Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

ABT COMPANY CLASS ON STAGE AT THE MET (Sat Mng, Jun 11, 2011)

2011-06-11 | バレエ
類は友を呼ぶ。
この言葉はまったくもって真実であって、ブログを通して知り合った皆様とのご縁などもこれに当てはまるかと思うのですが、
また同時にずっと側に”友”がいたのに長らく気づいておらず、
自分がある種の”類”であることをカミング・アウトしたことがきっかけで、その事実が発覚する、というようなこともあります。

私のバレエの師匠M子さんとの関係はまさに後者。
同じ会社に勤めていた数年間、お互いにバレエ(M子師匠)とオペラ(私)が好きらしい、ということを知ってはいたものの、
職場で例えばこのブログと同じようなノリででオペラやバレエのことを語った日には頭がおかしい人だと思われるに違いない、という思いから、
二人ともお互いに”フツーのファン”を装い、特に一緒に公演を観に行くというようなこともなく、
それぞれにひっそりと、しかし深く、バレエ気違い、オペラ気違いの道をひた走っていたわけです。
しかし、ある時から、お互いにまったくもってフツーのファンどころの騒ぎではなく、
家計を傾かせるほどに(M子さんのところはびくともしていないかもしれないけれど、我が家は間違いなく、、。)、
M子師匠はABTに、この私はメトに、激しく注ぎ込みまくっている、つまりまさしく”類友”であることが発覚してしまいました。
しかも、今ではM子師匠はこのブログの存在をご存知なばかりか、なんと愛読までしてくださっており、
私がトーシロなりにバレエにも大きな興味と敬愛を持っていることをご存知になって、
毎シーズン、注目のダンサーや演目の情報を教えてくださり、機会があれば”この公演、ご一緒しない?”などと言って誘って下さいます。
ありがたや。

私はことバレエに関してはもしかするとオペラ以上に鑑賞運に恵まれているのではないか?と感じているところもあって、
フェリニーナの引退公演など、本当なら、私のようなトーシロ・バレエ鑑賞者が見るより、
ずっとバレエ・ファンであり続けて来た方にこそ見て頂くのが筋ではないのか?と、
つい恐縮してしまうような、特別といってもよい種類の公演に接する機会に恵まれて来ました。
そのうえ、今年もまた、M子師匠が”ホセ(・カレーニョ)の引退公演(『白鳥の湖』)を一緒に観に行きましょう。”と誘って下さって、
しかも、M子師匠がいつもお座りになるかぶりつき席の隣に招待してくださったので、
”豚に真珠”な私のバレエ鑑賞ライフにまたもや新たな一ページが加わることとなったのです。

そのカレーニョの引退公演については、もちろん、単独の記事として、感想を後日アップする予定ですが、
カレーニョの引退公演の前に、もう一つ、M子師匠が誘ってくださった貴重なイベントが、今回記事にするABTのカンパニー・クラス。
正確な企画名はこの記事の名前にもある通り、”Company Class on Stage at the MET”。
つまり、メトのオペラハウスの舞台上で、ダンサーたちがバー・レッスンを含めた
日常のレッスンの様子を見せて下さるという、ABTのパトロンを対象としたイベントです。

私はオペラでも、リハーサルとか、ソリストやオケのウォーミング・アップ・練習、
テック・リハーサル(大道具の人たちが手順を確認するためのリハーサル)などを見せて頂くのが大、大、大好きです。
昨シーズンはメトでドレス・リハーサルを色々鑑賞させて頂きましたが、
ドレス・リハーサルというのは、すでにかなり本番に近い状態になっていて、実際演奏の中身も本公演とはそう変わらないケースがほとんどなんですが、
今日のこのカンパニー・クラスの企画は、オペラで言えばドレス・リハーサルよりもさらに手前の、
歌手の声楽のレッスンとかを見せて頂くのにも等しい、非常に貴重な機会であり、私はわくわくしながらM子さんとメトにやって参りました。

メトのオーディトリアムに到着すると、すでに舞台上には多くのダンサーが揃っていて、思い思いの方法でバー・レッスンに入る準備に余念がありません。
ダンサーにとって怪我ほど怖いものはありませんから、このウォーミング・アップもリラックスした空気が流れながらも真剣そのもの。
そう、オーディトリアムに一歩足を踏み入れた瞬間から、この緊張感あふれる静寂とでも形容したくなる空気が非常に心地よく、
喧騒溢れるNYの街を歩いた後にオーディトリアムに入った私達にはまるで別世界に紛れ込んだような感覚がありました。

天気に恵まれた土曜のお昼ということもあるかもしれませんが、そもそも招待されている人の数が少ないのでしょう。
座席は真ん中のブロックに座っている人が中心で、それもせいぜい前から1/4埋まっているかどうか、というところで、
こんな滅多に見ることの出来ないものを見れる機会を下さってありがとう!とおもむろにM子さんの手を握り締めそうになってしまいます。
しかも座席は前から二列目のど真ん中。
バーは舞台に垂直になる形で何本か設置されているのですが(なので客席にいる私達はダンサーと向かい合うような状態)、
舞台手前にいるダンサーはもちろん、奥にいるダンサーまで、よく見えること、よく見えること。

しかし、その中でも真っ先に目を惹いたダンサーがいます。
まだバー・レッスンも始まっていないのですから、これはもう本人のオーラというか、佇まいがなせるわざなのでしょう。
そこにいるのはもちろんのこと、我がダックス王子、マルセロ・ゴメスです!
もしかするとレッスンをするゴメスにまとわりつくルアちゃんも舞台上に見れるのではないかと淡い希望を持っていましたが、
それはさすがに期待のし過ぎでした。


(今シーズンの『ジゼル』よりディアナ・ヴィシニョーワとマルセロ・ゴメス)

ゴメスは全幕の舞台で見ても体格が大きいな、とは思いますが、こういう場で、衣裳とは違う普通の格好(最初はTシャツにスエットのパンツ)で、
他のダンサーと一緒にいると一層その大きさと逞しさが目立つというか、”こんなにでかかったんだ、、。”と思いました。
もしかすると、クラシック・バレエのダンサーとしてはごつ過ぎる位かもしれませんが、
彼の場合、しなやかで、細部にまで神経の行き届いた踊りが出来るせいで、舞台の上で不器用もしくは無骨に見えることがないのだと思います。
それにしても、足元のUGGのようなショート・ブーツがまたキュート!きゃん!



バレエのレッスンでこういうシューズを履くのもありなのね。
ああ、それにしても、いい男は何をやっても素敵、、、不細工な男がスエットにUGGのブーツ履いてたら、張り倒したくなるだけだけど。

というようなことを考えつつ、ダックス王子と別の方向に目を向けると、これまた超美男子なダンサーと目が合いました。
今の職場で私の周りに座っている男性は、気は良いのだけれど、
このABTにいる男性たちとは違う種類の生き物なんじゃないかと思うような、
体を絞る・鍛えるというコンセプトとは無縁の、おなかに肉襦袢を巻きつけ放題の、いけてないエロじじい
(会社のPCで堂々とグラビアチェック、、、、。)ばっかりなので、
もうこの右を見ても左を見ても私の瞳に自ずと花や星が浮かんで来そうな美男子ばかり、の図に、
世の中にはこういう職場もあるのね、、、と、ABTの団員の女性達に羨望の眼差しを向けつつ、
人生とはなんと不公平なものなのか!と一人心で嘆くMadokakipなのでした。

それにしても、この美男子なダンサー、どこかで見たことがある人なんだけど、、、、誰だっけ、、、?と、考えること数秒。
あああああああっ!!!!!!ロ、ロベルト・ボッレじゃなくってっ!?


(同じく今シーズンの『椿姫』よりジュリー・ケントとロベルト・ボッレ)

し、師匠!!!!師匠の一目ぼれのアイドルがあそこにいらっしゃいますです!と、M子さんの腕をつかんで激しく揺らしたい衝動にかられましたが、
舞台の上と同様、上品に静まり返っている客席(ここらがドレス・リハーサルが始まるまでぴーちくぱーちくと喋り続け、
口にガムテープを貼ってもまだ黙らなさそうなオペラファンとの違い、、、。)に、
このハードコアなパトロンが大集合!の場で、きゃーきゃー騒いでM子師匠を辱めることになってはいけない、、と柄にもなく、つい遠慮してしまいました。

それにしても、舞台で踊ったり、雑誌のグラビアなんかに登場している時のボッレはすっとした大人顔のイタリアの美青年!って感じですが、
こういう素の場では、ちょっと雰囲気が違うというか、どちらかというと茶目っ気のある可愛らしい少年のような感じがするのが意外でした。
だから一目で彼だ!とわかったゴメスと違い、ボッレの場合、認識するのに多少の時間がかかったのかもしれません。
でも、良く考えてみれば、それは、これまで私がボッレが良かったな、彼に雰囲気が合っているな、と感じた役は、
ロミオとかアルマンとか、幼さ、若さをどこかに感じさせる役であることと無関係ではないのかもしれません。
体格もゴメスよりずっと華奢な感じで、当たり前ですが、こうして二人が並んでいるのを見ると、その場で立っているだけでも全然個性が違うダンサーだな、と思います。
それにしても、しつこいようですが、ボッレの姿を見ると、思い出したくもないのに、どうしてもデフォルトでアラーニャを思い出してしまって困るんですけれど、
ボッレのこの少年のような佇まいを見ていると、アラーニャへの辛辣な一言が本当に彼の口から出たとは信じられないような気がして来ます。
いや、でも、少年・少女の無邪気ゆえの残酷さというのも、また良く聞く話、、、

と、とりとめのないことを考えているうちに、体に小さなマイクをつけて、今日のレッスンの先生役を務めると思しき方が出てきました。
世界的に活躍しているボッレやゴメスといったダンサーらをとりまとめてクラスを進行していくとは、なんと大変な仕事でしょう?
大体、彼らに物を申せる人物って一体何者?という感じです。

クラスに来る前に私が想像していた先生は、往年の名ダンサーであるよぼよぼなおじいさんか、
もしくは、そこまで歳が行かずとも、引退後の大御所ダンサーみたいな人で、
自分は踊らずに、フロアでダンサーに目を光らせながら、”そこ違う!”みたいな感じで口だけ挟むのかと思いきや、
それが、どっこい!この先生は、髪はなぜだか妙に寂しくなりつつありますが、まだまだ現役まっただ中の年代の男性で、
しかも、マイクをつけたまま、メンバーにメニューの手順を説明しつつ、ピアノの伴奏(ロシアの男性と思しきピアニストで演奏が上手!)に合わせて、
お手本を兼ねてみんなと一緒にレッスンのメニュー全部を自分自身で踊ってみせているのです。
クラスの前半のバー・レッスンは全員一緒に進行するのでともかく、後半に現れる色んなパやジャンプを組み合わせたパートでは、
とても全員が一緒に踊れるスペースはないので、同じシークエンスを3つとか4つのグループが連続して踊るのですが、
その3回、4回分のほとんどで一緒にお手本を見せていて、しかもそのお手本が、ことごとく、”やるな、先生、、、。”と唸らされる出来なのです。
しかもそれと同時に個々のダンサーにアドバイスを与えまでしているんですから、なんという技術!なんというスタミナ!
多分レッスンに参加していた全員を含め、誰よりもハードにエネルギーを消耗していたのは他ならぬこの先生でしょう。

前半のバー・レッスンは、ダンサー達が体をチューン・アップして行く様子を見せて頂くという点で非常に興味深い体験でした。
例えば若い、経験の浅いダンサーほど、決められたルーティンの動きをそのままこなしているように見受けましたが、
ゴメス位のクラスのダンサーになると、単にルーティンをなぞるだけでなく、あるムーブメントは飛ばしたり、
逆に他のダンサーがやっているのとは違う動きを差し入れたりしていて、自分の体との対話ということが徹底されているように思いました。
オペラの歌手の場合でも同じですが、舞台に立つ人というのは、
公演で出来る限り自分のベストに近いコンディションに持っていかなければなりません。
でも、体とか声の状態というのは日によって違う。
ということは、それをベストに持って行く道筋も毎日全く同じではなくて、
どういうルートを辿ればより確実にベストに近い状態にもっていけるのかということを、
他の誰でもない自分が一番良くわかっていなければならないということなのだと思います。
そして、それは、こういった日々の練習の中の、ウォーミング・アップのプロセスの中で、
真剣に自分の体や声に注意を向け、耳を傾けることでのみ体得していける、時間のかかるプロセスなのではないかと感じました。

さて、やがていよいよ体が温まって来たか、UGGを脱ぎ捨てるダックス王子ゴメス。
UGGから現れたおみ足には既にバレエ・シューズが着用済み!
うーむ、なるほど、、、、バレエ・シューズの上にUGGなのか、、、。素敵♪

私はある職業の人にしか出来ない着こなしみたいなものにとても弱く(=いちころになる)、
すぐに真似をしたくなる人なので、今日家に帰ったら、早速、普段会社に行く時に着用しているバレエ・シューズ風の靴をはいて、
その上に冬が終わって部屋に放りっぱなしになっていたマイUGGブーツを重ね履きして、
ゴメスになったつもりで部屋をウロウロしてみよう、と固く心に誓うのでした。

さて、もう一人の美青年ボッレからはどんなお洒落テクを盗んでやろう、、、?と企みつつ、そんなお洒落ゴメスから、目を移した途端、
私は目ん玉が飛び出すかと思うくらいびっくりしました。
さっきまでボッレがいた辺りに、いつの間にか、虹色のビーニー・ベイビーが紛れ込んでレッスンに励んでいるではありませんか!!



どうしていつの間にこんなところにビーニー・ベイビーがいるのよ?!と驚きつつ、よーく目をこらすと、
なんだ、ボッレじゃありませんか、ああ、びっくりした。
やはり体が温まったのでしょう、いつの間にか重ね履きしていたスエットパンツを脱ぎ捨て、
その結果、下に着用していた体にぴったりフィットのレインボー・カラーなバレエウェアが露出していたということなんですけれども、
このウェアのセンスはやばすぎでしょう。
特定職業の着こなしが大好きな私をもってしても、この虹色パンツだけは真似する気になれないというものです。
心なしかM子師匠も隣でお固まりになられているような、、、。

それにしてもボッレはフェラガモの広告にもモデルで参加したことがあるし、普段も非常におしゃれなイメージがあるんですが
(下の写真はスカラ座2008/9年シーズン・オープニングでの私服のボッレ。)、
もしや自宅ではビーニー・ベイビー、、?との疑惑が湧いて来ました。



パーソナリティの違いもあるのでしょうか、こういった基礎レッスンにもどこか非常にストイックな感じで取り組むゴメスに比べると、
ボッレは終始リラックスモードな、緩めの雰囲気があって、後半のメニューからさりげなく姿を消していたのも、私達は当然見逃すはずがありません。

むしろ、ゴメスと似て、終始非常にストイックな感じがしたもう一人のダンサーはデイヴィッド・ホールバーグです。
数年前まで彼を首男呼ばわりしていた私ですが(もともと彼は首のラインが長いせいもあると思うのですが、
踊る際にそれが非常に良く目立ち、一時それが気になって気になって仕方がなかったのです、、、。)、
昨年のキングス・オブ・ザ・ダンスを鑑賞した際、
気迫、きれ、洗練度が深まっていて、強い印象を受けました。
今回のクラスでは、あれから一年半、さらにその方向を突き詰めてきた感じがあり、どの動きも非常に繊細、丁寧で、
ゴメスと並んでクラスの中で強い存在感があったダンサーです。
実際、クラス終了後、M子先生も”こんなに上手かったっけ?と思うほど進境著しくて、驚いた!”とおっしゃっていました。
考えてみれば、今シーズンでカレーニョは引退、スティーフェルはロイヤル・ニュージーランド・バレエのディレクターに就任することもあり、
益々ABTとは疎遠になることが予想されるし、コレーラもABTで踊る機会がとても少なくなっているので、
今、男性ダンサーに関して言うとゴメスやボッレに猛烈な重責がかかっているわけですが、
この状況の中で自分も頑張らなければ!という思いがホールバーグの中で強くなっているのかもしれません。
長身でかつすらっとした恵まれた体型で、ラテン系のアスレティックさとは全く違う個性の、
やや冷やっとした手触りのあるエレガンスを持っているダンサーなので、
このまま精進を続けて行くならば、独自のポジションを築き上げることも可能ではないかなと思います。
クラス後半のメニューでの、ジャンプも高くて本当に綺麗でした。
体格を生かして迫力のあるジャンプを繰り広げるゴメスと、ラインが綺麗でほとんど楽々と飛んでいるような印象すら与えるホールバーグ、
この個性の違いが、これから彼らが同演目(特にクラシック演目)同役を踊り演じる場合、
役の開拓・発展でどのような違いをもたらして行くか、それも興味深いところです。


(今シーズンの『シンデレラ』の公演でのホールバーグ)

かようにすっかり男性ダンサーの方ばかりに目が向いてしまって、全く女性ダンサーに注意が向いていないこと甚だしいですが、
それは一つに、女性ダンサー陣の方からはあまりビッグ・ネームの参加者がいなかった、ということが一つあげられるかもしれません。
ケント、マーフィー、ドヴォロヴェンコ、ヴィシニョーワといったプリンシパルのダンサー達は私が判断できた限り参加しておらず、
確認できたのはヘレーラだけでした。
(ただし、このクラスがあった日はABTのメト・シーズンの真っ只中で、公演のスケジュールによっては参加したくても出来なかったダンサーもいるかもしれません。)

でも、私の目を最も惹いた女性ダンサーはヘレーラではなく、別のダンサーXです。
それも身体能力がやたら高くて目を惹くヘレーラとは違う意味で。
その容貌から中国系ではないかと推測するこのダンサーX、
ABTはどうして彼女みたいな人を団員としてキープしているのかと本当に不思議に思います。
もっさりした首周りのラインにぼってりした下半身。
もうまずこれだけでビジュアル(顔ではなく体の、、)が資質の大きな一角をなしてしまうというシビアなバレエの世界にあって、
ダンサーとしては相当まずいことになっていると思うのですが、
その上にそのビジュアルの欠点を補うどころか、それをさらに助長するかのようなもたもたした動き、、、
それも単に動きが遅いだけではなくて、動きにいちいち締まりがないというか、
彼女には、私のような素人が観ても、はっきりと、クラシック・バレエを生業とする人が最低限身につけていなければならない
体のこなし、動きが身に付いていないと感じます。これは上手い、下手、以前の問題。
あまりにひどいので、無理やりABTに大金をつかませて一日体験入学中の一般人留学生か何かかと思ってしまいました。
こういう人が一人コール・ドに入っているだけで、他の全員がどんなに美しく揃った踊りを見せていたとしても台無しになってしまうし、
他のコール・ドのメンバーのモチベーションにも関わります。
カレーニョのフェアウェル公演でこの人がコール・ドで出て来るようなことがあったら、私は絶対憤死します。

あと、男性で一人、こちらは良い意味で非常に目をひいたダンサーがいました。
M子師匠も全く同じに感じられたようで、クラスが終わってはけるダンサーたちにまぎれる彼の姿を指しながら、
思わず”あのダンサー、誰だかわかる?”と私にお聞きになったほどです。
M子師匠ですら名前がわからないダンサーを、私がわかるわけがないところが実に悲しいところです。
ホールバーグのような長身痩身とも、ゴメスのような長身筋肉美とも、ボッレのような容姿端麗とも違い、
背もそれほど高くなく、必ずしも目立ってルックスに恵まれた人ではないのですが、
その折り目のきっちりした動き、正確に踊ろうとする姿勢など、M子師匠、私ともに大いに好感を持ちました。
M子師匠が何という名のダンサーか、調査を行ってくださるということで実に楽しみです。

クラスの後半は、バーを片付け、ステージ全体を用いて、ピアノのメロディーにのせ、
色々なパ、ジャンプ、ステップ、ポーズの組み合わせを段々難易度をあげて行っていくわけですが、
最後の何本かはもはや技術のブラッシュアップ用のメニューというよりも、ちょっとした短い小品に感じられるほどです。
実際、やはり力のあるダンサーというのは、このような場でも、音楽のカラーを感じ取り、それをきちんと技術にのせて
”表現”することをきちんと行っているのが印象的です。
声楽で言えば、スケールの練習用の旋律を用いてすら、きちんと音楽的に何かを表現してしまっている、そんな状況に似ているかもしれません。
先にも書いたように、ここでも先生が大活躍。
先生が頭の中で自分が構成した振り付けをなぞりながら、技の名前を羅列すると、
すぐにピアノに合わせて全員がそれを再現できるというのが、それがバレエにおける言語を使ってコミュニケートするということなのだとわかっていても、
やはり、すごい!と思う。
楽譜を見ながらオケが音を出す時には、紙に書かれたものが実際に音になるという独特の高揚感がありますが、
技の名前の羅列に過ぎなかったものが実際に肉体を使った形になるという点で、非常に近い感覚を持ちました。

先生はダンサーがぴりっとしまった踊りを見せると、それに対して身振りや顔の表情で賞賛を送り、
もうちょっとこうすればもっと良くなる!という場合には積極的に口頭でアドバイスを飛ばしますが、
今一つしまりのない踊りにはほとんど無反応。
先生が何の反応もしないような踊りは駄目なんだ、ということをダンサーの方できちんと自覚し、自主的な努力を怠ってはいけない。
誰も手取り足取り教えてなんてくれない、自力で上に上っていくのがプロの世界なのです。

ただ、ある男性ダンサーが、コリオグラフィーを間違って、全員が移動しているのとは逆の方向に移動してしまった時、
この時ばかりは先生がいつもの無反応ではなく、激怒していたのが印象的でした。
客席から見ていて明らかにミスだとわかるような内容の失敗をすることは許されないのはもちろん、
群舞でこういうミスをすると本人や周りが怪我しかねないということも、その理由かもしれません。


大車輪の先生の活躍に感銘を受けた私は、クラスが終わると早速M子師匠に”ところであの先生は一体何者ですか?”と尋ねました。
すると、”Madokakipさんがいつかのレポートで絶賛していたサルステインよ。”
ああ、そう言われてみれば、活き活きして、かつ隅々にまで神経が行き渡った先生のダンスは、まぎれもないあの『ロミ・ジュリ』のマキューシオではないですか!!
(トップの写真は今シーズンのABTキューバ遠征公演で『ファンシー・フリー』に出演中のサルステイン先生。)

それにしても、これはなんと面白いシステムでしょう。
ソロイストという、プリンシパルの手前にいるダンサーが、プリンシパルのダンサーも含めたメンバーのために練習メニューを練る。
オペラで準主役や脇役を歌っている歌手が、主役級をつとめる歌手のために練習メニューを作ったり、練習に使用するメロディーを作曲したりなんて、まずありえません。

もちろん、誰がやっても務まるものでは全くなく、サルステイン先生のような実力とメンバーをまとめていくパーソナリティが備わっていてこその
コーディネーター役なんだろうな、と思います。
舞台芸術とはスターだけが支えているものではないということをここでも感じさせられました。


American Ballet Theatre Company Class on stage at the Met
ORCH B Even

*** American Ballet Theatre (ABT) Company Class on stage at the Met アメリカン・バレエ・シアター(ABT) カンパニー・クラス ***

LADY OF THE CAMELLIAS - ABT (Thurs, May 27, 2010)

2010-05-27 | バレエ
メトのシーズンが終わって、そのままABTの鑑賞に突入!!したいところだったのですが、
今年は本当に仕事が忙しすぎて、私のお友達であり、また超バレトマーヌであるM子さんが、
せっかく、あの公演は?この公演は?と色々お誘い下さったのに、
断腸の思いでお断りするしかありませんでした。しくしく、、。

ゴメスはもう出演する作品全部で見たかったし、初オシポワも観てみたかったし、
コジョカルの『眠り』(眠れる森の美女)を見れなくなった時には、もうわたくし、人間をやめようかと思いました。
そんな中で、今夏、これだけは何としても観ねばならない!!と燃え、
そして、それを唯一実現できたのが、今年、全幕でのABT初演となるノイマイヤー振付の『椿姫』です。
この版の知名度を考えると、もっと前に上演されていてもよさそうなので意外ですが、ABT初演なのです。



もうこのブログをしばらく読んで下さっている方ならば、私がひたすら、
オペラの『椿姫』との比較を!!という野望の火を背中に燃え上がらせているのがお見えになることでしょう。
というわけで、今回、バレエ『椿姫』の作品そのものを知りたい、というのが私にとっての最大の目的でしたので、
キャストにまで贅沢を言うつもりは全くなかったのですが、
そこはさすが、ボッレの大ファンである、バレトマーヌM子さん!
初日の、ボッレとケントという、おそらく今回のランの中で、
最も注目度の高い公演の、それも、最高の座席を用意してくださいました。
どうして、いつもこうバレエに関して、私は”豚に真珠”なまでの幸運に次々と恵まれてしまうのか?
もう、”本当にすみません。”とつい誰にともなく謝ってしまいそうになります。

しかし、開演前のバレトマーヌM子さん(なんだかバレトマーヌが苗字化して一つの名前のようになってますが、、。)
の情報によれば、ボッレがオープニング・ガラの日だったかに足を負傷してしまい、
今日の公演は最後まで彼が本当に踊るのかどうか判らなかった状態なんだそうです。
一時はノイマイヤーが代わりのダンサーをヨーロッパから飛ばすことも考えていたという話もあって、事態は深刻です。
大丈夫なんでしょうか?ボッレ、そんな状態で踊って、、。



オペラの原作でもあるデュマ・フィスの小説は、オペラの方が完全に時系列に沿って話が進んでいくのに対し、
マルグリット(オペラでのヴィオレッタ)の死後が小説が語られている時点での現在になっていて、
その後に、二人の関係がほとんど回想のように描かれ、またマルグリット死後の現在に戻るという構成になっていて、
また、アルマン(オペラでのアルフレード)とマルグリットには、オペラの三幕のような場面はなく、
アルマンがマルグリットと死を前に心を通わすのはおろか、死に目にすら会えなかった点、
マルグリットが『マノン・レスコー』を愛読し、マノンに自分を重ねていることなどから、
マルグリットとヴィオレッタの間では、娼婦としての身のあり方についての考えや、
また、アルマン(アルフレード)との恋の、人生における位置づけが少し違っていること(特に恋が始まった時点で)、
マルグリットとアルマンのあまりに現実認識の甘い、幼い生き方、
(オペラでは少なくともヴィオレッタはもうちょっと地に足がついている)、
アルマンがマルグリットが心変わりしたと誤解した後の彼女への仕打ちは、
オペラよりもずっと直截な表現である点、などなど、
違いは色々あって、オペラは原作を大きく削り、変更し、付け足していることがわかります。



小説自体は、こんなメロ・ドラマはヴェルディの音楽付きじゃなきゃ泣かないでしょう、、と思いながら読み始めていても、
気がつけば、これがなかなかに泣かされる話ゆえ、いつの間にかクリネックスの箱が横に来ていたりしていて、
非常に優秀な原作であるのは間違いないのですが、
オペラの『椿姫』は、必要に迫られて、原作の物語を圧縮し、
エッセンスだけを取り出し、大事な部分を伝えるためにはストーリーの細かい部分を曲げてしまっているのですが、
そのことが、ヴェルディの音楽と結びついて、かえってこの作品を更なる高みに押し上げることになっているのがよくわかります。
原作を読んでいる時、オペラとストーリーが重なっている部分にさしかかると、
つい、その場面の音楽が頭に浮かんで来てしまい、クリネックスの箱にまた手が伸びてしまうのでした。



ノイマイヤー版のバレエの『椿姫』で、オペラと比べて、全然違う!と感じさせられた点は
私の場合、次の二点です。

1)原作のストーリーの再現度の高さ
2)音楽

まず、一点目のストーリーの再現度の高さなんですが、
冒頭のオークションのシーン(マルグリートの所有物が競売にかけられている)から始まって、
わざわざ、劇中劇のように『マノン』のキャラクターを登場させマルグリートに絡ませるとか、
オペラ版が大胆に物語の骨格以外はほとんど捨て去っているのとは対照的に、
細部にこそ、原作のスピリットが宿っている!といわんばかりに、
ほとんど、オブセッシブなまでに、一つ一つのエピソードをノイマイヤーは踊りで表現させています。
私はオペラの方の物語展開に慣れているからか、正直に言うと、
バレエ版の方は、ここまで再現度が高いと、
原作を読んで持った印象と全く同様に、冗長に感じる場面が皆無と言えば嘘になります。
もうちょっと圧縮できる部分もあるかな、と、、。




そして、二点目の音楽。
バレエでは全編にショパンの音楽が用いられている(ある時はピアノだけで、またある時はオケで。)のですが、
とにかく思うのが、ショパンの音楽はヴェルディの音楽じゃない、ということ。
当たり前だろうが!と思われるでしょうが、音楽が違うと、
これほどまでに同じストーリーから受ける印象が違うものか、、と、本当にびっくりします。
多分、バレエの場合はショパンを選んだことは正解で、良く物語に合っているとは思います。
なぜなら、バレエの『椿姫』はすべてが終わったところから始まっているから。
アルマンも、マルグリートの友人たちも、そして、我々観客も、もうマルグリートがこの世にいないことを知っているからです。
ですから、回顧される場面もすべて、二人が出会う幸せな時ですら、まるでセピア色の写真のように、どこか物悲しい。
その、当時の思いや感情を今の視点からノスタルジックに見つめている雰囲気に、ショパンの曲はぴったりです。
考えてみれば、対照的に、オペラの『椿姫』は、すべてのシーンが”今”。
だから、音楽はすべて、その瞬間瞬間の爆発するような感情をとらえなければいけないし、
ヴェルディはそれをよくわかっていただけでなく、実際に本当に見事な音楽をつけてしまった。

ですから、バレエ版の『椿姫』を見て、我らオペラ・ファンは音楽がエモーショナルじゃないからつまらない、
こんな『椿姫』では燃えられない、、と一瞬思ってしまったりして、
またまた頭の中で(ショパンの曲の上に!)ヴェルディの音楽をのっけてみたりするわけですが
(そんなことをする失礼な人は私だけ、、? バレエ・ファンの皆様、本当に申し訳ありません、、)、
それは、先に書いたような理由で、オペラの『椿姫』を見た時に感じるのと同じ種類の生々しい感情を、
バレエ版の『椿姫』に求めること自体、ピントがずれているといえるのかもしれません。



先に、”アルマンがマルグリットが心変わりしたと誤解した後の彼女への仕打ちは、
(小説の方が)オペラよりもずっと直截な表現である”と書きましたが、
小説の再現度がスーパー高いこのバレエ版ですから、
この文章の”(小説の方が)”の部分を、”(バレエの方が)”と置き換えても、もちろん有効です。
マルグリットが自分の元を離れた本当の理由を知らないアルマンは、
マルグリットと最後の激しい一夜を過ごし(”黒のパ・ド・ドゥ”)、
その後、それでもマルグリットが自分に戻る気持ちがない(というか、マルグリットがそうできないのは、
ヴィオレッタがそう出来ないのと同じ理由です。)と知ると、彼女に”代金”を渡す、
つまり、マルグリットの愛を金で買ったのだ、ということを意志表示します。
バレエの強みは、この黒のパ・ド・ドゥのような、最後の一夜の愛の表現を存分に舞台で展開できることで、
こういう場面こそ、踊る、という芸術フォーマットと、
鍛えられた美しいバレエ・ダンサーの体が最も表現を得意とするところではないかと思います。



オペラの舞台で生々しくベッド・シーンを見せられても、観客は引きます
(し、また、オペラの『椿姫』が初演された1853年と、ノイマイヤー版『椿姫』が初演された1978年では、
検閲などを含め、上演を取り巻く環境自体が全然違います。)から、
オペラの方は、この場面を、あの賭博のシーンに置き換え、その勝ち金を、
これまで二人で一緒にした贅沢によって、自分がヴィオレッタに作った借りはちゃらだ!と投げつけることにしているわけですが、
本当は、この場面には、小説=バレエで表現されているように、
”俺はお前を金で買ったのに過ぎないのだ!”という強烈なメッセージが、
アルフレードを歌うテノールの歌唱と演技から伝わってこないといけないし、
その後にヴィオレッタが受けるショックは金を投げつけられる、という非礼を受けたそのこと自体ではなく、
彼女がアルフレードのメッセージを受け取ったことに他ならないわけで、
ヴィオレッタ役の歌手が、その深い悲しみをどれだけ表現できるかという力も問われることになるのです。
ここは、バレエとオペラで、ストーリーの詳細は違えど、
観客に伝わらなければならない内容の本質は全く同じである部分のいい例だと思います。



アルマンを踊ったボッレは、足の負傷を抱えているとは私にはとても思えない出来でしたが、
彼はこの初日だけを踊って、残りの『椿姫』の公演からは降板してしまったそうですので、
本来はとても踊れるような状態ではなかったのかもしれません。
平土間の最前列でしたので、彼の輝くような美青年ぶり、肉体美(何度も言うようですが、
アラーニャになんて全くもって勝ち目なし。)に吸い寄せられ、
そのまま、大ファンであるバレトマーヌM子さんを差し置いて、舞台に這い上がって行きそうになってしまいましたが、
何よりも素敵だと思ったのは、踊っている時の表情は全くアルマンそのもので、
終演時のカーテン・コールでのこれまたこぼれるような微笑に、
苦痛を感じさせる様子一つ見せなかった彼のそのプロ根性です。

私がバレエを見始めるようになった数年前は、このトーシロ鑑賞者が見ても、
もたもたもた、、と、特に女性ダンサーのサポートでばたばたしているような感じがあったボッレですが、
最近の彼は見るごとにその点が改善されていて、特に今回の『椿姫』は、
ABTでの初演ということもあって、相当きっちりと稽古をして来たのでしょう、
全体的にとても完成度の高いパフォーマンスでした。
怪我による降板は、彼自身、一番こたえているのではないかな、と思います。



このボッレのアルマンに加えて、ビジュアル的にははっきり言って、これ以上望むべくもない位、
マルグリットにはまっていたのが、ジュリー・ケント。
彼女は、私、以前から、どんな主役を踊ってもどこか薄幸そうな感じのする人だわ、、と思っていたのですが、
初めてマルグリットが登場するシーンでは、”うおーっ!!!これぞ、マルグリットだあ!!!”と、
心の中で大興奮しました。
美形でどこか甘えん坊な感じのするボッレと、薄幸そうでこれまた美しい年上女のケント、
もう、物語そのまんまじゃないですか!!!

