Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

NATL COUNCIL GRAND FINALS (Sun, Mar 13, 2011)

2011-03-13 | メトロポリタン・オペラ
映画”The Audition~メトロポリタン歌劇場への扉”により、今や多くのオペラ・ファンに知られるようになったナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズ。
これはメト絡みの公演、演奏会、企画のうち、私が一年で最も楽しみにしているイベントの一つと言ってよく、例年ならわくわくしながらメトに参上するところです。
メトまで来れば、少しはそんな毎年感じる興奮が戻って来るかと思っていたのですが、メトに到着してグランド・ティアーに続く階段を登っている時も、
まるで気持ちが死んでしまったかのように、何も感じられないままでした。

開始前に立ち寄った化粧室には、いつも顔を合わせる度に”今日は元気?”とか、二言三言かけてくださる案内係の黒人の女性がいるのですが、
その方が、”あなた、出身は日本って言ってたでしょ? 日本の皆さんに、どうかこの気持ちを。”と言ったかと思うと、ぎゅっと強く抱きしめて下さって、
その時は、3月11日以来初めて、一瞬だけ、何かを感じる感覚というのが戻って来たような気がしました。
どう考えても、彼女自身裕福な暮らしをしているわけでもないはずなのに、
”義援金を送る時は絶対私に声をかけてね。私も少しでも貢献したいから。”と申し出て下さって、
彼女の優しさに本当に励まされる思いがして、ぜひともこのことは、このブログで皆様にお伝えしなければ、と思った次第です。

座席に座ろうとして、ふと目が合ったすぐ後ろの列の女性は、偶然にも日本人もしくは日系人の老齢の女性でいらっしゃいました。
お互いの目が合った時、相手の目に自分の目を見ているような、とても不思議な、しかし、間違えようのない感覚があり、
ほとんど会釈もしなかったというのに、大切な祖国日本が今抱えている辛さに寄せる思いと、
私たちはきっとこれを乗り越えられますから、一緒に頑張って行きましょう、という気持ちが一瞬でお互いに伝わりました。

こんな状態で今回のグランド・ファイナルズの感想と言っても、本当にきちんと聴いたのかよ、と言われるかもしれません。
私は耳の方ではきちんと聴いたつもりでいますが、それを受ける心の方が特殊な状態にあったことは、それは多分認めなければいけないと思います。
この先は、その点を心において読み進めて頂ければ幸いです。
披露する曲は各歌手2曲ずつ。
毎年、このグランド・ファイナルズのレポートを書くに当たっては、そのスタイルを試行錯誤しているのですが、
今年はこれまでのように、全ての歌われた曲を時系列的に紹介(歌手をA、B、、曲を1と2とすると、A1、B1、C1、、、A2、B2、C2、、)するのではなく、
参加者ごとに二曲まとめた(A1とA2、B1とB2、、、)スタイルで書いてみようかと思います。

★ フィリップ・スライ Philippe Sly (バス・バリトン)
カナダ、オタワ出身の22歳。カナダの劇場のヤング・アーティスト・プログラムに在籍中。



① ヘンデル『リナルド』より ”Sibilar gli angui d'Aletto 私の周りにはアレットの蛇の立てる”
バス・バリトンとしては声がまだ出来上がっていないせいもあるのかもしれませんが(なんといってもまだ22歳、、)、
ちょっと言葉にして説明しづらい不思議な感じの声質の彼。選曲がそれをさらに強調してしまった部分があるかもしれません。
一方、声の出来上がってなさとは対照的に、アジリティ、これは22歳とは思えぬレベルの高いものを持っていて、そこをこの一曲目でアピールしたかったのかもしれません。
ただ、毎年ヘンデルを選曲する参加者がいて、よって毎年ここで同じことを言う羽目に陥るのですが、
こういうオーディションの場でヘンデルの曲を歌ってオーディエンスに強い印象を残すというのは難しいんですよ、本当に。
それなのにどうしてこうやって挑戦する、自爆系の人が毎年絶えないのかしら、、と思います。
このアリアは、トランペットが大活躍なんですが、メト・オケのビリーさんのトランペットの方が歌よりも印象が強いという事態になってしまっていました。
だから、ヘンデルはおやめなさい、と毎年言っているのに、、。
② ワーグナー『タンホイザー』より”O! du mein holder Abendstern 優しい夕星よ(夕星の歌)”
一曲目にヘンデルを歌って、次にこう来るとは、、このニ曲目はなかなかスマートな選択です。
オーディエンスに”え?本当に?”と思わせる意外性のファクターもあるし、
この曲は名曲中の名曲なので(ヘンデルがそうじゃない、と言うつもりはないですが。)、曲自体が引っ張ってくれる部分もあって、
オーディエンスに好感を持って迎えられやすい。彼は選曲の順番が非常に賢明でした。
先に書いたように、まだバス・バリトンとしての声が出来上がっていないですし
(二曲とも音域は合っていますが、バス・バリトン的な音色の手触りがまだ希薄です。)
全幕でワーグナーを歌えるバス・バリトンか?と言われると、それはまだ若すぎてとても判断できないし、判断する必要も今はないだろう、
というのが正直なところで、彼もそんなことを証明したくてこの曲を選んだのではないと思います。
この曲で彼が見せた表現力にはポテンシャルがあるな、と思いましたが、そここそが彼のアピールしたかった点だと思われ、
その狙いに関して言えば十分成功していたと思います。

★ ディアナ・ブレイウィック Deanna Breiwick (ソプラノ)
ワシントン州シアトル出身。マネス音楽院卒業。この後ジュリアード音楽院に進学予定。24歳。



① ロッシーニ『オリー伯爵』より”En proie à la tristesse 憂鬱のとりこ”
メトのスタッフによる選曲アドバイスもあるのでしょうが、メトで近いうちに上演された・される演目の曲を取り上げる、
”タイ・アップ系”の参加者も毎年見られるようになりました。
これは伯爵夫人のアリアなので、今シーズンのメトの公演ではディアナ・ダムラウが歌うわけですが、ブレイウィックにとってラッキーなのは、
メトでの『オリー伯爵』の全幕上演が今よりも先である点です(初日は3/24)。ダムラウと比べられちゃたまったものじゃないですものね。
かなりこじんまりとしたコンパクトな声で、将来、メトのようなサイズの劇場で歌って行くのはちょっと難しいかもしれませんが、
スキルはきちんとしたものを持っていて、声のボリュームのコントロール能力など、なかなか優れたものを持っているので、
少し小さめの劇場では活躍して行けるポテンシャルを持った人だと思います。
立ち上がり、”エ”の響きが強調されたような、少し下品と取られかねない微妙な響きが出ることもありますが、
一旦声が乗ってくるとその問題は消え、小さいなりにふくよかな声で決して悪くないです。
② ヴェルディ『ファルスタッフ』より”Sul fin d'un soffio etesio かぐわしい風にのって ”
一曲目のラウンドでは間違いなく全参加者の上位につけていた彼女なのにどうしたことでしょう、これは!!
いえ、歌のクオリティが下がったわけでは全くなく、相変わらずきちんとした歌を歌っているのに、全然観客の心にアピール出来ていない、、
それはなぜかというと、ひとえに、この曲には彼女の声はスケールが小さすぎるからです。
オーケストレーションとの兼ね合いを考えても、もう少しリリコに寄った声でないときつい。
一人目のプライと同様に、歌える歌のスペクトラムの広さを見せたかったのでしょうが、彼女は残念ながら、
今は声質上、そんなに広いスペクトラムを持っているわけではないので、同じ幅の広さを見せるのでも、もうちょっと違うアプローチの方が良かったのに、と思います。
ベル・カントのスペシャリストとして歌っていくのであれば、声質の幅より、キャラクターの幅なんかでアピールした方が良かったのでは?
もっと彼女の個性に合った曲がいくらでもあったでしょうに、このニ曲目が命取りになったと思います。

★ ジョセフ・リム Joseph Lim (バリトン)
韓国ソウル出身。現在リリック・オペラ・オブ・シカゴ(LOC)の若手育成プログラム、ライアン・オペラ・センターで勉強中の28歳。



① モーツァルト『フィガロの結婚』より”Hai già vinta la causa! もうお前の勝ちだと!”
韓国人の男性歌手の声には、日本人の歌手とは少し違うカラーがあって、実は何を隠そう、私、それが結構好きだったりするのです。
もしかすると韓国語の発声、それによって長年培われた骨格等が関係しているのかもしれませんが、
これまで仕事などでお付き合いのあった・ある複数の韓国人の男性ほとんどの方の声にも、この共通するカラーが備わっていて、
私はこれを声のコリアン・ファクターと名づけます。
上手く言えないのですが、日本人の男性歌手より、少し声が甘い感じがするというか、、今までこのブログで話題に上がった歌手だと、
オペラ界のヨン様ことヨンフン・リーなんかも、このファクターを持っている歌手として頭に浮かびます。
先に書いた仕事上でお付き合いのある韓国男性とは、電話でしかお話したことがない、またこれから先もそうであるだろう方が何人かいるのですが、
彼らの声のせいで、私の中ではそれを基にした、とても素敵なビジュアルが頭の中に出来上がっていますので、その幻想を壊さないためにも、
その方たちとはこれから先もずっとお会いしないでおきたいと思います。
前置きが長くなってしまいましたが、このリム君、バリトンなんですが、間違いなくコリアン・ファクターが感じられる声で、
低声パートにもコリアン・ファクターが存在するのだな、、というのが確認できました。
ただ、歌の表情、これがちょっとのっぺらぼうで、曲の真ん中あたりから客の注意を完全には引き付けられなくなっていたのが残念です。

② ボロディン『イーゴリ公』よりイーゴリ公のアリア(としかプレイビルに記載がない。)
というわけで、彼は表現力に欠けているのかな、と思っていたら、この『イーゴリ公』で大逆転を見せました。
コミカルな要素よりもドラマティックなものに適性があるからか、はたまた言語(イタリア語vsロシア語)への適性によるものか、
理由は断定できませんが、最初の曲と比べて、見違えるような表現力を見せていたと思います。
歌が端正過ぎるという批判もあるかもしれませんが、私は今の段階、年齢では、こういう歌唱でいいのではないかと思います。


★ ライアン・スピード・グリーン Ryan Speedo Green (バス・バリトン)
ヴァージニア州出身、コロラド・オペラのレジデント・アーティストを経て、現在ミネソタ・オペラのレジデント・アーティスト。24歳。



① ヴェルディ『マクベス』より”Come dal ciel precipita 空が急に翳ったように”
『マクベス』もほんの数シーズン前にメトで全幕公演があったので、広い意味ではこちらもタイ・アップ系と言えるかもしれません。
その時に歌ったレリエーやパペと比べても、決して比べ物になっていないという歌の内容ではなく、なかなかに堂々とした歌いぶりで、
コロラドやミネソタで小さめの役でも舞台数を踏んでいるからか、非常に場慣れした感じのある、余裕のある歌を歌う歌手だな、と思います。
黒人の男性の中には時々ものすごく深い声の人がいますが(残念ながら、アジア人の場合、遺伝的にここまで深い声に生まれつくのはまずないことだと思います。)、
彼もその例で、生れついての素質は非常に恵まれたものを持っていて、また、声に適度なしなやかさがあるのもいいな、と思います。

② ロッシーニ『セヴィリヤの理髪師』より”La calunnia è un venticello 中傷とはそよ風のようなもの(陰口の歌)”
一曲目のヴェルディでドラマティックな歌唱を印象付けた後に、バジリオのアリアとは、なかなか面白い選曲です。
特に一曲目は彼の深く重い声が印象的だったので、バスによって歌われるとはいっても、『マクベス』からの曲とは真反対と言ってよい、
軽妙さとコミカルなセンスが求められる陰口の歌を持ってくるとなると、”へえ、、これはどんなことに?”と観客の興味をかきたて、
このあたりも、妙に場慣れした感じを与える人だな、と思います。
どちらかというと私は彼はやはりドラマティックな曲の方が適性があるかな、と思いましたが、陰口の歌も歌唱水準は高く、
コミカルな仕草を入れながらの熱唱で、オーディエンスからの好感度が最も高いファイナリストだったのではないかと思います。
それにしても、何か妙に年齢の割りに完成された感じのする人で、天邪鬼の私ゆえ、それが逆に気になったりしてしまうのですが、
大方のオーディエンスには非常に魅力のある歌手と映るようで、実際、安定した実力を持っている歌手だという風には思います。


★ サーシャ・ディハニアン Sasha Djihanian (ソプラノ)
カナダ、モントリオール出身。モントリオール音楽院を卒業後、地元の劇場で子供向けのオペラ公演などに出演中。25歳。



① ヘンデル『ジュリオ・チェーザレ』より”Non disperar 絶望せずに” 
今回登場した女性グランド・ファイナリスト中、最もビジュアルに恵まれていたのが、このサーシャ嬢ではないかと思うのですが、歌に関しては嗚呼!!
それに、どうしてまた私の忠告を無視してヘンデルを歌うか、、?
彼女の場合、声の魅力、歌唱の技術、いずれをとっても、正直、今回の他のファイナリストと比べて、立っている場所が一段違うような感じがします。
声と歌というのは本当に怖い。嘘をつかないから。
声そのものの潤いのなさ、高音域で立ち現れる荒いテクスチャー、特に早いパッセージでの旋律の取り方が甘く、一つ一つの音符が生きていない、など、問題が山積みです。

② プッチーニ『トゥーランドット』より”お聞き下さい、王子様 Signore, ascolta”
このリューのアリアで大挽回しないと、非常にまずいところに立っているサーシャ嬢ですが、挽回どころか、一曲目で露呈した彼女の弱点を、
再確認するだけの作業になってしまいました。問題は一曲目で書いたことと全く同じ。
この曲は複雑・トリッキーな技はなく、テンポも非常にゆったりした曲ではありますが、
その分、声のコントロール能力、ここに全てがかかっていると言ってもよいかもしれません。
最後の高音を絞って絞ってその美しさを聴かせる、、、この曲でオーディエンスの心を動かすには力任せに歌ってはならず、
抑えた歌唱、微妙な声のコントロール、その中にカラフ(王子)を慕う切ない気持ちが込められていないといけない。
彼女のように、首を絞められた鶏のように、やっとこさ音が出ている、という状態では、まずは観客の心を打つことは不可能です。

★ ニコラス・マスターズ Nicholas Masters (バス)
コネチカット州出身。フィラデルフィアのAVA(アカデミー・オブ・ヴォーカル・アーツ)で勉強中。26歳。

① ヴェルディ『シモン・ボッカネグラ』より”Il lacerato spirito 悲しい胸の思い出は”
AVAはこのナショナル・カウンシルにほとんど毎回優れたファイナリストとなる歌手を送り込んでいて
(映画『The Audition』が撮影された年のミードやファビアーノもAVAですし、それ以外でも、コステロやペレーズもAVAの出身です。)、
AVAと聞いただけで胸が躍るのですが、彼に関しては、どこを見込まれているのかちょっとよくわからなかった、というのが私の正直な感想です。
さすがにAVA仕込みだけあって、歌の水準はきちんとしているのですが、激しい低声男性同士の争いとなった今回のナショナル・カウンシル
(そう、男性は今回、ファイナリストにテノールが一人もいないという、非常に珍しい年なのです!
逆に女性はソプラノばかりでメゾがいないという、これもまた珍しいパターンで、ひたすら高声女子同士の競争となりました。)の中で、
一際輝く個性みたいなものがないのが痛いところだと思います。
『シモン』も今シーズン全幕公演がありましたから、再びタイ・アップ系なんですが、グリーンのバンクォーのアリアと対照的に、
フルラネットとは表現力が違い過ぎる、、、という感覚だけが残ってしまいました。
バスということなんですが、確かに低音は音としてはきちんと出ていたものの、音色に重量感があまりないのも、
今一つ強い印象をオーディエンスに残せない原因かな、と思います。

② ブリテン『真夏の夜の夢』よりボトムの夢
こちらの選曲の方がずっと良い!彼は音色そのもので観客を唸らせるタイプではなくて、曲における歌唱の組み立てやストーリー・テリングで味の出る
インテリ系バスかもしれません。

★ ミシェール・ジョンソン Michelle Johnson (ソプラノ)
テキサス州出身。ニュー・イングランド音楽院を経て、AVAからの卒業が間近の28歳。



① チレア『アドリアーナ・ルクヴルール』より”Io son l'umile ancella 私は芸術のつつましいしもべ”
今年はグリーンと彼女、男性・女性いずれも黒人勢が頑張った年でした。
ディーヴァ・アリアとしての性格が強いこの曲をナショナル・カウンシルで取り上げるのは結構勇気がいるのではないかと思うのですが、
この曲で一番難しいと私が思う、一番最初のEccoという言葉の発声や、ラストの盛り上がりまでに持っていく過程など、なかなか巧みな歌唱だったと思います。
彼女は黒人ソプラノに多い独特の音の揺れ、発声の仕方を持っているので、好き嫌いは分かれるかもしれません。
彼女の歌唱はNYタイムズの記事にこの『アドリアーナ』のアリアからの抜粋が上がっていて、録音で聴くとものすごく強烈な揺れに聴こえますが、
(ほとんど音程が外れているかのような、、)劇場では少し聴こえ方が違うことも書き添えておきます。
ただ、決してビブラート、音の揺れには一般的にはそんなに厳しい注文がない私でも、彼女のそれは音域によって非常に気になることがあって、
もうちょっと真っ直ぐにすっと音が出てくる歌い方の方がいいのにな、とは思います。
声のサイズは優に『アイーダ』の表題役をこなせるスケールがあり、面白い素材を持ったソプラノだとは思うのですが。
(例えば、同じAVA出身で、ヴェルディの作品も歌えるミードと比べても、ジョンソンの声の方がサイズは大きいと思います。)

