Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

DAS RHEINGOLD (Sat Mtn, Mar 28, 2009)

2009-03-28 | メトロポリタン・オペラ
今シーズンのメトのリング・サイクルについて、
3つのうち、どのサイクルをとるか、大いに頭を悩ませたという話は前回の記事に書いたとおりで、
ブリューワーとモリスのために、ドミンゴとパペをあきらめたというのに、
その片翼のブリューワーをへし折られてすっかりへこんでおりますが、
それでも日は昇り、日は沈む、で、私のリング・サイクル(サイクル1)の初日がやってきました。

1987年に初演されて以来、NYローカルの熱血なワグネリアン・ヘッズたちにも愛され、
リング・サイクル、個別上演を含み、20年以上の長きに渡って
メトで上演され続けて来たオットー・シェンクのプロダクションですが、
今年のリング・サイクルの上演を最後に幕引きすることが決定されており、
新しいリングの演出は、今シーズンの『ファウストの劫罰』の演出家であった、
ロバート・ルパージ(ロベール・ルパージュ)が手がけることになっています。

あらゆる場所で自分の手形足形をつけないと気がすまない、
メトの某支配人(たった一人なので誰かは丸わかりですけど。)によって、
数々のプロダクションが、”古臭い!”という名目のもと、新しいものに取り替えられていく中で、
”なんで、こんな素晴らしいプロダクションまで引き摺り落とす?!”と、
ローカルのオペラヘッドに非難を浴びているいくつかの演出の中でも、
最も惜しむ声が多いのが、このシェンクのリングで、今回は、歌手や演奏以前に、
この演出の最後を目に焼き付けたくて、リング・サイクルのチケットを購入した観客も多いはずです。

『ニーベルングの指環』(の指環をとって、俗に”リング”と言われる)の第一日目にあたる、
序夜、といっても、今日はマチネなので、序昼ですが、に上演されるのが、
今日の『ラインの黄金』で、冒頭の音楽は、世界の誕生を表現している部分なので、
無音の状態から始まる、ということで、観客は指揮者が登場しても拍手をしないのが通例なのですが、
『ラインの黄金』の個別上演として(なので、サイクルの日程には入っていない)
一足早く舞台にのった水曜日の公演をシリウスで聴いた時には、
なぜだか、開演時に観客から拍手が沸きあがり、何でそんなことに、、?と、びっくりしましたが、
今日の公演では、劇場の照明が落ち、ピットも真っ暗になった後、
レヴァインがどんな目ざとい観客にも見つからないように、
おそらく内壁にはりつくようにして慎重に、オケピに入ったのでしょう、
観客から拍手が出る隙をあたえず、無事に無音状態から音楽を始めることが出来ました。

しかし、ものの数秒したところで、妙な音が聴こえるな、
こんな音、オケの楽器からしないはずなのにな、と思っていたら、段々大きくなる
ぴりりりり、ぴりりりり、、という音。携帯だーーーーーっ!!!
切っとけ、こらああああーーーーっ!!
私の隣に座ってたら、持ち主の首の骨は今頃へし折れてますね、間違いなく。
しかし、道端でもどこでもかしこでも、馬鹿みたいに携帯の画面ばかりチェックしている人々が多い
この現代を象徴するかのように、原始は携帯電話と共に始まった・・、とでも言っているかのようなシュールな幕開け。
現代的なリングのスタートといえば、そうともいえます。

幸か不幸か、今日のこの演目のラストの部分にあたる、ヴァルハラ城への入城のシーンは、
つい先だって行われた125周年記念ガラのトリ演目になっていて、
しかも、ルネ・パペがそのガラをキャンセルしたせいで、ヴォータン役をモリスが歌うことになったために、
ヴォータン、フリッカ、ローゲ、フロー、そしてラインの乙女たち、と、
登場人物がこのサイクル1のキャストとまったく同じだったのですが、
モリスの歌は冴えないわ、他の歌手はぴんと来ないわ、で、これを全幕で観るのか、、と、
ちょっと恐ろしくなっていて、しかも、シリウスで聴いた水曜の公演も、
イマイチな出来だったので、今日は覚悟を決めていたのですが、
結論から言うと、歌唱陣は、ガラとも水曜とも比べ物にならないくらい高水準で、大変満足できるものでした。

世界の産声ともいえる、この作品の第一声を発するラインの乙女のソプラノ・パートを歌う
ヴォークリンデ役のオロペーザは、今年、『つばめ』のリゼット役で登場していたソプラノですが、
水曜日は緊張していたのか、伸びのない声で、全く魅力のない世界の誕生になってしまい、
ラジオで聴いている私もこけてしまいましたが、今日は開き直ったか、
思い切りのよい発声で、彼女の良さが出た歌唱でした。
若手のメゾの中では注目しているケイト・リンゼーも健闘していたと思います。

NYタイムズによると、今回のこのメトでの最後の公演のために、齢78にもなる
シェンク自らが実際に立ち会ってのリハーサルとなったらしく、
(通常は新演出以外、演出家自らが立ち会ってリハーサルを行うことは少なく、
舞台監督などがメモなどをもとに代行することが多い。
実演についての記事でいつもキャストとスタッフリストをつけていますが、
プロダクションとなっている部分ではオリジナルの演出家名、
ディレクションとなっている部分では、演出家に代わって舞台をまとめている人の名前になっています。)
そのNYタイムズの記事でトマシーニ氏も書いているとおり、
一幕目の生き生きとしたラインの乙女たちとアルベリヒの会話の部分は、
演技付けが非常に細かく、恐ろしい運命へと激流が流れていく(なんといっても、
ここでアルベリヒが黄金の指環の秘密を知ってしまったことが全ての始まりなのですから、、。)
前と後との対比が優れています。
全編非常に上手く考え抜かれたセットばかりのこのリングですが、
この最初の場面の、岩の上を水が流れていく様や、岩にあたった水によって、
泥と濁りができる様子とか(色の付いたスモークを使って表現)、
とにかくリアルで、すぐに観客の心を掴んでしまうのは、本当に心憎いばかりです。
積まれた岩を利用して、縦横無尽に動き回るキャストたちも、
(鈍重なことを乙女にからかわれるアルベリヒでさえ、岩を滑り台のように使って滑り降りたり、
演じる側は相当動き回っています。)
今回は太目の乙女は一人もおらず、三人とも若手の体型のすっきりした女性歌手だけあって、
ビジュアル的にも非常に説得力がありました。



アルベリヒ役を歌ったリチャード・ポール・フィンクは演技は達者なんですが、
少し歌唱がそちらに流れすぎるというのか、声に色付けをしようとし過ぎて、
声が、歌として聴くと汚く感じる個所があるのは、もう少しトーンダウンしてもいいかもしれません。
がはははは、と笑うさまは、あまり陰湿な邪悪さを感じさせない、
からっとしてわかりやすい、デパートの屋上のウルトラマン・ショーの怪獣役的演じ方ですが、
しかし、これはこれで直球的アプローチの中では悪くありません。声も大変良く通っていました。

今日、私個人的に喜ばしい驚きだったのは、神様姉妹二人のコンビの健闘で、
特にフリッカ役のイヴォンヌ・ネフは、ガラで聴いたときには全く注意をひかれなかったのですが、
今日、ソロで歌う部分をたくさん聴いて、その声量十分でありながら、かつフレキシビリティと繊細さのある歌声に、
下手な歌だと、わがまま金持ちマダムの嫌な部分を集めたようになってしまうこの役を、
(というか、『ワルキューレ』では、それどころですまない、徹底的に嫌な女になっていて、
二作の間に何があった?って感じなのですが、
まだこの『ラインの黄金』では、わがままな中にちょっぴり愛嬌があります。)
愛すべき、神の一員だけど人間らしい人(神)物像にすることに成功しており、見事でした。



もう一人はフライア役を歌ったウェンディ・ブリン・ハーマー。
2006年シーズン末のリンデマン・ヤング・アーティスト・デヴェロップメント・プログラムの
ワークショップで、大注目した彼女。
以降、メトの舞台の超端役でこつこつと経験と研鑽を積んできた彼女ですが、
それが一気に花開いた感があります。
というか、あのワークショップの時も声量があるなあ、と思いましたが、
こんなにあるとは思いませんでした。
今日の彼女はメトが崩れ落ちるかのようなすごい声です。オケがフルで鳴っていても、びくともしてません。
声量に関しては今日ほどボリュームをあげなくても十分聴こえますし、
かえって、彼女の場合はボリュームがあることが、歌が荒削りな印象につながる恐れもあるような気もします。
それでも、あのワークショップで聴いたときより、ずっと細部に注意の向いた歌唱が出来るようになっていて、
もちろん、まだまだ精進すべきところはあるでしょうが、聴いていてわくわくしました。
もともとものすごく綺麗な声をしていますし、この声量だと、正しくキャリアを積んでいけば、
ワーグナーの主役女子を歌える可能性を十分持った逸材です。将来が本当に楽しみです。