しかし、、、段々舞台が進んでいくにつれて、いつまでたっても完全には物語に入り込めない自分に気づいて、
フラストレーションが溜まりました。
一つには、先に書いたように、オペラの『椿姫』での、その場その場で、
血管が広がってちぎれそうな興奮に慣らされている身としては、
なかなか、この作品のスタイルにこちらの期待がアジャストできないという部分もあったかと思うのですが、
もうひとつはケントのパフォーマンス、これが原因じゃないかな、と思っています。
私は正直、これまで見た彼女のパフォーマンスから、
ニーナやフェリといった人たちの舞台から感じたような、エモーショナルな体験を感じさせてもらったことがなく、
いつも踊りは巧みで際立ったミスもないのに、どこか遠い感じ、、そういう印象です。
黒のパ・ド・ドゥなんかも、見た目は一通り、激しい一夜なんですが、”匂い”がなくて、とっても、オドーレスなのです。
優れたダンサーや歌手のパフォーマンスというのは、こういう場面で、
観客が息苦しくなるほどの、性の匂いを感じさせてくれるものなんですが、、。
こんなに見た目がぴったりなのに、本当、もったいない、、。

この作品はクラシックの作品と違い、いわゆるコール・ドによる統一した踊りはないですが、
キャスト表ではあまりに多いので割愛させて頂きましたが、小さな役の出演者を含めると、
のべ人数では(一人複数役のダンサーもいますので)相当な出演者の数です。
その中で特に贅沢だな、と思ったのは、”劇中劇”で、マノンとデ・グリューを踊った
ジリアン・マーフィーとデイヴィッド・ホールバーグ。
登場場面は決して多いわけではないのですが、非常に存在感がありました。
この二人は独特の”冷や”感が出せるダンサーなんですが、
ひたひたとマルグリットの心に忍び込んで、彼女の行く末を暗示するマノンの物語を踊るこのシーンに、
二人の個性がよく合ってました。配役の妙。

あと、この版、このプロダクションで、特筆すべきは衣装の美しさ。
特にマルグリットは内容に合わせた色合いの衣装を場面ごとにお着替えするのですが、
どの衣装も素敵で、衣装フェチの方にはとても楽しめるプロダクションです。
それに合わせて照明も刻々と変わっていくのですが、
セットやプロップはとてもシンプルなもので、場面の転換の多さに合わせ、
登場・退場するダンサーが舞台上の道具を持って入ったり、出たりしていました。


Julie Kent (Marguerite Gautier)
Roberto Bolle (Armand Duval)
Gilian Murphy (Manon Lescaut)
David Hallberg (Des Grieux)
Roman Zhurbin (Monsieur Duval)
Hee Seo (Olympia)
Xiomara Reyes (Prudence Duvernoy)
Julio Bragado-Young (Count N.)
Jared Matthews (Gaston Rieux)

Conductor: Ormsby Wilkins
Pianists: Koji Attwood and Soheil Nasseri
Choreography and lighting concept: John Neumeier
Staging: Kevin Haigen, Victor Hughes
Music: Frederic Chopin
Scenery and costumes: Jürgen Rose
Lighting reconstruction: Ralf Merkel

Metropolitan Opera House
ORCH A Odd

*** 椿姫 Lady of the Camellias ***

KINGS OF THE DANCE (Sun, Feb 21, 2010)

2010-02-21 | バレエ
オペラに関しては、好きな歌手ですら、つい重箱の隅をつつくようなことを書いて、
まるで息子の嫁には決して満足しないうるさい姑のようになってしまう私ですが、
バレエについては、なぜだかなんの心置きなく、爆ミーハーです。

今日は、私のダックス王子、マルセロ・ゴメスと久々の再会を果たすため、
『Kings of the Dance』というイベントを鑑賞して来ました。
この『Kings of the Dance』は2006年にアンヘル・コレーラ、イーサン・スティーフェル、
ヨハン・コッボルク、ニコライ・ツィスカリーゼの4人の”キング”に、
アリーナ・コジョカルとグドラン・ボイエセンというゲストを招いて、
セルゲイ・ダニリアンのもとにプロデュースされたのが最初で、
以後、キングの顔ぶれが代わりながらも、継続して開催されている人気企画です。

このプロジェクトが人気なのは、まず、男性ダンサーにフォーカスするという視点の面白さ、
現代の著名な振付家のそれを含む色々な作品を見れること、
そして、それを踊るキングたちの顔ぶれ、に理由があると思います。
ダックス王子はもちろんなんですが、普段、なかなか見ることのできない、
名前しか聞いたことのないABT以外のダンサーを見れるのも、私にはとっても楽しみです。

今年のキングたちは、下の写真左から順(カッコ内は出身国)に、
ホセ・マヌエル・カレーニョ(キューバ)、デイヴィッド・ホールバーグ(アメリカ)、ニコライ・ツィスカリーゼ(ロシア)、
マルセロ・ゴメス(ブラジル)、ギヨーム・コテ(カナダ)、ホアキン・デ・ルス(スペイン)、
デニス・マトヴィエンコ(ウクライナ)、そして写真にはいませんが、デズモンド・リチャードソン(アメリカ)という顔ぶれです。



(この企画は複数の公演日があり、ソロの作品以外は、日によってダンサーが組み替えられます。
よって、ここから下の写真は、私が見たダンサーとは違ったキングによって踊られているものもある点、ご了承ください。)

● 第一幕 ●

最初に短い映像の上映があって、リハーサル中の各キングたちの表情や言葉が紹介されます。
キングといっても自分達がそうだ、と言っているわけではなくて、
そこを目指していくメンタリティを現わしたプロジェクト名であること、
このプロジェクトを通して、キャリアで同じような試練にぶち当たっているダンサーと、
その悩みを共有し、いろいろ考えられることは、非常に意義がある、といった意見が披露されて、
こういうイベントには、つい、”俺が、俺が”というメンタリティがついてまわりがちだと思うのですが、
これが全く正反対で、このキングたちは誰もとっても謙虚で、それが実際の公演内容にもあらわれている感じです。
NYタイムズのマコーレー氏の批評は、逆にそこがエキサイティングさを殺いでいる、と感じたそうで、
むしろ、若干そこからはみ出ているダンサーたちの方への評価が高かったですが、
私は和を感じるパフォーマンスって、嫌いではないですけど。

最後に4人のダンサーが向こうに歩いて行くモノクロの映像に重なるように、舞台の上に4人のダンサーが登場!!!

★ FOR 4

ウィールドン振付の作品で、音楽はシューベルトの”死と乙女”。
ウィールドンといえば、メトの新『カルメン』のコリオグラファーですが、
あの『カルメン』の幕前にダンサーたちによって踊られたパッション溢れるダンスと違い、
今回のこの作品では、すごく構築的といってもいいような振付だったのが意外でした。
パッションを生み出すというよりは、4人が視覚的に生み出す美を追求した作品というか、、。
その分、目には美しいのですが、あまり心に訴えかけて来ない部分があり、私の座席の周りでも、かなり不評でした。



今日この作品を踊ったのは、マトヴィエンコ、カレーニョ、ゴメス、コテというメンバーで、
彼らがどんなに合わせようとしても、踊りのスタイルの違いが微妙にクラッシュしているのも、
そのスタイルの違いを面白い方向に転化することも出来ると思うのですが、
この作品に限っていうと、なぜかあまり成功していません。

私の隣の座席のおばあ様は、ロシア出身で、NYに来る前は長らくパリにいらっしゃったという、
真性のバレトマンヌですが、この演目が終わるなり、私の方にやおら体を向け、
”あなた、どうお感じになった?”。
”え?いや、美しいダンスだと思いましたよ。”
すると、”でも、あなた、このダンスを見て、心を動かされた?私は全然よ。
でも、ダンスで一番大切なのはそこでしょ?”と火を吹く、火を吹く、、、。
まるでこりゃオペラを語っている時の私だ、、と思いながら、はあ、、と答えるのが精一杯のMadokakipなのでした。

● 第二幕 ●

★ Small Steps

今回ゴメスのために創作された、アダム・フグランド振付による作品。曲はマイケル・ナイマン。
いつぞやのABT秋シーズンの公演で踊られた”C. to C."をちょっと連想させるような、
気持ち悪い神経症的な動きが最初にあるのですが、ゴメスの素晴らしさはそんな中からも美を抽出できる力というか、
実際、彼の手にかかったら、道端で座ってうんちしているポーズでも、美しいダンス作品になってしまいそうな気がします。



前半のそういった自らと葛藤し、鬱屈している雰囲気から、後半の自己の解放を感じさせる場面まで、
彼の動きには全く無駄がなく、それでいて、表現への激しい意志を感じるのは、
これが好きな理由なんだよー!と、そもそも彼を好きになった原点に立ち返らせてくれます。
ただ、フグランドの振付がゴメスの持つそういった力とちゃんと拮抗し、彼の良さを引き出すものか、といえば、
私は疑問を呈します。こんなに情熱的なエグゼキューションをもってしても、
観客の心に訴えるものが少ないとしたら、それは振付家の責任以外のなにものでもないでしょう。

★ Vestris

レオニド・ヤコプソンが、ミハイル・バリシニコフのために振付けた作品で、音楽はバンシーコフ。
オーガスト・ヴェストリという18世紀後半のフランス人ダンサーを題材にした作品と思われ、
ピリオド・コスチュームを身につけたマトヴィエンコがくるくると色んな架空の場を、
時には威厳をもったスタイルで、また時にはコミカルなスタイルで演じます。
この作品は、まるでどこかの貴族の召使が色んな作品に登場するヴェストリを真似しているように思わせるような、
大きな通奏低音的なおかしみがあるその上に、
シリアスに威張ってみたり、コミカルにお茶らけてみたり、劇的に死んでみたり、という、
言ってみれば劇中劇的な表現力も求められるという、一見楽しい作品ながら、
踊り手に色々なスタイルをこなせる懐の広さと、それを大きいレベルでおかしみにかえられる
絶対的なコメディックなセンスが求められる、非常に難易度の高い作品だと思いました。



マトヴィエンコは、新国立劇場に頻繁に登場していた(る?)イメージがあって、ぜひ、一度観てみたかったダンサーです。
まず、彼の華奢な体のつくりにびっくり!!!まるで蚊とんぼみたいなんですけど、、。
それを生かした軽やかで丁寧なダンスが持ち味ではないかと推測するのですが、
残念ながら、コメディックなセンスには全く欠けるダンサーだと感じました。
振付に備わった、形から生まれるおかしみ、それからタイミングから生まれるおかしみ、
その両方でポイントを見失っていたように感じました。



また、どこか動きが堅くて、例えばこの写真だけ見ても、
ひょうきんな動きの中からでも滲み出てこなければならない、美しさとか鋭さが十分には出ていないことがわかると思います。
彼を再び見ることがあるなら、シリアス、もしくは爽やかな王子様系の役での表現力を見てみたいな、と思います。

★ Dance of the Blessed Spirits

逆に圧倒的な視覚美で、これまで私が彼に対して持っていたイメージを大幅アップさせたのは、ホールバーグ。
この作品はグルックの『オルフェオとエウリディーチェ』にアシュトンが振付した作品。
舞台には数段のステップがおかれ、この上に立ったホールバーグがスポットライトに浮かび上がるところから、
作品が始まるのですが、私が”首男”と呼んでいた過去があったのが嘘のような、完璧な肉体美です。



こんなことを言ってしまうと元も子もないんですが、むしろ、動いていない時の方が美しい感じがするくらい、、。
けれども、誤解なきよう付け加えると、動きも本当に本当に綺麗。
彼は足の先、手の先を含めた細かい動きにすごく神経が通っていて綺麗なので、
ばたばたとしたドラマティックな作品より、こういう無駄のない研ぎ澄まされた振付でこそ、
本領を発揮できるんじゃないかと思います。



とにかく一つ一つの動きが完全にぴたっと収まり、調和していて、
どの瞬間を見ても動きに美を感じるのは素晴らしい。



最後の、祈るように手を合わせて空を見るポーズの神聖さすら感じる美しさまで、
きちんと物語を感じさせる振付も見事。
振付家、踊り手両方の力が揃ったこの演目は、今日のソロの作品のうち、私が最も良いと感じた一本でした。

★ Five Variations on a Theme

デイヴィッド・フェルナンデス振付。曲はバッハ。
このホアキン・デ・ルスというダンサーも初めて観ます。
今日のメンバーの中では一番小柄で、視覚的な意味での体格には決して恵まれていないのですが、
動きから卓越した運動能力を感じます。
実際、この演目にも大技が入っていて、客席は大歓声。おばあ様と逆隣のおじさまは大興奮してましたが、
決してバレエの技に精通しているわけではない私にとっては、豚に真珠状態。自分を呪う!!
よくバレエの技術を理解している人にこそ違いがわかってもらえるダンサーなんだと思います。
逆にあまり細かいところの表現力に長けた人ではないので、私のようなノヴィスなバレエ鑑賞者には、
今ひとつありがたみが理解されないかわいそうな人、、。
ま、そのように色々な個性のダンサーがいるということで、地球は回っていくのです。

★ Ave Maria

おなじみのシューベルトの曲にイガル・ペリーが振付けた作品。
体格に恵まれていない、という点では前のデ・ルスと全く同じハンデを持っているカレーニョですが、
私がカレーニョの方を好きなのは、彼の踊りに作品への愛情をより強く感じるから。
振付自体そんなに魅力のある作品とは私には感じられないのですが、
そんな限られた状況のなかでも、カレーニョが作品を慈しみながら大事に踊っているのが良く伝わってきます。
体力的なピークを越えているとはいえ、彼の踊りから常に温かみを感じるのはこの姿勢のせいなんだな、と思います。

★ Lament

チャールズ・ヴィール・ジュニアとキャロライン・ワーシントンの曲に、ドワイト・ローデンが振付けた作品。
デズモンド・リチャードソンというダンサーによって踊られたこの演目は、
今日、観客からの受けが一番良かった演目のように感じるんですが、すみません、、、私、すっごく苦手です、、。
なんか私、この人、怖い、、。



”音楽”と同様、”ダンス”にも色々な種類のものがあって、それをまとめて語るのは不毛です。
クラシック・バレエのような、型を重視したアプローチがある一方で、
もっと直接的でダイナミックなアプローチも存在して、それもまたダンスの一側面であることには間違いがないのですが、
私は今回この演目に接して、ことダンスに関しては、自分が直接的なアプローチは非常に苦手であることに気付きました。
同じ情熱的なダンスでも、ある程度構築されて枠がある方がしっくり来るというのか、、。



このリチャードソンというダンサーについていうと、それはもうすごい身体能力だし、
暑苦しいまでのパッションといい、優れたダンサーであることは間違いありません。
けれど、よく訓練されたクラシカル・バレエのダンサーなら絶対にとらない足の角度とか開き方、
その何でもありな感じが、私にはなんだか居心地悪く感じます。
”表現のために、あるもの何でも使って何が悪い?”という意見は当然あるでしょうが、
その一方で、”なぜ何もかも使わないと、表現が出来ない?”と言う意見も妥当ではないでしょうか?
先ほどのダンサーのタイプと同じで、ただ、単に違ったフォーマットなんだ、と受け入れるべきなのでしょうが。

★ Fallen Angel

ジア・カンチェリの曲とバーバーの曲(『弦楽のためのアダージョ』)をつないだトラックに、
エイフマンが振付けた作品を、唯一残っているオリジナルのキング、ツィスカリーゼが踊りました。
布を小道具に使いながら劇的なライティングを多用した作品で、最初の数分はそのインパクトでもっているのですが、
段々、バレエ版ヴィラゾンとでも呼びたくなるような暑苦しい造作(彼の方は、ヴィラゾンが
オペラ界のツィスカリーゼなのだ!と主張するかもしれませんが)に負けないくらい、
一生懸命熱く踊っているツィスカリーゼと作品の間に溝が生まれて、
しまいには、その熱い演技が上滑りしているかのように感じられて来てしまう不思議な演目でした。
最も観客からの拍手も少なく、オリジナル・キングの、”ダンサーとしての良さ”が全く発揮されていなかったと思います。

★ "Morel et Saint-Loup" from the ballet Proust ou les Intermittances du Coeur

プティ振付のバレエ作品『プルースト~心の間歇』から、モレルとサン・ルーのパ・ドゥ・ドゥで、
この場面の音楽はフォーレ(チェロとピアノのためのエレジー Op.24) です。
もちろんどの作品でもそうですが、特にこの作品はダンサーによって、すごく醸しだされる雰囲気が違って来そう。
私は、なぜか、バレエの鑑賞では、とてもキャストの星巡りに恵まれているように思うのですが、
今日もその例に漏れず、サン・ルーがコテ、モレルがゴメスでした。きゃん!



この作品はプルーストの『失われたときを求めて』の中から印象的な場面を2幕13景にまとめたもので、
”モレルとサン・ルー”は、プルースト的地獄としてまとめられた第二幕の中で、
天使たちの闘いというサブ・タイトルがついています。
最初にサン・ルー役のコテによるかなり長いソロがあって、その後に、モレル役のゴメスとのデュエットになります。

ああ、それにしてもこの2人の美しさは!もう、私、クラクラしてしまいました。
これをホモ・セクシュアリティにやられた『モーリス』系リアクションと思いたければ思え。
ここには、ホモ・セクシュアリティと、もっと普遍的な、愛するからこそ生まれる
出会い、熱情、怒り、嫉妬、そして信頼という感情がすべてミックスして表現されているのです。
実際、既述のNYタイムズの評には、”これは実存主義の姿を借りたホモ・セクシュアリティか、
もしくは、その逆か、その判断は他者に任せるが、いずれにせよ、どうしようもなく退屈な例だった。”
とあるんですが、私に言わせりゃどっちがどっちなんてなんの関係があるんだろう?って感じです。
どうして、ホモ・セクシュアリティと実存主義をわけなきゃならないんでしょう?
これは、たまたまホモ・セクシュアリティを感じる2人が主人公である、という設定なだけで、
それは、なぜ、2人の名前がサン・ルーとモレルなの?と聴くのと同じ位すっとぼけた質問だと思います。



もちろん、ホモ・セクシュアルという設定でなければ生まれ得ない、特有の美はあるでしょう。
でも、それはヘテロ・セクシュアルという設定上でなければ生まれ得ない美もあるのと、あくまでパラレルです。
むしろ、この作品の良さは、そのホモ・セクシュアル的な設定と、
その実、描かれている内容が人間存在についての性を越えた普遍的な面を取り扱っている、という、
この絶妙なバランスにあるともいえ、マコーレー氏をして、”どちらが先に来るのかわからん。”と言わしめたこと自体、
コテとゴメスが巧みにこの作品を踊ったと言えるのでは?



ソロの部分のコテは少しフェミニンな感じで、この作品を良く知らなかった私は、
これが彼のダンサーとしての持ち味なのかな、でもちょっと他の作品でこのスタイルで踊られるときつい、、と思っていたのですが、
ゴメスが登場して、彼のマスキュランな部分との調和がすごく上手く行っているのを見ると、
あれは意図的なものなんだろうな、と思います。
とても、見応えがあって、これまでのプログラムの中では一番好き!

● 第三幕 ●

★ Remanso

ところがもっと好きになってしまったのが、グラナドスの音楽にのせてデゥアトが振付けたこの『レマンゾ』という作品。



舞台に設置された壁と、小道具のばらの使い方がすごく効いていて、
観た後に独特の温かさが心に残る作品です。
なんだろう、、、ロマンスという意味での愛ではなくて、もっと広い意味での人間同士の愛とか絆を感じるというか、。



特に具体的なストーリーがあるようには、少なくとも私には見えないのですが、
抽象的な感覚を、これほどびしっと観客の心の中に生み出せる振付って、すごいと思います。
もちろん、それを実行しているダンサーあってのことですが。



今回は、ホールバーグ、リチャードソン、カレーニョという顔ぶれで、
この多国籍軍のような、ナショナリティも、肌の色も、ダンスのスタイルも全く違う三人が上手く溶け合って、
いや、むしろ、違うからこそ一層味が出ているような感じがするのは、FOR 4 とは全く対照的で、
これこそ、振付家の力が大きいのでしょう。

★ The Grand Finale

最後に全てのダンサーが舞台に一人ずつ大技を見せながら登場し大団円。
蚊とんぼのマトヴィエンコが、クラシックのレパートリーでは絶対に見せられない、
横からひねりこむようなジャンプをしながら、片膝で着地し、ポーズを決めたのには大歓声が沸き起こりました。
ただの蚊とんぼじゃなかったのか、、、。

(最初の写真は『レマンゾ』から。)

KINGS OF THE DANCE

Jose Manuel Carreno (Cuba)
Guillaume Cote (Canada)
Marcelo Gomes (Brazil)
David Hallberg (USA)
Joaquin De Luz (Spain)
Denis Matvienko (Ukraine)
Desmond Richardson (USA)
Nikolay Tsiskaridze (Russia)

New York City Center
GTRC B Odd

*** キングス・オブ・ザ・ダンス Kings of the Dance ***

ROMEO AND JULIET - ABT (Sat, Jul 11, 2009)

2009-07-11 | バレエ
恐れ多すぎて、今まで当ブログに書けなかったことですが、、。

二年前のフェリのABTフェアウェル公演(そして私の記憶が正しければ、それは彼女の最後の全幕公演でもあった)
『ロミオとジュリエット』のパートナーに、なぜ、フェリが、
ABTのダンサーではなく、わざわざボッレを選んだのか、私にはちっともわかりませんでした。
『ロミ・ジュリ』での最高のパートナーであったボッカがすでに退団していたから、という事情を差し置いても。
(ボッレは当時はABTのダンサーではなく、ABTのプリンシパルになったのは今シーズンからのことです。)、
そしてその気持ちは、今日の公演が始まるまで、ずっと変わらずにいました。
つまり、フェリほどのダンサーのフェアウェル公演で
パートナーを務めるほどの力があったかどうか、フェアウェル公演を観た後でも懐疑的だったということです。

さらに、これまた彼のファンであるバレタマンの方に刺されるのを覚悟でいうと、こういう風にも思っていました。
ABTで今、人気が頭一つ飛び出ている感のある男性ダンサーはゴメスとボッレ。
(ま、この前提自体にも、異論がある方がいらっしゃるかもしれませんが、、。)
いずれも美形ダンサーですが、ゴメスは実力にルックスがたまたまくっついて来たタイプ
ボッレは断然ルックスで得しているタイプ、と。

今日のソワレがラストの公演となるABTメト・シーズンは、
そのボッレとイリーナ・ドヴォロヴェンコによる『ロミ・ジュリ』。
私はもともと今日の公演は全く観に行く予定にしていなくて、
サブスクリプションの一部で、月曜の公演のみを一人で観る予定でした。
しかし、その月曜の公演がゴメスとヴィシニョーワのコンビであると知って、
これは連れにも見せてあげたい!と、サブスクリプションのチケットをエクスチェンジして、
新たに月曜の公演のチケットを二枚並びの席で押さえなおしたのです。
で、もとの一枚のチケットをどの公演にエクスチェンジしよう、、?という段階で、
ボッレをもう一度観ておいてもいいかな(この時は白鳥のお誘いをM子師匠に頂く前だった)、
シーズンラストの公演でもあるし、くらいな気分でした。




私はドヴォロヴェンコ(↑)に関しては、今までラッキーだったようで、
『ドン・キホーテ』『バヤデール』など、彼女が絶好調の時に鑑賞する機会に恵まれているのですが、
それでも、彼女はどちらかというと妖艶さや華の部分で見せるタイプで、演技にも彼女らしい若干のクセがあるので、
ジュリエット役のようなタイプはちょっと違うかなあ、、という気持ちも強く、
他に惹かれるキャストがあればそっちを取ったかもしれない、という程度のものだったのです。

ところが予想に反して、私には月曜のゴメスとヴィシニョーワの『ロミ・ジュリ』は今ひとつ心が昂揚するものでなく、
私は、ゴメスLOVE!、ダックスフントLOVE!であるゆえに、余計に気分が落胆してしまって、
ゴメス王子ですらこれなのだから、ボッレでは何をか言わん、、
このまま土曜には”悪くはないが、そこそこ”の『ロミ・ジュリ』を観て
シーズンを終えることになるのかしら、、?と気分が沈んでいました。

しかし、そんなところに同じ主役キャストで週頭に上演された『ロミ・ジュリ』を鑑賞したM子師匠からメールが。
”火曜のボッレは素晴らしかった。まるで、今までの彼とは違うレベルに進んだよう。”
そして、ドヴォロヴェンコをそれほど好きではないとおっしゃる師匠をして、
”イリーナは、この役の、火曜の公演に限って言えば、表現が繊細でこれまた大変素晴らしかった。”

ああ、私の曇った心に一縷の光が
だけれども、そもそも疑り深いオペラヘッドである私であるうえに、
舞台芸術というのは、一回一回が生ものであり、同じキャストであっても、
日によって全然結果が違う!ということがありえるのは、何度もオペラで体験してきたことなので、
過度な期待を抱かぬよう、自分を抑えることも忘れない、ぬかりないMadokakipなのでした。

で、結果から言いますと、そんな風に自分を抑える必要は全くない、M子師匠のお言葉通りの公演でした。
月曜日の『ロミ・ジュリ』の、ゴメスのロミオに欠けていたもの、
私が今ひとつあの公演でのれなかった理由となっていた”あるもの”の不在、
それが、ボッレのロミオには完全な状態で存在していました。
そして、思ったのです、、、ボッレ、あなどれじ!!!

それは、もう、最初から明らかでした。
彼のロミオには、ゴメスにない、軽やかさとか柔らかさとナチュラル感があるのです。
これは単にがっちりした体格のゴメスに対し、ボッレの方が細身で、、などという体型のことを言っているのではなく、
彼の演技や踊りのスタイルから来るものです。
『白鳥の湖』のジークフリート役では、まさにそこが
オペラヘッドの常でこてこてのドラマが好きな私にとって、物足りなく感じてしまう側面だったのですが、
なぜか、ほとんど演技していないのではないか?と思えるような彼の演技の薄さが、
この『ロミオとジュリエット』という作品(ここではマクミランの振付に限定しますが)では実にふさわしい!!

ゴメスとボッレ、どちらが正確な振りを見せているか、といわれれば、
それはゴメスなのかもしれませんが、彼のロミオはまさにそこが非常に暑苦しい感じを与えていた、と
言わねばなりません。
逆にボッレの方はいい意味で抜きどころを心得ていて、例えば、回転する際も、
ゴメスは回転の速度がどれも同じで息詰まるような感じだったのですが、
ボッレはふっと力が抜ける瞬間があって、かと思うとその後に続く部分で
スピード感が出たり、と、その羽毛が舞うような自由自在さが魅力で、
まさにこの雰囲気こそ、この物語前半の持つ雰囲気であり、
ヴェローナの、そしてマキューシオ、ベンヴォーリオとの3人組との友情と、
そして、何よりもジュリエットの恋に有頂天になっているロミオの心に似つかわしい!!

今日の公演の、主役二人以外の最大の貢献者はマキューシオを踊ったサルステインで、
彼の踊りからは、彼が一生懸命、自分のマキューシオはどんなマキューシオ?
というのを考え、努力している様子がいい意味で伺われます。
踊りそのものの全体の完成度や緻密さはさすがにこの役を踊りなれているコルネホの方が上かもしれませんが、
(ただし、今日のサルステインは、第二幕の同役の最大の見せ場のソロで、
素晴らしい技を披露していたことは付け加えておきたいと思います。)
月曜のコルネホからは、惰性のようなものが感じられたのに比べ、
サルステインの方は、全くコルネホとは違う、コミカルな色の強いマキューシオ役を打ち出していて、
大変魅力的でした。
(例えば、そのソロは相当体力を消耗しますが、最後にマンドリン・ダンスのメンバーを使って馬飛びをする場面で、
二人目の馬のところで、”へとへとだからさ、もうちょっと低くないと飛べないよ!”というジェスチャーをして、
飛ばずに済ませてしまう場面の笑いの呼吸など、絶妙なものを持っています。)
他にも彼がアドリブで入れている演技や振りはどれも気が利いていて、
(キャピュレット家の舞踏会に忍び込もうとしている3人が、家の門のところで、
右に行こうか、左に行こうか、と、3人が首を振って、”よっしゃ、右だ!”と決める場面は、
彼が通常よりタイミングをずらせて遅く頭を振ったことで、この場面のおかしみが増しました。
こういうのは舞台本能とでも言うべきもので、彼のすぐれたリズム感を見るにつけ、今後が楽しみです。)
お仕着せでなく、自分で役を作っていこう、というこの姿勢はとっても素敵です。

このサルステインの力もあって、男子三人組のシーンは、つい見ているこちらも微笑んでしまうような、
浮き浮き感があります。これですよ!これ!!!!私が月曜に見たかったのは!!

ドヴォロヴェンコについては、頭の方のソロで踊っている部分に関して言うと、
ステップに独特のねちっこさがあり(足が床から離れるまで、そこに吸い付いているような錯覚を覚える)、
また、とてもジュリエットがローティーンの少女には見えず、ハイティーンのような雰囲気なのですが
(その点は、ヴィシニョーワの方がずっとローティーンらしさを表現しえていたと思います。)、
それは若さの象徴である伸びやかさを表現するには、もっともっと腕を遠くに届く感じで踊ってほしい、というのが、
私の希望としてはあるのですが、彼女は少し腕の伸びが小さいというか、
コンフォート・ゾーンでちまっと踊っているような印象を受けます。

ところが、ロミオと絡むシーンから、彼女の踊りはぐっと良くなります。
というか、ボッレとドヴォロヴェンコ、この二人、すごく相性が良いように思うのは私だけでしょうか?
二人のどちらもが伸び伸びと踊っていて、PDDなどでの足の揃い方、
ポーズの一体感など、うっとりさせられ、唸らされること、一度や二度ではありませんでした。
ドヴォロヴェンコに関しては、ボッレと一緒に踊る場面から、四肢に伸びやかさが加わったような気がするほどです。
また、この二人はスピード感がすごく合っているのか、
じっくり見せるところ、スピーディーに技を決めるところ、というのが、
いちいち心憎いくらいに息が合っていて、バルコニーのシーンのPDD、これは秀逸でした。

このバルコニーのシーンも、しかし、場面のトーンというか、美しさを決定付けていたのは、
ボッレだったと思います。
バルコニーに現れたドヴォロヴェンコ、彼女の動きには最初に危惧した妖艶さがちょっぴりあって、
私はここはもっと無邪気なフェリのような動きが好みですが、
そこに、あの不安げな誰だ?という音をオケが奏でる中、ボッレ・ロミオが出現、
そして、ジュリエットを真正面に、つまり客に完全に背中を向けて
マントに身を包んだままジュリエットと見詰め合うシーンは、
マント越しに彼の心の高鳴りと、それと同時になんともいえない繊細さを感じる瞬間でした。
そう、ボッレのロミオには、たおやかさと繊細さを感じるのです。

そして、ジュリエットのいるバルコニーに近づき手を差し伸べる。
優しいんだなあ、、この手の動きが、、。
ロミオのやんちゃさの後ろにある本当の性格がふっと伝わってきます。
月曜のゴメスの情熱的な差し伸べ方は対照的ですが、この役に関しては私はボッレの表現の方が好き。

そういえば、前後しますが、ボッレのシャイなロミオが、
ジュリエットにキスをして、彼女が有頂天となるシーン、これも初々しくて説得力がありました。
ゴメスは思い起こせば、月曜の舞台で情熱的に何度もジュリエットにキスしてましたが、
ボッレ・ロミオのこのたった一度のシャイなキス、
こちらの方がずっとこの物語を語るのに効果的に思えるのは示唆的です。

それから、ボッレのジュリエットへのサポート、これが大変良くなっていて、びっくりしました。
フェリとの公演の時に、もたもたしたり、また手持ち無沙汰に見えた腕の置き方、
これらはほとんど100%改善されていたと言ってよいと思います。
また、回転のきれが良く、安定感、美しさも二年前よりずっとアップしています。

とにかく今日の二人からは恋する二人の心の高鳴り、そしてそれはこのPDDのすべてだと私は思うのですが、
それが痛いほど伝わってきました。

ゴメスの回転が慎重すぎたのに比べて、段々と早くなるその様子がロミオの気持ちを上手く表現しているボッレ、
そう、この演目では慎重なのは似合いません!
そして、そこに駆け込んでくるジュリエットを受け止め、
くるくる回す(再び擬態語!)時のあのどきどき感!!

