Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

タッカー・ガラに(文字通り)強力なメンバー登場

2008-09-30 | お知らせ・その他
先日、今年2008年のタッカー・ガラに出演予定の歌手をご紹介しましたが、
やはり出ましたね、追加メンバーの発表が。

歌ももちろん、見た目も強力なバス・バリトン、、といえばこの人しかいません。
ブリン・ターフェルの登場です。

彼もスーザン・グラハムと同じく、2007年に出演予定されていながら、
どたん場キャンセルになった、2008年仕切りなおし組。
しかも、今シーズンのメトでは、『愛の妙薬』のドゥルカマーラを歌う予定だった彼ですが、
”この役はもう卒業”宣言を放ち、出演をキャンセル。(代わりはアライモが歌う予定。)
見た目に違わぬ暴れん坊将軍ぶりを発揮しております。

これでいよいよ男性陣が強力になったので、バランスをとるため、
女性陣のほうでも、まだ出演者の追加が出るのでは、と個人的には期待しています。
昨年は、ガラ当日にメンバーのキャンセルや変更が発表になったりしたので、
今年も当日までわくわくしながら待つことにいたしましょう!

追記:とここで、よーくタッカー・ファンデーションのサイトを読み直すと、さりげなく、最初に発表されたときには確かにあったレイミーの名前が消えているではありませんか!ということで、ターフェルは、追加ではなく、
レイミーが出演しなくなった代わりに頑張ってひっぱってきた、ということのようです。大丈夫なのか、、?キャンセルのヒストリカル・レコードがある暴れん坊将軍なのに、、。



DON GIOVANNI (Sat Mtn, Sep 27, 2008)

2008-09-27 | メトロポリタン・オペラ
今シーズン初の全幕鑑賞は、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』。
いつもオペラを鑑賞する前には、予習・復習とモチベーション昂揚をかねて、
最低何日かは連続で、通勤電車の中でその作品の音源を聴くことにしているのですが、
この作品は本当に筋も音楽も良く出来ているので、どんなに疲れて、もしくは寝不足で
電車に乗り込んだとしても、目が冴えてしょうがなかったです。
(ちなみにオープニング・ナイトのために聴いた『マノン』においては、
そんな状態で電車に乗り込んだ日には、三人娘が出てくる頃までに、
眠りの世界に落ちるのが常でした。早っ!)
しかも、この作品、物語の大切な部分が決してあからさまな言葉では語られていないので、
そのあたりを演出でどのように見せてくれるのか、
また、台本だけ読むと、不自然ともとられかねない、登場人物の退場シーンなども多いので、
これをどうやって処理するか、、などなど、注目個所がたくさん。
そのうえ、今日のこのステラー・キャストはどうでしょう!!

この役を売りにしている(が、私は一度もこの役では観たことがない)シュロットがドン・ジョヴァンニを歌い、
おそらく十年ほど前にもなる昔に観た同じ役が初々しかったレポレッロ役のダルカンジェロに、
いつも丁寧な歌を聴かせ、メトの中堅テノールとして評価の高いポレンザーニがドン・オッターヴィオ役、
今日がメト・デビューとなるブルームがマゼット役、と、
オペラの世界にしては、ちょっとしたイケメン・チームになっています。

女性陣は、ドンナ・アンナが私の好きなソプラノの一人である、ストヤノーヴァに、
ドンナ・エルヴィーラが、スーザン・グラハム。
豪華ではあるが、男性陣に比べ、これではイケメン度が低い!と思われたのか、
ツェルリーナ役として、昨シーズンの『ロミオとジュリエット』のステファーノ役
メト・デビューを果たしたばかりの若手美人メゾのレナードが加わっています。
彼女は、『ロミ・ジュリ』の公演で、ソプラノ・ロールも歌えそうな綺麗な高音が話題になっていましたが、
早速、その通常はソプラノが歌うことが多いツェルリーナ役を与えられるという、
あいかわらずの幸運の星ぶりを発揮しています。

と、いうわけで、この公演に期待をしたからといって、誰が私を責められるでしょうか?
それが、こんなことになるとは、、。

一口で言うならば、かみ合わない演出と演技(特にシュロット)とダルな指揮。
酒でも持って来い、この野郎!と叫びたいほどに、今日の私の心は荒れてます。

ブログを書くのが憂鬱だなあ、、、と、PCに向かうのを先延ばしにしつつ、
公演のプレイビルをぱらぱらと繰っていましたら、
ドン・ジョヴァンニ役のシュロットへのインタビューが掲載されていました。

私の今日の感想と無関係ではないので、これを先にご紹介したいと思います。
ただし、このレポと関係があると私が判断した部分だけの抜粋で、
ネトレプコとの間にできた子供のことなどは割愛させていただきます。

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Q:
ドン・ジョヴァンニが追い求めているものは何でしょう?女性を誘惑すること?
女性に対して感じる権力?それとも女性を追い求めるスリル?
シュロット:
彼は退屈しきっていて、無感覚・無感情な人間で、だから、
人を傷つけることで自分を楽しませているような気がしますね。あえて、何度も何度も悪い行動に出る。
女性に対して情熱的であるかのように振る舞い、誘惑したりしますが、
実際のところは、彼には情熱なんてものはない。なぜって、情熱は感情から生まれるもので、
無感情な人間からは生まれないから。
彼は何人にも何事にも何かを感じるということができない人間だし、自分のまわりのことに対して、
一切興味がない。
Q:
モーツァルトはこのオペラを1780年代に書いています。
どうしてドン・ジョヴァンニは今でも私達にとって興味深い人物なのでしょう?
シュロット:
今の世の中だってジョヴァンニのような人間は山といるじゃないですか!
このオペラは、不実と裏切り、そして、常に道徳的な破綻と背中合わせに生きている
男性というものを、心理面から描いた作品です。そう考えると、とても現代的な作品です。
Q:
二年前のメトの日本公演の時に、同じプロダクションで歌いましたね。
マルト・ケラーのステージングを説明するなら?
シュロット:
彼女のヴィジョンは、いい意味で、またおもしろい意味で、かなりシンプルです。
でも、シンプルなものこそ、成し遂げるのは難しい。
マルトはジョヴァンニのことを、ある種の中毒者と解釈しているんですね。
あまりに女性を誘惑することに命をかけているために、
まるで、そのためには死をも辞さないことが、究極の道であるかのように振舞ってみせるのです。

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なるほど、、、こういう前提でドン・ジョヴァンニを演じているとしたら、
今日の出来も無理はないのかもしれません。

ドン・ジョヴァンニの地獄落ちシーンの冒頭の、騎士長の登場部分と同じ旋律で始まる序曲。
なのに、地獄落ちの切迫度もドラマも何も感じさせないゆるゆるな演奏。
ど、どうした、オケ??!!
あの『レクイエム』オープニング・ナイトの前半で聴かせていた気迫はどこにもありません。
このラングレという指揮者は、昨シーズンの『タウリスのイフィゲニア』を指揮した人ですが、
スーザン・グラハムのお気に入りなのか、今年も彼女とセットで登場。
ただ、『タウリス~』の時と比べると、この『ドン・ジョヴァンニ』では、
全く精彩を欠いていました。

ドン・ジョヴァンニは、女性を口説き落とし、彼女たちもその気になったうえで事に及ぶ、という、
双方合意の上のワン・ナイト(絶倫なので、朝も昼もあるかもしれませんがとりあえず)・スタンド推進派で、
決して、女性に刃物を突きつけたりして無理矢理襲う強姦魔ではありません。

これは、エルヴィーラの方が彼に恋してストーカーと化していることや、
また、作品の中でも、”お手をどうぞ La ci darem la mano "以降で、
どのようにツェルリーナをあと一息で陥落!というところまで持って行っているか、
そのドン・ジョヴァンニの手腕の巧みさが示されている個所でも明らかな通りです。

だからこそ、冒頭のシーン、ここは興味深い。
私はこの作品の中で、最も興味を惹かれる登場人物はドンナ・アンナです。
ドンナ・エルヴィーラは作品中、やや滑稽にも描かれていますが、基本的には情が深く、
その分、嫉妬深い、ある意味、最も”女”性を感じさせる人物です。
私が一番嫌いなのは、ツェルリーナ。
この女は、全く、身分の低い女特有のずうずうしさで、最も上手く立ち回っていますが、
チャンスがあったなら、フィアンセまでもあっさりと裏切ることも辞さない最低な女です。
でも、まあ、これもまた、女性が持つまぎれもない性質の一つなのでしょう。

このオペラは、ドン・ジョヴァンニが、ドンナ・アンナを無理矢理ものにしようとしている
”ということになっている”場面から始まるのですが、これはおかしくないか?
なぜならば、先ほど言ったように、無理矢理女性をものにするのは、
全くドン・ジョヴァンニのスタイルに反しているからです。

だから、私は、この冒頭の場面は、ドンナ・アンナが後ででっちあげたストーリーを
再現したものにすぎない、と思う。
もしくは百歩譲って、この状況に至る前に、こうならざるを得なくなった道筋があったか、、。
例えば、下品で申し訳ないが、沖田浩之の表現を借りつつ説明すれば、
彼女が相手がドン・オッターヴィオとは違う男性であると知りつつ、
Bまでなら罪にもなるまい、と思って戯れているうちに、Cまで行きそうになって、(だって、彼女はドン・オッターヴィオという婚約者がいるのだ。)
”これはやばい!”と逃げようとしたか、、。

私はドンナ・アンナは実はドン・ジョヴァンニと結ばれた、と考える方が自然だと思っていますが、
しかし、実際に最後まで行ったかどうかが問題なのではない。
そこに至る前に、双方合意のもとでドン・ジョヴァンニと戯れていた瞬間があった、
ということがポイントなのであり、、
さらにいうと、実はドンナ・アンナは、ドン・オッターヴィオを、
ドン・オッターヴィオがドンナ・アンナを愛しているようには愛していないのではないか、とすら思うのです。

だから、”ああ、つれない人だ Ah! Crudele! "から、
”言わないで、私の愛しい人 Non mi dir, bell'idol mio ”で、
結婚を1年延期することを提案するアンナですが、
(で、この1年延期しよう、ということが、私が彼女がドン・ジョヴァンニと結ばれたに違いない、
と思う理由である。)
歌われている詞にも関わらず、この時、彼女は、
もうドン・オッターヴィオとは結婚することがないことを悟りながら、
このNon mi dirを歌っているような気がしてならない。
そう考えると非常にせつない曲なのです。

というわけで、このドンナ・アンナという人は、実にミステリアスで、
ちょっと何を考えているのかわからないところがあります。
それは農民であるツェルリーナに関しては遠慮会釈なく、彼女のずるさを暴ききっているのに比べ、
アンナのやんごとなき身分を推し量ってか、
リブレットも、モーツァルトの音楽も彼女に関しては、とても婉曲な表現になっているせいでもあります。

というわけで、某かの解釈を与えられるとすれば、それは、演出家と歌手の力しかなく、
それゆえに、私はこの作品の中で、それぞれの人物がどのような解釈を与えられて歌い演じられるのか、
とっても楽しみにしていたのです。

それなのに、冒頭からシュロット演じるドン・ジョヴァンニは徹底して粗暴で、魅力がなく、
それゆえに、なぜ、ドンナ・アンナの心の隙間に入りこんだかも、
なぜ、ドンナ・エルヴィーラが彼を追い続けるのかも、
ドミノ倒し的に、説明がつかないという、悪循環に陥っています。



ドンナ・アンナを羽交い絞めにして登場して、そこからシャツを脱いで上半身裸になるのも、”???”なら、
(いくらシュロットがそれを売りにしているとしても、観客からは失笑が、、)
すでに音楽が騎士長とドン・ジョヴァンニが剣を交えていることを描写しているのに、
シュロット演じるドン・ジョヴァンニは頭を抱えて迷い続けた後、
たった一撃で騎士長を倒す、という非常に妙な演技付けになっており、
こんなにどきどきしない決闘シーンも珍しい。

そして、やたらレポレッロに対して冷たく、どの女性も、ごみのように扱っている。
シュロットが言う、ドン・ジョヴァンニは”無感情、無感動”。
本当にそうでしょうか?
次々と女性に手を出すことは、女性をごみのように扱うこととは少し違うと思う。
結婚相手や恋人を探している女性にとっては確かにひどい男だろうが、
女性が全員そんな風に結婚相手や恋人を探していると考えるのも、変ではないか?
中には、遊びと割り切ってドン・ジョヴァンニとの火遊びをそれなりに楽しんだ女性も、
また彼の上手い睦言にそれまでにない幸せを感じた女性もいたはず。
女性はドン・ジョヴァンニに無理矢理誘惑されたのではない。誘惑されることを選んでいるのだ。
だから、ドン・ジョヴァンニは、ある意味では、女性の意思を最高に尊重しているともいえる。
そして、相手を喜ばせることをいう、それは無感情・無感動な人間にはできない。
”もうついていけません”といいながら、それでもドン・ジョヴァンニにレポレッロが
仕え続けるのも、どこかドン・ジョヴァンニが魅力的で、あるところでは、部下思いだからではないか?
だからこそ、最後の食事のシーンでのやりとりは微笑ましく、
地獄落ちの場面では、騎士長によって、
まさにあちらの世界に連れて行かれそうになっているドン・ジョヴァンニに向かって、
(騎士長が夕食に誘う、というメタファーになっているが、これは死の世界への招待以外の何物でもない。)
”いやだと断ってください!”という言葉がつい口をついて出るのである。

シュロットのドン・ジョヴァンニはあまりにレポレッロにも冷たく、思いやりがなく、
これら全部のことが全く見えてこない。
演出家の指示か、シュロット自身の判断か、その両方か、私には知る由もないが、
とにかく、これほどdisastrousな演技もそうはない。本当にがっかりである。
歌そのものは手堅くまとめていたが、描こうとする人物の方向が間違っているのだから、
議論しても意味がないので、意味がないことはやめておくことにしましょう。

むしろ、シュロットよりも、的を得、かつ、余裕のある演技を見せた、
レポレッロ役のダルカンジェロの方がずっと魅力的だった。
さすがに何度も演じて役が体になじんでいるのか、昔観たときよりも、
ずっと肩の力が抜けているのがいい。

人物間の複雑な感情や関係性を解き明かすのにことごとく失敗しているこの演出なので、
逆にあまり複雑な部分がないキャラクターの方が、あらが目立たないのは自然のなりゆき。

ドン・オッターヴィオとマゼットの二人はひたすら自分の恋人を誠実に愛しており、
ドンナ・アンナとツェルリーナが何を考えていたかということを知っている観客にとっては、
その誠実さが美しくも悲しく、また、ある意味は間抜けにも見える。
そう、誰かを真剣に愛することは、間抜けと紙一重だ。

マゼットを歌ったブルームも悪くない。しかし、まだ嫉妬してふくれる、という、
これまた身分の低いものらしく、自分の気持ちを正直に表現できるマゼットはいい。
一番、悲しいのは、それすらずっとできずに、ただひたすら、ドンナ・アンナの
”理解ある、いい恋人”であり続けようとするドン・オッターヴィオだ。
このあまりにいい人すぎることが、ドンナ・アンナに男としてみてもらえない理由だと私は思う。



そのあたりの、”いい人”ゆえの悲しみと怒りを、
オッターヴィオを歌うポレンザーニが実に上手く表現している。

最も無神経かつオポチュニスト(機会を見つけてなり上がろうとする人間)である
ツェルリーナは、絶対にぽちゃっとした農民女のはず!と思っている私なので、
レナードが演じるこの役は、あまりにスレンダーで美人過ぎて、許せない。
こんなバレリーナのような農民がいてたまるか!



この体型が反映してか、声の質もこの役にしては少し神経質な鋭さがあり、
ベストの配役ではないかもしれないが、彼女は、歌は本当に若手らしくなく落ち着いていて、上手い。
経験を積むことで、もっともっと歌に味が出てくるのが楽しみ。

エルヴィーラを歌ったスーザン・グラハムは、意外とコミカルな演技が上手。
彼女は実際に背が高いのか、とにかく舞台での存在感がある。
だから、ドン・ジョヴァンニのストーカーとして舞台にあらわれるたびに、
”また出た!”という感じで、存在そのものがコミカル。



私は彼女の歌は、押して押しての一点張りで、引きが足りない、と感じることが多いのだけど、
この役では、その欠点も、それほど気にならない。
しかし、”なんととんでもないことを In quali eccessi ~ 
あの薄情な男は私を裏切り Mi tradi quell'alma ingrata "では、
ブレスとフレージングに、らしくなく、ややぎこちない部分があったのが残念。

ストヤノーヴァが歌うドンナ・アンナはまさに、この演出の中で、道に迷ってしまった感じ。
彼女の声は、オペラハウスで聴くと独特の凛とした響きがあって、本当に綺麗。
ただ、2006年シーズンの『椿姫』2007年シーズンの『カルメン』(ミカエラ)
OONYのガラで聴いた彼女の歌に比べると、少し安定感を欠いていたのが残念。

”これでわかったでしょう Or sai chi l'onore ”は、
このドンナ・アンナをどのような役ととらえるかによって、歌い方も変わってくる難しいアリア。
先に書いた私のドンナ・アンナの捕らえ方でいうと、ここで彼女は、
父を殺した人間に少しでも恋をしてしまった
(のみならず、今でも心が惹かれているかも知れない)自分に腹を立てると同時に、
その父の死と自分の心を乱さずにおかないドン・ジョヴァンニという男への復讐を、
婚約者であるドン・オッターヴィオにとってもらわなければ、格好も収まりもつかない!という、
理不尽な怒りが爆発しているアリアだと思うのだが、その爆発があまり感じられなかった。
特に高音では、極端に絞った音からクレッシェンドしていく方法をとっているのだけれど、
最後になっても、音があまり前に出てこないために、まるで不発弾のような印象。
声質に合っていない役だとは思わないので、もう少しコンディションのいい時に聴いてみたいが、
もう一度同じキャストを観に行くのは、きつい。
それほど、この公演の演出&演技は許しがたいのである。

地獄落ちのシーンは、鏡のようなものに写っている騎士長の姿と
ドン・ジョヴァンニが握手を交わすという演出になっていて、
物理的に舞台上で騎士長に手を握られているわけではないので、
ここはシュロットの演技がすべて。
なんですが、最後の叫び声も含め、全くの迫力不足。

ドン・ジョヴァンニが地獄に落ちる際、彼の体の周りで、
光の玉がざーっと下に向けて落ちていく(スクリーンとライティングの効果で、
この光の玉を映しているので、空中にまっすぐに引かれた線の上は真っ暗、
下に光の玉が次々と地面に向かって落ちていく図を想像されたい。
この公演の演出の目玉のせいか、映像が一切存在しないので、説明するのが難しい、、。)
のですが、この視覚効果に観客は大喜び。
いつまでたっても、この手のギミックを使って観客を喜ばせることで満足している
演出が後を絶たないようです。

最後になりましたが、演出を担当したマルト・ケラーは、60~70年代に映画でも活躍した
スイス出身の女優です。

女優出身の人が、こんな深みのない人物描写の『ドン・ジョヴァンニ』を作るとは、、。
それとも、シュロットの罪なのか、、。
その答えは4月の別キャストで歌う、マッテイの同役を待とうと思います。

それにしても、この演出は2004年が初出なので、まだしばらく新演出は出てこないだろうし、
下手をすれば、このままライブ・イン・HD演目に選ばれてしまう可能性も。
日本にももう持って行ってしまいましたしね、、。
セットデザインや視覚効果はともかく、演技とか舞台の方向性だけでも、
もう一度練り直して欲しいものです。

Erwin Schrott (Don Giovanni)
Ildebrando D'Arcangelo (Leporello)
Krassimira Stoyanova (Donna Anna)
Matthew Polenzani (Don Ottavio)
Susan Graham (Donna Elvira)
Isabel Leonard (Zerlina)
Joshua Bloom (Masetto)
Phillip Ens (The Commendatore)
Conductor: Louis Langree
Production: Marthe Keller
Set Design: Michael Yeargan
Costume Design: Christine Rabot-Pinson
Grand Tier C Even
OFF

*** モーツァルト ドン・ジョヴァンニ Mozart Don Giovanni ***

ライブ・イン・HD DVD いよいよ店頭に (2)

2008-09-26 | お知らせ・その他
2007-8年シーズンのライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)のDVD、
全6作品発売のうち、4演目しかかき集められなかった日から、
残りの2演目のことが気になって気になって仕方がなかったのですが、
ようやくヴァージン・メガストアに入荷いたしました。
感想の続き、行きます。