② モーツァルト『フィガロの結婚』より”Dove sono 楽しい思い出はどこへ”
ミードと先生が同じなのかな、、、ヴェルディも歌えそうだな、、と連想させた後に、伯爵夫人のアリアを入れてくるとは。
ただ、この曲の彼女の歌唱に関しては、多くの観客は良い印象を持ったみたいですが、私は賛成しません。
この曲を聴くと、ちょっと彼女の歌唱、もっと言うと発声自体にちょっと不安を感じるところがあって、
『アドリアーナ』では隠しおおせていたことを露にしてしまうこのアリアは実に恐ろしいと思います。モーツァルト作品のシンプルゆえに難しい!の面目躍如です。
この曲で私が最も大切と感じる、一つの音の間で音色を均一に保ち、次の音に移行していくこと、これが彼女はあまり出来ていなくて、
歌がとてもグネグネして私には感じるのです。
この曲を聴くと、彼女とミードの間にはまだ大分力に差があるな、と思ってしまいました。
ただ、ジョンソンはグリーンと同じく、観客にアピールする何かを持っている歌手である点は、私も否定しないです。

★ ジョセフ・バロン Joseph Barron (バス・バリトン)
ペンシルベニア州出身。現在カーティス音楽院在学中で、グリンマーグラス、サンタフェ・オペラのスタジオなどに参加経験あり。25歳。



① ベッリーニ『夢遊病の女』より”Vi ravviso... Tu non sai この素敵な土地には見覚えがある”
グリーンの方が観客へのアピール度、存在感は高いのですが、私は歌手としては、佇まいが地味ながら、このバロンの方が好きです。
『夢遊病の女』も数年前にメトでの全幕公演があったので、タイ・アップ系。
深い音ですぐに”おお!”と思わせるグリーンとは違い、良さがじわじわ、、と来るには少し時間をかけて耳を傾けなければならないのですが、
なかなか端正で良い声をしているとも思います。
両曲で伝わって来た彼のパフォーマー&アーティストとしての柔軟性、それから、まだこれから育っていく余地が感じられる点もいいな、と思います。

② グノー『ファウスト』より”Vous qui faites l'endormie 眠ったふりをせずに”
繰り返しの笑い声などにもう少しひねりがあっても良いかなとは思いますが、照れのない突き抜けた演技と、
何より本人が楽しんでこの曲を歌い演じている様子が伝わって来る。この大舞台で度胸のある人だと思います。
彼自身の個性をより強く出せるようになったら、なお良いのですけれど、その点で少しグリーンに押されたかな、と思います。

以上、今年のファイナリストは8人なんですが、私の心の状態のせいか、実際に今年のファイナリスト達の力不足によるものなのか、
多分、両方なんでしょう、正直に言うと、本当に心から楽しんだり、感動したり、ものすごく大きな衝撃を受けたり、といった
エキサイティングな歌唱はこの時点ではゼロで、私は相変わらず不感症状態で座席に座っていました。

審査を待つ間、司会のジョイス・ディドナートからゲスト・アーティストの紹介があり、
舞台に先日までメトの『アルミーダ』に出演していたローレンス・ブラウンリーが登場しました。
彼は2001年のナショナル・カウンシルのグランド・ファイナリストでもあります。
そして彼が歌い始めたのは、ビゼーの『真珠とり』のナディールのロマンス”耳に残る君の歌声 Je crois entendre encore”。


(この映像は今日のナショナル・カウンシルのものではなく、別の機会に歌われた際のものですが、歌っているのは同じブラウンリーです。)

彼の歌を聴いていて、思わず涙が出ました。もうこの先、何も感じることが出来なくなるのではないかと思う位の麻痺感の中にいても、
本当に人の心を動かす力を持った歌手の歌というのは、必ずその心に届いてくるもの、、、。
そここそが、まだナショナル・カウンシルの段階にある歌手たちと、メトの舞台に立ってオーディエンスの心を動かす歌を歌っている歌手の力の違いなんだと思います。
メトのオケの、歌唱を立ててひたすらそっと寄り添っているような演奏も素晴らしかったと思います。

それから、さらに言うと、私の中では去年、一昨年あたりからのブラウンリーへの評価がすごく変わって来ていて、
以前は、連れの後輩の”僕の友達の方がフローレスより上手い”発言にお腹がよじれるかと思う位笑ったものですが、
今は、それはあながちそう奇天烈な発言ではなかったのかもしれない、少なくとも笑って聞く内容のものではなかった、と思うようになっています。
昨年の『アルミーダ』あたりから、ブラウンリーにはものすごい表現力が身に付いて来ていて、
フローレスにない種類のパッションが歌に出てくるようになっていると思います。
テクニック、表現両方で、フローレスの歌はすでにかなり完成されていて、曲線で言うとすでになだらかな線になっているのに対し、
ブラウンリーの方はまだこれからも伸びていく感じがあり、実際、この三年間、成長の跡がはっきりと歌に現れています。
なので、来シーズンはどんな歌を聞かせてくれるのか、、という楽しみもあります。
全幕でなく、リサイタルやガラの形式で一曲単位で曲を聴いて涙が自然に溢れて来た経験というのはこれまでほとんどないのですが、
今日のこの”耳に残る君の歌声”ではつい涙が一粒落ちて、その瞬間、このまる3日間感じたことのなかった強い感情が突然押し寄せて来ました。
オーディエンスには彼がニ曲目に歌った『連隊の娘』の”ああ、友よ、なんと楽しい日!”の連続9回ハイCが大喝采でしたが、
私にとっては今日の彼の『真珠とり』のロマンスほど、心を動かされたものはありません。

結局、グランド・ファイナリストはスライ、リム、グリーン、ジョンソン、バロンの5名。
この選抜のプロセスを見るのは、それはそれで例年通り、とても勉強になるプロセスでしたが、
何よりも今日強く印象に残ったのは、ブラウンリーが見せてくれた本物の歌が持つ力の大きさでした。


Conductor: Patrick Summers
Metropolitan Opera Orchestra
Grand Tier B Odd
OFF

*** National Council Grand Finals ナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズ***

THE QUEEN OF SPADES (Fri, Mar 11, 2011)

2011-03-11 | メトロポリタン・オペラ
2008-9年から一シーズン置いて再びモシンスキーのプロダクションでリバイバルの『スペードの女王』初日です。
今年の演奏は2008-9年の公演に比べてかなり雰囲気の違う演奏になり、キャスティングというものが公演に与える違いの面白さを如実に感じました。
ということで、今回は2008年の公演のキャストとの比較も絡めながら書いてみようと思います。

2008年にゲルマン役を歌ったのはベン・ヘップナーで、彼は来シーズン(2011-12年シーズン)のメトの『ジークフリート』も結局降板してしまいました
(代わりを歌うのはギャリー・レーマン)が、彼の場合、すでに数年前からやばい予兆が声に感じられるようになっていて、
2008年の『スペードの女王』でも、その痛々しさに観客が居心地の悪さを感じるほどのものでした。
そうなる前の彼の声はとても綺麗だったし、彼の舞台プレゼンスには上品さがあるので、役には声が少し軽く感じられるきらいはあるものの、
もし、彼のプライムの時に聴けていたなら、、、、とそれだけが悔やまれます。
で、今年、この役を歌うのはウラディミール・ガルージン。ということで、この役は非ロシア人歌手からロシア人歌手に歌い手が変わった役の一つです。
まず、これが”ロシアン”ということなんでしょうか。それとも単に彼という歌手の個性なんでしょうか。
荒くれ系で粗野で無骨で、全然ヘップナーみたいにスタイリッシュでも洗練されてもいないのです。声も演技も両方。



声に関しては本人の個性でどうにも変えようのない部分もあるでしょうが、
私の興味を引くのは、ロシア人である彼がこのようにゲルマン役を解釈して演じることを選んだ、まさにそちらの方にあります。
彼が設定した粗野なトーンは、最初に彼がどういう意図をもってリーザに接近したのかをさらにミステリアスにする効果があって、
間違いなく最初は純粋な恋心で彼女に近づいて、決して彼女への愛が嘘でないままに、段々精神の平衡を失っていくように感じるヘップナーのゲルマンよりは、
ずっと早い段階(ほとんど最初の最初)から”完全にいっちゃっている”感じがするガルージンのゲルマンです。
彼の声は、私にとってはあまり聴いていて耳に快い声ではなく、いや、正直に言ってしまうと、耳障りな声の部類に入りますし、
(彼の声にある一種の荒さが私の好みにあまり合わないというところもあると思います)
2008年のヘップナーとそろそろ同じ方向に進み始めているのでは?と思わせるような危うい響きも感じなくもないのですが、
ヘップナーよりは元々持っている声が若干強靭ではあるのかな、と思います。
とても奇遇なことに、ヘップナーとガルージンは、同じ1956年生まれで、メジャーな活躍が始まった時期もともに1990年代の前半あたりということで、
ほとんどキャリアがパラレルに走っているのですが、(ただし、ヘップナーの方がワーグナーのレパートリーをがんがん歌って声を酷使した、ということはあると思います。
ガルージンがロシアでどういうレパートリーをどれ位の頻度で歌っていたのかは良く存じ上げないです。)
ヘップナーの方が絶頂期の声を完全に失ってしまって、2008年の『スペードの女王』も破綻せずに歌い終えることが困難だったのに対して、
今年のガルージンは耳障りな音ながらも強引に最後まで大きな破綻なく歌い終えてしまったし、
幕が降りてみれば、それなりに説得力のあるゲルマン像を作っていたとは言えると思います。



リーザ役は2008年のグレギーナから、マッティラへ。ということで、こちらはゲルマン役とは逆にロシア系(グレギーナの出身は正確にはウクライナですが、
彼女はかつてマリインスキーで歌っていて、この作品でCDもあります。)の歌手から非ロシア系の歌手にチェンジしたパターンです。
ガルージンのゲルマンと全く同様にグレギーナのリーザはどこかパワフルで、やっぱりどこか垢抜けないところがあり、相似点がそこここに感じられたのが面白いなと思います。
さて、マッティラといえば、このブログが始まってからというもの、”??”と思わされる歌を聴かされ続けて、
私の中ではメトに頻繁に登場する歌手の中で、つい昨日まで、”これからメトに来なくてもいい人”のグループの一角を堂々となしている人でした。
彼女のロシアものに関しては、数年前の『オネーギン』も辟易する位オーバーアクティング(今でも瞼に浮かぶ90度に曲がった上半身、、、)のオーバーシンギングで、
その印象があまりに強いので、同じチャイコフスキーの作品の彼女に対して、私の期待値が下がっても誰も責められないというものです。
ということで、微塵の期待もせずに聴き始めた彼女のリーザですが、これがなかなか素敵でびっくりです。



私がこれまでに生で見た・聴いた彼女というのは、いつも本人のやる気と思いが空回りして、結果、彼女が浮いてしまっている感じがすることがほとんどだったのですが、
今回は音楽ときちんと寄り添った歌と芝居で、何か、このリーザという役に対して、特別な思い入れ、もしくはシンパシーと言ったものがあるのでしょうか、
歌も演技も控え目でありながらも情熱的でナチュラルで、彼女を評価するヘッズの意見に初めて納得、です。
たった一つ、残念な点は、彼女の声の衰え、これがもう誤魔化しようがない位はっきりしている点で、
特に高音域の苦しさはほんの数年前まで比較的綺麗な音色を保っていたのが嘘のようで、突然に大きな衰えが来てしまったなあ、という風に思います。
中音域以下は今でも彼女特有の透明感のある綺麗な音色が健在なので、余計にこの高音域の苦しさが目立ってしまうのだと思います。
しかし、この声そのものの衰えというハンデがありながらも、私にとって、彼女の今年のリーザは、ここ数年彼女がメトで歌った他のどの役よりも好ましいです。
ゲルマンについてはガルージンのような粗野な表現も○だと思いますが、リーザに関しては私は断然、グレギーナのどすこいリーザよりも、
声そのものと表現の中に、ガラスのような壊れやすさと繊細さを感じさせるマッティラのリーザが良いと思います。



私がオペラの中のオカルト現象の大ファンであることはこれまでにも何度かこのブログで書いて来た通りですが、
この作品でオカルト現象を巻き起こすリーザのばあさん(伯爵夫人)ももちろん例外ではありません。
ドレス・リハーサルを鑑賞した私の友人が、”伯爵夫人役を歌っているドローラ・ザジックがまるでトロールみたいで、それはそれは恐ろしかった。”と言っていて、
これは二重のオカルト現象が楽しめる!とわくわくしながら彼女の登場場面を待っていました。
2008年の公演でこの役を歌ったのは演技達者なフェリシティ・パーマーで、小柄な体から発散される尋常じゃない濃度なパワーといい、
『連隊の娘』に出演した時とは同じ人物と思えないくらいの迫力に圧倒されたものでした。
ドローラ・ザジックは私の大好きな歌手の一人であるので、つい彼女の良いところを見てしまいがちなのは否めないと思いますが、
今回の公演で彼女への評価が批評家、ヘッズの両方から、あまり高くないことに関しては異論があります。
確かに彼女のこの演目での演技は頂けません。特にパーマーような人と比べてしまうと、もっと演技をしてくれー!!!と思う気持ちもよくわかります。



しかし、私は我々が段々とビジュアルによる表現に頼り、それを重視するあまり、
声と歌そのものによって表現されているキャラクターのパーソナリティをオーディエンスが感じる力が退化したり、
それがビジュアルによる表現に完全に乗っ取られるような事態は大反対です。
(私は今シーズンの『椿姫』のポプラフスカヤの歌唱への観客の反応は、ある程度、こういった状況が進行していることを裏付けているのではないかと思います。)
確かにザジックの伯爵夫人はまさしくトロール!で、友人が言っていた意味がわかった時はつい笑ってしまいましたし、
心臓発作で命が絶えてから、ゲルマンの夢枕に立つ場面では、モシンスキーのこの演出では、
床下にいる伯爵夫人が床を叩き破って舞台上に出てくるという流れになっていて、
ザジックが破れた板の間から登場するときには、つい”でたーっ!!!”と叫んでしまいそうになる化け物ちっくさですが(トップの写真参照)、
彼女が一人、椅子に座りうとうとしながら歌うモノローグのシーンでの表現力の豊かさは、
これほどまでに歌で彼女の感じている運命から逃れられないという予感や重苦しさが表現できているなら、ビジュアルでの卓越した演技が欠けていたとしても、
私はこういう表現も一つのあり方だ、と思うことが出来ます。



彼女もメゾにしては歌声に比較的音色に透明感があって、そのことが伯爵夫人役を単なるおどろおどろしい役柄ではなく、多層的なものにしていると感じました。
また、この公演の後、『ルチア』のラジオ放送の日のインターミッションのインタビューにザジックが登場し
(HDと同じ日ですが、彼女のインタビューはラジオの放送用のもので、HDにはのらないと思います。)、
”声そのものでオーディエンスに印象を残すような役柄(アムネリス、エボリ、アズチェーナといったヴェルディ・ロールを指しているのだと思います。)とは違う役で、
声の迫力だけではないものも自分にあるということを見せたくて”、『スペードの女王』の伯爵夫人役に挑戦することにした、という風に語っていましたが、
確かに、強烈な高音といった目立った聴かせどころのない役柄で彼女を全幕で聴くのは、これまで、この演目を除くと『ルサルカ』くらいしかなかったかも、、という風に思います。
彼女も年齢のせいもあり、高音が痩せ始めて何年か経っているので、今までのレパートリーから一歩進んで別の演目にチャレンジしていく必要も感じているのかもしれません。



ザジックのファンであり、またマッティラに思いがけなく良い意味で驚かされた私ですが、
しかし、今日の公演で最も印象深かった人をたった一人あげるなら、エレツキー公爵役を歌ったペーター・マッテイです。
2008年にこの役を歌ったのはストヤノフでしたので、この役はロシアから非ロシアの歌手になったわけです。
エレツキーという役は必殺アリア”私はあなたを愛しています Ya vas lyublyu"があるわ、リーザにはふられてしまいますが、
最初から最後まで尊厳を失わない、本当に素敵な役なので、誰が歌っても役得、、、とお考えになる方がいらっしゃるかもしれませんが、
そんな方には、もう一度、先にご紹介した2008年の時の感想を読んで頂き、私のノン!と叫ぶ言葉で閉めて頂きたいと思います。
それにしても、この役の歌唱と存在感がきちんとしまったものであることが、こんなにこの作品の印象を変えるとは驚きです。
まず、マッテイの舞台姿のなんと美しいことよ!!!彼は長身で、痩せすぎでもなく、太りすぎでもない、がっちりとした体格に恵まれているので、
『死者の家から』のような演目で、みすぼらしい格好で舞台をかけずり回るのはもったいなさすぎます。
また、声に威厳がありながら、この役の包容力や優しさも感じる温かい声で、およそエレツキー役に必要なすべての要素を持っていると言ってもよいのではないでしょうか?
私は正直、フローレスらと共演し、HDにもなった2006-7年シーズンの『セヴィリヤの理髪師』での彼にはあまりぴんと来てなかったのですが、
彼の『ドン・ジョヴァンニ』表題役には大変感銘を受け、今あの役で現役で聴ける歌手の中ではもしかしたら最高ではないか?と思っているのですが、
(クヴィエーチェンがここにどのように絡んで来るかを確認するのは、来シーズンの最高の楽しみの一つです。)
このエレツキー役も彼の良さがいかんなく発揮される役としてぜひ加えておかねば、と思います。
最後のポーカーのシーンで、周りが止めるのにも耳を貸さず、”私が!”とゲルマンの相手になる瞬間には、
かっこいー、頑張れエレツキー!!と思わず黄色い声を掛けたくなるほどです。
大事なのは、そのように観客に思わせるものをマッテイがきちんとそれまでに歌唱と演技で組み立てて来ていることで、
最後に、彼が勝ち、すなわちゲルマンが負ける時には、マッティの背中に高笑いしている伯爵夫人の姿がだぶって見えたほどで、
こういうことは2008年の公演では一切感じられなかったことです。
劇場によくプロジェクトする深い声は相変わらずで、しかもフレージングの丁寧さ、それからきちんと音楽が彼自身の中で流れているせいで、
ネルソンスのおたおた指揮に引きずられていない点も、さすがだと思いました。
また、”私はあなたを愛しています Ya vas lyublyu"は、同じ旋律が、違う歌詞を伴いながら何度も登場しますが、
旋律が同じだからといってどれ一つとして同じに歌われることがなく、きちんと歌詞の内容を表現しながら少しずつ歌の表情が変わっていくせいで、
このアリアのさらなる奥深さと美しさにふれた気がします。