惜しむらくは、ボッレは少し細身なことが関係しているのか、
腰まわりの力が少し心もとない部分もあって、ジュリエットをリフトしながら、
座って腰を上げ下げする場面では、若干辛そうだったのが惜しい!
ここはゴメスが逞しい体格にものをいわせ、楽々とこなしていました。
一瞬、ふっと現実に引き戻された瞬間で、これは何としてでも、
今後、腰周りと腿の筋トレに励んで克服してほしいものです。

私のボキャ貧を補うべく、このバルコニーのシーンがどのような振付であるか、の参考に、
引退するまで最高のジュリエットとして君臨していたフェリと
ボッカ(彼を生で観たことがないのは、私が墓場まで持っていかねばならない悔い!)による
過去のABTの舞台の映像をご紹介しておきます。(振付はもちろん、セットも現在と同じです。)
なぜか肝心のラストがぶちきられているのには噴飯ものですが、映像の質が一番良いのでこちらを。




最後にジュリエットがまたバルコニーに駆け昇り、ロミオが再びジュリエットに手を伸ばす、
これがこのPDDのラストの振りでがそこで幕が降りるのですが、
ここも、ボッレの手の伸ばし方がたおやかでいいです。
墓場で二人が手を取り合って(というか、そうしようとして、と言った方が適切かもしれませんが)死ぬラストの伏線を感じます。
ここもゴメスはちょっと表現が闇雲に情熱的過ぎたと思います。

インターミッションでお話させていただいた隣席の男性の感想は、”素晴らしいが、暴力的な作品だねえ。”
これが、褒め言葉でなくて何でしょう?
下手な公演だと、それすら伝わってこないのですから。

第二幕はそのヴァイオレントさが炸裂したシーン。
サルステインの演じた鬼気迫るマキューシオの死に際は、すごかった。
刺された苦しみに悶えながら、”なんてね!大丈夫だよーん!”とおどけて見せるシーン、
しかし、力尽き、自分を刺したティボルト(私が全くぴんと来ていないサヴェリエフが、
いつもと同じ、やっぱりぴんと来ない、エッジの甘いパフォーマンスを見せていました。)のみならず、
ロミオまでに怒りをあらわにする場面、
そして、何の身を庇う素振りもなく、吹っ飛んで息絶える壮絶な最後、、。
私の逆隣のおばさまはつい、"Oh, my god!"と叫び声をあげてしまわれたほど。
最初から最後までピントの合った大熱演で、
今回の『ロミ・ジュリ』の公演は、おそらくサルステインにとって大ブレイク・ポイントともなりうる、
重要な公演だったのではないか、と感じます。

そして、その彼が倒れてすべての人間が息をのんだ瞬間、
私を驚かせたのは、ボッレがその驚きと嘆きを背骨で演技をしたことです。
つい熱い演技をしたくなるこの個所で、ほんの少し背骨をひきあげる、
たったそれだけの仕草でロミオの感情を表現しきったボッレ。
いつからこんなに演技が上手くなったのか?
少なくとも二年前はこんなに上手くなかったと思う。
それとも、私が盲目だったのか、、?

今シーズンが始まる約半年前、USヴォーグ(2008年12月号)で
アニー・リーボヴィッツがボッレらをモデルに『ロミオとジュリエット』からの代表的なシーンを撮影した写真を使用した、
”一生に一度の恋(Love of a Lifetime)"という記事が組まれました。


(右のロミオを演じているのがボッレ)

その記事の中で、フェリがこう言ってます。
”ロベルト(・ボッレ)には何かとても若々しくて、ピュアな部分があるの。
彼の力強い姿を目にすると、とても信じられないかもしれないけれど。
でも、彼のハートにはすごく柔らかな部分もあって、
そういった性質は、すべて、ロミオにもまたあてはまるのよ。”
彼女の言葉は何と真実だったことか!
今になって、フェリがボッレに何を見ていたのか、それがわかる気がしました。
情熱に流されずに、たおやかで優しくて、もっと複雑なロミオ像を築き上げた今回のボッレを見て、
ゴメス・ファンの私には悔しいのですが、今のところ、ロミオは彼の役である、と認めざるを得ません。



サルステインに次いで、目を引いたのは、パリスを演じたアムーディ。
遠めで観るに、気品があって、こうでないと、ロミオ、ジュリエットとの三角関係が
笑い話になってしまいます。
しかも、今日のロミオは素敵さでは只者でないボッレ。
その彼と張り合って一歩も引いていない存在感は賞賛に値します。

終演後に拍手が多かったのは主役二人のうち、ドヴォロヴェンコの方でしたが、
この作品の大切な根幹、つまり、若さゆえの純粋な恋とそれが引き起こす悲劇という枠を、
きちんと作り出したのはボッレの力で、ボッレが相手役でなかったなら、これほど良い公演になったかは疑問です。
もちろん、彼の役作りにきちんと呼応しながら、ジュリエット役を踊りきった
ドヴォロヴェンコの力を過小評価するものではありません。

この公演を観ると、月曜のゴメスのロミオの役作りは最初から少しずれてしまったのかも、、とも思う。
ゴメスと張り合えるABTのダンサーは誰かしら?と余裕をかましていましたが、
とんでもないところから凄腕のライバルが現れた感じ。
いや、いいライバルは技を磨く原動力とも言いますから、二人の今後が楽しみです。


Irina Dvorovenko (Juliet)
Roberto Bolle (Romeo)
Craig Salstein (Mercutio)
Gennadi Saveliev (Tybalt)
Blaine Hoven (Benvolio)
Alexandre Hammoudi (Paris)
Roman Zhurbin (Lord Capulet)
Kristi Boone (Lady Capulet)
Maria Bystrova (Rosaline)
Karin Ellis-Wentz (Nurse)
Frederic Franklin (Friar Laurence)
Amanda McGuigan (Lady Montague)
Vitali Krauchenka (Lord Montague)
Clinton Luckett (Escalus, Prince of Verona)
Misty Copeland, Stella Abrera, Melanie Hamrick (Three Harlots)

Music: Sergei Prokofiev
Choreography: Kenneth MacMillan
Conductor: Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
Grand Tier A Even

***ロミオとジュリエット Romeo and Juliet***

ROMEO AND JULIET - ABT (Mon, Jul 6, 2009)

2009-07-06 | バレエ
とうとうラストの週になってしまったABTメト・シーズン。
最後の演目は『ロミオとジュリエット』で、私は今日のゴメス/ヴィシニョーワ組と
土曜夜、つまりシーズン最後の公演のボッレ/ドヴォロヴェンコ組の公演を観に行きます。
この演目は2年前のシーズンのコレーラとヴィシニョーワのそれを観て、
バルコニーのシーンで涙目になってしまったという、思い出の作品でもあるのですが、
そのヴィシニョーワが、今回ゴメスという別のパートナーを得て、どうジュリエット役を表現するか?
そして、何よりもゴメスとボッレという、現在ABTの男性ダンサーの中でも
最も華やか、つまり平たく言うと”いけてる”二人が、
同じ役をそれぞれどのように違って演じるか、これは大変楽しみなところです。

バレエのシーズンになるといつも声高に吠えまくっているので、
もう繰り返す必要がないほどだと思われますが、私がABTで最も好きな男性ダンサーはゴメス。
今日も連れとの鑑賞なので、開演前に、”今日のロミオは、『白鳥』の紫の人だからね、
超期待していいから!”とぶちあげておきました。

今日は前から三列目だったため、幕が開いた瞬間から大変なことに。
というのも、ABTの『ロミ・ジュリ』はマクミランの振付によるもので、
この版は、他のバレエ団による公演の映像がDVDになったものなどでおなじみの方が多くいらっしゃると思いますが、
一幕一場は市場の場面で、ヴェローナの街の賑わいを表現するため、
かなりの数のダンサーが舞台に上がっています。
しかも、それぞれのグループが(女性、男性、モンタギュー家寄りのもの、キャピュレット家寄りのもの、、)
違った振りをしているので、もう追うだけで大変、というか、こんなの全部追えません。
舞台に近すぎて追いづらい、というのもあるのですが、
もちろん、最大の理由は、すでにこの場からロミオ、マキューシオ、ベンヴォリオの3人が登場し、
私は練り飴のようなしつこい視線をロミオ=ゴメスに集中投下していたからです。
ああ、舞台の他で起こっていることを観ようとすると、ゴメスから視線が外れてしまう、、
何と言う歯痒さ!ジレンマ!!!

しかし、今日の男友達三点セット、つまり、
ゴメスのロミオにコルネホのマキューシオとロペスのベンヴォリオが加わった三人ですが、
この3人の間の呼吸に、どこかぎこちないものを感じてしまうのはなぜなのか、、?
いや、はっきり言ってしまうと、一番浮いているのがゴメスのような気がする、、。
この公演の後に私の師匠M子さんとメールのやり取りをしていて、
その中で、この3人がいかに生き生きと楽しそうに踊るか、というのがポイントの一つ、
というような話になったのですが、実にその通りで、この場面が噛みあわないと、
ジュリエットと出会った後の話の展開との対比が薄くなって、
物語自体が持っている素晴らしさが生きてこないと思います。

ジュリエットに出会って、ロミオが変わる、、
それまでの無邪気な女性との戯れが楽しく感じられなくなったり、
キャピュレット家の人間と和解を試みたり(まったく長くは続かないのですが)、
ジュリエットと会えないことが苦しくなる、
これらの、ロミオが恋をすることで成長した、変わった、ということを表現するには、
ジュリエットと出会う前に、いかに無邪気で何も考えない毎日を過ごしていたか、という、
その軽さを、3人で踊る楽しさの中に表現されていなければならないと思います。

その点で二年前のコレーラは秀逸で、本人のキャラも大いに手伝っているのですが、
とにかく生き生きとして楽しそうで、どこかやんちゃ坊主でフットワークが軽そうな雰囲気もあり、
私が持っているロミオのイメージにぴったりでした。
そういえば、この時にマキューシオを踊ったのはやっぱりコルネホで、
そこにマシューズのベンヴォリオが加わった三人組でしたが、
この三人の間には傑出したケミストリーがあって、彼らが登場するシーンはいつも引き込まれたのを思い出します。

しかし、特にジュリエットに出会うまでのゴメスは、
彼のまじめさと品の良さが、”重さ”となって感じられ、かつ、そこに、
演技面でのオーバーアクティングさが被さっているのを感じました。
それは、踊りの面でも共通していて、私は基本的にはゴメスの、一つ一つの動きを決して
おろそかにしない姿勢は大きく支持するのですが、一方で、
このマクミランの振付には、独特の軽さとスピーディーさが重要なように私は感じられます。
オケよりステップのタイミングが遅れる場面もありましたが、
絶対に一つ一つの細かい動きを省略しない彼なので、
”ああ、ゴメスらしい、、!”と微笑ましく思う一方で、当然その分音楽からは乗り遅れているわけで、、、。
また、遅れていない個所でも、彼の割と隆とした体型がそう感じさせるのか、
背の高さがそう感じさせるのか(←この点については、同様に背が高いが、
体型ではかなりスリムな感じがするボッレの公演を見たうえで、比較をしたいところ。)
コレーラに比べると、どこかフットワークの重さみたいなものを感じるのです。

男子3人組とからむ『積み木崩し』のような髪型の女性(これまた3人組)は娼婦なわけですが、
後の幕でロミオがジュリエットに出会ってから以前のように構ってもらえなくなってふくれたかと思うと、
構ってもらえなくなったのではなく、彼が本気の恋に落ちたんだ!というのを鋭く察知し、
本気で寂しげな表情(顔も踊りも)をしたりするのが味のあるキャラになっているのですが、
わざわざ娼婦と絡むシーンを作っているのも意味があって、
キュピュレット家の人たちが、家が仇同士である事実ゆえのみならず、
”あんな子達と付き合っちゃいけませんっ!”と、ジュリエットに言うのも無理からぬような、
やんちゃな雰囲気が欲しい。(もちろん根はいい男の子なのだが。)

そして、そのゴメスがその雰囲気を今ひとつ掴み損ねている感じは、
これはかつてどこかで体験したような、懐かしい感じがするな、、と思えば、
それは、去年の『海賊』でした!!!
あの『海賊』のコンラッドも、振付の感じは当然のことながら、
マクミラン作品とプティパらのそれの間では全然違いますが、
”生き生きとして”、”ちょっとやんちゃで”、というような言葉がキーワードになるのは、
ロミオと共通しています。
この似たクオリティのある役の両方でゴメスが違和感を感じさせるというのは、面白いことです。
って、面白い、などと言っている場合ではない!!
それは、彼がこういう軽妙さを感じさせる役や部分を苦手としている、ということではないか!!!

一つには先に書いたように、演技への指向性が強い彼の場合、
軽妙な場面でも、どうしてもオーバーアクティングに寄りがちになるので、
高度な要求であるのを承知の上で、今後、必要な場面では、逆にいかに”抜く”か、ということに
フォーカスしてもいいのではないかな、と思います。
ゴメスは演技の勘がとてもいいので、きっといつか、それを掴めると期待しています。
これがマスターされた暁には、まさにどんなジャンルの作品でもござれ!の、
脅威の”鬼に金棒ダンサー”になるのです。
今、私が知る限り、彼のアキレス腱(弱点)は、この軽妙キャラのみですから。

逆にジュリエットと一目で恋に落ちる場面、
マキューシオを殺された怒りについ我を忘れ、
愛するジュリエットの身内であるティボルトを殺してしまう場面、
それから寝室の場面からラストまでの部分は、ゴメスの演技力が良い方に作用する場面で、
大変見応えがありました。こういうドラマティックな表現の上手さは
彼が最も得意とするところで、全く心配の余地なし!

ただ、バルコニーの場面。これは、私にはまだ課題があるように思われました。
パ・ド・ドゥであり、相手があってのことなので、ゴメスだけのせいではなく、
ヴィシニョーワも含めた、コンビネーションとか相性の問題なのだと思いますが、
やはりここでも肝心なときにスピードが上がりきらないというのか、、、一言、重い。
特に途中で、女性ダンサーが片足を伸ばし、床に足を触れさせたまま
男性ダンサーにリードされる動きがありますが、
ここも、二年前に観たコレーラの方が適切なスピード感を持ってヴィシニョーワを引っ張っていた
記憶があります。

このバルコニーのシーンのような、見せ場で炸裂するマクミランの振付は、
特にリフトされた女性に課せられた独特のポーズから生まれる美しさが大きな魅力の一つであるわけですが、
今回は、どこか少し線がずれているような感じがするのが気になりました。
一言で言うと、あまりポーズが綺麗に決まっていない、ということなんですが、
フェリの引退公演でのジュリエットがあまりにも強烈だったので、
それを経過した今、私があまりに多くのものを求めすぎているのか、、?
いや、そんなことはないと思う、、
二年前のヴィシニョーワのポーズからは、もっと筋の通った美しさを感じた記憶がありますから。

一つ気付いたのは、ゴメスがドラマティックな表現のために、
つい、余計に細かい体の動きを入れてしまうことで、
十分にそれを行うだけのマージンが振付に備わっている作品では、
一般にはそれはいいことだと思うのですが、
これがマクミラン版のバルコニーのシーンではマイナスだと感じます。
その度に細かく美しく保たれていた線がずれ、かえってわずらわしく感じられるからで、
このシーンは、むしろ、感情表現をおさえて、二人のラインを調和させ、
いかにシンプルにするか、ということに専念した方が振付の美しさが出てくるように私は感じます。



ヴィシニョーワは素晴らしいダンサーであることには間違いないのですが、
フェリ、ニーナ、そしてもう少し若い世代ではドヴォロヴェンコ、パルトらの表現力とその濃さを体験して、
それから久しぶりにヴィシニョーワを観ると、意外と踊りがさらり、としていて、
あれ、こんなだっけ?と驚かされました。
彼女の場合、彼女の身体能力が生かせるようなスピーディーなパートナリングを
この作品で出来る男性ダンサーが必要かもしれません。
二年前のコレーラはその点で、この作品では彼女にマッチしていたように感じます。
彼女自身は、どちらかというとヴィジュアルの美しさで作品を表現するようなところがあって、
濃いドラマティックな表現があまり感じられないのも彼女の個性なのかもしれません。

例えばラストの墓場の場面は、ジュリエットが目を覚ました後からオケが最後の音を出すまでの実に短い時間で、
あら、なぜ私はここに?→そうだ、眠り薬を飲んだんだ!→
ああ、でも生きてる!良かった!→あ、ロミオがここにいる(すでに死んでますが)→
これでやっと一緒になれる!→ロミオが死んでいることに気付きショックを受ける→
絶望する→自分の命をとる決意をする→死に際してもなおロミオを愛していることを表現する

これを全部、しかも、走馬灯的なスピードで、しかし、どれもきちんとした意図をもって行わなければならず、
ポイントがずれていたり表現が曖昧だと、一気にこのシーン全体の素晴らしさが失せてしまいます。
フェリが一つ一つ的確に感情の変化を表現しえていたのに比べると、
ヴィシニョーワの表現は少しだらだら~と流れてしまった感があります。
もちろん、絶対的なレベルでいうと、素晴らしいのですが、
また、ヴィシニョーワのクラスになると、観客もそれ以上の何か究極的なもの/表現を求めてしまうのです。

表現方法一つをとっても、ゴメスは熱血系で、彼女はヴィジュアル系。
今日の公演を観ていても、二人の間にいわゆる本物のfireがないというか、
もしかすると、本来はヴィシニョーワのようなタイプは、
ゴメスとはあまり合わないのではないかな、と思うのですが、
彼女級のダンサーのパートナーをきちんと務め上げることが出来る男性ダンサーとして、
彼に白羽の矢が立つのはしょうがないことなのかもしれません。
ただ、この二人はお互いにベストなパートナーではないのかも、と、個人的には感じます。

他の役についても少し。
マキューシオ役を踊ったコルネホは安定した技を見せましたが、
以前のような爆発的なキレがないのは、たまたま今日が不調だったのか、、、。
ロペスのベンヴォリオは、残念ながら、強い印象を持ちませんでした。

嬉しいキャスト変更は、レディ・キャピュレット役で、アブレラに変わり、
パルトが入ることが当日に発表されました。
プリンシパルであるパルトがレディ・キャピュレットだなんて、なんて贅沢な!
彼女からは、今シーズン、以前とは違う気合を感じます。
今日のレディ・キャピュレットの表現も、二年前の公演より、ずっと緻密で丁寧で、
情感を持って演じていたと思います。
今年、彼女の『白鳥』を観れたのは、必ずしも彼女一番の出来でなかったとしても、収穫でした。

ジュリエットの従兄弟(になるんだと思う、、)、ティボルト役はスタッパス。
なんだか漫画のような悪人メイクで、自分でメイクしたのかな?
何もそこまでしなくても、、と笑ってしまいましたが、
(そういえば、メイク下手なのに自分でメイクをしたがって係を困らせたという、
パヴァロッティの逸話を思い出す、、。)
昨年の『ジゼル』のヒラリオンに引き続き、何の役をやっても強烈になってしまうのが彼の特徴、、?
漫画メイクにつられて、踊りの方もいかつい悪人系でした。
もうちょっと、微妙さ、繊細さがあってもいいかもしれません。
ティボルトはティボルトで、彼の考えのもと行動しているだけで、決して単純な悪人なわけではないですから、、。

そして、観客から大きな拍手をさらっていたのが、ローレンス神父役のフレデリック・フランクリン。
我が家にあるバレエ・リュスについてのDVDの中にも登場していて、
そのDVDの収録時ですら、すでにかなりのお歳なのに、矍鑠として舞台に立っていて、
連れと”このおじいちゃん、いい味出してるわあ!”と語り合っていたものですが、
本当はなれなれしくおじいちゃんなどと呼べないような、すごい経歴を持った、
バレタマンから熱い敬意を集めているダンサーで、なんと、今年の6/13に95歳になられたそうです。
昔の映像や写真を見ると、均整のとれた素晴らしい体をしていらっしゃいます。
今は、さすがに全く昔と同じ体型というわけには行きませんし(なんといっても95歳ですから、、)、
年齢のせいで、動きが制限される部分もありますが、この役では逆にそれが似つかわしい。
舞台に立つのが本当に幸せ、とご自身が感じてくるのが伝わってくるような、
可愛らしいおじいちゃま(こら!また!)です。

バレエでもオペラでも、このように年齢の高いパフォーマーから、次の世代にバトンが次々と
渡されていくのを見るのは非常に感慨深いものがありますが、
世代のバトンが受け渡されずにどこかで取り落とされたままになっている
(か、そもそもバトンが存在しなかった)のでは?と思わされるくらいひどかったのが、
またしても登場!のABTオケ。

今日の演奏はもう怒りを通り越して、あきれてます。
だって、まともに演奏できてないんですもの。
金管はリズムはめちゃくちゃで、あちこちで適当な音をたてているし、
元々ユニークなところのあるプロコフィエフの音楽ですが、
何が何だか、原型をとどめていないような部分まであるし、
肝心な個所で、ソロはミスる、、、
指揮者は必死でまとめようとしているんですが、オケそのものに能力がないから、無意味です。
っていうか、一体どういうメンバーなんでしょう、このABTオケは。
まさか、家族や友達の寄せ集め?それくらいへたくそです。
いや、まじめに、このオケは解体した方がいい。それも至急に!

最後に連れの意見を紹介しておくと、
”前半は、主役の二人が上手くかみ合っていない感じがしたし、
特に一幕のロミオには、ゴメスの地がスウィート過ぎるのか何なのか、しっくりこない感じがあった。
(だって、基本は王子様キャラなんですもの、、by Madokakip)
しかし、後半はすごく良かったと思う。”

ちなみにNYタイムズのダンス評では、この日の公演、特にゴメス、が絶賛されていて、
いかに女性ダンサーの間で彼がひっぱりだこになっているか、というようなことまで書いてあるのですが、
私は彼が素晴らしいダンサーであるのを確信してはいますが、
それでも、彼が触るものはなんでも魔法のように素晴らしいものになる!というような、
安易な評には反対です。
彼、いや、どんなに優れたダンサーや歌手誰にも弱点はあるし、
そんな弱点や本来の力が発揮されていない公演を素晴らしい!と呼ぶことは、
逆に彼らが真に持っている能力の素晴らしさ
(合ったレパートリーや役での素晴らしさ、真価を発揮した公演)に対してフェアでない、と思います。

先述の通り、土曜の夜はボッレのロミオ、ドヴォロヴェンコのジュリエット。
週の頭の方の公演で二人を観たM子師匠によると、
その日の彼らは素晴らしかったらしいので、期待が高まります!!


Diana Vishneva (Juliet)
Marcelo Gomes (Romeo)
Herman Cornejo (Mercutio)
Isaac Stappas (Tybalt)
Carlos Lopez (Benvolio)
Gennadi Saveliev (Paris)
Victor Barbee (Lord Capulet)
Veronika Part replacing Stella Abrera (Lady Capulet)
Maria Bystrova (Rosaline)
Susan Jones (Nurse)
Frederic Franklin (Friar Laurence)
Elizabeth Mertz (Lady Montague)
Roman Zhurbin (Lord Montague)
Clinton Luckett (Escalus, Prince of Verona)
Luciana Paris, Anne Milewski, Melanie Hamrick replacing Kristi Boone (Three Harlots)

Music: Sergei Prokofiev
Choreography: Kenneth MacMillan
Conductor: Charles Barker

Metropolitan Opera House
ORCH C Even

***ロミオとジュリエット Romeo and Juliet***

SWAN LAKE - ABT (Sat, Jun 27, 2009) 後編

2009-06-27 | バレエ
前編より続く>

すっかり観客をとりこにしたパ・ダクシオンの後に続く、四羽の白鳥たちの踊り。
今日は、加治屋さん、バトラー、コープランド、リッチェットが踊りましたが、非常に良かった!
今まで私がABTで観た中のこの場面においては、最高の出来だったのではないかと思います。
大体途中で誰かが疲れて崩壊していく(崩壊とまでは行かなくても、
足や頭の上げ方、角度が揃わなくなったり、、)パターンが多いのですが、
今日は前半の4人のシンクロぶりが素晴らしく、このまま最後まで通せたらいいな、と思っていたら、
本当に通ってしまいました!
ニーナの最後の晴れ舞台に、他の何物でもないダンスで花を添える、、彼女への最高の贈り物になったと思います。

それに対して、今ひとつぴりっとしないのは、コール・ド。
なんというのか、、、もしかすると、身体的能力というよりはむしろ、コール・ドというものがどういうものか、
自分を殺して全体と合わせるということがどういうことか、という精神的な部分が、
まーったく分かっていないのではないか?と思えて来ます。
なんか、”ABTのコール・ドはねぇ、、”と言われる事に対して開き直っているのではないか、と思われる部分もあって、
観客も最初からコール・ドのシーンは期待もしていないところがあるのですが、そんなことではいけない、と思います。
コール・ドの出来をあきらめる、ということは、バレエ作品の少なからぬ部分の楽しみをあきらめることでもあります。
オペラの全幕で合唱がこんな態度をとった日には(幸いメトはそんなことはありませんが)許されないのと同様に、
コール・ドのこんな姿勢を野放しにしていてはいけないのです!!



二幕の最後に、腕で白鳥の翼を擬しながら、つつつーっ!(当ブログバレエ鑑賞お得意の擬態語!)と
一直線に舞台袖にはけていく場面では(この動き、名前があるのでしょうか?)、
その見事さに途中から轟音のような拍手が巻き起こって、その後はオケの音が全く聴こえないくらいでした。
完璧に左右対称を描く腕の動きと、音楽と調和した移動の速さ、、
決して慌てずにゆっくりと動きをとっているあたりにも、
彼女が決して技に依存せず、いつも、まず、何を表現したいか、という点に重点を置いている事が現れていますし、
私が彼女を好きな理由の一つは、彼女の踊りが常に音楽と調和している点であったのを思い出させてくれました。



インターミッションの後、次の幕に向けて暗転する前に、
”ロットバルトがゴメス”という、プリ・シアター・ディナーの会話を受けて、
”あの最初に出てきた半魚人がダックス飼っている人?”と質問する連れに、
”ちがーーっう!!! ”と思わず絶叫。
”ロットバルトはね、二人一役なの。ゴメスが踊るのは、これから!!
M子師匠が言ったように、紫の衣装よ!紫!!絶対に見逃しちゃだめよ!!”とくどいくらいに繰り返しておきました。

そして、いよいよ、その第三幕の舞踏会のシーン。
オデットのことを思い、いよいよ鬱々とするジークフリート。
残念ながら、今日はチャールダーシュ、そして、スペイン、ナポリの各踊り、そしてマズルカと通して、
特に記憶に残る場面があまりないのが残念。
昨日は少なくとも、ナポリが少し見ごたえがあったのだけれど。

しかし、こんなことを言って叱られるのを承知で言うと、そんなことはどうでもよい!
なぜならば、二度目のらっぱの音がなって、登場したのは黒いチュチュのオディールをひきつれたロットバルト、
そう、紫の衣装を着た我らがダックス王子ゴメスなのだから!!
彼が出てきた瞬間、思わず、私は連れの腕を思い切り掴んで、"It's him!"と「囁き叫び」してしまいました。
オペラの公演でこんな女が横に座っていたら、間違いなく張り倒してますが。

しかし、ちょっと待って。これ、一体、誰、、?

これまでの公演で見て来た、優しげな素敵な王子様系キャラ(『白鳥』、『シンデレラ』)のゴメス、
コンテもので見せたシャープなキャラのゴメス、
気のいいお兄さんキャラ(『海賊』)のゴメス、このどれとも違う、
いかがわしく、かつ、フェロモン満開の”悪の華”な男がそこにいるのです。
こんな人、あたし、知らない!ゴメスの偽者だわ!!ともう少しで叫んでしまうところですが、
いや、このものすごい表現力は、紛れもないゴメス!!なのです。
彼が登場した瞬間から、メトに麝香の香りがし始めたような気がしたのは私の気のせいなのか?

ロットバルトがその催眠術めいた力で舞踏会に来ていた各国の令嬢たち
(のみならず、ジークフリート母までも!)を骨抜きにするシーンでは、
各国の令嬢たちのみならず、私たち観客も、ゴメスの催眠術にかけられていたのでした。


(なぜか、6/22の公演で撮影され、NYタイムズのレビューに使われた上の写真は、
拡大画面用に間違って別の写真がリンクされており、こんな豆粒のような写真しかありません

DVD化されている2005年の公演(ジークフリートがコレーラ、オデットはマーフィー)でゴメスが
同じロットバルト役で登場していて、抜粋はYou Tubeでも見れますが、こちらでは紹介いたしません。
なぜならば、私がこのブログでしつこく吠えている通り、ゴメスに関しては、
ここ1、2年で凄みが増してきた感があり、今日、このニーナのフェアウェルで私達が目にしたものも、
そのDVDの比ではないからです。

例えば、ナポリの令嬢(ブルーの衣装)に目をつけたロットバルトが、
彼女と自分の間にいて、視界の邪魔になっている別の令嬢(ピンクの衣装)をどかす場面がありますが、
DVDではダンサーへの気遣いがつい出てしまっているというか、彼女をそっと床に置くような感じがあります。
しかし、これではこの場面の面白さが伝わりません。
今日の彼は、”おおっ!なかなかの美女がおるぞ!(オデットに続く次のカモ?)”と
ナポリにひたすら色目をつかいながら、
ピンクの女性を、まるでゴミのように、ぽーん!と放り投げてしまうのです。
その冷ややかさがおかしくて、つい観客からも笑いがもれます。

最後に回転しながらジークフリート母の隣の椅子にちゃっかりおさまってしまう場面も、
今日の回転のキレはDVDの数段上。
しかし、私が悔しさに身もだえしたのはまさにこの時で、
このジークフリート母の隣の椅子がかなり舞台の下手にあるため、
なんと、あろうことか、ゴメスが着座したときには、下手の端にあるカーテンが、
半分くらい彼の姿を覆ってしまっているではないか!!
きーっ!!!体を右隣のおじさんに擦り付けるようにして、思わずゴメスの姿を追ってしまう私なのでした。

とにかく、この短い登場時間で、しかも今まで一度も、誰からも感銘を受けたことのない、
このマッケンジー版のロットバルトで、かくも強烈な印象を残したゴメス。
嫌なやつ(なんといっても悪魔ですから!)なはずなのに、憎めない。
いや、それどころか、かなり猛烈にチャーミング、という、このロットバルト役のエッセンスを
見事に掴みきったパフォーマンスに、観客は完全に魅了され、大喝采なのでした。

ちなみに私の連れも、すっかり彼の踊りに魅了され、オペラグラスで最後の瞬間まで
彼の姿を追っていたのを私が見逃すわけがありません。
連れは、踊り終わった後も、”いやー、彼の表現力はすごい!”と感心しきりでした。



そして、このゴメスの怪しくかつ魅力的な、優れたロットバルト役の登場によって、
全く新たな意味を持ってきたのが、ニーナが演じた二幕です。
観客全員をこれほど惹き付けるロットバルトに、
オデットが惹き付けられなかった訳がないではありませんか!
つまり、彼女がロットバルトの魔の手に落ちたのは、そもそも彼女が彼に恋したからではなかったか?
その恋は、白鳥に姿を変えられるという、彼女にしてみればとんでもない結果に終わったわけで、
恋愛不信に陥っても、一向に不思議ではありません。
そこに現れたのがジークフリートです。
そこには、自分が白鳥であるのどうのという以前に、
”彼に恋していいの?彼を信じていいの?”という迷いがあったはずです。
(そして、結果、またしても彼女は彼を信じるという賭けに出、再び手痛い失敗を食らうわけですが、、。)
この公演の二幕でニーナのオデットが表現した孤独、ジークフリートとの距離感は、
これを考える時、実に的確だったと思うのです。
彼女はすでにジークフリートと出会った時点で、あの『ファウスト(の劫罰)』の
マルグリートのような経験(マイナス 天に昇ること)をしていたと言えるのです。

この段階で、ニーナが全く昨年のオデットとは違うオデット像を作っていることを確信しました。
ゴメスがロットバルトを踊ることが確定した時点で綿密に組み立てたのか、
何も考えず、直感でこのような踊り方になったのか、それは私にはわかりませんが、
いずれにせよ、彼女は本当にすごいダンサーなんだ、とあらためて実感しました。
彼女の舞台がいつも共演者を含めてすごく有機的に感じるのは、
彼女に、直感的にせよ、そうでないにせよ、一緒に舞台に立っているダンサーたちに合わせて、
自分の役作りの方を合わせられる能力があるからなのだ、と思います。
それは、もちろん、それを可能にする技術が伴っているからでもあるのですが。



そして、ゴメスの登場で火を吹き始めた舞台はもう止まらない!
パ・ド・ドゥについては、今思い出すだけでも、興奮で血管が広がりそうです。
コレーラも明らかに前半(一幕、二幕)よりテンションがあがっていて、
もはや動きが重いと感じさせる部分がなくなり、ジャンプにも集中力が増し、年齢が5歳くらい若返った感じがします。

そして、コーダ。
これが昨年の二人(ニーナとコレーラ)のパフォーマンスからすると、
一番心配だった部分なのですが、それは、まさに杞憂というものでした。
まず、ニーナの32回のフェッテの前に、コレーラがバランスの整った綺麗な回転を決め、
彼女が舞台に現れ、フェッテを始めるときには鳥肌が立つ思いでした。
そして、ニーナのフェッテは、軸の安定感、回転の美しさ、腕のポジションの美しさ、
どれをとっても否のうちどころがなく、
32度中、どれも失速することも、バランスを失うことも、回転が足りないことも、
位置がずれて行ってしまうこともなく、素晴らしい内容でした。
46歳にして、昨シーズンよりもさらにシャープな踊りを繰り広げるとは、、、
その精神力と、きっとこの日を見つめて精進を続けてきたであろう努力を思うと、
私は、本当に頭を垂れてしまいます。

そしてさらに”ニーナに負けてはおれん!”とその後すぐ続くコレーラの回転技!
前述のマーフィーをパートナーにしてのDVDになった公演では、
舞台の割と奥で踊ってそのままフィニッシュしてますが、
今回はもう少し前方で踊って、最後に”どうだ!”という感じで見得をきる感じだったのが
とってもかっこよかったです。
しかも、あの二年前の『ロミ・ジュリ』を彷彿とさせる超高速回転!!!
くるくるくるくる、、、ひゃーっ、はやいーっ!!!

