Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

MOISE ET PHARAON (Wed, Nov 30, 2011)

2011-11-30 | メト以外のオペラ
ここ数年に渡って私がアンジェラ・ミードをフォローし続けていることはこのブログを継続して読んで下さっている方々には周知の事実だと思うのですが、
そうしているうちに、メトだけでなく、これまであまり聴く機会がなかった演目、オケ、合唱にふれることが出来るという楽しみが増えました。
ピッツバーグとかボルティモアとか、そうでなかったらまず聴きに行くことはなかっただろうと思います。

メトの『アンナ・ボレーナ』の公演を終えた彼女が、引き続きNYで歌ってくれることになったのは、
カレジエイト・コラールによるロッシーニの『モーゼとファラオ』の公演。
カレジエイト・コラールは今年で創立70周年を迎えるNYをベースとする合唱団で、指揮者のロバート・ショーによって創設された後、
トスカニーニ、ビーチャム、バーンスタイン、クセヴィツキー、マゼール、メータ、レヴァインといった名の知れた指揮者との演奏の経験を積み、
良く知られた合唱のための作品やオペラだけでなく現代作品に至るまで、広いレパートリーを誇る合唱団となっています。



しかし、『モーゼとファラオ』、、、? 微妙に聞いたことがあるようなないような、、。
確かロッシーニが書いたのは、『エジプトのモーゼ』というタイトルだったはずだったけど、、と思って調べてみると、その『エジプトのモーゼ』の改作なんですね。
アメリカでロッシーニ研究といえばこの人!ということで再びご登場のフィリップ・ゴセット先生
(シカゴ大教授。ロッシーニをはじめとするベルカント・オペラのエキスパートで、メトのルチアでネトレプコのためオリジナルのカデンツァを書いてあげたおじさん。)
がプレイビルに寄せて下さった文章によると、(ただし、()内は私が補足した部分です。)

*1824年からパリのテアートル・イタリアンで活動を始めたロッシーニは当時まだフランスで知られていなかったイタリア作品を上演することに心を砕いたが、
実は密かにオペラ座で自作のフランス語による作品を上演したいという野望を持っており、
このためにイタリアの声楽スタイルにも精通したフランス人の歌手たちの育成に励んでいた。
*(しかし意外に慎重なところのある)ロッシーニは、いきなりフランス語の新作にとりかかる代わりに、自作のセリアのうち出来の良かったニ作品をイタリア語からフランス語に変えてみることにした。
*ナポレオン政権の遺産で、当時のナポリはイタリアの中で最もフランス文化の影響を受けていた街であり、それもあって、サン・カルロ劇場時代の自信作二作、
『マホメット二世』と『エジプトのモーゼ』をチョイスし、それぞれを『コリントの包囲』と『モーゼとファラオ』としてフランス用に改作し発表した。
*リブレット上新しいテキストが追加されたほか、合唱の役割が大きくなり、バレエのシーンも追加された。
*すべての音楽上の変更はロッシーニ自身によってなされたが、”モーゼとファラオ”の方には署名入りの最終稿を作らず、
多くの、長いもしくは断片的な、マニュスクリプトをどさっと渡して、これで総譜を印刷してくれたまえ、、、と、ウージェーヌ・トルぺナス(フランスの楽譜の出版者)に依頼した。
(トルペナスの、ま、まじかよ、、という声が聞えるよう、、。)



*現在一般に(そして今日の公演にも)使用されているスコアは基本的にこのトルペナス版を元としているが、こういった事情から、スコアは間違いと誤った解釈だらけである。
*(どうやらブラウナーという人が現在クリティカル・エディションの完成発行に挑んでいるそうだが、ここで、”ロッシーニが辿った筋道を再現しながら、
一つ一つの音符を、オペラ座に現存するサイン入りのマニュスクリプトと丁寧に付け合せながら、リハーサル中に入れられた改訂・訂正も反映しなければならない。”と
いやーなプレッシャーをブラウナー氏にかけるゴセット氏。)
*ロッシーニが『エジプトのモーゼ』から『モーゼとファラオ』に加えた変更が成功しているかどうかは、この30年間、専門家の間でも議論が分かれるところで、
特に『エジプトのモーゼ』では、エジプト人が暗闇の中に放り出されているところから幕が開く、その素晴らしさに対して、
『モーゼとファラオ』では、この場面をニ幕の頭に移動させてしまった点を嘆く批評家が多い。
*しかし、その一方で、『モーゼとファラオ』は、ヘブライ人が自分の囚われの身を嘆き、モーゼの呼びかけで祈りが始まり、
その祈りが虹と”神秘的な声”によって答えられ、モーゼらが神託を受ける、、という非常に印象的な始まり方になっていて、
15年後に『ナブッコ』を書いたヴェルディがこの場面を念頭に置いていたことは想像に難くない。
*他にも『エジプトのモーゼ』と比べ、オペラ作品としてインパクトが弱くなっている箇所はいくつかあるが、
『モーゼとファラオ』は、それでも、『エジプトのモーゼ』に比べて”改善”と言ってよく、『エジプトの~』の最も弱かった点が取り除かれている。
また、アナイ役に与えられた新しいアリアはロッシーニが書いたアリアの中でも最良の一つと言ってよく、改訂の経過でなくなってしまったアリアを埋め合わせて余りあるものである。
*ただ、あまり違いばかりを強調するのも良くないであろう。(強調して来たのはあんただろう!とつっこみたくもなりますが、、、。)
オーケストラの楽器編成には一切変更がなく、それでいて、オーケストレーションに手が加わった部分は、より自信に溢れたものになっていて、
一言で言えば、変更はシンプルなものであって、音楽的な良さは失われていない。



と、簡潔ながらとても充実した内容で、他に付け加えることもありませんので、今日の記事はこれでお終い。
、、、にしたいな、出来れば。

なぜならば、私は『エジプトのモーゼ』もちゃんと聴いたことがない有様なので、さすがにブログで記事を書くのに、
こんなに全く作品を知らないというのはまずいだろう!と、CDを探し始めたのですが、これが、なんと!
『モーゼとファラオ』って、ほとんど全くと言ってよいほど音源がないのです!
ムーティの指揮によるスカラ座の公演がDVD化されていて、これはキャストも割りと良い歌手が揃っていて評価も高そうなのですが
(とはいえ、人気作品と違って他に比べる音源がないですから、その評価というのも怪しいものではありますが。)、
知らない作品はリブレットを読みながらじっくり音楽を聴きたいんだな、、、。
ところが、CDの方はもっと悲惨な状態で、ライブの海賊版と思しき音源が、評価者の”音質悪すぎ”の言葉と共にリストされていて、
どう考えても、このCDにはリブレットはついていまい、、と思わせる一品なのです。
うーむ、、、これは弱りました。
そして、弱っているうちにどんどん月日は流れ、気が付けば公演が明日に迫っているではありませんか!
唯一の救いはオペラの内容が旧約聖書の出エジプト記の前半部分(モーゼが海を割って道を作り、そこをイスラエル人が渡って行くというあの有名な紅海の奇蹟の場面。)
にのっとっていることがわかっている点で、こうなったら、音楽はぶっつけ本番、あらすじだけ完璧に、、と、久々に聖書を寝床に持ちこんでみました。

この聖書は私が学生時代に使っていたものなんですが、20年以上ろくにページを開くことがなく、もう記憶が完全に消え去りかかっていましたが、
これは何という因果でしょうか?
それとも私の大学時代の聖書のクラスの先生が単なる出エジプト記フェチだったのかな、、?
このmy聖書の、まさに『モーゼとファラオ』に関する部分だけにやたら激しい書き込みやアンダーラインがあって、読んでいるうちにすごい勢いで記憶が甦って来ました。
そうそう、空からいなごが降って来たりとか、大変なことになるんだよな、、
それにしても”私の力をとくと知らしめ、エジプト人の心に永久に私への畏れを刻み込むため、、”と言いながら、
10回も試練を与えるなんて、”主”って、やたらしつこくていやらしいおっさんだわ、、と思った記憶も合わせて甦って来ました。
モーゼがこれまた優柔不断で、もうあんたは主に選ばれてしまったんだから観念しなさいよ、と思うのに、
イスラエル人をエジプトから脱出させるという大変な重責に、”私には無理です、、。スピーチが苦手だからみんなをまとめられないし。”と情けなく逃げ腰になったりして、
これにもまたまた主はむかむかっと来て、”お前にはスピーチの得意な兄がいるだろーが!彼を使えばいいんだ!”と、怒りを爆発させたりするんですよね。
ああ、本当に気の短いおっさんだなあ、主。
ま、しかし、これならとりあえず、ストーリーがわからなくなって混乱するということはなさそうだ、と一安心。消灯。



そして当日。カーネギー・ホール。
プレイビルを見てびっくり仰天です。
なんだ、このあらすじは!!!!????(プレイビルに掲載されたカレジエイト・コラールが準備したと思われるあらすじの和訳を
”マイナーなオペラのあらすじ”のカテゴリーに転載した記事はこちら。)
ナイル河が血に染まる、とか、いなごの件は聖書で聞いてましたが、ピラミッドが火山になって噴火ぁ?!
なんか一層破天荒な筋立てになってませんか、、?
しかも、モーゼやアロン(しかもこれがフランス語でエリエゼルという名前になっていて、まぎらわしいことこのうえなし。)はいいとして、
アメノフィスとかアナイって、誰、、、?
”しかし、ユダヤ人を本当に解放するまでにはなんとさらに三つの幕が必要となる。”という言葉に、あらすじをまとめる係の人の”やってられん。”という本音が垣間見えて笑ってしまいましたが、
この作品を見ているうちに、その気持ちはよーくわかる気がしました。

そう。というのも、オペラ『モーゼとファラオ』が聖書と比べてオリジナルな点は、単にエジプト脱出を描いているだけではなく、
そこにエジプト国王の息子(これがアメノフィス)とイスラエル人であるモーゼの姪っ子(そしてこれがアナイ)の、いわばアイーダ的ロマンスが絡んでいる点で、
このアナイという女がこれまたおじのモーゼ似で、ええ、あなた(アメノフィス)とエジプトにとどまるわ、ううん、やっぱりおじさんたちとエジプトを出るわ、、と、
一生やってろ!と思うような優柔不断さなのです。
本当、彼女がもうちょっと竹を割ったような性格だったなら、三つとは言わなくても二つ位は幕をセーブできたかもしれませんよね、カレジエート・コラールさん!



と色々書いた後で何だ?という感じですが、しかし、私、この作品、実を言うとすっごく気に入ってしまいました。
今もこの作品のCDを後ろに流しながら感想を書きたい位の気分なのですが、やはりそれでもCDはこの世に存在しないのです。
仕方がない、ムーティの怖い顔付きでスカラの公演をDVDで見るしかないか、、。

さて、私がなぜそんなにこの作品を気に入ってしまったかというと、それはひとえにロッシーニの音楽の素晴らしさで、
私はロッシーニの作品について言うと、ブッファよりセリアの方が好きかもしれない、、と段々感じ始めているのですが、
この作品でさらにその思いが強くなりました。

いわゆるキャッチーな旋律のアリアの有無という点では他の作品に若干引けをとる部分もあるかもしれませんし、
また、アクロバティックな歌唱技術の誇示、という面でいうと、まず他の作品のアリアの方が先に頭に浮かぶ点は否めないです。
(同じセリア系の作品なら、『セミラーミデ』の”Bel reggio 麗しい光が”とか、、、。)
しかし、アナイ、アメノフィス、シナイーデに与えられているアリアは非常に格調高い旋律に溢れており、
また決して技術的に簡単でないところに優れたドラマティックな表現力が求められるため、単に技術に卓越しているだけでは手に負えない作品です。



この作品は今日のような演奏会形式ならともかく、オペラハウスで実際に全幕ものとして上演するのは非常に難しいと思うのですが、その理由は大きく二つ。
まず、内容があまりに突飛で超現実的なので(いなごの大群!血に変わる大河!爆発するピラミッド!割れる海!)、ステージングが極めて難しいということ。
もしかすると、ルパージュお得意の3Dグラフィックスを使えば何とかなるかもしれませんが、、、
あ、この際、リングのマシーンを使い回して、なんとかあの大きな板で割れた海とその間の道を表現してはどうでしょう?
あれだけ金をかけたんだから、もっと元をとらないと!!

