Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

LA TRAVIATA (Fri, Oct 31, 2008)

2008-10-31 | メトロポリタン・オペラ
アニヤ・ハルテロスのヴィオレッタ、マッシモ・ジョルダーノのアルフレードの『椿姫』。
私に”のろま”(←実生活では知りませんが、舞台において。)呼ばわりされ続けている
アンドレイ・ドバーのジェルモン役は日程を終了し(ラジオで聴いた感想はこちら)、
今日からは、ジェリコ・ルチーチがパパ・ジェルモンです。
『椿姫』は大好きな演目であるので、本当なら、一日も早く!ということで、
もう少し早い日程のものを観に行きたかったのですが、
ルチーチのジェルモンが聴きたくて、今日まで我慢してきました。

昨シーズンの『マクベス』、ルチーチのオペラハウスを包み込むような
温かさを感じる声がとても印象に残っていて、マクベスよりも実は
このジェルモン父とか、リゴレットのような役が個性にあっているのではないか、と思っていたのと、
先週のタッカー・ガラでの歌唱が素晴らしくコンディションも極めて良さそうだったので、
今日は主役二人よりも”父”が楽しみな私です。

さて、シリウスで鑑賞した10/20の公演について、
ハルテロスに合せて、カリニャーニの指揮のテンポがどんどん遅くなっていく、
ということを書きましたが、その次の回の公演を鑑賞した友人によると、
あまりにスロー・テンポを強要するハルテロスに、
今や絞め殺さん!という形相で、必死に彼女を煽るカリニャーニの姿があったそうです。
面白い。観たかった。

今日は、”もうこれ以上この女の勝手は許さん!”と思ったか知りませんが、
一幕では、”これが俺様のテンポだ!”とばかりに驀進するカリニャーニ。
初日と同様に、ハルテロスがもたもたと、”早いパッセージは歌えないの”とばかりに、
思いっきりオケから遅れて歌う技(フリ?)を試みるも、
初日はそれに合せてテンポを落としていった優しいカリニャーニ(だからどんどんテンポが遅くなって
いったわけですが。)が、今日は冷酷なサディストに変貌。
”ついてこれなかったら、それは君の問題だよ、ふふふ。”とばかりに、ちっともテンポを落とさない。
これにはハルテロスも観念したか、今日は一生懸命早いテンポ
(と言っても、一般的なレベルでみれば、普通のテンポです。)について行ってました。
なんだ、やればできるんじゃん!



ただ、彼女が早いパッセージに苦手意識があるのには、
それなりの理由があることも見えた気がします。
彼女の声は結構サイズもあって、割と暗くて重い声なので、
(雰囲気はゲオルギューの声質に似ているのですが、もっと強さを加えて、
さらに暗さを強調したような声、とでもいえばいいでしょうか?)
早いパッセージは、ややカーブを敏捷に曲がりきれなくて
四苦八苦しているパワーのある車を思わせます。
細かいことを言うなら、そうしたパッセージの中の短い音符を一音、または続けて二音、
飛ばしてしまった個所もあって、そういった正確さの欠如が許せないオペラファンには、
厳しい目で見られてしまうかもしれません。

正確さの欠如、といえば、音程もやや不正確なのですが、
彼女の場合、高音が出切らずにフラットしてしまう、というのとは違って、
むしろ高音は大丈夫なのですが、そこに上がって行くまでの、途中の道で音を外す、
というケースが多いように感じました。
先のケースと総合して簡単に言うと、やや自分の声を完全に制御できていない、
ということになるかもしれません。

あと、彼女はちょっと歌唱に躁的なものを感じるというのか、
常に間に音が埋まっていないと不安であるかのようなのが、実にせわしない。
遅いテンポで演奏された場合は、音を長く延ばせ、そのことによって空白が埋まってしまうため、
それほどあからさまでないのですが、
今日、このテンポで聴くと、たとえば装飾歌唱でオケの伴奏がない部分など、
もっと落ち着いて、ブレスの間などをもっと活かせばいいのに、と思う個所も、
まるで、とりつかれた様に、全く間をおかずに、次の音へ、次の音へ、と移ってしまうので、
そのことが、歌から余韻のようなものを奪ってしまっているように感じます。



ただ、声の響き自体は、私の嫌いなタイプではないです。
むしろ、こういう暗い感じの声は好きなくらいです。
今日座った席(グランド・ティア)あたりから見ると、顔ははっきり見えないのですが
(か、それゆえに、かはよくわからないですが)、
彼女は長身でスタイルもよく、舞台姿がすらーっとしていて、本当に綺麗です。
というわけで、見た目には何の文句も不足もないヴィオレッタなのですが、
どういうわけか、演技がどこか冷ややかで、私はなかなか熱くなれないのでした。
この見た目が綺麗なんだけどどことなく冷めている感じがする、というのも、
なんとなくゲオルギューに似ているのですが、
歌の技巧の面ではこの役に関してはゲオルギューの方が安定したものを持っているので、
ハルテロスは、もうひとふんばり、どこか&何かで強みとなるものが出来るといいのですが、、。

一幕に熱くなれなかった理由のもう一つはジョルダーノのアルフレード。
2006-7年シーズンの『三部作』の『ジャンニ・スキッキ』では好青年風のルックスが初々しかったのに、
いつの間にか野暮ったいロン毛に、、。
しかも、顔が丸くなったと思う。丸顔にロン毛はミスマッチだと思うなあ。
彼はこういうワイルドな雰囲気より、端正な感じの方が似合うと思うのだけれど。




声はその好青年風にぴったりな、どこか甘さを感じさせる声で魅力的ではあるし、
『ジャンニ・スキッキ』のリヌッチオのような、それほど大きくない役は、
そつなくこなしていたと思うのですが、アルフレードは別問題。
彼にはメジャーな歌劇場で主役をはるだけの技術がまだ伴っていないように思います。残念ながら。
高音が出ない、とか、そういうことでは全然なくて(それはむしろ大丈夫)、
歌唱がカクカクとぎこちなく、これでは、役作りのための細かいニュアンスで肉付けしようにも、
できないのではないか、と思う。
経歴を見ると、本格的なキャリアが始まってから、少なくとも10年以上経っているようなんですが、
遅咲きなんでしょうか、まだまだ課題がいっぱいあるように感じます。

しかし、そんな私もニ幕からは燃え上がりました。
それは一にも二にもルチーチのジェルモン父のおかげ。
彼が歌い始めた途端、すごい存在感で、舞台全体が一気にしまったほどです。
(下の写真は初日からのものなので、残念ながら、父は、ルチーチでなく、
のろまのドバーです。)



彼の歌とたたずまいには、田舎親父独特の垢抜けなさと頑固さ、
根は決して悪人ではなく、だからこそ、娘のために偽善者にもなる、という
このジェルモン父の色々な側面が実に上手く演じ、歌い込まれていたと思います。
まだまだ彼のこの役は進化し続けていくのではないか?と感じさせられた部分もありましたが、
キャリアの黄昏期を迎えたバリトンの、存在感だけはあるけれど、
ヴィオレッタから出てくる言葉を全部先読みして知っているのではないか?と思われるほど、
どの言葉にも何の反応もないような、怠惰な役作りがしばしば見られる中、
ルチーチの歌と演技のきめは非常に細かくて、そんな怠惰な役作りになれてしまっていた私には、
確かにジェルモン父の立場なら、そういう反応をするはずだ!と、はっとさせられるような
個所が本当にいくつもありました。
例えば、ヴィオレッタがジェルモンの娘のために身を引くことをほのめかす部分では、
”そうなることが当然”とばかりに突っ立っているバリトンがこれまで圧倒的に多かった中、
”え?本当に承諾してくれるのかい?”とでも言うように、
それまで椅子に座ってうつむいていた頭を、さっとあげてみせたりしていて、
その匙加減も本当に上手いのです。

また、”今は若くて綺麗なあなただけど、時間がたてば男の心なんて、、”あたりからの、
こずるく相手を絡め取るかのような雰囲気を声と歌で表現するその手腕も確か。

ここで少し指揮者の話に戻ると、ハルテロスにスロー・テンポを仕切られるのは嫌だけれど、
自分が仕切る分には良いらしく、ジェルモンの”プロヴァンスの海と陸”では、
身がよじれるようなスロー・テンポで、
このテンポは力のない(例えばドバーのような、、)歌手が歌うと、
目も当てられない、のびきったパンツのゴムのような歌唱になってしまうのは、
先述のラジオの鑑賞記でも書いたとおりですが、
ルチーチはこれを驚異的なブレス・コントロール力と巧みな歌唱力で、
スケールの大きな歌唱にひっくり返してしまいました。
ここまでゆっくりでない方が私の好みではありますが、歌唱だけの面で言うと、
今までで聴いた最高の”プロヴァンス”でした。
彼のこのジェルモン父の歌唱をもって、
ルチーチは数少ない私の好きな現役バリトンの一人に確定しました。

さらにもう一度、指揮とオケの話に戻りますが、
生で聴いたところ、大きく二つの問題があるように感じました。

1)オケのメンバーの心をつかめていない。
どんなに優れた作品へのビジョンがあっても、テク二カリティが優れていても、
オケを実際に動かせなければ、無意味。
かなり華々しいキャリアを持っている指揮者なのですが、ことメト・オケに関しては、
完全に団員の心を掴み損ねている印象を持ちました。
結果、オケの方が”この指揮者のもとでいい演奏をしたい”という風に思っていない。
去年、マルコ・アルミリアートのもとで、あんなにいい演奏をしていたのが嘘のよう。
初日の演奏と比してさえ、さらに両方の気持ちが離れてしまっているような印象を受けました。

2)走り屋系の演奏
今日の演奏から特に強くそう感じたのですが、テンポのトランジションがあまりに突然で、
私などは生理的に不自然だと感じられた個所もあったほど。
その唐突さは、ギアを次々と入れ替え、突然アクセルを吹かし、突然ブレーキを踏む走り屋のよう、、。
ブオン!



毎年こうして違ったキャストで見ると面白いのは、同じ演技付けでも、
人によって、全くそのリズムが違う点。
アルフレードが札束を投げるシーンでは、
ジョルダーノが、その直前の歌詞になっても、なかなか札束を出さないので、
もしや札束を掴んでおくのを忘れたのでは、、これはパントマイムになるのか、、?
とこちらがどきどきしましたが、罵倒の最後の音と同時に、
下から持ち上げるように、ヴィオレッタを威嚇するように噴水撒きにし、
その後も体を硬直させて立っている様子は、怒りが巧みに表現されていて、
今日のジョルダーノが一番上手くこなしていた場面だったと思います。

ハルテロスは声に独特の鋭さがあるので(しかし、音が暗い分、耳障りではない。)、
この二幕二場の夜会のシーンで、合唱の上を歌うのはお手のもの。
彼女のヴィオレッタは、このシーンあたりから、三幕最後にかけて、が、
声質にも合っているため、断然公演の後半の方が見ごたえ、聴き応えがあります。

特に三幕は一番彼女の歌唱の良さが出た幕。
ただし、あいかわらず、音がやや不安定で、”さようなら、過ぎ去りし日よ Addio, del pasato ”でも、
大事な音を外していましたが、幕全体としては、役作りと歌唱がもっとも上手くかみ合っていました。
手紙を読むシーンはなかなか上手いです。



二重唱は、ジョルダーノがもっとフレーズを均質な音と滑らかさをもって
歌ってくれていれば、もっと聴きごたえがあったと思うのですが、
彼の歌は、フレーズの中に大きさの違う石(音)がアットランダムに並んでいる様子を想起させます。



ハルテロスもジョルダーノもさておいて、この『椿姫』、私にとっては、
一にも二にも、ルチーチが光り輝いていた公演でした。
今シーズン聴ける彼の他の2ヴェルディ・ロール、
ルーナ伯爵とリゴレットが俄然楽しみになってきました。

Anja Harteros (Violetta Valery)
Massimo Giordano (Alfredo Germont)
Zeljko Lucic (Giorgio Germont)
Kathryn Day (Annina)
Theodora Hanslowe (Flora Bervoix)
Louis Otey (The Marquis d'Obigny)
John Hancock (Baron Douphol)
Eduardo Valdes (Gastone)
Paul Plishka (Doctor Grenvil)
Conductor: Paolo Carignani
Production: Franco Zeffirelli
Grand Tier A Even
ON

***ヴェルディ 椿姫 ラ・トラヴィアータ Verdi La Traviata***

Sirius: MADAMA BUTTERFLY (Wed, Oct 29, 2008)

2008-10-29 | メト on Sirius
10/24のシーズン・プレミアでの歌唱が絶賛されたパトリシア・ラセットの『蝶々夫人』。
ラセット不遇説については軽くそのシリウス鑑賞記でも触れたとおりですが、
NYのオペラヘッドの間では、”素晴らしい歌手”との評価が固まっているにも関わらず、
その不遇説は公演評の面にも及んでいて、彼女が登場したメトの舞台の公演評で、
手放しで彼女を褒めているものが、実力に比して、実に少ない!という不満がずっと私にはありました。
しかし、ついに、この10/24の『蝶々夫人』の公演については、
NYタイムズのスティーブ・スミス氏が、
”タイトル・ロールである、15歳の元芸者、蝶々さんとして、舞台に戻ってきたのは、
昨シーズン、初めてメトで同プロダクションの同役に挑戦し、
大評判を呼んだパトリシア・ラセット。
彼女の歌唱は、力強く、ニュアンスに富み、情熱的で、
彼女のような実力と経験のある歌手にふさわしいものであった。
さらに驚くべきは、彼女が役に吹き込んだドラマの精緻さで、
彼女の顔の表情、ジェスチャー、身体の様子すべてが、
ピンカートンに捨てられたことを受け入れるその最後まで無力であり続けた、
純真かつ相手を信じて疑わない少女のそれそのもの。
あらゆる側面で、ラセットのパフォーマンスは特筆すべき出来栄えで、
彼女の蝶々さんは、見逃すことがあってはならない。”と大絶賛。

参考までにいうと、ここで”大評判をとった”と言われている昨シーズンの『蝶々夫人』も、
NYタイムズのプレミアの公演評では、可も不可もなく、といった程度の評だったのです。
これは、彼女自身、昨シーズンの頭の数公演では、
コンディションが今ひとつだったのか、実力が出し切れていなかったせいでもあるのですが、
その評を読んで、”じゃ、ラセットを聴きに行こうか!”と思った新しい観客はほとんどいなかったはずで、
初日の公演評があたかもラン全体にあてはまるかのように聞こえる危険性がよくわかる例ですが、
それにしても、不遇なラセット、なのでした。
というわけで、昨シーズンの彼女の素晴らしさは、公演評からなんかでなく、
ランの中盤から終盤の公演を実演で観た観客やオペラヘッドによって、
口コミで広まっていったものなのです。

いずれにせよ、やっと彼女の実力に相応したレビューが出て、私もとても嬉しい。
あまりにも長い間待たれていた正当な評価です。

さて、その同じNYタイムズの評に、ピンカートンを歌ったアロニカはどう書かれていたかというと、
”声量とスタイルはあるものの、こちらがフラストレーションを感じるほどに音が不安定。
最高音のほとんどはきちんと入っていたものの、その周りの音は、
やっとこさ、といった怪しげな足取りを示していた。”

>最高音のほとんどはきちんと
という箇所に疑問を感じないでもありませんが
(もしくは、”ほとんど”という言葉を、かなりアロニカに甘く使っているか、、。)、
大筋は正当な評価だと思いました。

さて、そのシーズン・プレミアの公演に続く二度目の公演が今日。

そして、私はスピーカーの前で、憤死するかと思いました。
アロニカが、24日の歌唱よりさらにヘロヘロで、ほとんど聴くにたえない。
一体、こんなコンディションで舞台に立つとは、客を馬鹿にしてるのか!と言いたい。
風邪などによる不調ならば、ここまでコンディションが悪いなら、
回復するまでキャンセルするのがせめて他のキャストや客への礼儀ではないかと思うし、
これが慢性なら、残念ながら、メトのような大劇場で歌うという野望は捨ててもらうしかない。
そして、私的には、もうまるまる契約された金額を持っていってもらってもいいから、
(お金をドブに捨てたつもりで、、)
メトのマネージメントには、彼を外して、他の歌手に強制変更してほしい。

他のキャスト全員が全力を出し切っているときに、たった一人で舞台をぐちゃぐちゃにして、
この罪の重さをわかっているんだろうか、この人は。
いや、10/24の舞台であんな歌を聴かせておいて、今日もしゃあしゃあと戻ってくるあたり、
わかってないんではないか、という気がしてきます。

まるでぐにゃぐにゃのこんにゃくのようなピンカートンを相手に、
必死で自分のモチベーションを保ち、全力を尽くそうとするラセットの姿が痛々しすぎる、、。

キャリアももう長くはないかもしれないし、稼げるところで稼いでおかないと、、
くらいな気分で舞台に立ち続けているとしたら、私は激しく断罪したい!
こんなことが許されてはならない!!!!!と。


第一幕の二重唱が終わったとき、私は自室で一人、
アパートの建物全部が崩れ落ちるかと思うくらいの大声で、
BOOOOOOOO!!!!!と叫んでやりました。
私は基本ブーイングには反対で、思わぬ歌唱の不出来とか、
本人の歌唱技術や実力が及んでいない、といったことでは絶対にブーを出さないのですが、
ここで言っているのは、歌唱の出来とかそういう問題ではなくて、
彼の、舞台に対する姿勢の話をしているのです。
なぜ、舞台をこれほどまでにめちゃくちゃにすることがわかっている状態で、
それでも無理矢理歌おうとするのか?