これでも十分血が逆流する位の大興奮なのに、コーダのフィナーレでは、
なんと、ゴメスのロットバルトがニーナをリフトし(これが高い!)、
そこから、直接ニーナが頭を下向けにしてそのままコレーラに飛びこむフィッシュダイブを披露し、
オペラハウスは地鳴りがするほどの歓声と拍手に包まれ、大変な騒ぎとなってしまったのでした。
という私も、思わずバレエでは初の”Bravi"出しをしてしまいました。
”Brava"、”Bravi"、"Bis!"の掛け声が鳴り止まず、おむすびが強引に音楽をスタートさせるしかない有様です。



ゴメスがマントを翻しながら(マント捌きがまた小憎らしいくらい、上手いのだ!
彼にかかっては、すべてが演技のための小道具となって貢献するのである!)、
オディールの手をとるジークフリートの間に割って入り、
”おーっと、そんな簡単にことを運ばれちゃ困るね。君は彼女に永遠の愛を誓うかい?”と、
とうとう最後の崖っぷちにジークフリートを追いやる場面。
ロットバルトの企みも知らず、”はい、誓います!”と宣言してしまうジークフリート。
この後すぐに宮殿の扉に火花が散り、絶望するオデットの姿が見える
(もちろん、ニーナとは違うダンサーによって踊られる)、というのが
このマッケンジー版なのですが、毎回、ロットバルトが直立不動のままか、
せいぜい片手をさっと挙げる程度で、火花と共に、爆竹のような音が上がるのが、間抜けな感じで興をそがれていました。
しかし、今日は、他のダンサーでこれをする人を観たことがないので、
おそらくゴメスのオリジナルなのではないかと思うのですが
その音に合わせて、思い切り地面に爆竹を叩きつけるようなジェスチャーをし、
たったそれだけの動作で、間抜けな感じを払拭したどころか、
”これでも食らえ!”というロットバルトの声が聴こえてくるような、優れたアドリブになっていました。



こんなにかっこよいロットバルトが、なぜ第四幕では半魚人なのか?と、
そのギャップがいつにも増してひどいため、つい問わずにはおれません。
というか、この四幕はそんな格好でも、ロットバルト役として最も大切な演技が求められる
(彼が自分の計画が完全には成就しなかったことを知り、またオデットを失って落胆する)場面で、
ここもゴメスで観たい、と思うのは贅沢か?

昨シーズンでの表現が、ジークフリートと来世で結ばれるために自分の命を絶つオデットだったとすれば、
今日のオデットは、決して現世では愛に縁がない自分への絶望ゆえに死んでいくオデット。
それは、愛という賭けに最後まで勝てなかった悲しい女性の姿で、
ある部分ではすがすがしさや温かい感触が残った昨年の表現に比べ、
とても厳しく、寂しい結末であるように私は感じました。
はらはら、、という感じで身を投げたニーナのオデットに対し、
とりゃーっ!とばかりに、猛烈なハイパー・ジャンプを決めたコレーラの姿からも、
昨シーズンのような、”あの世で一緒になろう!”的な一体感とは違い、
絶望して死んでいくオデットを一生懸命追いかけるジークフリート、という風に感じました。
舞台と言うのは一つ一つ違う。分かっているつもりなのだけれど、いつもこの不思議に驚かされます。



ニーナがカーテン・コールに現れる前には、まるでアフリカ大陸の動物の移住シーズンのように、
彼女の姿を間近に見たいファンが舞台に走り寄り、壮観でした。
そして彼女が登場した時の割れんばかりの拍手と歓声。
でも、ニーナらしいのは、この引退という場面でも、彼女自身もファンも含め、
悲しさよりも、感謝とか愛とか優しさとか、とにかく温かいエネルギーを感じる点です。
彼女は表現という点ではいつも優れたパフォーマンスを見せていましたが、
何と言っても年齢的なことから、ここ最近は、技術に関しては決していつも楽々と
難しい技をこなしているようには見えていたわけではありません。
そんな中で、表現ばかりか技術の面でもこれほど完成度の高い公演をフェアウェルに
持ってこれたことは、彼女自身、大変嬉しかったに違いありません。
フェリの時と同じく、あるいはもしかするとそれ以上に、自分の出来る全てを出し切ったという、
充足感を彼女が感じているのが伝わって来ましたし、
それは何より私達オーディエンスにとっても嬉しいことです。

礼儀正しく舞台の奥に立っているゴメスに向かって、
”さあ、あなたも前に来なさいよ!”という仕草をするニーナ。
今日の彼女の役作りはゴメスがいてこそだったわけで彼女は感謝の気持ちを表現したかったのだと思いますが、
それを固辞するゴメスの姿を見ていると、
いえ、自分が演じるロットバルトを生かした『白鳥』をニーナが踊ってくれた、
そのこと自体で十分なのです、と言っているよう、、。ああ、美しい師弟愛!
(別に二人は直接師弟関係を結んでいるわけではないが、私はゴメスがニーナから
舞台を通して学んだことは実に大きいはずだと見ているのです。)



白鳥の姿のコール・ドたちが全員(その人数を想像してみても下さい!)
一本ずつ花を持ってあらわれ、ニーナの前に捧げていくと、
ニーナは一人ずつに違った、それでいて同じくらいどれも優雅なポーズで答えており、
その仕草だけでも彼女の女優度がわかろうというものです。
今日の公演には出演していない多くのプリンシパルも私服で舞台に登場し、
彼女のこれまでの活躍を祝福しました。
ニーナが深くお辞儀をした年配の女性はABTで彼女の指導やアドバイスにあたった方と思われます。
最後にはまだ歳のいかないニーナのお嬢ちゃん(上の写真のワインカラーのドレスの女の子)が登場。
恥ずかしがってすぐに舞台脇の方へ走っていく彼女を、ニーナが、
”そんな礼儀のなってないこと、だめでしょ!”というジェスチャーで呼び寄せ、何度か二人でお辞儀をした後、
今度はニーナの手を離さなくなった彼女に向かって、
”もう十分、さあ、行って!”と、コミカルに軽く背中を押す姿が笑いを誘いました。

『瀕死の白鳥』冒頭の観客に背を向けて舞台上を移動していく部分を披露した後、
インプロで、コレーラにぽんと飛び乗ってみせたのですが、
その時にコレーラとニーナの間にふっと流れた空気や二人を見守る他のダンサーたちの温かい視線も素敵でした。
観客の私達と同じくらい、彼らもニーナのことが好きなんだな、、。

彼女を通して、私はバレエを”観る”だけでなく、”感じる”ことの楽しさを知った。
ずっと、ずっと、忘れることのない、大好きなバレリーナです。


Nina Ananiashvili (Odette/Odile)
Angel Corella (Prince Seigfried)
Isaac Stappas/Marcelo Gomes (von Rothbart)
Gennadi Saveliev (Benno)
Georgina Parkinson (The Queen Mother)
Renata Pava, Simone Messmer (Two girls from Act I Pas de Trois)
Yuriko Kajiya, Marian Butler, Misty Copeland, Maria Riccetto (Cygnettes)
Leann Underwood, Melanie Hamrick (Two Swans)
Victor Barbee (Master of Ceremonies)
Misty Copeland (The Hungarian Princess)
Sarah Lane (The Spanish Princess)
Anne Milewski (The Italian Princess)
Isabella Boylston (The Polish Princess)
Blaine Hoven, Grant DeLong (Neapolitan)


Music: Peter Ilyitch Tchaikovsky
Choreography: Kevin McKenzie after Marius Petipa and Lev Ivanov
Conductor: Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
Orch BB Odd

***白鳥の湖 Swan Lake***

SWAN LAKE - ABT (Sat, Jun 27, 2009) 前編

2009-06-27 | バレエ
バレエの細かい技術には本当に疎いため、レポートでもつい、
”くるくる”など、擬音語のオンパレードになってしまう私ですが、
彼女のパフォーマンスはいつも、心に直接話しかけて来て、
だから、”技術の細かいことがわからないからって
バレエを観る楽しみをあきらめる必要はないんだ!”と気付かせてくれました。
私にとって、その大事なバレリーナは他の誰でもないニーナ・アナニアシヴィリ。



特に昨シーズンの『ジゼル』は、私の短いながらも濃密なバレエ鑑賞の中にあって、
宝物のような輝きを発している、一番、思い出深いバレエ公演です。
そのニーナが、今日の公演をもってABTを引退、、。
二年前のフェリのフェアウェルは、彼女がどれほどすごい人か
ほとんどわかっていないに近い状態で赴き、その場で猛烈な感銘を受けたという、
バレエ・ファンの方に袋叩きにあってもおかしくない、恥知らずな”豚に真珠”状態でしたが、
ニーナに関しては、いかに彼女が素晴らしいバレリーナであるか、は、
数少ない鑑賞回数ではありますが、すでに痛いほど理解しているつもりなので、
今日以降、二度とメトの舞台で彼女の姿を観ることがないのだ、と思うと、実に残念で寂しい思いです。

今日は開演前に、バレエに於ける我が師匠in NYのM子さん、そしてM子師匠のご主人、
私の連れ、私の4人でプリ・シアター・ディナーをしました。
昨日の公演で、”ボッレを出待ちする!”とおっしゃっていたM子師匠。
私の観察したところでは、バレエのオーディエンスはオペラに比べると、
客筋が若くて、ルックスもいい人が多い。
なので、バレエの場合はきっと心配ないと思うけど、
オペラの場合、ステージ・ドアにたむろっているヘッズは年寄りが多くて、
ちょっと変わった人が多いので(親切ではあるのですが、、)、
異様な雰囲気を発してますよー、とお伝えしたのですが、
早速、今日M子師匠の出待ちについてのご報告を聞いて笑ってしまいました。
”ボッレの出待ちもヘンな人が多かったのー!もう二度と行かないわ!!”
バレタマンも、オペラヘッドも、コアなファンというのは、やっぱり似たもの同士?!

バレエにせよ、オペラにせよ、最近のハリウッド的セレブ主義は非常にわずらわしいことである!
(オープニング・ナイトをレッド・カーペット・イベントに仕立てあげ、
普段はバレエやオペラなんて観てもいないセレブを招待し、
一方で、実際にパフォーマンスをしているアーティストたちの芸そのものへのリスペクトが欠けていること、など)、
最近の若者の自己主張の強さが、コール・ドの質の低下につながっているのではないか、など、
短い時間ながら、とても興味深い話題が次々とテーブルにあがりました。

これまでのレポートの中でも、ニーナが持つ、
共演する男性ダンサーから特別な力を引き出す能力については、何度か言及した通り。
そんなことなので、フェアウェルでは誰がパートナーになっても、きっと素晴らしい公演になるのですが、
結局、アンヘル・コレーラが相手役として正式に発表された時は、
長年のパートナーシップを最後の舞台で!というニーナの思いが感じられました。
ま、『白鳥』、特にこのマッケンジー版のそれで、ロットバルトが印象深かった公演は少ないので、
(かろうじて、ホールバーグが演じた公演が記憶に残っているくらい。)
主役二人のキャスティング以外はすっかり興味を失って調べさえもしていなかったのですが、
突然、ディナーの終わり近くで、M子師匠が爆弾発言を発せられました。
まず、あまりバレエのダンサーの名前に明るくない私の連れにもわかるように親切に、
”そうそう、今日の公演で、紫の衣装を着て踊るダンサーは要注目ですから!”
そして、私の方を見て、”今日のロットバルトはマルセロよ!”



ぎゃーっ!!!!!
つい、M子師匠の肩を掴んで揺らしてしまいましたです!!まじですか?!まじですか?!
ニーナとアンヘルの名前だけ見て済ましている場合ではなかった!
特に私は月曜日(6/22)の公演でのゴメスのロットバルトがNYタイムズで絶賛されているのを見て、
そんな公演を見逃したことに、実に悔しい思いをしていたのだけれど、
今日、ニーナのオデット/オディールに加えて、
その、ゴメスの気障男ロットバルトが観れるとは、ああ、天にも昇る気持ちです!!

さすがにこのニーナの公演はチケットの人気が半端でなく、
私もほんの数日発売日から乗り遅れただけなのに、平土間の、猛烈に後ろの、
猛烈に端寄りの座席しか残っておらず(特に二人分のチケットを取ろうとすると
こういうことになりがちで、だから私はオペラでは常に単独行動を好むのです。)、
しかも、メトに到着してみれば、大入りの大入りで、スタンディング・ルームまで、
ぎっしりとオーディエンスで埋まっています。
この特別な公演において、座席を持っているだけ幸せだと思え、ということなのです。
そして、実際に座って見ると、思ったほどには視界は悪くなく、
私はいつもどおり、オペラグラスなしで通しました。
さすがにダンサーの顔の表情までは見えないものの、体の動きは十分満足に見えます。
舞台下手側が端のカーテンに遮られるというのが唯一の難なのですが、
余程ダンサーが下手に寄らない限り、問題はありません。
しかし、この”余程ダンサーが下手に寄らない限り”の、その”余程”が、後に、
超肝心なところで起きてしまい、Madokakipは歯が折れるかと思う位、歯軋りをして悔しがることになるのですが。
そして、遂に、私の連れがオペラグラスを握りしめる中、音楽がスタート。

そういえばプリ・シアターのディナーの席であがったもう一つの話題が、
このおむすび、いえ、オームズビー・ウィルキンズの指揮。
彼の指揮はひどい!という線でM子師匠と私は激しく意見が一致したのですが、
リハで、ダンサーが”テンポが少し速すぎるのですが、、”と、
もう少し遅めにしてほしい、ということを婉曲的に伝えようとしたところ、
おむすびが”速くなんてない!”と一喝したという話もあるそう。
っていうか、踊るのはダンサーであって、あんたじゃないでしょうが!
オペラでも同じなんですが、ダンサーがついて踊れない、歌手がついて歌いにくいテンポで振って、
指揮者も一体何の得になるんだか?って話です。
いやですね、こういう自己満足な指揮者。
そんな単純なテンポの設定からはじまって、私の連れにも、
”何だか音楽との距離を感じる(detached)指揮だなあ”と言われてしまう始末。
この人が首席指揮者みたいなんですが、
もうちょっとましな人にそろそろ変わってもらう時期なんじゃないかと思います。

それから、遠目で見てもやっぱり苦笑させられるのが、イントロダクションの場面の、
半魚人ロットバルトがオデットを白鳥にして生け捕る、”おまる生け捕り”のシーン。
昨日の公演のレポの追記で、M子師匠がおっしゃっているところの、
”ちんどん屋的舞台”と呼ばれる由縁の一例がここにあります。

しかし、それをものともしない孤高の存在感を感じさせるのがニーナ。
登場した瞬間に割れんばかりの拍手が。
”くるくる”回りながら、ロットバルトの魔法にかかり、白鳥の姿に変えられることを表現する最初の場面から、
彼女のものすごい気迫が伝わってきます。
彼女の繰り出す一つ一つの振付の要素が、すべて、これで最後、、。
そう思うと、見ているこちらも気持ちが引き締まる思いです。

コレーラは2006年のメト(オペラの方)の『ジョコンダ』でのゲスト出演時や
(ああ、あの頃はコレーラの名前すら知らなかった、、)
2007年のヴィシニョーワとの『ロミオとジュリエット』で観た強烈にキレのある踊りに比べると、
昨年あたりから、その持ち味であるキレのよさに若干の翳りが出てきているように感じるのですが、
今日も前半は、彼にしてはやや重いかんじがしました。
しかし、ベンノたちが踊るのを見守るシーンでは、
一瞬だけ連れのオペラグラスを奪い取って、彼の表情をアップで見た所、
浮かない表情をきちんと浮かべていて、昨日のボッレよりは濃い演技を繰り広げています。
(ボッレより薄味だったらそれはちょっとやばいのですが。)

今日のベンノはサヴェリエフ。
うーん、私は彼の踊りが好きでないんですね、きっと。
脇でよく登用されているところを見ると技術は安定しているのかもしれませんが、
彼の踊りには観客の心をわくわくさせるものに欠けているように思います。
昨日のロットバルトは”いるだけのロットバルト”などという辛辣なコメントを発してしまいましたが、
今日は今日で、”いるだけのベンノ”、、
ベンノ役に関しては昨日マシューズの代役を務めたホーヴェンの方がずっと生き生きしていて素敵でした。
いや、彼のみでなく、パ・ド・トロワ全体(サヴェリエフにパヴァ、メスマーを加えたコンビ)としても、
昨日のチームの方がこのシーンが持つわくわく感が多少なりとも表現されていたと思います。

毎年思うのですが、後に続く農民の群舞のシーン(ポロネーズ)は、
割と若手のダンサーが多いんでしょうか?
時に目を覆いたくなるような人が混じっていて困ります。
ステップが適当な(というか、細かい部分を勝手に省略している)人までいるのには、本当にがっかり。

一幕のフィナーレでの、ジークフリートとベンノのシーンは、
昨日のボッレとホーヴェンの二人のフレッシュな二人も悪くないと思ったのですが、
やはり、こうしてコレーラの表現を見るとやはり年季が違うな、と実感。
ジークフリートの焦燥感を心もち前寄りにテンポをとることで、的確に表現しています。
このような微妙な匙加減というのは、センスの問題で、訓練してどうなる、というものでもないのかもしれませんが。

そして、二幕でニーナが登場すると、まるでオペラハウス全体が固唾を呑んで見守っているような、
息苦しいまでの沈黙が訪れました。
というのが、彼女の表現一つ一つが実に濃く、かつ研ぎ澄まされていて、
本当にナノ・セカンドですら、目を離すことができないからです。
昨年、ゴメスと共演した『白鳥』では、聖母のような愛を感じさせるオデットでしたが、
今回は、ニーナ特有の大らかさや優しさに加えて(特に腕の使い方から、私はそれを感じます)、
より、凛とした様子、それから、もう少し言えば、オデットの孤独さが滲み出るような踊りです。



ジークフリートとの間に感じる空気も、明らかにゴメスと組んだ時とは違っていて、
その時のオデットよりも今回は聖母度は低く、よりジークフリートと対等な感じのするオデットです。
前回が、ジークフリートを、彼の過ちも含めていつも大きい愛で包んでいる感じなのに比べると、
今回のオデットは、ジークフリートと同様に、彼女も迷い、傷つき、絶望するオデットなのです。

インターミッション中にM子師匠が、ニーナについて、
昨シーズンよりも体が絞られたような気がする、とおっしゃっていましたが、
ビジュアルに加え、彼女の踊りと表現からも、それが感じられました。
踊りに関しては、昨年よりシャープになったような印象があり、
それがまた、今回、彼女が表現しようとしているオデット像にとても上手くはまっています。

ゴメスとの公演では、ジークフリートのことがいとおしくてたまらず、
最初から彼に全身全霊を投げ出している、という感じのオデットでしたが、
なぜか、今回は、ジークフリートに魅かれているのに、
どこか恋に踏み込めないような雰囲気があって、それは、第二幕の最大の見所の一つである、
ジークフリートとオデットの二人で踊るパ・ダクシオンにその切なさが炸裂していました。
コレーラはさすがにニーナがどのように踊りたいかを敏感に察知し、
二人の思いの熱さではなく、何かが二人が結ばれるのを阻んでいる、その”冷たさ”と"悲しさ"を表現するために、
非常に巧みなサポートを見せています。

私は最初、これが、オデットの”白鳥に変えられた自分には恋なんて無理なのよ。”という
あきらめゆえの表現なのか、と思っていましたが、とんでもない!
ニーナがもっと大きな企みをもって、この部分をこのように演じていたことが後半にあきらかになるのです。

後編では、そのニーナの企みと、それを可能にした恐るべきものは何であったか、を暴きます!

後編に続く>


Nina Ananiashvili (Odette/Odile)
Angel Corella (Prince Seigfried)
Isaac Stappas/Marcelo Gomes (von Rothbart)
Gennadi Saveliev (Benno)
Georgina Parkinson (The Queen Mother)
Renata Pava, Simone Messmer (Two girls from Act I Pas de Trois)
Yuriko Kajiya, Marian Butler, Misty Copeland, Maria Riccetto (Cygnettes)
Leann Underwood, Melanie Hamrick (Two Swans)
Victor Barbee (Master of Ceremonies)
Misty Copeland (The Hungarian Princess)
Sarah Lane (The Spanish Princess)
Anne Milewski (The Italian Princess)
Isabella Boylston (The Polish Princess)
Blaine Hoven, Grant DeLong (Neapolitan)


Music: Peter Ilyitch Tchaikovsky
Choreography: Kevin McKenzie after Marius Petipa and Lev Ivanov
Conductor: Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
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***白鳥の湖 Swan Lake***

SWAN LAKE - ABT (Fri, Jun 26, 2009)

2009-06-26 | バレエ
22日からの一週間、ABTの上演演目は『白鳥の湖』。
フェリのさよなら公演の時のような、チケットを準備し損ねる、という頓馬な真似はできない!と、
(あの時は幸運の女神が微笑んだからよかったようなものの、、)
土曜の夜のニーナのフェアウェル公演は事前にチケットも抑えて、
月曜から心の準備に励んでいたところ、ローカルのバレエの師匠からお電話をいただきました。
私にはありがたいことに、バレエについては日本(yol嬢)とここNY(M子さん)の二箇所に
バレエ鑑賞の師匠がおりまして、いってみれば私は超英才教育を受けているのであります。
その割に出来の悪い生徒ですみません

で、M子師匠は以前から、ぜひ私にヴェロニカ・パルトのパフォーマンスを観て欲しい、とおっしゃっていて、
それは、金曜のパルト&ボッレの『白鳥の湖』を観ませんか?というお誘いのお電話だったのです。
パルトは何度か準主役や脇で踊るのは見た事があるのですが、
”なんだかやたら背の高いバレリーナ”という印象が強くて、
実は一部の人たちの間にはカリスマ的人気を誇る彼女なのですが、
私自身は、まだ彼女の一番いいところを観ていない気がする、、。
それが、『白鳥』でオデット/オディール役を演じるというのですから、これを見逃す手はありません。

彼女はそのカリスマ的人気の一方で、表現力の確かさに比し、若干テクニックが不安定、
いい時と悪いときの差が大きいとも言われており、
それが原因の一つか、なかなかプリンシパルになれず、一時はABTを脱けるのではないか?という噂まであったのですが、
ABTに入団して7年目の今年、やっとプリンシパルの座を手に入れた彼女ですから、
今日の公演には気合が入っているはずです!

さらにパルトに気合が入るである理由のもう一つはジークフリート役のボッレ。
ボッレといえば、スカラ座でアラーニャを辱めた超美形ダンサーで、バレエ・ファン、特に女子からの人気はすさまじい。
ま、こんな美男子に年甲斐もなく嫉妬したアラーニャの方が身の程知らずだったとも言えるでしょう。

顔はこんなで、


体はこんな。


いかにアラーニャの嫉妬が向こう見ずだったかということがよくわかる、、。

そのボッレ様がABTの舞台に初めて立ったのは、既述のフェリのさよなら公演ですが、
あれから二年経った今年のメト・シーズンより、
彼もプリンシパルとしてABTに入団することになりました。
ということで、今日は新プリンシパル同士の共演、ということになります。

ABTの『白鳥』は序奏の部分で半魚人の方のロットバルト(舞踏会の場面を踊るのは
別のダンサーで、二人一役。)がオデットを捕らえて白鳥にする場面が描かれているので、
ほんの短い間ですが、パルトが登場します。
うーん、やっぱり、でかい!!
私は彼女に関してはちょっとバレエのダンサーにしては背が高すぎるような気がしていて、
ジゼル役やジュリエット役はなんだか想像がつきません。
この二つの役は、私の勝手な思い込みかもしれませんが、小柄な女性、というイメージがあるので、、。

バレエはビジュアルの比重が大きいアート・フォームなので、
オペラでは顔なんて見えなくてもどうでもよい!とまで思っている私なのですが、
バレエはできればダンサーの表情も見たい!
それが、今日はM子師匠が舞台に至近距離の座席を手配してくださったので、
ダンサーの表情が怖いくらいよく見える。
そればかりか、第一幕では、ボッレのお尻も目の前に。ぽよん!

そんな至近距離なので、パルトがすっと舞台から消えた後に、半魚人のロットバルトが、
毛で出来たおまるのような白鳥(=オデットの化身)を抱えて出て来た時には、ちょっとぎょっとしました。
私は超がつく動物愛護の人なので、本物の白鳥の剥製を使うのは論外ですが、
このあまりに白鳥らしくない小道具もどうかと思う、、。
いや、別にこのような具体的な小道具がなくても十分にこのシーンの持つ意味を表現できるんじゃないかな?
しばしば批判の多い、ABTのマッケンジー版ですが、振付の良し悪しといったバレエ特有の点以外でも、
この、稚拙な舞台づくりが批判のタネの一部になっていることは疑いの余地がないように思います。

ボッレはやはり華があるというのか、舞台に現れた瞬間、
舞台が明るくなるような、独特の存在感があります。
しかし、バレエもオペラもそうなんですが、本人のカリスマだけで持たせるには限度というものがあって、
美は細部に宿る、と言いますが、ボッレはその細部の詰めがやや甘く、
そのせいで、せっかく盛り上がった緊張の糸が、ゆるんでしまうのが残念です。
舞台芸術は一瞬一瞬が綱渡り。
もちろん、いつ失敗してもおかしくありません!という文字通りの綱渡りでは困るのですが、
そうではなくて、一つ一つの技を最高の状態で繰り出されるのを目にする、耳にする、
その緊張感が舞台芸術の醍醐味なわけで、真に優れたダンサーや歌手、演奏家のパフォーマンスからは、
必ずそういった至高の緊張感を感じるものです。
で、またバレタマンの女子に刺し殺されるのを覚悟で言うと、私はボッレからそれをあまり感じない、、。
フェリのフェアウェルの時も、そして今日も、なぜか彼の踊りからは”微妙なゆるさ”を感じてしまうのです。
ちなみに、今、ABTで最も緩みのない男性ダンサーはダックス王子ゴメスであることに疑いはなく、
そのあまりの緊張感に呼吸困難を感じるほどの細部への異常なこだわり、演じることへの執着、、、
私がゴメスを同じ演目でも何度でも観たくなる理由はそこにあります。

逆にボッレの美点は、緩んでいるのかと思いきや、突然軽やかかつ優雅に技を決めてくる点で、
もしかするとこの涼やかさが、ゴメスの呼吸困難喚起系の踊りの対極にある、
彼のアピール・ポイントなのかもしれません。
そういえば、体のつくりも、こうして至近距離で見ると、ボッレは男性にしては、
筋肉質ながらも割と細作りなような、、。

ボッレは演技の方も私の好みに比すと若干淡白で、例えば一幕で、
母親に”あなたもそろそろ結婚を、、”と言われてしまう後のジークフリートの表情も、
少し表情に影が入る程度で、”ちょっと心にひっかかるヤなことが出来てしまったな。”という位の表現にとどまっています。

ジークフリートの友人ベンノ役はコール・ドのホーヴェンが予定されていたマシューズの代わりに入りましたが、
隅々に神経を行き届かせようとする意図が伝わる踊りで、私は好感を持ちました。
彼を含むパ・ド・トロワでむしろ気になったのは女性の方。
リッチェットとアブレラという、この辺りの役を踊るには十分に力があるはずの二人で、
このパもきっとこれまで何度も踊って来たのではないか、と推察するのですが、
腕の動きが硬くて色気がないのが気になります。
特に二人ともダンサーとしても、痩せている方の部類に入るので、
一歩間違うと痩せぎすの色気のない村娘、に見えてしまう危険大。
この日は、そのあたり、非常に危ういところを漂っていたと思います。
また、ホーヴェンと片方の女性ダンサー(おそらくリッチェット)の息はぴったりなのに、
もう一人の女性ダンサーが息が合っていないのも気になりました。
いつも思うのですが、この3人というのは魔の数字で、結構コンビネーションのあらが目立つ難しい人数だと思います。

さっき、私の好みには薄味過ぎる、と文句をつけてしまったボッレの演技ですが、
一幕から二幕への橋渡し部分にあたる、ベンノがジークフリートを森の中に追ってくる部分、
この場面で、ベンノはジークフリートの母親がジークフリートに贈った弓矢を持って
ジークフリートを追いかけてくるのですが、
この後に続くやりとりを、私はこれまで恥ずかしながら、単純に、
ベンノ:”これで獲物でもとって楽しんで来いよ!”
ジークフリート:”いや、何か気が乗らなくってさ、、”という会話なのかと思っていたのですが、
とんでもない勘違いでした!!
この弓矢を使っての会話は、結婚相手の女性を定めて落とす、ということのメタファーだったんだ、、。
ですから、ベンノが執拗に、”いいからさー、絶対に楽しいからさー、狩に行って来いよ!!”と言っているように見えていたのは、
同時に、”まだその気にならなくっってさ、、”と煮え切らないジークフリートに、
”お前、まだそんなこと言ってんのかよ。自分の立場考えて、
そろそろ嫁さん決めろよ!”と突き放す友人の一言だったんだ、、と、今さらながら気付きました。
まだまだ一緒に遊んで愉快に過ごせると思っていた友人からこれを言われて
大ショック!なジークフリートが一層ブルーになる、
そこに、あの湖の畔でのオデットと運命の出会いが続くのです。
いや、オデットとの出会いこそは、ロットバルトの仕組んだ罠ではなかったか?
そんな隙間だらけの心理状態だから、ロットバルトにつけ入られるんだぞ!ジークフリート!!!
この場面をこんな風に解釈できることに気付いたのは、ボッレとホーヴェンの二人のおかげです。

しかし、何よりも今回の鑑賞の収穫はパルト。
フェリやニーナが引退をしてしまった・するのに伴って、
ボッレとゴメスの対比の部分でも書いたとおり、技がどれくらい正確に美しく決まっているか、ということよりも、
何がどのように表現されているか、という点に比重が寄った見方をしている私のような人間にとって心配なのは、
残るABTの女性ダンサーたちには、”淡白さん”タイプが多いように感じる点です。
(ジュリー・ケントは私に言わせると淡白さんタイプに入ってしまいます。)
そうでなければ、ヴィシニョーワのように、
逆に技を極限まで磨きあげ、それ自体から何かを生み出そうとするタイプのいずれか、、。
(技を突き詰めたところにドラマが生まれるデヴィーアの歌が好きな私ですから、
このようなタイプのダンサーも、ヴィシニョーワのように技が突き詰められていれば、
それはそれで好きなんですが。)

