<中編から続く>
二幕目第四場 高田南蔵院本堂の場
(あらすじ:いよいよ重信が龍に目を入れるだけとなった天井絵のために集まった人々。
そこへ、正助が転がるようにあらわれ、重信が殺されたと言う。
しかし、誰もまじめに取り合わない。重信は今、方丈で住職と話をしているのだから、と。
正助は重信がすでに霊となって現れた、とおののく。
やがて住職とともに皆の前に姿を現わした重信は、
龍の目を入れ、笑いを浮かべたかと思うと、煙と共に消えてしまう。)
この芝居の中で、ドラマ的にはハイライトの一つであるオカルト・シーン。
ここでは、二幕一場で見せた善人かつ優れた絵師と敬われる人間としての重信からシフトして、
この世のものでない雰囲気をかもし出しつつ、心に浪江らへの復讐心を抱き、
また復讐の成功を確信しているような不気味な雰囲気を漂わせなければなりません。
それを龍の目を入れる場面を使って表現したのはこの作品の上手いところ。
小さい役なのだけれど、住職の雲海を演じた坂東彌十郎が、
登場した瞬間からすでに重信の霊にひっぱられて、
あちらの世界に片足を踏み入れているようなまなざしと雰囲気で好演していました。
彌十郎は本当に大柄で立派な体格なので、
この雲海などは必ずしも大きくある必要はない役かもしれませんが、
他の、ある種の役では舞台で非常に映える人なのではないかと思います。
意外だったのは勘三郎のこの場面の割とあっさりした演じ方で、
もっと無念さを出すかと思ったのですが、そうでもなかった点です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/da/d2decbc0d2b3c2acc2684fd46fb02ed7.jpg)
三幕目 菱川重信宅の場
(あらすじ:重信が殺された日から百か日。浪江はある種の魅力があるので、
地紙折の竹六もすっかり騙され、お関に、”もう浪江さんんと再婚しちゃえば?”などと言い出す始末。
実は、重信を殺したのが浪江であるとは夢にも思わぬお関は、表向き彼女を支えてくれている浪江に、
菱川の家を継がないか、ともちかけていた。
しかし、赤ん坊の真与太郎にすべてを見透かされている気がする浪江は決心がつかないでいる。
そこで、次は正助に真与太郎を処分するよう言い、
お関の前で真与太郎を里子に出してはどうかと持ちかけた。
里子に出すふりをして正助に真与太郎を家から連れ出し殺害させる算段である。
浪江に逆らえない正助は真与太郎を抱いて出発する。
浪江が一人残ると、三次があらわれ、これを買い取ってもらいたい、と、
重信の殺害現場に浪江が落とした印籠を持ってあらわれた。また、たかり。ちんぴら魂大全開。
浪江は三次を殺そうとするが二人の力は拮抗し、勝負がつかない。
ここで三次を殺すのは難しいと判断した浪江は、
滝に向かった正助と真与太郎を殺害するのも条件で、金を出す。)
中編で福助のお関は上品で、粋で、云々、、ということを書きましたが、
非常に表現も細やかで、この場面では特にそれが光っていたと思います。
というのも、お関が舞台に登場するのは浪江と関係を持ったことが示唆される二幕一場以来なのですが、
この三幕になって、浪江と共に現れた途端、もうすっかり浪江に心を許しているらしいお関の様子が伝わってくるのです。
関係が出来た男女の間特有の慣れあった空気といいますか、、。
そこで、どうやらあの一回だけではなく、この二人はもうはっきり”出来ている”と呼んでもいいレベルに
至っているらしいことが、一瞬にして伝わってくるのです。
なので、竹六の言葉が出てくるときも、”え?そんな事態になっているの?”ではなく、
”ああ、そうなこったろうなあ。”と観客が納得してしまえる。
重信が亡くなったばかりというのに、先の幕より艶っぽくなったお関を見ると、
げに女性は恐ろしい、、と思えてきます。
その一方で浪江を演じている橋之助。こちらもやっぱりとても良い。
色悪というものの、どこか、そうはお関にのめり込んでいなさそうな、
冷淡で自分勝手な様が実に格好よいです。
ただ、さらに後から良く考えてみると、印籠を落とすというどじを踏んでみたり、
実は戦ってみると三次とそれほど腕の覚えに差がなかったりして、
なんだ、それ?ちょっと格好悪くない?とがっくりさせられる浪江なんですが、
そこを舞台が走っている間は深く考えさせず、
