Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

IL TROVATORE (Sat Mtn, Apr 30, 2011)

2011-04-30 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。


2008/9年シーズン、マクヴィカーによる新プロダクションの登場によりようやく長年に渡る呪いが解かれた感のあるメトの『トロヴァトーレ』。
その後、微妙に組み合わせ違いのキャスト(ベルティ+パピアン+ザジック+ルチーチ
アルヴァレス+ラセット+コルネッティ+ルチーチなど)による公演もありましたが、
今シーズン、ライブ・イン・HD収録の日の公演のキャストは、マクヴィカーの演出が初演された時と同じメインの四人、
つまり、マルセロ・アルヴァレス、ソンドラ・ラドヴァノフスキー、ディミトリ・ホロストフスキー、ドローラ・ザジックのコンビネーションで、
メト側がいかにこの4人のスター・パワーとパフォーマンスに自信と信頼を置いているか、ということの表れとも言えるでしょう。
なにげにルチーチが好きであり、かつ、ルーナ伯爵役の歌唱についてはホロストフスキーよりも彼の方が適性があると思っている私は、
”ルチーチでは客を呼べません、ってか?怒れ、ゼリコ(ルチーチのファースト・ネーム)!”とつい彼を焚きつけたくもなるのですが、
そんなことをしてみたところでホロストフスキーの人気には叶わないのです。

アルヴァレス、ホロストフスキー、ザジックは、すでにオペラ・ファンの間で彼らを知らない人はまずいないであろうというキャリアを築き上げていて、
それに比例するかのごとく、メトのそれだけに限っても、すでにそれぞれ(糞)『トスカ』『エフゲニ・オネーギン』、そして『アイーダ』でHDデビューを果たしています。
このメンバーの中にあっては若干知名度が低い感じのするラドヴァノフスキーですので、
なかには”何?若手の歌手?”と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、どっこい、カウフマンに加え彼女も私と全く同い齢(1969年生まれ)でして、
まあ、一般の世界ではれっきとしたおばはん、オペラの世界でも、まぎれもなく中堅グループに入る歌手です。
インターナショナルなレベルでの人気を獲得する歌手の多くが普通もっと早い時期から頭角を現し名前が知られるようになることを考えると、
彼女のキャリアを”遅咲き”と呼ぶことはあながち的外れではなく、ほんのニ、三年前には彼女のメトでのキャリアがほとんど終わりかけていたという逸話は、
このブログのコメント欄でも何度かふれて来ましたし、終には彼女自身の口から確認されたことは、以前のシンガーズ・スタジオの記事でご紹介した通りです。
(また、そのあたりの事情に関しては最近のNYタイムズの彼女のインタビュー記事でも取り上げられています。)
ヴォルピ前支配人時代には、ドミンゴといった大スター歌手の相手役(『シラノ・ド・ベルジュラック』でのロクサーヌ役)を含めた大きなチャンスを与えられ、
毎年キャスティングされながらもなかなかブレークせず、とうとうゲルブ支配人のブラック・リストの対象になって、
いよいよメトでの新しい契約をうち切られるという最大のピンチに陥ったところで、
それをリバースさせ、彼女のキャリアの大ブレーク・ポイントになったのが、
まさに、前述の2008/9年シーズンのマクヴィカーのプロダクションのプレミエ時の『トロヴァトーレ』の公演だったわけで、
彼女にとっては非常に感慨深い演目であり、さらにその演目をHDにのせ、そのキャストに彼女を選んだということは、
メトからの最大のご祝儀であり、かつ、”これまでごめんなさい。”というジェスチャーであるわけです。
ただでさえ、初めてライブ・イン・HDで歌うというのは大きなプレッシャーであるのに、
その上に、彼女にとってこのうえない意味を持つこの『トロヴァトーレ』という作品で、
メト側、そしてなによりも彼女を辛い時期も支え続けてきたオーディエンスたちの期待を裏切らない結果を出すというのは、どれほどのプレッシャーかと思います。
彼女はそれを言うと、昨年、『スティッフェリオ』のマチネのラジオ放送では体調を崩してキャンセルを余儀なくされてしまったこともあり、
ハイ・プレッシャー時の自己管理に若干の不安を私は感じているのですが、今日は大丈夫でしょうか?



オペラの作品の中には主役陣以外の歌手の歌唱パートから始まって、しかもそれがなかなかに大きなインパクトや意味を持つものがあります。
そこでしょぼい歌唱が出てくると、座席の中でこけ、さらに、”こんなところで金をケチるな!”と毒づきたくなるわけですが、
この『トロヴァトーレ』で一番最初に歌唱パートが現れるフェランドもそんなケースの一つです。
今シーズンの『トロヴァトーレ』のファースト・ランでこの役を歌ったツィンバリュクは、
ウクライナのバス・バリトンで、あの辺り出身の歌手に独特の、少し個性的な発声ではあるのですが、
成熟するには時間がかかるとされる声域にしては若手にして朗々とした深い声を持ち、
楽譜をおろそかにしない正確なアジリティ能力も兼ね備えた非常に優れた歌唱で、私は彼が再びメトの舞台に上ってくれるのを心待ちにしていて、
さらにはいっそ、この後半のランも彼が引き続きフェランド役を歌ってくれればいいのに、、、と思っていたのですが、
そのような優れた同役の歌い手が地球上に存在するとわかっていながら、なぜかみすみすこのHDという肝心な場でこの役を歌うのはステファン・コーツァンなのです。
メトは何を考えているのか?と私は聞きたい。
彼はメトの日本公演の『ドン・カルロ』で宗教裁判長役を歌うことになっているようですが、
あの作品中のハイライトと言ってもよいフィリッポとの一騎打ちシーン、
パペが一方的に存在感を示して終了~!ということにならなければいいなと思います。
まずコーツァンの声にはツィンバリュクの声に備わっているような重量感がなくて、すかすかと軽く、
そのくせアジリタは、ツィンバリュクに比べてもたもたと遅く、切れ味が悪い。
(まあ、宗教裁判長役にはアジリタの技術は求められないので、彼は日本ではその点においては救われるわけですが、、。)
あ、そういえば、コーツァンはこの『トロヴァトーレ』とほぼ同時期に上演されている『リゴレット』のスパラフチーレ役も歌っていて、
テクニカルな面でマフィアな指揮者にボロクソ言われてましたっけ、、、。
彼がツィンバリュクに勝っているかな、と私が思える唯一の点はルックスくらいで、HDがある以上それが無意味だとは思いませんが、
ツィンバリュクの顔がコーツァンとの歌の差を埋め合わせて余るほどブーだとは私には思えません。



一幕二場から登場したレオノーラ役のラドヴァノフスキー。
今日の彼女は私が持っていたプレッシャーへの心配は杞憂で、ほとんどベストの状態で今日の公演に挑んでいることがすぐに伺えました。
実際、全幕を見終わった今も、今日の公演での彼女の歌唱は、良い意味でも悪い意味でも100%の彼女が出ていたと言える内容で、
彼女自身としても大満足だったのではないかと思います。
良い意味でも悪い意味でも、と書いたのは、どんな歌手でも全てのオーディエンスの嗜好を満たすことは出来ないわけですが、
特に彼女の場合は、少なくともアメリカでは熱狂的なフォロワーがいるかと思えば、逆に彼女のことをあまり評価しない派の真っ二つに分かれていて、
(それでも彼女の歌をド下手と感じるヘッズはまずおらず、そういう意味ではきちんとした力を持っている歌手ではあるのですが。)
彼女自身も先に紹介したNYタイムズとのインタビューの中で自分が万人に好かれるタイプの歌手ではない、と分析しています。
そこで、カラスも存命時は特にその歌唱について賛否両論あったということで引き合いに出して語っているのには、
カラスの熱烈な信奉者であり、彼女の持っていた技術を最高に評価している私としては、
”これこれ、ちょっとそこまで言うのはずうずうしくないかい、君?”と思うわけですが、まあ、ソンドラ姉さんの自己分析は大筋では間違っていないのも事実です。
実際、私のヘッズ友達の中にも、猛烈なラドヴァノフスキー・ファンの方がいて、ヨーロッパまで彼女の公演を追いかけていったかと思うと、
会えば彼女がいかに稀有な才能を持ったソプラノであるかを熱狂的に語って下さるといった具合で、
彼に彼女の歌唱について下手なことを言うと袋にあいそうなので要注意です。
彼ら熱烈ラドヴァノフスキー・ファンに言わせると、彼女の声のふくよかさやサイズ、
このサイズの声にしてはあまり見られないレベルのコロラトゥーラの技術を擁していること、それからドラマへのコミットメント能力、
このあたりに彼女の素晴らしさは集約されるようです。
私個人の意見を言うと、私は彼女に関しては熱烈に好きでも毛嫌いしているわけでもなく、
彼らの意見はもっともだと思う一方で(時々、ある歌手のどこが好きなのかを尋ねると、
????と思うような答えが返って来てびっくりすることがありますが、先にあげた彼女の特徴は特に的外れであるとは全く思いません。)、
例えば声質についていうと、”サイズがある”だけではなく、時に大きすぎる、と感じることもあって、”でかい”と形容した方がよりぴったりだ、と思うこともあるし、
また歌唱技術に関して言うと、そうは言ってもカラスのレベルとはまだまだ差があるんだけどな、、と思ったりします。
後者に関しては例えば第一幕の”穏やかな夜 Tacea la notte placida ~この恋は言葉では表現できないわ Di tale amor, che dirsi”のシークエンスの、
カバレッタ(”この恋は~”)でのカラスの歌唱の本当に軽やかなことに比べたらやはり若干の重さを感じますし、
第四幕のアリア”恋はばら色の翼にのって D'amor sull'ali rosee”ではカラスが実に巧みに音の強弱を使い分けているのに比べると、
ラドヴァノフスキーの歌はほとんど強のレンジでしか音が動いていないような感覚を持ちます。
彼女が私を含めた一部のオペラ・ファンに”大声だ”と非難されるのは、必ずしも大きい声が出ることが問題なのではなく、
(なんだって、出来ないより出来たほうがよいと思います。)
せっかく出る大きな声を効果的に使わずに濫発しているように聴こえるところが非難の対象になるのだと思います。
しかし、歌唱の面ではこれらの欠点があげられるとしても、現在この役を歌っている歌手で彼女ほど歌える人があまり多くはいないというのも事実だと思います。
むしろ、私が上の三つのポイントの中で最も疑問を呈するのはドラマへのコミットメントの部分で、
ソンドラ姉さんからは確かに体当たりという意味でのコミットメントは感じるのですが、彼女にそれほど卓越した演技力があるとは思えないのが正直なところです。
アンチ・ラドヴァノフスキーの方の意見で、”確かに、、、。”と思ったのは、
”彼女の舞台には必ず最低でも一つ、なんじゃそりゃ?とつい笑ってしまうような不思議な演技が含まれている。”という指摘です。
私はこれと同じことを最近のカリタ・マッティラにも感じることがあるのですが、今回の『トロヴァトーレ』の舞台でも、
熱演のあまり演技のコントロールを失った結果の、思わず失笑を誘うような、もしくは意味不明な動きをソンドラ姉さんが炸裂させています。
そういった面では、ラドヴァノフスキーと大体同年代で、同じアメリカ人歌手であり、
やはりヘッズから歌唱について賛否両論があるソプラノのパトリシア・ラセット(彼女はこの演目のAキャストのレオノーラ役でした。)は、
常に演技にコントロールが働いていて、ラドヴァノフスキーのような失笑の領域に入らないのが違いで、
本当に演技力がある歌手というのは、実際には常にこの冷静なコントロールが意識下で働いている人のことを言うのだと私は思っているのですが、
”体当たりさ”そのものに心が動くのか、その底に働いているものを見たいか、そのどちらかによって彼女の演技力への評価は分かれるのだと思います。