その中にあって、このパルトという人は少なくともこの『白鳥の湖』を観る限り、
役の器次第で、ものすごく濃密な表現が可能な人で、
ABTの他の女性プリンシパルとは全く違う個性を持っており、
ゆえに一部のファンにカリスマティックな人気があるのもよくわかります。
特に上半身の表現力は特筆もので、小さい役では背の高さゆえにドン臭そうな感じを与えてしまう彼女ですが、
このオデット/オディールのような大きな役で、同じ背の高さに表現力がコンビネーションで加わると、
どん臭さではなく、堂々とした大輪の花を思わせるようになるから不思議です。

特にニ幕のような、曲のテンポがゆったりした場面では、
同じ振付でも、足や腕の動きの直径が大きいので、小柄なダンサーが踊るときとは
全然違う振りに見えるほど、迫力があります。
また、一つ一つのポーズが言葉を発する、というのか、
彼女が何を表現したいのか、ということが的確に表現されていて、
この点においては、私好みの、実に表現の濃いダンサーです。

一方、技に関しての安定度が不足している、という前評判ですが、
この日の公演では安定度が不足している、というより、スタミナの問題かな、と感じました。
ニ幕は、私が観る限り、技が不安定に思われる場面は皆無でしたが、
三幕の舞踏会の場面の後半でややスタミナが切れたか、極細かいミスが見られるようになりました。
特に32回のフェッテの最後の一回の回転が足りなかったのは、とても残念。
こういうところがぴっちり決まると、ぐっと印象が上がるのですが、、。
それまでが綺麗だっただけに惜しまれます。
ただ、ヴィシニョーワのような、完璧な技を誇るタイプではもともとなく、
表現力やそのユニークさに強みのあるダンサーだとは思うのですが、
フェリ、ニーナの抜けた後を埋められる大きなダンサーになるには、
もう一回り、演技へのそれと同じくらいの、技術へのこだわりが出るといいな、と思います。



ここで、パルトについてまとめると、、

1.この背の高さはパートナーを選ぶ。
 ボッレくらいが相手で丁度いい感じ。
 ということは、カレーニョやコレーラのような背の高さの男性ダンサーが相手だと漫画のようになってしまう。

2.この背の高さはレパートリーを選ぶ。
 堂々としたヒロインは適役だけれど、村や町の小娘風はちょっとイメージが違うし、
 体の動きにも合わない気がする。

3.彼女の表現力はレパートリーを選ぶ。
 彼女の評価が分かれているというのは、大いに役のせいによると思う。
 私も脇の彼女を観たときはあまり強い印象を持たなかった。 
 完璧な技ではなく、個性的な表現力に強みのある彼女は、あまり表現の余地のない小さめの役では、
 本来の力が出ないと思う。

一言で言えば、もう一段高い技術へのこだわりが出れば、
一部の役に限定されはするかもしれませんが、
彼女は非常に面白い存在になるポテンシャルを持ったダンサーだと思います。

M子師匠からは彼女の白(オデット)はとてもいい!と聞いていて、実際危なげのないのは白の方だったのですが、
黒(オディール)になってからの妖艶さも捨てがたく、前述の細かいミスを除けば、
表現としてはいずれ甲乙つけ難い出来です。
三幕での、いたずらっ子のような表情でジークフリートを誘惑し、
”どう?あたし、やるでしょ?”という声が聞こえそうな表情でロットバルトと目配せしている様は、
彼に操られているというよりは、自ら進んで彼と組んでいるような積極性を感じさせ、面白い表現だと思いました。



また偏執的な意見ではあるのですが、私は彼女がポーズをとった時に残る後ろ足の
アーチが好きです。
ちょっと若干反り気味なんですが、なんともいえない色気と美しさがあって、、。

ボッレとのケミストリーは前半はどこかぴったりはまっていない感じもあったのですが、
後半に尻上がりによくなっていったように思います。
ただ、最初にも書いた通り、ボッレはもともと表現が涼やかなタイプで、
細かく、かつ濃い表現を身上とするパルトとはちょっとタイプが違うのかな、という気もします。
表現に於いてはゴメスと方向性が似ているように思うので、
来年、彼と組む演目があれば、ぜひ見てみたいです。

なお、私が座っている座席からは確認しづらかったのですが、
M子師匠によると、三幕の舞踏会のシーンは、
通常は舞台上で各国の招待客が踊るのをジークフリートが見ている、という設定なのですが、
今日のボッレは舞台脇にはけてしまっていたということなので、
もしかすると、この日の彼は万全なコンディションではなかったことも考えられます。

7/6からはいよいよABTのメト・シーズンの最終週となりますが、
『ロミオとジュリエット』を、ゴメスの回(ジュリエットはヴィシニョーワ)と
ボッレの回(ジュリエットはドヴォロヴェンコ)の二回、鑑賞する予定にしています。
M子師匠によれば、ロミオ役でのボッレは良い!ということなので、
ゴメスとの一騎打ちが楽しみです。

ついでのようで申し訳ないのですが、他の役にもふれておくと、
ナポリの踊りを踊ったサルステインとフィリップスの二人が元気だった以外は、
舞踏会のシーンで特に目を引いたキャストはなし。

非半魚人、つまり、舞踏会に出てきてジークフリート母まで眩惑させる、
いけてる方のロットバルトを演じたサヴェリエフ。
うーん、、、この人は身長に対して頭が占める比率が大きくて、
ダンサーとして、この先、特にノーブルな役を演じて行くとしたら、この体型がちょっとネックかもしれません。
踊りもミスはないのですが、どこといってあまり魅力的な部分もなく、
ぬるま湯のような温度感のパフォーマンスです。
きつい言い方ですが、いるだけのロットバルト、という感じでしょうか、、?

そして、半魚人の方のロットバルトを演じたズルビン。
昨シーズンよりもずっと表現が細かくなっていいます。
湖から浮き上がって来た13金のジェイソンも真っ青のあんな衣装で舞台に立たされて
この役を演じるダンサーには気の毒以外の何物でもないのですが、
実は最後の一番大切なシーンでその演技力を問われる大事な役でもあります。
彼は気を抜かず精進しているようで嬉しい限り。

コール・ドは、、、、。
何も言わないでおきましょう。

M子師匠に”終演後にボッレを出待ちしましょう!”と嬉しいお誘いを受けるも、
仕事からほとんど直行状態だったため、家でうちの息子たち(犬)が腹をすかせているので、
今回は残念ながらあきらめる。
明日のニーナのフェアウェル公演の前に、
M子師匠、師匠のご主人、私の連れの4人でプリ・シアターのお食事をする予定なので、
その時にゆっくり出待ちの様子を聞かせて頂くことを楽しみにすることにして。

ちなみに、M子師匠がボッレを追いかけるのは”一目ぼれ的”状態だからであり、
(この公演の少し前に某書店で開かれたボッレのサイン会にもきちんと参加されていて、
携帯電話に保存されたその時のボッレとのツー・ショット写真も見せて頂いた。)
ABTで最も好きな、かつ素晴らしいと思うダンサーは、”もちろん、マルセロ(・ゴメス)!”
好きの種類もちゃんと区別されておられるのである。さすが、my 師匠!!!

追記:当レポートをあげた後、M子師匠よりメールを頂きました。あまりにおかしく、かつ興味深い内容なので、抜粋をご紹介します。

”ブログで書いてあったこと、私も同意です!
ヴェロニカ(・パルト)は万能ではないの。アダージョは良いのだけれど、アレグロは駄目。
というのも、彼女は早く動けないから。(だって、、、彼女はでかいもの。)
『眠りの森の美女』ではひどかったという噂を聞きました(あのローズ・アダージョをしくじったらしい。)
どういうわけか、今年の彼女は去年ほどには良くなかったような気がしました。
それは、多分、パートナーの問題もあるかな。去年はマルセロ(・ゴメス)がパートナーだったのよね。
でも、彼女はポール・ド・ブラと足の伸びがすごく綺麗。
それから、私にも、ボッレは少し”淡白”です。
モデルみたいな顔なんだから、何でもっとそれを有効利用しないか!と思っちゃう。
そうそう、それからケヴィン・マッケンジーについても同意見で、
彼の手がける作品は、『白鳥の湖』だけでなく、全部大嫌い!
あれほど無才能で、カリスマに欠けた、給料泥棒のディレクターはいないと思う。
まじで、彼が関わると何もかもがちんどん屋みたいな舞台になるのよ!『白鳥』も例外じゃなく。
本当彼にはむかむかさせられることがたくさん!
ところで、ボッレとミシェル・ワイルズの『シルヴィア』を観たのだけれど、
彼らのケミストリーは、パルトとボッレのそれよりずっと良かったよ。
ワイルズに関しては、これまで観た出演作品・役の中でも最高だったんじゃないかな。
(中略)
昨日、マルセロ(・ゴメス)に道でばったり会ったから、
「あなたの方がボッレよりいいダンサーだわよ。」って言っといた(笑)!”

もう、本当に、my師匠、面白すぎます!!

(冒頭の写真はボッレとパルトのコンビのものが見つからないゆえ、
どさくさにまぎれて、ゴメスとパルトのペアを。)

Veronika Part (Odette/Odile)
Roberto Bolle (Prince Seigfried)
Roman Zhurbin/Gennadi Saveliev (von Rothbart)
Blaine Hoven replacing Jared Matthews (Benno)
Maria Bystrova (The Queen Mother)
Maria Riccetto, Stella Abrera (Two girls from Act I Pas de Trois)
Gemma Bond, Marian Butler, Anne Milewski, Jacquelyn Reyes (Cygnettes)
Simone Messmer, Nicola Curry (Two Swans)
Victor Barbee (Master of Ceremonies)
Misty Copeland replacing Melissa Thomas (The Hungarian Princess)
Leann Underwood (The Spanish Princess)
Renata Pavam (The Italian Princess)
Hee Seo (The Polish Princess)
Joseph Phillips, Craig Salstein (Neapolitan)

Music: Peter Ilyitch Tchaikovsky
Choreography: Kevin McKenzie after Marius Petipa and Lev Ivanov
Conductor: Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
Orch J→G Even

***白鳥の湖 Swan Lake***

GISELLE - ABT (Mon, Jun 8, 2009)

2009-06-08 | バレエ
ABTの公演、それから昨年のマリインスキーのNY公演、、
(なにげにニューヨークシティバレエの『ロミ・ジュリ』は除外。)
友人yol嬢の導きにより数年前にやっとバレエ鑑賞の戸口に立ったばかりの人間にしては、
ほとんど身の程知らずといってもよいような素晴らしいものばかりに触れる機会を与えられている私は
考えてみると本当にラッキーです。

フェリの全幕さよなら公演コレーラとヴィシニョーワの『ロミ・ジュリ』
ロパートキナの瀕死の白鳥など、今まで鑑賞した思い出深い公演・演目の中で、
しかし、もう一度だけ同じ公演をタイム・スリップして見せてあげよう、と言われたら、
迷わず私が選ぶであろう公演は昨シーズンの、
ニーナ・アナニアシヴィリとホセ・マヌエル・カレーニョのコンビの『ジゼル』です。



私はそもそもこの作品が大好きなんだと思います。というのも、個人的に、一番オペラの、
いや、”オペラの優れた公演”を観ているときの感覚に近くなるバレエ作品がこの『ジゼル』なのです。

『白鳥の湖』を作曲したチャイコフスキーが『オネーギン』や『スペードの女王』、
バレエの『ロミオとジュリエット』を作曲したプロコフィエフは『戦争と平和』という、
オペラのレパートリーでも優れた作品を残しているのに比べ、
この『ジゼル』を作曲したアダンのオペラの作品の名前を挙げられる人って、
ヘッズの中にもそうたくさんはいないんじゃないでしょうか?
実は40近い数のオペラ作品を残しているそうなんですが、代表作が、
『我もし王なりせば Si j'etais roi』、、、、って、そんな作品知らん。

なのに、なぜそのアダンの『ジゼル』から私が最もオペラっぽさを感じるのか。
多くの人がバレエ作品におけるチャイコフスキーの音楽を褒め讃え、
私の連れもその一人で、『白鳥の湖』を観るといつも泣いてますが、
その感じは私には少し、ヴェルディとかワーグナーの、歌手がイマイチでも、
音楽そのものがある程度公演をひっぱって行ってくれるあの感じに似ているように思えます。
その点、アダンの作品は、オペラで言うとベル・カント。
音楽だけで観客をひっぱることはできないかもしれませんが、
素晴らしい踊りと一緒になったときの、その効果は絶大で、
それはヴェルディやワーグナーを崇拝する一部のオペラヘッドや批評家に、
ドニゼッティやベッリーニの音楽は小馬鹿にされながらも(かつてのカプテイニス氏も含む!)、
素晴らしい歌唱とコンビを組むと無限大の感動を与えてくれるのと似ています。
そしてそのことを痛感したのが前述のニーナとホセの『ジゼル』で、
ミルタ役のマーフィーを含めた3人の踊りが音楽を引き上げ、
至高のドラマを生み出す様は本当に圧巻でした。

以前の記事で書いた時代背景とか設定や雰囲気の類似以外にも、このような共通点から、
ますます、『ジゼル』はバレエのベル・カント作品である!という思い込みは強くなり、
もともとベル・カント的なオペラのあり方が大好きである私は、この『ジゼル』を偏愛しつつあるのです。

で、今年は、その大好きな『ジゼル』がABTメト・シーズンで私が初鑑賞する作品。
(注:メトと言えばオペラ!と思っているオペラファンにはややこしい呼称ですが、
オペラのシーズンの後、ABTはメトのオペラハウスで定期公演を行います。
これをABTのメト・シーズンと呼んでいます。ちなみにオケはABTオケで、
チケットの販売ルートや会場が共有される以外は、メトロポリタン・オペラとは関係がありません。)
ニーナのジゼル、ジリアン・マーフィーのミルタを初め、
多くのキャストが前述の昨シーズンからの公演とかぶっているのに加え、
アルブレヒトが今回は、マルセロ・ゴメス!!!!!!

バレエの鑑賞で泣かされるのは、怪我などの理由でキャストが変更になる場合が多く、
それは、オペラの公演で歌手が降板する頻度の比ではありません。
また単純に一人だけ交代するだけではなく、パートナーとの関係などから、
玉突き的に全スケジュールに渡ってキャスティングが影響を受けることが少なくなく、
あらかじめあるダンサーを目当てに購入していたチケットが当て外れになることもままあります。
そんななかで、一度も当てが外れたことがないばかりか、
チケットを購入後にキャストが発表された場合や、キャストに変更があった場合でも、
ゴメスに当たることが多いのは、これは彼が極端にキャンセルや怪我の少ないダンサーだからなのか、
はたまたダックスフントつながりがなせる縁の技なのか?

ああ、ゴメスもルアちゃんも素敵 私もそこに混ぜてー!




オペラやバレエ鑑賞を頻繁にしていると、ある歌手との縁、また縁のなさ、というのを感じることがあって、
振られる人には毎回振られ、そうかと思うとまたあんたか!と思うほど同じ人に当たってしまうことがあります。
さらに、またあんたか、、のその相手があまり好きな歌手でない場合、悲惨です。
私の場合のアラーニャのような、、、。
その点、いい意味で”またあなたなのね!”と思わされるパターンがこのゴメスで、
私がバレエを観始めて以来、ダントツで生で観た回数が多い男性ダンサーが彼です。

また、彼に関しては、本当に幸せなことなんですが、
彼のキャリアの一番面白い時期に私の鑑賞歴がはまったような気もしていて、
毎回観る度に激しく進歩している彼を観るのは本当にエキサイティング。
ABTは実力のあるプリンシパルを抱えていて、すでに成長の曲線の勾配がゆるやかになった、
ベテランのダンサーたちの、完成に近い技を見るのも素晴らしい体験ではあるのですが、
彼のように、非ベテラン・ダンサーで、その成長を見守らせてもらえるという、この楽しみはまた格別です。
というわけで、彼は私が最も応援しているABTのダンサーである、と言ってもよいかもしれません。

そして、今日の公演は、その期待通りの、いえ、期待以上のゴメスの進歩にまたも驚かされる公演となりました。
というか、毎年パワーアップするその幅が大きくなっているような気すらします。

彼の踊りは、例えばマリインスキーのNY公演の際に多くの男性ダンサーから感じた軽やかさのようなものは希薄で、
その重量感(鈍重という意味ではなく、踊りに備わった男性的と言ってもいい重さ。)をどう捉えるか、が、
彼を魅力的なダンサーと感じるかどうかの分かれ目になるかもしれません。

彼の踊りの長所である、端々にまで神経が通った美しさ、男性的でダイナミックでありながら備わったエレガントさ。
それらの方向性は全く変わっておらず、長所がそのままパワーアップしていたのはとても嬉しかったです。



またその一方で、彼の決意というか、”彼らしさ”をこれまででも最も強く感じたのが今日の公演でもありました。
彼がコンテものでも素晴らしい実力の持ち主であることは以前のレポの通りですが、
そういったコンテンポラリーの新作を踊ることで得たものが、血肉となっている、という感じで、
今日の彼の踊りからは、古典レパートリーなのにもかかわらず、
良い意味でのコンテものの影響を感じました。
古典は古典らしく!という考えの方もいらっしゃるでしょうが、
古典の中にすっと一瞬吹き込む現代っぽさというか、は、私はとても新鮮だと感じました。

また、もともと演技力に関して評価が高い彼ですが、完全に次の圏に突き抜けた感じがします。
彼が特に今回の公演で素晴らしかったと私が感じたのは、
もはや、彼が美しくないことを恐れていない、ということです。
ジゼルを死に追い込み、ヒラリオンらに責められる場面でよろよろよろめくその格好悪さ、
その場から全速力で逃げ出してしまうことしか出来ないアルブレヒトのだささ、、。
美しく踊ることは彼のようなダンサーなら簡単なことでしょうが、
そこを越えて、何かを表現するという強烈な意思。
これがあるからこそ、第二幕でのウィリに半殺しにされるまで踊り続けなければならない凄惨さの表現が可能なのです。
ヒラリオン役のサヴェリエフがその少し前に、似た状況でそのまま死に至りますが、
そのサヴェリエフの踊りと比べても、緊迫した感じと凄惨さの違いが明らかです。
こういった、同じ、または似た振付の個所で、ダンサーの力量がおのずと明らかになるのが、
バレエのベル・カントならではのこの作品の面白いところです。

また、さらにすごいのは、凄惨さの向こう、つまりウィリに課された肉体的な辛さを越えたところに、
本当にアルブレヒトを苦しめていること=ジゼルを死に追いやってしまったことへの
激しい後悔と彼女への思慕の情という、精神的な苦しみをゴメスが見事に表現している点です。
彼の踊りを見ていると、この場面で、この肉体的な苦痛から逃れ抗う、というよりは、
このままジゼルがいる場所に行ってしまいたい、
つまり、死んでしまいたい、とアルブレヒトが思っているようにさえ感じられるほどです。




だから、ジゼルが彼を身を呈して助けた後、彼が彼女の墓(木で作った十字架)の前から身を起こし、
花を撒きながら一歩、二歩と立ち去るラストの場面には、
その彼女の優しさの記憶だけが、その後の彼の生きるたった一つの理由になっていくような、
独特のせつなさが溢れます。

ゴメスのこの表現力の進化を可能にしているのが、まさに先に触れた、
① 格好悪さを恐れない
② 手段を選ばない (古典レパートリーにコンテらしい振りのテンポやシャープさを取り込むことを厭わない)
ということの二点で、その結果、今や、他のどのダンサーとも違う、
”ゴメス・スタイル”を感じ、彼は本当に今後も要注目である!との思いを強くしました。

一方、昨年の公演で、氷のように冷ややかなミルタを演じて私を魅了したジリアン・マーフィーですが、
今日の公演ではどこか人間らしさを感じる表現に変わっていたのが興味深かったです。
ミルタにもジゼルのような悲しい過去があったのかな?と思わせるような、、。



テクニックも安定していて、彼女のこの役はいつも一定以上の、
それも高いレベルのパフォーマンスが期待できるように感じますが、
私個人的には、彼女には昨シーズンのような、徹底的に体温の低そうな、
”バッタの足ををむしって喜ぶ女”系のミルタの方が彼女の個性に合っていると思います。
”去年のあたしはちょっと怖すぎたかしら?”などという邪念を抱くことなく、
せっかくの意地悪に見える美人顔を生かし、怖いミルタを追究して頂きたい!

リッチェットとマシューズのペザント組は昨シーズンに続いて健闘。
サヴェリエフのヒラリオンは昨年よりも踊りにキレ感が増し、
ソロで踊る個所はそれなりに見せてくれたのですが、
先ほども書いたとおり、ウィリに踊り狂わされる部分のうち、
ゴメスがつい数分前にサヴェリエフが踊ったのと似た振付部分を踊る個所は、
”ああ、やっぱりゴメスとサヴェリエフの間には何か決定的な差がある!”と
観客がはっきりと思い知るという、芸術というものの残酷さを垣間見る瞬間になっています。
このたった少しの、しかし、決定的なギャップ、というものをどれだけ埋めていけるかが、
今後の彼の頑張りどころだと思います。

ミルタの直属の部下、モイナとズルマのうち、ズルマ役を踊ったのが加治屋さん。
あの回転時に独特のためのある”加治屋ターン”と、上半身の美しさが私は好きなのですが、
今日はコンディションが良くなかったのか、いつもの彼女の良さが出切っていませんでした。
モイナ役のボイルストンと舞台上で交差する時には、
加治屋さん側のミスでボイルストンとほとんど接触寸前になり、その動揺が若干後を引き摺っていたように思います。
しかし、その後に続くコール・ドと一緒に踊る場面までには持ち直し、
そのコール・ドとの群舞は、”ABTのコール・ドはなあ、、”とよく言われる中にあっては、
非常に良い出来で、大変良く揃っていたと思います。
ここは音楽と振付のおかげもあって、こうして上手く決まると、すごくわくわくさせられるシーンであることも発見。
ここらあたりも、合唱が時にぴりりとスパイスを利かすベル・カント・オペラとそっくりです。
ABTの群舞の場面で、これほど拍手が多かったのを聞いたことがないくらいの盛り上がりようでした。



ニーナのジゼルは、もう今さら何を言うこともないのかもしれません。
彼女の年齢を考えると、当然肉体的にキャリアのプライムにいる
20代から30代のダンサーのような技の精緻さやキレを求めるのは無理な話で、
特に今回は相手役がまさに自らのプライム・タイムにさしかかりつつあるゴメスであったため、
必要以上にそれが強調されてしまった結果になっていた部分はあります。

しかし、そんなことが些細なことに思えるような、何か特別なものが彼女の踊りにはあって、
彼女の動きの一つ一つから、私達はジゼルの気持ちを痛いほど感じ取れる。
もはや”役を踊って”いるのではなく、”役を生きて”いる、
それがニーナのジゼルです。



バレエ版”狂乱の場”と私が名づけた一幕最後で、
アルブレヒトとの数少ない幸せな思い出の一つである冒頭の花占いを思い出しながら、
一枚ずつ花びらを抜いていく場面では、その仕草から、
彼女の”どうして?どうして?”という叫びが聞えて来ますし、
混乱したまま息絶えてしまう場面の、本当に一瞬でありながら、
なお、体の足元側から徐々に上に向かって力が抜けて行くのがはっきりと
観客側に感じられるあのリアルさは息を呑みます。

昨年の『白鳥の湖』の時にもそうだったのですが、
ニーナが踊る白系の作品での女性たちからは、聖母のような優しさを感じます。
ラストの、十字架でバランスをとりながら、アルブレヒトに最後の別れを告げるシーンでの彼女はあまりに優しく、
それが一層、アルブレヒトを後悔させることになるのです。
全く状況は違っているのですが、自分の過ちのために愛する人を失い、
罪と後悔の意識に苦しめられながら、残りの人生を過ごさなければならないというこのアルブレヒトの状況は、
『アイーダ』のアムネリスと通じるところがあり、
実際、『ジゼル』を見終わった後の切なさは、『アイーダ』の鑑賞後感にも少し似ています。
ベル・カントでありながら、最後にヴェルディに変態、とは、『ジゼル』、全く侮れない作品です。



ニーナという人は、共演するダンサーたちから最高の力や潜在能力を引き出す力があると昨年も感じましたが、
ゴメスとのコンビは、彼にものすごく大きなインスピレーションを与える結果になっているように感じます。
もともと演技の素養に恵まれていた彼が、同じく表現に秀でたニーナと共演することで得たものは
計り知れなかったはずです。
ということは、今日のゴメスの大熱演も、ニーナの貢献があってこそ、なわけで、
彼のこの一年の大成長ぶりは、今シーズンでABTを引退するニーナがたくさん残して行ってくれる
ABTの観客へのプレゼントの一つといえます。

そんな彼女が今年でABTを去るとは本当に本当に残念。
ニーナのABTでのさよなら公演『白鳥の湖』はコレーラとの共演で、
彼女の聖母のようなオデットを私もしっかりとこの目に焼き付けて来たいと思います。

(公演の写真はNYタイムズからで、全てこの日の公演のもの。
レポートの内容と呼応するよう、実際の順番とは少し組み替えています。)


Nina Ananiashvili (Giselle)
Marcelo Gomes (Count Albrecht)
Gennadi Saveliev (Hilarion)
Carlos Lopez (Wilfred)
Susan Jones (Berthe)
Victor Barbee (The Prince of Courland)
Maria Bystrova (Bathilde)
Maria Riccetto, Jared Matthews (Peasant Pas de Deux)
Gillian Murphy (Myrta)
Isabella Boylston (Moyna)
Yuriko Kajiya (Zulma)

Music: Adolphe Adam
Choreography: after Jean Coralli, Jules Perrot, and Marius Petipa
Staging: Kevin McKenzie
Costume: Anna Anni
Lighting: Jennifer Tipton
Conductor: Ormsby Wilkins
American Ballet Theatre Orchestra

Metropolitan Opera House
Grand Tier C Even

*** ジゼル Giselle ***

GISELLE (Sat Mtn, Jul 12, 2008)

2008-07-12 | バレエ
感動とか感銘とかいう言葉ですら安っぽく聞こえるほどの
類稀な鑑賞体験を与えてくれた昨夜のニーナとカレーニョの公演

字数がいっぱいでその昨日のレポに書くことができなかったのですが、
平土間の一列目でヴィシニョーワと思しき女性が鑑賞していました。
昨夜は怪我でなければ、彼女が本来踊る予定だったわけですが、
そのヴィシニョーワとならんで私が楽しみにしていたのが今日のドヴォ・マキ
(イリーナ・ドヴォロヴェンコ&マキシム・ベロセルコフスキー夫妻)コンビの公演。
しかし、昨日のニーナ&カレーニョの公演のインパクトがあまりにも大きすぎて、
今日は半分抜け殻状態の私ですが、連れが同伴なので、私が極端な感想に走らぬよう、
見張ってもらうことにします。

一幕

どんな役をやってもノーブルな雰囲気のマキ、その分、役によっての変化が乏しい気がします。
それに比べると、ドヴォの方は変幻自在。
彼女に関しては、水曜マチネのレポで、美人系ジゼルで来るのではないかと
予想していた私ですが、舞台にあらわれた彼女は意外や純粋な村娘系。
登場した瞬間、なんだか少し太ったのかな?という錯覚をおこしたのですが、
ニ幕のウィリになってからの場面ではいつもどおりのスリムな体型に逆戻りしていたので、
彼女は踊りで体型の雰囲気を変えることが出来るということなのでしょうか?おそるべし。
そして、相変わらず彼女は動きがきちんと音楽とリンクしているところが私は好きです。
どんなささいな動きでもそう。

さて、やはり夫婦である二人が演じるとこうなってしまうのかもしれませんが、
一幕から二人はラブラブで、今までに観た二公演と比べても、
アルブレヒトのジゼルへの本気度が最も高いのはこのドヴォ・マキ・ペアでした。
昨日のレポで、アルブレヒト役を踊る男性ダンサーのこの役の描き方を
端的に、かつはっきりと示している場面に、ジゼルの死のあとの、彼とヒラリオンとの口論のシーンがあると書きましたが、
今日の公演でのマキの、ヒラリオンに”君のせいだろう!”と言われたあとの反応は、
”俺のせいだと?ふざけんな、ばかやろう!”という強烈な反応で、そのままヒラリオンに
怒りを爆発させる、という流れになっています。
コルネホの”お、おれですか?”という驚きよりは、もっともっと積極的な怒りで、
マキのアルブレヒトは、ジゼルが死んで”気付き”があるというよりは、
すでに、最初から、彼女にかなり本気で恋していた、ということがわかります。

今日のヒラリオンは水曜マチネと同じ田舎もの系スタッパスだったのですが、
今日はどうしたことでしょうか?少し踊りに迷いがあるように感じられました。
ださ度が減少して、その分、スタンダードなヒラリオンに近づいたともいえるのかもしれませんが、
水曜にニ幕での退場の場面ででんぐり返りまで炸裂させたのとは違い、
今日は普通に駆け抜けながら舞台袖にはけていきました。
誰かに指摘されて変更したのでしょうか?確かにものすごいダサい動きではありましたが、
しかし、水曜日には、そのスピリットと思い込みが全編に及んでいて、
格好悪さと思い込みの美学ともいえるものがあったのですが、今日は対照的。
格好は多少良くなったかもしれないけれど、逆にどこか思い切りの悪いダルさが
踊りに忍び込んでしまったように思います。
私は水曜のあの垢抜けないヒラリオン、決して嫌いではなかったのにな、、。

しかし、ヒラリオンよりも何よりも、私がほとんど許せないまでに腹立たしかったのは、
ペザントのパ・ド・ドゥを踊ったコープランドとロペス。
また暴言を吐かせていただくなら、この二人にこのパ・ド・ドゥははっきり言って
まだ無理ではないでしょうか?
恐れ多い仮定ですみません、ですが、もしも、私が芸術監督だったならば、
稽古時の段階で、こんな出来だとわかったら、本番には彼らを登場させないと思います。
それくらいにひどい。
若手にチャンスを与えて、、というのもわかりますが、ここは地方のバレエ団の発表会じゃない。
ABTなんだから、舞台にのるときにはある程度のレベルには達しているべきだし、
ペザントのパ・ド・ドゥだから、お客さんも大目に見てくれるかな?なんて思っているとしたら、
それは主役や準主役のダンサーたち、そして観客に対する侮辱ってもんです。
実際、このペザントのシーンで、すっかり場が盛り下がってしまったのを感じた方は観客の中にも多いはずです。
バレエもオペラもどんな小さな(そして、このペザントのパ・ド・ドゥは決して小さくもない!)場面も、
手抜きするな!といいたい。すべてのシーンが作品を構成する大切なピースなんですから。

特にコープランドに関しては、私はダンサーとしての彼女の将来に不安を覚えます。
ある特定の側面では非常に優れた身体的能力を持っていることを伺わせる彼女ですが、
本人もそれを知ってか、それとも自分の欠点を補うために無意識にその能力に頼ってしまうのか、
とにかくあまりにも強引な踊りで辟易します。
バレエのテクニックについての専門的な知識は限りなくゼロに近い私ですが、
彼女が本当の意味では正しく体を使えていないこと、これだけはわかります。
こんなに観ているだけで疲れるダンサー、他にはいないですもの。
他の優れたダンサーだってもちろんものすごく体のあらゆる部分を使っているわけなのですが、
正しく体が使われていると、観ていて疲れる感じがしないし、何より美しい。
オペラだって、正しく発声が出来ていると、本人も比較的楽だし
(そうでなければ長丁場のオペラを歌いきれるわけがない。)
その声も、観客の勘にさわる性質のものにはなりえず、真に美しい声だな、と感じるのと同じことです。
彼女のダンスからは、動きそのものに備わった妙なリズム(これまた変な力が入っている証拠)と、
どんなポーズもあまりに美しさに欠け、本人が自分が得意だと思っているらしい
スピード感や体のバネを多用しようとすればするほど、その欠点が増幅されるという悪循環に陥ってます。
苦しいことですが、一旦今すべて持っているものを一度アンロードして、
もう一度基本に返ることが彼女には必要ではないでしょうか?
そうでなければ、多分、このまま今の路線でつきすすんでも、もしもいつか古典もののヒロインなどにも
挑戦したいと思っているとしたら、彼女の将来、私には明るいものが見えません。
こんなラインの汚い踊りで、白鳥やジゼルやらに到達するとはとても思えないですから。

一方のロペス。コープランドほどに悪い癖がある感じはしませんが、とにかくまだ未熟。
ジャンプの場面にしても、ただ、ばたばたばたばた慌てているだけ、という感じ。
最後の回転からフィニッシュについては、バランスを失い、両手を床についてしまう始末。
これまでに観たイリーインやマシューズとはあまりに差がありすぎます。
本人の精進不足もあるでしょうが、むしろ私はこの二人をキャストにもってきたABTに苦言を呈したいです。

このパ・ド・ドゥの不出来が影響したのか、もともとドヴォが演じるこの役につきまとっている問題なのか
良くわかりませんが、意外なまでにぎこちないドヴォの狂乱の場は少し残念なものとなりました。

彼女は『バヤデール』の例にあげられるように、彼女の解釈がぴたっとはまると、
素晴らしい踊りを見せてくれるので、もしかすると、この場面がまだ咀嚼できていないかも、という気もします。

バチルドの手の甲にキスをするアルブレヒトを見て、全てを悟り、ショックのあまり、
彼女に”婚約”のお祝いとしてもらった首飾り(その首飾りを渡したときバチルドは
ジゼルの婚約者が自分の婚約者であるアルブレヒトと同一人物だとは夢にも思っていない。
もちろん、ジゼルの方の婚約とは、バチルドの”家”に裏打ちされた婚約とは全く次元が違う。
それは、ジゼルがアルブレヒトと関係を持った、ということを示唆する以外の何物でもないのである。)を、
ひきちぎり、自ら地面に体を投げ出す。
ここまではものすごいテンションでよかったのですが、ここから以降が、なぜだか、突然非常にぎこちない。
彼女にしては、花を引きちぎっていく時のリズムも、なにもかもが、あえて、
音楽と一体化するのを拒否しているような気がするくらい。
もしかすると、それこそが彼女の、狂気を表現するための手段なのかもしれませんが、
あまり上手く機能していないように思いました。
ニーナの、あの音楽とドラマと踊りが渾然一体となった表現と比べると、
各要素が浮き立ってしまっています。
私の連れは、非常にリリカルな踊りではあるが、まるで、すーっとなぞって終わってしまったような
感じかなあ、、との感想を持っておりましたが、
私の感想は、それ以上に、ところどころ、積極的に違和感を感じる場面があった、というほうが近いかもしれません。
多分、そう感じた理由の一つに、正気と狂気の切り替えの際の、ぎこちなさがあると思います。
バレエもオペラも、狂乱の場の最大の肝は、狂気の間に微妙に正気がまじる、ここにあって、
それがせつなさを煽るわけで、意味不明の狂人の戯言だけならば、ちっとも感動的でもなんでもないわけです。
その正気と狂気がかわるがわる現れるさまを表現するところに、バレエ、オペラともに、
演じる側の腕の見せ所だと思うのですが、その二つの現れ方が、ドヴォの場合、
少し極端かつ唐突で、不自然に感じる場所がありました。
この点も、ニーナの正気かと思えば狂気が染み出してきて、気がつけばまた逆になって、という、
微妙な色彩の変化が素晴らしく、
あれを超えるのは本当に難しいとは思ううえ、その記憶もまだ新しいうちに比較されてしまうわけですから、
ドヴォにとってはたまったものではないでしょうが、あのニーナの域に届くには、
まだ道のりが長いような気がします。

そうそう。水曜のマチネ、そして金曜のニーナの公演では今までのヘボさを返上する
演奏を聴かせていたオケですが、今日はお疲れモードでかなりヘロヘロでした。
その狂乱の場での、大切な大切な場面でフルートがクラックした時には、
”やっぱりABTオケ、、、”と思わされました。
いつも正確に楽器を演奏するのは大変だとは私も理解しているつもりですが、
しかし、絶対に外せない一音というのがあって、あのフルートの一音は、
ジゼルがあちらの世界に足を踏み出しつつも、現世の幸せだったころの記憶に思いをはせている、
ということを表現している大事な音なので、”何があってもここだけは失敗しちゃいかんだろう!!”
という箇所なわけです。

ペザントのパ・ド・ドゥの混迷ぶり、そして、ドヴォなら、この狂乱の場ですごいものを
見せてくれるのでは?という期待がやや肩透かしを食らったのもあって、
少しインターミッションではへこんでしまった私なのでした。


ニ幕

しかし、そのドヴォ・マキ、このニ幕は健闘し、我々は報われました。

今日のミルタはパルト。彼女は本当に大柄(背が高い)で、それがやや仇になっているのか、
それとも彼女の踊りのキャラクターなのか、どことなく、大らかな、温かい感じがしてしまいます。
これは、ミルタ役にはちょっと厳しい、、。
もちろん、それを逆手にとった、本当は優しいミルタ像というものの存在の可能性を
否定するわけではなりませんが(そして、完成度の高いものであれば、
そんなミルタ像も見てみたい。)、
その方向で観客を納得させるのは至難の技であり、彼女の表現は残念ながらそこまでにはいたっていません。
だから、極めて中途半端な感じ。観ているうちに、あの『ドン・キホーテ』
森の女王役とキャラが一緒になってませんか、、?と問いたくなってしまいます。
もっと、もっと、マーフィーのような、仲間のウィリすら寄せ付けない冷たさが欲しい!

