今シーズンのメトのスケジュールをざっと眺めて思いました。
”やられたー。”
それというのも、ただでさえ上演する演目数自体が増えているのに、その上に同演目で3つも4つも違うキャストを組んでいるものがあるので、
これを全部今までと同じような調子で鑑賞していたら、破産に向かって一直線!です。
それに、先シーズン、途中でブログを中断してしまったのも、一つには公演の平均クオリティが目に見えて下がって来ていて、
無理をおしても感想を書きたくなるような公演がない状態が続いているうちに、書く気が失せてしまった、というのがそもそものきっかけでした。
まるで役を歌う準備が全然出来ていない歌手に、練習がてらにメトの舞台に立っているのかと思うような歌を披露され、
正直、これは聴いちゃおれん!と、途中で劇場の外に出たくなるような公演が一つや二つではありませんでした。
例をあげれば、ブラウンリーとマチャイーゼの『連隊の娘』、
カウフマンがキャンセルしたためにウェストブルック夫が入って夫婦共演となった『ワルキューレ』、
ミヒャエルとハンプソンの『マクベス』(この『マクベス』はまじで鳥肌が立つほどひどかった!)、、、ときりがないのですが、
そんな公演に大枚はたいている自分がなんだか馬鹿らしくなって来まして、
これまではどんな歌手も公演も、出来るだけ同じ条件で聞き比べたい、ということで、決して安価ではない座席にお金を注ぎ込んで来ましたが、
今年は自分の好きな歌手が出ている公演とか内容に期待が出来そうな公演のみ、これまで座って来たのと同じレベルの座席のチケットを購入して、
残りはシリウスで聴いて良さそうだったら同等のチケットを買う、
そうでない場合やシーズン初日等の事情で事前に演奏レベルのチェックを行えない公演に関しては、スタンディング・ルームで鑑賞しようと思っています。
スタンディング・ルームは文字通り立見席なので、もはや若くはないこの体には決して楽ではありませんが、
”これはひどすぎる。”と思ったらそのまま帰っても大した出費にはならないし、気が楽です。
以前は駄目な公演もその理由を見届けるべく、公演の最後まで劇場にいる、ということをモットーにしていましたが、
それは駄目と言ってもある一定のレベルはクリアしていたことが多かったからそうしていたのであって、今は状況が違い過ぎます。
私もそんな暇じゃないっての。
『愛の妙薬』でシーズンが開幕して以来一週間、現在メトでは『トゥーランドット』、『カルメン』、『トロヴァトーレ』と合わせた四演目がパラレルで走っていますが、
先日シリウスで聴いた『トゥーランドット』がこれまたオソロしかったですねえ。
グレギーナのトゥーランドットにベルティのカラフ、、、これである程度、恐怖の予想はつくというもので、
唯一の期待はゲルズマーワのリューだったんですが、彼女のリューが期待したほどにはよくなくて、
ピン・ポン・パンの一角、ドウェイン・クロフトが一人気を吐いていたのが素敵でしたが、
ピン・ポン・パン聴くために『トゥーランドット』を鑑賞するってのもちょっと違う気がする、、。
なら、Bキャストになるまで保留する手でいくか、と思ってBキャストのメンバーをチェックしてみたら、
テオリンのトゥーランドット(これは興味あり)の横に、ジョルダーニのカラフ(!!)と書いてあって、
先には一層恐ろしいものが待ってるのね、、と呆然。一体私はどの公演を見たらいいの?って感じです。
さて、『トロヴァトーレ』のレオノーラ役なんですが、これが先ほどお話したカルテット状態のキャスティングの一例で、
カルメン・ジャンナッタジオ、グアンカン・ユー(ということに英語の綴りからするとなるのですが、
チエカさんのサイトにご本人に発音を確認した、という方の話が掲載されていて、
その方によると音的にはグワンチュン・イーに近いそうです。)、
そして、パトリシア・ラセット、アンジェラ・ミードという顔ぶれになっています。
ミードに関しては、当然のことながら、きちんと座れる座席で鑑賞すべくチケットも今から準備してありますが、
Aキャストのジャンナッタジオはこれまで生で聴いたことがないソプラノなので、シリウスでチェックしてから行こうかな、、と思ってました。
ところがドレス・リハーサルの直前に体調を崩したのか、ジャンナッタジオがドレス・リハーサルも初日も両方キャンセルすることになってしまい、
その結果、セカンド・キャストのユーがドレス・リハーサルとシーズン初日の舞台をつとめることになったんですが、
そのドレス・リハーサルを鑑賞したヘッズの中に、”彼女の歌唱は悪くないぞ”という声がちらほらあって、俄然興味がわいてきました。
こんなことを言ったら、”このレイシスト!”と非難されそうですが、
私はこれまであんまり、というか、全然、中国人の歌手というのを評価も信用もしてなくて、
というのも実際最近メトで主役・準主役をはる中国人歌手が段々増えて来ているんですが、
(金魚顔のソプラノ、イン・フアンとか、フイ・へ、シェンヤン、、、
あとはカナダ国籍をとっているみたいですけれど、リピン・ツァンとか、、)、
発声に難ありだし、テクニックも良く言って微妙、悪くすると”なんじゃこりゃー??”というレベルの人もいて
(フイ・へがメトで『アイーダ』を歌ったときの”おお、我が祖国”のあまりに音程が狂っていることには音程酔いするかと思いました。)
一体なんでこんなのがメトにうまうまと紛れ込んでくるわけ?と思うわけですが、
多分、どこぞの国と同様、国内の声楽教育に問題があるんじゃないのかな、と思っていて
この『トロヴァトーレ』がメト・デビューとなるユーという29歳のソプラノもその流れを組む人なんじゃないの?と、
疑心暗鬼でYouTubeにあがっている彼女の歌唱をおさめた映像を拝見してみました。
(奇しくも曲は『トロヴァトーレ』の”穏やかな夜 Tacea la notte placida"。
肝心な高音で音が割れ+飛んでいて、そこから映像と音が分離してしまうのが、ここの高音は実際はどうだったのだろう、、?と実に怪しいですが、、。)
これが思ったよりはきちんとした発声とまともな歌で、これならばオペラハウスで生を聴いてみる価値はある、聴いてみたい、と思いました。
また、彼女がテバルディ国際コンクールに出演した際のインタビュー映像もあがっていたのですが、
そこで見た彼女の物怖じしないキャラクターと、アジア人然としたところがあまりなく、西洋的マナリズムを実に自然に体得している様子に、
YouTubeでの歌は若干肩肘張っている感じがありますが、もしかすると舞台ではこれよりはパッショネートな歌を聴かせてくれる可能性があるかも、、と感じました。
歌唱をおさめた映像ももちろんきっかけではありましたが、そこで一定以上の歌唱レベルが保証されていると感じた後は、
むしろ、こちらのインタビューの時の様子の方が、彼女を生で聴いてみようと決めた、より大きな理由かもしれません。
もはやA(第一)キャストの方がB(第二)キャストより優れているとは全然限ってないんですが、
なのに皮肉にも、Aキャストでデビューをするのと、Bキャストでデビューを飾るのとは大違い、、、
なぜならば、メディアの批評はほぼ100%、シーズン初日、つまりAキャストによる公演について書かれるからです。
(Bキャストでも比較的充実したキャストなら再度取り上げてもらえることもありますが。)
初日の公演でポジティブな評をもらうことは、メト・デビューを飾る歌手にとっては大きなキャリア・ブーストになるわけで、これで燃えなきゃ嘘、
また、燃えてそのプレッシャーに勝って良い結果を出すことで、今後もメトの舞台に立ち続けるにふさわしい歌手、というお墨付きをもらえるわけです。
もちろん、そのプレッシャーに負けてしまうデビュタンテもいるわけで、
最近ですと、『リゴレット』で大コケしてしまったメーリが脳裏に浮かびます。
彼なんか、あのデビューがよっぽどのトラウマだったのか、同じシーズンに歌うはずだった『椿姫』もキャンセルしてしまったし、
今シーズンの『マリア・ストゥアルダ』まで降板してしまいました。(公式の理由はロベルト役をoutgrowしてしまったため。代わりはポレンザーニが歌うそうです。)
立見席のチケットの獲得に関しては以前『アイーダ』で冷や汗を書きましたので、
今日も心して挑んだところ、いとも簡単に電話がつながって、”(立見席の)最前列、お願いしますね。”と念押しすると、はい、大丈夫です、と頼もしいお返事を頂きました。
実際メトに到着してみると、意外にも立見席はそれほど混んでなくて拍子抜け。