今週の土曜のマチネ(メトで実演を観る日です)でこんな歌を歌った日には、
うちのアパート全部どころじゃない、メト全部が崩壊する勢いで叫んでやる!と、息巻いている私ですが、
ふと、重要なことに思い当たりました。
この二重唱は、二人で歌われている。ブーを出したら、
いくらそれがアロニカに向けているということが明らかだとしても、
ラセットにとっては決して気分の良いものではないし、第一、彼女には、Bravaを言いたいくらいなのです。
ということで、超難問発生。
”BravaとBooを同時に出すにはどうしたらいいんだろう、、、?”
この超難題を土曜までじっくり考えてみたいと思います。

最も常識的には、最後の幕が終わる時点まで待って、一人一人の歌手への拍手の段階で、
それぞれに違った言葉をかける、というあたりに落ち着くのでしょうが、
今日びっくりしたのは、その最後のカーテン・コールでも、
アロニカには拍手は出れど、誰一人としてブーを叫ぶ人がいなかったということ。

なんだ?!今日はうるさいローカルのオペラヘッドはオペラハウスに一人もいないのか?!
こんな歌で拍手を送ってはいかんのです!!!
(彼の歌に感動した方は別ですが、、、。)
”そんな甘えはメトでは許さない!”ということを客がきちんと表示せねば。

ピンカートン役は、技巧的に猛烈に上手に歌ってもらわなきゃ困る!という役でもないし、
舞台経験の少ない若手テノールでも、きちんと、まじめに、端正に歌ってくれる人がいたら、
十分に感動的な舞台になるはずです。

土曜日、もしアロニカがこんな調子でまた歌うことになったならば、
私の座っている座席からは、殺気と妖気が漂っていることでしょう。
自分でも怖いです。

ちなみに今日はオケも沈没気味。土曜日は盛り返してください。


Patricia Racette (Cio-Cio-San)
Roberto Aronica (Pinkerton)
Dwayne Croft (Sharpless)
Maria Zifchak (Suzuki)
Conductor: Patrick Summers
Production: Anthony Minghella
OFF

*** プッチーニ 蝶々夫人 Puccini Madama Butterfly ***

2008 RICHARD TUCKER GALA 後編 (Sun, Oct 26, 2008)

2008-10-26 | 演奏会・リサイタル
前編より続く>

タッカー・ガラにはインターミッションがありません。(本当に。)
なので、ここでも次々いきます!

 ドゥノーズとブラウンリーのコンビで、
『ラ・チェネレントラ』より”何かわからぬ甘美なものが”
ドゥノーズはぴんのアリアと比べると、少しリラックスしたのか、
この二重唱の中盤あたりから、やっと装飾歌唱もなめらかになってきましたが、
あまりに遅すぎやしないか?
あなたの出番はこれで終わりなのに、、。
そして、声量がないのはあいかわらず。
少しでも歌唱のいい面もお伝えしたいのに、何を言っていいのかわからない、、。
せっかくのNYのオペラファンに良い印象を残すチャンスだったのに、これでは逆効果です。
『アルジェのイタリア女』ではあんなにいきいきとしていたブラウンリーまで、
ドゥノーズの毒気にあてられたか、元気がない。
メトでは、今シーズン末の『ラ・チェネレントラ』で、ガランチャを相手にドン・ラミロを
歌う予定なんですから、こんなことではいけません!

 ジョルダーニによる『運命の力』から”天使のようなレオノーラ”
『真珠採り』からの二重唱では、”今日はいけるかも”と期待させたジョルダーニでしたが、
やっぱりジョルダーニはジョルダーニでした。
最近の彼の歌唱が厳しいのは、特に高音域で、どんどん音の重心が下がってきてしまうこと。
その上にスクーピングが入るので、気持ち的には正しい音を目指してはいるのだと思うのですが、
勝手気ままにあっちに行ったりこっちに行ったりする酔っ払いの千鳥足のような歌唱なのです。
あまりのひどさに、私のお隣の年配のオペラヘッドのおじさまは、
右手で空を払いのけるように、”勘弁してくれよ。”という仕草。
私もつい、”頭痛がします”のポーズ(左の親指で左のこめかみを、残りの四本の指で右の目を覆い隠す)
になってしまいました。
なのに、このNYではジョルダーニの親衛隊でもいるのか、こんな歌唱でも、いつも大喝采なのです。
おじさんと一緒にきーっ!となる私なのでした。フェアでない観客の喝采やブーほど許せんものはない!!!

 この一曲だけを歌うためにあらわれたスーザン・グラハム。
『アリオダンテ』から”恐怖と不吉の夜の後に”
二オクターブにわたる音域のアリアで、カストラートばりに超絶技巧を繰り広げるグラハム。
足を肩幅にがっちりと広げ、床を踏みしめ、体を揺らしながら、ものすごい腹筋を活用して歌うその姿に、
観客は大喝采。
素直にすごいな、とは思うのですが、彼女の歌を聴くたびに、なんだか、芸術というよりは、
運動、それも、こんなにすごいのよ!という自らの体を誇示するボディー・ビルディングに
通じるものを見ているような気がするのは私だけでしょうか。
このアリアにしても、歌われている内容はどうでもいいから、とにかくこの技を食らえ!という感じ。
そんなにむきむきの体を誇示しなくても、十分に良さが伝わるタイプの歌手だと思うのですが。
今シーズンの『ドン・ジョヴァンニ』では、その引いた感じが、とってもよかったのにな。

 リゼット・オロペーザ、ルネ・テイタム、ベチャーラ、ターフェルによる、
『リゴレット』第三幕の四重唱(”美しい恋の乙女よ”)。
オロペーザは、リンデマン・ヤング・アーティスト・デベロップメント・プログラム
出身で、すでにメトの舞台にも、『フィガロの結婚』『ヘンゼルとグレーテル』で立っている新進のソプラノです。
ただし、この男性陣に混じって歌うにはまだまだ役不足だし、
この四重唱の出来から察すると、メトの舞台でジルダを歌うことが出来たとしても、
だいぶ先のことになるでしょう。音程もややひやっとさせられる個所がありました。
もともと、私はあまり彼女の声や歌唱に魅力を感じないので、やや辛口ではあると思いますが、
そう的外れなことは言っていないはずです。
むしろ、彼女よりもずっとこのような大舞台の経験が少ないはずの、メゾのルネ・テイタム。
彼女はタッカー・ガラ・ファンデーションが支援している、
キャリアが始まったばかりの歌手の一人ということで、今日の舞台に立ったようなのですが、
舞台度胸もありそうだし、なかなか魅力的な声をしていて、
彼女とベチャーラ、ターフェル、テイタムががっぷり組んだ三重唱のような四重唱となりました。
ここでも、ベチャーラが輝かしい声と歌唱を聴かせて喝采をさらった感があります。
ターフェルもしっかりと底を支えているし、これでソプラノにもっと力のある人が入っていたら、
ものすごく聴き応えのある四重唱になっていたはずなんですが、残念。

 ルチーチとジョルダーニの二人が歌う『運命の力』からの二重唱
”アルヴァーロよ、隠れても無駄だ”
リハーサルでは、ドン・アルヴァーロが、A me un brando.. Uscite, un brando! Uscite
(剣をよこせ!外に出ろ!)と歌うシーンがオケと合わず、
(歌うのはテノール。名前はあえて言いますまい。)
ほとんどぶっつけ本番状態だったというこの二重唱ですが、今日のガラの中では、
最も聴き応えのあった曲の一つです。
何気に本番に強いジョルダーニ。
しかし、何よりも、立役者はルチーチ。Usciteの後の、カルロのFinalmente!は、
力強く、あの『マクベス』でのおどおどした亭主ぶりが嘘のようです。
いやー、彼のドン・カルロも聴いてみたいです。『運命の力』が次にメトでかかるのはいつ?

 怒涛のヴェルディ攻撃。オケと合唱による『ナブッコ』から”行け、我が想いよ、金色の翼に乗って”
夏のパーク・コンサートの時よりも、オケがさらに重量感のある音で、
前奏部分でわくわくしたのですが、合唱が入ってきて、こけた。
シャワー浴びながら、もしくは台所でまな板に向かいながら鼻歌を歌っているわけじゃあるまいし、
口先でなく、体全体から声を出そうよ!と言いたい。
来年から、NYコーラル・ソサエティじゃなく、メトの合唱に来てもらえないかな。
これじゃ、歌手やオケとあまりに差がありすぎます。

 今年は例年と違うちょっと面白い企画が試みられました。
ミュージカルの舞台で活躍中の歌手を二人ゲストとして迎える数曲がそれ。
一人目は、パウロ・ゾット。
ブラジル人の彼は、もともとオペラ畑の出身の人で、NYシティ・オペラや、
メトの舞台にも立ったことがあるようです。
2008年、ミュージカル『南太平洋』での活躍により、トニー賞を受賞。声域はバリトン。
今日歌ったのは、『ラ・マンチャの男』から、”見果てぬ夢”。
びっくりしたのは、マイクなしでフルのオケをバックに歌い始めたこと。
オペラ歌手出身という自負のなせるわざか、タッカー・ガラ・ファンデーション側からの指示か、、。
しかし、残念ながら、声量の違いは明らか。
特に今日はターフェルやベチャーラといった声量豊かな歌手がいるので余計に、、。
もしも後者の、ファンデーション側からの指示とすれば、これはちょっとフェアでないような気がします。
ミュージカルの歌唱も、オペラの歌唱もどちらがどちらより優れている、ということはないのに、
これだと、まるで、声量だけを取り上げて、”ね?オペラ歌手のすごさがわかるでしょ?”と言っているよう。
マイクがないために、微妙な歌いまわしの機微も聴こえないし、
ご本人に大変気の毒な演奏になってしまったように思います。

 そして、ケリ・オハラにまで同じ仕打ちを!
彼女も『南太平洋』出演組で、今年トニー賞にノミネートされた女優さんの中で、
下馬評が最も高かった一人。(結局受賞はならず。)
彼女は、『マイ・フェア・レディ』の”一晩中でも踊れたのに”を披露。
ソプラノということで、ゾットよりも声を響かそうとすれば響かせられるのが
逆に仇となったか、やはりマイクがないまま、一生懸命ホール中に
声を届かせようと、本来の持ち声よりも大きな声を絞りだしているのが明らか。
結果、あまり聴き心地の良くない声であるかのような印象を生んでしまったのは本当に残念。

 ゾットとオハラのデュエットの前にこっそりはさまれた、
ターフェルによる『キャメロット』からの曲で、"How to Handle a Woman ”。
(邦題がわからないのですが、”女性はこのように扱うのさ”みたいな意味です。)
マイクなしでもなーんの問題もなく、嬉々として歌い演じているブリン。
まじめなオペラのアリアもいいですが、彼はこういうコミカルな曲が結構キャラクターに合っている。
演技も余裕があって、上手。器用なところを見せていました。

 ゾットとオハラのデュエットで、『アニーよ銃をとれ』から、”They Say It's Wonderful ”
(”素敵だとみんな言う”とか、色んな邦訳があるようです。)
二人がマイクを持っている姿に、ほっ。
しかし、普段演奏し慣れないミュージカルからの曲に、オケも困惑したか、
イントロに入り損ねたセクションがあり、指揮者がすぐにもう一度イントロの頭に戻るよう指示。
切れ目なしに続けて演奏されたので、ほとんど違和感がなく、曲を知らなければ、
ミスがあったことにはまず気付かないと思います。
指揮者のロヴァリス、ここでも慌てず落ち着いて指示を出していましたし、なかなか頼りになります。
マイクを通して聴く二人の声は、あの、無理して生声を会場中に響かせようときりきりまいしていた時とは、
別人のように甘くて素敵。
オハラのそれは、さっきとは全然ちがって、温かさとコケティッシュさを感じさせる声で、
微妙な歌い方の違い、また息の使い方、など、細かいニュアンスの違いが、
どのようにマイクを通した声に反映するか、をきちんと理解しているように思いました。
圧倒的に、マイクを通して聴いた方が魅力が出る歌手です。
同じことがゾットについても言え、オペラの世界には合わなくてキャリアが花開かなくても、
こうして、違うフィールドで存分に実力を発揮できるということは素晴らしいことだと思います。
彼は、声が甘すぎず、適度に端正さが漂っているところが持ち味ではないかと思いました。
歌い終えた後、二人で手を取り合いダンスをした後(前編の写真参照)、
ダンスのフィニッシュの姿勢のまま、固くキスを交わし、観客から拍手。
二人の持ち味と、曲の雰囲気がマッチした素敵なピースだったと思います。

 ラストはラドヴァノフスキーとピッタスで『椿姫』から”乾杯の歌”
嗚呼、やっぱりこの曲で締めるのですね、、、。
この曲、全幕の中で聴くのは大好きなんですが、こういったガラで聴くのは、
まるで”この曲やっときゃOKでしょ!”的な、予定調和な感じがして、苦手です。
しかも、手拍子が出た日には、なんで私が恥ずかしがらなきゃならんのだ?って感じですが、
こっ恥ずかしさのあまり、座席の下にもぐりこみたくなります。
あ。ピッタスが、みんなに手拍子を求めてる。はずかしー!!
オペラ・オーケストラ・オブ・NYのガラもやはりこの”乾杯の歌”がトリになっていて
身がすくむ思いがしたものですが、OONYのガラが、全登場歌手が、
パートにかかわらず、それぞれ数フレーズずつ歌ったのは新鮮、かつ楽しかったのですが、
(ザジックがヴィオレッタを歌うとこなんて、まず普通は見れない!)
今日は、普通にピッタスがアルフレードのパートを、ラドヴァノフスキーがヴィオレッタのパートを歌うという、
面白くもなんともない趣向です。
しかも、今年のタッカー・ガラは、男性陣に比べると、女性陣が非常に弱かった気がするのですが、
そんな人手不足がたたって、ヴィオレッタには全く声質的に向いていない、
へビーな声のラドヴァノフスキーがヴィオレッタを歌っているのも、
私には眉間に皺ものでした。

アンコールで、二度目の”乾杯”が始まり、出演した歌手が全員舞台に登場したときには、
”ベチャーラにアルフレードのパートを歌わせろー!!”と叫びそうになる自分を抑えるのが精一杯でした。
(ジョルダーニはどうでもいいから!!)
しかし、そんな気を利かせるわけでもなく、しゃあしゃあと歌い続けるピッタス。

と、まあ、こうやって並べて書くと、個々の曲については、ネガティブな感想も多いのですが、
しかし、終わってみると、”やっぱり楽しかったかも”と思えるのがこのガラの不思議かつ素敵なところ。

ちなみに、写真は、その”恥ずかしい”乾杯の歌の様子で、
後ろにあるのは、リチャード・タッカーの写真をコラージュしたバックドロップです。

翌日、例の皮膚科のクリニックで、受付のおばちゃまと感激の再会。
もうかれこれ7、8年、甥御さんがこのガラのチケットをプレゼントしてくれる慣わしになっていて、
毎年楽しみにされているイベントなんだそうです。

診察室に通されて、先生を待つ間、ふと目に入ったのが期間限定のキャンペーンの広告。
”オバマ候補を支持する方にはボトックスを、
マケイン候補を支持する方にはジュヴェダームを、それぞれ割引価格にて提供!”
なぜ、オバマがボトックスで、マケインがジュヴェダームなんだろう、、と、
先生が現れるまで考え込んでしまったのでした。

(*ボトックスは、ボツリヌス毒素を使用したアラガン社が販売する神経麻痺剤で、
しわやたるみをなどをとる効果があると言われている。
ジュヴェダームは、皮膚の下にヒアルロン酸で出来たジェルを注射することで、
同じく顔面の若返り効果を狙った商品。)


GIOACHINO ROSSINI
Overture to Il Barbiere di Siviglia
Members of the Metropolitan Opera Orchestra
Corrado Rovaris, Conductor

GEORGET BIZET
"Au fond du temple saint" from Les Pescheures de Perles
MARCELLO GIORDANI, Tenor
BRYN TERFEL, Bass-Baritone

GIOACHINO ROSSINI
"Languir per una bella" from L'Italiana in Algeri
LAWRENCE BROWNLEE, Tenor

GIACOMO PUCCINI
"Sola, perduta, abbandonata" from Manon Lescaut
SONDRA RADVANOVSKY, Soprano

JULES MASSENET
"Pourquoi me reveiller" from Werther
PIOTR BECZALA, Tenor

GIOACHINO ROSSINI
"Nacqui all'affanno al pianto" from La Cenerentola
RUXANDRA DONOSE, Mezzo-soprano
New York Choral Society

GIACOMO PUCCINI
"Te Deum" from Tosca
BRYN TERFEL, Bass-baritone
New York Choral Society

CHARLES GOUNOD
"Salut! Demeure chaste et pure" from Faust
DIMITRI PITTAS, Tenor

GIUSEPPE VERDI
"Per me guinto" from Don Carlo
ZELJKO LUCIC, Baritone

GIOACHINO ROSSINI
"Un soave non so che" from La Cenerentola
RUXANDRA DONOSE, Soprano
LAWRENCE BROWNLEE, Tenor
JESSICA KLEIN, Soprano
RENEE TATUM, Mezzo-soprano

GIUSEPPE VERDI
"La vita e inferno all'infelice" from La Forza del Destino
MARCELLO GIORDANI, Tenor

