Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

THE SINGERS’STUDIO: ELINA GARANCA

2012-11-28 | メト レクチャー・シリーズ
久しぶりにシンガーズ・スタジオのレポートです。
シンガーズ・スタジオには結構まめに足を運んでいて、これまでに興味深い内容のものがたくさんあったんですけれども、
ブログ休止期間中であったり、メトの公演の感想等を優先しているうちにすっかりご無沙汰モードになってしまいました。

今日のゲストは現在メトの『皇帝ティートの慈悲』にセスト役で出演中のエリーナ・ガランチャ。
インタビュアーはこちらも当ブログではお久しぶりの鉄仮面編集長ことF・ポール・ドリスコル氏です。
(ドリスコル氏はかのOpera Newsの編集長で、どんな歌手からどんな答えが返ってきても、
まるで仮面のように表情を変えずに受け答えすることから、私が勝手に、しかし愛情をこめて鉄仮面と呼ばせて頂いている人物です。)

いつも通り、筆記でとったメモをもとに、要点を会話形式で再構築したものですので、実際の会話の完全な和訳ではない点はご了承ください。
ガランチャはEG、鉄仮面をFPDとします。

(最初にアラーニャと共演した2009/10年シーズンのメトの『カルメン』から、”ハバネラ”の映像が流れる。)

FPD: この時の『カルメン』への出演はかなり間際に決まったものでしたね。
EG: はい。私はそのシーズン、『ホフマン物語』に出演するはずだったんですが、『カルメン』に出演する予定だった歌手
(ゲオルギューのこと。経緯はこちら。)が降板するとか何とかそんなことがあって、
支配人から『カルメン』に出演してもらえないか?という打診がありました。
私の答えは断然NO!!で、2007年にリガで歌ったりしたことはありましたが、まだメトで歌う準備は出来ていないと思っていたんです。
周囲の人間はアメリカはヨーロッパから離れてるし、こっそり歌ってくりゃいい、なんて言ってましたけど、
”アメリカで歌うってことは世界相手に歌うのと同じなのよ。それのどこがこっそりなの!?”って(笑)。
メトからはとりあえず演出家のリチャード・エアと会って話をしてもらうだけでもいいから、と言われて、
”いいえ、絶対会いません!”ってお伝えしたんですけれど、
結局メトの熱意に負けて、本当に会って話しするだけ、、ということで、リチャードと会ったらそれが2時間半のミーティングになってしまったの。
彼のコンセプトを聞いているうちに、今まで自分が考えていたカルメンとはまた違うカルメン像ですごくチャレンジングだと思ったし、
相手役がROHでも共演したロベルト(・アラーニャ)だというのも安心できる要因で、、色んな要素が全部はまって、それでお受けすることにしました。
FPD: 当初気がのらなかった理由はなんですか?あまりに急過ぎて準備の時間が無いと思ったのが理由ですか?
EG: それもあります。後は、カルメン役に対してオーディエンスが持つ一般的なイメージ、黒目・黒髪、、といったものに対して、
私は青い目のブロンドで、そのうえに背も高めだから、ホセ役もテノールが小さい人だと、
「何?カルメンってテノールのお母さん?」って感じになっちゃうんじゃないか、とか、、そういう面での心配もありました。
FPD: あなたはラトヴィアの出身ですよね。いつ自分はメゾ・ソプラノだ、と確信したのでしょう?
EG: 確信したことはなかったかも、、(笑)。
私の母は歌手で歌を教えてもいますが、私の声は高音から低音まで比較的幅広く出るので見極めがなかなか大変でした。
一度など、知り合いから”イタリアに声帯からメゾかソプラノかを判断できるお医者さまがいる。”と聞いて実際に診断してもらったこともあります(笑)
メゾとソプラノを分けるのは単にどれだけ高い声がでるか、低い声が出るか、というのはあまり問題ではなくて、
声の持つカラーと一般的なレジスター(声域)がどこにあるか(=主にどのあたりの音域に声が心地よく座るか)それが決め手になります。
時たま高い音を出すことに何の問題もないとしても、それだけではその人がソプラノである、ということにはならないのです。
PFD: 『アンナ・ボレーナ』のシーモアなど、ベル・カントの役も歌っていますね?
EG: まだ学生の頃、『ノルマ』の"清き女神 Casta Diva”のあまりの旋律の美しさに窓をあけたまま、何度も何度もレコードに合わせて歌っていたら、
”うるさーい!!!”と近所の人に叱られたこともあります。
私はリリック・メゾですので、ロミオ(『カプレーティとモンテッキ』)やアダルジーザ(『ノルマ』)は歌っていて心地が良いのですが、
決してコロラトゥーラ・メゾではないので、アンジェリーナ(『チェネレントラ』)のような役は特別な努力が必要です。
FPD: あなたはメトでアンジェリーナ役を封印しましたし、そういえばセスト役も今回のメトでの公演が最後になるだろうとおっしゃってますね。
メトはあなたの持ち役の墓場かな?
EG: (笑)ほんとに。で、アンジェリーナのような役で必要とされるビブラートはすごく早いものでなければならないのですが、
私の持っているビブラートはそれより若干遅めな感じで、トリルなんかも歌っていてちょっと疲れてしまったりします。
FPD: あなたの歌のイントネーション、それからチューニングは素晴らしいものがあると思うのですが、
これは合唱指揮をされていたお父様の影響も大きいのでしょうか?
EG: ええ、それはあると思います。
FPD: さて、『皇帝ティートの慈悲』ですが、リハーサルに入られたのはいつですか?
EG: 10/26(注:ちなみにティートの初日は11/16でした)でしたが、その後、サンディーなどがあって少しプロセスが遅れましたね。
マエストロ(ハリー・ビケット)とはテンポの調整を十分に行いました。というのは表現のために必要なテンポがある、と私は思うので。
FPD: メトで歌うのはいかがですか?
EG: 大好き!最高です。もうちょっと(自分の住んでいる)ヨーロッパから近ければもっと頻繁に歌いたいくらい。
劇場が巨大ですけど、それに向かって思い切り歌うのはかえってリラックスにつながります。
FPD: 今後、どのような役を歌って行きたいとお考えですか?
EG: アズチェーナとかウルリカを歌うことはなさそうですが(笑)、
子供が生まれてから(注:この時点で1歳2ヶ月だそうです。)声に変化がありましたし、2018/19年あたりにはデリラ役(『サムソンとデリラ』)に挑戦する予定です。
でも、70とまではいかなくとも55歳位までは歌い続けて行きたいので、急がずゆっくりとレパートリーを広げていけばいいかな、と思っています。
FPD: 『トロイ人』のディドーンも予定されていますね?(注:これはベルリン・ドイツ・オペラで2013年の話のようです)
EG: はい、マエストロ・ラニクルの指揮で。この役は声楽的にも音域が広く大変難しい役で、5幕はもうバナナ!(きちがい沙汰を表す英語)って感じですが、
ベルリオーズの声楽作品には他にも素晴らしいものがあるので、それらの作品をより広く紹介する手助けも出来ればいいなと思います。
FPD: リガで勉強されていた頃、演技はどのように身につけられましたか?学校では演技のクラスは充実しているのでしょうか?
というのも、アメリカでは、若いオペラ歌手に対しての演技の教育が、音楽面での教育面に比べてかなり欠けている、という指摘がしばしば聞かれます。
EG: リガの音楽院にも演技のクラスはありましたが、質はあまり良くないですね。あら、こんなこと言っちゃったらまずかったかしら(笑)
私の場合は母がオペラ歌手でしたから、リハーサルや舞台を見たり、そういった経験を通じて演技のこつをつかんでいきました。
私の通っていた学校から道を挟んだところに母のいる劇場があって、ほとんどの時間をどちらかで過ごしていましたね、当時は。
小さい頃、友人が演技の学校に通っていて、普段はジーンズにトレーナーみたいな格好ばかりのその友人が、
舞台の上で王冠と美しい衣装を身につけているのを見て、私もお芝居の勉強をしてみたい!と思ったんです。
それで演劇学校の試験を受けたのですが、見事に落ちまして、
歌だけなら何とかなるかも、、と歌の世界に入ったわけですが、大変な道を選んでしまいました(笑)
FPD: あなたのお母様はオペラ歌手、お父様は合唱団の指揮者、という話は先ほど出ましたが、
このご両親がオペラの世界に関わっているという環境は、あなたにとってプラスでしたか、マイナスでしたか?
EG: もちろん自分の歌を研鑽していくという意味ではプラスだったと思います。
しかし、私の母はリガではちょっとした有名人でしたので、私が歌を勉強し出した頃は、
”なかなか良い声をしているけれど、全く音楽性に欠ける。””母親とは違うな。”というようなことをいつも言われていました。
まだ勉強途中の若い歌手にとって、このような自信をくじく言葉を聞くのは大変辛いものです。
私はオーディションを受けて、ドイツの小さな劇場でデビューを果たしたのですが、
このオーディションを受けに行くときに母親から”準備が出来ていない。”と大反対されました。
けれども、私の方も”実際に舞台に立ってみなくて、どうしてそれがわかるの。”と大喧嘩して半分家を飛び出すような感じでドイツに向かったんです。
ドイツ語も話せなくて、ビザなどの書類を申請する時も、ラトヴィア語/ドイツ語の辞書と首っ引きでなんとか記入し終えた、という状態でした。
でも受かった。そして、私のキャリアはそこから始まったのです。
ただ、今の私がその当時の私を目の前にしたなら、母と全く同じことを言うでしょうね。
ロシアの影響が色濃い国からドイツに行くのは大変でしたし、私の場合は本当に色んなことが幸運な方向に進みましたが、
そうならなくても、何の不思議もありませんでしたから。
FPD:(ここで2005年のウィーン国立歌劇場『ウェルテル』の公演からの映像が流れる。)
これはいわゆるトラディショナルな18世紀的な舞台とは全く違う演出(注:セルバン演出)ですね。
シャーロット役のアップタイトさがどことなくヒッチコック的っぽく、面白く見ました。
さて、ここからはオンラインで寄せられたものと皆さんの質問のコーナーに入りたいと思います。
”好きな役は?”
EG: シャーロット役は好きな役の一つですが、これは年齢によっても変っていくと思いますね。
さきほどの映像にしても2005年ということは私も今より7歳若いわけですし、、(笑)
HDはプレッシャーが大きいし、歳をとるほど大変さが身にしみます。
顔の細かいパーツが良く見えるのもそうですし、歩く姿勢とか、、、
時々HDの映像を後で見て自分の顔に”わっ!!”と驚くこともあります。
もちろんHDに関してはリハーサルが多ければ多いほどリラックスしてのぞめます。
FPD: HDデビューは、、、
EG: メトの『チェネレントラ』です。(注:前述の映像はHDではなく、DVD化用の映像だったのだと思われる。)
あの時を境にして突然世界中にファンが増えた感じがしますね。メキシコのファンからメッセージをもらうようになったり、、。
さっきの『ウェルテル』の時は”小屋”(注:あらあら、ガランチャったらウィーン歌劇場のことをそんな風に、、)って感じでしたけど、
メトは劇場自体も巨大ですし、、
FPD: 現在メトのHDは55カ国に配信されているようですよ。
EG: さらにプレッシャーをかけてくれてほんとありがとう(笑)
(注:このシンガーズ・スタジオから約5日後に『皇帝ティートの慈悲』のHDが予定されているのでした。)
FPD: "歌うのが難しい言語がもしあれば教えてください。”
EG: ラトヴィアのオペラというのがあったとしたら、多分、それでしょうね。ラトヴィアの言葉は喉の奥深くを使う音が多いので、歌いにくいです。
FPD: ”役の準備はどのように行いますか?”
EG: 2年半~3年位前からスコアを見始め、リブレットを読み込み、関連する本に目を通したり、DVD等を鑑賞したりします。
ただ、私はあまりがっちりと役を作りこむことはせず、必ず演出家のために少し余地を残しておくようにします。
オペラというのはみんなで協力して作り上げていくもので、自分にとっての真実が他の人の真実とは限りませんから。
ですから、自分の解釈と違う解釈も歓迎しますが、その代わり、そこに”それがなぜか?”というきちんとした裏付けがあることが条件です。
あと、役を固めすぎると、一つの演出から別の演出に移った時に身動きがとれなくなるような感じがして、
それもあまりがっちりと固めない理由の一つですね。
FPD: ”あなたが演じるズボン役の中でボーイフレンドとして一番理想的なのは誰ですか?”
EG: これはまた随分パーソナルな質問ね(笑)私がどの女性役に自分を置いて考えるかによっても違うんじゃないかしら(笑)
若い女の子だったらそう思わないかもしれないけど、年増な女性ならオクタヴィアンがいいでしょ?違う?(笑)
FPD: そういえばあなたのご主人も指揮者(注:カレル・マルク・チチョン)でいらっしゃいますよね?
EG: ええ、私の朝の様子で彼にはその日の夜の公演の内容がどんな風になるか大体ばれちゃう(笑)。
ただ、彼は今は段々オペラの指揮を減らして、演奏会などを増やすようにしています。
というのも、オペラは一つのランで6週間から8週間同じ場所に拘束されるので、
彼と私の両方が別々のオペラに関わると、一緒に過ごせる時間が本当に少なくなってしまうものですから、、。
FPD: カーネギー・ホールでのリサイタル(2013年4月6日)も予定されていますね。
EG:リサイタルで歌う時はオペラの新演出のために準備するのと同じ位のエネルギーを消費します。
母の仕事のせいもあり、レパートリーはたくさんあるので、それは問題ではないのですが、色々テーマを考えてセットリストを作るので、、。
今度のリサイタルはザルツブルクと同じで、私の大好きなシューマンの作品、それから少しコンテンポラリーな彩りを添えるためにベルク、
そして、R.シュトラウスの歌曲、という構成になります。シュトラウスの作品は私にとっては歌いやすいですね。
FPD: テーマはどのように選ぶのですか?
EG: その時にいる状況、その時に最も大切に感じる事柄、自然、対人関係、、色々ですね。
私はオペラの公演の隙間にリサイタルをつめこむようなやり方はあまり好きでないので、
オペラの公演とはまた別に、リサイタルのためのまとまった時間を取るようにしています。
FPD:”お子さんにはどのような子守唄を歌っていますか?”
EG: 静かになるものなら何でも(笑)。ただ、うちの子は言葉があるものよりも交響曲の方が好きみたいなので、
私が歌う時は言葉でなく、ハミングで歌うようにしています。
FPD: お子さんに音楽に関わる職業についてほしいですか?
EG: 音楽と関わりのあるものに興味をしめしてくれたらいいな、とは思います。
誰もうちの子は素晴らしい!と勘違いしているもので、私もそれにもれず言うと(笑)、
うちの子供はリズム感が良くて、ラテン系の音楽なんかをかけると器用にそれに合わせて踊ったりしているのでダンスとか向いているかな、と思っています。
オペラ歌手?それはすすめません。
特に今のオペラ界の状況では。たった15~20年前とくらべてもオペラの世界は様変わりしました。
このままで行ったらあの子が大きくなる頃には、オペラ歌手にとってはとても過酷な状況になっていると思います。
レディ・ガガみたいな感じの歌手になりたいならいいかもしれませんけど(笑)
FPD: 今オペラの世界の変化について言及がありましたが、もうちょっと詳しく説明していただけますか?どこがどう変ったと思われますか?
EG: 以前はもっと時間がありました。こちらが成長し、進化していける時間が。
だけど、今ではコンクールで一位をとれなかったらもうだめだ、とか、
25歳になる頃までに『椿姫』で舞台に立てなかったらアウト!とか、とにかく性急に判断し過ぎです。
そして、このように一度見限られた歌手には二度とチャンスが回ってこない。
それに残った歌手は歌手で劇場に次々とあれを歌え、これを歌え、と要求されるのです。
FPD: ”今でも舞台に立つ時には緊張しますか?それに対処するにはどのようなことをしていますか?”
EG: (最初の質問に、そんなのなくなると思う?という様子でくるりと目玉をまわす。)もちろん。
以前、プラシド(・ドミンゴ)と共演した時にすごく緊張していたら、彼にこう言われたの。
”ハニー、そうやって考えれば考えるほど、緊張がひどくなって行くんだよ。”って。
舞台に立つ身である以上、緊張から完全に解放されることはありません。
だから、その恐怖とどう向き合っていくか、その方法を考えることの方が大事だと思います。
でもその緊張が完全になくなってしまったら、それはそれでエモーションレスで退屈な歌しか歌えなくなってしまうのではないかしら?
FPD: ”ズボン役を演じるために特別なことはしますか?”
EG: とにかく人を観察することかしら。私はとにかく人のくせ、仕草を観察するのが大好きなんです。
例えばめがね一つをあげる仕草にしても、こういう風に(とひとさし指でブリッジを押す仕草)する人とか、
こういう風(フレームを横から手で摑んであげる仕草)にする人、
それから座るときも、こういう風に(と立ち上がって、どさっ!と音を立てて座る)座る男性や、
こういう風に(とすっとエレガントに座る)座る人、色々ですよね。
以前ウィーンで唇の左から右に舌をつーっと動かすのが癖の人と会ったことがあって、面白くて目が離せなかったということもありました。
歌手が舞台に一歩出たその瞬間、どのような様子で舞台に出て行くかで、オーディエンスのその役への印象が決まってしまいます。
だから、口を開いて歌う前から、あらゆる機会を用いて役の性格を表現しなければならないのです。
FPD: 私からの質問ですが、『皇帝ティートの慈悲』はアンニオ役もセスト役もメゾですよね。混乱しませんか?
EG: いいえ。この二人はかなり違いますから。レポレッロとドン・ジョヴァンニの方がずっと近いと思いますよ。
FPD: これからのキャリアでどんなことを成し遂げたいですか?
EG: 以前に比べればキャリアが開けてレパートリーの選択など、自由度があがったのは良いことだと思うのですが、
自由があるからこそ、”じゃ、自分は何がしたいの?どういう風な道に向かって行きたいの?”という難しい問いに向き合っていかなければなりません。
クリスタ・ルートヴィヒはメゾでありながらソプラノの音域まで統一した音色を持っていて、
私と似通った部分もあるため、目標にもしている歌手なのですが、
その彼女とお話する機会があった時、現役だった頃はクライバーやカラヤンといった指揮者が自分のところにやってきて、
この役は君にあっていると思うから歌ってみなさい、と言って、実際そのための指導も惜しまなかった、と語っていました。
その話を聞いてすごくうらやましいな、と思いましたね。
自分からこのレパートリー、この役を歌いたい、というのもいいですが、
”君はこの役をやるといいと思うよ。やってごらんなさい。”と、そういった挑戦を歌手にしてくれるような存在が今のオペラの世界にいたらなあ、と思います。