ま、考えてみると『アイーダ』のムーアはシーズン一回きりの舞台になる可能性があったので(そして実際そうなった)オペラヘッズがチケット求めて必死になりましたが、
ユーの場合はBキャストの公演でさらに聴く機会がありますからそのあたりの違いかな、と思います。
でも、オーディトリアムのドアが閉まる頃にはアッシャー達が互いに”今日のキャスト、いいんだよね。すごく、、。”と言っていて、
ドアの外側担当の人は残念そうに退出して行きましたが、それ以外のアッシャー達が客席の後ろにたむろって、
なかにはポータブルの椅子を持ち出し、じっくり鑑賞する気満々の人がいるのを見て、すっごく気分が盛り上がってきました。
今日のキャストは別にスター歌手が混じっているわけでは全然ないですから、
彼らは一般的な意味で”良いキャスト”と言っているのではなく、
明らかにドレス・リハーサルの場にいて、その時の印象を元にそう言っているわけで、これはもう期待せずにはおれない、というものです。
オケを率いるのはつい”カリガリ博士”と呼び違えてしまいそうになるダニエーレ・カレガリ。
オケのリハーサルでは”金管をそんなに鳴らさないで!”と何度も叫んでいたらしいので、
もしかしたら全然金管の聞えないエキセントリックな演奏を目指しているのかな、、と興味津々でしたが、前奏の部分、すっごく良かったです。
奏者同士の音のバランス、それからタイミング、すべてがぴったりで、最初のフレーズの残響の残り方の輝かしくて綺麗なことには鳥肌立ちました。
だし、全然金管の音、小さくなんかないです。ちょうどいい。
リハーサルの時、よっぽど大音響でぶちかましていたんでしょうか。
特に第一幕、第二幕でのきびきびとしたテンポのおかげで作品の緊張感が失速せず、客席が舞台と演奏にすごく引きこまれて、
拍手をするところ以外はものすごく静かだったのも印象に残りました。
2010/11年シーズンの記事にも書きました通り、フェランドは歌唱量など役としてはそれほど大きくはないですが、
公演全体のトーンを設定しかねない責任重大な役で、この役が駄目だと公演全体に不安を覚えてしまいます。
私は最近聴いた中では声のカラーが東欧的なサウンドでちょっと個性的ではあるのですが、ツィンバリュクが断トツで良かったので、
またメトに帰って来てくれないかなーと思っているのですが、そう簡単に私を喜ばせてはくれないようで、今日の公演にはモリス・ロビンソンが配されました。
なんだかK1の選手みたいにガタイがでかいうえに顔もいかついので、共演者が間違って足とか踏んでしまったら半殺しにされそうな雰囲気の彼ですが、
ツィンバリュクよりは若干アジリティの点で重めになってしまう部分がありますが、全体的には技術はしっかりしているし、
伯爵家にまつわる話の持つ不気味さをとても良く表現していたと思います。
ただ、彼が”遠き山に日は落ちて~”を歌っている下の音源からもわかる通り、黒人歌手特有の声質(エリック・オーウェンズとかと共通した響きがあります)が好みを分けるかもしれません。
(ハンプソン似の司会の紹介によると、彼はアメリカン・フットボールをやってたんですね。K1体型も納得。)
今日はレーシストついでに告白しますと、実はオペラの男性の低声パート、中でもイタリアものでのそれは、
個人的にあんまり黒人歌手特有の響きは好みでないんです。
でもそれはあくまで私の好みであり、また、それってMadokakipに金髪美女になれ、と言うのと似て
本人の力ではどうしようもないことで、彼の出来る範囲内では、良い歌唱を聴かせていたと思います。
合唱も◎。メトの合唱の男性陣はここ数年で本当に良くなりました。
(女性陣はそれに比べると音色があと一歩!と思うところがあって、これからの精進を期待しているのですが、、。)
そしていよいよイネズとレオノーラの登場。
いよいよ”穏やかな夜 Tacea la notte placida”で聴こえて来たユーの歌声。
いやー、良い声してますよ、彼女は。
YouTubeで想像していたよりも、劇場で聴いた方が凛とした残り香のようなものが響きの中にあって、
非常に良く通る声をしているんですが、客を威圧するような爆音ではなく、
また、発声にエキセントリックなところが全くなくて、すごく自然に無理なく音が出ていて、聴いていて非常に心地良い音色です。
また、レオノーラ役にふさわしい真っ直ぐさ、清らかさと、この作品自体が持つ陰鬱な雰囲気にふさわしいほんの少しの暗さがほどよく声質に混じっていて、
この役に対しての適性もものすごくあります(ただ、もう少し後にこのレパートリーに行っても良かったかな、という気もしていて、
その理由は後にも書きますが、いずれにせよ、生来持っている声質がこの役にとても向いていることは間違いありません。)
発音は横において、音の響きと発声や歌いまわしだけの話をすると、
アジア人でこれだけヴェルディの作品にふさわしい音色とスタイルを出せる人が出て来た、というのはとても喜ばしい発見です。
2008/9年シーズンにマクヴィカーの演出が登場してから、
レオノーラ役ではラドヴァノフスキーとラセットの二人を聴いていますが、
二人とも歌い方がこの作品で求められている、またそれがなければこの作品の良さを十全に表現することはできないスタイルのようなものを満たしていなくて
(ラセットは生で鑑賞した時は残念ながら風邪気味だったんですが、後の公演をシリウスで聴いても、”うーむ。”という感じでした。)、
その上にラドヴァノフスキーは爆音系なので、私にはあまりにエキセントリックに感じられてがっかりしていたんですが、
ユーの登場のおかげで、久しぶりにきちんとしたレオノーラを聴いた気がします。
また彼女はテバルディ国際コンクールでは『アンナ・ボレーナ』の
”あなたたちは泣いているの?~私の生れたあのお城 Piangete voi? ... Al dolce guidami"を披露している位なので、
元々ベル・カンティッシュな歌唱にはそこそこ自信があるし、だからこそ、このレオノーラ役をレパートリーに入れているんでしょうが、
そのベル・カント的スキルという面でも”Tacea la notte"に関してはまずは期待を裏切らない出来だったと言ってよいと思います。
また、彼女のもう一つの意外な、そして決して小さくない良さは、アジア人としては珍しく歌と演技にパッションがあることです。
APだったと思うのですが、この日の公演評の中に彼女の演技がいわゆるオペラ的型通りの枠を超えていなかった、
というような趣旨を書いていたものがありましたが、私は全くそれに同意しません。
マクヴィカーの演出は作品の雰囲気を良く伝えていて、場面転換がスピーディーで作品の緊張感を損なわない、ということで非常に評価が高いのですが、
実は結構スタティックな舞台で、ラセットのような演技力に長けた歌手でも演技に苦労している様子が過去の演奏から伺われました。
というか、この作品って、本当に演技するのが難しい作品だと思うんですよ。
この作品で、歌ではなく、演技のドラマティックさに感激した!というような舞台があれば、教えて頂きたいほどです。
しかし、出来る動作が限られているこの舞台でも、ユーは所作にきちんとしたリズムがあって、演技の勘も決して悪くないことが感じ取れます。
ついでに言うと、彼女はYouTubeではなんとなく、どべーっとしただらしない体型のように見えるんですが、
舞台に立って実際に動いているところを見るとそうでもないし、今回の衣装も良く似合ってました。
ただ、私はオーディトリアムの一番後ろで鑑賞しているので、顔の表情まではさすがに見えません。
最前列で顔の表情までばっちり、、というようなところで見ると、また印象は違うかもしれません。
ルーナ伯爵役のヴァサロは、メトでは『清教徒』や『愛の妙薬』といったベル・カントものにキャスティングされている印象が強く、
そのうえ、特に『愛の妙薬』の方でのはじけっぷりには大笑いさせてもらったので、
(今年のオープニング・ナイトの『愛の妙薬』に登場したクヴィエーチェンのかっこつけなベルコーレとは対照的、、、)
なんかすごく面白い人、という刷り込みがあって、”彼がルーナ?!”って感じで、キャラ的にも声質的にも???だったんですが、
彼も思いの外良くて、嬉しいサプライズでした。
再び、ここ最近のマクヴィカー演出のもとでのルーナ役を思い起こすと、ホロストフスキーとルチーチの名前が浮かびます。
ヴァサロの歌はホロストフスキーの歌唱のように洗練されてはいないし、
ルックスについては、私のいる場所からならヴァサロの舞台姿も悪くなかったですが、舞台そばで顔込みで見れば、ホロストフスキーに勝負あり!なのは明らかだし、
