Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

La Scala Nights in Cinemas: AIDA 後編

2008-07-21 | 映画館で観るメト以外のオペラ 
前編より続く>

と、アラーニャはさておき、ウルマナにしろ、コムロジにしろ、
きちんと合う役を与えてもらっているあたり、やや冒険的な(無茶な、と言ってもいい場合もあるかも)
配役をする例が時にあるメトに比べると、
スカラ座のスタッフの方の、各歌手の持つ声に関しての並々ならぬ理解と洞察力、
そしてそれを実行に移す際の妥協のなさを感じます。

アモナズロ役のグエルフィについてふれておくと、これがまた、
首を斬られた後の落ち武者のようなすごい髪型でびっくりしました。
これをエチオピアの長と言われても、、、服装でかろうじてそうとわかるが、
肩から上だけ見ていると、平家のようです。
彼は何度か生で聴いているのですが、前からこんなに癖のある歌い方だったでしょうか?
(記憶がない。)
口を回転させながらむにゃむにゃ言っているような独特の発音が気になりますが、
聴かせどころではそれが消えて、きちんと歌うというのは、一体どういうことなのか?
のろまのドバーと同様、アムネリスに捕らえられそうになる場面での切迫感のなさもがっかり。

この作品の中での影番(影の番長)と言ってもいいランフィス。
裏でおそろしい支配力を持つ存在としての宗教(同じヴェルディの『ドン・カルロ』にも似た構図があります。)
民衆の懇願にもかかわらずアイーダとアモナズロを怪しいものとして一歩もゆずらず(確かに正しいのだが)、
ラダメスを死に追い詰めていく、この物語の実は大事な役なのですが、
ややジュゼッピーニはその点迫力不足。もっと影番として、ばしっ!としめてほしいところ。
まあ、スポッティの歌う王がそれに輪をかけて情けないので(歌唱が)、
力関係としては逆転していないのでですが、、。



シャイーの指揮は、テンポの揺らし方や、特定の楽器やセクションが奏でる旋律の強調の仕方を含め、
音作りがわざとらしくて私は大変苦手なタイプでした。
通常は高音パートがメインで聞こえてくる個所で中音や低音を強調してみたり、
ああ、こういう風に演奏するとこう聴こえるんだな、と、そういう意味でははっと
させられる場面もあるのですが、
それが作品のその場面の表現に貢献しているのか?と聞かれれば、私にはそうは聞こえない、と答えます。
しかし、そんな指揮でありながらも、上で言った意味とは違う、真に、いい意味ではっとさせられる瞬間もあって、
このオケはどんな指揮者でも上手に演奏してくれるんじゃないか、、と一瞬思わされました。
翌日のマゼールの『椿姫』でそうではないことが判明するのですが。
それにしても、シャイーに、マゼール、、、。
スカラ座の上層部の趣味?とちょっとぎょっとしましたが、
演奏後のこの二人への観客の反応が割りといいということは、
スカラ座の観客にも受け入れられているということ、、?
私には彼らのどこがいいのか、よくわかりません。

しかし、4日連続観た上映の中で、オケの演奏が一番良かったのはこの『アイーダ』だと私は思います。
さっき、”このオケはどんな指揮者でも上手に演奏してくれるんじゃないか”と書いたのに少し注釈を入れると、
スカラ座のオケを”上手”と一言で表現する人も多いですが、
私はいわゆる”上手い”、というのとはちょっと違うかな、と思っていて、
各楽器のソロなんかを聞くと、楽器によってはそれほどでもなく、
むしろ、メトを含む他のオペラ・オケの方が通常の意味では”上手い”かも、とすら思う部分もあるのですが、
スカラ座のオケのすごいところは、全体として音を奏でたときに、
その音が歌手と一緒に、あるいはオケだけで、
その場面のすべてを語っているような感覚をおこさせる瞬間があること、これに尽きると思います。
このオケは明らかにきちんとオペラの筋を理解している、”語るオケ”。
これを、”上手い”という言葉で表現するなら、確かにこれほど上手いオペラ・オケは他にないか、
あったとしても非常に少ないと思います。
そして、私が”このオケはどんな指揮者でも上手に演奏してくれるんじゃないか”という時の
”上手に”というのは、そのような意味において、です。
ただし、やる気のないときの彼らは全くそんな瞬間がないため、
”ちょっとこれどういうことよ?”と問い詰めたくなる演奏も繰り出してきます。
それはまた続く他の演目のレポで。
まあ、いつもいつもすごいオケなんていうのはありえないのでしょう。
いつもいつも調子がいい歌手がいないのと同様に。