The Metropolitan Opera Guild
The Singers' Studio: Elīna Garanča with F. Paul Driscoll

Opera Learning Center, Rose Building

*** The Singers' Studio: Elīna Garanča シンガーズ・スタジオ エリーナ・ガランチャ  ***

2012 RICHARD TUCKER GALA (Sun, Nov 11, 2012) 後編

2012-11-11 | 演奏会・リサイタル
前編から続いては、

JACQUES OFFENBACH Septet from Les Contes des Hoffmann (Giuseppe Filianoti, Tenor / Jamie Barton, Mezzo-soprano /
Tara Erraught, Mezzo-Soprano / Ildar Abdrazakov, Bass / Andrew Stenson, Tenor / Brandon Cedel, Bass-baritone / New York Choral Society)

フィリアノーティとアブドラザコフは2010/11年シーズンのメトの『ホフマン物語』で共演しましたので、
そのあたりも選曲の理由であると思われる『ホフマン』の七重唱
(プログラムが6人+合唱で7重唱という表記を採用していますが、一般的に六重唱と呼ばれているのと同じ
"Hélas! Mon coeur s'égare encore! ああ、僕の心はまたも乱れる"です)。
ヴェネチアの幕、なかでもこの重唱は『ホフマン』全幕の中で私も大好きな箇所なんですけれど、この曲はあんまりガラには向かないのかもしれないな、、。
同時に歌う歌手の数が多くて、その上にオケが結構厚いので、ガラの主な楽しみの一つである歌手一人一人の個性や力を存分に楽しむことが難しい、
というのが一つ理由にあるかもしれません。
また、重唱とはいえ、やはり中心にはホフマンがいるべきだと思うのですが、バートンのパワフルな声が完全にフィリアノーティの、
いや、それを言ったら他の全部のソリストを凌駕してしまっていて、
こういうレイヤーの多い重唱こそ、バランスを調節するための綿密なリハーサルが大切だと思うのですが、
多分、このガラのリハーサルでそこまでする時間はないんだろうな、と思います。
それから曲としても、ホフマンの恋しても恋しても駄目、、というブルーな気分がこちらに乗り移ってきて、なんか私までアンニュイになって来る、、。
ここまでこちらをアンニュイな気分にさせた以上、落とし前をつけてもらいたくなる、つまり、作品の最後まで聴きたくなってしまいます。
悲しみとか復讐、怒りなど、激しいエモーションに昇華されて完結されている作品(例えば、今日のガラの終盤で演奏される『椿姫』の重唱など)と違って、
この、なんとなくじくじく、、と尾を引く不思議な感覚がこの『ホフマン』という作品の独特なところ・全幕作品として面白いところなのですが、
それゆえに、ガラにはあまり向いていない作品だなと思います。

 PABLO ZIEGLER “Rojotango” (Erwin Schrott, Bass-baritone / New York Choral Society)

シュロットにとって”ロホタンゴ”はオペラのレパートリーよりむしろ評価が良い位のトレード・マーク的な曲だし、
取り上げないわけには行かなかったのかもしれませんが、実は今日のガラの問題児で、リハーサル中からかなり紆余曲折があったと聞いています。
まず、彼と共にバンドネオンの奏者が舞台に登場して来ました。
シュロットとしてはこういう特殊なセッティングも観客の期待を高めるだろう、と期待していたのかもしれません。
確かにガラにこういうものを持ち込むのはサービス精神の顕れ、ということで、ポジティブに捉えるべきなんでしょうが、なぜか準備にもたもたもたもた、、、
他の人はわかりませんが、私は結構せっかちなものですから、これだけで”うむむむむ、、。
こういう特別なことをしてオーディエンスを待たせるのなら、よっぽど良い歌聴かせてもらわないと、、。”と思ってしまいます。
メト・オケがこれまで演奏したことのない、オペラ/クラシック音楽の範疇外の曲というだけでも、若干のディスアドバンテージがあるのに、
その上に最初は金管楽器のパートも加えた編成での伴奏にしようとしていたそうで、
この金管を含めるか、含めないか、そして更には曲自体を演奏するか、しないか、がもめる原因になっていたようです。
彼のこの曲の歌唱はYouTubeにもいくつかあがっていますが、ドレスデン(ティーレマン指揮のタンゴ、、)でも
ヴァルトビューネでも金管は演奏していないので、NYスペシャル・バージョン??
結局曲そのものは演奏されることになったものの、スペシャル・バージョンではなく、普通に金管なしの演奏だったんですが、一聴して思ったこと。
”これにブラスを加えようと思っていたなんて、正気の沙汰じゃない、、、。”
彼がこの曲を歌うなら、小さな会場で小さな編成の演奏をバックにするか、そうでなければマイクを通して歌う、このいずれかでないと全く駄目だと思います。
エイヴリー・フィッシャー・ホールでどこに座っている観客の耳にも十分満たすほどの音を彼が出せる音域で曲が書かれていないうえに、
金管抜きでさえ、普通のオケの編成だと彼の声が十分かき消されてしまう位の感じなので、
私はホール平土間の真ん中から少し後ろに寄った正面の席で聴いてましたが、曲の半分以上、彼の声が良く聴こえなかったです。
これに金管のせてどうしようってんだか、、、。
これまでタッカー・ガラだけに限っても、ミュージカルとかオペレッタからの曲とか、オペラのレパートリーでない曲でも優れた歌唱を聴いていますし、
オペラ歌手がオペラ以外の曲を歌っちゃいかん!とは全く思っていませんが、
はっきり言って、オペラよりタンゴの方が好きならタッカー・ガラでなくタンゴ歌手のリサイタルに行ってます。
ガラの場でオペラ以外の曲を取り上げるなら、聴けてよかった!と思うような何かをオーディエンスにデリバーしてくれないと、、、
そういう意味で、オペラ歌手がオペラ以外のレパートリーのものを歌うということは、
オペラの曲を歌うよりもある意味チャレンジングである、といえるんじゃないでしょうか。そして、シュロットはその挑戦に失敗した、、、そういう風に私は感じました。

 PIETRO MASCAGNI Cherry duet ("Suzel, buon di") from “L’Amico Fritz” (Ailyn Perez, Soprano / Stephen Costello, Tenor)

前編に”ペレスを何度か全幕で聴いている”と書きましたが、それはそもそも彼女がコステロと夫婦だからなのでした。
そう、私は2007/8年シーズンにコステロがメト・デビューして以来、いつも熱狂的だったとはとても言えませんが、
ゆるいながらもコンスタントに彼をずっとウォッチして来ました。
メトでAキャストの脇役・準主役で登場した公演はもちろん(2007/8年シーズン『ルチア』のアルトゥーロ、2011/2012年シーズン『アンナ・ボレーナ』のパーシー)、
現在の段階では彼が主役でメトの舞台に立ったたった唯一の公演(2007/8年の『ルチア』のエドガルド)も鑑賞しましたし、
あげくの果てにはモントリオール(2008/9年の『ルチア』のエドガルド)やら
フィラデルフィア(同年の『ジャンニ・スキッキ』のリヌッチョやら2010/11年の『ロミオとジュリエット』)、
そして全幕以外にもガラ(彼がタッカー賞を受賞した2009年のタッカー・ガラジョルダーニ・ファンデーション・ガラ)、
そして、ブログ休止時期だったため記事にはしてませんが、今年のシーズン前の夏にもWQXRのイベントで彼の歌声を聴きました。
いつも熱狂的だったわけではないと言いながら、なぜこうも長きに渡って彼をウォッチすることになってしまったかというと、
彼の歌唱の出来にはフラクチュエーションが大きくて”ええ??”と思わされることもあるのですが、
良い時の彼の歌にはダイヤモンドの原石のような輝きがあり、どちらの彼が本当なのかを見定めようとしているうちに、
気がつけば5年経っていた、、という感じなのです。
今も、正直、世界の主要歌劇場で長きに渡って頻繁に主役を張れるオペラ歌手になれるか、そうでないか、についてははっきりとした確信をもてずにいます。
もちろん、成功して欲しいと願ってはいますが。
で、今日のタッカー・ガラの彼は、、、ダイヤモンドの原石の方でした。
こういう歌を合間合間に出して来るので、5年もウォッチする羽目に陥るんですよね、、、。
彼は今回ペレスのサポートに徹するためか、ソロのアリアは一曲も歌わず、全てペレスとの重唱・共演だったんですが、
この環境も彼にとっては力を出しやすい環境だったのかもしれません。
彼は前からしばしばこのブログで書いている通り、オペラ歌手としては少し精神面が弱いのと(あくまでオペラ歌手として、です。
舞台に立ってオーディエンスの目の前で歌を歌う、それだけでもものすごく強い精神力が求められますから、、。)
演技があまり上手くなく、というか、はっきり言ってほとんどでくの坊的で、
それどころかただそこに立つ、歩く、というシンプルな動作ですら、昨日地球に誕生したんだろうか、、、?と思わせるほど不器用な動きになっている時があって、
こういった面ではすべて器用にこなす妻のペレスに100万光年水をあけられてます。
だけど、今日のような、自分ではなく奥さんの方が(今年のタッカー賞受賞者として)より主役の場にいて、
先輩受賞者として共演で彼女を盛り立てる、というこの構図が、自然に彼のベストを引き出す環境になっていたのだと思います。
彼は最近レパートリーによって意識的に本来持っている声以上のものを無理に作っているような、
イメージ的にはステロイドを使って筋肉を盛り立てているのと似た不自然な声を出すことがあって、それは絶対に止めて欲しい!とずっと思っているのですが、
今日の彼の歌唱は、このマスカーニの『友人フリッツ』からのさくらんぼの二重唱にせよ、後の『椿姫』からの抜粋にせよ、
余分な肩の力が抜けた、彼の本来の声に近い非常に自然な発声で、”ああ、今日はこれは良い歌を聴ける!”と数フレーズ歌った時点で思いました。
今日の発声を聴けばわかる通り、決して彼の声は大きくはありません。でも、それでいいのです。
彼の声が持っている突出して美しいティンバーは劇場で際立った音を立てるので、別に声が特大でなくったって、十分に客の耳に届きます。
その点は、今日の『椿姫』の第三幕からの抜粋で十分に証明されていたと思います。
あの場、ソリスト全員+合唱+オケがフルで鳴っていても、彼が歌っている旋律はアンサンブルの中にはっきりと聴き取ることが出来ました。
私は実は彼がペレスとあまり”夫婦共演”ということにこだわらない方がいい、と思っていて、それはペレスが本領を発揮できるレパートリーと、
彼が本領を発揮できるレパートリーが微妙にずれており、今のところ、彼が彼女の方に合わせることで損することはあっても得することは何もないと思うからです。
彼女は終盤の『椿姫』の”乾杯の歌”からもわかる通り、特にアジリティに優れているわけではなく、コロラトゥーラの技術に卓越したものがあるわけでもありません。
むしろ、それらの能力が問われる度合いがより低く、彼女の声質、ステージ・プレゼンス、ナチュラルな演技力と組み合わさってより力を発揮できるリリコ寄りの役柄の方が向いていると思います。
逆にコステロは超高音は最早得意でなくなって来ているようなんですが、芝居で鈍臭い割りには歌は結構器用で、
装飾的な音も意外とそつなくこなすので、ベル・カントの役をベースに、
徐々にフランスもののリリコの役を加えていく位のペースがいいのではないかと思っているんですが、
彼女のペースに合わせ、夫婦共演できるように、ということなんでしょうか、、、『ラ・ボエーム』なんかを全幕で一緒に歌うようになっていて、
このあたりのレパートリーになると突然に先に書いたような本来の発声ではない”無理”を彼の声の中に感じます。
精神的なものもあるのかもしれません。レパートリーが違うと歌唱が違うギアに入ってしまうような感じです。
さくらんぼの二重唱でその彼の悪い癖が出なければいいけれど、、とちょっと心配してましたが、全くの杞憂でした。
『友人フリッツ』は上演の頻度から言ってスタンダード・レパートリーとはとても言えず、どういうテノールが歌うのが理想なのか、
まだ私にはぴんと来ていないところもあって、もしかすると、コステロはこの役を歌える一番軽い方の端に引っかかっているのかもしれませんし、
並んで舞台に立っていると、なんかどちらかというとペレスの方が女地主!という雰囲気がしないでもないですが、
自分の声楽的な持ち味を壊すことがないまま、歌い通してみせましたし、
フリッツとスゼルが急速に惹かれていく様子がきちんと描写されていて、このままオペラの全幕の舞台にのっても、全く違和感がないくらいにロマンティックな歌唱でした。
それに最後に二人が一緒に出す音、これをコステロがピアノで響かせたんですが、
ペレスの声にふわっと乗っているような、まるでフリッツがそっとスゼルの肩に手を回している様子が音になったような感じで、
ホールに漂った音の響きのそれは美しかったこと!
二人がそれまでに表現してきたドラマと相まって独特の余韻が残りました。今日のガラで最も楽しんだ演目の一つです。

 GIOACHINO ROSSINI “La calunnia è un venticello” from Il Barbiere di Siviglia (Ildar Abdrazakov, Bass)

アブドラザコフの歌唱の良いところと悪いところはコインの裏表みたいな感じだなあ、、といつも思います。
彼の歌はいつもきちんとしていて、特にあげつらっていうほどの明らかな欠点は何もないのに、
じゃ、ものすごく心に訴えて来たりだとか、大いに楽しませてもらえた、とか、そういうガツーンと来るものがあるか?というと、それもあまりない感じ。
簡単に言うと、彼の経歴とか今いるポジションの割りに、歌にガストが欠けている感じがしてしまうのです。
なので全幕を任せるには安心できる歌手だけど、こういうガラでは実力のある割りに影が薄い、、、ってことになりがちです。
特にこの『セヴィリヤの理髪師』の“中傷とはそよ風のようなもの”は、
歌唱のスキルも必要ですが同等にオーディエンスが思わず笑ってしまうような、そういうパンチ=ガストが重要な曲です。
面白くない上手いだけの中傷の歌なんて、、、ねぇ、、、。

