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Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

DR: TOSCA (Fri Mng, Jan 7, 2011)

2011-01-07 | メト リハーサル
忘れもしない2009年9月、あの身の毛もよだつおぞましいボンディ『トスカ』が初めてメトの舞台を穢して以来、
『トスカ』という演目がメトに戻って来ること自体が恐怖になってしまった私です。
そこで遠慮がちに、”でも、昨シーズンのBキャストみたいなことがあるなら、そう恐れることはないのでは、、?”と呟いた方!
あんなキャスティングと指揮に恵まれることが、そうそうあるとお思いですか?答えはノン!!
キャスティングに恵まれた、と言うのは、単に役柄に歌手の持ち味があってます、というレベルの話ではなく、
どうすればこの演出をワークさせることが出来るか、この演出の中に一体自分は何を持ち込めるのか?ということを考えられる歌手と指揮者が揃う、、、
私がここでいう”恵まれたキャスティング”というのはそういうことなのです。
主役3人に指揮者までがそういう組み合わせになるというのは滅多にあることではなくて、
だから、あのBキャストをスタンダードにして考えるのは無理があるのです。
それにしても、つくづく何と罪深い演出なのか、、私のオール・タイム・フェイヴァリット『トスカ』をオペラ・ライフ最大のホラーに変えてしまうとは。

そんなこんなでやって来た恐怖のドレス・リハーサル。
上述した昨シーズンのオープニング・ナイトの『トスカ』については、
演出そのものから来るメインの恐ろしさもさることながら、他にもいくつかの小恐怖が仕込まれていて、
マッティラ(トスカ役)のおばはんくさい演技・歌唱・ルックスのトリプル攻撃はもちろん、
マルセロ・アルヴァレスが本来彼の持っている声質・サイズを越えて、カヴァラドッシのような役を歌ってしまうというストレッチ攻撃、
一生懸命歌い演じているのは良くわかるのですが、ボンディの指示にあまりに素直に従ってしまった余り、
大事なトスカがスカルピアを刺し殺す場面で死に姿がごきぶり!だったガグニーゼのコックローチ攻撃など、もう枚挙に暇がありません。



今シーズンの『トスカ』は相変わらずアルヴァレスがカヴァラドッシに配されているので、
私にとっては、もうこの時点で小恐怖のカウント1!って感じなんですが、彼の場合は声質・サイズの問題を抜きにすれば
(つまり、カヴァラドッシ役の歌唱から本来得られるはずのスリルはあきらめなければなりませんが)、
彼の出来る範囲での、きちんとした、いわゆる”まともな歌”ではあるので、
この辺のレパートリーを説得力を持って歌えるテノールが極めて少ない現状のもとでは、
彼がメトにこの役でキャスティングされ続けるのも仕方がない部分があるのかもしれません。

さて、肝心要の表題役を歌うのは、ソンドラ・ラドヴァノフスキー。
彼女は去年の四月にホロストフスキーと行ったリサイタルのアンコールで”歌に生き、恋に生き Vissi d'arte, vissi d'amore”を披露していて、
それは、そのリサイタルのほとんど直後に予定されていた彼女のロール・デビュー(場所はコロラド・オペラ)の予告編、といった位置づけでもありました。
実はその”歌に生き、恋に生き”は、マッティラの”なんじゃこりゃ?”な歌唱に比べるとずっとずっと良く、
いえ、むしろ、誰と比べなくても、ただ単純に絶対的なスケールで見てもなかなかすぐれたVissi d'arteで、
こんな雰囲気で全幕を歌えるなら、これは彼女のトスカ役はかなり期待できるかも、、と思っていたのです。
私だけでなく、そのリサイタルのオーディエンスの多くの方も、同じように感じていたのではないかと思います。
最近の『トスカ』は、カヴァラドッシだけでなく、トスカの方も段々こじんまりして来ている感じがあるのですが
(もしくは、ヴォイトのような、声量はあっても雰囲気や声質的にこの役とは違和感があるソプラノが歌うか、、)
そこは、さすが声がでかいソンドラ姉さん、スケールの大きいこと、大きいこと、、、こういうトスカは久々に聴くなあ、と思いました。
私は声がでかいことが=悪い歌手にすぐに直結するとは思っていなくて、
声がでかくてもきちんと小回りが利いて、繊細な歌いまわしも出来るのなら、問題はないと思ってはいるのですが、
彼女はヴェルディの『イル・トロヴァトーレ』全幕での歌唱を聴いた時に、装飾歌唱の技術に非常に重たいものがあって、
一部のヘッズには技術も声量も含めて異常に人気の高い彼女なんですが、私はちょっと懐疑的な部分があるのです。
また、今回はヴェルディとは違った歌唱の難しさがあるプッチーニの作品のタイトル・ロール、
しかも、非常に高い演技力が求められるトスカ役ということで、そのあたりも注目しつつ鑑賞したいと思います。
まあ、でか声も場合によってはOKと言いましたが、相手役をつとめるアルヴァレスの声は決してサイズがあるとは言い難いので、
バランスの面から、彼女のブルドーザーのような声に、アルヴァレスの声が潰されないことを祈ります。

この作品で最も大切な役として、三角形の一角をなすスカルピアを歌うのは、ファルク・シュトルックマン。
今まで一度も舞台で見たことがないだけでなく、私はこれまで名前も聞いた事がないバリトンなんですが、
(メトにはずっと前にデビューしているのですが、以前の私は鑑賞しない演目もたくさんあったので、単にご縁がなかったみたいです。
今シーズンの前にメトに登場したのは2003年だそうで、8年近いブランクがあるのも一因かもしれません。)
こういう時は期待を一番下のところに設定しておくに限ります。
どうせ、ガグニーゼみたいなごきぶり体型のおやじ(と言っても私とほぼ同い年ですが。)が出てくるんでしょうから。
第一、この演出でスカルピア本来のエレガントで冷酷な雰囲気が出せる人はまずいないでしょう。
Bキャストのブリンのように漫画風に演じるのが一番の得策だと思いますし、
よって、ごきぶり体型でも全く問題がないどころか、その方がかえって良いくらいなものなのです。



しかし、リハーサル開始直前にいきなり舞台に現れたメトのスタッフ!
何かしら?どきどき。
”カヴァラドッシ役のアルヴァレスが風邪のため今日のリハーサルは歌えません。同役はリチャード・リーチがつとめます。”
リチャード・リーチ!!!なんて懐かしい名前でしょう。メトで全然キャスティングされなくなったのでどうしていたのかと思っていました。
(メトの本公演で歌ったのは2004年の『カルメン』が最後のようです。)
リーチがメトに毎年のように登場していたのは90年代を通してのことで、アルヴァレスがメト・デビューしたのが1998年、
リーチがアルヴァレスの本来のカバーなのか、単に今日のドレス・リハーサルに連れて来られただけなのかわかりませんが、
まあ、時の流れというのは残酷です。
そして、声を聴いてその思いが一層増しました。
このままアルヴァレスが風邪だと、初日は彼にお鉢が回ってくる可能性もあるから声を酷使したくないのでしょうか、
”妙なる調和”はかなりマーキング気味なんですが、それがかえって彼の声の衰退ぶりを強調していて、これは聴いていてちょっと切ないものがあります。
全盛期の頃の彼はこんな声じゃなかったんですけれど、、。
それでも、声の重い軽いを言うと、せいぜいリリコ辺りがレパートリーの本来の端、と言われていたリーチですら、
(まあ、年齢を経てそうなったというのもあると思いますが)アルヴァレスよりはずっとどしんとした声をしています。
こういうのを聴くと、やはりアルヴァレスにはカヴァラドッシは重いんだよなあ、、という思いが強くなります。
それにしても、今日はオーディエンスの中にゲルブ支配人の姿もあって、リーチは力を抜いて歌っている場合じゃないと思うのですよ。
おやじテノールの意地を見せて、”自分を使ってくれ!”とアピールしないと!!
結局、一幕の後にゲルブ氏は席を立ってしまったのですが、なんとニ幕からリーチの調子が上がり始めて、
Vittoria!は、アルヴァレスよりもずっとずっとパワーがありました。
マーキングなんてしないで、きちんと歌えば、もちろん昔と同じ声はありませんが、発声の基礎はそれなりにきっちりしていて、
聴けないほどまずい歌唱でもないし、歌いすすめるうちに歌唱の方は安定してきて、三幕の二重唱なんかも悪くなかったと思います。
また、カヴァラドッシはメトでも歌ったことがあって、持ち役に入っているので歌いなれていることもあり、
彼は演技についてはほとんど全く何もしていないような、昔仕様のオペラ歌唱で、熱さもあまりなく、
手放しで褒められるような素晴らしい内容でも決してないですが、ニ幕、三幕に関してはまずは安心して聴いていられる歌唱でした。
どうして最初から本気モードで歌わなかったんだろう、、、多分、今それを一番後悔しているのは彼自身だと思いますが。



しかし、私、リーチとの久々の出会いにびっくりしている場合ではありませんでした。
このラドヴァノフスキーのトスカは一体何なんでしょう?!?!?!?
最初の”マーリオ!”からピッチが甘くて、そのピッチの問題はリハーサルの最初から最後まで、つまり作品を通してずっと付きまとっていました。
すぱっとすぐに正しい音程に入らずに音を探すような感じがするのも、とても気持ち悪いです。
一番???なのは、歌えば歌うほどどんどんテンポが遅くなっていくような気がする、この気の遠くなるようなまったり感です。
もちろん、テンポが遅い演奏の中にも優れたものは存在します。
でも、テンポを遅くしたら、その分それを底で支える緊張感が絶対に必要で、
それは早く演奏する場合よりもある面ではなお一層演奏者にとっては大変なことで、当然のことながら、それは芸術上の選択として行われるべきです。
つまり、大変なのを承知で、その場面にふさわしい表現であるという信念のもとに、テンポをゆったりととるのです。
私はラドヴァノフスキーが異常にゆったりしたテンポで歌っているのは、そういう信念のもとで行っていることかと最初は思っていたのですが、
どうやら、観察しているうちに、そうではないらしいことに気付いて愕然としました。
そう、そんな深い理由ではなく、彼女は単にそのテンポでしかこの役を歌えない、そういうことなのです。
彼女の中にはこういう風に『トスカ』を歌いたい、というイメージがどうやらあるみたいなんですが、
その頭の中で鳴っている音に達するまでの、彼女の声の方のレスポンスが遅くて、結果として、
そこに達するまでその音をひっぱるということを彼女はしているのです。無意識か意識的にかはわかりませんが。
先に書いた、音がすぐに正しい音程に入らなくて探るような感じがある、というのも、
結局はそのことの一例で、正しいピッチに辿り着くまで(辿り着かない時もあるのですが)音を引っ張っているのです。
で、歌っているうちに彼女は自分の楽な方へ、楽な方へ、と流れていくので、どんどんテンポが遅くなっていくような、
だらだら足を引きずって歩いているようなダル感が生じるというわけです。



歌手にオケを合わせるのが上手いという、指揮者マルコ(・アルミリアート)の、普通なら美点になるはずの特質も、
ここではただただバックファイアーするのみ。
マルコはおそらくラドヴァノフスキーが芸術上の選択からでなく、技術上の未熟さから歌が後ろ倒し、後ろ倒しになっているのをきちんと感じ取っていたのでしょう、
出来るだけそれに合わせようと努力をし、それを感じ取ったラドヴァノフスキーはさらにそれに甘え、、と、
ものすごい勢いでお互いに火を注ぎ合う、下向きのスパイラルになって行ったのでした。
『トスカ』は割りとメト・オケが得意としている方の演目だと思うのですが、このあまりの事態に、
アンサンブルが崩壊してしまった箇所がいくつかありました。
私など、この調子で演奏が続いたら、夜の公演が始まる時間になってもまだこのドレス・リハーサルは続いているのではなかろうか、、
と怖くなったほどです。

結局、マルコはこの路線を初日でも続けてしまって、ブロガーや批評家から”オケの演奏がダルい”とさんざんな叩かれようでした。
これに、”僕はラドヴァノフスキーをサポートしていたに過ぎないのに、、”と、とうとう切れたか、
二日目以降の演奏では、ソンドラ姉さんを”もっと早く!”と煽る作戦に切り替えているそうです。
いや、それでいいと思います、私は。
ところどころで歌手の苦手な部分をサポートするのは良いと思いますが(昨年のBキャストでルイージがラセットをサポートしていたように、、)、
全編通してこんな調子でしか歌えないなら、役を引き受けるべきではないのです。
引き受けた以上、指揮者の常識的なテンポ設定などには対応できるべきで(そして、マルコが非常識な設定をするタイプの指揮者でないことは明らかです。)、
それが出来ないとしたら、それは指揮者の問題ではなく、歌手の問題で、非難されるべきは彼女であり、マルコやオケではありません。
それをはっきりさせるためには、サポートの限りを尽くすお人良しを止めるという荒療治も有効かと思います。

声の大きさに関してはリーチが割りと良く通る声なので、特に彼女が度を過ぎて大声と感じることはなかったのですが、
(まあ、もちろん絶対的な尺度では大きくはあるんですが、、)
気になったのは、彼女の歌唱については以前からずっとそういう傾向があるですが、一部の母音を出す時に顕著に入ってくるもわーんとした独特の響きで、
もっとストレートな音で歌った方が魅力的なのにな、と思います。実際綺麗な音が出ている時もあるので。



そもそも歌がこんな調子で、作品と本当にコネクトするような演技をすることも無理なのは明らかなのですが、
彼女の下品な演技にもぞっとさせられます。
それは第一幕から全開で、カヴァラドッシと教会でいちゃいちゃしながら笑う、その笑い声が、
Bキャストのラセットは”うふふふ、、。”という感じのかわいらしい笑い声だったのに対して、
”なはははは、、。”という、どっかの売春宿のおかみが高笑いしているかと思うような、
もう私が男性だったら、立っていた何もしゅん、、としぼみそうな(いつも通り表現が下品ですみません)色気ゼロの笑い声で、
一体彼女はトスカという人物をどういう人物だと思って演じているのだろう、、?と、こんな基本的なところを疑わざるを得ない有様です。
この笑い声は相当評判が悪かったようで、メトのスタッフにもストップをかけられたか、初日のシリウスの放送では、
ラセット型の笑いに置き換わっていたのは、もう当然でしょう!という感じです。
この後もぎっこんばったん、大味で大袈裟な演技ばっかりが続き、まあ、彼女も演技のセンスの無いことではマッティラに負けてません。
一言でまとめるなら、彼女のトスカは下品すぎます。まるで場末のキャバレーのホステスみたい。演技だけでなく、歌もそう。
そして、ここにこそ、プッチーニのこの辺の作品を歌う難しさがあるんですよね。
生半可にしか役を咀嚼してないと、一気に歌と演技が下品になってしまう。
”歌に生き、恋に生き”はそこそこ上手くまとまっていました(マッティラよりは間違いなくまし。)が、
アリア一曲をきちんと歌えることと、全幕で役をきちんと表現するということには、それこそ海ほど広い隔たりがある、そういうことです。