音色をメトと比較すると、かなり乱暴な言い方ではありますが、
スカラ座の方がドライで明るい音色のような気がします。
特に金管はかなり明るい音で、この『アイーダ』のような演目ではとてもはまっているのですが、
火曜に観た『椿姫』の最終幕までもその音色で通していて、ちょっと違和感を感じる部分もありました。
(マゼールの仕業か?)

合唱は女性に比べてやや男性が弱いような印象を受けましたが、
発声の細かいニュアンスが統一されているせいか、
声が同じ方向に飛んで力強い響きを生んでいるのはさすが。
メトの合唱は2007年シーズン、ものすごく良くなりましたが、
しかし、これを聴くと、まだまだ先はあるぞ!と思わされます。

さて、このプロダクションでは、ニ幕二場の凱旋の場で長身美形の男性バレエダンサー、
ロベルト・ボッレがバレエ・シーンに登場したのも話題の一つ。
バレエのシーンといえば、他にもニ幕一場のアムネリスの部屋で子供たちが踊るシーンがあるのですが、
この両方とも、振り付けはアフリカン・ダンスのエレメントが取り入れられています。
一場に関しては明らかに子供たちは黒塗りで、黒人、つまりエチオピア人、という設定になっていて、
要はエジプト王女を喜ばせるための、奴隷の子供たちの踊り、ということになっています。
この設定は確かにありそうなので問題はないのですが、
私が非常に違和感を感じたのは凱旋の場の方。
ボッレも相手役の女性ダンサーも”やや黒”塗りで、
ボッレが身につけているのは皮でできているらしい郷ひろみもびっくりの超ビキニパンツ一丁。
限りなく半裸に近い状態で、これだけでもファンのイタリア人女性は鼻血噴水状態でしょうが、
私も一緒に鼻血ブーしたいのに、できない。なぜなら、気になって気になってしょうがないのです。

「彼は何人なの?」

この衣装と微妙な黒塗りからして、エチオピア人の捕虜(つまりアイーダの同胞)とも見えるのだが、
それならば、なぜ嬉しそうにアフリカン・ダンスなんか踊っているのか?
たった今、自国がエジプトに征服されたというのに、踊っている場合??!!

って、それはおかしいから、じゃ、エジプト人なのかな?というと、
格好がすでに述べたとおり違和感があるし、それになぜエジプト風の踊りではなく、
アフリカン・ダンスを踊るのか、、。
考えれば考えるほど謎が深まるのです。

メトはこのシーンは思いっきりエジプト風のダンス。
私もそうあるべきだと思うのですが、確かにアフリカン・ダンスを取り入れた振り付けは
面白いし、魅力的。
ということで、もしかすると、踊りとしてアフリカン・ダンス的振り付けの方が面白いから、
”ストーリー?関係ないよ。これでいこーよ!”という、
振付担当のワシーリエフの鶴の一声でこうなったとか、、?
誰も何も言えなかったのかい、、、?スカラ座をもってしても、、?