これらの役に続いて印象に残っているといえば、ポーリーヌ役のマムフォードとトムスキー役のマルコフでしょうか。
ポーリーヌ役を2008年に歌ったのはエカテリーナ・セメンチャクでしたが、彼女はロシアの歌手にしては意外と淡白な声質なので、
この役に関しては、非ロシアなマムフォードの方がまったりしていると感じた位です。
マムフォードはメトでたくさんの準主役や脇役を務めていて(例えば今シーズンですと『ラインの黄金』のキャンディーズ=ラインの乙女の一人です。)、
深いしっかりした良い声をしているのですが、何のレパートリーに決定的に向いているのか良くわからないところがあって、
歌に安定感があるせいもあり、メトではこのまま準主役や脇役をつとめるポジションでキャリアが進んでいくのかな、、と思うところもあります。

2008年にトムスキーを歌ったのはマーク・デラヴァンで(こう見ると、ほとんどの役で、2008年の時からロシア歌手と非ロシア歌手が逆転しているのが面白いです。)、
彼は今ではヴォータン役を歌うようになっているような声の持ち主なので、マルコフとは全然違う個性なのは明らかで、それは歌と演技を含めた役の表現に現れています。
デラヴァンのトムスキーが力強く、そう若くない感じがするのに対し、マルコフはソフトで若々しいトムスキーで、デラヴァンと180度違う役作りは新鮮でした。



最後に指揮について。
ネルソンスの今回の指揮で何を連想したかというと、子供が歌を歌う時に、さびでは盛り上がってよく歌えているのに、そうじゃないところになると、
自信がなくなって、うにょうにょ、、、となる感じ、それです。
彼の指揮は、メロディアスな、上の例で言うとさびに当たる部分は結構上手く流れるのですが、つなぎの細かい部分とか、主旋律を支える細かい部分への指示がはっきりしていなくて、
うにょうにょ、、、となってしまい、そこでオケのアンサンブルが乱れる、というのが定番パターンです。
そういうところをきっちり詰められないのは、作品を隅々まで勉強していないからか、知っているのにそういう指揮の仕方になってしまうのか、それは良くわかりません。
でも、そういう部分をオケの自己判断に任せるのは指揮者として失格です。
仮に表現のアイディアにどんな素晴らしい工夫があったとしても、それ以前の指揮者として持っているべき技術の面で、2008年に指揮をした小澤征爾と比ぶべくもないです。


Vladimir Galouzine (Hermann)
Karita Mattila (Lisa)
Dolora Zajick (The Countess)
Peter Mattei (Prince Yeletsky)
Tamara Mumford (Pauline/Daphnis)
Alexey Markov (Count Tomsky/Plutis)
Adam Klein (Tchekalinsky)
Dina Kuznetsova (Chloë)
Paul Plishka (Sourin)
Mark Schowalter (Tchaplitsky)
Jeremy Galyon (Naroumov)
Kathryn Day (Governess)
Danielle Pastin (Masha)
Bernard Fitch (Master of Ceremonies)
Sheila Ricci (Catherine the Great)
Conductor: Andris Nelsons
Production: Elijah Moshinsky
Set & Costume design: Mark Thompson
Lighting design: Paul Pyant
Stage direction: Peter McClintock
Choreography: John Meehan
Dr Circ C Even
ON

*** チャイコフスキー スペードの女王 Tchaikovsky The Queen of Spades ***


MetTalks: LE COMTE ORY

2011-03-10 | メト レクチャー・シリーズ
いよいよ『オリー伯爵』のプレミエが3/24に迫って来ました。
今日はそのプレ・イベントとも言うべき、同演目についてのMetTalksです。
主役の三人、すなわちオリー伯役のファン・ディエゴ・フローレス、
アデル役(注:このイベントの中ではこの役がしばしば単にCountess=伯爵夫人と形容されていますが、
マイナーなオペラのあらすじからもわかる通り、これはオリー伯爵夫人という意味ではなく、アデルは別の伯爵の奥様です。)のディアナ・ダムラウ、
そしてイゾリエ役のジョイス・ディドナートに、演出のバートレット・シャーを加えたなかなか豪華なゲスト陣で、
もちろんこういう人気歌手たちでキラキラした場面に必ずホスト役で登場して来るのは、ピーター・ゲルブ支配人です。
いつもと同様、語られた内容の要点をメモを元に再構築したものをご紹介したいと思います。

支配人:『オリー伯爵』はロッシーニの作品で、1828年にパリで世界初演を迎えました。
メトではかつて一度も上演されたことがなく、今シーズンの上演がメト初演となります。
今日はその『オリー伯爵』のメインの三役、すなわち、オリー伯役のファン・ディエゴ・フローレス、伯爵夫人(アデル)役のディアナ・ダムラウ、
そして、小姓(イゾリエ)役のジョイス・ディドナート、そして演出のバートレット・シャー氏をお迎えしています。
簡単に今日のゲストの紹介をいたしましょう。
まずはテノールのファン・ディエゴ・フローレス(↓)。



2001-2年シーズンに『セヴィリヤの理髪師』アルマヴィーヴァ伯爵役でメト・デビューし、
2006-7年シーズン、今回の『オリー伯爵』と同じシャー氏が手がけた新演出の『セヴィリヤの理髪師』での活躍や、
『連隊の娘』での18個のハイCは皆様の記憶に新しいところです。


ディアナ・ダムラウ(↓)は2005-6年シーズンの『ナクソス島のアリアドネ』のツェルビネッタ役でメト・デビュー。



その後、一つのシーズンの中で、『魔笛』のパミーナ役と夜の女王役の両方を歌って下さったこともありました。
あ、同一公演内ではもちろんありませんでしたけれどもね(笑)。
モーツァルトの作品や、『ルチア』、『連隊の娘』のマリー、そしてやはりシャー氏演出の『セヴィリヤの理髪師』でのロジーナ役を歌っていて、
毎年、メトの舞台に登場してくれているソプラノです。

そして、メゾ・ソプラノのジョイス・ディドナート(↓)は2005-6年シーズンの『フィガロの結婚』のケルビーノ役がメト・デビュー。



その後、『ロミオとジュリエット』のステファノ役を経て、彼女もシャー氏の『セヴィリヤの理髪師』でロジーナを歌っています。
彼女が登場した公演はHDにもなりましたのでご覧になった方も多いでしょう。
今年は『カプリッチョ』のHDのホストもつとめてくれることになっており、また、来シーズンにはバロックのパスティーシュ・オペラ『魅惑の島』に登場予定です。

演出のバートレット・シャー氏(↓ 中央)は、『セヴィリヤの理髪師』、『ホフマン物語』に続き、今回の『オリー伯爵』がメトで手がける三つ目の作品となります。



ということで、それではシャー氏に『オリー伯爵』の作品のあらすじの説明をまずお願いしましょうか。

シャー:(参ったな、という調子で)Oh my God!(笑)
時はですね、十字軍の時代なんですよ。(皮肉をこめて)オペラには最適な時代でしょう?(笑)
で、城のほとんどの男性が十字軍に加わってサラセンに発った後に、このオリー伯爵という女性に目がない伯爵が、
特に、夫を送り出して心痛の状態にあるアデルを目当てに彼女の城に入り込もうと二つの作戦を立てるんです。
一つ目の、隠者(マイナーなあらすじでは行者という表現になっていますが)に化けてアデルに近づくものの、見事失敗するまでが第一幕、
そして、二つ目の、尼僧の振りをして城に入り込む作戦が描かれるのが第二幕なんですが、三重唱があったかと思うと、いきなり終わるんです(笑)。
ロッシーニが書いた最後の喜劇的オペラと言われていて、初演された場所(パリ)のせいもあって、歌われる言語はフランス語なんですが、
曲はまさにロッシーニ!で、イタリア料理のシェフが作ったフランスのお菓子、とでも形容すればいいかな、と思います。
第一幕はデイライト・アクト(日中の幕)、第二幕はナイトライト・アクト(夜の明かりの幕)とも形容され、
セットのイヤーガン、衣装のズーバーらとは、この点を十分に心がけてプランを練りました。
ロッシーニがこの作品で実現させている登場人物の間の緊密感溢れる音楽を損なわないように、
出来るだけオーディエンスにとって生身に感じられるように、グランドにならないよう気をつけたつもりです。
セットも、イヤーガンと、アンティーク、チャーミング、と言った性質を大切にしながら作って行きました。

支配人:この作品は先ほども申し上げた通り、メトでは今シーズンが初演となります。
あなた(フローレス)がペーザロでこの作品を歌ったことも作品見直しの一つのきっかけとなって、
今回のメトでの上演はもちろん、今年はチューリッヒでも同演目の上演が行われていますが、
世界的に見てもまだ非常に実演の機会の少ない演目であると言えると思います。これはなぜでしょう?

フローレス:声楽的にそれぞれの役にあった歌手を揃えるのが難しいというのが一番の理由ではないでしょうか?

支配人:当初は予定していなかったのですが、せっかくですので、そのペーザロの音源から、
オリー伯爵が隠者の振りをして女性達の望みを全部叶えてあげよう、と言いながら誘惑する
"Que les destins prospères 願わくば幸いなる運が皆さんがたの祈りに応じたまわんことを!”のファン・ディエゴの歌唱を皆様に聴いて頂こうと思います。

フローレス:おお!!(と言って、手で顔を覆う)


(CDにもなっている上と同じ音源が流れ、彼の歌声に耳をすませるオーディエンス。
彼の美しい歌声に思わず笑みがこぼれる人多数。曲が終わると大拍手だったのですが、最後にハイCを出さずに終わったのを受けて冗談めかしながら)

フローレス:このハイCがなかったのは芸術上の選択だったんだよ。わかるでしょ?時には高く上げて終わるのは良くないこともあるんだ、、、
なんて言ってるけどね、本当は僕も最後にはハイCをつけて終わる方がいいと思う。(笑)

(注:そしてフローレスは本当にオーディエンスの期待を裏切るのが嫌いな真面目な人柄なんだな、という風に思います。
3/24のメトのプレミエの公演ではこの時の言葉通り、彼は最後を高音で閉めてくれています。
下がその初日からの、同じ部分の音源です。指揮はベニーニです。)



支配人:では、ディアナ、あなたが歌うアデル役について少し話していただけますか?

ダムラウ:アデーレといえば、皆さん、すぐに『こうもり』の方を思い浮かべられると思いますが
(注:英語では『オリー伯爵』のアデルも『こうもり』のアデーレも同じ発音なので)、『オリー伯爵』のアデルはまじめで、
しかも、自分ではなくて、男性(オリー)の方が彼女の方を選ぶ、という設定です。
この三人の登場人物が暗闇の中にいたら、一体どんなことになるか、皆さんわかるでしょ?(笑)
この作品には、大事なことは水面下でずっと起こっているような部分があって、
レチタティーヴォにもダブル・ミーニングがあったり、そういうところが面白いな、と個人的に思います。

支配人:そして、ジョイス、あなたの役はオリー伯爵の小姓のイゾリエですね。

ディドナート:ええ、でもイゾリエの話をする前に少しだけ。さっき、"Que les destins prospères”の音楽が流れた時、
皆さんの間にすごい勢いで笑顔が広がっていったの、ご自身でお気づきになりましたか?
良い音楽を聴いた時、微笑まずにいるのは難しいと本当に思います。
イゾリエですが、そう、彼はオリーの小姓なんですけれども、面白いのはニ幕の展開の中心となる、
尼僧に化けて城にまぎれこむというアイディアは、もともと、オリーのものではなくて、イゾリエのものであった点です。
それをオリーがちゃっかり拝借してしまうんですよね。
ということから考えると、イゾリエにはストリート・スマート
(学校の勉強でつく類の知識ではなく、普段の生活や実地の経験から生れる知恵や機転に富んでいること)な側面があって、
それは、彼ら3人が一緒にベッドに入っている時に彼がどういう行動に出るか、という部分にも現れていると思います。

シャー:『オリー伯爵』には原作となっている戯曲があるのですが、それによると、オリーには14人もの子供が生れることになっているんですよ(笑)

支配人:へー、そうなんですね(笑)さて、シャー氏に次に伺いたいのは、喜劇と悲劇という比較についてなんですが、、。
この『オリー伯爵』はまぎれもないコメディーですが、悲劇を演出する際と比べ、どちらが難しく感じますか?

シャー:『オリー伯爵』はげらげらひっくり返って笑うようなコメディーではなくて、軽くてメロウな喜劇だと言えると思います。
で、こういうタイプの喜劇は、私自身は、ヘビーな悲劇よりも、ずっとずっと演出をするのが難しいと感じます。
今回はこの3人のような才能溢れるキャストに恵まれましたので幸運でしたが、
この作品のデリケートさ、それからキラキラした輝きを現出するのは簡単なことではありません。
例えば、ニ幕の尼僧に化けたオリーとアデルの二重唱の場面ですが、ここでのアデルは本当に彼が尼僧だと信じているのでしょうか?
それとも、尼僧の振りをしたオリーであることを十分承知で、すっとぼけているのでしょうか?
そして、そうだとすれば、彼女がすっとぼけているということを、オリーは知っているのかどうか、、、
こう考えると、色んな風に解釈する余地があることがわかります。

ディドナート:喜劇的なオペラというのは、喜劇的な効果をもってストーリーを語ることに他ならないと思います。
なので喜劇的な歌唱・演技を披露しようとする前に、まずは何よりもストーリーをきちんとオーディエンスに伝えるということが大事なのではないかと思うのです。
喜劇的なオペラに出演している時は客席からの笑いにほっとさせられます。だって、逆にしーんと静かだったりしたら、、

支配人:それくらい観客が舞台に集中しているという見方もできますよ。

ディドナート:そう思えればよいのですが!(笑)

支配人:(フローレスに向かって)では、あなたは喜劇(コメディー)と悲劇(トラジディー)について、どのようなお考えをお持ちですか?

フローレス:僕の場合は、自分の持っているレパートリーの中ではコメディーの方が、、、、うーんと、コメディーの反対の言葉はなんだっけ、、

(つい3秒前に、支配人自身が質問の中でcomedy vs tragedyという言葉を発したばかりなので、
まさかフローレスが”悲劇”という単純な言葉を探しているのではあるまいと深読みし、”え?何だろう?何だろう?”となぜか一緒に慌ててしまうゲルブ支配人。
ディドナートとシャーがえ?もしかして、、という様子で”Tragedy?"と助け舟を出すと)

フローレス:そうそう、トラジディー(悲劇)!

(このフローレスのびっくりするような強度のお茶目な健忘症ぶりに、机につっぷして大笑いするシャー。オーディエンスも大爆笑。)

フローレス:(そんな私たちを全く意に介さぬ様子で淡々と)僕のレパートリーで悲劇といえば『セミラーミデ』とか色々あるんだけど、、、
そうだな、僕は喜劇も、しばしば、”身の毛もよだつ瞬間”の上に成り立っていることが多いと思うんだよ。
それから、『オリー伯爵』では僕はほとんどずっと変装しているんだよね。最初は隠者、そして後半は尼さん、、、
僕のレパートリーの中には、他にも『セヴィリヤの理髪師』とか『シャブランのマティルデ』など、変装系の作品がある。
これらの作品では、同じ一人の役でありながら、違うパーソナリティを出さなければならないというチャレンジがあるんだよ。
声楽的にはもしかすると悲劇的作品の方が求められる部分は多く、より優れていると言ってもよいのかもしれないけれど、、。

ディドナート:喜劇的作品はストーリー自身が悲劇よりももっと込み入っているケースが多く、
たくさんのストーリー上のひねりをどうやって表現していくか、とか、歌と演技のバランスをどのように取っていくか、というような、
悲劇とはまた違った難しさがありますね。
喜劇には、シャンパンのようなぱちぱちと弾ける感じも絶対に必要で、さあ、もう一本シャンパン開けて!さあ、次ハイC出して!というような、
湧き出てくるような楽しさも求められます。
私は悲劇というのは、実際にその作品をお客さんがそれまでに鑑賞したことがあるかどうかに関わらず、
これから何が起こるかわからないと思わせるような雰囲気で持って歌い演じることが大切であるのに対し、
喜劇というのは逆にすでにわかっていること、お約束の上で、どれ位オーディエンスを笑わせることが出来るかが大事である、という、
そういう違いがあるかな、と思います。

支配人:次は少しHDのことについてお伺いしたいと思います。
歌手の方の中にはHD向けに演技や歌唱を少し変える、という方もいらっしゃいますが、HDが実演に与える影響というものについてお話願えたらと思います。

シャー:私が思う、実際にオペラハウスで公演を見るという体験とHDで鑑賞する際の違いは、
カメラの映像は舞台上のほとんどどこにでも移動できるのに対して、オーディエンスにはそれが不可能であるという点です。
私は常に、舞台芸術においてはオーディエンスこそが主役であって、オーディエンスが舞台上の登場人物一人一人と特別な関係を結べるような、
そういう舞台を作って行きたいと考えています。

支配人:ということは、演出においてHDを念頭に置いた特別なことはなさっていない、と、そういうことになりますか?