では、今日のドレス・リハーサルは何一つ良いことがなかったかというと、それがどっこい!
私が期待値ゼロにしておいた、今まで名前も知らなかったバリトン、シュトルックマンが思いがけない健闘を見せて、
今日は彼を聴けたことでよし、としたいと思います。
彼は、このボンディの演出で、スカルピアを限りなく本来のスカルピア像に近く歌い演じる、という荒業に出ていて、
”えー、大丈夫?!”と最初は思いましたが、彼の美しい舞台姿、それから彼の歌唱・演技両面での表現力のおかげで、かなり良い線を行っていたと思います。
彼の素晴らしいところは、非常に自分が歌っている言葉に意識的な点で、彼はドイツ人なんですが、
非イタリア人だからこそ、かえってここまで言葉に執着できる、という面もあるのかもしれません。
言葉に合わせて微妙に声のカラーを変えたり、アクセントをつけたり、短めに言葉を発したり、と言った、
表現に深みを与えるための限りない工夫が感じられ、こういうレベルに達してこそ、その役を歌う資格があるってものよ、
(聞いてます?ラドヴァノフスキー!)と思います。
それに、彼は本当演技が出来る!
私、(アンジェロッティの居場所に繋がる秘密は)何も話してないわよ、と、カヴァラドッシにしらばっくれるトスカを見て、
彼女が口を割ってしまったことがわかる内容の指示を2人の目の前でわざと部下に出す場面では、
トスカ、ピーンチ!の様子に、もうこりゃ傑作!という風に太ももを何度も何度も叩いて喜ぶ演技を入れるんですが、
これがもう実に憎ったらしいまでの嫌な奴ぶりなのです。
しかし、決してターフェルのように漫画にまでは転んでいなくて、スカルピアが持っているべきエレガンスさは失われていない。
トスカに刺される場面での鬼気迫る死にっぷりも上手くて
(初日の放送ではちょっとやりすぎ感がありましたが、リハーサルの時の演技は素晴らしかったです)
ラドヴァノフスキーではなくて、彼の方がこの場面を成立させていたような感じがするほどです。
適度な声量もあり、音を絞って出す高音域がなかなか色っぽくて綺麗で、一幕の教会でトスカと会話するあたりで、
それを生かした、猫をかぶったスカルピアの表現も巧みだったと思います。
テ・デウムの後、マリア像に抱きつく演技がオリジナルのボンディの演出に入っていたのは昨年のオープニング・ナイトの
公演の感想に書いた通りですが、
シュトルックマンのスカルピアは、代わりにそっと片手をマリア像の頬に当てて、少しだけ親指で愛撫するような仕草をして、幕。
これで十分、ボンディが表現したかったことも、スカルピアのエレガンスさを損なわずに表現しきっているわけで、
彼の表現力、演技のセンスの良さ・上品さは、私、今回、とても気に入りました。
悪夢のような今年の『トスカ』の中で、唯一の明るい光です。

この日、私の斜め前にホロストフスキーが座って鑑賞していて、おそらくラドヴァノフスキーと共演したこともある彼は
彼女の応援がメインだったのでしょうが、シュトルックマンの歌唱と演技に釘付けになっていたのを私は見逃しませんでした。
スカルピア役もいずれ歌う予定があるんでしょうか?
今日のような優れたスカルピア役の解釈をどんどん役作りに生かして頂いて、いつか、素敵なスカルピア役をメトで披露してくれるのを期待しています。
ただ、一年も経たない間にかなりお太りになったように見受けるので、スカルピアの前に少し減量を!

結局、1/10の初日になってもアルヴァレスの風邪は回復せずじまい。
代役に立ったのは、メトに関するプチ・ニュースの欄でお知らせした通り、同時期に『カルメン』のホセ役でメトの舞台に立っているアラーニャ。
私はこのニュースを知った時、泡を吹いて倒れるかと思いました。
彼がいなくてもすでに十分に悪夢な『トスカ』に、また何を足すんじゃ!という、、。
もちろんこんなわけのわからないことを考え出すのはGで名前が始まる支配人です。
彼はその日がメトで初めて歌うカヴァラドッシで、私もシリウスで拝聴しましたが、まあ、ひどいの一言。
彼の声質から言って、本来迫力を持って歌えるはずのないこの役を無理に歌おうとするものだから、
支えがないまま声を無理に飛ばそうとしていて、そんな歌い方がどういう結果になるかは目に見えてます。
そう、ひたすら、へろへろ。
そんな歌でもアラーニャさえ出てくれば客席は大喝采なんですから、メトも本当、お手軽な場所になったもんです。
その『トスカ』のたった三日後の『カルメン』を鑑賞しましたが、彼の声のコンディション自体は非常に良かったので、
へろへろカヴァラドッシはコンディションのせいなんかではなく、合わない役をプッシュして歌った結果が空回りして極端に現れたものだと考えます。
あれならリーチの方がまだまとも。リーチよ、だから超スター歌手でない限り、どんな時にも全力投球で歌わなくちゃ駄目なのです!


Sondra Radvanovsky (Tosca)
Richard Leech replacing Marcelo Álvarez (Cavaradossi)
Falk Struckmann (Scarpia)
Paul Plishka (Sacristan)
Peter Volpe (Angelotti)
Dennis Petersen (Spoletta)
James Courtney (Sciarrone)
Harold Wilson (Jailer)
Yves Mervin-Leroy (Shepherd)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Luc Bondy
Set design: Richard Peduzzi
Costume design: Milena Canonero
Lighting design: Max Keller
Orch Z Even
ON

*** プッチーニ トスカ Puccini Tosca ***

DR: COSI FAN TUTTE (Fri, Nov 5, 2010)

2010-11-05 | メト リハーサル
モーツァルトは、やっと最近、公演に行けば、最初から最後まで楽しめるようになり
(以前は鑑賞していて苦痛になる時間があった、、、)
何より、彼がすごい作曲家であったこと、これだけは身にしみて判るようになって来たのですが、
今でも、鑑賞する前の段階で、公演の日を心待ちにする演目グループの中に
モーツァルトの作品が含まれているか?と言われると、とてもとても微妙です。

この世の中にはどんなにキャビアや松茸が価値のあるものかわかっていても、どうしても好きになれない人もいるのですから、
私もモーツァルトがあまり得意でない自分を卑下しなくてもいいと思っているのですが、
しかし、ふと、このしつこいモーツァルト作品への苦手意識はどこから来ているんだろう、、?という疑問が芽生えるようになりました。
『フィガロの結婚』は、あと一歩で私の好きな&鑑賞が楽しみに思える作品群に入り込めるところまで来ているので、
『フィガロ』からモーツァルト作品に入っていたならば、
こんなモーツァルト・フォビアな人間にはならなかったのではなかろうか、、?と思ったり、、。

記憶を手繰り寄せ、そこで、私は衝撃の事実に思い至ります。
それは、私のモーツァルトの全幕生鑑賞初体験が『コジ・ファン・トゥッテ』で、
奇しくもそれがメトの日本公演であったという事実です。
確か、デスピーナ役を歌うバルトリをどうしても生で聴いてみたかった、というのが動機だったんだと思います。
しかし、嗚呼、結局バルトリは降板、、、
代わりにデスピーナを歌ったのは、クレア・ゴームリーという、あなた誰?なソプラノでした。
(この時にバルトリを聴き逃したせいで、2009年まで私には彼女を聴く機会が訪れなかったわけですから、
こういうもののめぐり合わせというのは怖いです。)

そしてその『コジ』への予習のためにCDを聴く度、
一幕の終わりに到達するまでに爆睡状態に陥ってしまったことも記憶に蘇って来ました。
最初の数日は、たまたま疲れが貯まっているからだろう、と思っていたのですが、
数日経つうちに、疲れではないことがはっきりしました。
当時の私にはこのオペラは最強に退屈に感じられたのです。
このままではとても作品の最後まで万遍なく予習できない、、というわけで、
せめて全編にわたって有名なアリアと重唱くらいはきっちり聴いておこうと思ってCDを聴くのですが、
つまらなさが減少するどころか、ますますつまらなくなったような、、、で、また爆睡!のパターン。
こんな世に聴き所と言われる部分だけをピックアップしても、
なおつまらないとは、『コジ・ファン・トゥッテ』とは、なんと手強い作品なのだろう、、
私のコジ・フォビア、ひいてはモーツァルト・フォビアはまさにここを原点に始まったような気がします。

このメトの日本公演はゴームリーの他、ジェリー・ハドレイ(フェランド)、
ドウェイン・クロフト(グリエルモ)、キャロル・ヴァネス(フィオルデリージ)、
スザンヌ・メンツァー(ドラベッラ)、そしてトーマス・アレン(ドン・アルフォンゾ)、指揮にレヴァインという顔ぶれで、
その1997年から13年が経つうちには、ドウェインが公演に出演していたことも失念してしまっていて思わぬ切り返しにあわあわしたり
また、ジェリー・ハドレイが自らの命を絶つという悲しい出来事もありました
(正確には銃で頭を撃った後、植物人間状態になり、最後は生命維持装置が外された、ということです。
あまりに痛ましい内容に、亡くなった当時のOpera Newsでは亡くなった理由がはっきりと発表されなかったように
記憶しているのですが、現在はWikipediaなどにも説明があがっています。)が、
何と、今シーズン上演される『コジ・ファン・トゥッテ』は、その13年前と変わりない、レスリー・ケーニックによる演出。
あの日本公演でモーツァルト嫌いが始まった私としては、不安が募りまくっても誰も責められまい、というものです。

今日はその『コジ』のドレス・リハーサルの日。
今シーズンの公演のキャストは、ミア・ペルション、イザベル・レナード、ネイサン・ガン、
パヴォル・ブレスリク、ダニエレ・デ・ニースという、
まるでこの公演で映画版コジでも作る気なのだろうか?と思わせるほど、
ルックスの面ではこれ以上ないほど強力なキャストなんですが、
ルックスだけではなく、過去に他の劇場で(時には複数の演出の)『コジ』を歌ったことのある歌手がほとんどで、
このフレッシュなメンバー(ガンをフレッシュと呼ぶのはちょっと無理があるかもしれませんが、、。)には、
歌唱面でもヘッズに大いに期待されているものです。

それから今回の『コジ』がメト・デビューとなる、指揮のウィリアム・クリスティ。
バロックのスペシャリストとして評価の高い彼がモダン・オケであるメトのオーケストラをどのようにまとめていくか、こちらも注目大です。



リハーサルが始まる前に”ドン・アルフォンゾ役を歌うウィリアム・シメルがリハーサルに参加したばかりのため、
まだ調整中の箇所が多い点、ご了承ください。”との旨のアナウンスあり。
参加したばかり、、って、しかも初日は3日後に迫っているのに何を言ってるんだ?!という感じだったんですが、
リハーサルから帰宅した後に知ったところでは、実はこの役、
当初キャスティングされていたのはウォルフガング・ホルツマイアーで、
彼が突然降板することになって(注:メトの発表では一応鼻腔の感染ということになっているんですが、
ほとんど同時期のソロ・リサイタルはキャンセルしていないので、本当の理由は他のところにあるかもしれません。)、
土壇場で連れて来られたのが、このシメルだったというわけです。
シメルは以前にもクリスティの指揮でこの役を歌ったことがあるようで、
代役に登用されたのも、クリスティが指名した可能性が高いかもしれません。



まず、個々の歌手の話をすると、なんと自分でもびっくり、
一番良い意味で驚かされたのはデ・ニースのデスピーナでした。
私が彼女を決して高く買っていないことは、過去の記事でさんざん書いていますので詳しくは繰り返しませんが、
一言で言うと、彼女が舞台に現れた途端、舞台全体が蹴散らされるような感じのする、
あのアンサンブル能力のなさ(歌唱だけでなく、演技や存在自体がハーモニーを乱すところ)が嫌です。
しかし、このデスピーナは悪くない。いや、むしろ、かなり良いと私は思いました。

メトの日本公演でのゴームリーも決して悪くはなく、
彼女は本当に典型的な、おきゃんで、可愛くて、頭が良くて、でも憎めない王道スーブレット系路線でこの役を処理していたのですが、
それがCDで聴いて私がイメージしていたこの役の雰囲気と一緒で、とても退屈でした。

そこを行くと、デ・ニースのデスピーナのこれはなんと下品で育ちの悪そうなこと!
フェランドとグリエルモが船出してしまった(ふりの)後に来る姉妹の部屋のセット(第9景)を、
デ・ニースが肩に回しかけたロープで引っ張って登場するのですが、
最初から、”こんな仕事やってらんねーんだよ。”という態度丸出しのべらんめえ系小間使いです。
私の持っているリブレットにはそんな言葉がないので、彼女のアドリブかと思うのですが、
アルフォンゾに話しかけられる場面に、”で、何?”という言葉を挿入していて、
それもただの”何?”ではなく、”一体、なんなのさ?”というニュアンスがこもっていて、ほんっとに柄悪そう、、。
思わず観客も吊られて笑ってしまいます。
今思えば、どんなに可愛く(『フィガロ』の)スザンナのような役を歌っていても、
しおらしく(『オルフェオとエウリディーチェ』の)エウリディーチェのような役を歌っていても、
デ・ニースには彼女自身にそこはかと出てくる下品さのようなものがあって、
そこが私が彼女のスザンナやエウリディーチェを好きになれない理由のひとつでもあったんだな、と感じます。
しかし、今回はそれを逆手にとられた形です。
彼女のこの役へのアプローチと彼女自身が持っている下品さの波長が完全に一致して、実に良い感じではないですか!!
この役では、彼女の高音域で音が浅くなる欠点がスザンナの時ほどには目立たず(もちろん多少は感じられますが)、
スザンナより断然デスピーナの方に歌唱的に求められるものでも適性があるように思います。
それから、このデスピーナという役はスザンナと違って、他のどの役からも少し距離がある、
(強いていえばアルフォンゾに近いと言えますが、でも彼女も彼に一杯食らわされているわけで、、。)
この点が、デ・ニースの舞台上のアンサンブル能力の欠如に必ずしも逆風になっていないのも、彼女にとってはラッキーな点です。
デ・ニースの進撃はここで止らず、デスピーナが医者や公証人に扮するところではさらにパワーアップします。
彼女はこれらの場面をかなりオーバーに演じていて
(公証人のところでは、彼女が歌っているとはわからないほど、声音を変えて歌ってみせています。)
このアプローチはやり過ぎだ、と思う観客もいるかもしれませんが、私は好きです。
彼女はここまで突き抜けたコメディックな演技での方が、良さが出てくるように思います。
今回の彼女のデスピーナ役を私がいいな、と思うのは、彼女の個性にどんぴしゃにはまったことも大きいのですが、
彼女なりにとてもはっきりとしたアイディアを持ち寄って、それに向かって迷いなく歌い演じている点にあります。

姉フィオルデリージを歌うミア・ペルションは、これまでに『ばらの騎士』のゾフィーや、
『ヘンゼルとグレーテル』のグレーテルで聴いたことがありますが、結構舞台毎の出来に差がある人で、
かつ、声の響き的には高音域寄りの音の方に魅力がある典型的ソプラノ声なんですが、
彼女が出せる最高音に近くなってくるにつれて、ぎすぎすした音色になる傾向があって、
出来のあまり良くない方の公演を聴いてしまうと、そこがすごく強調されてしまうような気がします。
今日の彼女は特に絶好調でもないですが、最悪でもなく、彼女の平均的歌唱が聴けたと思うのですが、
この役の彼女について最も残念に感じるのは低音域の弱さで、”岩のように動かずに Come scoglio immoto reata"も、
”恋人よ、どうぞ許して Per pietà, ben mio, perdona"のいずれも、
難曲であることを差し引いても、もう少ししっかりした低音域が出せるソプラノが欲しいなと思います。
(ということは、上にも下にも音域が狭いということになるんですね、ペルションは。)
メトの日本公演で歌ったヴァネスはその点、しっかりしていましたし、
フレミングは実演では聴いたことがなく、録音でしか判断できませんし、
歌唱全体としては全く私の好みのスタイルではないですが、低音がしっかりしていることでは、ペルションの数段上です。
ただ、ペルションは舞台姿が本当に美しく、しかも、超美人。
このリハーサルと初日の公演を鑑賞した後日後に、
彼女を含む女性キャスト全員が登場したパネル・ディスカッションに参加して来ましたが、
そんな至近距離で見ても、写真よりもナチュラル・メイクの実物の方が綺麗なくらいで、しかも気さくでかわいい、、
メモを取りながらそのまばゆいばかりのかわいさにくらくらしてしまったMadokakipです。
それに比べて横に座っているデ・ニースは厚化粧で、目を見開いて観客に迫ってくるような調子で語るのがとても怖かった、、、
取って食われるかと思いました。ま、その時の話はまた別の記事で。
また、ペルションはアンサンブルの力は決してまずくないので、その点では重唱が多いこの作品で安心して聴いていられました。