いずれにせよ、オーディエンスの嗜好を脇におけば、ラドヴァノフスキーは今日の公演で彼女の持ち味を100%出し切ったと言ってよく、
”ラドヴァノフスキーってどんな歌手?”という興味を持って公演を鑑賞するオーディエンスには、その問いに十分過ぎるほど答えを提供する歌唱内容となっています。
それにしても、彼女の優れた点も、一部のオーディエンスにあまり好かれない理由となっている点も、
この数年で大きく様変わりしたわけでも、2008/9年の『トロヴァトーレ』で彼女が大変身を遂げたというわけでもなく、
彼女のユニークな声質や声のサイズの割りにしてはすぐれたアジリタの能力を持っている点も、ここ何年も変わらずにそこにあったことですし、
ルックスだってここ最近激やせしたわけでも、突然垢抜けたわけでもなくずっとあんな感じでした。
それが『トロヴァトーレ』まではメトの支配人にすらまともな評価をしてもらえなかったという事実、、、
『トロヴァトーレ』のレオノーラが彼女の個性にマッチしたことは疑いの余地がありませんが、
キャリア最大の危機にメトで歌う最後の演目となってしまったかもしれない『トロヴァトーレ』で大逆転するとは、
歌手のキャリアの中で運というのがどれだけ大きなファクターであるか、
一見ちょっとしたことがどれだけ大きなインパクトをキャリアの上で持ち得るか、ということを考えさせられます。



主役の四人の中で、私が2008/9年シーズンの時から最も大きな疑問符を投げかけているキャストは、実はマルセロ・アルヴァレスのマンリーコです。
彼は非常に安定した力を持った歌手で、良い歌手か、悪い歌手か、と聞かれれば、躊躇なく良い歌手のグループの方に数えますが、
最近彼がメトで歌っているような役柄、カヴァラドッシとかマンリーコなんかでは、彼の本当の良さは味わえないので、私はとてもフラストレーションがたまっています。
彼を初めて生で聴いたのはメトの『リゴレット』でのマントヴァ公だったと記憶していますが、当時の彼の声の美しく、歌唱の端正だったこと!
遅咲きと言えば、ラドヴァノフスキーだけでなく、彼女は華々しいキャリアが花開いたのが遅かったという意味の遅咲きですが、
アルヴァレスの場合はオペラの世界に入った時期がそもそも遅いという、正真正銘の遅咲きゆえ、
余計に歌えるうちに色々な役を歌っておきたい、、という気持ちが強いのでしょうが、、。(アルヴァレスは1962年生まれです。)
彼は、彼の声質にしては無茶だと私には感じられる役を色々歌っている割には、驚くほど声が美しく保たれていて、
それは例えば似たことをして最近ではすっかり声を荒らしているリチトラとは対照的なんですが、
一つには以前にもどこかで書いた通り、こういった重めの役を歌ってもアルヴァレスは割りと飄々とマイ・ペースなところがあって、
喉に一定以上の負担がかからないような歌い方しかしない、というのがその原因としてあって、
私が彼のマンリーコを聴く時に感じるフラストレーションの源はそこにあるんではないかと思っています。
彼が声に必要以上の負担をかけずに、そしてまた私もフラストレーションを貯めないためには、
本来彼に合ったレパートリーに戻ってくれるのが一番なんですが、、、。

というわけで、彼のマンリーコ役の歌唱から、コレッリのそれのような興奮を期待するのが間違いなのであって、その間違いを犯すと、
一般的にこの作品の最大の聴き所と言われる第三幕の”見よ、恐ろしい炎を Di quella pira"で肩透かしを食らうこと間違いなしです。
そもそも、彼は2008/9年シーズンの時点から既に、最後に高音を入れるため、この部分のキーを下げて歌っています。
ただ、私にとって肩透かしに感じるのは、単にキーが下がっているということよりも、
本当にこの役に適性のあるテノールが歌った場合に感じられるような音圧とそれに伴うスリル、それが感じられない点の方が大きな理由です。
アルヴァレスのマンリーコはむしろ、アズチェーナとの絡みのシーンで良さが出ていると思います。
このプロダクションの一つの特徴として、マンリーコとアズチェーナの親子の関係が比較的丁寧に描かれている点が挙げられますが、
特に第四幕の、死を待つだけになった二人の場面は、今日のザジックの素晴らしい歌唱の力もあるのですが、アルヴァレスの端正な歌唱の面目躍如といった感じで、
重唱の部分の響きの美しさ(二人の声のコントロールの見事なこと!)、
そして、この怪奇な(そしてやや意味不明な)ストーリーの中にあって、
死を前にした二人の前に初めて訪れる束の間の平穏と安らぎの描写に観客はついホロリと来てしまいます。



ホロストフスキーのルーナ伯爵は、2008/9年の公演では、マクヴィカーの指示通りに演じたせいか、
いつものスタイリッシュで素敵なホロストフスキーはどこへ行ったの?と言うくらいの、やたら気持ち悪いぬめぬめしたルーナで、
私はそういうのも全くもって嫌いではないのですが、その後、Bキャストのルチーチなどはマクヴィカーの演技指導を直接にはおそらく受けていないと思われ、
そういったトカゲ的粘着気質はすっかり身を潜め、一般的に多く見られるエレガント系ルーナになっており、
”まあ、やはり普通はこうだよなあ、、、。”と思いつつ、演出家の指導というのがいかに短期間で消え去るものか、というのを垣間見た気がしましたので、
実は今日の公演でホロストフスキーはどのように演じるのだろう?当時のマクヴィカーの指導に忠実に歌い演じるのだろうか?
この答えを見るのが一つの楽しみであったわけですが、ホロストフスキー、一人だけヌメヌメさせられるのは馬鹿らしい、しかもHDで、、と考えたかどうかは知りませんが、
当時の演技指導をすっかりほっぽり出して、いつものカッコ良さ満開のホロ様路線で歌い演じきってしまいました。
マクヴィカーがこのHDを観てたら、”僕の指導したルーナはどこへ行った!”と歯軋りしてそうです。私が演出家なら間違いなくそうしてます。
他の三人は実を言うと、かなり初演時と忠実に役を演じていて、先に書いたマンリーコとアズチェーナの関係へのフォーカス、
この点をアルヴァレスとザジックは非常に意識的に歌い演じていますし、ラドヴァノフスキーも、ほとんど初演の時からレオノーラ役の捉え方、
演じ方は変わっていません。
ということで、ホロストフスキー、一人で暴走(笑)。まあ、いいでしょう、かっこいいんですから何をやったって。
実際、メトのオーディエンスは男女ともにホロストフスキーが舞台に立つとヘロヘロ~となっているのが客席にいても空気の中に感じられます。
ただ、真面目な話をすると、これにはもしかすると演技に気が取られすぎるのを防ぎたかった、という部分もあったのかもしれません。
歌に関しては2008/9年の頃からさらに歌いこんでいるということもあるでしょうが、今年の方が安定感が増して内容は良かったように思います。