一方の男性陣。
巨人になるために、シークレット・ブーツを履いてがんばったセリグのファーゾルトと
トムリンソンのファーフナーは、似ているけど根本が違う(見た目だけではなくて、
求めているものも)というこの兄弟の相違性を上手く表現できていて、いいコンビです。
大上段な歌唱や声を披露する場面がほとんどない役ゆえに却って難しい部分もあると思うのですが、
役以上でも以下でもない歌唱で私は好感を持ちました。
最後の第四場で、指環をめぐって諍いが昂じ、ファーフナーがファーゾルトを撲殺するシーンは、
ファーフナーがファーゾルトを岩影のむこうに突き飛ばし、
観客にはファーゾルトの姿が(岩の影になって)見えないところを、
ファーフナーが棍棒でめった叩きにするので、その上下する棍棒とファーフナーの姿だけが見えるという、
全部見えないから余計に怖い、という、ヒッチコックばりの怖さ満点のシーンになっています。
このあたりもシェンクの腕が冴えてます。

ローゲ役を歌ったキム・ベグレーは器用に歌っていますし、声量も適度で、
演技も舞台を縦横無尽に動き回ったりして、がんばっているんですが、
なんでしょう、、、なんだかニューハーフみたいなローゲです、、。
ローゲの奸智のたけている部分を、
ニューハーフやドラッグクィーンの方にしばしば見られるために、
彼らのある種のステレオタイプともなっている、
”話し上手で頭の回転が速い”イメージと結びつけたのだとしたら、面白いアイディアだとは思うのですが、
彼が一フレーズ歌うたびに、その後に、”おほほほほ。”という笑いが続きそうな、
見た目はおっちゃんなのに、フェミニンな匂いのするローゲでした。
人によっては、ちょっと歌唱や演技が軽すぎる、と感じる人もいるかもしれませんが(私もややそう思う。)、
彼が今シーズンの『サロメ』で歌った全く個性のないヘロデ王と比べると、
こちらのローゲ役には少なくとも彼らしさがあります。



125周年記念ガラでの非常に声の衰えが目立つ歌を聴いて、リングではどんなことになってしまうのか?と、
かなり心配していたヴォータン役のモリスですが、
これでも125周年記念ガラの時よりはずっと良く、
長い間このヴォータン役を持ち役にしてきた思い入れの深さと、
今回のリングが、おそらくヴォータンを歌う最後になるであろうという特別の思いを
心の支えにして乗り切ったのだと思います。



ヴォータンは歌声と歌唱はもちろんなんですが、佇まいとか雰囲気とかいったものが
非常に大事で、その点、彼のヴォータンは(今では衰えてしまった歌声を除くとして)
体格も含めたそういったすべてが立っているだけで神様していて本当に素敵です。
というか、彼の後に続く人で、この役で太刀打ちできるのは誰でしょう?
背がちんちくりんで太った歌手とか、ぺらぺらおしゃべり好きで軽薄そうなタイプには、
どんなに声や歌唱がすぐれていても残念ながらオファーされる役ではないと思うし、
されてもそんなヴォータンに私は魅力を感じることが出来ません。
『オネーギン』のグレーミン役ですでにワブリングがひどかった、と書きましたが、
もちろん、それはもうこの先一層悪くなることすらあれ、消えてなくなるものではありませんし、
歌唱で現役バリバリの人と同じレベルで語ることはもうできない、とだけ言い添えておきます。
そのような障害のもとでは、思いどおりに感情を歌で表現することも容易ではないでしょう。
ただ、彼がこの役で舞台に立ったときに放つ華とか存在感、
それから役を作ってきた歴史は、そう簡単に消えるものではなく、
例えば、大蛇になったアルベリヒを見て、やるじゃないか、とばかりに、”はっはっは。”と
ヴォータンがブラヴォー出しの笑い声をあげる、そんな何気ない個所に、その重みを感じます。
こういう何気ないシーンに、人間が住まない、神や巨人や小人の世界の雰囲気をにじませてほしいのです。
(この『ラインの黄金』には、人間がまだ一人も登場していないことに注目です。)



第三場はアルベリヒが隠れ頭巾を被って姿を消したり、
大蛇になったり、ヒキガエルになったり、と、魔法シーンが炸裂で、
これを演出ではどのように見せてくれるのか、というのが楽しみの一つですが、
私はシェンクの演出の『ラインの黄金』では一場とこの三場が双璧で好きでして、
魔法のシーンも、まさにリブレットからイメージする通りのものがビジュアル化されていてわくわくします。
アルベリヒの変身した姿であるカエルがぴょろろろーんと舞台に飛び出して来て
(誰がどこでどうして操ってるんだか、、)、
恐れ多くも神様の長であるヴォータンに向かってローゲが
”ほら、カエルよ!(ニューハーフなローゲなだけに。)さあ、捕まえて!”と指示をとばすと、
かいがいしくカエルに網をかけるヴォータン=モリスの姿が泣けます。
もちろん、網の中のカエルがすぐにぼわん!とアルベリヒの姿に戻るシーンが続きます。

前後しますが、ミーメを歌ったシーゲルは堅実な歌唱と体を張った演技が特徴。
歌の方は、この憎めないキャラにしてはちょっと大人しい感じもしますが、
アルベリヒに殴られたり蹴られたりする場面はジャパン・アクション・クラブも真っ青の立ち回りぶり。
(アルベリヒ役のフィンクが実際にこんなに激しく暴力をふるっているわけはもちろんなく、
受ける側のミーメが吹っ飛んだり突っ伏したりという動作をオーバーに演じることによって、
フィンクがものすごい力で彼に乱暴を働いているような目の錯覚をおこすという、古典的な手法で、
この部分に関してはひとえにシーゲルのがんばりです。)



つい観ながらいろいろ考えさせられてしまうリングの中にあって、
唯一『ラインの黄金』は気楽に見ても楽しめる、いや、むしろ、気楽に見た方が楽しめる作品だと個人的には思い、
そのジェット・コースター的な部分は、キャストに穴がなくてこそ楽しめると思うのですが、
その意味では今日のキャストは全く悪くありませんでした。
しかし、唯一、しかし、それでいて決して小さくないミスキャストはエールダ役のジル・グローヴ。
母親的、大地的な智の女神である彼女がヴォータンに指環を手放すよう啓示を与える場面は、
当作品中でももっとも印象深くて幻想的なシーンであるうえ、
彼女とヴォータンの間に生まれた娘たちが、次作以降で大フューチャーされるブリュンヒルデを含む
ワルキューレたちなので、その伏線としても、短い登場時間でも、
力のある歌手を連れてきてほしいのですが、彼女は、、、。
発声の仕方が”歳をとってからの”淡谷のり子のようで、声そのものに魅力がないことこのうえないです。
キャストに大きな不満があるとすれば、唯一の人が彼女でした。

最後に指揮とオケのことを。
レヴァインについては、今シーズンは『ファウストの劫罰』など、いい演奏もあったのですが、
メト・オケの演奏会とか先述の125周年記念ガラなど、絶対にしめなければいけない演奏日、
昔なら絶対にしめていたであろう演奏日で、以前ほどのテンションが保たれなくなっているのは間違いありません。
この『ラインの黄金』(休憩なしで約2時間35分の演奏時間)のような演目もそうですが、
125周年記念ガラのような長丁場の演奏では、立っているのも辛そうなときがあって、
(実際『パルシファル』からの抜粋の時には指揮台にもたれるようにして演奏している場面があった。)
そんな状況では当たり前といえば当たり前なのですが、
作品を貫く緊張感のようなものが持続できなくなっています。
そのことは、全体の大きな構成感よりも局地的に勝負するような演奏になってきていることにも現れていて、
それは、スタジオ録音のような後で手直し自在なものと比べるのもなんですが、
1988年に録音された同作品(演奏はメト・オケ)と比べても感じます。

特に金管については、今日の演奏で、唯一奏者間の間にリズムの一体感、サウンドの統一感、
フレーズの確信感といったコンセンサスがとれているように聴こえたのはトロンボーンのセクションだけで、
彼らが演奏に加わっている部分は金管全体としてもまとまった音になっていましたが、
それ以外の部分については、ホルンの大事な場面での失奏(ヴァルハラ城への入城部分)もありましたが、
そんなことより、あちこちのセクションから感じられた、
一つ一つのフレーズにこうだ!といった確信が欠けているような、”迷い”のようなもの、
こちらの方が問題だと感じました。
一場の冒頭も、CDではまさに世界が生まれるといった感じで絶妙な感じで徐々に音が大きくなっていくのに対し、
今日の演奏ではのっけから音が大きく、最初からそんな大きい音にしてどうする!と、
私は頭の中で百回くらい駄目出ししました。
他では弦楽器の低音セクションは良かったと思いますが、
メト・オケはもっといい演奏が出来る力のあるオケだと思っているので、
オケの演奏という面に関しては、私は今日の出来には満足してません。
『ワルキューレ』以降に期待してます。

James Morris (Wotan)
Richard Paul Fink (Alberich)
Kim Begley (Loge)
Franz-Josef Selig (Fasolt)
John Tomlinson (Fafner)
Gerhard Siegel (Mime)
Yvonne Naef (Fricka)
Wendy Bryn Harmer (Freia)
Jill Grove (Erda)
Garrett Sorenson (Froh)
Charles Taylor (Donner)
Lisette Oropesa (Woglinde)
Kate Lindsey (Wellgunde)
Tamara Mumford (Flosshilde)
Conductor: James Levine
Production: Otto Schenk
Costume design: Rolf Langenfass
Lighting design: Gil Wechsler
Set and projection design: Gunther Schneider-Siemssen
Grand Tier B Odd
ON

*** ワーグナー ラインの黄金 Wagner Das Rheingold ***

寝込んでいいですか、、? 間際のキャスト・チェンジ連続攻撃!!