ということで、私には全くもって意味が不明だったこのダンス・シーンですが、
最後のボッレの連続回転(またしても技の名前は不明)に観客は大熱狂。
結局、一番この公演でもらった喝采が大きかったのは彼かもしれません。



(↑ 跳躍をきめるボッレ。この写真ではあまり黒く見えませんが、実際にはブロンズ色。
そして右に見えているお供で踊っている男性たちは明らかな真っ黒塗り。)

ただし、彼は、ABTに客演したときにも感じたのですが、
一人で踊っているときは素敵なのだけど、女性のサポートに入る時に、
もたもたもた、、としていて、一つ一つのポーズが折り目正しく決まらないうちに
次のポーズに入ってしまうような印象があります。

さて、前編でふれたアラーニャのスカラ座の舞台途中放棄事件ですが、
私は実は、この日の公演の中にその始まりを見たように思うのでその話を少し。

メトでは、いかに有名なバレエ・ダンサーが客演したとしても
2006年シーズンの『ジョコンダ』ではアンヘル・コレーラが踊ってくれましたが、
そういえば、2008年シーズンに『ジョコンダ』が戻ってくるはず!!
今度も彼があの素晴らしい踊りを再現してくれるのか?それとも別のダンサーが、、?)、
その登場した幕の最後に舞台挨拶をするだけで、終演後のカーテン・コールには登場しません。

ところが、この『アイーダ』の公演では、おそらくプレミアの公演だと思われ、
それもあってか、終演後のカーテン・コールにもボッレが登場。
ボッレも含む出演者のみの挨拶で、アラーニャに対してよりもむしろ自分への喝采の方が大きいことに勢いを得たか、
何と、先に舞台からはけることをアラーニャがボッレに暗に指示しているというのに、
ボッレは澄まして”お先にどうぞ”というジェスチャーをアラーニャに返し、テコでも舞台から動かない様子。
”この喝采はあなたのためではなくって、ボクへのものですから”とでも言っているよう。
らちがあかないことを見てとったアラーニャが先にカーテンの後ろに消えますが、
すでにここで、アラーニャの頭から湯気が出ているのが見えるような気がしました。

案の定、次の、シャイーとゼッフィレッリを加えた挨拶では、
いきなりボッレが飛び出してきたものの、なかなかアラーニャを含む歌手陣が登場してこない。
アラーニャがふくれてる、、私はそう見ました。
ようやく登場したときには、時すでに遅く、すでにボッレが真ん中でにこにこと
シャイーの手をとって挨拶中。場所を失ったアラーニャらは、何と列の末席にあたる
一番舞台上手に近い、普通なら端役の歌手が立つ場所に追いやられる羽目に。

オペラのプレミア公演で、主役の歌手が指揮者のすぐ隣に立たずに列の端に立って挨拶し、
代わりにバレエのダンサーが真ん中で挨拶、、??!??
こんなの、前代未聞。
私はこの時点で、アラーニャにいらいらの種が撒きつけられたものと思います。
そして、数日後の公演でのブーイングで、すでにいらいらしていたところに火がつき爆発!
と、そんな感じだったのではないでしょうか?

ボッレが、マスコミのインタビューで、主役のアラーニャよりボッレの方が拍手が多かったことをどう思うか?と聞かれ、
”実際、彼の歌は大したことなかったしね。”みたいな趣旨のことを言った、という話は聞いていましたが、
この二人の間にはプレミア、かリハーサルの時点から、不穏な雰囲気が漂っていたのかもしれません。

ただし、一言言うなら、少なくともアラーニャは一言もボッレをこきおろしてはいません。
(言ったところで、世の女性から袋叩きに会うのは目に見えているが。
オペラ界で比較的ビジュアルがいい、と言ったって、バレエのダンサーに比べると、
こんなもんなんである。)
ロベルト君ももう少し大人になりましょう。
”たいしたことない歌”でも、『アイーダ』を全幕通しで歌うということは大変なことなのです。
アラーニャ・ファンでない私がそういうのだから、本当に!
バレエもオペラも共に素晴らしいアートフォームなのだから、
こんなエゴのむき出しあいは、二人ともみっともないです。