格好よさで押し切ってしまうところが橋之助の同役の良さでもあるわけです。
また、この場は、『マクベス』の、自分の起こした悪事が引き起こす、
無意識レベルの罪の意識によって、だんだんと精神の均衡を失いはじめるストーリー・ラインに似ています。
そこの変化をはっきりつけるのも一つの方法かもしれませんが、
私は今回の橋之助のような、最初から浮世と少し離れた世界で生きていそうな、
それゆえに、お関に手をかけても金を盗んでも何事も真の満足に結びつかないような感じのこの役作りが結構好きです。
さっきまで殺し合いをしていた人間(浪江)に、
”じゃ、これまでのことはなかったことにして。この金あげるから、俺のために殺人をしてきて”と言われても(三次が)、
普通、誰がするか!ってなことになりそうですが、ワルの世界には独自のルールがあるのか、
そこは歌舞伎だからか、軽く流していく。面白いな、と思いました。
この二人の闘いのシーンも、二人の身につけている着物の色のコンビネーションの美しさ、
そして動きの美しさもあって(またもヘッズの叫びどころ!)、見所のひとつです。
大詰 角筈十二社大滝の場
(あらすじ:真与太郎を連れて滝までやって来た正助。
真与太郎を助けたい心はやまやまだが、子連れでは働けないし、今助けてもいつか浪江に見つかって殺されるだろう。
ならば、むしろ、何もわからない赤ん坊のうちに自分の手で、、と滝壺に真与太郎を放り込むと、
真与太郎を抱いた重信の霊が現れる。)
幕が変わった途端、滝のセットから起こる、どーっ!というすごい水の音。
この個所が話題になっているとは聞いていましたが、こんなに大掛かりなセットだとは。
というか、一階正面の最前列のお客さんには水しぶきがとんでました。
現代は色々なテクノロジーがありますのでともかく、昔はこの部分、どうやって演出していたんでしょう、、?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/09/fbc67ff8ceec8ec1dfc7d35042b947d6.jpg)
最後はとにかく話の筋よりも何よりも三次、正助、重信の間の、
もう、まさに、めくるめくとしか形容のしようがない、早替りが最大の見せ場なので、
実際、各登場人物が最後にはどうなってしまったのか、私の記憶にないくらいです、、。
特に三次と正助が滝の中、殺そう、または殺されてたまるか、と、
くんずほぐれつになりながら、もちろん、早替りで死闘を繰り広げる場面は圧巻です(上の写真)。
今回、重信、三次、正助というスタンダードな三役に加えて、
最後に円朝がエピローグのようなものを語って幕、となるため、
”勘三郎四役早替りにて相勤め申し候”となっているのですが、
この四役目を一緒に数えるのはちょっと苦しいところもあるかもしれません。
落語家の衣裳で出て来るのですから、ああ、これは円朝なんだな、ということが
私もすぐわからなければいけなかったのですが、
当ブログのコメント欄でご指摘を頂くまで、ずっと、勘三郎本人として喋っているのかと思っていました。
歌舞伎座の一時的なクローズを受けて、”今日いらっしゃるお年を召したお客様の中には、
新しい歌舞伎座をご覧になれない方もいらっしゃったりして、、”などという、
定番の冗談が入っていたものですから。
しかし、それにしても、この作品は本当に面白い!
というか、今まで歌舞伎を一度も見た事がない人でも大興奮すること間違いなし。
こういう作品をこそ、NYに持ってきてほしいなあ。
セットや早替りのような部分ではなくて、
芝居や舞といった、歌舞伎のコアな部分でNYの観客を感心させたい、という気持ちもわからないのではないですが、
まずは歌舞伎が面白い!ということを、
まだ歌舞伎になじみのない人間に知ってもらうことこそ、最も大事ではないでしょうか?
それにはうってつけの演目だと思いますし、早替りだって、歌舞伎が育んできた技の一つとして評価されるはずです。
先にも書いた通り、勘三郎が、”体が動くうちに上演しておかねば”なんて言っているくらいなので、
もう、次回のNY公演にでも早速!!!
本来、歌舞伎を上演するための場所ではないホールで、
歌舞伎座と全く同じ長さの花道を作るのも、
また、早替りのための、移動用の舞台裏スペースを確保する事も頭痛のタネでしょうが、
絶対大熱狂をもって迎えられると思いますし、何より、私自身がもう一度観たいのです!!