 UMBERTO GIORDANO “Nemico della patria” from Andrea Chenier (Quinn Kelsey, Baritone)

前編に書いた通り、ケルシーにはこれからメジャーな役で活躍の場を広げて欲しいバリトンとして非常に期待しているんです。
彼のオフィシャルサイトでいくつか音源が聴けますが、
特にイタリアン・レップで感じさせるスケールの大きさと歌唱の思い切りの良さは若手らしからぬものがあると思います。
なので、彼の『アンドレア・シェニエ』からのアリア“国を裏切る者”の歌唱には、ちょっと私の方が高い期待を掲げすぎたのかもしれません。
このアリアは歌っているバリトンが確固とした技術をベースに魂を込められれば聴いていて本当にエキサイティングな名曲になり得るのですが、
ヴェリズモのレパートリーって、ただ情熱的に歌えばいいだけではなくて、しっかりした基礎がある人が歌ってこそ良い歌になる、と思うのです。
この”国を裏切る者”だけ上手く歌えます!という変なバリトンってまずいないと思うんですよね、、、
むしろ、この役での歌唱の良し悪しは、ヴェルディのバリトン・ロールでどれだけ良い歌を歌えるか、ということとすごく比例しているように思います。
ケルシーのヴェルディ・レップでの歌唱はすごくポテンシャルを感じますので私は高く評価してますけれど、
彼はまだまだ若いし、これから磨いて行く点もいっぱいあるとも感じます。
そんな段階で、タッカー・ガラのような場でジェラールのアリアに挑戦するのは、ちょっと背伸びだったんじゃないかな、、
歌に彼が引きずりまわされている感じがしました。
同じ”ちょっと若いかな。”と印象を与えてしまうリスクを犯すなら、リゴレットの方が全然良かっただろうに、、と思います。

 GIUSEPPE VERDI “Vieni t’affreta” from Macbeth (Liudmyla Monastyrska, Soprano)

モナスティルスカに関してはこのブログにコメント頂く方々からもすごく良い前評判を聞いており、
もうすぐメトで始まる『アイーダ』のタイトル・ロールでの歌唱も楽しみにしているんですが、
彼女が今回のガラでマクベス夫人のアリアを披露してくれると知って、むしろ私としてはこちらへの興味の方が大きかったかもしれません。
アイーダもマクベス夫人も本当に優れたアーティスティックな歌を歌おうと思ったらどちらも大変に難しい役で甲乙付け難いですが、
ただ、声質と歌唱技術に話を限った場合、マクベス夫人の方が歌える歌手が限られるというのもまた否定できない事実であり、
昨シーズンにメトの『マクベス』全幕公演で、耳を覆いたくなるほどひどいナディア・ミヒャエルの夫人を聴いた後では、
(そして、それに負けず劣らずハンプソンのマクベスがひどいのであった、、、。
この二人で寄ってたかられた日には、もはやオーディエンス虐待のレベルと言ってよいと思います。)
まともに夫人を歌える歌手が世界のどこかに居るかもしれない!というだけで、小躍りしたくなるニュースです。
で、そのモナスティルスカの“早く来て、あかりを”。
まだ歌はほんの少し荒いところがあって、コロラトゥーラの技術の細かい点がうやむやになっているなど、多少の問題はありますが、
確かに間違いなくマクベス夫人を歌える声とベースになる力は持っています。
声の迫力もそうですが、高音域での音の鋭さもこの役に望ましいものがあります。
また、この難曲を歌うに当たってもすごく落ち着いていて、上で書いたような小さな技術でのミスがあっても、すっと元に戻してしまう冷静さがあるのにも感心しました。
今のオペラの世界はちょっと難しいレパートリーを歌えそうな人材がいると、すぐに表に引っ張り出して来て、
世界のあちこちで歌わせることになってしまうという問題があって、
こういう役はほんのちょっとのディテール、細かい部分がパフォーマンスの印象に大きな違いを残すので、
あとほんの少しだけ歌を磨いてから出てきたら、もっとすごい印象を残せるのにな、、と感じる部分がなくはなく、
彼女の歌を的確に磨くお手伝いを出来るコーチとか指揮者に恵まれればもっと歌が良くなりそうなのにな、と思います。
例えば、手紙を読むところに”間”が感じられなくて、手紙を取り出して読む演技も含めて、
なんだかスーパーのレシートから品物の個数と単価を読み上げているようなフラットさを感じたり、
フレーズの構築の仕方が未熟なために、音符が若干おろそかになっている部分があったりとか、
基本的な力があるのは十分感じられるので、ちょっとしたアドバイスで歌がもっともっと良くなる可能性があるのに、、とじれったく思います。
それにしても、こんなソプラノが出て来ている以上、メトがミヒャエルを夫人役に再キャストする言い訳は最早存在しなくなったのは、実に喜ばしいことです。

 GIUSEPPE VERDI “Va pensiero” from Nabucco (New York Choral Society)

つい最近の記事のコメント欄で話題にのぼったばかりですが、
NYコーラル・ソサエティの合唱はほんと毎年タッカー・ガラの日が来るたびに”どうにかならないのかしら、、。”と思わせられます。
ヨーロッパの優秀な歌劇場付きの合唱団に比べれば、アンサンブル等で劣っている面はありますが、
まだメトの合唱団は基本的な音は出来ている、という点で他のアメリカの合唱団体よりずっとましです。
NYコーラル・ソサエティの、まるで一日中ご飯食べてないの?と聞きたくなるような腑抜けサウンドで
『ナブッコ』の“行け、我が想いよ、金色の翼にのって”を聴いてどうなるってんでしょう?こんなプログラム、ない方がまし!

 NIKOKAI RIMSKY-KORSAKOV "Zachem ty? Znat' nye lyubish" from The Tsar’s Bride (Olga Borodina, Mezzo-soprano / Dmitri Hvorostovsky, Baritone)

リムスキー・コルサコフの『皇帝の花嫁』より”なぜお前がここに?”。
ボロディナとホロストフスキーは"Arias/Duets"というCDを一緒に出しているのですが、この二重唱も含まれていて、
また、その時の指揮がパトリック・サマーズだったんですね。
そのあたりも関係あるんでしょうか、『皇帝の花嫁』はまだメトでは一度も舞台にかかったことがないと思うのですが、
そんな風に思えない位、二人の歌唱もオケの演奏も充実していて、『友人フリッツ』の二重唱と並んで最も今日聴きごたえがあった演目です。
『友人フリッツ』の、思わずこちらの顔に微笑みが浮かんでくるような爽やかな高音パート(ソプラノ&テノール)の若い二人による二重唱とは対象的に、
こちらは、ただごとでない緊迫感でもって怒り、訴え、嘆願するボロディナとそれを氷のような冷たさで突っぱねるホロストフスキー、、と、
ドラマティックさと背中が凍るような冷ややかさが混在した大変にエモーショナルなベテラン低音パート(メゾ&バリトン)による二重唱でした。
前編に書いた通り、今回のガラで最も私の注目を惹いたのは、ボロディナの女の弱さの表現にさらに一層深みが増した点で、
デリラのアリアではそれを二重の構造に使っているのか、もしかすると本気でサムソンに惚れそうになっているのか、、
その微妙な線を綱渡りする手段として巧みに使っていたのに対し、
こちらの二重唱はもう何もかもなげうって、ストレートに女の弱さ、かっこ悪さを表現できる作品でしたので、それはもうすごいド迫力でした。
ついホロストフスキーに”そんなに冷たくしなくてもいいんじゃない、、?”と突っ込みたくなるほどです。
二重唱とは言え、歌うパートの分量からすると圧倒的にメゾの方が多いのですが、ホロストフスキーもボロディナの気迫に感化されたか、
まるで妖気が漂っているような冷徹さを歌と演技で表現していて、オーディエンスの息が止るような歌唱・演奏でした。
この二人が含まれたキャストの『皇帝の花嫁』をぜひメトで見てみたい!!!と強く思いました。

 GEORGES BIZET "Au fond du temple saint" from Les Pêcheurs de Perles (Marcello Giordani, Tenor / Gerald Finley, Baritone)

前編で触れた通り、当初は同じジョルダーニ&フィンリーのコンビで『オテロ』の二重唱”大理石のような空にかけて誓う”が予定されていたのですが、
直前にプログラムが変更になって、ビゼーの『真珠とり』の二重唱”聖なる寺院の奥に”に差し替えられました。
『真珠とり』の二重唱と言えば、2007年のタッカー・ガラのポレンザーニとキーンリーサイドの二人の歌唱が今でも鮮明に耳に残っています。
一時期はYouTubeにその時の映像もあがっていたんですけれど、今はまたなくなってしまっているので紹介できないのが残念です。
この曲は別名友情の二重唱と言われる位ですので、テノールとバリトンの声の相性、それからどれ位二人の歌唱の呼吸がぴったり合っているか、が大事で、
そこがそれぞれの歌手の思いが別方向を向いているタイプの二重唱(オテロの二重唱なんかはその代表例)とか、
1人1人の歌手が良い歌唱を繰り広げていればそれなりに結果が出るタイプの二重唱とは違う難しい点です。
どちらかの歌手のエゴが少しでもあらわになると、曲の美しさがぶち壊しになってしまうので。
その点で、ポレンザーニとキーンリーサイドの2007年の歌唱は声の組み合わせの面で理想的であったのみならず、
二人の歌唱への姿勢と呼吸が本当に完全にシンクロしていて、お互いの声が次々に立ち現れる度にその絡み合い方の美しさに悶絶!って感じでした。
その二人の映像がないならば、こちらを紹介しておきましょう。



ユッシ・ビョルリンクとロバート・メリルのコンビの歌唱で、これが2007年のタッカー・ガラの記事の中で、
ガラの少し前に聴いて、”シリウスでビョルリンクがテノールのパートを歌っているこの曲の録音を聴いて猛烈に感動したばかり”と書いている録音です。
私が上で書いているポイントがこれ以上ない位おさえられています。
こんなの聴いちゃったから、大概の歌唱では満足しないよ、もう、、、って感じで赴いたのが2007年のタッカー・ガラだったんですが、
いやいや、この二人に負けていないくらいのポレンザーニとキーンリーサイドの歌唱でした。

で、今日の二人、ジョルダーニとフィンリーの歌唱ですけれども、、、。
これはもうフィンリー、すっかり貧乏くじひかされましたね。
こういう事態が、私が前編で”ジョルダーニはもはや共演者やオーディエンスへの迷惑になっている”と書かざるを得なくなってしまう理由なんです。
フィンリーはすごく丁寧に、誠実なマナーで歌っていて、何とかジョルダーニと息を合わせる糸口を摑もうと思って努力しているのが痛いほど伝わってくるんですが、
まあ、ジョルダーニはその横で、そんなフィンリーの努力なんか知ったことか!というノリで、自分だけ気持ちよく思い入れたっぷりに歌っているわけです。
そうそう、この思い入れたっぷり、っていうのもこの二重唱では全く無効なアプローチの一つなんですよね。
とにかく、ジョルダーニはもっとフィンリーの歌を聴きなさいよ!!と思いながら、ずっと聴いてました。
『オテロ』の二重唱が外されてほっとしたのも束の間、これ。やれやれ、、、、って感じです。

 GIUSEPPE VERDI Act II Finale from La Traviata (Ailyn Perez, Soprano / Stephen Costello, Tenor / Quinn Kelsey, Baritone /
Jamie Barton, Mezzo-soprano / Andrew Stenson, Tenor / Brandon Cedel, Bass-baritone / Ryan Speedo-Green, Bass-baritone / New York Choral Society)

とうとうガラのトリの演目で、ヴェルディ 『椿姫』より第二幕フィナーレ。
これはコステロが2009年にタッカー賞を受賞した時のガラで、ネトレプコと組んで歌ったのと同じ部分ですね。
当然、今日ヴィオレッタを歌うのはペレスで、ということで、再び夫婦共演です。
ああ、今日の歌唱を聴くと、どんなにスローに見えても(?)、コステロの歌は成長してるんだな、と思います。
2009年とは落ち着きが全然違いましたし、それから当時より楽な発声を今日はしていて、
繰り返しになりますが、声量では2009年のガラの時より軽い感じがするかもしれませんが、これでいいんですよ!!
彼は絶対にこういう風に今後も歌って行くべきだと思います。
それから、この演目では、半分狂人入ってるヘッドとしてのMadokakipの
めがね(とはいえ、めがねはかけていないのでコンタクトレンズの、としておきましょうか)の奥底がきらっ!と光った瞬間がありまして、
それは、ヴィオレッタがアルフレードと別れるようにドゥフォールに誓わされてしまった、と嘘をつく
(実際にはアルフレードの父ジェルモンに誓ったのだが、その秘密はばらせないので、愛人のドゥフォールのせいにした。)、
それにぶちきれたアルフレードが夜会の参加者を全部呼び寄せて、彼ら全員の前でヴィオレッタをなじる場面です。
アルフレード”この女を知っていますか?”
全員”誰?ヴィオレッタ?”(ここの情けない合いの手の合唱にもがっくり来ました。首絞めてやりたいです、NYコーラル・ソサエティ。)
アルフレード”何をしたかはご存知ないでしょう?”
ヴィオレッタ”ああ、黙って”
全員”いや、知らないが。”
と、ここでオケの短いじゃじゃーん!という、これから語りまっせ!という前置きに続いて、
Ogni suo aver tal femmina per amor mio sperdea (この女は僕への愛のために自分の持ち物を全部売りつくした)、、と
身の上語りを始め、
これが、そんなことをしてもらう理由は、恋人でない以上なく、彼女はまさに娼婦以外の何者でもないので、その代金を今返させてもらう!と、
賭けで勝った金をヴィオレッタに叩きつけるという、この作品の中でも最も胸が張り裂けるシーンになだれ込んでいくわけですが、
このOgni suo..とコステロが歌い始める時に、ほんとにちょっと、1/100秒とかそういう世界だと思いますが、気持ち”ため”があって、
しかも、音をぎゅっと引いて歌い出したんです。
これを聴いた時に、アルフレードの腹の中で渦巻いている怒りが本当に良く伝わってきました。
人って、本当に怒った時、すぐには爆発しないで、その怒りが体の中心からむらむらっと湧きあがってくるものですよね。
それが本当にその間といい、音の絞り方といい、的確に表現されていた。
こういうこと、特にどれ位間をおけばいいか、声を絞ればいいか、またそれをオケの演奏とどのようにバランスをとるべきか、
というのは、歌の先生やコーチが細かく教えられるものではなくて、本能的にもって生れているか、そうでないかのどちらかだと思うんです。
で、コステロという歌手はこういうところに、聴いている人間をはっとさせる何かを持っていると思うのです。
最後の最後の重唱の部分で、これ以上大きくても小さくても今より良くはならないという絶妙のバランスでテノールのパートを歌っていたのも先に書いた通り。
彼は声の美しさで評価されることが多いですが(そういう私もそういうことを言っている人間の一人ですが)、
彼の歌手としての本当のアセットは、むしろ、この、オケや共演者とのバランス感覚に加えて、
オーディエンスをはっとさせるようなことを本人さえ意識しないでさらりとやってしまうことがある、そこにあると私は思っています。
フィラデルフィアで聴いた彼のロミオを私が評価していたのも、これと似たようなことが全幕の中でそこかしこにあったからです。
後は演技がこれに付いていけば言うことないんですけれど、頭で意識し始めた途端に右足と右手が一緒に出るような人ですからね(笑)、かなり心配です。

一方のペレスはそのコステロの胸を借りて歌った感じで、まずは無難にこなせていたと思います。
ただ、この場面って、『椿姫』の中でも最もエモーショナルな場面の一つだと思うんですよ。
その割には言葉に実感があまりこもってなくて、決められた言葉を音に乗せて出しているだけ、という感じすらありますし、
コステロが時々やってのけるレベルと同等のことを彼女の歌からまだ一度も感じたことがないんですよね、私は、残念ながら。
彼女は努力で成し遂げられる範囲内ではこの先も成長して行くだろうと思いますが、
コステロのいるところとは違う場所にいるまま終わってしまうこともあるかもしれないな、、という疑いも私は持ってます。
もちろん、彼は彼で、生まれ持っている才能をどうやってもっと安定したものに開花させて行くか、その努力がおおいに必要で、
それに成功しなかったら、キャリアが難しいところに入って行くと思いますが。