 ドゥン 『ファースト・エンペラー(始皇帝)』



ドミンゴをはじめとする歌手、合唱、オケの努力と、
一生懸命に作品を支えようとしているスタッフ、関係者のがんばりを、
作品そのものが支えきれていない。
音楽的に面白い個所はスポットであるにはあるのですが、それがつながっていかないのと、
何よりも台本のつまらなさが止めを刺している。
というか、、、このオペラの筋立てに興味を持てる人っているんでしょうか、、?
どんなに凝ったことをトッピングしようとも、土台がしっかりしていないと、
絶対に素晴らしい公演にはなりえないということを実証してしまった。
そのうえに大作なので、かなり辛抱強い人向き。我慢大会のマテリアルに最適。
むしろ、付録でついてくる”メイキング・オブ”映像(映画"The Audition"
スーザン・フロムケが監督してます)の方が舞台の映像よりも面白い、という事実が悲しすぎる。


 ブリテン 『ピーター・グライムズ』



このDVDにおさめられた公演をオペラハウスで観たときも、
素晴らしいものを見た!と大興奮してましたが、このDVDを見て、あらためてそのすごさを実感。

とにかく、どこかの国の皇帝についてのオペラとは違って、こちらは作品そのもののが素晴らしく、
その上に演出、セット、ソリストの歌唱、合唱、そしてオケの演奏と、
全てが有機的にかみ合っているため、
作品そのものを、何層ものしっかりしたレイヤーが固めているような、
力強くてゆるぎない公演になっています。
観客の盛り上がりぶりもすごいです。

どんなシーンでも、絶対に基調にある一定の上品さが失われない演出家のジョン・ドイルと、
彼のアイディアを巧みにセット・デザインに移したスコット・パスクの手腕が光ります。
この二人への同時インタビューの様子からも、息の合ったコラボレーションであったことが、
良く伝わってきます。
(ちなみに、この公演のライブ・イン・HDのホスト役は、ナタリー・デッセイが担当しています。)
ラニクルズの指揮が引き出した、作品の舞台となっている
漁村の空気すら感じさせるようなオケの音といい、
これほど魅力的なライブの映像はそうはないと思います。
DVDのフォーマットになっても、いささかも舞台の輝きが失われていない。
今回リリースされた6作品中、DVDでみる映像としての完成度が最も高いのは、
この『ピーター・グライムズ』であることに間違いないと思います。
他に選択肢はなし。買うしかありません。

OPENING NIGHT GALA 後編 (Mon, Sep 22, 2008)

2008-09-22 | メトロポリタン・オペラ
Metropolitan Opera Opening Night Gala

前編から続く>

最初のインターミッションをはさんで、マスネの『マノン』から第三幕。
ポネルが演出するこの舞台、第一場のクール・ラ・レーヌのお祭りの場面は、
ゼッフィレッリ演出の『ラ・ボエーム』のカフェ・モミュスのシーンとつい比べたくなるグランドさ。
空中には綱渡り用の綱が張られ、そこを行ったり来たりする曲芸師の姿も。
ただし、『ラ・ボエーム』が徹底的に写実的な感じがするのに対し、
こちらの『マノン』は、例えばプセット、ジャヴォット、ロゼットといった
脇役のボンネットを極端に大きくして、まるで、『不思議の国のアリス』の
いかれ帽子屋(マッド・ハッター)のような頭と体の比率に見せていたり、
写実的な描写には全くこだわらずに、むしろ祭りの”雰囲気”の再現に重心が置かれています。

ちなみに、私の連れは、マスネの『マノン』を嫌っていて、特にこの三幕一場で、
ギヨーが歌う Dig et dig et don!というフレーズを聴くとむしずが走るといい、
”マスネが舞台で屁をひって立ち去る音楽”とまで形容している。
言いすぎだろう、、、それ。
しかし、私も二場の修道院のシーンは好きだけど、この一場に関しては、正直、似た感想で、
詰め物的、というか、舞台を華やかにするためだけに作られたような音楽に聴こえるので、
聴いていて若干辛い。
『椿姫』の夜会のシーンでは、バレエのための音楽という体裁をとっていても、
きちんと曲のベースに、その後起こる事件へのテンションが時限爆弾のように
刻々と高まっているのとは、実に対照的です。

オープニング・ナイトにこの作品が選ばれたのも、まさにその華やかさゆえ、なのですが、
しかし、この豪華な演出でなければ、苦痛度がもっと高まっていたことは間違いありません。



ルネ・フレミングの衣装を担当したのは、シャネルのカール・ラガーフェルド。
これまた、祭りのシーンのセットで貴重となっている淡いライラックの色と、
あまりに似通っているともいえる、グレーとライラックの中間のような色のドレスをデザイン。
ただし、彼女の肌の色に非常に良くあっていて、美しく見せる色を採用しているあたりはさすが。

このドレスもバックが美しくて、少し高めの位置から裾をドレープさせて落としている
デザインは非常に凝っているのですが、オペラの舞台というのは、
歌手が客席に後ろを向ける時間が非常に短いので、
もうちょっと前身ごろのデザインに工夫が欲しかった気がします。
首周りのラインがあまりシャープでないために、やや野暮ったい感じがするのと、
胸とスカートの部分の切り替えの部分も、ただ縫い合わせてあるだけで、
なんのアクセントづけもないので、平面的で、べたーっとして見え、
後ろから観たときの美しさに比べると、前がまだ縫いかけなのかな?とも思えるほど平凡でした。
スカートの裾から少し上のところに、裾に平行して、クリスタルを縫い付けてあったりして、
ディテールにはものすごく凝っており、きっと側で見ると非常に美しい衣装なんでしょうが、
この細かさは、舞台を遠目で鑑賞している人に見えるのか、というのはやや疑問です。

ただし、下の写真にあるとおり、修道院のシーンでは、このドレスの上に、
黒いケープを重ねて登場するのですが、このケープをつけると、
襟ぐりや腰周りの野暮ったさが消え、とてもスタイリッシュな印象に。



『椿姫』でやや暴走してしまったのか、ルネ・フレミングがこの『マノン』のしょっぱなから
少し声が荒れだしたのが残念。
少し重めの声である割には、高音がいつも比較的安定している彼女なのですが、
今日は珍しく、この『マノン』で高音のコントロールにてこずっている感がありました。

二場の修道院の場で、デ・グリューを誘惑する際の彼女の演技のアプローチは、
議論も多いことでしょう。
というのも、祈祷台の上に仰向けに体を投げ出すという、
あまりにあからさまな誘惑の仕方に、思わず観客からどっという笑いが起こったからです。
本当に恐ろしいことです、
修道院という聖なる場所で、マノンへの未練と肉欲に耐えるデ・グリューの苦悶。
それを、Dig et dig et dongのような屁を先にひった割には、
うまく音楽にのせているマスネであるのに、この、たった一つの演技の方向性の誤りが、
全くこの物語の印象を違うものにしてしまったのです。

そういえば、DVD化された昨シーズンの『マノン・レスコー』(こちらはプッチーニの作品)の
ライブ・イン・HDにのった公演のインタビューの中で、デ・グリュー役を歌ったジョルダーニが、
”マスネのマノンとプッチーニのマノン・レスコーの違いは?”
と聞かれ(そして奇しくも、その時のインタビュアーはフレミング)、
”プッチーニの作品が、マノンとデ・グリューの恋、ほとんどそれしか描写していないのに対し、
マスネのマノンは、教会対煩悩の葛藤とか、恋以外のことにもポイントが置かれていること。”
と言っていましたっけ。
その大事なポイントである、教会と煩悩の対立が、コミカルな絵に終わってしまっては、
これが全幕の公演だったとしたら、噴飯ものだったことでしょう。

しかし、今日のガラでは、ややフレミングが、演技や歌を、ガラ仕様に組みなおしたのでは?
と思わされる場面が多く、この場面も、本当に作品が伝えたいことはとりあえず横に置き、
とにかく観客へのエンターテイメントに徹し、ピントが多少外れていても、
楽しんでもらえればよし!という方向を目指した場合、一つのアプローチの仕方ではあると思います。

レスコーを歌ったのはドウェイン・クロフト。彼はキャリアも長く、
舞台での立ち姿が美しいので、このあたりの役では安心して見ていられますが、
いつまでたっても彼らしさ・個性があまり出てこないのはなぜなのでしょう、、?至って地味、です。

登場場面は多くないながら、存在感があったのは、デ・グリュー父を演じたロバート・ロイド。
自分の思い通りに生きてくれない息子への苛立ちと怒り、許すということを知らない頑固さを、
巧みに歌い込んでいました。
パートは違えど(ロイドはバス)、ジェルモン父を歌ったトーマス・ハンプソンに、
彼のように役の性格をきちんと分析し、それを歌に込めるという姿勢が1/100あったなら、、。

ヴァルガスはこちらの作品でも真摯な歌唱を聴かせ、
”消え去れ、優しい面影よ  Ah! Fuyez, douce image "も気合の入った、
彼にしては熱唱といえるものでしたが、ただ、それでも、まだ、
少し綺麗にまとまりすぎているというのか、もう少しドラマティックでもいいのだけれど、、
というのが私の感想です。

徒歩通勤の指揮者、マルコ・アルミリアートが指揮をすると、
レヴァインが振るときよりも、オケからずっとのびのびした音が出てくるような気がします。
歌手へのサポートも巧みで、この作品まではオケも好調。

『椿姫』、そして『マノン』、各一幕ずつとはいえ、共に二場ずつあるので、
すでにこれだけでも、時間的に結構な量で、すでにお腹いっぱいの観客も多いはず。

『カプリッチョ』は、リヒャルト・シュトラウスの他の作品、
例えば『ばらの騎士』や『サロメ』などと言った作品に比べると、
少なくともメトでは(そして多分、世界のオペラハウスでも)、
上演頻度が少ない作品ではありますが、オペラにとって、音楽と言葉のどちらが大切か?という
非常に重要なテーマを、若くして未亡人となった伯爵夫人と二人の男性との
三角関係に重ね合わせて描いた、興味深い作品。
二人の男性がそれぞれ作曲家と詩人、つまり音楽と言葉を暗示していて、
伯爵夫人がどちらの男性を選ぶか、というプロットが、
音楽と言葉のどちらが重要か、という命題と重なっているわけです。
この彼女の選択が、三人が制作に関わっているオペラ作品のエンディングをも
決める、ということで、今日演奏される、この最終シーンでは、
”オペラのエンディング”という言葉がしばしば使われ、
それが、この『カプリッチョ』を最後の演目として持ってきた理由となっていると思われるのですが、
(そして、余韻のある終わり方もガラのエンディングにぴったり。)
作品の知名度という点では、『椿姫』、『マノン』に続いて、
上のものから段々と下がっていく結果になってしまったので、
なんと、二度目のインターミッションを挟んで『カプリッチョ』が始まる頃には、
帰ってしまったお客さんも少なくなく、空席がちらほら見られました。
オープニング・ナイトは、オペラヘッドが観客に占める率が一番低い公演だと私は見ていますが、
オープニング・ナイトは何よりも社交の場である、というタイプのお客さんにとっては、
この『カプリッチョ』は、最もどうでもいい、興味のわかない、辛抱の要る演目なのでしょう。

しかし、そんな早退組のお客様はお生憎様、としか申し上げようがない。
なぜなら、ルネ・フレミングの持ち味が最も良く出ていたのがこの作品だったから。



ジョン・ガリアーノがデザインした衣装を身にまとい、舞台に現れたルネ・フレミングの姿は、
まさに関西の派手なおばちゃん風。
写真ではこの迫力を十分にお伝えできないのがもどかしいが、
微妙に写りこんでいる、ターコイズやら金やら黒でできたプリント、
これが、背中では全身に及んでいるのだ。
そして、そのプリントが、なんともウィーンのアール・ヌーヴォーっぽい雰囲気をかもし出していて、
その派手なことは、まるで背中に彫りものをほどこしているかのような凄い迫力である。

まさに、悪趣味スレスレなのだけれども、少なくとも、セットの雰囲気に合わせて工夫を凝らし、
それを衣装に反映させようとした、そのチャレンジ精神は評価されてよいと思う。
(オペラは1770年代のパリという設定だが、コックスの演出では年代を1910-20年あたりに動かしている。)



しかし、この関西のおばちゃん風の上着を脱いだ後、下に着たドレスに現れた、
このゾウリムシのような、ポケットのような変な布は何、、?
体の左側から布に流れを生み出す効果を上げているのはよいのですが、
遠めに観ていると、ポケットの付いたドレスという感じで、かなり変ではありました。
ドレスのフォーム自体は美しいだけに、このゾウリムシ・ポケットは残念。
リスクが本当に、損失として顕在化してしまった、とでもいえばよいでしょうか、、。
それでも、目に優しい美しさ、ということであれば、前の二作品のデザイナーたちの
ドレスに軍配があがるでしょうが、リスクを承知でユニークな作品を提示したガリアーノの、
その心意気は買いたいと思います。



そして、ゾウリムシごときで心配することなかれ!!
なぜならば、フレミングの歌が、これまでのどの作品よりも、作品にフィットしていて、
今日のオープニング・ナイト・ガラの中で、最も聴きごたえのある作品となったからです。

惜しむらくはオケ。この長丁場の拘束時間(特にガラはインターミッションも、
通常の公演よりも長めになる傾向にあるので。)に、
やや疲れが出たか、もしくはこの作品がややリハーサル不足なのか、
サマーズ率いる演奏は、『椿姫』や『マノン』に比べると演奏の切れ味に欠けたのが残念。
特にオーケストレーションに関しては、『マノン』なんかに比べて、
ずっと複雑かつ面白く出来ている作品なので、オケが調子がよければ、もっともっと手ごたえのある、美しいものが聴けたはずです。

とにかく、ルネ・フレミングの、どこか人生に倦怠感を感じているような、
それでいて、何かを信じたい、と焦燥感も感じているような、
それら全てを洗練された態度にカモフラージュして、、と、
深みのある役作りが光っていました。
この演目に関しては、ガラ・バージョンをかなぐり捨て、本来の全幕公演に最も近いアプローチで
役に取り組んでいたような気がします。
まあ、しかし、当然といえば当然ですね。
演目の『カプリッチョ』自体、ガラ・バージョンをかなぐり捨てた、
かなりマニアックな演目なわけですから、、。
しかし、その”ガラにはマニアックすぎるのでは、、”と思われる危惧を押しても
プログラムに乗せただけあって、ルネ・フレミングの持ち味と良さが十全に出きっていました。

また、この最終場面は、ほとんど彼女のワンマン・ピース的な演奏なのですが、
一人でぐいぐいと舞台をひっぱっていく様は頼もしく、各作品ごとで色々な批判があっても、
やっぱり、それなりに力がある人なのだ、と実感。

今日の彼女と同じことを、同じくらいの存在感でこなせる歌手が他にどれだけいるのか?
と言われると、答えに窮しますから。

まずは(ゲルプ氏在任期間中は)今シーズンで最後になるであろうと思われる、
このスター依存型幕ものガラ。
”レトロ”もさることながら、こういったタイプのガラを支えられる力のある歌手の数が
現在極めて少ない、ということの方が実のところなのかもしれません。


Giuseppe Verdi LA TRAVIATA Act II
Renee Fleming (Violetta)
Ramon Vargas (Alfredo)
Thomas Hampson (Germont)
Theodore Hanslowe (Flora Bervoix)
Louis Otey (The Marquis d'Obigny)
Paul Plishka (Doctor Grenvil)
Kathryn Day (Annina)
Juhwan Lee (Giuseppe)
John Shelhart (A Messenger)
Conductor: James Levine
Production: Franco Zeffirelli
Costume Design for Renee Fleming: Christian Lacroix

Jules Massenet MANON Act III
Renee Fleming (Manon Lescaut)
Ramon Vargas (The Chevalier des Grieux)
Dwayne Croft (Lescaut)
Robert Lloyd (Count des Grieux)
Monica Yunus (Poussette)
Reveka Evangelia Mavrovitis (Javotte)
Ginger Costa-Jackson (Rosette)
Bernard Fitch (Guillot de Morfontaine)
John Hancock (De Bretigny)
Jason Hendrix (The Porter of the Seminary)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Jean-Pierre Ponnelle
Costume for Renee Fleming: Karl Lagerfeld for Chanel

Richard Strauss CAPRICCIO Final Scene
Renee Fleming (The Countess)
Michael Devlin (Major-Domo)
Conductor: Patrick Summers
Production: John Cox
Costume for Renee Fleming: John Galliano

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*** オープニング・ナイト・ガラ Opening Night Gala ***


OPENING NIGHT GALA 前編 (Mon, Sep 22, 2008)

2008-09-22 | メトロポリタン・オペラ
Metropolitan Opera Opening Night Gala

今年はシーズン・オフの合間合間に色々なメトがらみのニュースに事欠かず、
かつ、いろいろなイベント(映画のプレビューレクイエムの演奏 など)があったので、
例年の”いよいよ始まるわあ。”という感じとは少し違って、なだれこむような勢いで
オープニング・ガラの日がやってきましたが、やっぱりこの日はオペラヘッドにとって、
格別に嬉しいものです。

今年のオープニング・ナイトはルネ・フレミングのファッション・ショーもかねるらしい、
と耳にした日から、ならば私もそのスピリットにあやかって!と、
真剣に、”オープニング・ナイトに着る服探し”が始まりました。
過去のオープニング・ナイトにおいては、会社から直行するはめに陥り、
ほとんど普段と変わらないような格好でオペラハウスに駆け込んだこともありますが、
そんなことだけは絶対に今年は避けたい。
なので、今日は何ヶ月も前に申請して自宅勤務の日にしてもらいました。
私の上司や同僚は、私のオペラ狂いに信じられないくらい理解があり、
彼らなしには今のような調子でオペラに通うことも、このブログを書くこともままならないと思う。
本当に感謝してます。

さて、私の家の近所にかなり強烈な個性のゲイのおじさんが経営している
ユーズドのお洋服のお店があるのですが、これが、ユーズドといって、あなどってはならない!
スタイリストやモデルの御用達と思われ、新品同様の商品やら(往々にしてタグがついたまま)
とんでもない美しい商品が時に現れるので、全く気がぬけないのです。

たまたま私がオープニング・ナイト用の服を探し始めたころ、
なんとも繊細な生地の、素敵なデザインのドレスが店内にあらわれたので、”これは、、?”と尋ねると、
お店のお姉さんが、”これは実はシャロン・ストーンがゴールデン・グローブ用に
作らせたドレスらしいんだけど、今年結局欠席することになって、それでうちに来たのよ。”
気軽なお姉さんの人柄に便乗して、ゲイのおじさんがむこうからじっと
”買わないんなら着ないでよね。”という視線をなげかけてくるのも完全シカト状態で、
無理矢理試着させてもらったのだが、やっぱり着ると欲しくなる!!
それにしても、なんて手の込んだ生地!
しかも、裾がいわゆるトレインと言って、長く引き摺るような裾になっており、
これなら、ルネ・フレミングも尻尾を巻いて逃げていくだろう、というようなセレブ系ドレス。

おいくらですか?と尋ねて、私の銀行口座の残高との比較がはじまったとき、
突然、オープニング・ナイト当日の行動シュミレーションが私の頭の中で始まってしまった。
うちは、エレベーターすらない、ウォークアップのビルである。
しかも、NYのストリート(東西に走る通り)の大部分が一方通行になっているのだが、
私の家の前の通りはメトとは逆方向なので、いつもはほんの10歩ほど歩いて、
アベニュー(南北に走る通り)の角でキャブを拾うことにしている。
この長い裾をもって、階段を歩いて降り、さらにはアベニューまで歩いている自分の姿を思い浮かべると、
なんだかがっくり来てしまった。
”やっぱりちょっと考えます”と言ってドレスをお返しすると、
お姉さんは気さくに”OK! また気が変わったら来てね!”と言ってくれたが、
ゲイのおじさんの、”だから着ないでって言ったじゃないの!”という視線が背中に痛い。

結局、こちらでいう”ガウン”(フォーマルなロングドレス)は我が家に全く不釣合いである、
という結論に達し、もう少しトーン・ダウンした、シンプルなワンピース型のドレスに落ち着き、
かわりに髪をプロにお任せすることにした。

NYは日本以上に美容院の質がピンきりなので、要注意である。
私は一度、安かろう、悪かろうの匂いがぷんぷんしている美容院でパーマを任せるという
人生最大の過ちを犯し、その変な髪形が自分の頭にのっているという屈辱感のために、
その後半年間外出するのも億劫になってしまったことがあるくらいなのだ。

なので、慎重に、アッパーイーストのマダム達も顧客にいそうなサロンを選択。
up-do(髪をアップにすること)を出来るスタイリストの人を割り当ててくださった。
このスタイリストのお兄さんが、滅茶苦茶腕がよくて、
”今日は、オペラに行くっていうお客さん、すでにあなたで三人目よ。”
(ちなみに、まだ開店してからまだほとんど時間がたっていない。)
といいながら、ものすごい勢いで、髪を形作っていく。

す、すごい!
ここから6時間、どうやってこの頭をキープしようか、と思っている私なのに、
さらに早く来て髪をセットしていった方がいるとは、、。
うーむ、オープニング・ナイト、盛り上がってます!
仕上がりに大満足し、お兄さんには来年もよろしくお願いします、とお伝えして、
自宅に帰ってきたら、突然眠気が襲ってきた。
しかし、この頭ではうかうか横にもなれないのだ。
おしゃれをするのは大変である。