歌舞伎座さよなら公演 八月納涼大歌舞伎
『お国と五平』
谷崎潤一郎 作
福田逸 演出
坂東三津五郎 (池田友之丞)
中村勘太郎 (若党五平)
中村扇雀 (お国)
『怪談乳房榎』
三遊亭円朝 口演
實川 延若 指導
中村勘三郎(菱川重信・下男正助・蟒三次・円朝の四役)
中村橋之助 (磯貝浪江)
中村福助 (重信妻お関)
8月18日 第三部
歌舞伎座 1階西桟敷1
*** 歌舞伎座さよなら公演 八月納涼大歌舞伎 お国と五平 怪談乳房榎 ***
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kojika.gif)
(あらすじ:いよいよ重信が龍に目を入れるだけとなった天井絵のために集まった人々。
そこへ、正助が転がるようにあらわれ、重信が殺されたと言う。
しかし、誰もまじめに取り合わない。重信は今、方丈で住職と話をしているのだから、と。
正助は重信がすでに霊となって現れた、とおののく。
やがて住職とともに皆の前に姿を現わした重信は、
龍の目を入れ、笑いを浮かべたかと思うと、煙と共に消えてしまう。)
この芝居の中で、ドラマ的にはハイライトの一つであるオカルト・シーン。
ここでは、二幕一場で見せた善人かつ優れた絵師と敬われる人間としての重信からシフトして、
この世のものでない雰囲気をかもし出しつつ、心に浪江らへの復讐心を抱き、
また復讐の成功を確信しているような不気味な雰囲気を漂わせなければなりません。
それを龍の目を入れる場面を使って表現したのはこの作品の上手いところ。
小さい役なのだけれど、住職の雲海を演じた坂東彌十郎が、
登場した瞬間からすでに重信の霊にひっぱられて、
あちらの世界に片足を踏み入れているようなまなざしと雰囲気で好演していました。
彌十郎は本当に大柄で立派な体格なので、
この雲海などは必ずしも大きくある必要はない役かもしれませんが、
他の、ある種の役では舞台で非常に映える人なのではないかと思います。
意外だったのは勘三郎のこの場面の割とあっさりした演じ方で、
もっと無念さを出すかと思ったのですが、そうでもなかった点です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/38/da/d2decbc0d2b3c2acc2684fd46fb02ed7.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kojika.gif)
(あらすじ:重信が殺された日から百か日。浪江はある種の魅力があるので、
地紙折の竹六もすっかり騙され、お関に、”もう浪江さんんと再婚しちゃえば?”などと言い出す始末。
実は、重信を殺したのが浪江であるとは夢にも思わぬお関は、表向き彼女を支えてくれている浪江に、
菱川の家を継がないか、ともちかけていた。
しかし、赤ん坊の真与太郎にすべてを見透かされている気がする浪江は決心がつかないでいる。
そこで、次は正助に真与太郎を処分するよう言い、
お関の前で真与太郎を里子に出してはどうかと持ちかけた。
里子に出すふりをして正助に真与太郎を家から連れ出し殺害させる算段である。
浪江に逆らえない正助は真与太郎を抱いて出発する。
浪江が一人残ると、三次があらわれ、これを買い取ってもらいたい、と、
重信の殺害現場に浪江が落とした印籠を持ってあらわれた。また、たかり。ちんぴら魂大全開。
浪江は三次を殺そうとするが二人の力は拮抗し、勝負がつかない。
ここで三次を殺すのは難しいと判断した浪江は、
滝に向かった正助と真与太郎を殺害するのも条件で、金を出す。)
中編で福助のお関は上品で、粋で、云々、、ということを書きましたが、
非常に表現も細やかで、この場面では特にそれが光っていたと思います。
というのも、お関が舞台に登場するのは浪江と関係を持ったことが示唆される二幕一場以来なのですが、
この三幕になって、浪江と共に現れた途端、もうすっかり浪江に心を許しているらしいお関の様子が伝わってくるのです。
関係が出来た男女の間特有の慣れあった空気といいますか、、。
そこで、どうやらあの一回だけではなく、この二人はもうはっきり”出来ている”と呼んでもいいレベルに
至っているらしいことが、一瞬にして伝わってくるのです。
なので、竹六の言葉が出てくるときも、”え?そんな事態になっているの?”ではなく、
”ああ、そうなこったろうなあ。”と観客が納得してしまえる。
重信が亡くなったばかりというのに、先の幕より艶っぽくなったお関を見ると、
げに女性は恐ろしい、、と思えてきます。
その一方で浪江を演じている橋之助。こちらもやっぱりとても良い。
色悪というものの、どこか、そうはお関にのめり込んでいなさそうな、
冷淡で自分勝手な様が実に格好よいです。
ただ、さらに後から良く考えてみると、印籠を落とすというどじを踏んでみたり、
実は戦ってみると三次とそれほど腕の覚えに差がなかったりして、
なんだ、それ?ちょっと格好悪くない?とがっくりさせられる浪江なんですが、
そこを舞台が走っている間は深く考えさせず、