またルチーチに比べても、いわゆる”うまさ””完成度”では劣っているかもしれません。
しかし、この三人の中で、ルーナ役として誰か一人を選べ、と言われれば、私はヴァサロを採ると思います。
彼もどうやら1969年組らしく、それだけでもなんとなく応援したくなる、というものなんですが、もちろん理由はそれだけでなく、
彼の声の地の底からじわじわと湧きあがって聴こえてくるような音はまぎれもないイタリア的サウンドで、ホロストフスキーとルチーチの音の広がり方とは全く違う。
私は基本的には”本場主義”なんかじゃ全然ないんですが、ある特定の作品については偏執的な自分の好みがあって、
『トロヴァトーレ』は私のその偏執的な部分に特に訴えかける作品なんだと思います。
で、私は『トロヴァトーレ』に限っては、出来る限り、イタリア的なサウンドが欲しいと思っているんだな、ということを今回、自ら再確認しました。
(別にイタリア人のキャストじゃなきゃだめ、と言っているわけではないところに注意。)
また、ヴェルディ作品を歌う場合のレガートの大事さは誰もが口を揃えるところですが、その点でも彼の歌唱は良い、
なので”君が微笑み~Il balen del suo sorriso”はとっても良かったです。
ほんとルチーチは煙草やってる場合じゃないでっせ。
またそれに続く”運命の時は来た Per me, ora fatare"はオケと合唱が入って来てすごく音が厚くなりますが、
ヴァサロの地の底系の声が、きちんと私のいる劇場の一番後ろにまで届いて、すごくエキサイティングな場面になりました。
ま、一言で言いますと、ヴァサロの歌は偉大なる歌手と呼ぶような完璧さはないですが、
『トロヴァトーレ』という作品を聴くという体験を楽しくするための大事なエレメントは押さえている、と、そういう感じです。
ニ幕の最後で、マンリーコの手下に喉元をかっ切られて、”あああああああああっ!!”と大声をあげる部分のタイミングや迫力とか、
四幕最後の、弟を殺してしまうとは自分はまんまとアズチェーナ(と彼女の母)の復讐に屈したのか?とひざまずいて頭を抱えて
苦悩する様子とか、
彼はベルコーレのようなコメディックな役柄だけでなく、ヴェルディもののシリアスな役柄でも同様に、舞台人としての演技のしっかりしている人だと感じました。
しかし、今日凄かったといえば、何と言ってもザジックでしょう。
彼女が私の大好きなメゾであることは当ブログで周知の事実であるので、またMadokakipがほざいとる、、と狼少年的にご覧になっている方もいらっしゃるかもしれません。
正直、彼女もさすがに齢60だし、最近の公演では若干パワーダウンしているところもあったし、
直近で歌った『トロヴァトーレ』ではペース配分への気の配り方が以前に比べてはっきりと露見するようになっていたり、
声楽的に厳しくなった箇所をかばうようなジェスチャーもあったりして、そのせいで役作りに本来向けられているはずのパワーが消耗されていたりしていて、
(それでも現役のどのメゾもこれほどまでには歌えまい、という内容ではありましたが)
今回はそれがさらに進行したような感じになるかな、と思ってたらとんでもない。
マクヴィカーの演出が登場して以来、この演目がスケジュールに含まれる年は必ずアズチェーナ役を歌っているザジックですが、
この公演での彼女は役への解釈が一段と深まっていて、本当、すごい迫力でした。DVDにもなったHDの公演の比じゃありません。
ああ、今日の公演を収録して欲しかったなあ、、。
声のパワーの凄さと言ったら、なんだか一周り若返ったような、
声帯用のボトックスみたいなものがあったら絶対にそれを使っているに違いない、と勘違いしてしまうほどなんですが、
それが高音域で顕著なところを聴くと、今より若かった頃の彼女はもう少し全音域で統一された音量だったので、
これはこれで彼女が年齢のせいで、音量の微妙なコントロールが難しくなって来ている結果と考えられなくもないのですが、
まあ、このアズチェーナのような役は、これでもいいでしょう。
でも一方で、胸声区の良く響くことは、一体60にもなってこんな音を出せるなんて何者??って感じです。
でも今日の彼女の凄さは、そういう声楽的な部分を越えた面で(もちろん声楽的な実力がそれに貢献しているので、完全に越えているわけではないのですが)、
役へのコミットメントの深さとでもいうのか、そこに集約されると思います。
例えば、”母の復讐をしようとルーナ伯爵の子供を盗んで火の中に放り込んだのはいいが、気がついたらそれは自分の息子だった”とびっくり仰天な打ち明け話をアズチェーナがして、
マンリーコと観客を、”じゃ一体マンリーコは誰なんだ?”と震撼させる”Condotta ell'era in ceppi 重い鎖につながれて”。
2010/11年シーズンのHDの時、彼女は下の映像のように歌っています。
これはこれですごく良い歌唱なんですが、2'18"から4'48"までの部分での彼女の今日の歌唱は
アズチェーナの狂気が一層鬼気迫っていて本当に怖く、また憐れを誘いました。
(この演出が初演されたころ、MetTalksでザジックは見事にこの役をデサイファーしています。)
特に3'36"からの"Ah! il figlio mio, mio figlio avea bruciato! (ああ、私の息子、私の息子を焼き殺してしまった!)”と歌うil figlio mioの繰り返しの部分、
この映像では前を見て普通に歌っていますが、今日の公演では両手を横に広げながら天を仰ぐような姿勢で静止したまま、
まるで雷か何かに打たれるように、”私の息子を、私の息子を”と歌っていて、
あの姿勢ではもはや指揮者は全く彼女に見えていないはずなのに、オケの演奏と彼女の歌唱が完全に一体化していて、
その彼女の天を仰いでいる姿に稲妻が走って落ちているのが見えるような、フランケンシュタインも真っ青の壮絶な場面になっていました。
上の映像では少しマルコ(・アルミリアート)の演奏が慎重なせいか、若干緩い感じがあるんですが、
今日の演奏ではものすごい緊張度を保ってこの部分の彼女の歌唱を支えたカリガリ博士とオケの演奏も讃えたいです。
でも、こういう歌唱を聴くと、このアズチェーナの悲壮な叫び、悲しみ、怒り、そしてそれが混じりあった精神の混乱があってこそ、
この話はドラマティックな悲劇として成立するんだな、と思います。
しばしば、ストーリーがconvoluted(複雑でいまいち意味がよくわかりにくい、といった意味)ということで、
音楽の素晴らしさ以外の部分で貶められることの多い『トロヴァトーレ』ですが、このオペラは確かに筋の面では合理性に欠けているかもしれませんが、
登場人物の行動と感情をきちんとバックアップする歌唱があれば、これはこれで説得力のある舞台になる作品なんだな、というのを感じさせられました。
第三幕でルーナ一味にとっつかまえられる場面で、彼らにしょっぴかれながら、高笑いしている様子も怖かった、、。
これで、自分の命や安全が危険にさらされている事実よりも、復讐の成就にまた一歩近づいたことを感じ、それを喜んでいるアズチェーナの精神の錯乱ぶりが良く表現されています。
あるいは、彼女の母親に精神を乗っ取られているのでは?と思わせる部分もありました。
今日の公演で唯一水を差したのはマンリーコ役のグウィン・ヒューズ・ジョーンズという、
これまでENOなどに登場しているらしい、ウェールズ出身のテノールです。
見た目はほっそりしていて、舞台姿は悪くないのですが、
歌唱技術のないロッシーニ歌いがいきなり『トロヴァトーレ』の舞台に紛れ込んで来たような線の細い声で、ものすごい違和感を覚えました。
そのENOでトゥーランドットのカラフなんかも歌っているみたいなんですが、にわかに信じ難い、、、
彼自身も緊張していたのかもしれませんが、声の支えが全然なくて、今にも砕けそうな声だし、
日本の音大生が乗り移ったかのようなポルタメント嵐!の歌唱で、下品なことこのうえない。
またそのリズム感の欠如していることと言ったら!
4人の主役のうち、3人がしっかりしているだけに、一人だけクラスの違う歌手が入って来た感じで、これは彼自身の無力さもさることながら、
メトのアーティスティック・デパートメントのキャスティングの失敗でしょう。
何を連れて来るんじゃ、、、って感じです。
確かにマンリーコは大変な役ですし、私はマルセロ・アルヴァレスにだって満足しませんでしたから、キャスティングが大変な役であることは重々承知です。
でも、まさかキャスティングが大変だからって、”僕歌えるよ。”という自己申告だけ信じてキャスティングしたんじゃないでしょうね?
