Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

IL TROVATORE (Sat Mtn, Sep 29, 2012)

2012-09-29 | メトロポリタン・オペラ
今シーズンのメトのスケジュールをざっと眺めて思いました。
”やられたー。”
それというのも、ただでさえ上演する演目数自体が増えているのに、その上に同演目で3つも4つも違うキャストを組んでいるものがあるので、
これを全部今までと同じような調子で鑑賞していたら、破産に向かって一直線!です。

それに、先シーズン、途中でブログを中断してしまったのも、一つには公演の平均クオリティが目に見えて下がって来ていて、
無理をおしても感想を書きたくなるような公演がない状態が続いているうちに、書く気が失せてしまった、というのがそもそものきっかけでした。
まるで役を歌う準備が全然出来ていない歌手に、練習がてらにメトの舞台に立っているのかと思うような歌を披露され、
正直、これは聴いちゃおれん!と、途中で劇場の外に出たくなるような公演が一つや二つではありませんでした。
例をあげれば、ブラウンリーとマチャイーゼの『連隊の娘』、
カウフマンがキャンセルしたためにウェストブルック夫が入って夫婦共演となった『ワルキューレ』、
ミヒャエルとハンプソンの『マクベス』(この『マクベス』はまじで鳥肌が立つほどひどかった!)、、、ときりがないのですが、
そんな公演に大枚はたいている自分がなんだか馬鹿らしくなって来まして、
これまではどんな歌手も公演も、出来るだけ同じ条件で聞き比べたい、ということで、決して安価ではない座席にお金を注ぎ込んで来ましたが、
今年は自分の好きな歌手が出ている公演とか内容に期待が出来そうな公演のみ、これまで座って来たのと同じレベルの座席のチケットを購入して、
残りはシリウスで聴いて良さそうだったら同等のチケットを買う、
そうでない場合やシーズン初日等の事情で事前に演奏レベルのチェックを行えない公演に関しては、スタンディング・ルームで鑑賞しようと思っています。
スタンディング・ルームは文字通り立見席なので、もはや若くはないこの体には決して楽ではありませんが、
”これはひどすぎる。”と思ったらそのまま帰っても大した出費にはならないし、気が楽です。
以前は駄目な公演もその理由を見届けるべく、公演の最後まで劇場にいる、ということをモットーにしていましたが、
それは駄目と言ってもある一定のレベルはクリアしていたことが多かったからそうしていたのであって、今は状況が違い過ぎます。
私もそんな暇じゃないっての。

『愛の妙薬』でシーズンが開幕して以来一週間、現在メトでは『トゥーランドット』、『カルメン』、『トロヴァトーレ』と合わせた四演目がパラレルで走っていますが、
先日シリウスで聴いた『トゥーランドット』がこれまたオソロしかったですねえ。
グレギーナのトゥーランドットにベルティのカラフ、、、これである程度、恐怖の予想はつくというもので、
唯一の期待はゲルズマーワのリューだったんですが、彼女のリューが期待したほどにはよくなくて、
ピン・ポン・パンの一角、ドウェイン・クロフトが一人気を吐いていたのが素敵でしたが、
ピン・ポン・パン聴くために『トゥーランドット』を鑑賞するってのもちょっと違う気がする、、。
なら、Bキャストになるまで保留する手でいくか、と思ってBキャストのメンバーをチェックしてみたら、
テオリンのトゥーランドット(これは興味あり)の横に、ジョルダーニのカラフ(!!)と書いてあって、
先には一層恐ろしいものが待ってるのね、、と呆然。一体私はどの公演を見たらいいの?って感じです。

さて、『トロヴァトーレ』のレオノーラ役なんですが、これが先ほどお話したカルテット状態のキャスティングの一例で、
カルメン・ジャンナッタジオ、グアンカン・ユー(ということに英語の綴りからするとなるのですが、
チエカさんのサイトにご本人に発音を確認した、という方の話が掲載されていて、
その方によると音的にはグワンチュン・イーに近いそうです。)、
そして、パトリシア・ラセット、アンジェラ・ミードという顔ぶれになっています。
ミードに関しては、当然のことながら、きちんと座れる座席で鑑賞すべくチケットも今から準備してありますが、
Aキャストのジャンナッタジオはこれまで生で聴いたことがないソプラノなので、シリウスでチェックしてから行こうかな、、と思ってました。
ところがドレス・リハーサルの直前に体調を崩したのか、ジャンナッタジオがドレス・リハーサルも初日も両方キャンセルすることになってしまい、
その結果、セカンド・キャストのユーがドレス・リハーサルとシーズン初日の舞台をつとめることになったんですが、
そのドレス・リハーサルを鑑賞したヘッズの中に、”彼女の歌唱は悪くないぞ”という声がちらほらあって、俄然興味がわいてきました。

こんなことを言ったら、”このレイシスト!”と非難されそうですが、
私はこれまであんまり、というか、全然、中国人の歌手というのを評価も信用もしてなくて、
というのも実際最近メトで主役・準主役をはる中国人歌手が段々増えて来ているんですが、
金魚顔のソプラノ、イン・フアンとか、フイ・へシェンヤン、、、
あとはカナダ国籍をとっているみたいですけれど、リピン・ツァンとか、、)、
発声に難ありだし、テクニックも良く言って微妙、悪くすると”なんじゃこりゃー??”というレベルの人もいて
(フイ・へがメトで『アイーダ』を歌ったときの”おお、我が祖国”のあまりに音程が狂っていることには音程酔いするかと思いました。)
一体なんでこんなのがメトにうまうまと紛れ込んでくるわけ?と思うわけですが、
多分、どこぞの国と同様、国内の声楽教育に問題があるんじゃないのかな、と思っていて
この『トロヴァトーレ』がメト・デビューとなるユーという29歳のソプラノもその流れを組む人なんじゃないの?と、
疑心暗鬼でYouTubeにあがっている彼女の歌唱をおさめた映像を拝見してみました。



(奇しくも曲は『トロヴァトーレ』の”穏やかな夜 Tacea la notte placida"。
肝心な高音で音が割れ+飛んでいて、そこから映像と音が分離してしまうのが、ここの高音は実際はどうだったのだろう、、?と実に怪しいですが、、。)

これが思ったよりはきちんとした発声とまともな歌で、これならばオペラハウスで生を聴いてみる価値はある、聴いてみたい、と思いました。
また、彼女がテバルディ国際コンクールに出演した際のインタビュー映像もあがっていたのですが、
そこで見た彼女の物怖じしないキャラクターと、アジア人然としたところがあまりなく、西洋的マナリズムを実に自然に体得している様子に、
YouTubeでの歌は若干肩肘張っている感じがありますが、もしかすると舞台ではこれよりはパッショネートな歌を聴かせてくれる可能性があるかも、、と感じました。
歌唱をおさめた映像ももちろんきっかけではありましたが、そこで一定以上の歌唱レベルが保証されていると感じた後は、
むしろ、こちらのインタビューの時の様子の方が、彼女を生で聴いてみようと決めた、より大きな理由かもしれません。

もはやA(第一)キャストの方がB(第二)キャストより優れているとは全然限ってないんですが、
なのに皮肉にも、Aキャストでデビューをするのと、Bキャストでデビューを飾るのとは大違い、、、
なぜならば、メディアの批評はほぼ100%、シーズン初日、つまりAキャストによる公演について書かれるからです。
(Bキャストでも比較的充実したキャストなら再度取り上げてもらえることもありますが。)
初日の公演でポジティブな評をもらうことは、メト・デビューを飾る歌手にとっては大きなキャリア・ブーストになるわけで、これで燃えなきゃ嘘、
また、燃えてそのプレッシャーに勝って良い結果を出すことで、今後もメトの舞台に立ち続けるにふさわしい歌手、というお墨付きをもらえるわけです。
もちろん、そのプレッシャーに負けてしまうデビュタンテもいるわけで、
最近ですと、『リゴレット』で大コケしてしまったメーリが脳裏に浮かびます。
彼なんか、あのデビューがよっぽどのトラウマだったのか、同じシーズンに歌うはずだった『椿姫』もキャンセルしてしまったし、
今シーズンの『マリア・ストゥアルダ』まで降板してしまいました。(公式の理由はロベルト役をoutgrowしてしまったため。代わりはポレンザーニが歌うそうです。)




立見席のチケットの獲得に関しては以前『アイーダ』で冷や汗を書きましたので、
今日も心して挑んだところ、いとも簡単に電話がつながって、”(立見席の)最前列、お願いしますね。”と念押しすると、はい、大丈夫です、と頼もしいお返事を頂きました。
実際メトに到着してみると、意外にも立見席はそれほど混んでなくて拍子抜け。
ま、考えてみると『アイーダ』のムーアはシーズン一回きりの舞台になる可能性があったので(そして実際そうなった)オペラヘッズがチケット求めて必死になりましたが、
ユーの場合はBキャストの公演でさらに聴く機会がありますからそのあたりの違いかな、と思います。
でも、オーディトリアムのドアが閉まる頃にはアッシャー達が互いに”今日のキャスト、いいんだよね。すごく、、。”と言っていて、
ドアの外側担当の人は残念そうに退出して行きましたが、それ以外のアッシャー達が客席の後ろにたむろって、
なかにはポータブルの椅子を持ち出し、じっくり鑑賞する気満々の人がいるのを見て、すっごく気分が盛り上がってきました。
今日のキャストは別にスター歌手が混じっているわけでは全然ないですから、
彼らは一般的な意味で”良いキャスト”と言っているのではなく、
明らかにドレス・リハーサルの場にいて、その時の印象を元にそう言っているわけで、これはもう期待せずにはおれない、というものです。

オケを率いるのはつい”カリガリ博士”と呼び違えてしまいそうになるダニエーレ・カレガリ。
オケのリハーサルでは”金管をそんなに鳴らさないで!”と何度も叫んでいたらしいので、
もしかしたら全然金管の聞えないエキセントリックな演奏を目指しているのかな、、と興味津々でしたが、前奏の部分、すっごく良かったです。
奏者同士の音のバランス、それからタイミング、すべてがぴったりで、最初のフレーズの残響の残り方の輝かしくて綺麗なことには鳥肌立ちました。
だし、全然金管の音、小さくなんかないです。ちょうどいい。
リハーサルの時、よっぽど大音響でぶちかましていたんでしょうか。
特に第一幕、第二幕でのきびきびとしたテンポのおかげで作品の緊張感が失速せず、客席が舞台と演奏にすごく引きこまれて、
拍手をするところ以外はものすごく静かだったのも印象に残りました。