Violeta Urmana (Aida)
Roberto Alagna (Radames)
Ildiko Komlosi (Amneris)
Carlo Guelfi (Amonasro)
Giorgio Giuseppini (Ramfis)
Marco Spotti (King)
Antonello Ceron (Messenger)
Sae Kyung Rim (Priestess)

Conductor: Riccardo Chailly
Director and Set Designer: Franco Zeffirelli
Costume: Maurizio Millenotti
Choreography: Vladimir Vassiliev
Performed at Teatro alla Scala
Film viewed at Symphony Space, New York

*** ヴェルディ アイーダ Verdi Aida ***

La Scala Nights in Cinemas: AIDA 前編

2008-07-21 | 映画館で観るメト以外のオペラ 
メトのオペラもABTのバレエ・シーズンも終わって、今頃は生きる気力を
失っている予定だったのですが、
今年は気力を失う暇がないほどに忙しく、充実してます。

メトのライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の世界的な成功をきっかけに、他の
オペラハウスも、この”オペラ・イン・映画館”のマーケットに次々と参入しはじめているのは、
4月に鑑賞したサン・フランシスコ・オペラ(SFO)のシネマキャストの例にもある通りですが、
そんな中、大御所のスカラ座もいち早く参入。
残念ながら一回目の上映では、メトのシーズンと重なってしまって、どの演目も観にいけず、
『マリア・ストゥアルダ』でのマリエッラ・デヴィーアの歌唱がすごかった、という噂を聞いて
臍をかむ思いでいたのですが、
公演会場である、95丁目とブロードウェイにある、シンフォニー・スペースの英断により、
なんと、その『マリア・ストゥアルダ』を含む4本が再映されることになったのです!やった!

というわけで、今週は月曜日から木曜日まで、4日連続で
仕事を終えた後直行でスカラ座の公演を映画館で見るという、
メトの本シーズンでも試みたことがない強行軍ですが、
以前このブログでも絶賛したデヴィーアの歌を聞くためなら、この強行軍さえもが喜び!
それから、プッチーニ三部作で『修道女アンジェリカ』を歌うのは、
2006-7年シーズンのメトの公演での同役でも素晴らしい歌唱を聴かせたフリットリ。
スカラ座での歌唱がメトの時とどう違っているか、じっくり聴きたい!

こんな非常に楽しみな二本にこっそりまぎれているのが、
アラーニャがラダメスを歌い、ロベルト・ボッレがバレエのシーンに登場する『アイーダ』、
そして、ゲオルギューの『椿姫』、、、
この二人がやたら露出が多いゆえの当然の成り行きなのか、それとも彼らと
私の間に謎の因縁ともいえる何かがあるのか(そうではないことを祈る、、)、
なんでスカラ座の公演にまで彼らを見るはめに陥っているのか、わけがわかりません。
(ちなみに、何度も言うようですが、レポは出来るだけ公正に書くように心がけてはいるものの、
私は基本的にアラーニャ&ゲオルギュー夫妻が苦手なのです。特にアラーニャ。)

題してLa Scala Nights in Cinemas
(命名したのは私ではなく、配給しているEmerging Picturesという会社。)は、
そのアラーニャの『アイーダ』でキック・オフです。

『アイーダ』の上映が行われたのは大・小二つの上映室を持つシンフォニー・スペースの小の方。
目計算で200名ほどあると思われる客席のうち、8~9割ほどが埋まっていて、
月曜の夜にしてはまずまずの客足。
しかし、これまた平均年齢が異様に高く(どれくらい高いかというと、
多くの方が足腰が弱っていてどんどん通路が詰まっていくため、
休憩に上映室から退室するだけで気が狂うくらい時間がかかる。)
『連隊の娘』の時の再現か、またしても一番若い客になってしまいそう。
しかし、この企画に携わっているホールの方(館長という説もあり。)が
舞台にてこれからの上映の宣伝に続いて開演の旨を告げると一気に拍手!
歳はとっていても、やる気は満々。さすがはオペラヘッドです。