首尾よくキャブをつかまえ、オペラハウスに向かうと、
あと2ブロックほどでリンカーン・センター!というところで、
ふと窓の外を見ると、今日のガラで『マノン』の第三幕を指揮する予定のマルコ・アルミリアートが、
蝶ネクタイなしのタキシード姿で楽譜を抱え、あわただしく路上を”徒歩通勤”する姿が見えた。
ガラの華やかな雰囲気とはあまりに対照的な、その姿に目頭が熱くなりました。

今年は比較的開演間際に到着したので、
オペラハウス入りするお客さんウォッチングを出来なかったのが残念ですが、
座席がサイドボックスだったので、パルテールと平土間に座っているお客さんがよく見えました。

パルテールにはブルームバーグ現NY市長や、
まもなくメトでルチアを歌う予定のダムローの姿が見られました。
余談ですが、そのダムロー、ルチアのオケとのリハーサルで
ホームラン級の歌唱を聞かせてその場にいた人たちを驚かせた、という話が伝わっているので、
公演が本当に楽しみです。
そして、もちろん正面のボックスにいるのは、メトでお馴染みの大パトロンたち。
平土間にはマーサ・スチュワート、ジョン・リスゴーをはじめとする著名人や俳優の姿が見られました。

ゲルプ現支配人の考えでは、オープニング・ナイトというものは、
そのオペラハウスの”自分たちはこういう演目を、こういうスタイルでやっていくんだ!”というような、
強いメッセージ性のある公演であるべきで、
その考えに基づいて行われたのが一昨年の『蝶々夫人』であり、昨年の『ルチア』であったわけですが、
今日のこのルネ・フレミングを中心に据えたガラ、というのは、彼の就任前(つまりヴォルピ前支配人時代)に
すでに、メトが彼女に約束していたものらしく、ゲルプ氏はその約束を尊重した、ということのようです。
ゲルプ氏は、今年のこの一人の歌手に頼るガラというのは、”レトロである”とまで言い放っており、
あまり本意ではないことを匂わせています。

かくいう私も実は、オープニング・ナイトはおおいに全幕もの推進派で、
ガラは、大勢の歌手によっていろいろなアリアが歌われる類ならまだしも、
一人もしくは二人の歌手が、幕単位の抜粋をつぎはぎで歌う、というまさに今日の形式は、
個人的にはあまり好きでないパターンです。
というのも、”いいところどり”という言葉がありますが、幕ごとのガラというのは、下手をすると、
演目によっては、とっちらかった印象になったり、また歌手の歌がまずかった場合、
アリア単位なら我慢もできる長さですが、幕単位になると、かなり苦痛になりえ、
また歌が良かったとしても、全幕に比べると物語として食い足りない、、と、
”悪いところどり”に終わってしまうことがままあるからです。

各幕で、違ったファッション・デザイナーにルネ・フレミングの衣装のデザインを担当させたり、
この次期に合わせて彼女の香水が発売されたり、という話題づくりも、
そのレトロさや食いたりない感じを補うための苦肉の策だったのかもしれません。

例年通り、メト・オケの伴奏つき、観客全員起立してのアメリカ国歌の斉唱があり、
いよいよ、『椿姫』の第二幕でオープニング・ナイトがスタートです。

第一場のパリに程近い田舎(といってもあくまでおしゃれな田舎であることがポイント)
にあるヴィオレッタとアルフレードが住む屋敷のシーン。

この『椿姫』でルネ・フレミングの衣装を担当したのはラクロワですが、
なんだか、このドレス、デザインは悪くないと思うのですが、
まるでゼッフィレッリがデザインしたセットの大道具の一つであるソファのカバーの余った生地で
作ったのかと思うくらい、部屋のソファと色が似通っているのです。
ラクロワだけではなく、次の『マノン』のラガーフェルドにもいえることですが、
少しセットの全体の基調となっている色彩に、衣装の色が似通いすぎているのが私にはやや残念でした。
もうちょっと冒険してもよかったのにな。
ソファの近くに寄って歌ったりすると、まるでジャングルの中の迷彩服のように、
ソファと一体化してしまうルネ・フレミングなのでした。



ルネ・フレミングのヴィオレッタについては、過去にめった斬りにしてしまったレポがありますが、
今日の歌を聴いても基本的な感想は変わりません。
また、それは純粋に歌だけの問題ではなくて(歌もおおいに問題ではあるのですが)
本来は演技力のある彼女が、なぜだか、このヴィオレッタについては何かを掴み損ねている気がしてなりません。
いや、掴みたくても、今の彼女では掴めない、と言った方が適当か?

アルフレードとは対照的に大人で世慣れしているヴィオレッタは
人前では絶対にみっともない形で感情を爆発させることがないし、
(彼女が本当に自分の気持ちを激しく吐露するのは、一人でいるときと、
アルフレードに対して”私を愛してね”という場面くらいしかないと思う。)
特にこのジェルモン父と話すシーンは、
父に”一時的”にではなく、”永遠に”息子と別れてください、と言われ、
つい、そんなこと、絶対にできません!と言う場面以外は、
アルフレードをあきらめなければならないと最初から予感しつつ、
父の言葉に観念していく、という、きわめて抑制の効いた歌の中に、
どのように彼女の辛い本心を滲ませるか、というところがポイントであると思うのだけど、
このフレミングのヴィオレッタは、いかにも最初から気が強いし、
ジェルモン父に喧嘩腰なのが私には全く違和感がありました。
で、ここで歌に話は戻ってしまうのですが、この”抑制の効いた歌”を歌うためには、
やはり、一般的にこの役に必要とされるといわベル・カント的なテクニックが不可欠なのだと思います。
今の彼女のヴィオレッタの歌唱の問題点は、このベル・カント的テクニック不足を補うために、
ドラマティックな歌唱を代わりにすえて、それに合わせて役作りを行っている点にあるのでは、と思います。
もしも、彼女にテクニックがあったなら、もっと違った役作りをするのではないかな、
という感が拭えませんでした。

ただ、付け加えておくと、こういう理由により、いわゆるオーソドックスな、
ベル・カント的アプローチのヴィオレッタが好きな向きには彼女の歌はかなり厳しいものがありますが、
逆に、そんなことはどうでもよい、ドラマティックで結構!というお客さんには、
悪い出来ではなかったと思います。
今日のガラの中では、この『椿姫』が最も声も良く出ており、高音も確かでした。

ルネ・フレミングよりも個人的に罰したいのはトーマス・ハンプソン。
この人はいつから、こんなに俺様、ハンプソン様風の歌しか歌えなくなってしまったのでしょうか?
それとも、最初から?
また刺され覚悟で言うと、どんなに声がよくて、歌唱力があったとしても、
こんな歌を歌うようになっては、オペラ歌手もおしまいだと思います。
今日の彼の歌のどこからも、ジェルモン父のキャラクターの微塵も感じられなかった。
そこにいたのは、ジェルモン父のパートを歌っている”ハンプソン様”だけ。
”ガラなんだし、そこまでやかましいことを言わなくっても、、”?
いやいや、幕物のガラで、ほんの少しでも良いところがあるとすれば、
それは短い時間だけでも、そのオペラのエッセンスに、そのオペラの登場人物の心のひだに
触れられる、というところにあるのに、それが全く感じられないのだから、最悪です。

ラモン・ヴァルガスはいつもどおり、安定した歌唱で実に丁寧に歌っているのだけど、
彼にはもう少し華が欲しいかな、、。
通常の公演ではそこまで感じないのだけど、
こういうガラの場では少しその地味さが目立つかもしれません。
俺様ハンプソン様よりは、華がなくても真摯な彼の歌の方が私にとっては
数千倍好ましいのには間違いありませんが。
このアルフレードはカウフマンがメトで何度も歌っている役だし、
彼は『マノン』のデ・グリューも持ち役にしているはずだから、
ヴァルガスではなくって、カウフマンという手もあったのではないか?と考えたのは私だけでしょうか?

二場の夜会のシーン。
ここでルネ・フレミングが衣替え。というわけで、唯一三人のデザイナーのうち、
ラクロワだけが二点衣装をデザインしたことになります。
この写真ではドレスの全体が見えないのが残念ですが、後ろから裾のラインが
非常にゴージャスで、大変美しいドレスでした。
また、こうやって写真で近くで見ると少し胸元のデザインがやり過ぎな風にも見えますが、
舞台で見ている限りは、この赤の部分が、何となく、椿をイメージさせていて、
なかなか効果的だと思いました。
(『椿姫』は適当につけられた邦題ではなく、
デュマ・フィスの原作 La dame aux Camelias から来ています。)

また、ドレスの本来の生地の色は赤っぽい色なのですが、
アルフレードになじられた後に、床に打ち伏せるシーンでは、
ライティングの色に反応して、写真にあるような深い紫色になるのも美しかったです。




一場よりはこの二場の方がフレミングの役へのアプローチに破綻が少なく、
場全体としては一場より見ごたえがありました。

レヴァインの指揮については、一場が少しゆっくりに過ぎ、
逆にこの二場の、特に、アルフレードが博打を打って勝ち続ける部分など、
ややテンポが早すぎるような気もしましたが、
もちろんこれは私の好みの問題が大きいのは言うまでもありません。

オケは『レクイエム』に続いて、非常にクリスプで締まった音で好感を持ちました。
このテンポの問題を抜きにすれば、最もオケのまとまりが良く、出来が良かったのは
この『椿姫』だったように思いますが、それは『マノン』や『カプリッチョ』に比べると、
作品そのものが、それこそ毎年のように演奏されるメトの(もちろん世界でも)定番中の定番で、
オケが作品慣れしているということも無視できないと思います。

しかし、この二場の合唱シーンは何度聴いても泣ける。
泣けて、だけど、ガラにふさわしい華やかなシーンもあって、、なんて懐深い。
やはり『椿姫』は名作なのだ、と思い知らされるのでした。

後編に続く>

Giuseppe Verdi LA TRAVIATA Act II
Renee Fleming (Violetta)
Ramon Vargas (Alfredo)
Thomas Hampson (Germont)
Theodore Hanslowe (Flora Bervoix)
Louis Otey (The Marquis d'Obigny)
Paul Plishka (Doctor Grenvil)
Kathryn Day (Annina)
Juhwan Lee (Giuseppe)
John Shelhart (A Messenger)
Conductor: James Levine
Production: Franco Zeffirelli
Costume Design for Renee Fleming: Christian Lacroix

Jules Massenet MANON Act III
Renee Fleming (Manon Lescaut)
Ramon Vargas (The Chevalier des Grieux)
Dwayne Croft (Lescaut)
Robert Lloyd (Count des Grieux)
Monica Yunus (Poussette)
Reveka Evangelia Mavrovitis (Javotte)
Ginger Costa-Jackson (Rosette)
Bernard Fitch (Guillot de Morfontaine)
John Hancock (De Bretigny)
Jason Hendrix (The Porter of the Seminary)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Jean-Pierre Ponnelle
Costume for Renee Fleming: Karl Lagerfeld for Chanel

Richard Strauss CAPRICCIO Final Scene
Renee Fleming (The Countess)
Michael Devlin (Major-Domo)
Conductor: Patrick Summers
Production: John Cox
Costume for Renee Fleming: John Galliano

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*** オープニング・ナイト・ガラ Opening Night Gala ***

ライブ・イン・HD DVD いよいよ店頭に (1)

2008-09-21 | お知らせ・その他
映画のプレビューだの、ヴェルレクだの、レクチャーだの、と浮かれているうちに、
Madokakipはライブ・イン・HDのDVDの発売を忘れてしまっているのでは?と思われた読者の皆様、
お気遣いをありがとうございます。
記憶力の低下がはなはだしい私なので、ご心配もごもっとも。
しかし、自分の誕生日を忘れることはあっても、このDVDの発売日を忘れることは決してないでしょう。
もし、メトがらみの大事な日にちを失念するようなことがあった日には、
いよいよ自らの深刻な痴呆症を疑わねばなりません。

店頭買いが好きであるレトロな私は、発売日である16日に、二軒もCD屋をはしごして、4つの演目をかき集めました。
『ラ・ボエーム』、『マノン・レスコー』、『ヘンゼルとグレーテル』、そして『マクベス』がその4演目。
盤の製作が間に合っていないのか、EMIの思わせぶりな作戦か、
6演目一斉発売のはずが、各CD店で1~3演目しか棚出しされておらず、
他の演目を希望の場合はその店に入ってくるまで待つか(正確な予定日は不明)、
店から特別にオーダーをかけてもらうかこの2つのオプションしかない。

16日から今日まで、残りの二つ、『ファースト・エンペラー』と『ピーター・グライムズ』が
入荷するかも、という希望的観測で待機してみましたが、
せっかちな性格であるので、とりあえず、第一弾として、すでに手元にある4つについてのみ、
手短に感想を上げてみることにしました。
第二弾をいつあげられるかはCD店のバイヤーの腕次第。
バーンズ&ノーブルとヴァージン・メガストアの両店、よろしくお願いします。

さて、今回4演目を鑑賞し(うち、『ラ・ボエーム』を除く3演目は、映像になったものは初めて観た。)、
セットとか舞台の雰囲気が上手く映像に写りこんだ演目とそうでない演目があることを発見。
つまり、ライブ・イン・HDのりがいい演出、というのが間違いなく存在するということです。

 プッチーニ 『ラ・ボエーム』



映画館で後日アンコール上映されたたため、4演目中唯一すでに鑑賞済みの映像。
以前にも書いたとおり、ゼッフィレッリの超大なセットがやや映像に収まりきっていない感じが
するのが残念。
特に実際の上演がすすんでいる時にそれが顕著。むしろ、舞台裏でセットを組み立てたり
解体している時の方が、雰囲気が出ていると思う。

あと、この『ラ・ボエーム』のみならず、他の作品でもそうなのだけれど、
実際のライブ・イン・HDの上映にはあったはずのインタビューの全てが
DVDにのっているわけでないのも私にとっては残念。
一体、誰がどういう基準で決めたのか。

例えば、この『ラ・ボエーム』で一番面白く、NYの映画館の中でも笑いの渦だった
指揮者のルイゾッティへのインタビューはDVDにはないし、
(話している内容が面白いのではなく、キャラが立っているのだ。)
またルネ・フレミングが児童合唱のメンバーにインタビューする場面は彼女の素顔が垣間見えて
興味深かったのだけれど、それもカット。
ゲオルギューのフレミングへの、”じゃ、あんたがカバー”発言を含む
主役二人へのインタビューは採用となっているので、それで我慢するしかありません。

 プッチーニ 『マノン・レスコー』



実際にDVDを観て、ますます、なぜこれをDVD化したのか?という疑問が消えない演目。
マッティラはやっぱりこの役には合っていない。
ジョルダーニは、”彼にしては”まだましな歌唱を繰り広げている。
しかし、重ねていいます。最近についていえば、これが彼の歌唱の良い方の上限です。
むしろ、歌よりも意外と演技の方がナチュラルで好感が持てます。
でも、オペラはやっぱり歌がよくないと、、。
他の演目にはしっかり演出家がついているのに、この演目は、セット・デザイン、
演技付けをした人、などがばらばら。
そのせいもあってか、ヴィジョンがまったく感じられず、それがこの公演をだるいものにしていて、
また音楽とまったく呼応していない演技づけといい、観ているうちに疑問符が次々と頭に浮かんできた。
たとえば、一幕、マノンが帽子をもてあそびながら、後ろからデ・グリューがじっとマノンを見ているシーン。
この時にバックでオケが奏でる音楽をきけば、ここは絶対に二人の視線が出合って、そして瞬時に恋に落ちたことがわかる。
なのに、このメトの舞台では、マノンとデ・グリューの視線すら合っていないのだ。
何を考えているのか、この演技付けをした人は。

オケはよく聴くと、特に弦セクションを中心に頑張っているところもあり、
特に第三幕が始まる前の間奏曲のチェロをはじめとする弦楽器がいい演奏をしているのだけど、
セットも舞台で観たときはそうでもなかったのだけれど、DVDではなんとなく古色蒼然として見え、
全体としてだるい雰囲気の公演になってしまっているのは本当に残念。
そろそろ新演出を組まなければいけない演目の一つかもしれません。

 フンパーディィンク 『ヘンゼルとグレーテル』



セットの美しさでぴか一なのはこの演目。あまりに映像のりがいいのでびっくりしました。
特に前半。サンドマンが出てくるあたりは本当にうっとりします。
ただ後半、魔女が出てきてからも映像のりがすごくて、これもこれでびっくり。
魔女の腕のたるみとか、こわいくらいです。
(ちなみにこれはラングリッジに施された特殊メイク)。
万人受けはしないかもしれませんが、やはり、私はこの公演、好き。
メトのチャレンジ精神を感じる。

 ヴェルディ 『マクベス』



やっぱり演奏のテンションが高く、観ていてあきない。
最後になりましたが、このEMIのDVDシリーズで賞賛すべき点としては、
割と音声が上手く録音かつ再現されていること。
ただし、テレビについてくるスピーカーなんかで小さなボリュームで聴くのではなく、
できればきちんとしたスピーカーで、オペラハウスで聴いているときと同じくらいにまで
音量をあげないと、良さが聴こえません。
この『マクベス』で言うと、夫人が手紙を読んでいる場面で、
バックに流れている弦の音がきちんと聴こえるくらい、です。

この公演、細かいことを抜きにすれば、私はあまり不満はないのですが、
一点残念だったのは、撮影と編集のコンビネーションが悪いのか、
椅子や人が舞台からはけたり、といった、転換の場面がなぜだかたくさん画面に映りこんでいること。
オペラハウスで観たときは全く気にならなかったのに、なぜだかこのDVDではとっても邪魔に感じました。
演出家のノーブルは、やっぱり舞台の人なのか、このほかにも、
天井からふってくるわっかとか、緑の液体、舞台にせりだしてくる球体といったセットが、
映像上では若干チープに感じられたのも残念。
これも、オペラハウスでは、もうちょっと違って見え、
不思議で神秘的な効果を出すことに成功していたのですが、、。
『ヘンゼルとグレーテル』のリチャード・ジョーンズの演出が舞台でも映像でも視覚的に成功しているのに対し、
『マクベス』の方は映像化された時点で、舞台でのヴィジュアル面での良さがやや
消えてしまった個所がありました。

ただ、全体の出来としてはやはり4作品中ぴか一で、
繰り返しの鑑賞に耐えられる素晴らしい公演の記録となっています。

EMIによる、当DVDについてのサイトはこちら
映像の抜粋等も観れます。

EARLY CURTAIN: A SEASON PREVIEW

2008-09-20 | メト レクチャー・シリーズ
メトロポリタン・オペラ・ギルドは、オペラを鑑賞するにあたって参考になる
知識や情報を提供するために、
数々のレクチャーや、雑誌 OPERA NEWSの発行などを担当している組織です。
レクチャーの中には、特定の演目に関してその公演に出演中または予定の歌手を招いての
座談会などもあり、オペラヘッドにも見逃せないものが多い。

今年はそのギルドのレクチャー・シリーズもアップグレードが施され、
今までの平日のレクチャーに加え、土曜のコースや夜間コースも加えられました。

今日は、"Early Curtain: A Season Preview ”というテーマで、
マーティン・バーンハイマー氏が今シーズンの演目を、主に新演出ものを中心に、
紹介するコース。

ほとんど夏日のような爽やかなこの晴天の土曜日に、屋内でオペラについて学習するとは、
皆、相当やる気の入った、もしくは・かつ、頭のおかしいオペラヘッズかその予備軍のはずです。

今日のこのマーティン・バーンハイマー先生は60年代から90年代にわたり、
LAタイムズの音楽とダンスの批評を担当していた方で、1981年にはピュリッツァー賞を受賞。
現在もメトの土曜マチネのラジオ放送のインターミッションにしばしば登場されているので、
ご存知の方も多いかもしれません。

今日の受講者は50人程度でしょうか?
以前もこのブログのどこかに、オペラハウス内の客席の中でも、
声楽を生業にしている方はなんとなく空気でわかる、と書きましたが、
今日も、いくつかの空席をはさんでお隣に座っていた女性が
”間違いなく歌い手さんの匂いがする、、”と思っていたらば、
開講直後に、バーンハイマー氏から、
”今日はうしろの座席に、サンフランシスコ・オペラなどで活躍中の、
ジェーン・マーシュさんが来てくださっています。”との紹介がありました。
受講者全員が彼女の座っている方向に体を向けて拍手をする中、
私の目の前に座られていたおじいさんが、何を勘違いしたか、私の顔に向けて盛大な拍手。
うーん、おじいさん、微妙に角度が違う!もうちょっと左!
しかも、私のこの東洋顔が、”ジェーン・マーシュ”、、ありえない。
彼女はこのギルドの講師も何度か勤めているので、そのご縁での聴講かもしれません。