2010/11年シーズンの記事にも書きました通り、フェランドは歌唱量など役としてはそれほど大きくはないですが、
公演全体のトーンを設定しかねない責任重大な役で、この役が駄目だと公演全体に不安を覚えてしまいます。
私は最近聴いた中では声のカラーが東欧的なサウンドでちょっと個性的ではあるのですが、ツィンバリュクが断トツで良かったので、
またメトに帰って来てくれないかなーと思っているのですが、そう簡単に私を喜ばせてはくれないようで、今日の公演にはモリス・ロビンソンが配されました。
なんだかK1の選手みたいにガタイがでかいうえに顔もいかついので、共演者が間違って足とか踏んでしまったら半殺しにされそうな雰囲気の彼ですが、
ツィンバリュクよりは若干アジリティの点で重めになってしまう部分がありますが、全体的には技術はしっかりしているし、
伯爵家にまつわる話の持つ不気味さをとても良く表現していたと思います。
ただ、彼が”遠き山に日は落ちて~”を歌っている下の音源からもわかる通り、黒人歌手特有の声質(エリック・オーウェンズとかと共通した響きがあります)が好みを分けるかもしれません。
(ハンプソン似の司会の紹介によると、彼はアメリカン・フットボールをやってたんですね。K1体型も納得。)



今日はレーシストついでに告白しますと、実はオペラの男性の低声パート、中でもイタリアものでのそれは、
個人的にあんまり黒人歌手特有の響きは好みでないんです。
でもそれはあくまで私の好みであり、また、それってMadokakipに金髪美女になれ、と言うのと似て
本人の力ではどうしようもないことで、彼の出来る範囲内では、良い歌唱を聴かせていたと思います。
合唱も◎。メトの合唱の男性陣はここ数年で本当に良くなりました。
(女性陣はそれに比べると音色があと一歩!と思うところがあって、これからの精進を期待しているのですが、、。)

そしていよいよイネズとレオノーラの登場。
いよいよ”穏やかな夜 Tacea la notte placida”で聴こえて来たユーの歌声。
いやー、良い声してますよ、彼女は。
YouTubeで想像していたよりも、劇場で聴いた方が凛とした残り香のようなものが響きの中にあって、
非常に良く通る声をしているんですが、客を威圧するような爆音ではなく、
また、発声にエキセントリックなところが全くなくて、すごく自然に無理なく音が出ていて、聴いていて非常に心地良い音色です。
また、レオノーラ役にふさわしい真っ直ぐさ、清らかさと、この作品自体が持つ陰鬱な雰囲気にふさわしいほんの少しの暗さがほどよく声質に混じっていて、
この役に対しての適性もものすごくあります(ただ、もう少し後にこのレパートリーに行っても良かったかな、という気もしていて、
その理由は後にも書きますが、いずれにせよ、生来持っている声質がこの役にとても向いていることは間違いありません。)
発音は横において、音の響きと発声や歌いまわしだけの話をすると、
アジア人でこれだけヴェルディの作品にふさわしい音色とスタイルを出せる人が出て来た、というのはとても喜ばしい発見です。
2008/9年シーズンにマクヴィカーの演出が登場してから、
レオノーラ役ではラドヴァノフスキーとラセットの二人を聴いていますが、
二人とも歌い方がこの作品で求められている、またそれがなければこの作品の良さを十全に表現することはできないスタイルのようなものを満たしていなくて
(ラセットは生で鑑賞した時は残念ながら風邪気味だったんですが、後の公演をシリウスで聴いても、”うーむ。”という感じでした。)、
その上にラドヴァノフスキーは爆音系なので、私にはあまりにエキセントリックに感じられてがっかりしていたんですが、
ユーの登場のおかげで、久しぶりにきちんとしたレオノーラを聴いた気がします。
また彼女はテバルディ国際コンクールでは『アンナ・ボレーナ』の
”あなたたちは泣いているの?~私の生れたあのお城 Piangete voi? ... Al dolce guidami"を披露している位なので、
元々ベル・カンティッシュな歌唱にはそこそこ自信があるし、だからこそ、このレオノーラ役をレパートリーに入れているんでしょうが、
そのベル・カント的スキルという面でも”Tacea la notte"に関してはまずは期待を裏切らない出来だったと言ってよいと思います。
また、彼女のもう一つの意外な、そして決して小さくない良さは、アジア人としては珍しく歌と演技にパッションがあることです。
APだったと思うのですが、この日の公演評の中に彼女の演技がいわゆるオペラ的型通りの枠を超えていなかった、
というような趣旨を書いていたものがありましたが、私は全くそれに同意しません。
マクヴィカーの演出は作品の雰囲気を良く伝えていて、場面転換がスピーディーで作品の緊張感を損なわない、ということで非常に評価が高いのですが、
実は結構スタティックな舞台で、ラセットのような演技力に長けた歌手でも演技に苦労している様子が過去の演奏から伺われました。
というか、この作品って、本当に演技するのが難しい作品だと思うんですよ。
この作品で、歌ではなく、演技のドラマティックさに感激した!というような舞台があれば、教えて頂きたいほどです。
しかし、出来る動作が限られているこの舞台でも、ユーは所作にきちんとしたリズムがあって、演技の勘も決して悪くないことが感じ取れます。
ついでに言うと、彼女はYouTubeではなんとなく、どべーっとしただらしない体型のように見えるんですが、
舞台に立って実際に動いているところを見るとそうでもないし、今回の衣装も良く似合ってました。
ただ、私はオーディトリアムの一番後ろで鑑賞しているので、顔の表情まではさすがに見えません。
最前列で顔の表情までばっちり、、というようなところで見ると、また印象は違うかもしれません。



ルーナ伯爵役のヴァサロは、メトでは『清教徒』や『愛の妙薬』といったベル・カントものにキャスティングされている印象が強く、
そのうえ、特に『愛の妙薬』の方でのはじけっぷりには大笑いさせてもらったので、
今年のオープニング・ナイトの『愛の妙薬』に登場したクヴィエーチェンのかっこつけなベルコーレとは対照的、、、)
なんかすごく面白い人、という刷り込みがあって、”彼がルーナ?!”って感じで、キャラ的にも声質的にも???だったんですが、
彼も思いの外良くて、嬉しいサプライズでした。
再び、ここ最近のマクヴィカー演出のもとでのルーナ役を思い起こすと、ホロストフスキーとルチーチの名前が浮かびます。
ヴァサロの歌はホロストフスキーの歌唱のように洗練されてはいないし、
ルックスについては、私のいる場所からならヴァサロの舞台姿も悪くなかったですが、舞台そばで顔込みで見れば、ホロストフスキーに勝負あり!なのは明らかだし、
またルチーチに比べても、いわゆる”うまさ””完成度”では劣っているかもしれません。
しかし、この三人の中で、ルーナ役として誰か一人を選べ、と言われれば、私はヴァサロを採ると思います。
彼もどうやら1969年組らしく、それだけでもなんとなく応援したくなる、というものなんですが、もちろん理由はそれだけでなく、
彼の声の地の底からじわじわと湧きあがって聴こえてくるような音はまぎれもないイタリア的サウンドで、ホロストフスキーとルチーチの音の広がり方とは全く違う。
私は基本的には”本場主義”なんかじゃ全然ないんですが、ある特定の作品については偏執的な自分の好みがあって、
『トロヴァトーレ』は私のその偏執的な部分に特に訴えかける作品なんだと思います。
で、私は『トロヴァトーレ』に限っては、出来る限り、イタリア的なサウンドが欲しいと思っているんだな、ということを今回、自ら再確認しました。
(別にイタリア人のキャストじゃなきゃだめ、と言っているわけではないところに注意。)
また、ヴェルディ作品を歌う場合のレガートの大事さは誰もが口を揃えるところですが、その点でも彼の歌唱は良い、
なので”君が微笑み~Il balen del suo sorriso”はとっても良かったです。
ほんとルチーチは煙草やってる場合じゃないでっせ。
またそれに続く”運命の時は来た Per me, ora fatare"はオケと合唱が入って来てすごく音が厚くなりますが、
ヴァサロの地の底系の声が、きちんと私のいる劇場の一番後ろにまで届いて、すごくエキサイティングな場面になりました。
ま、一言で言いますと、ヴァサロの歌は偉大なる歌手と呼ぶような完璧さはないですが、
『トロヴァトーレ』という作品を聴くという体験を楽しくするための大事なエレメントは押さえている、と、そういう感じです。
ニ幕の最後で、マンリーコの手下に喉元をかっ切られて、”あああああああああっ!!”と大声をあげる部分のタイミングや迫力とか、
四幕最後の、弟を殺してしまうとは自分はまんまとアズチェーナ(と彼女の母)の復讐に屈したのか?とひざまずいて頭を抱えて
苦悩する様子とか、
彼はベルコーレのようなコメディックな役柄だけでなく、ヴェルディもののシリアスな役柄でも同様に、舞台人としての演技のしっかりしている人だと感じました。



しかし、今日凄かったといえば、何と言ってもザジックでしょう。
彼女が私の大好きなメゾであることは当ブログで周知の事実であるので、またMadokakipがほざいとる、、と狼少年的にご覧になっている方もいらっしゃるかもしれません。
正直、彼女もさすがに齢60だし、最近の公演では若干パワーダウンしているところもあったし、
直近で歌った『トロヴァトーレ』ではペース配分への気の配り方が以前に比べてはっきりと露見するようになっていたり、
声楽的に厳しくなった箇所をかばうようなジェスチャーもあったりして、そのせいで役作りに本来向けられているはずのパワーが消耗されていたりしていて、
(それでも現役のどのメゾもこれほどまでには歌えまい、という内容ではありましたが)
今回はそれがさらに進行したような感じになるかな、と思ってたらとんでもない。
マクヴィカーの演出が登場して以来、この演目がスケジュールに含まれる年は必ずアズチェーナ役を歌っているザジックですが、
この公演での彼女は役への解釈が一段と深まっていて、本当、すごい迫力でした。DVDにもなったHDの公演の比じゃありません。
ああ、今日の公演を収録して欲しかったなあ、、。

声のパワーの凄さと言ったら、なんだか一周り若返ったような、
声帯用のボトックスみたいなものがあったら絶対にそれを使っているに違いない、と勘違いしてしまうほどなんですが、
それが高音域で顕著なところを聴くと、今より若かった頃の彼女はもう少し全音域で統一された音量だったので、
これはこれで彼女が年齢のせいで、音量の微妙なコントロールが難しくなって来ている結果と考えられなくもないのですが、
まあ、このアズチェーナのような役は、これでもいいでしょう。
でも一方で、胸声区の良く響くことは、一体60にもなってこんな音を出せるなんて何者??って感じです。
でも今日の彼女の凄さは、そういう声楽的な部分を越えた面で(もちろん声楽的な実力がそれに貢献しているので、完全に越えているわけではないのですが)、
役へのコミットメントの深さとでもいうのか、そこに集約されると思います。