このスカラ座のシリーズでの唯一の大きな不満は、スクリーン上にも配られたパンフレットにも、
はっきりした公演日が表示されないことなのですが、
この『アイーダ』は2006年12月の公演で、同じ映像がすでにDVDにもなっています。
(DVDのジャケット写真は後編の冒頭の写真を参照ください。)

メトのライブ・イン・HDがリアル・タイム(アメリカ国内はライブ。日本は訳をつける作業があるため、
若干タイムラグがありますが、それでも限りなくリアル・タイムに近いと言ってよい。)さを
売りにしているのに比べると、なんで昨シーズンのものを今さら映画館で?
という気がなきにしもあらず。
さらに、ライブ・イン・HDでは、歌手や裏方さんへのインタビューといったインターミッション中に
見れる映像も大きな魅力になっていますが、スカラ座の方はこういったギミックは一切なし。
いずれも、”公演だけで判断してくれたまえ、わはははは。”という自信のあらわれなのかもしれません。

この『アイーダ』に関しては音質はかなり良く、もしかするとオケの音なんかに関しては
ライブ・イン・HDよりも理想的な音を再現しているかも、という気がしましたが、
後に続いた3演目(『椿姫』、『マリア・ストゥアルダ』、『三部作』)ではそれほどでもなかったので、
これは、この公演のDVD化ということもあってオペラの録音技術では定評のあるレコード会社のデッカが
かんだせいかもしれません。
また、生上映(またはその録画。メトのライブ・ビューイングもそう。)ではなく、
後の編集が可能なため、映像の方もがんばってます。
メトに比べると、舞台上、人物上の影をスクリーン上で生かすのが本当に上手い。
これを見ると、メトの映像はちょっと何もかもはっきり見えすぎなのかな、という気もします。
ただ、上演日が表示されないという欠点どころではないもう一点の最大の欠点をたった今思い出しました。
それは、編集のスタッフの中に、異様な布フェチがいること。

エジプトっぽい生地を使った衣装がたなびく映像を、
歌手たちが歌っている真っ最中、ドラマが盛り上がっている真っ最中でもおかまいなく、
これでもか、これでもか、と、挿入してくるのです。
最初は何かを表現しているのかと、考えてしまいましたが、はっきり言って、考えるだけ無駄。
何の表現もしてません、布フェチの編集スタッフの仕業以外の何物でもなし。
あまりに頻繁にその映像が入ってくるので、最初は観客も笑っていたのですが、
しまいにはあまりに気が散るので腹が立ってきて、
”むー!”という唸り声まで聞こえる始末でした。
スカラ座ともあろうものが、この映像はないでしょう、、。

さて、この変てこりんな編集の一因となってしまっているのが、もしかするとプロダクションかもしれません。
ついクローズアップし、その映像を何度も挿入して観客を発狂させたくなってしまうほど、
確かに細部が凝っているのです。
衣装に使われる布地しかり、セットに使われている材質しかり、、。
しかし、私にはその細部へのこだわりが、『アイーダ』という物語全体にはあまり寄与していないように感じました。
”全体のための細部”というよりは、”細部のための細部”というような。
一体、誰よ、こんなプロダクション作ったのは?と、インターミッション中にパンフレットの名前を見ると、
なんと!!ゼッフィレッリではありませんか!!!