ダムラウ:私も特にカメラが入っているからといって歌や演技を変えることはありません。

ディドナート:『セヴィリヤの理髪師』のHDの体験から言うと、カメラが入っているせいでよりアドレナリンの放出量とか
フォーカスの度合いは変わってくるということはあるかもしれません。
もちろん、カメラが入っていない時でもフォーカスしているのですが、、、何と言えばよいかしら、、、
HDだからと言ってカメラ向けに表現を判りやすく大きくする必要はないですが、より内面的に、深くする必要はあるかと思います。

支配人:ロッシーニの作品は、しばしば旋律の繰り返しが多く、また、作品間での音楽の使い回しも多い、など、
ネガティブな意見を持つ人もありますが、皆さんが『オリー伯爵』で難しいと感じられる部分はどういうところでしょう?

シャー:旋律の繰り返し、私はそこが奥深いところだと思うんですよ。、名前やラベルをつけては変え、つけては変え、
を繰り返す作業に似ている。そして、その度に、少しずつ変化していくニュアンスの違いを折りこまなければならない、
これは演出家にとって、とてもやりがいのある仕事です。
それからロッシーニの作品には先にすでにお話したような、キラキラとした感じ、軽い感じを殺さずに、
その底に隠れた奥深いものを引き出す必要があります。

フローレス:オリー伯役について言うと、僕が歌っている他のベル・カントのレパートリーに比べて、
この作品で歌われるアリアはもともとソプラノのために書かれていたせいで、ソプラノイッシュな雰囲気があり、それが難しさの一つ。
それから作品としての難しさだけど、一つにいわゆるビッグ・アリア(超メジャーなアリア)がないこと、
非常にたくさんのレチタティーヴォがあって、その中で、この作品の楽しさを表現していかなければならない点、
それからイゾリエとの二重唱、これは声楽的にとても難しい、、、このあたりがあげられるかと思います。
ロッシーニの作品でどうして音楽の使い回しが多いか、という話だけど、それはロッシーニがエコ・フレンドリーな作曲家だったからだよ。(笑)
まじめな話、当時のオペラというのは、今みたいにCDで何度も聴いたりするわけじゃなかったから、それでよかったんだ。

ディドナート:私が歌うパートの中で最も難しいのは一幕のオリーとの二重唱(”Une dame de haut parage さる高貴な生まれの貴婦人が”)の最初ですね。
それから、この作品は歌われる言葉がフランス語であるために、イタリア語で歌われるロッシーニ作品と比べると、
飛び跳ねるような感じとかパーカッシブさが薄いので、その辺も注意が必要です。

ダムラウ:私の場合、一幕の”En proie à la tristesse 悲しみにさいなまれ”ですね。
控え室から出たか出ないかといううちにあんな旋律を歌わなければならないんですもの。
ロッシーニは歌手の虐め方を良く心得ていたんだわ、と思います(笑)。

フローレス:この間Wikipediaで『オリー伯爵』の項を読んでいたら、1828年のパリの公演の後、
1829年にロンドン、それから1830年にはニュー・オーリーンズで上演されているんだ。そして1831年にニューヨークに来たみたいだよ。

支配人とゲスト一同:へえ、そうなんだ、、

フローレス:うん、Wikipediaに書いてあることが本当かどうかは知らないけど。
(注:確かにフローレスが語っている通りのことがWikipediaに掲載されています。)

ディドナート:演技の面で言うと、一番大変だったのはニ幕のオリーがアデルの部屋に忍び込んでくる場面!
だって、私達3人一緒にベッドに入ったことはいままでにないでしょ?(笑)
あのシーンはちょっとしたチャレンジだわ。

支配人:(笑)今まであなたはディアナとは『ナクソス島のアリアドネ』、それからファン・ディエゴとは『セヴィリヤの理髪師』で共演してますから、
気心知れた間でしょう?

ディドナート:それでも(笑)!でもあのシーンはロッシーニのアンサンブル・ライターとしての面目躍如のシーンね。

ダムラウ:個々のアリアも優れているけれど、ああやって歌手がアンサンブルを繰り広げる部分では何倍ものパワーが出る感じがしますね、確かに。

シャー:今回の公演では彼ら三人が色々アドリブで思いついてくれた演技も取り入れています。
演出にはもちろん、ストラクチャー、それからたくさんのルールが必要ですが、
その一方で、演じている側が楽しくなるような、創造的アドリブが可能な余地は残して置きたいと思うのです。
なので、僕の仕事は究極的には、彼らのために、そのようなグラウンドワーク、基礎の部分を作る作業を行うことだと思っています。
特に今回の作品で注意した点は、作品そのものが持っているスピリット、雰囲気を壊さないように、
出来るだけシンプルに、ということを心がけ、最新の大きなテクノロジーを使用せず、すべて、いわゆる古典的な劇場技術に依存しています。
例えばニ幕で、水平になっているベッドがだんだん垂直になっていく場面も、全て手動で行っています。
それからこれはファン・ディエゴの持論なんですが、まず、劇場にいる観客にとって、満足の行く音体験でなければならない、ということで、
セットが歌手達にとって障害にならず、むしろ彼らの歌唱を支えるものになるよう十分考慮したつもりです。

支配人:『セヴィリヤの理髪師』の時は、舞台前に花道を作るという楽しいアイディアがありましたが、今回も何かそういうものはあるのでしょうか?

シャー:舞台上にプラットフォームを作ったりはしていますが、あの『セヴィリヤ』の時のようないわゆる”花道”は今回は存在しません。
今回私が心を砕いたのは音楽のための器(musical shell)を作ることで、そのことによって、親近感を生み出したり、
実際のメトの舞台サイズよりも、ずっと小さなオペラハウスであるかのような印象を与えられるよう工夫したつもりです。

支配人:それでは皆さんのこれからの予定、将来のプランなどをお聞かせ願えますか?ロッシーニの他の役柄に挑戦する予定などはありますか?

ディドナート:私は2010年に『湖上の美人』のエレナ役のロール・デビューがありました。この役はこれからも歌っていけたら、と思っています。
(ロッシーニの)『オテロ』(のデズデモーナ役)はまだ歌ったことがなくて、ぜひチャレンジしてみたいもののひとつです。
それから『セミラーミデ』(のアルサーチェ役)。
(おお!という声がオーディエンスからあがる。)
これはいつか実現できるかな、、、どうでしょうね。

ダムラウ:私はロッシーニについては、『セヴィリヤの理髪師』に続いて、やっと『オリー伯爵』でニ作品目にたどりついたところです。
私もいつか、『セミラーミデ』を歌えたら、という気持ちはあります。
ソプラノなので、ジョイスとは逆側(=セミラーミデ役)からの挑戦になりますが(笑)。

フローレス:『シャブランのマティルデ』はもっともっと注目されていい作品で、これからも歌って行きたいですね。
『マティルデ』には六重唱をはじめ、あらゆるtets(注:四重唱~六重唱の重唱は順にquartet, quintet, sextetと、全てtetが語尾に付くので、
それらの重唱を指している。)が含まれていて、素晴らしい作品です。

支配人:ジョイスは来シーズンの『魅惑の島』に出演されますね。

ディドナート:はい。私がきちんと歌唱で成果を出せたなら、とても楽しい作品になるはずです。
パスティーシュ・オペラ(別の作曲家による作品の部分部分を集めたコンピレーション・オペラのようなジャンルのこと。)
というのは今でこそ珍しいものになってしまいましたが、昔にはごく普通に行われていた演奏形態です。
ただ、、、私が演じるシコラクスは母親世代の役柄で、自分の子供世代が(キャリバンを歌う)ルカ・ピサロニとか
(ミランダを歌う)リゼット・オロペーザというのはショックです(笑)
リゼットが自分の娘世代、、、こればかりは立ち直れそうにもありません(笑)
ストーリーは『テンペスト』と『真夏の夜の夢』を組み合わせたもので、
どの登場人物にも素晴らしいアリアが準備されていて、すごくワイルドな公演になるはずです。

支配人:『オリー伯爵』ではコーラスも大事な位置を占めていますよね。

シャー:メトのコーラスの表現能力というのは素晴らしいものがあって、
意味もなく走り回っているようにしか見えなくなってしまう恐れがある場面でも、
一人一人の演技能力がとても高いので、そうならないんですよね。

支配人:さて、ロッシーニの作品の魅力はどこにあるでしょう?

ディドナート:ロッシーニの作品に取り組んでいると、時々、”さあ、この音楽にリブレッティストがどんな言葉をつけるか見てやろうじゃないか。”という
彼のいたずらっぽい表情が浮かんで来るような気がすることがあります。
彼は自分の音楽が持っている力というのを本当に良く理解していたし、自分の作品に強い信念を持っていた人だと思います。

シャー:そして、彼の作品のすごいところは、そこに必ずエレガンスが感じられる点ですね。
それから、単純にあの量!あれだけの量の音楽をさらさらと書いてしまう、それだけでもすごい。

フローレス:彼がイージー・ハンドな作曲家(多筆で、苦労せずにすらすら音楽が出てくる、
もしくはそう見えるタイプの作曲家)だったことは間違いないですね。
僕が彼をすごいと思うのは、すごくドラマティックな、もしくは美しい音楽を書いた後で、
それをすとーんと落とすような、そういうユーモアも持ち合わせている点です。

ダムラウ:そうですね、彼の音楽にはどんな喜劇でも、微塵も安っぽいところがなく、
バートが言ったようにエレガンスに溢れていて、、、
彼の音楽には、何もかもが備わっている、そういう風に思います。


MetTalks Le Comte Ory Panel Discussion

Juan Diego Florez
Diana Damrau
Joyce DiDonato
Peter Gelb

Metropolitan Opera House

*** MetTalks Le Comte Ory オリー伯爵 ***

マイナー・オペラのあらすじ 『オリー伯爵』

2011-03-10 | マイナーなオペラのあらすじ
『オリー伯爵』 Le Comte Ory

作曲:ジョアキーノ・ロッシーニ
台本:ウージェーヌ・スクリーブ、シャルル=ガスパール・ドゥレストル=ポワルソン
初演:1828年8月20日、パリ、オペラ座


第一幕

1200年ごろのフランス。フォルムティエ伯爵は、十字軍の戦いに参加するため城の大半の男性を率いて聖地に発った。
あとには妹で伯爵夫人のアデルとお付きのラゴンドが残っている。
アデルに恋をしている年若いオリー伯爵は、男性陣の留守に乗じて彼女を口説き落そうと決心する。
友人ランボーの力を借りて、彼は行者になりすまし、城門の外に庵を構えた。村の娘たちや農民が次々に恋の悩みを相談しに来る。
オリーは皆に祝福を与え、願い事はすべてかなうと請け合う。
相談者の中にラゴンドがいて、「城の男性たちが留守の間、女たちは未亡人のように暮らす誓いを立てているのだが、
アデル様が奇妙な憂鬱病に悩まされているので、本人があとで相談に来る」と言う。オリーは狂喜する。

オリーの小姓イゾリエが、オリーの教育係とともに主人を探しにやってくる("Veiller sans cesse" 「いつでも気を配っていないと」)。
教育係は行者の正体がオリーではないかと気づき、応援を呼びにいったん帰る。
一方、行者が自分の主人であることに気づかないイゾリエは、アデルに恋をしていること、
そして巡礼の尼僧に扮して城に侵入しようと考えていることなどを打ち明ける("Une dame de haut parage" 「さる高貴な生まれの貴婦人が」)。
オリーはイゾリエのアイディアに感心し、協力を約束するが、内心ではそのプランを横取りして自分がアデルに近づこうと考える。

アデルが憂鬱な気分を嘆きながらやって来る("En proie à la tristesse"「悲しみにさいなまれ」)。
相談を受けた行者は「憂鬱を晴らすには恋をしなさい」と勧める。
初めはそのアドバイスに驚くアデルだったが、その後イゾリエのことが好きだと告白する。
行者はあわてて「放蕩者のオリー伯爵の小姓などに関わってはいけない」と忠告する。
行者のアドバイスに感謝したアデルは、彼を城へ招待する。
いざ出発しようとしたところへ、教育係が戻ってきて、行者の正体はオリーであることをばらす。
イゾリエも、アデルも、その場にいた全員が驚愕する。
あと二日で十字軍が帰還するという知らせが入ると、オリーは何とかその前に城に侵入しようと決意を新たにする。


第二幕

その晩、城内では女たちがオリーの不届きな行動について憤慨しているところに嵐が来る。
城の外で巡礼の尼僧たちが「オリーに追われているので助けて下さい」と訴えている。
尼僧たちの正体は、変装したオリー伯爵とその一味だった。
アデルが尼僧たちを城に招き入れると、中の一人が伯爵夫人に直接お礼を言いたいと申し出る。
アデルとふたりきりになると、オリー扮する尼僧は気持ちを抑えることができない(二重唱 "Ah! quel respect, Madame" 「ああ、なんという敬意」)。
アデルは尼僧たちに簡単な食事を用意するよう指示して退出する。
ランボーは、城の酒蔵から失敬したワインを抱えて部屋に入ってくる。("Dans ce lieu solitaire" 「この寂しい場所で」)。
男たちのどんちゃん騒ぎは、ラゴンドに聞かれそうになると敬虔な聖歌の合唱へと変わる。

イゾリエが、十字軍の帰還が今晩になったことをアデルに知らせに来る。ラゴンドが尼僧たちにも知らせましょうかと言う。
“尼僧”と聞いてその正体にピンときたイゾリエは、オリーをからかってやろうと一計を案じる。
夜更け、オリーがアデルの寝室に忍びこもうとすると、イゾリエはランプを消す。
アデルの声に導かれて、オリーはそうと知らずにイゾリエを口説いてしまう(三重唱 "À la faveur de cette nuit obscure" 「この闇夜に乗じて」)。
十字軍の帰還を知らせるラッパが鳴り響くと、イゾリエが正体を明かす。オリーは逃げるしかない。

(出自:メトのサイトから、2010-2011年シーズン作品の日本語によるあらすじより。
写真はメト2010-2011年シーズンのシャー演出の舞台より。)

*** ロッシーニ オリー伯爵 Rossini Le Comte Ory ***

ARMIDA (Sat Mtn, Mar 5, 2011)

2011-03-05 | メトロポリタン・オペラ
フレミングがありがた迷惑な皆勤賞を果たした昨シーズンの『アルミーダ』から約一年。
今シーズンもその『アルミーダ』が再演されることとなり、昨年と同様に表題役はフレミングで、カバーがアンジェラ・ミードであることが発覚し、
今年はシーズン開始前にミードのエージェントに駄目もとで直接eメールを出してみました。

”私、映画『オーディション』のプレビューでミード嬢を拝見・拝聴して以来の、大、大、大ファンです。
彼女のメト・デビューとなった『エルナーニ』での代役に関しては、映画がその公演の後にプレビューされたので出遅れ、見損ねてしまいましたが、
その後は私の移動できる範囲内で彼女の歌を聴ける機会はすべて逃さないようにしています。
NY在住ですので、メトの『フィガロ』の伯爵夫人、それからキャラモアの『セミラーミデ』『ノルマ』はもちろん、
最近では彼女のヴェルレクを聴くがためだけに、ピッツバーグまでの日帰り旅行を企てました。
彼女のヴェルレクでの歌唱は本当に素晴らしく、私はあの作品のソプラノ・パートが、あれほど美しく、しかも、あたかも簡単であるかのように、
静かでいながら深い感情に溢れて歌われたのを聴いたことがありません。
あまりにも感激してしまったので、ボルティモアで再び彼女が歌う予定のヴェルレクに足を向けようかと計画中です。
ところで、ミード嬢が今年もまたメトの『アルミーダ』でカバーをつとめると耳にしました。
ミス・フレミングに個人的な恨みがあるわけではないのですが、昨シーズンは、たった一日だけでいいから、
私達にアルミーダ役でのミード嬢の歌を楽しむ機会を与えてほしい、、と心から願っていたのです。
実を言いますと、『アルミーダ』公演日は毎日、その日オペラハウスにいる友人にキャストの変更がないかどうかを確認するテキストメッセージ攻撃をしかけ、
もし、ミード嬢が代役に入るという連絡が入った暁にはメトに飛んで向かう準備もしていました。
しかし、不幸なことに、ミス・フレミングは一度もキャンセルしてくれなかった、、、。
今年も『アルミーダ』を鑑賞する気持ちはあるのですが、もし、ミード嬢が歌う日があるならば、その日に鑑賞したいのです。
(まだチケットは購入していません。)
今の段階で、彼女が歌うかもしれない可能性のある公演日というのはありますか?(メトのサイトでは今のところ、全部ミス・フレミングになっていますが、、。)
もし、ミード嬢がいずれかの公演を歌うことになるとして、それを事前に知る一番良い方法は何でしょうか?
ミード嬢のfacebookはしばらくアップデートがないようなんですけれども。 Madokakipより。”