例えば、”母の復讐をしようとルーナ伯爵の子供を盗んで火の中に放り込んだのはいいが、気がついたらそれは自分の息子だった”とびっくり仰天な打ち明け話をアズチェーナがして、
マンリーコと観客を、”じゃ一体マンリーコは誰なんだ?”と震撼させる”Condotta ell'era in ceppi 重い鎖につながれて”。
2010/11年シーズンのHDの時、彼女は下の映像のように歌っています。
これはこれですごく良い歌唱なんですが、2'18"から4'48"までの部分での彼女の今日の歌唱は
アズチェーナの狂気が一層鬼気迫っていて本当に怖く、また憐れを誘いました。
(この演出が初演されたころ、MetTalksでザジックは見事にこの役をデサイファーしています。)



特に3'36"からの"Ah! il figlio mio, mio figlio avea bruciato! (ああ、私の息子、私の息子を焼き殺してしまった!)”と歌うil figlio mioの繰り返しの部分、
この映像では前を見て普通に歌っていますが、今日の公演では両手を横に広げながら天を仰ぐような姿勢で静止したまま、
まるで雷か何かに打たれるように、”私の息子を、私の息子を”と歌っていて、
あの姿勢ではもはや指揮者は全く彼女に見えていないはずなのに、オケの演奏と彼女の歌唱が完全に一体化していて、
その彼女の天を仰いでいる姿に稲妻が走って落ちているのが見えるような、フランケンシュタインも真っ青の壮絶な場面になっていました。
上の映像では少しマルコ(・アルミリアート)の演奏が慎重なせいか、若干緩い感じがあるんですが、
今日の演奏ではものすごい緊張度を保ってこの部分の彼女の歌唱を支えたカリガリ博士とオケの演奏も讃えたいです。
でも、こういう歌唱を聴くと、このアズチェーナの悲壮な叫び、悲しみ、怒り、そしてそれが混じりあった精神の混乱があってこそ、
この話はドラマティックな悲劇として成立するんだな、と思います。
しばしば、ストーリーがconvoluted(複雑でいまいち意味がよくわかりにくい、といった意味)ということで、
音楽の素晴らしさ以外の部分で貶められることの多い『トロヴァトーレ』ですが、このオペラは確かに筋の面では合理性に欠けているかもしれませんが、
登場人物の行動と感情をきちんとバックアップする歌唱があれば、これはこれで説得力のある舞台になる作品なんだな、というのを感じさせられました。
第三幕でルーナ一味にとっつかまえられる場面で、彼らにしょっぴかれながら、高笑いしている様子も怖かった、、。
これで、自分の命や安全が危険にさらされている事実よりも、復讐の成就にまた一歩近づいたことを感じ、それを喜んでいるアズチェーナの精神の錯乱ぶりが良く表現されています。
あるいは、彼女の母親に精神を乗っ取られているのでは?と思わせる部分もありました。



今日の公演で唯一水を差したのはマンリーコ役のグウィン・ヒューズ・ジョーンズという、
これまでENOなどに登場しているらしい、ウェールズ出身のテノールです。
見た目はほっそりしていて、舞台姿は悪くないのですが、
歌唱技術のないロッシーニ歌いがいきなり『トロヴァトーレ』の舞台に紛れ込んで来たような線の細い声で、ものすごい違和感を覚えました。
そのENOでトゥーランドットのカラフなんかも歌っているみたいなんですが、にわかに信じ難い、、、
彼自身も緊張していたのかもしれませんが、声の支えが全然なくて、今にも砕けそうな声だし、
日本の音大生が乗り移ったかのようなポルタメント嵐!の歌唱で、下品なことこのうえない。
またそのリズム感の欠如していることと言ったら!
4人の主役のうち、3人がしっかりしているだけに、一人だけクラスの違う歌手が入って来た感じで、これは彼自身の無力さもさることながら、
メトのアーティスティック・デパートメントのキャスティングの失敗でしょう。
何を連れて来るんじゃ、、、って感じです。
確かにマンリーコは大変な役ですし、私はマルセロ・アルヴァレスにだって満足しませんでしたから、キャスティングが大変な役であることは重々承知です。
でも、まさかキャスティングが大変だからって、”僕歌えるよ。”という自己申告だけ信じてキャスティングしたんじゃないでしょうね?

今日の公演は彼を除いてはとても内容が良かったものですから、オーディエンスの集中度も高く、非常に客席は静かだったのですが、
ザジック演ずるアズチェーナがルーナたちに連行された後あたりで、私の立っている場所の近くの座席から携帯電話の着信音のようなものが聞えてきました。
”早く切れよ。じゃないと、私が切れるよ。”と思っていると、段々音量が上がっていくような設定になっていたようで、
まわりの座席からも、”ちっ!”という舌打ちが聞えて来ます。
もたもたと暗闇の中で電話を切る方法を探っていた持ち主のおばあがやっと着信音をとめたまでは良かったですが、
どうやら携帯本体のスイッチの切り方自体がわからないようで、また電話がかかってきたらどうしよう、、と気になるのか、
座席を立って、オーディトリアムの外でスイッチを切るべく、アッシャーのいる扉の側までやって来ました。
するとアッシャーは”一旦外に出られますと、もう中には戻れませんが。”
良い公演だけに、おばあは帰る気はないらしく、”それは困る。私は戻りたいのよ。”というのでひと悶着です。
最初は声を潜めていたアッシャーもおばあとやりやっているうちに、段々大声になっていて、
”わたしは携帯を切りたいだけなのよ。外に出ないと切り方がわからないのよ。””でも外に出られたら、お戻りになれないんです!”と、
もはや私のいる立見席はおろか、後ろの方の客席にまで聞える口論になっています。
”一旦退出したら戻りは不可。”という理屈はよくわかりますが、アッシャーも融通が利かないというか、
ここまで揉めたら、彼女をすっと外に出して戻る準備が出来た時に戻した方が客への迷惑も少なくすむのに、、、。
”それでは携帯を外でお預かりしますから。”というアッシャーの言葉には、
その時はあんたが外に出て、また戻ってくるわけで、ドアの開閉は2回。彼女自身を外に出しても開閉2回。
迷惑という点で何ほどの違いがあるというのか?、と心の中で呟き、
”それは困るの!”というおばあの言葉には、
”メトがあんたの古くっさい携帯を盗むわけないでしょうが!!早く渡しちまいな!!”と喉元まで言葉が出てくるのを押さえているうちに、
マンリーコの”見よ、恐ろしき炎を Di quella pira"がもうそこまで迫って来ています。
へなちょこマンリーコですから、すごいものを聴けるとは思っちゃいませんが、どんなへなちょこぶりか、確認しておく必要があるのに、これでは聞えない。
しかも、その後は、私がソプラノの全てのアリアの中で一番好きなそれのグループに入っている”恋はばら色の翼にのって D'amor dull'ali rosee"で、
ユーがこの曲をどう歌うのかは、今日の鑑賞の中で一番楽しみにしているところです。
客席から、”しーっ!”という叱責の声が何度も起こっているのに、かれこれ5分も上のような押し問答が続いたでしょうか?
アッシャーがもはやひそひそ声を保つことが出来ずに、客席にまで十分聞えるような普通の声量で、
”それではこちらで外で携帯をお切りする間、ここで待っていて頂いて、、、。”,
おばあ ”どうして私が外に出ちゃいけないの?”、、
、、、とそこで、私の頭の中でどっか~ん!!!という音がしました。
やおら、立見席からくるっと後ろを振り返り、闘牛もびっくりの勢いで彼ら二人の方に突進していくと、
拳をおばあの前に振立て、殴りかからん勢いで、”あんたらのせいで、聞えるものも聞えないのよっ!!!あんたら二人とも早く外に出て行けってんだよ!。”と、
しかし、客席にいる観客の迷惑に私がなってはいけませんから、あくまでひそひそ声+手話のようなジェスチャーで。
最後の、”早く外に出て行けってんだよ!”のところで、思い切り両手を扉に向かって刺す様に指し出し、
”今でてけ、このやろー!”というメッセージを込めて彼女ににじり寄ると、
おばあはおろか、アッシャーも、”どこの動物園の檻からこの野獣は飛び出して来たんだ。”という様子でまるで虎に食いちぎられる寸前のガゼルのように縮み上がっています。
その後、ニ十秒ほどまだひそひそ声で押し問答してましたが、結局彼女を一時的に外に出す、ということで解決したようで、
なんとかDi quella piraには間に合いましたが、こちらはもう舞台上のマンリーコもへじゃないほど、血圧あがりまくりです。
使い方も知らない道具を持って歩く、ましてやそれでオペラハウスの敷居を跨ぐと、
熱狂的なオペラファンに半殺しの目に合いかねませんから、年配の方はご注意頂きたいものです。

せっかくそこまでして聴けた”見よ、恐ろしき炎よ”ですが、恐ろしかったのは炎ではなく、ヒューズ・ジョーンズのall'armiでのハイCです。
一応ハイCにはなってましたが、今にもよろけて倒れんばかりのヘロヘロな音で、何とか出てますけど~、といった風。
これだったら、まだアルヴァレスの方が1000倍まし。ほんとに今のオペラ界にはマンリーコを歌えるテノールがいないんだな、、と悲しくなりました。

気を取り直して四幕の、先述のレオノーラのアリア、”恋はばら色の翼にのって”。
なぜこの曲が私の好きなアリアかといえば、それはヘッド人生の初期にカラスの歌唱にふれたことが原因であることは間違いありません。
彼女はこの曲を正規の全曲スタジオ録音にも残しているし、リサイタルでも頻繁に取り上げているんですが、
どれを聴いても出来・不出来の差が少なく、彼女がいかにこのアリアを手中におさめていたかがわかるというものです。
(下は1956年のカラヤン/スカラ座とのスタジオ録音の音源です。)




彼女の歌と比べられるアーティストもたまったもんじゃありませんが、目標は高く!ということで。
結果を言うと、全幕優れた歌唱を披露していた中で、ユーの歌が若干シェイキーになったのがこのアリアかもしれません。
この曲は音楽の美しさもさることながら、テッシトゥーラの関係で難易度が高いこと、それから、息の長いフレージングが必要な点、
それから微妙なシェーディング、繰り返しの音をどのように色づけして歌うか、というアーティスティックな面で
私は一幕のアリアよりもずっと難しいと思っていて、だからこのアリアを偏愛していて、かつ舞台で聴くのを楽しみにしているのですが、
正直なところ、”これはすごい!”というこの曲の歌唱にまだメトでは出会ったことがありません。
ユーの歌唱は最初のフレーズから少しピッチが不安定で、すぐに出てくるトリルも少し甘く、
また長いフレーズも息継ぎで軽いあっぷあっぷ感があって、カラスのようにざーっと音楽が広がってくるような感じは希薄で、
他の部分での歌唱の優秀さと比べると、あれ?どうしたんだろう?と思います。自分でも少しこの曲に苦手意識があるのかもしれないな、と思います。
また、彼女はこの役だけでなく、色々なヴェルディ作品、またベル・カントものを歌っていくなら強化しなければならないポイントがあって、
それは高音をピアノ/ピアニッシモで出すテクニック、それも色んな微妙な音量やトーンを変えられるという高次なテクニック、を身につけることです。
彼女は高音を常にフォルテ気味に歌う傾向があって、それだと、この”恋はばら色の翼にのって”のような曲では表現がモノトーンになってしまって、
この曲の良さが十分には伝わって来ない。
例えばカラスの歌唱の2'13"、2'20"、2'24"、そして2'41"、2'49"(←カラスのこの音、素晴らしいですね。レオノーラの気持ちが伝わってきてせつなくなります。)、
2'56"の音を聴くと、それぞれに違った微妙なエモーションが込められているのが伝わってきます。
ユーはこのどれもが同じ調子で、どぱーっ!と放出型の音になっていて、きちんと歌えてはいるのですが、
カラスのような歌いわけが出来ると、曲にもっともっと豊かな表情が出て来るのにな、と思います。