GEORGE FRIDERIC HANDEL
"Dopo notte" from Ariodante
SUSAN GRAHAM, Mezzo-soprano

GIUSEPPE VERDI
Quartet from Rigoletto
LISETTE OROPESA, Soprano
RENEE TATUM, Mezzo-soprano
PIOTR BECZALA, Tenor
BRYN TERFEL, Bass-baritone

GIUSEPPE VERDI
"Invano Alvaro" from La Forza del Destino
MARCELLO GIORDANI, Tenor
ZELJKO LUCIC, Baritone

GIUSEPPE VERDI
"Va, pensiero" from Nabucco
New York Choral Society

MITCH LEIGH
"Impossible Dream" from Man of La Mancha
PAULO SZOT, Baritone

FREDERICK LOEWE
"I Could Have Danced All Night" from My Fair Lady
KELLI O'HARA, Soprano

FREDERICK LOEWE
"How to Handle a Woman" from Camelot
BRYN TERFEL, Bass-baritone

IRVING BERLIN
"They Say It's Wonderful" from Annie Get Your Gun
KELLI O'HARA, Soprano
PAULO SZOT, Baritone

GIUSEPPE VERDI
"Brindisi" from La Traviata
SONDRA RADVANOVSKY, Soprano
DIMITRI PITTAS, Tenor
New York Choral Society

Avery Fisher Hall
Orch BB Mid

***タッカー・ガラ Richard Tucker Gala***

2008 RICHARD TUCKER GALA 前編 (Sun, Oct 26, 2008)

2008-10-26 | 演奏会・リサイタル
ポリーニのリサイタルでの、我が身の愚かさを呪いつつ、スタバで過ごした一時間は長かった。
ようやく、タッカー・ガラの開演の時間。
しかし、私の今日の呪われっぷりはこれで終わらなかった。

タッカー・ガラのチケットが我が家に届いたとき、B列(前から二列目)という文字が
目に飛び込んできて、そんなに高い代金を払ったわけでもないのに、なんでそんな前に?!と、
不思議に思ったが、ウェブで見つけた座席表によると、かなり列の端であることが判明。
ああ、それでだな、と深く考えず、ただ前から二列目という言葉だけが強烈に脳みそに刻み込まれたのでした。

いざ、エイヴリー・フィッシャー・ホールに入り、アッシャーの説明もそこそこに、
いそいそとB列に突進。
座席番を見て驚いた。ほとんどど真ん中なんですけど!
指揮台がすぐそこにあるんですけど!すぐそこにオケのメンバーがいるんですけど!
そして、歌手はこのすぐ目の前で歌うんだわ!とわくわくする私。
わくわくせずに、なぜ、真ん中なんだろう?と考えるべきだったのに。

超特等席にどっかりと居座り、ぱらぱらと余裕でプログラムを眺めているうちに、
いよいよ会場が埋まってきた。
去年のガラでは、オケによる最初の一曲が始まってもまだわらわらと客が入場し続けていて、
何なの、一体?と思ったものだが、今日の観客は優秀。

すると、いかにもこのブロックに座るにふさわしく、お金を持ってそうな、
小ぎれいにめかしこんだ女性が、”すみません、何番のチケットをお持ちですか?”と、
私に尋ねられるので、”XYZ番です。”と自信満々に答えると、”あら、私もだわ。”
”ちょっと、チケットの読み方くらい学習してよね。”と内心思いながら、
これまた自信満々に自分のチケットを取り出し、”どうだ!!”と、
彼女の目の前に印籠のようにかざすと、その女性が、実に申し訳なさそうに一言。
”あら、これ、BB列だわ。BB列はもっと後ろなんですよ。”

はっ!そういえば、Z列まで来ると次にAA、BBとなるのはメトの平土間も同じではないか!
ウェブで確認までしたせいで、エイヴリー・フィッシャー・ホールは、
カーネギー・ホールの上階と同じく、最前列がAAで始まるものと思い込んでいた。
だいたい、席が端っこでなかった時点で、なんでこんなに良い席なんだ?と、
疑問に思うべきだったのだ!
しかし、あのウェブで見たチャートは、あれは一体なんだったのだろう?
今思えば、全然違うホールのチャートだったと思うしか、説明がつかない。
チケットの読み方を学習しなければいけないのは私だった!!

もう、蟻になって、姿を見られないように座席移動したいくらい恥ずかしかったのだが、
”BBはずっと後ろですよ。”という言葉に、私のこめかみがぴくっ!としたのが見えたのか、
なぜだか、その女性の方が恐縮してしまって、”本当にごめんなさいね。”と謝る始末なのでした。

いや、この女性が開演前に現れてくれてよかった。
これが、開演後いくつ目かの曲であらわれるような、”何なの、一体?”な客だったらば、
(しかし、自分だって、ポリーニのリサイタルにいたときは、その何なの一体系の行為を
たくらんでいたくせに、である。)
周りの全観客、すぐ目の前の舞台にいるオケや合唱のメンバーの監視のもと、
”ずっと後ろの”席に移動しなければいけないところでした。

さて、そのずっと後ろのBB列にたどり着くと、座席につくために、
端にすわっているご年配のカップルに一度立ってもらわなければならないことに気付き、
”すみませんが、、”といって、端に座っている女性を見ると、
どこかで見た顔、、、そして、その女性も私の顔を見て全く同じことを考えている表情をしている。
誰だっけ、、誰だっけ、、?

ああああっっ!思い出した!!!
最近アレルギーで顔に湿疹が出たときにお世話になった皮膚科の先生の受付のおば(あ)さまだ!!
この皮膚科、実は連れの紹介で通うようになったクリニックで、
先生方は非常に優秀なのだが、この受付のおばちゃまがかなり”きてる”のです。
たまたま、連れも皮膚科にお世話になる理由があったので、
彼に、私の分も合わせて予約をとってもらったのが、後になって、
彼がその日は都合が悪くなったため、私だけが予約をキープしてもらうことにしていたはずなのに、
前日に確認の電話をすると、私の分まで勝手にキャンセルされているばかりか、
私はおろか私の連れでさえも指定した覚えのない日にリスケジュールされており、
これを解決するために電話で押し問答。
あまりに高齢なために、少しメモリー・ロスが入っているのか、
つい2秒前に言っていたことも忘れてしまうその様は、かのアマート・オペラのチケット係の
おじさんを彷彿とさせる。
なのに、あまりに自分の方が正しい!と電話で言い張るので、
会ったら、きっとやなばあさんに違いない!と、憂鬱な気分でクリニックに行く日を迎えたら、
実は受付で実際にお会いしてみると、かわいいおばあちゃん、という感じで、
あれは、単に、メモリー・ロスが進行しているだけなんだわ、、と、納得したのでした。
しかし、相変わらず、次の患者さんが、電話番号を読み上げた直後に、
再び、”それで家の電話番号は?”とにこにこしながら尋ねている姿に脱力。
さっき、メモしていた風だったのに、そのメモはどこ行った?!
こんなおばあちゃまが、じゃんじゃんかかってくる予約の電話をさばいているクリニック。
ああ、おそろしや。

”皮膚科の先生のところで働いていらっしゃる、、”というと、
”ああ!あの患者さんの!!(どうやら、私の顔は覚えていたらしい。奇跡です。)”
と大いに盛り上がり、横にいらっしゃった旦那さまをまたいで、
握手までして感激する二人なのでした。
こんなにたくさんある客席で、ほとんど真横になるなんて本当に奇遇なのだから、
誰も私達を責められますまい。
”明日も予約が入っているんで、伺いますね。”と言って、着席。

 今年のガラの一曲目は、『セヴィリヤの理髪師』序曲。
以前にも書いたとおり、このタッカー・ガラは、オケがメト・オケ
(しかし、残念ながら、合唱は、メトの合唱ではない。)であることが、
一つの魅力となっているのですが、今日そのメト・オケを率いるのは、
コッラド・ロヴァリスという、聞いたことのない若そうなイタリア人の指揮者。
プレイビルによると、フィラデルフィア・オペラの音楽監督だそうです。
このタッカー・ガラは、メトの通常シーズンの隙間に、しかも、本来はオケのメンバーがお休みである
日曜日に開催されるとあって、リハーサルもそれほど何度も出来ないため、
指揮者にとっては大変な仕事だと思うのですが、
それにしては、このロヴァリス、私が記憶する限り、メトではまだ振ったことがないと思うのですが、
非常に落ち着いてオケをまとめており、リハ不足を感じさせないなかなかの演奏だったと思います。

 いよいよ歌手の登場。ブリン・ターフェルとマルチェロ・ジョルダーニの二人で、
『真珠採り』から”聖なる寺院の奥に”。
って、これ、去年のタッカー・ガラのプログラムにも入っていたじゃないですか!
それも、キーンリサイドとポレンザーニの、あまりにも美しい重唱で!!!
あれ以上のものを聴かせるのは、難しいんじゃないか、、と予想した通りで、
この曲は、ターフェルとジョルダーニのようなたくましい声質の歌手が歌うより、
キーンリサイドとポレンザーニのような繊細な声質の歌手に断然有利であると再確認。
ただし、最近、メトの舞台に、各種のガラに、と、ぱっとしない歌を聴かせ続けていたジョルダーニが、
なかなか頑張っていたので、今日はいけそうか、ジョルダーニ?と期待が募ります。

 ローレンス・ブラウンリーで、『アルジェのイタリア女』から、”美しい恋人をしのびつつ”
私は昨シーズン、メトでの彼の歌唱(『セヴィリヤの理髪師』のアルマヴィーヴァ伯爵)を
聴き損ねてしまったので、非常に楽しみにしていた歌手の一人。
フローレスと歌うレパートリーがかぶっているのですが、
フローレスよりもずっと声ががっちりとしていて、もちろん声域は高いのですが、
普通のテノールの声域を、たくましさはそのままに音域だけさらに高く移行したような、
ユニークな声で、フローレスの繊細な声質とは対照的なので、
レパートリーがかぶっていても、あまり心配をする必要がないような気がします。
持ち味が二人は全然違うと思います。
ただ、今日は少し堅かったんででょうか、少し細かい技巧に正確さを欠く場面が見られ、
技巧のソリッドさでは、まだまだフローレスとはだいぶ距離があります。
あとは、舞台で醸し出す雰囲気というのか、がもっと付くと良いな、と思います。
他の歌手たちに比べると、まだ一瞬にしてその場をオペラのシーンに塗り替えるような
力がやや弱いように思いました。

 ソンドラ・ラドヴァノフスキーで、『マノン・レスコー』から”捨てられて、ひとり寂しく”
この選曲を見たとき、”ああ、この手があったか!”とかなり期待した一曲。
メトでラドヴァノフスキーの声を聴くと、いつも”でかい!”と感じ、
今まで聴いた諸役は、彼女の声のサイズが役を凌駕しているような感がするものが多かったので、
ああ、マノン・レスコーなら、はまるかも!と思ったんですが、、。
一声出てきたときは、”これはいいのでは?”と思ったのですが、高音に来てがっくり。
ああ、高音が厳しい。かろうじて音が届いている、という感じで、
このあたりが彼女の音域の限界か?
そして、その高音では、声のテクスチャーがすでに絶叫系というか、
嫌なざらざらとした音が混じっているので、
うーん、これはちょっと全幕で歌うのは、これが本来の調子だとするときついかもしれません。


 ピョートル・ベチャーラで、『ウェルテル』から、”春風よ、なぜわれを目覚ますのか”
今日のガラのメンバーの中でも、最も情熱的でかつ安定した歌を聴かせた歌手の一人がベチャーラ。
テノールの中では(とはいえ、ブラウンリーみたいな人とは全然タイプが違うのですが)、
破竹の勢いを感じさせ、彼のような歌を聴くと、ジョルダーニの歌は、
かなり疲れた感じがして、”もっとがんばんなさいよ!”と叱咤激励したくなります。
今シーズンのメトでは、つい先日彼が出演分の全日程を終えたばかりの『ルチア』
それからシーズンの後半で歌う予定の『リゴレット』のマントヴァ公と、
イタリアもののイメージがあったので、このフランスもののアリアは非常に興味深かったのですが、
ある意味、イタリアものよりも肩の力が抜けているというのか、
よく心配される無理な発声云々という点は、比較的あまり感じられなかったように思います。
しかし、とにかく声量が豊かな人。舞台マナーも感じが良く、好感が持てます。

 ルクサンドラ・ドゥノーズで、『ラ・チェネレントラ』から、”悲しみと涙のうちに生まれ”
残念ながら、今日参加した歌手の中で、一人だけレベルが違うような印象を与えてしまった彼女。
声量はないし、技巧にも特に秀でたものは見られず、これなら、ナショナル・グランド・
カウンシルに登場する歌手
の方が面白い人材がいる、と思わせるほど。
何よりも歌が退屈なのが厳しい。このチェネレントラは、ガランチャあたりが
持ち役にしているわけで、この程度の歌では、とても太刀打ちできないと思う。
彼女はもう一度、同じ『ラ・チェネレントラ』からの二重唱をブラウンリーと歌いましたが、
『ラ・チェネレントラ』しか歌えないのか?それでこの出来か?といわれても
致し方ないかもしれません。
見た目はほっそりしていて、かわいらしいんですけど、、まずは歌が歌えなければ。

 ターフェルが歌う『トスカ』から”テ・デウム”
昨年、ガラへの参加を予定されていながら、直前キャンセルを食らわせた暴れん坊将軍、ターフェル。
結局、カバーで入ったドバーが、もともとターフェルが歌う予定だったこの”テ・デウム”を歌い
撃沈
した思い出深い曲ですが、今年は、ターフェル本人がリベンジ。
私の個人的な感想では、ガラに登場した歌手全員の歌唱全体の出来としては、
昨年のガラの方が上だったかな、という気がしないでもないのですが、
去年より間違いなく良かったのがオケの出来。
なので、客は歌の出来が良い、と思って拍手喝采している中に、
実はオケの出来がそれを支えていた曲があちこちに見られたのが今日のガラ。
選曲で大いに得をした人が何人かいますが、この”テ・デウム”はまさにそのケース。
ターフェルは、今日、割りとコンディションが良かったようで、
声量もあり、この”テ・デウム”で、しかも、メト・オケが轟音で演奏している上を、
しっかりと声を会場中に届かせていたのですから(メトで、ここまできちんと
オケの上に声をのせられるスカルピアは近年聴いていない。)、
ターフェルの功績も大なのですが、なんといっても、このピースはオケがよかった。
来年のメトのオープニングは『トスカ』の全幕だそうですが、
レヴァインじゃなくって、このロヴァリスに指揮を任せてみたほうが面白いのではないか?
と思えてきます。
ちなみに、トスカ役はマッティラ(!)、スカルピアは、ターフェルが予定されていたのですが、
結局キャンセル。今のところ、今シーズンの『サロメ』に出演した
牛太郎
が予定されている、というのは以前このブログで書いたとおりです。
こんな風にスカルピアを歌えるなら、ターフェルのキャンセルは惜しいかな、という気もしてきました。
NYコーラル・ソサエティによる合唱は、、、。
メトに比べてさらにメンバーの年齢層が高いのが影響しているのか、
声に覇気がないのと、指揮へのレスポンスが悪いのが気になり、
この”テ・デウム”の中でしゃべるように歌う歌詞の部分も、
ええっ??というような出来で、後で登場する『ナブッコ』の合唱といい、私を大仏状態にさせていました。

ディミトリ・ピッタスによる『ファウスト』から”この清らかな住まい”
昨シーズンの『マクベス』でのマクダフ役での活躍以来、ピッタスについては、
小ホールでのリサイタルも鑑賞し、細々とながら応援し続けてきたのに、
今日のこの選曲は一体なんでしょう!!!
誰が、こんな『ファウスト』なんかを歌え、と言ったのか?
本人か?師匠か?
全然、選曲が間違ってます!!!
これだから、NYタイムズの評に、”あまり印象に残らない歌”なんてことを書かれてしまうのです!
あの小ホールでのリサイタルで、難しいワールド・プレミアの曲を、
すっかり自分のものとして歌いこなしていたのを見て、彼は素晴らしい歌手だと感じましたが、
この『ファウスト』のアリアほど、彼の声質や歌唱の持ち味が生きていない選曲も珍しい。
自分で自分のキャリアにとどめを刺す気か?
怒り過ぎて、他に言うことなし。次!