こうしてみると、今日のドヴォ・マキは、彼ら以外のキャスティングにもやや足を引っ張られた形で、
若干気の毒ではあります。

ジゼルとアルブレヒトのパ・ド・ドゥの最初の方で、ジゼルがものすごくゆっくりと
片足をあげてポーズをとる場面がありますが、
こういった場面ではドヴォは強い。さすがにこのあたりは体力的にまだ勢いのあるダンサー特有の強さを発揮していました。
足が上がっていく速さ(遅さ、といったほうがいいか?)に全く切れ目やぶれがなく、
本当に綺麗。
また、片足のトゥでたったまま舞台横に移動していく様子や回転の美しさなど、
このニ幕の後半になって、勢いがつき、彼女の地の力が思いっきり噴出、大変見ごたえがありました。
また、どんなにアルブレヒトの命を守ろうと必死になっているときにも、
独特の冷やっとした感じが常に残されていて、それがウィリらしさとなっていて、とてもよかったと思います。

しかし、それらすべての技術もさることながら、私がもっともこの幕、
いえ、この公演全体を通しで、心を動かされた場面は、夜が空けてアルブレヒトの命が救われたことが
はっきりした後、アルブレヒト=マキに、空中でほとんど真横になって抱かれるジゼル=ドヴォ。
この時、ドヴォは、それまでに漂わせていたウィリの浮遊感から一転し、
全体重をマキに投げ出します。
そのことにより、突然ジゼルがウィリではなく、一瞬人間に返ったように感じられ、
この束の間に、やっと現世できちんとアルブレヒトと別れを交わす機会がジゼルに訪れたことを示す、
最高に切ない場面でした。
しかし、それは本当に一瞬で過ぎ去り、やがてジゼルはウィリとしての運命も終え、
永遠にアルブレヒトと別れることになるのです。
(ドヴォはここで普通に、墓の後ろから舞台袖に後ずさりながら消えていきましたが、
昨日のニーナは、後ろに控えているダンサー目がけて立ったまま頭から後ろに倒れていったので、
ジゼルはウィリとしての姿も終えて、清らかな死の世界に旅立ったのだ、と解釈しています。)


(写真はいずれもドヴォ・マキのペア。)

このたった一瞬の体の重さを使って、ジゼルが最早ウィリではなくなって、
現世とクロスする場所でアルブレヒトに別れを告げにきたことを
表現したのは非常に巧みで、かつユニークな表現だと思いました。

過去二回の公演とも、このニ幕でのコール・ドについては、笑ってごまかしたり(コメント参照)と、
言及するのを避けてきましたが、今日は比較的出来がよかったのと、
ミルタ直属の部下の二人のうちのズルマが加治屋さんだったので少しだけ。

これまでは、足の下りるタイミング、腕の角度、てんでばらばらで、コメントする気にもなれないほどで、
『バヤデール』ではもうちょっとましだったのになー、と思っていたのですが、
今日のコール・ドは、まあまあだったのではないでしょうか。

ズルマの加治屋さん。
彼女は本当に踊りと体型から受ける印象が”エアリー”とでもいいましょうか、
ものすごく軽くて、浮遊感があります。
なので、このウィリのプチ・ボス・キャラなんかははまり役で、上半身の表現力もあるので、
もう一人のプチ・ボス・キャラであるモイナ役のメスマーがお気の毒になるくらいなのですが、
しかし、今後演じる役によっては、”重さ”をある程度感じさせられないといけない場面というのも
出てくると思うので、その時にどのような踊りを見せてくれるのか、非常に楽しみなところです。

ニ幕目の健闘で一気にインターミッションの憂鬱をくつがえしたドヴォ・マキ。
連れも、エレガンスを感じさせたドヴォの踊りにうっとり状態でした。
(まあ、前回彼が観たのはレイエスのジゼルだったので、確かに雰囲気はかなり違う、、。)
マキについてはあまりぴんと来なかったようです。
私もそういえば、マキを初めて観たときはぴんと来なかったので、彼の気持ち、良くわかります。
しかし、今日のマキ、私は決して悪くなかったと思います。
細部も丁寧で、好印象を持ちました。
最後に、デイジーの花を一つ一つこぼしながら、墓から舞台上手に向かって、
後ずさりする場面では、
デイジーの花がほぼ一直線に並んでいて(意図してそのようにマキが撒いた)、
ジゼルが死の世界に旅立った軌跡を見せているようでこれまた感動的でした。

うーん、バレエのベル・カント悲恋もの、『ジゼル』。
何度観てもいい作品です。


Irina Dvorovenko (Giselle)
Maxim Beloserkovsky (Count Albrecht)
Isaac Stappas (Hilarion)
Jared Matthews (Wilfred)
Maria Bystrova (Berthe)
Vitali Krauchenka (The Prince of Courland)
Kristi Boone (Bathilde)
Misty Copeland, Carlos Lopez (Peasant Pas de Deux)
Veronika Part (Myrta)
Simone Messmer (Moyna)
Yuriko Kajiya (Zulma)

Music: Adolphe Adam
Choreography: after Jean Coralli, Jules Perrot, and Marius Petipa
Conductor: David LaMarche replacing Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
Grand Tier D Odd

*** ジゼル Giselle ***

GISELLE (Fri, Jul 11, 2008)

2008-07-11 | バレエ
公演の半年前にしてキャストの変更がさりげなく行われる様子を見て(ドヴォ・マキ事件参照)、
もともと観たかったヴィシニョーワの『ジゼル』の公演のチケットも、買うのをずっと躊躇していました。
そのうちに時は流れ、いよいよシーズンが開幕した頃、久しぶりにメトのサイトをチェックすると、
が~ん、、、乗り遅れたらしい、、。
めぼしい席はほとんど売れてしまっていました。
これがさらに躊躇する原因となっているうちに、
やがて怪我が理由で全演目からのヴィシニョーワのキャンセルが確定し、
『白鳥~』に続いて、この『ジゼル』でニーナが代役をつとめることが発表されました。
来シーズンをもってABTから引退する意向を発表している彼女なので、
来年のレパートリー次第では、これがABTでニーナの『ジゼル』を見れる最後のチャンスになるかもしれない!
そのうえに、私は今シーズン、『バヤデール』のソロル役で全幕を初めて通しで観る予定だったカレーニョにも
キャンセルを食らってしまったのですが、、今日7/11の公演のアルブレヒト役はそのカレーニョ。
もう観るしかないでしょ、これは!
しかし、時すでに遅し、、残っているチケットは、”メトの外野席後方”ファミリー・サークルの、
それも限りなく後ろの壁に近い席である。
オペラなら、音楽は場所に関係なく聴こえて来るし、ホールの構造によっては
(メトもそうだと個人的には思う)外野席後方が一番音響的にはいい席だったりするので問題はないのだが、
バレエは本当に観てなんぼ、のアートフォームである。
私はオペラではどんな席に座っても絶対にオペラグラスを使わないが、
バレエに関してはファンの方がなぜオペラグラスを使うのか、よくわかる。
いよいよ外野席でオペラグラスを片手に舞台を眺める日が来たのだわ、、と観念し、
$25のチケットを購入したのでした。ニーナとカレーニョを$25で観れるなんて、破格なのだから、、、と自分に言い聞かせて、、。
ありそうにはないけれど、もしこの後にいいチケットが出てくることがあれば、
$25なら、寄付返し(窓口で不要になったチケットを返還すること。返金はされず、
メトへの寄付金扱いになる。)にしてもダメージは少ないし、、と。

そして公演前日の深夜。メトのサイトを徘徊するMadokakipに神はまたしても救いの手を差し伸べられた!

私のバレエの師匠であるところのyol嬢に私のバレエ鑑賞における運の強さを指摘され、
確かに昨年のフェリの『ロミ・ジュリ』における土壇場チケット獲得事件といい、
今年のコルネホ『ジゼル』アルブレヒト役デビュー目撃事件といい、
言われてみればそうかもしれない、、と思いはじめているところですが、
その強運はまだ終わっていなかった。

暗闇の中に浮かび上がるコンピューター・スクリーン。
昨日まで確かにファミリー・サークルを除き、全席SOLD OUTの文字だったのが、Side Parterre Boxに空席を発見!
しかし、サイド・パルテール、、、しかも、どうやら空席は最前列ではなく、二列目。
これは微妙である、、。
私はオペラで何度かこのサイドボックスの二列目以降に座り、苦い思いをしているので、
今では決して座らないようにしている席種のひとつである。
ただし、最前列はいい。むしろ、私は最前列は好き。
サイドのボックスはすべてパーシャル・ビューとチケットにも印刷されている通り、
最前列に座っても、舞台の端は多少切れる。
(どのボックスに座っているかにもより、舞台に近いボックスになるほど、切れ度は高い。)
けれども、最前列なら、デメリットはそれだけ。
逆にパーテール、グランド・ティアで、サイドの真ん中くらいにあたるボックスに座ると、
舞台からも結構近くて、かなり臨場感を味わえる良席です。
さて、空席が出来たボックスは8番。これは上手側のサイドの真ん中にあたる、良ボックス。

ということで、ボックス自体は問題なし。むしろ大問題なのは、この二列目という事実、、。
サイドのボックスの二列目以降といえば、前の人、横のボックスの人の頭で視界は遮られ、
有効視界=全視界のうち実際に舞台が見えている率は25%くらい。
つねに観たい対象を求めて、前の人たちの頭のシルエットの間を縫って首を動かしているため、
目が舞台に慣れるまで乗り物酔いに似た反応をおこすこともあります。
しかし、肉眼で、ダンサーの表情まで見れるというこのメリットも捨てがたい。
ああ、悩んでる暇はない!もしもこの瞬間にも他の誰かがこのチケットを持っていくことがあったら
私は一生悔やみながら生きていかねばならないかもしれない!!

かちっ!

気がつけば、マウスに乗せた手が勝手に購入手続きを始めてました。
恐ろしい我が手!

当日、実際に座席に座ってみると、これがまた記憶の中のそれよりもひどい。
ボックスの最後列にあたる三列目の座席は、ひな壇のようなものにのっているのだが、
そのひな壇のぎりぎりまで私の椅子は下がっているのでもうこれ以上下がれない。
なのに、私の前の一列目の女性が足を組もうと椅子を下げて来た。
私の膝が彼女の椅子と自分の椅子に挟まってギロチン状態である。これはたまらん。
”申し訳ないですが、あんまりスペースがないので下がらないで!”と叫んでしまいました。
ただ、彼女だって足を組むといっても最低限のスペースしかとっていなかったし、
私もそんなことを言うのを気兼ねしたくらい。
とにかく場所が狭いのだ!
オペラでこの座席を利用したときから常々思っているのだが、
これでグランド・ティア正面の座席と大して値段が違わないなんて、何か間違っていないだろうか?
列数を二列に減らすか、そうでなければ、こんな席こそ$25にすべきである!!

そして、舞台が始まってから、これがまた苦行の連続。
25%の視界を30%に近くしようと私も必死なのだが、あまりに首を動かしすぎて酔ってきた。
このレポはそんなサイドボックス酔いの苦しみの中から、
芸術の神さまが舞台に降りた瞬間を目撃したドキュメンタリーです。

第一幕

今日のヒラリオンは前回水曜マチネのださださ激烈思い込み系描写のスタッパスに代わり、
なぜだかちょっぴり都会的な風を吹かしているサヴェリエフ。
前回、スタッパスの踊りに吹き出しがつくなら、”オラはオラの信じたことをやるずら。”
”おまえのせいずら!!”という感じだと書いたが、
サヴェリエフのそれは、”ボクはボクの信じたことをやるまでさ。”、
アルブレヒトに対し、ジゼルが死んだのは、”君のせいなんじゃないか!”という雰囲気。
つまり、どこかスマート。
私はヒラリオンも農民かと思っていたのだが、プレイビルによれば、
ヒラリオンは貴族の狩のお手伝いもしている狩人だそうなんである。
ふーん、、、貴族のお手伝いもするならこちらのサヴェリエフの雰囲気が本来の姿なのかもしれない。
あんなスタッパスのような、激烈さにまかせて、いつ勘違いなことを突然しださないとも限らない雰囲気の人間を
狩のお供に雇っているアルブレヒトの許婚のパパもパパである。
そんな風に見る目がないから娘の許婚にも、村娘に手を出してしまうアルブレヒトのような人間を選んだのだな、
と思われてしまうというものです。


(↑ 過去シーズンより、ケントとカレーニョのコンビ。冒頭の写真はニーナ。)

この一幕は、”狂乱の場”(幕の最後に、アルブレヒトの嘘を知ってジゼルが絶望のあまり
命を失ってしまうまでに至る場面)とペザント(農夫、農民)のパ・ド・ドゥが
しっかりしていないと、退屈になりかねない幕だと思うのだが、
今日の女性ペザントをつとめたリッチェットは『海賊』のオダリスク・ガールズに続き、
私は好印象を持ちました。水曜マチネのレーンよりもずっとディテールが丁寧だし、
どんな姿勢をとっていてもバランスが安定しており、踊りに変な癖もなくて綺麗。
あとほんの少しだけ伸びやかさとか大きさがでるとさらに良くなる気がしますが、
このあたりの役を踊っているダンサーたちの間では期待できる存在です。

一方の男性ペザントのマシューズは、ソロの最初二つの二回転とも
膝が伸びきってしまっていて、あまり美しくなかったのですが、
少し膝の柔らかさ、使い方の安定度に課題があるのかな、という気がします。
残りの回転はうまく決まりましたが、上手く決まったときは非常に膝が柔らかく美しく動いていたので、
これが毎回再現できるようになるといいのにと思います。

しかし、二人の全体の出来としては私が観た今シーズン3回の公演(水曜マチネのレーン&イリーイン、
このリッチェット&マシューズ、そして土曜マチネのコープランド&ロペスのコンビ)のうち、
最も良いペアで、安心して観ていられました。
今日の公演は、主役の二人、ニーナとカレーニョが素晴らしかったのもさることながら、
このペザントの二人、また後ほど大いに言及するつもりのミルタ役のマーフィー、
そしてヒラリオンのサヴェリエフと、主役および準主役のどの役にも
全く穴がなかったことも特筆すべき点だと思います。

たった一点残念だったのはバチルド役のビストロヴァ。
水曜マチネのトーマスに比べると、かなり平たい役作りで
この役がストーリーを展開させるための単なるお人形さんのような存在になってしまったこと。

カレーニョのアルブレヒト。
私は正直、最初、このアルブレヒトはなんて嫌な奴なんだ、と思い、
あまり好きになれませんでした。
ジゼルと接する態度も、にやにやにやにや、へらへらへらへら。
そのあまりの態度に、ジゼルよ!こんな顔に”俺と遊ぼうぜ!”と書いてあるような男に
なぜに引っかかる?!とほぞを噛む思いで見守っていた私です。

しかし、それが大きく揺らぎ展開するのが、ジゼルが真実を知り、だんだん正気を失うあたり。
呆然と見守るカレーニョの姿から、”自分はとんでもないことをしてしまったんじゃ、、、。”という
焦りと激しい後悔の念が伝わってきます。

そして、私が個人的に、そのダンサーがどういう風にアルブレヒト役を描こうとしているかが
わかりやすく提示される場面だと思っている、ヒラリオンとの口論のシーン。
前回水曜マチネのコルネホは、基本はまじめ人間。ちょっとの遊び心と、
あまりに献身的なレイエス=ジゼルに情がほだされ恋仲になった、、という展開で、
この口論のシーンでは、田舎モノ系激情ヒラリオン=スタッパスの、例の、
”おまえのせいずら!!”という叫びに、”お、おれかよ?!”と、ただただびっくり仰天であわてる、という表現で、
運命に翻弄されるアルブレヒトという感じでしたが、
ヒラリオンに”君のせいだろう!”と責められたとき、カレーニョは、
慌てるでも、怒るでもなく、ほんの少しだけ顎をひき、うつ向くのです。
コルネホ=アルブレヒト、土曜マチネのマキ=アルブレヒトが、共にヒラリオンに向かっていく、
前に出て行くアルブレヒトだったのに対し、
後ろに引くアルブレヒトを見せたのは私が観たなかではカレーニョ唯一人でした。
そこには、自分が出来心で引き起こしてしまった不幸のために自分が背負わなければならない
心の呵責と、そして自分を襲う不幸(ウィリによる取り殺し)な運命をまるで
黙って受け入れたかのようで、
ここで初めて、それまでちゃらんぽらんだったアルブレヒトの思いがけない人間性が垣間見えるという、
非常に面白い表現になっていました。
それまでのアルブレヒトの様子から当然前に出て行くのだろうと思いきや、
予想外に引いてみせたカレーニョ。見事です。

一方のニーナ。彼女のジゼルがこれまた至芸の域に達しています。
私は彼女の公演を観た回数が極めて浅く、
熱心なバレエ・ファンの方に比べると、彼女のキャリアの歴史に対する思い入れが少ないため、
『ドン・キホーテ』のレポで書いたような厳しいことを書けてしまうのだと思い、
ファンの方には大変申し訳ない気持ちでいっぱいなのですが、しかし、やはり、
今の彼女の加齢による身体的能力の低下を思うと、あのキトリのような役は、
観客がよくても、多分本人が辛いのではないか、というのが正直な気持ちです。
キャリアのピーク時にその役が素晴らしかったとすればなおのこと、、。
しかし、『白鳥の湖』や、いやそれ以上にこの『ジゼル』のように、
超絶技巧ではなく、表現で役を語るタイプの演目では、彼女は今もって本当に素晴らしいものを見せてくれます。
まず、可憐で元気な村娘だけどどこかに迫り来る不幸の影を感じさせるはかなさをも表現している一幕前半、
何一つ、役として、余分なものも足りないものもない、素晴らしいはまりぶりです。
これが40代の女性とは絶対に見えない。こんなに舞台に近い場所で見ていてもそう感じるのだから、
彼女の表現がいかにすごいかということがわかります。
いや、その表現は正しくないかも。
彼女のジゼルには、年齢とか、美人か不細工か、というような具体性を超えた、
全女性を抽象的に表現しているような気すらしました。
ですから、恋する気持ちがわかる女性なら(そして男性も!)
絶対にニーナが演じるジゼルとコネクトできるはずです。

そして、狂乱の場は、、。
水曜マチネのレイエスに満足している場合ではなかった。
正気と狂気の間を行ったり来たりしている、そのどちらとも、無理をしている感じが一切せず、
あまりにその切り替えが自然で、観ているうちに、これ以外の表現はありえない気がしてきます。
花占いを思い出す個所では、ただ思い出に浸っているだけではなく、
アルブレヒトとの恋が最初の占いの結果どおり悲恋に終わって、
それを確認して心が崩れていく様が、段々早く花びらをちぎっていく姿と呼応しています。
アルブレヒトの剣を拾って、床に円を描いていくときには、
”ここが彼と私の世界なの!だから、誰もここには入ってこないで!”という叫びが聞こえてきそうだし、
どの振りからも、ジゼルの心の叫びが聞こえてきそうで、こんなに切なく、
心がかきむしられる狂乱の場は、レイエスはもちろん、
残念ながら土曜マチネのドヴォからも観ることのできないものでした。

ニーナ、カレーニョともに、ダンサーとしては年齢が高いため、
今が体力的にプライムにある他のダンサーたちにはないハンデはあるし、
それが踊りににじみ出てしまうときもあります。
しかし、逆に、他のダンサーたちにはなくて、彼らにあるものが、
体力的な不足を圧倒的に凌駕している。
何度も役をこなし、自分のものにしたダンサーだけが出来る種類の踊りであった、といえばいいでしょうか。
それから、ニーナの持つ磁力、というのか、彼女と共演すると、
他のダンサーたちも一緒に輝き、もしかすると、いつも以上の実力を発揮するという事実を、
前回の『白鳥~』のゴメスに続き、今日のカレーニョ、マーフィーにも感じました。


第二幕

この幕で私が体験したことを言葉できちんと表現できればいいのですが、、。
これほど、言葉がもどかしく感じられることはありません。

まず、マーフィーのミルタについて触れておかねばなりません。
水曜のマチネで、さわるとひんやりしてそうな冷酷なミルタを演じ、
私に、これこそは彼女の当たり役!と言わしめたマーフィーですが、
今日の彼女は、さらにパワーアップしていました。
もともとテクニックはしっかりしている人だと思うのですが、
役によっては少し色がないような気がしてしまうという、
欠点と紙一重な彼女の踊りの特徴が、この役に関してはすべてポジティブにはたらいてしまう。
怖いくらいのはまり役です。
まるで部下のウィリたちですら、話しかけるのを躊躇しそうな、
この鉄壁の、氷のように静かな、冷ややかさはどうでしょう?
こんな残虐なバレリーナは、今、彼女をおいて地球上に他にはいないのではないか?と思えてきます。

彼女の若干色のない確かなテクニックというのが、見事にミルタの頑固で冷たそうな雰囲気とマッチしてます。

そして、私は、今日、あまりに無理な体勢で舞台を臨んでいるために、
いつ首や腰がはずれてもおかしくない、と思っていたのですが、
それが報われる瞬間がやって来ました。

それは、ヒラリオンをまさに取り殺さんと、ウィリたちが舞台上ななめに
フォーメーションを作り、最も舞台袖に近いウィリのそばに、ミルタが観客に背を向けて立つシーン。
もんどりうって踊り続け苦しむヒラリオン。ミルタが、後ろを向いたまま、
そっと顔を横に向けるポーズをとるのですが、その時のマーフィーの表情といったら!
冷たいサディスティックな表情から、くくくく、、としのび笑いを浮かべる様子に、
足を次々にちぎられていく昆虫を見て楽しんでいるような残虐さを私は感じて、
本当に本当に怖かったです!!マーフィー、あなたは一体何者なのっ?!

しかし、それだけではなく、度重なるミルタの残虐な攻撃にも関わらず、
身を呈してアルブレヒトを守ろうとするジゼルのおかげで、命を失わないまま、
朝の訪れを知らせる鐘が聞こえて、朝焼けが舞台に広がるシーン。
ここに至るまでにも、ジゼルの執拗なねばりに、”この小娘やるわね、、”
というミルタの焦りを静かな中にもかもし出したり、
鐘が聞こえてきたときの、誇り高い様子の中にも敗北を感じている、、といった微妙な表現にも唸らされます。
とにかく、この役での彼女は素晴らしい、この一言につきます。

ニーナとカレーニョが踊るパ・ド・ドゥ以降、ラストまでの20分ほど(でしょうか?
正確に測ったわけではないのでわかりませんが、、)の間に私は、
オペラ鑑賞歴を足してもほんのまれにしかめぐりあえない種類の体験をしました。

それは、完全な作品や音楽との踊りの調和、といいましょうか、
そして、自分もその中に一緒にいる、という、ほとんど超現実的な現象です。
ニーナの踊りのすごさというのは、この作品や音楽と一体化する能力なのではないかと、
『白鳥~』とこの『ジゼル』を観て思い始めています。
踊りが踊りでなくなるといいますか、、彼女が演じている人物そのもの、もしくは作品そのものとなってしまうのです。
そして、観る側も、彼女を通してそれを体験するといえばいいでしょうか、、。
なので、具体的に踊りがどうだった、ということよりも、
私が自分の体に感じた感覚の方がこの日の公演の印象として、強烈に残っています。
カレーニョが救われる場面までの間、私は完全に自分のボックス席を離脱してしまいました。
前の人の頭がうっとうしいとか、首や腰が痛いという感覚も全く消えていました。
ニーナがデイジーの花をカレーニョの上に撒きながら、
彼女のお墓の向こうに後ろ向きに倒れて行ったときに、やっと我に返った状態でした。
アルブレヒトを救った瞬間、その時こそが彼を自分の目に焼き付けられる最後の瞬間になるというジレンマ、
それを越えて彼を助けたいという彼女の気持ちが、これほどリアルに感じられるとは、、。


(↑ アンヘル・コレーラがアルブレヒト役をつとめた公演日からのニーナ)

そして、それを支えていたのが、カレーニョ。
このシーンを通して、彼のそのサポートの流れが途絶えない、そこにいるのだけど、
ほとんどいるのだとわからない、透明な感じはどうでしょう?
彼が腰を支えてニーナが空中を飛んでいるのだと、目には見えても、
感覚的にはニーナが一人で空を飛び回っているような気がしました。
他のダンサーが踊るアルブレヒトからは、全く感じなかった(というか、彼のバチルドとの
いきさつなど、考えもしないことの方が多い。)のですが、
なぜだか、カレーニョのアルブレヒトからは、きっと許婚との婚約を破棄したに違いない、
という確信を彼の踊りから持ったのも、不思議といえば不思議です。

素晴らしいダンサーたちの踊りにふれる機会を与えてくれているABT、
そしてキーロフのNY公演もあった、、。
それでも、こんな感覚を与えてくれた公演はバレエでははじめて。

おそらく、残りの人生、毎シーズンオペラやバレエを観続けたとしても、同級の体験をすることは、
あったとしても、ほんの数度でしょう。もしかすると一度もないということも考えられます。

これは、技術がどうのというレベルを越えた、舞台の神さまがメトに降りた瞬間でした。
私がオペラやバレエに飽きることなく通い続けるのは、まさに10年単位でしかめぐり合えない、
こんな体験をしたいからだ、という私の鑑賞の原点に立ち返る思いがした公演となりました。

Nina Ananiashvili replacing Diana Vishneva (Giselle)
Jose Manuel Carreno (Count Albrecht)
Gennadi Saveliev (Hilarion)
Alexei Agoudine (Wilfred)
Karen Ellis-Wentz (Berthe)
Victor Barbee (The Prince of Courland)
Maria Bystrova (Bathilde)
Maria Riccetto, Jared Matthews (Peasant Pas de Deux)
Gillian Murphy (Myrta)
Melanie Hamrick (Moyna)
Hee Seo (Zulma)

Music: Adolphe Adam
Choreography: after Jean Coralli, Jules Perrot, and Marius Petipa
Conductor: David LaMarche replacing Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
Parterre Box 8 Mid

*** ジゼル Giselle ***

GISELLE (Wed Mtn, Jul 9, 2008)

2008-07-09 | バレエ
ジゼル。
ヴィシニョーワの回とドヴォロヴェンコ(以下略してドヴォ)の回を見るつもりだった。
確か今から半年前、ついにバレエのサブスクリプションにまで手を伸ばしてしまったのは
この二つの公演の個別チケットの優先予約権目当て。
そして、希望通り、ドヴォの出演する回のチケットを購入した。
なぜって、郵送されてきた最初のパンフレットには、確かに、7/9 ドヴォ・マキ(*マキシム・べロセルコフスキー。
ドヴォのご主人かつパートナー。)の文字があったから。
これで準備万端、と思った。甘かった。
数ヵ月後、新しいパンフレットが送られてきた。7/9の欄、そこにはドヴォ・マキの文字が消えていた。
かわりにレイエスの文字。頭に雷が落ちた
アルブレヒトに入ったのは誰だったか、あまりのショックで目に入らなかったのか、記憶なし。
サブスクリプションのチケットなら交換もしてもらえるが、サブスクリプションを買った結果得た
優先購入権で買ったチケットは通常のチケットの販売時のルールが適応されるため、
他の公演日との交換は不可。
しかも、連れの分まで2枚も買ってしまったのだ、、、
しかもグランド・ティアー、、
しかもマチネ、、、もう会社に有給休暇の申請もしているというのに。
そして、ドヴォ・マキのペアは、何と7/12にスライド。ということは、この期に及んで7/12の公演を
再度手配しなければならないのか?!
当然のことながら、速攻ABTに電話。
怪我で直前に変更になるならともかくこんなに早い時点でキャストを変更するなんて詐欺同然!と吠えまくり、
来年からはサブスクリプションなんて意味ないから買いません!と捨て台詞まで吐いて。

しかし、まだ公演日まで3カ月以上あるのだから、またキャストの変更があるかも、、
7/12はとりあえず追加で抑えたけれど、だからと言って、この7/9のチケットを誰かに譲るのは時期尚早では、、?
ということで、ずーっと握りしめてきたチケットです。
そして、思惑通り、一時は、この公演、ドヴォとホールバーグのコンビに変更になり、
とりあえずドヴォが見れるなら、、とほっとしたところ、
ヴィシニョーワの怪我によるキャンセル、そして、ホールバーグの怪我
(プレイビルの説明によればですが、真偽のほどは不明。)により、
なんと、再び週全体にわたって大幅なキャスト変更。
7/9のマチネ公演については、レイエスとコルネホのコンビで決着を見ました。
実は秋シーズンやメトシーズンの準主役で観たレイエスが私には全くぴんと来なくて、
この決着には正直、かなり落ち込んでます。
しかし、”バレエ、バレエ!!ジゼル、ジゼル!!”と浮かれている私の連れにこの状況、とても話せない、、。
彼がダンサーの名前にうといのをいいことに、何事もなかったように今日我々はメトに到着。
多分、彼はまだ”確か今日はロシアの夫婦のダンサーとか何とか言ってたな、、”と思っているはず。
レイエスとコルネホ、どう見てもロシア人には見えないけど、私はこのまま誤魔化し続けます!
(ちなみに二人はラテン系。)

平日のマチネ、しかもレイエスとコルネホのコンビの『ジゼル』で客が集まるの?と思いきや、
私のように騙されてチケットを買って、そのままキープした人たちが多いのか、
すごい人、人、人!!
そして、さらにじっと観察すると、実にお年を召した有閑マダム系の多いこと、多いこと、、。
夜の公演は夫婦連れの方も結構多いですが、平日のマチネは圧倒的に、
女性のお友達同士が多し!
しかも彼女たちのパワフルなこと!この夏日にものすごい厚化粧で、おしゃれをして駆けつけました!風なのです。
私の連れは、”男は僕一人なのかな、、?”と不安そう。


鑑賞前に小腹が減ったので、グランド・ティアーのバー・カウンターへ。
見ると、なんと新メニューが加わっている!
白いフロスティングたっぷりのカップ・ケーキ。おいしそうです。
メトの食べ物の新メニューは絶対にすぐにトライしなければ気がすまないので、
早速購入し、連れと二人でつついていると、大きなガラス越しに、
有閑マダムが4名、テラスに置かれた椅子でおくつろぎ中なのが見えます。
私の連れは少し私よりも年齢が上のせいもあって、最近の口癖は、”歳はとりたくないなー”。
特に今日のお歳を召したマダム連の”世界は私を中心に回る”的様子を見て
一層切実にそれを感じているよう。
突然、彼がカップ・ケーキを食べる手を止め、
”自分が歳をとったなーと感じるとき。
それは自分に色目を使ってくる女性の年齢が上がったとき。”
とボソッと呟くので、”誰が色目使ってるの?”と聞くと、”ガラスの向こうのマダムたち。”
私が、”まっさかー!私が真横にいるんだから、それないでしょ。”と言うと、
超真顔で、”アメリカの女性はアグレッシブなんだよ!!”と力説するので、
よく見ると、確かに、彼の気のせいではなく、マダムがうっとりとした表情でこちらを見ている。
おやおや、歳をとるとやーね、恥じらいがなくなって!(←という私も決して若くはないが。)と
思っていると、そのマダムのうちの一人が立ち上がって、テラスから、私目がけて歩いてくるではありませんか!
きゃーっ!!マダムに勝負を申し込まれるのかしらー!?とドキドキしていると、
お上品なマダムが一言、”そのカップケーキ、おいしくって?”