一つ贅沢を言うなら、彼がヴェルディのレップを歌う時、もう少し音に広がりと連続性があったらいいな、と思うのですよね。
例えば、第二幕のルーナ役の最大の聴かせどころとなる”君の微笑みの妙なる輝きは Il balen del suo sorriso”~”運命の時は来た Per me, ora fatare"なんですが、
ヴェルディ的な響きが声にあるかどうかが顕著に出るのは、カバティーナ(”君の微笑み~”)よりもカバレッタ(”運命の時は~”)の方に私はあると思っていて、
それはそこにくっついて来るオーケストレーションとの絡みによるものだと思うのですが、
ホロストフスキーの歌はIl balenの方が優れた出来栄えで、Per me, ora fatareの方が影が薄いんです。
それはPer meが始まって以降の、音が広がっていく感じ、音と音の間の滑らかな連続性、
そしてそれがオケと繰り広げる綾、というのが若干希薄で、ここだけは私は絶対にルチーチの歌唱の方を買います。
このPer me以降の旋律こそが、ルーナ役を聴く側の最高の醍醐味ですから、なんとしても。



とまあ、色々あれこれ言って来ましたが、これは私の嗜好が炸裂したうえでの感想であり、三人とも高い歌唱水準であることは間違いがありません。
しかし、そんな三人の歌唱すら頭一つ凌駕してしまうような出来だったのがザジックです。
私が彼女の長年にわたるファンであることはこのブログでは最早秘密でも何でもありませんが、
一方で、それだからこそ、最近の彼女の歌声に徐々に忍び寄り始めている老いの影に一抹の寂しさを感じていたのもまた事実です。
実際、昨シーズンの『アイーダ』のHDは、指揮のガッティが好き放題やらかしてくれて彼女をはじめとするキャストが苦労して歌っているのが見え見えだったこともあり、
彼女の若かりし頃にドミンゴやミッロらと共演したメトでの素晴らしい歌唱が既にDVDで発売されているのに、
何もこれをあえてHDにしなくても良かったな、、、という出来でしたし、
また、最近の彼女は好調な時と不調な時の結果の乖離が大きくなり始めていることや(声が衰えて来たときに見られる顕著な症状の一つ)、
最近歌った『スペードの女王』でもあまり評価が芳しくなかった(批判は主に彼女の演技についてで、歌に関しては私は非常に良かったと思っていますが。)ので、
今回の『トロヴァトーレ』も、もう彼女の一番良いアズチェーナをとらえることなく終わってしまうのかな、、という思いで鑑賞し始めたのですが、
嗚呼、これこそなんと杞憂だったことか!この公演での彼女の歌唱は本当に素晴らしかった!!
絶頂期の彼女(90年代の終わり頃)は、非常にパワフルな声であるだけでなく、ヴェルディのメゾ・ロールで求められる音域を上から下まで安定した音色でもっていて、
特に高音域でのクリスタルのような美しい響きは下手なソプラノよりも余程美しかったくらいなんですが、
さすがにそういった特徴は年齢と共に現在では後退してしまったものの、その分、各フレーズが良く練られ、ニュアンスが増しており、
先に書いたような、パワフル・ボイス、クリスタルのような高音といった彼女の絶頂期の強みが詰まった2000年の公演
(そう、あれはヴィック演出”月光仮面の『トロヴァトーレ』”の公演だった、、、)での彼女の歌唱も素晴らしかったですが、
今回の歌唱はそれとは全く対照的な在り方ですが、やはり同じ位素晴らしく、甲乙付けがたいです。
第二幕の”炎は燃えて Stride la vampa”のまるで独り言を呟いているかのような不気味なほどの静かな歌い始めや、
他のジプシーたちが去ってマンリーコと二人きりになった後、”伯爵に復讐をしようと彼の子供を盗み出して火の中に放り込んだものの
気が付けば火に投げ入れたのは自分の子だった。”という部分に漂っている妖気は、
内容が???な打ち明け話なだけに、歌が凡庸だと本当に???なだけで終わってしまうのですが、
彼女の今日の歌にはマンリーコ、ルーナ、アズチェーナを結ぶ運命としか言いようのない大きな力のようなものを感じましたし、
先に書いた四幕でのマンリーコとの二重唱の場面では、アズチェーナが死を迎える前に一瞬子供のように、
そう、あの不幸な全てが起こる前の、母親と過ごした平和な頃の彼女に一瞬戻っていくその様子を見事に歌唱に表出しており、
とにかく歌唱の奥行きの深さでは、これまで彼女のアズチェーナから感じたことのなかったようなレベルに達していたと思います。
2000年の頃の歌唱と違う点、それは今日の歌唱は経験を積んで本当に役を把握した者にしか歌えない種類の歌である、という点でしょう。
今日の『トロヴァトーレ』は間違いなく彼女のアズチェーナが中心にあったと思います。
(で、この作品は筋から言ってそうあるべきだと思うのですが、なかなかそのように歌ってくれるメゾがいないのが現実です。)
近年では稀に見るほど彼女のコンディションが良かったのも幸いしました。



これだけ歌唱陣(マイナス コーツァン)が健闘していたら、もっとエキサイティングな内容になっていてもいいはずなのにな、、と思うのですが、
この演目が本当にエキサイティングに演奏された時に感じられるはずの興奮には残念ながら今一歩だったように思います。
一つにはマルコ・アルミリアートの指揮に一因があったかな、と思います。
この作品はきちんと演奏するだけではなくて勢いが大事という面があって、例えば2008/9年シーズンのBキャストでフリッツァが指揮した時の演奏は、
あちこちラフな部分はあるんですが、メト・オケ炎上!という感じの非常にエキサイティングな演奏だったことが思いだされ、
ああいうはちゃめちゃな勢いみたいなものがこの演目には必要で、今日の演奏にはそれが欠落していたのかな、、と思います。
あまりに丁寧に演奏するあまり、時にテンポが間延びして、ダルに感じる部分がありました。
はちゃめちゃのつもりが単なる滅茶苦茶になるリスクは当然あるわけで、HDの日にそういう危険を避けたくなる気持ちもわかるのですが、
もうちょっと思い切った演奏でも良かったんではないかな、と思います。


Marcelo Álvarez (Manrico)
Sondra Radvanovsky (Leonora)
Dolora Zajick (Azucena)
Dmitri Hvorostovsky (Count di Luna)
Stefan Kocán (Ferrando)
Eduardo Valdes (Ruiz)
Maria Zifchak (Inez)
Conductor: Marco Armiliato
Production: David McVicar
Set design: Charles Edwards
Costume design: Brigitte Reiffenstuel
Lighting design: Jennifer Tipton
Choreography: Leah Hausman
Stage direction: Paula Williams
Dr Circ E
OFF

*** ヴェルディ イル・トロヴァトーレ Verdi Il Trovatore ***

CAPRICCIO (Sat Mtn, Apr 23, 2011)

2011-04-23 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。


『リゴレット』の公演で、メトでのAオケ、Bオケの存在有無を巡り大バトルを交わしたマフィアな指揮者。
あの時はどうせこのおじさんとはこの後二度と顔を合わせることはないんだし、、、とすっかりたかをくくって激論してしまいましたが、
なんとも奇妙なことに、その後、再び座席が隣同士になる、インターミッション中に顔を合わせるということが重なり、
気が付けば、数ヶ月のうちに、いつの間にか電話番号まで交換する良きオペ友になってしまいました。
鑑賞予定が重なっている公演については、電話で連絡を取り合いながら先にオペラハウスに到着した方がインターミッション時のテーブルを予約することにしましょう、
という約束になっているのですが、もちろん私が先にオペラハウスに到着するということは決してないゆえに、いつも彼が予約する羽目に陥っています。
第一印象では”なんて感じ悪いおやじ!”と思ったものですが、知り合ってみれば正反対。
すごく親切だし、それから猛烈にオペラが好き(というか、彼の場合は生業なわけですが。)な人の典型に漏れず、非常に律儀でまめで、
私と行き違いにならないように、という気遣いなんでしょうが、公演の1時間前くらいから、
今家を出た、今メトに到着した、今カフェに行くけど今日は何を注文する?、そして今注文が完了したから!に至るまで、
逐一経過報告の電話を下さるので、その1時間ほどの彼の行動状況が手に取るようにわかるほどです。

今日は『カプリッチョ』の公演で、演奏時間が二時間を超える一幕もののため、インターミッションが一度もないので、開演前に一緒に腹ごなししましょう、ということになり、
メトのカフェでチーズ・プラッターの皿をつつきながら、”ところでマフィアは今日はどこのセクションで鑑賞ですか?”と尋ねると、
今日もまた座席が隣同士であることが判明し、軽くお茶を吹きそうになりました。

ヴェルディもワーグナーも素晴らしい作曲家であることに何の異論もなく、私は彼らの作品をもちろん心から愛しておりますが、
実は開陳してしまうと、理屈抜きでその音楽が耳に入って来ただけで涙腺が刺激され、緩んで来てしまう二大巨頭は、
私の場合、プッチーニと他ならぬR.シュトラウス、この二人の作品なんです。
よって今日は一人で存分泣きべそをかこうと思ってオペラハウスに来たのに、これまた何の因果なのか、、?