 ジェリコ・ルチーチで、『ドン・カルロ』から”終わりの日は来た”
ピッタスと同じ昨シーズン『マクベス』出身組でも、こちらのルチーチは、
さすがに自分の持ち味を良くわかっている。
DVDも含め、いくつか聴いた彼のヴェルディ・ロール、私は結構好きなのですが、
このロドリーゴのアリアも、私のお隣に座っていた年季の入ったオペラヘッドのおじいさますら、
何度も頷き、大きな拍手を送る出来でした。
ルチーチの声は、温かみがあって、刺すような鋭さはない代わりに、
会場全体を手のひらで包むような独特の広がりがあるのが魅力です。
決して行き過ぎた表現をせず、朴訥とした中に、きちんと物語を感じさせるところがよい。
『マクベス』の全幕公演では、日によって少し声量が少ないかな、と感じる日もありましたが、
今日は思い切りもよく、音を大きく引っ張るところもとっても迫力があって、
この感じなら、今シーズンのヴェルディ作品での歌唱(ジェルモン、リゴレット、
ルーナ伯爵)
が本当に楽しみになってきました。
地味なんですが、やっぱり良いバリトンです。
去年に続いて、今年もゲルプ氏が客席にいましたが、このルチーチの活躍をしかと目に焼きつけ、
引き続き、メトでの登用を続けていただきたいと思います。

後編に続く>


MAURIZIO POLLINI (Sun, Oct 26, 2008)

2008-10-26 | 演奏会・リサイタル
これは絶対に聴きに行く!というオペラの公演やリサイタルのチケットは、
大体発売と同時に手配することが多いのですが、
それは実際の公演日から、半年から一年前、というケースが多いです。

ここでネックとなるのは、メト、カーネギー・ホール、リンカーン・センター
(メト以外の、エイヴリー・フィッシャー・ホールなどでの公演)など、
それぞれ、シーズンのスケジュールの発表やチケットの販売開始の日にちが違うこと。
特に今年はなぜだか、行きたい公演がバッティングするケースが多く、調整にかなり頭を痛め、
十分に注意したつもりなんですが、自分の力の範囲ではどうにもならないこともあるものです。

今日10/26は、初めて生でポリーニのピアノを聴く日。
絶対に、絶対に、これは何があっても聴くに行くのだ!と、
夏にチケットをがっちり確保し、他の公演やリサイタルはもちろん、
何の予定も入れないように細心の注意を払っていたのに、
なんと9月に、タッカー・ガラの予定が発表されて、私は思いっきり固まりました。
ポリーニのリサイタルと同じ日じゃん、、、、
いやーーーーーーっ!!!!どうしたらいいのーーーーーっ!!!??

タッカー・ガラは、毎年必須だし、でも、ポリーニも絶対に見逃したくない。
落ち着け、落ち着け。
よーく時間を見ると、ポリーニはカーネギー・ホールで3時に開演。
タッカー・ガラはそこから車で十分とかからないリンカーン・センターのエイヴリー・フィッシャー・
ホールで6時に開演。
これなら、何とか両方行けるかも。

公演のはしごは、先の公演の最初から後の公演の最後まで、同じテンションで鑑賞することが難しいので、
今年は、バッティングもさることながら、メトの公演も、出来るだけ、
同じ日のマチネとソワレは避けるようにしているのですが、
この状況に至っては、背に腹は変えられん!ということで、今日は、今シーズン初の、
そして、年間でも数少ないはずの、ダブル・ヘッダー・デーです。

ポリーニはもう若くない、どころかそれなりのお歳でいらっしゃるので(66歳)、
軽いプログラムかな、なら、ダブル・ヘッダーも比較的楽かな、とたかをくくっていたらば、
カーネギー・ホールのサイトに発表になっていたプログラムを見てびっくり。
ベートーベンのテンペストと熱情に、シューマンの幻想曲ハ長調、
そしてショパンの四つのマズルカ(作品33)とスケルツォ第二番、、

すごく濃いような気がするんですが、それともピアノのリサイタル、これがスタンダード?
しかも、カーネギー・ホールに入ってすぐに聴こえてきた老夫婦の会話。
”いやー、彼(多分、ポリーニのことを言っているんだろうと推測)は、
アンコールもたくさんやってくれるしねー。”
ま、まじですか、、、。
ダブル・ヘッダー、やぱいかもしれない。
これは、途中退席になってしまうのか、、?私が最もしたくない途中退席・・。
それともタッカー・ガラに遅刻、か。

恥ずかしながら告白してしまうと、ピアノ曲はオペラほどたくさんは聴いていないせいもあるのですが、
ベートーベンのピアノ曲は、どんなにCDを聴いても、リサイタルやらで聴いても、ぴんと来ないので、
おそらく私の感性がベートーベンを受容する器官を持たずに生まれてきてしまったのだろう、と
あきらめの境地に入っていました。
これまた家にある限られた音源からピックアップした、予習用のバックハウスの録音を聴いても同じ。
正直、予習で最も気が乗らず、かつ聴いた回数が少ないのがベートーベンのソナタでした。
それに引き換え、アラウが弾くシューマンの幻想曲は、
私が彼の演奏が好き、という贔屓目もあるかもしれませんが、
熱くて、ダイナミックで、ロマンティックで、最もプログラムの中で期待が高まったわけです。
ですから、何があっても、シューマンまでは絶対に聴いて帰るぞ!と鼻息も荒く、
カーネギー・ホールに乗り込んだのでした。

大御所にもかかわらず、何の気取りももったいぶった様子もなく、
さくっと着席したかと思うと、もう弾いてる!のポリーニ。
もういつものことになりつつありますが、なかなか演奏に集中できない人たちがたくさんいるNYの聴衆、
第一楽章が始まってからも、がさごそがさごそ。
ビニール袋を開ける音、椅子に座りなおす音、咳の音、ずーはー言っている鼻づまりの音、、。
至るところから雑音が聞こえてくるのですが、驚くべきは、他の観客たちの余裕の態度。
ものすごい熱い視線を舞台に投げかけているので、
皆さんポリーニのことが大好きでいらっしゃるに間違いないのですが、
誰1人として、”もうっ!静かにしなさいよっ!!”という言葉を発する人はおろか、
白い目でそういった輩をじろりと睨みつける人もいない。
いや、むしろ、”まあ、そうやってがさがさ出来るのも今のうちでしょ。そのうち、
そんな気も起きなくなるだろうから。”というような、余裕綽々の態度なのです。
なんだ、これは?!余裕過ぎるぞ、ポリーニファン!!

しかし、彼らは実に、実に、正しかった。
年齢にしては、極めてミスタッチが少ないのも驚きでしたが、
第一楽章では比較的さらっと弾いていたように見えたポリーニが
第二楽章で、ぐつぐつと煮え始めた鍋のように熱くなりはじめ、
中盤、鍵盤の右の端の方(幼児のような表現ですみません。つまり最高音の方です。)を
ばんばん叩きながら、”うりゃあっ!”という声を発したのを境に、
私は”ここであってここでない世界”に連れて行かれてしまいました。

というか、オペラ以外では、オケのコンサートや楽器のソロのリサイタルで、
”上手い!”とか”面白い表現だな”と思うことはあっても、
今日ほどまでに、理屈ぬきで、血管の中の血が沸騰するような感触を体験したことは一度もありませんでした。
それも、ずっと苦手だと思っていたベートーベンで。
気が付けば、目の奥が熱くなていました。これは涙か?涙だ!!!
オペラのように、話の筋やドラマがあるわけではないので、
なぜ涙が出たのか、理論的には説明できないのですが、
ポリーニの演奏に、感覚を直接に刺激された、とでも言うしかありません。

こんなことは、そうはないことだから、この”テンペスト”は、
一生の思い出にせねば、、、と思っていたら、なんと、”熱情”で、またしても涙。
ベートーベンのソナタ両方で、このような状態に陥れられるということは、
もはや、まぐれでもたまたまの名演でもなく、ポリーニの演奏の何かが
そうさせているのだ、と思わざるをえない。

”熱情”のあとに入ったインターミッションで、私は大興奮状態で連れに電話。
先約のために、私以上にこのリサイタルに来たがっていたのにも関わらず、
泣く泣くあきらめた連れ。
なのに、なぜか、タッカー・ガラには無理矢理参加させられることになった連れ。(←私がそうさせたのだが。)

”もう、すごかったよー。私、こんなピアノ聴いたことない!!
このベートーベンだけでも絶対聴きに来るべきだったよ!!”と、
本人がすでに悔しがっているところを、さらにチクチク。まったくもって嫌な女である。
そして、嫌な女ついでに、肝心の用件を。
そう、素晴らしいリサイタルだ!ということを言いたいだけではなかったのだ。
”でね、シューマンの幻想曲は絶対に絶対に聴きたいの!
だから、タッカー・ガラには遅れるかもしれないけど、許して!!”
、、、おいおいおい。無理矢理誘っておいて、自分は遅刻かい!!!!
と、私なら絶対に思うところだけど、私の連れは、私より数段人間が出来ているので、
リサイタルのことも、嫉妬したり悔しがるどころか、
”へー、よかったじゃない!そんないい演奏を聴けて。”
しかも、”うんうん、そこまでいい演奏なら、そのまま居たほうがいいよ。
彼も歳だし、ずっとそんな素晴らしい演奏ができるとは限っていないんだから。”

そうだよね!!!ありがとう!!!!
”最悪、5分か10分遅刻するかもしれないけど、出来るだけ早く行くから!”
(タッカー・ガラはオペラの全幕とは違い、曲の合間に入場させてもらえるのだ。)

この時、私の頭の中で、人生最大の過ちが犯されたことを、私自身、知る由もなかった。
そして、連れは、あれ?と一瞬思ったそうだが、私の勢いに気おされて何も言えなかったのだった。



いよいよインターミッションが明け、待望のシューマンの幻想曲。
しかし、これが私の期待があまりにも高すぎたのか、今ひとつぐっと来ない。
もちろん演奏は素晴らしいのだけど、あの前半のベートーベンで感じたような、
血管がぶち切れそうなほどの興奮がないのです。
あくまで私の意見ですが、ポリーニの演奏には、私がこの曲を好きである理由の一つとなっている
ロマンティックさ、これがやや欠如しているのかな、という気がします。
ベートーベンで、あんなに若者たじたじの熱い演奏を繰り広げた彼が、
どうして、、?という気もしますが、人生への熱さとロマンティックさというのは、
全然異質なものなのかもしれません。
達筆な演奏ながら、あのベートーベンの後では、やや肩透かしを食らったような感じではありました。

この曲の終わりで時計を見てびっくり。
なんとガラの開始まで10分をきってる!
これはだめだ、、。今退場してもガラの頭の一曲は間違いなく遅刻。
この後、ショパンが残っているけど、これを全部聴いたら、とんでもない遅刻になってしまう、、。

そして、本当にこのように途中で退席することは、最も自分自身許せないことながら、
ポリーニ様に本当に心から手を合わせ、かつ、ベートーベンでのお礼を熱く申し上げ、
このシューマンをもって、カーネギー・ホールを後にしたのでした。
というわけで、残念ながら、ショパンは一曲も聴けずじまい。
(ちなみに、アンコールは、エチュードを含むショパン四曲だったそうです。)

カーネギー・ホールの階段をまさに転がる勢いで降り、
57丁目で、行きかう車に轢き殺されそうになりながら、イエローキャブを捕獲。
ちょうど開演時間5分前。今ならまだ電話で話せる!と連れの番号を携帯で押しながら、
ふと腕時計を見て、???????

5時。あれ、、、、?
あわててバッグからタッカー・ガラのチケットを引きずり出す。
開演時間 6時。

今は? 5時。
ガラの開演時間は?  6時。
ぎゃーーーーーーーーーーーあああああ!!!!
何事がおこったのかと、思いっきり振り返るキャブの運転手。

そして、電話の向こうで連れの声。”もしもし?”
”きゃああああああああああああ”
”どうした?”
”きゃあああああああああああ。お願い、今6時だと言って!”
”いや、5時だけど。今からガラに行く準備ちゃんとするよ。あれ?どうした?またインターミッション?”
”一時間、狂ってしまったんです、、、私の頭の中で、、。”
あまりのことに、意味不明の説明であるが、皆さんにはもうおわかりいただけたことでしょう。
ベートーベンの名演にすっかり興奮するあまり、
いつの間にか、一時間、私の頭の中で、タッカー・ガラの時間が繰り上がってしまっていたのです。

そして、連れがとどめの一言。
”いやー、おかしいと思ったんだよね。さっき、インターミッションで電話してきたとき、
もう、ガラに間に合わないかもしれないなんて、えらく後半が長いプログラムなんだな、って、、。”

じゃあ、言ってくださいよー!!おかしいと思ったときは、言ってくださいよー!!

”はい、着いたよ!”とキャブのおやじの声。
意味なく、ガラ開始の一時間も前にエイヴリー・フィッシャー・ホールに到着、である。
むなしすぎる。

しかし、今からカーネギー・ホールに戻ったとて、再入場はさせてもらえないし、
させてもらえたとして、そろそろアンコールに入ろうか、という時間だし。
それこそ、それを全部聴いたら、タッカー・ガラは完全遅刻である。
私のあの恐怖の一時間ワープがなければ、アンコール全ては無理だったかもしれないが、
間違いなく、プログラム本体は全部聴けたはずだ。
ショパンが、マズルカが、スケルツォが、、!!!

ポリーニさん、本当に心から、ごめんなさい。
だけれども、私はあの二つのベートーベンのソナタを聴けて幸せでした。
しかし、もう二度とダブル・ヘッダーはすまい!と、
スターバックスでふてりつつお茶を飲みながら、固く心に誓うのでした。


BEETHOVEN Sonata No. 17 in D Minor, Op. 31, No. 2, "The Tempest"
BEETHOVEN Sonata No. 23 in F Minor "Appassionata"
SCHUMANN Fantasy in C Major, Op. 17
CHOPIN Four Mazurkas, Op. 33
CHOPIN Scherzo No. 2

Carnegie Hall Stern Auditorium
Dr Circ C Mid

*** Maurizio Pollini マウリツィオ・ポリーニ ***

LUCIA DI LAMMERMOOR (Sat Mtn, Oct 25, 2008) 後編

2008-10-25 | メトロポリタン・オペラ
前編より続く>

第ニ幕 第一場

第一幕第二場での表現が結構練れていたのに比べると、
ダムローの演技や歌唱の表現にまだ発展途上中であるような印象を受けたのがこのニ幕と三幕。
完全に狂ってしまった状態で歌うのは第三幕とはいえ、この二幕こそ、
ルチアの精神が徐々に崩壊しつつある途上を表現しなければいけない大切な幕です。
しかも、一幕や三幕のように、ソロでの歌の飛び道具/大技はないので、
ある意味では、ルチア役のソプラノの地の表現力が試される難しい幕といってもいいかもしれません。

兄からの結婚の強要に対する怒りと失望、家を守るのは自分にかかっているというジレンマ、
エドガルドからの便りがなく、自分は本当に愛されていたのか?という焦燥感、
最も信頼するライモンドからあきらめることをすすめられ、泣く泣く至るあきらめの境地、
そして、エドガルドの帰還と何よりも彼からの罵倒によって受ける悲しみ、
昨シーズンのデッセイの歌と演技はこれらの要素が全てきちんと表現されており、
その彼女と比較されるのも気の毒ではありますが、
まずは、もっともっと体の動きに多様性が欲しいと思います。
ダムローの演技は少し時代を感じさせるというのか、基本的には、
腕をぶんぶんふりまわし、舞台を歩きまわる(まあ、時には床に倒れたりもしてくれますが、、。)
という、このワンパターンに集約されます。

同じ腕の動きでも、デッセイの方が無数の引き出しがあり、
その時々の歌唱に合うものを的確に引っぱりだしてくれます。
あそこまで芸達者になれ、というのは酷かもしれませんが、
もう少し、いろいろな手の角度、動かし方、歩き方のテンポや姿勢によって、
観客に伝わるものの違いを研究してほしい。

あと、デッセイとの最大の違いは、演技に大きな動きが入ったときに、
どれほど歌に影響するか、という点。
デッセイの場合、信じられないほど演技が歌に影響しない(というより、
むしろ演技が歌に貢献しているようにすら感じられるときがある。)のに対し、
ダムローの方は、体の動きが微妙に歌にネガティブに反映し、
そこから歌がしばらく微妙に崩れてしまう場合があり、
その後、立ち直るのに少し時間がかかる傾向にあるように思います。
これも前編で書いたことにまた戻っていくのでしょうが、鍛錬を重ねることで、
脆さがどんどん削り落とされていくはずで、これからに大いに期待したいと思います。



エンリーコによるアルトゥーロとの結婚の強制に、なんとか抵抗しようと試みるシーンも、
やはり腕ぶんぶんで、もう少し表現と芝居に陰影がほしい、、。
ここはストヤノフのやや一本調子な歌唱もあって、この公演の中で最もつまらなく感じました。

むしろ、ライモンドとの掛け合いの場面の方が、アブドラザコフの力もあり、面白かった。
よきルチアの相談相手としての善良な側面だけでなく、
彼自身も、利己的な理由から、ルチアにアルトゥーロとの結婚を引き受けさせたがっている、
という事実を強調した役作りで、彼の表現を見ると、
ふと、もしや、ライモンドも、エンリーコとノルマンノとは違うレベルであるとはいえ、
やはり、ルチアを追い詰める運命の歯車の一つではなかったかと思えてきます。
(例えば、本人は、自分の信頼できる人間に手紙を託したが、エドガルドから返事がなかった、
と言っていますが、一体、その”信頼できる人間”とはどれくらい信頼できる人間だったのか?
きちんと調査はしたのか?
そして、その後も、ルチアにアルトゥーロとの結婚を決心させるべく、
さりげなく誘導作戦を行っていることもわかります。)
後に続く婚礼のシーンでも、エドガルドが登場する場面で、
アブドラザコフのライモンドに、ルチアを心配する気持ちと、
自分の密かな計画が頓挫した失望が交錯して見え、
限られた登場場面しかないにしては、最大限に多面的な役作りに成功していたと思います。



このジンマーマンの演出は全体的に嫌いでない私ですが、たった一つだけ、
非常にわずらわしいのは、このルチアとライモンドのシーンで、
二人の歌がまだ終わっていない時点から、婚礼の場への転換が始まってしまうことです。