すると1時間もしないうちにエージェントの方から、
”残念ながら現在の段階では本公演で歌う予定はないのです。でも、万が一、変更がある場合は、私が喜んでメールを差し上げましょう。”
という親切なお返事を頂きました。
というわけで、期待を抱きながらシーズン初日を迎えましたが、
ニ回目の公演、三回目の公演、四回目の公演になってもエージェントからはメールはなく、
実際、相変わらずフレミングが舞台に立っているという裏付けが毎度取れるにしたがって、失望はいよいよ諦めに変わっていきました。
考えてみれば、フレミングって本当にキャンセルが少なくて、やたら健康なんですよね、、、。

というわけで、今日は5回目の公演。いよいよ楽日になってしまいました。
そして、私ももう観念です。
なぜなら、マチネのラジオ放送がある今日のような日に、健康体のフレミングがキャンセルすることはまずあり得ないから。
昨シーズンの『アルミーダ』では、もうこの先20年くらいフレミングの歌を聴かなくても大丈夫なほど、彼女の歌で腹一杯にさせられましたので、
今年の『アルミーダ』はパスをする、という選択肢もあったのですが、二つのことが、私に楽日を鑑賞する決心をさせました。



まず、歌唱陣については一役を除いて全員が昨シーズンからの据え置きのキャストなのですが、
その例外の一役というのが、ジェルナンド役で、それを今シーズン歌っているのがアントニーノ・シラグーザである、ということ。
シラグーザに関しては、今までもコメント欄などで少なからぬ方からポジティブな評価を伺っていたということと、
それから、YouTubeで聴く彼の声が音源によって私にはかなり印象が違って聴こえること、
また全体的に彼の声は私にはとても個性的に感じられたということがあって、
一体、生で聴くとどんな声のテノールなのか?という興味が高まっていました。
ただ、彼が得意としているレパートリーは、メトではフローレスやブラウンリーといった歌手に先にキャスティングが回ってしまうことが多いのか、
2003年のデビュー(『セヴィリヤの理髪師』)以降、今年までメトへの登場は一度もなく、
次に彼の生声を聴く機会が来たら、絶対に逃してはならない!と思っていたのです。

それからもう一つは、この公演の二つ前の公演(つまり今シーズン3度目の演奏)でのブラウンリーの歌唱が凄かった、という友人の一言。
もう30年以上メトで鑑賞をし続けている、普段は特にブラウンリーの大ファンでも何でもないその友人が、
”個人の歌唱という面では、これまでに鑑賞したメトの舞台の中で最も印象深かったものの一つ。”と言い切り、
いかに彼の歌唱がすごかったかということを、とうとうと終演後に電話で語り続けるので、
私はその場にいなかった悔しさに歯軋りする余り、奥歯が削れるかと思ったくらいです。



指揮もこれまた昨シーズンと同じ、”忘れられた指揮者”リッカルド・フリッツァで、
昨シーズンは”完全版でない『アルミーダ』は『アルミーダ』でない!”とレクチャーで豪語するほど完全版にこだわり、
実際、彼の意向でそれを実現させてしまったわけですが、
さすがの彼も去年の全幕公演を自分で指揮してみて、フレミングが表題役の『アルミーダ』で完全版を演奏してみても、
それは何ほどの意味も持たないばかりか、観客、演奏者、そして何より自分への虐待であることが良く身に沁みたか、
今年はところどころでカットを採用しています。
昨シーズンと相も変わらず、歌をオケが音で圧してしまう傾向にあるのですが、
(フリッツァ自身はそれを出来るだけ和らげようと、一部の楽器の編成を減らしたり、工夫をしていたようなんですが、それでもまだ、、。)
バレエの場面はそういった歌とのバランスに気兼ねすることなく、思う存分オケを鳴らせるせいもあってか、
その躍動感といい、なかなか悪くない指揮振りでした。
いや、実際、表題役の歌がぴりっとしない今回のような公演では、もはやバレエのシーンの方が公演中の存在感が大きい位で、
ABTのバレエ公演で、彼らの専属のオケが聴かせるへっぽこ演奏にかなりへこまされた経験のある私としては、
今回のように、優れたオケの演奏がついたバレエのシーンを見れる機会というのは本当に至福に感じられます。
考えてみれば、昨年『アルミーダ』を鑑賞したのはプレミエの日の演奏で、その後、相当な数の演奏がシーズンが終わるまでにありました。
たしか10本はくだらなかったのではないかと思います。
そして、今年が5公演。つまり、私が前回鑑賞した時から、15弱公演分の隔たりがあるわけですが、
この間に、特にバレエのシーンに代表される、ステージ上の動きとしてのアンサンブルが大事なシーンでの進化はめざましく、
やはりプロの仕事というのは素晴らしい!と思わされます。
タイトル・ロールの歌唱が最大の魅力であるはずの『アルミーダ』のような作品で、この状態はちょっとどうかと思いますが、
正直、オケの演奏の良さのせいもあり、バレエのシーンがこの作品で最大の見所に成長しつつあるように思います。



バレエの中でリナルド役を担当するダンサーは、マーク・モリスのカンパニーに所属しているアーロン・ルーから、
今年はニューヨーク・シティ・バレエやABTを経てブロードウェイの舞台にも立っているエリック・オットーに変わりました。
ダンスのクオリティはいずれのダンサーも優れているのですが、オットーにはルーよりも舞台上の華があって、
それが今年のバレエ・シーンの印象アップにも繋がっているように思います。
ただ、ハッスルしすぎて、ジャンプのシークエンスの途中で頭に乗せていた花輪が吹っ飛んで床に落ちてしまいました。
それまで本当に綺麗にダンスが流れていたので、振付を数秒投げ出して床から花輪の奪還に燃える彼を見て、
あんなに花輪に拘るなんて、これで彼もいよいよ落ち着きを失ったか?と一瞬思っていたのですが、
考えてみれば、このダンスのシーンは最後にバレエのリナルドが歌のリナルド(つまりブラウンリー)の頭に花輪を載せることで、
初めてこの作品の舞台を見る人に、ああ、このダンサーはリナルド自身を表現していたんだな、と伝える大事な場面があるので、
ここで花輪が頭に載っていないとか、もしくは奪還する前にそれが女装したスパイダーマンのような、
アルミーダの魔力の陰の要素を表現するダンサーたちにずたずたに踏みつけられているというのはちょっとまずいわけで、
結局はオットーの対処の仕方が一番適切で落ち着いていたと言えると思います。



フレミング、ブラウンリー、シラグーザ以外の歌唱陣については、特にここでふれておきたいような大きな変化は去年と比べて見られなかったので、
この3人だけに焦点を絞って感想を書こうと思います。

まず、シラグーザ。
百聞は一見にしかず、とよく言われますが、歌手に関しては、まさに、百聞は一聴にしかず、という言葉がぴったりで、
今日の彼の歌唱を聴いて、なるほどなあ、と思うことがいくつかありました。
先に、彼の声は音源によって私には随分印象が違って聴こえると書きましたが、
それは実際、彼の声はあるラインから上の音域と下の音域で微妙にサウンドが違っていて、そこに主な原因があるように思います。
まず、下の方なんですが、これはどこかこっくりとしたと言えばいいのか、ほとんど”ひょうきんな”と形容したくなるような音色です。
ところが、それが上に上がって行くと、突然そのひょうきんなサウンドが抜けて、非常にストレートで綺麗な音色に変化するのです。
言うまでもなく、私は高音域での音色の方が好きです。
彼があまりメトに登場しないのは、レパートリー的にフローレス、ブラウンリーと被っている点がやはり一番大きいのではないかと思います。
ただ、それ以外に、声のサイズも関係しているのかもしれないな、と事前に推測していたのですが、その点は全然関係ないと言ってもよいかもしれません。
想像していたよりもしっかりした声量と良く響く音色を持っているので逆に驚いたくらいで、メトで歌うのに全くその面では不自由はありません。
ロッシーニ歌唱に必要な技術も申し分なく持っているし、本来なら、歌の内容から言って、もっと観客のレスポンスが良くてもいいと思うんですが、
そうならないところ、そこにこそ、彼の課題があるかな、という風に感じます。

本当はこのようなgeneralizationというのでしょうか、大人数を一からげにして話すのは嫌いなのですが、
あくまで傾向として、日本のオーディエンスとメトのオーディエンスの違いをあげるなら、
比較の問題で(←ここは大事です。決して絶対的な話をしているのではないので誤解なきよう!)
日本のお客さんの方がより歌の内容への志向が強くて、その分スター性への志向は甘め、ということは言えるのかな、と思います。
逆に言うと、メトのお客さんは、歌が上手い、良い声を持っているだけでは十分でなくて、スター性がないとなかなか喝采してくれない、というところがあるように思います。
さらにその当然の帰結として、スター性があれば、歌のなんだそりゃ???な部分には多少目を瞑ってもらえがち、という部分も、あると言えると思います。
(ネトレプコやフレミングのベル・カント、、、。)
で、それで言うと、ちょっと残酷な言い方になりますが、シラグーザにはメトの観客が求めているような種類のスター性はないのかな、、という風に思います。
ずっとこのブログを読んで下さっている方ならば、私個人の考えとしては、もうちょっとメトの観客に、本来歌手が持っているべきもの、
つまり、声とか歌唱テクニックに注意を向けて欲しいと思っていることも、
私の好きな歌手の一人であるストヤノヴァなんかが、せっかく実力がありながら、
完全に、この”メトの観客が求めている種類のスター性がない歌手”のカテゴリーに入っている点にもお気づき頂けることと思います。
なので、私自身は、もうちょっとシラグーザのような歌手の良さも、認められるべきだ、という考えではあるのですが。



しかし、今更シラグーザやブラウンリーにもっと背を高くしてみろ、とか、フローレスみたいなルックスになってみろ、と言っても始まらないわけで、
後、勝負できるとすれば、他の歌手にはない何かを持っているか、ここにスター性の源を求めて行くしかないと思います。
で、その点で言うと、私個人的には現時点なら、シラグーザよりもブラウンリーの方にポテンシャルを感じるのです。
同じく現時点で比べた場合、歌と声の安定度や完成度、技術、
ロッシーニものに必要なスピード感、アジリティ、スタイル感といった面ではシラグーザの方が上なんですが、それでも、です。

あともう一つ、スター性のある歌手が絶対に外さないクオリティは、”おさえることをおさえる。””客が期待しているものをデリバーする。”ということです。
先にも書いたように、シラグーザのサウンドは、少し音域によってカラーに違いがあるので、その点についての好悪は多少分かれるかもしれませんが、
それを除けば歌唱の内容は、最後の最後に来るまで、非常に良かったと思います。
ところが、一番大切な、彼のパートの最後の方に現れる高音で、ついテンス・アップしてしまって、
それまで綺麗に出ていた音とは異質の魅力的でない音が出てしまったのです。
失敗と呼ぶには遠く及ばない、”音が綺麗にプロデュースされなかった”という、見方によれば些細なミスですが、
やはり、そこが締まるのと、締まらないのでは、雲泥の差で、
再び、マリア・カラスの”太って醜い女は音符の上に一つか二つ余計に点をつけなければならない。”発言にならうなら、
背が低くて髪のない男(=シラグーザ)も、フローレスみたいな歌手と争って役を取るには、
こういう箇所をきっちり決めて行かないといけないのではないかな、と思います。
それまでの歌の内容が良かっただけに、ご本人もこのミスは悔いが残っているのではないかと推測するのですが、
それが関係しているのか、それとも単にとっとと当日のフライトでイタリアに帰国すべく、空港への路につかなければいけなかったからか、
ジェルナンド役というかなりこの作品では重要で大きな役、しかもラジオやネットでのライブ中継があった日にも関わらず、
最後の舞台挨拶に彼の姿はありませんでした。自分の出番が終わった後、速攻メトを後にしてしまったようです。



ブラウンリー。
彼がon(調子が良い)の日というのは、サウンドが劇場の中でがちっと焦点を結んでいるような音を出すのですが、
今日は最初から、”どうしたの?”という位、拡散し、焦点が定まらない声を出していたので、不調なんだな、というのはすぐにわかりました。
ああ、ミードが一度も登場しないとわかっていれば、彼が絶好調だったという二回前の公演を見に行ったのに!!!
しかし、以前から書いているように、調子が悪ければ万事休す、という訳では決してなく、
今の私のオペラの鑑賞の仕方は、もちろん第一に素晴らしい公演に出会うことが最大の願いではあるのですが、
それと同時に、メトに登場し続けている歌手の歌や声の変化とか、若手の歌手がいかに成長して行くか、ということを見守ることも大きな目的の一つになっているので、
こういう不調な時にどういう切り抜け方をするか、というのは、その歌手がどれ位力を付けて来ているか、ということを見るすごく良い機会だと考えています。
それで言うと、今日の彼はまず良く持ちこたえたと思います。
中盤あたりまで来る頃には、下寄りの中音域から低音域にかけて、音がきちんと入らなくなって来ていて、
このあたりの音に苦労するというのは、風邪気味など、相当、声のコンディションの面で辛いものがあったのだと思われます。
それでも、このリナルド役は難役で、しかも、他の演目であったなら代役に入ってくれそうな、彼とレパートリーが重なる歌手が、
全部すでにこの公演に駆り出されてますから、(なんといっても、この作品は6人ものロッシーニ・テノールが必要なのですから!!)
多分、彼が降板することはもはや許されない状態に近かったのではないかと思います。
高音域では彼の良い時の歌唱にある独特のぎらっとした響きはさすがにほとんど感じられませんでしたが、
それでも一度もクラックなどの大きな失敗なく、きちんと舞台をつとめあげたのは、このコンディションを考えると本当に良く頑張ったといえ、
精神面でもとても強くなって来ていることが伺われ、なかなかに頼もしいです。
来シーズンこそは彼のベストのコンディションで聴きたいな、と思うのですが、それを言うと、彼はメトの新シーズンでは『連隊の娘』のトニオを歌うんですね。
(マリーはマチャイーゼ)。
その絡みで言うと、私はやはりブラウンリーは本当はあまりコメディには向いていなくて、ドラマティックな役柄の方が個性が生きると思っています。
フローレスは実はコメディに関しては非常においしい立ち位置にいる気がして、というのも、彼の場合、コメディックな演技が上手く行けばそれはそれでもちろんOK、
仮に演技にぎこちないところがあっても、彼のようなまじめで好青年風で、シリアスな役がはまる個性の歌手が
ぎこちなくコメディックな演技をしている、というその点そのものがすでにおかしい、という、どちらに転んでも好ましく取られる要素があるからです。
(ただし、今年の『オリー伯爵』でのフローレスはこれまでにない、突き抜けたコメディックな演技を見せていて、
私がこれまでにメトで見た喜劇的作品での彼は、上で説明した後者のタイプに分類されるケースがほとんどだったのですが、
今回は極めて前者寄りのものを見せてくれていて、非常に新鮮です。)

その点、ブラウンリーはルックスがああなので、下手にコメディックな演技をすると、却ってやり過ぎ、しらじらしいと取られかねないのです。
あのルックスで王子キャラはきつい、、、と思われている方が結構多いかもしれませんが、
実は王子キャラ、ドラマティックな役柄の方が彼にははまる、というのが私の考えで、今回の『アルミーダ』はそれを実証していると思います。



最後にフレミング、行きましょうか。全く気乗りしていないのがばればれですが。
そうですね、、、最近の彼女は以前にも増して、”何をやっても、いつもフレミングしてますね。”感が強いです。
多分、これは彼女自身が一番良くわかっていると思いますが、今のキャリアの時点で、
この『アルミーダ』という作品をチョイスしたのはあまり利口な選択だったとは言えないと思います。
彼女にしてみれば、すでに全幕で歌ったことがあって(かなり遠い昔ですが)、
女性キャストが彼女だけ、という、ディーヴァとしての自分をアピールするには格好の演目であったことなど、色々理由があったのでしょうが、
今の彼女の声には、もうこの演目は、音域の面、スタミナの面、アジリタの面、すべてで荷が重すぎることは明らかです。
それを彼女も重々承知しているので、歌が非常に用心深くなっていて、高音は凍った湖面をそっと歩くような出し方だわ、
スタミナを最後までセーブしておかなければならないために、全力で歌っているようにはとても聴こえないわ、ということになっていて、
こういったことはロッシーニの作品を聴くうえで一番楽しいはずの部分の足を引っ張る結果になってしまうのです。
つまり、観客は心からこの作品を、歌手の歌唱を楽しむことが出来ないのです。
また、昨シーズンの歌唱と比べて、とても気になったのは、彼女の声のプロジェクションが非常に悪くなっているという事実でしょう。
平たく言えば、声が劇場の中に共鳴しなくなっている、通らなくなって来ている、ということです。
ただ、最後の幕は、本当にこれが最後!という彼女の意地だったのでしょうか、
(多分、彼女はもう二度とこの演目を歌うことはないと思いますし、今日が楽日ですから、、、。)
ほんの一瞬、昔の彼女を彷彿とさせる、まともな歌唱と声の名残みたいなものは感じられました。
フレミングには、今シーズン、この後『カプリッチョ』が控えていますから、そちらの方に期待をかけたいと思います。