高音域で音色に瑞々しさを欠いてしまうペルションに対して、
役に必要な音域の上から下まで渡って実に充実した音を聴かせてくれたのはドラベッラ役のイザベル・レナード。
彼女はケイト・リンゼーと並んでメトが数年前からプッシュして来た若手メゾで、
2人とも細身の美人であり、大体同年代、
共に割とコンパクトな美声の持ち主であるという点と、その当然の帰結としてレパートリーが被っていることなどから、
私は勝手に”最大のライバル同士!”という風に2人を見ていて、どちらの歌手が頭一つ抜けて来るか、非常に楽しみにしていました。
実を言うと、レナードの方が、『ロミオとジュリエット』のステファーノに抜擢されたり、
その後も順調にモーツァルトの作品の主役・準主役にキャスティングされていて、
どちらかというと彼女の方が一歩優勢かな、、と思っていたのですが、
なぜか、半年以上レナードを舞台で見なくなって、その上、『ホフマン物語』のニクラウスでリンゼーの方が一歩抜き出てしまった感があり、
あらあら、、と思っていたのですが、なんと、それはレナードがその間に出産していたためでした。
(ちなみに、彼女の旦那さんは、『カルメン』のHDでエスカミーリョの代役を務めたテディ・タフ・ローズです。)
出産の時期から逆算すると、出待ちをした『フィガロの結婚』に出演していた頃は、完全に妊娠中だったんですね、、感慨深い。
もともと高音域もすごく楽に綺麗に出る人で、ソプラノ的なクオリティのあるメゾ、と言われ続けて来たレナードですが、
このリハーサルがカムバック後の初舞台になる彼女の声は、以前よりもパワーが増していて、
もともと持っていたソプラノ的音色は失われないままに、それに豊潤さが加わった感じで、非常に良い状態にあると思いました。
一つ言うと、舞台上の動きがばたばたしている感じがするのと、その反面、歌唱がやや薄味なのがアンバランスに感じました。
むしろ、彼女の場合は声だけでも十分に観客を魅了する力があるんですから、
フィジカルなばたばたを抑えて、その分、歌に集中し深みを出してくれる方が、彼女の個性にもあうんじゃないかな、と思います。

歌声を聴くのは2008-9年シーズンの『ドン・ジョヴァンニ』以来になるブレスリクなんですが、
感想がその時と今回で全く同じなのに驚いてしまいました。
彼は本来の声はすごく綺麗で、素材としては申し分ないものを持っていると思いますし、
フェランドの役は、元来すごく彼に合った役だとも思います。
なので、欠点が割と見えにくく、全体としては悪くない歌唱だったと思うのですが、
彼の歌の問題点は、このリハーサルの翌週の日曜に行われたタッカー・ガラで浮き彫りになります。
詳しくはガラの記事に書きたいと思うのですが、この問題点が微妙にフェランドでも見え隠れしていて、
それが彼の歌唱を”なかなか良い”から”素晴らしい”に引き上げられない理由ではないかな、と思います。

ガンは今回のキャストの中で、アルフォンゾ役のシメルを除いては最年長になるんじゃないかと思うのですが、
そこそこキャリアを積んできた余裕を感じさせる歌と演技で、
ヘッズには、”ガンは何をやってもガンだけど、その範疇では魅力的な役作り”と揶揄されていましたが、
全く言い得て妙だと思います。

シメルはさすがにわざわざ準備が足りてません、とアナウンスさせただけあって、
オケとかみ合わないところなどが結構ありましたが、私はそれよりも、一体この人は何歳なんだ?
どうしてこんなおじいを連れて来たのか?と思わせる(実年齢がいくつかは知りません)、枯れた声の方が気になりました。
最初に歌うアリアは、熱い歌唱というよりは、ほとんどがなっている状態で、
旋律が良くわからない混沌とした状態になっていますし、、。
演技は決して悪くないので、初日までによく準備して、声ももうちょっと若返ってくれればいいんですけど、、。

クリスティの指揮なんですが、出来る範囲でメト・オケにグランドじゃない、
もっとパーソナルな感じの演奏をさせたい、という気負いと工夫は感じられるのですが、
彼のやろうとしていることが必ずしも成功しているとは言い難い場面が多々見られました。
特に最も多く観察されたのは、彼が突然に、それも猛烈に速くオケを煽ってオケのアンサンブルが崩れるというパターンと、
歌手やオケの一部のセクションに全く指示が出ていない、というパターン。
前者は、指揮の様子から推測するに、もんのすごく早いスピードで演奏させたがっていたようなんですけど、
なぜそこまで突然に早く演奏しなければいけないのか?は良くわかりません。
アンサンブルが崩れなければわかったのかもしれませんけど、あんな急に、崩れるなという方が無理です。
後者に関しては歌手が何度も彼のキューを見失うという場面が散見されましたので、
オケだけの問題ではないことが良くわかります。
まだリハーサルだからかな、、と思いましたけど、初日まで後3日しかないですから!

先述したパネル・ディスカッションの中で、デ・ニースが、
クリスティがオケのメンバーを集めてディスカッションをする場を持った、と言ってましたが、
私に言わせると、そういうことをしているからいけないんだと思います。
彼がレザール・フロリサンと同じ感覚でメト・オケを指揮しようとしたなら、それは大きな間違いです。
それぞれのオケにはそれぞれの事情というものがあって、メト・オケのような、
夜の公演と昼のリハーサルで、ただでさえ団員がへとへとになっているところに、ディスカッション、、
私も以前はメガ・バンクの端くれに努めていたものですから、たまーに似たようなことがありましたが、
こっちがへとへとになって朝から晩まで働いて疲れている時に、善意からでも
”日中にミーティングをしてみんなの親睦を深め、仕事に反映させる。”といった寝言を言う上司は絞め殺したくなったものです。
何もそういった理想を追い求めるクリスティの考え方が悪いと言っているのではありません。
そういうことは場所と相手をわきまえてやらなければ、ということが言いたいのです。
メトの公演スケジュールがもっと楽にならない限り
(そしてそんな日は少なくともゲルブ支配人が在任中はきっと来ないとは思いますが)、
メト・オケが必要としているのは、パフォーマンスに反映させたい内容を、
ディスカッションではなく、指揮棒一本で、限られた時間の中でやってのける、そういうタイプの指揮者だと思います。
クリスティの指揮に隙間を感じてしまうのは、彼自身にこういうディスカッションとか、
指揮者と歌手や奏者のあ・うんの呼吸に頼っている部分があるからじゃないかな、と思います。

しかし、作品としては、あの日本公演の時が嘘のように楽しめました。
私の場合、アリアじゃなく、むしろ、その間とか重唱にあるふとした瞬間、
歌手が歌いだす前に、彼・彼女の複雑な感情を全て一つの和音に結晶させたような瞬間、
そういうところに魅力がある作品なんではないかと思いました。
道理でアリアばっかり聴いていても良さがわからないはずです。
それから、作品を書いた時に作曲家がプライベートでどのような状態だったか、ということは私はあまり考えたくないと思っているのですが、
今日の演奏からは、音楽の中から、モーツァルトの、女性を愛したい、
失望させられても、まだ信じ続けたい、という、そういう心の叫びが立ち昇っているように感じられて、
モーツァルトが決して妻に大事にされていたわけではなかったことを思って、とてもせつなくなりました。
メトの日本公演の解説には、この作品が、モーツァルトの人間に対する冷徹な目で書かれた云々、、というくだりがあるのですが、
私は全く逆の印象を持ちました。こんなに愛を信じたい!と叫んでいる熱い作品は
他のモーツァルトの作品にはあまりないんではないかと思います。
この演出は、もっと現代的な解釈が多くなって来たこの作品で時代遅れだ!という意見がヘッズの間にも多いのですが、
私はこの作品はそんなに複雑で難しいことを言っているとは思わないし、
そっと作品に寄り添っているだけ(この”だけ”は最高の褒め言葉として)のこの演出は素晴らしいと思います。
リハーサル終了後、すでに三日後の初日の公演が楽しみになっている自分がいました。
モーツァルトの作品に関しては、今までの私にはなかったこと。実に喜ばしい。


Miah Persson (Fiordiligi)
Isabel Leonard (Dorabella)
Nathan Gunn (Guglielmo)
Pavol Breslik (Ferrando)
William Shimell (Don Alfonso)
Danelle de Niese (Despina)
Conductor: William Christie
Production: Lesley Koenig
Set & Costume design: Michael Yeargan
Lighting design: Duane Schuler
Stage direction: Robin Guarino
Gr Tier F Odd
OFF

*** モーツァルト コジ・ファン・トゥッテ Mozart Così fan tutte ***

DR: LES CONTES D’HOFFMANN (Fri, Sep 24, 2010)

2010-09-24 | メト リハーサル
いよいよ来週の月曜日(9月27日)に新シーズン(2010-11年)のオープニング・ナイトを迎えるメトですが、
その前に、今日は新シーズン初の公開ドレス・リハーサルがあって、演目は『ホフマン物語』です。
昨シーズンにプレミアを迎えたバートレット・シャーのプロダクションはHD上映もありましたので、
ご覧になった方もたくさんいらっしゃると思いますが、
昨年の公演は、本当に大丈夫なんだろうか、、?という混沌状態から、何とか形になった、という感じでした。

新演出の計画が立てられた頃は、ソプラノ三役(プラス、無言のステラを含めると四役)
全てを歌い演じる予定だったネトレプコが、さりげなく、いつの間にかアントニアしか歌えないことになっていて、
オランピアにはプレミア当時ほとんど無名に近かったキャスリーン・キム、
ジュリエッタにはエカテリーナ・グバノーワを放り込み、ほっとしたのも束の間、
ホフマンを歌う予定だったヴィラゾンが喉の不調により降板するわ(代わりにジョセフ・カレイヤが参上)、
4悪役にキャスティングされていたパペは、やっと楽譜をまともに見る気になって、
”やべ。これは歌えん、、、。”ということに気づくわ(代わりにアラン・ヘルド)、というてんやわんやぶり、、。
さらに最大の打撃は、ニクラウス役を歌う予定だったガランチャが、
『カルメン』を降板したゲオルギューの穴を埋めるため、キャストから抜けざるを得なくなったこと(代わりはケイト・リンゼー)で、
この全てが、ネトレプコの件をのぞき、すべて、初日をさかのぼるたった数ヶ月の間に集中していて、
当時どれほどの地獄絵が展開していたかが、推察できようというもので、
演出家のシャーの苦労も伺われるというものです。

さて、今年の『ホフマン物語』はシャーのプロダクションの早速のリバイバルで、
メインのキャストはニクラウス役のリンゼーをのぞいて、全てがらりと面子が変わってしまっているのですが、
メト側だけでなく、観客側も全く安堵の溜息をもらしたくなることに、
当初から予定されていたフィリアノーティ、アブドラザコフ、リンゼー、クリスティ、
ゲルズマーワ、シュコーザという、メインのキャストの誰一人脱落することなく、出演することになっているのは目出度いです。
また、シャーは昨年の騒動によって、自分の思い描いた通りに舞台を展開させられなかった部分への悔いもあるのか、
なかなかに忙しい身であるはずにも関わらず、今年もリハーサルにきちんと参加し、
(注:メトではリバイバルの演出に関しては、必ずしも演出家がリハーサルに参加するわけではなく、
舞台監督が演出家の意志とメモを引継いで指導にあたることがままあります。)、全キャストの演技指導を行ったようです。

今日のリハーサルを見る限り、今年の『ホフマン物語』は、一言で言うと、その二点が見事に身を結んでおり、
また、個人的な意見をいうなら、歌唱面では、一つの役を除いたメインのキャラクターすべてで
去年と少なくとも同じか、役によっては大幅にそれ以上の良い結果が出ていると私は感じましたので、
新シーズンのキャストが発表された当時は、なんだか地味目なキャストだわ、、なんて思っていたのですが、
キャスティングは全体的には成功しているといって良いと思います。

さて、痛恨なのは、そのたった一つの例外となってしまった役が、
本来ならこの演目ではショー・ストッパーになるはずの、第一幕のオランピアである点でしょうか?
それ、駄目じゃん、、、と思われる方もいらっしゃるでしょう。
よくわかります。一幕のオランピアのアリアこそを楽しみにこの演目を聴きに来る方もいらっしゃるでしょうから、、。

昨年、あんな急場しのぎで、かつ、ネトレプコに比べると、いや、彼女と比べなくとも、
絶対的な尺度で言っても全く無名に近いといってよいハンデをものともせず、
シャーのプロダクションでの、あのポップでanime(アニメ)的雰囲気のオランピア役を、
すっかり自分のものにしてしまい、キュートに歌い演じきって、
オーディエンスをすっかり味方につけてしまったキムに代わって、
今年、同役にチャレンジするのは、アンナ・クリスティというソプラノ。
やはり今日のリハーサルを見ていたオペラ警察が、”彼女はアジアンだね。日本かな?韓国かな?”と言っていたので、
”えー、あれのどこがアジア人よ?”と答えてしまいましたが、いかにも、オペラ警察は正しかった!
リハーサルの翌週にあった本公演の『ホフマン』初日のシリウスの幕間インタビューで本人が語っていたところによると、
なんと、お母様が日本人なんだそうです。思いっきり、アジアン!しかも同じ日本人!!全く面目なし、、、
日系の方と知ってしまった以上、応援したい気持ちはやまやまで、ネガティブなことは書きたくないのですが、
心を鬼にして正直に言うと、彼女をオランピアにキャスティングしたのは、
今年の『ホフマン』のキャスティングにおける唯一にして最大のミス!と思います。
実際、彼女の代わりにキムがもう一度オランピアを歌っていたなら、今年の公演はさらにずっと良いものになっていたでしょう。

本来、このオランピアという役は、観客を興奮の坩堝にたたきこめるような、
歌唱の超絶テクニックと、きらりと光る声のきらめきを持った歌手が歌うべきであり、
新進の歌手が舞台度胸を鍛えるための場にしてもらっては困る、と私は思っているのですが、
昨年のキムの成功に続け!と、メトのキャスティング・スタッフは二匹目のドジョウを狙ったのでしょうか?
そうでなければ、なぜ、彼女をキャスティングしたのか、その意図が良くわかりません。
二度目のドジョウって、、そんな簡単に行くわけないです。
キムがやってのけたようなやり方で、この役に課せられた期待に、
新進の歌手が答えるというのは、そうそうあるケースではないのだ、ということを、
クリスティの歌を聴きながら、しみじみ感じてしまいました。
私は例えば、世界の歌劇場の一線で活躍しているソプラノと比べると、
キムですら、必ずしも超高音の響きが強い方だとは思っていないのですが、
その代わり、そこに至るまでの音域における響きの美しさと独特のたおやかさというのは、特筆するものがあると思っています。
まず、クリスティが厳しいのは、彼女も高音が(キム以上に)得意でないことに加え、
他のレンジにおいても、他の歌手に比べて、際立つような、美しい音色にも欠けている点で、
中音域の少し上のあたりから聴かれ始める、きしきしとした潤いのないメタリックな音色は、まったく魅力的じゃありません。
それに加えて、もう一つ大きな問題点は、音のコマンド、コントロール能力が
この役を歌うに必要なレベルに達していないということで、
ほとんど音符にふりまわされている、と言ってもよく、
高音は何とか出ているのですが、ほとんどアタックしたらすぐに降りる準備が始まっていて、
せわしいことこのうえなく、そのせっかく出ている音をもうちょっと楽しませてほしいのにな、と思ってしまいます。