今日の公演は彼を除いてはとても内容が良かったものですから、オーディエンスの集中度も高く、非常に客席は静かだったのですが、
ザジック演ずるアズチェーナがルーナたちに連行された後あたりで、私の立っている場所の近くの座席から携帯電話の着信音のようなものが聞えてきました。
”早く切れよ。じゃないと、私が切れるよ。”と思っていると、段々音量が上がっていくような設定になっていたようで、
まわりの座席からも、”ちっ!”という舌打ちが聞えて来ます。
もたもたと暗闇の中で電話を切る方法を探っていた持ち主のおばあがやっと着信音をとめたまでは良かったですが、
どうやら携帯本体のスイッチの切り方自体がわからないようで、また電話がかかってきたらどうしよう、、と気になるのか、
座席を立って、オーディトリアムの外でスイッチを切るべく、アッシャーのいる扉の側までやって来ました。
するとアッシャーは”一旦外に出られますと、もう中には戻れませんが。”
良い公演だけに、おばあは帰る気はないらしく、”それは困る。私は戻りたいのよ。”というのでひと悶着です。
最初は声を潜めていたアッシャーもおばあとやりやっているうちに、段々大声になっていて、
”わたしは携帯を切りたいだけなのよ。外に出ないと切り方がわからないのよ。””でも外に出られたら、お戻りになれないんです!”と、
もはや私のいる立見席はおろか、後ろの方の客席にまで聞える口論になっています。
”一旦退出したら戻りは不可。”という理屈はよくわかりますが、アッシャーも融通が利かないというか、
ここまで揉めたら、彼女をすっと外に出して戻る準備が出来た時に戻した方が客への迷惑も少なくすむのに、、、。
”それでは携帯を外でお預かりしますから。”というアッシャーの言葉には、
その時はあんたが外に出て、また戻ってくるわけで、ドアの開閉は2回。彼女自身を外に出しても開閉2回。
迷惑という点で何ほどの違いがあるというのか?、と心の中で呟き、
”それは困るの!”というおばあの言葉には、
”メトがあんたの古くっさい携帯を盗むわけないでしょうが!!早く渡しちまいな!!”と喉元まで言葉が出てくるのを押さえているうちに、
マンリーコの”見よ、恐ろしき炎を Di quella pira"がもうそこまで迫って来ています。
へなちょこマンリーコですから、すごいものを聴けるとは思っちゃいませんが、どんなへなちょこぶりか、確認しておく必要があるのに、これでは聞えない。
しかも、その後は、私がソプラノの全てのアリアの中で一番好きなそれのグループに入っている”恋はばら色の翼にのって D'amor dull'ali rosee"で、
ユーがこの曲をどう歌うのかは、今日の鑑賞の中で一番楽しみにしているところです。
客席から、”しーっ!”という叱責の声が何度も起こっているのに、かれこれ5分も上のような押し問答が続いたでしょうか?
アッシャーがもはやひそひそ声を保つことが出来ずに、客席にまで十分聞えるような普通の声量で、
”それではこちらで外で携帯をお切りする間、ここで待っていて頂いて、、、。”,
おばあ ”どうして私が外に出ちゃいけないの?”、、
、、、とそこで、私の頭の中でどっか~ん!!!という音がしました。
やおら、立見席からくるっと後ろを振り返り、闘牛もびっくりの勢いで彼ら二人の方に突進していくと、
拳をおばあの前に振立て、殴りかからん勢いで、”あんたらのせいで、聞えるものも聞えないのよっ!!!あんたら二人とも早く外に出て行けってんだよ!。”と、
しかし、客席にいる観客の迷惑に私がなってはいけませんから、あくまでひそひそ声+手話のようなジェスチャーで。
最後の、”早く外に出て行けってんだよ!”のところで、思い切り両手を扉に向かって刺す様に指し出し、
”今でてけ、このやろー!”というメッセージを込めて彼女ににじり寄ると、
おばあはおろか、アッシャーも、”どこの動物園の檻からこの野獣は飛び出して来たんだ。”という様子でまるで虎に食いちぎられる寸前のガゼルのように縮み上がっています。
その後、ニ十秒ほどまだひそひそ声で押し問答してましたが、結局彼女を一時的に外に出す、ということで解決したようで、
なんとかDi quella piraには間に合いましたが、こちらはもう舞台上のマンリーコもへじゃないほど、血圧あがりまくりです。
使い方も知らない道具を持って歩く、ましてやそれでオペラハウスの敷居を跨ぐと、
熱狂的なオペラファンに半殺しの目に合いかねませんから、年配の方はご注意頂きたいものです。
せっかくそこまでして聴けた”見よ、恐ろしき炎よ”ですが、恐ろしかったのは炎ではなく、ヒューズ・ジョーンズのall'armiでのハイCです。
一応ハイCにはなってましたが、今にもよろけて倒れんばかりのヘロヘロな音で、何とか出てますけど~、といった風。
これだったら、まだアルヴァレスの方が1000倍まし。ほんとに今のオペラ界にはマンリーコを歌えるテノールがいないんだな、、と悲しくなりました。
気を取り直して四幕の、先述のレオノーラのアリア、”恋はばら色の翼にのって”。
なぜこの曲が私の好きなアリアかといえば、それはヘッド人生の初期にカラスの歌唱にふれたことが原因であることは間違いありません。
彼女はこの曲を正規の全曲スタジオ録音にも残しているし、リサイタルでも頻繁に取り上げているんですが、
どれを聴いても出来・不出来の差が少なく、彼女がいかにこのアリアを手中におさめていたかがわかるというものです。
(下は1956年のカラヤン/スカラ座とのスタジオ録音の音源です。)
彼女の歌と比べられるアーティストもたまったもんじゃありませんが、目標は高く!ということで。
結果を言うと、全幕優れた歌唱を披露していた中で、ユーの歌が若干シェイキーになったのがこのアリアかもしれません。
この曲は音楽の美しさもさることながら、テッシトゥーラの関係で難易度が高いこと、それから、息の長いフレージングが必要な点、
それから微妙なシェーディング、繰り返しの音をどのように色づけして歌うか、というアーティスティックな面で
私は一幕のアリアよりもずっと難しいと思っていて、だからこのアリアを偏愛していて、かつ舞台で聴くのを楽しみにしているのですが、
正直なところ、”これはすごい!”というこの曲の歌唱にまだメトでは出会ったことがありません。
ユーの歌唱は最初のフレーズから少しピッチが不安定で、すぐに出てくるトリルも少し甘く、
また長いフレーズも息継ぎで軽いあっぷあっぷ感があって、カラスのようにざーっと音楽が広がってくるような感じは希薄で、
他の部分での歌唱の優秀さと比べると、あれ?どうしたんだろう?と思います。自分でも少しこの曲に苦手意識があるのかもしれないな、と思います。
また、彼女はこの役だけでなく、色々なヴェルディ作品、またベル・カントものを歌っていくなら強化しなければならないポイントがあって、
それは高音をピアノ/ピアニッシモで出すテクニック、それも色んな微妙な音量やトーンを変えられるという高次なテクニック、を身につけることです。
彼女は高音を常にフォルテ気味に歌う傾向があって、それだと、この”恋はばら色の翼にのって”のような曲では表現がモノトーンになってしまって、
この曲の良さが十分には伝わって来ない。
例えばカラスの歌唱の2'13"、2'20"、2'24"、そして2'41"、2'49"(←カラスのこの音、素晴らしいですね。レオノーラの気持ちが伝わってきてせつなくなります。)、
2'56"の音を聴くと、それぞれに違った微妙なエモーションが込められているのが伝わってきます。
ユーはこのどれもが同じ調子で、どぱーっ!と放出型の音になっていて、きちんと歌えてはいるのですが、
カラスのような歌いわけが出来ると、曲にもっともっと豊かな表情が出て来るのにな、と思います。
このアリアについては、私の方の期待が大きすぎる部分もありますし、このアリアの後の部分は再びとっても良かったです。
一点、少しだけ気になった点は、彼女は結構熱血な歌を歌うので、ここからあまり早く重い役を歌う方向に進んでいくと、
喉に負担がかかるのではないかな、という点です。
熱血と言っても、決してスタイルを崩すほどの下品な熱血ではないのですが、アリアが終わった後の四幕の歌唱では、
すべてをかなぐり捨てて歌っている、という感じで、聴いている方は熱い歌が聴けて良いですし、
メト・デビューでこんな歌を歌うなんて度胸の面でも大したものだ(メーリも見習え!)と思いますが、
色々な劇場の注文に応えているうちに、無理なことにまで手を出すことだけはないよう祈っています。
レオノーラ役は間違いなく彼女の本来の適性に合っているとは思いますが、そういった意味で、あと数年後にメインにしても良かったかな、という気はします。
今日の歌唱を聴いていると、歌唱における表現力もあるし(アリアのところで書いたような高いレベルでの注文はありますが)
今の彼女なら、ヴィオレッタなんかも結構良い歌唱を聴かせられるのではないかなと思います。
それにしても、この『トロヴァトーレ』のような演目で、
従来のアジア人歌手では考えられなかったレベルの正統的な歌と演技で勝負できる歌手が出てきたのは本当に驚きで、