Renée Fleming (Armida)
Lawrence Brownlee (Rinaldo)
Antonino Siragusa (Gernando)
John Osborn (Goffredo)
Yeghishe Manucharyan (Eustazio)
Kobie van Rensburg (Ubaldo)
Barry Banks (Carlo)
Peter Volpe (Idraote)
Jaime Verazin (Love)
Isaac Scranton (Revenge)
Eric Otto (Ballet Rinaldo)
Conductor: Riccardo Frizza
Production: Mary Zimmerman
Set & Costume design: Richard Hudson
Lighting design: Brian MacDevitt
Choreography: Graciela Daniele
Associate Choreographer: Daniel Pelzig
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*** ロッシーニ アルミーダ Rossini Armida ***

ROMEO ET JULIETTE (Thurs, Mar 3, 2011)

2011-03-03 | メトロポリタン・オペラ
『ロミオとジュリエット』(以降略してロミ・ジュリ。フランス語では発音がロメオ・エ・ジュリエットなのでロメ・ジュリと言うべきなのでしょうが。)
のリハーサルがメトで始まって、オケとの通しになっても、まだゲオルギューがマーキングばかりして全然フル・ボイスで歌っておらず、
ポイズン(ポーション)・アリア(=毒薬/眠り薬のアリア。第四幕”ああ、なんという戦慄が Dieu! quel frisson court dans mes veines?)は全音下げで、
しかも2007年にネトレプコが歌った時よりも半分以下の長さになっているという話が聞こえてきました。
あのアリアは、毒薬に戸惑う前置き(A)→
愛よ、力を頂戴!そしてロミオのためにこれを飲むの! (Amour, ranime mon courageからO, Roméo, je bois à toiまで)(B)→
しかし、また色々考えて怖くなって来たわ!でもだめ!そんな恐怖心よ、消え去って頂戴!(C)→で、
最後にまたBを歌って終わるというのがフルのバージョンなんですが、どうやらAとBだけしか歌っていないらしいのです。
フィラデルフィアのジュリエット、アイリン・ペレーズもちゃんとフルで歌っていたのに。

よもや、あの女(ひと)、また良からぬことを考えているのでは、、、?
案の定、ゲオルギューはドレス・リハーサルになると、いよいよ姿すら見せなくなり、
初日の直前になって、今シーズンの『ロミ・ジュリ』の全公演から”体調不良により”降板になることが発表されました。
体調不良って、ランの最後の公演は20日以上先の26日ですけど、、。相変わらずゲオルギューってばゲオルギューしてます。



というわけでラン全ての公演でジュリエット役を歌うという突然のビッグ・チャンスが転がり込んで来たのが、
ゲオルギューのカバーであるヘイ・キョン・ホンで、ドレス・リハーサルにも彼女が登場しました。
ホンさんといえば、何度かこのブログでもふれたことがある通り、ソンドラ・ラドヴァノフスキーと同じく
ゲルブ支配人の寵愛薄く、彼の支配人就任以来、メトの舞台上から限りなく姿が消えた状態に近くなった、とヘッズの間で囁かれている歌手の一人です。

米版Wikipediaには、ホンさんのご主人が2007年の末に癌と診断され、それから半年余りでお亡くなりになり、
喪に服して2010年の『椿姫』まで活動を見合わせていた、とありますが、その『椿姫』はもともとゲオルギューのカバーだったわけですし、
今シーズンの『カルメン』も今回の『ロミ・ジュリ』にしても、いずれも元々はカバーで、キューマイヤーやゲオルギューがキャンセルしたから出番が回って来たに過ぎません。
カバーする歌手はされる歌手とほとんど同じ準備をして舞台に備えなければならないのですから、
喪に服して仕事の世界からしばらく距離を置きたかったはずの彼女がそもそもそんな大変な準備を引き受けるものだろうか?、
また、事情によっては本当に舞台に立たなければならず、それこそがカバーの仕事である、という事実を考えれば、
それではどうして喪中の時期にそもそもカバーを引き受けたのか?という疑問が残り、
実際、2010年にホンさんが登場した『椿姫』は、決してこのWikipediaの説明にあるようなニュアンスでの華やかなカムバックではありませんでした。
私自身は、ヘッズの間に巻き上がっていたゲルブ氏からの寵愛薄い論にカウンターアクトするための、彼女のマネージメントかファンによる書き込みである可能性が大ではないかと思っています。
ゲルブ支配人との間にしこりを作るとどういう結果になるかはルース・アン(・スウェンソン)姉さんが身を持って証明しましたから、、。

そんなホンさんは現在51歳。
ゲルブ支配人が就任した2006年以来約4年半、
その間にはスラットキン&ゲオルギューが大バトルを起こしたシーズンの『椿姫』で、やっぱりゲオルギューが降りた時の代役や、
今シーズンの『カルメン』のBキャストで当初予定されていたキューマイヤーの代わり(ミカエラ役)を数回つとめたことはありますが、
本来ならこの4年半は、ホンさんのキャリアの中で声楽的にはちょうど最後の美しい時期にひっかかっていたはずで、
もっとメトで活躍していてもおかしくなかったのです。
その証拠に、彼女のメトでの影がすっかり薄くなった直前(2006-7年シーズン)の『トゥーランドット』のリューのそれは素晴らしかったことと言ったら!
特に”お聞き下さい、王子様 Signore, ascolta!”の最後の部分の美しさは今でもヘッズ仲間で良き思い出として語られている位です。
下の音源は、パヴァロッティと共演していますので、更に若い時期の音源だと思われますが(おそらく1997-8年シーズンのメトの公演ではないかと思います)、
2006-7年シーズンに聴いた彼女の”お聞き下さい、王子様”では、この音源よりも更に歌唱に繊細さが増していて本当に素晴らしかったのです。



彼女が本当に自身の意思で、カバーのみを希望し、本来のキャストには含まれないことを望むという、不思議な行動に出たのでない限り、
これはやはり、ゲルブ支配人が、彼女のような歌手よりも、ゲオルギュー、ネトレプコ、ポプラフスカヤというような、
人気のある、もしくは、若手の歌手ばかりを集中的にキャスティングする作戦の犠牲となったと考える方が自然であって、
(また、ゲルブ支配人はヴォルピ前支配人と関わりの強かった歌手やプロダクションとは手を切りたがる傾向にある、というのも、多くのヘッズが指摘しているところです。)
ホンさんのキャリアで最後の貴重な4年半になったかもしれない時期を、
(そして、オペラの世界の3年、4年というものがどれほど重い意味を持つか、ということは、つい先日の『ルチア』のレポートにも書いた通りです。)
”アジア人のおばはん歌手よりも、ビッグ・ネーム、もしくは新顔、できれば美人を!”という安易な支配人の判断により、メトの観客が失ったことに関して、
同じくアジア人のおばはんである私はかなり怒っていて、ぜひホンさんには今シーズンの『ロミ・ジュリ』で悔いのない歌唱を聴かせて欲しいと思うのです。
もちろん、ビッグ・ネームや力のあるニュー・カマーを迎えることは大事ですが、まだ優れた歌を聴かせられる歌手の活躍の場を奪うというのは絶対に間違っているし、
その”まだ優れた歌を聴かせられる”かどうか判断するのも、支配人の大事な仕事だろう!と思うわけなのです。



そんなわけで、この公演ではホンさんこそが私の最大の注目人物だったのですが、彼女の歌声が現れる全然前の、序曲の時点から私はびっくり仰天してしまいました。
ドミンゴ様の指揮が大変なことになっているのです、、、。
歌手としてのドミンゴ様にはもうこれ以上抱けないほどの敬意を私が持っているということ、
ただし、指揮者としてのドミンゴ様には時に疑問を呈することがあるということ、
この二つは、このブログ上、もはや秘密でも何でもなくて、皆様ご周知のことと思いますが、
今日のドミンゴ様の指揮は今までのような”ちょっとまったりしてるな。””間延びしているな。”というレベルではなく、
また、同じドミンゴ様が指揮した、HDにもなった2007年の公演(ネトレプコやアラーニャらが出演)の時の指揮の比でもない。
聴いているうちに段々時間軸がねじれ、音楽が加速的に遅くなり、終いには永遠に音楽が終わらないような錯覚が起こって、
まるでこの世ではない場所にワープしたように感じるほどなのです。

どんな作品でもテンポの設定というのは難しく重要であることに変わりないですが、
特にこの『ロミオとジュリエット』という作品は、早すぎても遅すぎても音楽があっという間に死んでしまって、
一旦音楽が死んでしまうと、どうしようもなく退屈で∞的に長く感じられてしまいます。
実際、スタジオ録音盤、ライブ盤を合わせ、通常に手に入る音源に関しては、どれを聴いてもやたら急き立てられるように早く感じるか、
どうしてそんなにまったり演奏するのか?と問いたくなるかのどちらかで、私の感覚にぴったり来るテンポで演奏している音源というのは今のところ皆無です。
それを言うと、先日見たフィラデルフィアの『ロミオとジュリエット』は、オケそのものの演奏能力には多大な問題がありましたが、
指揮者が設定していたテンポはなかなか私の感覚では適切に感じられ、
そのおかげで、どんなにオケのアンサンブルが乱れて、すかたんな音を出していても、音楽が死んでいなかったのが救いで、
実を言うと、あのフィラデルフィアの公演以来、私の中ではこの作品を見直す気運が高まっていて、
優れた指揮者、オケ、歌手達によって演奏されたなら、単なる美しい旋律の寄せ集めではない、とても感動的な公演になりうる、
もっともっと評価が高くてもよい作品なんではないかと思い始めているのです。



それにしても、ドミンゴ様のこのテンポ設定は殺人的に遅すぎです。
しかも、以前、ラドヴァノフスキーが指摘していた全くのその通りで、指揮があまりに歌手に譲り過ぎていると思います。
それこそ、ドミンゴ様やパヴァロッティのような歌手なら、彼らががんがん歌うのに合わせて指揮の方が合わせるというやり方も通るかもしれませんが、
考えても見て下さい、今日、オペラの舞台に立つ歌手たちは彼に多大なる敬意を持っている歌手たちばかりなわけで、
そのドミンゴが指揮をするとなったら、歌手の側は自分達がドミンゴ様の指揮に合わせて歌おうと思うのが当たり前で、
間違っても自分達の歌にドミンゴ様の指揮を合わせてもらおう、なんて考えてるはずがありません。
だから、指揮者であるドミンゴ様の方がリードしなければならないのです。
特にこれは後にもふれますが、今日のホンさんは、久々の大舞台のしかも初日、ゲオルギューが大物議を醸してキャンセルした後の代役、シリウスの放送といったメンタルの要素に、
必ずしもベストでないコンディションというフィジカルな要素が重なって、かなり精神的に落ち着きのない状態になっていて、猛烈にドミンゴのリードを必要としているのに、
そのドミンゴがまたホンさんの様子を見て合わせているものですから、火事のまっただ中に二人で油を掛け合っているような状態になってしまっているのです。

また、オケの各セクションへのキュー、それから歌手へのキューがきちんと出ていないために、混迷を極めている箇所もあって、
多くの部分をオケの団員がゲス・ワーク(こうやって演奏すればいいのかな、、と自己判断で演奏している状態)しているのが伝わって来ます。
これは、演奏している団員にとって非常にストレスフルなはずです。



そして、この恐ろしい惨状を実際に自分の目・耳で見・聴いて、ふと、私の中にある考えが起こって来たのです。
ゲオルギューが降板したのは、この指揮も原因だったのではないか?と、、、。
彼女が指揮について、一家言もニ家言もあるのは先述の”スラットキンの椿姫”事件で証明済みです。
その彼女がこのドミンゴ様の指揮について何も思わないとは私にはとても考えられません。
しかし、そこで問題なのは、スラットキンなら、”あの親父、どうにかして。”とゲオルギューがゲルブ支配人に頼みさえすれば、スラットキンの方の首が簡単に吹っ飛んだ、
けれども、ドミンゴ様を相手に”あの親父、どうにかして。”なんてことを頼めるわけもなければ、
仮に頼んだとしても、ゲルブ支配人は絶対にスラットキンの時のようにYesとは言わないであろう事実です。
いや、ドミンゴ様が相手では、首が吹っ飛ぶのは彼の方ではなく、ゲオルギューの方でしょう。
そして、それは実際にそうなった。その結果が今回の彼女のキャンセル、ということではなかったか、と思うのです。
もちろん、彼女は馬鹿ではありませんし、ドミンゴとの長年の仕事仲間としての関係や大きな敬意はあるでしょうから、
スラットキンとの時のようには事を荒立てず、一応、ゲルブ支配人との同意で、自分の”風邪”による全幕降板という形で、幕を引くことにした、、、
そういうことなのではなかったか、と私は推測します。
”またあの我儘女がやらかしやがった!”とヘッズから非難轟々の今回の彼女のキャンセルですが、もしこの推測が当たっているとすれば、
このゲオルギューには冷淡な私ですら、すべてを自分で被って降板することにした彼女をちょっと気の毒に思う部分もあります。
それ位、ドミンゴ様の今回の指揮はやばい。私はそのように思います。
ま、もはや何をやっても狼少年状態になっているゲオルギューですので、本当の理由はおろか、その有無も、もう誰も気にしちゃいないかもしれませんが。



この推測があながち外れていないとすれば、少なくとも今回のことに関しては彼女に全ての非があるわけではないのですが、
ゲルブ支配人は指揮者の指揮の内容やクオリティに関して、その知名度や話題性ほどには、興味も理解もないみたいなので、
今回の事件は、単なる”もうひとつのアンジェラの我儘”と映ったようで
(まあ、ロミオ役のべチャーラはそれでも歌い続けているわけですから、彼のようにプロに徹せよ!ということなのかもしれませんが、、)
この『ロミ・ジュリ』降板事件をきっかけにして、彼女とゲルブ支配人の関係は決定的に悪化し、
とうとう、新シーズンの『ファウスト』からも彼女は降板してしまうことが確定しました。
中には彼女はもうこの先、メトには戻って来ないのではないか?と言っているヘッズもいます。
『ファウスト』に関しては、表向きは彼女が”演出が気に入らない”と不満を見せたのが原因、ということになっていて、それももちろん理由の一つだとは思いますが、
これまでに貯まったゲルブ支配人側の鬱屈(昨シーズンの『カルメン』新演出からの降板、『椿姫』でのスラットキン問題、
そして今シーズンの『ロミ・ジュリ』の降板、来シーズンの『ファウスト』の降板、、、これらに費やされた余計な手間と心労)が爆発し、
彼女クラスの人気歌手にはおよそこれまで厳しい言葉を発したことのないゲルブ支配人が、
”メトがどんなに彼女を受け入れるつもりがあったとしても、まずは実際にちゃんと舞台に立ってくれないと話にならない。”と、
珍しく痛烈な嫌味を彼女に浴びせていて、メトの方も、これまでのように彼女に跪いてまで来て歌って貰うつもりは最早ない、という意思表示だともとれます。



さて、肝心の公演について話を移しましょう。
まず、私が一番注目していたホンさんですが、とても50歳代とは思えぬ可愛さ!!!
ローティーンであるジュリエット役を演じてこんなに無理がないなんて、化け物のような人です。
ゲオルギューにだって、こんなに少女らしさを感じさせながらこの役を歌うのは絶対無理でしょう。ああ、私もこんな50歳になりたい、、。
MetLegendsのレヴァインの回の会場で見かけたホンさんはアニマル・プリントのお洋服に身を包み、なかなかの派手なファッション・センスでしたので、地がどのような方かは存知あげませんが、
必要な時に舞台で可憐に見える、それだけで私にとっては十分です。
歌の方は、しかし、先にも書いたように、相当、今日の公演ではプレッシャーがかかっていたようで、
登場して最初に歌うEcoutez! Ecoutez! C'est le son des instruments joyeux qui nous appelle et nous convie!
(聴いて!私たちを呼び、そして、繋ぐ、あのうきうきするような楽器の音を!)のフレーズのほとんど全ての音でピッチが狂っていて、
1984年にメト・デビューして以来、本当に多くの公演、色々な役で非常にソリッドな結果を出して来た彼女ですら、こんなに緊張することがあるんだな、というのが驚きでした。
その後も声が落ち着いて来るのにだいぶ時間がかかりましたし、正直言うと、今日の公演では最後の最後まで彼女の歌唱にはどこか落ち着かないところがあって、
彼女の100%の力が出ていたとは言い難い部分があります。
それから、4年半前に比べると少し高音にウェアが出始めているせいで、以前のような全音域での安定した涼やかな声というのは出にくくなっていて、
『カルメン』のミカエラのような、登場場面が比較的短い作品だと目立たなくても、この作品でのジュリエットは相当歌うパートが多いですから、
声のパワー、スタミナという面で、直近の2007-8年シーズンに同役を歌ったネトレプコに比べると、アンダーパワーであると感じられる部分はあると思います。
年齢を考えれば、本当に上手く声を保っているのは明らかで、それは単に必要な音域をきちんと確保して無難に歌っているということだけではなくて、
このジュリエットという役に必要な少女らしさ、純真さ、というのが声と歌唱自体で表現できている、その部分に大きなメリットを感じます。。
またネトレプコがパワーとパッションでおしまくる直感的ジュリエットとすると、ホンさんのジュリエットには長い間舞台に立って来た歌手にだけ可能な、
作品の構成とかフレージングに注意が行き渡った歌唱で、彼女の声にはネトレプコのようなパワフルさはないですが、
ネトレプコの歌が客席の椅子の背に観客を押し飛ばすような歌だとすると、
逆にホンさんンの歌唱には、大事なフレーズをオーディエンスに身を乗り出して聴かせるようなクオリティがあって、
第四幕のジュリエットの寝室のシーンのラストにある、
”Adieu, mon âme! adieu, ma vie! Anges due ciel, à vous, à vouse je le confie!
さよなら、私の魂よ、さよなら、私の命よ!天使たちよ、あなた方に、あなた方に、彼のことを託します。”
という部分の、まるで囁くように、静かに祈る歌い方と、そこに込められたジュリエットの感情の表現は素晴らしかったと思います。
メトのHDの時の映像からこの愛の二重唱をアップしてくださった方がいて、それを紹介したかったのですが、
ロミオとジュリエットが別れる瞬間に無残に拍手で途切れさせられ、そのせいなのか、この一番感動的なフレーズの前でその方は映像をちょん切ってしまわれているので(なんということ!)、
別の映像(2002年のオランジュでの公演の時のもの)から、今回の公演でジュリエットを歌うはずだったゲオルギューの歌唱を。
下の映像の8'20"からが、その部分です。