 GIUSEPPE VERDI “Brindisi” from La Traviata (same members as Act II finale)

そのままのメンバーでなだれ込んだのはアンコールとして、同じ『椿姫』から”乾杯の歌”。
ペレスはヴィオレッタを持ち役として歌い続けて行くなら、もう少しコロラトゥーラの技術、音の走りを良くしないといけないかな、と思います。
私は彼女があまりそのあたりが得意でないのではないかな、と思っているので、
彼女の声質もあって、将来的にはもっとリリコ寄りの役を中心に歌って行くのではないかな、と予想しています。

テレビ放送が予定されている割には、ここ数年のラインアップに比して、今年のガラは若干地味なメンバーだった感もあったし、
(誰が見てもこれはスター歌手だ!と感じるのは、ホロストフスキー、ボロディナの二人くらいじゃないでしょうか?)
強く印象に残る歌唱が限られた歌手からしか出ていなかったようにも若干感じましたが、
一方で、若手で将来性を感じさせる歌手が少なくなく、彼らの歌は今はまだ完璧からは遠いかもしれませんが、彼らのこれからを楽しみに出来る要素は十分ありました。
こういった若い歌手たちに積極的にハイ・プロフィールな場で歌う機会を与えようというタッカー・ファンデーションの思いも感じられ、
そういう意味ではタッカー賞の本来の存在意義により即したガラだったと言えるのかもしれません。
若い歌手たちのこれからの活躍を期待しています。

そうそう、最後のカーテン・コールに全ての歌手が出て来て挨拶が終わった後、
指揮者のサマーズがペレスやコステロたちをねぎらって肩を叩いたりして忙しい間に、
ボロディナを先に退場するよう譲るのを忘れて、彼らと一緒に足を踏み出してしまった時のボロディナの表情の怖かったこと、、、。
サマーズがその妖気になんとかぎりぎりで気付いて、”どうぞ。”というジェスチャーをしてましたが、
ボロディナの”ふん!このアメリカ人の田舎指揮者が!”という様子で顎をつん!とあげて退場していった様子には笑いました。

それを言ったらメトの『アイーダ』のオケとのリハーサル中にも、
ルイージがボロディナに”ここはもう少しこういう風に歌ってくれますか?”とリクエストを出したところ、
彼女がルイージに返したのはいわゆるblank stareだけ、
言われたことが耳に入らなかったとでも言うように、じっとルイージの顔を見返すだけで、
”はい、そうします。”はおろか、うんともすんとも言わない。
これにはさすがのルイージもお手上げで、”一応言ってみたけど、駄目でしたね。ハイ次!”という感じで、何事もなくリハーサルは続いて行ったそうです。
さすがボロディナ、すごい迫力。女の弱さ云々は舞台の上だけのことのようです。


Richard Tucker Music Foundation Gala 2012

Conductor: Patrick Summers
Members of Metropolitan Opera Orchestra
New York Choral Society

Avery Fisher Hall
Orch AA Even
ON

*** リチャード・タッカー・ミュージック・ファンデーション ガラ 2012 
Richard Tucker Music Foundation Gala 2012 (Tucker Gala) ***

2012 RICHARD TUCKER GALA (Sun, Nov 11, 2012) 前編

2012-11-11 | 演奏会・リサイタル
タッカー・ガラ。
これまではオケだけが演奏するピース(もちろんオペラ絡みの曲)で幕が開くことが多かったんですけど、本当、このガラに来るお客さんって急がない。
年寄り過ぎて早く動けないのか、お金を持っている人たちは自分が他に合わすのではなく、他が自分に合わせて当たり前、と思っているからなのか。
理由はわかりませんけど、本当急がないんです。
なので、オケが演奏するピースは毎年いつも、客の入場用の曲になってました。
以前、『タンホイザー』の第二幕の歌合戦への客人入場の行進曲が演奏された時は、その客人とはわしだ!と勘違いしていると思しきオーディエンスが、
演奏中の曲に合わせて悠々と座席に向かっていたりして、”こりゃ駄目だ、、。”と思いました。

なので、昨年私が提案させて頂いた『サロメ』の7つのヴェールの踊りなんかは名案だと思うんですけどね、、。
舞台上の女性のヌードを観ようと、オーディエンスのうち必ず何パーセントかを占めているはずのエロじじいは今までになく素早く座席につくでしょうから。

しかし、タッカー・ファンデーションも、この状況に単に手をこまねいているわけでは決してなかったようで、
今年はオケの演奏なしでいきなり歌から!という手段に出ました。
確かに多少は効果があるでしょうね。歌が始まる前までにはさすがに席につかなきゃ!というお客さんが多いでしょうから。

そのような変化をものともせず、例年通り、一言喋らずにおれないのが、タッカー・ファンデーションのバリーさん(リチャード・タッカーのご子息)です。
今年のタッカー賞を受賞したアイリン・ペレスを紹介する際には、彼女の旦那であるスティーヴン・コステロが2009年の受賞者であり、
夫婦そろっての受賞はタッカー賞歴初であることにふれ、
”この二人は世界の色々な場所で素敵な世界を繰り広げてくれています。舞台の上でも、そしてオフステージでも(にやり)。”と、
それこそセクハラまがいの発言をかましたかと思うと(私の隣の男性も私と同様、この発言にセクハラの匂いを感じ取り、二人でお腹抱えて笑ってしまいました。)、
”あ、妻から電話が、、、。”とポケットから携帯を取りだしたかと思うと一通り会話をするフリをした後、
”妻から大事なことを皆さんにお伝えするのを忘れないように、との伝言がありました。どうぞ、皆様、携帯の電源は必ずお切りになられますよう、、。”
、、、、オーディエンスの携帯のスイッチをOFFにさせるためにとうとう1人芝居まで!!まさにアンストッパブルなバリーさんです。

毎年恒例になりつつある出演者の変更・追加は今回はなし!これは珍しい。
その代わり、ジョルダーニとフィンリーのコンビで予定されていた『オテロ』からのオテロとヤーゴの復讐の二重唱が
『真珠とり』の二重唱に変更になった旨のお知らせがあると、”歓迎!”と喜びの拍手をあげるオーディエンスに混じって、
”えええええええっ!!!”と不満の雄たけびを上げるオーディエンスがおり、、、
今回のタッカー・ガラはPBS放送用の収録がありましたが(12/13が放送予定だそうです)、
テレビカメラが入っていようが何だろうが、お構いなしでいつもの地丸出しのヘッズです。

 JULES MASSENET "Je marche sur tous les chemins” (Gavotte) from Manon (Ailyn Pérez, Soprano / New York Choral Society)

その年のタッカー賞受賞者がガラをキックオフするという、こちらの伝統も変らず。
ということで、ペレスの歌うマスネ作曲『マノン』のガヴォット(“私が女王様のように道を行けば”)です。
彼女は本当可愛らしくて感じも良いし(ちなみに彼女はタッカー賞史上発のヒスパニック系受賞者になるんだそうです。)、
舞台マナーも良く、歌に対しても前向きで真摯、、と、応援したい要素がてんこ盛り、
私は彼女の本格的なキャリアが始まったばかりの頃からいくつかの全幕公演(メトには彼女はまだ登場していないので、フィラデルフィアでですが。)
も観ているし、すごく好きになりたい!!!
なのに、なんか躊躇してしまうんです、、それはなぜなのか?
以前、彼女の『ロミオとジュリエット』を鑑賞した時にも書いたんですが、彼女の歌唱って、何となく器用貧乏な感じが私にはしてしまうんです。
タッカー賞は基本的にはこれからキャリアが開けて行く若手のための賞、ということになっているんですけれども、
若手かどうかは関係ない位の圧倒的にしっかりした技術を既に持っている(例えばミードなんかはこちらのカテゴリーに入ると思います)、か、
そうでなければ今は多少未熟だけれど何か他の歌手と違う凄いもの、キラリと光るものを持っているぞ、という予感のようなものを感じさせる、
このいずれかであって欲しいと思います。
ペレスは残念ながら、私にはこのどちらにも当てはまらないように感じられます。
確かに基本的な音色としては多くの人が言うようにリッチでクリーミーな味わいを持っている方だと思うのですが、
その魅力的な音の出る音域が狭く、特に高音域で瑞々しさの欠けた乾いた感じの音になってしまって、声の力だけで唸らせるようなものは持っていないし、
技術的には大きな失敗なく、無難にきちんとは歌うのだけれど(ただし、ガラ本番のこのガヴォットでは彼女にしては珍しく若干ピッチが不安定だったと思います。
リハーサルはきちんと歌えていたらしいので、少し緊張していたのかな?)、表現の中に、何かこちらをはっとさせるような瞬間がないんですよね。
彼女が今日のガラでガヴォットを歌うと聞いて、家を出る前にYouTubeで色々な歌手のそれを聴いていたのですが、
フレミングのそれが良いな、と思いました。相変わらずルネ節してますけれども、それが致命傷になっていません。



例えば高音でぐっとピアノに持っていって、その音をサステインする、ペレスがこれをきちんと出来るのは立派なことだとは思うのですが、
フレミングのガヴォットを聴くと、それが技術のための技術でなくて、表現のための技術になっていることがわかります。
ペレスの歌はまだその点、技術のための技術を脱していなくて、なんだか順番に色んな技術を見せられているに近い感覚を持ちます。
これも同じ『ロミオとジュリエット』で書きましたし、改めてこの記事でも後にコステロとの絡みで書きますが、
彼女はあまり天性の芸術センスを持っている人ではなくて、努力で歌を作っている人のように思えるんですが、その辺もちょっと関係しているかな、、と思います。
非常に厳しい言い方をすると、ものすごく歌の上手い学生さんの歌、、、まだそういう風に聴こえてしまう。
確かに、今からフレミングみたいなガヴォットを歌えたら苦労しない!と言われるかもしれないし、それはそうだと思うのですが、
もうタッカー賞をもらうレベルになったら、きちんと歌えるのは当たり前、
それよりもオーディエンスは、”この歌手はどういう表現をしてくれるんだろう?”、そういうことを期待して舞台を観に来ますからね。
たとえば、フレミングのガヴォットを聴くと、”ずっと20歳でいれるわけじゃない。いっぱい愛して、歌って、笑いましょうよ、”という表向き能天気な歌詞の中に、
すでに悲しみみたいなものを感じとれませんか?
そういうのを、ペレスももっと歌に出せるようにならなければいけないと思うのですよ。
良いところもたくさん持っている彼女なので、上手く歌えているな、の次のレベルにブレークスルーする道をぜひ早く見つけて欲しいな、と思います。

 GEORGE FRIDERIC HANDEL “Sibillar gli angui d’Aletto” from Rinaldo (Gerald Finley, Baritone)

ガラでこんなトランペット奏者泣かせの演目持って来るなんて、フィンリーったら意地悪ね!!
というわけで、ヘンデル『リナルド』から、アルガンテのアリア“私の周りにはアレットの蛇の立てる”です。
こんな状況はメトでだけなのかな、、、フィンリーってなんか本当色んなレパートリーを歌っていて、で、しかも、そのどれも水準以上に歌ってしまうので、
今一つ何を一番得意としている人なのか、摑みきれない部分があるのですが、これ聴いて一層わからなくなりました(笑)。
このあたりのレパートリーも器用に歌ってしまうんですね、彼は。ものすごくテクニックがセキュアであることは間違いなし。
また、アクロバティックな歌唱に飲み込まれてなくて、余裕があるのもすごいな、と思います。
器用もここまで行くと一つの個性!ということで、ペレスは彼女の器用を極めるという手もあるよーん、という先輩からのアドバイスか?

 GIOACHINO ROSSINI “Una voce pocco fa” from Il Barbiere di Siviglia (Tara Erraught, Mezzo-soprano)

現在の時点ではメトに未登場で、私の記憶にある限りNYでは名前すらお目にかかったことのないタラ・エロートというアイルランドのメゾで、
ロッシーニの『セヴィリヤの理髪師』より“今の歌声は”。
この曲をこういう場で選ぶということは、歌手が自らのヴィルトゥオーシティに絶大の自信を持っているということの現れであり、オーディエンスもそのつもりで拝聴するわけですが、、

、、、、ん?

緊張してたんでしょうかね、、、かなりボロボロでした。
音程が決まらない箇所が山ほどありましたし、気持ちが浮ついてしまっているのかオケの伴奏から歌が走ってしまう、
音の長さが正しくない、音が飛ぶ、などの問題もてんこ盛りで、とてもタッカー・ガラで聴かせるレベルの歌唱ではありません。
だし、仮に彼女に物凄い時計仕掛けのような正確な技術があって、スキル的に完璧な歌を聴かせていたとしても、
彼女はあまり声の音色そのものが魅力的でないのでこれは相当なハンデです。
この曲(いや、それを言ったら何でも、ですが、、)歌うメゾなら、深い音色に魅力がある、とか、高音に登った時に独特の凛とした音が出る、とか、何かがないと、、。
可愛らしい人なんですけどね、、、歌に関しては全くNYの聴衆にいいところを見せられないまま終わってしまった感じです。

 ARRIGO BOITO “Ave Signor” from Mefistofele (Erwin Schrott, Bass-Baritone)

、、、彼ってどうしてこうどことなく安っぽい雰囲気が漂ってしまうんでしょう?
連れに今日のガラはペレス/コステロの二人だけでなく、ボロディナ/アブドラザコフの二人も夫婦だし、
さらにこのシュロットははネトレプコの旦那よ、と教えたら、”このエアロビのインストラクターみたいな男が、、?”とびっくりしてました。
別に彼がオペラ歌手でなければ、彼がどんなに安っぽい雰囲気を漂わせていようと全く私の知ったことではないのですが、
この、ボーイトの『メフィストフェレ』から“めでたし、主よ”での彼の歌唱を聴くと、ちょっともったいないよなあ、、と思ってしまいます。
彼の声、特にロー・レジスターに関しては、悪くないんですよね、意外と。オケからきちんと抜けて聴こえてくる強さもあるし、音色もなかなか魅力的です。
でもこの雰囲気のせいで、オペラファンからまともな目で見てもらえないんじゃないかな。
アブドラザコフとかフィンリーの紳士的な雰囲気をちょっと真似てみた方がいいかもしれない。
後、彼はせっかくの素材を正しい方向に導いてくれる良い指導者が必要だと思います。
なんか、素材の使い方をわからずにもてあましていて、ネガティブな意味で自己流に歌っている感じがしてしまいます。

 GAETANO DONIZETTI “Ô mon Fernand” from La Favorite (Jamie Barton, Mezzo-soprano)

映画『The Audition』が撮影された年のナショナル・カウンシルは本当、豊作だったんだなあ、、と今更ながら思います。
ミード、ファビアーノ、シュレーダーは既にメトの舞台を、それも準主役以上の役で踏んでいますし、
ワグナーも大きな役を今年メトで歌わせてもらうようですし、、
で、あの『The Audition』で、『ヘンゼルとグレーテル』の魔女役を歌っていたジェイミー・バートン覚えていらっしゃいますか?
その彼女の生の歌声を初めて今日聴くことが出来ました。
いやー、彼女もすごく力のあるメゾで驚きました。彼女の良さは上段振りかざした歌でなくて、品のある歌を歌うところでしょうか?
なんか、良い意味で、既にキャリアの長い歌手の歌を聴いているような感じがします。
ザジック(もこの曲を得意にしてますね、そういえば)みたいなパワフル・サウンドではなく、たおやかな音色が特徴なんですが、
本人もそれを良くわかっていて、実にそれを上手く使った歌唱でした。
ドニゼッティ作曲『ファヴォリータ』(フランス語による歌唱なので、曲名はファヴォリートの表記になってますが)の
“おお、私のフェルナンド”(これもフランス語ではフェルナンですが。)は、それはもう難曲で、こんなの歌って大丈夫なんかいな、、とちょっとどきどきしてしまいましたが、
その難しさに全然振り回されていなくて、きちんと歌の内容を表現していたのはそれだけでも称賛ものなのに、
その上に、彼女は高音がすごく綺麗で、この曲の一番高い音では、良い意味で若干メタリックな響きがある独特のパワフルな高音を出していて、
最近若手に本当に面白い人が増えて来たな、、と嬉しくなりました。
メトに登場する日はいつになるのか、またどんな役で登場することになるのか、今から楽しみです。

 GIUSEPPE VERDI “Quando le sere al placido” from Luisa Miller (Giuseppe Filianoti, Tenor)

ヴェルディ『ルイザ・ミラー』より“穏やかな夜には”を歌ったフィリアノーティ。
私が彼のことをはじめて知ったのは、彼が日本で出演したオペラの公演をDVDで観たのがきっかけなんですが、
その端正な歌に好感を持ち、彼が次にメトに登場する時は必ず聴きに行きたい!と思っていました。
ところが、以前記事に書きました通り、その機会が来る時までには彼が癌を発症してしまい、
それをまた彼はNYでは表沙汰にせず、本来の力を取り戻すべくリハビリをしながらメトの舞台に立っていたものですから、
どこか冴えない歌唱が何年か続いて、それが彼の実力であるかのような印象をずっとNYのオーディエンスに与えて来てしまいました。
多分、本人にとっても、果てしなく続く暗いトンネルのような、辛い時期だっただろうと推測します。
2010/11年シーズンの『ホフマン物語』では、復活の兆しが見えていたんですけど、さて今日は、、?
おお!!!トップの音はすごく良くなってますね。私は上のような理由から、彼の本来の力での歌唱をまだ一度も生で聴いたことはないのですが、
絶好調の時には大体こんな感じの高音を持ってたんだろうな、とこちらが頭でイメージするのに必要なだけの響きは十分戻って来てます。
彼の歌声は決して大きくはないですが、高音に金管楽器を思わせる独特の明るい響きがあって、やはりいいものを持っています。
ただ、今日の歌唱を聴くと、むしろ高音域の後に来る中音域の方がコントロールが難しくてまだ体が思うように反応してくれないのか、
ぜーぜーしているように聴こえる音が混じっていて、これを克服できるかが、今後の大きなポイントになるかと思います。
それにしても、5年に渡る地道な努力を重ねてやっとここまで戻して来た、、、すごいド根性だな、と思います。
高音域にこれだけ良い響きが戻って来ているんですから、もっともっと自信を持って良いと思うんですけれど、
なんとなく、見た目や仕草に覇気のないのは気になりました。
オペラの舞台では演技をしているからか、あんまりそんなことが気になったことはないのですけれど、、。
立ったり歩いたりしている時の姿勢が悪いのは、もしかして、また体調が優れないのかしら、、と心配になってしまいます。
もしそうでないなら、もっともっと肩で風切る感じで堂々とした態度でいかないと損です!!