2009-03-27 | お知らせ・その他
実演鑑賞とその感想を書くのに追われ、メトのサイトをチェックするのをしばらく怠っているうちに、
とんでもないことが発生していました。

① リング・サイクルのキャスト変更

いよいよ明日(土曜日)からスタートするリング・サイクル。
シーズン前の発表では以下のようなキャスティングでした。

 サイクル1 (3/28、4/11、4/18、4/25 すべて土曜のマチネ)
『ラインの黄金』  
ジェームズ・モリス(ヴォータン)、リチャード・ポール・フィンク(アルベリヒ)、
キム・ベグレー(ローゲ)、フランツ・ヨーゼフ・セリグ(ファーゾルト)、
ジョン・トムリンソン(ファフナー)、ゲルハルト・シーゲル(ミーメ)、
イヴォンヌ・ネフ(フリッカ)、ジル・グローヴ(エールダ)ウェンディ・ブリン・ハーマー(フライア)
『ワルキューレ』
ヨハン・ボータ(ジークムント)、ワルトラウト・マイヤー(ジークリンデ)、
ジョン・トムリンソン(フンディング)、ジェームズ・モリス(ヴォータン)、
イヴォンヌ・ネフ(フリッカ)、クリスティーン・ブリューワー(ブリュンヒルデ)
『ジークフリート』
クリスティアン・フランツ(ジークフリート)、ゲルハルト・シーゲル(ミーメ)、
ジェームズ・モリス(さすらい人)、ジル・グローヴ(エールダ)、
クリスティーン・ブリューワー(ブリュンヒルデ)
『神々の黄昏』
クリスティアン・フランツ(ジークフリート)、クリスティーン・ブリューワー(ブリュンヒルデ)、
アイアイン・ペーターソン(グンター)、ジョン・トムリンソン(ハーゲン)、
マーガレット・ジェイン・ウレイ(グートルーネ)、イヴォンヌ・ネフ(ヴァルトラウテ)

 サイクル2 (4/27月、4/28火、4/30木、5/2土 すべて夜の公演)
『ラインの黄金』  
アルベルト・ドーメン(ヴォータン)、リチャード・ポール・フィンク(アルベリヒ)、
キム・ベグレー(ローゲ)、ルネ・パペ(ファーゾルト)、
ジョン・トムリンソン(ファフナー)、ゲルハルト・シーゲル(ミーメ)、
イヴォンヌ・ネフ(フリッカ)、ジル・グローヴ(エールダ)ウェンディ・ブリン・ハーマー(フライア)
『ワルキューレ』
プラシド・ドミンゴ(ジークムント)、アドリエンヌ・ピエチョンカ(ジークリンデ)、
ルネ・パペ(フンディング)、アルベルト・ドーメン(ヴォータン)、
イヴォンヌ・ネフ(フリッカ)、リサ・ガスティーン(ブリュンヒルデ)
『ジークフリート』
クリスティアン・フランツ(ジークフリート)、ゲルハルト・シーゲル(ミーメ)、
アルベルト・ドーメン(さすらい人)、ジル・グローヴ(エールダ)、
リサ・ガスティーン(ブリュンヒルデ)
『神々の黄昏』
クリスティアン・フランツ(ジークフリート)、リサ・ガスティーン(ブリュンヒルデ)、
アイアイン・ペーターソン(グンター)、ジョン・トムリンソン(ハーゲン)、
マーガレット・ジェイン・ウレイ(グートルーネ)、イヴォンヌ・ネフ(ヴァルトラウテ)

 サイクル3 (5/4月、5/5火、5/7木、5/9土 すべて夜の公演)
『ラインの黄金』  
ジェームズ・モリス(ヴォータン)、リチャード・ポール・フィンク(アルベリヒ)、
キム・ベグレー(ローゲ)、ルネ・パペ(ファーゾルト)、
ジョン・トムリンソン(ファフナー)、ゲルハルト・シーゲル(ミーメ)、
イヴォンヌ・ネフ(フリッカ)、ジル・グローヴ(エールダ)ウェンディ・ブリン・ハーマー(フライア)
『ワルキューレ』
プラシド・ドミンゴ(ジークムント)、アドリエンヌ・ピエチョンカ(ジークリンデ)、
ルネ・パペ(フンディング)、ジェームズ・モリス(ヴォータン)、
イヴォンヌ・ネフ(フリッカ)、リサ・ガスティーン(ブリュンヒルデ)
『ジークフリート』
ジョン・フレドリック・ウェスト(ジークフリート)、ゲルハルト・シーゲル(ミーメ)、
ジェームズ・モリス(さすらい人)、ジル・グローヴ(エールダ)、
リサ・ガスティーン(ブリュンヒルデ)
『神々の黄昏』
ジョン・フレドリック・ウェスト(ジークフリート)、リサ・ガスティーン(ブリュンヒルデ)
アイアイン・ペーターソン(グンター)、ジョン・トムリンソン(ハーゲン)、
マーガレット・ジェイン・ウレイ(グートルーネ)、イヴォンヌ・ネフ(ヴァルトラウテ)

この微妙、かつ絶妙なキャストの違い、おわかりいただけますでしょうか?
一つのサイクルしか観に行けないプロレタリアートな私にとって、
どのサイクルを観に行くかは、多分、今シーズンの鑑賞スケジュールを調整するにあたって、
最も頭を悩ませた難題の一つで、結局、
① クリスティーン・ブリューワーをすごく生で聴いてみたかったこと
② モリスのヴォータンを聴き納めておきたいこと
③ 4つのどの日も、仕事のせいで遅刻したり、観に行けない、なんていう悲惨な事態は避けたい
という三つの理由から、結局、土曜日のマチネの公演を寄せ集めたサイクル1を選ぶことにしました。

昨年、今年と続いた『トリスタンとイゾルデ』の交代劇のような恐ろしいことにならなければいいけれども、、
と思っていた矢先の、3月初旬。
背中を痛めて降板することになったブリュンヒルデ役のリサ・ガスティーンに変わり、
リンダ・ワトソンがキャストに加わることとなり、
もともと同役を歌う予定だったブリューワーと、日程により役を分け合うことになりました。
私はもともとブリューワーが出演するサイクルなので、自分には関係ないわあ、なんて余裕をかましていたら、
とんでもない事態が発生してしまいました!!
昨日のメトからの発表によると、なんとブリューワーが膝の怪我のため降板。
が~~~~~ん、、、
ブリューワーに代わってブリュンヒルデ役を歌うのは、『ワルキューレ』と『ジークフリート』が
イレーヌ・テオリン、『神々の黄昏』がカタリーナ・ダライマンという、
サイクルを通しての役の一貫性という意味でも、
また、今シーズンの『トリスタンとイゾルデ』のダライマンの歌はそこそこ器用だけれど、
心の底から興奮させられるようなものではなかったので、その意味でも、
あまりにもショッキングなキャスト・チェンジで、
明日には序夜ならぬ序昼の『ラインの黄金』が始まるというのに、寝込んでしまいそうです。
ブリューワー、痛めたのが喉でなく、膝なら歌えるじゃん!と、鬼のようなことを考えてしまう私です。
車椅子に乗ってでもいいから、彼女の歌で聴きたかった、、。

メトに来ない歌手については疎いというひどい私ですので、テオリンって誰?という感じなんですが、
彼女のマネージメントのサイトによると、2008年にはバイロイトでイゾルデ役を歌っており、
今年のワシントン・ナショナル・オペラの5月の『ジークフリート』でアメリカ・デビューを果たすことになっていたようですが、
この代役登板のせいで、一足先にメトがアメリカ・デビューの地になりそうです。
(もともとはワシントンのリング・サイクルの『ジークフリート』と
『神々の黄昏』に出演予定だったようですが、この不況により、
ワシントンのリング・サイクルは延期になってしまいました。『ジークフリート』は単独で上演するようです。)
また、2010年には東京で『ジークフリート』と『神々の黄昏』のブリュンヒルデ、
そして、イゾルデ役も歌う、となっており、
どこの劇場と歌うのかはそこには明記されていませんが、
リング二作品については、新国立劇場の公演のようです。

② 『愛の妙薬』のキャスト変更

今シーズン、『ルチア』の公演で、Bキャスト初日に公演の途中で歌が立ち止まってしまい、
続く二日目の公演を最後に、途中棄権を余儀なくされたヴィラゾン。
ネモリーノにキャスティングされている、3/31に初日を迎える『愛の妙薬』の公演が心配されていましたが、
その心配が現実のものとなってしまいました。
とりあえず、最初の二回の公演は、ヴィラゾンの降板がオフィシャルとなり、
代わりに歌うテノールは、マッシモ・ジョルダーノです。あの、『ラ・ボエーム』の、、、。
言葉もありません。
私は実はヴィラゾンに関しては、ルチアなんかより、この『愛の妙薬』の方を
ものすごく楽しみにしていて、二日目のチケットを持っているんですが、、。
なんだってジョルダーノのネモリーノなんか聴かなけりゃならん事態になってしまったのでしょう?
最終日はカレイヤがネモリーノを歌うのですが、ジョルダーノを聴くくらいなら、カレイヤで聴きたかった。
残念なことですが、ヴィラゾンは全公演キャンセルになってしまうのではないかという予感がしています。
ゲオルギューがアディーナ役なので、ヴィラゾン降板の穴の大きさを考えると、
いくつかの公演にアラーニャが突入してきても不思議ではないかもしれません。
ジョルダーノにアラーニャ、、、
カレイヤの公演日のチケットを押さえておいた方がいいかも、という気がしてきました。