大きなセットの移動はなく、地面に降りていたシャンデリアにかかっていた白布がとりはらわれ、
するすると天井に上がっていき、召使役のエキストラが、
巻かれて舞台奥に置かれていた絨毯を足で舞台手前に広げていく、という程度のものなのですが、
照明の関係もあり、一気に華やかな部屋に早変わりするので、
客席からどよめきやら、そのアイディアに対して、感嘆するような笑いが起こったりしてしまいます。
そのため、歌が非常に聴こえにくくなってしまうのですが、ここの旋律は実に美しく、
また最後にルチア役のソプラノが高音を出せる場でもあり、
今日も、せっかくダムローが”確率40%”の、ものすごく綺麗な高音を出したというのに、
見れば、観客の注意が歌に十全に向かっていない。こういうのは本当に泣けてきます。
ふと、ジュリー・テイモア演出の『魔笛』が頭をよぎりました。



ショーン・パニカーのアルトゥーロは、第一声を発したときから、
声の美しさでは、個人的に、昨シーズンのコステロとは比べものにならないと思うのですが、
からっとした陽性な声ながら、きちんと役としての責任は果たしている歌唱ではありました。
声質がかなり独特で、将来、役を選ぶタイプの声かもしれません。
ベル・カントはちょっと違うかな、と思います。
ただ、あまりに男前な歌よりは、むしろ、これくらいの方がいいのかもしれません。
なぜならば、コステロのような歌だと、エドガルドがいまいちな場合
(いまいちをジョルダーニやフィリアノーティと読み替えても可。)、
完全にアルトゥーロの方が素敵に思えてしまうから。
まあ、今日の場合は、エドガルドが実力のあるベチャーラなので、
コステロがアルトゥーロでも、問題なかったですが、、。



エドガルドが登場してからのシーンは、あんなに声量のあるベチャーラが、
むしろ、抑えた歌唱をしていたのが印象深かったです。
昨シーズンのテノールたちは、ジョルダーニにしろ、フィリアノーティにしろ、
ここは大興奮!!とばかりに、ルチアを罵倒しまくっていましたが、
ベチャーラのエドガルドは、怒りよりも、”なぜ結婚証明書にサインをしたのか?”
という悲しみの方が強く表現されていて、ルチアを愛する気持ちが一瞬たりとも
消えていないところがせつなさを誘います。



順序が前後しますが、六重唱に合わせて舞台で進行するのが、
これまたこの演出で賛否両論事項の一つとなった、結婚写真の撮影。
今年は昨年よりも、写真屋を演じている男性が芸達者に見えます。
(俳優が違う人なのか、演技を変えただけなのか、は不明。)
アルトゥーロの横に無理矢理ルチアを座らせ、二人の手を握らせた後、
まわりに、アリーサやライモンド、エンリーコを置き、
最後に結婚の祝宴の招待客たちもまわりを取り囲むよう、この写真屋が仕切っていきます。
ライモンドが実に複雑な表情で、写真に加わるのは先に書いたとおりですが、
そのほかにも、エンリーコが、写真屋の手を振り払ったり(エドガルドが登場した苦々しさと、
エンリーコという人の人どなりを表現)、と、非常に細かい演技付けが一人一人に加えられていて、
これも演出の”お直し”の効果だと思われます。
また招待客全体が体を舞台上手を見るように斜めに向かい、しかも立ち位置の配置を
はっきりと舞台の上手半分にしたことで、ルチアの一族と、
下手側に一人で立っているエドガルドとの間の、断絶、亀裂をより明確に表現。
最後にルチアだけを緞帳の手前に残して幕が降りる部分は、
ルチアと周りの世界が断絶されたことを表現しているわけですが(つまり、
ゆっくりと進行していた狂気は、ここではっきりと姿形をとり、
ルチアはとうとう全身、”あちらの世界”の人になってしまうのである。)
この二つがより上手く呼応するようになったと思います。

ただ、六重唱の部分に話を戻すと、何度ルチアの手をアルトゥーロの手にのせても、
すべり落ちて、それを”きーーっ!!”となって直す写真屋のおじさんの姿はユーモラスなのですが、
あの六重唱の美しいメロディーにかぶって客席から笑いが出るというのは、
かなり野心的な演出というのか、私も若干の違和感はあります。
なかには許せない!というベル・カント作品好きの人もいるかもしれません。
なので賛否両論、というわけです。

六重唱の歌唱に関しては、ベチャーラ、ダムロー、アブドラザコフのこの3人はよく声が聴こえてくるのですが、
ストヤノフとパニカーの声は埋もれてしまっており、アリーサ役のモルテンスの高音が汚いのにはがっかり。


第三幕 第一場

せっかくの、廃墟となったエドガルドの旧居城のシーンも、
とにかくストヤノフに凄みとか迫力がないので、
決闘も、これじゃエドガルド余裕で勝っちゃうね、、という感じ。
この場面は、エンリーコが頑張ってくれないと、とことん退屈な場面に成り下がってしまう。
今日はその典型パターン。

第三幕 第二場

男声合唱は、この演目については、昨年よりさらに良くなった気がします。
合唱にのせて歌うライモンドの歌唱がこれまたアブドラザコフ、なかなか上手い。



いよいよ狂乱の場。
ダムローの”狂う”ということへの理解は、やはりデッセイに比べると、
若干表面的な気がします。
このように空中に渡された長い廊下を歩いた後、



”彼の優しい声が Il dolce suono ”の冒頭を上の階で歌い終わった後、
次のフレーズに入る前に、ものすごい勢いで階段を駆け下りて来るのですが、
”間”的に無理があるし(なので、音楽的にもあまり美しくない。)
狂人だから突然に猛烈な行為に出る、という想定なんでしょうが、
狂った人がこんな走り方はしない、と思う。
この表面的な感じは、2006-7年のシーズンのネトレプコの『清教徒』の狂乱の場(これもDVDになってます。)と
少し共通する感じがあります。
狂う、という表現は、見た目を美しくまとめたいという欲を捨てられない限り、
決して本物に到達することは出来ないと私は思う。
それを捨てて、真に迫ったときに、はじめてそこに美しさが生じる、というパラドックスなのであり、
それを捨てられないときには、観客にこそばゆい思いをさせる、という曲者です。



演技の方はかなり改善の余地があると思いますが、
歌の方は、決して悪くなく、特に今シーズンがロール・デビューであることを考えると、
なおさらです。



彼女のイタリア語は、全体的に、言葉の最後の母音がやや短い(もしくはない)傾向にあって、
例えば、静かに!という意味のTaciという言葉も、”ターチ”というよりは、
英語のtouchなんかのchという音に近い感じだったりして、
ディクションが良くないと気になる、という方には気になるかもしれませんが、
しかし、それ以外の歌唱技術そのものは非常にしっかりしたものを持っています。
今半分ほどの確率で出ているあの本当に美しい声を毎回思いのままに出せるようになったなら、
他の”なんちゃってベル・カント”を歌う歌手たちなど目でない存在になれるはずです。
少なくとも、私が今まで彼女の声が金属的だ、と感じていたのは、
その逆の半分の方を聴いていたからで、実はそうでない実に綺麗な声も彼女が持っている、
ということを発見できたのは嬉しかったです。



次のメトの来日公演の『ルチア』では彼女がルチア役に予定されているらしい、という噂ですが、
このメトでのロール・デビューの成功でベル・カントのレパートリーでの自信もついたことでしょうし、
あと数年、彼女が他の歌劇場などでもこの役の経験を積むことで、もっと役作りが進化するはずで、
来日する頃には、かなり磨かれたものを見せてくれるのではないか、と期待しています。



第二幕 第三場

と、ダムローの頑張りもさることながら、しかし、やはり、私にとって、
この第一キャストの『ルチア』での最大の立役者はベチャーラでした。
『ルチア』は主役のソプラノが優れていればよい演奏になるような印象を持たれている節がありますが、
全然そんなことはなくって、そのソプラノとがっぷりと組めるテノールがいてこそ、
作品の良さが引き出されると思います。
そして、まさに今回のキャストがそのいい証だったと思います。



ベチャーラは、恵まれた声が根幹にあるからでしょうが、歌に度胸が感じられるところが良い。
よく言えば、もう少し歌に繊細さが加わるとさらにいいのですが、
しかし、今の彼ですら、太刀打ちできる現役テノールの数はそう数多くはないはずです。
(大体、他に誰でこのエドガルドを観たいか、と質問されたら、
何人の現役テノールの名前を挙げられるでしょう?)

そんな彼の力が思う存分出たのが、”我が祖先の墓よ Tombe degl'avi miei”。
このアリアのように繊細さよりもむしろパッションで勝負できるピースの方が、
彼の持ち味が発揮できるように思います。



今回のエドガルドで、NYのオペラファンの心をがっちり掴んだ感のある彼。
彼の方も、この熱狂ぶりを本当に喜んでくれているような様子でした。
この後も、『オネーギン』でのレンスキーと、『リゴレット』のマントヴァ公と二度もメトに
舞い戻ってくれる予定なので、楽しみです。


Diana Damrau (Lucia)
Piotr Beczala (Edgardo)
Vladimir Stoyanov (Lord Enrico Ashton)
Ildar Abdrazakov (Raimondo)
Sean Panikkar (Arturo)
Michaela Martens (Alisa)
Ronald Naldi (Normanno)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Mary Zimmerman
Set Design: Daniel Ostling
Costume Design: Mara Blumenfeld
Lighting Design: T. J. Gerckens
Choreography: Daniel Pelzig
Grand Tier D Odd
ON

***ドニゼッティ ランメルモールのルチア Donizetti Lucia di Lammermoor***

LUCIA DI LAMMERMOOR (Sat Mtn, Oct 25, 2008) 前編

2008-10-25 | メトロポリタン・オペラ
今日は今シーズンのルチアの第一キャスト最終日。
メトでルチアが次に上演されるのは来年2009年の1月から2月にかけての第二キャストによるもので、
ネトレプコ、ヴィラゾン、クウィーチェン、アブドラザコフというメンバーで4回の公演が予定されており、
ライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)で上演されるのは、第二キャストの最終日、2/7の公演です。

というわけで、ダムローとベチャーラのコンビの『ルチア』を聴けるのは今日が最後。
今日に至るまでに、シリウスで3つの公演を聴きましたので(そのうち、初日の公演は記事にもしました。)、
電波で聴いたなりに、こんな感じの歌唱かな、というイメージはある程度持っているのですが、
それとどう同じで、どう違うか、というのを確かめられるのが、
シリウスで聴いた後で生の公演を観るときの一つの楽しみでもあります。

さて、新聞をはじめとするメディアでの公演評は初日が対象になることが多く、
今回の『ルチア』もその例に漏れなかったのですが、
ダムローの歌唱は絶賛され、このメトでの公演がロール・デビューだった彼女も、
ほっとしたことでしょう。
このジンマーマンの演出は、昨シーズン、デッセイによってプレミアを向かえたものですが、
そのデッセイの舞台上での歌唱と役作りにはこちらがうすら寒くなるほどの迫力があり、
まだ、その記憶も新しい観客の前で、同じ役を同じ演出で歌う、
そのプレッシャーはいかほどだったかと思います。
また、ダムローに負けずとも劣らず高い評価を受けたのがベチャーラ。
こんな歌い方で喉に無理はかかっていないのか?と危惧する声もありましたが、
しかし、(いい意味で)非常にスリリングな歌であるのは間違いない、というのが、
意見の一致するところでした。

昨シーズンに、第二シーズン目を迎えたシャー演出の『セヴィリヤの理髪師』を観たときにも、
いろいろと細かい修整が演出に施されていて、おもしろいな、と思ったものですが、
『ルチア』の方にも、やはり同様の細かいお直しが入っていました。
全体的には、今年の方が良く練れているというか、その場面で演出家が何を伝えたいのか、
というポイントがよりはっきりしていたように思います。

第一幕 第一場

エンリーコを今シーズン歌うストヤノフはブルガリア出身のバリトン。
彼は調子が良いときは高音に独特の色気があって、私の嫌いなカラーの声ではないのですが、
(3回シリウスで聴いた中で、そんな絶好調の時が一度だけあった。)
問題は、その調子が良い日の確率があまりに低いような気がすること。
今日も、やはり”その日”ではなかったようで、やや高音に思い切りがたりない、とか、
あと、声量がメト・サイズのオペラハウスではこころもとなく、
オケがかぶってくるところでは、声が聴こえづらくなる場面が何度もありました。
ベル・カント作品のオケに声が消されているようではちょっぴり厳しいものがあります。
指揮者の意思の汲み取り方とか、ちょっとした間のとり方とか、
音楽性は決して低くないのに、この声自体のパワーのなさが、
一般の公演評でも、彼の歌唱の評価が低かった原因ではないかと思います。

パヴァロッティをしのぶ『レクイエム』で、もうちょっと歌に個性がほしいなどと、
失礼なブロガー(私)に書かれてしまったアブドラザコフのライモンド。
しかし、彼はオペラの全幕の方がぜんっぜん良いではないですか!?
演技もなかなかだし、歌唱でのちょっとした言葉へのニュアンスの込め方が上手いです。
昨シーズンのレリエーほど、低音に強さや迫力があるわけではなく、
それだけにもう少し低音に支えが出るといいな、という気がしなくはありませんが、
しかし、そのどちらかというと柔らかく耳あたりのいい自らの声質を生かした歌唱で、
何よりもライモンドの偽善的な側面を上手く役作りに取り入れていたのが印象に残りました。
その声の質のせいか、シリウスのような電波にのった状態で聴いていると
声のサイズがメトでは物足りないのではないか?という心配を持ちましたが、
声に独特の広がりがあって、ふわーんと充満するというのか、
実際にオペラハウスで聴いていると、声のサイズには全く不安を感じません。

こうしてつい昨シーズンの公演の記憶が新しいうちに、比較できる状態で聴くと、
やっぱり全然違うなあ、と感じるのがオケの演奏。
レヴァイン本人は、昨シーズンのラジオ放送なんかでも一生懸命否定していましたが、
私はやはり彼はあんまりベル・カントを指揮するのは好きではないのではないかな、と思う。
なんともぴりぴりした演奏で、まだこのルチアのような話の内容だからいいですが、
若干違和感を感じたものです。
(まあ、そんな話の内容だからぴりぴりしているんだろう、という議論も可能とはいえ、、。)

マルコ(・アルミリアート)の指揮はその点、どこかにのんびりとした”ぬき”があるのがいい。
この”ぬき”が、ベル・カントの作品には必要だと私は思うのです。
歌唱技巧へのフォーカスが猛烈に高いベル・カント作品で、
オケにまでギリギリと表現をつきつめられると、息苦しくなります。
(というか、音楽がそういう風にもかかれていないので、
そこから無理に何かを絞りだそうとするのは、”深読み”だと思う。)
また、今日の指揮はディテールにも本当に良く注意が払われていて、レヴァインの時には聴けなかった、
美しい旋律が個別の楽器から立ち上ってきた個所がありました。
ただし、オケがまたしてもお疲れモードなのか、ニ幕以降、
注意が散漫になりがちな個所が散見されたのは、とっても残念。

第一幕 第二場

井戸のシーン。ダムロー登場。

私は彼女について、何か非常につかみどころのないようなものを感じることが多く、
今までに、ガラやら、いくつかの違った公演で彼女の生の歌唱を聴いていますが、
”キンキンした耳障りな声だな”と思ったり、そうかと思えば、
”あれ?こんなにどしっとした声だっけ?”と思ったり、
印象が極端に違うことが多く、例えばデッセイなら、今すぐ頭で
彼女の声をシュミレーションすることが出来ますが、
ダムローの場合、はて?どんな声だっけ、、?となってしまうのです。

で、今日の『ルチア』の歌唱で多少その理由が推測できたような気がします。

彼女の歌唱技術は非常に高いものがあり、歌唱技術の全く伴っていない歌手と同じレベルで
話をしているのではない、ということはわかっていただきたいのですが、
極く、高度な話をすれば、彼女の歌は、同じ目的を試みたときに、
100%同じ結果が出る、というところにまで到達していないのではないか?という気がします。
簡単にいえば、声や歌唱のコントロールがまだ100%ではない、ということです。
いえ、100%などという歌手はまずいないので、彼女の実力からすれば潜在的に可能である
高いパーセンテージ(80とか90とか)にまだ達していない、と言い換えましょうか。
これは今回3度シリウスの放送を聴き、そしてこうして生の舞台を聴いて、
同じ個所で、高音がものすごく純度の高い音ですぱーっと綺麗に入るケースと、
かなり強引に声を引っ張り上げているのがわかるケースが見られたことでも明らかです。

彼女はその強引な歌い方でもなんとか聴かせてしまう力があるのが、また厄介なところなのですが、
このあたりのレパートリーを長く歌って行きたければ、いつも前者のような綺麗な音が出る、
という高みにまで鍛錬する必要があります。
それがベル・カントの厳しいところでもあり、だからこそ、それをなしとげた歌手には
最大級の敬意が払われるというものです。

今日の舞台を観た感触では、どんぴしゃ(音程の話ではなく、響きの、声の美しさや純度の話です。)
の美しい音が高音で聴かれる率は50%くらいでしょうか?
しかし、逆を言えば、半分はそんな美しい音が出せるわけで、これはすごいこと。
彼女が精進を積むなら、ベル・カント・ロールを”真に”(ここ、肝心。
最近はベル・カントを歌う技術が不足しているのにこの手の役に手をつける人が多いので、、。)
持ち役に出来る歌手になる可能性はおおいにあると思います。

彼女の歌唱について優れた点をあげるなら、弱音の扱い。
これは意外でした。私は彼女はいつもきんきんきんきんと声を張り上げているイメージがあったのですが、
実は彼女が一番長けているのは、柔らかい音に感情を込めること。
彼女が無理に声を絞りだしていない時には、とても響きがリッチで、
聴いていて本当に心地よい声が出てきます。

