今日、会社で仕事中に、連れから電話あり。
”今日のトスカ、観に行くんでしょ?”
あら、やだ。観に行きませんよ、そんなの。
チケットも持ってないし、オープニング・ナイトを観て、演出のあまりのばかばかしさに、
あたしは少なくとも先のBキャストの公演日まで、二度とこのプロダクションは鑑賞しない、と決めたんざんす。
”へえ。そうなんだ。でも、今日は二回目の公演だし、初日よりもコアなお客さんが多いかもしれないから、
お客さんの反応がどんな風に出るか、興味ないの?
ブログでそのあたりのことを皆さんにお伝えしたいんじゃないかと思ったんだけどね。
しかも、シリウスの放送がないみたいだから(←さりげなく調べたらしい。)、
今日の公演の様子を知るには、オペラハウスで鑑賞するしかないみたいだよ。”
、、、、、
”もし行く気があるなら、チケットプレゼントしようか?”
、、、、、
今日はゆっくりうちのぼん(犬)たちと遊びたかったんですが、
メトが崩れ落ちるようなブーイングをこの耳で聞きたい誘惑と”チケットプレゼント”の言葉に落ち、
気がつけば、”はい、行きますです。”と口走っていました。
しかし、チケットが調達された後、再び、彼から電話。
”でもさあ。よく考えたら、二日目以降は演出家を舞台にあげないのが普通だよね。
そうなったら、客はどこでブーイングしたらいいんだろうね?”
ちょっと!!そんなこと、もっと早く気づいてよー!!
これで割れるようなブーイングを聞けなかったら、
手元に残るのは、あのわけのわからない演出と、すかすかのマッティラの高音だけになってしまう、、。
まさに数時間にわたる拷問。もしかすると、カヴァラドッシが受ける拷問よりきついくらいの!!
ってなわけで、オープニング・ナイトからたった中二日を置いて、再びメトに足を踏み入れることになりました。
今日は裾にからまってすっ転んだり、また自分で踏んだフレア部分の裾にひっぱられて
胸の部分まで下に下がってくる心配200%!のドレス姿ではなく、
いつもの自分の洋服で来ましたから、心も耳も完全なリラックス・モードで、より舞台に集中できます。
しかも、手配されたチケットは舞台をほとんど真正面に見る座席なので、
前回、サイド・ボックスのためによく見えなかった部分を徹底的に鑑賞することができます。
いよいよオケがチューニングを始め、シャンデリアがあがりはじめると、
なんとあろうことか、舞台袖から、マネジメントのスタッフがマイクを持ってあらわれました。
ちょっと待った!!何!!?? 何!!??誰が不調なの?
マッティラ?アルヴァレス?ガグニーゼ?、、、それとも、もしや、
”オープニング・ナイトでの演出への評判があまりに悪かったので、
今日はゼフィレッリのプロダクションで舞台をかけます!”とか??だといいな。
”残念ながら、今日の指揮をする予定だったマエストロ・レヴァインが、
背中(または腰)の異常(back problem)により、キャンセルすることになりました。”
観客からは、あ~あ!と失望の声。
カバーの指揮者は、ジョセフ・コラネリ。
2007-8年シーズンのルチアでもレヴァインのカバーをつとめた、あのイカ系指揮者です。
なぜ、イカ系かというと、なかなかコラネリという名前が覚えられず、つい、カラマリと呼んでしまうから。
オープニング・ナイトに関しては、演出を叩くために意図的に引き合いに出された部分も多分にあるのですが、
レヴァインの指揮とオケの音はさすが!みたいな評がメディアに多かったですが、
私は全然そう思っていなくて、あの日の演奏は、レヴァインにしては雑な指揮で、
オケ側も従来のオープニング・ナイトになく、集中力を欠いた、
メト・オケの良さがあまり出ていない演奏だったと思います。
また、私は、そもそもレヴァインはあまりプッチーニを得意としていないのではないか?と考えていて、
オープニング・ナイトは全幕を通して非常に淡白な演奏で、
どちらかというと空回りする位でもいいからこてこての演奏の方が好きな私は不満が残りました。
ですから、この指揮者交代の報は私は嬉しかったです。
こんな直近で二人の違った指揮者での演奏が聞けるなんて、ラッキー!