 RICHARD WAGNER “O du mein holder Abendstern” from Tannhäuser (Dmitri Hvorostovsky, Bartione)

フィリアノーティと真逆で、あなたは堂々とし過ぎ!と呟きたくなるほど悠々とした様子で、
白い髪をなびかせて登場!(いやー、なんかいつの間にか、髪の毛、すごい伸びましたね。)のホロストフスキー。
これが人気のある歌手のオーラってものなんでしょう。客席側の温度が一瞬にして数度上がる感じがします。私のすぐ後ろに座っているおじ様、おば様も、
”や!ホロストフスキーが出てきたぞ!””まあ、ホントだわ”と盛り上がってます。
そして、歌う曲がこれまた反則。『タンホイザー』の夕星の歌なんです。
タッカー・ガラは毎年メトのオケが演奏してくれるのですが、すでに通常のオペラの公演とリハーサルできつきつのスケジュールにこんなイベント、
本当だったら入れる余地がない位のもので、一、二度、ざっと通しでリハーサルしただけで、本番!ってなことになっているのが一つの理由でもあるのですが、
パトリック・サマーズが率いる今日のオケの最初の数曲はかなり荒い演奏のものも混じっていて、むむむ、、という感じでしたが、
この夕星の歌あたりからオケの演奏が噛み合い出したかな、と思います。
ホロストフスキーは舞台に登場してから歌い始めるまでずっと、また歌の合間合間にも一回一回”ニカッ”と満面の笑みを浮かべるので、
なぜこの歌詞の内容でそんなに笑う?と尋ねたくなった人もあるかもしれませんが(でも、実際に歌い出すと顔が一瞬にしてまじめになるのは、やはりオペラの人です。)、
いやー、私は気持ちわかりますよ。こういう演奏をバックにこの曲歌えるのってすごく気持ち良いだろうなあ、、と思いますもの。
それから、オーディエンスがこの曲の美しさを堪能してる様子が、舞台から見ていて嬉しくて堪らない、という風の笑みでもあったと思います。
この作品を全幕上演した場合に披露すべき歌唱とはちょっと違うかもしれませんが、ガラならではのリラックスした空気を逆手にとり、肩を抜いた訥々とした歌唱で、
彼はこの曲を時々コンサートなんかで歌っているようで、いくつかYouTubeなんかでも聴いたことがありますが、私は今日の歌唱の方が好きでした。
これまで聴いた録音ではもう少し歌に柔らかさが欲しいな、ちょっとばりばりと歌い過ぎかな、、、と感じるところがあったのですが、
今日は生で聴いているという環境の違いとか、オケとの相性とか色々な要素があるかもしれませんが、あまりそのように感じなかったです。

 GIUSEPPE VERDI “Uldino, a me dinanzi l’inviato” from Attila (Quinn Kelsey, Baritone / Ildar Abdrazakov, Bass)

クイン・ケルシーはハワイの出身で、メトではまだ『ラ・ボエーム』のショナールとか『リゴレット』のモンテローネくらいしか歌っていないんですけど、
実は以前、ラジオか何かで聴いた彼の『リゴレット』の全幕での歌唱(タイトル・ロールでの)が思いの外良くて、
ショナールやモンテローネより大きい役で是非一度聴いてみたいな、と思っていました。
また、このアブドラザコフと組んだ『アッティラ』からの抜粋(“ウルディーノ、ローマの使節を今”)はアリアじゃなく、
ある程度まとまった一つの場面になっているので、全幕でどういう歌を歌う人なのか、そこもある程度感触が摑めるかな、と思って楽しみにしてました。
ムーティが指揮をした2009/10年シーズンのメトの『アッティラ』役はエツィオ役が公演直前にメオーニに差し替えになった経緯がありましたが、
メオーニよりもこのケルシーを代役に立てておいた方が良かったんじゃ、、という位、落ち着いた歌唱を聴かせました。
それにアブドラザコフも、今日の方がなんか伸び伸びした歌唱で、やはりムーティ相手の時は萎縮してたのかな?と感じてしまいます。
ケルシーは先に歌ったホロストフスキーのばりっとしたマスキュランな感じのするバリトン声とは対照的に、
どこか透明感と繊細さを感じさせるタイプの声で、これはまたこれで良い個性だな、と思うのですが、
私がラジオで聴いて期待していたよりは拡散して焦点が少しぼやける感じのする声なのはちょっと残念だった点です。
ヴェルディの大きなバリトン・ロールを歌うにはまだちょっと線も細い感じもします。まあ、まだ若いですから当然なのですけれど。
ただし、エイヴリー・フィッシャー・ホールはあんまり声楽(だけでなくオケの演奏も?)を聴くのに理想的なホールでないので、
その分はハンデとして考えないといけないかもしれません。

 CAMILLE SAINT-SAËNS “Mon coeur s’ouvre a ta voix” from Samson et Dalila (Olga Borodina, Mezzo-soprano)

今回のガラの出演者の中で、周りから一つ頭抜けた歌唱を聴かせた歌手を1人選べ、と言われたら、私は多分ボロディナを選ぶと思います。
昔から歌の上手い人ではありましたが、なんだろう、、、?メトの先シーズンの『ホバンシチナ』もそうでしたし、
今日の歌唱もそうですが、最近の彼女は何か歌に更に一段と奥行き・味が深まったような感じがします。
彼女の歌声は低音域はまったりと迫力があって凄いですけど、高音域に少し金属的な音色が入るようになっているのが特徴で、
この『サムソンとダリラ』の“あなたの声に心は開く”でも、彼女はそれを臆さず使うので、
高音域から低音域まで共通したいわゆるまったりとした音色で歌いきるタイプの歌手のそれとはちょっと雰囲気の違う歌唱になっています。
で、それが表現にきちんと貢献している点が見事なんです。
本当、何なのでしょうね、これは、、、。
彼女って以前は何を歌っても自信満々!って感じの雰囲気だったのに、
女性の弱さみたいなものもすごく的確に表現するようになっていて、すごいな、と思います。
そうそう、この曲って、もろ、サムソンへの誘惑!って感じで歌われることが多い(ま、実際にストーリーがそうなので、、)ですけれど、
今日の彼女の歌は、誘惑の言葉の中に、恋に落ちた女の心の弱さまでを感じさせる内容になっていて、
すごく面白い解釈だし、かつ高度なことやってるなあ、と感心させられました。
こんな真に迫った芝居されたら、サムソンだけでなく、どんな男も絶対騙される!と思います。

 RUGGERO LEONCAVALLO “Vesti la giubba” from Pagliacci (Marcello Giordani, Tenor)

今回のガラのプログラム予定を見た時に、”こんなのやっちゃ絶対駄目ーっ!!”と思ったのが、
この『道化師』のアリア“衣装をつけろ”と、『オテロ』のヤーゴとの二重唱(“大理石のような空にかけて誓う”)。
もちろん理由はいずれの演目もジョルダーニが絡んでいるから。
彼は一昨年だか、タッカー・ファンデーションに触発されたのか、いよいよマルチェッロ・ジョルダーニ・ファンデーションという財団を自分で立ち上げてしまいましたが、
はっきり言って、若者に活動の場を提供したいなら、そんな財団作るより、あなたが引退するのが一番なんじゃないの?と思います。
どんな年齢になっていたって、何か歌唱の中でオーディエンスにオファーできるものがあるうちはどんどん歌い続けてください、と思いますけれど、
ジョルダーニに関しては、もうそういうものが完全に枯渇している状態だし、
特に『道化師』、『オテロ』、『トゥーランドット』、『西部の娘』、このあたりのレパートリーを彼が歌うのは
最早、共演者とオーディエンスに対する迷惑ですらあると思います。
なので、『オテロ』の二重唱の方がドロップされると聞いた時は安心しましたが、”衣装をつけろ”にはしぶとく執着するんですね、、。
ったく、男のしつこいのは嫌われるよ!
と、こんな感じで、期待値ゼロどころかトータル・ディザスターの可能性もある、、と予想していたんですが、まあ、そこまでの大失敗にはならずにすみました。
一つには、このうだつのあがらないドサまわりの旅役者というカニオの役が、なんとなーく今のジョルダーニのキャラとシンクロしている部分があるんだと思います。
ま、しかし、そこはジョルダーニ。アリアの前半はそれで何とか乗り切っても、やっぱり肝心なクライマックスの
Ridi, Pagliaccio, sul tuo amore infranto!(笑え、道化師、お前の敗れた恋を)の部分でアンダーパワーなんです、、。
あーあ。

、、、と、今年は演目数が多いのかな?まだこれでプログラムの半分!
この盛り下がった雰囲気のままガラは終わってしまうのか? 続きは後編で!!

(写真は今日のガラより、”舞台以外でも素敵な世界を繰り広げている”ペレス&コステロ夫妻。)

Richard Tucker Music Foundation Gala 2012

Conductor: Patrick Summers
Members of Metropolitan Opera Orchestra
New York Choral Society

Avery Fisher Hall
Orch AA Even
ON

*** リチャード・タッカー・ミュージック・ファンデーション ガラ 2012 
Richard Tucker Music Foundation Gala 2012 (Tucker Gala) ***

UN BALLO IN MASCHERA (Thurs, Nov 8, 2012)

2012-11-08 | メトロポリタン・オペラ
いよいよドレス・リハーサルを間近に控えた『仮面舞踏会』のオケ付き舞台稽古の日のこと。
”Madokakipが絶対に喜びそうな話だと思って、、。”と言って、オケにいる友人が電話をくれました。
その友人によると、リハーサル中の舞台でいきなりザジックが”You're a lousy colleague!! (あんたってサイテーな同僚ね!)”と叫んだかと思うと、
彼女が手にしていたスコアで共演者のマルセロ・アルバレスの頭をぼかっ!と殴りつける音が聞こえてきたんだそうです。
その後も二人が同時に舞台に登場するたびに、、”ったくもう。勘弁してほしいわ。”などとブツクサ言い続けるザジック。
アルヴァレスはいつも舞台への取り組みはまじめな人なので、話を聞きながら、
そんな彼がザジックを怒らせるなんて一体何をやらかしたんだ、、?と不思議に思っていたんですが、、
どうやら理由はアルヴァレスの”コロンの付け過ぎ”(笑)。それで思いっきりザジックの不興を買ってしまったらしいです。

今日はそのデイヴィッド・オールデンによる新演出の『仮面舞踏会』の初日。
アルヴァレスは今日は香水禁止!でよろしく。

デイヴィッド・オールデンはNYの、それもメトがあるアッパーウェストサイドの出身で、
兄弟のクリストファーも演出家という、オールデン・ブラザースの片割れです。
演出家としてのキャリアをスタートさせてから40年を経て、やっと地元メトでデビューが叶ったわけですから、
これは絶対に彼も成功させたいと思っているはずでしょう。

メトのサイトに掲載された2012/13年シーズンの新演出ものの解説ビデオの中で、
オールデンは、グスタヴォ3世(今回の上演はスウェーデンが舞台のバージョンですので、役名の呼称もそれにならいます。)の行為が
まるでほとんど自分を死に追い込むためのプロセスのようであり、そこにギリシャ神話のイカロスの姿を重ね合わせた、と語っています。
そのアイディア自体は悪くないと思うんですけどね、、。

で、まさにその彼の言葉通り、イカロスのイメージがほとんど強迫観念のように、この舞台には現れます。
何度も、何度も、何度も。
天井から下がっているイカロスの絵が移動したと思ったら、またその奥にイカロスの絵があった!、、、って、これはマトリョーシカ人形か?!
そのしつこさは、いい加減、”もうやめてーっ!!”とこちらが叫びたくなるほどで、
これがグスタヴォが取りつかれていた強迫観念をオーディエンスに感じてもらうため、という目的であったとすれば、
それはもう十分過ぎる位に達成できていますが、ここまでやる必要があったかどうか?



