”たかだかヴィスコンティの第二アシスタントあがりが。”と応酬するなど、
メトはいつからジェリー・スプリンガー・ショーになったんだ?というような低級なレベルの争いが始まっています。

この記事では、オープニング・ナイトでブーを出した客をほとんど化石扱いし、
あの演出を良いと言っていたオーディエンスもいる、とまで言い切りますが、
私からすれば一体どこに?って感じです。

正直言って、ボンディの稚拙な説明に比べ、
オペラブログでなぜボンディの演出が駄目か、ということを根拠を交えて語っている
ヘッズの方がよっぽど的を射たコメントをしていると思うんですけど。

あげくの果てにはこの公演を観たフランスのル・モンド紙の主席批評家である、
マシャールという人物は、
この演出に好意的な評を書き、ブーは誤ったオペラの伝統幻想によるものである、と説明、
(要はNYの観客がゼフィレッリのような演出から抜け切れていない、ということが言いたいらしい。)
”馬鹿馬鹿しくて、リブレットにあることと全く違うことをやろうとするプロダクションは山ほど観てきた。
ボンディ氏がしていることはそれとは違いますよ。”

理屈っぽい芸術家気取りの、モルティエに洗脳されたフランスの親父が言うことが、
NYやメトに何の関係があるんだ?すっこんでろ!って感じです。
フランスやドイツでユーロトラッシュが受け入れられるからといって、
また、それらの多くがボンディの演出より質が悪いからといって(そしてそれはお気の毒さま!)、
なぜ、それがメトにまで侵略していい理由になるのか?さっぱりわけがわかりません。
そんなにこのトスカの演出がいいと思うなら、ガルニエでもバスティーユでも、
エッフェル塔へでもいいから、持ってっちゃって下さいよ。
彼は無責任なことをそうやって新聞に書いているだけでいいけれど、
我々メトの観客は、後数年、『トスカ』といえば、この訳のわからない糞演出と付き合わなければいけないんです。ったく。

もう一つ、別のサイトでゲルブ氏&ボンディ擁護の記事を見つけました。
”ブーが出たときは、びっくりしたし、正直、気を悪くした。
だって、僕はそれなりにこの演出をいいと思っていたから。”
ちなみに、同じ文で、彼はこの公演をHDで観ただけで、
かつ、生オペラはこれまでに一度も経験がないことを認めています。
素晴らしい歌と的を射た演出でこの作品を見た事がないから、そういう風に思うだけでしょう。
これを自分に都合がいいからといって、
ゲルブ氏が従来のオペラファンの意見よりも重用するとしたら(実際、二度目のNYタイムズの記事はそれを示唆している。)
本当に私はメトの未来を憂います。

最後に以前の記事でも紹介した私のアイドル、フランコ・コレッリが
カヴァラドッシを歌ったパルマの公演のライブの抜粋を。
感想の中でもふれたVittoria!の部分です。(41秒あたりからです。)

公演に関わっている全員が”その気”になっているのがわかるのがなんともいえない魅力になっている公演で、
オケも演奏はへなちょこなんですが、その”その気”が勝ってしまっているという、
なんとも強引な公演です。
そして、何より客が公演の一部であることがよくわかる。
『トスカ』にはなによりもこういう興奮がなくては!

舞台に関わる人や観客をこういう熱い気持ちにさせる、素直な演出が早くメトに帰ってきますように。





Karita Mattila (Tosca)
Marcelo Alvarez (Cavaradossi)
George Gagnidze (Scarpia)
Paul Plishka (Sacristan)
David Pittsinger (Angelotti)
Joel Sorensen (Spoletta)
James Courtney (Sciarrone)
Keith Miller (Jailer)
Jonathan Makepeace (Shepherd)
Conductor: James Levine
Production: Luc Bondy
Set design: Richard Peduzzi
Costume design: Milena Canonero
Lighting design: Max Keller
Grand Tier Box 35 Front
ON

*** プッチーニ トスカ Puccini Tosca ***

TOSCA (Mon, Sep 21, 2009)  前編

2009-09-21 | メトロポリタン・オペラ
一年毎くらいの登場頻度ではありますが、なにげにコンスタントに当ブログに登場している
同じアパートメント・ビルに住む俳優兼デルモ兼スポーツジム経営のE氏。
フェリのフェアウェル公演の時やら、オペラ・ニュースの件で登場した、
ABTの舞台に頻繁にエキストラとして立っている彼です。
一週間ほど前、その彼とばったりアパートの前で会うと、満面の笑みでこう言いました。
”メトのトスカに出演することになったんだよ!!”
トスカでエキストラというと、スカルピアの手下か、テ・デウムのシーンで登場する教会関係者、
もしくは三幕の射殺隊のどれかだな、、と思っていると、案の定、”スカルピアの手下の警官のような人。”
おお!!エキストラの中では目立つ大きい役ではないですか!!
”衣装がかっこいいらしいから、すっごく楽しみなんだ!”とかなり嬉しそうな彼。
初日は私もオペラハウスにいるからちゃんと観てるからね!がんばって!と激励。

そして、当日。
125周年記念ガラと同じ過ちは二度と犯すまい!と事前にアポイントメントを入れておいた
ヘア・サロンのお兄さんと昨年のオープニング・ナイト以来の再会。
125周年ガラでどんなひどい目にあったかを切々と訴え、
”あなたじゃなきゃ駄目だということに気づきました。”と再指名したところ、すごく喜んでくれて、
”今日はもうオペラに行くお客さんだけでこの後ぎっしりよ!!”といいながらも、
ものすごい速さで、しかし、実に丁寧にセットしてくれる彼なのでした。
あまりに急いでいて、手にからみつくばかになったヘアピンをその変にぴーんと投げ捨てる姿もすごいです。
横で雑誌を熟読中の、これまたオープニング・ナイトに行きそうな雰囲気の頭になっているおばあさんの頭に
刺さるんじゃないかとひやひやしました。
この彼のすごいところは、一秒たりとも無駄に時間を使わないところで、
こてで髪を巻いてホールドしている間に、さっと自分のスケジュール表に目を通して、
後に続くお客さんの段取りを頭で組んだりしているのです。
そのうえ、本当に良く気がつく(かつ商売上手)というか、
”メークももしよかったら係を手配しますよ。”と言うので、
前回、メークでお世話になったお兄さんがそういえばなかなか上手だったのでその人ならお願いしたいけれど、
名前が思い出せないわ、、。
仕方なく”プリンスみたいなお兄さんでした。”



というと、”ああ、○○のことね。”と、あっさり身元が割れました。
結局プリンス似のお兄さんはお休みで、
それ以外のメークアップ・アーティストの方も全員夕方までびっちり予定が詰まっているということ。
いかにオープニング・ナイトがNYのビッグ・イベントであるかがわかろうというものです。

出来上がった髪は、125周年記念ガラのときと基本的にやろうとしているデザインは同じなのに、
片やゴスパン(ゴシック・パンク)の仮装大会、今日のはまぎれもないオペラのオープニング・ナイト仕様、と、
良いものと駄目なものというのは、似ているようで、明らかに一線を画す、という点は歌の世界と同様です。
そして、エレンちゃんにお直ししてしもらって以来
半年も待機状態だったパープルのドレスがいよいよ日の目を見る!!

開演5分前に到着すると、いつものことながら、すごい人、人、人。
それにしてもここ最近気になるのは、メトの正面階段の絨毯の掃除が行き届いていないことです。
これはげんなりします。以前のメトはこういうところもきちんとしていたんですけど。
美人の家に呼ばれてトイレが汚かったらぎょっとするのと同じで、
HDだの何だので見える部分だけを綺麗にしても、こういう基本的なことがきちんとしていないとがっかりです。
それにしても、誰だよ、雨の日でもあるまいし、
そもそもこんな泥のついた靴でメトに足を踏み入れるのは?って感じです。



今日の鑑賞はグランド・ティア下手側のサイド・ボックスの前列。
ボックスに入ってびっくりしたのは、
ボックス仲間が、3年前のオープニング・ナイト(演目は『蝶々夫人』)の時と同じ、
オースティンご一行様だったこと。
彼は本当にオペラやクラシック音楽が好きみたいで、オープニング・ナイトのみならず、
普段の公演やカーネギー・ホールのリサイタルなんかでも、
よくお友達と一緒に鑑賞に来ている姿を見かけます。
考えてみると、ヘッズは自分の好みの座席も大体決まっているので、
こうして同じボックスになることは不思議でも何でもないのかもしれません。
そういえば、昨年のオープニング・ナイトでは、彼は平土間の空間を挟んだ
真向かいのサイド・ボックスに座ってましたっけ。
今日は少し年上の男性のお友達と、
私の隣に座っているまだ20代の前半位の感じの女性のお友達(超美人!)とご一緒でした。
お若いのに細かくシークインとビーズをちりばめた白い素敵なドレスを本当に上手に着こなしています。

例年通り、オープニング・ナイトはアメリカ国歌の斉唱でスタート。
今日の私は実を言うと、髪にドレスに、と張りきった割には、
公演に関しては、不安と半ば諦めの気分でオペラハウスにやって来ています。

良くも悪くも”メトらしい”という言葉を冠され、80年代から存続してきたゼッフィレッリのプロダクションが、
今年からリュック・ボンディの新演出にとって代わられることとなったのですが、
オープニング・ナイト直前のドレス・リハーサルを観た数多のヘッズからは散々な評が聞こえてきました。

また、トスカ役を歌うマッティラは、NYではピーク時の彼女の『サロメ』や『イェヌーファ』の印象が強いのか、
彼女に対するリスペクトが割と強くて、なぜか、ヘッズもあまり冷たいことは言わないのですが、
それでも、彼女のこの役の選択を疑問視する声が少なからずあって、
決定打はドレス・リハーサルの”歌に生き、恋に生き”でやってきてしまいました。
きちんと歌いこなせないフレーズがあったために、
マッティラがアリアの途中で歌うのをやめようかどうしようかと逡巡した様子があって、
複数の人が、そのままフラストレーションと恥ずかしさから、彼女が舞台から走り去ってしまいそうな感じだった、
と証言しているほどです。
しかし、歌えないフレーズって、いまさら一体、何、、?