コラネリの指揮とオケについて言うと、
オケはずっとレヴァインの指揮でリハーサルおよびオープニング・ナイトを演奏してきたせいか、
特に第一幕の前半で、若干ぎこちない、もしくはかみ合わない部分があり、
もう少し調整の時間があったなら、、と思わせる部分はありましたが、
途中からコラネリのスタイルを読み取り始めたオケと息が合い始め、
レヴァインの指揮の時にはおよそ見られなかった、
各セクションの音が自主的に歌っている、魅力的な部分が多々聴かれました。
レヴァインの四角四面的な演奏よりも、ずっと大きな流れとリリシズムを感じさせる演奏で、
私個人的には、今日のコラネリの指揮の方が好きです。
また、弦セクションに関しては今日の方が圧倒的に良かったです。
アルヴァレスは初日よりも、ほんの少しなんですが、声が荒れ始めているように感じました。
風邪とかでなければいいのですが。
こうやって改めて聴くと、彼の声は、男らしさと甘さのバランスが丁度よく、
聴いていて非常に耳に心地よい声であること、
また歌い方が端正である点はポイントが高いのですが、
オープニング・ナイトの感想でも書いた通り、やはりこの役には若干声が軽く、
全てがすーっと流れていってしまうのがもったいない感じがします。
彼は高音に入る時にひゃらん、という、声が裏返る手前のような独特な音が頭に入る癖があって、
これはある種のレパートリーでは魅力的ですらあり得ますが、
このカヴァラドッシ役では、あまり魅力的に感じません。
また、歌の作りこみが90%位までしかなされていないように聴こえる部分があって、
例えば、音を絞って歌うのが割と上手いのですから、もっとそれを極めれば、
リリカル路線でも面白いカヴァラドッシになると思うのですが、
どこか詰めの甘い感じがあるというか、長く延ばす音も最初は綺麗なのに、
途中で緊張感がとけてしまっている場合が多く、
この役については、原石からダイヤになる途中で止まってしまっているような感じがします。
一幕のマッティラは演技は初日より幾分良くなったような気がします。
彼女はこの役をコケティッシュに演じて頑張りすぎるきらいがあるのですが、
今日は指揮者の交代など、色々他に気にすることが多かったからか、
演技の方から意識が少し抜けた、これが却って演技にナチュラルさを生み出す結果になったように思います。
初日は全編、『トスカ』を演じるラ・マッティラ!という感じでしたが、
今日は実際、部分部分で、ふっとトスカとしての自然な表情や動きが出るようになっていました。
ただし、歌は初日よりほんの少し良い程度でほとんど印象に差なし。相変わらず浅い高音域も含め。
スカルピア役のガグニーゼ。
登場したしょっぱなのフレーズが不安定だったので、
一瞬、今日は調子が悪いのかな?と思いましたが、
テ・デウムでの歌唱はオープニング・ナイトよりも力強く感じました。
一幕では下手側に祭壇があるという設定になっていて
(
オープニング・ナイトの前編の記事の写真を参照ください)、
オープニング・ナイトで私の座席から見えたのは木の椅子までだったので、
それは視界が悪いだけで、真正面の座席に座れば何か祭壇らしきものが見えるのか、知りたかったのですが、
今日の座席に座って、あえて祭壇を見えるようには設定していないことがわかりました。
マグダラのマリアの絵以外に、ここが教会であると感じさせるものはセットの中に一切ないということです。
第二幕の前に入るインターミッションがやや長めだったので、なんだろう?と思っていたら、
二幕開始前に、またまたマネジメントのスタッフが登場。
今度は何!?
指揮者の可能性はほぼないですから、今度こそ、歌手か演出のどちらかです!
二幕以降は、ゼフィレッリの演出で行きます!かな?
”スカルピア役のガグニーゼが声のコンディションが悪く、これ以降、歌えない、ということです。
彼は二幕、舞台での演技は続けますが、歌は、現在『アイーダ』のリハーサルに参加中の
カルロ・グエルフィが入ってくれることになりました。”
(グエルフィが『アイーダ』で歌うのはアモナズロ役です。)
そしてやおら、舞台の下手端に置かれた譜面台。
そして、うんともすんとも言わず、拍手すらろくにしない観客、、、。
彼が誰だか知らない人が多かったのでしょうか?