で、このイカロスのテーマに関しては、今日の夜の私の夢の中にまで出て来そうな位、”もうわかった!”って感じなんですけれど、
そこを除いて、特に第一幕、第二幕に関しては、『仮面舞踏会』として見ると、すごく不思議な演出です。

これはあくまで私の推論なんですけれども、このオールデンという人は、もしかすると、第一幕と第二幕を全部、
ここ最近メトでかかった演出をからかう(良く言えばオマージュを捧げる、だけど、私にはどちらかというとからかっているように見えた)ために費やしたんじゃないか、、と思っています。
もし、本当にそうだとしたら、すごいユーモアと勇気の持ち主だと思いますけれど、ちょっと冒険し過ぎたかな、、。

たとえば、第一幕の第一場で、アンカルストレームが他の宮廷の人間と仕事する場面(まるで役所の勤め人みたい、、)で、
ずらっと机が並んでる様子はマカナフ『ファウスト』のラボみたいだし、
グスタヴォの座っている安っぽいソファやガラスのテーブルはボンディ『トスカ』、
第二場の占い女アルヴィドソン登場!の場面の、衣装(ハンドバッグや帽子まで、、)はもちろん、
椅子を持って女性合唱が舞台上をうろうろするのはノーブル『マクベス』の魔女のシーンの生き写し、
さらに、同場面のアリア”地獄の王よ Re dell'abisso"の最後のSilenzio!の部分でいきなり唐突にスピーカーを使用するのは、
ゲルブ支配人が就任後に『ドクター・アトミック』や『ドン・ジョヴァンニ』で見られるようになった習慣
(ヴォルピ前支配人時代に、メトでスピーカーから音が流れて来る事なんて、まずなかった!)の揶揄
(それが理由でなかったら、なんでそんなことするのか、意味がさーっぱり私にはわかりません。)、
そして、第二幕のやや楕円がかった壁と青白いライティングはデッカー『椿姫』そっくり、、、
いや、大体考えてみれば、衣装も『椿姫』と瓜二つ。
ホロストフスキーなんて、ジェルモン歌った時の衣装そのままだとしても、私は驚きません。

こういった連想は、ゲルブ支配人の就任後メトでかかった新演出ものをもらさず鑑賞している地元のファン
(もしくはHDをもらさず鑑賞している人)以外には難しいかもしれませんが、
一旦つながると”この演出家、いいの?こんなことして。やばいよ、これ、、。”と笑いがこみ上げてきます。



オールデンの歌手への演技指導は、比較的最近の他の新演出ものと比べるとしっかりしている方なので、
もし、歌唱・演技だけ聴いたり見たりすることが出来るならば何の不足もないのですが、
もちろん、そんなことをするのは無理なわけで、どうしても周りのセットとか状況とか音響効果も合わせてオーディエンスは鑑賞することになります。
一幕とニ幕ではセット・状況・音響効果等が上で書いたような直近の新演出ものをからかうことにベクトルが向いてしまっているせいで、
全体としてみると『仮面舞踏会』という作品としては焦点がぼけた、意味のわかりにくい不思議な演出になってしまっています。
まあ、当たり前といえば当たり前です。他の作品のために他の人間が作った演出を取り混ぜたものを舞台にのせているんですから、、。

なので、この連想が起きなかった人には、”何これ、、?良くわからん。”ってことになると思います。
また、連想が起きた人でも、”そんなつまらん遊びを優先させるのではなく、きちんと『仮面舞踏会』の作品に向き合え!”と考える人にも受け入れられないと思います。
私も本来ならこの後者のタイプだし、一部のオーディエンスにしかわからないようなものを作るのには基本的には賛成でないのですが、
最近のメトの演出傾向に対して本当に辟易していることもあってか、
どうせ変なもの見るなら、まだこういう毒のあるメッセージがあるものを見る方がいいかな、と思えてしまったのは自分でも驚きでした。
病んでますね、あたし。

一幕、二幕の中で成功しているな、と感じたのは一幕一場の最後、みんなで変装して占い女のところに行こう!と盛り上がる
"Dunque, signori, aspettovi"の部分くらいでしょうか。



この新演出の前にメトでかかっていたのはファッジョーニによる非常に写実主義的なプロダクションで、
セットから衣装からすごく重苦しい感じがあったんですが、
新演出でのこの場面の軽やかさは、歌われている内容ともマッチしていてなかなか楽しいなと思います。
衣装、コリオグラフィーとも良く合っていると思いますし、上のドレス・リハーサルからの映像でもわかる通り、
キムやアルヴァレスが本当楽しそうに歌い踊ってくれます。

しかし、ニ幕が終わるまでには、先にも書いた通り、どうして”地獄の王よ Re dell'abisso"のSilenzio!のところだけ、
ザジックに舞台脇にはけさせてマイクを通して歌わせるのか、(その後、すぐまた舞台に現れて来るのですごくぎこちない感じがします)
また、ニ幕で、アメリアと王がお互いの愛を確認する(言葉で、ですが)場面で、イカロスが一瞬消えるのか、
(Ma per questo ho potuto un istante, infelice, non viver di te?  それにも関わらず、君なしで心の平安を感じたことがあっただろうか?という王の言葉に対応しているのかな?)
そのイカロスの絵が消えた向こうに見える、普通の住宅地にかかった電線のような背景は一体何なのか、、?などなど、疑問もてんこ盛りです。
他演出をまじえる遊びに忙し過ぎて、これらの場面の意図がしっかりオーディエンスに伝わるほどには練られていない感じがするのが残念です。



また、アメーリアが薬草を取りに行く場所を死刑台の丘の上という不気味な場所にしたのには、
ヴェルディやソンマにとってそれなりの理由があるわけで、その状況を写実的に描写しないならば、
代替とされるものは、少なくとも、その恐怖がきちんと伝わるものでなければなりません。
(先ほどDunque, signori, aspettoviが成功している、と書いたのは、写実主義的なセットや衣装でないにも関わらず、
あの場面の心躍るような楽しさがきちんと表現されているからです。)
しかし、この演出では、それは一本の丸太であり(これが死刑台なのね、、)、床に何箇所か穴が空いた抽象的なセットで、
その恐怖は全くオーディエンスに伝わってきません。
一応一幕でアルヴィドソンがその状況を言葉で説明するからいいだろう、ってなことなのかもしれませんが、
仮にニ幕から、全くのオペラ鑑賞初心者が鑑賞しても、その場の不気味さにぞぞっと来るような、
そういうものが舞台に現出されていなければならないと思います。



ただし、他演出を混ぜる遊びを捨てた三幕以降は、
オールデン独自の演出としての意向がきちんと見えるようになってきて、一幕、ニ幕よりはずっと良い内容です。
三幕一場でのアメーリアとアンカルストレームの場面は、まるで知り合いの痴話喧嘩を無理矢理見せられているような嫌な後味があります。
(これは褒め言葉なので、誤解なきよう。)
また、同じ場の最後、アメーリアのくじでアンカルストレームに王暗殺の権利が確定された後の、
リッビング伯爵とホーン伯爵のそれぞれの反応も不気味なんですが、
三人の復讐の誓い+そんな悪巧みを知らずただただ仮面舞踏会の企画に心を躍らせるオスカル
+陰謀に心曇らせ、何とか王に知らせねば!と焦るアメーリアの五重唱の最後で、
アメーリアとの口論の途中で、アンカルストレームが部屋の壁から外して床に投げ飛ばした大きな王の肖像写真
(なので、アルヴァレスの写真)をオーディエンス側に向けて立てると、いつの間にかアルヴァレスの顔中にペンで切りつけた跡が出来ていて、
そこには彼らの王への偏執的かつ陰湿的な恨みが感じられ、
ファッジョーニの旧演出はアンカルストレーム、リッビング伯爵、ホーン伯爵の復讐を正当化・美化するような演出でしたが、
このオールデンの演出では、どんな理由であっても人(ましてや友人の!)の死を願うという行為の中には、
非常に醜悪で不気味なものがある、と主張しているのだと思います。



また、クライマックスである第三場、仮面舞踏会のシーンの処理も私は嫌いでないです。
ファッジョーニの旧演出では、衣装が豪華で、それはそれは華やかな仮面舞踏会で、まあ、それも悪くはないですが、
私はむしろ、このオールデンの演出での、主要人物以外全員黒の衣装に身を固めさせ、
マスクも色々なものを使用せず、どくろのマスクだけを目立たせ、
合唱のメンバーの合間合間に羽の映えたどくろマスクの人間(またまたイカロス?)を配置したそれの方が気持ち悪い感じがしました。
また、横壁にはった鏡とライティングを利用して、奇妙なテクスチャーのリフレクションを舞台上に作っていて、
それもなかなかにイーリーな感じを生み出しています。
ファッジョーニ版みたいな豪華さはなく、むしろチープな感じすらするセットですが、
王のそばに段々忍び寄っている死の影は十分に表現しています。
オールデンもナイフによる暗殺を採用しているんですが、
ナイフによる殺人って、歌手の演技力が優れていると見ごたえがあるのですが、下手するとちょっと間抜けに見えるというか、
舞台演出上、難しい殺人方法だと思うんですよね、、、
私個人的には銃を使った方が良かったんじゃないかな、、と思いますが、どうでしょう。
特に最後、広く開いた空間の真ん中に王が居て、周りの壁に沿った三面を舞踏会の参加者が埋めている、という絶好のフォーメーションになっているので、
ばたばたとアンカルストレーム役のホロフストフスキーが飛び出してきて刺し殺すよりも、
その壁のどこともわからないところから銃弾が飛んで来て、
王が倒れてから彼が歩み出て来る方が面白かったんじゃないかな、、と思います。



歌手陣は健闘してました。

グスタヴォ役のアルヴァレス。良かったです。とっても。
王様の威厳!がもう少しあったらな、、とは思いましたが、ここ最近(少なくともこのブログが始まった2006/7年シーズン以来)、メトで聴いた彼の歌唱の中では一番良かったと私は思ってます。
いや、多分、声の状態とか歌の上手さとかいう面では別に何も変っていないのだとは思いますが、
ここ数シーズンの彼のメトでのレパートリーは、カヴァラドッシとかマンリーコとか、私が全く賛成できないものばかりで、
”どうしてこういう役を歌うかなあ。”という不満は、何度もこのブログでぶちまけて来た通りです。
でも、このグスタヴォ役はそれらの役で感じた声楽面での妥協がほとんどなくて、彼の持っている個性が比較的上手く役のパーソナリティとか声楽的要求にマッチしているんだと思います。
彼ももう若くはないですから(齢50)、トップの音が少し痩せていたり、以前のような美しい音ではない、とか、
舟唄(ニ幕ニ場の”Di' tu se fedele")で、高音から降りて来てのローCに挑戦しているもののちょっと厳しい、、(というかほとんど出ていない)とか、
(でも現役でこの役を歌っている人で、あの音をきちんと出せる人っているのかな、、? ドミ様はYouTube見ると、きちんと出しておられますけれども。
ファッジョーニの演出のラスト・シーズンで同役を歌ったリチートラも挑戦してましたが、アルヴァレスとどっこいどっこいか、更にまずい位でしたし、、。)
色々難癖をつけようと思えばつけられますが、このグスタヴォ王って、そんなに簡単な役ではないと思うんですよ。
何よりも、ニ幕のアメーリアとの愛の告白をし合う場面でそれにふさわしい情熱が彼の歌(それからラドヴァノフスキーも)から感じられた。これは大きいと思います。
だって、このオペラで、この二人の恋にリアリティがなかったら、何なの、これ、、?って話ですからね。

王に”愛していると一言だけ言ってくれ。”と迫られ、アメーリアが二回答えを誤魔化す(”ああ、神様!”、”行ってしまってちょうだい!")、
でもさらに王にプッシュされ、ためらいながらも、”Ebben sì, t'amo ええ、そうよ、愛してるわ。”とアメーリアが陥落してしまうところ、
(ここに至るまでに、まるでオケが一瞬ストップして時が止ってしまうような気がする部分なんか、たまりませんな!)
そして、”アメーリア、君は僕を愛している!”と王の喜びが炸裂するところ、、、
ヴェルディがつけている音楽がこの二人が感じている許されぬ恋への戸惑い、喜び、恐れ、すべてを本当に巧みに描写しているんですが、
歌手の二人はそれを歌と演技で、しっかりと表現してくれています。
正直なところ、基本的なテイストの話をすると、私はソンドラ姉さん(ラドヴァノフスキー)の声質も歌い方もあまり好きではないのですが、
そんな私でもここの二人の歌唱と演技は良く出来ていた、と思います。



あろうことか、この場面(そして他にも、、)での大問題はむしろオケ、というか、ルイージの指揮です。
ブログをお休みしている間に、私の彼への見方はすっかり変ってしまいました。
というのも、その間、彼が指揮する演目については、本当にがっかりさせられる公演が多かったからです。
彼の指揮の特徴をもし二言でまとめなければならないとしたら、知的、コンパクト、です。
それで素晴らしい成果がでる種類の演目もあるでしょう。また、技術と知性はあるので、常にある程度のレベルの公演にはなると思います。
でも、ヴェルディやワーグナーのオペラで、本当にオーディエンスの心を動かすような指揮をしようと思ったら、それだけでは駄目でっせ。
なぜなら、この二人が書いたオペラを指揮するには、人間の愚かさへの愛や理解(頭のレベルではなく心での)と、それを表現しようとする熱い魂が必要だからです。

上の場面に続いて、王とアメーリアが重なるようにして歌う
アメーリア:Si t'amo. Ma tu, nobile, me difendi dal mio cor. (ええ、愛しているわ。でも、高貴なあなたは、この私の気持ちからどうぞ私を守ってちょうだい。)
王: Irradiami d'amor. Tu m'ami, Amelia? (私にその愛の光を輝かせておくれ。僕を愛しているのだね、アメーリア?)
この部分、ラドヴァノフスキー、アルヴァレスともに極めて情熱的な歌を披露してくれます。
そして、ここではその二人の心と一緒になって燃え上がるようにしてオケが鳴り響いているはずなんです、、、ヴェルディがそのようにスコアを書いているんですから。
そんな時にオケのアンサンブルが多少乱れたり、ひっくり返ったりしたって、大いに結構!!
しかし、ルイージはここでオケが綺麗に、バランスよく鳴り響くことだけに執心してブレーキを踏みまくり、
恋に燃え上がる二人の横(っていうか、下ですけど、正確には。)でオケはお澄ましさんしながら、パプーッなんて上品にやってるわけです、、、。
”あほかーっ!?”とここでMadokakipがきれまくったことは言うまでもありません。

この二人とオケの距離感は悪く見たら、まるで、オケの方が
”でも不倫って、良くないことなんじゃないかな、、。あんな二人に同調できないよね。”と言っているようにも見えます。
そんな道徳の授業のような公演を見たいヘッズ、この世の中にいねーんだよ!

か。せいぜい好意的に見て、この二人の道ならぬ恋を頭のレベルでしか理解できないために、バランスの取れた美しいオケの音で飾って美化しよう、という試みか?
、、、いや、あのですね、、不倫って別にそんな美しいものでもないし、それは頭の悪い恋人たちでなければ、不倫してる本人だって美しいなんて思ってないでしょう。
道ならぬ恋とは、そんなものを越えた、自分のコントロールを越えたどうしようもない激情そのものであり、
それこそ、この場面で歌手とオケが表現しなければならないことなんです!

今回と全く同じ種類の失敗を、彼は昨シーズンの『マノン』の修道院のシーンでもやらかしてましたし、
こういう人間の愚かさを、想像力から芸術に転化・昇華して表現できる種類の人もいますが、
ルイージはあまりそういう人ではないみたいなので、彼は毎年、日本にも演奏会やらなにやらで訪れているようですから、
このブログを読んで下さっているどなたか、彼の宿泊しているホテルにでも押しかけて、道ならぬ恋がどういうものなのか、教えて差し上げてくださいまし。
ただし、言っておきますが、この作品でもわかる通り、エッチ=不倫ではないですから、その点はお間違えのないようにお願いいたします。

また、アルヴァレスとオスカル役のキャスリーン・キムはルイージの指揮と非常に息があっていましたが、
アンカルストレーム役のホロストフスキーの特に立ち上がりの部分と、ザジックの二人に関しては、今一つ彼の意図が歌手の歌い方と噛み合っていない、
もしくははっきり言って二人がものすごく歌いにくそうにしているのが感じられる部分があって、
特にザジックなんか登場場面が非常に短いので、なんか息が合ってないわあ、、と思っているうちに終わってしまったような感じです。



歌手に話を戻して、ソンドラ(・ラドヴァノフスキー)姉さん。
先にも書いた通り、私は彼女のなんだか半分蓋がしまっているような籠った音色とか、高音になるとうがいをしているみたいに音がころころするところとか、
アンサンブルで周りを食ってしまいがちな爆音などがあまり好きではないのですが、
でも、この役を良く消化してはいて、彼女に関してはトスカみたいなヴェリズモが入った演目よりも、
ヴェルディの作品(『トロヴァトーレ』のレオノーラ、今回のアメーリア)のように、よりフォーマットがきっちりしている作品の方が断然印象が良いです。
彼女は学生時代確か演技の勉強をしていて、そのことにすごく誇りと”私は演技が上手い!”という自信みたいなのを持っているようなんですが、
はっきり言って私は彼女のことをこれまで特別演技が上手いと思ったこともなければ、
それどころか、時々すごく妙な演技をするので”?”と思わされることも一度や二度でなかったくらいです。
でも、今回の『仮面舞踏会』では彼女にしてはすごく演技がナチュラルで、このあたりもオールデンがきちんと演技付けしたせいじゃないかな、と感じます。
特に三幕一場で、微妙な色仕掛けで夫であるアンカルストレームから同情を引きだすあたりなど、
彼女のこういう側面が王にもアピールしているのかもしれないな、、と納得させられます。
そこで歌う”Morrò, ma prima in grazia 私の最後の願いを”も、極端に抑制されたオケの演奏をバックに(ここの抑えた演奏はルイージの今回の指揮で成功していた部分の一つかもしれません)、
切々と、しかし熱さを持って歌いあげていて、なかなか良かったですし、ニ幕でアルヴァレスと息の合った重唱を聴かせていたのは先に書いた通りです。