NYローカルのファンが多く参加するオペラブログでも、
オープニング・ナイトで一体どうやってそこのフレーズを切り抜けるつもりなんだろうか?
と危惧する声が多々あがっていましたし、
彼女がこのオープニング・ナイトで自分をはずかしめる結果にならなければいいが、、
という意見まであがったほどです。
これらがアンチ・マッティラ派ではなく、むしろ、彼女を好意的に見ているヘッズからも
聞かれた意見だったということは注目に値します。
私は2007-8年シーズンの彼女の『マノン・レスコー』を聴いたときから、
彼女がプッチーニ作品を歌うことには猛反対で、
一体、何をとち狂ってトスカなんか歌うのか?と思っていますので、
正直言って、彼女のトスカに対しては全く期待していません。

一方、男性陣に目を移すと、アルヴァレスは比較的安定した力を持っているテノールだとは思いますが、
彼の声で歌うカヴァラドッシはどう考えても軽めですから、またしても
『トロヴァトーレ』のマンリーコの時と同じく、リリカル路線を強調したカヴァラドッシになることでしょう。

スカルピア役を歌うガグニーゼに至っては、ドレス・リハーサルの直前に
ウーシタロが降板しての代役ということで、
一体キャストもこんな状態で何に期待しろというのか?とこちらが聞きたいくらいです。



ボンディの演出では、トスカのパーソナリティの中心を占めているはずの、
カトリシズムの要素がかなり希薄になっているのがまず特徴の一つです。
幕が開いてすぐアンジェロッティが飛び込んでくるのは、教会であるはずの建物ですが、
まるで戦後の物資のない日本の小学校のような殺風景なセットに心が冷えます。
この木の椅子、、。

教会というのは、本来信者に畏敬の念を起こさせるために、
入ったものを圧倒するような仕掛けがあるのが普通で、
例えばゼフィレッリの演出は、
それを忠実にビジュアル化したものでしたが、ボンディ版はそれをことごとく、
おそらくあえて排除しているようなセットです。

今回のトスカのボンディ演出の方向性に関しては二つのことが私をいらつかせます。
それは、

① ショック・バリューや議論を醸すことを狙って設定したわざとらしい演技付けやセッティングが多いのですが、
実にやり方が中途半端で、”俺っていけてるでしょ?”という得意な様がいちいちうざい。
それでもって、”いや、全然そうでもないでしょ。”と言いたくなるような効果しかあがっていない。

② 私はカトリック信者でも、ポルノグラフィーが全く受け入れられないようなかまととでもないし、
①で書いたようなことが、登場人物や作品のドラマ付けの中でなにほどかの意味を持つのであれば、
それを許容し楽しむ度量もあると自分で思っていますが、全てがあまりに意味不明すぎる。
要は、議論を醸すための演技付けや解釈、そのこと自体が目的となってしまっていて、
本当に大切な登場人物の行動の動機や、このオペラをどういう風に描きたいのか、ということを全く見失っている。
また、細かい些細なことをいちいちビジュアル化して演技で表現しようとするあまり、
各登場人物の性格のコアの部分を舞台で現出するという、最も肝心な部分がすっかりおざなりになっている。

はっきり言って、演出として出来損ないです。この作品は。



例えばトスカという女性のパーソナリティ。
ボンディは簡単に彼女を気性が激しく、嫉妬深い女性、と定義しますが、
その嫉妬深さはどこから来ているんでしょう?
それは、彼女の弱さと自信のなさしかありません。
この彼女の弱さが当作品で描かれる悲劇を一つ一つ間接的に誘導してしまうのです。
彼女が毅然として自分に自信のある人だったら、
アッタバンティ侯爵夫人の扇のことくらいで一々動揺して、スカルピアに付け入られることもないでしょう。
というか、スカルピアがトスカに狙いをつけるのは、彼女の弱さを敏感に感じ取っているからともいえます。
彼女が強い人間だったら、もしかしたら、二幕でアンジェロッティの居所を告白することもなかったでしょう。
それから、スカルピアに体を許すことに同意するあの場面は?
彼女は最初から彼を殺せる状況になるとわかって同意するのではない。
後から、たまたま、偶然にナイフがあるのを見て、スカルピアを殺害することを思いつくのです。
だから、スカルピアにうなづいた時点では、実際に体を許すつもりだったことになります。

だから、私はただヒステリーでキーキーわめき散らかしているような、
気の強いだけのトスカは問題外だと思っていて、
どこかに、カヴァラドッシと一緒にいることでしか自分の存在を確認できないような
必死さと弱さが見えていないと駄目だと思います。
あの延々と一幕で続く嫉妬の場面があるのは、
彼女が異常性格であることを述べるためでも、観客の失笑やお笑いを買うためでもなく、
彼女の憐れさが滲み出てくる、そういう歌と演技をトスカ役を歌う歌手が披露しなければならない。
そのためにあるのです。



なのに、スカルピアと対峙する一幕後半の部分で、
スカルピアにカヴァラドッシがアッタバンティ侯爵夫人と恋愛関係にあるようなことをにおわされると、
(もちろんこれはトスカを心理的に絡めとるための罠であって、真実ではないのですが)
マッティラのトスカはやおら鉄のものさしのようなものを取り出して、
カヴァラドッシがマグダラのマリアの肖像(マリア様がアッタバンティ公爵夫人に似ている!と、
すでにカヴァラドッシと口論の原因になっている絵)を描いていたキャンパスをを滅多刺しにしてしまうのです。
あ~あ、いきなり、やっちゃいました。トスカは異常性格の女じゃないって言っているのに。

ボンディは”自分の演出はきちんと内容に沿っている”と言っているそうで、
この絵をめった刺しにする場面は、”トスカの嫉妬に満ちた怒りの自然な延長線上にある”と
NYタイムズの記事で説明しているんですが、
この幼児のような表面的な説明を聞くだけで、駄目だ、この演出家は、と思わされます。
っていうか、こんなの、全然説明になってないと思うんですけど。
そのように描きたいのであれば、”なぜ”そこでトスカは嫉妬を爆発させるのが自然だと感じるのか、
そこを説明してくれないと。
いや、本来は、それを彼の説明でそれを伝えるんではなく、
トスカが歌い演じる様からそれが客に伝わらないといけないのではないですか?

あ、付け加えておくと、この滅多切りにされるマリア様がなぜだか、
片方の胸を服からはみ出させているんです。
また、controversy狙いですか。
全然意味が不明ですし、全然ショッキングですらないです、こんなの。
こんなので物議を醸せると思っているなんて、ボンディはいつの時代を生きている気なんでしょう?
もう今は2009年なんですよ!!

とにかく、トスカという作品全体も、各登場人物のパーソナリティも十分に読み込めていないので、
必然的に、妙に細かい演技でがちがちに歌手たちを固めようとしていて、
これも私にはこの演出では仮に優れた歌手が揃ったとしても、良い公演にはなりようがない、と考える理由の一つです。

アルヴァレスとマッティラを見ていると、気の毒なくらい細かい演技に捕われすぎて、
肝心な部分である、彼らが演じている役のコアな性格が全く見えてこなければ、
二人が愛し合っているということすら、にわかに信じ難いような愛に欠けた演技なのです。
極端を言えば、細部がちょっと位違っていても良いのです。
(大体そうでなければ、演出家がいる意味もないと思う。)
けれども、絶対に観客に伝えなければならない、登場人物の性格の根っこの部分と、
それに基づく彼らの行動の動機、これだけは外してもらっては困ります。



そして、ボンディの演出からはそれがことごとく抜け落ちているのです。
大体、彼自身が、トスカやカヴァラドッシやスカルピアがどんな人間なのか把握し損ねているのですから、
歌手たちがそれを把握できるわけがない。
なので、とりあえず意味不明な行動で間をもたせるのがボンディの作戦です。
カヴァラドッシが絵の足場を意味なく登ったり降りたり、
”妙なる調和”の途中に歌から注意をそがせるような堂守との演技を挿入する、
二幕でトスカがスカルピアを殺害した後、リブレットに存在し、
大抵の公演では含まれているはずの、スカルピアの周りに燭台を置く演技付けをなくし
(↑ またカトリシズムを軽視しているかのように見せかけたcontroversy狙い!)、
最後に『タイタニック』のように窓を開け、下を覗き、思案にくれるトスカ。
っていうか、思案にくれるのはこっちですよ。
一体、何が言いたいんですか?この演技で??!!