アジリタについては、頭の音にアクセントをつけて心持ち音を長めにしているのが
ややエキセントリックに私には聴こえた個所もありましたが、
素早さ、音の粒の均一さ、いずれも卓越したものがあると思います。

この演出では、ルチアが”あたりは沈黙に閉ざされ Regnava nel silenzio"の中で語る、
悲恋の末、井戸に身をなげる女性を亡霊として実際に舞台に登場させ、賛否両論を巻き起こしました。

デッセイがこの亡霊とからむシーンでは、すでにその亡霊が自分の半身であるというような、
つまり、自分の死への”予感”のようなものを強く感じさせる演技でしたが、
ダムローは、まるでその亡霊と対峙するような様子で、
(下の写真では、怪獣と闘うウルトラマンのようでもあります、、)
その後の、”このうえない情熱に心奪われた時 Quando rapito in estasi”も含め、
よりルチアの天真爛漫さにフォーカスした役作りで、デッセイのルチアよりも、
設定年齢が下のような感じがします。



このオペラ、いやほとんど全てのベル・カント・オペラの難しいところは、
”繰り返し”の部分ではないかと思います。
ぐっと気分を盛り上げたのに、また一から(しかも歌詞まで)同じフレーズの繰り返し、、。
両方で同じ歌い方をするのも間抜けで芸がないし、
下手をすると、せっかく盛り上がった観客の心を盛り下げてしまう結果にもなりかねない。

この葛藤を、演出家や演出家助手のアイディアか、それともダムロー自身のアイディアなのかは
定かではありませんが、ユーモラスに演じることで切り抜けていた個所がいくつかありました。

この『ルチア』のような基本的には陰鬱で凄惨な内容のオペラで、
ユーモアを入れるのは、危険な賭けではあるのですが、
一幕二場のエドガルドとの二重唱で、二人が一緒に歌う最後のVerranno a te ~の直前、
まさに旅立たんと背を向けるエドガルドの後ろで、
”どうしよう、どうしよう”とちょっぴりぶりっ子な素振りを見せた後、彼に抱きつき、
誘惑に負けたエドガルドが、(実際には、繰り返しを歌うために、なわけですが)
どんどん背景が朝焼けの色になる中、出発を遅らせるという風に、
この個所を、旅立つ恋人を引き止めたい微笑ましい乙女心として描き、
それがきちんと観客にも伝わっていたのは面白い試みだと思いました。



ユーモアといえば、”このうえない情熱に心奪われた時 Quando rapito in estasi”では、
最後に盛り上がって超絶技巧を繰り広げるダムロー=ルチアに向かって、
マルテンス演じる友人のアリサが各フレーズ毎に、”しーっ!しーっ!”と、
声を静めてくれ!という仕草をするのですが、
これも、エンリーコや家来に知られたら恐ろしい結果になるのを、
アリサが仲介役となってエドガルドとルチアの秘密の逢瀬をとりもっているという状況と、
ルチア役のソプラノが超絶技巧部で声を張り上げなければならないという矛盾を
上手く逆手にとったアイディアだと思います。
昨シーズン、このような演技付けがあった記憶がなく、あったとしても、
全く観客に意図が伝わっていなかった。
今年の”お直し”効果が功を奏した例の一つです。
歌に集中したい人には、”なんだよ、これ?”かもしれませんが、私は面白いと思いました。

順序が後になってしまいましたが、エドガルドを歌うベチャーラは、
シリウスで聴いてイメージしていた以上に声量が豊かでびっくり。
独特のちょっと泣き節が入ったような声で、好き嫌いはわかれるかもしれませんが、
歌唱は本当に安定しています。
欲をいうなら、もう少し繊細さが出てくるともっともっと役に深みが出るとは思います。
彼のこの押しの強い歌唱は、しかし、ある意味ではエドガルドの若さを観客に
認識させる効果も持っているので、さじ加減の難しいところではあります。

そう。ルチアについては、”なんで兄さんにもう少しきちんと順序立てて物を説明できないかな?”とか、
”なんでエドガルドが結婚の許可をもらいにお兄さんのところに行くよ、と言ったときに
同意しなかったんだろう?”とか、
エドガルドについては、”ルチアに、この恋は今のところ秘密にしておいて、と
いわれたくらいで、
なぜに簡単に引き下がる?”とか、
”なんであとでライモンドに神に祝福されていない結婚は結婚とはいわない、とまで
いわれてしまうようなちゃちな二人きりの結婚を井戸端でやってしまうのか?”

これらの疑問は、いつものベル・カント作品特有のご都合主義的という側面もあるにはあるのですが、、
”彼らの若さ”ということで、かなり説明がつくことがわかります。

昨シーズン、ジョルダーニとかフィリアノーティとか、ものわかりのよいエドガルドを
観たせいで、とても新鮮に感じましたが、
このベチャーラのエドガルドは、とにかく若い。
家という不幸な縛りのために結ばれない大人の二人、ではなく、
『ロミオとジュリエット』とも通じる、若さと家ゆえに引き裂かれる二人、なのでした。

今日の公演で非常に見ていて気持ちが良かったのは、ダムローとベチャーラ二人が、
歌唱のみならず、体の動きすらシンクロしてしまうほどに、息が合っていたこと。
舞台での二人を見ているだけで、お互いへのリスペクトが伝わってくる、
こういう舞台を見るのは本当に観客も嬉しいものです。

今日のインターミッションでは、グランド・ティアーに飾られているシャガールの絵を見るために、
平土間から上がってきたのよ、という70代の女性と、その絵の真下でテーブルをシェアして
お茶することになりました。
しかし、残念なことに、絵いっぱいに幕がかかっていて絵が見えません。
”天気の良い日は太陽の光が絵をいためないように、ということで、
カバーがかけられるのだけど、いつもならこの時間には幕が取り払われているし、
今日は曇っているもの。おかしいわ、、、係の人が忘れたのかしらね。”と残念そう。
インターミッションにシャガールの絵をぼーっと眺めることを楽しめるなんて素敵、、と、
今まで、絵に幕がかかっていたことがあったことすら気の付かなかった私などは思ってしまうのでした。

このおばさま、昔は美人だったに違いないと思わせる整った顔立ちに、今でも眼光の鋭さがあるのが格好いい。
黒いセーターにショールをお洒落にこなしていて、お化粧もとっても上手。
ファッション関係の人かな?と思ったら、案の定、”私は昔ファッション関係に身をおいていたのだけど、
最近の人は色物を身につけなくなったわね。ほら、(と、窓の外のテラスにいる人たちを指差し)、
みーんなニュートラルな色の洋服ばかり、、”
私も黒っぽいいでたちだったので、”色物は髪や肌の色との組み合わせも難しいですから、、”と
自己弁護すると、
”そうそう。あのマケイン大統領候補の妻の、、、シンディだったかしら、?
この間、シャトルーズ色(少し黄味のかかった明るい緑色)のスーツを着てたのよ。
シャトルーズなんて、最も身につけるのが難しい色なのに!
髪の色にも肌色とも全く合ってなかったわ。なんであんな服着たのかしらね?”とばっさり。
あまりにおかしかったので、”ではペイリン副大統領候補のファッションセンスについては?”と聞くと、
身の毛もよだつ!という様子で、”やめてちょうだい!!”
”さっき、女性トイレに入ったら、案内係の女性ともう一人の女性客と私の三人しか中にいないのに、
この二人がペイリンの話なんかし出すのよ!やめてほしいわ!!!!本当に!!
彼女の服のセンスも彼女という人も、ただただhorrifying(身の毛もよだつほど恐ろしい)、の一言よ!!”

NYの、特に芸術やファッション業界に身を置く人の間では、圧倒的に民主党への支持が強く、
この強烈なペイリン・アレルギーも決して特別なものではありません。
次の幕の始まりの知らせに、テーブルを離れるおばさまの足元のおぼつかない様子を見て、
ああ、そうだ、70代っておっしゃってたんだわ、、と思い出したくらいで、
お話している間は、全くそれを忘れるお元気さ。素敵すぎます!!

後編に続く>


Diana Damrau (Lucia)
Piotr Beczala (Edgardo)
Vladimir Stoyanov (Lord Enrico Ashton)
Ildar Abdrazakov (Raimondo)
Sean Panikkar (Arturo)
Michaela Martens (Alisa)
Ronald Naldi (Normanno)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Mary Zimmerman
Set Design: Daniel Ostling
Costume Design: Mara Blumenfeld
Lighting Design: T. J. Gerckens
Choreography: Daniel Pelzig
Grand Tier D Odd
ON

***ドニゼッティ ランメルモールのルチア Donizetti Lucia di Lammermoor***

Sirius: MADAMA BUTTERFLY (Fri, Oct 24, 2008)

2008-10-24 | メト on Sirius
どなたか私に豆腐を持ってきてください。
ここに、角で頭をぶつけて気を失ってほしい人が一名いるので。

このブログではもう何度も書いて来た通り、私が、現在、
いや、現在だけではなく、おそらく今までのオペラ史の中でも、
もっとも素晴らしい蝶々さんを歌うソプラノであると断言しているパトリシア・ラセットが、
昨シーズンに続き、今シーズンも蝶々さんとしてメトに戻ってきてくれました!
今日はその初日。

ラセットという人は、実力にかかわらずなぜだか不遇で、
昨シーズン、シリウス(衛星ラジオ)にのった公演日は本調子ではなく、
また別のシリウスの放送日は風邪で代役が登場(なので先の日が本調子でなかったと推測される)、
そして、やっと体調が回復して、今やその日オペラハウスにいたオペラヘッドの間では”あの公演はすごかった”と
語り草になっている10/27の公演が出たと思ったら、それはラジオの放送も何もない日だった、、と、
こういうわけで、昨シーズン、メトの『蝶々夫人』で公の電波にのったものは、
全く彼女の真価を伝えておらず、
彼女の蝶々さんを愛している私としては、非常にもどかしいものがあったのです。

その後、シネマキャストでサン・フランシスコでの舞台の映像が上映され
彼女の歌は本当に素晴らしく、また演出も悪くなかったので、
DVD化を願い続けている公演ですが、唯一この公演での不満は、
ラニクルズ率いるオケの演奏の出来が平凡な点。
他の演目・演奏を聴くまで断定してはいけませんが、指揮の問題というよりは、
(ラニクルズはメトで指揮したときは素晴らしい演奏を聴かせているので、
嫌いな指揮者ではない。
いや、むしろ、好きな指揮者の一人です。)
ややオケそのものの力が不足しているのかな?という印象を持ちました。

メト・オケの方は調子が良ければ素晴らしい演奏を聴かせてくれるはずだし、
私はミンゲラの演出があまり好きではないのだけど、
ラッキーなことにラジオだからそれは見えないし、今日、私は燃えてます!

ラセットがいつもどおりの歌を歌い、オケが調子が良く、
共演者が頑張ってくれれば、、。

不安要素をあえていえば、オケを率いるサマーズ。
先日の『サロメ』では、公演のかなり直前になって降板した
ミッコ・フランクの代役で入ったという理由はあるとしても、
あまりにあまりな演奏を聴かせて、私の頭の中ですでに豆腐の角で何度か頭を打ってもらったほど。
もし、今日の『蝶々夫人』でも失態を見せたなら、豆腐なんかで済まないところでしたが、
それが、なんと、今日のサマーズはなかなか頑張っているではありませんか!!

『蝶々夫人』のオケの全体の演奏の出来は、歌に入る前のあの短い前奏部分で、
かなり高い確率で予想できてしまうのですが(なぜなら、あそこに指揮者のスタンスが
凝縮されているし、歌手がのって歌えそうかどうかのバロメーターでもあるのです。)、
いやいや、今日の演奏は、来てます!!なかなかいいです!!期待できます!!!

しかし、そんな上機嫌な私を早くも一幕で固まらせる男が登場。

、、、、。ちょっと、何?!このピンカートン!
高音になると声はひっくり返るし、他の音もへろへろ。
こんな度胸のない新人、どこの誰よ?!とキャストをメトのサイトでチェックすると、
そこにはロベルト・アロニカの文字が!!
新人なんかじゃない、超ベテランのアロニカだった、、。

私は実演で彼を何度か聴いたことがありますが、今まで一度も満足な歌が聴けたことがなく、
はっきり言って、今日の歌唱と同じ系統の出来であったことが多いので、
ああ、やっぱり、、という気分なのですが、それにしても、
ピンカートンは準主役でありながら、出番も決して多くはなく、それほど超大な役ではないのに、
この出来はちょっとやばいのでは?

あまりに出来が悪いので、一時的な喉の不調であることを祈りたいですが、
しかし、私の過去の経験から言って、可能性は50/50といったところでしょうか?
慢性の問題である可能性もなくはないと思います。

私の今までの実演を聴いた経験による、彼の歌唱の印象はそれほどまでにひどいので、
夏休み鑑賞会の『蝶々夫人』で彼の歌唱を聴いたときは、心底驚いたほどなのです。

そして、ラセットは、、、今日、絶好調です。
彼女の蝶々さんの最大の鬼門は最初の登場部分から数分で、ここを乗り切ってしまえば、
後はもう尻上がりによくなっていくだけなので、全く心配がいらないのですが、
今日は最初っから声も柔らかくよく延びているし、
これは昨年10/27の再現も夢ではない。

しかし、その上を重なり、また横になり寄り添うヘロヘロのピンカートン、、、

ああ、目の前に彼がいたら、我が手で彼の首をしめてしまうかもしれません。
それほど悔しい!!
ピンカートン役さえもう少しきちんと歌われていれば、さらに素晴らしい公演になったものを、、!!!!
早く、誰か、豆腐を!!

というわけで、一幕はラセットが頑張っているものの、あきらめるしか仕方がありません。
ピンカートンが出てこないニ幕の前半に期待するしかありません。

シリウスの放送では、パーソナリティであるマーガレットと、
アシスタントであるウィリアムのお話が聞けるのも楽しいのですが、
そのウィリアムが、”一幕最後の二重唱は、音楽を聴いてはいけない。
この二重唱は肌で感じるもの。聴くという行為をやめて音楽の中にただ身をおいたら、
そこにエロティシズムの世界が広がっていくのが感じられるはずです。”と今日話していましたが、
上手い表現ですね。本当にそうだと思います。

また、マーガレットが、各幕前にあらすじを非常に短く解説してくれるのですが、
ニ幕の説明の前には、マーガレットがあらすじを語りながら、声を詰まらせる場面もありました。
もうこのあらすじを思い出しただけで、一緒に音楽が出てきて、泣けてきてしまう。
よくわかります。なぜなら、私もそうだから!

その期待の、ピンカートンがいないニ幕一場。
ああ、これはもう昨年の10/27マチネの再現です。
今日のオケの方が演奏の出来はいいくらいか?
ただし、残念だったのは、ハミング・コーラスでのサマーズの指揮が少しバニラ(普通)だったこと。
昨シーズンのエルダーは全体の出来としては、今日のサマーズに譲りますが、
このハミング・コーラスだけは、ものすごい弱音を駆使して、
心をかきむしられるような素晴らしい音楽を作り出していましたので、
それに比べると、今日の演奏は少しさらっとし過ぎているかな?という気もしました。
しかし、いたるところで、”オケが語る”場面があり、今日のサマーズには、花丸を献呈いたします。

そして、ラセットは、もう何ていったらいいのか、、。
昨シーズンのメトでの舞台よりも、一層余裕のようなものが出てきていて、
このハードな役を本当に楽々と歌っているように感じさせるのはすごいです。
どこにも無理な歌唱をしている形跡がない。
このすごさがどれほどのものか、おわかりいただけるでしょうか?
ああ、私の拙いボキャブラリーがもどかしい!!