このアリアについては、私の方の期待が大きすぎる部分もありますし、このアリアの後の部分は再びとっても良かったです。
一点、少しだけ気になった点は、彼女は結構熱血な歌を歌うので、ここからあまり早く重い役を歌う方向に進んでいくと、
喉に負担がかかるのではないかな、という点です。
熱血と言っても、決してスタイルを崩すほどの下品な熱血ではないのですが、アリアが終わった後の四幕の歌唱では、
すべてをかなぐり捨てて歌っている、という感じで、聴いている方は熱い歌が聴けて良いですし、
メト・デビューでこんな歌を歌うなんて度胸の面でも大したものだ(メーリも見習え!)と思いますが、
色々な劇場の注文に応えているうちに、無理なことにまで手を出すことだけはないよう祈っています。
レオノーラ役は間違いなく彼女の本来の適性に合っているとは思いますが、そういった意味で、あと数年後にメインにしても良かったかな、という気はします。
今日の歌唱を聴いていると、歌唱における表現力もあるし(アリアのところで書いたような高いレベルでの注文はありますが)
今の彼女なら、ヴィオレッタなんかも結構良い歌唱を聴かせられるのではないかなと思います。
それにしても、この『トロヴァトーレ』のような演目で、
従来のアジア人歌手では考えられなかったレベルの正統的な歌と演技で勝負できる歌手が出てきたのは本当に驚きで、
彼女がこれからどのように成長を続けていくか、とても楽しみです。

マンリーコのキャスティングが痛恨!でしたが、全体としては、非常にエキサイティングな『トロヴァトーレ』で、大満足。
こういう公演が続いている限り、ブログがストップすることもないんですけど、、。

Gwyn Hughes-Jones (Manrico)
Guanqun Yu replacing Carmen Giannattasio (Leonora)
Dolora Zajick (Azucena)
Franco Vassallo (Count di Luna)
Morris Robinson (Ferrando)
Hugo Vera (Ruiz)
Maria Zifchak (Inez)
Brandon Mayberry (A Gypsy)
David Lowe (A Messenger)
Conductor: Daniele Callegari
Production: David McVicar
Set design: Charles Edwards
Costume design: Brigitte Reiffenstuel
Lighting design: Jennifer Tipton
Choreography: Leah Hausman
Stage direction: Paula Williams
SR left front
OFF

*** ヴェルディ イル・トロヴァトーレ Verdi Il Trovatore ***

L'ELISIR D'AMORE (Mon, Sep 24, 2012)

2012-09-24 | メトロポリタン・オペラ
早くも昨シーズンのメトのオープニング・ナイトから一年が経ってしまいました。
今年は『愛の妙薬』の新演出がオープニング演目で、昨年の『アンナ・ボレーナ』に続きネトレプコが再登場!なので、
”馬鹿の一つ覚えとはこのことだな。”と思っていたところ、
どうやら来シーズン(2013/14年シーズン)も彼女が出演する『エフゲニ・オネーギン』でキック・オフするらしいと聞き、
更に力が抜けました。ぷすーっ。

例年オープニング・ナイト・ガラの数ヶ月前くらいからドレスのことを本格的に考え始めるわけですが、
本当にぎりぎり直前まで気に入ったものが見つからなくて汗かいたーなんていう危ない年もあって、
そろそろ私も学んだらどうなのよ?ということで、
実は今回に関しては、先シーズンのオープニング・ナイトが終わるか終わらないかといううちから、真剣なドレス・ハンティングを始めてました。
演目が『愛の妙薬』だから、あまりドラマティックに過ぎたり黒っぽい色のものはやめて
(その頃はシャーが”ダークな妙薬”などというわけのわからないアイディアを温めているとは思いもしなかったゆえ、、、)、
軽やかな感じのデザインと色合いのものにしよう、、、と思っていたところ、
幸運にも年明け前に、お直しが全く不要なほど体にぴったり合った思わぬ掘り出し物が見つかり、
”私の作戦の勝利だな。これでオープニング・ナイトまで何の心配もなく過ごせるわ。むふふ。”と一人悦に入っていたわけです。


さて、ネトレプコといえば、以前は本当華奢だったのに、
ティアゴ君を生んでほんの数年でものすごく立派な体格になられているのは皆様もご存知の通りですが、


(2007年9月の『ロミオとジュリエット』の舞台から。このちょうど一年後にティアゴ君が生まれている。)

私は彼女がメトに戻ってくる度にその順調な成長(?)ぶりを毎年見つつ、人ってこんなに早く太れるんだなあ、、と他人事のように思っていたわけです。
昨シーズンのオープニング・ナイトの記事の中でドレス・ハンティングのお話をした時も、
"私は背に関しては日本人としてはもちろん、アメリカ人の中に混じっても決して小さくはなく、平均的だと思いますが、
日本人の典型的なパターンで体に厚みがないので(父が楊枝のような人だからこればかりは遺伝で仕方なし。)"
と、呑気なことも書いてますね。

しかし、どうでしょう?丁度このブログの更新を止めた年明けくらいから、、
空いた時間で睡眠はたっぶりとれるわ、料理はがっちり作るわ、ついでにどさくさにまぎれてお菓子作りにまで励んでしまうわ、で、
なんか気がついたら持っているパンツ(いや、あの、下着じゃなくて、ジーンズとかですよ。)がきつくなってしまってですね、
いや、正直に告白すると、着れなくなったものが一枚、二枚、三枚、、。
”日本人の典型的なパターン”なんてどこ?って感じで、もう体に厚み、出まくりでして、
我が家には体重計がないので、その間、現実逃避にまかせていたのですが、
8月末にミラノに遊びに行った時の写真を家族に送った際、母に”あんた、なんか、太ってないか?”と言われた時に、”はっ!"と思いました。
年末以来クローゼットにかけっぱなしになっていたライラック色のヴァレンティノのドレス、試着した時にぴったりだったということは今は、、、。
考えるだに恐ろしく、あまりの怖さに試しに着てみる気にもなれない。
やばい、やば過ぎます!!!!
人ってこんなに早く太れるんだな、、、って、それはあんたのことだろう!!って感じです。
数年どころかたった8ヶ月で!しかも、子供なんて一人も産んでないのに。

とりあえず、数週間、気が狂ったようにワークアウトに燃えることにしました。
じゃないと、今、ドレスが着れないとわかったって、ドレスは小さくお直しすることは出来ても大きくすることはできないし、
これから買いなおす時間もありません。
何としてでもこのドレスを着なければならないのです!

そしてオープニング・ナイトの一週間前におそるおそる袖を通してみると、なんとか背中のジッパーはあがりましたが、
もういっぱいいっぱい、ドレスが悲鳴をあげていて、
華奢な生地なものですから、メトの座席にお尻をつけた途端、バリバリバリ!!といきそうな雰囲気です。
駄目だ、、もっと痩せないと、、。
ワークアウトなんかではとても追いつかないとわかった今、残る方法は断食しかない!!!
ということで、オープニング・ナイトまでの最後の一週間は、会社でも家でもほとんど何も食べませんでした。
会社に二人日本人の同僚がいるのですが、幻影を見そうなほど腹を空かせている私の前で、
ランチに近所の日本料理店から注文したうなぎ定食にぱくつかれた時は泣きました。
後輩の女の子は、"Madokakipさん、火曜日(ガラの翌日)はうなぎとドリトス(ジャンク・フードの王様かつ私の好物)
両方準備しときますから。”と言って慰めてくれたけど、もうその言葉も耳に入らないくらい腹ペコ。死ぬー

ここまで強引にダイエットしたら、さすがに体も反応しないわけにはいかなかったようで、
オープニング・ナイトの前日にもう一度ドレスを着てみたら、これなら何とか座席に座っても大丈夫という位にはなってました。
その様子を見て、連れが”いやー、あのままどうなっちゃうのかな、と思ってたから、痩せることが出来てよかった、よかった。”
、、、そういうことは、これからもっと早く言ってね、って感じです。
それにしても、いやー、本当、今年は危なかった、、。
当日は天候にも恵まれ、無事、予定通りのドレスでメトに乗り込むことが出来ました。
(これが雨だとまた話がややこしくなって来るところでした、、、。)
毎年トライアル&エラーの繰り返しのドレス選び、今年の教訓は”あまりに早く準備し過ぎるのも考えもの”。

当日も食事は危険なので空腹のままふらふらしながらメトにたどりつくと、
相変わらず支配人は色んな彼の考える”セレブ”に招待状をばら撒きまくっているみたいで色んな人を見かけました。
なかでも、開演前の化粧室のあまりに激混みな様子に用を足すのを諦めたのか退出しながら、
"Shit, shit!"と私も含めた列の女性達の頭越しに罵って出て行ったでかい女には、
”メト、しかもオープニング・ナイトでこんな汚い言葉を聞くとは、、。”とみんな引きまくりでしたが、
よく顔をみたらコートニー・ラヴだったのには、何年か前のオープニング・ナイトでオルセン姉妹を見た時と同じ位、
”一体誰を呼んどんじゃ、支配人は、、。”と思わされました。趣味の悪さは演出家の選び方だけじゃないんだな、、、。



他にもどんなゲテモノが招待されているんだろう、、とドキドキしてしまいましたので、
毎年オープニング・ナイトの日のマイ・シートになっているサイド・ボックスの座席から
オーディトリアム越しにドミ様と奥様と見受けられるお姿を客席に拝見した時は実にほっとしました。

またオープニング・ナイト恒例といえば、オースティン様御一行なんですが、今年は残念ながら同じボックスではありませんでした。
今回彼がドレスを作成しエスコートしたのは、これまで『つばめ』などの演目に出演していて(感想もこのブログにあるはずです。)、
今シーズン『リゴレット』のジルダ役にもキャスティングされているソプラノのリゼット・オロペーザでした。



オースティン様御一行が隣でないとすると、では誰が、、?と思い、私の横の座席を見ると、
5歳位の女の子がおめかししてちょこりん、と座席に座っています。お母様とご鑑賞なんですね。
ベル・カントを聴く5歳児か、、、しぶい。

