Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

NORMA (Fri, Nov 30, 2007)

2007-11-30 | メトロポリタン・オペラ
久々のメトです。

しかし、今週まる一週間、インフルエンザを同僚にうつしてはならない、と自宅待機を続け、
しばらく小康状態が続いていたにも関わらず、また今日昼ごろに熱があがってきそうな予感があり、
午後いっぱい伏せっていたので、
もしこのままよくならなければチケットはどなたかに譲ることにしよう、
グレギーナのノルマが4日かそこらで突然素晴らしいものに生まれ変わるわけでもあるまいし、と
思っていたらば、なんとオペラ警察に通報あり。
”今日、グレギーナ、キャンセル。代わりのソプラノ不明。”

そ、それならば、、リンカーン・センターに這ってでも、絶対に行かねばならない!!

友人に今日は養生しなさい!と叱られるも、朦朧とした頭で家を出る準備を始める。
いや、準備を終えたころには気分が良くなってきた。
まさに、病は気から、である。

座席につき、定刻が来てするすると上がるシャンデリアと、
あのうねうねの天井(金属でできたお花のような飾り)を深呼吸して眺めると、
突然α波のようなものが出てきたから不思議。
さっきまであんなに苦しかった呼吸も、突然鼻の穴が拡大したかと思うほど楽になった。
ああ、私、本当にオペラとこのオペラハウスを愛している!とあらためて実感。

今日のノルマ役は、病気で降板した(か、他の理由か本当のところは不明。)グレギーナに代わり、
マリーナ・メシェリアコーヴァというロシア出身のソプラノが歌うことになりました。
(プレイビルに挟まれていた交代を告げる紙片には、Mariana マリアーナとなっていましたが、
マネジメント会社のウェブサイトでは、Marina マリーナとなっているので、マリーナで通します。)
冒頭の写真が彼女です。

マネージメント会社が出している経歴を見るに、蝶々さん、ミミなんかも歌っていますが、
どちらというと、エリザベッタ(『ドン・カルロ』)、アメーリア(『シモン・ボッカネグラ』)、
レオノーラ(『トロヴァトーレ』)あたりのヴェルディ・ロールを得意としているようで、その中でノルマ役はやや異色ともいえる。
さて、どうでるか、今日の公演。

序曲。
今日のオケはいい。
あいかわらず少しせかせかしていて、
例えば真ん中の、弦がくるくるくるくる、と鳴るところなんか、
どの音も同じ鳴り方でアクセントがないので、のっぺらぼうに聴こえたりするし、
また後半の、弦とハープが印象的な美しいメロディの箇所、
それこそ霧が晴れて目の前の視界がざーっとあけていくような、
もしくは虹がばーっと空に広がるような、そんな広がりを持って、
もうちょっと叙情的に演奏できないものか、とも思うのですが、
それはむしろ指揮者への注文ともいえるかもしれません。
むしろ、オケそのものは前回観たときよりも、集中力のある演奏を聴かせていました。

今日のオロヴェーゾは、Hao Jiang Tianというバス。
実際のお歳は存じ上げませんが、まるでプライム時期を越えたおじいさんのような
すかすかした声が気になる。
確かにおじいさんともいえる年齢の役なのだけれど、だからといって声までおじいさん、というのはいけない。
それから、この方のディクションの悪さがかなり気になりました。
どの言葉にも、ニャニュニョの響きが混じっていて、
聴いていると、本当に、”むにゃむにゃむにゃ”と言っているようにしか聴こえない箇所もあって、
結構辛い。
この役は出番がさほど多くなく、オペラハウス側が予算を切り詰めたくなる気持ちもわからないではないのですが、
しょっぱなで公演の印象が決まってしまう大切な役。

今日のファリーナは、最近波がある彼の歌唱の中ではよいほうだったと言えるでしょう。
ずりあげも少なかったし、声もよく通っていた。
ただ、私にとって、もう彼の歌唱は好みとして好きでない、というカテゴリーに入ってしまっているかもしれません。
ジョルダーニなんかと同じカテゴリー。
どこが好きでないか、といわれると感覚的なこととしか言えないのですが、
強いていえば、言葉一つ一つの意味への注意をほとんど無視しているとも思える、
きつい言い方でいえば無神経とも言える歌い方にあるかもしれません。
例えば今日の公演の最後のノルマと一緒に歌うシーンでも、
突然一音だけものすごいボリュームで歌っていて、それは指揮者の指示もあったのかもしれないけれど、
今までの歌と調和がとれないほど大きい音を出せ、ということでは決してないはず。
それにあわせようと、ノルマ役のメシェリアコーヴァも大声を張り上げてしまったため、
やたらその一音が強調されたのですが、最後まであまりに唐突な印象が拭いきれず、
なぜあの音があんなに大きな音にされねばいけないのか?と頭を悩まされました。
その、全体像の中で一つの音をどう組み込めばよいのか、という感覚、
音楽性という言葉を使っても構わないのですが、がファリーナには欠如しているように感じられる、
それが私が彼の歌を今ひとつ好きになれない理由だと思います。

『ルチア』でも健闘していた額のせまい男、ヴァルデスがフラヴィオ役でも、
非常に素直な発声で好印象。
こういう小さい役がきちんと決まることは、大事。

さて、今年は随分合唱がよくなったとは思うのですが、
この演目に関しては、一語一語に含まれる子音が出るタイミングが団員の間で完全に合ってないのが気になるときがあります。
男声の響きはいいのですが。。

さて、いよいよノルマの登場。
うーん。。面白い。
この"清き女神”でのメシェリアコーヴァは、ほとんどソプラノと思えないような声なのです。
これで本当に必要な高音が出せるのかな?と思っていたら、ことごとく高い音を低い音に変えて歌ってしまいました。
正しい音を出そうとしてフラットになってしまうと音が外れているのがあからさまですが、
確信犯的に音を変えて歌ってしまっているので、この演目になじみがない人にはさほど不自然に感じられないのが肝、
しかも、出るのに出さないのか、本当に出ないから出してないのか、聴いていて微妙なところなのです。
だけど、これで押し通すにも限界があるのでは?この後、どうなっていくのだろう?と思っていたら、
後半の”ああ、愛しい人、帰って”の最後で、とうとう、本来の音にチャレンジ。

、、、、、、。

ありゃま、やっぱり音がぶらさがってる。。。
そっかー、出ないのかー、この音。
これは、きついですね、彼女、この後。

ただ、悪いところばかりではなくていい点も。
彼女の最大の強みは、静かに歌うところ。
どうやって歌っているのか、そんな静かに歌っている箇所でも、やたら声が通るし、
そこそこ観客をひき付ける響きもある。
なので、最初の出だしのCasta diva~のところなんか、おっ?と思わせるのですが。。
ただ、一旦そのレンジを出て、例えば高音のわりと大きな音で響かせるところになると、
一気に平凡な声になってしまう。

それから、この役を歌うに一番致命的だと思ったのは、やっぱり技巧的な部分。
特に彼女が下降する音階を歌うときに顕著で、最初の音のアクセントが強すぎて、
それ以降の音がないがしろになっているように聴こえる。
というか、本人は歌っているつもりなのかも知れないですが、
ほとんど音をスキップしているように聴こえる箇所も。
いってみれば、トゥルルルルルルと下がっていかなければいけないところが、
トゥーーールーーールルルくらいな。

高音と技巧という、この役に最も必要なキャラクターなしで、どうやって彼女がこの役を歌いきるか、
ある意味では大変興味深い状況になってきました。

今日は、ザジックがかなり調子が良く、声のコントロールも
前回観たときよりも数倍上手く働いていました。

ただし、前回、なぜあまり心が動かなかったか、ということを心において、
この作品をDVDやら、CDやらで鑑賞し続けていたのですが、
私なりに、おそらくこのアダルジーザという役を演じて唯一無理のない解釈は、
彼女がまだまだうらわかき乙女で、世間知らずなままポリオーネに求愛され、
それを受け入れる自分の気持ちを愛であると勘違いした、というケースではないかと思うに至りました。
ノルマのポリオーネに対して抱く、嫉妬と激情をも含む深い愛情と比べると、
アダルジーザのそれは、あまりに少女らしい、
恋に恋する、といった風情なのではないかと思うのです。
多分本人自身も本当にポリオーネのことを愛しているかどうかがわからない、
だから、ポリオーネに一緒にローマへ行こうと言われたときもかなりの逡巡を見せるし
(自分の巫女としての立場を持ち出したりしますが、それは言い訳でしかないと私は思います。)、
ポリオーネがノルマとの間に子供を作っていることを知るや、”ポリオーネのことなんてもう愛してないわ。”と、
極端な反応に出るし、
少女らしい世間知らずさから、ポリオーネのところにいって、
ノルマと仲を戻すよう取り持つことをかって出たりする。
悪気はない、ただ世間を知らなすぎるのです。


例えばオランジュ音楽祭でのカバリエのノルマに対してアダルジーザを歌うVeasayの映像を見ると、
そのアーパーっぽい雰囲気にもかかわらず、いや、こそというべきか、役の本髄をついていて驚かされます。



以前、カバリエの声は優しく聴こえる、と書きましたが、
CDでの印象とは違って、このオランジュでの彼女は力強さもあって理想的なノルマであることも付け加えておきます。
しかし、つくづく、1974年の録音録画技術ってこんなものだっけ?とショックを受けるほどに、映像と音質は最悪です。

まあ、こういうまだ自分が出来てない女性の方が男にとってはかわいくみえる、というのはよくある話。
ノルマみたいな自分がきちんとある女性よりも、男がこういうかわいい女の子を好きになるという、
ある意味、普遍的な真実と悲しさをついているところもこのオペラの魅力でしょう。
そうそう、このオペラ、ある意味、非常に現代的だと思うのです。
このオペラは心理的な緊張感で筋がなりたっていて、プロットの変化で観客をひきつけるタイプのものではないので、
だからこそ、歌手にその心理戦を歌いこなせる人が入らないと、観ていてつまらない公演になってしまうのです。
しかし、考えれば考えるほど、この話の変型バージョンは現代の私たちのまわりでもごろごろしていて、
ある意味題材的にはほとんどヴェリズモを思わせるほどなのです。

さて、話をザジックに戻すと、この私の解釈にしては、彼女のアダルジーザは少し
お行儀が良すぎるというのか、理知的に聴こえすぎる。
思慮深い少女でも、しょうもない男にひっかかるという馬鹿をすることはありますが、
それにしても、その後のノルマとの絡みに少し無理が出てしまう。
純粋に音楽として聴くには何の不満もない、レベルの高い歌唱でしたが。

一幕の二場、アダルジーザとノルマの二重唱、”ああ思い出す、私もそうだった Oh! rimembranza! Io fui cosi”、
最後にトリッキーな高音が現れる全く同じ旋律を、ノルマ、アダルジーザの順で歌う場面では、
メシェリアコーヴァが思いっきり高音をしくじって(音が外れすぎてどれくらい外れていたのかわからないほど)、
観客の”あ~あ!”という声が聞こえそうなくらいでしたが、
ザジックのほうは、きちっと、しかも柔らかい音で決めてきて、
どっちがソプラノなんだか、という感じもなきにしもあらず。
(ソプラノとメゾソプラノの関係は、どちらが高い音が出せるかということではなく、
声のカラーの問題である、と言われることが多く、私もそれに賛成ではありますが、
まあ、通常はソプラノの方が高い音が出るということで。)

ただ、二人の声の相性は大変よくて、
それ以外の箇所は同一人物の声をダブさせているのでは?と思えるほどの箇所もあって、
かなり聴き応えがありました。
また、メシェリアコーヴァが自分の調子が必ずしも万全でないことで早めに機転を利かせて、
ザジックにリードさせるように持っていったところも利口。
やや低声が強調された面白い二重唱が聴けました。
ザジックも、一生懸命メシェリアコーヴァの発声にタイミングをあわせて歌っていたところは、ベテランの貫禄。
最後のカーテンコールで、
二人の間になんともいえない絆を感じさせる雰囲気ができあがっていたのはほほえましかったです。

ニ幕以降にやっと、メシェリアコーヴァに、一幕ではほとんで聴かれなかった柔らかい高音の響きが出てきました。
特に三場。
”裏切り者の巫女、それは私”と告白する、その”Son io”という言葉の響きのそれはそれは美しかったこと。

今日はメシェリアコーヴァのCasta Divaでの技術の拙さをみて、
一幕の後のインターミッションで帰ってしまうお客さんが多かったですが、
私は今日のチケット代の80%はこの”Son io”のために支払った、と思ってもいいくらい。

この後の”あなたはどんな心を裏切り、失ったことか”とポリオーネに切々と歌う
"あなたが裏切ったこの心 Qual cor tradisti”はこのオペラで最も心に訴える場面。
言葉だけ見ると負け惜しみにも見えるノルマの言葉ですが、
この音楽にのると、そうではなくって、ノルマの大きな心、
そこからあふれ出るポリオーネへの憐れみの心が聞こえてきます。
ノルマが人間として次の高みに上ったことがわかる場面。
(特に先述のカバリエの歌を聴くと、涙が出てきます。)



戦いの場 (合唱のguerra guerra)以降のオケがまた素晴らしかった。
この最後の場に関しては、ほとんどオケが主役だったともいえるほど。
この感じを忘れないでいて下さい!

数々の、それもかなり大きな傷にもかかわらず、
興味深く聴いた部分も多々あった今日のノルマ。
やはり、ただものじゃない作品なのでした。

さて、11/12に私のうしろにすわったおじさんがどう思おうと、やはり『ノルマ』はカラスが最高。
特に聴きなおしてみて、1955年12月7日のスカラ座ライブ(ヴォットー指揮、デル・モナコ、シミオナートが共演。
悪くなりようがない。。)が、カラス、共演者、オケ・合唱、そして、オペラヘッドとして自分はまだまだ、と反省の念を催されるほどの、
激しやすいスカラ座の観客(途中でもっと拍手をさせろ、と騒いだり、やりたい放題。
しかも、上で触れたSon ioで音がやや不安定になったカラスに、
”えー、それでいいのかよ!”とざわざわする聴衆、
”いいんだよ、文句あっか、こら!”とにらみをきかすカラス擁護派。まるで野獣です。
オペラを歌うほうも命がけなら、聴くほうも真剣そのものだった、よき時代の記録。)とのトータルで素晴らしいと思いました。




Marina Mescheriakova replacing Maria Guleghina (Norma)
Franco Farina (Pollione)
Dolora Zajick (Adalgisa)
Hao Jiang Tian (Oroveso)
Eduardo Valdes (Flavio)
Julianna Di Giacomo (Clotilde)
Conductor: Maurizio Benini
Production: John Copley
Grand Tier B Even
ON

***ベッリーニ ノルマ Bellini Norma***

恐るべし! 『ノルマ』

2007-11-29 | お知らせ・その他
11/26の『ノルマ』の公演を、ルネ・フレミングがゲルプ支配人と鑑賞していた、という
オペラ警察への通報があり、
(ちなみに、パーテールの、舞台を正面に見て、一番左の正面ボックスが支配人用。)
なぜ、ルネ・フレミングが『ノルマ』なんかを?といぶかしがっていたところ、
このような記事がNYタイムズに掲載されました。

ルネ・フレミングが、2011-2012年シーズンのメトでノルマ役を歌うことを検討していたものの、
役に向いていない、という理由で、無期限でこの役に挑戦することを延期した、というもの。

って、、、あなた、ノルマを歌おうなどということを考えていたんですか!と、
そちらの方に私はむしろびっくりさせられましたが、
とりあえず、私には、賢明と思われる決断をしたようで何より。
(しかし、記事を読みすすめると、『椿姫』に関しても2000年シーズンに
同様の理由で一度キャンセルをしながら最近歌いはじめているので、
彼女の役への準備が整った、とする基準そのものに疑惑の目を向けてしまう私ですが。)

しかし、この『ノルマ』、それなりに映像や録音の残っている作品でもあり、
まさか、この11/26の公演を観て、
”え?!こんな作品だったの?じゃ、私、歌うのやめときます。”と今更考えたとは思えず、
公演まで見に来るということはかなり歌う気があったのではないかと思うのですが、
やはり、この11/26のグレギーナの出来を見て、怖気づいたか?