今回指揮にあたっているフルニイエーは、メト・デビューということで、肩に力が入りまくっているのか、
大抵の場合は、ドレス・リハーサルの段階になるともう、あまりぐちゃぐちゃ細かいことを言わないのが普通なんですが、
(そういうことは、オケとのリハーサルの段階できちんとやっておきましょう、、ということなんです。)
いちいち幕の後に、気になった部分をやり直したがって、
二幕の後は、スタッフから、”もう時間がありませんから。”と言われてしまう始末。
ただし、彼が一幕でやり直しをさせた、スパランツァーニがAssez, assez, ma filleと歌ったまもなく後に出てくる
オランピア役のOui! Ah! Ah!は、クリスティの方が全く入りのタイミングがオケからずれていて、
やり直しさせたくなったのももっともだと思います。
頼むから、本番はちゃんと歌ってくれよ!!という、、。
彼女はこのやり直しでも1回で抑えられなくて、もう1回繰り返させられていましたから、
自分のパートをまだまだ完璧にはものに出来ていなかった、ということの一例といえるかと思います。



ホフマン役を歌ったフィリアノーティは、おそらく初日のためにきちんと声をキープしておきたい、という意図からでしょう、
最初はあまり一生懸命になり過ぎないように、、と、押さえて押さえて、
場所によってはマーキングに近い感じで歌っていたのですが、
幕が進むにつれて、段々本気が出てきてしまって、最後にはほとんど全力モードになりそうだったのが微笑ましかったです。
彼のホフマンは去年のカレイヤの、どことなくひねくれた陰鬱とした人間像とは、かなり対照的な役作りで、
直情的で熱く、最初は少しこの役、およびこのプロダクションにはストレート過ぎるかな?と思うのですが、
ラストに至るまでには、こういうホフマンもまた一つの役のあり方だな、と観客を説得する力は持っています。
歌のスタイルについても、彼自身の側にも、特にフランスものだからということを
特別に意識して歌っている、ということはないと思いますし、
その通りに、とてもイタリアンなホフマンになってますが、
まあ、これもまた良いではないか!と思わされてしまいます。
声自体、カレイヤのちょっともこっとした音色に比べると、
フィリアノーティの方が(カレイヤよりは若干軽い感じがしますが)開けた音がするので、
それも観客に与える役の印象がずいぶん違う要因のひとつだと思います。
ちなみに、このリハーサルでは、声を本公演に向けてセーブするため、
特に高音で少し力を抜いて歌っていた、というのは先に書いた通りですが、
この翌週の初日の公演をシリウスで聴いていたところ、もう声をセーブする必要もなくなったため、
リハーサル以上に熱い歌唱になっていて、今までメトで聴いたフィリアノーティの歌唱の中では最も印象に残る公演でした。
この調子で、私が本公演を見に行く日まで好調でいて欲しいです。

フィリアノーティに関しては非常に役の準備も良くされている、と思ったのですが、
彼と双璧だったのが、アブドラザコフの綿密な役柄への準備振りです。
といいますか、アブドラザコフは根っからまじめな人なのか(もちろん、才能もあるでしょうが)、
今までに全幕で観たどの演目でも、”適当な準備しかして来なかったな、この人は、、。”と思わされることがなく、
いつも非常に勤勉な感じのする人です。
そのきまじめさが、今ひとつ、彼の歌唱は面白くない、、という評価につながっている感じもあるのですが
(何を隠そう、私もそんな評価をしている一人ではないですか!)、
今回、彼の中には、はじけたい願望が生まれ始めているのではないか、と思いました。
普段から、妻のボロディナや友人のネトレプコの尻に敷かれて密かに鬱憤が溜まっているのかな?
昨シーズンの『ファウストの劫罰』のメフィストフェレスに比べると、
今回の4悪役は、一皮剥けた感じで、しかも、本人がやたら楽しそうです、、。
上の写真のシーンの後も、歌いながら、ピンポン玉くらいの大きさの目玉を両手でジャグリングし始めて、
”一体、イルダルはこんな技をどこで覚えて来たのか?サーカスにでも入団する気なのか?!”とびっくりしました。
そのまま段々ジャグリングしている目玉の数が三つ、四つ、、と増えたり、
ニクラウス役のリンゼーが彼の肩に飛び乗ったりするのではないか、と、
ちょっぴりわくわくしてしまいましたが、さすがにそれはありませんでした。

それにしても、まあ、彼の歌唱はなんて隙がないんでしょう!
すごく丁寧かつ綺麗に言葉を音にのせているし、声はやっぱり端正で美しく、
素材としては、非常に優れたものをもっている歌手です。
それに加えて、今回、非常に嬉しいことに、この4役の歌唱では、少し貫禄が出てきたかな、とも思います。
まあ、一言で言えば、前回のヘルドから大幅なアップグレードです。
ヘルドも頑張ってましたが、アブドラザコフのこのノリノリの四役は非常にチャーミングで、お茶目で、
単なる”まじめで良い人”からもしかするとこの人はブレークするかもしれない!と一条の光を見ました。
次に彼を何の役で聴くのかはまだわかりませんが、これはちょっぴり楽しみになりました。

ニクラウス役のリンゼーは昨シーズンと歌の内容、役作り、と、ほとんど変わった点がなく、
私個人的には両面ともに少し小さくまとまっている感じがするのが残念と言えば残念ですが、
彼女のこの役を絶賛する人も多く、好みの問題なのかもしれません。

ジュリエッタ役で登場したシュコーザ。
今回のメトが採用している版では特に、他の女性キャラクターと比べて極端にジュリエッタ役が歌うパートが少なく、
しかも歌うパートに重唱が多いので、堅実に歌った位では、あまり印象に残らない、
ちょっぴり損な役回りの役柄で(幕としては美しい音楽があって、私は好きなのですけれど、、。)、
去年のグバノーワも特に大きな印象を残さず終わったように思うのですが、
シュコーザも全く似たような感じです。
彼女は割りと周りやオケを圧するようなごつい声も出るようですし、
”私はここにいるのよ!”というのをアピールしたかったんでしょうが、
舟唄の重唱で自らの存在を主張するのはやめて頂きたい!
ひ弱な声のリンゼーはひとたまりもなく、シュコーザが一人で歌っているような、非常にアンバランスな舟唄でした。

それにしても、もし、昨シーズン、当初の計画通りに公演が行われていたら、
このコンビの舟唄をメトで聴けたはずだったんですよね、、、。




ああ、ガランチャ、、、。

、、、さて、気を取り直して!
というのもですね。今年の『ホフマン』には非常に嬉しい驚きがあるからです。
それも、アントニアの幕で!!
アントニアを歌ったヒブラ・ゲルズマーワは、今回の『ホフマン物語』がメト・デビューで、
私は彼女の名前をほとんど聞いたことがなかったため、完全なノー・マークでした。
歌い始めのしばらくは、音域によっては少しネトレプコに似たところのある声なんだな、と思いながら聴いていましたが、
さらに聴きすすめるうちに、こりゃ、ネトレプコより、全然いいアントニアだわ!!と、大興奮状態!
こんなソプラノ、どこに隠してたのか?!という。




歌唱の面でネトレプコと比べて分が悪い点があるとすれば、
最高音域に上がった時の音のパワーで、実際、ゲルズマーワはまだ完全には高音が出来上がっておらず、
あるところから音がやせる感じがするのが残念ですが、
その音に達するまでの音域では楽々とメトに響く豊かで温かみのある美しい声をしていますし、
何よりも、がしがしと音を叩き出し、その合間にびろろーんとぶら下がった音を挟み込む
という歌唱に近かったネトレプコのアントニアに比べて、
ゲルズマーワの表現の繊細なこと、陰影の深いこと!!
実際、彼女が歌に盛り込んでいる、その表現の細かさ、
それを可能にするために使っている声や歌唱の細かい技とかあやは、聴いているうちに圧倒されるほどです。
”逃げて行ってしまった山鳩は Elle a fui, la tourterelle!"は、
私、これまで、誰が歌っているのを聴いても、実はあまり好きな曲ではなかったのですが、
ゲルズマーワの表現豊かな歌唱を聴いて、この曲って、こんなに良い曲だっけ?と思いました。
もうこの曲を聴き終った途端、自動人形が死んだ今、この幕は誰にも邪魔されず、
素晴らしい幕になるぞ!と思いましたが、予想通りでした。
今年の『ホフマン物語』は、このアントニアの幕を観るためだけに公演に足を運んでも無駄ではないと思います。
歌う歌手の組み合わせで、こんなにもこの幕の切なさが増すとは、、。
決してネトレプコのアントニアが最悪だったわけではなかっただけに、驚き百倍です。
歌唱の面でまだ克服しなければならない点はありますし、決してレパートリー的に万能な歌手ではないと思いますが、
非常に面白いポテンシャルを持った歌手で、私の周りに座っていた観客からも、
彼女の歌唱は非常に高い評価を受けていました。

下は、その彼女が『エフゲニ・オネーギン』から手紙のシーン(タチアナ役)を歌っている映像で、
私が書いている彼女の長所、短所の両方が良く現れているように思います。
(この映像の紹介では、ヒブラの綴りが頭にKが付いたものになっていますが、
メトのプレイビルでは、Kなしで、Hから綴られていましたので、キャスト表はそれに拠りました。)




(ドレス・リハーサルでない)本公演の初日は、指揮者が緊張のあまり、
指揮棒を持たずに指揮台にあらわれて(ほんと、あわてん坊さん、、、。)、
演奏が始まって7分後あたりに、指揮棒がオケピの後ろから回し送られてきたり、
ジュリエッタの幕の冒頭(舟唄の部分)で、ある木管楽器の奏者の方がキーが違う楽器を間違って吹き始めてしまったようで、
他の奏者と絡む部分では、微妙に片方が半音ずれた気持ちの悪いアンサンブルになっていたり、と、
アクシデントが満載でしたが、フィリアノーティの熱唱、ゲルズマーワの美しい歌唱で、観客の方のレスポンスも上々だったようです。
本公演の鑑賞が楽しみです。


Giuseppe Filianoti (Hoffmann)
Anna Christy (Olympia)
Hibla Gerzmava (Antonia/Stella)
Enkelejda Shkosa (Giulietta)
Ildar Abdrazakov (Lindorf/Coppélius/Dappertutto/Dr. Miracle)
Kate Lindsey (Nicklausse/Muse)
Joel Sorensen (Andrès/Cochenille/Pitichinaccio/Frantz)
Dean Peterson (Luther/Crespel)
David Cangelosi (Nathanael/Spalanzani)
Jeff Mattsey (Hermann/Schlemil)
Wendy White (Mother's Voice)
Conductor: Patrick Fournillier
Production: Bartlett Sher
Set design: Michael Yeargan
Costume design: Catherine Zuber
Lighting design: James F. Ingalls
Choreography: Dou Dou Huang
ORCH BB Odd
ON

*** オッフェンバック ホフマン物語 Offenbach Les Contes d'Hoffmann ***

DR: DER FLIEGENDE HOLLANDER (Tues, Apr 20, 2010)

2010-04-20 | メト リハーサル
半年ほど前に同じ仕事を分け合っていた同僚が会社を去ることになって、一人部署状態になってしまいました。
これで困ったことは、休みが全く取れなくなったことです。ここでいう休みとは、有給休暇だけではない、、、
アメリカ以外の色々な国の市場でもビジネスを行っている私の職場でこれが意味するところは、
アメリカの祝日に休めないのはもちろん、私が全く仕事をしないでいい日は、
全世界の主要マーケットの祝日が一致する日だけ!
これが、どれだけ数少ないか、ご存知でしょうか?
この間、カレンダーで調べてみたら、大晦日と正月のたった二日だけでした(泣)
特に頭に来たのは、他の国すべてが祝日になっている12/25に、燦然と一国張り切って活動している日本という国です。
お願いだから、12/25、休んでください、、。

この状況に心を痛めた心ある上司たちは、その代わりに、何か予定のある日には、
仕事がきちんと遂行される限り、勤務時間はフレックスでよし、というお達しをくれました。
おかげで日中に行われるドレス・リハーサルも、今までどおりに鑑賞できていて、
出来るだけのことを前日の夜にかたづけ、当日数時間早く仕事を始めるだけで普通はOKなんですが、
どうして普通でないことが、よりにもよって『オランダ人』のリハにかぶって起こってしまうのか、、?

日付が19日から20日に変わろうという頃、翌日の下準備を終え、
明日は朝早く起きなきゃね、、とアラームをセットしようとした頃に、その魔の電話はかかってきました。
アジア絡みで軽い緊急事態発生!
しかも数分で片付くと思いきや、こいつがしぶとい!
1時間経ち、2時間経ち、、、気がついたら朝の5時近くになってました。
リハーサルに行くために早く仕事を片付けたかったら、寝てる時間がない、、、。
というわけで、そのまま今日の仕事に突入!!
いやー、それにしても、本当、やることが多い!と思って時計を見たら、あれ?もう朝の10時40分!
おーっと、いけない、メトに行かないと!!
というわけで、昨日の朝から29時間一睡もしてません。

でも、リハーサルでない本公演に数時間の睡眠で臨んだこともこれまでにありますが、
いつも、演奏が始まったらアドレナリンが出始めて、全然眠たくなくなるのと、
朝から大音響で聴き続けてきたベーム盤(バイロイト)の『オランダ人』の余韻が残っていて、
この作品ならなお心配なし!と、特に気にかけてもいませんでした。

ドレス・リハーサルには本刷りのプレイビルはなく、簡単なあらすじとキャスト表が掲載された、
マニュアルでコピーした印刷物が配られるのですが、
ぎりぎりにメト入りしたために、アッシャーに軽く、”プリントはもうなくなりました。”と言われてしまいました。
、、、オーディエンスの人数がわかってるんだから、ちゃんと足りるように刷ってよ、って感じですけれども。
そして、今日もサイド・ボックスなどに中学生位のキッズがぎっしり入っているんですけど、
休憩なしで2時間半ぶっ通しのこの作品、一体、どれ位の率のキッズが通しで覚醒していられるのやら。

と、にわかにスタッフの女性があらわれ、
”○○が風邪のため、舵取り役は、代わってラッセル・トーマスが歌います。”
ちょっと!!そんなボソボソした発音じゃ、誰が交代だかわかんないじゃないのよ!
ま、いいか、プリントを見れば、、、って、そうだ、プリントないんだった、、、
というわけで、残念ですが、もともと誰がこの役を歌うことになっていたかは不明。
しかも、結局、このドレス・リハーサルも含め、後に続く本公演もすべてこのトーマスが舵取り役を務めることになったため、
この後も多分、わからないままだと思われます。

指揮は2007-8年シーズンの『アイーダ』でのデビューに続き、メトには二度目の登場となる大野和士。
音楽に国境はない!とは言え、やはり同じ日本人として、
彼の指揮でいい演奏が出てメトの客席が湧くとしたら、当然、誇らしいものです。
大野さんがメト・オケから、ベーム盤に匹敵するような音楽を引き出したなら、
私は即、天皇陛下に電話して、紫綬褒章を授与してもらいます。
(後注:と思ったら、すでに2008年に授与されてました!びっくり!!
それから正しくは紫綬褒章は天皇からではなく、日本政府から与えられるものです、)