あげくのはてには、二幕の最後に、例の扇を取り戻し、目の前のスカルピアの死体を得意顔で眺めつつ、
扇を広げて悦に入るトスカ、そこで照明が落ちて幕。

はああああ??!!!
だから、トスカはそんな強い女性じゃない!!って何度言ったらわかるんでしょう。
しかも、この緊迫した、『トスカ』という作品の最高の見せ所であるスカルピアとの一騎打ちのシーン、
その落ちを、”嫉妬という自分の過去に勝ったわ!”という、そんな軽いところに持っていくか?!
トスカ役の一番の演技の見せ所である、スカルピアを殺す決意をする瞬間から、
幕が降りるまで、
これほどトスカの心の軌跡が見えない演出も珍しいなら、
当作品の中で最もすぐれたドラマと音楽の余韻を楽しむという喜びも与えてくれないわけです。この演出は。



若干、順序が前後しますが、一幕の前半は、本当に退屈で死ぬかと思いました。
それはなぜなら、マッティラとアルヴァレスの間に、先ほども書いたように、
恋人らしい雰囲気が全く流れていないからです。

最大の問題はやはりマッティラにあると思います。
私が彼女を生で聴くようになってから少なくとも彼女はずっとその傾向があるんですが、
とにかく彼女は高音域での音が浅い。
声にある種の美しさはあるので、レパートリーによっては彼女の良さが生きるものもあると思うのですが、
トスカは思った通り、全然だめでした。
というのも、彼女はきちんと歌うこと、音を綺麗に保つこと、
綺麗なフォームで歌うこと、にこだわりすぎているように思います。
そのせいで、なんとも熱さを感じないというか、不感症的トスカです。
綺麗なフォームなんてことを気にしていたらこの役は歌えないんですよ!
声域的にも厳しい個所があるのか(高い低いの話をすればこの役はそれほど高くはないので、
彼女の一番魅力的でない声域に、メインのレンジが当ってしまっているのかもしれません。)
薄氷の上をつま先で歩くような歌唱、、、歌がこんな状態で、演技に何かを求めようというのも、
無理といえば無理な話です。
ラブラブな二人を演じるには、二人の歌手が必要なわけで、片方がこれですから、
アルヴァレスを責めるのは可哀想な気がします。

<怒りに打ち震えつつ、後編に続く>

Karita Mattila (Tosca)
Marcelo Alvarez (Cavaradossi)
George Gagnidze (Scarpia)
Paul Plishka (Sacristan)
David Pittsinger (Angelotti)
Joel Sorensen (Spoletta)
James Courtney (Sciarrone)
Keith Miller (Jailer)
Jonathan Makepeace (Shepherd)
Conductor: James Levine
Production: Luc Bondy
Set design: Richard Peduzzi
Costume design: Milena Canonero
Lighting design: Max Keller
Grand Tier Box 35 Front
ON

*** プッチーニ トスカ Puccini Tosca ***

MET LEGENDS - JAMES LEVINE (Tues, Sep 15, 2009) 後編

2009-09-15 | メト レクチャー・シリーズ
前編より続く>

ここまでフィルムを見終わった後、レヴァインからも、
歌手とは特別な信頼で結ばれるという幸運が多く、
特に、優れた歌手の比較的後期のキャリアで、
レヴァインが重要な役割を演じることが出来た例をいくつかグルーバー氏があげると、
もしそうだとしたら、本当に嬉しい、というレヴァインの言葉がありました。
ビルギット・ニルソンやレオニー・リザネクらがこれらの歌手の中に含まれると思いますが、
リザネクについてはレヴァインがこんなエピソードを披露しました。

レヴァインが何度か指揮をしたことがあり、リザネクがメトで初挑戦することになったある演目で、
レヴァインのピアノ伴奏で歌をさらっていたとき、彼はリザネクにこう告げます。
”あなたの歌い方のどこが変だかがわかりました。”
当時、まだ若手だったレヴァインにそんな指摘を受けたリザネクはびっくりして、
”あら、そう?それは何?”と皮肉まじりに聞きます。
すると、”あなたは十分に息をしていない。
ブレスをするまで音をあまりにたっぷり延ばしているから、息を継ごうとした時にはもう遅い。
だから息が浅くなって、これではまるで酸欠状態で歌っているようなものです。
あなたがベームのような巨匠と一緒に仕事をしてきたから、みんなこのことを遠慮して言えなかったんでしょう。”
あっけにとられたリザネクですが、レヴァインの指摘が正しいことを認め、
以降、ブレスの仕方を工夫し、それが結果として彼女のキャリアを大いにのばすことになったといわれています。
実際、彼女自身も、こんなに長きに渡って誰もその時まで指摘をしなかったのは本当に驚きだ、
私のキャリアの最後の1/3は、この時のレヴァインの忠告がなければ存在しなかっただろう、
というような趣旨のことをしばしば語っていたそうです。

幼少時からオペラを散々聴き倒してきたせいか、歌手の歌に対するレヴァインの耳は非常に鋭いものがあり、
こんなエピソードもレヴァインから開陳されました。

レヴァインが初めてメトで指揮台に立つことになった記念すべき1971年6月の『トスカ』のリハーサル。
もともと2回しかリハーサルが与えられなかったことは前編でも書いた通りですが、
ここでせこく長々と練習をしても仕方がない、と思ったか、
割とさっくりとリハーサルを終わらせたために、
予定よりも早く歌手とオケのリハーサルが終わってしまいました。
そこでレヴァインは、カヴァラドッシ役を歌うフランコ・コレッリに、
”少し時間が残っているから、歌をさらおうか?”と声をかけると、
コレッリは、もちろん、と快諾します。
やがて、レヴァインのピアノの前で歌い始めるコレッリ。
しかし、ここでもまたレヴァインはコレッリの高音が何か変であることに気付きます。
実際、レヴァインは、コレッリがここ数ヶ月、舞台でも、
以前のような輝かしい高音を聴かせなくなったことに気付き、理由をいぶかっていたのです。
そこでおもむろにピアノを弾くのをやめ、レヴァインがコレッリに尋ねます。
”フランコ、高音に何か最近違うことをしてないかい?”
すると、コレッリが目を輝かせて答えます。”してるんだよ!気付いたかい?”
何が起こっているのか具体的にはわからないレヴァインは、
”一体何をやってるんです?”と尋ねると、”数えてるのさ!!”
、、、、は?、、、
”数えてるって何を?”とレヴァインが聞き返すと、コレッリは高音になるとその音を歌い始めた時から、
頭の中で ”1、2、3、、”と数え始めるのだといいます。
何でそんなことを?とレヴァインが尋ねると、
”そうじゃないと、指揮者が無理矢理割り込んで来て、高音を短くさせようとするから”。
要は、何が起こっても、○秒間は絶対伸ばすんだ!という決意のもと、
その秒数に達するまで、カウントをしている、と言うのです。
レヴァインが笑って、”私はあなたがどれだけ高音を伸ばしてもらっても構いません。
終わりを知らせる合図だけしてくだされば。
さあ、だから数を数えるのをやめて、リラックスして高音を出してみてください。”と言うと、
以前のコレッリと全く同じ素晴らしい高音が飛び出して来たということです。

このメト・デビューの時には、いよいよ指揮台に出動!という時に、
レヴァインあてに電話が入ります。
誰だよ、こんな時に!と受話器を取ると、それはリチャード・タッカーで、
”観客をぶちのめしてやれよ!”という激励の電話だったとか。
そして、目の前にはコレッリが立っている、、。
なんというところに自分はいるんだろう?と思ったそうです。
しかし、一方で、そういった同僚や歌手たちの温かい支えのおかげで、
デビューに関して、不思議と怖いという感覚はなく、
とにかく指揮が出来て楽しかった、という思いだけが残っている、と語っていました。

インターミッションに入る前にスクリーンで紹介された映像は、
1983年に、おそらくカーネギー・ホールと思われる場所で行われたメト・オケの演奏で、『運命の力』序曲。
これはレヴァインによるリクエストだそうで、その1983年にTV放送された後、
ずっとお蔵入りになっていた映像です。
1970年代のメト・オケの演奏を聴いていて思うのは、
現在と比べてやや野太く素朴な感じの音で、随分印象が違うな、ということなのですが、
この1983年の演奏も、まだその流れが感じられます。
1984年のメトでの全幕公演での序曲の演奏はYouTubeにあがっていますが、
それよりも1983年はもっと頭の金管の合奏のフレーズを短め、かつタイトにした演奏で、
弦セクションも今よりずっとシャープな音色。
当時のコンサート・マスターで、40年間の長きに渡りその重責をつとめあげた
レイモンド・ニーヴェクの姿も映像に何度か捉えられていますが、
この方は気難しそうでなかなか素敵です。
途中に現れる金管のコラールの部分など非常に美しく、
本人がリクエストするだけあって、この序曲だけを取ると、やや個性的な演奏ではありますが、
1984年のそれより、1983年の方が私も出来が良いと思います。
面白い映像を見せていただきました。


③ 客席に混じるレヴァインの仲間たち

インターミッション終了後、再びレヴァインとグルーバー氏が舞台にあらわれ、
今日の”アナード・ゲスト”(honored guest 要は我々のような普通の客ではなく、
主催者の側からレヴァインと仕事をした業績を讃えて招待された客たち)の紹介がありました。
グルーバー氏が読み上げる名前に答えてアナード・ゲストたちは、
その場で立ち上がったり、軽く手を振って会釈で答えたり、、
その人物を求めて会場中がいっせいにウォリーを探せ!モードになります。