 メトでの初上演もの、新演出ものの紹介に入る前に、
今シーズンのリング・サイクルについて軽く言及がありました。
現在のオペラ界で、メトのように、実際に兜だと、やりだの、が登場する演出は非常にまれで、
主流はもっとシンプル、もしくはアブストラクトな演出。
おそらく2010年に公演予定の、ルパージ演出による次のリングも、その潮流にのったものに
なる可能性が高いと考えられるので、メトでは最後のオーソドックスな演出になるであろう、
このオットー・シェンクのリングを見逃さぬよう!とのことでした。

 いよいよ月曜にせまったオープニング・ガラ。
ルネ・フレミングが3つの違ったオペラから一幕ずつ(正確には2つの幕と、一つの場)を歌います。
『椿姫』第二幕は指揮がレヴァイン、共演はヴァルガスとハンプソン。
『マノン』第三幕は指揮がアルミリアート、共演はヴァルガス、クロフト、ロイドの三人。
そして、『カプリッチョ』の最後の場はサマーズの指揮になります。

 ジョン・アダムズ 『ドクター・アトミック』
原子爆弾を作った物理学者オッペンハイマーについてのオペラ。
ピーター・セラーズが書いたリブレットは、一般的な会話調のリブレットではなく、
(後注:これは”作者の創作による”一般的な会話調のリブレットではなく、という意味に解した方が
よいと思います。詳しくはDCOTOR ATOMIC 予習編②をお読みください。)
詩や文献、公式文書からの言葉や文章を組み合わせたもので、
非常にアブストラクトなものになっているそうです。
世界初演は、そのピーター・セラーズが演出を担当したサン・フランシスコ・オペラ(SFO)の2005年シーズンの舞台。
その後、同プロダクションはシカゴ、そしてアムステルダムでも上演されたそうです。
メトの舞台は、イギリス人のペニー・ウルクックによる新演出。
SFOでこの作品を鑑賞したゲルプ氏は、作品(特に音楽)そのものには大感銘を受けたものの、
演出に問題あり、と感じたそうで、これがメトで新演出を行う背景となっています。
上演中にはアンプも用いられるそうで、これはもちろん、声を客席に届かせることが
目的なのではなく、音響効果を狙ってのものです。
もう一つ注目されるのは、指揮者で、
今シーズンをもって、ニュー・ヨーク・フィルの音楽監督から退任予定の
マゼールに代わり、次期音楽監督となるアラン・ギルバートがメトの指揮台に立ちます。

ここからは既存作品の新演出もの。

 ベルリオーズ『ファウストの劫罰』
なんとメトでは1906年(!)以来一度も舞台にあがったことがない作品。
なぜ?と不思議になるくらい、美しい音楽に溢れています。
ベルリオーズはこの作品をオペラとは呼びたがらず、"dramatic legend"と称していたそうです。
よく聞かれる作品への批判は、”動きがない”というものらしいですが、
今日、抜粋を聴いた限りは、静かな中に、エレガントさがあり、
ある意味、グノーの『ファウスト』より、ずっとこちらの方が、ゲーテの原作の雰囲気に近い感じがします。
私のまわりでも、今回メトで上演されるということで、初めてきちんとこの作品を聴いた、という人から、
”隠れた佳品!”という声があがっています。
先生が持参された参考音源は、メトでも同じマルグリート役を歌うスーザン・グラハムによる
”D'amour l'ardente flamme 愛に燃え上がる炎が”で、ケント・ナガノ指揮、リヨン・オペラの録音。
最初と最後のイングリッシュ・ホルンのメロディーの美しさと、
その音から引継ぎ、また引き渡す(特に最後のd'amourという言葉)たゆたうような
ヴォーカル・メロディーが美しく、また詞の美しさも絶品です。
この講演では、自由にいつでも質問をしてください、というバーンハイマー氏の言葉に、
そこここで、質問を投げかける聴講者が見られましたが、
この音源をみんなで聴いた後、出た質問は、”スーザン・グラハムへの巷での評価は適当と思うか?”
バーンハイマー氏曰く、”メゾは比較的、実力と評価が一致しているケースが多い。
ソプラノは、どこぞのロシアの歌手のように見た目だけで得している、過大評価もいいところ!
というケースもありますがね。”
ネトレプコ、、。

また、あのジョルダーニが馬に乗っている写真(記事の冒頭参照)は実際の公演の一場面ですか?
との問いに、
”本当の馬かどうかはちょっとわからないし(先生、そんなこと誰も聞いてませんってば、、。)、
実際の公演からの場面か、宣伝用のためだけの写真かは私にはわかりません。(あ、ちゃんと本題に戻った。)”
みなさん、さすが晴天の週末をみすみすオペラに費やすだけあって、
ものすごく細かい質問が多いのです。

 マスネ 『タイス』

冷たい心を持った紀元4世紀頃のエジプトの美人娼婦タイスと神官アタナエルの物語で、
この役を歌うソプラノとバリトン、特にソプラノが歌の面でも演技の面でも上手く役にはまらないと、
目もあてられない上演になってしまう作品。
ルネ・フレミングがどのようなタイス役を表現するか?
今日試聴した音源は二つ。
まず、メトでもアタナエルを歌うトーマス・ハンプソンによる、
”Voila donc la terrible cite! これが恐ろしい罪業の町だ”
この町というのは、虚栄と背徳にまみれたアレキサンドリアのことを指しています。
神官であるアタナエルはこのアレキサンドリアの堕落を嘆き、怒るわけですが、
言葉では、毅然と町に背中を向けているような歌詞を歌っていながら、
どこか音楽の中に彼自身、その堕落した世界に負けそうな、
まるで無理に自分を言い聞かせるように歌っている様子を感じ取ってほしい、という
バーンハイマー先生のお言葉でした。
(そして、ご想像通り、いつの間にか、アタナエルはタイスに恋してしまうわけです。)
続いて、フレミングによる、”Dis-moi que je suis belle 言って頂戴、あたしは美しい ”。
ヴェルディの『ドン・カルロ』の”O don fatale 呪われた美貌”などと同じ、
”私ってば綺麗”系のアリアですが、タイトルだけ見て、”なんて自画自賛な女!”と眉をしかめず、
じっと聴くと、実は”私ってば綺麗”系は名曲の宝庫。
もちろん、タイトルだけでは伺いしれないその人物の深い悩みや悲しみがこれらの曲に内包されているからですが。
この"Dis-moi~”は、自分の美しさが衰えていくことへの焦燥感を描いていて、
"私は永遠に綺麗だと言って!”というこの永遠 eternellementという言葉が、
何度も現れるのが印象的。
ほとんど、必死とも言える焦燥感が表現されなければいけません。
最後のetenellementは三点Bの音も要求されます。
先生によれば、この役は繊細さも表現できるリリカルな歌唱が求められるものの、
どちらかというと、少し重めの方に傾いたリリカルな歌唱が好ましいそうです。
試聴音源はいずれもアーベル指揮のボルドーのもの。
メトの上演は、シカゴ・リリックで上演されたものと同演出だそうです。

 プッチーニ 『つばめ』
『タイス』と時代と場所は違えど、こちらの作品のマグダも”最初は冷たい女”系。
アリア”Chi il bel sogno di Doretta ドレッタの夢”があまりに有名なので、
女主人公もドレッタという名前だと思われがちですが、
女主人公はマグダという名前で、ドレッタはマグダが引用する詩の中の女性の名前です。
で、もちろん、試聴するのはこの”ドレッタの夢”。
ゲオルギュー嫌いの老練オペラヘッドにして、
”このマグダという意地悪女キャラがゲオルギューのパーソナリティととても合ってて、
この演目だけはおすすめじゃ。”と言わしめた

そのゲオルギューがSFOに続いて、メトでもこの役を歌ってくれるわけですが、
その彼女が歌うCDからの抜粋です。

しばしば全幕の生の公演ではパッションに欠けているなあ、、と思わせられることが多い彼女の歌ですが、
このようにCDで聴くと、やっぱり歌は上手いです。
また、この役は個性にあっているそうですから、もしかすると彼女の一世一代の歌が聴けるかもしれない。
楽しみです。

バーンハイマー先生によれば、タイスとマグダはキャラがかぶっているところはあっても、
声楽的には、前者の方がより重さを求められるため、
どんなにゲオルギューがタイスを歌いたいと思ったとしても、
せいぜいリリコ、それも軽めの、である彼女には、
フレミング(先生は、彼女の声を強いていえばリリコ・スピントに分類していらっしゃいました。)のように
歌うわけにはいかないのでは?ということでした。

 ヴェルディ 『イル・トロヴァトーレ』
もう何も言うことがないほどの鉄壁の名作。
あらすじはかなり迷走しますが、いくつものソロのアリア、重唱の美しさ、と、
音楽の面ではヴェルディの作品のうち、髄一。
なのに、なのに、メトでは過去二回、新演出が恐ろしいほどのフィアスコ(大失敗)に終わり、
呪われた作品としても知られています。
このうち、2000年12月に上演されたグラハム・ヴィックによる新演出のプレミアの日には、
私もファミリー・サークルのサイド席で鑑賞しましたが、
もうこの時は、幕の途中からbooが吹き荒れ、失笑がオペラハウスを包み、
最後の最後はあまりの轟音(もちろん観客の不満が爆発しての。)で、
あんなに荒れた公演を観たのはメトではあれっきりです。
特にこの最上階のサイドというのは、真正のキ印に近いオペラヘッドが多く座っている場所として知られ、
”ふざけんじゃねーぞ、この野郎!”という怒号が、ひっきりなしに、
舞台に投げつけられたのでした。
それも幕中に、、。
この作品は本当に音楽が素晴らしいので、観客側もいいものを見せてくれよ、、という期待が大きいのと、
この時は、シコフが歌うマンリーコと、アズチェーナを歌うザジックが本当に素晴らしい歌唱を
聴かせていたので、”この演出さえなければ、、”という観客がさらに不満を増幅させたものと思われます。

いかに馬鹿馬鹿しい演出だったかというと、
舞台におかれた月型の階段の上から、
障子のようなものを蹴破って歌手が出てくる、という、
もうそれは今記憶を呼び起こすだに、おぞましい代物で、
私の中では”月光仮面の舞台”として永遠に封印されています。

今シーズンの『トロヴァトーレ』はその点、シカゴ・リリックとSFOを経由して
やってくる演出なので、
まずは満足できるものを見せてくれるでしょう。
なんと、その2000年に素晴らしいアズチェーナを聴かせたザジックが、
今回もメトの舞台に立ってくれるということで、私はとても嬉しい。

先生持参の音源は、そのザジックがレヴァイン指揮で録音した全幕のCDから、
”Condotta ell'era in ceppi 薪束の上に連れて行かれ”。
マンリーコとルーナ伯爵との因縁をアズチェーナが語り始める不気味なシーンに、
相の手を入れるマンリーコ役がドミンゴなのですから、悪いわけがありません!
他の作品には申し訳ないが、もうこのほんの一場面の音楽が流れただけで、
会場中が一瞬にして、『イル・トロヴァトーレ』の世界になり、
やはり、ドラマを描くという面では、ヴェルディに追随するものはいない、という思いを強くします。
ヴェルディが音楽によって築き上げるドラマとしての完成度の高さは誰も異論のないところですが、
こうやって並べて抜粋を聴くと、こうも圧倒的な差があるものか、、とあらためて驚きました。

さて、このシーンでのアズチェーナは怒りもあらわに、胸を手で叩きながら
熱狂&絶叫する表現と、静かに怒りを表現するアプローチの二つがあり、
ザジックも、前者の表現をとることが以前にはあったそうですが、
最近ではどちらかというと、そういった熱狂をトーンダウンし、後者のアプローチで歌うことが多いそうです。
レヴァインとのこの録音では、後者に徹底していて、それが静かな怒りと狂気を表現していて、
素晴らしいとの先生のお言葉でした。

今回のメトの上演は”残念ながら”(先生の言葉です。)レヴァインではなく、
ノセダ氏の指揮により、
ザジックは若手の指揮者だと時々前者のアプローチで歌うこともあるので、
今回どのようにこの場面を歌うかもよく聴いてみてください、とのことでした。

この後に続いた、”自分にとってはオペラはドラマがすべて。
衣装とか演出といったことは二の次です。”というバーンハイマー氏の言葉に本音が垣間見えました。
というより、やはりオペラが好きな人間というのは、”これが私のオペラ観だ!”というのを
強く持っている人が多く、また、それを隠すことも苦手な人間が多い。
先生も、最初は無難なことを言ってましたが、段々エンジンがかかるにつれて、
自分の趣味炸裂のコメントが飛び出したりして、大変面白かったです。

 ベッリーニ 『夢遊病の女』

昨シーズン大好評を博した『連隊の娘』の主演コンビ、デッセイとフローレスが帰ってきます。
ベル・カントの定義の仕方は難しいですが、先生のいう、
”歌唱の美しさがすべて。いかに音として純粋に美しいか、ピュアか、
そして歌唱の繊細な技術が聴けるか。”
もっと音楽的に定義づけることもできるかもしれませんが、確かに、簡単にまとめると、
そういうことだと思います。
一貫して、メトの今シーズンの舞台で登場する歌手たちの音源を聴かせてきた
先生ですが、
先ほどもふれたように、いよいよ自分が抑えられなくなったか、なんとこの作品の抜粋として選ばれたのは、
フリッツ・ヴンダーリヒとエリカ・コットによるドイツ語バージョンの'64年録音の、
”この指環を受け取っておくれ (ドイツ語なので Hier nimm den Ring der Treue、)”。
メトはイタリア語バージョンを採用するはずなので、(イタリア語でのタイトルは、Prendi l'anel ti dono)
あえてこの録音を選んだのには、バーンハイマー氏の相当な思い入れがあるはずです。

なんとなくベル・カントには、イタリア語(せいぜいフランス語)というイメージしかなかった私は、
”ドイツ語?!”と最初はちょっと引きましたが、
ヴンダーリヒの素晴らしい歌唱もあって、思ったほどの違和感を感じませんでした。

ヴンダーリヒはこの録音の二年後の1966年に、メト・デビューを数日後に控えた若干35歳で、
不慮の転落事故から死亡。
しかし、パヴァロッティが歴代の最高のテノールとして名前を挙げたほどで、
このあまりに早いキャリアの終わりがなければ、メトでも大活躍していたはずです。

 そして、最後に、もう一つのベル・カント作品として、
新演出でないながら紹介されたのが、ドニゼッティの『ランメルモールのルチア』。
先生は前半のランでルチア役を歌うダムローを素晴らしい歌手と賞賛。
しかし、彼女はルチア役の録音がないためか、やむなく、
先ほど、”オーバーレートされたロシアのソプラノ”と称したネトレプコの録音からの
抜粋を聴くことに。
”前半は産休でお休みの彼女ですが、後半のルチアの公演でメトに戻ってくる予定で、
もし戻ってきたらこのように歌うはずです”というかすかな皮肉を前フリとして、音源を再生。
”このように”には、”このようにへたくそに”というニュアンスがこめられて、、。

このブログでも何回か、ネトレプコはベル・カント・ロールは避けた方がよい、と言ってきましたが、
その彼女にしては、まだ今日の音源はましな方(先生からは全く音源の詳細の紹介なし。
そんなことはどうでもいいんじゃ!といわんばかり。
よほどお嫌いなんですね、ネトレプコのことを、、。)で、
メトの舞台は、もっと悪い結果になるのではないか、と恐れている私ですが、
先生曰く、”リリー・ポンス、ビヴァリー・シルズ、そして(もちろんのこと)マリア・カラスといった
歌手を聴いて育った世代としては、ネトレプコの歌は、あまりに中音域で勝負しすぎで、
ベル・カントのソプラノ・ロールの見せ場の特長となっている超高音、また高音を駆使した技術、
空にふわっと浮かぶような音、そういった特徴が一切ない。”とけちょんけちょんでした。

確かに、高音にアタックしてもそれをサステイン(維持)しないですぐに下がってきてしまうし、
超高音は挑戦しないわ、全然ヴァリエーション(装飾歌唱)らしいものも存在しないわで、
先生のおっしゃることもごもっとも。
でも私は彼女については、最近の歌唱を聴くにつけ、高音のサステインどころか、
アタックですらメトの舞台では怪しい結果になるのでは、と実は思っているので、
むしろ、ネトレプコのベル・カントには先生よりも厳しいかもしれません。

ここで時間切れとなり、既存作品の既存演出ものについては全くふれる時間がなく、
さらには、準備されていた音源も一つカットとなりました。
先生は、時間があれば、ジンカ・ミラノフによる、
”Vanne! Lascimi!~D'mor sull'ali rosee”(”行ってちょうだい!から、
アリア”恋はばら色の翼に乗って”のシークエンス)を聴かせてくれるつもりだったようで、
とっても残念。
ここに来て、さらに先生が趣味を炸裂させているというのに、、。
(ジンカ・ミラノフは往年のソプラノなので、こちらも、先生のこだわりチョイスだったのだ。)
しかも、この”恋は~”は、私がヴェルディの書いたソプラノのための曲の中で、
たった一曲だけどうしても選ばなければならないとしたら、
これを選ぶかもしれないほど、大好きな曲なのである!!
もちろん、私の場合、ミラノフではなく、カラスの音源をピックするでしょうが。

Lecture presented by Martin Bernheimer
at Samuel B. and David Rose Building

REQUIEM in Memory of Pavarotti (Thu, Sep 18, 2008)

2008-09-18 | メトロポリタン・オペラ
先月の8月半ばにお知らせした通り、パヴァロッティを追悼して、
ヴェルディ『レクイエム』の演奏がシーズン開幕を来週月曜に控えた今日、
メトのオペラハウスにて行われました。

チケットはくじ引きによる当選者に無料で配布され、
NYタイムズによると、一般用に準備された3,000席に対し、8,600もの応募があったそうです。

嬉しい計らいは、アグネス・ヴァリス&カール・ライトマンご夫妻による
(このお二人は、以前にもふれた、”ラッシュ・チケット”という、
月曜から木曜の間、毎日、正規の金額で買い占めた数十の平土間席を、
メトにまるまる寄付返しし、そのチケットをメトが、$20で再販売するという、
新規の顧客を開拓すること、また、高齢の方たちなどで経済的に余裕がなく、
正規のチケットを買うことが難しい人々にも鑑賞の機会を提供する目的に始められた制度を
支えてくださっていることでも知られています。)
寄付金により作成された、"Luciano Pavarotti at the Met "というCDが
参列者一人一人に配布されたこと。
土曜のマチネ公演の全国ネットラジオ放送のアルカイブから集めたと思われる
パヴァロッティが主役を歌ったメトのオペラ公演のライブ録音中、
特に彼が得意にしていた役のアリアをコンピレーションCDにしたもので、
『清教徒』、『仮面舞踏会』、『リゴレット』、『愛の妙薬』、『ラ・ボエーム』といった、
お馴染みの作品からのアリアが含まれています。

ちなみに、今日は、演奏会やオペラの公演ではなく、追悼会ですので、観客、及び、
オーディエンスという言葉ではなく、参列者という言葉を使わせていただきます。

また、配られたプログラムには、パヴァロッティのメトでの舞台姿および
バックステージでの写真がちりばめられていました。

しかし、意外だったのはオペラハウスに現れた参列者に、
これがパヴァロッティを追悼する会である、ということを思わせるものは、
このCDとプログラムの二つだけで、
ゲルプ氏はおろか、誰からのスピーチもなければ、
パヴァロッティの偉業を振り返るような映像や音源の再生もなく、
いきなり合唱のメンバーが舞台上にあらわれて、さくっと演奏が始まってしまった点。

去年のビヴァリー・シルズの追悼会に比べると、拍子抜けするほどシンプルでしたが、
私はこのシンプルなのが、なかなか良いと思いました。
パヴァロッティはあまりに偉大過ぎて、誰かにぺらぺらとスピーチされても、
薄っぺらく聴こえてしまうだけ、という状況に陥る危険がおおいにあるので、
これは個人的にはメトのスマートな判断だったと思います。
また、ゲルプ氏が支配人になった時には、すでにパヴァロッティは
オペラの全幕の舞台から引退した後だったため、
結局ゲルプ支配人時代にパヴァロッティはメトでは一度も歌ってはいないので、
スピーチをすることにやや躊躇もあったのかもしれません。

通常、『レクイエム』が演奏会で取り上げられるときは、
合唱とともにオケも舞台で演奏するのが一般的だと思うのですが、
なぜだか今日はオケピットに閉じ込められていました。
なぜだろう、、?と思っていたところ、同じNYタイムズの記事を読んで思い出しました。
そうでした。今日は、レヴァイン氏が、癌の摘出手術のためにタングルウッド音楽祭での指揮の
一部をキャンセルして以来
、初めて公の場で指揮する日なのでした。
完全に忘れてました。私ってば、ひどい、、!