しかし、マフィアな指揮者と一緒に鑑賞して大きな恩恵を受けているのは私の方であることは間違いありません。
彼は私の意見から学ぶことなんて何一つないと思いますが、私の方は彼の豊富で長い鑑賞史(なんせ39丁目の今はなき旧メトで鑑賞したこともあるらしい!)と、
歌唱や指揮、音楽作りに関する深い理解に基づいた興味深い&率直な感想を色々聞かせて頂けるわけですから。
その彼が、『カプリッチョ』こそはルネ・フレミングの良さが一番良く感じられる作品のひとつ、というのですから、期待が高まります。
ちょっと意外な感じがするかもしれませんが、フレミングはメト・オケとの演奏会(うち一度は2006年の日本公演の時のもの)や
2008-9年シーズンのオープニング・ナイトのフレミング・ガラで最終場面の抜粋を披露したことはありますが、『カプリッチョ』の全幕をメトで歌うのは今シーズンが初めてです。



そのフレミング・ガラでは、彼女が『椿姫』、『マノン』、『カプリッチョ』からの抜粋を、それぞれ、ラクロワ、ラガーフェルド、ガリアーノという
オート・クチュール界の人気デザイナーが手がけたドレスを着用して歌ったことも話題の一つでした。
もしかすると、今シーズンの『カプリッチョ』は、ガリアーノがデザインしたぞうり虫のドレスをフレミングが再度着用することもあるか?と思っていたのですが、
なんと、ガリアーノは『カプリッチョ』の公演が始まる少し前にパリのカフェだかで、
ユダヤ系と思われる女性食事客相手に酔っ払った勢いで反ユダヤ人的発言を炸裂させているのを映像に収められてしまい
(”私はヒトラー大好きよ。あんたたちみたいのはね、今頃死んでてもおかしくないんだからね。あんたの先祖も全員ガス室なんだから!”
相手の女性に”あなたは世界平和を望まないの?”と尋ねられると、”醜い人間との平和なんてお断りよ。”と答えてさらにダメ押し、、、。)その望みはなくなりました。
フレミングの腹を這い回るぞうり虫のデザインは若干微妙でしたが、ドレスそのものは体に綺麗にフィットしていて素敵だったんですけれど、、、。
それに、私はそろそろ新シーズンのオープニング・ナイトにはどんなものを身につけようか、、、というリサーチもかねて
デパートやブティックの商品を時々チェックしているのですが、
先日、とあるデザイナーがデザインしたドレスの片腹にやはりぞうり虫が横たわっているのを発見し、
その大きさといい、横たわり方といい、”こ、これはガリアーノのぞうり虫ドレスのぱくりじゃないか!!!”と思った次第です。



先にフレミングが『カプリッチョ』に登場するのはメトでは初めてだということを書きましたが、
この演目が全幕でメトの舞台にあがること自体、1997-8年シーズン以来13年ぶりのことだそうで、
私はこの作品を実際の舞台で全幕鑑賞するのは今回が初めてなんですが、
CDだけでは十全にわかりにくかったこの作品の魅力に今日はもう最初から最後まで魅了されっ放しになってしまって、
どうしてこの日の公演(ラン最後の公演)しか観に行かなかったのか、ひたすら後悔してます。
次にこの作品を鑑賞できるのは、また10年以上先のことになってしまうかもしれないし、
その時にフレミングのようなソプラノがいるかどうかもわからない、、、。取り返しのつかない致命的ミスを今シーズンも犯してしまいました。

『カプリッチョ』はシュトラウスの(完成しているものとしては)最後のオペラ作品なんですが、
今日はこの作品の全く無駄と隙のない美しさと完成度の高さに驚きまくっているうちに全幕が終わってしまっていた、と言っても過言ではないです。
まず6分半ほどの前奏曲(弦楽器だけによる6重奏)、この曲の意味が、CDを聴くだけでは私は完全にはわからずにいました。
正直、なんでこんなにこの部分が冗長なんだろう、、?とも思っていましたし、、、。
(手持ちのディスクはウィーン・フィルの演奏によるもので、演奏の水準に不満があるわけでは全くありません)。
しかし、指揮者のアンドリュー・デイヴィスが指揮台に立ち、オケピからこの前奏曲の演奏が聴こえて来た時、
ミキシングの段階で、他の演奏部分と均されてしまったCDの音声レベルからはまったく想像していなかったような音が立ち上がって来て、びっくりしました。
バロック作品を除いては、他にこんなにこじんまりした編成の前奏曲で始まるオペラって、ほとんど皆無なんじゃないかと思います。
そのあまりに繊細な音に、メトが少なくとも半分位に縮んだような気がするほどで、
それでも足りずに、もっと良く音を聴かん、と、つい、体を前に乗り出してしまうほとです。



特にシュトラウスがこの作品を書き上げた頃までにオペラの作品が辿ったトレンドや、
彼が書こうと思えばどれだけ厚いオーケストレーションを書けたか、ということを知っていると余計に、”なんじゃ、こりゃ?”と不意をつかれる始り方です。
しかし、その効果は絶大で、この6分半の間に、メトは大きなオペラハウスから、ある貴族の家庭のサロンに段々トランスフォームするのです。
6分半という前奏曲に費やされる時間が、そのためには、長過ぎでも短過ぎでもなく、丁度必要な長さであることがしみじみと感じられ、
以前、『西部の娘』の感想時に、ミニーの登場場面について、プッチーニがいかにシアトリカルな効果を良く理解している作曲家であるか、
ということを書いたように思いますが、シュトラウスもまた同様に、劇場で作品を鑑賞している人間の心理を深く理解し、
それを音に出来た作曲家であったということを、こういう箇所で実感します。
また、こういった彼の能力により、音楽家フラマン役だけでなく、劇場支配人のラ・ロッシュ役にも
シュトラウスの持っていた一面が反映されているんじゃないかな?と思うところがあり、一層この作品を興味深いものにしています。

メトの公演ではまず”これから公演が始りますよー。”という合図にシャンデリアが天井に上がって、
オペラハウスが暗転してから指揮者が指揮台に登場する、、というのがデフォルトの手順なんですが、
今日はシャンデリアが降りたままの状態で前奏曲が演奏され始めたので、
最初は”HDの収録という大切な日にシャンデリアを上げ忘れるという手違いをしでかすなんて、なんとまあ、、。”と思っていましたが、
先に書いたようなこの前奏曲の意図が見えて来ると、曲が終わる瞬間に完全に上がり切るようタイミングを合わせて曲の終盤から
シャンデリアを上げはじめたのも、これまた実に心憎い演出で、
これがジョン・コックスのプロダクションが初演された時からのアイディアなのかどうかは不明ですが、実に要領を得ていて素敵です。



この作品の見事な点は、オペラ論(オペラにおいて、リブレットと音楽のどちらが重要か?)という言ってみれば”高等”なはずの議論を、
若々しく魅力的で情熱的だけどどこか最後にはマドレーヌをさえ弄びそうな軽い雰囲気もあるフラマンと、
フラマンに比べれば野暮ったくて頭の固いところがあるけれど、彼女を一途に愛しているオリヴィエという、
この二人の男性のうち、どちらをマドレーヌが選ぶか、という”下世話”な選択と重ね合わせるというプロットにあることは言うまでもありません。
我々観客というのは悲しいかな、下世話な生き物なので、オペラ論なんかよりも、マドレーヌの恋がどっちに進むのか?という、
こちらの方に断然興味があるわけで、彼女の恋愛ががっちりとオペラ論と絡み合っているからこそ、最後までだれずに鑑賞し続けることが出来るのです。
そもそも、オペラにおいて、リブレットも音楽も両方が大事であり、どちらかの優位性を議論することほど馬鹿げた話はなく、
オペラ論についてはそもそも最初から答えが出ているといっても言いすぎではないと思います。
『カプリッチョ』で最も美しい部分は、いつの間にか、下世話な話題であったはずのマドレーヌの恋の方にこそ、
”人が何かを選択するということは、同時に何かを捨てるということ。”という
人が人であるために逃れることの出来ない業が描かれていることに観客が気づく瞬間であり、
『オペラと恋愛』という当初は重なっていたはずのテーマが、結局、二つの要素を兼ね備えることの出来るオペラというものと、
どちらかしか選べない、もしくはどちらをも選べない人間という、全く違う性質のものに結局分かれていく点も面白く、
それでも、この作品を観終わった時、しかし、オペラというものは間違いなく人間というものを描くことが出来るという確かな感触が残る、、
まるでシュトラウスのオーケストレーションそのもののように繊細で重層的な作品です。



この作品のマドレーヌ役にはどこか自己陶酔的で、自己満足的で、自分かわいさゆえに人を傷つけても平気という
無邪気さゆえのちょっと無神経でクルーレスでずるい雰囲気が必要なんですが、
(しかし決して観客をむかっとさせるほどのそれであってはならず、どこかに可愛さが残っていなければならない。)
ルネ・フレミングがこの役で優れているのは、まさに彼女がそれを地で行っている感じがする点です。
と、またしても彼女を褒めてるんだかけなしてるんだか良くわからない記述になってしまいましたが、
この雰囲気をちょうど良いバランスで持つというのは至難の技で、というか、持とうと思って持てるものではなく、本人の個性に負うところが大だと感じます。
例えば先述の私が所有しているCDで同役を歌っているテ・カナワなんかは、その点、少し気が利きすぎる感じが私にはしてしまい、
二人の男性の心を弄ぶことなく、とっととどちらかに決めてしまうはずだろう、この人なら、、、と思わせるものがあるのです。
しかし、単にクルーレスであればOKか、というと、もちろんそうでなく、最終場面のモノローグではその自分のずるさと向き合う場面があるので、
そんな自分に気づくだけの知能と繊細さは必要です。
シュトラウスらがマドレーヌを世間知らずのお嬢ではなく、未亡人という設定にしているのも道理です。
フレミングのマドレーヌについてはYouTubeを検索するだけでたくさんのバージョンがあって、
なかには彼女の声の最盛期の頃に録音されたものもありますし、そういう録音と比べれば、今日の彼女の声の衰えに気づかずにいることは難しいと思います。