確かに声質そのものでは、まだフレミングよりもあっているように思われるグレギーナですら、
技巧をともなわないせいで、この日はボロボロでしたから、
声質の不合致を、技巧を含む何かでカバーしなければいけない彼女としては、
充分に震え上がらされる公演だったと言えるかもしれません。

そして、11/30の公演は、そのグレギーナが公演をキャンセル。
(代役は、Marina Mescheriakovaというロシアのソプラノ。)
体調不良、ということになっていますが、この後の公演、戻ってくるんでしょうか。。
(今シーズンは、そういって、そのまま公演に戻ってこなかった人たちが数名。。
まるでマフィアの世界のごとく、そのあとひっそりと、音沙汰もない、という
こわいケースが最近メトで見られます。)

グレギーナ、フレミングと、世界に名を馳せるソプラノを次々と恐怖に陥れる『ノルマ』。
つくづく恐ろしい作品です。

ライブ・インHD 『オネーギン』も12月18日 & iN DEMAND

2007-11-28 | お知らせ・その他
① どうやら『オネーギン』のDVDの発売も『清教徒』と同じ12/18になったようです。
今年の両親へのクリスマス・プレゼントはこれに決定♪
(親が、またオペラのソフトか!と言っている声が聞こえる。。。)

② メトのサイトによると、来月12/15からスタートする今シーズンのライブ・インHDが、
アメリカのiN DEMANDネットワークに乗るそうです。
新年1/16から、このケーブルテレビでのサービスがスタートし、
実際の公演日から一ヶ月間、番組購入が可能になるそう。
『ロミオとジュリエット』を含む全8演目が対象となっていますが、
ロミ・ジュリの本公演は12/15で、それから一ヶ月だと、
どう計算すれば1/16のiN DEMANDでのサービスのスタートに間に合うのか不明ですが、
ロミ・ジュリだけは特別なスケジュールなのかも知れません。
いずれにせよ、ライブ・インHDの本公演は全てオペラハウスで見る日にバッティングしてしまい、
映画館での上演はあきらめなければならないと思っていた私には朗報。
我が家のテレビでライブ・インHDが見れるとは、かなり嬉しいっす。

METROPOLITAN OPERA GALA HONORING SIR RUDOLF BING

2007-11-27 | 家で聴くオペラ
久々の家聴くです。

日にちが前後しますが、インフルエンザの怪しい足音が忍び寄る頃
久しぶりにCDでも買おうかと立ち寄ったリンカーン・センター近くのバーンズ&ノーブル。
スターバックスの本屋さんバージョンともいえる書籍の巨大チェーンストアですが、
(映画 You've Got Mailで、トム・ハンクスが経営する本屋はこのバーンズ&ノーブルがモデルではないかと思われます。)
このリンカーン・センター近くの店舗、
向かいにあったタワー・レコードが最近ぶっつぶれたのを機に、
大きくCD・DVD部門にも手をひろげ、うまく商売をしているようです。
地下のCD・DVD売り場はさらに売り場が拡張され、私のような今でもどちらかというと
CDやDVDはネットではなく店舗買いが基本の人間としては嬉しい限り。
つぶれないでね、バーンズ&ノーブル。
今やあなたとメトのギフト・ショップだけが頼り。

私、オペラに関してはDVDも観るのは観るのですが、予習に使うのはCDが多いのです。
それというのは、DVDを観てしまうとどうしてもそのプロダクションのイメージが焼付いてしまうから。
CDで音だけ聴いて、舞台はこんな感じなのかな、あんな感じなのかな、と想像するのが好きなのです。
それからCDだけ聴いたほうが、歌と演奏に集中できる、というのもあります。

今シーズンのメトの『ヘンゼルとグレーテル』はやっぱり観ておきたい、という結論に達したこともあり、
その『ヘンゼルとグレーテル』のCDを見つけることが本日の課題 1。

それから、先日までNYにいたyol嬢が、レヴァイン・ガラのDVDをNY滞在中に購入したのですが、
それも良かったよ!というお墨つきで、
こちらはずっと以前にNHKの放送で観た事があったのですが、
もうはるか記憶の彼方に葬りさられつつあるので、その記憶を掘り起こすべく、
そのDVDを購入することが本日の課題 2。

DVDコーナーで課題2は軽くクリアし、課題1を果たすべくCDの棚へ。
一枚だけ残っていたカラヤン指揮、シュワルツコップらが歌う盤をキープし、
当然のことながらそれだけに終わらず、さらにあれこれと違う演目を物色していたところ、
店のおじさんが、
”いやー、君!ボクがこの階で一番好きな棚にいるね!”と、
オペラヘッドの香りをぷんぷんさせながら近寄って来た。
”何選んだの?”
普通なら、客が何買おうが勝手でしょうが!とおもしろがるところですが、
そこはオペラヘッドの考えが手に取るようにわかる私なので、素直に握っていた商品を見せる。
経験豊かなオペラヘッドほど役立つ情報をくれる人はいないのです。
カラヤンのヘンゼルを見て、おじさん、満面の笑み。
”これはいいよ。ボクが特別にオーダー入れといたのが今日、さっき、入って来たの。もう売れちゃうんだね。”
よっしゃ!と心の中でガッツポーズを決め、”そ。時間かかんなかったでしょ?”
と言うと、
”ホント、それはいい盤だよ。”

他にも、デッセイの『夢遊病の女』もおすすめだよ、といいながら、
私が握っていたレヴァイン・ガラのDVDにも抜け目なく目を向けたおじさん。
続けていろいろなCDを観ていたら、おじさんが、手招きをする。
そばに行くと、”レヴァイン・ガラもいいけどね、これなんてどうだ?”

何なに?
ルドルフ・ビングの偉業に敬意を表すガラ?
こんなCD、見たことなかったな、今まで。
ちなみに、ルドルフ・ビングとは、歴代のメトの総支配人のなかで、
最も有名といってもいいであろうお方です。いい意味でも、悪い意味でも。
ビングが支配人を務めたころといえば、もうそれは綺羅星のようなオペラ界のスターがわんさかいたころ。
そんなスターたちに負けない強烈なキャラクターと支配権を持っていたのが、このビング氏、
マリア・カラスですら、彼をひれ伏させることは不可能だったのです。
そのビング氏が総支配人を退くにあたって催されたのがこの1972年4月22日のガラだった、というわけです。

店員のおじさん、にわかにジャケットを裏返し、これでどうだ!といわんばかりの表情。

何なに?

アローヨの"穏やかな夜 Tacea la notte placida” (ヴェルディの『トロヴァトーレ』から)
いいねえ、好きなんですよ、トロヴァトーレ。それから?
んっ!!!???

カヴァリエとドミンゴでプッチーニの『マノン・レスコー』から、
マノンとデグリューの再会の二重唱、”あなたね、愛しい人 Tu, tu, amore, Tu?”
カバリエとドミンゴによる二重唱のライブ?すごく聴きたいんですけど。
次は何よ!

R.シュトラウスの『サロメ』から”ああ、お前は自分の口に接吻をさせようとはしなかった、ヨハナーン
Ah! Du wolltest mich nicht deinen Mund kussen lassen, Jochanaan”
by ビルギット・ニルソン??!!!
まじですか!!!

レオンタイン・プライス、モーツァルト『フィガロの結婚』から”楽しい思い出はどこへ Dove sono”。
へー。ヴェルディ・ソプラノの役のイメージが強いので、モーツァルトをどう歌うか興味あります。

レズニク、J.シュトラウス、『こうもり』からオルロフスキー公爵の”蓼食う虫も好き好き Chacun a son gout"の替え歌で、
"Chacun a Bing's gout"。

リチャード・タッカーとロバート・メリルで、
ヴェルディ『運命の力』から”アルヴァーロ、隠れても無駄だ Invano Alvaro"。
強力なコンビですね。ガラといえば、先日のタッカー・ガラはこのリチャード・タッカーがいなかったら、
存在しないわけだ。感無量。
で、最後のトラックは?

ジリス・ガラ(知らん)とフランコ・コレルリ(私のアイドル!)で、ヴェルディ『オテロ』から、
二重唱 "もう夜も更けた Gia nella notte densa”。

これ、買わない人いないでしょ!おじさん、もらったわ!!!
と、おじさんの手からひったくるようにしてCDを奪い取る。
おじさん、駄目押し。
”これね、もう人気なのか何なのか、オーダーしてもなかなか入ってこないんだよね。
今日もね、一枚だけ入ってきたの。”
それを私に?
おじさん、素敵。オペラヘッドにはオペラヘッドをかぎわける能力が備わってる。間違いない。

しかし、一日で聴くには濃すぎるとも思えるすごいメンツに、つい日付をもう一度確かめてしまいましたが、
やっぱり、4月22日、たった一日。
すごいわ、ビング氏。

早速家に帰って正座にて拝聴。
まずですね、驚くのがオケの音。全然今のメトのオケの音と違う。
これには考えさせられました。
まず、このガラ、指揮がいろんな指揮者が各曲持ち回りで、
アードラー、ボニング、モリナリ=プラデルリ、レヴァイン、ベームという面子。
(この頃のレヴァインなんて、まだ駆け出しの頃なんじゃ。。)

で、音が野太いんです。しかも、根性が座ってる。
失敗してもいいから堂々と演奏してやる!というような気概が感じられるのです。
細かいところは大雑把かも知れないけど、最近のオケからはあまり聴かれないように感じる、
歌手と一体となった大きなうねりというものが、この頃の(いやもしかしたらこの日だけだったのかもしれませんが)
オケにはある。
特に、ビルギット・ニルソンとのサロメ、これは必聴。
すごいです。ニルソンもオケも。どちらも一歩も引いていない。
(ちなみにサロメはベームの指揮。)

こういうのを聴くと、この他流試合というか、色んな名指揮者と組んで演奏する機会って
とても大事なんではないかと思います。
レヴァインが音楽監督に就任してからのメトは、目玉の演目はほとんど彼が指揮していて、
他の有名指揮者が来て振る回数はあっても非常に少ない。
彼がもたらした功績もあるとは思いますが、しかし、そのために失ったことも結構あったのかな、と、
このCDを聴いて感じずにはいられませんでした。

もう、歌は、、、ご想像できる通り、お腹いっぱい。
お腹いっぱいだけど、このままずっと食べていたい、と思わせる。
アマゾンなんかのサイトで、演目はこれだけじゃないはずだ!他はどうした!と、
怒りの声があがってますが、
確かに、他の演目も録音が残っているなら、全部放出していただきたい。

最近聴いたタッカー・ガラでは”素晴らしかった!”と感動し、
オペラ界もだいぶいい人がたくさん出てきて盛り上がってきたかも!と思っていましたが、
こういうのを聴くと、いやいや、まだまだ!と思わされます。

曲が少なくとも、これで定価11ドルは買い。

***Metropolitan Opera Gala Honoring Sir Rudolf Bing***

Sirius: NORMA (Mon, Nov 26, 2007)

2007-11-26 | メト on Sirius
怒涛の鑑賞スケジュールが一段落した途端、免疫力が低下し、
あっという間に軽くオペラのシーズン・オフと同様の症状、つまり生きる気力を失うという症状に陥り、
インフルエンザにかかってしまいました。
先週の木曜日は午前中養生したうえで、夕方の感謝祭の食事会に這うようにして出席したものの、そのまま事絶え、
その後週末を含むまる三日ほど頭を切り落としたいほどの頭痛と、せつない喉の痛みと、
自分がおっさんに生まれ変わったのではないかと思うほど下品な咳の連続に悩まされながら、
寝床にふせっていた次第です。

私の連れも、しっかりと感謝祭の食事の場で私から菌を分け与えられたとみえ、
軽症でありながらも、同様の症状を呈していたのですが、
見事に寝床から出れない私のために、昨日の日曜日には、
私の大好物であるお粥を中華街まで調達しに行ってくれました。大感謝。
私は、”また菌を追加献呈してはいけないので、そのお粥は、私のアパートのドアノブのところにかけたまま帰ってちょうだいね。”
とお願い。
”今、ドアのところにお粥置いたよ!”と、下の通りから電話をくれた連れに向かい、
”ありがとう!!”とアパートの窓から手を振る私。
ロミ・ジュリみたい(どこがどのように!?)、自由に会う事もできないなんてせつなすぎるわ!
と思っていたので、今日、お医者さんに行ったときに、
”せんせい、彼といつになったら自由に会えますか?辛いです。”
と、この出来事も含めてお話すると、この先生、
とっても優しいお医者さんなのだけど、突然、まるでおもしろいものでも見るような目をして私を見ながら、
”彼はその様子じゃすでに君から菌をもらっているようだね。だったら、会うのを避けても意味ないよ。
二人で最後まで苦しみぬくしかないね。とことんお会いなさい。”
え?
ってことは、あのロミ・ジュリごっこは意味なかったってこと?!
ばかップルだ、あたしたち。。

菌とは一回あげてしまうともうそれでおしまいで、追加献呈というのはないらしいです。
無知とはかくも恐ろしく、かくも滑稽な。。

さて、そのお粥の効果か、今日あたりからやっと少しづつ力が回復してきたものの、
それでもまだ辛いので、横になりながら、今日のシリウスの放送、
ノルマ役がグレギーナに代わった初日のパフォーマンスを目を閉じて聴いていたのですが、
一幕ですでに眉がぴくっ!となり、ニ幕が終わるころには、
もう横になってはおれん!と毛布を床に飛ばして、PCをたちあげてしまいました。
一言書いたら寝ます。

いつぞやの、ルネ・フレミングの『椿姫』の時にも言いましたが、
役に必要な条件を満たしていない人が歌うのを聴くほど辛いことはありません。

Aキャストのパピアンが予想していたよりも技術がしっかりしていたので、
これは、グレギーナ、比較されると苦戦しそうだな、と思ってはいたのですが。。

序曲。
なんだか、早いです。ものすごく早いです。
でも、早い=生き生きしてる、ということでないのがなんとも。
もっともっと一つ一つの音を大切にしてほしいなあ。
ベッリーニのオーケストレーションは単純と言われ、
それをただ単純に演奏すると本当に面白くなくなりますが、
しかし、その単純なメロディーが、突然演奏のされ方によって命を吹き込まれることがあるのですから。

ポリオーネ役、ファリーナ。
だめだ、これは。今日は本当にひどい。ひどすぎる。
ノルマが登場するまでのかなりの時間、彼がしっかりと支えなきゃいけないのに。
こうやってラジオなんかであらためて聴くと、彼の罪も結構大きいことに気付く。
もうちょっとちゃんとこの役を歌える人がいるんではないかと思うのですが。。
とにかく、声の力が伴わない強引な歌い方ほど、聴いていて辛いものはないです。

グレギーナ。”清き女神”。
出だしの声のトーンなんか、悪くないんですが、ああ、こんなにも小回りが利かないのはきつい。
特に、装飾音、同じ長さのはずの音の粒がばらばら。
音階の移行が滑らかでない。
たくさん出てくる下降音階、フレージングがあまりに大体すぎます。
確かに彼女は声のサイズがでかいので、こういった細かい技が苦手になるのはわかるにはわかるんですが、
限度ってものが。
それから、この曲はメロディーが二度繰り返されますが、
二回とも同じところで音がはずれてました。それもかなり大胆に。

このCasta Divaについては、聴くのがつらいくらいの出来といってしまいましょう。
なのに、なのに、歌い終わった後、大きな声でブラボー!と叫ぶ輩が。
私はここで、思わず
”勘弁してよね!”と寝床から起き上がってしまいました。
私はどんな歌唱であったとしても、ブー出しには大反対の人間ですが、
(拍手をしなければよいだけの話なのです。)
それ以上に大嫌いなのは、ブラボーの価値のない歌にブラボー出しすること。

まあ、サクラとまではいいませんが、彼女のコアなファンのようで、
グレギーナの公演によく登場するのです。『マクベス』の時にもいましたし。
特にラジオの放送があるときに頻繁に登場します。
だけど、ここまで歌がひどいときに、ブラボー出してもなあ、、と思うのですが。
そこまで聴衆の耳はごまかせないでしょう、あなた、、と。

ブーとはまた違う、”そのブラボーには賛同しない!”という意味の言葉が出来てくれないかな、
と思うときが時々あります。
ブーには、こてんぱんに歌手を打ちのめす力があって、そこまで言いたくはないのだけど、
だけど、ブラボーというほどの歌じゃないでしょ?という意思表示はしたい!という微妙なケース。

ザジックとの掛け合いの中で、ノルマが二回決めなきゃいけない高音は、なかなか良く出ているのですが、
各音の後の下降音階がまったく駄目。
あの高音は、その後の下降音階が決まってこそなのに、がっくり。
同じ幅の階段をころころころっと転がり落ちるように歌わなければいけないのに、
彼女の歌を聴いていると、階段の幅が一段一段違っているうえに、
一段抜かしもあり、くらいに聴こえます。

二幕。
この公演の長所といえば、ザジックとグレギーナの声の相性がわりとよいこと。
グレギーナが音を外さない限りは(そして、時に外れるのだが)、
二人で一緒に歌うシーンはなかなか聴かせてくれます。
しかし、たった今、独唱にもどったときに、グレギーナ、低音で、びっくりするような汚い音を出して、
また私のどぎもをぬきました。

このまま書き続けると病がぶり返しそうですので、このあたりで。
結論。パピアンを呼び戻しましょう。
パピアンの時と同じレベルの厳しさでこの公演のことを書いたならば、
グレギーナはもっとけちょんけちょん。比較にもなりません。

追記:たった今、公演が終了しました。グレギーナ、すごい拍手もらってます。
彼女はあのでかい歌声のおかげで、オペラハウス内では、細かいところは免除!となる傾向があるように思います。
でもラジオで聴いていると、そういう細かいところ、ごまかせません。

Maria Guleghina (Norma)
Franco Farina (Pollione)
Dolora Zajick (Adalgisa)
Vitalij Kowaljow (Oroveso)
Eduardo Valdes (Flavio)
Julianna Di Giacomo (Clotilde)
Conductor: Maurizio Benini
Production: John Copley

***ベッリーニ ノルマ Bellini Norma***

ライブ・インHD DVD 『清教徒』はアメリカ12月18日が発売予定

2007-11-22 | お知らせ・その他
いよいよ、いろんなサイトでプレオーダーの受付が始まっているライブ・イン・HDのDVD発売。
『清教徒』のジャケット写真はこんな感じで、店頭発売は12月18日の予定です。
『オネーギン』の写真はこちらのものが使われる予定で、発売日は未定。

早く、12月、来てっ!