それからもう一つ。もしかすると、実はこっちの方がステージングよりもずっと大変な問題かもしれない、、と思うのですが、
いつものロッシーニのパターンに漏れず、猛烈な数の優れた歌手がこの作品には必要です。
しかも、どの役にも穴があってはならず(あると作品としての均整が失われ、俄然つまらない上演になってしまう。)、
また、それぞれの歌手が舞台に持ってこなければならない、ものすごくはっきりとしたパーソナリティやカラーがあって、役の間でのそのバランスも非常に大事で、
つまり、歌が上手いのみならず、役によってかなり個性が限定されるので、キャスティングが本当に難しい。
実際、この作品はタイトルが『モーゼとファラオ』になっていますが、この二人よりもアメノフィスとアナイ、それからシナイーデの方が歌の負荷は高いように思います。
では、しょぼい歌手にモーゼとファラオを歌わせてOKか、というと、決してそうではなく、
この三人のようにどんぱちと歌唱で聴かせる要素が少ない分、余計に、限られたパートの中で威厳、恐れ、迷い、嫉妬、といった複雑な感情をお互いにぶつけ合わなければならず、
存在感のある歌手が求められる、という難しさがあります。
しかも、バス・バリトン同士の対決ということで、どういった声の持ち主をそれぞれの役に配するか、という難しさもあります。



今回の公演はいわゆるぴんで客を呼べるようなドル箱歌手は含まれていませんが(強いていうならジェームズ・モリスが大御所ですが、あのお歳ですから、
すでにキャリアの末期に入っていますし、彼の名前だけでチケットが売れるということは考えにくい。)、
中堅から若い方に寄った歌手(除モリス)を中心に力のある人を集め、またその彼らが揃いに揃ってきちんと自分の役割を果たしてくれたお陰でとても聴きごたえのある演奏となりました。
人気歌手がキャスティングされている華やかな公演も良いですが、こういう地味なキャストでも全員が全力を出して良い演奏だった時には、
オーディエンスの中に何か独特の温かい雰囲気が生まれて、こういうのもいいな、、と思わされます。今日の演奏はまさにそういう感じでした。

なかなか大変な演目であるにも関わらず、歌手は不思議なほど誰もが落ち着いていて、
一番のパニック・モードだったのは、カレジエイト・コラールの音楽監督であり、今日の指揮者であるジェームズ・バグウェルだったかもしれません。
一幕の前半なんて、ずーっと指揮棒の先がぷるぷると震えていて、見ているこちらまで意味無く緊張して来そうになりました。
オケはアメリカン・シンフォニー・オーケストラで、このオーケストラはサウンドも演奏の精度も残念ながらどこか少し緩いところがあり、
一級のオーケストラと呼ぶには苦しいものがあるのですが、この長時間の公演を大きな失敗もなくきちんと演奏しきったのですから、十分役目は果たしていたと思います。
後でも触れますが、特にこの作品は最後にオケの聴かせどころがあると言ってもよいのでスタミナの配分が大変なんですが、
その点は良くこなせていて、きっちりとクライマックスらしいクライマックスを聴かせてくれたのは大きく評価します。
指揮者の歌手への目配りも、まずは良く行き届いていたと思います。


歌手陣ですが、まず老モリス(最近、ジークフリートを歌う若い方のモリスが出て来てしまったので、若モリスと区別するためにあえて。)は、
やや曲の旋律がはっきりしないお経調気味ですが(お歳ですから、、)、さすがの存在感です。
彼自身のキャラクターから言えば、どちらかというとファラオの方が近い気がしないでもなく、やたら堂々としたモーゼでしたが、
彼の存在感にはやはり他の歌手達とは違う重みがあります。
ただ、ちょっと今日はお疲れだったんでしょうか?ミードが聴かせどころのアリアを歌っている時に、
客を正面にして気持ち良さそうに椅子でうつらうつらしている姿は”演奏会形式の舞台上なのにくつろぎ過ぎ!”と言いたくなりました。

今日のキャスティングで面白いな、と思ったのは、この老モリスのモーゼ相手に、若手のカイル・ケテルセンをファラオにもってきていた点でしょうか。
彼もナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズのオーディション出身で、メトではまだ『トスカ』のアンジェロッティのような脇役しか歌っていないのですが、
若干線が細く感じるものの、声にエレガントさがあって、音色自体はいいものを持っている人だと思います。
声のコントロールと歌唱の技術にはもう少し磨きをかける必要があるように思いますが、歌声にも舞台姿にもちょっと独特なクールさを感じさせる佇まいは面白い個性だと思います。
この公演でも、そのせいでファラオが非常に冷静沈着で頭の良い人物に感じられ、それだけに一層、最後の悲劇的な運命との対比が際立っていました。



若い恋人同士を歌ったのは今シーズン『ドン・ジョヴァンニ』でメト・デビューを果たしたばかりのマリナ・レベカと、
これまでこの人の良さがちーっともわからなかったエリック・カトラーのコンビです。
レベカは2009年のザルツブルクでムーティの指揮による『モーゼとファラオ』に出演して同じアナイ役を歌っているようで、
今回のキャスティングはその時の成果が買われた部分も大きいのかなと思います。
やはり彼女の歌声は私には非常に攻撃的に聴こえてあまり好きではないのですが(声量の問題ではなく、彼女の声が持っているアグレッシブで硬質な響きが苦手なんだと思います。)、
『ドン・ジョヴァンニ』でかなりNYのファン・ベースを増やしたようで、今日の公演でも最も拍手の多いキャストの一人でした。
このアナイ役は控え目でありながら、芯の強さを感じる、情熱的な女性の役で、アリアでもドラマティックさが求められるので、
ドンナ・アンナでは度を超えて感じられた激しさは、私にとっても少しは受け入れやすいものになってはいました。
彼女は舞台姿も綺麗で、顔もどこか憂いを湛えているような美人(ガランチャと同じラトヴィアの出身です)ですので、舞台ではすごくアドバンテージがあると思うのですが、
私がいつも不思議に思うのは、彼女がそれを全く有利に使わないことで、この人を見ていると、男性恐怖症か何かなのかな?と思ってしまうほどです。
一生懸命体にタッチしたり、視線を交わそうと涙ぐましい努力をしているカトラーにも、まったく暖簾に腕押し状態。
正面一点を見つめて、カトラーがそっと体を抱き寄せようとしても、体を固くして、これは嫌がっているのではないか、、?と思うようなリアクションなのです。
カトラーがアラーニャのように不必要なまでのボディ・コンタクトをとろうとしていたというなら、まだ話もわかりますが、
私の見る限り、カトラーは恋人同士としての適切な演技をしていただけで、ここまで頑なだと、ちょっと見ている方も気がそがれる域に達しているかもしれません。
でも、かと思うと、二人で歌う最後のパートを終えると、”終わったね。”という感じで微笑むカトラーに対して、嬉しそうににこにこと答えていて、わけがわかりません。
もしかすると、歌っている間、まだあまり余裕がない、というような単純なことなのかもしれません。
後、ラトヴィア出身のソプラノといえば、マイヤ・コヴァレススカがいますが(そういえば彼女も美人、、、)、
この二人は持っている声質は全然違うものの、発声の感じが少し似ているところがあって、
いつも必要な量よりも少し多めの空気が流れているような感触があり、これが極端になると音を無理やり飛ばしているようなサウンドとなって現れてしまうこともあって、
この無理に音を押し出しているような響きが、今一つ私がレベカの歌を聴いて心地よくなれない理由かもしれないな、、と思います。
しかし、さすがにムーティ帝王のご指導を受けただけのことはあり、歌唱の組み立てはしっかりしているな、と感じましたし、
『ドン・ジョヴァンニ』の時の印象とも共通するのですが、他のソプラノが苦労しそうな・する音や音域でのピッチが正確で、とてもセキュアな結果を出すのが面白いなと思います。

エリック・カトラーについては、今回初めて、”こんなに歌えることもあるのか、、。”と思いました。
メトでのネトレプコとの『清教徒』での歌唱とか、今となっては見事に記憶に残ってないし、『ばらの騎士』のイタリア人歌手の歌唱も、大丈夫かな、、と思いながらどきどきして聴いたし、
もうこうなったらタッカー賞も剥奪した方がいいんじゃない?、、と思ったり、、、。
でも、今日くらいの歌唱を聴けば、タッカー・ファンデーションはこういうのを耳にして彼の受賞を決めたんだろうなあ、、ということはやっと納得でき、
彼の受賞が2005年ですから、なんと6年越しで謎が解けた感じです。
他のロッシーニのテノール・ロールに負けず劣らず、このアメルフィス役も多くの旋律が高めの音域にあって、すごく大変な役です。
つまり、これらの音域での発声がきちんと出来上がっていないと、喉への負担が大きくて、たちまちのうちに疲れて潰れてしまう役。
カトラーは最後の1/4ぐらいで少し疲れが見えなくもありませんでしたが、全体的には、ラダメスの兄弟のようなこの頑固頭なエジプトの王子を、
情熱的に表現していて、それをやりながら難しい高音もきちんとこなし
(すっと抜けるような音ではなく、ばりばりとした男性的な音色ではあるので、フローレスのようなスタイルのある歌唱と比べると少し違和感はありますが、
この役ならこれもまたよし、、と私は思います。)
しかもロッシーニに必要なスキルもそこそこきちんとしたものを持っているのは意外で、今日の彼の歌唱には大変楽しませてもらいました。
ただ、彼は舞台上で本当落ち着きがなくて、軽いADD(注意欠如障害)なのかな、と思ってしまいます。
自分の歌になかなか自信が持てないからなのか、歌った後におどおどと周りを見回したり、聴かせどころが近くなるとすごく落ち着かない様子になったり、
体が大きくて熊みたいなだけに、一歩間違うと、鈍くさい感じになってしまうので要注意です。
他の歌手のように、きっ!と前を見据えられる訓練をしましょう。(あ、そういえば、アラーニャもだな、、。)
逆に言うと、そういった落ち着きが身に付けば、無意味にひょろ長くてきりん系の鈍臭さを感じさせるヴァレンティとは違い、
決して太ってはいないだけに、舞台で非常に見栄えがする(今日のような役にはぴったりです。)という大きなメリットを持っていると思います。



私個人的には今日一番楽しみにしていたミードのシナイーデ。
シナイーデはファラオの奥さん(よってアメノフィスのお母さん)で、なぜかユダヤ教を信じているという、この作品の中では複雑で奥深い役です。
息子の愛する気持ちを応援してやるべきか、それとも夫についてゆくべきか、そこに彼女自身の信仰の気持ちも絡まって、、。
母親という立場上、ある程度、年齢を経ないと出せない表情があるのがこの役の難しいところで、
ミードは相変わらず歌唱は達者ですが、ちょっとその辺で背伸びなキャスティングだったかな、、という風に思います。
当たり前といえば当たり前なんですが、30をやっと出たばかり位(のはず)のミードの声は、こういう役で聴くと、やっぱり響きがすごく若いんだなあ、、としみじみ感じます。
ま、実際若いですからね。
まだまだ先は長いんですし、こういった老け役、お母さん系の役はもう少し先に回して、
アンナ・ボレーナのような、自分の年齢としっくり来る役を歌っていって、その先で再チャレンジしたところをまた聴いてみたいと思います。