オケまで舞台に上げると、指揮者自身も舞台上に立たなければならず、客席から姿が丸見えになります。
それを避けるためにオケをオケピットに配置したのではないかと推測されます。
NYタイムズの別の記事に使用されているレヴァインの写真を見ると、
なんだかめっきり老け込んだ感じもし、まだ病み上がりっぽくも見えるので、
これでは無理もないか、、と納得した次第です。

レヴァイン氏は、この記事の中で、癌だと宣告されるのは、ちょっとした経験だった、
この経験から出た新しい考えとか豊かな感情みたいなものをきちんと表現したい、
という要旨のことを語っていますが、
そのことと関係があるのか、私は今日の演奏は、ちょっとレヴァイン氏らしくなく
感じた部分もあったりして、大変興味深く聴いた次第です。



まず、今日の公演で、最もパワフルだったのはオケ、次に合唱、
そして、個人的にはややがっかりだったのがソリストたちの独唱およびアンサンブル、
という順になっています。

オケは、スカラ座やウィーン・フィルなんかの洗練された音作りに比べると、
人によってはバタ臭く感じる、親しみやすい感じのサウンドであることは否めませんが、
それでも、それが欠点に陥るはるか前の地点で止まっていると私は思います。
これはこれで、メトらしい音作りでとっても良いのではないでしょうか?
特に”怒りの日(ディエス・イレ) Dies irae ”の締まっていて、かつバランスのとれた演奏は
素晴らしかったと思います。
轟音が吹き荒れているというのに、決して乱れてはおらず、
このあたりに、私はメト・オケの地力を見ます。
私は、この作品、あまりにテンポを遅く演奏されるのは苦手なのですが、
(一度など、ライナー指揮の演奏を通勤電車の中、iPodで聴いているうち、
あまりにスローなのに驚きつつ、じりじりするうちに眠気に誘われ、
つい居眠りをしてしまった。
かなり寝たな、と思って目を覚ましたのに、記憶にある個所から、
ほとんど前にすすんでいなくて、これまた二度びっくりしてしまった。)
今日の演奏は、テンポの面では、私の感覚には非常にマッチしていて、心地よかったです。

ただ、私はいつもこのブログでも書いているように、レヴァインの優れた点は、
アンサンブルの正確さ、”きっちりした音楽を作る”点だと思っているのですが、
(心を動かす音楽どころか、このきっちりした音楽を作ることすら出来ない指揮者が
オペラやクラシックの世界にわらわらいるのが現実なのですから嘆かわしいです。)
そのかわりに彼の指揮する演奏は、どこか、きっちり商品が収まった箱、とでも形容したくなるような、
器用さはあるのだけど、もっと何か心に訴えるものを聴かせてほしいなあ、、という印象に
終わってしまうこともあるのですが、
今日は、なんだか、その箱をついに破ったか?と感じるような場面がところどころにありました。

といっても、それは必ずしも、いい方にだけ転んでいたわけではなく、裏目に出ていた個所もありましたが。

いい方の例は先ほどふれた”怒りの日”。
これまで聴いたレヴァインのどの演奏よりも、アンサンブルをきれいにまとめるだけに
こだわらないで、もうちょっと違うことがしたい!という意志みたいなものを感じました。
それでも、メト・オケは、どんなにゆすっても、ずっとこのレヴァインのもとで
鍛錬を積んで来ているので、
意識せずともきちんと演奏しなくては!という思いがあるようで、
そのレヴァインのゆすりの力と、オケがきちんと演奏したい!という自浄作用のものが
絶妙な力で均衡していたために、よい結果が出ていたのではないか、と思います。
合唱も、頭の”主よ、永遠の安息を彼らに与え Requiem aeternam ”では、
少し芯がしっかりしていないような響きで、大丈夫か?!と思わされましたが、
この”怒りの日”では、ものすごいヴォリュームで歌いながらも、
決して耳障りな絶叫にならずに、巧みに歌い上げていたと思います。

しかし、逆の例は、”サンクトゥス Sanctus ”でしょうか?
中盤以降で、これまでになく音と戯れるレヴァインに、合唱がちょっと付いていけなかったようで、
数小節にわたって、音が無理矢理引きずり回されているような微妙な部分もありました。

今回は、かように、良い結果と悪い結果が混じってしまいましたが、少なくとも、
レヴァインの音楽のアプローチの仕方がほんの少し変わったのでは?と思わせる点もあり、
大きな病気を経験したり、死が近づいたりすると(こらこら、、。)、
突然全く違った表現の仕方で音楽を奏ではじめる指揮者や演奏者がいますが、
そういう意味では2008年シーズンでの彼の指揮が楽しみになってきました。
早く全快して、まだまだ面白い音楽をたくさん聴かせていただかねばなりません。

では、ソリストにうつりましょう。
まず、今日の演奏で、私的に、唯一音楽的にすぐれたものを聴かせてくださった、と感じたのは、
ソプラノの、フリットリ一人だけかもしれません。




今日の彼女は、絶好調というわけではなく、特に後半、頻繁に水を飲んだりしていたことからも、
やや喉の不調があったのではないか、と推測します。
また、この作品では度々オケが厚くなることもあるのと、この曲の雰囲気から言っても、
彼女の声質は軽い方の限界に近いかもしれません。
それでも、スコアと言葉(ちなみにラテン語です。)が完全に頭に入っているようで、
今日のソリストの中で唯一、全くの暗譜で歌っており、
もっとも機敏にレヴァイン氏の指示に反応していたのは彼女でした。
合唱のみで歌われる”サンクトゥス”の間、着席しながらも、
合唱と一緒に口を動かして歌っていて、それもただ一緒に軽く歌っている、というものではなく、
中空をじっと見ながら、完全にこの作品の”世界”に入り込んでいる姿がとても印象的でした。
”仰ぐもかしこき御霊感の大王 Rex tremendae ”に入る直前の高音のコントロールの
その美しかったことと言ったら!
ソプラノの最大の聴かせどころともいえる、最後の”我を許したまえ (リベラ・メ) Libera me ”で、
大切な高音を失敗したのは残念ですが、それでも、作品中随所で、豊かな音楽性が感じられ、
彼女が歌う場面で引き込まれることが最も多かったです。

コンディションの話をすれば、メゾのオルガ・ボロディナが最も調子が良かったかもしれず、
大きなミスもなく、全体としてはかなり巧みにまとめていたと思いますが、
私には、彼女のこの作品の歌唱はただきちんと歌っているだけ、というのか
(それだけでもすごいことではありますが。)
フリットリのような物語が聞こえてこないように感じます。



また、高音でしばしば音が微妙にフラット気味になるのは若干気になりました。
特に重唱の部分は、ぴったりと音を抑えてくれないと、気持ち悪い感触が体に残り、
この作品の良さは決して出ないので。

しかし、これはボロディナ以上に、ジョルダー二の大罪ともいえましょう。
私は以前より、ジョルダーニの登場するガラやオペラの公演で、
彼の凄い歌というのに一度も遭遇したことがなく、それどころか、
いつもひどい出来であることが多いので、今回もなんでジョルダーニを連れてくるかー?!と、
頭を掻き毟りたい衝動に駆られていましたが、その予感は決して間違いではありませんでした。



彼が登場する公演、ガラに今まで何度出向いたか知れませんが、
(彼が目的でチケットをとっているわけではないのに、なぜかいつもくっついてくるのです。)
そのうちの85%くらいは声のコンディションが悪いのです。
自分の声の管理が出来ないオペラ歌手、、、きびしい。
さらに致命的なのは、それが原因なのか、それには関係なくそうなのかわかりませんが、
いつも、まるでパートがうろ覚えなのではないか?との疑惑を投げかけたくなるような、
怪しげなフレーズ(音程、リズム、共に。)が飛び出すのです。
でも、まあ、今日は楽譜を握り締めているので、大丈夫かな、、と思っていたらば!
ぜんっぜん、大丈夫じゃありませんでした。あはは、、、って、笑っている場合ではない!

まず、ソリストの第一声にあたる、テノールの大事な大事な、
”キリエ・エレイソン Kyrie eleison (主よ、憐れみ給え、の意)”
いきなり、ブレスが足りなくなって、まだまだオケが全然なり続けているし、
音をひっぱらなければならないのに、あっという間に音をたたまれてしまった。
ちょっと、、、まじ?  あんた、今日もまた調子悪いわけ?!
いい加減にしてくださいよ、もう本当に!!!

この作品、テノールには本当に美しい旋律が与えられていて、
”われ過ちたれば嘆き(インジェミスコ) Ingemisco, tamquam reus"は、
この作品の中で私が最も好きな部分の一つでもあるのですが、
歌うのがやっと、という感じで、心もとないことこのうえない。声もがらがらだし、、。
風邪?

音程もリズムもやっぱり適当で、その手で握りしめているのは楽譜じゃないのか?
そして、こんな風で、最後の”Statuens in parte dextra"という歌詞に出てくる高音は大丈夫なのだろうか、
と不安が募る。
結局この高音は意識しすぎたか、逆にやや高めに入る始末で、
もうこの人は、たった一人で、この作品の演奏をぐちゃぐちゃにしてしまった、と言っても過言ではない。
いかに、パヴァロッティの素晴らしさを讃え、追悼する会とはいっても、
こんな、”あなたがいなくなった今、世界には、こんなぼろぼろな歌を歌うテノールしかいません”と、
示すようなやり方でパヴァロッティを讃えるのは、讃え方が違うのではないか?
まじめに、パヴァロッティにこの世に戻ってきてもらいたくなりました。
重唱でも音程があやふやなので、初めてこの作品を聴く人には一体どういうハーモニーであるべきなのかも、
定かでないのではないだろうか?と思わせる始末なのです。

しかし、ジョルダーニは、真剣に風邪だったのかもしれません。
声がものすごく荒れていたし、しかも、私は見たのです!
他のソリストが歌う間、座席に着席しながらも居眠りをこいているジョルダーニの姿を!!!
風邪薬が効きすぎてノックアウトされたのかもしれません。
それにしても、パヴァロッティの追悼会で居眠りをかますとは、やはり、
神経だけは太そうだと前からにらんでいるけれど、間違いなさそうです。
くれぐれも、『ファウストの劫罰』の公演までには体調を万全な状態に戻して頂きたいものです。

あまりにジョルダーニのインパクトが凄すぎて言及するのを忘れそうですが、
バスのイルダル・アブドラザコフ。



と、さりげにプログラムに紹介されているのを見たときは、
”あれ?ジェームズ・モリスはどうなったわけ?”と私はその場で崩れ折れそうになりました。
そう、このパート、もともとはジェームズ・モリスが予定されていて、
私は彼もとても楽しみにしていたので、男性陣はもうおしまいだわ!と、
頭が割れるかと思うような失望を感じましたが、
この若手のアブドラザコフ、それなりに重責を果たし、無難な歌唱を聴かせたと思います。
丁寧には歌っていたし、声も悪くはありません。
しかし、それ以上の何物でもなく、もうちょっと個性がほしいかな、という気もします。

先に、この演奏会で一番弱いと感じたのはソリストだと書きましたが、
この個々人の出来もさることながら、その最大の理由は、
この4人の間の声質とか歌唱スタイルのケミストリーのなさだと思います。

ボロディナのロシアっぽいまったりした声に、フリットリの繊細でクリスプなイタリア声は
全然ミスマッチだし、
男性陣も同じことがいえ、なんだかソリスト間にまとまりがなく、
かといって、意外なコンビネーションによる妙、というようなものも存在しないし、
ただただ、ケミストリーのなさが印象に残るのみでした。
誰がこんな組み合わせにしたのか、、? 考えただけで、何となく想像がつきそうなものを。



”リベラ・メ”の最後の一音が終わると、しばらくオペラハウスは黙想を促すように、
静寂に包まれましたが、
これは、フリットリが余韻をのこしながら、本当に上手く歌い終えてくれたおかげ。
しばらく、参列者側に拍手のきっかけを与えなかったのです。
ついに、どこぞのおやじが大きな声で”Bravi!"と叫んだのをきっかけに、静寂は破られましたが。
追悼会の演奏では、演奏後に拍手はしない、というのが本来のルールで、
演奏者側が最も避けたいのは、演奏が終わった瞬間に、客席から大歓声・大拍手が
沸き起こるというパターンです。
確かに演奏会とは違って、追悼会には、故人を悼む、という最大の目的があります。
演奏会が究極的には観客のために演奏されるものであるのに対し、
こういった追悼会での演奏は、演奏者側も、故人のために演奏しているのであって、
それをその当の故人でない、演奏の対象でもない我々が横から
かっさらって拍手する、というのはおかしい、ということなのだと思います。
そんな堅苦しいことを、、と感じる方も、せめて、フライング拍手だけは気をつけたいものです。
今回は、数秒の沈黙が演奏後にありましたので、なんとか追悼会らしい雰囲気が保たれました。

今日の公演を思い出しつつ、以前にご紹介したDVDを流していますが、
パヴァロッティの若き頃の端正な歌唱と、みずみずしい歌声が素晴らしいです。
やっぱり、彼のようなテノールは、今のオペラ界にはいない。
心から、彼を懐かしみ、追悼の念を捧げます。

REQUIEM in Memory of Luciano Pavarotti

Barbara Frittoli, soprano
Olga Borodina, mezzo-soprano
Marcello Giordani, tenor
Ildar Abdrazakov, bass
Conductor: James Levine

Metropolitan Opera House
Orch W Odd

*** ヴェルディ レクイエム Verdi Requiem ***

MOVIE: THE AUDITION 試写会編

2008-09-15 | メト Live in HD
昨シーズンのライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の『連隊の娘』の上映中、
我慢強く、インターミッション間もトイレに立たず、スクリーンをずっと見ておられた方には、
(ちなみに私はいつもそうです。何ものも見落としてはいけない!と、、。)
きっと、”おや?”と思われたはずの、『The Audition ジ・オーディション』という映画の短い予告編。
こちらの記事のコメント欄にも、”あれはなんですか?”というご質問を頂いていましたが、
いよいよこの映画が完成いたしました!
一般公開は来春を予定しているそうですが、今日は、アメリカ自然史博物館の中にある
カウフマン・シアターという劇場で、プレビューが行われました。

以前に、ナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズの記事をあげたことがありますので、
そちらも参考いただきたいのですが、
このメト版スター誕生!ともいうべきオーディションの、2007年に行われたもの
(上の記事は2008年のものですので、2007年ということで、一つ前の回ということになります)の、
セミファイナルの勝者が決定する時点から、ファイナリストを決定するグランド・ファイナルズの
コンサートまでの一週間をおさめたドキュメンタリー映画が、この『The Audition』なのです。

一言で申しますと、このドキュメンタリー、素晴らしい仕上がりです。
予告編では、ほとんど内容を伺いしれるような映像が出なかったので、
私は、お互いを蹴落とそうと激しくしのぎをけずる歌手の卵たちの涙と根性の物語、、みたいな
作風になっているのではないか、と危惧していたのですが、
監督をつとめたスーザン・フロムケの感性と着眼点の良さか、
温かさとユーモアとメトのスタッフや歌手たちへの愛情に溢れ、
それでいて、オペラの世界の微妙な、または複雑な部分への目配りも忘れず、
そして、観客をだれさせず、かといって、ジェットコースター映画のような
せわしない感じもしない非常に適切なテンポ感を持った作品となっていました。
これは、一瞬スクリーンに出たお名前を失念してしまったのですが、
編集を担当した方の力も大きいかもしれません。
ちなみにスーザン・フロムケは、カラヤンやホロウィッツについてのドキュメンタリーの
監督の経験もあり、ゲルプ支配人との知己も長く、メトがらみのプロジェクトも
これまでにいくつかプロデューサーとして参加しています。

登場するこの2007年のセミファイナリストたちが、これまた映画化にはこれ以上望めないほど
面白い顔ぶれとコンビネーションなのも幸運でした。
厳しい実力と精進の世界で、極限のプレッシャーと闘いながらも、
ユーモアの心を忘れずこの”オーディション”に体当たりする彼ら一人一人の姿に、
一緒に笑い、どきどきし、そしてほろっとくる、、、これは、そんな映画です。

プレビューでの客席からの評判も上々でしたので、ぜひ、アメリカ国内のみならず、
海外での上映も希望する次第。
日本については、ライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)と同じネットワークにのせられないなら、
NHKあたりに権利を買い取っていただき、TV上映するなり、
一人でも多くの方に見ていただかなくてはならない!それくらいの佳作です。

吉報!! 日本での上映が決定している旨の情報を頂きました。コメント欄をご覧ください。


** これ以降、激しく映画の内容に言及いたします。読み進められる方は、その点、ご了承ください。 **

映画はフィラデルフィアにあるAVA(アカデミー・オブ・ボーカル・アーツ)という、
全米髄一の音楽学校で、セミファイナルの準備に燃える、若干22歳のテノール、
マイケル・ファビアーノの姿で始まります。
この最初のたった数分で、声楽の先生とのやり取りと彼へのインタビューから、
彼が、猛烈に野心的かつ努力家だけれども、いや、それゆえというべきか、
少し”難しい”部分ももった人間であることがわかり、
このあたりは監督と編集者の腕が冴え渡っています。
アメリカでは、”リアリティー・ショー”というジャンルがいまだテレビでも人気です。
これは、極めて簡単にいうと、筋書きなどがない状態に出演者を置いて、
現実世界での彼らの反応や行動を映像におさめる番組形態ですが、
そういう意味でいうと、この映画はまさにリアリティー・ショーなわけで、
そして、リアリティー・ショーを盛り上げるのに欠かせないと考えられているのは、
性格がきわめて悪かったり、ネガティブな意味で強烈な性格であったり、
物事の波をやたら荒立てる、などのキャラクターを備えた、”クセモノ”キャラ。
この映画で、まさにその役を与えられているのがこのファビアーノといえるでしょう。
ただし、フロムケの鮮やかなのは、彼を全くの憎むべき人物としては描いておらず、
彼の行動に、どこか微笑ましいところ、また、我々観客にも理解できなくはない部分もあることを、
きちんと描いているところです。
もちろん、それには彼にきちんとそれなりの実力がある、という事実がベースにあることも見逃せませんが。

さて、そんなファビアーノを含む11人がセミファイナルで勝ち残ります。
彼らを前に、メトの観客の平均年齢が60歳代と極めて高いことを嘆き、
オペラをもっと若者に近づけるためには、君たちが頑張らねばならない!と叱咤激励するゲルプ支配人。
高齢者の方にはちょっぴり失礼ともとれる発言も混じっていて、
今日のプレビューも60歳あたりの人が多そうだけど、そんなこと口走って、
しかも映像にまで納められて、大丈夫、、?と心配になったのは私だけではあるまい。

さて、この時点から、本選まではたったの一週間。
この一週間のあいだに、彼らには、メトのボイス・トレーナーやブレス・テクニシャンによる歌唱のアドヴァイスや、
本選で歌うアリアの選出に関するアドヴァイスに始まり、
マルコ・アルミリアート(メトの公演にも何度も登場している指揮者)との、
ピアノ伴奏、そしてオケとのリハーサル、などが行われます。

特に、ブレス・テクニシャンによる指導のシーンは圧巻。
『リゴレット』から”慕わしき名は"を歌うキーラ・ダフィは、背も小さく、
しかも、一般の基準で言っても痩せている方。
(デッセイのような体型を思い出していただければよいか。)
一生懸命声を振り絞り、”十分にブレスできてますか?”と先生に尋ねる彼女に、
”十分すぎるわね。”と言って、手を体の前に持ち上げて、
ブレスのイメージを作りながら、先生が一緒に歌わせると、
一瞬にして、それまでのいっぱいいっぱいな感じのする発声から、
まろやかでより自然な美しい歌声を伴った歌唱にみるみる変わっていく様子は、
まるで魔法のようで、本人も他の参加者たちもびっくり。
正しい指導というものがどれほど歌手にとって大切か、ということがわかります。
オーディションそのものもさることながら、この一週間、メトのスタッフから受ける
アドヴァイスやレッスンやリハーサルこそ、
彼らにとってはかけがえのない経験になっているのでは?と思います。
そして、一週間を通して、メトのスタッフの側にも、彼らへの愛情と思い入れが
育っていく様子もわかります。

ライアン・スミスはセミファイナリストの中で唯一の黒人のテノールですが、
ナショナル・カウンシルに参加するまでは、自分にどれだけの実力があるのか、
よくわからない状態だったといいます。
しかし、レッスンを受けるうち、どんどんドラマティックに表現できる能力をしめしはじめ、
スタッフからも感嘆の声が出るまでに。
これらの経験が、”自分がこの世界でやっていける”という強い自信につながった、
と、彼はインタビューで語っています。