BERLIN PHILHARMONIC ORCHESTRA (Wed, Nov 14, 2007)

2007-11-14 | 演奏会・リサイタル
USPS(郵便局)、MTA(市交通局)ら、半官の組織と共に、
間違いなくNY感じ悪い職業リストのトップ10に入ると私が睨んでいるキャブの運転手。
というか、キャブの運転手は感じのよい人と、運転しているその後頭部にチョップを決めたいほど
感じの悪い人の差が激しい。
しかし、平均値をとってもトップ10には入るに違いない。

よい運転手とは、いえ、どんな職業でもそうでしょうが、感じがよいのみならず、
職務に全身全霊で取り組んでいる人。
例えば、何も考えずにマンハッタンの街を走ることもできるけど、
こういう人たちは常にどこで何が起こっているかにレーダーを走らせ、
的確なアドバイスをしてくれます。
以前、メトのあるリンカーン・センターに遅れそうになった時に出会った、
”ちょっと遠回りになるけど、今日はコロンバス・アベニューが混んでいるので、
ブロードウェイから行きましょう”
と言ってくれた運転手。通常はその逆なので、まさか、運賃を水増ししようとたくらんでいるのでは?
(いやー、私も最近心がゆがんでますな。)
なんて考えが一瞬心をかすめましたが、信頼してよかった。彼の言うとおり、
コロンバス・アベニューは道路工事か何かで渋滞。ブロードウェイから行って大正解。
それから、別の日。
”ちょっと歩いても構わないなら、ウェスト・エンド・アベニューを使う手もあるよ!”と
教えてくれた運転手。遠回りだけど、圧倒的な速さで、このルートはかなり重宝していて、
今では遅れそうになると必ずこの道を指定しています。

さて、カーネギー・ホールは、我が家からすると、リンカーン・センターよりもさらに時間がかかる場所にあり、
特に平日の渋滞には泣かされる。
昨日の演奏会のためにカーネギー・ホールに向かおうとつかまえたキャブ。
すでにやや遅れをとっていたので、丁寧に、
”急いでます。多少、遠回りになっても構わないので、早く行ける方法でお願いしますね。”
というと、”オッケー!”という調子のいい返事。
”コロンバス・アベニュー経由がいいよ、やっぱ。”というので、少し嫌な予感がしたものの、
”じゃ、それで。”
しかし、コロンバス・アベニューは今日も渋滞。しかも、何を考えているのか、この運転手、
一番すすみが悪いレーンをわざと選んで運転しているのかと思うくらい要領が悪い。
それは、携帯でずーっとしゃべってるから。注意してないんです、道路状況に。
しかも、レーンが少なくなるところでは、次々と他の車に道を譲りまくって、
さっきまで私たちのうしろにいた車はもうはるか前に行っちゃってます。
マンハッタンでこんな運転してたら、百万年経ってもカーネギー・ホールにつかない!と、
”ちょっと!さっき、私、急いでいる、ってお話したわよね?
どうして、そうやって慈善事業みたく、次々と他の車にわりこませるわけ?
(前方50メートルくらいにいる車を指差して)あの赤い車、さっき私たちのうしろにいたのよ、
なんでこんなことになるの?”と言うと、
”道路が混んでるんだからしょうがない”というので、
”いいえ、他の車の運転手は脳みそ使って運転してるからよ!
この調子じゃ、公演に間に合わないんだけど!”と吠えると、
なんと、この運転手、
”君が急いでいることなんて、俺の知ったこっちゃない。”

かっちーん、、、、

なので私も一言。
”あっ、そう。じゃ、あなたがびた一文私からチップをもらえなかったとしても、
私の知ったことじゃないわね。”

車内に沈黙が訪れる。
そこにすでにカーネギー・ホールに到着したらしい私の連れから、大丈夫か?と
私の携帯電話に電話が入る。

”ごめん!もうね、脳死してる運転手にあたっちゃったわけよ。
もう、間に合わないかもしれない。でもね、大丈夫。
間に合わなかったら、この運転手がチケット代二枚分払うことになるから。
車、ホールの前につけるから、あなた、交渉、手伝ってくれるわよね?”
というと、いきなり運転手が急ぎ始めた。
むこうで、私の連れが、
”わっはっは。間に合うよ。”と大笑いしていることも知らず。。

で、5分前に到着。13ドル90セントの運賃に、14ドルぴったりお支払い。
日本円で12円のチップ。
いらないことさえ言わなければ、公演に間に合ったからはずんだのに。

と、そんな出来事が昨日あったので、今日は少し早めに家を出たうえに、
ウェスト・エンド・アベニュー経由を指定でキャブに乗る。
運転手に、なるほどねー、と褒められ、
実はこれ、キャブの運転手さんに最近教えてもらった技なの、
と鼻の穴をふくらませながら自慢。
ものすごく早く着き過ぎて、今日は連れを私が待つことになりました。

昨日と今日の公演は、チケットが売り切れだそうで、ダフ屋が目の前で、売りと買いの両方をさばく姿が見られました。
メトのオペラの公演に比べると、かなりダフ屋行為が派手に行われている。。。
それだけ、人気のある公演ということになるのでしょう。

昨日のUS初演もの、Seht die Sonneにはかなりがっかりさせられたので、
今日のAdesによる、Tevotという作品もまったく期待していなかったのですが、
結論から言うと、こちらは意外にも面白い作品で、楽しませていただきました。
Adesはイギリス人の作曲家で、この作品は彼の二作目の交響曲(といっても、このTevoは、
所要時間、たったの22分の短い作品ですが。)
Tevotというのは、ヘブライ語で、音楽でいうところの小節、また、他に、言葉、という意味などがあるそうです。
楽器の構成が面白くて、フルート、オーボエ、クラリネットが持ち替え込みで各5人、
バスーン4人+コントラバスーン、それから、なんとホルンが8人!
トランペット 5、トロンボーン 3、チューバ 2、
ティンパニーと他の打楽器、ハープ、ピアノとチェレスタ、弦楽器といった構成になっています。
そう、管楽器がとても厚いのです。

頭の管楽器によって立て鳴らされる不協和音の連続に、
一瞬、私のような前衛的なものが苦手な人間は、大丈夫かしら?とひるむのですが、
だんだんその和音の響きそれぞれが面白く感じられるようになり、
しかも、決して曲が一人よがりでなく、後半の弦楽器を中心とした旋律なんかは、
むしろ保守的な旋律とも感じられるほどで、大変美しい。
また、後半のプログラムである、大地の歌にもつながるような、
異国情緒も感じられ、それでいて宇宙的な奥行きも感じさせる、大変興味深い作品に仕上がってます。
とにかく、最初から最後まで飽きずに聴かせてくれたのですから、なかなかのもの。
もちろん、その作品の良さを引き出したベルリン・フィルの力を讃えないわけにはいかないでしょう。
各パートが本当にきっちりと演奏してくれるので、作曲家がやりたいことがよく見えました。
このAdesという作曲家、なんと私の二歳下。
同世代の人がこのように面白い作品を出してくるのは、嬉しいものです。

マーラー、『大地の歌』。
CDでは、キャスリーン・フェリアーをはじめとするアルトの歌唱になじんでいたのですが、
今日は、バリトンのThomas Quasthoffが、テノールのベン・ヘップナーと組む、
バリトン・バージョンでした。

Thomas Quasthoff、私、公演前は、名前だけでぴんと来なかったのですが(最近物忘れがひどいゆえ。)、
舞台に出てきたときに、ああ、以前テレビで見て、聴きたいと思っていた人だ!と思いました。
この方はサリドマイド被害により、大変身長が低く(ベン・ヘップナーの腰くらいまでしかないので、
歌うときは、特製の台に乗ってらっしゃいました。)、
また、両腕が短いのですが、一旦声が出てくると、全くそんなことを忘れる。
どうして、ベン・ヘップナーの半分しか身長のない人にこんな声が出るのか?と、
畏敬の念さえおきてきます。
もう今まで私のレポをお読みの方ならご推察ずみの通り、目の不自由なボッチェリにしろ、このQuasthoffにしろ、
体に障害があったとて、歌については一切手心を加えない私ですが、だからこそ畏敬の念がおきました。
(ちなみに、ボッチェリの歌は、あまり好きでない。)
正直に言って、Quasthoffの歌は技術的には100%完璧とはいえないし
(技術的なことでいえば、ヘップナーの方が上でしょう。)
ところどころにスクーピングも入るのですが、
しかし、ヘップナーがかすむような、感情の載せ方をしてくるのです、歌に。
技術が完璧ではないのに、客をひきつける歌。これも才能。
正直、オペラの場合は、視覚がしめる割合が高くなるので、
彼が舞台に立って成功していくのは、彼に合う役がほとんど存在しないか、
あってもごく稀だと思うので、難しいと思うのですが、
こういったコンサート形式のものでは多いに活躍していただきたいです。

ちなみに、ボッチェリのことをいえば、彼の声がどんなに素晴らしかったとしても、
私は彼が立つオペラの舞台は見る気になれません。
指揮者を見ることの出来ない歌手が歌うオペラは、心を鬼にしていいますが、
すでにスタートからして大きな障害を内包していると思う。
彼がオペラの舞台にたった映像を見たことがありますが、
やはり、指揮者の意図をその場で即座に汲めないのは、舞台芸術としては、大きなマイナスであると感じずにはいられませんでした。

ベン・ヘップナーは昨シーズン、『アンドレア・シェニエ』で感じたとおり、
どちらかというと繊細な歌唱に秀でているとの印象をあらためて持ちました。
体が大きいので、つい、サイズの大きな声と強引な歌を想像してしまうのですが、
むしろ、全く逆で、この人の歌の魅力は端正さにあることを確認。
しかし、シェニエでも、今日の作品でも感じたのですが、彼の歌は、
どこか、少し、作品と一体とならずに、一歩引いているような印象を受けます。
それが、技術的によくコントロールされた歌唱を可能にしているのでしょうが、
もう少し、熱くてもいいんではないのでしょうか?と本人に言ってみたくなる。
特に、Quasthoffみたいなタイプの歌手と一対一で歌うと、すごくそこが目立つ気がしました。

ベルリン・フィルは、今日も、歌手との足並みも含め、
ハーモニーを大事にした演奏で、さわやかだが、渋さすら感じさせる。
各楽器の掛け合いも見事で、特にホルン。昨日に続き、素晴らしい演奏を聴かせてくれました。
あんなホルンが、メトのオケにも欲しい。

Thomas Ades: Tevot
Gustav Mahler: Das Lied von der Erde

Conductor: Simon Rattle
Ben Heppner (Tenor/Das Lied)
Thomas Quasthoff (Bass-Baritone/Das Lied)
Dress Circle GG Even
Carnegie Hall Stern Auditorium
***ベルリン・フィル Berlin Philharmonic Orchestra***

BERLIN PHILHARMONIC ORCHESTRA (Tues, Nov 13, 2007)

2007-11-13 | 演奏会・リサイタル
オペラに比べると、いわゆるクラシックのコンサートに行く回数が少なかったのですが、
(というか、全く行かない年もあった。)
せっかくNYに居て、優秀なオケも来てくれるのだから、これはいかん!と、
心を入れ替えた今年、その第一弾、ベルリン・フィルのコンサート。
今年の3月に二本、(出てきた画面を下までスクロールしてください。)ウィーン・フィルに行ったじゃないの、あなた!とつっこんだ方、
記憶力がいいですね。
しかし、オペラヘッドの暦では、オペラ・シーズンの開幕が年の明け。
というわけで、NYでは9月の後半に”今年”が始まったゆえ、
第一弾というのは間違いでないのです。

ベルリン・フィルを生で聴くのは、
2000年のザルツブルク・イースター・フェスティバルの日本公演、
アバド指揮の『トリスタンとイゾルデ』以来。。
というと、いかに私がオケのコンサートを聴きにいっていないかわかろうというもの。
その公演だって、オペラだから行ったのであって、
そうでなければまず間違いなく、行ってなかったに違いない。
この時のベルリン・フィルは本当に素晴らしくて、
生のオペラで、こんなに素晴らしいオケの演奏を聴いたのは初めてだったので 
-というか、今まで聴いてきたのは何?と思うほどの衝撃だった-
私はすっかり興奮して家路についたものでした。

さて、今年のベルリン・フィルは3日間、カーネギー・ホールでの演奏が予定されているわけですが、
どの日も、ごく最近の作品+マーラーの交響曲もの、というプログラムになっています。

今日、13日は、まず、マグナス・リンドバーグというフィンランド生まれの作曲家による 
Seht die Sonne (英語に訳すと、See the Sun)という曲でスタート。
オペラヘッド暦ではなく通常の暦上の2007年に作曲され、8月にベルリンで世界初演され、
今日のこの演奏が、アメリカ初演となる作品。ほとんど出来たての作品です。

まず、オケの音の印象。
2000年の時とは、ホールも作品も指揮者も違うので、違って聴こえて当たり前なのですが、
なんだか、音が一層優しく、たおやかになった気がします。
暇人な私は、2000年当時のオケのメンバーと今回のオケのメンバーを
プログラムに載っているリストで比べてみたのですが、
意外と変わってないのです。これが。
これだけ音が違うので、がらりと変わっているかと思ったのに。
そういえば、1993年に、23歳というベルリン・フィル史上最年少でフルートの首席奏者になったパユは、
2000年の来日公演は、丁度、2年弱の一時的な退団時期に入っていて来日メンバーに入っていなかったはずですが、
今回は、、、いたいた。
しかし。。。すごい貫禄とおじさん度に、びっくり。
いや、そのあまりの貫禄に、探さなくても”誰?あれ?”と思わせるほど。
私と思いっきり同世代なので、私も自分のおばさん度を棚にあげて失礼な!という感じですが、
しかし、この人は、昔見た写真のイメージで、若々しい好青年のままをイメージしていたので、
時間というのはなんて残酷な、、との思いを強くしたのでした。
しかし、この人、やはりスター的な存在なんでしょう、
もう彼の演奏に同じパートの人たちが一生懸命ついていってます!という感じが泣けました。

さて、オケ全体に話を戻すと、ベルリン・フィルの美質は、これみよがしなところがないところでしょうか。
なんだか、木になんともいえない味わいが出たアンティーク家具とか、
趣味のいい古伊万里を思わせるたたずまいがあります。
ウィーン・フィルの、各パートの、俺はどこまでも突っ走るぜ!(しかも、それはノッてくれた時だけで、
それ以外の時は全くやる気なし。)というのりとはどこか違って、
一生懸命まわりの音との調和も大事にしている感じ。
それから、まじめ。すっごくまじめ。
ウィーン・フィルの時は、どこか、”私たち観客、小ばかにされてる?”という気がしたものでしたが、
ベルリン・フィルはそれにひきかえ、すべてが一生懸命。
こんな、適当に演奏しておいても(失礼!)
誰もミスに気付きようもないアメリカ初演の作品を(だって、誰もこの作品知らないし。)
ものすごく一生懸命演奏してる。
というか、演奏が良すぎて、作品が負けてる。

この作品、クラシック・コンサート版『ファースト・エンペラー』と呼びたいほどに、
作曲した方は、凝って作ったつもりかもしれないが、映画音楽のよう。
映画音楽には映画音楽の目的と役割というものがあって、馬鹿にする気はありませんが、
コンサート会場で黙って座って聴いて、感動できる類の音楽であるか?と聴かれれば、答えはノーです。

それなのに、トリッキーなリズムと楽器間のかけ合いの嵐で、
ベルリン・フィルはそれを見事にこなしていましたが、ベルリン・フィルが演奏してこれなんだから、
へぼいオケが演奏したなら、”耳”もあてられない惨憺な出来となることでしょう。
また、そのトリッキーな演奏をどんなにこなしたとて、何の感動もない、という、
オケの方たちにとって、これ以上報われない作品も珍しいのでは?

さて、インターミッションをはさんで、マーラー。
マーラーはユダヤ人ですが、ユダヤ系の多いNYでこの作品を選んできたベルリン・フィルの微妙な心理が泣けます。
ユダヤ系の人々の反ワーグナー感は、それは根深いものがあって、
”ワーグナーの作品は素晴らしいが、ワーグナー自身は許せないし、嫌い。”
と公言するユダヤ系アメリカ人オペラヘッドも多いのです。
そんなこともあって、日本のワーグナー人気に比べると、
ちょっとアメリカ、特にNYはワーグナーに冷めているところがあるように思います。
そんな事情があるので、私なんかは、ベルリン・フィルにカーネギー・ホールで、
ぶいぶいと、あの2000年に聴いたような素晴らしいワーグナー演奏を聴かせて欲しい!
という希望があるのですが、まあ、おそらくNYにいる限り、
叶わぬ夢なのかな、とも思えて来ました。
ベルリン・フィルがNYで演奏する力強いワーグナー。
NYにいるユダヤ系の人々にしては複雑な気分だろうし、
ベルリン・フィルもそこまで鈍感にはなれないでしょうし。

それに比べると(実は結構反ユダヤ人感情が強いと聞く)オーストリアのウィーン・フィルが、
あっけらかんと3月のコンサートでワーグナー・プログラムを組んでいて、
まあ、ドイツという国が昔したことは我々とは無関係、という感覚があるのか、
無邪気だな、と思いました。
でも、ウィーン・フィルが演奏するワーグナーより、絶対ベルリンが演奏するそれが聴きたい。
そういう意味では、日本は、歴史的背景を抜きに
そのオケの得意とするレパートリーが聴ける恵まれた場所なのかな、とも思います。

というわけで、この微妙な作品とオケとのスタンスがどのように出るか、そこも興味深かったのですが、
さすが、そこは手をぬかず、全身全霊をこめて演奏してくれました。

しかし、最近、度々オペラのレポでも指摘している通り、聴衆の音楽を聴く態度が本当に悪い。
NYの聴衆、もちろん、きちんとした人がほとんどなのですが、
全体の傾向として、日本の聴衆に比べると大きく違うのが
(最近日本の聴衆のマナーも悪くなっていると耳にしますが、とりあえず私の知っている頃と比べて)

1)沈黙とか静けさに耐えられない
2)自分が”これをしたい!”と思ったときが行動の時

という2点だと思います。

1については、本当に、音楽が途絶えたり、静かになる数秒間が我慢できない人が多い。
咳払いをしたり、ものすごく大きなくしゃみをとばしたり(ハンカチで口抑えろ!)、
突然静けさに不安になるのか、足をうごかしてみたり、ものを取り出してみたり。。
以前にもいったように、音がないというのも音楽。がっかりします、本当に。

そして、2については、1よりもっと不愉快かも。
のどがいがいがするのはわかるけど、どうして、今、この最も楽器のソロの見せ所で、
最も音楽が美しいところで、最も繊細な音の部分で、飴の包みをあけなきゃいけないんでしょう?
それから、突然、眼鏡が不要になったおばさま、ぱっかーんと眼鏡ケースのふたをあけたり閉めたりするのはいいけど、
別にあと数秒、音が大きくなる箇所まで待ってもいいんじゃないでしょうか?
それから演奏中、音楽を耳で楽しむのに、
一体、自分の体一つ以外の何が必要なんだろう?と思わされるのですが、
どうしても、何かが、”今”、必要らしく、いきなり、バリバリバリバリッと
大きなファスナーの音をさせて、かばんを開く人。

あまりにこういった雑音がひどいので、私の目の前に座っていた男性も、
そのような音が響いてくるたびに、頭をふって、嘆いておられました。

しかし、オペラの場合、割と大きな音で音楽が流れている比率が多いため、
このような蛮行は、”しーっ!”と叱りとばしたり、
一言、stop itと短く制止することが可能で、実際そうしている人もたくさんいるし、
まわりの客もそのような制止に目くじらをたてる人はいないのですが、
今日のような、クラシックのコンサートの場合、そのように人を注意することもはばかられるような雰囲気があるのです。
”お前のほうがうるせえんだよ!”と言われそうな。。
なので、真横に座っていて、囁きながら注意できるか、
実力行使で、かばんを開け閉めする腕をつかんでやめさせることができればよいのですが、
そうでなければ、そんな音が数席離れた場所でするのを、
ただただなすがままにしておかねばならない、という、恐ろしいジレンマに陥るのです。

しかし、音響が良いといわれるカーネギー・ホール。
オケから出る音がよく聴衆につたわるだけでなく、
聴衆がたてる音もよく指揮者とオケに伝わっているのでした。

なんと、第一楽章が終わったところで、いきなり指揮者のサイモン・ラトルが
おもむろに観客側に振り向くと、
”この作品には、完全な沈黙が必要です。どうぞ、皆様、ご協力をお願いします。”
と優しく、しかし、きっぱりとおっしゃったわけです。
観客、ラトルに叱られたー!!!