モーゼの兄エリエゼール(アーロンとしての方が良く知られていますが)を歌ったミケーレ・アンジェリーニはアメリカ出身の若手のテノール。
私はこれまで名前すら聞いたことがなかった人なんですが、素直な発声で、舞台上での佇まいにも清潔感があって好感が持てます。
私は今日は前から4列目という至近距離で鑑賞しましたが、遠くから見てもはっきりわかるに違いない、と思うほどの、
ジョン・トラボルタ真っ青の割れた下あごがトレード・マークです。
今日の役はどちらかというと小さな役で、それほど歌うパートが多くなく、特にトリッキーな技巧があるわけでもなかったのですが、
YouTubeでリサーチしたところ、『チェネレントラ』のラミロなんかも歌えるみたいでびっくりです。
ということは、ロッシーニをレパートリーの中心に据えていこうとしているのかな、、



この映像でも伺えますが、少しほわんとしたたおやかさと優しさのある響きが特徴で、真っ直ぐ伸びていけば面白い個性を持っている人だと思います。
でも、このまっすぐ伸びていけば、というところが難しいんですよね、、。
今までだって、いいなと思っても、”どうしてそっちに行っちゃうの~?”という感じで駄目になっていった人が一人や二人ではないですから、、。

『モーゼとファラオ』の作品の白眉はなんといってもラストで、ここのオーケストレーションはロッシーニってこんな音楽も書ける人だったんだ!と本当びっくりしました。
ゴセット先生の文章にもヴェルディの『ナブッコ』との繋がりを指摘する部分がありましたが、
『ナブッコ』だけではなくて、この音楽にはヴェルディの作品全部に脈々と受け継がれていったのと同じ種類のものすごいパッションとドラマがあります。
オペラでこんなに後奏が長い作品って、私は他にあまり思いつかないのですが、(普通、最後に歌う歌手の最後の音符の後は、割りと手早く手仕舞うのが一般的ですよね。)
紅海が開けてそこを渡り始めるイスラエル人、彼らを追いかけて次々波に呑まれていくエジプト人、、、
この場面がはっきりと瞼に浮かぶ位しっかりと音楽に描き込まれていて、これが演奏会形式であることはちっとも問題ではなかったです。
ま、最近のメトの演出を見るに、下手なセットやら演出やらがあるよりは、こうやってオーディエンスに自由に想像させてくれる方がよっぽど効果的、ということもあるかもしれませんが。

あらすじを読んだ時は、なんでモーゼの奇蹟にロマンスが絡んでくるんだ??と疑問でしたが、
この音楽と一体になると、あまりにも有名になりすぎてしまった聖書の一つのお話の中が、俄然リアリティを持つというか、
単なる宗教上の説話ではなくて、もっとパーソナルな人間の物語となる(それが架空のロマンスであっても)、ここが面白いな、と思いました。
単にエジプトの王子が海に呑み込まれる、という話を聞くのと、
アナイへの狂おしい恋に悩まされながら海にひきずりこまれるアメノフィスを音楽の中に聴くとでは全然インパクトが違う、ということです。

今日の公演をCD発売してくれたなら、時に取り出して聴きたい作品になるのにな、、。


James Morris (Moïse / Moses)
Kyle Ketelsen (Pharaon / Pharaoh)
Angela Meade (Sinaide)
Eric Cutler (Aménophis)
Marina Rebeka (Anaï)
Michele Angelini (Éliézer / Aaron)
Ginger Costa-Jackson (Marie / Miriam)
John Matthew Myers (Ophide)
Joe Damon Chappel (Osiride)
Christopher Roselli (Une voix mystérieuse)

Conductor: James Bagwell
The Collegiate Chorale
American Symphony Orchestra

Parquet D Odd
Carnegie Hall

*** ロッシーニ モーゼとファラオ Rossini Moïse et Pharaon ***

マイナー・オペラのあらすじ 『モーゼとファラオ』

2011-11-30 | マイナーなオペラのあらすじ
ユダヤの民が自らの囚われの身を嘆いていると、モーゼ(モーセ)が”苦しみは間もなく終り、自由の日が来るであろう。”と言って勇気づける。
モーゼの兄エリエゼル(アロン)が、妹のマリー(ミリアム)とその娘アナイを伴って現れる。
エリエゼルは、ファラオが司祭オシリデの助言に反し、ユダヤ教に改宗した妻シナイーデの薦めとユダヤの神への畏れから、
我々を解放するであろうと予言する。
ファラオの息子アメノフィスは父親が支配する王宮で奴隷として仕えているアナイと恋に落ち、彼女も彼を愛するようになった。
しかし、一方で、彼女は自分と同じイスラエル人と一緒にエジプトを去りたいと願っており、
彼女の気持ちを知ったアメノフィスはユダヤの人々に復讐を誓う。
アメノフィスはアナイと離れ離れにならぬよう、なんとか彼らを引きとめようとするが、
モーゼは恐ろしい疫病がイスラエル人の間に蔓延していると言ってファラオを脅かす。
これを聞いたファラオはイスラエル人が立ち去ることを許可したが、
すると、みるみるうちに天から火が雨のように降り注ぎ、ピラミッドが火山となるのは、第一幕のフィナーレで描かれている通りである。

しかし、ユダヤ人を本当に解放するまでにはなんとさらに三つの幕が必要となる。

第二幕ではファラオがアメノフィスをある王女と結婚させようとするが、彼は全く興味を示さない。

第三幕では司祭長のオシリデがイスラエル人にイシス神を崇拝せよと命じるが、
途端にナイル河が赤く血に染まったような色になり、イナゴがエジプト人たちのうえに降り注ぐ。

第四幕では、アメノフィスがアナイとの愛を貫くため、王位を捨て、ユダヤの民を解放しようと決意した。
しかし、鎖につながれた彼らを目にしたアナイは、モーゼにアメノフィスとの愛か自分への服従か、
どちらかを選ぶように、と決断を迫られ、結局自らの民を採る。
再び復讐に燃えるアメノフィス。
イスラエル人たちが神に祈ると、奇跡のように鎖が外れた。
エジプト軍の追っ手が迫り、あわや大量虐殺か?と思われた時、モーゼが紅海をわかち、
水に濡れることなくそこを渡って行くイスラエルの人々の後ろで、エジプトの追っ手たちは次々と海に沈んで行くのだった。

(出自:カレジエイト・コラールによるカーネギー・ホールでの公演のプレイビルより。)

*** ロッシーニ モーゼとファラオ Rossini Moïse et Pharaon *** 






FAUST (Tues, Nov 29, 2011)

2011-11-29 | メトロポリタン・オペラ
演出の内容にふれてふれてふれまくりますので、HDをご覧になる方はその点をご了承の上お読みください。

一週間前の『サティアグラハ』の公演のインターミッションで、二人のヘッズ友達とテーブルをご一緒しました。
以前『リゴレット』の記事でも紹介したことのある、マフィアな指揮者と彼のお友達のコンビですが、
後者の男性はNY在住のフランス人で、フランスもののオペラ、
わけてもグノーの『ファウスト』には、”スコアのどの部分からでも、誰のパートでも暗譜で歌えるよ。”と仰るほどの愛着をお持ちです。
その彼が、”今度の『ファウスト』は何語の上演だね?”と尋ねられました。
何語って、、、英語上演などを掲げている特殊な劇場を除いて、グノーの『ファウスト』は普通フランス語でしか上演されないでしょう、
少なくともメトではずっとそうだから、、と、マフィアな指揮者と私が声を揃えて”そりゃフランス語でしょう?”というと、
”ああ、良かった。全幕サンスクリット語だったらどうしようかと思って、、。”

『サティアグラハ』が字幕訳なしの、オール・サンスクリット語上演であることにひっかけての冗談だったわけですが、
この三人が揃うと、最近のメトの演出面・音楽面の方向性について憂うことが多く、
”確かにゲルブ支配人ならそういう『ファウスト』もやりかねん。”と頷いてしまいます。



メトでは、『ファウスト』も長らく良い演出に恵まれていない作品の一つで、
二つ前のハロルド・プリンスの演出は、多くの人が”あれはひどかった、、。”と言いますし、
アンドレイ・セルバンによる前演出も、”それに比べれば若干ましだけど、やっぱりいまいち。”という評価が多い。
今回新演出となるマカナフのプロダクションはENO(イングリッシュ・ナショナル・オペラ)との共同制作で、先にENOで上演されていますが、
マフィアな指揮者の”原爆も登場するらしいよ。”という言葉に、
一体『ファウスト』と原爆投下の間にどんな関係があるんだよ、、、とげんなりする私たちなのでした。

かような、間違ってもコンベンショナルとはいえない、一歩間違えたら地雷を踏む(=オーディエンスから大ブーイングを食らう)ことにになりかねない設定に加え、
かなり舞台上にいる歌手にとって歌いにくいセットであるらしいこと、
また、ネゼ・セギャンの指揮とソリストの息がなかなか合わない、などといったことが重なって、初日への不安とストレスがピークに達したのでしょうか?
ドレス・リハーサルの一つ前のリハーサル中に、演出上彼が手に持たなければならなかったグラス(おそらく毒薬を飲もうとする場面の)の中に
ほこりが入っていると言ってカウフマンが大激怒。
"きれいなグラス一つ渡せないのか?”と叫んで演出家に向かって両中指を立てたそうで(しかも、”きれいなグラス”という言葉の前にfワードをつける念の入れよう、、)で、
ずっと彼をプロフェッショナルで感じのよいアーティストだと思っていたメトのスタッフはみんな目玉が飛び出るほどびっくりして固まったそうです。
出待ちをした時に接した穏やかな彼の姿からはにわかに信じ難いエピソードなのですが、
この事件を直接目撃した私の友人は、キャスリーン・バトルの後継者がテノールから現れるとは、、とびっくりしてます。



演出家や指揮者に対してソリスト全員がフラストレーションを抱えていたのは事実で、彼らの気持ちを代弁した部分も多分にあったのだとは思いますし、
メトでは次々ひどい演出ばかりあてがわれて(ボンディの『トスカ』、ルパージュの『ワルキューレ』、、
後者については最近のオペラ・ニュースのインタビューの中で、ルパージュと意見が衝突した経緯や理由について語っています。)腹が立つのも良くわかりますが、
プロが仕事をする場では越えてはならない一線というものがあって、
英語に精通していなくて、場をわきまえずにfワードを使いたがる輩とは違い、
インタビューなどであれだけ流暢な英語を話すカウフマンなんですから、
その言葉がどういうインパクトを持つか十分理解した上で発したと思われるだけに、余計に驚きが大きいです。

一人アクティング・アウトするカウフマンに、
側に寄ってきてグラスをのぞきこみ、”もうウォッカにしてもらうしかないわね。(飲まなきゃやってられないわよね、の意か?)”と発言するポプラフスカヤ、
一番やる気無さげ&クールなパペは、場をなごませようとしてか、しきりにパペの歌唱を”素晴らしい!”と賛嘆するネゼ・セギャンに、
いちいち君に大騒ぎしてもらわなくてもそんなことわかってるんだけどな、という調子で、
"I know."と言い放ち、ネゼ・セギャンを呆然状態に陥れ、
その横で、各種の演出上の問題点について、ソリスト達に”その問題もこの問題も治しますから!”と詫びまくっているマカナフ、、。
初日が一週間後に迫っているのにこんな状態で大丈夫なのか、、?と話を聞いているだけでどきどきしてしまいます。