LA SONNAMBULA (Sat Mtn, Mar 21, 2009)

2009-03-21 | メトロポリタン・オペラ
注:この公演はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。

『夢遊病の女』、それはベル・カント・レパートリーを語る際に決して外せない、
美しい旋律に溢れた作品であるに関わらず、メトではなんと今シーズン35年ぶり(!)に
舞台にかかるという、NYエリアのベル・カント・ファンにはあまりにも永すぎた春。
それを、ジンマーマンの新演出で、昨年の『連隊の娘』に続きデッセイとフローレスのコンビが飾るとなれば、
人気公演になるお膳立てはすべて整ったようなもので、
ライブ・イン・HD予定演目の中でも最も手堅く、最もこけることのない作品だと思っていました。
ところが初日にはまさかの大ブーイングがジンマーマンの演出にとび、
さらにデッセイの歌唱もどこか冴えず、結局、気を吐いているのはフローレス一人という大変な事態に。

ラン二日目の公演には私も劇場へ足を運びましたが、演出へのブーイングこそ出なかったものの
(しかし、それはジンマーマンが舞台挨拶に現れなかったからに過ぎない可能性大あり。)、
デッセイの歌は焦点がずれていて、テクニック的にも荒い部分が散見され、
公演の問題がすべて演出のせいにされているのは、それはちょっと違って、
実は歌の方にも原因があるのではないか、という疑問をその時の感想で投げかけたとおりです。
そんななか、フローレスだけは一人、その日、まさに絶好調の山の頂点に立っていて、
この演目、存じ上げているだけでも、このブログを読んでくださっている方で、
NYにお住まいの方はもちろん、日本からはるばるメトにいらっしゃった方や、
海外でHDでご覧になった・なる方が、たくさんおられて、こんなことを申し上げるのは
気が引けますが、私はランの中でも最高の歌唱だったと思っています。
(同じ日にご覧になった方は大いに喜びましょう!!)
聴ける機会のあったシリウスの放送、それからこの記事で感想を書こうとしている
HD収録日の公演と比べてももちろんそうで、
この二日目以上の歌を歌うことは物理的に無理である、と私は言い切ってしまいます。
テクニックが冴えわたっていたのはもちろん、コンディションが、今まで彼を生で聴いた中でも、
最高に良かったので、無理もありません。
アリアの後で、観客の拍手が止まらなくなって、フローレスが感謝の気持ちをあらわすその動作にも、
彼自身が会心の出来だと感じている様子が伝わってきて、
こんなすごい歌が聴けたんだから、と、演出の問題に対しても気が大きくなってしまいました。

今日はすでにふれた通り、ライブ・イン・HDの収録日。
前回の、最前列でも舞台から距離があるグランド・ティアの正面席と違って、
今日はサイドのボックス席なので、舞台に近く、歌手の表情や細かい演技が見れるのが魅力です。

まず、前回、技巧面で随分不安を感じさせられたリーザ役のブラックですが、
この短時間でよくここまでまとめて来たと思います。
声、歌唱ともに際立った個性や魅力があるわけではないのですが、
割と性格付けの難しいこの役(どこかに滑稽で憎めない部分も残さないと、
やりすぎては単なる意地悪女になってしまう。)を彼女らしく演じていました。
この役は作品通りに演出されていれば、村の宿屋を切り盛りしている若女主人で、
フローレス演じるエルヴィーノとは昔恋仲だったという過去があります。
その意味でも、彼女があまりに嫌な女では、エルヴィーノって、
女だったら誰でも彼女にするのか?という話になってしまいます。
だから、あくまでエルヴィーノをアミーナにとられて心がねじれてしまった、
という範囲内におさまる嫌な女でなくてはなりません。
というか、私は大体どういう経緯でアミーナがエルヴィーノとおさまったのか、それも結構気になったりします。
意外とアミーナの方が、清楚な風でしたたかなんじゃないか、と思ったり、、。
侯爵に夜這い同然のことをしかけるのだって、考えてみれば、
まだエルヴィーノとアミーナが結婚するとみんなが思っていた時期なんであって、
リーザが自由恋愛をしたって、誰に責められる理由もないってもんです。
この演出では、その彼女が、NYにあるオペラ・カンパニーの演出助手で、
アミーナ役を歌う主役女性歌手(デッセイ)と相思相愛であるエルヴィーノ役を歌う主役男性歌手(フローレス)の、
フローレスの方に横恋慕しているという設定になっています。
職場恋愛バリバリのオペラ・カンパニーなのです。

演出家かアミーナのマネージャーのような女性を演じるバネルは、
リブレットでは、孤児アミーナの優しい育ての母親テレーザ。
彼女はメトのいくつもの舞台で脇を固めているおなじみのメゾですが、それは、
『カヴァレリア・ルスティカーナ』のルチア母さん役のようなヴェリズモ・ロールから、
この『夢遊病の女』のようなベル・カントものまでカバーし、
それぞれがきちんとスタイル感があるという器用さを考えれば驚きではありません。

今日のデッセイは、これまでの自分の歌唱をかなりきちんと分析してきたとみえ、
とにかく丁寧で耳障りな部分のない歌を仕上げることに専念していたと思います。
その中で、無理な技巧は思い切って落とす、という英断もしていて、
前回、”さらりと曖昧に流した”部分として紹介した一幕のカバレッタも、
カラスと全く同じ上昇音階に挑戦するのはやめ(これが上手く行けば、
まるで小鳥のように聴こえてすごくスリリングな部分なのですが、残念ながら、
私が前回観たときは非常に微妙でした。)、無理なく歌える旋律に差し替えていました。
彼女の今日の歌は集中力がずっとあがっていて、こういう大舞台に強い人だな、
とつくづく思います。
今日の歌からは、本来歌いたかったところから難易度を下げているな、と感じる部分はあっても、
雑だな、という印象を感じる方はほとんどいらっしゃらないのではないかと思います。

演技も前回よりは主役歌手役としてのディーヴァ度を下げ、
より親しみやすい女の子像にシフトさせていたのは正解だと思います。



逆にカメラが入っていることで少し緊張していたのはフローレスの方でしょうか?
彼はこの役は声に合っていて歌いやすいのか、今回全ての公演で
非常にレベルの高い歌唱を披露し続けていますが(というか、フローレスがそうでないときの方が珍しい)、
その範囲での非常に細かい話をすれば、ほんの少し高音に緊張を感じる部分があり、歌う前にも少し構えているような感じで、
前回の公演で聴いたような、のびやかに、自由に声が空間に飛び出してくる感じと全く同じではありませんでした。
前回はHDはもちろん、シリウスの対象でもなかったので、リラックスの度合いが違ったのかもしれません。
それでも、素晴らしい歌には変わりがなく、逆にこんなすごい歌を聴かせているこの公演よりも、
まださらに上を行く歌を歌える時がフローレスにはある、というファビュラスな事実を
頭の片隅におきながらHDを鑑賞する、というのも素敵かもしれません。

デッセイの歌唱は歌唱で魅力的ではありますし、彼女は演技と歌唱を一体化させるところに強みがあるので、
歌だけを取り出して比較するのはフェアでないかもしれませんが、
私は彼女の歌については、どこか、ベル・カントの歌唱としては
ちょっとほわんとした発声の仕方がエキセントリックに感じる部分もあって、
それはこのベル・カント教科書のお手本のようなフローレスの歌と比べると、
なんとなくニュアンスが伝わるのではないか、と思います。

オリジナルのリブレットでは、身分を隠して(すぐに村人にはばれてしまいますが)村にあらわれる
侯爵ロドルフォは、この演出ではオペラカンパニーの総監督を思わせる感じで、
それゆえに、演出家助手(リーザ)が色仕掛けで迫っても、特に無理を感じません。
いえ、別に私はゲルプ氏にもそんなことがありそうだ、などとは決して言ってませんので、
そこのところは誤解なく。

ただ私は音楽だけからだと、このロドルフォは実はアミーナの実の父親なのではないか、と思っていて、
(で、テレーザは育ての母親なだけでなく、実は本当のお母さん。
つまり、ロドルフォは村の女テレーザとできていた!!!)
それは彼が妙にこの村を懐かしがっているところとか、
彼に与えられている旋律がとても優しかったり、
リーザには遠慮なく手をかける寸前だったロドルフォが、アミーナにはなぜか躊躇してしまうところ、とか、、。
アミーナが娘である、というのをはっきり知っているわけではないのだけれど、
本能レベルで、親子同士であることを何となく感じ取っているのではないかな、と思うのです。
もちろん彼こそがことの真相を知っている人間だから、というのもありますが、
エルヴィーノよりも、むしろ、変わらぬアミーナへの愛を終始作品を通して感じるのは
このロドルフォの方です。
なので、この演出もそんな風なことを匂わすものだったら素敵だな、と思ったのですが、
ロドルフォは、今回のメトの演出ではアミーナに緑の靴を履かせてあげる程度で、
それもどちらかというと、親子というより男女的なニュアンスでしたので、私の夢はあえなく破れました。