私が今までかなり聴衆の態度の悪さを頻繁に書き綴ってきたために、
私の頭は少しいかれているんではないか、偏屈なオペラヘッドに違いないから関わらないでおこう、と思った方、
私がおかしいとしたら、ラトル氏も頭がおかしいのであって、そうでないことは明らか。
ある程度の常識と音楽への愛情があれば、このような聴衆の態度は許せないのがあたりまえなのです。

しっかし、本公演中に指揮者から注意を受ける観客。
ちょっとは恥ずかしいと思って、態度を向上させてほしいものです。
まあ、残念ながら、私の周りの席では、英語ネイティブにもかかわらず、
”え?今、なんて?ま、いいや、聞こえなかった。”というのりの人も多く、
相変わらず、雑音は続いたのでした。だめだ、こりゃ。

その第一楽章、例えば、CDの名盤の一つといわれる、
同じベルリン・フィルを60年代にバルビローリが振ったCDと比べると、死のイメージが希薄だったのは意外。
わりと、クリーンというのか、これは最後の楽章を除いたほかの楽章全部にいえたと思うのですが、
少し、消毒されすぎている感がなきにしもあらず。
ただし、オケの個々の演奏者はさすが。
特にホルンの首席奏者。この人は、どんな音にもきちんと芯があるくせに、
ホルンでここまで柔らかい音も出せるんだ!と驚かせるほど、どんな種類の音でもオールマイティにこなす。
すごいです。
それからチェロもいい。
第一ヴァイオリンの音がやっぱり私が以前に(勝手に?)抱いていたイメージより、
地の音が随分優しい音がするのは少し驚きでした。
派手では決してないのだけれど、最後の楽章なんかでは、ものすごいパッションを見せ、
弱音に強烈な緊張感がみなぎっていて、最後の楽章は本当に素晴らしかった。
いや、この最後の楽章は、全パートが燃え上がった素晴らしい演奏となりました。

指揮者が叱り付けなければならないような観客でも、一切手をぬかずに自分の仕事をするオケ。
指揮者の方は観客にいらいらさせられていたようですが、むしろ、オケの方は、
そんな雑音をほとんどシャットアウトして、
作品に没頭していたのが印象的でした。

その最後の楽章の後、演奏に酔いしれて、拍手までしばし沈黙となったカーネギー・ホール。
その沈黙を破って、表の57丁目の通りから漏れ聴こえるウーゥ、バーバーバー
(NYにいらっしゃる方なら、この音のイメージわかっていただけると思いますが)
という、救急車の音。。。
がっくり。
ラトル卿もさすがに、救急車を叱りつけるわけにもいかず。

NYは、観客どころか、街全体も、静寂を楽しむことを許さない場所なのかも知れません。

観客から出た咳をもって、タクトを下ろし、観客側を向いたラトル氏は大変満足そうな表情だったので、
本人としても、割と出来のよい演奏だったに違いありません。

明日の公演もNYのノイズに負けず、頑張っていただきたい。


Magnus Lindberg: Seht die Sonne
Gustav Mahler: Symphony No. 9

Conductor: Simon Rattle
Center Balcony K Even
Carnegie Hall Stern Auditorium
***ベルリン・フィル Berlin Philharmonic Orchestra***

NORMA (Mon, Nov 12, 2007)

2007-11-12 | メトロポリタン・オペラ
もう。困りましたね。
こういうレポートを書くのが一番しんどい。

私が大のマリア・カラスびいきであり、それゆえということもあるのですが、
ベル・カントのレパートリーが好きなことは、以前の記事で書いたとおりです。

マリア・カラスとベル・カントといえば、真っ先にあがる作品の一つにこの『ノルマ』があります。
特に私はRAI(イタリア放送協会)の放送用に1955年に録音されたものが好きで、
これは確か、映画『マディソン郡の橋』の中で、フランチェスカがロバートを待ちながらキッチンに立つシーンで、
そのキッチンのラジオから流れる”カスタ・ディーバ”の音源に使われていたように記憶しています。
(再度確認したわけではないので1955年のものでなければごめんなさい。
ただし、カラスのカスタ・ディーバの録音のどれかであることは間違いありません。)

その他にもカバリエのため息のでるような高音のピアニッシモが美しい優しげなノルマもあれば、
スリオティスが歌う激しさともろさが混在したノルマもあり、この三人はいずれ甲乙つけがたい出来。
というわけで、我が家ではこの3人のノルマがローテーションを組んで、家のBGMとして登場するわけですが、
今日の『ノルマ』が、こんなにも面白くない作品に思えたのはなぜ??

歌がひどかった?いえいえ、そんなことはなく、むしろ歌手は、ファリーナを除いては健闘していたと思う。
では演出がひどかった?いや、注文をつけようと思えばつけられないわけではないが、
上品だし、歌を邪魔するようなオペラ刑務所行き確定のそれなわけでもなく。。

何がいけなかったんだろう?
帰る道々、考えてしまいました。
家に帰ってもまだ答えが出なかったので、今日までずっと、3人のノルマにまたローテーションを組んでもらって、
この疑問を念頭に置いてCDを聴きなおしてみました。
それで、このレポのアップが遅れた次第です。すみません。

そして、出た結論。
私、素晴らしいと誉れの高い3人のノルマを今までなんの疑問ももたず聴いていたために、
深く考えたことがなかったのですが、
この役、歌える人が限られています。とっても。
いや、オペラはどの役も歌える人が限られているのだけれど、この『ノルマ』はそれが極端なまでに限られているのです。
いや、それを言ったら、ノルマだけではなく、ポリオーネ役も。
このオペラ、もともと素晴らしい上演になる率が非常に低い作品なのだ、と思い至ったのであります。

まず、ノルマですが、この役はまず性格からして一筋縄ではいかない。
ドルイド教の神の巫女長である彼女、
仇であるローマ人のポリオーネの言葉を額面どおりとるわけにはいかないとしても、
しばしば詞の中で、そのドルイド教の神は、”血なまぐさい神”
(まあ、その血なまぐささはドルイド教徒であるところのケルト人の、
ローマに反攻したいという気持ちの投影でもあるわけですが。)と形容されており、
しかも、日本の卑弥呼と同様、彼女が伝える神の意図は、政治的な決定権すら兼ね備えているわけで、
間違っても現代の平安神宮や伊勢神宮にいる巫女さんみたいなのではない。
卑弥呼のイメージです。

そんな一国、一民族の繁栄を守らなければいけないわけですから、ノルマには強さがなくてはいけない。
ですから、登場してすぐの言葉、
Sediziose voci, voci di guerra avvi chi alzarsi attenta presso all'ara del dio?
ここに、その強さが一瞬にして現れなければいけないのです。

私はそれでいうと、カバリエはここが少し優しすぎるか?という気がしているくらいで、
カラスとスリオティスのような、一瞬でノルマの激しさが立ち上ってくるような歌が理想です。
よく考えてみれば、カバリエのような重い役も歌うけれど、本来はどちらかという優しい声である歌手と、
カラスやスリオティスのような強めの声(とはいえ、ただ強いだけではないことは後でふれようと思いますが)
の両方のタイプの歌手が、この役の理想的な歌唱と言われるのも不思議な話で、
このことこそ、この役の特殊性を物語っていると思います。

しかし、そのノルマ、そんな地位でありながら、仇であるローマ帝国のポリオーネと恋におち、
子供を二人も生んでいたりしている。
なので色気もないといけません。
そして、民衆には、ほとんど冷たさすら感じさせる威厳を持ちながら、
その素顔はというと、後輩の巫女であるアダルジーザに優しい思いやりを見せたり、
しかし、そのアダルジーザが自分の愛するポリオーネの心変わりの相手と知るや、
嫉妬に狂ったり、
その憎きポリオーネと自分の間に出来た子供を殺してしまいたい、と思ったかと思うと、
やはり子への愛情が先にたって、殺すことが出来ない。
そして最後は誰を犠牲にすることも出来ずに、自分をいけにえとして儀式に差し出すことを選んで死んでいく。
気が強いだけなら、アダルジーザを、あるいはポリオーネを死においやることも簡単にできたであろうに、
そこが、このノルマという女性のもろさであり、愛すべき性質でもあるわけです。

なので、当然、この女らしさ、もろさ、優しさを表現できる、というのもこのノルマ役に必要な要素なのですが、
それを表現する一つの手段として、高音のピアニッシモを美しい音で出せるというのも絶対条件としたい。

それから、”清き女神 Casta Diva"で多く聴かれるような、同一母音内での複数の音符の移動(Castaの最初のaや、Divaのi)も
もちろんスムーズに歌ってほしい。
ここがぎくしゃくすると、がっかりしてしまいます。しかし、言うは易し、するは難し。
一流と言われる歌手でも結構ギクシャクしている人がいます。
スリオティスなんかも、カラスなんかと比べると結構ギクシャクしていて、
許容ライン、ぎりぎりのところでふみとどまってる感じがします。

今まで勝手に書き散らしましたが、私、すごいこと言ってますよ。

1)声に強さがないといけないが、
2)高音に清らかさがあって、ピアニッシモの扱いにもすぐれていて、
3)かつ、細かい音符をなめらかに歌える技量が必要

まず、1と2が同居すること自体が、非常に稀有です。
多くのソプラノがどちらかにふれるはずで、カラスやスリオティスは1、
カバリエなんかは2といえるでしょう。

で、やっと本題に入ると、今日の公演でノルマを歌ったパピアンなのですが、
1と2の満たし方が少し物足りないのかな、と思います。
念を押しておくと、上のポイント3を含む技術についてはかなりがんばっているし
音程とリズムもこれ以上ないほど正確で(それだけでもすごいこと!)、高音もきちんと出ている。
おそらく今のオペラ界でも、この役をここまで”きちんと”歌える人はそうたくさんはいないでしょう。
それなのに、何か役として光るものが足りない。
で、それは私は究極的に彼女の声そのものに原因があるのではないかと思います。
いや、彼女のせいにするのは気の毒で、作品のせい、と言ったほうがいいかもしれない。

この作品に必要な、上でのべた二点、
まず1については、彼女の声は、第一声で迫力を感じさせるほど凄みがないのです。
どちらかというと硬質だけど優しい声といえるくらい。
だから、登場のシーンで、こちらは、”ああ、ではどちらかというとカバリエ的アプローチで行くのかな?”と期待するのですが、
残念なことに2で私が求めているような繊細なピアニッシモは一度も聴かせてくれない。
いや、どちらかというと、全部のフレーズがアイーダかなんかを歌っているかのような、
しっかりした声なのです。
(アイーダだって、結構繊細なフレーズはたくさんありますが。。)
高音もただひたすら中から大のレンジで、ごりごりと押してくる。
ああ、ノルマの性格が見えない。。

上であげた私の好きなノルマ歌いのソプラノも、強いていえば1か2にわかれるといいましたが、
カバリエの場合は、その息を呑むようなピアニッシモ(特にオランジュ音楽祭での映像。
しかし、この映像、録画技術が悪すぎて、私は観ていると、頭痛がしてくる。)で2の究極をいっていて、
ある程度1が不足しても、ま、いいか、と思わせる。

カラスは1の迫力は凄いし、歌唱の技術も確か。
強いていえば、弱音のコントロールは素晴らしいのだけど、もともと彼女はいわゆる美声ではないという意味で、若干2が弱いか。
今日の公演で私のうしろに座っていたオペラヘッドのおじさんは、連れの女性に、
”この役は歌うのがとっても難しくて、カラスの当たり役と言われているけれど、
カラスすら、完璧にこの役を抑えていたとはいえないんだよ。”
お、おじさん、厳しい。。。と思いましたが、確かに注目する観点によっては、
カラスでも完璧とはいえないのかも知れません。

そういった意味では、技術にカラスほどの完成度はないけれど、
もしかすると一番声でこの役にマッチしているのは、スリオティスなのかな、と思います。


(1967年、フィレンツェ歌劇場の『ノルマ』の舞台写真からのスリオティス)

彼女は、あっという間に声を潰してしまって、活躍の時期が短いために録音は多くありませんが、
残っているものを聴くに、私はかなり好きです。
彼女のノルマを聴くと、低音にものすごい迫力があるのに、高音ではむちゃくちゃ澄み切った音を出していて、
それがえも言われぬ魅力になっている。
ピアニッシモも独特の魅力があって、彼女の歌を聴くと、
ああ、ノルマってこういう人だったのかな、という人物像みたいなものが見えるし、
このノルマという人物を借りて表現される女性の嫌な部分も愛すべき部分も、彼女の声から伝わってくるのです。

しかし、こんなソプラノ、そうはいない。。。
(だいたい、上の3人をならべてみても、誕生のサイクルは、平均して10~20年くらいに一人、といったペースです。
カラスとスリオティスが時代が近いのですが、
カバリエ以降すごい人が出ていないことを思えば、30年説もありうる。)
そう、そうはいないから、この『ノルマ』は上演するのが難しい。





アダルジーザ。図らずもノルマの恋敵となってしまう巫女仲間。
彼女は結構不思議な人で、私が常日頃から説いている、
”ベル・カント=はちゃめちゃストーリー”説(ベル・カントには、んな馬鹿な!という設定、人物設定が多い。
歌を聴かせることに主眼が置かれているので、結構筋書きがテキトーなのです。)を地でいく不思議ちゃんぶり。
大体が、ポリオーネとローマに移住することまで決心してたくせに、
巫女長というノルマのポジションに恐れをなしたか、本当にノルマのことを不憫に感じてか、
最後にはノルマがあなたはポリオーネと一緒になりなさい、と説得しても、
”あんな男、願い下げよ!”くらいな勢いで、てこでも同意しない。
っていうか、あなた、本当にポリオーネのこと愛してたの?と聞きたくなるほど。
しかも、私がポリオーネにノルマと戻るよう説得に行くわ!と出て行ったはずなのに、説得失敗。
もしや、わざと失敗したのでは?なんてことはないと思うが、
そんな不思議な人で、一貫したキャラクターがないので、私はこの役には多くを求めない。
ただし。絶対にクリアしてほしいことは、ノルマとの声の相性がよく、正確にかつアンサンブルを大事にしてメロディーを歌えること。
特に、第二幕、”お願い、子供たちを一緒に連れていってDeh con te li prendi”から始まる長い二重唱、
ここは二人の声がぴたっと合うと、本当に美しく聴こえる。

このアダルジーザ役は、1831年の初演時はなんとソプラノが歌ったそうで、
確かに役のキャラクター面からいっても、また、この二重唱のつくりから言っても
実はソプラノ版アダルジーザの方があっているのかも、という気もします。
で、今回幸運だったのはザジックがアダルジーザを歌ったこと。
彼女の高音での響きはソプラノとしても充分通る透明さがあるので、ベッリーニがはじめに意図したことがある程度感じられました。
ただ、パピアンの声が硬質なので、相性という意味では微妙なものがあったかも。
面白かったのは、むしろザジックの方が高音でのピアニッシモが繊細で美しく、
またそこからだんだんクレシェンドしていくときもすごい迫力で、
これがパピアンにもあればなあ、と思わされた。
ただし、もう繰り返しになりますが、ザジックもプライムの時期を越えているので、
以前は本当にクリスタルのようなという形容詞がぴったりだった高音に、
少しざらつき感があったのは否めませんでした。
また、アムネリスなんかではあれほど役に入り込んで歌う彼女が、
この役のキャラクターを今ひとつつかみきれていないのか、(っていうか、こんな役、つかめる人がいるのか?とも思いますが)
どこか居心地の悪さのようなものを感じました。
断片的に素晴らしい歌唱もあったし、重唱で自分の歌唱を微妙に調整しながら相手に合わせようとするところはさすが、と思わされましたが、
(むしろパピアンにはその余裕はなかったように見えました。)
彼女の持ち味が出きっていたか?と言われると少し躊躇します。