で、時は流れ、その『ファウスト』初日。
老いたファウストがいるのは原爆開発に携わったと思しきラボ(研究室。ただし具体性はなく、架空のラボと言ってもよい。)。
時は原爆が投下されて間もない頃なのでしょう。
この老ファウストにテノールがどのように化け・演じるかもこの作品を実演や映像で観る際の小さな楽しみの一つですが、
このプロダクションでは、ファウストが通常の哲学者ではなく科学者という設定のせいもあり、カウフマンが理系の堅物っぽい雰囲気で登場(二枚目の写真)。
恋もせず研究にいそしんで来て、それでも何もわからないままの自分の人生を嘆き(リブレットの文字通りに行くとそういう解釈になるのですが、
この演出のファウストにはその嘆きにもっと深い意味があることが、オーディエンスには追々判って来ます。)、
毒をあおって死のうとする瞬間、ファウストの前に現れたスタイリッシュな白スーツに身を包んだパペ扮するメフィストフェレス。
まるでファウストとは正反対の雰囲気の、もしかするとファウストが研究に身を捧げていなければ自分もこんな風でありたいと願ったかもしれない、そんな雰囲気の粋な悪魔。
今までのメトのメフィストフェレスが見るからに悪魔悪魔した雰囲気だったのとはまずそこが大きく違います。
(例えばセルバン演出のメフィストフェレスは黒いタキシードを身につけ、白のタキシードを着たファウストに対して、色でその邪悪さをシンボライズしていました。)
実際、契約に同意したカウフマン・ファウストが煙の向こうに消えて、若返った姿で姿を現す時、彼はメフィストフェレスと全く同じ白のスーツ姿で現れ、
メフィストフェレスに憧れ、門入りした弟子のようであり(トップの写真)、
その後もメフィストフェレスと常に衣装が同じであることから、ファウストがメフィストフェレスと対立・対比する別キャラクターなのではなくて、
この演出に於いては、ファウスト=メフィストフェレスでもあることがわかります。



メフィストフェレスがファウストに見せる幻影の中の女性は、ファウストがこれまでに見たことのない女性で、ニ幕でその女性に実際出会って、
ファウストがその女性マルグリートに恋を告白、、という流れの演出が多いと思いますが、
この演出ではその幻影の中の女性が、白衣を着たはこふぐ、、いえ、ポプラフスカヤである点が面白いと思いました。
つまり、マルグリートはファウストのラボの同僚で、彼は彼女にずっと片思いしていた、ということになるのだと思います。

第二次世界大戦直後から30年ほど若返ると、それは大体第一次世界大戦終結の頃になります。
つまり、この演出では、とても簡単に言うと、第一次世界大戦から第二次世界大戦の終結にかけて、
ファウストが原爆投下に加担し、国の繁栄という名分の下に被爆する人の苦しみに目を背けたプロセスを、
マルグリートを死においこむ経緯と結果、自分勝手な快楽のために、彼女の苦しみから目を背けた事へのファウストの後悔と自責の念に重ねて描いており、
自分が犯した罪の深さを知ったファウストは、作品の最後に、再びあの最初の、理系おやじ姿で毒が入っているグラスを手にしている場面に戻りますが、
今度は毒を一気にあおって自分の命を絶ってしまいます。
メフィストフェレスが見事にファウストを死に押しやったというわけです。

ということで、この演出では、作品の大部分をファウストが死に臨んで見た一瞬の幻影である、と解釈することも出来ますし、
オーディエンス側に色んな解釈を許す演出になっています。



ワルプルギスの夜の場面の意味が少しわかりにくいとか、
最後にマルグリートを救うのがラボの人間であるのはなぜなのか?(彼らはファウストと同様に原爆に加担した側の人間ではなかったのか?)といった疑問が残り、
少し収拾がつかなくなったのかな、と思わせる箇所がありますし、
このかなり大胆な読み替えのせいで、舞台がグノーの音楽と今一つマッチしていない箇所もあります。
例えば、ファウストが”この清らかな住まい”を歌う時、彼が歌っているのはもちろん彼女の家そのもののことではなく、
家というものを借りて彼女自身のことを歌っているのであって、よって舞台上の家は彼女の優しさと純真さ、温かさを感じるものでなければならない、と私は思いますが、
まるでラボの延長のような寒々しい雰囲気なのは違和感あり。
一方、トゥーレの王の歌の糸紡ぎは、足踏み式ミシンになってしまっていますが、読み替えにしてはまあまあ雰囲気を留めるのに成功している方かもしれません。
ただ、上に書いたような演出の狙い上、このオペラにおけるロマンス的要素、それから宗教的要素を重視する向きのオーディエンスには
あまり好意的には受け入れられない演出だと思います。
(教会のシーンもマルグリートが天国に上っていく場面も、感動的ではなく、どこか冷ややかな感じがあります。)
しかし、ファウストの苦悩に限ればこのような形で提示したオリジナリティ、これは評価したいと思いますし、
その中でのメフィストフェレスの役の使い方も上手いと思います。
舞台を見終わった時、この作品のこれまでの鑑賞後感とはちょっと違う感触が残るのは面白いと思いました。
舞台演出は必ずしも否定的ではない意味でブロードウェイ的。



ポプラフスカヤはもう少しトップ(高音域)を磨かなければならない、ここに尽きると思います。
大フィアスコだった『椿姫』とは違って、
この役は機敏な音の動きは必要とされないし、中音域くらいまでは、彼女の独特のぼやんとした声の響きがアンニュイな雰囲気を作り上げていて、
特にファウストが姿を見せなくなってからのマルグリートの表現に大変有効だと思うので、
この音色がトップでも保たれたなら、潜在的にはコーリング・カードとなる持ち役になるだろうに、、と思います。
トゥーレの王の歌なんか、途中まではとても良い感じなのですけれど、高音域に入った途端に、音程を追うので精一杯といった雰囲気の、
ブリージーな(息の音が入っているような)魅力的でない音になってしまうものですから、残念です。
ただ、彼女のこの役での演技や佇まいを含めた表現、これはすごく良くて、
私がメトで彼女を見た役は限られていますが(ナターシャ、リュー、エリザベッタ、ヴィオレッタ、そしてマルグリート)、
これまでの中で最も優れた役の掌握と表現だったように思います。



そういえば、この演出では各幕の合間に彼女の顔が幕の上にプロジェクトされ、それがゆっくりと表情を変えたりしてモーフィングしていくという手法がとられていて、
あの四角い顔がメトの大きな幕の上に大写しになって、しかもそれが刻々と変わっていったりするのですから、
彼女のことが苦手なオペラファンには虐待に近い仕打ちかもしれませんが、
これが意外にもなかなか効果的で、というのも、彼女はこうやって顔の表情だけ見ていても非常にエクスプレッシブで、
やっぱり非常に演技が達者な人なんだな、というのを感じます。
これだけ個性的な、しかも一般的に言って人にあまり好意をもたれにくい顔でありながら、
マルグリートの純真さとかある種、子供のような無垢さをきちんと表現できているのはすごいことだと思います。
少なくとも、美人が同じ結果を出すよりもすごいことをなしえているのは間違いありません。

また、ファウストとの間に子供が生まれて村人から陰口を叩かれて精神の均衡を失っていく表現も鬼気迫っていて素晴らしかったです。
この演出では第二次世界大戦というのが大きなバックボーンになっているわけですが、
短髪にされ、子供を抱きながら立っているポプラフスカヤの姿は、ロバート・キャパの作品の中でもとりわけ良く知られている、
ドイツ人兵士との間に子供を作った女性が剃髪され、ハンガリーの街の好奇の目の中を引き回しにされている写真を思い起こさせました。
もちろんこの演出では原爆が爆発する瞬間も取り上げられていて、舞台幕には緑のきのこ雲が浮き上がってそれが散り散りになって行く映像が映りますが、
『ドクター・アトミック』や『トスカ』を観た時のような不快な気分に不思議とならないのは、
この作品において、戦争の力を大きくも小さくもいずれの方向にも歪めることがなく(←『ドクター・アトミック』が失敗している点)、
もちろん話題作りのためだけのわけのわからない道具などでは決してなく(嗚呼、『トスカ』!!)、
ファウストの葛藤を描写するというきちんとした目的のもとに、適切な方法で扱われているからだと思います。



私がオペラの『ファウスト』の公演を成功させるのに絶対欠かせないと思うことの一つにユーモアがあります。
しかも単にユーモラスなだけでなく、作品にあったユーモラスさでなければいけません。
パペのメフィストフェレスは前回のセルバンの旧演出でも好評でしたが、
(そういえばセルバン演出の初日でも彼がメフィストフェレスでしたので、ということは、彼は今回メトで同作品ニ演出連続でオープニングを努めたことになるんですね。)
衣装から何からものすごくカラフルな悪魔で、私の思うユーモアとはちょっと違う感じ、、。
しかし、今回のパペのメフィストフェレス、これはもうすっばらしかったです!!!!
パペに関しては幸運なことにマルケ王やフィリッポなど、優れた歌唱を今までも聴かせてもらっていますが、
それらを押しのけて、今日の彼の歌唱を私ならこれまでに聴いた彼のベストに置くかも知れません。それ位素晴らしかった。
マルケ王やフィリッポよりメフィストフェレス!というのがなんともいえませんが、良いものは良いのですから仕方ない。
まずは彼の声と歌唱のなんと確固としていて丁寧なことよ!
『ボリス・ゴドゥノフ』をはじめ、最近、時に声の焦点が今一つ合っていないような、スカスカした感じを感じることもあった彼の声ですが、
今日の彼の声を聴いた瞬間、”私が以前から知っているパペはこれなのよー!今日のパペはこれは来るぞー!!!”とわくわくしてしまいました。



そして、黄金の子牛の歌!!!!これがもう大爆発!
僕に歌わせてくれたら失望させないけどね、、と何気なく普通の人を装いつつ、
村人から歌うのを許されて曲が始まった途端、みるみるうちに声に異様な光が宿り始めるのですが、
このコントラストと少しずつ悪魔の匂いが立ち込めていくような表現が実に上手い。
ずっしりと中身の詰まった重いサンドバッグのような今日のパペの声の中には、村人を催眠にかけるような甘い響きが若干混じりながら、
かと思うと、村人たちが我を忘れてメフィストフェレスを囲んで踊り始めると、それを決して止めさせないかのような権威溢れる強制的な響きもあり、
村人全員がアンデルセンの童話『赤い靴』の少女のように見えてきました。
超ド級の素晴らしい歌唱に負けず劣らずびっくりしたのは、パペのダンスです。
特に歌い終わった後、洗脳された村人をバックに自身、腕や足をかくかくと折り曲げて踊る姿はあまりに強烈過ぎて、
公演後から数日経った今も脳裏に焼きついて離れないくらい怖かったです、、、。
こんな危ない人、どう考えたって悪魔なんですから、どうして村人は十字架で追い詰めるだけでなく、徹底的にやっつけないのか?!と不思議に思います。
そういえば、その十字架に追い詰められるシーンも、床に這いつくばってのたうちまわって苦しがっているかと思うと、
力尽きてべたんと大の字で舞台の上に張り付いたりして、パペの体当たり演技が炸裂しています。



しかし、この第二幕で唯一壊れた姿を晒す以外は、至ってクールでスタイリッシュな悪魔で、かと思うと、
ウェンディ・ホワイトが年増のいけてない女的味付けで怪演しているマルト役との絡みでは、
悪魔のメフィストフェレスですら、このマルトにはほとほと手を焼いてたじたじ、、となってしまう様子を可愛くパペが歌い演じていて、
二人の息もすごく合っていて、とてもキュートな場面に仕上がっています(5つ目の写真)。
この演出が持っている重いテーマと冷たい雰囲気の中では、メフィストフェレスをあまり重厚に歌い演じすぎると、
全体が非常に重苦しい仕上がりになっていた可能性もありますが、パペはここにメフィストフェレスという役を通して
絶妙の加減で粋さ・お茶目さを加えており、公演が全体としてバランスよく仕上がったのはひとえにパペの力が大きかったと私は思っています。



全く意外なことに、三人のメインのソリストの中で一番精彩を欠いているように私に感じられたのはカウフマンです。
最近どこかの記事で書いた通り、カウフマンは今NYで異常な程人気があって、彼が九九を唱えただけでも”素晴らしい!”と言う人がいるのではないかと思えるほどで、
今回の『ファウスト』での彼のパフォーマンスにも高評価を与えている人がたくさんいるみたいですが、
今日みたいな演奏で彼に高評価を与える人たちというのは、彼の本当の実力をすごく低く見積もっているんだな、という風に思います。