グエルフィはメトでAキャストを歌ったことのある歌手ですし、リゴレットのタイトル・ロールを張ったりする人ですよ。
あるいは、こちらのヘッズには今ひとつ人気が乏しいので、そのせいか、、。
オペラに馴染みのない方には、
”なんだ、その中途半端な上演形態は!!”と思われる気持ちもわからないではないですが、
それでも、こんな風に、リハーサルもしていない指揮者と、
もしかすると、しばらくは歌ってもいないかもしれないレパートリーで、
いきなり代役に入るのはどんなに大変なことか、、!!
もうちょっと喜んであげましょうよ、、、本当に。
グエルフィが可哀想になってきました。
だし、こういう滅多に起きない状況を楽しむのがオペラヘッズの精神というものです!
この非常事態の中で多くの観客が盛り下がる中、異常にテンションがあがってきたMadokakipなのでした。
濃い色のシャツにネクタイ、その上に濃い色目のスーツを着て現れたグエルフィは
ミネラル・ウォーターのボトルを握り締めてます。
大丈夫か??!!頑張れ!!!
それにしても、
ウーシタロが降板してガグニーゼが繰り上がったためにカバーを用意していなかったのかと思いましたが、
以前の『アイーダ』の時と同様に、カバーがきちんといて、そのコストも払っているのに、
パブリシティと観客のために、あえてグエルフィを引っ張ってきた、という説が有力になっています。
確かに、この演奏形態のおかげで、そっちに気がとられて、
演出のまずさに意識が向きにくくなりました。変なところで冴えてますね、ゲルブ支配人。
舞台の真ん中で動き回るガグニーゼが口パクで迫真の演技。
やっぱり歌を歌わないでよくなると、負担が大幅に減るんでしょう、
演技が細やかになりました。
彼はもともと割と演技が上手い人ですが、
今日のそれはオープニング・ナイトよりも、きれがあります。
初めは、ガグニーゼが真ん中にいるのに、舞台の端の方から歌声が聴こえてくることや、
ガグニーゼと会話している相手の方が下手側にいるのに、
スカルピアの声が上手側ではなく、下手側から聴こえてくるという、
接続方法を間違ったスピーカーのような違和感が最初はありましたが、
ガグニーゼの演技のせいでしょうか、それとも、グエルフィの歌のせいでしょうか、
いや、両方でしょう、段々と二者が一体化していくプロセスはすごく新鮮で、
幕の終わりまでには、ほとんど気にならなくなりました。
実際、この幕の後のインターミッションでは、女性用化粧室のなかで、皆さんが、
”もっと変な感じになるかと思ったけど、全然そんなことなかったわね。”と盛り上がっていました。
それは、演じ、歌う人の力次第だと思います。
グエルフィはさすがに準備が不足している部分もあり(というか、準備しなければいけない理由はそもそもないので、、。)、
かつてスカルピアを歌ったことがあるんでしょう、出来るところはほとんど楽譜を見ないで歌うようにしていたのですが、
突然細かい部分で記憶が飛んだか、あわてて眼鏡(老眼鏡?)を取り出して楽譜を見る、
その間、歌はちょっと微妙だったりする部分もあったりして、
名唱と呼べるようなものでは決してありませんが、それでも落ち着いて歌いきったのはさすが。
この舞台のピンチを助けてくれたことに、観客は感謝せねば。
また、彼はディクションが綺麗。さすが、イタリア人。
彼の歌をこうやってすぐにガグニーゼの後に連続して聴くと、
ガグニーゼの発音は若干クラリティに欠けているのかな、と思わされます。
残念なのは、そんな貢献をしてくれたグエルフィに一度もカーテン・コールに立たせてあげなかったこと。
メト、それはちょっと無粋じゃないかなあ。
スカルピアは二幕で死んでしまうために、三幕では出番がなく、
グエルフィは三幕の終わりまで待たずに帰ってしまったようです。
もともとメトは何か理由がない限り、各幕の挨拶は省く傾向にあるのですが、
(終演時間を出来るだけ早くすること、歌手の負担を減らすこと、という二つの理由からではないかと思います。)
こういう時はちゃんと幕後の挨拶を儲けて、観客に感謝の気持ちを表す機会を作ってほしいです。
今日の第二幕のマッティラ。
ここの出来が意外とよかったのはちょっとした驚きでした。
彼女の声がこれほど力強く、イーブンに聴こえたのは、私の生マッティラ体験の中で初めてです。
もともと声そのものの音色は美しいものを持っているので、
このような歌い方が出てくると、彼女を高く評価する人がいるのも理解できます。
この幕での高音はどれも芯がきちんと通っていて、一幕が嘘のような出来でした。
コラネリの指揮のせいもあるんでしょうか?