さて、ノルマとアダルジーザに関して力説しすぎて、話す気力が尽きてきたうえに、
あまり話すこともないのが、ファリーナ演じたポリオーネ。
一言、ポリオーネの役は彼には荷が重すぎた。
もうスクーピング(正しい音程にすぐにアタックせず、わ~~~~ん、という感じでずりあげる。やめて、もうっ!本当に聴き苦しい!)の嵐。
カラスやスリオティスの相手役をつとめる稀代のテノール、デル・モナコも、
あらためて聴くと、かなり強引な歌い方をしているのですが、
彼には誰にも負けない、有無をも言わさぬ強さが声にあります。
ファリーナよ、あなたの声にはそれがないのだから、無理にデル・モナコのような歌い方をせず、
むしろ自分の声にあったポリオーネ役を作っていった方がよかったのでは?
いや、待てよ。それじゃポリオーネがポリオーネでなくなってしまうか?
そう、このポリオーネ役も、ノルマとはるほどに特殊な声質、
つまり有無をも言わさぬ存在感がないと厳しいわけで
(CDの録音でカバリエと組んだドミンゴなんかは存在感だけでなく、叙情性も感じさせて素晴らしい。)、
ものすごいスター歌手、いえ、実力のともなったスター歌手でないと、役に消されます。
ということで、ポリオーネ役も今オペラ界で歌って、役に負けない人がいるか?
。。。いないかも。

ということで、よく考えるとこんな特殊な歌手が必要な作品が、そうそう良い出来になりうるわけがない。

ということで、今日の公演の結果はむしろ妥当。
この役にぴったりのソプラノとテノールが私の命が尽きる前に現れることをひたすら祈るのみです。

最後になりましたが、ベニーニの指揮は、この作品に漂っている丘に建つ神殿に漂う風のような、そんな雰囲気ができっていない。
いくつかの和音なんか、楽器のバランスが悪くて、本来たちのぼってくるものも立ち上ってこず、
同じ和音と思えないほど(物理的には同じ和音ですが、立ち込める空気が違う)。
なんでよ、あなた、イタリア人なのに。

Hasmik Papian (Norma)
Franco Farina (Pollione)
Dolora Zajick (Adalgisa)
Vitalij Kowaljow (Oroveso)
Eduardo Valdes (Flavio)
Julianna Di Giacomo (Clotilde)
Conductor: Maurizio Benini
Production: John Copley
Grand Tier D Odd
ON

CIRQUE DU SOLEIL - WINTUK (Sun, Nov 11, 2007)

2007-11-11 | 演劇
基本、サーカスが大好きです。
一昨年もビッグ・アップル・サーカスという、NYでは年末の恒例行事になりつつあるサーカスも観にいったし。。

しかし、同時に動物愛護家でもある私なので、最近サーカスの動物たちがいかに虐待されているかということを知り、
動物を使ったサーカスには二度と行かないつもりです。
ついでに言えば、マンハッタンの街で観光に使われている馬車。
あれも虐待以外の何者でもありません。
ドラマ『セックス・アンド・ザ・シティ』の中でキャリーがあの馬車に乗ったシーンがあったりしたものだから、
嬉しがって乗ってる人を多く見かけますが、
でかい図体して家族でひしめき合ってのっているのを見ると、本当に馬がかわいそうでなりません。
私みたいな女に軽蔑されたくなければ、決して、あの馬車には乗らないでくださいね。
最近では、酷使されすぎて倒れてしまった馬が出たりしたこともあって、
あの馬車を廃止しようという署名活動も行われているくらいです。
重ねていいます。あんな馬車に乗るのは、田舎者だけです。

さて、話はサーカスに戻って。

そんな理由で、(昔はどうか知りませんが、多分)一切動物が登場しないシルク・ド・ソレイユは私がこれからも安心して観れるサーカスです。
演劇性が高いので、サーカスという言葉にもやや違和感を感じるのですが、とりあえず。

今年は新作”Wintuk(ウィンタック)”で、NYに帰ってきてくれました。
毎回シルク・ド・ソレイユのチケットは人気が高いらしく、
今回は私のアメリカ人の同僚の女性が情報をくれたおかげで、かなり早くにチケットを確保。
彼女も土曜日にだんな様と見に行ったそうです。

<ここから後は、激しく内容に触れて書くので、これから観にいく
予定の方はサプライズ・シーンを台無しにしてしまう恐れがあるので、
読まないことをおすすめします。>


まず、このマディソン・スクエア・ガーデン、バスケットボールの試合などが行われるアリーナで開催されるのだと思っていたら、
なんと今までその存在すら知らなかった併設のワミュー・シアター
(ワシントン・ミューチュアルという金融機関がスポンサーなのでワミュー)というホールで行われました。

まず、入って驚いたのが、ホールが横にだだっ広くて、かわりに奥行きが非常に狭いこと。
さらに、天井が低い!
私はアエリアル系の技が好きなので、この高さではあまりそちら系のパフォーマンスは見れないかも、とややがっかり。

観客が入場する間に、登場人物の一人である、『エルム街の悪夢』のフレディを思わせるセーターを着用した、
すりが趣味の男が客席に登場。
観客の一人がもっていたポップコーンを奪い取り(観客はさくらじゃないので、まじめにびっくり)、
舞台にもどったかと思うと、二ドルで売り始めた。すでに開封されて、食べられた後なのに、
”ほとんど新品”というプライス・タグつきで。
観客の中の男の子が二ドルを持って舞台に登場。
フレディが、”この子になら売っていい?みんな?”と聞くと、観客から拍手。
”じゃ”と言いつつ、二ドルを奪い取ると、フレディ、いきなり、その男の子の頭上でポップコーンの箱をさかさまにし、
ばらばらばら~と降ってきたポップコーン(ほとんどまだ箱にぎっしり残っていた)にまみれる少年。
この少年もさくらではなく、あまりのことに口をあんぐり。
男の子には悪いけど、笑っちゃいました。

いよいよ幕が開いて本編がスタート。

ストーリーはジェイミーという、ちょっとうざい小学校3年生くらいの少年が、
雪を見たくてひたすら旅をする、というもの。
それだけです、ストーリーは。

まず、シャドー・ガールという、髪の毛をウルトラの母しばりにした女の子(ジェイミーと同い年くらい)が登場。
この子がとってもかわいいのです。ちらっと登場したその姿に淡い恋心を抱くジェイミー。
まあ、本人は恋心と思ってないかも知れないけれど、私がそう思うからそういうことで。
これは、まるで、『魔笛』で、パミーナに恋におちるタミーノを思わせる。
しかし、その後、この女の子は写真のようなつかみどころのない影の姿で登場。
この女の子に導かれるようにして、ジェイミーは旅に出るのでした。



まず頭で印象的に使われていたのは、BMX(マウンテン・バイク)や、スケボー、ローラーブレードを多用した技。
エクストリーム・スポーツの人気に乗じた今っぽい技。



このBMXに乗ったまま、床に横たわった男性の顔の上を乗り回したりしていて、
そのまま顔にのっちゃう!と観客が”ひっ!”と悲鳴を上げたと思ったら大丈夫(まあ、そりゃ大丈夫じゃないと困るが。)だったり。
結構細かい技を披露してますが、一つ、エクストリーム・スポーツの魅力はスピードにあるので、
この狭い舞台では、それがあまり活かされず、ちょっと中途半端に終わった感が。
こういうエクストリーム系の技はCharivariと呼ばれているそうです。
一応このBMXに乗った人たちはこの架空の国の警官という設定になっているのですが、
まあ、別にストーリーにはなんの関係もなし。

次の技はジャグリング。
ロングコートを身に着けた男性がいきなりがばっとコートを開くと、
目にもまぶしい青いスーツが。
ボールとか、棍棒みたいなものを順番に放り投げる、メジャーな技ですが、
なぜそんな青いスーツを着なければいけないか、それは私にもよくわかりません。
少し、パフォーマーの方が集中力を欠いて、ボールを取り落としたりする場面も見られました。
最高は棍棒6本。

前半の幕は、ジェイミーが暮らす街に焦点をあてたものとなっています。

ごみの収集車があらわれてごみを回収すると、ものすごい強風がふきあれて、
その中をスラック・ワイヤーといって、いわゆる綱渡りと同じ原理で、洗濯用のロープを使って歩いたりする技を披露。
このロープの上で、ズボンをはいちゃったりするんです、このチャップリンを貧相にしたようなおじさんが。



また、このバックにうつりこんでいる街灯がいい味を出していて、ねじまがったり、歌を歌ったり。

そのうちに、六匹の巨大なわんこと仲良くなるジェイミー。
毛は10センチ幅くらいの紙でできたむく犬風の犬。



これは一体につき人間3人で操作されるいわゆる操り人形なのですが、
前足を操る人の胸には金属でできた機械がセットされていて、それで顔なんかを操っているのですが、
結構大変そうでした。
この操り人形もそうなら、後で出てくる巨大な雪男も操り人形、さらに影絵を使ったインドネシアの人形劇風のバックといい、
どことなく、メトの『魔笛』のジュリー・テイモアの演出を思わせる。
これは、私の連れも同感。恐るべし、ア・ラ・ジュリー・テイモア。

さて、そんなジェイミーの街の道路工事のおじさんたち。
いきなり工事に必要な部品を使って技を披露しはじめた。



これは前半のハイライトとも言えるロラ・ボラとよばれるもの。
すごいのは、一つ一つの部品を重ねていくときに、安定した側ではなくって、不安定な側が使われること。
要は、円柱がごろごろころがるように置かれたその上に次の部品を重ね、で、
それを何層にもした後に最後に置かれた板の上で立ってみせたり、倒立をしたりするのです。
普通の安定した床でも壁がないと倒立できない私には、人間技とは思えない。

続いて現れたのはラグ・ドールと呼ばれるお人形。



この写真では立ってますが、ほとんど立つ場面はなくて、力の入らない、それこそお人形のようなぐにゃ感を中に入っているパフォーマーが演じているのです。
最初は小さいトランクに入っているのですが、そこから出てきていきなり、グニャー。
その人形をささえようと、二人の男性が四苦八苦するのですが、
足がありえない角度までまがったり。。ほとんど股関節のところから360度の回転が可能なのではと思わせる。

この演目のあと、ラグ・ドールの中に入っていたお姉さんが、挨拶のために正体をあらわしたのですが、
すごく大柄でがっちりとしたおとこおんなのような女性でびっくり。
きっと、中には、ロシアの体操の選手のような可憐な、体の柔らかそうな女の子が入っていると思ったのに。
しかも、かなりおばさん入ってる(少なくとも私くらいには)。ちょっとぎょっ!とさせられました。

旅の途中で出会った、黒人の女性が演じるシャーマン(たまーに歌を歌いながらくるくる回っているだけ)という
謎の女性(しかし、かなりいろんなことに詳しく、むく犬らもてなづけている。今、シルク・ド・ソレイユの解説を読むと、
どうやらホームレスの女性で、この話の最後に自らのアイデンティティを見つける、ということらしい。
全然そんな深遠なことが演じられているとは、わかりませんでした。)の手ほどきをうけ、
いよいよ北国に到着。

その北国に到着したあとが休憩をはさんだ第二幕。
第一幕に関しては、少しセットデザインが、ニ幕以降の神秘的なムードと対比させるために、
わざとごちゃごちゃ日常的にさせたとおもうのだけど、ちょっとサーカスを見にきている私たちには、夢がなさすぎて幻滅。
衣装も、だって、道路工事のおじさんの格好とか、そんなのマンハッタンの街角で見飽きてるし、あえて舞台で見たくない。

しかし、二幕は本当に綺麗。これですよ、これ。怪しいサーカスの世界!

インナー・チューブという、浮き輪のようなゴムのチューブをつかって、
飛び上がったり下がったりしながら現れた北の国の住人たち(冒頭の写真)。
衣装がまた美しい。

さらに、cyr wheel(読み方がわからない)と呼ばれる、身長ほどあるわっかに、
両手と両足で大の字に人間が入ったものが、くるくると回転。


しかし、今日のパフォーマーの中でもハイライトといえたのが、
謎の女シャーマンとも、つーかーの仲の、北国の美少女、フラフープ・ガール。



この女性、メークが濃くて年齢不詳なのですが、かなりの美少女なうえ、
体操およびバレエのきちんとした教育も受けているに違いない、と思わせる、
ものすごく端正な技を披露。サーカスの技なのに、あまりに美しいので芸術の域に達しています。
足のつま先だけでフープを操ったかと思えば、胴体で3本のフープを操作
(まるで、首、胸、お尻が別々に回転しているみたい)。
この怪しさに、観客はすっかり魅了されました。
彼女が出てきて、一気に舞台がしまった感じがしたほど。

やがて、巨大な雪男(あやつり人形 ア・ラ・ジュリー・テイモア)が登場し、北国の住人へ攻撃をしかけます。
そこで、あの、謎のホームレス、シャーマンが、魔力を発揮して雪男と対峙。
やがて、雪男はシャーマンの力に崩れ落ちます。
そして訪れる沈黙。

その中を二人の天使のような女性がアエリアル・ストラップスと言って、
天井から吊り下げられたストラップを使いながら、空中でアクロバティックなダンスを披露。
二人のうち、片方は白人の女性、もう一人はアジア系と思しき女性。
このアジア系の女性の顔が、白人の女性の1.5倍くらいあって、同じアジア人として悲しかった。
しかも、この白人の女性の踊りの優雅なこと。ものすごいためがあって動きが優雅なのに、
やや踊りがつたないアジア系の女性に合わせてタイミングまで調整しているのがすごいと思いました。
こういうシンクロナイズされた動きを二人でする場合、いやがおうでも個々の力量が出てしまって、本当に残酷だと思います。
ちょっとした足を曲げる角度、腕を広げるタイミング、そうしたことが全体の踊りの印象をものすごく変えてしまう。
芸の世界とはかくも厳しい。

そして、ロシアン・バーと言われる、材質は何でできているのかわからないのですが、
ジャンプの着地のショックを少したわむことによって吸収できる棒のうえで、
アクロバティックなジャンプを決めまくる3人のジャンパーたちが登場。
空中にいる間に、それこそ体操の床競技で見られるような複雑なアエリアルを見せるので、
またしても、同じ人間とは思えない、と深いため息。
しかし、天井がこんなに近いのに、思い切りよく天井を最大限に使ったジャンプを見せるこの心意気もすごい。
私は、いつライティングのセットに足がひっかかってバランスを失うのでは?とはらはらしましたが、
もう、体にそういった距離感も記憶されているのでしょう。一回もそういうことはありませんでした。
次々と決まるアクロバティックジャンプの最後に、例のシャドー・ガールが出てきて、
ものすごいためのあと(この女の子、ものすごくかわいくて、舞台上の存在感もなかなか。)、
ちょろんとバレエのトゥー・シューズでバー上で0.5秒くらい立った後、地面に降りてごあいさつ。。
数々のスーパージャンプの後なので、”それだけかいっ?”と思わせるが、ここは多分、笑っていいんだと思います。

途中途中で、”こういうの見せてもらって楽しいんだけどさあー、いつボクは雪を見れるのさ?”と、
シャーマンを問い詰めていたうざいジェイミーが、ついに黙る瞬間が。

”あ、雪だ!!!”(←ジェイミー)

おびただしい数の、紙でできた雪が舞台に最初にふりしきったと思ったら、
しばらくして、なんと会場の客席にも雪が。
凄い量の雪に、本当の雪の時のように目が開けられないくらい。
それこそ30秒くらい降り続いていたかもしれません。
みんなの肩や髪やバッグにごっそり紙の雪が。
それも、全客席ですよ!!!!
これ、劇場の掃除係の人、泣いてると思います。

その雪の中、物語はフィナーレ。

最後の雪降りと、一部のパフォーマンスは多いに楽しませてもらいましたが、
少しいつものダークな雰囲気にかけたのと(特に前半)、ストーリーラインがちょっと中途半端かつ子供っぽかった。
ちなみに会場にたくさんいた子供たちは大喜びでした。
パフォーマンスはいいのだけど、プレゼンの仕方にもう一息工夫がほしい感じです。

以前の作品のもうちょっと大人っぽい怪しげな雰囲気が好みの私としては、やや食い足りない気分があり、
しかたないので、その食いたりない気分を、
劇場そばのコリアン・タウンでしこたま韓国料理を食べて埋め合わせたのでした。

週明けの月曜の朝、くだんの同僚の女性も、ちょっと以前の大人っぽい感じがなくなっていて残念、と言ってました。
これなら、うちの娘(1歳)も連れて行けたわ!とお冠でした。

Section 201 Raw D
Madison Square Garden WaMu Theater

***シルク・ド・ソレイユ ウィンタック Cirque du Soleil Wintuk***

LE NOZZE DI FIGARO (Sat Mtn, Nov 10, 2007)

2007-11-10 | メトロポリタン・オペラ
10/13に観たAキャストの『フィガロの結婚』が、私の予想と怖れを半端なくくつがえして、
素晴らしいアンサンブルを聴けたうえに、ドラマとしての仕上がりがまた優れていた。
AキャストとBキャストという言葉をただ時系列的に使っている私ですが、
なかには、いわゆる有名キャストをAキャスト、二軍キャストをBキャストと呼ぶ人もいて、
そんな方からいわせれば、こちらがAキャストか?と思うくらいスター歌手を集めたのが今日のフィガロ。

フィガロにブリン・ターフェル、伯爵にサイモン・キーンリサイド、
スザンナに昨シーズンの『リゴレット』でとんでもない美声を駆使して
素晴らしいジルダを聴かせてくれた若手、エカテリーナ・シウリーナ、
そして伯爵夫人にアニヤ・ハルテロスという布陣。