まず、歌一つとっても全然本調子ではなかったと思います。
それは”この清らかな住まい”であちこちの音でピッチを狂わせていたことにも現れていて、
(ハイCはこのまま行くとやばいのではないか?と思いましたが、音が荒れ気味になりながらも、何とか切り抜けていました。)
ピッチが狂うということは、すなわち音のコントロールが完全には出来ていないということであって、そういう状況のもとで、
自分の思い通りに役、なかでもこの『ファウスト』のタイトル・ロールのような役を歌うことは至難です。

歌手にはコンディションというものがあって、いつも完璧な歌を歌える人なんていませんから、歌については、
まあ、運が悪かったな、ということで、仕方ないか、とも思えるのですが、
それよりも私が今回の公演で気になっているのは、カウフマンがこの演出の中でどのようにファウストという役を表現すべきか、
途方に暮れているように見えた点です。
ポプラフスカヤはクールな中に純真さと激しい情熱を秘めたマルグリートをストレートに好演(歌はもう一頑張りですが、、)し、
パペはベテランらしく、作品や演出全体のバランスを考えながら、実に巧みにユーモアと茶目っ気と粋さのあるメフィストフェレスを作りあげました。
で、カウフマンのファウストはどんな?と言われると、実に薄味で、こういうファウストだった!と形容できるような個性が全然ないのです。

歌の方では、マルグリートを思う気持ちを美しいピアニッシモにのせて歌ったり、
初めてマルグリートと実際に出会う場面では、非常に柔らかく歌いだしているのが、
彼女を驚かせたりおびえさせたりしないように、と内気な彼女を気遣うファウストの優しい気性を表現していたり、と、細かい工夫は見られるのですが、
細かい部分というのは、まず最初に大きな役柄の掌握、その人物はどんな人間なのか、という解釈があって、そのうえで初めて意味を持つもので、
そのベースがなかったら、どんな工夫も上滑りして、味気のないものになってしまいます。

カウフマンは他のテノールに比べて特別に声が綺麗なわけではないし(個性の強い声ゆえにいやがられるケースはあれど、、)、
クラウスのような抜群に洗練された美しい歌唱を誇る歌手でもありません。そんなことは本人もよくわかっているでしょう。
私が彼を優れた歌手であると思うのは、ひとえに、作品におけるドラマを自分の血肉と化し、
それを極めて高いレベルで歌と演技に乗せられるという、その能力ゆえです。
あのボンディの糞『トスカ』に新しい力を与え、
『カルメン』ではオーディエンスが息もつけない位の激しい愛と根本的な部分が違い過ぎる男女にそれが重なるとどのような悲劇を生むかを見事に表現し、
『ワルキューレ』ではほとんどの歌手がマシーンの存在に押し潰されて何のドラマも持ち込むことが出来ずにいた新リングに、強い息吹を与えた、
そのカウフマンですから、どんな質の悪い演出であっても”見せてしまえる”力を持っているのではないかと思っていたのですが、、、。

彼がアクト・アウトしたのは、もしかすると、なかなかこの演出の中で自分のファウストを摑めない苛立ちがあったからかもしれませんが、
時には一歩下がって冷静に、時にはパペのようにほとんどやる気が無いかのように振舞って見るのも必要かもしれません。
かっとなり過ぎて見えなくなってしまうということも時にはあるでしょう。
短期間でも演技をアジャストする高い能力を持っているカウフマンですので、HDの日までには自分のファウスト像はこうだ!というような
確固としたものが出来上がっているといいな、と思います。



ネゼ・セギャンは割りと本番に強いタイプなんでしょうか、
リハーサルでは心許なかったらしい部分も、なんとか無難に切り抜け、特に後半から終りにかけては熱のある演奏だったと思います。
彼はフランス系カナダ人ですので、この作品ではもしかすると、もうちょっと優雅で線の細い流麗な演奏をするかしら?と思っていたのですが、
どちらかというとストレート、がつがつと押すような、若気を感じる演奏でした。
彼はまだまだ若さと熱で押す傾向があって、そういう部分もいくらかはあっても良いと思いますが、
いつまでも若手ではないのですから、もうちょっと緻密な構築、それから歌手の呼吸というものを理解出来るようにならないといけないんじゃないかと思います。
カウフマンのアリアの中で、息が合っていない箇所があったし、そういう時のオケのまとめ方、乗り越えさせ方も若干未熟だという風に感じます。

ラッセル・ブローンのヴァランタンは声がひ弱で、表現もやや稚拙で期待外れ。
シーベル役を歌ったフランス系カナダ人のロジェは、メトには最近脇役でしっかりした力を持った若手を見かけることが多く、
嬉しく思っているのですが、まさにそんな若手の一人に数えられる出来でした。
(ただし、件の私の友人であるフランス出身のヘッドには、”彼女のフランス語にはカナダ訛りがある。”と言われてました。厳しい~!
ちなみに他の歌手は?と尋ねると、”全員、カタストロフィック!”と言っていて、さらにびっくり。
カウフマンはスカラでご一緒したフランス人の獣医さんによれば、少なくとも話し言葉はネイティブのようだそうですし、
フランス語のディクションは良い、と一般的に言われていますから、彼が格別に厳しいのだと思いますが。)


Jonas Kaufmann (Faust)
René Pape (Méphistophélès)
Marina Poplavskaya (Marguerite)
Russell Braun (Valentin)
Michèle Losier (Siébel)
Wendy White (Marthe)
Jonathan Beyer (Wagner)

Conductor: Yannick Nézet-Séguin
Production: Des McAnuff
Set design: Robert Brill
Costume design: Paul Tazewell
Lighting design: Peter Mumford
Choreography: Kelly Devine
Video design: Sean Nieuwenhuis

Gr Tier Box 37 Front
ON

*** グノー ファウスト Gounod Faust ***

SATYAGRAHA (Sat Mtn, Nov 19, 2011)

2011-11-19 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演をオペラハウスで観たものの感想です。ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。

、、、と書いては見たものの、すぐに感想を起こせそうにありません。まだ記事にしていない公演のプレイビルの山が今にも崩れそうになりながら机の上にのっかっております。
(今は『ロデリンダ』の感想を書いているところ とハートマークで誤魔化してみる。)

しかし、こちらの記事のコメント欄から、皆様の感想を吐き出したい~という熱い思いを感じましたので、
とりあえず、記事の枠だけあげてみました。こちらの記事のコメント欄を皆様のご感想の交換の場所にして頂けたらと思います。
私の感想日記が追いつきましたら、こちらの記事をトップにして、皆様に完成をお知らせするアラートを出すように致します。

プリトラナヤサドゥナ~ム
ヴィナシャヤチュドウースクリタ~ム
ダルマサンサターナルタヤ~
サンバヴァメ ユ~ゲ ユ~ゲ♪


Richard Croft (M. K. Gandhi)
Bradley Garvin (Prince Arjuna)
Richard Bernstein ((Lord Krishna)
Rachelle Durkin (Miss Schlesen)
Molly Fillmore (Mrs. Naidoo)
Maria Zifchak (Kasturbai)
Kim Josephson (Mr. Kallenbach)
Alfred Walker (Parsi Rustomji)
Mary Phillips (Mrs. Alexander)

Conductor: Dante Anzolini
Production: Phelim McDermott
Associate director / Set design: Julian Crouch
Costume design: Kevin Pollard
Lighting design: Paule Constable
Video design: Leo Warner, Mark Grimmer of Fifty Nine Productions

Dr Circ A Even
NA

*** グラス サティアグラハ Glass Satyagraha ***

2011 RICHARD TUCKER GALA (Sun, Nov 6, 2011)

2011-11-06 | 演奏会・リサイタル
今年もタッカー・ガラの日がやって来ました。
いつも思うのは、このガラのオーディエンスって、私も含めて、本当にこの日を楽しみにしているんだなあ、、ということ。
オペラハウスの公演ではどんな歌か、どんな演出か、聴いて&観てやろうじゃないの、という雰囲気の人が混じっていたり(あれ?あたしのこと?)、
この役はこんな人が歌っちゃいけない、とか言い出す人がいて(あれ?これもあたし、、?)、面倒くさい。
一転、タッカー・ガラのオーディンスの大部分は基本的にメトの客と共通したお客さんのはずなんですが、
今日はお祭りだから、とにかく歌を楽しもう!という雰囲気がホールに溢れていて、
NYで行われるオペラ関連の公演・イベントの中でも、”その場にいるだけでハッピーになれる度”はこのガラが最高なんじゃないかと思います。

羊飼いに追われる羊のように、アッシャーに誘導される遅刻客たちを横目にエマニュエル・ヴィヨームが指揮するメト・オケが繰り出すのは、
『サムソンとデリラ』のバッカナール。
実は私、土曜日(11/5)の『ジークフリート』のオケの演奏にとても失望したんですが、今日の方がいつもの彼ららしい音が戻っていて、ほっとしました。
(ただ、ヴィヨームの指揮はとても一級と呼べるものではなく、プログラム後半の『カヴァレリア・ルスティカーナ』からの抜粋では、
軽く崩壊しそうになっている箇所もありました。だからカヴは難しいよ、と常日頃からこのブログでワーニングしているのに、、。)

ガラの開始にバッカナール?と思いましたが、なにやら怪しげ&エキゾチック&エッチな曲想が意外とガラのオープニングに合っていて、
ふーん、なら来年はまっぱの女性でも呼んで『サロメ』の7つのヴェールの踊りからキック・オフする手もあるな、、と思いました。

バッカナールの演奏が終わると例によってバリーさん(リチャード・タッカーのご子息)のスピーチあり。
”タッカー・ガラが始まって以来、いくつかの素晴らしい慣習も生まれました。私のこのスピーチもその一つですけれども、、”
相変わらず口角滑らかに飛ばしまくるバリーさん、
”もう一つは毎年恒例のキャスト・チェンジですね。”という言葉があって、
今回キャンセルになった歌手と元々は予定されていなかったにも関わらず、数日前に飛び入りを決めてくれた歌手の紹介がありました。
キャンセルになった歌手はマリーナ・ポプラフスカヤとマルチェッロ・ジョルダーニ。つい”イェイ!”と小声で言ってしまいそうになりましたが、
ジョルダーニはお母様の具合が思わしくなく、シチリアに里帰り中なのはお気の毒です。
ジョルダーニといえば、実は今日から数えて直前の月曜(10/31)に、彼が率いるマルチェッロ・ジョルダーニ・ファンデーションのガラもあって、
その時はご本人が姿を見せていくつかの曲で歌唱を披露していたのですが、
さすがに自分の名前を冠したイベントを抜けるわけにはいかない、、ということだったのかもしれません。