レヴァインの時よりも伸び伸びと歌っているような気もしました。
リハーサル、それからオープニング・ナイトで問題があった
”歌に生き 恋に生き Vissi d'arte, vissi d'amore"ですが、
例の Perche, perche, Signoreの部分、
今日は思いきってSignoreの最後に音が下がって行く前に、大きくブレスを入れました。
オープニング・ナイトの日は、今考えると、このブレスをなしで歌おうとしていたんじゃないかと思うのですが、
(もしくはあっても、今日ほど大胆なブレスでなかったです。)
いっそ、今日のように割り切って歌って正解だと思います。
今日はその後に続く二つの下降していく音がとても綺麗に入っていました。
彼女は歌がのっている状態のときは、台詞回しが割と上手いのも驚きでした。
『トスカ』には台詞調で吐く言葉が結構ありますが、
"人殺し! Assassino!"、”おいくら~値段よ! Quanto? Il prezzo!"、
"彼の前にローマ中が震え上がっていたんだわ E avanti a lui tremava tutta Roma”、
そして、最後の”死ね!死ね!死ね! Muori! Muori! Muori!"といった言葉が、
オープニング・ナイトの時とは別人のように巧みでした。
トスカ役がこれ位頑張ってくれると、ほんの少しではありますが、
演出のまずさの埋め合わせができます。
レヴァインがいない、ろくに音あわせもしていないカバー指揮者、
スカルピア役がマペット状態、、、
これらのネガティブ因子が逆にマッティラを本気にさせたともいえ、
ここまで公演を持ってくるのに、これだけの事件が必要なのか、、と思うとちょっと複雑な気分ですが。
しかし、当然のことながら、この演出を受け入れているわけでは全くありません!
やっぱり、相変わらずの出来損ない演出であることを再確認しました。
といいますか、この演出は、『トスカ』を初めて見る方にはそれほどでもないかもしれませんが、
作品を良く知っている、リブレットの言葉を良く理解していればしているほど、
見ていて辛い演出です。
というのは、歌手の演技付けが言葉とリンクしていない個所が多すぎるからです。
私は二幕の最初でスカルピアが孤独に食事をしている(はずの)場面が好きです。
ここに、彼の寂しさ、一人で悪をひた走っている感じが集約されているからです。
なのに、このボンディ演出にはきちんと食事をしている場面がありません。
それなのに、カヴァラドッシへの拷問が終わった後で、
スカルピアが”私のささやかな食事が中断された”という台詞を吐くのはご存知の通りです。
つい叫びたくなります。”食事なんてしてなかったじゃんよ!”
それから、カヴァラドッシがVittoria!を叫んだ後、連行されてしまう場面、
ここも、カヴァラドッシが目の前で連れ去られているのに、でくの棒のように立ち尽くすトスカ。
彼が姿を消し、扉が閉められた後になって、ようやくその扉に向かい、
”マリオ、あなたと一緒に Mario, con te”
そして、スカルピアに、”あなたはだめだ Voi no!"と止められる。
全然タイミングがちぐはぐです。カヴァラドッシの姿が見えている間に、
”あなたと一緒に”と言い、二人の間にスカルピアが割って入って、あなたはだめだ、というのが自然じゃないでしょうか?
このように、あげれば、おかしい個所はきりがありません。
特に私は食事のシーンがないのは、この演出の最大の欠陥であると確信するに至りました。
というのは、トスカがスカルピアに体を許す同意をした後、
偶然、テーブルの上にナイフを見つけ、彼を殺害するという手がある!という気付きに至り、
信心深い彼女の心との葛藤を繰り広げながら、ついにスカルピア殺害に至るというこの流れ、
心の動きを、演技と歌でトスカ役のソプラノがどのように表現するか、というのがこのオペラの最大の肝です。
スカルピアの食事のシーンがない、ということは、トスカがナイフを見つける必然性を奪うことであり、
実際、この演出では、気が付けば、いつの間にかマッティラがもうナイフを携え、
ソファでスカルピアを待っている振りをしている状況に入っていて、
どのようにナイフを手にしたのか、実際にオペラハウスで見ていると全然記憶にないほどです。
すなわち、この場面で最も肝心なトスカの心の動きを観客が体験できる部分がごっそり抜け落ちているのです。
これでは、この幕が歌手の出来によって、退屈に感じられても何の不思議もありません。
今日、マッティラは、彼女自身の判断でしょうか?