彼女がこれからどのように成長を続けていくか、とても楽しみです。
マンリーコのキャスティングが痛恨!でしたが、全体としては、非常にエキサイティングな『トロヴァトーレ』で、大満足。
こういう公演が続いている限り、ブログがストップすることもないんですけど、、。
Gwyn Hughes-Jones (Manrico)
Guanqun Yu replacing Carmen Giannattasio (Leonora)
Dolora Zajick (Azucena)
Franco Vassallo (Count di Luna)
Morris Robinson (Ferrando)
Hugo Vera (Ruiz)
Maria Zifchak (Inez)
Brandon Mayberry (A Gypsy)
David Lowe (A Messenger)
Conductor: Daniele Callegari
Production: David McVicar
Set design: Charles Edwards
Costume design: Brigitte Reiffenstuel
Lighting design: Jennifer Tipton
Choreography: Leah Hausman
Stage direction: Paula Williams
SR left front
OFF
*** ヴェルディ イル・トロヴァトーレ Verdi Il Trovatore ***
”やられたー。”
それというのも、ただでさえ上演する演目数自体が増えているのに、その上に同演目で3つも4つも違うキャストを組んでいるものがあるので、
これを全部今までと同じような調子で鑑賞していたら、破産に向かって一直線!です。
それに、先シーズン、途中でブログを中断してしまったのも、一つには公演の平均クオリティが目に見えて下がって来ていて、
無理をおしても感想を書きたくなるような公演がない状態が続いているうちに、書く気が失せてしまった、というのがそもそものきっかけでした。
まるで役を歌う準備が全然出来ていない歌手に、練習がてらにメトの舞台に立っているのかと思うような歌を披露され、
正直、これは聴いちゃおれん!と、途中で劇場の外に出たくなるような公演が一つや二つではありませんでした。
例をあげれば、ブラウンリーとマチャイーゼの『連隊の娘』、
カウフマンがキャンセルしたためにウェストブルック夫が入って夫婦共演となった『ワルキューレ』、
ミヒャエルとハンプソンの『マクベス』(この『マクベス』はまじで鳥肌が立つほどひどかった!)、、、ときりがないのですが、
そんな公演に大枚はたいている自分がなんだか馬鹿らしくなって来まして、
これまではどんな歌手も公演も、出来るだけ同じ条件で聞き比べたい、ということで、決して安価ではない座席にお金を注ぎ込んで来ましたが、
今年は自分の好きな歌手が出ている公演とか内容に期待が出来そうな公演のみ、これまで座って来たのと同じレベルの座席のチケットを購入して、
残りはシリウスで聴いて良さそうだったら同等のチケットを買う、
そうでない場合やシーズン初日等の事情で事前に演奏レベルのチェックを行えない公演に関しては、スタンディング・ルームで鑑賞しようと思っています。
スタンディング・ルームは文字通り立見席なので、もはや若くはないこの体には決して楽ではありませんが、
”これはひどすぎる。”と思ったらそのまま帰っても大した出費にはならないし、気が楽です。
以前は駄目な公演もその理由を見届けるべく、公演の最後まで劇場にいる、ということをモットーにしていましたが、
それは駄目と言ってもある一定のレベルはクリアしていたことが多かったからそうしていたのであって、今は状況が違い過ぎます。
私もそんな暇じゃないっての。
『愛の妙薬』でシーズンが開幕して以来一週間、現在メトでは『トゥーランドット』、『カルメン』、『トロヴァトーレ』と合わせた四演目がパラレルで走っていますが、
先日シリウスで聴いた『トゥーランドット』がこれまたオソロしかったですねえ。
グレギーナのトゥーランドットにベルティのカラフ、、、これである程度、恐怖の予想はつくというもので、
唯一の期待はゲルズマーワのリューだったんですが、彼女のリューが期待したほどにはよくなくて、
ピン・ポン・パンの一角、ドウェイン・クロフトが一人気を吐いていたのが素敵でしたが、
ピン・ポン・パン聴くために『トゥーランドット』を鑑賞するってのもちょっと違う気がする、、。
なら、Bキャストになるまで保留する手でいくか、と思ってBキャストのメンバーをチェックしてみたら、
テオリンのトゥーランドット(これは興味あり)の横に、ジョルダーニのカラフ(!!)と書いてあって、
先には一層恐ろしいものが待ってるのね、、と呆然。一体私はどの公演を見たらいいの?って感じです。
さて、『トロヴァトーレ』のレオノーラ役なんですが、これが先ほどお話したカルテット状態のキャスティングの一例で、
カルメン・ジャンナッタジオ、グアンカン・ユー(ということに英語の綴りからするとなるのですが、
チエカさんのサイトにご本人に発音を確認した、という方の話が掲載されていて、
その方によると音的にはグワンチュン・イーに近いそうです。)、
そして、パトリシア・ラセット、アンジェラ・ミードという顔ぶれになっています。
ミードに関しては、当然のことながら、きちんと座れる座席で鑑賞すべくチケットも今から準備してありますが、
Aキャストのジャンナッタジオはこれまで生で聴いたことがないソプラノなので、シリウスでチェックしてから行こうかな、、と思ってました。
ところがドレス・リハーサルの直前に体調を崩したのか、ジャンナッタジオがドレス・リハーサルも初日も両方キャンセルすることになってしまい、
その結果、セカンド・キャストのユーがドレス・リハーサルとシーズン初日の舞台をつとめることになったんですが、
そのドレス・リハーサルを鑑賞したヘッズの中に、”彼女の歌唱は悪くないぞ”という声がちらほらあって、俄然興味がわいてきました。
こんなことを言ったら、”このレイシスト!”と非難されそうですが、
私はこれまであんまり、というか、全然、中国人の歌手というのを評価も信用もしてなくて、
というのも実際最近メトで主役・準主役をはる中国人歌手が段々増えて来ているんですが、
(金魚顔のソプラノ、イン・フアンとか、フイ・へ、シェンヤン、、、
あとはカナダ国籍をとっているみたいですけれど、リピン・ツァンとか、、)、
発声に難ありだし、テクニックも良く言って微妙、悪くすると”なんじゃこりゃー??”というレベルの人もいて
(フイ・へがメトで『アイーダ』を歌ったときの”おお、我が祖国”のあまりに音程が狂っていることには音程酔いするかと思いました。)
一体なんでこんなのがメトにうまうまと紛れ込んでくるわけ?と思うわけですが、
多分、どこぞの国と同様、国内の声楽教育に問題があるんじゃないのかな、と思っていて
この『トロヴァトーレ』がメト・デビューとなるユーという29歳のソプラノもその流れを組む人なんじゃないの?と、
疑心暗鬼でYouTubeにあがっている彼女の歌唱をおさめた映像を拝見してみました。
(奇しくも曲は『トロヴァトーレ』の”穏やかな夜 Tacea la notte placida"。
肝心な高音で音が割れ+飛んでいて、そこから映像と音が分離してしまうのが、ここの高音は実際はどうだったのだろう、、?と実に怪しいですが、、。)
これが思ったよりはきちんとした発声とまともな歌で、これならばオペラハウスで生を聴いてみる価値はある、聴いてみたい、と思いました。
また、彼女がテバルディ国際コンクールに出演した際のインタビュー映像もあがっていたのですが、
そこで見た彼女の物怖じしないキャラクターと、アジア人然としたところがあまりなく、西洋的マナリズムを実に自然に体得している様子に、
YouTubeでの歌は若干肩肘張っている感じがありますが、もしかすると舞台ではこれよりはパッショネートな歌を聴かせてくれる可能性があるかも、、と感じました。
歌唱をおさめた映像ももちろんきっかけではありましたが、そこで一定以上の歌唱レベルが保証されていると感じた後は、
むしろ、こちらのインタビューの時の様子の方が、彼女を生で聴いてみようと決めた、より大きな理由かもしれません。
もはやA(第一)キャストの方がB(第二)キャストより優れているとは全然限ってないんですが、
なのに皮肉にも、Aキャストでデビューをするのと、Bキャストでデビューを飾るのとは大違い、、、
なぜならば、メディアの批評はほぼ100%、シーズン初日、つまりAキャストによる公演について書かれるからです。
(Bキャストでも比較的充実したキャストなら再度取り上げてもらえることもありますが。)
初日の公演でポジティブな評をもらうことは、メト・デビューを飾る歌手にとっては大きなキャリア・ブーストになるわけで、これで燃えなきゃ嘘、
また、燃えてそのプレッシャーに勝って良い結果を出すことで、今後もメトの舞台に立ち続けるにふさわしい歌手、というお墨付きをもらえるわけです。