そうそう、このジョルダーニ・ファンデーション・ガラの開始をロビーで待っている時、ソファに見覚えのある白髪の女性を発見!番長です!!
実はジョルダーニ・ガラの三日前の金曜日(10/28)、アンジェラ・ミードが出演した『アンナ・ボレーナ』で出待ちをしたのですが、
翌日の雪(そう、NYはなんと10月から大量の雪が降ったのです!)を予感させる激寒度と終演時間の遅さのせいもあって、
ステージドアに集まったのは出待ちの常連メンバーを中心としたたった6人ほどの小さなグループでした。
当然その中に番長もいて、お互いに随分たくさん言葉も交わしたので、
ジョルダーニ・ガラの会場であるカウフマン・センターのロビーのソファの、番長の横に腰掛けて”またお会いしましたね。”とご挨拶をすると、
”え?どこで?”と言われたのにはずっこけました。
”金曜の『アンナ・ボレーナ』のステージドアで、、。”と言うと、”おお!”と言ってましたが、絶対覚えてないと見ました。
でも、ミードの話をし始めると、なんとなーく記憶が蘇って来たのか、エンジンがかかり始めて、
私が彼女聴きたさにピッツバーグタングルウッドまで足を延ばした話をすると、
”ヴェルレクはどんなだった?””一緒に歌ったソリストは誰?””タングルウッドまではどうやって行った?”と質問の嵐。
しかも、”いいわね、タングルウッド、、。私は車を運転できないし、最近は歳のせいでとんと視力が悪くなって、
キャラモアですら暗闇が億劫で(インターミッションでトイレに駆け込むルートは確かに真っ暗だったな、、。)足が遠のいて、、。”なんて悲しそうにおっしゃるものですから、
つい、”じゃ鑑賞されたい時は事前に連絡下さい。私が連れて行って差し上げますから。(運転するのは連れだけど。)”と口走ってしまいました。
ついでに言うと、番長は視力だけでなく聴力にもかなり衰えが来ているようで、私が言葉を発するたびに必ず、
”あ?”と言いながら、白い頭を私の口元にマイクのように差し出していらっしゃるのがキュートです。

ミードの情報を色々交換した後、私がカウフマンも好きで、”昨日(10/27)はメトで催された彼のリサイタルにも行きました、というお話をすると、
”じゃあね、いいこと教えてあげる。昨日、あたし、バリーと話したのよ。そしたら、彼が、まだ秘密の話なんだけど、
今年のタッカー・ガラのスペシャル・ゲストとしてカウフマンが参加してくれることになった、と言って喜んでたわよ。”
この時点ではまだカウフマンが飛び入り参加するという情報は公にはもちろん噂にすらも出ていなかったので、
”きゃーっ!!本当??”と番長の手を摑んで大喜びしていると、
番長が頷きながら、”まだ誰にも言っちゃだめよ。まあ、(こんなニュースを誰にも漏らさずに)あなたが口を閉じていることが出来ればの話だけど。”
、、、、ん? 
私は秘密を守れる人間ですけど(なのでこの件に関してはお知らせとしてもコメント欄の中でもふれるのを控えていたのです。)、
早速にそれをあちこちで吹聴してまわっているのは一体どこの誰なんだか。
ほんとこんなおしゃべりな人に大切な秘密を漏らすバリーさんもバリーさんですよ、まったく。

いよいよジョルダーニ・ガラのための演奏場所が開場され、”またお話しましょうね。”と約束し合いながら立ち上がると、番長は、
”さてと。終演後はどうやってレセプション(歌手を交えた立食パーティー。そこに番長が招待されていないことは言うまでもない。)に
紛れ込もうかしらね。”と言って立ち去って行きました。
、、、さすがだわ、番長、、、。

というわけで、今日のタッカー・ガラ、飛び入り組の一人はヨナス・カウフマンです。大喝采のオーディエンス。
さらに”そしてもう一人は、、アニタ・ラク、、ラク、、”といきなり名前をかんでしまうバリーさん。
その気持ち、わかります、、私も何度書いても憶えられないですから
しまいには、”まあ、とにかく、すごい子(girl)です。”とまとめに入るバリーさん、苗字をgirlで誤魔化すな、って感じですけれども、
そのアニタ・ラクヴェリシヴィリとカウフマンが『カルメン』のラスト・シーンを披露してくれます、という言葉に、またしても喜びの雄たけびをあげるオーディエンス!!
だって、この二人はスカラの2009/10年シーズンのオープニングで共演し、その演目が他ならない『カルメン』だったわけですから、
うおーっ!!あれを生で聴けるのー!?と興奮の坩堝になるのも無理からん。

そして、いよいよこのガラの最大の趣旨ともいえる今年のタッカー賞受賞者の紹介がありました。
今年の受賞者はアンジェラ・ミードです。
だめだ、カウフマンにミード、、、至福のあまり、死んでしまいそう、、。

GIUSEPPE VERDI "Santo di patria" from Attila (Angela Meade, Soprano / New York Choral Society)

毎年タッカー・ガラの歌唱プログラムの先陣はその受賞者が切ることになっています。
ここで受賞者としての名にふさわしい内容の歌唱を披露しなければならず、自分の個性と今の声質にあった曲選びが重要です。
なので、彼女がそこに『アッティラ』の”神聖で限りのない祖国愛です”を持ってきたというのは、私にはちょっと驚きでした。
『アッティラ』は2009/10年シーズンにメトでムーティが指揮をして話題になりましたが、石仏アウディの手による演出はそれはひどいものでしたし、
ムーティはムーティで”メトの観客はbunch of peasants(田舎者の集まり)”と思っているそうですので、
あの作品が戻って来ることは二度とないかもな、と思っていたのですが、
もしかすると、いくらひどい演出といえども、もうちょっと新演出からは元をとらにゃあ、ということで、
オダベッラ役にミードを据えた再演をメトは画策しているのではないか、、と深読みしてしまいます。
なぜなら、そうでもなければ、彼女がこの曲をこの大事な場に持ってくる理由の説明がつかないのですよね、、。
私のようなミード・マニア、つまり、彼女の現在の力だけでなく、今まで&これからのキャリア・パスにも興味がある人間には、
今日の歌唱も大いに興味深く、彼女の今のいる場所、今現在の強みとその逆、といったことを知るのに示唆の多いものなんですが、
そうでないオーディエンスは、やはり今の彼女がオファーできる最高のものを聴きたいはずなのであって、それでいうとこの選曲には若干疑問を感じずにはいられませんでした。
件の石仏&ムーティの『アッティラ』でオダベッラ役を歌ったのはウルマナでした。
ウルマナの起用で成功していたな、と思う点は彼女の声の成熟度と低音域の強さなんですが、この二点はミードがまだこれから身につけていくであろう部分で、
ミードの声は以前よりは少し重たくなったとはいえ、やはりまだ年齢が若いせいもあって、スケールがありながらも軽さのある声です。
また、私は彼女の高音域から低音域まで比較的音色が統一されている彼女の歌声が大好きですが、
元メゾであったというウルマナとは低音域だけを取り出して比較すると、迫力負けするのは否めません。
この曲に必要な難技巧は相変わらず巧みにこなしていましたが、それらの技巧だけでは越えられない声質の部分が少し足を引っ張ったと思います。
もちろんタッカー・ガラの受賞者としてふさわしい歌唱のラインは楽々クリアしていましたが、
今の彼女のベスト・オブ・ベストを引き出せる選曲は他にあったのではないかな、、というのが私の考えです。

この後にジョルダーニが『ラ・ジョコンダ』から”空と海”を歌う予定でしたが上に書いた理由によりプログラム自体がスキップされました。
引き続いては、、、

 GIUSEPPE VERDI "Eri tu" from Un Ballo in Maschera (Željko Lučić, Baritone)

なぜかタッカー・ガラには頻度高く現れ(2009年2008年)、しかもいつも良い内容の歌唱を聴かせてくれるので(時にはメトでの全幕公演よりも印象が強いことも、、。)
何気に私にお祭り好き疑惑をもたれていたルチーチ。
しかも今年の選曲が『仮面舞踏会』の”お前こそ心を汚す者”と知れば否が応でも期待が高まるというものです。
なのに、ここであっさりと期待を裏切るところがルチーチなんだなあ、、。
彼のこの歌唱の好・不調の波の大きさ(メトの全幕の舞台でも良い時と悪い時の波が結構あります。)は、
私ははっきり言って煙草のせいなんではないかと思っています。
Opera Newsのインタビューで明かしていました通り、彼はスモーカーで、その記事では食後に一本たしなむ程度、なんて言ってましたが、
大体そんなことはありえないんであって、実際、メトでもよく煙草休憩に出ている姿が目撃されています。
煙草が声に影響がないなどという主張は幻想以外の何者でもないことくらい、ヘビースモーカーをやったことがある人なら誰でもわかることです。
声の美しさ、フレージングの美しさという点においては素晴らしいものを持っている彼が、
苦しそうなブレス、荒れた声のせいでその長所を発揮できずに、この曲の美しさを繊細に伝えられていなかったのを非常に残念に思います。
今度メトで彼が煙草を吸っているところを見かけたら、頭からバケツ一杯の水をかぶせてしまうと思うので注意して頂きたいです。

GAETANO DONIZETTI "Udite, udite, o rustici" from L'Elisir d'Amore (Bryn Terfel, Bass-baritone / New York Choral Society)

素敵なベルベットのジャケットを着崩し、シャツをズボンからはみ出させ、
ヘロヘロの千鳥足でビール瓶を持って舞台袖から現れた歌手の姿に、隣のおばあ様も思わず”あれ誰?”と思わず私に耳打ちされたのはブリン・ターフェル。
一体こんな格好で何を歌うのかと思えば、ドニゼッティの『愛の妙薬』から”お聞きあれ、村の衆”。なるほど(笑)
本来のストーリーからするとドゥルカマーラ自身が酔っ払っている必要はないとは思いますが、飲んだくれのドゥルカマーラ、これも一つの表現方法ではあります。
まあ、それにしても彼はこういうコメディックな演技をさせると上手いです、本当に。
歌いながらビール瓶を指揮者に渡したかと思うと、すぐに二本目の瓶がするりと手の裏から現れたり、ブリンってばマジシャンみたい!
しまいには歌の合い間に瓶に口をつけるわ、指揮者にも飲むことを強制するわ、大変なことになって来ました、、。
歌い終わった後には、オケが後奏を演奏している間にビールまる一本をごくごくとあおり始め、
飲み切る最後の瞬間(すごい勢いで本当に全部飲んでました。)に最後の音が来るよう、
その前の音を延々と延ばさせるというエンターテイナーぶりにオーディエンスも大湧きに湧きました。
私はメトの新リングが登場して以来、残念ながら彼はヴォータンを歌いこなせる声もキャラも持っていない、と思っているんですが、
今日のこの曲、それからラストの『ファルスタッフ』の歌唱などを聴くと、ますますその思いを強くします。
彼にベル・カントは軽すぎる、と思う向きもあるかもしれませんが、私は全然そう思わなくて、彼の良いところが集約されていると思いました。
一瞬、酔いが醒めた演技を入れながら、真面目に歌った一フレーズでの声の美しさは際立っていて、
無理なレパートリーでなければまだまだこういう音色を出せる歌手なんだというのを再認識します。
演技ももちろんすごくおかしかったですが、何よりもベースにある歌が良かったために一層楽しめた、そのように思います。

 PIETRO MASCAGNI "Mamma, quel vino é generoso" from Cavalleria Rusticana (Jonas Kaufmann, Tenor)

ブリンが笑いの大ストームを観客に巻き起こしたこの後に歌う歌手は可哀想だな、、と思ってプログラムを見ると、次はカウフマンでした
しかも曲がマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』から”母さん、あの酒は強いね”、、って、これほどドゥルカマーラのアリアから程遠いところにある曲もないわな、、。
カウフマンもこれにはさすがに舞台に登場して、”ちょっと困りました。”というジェスチャーをしてみせたものの、
歌い始めた途端、ついさっきブリンが作り上げた陽気なムードを、一瞬にして陰鬱なムードに変えてみせます。
カウフマンとヴェリズモと言えば、アリア集のCDも出しているし、最近のコンサートでもいくつかプログラムに取り上げているようですが、
NYでは、つい先日のリサイタル(10/30。記事はまだこれからです。)も全てリートだったので、ヴェリズモ初披露ということになります。
(そのヴェリズモ集のプロモ・ビデオの中で、彼はプッチーニの作品は少し違った特性を持っているので意識的にヴェリズモ集に入れなかった、というコメントをしていましたので、
それに従い、彼がメトで歌った『トスカ』はここでは除外します。)
そのリサイタルではアンコールを4曲披露するという大サービスだったのですが、少しサービスし過ぎたか、
プログラムそのものは好調に歌い終えたのですが、一番最後のアンコールあたりでちょっと疲れが出た感じがあり、
今日のガラと8日のOONY(オペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨーク)の『アドリアーナ・ルクヴルール』は大丈夫かしら、、?と心配してました。
今日の歌唱を聴くと、コンディションは必ずしも最高とは言えなくて、声にややざらっとしたテクスチャーがあり、
音を自分の思うところに入れるのに少し苦労をしているような印象を持つところもありました。
彼が好調な時に感じられる声のスピード、声の飛ぶ速さ、またそれに応じて起こる、音をすぱっと止めた時にしばらく生まれる残響といった面では、
いつもの片鱗を感じさせる程度に留まったと思います。
しかし、常日頃このブログで言っているように、毎日が絶好調な歌手なんていないのです。
不調な時にどれだけ声をコントロール出来るか、これが良い歌手とそうでない歌手の分かれ目で、
彼が大きくブレークしたのはこれを出来る歌手になったところが大きいと私は思っているのですが、その確信をさらに強める内容の歌唱だったと思います。
ここらへんの作品を歌うには彼の声の暗い音色はよく合っていると思いますが、
一般的にヴェリズモと言った時に思い浮かぶ”テノールばか”的熱血要素は希薄で、
むしろ、半歩下がって自分を冷ややかに見つめているような、そういう種類の怖さがある表現で、
このあたりの雰囲気をどう感じるかが、彼のヴェリズモ作品での評価をわけるかな、という風に思います。
カヴ・パグをばりばりメインのレパートリーに据えられるほど彼の声がロブストだとは私は思わないので、
もし全幕に登場することがあるとしても、限られた回数になるのではないかな、と思います。ぜひその限られた回数をメトに割り振って頂きたい!