表現の仕方については、昨年のメトの公演とサン・フランシスコの舞台の間では、
歌いまわしや表現に微妙な変化が見られたように思うのですが、
今回のメトの公演は、限りなくサン・フランシスコの舞台での歌唱に近く、
ただ、それに余裕が加わった分、さらに強力になったように思います。

ラセットがSFO(サン・フランシスコ・オペラ)のシネマキャストの映像で、
歌っていて、一番好きだ、と断言していた、
ei torna e m'ama(あの人は戻ってきた、そして私を愛している!)の直後には、
オケの演奏に重なって、拍手のみならず、客席からBrava!の大声がかかっていました。

ハミング・コーラス後のインターミッション
(メトはここでインターミッションが入るが、私はそれに反対で、そのまま
最後まで突っ走ってほしい、という考えなのは、以前に書きました。)で、
ウィリアム氏からまた興味深いお話がありました。

このハミング・コーラスでの合唱ですが、ハミングがきちんとオケの上を越えて聴こえるよう、
Mの音ではなく、Nの音でハミングするように、という風に合唱のメンバーは指示されているそうです。

ニ幕二場 (昨年のレポートでは第三幕、として書きましたが、
メトでは、ニ幕二場としているようですので、今年のレポートはそのように表記します。)

声にまったく疲れが見られず、それどころか、
Dormi amor mio, dormi sul mio corと舞台裏で歌う場面での最後の音の美しかったことといったら!
またこうして歌だけ聴いていても、表現力に富んでいて、まるで舞台が見えるような気がします。
ああ、もう駄目です。
胸がふさがってきました。蝶々さんの自決のシーン間近です。
シリウス鑑賞のレポートは、聴きながらリアル・タイムで書く事が多いのですが
(今もそうです)、
いい公演の時は手が止まってしまいます。
今日は何度キーボードに手を置いたまま、じっと固まったことでしょう。

”さようなら坊や”は、めったにフォームを崩さないラセットにしては珍しく、
感情的な歌唱になったフレーズもあり、いつにも増して役に没入していたことがわかるのですが、
ほんのちょっぴり、ここに来てやや体力を消耗した感じもし、
つくづく、この役はスタミナ配分が難しいなあ、と思います。

しかし、この歌をまたメトで聴けるのだ!と私の体温は上がりっぱなしです。
どうか、実演鑑賞の日まで、ラセットが今日のコンディションを維持してくれますように。

今シーズンの『蝶々夫人』の全公演は、現在のプロダクションの演出を担当し、
今年3月に亡くなったアンソニー・ミンゲラに捧げられているそうです。


Patricia Racette (Cio-Cio-San)
Roberto Aronica (Pinkerton)
Dwayne Croft (Sharpless)
Maria Zifchak (Suzuki)
Conductor: Patrick Summers
Production: Anthony Minghella
ON

*** プッチーニ 蝶々夫人 Puccini Madama Butterfly ***

Met Player についての質問にメトから回答

2008-10-23 | メト Met Player
昨日は、自分のPC音痴によるメトのサイトの文章の解釈間違いを棚にあげ、
Met Playerで演目がダウンロードできないことに噴火。
その噴火した勢いで、メトに質問メールを書いてしまいましたが、早速、
翌日の今日、カスタマー・リレーションズの方から返事を頂きました。

重ねて解釈違いがあっては”こと”ですので、参考までに原文もつけておきます。

実際に使用してみた上で、さらに、メトからの下のメールを読むととてもわかりやすいのですが、
ポイントは、私がPC音痴なのもさることながら、
実際に使用するまで、Met Playerとまわりの関係が理解しにくかったことにあったように思います。
まずメトのサイトがあり、メト・プレイヤーはそのメトのサイトに属するコンテンツ
(いろいろな公演の映像や音源やら)を提供するためのページであり、
それらのコンテンツは、Move Media Playerというツールを使うことによって
再生が可能となり、このMove Media Playerは、コンテンツを購入する人には
無料で提供される、ということをプレス・リリースでは言いたかったようです。
(とはいえ、Move Media Playerを採用したのはメトの勝手で、
これのダウンロードにまで別に課金されたとしたら、購入者の怒り爆発でしょうし、
とはいえ、どうせ、それを織り込み済みでコンテンツの値段設定をしているでしょうに、、と
内心思わなくはない。)

残念ながら、購入した映像や音源の全部、もしくは一部をダウンロードする、
という夢は今回消えてしまいましたが、
購入者からのフィードバックにより、メト側が今後、いろいろな変更を加えていく可能性は
おおいにありますので、どんどん意見を投げていきましょう!!

それでは実際の書簡交換を。

Madokakipからの質問:

ちは。(噴火していただけに、無愛想。)
つい先ほど、メト・プレイヤーの月間視聴を購入しました。
プレス・リリースによると、
”メト・プレイヤーはどのレンタルもしくはサブスクリプションのオーダーについても、
無料でダウンロードが可能な音声および映像のウェブサイトを提供します。”とありますが、
この”ダウンロードが可能な”という言葉は、メト・プレイヤーそのものが
無料でダウンロード可である事実を指しているのですか?
それとも、メト・プレイヤーにあるトラックをダウンロードできる、という意味ですか?
メト・プレイヤーのサイトのQ&Aコーナーには、iPodにはダウンロード不可、とありますが、
メト・プレイヤー上ではどうなんでしょうか?

hi,

i have just purchased monthly subscription of Met Player.

on your press release,

http://www.metoperafamily.org/metopera/news/press/detail.aspx?id=4906

it says "Met Player will provide a free downloadable audio and video website player
w/ any rental or subscription order."

is this "downloadable" referring to the fact that the Met Player is downloadable?
or does this mean that we can download tracks on Met Player.
in Q&A of Met Player site, you said that the tracks are not downloadable in iPod
but is it downloadable on Met Player?

メトのカスタマー・リレーションズの方からの回答:

”親愛なるMadokakip様(そんな無愛想な人間にも丁寧なメト)

ご質問ありがとうございます。
メト・プレイヤーが提供するのは、Move Media Playerというものの無料ダウンロードで、
このPlayerが、メト・プレイヤー上で視聴可能な音声および映像ファイルを再生する
際に必要とされるものです。
メト・プレイヤーで提供される公演の映像や音源ファイルは、
メトのウェブサイトでストリーミングする目的でのみ視聴が可能です。
メト・プレイヤーの音声・映像ファイルはiPodにも、メト・プレイヤー上にも
ダウンロードはできません。

この情報がお役に立ちますように。さらに質問等ございましたらご連絡ください。
メトロポリタン・オペラをサポート頂き、ありがとうございます。”

Dear Madokakip,

Thank you for contacting us.

Met Player offers a free download called Move Media Player, which is required for you to play all audio and video files available on Met Player. Met Player files are available only for streaming throughout the Met Opera website. Files from Met Player cannot be downloaded onto iPods nor can you download files onto Met Player.

We hope this information is helpful. Please contact us if you need further assistance. Thank you for supporting the Metropolitan Opera.

Met Player その後とお詫び

2008-10-22 | メト Met Player
今日は皆様にお詫びを申し上げなければなりません。
”いよいよMet Player 登場!”の記事で、購入した演目の全部または一部を
ダウンロードできる機能がMet Playerについてくるらしいと、お伝えしましたが、
サービス開始の本日 10月22日、早速月間視聴の申し込みをし、自らトライしてみたところ、
どんなファイル・フォーマットでも、またMet Player上でも、
まったくダウンロードできる様子の微塵もないことが明らかになりました。
このMet Playerは、あくまでメト側が提供するコンテンツをストリーミングできる
(そしてその期間は、購入のタイプに左右される。月間、年間、個別、等。)ツール、
という位置づけのようです。
現在メトにも再確認中ですが、プレス・リリースの一文を彼らが意図したのとは
違う意味に私が取り違えたものと思われます。
心からお詫び申し上げます。

さて、今日はさらに、少し実験を行ってみました。
現在、私の家には、齢6つのデスクトップと、ほんの数ヶ月前に購入したばかりの
今年のモデルのラップトップがあります。
この二台で、全く同じコンテンツ(2007-8年シーズンのライブ・イン・HD演目『連隊の娘』)を
視聴してみました。
どちらも回線は同じです。

まず、齢6つの方は、トレーラーを観たときと同じPCなのですが、
トレーラーの映像と比べると、少しシャープさとクリスプさに欠ける気がしました。
当たり前の話ですが、元々録画された映像の出来にも左右されるわけで、
全ての演目が、あのトレーラーのような、鮮やかな映像であるわけではないようです。
このPCはもう一台(ラップトップ)よりもかなりモニターの画面が大きいのですが、
画面が大きくなっても、あまり映像の質が落ちないように感じましたので、
元の映像さえ良ければ、画像面ではかなり満足したものが見れます。
全体的には、まず合格といえる視聴体験でした。

さて、次に、齢数ヶ月のラップトップ。
こちらはずっと新しいのだから、さらに素晴らしい体験が待っているはず、、!と期待したのですが、
これがびっくり!
以前の記事でコメントを下さった方のおっしゃる通り、画面がカクカクしてしまいました。
つまり、音でいう針飛び状態のようなものを映像が起こしてしまう、といえば、
イメージが伝わりやすいでしょうか?
特に、視聴しながら、同じラップトップで何か別の作業を行うと、
とても見れたものではないほどに、頻繁な針飛び状態に陥ります。
(他に何もせず、じーっと画面を見つめていると、若干まし。)
ただし、音のほうは、こちらのラップトップを経由させた方が、同じスピーカーでも、
断然良かったです。

これはいかに??!!
PC音痴な私なので、今日公開されたばかりのMet PlayerのサイトのQ&A欄から抜粋すると、
まず、少し見づらいですが、以下が具体的な推奨スペックとなっています。



Move Media Playerというものを使って、Met Playerは機能しますが、
前者は、Met Playerを始める際に、一番最初にダウンロードするように促されるもので、
(トレーラーを視聴された方はすでにダウンロード済みのはずです。)
これが上手く走っていないと、Met Playerで見たり聴いたりするものに支障が出ます。
ファイヤーバグをウィンドウズにインストールしている人は、
Move Media Playerがきちんと再生しなかったり、ブラウザーが固まったりする、という症状が出るらしいことが
すでにわかっています。
他にも環境による問題例がMet Playerのサイトにあがっていますので、
視聴を検討されている方は一読ください。

Q&A中に、まさにどんぴしゃな、”映像がかくかくするのですが”というQがありました。
まず、PCが推奨スペックのレベルに達していること。
ストリーミングは非常にCPUの消費率が高く、
CPUが75%以上のレベルに達していると、画像がかくかくしたり途切れたり、といった結果になるそうです。
コントロールとAltと削除のキーを同時に押し、タスクマネージャーを選ぶと、
パフォーマンスというタブにCPU使用量が出ます。

また、いくつかのアンチ・ウィルスのプログラムがMove Media Playerとコンフリクトを
起こすこともわかっているようです。
その場合は、アンチ・ウィルスのプログラムを一時停止するのも一つの方法だそうです。

問題を起こす理由にも、あまりにいろいろな要素があるので、
いきなり年間視聴のプログラムを購入したりせず、
最初は無料視聴サービスや、個別演目の購入、などで、ご自身のPCでうまく
走るかどうかを確認されたうえで、決定されることをおすすめします。
これまでに説明してきた通り、最新のモデルでパワフルであれば、
すぐに、必ず質のいい音と映像が楽しめる、というわけではなく(もちろん潜在的にその可能性は大きいですが)、
そこに到達するまでにちょっとした作業が必要になるかもしれない、ということは念頭においておく必要があるかもしれません。

他にいくつかみなさんがご興味を持たれるのではないか?と思われる質疑応答を抜粋しておきます。

Q.私の好きなオペラがカタログに入っていませんが、将来出てくる可能性は?
A.十分にあります。カタログは、毎月追加されます。

Q.字幕を消すことはできますか?
A.今のところはできません。しかし、先のバージョンで、字幕を消す機能を盛り込むことを検討中です。

Q.英語以外の字幕は出せますか?
A.いいえ。現在は全て英語のみとなっています。

Q.MetPlayerからiPodにダウンロードすることはできますか?
A.いいえ。Met Playerにあがっている全ての演目は、Met Playerのサイトのストリーミングのみ可です。

Q.テレビでMet Playerを視聴できますか?
A.現在PCがテレビにつながっているなら、Met Playerの映像もテレビで見れるはずです。

これらの情報はメトのサイトでお名前を登録され(すでに登録されている方は必要ありません)、
Met Playerのページにログインした後、"How Met Player Works"というところに行くと閲覧できます。


メトが125歳になった日

2008-10-22 | お知らせ・その他
今シーズン予定されている125周年記念ガラには、NY在住の方、日本在住の方を含め、
このブログを読んでくださっている方もたくさんいらっしゃるようで嬉しい限りです。

その125周年、ガラは2009年3月15日に催されますが、
実は、本当に本当のメトの誕生日は、10月22日。
ちょうど125年前の今日、1883年10月22日に、グノーの『ファウスト』を杮落としとして、
メトロポリタン・オペラが開場したのでした。

現在のリンカーン・センターに場所が移転する前までは、ブロードウェイの39丁目がメトの所在地で、
ブロードウェイにあった頃は、このような雰囲気だったようです。
(手前の大きな建物がメト。)



この記事のメインの写真(一番最初の写真)は、1937年11月28日にその旧メトで行われた、
ジョセフ・ホフマンというピアニストのコンサートの写真ですが、旧メトが、
”golden horse shoe (黄金の蹄鉄)”というあだ名で呼ばれていたのもなるほどな、
と思わされる内装です。

旧メトのボックスオフィスのまわりには下の写真のように、歌手たちの写真が
びっしりと飾られていたそうですが、



今シーズンは125周年を祝う意味もこめ、この雰囲気を現メトの地階にある
ファウンダーズ・ホールに再現。
壁にびっしりとはめこまれた写真は壮観です。
『ドン・ジョヴァンニ』のインターミッションで、歌手の名前当てごっこを始めたら、
止まらなくなって、次の幕が始まるのも忘れそうになりました。
ユニークなのは、新旧の歌手、演出家、指揮者、歴代の総支配人が、何の規則性もなく、
完全にアットランダムにならんでいるように見えること。
どなたか、規則性に気付かれた方がいらっしゃいましたら、ご一報ください。
ちなみに、ゲルプ氏の写真もさりげなく混じっていますので、
(それも割と目に留まりやすい場所に、、、意外と目立ちたがり?)
次にメトにいらっしゃる際に、探されてみても楽しいかもしれません。
ちなみにメトのサイトから、写真に撮影されている人物の名前(なんと800以上!)
のリストがダウンロードできます。




こんなメトの大切な日を、オペラハウスで祝わず、
自宅でSirius鑑賞(演目はまたしても『ルチア』)とは悲し過ぎますが、
”125歳の誕生日おめでとう、メト!!”と叫んで、
代わりに私が家にあるケーキを食べておきました。、、あれ?

コンマス転職! ~優秀な人材が会社を去る時

2008-10-21 | お知らせ・その他
私も、15年におよぶ社会人/会社員生活の間に、上司や同僚たちの転職を、
それなりの回数目にしてきましたが、
よく出来る上司や同僚たちが、他の優れた会社に転職していくのを見るのは、
いつもとても複雑な気分です。
ご本人のためには、新しいキャリアの始まりと実力を試すチャンス!と、非常に嬉しい気持ちだけれど、
そんな人材を失う側の会社にとってロスは計り知れないのはもちろん、
取り残されるスタッフの私たちの落胆も大きいのです。

まさに、そんな気持ちと同じ、喜びつつ、悲しむべきニュースが発表されました。
NYタイムズによると、この十年、コンサート・マスターとして、
数え切れないほど多くの公演でメト・オケをひっぱってきたニック・エネット氏が、
ジュリアード・ストリング・カルテットの第一ヴァイオリンに抜擢されたため、
メト・オケを退くことになったようです。

現在メト・オケにはこのエネット氏とデイヴィッド・チャン氏の二人のコン・マスと、
三名の準コン・マス(それぞれタイトルは違っていますが)がいて、
ローテーションで演奏を担当しています。

メト・オケには一軍、二軍というようなものが存在している、という風に思われている方もいるようですが、
そう単純なものではありません。
各楽器の首席および準首席奏者の間で、演目や公演が分割され、
『椿姫』など、リハーサルが比較的少なく済む定番演目は、
公演日によって、コンマスや首席奏者のメンバーが違っていることもありますが、
大量のリハーサルや準備を要する新作、新演出もの、舞台にかかる頻度の少ない演目というのは、
シーズン中、その演目内は、奏者の顔ぶれが固定しているのが普通です。
しかし、例えば、ある演目で、チェロの奏者AさんとBさん、トランペットの奏者CさんとDさんが
演奏したとしても、他の演目でこの組み合わせである保障はどこにもなく、
むしろ、チェロの奏者AさんとEさん、トランペットの奏者FさんとDさん、という風に、
違っている可能性の方が高いです。(もちろん、たまたま同じ、という可能性もありますが。)
ということで、一軍、二軍という単純な区分けが全くのナンセンスであることがおわかりいただけると思います。
また、曜日やマチネか夜か、といったことにも、一切オケの奏者の組み合わせは関係がなく、
唯一組み合わせを決定している最大要因を挙げるとしたら、それは、”演目”です。
理由はすでに説明したとおりです。

”じゃ、オケの出来が公演でえらく違っているのはどう説明するんだ?”とおっしゃる方、
その疑問、ごもっとも。

まず一つ上げられるのは、指揮者による違い。
その音作りを面白いと感じるかどうかはそれぞれの方の好みの問題があるとはいえ、
やはり、音楽監督であるレヴァインが振る公演では、
それなりに緊張感のある公演である率が高いように思います。
また、定番演目のためにほとんどリハーサル時間がないままに指揮をさせられる、
影の薄い指揮者の場合、出来もそれなりになってしまうのは、無理もなく、
これでその指揮者を責めるのは少し可哀想でもあります。

そして、もう一つの要因こそはコンマスです。
先ほど述べたように、新演出やめったに演奏されない演目を担当しているコンマスは、
そのシーズン、その演目を通しで担当する率が高く、
リハーサルからずっと演奏に関わっているので、シーズンを通して、
その演目の演奏の雰囲気自体にも影響を与えてしまう場合も稀ではありません。
また、定番演目は定番演目で、それぞれのコンマスのカラーが出るので、
聴き比べするのも楽しいかもしれません。

さて、チャン氏、エネット氏、いずれも素晴らしいコンマスですが、
特に、エネット氏は、ご本人の人柄か、非常におおらかで、
生き生きとした演奏が飛び出ることが多く、また、オケの統率力という面でも、
大変評価の高いコンマスです。
指揮者が音楽の中で迷子になったとき、オケのメンバーが頼るのはコンマスですから、
責任重大ですが、ちょっとしたことでびびったりしない感じなのがまた頼もしい。

『始皇帝』のDVDのボーナス・トラック(メイキング・オブ)をご覧になった方なら、
確かに!と思っていただけることでしょう。
タトゥー入りの腕で、がんがん弾きまくっているのがエネット氏です。