今日のイベントでの私は、なぜだか会場でものすごく良い座席が割り当てられたためだと思うのですが、
半径数メートルの範囲の周りで、ぼこぼこゲストたちが立ち上がるのにびっくり仰天。

ヨハン・ボータ(現役活躍中のテノール。新シーズンのメトの『アイーダ』に出演予定)、
マルティーナ・アローヨ(メトでは60年代半ばから70年代半ばを中心に活躍したソプラノ)、
キャサリーン・マルフィターノ(80年代から90年代にかけて主に活躍したソプラノ。
ドミンゴと共演したローマで現地撮影されたトスカの映像などがよく知られていますが、
他にもサロメや蝶々夫人などを得意とした。)、
テレサ・ストラータス(メトに登場したソプラノの中で最高の女優、と評するヘッズも多い。
ベーム指揮ウィーン・フィルとの『サロメ』の映像でもわかるとおり、
コケティッシュな魅力を持つ美女。歌も上手い。
メトではルルなどで最高の歌唱と演技を見せた。80年代を中心に活躍。)、
そしていきなり私の目の前で立ち上がったのはジュディス・ブレーゲン
(70年代から1991年に引退するまで、モーツァルト、R.シュトラウス、
そして軽めのヴェルディの諸役など、多くの役をつとめたソプラノ)、びっくりしたな、もう。
そして、その隣のおじさまが立ち上がってこちらを振り返ると、
さっきスクリーンで気難しい顔を見せていた元コン・マスのレイさんでした。
このお二人はご夫婦なんですね。
それにしても、さっきまで目の前に座っているのは普通のおっちゃんかと思ってましたよ、、
メトの音を40年も支えて来た方にそれはあまりに失礼だ!本当にすみません。
さらに、その隣は、コーネル・マクニール(1959年から1987年までメトで活躍したバリトン。
特にリゴレットと『オテッロ』のイヤーゴを得意としていた。)、
そして、さらにそのむこうの席は、ロベルタ・ピータース(前編でフィルムにも登場している、
レヴァインの最初のアイドル。コロラトゥーラの技術を得意とし、ベル・カントなどの作品で活躍。)。
ちょっと立ち上がるのもおぼつかない感じでひやひやしましたが、
1930年生まれですから、もう80歳近いのですね。
それから、マリリン・ホーン(ベル・カントの諸役で60年代から80年代に活躍したメゾ。)、
そのすぐそばにドローラ・ザジック(現役活躍中のメゾ。ボータと同じく新シーズンの『アイーダ』に登場予定。
この二人はいずれもつい最近までスカラの来日公演で日本にいた組です。)、
レイさんに加え、オケからもう一人、この新シーズンでなんとメトで演奏するのは65シーズン目(!!)となる
ティンパニーの首席奏者であるリチャード・ホロヴィッツ氏
ライブ・イン・HDでも時々演奏している姿が見れる、小柄でかわいいおじいちゃまです。
それにしても、65シーズン目って、、、今、一体、いくつなんだろう、、?
そして2008-9年シーズンは一度もメトへの登場がなかったのでちょっと久しぶりの感のあるヘイ・キョン・ホン
インターミッションでも近くを通りかかったのですが、素敵な方でした。
そして、久しぶりと言えばもっと久しぶりなのはシェリル・ミルンズ(60年代から90年代まで
メトでヴェルディのバリトン・ロールといえばこの人!だった。
最近、イエローキャブで彼がラジオのトーク番組に招かれていたのをたまたま聴いたのですが、
彼はキャリアの末期に、徐々にではなく、
ほとんど声帯障害といってもよいほど突然に声を失い、非常に辛い時期を過ごしたことを明らかにしていました。)
さらには、フィルムにも登場していた舞台演出家のファブリツィオ・メラーノ
そして、レヴァインが共演したことのある、ヴァイオリンのイツァーク・パールマン、ピアノのエフゲニ・キーシンといったソリストたち、
指揮者のダン・エッティンガーらがアナード・ゲストに含まれていました。

レナータ・スコット、ジェームズ・モリス、カリタ・マッティラも元々ゲストのリストに入っていたのですが、
姿を見せませんでした。
最初の二人はともかく、マッティラはレヴァインのイベントどころではない、
今の私には『トスカ』という大変な心配事が!!というのが本音でしょう。

それにしても、会場に入った途端、猛烈なオペラ臭を感じたのは不思議でも何でもなかった、、。
過去40年ほどのメトの歴史を生きてきた方々がこれほど客席に混じっていたら、それも道理というものです。

④ レヴァインの自選映像30

ここで一旦②のパートでオケの奏者のコメントの中にあった、
spontaneity(spontaneousであること)という言葉について、
それがいわゆる”良い公演”の中でどのような役割を果たすのか、
グルーバー氏がレヴァインに質問を投げかけました。
ここでのレヴァインの答えが興味深かったのでご紹介します。

レヴァイン曰く、いわゆる良い演奏というのは、最初から最後まで、
この音をこのように演奏して、、という風にがっちりと決まっているものではない、といいます。
その意味ではリハーサルにおいて、何度も何度も同じ遣り方を繰り返すという手法は効果的ではない、と。
良い演奏、最高の演奏というものを定義するものは、もっと小さな点のようなものであって、
歌手やオケはそれに向かって努力をするわけですが、そこへの行き方は無限大にあるとレヴァインは考えます。
リハーサルでその行き方を模索することで、段々とその点への距離を狭め、
そして、近づける率をあげること、そのことはリハーサルを通してある程度は可能であり、
そしてまさにそのことがリハーサルを行うことの意味である、と述べていました。
しかし、素晴らしい歌唱、素晴らしい演奏というのは、歌手や奏者が目指す場所、
自分がそこに行くルート、それをわかったうえで、なおかつ、そこにとどまるだけでなく、
自分を解放し、爆発させた時に、生まれるものではないかと思う、と語っていました。
この自分を解放し、爆発させる、ということが、まさにspontaneityにあたる部分であり、
それが公演をエキサイティングにするものである、と。

かように名演という言葉を定義づけしたレヴァインですが、
この第4のパートでは、過去にPBSでテレビ放映されたメトの公演から、
レヴァインが名演ベスト30を選び、そのハイライトシーンがスクリーンで紹介されました。

グルーバー氏が30公演とお願いしたのにもかかわらず、当初レヴァインは50公演を候補にあげていて、
30まで削る作業が大変だったそうです。

ものすごい勢いで次々と紹介される映像に圧倒され、私もとても30すべてを覚えきれなかったのですが、
『コジ・ファン・トゥッテ』のバルトリ(ものすごいコメディエンヌぶりを発揮しています)、
『仮面舞踏会』のパヴァロッティ、
先日の『三部作』のレクチャーでも参考資料に使用されていた、『外套』のマクニールとスコット、
『オテッロ』は思い入れのある作品なのか、複数の公演が紹介されました。
ドミンゴが歌うオテッロ役、スコットが歌うデズデーモナ役(この時のオテッロはヴィッカーズ)もいいですが、
意外にも(といっては叱られる?)フレミングが歌う”アヴェ・マリアのラストの高音がびっくりするほど美しく、
会場から溜息がもれました。
フレミングといえば、ターフェルと共演した『ドン・ジョヴァンニ』の映像もベスト30入り。
先月亡くなったヒルデガルド・ベーレンスの姿が
『ワルキューレ』(ジークリンデ役はジェシー・ノーマン、ベーレンスはブリュンヒルデ)と
『エレクトラ』の映像で写し出された時には会場に静粛な空気が流れました。
『エレクトラ』はもう一公演、ニルソンとリザネクが共演したものも。
『マイスタージンガー』でモリス演じるザックスが靴底を打つ場面が紹介されましたが、
彼はこの役に関しては、この映像の頃よりも最近の公演の方が渋みが出て良くなっています。
他には『フランチェスカ・ダ・リミニ』や『トゥーランドット』(現在と同じプロダクション)の映像も含まれていましたし、
他には『アルジェのイタリア女』でのマリリン・ホーンの姿などが見られました。
しかし、私が最も息をのんだのは、1981年と表記されていたと思うのですが、
レオンティン・プライスが歌った『アイーダ』の公演で、
”我が祖国”の高音のありえないほどの美しさに陶然としました。
1981年というのは、彼女のプライムを完全に超えているな、と思い、
家に帰ってから調べて見ると、彼女は1927年生まれですから、当時54歳だったんですね。
今、彼女より若いソプラノですら、どんなに太刀打ちしても敵わない瑞々しいその声と、
それをコントロールする能力、それから内から溢れてくる表現力、、短い映像でしたが、素晴らしい歌唱でした。
実際、今、このアイーダ役をこのような説得力を持って歌えるソプラノって本当に少ないと思います。

それを言うと、気になったのは30作全ての紹介が終わってみれば、
ライブ・イン・HD時代の映像はおろか、90年代以降の映像が極めて少なかった点で、
特に2000年代の公演は1、2本にすぎませんでした。
もちろん、あまりに現役な歌手が絡んでいるものはレヴァインの立場上選びにくい、
ということもあるでしょうが、こうして映像を見てみると、今よりも魅力的な歌手や公演が多いのも確かで、
これは実に寂しいことです。