おおいに前回の公演との聴き比べが楽しみ。今日も東京からのお友達yol嬢と鑑賞です。

まず、ブリン・ターフェルのフィガロ。
うーん。まず、見た目がでかくておっさんくさい。
これだけで、前回のシュロットとは全然役のイメージが違う。
その上にものすごく声量があるので、なんだかわーわーうるさい召使、という印象。
この役に関しては、すこし彼の声量と歌い口がマイナスに作用しているのかな、という気がしました。
意味もなく突然にクレッシェンドして、ものすごい声量で観客を圧倒して拍手をもらったりしているんですが、
ではいったい、それは何ゆえのクレッシェンド?と思わされる。
全然ドラマに寄り添っていない、技巧だけが先走りしたクレッシェンド。
私はそういうドラマと関係ない技巧は、無視するだけでは飽き足らず、
減点!と感じてしまうゆえ。
それから、一幕の、”もし殿様も踊りなさるなら Se vuol ballare”。
印象的に歌詞の中に何度も出てくる、si、この言葉が、全滅でした。
全部、音が外れていた。
いや、アリアそのもののみならず、後にこの曲からの一フレーズだけが出てくる後の場面でも、そのsiをしくじっていた。
低音から高音に大幅にひととびであがるときに、その高音の音程が不安定になる傾向があるように思いました。
それから演技。なんだか、アントニオを蹴飛ばしたり、動きが派手で下品。
前回の公演でのシュロットは一切そういったことをしなかったので、
これはターフェル発案のものと思われるが、いくら笑いが出るからといっても、
何度も酔っ払いの召使を蹴飛ばすなんて、一体フィガロもどういう性格をしているんだろう?と、品性をうたがってしまう。
実力はある歌手なので、めりはりをつけたりしているところはさすがなんですが、
そのめりはりのでっぱった部分の方にはものすごくエネルギーを使っているけれど、
細部に配慮を欠いた大味な歌唱と演技が私は気になりました。
シュロットの気品のあるフィガロがすでになつかしい。。

キーンリサイドの伯爵。
この人の舞台姿は尋常じゃないくらい艶やか。ものすごい美男子に見えます。
スタイルもすらーっとしているし。
声も、ある音域ではこれまた尋常じゃないくらいの美声なんですが、
ただ少し気になったのは、こうやって全幕を通して聴いてみると、やや、弱い声域があること。
特に低音に関してはほとんど聴こえない箇所もあって、
魅力的な音が出る声域があまりに素晴らしいので、その対比で気になってしまう。
また、全部通しでがんがん押し通せるような声質ではないようで、少しセーブしている場面もありました。
そういうペース配分は必要、かつ大切なことだとは思うのですが、
少しあからさま過ぎるかもしれません。
また、ターフェルに感化されたか、もともと彼の好みなのか、
伯爵も、フィガロにとび蹴りを食らわしたり、まるでメトの舞台上をプロレス会場のように暴れまくる。
美しい御姿+繊細な声+とび蹴り??
どうしても、私にはこれらの要素がうまく一つに溶け合っているようには見えなかった。
いっそ、姿と声がああなのだから、エレガントな伯爵で押し通してもよかったのでは?
ただ、演技のタイミングに関しては絶妙なセンスをもっているし、体の使い方も適切。
ここでも、思いうかべたのはペルトゥージの伯爵。
私がペルトゥージの伯爵の方が好きな理由は、
1)見た目、ペルトゥージも決して悪くない(いや、オペラ歌手にしてはどちらかというと見栄えがいい方)のに、
どこか、キーンリサイドほど極められずに、自然と出てくる間抜けな雰囲気があって、そこが伯爵にぴったり。
2)キーンリサイドがどのシーンも自分が率先してのめりこんでいる雰囲気なのに対し、
ペルトゥージのそれは、どこかすねた態度と引いた感じがあって、貴族連の倦怠感というものを見事に表現していた。
で、そんなお暇な人たちだから、他人の嫁にちょっかいを出そうというような気になるわけで、
キーンリサイド、そんなに何事にも夢中になってしまうのは、私たちのような一般ピープルのすることだと思います。
見た目は貴族っぽいのに、やってることが貴族らしくない!
3)声があとからあとからあふれ出てくる感じで、しかもどの声域も均等な響きで、
聴いていて全く危なげがないので、歌唱をとびこえて、観客を話にひきずりこんでしまう強さがある。
4)演技に大技は一切なし。すべて地道な演技でまるで積み木をつんでいくように伯爵像を構築していく。

ただ、私の友人のyol嬢は、キーンリサイド伯爵に身も心もメロメロだったので、
これはもう好みの問題のレベルに達しているのかもしれません。
(といっても、彼女はペルトゥージ伯爵は見てませんので、比較をしたわけではありませんが。)
私はペルトゥージに一票。




女性陣。シウリーナのスザンナ。
貫禄の歌唱を見せてくれたし、演技もこなれている。
ただし、このスザンナの役は、彼女の声の美点を示すに最も適した役とはいいがたいかもしれません。
彼女の声が最も美しく聴こえるのは、素直に出たときの高音。
彼女の声を聴いていると、むしろ超高音の方が本人は楽に発声できているように錯覚するほどです。
で、この役は、彼女の美声が聴ける少し下の部分で勝負しなければならないうえに、
どこか発声にスザンナ・モードとも呼びたくなる、妙なスタイル、
すこしおどけたような声の響きがあって、それが逆に彼女の美声を殺す結果になっている。
かろうじて、”恋人よ早くここへ Deh vieni, non tardar o gioia bella”で、
彼女の本来の美声の片鱗が見られるものの、それ以外のシーンでは、全くそのせっかくの美声を披露できずじまい(というか、披露できる場所がない)。
この役で彼女の評価が決まってしまわないことを祈ります。

伯爵夫人のハルテロス。
この方、初めて聴いたのですが、すでに人気なのか、すごい拍手喝采でした。



見た目がすらーっと細くて長身で、美人だし、
声にも少し冷たい感じがあって、伯爵夫人にぴったりといえばぴったりなんですが、
だが、しかし、クライテリアがあえばそれでOKかといえば、そうでないところが、
こういった舞台芸術の面白さ。
私はなぜだか知らないけれど、全くそういった意味ではいわゆる伯爵夫人らしくない、
前回のホンさんの伯爵夫人が恋しい。
ホンさん演じる伯爵夫人は子供が大好きで、のほほんとしていて、
私だったら絶対に許さないであろうだんなの浮気(未遂に終わったが)を最後には
許してしまうのも、彼女であれば、さもありなん、という雰囲気があった。
歌唱の面ではハルテロスの方が完成度が高かったかもしれないが、
ホンさんの伯爵夫人は大変魅力的だったなー、と今さらながら実感。
ハルテロスの声は、高音にほとんど硬いとでも形容したくなる響きがあって、
それが魅力にも欠点にもなりそう(役次第か?)
この伯爵夫人の役の場合には、長所にころんだと思います。

知名度では彼らに負けても、舞台上で私が一番魅力的だと思ったのは、
ケルビーノ役のケイト・リンゼー。
リンデマン・プログラム出身の若手。



思春期の、性への好奇心旺盛な男の子が持つ雰囲気から体の使い方まで、
ものすごくよく研究し、再現していたと思います。
彼女を見ていると、なんだか中学生時代にこういう雰囲気の
ちょっと女の子から素敵!と目を引くタイプの男の子っていたわ!と思いました。
彼女の歌う、”恋とはどんなものかしら Voi che sapete"がまた声が伸びやかで、素晴らしかった。
観客が水をうったように静かになったのもこのアリアの時。
こんなに素敵なケルビーノははじめて。
ケルビーノに関しては、彼女に軍配をあげたいと思います。
今年はこの後、12月のロミ・ジュリでステファーノを歌うそうで、俄然観たくなった。

他、目立ったのは、ドン・バジリオ。
前回とは違って、今回この役を歌ったフェダリーは、
まるで宦官かドラッグ・クイーンのようなバジリオ像を作りあげ、すごいインパクト。
下手すると嫌味になってしまうところを、芸達者さとしっかりした声で支えて、
見事に特異なキャラに仕上げてしまっていました。

と、このように一人一人の歌手はものすごく健闘していたのですが、全体としては私は前回の公演をとりたい。

それはなぜかということを考えたとき、最大の理由は、今回のこの公演があまりに
ドタバタに終始しすぎたこと。
それに比べて、前回の公演の底流を流れるそこはかとない上品さが私は恋しい。
以前にも書いたと思いますが、この作品は台本がすでに、どこにも隙がないほど素晴らしいので、
ドタバタすればするほど、観客がしらけてしまうのです。

特に私ががっかりしたのが、このオペラの中でも最も美しいシーンである、
フィガロが、伯爵夫人の格好をした女性が実はスザンナであることを見抜きながら、
そしらぬ振りしてあたかも伯爵夫人を誘惑しようとしているような振りをし、
ついにお冠になったスザンナが正体を現したところへ、
”君だとずっとわかっていたんだよ!”と受けとめて、二重唱になだれこむ部分
(”仲直りだ、私の甘い宝 Pace pace mio dolce tesoro”)。
ここで、今日の公演では、スザンナがフィガロにびんたをはり、もんどりうつフィガロ。
動きが大きすぎて、観客がそっちに気を取られて、ほろっとすることも忘れてしまう。
前回の公演で、フィガロの胸をこぶしでたたきながら近寄るスザンナを、
笑いながらそっと抱き寄せるフィガロ(しかもターフェルとは違って男前なシュロット)を観て、
思わず胸がきゅんとなったのとは大違い。

せっかく実力のある歌手が揃っているのですから、ドタバタは無用。
各人の演技に再考を促したい。

Bryn Terfel (Figaro)
Ekaterina Siurina (Susanna)
Anja Harteros (Countess Almaviva)
Simon Keenlyside (Count Almaviva)
Kate Lindsey (Cherubino)
Maurizio Muraro (Don Bartolo)
Greg Fedderly (Don Basilio)
Marie McLaughlin (Marcellina)
Patrick Carfizzi (Antonio)
Anne-Carolyn Bird (Barbarina)
Tony Stevenson (Don Curzio)
Conductor: Philippe Jordan
Production: Jonathan Miller
Grand Tier D Odd
OFF

***モーツァルト フィガロの結婚 Mozart Le Nozze di Figaro***

LA TRAVIATA (Wed, Nov 7, 2007)

2007-11-07 | メトロポリタン・オペラ
かなり以前から役の準備をしているという噂だったうえに、
昨年のメトの来日公演でわりといい評判だったと聞いていたフレミングが歌う『椿姫』のヴィオレッタ。

オペラの公演においては、声質と歌唱技術からある程度結果が想像できる場合と、
意外にもそんな予想をくつがえして素晴らしい歌唱を聴かせてくれる場合とがまれにあります。
正直、ヴィオレッタにフレミングはどうなんだろう?と思うところもありましたが、
偏見を捨て、真っ白な心で公演に向かう。

彼女が一幕で登場するなり、観客からすごい拍手。。。



そして、私の公演後の感想。こんな退屈な『椿姫』、はじめて見ました。

フレミングに関しては、悪い意味で結果が想像通りになったとしかいいようがありません。

思うに、現代のオペラ歌唱に関しては、大きくわけて4つのエレメントがあると思います。

1)声質
役に必要な声の質を持っているか。これは単なるソプラノかメゾソプラノか、ということではなく、役に必要な声の質。
同じソプラノでも、マクベス夫人を歌うのに必要なドラマティックな声と、この『椿姫』のヴィオレッタに必要な軽い声とは全く異質であるように。

2)その固有の役に必要なテクニック
コロラトゥーラの技術やディクション(言語の発音、扱い方)など。

3)ドラマを再現する能力
演技力、また声のカラーの使い方。当然ながら1や2と切り離して考えることは難しい。

4)ルックス
3に含むこともできるかも知れませんが、1や2と相関性がないので、あえて個別のカテゴリーにしました。
DVDなどが普及するにつれ、この4の比重が突然高まった。

で、ルネ・フレミングですが、こと『椿姫』のヴィオレッタ役に関しては、
はっきり言って、4しか備えてません。
かろうじて、3が少し。。それでも、1や2が欠けているので、完全な意味では3を備えているとは言いがたい。

声質とテクニック、両方かけているのに、なぜこの役を歌おうとするのか。
私ははっきり言って怒りすら覚えています。
なぜならば、彼女ほどのスターでなく、美人でもないソプラノの中に、
山ほど1と2を兼ね備え、日々、技術の研鑽に励んでいる歌手たちがいるのです。
で、私は彼女たちのキャリアだけを考えて怒るほど、お人よしではなく、怒っているのにはもう一つ大きな理由が。
それは、すなわち、彼女のようなこの役に不可欠な要素を備えていない歌手の歌に観客が付き合うということは、
その作品そのものの真価を味わう可能性は絶たれたに等しいからです。
つまり、これは最終的に観客にかえってくる問題なのです。

まず、テクニックの問題。
ばっさり言ってしまいましょう。この役は、コロラトゥーラの技術がないソプラノは歌うべきでない。



一幕のヴィオレッタ、最大の見せ所、”ああ、そはかの人か~花から花へ”。
コロラトゥーラをイメージするには、粗データが点々で示されたX軸とY軸からなる図表を思い出していただきたい。
コロラトゥーラとは、この一点一点のデータ(音符)をいかに落とすことなく、
完全な音でスムーズにならすか、という技術です。
しかし、フレミングのこのアリアでの歌唱は、まるで、それらの点々の平均値、
またはランダムに選んだ一部の点だけを放物線で結んだようなあいまいさ。
ようは一個一個の音符の音をしっかり出すかわりに、なんとなくそれっぽい旋律を歌っているだけなのです。
勝手に平均値にして歌わないでほしい。

また、彼女の声質は、声域によってはほとんど黒人のゴスペル歌手をも思わせるようなダークな、
クリーミーな響きがあり、発声方法も独特で、特に高音では素直に音が前に出てこず、
あわわわわ、というような前振りが発声の前にあります。
で、ダーク&クリーミー、これは役によっては決して悪い資質ではないのですが、
こと、ヴィオレッタの役に関しては最悪です。
なぜならば、ヴェルディはそんな声を前提にして、この役を書いていないから。

たとえば、第二幕第二場。
アルフレードが札束をヴィオレッタにたたきつけた後の、幕の最後の合唱のシーン。



ここは、ヴィオレッタに合う声質をもったソプラノが舞台にのっていれば、
大音響の合唱とオケの中に混じって、ソプラノの旋律が立ちあがってくるところ。
合唱(夜会の参加者)の歌のうえに、一人ことの真実(つまり、アルフレードを愛しているからこそ、
彼の未来を思って嘘をついてまでも彼と別れようとしていること)を胸にしまっているヴィオレッタの心の叫びが奏でられる。
(まあ、ジェルモンも真実を知っているわけで、だからジェルモンの旋律もきちんと聞こえなければなりません。)
だからこそ、このシーンはせつなくて泣けてくるのです。
なのに、フレミングの声にはそういった性質がいっさい欠けているので、
完全に響きがオケと合唱に立ち消されて何にも聴こえない。
ヴィオレッタは、今、何を思っているの?と両肩をつかんでただしたいくらい。

こんな感じでいくらでも、例はあげられるのですが、
そのうえに極めつけなのは、そこここでものすごくエキセントリックな、つまり、風変わりな歌い方をすること。
節回し、声色を含め。
この公演を一緒に観にいった私の友人yol嬢は、最近(しかしものすごい勢いで)オペラにはまりはじめたのですが、
”なんか独特の歌い癖があるよね”と指摘。
私が思うには、このエキセントリックな歌い方は、
自分の声質と役との不合致と足りない技術をごまかすために練り上げられたもの。

一旦、その役を、声質および技術的にマスターしたうえで、
表現の一選択としてあえてエキセントリックな歌い方をするならまだしも、
欠点を隠すためにそんな歌い方をするとは、大歌手のすることじゃない。
それがどこか見えてしまうので、観ている観客側の一部もその歌い方を不愉快に感じてしまう。

というわけで、本来、この作品にあった声とテクニックを持った人が歌ったならば、
無理に声をはりあげたり、エキセントリックな歌い方をして強調しようとしなくても、
自然にこの話の悲劇性は浮き上がってくるのですが、
例にあげたとおりの理由で、浮き上がってくるべきドラマが浮き上がってこないので、
こんな公演で、私は心を動かされることは決してないし、退屈のきわみなのでした。

今まで『椿姫』は山と観てますが、仮にコロラトゥーラの技術の失敗を一点おかしたとて、
この公演よりは何倍もの感動を味わったものです。
例えば昨シーズンのストヤノーヴァがヴィオレッタを歌った公演
彼女が”花から花へ”の最後を微妙にしくじった時、いかに悔しそうな表情をしていたことか。
(しかし、この一点以外は完璧といえるすさまじい歌唱。)
こういった、他のソプラノの、たった一音にかける執念をみて、
私がルネ・フレミングと彼らの歌唱を同じレベルで比較する気にもなれないという、
この気持ちがわからない方はわからなくて結構、ただ黙って私を怒らせてください。

観客の中にははじめて『椿姫』を観る人もいるわけですから、
ああ、これはこういう作品なんだ、と納得してしまっても、決して観客のせいではない。
ですから、お願いです。
誰か、フレミングの周りの人でも、メトの上層部でも誰でもいいので、
一言、彼女にこの役を、徹底的に歌を練り直さない限り、歌わないように進言してほしい。
こんな公演は、私にいわせれば、『椿姫』ではありません。
有名歌手の思いつきにつきあわされた周りのキャスト、公演に関わった全ての人々、そして観客がかわいそう。
きっと、Bキャストのルース・アン(・スウェンソン)姉さんの方が、
本来のヴィオレッタに近い歌唱を聴かせてくれることでしょう。
今年の『椿姫』は、フレミングだけ聴きにいくつもりでしたが、これではあまりに後味が悪いので、
私もルース・アン姉さんの公演をどれか聴きにいこうと思います。

言っておきますが、私はフレミングが嫌いなわけではない。
2月のオネーギンでの彼女は良いと思ったし、
彼女が高いレベルで歌える役はいくつか挙げることもできます。
あの、スモーキーな声も、役によっては魅力的だとすら思います。
しかし、だからこそ、今回、ヴィオレッタを歌ったことに納得ができないのです。

今回こういった事情があって、この作品はヴィオレッタがよくないとお話にならない、ということを改めて認識した次第。

アルフレードを歌ったポレンザーニは頑張ってはいたのですが、沈没する大型船を一本の縄でひっぱるようなもの。
どんなに素晴らしいアルフレードだったとしても、この公演の全体の印象を払拭することは不可能だったでしょう。
頑張って歌っているのに、なんて不憫な。。



クロフトは、本調子ではなかったか、どの高音も、延ばしてほしい長さより、どれも短めで、
息が足りなくて苦しがってるような歌い方。

ひたすら、一日も早くメトに本当のヴィオレッタが帰ってきてくれることを祈っております。


Renee Fleming (Violetta Valery)
Matthew Polenzani (Alfredo Germont)
Dwayne Croft (Giorio Germont)
Kathryn Day (Annina)
Leann Sandel-Pantaleo (Flora Bervoix)
Louis Otey (The Marquis d'Obigny)
John Hancock (Baron Douphol)
Conductor: Marco Armiliato
Production: Franco Zeffirelli
Grand Tier B Odd
ON

***ヴェルディ 椿姫 ラ・トラヴィアータ Verdi La Traviata***

AIDA (Mon, Nov 5, 2007)

2007-11-05 | メトロポリタン・オペラ
今日も3日の『マクベス』で一緒だった東京時代の元同僚/お友達と共に4人で鑑賞。
お友達の3人は、『アイーダ』を初めて鑑賞するということで、
私としては今日がぜひ素晴らしい公演になってほしい!と祈るばかり。
特に昨日のタッカー・ガラの最後の演目として演奏された凱旋の場がエキサイティングだったこともあり、
彼女達の期待も大きいのです。大野さん、ひとつよろしくお願いします。

なのに。ああ、なのに。
大野氏、また重いです。というか、これ以上ないくらいの、このオケに鉛がついたような進みっぷりはどうなのか?
テンポが遅いということもありますが、しかし、テンポが遅くてもいきいきと演奏することは可能であるのに、
音楽がどよんと白目を向いて瀕死状態に入ってます。
やばい。これじゃ初めて観る人はつまらない!