ここニ年ほどの彼女の声は劇場でも目立って音のプロジェクションが悪くなっていて、
フレミング・ガラの時と比べてさえ、高音のきつさが気になる方には相当気になると思います。
実際、今回のHDに関しては、彼女のマドレーヌの良い時を取り逃がした、という批判が多いのですが、
私はそういった欠点を差し引いても、今日の彼女の歌唱にはそれを超えて、
この役を本当に自分のものにしている歌手だけが聴かせることの出来るレベルの歌唱になっていたと感じました。
特に最後のモノローグの場面は、フレミング・ガラの時よりもずっと深みのある表現になっていて、
彼女がこれまで出演したHDの作品の中では個人的にはこれが最良のものではないかと思っています。
また、私は彼女がイタリアもので聴かせるフレージングにフラストレーションと怒りを感じることが少なくないのですが、
一転、シュトラウス作品での彼女のフレージングは本当に巧みだな、と思うことが多く、
特にリボンが綺麗に一ひねりしたり、戻ったりする様子に例えたくなるような音から音への移行の滑らかさとか、
何も音がないところから本当に自然にクレシェンドして行く時のブレス・コントロールの仕方など、上手いな、と思う点がたくさんあります。
彼女の声そのものについては、すでに年齢的に恒常的なダウンヒルに入り始めていると考えてよく、
この後、基本的には声に関しては衰えて行く一方になると思いますので、
『カプリッチョ』が彼女に非常に良く合ったレパートリーであることを加味すると、
今後、他の演目で、今日の公演の出来を越えるものを期待するのは段々難しくなっていくかもしれないという風に思います。



今日の公演でたった一人キャスティングを変えられるとしたら、私は何の迷いもなくフラマン役のジョセフ・カイザーを挿げ替えるでしょう。
彼は遠目に見ているとルックスは好青年風ですらっと背が高く、この役はそこも重要な要素ですので、その点での貢献を否定するものではありませんが、
それにしてもああ、この声!なんと魅力のない声なんでしょう。
彼の声には艶というものがなく、また、彼だ!とすぐにわかるような個性もない。
彼は2007-8年シーズンの『ロミオとジュリエット』でネトレプコの相手役をつとめた4テノールの一角でしたが、
その時にも私に全く同じことを書かれてました
『ロミ・ジュリ』での大きなチャンスも一向にキャリア上のステッピング・ストーンになっていないのは、やはりこのあたりが原因なんでしょう、、。

一方で、ちょっぴりフラマンにルックスやら情熱やらで差をつけられているはずのオリヴィエ役ですが、
これをラッセル・ブラウンが非常に上手く演じていて、歌唱としてはカイザーよりずっと魅力的な出来になっています。
頭は良いのだけれどルックスがいまいちな男性に特有の屈折したひがみ心と、だけどついマドレーヌには下手に出てしまう
惚れた男の弱みを上手く描き出していたと思います。
ブラウンは『ニクソン・イン・チャイナ』の周恩来役もつとめていましたが、
歌声に関しては、公演が終わってみると、”あれ?どんなだっけかな?”と、あまり記憶に残っていないという、一種のカイザー型ですが、
キャラクター作りが上手というか、役としては良く印象に残っているという、面白い人です。



この作品には後二人大事なキャストがいて、この二人の健闘が公演の印象に与えた影響を軽視することは出来ません。
まず、クレヨン(という表記にWikipediaではなっているのですが、なぜこの綴りがクレヨンという発音になるのか、私にはよくわかりません。)役のサラ・コノリー。
彼女は昨シーズンの『アリアドネ』の作曲家役の時も知的で素敵な歌手だな、と思いましたが、
”あたし本当は男なんです。”と告白されてもおそらく私なら驚かないであろう、女性にしてはとてもいかつい大作りなあの顔で、
ズボン役だった作曲家役ならいざ知らず、この、マドレーヌの兄の憧れの対象である人気女優という正真正銘女性!のクレヨンをどうやって演じるのか、、と、
ちょっぴりどきどきしながら見ておりましたが、これがまた上手いんですよね。
女優としてのプライドや風格はもちろん、それだけでなくて、バレエ・ダンサーの小娘にやり込められそうになる場面での、
年増女の悲哀をさらりと、しかしからりと見せるセンスや、マドレーヌ兄だけでなく、次第にマドレーヌにも受け入れられていって、
すっかり居心地良さそうに馴染んでいる様子など、彼女の歌と演技からは時の経過をきちんと感じられるのがいいな、と思います。
声のコンディションが先シーズンよりも良かったのか、今年の方が安定感のある歌唱であるように感じました。

ラ・ロッシュ役を歌ったローズも、作曲家やリブレッティストといった純粋にクリエイティブな立場にいる人間とは一味違う劇場支配人を、
俗物的な雰囲気を漂わせつつも、劇場に対する愛情は人一倍!という、憎めない人物像を上手く表出していたと思います。

もともとリブレットが面白くて、笑える場面がたくさんあるこの作品ですが、特にこのプロダクションでは、
イタリア人歌手達の扱い方や、マドレーヌ兄をめぐってクレヨンと熾烈な争いを繰り広げる小娘バレリーナ
(バレエ・ダンサーのローラ・フェイグが素晴らしい怪踊?を見せています。)といった、主役、準主役以外の役の人間一人一人にまで、
きちんと細かい演技が与えられているせいで、全体が非常に活き活きした公演になっています。

でも、何と言ってもすばらしいのはシュトラウスがつけた音楽で、言葉と音楽、相互に生かし合うのがオペラ!だったはずなのに、
やっぱり、音楽の方がちょっとだけ優位なのかな?という思いを一瞬観客の胸によぎらせてしまうところが、シュトラウスのいたずらでお茶目なところです。


Renée Fleming (The Countess)
Sarah Connolly (Clairon)
Joseph Kaiser (Flamand)
Russell Braun (Olivier)
Peter Rose (La Roche)
Morten Frank Larsen (The Count)
Bernard Fitch (Monsieur Taupe)
Olga Makarina / Barry Banks (Italian Singers)
Michael Devlin (Major Domo)
Ronald Naldi / Paul Corona / Steven Goldstein / Christopher Schaldenbrand /
Grant Youngblood / Scott Scully / Brian Frutiger / Kyle Pfortmiller (Servants)
Conductor: Andrew Davis
Production: John Cox
Set design: Mauro Pagano
Costume design & interior decor: Robert Perdziola
Lighting design: Duane Schuler
Choreography: Val Caniparoli
Stage direction: Peter McClintock
Solo dancers: Laura Feig / Eric Otto
Dr Circ C Odd
OFF

*** R.シュトラウス カプリッチョ R. Strauss Capriccio ***

DIE WALKURE (Fri, Apr 22, 2011)

2011-04-22 | メトロポリタン・オペラ
『ワルキューレ』初日の直前の日曜日(4/17)に、パトロン向けのバックステージ・ツアーに参加して来ました。
確か1998年あたりだったと思うのですが、一度バックステージ・ツアーに参加したことがあって、そのせいで同じものを見ることもないだろう、と、長い間参加してなかったのですが、
これが実に大きな間違いで、再参加して本当に良かったです。
まず、一つには、バックステージ・ツアーは、色々な種類のツアー(観光客向け、パトロン向け、リンカーン・センターのバックステージツアーの一部、等々)の、
いくつものグループが同日に見学を行うのですが、担当して下さるガイドの方の当たり外れによって、面白さが全然違うということ!
今回私のグループを担当してくださった方は本当に知識が豊富で、今昔の歌手たちのエピソードを交えつつ、”せっかくの機会だからどんどん色々見て下さいよー!”と言って、
参加者を焦らせることなく、本当にゆっくりと現在準備・作成中の衣装やセットを観察させて下さったゆえ、本当に堪能しました。
それから、当たり前といえば当たり前なのですが、見学するその時その時で、裏方さんが手がけている作品も違っているということ。
10年以上前のバックステージツアーと比べればそれはもう当たり前ですが、メトの公演のスケジュールを考えると、
仮に一ヶ月程度のインターバルでも参加者が目にするものは全然違っているはずです。
今回、私が見学した回では、丁度、来シーズンの初期の作品の小道具・大道具の準備が全車輪で進んでいるところみたいで、
Don Gio(ドン・ジョヴァンニ)とマークされた、たくさんの窓や、『アンナ・ボレーナ』のセットに使われると思しき金属で作った装飾パターンなど、
見ているだけで、どんなプロダクションになるのだろう?とわくわくしてしまいました。
今回のバックステージツアーはシーズンが始まる前に計画したもので、12ほどメトから指定された候補日程からこの日を敢えて選んだのは、
丁度、ルパージュの『ワルキューレ』初日の直前ということで、
あわよくば、日曜にセットの動作の最終調整をすることになっていたりして、その様子を見れるのではないか?とか、
ジークムント役のカウフマンを含むキャストがまだリハーサル室でリハーサルをしている!なんてこともあり得るのではないかと、淡い期待を抱いていたわけですが、
カウフマンの姿は残念ながらどこにも見当たりませんでした。
このバック・ステージツアーでは本当に色々楽しい・興味深いお話を伺ったので、本当は独立した記事を書きたいくらいなのですが、
その時間がないと思われますので(シーズン・オフ中に、書ける時間があれば書きたいと思います。)、ここで紹介してしまいますと、
先述しました通り、小道具&大道具はすでに来シーズンの準備に燃えているようですが、衣装は『ワルキューレ』の衣装の最後の微調整と、
来シーズンの『ジークフリート』や『神々の黄昏』の準備などが同時進行しているようで、こちらにブライスが歌うフリッカ役が『ワルキューレ』で着用する衣装がかかっているかと思うと、
こちらには『神々の黄昏』で合唱が着用する衣装が、一人一人の団員の採寸と共に転がっていて、
その側にはジークフリート役のギャリー・レーマンの名前が入った衣装がラックにかかっている、、といった具合です。
メトで作られる衣装の全てには4X3センチほどのタグがくっついているんですが、そこにはプラダも真っ青、まるでブランド名のようにMetropolitan Operaと印刷されており、
そのすぐ下には小学生の体育服を思わせる、名前を書き込むような枠があって、役名とそれを歌う歌手の名前を記入しなければいけないことになっているので、
一目で誰がどの役で着用する衣装なのかがすぐわかるようになっているのです。
各演目毎に、”バイブル”と呼ばれる、主要キャストから脇役、ひいては合唱団員が着用する衣装を含めた全てのデザイン画、採寸データが一つになった、
辞書のようなフォルダーがあって、お針子の人たちはそれを基に作業を進めていくんだそうです。
PCなどで管理する事も出来るだろうにそうはしない、私はメトのこういうとてもマニュアルなところが大、大、大好きです。