そのアメーリアの夫アンカルストレーム役のホロストフスキーは、ファッジョーニ版による最後の公演にも出演してましたが、
その時と今回とでは随分歌唱も演技も違うものになっています。
あれは2007/8年シーズンのことでしたから、そうか、、、ちょうど5年になるんですね。
ファッジョーニ演出の時の彼は、それはもう豪華な衣装が似合っていて、
素敵なレナート(ま、確か以前の演出もスウェーデンが舞台だったと思うので、アンカルストレームといった方が正確かもしれないですが。)でした。
ただ、今と比べると、若干線が細い感じで、それから美しく丁寧に歌うことにより神経が向いていた感じがします。
彼はメトでは非常に人気があって、しかもこの5年間選んで歌って来た役はどれもきちんとした結果を出しているので、
オーディエンスの彼を見る眼差しも温かく、多分、そういうのも歌っている側にとってはすごく心地が良いから、それも一因になっているのではないかな、と思うのですが、
最近特に、以前より歌に冒険する心を感じるというか、思い切りのよい歌を歌うようになって来たと思います。
私自身、オペラは綺麗な歌を聴くためだけの場じゃない、オーディエンスの心に何かを訴えなければ、という考えの持ち主なので、この変化は大歓迎です。
でも、一つだけ、心配な点を書いておくと、5年前から変っていない彼の特徴に、ブレスの音がすごく大きい、ということがあるんですが、
(それはもうフレーズの間にメトのオーディトリアムにゴーッという音が鳴るのが聴こえるくらい、、)
冒険心が芽生えてから、つまり、感情をより豊かに歌に込めるようになってから、
ブレスに続く最初の音にそれが混じって音のトーンとかプロジェクションを変えてしまうようになっているのが目立つようになりました。
これがあまりひどくなると、歌が変に芝居じみている、とか、下品、ととられてしまう可能性があって、
残りの上品な歌唱とアンバランスになるので、それはちょっと気をつけた方がいいかな、、と思います。
今日の歌唱くらいが限界かな、、、これ以上、それがきつくなると私の感覚ではちょっとやり過ぎ、、と感じてしまうかもしれません。
ブレスの音が大きいのはもう仕方がないと思うので、それを次の音にインパクトを与えることなく畳む方法を模索するか(ここに関しては以前の方が巧みだったように思います。)、
もしくは、チージーに聴こえないやり方で次の音に統合していく方法を探すか(今の彼なら、こっちの方法の方がいいかもしれないですね。)、どちらかが必要かな、と思います。

先に書いたように、登場してからしばらく、なんかルイージの指揮と噛み合わないところがあったのと、
少し立ち上がりで声が固くて、最初のアリアである”希望と喜びに満ちて Alla vita che t'arride”が犠牲になってしまった感があるのですが、
ニ幕からはいつもの思い切りのよい歌が飛び出すようになって、
三幕でアルヴァレスの肖像写真を床に投げ飛ばしたあたりから、アドレナリン放出。
"お前こそわが魂を汚す者 Eri tu che macchiavi quell'anima”の迫力と瞬発力ある冒頭も良かったですが、
なんといってもフルートのソロがある間奏をはさんでからの、アメーリアとの幸せな日々を思って優しくせつなく歌い上げる部分が、彼の声の美しさと相まって、特に素晴らしかった部分です。

また、ファッジョーニ演出版の時は、どちらかというと”王のまぶダチ”的アプローチでしたが、
これはもちろんオールデンの指示だと思いますが、今回のアンカルストレームは王を崇拝している感じで
(だから毛沢東もびっくり!のような肖像画が家の壁にかかっていたりする)、どんなに親しくしているようでも王を前にすると少し固さとよそよそしさがあって、
これがグスタヴォ王の孤独を際立たせ、また、アンカルストレームの側は、その王への崇拝と憧れがあったからこそ、
自分の妻が彼と恋に落ちていた、と知った時のショックにツイストがかかり、それこそ、可愛さ余って憎さ百倍的な、面白い効果をあげています。
このあたりの複雑な気持ち、また、妻が王と恋していたと知っても彼女を憎みきれない男の弱さ・悲しさをホロストフスキーが意外と好演しています。
(彼女に”ええ、彼を愛してます。”とあっさり認められる辛さってばどうでしょう!
しかもその後のアメーリアの言い分、”でも、貞節は守ったからいいでしょ!”という、女の身勝手さ、狡さも、この演出ではなかなか巧みに表現されています。)
また、王を刺殺した後に、彼の本意(アンカルストレームとアメーリアを彼らの故郷の町に送り、自分は恋から身を引こう、という)を知って、
呆然とするあたりも、いつもの格好良さはどこへやら?のかっこ悪さ全開の演技を繰り広げていて○です。



今回の公演で魅力的だったのはキャスリーン・キムのオスカルです。
この役の、声楽的ディマンドをこれだけ軽々とクリアして、かつ、おきゃんなパーソナリティもきっちりと抑えた演技が出来る歌手というのは、そうたくさんはいません。
私がこれまで実演で観た中で、断トツで、最高のオスカルです。
キムは『アリアドネ』のツェルビネッタみたいな役はちょっと手に負えていない感じがありましたが、
あの『ホフマン物語』でのオランピアとか、『ニクソン・イン・チャイナ』での江青とか、そして、今回のオスカルとか、
ちょっと特殊な役で、上手く演出にはまると、脇でも独特の存在感を放つ人で、すごく面白い歌手だな、と思います。
それが声自体個性的!という歌手ではなく、温かみのある美声だけれども、むしろ声自体はあまり癖がない彼女のような歌手がそれをやってしまうところがまた一層面白い点です。
彼女が歌ういくつかの役をYouTubeで聴いたことがありますが、いわゆるヒロイン系の役(ヴィオレッタとか、、)ではあまり個性が出にくい人なんですね、、。
なので、コンプリマリオ系の役で独自のキャリアを開いていくのも一つの手かな、とも思います。
ツェルビネッタ役を聴いた時に、彼女はグルベローヴァやダムラウみたいな意味での超高音を得意とするタイプではなくて、
それより少し下の音域での声の美しさ、また、先述したような演技とかキャラクターの面白さに特徴のある歌手だな、と感じましたが、
この演出でのオスカル役は、まさにそんな彼女にぴったり!
オスカル役で求められる声域なら、彼女の声の美しさが楽々と遺憾なく発揮されていて、しかも彼女の舞台での動きにはリズムがあって、本当かわいらしい!
この役って、下手すると、結構うざい存在になってしまうという難しさがあって、
すらっとした痩せぎすのソプラノがキーキー声でこのオスカル役を歌うと、張り倒したくなるだけ、、、という感じで、
私はこれまでに、そんな張り倒したくなるオスカルを何度も聴いてきましたが、
キムのオスカルに限っては、どんなすっとぼけたことを言っていても、王様やアンカルストレームに対してどんな小生意気なことを言っていても、
”かわいいのう、、。”ですましたくなる。
ヴェルディがこの陰鬱なオペラの中で、オスカル役に託したのは、まさに声楽・演技両面でのこんなコメディック・リリーフとしての役目でしょう。
三幕のカンツォーネ”どんな衣裳か知りたいでしょう? Saper vorreste"での彼女の凛とした声の美しさと、オスカル役のパーソナリティが存分に溢れるチャーミングな歌には魅了されました。
オスカル役というのはこうでなければならない!という見本のような素晴らしい歌と演技。堪能しました。

今回の公演で、せっかくザジックという素晴らしいメゾを得ながら、ウルリカ役の面白さが全く出ていないのは残念の極みです。
ザジックはもともとがあんな雰囲気の人なんですから(ザジックは私のオペラ鑑賞史において、マイ・アイドルの1人ですから、親しみを込めて言っていることだけはご理解ください。)、
不気味な老婆チックな扮装(ほとんど地?)で、しゃれこうべでも持たせて洞窟の中で占いさせた方が良かったんじゃないかな、と思うのですが、
エイドリアン・ノーブル演出の『マクベス』の魔女達にそっくりの格好+ハンドバッグに、パーマと厚化粧、、、というザジックの姿に、
これはこれで精神を病んだハンドバッグ・レディみたいで”こわ、、、。”と思いましたが、ウルリカの不気味さとはまたちょっと違う感じ。
彼女はたった一ヶ月かそこら前の『トロヴァトーレ』ですごい歌を聴かせたばかりで、このウルリカ役なんてまだまだ余裕で歌えるはずなんですけど、
立ち上がりのホロストフスキーと同じで、彼女も全くルイージの指揮と歌の呼吸が合わない様子で、すごく苦労している様子が見てとれました。
しかも、アンカルストレームと違って、ウルリカ役って一幕のほんの一場しか登場場面がなくて、挽回するところが残ってないので、これはきつい。
既述の通り、アリアの最後に舞台袖にはけて、マイクを通してSilenzioと歌ってからまた舞台に戻って来たりとか、
この場面は演出面でもちぐはぐなところが多くて、音楽面でも演技面でも、何か上手く消化しきれないまま彼女が舞台にのっている感じで、
おそらく年齢的に言っても近いうちに引退が迫っている彼女にはメトでの残りの公演は一回一回、納得の行く結果を出して欲しい、とファンとして願っているので、
これはちょっと気の毒な感じがしました。

歌手陣への評価は総じて温かかったですが、案の定、オールデンをはじめとする演出チームにはブーも飛び出してました。
せっかく地元で錦を飾りたかっただろうに、残念でした。
三幕みたいなアプローチが、全幕にも渡っていたら、もうちょっと結果は違ったものになっていたんじゃないかな、と思うんですけどね、、。
それに、歌手への演技付けなんかを見ると、才能のない演出家ではないのにな、という風にも感じました。

Marcelo Álvarez (Gustavo III/Riccardo)
Sondra Radvanovsky (Amelia)
Dmitri Hvorostovsky (Count Anckarström/Renato)
Dolora Zajick (Madame Ulrica Arfvidsson)
Kathleen Kim (Oscar)
Keith Miller (Count Ribbing/Samuel)
David Crawford (Count Horn/Tom)
Trevor Scheunemann (Cristiano/Silvano)
Mark Schowalter (Judge)
Scott Scully (Amelia's servant)
Conductor: Fabio Luisi
Production: David Alden
Set design: Paul Steinberg
Costume design: Brigitte Reiffenstuel
Lighting design: Adam Silverman
Choreography: Maxine Braham
Gr Tier F Odd
SB

*** ヴェルディ 仮面舞踏会 Verdi Un Ballo in Maschera ***

TEMPEST (Sat Mtn, Nov 3, 2012)

2012-11-03 | メトロポリタン・オペラ
わざわざ史上最低のヴェルレクを聴くために『テンペスト』の初日を聴き逃すという大失敗をやらかしてしまいましたが、今日はやっとそのリベンジです。

あれはシーズンが始まる直前の夏のことでした。
『テンペスト』は初めて鑑賞する作品だし、とりあえず字幕を見なくても歌詞がわかるように、、と
本棚からシェイクスピアの『テンペスト』を取り出し、”あいかわらずなんでこんなに英語が難しい!?”と頭をかきむしりながら、
そして通勤の地下鉄ではいきなり隣の席に座っていたボヘミアン風のお兄さんに”Oh, 'Tempest'!! That's a masterpiece!"(横から見たな~!)
と声をかけられたりしながらようやく読破。

それではいよいよ音楽の方を、、とROHで上演された際のキャストで録音されたCDを聴き始めてお地蔵さんになるかと思いました。
歌詞が、歌詞が、、、シェイクスピアの書いた言葉じゃないーっ!!!!

そうなのです。このアデスの『テンペスト』は、シェイクスピアの書いた言葉をそのままリブレットに用いるのではなく、
メレディス・オークスというオーストラリア出身イギリス在住の劇作家が現代英語に書き直したリブレットを採用してるんです。
おそらく私のようなシェイクスピア英語に苦闘するオーディエンスが多かろう、ということで気を利かせたんだと思いますが、
『テンペスト』は『オテロ』とか『ハムレット』みたいに劇的な展開が話を引っ張って行くタイプの作品とはちょっと違っていて、
その分、言葉の使い方とウィット、そして語感とそれが生み出す雰囲気により大きな比重がかかっている作品なのではないかと思うのです。
そこを含めて現代語訳にするのはやはりかなり大変なタスクだったようで、オークスの書いたリブレットは個人的にはストーリーを
オペラのフォーマットにフィットさせるためにパッチワークした域をあまり出ていなくて、
上で書いたような言葉そのものから生まれる感触などに関しては、代替になるものが与えられないまま、消え去ってしまっているように思います。



作曲したアデスに関してはもはや紹介の必要もないかもしれませんが、1971年生まれのイギリスの作曲家で、
今シーズン、NYではメトの『テンペスト』に加えて2月にNYCO(シティオペラ)で『Powder Her Face』も上演されることが決まっており、
なかなか気鋭の若い作曲家が出て来にくいオペラの世界にあって期待の星的存在です。
(アメリカ人の作曲家では1981年生まれのニコ・ミューリーへの期待が大きく、彼のオペラ作品は近いうちにメトでも上演されるはずです。)

アデスの作品に初めてふれたのは以前の記事でも書いた通り、ベルリン・フィルのカーネギー・ホール・コンサートでの『Tevot』で、
作曲技巧や音の響きの面白さの追求ばかりが先行している感じがして全く退屈することの多い現代作曲家の中で
(そもそも彼らの作品目当てで演奏会に行くということがないので、他の目的で赴いたオケの演奏会に偶然くっついて来た作曲家の中で、といった方が正確ですが)、
彼の音楽はなぜか抵抗なくすんなりと耳に入って来たのみならず、きちんとしたエモーションや個性が感じられる音楽で、
グラス(『サティアグラハ』)とかアダムス(『ドクター・アトミック』、『ニクソン・イン・チャイナ』)の作品とか、
正直言って”きつ、、。”と思う私ですが、アデスのオペラなら聴いてみたいな、と思っていました。

で、『テンペスト』に関しては、スコアを拝見する機会があったのですけれど、
”どうしてこんなに複雑な、、。”とぎょっとするような代物で、
紙のうえに米粒をばらまいたのかと思う位にぎっしり並んだ16分音符やら途中で頻繁に変るビート・パターンを見ているうちに
私が演奏するわけでもないのに吐きそうになってきました。
そのあまりの複雑さにROHのCDでもスコア通りに演奏できていない箇所があるほどです。
今回のメトでの上演は、ROHと同様自作自演!ということで、アデスが指揮をするんですけど、こんな複雑なスコア、手に負えるのだろうかと心配になって来ます。
ま、しかし、こういう作品はオーディエンスも作品を良く知らないから、こんな風な音楽なのね、、で済んでしまうところがラッキー、、
ということで、ノー問題!、、、なのかな?