いや、そこをすっ飛ばして、人間国宝でもいいかも。

しかし、序曲が始まって、私、目が点になりました。
なんて平たい音なんだ、、、。
人間国宝、ありえん。
それに、これがノルウェー、つまり、北の海を襲う嵐の音とは思えないくらいにのんびり音が鳴ってます、、。
紫綬褒章も消えた。
(後注:ということは、そうすると、剥奪、、?)
というか、こんなにパルスやどきどき感がない嵐の表現も珍しい。
しかも、どこかの片田舎のへたれオペラハウスのオケが演奏しているんじゃない。
出そうと思えば、オペラハウスが崩れ落ちそうな音だって出せるメトのオケですよ!!
なんというリソースの無駄使い!!
大体、団員の様子を見ていても、30%位しか力を出していないんじゃないか、と思えるような演奏をしてます。
これは団員のせいじゃない。団員を熱くできない大野さんの責任で、
自分はこういう嵐の表現をしたいんだ!という確固としたドライブがないから、
それが団員を戸惑わせ、中途半端な演奏になってしまっているように思います。
音に立体感がないことからも、セクション同士でどのように音がからんでいくべきか、とか、
音の構築性について、十分な準備ができていないまま、この作品に挑んでしまったのではないかという印象を持ちます。
でも、この作品は、そのようなスタンスで乗り切れるほど、甘い作品ではないし、
団員の自主性に任せて交通整理的な指揮さえしていればOKというようなものではない!
もっとリードしないと!!
序曲は作品の大雑把なあらすじを音で見せられているような、各場面の印象深い音楽が、
順に綴られていくような形になっているので、聴き終わった時には、
これから、二時間半にわたって、このような生気のない音楽を聴かされるのか、、と思い、
今まで忘れていた眠気が突然襲って来ました。これは、やばいです。

しかし、このエヴァーディングの演出、これは私、好きです。とっても。
一幕は舞台のほとんどを、ノルウェー船の、それも甲板の先だけが占めていて、
(なので現物大とまではもちろん行きませんが、船のサイズはかなり大きい。)
最初は船の向こうに岸壁しか見えないのが、舵取りがまどろみ、
音楽がオランダ人の到来を描き出して、スモークが消えると、そこに、ノルウェー船よりもさらに大きな、
こちらは大型船の実物大と言ってもよいほどのオランダ人の船の艇先が、
ノルウェー船の横にいきなりちゃっかりと乗り付けているのです。怖いです。

誰かの病欠を埋めるために、舵取り役を歌ったトーマスですが、この役にキャスティングされている歌手同士で
風邪をうつしあってでもいたのか、トーマスの声も芯が定まらず、咳払いしたりしていたので、
彼も実は風邪気味だったんではないかと思います。
彼はこれまで『マクベス』のマルコム役、
『アッティラ』のウルディーノ役で聴いたことがあって、
確かにまだこういった小さめの役で研鑽を積むべき、発展途上な部分もありますが、
それでも、今日のこの歌唱よりはもっとしっかりした声を持っているはずですし、
また、彼の声の響きの上品さ、これはとても評価できる点です。

さて、その乗りつけたオランダ人の船なのですが、甲板はメトの舞台の天井よりもさらに
高いところに位置しているらしく、客席から全然見えなくて、
オランダ人は船から電動でノルウェー船に向かってせり出してくるタラップのようなところで、
最初のモノローグを歌わなければなりません。
この段階ではまだノルウェー船に足を踏み入れず、このタラップ上でずっと歌うことになるのですが、
タラップの一番下の段は宙に浮いている状態で、
歌唱の間、手すりやタラップの段差を、いかに効果的に利用して演技をするか、というのがポイントになります。
ウーシタロは写真等で見るに、アップでは全然男前ではないのですが、
佇まいはそれなりにエレガントだし、演技も決して下手ではありません。
ただ、何か押しが足りない。
一つには、彼の声。彼はソロでワーグナー・アルバムを出しているくらいなので、
ワーグナーの作品をレパートリーの中心にしていくことを考えているに違いないのですが、
今回、このドレス・リハーサルだけでなく、本公演でも一貫してオランダ人には線が細く、
そもそもワーグナーを歌っていけるクオリティが声と歌唱に備わっているのか、多少疑問に感じる部分もあります。
このソロ・アルバムは私も所有していて、彼の声はなかなか美しいとは思うのですが。

おそらく彼自身がその点に自覚があるんだと思うのですが、
無理をせず、自分のキャパに納まるように歌っている間は、歌が無難のラインを越えず、エキサイティングじゃないし、
そのキャパを越えようとすると、音の重心がふらつき、オペラハウスで聴いているとまだましなんですが、
後日の公演をシリウスの放送で聴いていた時は、旋律の揺れがかなり激しくて、聴いているのがかなり辛いレベルでした。

また、歌がどこか冷ややかというか、このオランダ人というキャラクターが胸に抱えている複雑な思いが、
最初のモノローグでも、ゼンタに出会ってからも、あまり感じられない部分にも不満が残ります。

このエヴァーディングの演出が登場した1989年以来、メトでオランダ人といえば、
ずっと、ジェームズ・モリス!で、2000年までに、29公演歌っています。
(そして、今回の公演はその2000年から実に10年ぶりの上演。)
舞台写真から伺えるそのモリスに比べると、どことなくウーシタロは存在感も弱く、
この印象が、この役での歌唱だけでなくて、歌手ウーシタロとしてのイメージにもなりかねないのを危惧します。
声の性質、今のレパートリーの選び方、両方の面で、メトとあまり相性の良くない歌手なのかもしれません。
この後、メトではキャスティングされにくくなる(特にワーグナーの作品では)可能性もあると思います。


(上の写真は1991-2年シーズンの公演からモリスのオランダ人)

それにしても、このフラットで立体感のないオケの演奏は本当にどうしましょう?
どうやったら、この作品でこんなに無味乾燥な演奏になるのか、、?
せっかくエキサイティングに書かれているスコアをわざわざぺしゃんと手で押しつぶしたような演奏です。

ゼンタを歌ったヴォイトは12月の『エレクトラ』のクリソテミス役以来で、
あのときの彼女の歌唱が素晴らしかったので、胃のバイパス手術で大幅な減量に成功して以来、
それと関係があるのか無関係なのか、声に以前の輝きがなくなったと言われていたヴォイトもいよいよ復調か!?と、
期待していたのですが、うーん、やっぱりこのゼンタは魅力的じゃない、、。
彼女もワーグナーが重要なレパートリーになっているんですが、
私は彼女のワーグナーがあまり好きでないんだな、という結論に達しつつあります。
というか、彼女のイタリア・オペラはもっと好きでないので、来シーズンの『西部の娘』がかなり恐怖なんですけれども。
しかも相手役がマルチェッロ・ジョルダーニ、、どんな珍公演になるのやら、、、。
話を戻して彼女のワーグナーなんですが、私には彼女のワーグナー歌唱は、
あまりにきちんと歌うことにベクトルが向かいすぎていて、感情の奔流というものが感じられないのが最大の欠点だと思っています。
彼女もウーシタロとある意味、似たところがあって、その強みは綺麗な声の響きにあるため、
それをキープしようと、スタミナ配分が慎重過ぎてそれがもろに観客まで伝わってくる点も、面白みを奪います。

それからクリソテミス役を除いたここ数シーズンの彼女の歌唱で共通の問題ですが
やはり少しトップの音が痩せていて、ゼンタのバラードで必要とされる最高音あたりは、ぎりぎり感が漂っています。

そのゼンタのバラードのすぐ後に、なぜか、場面転換にのせてカーテンが下りたままのオケの演奏があって、
カーテンが開くと、水夫の合唱が始まりました。
ええっ??ゼンタとオランダ人が出会う場面はいずこへ、、?

、、、、どうやら、ゼンタのバラードの直後に、気を失ってしまったようで、全っ然記憶がない、、。
いくら寝不足だったとはいえ、私に気を失わせた演奏(それもこんなに長い時間!)は、
少なくともこのブログを始めてから、メトでは一度もないんですけど。というか、多分10年以上ぶり。
恐るべし、大野さん、、、。違った意味でこれは国宝級の演奏と言ってもよいかもしれません。

こんな中途半端な感想ではありますが、心配ご無用。
三日後の23日にシーズン初日の感想も見に行きまして、そこでは全編通して覚醒しておりましたので、
二幕についてはそこでもう少し詳しくふれる予定です。
それにしても、キッズの心配をしている暇があったら、自分の心配をすべきだった、、。

繰り返しになりますが、この演出はとても好感が持てます。
最後に海に飛び込むゼンタ、そして海の色が変わって死をもって救済された二人の運命が暗示される部分など、
変なギミックのない、本当に普通の演出ですが、
(あの変てこなボディ・ダブルが登場してフリーズ・フレームのように飛び降りるポーズで照明が消えるという、
恐ろしいエンディングのボンディ『トスカ』の後では、まさかヴォイトが海に飛び込むポーズで絵がとまるのではないか、と、
どきどきしてしまって、普通に飛びこんでくれたときには、ついBrava!と叫びたくなる位です。)
エキサイティングなオケの演奏があって、本当に役を歌える歌手がそろえば、感動的な体験ができるはずで、実にもったいない。

それにしても、今日の大野さんは、ビジョンがないまま指揮台に立っているという意味では、
スラットキン症候群のごく初期的症状を示しているかのようです。
もちろん、スラットキンと違って、オケが崩壊するようなことにはなっていませんが、
メトの指揮台に立つときは、強いビジョンを持ち、それをオケの団員に押し付ける強さがないといけません。
初日には、今日の印象をひっくり返してくれるはず、期待しています。


Juha Uusitalo (The Dutchman)
Deborah Voigt (Senta)
Hans-Peter König (Daland)
Stephen Gould (Erik)
Russell Thomas replacing unknown (The Steersman)
Wendy White (Mary)
Conductor: Kazushi Ono
Production: August Everding
Set design: Hans Schavernoch
Costume design: Lore Haas
Lighting design: Gil Wechsler
Stage direction: Stephen Pickover
Gr Tier E Odd
ON

*** ワーグナー さまよえるオランダ人 Wagner Der Fliegende Holländer ***

DR: LA TRAVIATA (Thurs, Mar 25, 2010)

2010-03-25 | メト リハーサル
この世の中の危険な組み合わせ。
馬鹿x刃物、
油x火、
塩素系漂白剤x酸性洗剤、
作品を良く知らない指揮者xディーヴァな歌手。
でも、その作品が世界初演ものでも、滅多に演奏されない演目でもなく、『椿姫』ってどういうこと?!?!

本当に信じられないことが、本当に起こってしまいました。それもメトで。
事の始まりは、今シーズンを最後にメトの舞台から姿を消してしまう、
(そういえば、2006年の日本公演ではこの演出を持っていったのでしたね。)
ゼッフィレッリ演出の『椿姫』のオーケストラ・リハーサルが始まったころでした。
”なんか、変、、まるで『椿姫』のスコアを知らないかのように指揮するんだけど、この指揮者、、。”
という声が囁かれ始め、やがて、リハーサルを重ねる毎に、
それは段々大きくなって、本公演の前までには大満開。
ヘッズの間ですっかり”間違いない。この指揮者、『椿姫』を知らないぞ!!”という説が流布してしまいました。
その指揮者とは、レナード・スラットキン。
ワシントンDCナショナル交響楽団、BBC交響楽団を経て、現在はデトロイト交響楽団の音楽監督です。
メトには91~92年シーズンの『西部の娘』、97~98年の『サムソンとデリラ』の2演目しか振っておらず、
実に12年振りの登場になります。

一方、ゼッフィレッリからの寵愛も厚いゲオルギュー(特にヴィオレッタ役においては)は、
あいかわらずリハーサルの時から小ディーヴァ風を吹かせていて、
リハーサル中に空調の設定温度をめぐってオケと対立。
リハ室から携帯電話でメトのマネージメントに”空調を私の希望通りにして頂戴。”と命令したらしい、という、
18年ほど前にメトから解雇された、とある黒人ソプラノを彷彿とさせるエピソードが伝わっています。

しかし、そんなディーヴァ病とは別のレベルで、スラットキンがもし本当に『椿姫』のスコアをよく知らないとしたら、
彼に対する不満が沸々と溜まって行ったことは想像に難くなく、
彼女が公演から降りたがっているのではないか?という噂が初日が近くなるにつれて出始め、
それと関係があるかどうかはわかりませんが、
ドレス・リハーサルの直前のリハーサルでは、彼女の代わりにヘイ・キョン・ホン姉さんがヴィオレッタを歌いました。

今日はそんな恐ろしい『椿姫』のドレス・リハーサルの日。
私はホンさんでも全然構わないのですが、一応、配られた資料を見ると、名前はゲオルギューのまま。
どうやら、出演するみたいです。

今日はものすごい台数の大型バスでメトに乗り付けた小中学生らと一緒に鑑賞です。
先生、どう答えるんでしょうね?小学二年生くらいの男の子に、
”先生、クルティザンってなんですか?”と言われたら、、。
これはオペラの最も肝心要な部分でもあるので、Madokakipが先生だったなら、
間違いなく、”クルティザンっていうのはね、、こういうことしてね、ああいうことしてね、、”と、
もれなく詳しく話してしまって、その子の親から児童に対する性的虐待で訴えられ、
教員免許剥奪の憂き目にあったりするんだと思います。

そんなことをぼんやり考えているうちに、シャンデリアが上がって、”これが噂の、、”のスラットキンが登場。
前奏曲の冒頭の弦の旋律が始まりました。
そして、夜会の部分。もうここまでだけで、一言。これ、すごい、、、。もちろん、悪い方の。
っていうか、音だけ聴いていたら、メト・オケが演奏しているとは思えないくらい。
私は『椿姫』は好きな演目の一つなので、メトでも、かなりの数聴いていると思いますが、
こんなにひどい演奏はいまだかつて聴いたことがありません。
まず、基本的なリズムがきちんととれていないし、音楽の流れが変わるところはひたすらぎこちなく、
いや、ぎこちないならまだ良い方で、変わるべきところできちんと変わってなくて、
まるで魂の抜けたねじ巻き人形のようにずっと同じ振り方をしている個所もありましたし、
それから、そんな状態では望むだけ無駄というものですが、
歌手の生理もわかっていなければ(どういう風に指揮すれば歌手が歌いやすいか)、
登場人物の感情の流れにのっとった適正なリズムというものもゼロ。
ヴィオレッタが登場してすぐのFlora, amici, la notte che resta d'altre gioie qui fate brillar
(フローラ、皆さん、残りの夜は別の楽しみで存分に盛り上がってくださいね。)なんか、
まるで早口言葉のよう。こんな早く歌えるか!っての!!

それから、この作品って、全編を通して、大事な個所で、
それまで休止していたオケが、歌手が歌い出した音に乗って音を出してくる、という、このパターンが結構あって、
例えば、第一幕の最後の、ヴィオレッタの聴かせどころ、Ah, forse'è lui(ああ、そはかの人か)の直前の、
E sdegnarla poss'io per l'aride follie del viver mio?
(この単なる快楽を追う私の生活のために、その喜びを無視できるかしら?)のfollieのllのところなんかが例ですが、
こういうところで、ことごとく失敗していて、死んでいるのかと思うくらいなかなか音が入ってこなかったり、
そうかと思うと、早々と入って来て、せっかくの歌手の声を掻き消してしまう、という具合です。

それから彼の指示が間違っている時もあるようで、
オケはもうこの作品は毎年毎年演奏して体に入ってしまっているので、
それぞれの奏者が、これは指揮者の言うとおりに演奏すべきなのか、
それとも、自分でこうだ!と思う方で演奏した方がいいのか、迷ってしまうようで、
この一瞬の迷いがまた演奏をがたがたにさせる要因になっているようです。
つまり、結論を言うと、噂どおり、本当にこの人はスコアを知らなかった!!