ポイズン・アリアは、ゲオルギューがオケとのリハーサルで用いていた一音下げた調ではなく、結局オリジナルに戻していたように私の耳には聴こえましたが、
長さに関しては、ホンさんも自身のスタミナに少し自信がなかったのか、ネトレプコが歌ったフル・バージョンではなく、
短縮されたゲオルギュー・バージョンのままでした。
ことこのアリアに限って言うと、私はやはり、ネトレプコのようなパワフルさとパッションがあった方が適切だと思うので、
ホンさんの歌唱では、この場面の本質が伝わりにくく、アンダーパワーだと感じました。



上の映像は、メトのHDの公演の時からのものですが、ネトレプコのポイズン・アリアは、このマイクで拾った音源から伺われる迫力とほとんど違いがなくて、
劇場で聴いても頭に直接がんがん来るような力のある高音だったのを懐かしく思い出します。

今回のメトのユーステンによるプロダクションでは、ポイズン・アリアの後、セットはそのまま、次のパリスとの結婚式への準備のシーンになるのですが、
この映像にある、階段付きの台の上でウェディング・ドレスをお付きの者に着せられながら、薬が効果を発して、ジュリエットがその場で気を失う、という
(まわりは彼女が死んだと思うわけですが、、)演技があります。
この台は映像ではそんなに高さがあるようには見えないかもしれませんが、実際には結構な高さで、
ホンさんが気を失った演技をした後、どしーん!というものすごい音がして、彼女がこの台から舞台の床にそのまま落下したのが見え、
その落ち方があまりにリアルで、彼女が全く自分の体を守る動きを見せなかったものですから、
私の周りの座席から、"Oh, Jesus!"という叫び声が上がって、私も思わず息を呑み、
神父役のモリスがホンさんを慌てて抱きかかえて大丈夫か!?という様子をしているのもあまりにリアルなんですが、
彼女が全くびくともしない様子で普通に演じ続けているので、ああ、これは演技なのか、
マリア・カラスが、自分を揶揄して、”太って醜い女は、音符の上に一つ二つ余計に点をつける必要があるんです。”というような趣旨のことを言った、
というエピソードがありますが、私はもしや、ホンさんも”激しさのないポイズン・アリアを歌うソプラノは、
ちょっとした高さのところから飛び降りるくらいのことはして見せなければいけないのです。”とでも考えて、
アドリブであんなところから飛んで見せたのかしら、だとしたらガッツのある人だわ、、、と思っていたのですが、
どうやら、これは全くの事故で、彼女は自分がそんな高さのある台の上にいることを忘れてしまっていたらしく、膝からそのまま床に落ちたんだそうです。
痛くなかったわけがないと思いますが、その後も全然それを観客に感じさせないで舞台を努め切り、その後の公演も一日もキャンセルしていないんですから、すごい人です。



ロミオ役を歌ったべチャーラは、声の質そのものはこの役に向いていて、若々しい雰囲気もきちんとあるのですが、
今日は最初からどこか音の座りが非常に悪いというか、最初に登場した時から、音の芯の場所を探しながら発声しているような様子があって、
心配していたところ、やがてところどころに、非常にこちらを心配させるような危うい音が混じるようになって来たんですが、なんとか持ちこたえて歌っていたところ、
第三幕、マキューシオの命を奪ったティボルトを、ロミオが怒りを抑えきれずに刺し殺してしまった後、追放を命令され、
幕の最後の言葉となる"O désespoir! l'exil! Non! je mourrai, mais je veux la revoir!
ああ、何ということだ!追放!いや、そんなことならいっそ死んでしまおう。でもその前に一目彼女を!”の最後のrevoirは、
剣を交えるシーンや、合唱と張り合ってソロ・パートを歌った直後に現れる、地獄の高音で、しかもドラマのハイ・ポイントでもあるんですが、
このrevoirで、べチャーラの声がひっくり返ってしまったのでした。
ここの高音が恐ろしいのは、この言葉でオケには休符があって、テノールがvoirの部分の高音を延ばした後に再び音がなだれ込んでくる、
というオーケストレーションになっており、非常にエクスポーズされた、失敗したら、もうどこにも隠れるところがない高音であるという点で、
べチャーラの声がひっくり返った瞬間、オケの音がないせいもあって、劇場中がはっ!と息を呑んだ音が聴こえました。
まあ、こういうこともあります。元々あまりコンディションも良くはなさそうだったので、この後のラン、あまりこの部分に関してくよくよせず、
気持ちを切り替えて、乗り切って欲しいな、と思います。



また、一言言わせてもらうなら、観客から早く帰宅できるようにして欲しい、という注文があるのでしょう、
ゲルブ支配人は開演時間を早めたり、できるだけ多くの作品で、幕を続けて上演して、インターミッションを二回から一回にする方向に向けて動いているようなんですが、
はっきり言って、そんな観客の寝ぼけた戯言にいちいち耳を貸す必要はないんです。
演奏のクオリティを保つには、観客が何を望んでいるかということよりも、歌う側、演奏する側のニーズを尊重する方がずっとずっと大事です。
大体、この『ロミオとジュリエット』のような作品を一幕から三幕までぶっ通しで演奏するなんて、正気の沙汰じゃありません。
ただ座って鑑賞している観客ですら、”なが、、”と思うような時間を、連続して歌手やオケ・合唱に演奏させるなんて、、、。
十分な休憩を取らさずに、演奏者を馬車馬のようにこき使っていると、喉も腕も呼吸も疲弊しますし、こういうアクシデントは増えるでしょう。
演奏者は機械じゃないんです。
ちゃんと必要なリフレッシュの時間を与えてあげて欲しいですし、大体、幕が別になっているのはそこに作曲者やリブレッティストの意向があるのであって、
それを続けて演奏したら、ドラマをより深く感じる上で観客が必要な間まで奪い取ることになってしまいます。



ステファノ役を歌ったブリアンヌ、マキューシオを歌ったミーチャムは2007年のレナードとガンのコンビよりも魅力に欠けましたが、
キャピュレットを歌ったドウェイン・クロフトは存在感があり、かつ、歌もそれに伴っていたと思います。
(最近彼はこういう比較的登場場面の少ない、しかし存在感の必要な役でたくさん舞台に立つようになっているような気がします。)、
モリスの神父、これはとても微妙で、存在感はもちろんあるんですが、彼にまだ残された良さがあったとしても、それが十分に活かされる役ではないように思います。
モリスは今シーズン、メトでは『トスカ』のスカルピアが先に待っているんですよね。大丈夫かな、、。

今日の公演とフィラデルフィアの公演を比べたら、フィラデルフィアの方が大きな欠点はあったし、歌手陣の平均した力のレベルにも差があるんですが、
この作品の、若さゆえの駆け抜けるような悲劇、という側面は、フィラデルフィアの方が良く捉えていたかな、と思います。
ただ、ホンさんに関しては、出来れば、もっと心理的に落ち着いた、本来の彼女の力での歌唱を聴いてみたいので、
もし機会があれば、ランの最後までにもう一回鑑賞が出来たら、、と思います。
ドミンゴの代わりにネードラーが指揮をする公演があるみたいですのでそこが狙い目か?


Hei-Kyung Hong replacing Angela Gheorghiu (Juliette)
Piotr Beczala (Roméo)
Julie Boulianne (Stéphano)
Lucas Meachem (Mercutio)
James Morris (Frère Laurent)
Sean Panikkar (Tybalt)
Dwayne Croft (Capulet)
Jeff Mattsey (Paris)
Wendy White (Gertrude)
David Won (Grégorio)
Brian Frutiger (Benvolio)
Jordan Bisch (The Duke of Verona)
Conductor: Plácido Domingo
Production: Guy Joosten
Set design: Johannes Leiacker
Costume design: Jorge Jara
Lighting design: David Cunningham
Choreography: Sean Curran
Dr Circ C Odd
OFF

*** グノー ロメオとジュリエット ロミオとジュリエット Gounod Romeo et Juliette Roméo et Juliette ***

L’AFRICAINE (Wed, Mar 2, 2011)

2011-03-02 | メト以外のオペラ
今週は二夜連続で”おフランスな夜”、つまり、フランスものの鑑賞が続きます。
今日はオペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨーク(以降OONYと表記)による演奏会形式の『アフリカの女』。
マイアベーアの作品で、メトではなんと1934年を最後に全幕上演が行われていない、という、どマイナー作品です。
というわけで、内容についてはマイナーなオペラのあらすじのコーナーをご覧下さい。

カーネギー・ホールにたどり着くと、着席したすぐ斜め後ろの席にどこかで見たことのあるおやじ、、、と思ったら、ゲルブ支配人でした。
メトの今夜の『タウリスのイフィゲニア』を放り出して、よそのカンパニーの上演を観に来てる場合か??と思いますが、
もしかすると、この『アフリカの女』がどのような作品であるのかを偵察し、
ポテンシャルを感じれば、新演出でメトで再演を!というようなことを考えているのかもしれません。とすれば、これもお仕事のうちか。

オーディエンスが客席に揃い、開演時間になると、1972年にOONYが初めて行った演奏会で取り上げられた作品がまさにこの『アフリカの女』で、
今日はその公演でヴァスコ・ダ・ガマ役を歌ったリチャード・タッカーの歴史的名演を記念する演奏会であることが告げられました。
そして、それに続いてスピーカーからタッカーが歌う”ああ、楽園よ O Paradis!"が流れて来ました。
ライブの音源ではありましたが、私の記憶が正しければ、はっきりと72年の公演からの音源であるという説明はなくて、
なんとなく1972年の音源なんだろう、と思い込まされたまま聴いていましたが、
もし、本当に72年の録音だったとすれば、彼が心臓発作で亡くなるたった3年前の、彼のキャリアの中では後期の録音(当時59歳)ということになるのですけれども、
とてもそんな風に思えない、パッションとコントロールが隅々に行き渡った歌唱で、
こんな公演がきちんと録音に残っているのでしたら、OONYはどうしてCDか何かでリリースしないのか!と思います。
それにしても、ものすごい迫力!ただ単に声量が大きいだけでなく、録音で聴いていても、
どこまでもがっちりと身がつまった感じのするすごく肉厚な声です。
それに彼はライブだと一際燃える歌手というか、高音なんかも全然おっかなびっくりじゃなくて、”どうだ!”という感じの、
すごい度胸ある歌い方なんですよね。
もうスピーカーが耐えられません、、、という感じでびりびり言っている中、
タッカーの声がエイヴリー・フィッシャー・ホールに延々轟き続けました。
OONYのオケの奏者の方も、”すげえ、、、。”という表情で聞き入ってらっしゃいますが、ここでふと思う。
ジョルダーニがヴァスコ役を歌う前にこんなすごいもの聴かされてもねえ、、、ジョルダーニもプレッシャーじゃないのかな、、と。



と思っているうちに、指揮のイヴ・クエラー女史が登場です。
私がクエラー女史を最後に観たのはもう三年前!2008年3月のOONYのガラの時のことです。
その時に比べると、ああ、随分お老けになったなあ、、と感じたのですが、それも道理か、1972年のOONY創設時から、
創設者および指揮者として尽力されて来たクエラー女史が、なんと今回の『アフリカの女』を持って、音楽監督からは引退され、
次回からは半年前の『カヴァレリア・ルスティカーナ/ナヴァラの娘』でOONY指揮デビューを果たしたヴェロネージが代わりをつとめるそうです。
女史が登場した瞬間に、ものすごい拍手が会場から沸き起こります。
1972年以来、一年にほんの数本のペースではありますが、力のある歌手を招聘し、あまり演奏されない演目にも意欲的に取り組んで来たOONY。
例えばストヤノヴァのような歌手がNYデビューしたのはメトではなく、このOONYであったことなどを見ても、クエラー女史の慧眼が伺われますし、
それこそ、今日の『アフリカの女』のような演目は、こうしてOONYが取り上げてくれなかったら、もしかすると私には一生見る機会が訪れなかった可能性もあるわけで、
今日、ここにいる観客のほとんどはみんなそういう経験をOONYと分かち合っているため、クエラー女史への感謝の気持ちが大きいというわけです。
NYのオペラ・シーンがメトに牽引されていることはもちろんまぎれもない事実ですが、
キャラモアとかこのOONY、それから以前紹介させて頂いた今は失きアマート・オペラのような団体が、それをさらに奥深いものにしているといえ、
クエラー女史はただの人のよさそうなおばさんではない!NYのオペラ・シーンに貴重なものを与えてくれた人物の一人なのです。



相変わらず地元有志のアマチュア・ママさんコーラスを取りまとめるリーダーのごとく、とても緩~く見える女史の指揮なのですが、
面白いのは、半年前の『カヴ/ナヴァラの娘(略してカヴ・ナヴ)』のヴェロネージの指揮に比べると、
オケが女史の元での方がより活き活きと楽しそうで、よっぽど良くまとまっている点です。
この作品は上演時間が本当に長くて、練習も大変だったのではないかと思いますし、
マイアベーアのオーケストレーションそのものに非常に不自然・ぎこちない部分があったりして、
(しばしば歌手にノー・アカンパニメントでしばらく歌わせた後、オケの合奏や独奏が入ってくる、というパターンが見られるのですが、
ここでピッチが少しでも緩いと非常に締まらないことになって、歌手にとってもなかなかに気の抜けないスコアです。)、
スタイルも継ぎ接ぎ的なので、演奏するのが易しい作品であるとは決して思いません。
当然ながら、細かいミスはありましたが、総合的にはクエラー女史の最後の公演ということで
奏者が今出来る最良の演奏をしようという意志が感じられる、後味の良い演奏でした。

前回の『カヴ/ナヴ』でぼろくそにけなしまくってしまったニュー・ヨーク・コーラル・ソサエティ。
今回の合唱はニュー・ヨーク・コーラル・アンサンブル。
後者はウェブサイトも存在しておらず、両者の名前が似ているのは何か関係があるのか、それとも全く別の団体なのか、私には良くわからないです。
後者が前者の選抜組とか、もしかすると、『カヴ・ナヴ』でのあまりにも恥ずかしい合唱の結果に、
全く同じメンバーのくせに”ソサエティ”とは他人の振りを装って”アンサンブル”と銘打っているのかもしれません。
”アンサンブル”は、”ソサエティ”に比べ、歌唱のクオリティはいくらかましでしたが、褒めちぎるほどの内容でもなく、
特にフル・コーラスになった時の音の雑な響きはもうちょっと練習を積んで欲しかったな、、と思わせるものです。



この『アフリカの女』は、あらすじをお読み頂くと明らかな通り、オペラにありがちな、都合のよいストーリー・ライン炸裂!な作品で、
その上に、『アフリカの女』と言いながら、なぜかセリカはインド人であるという、かなり意味不明なことになっていて
(イネスはポルトガルのお嬢なので、タイトルが指す”女”というのはセリカであることは明らかです。)、なかなかの混迷ぶりです。
ヴァスコ・ダ・ガマの、どんな逆境にも必ず一人生き残り、必ず作品に戻って来るという、ゴキブリ並みの生命力も凄いです。

フランスのオペラというのは、綺麗なメロディーを延々聴かせる、という冗長な作品が少なくなくて、
冗長さといえば、この『アフリカの女』も全く負けておらず、昔の劇場のように、社交場としてそこにいて、
なんとなく演奏を聴いている、という感じなら良いのかもしれませんが、
現代の鑑賞スタイル、つまり集中力を持って延々と全幕じっと座って聴きとおすには若干辛いところもあり、
そのあたりにあまりリバイバルされない原因があるかな、と思います。
特に一~三幕。一応あらすじ的には前に進んでいるのに、なぜか演奏を聴いていると、全然話が前に流れて行かないような錯覚が起こります。
ちなみに今回の演奏は三幕の後にインターミッション一回きりで、それまででも相当退屈だったのか、
ゲルブ氏が私の眼の端で激しい貧乏ゆすりを繰り返し、眠気防止のためか、座席で座る姿勢を何度も変える姿がキャッチされましたが、
インターミッションになると、オリンピックの短距離走者のごとく、ものすごい勢いで隣のメトに逃げ帰って行き、
後半の演奏には姿を見せませんでした。
というわけで、この作品がメトの舞台にあがることは、少なくともこれからしばらくはないと思われます、、。