もちろん、そのプレッシャーに負けてしまうデビュタンテもいるわけで、
最近ですと、『リゴレット』で大コケしてしまったメーリが脳裏に浮かびます。
彼なんか、あのデビューがよっぽどのトラウマだったのか、同じシーズンに歌うはずだった『椿姫』もキャンセルしてしまったし、
今シーズンの『マリア・ストゥアルダ』まで降板してしまいました。(公式の理由はロベルト役をoutgrowしてしまったため。代わりはポレンザーニが歌うそうです。)
立見席のチケットの獲得に関しては以前『アイーダ』で冷や汗を書きましたので、
今日も心して挑んだところ、いとも簡単に電話がつながって、”(立見席の)最前列、お願いしますね。”と念押しすると、はい、大丈夫です、と頼もしいお返事を頂きました。
実際メトに到着してみると、意外にも立見席はそれほど混んでなくて拍子抜け。
ま、考えてみると『アイーダ』のムーアはシーズン一回きりの舞台になる可能性があったので(そして実際そうなった)オペラヘッズがチケット求めて必死になりましたが、
ユーの場合はBキャストの公演でさらに聴く機会がありますからそのあたりの違いかな、と思います。
でも、オーディトリアムのドアが閉まる頃にはアッシャー達が互いに”今日のキャスト、いいんだよね。すごく、、。”と言っていて、
ドアの外側担当の人は残念そうに退出して行きましたが、それ以外のアッシャー達が客席の後ろにたむろって、
なかにはポータブルの椅子を持ち出し、じっくり鑑賞する気満々の人がいるのを見て、すっごく気分が盛り上がってきました。
今日のキャストは別にスター歌手が混じっているわけでは全然ないですから、
彼らは一般的な意味で”良いキャスト”と言っているのではなく、
明らかにドレス・リハーサルの場にいて、その時の印象を元にそう言っているわけで、これはもう期待せずにはおれない、というものです。
オケを率いるのはつい”カリガリ博士”と呼び違えてしまいそうになるダニエーレ・カレガリ。
オケのリハーサルでは”金管をそんなに鳴らさないで!”と何度も叫んでいたらしいので、
もしかしたら全然金管の聞えないエキセントリックな演奏を目指しているのかな、、と興味津々でしたが、前奏の部分、すっごく良かったです。
奏者同士の音のバランス、それからタイミング、すべてがぴったりで、最初のフレーズの残響の残り方の輝かしくて綺麗なことには鳥肌立ちました。
だし、全然金管の音、小さくなんかないです。ちょうどいい。
リハーサルの時、よっぽど大音響でぶちかましていたんでしょうか。
特に第一幕、第二幕でのきびきびとしたテンポのおかげで作品の緊張感が失速せず、客席が舞台と演奏にすごく引きこまれて、
拍手をするところ以外はものすごく静かだったのも印象に残りました。
2010/11年シーズンの記事にも書きました通り、フェランドは歌唱量など役としてはそれほど大きくはないですが、
公演全体のトーンを設定しかねない責任重大な役で、この役が駄目だと公演全体に不安を覚えてしまいます。
私は最近聴いた中では声のカラーが東欧的なサウンドでちょっと個性的ではあるのですが、ツィンバリュクが断トツで良かったので、
またメトに帰って来てくれないかなーと思っているのですが、そう簡単に私を喜ばせてはくれないようで、今日の公演にはモリス・ロビンソンが配されました。
なんだかK1の選手みたいにガタイがでかいうえに顔もいかついので、共演者が間違って足とか踏んでしまったら半殺しにされそうな雰囲気の彼ですが、
ツィンバリュクよりは若干アジリティの点で重めになってしまう部分がありますが、全体的には技術はしっかりしているし、
伯爵家にまつわる話の持つ不気味さをとても良く表現していたと思います。
ただ、彼が”遠き山に日は落ちて~”を歌っている下の音源からもわかる通り、黒人歌手特有の声質(エリック・オーウェンズとかと共通した響きがあります)が好みを分けるかもしれません。
(ハンプソン似の司会の紹介によると、彼はアメリカン・フットボールをやってたんですね。K1体型も納得。)
今日はレーシストついでに告白しますと、実はオペラの男性の低声パート、中でもイタリアものでのそれは、
個人的にあんまり黒人歌手特有の響きは好みでないんです。
でもそれはあくまで私の好みであり、また、それってMadokakipに金髪美女になれ、と言うのと似て
本人の力ではどうしようもないことで、彼の出来る範囲内では、良い歌唱を聴かせていたと思います。
合唱も◎。メトの合唱の男性陣はここ数年で本当に良くなりました。
(女性陣はそれに比べると音色があと一歩!と思うところがあって、これからの精進を期待しているのですが、、。)
そしていよいよイネズとレオノーラの登場。
いよいよ”穏やかな夜 Tacea la notte placida”で聴こえて来たユーの歌声。
いやー、良い声してますよ、彼女は。
YouTubeで想像していたよりも、劇場で聴いた方が凛とした残り香のようなものが響きの中にあって、
非常に良く通る声をしているんですが、客を威圧するような爆音ではなく、
また、発声にエキセントリックなところが全くなくて、すごく自然に無理なく音が出ていて、聴いていて非常に心地良い音色です。
また、レオノーラ役にふさわしい真っ直ぐさ、清らかさと、この作品自体が持つ陰鬱な雰囲気にふさわしいほんの少しの暗さがほどよく声質に混じっていて、
この役に対しての適性もものすごくあります(ただ、もう少し後にこのレパートリーに行っても良かったかな、という気もしていて、
その理由は後にも書きますが、いずれにせよ、生来持っている声質がこの役にとても向いていることは間違いありません。)
発音は横において、音の響きと発声や歌いまわしだけの話をすると、
アジア人でこれだけヴェルディの作品にふさわしい音色とスタイルを出せる人が出て来た、というのはとても喜ばしい発見です。
2008/9年シーズンにマクヴィカーの演出が登場してから、
レオノーラ役ではラドヴァノフスキーとラセットの二人を聴いていますが、
二人とも歌い方がこの作品で求められている、またそれがなければこの作品の良さを十全に表現することはできないスタイルのようなものを満たしていなくて
(ラセットは生で鑑賞した時は残念ながら風邪気味だったんですが、後の公演をシリウスで聴いても、”うーむ。”という感じでした。)、
その上にラドヴァノフスキーは爆音系なので、私にはあまりにエキセントリックに感じられてがっかりしていたんですが、
ユーの登場のおかげで、久しぶりにきちんとしたレオノーラを聴いた気がします。
また彼女はテバルディ国際コンクールでは『アンナ・ボレーナ』の
”あなたたちは泣いているの?~私の生れたあのお城 Piangete voi? ... Al dolce guidami"を披露している位なので、
元々ベル・カンティッシュな歌唱にはそこそこ自信があるし、だからこそ、このレオノーラ役をレパートリーに入れているんでしょうが、
そのベル・カント的スキルという面でも”Tacea la notte"に関してはまずは期待を裏切らない出来だったと言ってよいと思います。
また、彼女のもう一つの意外な、そして決して小さくない良さは、アジア人としては珍しく歌と演技にパッションがあることです。
APだったと思うのですが、この日の公演評の中に彼女の演技がいわゆるオペラ的型通りの枠を超えていなかった、
というような趣旨を書いていたものがありましたが、私は全くそれに同意しません。
マクヴィカーの演出は作品の雰囲気を良く伝えていて、場面転換がスピーディーで作品の緊張感を損なわない、ということで非常に評価が高いのですが、
実は結構スタティックな舞台で、ラセットのような演技力に長けた歌手でも演技に苦労している様子が過去の演奏から伺われました。
というか、この作品って、本当に演技するのが難しい作品だと思うんですよ。
この作品で、歌ではなく、演技のドラマティックさに感激した!というような舞台があれば、教えて頂きたいほどです。
しかし、出来る動作が限られているこの舞台でも、ユーは所作にきちんとしたリズムがあって、演技の勘も決して悪くないことが感じ取れます。
ついでに言うと、彼女はYouTubeではなんとなく、どべーっとしただらしない体型のように見えるんですが、
舞台に立って実際に動いているところを見るとそうでもないし、今回の衣装も良く似合ってました。
ただ、私はオーディトリアムの一番後ろで鑑賞しているので、顔の表情まではさすがに見えません。
最前列で顔の表情までばっちり、、というようなところで見ると、また印象は違うかもしれません。
ルーナ伯爵役のヴァサロは、メトでは『清教徒』や『愛の妙薬』といったベル・カントものにキャスティングされている印象が強く、
そのうえ、特に『愛の妙薬』の方でのはじけっぷりには大笑いさせてもらったので、
(今年のオープニング・ナイトの『愛の妙薬』に登場したクヴィエーチェンのかっこつけなベルコーレとは対照的、、、)
なんかすごく面白い人、という刷り込みがあって、”彼がルーナ?!”って感じで、キャラ的にも声質的にも???だったんですが、