最近、レヴァインは、車を運転中にシリウスのメト・ステーションが放送する
自分が指揮した過去の公演を聴くことが多いそうなのですが、(さすがオペラ中毒です!)
公演最中は、細かい自分の気に入らない点が気になって気になってしょうがなかったのが、
こうして、時間を経てあらためて聴き直してみると、なかなか美しい場面が多々あって、
”悪くないなあ”と思うことが増えたそうです。

また、これは今日のイベントで私が最も興味深いと思ったレヴァインの発言なのですが、
”こうしてベスト30を選んでいると、素晴らしい公演だな、と思うと同時に、
映像の限界というものを感じる”といいます。
”この30映像の中でも特にすばらしかったスコットとヴィッカーズの『オテロ』の映像なんかを見ていると、
主演の歌手たちの丁々発止の歌唱の中から、ここからは舞台のテリトリーよ!という主張が聴こえる。
そして、それこそが彼らの舞台が素晴らしかった理由である。”と。
つまり、彼らの歌を真に素晴らしくしているものは、実際に劇場で聴かないと本当には伝わらない種類のものである、ということです。
もちろん、映像だって、その舞台の素晴らしさをかなりの程度伝えることは出来ますが、
レヴァインはそれを、souvenir of the performance=実際の公演のおみやげという、
上手い言葉で表現していました。
また、それが、ライブ・イン・HDを含めた映像の限界でもある、とはっきり述べていました。
これは会場にいたゲルプ氏に対する痛烈な皮肉だと思うのですが、
これを皮肉だときちんと感じられる感性がゲルプ氏にあるかどうかは私にはわかりません。

最後にグルーバー氏がレヴァインに、
これから挑戦してみたい、今まで指揮したことがない作品はありますか?という質問を向けると、
少し考えた後で、Noという答えが出ました。
”例えば『西部の娘』など、自分が大好きだけどなかなか演奏する機会がない・少ない作品というのは結構あるんですが、
自分の性格として、すでに手がけたものでも、次に指揮するときは、
こういう風にしたい、ああいう風にしたい、という考えが溢れてきてしまうんです。
なので、今は新しいものに手を染めるよりも、これまでに演奏した作品を
もっとよい演奏にしたいという気持ちの方が強いですね。”とのことでした。

今日のイベントの最後のしめくくりとして紹介されたのは、
やはりPBSでテレビ放映され、DVD化もされている『ローエングリン』の1986年の公演から第一幕への前奏曲。
グルーバー氏が、この映像の特徴は前奏曲の最後まで、
テレビ・カメラが決してレヴァインを離れないこと、と紹介したとおり、
存分にレヴァインの姿を楽しめる(?)映像になっています。
しかし、じっと彼の指揮を見ていて思うのは、彼の指揮を通して
的確に彼が自分の体で感じている音楽のビートが伝わってくること。
レヴァインについては音楽性がないと貶める意見も時々聞きますが、
最近こういった基本的な技術もない指揮者がしばしば指揮台に立つのを見るにつけ、
やはりレヴァインはある側面では非常に優れた指揮者であるとの認識を新たにします。
また、彼がメトに与えた影響というのは指揮だけの範囲で括れないものがあり、
そういった全体像を見ないで彼を語ることは非常に片手落ちだと感じます。
メトに通う観客が彼をリスペクトする理由は指揮だけじゃない、そういうことです。


The Metropolitan Opera Guild presents
Met Legends - James Levine

Paul Gruber, Executive Producer and Host
Jane L. Poole, Michael Snider, Associate Producers

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*** Met Legends - James Levine メト・レジェンズ ジェームズ・レヴァイン ***

MET LEGENDS - JAMES LEVINE (Tues, Sep 15, 2009) 前編

2009-09-15 | メト レクチャー・シリーズ
メトのサブ団体として、観客のオペラに関する知識の啓蒙・教育に燃える
メトロポリタン・オペラ・ギルド、略称MOG。
そのギルドが2007年から、Met Legendsというシリーズをスタートさせました。訳して”メト伝説”。
まるでコンピューターのロールプレイングゲームのような名前ですが、要は
1)そのキャリアにおいてメトが大きく関わっているアーティストで
2)メトおよびその観客たちに伝説的な存在と認められるような大きな功績を残した方
の業績を振り返り、それを讃える、というイベントです。
2007年(第一回目)はメゾのマリリン・ホーン(1934年生まれ)、
そして、2008年(第二回目)はソプラノのテレサ・ストラータス(1938年生まれ。
英語読みではテリーザという発音に近いのですが。)が
その”伝説”として取り上げられましたが、
第三回目にあたる今年2009年はいよいよジェームズ・レヴァインの登場です。
場所はリンカーン・センターの一部で、ジュリアード音楽院に隣接した、
つい最近改装オープンしたばかりのアリス・タリー・ホール。
座っている人間が立たなくても人が前を通れるゆったりとした列の取り方、
幅が広くすわり心地のよい座席、適度な勾配、と、非常に快適なホールになっています。
ただし、今日は生音の演奏は一切なかったので音響のクオリティはわかりません。

それにしても、周りの観客席から立ち上る、この肌にびしびしと感じられる、猛烈な”オペラ臭”は一体、、?
私の体内のオペラメーターの針が振り切ってます。
猛烈な数の音楽関係の方やヘッズがこの中に混じっていると見ました。
ふと数列前の先を見やると、すごい大きな男性が座ってます。
あ、東京から移動してきたばかりのはずのヨハン・ボータ(スカラ座日本公演の『アイーダ』のラダメス役)です。
彼くらい体が大きいと気付かずにいる方が難しい。

今日のイベントは大きくわけて四つの構成からなっていましたので、
この記事でも同じ順序で印象に残った部分を取り上げてみたいと思います。


① レヴァインの生い立ち

まずレヴァインの生い立ちについての短いフィルムが上映されました。
ライブ・イン・HDでは、いつも、”マエストロ、ピットにお願いします”という指示に答えて、
指揮者がピットに入る様子の映像が入っていますが、
このフィルムでは、ライブ・イン・HDでレヴァインが指揮したいつぞやの公演(つまり割と最近の公演)からその場面を借用。
その公演の時にたまたま後ろから誰かに話しかけられてレヴァインがくるりと後ろを振り返る様子が写っているのですが、
今日はフィルムが始まってオーディエンスから拍手が出たあたり丁度に、
レヴァインがこちらを振り返るように編集されていたのがお茶目でした。
そして、これは今の映像技術のなせる技ですが、カメラがピットを追うように入っていって、
指揮台に立ったレヴァインを次に捉えた時には、彼が若かった頃に指揮した
『フィガロの結婚』のテレビ放映からの映像にすりかわっていて、
一気に数十年の月日をさかのぼったような錯覚に、つい、ほろりと来ます。

そして、画面にいきなり現れた可愛い坊や、、。ええっ!?これ、レヴァイン?!
いやー、小さい頃、具体的に言うと5歳位の頃まででしょうか?
意外や、かなり可愛いので、びっくりしました。
お母様が元女優で映画やブロードウェイの芝居に出演していたこともあって、綺麗な方なのです。
お父様のルックスも悪くなく、お似合いの二人は電撃的に恋に落ち、知り合ってものの数ヶ月で結婚。
お母様はレヴァインに”あなたのお父さんと4回目に会ったのが結婚式の日だったのよ。”と言っていたそうです。
お父様の方は歌を歌っていたこともあり、ビッグ・バンドで楽器を演奏していたこともあるそうです。
二人はその後オハイオ州に移り住みます。
このお父様がかなりの撮影フリークとみえ、レヴァインの赤ん坊の頃からの
16ミリの映像やら写真やらがレヴァイン自身の提供で、次々とスクリーンに映り出されるのでした。
うーむ、かわいい。今の面影なし。
小さい頃に軽い言語障害があったそうなのですが、その代わりに音楽に関するずばぬけた才能は両親の目にも明らかで、
当時レヴァインを診察したお医者さんは、”脳の動きに言葉がついていっていない状態です。”と言ったとか。
その脳の動きのはけ口としてピアノを与えられたレヴァインはみるみるうちにその腕をあげていきます。
当時は漠然と、ソロのピアニストとしての道を考えていたレヴァインですが、
やがて、オーケストラ音楽、特にオペラの世界に目覚めていきます。
レコードを聴いてはスコアとにらめっこするのが楽しくてしょうがないレヴァインなのでした。

彼がピアノを弾いている様子が初めて映像におさめられたのは、
両親がボランティアを兼ねて出演した、盲人のためのオペラ啓蒙映画で、
ワーグナーのリングのあらすじを朗読する母レヴァインの後ろで、
ワルキューレのメロディーをピアノで弾くレヴァインの姿が16ミリにおさめられています。

10歳の頃、クリスマスが近づいたある日、お父様に、”今年はどんなおもちゃが欲しい?”と聞かれたレヴァインはこう答えます。
”おもちゃはいらないけど、NYに行って、メトでオペラを観たい。”
そのレヴァインの夢をかなえるため、両親はその年、実際にレヴァインをメトに連れて行きます。