さて、いよいよマルコ・アルミリアートの指揮で、ピアノ伴奏での練習が始まります。
マルコがこれまた指揮台にいるときのニコニコ顔どおり、とっても”いい人”してるのです!
細かに参加者たちの意見やリクエストを聞き、それに合わせようとするマルコ。
例えば、『ノルマ』から”清き女神”を歌うアンジェラ・ミードから、
歌合せ後に、”もうほんの少しだけ、テンポをゆっくりにしてもらえるでしょうか?”というリクエストが。
そして、本選からの映像では、きっちりと彼女のリクエストどおりに、テンポがゆっくりになっていました。
彼女のこの『ノルマ』のアリアは、まだこの映画の撮影当時、
本格的なキャリアがスタートしていなかったとは思えないほどに、完成度が高く、
このアリアに限って言えば、今主要歌劇場で舞台をふんでいる人でも、
ここまで歌える人は少ないのではないか?と思えるほどです。
彼女はやや体重があるのですが、インタビューの中で、
”今のオペラ界には、体重のある人間に問題を感じる人がいるでしょ?
(歌だけでなく、見た目など全てのファクターを含めた)パッケージが大事だと言って。
でも、私から言わせてもらえれば、それはどうなんでしょうね?
歌えない人が舞台に立つというのは、、。”と語っていましたが、
その言葉には悔しさがにじみでていました。
彼女の場合、この言葉が嫌味にならないのは、歌と声が本当に素晴らしいから。
『ノルマ』にはなぜだか特別な思い入れがある、と言い、その言葉を裏付ける実力の持ち主です。

さて、特別な思い入れ、といえば、この映画の中でも、
最もプレビューの観客に愛された登場人物の一人、アレック・シュレーダーを忘れてはなりません。



上の写真でも垣間見れるでしょうか?ちょっぴりアシュトン・クッチャーと
昔のレオナルド・ディカプリオを足して二で割ったような甘いルックスで、
かつ、一本頭のどこかのネジが緩んでいるのかもしれない、、と心配させるほどに
ゆるーいキャラクターがなんともいい味を出しています。
その彼が、マルコを前に、いきなり、”本選では、(『連隊の娘』の)メザミを歌いたい”と言い出すのです。
それも、今まで一度もオーディションやコンクールなどで歌ったことがなく、
ほとんどきちんとした練習もしてこなかったのに!たった一週間しか時間がないのに!
その場で固まるヴォイス・トレーナーとマルコ。
”なんでかな?このアリアを聴いたときから、絶対にこれをいつか歌ってみたい、と思った。”
そんな賭けは危険すぎる、、とトレーナーやマルコが匂わせても、
”絶対に歌いたい。”と異様な執念を見せる彼。
結局、”もちろん、君が歌いたいもの、何でも歌っていいんだけどね。”と折れるマルコたち、、。

後に挿入されるインタビューでは、
”9個のハイC全部がうまく決まるなんて思ってないよ。7~8個決まれば、やった!って感じかなあ。
特に最後のハイCさえ上手くいけば、最初の方にあったあまり上手く行かなかったハイCは
オーディエンスも忘れてくれるんじゃないかな。。。だといいな。”と、
普通なら、ふざけるな!!とオペラヘッドに袋叩きに合いそうなコメントなのですが、
彼の個性と、あまりに無邪気な語りぶりもあって、全く憎めなく、むしろ笑いを誘う始末。
ものすごくひどい歌が飛び出すのでは?と観ているこちらもどきどきなのですが、
マルコとピアノで音合わせをするシーンでは、
”公の場で歌ったことがない”と本人が宣言するだけに、
リズムはうやむやなところがあるし、ディクションもかなり悪い。
しかし、声そのものは決して悪くなく、伸びから言って、もしかしたらハイC,
きちんと出るかも、、、という予感が。
しかし、ここは編集の妙で、まだ彼のハイCは聞かせてくれないのです。

彼を魅力的に見せているのは、ファビアーノのように、野心的で、どうしたらファイナリストになれるか、
ということに固執しているタイプとは、全く違う次元でこのナショナル・カウンシルに
取り組んでいるところ。
自分の昔からの夢であるメザミを観客の前で歌う、という夢を、こんな大きな舞台で
歌うという賭けに出るなんて、クレージーだけど、すごい度胸じゃないですか!
そう、彼が嫌味に見えないのは、言っていることは滅茶苦茶だけれど、
実はその奥には、メザミのような高難度のアリアを、ほとんど準備期間なしに、
メトのオケをバックに、マルコの指揮で、メトで、メトの常連たちを前に歌う、という、
普通の歌手を目指す人間なら誰でも怖くなって尻込みしてしまうような果敢なチャレンジに、
何の恐れもなく飛び込んで行っている、という事実があるからなのです。

やがて、初めてのメト・オケとのリハーサル。場所はメトのリハーサル室。
オケを前にすると、みんな負けじ、と、大声を張り上げてしまいがちになる、ということで、
スタッフから、今日大事なのはマルコとの調整なので、
声は張り上げなくてもいいですよ、という注意が。

いよいよ、ネジの吹っ飛んだ美青年、アレックの番。
メザミのハイCを次々と決めて行く彼に、他の参加者は眉毛を吊り上げて驚く。
最後のハイCが少し潰れてますが、これだけ歌えたら、決しておかしな思い付きでは
済ませない位置に彼はつけてきました。
多分、他の参加者もそれは感じているはずです。
悔しそうに、しかし真剣にそれを見つめる、クセモノキャラの男、ファビアーノ。
リハーサルで、彼自身なかなかの歌を聴かせていたファビアーノですが、
リハーサル後のインタビューで、
”個人的にはハイCがそんなに特別なものとは思えない。
いいテノールにハイCが必要かといえば、そうとは限っていない。”
と、確かにそれはそうなのだが、負け惜しみとも、また、なんとかアレックの
評価を引き摺り下ろそうという姑息な手にも見えてしまう言葉を吐くという、
クセモノキャラとしての仕事をきっちりこなしてくれてます。
そういえば、”こういったオーディションでは、必ずポリティックスがつきもの”と、
これまた爆弾発言をかましてましたっけ。
常に一言多い、というクセモノキャラの典型パターンを行ってます。

とうとう本選当日。午前中に実際にオペラハウスで、オケとともにランスルーが行われます。
初めて、メトの舞台で歌う参加者たちは緊張の面持ち。
このような大きなオペラハウスで、オケと一緒に歌った経験がない参加者も少なくなく、
”オケの演奏が、マエストロの指揮棒のタイミングと合ってない”
(そんなわけない、、オケのメンバー全員がそのタイミングで演奏しているのだから!)、
”ピアノ伴奏と違って、自分の声が全く聴こえない。”とパニックする参加者も。
オペラハウス独特の音の反響の仕方に戸惑うばかり、なのでした。
”マエストロにあわせようとつとめた方がいいんでしょうか?”と泣きが入っている参加者に、
”マルコとオケがあなたに合わせる方が、あなたが彼らに合わせるよりずっと容易なのよ。
彼らはプロよ。信じなさい。”と、勇気付けるスタッフ。
彼らの最後のリハーサル後のパニックぶりに、実際にメトの舞台に立って歌う、
ということがどれほど大きなプレッシャーであるか、ということが伝わってきます。
組合の規定が厳しいオケは一時間半ごとに休憩をとらなければいけない、ということで、
クセモノ男ファビアーノがアリアを歌っている真っ最中であるにもかかわらず、
いきなりオケのマネージャーが飛び出して、顔色一つかえず、”はい、オケ、休憩です。”
の一言に、ファビアーノを舞台に放置して、わらわらと立ち上がり始めるオケのメンバー達。
”まじかよ?アリア途中だぞ!!”という表情で立ちすくむファビアーノがキュートです。
世の中には、一生懸命と野心だけでは動かないこともあるのです、ファビアーノ君!!

いよいよ本選。メトの常連たちの温かい拍手の中、スタート。
セミファイナルやレッスンではなかなかの歌を聞かせていたのに、
プレッシャーに潰れて実力が出せない参加者もいました。

その中で、黒人のテノール、ライアン・スミスは、まるで一世一代の歌、というような
気合の入ったドラマティックな歌唱を披露。
あまりの会心の出来に、舞台袖からじっと見守っていたボイス・トレーナーが、
感極まって舞台裏で彼に抱きつく場面も。
このたった一週間とはいえ、自分が育てた歌手なのだ、という自負と愛情が、
私達をもほろりとさせます。
それにしても、こんな才能が、少し前までは歌をやめようか、とすら思っていたとは、、。
(彼はその後、シカゴ・リリックなどで歌っているようです。)

”ここに至るまでの準備も大変だったけど、この舞台で、プレッシャーをハンドルし、
心理的なコントロールをきちんとする、ということはそれに負けず大変。
だって、一瞬でもフォーカスを失ったらそれでおしまいなんですもの。”
と語っていた、アンバー・L・ワグナーは、『タンホイザー』からの歌を。
ワーグナーものを歌えて、ボリュームと美しさを兼ね備えた声を持っているので、
将来が大いに楽しみです。

ミードの『ノルマ』は、本選でも素晴らしい出来。
こんなにすごい歌を聞かせているのに、審査員のディスカッションのシーンでは、
”あの見た目(もうちょっと言い方は婉曲でしたが)に、このレパートリーで、
歌う場があるかどうか、、”とのたまった男性審査員がいて、
まさに、彼女自身が悔しさを噴出させていたタイプの意見が出たのは、
いかにも皮肉です。
しかし、このような場で、そんな意見を吐く審査員がいること自体、私にはかなり驚きでした。
ナショナル・カウンシルこそは、見た目にだまされない、真に優れた歌手を発掘してほしいのに。
(たまたま両方が備わっている場合は問題ありませんが、まずは歌ありき、でしょう。)
しかし、22歳にも関わらず、頭髪が薄く、背も決して高くないファビアーノのような
タイプも、実はキャリア的には厳しいのかも知れず、
太目の女性だけではなく、同じ問題は男性にだって存在するのかもしれません。
(ちなみに、最近目にしたファビアーノの写真では、明らかに髪が増えていました。
野心的な彼はさすがに、きちんと打てる手は打っているようです。)
そして、これも参考までですが、ミードは2007年シーズン、
ソンドラ・ラドヴァノフスキーの代役として、
エルヴィーラ役で『エルナーニ』の舞台でメト・デビューを果たし、評判を博しました。

本選の審査員が意外と数が少ないのも驚きだったのですが、メトのスタッフ数名と、
サンフランシスコ・オペラやヒューストン・オペラからのスタッフも一名ずつ入っていました。
しかし、どの人も、オペラヘッドの常で、かなり頑固。
しかも、たいてい正反対の意見を言い出す人がいて、全然意見がまとまらない。
これで人数が多いと、しっちゃかめっちゃかになってしまうので、これで丁度いいのかもしれません。

一方、”今日は朝起きたときからすっごく気分がいいよ。”とまたしてもいい感じで
ネジのゆるみぶりを発揮しているシュレーダー。
本番前でかなりナーバスになっているみんなをよそに、むしゃむしゃりんごを
丸かじりしている姿もすごいです。
本番では、舞台上のぎこちない動きといい、相変わらずリズムが微妙な最初のフレーズといい、
ひやひやしますが、なんと9個全部ハイCを決めて本人も大興奮。
そして、なんだろう、これは?
歌の上手い参加者は他にもたくさんいますが、彼のどうしてもこの歌を歌いたい!
という熱狂がオーディエンスに伝染するのか、
彼の歌への大らかなスタンスにオーディエンスが反応するのか、、。
俗にイット・ファクターと呼ばれるものが彼にはあるのです。
観客を引き付ける歌以外の”何か(イット)”が。
そう、歌が上手ければいい、という簡単なものでも、オペラはない。
だからこそ、こういった場で勝者を選ぶということは大変な作業です。
興奮状態で控え室に戻ったシュレーダーに、”よかったよ”と声をかけるファビアーノ。
それはポリティックスでも社交辞令でもなく、心から出た言葉のように私には聴こえました。
何気に、ファビアーノも、いいところあるじゃない、、。
しかし、本当に心を掴む歌というのはそういうものかもしれません。
何もかも忘れて、つい”すごい”、”よかった”という言葉を人から引き出てしまうような歌。

この映画を観て、さらにメトを愛する理由が増えたと思いました。
愛情に溢れたスタッフに、歌手たちのいろいろな歌への思いが交錯するのを
ずっと見つめ続けてきた場としてのオペラハウス。

このすべてを巧みにとらえているのが、この映画の素晴らしさの一番の理由かもしれません。

(最初の写真は2007年ナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズの受賞者たち。
左からライアン・スミス、アレック・シュレーダー、アンバー・L・ワグナー、
アンジェラ・ミード、マイケル・ファビアーノ、ジェイミー・バートン。)


"The Audition"
Directed by Susan Froemke
Starring 2007 National Grand Council Finalists

Jamie Barton, mezzo-soprano
Michael Fabiano, tenor
Angela Meade, soprano
Alek Shrader, tenor
Ryan Smith, tenor
Amber L. Wagner
Kiera Duffy, soprano
Dísella Làrusdóttir, soprano
Ryan McKinny, baritone
Nicholas Pallesen, baritone
Matthew Plenk, tenor

Previewed at Kaufmann Theater, American Museum of Natural History

*** 映画 The Audition ~メトロポリタン歌劇場への扉 Movie The Audition ***

家で聴くオペラ (8) 夏休み鑑賞会 『ファウスト』

2008-09-14 | 家で聴くオペラ
さらに鑑賞会は続きます。
『蝶々夫人』『椿姫』と来て、次はどの映像を見ようか、
フローレスがドン・ラミロを歌うスカラ座の『ラ・チェネレントラ』も、
エヴァ・メイ&ミケーレ・ペルトゥージのコンビのフェニーチェ歌劇場の『タイス』も、
メト2008-9年シーズンのレパートリーにも含まれているので超必見だが、、。

しかし、それらを除くと、残ってしまうロイヤル・オペラ(以下ROH)の『ファウスト』。
私が今ひとつフランスものが得意でないという事実と、
主役の中に、これまた私の全く得意でないアラーニャとゲオルギューが含まれているという事実により、
今これを見ておかなければ、鑑賞を先延ばしにし続け、メトのシーズンが始まったなら、
そのどさくさをいいことに一度も手をつけることがなく終わってしまうのではないか、、、、
といかにもありそうなシナリオが頭に浮かんだ。そんなことではいかん。

というわけで、『タイス』や『チェネレントラ』はメト・シーズン中のレポートで
予習教材として触れることとし、
今日は、このROHの『ファウスト』を愛犬たちと鑑賞させていただきます。

おそらく2004年のものではないかと思われるこのコヴェント・ガーデンでの公演は、
ゲオルギュー&アラーニャ夫妻に、ブリン・ターフェルのメフィストフェレス、
サイモン・キーンリサイドのヴァランタンという、なかなか豪華な顔ぶれです。

で、結論を一言で言うなら、私はこの映像、大いに楽しませて頂きました。
いくつかの有名アリアを除けば、もともと『ファウスト』という作品にあまり興味がなく、
メトで生で観てもいつもやや退屈してしまう作品の一つであるのですが、
驚くべきことに、このプロダクションでは、最後まで一度も退屈せずに見通してしまいました。
それは、今まで観てきた『蝶々夫人』や『椿姫』と違って、
このプロダクションを担当したマクヴィカーが、決して物語の骨格を逸脱していないところに
勝因があると思います。
それなりに、賛否両論となるであろうシーンもあるのですが、そこの部分をきっちりと押さえているので、
全体として散漫にならず、観客の好みの問題を抜きにすれば、きちんと見せる演出に仕上がっています。

私が見せていただいたものは、イギリスでテレビ放送されたものを録画したものと思われるのですが、
その解説者の話によると、このプロダクションでは、
ファウストを、このオペラの作者であるグノーと重ね合わせたそうで、
確かに、冒頭、老人として現れるファウストが楽譜を繰っている場面があります。
しかし、この『ファウスト』の物語を執筆したのは、グノーではなく、ゲーテなのでは、、?
などと深く考えてはいけません。

第一幕

さて、アラーニャの歌の第一印象を申しますと、この公演では高音が思いのほか彼にしては
しっかり出ていますが、相変わらず低音に、妙な、”うりうり~”とでも表記したくなる
独特の響きがあるのが、私はどうも苦手です。メトの『アイーダ』でも低音がそうでした。

ただ、この役を得意としていたクラウスの格調の高い歌唱と比べるのが野暮ってものであり、
こういう歌唱スタイルなんだ、という姿勢で聴くと、この歌唱もそう悪くはないです。
クラウスを高級料亭とすれば、アラーニャは庶民的なラーメン屋の味。
(ああ、こんなこと言って、またファンに刺される~!)
でも、ものすごくおいしいラーメンだってありますから、何もラーメン屋が悪いわけではなし。
ただ、高級料亭で出されるものを期待していくのはおかど違い、という、それだけです。
また、変身前の老人ファウストの役作りがなかなかはまっていてとても面白い。
ああ、アラーニャが老けたらきっとこんな風なルックスになるんだわ!と思わせるヘア&メイクに
(ROHのヘア・メイクさん、グッドジョブ!)
本物の老人のように小刻みに震えているアラーニャ。めちゃくちゃリアルなんですけど。
そして、若者に変身した途端、側転!!!
ちょっと!アラーニャ、あなた側転なんて出来るの?!ジャニーズみたいじゃないの!

一方のメフィストフェレスを演じるターフェルは、またしても、
メトの『フィガロの結婚』でのフィガロ役に共通する、まるでジャイアンのような、
暴れん坊将軍的アプローチで、大暴れしてます。
スマートで不気味な悪魔とは違う、かなり粗暴な感じのメフィストフェレスです。
こうして映像でじっくり聴いてみると、彼は高音は朗々としていて魅力的ですが、
少し低音が弱いというか、しっかりと音が出ていないときもあります。
しかし、歌いまわしとか、違ったカラーの声の使い分け、といった技術は巧みだと思いました。

オケについてですが、盛り上がる大事な部分で腰がくだけたようになるのは何なのでしょう?
パッパーノの指揮のせい?
そして、合唱は声質自体は若々しくて綺麗なのですが、練習不足なのか、
リズムに乗り損ねたり、アンサンブルがばらばらな個所も。
それから、男声テノール・パートの高音。これはちょっとひどい。緊急に何とかいたしましょう。

第ニ幕

この幕での最高の魅力は、キーンリサイド演じるのヴァランタンの
"父祖の代から生まれついたこの地を去る前に Avant de quitter ces lieux "。
この人は声を発した時点で、まわりの空気が変わるような独特なエレガントな声質をしています。
このヴァランタン役に彼のようなしっかりした歌手が入ると俄然舞台がしまることを実感。
ただ、彼の声は本当に繊細というか、少しでもディストレスな音が入ると魅力が半減する。
この公演でも、かすかに声に雑音が混じるように聞こえた個所もあって、
綺麗に声が出ている時は素晴らしいので、それが全幕に渡るといいな、と思うのですが、
前述の『フィガロの結婚』で伯爵を歌ったときも、やはりところどころで、
やや声に雑音が入る印象を持ちました。

さて、ファウストが初めてマルグリートの姿を見て恋に落ちるワルツのシーンですが、
ここは賛否両論があるであろう場面の一つ。
街の人々の踊り、という典型的なパターンとは違い、なぜだか、
舞台はCabaret L'Enfer (キャバレー 地獄)という名のお店に大変身。
メフィストフェレスの息がかかったキャバレーらしい。
アラーニャとターフェルが、それまでの衣装から瞬時にしてタキシードに着替えて
現れるという、早変わりシーンもあります。
このシーンはパリのムーラン・ルージュ、もしくはミュージカル『キャバレー』ばりに、
ダンサーの踊りが炸裂。
こんな店に純真な娘のはずであるマルグリートが現れるのはおかしいのでは、、と、
一瞬疑問が頭をよぎりましたが、心配なく!