スカルピアの股間ではなく、お腹の辺りを刺していて、
こちらの方がずっとエレガントで良いです。
ここまでは、マッティラの熱演のおかげで、いい感じで観客が舞台にひきこまれていたのですが、
刺されたスカルピアを演じるガグニーゼがソファより頭から落ちながら仰向けにひっくり返る、
この姿勢はどうかと思う、、。
黒い衣装と彼の体型のせいもあって、裏返って死んでいるごきぶりみたいです。
彼はオープニング・ナイトでも全く同じ体勢で死んでいたので、これもボンディの差し金に違いありません。
今日の客からはここで大きな笑い声が漏れました。
ここでスカルピアが美しく死んでいれば、なかなかの出来の幕だったのに、、残念です。
三幕では、マッティラが二幕の歌唱を忘れて、もしくは、魔法がとけて、
また元の木阿弥でいつもの浅い高音域全開の歌唱に戻ってしまいました。
この三幕にやっぱりマッティラが苦手としている個所があって、
ここはオープニング・ナイトも今日も失敗していました。
トスカがカヴァラドッシにスカルピアに襲われそうになって、刺し殺したいきさつを話す場面の、
”私はその刃物で心臓を突き刺したのです Io quella lama gli piantai nel cor"の個所ですが、
このlamaがいつも音が外れて、残りの部分をそこを基準にして音を下がっていくので、
corで金管が被ってきたときに、全く音が合っていなくて、こけます。
この場面、サンタンジェロ城の周りが夜の闇というより、海のように見える不思議なセットなんですが、
多分、二人がこの幕で歌う、海を越えて遠くに!という部分をイメージしているんだと思います。
最後にトスカが城から身を投げるのは、自分がカヴァラドッシと幸せな暮らしを夢見た
海の向こうの世界に目がけて飛んだ、ということが言いたいのかもしれません。
最後に身を投げる場面は、マッティラが塔を駆け上る間、一瞬姿が見えなくなるのですが、
この間にボディ・ダブルとスイッチをしているようで、そのマッティラにすりかわった役者さんが扮したトスカの
身を投げたシルエットが一秒ほど闇に浮かんでふっとライトが落ちる、というラストになっているのですが、
今日はタイミングが少し狂ったか、飛び降りるシルエットが浮かぶ時間が短く、
座っている場所によっては、何が起こっているか非常にわかりにくかった可能性があります。
逆にオープニング・ナイトはここが少し長く、それはそれで間抜けていました。
結局、どのようになっても、あまり効果的には思えないエンディングです。
メトでトスカを歌ったカラスを生で観た、という老ヘッズの方が私に語ってくださった、
”彼女が飛び降りる時に、体に巻いていたショールのようなものが空でなびいたんだが、
そのなびく様まで美しくてね。
カラスという人は、舞台にそういう魔術のようなものを起こせる天性の舞台人だと思ったよ。”
という言葉がなぜだか思い出されてしまいました。
ちなみに今日の公演ではブーはほとんどなし、でした。ゲルブ氏の作戦勝ち。
Karita Mattila (Tosca)
Marcelo Alvarez (Cavaradossi)
George Gagnidze / Carlo Guelfi (Scarpia)
Paul Plishka (Sacristan)
David Pittsinger (Angelotti)
Joel Sorensen (Spoletta)
James Courtney (Sciarrone)
Keith Miller (Jailer)
Jonathan Makepeace (Shepherd)
Conductor: Joseph Colaneri replacing James Levine
Production: Luc Bondy
Set design: Richard Peduzzi
Costume design: Milena Canonero
Lighting design: Max Keller
Dr Circ Row B Even
ON
*** プッチーニ トスカ Puccini Tosca ***