レヴァインがずっと憧れていた人はロベルタ・ピータース(1930年NY生まれのソプラノ。
メトを活躍の場の中心とし、ベル・カントのレパートリーなどを得意とした)。
彼女が歌う『ランメルモールのルチア』を観て感激した10歳のレヴァイン少年は、
控え室にピータースを尋ねます。
ピータースは目の前に立つ10歳の少年がルチアのスコアを胸にかかえているのを見て驚き、
さらに、そのスコアにびっしりと自筆のメモが入っているのに感銘を受け、
”すごいわね。坊ちゃん、いくつ?”と尋ねると、
”ボクは10歳だけど、そういうあなたはいくつなのさ?”と答えるレヴァインなのでした。
(このエピソードはピータース自身がフィルムに登場し、懐かしそうに語っています。)

ただ、これはメト鑑賞だけが目的なわけではなかったようで、
この年、シンシナティ交響楽団との共演で正式にピアニストとしてデビューしたレヴァインの演奏を、
ジュリアード音楽院のピアノ科の先生に聴いてもらう、という目的もあったようです。
彼が後に師事することになったロジーナ・レヴィンはすぐにレヴァインの類稀な才能に気付き、
ジュリアードへの入学を勧めます。
彼女はその時のことを回想し、”後はどのように親から彼を引き離そうか、それが問題でした(笑)”と語っています。
実際、勉学、そして、家庭での愛情が大切と判断した両親からすぐに入学することは反対され、
レヴァインは、数年後に、週末に限ってNYまで通うことを許されるようになるまで、シンシナティで勉強を続けるのでした。

1956年にマルボロ音楽祭でルドルフ・ゼルキンのピアノ指導を受けたレヴァインは、
若干13歳で、同祭で上演される『コジ・ファン・トゥッテ』の合唱指導を任されます。
これがレヴァインが初めてオペラの上演に関わる機会となりました。
悲しいかな、この頃から、レヴァイン少年は今のレヴァインのような風貌に急激に変貌をとげています。
ローティーンの頃の写真においてすでにお腹が出始めているのを私は見逃しません。

1957年からは毎夏コロラドのアスペンで開催される音楽祭に登場するようになり、
シンシナティの高校を卒業したばかりの1961年に同地で、
初めてのオペラの全幕の指揮を『真珠とり』で果たしています。

その年の秋からジュリアードのフルタイムの学生となり、一年で残っていた学部の過程を全て終了。
その後も院生として、ピアノと指揮のダブル・メジャーで勉強を続けます。
この頃までにレヴァインは、自分がすすみたいのは指揮の世界、特にオペラの世界であることを自覚しています。
ピアノも大好きなレヴァインでしたが、ソリストとしてのキャリアは彼にはあまりに孤独に感じられたといいます。
むしろ、オペラで、多くの人と関わりながら作品を作り上げていくプロセスの方に魅力を感じるようになっていました。
指揮だけに勉強を特化しなかったのは、父親から、
”指揮の道にすすんだとしても、ピアノは、歌手や奏者とコミュニケートする手段として必ず役に立つから。”
という助言があったからだそうです。

1964年にアメリカン・コンダクターズ・プロジェクト(ACP)を通して、
レヴァインは、アルフレッド・ウォレンスタイン、ファウスト・クレヴァ、
マックス・ルドルフといった指揮者たちと勉強する機会を持ちます。
このACPの審査員として名を連ねていたのが当時クリーブランド管の音楽監督であったジョージ・セルで、
レヴァインはこれがきっかけでセルの見習いとして指揮を勉強するようになります。

1971年6月に残り二回の公演を残すのみになった『トスカ』の指揮者を探していたメトのルドルフ・ビング支配人(当時)のもとに、
若手で面白い指揮者がいる、として紹介されたのがレヴァインでした。
公演がたった二回なのもさることながら、リハーサルもたった二日だけしかとれず、
しかも、これまでメトのような大舞台で、しかもメトに登場するようなビッグ・ネームの歌手をリードしたことがない若手の指揮者ということで、
レヴァインにとってもビングにとっても大きな賭けでしたが、レヴァインはオファーに対し、
Yesの答えを出します。
1971年6月5日、レヴァインは『トスカ』でメト・デビュー。
この時にカヴァラドッシを歌ったのはフランコ・コレッリ、トスカはグレース・バンブリーでした。

その公演を聴いた観客たちの中の何人が、
その後、彼がメトにとってどのような存在になるか、想像できたでしょう?
ちなみに、

レヴァインがメトのレパートリーに新しく加えた作品の数  約50
うち、メトが委託した新規の演目              5演目
今までにメトで指揮した演目の数             82演目
今までにメトで指揮した公演およびガラの数       2397公演 

だそうです。
特に、『皇帝ティトの慈悲』、『イドメネオ』、『シチリアの晩鐘』といった、
今ではそう上演されるのが珍しくない作品が、
レヴァインのもとで初めてメトの舞台にあがったというのは意外でした。 
 
また、1977年から始まったPBSでメトの公演をテレビで放送するという試み、
カーネギー・ホールで定期的に持たれるメト・オケのコンサート、
そして、メトの海外への引越し公演(日本ですね、主に。)、
これらはすべてレヴァインが音楽監督に就任してから始まったものです。
特にPBSでの放送は、多くの映像商品も生み出し、
今のライブ・イン・HDの基礎ともなっているといえ、
メト史上非常に重要な出来事だったと言えます。

フィルムの第1パートが終わるといよいよレヴァイン本人がモデレーターのポール・グルーバーと登場。
レヴァインは自らの両親について、音楽を勉強するにおいて、これ以上望めない理想的な環境を作ってくれたと感謝。
特に自らが持っていた価値観をしっかりと引き継ぐようレヴァインに教育してくれた一方で、
また、両親自身の経験を超えた未知の世界に於いても、
レヴァインが自信をもって取り組めるような力を身につけさせてくれたのは大きかった、
というレヴァインのコメントがありました。

例えば、比較的幼い時期からすでにシェーンベルクらの音楽にのめりこんでいたレヴァインが、
繰り返し繰り返しシェーンベルクの作品を聴いていると、
父レヴァインに”お前はよっぽどシェーンベルクが好きなんだね。”と言われたので、
レヴァインが”パパはよっぽど嫌いなんだね。”と言うと、
”まあ、確かにあまり好きではないけれど、お前がその音楽を好き、というそのことが大切なことなんだよ。”と言って、
もっと別の作曲家の曲を聴きなさい!と押し着せることなく、
自由に好きなものを勉強させてくれるような両親だったそうです。

また、子供の頃から色々なオペラの音楽にふれていたレヴァインですが、
そこには、はっきりと、”アメリカ人として勉強した”イタリア・オペラ、
”アメリカ人として勉強した”ドイツ・オペラという自覚があって、
それは決してイタリア人が勉強したイタリア・オペラとも、
また、例えばドイツ人が勉強したイタリア・オペラとも違うだろう、と語っていました。
つまり、レヴァインはこの点において非常に自覚的で、
自分の指揮がイタリアっぽい、ドイツっぽい、なんてことは全然考えていないことがわかります。


② 仕事仲間が語るレヴァイン

続く第2のパートは、レヴァインの助手、一緒に仕事をしたことがある舞台監督、
歌手、そしてオケのメンバーのレヴァインに関する証言を集めた映像で、
レヴァインとグルーバー氏はこの企画に当って、
フィルムに含まれる映像の選択や下調整、また掘り下げたいトピックなどを事前に話し合ったようなのですが、
ここではレヴァインも舞台に残って我々と一緒に証言に耳を傾けます。

まず、歌手やオケのメンバーが一様に言うのは、レヴァインの歌手や奏者への優れたサポート力で、
特に歌手や奏者がレヴァインが実現したい歌や演奏をなしえていなかったり、
彼らのコンディションが思わしくない場合、頭ごなしに叱ったり、不機嫌になるのではなく、
どのように歌唱や演奏を変えていけばいいのか、それを歌手・奏者自身が自分で手直ししていけるように、
”今のも悪くはないけれど、例えばこういう風にしてはどうか、、”というような形で、
決して仕事仲間へのリスペクトを失うことなく、自分の言いたいことを伝えられる能力に長けている、といいます。

ところがレヴァイン自身、こういうことを言われるのに照れがあるのか、
昔のリハの映像から掘り出してきた場面をフィルムに挿入しています。
それは、レヴァインが、自分の意図をなかなか汲んでくれない演奏者にいらいらをつのらせ、
つい、”もう!これだけ言われたらメモくらいとったらどうだ?
何度も何度も同じことばかり、、ナンセンスもいいところだ!”と切れてしまいます。
”もう一回!”と、むっとしながらタクトを振ると、
ついにレヴァインの意図を理解した演奏者から指示通りの演奏が飛び出し、
ぼそり、と口走るレヴァイン、、
”どうして普通に喋っている間にそういう風に演奏してくれないかなあ。”

オケの弦セクションの奏者は
”自分の演奏がまずい時というのは、演奏している側はよくわかっているものです。”
また金管セクションの奏者も、
”金管の場合、音を出し損ねたら、多分、メトに清掃に入っているおばさんでも、
あら、失敗したわね、金管!と指摘してしまうであろうほど、ごまかしようがない。”といい、
そういう場面においても、レヴァインは的確なサポートを見せると証言しています。