ただ、『愛の妙薬』という演目については、こんなにすごく楽しくて、
最後に胸がきゅん!とする瞬間があって、しかも鑑賞後にオーディエンスをハッピーな気持ちにさせる力がある演目は
年齢を問わずすべてのオーディエンスに受け入れられやすいはずなのだから、
どうして年末のホリデー・シーズンのキッズのための演目にしないんだろう、
ひいてはどうしてオープニング・ナイトの演目に持ってこないんだろう、とずっと思っていました。
はっきり言って、よっぽど頓珍漢な演出やひどいキャストでない限り、成功が約束されている演目だと思うんですよ。
NYタイムズのオペラ評と私の意見が合わないのは毎回のことなんですが、
今日の公演の評の中でもトマシーニ氏が”当初『愛の妙薬』はあまり開幕公演に似つかわしい演目とは思えなかったのだが、、”みたいなことが書いてあって、
一体何を根拠にそう思うのか?と逆にこちらがびっくり!です。

私がこの演目の魅力を十全に感じられるようになったのはコプリーによる旧演出の存在も大きいかもしれません。
彼の演出はパヴァロッティとバトルが出演した1991/92年シーズンの公演がDVDにもなっています
(し、日本公演にも持って行ったことがあるのでご覧になった方も多いでしょう)が、20年前の録音技術で収録したもののためか、
舞台の色彩の実際のテクスチャーやそれから生まれる華やかさが失われているのが残念です。
実際の舞台での幕が開いた瞬間に生まれる心躍るようなバブリーな感覚とか、
それぞれの登場人物のキャラを十全に表現つくした衣装の素晴らしさはもちろんなんですが、
エキストラ(ニ幕の頭に登場するピンクの衣装に身を包んだオケのメンバー含む)を上手く使ったコミカルな演技とか、
小道具の使い方の上手さ、
それから演技付けもきちんとされていながら、それでいてそれぞれの歌手の表現の仕方を楽しめる余地もきちんと残されていて、
コプリーのオリジナルの演出が優れているのはもちろんなんですが、
昨シーズンの引退を迎えるまでの20年の間に舞台監督や登場した歌手たちによって蓄積されたアイディアによって進化していった部分もあって、
上手く歳を重ねた俳優さんを見るような演出だったわけです。
DVDはパヴァロッティ、バトルというスター・キャストですが、別に歌手がここまでよくなくても、
そして実際、私が見たものの中にはファースト・レートとは言いづらいキャストのものもたくさん含まれていましたし、
歌も超一級と呼ぶには厳しいものも含まれていましたが、
いつも見終わってみれば、少なくとも”来てよかった。”と思うものばかりでした。これは作品と演出の力なのだろうと思います。
そんな優れた演出だったものですから、力のある歌手が登場した時は鬼に金棒状態で、
コプリーのプロダクションによる最後の公演(2012年3月)の舞台に立ったのはフローレスとダムラウの二人でしたが、
このプロダクションの引退にふさわしい素晴らしい公演で、
ブログ休止期間中に感想を書き逃したことを最も残念に思っている公演の一つです。

まあ、そんなすごい演出と比べるつもりもなかったし、普通に演出していれば外しようのない演目なので、
特に新演出については心配することもなかろう、、と思っていたところに、例のシャーの”ダークな妙薬”発言事件なわけですよ!
あああああああーーっ、もう余計なこと考えなくってもいいんだってば!!!!



イタリアの村の遠景が投影されたスクリーンをバックに、ベニーニの指揮の元、オーディエンス全員で国歌の斉唱を終えるといよいよ前奏曲。
ベニーニといえば、2008/9年シーズンの『愛の妙薬』の公演で見せたニコル・キャベルとの闘いが思い出され、今でも笑ってしまうのですが、
あの時はその闘いで消耗したせいか、割りとさらりとした普通の指揮で、彼の個性も力も(それがあれば、の話ですが)発揮できず、という感じでしたが、
今回はオープニング・ナイトの演目で、しかも来月にはHDにも乗るとあってベニーニがかなり本気になって張り切ったと思われ、
細かいところまで神経の行き届いた音楽作りで、面白いなと思う箇所がたくさんありました。
しかも、面白く演奏することが目的になっているわけではなくて、舞台で起こっていることを表現するために必然的にそうなった、という感じで、
彼の細かい要求にオケもきちんと応えていて、非常に内容の良い演奏だったと思います。
(シーズン当初は毎年そうですが、オケもまだヘビー・スケジュールにくたびれる前の非常にフレッシュな音を出していて、
前奏曲で音が出てきた時は、幸福感500%でした。)
後でもふれますがニ幕のアディーナが”私はあなたを愛している!”とネモリーノに認める場面での劇的な盛り上がり方は、
まるでヴェルディ作品の演奏のようにドラマティックで、
サイド・ボックスから聴いていると、低音の楽器が前に出たどーっ!と湧き上がるような演奏で、
オーディエンスによって好き嫌いが分かれるかもしれませんが、私はオケの演奏についてはこれはこれで嫌いじゃありません。
またこの作品は、そこでこちらの心がふっと折れるようなはっとさせられるようなロマンチックな和音があって、
それまでの賑々しい場面からふっとそこに移行する時にえも言われぬ美しさがあるのですが
(例えば一幕の二重唱”優しいそよ風にお聞きなさい Chiedi all'aura lusinghiera"に入る前の部分とか)、
そういう場面でのオケの音の美しさも出色でした。



ネモリーノをはじめ村人たちが舞台に現れると、”色、くら(暗)、、、。”と思わされます。
セットや衣装に使用されている色彩のせいなんでしょうが、コプリー演出の見ているだけで気分がワクワクしてくるような感じとは対照的に、
見ていると心が沈んですさんでくるような色合いです。
ポレンザーニは地はすごく人が良くて優しい感じで、ネモリーノはキャラクターに合っているな、と思っていたのに、
この舞台での彼の髪やメイクや服装はまるで犯罪者みたい。
これから村で起こるのは窃盗事件か殺人か?って感じです。
作品や音楽が行こうとしている反対側に引っ張ってどうする?

さらに合唱にのって聴こえてくるアディーナ役のネトレプコの声がこれまたどっしりと暗い。
彼女の声は本当に重くなりました。もう声楽的にこういうベル・カントのコメディック・ロールは完全に限界、封印すべきでしょうね。
(実際、ウォール・ストリート・ジャーナルの記事で、彼女自身もそうしたい意向を持っている旨が書かれています。)
彼女の歌唱の良いところの一つに、本能的にアンサンブルやオケとのバランスをとって歌える、という点があると私は思っていて、
今日の演奏なんかでも、村人(合唱)と一緒に軽く歌う場面では自ずと声量が抑えられていて、
そういう場所では割りと早いパッセージも軽く歌いこなせているのですが、
自分が前面に出て歌わなければならない場面になると必然的に声量が増えるわけですが、
それに伴ってアジリティが大きく損なわれるようになっているのが気になりましたし、あとは高音、
これがもうたった2、3年前に比べても軽々と出なくなっていて
(特に昨シーズンの『マノン』あたりからこの傾向が顕著になったように思いました。)、
ベル・カントやフランスもので非常に安定感のある高音を持っていた彼女が、今や必ずしもそうではなくなって来ています。
時々、聴いていて”こわいな。”と思わされるような音が出るようになって来ましたし、
一つ一つの高音に、今から出すぞ、という妙な緊張感が伴うようになりました。
ドラマティックな役の高音はそれでも歌っていけるかもしれませんが、
ベル・カントのレパートリーで、ぱちぱち!とシャンパンのように軽く高音を繰り出していかなければならない役は今後無理だな、と思います。
(それを言ったら、ヴェルディの『椿姫』なんかも。)
また、MetTalksの時にも感じたのですが、彼女のパーソナリティ自身もちょっと変化した部分があるというか、
良く言えば落ち着いた、お母さんっぽい雰囲気が出始めていて、こういうムスメムスメした役は、
なんとか彼女の明るいキャラで乗り切っているものの、少しずつ無理が出てきているかな、、という風にも思います。



ネモリーノ役を歌うポレンザーニはその点ここ数年どころかずっと前から持ち味も声もあまり変わってないような感じがします。
(当然声に若干の変化はありますが、ネトレプコのそれほど劇的じゃありません。)
こんな心底お人好しな感じがするテノールってそんなにたくさんいないんですから、
私だったらネモリーノを思い切り痴呆の設定にしてるところですが、MetTalksで彼が語っていた通り、
新演出のネモリーノに全然痴呆っぽさはなく、男らしい普通の(少し犯罪者っぽいですが)青年、って感じです。
どこで目・耳にしたのか、記憶が定かで申し訳ないのですが、シャーかポレンザーニが、
この演出では、ネモリーノがこれまでアディーナにはっきりとした告白を出来ずに来た理由の一つは
身分の差という壁のせいだ、という風に言っていたように記憶しています。
コプリーの演出では、ネモリーノの頭の弱さとそれに対するコンプレックスが、
『トリスタンとイゾルデ』の本を村人の前で読んで聞かせるくらい頭が良くて教養のある(と、少なくともネモリーノは思っている)
アディーナへの告白への壁となっている、という解釈の仕方なんですが、それとは対照的だな、と思います。
音楽祭などでテンポラリーにかける演出と違って、メトで新演出を手がける場合は、
その後、何年にもわたって通用する、違うキャストでもその良さが損なわれないような演出を作ってほしいし、
それ故、あまりに初演時のキャストのキャラクターに依存しすぎる演出には賛成しない私ですが、
それでも、オリジナル・キャストで演出家が持っているアドバンテージのひとつは、
ある程度、キャストに合わせて演出をテイラーできる点であることは否定しません。
あまりに白痴が入っているのはやり過ぎだと思いますが、やはりこの作品全体を眺めると、
ネモリーノが若干すっとぼけたキャラクターであることは間違いなく、アディーナが歌うパートにもそれが示唆されているし、
お金がない、身分が低いことだけでは、ネモリーノに叔父の財産が転がりこんだと聞くまで村の女性たちに軽くあしらわれている理由に十分でないと思います。
というわけで、私ならせっかくのポレンザーニ本人のキャラを生かして、もうちょっと馬鹿っぽくさせるんですけどね、、。



この作品でアディーナとネモリーノと同じ位大切なのは、いかがわしくかつ怪しい準主役の二人、
つまり、アディーナをめぐってネモリーノの恋のライバルとなる軍人ベルコーレと、
ただの安ワインをなんでも解決する魔法の薬として売り歩いているいんちき行商人のドゥルカマーラで、
この二人がびしっと決まらないと、『愛の妙薬』の楽しさは半減です。

以前このブログのコメント欄で紹介いただいた、ウィーン国立歌劇場でのヌッチお父さんのベルコーレ、
これなんて最高ですね。(アディーナはまだまだ娘らしい役がぴったりの頃のネトレプコ、ネモリーノはヴィラゾンです。)
やっぱりベルコーレ役はこれ位はじけてないと。