前回、ドリフを彷彿とさせられ、くらくらしたデッセイの客席夢遊の場面
(宿に泊まっているロドルフォの部屋にアミーナがあらわれる部分)ですが、
今日はサイド、それもデッセイが歩いている通路のほとんど真上にある、
に座っているせいで、オペラハウスの最後部座席の後ろにある扉から、
デッセイがずーっと一直線に舞台に向かって歩いて来るのが見え、
おかげで前回に比べてそれほど唐突な感じがなく、
この客席夢遊を見るには、最良のポジションでした。
正面席、それも後ろのほうだと余計に、舞台に近くなってからしか彼女が見えないので、効果が半減。
これはなんとしてでもサイドから楽しみたい演出です。

あまりの初日の観客受けの悪さに、細かい部分をだいぶ手直しするのではないかと思っていた今日の公演ですが、
前半に関しては基本的な部分の手直しはほとんどなく、まさに”馬鹿馬鹿しい”という言葉がぴったりな、
客席夢遊のシーンよりも一層ドリフしているともいえる”ドタバタ”場面、つまり、
一幕最後の、合唱のメンバー全員が紙をひきちぎる個所のことですが、ここもすべてまま。
この紙引きちぎりに関しては、私がどれだけこの演出を大目に見ようとしてもできない部分で、
せっかくのデッセイやフローレスの声がばりばりばりっ!という音にかき消されるのは許せません。

ライブ・イン・HDの映像を見るため、インターミッションは猛ダッシュでベルモント・ルームへ。
ホスト役のデボラ・ヴォイトのデッセイとフローレスへのインタビューが一段落した後、
私の隣に座っていた女友達同士で鑑賞にいらっしゃったと思しきローカルのおばあちゃま二人が、
かしましく、今日の演出は誰なのか?という議論を始めました。
片方のおばあちゃまが、”確かジンマーマンだったと思ったのだけど、、”と言いながら、
必死でプレイビルに目を通しています。
プレイビルに演出家の名前は書いてあるのですが、見つけられなかったのか、
おもむろに私の方に向き直って、”今日の公演の演出家、誰かご存知?”と尋ねられたので、
”ジンマーマンですよ。”と答えると、二人で、”やっぱり!””だから言ったでしょう?”と大騒ぎ。
そして、もう一人のおばあちゃまが、”あなた、今日の演出、どう思われる?”

こういう質問の仕方が、メトの、特にオペラヘッドから出てきた場合、
まずは、本人たちが気に入っていない、と思って間違いありません。
なぜ、”今日の演出、最悪だと思わない?”とストレートに言わないかというと、
例えばあまりオペラの鑑賞経験がない方や、あっても趣味の合わない方が、話し相手であった場合、
もしかすると、素晴らしい公演だ!と幸せな気分になっていらっしゃるかもしれず、
それを最初から”これは最悪だ!”と言ったりするのは申し訳ない、という気持ちからなのです。
しかし、答える方も、逆に相手がオペラ初心者/趣味の合わない人だったらどうしよう、という思いから、
つい、”いいですね。”と言ってしまう場合もあり
(らしくもなく、私もそんな風に答えてしまうこともあります。面倒臭いときとか、、。)、
お互いに、いいとも思っていないのに、”いい公演ですね”とかみ合わない会話になっているケースもままあります。

お二人の雰囲気からヘッズ臭を感じ取ったのと、今日はあまり本心を隠す気分ではなかったので、
”私はですね、超がつくベル・カント好きなので言わせていただけば、、”と前置きすると、
おばあちゃま二人揃って、”私達もよね?””ねっ!”といきなり合いの手。
”この演出はベル・カント作品としてのオリジナルの魅力とか雰囲気は完全に払拭していると思います。”
そこで”やっぱり!!””そうよね!!!”と私の腕を掴みながら蜂の巣をつついたような騒ぎに。
痛たたた、、。
その後に続けた、”でも、ベル・カント云々、などということを気にせず、
これはこれで違った独自のものとして見るなら、それなりに楽しめますし、
あの初日に出たようなブーイングを受けるほどのひどい演出とは思いませんが、、”
という言葉は当然ながらもうおばあちゃまたちの耳には入ってません。
畳み掛けるように、”あの最後の紙を破るシーンはあれは何?意味不明だわよ!!”
”ロドルフォ役のペルトゥージがE sonnambula(夢遊している女性だ!)という言葉を発してから、
デッセイが舞台上にあらわれるまで5分も経ってるのよ!おかしいでしょ!っての。”
(おそらく客席を徘徊しているために、、、)と、私もたじたじの大噴火。
私にとって今日は二度目の鑑賞であること、
前回はデッセイの歌がちょっとしたmess(ぐちゃぐちゃ)で、今日はそれに比べたらよくなってますよ、というと、
”ええ!そうなの?今日だって大して良くないのに!””そうそう、高音が無理矢理よね。”
私の腕をますます強く握り締めながら、演出や歌のほころびの次々を列挙し、
めためたに切り裂くその姿に、ふと、思い浮かんだ言葉は、
、、、もしかして、彼女たちってば、30年後のあたし、、?
しかし、そんな彼女たちもフローレスの歌は大絶賛なのでした。
その後、”二度ご覧になっても、演出はそう大して良くはなってないでしょ?なりようがないもの、これじゃ。”
とお二人で総括モードに入られた後、”お話できてとっても楽しかったわ。”
”難しいかもしれないけれど、残りの公演も楽しみましょうね!”と言い残し、
あわただしく幕前の化粧室に走り出す実にラブリーなお二人を呆然と見送る私なのでした。

さて、第二幕での一番の見所は婚約を破棄され後のアミーナの夢遊の場面。
デッセイが、オペラ・カンパニーの稽古場の外の窓の下にある外壁の部分を歩いて登場する、という話は
前回の記事で書きましたが、窓から無事に中に引き入れられたアミーナが、
稽古場にある黒板にある文字を書き、そこから当作品の最大の聴かせどころに入っていきます。
この黒板に書く文字が、前回は、ただの線だったのですが、
(つまり、一直線に水平の線が黒板に書かれた)
これだと、”夢遊病の女”な感じは出ますが、それ以上の何も伝わってきません。
しかし、今日の公演では、”elvino”(しかし、デッセイ、字、汚いなー。
しかも、eが小文字、、。学のない村娘だから、ってことかな?)と
とつとつと書く演技付けにかわっていて、これは実に効果的でした。
そうです、夢の中でも彼のことを思っているアミーナですから、
ここで書く言葉は”エルヴィーノ”以外のものであっていいわけがありません!
この後に続く歌の部分とも整合がとれていて、大成功していました。

歌の方も前回とはうってかわって、非常に丁寧で、あっと驚くような超絶技巧タイプの歌唱ではないものの、
しみじみと心に染みるいい歌唱だったと思います。
ここでオケの頭上にせり出してくるデッセイがのった板、こればかりは私も意味がさっぱりわかりません。
劇場で観ると、それほど聴覚的にも視覚的にもインパクトのあるものではなく、
(それこそかなり小さい板で、デッセイだからいいようなものの、
ヴォイトとヘップナーが同時に乗ったら割れてしまいそうな代物です。)
劇場のスタッフの給料を減給しようか、という話があるときに、
減給して浮いた金でこんな板を作るのか、と思うと、げんなりします。
全く不要です。こういうのを無駄遣いっていうんです。

結局、このHDの収録日に演出家のジンマーマンを再登場させる度胸はさすがのメトもなかったようで、
演出のみへのダイレクトな反応を確認する場はありませんでしたが、
全体としての反応は良く、しかし、それはひとえに、歌唱の力なんではないか、と思っている私です。
いい歌唱は演出の不備を越える。
『蝶々夫人』に続き、それが証明されたHDの公演でした。

Natalie Dessay (Amina)
Juan Diego Florez (Elvino)
Michele Pertusi (Count Rodolfo)
Jennifer Black (Lisa)
Jane Bunnell (Teresa)
Jeremy Galyon (Alessio)
Bernard Fitch (Notary)
Conductor: Evelino Pido
Production: Mary Zimmerman
Set design: Daniel Ostling
Costume design: Mara Blumenfeld
Lighting design: T.J. Gerckens
Choreography: Daniel Pelzig
Grand Tier Side Box 33 Front
OFF

*** ベッリーニ 夢遊病の女 Bellini La Sonnambula ***

CAVALLERIA RUSTICANA/PAGLIACCI (Thu, Mar 19, 2009)

2009-03-19 | メトロポリタン・オペラ
125周年記念ガラのデッセイの歌唱についての感想部分で、NYタイムズの批評について私が常日頃から感じている苦言を
呈させて頂いたのですが、告白してしまうと、あれは実は、今日のこの記事のための前フリでして、
日にちの分かれた記事をまたいで前フリを敷くとは、私にしてはいつになく用意周到です。