格好よさで押し切ってしまうところが橋之助の同役の良さでもあるわけです。
また、この場は、『マクベス』の、自分の起こした悪事が引き起こす、
無意識レベルの罪の意識によって、だんだんと精神の均衡を失いはじめるストーリー・ラインに似ています。
そこの変化をはっきりつけるのも一つの方法かもしれませんが、
私は今回の橋之助のような、最初から浮世と少し離れた世界で生きていそうな、
それゆえに、お関に手をかけても金を盗んでも何事も真の満足に結びつかないような感じのこの役作りが結構好きです。
さっきまで殺し合いをしていた人間(浪江)に、
”じゃ、これまでのことはなかったことにして。この金あげるから、俺のために殺人をしてきて”と言われても(三次が)、
普通、誰がするか!ってなことになりそうですが、ワルの世界には独自のルールがあるのか、
そこは歌舞伎だからか、軽く流していく。面白いな、と思いました。
この二人の闘いのシーンも、二人の身につけている着物の色のコンビネーションの美しさ、
そして動きの美しさもあって(またもヘッズの叫びどころ!)、見所のひとつです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kojika.gif)
(あらすじ:真与太郎を連れて滝までやって来た正助。
真与太郎を助けたい心はやまやまだが、子連れでは働けないし、今助けてもいつか浪江に見つかって殺されるだろう。
ならば、むしろ、何もわからない赤ん坊のうちに自分の手で、、と滝壺に真与太郎を放り込むと、
真与太郎を抱いた重信の霊が現れる。)
幕が変わった途端、滝のセットから起こる、どーっ!というすごい水の音。
この個所が話題になっているとは聞いていましたが、こんなに大掛かりなセットだとは。
というか、一階正面の最前列のお客さんには水しぶきがとんでました。
現代は色々なテクノロジーがありますのでともかく、昔はこの部分、どうやって演出していたんでしょう、、?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/09/fbc67ff8ceec8ec1dfc7d35042b947d6.jpg)
最後はとにかく話の筋よりも何よりも三次、正助、重信の間の、
もう、まさに、めくるめくとしか形容のしようがない、早替りが最大の見せ場なので、
実際、各登場人物が最後にはどうなってしまったのか、私の記憶にないくらいです、、。
特に三次と正助が滝の中、殺そう、または殺されてたまるか、と、
くんずほぐれつになりながら、もちろん、早替りで死闘を繰り広げる場面は圧巻です(上の写真)。
今回、重信、三次、正助というスタンダードな三役に加えて、
最後に円朝がエピローグのようなものを語って幕、となるため、
”勘三郎四役早替りにて相勤め申し候”となっているのですが、
この四役目を一緒に数えるのはちょっと苦しいところもあるかもしれません。
落語家の衣裳で出て来るのですから、ああ、これは円朝なんだな、ということが
私もすぐわからなければいけなかったのですが、
当ブログのコメント欄でご指摘を頂くまで、ずっと、勘三郎本人として喋っているのかと思っていました。
歌舞伎座の一時的なクローズを受けて、”今日いらっしゃるお年を召したお客様の中には、
新しい歌舞伎座をご覧になれない方もいらっしゃったりして、、”などという、
定番の冗談が入っていたものですから。
しかし、それにしても、この作品は本当に面白い!
というか、今まで歌舞伎を一度も見た事がない人でも大興奮すること間違いなし。
こういう作品をこそ、NYに持ってきてほしいなあ。
セットや早替りのような部分ではなくて、
芝居や舞といった、歌舞伎のコアな部分でNYの観客を感心させたい、という気持ちもわからないのではないですが、
まずは歌舞伎が面白い!ということを、
まだ歌舞伎になじみのない人間に知ってもらうことこそ、最も大事ではないでしょうか?
それにはうってつけの演目だと思いますし、早替りだって、歌舞伎が育んできた技の一つとして評価されるはずです。
先にも書いた通り、勘三郎が、”体が動くうちに上演しておかねば”なんて言っているくらいなので、
もう、次回のNY公演にでも早速!!!
本来、歌舞伎を上演するための場所ではないホールで、
歌舞伎座と全く同じ長さの花道を作るのも、
また、早替りのための、移動用の舞台裏スペースを確保する事も頭痛のタネでしょうが、
絶対大熱狂をもって迎えられると思いますし、何より、私自身がもう一度観たいのです!!
歌舞伎座さよなら公演 八月納涼大歌舞伎
『お国と五平』
谷崎潤一郎 作
福田逸 演出
坂東三津五郎 (池田友之丞)
中村勘太郎 (若党五平)
中村扇雀 (お国)
『怪談乳房榎』
三遊亭円朝 口演
實川 延若 指導
中村勘三郎(菱川重信・下男正助・蟒三次・円朝の四役)
中村橋之助 (磯貝浪江)
中村福助 (重信妻お関)
8月18日 第三部
歌舞伎座 1階西桟敷1
*** 歌舞伎座さよなら公演 八月納涼大歌舞伎 お国と五平 怪談乳房榎 ***