ヌッチお父さんの歌の上手さ・存在感はもちろんですが、この演技の上手さ、役のエッセンスを摑んでいるさまはどうでしょう!
それに比べると、残念ながら今日の公演のクヴィエーチェンのベルコーレは”どうしたの?”という位、薄口です。
もっとはじけてくれないと、全然面白くない!!!
彼はインタビューとかレクチャーとかフリー・トーキングの場ではすごく面白い冗談も交えてウィットの富んだ話を聞かせてくれるし、
数シーズン前にみた『ラ・ボエーム』でのマルチェッロ役を見るに、決してコメディックな演技も下手な人ではないと思うのですが、
今日の公演での役の描写はスマート過ぎて、なんか彼の良さが全然生きていない感じです。
彼自身の力の及ばなさか、はたまた、またシャーに”この役はヌッチみたいなギャグ漫画的描写はしないで、
これまでにないような、スマートな存在として演じて欲しい。”とか何とか言われて、上手く役を作れなくなってしまったのか、
いずれにしても、ポレンザーニのネモリーノに続き、今夜の、”本人のキャラが生きていないこと夥しい症例”ナンバー2です。
そういえば、この公演に対する批評家の意見の中に、この公演では”くるくるスカートを回したり、
お尻をぱしっと叩いたり”するような演技しかアクションがない、と書かれたものがありましたが、その通りだと思います。
シャーだけでなく、最近メトで演出を手がけている演出家全員にその傾向があるように思いますが、
演出に関してハイ・レベルでのアイディアはもっていても、それを実際の公演で血肉化させるための巧みで細かい演技付けをキャストに行える人が、
オットー・シェンク以来現れていないのではないかと思えるほどです。
最近メトで演出面で評判の良かった演目のいくつか(『鼻』とか『サティアグラハ』)ですら、
そういう演技面での説得力よりも、ビジュアル・アートとしての力が評価されたような感じです。
またワシントン・ポストの評ではアン・ミジェット女史がこの公演について、
”コメディックな作品をストレートに演じるのは構わないが、それで結果を出そうと思ったら、説得力のある、立体感に富んだ登場人物を作り出す必要がある”、
”シャーと彼の演出チームは単にコミカルなシーンをプレイダウンしただけに終わってしまった。”と言っていますが、
その通りだと思います。
(またこの点だけでなく、この公演に関しては、彼女が書いていること、ほとんど全て、私の感想と合致しているので、
ここでこの記事を読むのをやめて、そちらを読んで頂いてもいいくらいです。)



シャーは折にふれてメトの公演をきちんとこれまで見て来ていることを匂わせていて、
実際、公演の伝統ということに対しても比較的敏感で、
『トスカ』のボンディやリングのルパージみたいに、そんなこと、関係ねー!と開き直ってケツをまくれるほど厚顔ではないし、
キャストから反対意見が出た際にも自分の意見を押し通すほど強引なところは持っていないのかもな、と思います。
ただ、それが今回ちょっとバックファイヤーしてしまって、”新しい切り口を持ちこみたい”という演出家としてはある程度無理ない願望と、
上で書いたような公演の伝統への板ばさみで、中途半端なものをプロデュースしてしまったような感じかもしれません。
実際、セットの構成、人の動きなども、コプリーの前演出と酷似している部分があって
アディーナが本を読んで聞かせる場面の人の配置とそれにネモリーノが紛れ込んでいく場面とか、
婚姻の祝いの場面のセットなんか、本当にそっくりです。
なんですが、例えば前者の例をとると、
コプリーの演出だとネモリーノの衣装が周りの村人と区別のつきやすい色になっているので、
彼がアディーナにじわじわとにじり寄って、アディーナが振り向くと”きゃっ!”と言いたくなるような至近距離に
いつの間にか近づいていく様子が観客からもわかりやすく、
ネモリーノ役の歌手に演技力があるとすごく面白い場面になるところが、
この演出ではネモリーノの衣装の色が汚すぎて村人役の合唱の人たちと区別することが非常に難しいので、
そこの面白さが激減です。
トップの写真を見て頂くと、これですぐにポレンザーニを判別することがいかに難しいかが実感できると思います。
なので、今回の演出は思った程コプリーの演出から変わっていなくて、
旧演出から底抜けに面白い部分と楽しい部分を抜き取っただけ、というような感じになってしまっています。
これを幸ととるか不幸ととるか、は微妙なところで(もしシャーがボンディみたいな人だったら、もっと悪くなっていた可能性もあるので、、)、
ま、優れた演出まで偏執的に取替えなくてもいいんではないですか?というあたりの質問におちつくんだと思います。

クヴィエーチェンに話を戻すと、こういう役作り、演出面での中途半端ぶりが歌にも波及した感じで、
丁寧には歌っているし、ベル・カント特有の早いパッセージなんかは巧みに歌いこなしているし、技術があるのは伝わって来るのですが、
なんだかパンチが足りない、つまらない歌唱になってしまいました。



もう一人の怪しい人物、ドゥルカマーラ役を歌ったのは昨年の秋、カーネギー・ホールでの
オペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨークが企画した『アドリアーナ・ルクヴルール』
(共演はカウフマン、ゲオルギュー、ラクヴェリシヴィリ。こちらも感想はアップしてません。すみません。)でのミショネ役が好評だったアンブロージョ・マエストリ。
私は2006/7年シーズンに彼をメトの『カヴ』で聴いているんですが、全然良い印象を持っていなくて、
『アドリアーナ・ルクヴルール』での彼も多くのオペラ・ファンが褒めているほどすごいとは特に思わなかったのですが、
今日の演奏を聴いてもやっぱり印象は変わりませんでした。
というか、むしろ、なぜメトの『カヴ』でぴんと来なかったか、その理由を思い出しました。
彼の声はオペラハウスでのプロジェクションが悪い。
不思議なんですよね、、、すごく大きい声が出ているっぽいのに、それがオペラハウスをフィルしない感じなんです。
声のサイズに関わらず、声をきちんとオペラハウスの中の空気の隅々にまで及ばせる能力、
(声が軽い、サイズが小さくてもこの能力の支障にはなりません。
デセイとかホンさんとか、全然声のサイズは大きくないですけど、オペラハウスのどこにいても問題なく声はプロジェクトしてます。)
これがなかったら劇場の一部の客とはコミュニケートできない、ってことじゃないですか?

登場してすぐに歌う"Udite, udite, o rustici 村の衆よ、お聞きなされ”では、
uを母音に含む音で、声を出しながらそれに重ねて”ひゅっ!”と口笛のような音を入れて歌う技を披露して喝采をさらっていましたが、
(私はこの箇所でこういう芸当をする歌手ははじめて聴きましたが、
オケにいる友人によると、以前にもメトでこのカヴァティーナで同じことをやったことがある歌手がいるそうです。
ちなみに名前は思い出せない、と言ってました。)
なんか、あんまり(役としての)存在に魅力が無い人なんですよね、、、
例えば、登場してすぐにがばっ!と馬車の扉(でもカーテンでも何でもいいですが)を開ける時の仕草とかそのタイミングで、
”うわー!とんでもないいかがわしいものが現れたぞー!”という雰囲気を出さなきゃいけないんですが、
なんか、そういう演技センスにも欠けてるし。
これまでこの役はあまり名の通っていない歌手で見たこともありますが、みんなもっと面白い演技と歌を披露してますよ。
うん、すごく簡単な表現になってしまうんですが、なんかあまり面白くない、これに尽きると思います。
むしろ、いつもはすごく真面目な風貌で、真面目にピットで演奏している姿しか印象にないオケのトランペット奏者が、
ドゥルカマーラの馬車の天井で飲んだくれのラッパ吹きを演じていて、
これが片手で面倒臭そうにラッパを吹いた後、がーっと酒の瓶をあおりながらむにゃむにゃと口を動かしたり、
ノリノリの演技を見せていて、彼の方が演技上手いじゃん、、、と思わせられる始末です。
普段からは考えられない同僚のはじけた姿に、ピットにいる金管のメンバーがお腹をかかえて笑って見ている様子も楽しかったです。



とこんな感じでしたので、一幕の後のインターミッションは”うーん、、、。”という感じだったのですが、
少しピックアップしたのはニ幕の”Una furtiva lagrima 人知れぬ涙”以降でしょうか。
このアリアは演目のハイライトであるばかりでなく、数々のガラやコンクールなどの場所で取り上げられる超人気アリアで、
メトでは、パヴァロッティのシグネチャー・ロール/アリアでした。
私がメトでパヴァロッティを生で聴いたのはたったニ回きりで、そのうちの一回が『愛の妙薬』でしたので、思い入れも多く、
彼のメトでの”人知れぬ涙”の音源・映像をここに貼っておきます。
ずっと上でふれてきたコプリーの演出によるもので、パヴァロッティが現れた時に客席から笑いが起こるのは、
それまでの様子と打って変わって、
すっかりスーツケースを持って村を出ねば、、とメランコリックな気分になっているネモリーノが面白く、また愛おしいからです。
こういう場面のおかしさも、彼がちょっと抜けている、という設定があるからこそ、ですね。



このパヴァロッティの存在感ある”人知れぬ涙”を生で聴いている観客がまだまだ死なずに今のオーディエンスの中に生きてますから、
MetTalksでゲルブ支配人がポレンザーニに投げた質問ももっともだし、だからこそ、ポレンザーニの答えに感銘を受けました。
結果から先に言うと、このMetTalksで彼が語っていた通りの歌が聴けたと思います。
頓珍漢なNYタイムズは、彼のアリアの歌唱について、”良く出来た歌ではあったが、心からの叫びが聞えるような歌ではなかった。”と評に出しましたが、
それに対して、オペラファンからは”良く出来た歌というのは心からの叫びが聞こえるような歌をいうんじゃないのか?
トマシーニは何を言っているのかわからん。”という意見が飛び出していましたが、
私はこの両方の意見に反対です。
まず、”良く出来た(well crafted)歌”というのは、”心からの叫びが聞えるような歌”とは同じではありません。
今までに、技術的には良く出来た歌なのになぜか心に響いてこない、という歌唱を聴かされたことが何度あったことでしょう。
だけど、ポレンザーニの歌については、トマシーニが言っているのとは全く逆のことを私は感じました。
彼の歌は正直、フレージングなどの技術面や音の強弱といったアーティスティック・センスにおいて、トップノッチでは決してないし、
声の美しさで他の誰の追随をも許さない、というタイプでもないし、
またキャリア後期のパヴァロッティのそれのような存在感のあるアリアでもありません。
正直、技術やアーティストリーだけのことを言ったら、もっと上手く歌われた”人知れぬ涙”はたくさんあります。
でも、細かい音の強弱とかフレージングを超えた部分で、彼のこの日の歌には何かネモリーノのその時の気持ちをまんま伝えようとする、
本当のアーデンシーがあって、それが彼の歌唱を魅力的なものにしていて、
観客からの大きな喝采はそのことに対してのものだったと思います。
ですから、トマシーニ風にどうしても言わなければならないとしたら、
”超ド級に良く出来た歌ではなかったかもしれないが、心からの叫び声は聞えた”という風になるんだと思います。
アリアだけ”ここだけがっちり歌うぞ!”という風に歌うのではなくて、
あくまで『愛の妙薬』という物語の流れの中にきちんとおさまった真摯な歌だったと思います。
私は”ここだけがっちり!”というタイプも、内容が凄ければそれはそれで好きですが、
こういうアリアへのアプローチもいいな、と思います。