そこですっかりとばっちりにあって、悪し様に言われたトマシーニ氏ですが、
彼の場合は、公正な評を書ける力のある人なのになぜ書かないのか?という、
批評のスタンスに対する苛立ちであるのに対し、
今日のこの全く同じ『カヴァレリア・ルスティカーナ/道化師』の公演について(『道化師』の原題はPagliacciパリアッチで、
このダブル・ビルは、英語では、両方の原題の頭をとって
”Cav/Pag カヴ・パグ”と呼ばれることが多いので、この記事でも以降それにならいます。)、
NYタイムズに、ここに仮にV嬢としておくところの、ある女性の批評スタッフが書いた評が出ていたのですが、
これが、とうとうNYタイムズでは人員削減が昂じて、
オペラのことをほとんど知らないトーシロが評論を書き始めたのか?と疑ってしまうような、
ピントの外れぶり全開の批評になっています。
私もトーシロ度では人のことを言えたものではありませんが、
お金をもらってプロとして批評を書く以上、そんなことではいけません。

もし、実際、彼女にオペラに関するきちんとした知識があるとすれば、
メトからのプレッシャーや歌手におもねって、
自分の知識や本当に思っていることを棚上げして、思ってもいないことを書いているに違いなく、
どちらにしても、批評家としてあるまじきことです。



さて、少し話は変わり。
以前、どこかの記事のなかでも書いたように記憶しており、繰り返しになってしまうのですが、
ただひたすらCDによってオペラ鑑賞を続けていたmy学生~社会人初期時代を経て、
私が生舞台中心の鑑賞、つまり”生オペラ天獄”に完全にシフトする契機になったのが、
実は、来日公演でやってきた、このゼッフィレッリ演出の、メトのカヴ・パグです。
それまでも、海外のオペラハウスの引越し公演をはじめ、ちょろちょろと劇場に足を運んだりしていましたが、
このメトの『カヴ・パグ』を境に、実演の感動への中毒が始まってしまったわけです。
ということで、メトに責任とってもらいましょう!
あの『カヴ・パグ』がなかったなら、貯金もたまって今頃億万長者ですから。
(んなわけはないが、そんな気がするくらいオペラに稼ぎをつぎこんだ&でいる。)

その12年前の麗しの『カヴ・パグ』の話に戻ると、
『道化師』のカニオ役で出演するドミンゴをどうしても近くで観てみたい一心から、
明日から食料を買うお金さえなくなってしまうんじゃないか?というほどの、
当時の私にとっては(今でも来日公演のチケットはそうですが)高額な、平土間7列目のチケットを、
全財産はたいて購入しました。
しかし、舞台が始まって私が脳天をかち割られたのは、『道化師』に辿り着くまだ手前の『カヴ』の方で、
おそらく当時声と歌唱のピークを誇っていたマリア・グレギーナのサントゥッツァと、
ファビオ・アルミリアート(指揮者のマルコのお兄さん)のトゥリッドゥという顔合わせ。
ヴェリズモ作品の舞台から感じる”熱さ”とはこういうものなのか!と、
理屈でなく、体でもって体験できた公演でした。
今、当時のパンフレットを見ると、なんと、ルチア母さんの役で、
ステファニー・ブライスが登場していたんですね。そういえば、ものすごく大柄な女性だな、
と思った覚えがあります。今の彼女の活躍ぶりを考えると感慨深し、、。
私が観た日は、この『カヴ』での主役二人、特にグレギーナの熱唱がすごくて、
完全に公演が火を噴き、オケも燃え上がっていたのを今でも思い出します。
最後の”ぎゃあああああ!!トゥリッッドゥが殺された!!
Hanno ammazzato compare Turiddu!"という脇も脇の女性の叫び声すら、
あの決して音響が良くない上にだだっ広いNHKホールを震撼させるようなすごい声で、鳥肌が立ちました。
私はインターミッションが来ても、座席からすぐに立てなかったくらいで、
そもそも奮発してチケットを買ったそもそもの理由であった肝心のドミンゴの歌唱の方は
なんだかあまり良くおぼえていないくらいです。

と、このように、幸か不幸か、私は生舞台の鑑賞を初めて間もない時期に、
ヴェリズモ作品で大当たりの実演にあたっているので、
NYタイムズで、この公演についてのV嬢の『カヴ』評を読んで、わなわなしてしまったのです。



アラーニャについての、”冒頭のオフステージで歌われるアリアで好調なスタートを切った”というのは私も同意します。
おそらく今日の公演で(『カヴ』、『パグ』両方合わせて)、一番良かった瞬間です。
良く通った、彼にしては大変瑞々しい声で、旋律の細かい部分も大事に歌われ、
アラーニャ嫌いの私が思わず拍手をしてしまったくらいです。
しかし、その後は、V嬢が言うように、”時に絞りだすような声”になり、
”いくつかの高音は割れ”てました(要は、いつものアラーニャ、ということです)。
しかし、このトゥリッドゥ役については、イタリアのど田舎の男にしては
若干ちゃらちゃらしすぎに見えなくもありませんが、
(それに比べて12年前のアルミリアートは、ちょっぴり柄が悪くて貧乏そうで、
ああいう人、イタリアにいそうだよー、浮気もしてそう!してそう!と、説得力満点でした。)
全体においては、V嬢も書いている通り、そう悪い出来ではありませんでした。



しかし、問題はマイヤーです。
彼女は何度も言うようですが、ワーグナーあたりのレパートリーでは世界最高峰の素晴らしい歌手です。
彼女のクンドリなんて、本当にすごかったですから。
でも、ヴェリズモはお願いですから、もう歌わないでほしい。
声域的にメゾにも歌える役だから、というような理由だけで歌えるような役ではないです、サントゥッツァは。
まず、この演目における、彼女の歌唱の最大にして致命的な欠点は、歌が高貴すぎることです。
まるで、それこそ、ワーグナー的な神や英雄の世界になってしまっているのです。
シチリアの、泥臭い人間の愛憎劇の匂いなんて全くしません。
”そんなに気取ってないで、もっと、ばーんと、感情を露骨に出さなきゃ!!”と、
じりじりしながら聴いていた観客は私一人ではないはずです。
しかし、それが出来ない理由の一つは、これまた、彼女の歌唱スタイルが実にワーグナー的であるという点に
戻ってしまうかもしれません。
彼女は決して大きな声量が出ないわけではないのですが(でなければ、あんな分厚いオケが鳴るワーグナー作品で
一線で活躍できるわけがありません。)、
ワーグナー作品で求められる大きな声の出し方と、ヴェリズモのそれは全く違う、と感じます。
ワーグナーのそれは、要所要所で劇場を劈くような声が必要ですが、
ヴェリズモの場合はピンポイントでなく、ずっと分厚い毛布を被っているようなテクスチャーをベースに、
その中から高音が立ち上がってこないとだめで、
実際、トゥリッドゥに泣きすがる場面で、マイヤーがワーグナー的高音を出していたのですが、
それ以外の部分に、ヴェリズモ的”濃さ”が全くないので、これでは観客はカタルシスを得られません。
また、言葉がきちんとはまっていない個所が無数にあって
(彼女の『カヴ』は、母音の扱い方に問題があるのか、
音数が増えているかのような不思議な歌唱です。)
旋律があやふやで、”きちんと役を勉強してきたんだろうか、、?”と思わされる個所まであり、
アラーニャとの重唱が今ひとつぴたりとはまらないのはこのあたりが原因ではないかと思います。
なのに、彼女はNYにさくらか熱狂的なファンでもいるんでしょうか?
やんややんやの喝采で、私はすっかりしらけてしまいました。
そんなさくらに惑わされたか彼女もさくらの一味なのか、
V嬢はマイヤーのことを、”その日の夜、注目をかっさらった”と説明、
”温かくて暗めな彼女の声の特色を生かしてサントゥッツァの嘆きを表現し、
情熱的でありながら、哀れを催させる”と評し、彼女の歌に、
ヴェリズモ的な部分が全く欠落していることは、言及すらありません。
彼女は演技は達者で、いつも一定のレベル以上のものを見せていることはすごいことだと思いますし、
この公演でも、ある種のうざい女(それでいて下品になっていないところは見事)を好演しているのですが、
歌がこれほどまでにヴェリズモ的でないと、演技の上手さでカバーするのも無理があります。
決して歌唱のスタイルとして上品とはいえないグレギーナが、
あの12年前の公演で光輝いていたという事実は、
この作品がどういう歌手を必要としているか、ということを物語っているように思います。
この役は綺麗に歌うだけでは物足りない、ということです。



ローラ役を歌ったジンジャー・コスタ・ジャクソンは、『タイス』にも登場していた歌手で、
”ビッチズ”系諸役に活路を見出しているようで、そのビッチーな雰囲気は見事ですが、
(本当にやな女していて、地ももしかしたらこんな人?と思わされる)
歌がどうしようもなくそれに伴っていない。
『タイス』のような重唱が多い役ならともかく、ソロの役で舞台をはるには声量もなさすぎです。

唯一、この『カヴ』で聴きごたえのある歌唱だったのはマンマ・ルチア役のジェーン・バネル。
彼女は現在上演中の『夢遊病の女』のテレーザ(アミーナの育てのお母さん)役と並行で
この役を歌っているわけですが、豊かな温かい音色で聴いていて実に心地よい声です。



アルフィオ役を歌う予定だったチャールズ・テイラーが体調不良で降板し、
もともと『道化師』のトニオ役だけで出演するはずだったアルベルト・マストロマリノが
掛け持ちで代役をつとめました。
主にイタリアの歌劇場に出演しているようで、これがメト・デビューとなる彼。
大車輪の活躍が観客の心をとらえたか、ものすごい拍手をもらっていましたが、
アルフィオ役にしろ、トニオ役の劇前の口上のアリアにしろ、私は特筆するような歌唱ではないと思いました。
中低音はなかなかいいものを持っていますが、高音に張りがなく、それが歌唱全体の印象に影響しています。
とこういうわけなのですが、ルチア母さんが一番印象に残る『カヴ』、
それはちょっとやばくないでしょうか、、?