アイーダの全ての公演で出演が予定されていたベルティ、
いつの間にかそんなスケジュールはなかったようにされてしまっていて、
先週からは、フランコ・ファリーナがラダメス役を歌っています。
ファリーナに関しては、キャリアも割りと長いし、無難には歌ってくれるのですが、
今ひとつスリルに欠けるというのか、ある線をいつまでも越えられないようなイメージがあったのですが、
先週のラジオ放送で聴いて愕然としたのは、それに加えて、以前にはそれほど顕著に見られなかった
スクーピング(=最初からその音にアタックしないで微妙なずりあげを行う意の私と私の友人の造語)がはなはだしくなっていたこと。
聴いていて耳障りなレベルにまで達していました。
今日も特に一幕の前半で、そのスクーピングが観られ、頭をかきむしりたい衝動にかられたのでした。

ブラウンはあいかわらずの大根ぶりを炸裂させて、初めて登場するシーンなど、
アムネリスのいる前で、ラダメスににかーっと歯を見せて微笑むのはどうかと思う。
ブラウンは黒人なので、笑ったときの歯の白さが私の座っている座席からでもものすごく目立つのです。
そこは、秘めた恋がラダメスを一瞬目にしたことでほんの少しゆるんでしまう、
そんな微妙さを表現しなければならないのに、これじゃアムネリスにばればれ。
しかし、何度もいうようですが、彼女の声質は、私、嫌いでない。
とにかくどの音域で歌っても響きがみずみずしくて、清澄な水を思わせる。
願わくは、もう少し言葉への深い解釈と、言葉の意味を表現するための音色の探求というのを究めていってほしいです。
時に響きにながれて言葉がうわすべりしているように聴こえるのと、
言葉と音の統合が有機的でない、つまり、ある感情を言葉にのせるのに、
それを上手く音色で表現しきれていない部分があるように感じます。
彼女を聴いていると、せっかく素質があるのに、それを充分活かしきれていないようなじれったさがあります。

アムネリスのディンティーノ。



ガラに続いて、彼女の大進化を確信しました。
とにかく、中音域から低音域にかけて、他のメゾでなかなか聴けない彼女独特の、
暗い、かといって、ロシアなどのそれとは違う、あくまでイタリア的な暗さと、
豊かな響きを有しているのが、大変好ましい。
ガラの記事の中でも書いたとおり、少し高音が浅く聴こえるのが今後の彼女の課題といえるのでしょうが、
中・低音域で聴ける声の豊かさは、逆に大きな財産となっているはず。
また、彼女のルックスとキャラクターもヴェルディ・メゾ向き。
黒目勝ちな瞳と、黒髪に、どこかいつも不機嫌そう、かつ寂しそうな雰囲気をたたえていて、
アムネリス、エボリみたいなキャラクターにとても合っているのです。
(上の写真では微笑んでますが。)

一幕の後半あたりから、急にファリーナのずりあげが姿を消し、
以前に彼が歌っていたような豊かな響きで、しかも発声の最初から的確な音をヒットしはじめたのには安心。
今日は調子がよかったようで、その後はずっと安定した歌を聴かせてくれていました。
ただし、彼の歌にはスリルがないのが最大の難点。
どこか、職業歌手、というのか、出てきて歌うのはお仕事です、という雰囲気が漂っている。
確かにそうなのだけれども、歌手はまた芸術家でもあるはず。
もう少し、自分の役についての何かを表現する、という積極的な意図を見せてほしいです。

とにかく、一回目のインターミッションまでは、大野氏の死ぬほどじれったい指揮に幻滅。
今まで聴いた彼の指揮の中でも、最も魅力にかける一幕でした。

ニ幕目。ここはなんとしてもがんばってもらわなくては。
とくに凱旋の場。
出足は、瀕死寸前、鉛のおもりつきのオケに一瞬光が射したように思ったのですが、
なんと、バレエのシーンで、女性ダンサーが転倒。
後で友人に聞いたところでは他のダンサーと足がひっかかったとのことでしたが、
私はその瞬間を見逃したため、気がついたら、ばったーん!というものすごい音とともに、
女性が車に轢かれたかえるのような格好で舞台にひっくり返っていました。
しかも、相当痛かったのか、ささっと立ち上がることもせず、
運動会でころんだ子供がべそをかいて立ち上がるかのように、のろのろのろのろ。
すみません、こと舞台上のことに関しては、情の微塵もない私なので、はっきり言わせていただくと、
あんな不恰好なこけ方をした後は、せめてせめて、できるだけ早く立ち上がろうという気概だけは見せてほしかった。
『アイーダ』のたった一つの公演とはいえ、それに関わっている人間の数を考えてほしい。
いや、彼女がいる舞台だけをとってもおびただしい数のエキストラ、合唱、ダンサー、
そしてソリストの歌手達。
彼らの努力が結集して出来上がっているのがこのシーン、それを台無しにするということがどういうことか。。
こけたすぐ後に幸いにも彼女の属しているグループが一度はける機会があったのですが、
次に戻ったときには彼女はおらず、そのグループは一人かけたままで踊り続けました。
よって、男性ダンサーのなかに、女性のパートナーなしで、一人で踊っている人がいました。
この珍しい出来事(メトで『アイーダ』は何度となく観てますが、こんな出来事は初めて。)があった後、
オケは舞台上の出来事が見えないのでそれほど演奏に変化がなかったのですが、
舞台にのっていて一部始終を目にしていた合唱のメンバーを中心に、一瞬にして、気の流れが変わってしまい、
やっと上向きかけたかと思われた演奏がまたもやボルテージダウン。
大野氏の指揮も、凱旋の場の華々しさを充分に伝えるものとはなっていませんでした。

ただし、今シーズン、これまで、Dobberのどうしようもなさはともかく、ポンスまで調子を崩してしまって、
アモナズロ役がどの公演もものたりないものになってしまっていたのですが、
その中では繰り上がり式に、今日のデラヴァンが一番良いという皮肉な結果に。
彼の歌は超一級ではないにしても、若々しさとエチオピア王としての気性の荒さはかろうじて表現しえていたと思います。

二度目のインターミッション中に、友人達と大野氏の指揮について熱く語らった後、
いよいよ第三幕へ。

大野氏は、どうやら、三幕以降の方が得意なのかな、という気がします。
ただ、今日の演奏に関しては大野氏のみならず、オケにも責任があるように感じました。
三幕以降、比較的集中力をとりもどして、
大野氏が一生懸命ひっぱろうとしているにもかかわらず、あちこちの楽器からミスが続発。
しかも、お互いに合わせる気もさらさらありません、といった風で、
同じ楽器でも入りのタイミングが違ったり、と、ことごとくまとまりに欠いていました。
ここまでオケの演奏がひどい日というのは滅多にありません。

しかし、四幕第一場。
もう今日はこの場を観れただけで、私はこの公演に出向いた甲斐があった、と思ってます。
ディンティーノのアムネリスのそれは素晴らしかったこと!!
私がこの四幕第一場でここまで手に汗握る思いで舞台を見つめたのは、ザジックが彼女の絶頂期にアムネリスを歌ったとき以来。
しかも、先にすでに述べたように、高音域での声の冷たい刺すような響きでは、
ザジックの方が一歩も二歩も上。
しかし、それにもかかわらず、ディンティーノのアムネリスには観客が目を離せないいわれがたい魅力があるのです。
裁判のシーンに入る箇所で多用される、中から低音域にかけての彼女の声に備わった、その地べたを這うような迫力。
渾身の力で歌うようなフレーズでないところにこそ、彼女の持ち味が発揮され、
アムネリスの嫉妬と恋から生まれる葛藤がとぐろを巻いている、そのただ中に我々観客は放り込まれるような気がするほど。
以前私が彼女を生で観たときには聴けなかった、歌唱にこもった気迫に本当に圧倒されました。
それでいて、そこはかとない悲しみが底流となって、場を通して流れているのが、なんともせつなく。。
いつからこんな繊細さを歌いこめるようになったのでしょう!

90年代に生で彼女を観て以来、メトではあんまり名前を聞かなかったのですが、
しばらく観ないうちに、感情の機微とひだを歌にのせて表現できる素晴らしいメゾに成長していました。

次回、どのヴェルディ・メゾの役でメトに登場してくれるのか?
次に聴けるのが非常に楽しみな歌手の一人となりました。

Angela M. Brown (Aida)
Luciana D'Intino (Amneris)
Franco Farina (Radames)
Mark Delavan (Amonasro)
Vitalij Kowaljow (Ramfis)
Reinhard Hagen (The King)
Jennifer Check (A Priestess)
Conductor: Kazushi Ono
Production: Sonja Frisell
Dr Circ B Even
ON

***ヴェルディ アイーダ Verdi Aida*

2007 RICHARD TUCKER GALA 後編 (Sun, Nov 4, 2007)

2007-11-04 | 演奏会・リサイタル
前編から続く>

 グレギーナによる、『運命の力』から”神よ、平和を与えたまえ”。
昨日の『マクベス』でも調子があがっているように感じましたが、
そのままその調子を引き継いで、最近の彼女にしてはなかなかよい出来ばえ。
最初の、”Pace~”、時にうがいをしているような声になることがある彼女ですが、
今日は綺麗な音をだしてくれてました。
その後も、声の重さもこの曲にマッチしていて大変好感触だったのですが、
終盤近くのピアニッシモの高音がきつかった。ここが聴かせどころのひとつなのにな。。
最後はフルボリュームできめてくれましたが、彼女にはピアニッシモでの高音がずっと課題になっているような気がします。

 ルネ・フレミングとディドナートのペアで、『コジ・ファン・トゥッテ』から、
二重唱”ああ、妹よ、ご覧”。
以前申し上げたとおり、私のモーツァルト好きな作品リストでどんじりあたりをウロウロしているコジ。
しかし、きっとこういうコンビで観ると、コジもランクアップするんだろうな、と思わされました。
この二人、見た目の雰囲気も姉妹にぴったりで、ルネ・フレミングは私は必ずしも好きな声ではないのだけど、
モーツァルトを歌う彼女は許容範囲。
ディドナートは相変わらず素晴らしく、何を歌わせても達者。
メトが今度コジを上演するときは、この二人なら見てみたい。

ブリン・ターフェルが歌う予定だった『ファルスタッフ』からの”名誉だと!この泥棒めが!”に代わり、
なんとドバーによる『リゴレット』から”悪魔め、鬼め”。
急なキャストの変更があいついだせいで、配布されたプログラムでは、彼が何を歌うのか記述がなく、
歌いはじめるまで想像もつかなかったのですが、オケから短い導入部分が聴こえた途端、
私は軽いめまいをおこしそうになりました。
テ・デウムであんなことになったのに、まだ懲りないのか、この人は。
”悪魔め、鬼め”なんて、あなた、本当に歌えるの!?
しかし!!なんと、これが思ったよりも意外とよい。
というか、汗まみれになって一生懸命歌っていて、のろまなアモナズロとは雲泥の差の力の入りよう。
声もしっかり出ているし、Dobber、歌えるんじゃないの。
こんなやる気のある彼をはじめて見た。
しかも、宮廷のまわりの人間に懇願するところなんて、なかなか泣かせる。
もちろん超一級品かと言われると答えに躊躇するのだけど、これだけ気合のこもった歌を披露してくれればまず満足。
最後に意地を見せたDobberなのでした。

ダムローによるレナード・バーンスタインの作品『キャンディード』から、”着飾って、きらびやかに”。
この作品、オペレッタに分類されているようですが、ミュージカルといってもおかしくない曲。
彼女の英語の操作能力はたいへん優れていて、アメリカ人が歌っていると言われても(彼女はドイツ人)、
そうですか、と納得するほど。
しかも、私が彼女を今ひとつ好きになれない理由である、鋭い声の響きが、
このクネゴンデという役の、
神経症一歩手前ではないかと思われる人物像に非常にマッチしていて、
間違うと耳障りな響きになる彼女の声質が逆に長所になっている。
しかも、くるくると変わる表情、歌声のコマンドが素晴らしく、
この歌はまさに彼女のためにあると言ってよいくらい。
他愛無い歌詞でありながら、技巧を試される箇所も多く、ひとつ間違うと手に余る、ということにもなりかねませんが、
この役のキャラクターの特殊性、必要な技術をすべてクリアしたうえに、
何よりも観客を笑わせる間のとり方の上手さ、演技の上手さ。
こんなに歌える人が、なぜ先の二重唱ではあんな不本意な出来だったのか理解に苦しみますが、
彼女はもしかするとスタンダードなオペラのレパートリーよりも、
こういった作品での方が輝くタイプなのかもしれません。
この歌では観客をとことん魅了してくれました。
(冒頭の写真は、このアリアを歌うダムロー。)

 ルネ・フレミングによる、『アドリアーナ・ルクヴルール』より”あわれな花”。
先のダムローの『キャンディード』からのアリアへの観客の熱狂ぶりに、
”誰がこんな後に歌えると思います?”と冗談を言ってから歌いはじめたフレミング。
不幸なことに、選曲もいまいちだったかも知れません。
せっかく『キャンディード』で楽しく盛り上がったというのに、この陰鬱なアリア。盛り下げないでほしい。
しかも、特に彼女の声を生かしきった選曲とも思えず、
一体どういう理由でこのアリアを選んだのか疑問符が頭の中に20個くらい並びました。

 いよいよトリの『アイーダ』凱旋の場からの抜粋。
グレギーナのアイーダ、ディンティーノのアムネリス、ジョヴァノヴィッチのラダメス、ドバーのアモナズロ、
そして、この場面のためだけに参加のエジプト王役のカブラフコスという面々。
ニューヨークコーラルソサエティの合唱は少し響きが柔らかすぎる。
もう少し活気のある合唱の方が、このシーンに関しては私の好み。
もともとメトの『アイーダ』に出演が予定されていたグレギーナ(結局キャンセルになってしまいましたが)、
最後の石牢のシーンとか、ピアニッシモの高音が課題である彼女にはちょっときつそうだと思うので、
全幕はどうかな、と思いますが、こういう凱旋の場のようなシーンでは彼女の持ち味が存分に発揮できるのでいい。
今日もオケの上を突き抜ける声で大健闘。
一方ディンティーノは明日の『アイーダ』に備えてか、この場面、100%で歌ってはいないように見えました。
この場面で一人一人の歌唱をどうのこうの論じるのは野暮なので、このへんでやめておきます。
とにかく血湧き肉踊る気分にさせてくれれば充分。存分にその気分を味わわせてくれました。
ただし、アンコールでもう一度頭から最後まで通したのはださい。
一回で終わっておいてほしかった。
出来も一回目のほうがずっとよかった。蛇足、とはまさにこのこと。

しかし、今日のガラは非常に盛りだくさん、大変満足な思いで帰途につきました。
来年も行きます。


RICHARD WAGNER
"Entrance of the Guests" from Tannhauser
Members of the Metropolitan Opera Orchestra
NEW YORK CHORAL SOCIETY
ASHER FISCH, Conductor

RICHARD WAGNER
"Morgenlich leuchtend" from Die Meistersinger von Nurnberg
BRANDON JOVANOVICH, Tenor
NEW YORK CHORAL SOCIETY