彼も思いの外良くて、嬉しいサプライズでした。
再び、ここ最近のマクヴィカー演出のもとでのルーナ役を思い起こすと、ホロストフスキーとルチーチの名前が浮かびます。
ヴァサロの歌はホロストフスキーの歌唱のように洗練されてはいないし、
ルックスについては、私のいる場所からならヴァサロの舞台姿も悪くなかったですが、舞台そばで顔込みで見れば、ホロストフスキーに勝負あり!なのは明らかだし、
またルチーチに比べても、いわゆる”うまさ””完成度”では劣っているかもしれません。
しかし、この三人の中で、ルーナ役として誰か一人を選べ、と言われれば、私はヴァサロを採ると思います。
彼もどうやら1969年組らしく、それだけでもなんとなく応援したくなる、というものなんですが、もちろん理由はそれだけでなく、
彼の声の地の底からじわじわと湧きあがって聴こえてくるような音はまぎれもないイタリア的サウンドで、ホロストフスキーとルチーチの音の広がり方とは全く違う。
私は基本的には”本場主義”なんかじゃ全然ないんですが、ある特定の作品については偏執的な自分の好みがあって、
『トロヴァトーレ』は私のその偏執的な部分に特に訴えかける作品なんだと思います。
で、私は『トロヴァトーレ』に限っては、出来る限り、イタリア的なサウンドが欲しいと思っているんだな、ということを今回、自ら再確認しました。
(別にイタリア人のキャストじゃなきゃだめ、と言っているわけではないところに注意。)
また、ヴェルディ作品を歌う場合のレガートの大事さは誰もが口を揃えるところですが、その点でも彼の歌唱は良い、
なので”君が微笑み~Il balen del suo sorriso”はとっても良かったです。
ほんとルチーチは煙草やってる場合じゃないでっせ。
またそれに続く”運命の時は来た Per me, ora fatare"はオケと合唱が入って来てすごく音が厚くなりますが、
ヴァサロの地の底系の声が、きちんと私のいる劇場の一番後ろにまで届いて、すごくエキサイティングな場面になりました。
ま、一言で言いますと、ヴァサロの歌は偉大なる歌手と呼ぶような完璧さはないですが、
『トロヴァトーレ』という作品を聴くという体験を楽しくするための大事なエレメントは押さえている、と、そういう感じです。
ニ幕の最後で、マンリーコの手下に喉元をかっ切られて、”あああああああああっ!!”と大声をあげる部分のタイミングや迫力とか、
四幕最後の、弟を殺してしまうとは自分はまんまとアズチェーナ(と彼女の母)の復讐に屈したのか?とひざまずいて頭を抱えて
苦悩する様子とか、
彼はベルコーレのようなコメディックな役柄だけでなく、ヴェルディもののシリアスな役柄でも同様に、舞台人としての演技のしっかりしている人だと感じました。
しかし、今日凄かったといえば、何と言ってもザジックでしょう。
彼女が私の大好きなメゾであることは当ブログで周知の事実であるので、またMadokakipがほざいとる、、と狼少年的にご覧になっている方もいらっしゃるかもしれません。
正直、彼女もさすがに齢60だし、最近の公演では若干パワーダウンしているところもあったし、
直近で歌った『トロヴァトーレ』ではペース配分への気の配り方が以前に比べてはっきりと露見するようになっていたり、
声楽的に厳しくなった箇所をかばうようなジェスチャーもあったりして、そのせいで役作りに本来向けられているはずのパワーが消耗されていたりしていて、
(それでも現役のどのメゾもこれほどまでには歌えまい、という内容ではありましたが)
今回はそれがさらに進行したような感じになるかな、と思ってたらとんでもない。
マクヴィカーの演出が登場して以来、この演目がスケジュールに含まれる年は必ずアズチェーナ役を歌っているザジックですが、
この公演での彼女は役への解釈が一段と深まっていて、本当、すごい迫力でした。DVDにもなったHDの公演の比じゃありません。
ああ、今日の公演を収録して欲しかったなあ、、。
声のパワーの凄さと言ったら、なんだか一周り若返ったような、
声帯用のボトックスみたいなものがあったら絶対にそれを使っているに違いない、と勘違いしてしまうほどなんですが、
それが高音域で顕著なところを聴くと、今より若かった頃の彼女はもう少し全音域で統一された音量だったので、
これはこれで彼女が年齢のせいで、音量の微妙なコントロールが難しくなって来ている結果と考えられなくもないのですが、
まあ、このアズチェーナのような役は、これでもいいでしょう。
でも一方で、胸声区の良く響くことは、一体60にもなってこんな音を出せるなんて何者??って感じです。
でも今日の彼女の凄さは、そういう声楽的な部分を越えた面で(もちろん声楽的な実力がそれに貢献しているので、完全に越えているわけではないのですが)、
役へのコミットメントの深さとでもいうのか、そこに集約されると思います。
例えば、”母の復讐をしようとルーナ伯爵の子供を盗んで火の中に放り込んだのはいいが、気がついたらそれは自分の息子だった”とびっくり仰天な打ち明け話をアズチェーナがして、
マンリーコと観客を、”じゃ一体マンリーコは誰なんだ?”と震撼させる”Condotta ell'era in ceppi 重い鎖につながれて”。
2010/11年シーズンのHDの時、彼女は下の映像のように歌っています。
これはこれですごく良い歌唱なんですが、2'18"から4'48"までの部分での彼女の今日の歌唱は
アズチェーナの狂気が一層鬼気迫っていて本当に怖く、また憐れを誘いました。
(この演出が初演されたころ、MetTalksでザジックは見事にこの役をデサイファーしています。)
特に3'36"からの"Ah! il figlio mio, mio figlio avea bruciato! (ああ、私の息子、私の息子を焼き殺してしまった!)”と歌うil figlio mioの繰り返しの部分、
この映像では前を見て普通に歌っていますが、今日の公演では両手を横に広げながら天を仰ぐような姿勢で静止したまま、
まるで雷か何かに打たれるように、”私の息子を、私の息子を”と歌っていて、
あの姿勢ではもはや指揮者は全く彼女に見えていないはずなのに、オケの演奏と彼女の歌唱が完全に一体化していて、
その彼女の天を仰いでいる姿に稲妻が走って落ちているのが見えるような、フランケンシュタインも真っ青の壮絶な場面になっていました。
上の映像では少しマルコ(・アルミリアート)の演奏が慎重なせいか、若干緩い感じがあるんですが、
今日の演奏ではものすごい緊張度を保ってこの部分の彼女の歌唱を支えたカリガリ博士とオケの演奏も讃えたいです。
でも、こういう歌唱を聴くと、このアズチェーナの悲壮な叫び、悲しみ、怒り、そしてそれが混じりあった精神の混乱があってこそ、
この話はドラマティックな悲劇として成立するんだな、と思います。
しばしば、ストーリーがconvoluted(複雑でいまいち意味がよくわかりにくい、といった意味)ということで、
音楽の素晴らしさ以外の部分で貶められることの多い『トロヴァトーレ』ですが、このオペラは確かに筋の面では合理性に欠けているかもしれませんが、
登場人物の行動と感情をきちんとバックアップする歌唱があれば、これはこれで説得力のある舞台になる作品なんだな、というのを感じさせられました。
第三幕でルーナ一味にとっつかまえられる場面で、彼らにしょっぴかれながら、高笑いしている様子も怖かった、、。
これで、自分の命や安全が危険にさらされている事実よりも、復讐の成就にまた一歩近づいたことを感じ、それを喜んでいるアズチェーナの精神の錯乱ぶりが良く表現されています。
あるいは、彼女の母親に精神を乗っ取られているのでは?と思わせる部分もありました。
今日の公演で唯一水を差したのはマンリーコ役のグウィン・ヒューズ・ジョーンズという、
これまでENOなどに登場しているらしい、ウェールズ出身のテノールです。
見た目はほっそりしていて、舞台姿は悪くないのですが、
歌唱技術のないロッシーニ歌いがいきなり『トロヴァトーレ』の舞台に紛れ込んで来たような線の細い声で、ものすごい違和感を覚えました。
そのENOでトゥーランドットのカラフなんかも歌っているみたいなんですが、にわかに信じ難い、、、
彼自身も緊張していたのかもしれませんが、声の支えが全然なくて、今にも砕けそうな声だし、
日本の音大生が乗り移ったかのようなポルタメント嵐!の歌唱で、下品なことこのうえない。
またそのリズム感の欠如していることと言ったら!
4人の主役のうち、3人がしっかりしているだけに、一人だけクラスの違う歌手が入って来た感じで、これは彼自身の無力さもさることながら、
メトのアーティスティック・デパートメントのキャスティングの失敗でしょう。
何を連れて来るんじゃ、、、って感じです。
確かにマンリーコは大変な役ですし、私はマルセロ・アルヴァレスにだって満足しませんでしたから、キャスティングが大変な役であることは重々承知です。
でも、まさかキャスティングが大変だからって、”僕歌えるよ。”という自己申告だけ信じてキャスティングしたんじゃないでしょうね?