さて、カウフマンの姿をリハーサル室に見ることはできませんでしたが、その代わり、『ワルキューレ』の舞台装置は狙い通り、
どどーん!とオーディトリアムのメインの舞台にセッティングされていました。
しかし、動いているわけではなく、ビジュアル効果も何にもない、まさにまっぱ状態のザ・マシーン(プロダクション・チームや裏方の方はあの装置をこう呼ぶ。)は、
単なる大きな金属の塊に過ぎませんでした、、、。
ただ、客席から見ているよりも勾配がきつくて、しかも表面がすごく滑りやすく見えるので、これは歌手陣は大変だろうな、、という風には思いました。
と、そこへ、見るからに”ステージ・ハンド”(大道具の組み立ての担当の人)というごっついガタイのおじさんが通りかかり、すばやく一本釣りする我等がガイドのおじさん!
”大道具の方の立場から見た『ワルキューレ』のセットの説明をお願いします。”
すると、こちらがびっくりする位の正直さで、”6千万ドルの値打ちのある装置じゃないし
(注:ちなみにNYポストのレビューには60ミリオン=6千万ではなく16ミリオン=1600万という表記になっていますが、これは当初の予算の数字で、
結局、その後、装置が重すぎて舞台が支えられないため、補強工事を行うなど、どんどん追加の費用がかかっていて、全額を総合すると、大道具のおじさんが言っている60ミリオンに近いのです。)
こいつは危険ですらある。まだ一度もリハーサルでプロダクション・チームが予定した通りに動いてないからね。
俺にいわせりゃ、以前の(シェンクの)プロダクションの方がいいじゃないか、今から戻そうぜ!って感じだね。”
これまでにすでに似た話を複数の方から聞いていたので、ここまで正直に(しかもバックステージ・ツアーで、、、)大道具の方が語るという、その点についてはちょっとびっくりしたものの、
彼の話している内容には特に驚かなかった私ですが(『ラインの黄金』の初日にもセットが正常に作動しない問題がありましたし、、、)、
旅行でNYにいらしていて、どうやらこの『ワルキューレ』の初日を鑑賞する予定にされていると思しき親子は、もうびっくりした体で、
”一体何が、どこがおかしいんですか!?”とおじさんに詰め寄る。
するとおじさんは、眉一つ動かさず、”複雑すぎるんだよ。全部コンピューター操作で、そこで問題があったら一貫の終わりだからね。
他のセットなら俺らが体でマニュアルで動かすこともできるけど、こんな40トンもあるセット、到底動かせないし。”
うぬ。確かにおっしゃるとおり。

というわけで、日曜以降、ちゃんと操作指示通りに動いたのかしら、マシーンは?それとも、もしや、今日もまた思い通りに動かないのだろうか?
動かないだけならまだしも、予期せぬ動き方をしてキャストに怪我などさせたらとんでもないこと!とどきどきしながらの鑑賞になりました。

今シーズンですっかり珍獣(”ほんとに指揮台に現れた!”)としてのポジションを確立した感のあるレヴァインですが、
そんな中でも特にこの『ワルキューレ』という作品は、演奏時間の長さから今のレヴァインには無理だろう、、、とヘッズの間に囁かれていた演目です。
しかし、ほぼ同時期の演奏となる『トロヴァトーレ』や『ラインの黄金』のBキャストをそれぞれマルコ・アルミリアートとルイージに譲り
(ちなみにルイージ指揮の『ラインの黄金』は非常に高い評価を受けていました。)、
何とか『ヴォツェック』と、この『ワルキューレ』だけは死守しているのは最早執念の域に達してます。
『ワルキューレ』に関しては、一応オフィシャルのカバー指揮者もいるんですが、
レヴァインが体調不良になった場合に備えてルイージも待機させているという風にも言われています。
そんな状況ですから、一層レヴァインの珍獣度はアップし、もう彼が指揮台に現れただけで客席からものすごい拍手と歓声。
しかも、今や移動にはほとんど電動カートを使っており、二週間前のメト・オケとの演奏会でも車輪がついた手押しのカートで舞台に現れたレヴァインが、
この日は杖をつきながらですが、自力で歩いてピット脇から指揮台まで、そこそこのペースで歩いて来たんですから、
まだまだ観客の前で衰えた姿は見せられん!という、その執念たるやすさまじいものがあります。



まだ珍獣でなかった頃のレヴァインのリングは、いや、リングに限らず、ほぼどんな演目でも、と言ってもあながち誤りではないかもしれませんが、
非常にゆっくり演奏されることが多かった。
ほとんど、感動というものは思い入れたっぷりの遅いテンポから生れる、とでも考えているかのように、、。
しかし、非常に興味深いのは、彼の健康が不安定になりだしたここ数年で、その傾向が段々弱まっている点で、
それは、まさに今日の『ワルキューレ』のような演奏に如実に現れていると思います。
私が聴いたことのある彼の振った『ワルキューレ』の中で、今日の演奏は一番きびきびしたものの部類に入ると思います。
私は実は最近の彼のこの変化を非常に好ましいものと思っているんですが、皮肉なのは、彼が思い通りに体を使って指揮することが出来た時にはそういう選択をせず、
そうできなくなった今になって、そういう変化が現れている点です。
というのも、やはり、彼の体の不自由さ、これはまた如実にオケの音に反映されているからで、珍獣前のレヴァインの演奏では絶対にありえなかった
アンサンブルの曖昧さとか、セクションからセクションへのバトン渡しのぎこちなさが時々感じられる点に、それが現れています。
それでも、はっとさせられるようなセクション間のバランスとか、先に書いた私には以前よりずっとしっくり感じられるテンポの設定の仕方など、
良いところも一杯あるだけに、これがもし、以前のように思う存分体を使って振れるレヴァインだったなら、もっともっと良い演奏になったかもしれないのに、、と思うところがあるのです。
また、今の彼のフィジカルな指示に限界があるだけに、珍獣前のレヴァインと多くの演奏の機会を持ち、彼の欲するものを良く理解している、
もしくはそういう奏者が多く残っているセクションと、
若手や比較的最近オケに加わったメンバーが多い、もしくは首席をつとめているセクションとの間で、演奏の出来に若干差がある、ということも言えるかもしれません。
もう一つ、今回のレヴァインの指揮で興味深く感じた点は、以前の彼は大音響で押して押して押しまくる!のスタイルだったのが、
キャストのせいもあるかもしれませんが、少し音のつくりをコンパクトにしている点で、カウフマン、ターフェルなど、ワーグナーを歌うには声がこじんまり気味である歌手たちへの配慮を感じます。
後にもふれますが、以前までのプロダクションでオケの音を大全開に出来たのはモリスのような歌手がいたからだなあ、、とつくづく思います。
ただ、オケの音がコンパクトになったことそのものは決して悪いことではなく、そのお陰で新鮮な響きがオケに生れましたし、その分、以前よりは細かいニュアンスを感じるようになった部分もあります。