今シーズンのカヴ・パグは、一人のテノールによるダブル・ビル(二本立て)を売りに、
アラーニャとクーラそれぞれに、一夜の両演目を歌わせることにしているわけですが、
私の知る限り、メトでは基本、『カヴ』と『パグ』のテノールは別々の歌手に歌わせることが多く、
2006年シーズンに一度、リチトラがダブル・ビルをつとめたことがありますが
それは予定されていた『カヴ』のテノールが体調不良のため、
『パグ』のみを歌う予定だった彼が両方をカバーしたにすぎません。

で、今日のアラーニャのダブルを聴いて、それにはやっぱり理由があるんだな、と再確認せざるをえませんでした。
というのは、トゥリッドゥ役(『カヴ』)ではまずまずだったアラーニャですが、カニオ役(『パグ』)は、全っ然駄目。
考えてみれば、いや、そんなに深く考えなくともわかることですが、
この二つの役って、同じ夜に演奏されるオペラのテノール役という以外、あまり共通点がないですから。
両作品ともヴェリズモだから似た役だろう、みたいな短絡な考えは大間違いです。

トゥリッドゥは、若くて不倫なんかもしてしまうし、あまり物事を深く考えてなさそうな人。
(だからアラーニャにぴったり!)
サントゥッツァやルチア母さんなどとのことも、思いやっているんだか、そうでもないんだか、
よくわからないところがあります。逆にそのドライさが怖くもあるのですが、、。

しかし、一方、カニオは、妻よりも自分がかなり歳が上なのを気にしていたり、
情が深いあまりに相手を殺してしまうほど嫉妬深かったり、非常に複雑に見えて、
それでいて、多分私達の誰でもが持っている、人間の共通の悲哀みたいなものを体現している役で、
こちらは非常に演技力を要する役だと思います。
そして、アラーニャには、この役は荷が重すぎた。これに尽きます。
アリア”衣装をつけろ Vesti la giubba”の泣きの部分や、
最後の”喜劇は終わりだ La commedia e finita!"の言葉での芝居心のなさは泣けてくるほどです。

また、トゥリッドゥの場合はアラーニャくらいの声でもなんとかそれなりに聴ける歌唱になりえますが、
こちらのカニオ役は、やはりある程度ロブストでないと聴くのは辛い、と感じました。



演技にも歌にも、奥行きがなく、こんなにつまらない『道化師』、はじめて。
しかし、そんな『パグ』でも、V嬢の手にかかると、”(アラーニャは)作品中、安定したよい声で通し、
’衣装をつけろ’は心に訴えかけるような迫力で歌われた”とさらっと言ってのけられてしまいます。
こんな程度の歌で、心に訴えかけられてたら、オペラ聴くのにいくら体があっても足りませんよ、って感じです。

さらにひどかったのはネッダを歌ったヌッチア・フォチレ。
声に全く伸びやうるおいがなく、乾いた感じのする歌で大失望。しかも演技がド下手。
表情がどう、とかいうことより、この人は根本的な演技のリズムというのをわかっていない気がします。
2006年にこのネッダを歌ったのはAキャストがラセット、Bキャストがストヤノヴァという、
今では私の大好きなソプラノ二人によるもので、特にラセットはものすごく演技も達者だったので、
それに比べると、せっかくのこのゼッフィレッリのプロダクションのよく出来た劇中劇のシーンが、
ことごとくテンポの悪いフォチレの芝居のせいで台無しになっていました。



シルヴィオを歌ったマルトマンは若々しく、ネッダとの浮気の現場をカニオに発見されそうになったときの逃げ足の速さと、
カニオに刺し殺されたネッダをつい助けに走ってしまうそのすばしっこさが良かったです。歌でなく。



私は音楽は『カヴ』も好きですが、ドラマという面ではこの『道化師』の方が大、大、大好きで、
2006年の、リチトラ、ラセット、アタネリ、クロフトが出演した『道化師』は、
比較的キャストは若いメンバーなのに、しっかりと大人のドラマな感じがしたのに対し、
今日の『パグ』はまるで学芸会のようなちゃちでお子様な仕上がりになっていて、
本当に残念です。
一人一人の力量の差でしょうが、今日のこの公演を観ていた私の友人も、
”いつからメトの『カヴ・パグ』はこんなB級になっちゃったのかしら?”と嘆いていました。
それは、マイヤーやアラーニャといった、役に合わないキャスティングをした今年からでしょう!!
2006年の公演は悪くなかったですから。



それにしても、2006年の公演では、リチトラは白いシャツ+茶のベスト+ハンチング帽という、
いかにも旅芸人な感じのする自然な衣装だったのに、
今年のこのアラーニャのちんどん屋のような青シャツはなんなんでしょう?



夏のパーク・コンサートでも、青のタキシード着てましたが、もしや青は彼のラッキー・カラー??

というわけで、今日の『カヴ・パグ』、許せなかったのは、

● マイヤーのサントゥッツァ
● カニオ役を歌うアラーニャと、彼が着用している意味不明の青いてらてらシャツ
● フォチレのテンポ悪すぎな芝居

この三点でして、意外にも、アラーニャのトゥリッドゥはセーフでした。

指揮台に立ったのはピエトロ・リッツォというイタリア人で、
フィンランドの国立歌劇場でヴァイオリン奏者をつとめていた頃、
2002年に突然病に倒れた指揮者の代役をつとめ、いきなり指揮デビュー。。
以降、フィンランド国内から順調(?)に海外の歌劇場に足がかりを作り、
とうとうメトまで来てしまったというすごい強運の持ち主です。
オケ奏者だった経験もあってか、音の構築という面では悪くないセンスを持っており、
いい音を引き出していた個所もあるにはあるのですが、
指揮の技術が少し弱いのでしょうか?
『カヴ』が途中から崩れ気味になってしまったのが残念。
とはいえ、『カヴ』は指揮者とオケ泣かせの難曲で、この曲でオケがすごく良かった!というのは
滅多にあるものではないので、めげず、残りのラン、頑張ってください。

一テノールのダブル・ビルという側面ではおそらくクーラの方が期待できる上、
(彼はキャラ的にも声質的にも、トゥリッドゥ、カニオ、両方に通ずるものを備えているので)
マイヤーにかわってサントゥッツァ役にコムロジが入るようなので、そちらに期待することにします。


CAVALLERIA RUSTICANA
Roberto Alagna (Turiddu)
Waltraud Meier (Santuzza)
Alberto Mastromarino replacing Charles Taylor (Alfio)
Ginger Costa Jackson (Lola)
Jane Bunnell (Mamma Lucia)
Linda Mays (A Peasant Woman)
---------------------
PAGLIACCI
Roberto Alagna (Canio)
Alberto Mastromarino (Tonio)
Nuccia Focile (Nedda)
Christopher Maltman (Silvio)
Tony Stevenson (Beppe)
Timothy Breese Miller / Jeffrey Mosher (Villagers)

Conductor: Pietro Rizzo
Production: Franco Zeffirelli
Set & Costume design: Franco Zeffirelli
Grand Tier A Even
OFF

***マスカーニ カヴァレリア・ルスティカーナ Mascagni Cavalleria Rusticana
レオンカヴァッロ 道化師 Leoncavallo I Pagliacci***

HD: MADAMA BUTTERFLY (Wed, Mar 18, 2009)

2009-03-18 | メト Live in HD
注:この公演はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。

ガラの興奮もいまだ冷めやらぬうちに、また新たな興奮の日がやって来てしまいました。
3/7の『蝶々夫人』の公演は、オペラハウスでの鑑賞でしたが、
このときほど、映画館で生中継されたライブ・イン・HDを観るための、
自分のダミーが欲しい!と激しく思ったことはありません。
しかし、そんな私を神は見捨てなかった!!
その公演後に、アメリカでも、HDにアンコール上映なるものが存在する
(しかもたった10日ほどのタイムラグで!)と知り、
リアル・タイムではないですが、その時と全く同じ映像が見れる!と大興奮で指折りこの日を待っていたのです。

絶対に遅れてはいけない!と気合満々で会社から映画館に直行したため、一時間も早く着いてしまいました。
開演前までどれほど焦れったかったことか!