驚くべきは、このドレス・リハーサルの数日後にあった初日の公演について出た
NYタイムズのトマシーニ氏の評に紹介されている情報で、それによると、
スラットキンは、自らのウェブサイトで、自分は”もともとあまりオペラの指揮はしない”し、
”(椿姫は)今まで一度も指揮をしたことがない”と告白。
さらに彼が言うには、”(しかし、)メトでは自分を除いたあらゆる人たちがこの作品を知っているようなので、
そんな先達から、多くのことを学べるのではないかと思った。”
、、、、私ゃこれを読んで何かの冗談かと思いましたよ。
メトで指揮する人間が、”作品を良く知らないんだけど、何かを学べると思って”だと?!
ここはデトロイトじゃなくて、NYの、それもメトなんですよ、メト!
しかも、あんたは指揮者なんです、指揮者!!

彼には彼なりに、もともと予定されていた『ヴェルサイユの幽霊』が経済危機による予算カットのために、
突然『椿姫』に振り替えられた
、という言い分はあるでしょうが、
『椿姫』が自分の手に負えないと思うんなら、辞退してくれよ、と思います。
”何かを勉強するつもりで”メトに来られても困ります。
(もちろん、非常に高次な意味での”勉強”は除きます。そういう意味では何事だって”勉強”です。)
”私はこんなものを観客にオファーできる”。そういう人が舞台や指揮台に立つ場所がメトだと私は思ってましたが。
それにしても、いくら今まで実際に指揮をしたことがないと言ったって、『椿姫』は名作中の名作だし、
どんな指揮者だって、どこかの時点では初めてこの作品を指揮したはず、、。
だけど、彼の演奏のひどさはそんなレベルのものじゃないんですよ、もう。
メト・オケを、この作品で、こんなにひどく指揮できるなんて、本当、すごいと思う。



それから、彼の誤算は、”何かを学べる先達”の中にゲオルギューも含めていたらしい点です。
彼女は全くもってスラットキンに協力しようという意志はなく、
むしろ、私が見たところでは、わざと、怒り半分、意地悪半分で、好き放題をしている感を持ちました。
彼女は普段からも、割と感情にまかせて好きに歌う部分は確かにありますが、
本来は、きっちりとしたリズム感を持った人だし、音程も非常に正確だし、
ヴィオレッタは中でも彼女の最大の当り役の一つで、これほど長く歌って来たわけですから、
彼女の方は作品を知らないということは絶対にないし、実際、これまで私は彼女の歌で、
時には、なんだか身が入っていないぼやけた歌だな、とか、
時にはその逆に、白々しい熱唱がドラマを損ねているな、と思うことはありましたが、
決して彼女の歌を下手だな、と思ったことはありません。
それが、どうでしょう?今日のドレス・リハーサルでは、
”私の思い通りに、歌わせていただくざんす。ことによっては、ヴェルディが書いた音の長さも変えさせて頂くざんす。”
とばかりに、まるでヨーヨーのように好き放題な音の長さで歌っていて、
片や作品を知らない指揮者が振るのに合わせて演奏するオケの音があるわ、
その一方で、それも無視して、好き放題に歌っているソプラノがいるわで、ものすごい混沌の体を示しています。

先に私が怒り半分、意地悪半分、と書いたのは、決して当て推量ではなく、私は見たのです。
アルフレード役を歌うヴァレンティが、指揮者の指示とゲオルギューの歌の狭間にはさまって、
どっちに合わせればよいのかわからなくなった時、ゲオルギューが演技にかこつけて、
彼の両肩をつかんで、スラットキンが見えなくなるよう自分の真正面に向かせ、
”あなたは、あんな親父のこと、気にしなくていいの。私さえ見ていればいいのよ。”
という強烈なサイレント・オーダーを発していたことを!!

それに、二幕の最後では、一度幕が降りた後、もう一度全員が静止姿勢のまま、幕が上がるしきたりがあるのですが、
(こういう合唱を含めたグランドなシーンでよくあるパターンです。)
普通は二度目に幕が降りるまで、主役達も動かずにいるものですが、
ゲオルギューは、”あたし、こんなリハ、やってらんないわ!”とばかりに、
幕が降りる前に、握っていた扇子をぱしっ!ともう一方の手のひらに叩き付けた後、
ぷんっ!と横を向いて、一人ですたすた、、と袖に入って行ってしまいました。
キッズが大喝采を送っていて、また、後にあげる、ある理由があったこともあって、
ヘッズからも割と温かい拍手が出ていて、客に向かうカーテンコールでは非常ににこやかでしたので、
何か別のこと、まあ、はっきり言えば、指揮者ですが、に、相当きれていたのではないかと推測します。

で、私、実は、今日の指揮者も交えたこの事態は非常に残念に思いました。
なぜなら、彼女の歌唱ですが、音の長さをハチャメチャに歌っている点を除いては、実に素晴らしいもので、
彼女の声のコンディションがこんなに良い時に聴けたのは、私、初めてかもしれません。
とにかく、上から下まで、ものすごく響きが綺麗で、ほとんどのシーンで音が適切で、
(ただ、相変わらず、第三幕の、もう遅いのよ!E tardi!というところはやや下品なまでに音が大きく、間延びしている。)
ただただ、その音色を聴いているだけで満たされる個所、多数でした。
しかも、装飾技巧の部分が本当にきちんと音が一つ一つ立って聴こえるし、
このスラットキンの訳のわからない指揮に、稀に合わせて歌っている数少ない機会には、
そのオーナメテーションをすごい速さで歌っている時もあって、やっぱり技術はしっかりした人だな、と思います。
高音もパワフルで、すごく楽な感じで音が出ていました。
(ただし、一幕の最後は、彼女はいつもそうだと思うのですが、あげずに終わります。)
つまり、声だけの話をすれば、彼女は本当に、この日、絶好調だったのです。
2007年のスカラでの公演で、彼女も歳をとったかな、と思わせられる原因となった、
装飾部分の曖昧さや、声の重さは、今日は私は全く感じず、年齢が若返ったかと思ったほどです。
これで、もし、まともな指揮者が指揮台に立っていたなら、
ヴィオレッタに関してはすごいものが聴けたかもしれないのに、、と残念でたまりません。

彼女はディーヴァ的な行動の一方で(というか、だからこそ、と言った方がいいのかもしれませんが)
結構神経質なところがあって、特に初日とかHDとか、ハイ・プロファイルな公演になると、
ものすごく緊張してしまうようなんですが、
今回も例に漏れず、初日の公演は、シリウスで聴いたところですと、
例によって思い通りの音符の長さで歌っているのに加えて、
少しオーナメテーションなどが思い通りに行っていないように感じるところがありました。
また、高音域での音色も少し締め付けた感じがあって、ドレス・リハーサルの方が、ずっとずっと出来が良かったです。
良い指揮者と、このリハーサルの時のような声のコンディションが揃えば、
ゼッフィレッリのプロダクションへの最高のフェアウェル・プレゼントとなるでしょうに、、。

さて、ゲルブ氏が支配人になって以来、どこから引っ張りだしてくるのか、
年中いたるところに、見た目だけはやたらいい、歌手やら指揮者やらが混じるようになって来たのですが、
今日のアルフレード役のヴァレンティ、彼も、遠目には非常に男前です。
身長が6フィート5インチ以上(既出のNYタイムズの評による。約196センチ!)と、
数字だけ聞くと、それ、ちょっとでかすぎないか?と思いますが、舞台では非常に見栄えします。



彼に関してはシリウスで初日の放送を聴いてちょっと残念に思ったのが、
声の美しさがあまりマイクで拾った時にのらないタイプだという点です。
しかし、劇場で聴くと、少しヴェールがかかったような、なかなかハンサムな声で、非常にいい素質は持っています。
ただ、メトの舞台に、主役で立つにはまだ早い。これが私の正直な感想です。
というか、いくつか具体的な問題があるので、それを直してあげられるいい先生が付くとよいな、と思います。

まず、低音。ここに、顎を引きすぎた時に出るような、締め付けたような不自然な音色が混じって、
その上の魅力的な音域とコントラストがついてしまっています。
それから、高音。
綺麗に入ると、すごくいい音色をしているんですが、どうやったらそこに必ず入るか、まだ模索中に見受けました。
一旦高音が危うくなると、精神的に怖くなるのか、どんどん喉が締まっていくような感じがします。
逆にいい音が出ると、そこから調子がついていくみたいで、二幕の頭で、
アルフレードが、ヴィオレッタが2人の生活を維持するために、彼女の財産を食い潰している事実を知って、
なんて自分は恥知らずだったんだ!と歌い、退場する前のlaveròは最後に音を上げるか、
下げるかのチョイスがありますが、彼は上げて歌っていて、この日は楽に音が出ていたので、
訓練次第で、安定した高音が出るのではないかと思います。

それから、これはメト・デビューで緊張していたのもあると思うし、
指揮者があれですから、彼だけのせいではないのかもしれませんが、
少し歌に曖昧な部分があります。リズムにしろ、旋律の取り方にしろ、、
今からこういう”なんとなく”な歌を歌う癖はつけない方がいいと思います。
初日の公演では特に最初の方、緊張していたのか、音が高目に入っていた部分もありましたが、
リハーサルの時はそれは全然なかったです。



ハンプソンのジェルモンは私は全然好きじゃありません。
彼はゲオルギューとは違って、一生懸命、なんとかスラットキンに合わせようと努力はしていて、
それはなかなかいいところがあるではないの!と思ったのですが、
彼のジェルモンからは美しいレガートが感じられず、意図的にスタッカート気味に歌ったりする個所もあるものですから、
ぶった切ったソーセージのように旋律が細切れで、せっかくヴェルディが書いたメロディーの美しさが台無しです。
一言で言うと、音楽が流れない感じです。

また、二幕でのヴィオレッタとの対面の場面も、子供向けのような、わかりやすい平べったい演技で、
(観客に子供がいるから、と、気を利かせたわけではないと思う、、、。)
役に全然膨らみがなく、この場面と、その後の夜会の場面と、二幕に好きな場面が集中している私としては、
ちょっと不満が残りました。
それから、ハンプソンはどこかいつもかっこつけてるというか、自分を捨てきれてない感じがあって、
それで済む役ならいいのですが、パパ・ジェルモンでそれはいけません。

それにしても、この演出、いい歌手が歌えば、それをそっとサポートできる、
しかも歌手の力によっては無限大に良さが出る、いい演出なんですけどね、、。
これが退屈だとしたら、それは歌手の力不足でしょう。
どうして、来シーズン、ネトレプコはあのデッカーの新演出から逃げおおせて、
我々観客は逃げられないのか、、、よくわかりません。

もう一度、本公演を観るつもりでいますが、それまでに、スラットキンが良識を使い、
残りの公演を辞退してくれればいいのにな、なんて思ってしまいます。
そういえば、今、マルコ(・アルミリアート)が別演目で振ってるけど、代わりに彼が振ってくれたらどれだけいいか!
しかし、自分のサイトに、『椿姫』は良く知らない、なんて堂々と書けちゃう人ですから、
そんな良識を期待する方が間違っているのかもしれません。

ちなみに、怖いもの聴きたさのガッツある方は、4月17日のマチネ(昼の1時開演なので、
日本時間の18日夜2時)が、
ラジオで放送されますので、ネット等でもこの空恐ろしい”ラ・トラヴィアータ”
(まさに”道を踏み外した”の意にふさわしい、、。)を、お聴きになれるはずです。

後注:初日の公演のNYタイムズらの批評で叩かれまくったスラットキンは、
その後、二日目以降の公演を降りることになりました。詳しくはこちらを参照下さい。

Angela Gheorghiu (Violetta Valery)
James Valenti (Alfredo Germont)
Thomas Hampson (Giorgio Germont)
Theodora Hanslowe (Flora Bervoix)
Kathryn Day (Annina)
Eduardo Valdes (Gastone)
John Hancock (Baron Douphol)
Louis Otey (The Marquis d'Obigny)
Paul Plishka (Doctor Grenvil)
Juhwan Lee (Giuseppe)
John Shelhart (Messenger)
Conductor: Leonard Slatkin
Production: Franco Zeffirelli
Gr Tier E Even
ON

*** ヴェルディ 椿姫 ラ・トラヴィアータ Verdi La Traviata ***

DR: ARIADNE AUF NAXOS (Mon, Feb 1, 2010)

2010-02-01 | メト リハーサル
『ナクソス島のアリアドネ』には、メトでは不思議なジンクスがあって、
どんな有名歌手をキャストに持ってきても、ソールド・アウトにならない、といいます。
アリアドネ役にカバリエがキャスティングされてすら、そうだったらしいので、実際、頑固なジンクスです。

そうすると、またどこかから、”あの洒落た話はアメリカのオペラハウスには受け入れられないんだろう。”
という声が聴こえてきそうですが、実は、ローカルのファンの間でこれほど影ファンが多い作品もないんです。
メト=NYとか、メト=アメリカという図式は、ある一面ではそういうところもあるかもしれませんが、
実は非常に乱暴な図式で、こんなでかいオペラハウスが、あの公演日程で、
地元のファンだけで埋まっているわけがありません。
これは実際、座席に座ると実感するのですが、メトの観客に占める観光客率、非地元オーディエンス率はかなり高く、
もし『アリアドネ』(こちらでは『ナクソス島のアリアドネ』を短縮して呼ぶ場合、
絶対に”ナクソス”ではなく、”アリアドネ”としか呼ばないので、これで統一します。)
のチケットの売れ行きが悪いとしたら、
『アリアドネ』を目指してNYオペラ鑑賞の旅を計画する人が、世界的に少なく、
また、そうオペラに興味がない観光客も、『椿姫』のような演目なら一丁観に行こうか!という気になっても、
”『アリアドネ』って、何それ?”というのりである、と、そういうことなのだと思います。

今日はその『ナクソス島のアリアドネ』のドレス・リハーサル。
見に来た地元のファンの人数は、これ、決して少なくなく、影ファンが多いという説が裏付けられます。
また、ドレス・リハーサルで典型的に見られる、一人で見に来る寂しいヘッド(私込み)だけでなく、
年季の入ったファンがご夫婦で見に来ていらっしゃる姿が多く目につきました。

この作品が、一般的な(『アイーダ』、『ラ・ボエーム』的な意味、
いや、それのみならず、同じリブレッティストと作曲家コンビである『ばらの騎士』と比べてさえ)意味で人気のない理由と、
影に熱心なフォロワーがいる理由は実は共通しているように思います。

1) プロローグとオペラという、ぱっと見、まるで全く違った二つの演目がパッケージされているような妙な構成
2) 大編成のオケの代わりに小編成の室内楽的オケで演奏される。
大編成オケ特有のわかりやすいカタルシスはないかわりに、
同じ目的を小編成オケでもってなそうとしているような緻密なオーケストレーション。
3)わかりやすくて誰でも口ずさめるようなアリアはない。
あるのはツェルビネッタのアリア(これを口ずさめる人がいたらすごいと思う、、)。
ある意味、歌唱技巧の粋を集めたような歌だが、素晴らしく歌われた時の歌唱の、
本当の価値を理解するには、オーディエンス側にもそれなりに歌唱技術に関する理解が求められる。
(もちろんそうでなくても、ああ、すごいな、と感じることはもちろん出来ますし、それで十分という考え方もありますが。)
4)ストーリーおよび作品が伝えんとしている内容のアンビバレンスさ、わかりにくさ。
ある一つのことが、実は別のことを言おうとして利用されたりする、など、
額面どおり台詞を追っていると、見終わった時、”なんのこっちゃ?”となりがち。