第一幕の序奏の部分に限っては、なかなかマシーンが面白い活躍をしているという評判を聞いておりましたので、楽しみにしていましたが、
確かにここはビジュアル(ビデオ)の技術が駆使され、嵐の空の状況が映し出されたマシーンのプランク一本一本がやがて木にモーフィングして行き、
そしてフンディングの住居を形作るようなポジショニングに移行していく流れは、良く考えられているな、とは思います。
ただ、『ラインの黄金』、それから『ワルキューレ』と続けて鑑賞して、このシーンだけでなく全体について言えることですが、
このプロダクションではアイディア=頭の方が先行していて、ドラマ=心の方がついて行っていないような気がする、これは実に残念なことです。
ボンディの『トスカ』などと違って、ルパージュのリングからは一応まじめに作品に向き合って自分なりのアイディアを盛り込もうとする試みは感じられるので、
鑑賞していて不快な感じはしないのですが、シェンクのプロダクションのような圧倒的なエモーションを感じさせられることもまたなく、
ただひたすら物語が平板に綴られていくのを眺めているような印象を持ちます。
この点について、もっとも顕著に現れてしまったのが、最後のヴォータンとブリュンヒルデとの別れのシーンだと思うのですが、その点については後述したいと思います。

この演目で私が最も楽しみにしているのはいうまでもなくカウフマンのジークムントですが、私が彼のこの役での歌唱で評価したいのは、
これまで私たちがメトで慣れてきたタイプのジークムントに彼が合わせるのではなく、役の方を彼のスタイルに近づけることに挑戦し、それに成功してしまっている点です。
もし、彼がそこに成功していなかったら、多くの観客に”彼の声はメトでワーグナーを歌うのは無理。”と葬り去られ、それを反映した観客の反応になっていたはずですが、
そうはならず、観客の多くはカウフマンのジークムントに魅了されたわけですから。
彼の声は総合的なレベルでは声量がないわけでは決してないのですが、やはり、この作品のオーケストレーション、メトのオペラハウスのサイズと(オケピを含めた)構造、
例年に比べればかなりコンパクトになっているとはいえ、それでもやはりパワーのあるメト・オケの演奏、それらの条件の上では、
彼の声はこの役には相当リーンだと言ってよく、メトで同役を歌えるほとんどぎりぎりあたりのところにあります。
ただ、彼の頭の良いところは、そしてそれが私が彼をアーティストとして大きく評価する点であるのですが、
声量をもってこの役をこなして来た先輩達と張り合おうなどという、やるだけ無駄&馬鹿な考えを持たないところです。
彼は一幕を非常に心理的に緊密な場面としてとらえ(そして、実際にその通りであると私は思うのですが)、
これまでこの役を歌ってきた歌手達と比べると、フンディングの住居がずっと小さくなったような感じがするような緊密感でもってこの幕を歌ってしまいます。
なので、”Walse! Walse!"も、これまで外にその存在を求めて歌いかけるような、オケを越えて歌おうとする歌手が多かったのに対し、
彼の場合はオケと一体化したサウンドで、自分の中にいるその人に向かって歌っているような印象を受けます。
ようやく”冬の嵐は過ぎ去り”で少し解放される感じはありますが、やはり、ジークリンデに焦点をがっちり合わせて、絶対にオーバーサイズで歌わないのが彼のジークムントの特徴です。
なので、従来のようなタイプのジークムントの歌唱を求めている人には、物足りない、、、ということになるんでしょうが、
私はこういう違ったタイプのジークムントは説得力を持って歌い演じられている限りは大歓迎ですし、
第一回目のインターミッション中に化粧室の列で前後になった別の観客の方も、
”『ラインの黄金』を鑑賞して以来、全然このプロダクションでの『ワルキューレ』には期待していなかったのだけれど、一幕は思いの外良かったわ!”と仰っていて、
やはり、その理由のひとつに心理的な緊密感が場面に備わっていたことをあげていらっしゃいました。



ジークリンデ役を歌ったエヴァ・マリア・ヴェストブルックは、生声を拝聴するのは初めてで、YouTubeなんかではとても良いものを持っている歌手に聴き受けましたので、
今回のメト・デビューを非常に楽しみにしていたんですが、数分聴いて、”え?こんな声なの?”とがっくり来ました。音のテクスチャーは荒いし、揺れは激しいし、、、
しかし、第二幕の開始前にゲルブ支配人が登場して、彼女が不調であることの説明があり、”引き続き歌いますがその点ご理解を”ということで、
なるほど、風邪か何かなのか、、、それならしょうがないよね、、、と思っていましたら、
ニ幕目はまるで生まれ変わったかのように声が良く出るようになって、”なんだ、これは?まるで別人のようじゃないか!”とびっくり仰天しました。
アナウンスされるだけで心理的に解放されて、残りの幕を無事に歌いきる、という話は時々聞きますが、ここまで別人のように歌声や歌い方まで変わってしまう例は私は聴いたことがなく、
どれだけ解放されとんじゃ!と突っ込みたくなりましたが、実はどうやら本当に別人だったようです。
ゲルブ支配人のアナウンスの後、幕が実際に始まってしまってから、ヴェストブルック本人がニ幕も無理そうだと判断したそうで、
結局ニ幕からジークリンデ役のカバーのマーガレット・ジェイン・レイ(↓)が代役を務めていたそうです。



ウェブやラジオでこの公演を聴いていた方はきちんとそのあたりの説明があったようですが、
我々オペラハウスの観客は、その後、三幕のスタートの前に、”歌えなくなったヴェストブルックの代わりにレイが歌います。”という言葉しかなかったので、
余程舞台に近い席に座っているのでもない限り、多くの人が、レイは三幕から歌い始めたもの、と勘違いしていたはずです。
”おかしいな、、、ニ幕は調子良さそうだったのに、、、。”と首をひねりながら、、、。
ニ幕の突然の代役登板のニュースは、レイが実際に舞台に上がる前までに指揮台にいるレヴァインに伝えることが出来なかったようで、
ニ幕で突然舞台に現れた顔の違うジークリンデにレヴァインが目玉が飛び出るほどびっくりしながら、近くにいる弦楽器の奏者に、
”あれは別のソプラノだよな?”と確認の耳打ちをしていたそうです。
レヴァインよ、驚いたのはあなただけではありませんから大丈夫。私達オーディエンスは終演後まで騙されてましたから、、、。
レイは今までにもワーグナーのソプラノ・ロールでデボラ・ヴォイトのカバーをつとめ、実際に代役を務めたこともある人で、
スター・オーラには欠けているかもしれませんが、安定した力を持った人ですので、三幕の前にアナウンスがあった時も、ああ、彼女なら大丈夫だわ、、と思いました。
歌唱にもう少しニュアンスがあればいいな、と思いますが、声は伸びやかでサイズもあるので、彼女が登場してからの部分については危うげに感じたところは全くなかったです。
このハイ・プロフィールの舞台で、観客が騙されるくらいきちんと代役を務め上げたのですから、頼りになるカバーです。



少し前後して、第二幕の冒頭に話を戻すと、ここでとうとう恐れていた『事件』が発生してしまいます。
第二幕の一場とニ場は、マシーンのプランクがせりあがって、高台になったところをヴォータンが歩き回り、
そこに少し遅れて舞台脇から登場するブリュンヒルデは、脇が高台に至る階段のように組んであるプランクの上を駆けて行って
(なのでプランクが両端が少し下がった山のような形に組まれている。期間が限定されると思いますが、メトのサイトでこの部分の抜粋の映像が見れます。)、
ヴォータンと合流し、ホーヨートーホーを披露するというブリュンヒルデ役にとっては最初の大事な場面なんですが、
ブリュンヒルデの衣装の裾が長くてひらひらしていて少し動きにくいせいもあるのか、ヴォイトがプランクに足を乗せ損ね、
そのまま滑り台のようにこちらに向かってプランクの上を滑り落ち、手前のスペース(そこにも板張りのスペースがあって本当に良かった、、、
さもなければあのままオケピに真っ逆さま!ですよ、本当に、、、。)に着地しました。
一瞬、のぼり直そうか躊躇していたようなんですが、”こんなセット、登れるわけないじゃないの!お手上げよ!”という感じで両手を上げると、
そのままその手前のスペースで歌い始めましたが、良い判断だったと思います。
下手に登り始めていたら、あの危険な装置にのぼりつつ、態勢もきちんと保てないまま、ホーヨートーホーを歌わねばならないという、最高に難易度の高い状況に陥っていたところです。
でも、これで緊張が一気に吹き飛んだ部分もあるのか、ヴォイトのブリュンヒルデは開幕前まで、彼女にこの役はもう歌えないんじゃないか?とか、
否定的な意見がヘッズの間ですごく多かったのですが、全然そんなことはなく、私が期待していた以上の出来で、最近の彼女の歌では、
昨シーズンの『エレクトラ』のクリソテミス役に次いで良い出来です。
スタミナの配分も非常に上手く行っていたと思いますし、最近ではトップが痩せて聴こえたりとか、
レパートリーによっては耳障りな音の揺れ(人はこれをビブラートと呼ぶのでしょうが、、。)も感じられたりする彼女ですが、
今回はそういった彼女の最近の歌唱に時に見られる大きな欠点がほとんど感じられず、この役を本当に良く準備して来たんだな、というのが伺えます。
それに、イゾルデみたいな役よりも、このブリュンヒルデ役の方が、彼女の元気一杯で気さくなもともとのキャラクターにも良く合っているようですし、
私は彼女のブリュンヒルデは、今のところ、悪くないと思います。