また、レヴァインは非常に優れたピアニストでもあるので、
オケの奏者としては、彼がオケに指示することはおよそすべて、
レヴァインがピアノで実際に表現して見せられる、
つまり、楽器を演奏する側と共通の言語を持っているといえるわけですが、
必ずしも指揮者全員がそういった能力を持っているわけではないという指摘もありました。

もう一点オケのメンバーから出されたコメントは、
レヴァインが、もし、技術的に完璧(そういうものが仮にあったとして)だけれども無味乾燥な演奏と、
キズがあってもエキサイティングな演奏のどちらかを選ばなければいけないとしたら、
迷わず後者を取るタイプの指揮者であり、演奏において非常にspontaneous
(個々の状況において、自由に調節を効かせ、フレキシブルに対応できること)であることを
大事にしている、というものでした。
この点については、グルーバー氏が興味深い指摘であるとして、
後のパートで、レヴァインとのディスカッションのトピックに取り上げることになります。

舞台演出の立場で、レヴァインと幾度となく共に仕事をしたファブリツィオ・メラーノは、
メトで『ペレアスとメリザンド』の新演出を手がけた時のエピソードを紹介しました。
メディア関係を招待して行われたリハーサルの評判は散々、
特に多く聞かれた批判は、① 舞台が暗すぎる& ② 舞台の上の動きがなさすぎる、というものでした。
メラーノはほとんどパニック状態に陥り、レヴァインに助言を求めに行くと、
レヴァインはこう言ったそうです。
① もっと舞台を暗くして & ② どうしても必要な動き以外は、全てそぎ落とすように。
半信半疑でその助言に従ったメラーノは、実際にそのように手を加えて見ると、
演出がより焦点の定まった強固なものになったことを確信。
結局、この演出は本番で大成功をおさめます。

歌手代表でフィルムに登場したのはドーン・アップショーで、
彼女も歌手がレヴァインから受ける安心感、サポートについて語っていました。

後編に続く>

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*** Met Legends - James Levine メト・レジェンズ ジェームズ・レヴァイン ***

メト・オープニング・ナイト『トスカ』のスカルピア役交代 & Cキャストのトスカ

2009-09-15 | お知らせ・その他
もうね、本当にお願いします。

あと、ちょうど一週間に迫ったメトの2009-10年シーズンのオープニング・ナイトですが、
なんと、スカルピア役に予定されていたユーハ・ウーシタロが全予定日程から降板。
(Bキャストはもともと予定されていた通り、ターフェルのままです。)
ウーシタロの代わりに歌うのはガグニーゼだそうです。
今週の木曜(9/17)はオープン・リハーサルがありますが、
メトのサイトには、何事もなかったかのようにガグニーゼの名前が列記されており、
チケットの購入の画面にももはやウーシタロの名前はありません。早っ。
ガグニーゼといえば、先シーズンのリゴレットでも飛び入り代役を果たした歌手。
彼の場合、いつもこんな直近でもスケジュールが空いているところが、なんとも微妙な雰囲気を醸しています。

それにしても、オープニング・ナイトには当初ターフェルの名前があがっていたのに、
その後、ウーシタロ、そしてガグニーゼ、、と二転三転し、
今や、オープニング・ナイトの、しかもスカルピア役を歌うにはあまりに地味なキャスティングになっているように思うのですが、
そんな下降する期待を覆すべく、ガグニーゼには頑張っていただかなくては!

それにしても、ウーシタロが降板した理由が気になります。
一応表には病気、となっていますが、オープニング・ナイトまでは一週間ありますし、
来年5月までの全日程をキャンセルしているところを見ると、その理由は無理がありすぎるような。

ウーシタロはオケとのリハーサルには元気に登場し、決して悪くない歌唱を聴かせていたそうですし。
むしろ、危なっかしいのはマッティラ(写真)の方だ、という声までありました。
驚きでも何でもないですが。

リュック・ボンディの新演出なんですが、スカルピアに自慰行為と思われる演技付けをするなど、
旧演出のゼッフィレッリではありえなかった下品な味付けが炸裂していたという噂もあり、
ウーシタロが嫌気をさした、という可能性もなくはないかもしれません。
そうだったとしたら、気の毒な話です。
スカルピアの怖いところは、まさに、そんなあからさまな露出狂のようなことをしないところにあるんですけどね。
オープニング・ナイトに行くのが怖くなって来ましたが、
もちろん、行かないわけがなく、着々と物質的および心の準備をすすめておりますので、ご心配なく!!

なお、ずっとTBAになっていたCキャストのトスカ役はダニエラ・デッシに決定したようです。

SUMMER HD FESTIVAL- IL TRITTICO (Sun, Sep 6, 2009)

2009-09-06 | メト Live in HD
今年のメトの夏のイベントはかなりスケール・ダウンしてしまったサマー・リサイタルと、
8/29から10日間にわたって行われるリンカーン・センターのプラザのスペースを利用し、
野外の大スクリーンでHDの映像を鑑賞するという、サマー・HD・フェスティバル。
ライブ・イン・HDの企画が2006-7年シーズンに始まって以来、
上演された演目は余裕で10を越えているので、
サマー・フェスティバルで上演される10本というのは、メトが出来に自信を持っている10作品とも言えるかもしれません。

『連隊の娘』、『ロミオとジュリエット』、『エフゲニ・オネーギン』、
『マクベス』、『セヴィリヤの理髪師』、『ピーター・グライムス』、
『ラ・ボエーム』、『オルフェオとエウリディーチェ』、『三部作』、『蝶々夫人』というラインアップの中で、
私が今回一本だけ鑑賞に選んだのは『三部作』。

しかも、今回のサマー・フェスティバルでは、
毎夜上映前に、演目についてのレクチャーが行われ、
これに参加した人はVIP席で鑑賞できるという特典付き。
テレビで放送された際の映像を録画し何度も観尽くした自家製DVDでなく、
大きいスクリーンと良い音響で、オリジナル・コピーの
フリットリの修道女アンジェリカをVIP席で聴くざんす!!



この週末はアメリカではレイバー・デイの三連休。
9月の三連休にわざわざオペラを見る、しかも、レクチャーにまで足を運ぶ物好きはそうはいないだろう、、
と思っていたら、そんな物好きがたくさんいるのがNY! つくづく恐ろしい、ヘッズ・パワー満開の街です。

レクチャーでは、レナータ・スコットが三作全部のソプラノ役を歌って話題となった
1981年のメトの公演の映像を教材に使用し、
いかに三部作の各作品、すなわち、『外套』、『修道女アンジェリカ』、『ジャンニ・スキッキ』の持ち味が違うか、
よって、三作全部を通しで歌うのがどれほど大変か、ということを検証しました。
2006-7年シーズンの公演(2007年4月28日)がHD上映された時には、
まだビヴァリー・シルズが存命で、HD時のゲストが彼女でした。
彼女もまた三作すべてのソプラノ・ロールを歌ったことがあるそうで、
ホストのマーガレットとの対話の中で、
”一体なんてことに手を染めてしまったのかしら?”と一瞬後悔した、と語っている映像がレクチャーで紹介されました。
このインタビューの部分は公演日当日のオリジナルの上映では存在していた映像なのですが、
残念ながら、今再上映用に出回っているコピーではカットされているものが多いようです。

この公演では、ソプラノではなく、メゾのステファニー・ブライスが、三作全てに登場し、
芸幅の広いところを見せて大健闘していたのですが、
2009-10年新シーズンの『三部作』では、ブライスが三役で再登場するのに加え、
パトリシア・ラセットがソプラノ三役を歌うという、ダブル三役になります。
ラセットは芝居の上手さに定評がある上、ドラマティコから軽めのリリコまで、
両端を少しストレッチしなければいけないかもしれませんが、
きちんとカバー出来そうな予感があるので、本当に楽しみです。
(多分、今の彼女だと、アンジェリカが一番良い出来になるのではないかと予想しますが。)



今回のレポートは、『三部作』ですから、三作全部についてコメントするのがフェアですし、
実際、『ジャンニ・スキッキ』はアメリカ的なドタバタに割り切った演出と
出演者同士のケミストリーが功を奏して、大変良い出来栄えなのですが、
私はもともと全くフェアな人間ではないゆえ、今日はもう個人的な趣味全開で、
『修道女アンジェリカ』のことのみ、話させていただきます。
といいますか、もう当HDは、この『修道女アンジェリカ』のみで十分元がとれる出来でして、
『ジャン二・スキッキ』はさらにおまけで大ボーナスをもらったような、ラッキー!な気分になる位です。

1981年のスコットのアンジェリカも迫真の歌唱と演技で圧倒されるのですが、
ラストの場面で目をひんむいて歌う様子は、演出のせいもあるのですが、
完全に自己完結していて、アンジェリカの頭の中でことのすべてが進行しているような印象を持ちます。

レクチャーで、さらに紹介されたのはやはりオリジナルの上映日には存在し、
最近のコピーではカットされることの多い、レヴァインと演出家のジャック・オブライエンの対話。
ここで、レヴァインはもしかするとこの日体調が悪かったのか、
あるいは虫の居所が悪かったのか、はたまたオブライエンのことが個人的にあまり好きでないのか、
気を使って会話をすすめるオブライエンに対し、
慇懃な中に意地悪な言葉が混じっていたりして、
まるで生理中の女のような感じの悪さでもって受け答えしているのが笑えます。
しかし、会話の内容は実に興味深く、二人がこの作品の中で、
”奇跡”ということに非常に重点を置いて演出、演奏していることがよくわかります。
そして、彼ら二人の方向性が一致してこそ、そして、それをふまえ、
歌で表現しきったフリットリの力があってこそ、のあの公演だったのだ、と実感させられます。