メトでは、かの『ラ・ボエーム』をはじめ、
『トゥーランドット』『カルメン』『椿姫』『トスカ』
『カヴ・パグ(カヴァレリア・ルスティカーナ/道化師)』などといった超人気作品で、
いまだ彼のプロダクションが現役でかかっており、中には何十年もの歴史があるものも。
特に『ラ・ボエーム』、『トゥーランドット』、『カヴ・パグ』では、
その異常ともいえる細部へのこだわりが感動的なまでに徹底しており、
それが大きなパワーとなって作品全体に貢献していて、
理想的なプロダクションの一つのあり方となっています。

この全体に貢献する細部という構造が、この『アイーダ』では全く見られず、
私にはおよそゼッフィレッリのプロダクションだと信じられないくらいでした。

一幕二場の、ラダメスが軍を率いる命を受ける儀式のシーンの最後、
Immenso Phta!という合唱に合わせて、いきなり大きな黒い鳥が舞台の天井近く、
左右両方に飛び出してきたのにはびっくり。
しかも、この鳥が第四幕のアイーダとラダメスの死を待ち受けるシーンにも登場するので、
おそらく一幕二場で、私が”でかいカラス”と思ったのは、どうやら不死鳥らしく、
”戦争でも、不死鳥のように何度も蘇って、勝って帰ってこい(で、その後のニ幕一場のアイーダのアリア、
”勝ちて帰れ Ritorna vincitor "にもつながっていく)”ということと、
”二人の愛は不死鳥のように永遠である”というメタファーになっているらしいのですが、
私が彼のプロダクションで好きなのは、そういった下手な解釈とかメタファーというものを一切考えない
(考えていたとしても、それをこんな不死鳥のような明らかなやり方で見せない)ところなのに、
どうしたことか?
2006年の新プロダクションだそうですが、細部で全体を支えるということはものすごくエネルギーが要ることだと思うので、
ゼッフィレッリもお歳だし、そういうやり方はもうきついのでしょうか。

それと、もう一つは、スカラ座の舞台のサイズ、ということもあるかもしれません。
この『アイーダ』のセット、映像ですら、スカラ座の舞台ではかなりぎちぎちに感じられ、
しかも、メトほど自由自在に数多いセットを変える装置がないのか、
セットがものすごく固定されている感じがして、
メトと比べると、なんだかフットワークの軽さというか、浮き浮き感に欠ける点は否めません。
特に二幕二場(凱旋の場)では、どんなにきらびやかに舞台を飾ってみたとしても、
メトのプロダクションでの、天井から兵士がのった塀が降りてきて、
段々とその向こうにエジプトの王家を中心に勝利を祝う民衆たちの様子が見えてくる、
そこに金管が鳴り渡り始める、あのわくわく感とはくらべようもありません。





ただ、ゼッフィレッリは基本的にリブレットを忠実に再現するタイプの演出家ではあるので、
第三幕など、メトのプロダクションと驚くほど似ている部分もありますし、
凱旋の場も基本的なコンセプトは同じです。
(ということは、『アイーダ』については、少なくともこの一点に関して、
メトのソニヤ・フリセルも似たタイプといえるのでしょうが、、。)
フリセルがほとんどゼッフィレッリのお株ともいえるグランドなプロダクション、
動物の動員、などということをメトでやってしまっているので、
ゼッフィレッリもやりにくいというのもあるかもしれません。

さて、この公演の数日後に、ラダメス役のアラーニャに客席からブーが飛び、
怒ったアラーニャがスカラ座を飛び出し、アンダースタディーのパロムビが私服姿のまま続きを歌ったと聞く
曰くつきのこのスカラ座の『アイーダ』ですが、
この日の観客は比較的アラーニャには好意的。



相変わらず細かいことを言えばいろいろ課題はあるのですが(低声域でまるで別人のような声になる、など)、
メトで急遽代役に入った公演のときと比べると、さらに声のコンディションが良く、
彼にしては最高の域に入る出来だと思います。

またこのスカラ座の時からメトの公演までには役作りに発展が見られ、
自分でそうしたのか、誰かに指示されたのかはわかりませんが、
特に四幕一場のアムネリスとのシーンでそれが顕著でした。
メトでははっきりとアムネリスを軽蔑する表情が出ていましたが、
スカラ座の公演では、もう少しニュートラルな感じがします。