『ラインの黄金』で薄々気づいていたことですが、私にとって、この作品で最大の問題はやはりヴォータン役のブリン・ターフェルでした。
『ワルキューレ』については、先々シーズン、モリスのヴォータンに大泣きさせられた公演があり、それがデフォルトになってますから、
『ラインの黄金』よりも一層ハードルが高くなっているところがありますが、とにかく、ターフェルの声は、この役に必要な厚みに欠けているんです。
モリスは面白い人で、録音で聴くと、声が全盛期の頃の公演でもなぜか音程が定まっていないような感じがするというか、歌がとても下手くそに聴こえるものが結構あって、
こんな歌手のヴォータンのどこがいいんだ?と思われている方もいらっしゃるかもしれませんが、なぜか、オペラハウスで彼のオンの日を聴くと、
録音ではあれほど定まっていないように聴こえる音程が、きちんと焦点を結ぶのです。
そのモリスの魔法にもしかすると関係しているのかもしれませんが、今回、ターフェルのヴォータンを聴いて強く思ったのは、
モリスは声のスケールがでかいというよりも、音が肉厚なんだな、ということです。
もちろん声も小さくはないのですが、音に厚みがあるので、オーケストレーションが厚くなっても、きちんと彼のパートが聴こえてくる。
一方、ターフェルは優れた音楽性を持つ歌手ではあるのですが、残念ながらそれだけでヴォータン役を乗り切るには無理があったように思います。
先にも書いたように、私は新しいヴォータン像も歓迎しますが、それは、きちんとそれがワークしている、という条件付きであって、
例えば、ラストですが、ブリュンヒルデのパートの最後で、オケの演奏が休止し、彼女の最後の言葉に合わせて、
レヴァインが思いっきり上げた両手をこれでもかと振り下ろす、その瞬間に怒涛のようなオケの音がなだれこんで来て、観客の胸いっぱいに感慨が広がる、、
なので、金管からバトンを受けた弦に続いて最高に気持ちが盛り上がっている時に、ターフェルの薄っぺらい(表現が薄っぺらいのではなく、音そのものに厚みがない、、。)
Leb wohlが入ってくると、私はちょっとその場でこけてしまうわけです。まあ、はっきり言うと、ワークしていないんです。
そこが、同じ演じている役に比してこじんまり声という点では同じでも、結果をねじふせたカウフマンと、そうはなっていないターフェルの二人なのです。

ただ、カウフマンはニ幕のラスト近く、ジークリンデとのシーンで、一フレーズ早く飛び出して最初の子音を発してしまうというミスがありました。
すぐに気づいてそこで押しとどめて、微妙にレヴァインに”やっちまいました、、、すみません、、。”という照れ笑いの表情を浮かべつつ続きを歌っていましたが、
彼がこういうミスをするのって、私はあんまり見た・聴いたことがないので、へー、こういうこともあるんだな、と面白く見ました。
ま、いいんですよ。だってここ、オケが同じフレーズを繰り返して、二度目から言葉が入って来るので、紛らわしいですよね。
ワーグナーのしつこい性格のせいだな。繰り返してないで、とっとと言葉を入れろよ!って感じですよね。
ううん、ヨナス、あなたのせいじゃない!、、、と言って差し上げたいのはやまやまですが、まあ、ミスはいけません。
でも、こういうミスがあると、これからは同じところでつまずく心配はなさそうです。

後、ジークムントがフンディングの剣に倒れる場面は、自らの体を刺しに行くような雰囲気で若干不自然に感じたのですが、これはルパージュの指示なのか、
まだカウフマンの方でこの場面をうまく咀嚼できていないのか、、演技力のある彼が珍しくぎこちなく見える場面で、これから最終公演日(HDの収録日でもある)までにどのように変化していくか、
観察するのが楽しみです。



書いているうちにあれこれ思い出して来て収集がつかなくなりましたが、先ほど、Leb wohlについてターフェルの声楽的な側面から意見を書きましたが、
このルパージュのプロダクションの最大の問題は、先にも書いたようにエモーショナルなものが全く観客に伝わってこない点で、
ラストでは、ブリュンヒルデの神性を奪ったヴォータンが彼女を抱えて舞台袖に消えて行き(それもなぜか、ヴォイトの両脇の下に棒を差して、、、。
狩猟で撃ち落した熊を運んでいるんじゃあるまいし、、、って感じです。)
真ん中にブリュンヒルデのボディ・ダブルが逆さづりになった状態でプランク全部が垂直に立ち上がって上のような状態になるんですが、
(マシーンが動く度にバキバキバキッという音がして、あの金属の塊が舞台やオケピにたった今転がり落ちてくるのでは、、?と思わされ、かなり怖く、
そういう意味ではエモーショナルですが、、。)
その途中でヴォータンが槍で岩にふれるとそこが赤くなっていくので、全部のプランクが立ち上がった頃にはブリュンヒルデの周りは炎に包まれていて、
我々観客は岩山の上から彼女を俯瞰しているような状態になります。
これもアイディアは頑張っているんですけど、以前のシェンクの演出の火と共に巻き上がる煙にこちらまで咳き込みそうな気がしたあのリアルな感覚と比べると、
こう、、、なんというか、、テレビのモニターでそれを見ているような、生々しさの不足を感じます。
まあ、一言で言うと、滅菌加工されて、格好が良すぎて、このリングという作品の、神の世界を借りて語られているに過ぎない、我々人間自身の話としての側面、
つまり私達の格好悪さ、情けなさ、それゆえの素晴らしさという要素が全部吹っ飛んでしまっているせいで、
本来この作品が持っている多面性が失われ、結果としてすごく単調なプロダクションになってしまっています。
残りの『ジークフリート』と『神々の黄昏』、不安です。
それから、バックステージツアーの時の大道具の方の意見はその通りで、私は今日出演者の表情から何度も不安げな様子、思うように舞台上を動き回れないフラストレーションを感じました。
キャストが安心して歌えようなセットを作ってなんになるというのでしょう?
そんな状態で観客の心を動かすようなドラマを生み出してくれと歌手に要求する方がtoo muchです。
ほんと、こんなキャストも観客も不安に陥れる装置を6千万ドルもかけて作るなんて、正気の沙汰じゃありません。
シェンクのプロダクションを消して、どれほどのものが出てくるのかと思えばこれ、、、、泣けて来ます。本当に。

あ、そうそう。馬鹿ばかし過ぎて書くのを忘れそうになりましたが、ワルキューレの騎行(三幕の冒頭)では、あのプランク一つ一つが馬に見立てられ、
ぎっこんばったんとプランクが動くなか、プランクの先にひっかけた手綱を操りながらワルキューレが一人一人プランクを滑り落ちてくるんです、、、。
ロデオに似てるからかな、、、一列にならんだワルキューレがプランク馬を操り始めると観客の間からすごい歓声が出ましたが、
私の口さがない友人は、”あんな男根にまたがったようなワルキューレの騎行を見て一体何が面白いんだか、、、。”とあきれ返ってました。
つい先ほど、シェンクの演出でのこの場面をDVDで見ていましたが、さすがだな、と思うのは、シェンクはワルキューレを一度に舞台に出さない点です。
音楽を聴けば、あの場面はワルキューレがぶんぶん羽音(正確には馬の羽音ですが)を言わせながら一人、もしくは二人ずつ位の単位で群がってきているのがよくわかります。
まさにシェンクのプロダクションでは、そこが爽快だったわけです。最初は数人だったのが、だんだん人数を増して行く、、
ブリュンヒルデが登場するまでのそのプロセスが圧巻でした。
ルパージュの演出にはそういう”経過”というものがなくて、いきなり8人全員のワルキューレを並べて、
騎行の音楽の間中、彼らが男根にのっているか、滑り降りているかを眺める、それしか観客にはなく、本当に退屈です。

最後にここまででカバーしきれなかった歌手陣について。
ステファニー・ブライスのフリッカ。素晴らしいです。あの短い登場場面に、あれだけのフリッカの怒り、フラストレーション、失望、
プライドが高いだけにモロ出しに出来ないその裏にある悲しみ、悔しさ、を十全に表現しきる彼女はさすがです。
彼女はここ数年で声にパワーが増したような感じがしますが、それがよく生きていると思います。
バックステージ・ツアーに参加した時に、小道具のフロアに足がひづめになったワイルドな、すごく大きな椅子があって、ドン・ジョヴァンニか誰かが座る椅子かしら?と思っていたら、
これはフリッカの椅子でした。(6枚目の写真。)確かにブライスが座るなら、大きくないといけない。納得。

フンディングを歌ったハンス・ペーター・ケーニッヒは少し演技が単調で、凄みにも欠けますが、声は深くて安定感のある歌唱だったと思います。

Jonas Kaufmann (Siegmund)
Eva-Maria Westbroek (Act I) / Margaret Jane Wray (Act II & III) (Sieglinde)
Hans-Peter König (Hunding)
Bryn Terfel (Wotan)
Stephanie Blythe (Fricka)
Deborah Voigt (Brunnhilde)
Kelly Cae Hogan (Gerhilde)
Molly Fillmore (Helmwige)
Marjorie Elinor Dix (Waltraute)
Mary Phillips (Schwertleite)
Wendy Bryn Harmer (Ortlinde)
Eve Gigliotti (Siegrune)
Mary Ann MacCormick (Grimgerde)
Lindsay Ammann (Rossweisse)
Conductor: James Levine
Production: Robert Lepage
Associate Director: Neilson Vignola
Set and projection design: Carl Fillion
Costume design: François St-Aubin
Lighting design: Etienne Boucher
Video image artist: Boris Firquet
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*** ワーグナー ワルキューレ Wagner Die Walküre Die Walkure ***