要は、いきなりオペラハウスに観に来ても”すかっとしたー!”という気分で出れる作品とは違って、
見れば見るほど、内容が色んな意味にとれたり、違う意味が現れて来たり、という、万華鏡のような作品なのです。
このわかりにくさ、単純でないところが、まさに一部の人を遠ざけ、
また別の一部の人を惹き付ける理由になっているのだと思います。



この作品での現行のメトのプロダクションは1993年に登場したモシンスキーのそれで、
プロローグの部分の、比較的写実的なセットと、オペラの部分のカラフルなビジュアルの対比が面白い演出です。
実際、オペラの部分は、ツェルビネッタらブッファ軍団の横槍が入るものの、
基本的にはオペラ・セリアを上演している、という設定なので、
こちらもクラッシーな舞台にする選択もあったはずですが、
そこを外し、カラフル&ポップ(ナヤーデ、ドリアーデ、エコーの衣装の色、バックの星座、
島の岩山の起伏を現わすネオン・ライトなど、、。)にしたのがポイントです。
けれども、決して肝心な劇的効果を失うことにはなっておらず、
バッカスがスモークに包まれて姿を現わすシーンなど、なかなか幻想的です。

この作品が伝えんとしている内容は、音楽之友社が発行している、
スタンダード・オペラ鑑賞ブックのドイツ・オペラ上編の中で説明されているように、
ホフマンスタールがアリアドネについて書いた手紙、
いわゆる”アリアドネ書簡”に基づいて理解するのが一般的だと思うので、
少し長いですが、その部分をここに紹介します。

”貴方(注:シュトラウスのこと)はアリアドネがバッカスの腕の中で経験する変身には
いかなる意味があるのかとお尋ねになる。
というのも、ここにこそ、アリアドネとバッカスにとってだけでなく、
作品全体にとっても生命の転機があるとお感じになるからです。
・・・変身はまさに生命そのものであり、創造的なる自然の本来の神秘なのです。
固執とは硬直と死です。生きようと思う者は、自らを越え、変身しなければなりません。
つまり、忘れなくてはなりません。
しかるに、固執、忘れないこと、誠実、にこそ、あらゆる人間の尊厳がむすびついているのです。
これは測り知れぬ深い矛盾の一つであり、私達の存在はこの矛盾の上に築かれているのです。
・・・ツェルビネッタはある男から他の男に気移りするときにその本領を発揮し、
アリアドネはただひとりの男の妻であり、ただひとりの男に捨てられた女なのです。
・・・アリアドネは死に身を任せたと思い込む。
『彼女の小舟は沈む、新たなる海の底へと』。これこそ、変身、奇跡の中の奇跡、愛の本来の神秘なのです。
・・・愛が全力である存在を捉えると、その存在は硬直を解かれ、自己の深奥へと解放される。
世界が再び与えられる、いや、その存在が世界を魔法のように呼び出すのです。
・・・島が牢獄から天国に変わった時、アリアドネが認めるのは、自分は愛し生きているということに他ならないのです。
彼女は死に、そして生き返った。彼女の魂は真理に変わった、もちろん、より高い段階の真理です。
それはツェルビネッタやその仲間達にとっては、どうして真理でありえましょうか!
この卑俗な道化たちがアリアドネの体験のうちに見てとるのは、まさに彼らの理解の及ぶこと、
すなわち、古い恋人と新しい恋人を取り替える、ということなのです。
こうして、両方の魂の世界は最終場面で、まさに両者が結びつきうる形で皮肉な結びつきを見ます。
つまり、無理解による結び付きなのです。”

一方で、私は今回の演出を見て、例えば、アリアドネが一人っきりで泣いてばかりいた頃には、海だったはずのスペースに、
バッカスが現れ、その後は自由に彼とアリアドネがその空間を行き来するのは、
”そこは海の上じゃ、、、。”という無粋な質問をする前に、
むしろ、もしかしたら、アリアドネ自身は、生まれ変わったという実感がなくて、
最後まで本当に自分が死に迎えられたと思い込んだままでいるのではないか?と考えさせられました。

また、上で説明されている、”無理解による結び付き”は、まさにその通りだと思うのですが、
その一方で、その全く違う性質のはずのアリアドネとツェルビネッタの恋愛において、
相手に心を奪われる瞬間、その一瞬だけは、あまり双方に違いがないんじゃないか?と感じさせられます。
これは演出ではなくて、音楽自体からもそういう印象を受けます。
それゆえに、彼らの恋は”同じなんだけど違う”という感じで、
アリアドネの恋が深遠だと思う一方で、では、ツェルビネッタのような恋を笑ったり馬鹿に出来るか?というと、
その似た部分ゆえに、できない、という風に私は感じたりもします。



まあ、まだまだこの作品は見るたびに感じることが変わったりしそうなので、全体の感想はこのくらいにして、歌手について。

まず、作曲家役を歌ったサラ・コノリー。
この役は日本語の資料では、ソプラノと表記されているものが結構見られるのですが、
英版のWikipediaではメゾとなっており、
メトでは同役に登用されるのも、メゾの方が優勢な感じがあって、
このコノリー(だじゃれでなく、、)も、例外でありません。
(ちなみに過去にこの役をメトで歌ったことがあるメゾは、スーザン・グラハム、スザンヌ・メンツァー、
タチアナ・トロヤノスなど。ソプラノでは、イヴリン・リアがいます。)
コノリーは少し高音域がストレッチしている感じがあるのと、
メゾと言っても例えばグラハムのようなパワーのある声質では全くなく、
むしろ、ちょっとクラシックな歌を聴かせるタイプのメゾですが、
非常に知的なアプローチで、この作曲家の、理想家過ぎるがそこがまた魅力!というキャラクターをよく両立させています。
また堅物で頭でっかちなところのある彼が、それとは正反対の、本能で動いているツェルビネッタに夢中になってしまう、
そのうぶなところも上手く歌いだしていて、なかなか魅力的です。

もちろん、私は作曲家役のようなおぼこい青年ではなく、すっかり”とう”のたった女ゆえ、
ツェルビネッタが言う、”道化を演じているからって、私自身も同じかと思ったらそれは違うわよ。”
なんて言葉にはだまされません。
ここは本当、ツェルビネッタという女性はなんて男性をおとすのが上手いんだ、と、くすっと笑みが浮かんで来ます。
でも、先ほども言ったように、じゃ、嘘まで言って男性をおとすのはいけないことなのか?というとそうではなく、
彼女が作曲家とキスをする瞬間、それを”偽物の恋だ”と否定しきれるかというと、
それは誰にも出来ないはずだ、と思うのです。
彼女の言葉にある、”(恋は)決して気まぐれじゃなく、いつだって必然よ。Immer ein Müssen, Niemals Launen”
にあるとおり、まわりには気まぐれに見えても、彼女にとって恋の瞬間はいつも必然なのです。



そのツェルビネッタを歌うのは、『ホフマン物語』のオランピア役での活躍が記憶に新しいキャスリーン・キム。
先週のメト・オケの演奏会で、ダムラウがこの作品の最大の聴かせどころでもある、
”偉大なる王女さま Grossmächtige Prinzessin”をプログラムに入れていて、
その技巧のレベルの高さと、彼女の高音の音としてのしなやかさ、強さに、強い印象を受けたのは、
感想に書いた通りですが、そこで書いた危惧が現実のものとなってしまって、
キムのツェルビネッタは、なんとか歌えている、というレベル以上のものではありませんでした。

強調しておかなければならないのは、絶対的な尺度で言うと、キムは歌の技術はある方だと思いますが、
このあたりのレパートリーを中心に据えて歌っていくとなると、話は別問題で、
ダムラウのような歌手と競って役をもらったり、結果を出さなければならないとすれば、
やはり以前に書いた通り、もう一レベル上の技術が必要だし、
アクーティの問題、つまり、高音の音色としての絶対的な強靭さとか、きちんと出せる最高音の高さ(彼女はそれがやや低い)など、
解決しなければならない問題があります。
というか、技術のように解決が可能な問題もありますが、二つ目のポイントについては、
生まれ持った声の性質とかいった問題が絡んでくるので、私自身は、
彼女をこういう役にアサインしているメトのスタッフも含め、
彼女のレパートリーをもう一度考え直した方がいい、という考えです。
メト・オケの演奏会の感想で書いたことと重なりますが、私はキムの強みというのは、
超絶技巧でも、高音でもなく、声に備わった涼やかでそれでいて温かみを感じる音色と
客をほんわかとした気分にさせるあの個性だと思うので、、。
そんな彼女の声にもっと合ったレパートリーがあると思います。

今回のドレス・リハーサルで一番存在感のあったのは、アリアドネ役を歌ったニーナ・シュテンメかもしれません。
第一声から深みのある豊かな声で、時にメゾのようなテクスチャーが音に加わるのも、
この役にはなかなか似つかわしくていいな、と思いました。
私は彼女がチューリッヒで出演した『アイーダ』のDVDを見て、全然ぴんと来なかったので、
特に生で聴きたいとも思わず、今回も、アリアドネ役を彼女が歌うと知って、
あ、あのアイーダの人ね、って感じだったんですが、今回、この役で彼女を聴いて、すごく印象が変わりました。
彼女のイゾルデもなかなかいい、という評判も聴くので、また違う役柄でメトに登場するのが楽しみです。
ただし、アイーダ以外でお願いします。
彼女はきちんと佇まいで気品のある役を表現できれば、その一方で、コミカルな演技も結構上手で、
アリアドネが嘆いているところにいきなりツェルビネッタが登場するときのコミカルなリアクションなんか、
かなり上手く、よく見ているとものすごく細かい演技をしています。
また、声域、声質的にも無理がなく歌っているのもプラスで、
これらの点を総合すると、このアリアドネは彼女に非常に向いた役なのかもしれません。

妖精系3人娘の中では、エコー役を歌っていたモーリーが、最初は少し不安定でしたが、
安定してくるに従って、美しい音色で印象に残りました。
彼女は、その時ははあまり印象に残らなかったんですけれども、
年末年始の『ヘンゼルとグレーテル』の朝露の精だったんですね。妖精専門?

登場時間は比較的短いものの、この作品で非常に重要な役であるバッカス役のランス・ライアンは、
これがメト・デビュー。
一音、二音、これが本来の声なのかな?と思わせる音はあるのですが、
残りの音があまりに不自然な音の響き方で、これが地でメトに連れてこられるとは考えにくいので、
おそらく調子が悪いのだろう、と思っていたら、このすぐ後の初日では、せっかくの
本舞台でのメト・デビュー日を降板して棒に振ってしまいました。
理由は風邪だったそうですので、このドレス・リハーサルの日も同じ理由によるものと思います。

メインの登場人物は決して多くなくとも、ちょい出の脇役がたくさん必要なこの作品なのですが、
若手が堅実な歌を披露していて、誰一人として足をひっぱっていないのも良かったと思います。

ペトレンコの指揮も、特別大絶賛するようなものではありませんが、上手くオケをまとめて、
活き活きとした音楽を作っていました。


Nina Stemme (Ariadne)
Kathleen Kim (Zerbinetta)
Sarah Connolly (Composer)
Lance Ryan (Bacchus)
Anne-Carolyn Bird (Najade)
Tamara Mumford (Dryade)
Erin Morley (Echo)
Tony Stevenson (Dancing Master)
Jochen Schmeckenbecher (Music Master)
Sean Panikkar (Brighella)
Mark Schowalter (Scaramuccio)
Markus Werba (Harlequin)
Joshua Bloom (Truffaldino)
James Courtney (Lackey)
Dennis Petersen (Officer)
David Crawford (Wigmaker)
Michael Devlin (Major-Domo)
Conductor: Kirill Petrenko
Production: Elijah Moshinsky
Set & Costume design: Michael Yeargan
Lighting design: Gil Wechsler
Stage direction: Laurie Feldman
ORCH Z Even
OFF

*** R. シュトラウス ナクソス島のアリアドネ R. Strauss Ariadne auf Naxos ***

DR: LA DAMNATION DE FAUST (Mon, Oct 19, 2009)

2009-10-19 | メト リハーサル
昨(2008-9年)シーズン、もしも土壇場のリングがなかったなら、
Best Moments Awardsの大賞になっていたはずの『ファウストの劫罰』。

優れた解釈でマルグリート役を歌ったスーザン・グラハムと
これまでの”いい人”系のキャラから脱皮して悪魔がはまり役だったレリエー、
(ちょっぴり歌唱に問題があったジョルダーニはこの際スルー、、、)
それからレヴァインの指揮のもとで、非常に緊張感のあるスリリングな演奏を聴かせたオケのおかげで、
この作品の素晴らしさを知り、堪能することが出来ました。
そして、賛否両論あれど、ルパージの演出は決して今年のボンディの『トスカ』のような迷子系自己満足に陥っておらず、
きちんとストーリーに沿いながら、旺盛なチャレンジ精神を感じさせるもので、私は好きです。

そんな『ファウストの劫罰』が今シーズンもメトに登場しますが、
キャストはブランデル役以外総とっかえで、ファウストにヴァルガス、
マルグリートとメフィストフェレスには、ボロディナ&アブドラザコフ夫妻、
そして、指揮にジェームズ・コンロンという顔ぶれで、今週の金曜日(10/23)のシーズン初日を控えています。

シーズン開始の数ヶ月前に、今年もドレス・リハーサルが公開されると聞き、
昨年、演出での色々な仕掛けに感嘆したこともあって、
リハの段階で実践面でどのようにこの演出を組み立てているのか非常に興味が湧きました。
ドレス・リハーサルは午前11時の開始なので、早朝から仕事をして、無理矢理半休のための時間を捻出、
相変わらずオペラのことになると強引な人です。

今日は舞台下手側のサイド・ボックスから鑑賞したので、去年実演を正面席から観た時よりも舞台に近く、
細かいところまで本当によく見えます。
リハーサルでは平土間正面ブロックの前方が主に写真撮影
(メトのサイトで使用されている舞台写真などは、こういったリハーサルで撮影されているものがほとんどなのですが、
これで上手い写真を取れなければ嘘、という位に絶好のポジションに望遠カメラが設定されています。)や
スタッフのためのスペースになっていて、
この演出で多用されているコンピューター・グラフィックスをモニターする画面や、
それにつながれた操作用のラップトップ型コンピューターがいくつも見え、その側にはルパージの姿も確認できました。
二シーズン目からは舞台監督に指示を残して、物理的にはメトに姿を現わさない演出家もいると聞きますが、
やはりこういう込み入った演出の場合は本人も気になって出席したくなるのかもしれません。

合唱はこうして聴くと、本当に昨シーズン時間をかけて丁寧に練習したんだな、というのがよくわかります。
練習したことが体に染み付いてしまっているんでしょう。
口を開ければ条件反射のように、美しく、かつ、言葉や音のよく揃った声が出てきて、
他のレパートリーより、一段完成度が高い感じがします。特に男声。
メトで久しぶりにかかる、または一度もこれまでかかったことのない作品を、
一から現在のコーラス・マスターのパルンボ氏について練習した作品は概して合唱の出来が良いような気がします。

また、久しぶりの舞台に関わらず、ものすごくきちんと準備をしてきた感じが伝わってきたのが、ダンサーたちです。
特に第3部で鬼火のメヌエットを踊る女性のダンサーたちにそれを感じました。
もちろん、ワイヤーを使って舞台上の壁を縦横無尽に動き回る男性陣たちの活躍も健在です。
ただ、昨年、HDに収録された公演も、また私が実演を観た公演も、
全てがスムーズそのもの、といった感じで進行していきましたが、
そういう全てが上手く行った時というのは、なかなかその裏にある苦労というのを伺い知るものが難しいものです。
今日のリハーサルの途中では、壁から壁に飛んで移動していた、メフィスト一味の男性同士が
すんでで空中接触になるような場面もあって、
自分が吊られているワイヤーの振り幅を読みながら、すぐ側にいるダンサーの動きに注意して自分の振りを行わないと、
怪我に巻き込まれてしまんだわ!と、
豪胆に飛び回っているように見えて、実はものすごく細かい計算をお互いに行っているのだということが、
近くで見てわかりました。

今日のリハーサルを見て若干不安だったのは、セットにいくつかの問題が散見されたことで、
特に升目に組んだ壁がスライドしたりする時に、ぎぎぎぎぎっ!!と、
これまで聞いたことのないような、それこそセットが崩壊しそうな大きな音を立てていましたが、
あれは何なんでしょう、、?
この部分はコンピューター・グラフィックスと組み合わせた手法になっているのか、
実際の壁が詰まって動かなくなると、投影されているグラフィックスまで、乱れて止まってしまいます。

また、第4部の、もっとも盛り上がるファウストの地獄落ちの部分で、
舞台下手側から順に一つの枡ずつ、馬の影絵が増えていく(ことで、馬が前にすすんでいる様子を描写している)のですが、
一番上手に近い枡で、影絵を遮断しているスクリーン
(これが取れて、はっきりと影絵が写るようになる)が完全に落ちなくて、
べろーんとスクリーンが枡に張り付いたままで、肝心の影絵がはっきりと見えませんでした。

いくらリハーサルと行っても、本番を数日後に控えているドレス・リハーサルなので、
普段はこんなことはないんじゃないかな、、と思うのですが、こんなものなのか、、?
本番という緊張感がいつも本公演では全てを魔法のように解決してきたのか、、?
つい去年までちゃんと動いていたものが、突然100年間倉庫に入っていたような音をたてるのはなぜ、、?
と、謎は深まるばかりです。
昨シーズンの公演では、初日に水の中を人が踊るシーンで、
その姿があまりにぼやぼやしていて、人に見えなかった、という、
割とマイナーなものがあった以外は、全くと言っていいほど、ミスがなかったので、
今日のリハーサルでの細かい技術上のミスはルパージも内心びっくり仰天!だったのではないでしょうか?