で、そのくせ、意外(?)にも歌唱には高度なテクニックや表現力、パワーが求められるし
(技巧では特にイネス、表現力ではセリカ、パワーではヴァスコ)、
また配役の面、特にイネスとセリカの女声の対比という側面で、キャスティングのセンスも求められるし、
それらがさらに全幕上演のハードルをあげているように思います。
これは演奏形式が前提の話で、実際の劇場での全幕公演ともなると、さらに演出面での問題も加算されますから大変です。



しかしですね、第四幕以降!ここからは良い!ラストまであっという間に時間が経ってしまって、
一幕から三幕までが辛かった事実も、一気に報われます。ゲルブ支配人、一番良いところを見逃してしまいましたね。
四幕以降に見ごたえがあったのは、今回セリカ役を歌ったタイージが表現力に秀でているタイプの歌手であったおかげも大きいですが、
『アイーダ』のアムネリスのインド版的な雰囲気もあって、
(そういえば、この作品は音楽的にもところどころヴェルディの中後期の作品の影響を感じないではなく、
最初はマイアベーアがヴェルディをパクッたのかと思いましたが、こと『アイーダ』と比較した場合、
この『アフリカの女』の方が初演ベースでは6年ほど先なので、当時の流行という側面もあったのかもしれません。
私は愛しても愛してもその気持ちが報われない恋する人間が大好きで(アムネリス、フィリッポ、、、)、
特に彼らがその葛藤に苦しみ、何かをやらかす時は胸がわくわくしてしまいますので、
このセリカ役は私の好みの王道を行っているといえます。
特にセリカの、思っても思ってもヴァスコに振り向いてもらえず、ついに運の助けで彼の心を摑んだか?!と見えた瞬間に、
またしても決定的にヴァスコの気持ちは自分にないことを思い知り、
一旦はイネスとヴァスコ、両方殺してしまえ!とネルスコに命令しながら、
最後には、やはりヴァスコへの思いゆえに、彼が一番幸せになる方法を選び、
彼が人生からいなくなるということは、自分の死を意味するのだ、、ということを証明するために毒の香りを飲んでしまう、、、
この一連の流れは実にドラマチックで、見終わった後に何ともいえぬ余韻もあり、
後半だけをとればよく出来たオペラで、前半の重さと作品全体の長さが惜しいな、と思います。

それに、あてのない航海の日々で、偶然が重なって流れ着いたインドの土地に、自分が追い求めて来た楽園を見る、という、
ヴァスコのロマン気質が全開な"O Paradis"が歌われる時の設定もなかなかにドラマチックで良いです。

この場面までのヴァスコはこと恋愛に関すると本当に優柔不断で、その上に彼の人物像の描写が希薄なので、
見ているだけできーっ!!となってしまうのですが、
このアリアの登場によって、彼のパーソナリティの中で大きな比重を占めるこのロマン的気質が前面に押し出され、
それゆえにセリカが恋心ゆえにオファーする人情味溢れる申し出の数々に、ついノーと言えなくなってしまうのだな、ということがわかって、
ここを境にして彼の人物描写がずっとスムーズに進んで行くような感じがする、
このオペラの中で、声のディスプレイだけとしてでなく、ドラマ的にも非常に大事な機能を果たしているアリアです。
というわけで、今回の公演の趣旨からタッカーに敬意を表し、彼の”ああ、楽園よ”を。
ただし、この録音はイタリア語版(よってO Paradiso)によるスタジオ録音ですので、
我々が今日の演奏会の冒頭で聴いたのとは違う音源です。



ジョルダーニのキャラクターに、なんとなく優柔で人情味溢れるヴァスコはなかなか適役であるのですが、
この"O Paradis"については、この日、彼の歌は何とかきちんとこの曲を歌っています、という以上のものではなかったな、と思います。
本来、彼のキャリアのもう少し前の方だったならば、声質的なレパートリーの選択としてはそう的外れではないとは思うのですが、
現在の彼の声はすでにかなりウェアが激しく、声の美しさを楽しむ、という面では非常に厳しいものがある、と、私の感覚では思います。
この日はさらにその上に風邪気味であることがうかがわれ、舞台上で鼻をかむ姿が何度か見られましたし、
後半、"O Paradis"でかなり無理な声の出し方をしていたことも祟って、声の荒れが激しくなったと思います。
"O Paradis"の直後では、喉がかなり荒れたのか、舞台裏に水を飲みに行ったと見られ、
そのすぐ後にある、セリカがヴァスコに話しかけるという、本来なら彼が舞台上にいなければならないはずの場面に
ジョルダーニの姿はなく、セリカ役を歌うタイージが、その部分の歌詞を歌いながら、”といいつつ、彼はここにいないけど。”
というジェスチャーを作って見せ、やっとジョルダーニが舞台に戻って来た後は、自らのパートを歌い終えると、
”大丈夫?”とジョルダーニの調子を気遣う様子も見せていました。



イネスを歌ったエリー・ディーンは今シーズンのBキャストの『ラ・ボエーム』でなかなか魅力的なムゼッタを歌ってみせたので、
注目かつ楽しみにしていたキャストだったんですが、今回の演奏では、ここまで長い演目で、かつかなり歌うパートが多く、
そして、かなりの歌唱技巧も求められる(この作品で、もっとも歌唱のヴィルトゥオーゾ的要素が求められるのがイネス役です)役では、
まだちょっと安定感を欠くかな、という風に思いました。
すごく魅力的な音が出てくるかと思うと、そのすぐ後で不安的になる、、というような。
(魅力的な方の音は、シャープな魅力があって声量にも事欠きません。)
決して言及せねばならないような大きなミスがあったわけではないので、
それだけでも彼女のまだ比較的浅いキャリアを考えれば賞賛に値しますが、
私は高度な装飾技術を一つミスすることよりも、彼女がパッセージの中で音色を完全には統一しきれていない点、
こちらが気になるし、また、マイナスに感じます。
相変わらず、舞台プレゼンスはいいものを持っているのですが、顔がほっそりしていて貴婦人顔であるにも関わらず、
腕が意外とたぷたぷしているのにはびっくりしました。
衣装や演奏会のドレスは二の腕まる出しのデザインのものも結構ありますから、ちょっとワークアウトして、
もう少し腕にトーンをつけた方がいいかもしれません。

今回、私が最も面白い歌手だと感じたのは、この演奏会がアメリカ・デビューとなったイタリア人ソプラノ、キアラ・タイージです。
残念ながら、彼女が真にインターナショナルな、それこそオペラ・ファンなら誰でも知っている、
というような歌手になる可能性はおよそゼロです。
というのも、彼女の声には大きな欠点があって、ほとんど響き的にはメゾと言ってもよい彼女の声は中音域までは非常に魅力的なんですが、
90%の高音で、ものすごく無理をして押していることから生じる、嫌なざらっとした響きが混じるからで、
つまり、ソプラノとしては、最低限備えていなければならない音域を持っていない、と、そういうことになるかと思います。
それにも関わらず、私が彼女を面白い歌手だと思う理由は、ひとえに、彼女の持つ素晴らしい表現力です。
というか、彼女の表現力があまりに素晴らしいので、つい、声の欠点に目をつぶりたくなる気がするほどなんですが、
それは私の真のオペラへッドとしてのアイデンティティーゆえに出来ない相談であるのが、本当に本当に残念です。
これまで、こんなに表現力のある歌手が、声楽面での欠点に邪魔されるケースを、私は見たことがありません。
大体声の能力に限界があると、ここまで表現力がつかないのが普通だと思うんですが、
彼女はその常識を覆していて、ちょっとそういう意味では特異な例と言え、彼女の歌を聴くにつけ、
”ああ、もったいない、、、もうちょっとしっかりした高音さえあれば、、。”と臍を噛むような思いに浸されます。
特に四幕以降でのセリカの感情の表現は感動的で、特にラスト、五幕でのモノローグのシーンは、多くの観客が
セリカの実らぬ恋心に限りないシンパシーを禁じえず、
また失恋してなおプライドを感じる、あのきりりとした美しさには心を打たれたはずです。

彼女は元はなかなかの美人であるはずなのですが、ものすごい化粧の厚さとプラチナブロンドの髪と相まって、
オペラ界のシンディ・ローパーのような形相を呈していますが、なかなか性格も熱血な人のようで、
舞台上を仕切る仕切る、、、先ほども書いたように上演中にジョルダーニの健康を気遣ったり、
幕の終わりでは、あまりこういう機会に場慣れしていないディーンの手をとって仲良く退場してあげたり、
最後の舞台挨拶では邪魔になっている楽譜台を道具係のように自らばっさばっさと横に片付けたり、と、忙しく働きまわっていました。
まるで肝っ玉母さんのようなキャラクターです。
(私など、脇の男性陣、女性にそんなことさせてないで、もっと気を遣って動けよな、、と思ってしまうのですが、
まあ、彼女にそれだけ余裕があるということでしょう。)

この作品があまり上演されないだけに興味を引かれるのは、
イネスとセリカ、この2人の役にはどういう声質の歌手を持ってくるのがいいのだろう?という点です。
今回の上演では、重くはないけれどややシャープでエレガントさを感じる声質を持っているディーンをイネスに、
ほとんどメゾのような声質のタイージをセリカに持ってきて、対比をつけているのですが、
おそらく唯一の全幕のDVDと思われるSFO(サン・フランシスコ)での公演では、
ルース・アン(・スウェンソン)姉さんのイネスとシャーリー・ヴァーレットのセリカという組み合わせになっています。
(ヴァスコはドミンゴ。)
ルース・アン姉さんはディーンよりは声が柔らかくて軽いですが、
セリカにメゾっぽいドラマティックなトーンのある歌手を選んでいるという点では共通しています。
ちなみに下がそのルース・アン姉さんのイネスなんですが、最初の方に書いた、ピッチが狂うと悲惨なことになる箇所の例として、
こちらをあげておきます。(姉さんは上手く切り抜けてますが、、。)
一幕のイネスのアリア、”さよなら、私の美しい浜辺よ Adieu, mon beau rivage”です。 



イネスとセリカには、ドラマ的にも重要な”おお、長い苦しみよ O longue souffrance"という二重唱があるので、
この2人の声の相性、コンビネーションはすごく大事だと思うのですが、
YouTubeに三つの違った組み合わせ(ヴァーレットとマンダック、バンブリーとリナルディ、ノーマンとシゲーレ)で
この二重唱の歌唱を比較した興味深い音源もあります。



しかし、同じドミンゴがヴァスコを歌ったリセウ劇場の映像ではセリカ役をカバリエが歌っていたりして
(カバリエが全幕でセリカを歌ったのは一シーズンきりだったようですが)、
彼女はメゾ的なサウンドがある歌手とは言い難いですし、上演の歴史が豊かとはあまり言えない作品だけに、
まだ、この二つの役については、例えばアイーダとアムネリスの場合のような、
普通オペラ・ファンが思い浮かべる、典型的なこれらの役に向いた声質のコンセプトというものが緩くしか定まっていないような気もします。


Chiara Taigi (Sélika)
Marcello Giordani (Vasco de Gama)
Ellie Dehn (Inèz)
Fikile Mvinjelwa (Nélusko)
Daniel Mobbs (Don Pedro)
Giovanni Guagliardo (Don Diego)
Taylor Stayton (Don Alvar)
Djoré Nance (Grand Inquisitor)
Harold Wilson (High Priest of Brahma)
Gabriela Garcia (Anna)
Lázaro Calderón (Matelot)
Conductor: Eve Queler
The Opera Orchestra of New York
New York Choral Ensemble (prepared by Italo Marchini)

Left Orch L Odd
Avery Fisher Hall

*** マイアベーア アフリカの女 Meyerbeer L'Africaine ***

マイナー・オペラのあらすじ 『アフリカの女』

2011-03-02 | マイナーなオペラのあらすじ
オペラ『アフリカの女』

作曲:ジャコモ・マイアベーア
台本: ウジェーヌ・スクリーブ

初演:1865年4月28日 パリ・オペラ座 


第一幕 リスボンの王室議会の間

ポルトガル提督ドン・ディエゴの娘イネスが愛するヴァスコ・ダ・ガマと最後に会ってから二年が過ぎた。
ヴァスコはバルトロミュー・ディアスの命でアフリカ航海を目指す探検船を率いる船長で、
イネスはヴァスコとの別れの悲しみを追憶しながら、彼の安否に心を悩ませている。
ある日、ドン・ディエゴはイネスの侍女アンナにイネスを連れてくるよう命じ、
嵐による難破の結果、ディアスの探検隊が失われたという報を告げる。
さらにイネスは父に王室議会の議長であるドン・ペドロと結婚するよう言い渡される。
議会が召集されたが、やがて、ディアス探検隊の中でたった一人生き延びたヴァスコがその場に現れた。
ヴァスコはアフリカの奴隷市場から、セリカとネルスコという二人の奴隷を連れ帰り、彼らを伴って王室議会にやって来たのだ。
ヴァスコは彼らの肌の色や顔つき・体つきが今だ知られていない人種のものであると主張し、
彼らの故国を探し当てるべく、アフリカを航海するための資金援助を嘆願する。
縁起をかつぎ、事態を恐れる王室議会が彼の嘆願を拒否すると、ヴァスコは我を忘れ、議員たちを侮辱する言葉を吐き、牢獄に入れられる。


第二幕 牢獄

二人の奴隷たちと共に囚われている牢獄で睡眠をとるヴァスコ。
セリカは、その実の正体はアフリカ人に捕らえられたインドの女王であり、ヴァスコに思いを寄せている。
彼が眠る傍らで子守唄を口ずさむセリカ。しかし、セリカに恋をしているネルスコはこれに激しい嫉妬の情を催し、
もう少しで眠るヴァスコを殺害してしまうところを、セリカに止められる。
ヴァスコが目を覚ました時、セリカは、彼が熱望し続けていた、海の向こうにあるインドまでの航路を打ち明ける。
ヴァスコはこれでポルトガルに偉大なる栄光をもたらすことが出来る!と、感謝の気持ちに圧されるまま、
セリカを抱きしめるが、そこにイネスが彼女の夫ドン・ペドロと共に姿を見せる。
彼女はヴァスコと二人の奴隷の釈放を自ら確認すべく、この場所に現れたのだ。
イネスは今もなおヴァスコを愛しており、ドン・ペドロとの結婚に合意したのもひとえにヴァスコの釈放を可能にするためであった。
同様に今だイネスを愛し、彼女の結婚の事実を知らないヴァスコは、彼女の態度が以前よりよそよそしいのを、セリカとの抱擁を目撃したためと思い込み、
セリカをイネスに奴隷として献呈することで、自らがセリカとはなんの関係もないことを証明しようとする。逆上するセリカ。
ドン・ペドロはヴァスコの航海日誌を手に入れ、ヴァスコ・ダ・ガマが当初計画していたルートを辿る探検隊を再編成する許可をポルトガル王から受けた。
イネスおよびセリカも同行することを告げるドン・ペドロに対し、ネルスコは自らも乗船が許されるよう、まんまと彼を説き伏せることに成功する。


第三幕 航海用の大きな船の甲板

ネルスコはドン・ペドロに正しい航路を進んでいると主張し納得させるが、
実のところ、彼は船が最終的に礁に乗り上げ、難破するように仕組みながら、それを実現させられる場所へ船をおびき寄せようとしている。
ドン・ペドロの船が喜望峰に近づくと、なんとそこにはすでに、予期せぬ幸運によって再び航海に必要な物資と人材を手に入れ、
航海を続けることが可能になったヴァスコ・ダ・ガマ率いるポルトガル船の姿があった!!
イネスを自分から奪い取ったドン・ペドロへの憎しみにも関わらず、ヴァスコはドン・ペドロの船に渡り、
ドン・ペドロがまさに向き合わんとしている危険に警告を発する。
それに対し、ヴァスコを捕らえるという行動で答えるドン・ペドロ。
やがて嵐が訪れ、船は難破。ネルスコに率いられたインド人たちが船に乗り込んで来て、一人残らず囚われの身とする。

第四幕 インドの寺院への入り口

セリカは再び女王の座に帰り着いた。ドン・ペドロと彼の船員たちは全て死刑に処される。
ヴァスコが連れて来られるが、彼は周りに広がるインドの土地の様子にすっかり魅了され、
この場所こそ、自分が今までずっと夢見て来た楽園ではないか、と思いを新たにする(アリア“ああ、楽園よ O Paradis”)。
セリカは従者たちにヴァスコが自分の婚約者であると述べ、そのおかげでヴァスコは命を救われる。
イネスが処刑されたものと信じるヴァスコは、セリカの優しさに打たれ、愛を歌いあげるセリカに加わる。
しかし、その時、ヴァスコの船員に助けられたイネスがその場に現れる。

第五幕 セリカの宮殿

イネスを呼び入れるセリカ。当初はイネスを処刑する心積もりであったセリカだが、
言葉を交わすうち、イネスのヴァスコへの愛の深さに気づき、イネスに道を譲り、二人をもう一度結びつける決心をする。
イネスとともに船に乗り、遠ざかるヴァスコの姿に、絶望にかられたセリカは、
強い毒性で人々に恐れられているマンカニラの木から漂う香りを吸いこみ、悲しみに打ちひしがれるネルスコの腕の中で息絶える。

(あらすじ出典:カーネギー・ホールのプレイビルより、オペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨーク編纂によると思われるあらすじのページから拙訳。
写真は1892年メトの全幕公演のセリカ役の衣装を着けたリリアン・ノルディカ。)