さらにCDを聴き続けること約半時間。
この作品は演奏・歌唱共に本当大変そう、、、
例えばアリエル役。低音と高音の間のリープが大きく、
普通のオペラのレパートリーだったらそれだけで聴かせどころになるべきような高音域にパートのほとんどがのっていて、
最初はすごーい、、、と思って聴いているのですが、鎮痛剤やドラッグと同じで、
あまり延々とこういうのを聴かされると感覚が麻痺してしまう、、、、
ということで、気がついたらうたた寝モードになってるわけですよ、これが。
しかし、はたと気が付いて起き上がっても、さっきうとうととし始めたはずのところとほとんど区別がつかないような音楽がまだ鳴っていて、
”あれ?どれ位寝てたんだろう、、?”と一瞬ディスオリエンテッド状態です。
でも、時計を見てみたら結構な時間が経ってました、、、。



しかし、もしこのブログを読んでいる皆様の中に私と同じようにCDから入って脱落し、HDはどうしよう、、と
二の足を踏んでいる方がいらっしゃるようでしたら、これからここに私が書くことを参考にして頂ければ幸いです。

まずリングでの駄目駄目演出でNYのオペラ・ファンからほとんど”袋”状態に合わされたルパージですが、
この『テンペスト』の演出はそう悪くはないです。
いや、むしろ、シルク・ド・ソレイユ的な視覚的美しさ、ショーとしてのスペクタクル度などから言うと、
オーディエンスの期待を裏切らない出来で、一度鑑賞するだけならばこれを見るだけでも十分元をとった、、と思えると思います。
ルパージという演出家は、良くも悪くもショーとしての舞台を作るのは上手い人なんだな、と思います。
ただ、彼の演出を生で見るのはリングを4作として数えるとこれで6作目になりますが、、
各登場人物の感情をどう表現するかということに関しては毎回全くもって個々の歌手の力頼みだし、
演出の趣向に何か深い意味があるのかと思うと実はそうでもない、、ということがほとんどのように思います。

ですから、今回の演出も、”なぜ舞台がミラノ・スカラ座なのか?”という質問はしちゃいけません。
せいぜい、プロスペローがミラノ大公であるから”ミラノ続き”くらいの軽~いのりだと思います。
ただし、スカラ座の内部にあるものを上手く利用して、『テンペスト』の物語に応用しているとは思います。
シャンデリアを海に翻弄される船に見立てる冒頭の嵐の場面とか、
ミランダやキャリバンがプロスペローとの対話の後にプロンプター・ボックスの中に消えて行く引田天功ばりのトリックだとか、
ラストのシーンで舞台を帰国のために見立て、1人客席に残るアントニオだとか、、、
まあ、ミラノ・スカラ座という舞台設定は、単にそれをプロップとして用いていると思えば、それなりに成功しています。
また、今回はハイ・テクのイメージの強いルパージが、それを多用できる作品であったにも関わらず、そうせず、
どちらかというとコンピューター・グラフィックスに頼らないリアルな手触りが感じられる演出になっていたのは個人的にはほっとしました。
私は今回もまたビデオによる視覚効果炸裂!3D!!というようないつものパターンになるのかな、、とちょっと恐れてましたので。
そのおかげで、少なくともリングの時のように歌手たちが舞台セットやテクノロジーに押し潰されている感じは免れ、
歌手一人一人の存在感は十分感じることの出来る舞台にはなっていたと思います。

一方で、そこで満足できない、なぜミラノ・スカラ座か?という問いを投げかけなければならない、
もしくはそのきちんとした答えを舞台の中に見出したい、
さらにはこの『テンペスト』という作品をどのようにこの演出は解釈しているのかを知りたい、
ということをつい考えてしまうオーディエンスには全く意味のわからない演出だと思います。
ルパージの演出は深く考えてはいけない、なぜなら、深い意味はないから。
メトでの彼の演出を見て来て、私はそう結論づけるようになってます。



歌手は全体的に魅力的な歌唱を聴かせてくれています。
歌唱のアクロバティックさから普段あまりオペラを聴かない一般的なオーディエンスも含めて最も強い印象を残したのは、
アリエル役のオードリー・ルーナかもしれません。
この役はROHでの公演でも、また2006年サンタ・フェでのアメリカ初演でもシンディア・ジーデンが歌っています。
ジーデンもルーナもメトでは過去に夜の女王役を歌ったことがあるんですが、
メトがジーデンよりもルーナの方を今回の『テンペスト』に登用したというのは面白いな、と思います。
ルーナにとってはすごいプレッシャーだったと思いますが、メトの賭けがペイオフし、期待に応える見事な歌唱だったと思います。
ジーデンと比べて彼女の方が高音のきれがいいですし、
何より感嘆したのはこの難しいアクロバティックなフレーズを歌いながら、
ブレスをしている箇所がほとんど全くと言っていいほどわからない点です。
ジーデンのROHでの歌唱はYouTubeにあがっていますが、このブレスがかなり目立ち、その度に音楽の流れが一瞬ストップしてしまうのが興をそぎます。
ルーナのような歌を歌うには、相当パートを細かく分析し、歌の構成を練りに練って役に挑んだんだろうな、と思います。
しかも、このルパージの演出ではアリエル役に歌唱の面だけでなく、演技や動きにも相当なアクロバティックさを要求していて、
彼女は歌いながらほとんど休むひまなく舞台を駆け回り、宙吊りになって空を飛びまわってます。
一度などは、腕のところでワイヤーで支えられているだけで、体の重心を支える場所が何もない状態で高音を出したりしていますし、
そうでなくちゃんと床に立って歌えるときには始終クネクネと体をうねらせ、
バレエダンサーみたいな体の柔らかさで、爬虫類みたいなアリエルです。
私がシェイクスピアの本から持っていたアリエルのイメージはもうちょっとかわいい羽根の生えた虫っぽい感じなので、
ちょっとこの爬虫類みたいな妖しいアリエルは”変なの、、。”と思いましたが、
だからと言ってそれがルーナのパフォーマンスの良さを割り引くものでは一切ありません。
しかも彼女は初日から一度として公演を休むことなく、こんな役をこの調子で歌っていたら、
ランの途中で喉がどうかなるんじゃないか?というこちらの心配をよそに、
全ての公演でほとんどむらのない優れた歌唱を聴かせていて、本当に素晴らしかったの一言です。



彼女のパフォーマンスには何一つ不満のない私なんですが、アデスが書いたこの役のパートに私は疑問を呈します。
先にも書いた通り、どんなすごいものを聴かされても、人間ってやつは贅沢な生き物で、
あまりそれをずっと聴かされていると段々感覚が麻痺して来ます。
ルーナとジーデンという、夜の女王役を持ち役にしている二人がこの役にキャスティングされていることにも象徴的な通り、
”現代オペラの夜の女王”的ステータスをこのアリエルの役に与えたいという目論みがアデスや劇場にはあるのかもしれませんが、
それはちょっと”わかってないな、、。”と思ってしまいます。
この『テンペスト』の作品を聴くと、楽器の使い方の巧みさに比すと、
人間の声についての理解、人間の声は楽器のようには動かない、ということへの理解がアデスには少し欠けてるかな、、と感じます。
あまりにも高い音域で、あまりにもアクロバティックな芸当をしなければいけない時、
そこに表情とか感情を入れるのはそれだけ難しくなります。
実際、今回生の舞台でアリエルのパートを聴いて、ルーナの歌唱以上にすごいものを出すのは無理だ、と感嘆する一方で、
パートの難しさの割りに、こちらの心に響いてくるもの、訴えてくるものが少ないな、、と思いました。
モーツァルトのすごいところはアクロバティックな芸当をしながら歌に表情を込めるのは難しいということを重々承知していて、
そのために、歌手がアクロバティックな歌を歌うことだけに専念できるよう、
そのメロディーを歌うだけで、それがすなわち歌の表情となるような音楽を夜の女王役に与えている点です。
だから彼は”復讐の炎は地獄のように燃え”のところにとっておきのアクロバティックな歌唱と高音を用意して、
他の部分でそれを浪費することはしないのです。
逆にアデスが書いたアリエルのパートは最初から最後まで”復讐の炎は~”を聴かされているような感じで、
だからパート全体を通して見た時にどこに感情の山や谷があるのか、どこにフォーカスがあるのか、さっぱり、、という感じです。

これは実にもったいない!
なぜなら、第二幕の冒頭をはじめとして、ちらっとアリエル役がずーっと歌って来た超高音域から外れて
その少し下の部分で歌う箇所がありますが、
そこで聴かれるルーナの声は温かくて美しく、超高音域よりもそこらあたりの音域にこそ、
それぞれのソプラノの声のカラーがよりはっきりと現れるのですから、どうしてそこをもっと使わないのかな、と思います。
アリエルが人間じゃない=超人間だからと言っていつも超高音域、というのはちょっと短絡的ではないかしら?



ルーナほどあからさまじゃない形で結果を出し、だからこそより一層すごいな、、と思わされるのはプロスペロー役のキーンリーサイドです。
今日のキャストで、本当の意味で役を自分のものにしていたのは彼だけだったのでは?
アリエルに関しては異常なまでのアクロバティックさが要求されるのでルーナはこの点で免除するとしても、
残りのどの役もほとんど必ずと言っていいくらい、大きな、不自然なリープ(低音から高音、もしくはその逆での移動)があって、
これに苦心している歌手が多く見受けられました。
このあたりも、私がアデスに声は楽器と違いますよ、と言いたくなる点なんですけどね、、、。
なので、どうしても歌手が歌の方に気をとられてしまっているのが伝わって来るんです。
だけど、唯一、キーンリーサイドだけは、歌にひきずられている感じがなくて、
彼のパートだけが簡単に書かれているんじゃないか?と錯覚するほどです。(そんなわけない。)
この作品は楽器の音色の変化が繊細で、その段々と夕焼けの色が変わって行くのを見るのに似た感じを楽しむのが楽しみの一つなんですが、
プロスペローはアントニオやナポリ王に対して怒れる人物でもあるので、彼の歌うパートにかなり分厚いオケのパートが乗ってくる箇所があります。
例えばニ幕でナポリ王のためにフェルディナンドを探しに行こう!と全員が舞台からはけた後、
プロスペローが歌うモノローグの最後のYou'll know my nameのところで、オケが大音響でなだれ込んで来るのなんか、その例ですが、
オケに圧されず、彼の声が良く響いてました。

ミランダ役のイザベル・レナード。
彼女のメゾでありながら高音域でソプラノ的な響きを感じさせる独特の声質は、アップダウンが激しいアデスの書く音楽にも割と対応できていて、
しかも、彼女は子供を産んでから声量があがって声の響きがよりふくよかになった感じで、
フェルディナンドとのニ重唱でも力強い歌唱を繰り広げていて声楽的にはそつなくこなせていたと思うのですが、その力強さが若干仇になった感じでしょうか?
彼女のもともとちょっときりっとした男勝りな感じのするパーソナリティとも相まって、
ずっと父親と二人で島暮らし(キャリバンとかアリエルはいますが、、)の世慣れしていない少女、という風には私にはあまり見え・聞こえませんでした。
逆にフェルディナンド役のアレック・シュレーダーが相変わらずおぼこい感じなため、
世間知らずのぼんぼん王子を手玉にとるミランダ!って感じです。
そのアレック・シュレーダーは『The Audition』で『連隊の娘』のアリアを歌いたい!と言ってきかなかった例のゆるキャラのテノールです。
彼はこの『テンペスト』でメト・デビューを飾ったわけですが、ナショナル・カウンシルのファイナリストたちが次々とメトの舞台に立ち、活躍するのを見るのは、
ローカルのファンとして本当に嬉しいことです。
彼はこの気の良さそうなナポリ王子を演じるのにぴったりの、さわやかで温かみのある綺麗な声をしているな、と思います。
『The Audition』の中ではアリアで挑戦するハイCのところばかりがフォーカスされた感じですが、
むしろ彼の良さはこういった優しさ・温かさを感じさせる声質そのものの方にあるんじゃないかな、と感じました。
皮肉なことに、今回の公演を聴く限り、彼はそれほど超高音が得意なわけではないんじゃないかな、という気もします。
フェルディナンドのパートの中での最高音あたりに来ると、音が痩せ気味になったりしてましたし。
後、彼はスタミナに若干の不安があるんでしょうかね?
フェルディナンド役は、他のオペラ作品の主役級テノール・ロールの大部分に比べたら、登場時間もそう長いわけではないし、
歌う場面も上手く分散されているので合間合間に休憩もとれるし、で、スタミナの面ではそんなにめちゃくちゃ大変な役には思えないんですが、
登場時の勢いに比べると、段々とトーン・ダウンして行ってしまったような印象を持ちました。
これから色んなレパートリーで活躍して行こうと思ったら、フェルディナンド役でバテてる場合ではありません。



この作品で最も印象深い旋律の一つを任されているキャリバン役。
うーん、、、アラン・オークは今回最大のミスキャストだったんじゃないでしょうか、、。
平面的なヒール役的表現に過ぎて、キャリバンのキャラクターの複雑さが全くと言っていい位伝わってこない。
わざと音を重たく(ピッチを下げ気味に)歌うのも、場所と頻度をわきまえれば効果的だと思いますが、
ほとんど全部のフレーズがそんな感じで、こういう歌唱は安易かつ下品でやだな、と思います。

この作品のコメディック・リリーフ的役柄を請け負っているステファノ役のバーデットとトリンキュロ役のデイヴィスは達者かつ危なげのない歌唱と演技で
オークが冴えない分をよく埋め合わせてくれていたと思います。
ただ、デイヴィスに関しては昨シーズンの『ロデリンダ』で初めて生の歌声を聴いて、
ああ、こういう人がカウンター・テノールの世界には出て来ているんだな、とすごくエキサイティングに感じたのですが、
『テンペスト』でトリンキュロ役に与えられている音楽は残念ながら、彼のフル・キャパシティを存分に引き出すようなものではないので、
別の機会に彼の良さが活きるオペラ作品かリサイタルで改めて歌声を聴きたいな、と思います。
(ここもせっかくカウンター・テノールを使っているのに、作品の中でそれがいまいち活かし切れてない感じで、
せっかくデイヴィスみたいな極上のカウンター・テノールを連れてきているのに宝の持ち腐れ!とちょっとじれったく感じる部分です。)

アントニオ役のトビー・スペンスは2009/10年の『ハムレット』のレアティーズで綺麗な声だな、、と思ったんですが、
いかんせんあんまり歌唱量が多くない役なものですから、ストレスが貯まる貯まる、、、
で、やっとその彼の歌声を再びメトで聴けることになったのですが、残念なことに彼はこの間に甲状腺がんによる手術を経験していて、
現在はまだそこから完全に本来の声を取り戻すところにまで至っていないような気がします。
高音域で思い通りの声が出て来ない様子はちょっと痛々しい感じすらあって、それでも生来力のある人だからでしょう、
何とか無難にまとめていますが、一日も早く、彼本来の声でまたメトの舞台に立って欲しいな、と思います。



ナポリ王役のバーデンは超一級の歌手とは言い難いし、きっとスタンダードなレパートリーで聴くと技術の面での物足りなさ
(発声がイーブンでなく、一つの音の中でも音が不安定になりがちなのは今回の公演からも感じられる。)が目立つのでしょうが、
この作品のこの役に限っては、何かがうまくクリックしているのか、キャストの中ではキーンリーサイドの次に豊かな情感を感じる歌だったと思います。

キャラクター役にはもっとも役得な感じのあるゴンザーロはベテランのジョン・デル・カルロが自身の人の良い雰囲気と相まって好演してます。
そういえば、ゴンザーロが最後の幕で歌うパート(アリエルが怪鳥に化けて現れる直前の部分)も、
すごく音域が低いうえに、オーケストレーションがなんだか妙で、もうちょっとですごく良い感じになりそうなのに、
途中でめんどくさくなって”これでいいや。”みたいになってしまったのかな?と思うような変さです。

終演後に階段を降りる途中、他の観客の
”まあ、最後までは聴かせる作品になってるし、『テンペスト』の幻想的な雰囲気は出てたよね。”という声が聴こえてきました。
後半については、、、これは人それぞれなんでしょうね。私はシェイクスピアの『テンペスト』を読んでも、
アデスがつけたような音楽やルパージのプロダクションのようなものは全くイメージしませんでしたが、
こういう雰囲気の解釈の仕方もあるんだな、、、と面白かったです。
そして、前半はまったく同意。ヴォーカル・パートについては私は若干”んー、、”と思うところもあるのですが、
オケも含めた作品全体としては、こちらが催眠にかかっているような錯覚がおこるような独特の浮遊感がある瞬間があったり、
2時間にわたってオーディエンスの注意を引きつけて離さない作品を書けるというのはすごいことだと思います。

ただ、、、指揮に関しては、指揮が本職の人に頼んだ方が良かったんじゃないかな、、、。
例えばジョン・アダムスも、彼本人が指揮した『ニクソン・イン・チャイナ』より、
ギルバートが指揮した『ドクター・アトミック』の方がオケに関しては良かったです。
アデスってば、自分で書いた複雑なスコアが手に負えてなくて、メトの演奏もROHに負けず劣らず怪しい部分があって、
そっか、あれはオケというより、アデスの仕業だったんだな、、と思った次第。
それに、、、アデスの指揮振りって、ドミンゴに似てるんですよね、、、
いやー、もうそのやばさに気づいた時点で専門の指揮者を雇うべきだったでしょう、メトは。


Simon Keenlyside (Prospero)
Isabel Leonard (Miranda)
Audrey Luna (Ariel)
Alan Oke (Caliban)
Alek Shrader (Ferdinand)
Kevin Burdette (Stefano)
Iestyn Davies (Trinculo)
Toby Spence (Antonio)
Christopher Feigum (Sebastian)
John Del Carlo (Gonzalo)
William Burden (King of Naples)

Conductor: Thomas Adès
Production: Robert Lepage
Set design: Jasmine Catudal
Costume design: Kym Barrett
Lighting design: Michel Beaulieu
Video image art: David Leclerc
Choreography: Crystal Pite
Dr Circ A Even
ON

*** アデス テンペスト Adès Tempest ***