ただ、結局、これはリハーサルであって、本番ではないのだし、文句を言う筋合いのものでもないですし、
むしろ、いかに多くの細かいパーツが、一つ一つきちんと実行され、噛みあって、
一つ一つの舞台が出来上がっているか、という、
わかっているようでつい忘れがちなことを思い出しました。
(この演出が特に平均以上に複雑で込み入っている、という面はありますが。)
どのパーツも簡単にミスになりうるということをこうやって実際に目にして、
毎日毎日ほとんどの本番で技術上のミスがないというのはどれほどすごいことかと実感するというのは皮肉なことではあります。



今日のドレス・リハーサルには地元の小学校と中学校のキッズたちが招待されていて、
ドレス・サークルから上の座席はちびっ子でぎっしり埋まっているのが見えます。
開始してしばらくは、”しーっ!しーっ!”という
引率の先生が子供たちを静かにさせようとする声がひっきりなしに聴こえて来て、
”先生の方がうるさいんですが、、。”って感じでしたが、
音楽がすすむにつれ、子供たちはすっかり作品に引き込まれてしまったようで、
いつの間にか、先生の声は全く聴こえなくなっていました。

むしろ気になるのはスタッフが進行表をめくる音で、
いわゆるスパイラル・リングで閉じて製本しているために、ページをめくるたびに、
ばりばりっ!ばりばりっ!という不快な音が鳴り響きます。
こういう音には反射的に、”しっ!!”という癖がついているヘッズたちは、
何度も思わず口にでかかったその言葉を押し殺して、
ルパージの隣あたりに座っている助手の女性を忌々しく睨みつけるしか、なすすべがないのでした。
さすがに演出スタッフを叱りとばすわけにもいかず、、。このフラストレーションをどこにぶつけていいか、わかりません。

歌手について。

ファウストを歌うヴァルガスについては、実際に鑑賞する前は
割と適役じゃないかと思って楽しみにしていたんですが、
実際にオペラハウスで聴いてみると、彼らしく、非常に丁寧に歌ってはいるんですが、
彼の声のサイズや持ち味は、この作品で観客にカタルシスをもたらすような歌を歌うのに若干の障害になっているかもしれません。
ヴァルガスは歌唱が中心に据えられた、伴奏系オーケストレーションがついている作品にのって歌う分にはとてもよいのですが
(だから、ベル・カントのレパートリーとか、同じフランスものでも、マスネのような作品はいい。)
この作品のようにオケが凝っていてヴォーカル・パートもオケの一部になっているに近い作品の場合には、
それなりにオケと対峙できる声が必要で、
そういう意味では高音が非常に厳しかった昨シーズンのジョルダーニですが、
声のテクスチャーという面では、ヴァルガスよりも向いていたかもしれません。
ヴァルガスは、ジョルダーニが公演日によっては半分ファルセットのような声で出さざるを得なかった高音も
実声でしっかりと出している場面もあったので、
第三部に出て来る高音も大丈夫かも、と思ったのですが、
二重唱 ”Grands dieux!”で二度出てくる厄介な高音では、
二度とも最高音に昇りきらず、低い音に置き換え、音型を変型させて歌っていました。
リハーサルだから、ということであればいいのですが、私のいた座席からは、
彼がこの音に若干不安がある様子を感じましたので、本番がちょっぴり心配です。
音だけ聴いていても、この音型が始まるところから気持ちがうわつくのか、
オケよりも走ってしまって、タイミングまで損なってしまった様子が伝わって来ました。
あとは去年の新演出時に比べて圧倒的にリハーサルが少なかったのだと思うのですが、
まだ少し演技が板についていないように見受けられる部分もあります。
ただ、ジョルダーニが力技で歌っていたような部分も、
とても丁寧には歌っているので、ジョルダーニとは違う持ち味はあります。

マルグリート役を歌ったボロディナに関しては、最大の聴かせどころである
マルグリートのロマンス(”D'amour l'ardente flamme")”以外”の部分は、
登場してすぐの”昔トゥーレの王が Autrefois un roi de Thule"を含め、
歌唱そのものはそう悪くはありません。
どことなくマルグリートがカルメンになってしまったような、
まったりとした歌唱は好き嫌いが分かれるかもしれませんが。
歌唱の面で一番気になるのは、その最大の聴かせどころであるはずのロマンスが、
必ずしも彼女の声が一番活きる声域にないことです。

スーザン・グラハムのこのロマンスの歌唱がいかにすぐれていたかは
以前このブログでご紹介したことがありますが
グラハムに比べると、ボロディナの歌はドラマティックに流れすぎて、
それが逆に観客の心を少し引かせてしまう要因の一つになっていますし、
また、オケが沈静化していく直前の、最後の大切な高音も、この高さが辛いのかもしれませんが、
もう一ため欲しいところです。

また、歌以外の部分での役の表現もグラハムに一歩も二歩も譲る気がします。
ライブ・イン・HDの時に、グラハムもインタビューで語っていた通り、
この作品は、一般的なオペラの作品に比べると、細かいストーリー描写が少なく、
(それは、グノーの『ファウスト』と比べると一目・聴瞭然です)
むしろ、場面場面を切り取ってそれを深く掘り下げ音楽で表現している作品なので、
細かいストーリー・テリング的な演技に頼るのではなく、
歌う曲の歌唱の雰囲気で役の本質を伝えなければならない、という難しさがあります。
その点でボロディナのマルグリートは少しキャラクターが淡白で、よく伝わって来ない部分があります。
ボロディナが滅茶苦茶に悪いわけではないので、グラハムの昨年のこの役の解釈が
いかに優れていたか、ということを、痛感します。

またメフィストフェレスが水面に映し出したマルグリートの姿を見て、ファウストが心を奪われ、
水の精の合唱(”Dors! Dors! Heureux Faust")にのせてMarguerite!と呼びかける非常に美しい個所があります。
上の写真はその場面ですが、グラハムは実物はさばさばした感じの人でありながら、
見た目はわりと女性的な部分もあるので、こうして写真が大写しになっても感動的でしたが、
今回使用されたボロディナの写真、、、これはどうにかした方がいいと思う。怖すぎます。
というか、ボロディナも地は綺麗な人なので(今のように体重がついてしまう前は、
美人歌手に分類されていたのです!)、もうちょっといい写真があったでしょうに、、と思うのですが、
迫力満点のロシアのおばちゃん!という感じで、ばーん!と彼女のどアップが飛び出て来た時には
座席から飛び上がるかと思いました。

メフィストフェレスを歌ったアブドラザコフ。
彼はいい人なんだろうな(って実際のところは知りませんが。)と思わせるような、
温かみのある声で、レパートリーによっては魅力的だと思うのですが、
ことこのメフィストフェレスに関して言うと、少しキャラ違いな印象を持ちます。
どう聴いても、最後にファウストを地獄に突き落とすような雰囲気にはとても感じられません。
『ルチア』のライモンドの延長線上にあるようなメフィストフェレスです。
丁寧に歌っているし、しっかり役の準備をしてきたのは伝わってくるのですが、
努力だけではどうにもならないことがある、ということなのかもしれません。
昨シーズンのレリエーの、バリバリした迫力ある低音と、
頭脳ゲーム的にファウストを陥れる、あの冷たい感じが懐かしい。

というわけで、昨シーズンほどにはどんぴしゃじゃないキャスティングではありますが、
それぞれの歌手が勤勉ですし、致命的というほどではありません。
致命的なのはジェームズ・コンロンの指揮です。

というか、彼はこの作品をきちんと勉強して振っているんでしょうか?
とてもそのように感じられません。
指揮振りだけは異様に大きく、本人は盛り上がっているみたいなんですが、
個々では魅力的なサウンドを出せているそれぞれのセクションを、きちんとまとめあげるということが全く出来ていない。
全く格好悪いです。
今日のリハーサルを聴く限り、とても単純なことが、極少ないセクションの間で行われている間はそうでもないのですが、
たくさんのセクションが絡み、構造が複雑になると彼はすぐに崩壊を来たすようで、
肝心な指示が抜け落ちるので、それぞれのセクションが手探りで音を出している状態で、
まるで各セクション、それどころか、各楽器単位が、別個に演奏しているみたいです。
昨シーズン、あんなに一体となって全ての奏者が息が合った演奏を聴かせていた同じオケとは思えない、、。
これまで、レヴァインの指揮に、深みがない、面白みに欠ける、という批判を寄せる人が多いけれども、
深みや面白さどころか、最低限、きちんとオケに作品を演奏させられる指揮者すら少ない、という
指摘をずっとこのブログでして来ましたが、まさにこのコンロンのような指揮のことを私は言っていたのです。
深み、面白さ云々のレベル以前に、この作品のきちんとした演奏を提示できていない。

レヴァインはこの作品が好きだ、と公言しているだけあって、
大事にしなければいけない瞬間というのを本当によく心得ています。
例えばハンガリアン・マーチ(別名 ラデツキー行進曲)の頭にトランペットが高らかに鳴り響き、
やがて他の楽器が入って来ますが、
レヴァインの指揮で聴いた公演では、他の楽器が入ってくる前に、
一瞬(本当に何分の一秒という長さですが)、トランペットの最後の音の僅かな残響をオペラハウスに遊ばせる間みたいなのがあって、
あの美しい残響が耳にこびりついています。
この”間”をまったく理解していないのがコンロンです。
せわしなく、トランペットの音が消えるのも早々にどかどかと他の楽器をのせて来たときにはがっかりしましたし、
一時が万事こんな調子で、とにかくどったんばったんと不器用に音が鳴るばかりで、
この作品のオーケストレーションから感じるべき、はっとさせられるような美しい瞬間というものが皆無です。

また、このリハ中にたびたびリズムが砕けるというのか、
まるで道端の石ころに毛躓いたたような雰囲気になった個所がありましたが、あれは何なんでしょうか?

昨年、あれほど時間が立つのが早く思えたこの作品が、
レヴァインではないもう一人のジミー(・コンロン)の手にかかると、
これほどまでに、長く退屈に感じるとは、、。
はっきり言って、この公演で、一番準備が出来ていない人はコンロンなんじゃないかと思います。
ヴァルガス、ボロディナ、アブドラザコフが昨シーズンのキャストより物足りない感じがするのも、
実はこの男の仕業なのかもしれません。
今年も出来れば同じレヴァインの指揮で歌わせてあげてほしかった、、。
それでこそ、観客も純粋にキャスティングの違いから来る雰囲気の差を感じることが出来るわけで、
今の状態ではあまりに指揮が足をひっぱっていて、単純に昨年の公演と比べることが罪に思えてきます。

そんなことを考えながら苦々しい気持ちになっているMadokakipをよそに、
子供たちは第三部、第四部とすすむうちに、ますますストーリーに引き込まれ大フィーバー。
ファウストが地獄に落とされ、男声合唱がエピローグの”そして地獄は静まった~ああ、なんと恐ろしい”の部分を歌い終えると、
普通ならここで天国の場面に移る前に、沈黙があって、それが素晴らしい効果をあげるのですが、
ここで、キッズから、”うぎゃーっ!!!”、ピーッ!(口笛らしい)の猛歓声。
まだ終わってないんですよっ!まだ!!死んで終わり!じゃないの!

キッズの歓声に最高の瞬間が台無しにされつつも、舞台は天国に。
確かグラハムの時は片足ずつ上の段に足をかけて、するするする、、と
梯子を上っていってしまったようなイメージがあるのですが、
ボロディナは体が重たいのか、高所恐怖症なのか、よっこらせ、よっこらせ、と、
残った足を必ず先に上に上がった足の横に沿えるため、一段昇るのに二拍ある感じで、
これはちょっと野暮ったい。
天国に上って行くのだから、もうちょっとすーっと上がっていってほしいものです。

地獄に落ちて騒いだなら、天国に上った後も騒いで置かにゃ、と、ここでもまたキッズのすごい歓声。

カーテン・コールでまずアブドラザコフが出てきたときに、
”うおーっ!!”という物凄い雄たけびが飛んだので、
やっぱりキッズには悪魔が人気なのだわ、わかりやすいものね、と微笑ましい気持ちでいると、
次にボロディナが出てきてさらに大きな歓声。ええっ!!!???
そして、最後のヴァルガスにはさらにパワーアップしたオペラハウス中を包む大歓声に、
この3人がまるでロック・スターか何かか、と錯覚しそうになったほどです。
これには3人も顔を見合わせて照れながらも、かなり嬉しそう。
確かに、やたら平均年齢の高いヘッズが観客に多い一般の公演では、こんな黄色い歓声を聞くことはないですから。

しかし、メフィストフェレスはビジュアル的にもキッズに受けること間違いなしのキャラですが、
それ以上の歓声と拍手がボロディナとヴァルガスに向けられたのは意外でした。
ちびっ子といえど、やはり何か彼らの歌うパートに心を揺さぶられるものがあったのでしょう。


Ramon Vargas (Faust)
Olga Borodina (Marguerite)
Ildar Abdrazakov (Mephistopheles)
Patrick Carfizzi (Brander)
Conductor: James Conlon
Production: Robert Lepage
Associate Director: Neilson Vignola
Set Design: Carl Fillion
Costume Design: Karin Erskine
Lighting Design: Sonoyo Nishikawa
Interactive Video Design: Holger Forterer
Image Design: Boris Firquet
Choreography: Johanne Madore, Alain Gauthier
ON

*** ベルリオーズ ファウストの劫罰 Berlioz La Damnation de Faust ***