私が個人的に一番興味深く感じたのは、終盤、アディーナが初めてネモリーノに
”わかったの、とうとうわかったの。私はあなたを愛してる!”と告白する場面のネトレプコの歌唱と表現です。
顔を下に向けて心の中でその思いを熟成させた後に、心おきなく”愛してる!”という言葉を放出するような感じの演技で、
そのドラマティックなこと(彼女の歌だけでなく、先に書いたように、この場面でのオケのサポートもそれはそれはドラマティックなものでした)は、
まるで『ノルマ』が最後に”それは私、、、”と歌う時と同様の、ものすごい秘密を告白しているような迫力を声と歌唱に込めてました。
村娘のはずのアディーナが一瞬ドルイドの巫女に見えたほどです。
その告白を終えた後にアディーナは初めてそれまでの自分の呪縛から解き放たれる、ということなんでしょうか。
ネトレプコが幸せ一杯の笑みを浮かべて、ネモリーノと固く抱き合い、
草むらに倒れ込む(ここで大人は”そんな場所でことに及びよって、、。”と、にやっとするわけですが、
さすがに私の隣の5歳児にはわからんだろうな。)、、、、という風になっています。
私自身はこの言葉にここまでの深い意味を込めた演技を見たこともないし、
込める必要もあまりないと思っていて(というのも、ここをあまりドラマティックに表現しすぎると、
上で書いたように、なんかここだけ違う作品が飛び込んで来たようになってしまうので)、
気がついたらその言葉が口をついて出てた、、という表現の方が基本的には好きですが、
ああ、こういう表現の仕方の可能性もあるんだな、という意味では興味深く、数回だけ鑑賞するならこういう解釈も面白いな、と思います。

最後には満場喝采のオーディエンス、ということで今年のオープニング・ナイトは無事にハッピームードの中終了。
中途半端な演出をなぎ倒したこの演目本来の力の勝利、ということですな。

Anna Netrebko (Adina)
Matthew Polenzani (Nemorino)
Mariusz Kwiecien (Sergeant Belcore)
Ambrogio Maestri (Doctor Dulcamara)
Anne-Carolyn Bird (Giannetta)
Conductor: Maurizio Benini
Production: Bartlet Sher
Set design: Michael Yeargan
Costume design: Catherine Zuber
Lighting designer: Jennifer Tipton
Grand Tier Side Box 33 Front
ON

*** ドニゼッティ 愛の妙薬 Donizetti L'Elisir d'Amore ***

MetTalks: L'ELISIR D'AMORE

2012-09-18 | メト レクチャー・シリーズ
あまりにも失望させられる公演が多くて、しまいにはブログを書く気すら失せた2011-12年シーズンのメトでした。
というわけで、皆様、お久しぶりでございます。
それにしましても、話を戻しますと、『魔法の島』のような妙な代物を見せられたかと思うと、
『神々の黄昏』でのあのおぞましい演出、、、、特にimmolation scene(ブリュンヒルデの自己犠牲)は悪夢以外の何物でもありませんでした。
気分が盛り下がるのもいいところです。
しかし、半分頭がおかしい私であるので、それでも四月のトライベッカ映画祭での『ワーグナーの夢~メトロポリタン・オペラの挑戦』のプレミアに出かけてしまうのでした。
そして、そこでまた、いかにあのマシーン(リングで使用されたセット)が危険な物体であるか、
そのことを十分に事前にわかっていながら、
ゲルブ支配人がキャストやスタッフの安全や精神的な安心を犠牲にしてあのリングを無理やり舞台にのせたか、
その様子が克明に描かれているのを見て、映画館でわなわなしてしまった私です。
いや、むしろ、普通の感覚ならばこんなことは隠しておきたい恥ずかしい事実であるはずなのに、
それを堂々と映画で開陳してしまうその羞恥心の欠如ぶりがさすがだわ、、、。って、あれ?感心している場合じゃなーい!
2010/11年シーズンのオープニング・ナイトでの『ラインの黄金』での入城のシーンでのエラーや同シーズンの『ワルキューレ』での事故
(後者はあまりにに内容がやばすぎるからか、映画でも全くふれられておらず、あわよくば握りつぶしてやろうという魂胆のようですが、
この記事のコメント欄でその時のことを記録してあります。)も、全く予測可能だったことがこの映画で確認されたわけです。
念のために言っておきますが、何も失敗が起こってしまうことが恥ずかしいことではないのです。生の舞台だから、失敗くらいあります。
しかし、失敗、それも人の命に関わる種類の失敗が高い率で起こりうることが予想される時に、必要な判断を下せない、このことが”恥ずかしい”ことなのです。
私が支配人だったなら、あんなプロダクション、絶対に絶対に舞台にかけたりしなかったでしょう。
そんなことですので、映画を鑑賞した数日後にメトが当たり前のようにパトロンシップの更新依頼の電話をかけてきた時は、
”私は歌手やスタッフの安全を脅かす殺人マシーンのために寄付をしているんじゃない!別の支配人に交替する日まで、二度と寄付はせん!”と吠えておきました。
どうせ私の寄付金などは、あの馬鹿マシーンのための釘一本買って終り、くらいな額なわけですが、塵もつもれば山となる、
先シーズンのプロダクションについては私のように怒っている人が山ほどおり、小口パトロンを降りる人が続出、という話も耳にしました。
そのせいか、その後、夏中ほとんど毎日、携帯電話と自宅の電話番号両方にパトロン・デスクから説得&変心を試みようという電話があり、
会社の同僚から”今日もまたメトにストーキングされてますね。”と言われてしまう始末でしたが、もちろん私の決心は変わりません。

また2月の新(2012-13年)シーズンのスケジュール発表に伴い、オープニング・ナイトを飾る『愛の妙薬』新演出で、
バートレット・シャーが”ダークな『愛の妙薬』”とやらを目論んでいると聞いて、これまたげんなり、
さらに寄付をしない理由が増えたことは言うまでもありません。
一体『愛の妙薬』のどこをどうとったらダークな要素が見えるっていうんでしょう?
こういう、そもそも作品に存在しないものを無理矢理でっちあげてそこに意味をもたせようとする演出は、
作品に存在しているものを描ききれない演出と同じ位、もしくはそれ以上にたちが悪い。
私の知っている人の中には”ダークな妙薬?馬鹿じゃないの?”というリアクションの人がほとんどでしたので、
シーズン終了近くには、新シーズンまで顔を合わせなさそうなオペラ友達と、
”See you at the dark L'Elisir!(今度はダークな妙薬で会いましょう!)”と皮肉をこめつつお互いに挨拶して別れるのが慣例となりました。


(左よりベルコーレ役のマリウシュ・クヴィエーチェン、アディーナ役のアンナ・ネトレプコ、ネモリーノ役のマシュー・ポレンザーニ。
ドレス・リハーサルより。)

そして三ヶ月の時が流れ、いよいよその”ダークな妙薬”のオープニング・ナイトの日となったわけです。
この記事を書いているのはオープニング・ナイトの翌日で、公演の感想をすぐにでもあげたいのはやまやまなのですが、
オープニング・ナイトの一週間ほど前に、MetTalksのイベントで、
主役の二人(アンナ・ネトレプコとマシュー・ポレンザーニ)、指揮者のマウリツィオ・ベニーニ、そして演出家のバートレット・シャーを、
ゲルブ支配人がモデレーターとしてとりまとめつつインタビューする、という企画がありました。
公演の感想に大きな関係があるのみならず、事前に言及しておいた方が感想を書くにあたって便利に思える部分もありましたので、
まずはこちらのMetTalksの内容を簡単にまとめておきたいと思います。
仕事を強引に片付けたその足で駆けつけたイベントのため、頭が33回転位にしかまわっていなくて(いつもは45回転くらい?と思いたい。)、
ノートを持参するのを忘れてしまって全く覚書のメモもとっていませんので、話の順序脈絡をすっかり忘れてしまいました。
でも、大事なことだけはきちんと覚えていますので、今回は箇条書きで行きたいと思います。
ちなみに、(M:)の中はMadokakipが思わず心の中で発した突っ込みの言葉です。

** 演出家シャーが語る演出 **
今回の演出では『愛の妙薬』が完成した1830年代に時代を設定した。舞台はイタリアの村。
(注:作品の舞台は一般的にはバスク地方ということになっているのですが、版によってはイタリアの村となっているものもあり、
彼はそちらを元にしたのかもしれません。その点に関する詳しい説明は特にありませんでした。
またメトのプレイビルのあらすじにも舞台はイタリアという風に表記されています。)
自分の幅の行き過ぎた想像かもしれないが、当時のイタリアの時代背景にはオーストリアの侵攻があり、
作品の中にもイタリア的な部分とそれをちょっと冷ややかに見ているようなオーストリア的視線があるのではないかと思っている。
なので、その二面性を演出の中に出したいと思った。
(M: このあたりが”ダーク”な発想の根源か?
しかし、イタリアとオーストリアの二面性と言う言葉にまるめこまれそうになったが、何だかわかるようでよくわからないコンセプト、、。)

** ネトレプコが考えるアディーナ像 **
アディーナはしばしばちょっと意地悪で片意地な女性として歌い表現されることが多いが、それでは最後の場面と辻褄が合わない、と思う。
なので自分は、彼女はもともと温かくて優しい、もしかするとちょっとボーイッシュなところのある女性なのだけど、
何かが理由で自分がネモリーノのことを愛しているとは簡単に認めたくない、もしくは認めることが出来ない、
そう、彼女は彼女自身の中に解決しなければならない問題があって、この物語を通じてその殻を打ち破っていく、
そんな風な解釈で演じることにした。

** ポレンザーニが考えるネモリーノ像 **
ネモリーノに関しては、どれ位”おつむが弱い”風に彼を演じるか、そのバランスが見る側の興味の的の一つだと思うが、
この演出では特に”おつむを弱く”演じるつもりはない。
アディーナとは一緒に育って来た境遇のため、それまで近すぎて見えなかったこと、
互いに上手くコミュニケートできなかったり、認めることが出来なかった感情があるのだが、
それが一連の事件を通して無理矢理背中を押される形になる。
もしベルコーレやドゥルカマーラが村を訪れなければ、二人の距離は相変わらずずっと変わらないままだったんじゃないかな、と思う。