なぜなら、現れたゲオルギューは、ブロンドの鬘をかぶり、
純真そうな娘というよりは、どこか蓮っ葉な小娘のよう、、。
これなら、キャバレーに出入りしていても、何らおかしくはありません。




いや、むしろ、このキャバレーの名前が示唆している通り、
このマルグリートとの出会いすら、メフィストフェレスが仕組んだものであることがよくわかる。
オーソドックスな演出では、メフィストフェレスが起したことは、
ファウストを若返らせることだけで、マルグリートとの出会いはその枠の外であるような
印象を受けることが多いですが、
むしろ、こちらの方が、すでにメフィストフェレスの手にファウストが落ちまくっていることを
示唆していて面白いし、怖い。

幕の後、オケのメンバーが鼻毛を抜いている姿が大写しに。
カメラが入っている日くらい、気を抜かずに行きましょうよ、、お願いします。


第三幕

歌の面では、有名なアリアがてんこ盛りで一番聴き所の多い個所。
シーベルが歌う 通称”花の歌”("Faites-lui mes aveux")、
この役は、同じグノーの作品である『ロミオとジュリエット』のステファーノ役と似た
メゾ・ソプラノが歌う若い男の子の役。
こういった役にコッシュの顔はぴったりですが、少し体の動かし方がオーバーアクティング過ぎます。
やや発声が通り一遍というか、もう少し微妙な歌いまわしのひだのようなものが欲しい気がしますが、
二発連続で見事に繊細にひっぱって見せた高音は大変美しかったです。

そして、このオペラでも最も有名なアリアと言っていいであろう、
ファウストの”この清らかな住まい Salut! demeure chaste et pure ”。
すでに言ったように、全然端正な歌ではありません。くれぐれもクラウスと比べないように。
それでも親しみやすいSalutというか、これはこれで一つのこのアリアのあり方なのかもしれません。
端正でなくとも、強引に観客を納得させてしまえてるという点からも、
このあたりの作品がアラーニャには最も合ったレパートリーなのではないかな、という気がします。

その後に続く、ゲオルギューが歌うマルグリートの”トゥーレの王の歌”と”宝石の歌”。
前者は音程が少し不安定に感じられた部分もあったし、
双方ともディクションでやや問題がありますが、それでも後者は、
ゲオルギューの持ち味に合っている気がしますし、声質もこの役には悪くないです。
『ラ・ボエーム』のときは、どうしましょう!とこちらが思うくらいのひどい演技でしたが、
そのミミ役に比べると、こちらの方がずっと演技と歌がかみ合っていて自然(特にこの幕)ですし、
ファウストとの二重唱(”Il se fait tard, adieu")での彼女の歌唱はかなり良く、
この幕の終わりまで、なかなか見ごたえ、聴きごたえあり、です。

第四幕

ファウストの子供を身ごもったマルグリートに、良心の呵責を感じているらしいファウスト。
ファウストがその呵責を麻薬で紛らわせようとする場面もありますが、これも賛否両論かもしれません。



しかし、この幕はなんといっても、キーンリサイドの健闘が光ります。
まず三重唱での歌唱の正確なこと!
彼は、昨年のタッカー・ガラのレポでも書いたとおり、重唱でものすごく上手さが光る歌手です。
なので、相手がそれに答えられる上手い歌手だと、本当に素晴らしいものが聴けるのですが、
アラーニャは当然のことながら、好き放題に歌い散らしているし、
ターフェルもキーンリサイドのレベルではない。
よく聴いていると、オケとビートが完璧に合っているのは、この3人の中で、
唯一キーンリサイドのみであることがわかります。

無念の死を遂げるシーンでの渾身の演技も素晴らしい。
その後、兄からの罵倒と突然の死に、ショックのあまりにプッツンして、
高笑いを始めるマルグリート=ゲオルギューの姿も迫力満点です。

第五幕

ヴァルプルギスの夜のシーン。
修道僧のような黒装束の、フードから除く目玉が怖いターフェル。
そして、突然その黒装束を脱ぎ捨てたその下には、黒いきんぴかのミニドレスを身につけていた!!!

ロッキー・ホラー・ショーもびっくりのこの強烈なブリンの女装姿に
私はソファから転げ落ちるかと思いました。一緒に観ていたうちのわん達もびっくり!!です。



上の写真は映画『ロッキー・ホラー・ショー』のもので、『ファウスト』ではありませんが、
このプロダクションのヴァルプルギスの夜の描写については、ロッキー・ホラー・~が
インスピレーションのもとになっているのではないか?というのが私の推測です。

専属の優れたバレエ団を持たないメトでは、毎回カットされてしまうバレエのシーンも、
さすが世界でも指折りのバレエ団を要するROH。
しっかりとバレエのシーンも入っています。鑑賞後に読んだものですが、
ネット上では、『ジゼル』の振り付けから引用している、と指摘している人がいました。
真偽のほどはわかりませんが、もう一度、機会があるときに気をつけてみてみます。
確かに、マルグリートの身の上は、物語の筋的に『ジゼル』と重なる部分がなくはないので、
そうであっても不思議ではないと思います。



そして、牢獄の場面で、一生懸命歌うゲオルギューに、またしてもアラーニャの魔の手が!
パーク・コンサートでも同じ事をやらかしていましたが、
アラーニャがゲオルギューに抱きつき、その途端、音程がぶれた。
今後、ゲオルギューが抱きつかれても揺るがない音程を身につけるまで、
この行為は禁止です!!

さて、当の公演自体もなかなか楽しませていただいたのですが、
面白かったのは、三幕の後の休憩に放送された映像。

5人ほどの参加者による(もちろん全員イギリス人と思われる)
パネル・ディスカッションで、テーマは”オペラの未来について”。
オペラの公演を放送する合間に、”なぜオペラの人気は下降しているのか”、
”それをどうやったら食い止められるのか”というようなテーマのディスカッションを放送するのは、
なんだか奇妙な感じがし、メトでは絶対ありえないよねー、と、興味深く拝聴させていただいたのですが、
司会役の男性が、”なぜオペラはつまらないものと思われているのか”という質問に、
何人かの男性の参加者が各々の考えを述べた後、唯一の女性のパネラーである、
おばさまが、
いきなり、”アメリカのせいよ。”と言い出したのにはびっくり。
おばさま曰く、
”アレーナ・ディ・ヴェローナなんかでは、オペラは、アイスクリームなんかを食べながら、
気楽に観るものなのに(注:行ったことがないので、本当かどうかは知りません。)、
アメリカでは(注:この場合、アメリカ=限りなくメトのことである。)、
エリートがしゃちほこばってオペラハウスにあらわれ、隣では旦那がいびきをかいて寝ているのよ。
おかげさまで、オペラはつまらないもの、というイメージが固まってしまったのよ。”

、、、、。
このおばさん、イギリスでしかこれが放送されていないと思って、メトに喧嘩売る気?
おばさんがその気なら、私はこのブログで、メトに通いつめた実体験に基づいて、
釈明させていただきます。

① ”エリート 云々”
それは違うと思う。むしろ、メトに真剣勝負の体であらわれ、
他の客がうるさいと、しーっ!!と言って制したりするのは、
むしろ、そういった彼女がエリートと表現しているであろう金持ちパトロン達とは反対の、
質素な服装に身を包んだオペラヘッドたちです。
しゃちほこばっているのではなく、真剣にオペラを観たいだけ、なのです。

② ”いびきをかいて寝ている。”
いやいや、言わせていただけば、地元のパトロンたちの旦那連よりも、
圧倒的にいびき組に多いのは、アメリカの地方都市や海外からやって来た旅行者達の方々です。
日中、観光で歩き回って疲れて、美しい音楽をきいて、気持ちが良くなって、
くかーっ、、というパターン。
でも、いいではないですか、誰に迷惑をかけているわけでもないですし、、。

③ 観客がつまらなく感じるのは、そんな瑣末な理由ではなくて、
もっと単純に、作品自体や演出、歌唱がつまらないときです。
だから、この三つが揃えば、オペラはつまらなくないし、実際、これが揃った公演に出会えた幸運な人は
オペラに目覚めています。

④ ”おかげさまで、オペラはつまらないもの、というイメージが固まってしまった”
仮におばさんの言っている全ての点が正しいとしても、
世界の人が、アメリカ人がオペラのことをどう思っているか、ということに基づいて
自分のオペラ観を決定するなんて、とても信じられません。
特に、シニカルなイギリス人は、それないでしょ、絶対。
都合の良いときだけ、アメリカの感覚が世界をコントロールしているようなことを言うのは
やめてほしいものです。
退屈して寝ている観客はメトだけでなく、世界中のオペラハウスにいるはずです。

このおばさん、しまいには、なぜROHはグラインドボーンのように面白い公演が組めないのか!
と吠えまくり、
他のパネラーに、音楽祭の期間中に6公演とか限られた数の演目しか組まないグラインドボーンと、
年間通しで何本もの演目を組んでいるROHでは状況が違う!とたしなめられ、
やっと大人しくなった次第です。

他のパネラーの方達の意見で面白かったのは、
コストの大部分をパトロンが持ち、残りをチケットの売り上げと地方自治体からの助成金で
カバーしているアメリカ型の経営と、
80%以上を国や地方自治体からの助成金でカバーし、残りをチケットの売り上げとパトロンからの寄付金で補っているヨーロッパ型の経営の中で、
ROHは、この三つがほとんど均衡している、という点で非常にユニークである、という指摘。
そして、そんなパネラーの方達の中で、HDでのトランスミッションを実現させ、
スカラ座やメトの公演も観たい、とおっしゃっている人がいましたが、
このディスカッションがあったわずか数年後に、スカラ座とメトに関してはそれが実現し、
人気を博している、という点に、この方の先見の明を感じました。
せっかくこんな革新的な意見を持った人が自国にいるのに、
ROHはなぜに、今だHDの上映が実現していないのでしょう?

この『ファウスト』のような公演が観れるならば、必ず映画館に観に出かけます。
早く実現させてください。

Roberto Alagna (Faust)
Bryn Terfel (Mephistopheles)
Angela Gheorghiu (Marguerite)
Simon Keenlyside (Valentin)
Sophie Koch (Siebel)
Conductor: Antonio Pappano
Production: David McVicar
Performed at Royal Opera House Covent Garden in 2004

*** グノー ファウスト Gounod Faust ***

家で聴くオペラ (7) 夏休み鑑賞会 『椿姫』

2008-09-13 | 家で聴くオペラ
夏休み鑑賞会第一弾『蝶々夫人』に続いて手にした映像は『椿姫』。
やっぱり自分が好きなおかずから食べる人間であることを再度確認。
今日鑑賞するのは、2003年のエクサン・プロヴァンス音楽祭からの公演です。

作品が好きなのはもちろんですが、
1)ヴィオレッタを歌うドランシュというソプラノを初めて聴く機会である
2)2007年シーズンのメトの『椿姫』でも歌ったポレンザーニがアルフレードを歌う
3)そして、メト同シーズンの『マクベス』で端正な歌唱を聞かせたルチーチがジェルモンを歌う
という、これら3つの理由も大きい。
というわけで、すっかり注意はキャストに向かっていたので、視聴前までは、
演出には全く気が向いてませんでした。
だって、『椿姫』は普通に演出してくれれば、失敗しようのない傑作ですよ!
それはもう料理でいえば、市販のルーを使って作るカレーと同じ。
こだわってスパイスに凝って作れば、一味も二味もおいしくなるけれど、市販のルーでもまずはおいしい。
音楽が素晴らしいのだから、きちんとそれについていってくれさえすればいいんです!
しかし、この映像を見てびっくり!
今や、そんな願いも叶わないらしい・・。
何でカレーに、マヨネーズやらケチャップやら、わけのわからないものを入れようとするのでしょうか?

まず、この公演では、ヴィオレッタをマリリン・モンローに見立てているらしいことは、
この映像が市販化されたベル・エアという会社から発売されているDVDのジャケット
(冒頭の写真)にもあるとおり。

うーん、、、二人の共通項といえば、時代に振り回されるという境遇にあったことくらいで、
全然タイプが違う人間だと私は思うのですが、、。

衣装のドレスには、ネオン・カラーの蛍光灯が仕込まれたりしていて、
80年代のバンドによるMTVのビデオ・クリップを思い出します。
(ワム!、デュラン・デュラン、、ああ、懐かしい、、。)
80年代回顧趣味はファッションだけかと思えば、こんなオペラの演出の場にまで、、。

しかも、ヴィオレッタを歌うドランシュ、やや歯並びが悪いのか、
特にこの公演のメークのもとでは、ものすごいドラキュラ顔に見えます。
一幕の、ドゥミ・モンド(裏社交界。社交界に属している男性が、愛人などを伴って現れる世界。
愛人とはもちろん、ヴィオレッタのような高級娼婦たちである。)のパーティーのシーンも、
出席者全員、まるでゴス・パーティーのよう、、。
あの、、、一応、このパーティーに現れる男性たちは当時の上流社会の男性たちで、
しかも娼婦とはいえ、同伴する女性にも同格のマナーと会話のセンスが求められているんですが、、。
むしろ、限りなくかように真の社交界と似ていながら、れっきとした線がドゥミ・モンドとの間に
存在している、
このことにこそ、この『椿姫』の悲劇性があるのに、このムスバッハの演出では、
そのあたりがあまりにうやむやです。

ヴィオレッタは幕の最後まで、自分は”道をふみ誤った女(オペラの原題”ラ・トラヴィアータ”は直訳すると、
そういう意味です。)”であり、
決して、ドゥミ・モンドではない表の世界で恋をすることは許されないのだわ、と嘆き、
また、アルフレードの父ジェルモンが表の世界の都合のよい論理によって、
ヴィオレッタとアルフレードの真剣な恋を引き裂く結果になる、
これらのことは、すべてこの表の世界とドゥミ・モンドの間にはっきりと存在している
境界線があってこそ、のはずです。

どうして、このような演出を?と頭をひねらされるのは第二幕も同じ。
父ジェルモンがヴィオレッタにアルフレードのことをあきらめさせようとする場面。
私は我が目を疑いましたです。
説得するうちにヴィオレッタの美貌
(ドランシュのドラキュラちっくなルックスはこの際忘れなければならない。)にくらっと来た
父ジェルモンは、あろうことか、マリリン風ヴィオレッタに色めき立っている風なのです!!!
父ジェルモンをケネディ兄弟扱いするとは、、泣けてきます。

私が一部のヨーロッパの歌劇場でよく上演されている前衛的な演出を受け入れにくく、
まだそれならばメトのような保守的な演出の方が救われると感じる理由は、
前者が、”こんなアイディアがあるんですよ~”という発見を誇示するためだけにに、
越えてはいけない物語の大前提とか骨組みを越え、また、無視してしまう、
そこにあるのだと感じます。


(ルチーチ演じる強面の父ジェルモンとドランシュ演じるドラキュラ系マリリン風ヴィオレッタ)

このシーンは、表世界の論理と娘への愛情で武装した父ジェルモンと、
今や自分の存在のたった一つの理由となっているアルフレードとの愛を何としてでも
守ろうとするヴィオレッタの一騎打ちの場面なはずです。

この構図をはっきりさせるためには、余計なことを一切含めるべきでない。
ジェルモンがヴィオレッタに色心を抱くなんて論外です。
そんな程度の解釈を見せて、観客に”ほう、そういう見方もあったか。”と
思わせたところで、それが、『椿姫』の物語を語るのに、一体何ほどの意味があるというのか?
どんなに奇抜なアイディアでも、きちんと物語に沿っていれば、私は構わないと思っていますが、
これだから、こういった前衛的な演出が、口さがないアメリカ人オペラヘッドに、
”ユーロトラッシュ”(ヨーロッパのごみ屑)などと言われてしまうのです。

また、こういった個別のアイディアのみに演出が頼り切っているのも問題。
ヴィオレッタが跪いて歌う中、車の中から撮影したと思われる、
後ろに走り去る夜中の道路の路面の映像がずっとうしろで流れているのも、
そういった”個別のアイディア”の一例ですが、
鑑賞後、ひたすら道路で泣き崩れていたなあ、ヴィオレッタは、という印象しか残らない。
ウェブには、”轢き逃げされたヴィオレッタ”とこの映像を揶揄しているコメントも見られましたが、無理もありません。

オケはパリ管。
音そのものはチャーミングで、第一幕の前奏曲から幕が開いてすぐあたりまでの短い間は、
この物語の舞台であるパリの軽妙な感じも出ていて、いいのですが、
これは指揮者の佐渡氏の指示なのか、全体を通して非常にプラスチック的な音作り。
演出に合わせた意図的なものであるとするなら、成功はしているとは思いますが、格調の高さは一切のぞめません。

そして、ディテールの話をすれば、合唱が音に入り損ねたり、
ポレンザーニとオケの息が全く合っていないなど、え??と思わされる場面が見られました。
エクサン・プロヴァンスの舞台やオケ・ピットの構造がどのようになっているのか知りませんが、
まるで、舞台から指揮者が見えていないのではないか?と思ったほど。
しかし、オペラの指揮者は、歌い手の歌のリズムや呼吸を感じ取れなければいけないと思う。
そういう意味では佐渡氏、ちょっと微妙です。

演出に驚かされて歌手についてのコメントが最後になってしまいました。

まずアルフレードを歌ったポレンザーニ。
この2003年の映像では、非常に若々しく、理想的なアルフレードです。
たたずまい、声の若々しさ、歌い方も丁寧ですばらしい。
オケと息が合わない個所と、ブレスが少し微妙な個所はありましたが、
全体的で見ると、メインのキャスト中、最も魅力的な歌を聴かせたのは彼でした。
それに比べると、メトで2007年に、ルネ・フレミングのヴィオレッタを相手にアルフレードを歌ったときは、
少しおっさんくさい感じが漂っていて、なんだかとうが立っているような気がしたものです。
たった4、5年でなぜそう老ける?
発声に関しても、ここ最近生で聴いたものとはだいぶ印象が違っていて、
アルフレード役に関しては、一番いい時期は過ぎてしまったかも、、という気もします。

4,5年のうちに何があった?と言えば、ルチーチも負けてません。
2007年シーズンのメトの『マクベス』の、あの夫人に尻に敷かれっぱなしで、
おどおど、ぎくぎくした感じと同一人物とは思えぬ、
眼光鋭いジェルモンで、むしろ、ジェルモンにしてはちょっとキャラクターが強すぎるかも、と思えたほど。
ということは、あのマクベスは演技、、?いよいよ、今シーズンメトで披露する
ルーナ伯爵、リゴレット、そしてジェルモンの三役が楽しみです。
声はこの頃から端正で綺麗。ニ幕でアルフレードと絡む場面はテンションも高く、
この映像で最も見ごたえのあるシーン。
しかし、最後にヴィオレッタに会いに来るシーンもなぜか強面で、
最後まで、かなり怖い親父系のジェルモンなのでした。

男性歌唱陣が頑張っているのに比べると、やや残念だったのがドランシュの歌唱の出来。
声そのものは綺麗だと思うのですが、簡単に言うと、この役に必要なものが備わっていない、
ということに尽きるでしょうか?

彼女はフランスのソプラノで、ヴィオレッタ役よりもむしろ、
ラモーとかグルックといった作品等で評価が高いようなのですが、
このヴィオレッタ役を聴く限り、あるところから上の音域になると、
突然声が痩せてしまうというか、シャローで、絞りだすような発声になってしまうのが致命的。
高音が頭から抜けてこないで、喉の奥でうがいをしているような音になってしまうのも気になります。
また、ディクションのせいもあるかもしれませんが、
発声がイタリア・オペラ、特にこのヴィオレッタ役の一幕で必要とされるベル・カント的な
サウンドではあまりないので、このヴィオレッタ役にはやや違和感があります。
ベル・カント~ヴェルディなどのイタリアものよりは、むしろ、
リヒャルト・シュトラウスとか、モーツァルトの作品に向いた声質なのではないかと思います。

努力型の人ではあるようで、細かいパッセージは決してぼろぼろではないし、
またレチタティーヴォ(アリアや重唱に対し、台詞の代わりともいえる、
朗唱的な部分)の歌い方には
工夫が見られますが、
むしろ、アリアなどのビッグ・シーンで、声質と役とのミスマッチさと、
技量の不足が露呈してしまっています。
まず、この役に必要な基本的な技術を会得するところから始めなければ。
それがないところを補おうとするのか、感情過多な歌唱が多く見られたのも辛かった。
基本的な技術がないところに感情過多な歌を歌っても、それは砂で城を作ろうとするようなものです。

ニ幕の"Amami, Alfredo"、これほど盛り上がらないAmamiも珍しいです。

参考までに、以前当ブログでご紹介した
2007年のメトでルース・アン・スウェンソンの代役をつとめ観客から大喝采を受けたエルモネラ・ヤホ
ライブのAmamiがYou Tubeにあがっているのでご紹介します。
(ただしこの映像はメトのものではありません。どこの歌劇場のものか、等、詳細は不明です。)
まだ荒削りではありますが、きちんと伝わるものがある。
こういう歌を聴きたいものです。

それから三幕のジェルモンからの手紙を読むシーン。ここはこんなに感情を込めず、
枯れた感じで読んでほしい。なんと言っても、もうあきらめの境地に入っているわけですから。

というわけで、ヴィオレッタ役として比較的に安定した評価を得ているゲオルギューが、
もう十年ほどこの役を一線で歌っており、今だ決定的に彼女に続くヴィオレッタ歌いが
出ていない、というあたりに寂しいものを感じます。
ドランシュは残念ながら、そういった次代のヴィオレッタ歌いになるとは思えません。
他の若手に頑張ってもらわなければ!