カップケーキ、、、ですか?

予想だにしなかった質問に、”意外といけます!”と答えると、
”そう、お二人が食べているのがとてもおいしそうだったので、私たちも頂くわ。”とそのまますたすたカウンターへ。
その間、マダムは一瞥たりとも私の連れに視線を投げることはなく、
瞳はカップケーキに釘付けだったのは言うまでもありません。
色目、、アメリカ人女性はアグレッシブ、、ああ、何て勘違い、、

”あれを色目づかいと勘違いするとは、ヤキが入った、、それこそ歳とった証拠だ、、”とさらにへこむ連れなのでした。
ちなみにこのカップケーキ、少し食感が軽めでメト・プライス(=お高い)ですが、
なかなかおいしいので、私のインターミッションおやつリストの仲間入りです。
ちなみに、リストのトップはいちごのチョコがけです。

さて、やっと本題の『ジゼル』の公演。
予習に使用したDVDは日本から取り寄せたヴィシニョーワ&マラーホフ with 東京バレエ団の公演のもの。
このDVDにより、初めて物語の全体像を知ったのですが、いやー、このお話、私、好きです!!

私のオペラで好きなレパートリーの中核を占めるものの一つに、
ベル・カントもの、特にロッシーニ作品”以外”の、
つまり、ドニゼッティとかベッリーニあたりの作品があります。
それも特に悲恋もの。
で、この『ジゼル』を観たとき、非常にそのあたりのオペラのレパートリーと共通するものを感じました。
例えば、第一幕の最後など、まさに、バレエ版”狂乱の場”。
それからニ幕の、あの世とこの世が交わる感じにも共通項を感じます。
プレイビルによれば『ジゼル』の初演は1841年、
ドニゼッティの代表作『ランメルモールのルチア』の初演が1835年。
ほとんど同時期なのです。なので、ドニゼッティ&ベッリーニ好きの私が『ジゼル』に
すっと入っていけたのも道理です。

特に私はこの作品の無駄をそぎ落とした単純なストーリーがいいと思います。
それから、ニ幕の、超現実的なシーンを用いて、人間の持てる最も崇高な精神(犠牲とか愛とか)を、
描ききっているところ。エンディングは本当に感動的です。

今日もおむすび、いえ、オルムスビー・ウィルキンズの指揮。
またへぼい演奏を聞かされるんだろうなあ、、と思いきや、
今日のABTオケは全員メンバーをとっかえたのかと思うほどでした。
金管の安定感がいつもに比べると格段に上がっているのに、まず、おや?と思わされましたが、
金管だけじゃなく、弦セクションも良かったですし、何が起こったのでしょうか、ABTオケ、です。
一ヶ月ほど前、バーンズ&ノーブルズ前で、若い女性(ジュリアードの学生さんか?)が
ヴァイオリンで、『白鳥の湖』のヴァイオリン・ソロを弾いていたのですが、
それこそ音程も正確だし、このまま腕を引いて、ABTのオケピに連れて行ってしまおう!
と思ったくらいですが、今日のような演奏を普段から聴かせてくれるのであれば、
そんな必要もないのです。

私にとっては、バレエもオペラと同じく総合芸術ですので、どんなにダンサーの踊りが優れていても、
寒いオケの演奏だと、本当に心が凍えます。
今日の公演全体について、先に公言してしまうと、私は予想外の好印象を持ったのですが、
オケの出来が今までとは段違いでよかったことが影響していることは間違いないと思います。

一幕のセットはDVDの東京バレエ団の公演とほぼ同じ。
遠くに城をのぞみ、舞台下手にジゼルの家。
ヒラリオン役のスタッパス、大柄な印象を与えるダンサーです。
役作りはひたすらいかつい。
東京バレエ団のヒラリオンが、なよなよジクジク系なのに比べると、
体だけは丈夫そうな、下々っぽい村人感が出ていて私は嫌いではないです。
大変申し訳ないが、東京バレエ団のヒラリオンにはニ幕でも一切同情できなくて、
「早くウィリにやられちゃってください。」としか思えない。
どうしても私には、東バのヒラリオンからは、
ヒラリオンの劣等感がアルブレヒトを策略に絡めて行くような印象を受けてしまうのです。
それに比べて、このスタッパスのヒラリオンは、もっとカラッとしてます。
”オラはオラの信じたことをやるずら。”
その勢いで、アルブレヒトの正体を暴くヒラリオン!!!
しかし、その思い込みがあまりに激烈なため、策略家のような感じがせず、
ニ幕でウィリに取り殺されるシーンでは、ちょっぴり同情してしまうほどです。
一幕での、”おまえのせいずら!!”とジゼルが死んでしまったのを、
アルブレヒトのせいにする勢いにも、その思い込みが現れています。
ニ幕のウィリに取り殺されるシーンは凄惨ですらあり、観客は思わず息を呑みましたが、
しかし、もんどり打ちながら、最後に舞台の床で後ろにでんぐり返りをしながら
舞台からはけるあの振り付けはスタンダードなんでしょうか?
あまりの強烈なはけ方に思わず観客の多くが笑ってしまいました。
強烈にださいのになぜか目を惹いてしまうヒラリオン、
このだささが演技から出たものだとすれば、あなどれない存在のダンサーです。

レーンとイリーインの農民のパ・ド・ドゥ。
イリーインは肩の力が抜けるともっと良くなると思うのですが、
特に前半、ぱんぱんでした。後半でやっと良さが出てきたように思いますが、
少し技の出来にムラがあるのが気になります。
レーンは残念ながら、パ全体を通して、私にはあまりぴりっとしない、
詰めの甘い踊りのように感じられました。

踊りらしい踊りがないにも関わらず存在感があったのは
アルブレヒトの婚約者を演じたメリッサ・トーマス。
彼女は『ドン・キホーテ』での森の女王も見所がありましたし、今後が楽しみです。
気位の高さと、身分の高い人特有の高慢さ、それでいて、しかしどことなく憎めない感じ、と、
このバランスのとり方が見事でした。

一幕の主な脇役を固めたので、いよいよ主役について。

アルブレヒトを踊るコルネホ。
彼はヴィルトゥオーゾ的な踊りがトレードマークのようになっていて、
実際、『ロミ・ジュリ』のマキューシオなどが強烈な印象があって、
こういった古典ものの主役というのは、観るまで正直全然ピンと来なかったのですが、
彼のアルブレヒト、私はとっても素敵だと思いました。
地のルックスが貴族にあるまじき暑苦しさなので、一瞬見た目には違和感があるのですが、



一旦踊りが始まってしまうと、全く気にならなくなります。
むしろ、あれほど超絶技巧を売り物としている彼が本当に抑えて抑えて、
感情表現を大事に、一つ一つの動きを丁寧に踊っているのをみるにつけ、
本当に頼りになるダンサーだな、という思いを強くします。
これからもっともっと表現力がついていくのでしょうが、今、ABTのプリンシパルの中でも、
表現力と体力が最も理想的なバランスで拮抗しているダンサーの一人なのではないでしょうか?
ラテン系のダンサーは、古典ものにはどうだろう、、?という
思い込みをくつがえす素晴らしい出来だったと思います。
特に二幕の表現、やり過ぎないことによってかえって滲み出てくる味がありました。
また、レイエスへのサポートも上手。
リフトではびくともしないし(DVDでマラーホフがヴィシニョーワを抱えながらふらふらしていたのとは対照的に、
まるで大木のようにどしーっとレイエスをリフトし、微動だにしませんでした。)
また、決して本人はそれほど背が高いほうだとは思わないのですが、
リフトしたときのレイエスの位置がそれにしては驚くほど高い。
まるで、指の第一関節だけを使ってリフトしているのではないかと思うほどです。
それから、レイエスを本当によく観て踊っているし、その結果でもあるのでしょうが、
二人が重なったポジションで、違う足のステップを踏んでいるときも、その違うステップの縦の線の揃い方がすごい。
レイエスの足の真後ろから、コルネホの足が出てきて、レイエスの両足の間で、
きれいなステップを見せる、という具合で、これは、まるで上手な二重唱を聴いているのと同じような感覚です。

一方のレイエス。
彼女については、今日全幕で観て、私が彼女の踊りについて今ひとつ好きになれない点が
はっきりしました。
それは、ぼてっとした腕、特に手の使い方だと思います。
彼女の踊りはどちらかというと足の強さの方が勝っていて、腕や手が申し訳程度についているような感じがする。
これは、私的には、何としても直してほしい点です。
しかし、そのような致命的な欠点はありつつもなお、今日の公演での彼女は悪くはなかったというのが私の意見です。
これは本当に意外でした。多分、観た後、けちょんけちょんなレポを書かねばならないのだろう、、と
どんよりした気分だったのですが、踊りそのものの欠点はあげることはできますが、
この役の一つのあり方を提示していましたし、私としては観た甲斐がありました。



(↑ ヘレーラがジゼル役をつとめた公演の写真。)

まず、村娘時代のジゼル。これは彼女の幼く見えるルックスもあって、結構はまっています。
DVDでのヴィシニョーワのジゼルが、村娘でありながら美人!のような感じがするのに対し、
レイエスのジゼルは、もっと普通の娘的。
けれども、これが逆にせつなさを煽ります。
こんな普通の、特に美人ではないジゼルに、貴族の身のアルブレヒトが本気で恋するわけがない。
というわけで、よりアルブレヒトにとって、最初は戯れ同然の恋だったことが強調されています。
しかし、この美人でないことが、ニ幕での彼女のアルブレヒトへの献身度に
一層のリアリティを与えています。
冴えないルックスの女の子が、精一杯の真心でウィリから自分の愛する人を守ろうとするニ幕、、。
私はヴィシニョーワの美人ジゼルより、こちらの方にホロッときました。
そうなんです。このジゼル役、美人である必要は全然ない。
むしろ、美人系ジゼルでない方が説得力があるように思えるくらい。
これは土曜マチネのドヴォ、ピンチです!
何となく彼女はヴィシニョーワと同様に美形ジゼルで来そうな予感がするので、、。

一つ言えば、”バレエ版狂乱の場”と勝手に名づけさせていただいた一幕の最後。
ここだけは、どうしようもなくレイエスの表現が物足りなかった。
もっともっと、感情の動きを緻密に分析して、失望、悲しみ、驚き、呆然、あきらめ、などなど、
色んな感情のあやを表現してほしいし、その感情が爆発しなくては。
狂乱ですよ!狂乱!!!
ここに関しては、ヴィシニョーワの方が数段上です。

ニ幕、ヒラリオンが木を十字に組んで作ったジゼルのお墓が下手に。

コール・ドによるウィリたちの踊りは、、うーん、、、、、。厳しい。
ここはみんながぴたーっとそろうとものすごい効果が出ると思うのですが、
常に、バランスの怪しげな人、足の所作のタイミングがずれている人、
足の上げ方の角度が甘い人、が一人はいて、振り付けの真価が出ていなかったと思います。

ミルタ役のマーフィー。これがまた、もう一つの発見。
『バヤデール』のレポで根拠の全くないままに私に意地悪女呼ばわりされた彼女。
しかし、私の大計算違いでした。
ガムザッティのようなアグレッシブなタイプの意地悪女より、
この無感覚系静かな意地悪女(人の命を奪う指揮をするわけですから、意地悪というより、
残虐、か。)ミルタの役が本当に良く合ってる!!
無表情のまま、”殺せ!殺せ!”とウィリたちを冷たく煽る姿が怖いです。
マーフィー、観客に背中を向けていても、無表情なのが伝わってきます。
この怖さは、さわるとひんやりしてそうな感じ。
意地悪、残虐にもいろーんなタイプがあることを実感。
マーフィーには、この役をライフ・ワークとして極めて頂きたいです。

マーフィー”ひんやり”ミルタが見守る中、着々と死に近づいていくアルブレヒト。
ここで出てくる技の数々は、コルネホの得意とするところで、観ていて全く危なげなし。
相変わらずキレのよい回転と高いジャンプに観客からの拍手も大きかったです。
しかし、それだけではなく、最後に、ジゼルが消えた後から、幕が降りるまでのたたずまいも、
それはそれは美しく、余韻のあるものでした。

観終わった後に、この作品を観た時本来感じるであろうはずの胸にじーんとくる感じが
きちんと感じられた公演でした。
ダンサーの技術がどうの、スタイルがどうの、とはいっても、結局最後に一番大事なのは、
その作品そのものの良さが伝わったか、という点ではないかと思うのですが、
その意味では、地味ながら良い公演だったと思います。

連れも今日の公演には満足したらしいので、いよいよ真実を開陳。
”ロシアのペアは土曜になったから。今日はラテン・ペアだったからね。”
観た後に言うな!って感じですが、しかし、本人は全く気にしておりませんでした。
公演のクオリティーはすべてを越える!のです。


Xiomara Reyes replacing Irina Dvorovenko (Giselle)
Herman Cornejo replacing David Hallberg (Count Albrecht)
Isaac Stappas (Hilarion)
Carlos Lopez replacing Jared Matthews (Wilfred)
Susan Jones replacing Maria Bystrova (Berthe)
Vitali Krauchenka (The Prince of Courland)
Melissa Thomas replacing Kristi Boone (Bathilde)
Sarah Lane, Mikhail Ilyin (Peasant Pas de Deux)
Gillian Murphy (Myrta)
Melanie Hamrick (Moyna)
Hee Seo (Zulma)

Music: Adolphe Adam
Choreography: after Jean Coralli, Jules Perrot, and Marius Petipa
Conductor: Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
Grand Tier A Even

*** ジゼル Giselle ***

LA BAYADERE - ABT (Thu, Jun 26, 2008)

2008-06-26 | バレエ
『ラ・バヤデール』鑑賞第二日目。
イリーナ・ドヴォロヴェンコのニキヤに、ジリアン・マーフィーのガムザッティの対決。
私、ご本人を全く存じ上げないのに、こんなことを言って、またまたNYの街角で刺されそうでこわいのですが、
マーフィーのルックスと雰囲気は、実は意地悪女の役にぴったりなんじゃないかなーと思っていたのです。
刺された後で今さらフォローもなんですが、もちろん、ただの意地悪女ではなく、
”美人の”(ここ大事!)意地悪女。
”彼女ってば、あんなに可愛いのに、こんなに意地悪だなんてこわ~い!”と
言わせてしまうような。
まさに、このガムザッティなんかは適役なのではないかと思う。
そして、一方、受けて立つニキヤ役も、これまた美形のイリーナ嬢というわけで、
今日はこの二人の戦い、本当に期待できそうです。
二人の戦いの争点となるソロルには、カレーニョがもともとキャスティングされており、
刺されついでに告白してしまうと、昨日のインターミッションでおしゃべりをした私のお友達が
”カレーニョのソロルはとってもいいのよ!”と教えてくれたのですが、
あまりに意外で、”えー、あんなにちんちくりんでイメージと違うのに?”と口走ってしまった私です。
ごめんなさい。

しかし、そうして、彼のソロルは素敵!という前情報を頂いたために、
元々楽しみだった女性陣二人に加えて、ソロルにもかなり期待できそう!というわけで、
今日の期待度はかなり高し。
しかし、座席に着く前にプログラムをもらおうとアッシャーに近づいた途端、
嫌な予感!!!!冊子から見えてる白いぴらぴら紙片はもしやっ!!!!???

が~~~~ん。
予感的中。
”カレーニョ、怪我のため、降板。代役、ホールバーグ。”
ひゅるるるるゥ~。

ホールバーグについては、今シーズンの『白鳥~』のロットバルトでは、
なかなかはまっていて良かったのだけれど、
しかし、秋シーズンから尾を引いている基本”首男”よばわり路線は変わっていないので、
お友達ご推奨のカレーニョのかわりにホールバーグとは、がっくり。
もうこうなったら、意地悪女マーフィー(重ねていいますが、あくまでイメージです。)と
意地悪女にはめられた美女ドヴォロヴェンコの対決に期待するしかありません。

昨日の公演のレポに頂いたコメントにより、トロールではなく、
苦行僧(!)だということが判明した、火のまわりを踊るダンサーたち。
この苦行僧を含む、脇の役およびコール・ドは、全体的に今日の公演の方が出来が良かったように感じました。

そして、ホールバーグ、
彼が意外と、といっては大変失礼なのですが、良いのです。
首もちょっと短くなったのか(そんなわけない、、)、衣装による目の錯覚か、
以前、あれほど気になった首の長さが今日は気にならない。
しかも、踊っている間の姿勢が綺麗で、さすがに彼のような長身で、そのうえに姿勢が良いと
本当に見栄えがします。
昨日のスティーフェルよりも上品でおっとりした雰囲気で、
このおっとりさが、後にガムザッティになびいてしまう優柔不断さともつながっている、という感じのソロルです。

ただ、彼については、昨日の公演のレポでも少しふれましたが、
ジャンプ系の技は大きくて綺麗なのだけれども、回転系の動きにムラがあるように感じました。
第二幕のソロでは、足を閉じたまま回転しながらジャンプ、というのが続けて
数回入るのですが、いずれもバランスが危うかったり、きちんと正面に向き戻らなかったり、と、
全滅状態に近かったのが残念。
しかし、全体的には、良い出来だったといえると思います。
彼は古典ものの方が持ち味が出るタイプかも知れません。

急遽代役に入った割りには、ドヴォロヴェンコとのコンビネーションも悪くなく、
この後に詳しくふれようと思っている一幕の二人の逢引のシーンに私は大変魅了されましたが、
しかし、そこにはホールバーグの貢献が大きかった点も忘れてはならないと思います。
一点惜しかったのは、二幕(このABTのプロダクションでは”影の王国”が入っている幕)での
グラン・パ・ド・ドゥのコンビネーション・ミスですが、これも、追ってふれます。

昨日、階段を下りる数歩の、そのあまりに美しい足のポジショニングに、
登場シーンでは感嘆させられたケントのニキヤだったので、
ドヴォロヴェンコ(以下、ドヴォ)はどんな”足の登場”を見せてくれるかと思いきや、
すたすたすたっと、あまりに何気なく飛び出してきたのには肩透かしを食らわされました。
しかし、その後の表現力は素晴らしいものがあり、年齢設定をやや低めにしているのも興味深かったです。
ドヴォのニキヤは大人の女ではなく、ハイティーンから、上限でもせいぜい二十歳過ぎ、くらいの雰囲気。
(それが踊りからきちんと伝わってくるのが、ドヴォのすごいところ。)
よって、ソロルとの恋は、彼女にとっては初めて知った本当の恋。
どちらかというとこの関係に”最初にはまってしまっている”のはニキヤの方なのです。

これら全部のことが見えたのは、一幕の二人がこっそりと庭で密会するシーンでの
ドヴォの表現力のおかげでした。
昨日のレポにも書いたとおり、ケント&スティーフェルのそれでは、もちろん二人は恋をしているんだな、
ということはわかりましたが、せいぜい、手をつないで庭を歩いている、
それを大僧正が目にして怒る!という流れだと思っていたのですが、
今日のドヴォ&ホールバーグの踊りを見て、私は呆然としました。
そんな手をつなぐなんて生ぬるいものじゃなかった、、。
これは二人が愛し合っている、平たく今風に言えばエッチしている場面だったんだ、、、
そのことをようやく理解した私です。
ドヴォ=ニキヤの、愛の歓びに狂わんばかりの姿に、これは、奥手の少女なら、
思わず恥ずかしさに下を向いてしまうところですが、
そうでない私は(きのうはシャイだと書きましたが、嘘です。そんなわけない。)、
そのあまりの美しさに、舞台に目が釘付け状態でした。
世の男性はプレイボーイチャンネルなんか見ている場合じゃないです。
そんな暇あったら、ドヴォの『バヤデール』を見るべし。百万倍エロティックですから。
しかし、ドヴォの素晴らしいところは、そのことが伝わってきても決して下品には堕さず、
これらすべてのことが美しく表現されているところにあります。
そして、さらに美しいのみならず、ドラマとしての整合性も素晴らしい。
大僧正が二人を引き裂き破滅に導くのは、
二人が一緒に歩いているところを見たからなんかじゃない。
愛し合い、乱れまくっているドヴォを見たからこそ、並々ならぬ嫉妬と復讐の念にかられるわけです。
だって、誰よりも自分こそが求めるものを手に入れるに値すると思っている
尊大な大僧正が欲しかったのは、まさに自分に愛されるニキヤだったわけですから。
そのことが、ドヴォのように踊ってくれないと、伝わりにくい。
昨日のケント&スティーフェル組と同じ振り付けとは思えないほどにインパクトがありました。

そして、もちろん恋に年齢は関係ありませんが、やはりこの盲目さ、こののめりこみようは、
若い女の子に一番良く似合う。
だから、ドヴォのやや低めの年齢設定も、非常に説得力があります。
『白鳥~』で初めて観た時には、基本に忠実な、どちらかというとフォーム重視のダンサーかと思っていましたが、
『ドン・キホーテ』、そして、特にこの『ラ・バヤデール』と来て、
ドヴォの本当の強みは、役についての洞察力と、それがうまくはまったときの表現力、
この二つなのではないかという気がしてきました。
繰り返しになりますが、このシーンでの、ホールバーグの素晴らしいサポート、
これも賞賛に値するものだったと思います。
ラブ・シーンは一人だけが良くてもだめですから。

さて、いよいよ登場するはマーフィーのガムザッティ。
うーん、やっぱり見た目はこの高飛車で、意地悪なガムザッティにぴったり!いい感じ!
しかし、踊り始めておやおやおや?なんか、マーフィー、可愛くないですか?!
そう、マーフィーのガムザッティも、とても可愛いのです。
意地悪少女の必殺技、ぶりっ子攻撃で来たか?と身構えましたが、そうでもなさそう。
どちらかというと、マーフィーのガムザッティから受ける印象は、
意地悪の固まり、というよりは、彼女自身も欲しいものの為に必要なことを実行するのみ!という、
ある種のけなげさ。
この『ラ・バヤデール』、プロット的な類似点からオペラの『アイーダ』と比較されることがあるようですが、
私はガムザッティにはある意味、計画的、かつ確信犯的な意地悪さを感じるものの、
アムネリス(強いていえばガムザッティに相当する『アイーダ』の中の登場人物)のそれは、
より非計画的であり、しかも、最後には自分の行いを悔いながら生きていくという大きな十字架を背負うことになる展開からも
(一方のガムザッティは、一度たりとも自分の行いを悔いることがない。)、
少なくともこの二人については全然違うキャラクターだと思っているのですが、
それにしては、マーフィーのガムザッティはかなりアムネリス的なアプローチのガムザッティだと思いました。
ゆえに、せっかく(?)の意地悪女に適したルックスなのに、
こちらが歯軋りしたくなるほどの意地悪さは表出してくれず、いささか中途半端な印象が残りました。
この際は、迷いを捨て、いっそ超がつく意地悪女として演じてくれた方が
良かったのにな、というのが私の個人的な気持ちです。
その思い切りさえ加われば、このドヴォ=ニキヤ&マーフィー=ガムザッティのコンビは
コンビそのものとしては決して悪くないと思うのです。

マーフィ個人についていうと、踊りはさすがに安定していますし、
やはり場慣れしていることもあって、踊っていない個所での演技も非常に自然なのですが、
その一方で、昨日の加治屋さんの時に感じたような良い意味でのスリルが踊りから感じられないのが残念。
この印象は秋シーズンの時と同様です。

ガムザッティが金銀宝石やらあらゆる手を駆使してニキヤのソロルへの思いを絶とうと試み、
だんだんいさかいがエスカレートした結果、ニキヤがナイフをふりかざす場面のドヴォの迫力もさすが。
彼女は本当に微妙なリズムのセンスがよいというのか、
最初は普通の会話だったのが、どんどん激昂していき、ついに自分でも気がつかないうちに
ガムザッティにナイフを振り上げていた、という、段々気持ちが高ぶる様子を、
前寄りにリズムをとることによって非常に巧みに表現していたと思います。
そしてナイフを取り落とすシーンは、自分のしたことに心底びっくりした!という表現の仕方で、
後悔とか自責の念を一切感じさせずにその場から立ち去る姿に、ニキヤの芯の強さが上手く出ていました。
ドヴォの演じるニキヤは、後悔とか申し訳ない気持ちでガムザッティのもとを立ち去るのではなく、
思いもかけない激しい感情が自分から飛び出したことに驚いた、という感じ。
ここで彼女はどれほどソロルへの思いが深くなっているか、ということを自分でも思い知るのです。

一幕の最後、婚約したソロルとガムザッティの前に現れたニキヤが蛇にかまれる場面。
思わず見ている私たちが”あいたー!!”と叫び出しそうになるほど、
リアルな演技のドヴォ。
ただ、その後に続く場面は、もう少しパニック感を抑えて、変わりにニキヤの心情を表現してくれた方が効果的な気もします。
”噛まれたわー、噛まれたわー”と慌てているうちに死んでしまった、という感じで、
それ以外のこと、例えば、悲しみとか、恨みとか、何でもいいのですが、
どのような気持ちでニキヤが死んでいったのかが少し見えづらかったのが惜しまれます。

ニ幕。
”影の王国”のコール・ド。
今日の出来は昨日より更によく、
ロシアのバレエ・カンパニーと比べるわけにはいかないのかもしれませんが、
ニキヤが影(shadow)の姿を借りて、阿片でトリップしているソロルの心を波のように
埋め尽くしていく感じがよく出ていたと思います。
これを見ると、そこまでABTのコール・ドがひどいとも思えないです。

昨日のレポにも書きましたが、冒頭、ソロルが阿片を吸ってラリるシーンは、
ホールバーグの迫真の演技に、この人もしかして、阿片経験者、、?との疑惑が頭をかすめたくらいです。

グラン・パ・ド・ドゥで、一瞬観客が息を飲んだのは、
ホールバーグが、両手をクロスさせた状態で、頭上にあがったドヴォの両手を掴んだ後、
本来はそれを外して、すぐにまたバランスをとったドヴォの片手をとるはずだった箇所。
クロスしたままの両手がドヴォの指とロックしたままなかなかはずれず、
(まるでホールバーグの指とドヴォの指がかぎのように引っかかってしまったように見えました。)
ドヴォはもうその後のバランスからさらにその次の、バランスをとったままの前傾姿勢に入ろうとしているのに、
まだ指が外れないので(それも腕が高い位置にあがったまま、、)、これ以上遅れたら、指が外れたとしても、
ホールバーグがドヴォの片手をとれずに、彼女がそのまま前のめりに倒れてしまうのでは!?と、
観客の息を飲む声が聞こえてきそうでしたが、なんとかぎりぎりで間に合って、
大きなアクシデントにならずにすみました。
しかし、これがだいぶホールバーグの心臓に答えたのか、
これを境に彼の踊りが若干浮き足立ってしまったように思えました。
そのアクシデントそのものに対しては意外とドヴォは落ち着いていたと思うのですが、
その後ホールバーグの足が地に付かない気分がサポートから伝染してしまったのか、
ドヴォのその場面までの表現は素晴らしかったのに、少し緊張の糸が切れてしまったのは本当に残念。
このアクシデントがなかったならば、最後まで表現にも神経が通った更に素晴らしい場面に
なっていたに違いありません。

このグラン・パでの二人の表現から、まるでソロルをニキヤが導いていて、
ソロルはただそれに身を任せ、追いかけて行っている風でした。
その姿は、ソロルが本当に愛していたのはニキヤであったことを彼に気付かせるために、
彼女がソロルの幻想の中に姿を現したようでもあります。
それから、このシーン、ニキヤがソロルに与えた最後のチャンスなのではないか、と私は思います。
一幕で描かれた現世での肉体的なつながりとは違って、このグラン・パで描かれているのは二人の精神的な絆。
だから、ドヴォの踊りは一幕と打って変わって、
この場面ではむしろ地味とも言えるほど非常にストイックなのも納得がいきます。

だが三幕では、結局、そのチャンスも虚しく、ソロルは最後まで、ガムザッティを拒否する強さを持たないのです。
各種のあらすじ本には、陰謀渦巻く宮殿に神が怒りを落として、
結婚式の最中に宮殿が崩壊する、となっていますが、
私には、少なくとも今日の公演からは、宮殿崩壊は神のせいではなく、
まさに、ニキヤ本人の怒りと悲しみが引き起こしたのだという結論を出すに至りました。
初めての本気の恋は、かくも激しい!!

末端まで破綻のない解釈の整合性でこの作品を踊りきったドヴォと、
それを支えたホールバーグ、お見事!です。

Irina Dvorovenko (Nikiya)
David Hallberg replacing Jose Manuel Carreno (Solor)
Gillian Murphy (Gamzatti)
Craig Salstein (Magdaveya)
Jared Matthews (Solor's Friend)
Mikhail Ilyin (The Bronze Idol)
Vitali Krauchenka (The Radjah Dugumanta)
Roman Zhurbin (The High Brahmin)
Renata Pavam, Melanie Hamrick, Leann Underwood (the Shades soloists)

Music: Ludwig Minkus
Choreography: Natalia Makarova after Marius Petipa
Conductor: David LaMarche

Metropolitan Opera House
Grand Tier F Odd

*** ラ・バヤデール La Bayadere ***

LA BAYADERE - ABT (Wed, Jun 25, 2008)

2008-06-25 | バレエ
二日連続の『ラ・バヤデール』鑑賞一日目は、
ニキヤにジュリー・ケント、ソロルにイーサン・スティーフェル、
ガムザッティに加治屋百合子さんという非常に楽しみなキャスト。
今年になって隠れバレエファンである事実を開陳した連れも一緒。

ジュリー・ケントについては、色々な方からいい評判を聞くのですが、
昨年のメト・シーズンの『シンデレラ』が今ひとつ私にはピンと来なかったので、
ぜひ、今回こそは、本領発揮の現場を押さえたい!
イーサン・スティーフェルといえば、昨シーズンのフェリ出演『マノン』
マノン兄役でのあまりのエレガントさにぼーっとしていたら、
なんと怪我のため、いきなりニ幕以降ラデツキーに交代、という事件が発生、
違った意味で(ショックにより)ぼーっとさせられた記憶が新しいのですが、
一年ぶりに、しかも、今回は主役で見れるので、これはとっても楽しみです。
そして、加治屋さん。ABTで頑張る日本人ダンサーを応援しないわけにはいきません。
が、しかし、このブログは私なりに公平に、思ったままの意見を書くように心がけているので、
私が彼女について良い事を書けるためには、ご本人に頑張っていただくしかない。
なので、加治屋さん、頑張ってください!