オブライエンの演出は、『修道女アンジェリカ』のみならず、全三作品を通じ、
本当に良い出来なのですが、特に『修道女アンジェリカ』は素晴らしい。
スコットが歌ったときのようなアンジェリカの死に際の空想事のような奇跡ではなく、
本当に奇跡を現出させる手法をとった、そこにこの演出の素晴らしさがあります。
この演出を見て、”子供みたい””稚拙だ”という方とは、私、お友達になれないし、
友達でそういう人がいたら、今すぐ絶交です。
実際、スカラの演出を見ると、ここをかっこよくスマートにまとめてしまったがために、
いかにドラマとしての効果が薄れてしまっているかがわかります。
ここは絶対にべたべたで行かなければならない。
べたと言われることを恐れず、真正面からこの場面に取り組んだオブライエンは偉いのです。



わけありで修道院に放り込まれた良家のお嬢、アンジェリカ。
(このわけというのはオペラの中では詳しくは語られませんが、
話の流れから、おそらく道ならぬ恋に落ち、子供を産み落としたと推測されます。)
7年もの間、親族から音沙汰がなく、子供の身を案じ続けたアンジェリカのもとに、
ついに叔母があらわれます。
家の名誉を汚した姪を許せない叔母。許しの心を持たない叔母に怒りを抑えきれない姪。

決して本来は冷たい人ではないが、姪を許せず頑なになる叔母をステファニー・ブライスが好演しています。
(二枚目の写真で、黒いドレスを着ているのがブライス。)
彼女はザジックに続く世代として期待されているメゾで、その大柄な体躯から出る、
高音に特徴のある声はすぐに彼女のそれとわかります。
アンジェリカの亡くなった両親(つまり叔母のきょうだいにあたる)の遺言どおり、
アンジェリカの妹の結婚に伴い、財産の均等分与を行った叔母は、その書類に署名をさせるため、
修道院に来たのですが、アンジェリカとの会話のうちに、
アンジェリカの息子が重い病に倒れ、亡くなったことを打ち明けざるを得なくなります。
この作品の中で独立した部分としては一番良く知られたアリア”母もなく Senza mamma"が歌われるのはこの場面です。

その後、子供の元に行きたい、という思いに捕われるアンジェリカは
死への誘惑にかられ、ずっと密かに育て続けてきた毒草で自らの命を絶ちます。
キリスト教において、自殺とは最も忌まわしい行為の一つであり、
自殺した人は天国には行けない、と言われています。
死の苦しみの中で、地獄に落ちる恐怖と激しい後悔に襲われるアンジェリカ。
しかし、そこに一条の光が差して、、、
というのがこの作品のあらすじです。
特別複雑なプロットがあるわけでもないですし、またメロディーも同じ旋律が何度も何度も登場したりします。

しかし、作品がすすむにつれ、その同じ旋律がそれぞれの個所で微妙に違った意味と、色合いを持っていく。
ここにこの作品の演奏の難しさがあると思います。
しかし、このHDのフリットリのような素晴らしい歌唱を得ると、
本当に見ているこちらまで魂が浄化されるような気がして、
間違いなくプッチーニ的オペラでありながら、宗教曲のような効用のある、不思議な作品です。

アンジェリカのパートは猛烈な高音はない代わりに、要所要所にトリッキーな音が多く、
”母もなく”のラストの音、その後すぐのシスターとの重唱の最後のAh, lodiam!(さあ、聖母を讃えましょう)の部分、
それから、さらにその後の、”シスター・アンジェリカはいつもよく効く花の調合を知っている”以降の、
低音から大きく高音に上がる部分など、例をあげるとキリがないです。



あらためて、リブレットとこの映像を付け合せると、
オブライエンがほとんど忠実にト書きを視覚化していることがわかり、驚かされますが、
(そして、ト書きにはっきりと、”奇跡が始まる”という一文もあります!)
たった一つだけ、それを大胆に踏み越えた個所があって、
それは”母もなく”をフリットリが歌い終わった直後です。
シスター・ジェノヴィエッファとシスターたちの”聖母様はあなたの祈りを聞き届けられました”云々という言葉から、
パタパタパタパタ、、という音がしてシスターたちが姿を消すまで。
ト書きでは、現実に起こったことなのか、アンジェリカの頭の中でのことなのか、
はっきりさせないような形にしているのですが、
オブライエンはここを思いきって、アンジェリカが天からの言葉を授かる場面として、
まるで幻のように演出します。
上のシスター・ジェノヴィエッファとシスターたちの言葉に続いて、
アンジェリカが"La grazia e discesa dal cielo (天から恵みが下った)”と歌いだす個所がありますが、
ここのフリットリの表情は必見です。
少し俯いたところから、ゆっくりと顔を天に向ける仕草をするのですが、
その表情が、さっきとはまるで違った彼岸を見つめるような表情で、
ついに子供と再び結ばれること、つまり死への誘惑に取り付かれたことがわかる、
見ているこちらがせつなくなる一瞬です。
(残念ながら、ここは下でご紹介する映像の少し前の場面ですので、
アンコール上映、もしくはテレビの放映などで確認いただくしかありません。)
そして、パタパタパタパタ、、という音がして、ふーっとシスターたちの姿が幻のように消えると、
ふっと一瞬現実に戻るような表情をするのですが、もうこの時にはずっと育ててきた毒草
(そう、彼女は子供の死を知る前から、ずっと死ぬ用意をしていたわけです)
を使って自らの命を絶つことだけが彼女の心を占めています。



毒草を愛しそうに摘み、毒薬を調合する様子、
もうこの芝居が本当に自然で美しく、フリットリの面目躍如です。
そして、死への憧れと子供に再会できる喜びで、恍惚とした状態のまま、皿から毒薬を飲み干し、
ふと我に返って”Ah, son dannata! Mi son data la morte, mi son data la morte!
(ああ、私は地獄に落ちた!自分の命を奪ってしまった!自分の命を奪ってしまった!)と歌い、
最後に”Madonna! Madonna! Salvami! Salvami!"と助けを求める場面の歌唱は、、。
陳腐な言葉は並べても意味がないので、ここで止めておきます。



作品の前半にシスターたちの間で、”何かを欲する、ということはいけないことなのか?”という議論がされるシーンがあります。
また、アンジェリカがバックステージでなく、初めて舞台の真ん中で歌う
”I desideri sono i fiori del vivi 欲望は生きているものの間で咲く花
non fioriscon nel regno delle morte それは死者の国では開くことがない”という歌詞が
ふっと最後に思い出される、そんなエンディングになっています。
自らの命を絶った彼女ですが、最後には救済され、子供と再会するという奇跡が起こるのです。
この演出では、フリットリが仰向けになって倒れているところに、
扉が開いて子供が現れるというシーンになっているのですが、
この視線が合わない角度に二人がいる、というのがまた切ない。
おそらくアンジェリカは体全身に救済の喜びを浴びて死んでいくのですが、
少なくとも幕が降りるまではまともに子供を見れる場所にいないわけです。
それでも彼女の瞳には子供の姿が一杯に映っているのか、、、?
それとも何も見えないまま、救済の感覚だけを感じて幸せのうちに息を引き取るのか、、?



と、あれこれと私がごたくを並べてきましたが、
それが実際に舞台にのるとこうなります!という映像がこちら。
皆様もご一緒に心を清められてください。




また、上の映像ではカバーできなかったようなのですが、
こちらの映像では幕が降りてからアンコールまでの様子が見れます。
フリットリが最後に感極まって泣きそうな表情を浮かべているのがまたぐっと来ます。
観客の拍手が本物なのも素敵です。
この日の野外のHDでも、幕が降りた途端、まず観客から溜息のようなものが漏れたのが印象的でした。

上映前に”あのレクチャーで観たスコットの映像よりも、こちらのフリットリの方がいいんですよ。”と、
隣に座っていらしたおば様に話すと、最初は半信半疑でいらっしゃいましたが、
鑑賞後は、”本当だったわー”と大感激されていました。

東京の映画館でもアンコール上映が予定されているようですので、お見逃しなく。




IL TABARRO
Maria Guleghina (Giorgetta)
Salvatore Licitra (Luigi)
Juan Pons (Michele)
Stephanie Blythe (Frugola)
SUOR ANGELICA
Barbara Frittoli (Sister Angelica)
Stephanie Blythe (La Principessa)
Heidi Grant Murphy (Sister Genovieffa)
GIANNI SCHICCHI
Alessandro Corbelli (Gianni Schicchi)
Massimo Giordano (Rinuccio)
Olga Mykytenko (Lauretta)
Stephanie Blythe (Zita)

Conductor: James Levine
Production: Jack O'Brien
Set design: Douglas W. Schmidt
Costume design: Jess Goldstein
Lighting design: Jules Fisher, Peggy Eisenhauer

Original performance from April 28, 2007 at Metropolitan Opera
HD viewed at Lincoln Center Plaza

***プッチーニ 三部作 Puccini Il Trittico***