Mireille Delunsch (Violetta)
Matthew Polenzani (Alfredo)
Zeljko Lucic (Germont)
Damiana Pinti (Flora)
Genevieve Kaemmerien (Annina)
Orchestre de Paris and EuropaChor Akademie
Conductor: Yutaka Sado
Director: Peter Mussbach
Performed at Theatre de l'Archeveche for Aix-en-Provence on July 9, 2003

*** ヴェルディ 椿姫 Verdi La Traviata ***

家で聴くオペラ (6)  夏休み鑑賞会 『蝶々夫人』

2008-09-12 | 家で聴くオペラ
いよいよ15日の週は、ライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)でもちらりと紹介されていた、
ナショナル・カウンシル(映画に収められているものと年度が違うと思われますが、
ナショナル・カウンシルとは何ぞや?ということはこちらで少しご紹介しました。)の様子を収めた
映画『The Audition』のプレビュー、
パヴァロッティを偲んでメトで演奏されるヴェルディ・レクイエム、
(いずれも、レポをあげるつもりでおります。お楽しみに!)
そして、22日の月曜日はいよいよメトの2008-9年シーズンの開始、ということで、
このブログも本格始動モードに入りますが、その前に、夏休みの特別企画として、
何本か、メト以外のオペラハウスによるオペラ公演の映像を視聴する機会がありました。
視聴した場所は我が家。たまには愛犬と戯れつつ、こうしてリラックスしながらオペラを観るのもよいものです。
このブログを通じてお知り合いになった方から、映像を提供頂きました。お礼を申し上げます。

どのオペラハウスのものでも、どんな公演でも、こうして映像にふれることは、
大変興味深く、勉強になるので、どんな感想を持ったとしても、
見て損した!時間を無駄にした!と思うことはありません。
いつもの当ブログのモットー通り、思った通りを書き連ねることになりますが、
その点だけは強調させてください。では第一弾、行きましょう!

何本か頂いた録画映像の中から、やっぱり最初に選んでしまったのが『蝶々夫人』。
今までこのブログで何度も『蝶々夫人』は私の大好きな演目の一つであることを開陳して参りました。
お弁当の中に大好物の食べ物が入っていたら、まずそれに箸が伸びるタイプです。
これは2004年にミラノのアルチンボルディ劇場で、スカラ座のオケと合唱で行われた公演。
浅利慶太の演出、森英恵の衣装、照明や舞台美術にも日本人があたり、指揮はバルトレッティ。

蝶々夫人役を歌うのはニテスクというソプラノで、残念ながら私は一度も生で彼女の歌を聴いたことがないのですが、
この公演を聴く限り、冒頭でやや声の伸びがないというか、締め付けられているような音になっている個所、
また音が下がり気味になっている個所が見られますが、尻上がりによくなっていきます。
登場の場面での最後のオプショナルの高音は出さずじまい、
それ以外の個所でも特に一幕で、高音域で、やや音程を含め安定感を欠く場面がありましたが、
逆に低音域ではメゾのような深い響きがあり、
声の質そのものはこの役には悪くないものを持っていると思います。
少しぽちゃっとした体型ですが、この役はぎすぎすした声で歌われてもきついので、
もしぽちゃっとしていることでふくよかな声が出ているとするなら、それはそれでよい。
むしろ、歴代蝶々さんの中ではルックスも仕草も悪くありません。
一幕15歳、ニ幕目以降18歳であるはずの蝶々さんにしては、どちらも少し、
やや年齢がそれよりも上のような印象を歌唱が与えるのと、
最後の”私の坊や Tu, tu, Piccolo Iddio"では、オケよりも早く音符を畳んでしまっていたり、
少しスタミナ切れしたかな?と思わせるのは残念ですが、全体的には良い歌唱だと思います。

ピンカートンを歌うのは、ロベルト・アロニカ。
彼は生で何度か聴いたことがありますが、いつもことごとく期待を裏切られて来たので、
私の中では、ほとんど”存在しないテノール”化していましたが、
おやおや、この公演ではがんばっているではありませんか!
ほんの少しオケから走ってしまうくせがあるのを除いては。
しかし、あいかわらず、顔が四角い、、。メイクがさらにそれを助長しています。

シャープレスは、アガーケ。同情心ある、情け深いシャープレス、という、
最も多く見られるアプローチの仕方でこの役を歌っていました。

スズキはケシアン。表情が常に深刻でやや鬱陶しい感じがしますが、
深くていい声を持っていて、ニテスクとの声の相性がよいのはプラス。
蝶々夫人とスズキの二重唱の場面では、これは大きなボーナスです。

ゴローがものすごく歳をとっているのもおもしろい。海千山千な感じがよく出てます。

しかし、なんといってもこの公演の素晴らしいのはオケと合唱。
というか、ソリストよりもオケと合唱が主役のような感じすらするほどです。
ハミング・コーラスの合唱のそれは素晴らしいこと!!
そして、シャープレスが蝶々さんに”ピンカートンがこのまま帰って来なかったらどうしますか?”
と尋ねる個所や、大砲の音の後のオケの音は!!!すごい表現力です。
バルトレッティのような職人芸指揮者が今やほとんど不在なのは本当に残念なことです。

というわけで、演奏する側はなかなか頑張っているのですが、私、実はこの公演の足をひっぱっているのは
演出をはじめとする日本人チームではないか、、?と感じました。

もちろん、切り絵を思わせる背景とか、着物などのデザイン、微妙な色合いの照明、
またおそらく、現在、『蝶々夫人』のいろいろなプロダクションに
多用される(メトの2006年プレミアの演出もその一例)ハシリになったのではないかと
思われる黒子の使用、など、日本人スタッフならではの、
美しい場面、面白いアイディアがあるにはあるのですが、同じくらいに問題も多い。

まず、衣装。日本人の諸役はいいとして、このピンカートンの衣装はどうでしょう?!
軍服はJALのパイロットみたいだし、スカイブルーのジャケットに至っては、何と言っていいのやら、、。
私たちが、非日本人のデザインした蝶々さんの着物を見て”何か変”と思うのと同様に、
このピンカートンの衣装も”何か変”。
この演出では、基本的には日本”らしさ”を大事にしようとしているはずなのですが、
それなら、アメリカ”らしさ”も大事にしなくては、アンバランスです。
森英恵といえば、企業や学校の制服のデザインによく登用されていましたが、
何となく、このピンカートンの衣装も、その延長のような、、。
オペラの衣装デザインが、企業のための制服のデザインの延長ではあまりにも悲しい。

次に、これは演出家の演技付けの力量か、歌う歌手の演技力量(の不足)か、判断が難しいところですが、
現在のトレンドと比べると、この公演では、いかにも歌手が直立不動で立って歌っているシーンが多い。
まあ、数年前まではこれでも良かったのかも知れませんが、今や、オペラの公演も
HDに乗ったり、DVD化されたりする時代。
最近の、歌手がひっきりなしに歌って動いて、という舞台に比べると、
のどかというか、時代の流れを感じます。

さて、そんな中でいきなり飛び出すのが、一幕最後のピンカートンの舌なめずり。
あろうことか、蝶々さんを今や自分のものに!と盛り上がっているピンカートンが
愛の二重唱の途中で舌なめずりをするのです!!!!
ここの、このピンカートンをあまりにもの軽薄男に貶めたこの演出には私は大反対です。
この二重唱を聴いて、こんな舌なめずりが頭に浮かぶのか?浅利慶太という人は?

人間の感情の、簡単に白だの、黒だの、と簡単にラベルを貼れない複雑さ。
そのことが描かれているところに、オペラの、いえ、全てのアートフォームの素晴らしさがあるのでは?
もちろん、ピンカートンは、まさに蝶々さんとラブ!と盛り上がっていることは間違いなく、
よって、この二重唱がイタリアもののオペラの中でも一、二を争うエロティックな二重唱、
といわれる由縁なのですが、
エロティックはただの助平と同じではないでしょう。
この二重唱の音楽を聴けば、スケベ心を超えた何かがピンカートンの心の中にあったことははっきりしている。
先立つ場面で、シャープレスに”蝶々さんのことを愛しているのか?”と聞かれ、
”わからない”と答えたピンカートンの心情はそこにあるのです。
”愛している”とは即答しませんが、”もちろん遊びさ”とも即答しない。
その感情こそを、この二重唱では表現してほしいのです。
本当の愛ではないかも知れないけれど、スケベ心とも違う何か(恋でも、情欲でも、
何でもいいですが)があったはずなのです。

それから、この愛の二重唱で、舞台上、黒子がうろうろする、これも私には許せない。
黒子を使うアイディア自体は悪いこととは思いませんが、灯篭を持った黒子を、
この二重唱の途中で登場させるのはなぜなのか。
この二重唱でのピンカートンと蝶々夫人は、もう”二人だけの世界”状態なのに。
まるで、二人が愛し合っている途中の寝室に、他人が土足で入り込むような無粋さを感じるのは私だけではあるまい。
そう、公演で歌手が縁側や庭で歌っているからと言って、騙されてはいけない!
この二重唱は、さっきも言ったとおり、二人が愛し合っている様子を描写しているんです。
もちろん、世界のメジャーな歌劇場で具体的にそれを描出するわけにはいきませんが、
だからなおさらのこと、せめて、二人の世界を邪魔しない、ということだけは徹底してほしい。
つまり、二人以外の人間を舞台にのせない、ということを私は望みます。
しかし、これを実行に移してくれる演出家というのは実はとても少なく、
メトのプロダクションでも、黒子がうろうろしていましたっけ、、。

他にも、
1)二幕の、シャープレスと蝶々さんの会話のシーンで、縁側に座って話せばいいものを、
なぜだかはっぴを着た男が庭に椅子を準備したり、片付けたり。落ち着かない。
2)蝶々さんとスズキの花を撒くシーンでは、黒子が木になっていた。もじもじ君みたいでとても変。
3)蝶々さんがピンカートンを待つシーン。家全体が寝静まっているような印象を与えるのは変。
少なくとも蝶々さんは夜通し起きて彼の到着を待っている、その姿に観客は胸が引き裂かれる思いがするのに、
家がこんなに真っ暗では、まるで蝶々さんも寝てしまったかのようで、
ちっとも感動的でない。

などなど、数々の気になる点がありました。

ただ、その後、オケの演奏をバックに空が白み始める中、
障子に、影絵のように、芸者が踊る姿を映し出したのは、その後の不吉な運命を暗示しつつ、
観客にも退屈させない効果もあって、良いと思いました。

さて、蝶々さんが自害にのぞむため、白装束に変わるシーンは、
それまで着ていた着物から瞬時に変身!という、まるでコマ劇場を思わせる方法。
”名誉を持って生きれぬものは、名誉を持って死ぬべし”と、
蝶々さんが歌うシーンでは、ニテスクの声の表現力は良いのですが、演技力がいま一つ。

自害のシーンでは、扇子で刀を表現、さらにその扇子を広げた時に見える赤色が血を表わす、
という流れになっており、最後には大きな布が地面に広げられるのですが、
この一連の流れは少し凝り過ぎかな、という印象を持ちます。

歌唱陣、オケ、合唱が頑張っているだけに、もう少し演出が、
音楽と物語にそったものとなっていれば、もっともっといい公演になっていたのではないかな、と思わされました。
日本人スタッフが関わっているだけに、特に外人には(観客、オペラハウス関係者ともに)
アンタッチャブルといいますか、マイナス意見を言いにくい演出なのだと思います。
今だスカラ座ではこの演出が使われているようなので、、。
しかし、私にとっては、演出、美術、衣装に日本人が関わって、
全体がそれらしくあればいい、というものではないのだ、ということを確認させられる興味深い公演でした。


Adina Nitescu (Cio-Cio-san)
Roberto Aronica (Pinkerton)
Alexandru Agache (Pinkerton)
Elena Cassian (Suzuki)
Orchestra e Coro del Teatro alla Scala
Conductor: Bruno Bartoletti
Production: Keita Asari
Costume: Hanae Mori
Performed at Teatro degli Arcimboldi di Milano

*** プッチーニ 蝶々夫人 Puccini Madama Butterfly ***

2008年 タッカー・ガラの出演者決定

2008-09-01 | お知らせ・その他
NYエリアで行われるオペラ・ガラのうち、メトロポリタン・オペラで行われるものを除いては、
毎年、クオリティーの高さと豪華さで一ん出ている感のあるタッカー・ガラ。

手堅い、いや、はっきり言ってかなり豪華なソリスト陣に、
メトなどでの指揮経験がある指揮者、
(だからと言って一概に素晴らしい指揮者とは限っていないが)、
そして、伴奏がメト・オケであるというこの三本柱が、
NYで行われる他のオペラ・ガラとは一線を画する一因になっっている。

メト主催のガラではない、ということを強調するためか、
例年、タッカー・ガラのプログラムには、”メトロポリタン・オペラ・オーケストラ”とははっきり記載されず、
”メトロポリタン・オペラ・オーケストラの団員たち”による演奏、という
極めて微妙な表現になっていますが、何を言葉遊びしているんだか。
タッカー・ガラのバックは、全くのメト・オケなのです。

去年はかなり強力なソリスト陣だったので、
今年のラインナップが楽しみと心待ちにしていたところ、
今日、案内状が送られてきましたので、リチャード・タッカー・ファンデーションの
サイトにもアップされることと思いますが、このブログにてご紹介。

まず、指揮者は、去年の熊男、アッシャー・フィッシュから、パトリック・サマーズに交代。
サマーズ、、、どこかで聞いたことがあるような、、。
そう、この指揮者、なんだかいつも影が薄いですが、
ネトレプコらが出演し、DVD化もされた2006-7年シーズンのメトの、『清教徒』で、
指揮をしていた人です。

あまりに影が薄く、他に語ることもないので、ソリストに移りましょう。

 まずは、テノールのピョートル・ベチャーラ。
メトの2008年シーズンでは、『ランメルモールのルチア』のエドガルド役と、
『エフゲニー・オネーギン』のレンスキー役のダブルで登場予定。
今まで一度も生で聴く機会がなかったので、とっても楽しみ。
しかし、彼のサイトを見ると、写真によって随分顔が違って見える。
どれが真実に近いかわからないので、とりあえず、
このウォール街にある会社に転職するために準備された履歴書のような写真を。



 続いて同じくテノールの、ローレンス・ブラウンリー。
メトの新シーズンでは、ガランチャのチェネレントラ(シンデレラ)を相手に、
ドン・ラミロを歌う予定。
2007年の『セヴィリヤの理髪師』のアルマヴィーヴァ伯爵役でのデビューも記憶に新しい若手。
ロッシーニ作品のテノール・ロールをメジャーな歌劇場で歌える黒人テノールというのは、
今まで非常に珍しかったように思うので、ユニークな存在です。
ガラではどんな歌を聴かせてくれるでしょう。


(写真はそのメトでのアルマヴィーヴァ・デビューの際のもの。)

 メゾに移って、ルクサンドラ・ドノーズ。
(案内状には、Dunoseという綴りになっており、ドゥノーズに近いかと思うのですが、
彼女のオフィシャル・サイトはDonoseという綴りになっています。)
ルーマニア出身の彼女は、活躍の場がヨーロッパが中心ということもあって、
メトに登場したこともなく、NYではまだノー・マーク状態。
こういう、メトでまだ聴けない歌手が時に含まれているのも、タッカー・ガラの楽しいところ。
『ファウストの劫罰』のマルグリートなんかがレパートリーに入っているので、
このガラの出来次第では、メトの11月の『ファウスト~』に飛び入り出演してほしい。
他には、『ばらの騎士』とか、『ナクソス島のアリアドネ』といったシュトラウスもの、
そして、ロッシーニもの(『アルジェのイタリア女』、『チェネレントラ』)に、
『ノルマ』のアダルジーザ、しまいには『カルメン』なども歌ってしまうかなりの雑食ぶりを見せています。



 そして、NYで開催されるオペラ・ガラといえば、必ずこの男!の感がある、
マルチェッロ・ジョルダーニ。



こんなにガラに登場して、他のオペラハウスで歌う予定は入っていないのか?とこちらが心配してしまうほどです。
今年は、パヴァロッティ追悼のヴェルディの『レクイエム』の演奏会に始まり、
『ファウストの劫罰』、『蝶々夫人』、125周年記念ガラ、と、
メトだけでもこんなに来るの?というほどの頻繁な登場ぶり。
OONYのガラといい、メトでの本公演といい、NYでは、最近やや不本意な歌唱が続いており、
私の中ではかなり評価が落ち始めているので、そろそろ本領発揮してほしいところ。
(写真は2006年のメトでの『蝶々夫人』ピンカートン役)

 再びメゾに戻って、スーザン・グラハム。



去年のタッカー・ガラにもキャスティングされながら、アッシャー・フィッシュの指揮が気に入らない、
と言って、リハーサル後にドタキャンを食らわせた、という噂のある彼女。
(そして、代わりにヨーロッパからの当日のフライトでカバーに入った、
ディドナートが素晴らしい歌唱を聴かせてくれた。)
なのに、その彼女をまたキャスティングとは、、。
それというのも、得意にしていたシュトラウスものあたりのタイプ・キャスティングから脱皮し、
最近は、グルックの作品など、独自のレパートリーを開拓、
ここNYでは、ほとんどカリスマティックな人気を勝ち取りつつある彼女だからこそ、
なせる技、か、、。
とりあえず、きちんと来て、歌ってください。お願いします。
メトの新シーズンでは、『ドン・ジョヴァンニ』のエルヴィーラ役と、
『ファウストの劫罰』のマルグリート役で登場。

 いよいよ、ソプラノの登場です。まずは、ヘイ・キョン・ホン姉さん!!
まじですか!?



長年、地道にメトを支える中堅ソリストとして頑張ってきたのに、いきなり、
ゲルプ氏に見捨てられてしまった姉さんは、今シーズンどこで何を歌うのか?と
私は心配しておりました。その彼女の歌が久々に聴ける!
彼女のリュー(『トゥーランドット』)は絶品。
去年のタッカー・ガラでは、観客席で鑑賞していたゲルプ氏。
今年も現れたら、”あたしはまだこんなに歌えんのよ!”というド根性を見せていただきたい。
ゲルプ氏との事情も顧みず、彼女をキャスティングしたタッカー・ファンデーションの英断にも拍手!
(写真は、2005年のメトの『フィガロの結婚』で伯爵夫人を演じる姉さん。)

 もしかして、ガラ中、ただ一人のバリトンでは?のジェリコ・ルチーチ。



彼に関しては、昨シーズンの『マクベス』DVD化もされます!)での大活躍ぶりに、
口を極めて誉めそやしましたので、もう何もいいますまい。
地味ですが、実力のある、いいバリトンです。
今年、メトでは、『リゴレット』の表題役、そして、『トロヴァトーレ』のルーナ伯爵、
『椿姫』のジェルモン父という、ビッグ・ロールが控えています。


 今年はややテノールが多い気がするのですが、4人目。
ディミトリ・ピッタス。



ルチーチと同じく、2007-8年シーズンの『マクベス』組出身。
あの公演では、素晴らしいマクダフ役を聞かせたのに、メトの新シーズンでは、
英語版『魔笛』にしか登場する予定がないとはどういうこと!?
若手の中では、おおいに期待しているテノール。
このガラで、観客をぎゃふんと言わせて、2009-10年シーズンに食い込め!
(写真は2007年の、そのメト『マクベス』の公演から。)

 テノールが多いかわりに、ソプラノがたった二人というのはちょっと寂しい。
そのもう一人、が、ソンドラ・ラドヴァノフスキー。



メトでは、ほとんど毎年のように、結構大きく、かつ大事な役をもらっていて、
たたずまいも美しいし、顔が少し長いですが、どちらかというと美人だし、
歌も悪くはない、、、のに、なぜか、ブレークしきれない、という不遇なソプラノ。
何が足りないんだろう、、。
その答えを見つけるべく、このガラでの彼女の歌をしっかり聴いてきたいと思います。
(写真はメト2005年シーズン、ドミンゴのシラノ役に対する、ロクサンヌ役で
『シラノ・ド・ベルジュラック』に出演中の彼女。)

 リストの最後はバス/バス・バリトンの、サミュエル・レイミー。



この写真の真ん中がレイミー。って、扮装が激しすぎて、地の顔がさっぱりわかりません。
でも、最近の彼は、まさにこういった、登場場面は多くないものの、ピリリと作品を締める!という
役でメトに登場し続けています。
写真は、2006年シーズンの『セヴィリヤの理髪師』のドン・バジリオ役ですが、
同シーズンには、『ドン・カルロ』の宗教裁判長、
2007年シーズンの『戦争と平和』のクトゥーゾフ元帥、なんていうのもありました。

ちなみに、メトのプロフィール写真には、こんなのが使われていて、いつの写真?って感じですが、
今も、頭がグレーになっただけで、基本はこの顔です。



今シーズンは、『ドン・ジョヴァンニ』に出演の予定。

というわけで、今年は少し女性陣が弱い気もしますが、逆に男性陣の方は、
なかなか魅力的な顔ぶれになっています。

さて、以上の歌手たちに加え、今年はスペシャル・ゲストとして、
ミュージカル『南太平洋』のケリ・オハラとパウロ・ゾットが登場します。
パウロ・ゾットは2008年のトニー賞の主演男優賞を受賞、
ケリ・オハラも、同賞の主演女優賞にノミネートされ、
下馬評は非常に高かった女優さんです。
(結局、賞は『ジプシー』のパティ・ルポーンが獲得しました。)
ミュージカルに出演中の歌手がこのタッカー・ガラでオペラ歌手に混じって歌う、というのは、
非常に面白い試みだと思います。

ガラは、10/26の日曜日、夜の6時から、エイヴリー・フィッシャー・ホールで行われます。
(冒頭の写真は、『ファウスト』からのリチャード・タッカー。)