AMBROISE THOMAS "Connais-tu le pays" from Mignon (Stephanie Blythe, Mezzo-soprano)

リングのフリッカ、それに今シーズンはアムネリス、と、メトの全幕公演では重量級の役が多いステファニー・ブライスなので、
トマの『ミニョン』から”君よ知るや南の国”というのはちょっと意外な選曲でした。
最初は声のスケールが曲を凌駕し過ぎているような印象も持ちましたが、彼女のすごいところはそれでもいつも最後にはねじ伏せてしまうところで、
このどんなレパートリーでも自分のものにしてしまう力というのはすごいです。
テッシトゥーラとの関係から、彼女の泣きが入るような独特の音色とこの曲で多用されている音域がちょうど重なるところにあって、
それがこのアリアが歌われる場面のノスタルジーと哀愁を上手く伝えていたと思います。

 PYOTR ILYICH TCHAIKOVSKY "Tsar vishnikh sil" from The Maid of Orleans (Dolora Zajick, Mezzo-soprano / New York Choral Society)

ブライスの直後にザジックを据えるとは、タッカー・ガラ・ファンデーションも本当に心憎いことをすると思いました。
この二人をこんなに直に比べられる機会ってまずないですから、、。
最初は声の面では一番良い年齢にあるブライスのすぐ後に超ベテランのザジックを置くなんて、
すごいチャレンジをザジックに突きつけたもんだ、と思いましたが、この彼女の歌を聴くと、そうではなくて信頼の現れなのかもな、と思えて来ます。
チャイコフスキーの『オルレアンの少女』は、ジャンヌのアリア”さようなら、ふるさとの丘よ畑よ”が2009年のタッカー・ガラでグレギーナによって取り上げられましたが、
今回はそのアリアではなく、第一幕の合唱を伴ったシーンである”天上の王よ”。
今年もまた私が忌み嫌っているニューヨーク・コーラル・ソサエティが合唱に参加していて、
彼らの肉のついていないふくらはぎのような、情けない腑抜けサウンドを聴くといつもげんなりするのですが、
今年も教会の合唱団のようなぽわーんとした場違いな音に、冒頭の『アッティラ』なんかでは”ここは教会じゃのよ、きーっ!!”とさせられましたが、
この『オルレアンの少女』に限っては、場面が場面だけに彼らの賛美歌的サウンドがかろうじて功を奏していたといえます。
オケが加わるとかなり分厚いサウンドになる場面なんですが、ザジックのぴん!とした透明度の高い硬質な音は、
最近音が若干痩せ始めたと感じる彼女ですが、それでもすごい破壊力を持っていて、
なぜ彼女がずっとメトでヴェルディのメゾ・ロールを第一線で歌って来れたか、ということを思い出させてくれます。
ブライスのような何でも歌える柔軟性はザジックにはないかもしれませんが、
彼女の個性にマッチしたレパートリーを歌った時の彼女の歌声はまだまだ素晴らしく、
あらためて実力の割りにアメリカ国外で過小評価されてきたメゾだと思わずにいられません。

 JULES MASSNET "O souverain, ô juge, ô père" from Le Cid (Yonghoon Lee, Tenor)

ずっと聴く機会を逃し続けて、遅ればせながら、やっと初めて生で聴く事が出来ました。
マスネの『ル・シッド』から”おお、父なる主よ、我を裁きたもう”を歌ったオペラ界のヨン様(=ヨンフン・リー)。
いやー、この人は面白い個性をしてますね。面白く感じたという点では今回のガラ参加メンバー中一番だったかもしれません。
私はこれまでシリウスやYouTubeで聴いた感じなどから彼のことをものすごいデカ声なのかな、と思っていたのですが、
単なる物理的デカ声ではないんだな、と感じました。彼の声を大きく聴こえさせているのは響きではないかと思います。
特に高音に入る独特のぴんとした音、これはかなり特徴的で、彼の声に鋭さを与え、実際よりもさらに大きく聴こえる原因になっていると思います。
彼の場合、面白いのは高音の方が音が自然で綺麗な点で、むしろ中音域から少し上にかけたあたりに若干作ったようなあまり耳障りの良くない音色がある点で、
そこで無理な負担が喉にかかっていないといいなと思います。
彼の発声はかなり文字通りの体当たり方式で、全身を使って音を出す!という感じで、ガラの場合はそれでも良いと思いますが、
演技をしながらこんな体一杯使った発声が可能なんだろうか、、?と全幕の舞台について一抹の不安を感じないでもありません。
歌唱はまだ洗練しきれているとは言いがたく、荒削りな部分もありますが、人一倍のパッション、これはあって、
最後の音の鋭さ、大きさ、長さは火を吹いてました。こういう観客に熱狂を生み出す力というのも侮れないものです。

VINCENZO BELLINI Finale of Act I of Norma (Angela Meade, Soprano / Dolora Zajick, Mezzo-soprano / Frank Porreta, Tenor / New York Choral Society)



ミードと言えば、”清き女神よ Casta Diva"で何度もコンクールやナショナル・カウンシルで優勝・ファイナリストの座を勝ち取り、
キャラモアで歌った全幕の公演でNYのファンに”彼女は本物”という評価を決定づけさせた経緯があるので、『ノルマ』は彼女にとっても一番大事なレパートリーであるはずです。
もしかすると、今日のガラでも一曲目に歌うのはCasta Divaかな?とも予想していたのですが、
Casta Divaはこれまで多くの場で歌っているだけに、却って違う面も見せたい、と考えた結果がアッティラからの選曲になったのかもしれません。
しかし、当然のことながら、彼女にとって『ノルマ』が特別な作品であることはなんら変わりなく、
この作品の一幕のフィナーレを、アダルジーザ役にザジックを迎えて披露してくれました。
ポッリオーネ役にはジョルダーニが入る予定でしたが、キャンセルに伴い強制連行されて来たのはフランク・ポッレッタというテノール。
このポッレッタの歌唱はあまりにふがいなく、声がほとんど聴こえないわ、聴こえたら聴こえたで、がさがさのわにの鱗のような音だわ、
はっきり言ってこんな歌唱を聴かされる位なら、もうそのパートは空白で、オケの演奏だけにしておいてくれても良かったのに、、と思います。
私の好きなミードとザジックの一騎打ちという、この貴重な機会に水をさしやがって、、と怒りが渦巻いてしまいました。
大体フランク・ポッレッタという間抜けた名前もいけないんじゃないかと思います。もうちょっと締まった名前に改名して、締まった歌を聴かせてほしい。
さて、女性二人についてですが、ミードは大先輩ザジックの胸を借りて歌った、という感じでしたが、今は全然それで良いと思います。
それにしてもザジックの余裕、これはすごいです。一緒に歌っている歌手とオケ、それを感じながら歌っているのが本当に良く伝わって来る。
ミードも才能溢れる素晴らしい歌手ですけれど、この余裕だけはキャリアを経てのみ身について行くものなんじゃないかな、と思います。
ミードはメトで近い将来『ノルマ』を歌う予定があるみたいですが、アダルジーザは誰が歌うのでしょう?

この後にはポプラフスカヤがマイアベーアの『悪魔ロベール』から”ロベール、ロベール、私が愛するあなた”を歌う予定でしたが、これもスキップで次は

GIUSEPPE VERDI "Dio, che nell'alma infondere" from Don Carlo (Jonas Kaufmann, Tenor / Bryn Terfel, Bass-baritone / New York Choral Society)

カウフマンとターフェルのコンビでヴェルディ『ドン・カルロ』からカルロとロドリーゴの二重唱(”われらの胸に友情を”)を含む場面。
ターフェルは『愛の妙薬』はあんなに良かったのに、『ドン・カルロ』になるともういつものがなり調が復活でがっかりです。
YouTubeにいつの年のものだかわかりませんが、ターフェルがセルゲイ・ラリンとこの曲を歌った映像があるんですけれど、
当時の歌声、それからそれが可能にしていた丁寧な歌いまわしが今のターフェルには全く出来なくなっているように思います。
カウフマンとオケに押されまいとがなればがなるほど、ブレスの使い方がいきあたりばったりになってリズムを無視して言葉がフライング気味になるなど、
アンサンブルの面で相当な問題があり、そのあまりなことは、私、これはターフェルからカウフマンへの嫌がらせ、、?と思ってしまったほどです。
カウフマンはそれに挫けず、マイペースで自分のパートを歌っていましたが、これは二重唱ですからね、、二人ともが良くないと、、。
カウフマンは今NYのオーディエンスに異常なほどに人気があるので、そのあたりに”けっ!”と思っている部分があるのか(男の嫉妬は怖い怖い。)、
カウフマンのようにオーディエンスに対していつも礼儀正しいのは良い子ぶりっ子に見えてその辺りが自分のキャラとそりが合わないと思っているのか、
歌い終わった時にカウフマンが二人でがっちりとハグし合う演技を入れようとするのを明らかに
”そんな女々しい、ざーとらしいことやってられるか。”と嫌がる仕草があって、
代わりに曲が終わった後に代わりに自分から握手のために手を差し出したりしてましたが、なんだか妙な空気が流れた瞬間でした。
ただ、カウフマンのリサイタルではパーテールのご招待席にふんぞり返って拍手もろくにしてなかったパペとは違い、
グランド・ティアー(なんでまたそんな普通の席に、、。)に座って、
終演後には他の客に負けない位長く一生懸命に拍手をしていたターフェルの姿を私は目撃しておりますから、
彼がハグを嫌がったのは多分女々しいのが嫌だ、くらいのことなのではないかと思います。
でもカルロとロドリーゴの男の友情にはそんな、ターフェルが女々しいと感じるような側面も確かにありますからね。照れてちゃいけません。

GIACOMO PUCCINI "Vissi d'arte" from Tosca (Maria Guleghina, Soprano)