一方、アイーダ役を歌ったウルマナ。彼女はメトで直近では2006年シーズンに『ジョコンダ』
『アンドレア・シェニエ』のマッダレーナなどを歌っていて、その二つを聴いた限りでは
あまりぴんと来なかったのですが、この『アイーダ』はずっとずっといい。
このアイーダ役と聞き比べると、ジョコンダやマッダレーナは少し重過ぎで、
本来彼女の声にはこのアイーダあたりが一番向いているのではないかという気がします。
重い役を歌える歌手が少ないせいで、どうしても繰り上がりでこうなってしまうのでしょうが、
彼女本人にとっても、観客にとっても、向いていない役を歌う・聴くのは喜ばしくないことで、
歌える人がいないなら、無理にそんな演目を上演しなくてもいいとすら私は思います。

声の芯もしっかりしているし、上品な響きの声なので、役にもぴったりなのですが、
この日の公演では、少し高音が高めに入る個所が多かったように思います。
一幕でそれがやや顕著だったので、緊張しているのかな、と思ったのですが、
一番大きく外したのは、なんと四幕の最後の最後、ラダメスと共に墓の中で歌うシーン。
もしかすると、緊張というよりは、彼女の歌唱の傾向なのかもしれません。

しかし、それらの細かい点を除けば、まずは理想的なアイーダだったと思います。
特に三幕は出来が良かったです。

アイーダ役と双璧で大事な役、アムネリスはコムロジというメゾ。
本人のオフィシャル・サイトでの、髪をショートにした写真では、
気さくそうで顔立ちの整った方に見えるのに、なぜか、このプロダクションのアムネリスのかつら、
これが彼女に実に似合わないことはなはだしい!
そのまるでシェール(60年代から活躍し続けている女性ロック歌手)のようないで立ちに
私はかなり最初引きました。


(↑ シェール。これで髪を黒くしたら、まさにアムネリスを歌うコムロジ!)

というわけで、少し役にのめりこむのに時間がかかりましたが、歌唱力は確か。
私はこの役についてはドローラ・ザジックがデフォルトになっている旨を
今までのレポにも書いて来た通りですが、
ザジックのあの独特の高音の美しさと迫力には及ばないとはいえ、
中音域の美しさや低音の強さにこのコムロジ・ア・ラ・シェールの歌唱の美点があると思います。
やや地味ですが、最後まで破綻のない歌唱で聞かせます。

ただ、スカラ座の趣味なんでしょうか?この3人とも、歌唱まずありき、という感じで、
あまり個性的な演技はなく、そこがメトで(実力があれば)比較的好き放題暴れさせてもらえるのと違っている、
といえば違っているかもしれません。
ウルマナにしろ、アラーニャにしろ、メトではついぞ見せたことのないような、
観客の反応が非常に気になるような素振りが見られたのも印象的でした。
メトは余程ひどい歌唱でなければ、まずは温かく拍手してもらえるのですが、
スカラ座には独特の厳しい空気が流れていて、この『アイーダ』はまだ良い方で、
二日後の『マリア・ストゥアルダ』で私は恐ろしい光景を目にすることになります。

後編に続く>

Violeta Urmana (Aida)
Roberto Alagna (Radames)
Ildiko Komlosi (Amneris)
Carlo Guelfi (Amonasro)
Giorgio Giuseppini (Ramfis)
Marco Spotti (King)
Antonello Ceron (Messenger)
Sae Kyung Rim (Priestess)

Conductor: Riccardo Chailly
Director and Set Designer: Franco Zeffirelli
Costume: Maurizio Millenotti
Choreography: Vladimir Vassiliev
Performed at Teatro alla Scala
Film viewed at Symphony Space, New York

*** ヴェルディ アイーダ Verdi Aida ***