さて、そんな彼の大らかさの一つなのでしょうか、同じNYタイムズの記事によると、
普段からセントラル・パーク内をローラー・ブレードで暴走しているらしいエネット氏、
このジュリアード・カルテットへの参加が決まった大事な時に、
一緒に走っていた友人と衝突しそうになったのを防ごうと転んだ際に、
手首を骨折したそうです、、
まじですか、ヴァイオリンを生業とするお方が、、。
ご本人の弁では、深刻な怪我ではなく、クリスマスまでには、メトに復帰できる見込みだそうです。
ちなみに、ローラー・ブレード歴は20年だそうです。メトのコンマス歴の倍ですね。

ジュリアード・ストリング・カルテットは、1946年にジュリアード音楽院で結成された弦楽四重奏団で、
オリジナルのメンバーは、ロバート・マン(この方はエネット氏の師匠だそうです)、
ロバート・コフ、ラファエル・ヒリヤー、アーサー・ウィノグラドでしたが、
現在は、ジョエル・スミルノフ、ロナルド・コープス、サミュエル・ローズ、ジョエル・クロズニックとなっています。
メンバーは違えど、現在でも、世界で最も評価の高いカルテットの一つです。

エネット氏は、スミルノフ氏の退団と入れ替わりにメンバーとなるようですが、
自らの師匠が所属していた世界有数のカルテットからの入団許可にはやはり特別な思いがあるのでしょう。

メトでのきつい仕事を持ちながらでは、室内楽を演奏する機会もほとんどなかった、とも語っています。
カルテットでの演奏とメトでの演奏との最大の違いは?と聞かれ、
メトでは全編通しで伴奏的な旋律を、長い時間に渡って演奏しなければならないので、
自分でペースを確保しなければならないこと、と言い、
”カルテットの演奏では150%の力を尽くすところを、
(オペラの演奏をする時には)少し引いて、より全体像をみなければいけないですね。”
また、指揮者が頼りないときには、代わって、オーケストラに、
自分の考えを通さなければいけないこともあった、とも言っています。

エネット氏のジュリアード・カルテットとの公での初演奏は、
2009年7月8日のシカゴのラヴィニア音楽祭。
ということで、メトでの雄姿を見れるのは、今シーズンが最後。
(しかも、クリスマス近辺からシーズンの終わりまで、という、実質半年、、。)

間違いなく現在のメト・オケの音の大黒柱となってきたエネット氏。
カルテットでの活躍を、嬉しいような、悲しいような、複雑な思いでお祈りすることにいたします。

Sirius: LA TRAVIATA (Mon, Oct 20, 2008)

2008-10-20 | メト on Sirius
リハーサルを観た知人から、”なんだか妙なトラヴィアータなんだよね、、”という評を聞き、
聴きたいような聴きたくないような妙な気持ちでのぞんだ今日のシリウス鑑賞。

特にジェルモンが変、ということだったので、事前に誰が歌っているのだろう?と調べてみれば、
なんとびっくり、のろまのドバーでした!!!ぎゃああああ!!!
昨年の『アイーダ』での、痩せてるくせにあまりに緩慢な動きといい、
パッションのない歌といい、もう二度とメトには呼ばれないに違いない!と思っていたのに、。
きっと昨シーズンの『アイーダ』の前にこの契約が決まっていて、
メト側が契約放棄したくても出来なかったに違いない。絶対にそうだと思う。

ヴィオレッタを歌うのはドイツ人のソプラノ、アニヤ・ハルテロス。
(注:お父様がギリシャ人ですが、生まれ育ちはドイツのようですので、
ドイツ人のソプラノという記述に訂正させていただきました。)

昨シーズンの『フィガロの結婚』では、少しクールな感じながら、
すらりとした舞台姿が美しく、歌の方も悪くはなく、観客にも人気でした。

冒頭の写真は彼女のオフィシャル・サイトからのものですが、これで見る限り、
個性的な顔立ちながらチャーミングな人なのに、
メトのサイトに使用された、下の妙な写真は何でしょう??



このかつらが異常に似合っていないハルテロスの写真に、
まわりに遠近感を無視して、奇妙にコラージュされた夜会の参加者たち、、
まるで同人誌に投稿された下手くそな漫画を思わせます。
下手な漫画やイラストは往々にして、空間の描写や比率や遠近感が非現実的だったりして、
気持ち悪く感じることがありますが、まさにそんな印象。
こんなに変なコラージュ写真がメトのサイトにアップされたことはかつてないように思うのですが、
まさか、この公演を鑑賞するとこんな感覚に陥りますよ、というメトからのメッセージ?怖い。

アルフレードは、2006-7年シーズンの『三部作』のジャンニ・スキッキで、
リヌッチオを歌ったマッシモ・ジョルダーノ。
『三部作』では健闘していて、今レポを読み返すと、アルフレードなんかに声質が合っているのではないか?
(しかし、東京で観たはずの彼のアルフレードは全く記憶にない、、。)
と書いていますが、そのアルフレードを今日は聴けるというわけです。

ハルテロスのヴィオレッタですが、声がこの役には重いですね。
声が重いだけならまだいいのですが(カラスも卓越した技術のおかげで
ヴィオレッタ役の歌唱に秀でていましたが、決して本来の声自体が軽かったわけではない通り。)
ハルテロスの場合、歌唱、具体的にいえばアジリタが重過ぎる。
一幕では指揮とオケに、そのアジリタがついていけないという情けない状況に。
決して指揮とオケが早過ぎたとは思わないです。
おかげで、指揮者のカリニャーニは、当初もう少し早いテンポで演奏したかったように思うのですが、
彼女に合わせてどんどんゆっくりになっていくのでした。
最初は、部分的に(具体的にいえば、アジリタの技術が要される個所で)
極端にテンポを落としたりして対応していたのですが、
急ブレーキにびっくり仰天したオケが崩壊しかかる場面もあり(特に第一幕はかなりひどかった。)
ついに、あきらめるかのように、全体がゆっくりに、、。

なぜだか、一幕ほどアジリタの技術が要されない二幕まで、
止まってしまうかと思うほどのゆっくりテンポ。ああ、じりじりする。
しかし、ハルテロス嬢はこの方が歌いやすいらしく、音を引き延ばし、
のびのびと、まったりと、朗々と歌っているのでした。
たしかに歌いやすいだけあって、ニ幕ではよく声が出ていましたが、
それこそ伸びきったラーメンのようで、なんだか違う作品を聴いているかのような妙な感覚に。
もしや、これこそが、あの遠近感無視のバナーの伝えんとしていたメッセージか?!

ちなみに一幕の彼女は、E stranoに入る前までは、テンポには乗り損ねる、音は外す、
音の長さが適当、と、かなりしっちゃかめっちゃかでした。
やっと幕の最後のアリアで、少し上を向いて来ましたが、、。

さて、そんな状況に便乗し、
”このスロー・テンポこそ、俺様の怠慢な性格にぴったり!”とばかりに
べたべたとした歌を聴かせる父ジェルモン役のドバー。
これが知人の言っていた変なジェルモンだな!!
確かに。というか、これはかなり気持ち悪いです。
スローテンポは、しっかりとした声質と歌唱力を持った歌手にしかこなせないということを実感。
ドバー、今、まさに、”プロヴァンスの海と陸”を熱唱(?)していますが、
このべたべた感、堪えられません。
ああ、体中をゴキブリが駆けずり回っているかのようなこの感覚!!!!!
誰か助けてーーーーっ!!!
彼の発声そのものにも問題があると感じるのは私だけでしょうか?
唯一の救いは、私が実演を観に行く公演では、ドバーは去り、
昨シーズンにマクベスを歌ったルチーチ
が父ジェルモンに入ってくれること。
といいますか、もちろんわざとドバーを避けたんですけれども。

しかし、問題はここにとどまらず、アルフレード、君までも、、、なのでした。
ジョルダーノ、期待していたんですが、声質はさておき、残念ながら、
細かい部分の歌裁きがあまり上手じゃない。
例えばある一音から次の音へ、どのようになめらかに移行するか、
そういうことを、世界のメジャーな歌劇場で歌うレベルの歌手なら考えてほしいのですが、
まるで、人差し指で順番に鍵盤を叩く児童のように、一音一音が孤立してしまっています。
ただ、彼の場合は、乱暴でそうなっているのではなく、
歌でいっぱいいっぱいなのがそういった形で噴出してしまっているというのか、、
歌唱に余裕が全くなく、表現というレベルに行く前で止まっている。

ただ、そのおぼこい感じが、札束を投げるシーンの歌唱では、アルフレードのキャラとマッチして初々しく、
舞台ではどのように演じているのか、ちょっぴり興味深くはありますが。

ニ幕二場の夜会の合唱のシーンでは、ここがチャンス!!とばかりに、
一気にアップテンポになった指揮者。
本当はこのように演奏したいのですよね。
しかし、まったりヴィオレッタのハルテロスが舞台に登場した途端、
ちぇっ!とカリニャーニは舌打ちし(ラジオでは聴こえませんでしたが、
絶対心では思っているはず!!)
彼女が歌う場面では、これでもか!!とスローテンポになるのでした。
かわいそうに、、苦労してますね。カリニャーニさん、、。
というわけで、彼の指揮は、ハルテロスがヴィオレッタを歌う限り、
なんとも評しがたい状況です。
まあ、指揮者たるもの、こんな程度のテンポ、付いて来んかい!!と、
ハルテロスのお尻を叩く位のガッツと気力も必要かも知れません。

ニ幕以降は彼女の声もよく伸びていましたが、
作品本来の持ち味を殺しても彼女の歌声を楽しみたいか
(=限りなく、ハルテロスのワンウーマンリサイタルとしてこの公演を楽しんでしまうか)、
いくら声がよくても、作品の持ち味が消えるのは許せない、と感じるか、
観る側の視点で、今日の公演の評価は大きくわかれると思います。

2006-7年シーズン、3/7の『椿姫』での、
ストヤノヴァ(ヴィオレッタ)、カウフマン(アルフレード)、クロフト(父ジェルモン)、
アルミリアートの指揮、全てがかみ合い、技術の不足を誤魔化すための小細工も何も必要なく、
キャスト全員の”私は自分の役をこのように表現したい”という意思のみの元に、
作品本来の良さが十全に引き出されていた公演、
私には、あれこそが、究極の『椿姫』ですが、
そんな公演にそう簡単に巡り合うことはできないわけです。

Anja Harteros (Violetta Valery)
Massimo Giordano (Alfredo Germont)
Andrzej Dobber (Giorgio Germont)
Conductor: Paolo Carignani
Production: Franco Zeffirelli
OFF

フレミング企画盤の罠にまんまとはまる!

2008-10-19 | お知らせ・その他
メディア・サヴィーなゲルプ氏のおかげ/せいで、様々なタイ・アップ企画に積極的な最近のメト。

デッセイのイタリア・オペラ・アリア集が、
タイムズ・スクエアとリンカーン・センター前の広場でリアルタイム上映された
2007年シーズンのオープニング・ナイト『ランメルモールのルチア』の公演からの
狂乱の場をDVD付録としてつけて、再発行されたのも、このブログで以前取り上げた通り。

先月でしたか、冒頭の写真にある、フレミングの”四つの最後の歌”のCDを店頭で見かけました。
ティーレマンとミュンヘン・フィルという組み合わせに興味が引かれましたが、
フレミングは、出たCDは絶対買う!というほど好きではないし、
何より、すでに、歴史的名盤と言われている、シュワルツコップとセルの演奏による”四つの最後の歌”を
私の葬式で流してもらうつもりでいるほど溺愛しておりますので、
特に買うこともないか、、とその日は素通りしたのでした。

しかし、約一ヵ月後、同じ店頭で、奇妙な企画盤を発見!!



なんだ、これは??
写真では少し見えにくいかもしれませんが、
シュトラウス 四つの最後の歌 の下に、
SIGNATURE ROLES AT THE MET OPERA (メトでのシグネチャー・ロールたち)の文字!
そして、ジャケット写真は、メトの今シーズンの『タイス』(もちろん彼女が出演)からの
スチール写真ではありませんか!

ひっくり返すと、二枚のCDの抱き合わせ企画で、
一枚は、ぴんで発売されている”四つの最後の歌”のCDと全く同じ。
そして、二枚目のCDの解説として、
”エフゲニ・オネーギン、オテッロ、ルサルカ、タイース、カプリッチョなど、
ほとんどがメトで上演された彼女の代表作の数々!”てなことがプリントされています。
そして、その下にはご丁寧にメトのロゴまで、、。

しかし、頭にくることには、四つの最後の歌はきちんと指揮者、オケの名前が印刷されているのに、
二枚目のCDについては、クレジットが全くないので、誰の演奏なんだかさっぱり。

ここで、きちんとお店の方に確認すればよいのですが、突然何もかもが面倒臭くなることのある私は、
そのうえに、こんなにばっちりとメトのロゴまで入っているのだから、
もしかすると、今までのメトの公演のラジオやシリウスでの放送での音源を
コンピレーションにして発売したのでは??!と燃え上がってしまったのでした。
当然のことながら、お店の人に確認せず、お買い上げ。

家に帰って、愕然、、。
オネーギン、ルサルカ、オテッロは、ショルティ指揮ロンドン響。
タイスはアーベル指揮のフランス国立ボルドー・アキテーヌ管弦楽団。
カプリッチョはエッシェンバッハ指揮、ウィーン・フィル。

、、、、、、、、、、、、。

要は今までデッカから発売された盤の寄せ集め。
メトのアルカイブからのコンピなんて考えが甘かった!!!
しかし、こんな盤に、Signature Roles at the Met Operaと名づけ、
メトのロゴをつけるなんて、詐欺もいいとこ!金返せ!!です。
(←確認しない自分が一番悪い。)

ちなみに”四つの最後の歌”では、あいかわらず独自路線の歌唱で突っ走るフレミング。
ところどころ、かなり苦しそうなところもあり、なぜこの曲を録音したのか、、。
ティーレマンとミュンヘン・フィルのオケ演奏は、やたら人肌あたたかい感じ。
弦楽器のソロもあまりに思いいれたっぷりすぎて、私のような人間は少し引いてしまいます。

ちゃちな思い入れを廃棄し、孤高の演奏を繰り広げる
セル&ベルリン放送響とシュワルツコップの歌からは、彼岸の世界の音が聴こえるのとは対照的。
やっぱり葬式はこれで行く!と決意を固くするのでした。

いよいよ Met PLAYER  登場!

2008-10-15 | メト Met Player
メトのサイトを定期的にチェックされている方はご存知の通り、
10/22にMet Playerなるものがローンチされることになりました。

ライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の映像やラジオ放送の録音分など、
メトのアルカイブから、”全幕の公演”がPC上で楽しめます。

14ドル99セント(まるで、198円のようなこの錯覚的値段設定はどうなんだ?)の月間試聴、
もしくは149ドル99セントの年間試聴をはじめ、いくつかのコースがあり、
4ドル99セント(音源だけの作品の場合は3ドル99セント)で個別演目の
ペイ・パー・ビューも可能です。

クオリティの高い音質&画質が売りのようで、現在メトのサイトから、
6分ほどの長さのこのプロジェクトのトレーラーを、同じプラットフォームで見れますが、
私のPCで試聴する限り、確かになかなかの音質・画質です。

まずは、120のラジオ放送録音音源と50の全幕公演映像でサービスを開始。
DVD化されなかったライブ・イン・HDの作品
(デッセイとフローレスの2007年シーズンの『連隊の娘』)も
対象になっているようなので、これは楽しみです。
他に映像ものでは、1977年のスコットとパヴァロッティによる『ラ・ボエーム』、
1995年のドミンゴの『オテッロ』、1984年のプライスの『運命の力』などがラインアップに入っており、
オリジナルがテレビ放送されて以来の初出の映像としては、
トロヤノス、ストラータス、ドミンゴの『カヴァレリア・ルスティカーナ』と『道化師』(1978年)、
レオンタイン・プライスの『アイーダ』(!)(1985年)、
ゴルチャコーワとドミンゴの『スペードの女王』(1999年)などが予定されています。

詳しくは、上記のサイトとプレス・リリースのページをどうぞ。

追記:そのプレス・リリースのページからの抜粋をご参考までに。
MetPlayerのサービスを購入するには、まず、メトのサイトで登録プロセスを行います。
登録後は一週間の無料試聴期間があり、その後、
単独のプログラムを購入した場合、30日間の期限内で、6時間の視聴が可能です。
(例えば二時間の公演なら、最高3回観れることになります。)
マルチ・コア・プロセッサー、最低1GBのメモリーと32MBのビデオRAMを備えた
PCで視聴することが推奨されています。
この情報はメトのサイトのプレス・リリースから抜粋したものですので、正確な情報であるとは思いますが、
実際に購入を決定される方は、必ずMetPlayerのサイトでご自身で再度確認頂き、
ご自身の責任で申し込まれるようお願いいたします。

**訂正とお詫び**
Met Playerが提供される前日まで、こちらの記事にて、
”Met Playerにダウンロードの機能がついてくる”という趣旨の記述を行いましたが、
サービスが開始した今日(22日)、実際に使用してみたところ、購入するサービスのタイプにかかわらず、
コンテンツのダウンロードは、一般に使用されているフォーマットはもちろん、
Met Player上においても、出来ないようです。
(紛らわしいので、本文からはその部分を削除しました。)
現在メトに確認中ですが、プレス・リリースの内容をメトが意図したのとは違う風に
私が読んでしまった可能性が高いです。ご迷惑をおかけしましたことをお詫びいたします。