RUGGERO LEONCAVALLO
"Prologue" from Pagliacci
SIMON KEENLYSIDE, Baritone

RICHARD STRAUSS
"Presentation of the Rose" from Der Rosenkavalier
DIANA DAMRAU, Soprano
JOYCE DIDONATO, Mezzo-soprano

CHARLES GOUNOD
"A leve-toi soleil" from Romeo et Juliette
ERIC CUTLER, Tenor

GIACOMO PUCCINI
"Te Deum" from Tosca
Andrzej Dobber, Bass-baritone
NEW YORK CHORAL SOCIETY

GIUSEPPE VERDI
"Ella mi fu rapita!...Parmi veder le lagrime" from Rigoletto
MATTHEW POLENZANI, Tenor

GIOACHINO ROSSINI
"Una voce poco fa" from Il Barbiere di Siviglia
JOYCE DIDONATO, Mezzo-soprano

GAETANO DONIZETTI
"Tornami a dir" from Don Pasquale
DIANA DAMRAU, Soprano
ERIC CUTLER, Tenor

GIUSEPPE VERDI
"O don fatale" from Don Carlo
LUCIANA D'INTINO, Mezzo-soprano

GEORGES BIZET
"Au fond du temple saint" from Les pecheures de perles
MATTHEW POLENZANI, Tenor
SIMON KEENLYSIDE, Baritone

GIUSEPPE VERDI
"Pace, pace, mio Dio" from La forza del destino
MARIA GULEGHINA, Soprano

WOLFGANG AMADEUS MOZART
"Ah, guarda, sorella" from Cosi fan tutte
RENEE FLEMING, Soprano
JOYCE DIDONATO, Mezzo-soprano

GIUSEPPE VERDI
"Cortigiani, vil razza dannata" from Rigoletto
ANDRZEJ DOBBER, Bass-baritone

LEONARD BERNSTEIN
"Glitter and be Gay" from Candide
DIANA DAMRAU, Soprano

FRANCESCO CILEA
"Poveri Fiori" from Adriana Lecouvreur
RENEE FLEMING, Soprano

GIUSEPPE VERDI
"Triumphal Scene" (excerpt) from Aida
MARIA GULEGHINA, Soprano
LUCIANA D'INTINO, Mezzo-soprano
BRANDON JOVANOVICH, Tenor
ANDRZEJ DOBBER, Bass-baritone
DIMITRI KAVRAKOS, Bass
NEW YORK CHORAL SOCIETY

Avery Fisher Hall
Right First Tier Box

***タッカー・ガラ Richard Tucker Gala***

2007 RICHARD TUCKER GALA 前編 (Sun, Nov 4, 2007)

2007-11-04 | 演奏会・リサイタル
昨年のガラが大変楽しかったうえに、
なんと今年のガラではザジックが出演予定と聞いて、これは何が何でも行かねばなるまい!
とチケットを購入し、あたため続けて数ヶ月。
しかも今年はそれ以外の出演者も錚々たる顔ぶれ。

しかし、今日、そんな出かけるまえの浮かれた気分で
このガラを運営しているタッカー・ファンデーションのウェブサイトを見ていたら、
なんと!!!!!
ドローラ・ザジック、急病のためガラを降板、の文字が。
コンピューターのモニターを前に、後ろにでんぐり返りしそうなくらいびっくり&落胆。
代わりに歌うは、明日のメトの『アイーダ』でCキャストのアムネリスを歌うルチアーナ・デンティーノ。
彼女に関しては、かなり以前にやはりアムネリスを、『アイーダ』の全幕で聴いたことがあったように記憶しているのですが、
あまり強い印象がなかったことから、私の中ではほとんどノー・マークのメゾ。
かなり落胆は激しいですが、明日の『アイーダ』がどのような感じになるか、
感触だけでも掴めるので、ま、いいか、と気を取り直す。

昨日の『マクベス』鑑賞に参加した友人のうちの2人と合流。
ただし、座席は私だけ離れているので、軽くおしゃべりをした後、別れて座席につく。
席のすぐそばではPBS(こちらのテレビ局)のカメラマンが舞台の様子を撮影。
近いうちにこのガラの様子はアメリカでテレビ放映される予定だそうです。

こういうガラとか、シーズンの初日などの公演には、
社交イベント的な面もあって、いつものメトのオーディエンスと若干客層が違っているように感じるのですが、
(そして、そんな社交的な観客のなかにも、もちろん、オペラヘッドはこっそりとしかししつこく生息しているのですが)
こういう場に多い、いわゆるお金を持ってそうな観客というのは、のんびり屋さんが多い。
というか、普段自分のしたいようにするのに慣れているからか、
開演時間とかいう概念が欠落している方が多く、時間通りに始まったためしがない。

今日も、平土間の前の方の席ががらがらなので、
チケット売れてないんだなー、5万円プラス寄付金は高いもんなー、と思っていたら、
定刻を過ぎて、ゾロゾロゾロゾロ、次々と平土間前方席を目がけて入場してくる人々の波が。
定刻を5分過ぎた頃、そんなぞろぞろと通路を歩く(しかし、決して急がないところがポイントな)
観客がまだ席につかないうちに、
5月のロシア・ガラでもお馴染みの、大暴れ指揮者アッシャー・フィッシュが登場。

 まだまだわらわらとホールに入場してくる人を置き去りにしたまま、
ワーグナーのタンホイザーより第二幕四場の”客人のワルトブルクへの入場と行進”がいきなり始まってしまいました。
しかし、音楽が聴こえてきてもやっぱり全然急がないこの人たち。まさに世界は私を中心に回ってます、といった趣き。
演奏の方はといえば、メトのオケのメンバーが、定期のオペラの公演の合間をぬって演奏しているので、
リハーサル不足なのが明らか。
足並みが揃わないところがあちこちに見られました。
まあ、でも、全員が席についてなくても気にせずはじめるくらいですから、
こちらもBGMくらいなもの、と思っておくべきなのでしょうか。なんて贅沢な!
しかし、二階の席から見ていると、ぞろぞろと入場してくる観客。。まさに、”客人の入場と行進”を地で行ってます。

曲が終わるとタッカー・ファンデーションの代表である、リチャード・タッカーのご子息が挨拶に登場。
今年の夏はパヴァロッティが亡くなりましたが、そのパヴァロッティが尊敬する歌手の一人としてタッカーの名前を生前にあげていたこともあり、
パヴァロッティを追悼して、特別なフィルムが上映されました。
曲は『リゴレット』の"女心の歌 La donna e mobile"。
タッカーのモノクロの映像と、パヴァロッティのカラーの映像を、
一フレーズずつ交互に編集したもので、まるでタッカーとパヴァロッティの歌合戦のよう。
最後に、パヴァロッティが彼独特の輝かしい声で、最後のe di pensier!を締めくくると、
そこはさすがにタッカー・ファンデーション、その後ろにたたみかけるように
リチャード・タッカーの同じフレーズを続けて編集し、会場の笑いを誘っていました。
”パヴァロッティはともかく、もう1人の親父は誰だ?と思っている方に念のため、私の父でございます。”
とご子息が謙遜の冗談を飛ばした後、
”体が楽器である歌手には、突然の体調不良はつきものであり、、”
と続いたので、おいおいおいおい、と思っていると、
”今日の朝、ドローラ・ザジックのほかにも急遽出演が不可能になった歌手がでてしまいました。”
”スーザン・グラハムとブリン・ターフェルです。”
えええええーーーーーっっっ???!!!
失望を隠せない観客。特にブリン・ターフェル、、まじですか。。
”まず、ブリン・ターフェルについては、幸運なことに、つい先週までメトの『アイーダ』でアモナズロを歌っていたドバー氏が、
NYの滞在を一日延長して、今夜歌うことに同意してくれました。”
ブリン・ターフェルのかわりが、のろまなアモナズロ、ドバー。。。
もはや失望を隠そうともしない観客。私のお隣の、オペラヘッド風のおばさんも頭をかかえてます。
”さて、問題はスーザン・グラハムの代わりの歌手がなかなかみつからないことでした。
だめもとで2002年のタッカー賞の受賞者であり、ちょうどスイスの劇場でオペラの全幕公演に出演中だった
ジョイス・ディドナートに電話をしてみたところ、快諾してくれ、
なんと彼女は今朝の飛行機でNY入り、当公演後は、夜11:00のフライトでスイスに戻る予定です。”
ドバーの時の冷ややかな反応に比べ、ディドナートの名前が出た瞬間、熱狂する観客!!

私もグラハムより、ディドナートの方が嬉しいかも!やった!!
やるな、タッカー・ファンデーション。メトも真っ青の素晴らしいリカバリーぶりです。

 いよいよ歌手の登場。一番手は今年のタッカー・アワードの受賞者である、Brandon Jovanovich。
『ニュルンベルクのマイスタージンガー』から”優勝の歌(朝はばら色に輝きて)”。
声自体は素直で美しいし、歌い方も端正なのは好感を持ちましたが、まだ自分のカラーらしきものが希薄で、
このメンツに混じるとかなり地味なのは否めません。
かなり線の細い声で、この歌は選択ミスかも。

 サイモン・キーンリサイド、『道化師』からトニオのプロローグ、”ごめん下さい、皆様方”。
ハンフリー・ボガートがかぶりそうな帽子に、白いマフラーを着け、こじゃれた雰囲気のトニオです。
キーンリサイドの声は繊細で、そのカラーはモーツァルトの作品なんかぴったり来そう。
俄然今週末土曜日のメトの『フィガロの結婚』での伯爵役が楽しみになって来ました。
ただし、このトニオ役は、彼の声には負荷が高すぎる。
このガラのような状況でたまに歌うぶんにはいいかもしれませんが、
定期的に歌うに耐える声ではないと思いました。
例えれば、マイセン(いや、イギリス人なので、ウェッジウッドというべきか?)のコーヒーカップが、
近所のダイナーでヘビーデューティーにさらされているような、
見ている、聴いているこっちがはらはらするような感覚がありました。
ダイナーには、どっしりとしたマグカップが合うように、この曲にはもう少しどっしりした頑丈な声が必要だと思います。
私はこの曲中、せっかくの繊細な綺麗な声をそんな風に使わないでー!!と心の中で叫び続けておりました。

 ディドナートとダムローによる、
『ばらの騎士』からばらの献呈のシーン(二重唱 ”地上のものとは思えぬ天上のばら”)。
現在メトでかかっている『魔笛』でその舞台上の存在感が絶賛されているダムローですが、
ディドナートの存在感はさらにその上を行っている。
彼女がだまって手をうしろに組んで立っているだけで、魔法のようにオクタヴィアンの姿がだぶってきます。
今日のダムローはこの曲、またもう一つの二重唱ともに精彩を欠いており、
最後の独唱で水を得た魚のように歌っていたのとは大違い。
重唱が苦手なのか、ただ単に調子が尻上がりにあがっていっただけなのか、
判断しかねますが、このばらの騎士の二重唱に関してはディドナートの歌ばかりが注意を引きました。
ディドナートは今日のガラのプログラムにおいて(シュトラウス、ロッシーニ、モーツァルト)、
きちんとそれぞれに作品のスタイル感があるのがいい。
ダムローはディドナートに比べると、ややそのあたりが何を歌っても(シュトラウス、ドニゼッティ、バーンスタイン)、
彼女調になってしまう傾向にあるように思いました。

 カトラー。グノーの『ロメオとジュリエット』 バルコニーのシーンから、”太陽よ、輝け”。
昨年の『清教徒』のアルトゥーロといい、今年の『魔笛』のタミーノといい、
どうして、あえて、そうも合わない役を全幕で歌うのか?
この『ロメオとジュリエット』こそ、彼の歌の長所が光っているではありませんか!
しかも、今年メトでその『ロメ・ジュリ』がかかっているというのに、
その同じ時期にあえてタミーノを歌うとはなんという皮肉。
『清教徒』を含むベルカントものでは、後述しますが突然声に妙な響きが入るし、
タミーノはキャラクターに合ってない。
しかし、このロミオは、同じ歌手とは思えないほど自然な発声なうえに、
ディクションも比較的いいし、
役柄にも意外と雰囲気がマッチしている。
この役を磨いていってほしいです。

 ドバー。『トスカ』から”テ・デウム”。
もともとターフェルが歌う予定だったプログラムをそのまま引き継いだドバー。
声がオケに埋もれてます。
だし、彼のさえない風貌と雰囲気はどう見てもスカルピアに見えない。
『アイーダ』の時も感じましたが、彼の高音には、はりがないのが痛い。

 ポレンザーニによる、『リゴレット』から、”彼女が奪われた~頬の涙が”のシークエンス。
昨シーズン、『マイスタージンガー』で観たときにくらべて、
なんだか若々しさが消え、体型も一回りお太りになられたように見受けられるのですが、
それが功を奏しているのか、声の響きが以前より豊かになったうえ、朗らかな響きが加わったような気がします。
前回聴いたときとの印象が最も違った歌手の一人。
今日は大変好調だったようで、折り目正しく、細かい部分も非常に丁寧に歌っているのが高感度高し。
ポレンザーニって、こんなに上手だったっけ?と思ったくらい。
ただし、この人はどこかしらキャラクター的に神経質そうな感じがするので、
全幕で公爵役を歌うに向いているか、と聞かれると微妙ですが。

 あらかじめ予定されていたグラハムの『カルメン』”セビリヤの城壁の近くに”に代わって再びディドナートで、
『セビリヤの理髪師』より、”今の歌声は”に差し替えられました。
素晴らしい、の一言。
ゲオルギュー、ネトレプコ、といった美人歌手と比べるとものすごい美人、というわけではないにもかかわらず、
舞台に出てくるだけで、ぱーっとまわりが明るくなるようなオーラが彼女にはあって、
一瞬にして観客を味方につける力を持ってます。
そのうえに歌の完成度も高いのですから、これ以上何を望みましょうか?
特にこの曲、技巧にふりまわされて、がんばって歌ってます!という雰囲気になってしまいがちなのに、
彼女の歌い方にはみじんもそういった様子すらなく、
ロジーナという人物そのものに引き込まれて、ついこのアリアが難しいということを忘れてしまうほどで
そこに彼女のすごさがあると思うのですが、
それでいて、昨シーズンの『セビリヤ』でロジーナを歌ったダムローの、
拍子抜けするようなあっさりさとは違って、きちんとスリルもある。
例えば、最後の高音をクレッシェンドにして、もうここまでか、と思うとさらにその上を行って、
どんどん声量が大きくなっていく、など。
彼女が今、ものすごく評価が高い歌手の一人であるのも納得。
ドタキャンの埋め合わせにこんな方が来て歌ってくれるとは、我々観客は本当に幸せ者です。

 カトラー&ダムローのコンビで、『ドン・パスクワーレ』から”私のもとへ帰ってきて”。
一体どうしたっていうんでしょう。。。
現在メトの『魔笛』でタミーノとパミーナを演じている二人。
さぞや息もぴったりで、、と思いきや、信じられないようなこわれっぷり。
ついさっきロミオで優れた歌唱を披露したカトラーから一気にいきいきした感じが失われ、
しかも発声が、彼の考えるベルカントモードに急変。
なんだか、ベルカント・ロールを歌いはじめると突然に”はわーん”というような妙な響きになってしまうカトラー。
さっきの自然な発声はどうした?!
ダムローはダムローで歌いにくそうにしているし、音も外れてる。
こんな息のあわない二重唱は聴いていて辛い。二人のケミストリー、ゼロ。
今日のガラ中、唯一聴くのが苦痛だったプログラム。

 ドローラ・ザジックがメノッティの『領事』から”To this We've Come"を歌う予定だったのが、
デンティーノによる、『ドン・カルロ』からの”呪われた美貌”に変更。
ザジックで”呪われた美貌”を聴くのが私の最大の希望でしたが、
彼女がキャンセルになった今、すげかえられたアリアが”呪われた~”なのは唯一の救い。
私の大好きなメゾのアリアの一つなのです。
デンティーノ、彼女は私が以前見たときに比べ、著しい進歩があってびっくり。
高音こそザジックの水晶のような透明さ&鋭さに一歩譲りますが、
デンティーノは深みのある中~低音域が強み。
しかも、見た目もどこか憂愁をたたえているというのか、歌とルックス込みで、
ものすごく味のあるメゾに進化していて、大変嬉しい驚きでした。
ボロディナが調子のいいときで小ザジック、調子の悪いときはねばねばした歌唱になってしまうのに比べると、
デンティーノには、彼女のオリジナリティがあるのが非常に頼もしい。
いやいや、これは明日の『アイーダ』で彼女が歌うアムネリスが俄然楽しみになってきました。

 ポレンザーニとキーンリサイドのコンビで、『真珠採り』から”聖なる寺院の奥に”。
つい数週間前、シリウスでビョルリンクがテノールのパートを歌っているこの曲の録音を聴いて猛烈に感動したばかりで、
今日これが歌われると知って、大変楽しみにしていた曲。
これは、もうなんと形容すればいいのか。。
こういう瞬間のために公演やらガラに観客は足繁く通い続けるのでしょう。
あまりの美しさに言葉がありませんでした。
ポレンザーニとキーンリサイドの声の相性が素晴らしく、また各々がこれ以上ないほど
端正でかつ緊張感かつ気迫のこもった名唱。
この曲を生で、これ以上完成度が高いものが聴けるということは、
もう私の人生の先、一度もないかもしれない、と思ったほどです。
いや、多分、ないでしょう。
誰もが胸を打たれ、二人が歌い終わった後、拍手をするのが精一杯。Bravoさえも言えなかった。
私の友人の隣に座られていたご婦人は涙を流されていたそうです。
もちろん、私も涙しましたです。
この二人がオペラで共演する暁には、何をおいても観にいきたい。
間違いなく今日のガラの最高の演目。

(写真はジョイス・ディドナート)

後編に続く>

***タッカー・ガラ Richard Tucker Gala***