私がオペラの実演鑑賞、なかでもメトのそれにはまったのはグレギーナのカヴ(『カヴァレリア・ルスティカーナ』)がきっかけであったのは以前お話した通り。
だからこそ、以前彼女がとても得意にしていたはずのドラマティックな役柄で、高音は聴くに絶えないような絶叫になっているわ、
細かい声のコントロールは出来ていないわ、といったことがコンスタントに全幕公演で観察されるようになってしまった昨今、
彼女にはもうあまりメトの舞台に立ってくれるな、とまで思うようになってしまいました。
というのも、彼女のそんな歌を聴くのも、またそのような出来をあげつらってこてんぱんなことを言ったり書いたりするヘッズの声を耳にするのも嫌だからです。
実際、今シーズンの『ナブッコ』はAキャストのアビガイッレにキャスティングされている彼女を避けて、エリザベーテ・マトスが歌う公演を聴きに行こうと思っています。
というわけで、今日、プログラムに表記されたガラの出演者の中に彼女の名前を見つけた時は、なんでガラでまでグレギーナを聴かなきゃならんのだ、、、と正直がっくり来ました。
ましてや『トスカ』は彼女の絶頂期だったと言ってもいい時期に、やはりメトの日本公演で聴いているわけで、
どうしてその頃と比べて、ついこちらの気持ちも寂しくへこむような歌を今聴かなければいけないのだろう、、と。
しかし、これが開けてびっくり。今日のプログラムの中、最も心がこもっているのを感じた歌唱の一つだったのですから。
今日登場した歌手陣の中で最も声の衰えが著しいのが彼女であることは間違いなく
(ジョルダーニが参加していたらそのタイトルを二人で分け合うことになったかもしれないけれども、、)、
もはや声を存分に張れなくなっている点など、現役感に欠ける歌唱だったと言っても良いです。
けれども、以前はその張りに依存していた点を、今はそれが出来ない分、各フレーズでの強弱の変化など、表現の工夫に向けられていて、
感情をどばーっと吐露するよりも、訥々と訴えかけるような内容の歌唱になっていて、この場面は確かにそういう風に歌うことも出来るな、、と気づかされます。
Signorのところなども、以前の彼女ならフルブラストで歌っていたと思いますが、私は今日のように逆に抑制を効かせてそのまま音が下がってくる方が好きだな、と思いました。
最後のcosiを思いっきりひっぱるなど、相変わらずベタなところが残っているのはご愛嬌です。
でも、間違いなく、彼女が今このアリアで実現できるであろう最も優れた表現を聴かせてくれた。
おそらく、私がコントロールできる範囲内で彼女の歌唱を聴くのはこれが最後になるのではないかな、、という気がしました。
というのも、これが私が最後に聴いた彼女の良い歌唱、良い記憶として留めておきたく、彼女が登場する全幕公演のチケットはもう買わないだろうと思うからです。
(とはいえ、私の好きな歌手にまぎれてガラに登場された時には私の力の及ぶところではないのですが。)

PIETRO MASCAGNI "Tu qui, Santuzza?' from Cavalleria Rusticana (Dolora Zajick, Mezzo-Soprano / Younghoon Lee, Tenor replacing Marcello Giordani)

うーむ、面白い。一つのガラの中で、違う歌手が同演目からの抜粋(箇所はもちろん違いますが)を歌いますか、、。
先に”母さん、あの酒は強いね”を披露したカウフマンに続き、ストーリーの時系列的には逆にはなってしまいますが、
同じ『カヴァレリア・ルスティカーナ』から”サントゥッツァ、お前がここに?”をヨン様とザジックの凸凹コンビで。
いやー、これは!!!!!
ヨン様の投入はジョルダーニが降板した故のバンドエイド的対処なんですけれども、計らずもめちゃくちゃ面白い組み合わせになってしまっているではないですか!
タッカー・ファンデーション、ナイス・ジョブ!!!
まずこの絵面がすごすぎます。蚊トンボのようなヨン様と、その横にヨン様なんて簡単に片手でねじ上げてしまえそうな迫力満点の体躯のザジック。
このヨン様扮する気弱そうなトリッドゥが別の女と浮気しようものなら、その場でサントゥッツァにぶちのめされそうな雰囲気なんですけど。
しかし、なぜかザジックはヨン様をぼこぼこにする代わりに健気に彼の愛にすがりついているのです。
って、あ、そっか、オペラ自体がそういうストーリーなんでした。このあまりのビジュアルに本筋を忘れてしまいそうになりましたよ。
それにしても、先ほどカウフマンの歌はヴェリズモ作品に於いても、良い意味でも悪い意味でもいわゆるテノール馬鹿的な歌唱にならずに、
どこか冷静な感じがするところがあって、それが逆に怖い、と書きましたが、
まあ、ヨン様の方は、これまた良い意味でも悪い意味でも思いっきりテノール馬鹿的な歌唱で、ここまで馬鹿、いえ、テノール馬鹿だと逆に爽快感がありますね。
ヴェリズモ作品の歌唱としては、彼のような歌唱の方が好き、という方の方が多いかもしれないな、という風に思います。
しかし、びっくりしたのはこの二重唱が始まってしばらくして、段々痴話喧嘩がヒートアップしそうになった時、
いきなりヨン様が片手でザジックの顎に手をかけて、親指と残りの指で彼女の両頬を挟むようにして顎を上げさせ喧嘩を売り始めたことです。
ちょちょちょ、、ヨン様ってば、彼よりキャリアの全然長い大御所メゾのザジックになんてことを!!!ザジックの顔がヨン様の手で潰れて、たこチューのようになってるわーっ!!
いやー、しかし、ヨン様、すごい!私は尊敬します。
なぜなら、私は皆様もご存知の通り、ザジックのことが大好きですけれど、彼女をすごい美人だと思ったことも痩身だと思ったことも一度もありません。
彼女のキャリアの長さに遠慮するのももちろんですが、普通のテノールは、あまり美人でなく痩せてもいない女性歌手相手にこんな芝居はしないのが普通です。
なぜなら、ネトレプコのような女性を相手にこういう演技をしたなら、それはさまになりますが、
ザジックみたいな歌手に同じことをしても、結局それはコメディー/お笑いに終わってしまうのではないか、という不安が先に立つのが普通だからです。
それを、キャリアの違いも、ザジックのルックスに恵まれていない点も、全く意に介していないかのようにこういう演技が出来る。これは一種の才能です。
非常に興味深かったのは、私がこれまで舞台で観た限り、どんなテノールにもまるで象か何かを扱うようにしか扱ってもらったことのないザジックが、
かようにヨン様にきちんと女性として扱われたことで、彼女の中に何か火がついたとみえて、この二重唱は素晴らしい出来になった点です。
ザジックはこの役で何度かメトの全幕の舞台に立っていて、私も複数回鑑賞していますが、彼女がこの役でこんなに燃えたのを聴いたことがないです。
彼女のA te la mala Pasqua (最悪の復活祭になるがいいわ!)という捨て台詞に籠められた迫力がものすごくて、
続けてspergiuro(呪ってやる!)と歌い始める前の短い間に、私もふくめてオーディエンスのあちこちから"すげえ!(Wow!)"という声が漏れ、
もうspergiuroという言葉を歌う頃には(これがまた彼女の突き刺すような音色もあって素晴らしいのです!)轟音の拍手です。
いやー、カウフマンの冷ややかな表現もいいけど、ヴェリズモのこういう興奮はたまりませんな。
ヨン様は全幕でこの演目を歌うのはまだしばらくは避けた方が絶対良いと思いますが(まだ声がこれらの役をこなせるほど成熟していないと思います。)、
ヴェリズモのスピリットみたいなものは良く判っている人なのかもしれないな、、と思いました。またしても侮れじ、ヨン様!
ザジックもこの抜粋については全体を通して充実した響きを聴かせていて、
いつの日かヨン様のように躊躇なく彼女の顔をたこチューしてくれるテノールとメトの舞台で共演できる日までこの役がレパートリーに残っているといいなと思います。

GEORGES BIZET "C'est toi? C'est moi!" from Carmen (Anita Rachvelishvili, Mezzo-soprano / Jonas Kaufmann, Tenor / New York Choral Society)

いよいよスカラの2009/10年シーズン初日組(カウフマン&アニタ・ラクヴェリシヴィリ、以下アニタ嬢)でビゼー『カルメン』からのラスト・シーン、”あんたね、俺だ”。
アニタ嬢は高音域がまだ少し開拓され切っていない感じがあるのと、まだ強い個性というものが出来上がっていない部分がありますが、それはこれから精進して行くのだと思います。
一方で中音域の音色は独特の温かさがあって私は彼女の声は基本的に割りと好きです。
さすがにスカラの公演に備えて一緒に準備しただけあり、二人の息がものすごく合っていて、聴いていて全く危なげない。
ただ今回はガラで、全幕公演のような演技がないだけに、その分予定調和的な要素が強くなってしまって、若干決められた線路を綺麗に走ったに似た感がなくはなく、
メトでカウフマンによるR&X指定の全幕『カルメン』を鑑賞して強い感銘を受けた私としては、演技付きで聴きたかった、、という思いが強くなります。
後、カルメンを刺し殺してから歌うAh! Carmen! Ma Carmen adoréeのところで音が上がりきれずにピッチがかなり甘くなってしまったところにも
今日のカウフマンのコンディションがあまり良くなかったことが伺われます。
中一日しかないので若干心配ですが、十分休養して11/8のOONYとの『アドリアーナ・ルクヴルール』に備えて欲しいな、と思いました。

GIUSEPPE VERDI Finale from Falstaff (Bryn Terfel, Bass-baritone / Stephanie Blythe, Mezzo-soprano / Angela Meade, Soprano /
Deanna Breiwick, Soprano / Renée Tatum, Mezzo-soprano / Theo Lebow, Tenor / Ta'u Pupu'a, Tenor / Edward Parks, Baritone / Keith Miller, Bass)



最後はヴェルディの『ファルスタッフ』からフィナーレ。ターフェル、ブライスという、
実際にメトの全幕で表題役とクイックリー夫人を歌った二人がアンサンブルを牽引し、楽しく締めてくれました。
ターフェルはやはりこういう作品の方がすごく居心地よさそうに楽しそうに歌っていて、声の質的にも合っているし、
どうしてヴォータン役なんか歌うんだろうなあ、、とますます考えてしまう私です。
このアンサンブルでも余裕で声が届いてくるブライス。それに比べるとミードの方はやはり意外と線の細い音なんだなあ、、というのを感じます。
彼女はアリス・フォード役はあまり歌ったことがないようで、スコアを手にしての参加でした。


Richard Tucker Music Foundation Gala 2011

Avery Fisher Hall
Orch AA Even
OFF

*** リチャード・タッカー・ミュージック・ファンデーション ガラ 2011 
Richard Tucker Music Foundation Gala 2011 (Tucker Gala) ***





1、2月の『神々の黄昏』の公演からレヴァイン撤退

2011-11-04 | お知らせ・その他
どうせこうなると思ってたんですよね、、ったく一度に発表してくれればいいのに。
レヴァインは『ドン・ジョヴァンニ』、『ジークフリート』に続いて
新年(2012年)1~2月に予定されている『神々の黄昏』の公演の指揮も無理と判断、首席指揮者のルイージが代わりの指揮をつとめることになりました。
また、1/15のメト・オケ演奏会の第二弾も、第一弾に続き、これまたやっぱりレヴァインに代わりルイージの指揮となるそうです。
ちなみに、シーズン最後に予定されているリング・サイクルの方については、まだレヴァインの名前が。
ここまで来ると、んな馬鹿な、、という感じもしますが。
リングについてはHDの公演がDVDリリースされるのではないかと言われているのですが、もし本当にそうだとすると、
前半の二作はレヴァインの指揮、後半の二作はルイージの指揮という、コラボ系のリングになってしまうことになります。

また、『ジークフリート』で降板したギャリー・レーマンの代わりにタイトル・ロールを歌っているジェイ・ハンター・モリス、人呼んで”若モリス”ですが、
初日に大任をきちんと果たしたことが評価され、1~2月の『神々の黄昏』の方にも続いて出演することが決定しています。
(レーマンは引き続きキャンセルです。)

(写真はNYタイムズのSunday Routine~”いつもの日曜日”というコーナーに登場し、ハムをスライスするルイージ。)