今日の公演は彼を除いてはとても内容が良かったものですから、オーディエンスの集中度も高く、非常に客席は静かだったのですが、
ザジック演ずるアズチェーナがルーナたちに連行された後あたりで、私の立っている場所の近くの座席から携帯電話の着信音のようなものが聞えてきました。
”早く切れよ。じゃないと、私が切れるよ。”と思っていると、段々音量が上がっていくような設定になっていたようで、
まわりの座席からも、”ちっ!”という舌打ちが聞えて来ます。
もたもたと暗闇の中で電話を切る方法を探っていた持ち主のおばあがやっと着信音をとめたまでは良かったですが、
どうやら携帯本体のスイッチの切り方自体がわからないようで、また電話がかかってきたらどうしよう、、と気になるのか、
座席を立って、オーディトリアムの外でスイッチを切るべく、アッシャーのいる扉の側までやって来ました。
するとアッシャーは”一旦外に出られますと、もう中には戻れませんが。”
良い公演だけに、おばあは帰る気はないらしく、”それは困る。私は戻りたいのよ。”というのでひと悶着です。
最初は声を潜めていたアッシャーもおばあとやりやっているうちに、段々大声になっていて、
”わたしは携帯を切りたいだけなのよ。外に出ないと切り方がわからないのよ。””でも外に出られたら、お戻りになれないんです!”と、
もはや私のいる立見席はおろか、後ろの方の客席にまで聞える口論になっています。
”一旦退出したら戻りは不可。”という理屈はよくわかりますが、アッシャーも融通が利かないというか、
ここまで揉めたら、彼女をすっと外に出して戻る準備が出来た時に戻した方が客への迷惑も少なくすむのに、、、。
”それでは携帯を外でお預かりしますから。”というアッシャーの言葉には、
その時はあんたが外に出て、また戻ってくるわけで、ドアの開閉は2回。彼女自身を外に出しても開閉2回。
迷惑という点で何ほどの違いがあるというのか?、と心の中で呟き、
”それは困るの!”というおばあの言葉には、
”メトがあんたの古くっさい携帯を盗むわけないでしょうが!!早く渡しちまいな!!”と喉元まで言葉が出てくるのを押さえているうちに、
マンリーコの”見よ、恐ろしき炎を Di quella pira"がもうそこまで迫って来ています。
へなちょこマンリーコですから、すごいものを聴けるとは思っちゃいませんが、どんなへなちょこぶりか、確認しておく必要があるのに、これでは聞えない。
しかも、その後は、私がソプラノの全てのアリアの中で一番好きなそれのグループに入っている”恋はばら色の翼にのって D'amor dull'ali rosee"で、
ユーがこの曲をどう歌うのかは、今日の鑑賞の中で一番楽しみにしているところです。
客席から、”しーっ!”という叱責の声が何度も起こっているのに、かれこれ5分も上のような押し問答が続いたでしょうか?
アッシャーがもはやひそひそ声を保つことが出来ずに、客席にまで十分聞えるような普通の声量で、
”それではこちらで外で携帯をお切りする間、ここで待っていて頂いて、、、。”,
おばあ ”どうして私が外に出ちゃいけないの?”、、
、、、とそこで、私の頭の中でどっか~ん!!!という音がしました。
やおら、立見席からくるっと後ろを振り返り、闘牛もびっくりの勢いで彼ら二人の方に突進していくと、
拳をおばあの前に振立て、殴りかからん勢いで、”あんたらのせいで、聞えるものも聞えないのよっ!!!あんたら二人とも早く外に出て行けってんだよ!。”と、
しかし、客席にいる観客の迷惑に私がなってはいけませんから、あくまでひそひそ声+手話のようなジェスチャーで。
最後の、”早く外に出て行けってんだよ!”のところで、思い切り両手を扉に向かって刺す様に指し出し、
”今でてけ、このやろー!”というメッセージを込めて彼女ににじり寄ると、
おばあはおろか、アッシャーも、”どこの動物園の檻からこの野獣は飛び出して来たんだ。”という様子でまるで虎に食いちぎられる寸前のガゼルのように縮み上がっています。
その後、ニ十秒ほどまだひそひそ声で押し問答してましたが、結局彼女を一時的に外に出す、ということで解決したようで、
なんとかDi quella piraには間に合いましたが、こちらはもう舞台上のマンリーコもへじゃないほど、血圧あがりまくりです。
使い方も知らない道具を持って歩く、ましてやそれでオペラハウスの敷居を跨ぐと、
熱狂的なオペラファンに半殺しの目に合いかねませんから、年配の方はご注意頂きたいものです。
せっかくそこまでして聴けた”見よ、恐ろしき炎よ”ですが、恐ろしかったのは炎ではなく、ヒューズ・ジョーンズのall'armiでのハイCです。
一応ハイCにはなってましたが、今にもよろけて倒れんばかりのヘロヘロな音で、何とか出てますけど~、といった風。
これだったら、まだアルヴァレスの方が1000倍まし。ほんとに今のオペラ界にはマンリーコを歌えるテノールがいないんだな、、と悲しくなりました。
気を取り直して四幕の、先述のレオノーラのアリア、”恋はばら色の翼にのって”。
なぜこの曲が私の好きなアリアかといえば、それはヘッド人生の初期にカラスの歌唱にふれたことが原因であることは間違いありません。
彼女はこの曲を正規の全曲スタジオ録音にも残しているし、リサイタルでも頻繁に取り上げているんですが、
どれを聴いても出来・不出来の差が少なく、彼女がいかにこのアリアを手中におさめていたかがわかるというものです。
(下は1956年のカラヤン/スカラ座とのスタジオ録音の音源です。)
彼女の歌と比べられるアーティストもたまったもんじゃありませんが、目標は高く!ということで。
結果を言うと、全幕優れた歌唱を披露していた中で、ユーの歌が若干シェイキーになったのがこのアリアかもしれません。
この曲は音楽の美しさもさることながら、テッシトゥーラの関係で難易度が高いこと、それから、息の長いフレージングが必要な点、
それから微妙なシェーディング、繰り返しの音をどのように色づけして歌うか、というアーティスティックな面で
私は一幕のアリアよりもずっと難しいと思っていて、だからこのアリアを偏愛していて、かつ舞台で聴くのを楽しみにしているのですが、
正直なところ、”これはすごい!”というこの曲の歌唱にまだメトでは出会ったことがありません。
ユーの歌唱は最初のフレーズから少しピッチが不安定で、すぐに出てくるトリルも少し甘く、
また長いフレーズも息継ぎで軽いあっぷあっぷ感があって、カラスのようにざーっと音楽が広がってくるような感じは希薄で、
他の部分での歌唱の優秀さと比べると、あれ?どうしたんだろう?と思います。自分でも少しこの曲に苦手意識があるのかもしれないな、と思います。
また、彼女はこの役だけでなく、色々なヴェルディ作品、またベル・カントものを歌っていくなら強化しなければならないポイントがあって、
それは高音をピアノ/ピアニッシモで出すテクニック、それも色んな微妙な音量やトーンを変えられるという高次なテクニック、を身につけることです。
彼女は高音を常にフォルテ気味に歌う傾向があって、それだと、この”恋はばら色の翼にのって”のような曲では表現がモノトーンになってしまって、
この曲の良さが十分には伝わって来ない。
例えばカラスの歌唱の2'13"、2'20"、2'24"、そして2'41"、2'49"(←カラスのこの音、素晴らしいですね。レオノーラの気持ちが伝わってきてせつなくなります。)、
2'56"の音を聴くと、それぞれに違った微妙なエモーションが込められているのが伝わってきます。
ユーはこのどれもが同じ調子で、どぱーっ!と放出型の音になっていて、きちんと歌えてはいるのですが、
カラスのような歌いわけが出来ると、曲にもっともっと豊かな表情が出て来るのにな、と思います。
このアリアについては、私の方の期待が大きすぎる部分もありますし、このアリアの後の部分は再びとっても良かったです。
一点、少しだけ気になった点は、彼女は結構熱血な歌を歌うので、ここからあまり早く重い役を歌う方向に進んでいくと、
喉に負担がかかるのではないかな、という点です。
熱血と言っても、決してスタイルを崩すほどの下品な熱血ではないのですが、アリアが終わった後の四幕の歌唱では、
すべてをかなぐり捨てて歌っている、という感じで、聴いている方は熱い歌が聴けて良いですし、
メト・デビューでこんな歌を歌うなんて度胸の面でも大したものだ(メーリも見習え!)と思いますが、
色々な劇場の注文に応えているうちに、無理なことにまで手を出すことだけはないよう祈っています。
レオノーラ役は間違いなく彼女の本来の適性に合っているとは思いますが、そういった意味で、あと数年後にメインにしても良かったかな、という気はします。
今日の歌唱を聴いていると、歌唱における表現力もあるし(アリアのところで書いたような高いレベルでの注文はありますが)
今の彼女なら、ヴィオレッタなんかも結構良い歌唱を聴かせられるのではないかなと思います。
それにしても、この『トロヴァトーレ』のような演目で、
従来のアジア人歌手では考えられなかったレベルの正統的な歌と演技で勝負できる歌手が出てきたのは本当に驚きで、
彼女がこれからどのように成長を続けていくか、とても楽しみです。
マンリーコのキャスティングが痛恨!でしたが、全体としては、非常にエキサイティングな『トロヴァトーレ』で、大満足。
こういう公演が続いている限り、ブログがストップすることもないんですけど、、。
Gwyn Hughes-Jones (Manrico)
Guanqun Yu replacing Carmen Giannattasio (Leonora)
Dolora Zajick (Azucena)
Franco Vassallo (Count di Luna)
Morris Robinson (Ferrando)
Hugo Vera (Ruiz)
Maria Zifchak (Inez)
Brandon Mayberry (A Gypsy)
David Lowe (A Messenger)
Conductor: Daniele Callegari
Production: David McVicar
Set design: Charles Edwards
Costume design: Brigitte Reiffenstuel
Lighting design: Jennifer Tipton
Choreography: Leah Hausman
Stage direction: Paula Williams
SR left front
OFF
*** ヴェルディ イル・トロヴァトーレ Verdi Il Trovatore ***