** ポレンザーニと”人知れぬ涙”**
(ゲルブ支配人の”人知れぬ涙”はメトでもこの役で評価が高かったパヴァロッティの歌唱を始め比較対象が多いし、
テノールのアリアの中でも最も有名で、人気のあるものの一つだが、それを歌うプレッシャーは?という質問に)
興味深いことについ最近母にも同じ質問をされたんだよ。”あのアリアを舞台で歌うのってどんな気持ち?って。
願わくば、、、舞台に立つ時には、一切そういった考えが心にない状態だったならいいな、って思う。
”人知れぬ涙”はアディーナの涙を見て彼女が自分のことを愛してくれていると知った彼が、これ以上はもう何も望まない、と歌うアリアだから、
そのままの彼の気持ちを自然に心を込めて、あの曲の中で歌われている言葉の中身だけを、
観客の皆さんにそのまま届けることが出来たら、と。
(M: すべての歌手がこういう風に思って歌ってくれたら、、、と思わせる実に素晴らしい答えです。
しかも、彼の語っている様子にも全くわざとらしいところがなく、彼が心からそのように思っているのが伝わって来ました。)

** ポレンザーニ、アディーナの涙に思う **
”人知れぬ涙”といえば、そういえば、このアリアでは彼女の涙を見た、っていうことになっているのに、
僕が今までに見た舞台で、アディーナが実際に涙を浮かべている様子を実際に見せる演出というのはほとんどなかったように思うんだ。
だけど、この演出ではアンナ(アディーナ)が実際に泣く場面がちゃんとあるんだよ。
それがこの演出の面白い点の一つかもしれない。

** 演出と音楽が対立した時、指揮者は、、**
(演出と自分の指揮しようとしている音楽とに食い違いが生じているように感じたことはありましたか?
またその場合、どのように対処しましたか?という支配人の質問にベニーニが答えて)
音楽の観点から言うと、この作品は喜劇としての側面から”楽しい、面白い作品”と捉えられることが多いが、
喜劇よりも以前に、この作品はまず何よりもラブ・ストーリーなのであって、
そのロマンティックな部分が常にオケの演奏の通奏低音として感じられるように演奏したいと思っている。
彼(シャー)の表現しようとしている二面性と僕の考えるコメディとロマンスの二層構造はアイディア的に似通っているので、
特に彼の演出と食い違う、という場面はあまりなかったように思いますね。

** ポレンザーニ、シャーに”ダーク過ぎ!”の駄目出しを食らわせる! **
ただ演出の中でここは少しダーク過ぎて作品にそぐわない、と思う時は、僕(ポレンザーニ)らは
バート(・シャー)にそれを伝えてモディファイしていったよ。
(M: おおっ!!キャストの中に正気な人がいて私は安心しました!!!)

** 更にネトレプコからも駄目だしを食らうシャー **
バートはちょっと頭で考え過ぎなのよね。
(M: 、、、、逆にあなたは考えなさ過ぎだけどね。)

** そこでシャーの逆襲 **
ここで、彼らの攻撃に反逆すべく、いかに喜劇の演出が難しく(彼の弁によると悲劇よりもよっぽど難しい)、
微妙なバランスの元に立っているか、そのバランスをダークさとコミカルさの中で取ろうとしたので慎重になってしまうのだ、と自己防衛するシャー。
彼の説明がこれまた長くて、一瞬気が遠くなるMadokakip。確かにネトレプコの”頭で考え過ぎ”の言は正しいかもしれない。
しかし、途中どうなるのだろう、と怖くなった時もあったが、最終的にはすごく良いものに仕上がったと思う、
とちょっとした自信を最後にのぞかせるシャー。

** ネトレプコ、ポレンザーニ、ベニーニが語るベル・カントとベル・カントにおける演技 **
ベル・カントとは美しい音色、美しいフレージングで構成される歌唱であり、
それはいわゆるベル・カントのレパートリーを超えて、どんな作品においても(たとえばフランスものでも)応用できるものである。(三人同意見)
(ゲルブ支配人のネトレプコに対して、舞台に立っている時、歌と演技ではどちらにウェイトを置いているか?という質問に、当たり前でしょ、という風に)
それはもちろん歌です。

** きっちりしてるかと思えば割りとテキトー?なベニーニ **
ベルカントでいかにスコアに書かれているままにきちんと歌い、演奏することが大事かを滔々と語るベニーニ。
ところがネトレプコに”でも今回の公演ではカットもあるのよ。四重唱(注:一幕のラストのことを指していると思われる)とか。”と暴露されると、
”ベル・カントの時代には、曲のつぎはぎ、追加、省略なんてのは普通に行われていたからね。今回程度のカット、私は全然気になりません。”
ま、確かにそれも一理ありますが、きっちりしてそうに見えて、実は結構適当なベニーニ。

** 指揮者ベニーニからメト・オケへの愛のメッセージ **

この作品には絶対的にイタリア的なサウンドが必要であり、オケは、それをきちんと出せるタイプと、からっきし駄目なタイプ、
この二つに一つしかない。メトのオケには間違いなくそのサウンドがある。
メトのオケは本当に素晴らしく、イタリアのスタイルにアメリカのプロフェッショナリズムが合体した感じ。
このオケの素晴らしさは、、、例えば、”ここはこういう風に演奏したいな。”と心に念じただけで、
オケがすっとその通りに演奏してくれる、そういう素晴らしさをもったオケなんです!
ここで指揮が出来るなら、私は喜んでいつでも他の仕事を放り出してでも帰って来ます。
(M: あーた、そんなこと言っちゃっていいんですか?知りませんよ、他の劇場に聞きつけられても、、。)

** 畳みかけるようにバートレット・シャーの証言 **
そうですね。例えば僕が演出上の指示を出しますよね。すると、それに合わせてオケの演奏まですっと変わるんですよ。
あれは本当に聴いていて、僕のような音楽の素人ですらすごいな、と思います。

** マシュー・ポレンザーニ、メト・オケについて支配人を詰める! **
本当にそうなんですよ、ピーター!
(とやおらゲルブ支配人の方を向く。このピーター!という呼びかけのなかに、
”あなたはそのありがたさをわかっていない!”という痛切な訴えかけのニュアンスを聴き取ったのはMadokakipだけではあるまい。
ポレンザーニの勢いに度肝を抜かれて一言も発せないゲルブ支配人に畳みかけるポレンザーニ!!)
僕は幸運にも世界各地の劇場で歌う機会が与えられていて、色んな劇場のオケについて、
いやー、良い演奏だなー、こういう演奏の上で歌えて幸せだなーと思って歌うんだけれど、
メトに帰って来て彼らの演奏を聞くと、”ああ、他の劇場のオケとはいる場所が一段違う、。”と思うんだよ。
そりゃ、ヨハン・シュトラウスの作品ならウィーン・フィルには他のどのオケも適わないし、
ヴェルディの作品についてのスカラ座にも同じことが言えると思う。
だけど、これほどどんなレパートリーでも、そして僕が”どんな”とここで言うのは本当に”どんな”で、
ブリテンから始まってワーグナー、ヴェルディ、ベルク、モーツァルト、他にも色々あるけど、
その広いレパートリーで、これほどまで高い結果をコンスタントに出せるオケは他にどこにもないんだよ!!
(彼の迫力に押され、”それもこれもマエストロ・レヴァインの長年に渡る努力のおかげですね。”としか返事することが出来ない支配人。
ポレンザーニの心のこもった力説に、たくさんの思い出多いオペラの舞台と常に共にあったオケへの愛情を表現しようと
オーディエンスから大きな拍手が巻き起こる。)

** ネトレプコのコメントに固まるオーディエンス **
(と、会場がメト・オケへの溢れる愛で盛り上がっているところ、そろそろオケの話は飽きたわ、といわんばかりに
ネトレプコがポレンザーニに向かって)
”だから、メトロポリタンって名前なんじゃないの。”
冷や水を打ったように静まるオーディエンス。
何十年もメトに通いつめてるローカル・ファンで埋められた客席から、
”こんなひよっ子に、メトの歴史とそれを支えて来たオケの何がわかるのか。”とか、
”そういう発言は自分の歌の完成度がメトのオケの演奏のそれと同じ位高くなるまで待つんだな。”
という妖波のようなものがオーディトリアムの中に一瞬渦巻いてました。
地雷を踏みましたね、ネトレプコ。
我々ローカルのファンはゲルブ支配人と違って圧倒的な才能とスキルと努力が伴わない歌手以外は
誰のことも特別扱いなんてしませんから気をつけてくださいね。

** オペラ歌手になる決心をしたきっかけ~ネトレプコ編 **
18歳の時に見た、ヴラディミール・ガルージンが出演していた『オテロ』(マリインスキーの公演)。
自分の望むものすべてがそこにあった。

** オペラ歌手になる決心をしたきっかけ~ポレンザーニ編 **
まずオペラ歌手に絶対なりたくて、それが成功しなかった場合、代替として学校の音楽の先生を希望する、、というパターンは割りとあるが、
自分はそれとは全く逆で、合唱の先生なり何なり、学校で音楽を教えたい!という情熱がものすごく強くて、
まあオペラ歌手はなれればいいな、位の程度だったんだよ。
(M: ポレンザーニが学校の音楽の先生やってるところを想像したらはまり過ぎてて笑い出しそうになってしまった。)

** ネトレプコの今後の予定 **
はっきりとしたことはまだ言えないが、『トロヴァトーレ』や『ローエングリン』などについてはスコアを見ている。

** ポレンザーニの今後の予定 **
僕の場合は、来シーズンにカラフを歌います、、ということはまずありませんので(笑)、
(M: 彼の声は明らかに彼が下であげているようなレパートリーに向いた声なので、
正反対のロブストな声質を求められるカラフを歌っている姿を想像すると、これもまたなかなかに突飛で笑えるものがある。)
今まで通り、ベル・カントのレパートリー、フランスもの、モーツァルトの作品といったあたりを歌って行くつもりです。

、、、ということで、これまでは口を開いてもまっとうなことしか言わない、あまり面白くない人、
というイメージが強かったポレンザーニが今日はなぜだか一人結構暴走していて楽しませて頂きました。
またキャストのシャーへの駄目だしのおかげで、吹聴されていたほどにはダークでない演出に仕上がったような印象も持ちます。
オープニング・ナイトがどのような結果になるか、実に楽しみです。

(トップの写真はアディーナ役のアンナ・ネトレプコとドゥルカマーラ役のアンブロージョ・マエストリ。『愛の妙薬』の宣伝用スチール。)

MetTalks: L'Elisir d'Amore

Anna Netrebko
Matthew Polenzani
Maurizio Benini
Bartlett Sher
Moderator: Peter Gelb

Metropolitan Opera House

*** MetTalks L'Elisir d'Amore 愛の妙薬 ***