テレビのボリュームを思いっきり絞ったような、何でこんな小さな音しか出ないの?という前奏でスタート。
あいかわらずです、ABTオケ。

今回、予習に使用したDVDは、ロイヤル・バレエの公演
(Asylmuratova、Mukhamedov、バッセル、熊川哲也、ダウエルらの出演)で、
このDVDを見ても、いろんなあらすじを探しても、そして、今日の公演を見てもよくわからないのが、
冒頭に出てくる、火の上を飛び回る男性たちが何者であるか?
ソロルとニキヤの味方なんだな、くらいなことしかわからない、、。
そして、特にこのABTでのプロダクションでは、彼らの風貌がまさにトロールのようで、かなり不気味です。
最後まで、あんたたち、誰?状態でした。

続いて登場したスティーフェル。
彼は、体型なんかに関しても、翌日に同役を踊ったホールバーグが背が高くすらーっとして恵まれているのに比べると、
あまり特徴がないのが特徴、という感じで、決して物理的に目立った長所があるわけではないのですが、
一旦踊リ始めると、見ている人を惹きつけ、好感を持たせてしまうクオリティとエレガントさがあり、
これが彼の最大の強みなのではないかと思います。
”普通”であることに、エレガントさを足してうまく魅力に転化しているダンサーだと思います。

この物語で描かれる悲劇の引き金をひくことになる重要な役である大僧正。
踊るのは『白鳥~』での半魚人も記憶に新しいズルビン。
直前にダウエル氏が演じるこの役をDVDで見てしまったのは痛かったか?
いや、でも、それだけではなく、まだまだ彼にはこの役は消化しきれていない気がします。
極めて高い、しかも、徳のあるはずの身分でありながら、
いやらしい手をつかって、ニキヤとソロルを陥れる邪悪さ!
また、その方法も、自分の地位を利用し、邪悪さを隠しつつ着々と人を陥れる巧妙ぶり。
後にニキヤについての個所でもう少し詳しく書こうと思いますが、
私は、この大僧正の行動は”嫉妬”などとも呼べない、
すけべ心 X 自尊心を傷つけられた怒りによるものだと思うのですが、
その自尊心があまりに大きいので、それが傷つけられた時には相思相愛の二人を引き裂いてもOK
と考えている恐ろしい輩なわけです。
しかし、そんな一見高徳な中に隠された邪悪さというような複雑さは
全くズルビンの振りからは伝わってきませんでした。
まだまだこのような役を演じるには若すぎるのか?
それに比べてダウエル卿の、少し寄り目がちな大きな目が人をじっと見据えている姿や、
抑えた身のこなしの中に今書いたような全部のことが入っているのは本当に見事です。

ニキヤが登場する場面。大僧正がニキヤの頭からヴェールを外すまで、
観客の視線も、そして大僧正の視線も彼女の足に注目するわけですが、
ケントが階段を降りて来る足のポジションとテンポのその美しいことと言ったら!
こういう足の動きを見ると、そうだ、もう顔を見る前から、この足だけで、
ニキヤは大僧正の心を一掴みしたんだ、というのがよくわかります。
平安時代、日本人も、御簾からちらりとのぞく、中にいる女性の着物の色あわせとか、髪を見て、
男性は恋心をかきたてられたといいますが、似たメカニズムだと思います。

そして、ヴェールをとって大僧正、二度びっくり。
足のみならず、全ての姿が美しい!!と恋心爆発!のシーンですが、
その点で、このニキヤ役は、やっぱり見目麗しく、少しはかなげで、しかし芯の強さを感じさせるタイプの人じゃないと、
説得力がないと思うのですが、ケントはこれらの条件がかなり整っているダンサーだとは思います。
ただ、”ぴったり”ではなく、”かなり”という表記にとどめたのは、
一つだけ気になった点として、時に彼女のたたずまいや表現がややお姉さんっぽすぎるように
私には感じられた個所があったからです。
翌日に同役を演じたイリーナ・ドヴォロヴェンコは、もう少し少女らしい雰囲気を残しながら、
この役を演じていましたが、
特に今日の共演者、スティーフェルと加治屋さんが、若々しさを感じさせる二人なので、
時に、ケントだけが主役ダンサーたちの中ではみ出して見える個所があったのが残念。
これでは、美人で魅力的なんだけど、年増になるまで売れ残ってしまった舞姫、という趣。
この役から、本来のストーリーラインから感じるのとは違った種類の痛々しさを感じたのは私だけでしょうか?

布を効果的に使った踊りが印象的な寺院の舞姫たちの踊り。
一人、かなり体格ががっしりしたダンサーが混じっていて、
踊りのスタイルもおよそクラシック・バレエらしくなく、
この場面の雰囲気をぶち壊しにしていて、がっかり。

いよいよ、ソロルとニキヤの逢引のシーン。
ここは、先に書いたとおり、ケントのお姉さんっぽさが気になってしまった個所。
スティーフェル演じる年下の男の子=ソロルが恋する素敵なお姉さんニキヤ、とでもいいましょうか?
これまた、後の加治屋さんについての感想につながっていくのですが、
この二人だけであれば、この年齢関係もそれはそれで面白いと思うものの、
ガムザッティという、ほとんど、ドラマ性においては、この二人と対等の立場にある人物がいるので、
彼女との関係性も無視できないと思うのですが、ガムザッティが加治屋さんのように初々しく演じられた場合、
もう少し、ケントのお姉さんっぽさをトーン・ダウンしないと、違和感が生じるように思います。

ケントは、どの動きも非常に美しくて、何か非をあげろ、といわれると困るのですが、
それでいて、少し役との間のよそよそしさを感じてしまいました。
踊りから、役を生きている感じが伝わってこないというか、、。
去年の『シンデレラ』でも、やはり似た印象を持ったのですが、たまたまでしょうか?
このちょっと役から距離がある感じが、秋シーズンのコンテものではとっても生きていたので、
私の中では、今のところ、彼女が白系の作品がなかなかいいとどんなに聞いていても、
むしろ、アンドロジニアスな役を踊った時が一番良いような印象が固まりつつあります。

後、もう一点、それと関連するのかも知れませんが、彼女の踊りはこの役には少し清潔すぎるかな、
という気もしました。
特にそれは、翌日のイリーナ・ドヴォロヴェンコのこのシーンの踊りを見て、
確信に変わりました。
私は、このケント&スティーフェル組の踊りを観たとき、
もちろん、この二人が愛し合っているということは伝わって来ましたが、
夜の寺院の庭を語り合いながら散歩してる、くらいの温度感で見ていたのですが、
翌日ドヴォロヴェンコとホールバーグの踊りを見て、”全然そうじゃなかった!”と覚醒した次第です。
このシーン、二人が愛し合っているシーンだったんですね。
ドヴォロヴェンコからは、ソロルに愛される歓びがものすごく伝わってきました。
で、思ったのです。
ニキヤが死んで初めて二人の愛は精神的なものに昇華したのではないかと。
そして、それまでは、ソロルとニキヤの愛はもっと現実的な、つまり、
相手の見た目とかフィジカルな面での愛であり、
だからこそ、ソロルはガムザッティになびくし、
また、大僧正がニキヤに魅かれたのも、まさに同じ理由なのではないかと思うのです。
つまり、先に、大僧正の感情は嫉妬と呼べるほど高尚なものじゃない、と言ったのはまさにこの意味で、
嫉妬というのは、ある程度、相手を心の底から愛していてこそ芽生える感情だと私は思うのですが、
大僧正がニキヤに対して持っていた感情はそんな深い愛じゃない。
”この女を自分のものにしたい、うっしっし、、”という極めて原始的な肉欲なわけです。
シャイなわたくしが、あえて赤面しながらこんなことをはっきり書くのは、
実はこの作品、そこを読み間違えて、あまりに高尚に演じ踊ろうとすると、
非常にピントが狂うように思うからなのです。

そんなただのエッチ心を拒否されただけで、相手を不幸に陥れようとするところにこそ、
この大僧正の尊大さが現れていて怖いし、
また、ニキヤとは肉体的には最高に愛し合っていたけど、
将来のことを考えれば、ガムザッティと結婚しておいた方が得なら、ガムザッティもとんでもない美女、
ニキヤもわかってくれるだろう、と甘い考えで心がゆらいだソロルが、
ニキヤが死んで初めて、二人の愛が肉体的関係以上のものだったということ、
そして、それをニキヤが生きている間に自分が気付かなかった愚かさと初めて向き合うところに、
この作品のポイントと悲しさがあるように思うのです。
よって、ケントの踊りはこの作品においては、あまりに清潔、高尚すぎるというのが私の意見で、
むしろ、ドヴォロヴェンコのような表現の方が私にはしっくり来ました。

踊りの方について少しふれると、スティーフェルとケントのパートナリングには、
若干ぎこちなさを感じました。
スティーフェルのサポートが悪かったのか、ケントの回転が止まってしまって、
一旦、両足をついて残りをまわらなければならなかったような場面もあり、
二人のコンビネーションに最も不安を感じたのがこの第一幕。
スティーフェルに関しては、加治屋さんと踊る時の方が、ずっと息が合っているような気もしました。
むしろ、加治屋さんと踊る場面でスティーフェルの調子がついて、
後の幕でのケントとの場面を乗り切った、というような印象すらあったほどです。

その一幕での加治屋さん。
この大役にかなり緊張していたのか、踊り以外の個所で、少し余裕がない感じはありました。
例えば、翌日に同役を演じたジリアン・マーフィーが、舞台の中心で他のダンサーたちが踊っている間、
チェスのような盤ゲームをはさんでソロルと語りあうシーンでは、
リラックスして、本当におしゃべりをしながらゲームを打っている、という雰囲気だったのに対し、
かちかちな状態で、ほとんどスティーフェルと言葉も交わさず、真正面を向いている状態でしたが、
一旦踊りだすと、これが本当に目をひきつける踊りというのか、、、
単にテクニックだけのことを言えば、マーフィーの方が安定感があるのかもしれませんが、
加治屋さんの踊りにはなんともいえない魅力がありました。
私なりにその理由を分析するに、

① 回転系の技の、一回転の中の速度の配分が非常に独特で、
ほとんど加治屋ターンとでも呼びたくなる個性がある。
これは、秋シーズンの演目で、他のダンサーたち何人かと同じ振りを踊るときは、
若干邪魔になっていたようにも思いますが(なぜなら、他のダンサーたちとシンクロしていないから、、。)、
こういったソロの役では、ものすごい強みになっているように思います。
たいていのダンサーの場合、回転技はまわりはじめてから終わるまで、
かなり同一速度に近いように思うのですが、加治屋さんの回転は、微妙に、速度に変化がついていて、
終わる直前に一旦、非常に優雅なゆったりした回転になって、また早くなって終わるのです。

②分解した踊りに新しい発見が!
音楽でも、通常のテンポより極端に遅く演奏された場合、時に(そう、断じて言うが、
いつもではない。あくまで、優れた演奏の場合のみ)
今まで見えなかった美があらわれてきて、”ああ、ここってこんなに美しい音楽だったんだ”という、
意外な発見が起こることがありますが、似た感触を今日の加治屋さんの踊りから持ちました。
ものすごくディテールにこだわった踊りで、腕の使い方に卓越したものがあったのと、
(この点に関しては、マーフィーよりもずっと良かった。)
それから、スティーフェルのサポートを受けながら、
ほとんど止まってしまうのではないかと思うほどゆっくりとまわった回転、
こんなにゆっくりまわるのは、ちょっと普通ではないのかも知れませんが、
”早く回れないからこんなにゆっくりなのかしら?”というよりはむしろ、
表現のためにわざとゆっくりまわっていると、多くの人は判断したと思います。
(本当のところはわかりませんが、前者ってことはさすがにないと思う、、。)
そこには、解体に解体を重ねた末にしか現れてこない独特の美しさと意外性があって、
私は非常におもしろく見ました。
(翌日のマーフィーの踊りからは、そういった意外性の発見というものは全くなかった。)

もう私たちのまわりに座っているオジサマたちは、彼女の一挙手一同に、溜息状態。
いえ、溜息ばかりか、いちいち口に出して "Beautiful! ”を連発し、完全な骨抜き状態になっていました。

後は、役に必要な”雰囲気”みたいなものがつくともっともっと良くなる気がします。
このガムザッティ役特有な傲慢さみたいなものは加治屋さんからはほとんど感じられず、
むしろ、日本人女性っぽい独特のたおやかさと可愛さみたいなものが前面に出てしまったため、
ソロの部分、またソロルと二人で踊る部分は非常に見所が多かったのですが、
逆に、ニキヤと争う部分では少し説得力不足か。
(一方、ケント=ニキヤは彼女は彼女で、ナイフを振るう場面にどこか迫真力を欠いていた様に思うので、
お互いに改善すべき個所なのかもしれませんが。)
また、この可愛らしいガムザッティのために、余計にケントのニキヤが
”年増の舞姫”風に見えたことは否めません。

先にも書いたとおり、加治屋さんとスティーフェルとのコンビネーションは素晴らしく、
二人とも決して身長が高い方ではないと思うのですが、一緒に踊ると、なぜだか舞台で大きく見える気がしました。
というわけで、我々観客も、どちらかというと、気分的にはソロル&ガムザッティを応援したい気分に、、。

そして、その気分と、”年増の舞姫”風ニキヤは、婚約式の場面で頂点を迎えてしまいます。
ソロルとガムザッティの前で踊るために現れたニキヤの、この清掃のおばさんを思わせる
三角巾様のかぶりもの!!これは一体何?!!
一応、衣装の赤紫色と友布の三角巾なんですが、ケントが異様にみすぼらしく見えませんか?!
ここは、ニキヤ、憐れではあっても、みすぼらしくてはいかんでしょう!!

蛇にかまれる場面、ケントはここでもあくまでたおやか。
ドヴォロヴェンコのニキヤが、いかにも”がちーん!”と蛇にかまれた瞬間を描写していて、
こちらも飛びのきそうになったのとは、対照的ですが、どちらがいいかは好みの問題かもしれません。

ニ幕。
(この作品を全四幕としている書物もありますが、ABTでは全三幕となっています。)
アヘンを吸って朦朧とする場面、翌日の公演のホールバーグが、
”あんた、アヘンを吸ったことがあるんじゃ、、、?”と思わせるほど、
自然かつ達者な演技だったのにくらべ、意外と(どういう意味だ?)スティーフェルは大人しい。

”影の王国”。
キーロフのNY公演で抜粋を見て、早く全幕を実演で!と思っていたので感慨もひとしお。
やっぱり全幕の中にあってこそ、このシーンは光ると思う。
こんなに悲しい場面だったとは、、。
ABTのコール・ドについてはけちょんけちょんな意見をよく耳にし、
特にキーロフのそれを数ヶ月前に今日の観客の、おそらく多くの人が目にしたであろうと思うと、
大変不利な状況ではあり、私の連れも、コール・ドがなあ、、とこぼしていましたが、
私は思ったほどには悪くはなかったと思いました。
(その思ったほど、の”ほど”がどのくらいだったかは聞かないでほしい。)

この幕での、スティーフェルとケントは一幕よりもずっとコンビネーションも良く、
安心して見ていられました。


(↑ ニキヤ役のケントとソロル役のスティーフェル。
一枚目の写真は違う日の公演より、ゴメスとパルトのコンビ。)


ホールバーグがジャンプそのものは綺麗なのに、
回転もしくは回転と組み合わされたジャンプでややてこずっていたのに対し、
スティーフェルは技のタイプの間であまり出来に差がないのも、安心してみていられる要因の一つのような気がしました。

三幕のブロンズ・アイドルを踊ったアロン・スコットは、少し体が重い感じがするのが残念。
ロイヤル・バレエのDVDでの、熊川哲也のあの身軽さが私のこの役のデフォルトになってしまったので、
こんな重たそうな仏像あり?と思わされましたが、まあ、よく考えてみたら、
実際には仏像ってどちらかというぽっちゃりしていることが多いから、こちらが標準なのか?
翌日のイーリンも、踊りのきれはスコットより上なものの、やっぱりややぽっちゃりめの仏像に見えた。
ABTのブロンズ・アイドルはぽっちゃり、がデフォなのかもしれません。

今日の一幕後の休憩中、以前一緒に働いた時期のある、うちの長男(犬)も大好きな
お友達と旦那様にばったり。
大のバレエ・ファンであり、おそらくケント・ファンと思われる彼女をもってしても、
今日のケントについては、ちょっとオフ・ナイトかな、、という感想でした。
一緒に働いていた頃は、私がNYCBの『くるみ割り~』『ロミ・ジュリ』を見て
”、、、。”という時期だったので、
残念ながらあまりゆっくりとバレエについてお話する機会がなかったのだけれど、
今回、色々なお話、意見を聞かせてもらって、また心強いメンターがここに!!と、とっても嬉しい。
ますます充実するmyバレエ鑑賞ライフなのです。

Julie Kent (Nikiya)
Ethan Stiefel (Solor)
Yuriko Kajiya (Gamzatti)
Jared Matthews (Magdaveya)
Cory Stearns (Solor's Friend)
Arron Scott (The Bronze Idol)
Gennadi Saveliev (The Radjah Dugumanta)
Roman Zhurbin (The High Brahmin)
Sarah Lane, Isabella Boylston, Melissa Thomas replacing Maria Riccetto (the Shades soloists)

Music: Ludwig Minkus
Choreography: Natalia Makarova after Marius Petipa
Conductor: Charles Barker

Metropolitan Opera House
Grand Tier B Odd

*** ラ・バヤデール La Bayadere ***

DON QUIXOTE - ABT (Sat, Jun 14, 2008)

2008-06-14 | バレエ
前日の金曜日の夜は、以前いた会社の元同僚8名で集まってご飯を食べた。
任期を終えて日本に帰国するK君の送別会である。
(K君と奥様も、オペラ&クラシック音楽好きでいらっしゃるので、
メトでばったり遭遇!ということも何度かあった。寂しくなります。)
そこで、女性陣の間で、明日の予定は?という話になって、
Mさんが「ABTのドンキ」。
Wさんも「私も」。
そして、Madokakipが「え?まじまじ?私もー!!」。
ということで、なんと合計3名が、図らずしも同じニーナ&アンヘルの『ドン・キ』に出かける予定であることが発覚。
すごいです。元同僚8人のうち、その会話に加わっていた女性は5名。
5分の3、なんと60%もの人間が同じ予定とは!こんな計算に数学的な意味があるのかはわからないけど。
だけどわかるのは、やはりニーナとアンヘルの、特にこの演目での人気は絶大であるということ!!

こんな人気っぷりに期待が高まらないわけがなく、しかも、今日は連れと鑑賞なので、期待の二乗です。
ただ、少し心配なのは、『白鳥~』の32回転で失速および停止してしまった例でも明らかな通り、
ニーナの体力および持久力の低下。
それでも、まだ『白鳥~』のような演目は、表現力と存在感など、
まだまだ彼女が溢れるほど持っている美質がそんなミスをも吹き飛ばしてしまい、
実際、私は大感動状態で家路についたのだけれど、この『ドン・キ』はその点、
いわゆるテクニックという意味での技巧と体力に依存する割合がより高いような気がして、
あの『白鳥~』のときの様子からすると少しこの演目、厳しいかなあ、、という懸念。
でも、そこは、今シーズン絶好調に見えるアンヘルがカバーするのかしら?など、
公演が始まる前から頭の中でいろいろなことを考えていました。

実際、第一幕が始まってみると、予感的中。
今日も指揮棒をふっているおむすび(『白鳥~』のレポ参照)は、
おとといのドヴォ・マキの公演の時と全く同じテンポでがんがん振っている。
というか、彼は、どの公演でもまったく金太郎飴のように同じ演奏をするのが逆に怖い。
踊っているダンサーによって、とか、舞台の気を微妙に感じ取ってテンポや音作りを変えるところを聴いた事がない。
それ、生で振ってる意味ないし、、。
木曜日は、ドヴォ・マキ(特にドヴォ)が、高速テンポをものともせずに踊りきったあの街の人々を従えて踊るシーンも、
いくらドヴォ・マキコンビで上手くいったからといって、ニーナに同じものを課すのは無理な話。
速いテンポはそれについていけるダンサーがいてこそ可能なのであって、
今日は、ニーナが可哀想なくらいに音についていけずに、
同じステップを繰り返す場面では、最後のセットを完全放棄してしまったほど。
一方、コレーラの方は一生懸命ニーナを見て何とか合わせようと最初は試みていたのだけど、
当然ニーナに合わせていたら、完全に踊りが音楽から脱落してしまうので、
途中から、”もう自分だけで行きます”モードに切り替えたようなのだが、
それはすでに高速で走っている車に飛び乗ろうとするようなもの、、。
結局彼も一度も音楽と踊りを合わせることが出来ないまま、このシーンが終わってしまったのでした。

この一幕は、結局、ニーナにとって一番厳しい幕になってしまい、
技巧を見せるシーンのほとんど全部で、体力の衰えを観客に印象付ける結果になってしまったように思います。
お客さんの多くは、ずっとニーナを応援して来た人が多いと見え、
始終、彼女を温かくサポートする空気が客席に漲っていたけれど、
でも、フェアであるためにいうなら、もし、何の予備知識も、バレエの鑑賞歴もなく、
この公演でのニーナと、おとといのドヴォ・マキの公演でのドヴォを比べたなら、少なくとも、この幕に関しては、
どちらの評価が高くなるかは歴然としている、、それくらいの差があったと私は思います。

15年前の、彼女の体力が絶頂期にあったころのキトリをDVDで鑑賞してこの公演にのぞんだので、
彼女がどれほど同役で素晴らしかったかはほんの少しは理解しているつもりですし、
『白鳥~』の公演での彼女の素晴らしい踊りを生でつい先々週に観たばかりなので、
私としても、こんなことを言うのは大変辛い思いですが、
- 特にどんな偉大なアーティストにも必ず訪れる、年齢による衰えという難しい問題を含んでいるので -、
しかし、心を鬼にして書かねばならないこともある!という気持ちで敢えて書きました。

さて、ニーナの場合が、このように、一生懸命、丁寧に踊ろうとはしているのに、
年齢による体力の衰えという、まず本人の力ではどうしようもない要素で苦労していたのに対し、
コレーラの方はいささか事情が違っているように私には感じられました。
特にこの一幕。
『ドン・キ』の作品そのものが持つ華やかで楽しい雰囲気からも、
主役の男性ダンサーが超絶技巧を見せ付けたくなる気持ちもわからないではないですが、
私個人の意見としては、全幕公演というのは、
ガラ公演のような幕の羅列(演目Aから第X幕、演目Bから第Y幕、演目Cから第Z幕)とは違って、
もっと、全幕を通して走っている一本の流れのようなものがないといけないと思うのです。
その流れというのは、全幕を通して統一された破綻のない役作りとか、何を表現しようとしているのか、
といったことで具体的に追求されると思うのですが、
今日の公演を見終わった後、”アンヘルのバジルって、どんなバジルだった?”と言われると、
答えに窮してしまう。
むしろ、ジャンプやターンに燃えている”アンヘルというダンサー”を見たな、という感想に近い。
こういったアーティスト自身そのものが前面に出てきてしまう公演についていかに私が手厳しいか、ということは、
以前の『ラ・ボエーム』で、ネトレプコについて私が書いたことと重複しているので、もはや繰り返すことはここではしませんが、
アーティスト・オン・ザ・ステージ型の公演が好き、または気にならない方には、
今日の公演のアンヘルは、”素晴らしい”ということになるのでしょうし、
私のような人間には、”...... ”。
つまり、見る側が何を求めているかによって非常に評価の分かれる種類の公演だったといえると思います。

ただ、私には今日の彼は特に絶好調だとは見えず、ジャンプが流れたり(綺麗な角度で飛んでいない)、
着地の向きが必ずしも本人の意図した方向で終わっていなかったり、と、
これまで私が観た彼のダンスの中では、最もsloppy(雑)な印象を受けました。
ただ、これではあまりに表現が乱暴すぎる気もする、、。
うーん、何と言ったらいいのでしょう、、?

こんな表現ではどうでしょう?
多分、今日、彼がこの公演でやろうとした技と同レベルのことを出来るダンサーはそうはいない。
ただ、それが、すべて完全な形で決まっているかというと、そうでもない。
ならば、完全な形になるように、ほんの少し技の難度を下げてもよかったのではないか、ということ、、
そう、全ては、ここに焦点があるのかもしれません。
ものすごく美しい完璧な難度Bの技を見るか、はっきりとした欠点のある難度Aの技を見るか、
あなたはどちらに価値をおきますか?
そして、観客一人一人が、この質問にどう答えるかによって、
この公演への評価も180度違ってくる気がします。

今日のコレーラは、難度Aの技に次々とトライするために、
それらの技の間にある細かい美しい振りも、役作りも、音楽との一体感も、
(だって、あまりにジャンプを飛ぶのに固執するあまり、音楽が完全に無視されているのです!
そりゃ、あんまりでしょう、、。)
全てを犠牲にしてしまったような気が私にはして、それが、前回の6/12のレポートの、
”土曜の彼の踊りは、残念ながら、正直、全く感心できなかった”という辛辣コメントにつながっています。
彼なりに、観客の求めていることに答えたい!という気持ちだったのでしょうし、
これで彼が絶好調だったなら、問題も少なかったのでしょう。
でも、残念ながら、そうではなかった。
彼のコンディションとやりたいことがちぐはぐに終わってしまった、そういう印象です。


面白いと思ったのは第二幕。
夢の場面。ドルシネア姫として踊るニーナはさすが。こういったゆったりしたテンポの振りとか、
感情表現に重点をおいたものなら、まだまだ彼女の強みが生かせる、ということを実感。
ドヴォ・マキの回とは本当に対照的。
ドヴォは、この夢の場面で、キトリ役としての登場場面の輝かしさと比べると若干トーンダウンしてしまうのに対し、
ニーナはこのニ幕もだれずに見せる力を持っている。

今日、森の女王役を踊ったのは、ヴェロニカ・パルト。
私はドヴォ・マキの公演の時にメリッサ・トーマスが踊ったこの役が非常に叙情的で素敵だと思ったので、
トーマスに軍配をあげたい気持ちが強いのだけど、それでも、甲乙つけがたく、葛藤してしまうほど、
このパルトの女王役も良かったです。
彼女は脚力が強いというのか、片足で立って、もう一方の足を大きくほとんど垂直に上げているときでも、
地に付いているほうの足にがしーっとしたものすごい安定感があって、
見ていて本当に危なげない感じ。
ソロのシーンのラストで、くるくるまわりながら舞台を横切りつつ前方に出てくる場面では、
連続して非常に美しい回転だったので、観客から大きな拍手が出たのですが、
それで張り詰めていたものがゆるんでしまったのか、すぐにややバランスを崩してしまったのはご愛嬌。

このパルトとニーナ、そして、サラ・レーンが踊るキューピッドの三人のシーンは、
今日の公演で私も私の連れも特に良かったと感じた場面の一つでした。

さて、準主役の方たちの名前が出たので、一気に、他のキャストについても言及すると、
まず、エスパーダ役のラデツキー。
彼は、ドヴォ・マキの公演のときに同役を踊ったマシューズよりも、背が低く、
踊りの方も、今まで、私が観たものに関しては、ダブル・キャストで踊っているもう一人のダンサーに、
常に一歩譲っている結果に終わっている感じがして、あまり期待していなかったのだけど、意外や意外。
木曜のマシューズより良かったと思います。
一幕で、体を観客に向けて斜めに立ってポーズをとる登場シーンでのオーラは、
やっぱり小柄なせいか、マシューズに負けてましたが(マシューズはまるで立ち姿が王子様のように素敵!)
一旦動きだすと、ちょこまかと、動く動く!!
ニーナが出演しているペルミ・バレエのDVDでは、エスパーダが持っているケープが大きくて、
そのために重さも結構あるのか、エスパーダ役のダンサーがそれを空中で回すときには、
”うりゃーっ!”という感じで、それ自体が一仕事!という感じなのですが、ABTのケープは逆にすごく小さい。
マシューズが苦労しつつ、窮屈感を漂わせながら、ケープを小道具に踊っている姿は、
”なんか、それ、小さすぎて大変そうですね”とつい一言かけてしまいたくなりそうな雰囲気があるのですが、
ラデツキーが持つと、そう小さくは見えない。
って、そこまで極端に、マシューズとラデツキーの体格差があるとは思えないのだが、
目の錯覚、ということにしておきましょう。
とにかく、今日のラデツキーの踊りにはは溌剌とした感じがあったのが何よりもよかったです。

また、エスパーダと絡むシーンも多いメルセデスは、今日は木曜の
やや悲愴感が漂っていたリチェットにかわり、クリスティー・ブーン。
この役はなんだか誰が踊っても、役そのものに、今ひとつ魅力が欠けているような気がするのだけれど、
ブーンが非常に安定感を持って踊っていて、リチェットよりも、踊りが一周り大きい感じがしました。

そう、それから、絶対にふれておきたいのは、二幕の夢の場面のあとに続く、
酒場のシーンで登場したジプシー・カップルの男性の方。
木曜にこの役を踊ったカルロス・ロペスは可も不可もなく、という感じで、
よってレポでも特に名前をあげなかったのですが、
今日、踊ったジョセフ・フィリップスはとってもいい。
ものすごくバネのある踊りに、”またABTのラテン軍団から面白い若手が!?”と色めきたったが、
プレイビルをチェックすると、名前からして、全然ラテンじゃない、、。
そういえば、バネだけではなくて、動きに独特の優雅さがあったから、そこで気付くべきだったのだ。
(まあ、ラテン系ダンサー全員が優雅さに欠けるわけではないが、、。)
コルネホとかが踊りそうな役を、コルネホのマッチョなアプローチとは全く違うアプローチで踊れる可能性を感じさせる逸材。
今後が楽しみです!!


第三幕。

一幕のニーナの姿にすでに十分胸が痛んだ私なので、どきどきしながら見守ったこの幕。
いやー、彼女の精神力はすごいです。本当に。
この三幕は、ガラなどで踊る機会も多いからか、もう踊りが彼女の体に染み付いているような感じがするくらい。
多分、彼女自身も、この自分の十八番の役で、NYの客をがっかりさせちゃいかん!という
思いもあったのでしょう。
一幕とは打って変わって、ものすごい集中力を感じました。
結局、心配していた32回転も、コンサバめにまとめたのが効を奏したのか、
最後まできちんと回転も持続していたし、フォームも非常に綺麗。

この公演を観たときに、彼女はこれから踊る役そのものを吟味することと、
また踊り続ける役についても、どの程度の技を入れていくかということを工夫することが、
必要になるのではないか、と感じたのですが、どうやら、ニーナ自身、
今シーズンのパフォーマンスには思うところが多かったようで、
その後、6/12の記事に当ブログを読んでくださっているFさんから頂いたコメントによると、
彼女は来シーズン(2009年)にABTから引退してしまうことを発表しているそうです。
アーティスト、パフォーマーとして、観客の期待を自分が裏切っているように感じることほど
辛いことはないのかな、と思います。
特に今日の彼女がこの三幕で、なんとか観客に喜んでもらおうと必死になっている姿から、
それをひしひしと感じました。

ニーナをリフトするコレーラの足元がふらふらとしたり(それも二回とも、、)、
コレーラがニーナの手をとり、ニーナが片足を後ろに上げて完全静止状態に入ってから手を離す個所では、
なかなかバランスがとれないニーナに、”これはこのまま手が離れないで終わるのではないか?”
とどきどきさせられたり、
(ドヴォ・マキの公演では、ここであっという間に二人が完全にバランスをとってしまったのは、
レポにも書いたとおり。)
波乱万丈でしたが、終わってみれば観客は大喝采。
私も安心しました。

次にニーナを見るのは、来年の、彼女のABTでのラスト・シーズンになりそう。
昨年のフェリのケースといい、素晴らしいダンサーの生舞台に、
ぎりぎりセーフで間に合っているという、我が身の幸運を噛みしめています。


追記:
私の偏ったレポではあんまりなので、おそらくこの公演を観たほとんどの人が持ったであろう感想を、
Ponさんが、ご自身のApplause Applause! というブログで、
的確な技術面での描写も含め、素晴らしいレポにされているので、ご紹介いたします。



Nina Ananiashvili (Kitri)
Angel Corella (Basilio)
Victor Barbee (Don Quixote)
Alejandro Piris-Nino (Sancho Panza)
Sascha Radetsky (Espada)
Kristi Boone (Mercedes)
Isaac Stappas (Lorenzo)
Craig Salstein (Gamache)
Veronika Part (Queen of the Dryads)
Sarah Lane (Amour)
Renata Pavam, Isabella Boylston (Flower Girls)
Simone Messmer, Joseph Phillips (Gypsy Couple)

Music: Ludwig Minkus
Choreography: Marius Petipa and Alexander Gorsky
Conductor: Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
Grand Tier E Odd

*** ドン・キホーテ Don Quixote ***