ライブ・イン・HDはアメリカでもすっかり人気が定着し、
最初は確か一つの映画館だけでスタートしたマンハッタンも、
今や複数の映画館で再上映が行われるまでになりました。
生のHDの上映の際は、音響の適切さ、客筋の良さ(=オペラヘッドが多い)、
我が家からの地の利などの理由で、メトからすぐ道向かいのウォルター・リード・シアターを贔屓にしている私ですが、
なぜか再上映のネットワークには入っていないようで、
今回私がライブ・イン・HDの鑑賞スポットに選んだのは、チェルシー(西23丁目あたりの界隈)にある、
その名もまんまのチェルシー・シネマズ。
究極のシネコンで、10近くのオーディトリアムがあり、
外のオーディトリアムでは、ハリウッド映画がかんがんかかっている映画館です。
そのため、緊迫した無音状態、例えばピンカートンの乗った軍艦が長崎港に入港する、
という大切なシーンなど、で、他のオーディトリアムから、別の映画の
ごおおおおおおーっ!という効果音がうすら聴こえてくるのは、超興醒めでした。

再上映、しかも、ゲオルギューとか、ネトレプコ、といった超人気歌手は出演していない、
さらに今日は平日の夜、ということで、SFOのシネマキャストの時のような閑古鳥状態を予想しながら
オーディトリアムの扉を開いたのですが、なんとびっくり!
まだ上映開始まで30分以上あるというのに、中央エリアの後方はほぼ満席。
その後もものすごい勢いで座席が埋まって、上映前までには、全エリアほぼ満席状態になってしまいました。
そして、驚くべきは、実に若い客が多い。
高校生や大学生くらいの年齢で、一人で観に来ている女性の姿もちらほら。
素晴らしい。未来のオペラヘッドたちの姿をまばゆい思いで見守る私でした。

しかし、上映が始まって、ますます驚いたのは、客のマナーの良さ。
というか、良さ、という言葉が生ぬるく感じるほど、
一切の私音なく静まりかえって、息苦しくなるほどの沈黙の中で、みんなスクリーンを見つめているのです。
アメリカではほとんど起こりえないと思っていたこの光景に、
一体今日の客筋はどういう人なんだろう?と怖くすらなった私です。
おそらく、私の推測ですが、ほとんどが3/7に生のHDを観たリピーターか、
私のような事情でやむなく映画館に行けなかった客のどちらか。
つまり、明らかに、この蝶々夫人が素晴らしい公演だと知っている客層と見ました。

しかし、上映が始まってすぐ気になったのは、音。
なんだかオケの音がすかすかで、劇場で聴いたときはこんな音じゃなかったのに、、と思っていたら、
すぐに謎が解けました。
音が、スクリーン横のメイン・アンプからしか出ていないのです。
サイドのスピーカーからは全く音が出てない、、、まじかよー??畜生ー!!
普通ならすぐに映写技師に走って文句を言いに行くところですが、
しかし、ラセットの蝶々さんの一挙手一投足を見逃すわけにはいかないのです。ああ、人生最大のジレンマ!!

と思っていたらば、とんでもない事態が発生。
蝶々さんが、ピンカートンに自分の持ち物を見せている場面で、
父親が自害に使用した刀が出てきた瞬間、画面がブラックアウト。
音声は出ているのですが、なんにもスクリーンに映ってません。
数秒で戻る事故だと思いつつも、”ちょっとー!”とぶーたれる客たち。
しかし、これが数秒どころか延々と続き、とうとう客たちが大噴火。
”こっちは金払って見にきてんだぞー。ブラックアウトしたところまで巻き戻せー!”とか、
”勘弁しろよ!”といった怒号が飛び交います。
ああ、おそろしや。
そうするうちに、映画館のスタッフの女性がオーディトリアムの後ろの扉から顔を出し、
そのあたりにいた客たちに事情を説明しはじめると、すでに噴火状態の客が、
”前に行って、全員に向かってちゃんと説明しろ!”ときれる。
”でも、ちゃんと皆さんに聞こえてますから。”としゃらりと口答えをかましたスタッフに、
気が付くと、”No, we can't! (聞こえてないわよ、全然!)”と
オーディトリアムの逆の端から大声を飛ばしているMadokakipがいました。
そんな私を、通路向かいの席から”私、この人たち、こわい、、”という目で見つめている未来のオペラヘッド・ギャル。
まあね、あなたたちもね、順調にオペラヘッドの道を辿ったら、あと数年したら、こうなるんだから。
人生の何にもまして、オペラに関することが最重要事項となるのです。
結局、技師がすぐに修整できると思うので、もう少し待ってくれ、とのこと。

憤懣やるかたなしで着座したあと、隣に座っていた女性二人連れに向かって、
”しかも、この映画館、音響、最悪じゃないですか?”と聞くと、
彼女たちも、”確かに。良く考えてみたら、全然サイドの音が聴こえないわよね。
前回のルチアの時はそんなことなかったのに、。”、、やはり。
しかし、よく考えたら、今、映像を直しているのに便乗して、音のことも文句を言うチャンスでは?
というわけで、オーディトリアムを出て、しつこい客に、
”あと何分でなおるの!?”と、つめられ続けている女性スタッフに、
音響の問題を説明すると、それも技師に取り次いでくれるとのこと。

こういう場合、たいてい言葉と裏腹に修復に時間がかかるNY。
もうこのまま蝶々さんが見れないのでは、、
ああ、アッパー・イースト・サイドの映画館にしておけばこんなことにはならなかったかもしれないのに、、
と悲しみに身をまかせていると、十分ほどで室内の照明が暗転。
ちゃんと再開しました!!!ブラボーッ!!しかも、音の問題も直っていて、
さっきまでのしょぼい音響とは雲泥の差の、クリスプな大音響のサラウンドに。
ちょっと私の好みよりも、音が大き目でしたが、もう不満は言いますまい。

まず、音がきちんと聞こえるようになって、最大の驚きは、
あれほど劇場ではコンディションが悪く感じたラセットが、そう悪くは聴こえないこと。
彼女の場合、調子が悪くても、最低限の声量が十分にあるので、マイクで拾われてしまうと、
劇場でははっきりと感じられた、いつものような迫力、エッジ、ボリューム感に欠けていることが
それほど明らかではありません。
特に、彼女自身が、”この作品を歌っていて、一番ここが好き!”と言っている
ピンカートンの船の入港の後に、ei torna e m'amaと歌う部分では、
劇場では、いつものような、がつーん!と来る感じが乏しいな、と思ったのですが、
(実際、彼女のここの歌唱がすごいと、いつも思わず客席からBravaの声と拍手が飛ぶのですが、
3/7はそれがありませんでした。)
逆にHDにのってしまうと、却ってこの日の歌唱くらいの方がフォームが綺麗にきこえるくらいです。
しかし、それとは引き換えに、彼女がものすごく上手く、
いつも並みに歌っていた部分は、そのすごさが十分には伝わっていませんでした。
それは、ニ幕二部の最後、つまり、公演の最後の最後での、オケの音が、
”劇場ではこんなしょぼい音じゃなかったぞ!”と思うくらい、コンパクトに録音されてしまっていることからも明らかです。
ここは、本当に、グランド・ティアのサイド・ボックスに座っていると、
オケピから地鳴りのような振動を感じた部分なので、こんなしょぼい音に録音されて、、ととっても残念でした。
つまり、HDとは、とても良い部分、あまり良くない部分、両方ともを、
控えめに見せる傾向にあると思います。
なので、仮にラセットが彼女の最高の歌を歌ったとしても、
それと比例するすごさでHDに捉えることは出来なかった可能性もあり、
結果としては、今回のHDでも、十分に彼女の歌の良さは伝わっていると思います。

彼女の演技についてですが、全くHD用に大人しく演技する、というような手心を加えず、
生の劇場モード全開で演技してます。
ここが私がラセットを好きである由縁なんですが。
(アラーニャの言うHDモードの、”スクリーンのための”演技なんて、クソ食らえ、です。)
オペラは何よりも、その公演のために劇場に来た観客に何かを伝えなければならない、というその信念。
HDのスクリーンだけで見ると、仕草や表情がものすごく大きく感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、
メトのオペラハウスでは、しかし、これが、完全に正しい、適切な大きさの演技であることは、
私が自信を持って申し上げます。

一方で、実際の劇場ではちょっと演技が繊細すぎて、
客席に全部が伝わっているとは言い切れないところもあるのですが、
スズキ役のマリア・ジフチャックの演技は、HDで観ると見事です。
彼女の、基本は無愛想なのに、ちょろり、と、蝶々さんのためだけに見せる優しい微笑みや、
彼女のために本気になって泣いたり怒ったりする表情など、本当に上手い。
(彼女は、あの思い出の出待ちの日にサインを頂いた歌手の一人ですが、
側に立っているだけで、温かいオーラが発散されている、素敵な人でした。
その彼女の人柄は、このHDの幕前のインタビューでも伺われます。)

この蝶々さんの公演は、2006年にミンゲラ演出が初演されてから
ほとんど脇役のキャストが変わっていなくて、この脇役陣がものすごくしっかりしているのも魅力になっています。
なかでも、ヤマドリを歌うデヴィッド・ウォンは、声だけ聞いていると、
とてもアジア系とは思えない豊かな深い声で、『ルサルカ』の狩人役の時も思いましたが、美声です。
また、彼もジフチャックと同様に、演技が繊細すぎて、
実演では魅力のすべてが伝わりきっていないのが残念ですが、
同じ日本人として何とか蝶々さんを必死で助けようとしているかのような、
優しさのあるヤマドリを好演していて、HDではその魅力が発揮されています。
ヤマドリが去っていくときに、ふっとラセットが見せる、
”私はこれで日本という国との最後の接点を自分の手で断ち切ってしまったのかもしれない。”
という不安気な表情が見事です。

ボンゾを歌っているキース・ミラーはHDで観ると、なんとなくおわかりになるかもしれませんが、
日系の血が入ったアメリカ人で、彼も、劇場で聴いても、このHDと同様の、深く、良く通る声をしています。
このほか、ゴロー役を歌っているフェダリーも、毎回安定した歌唱を繰り広げているキャストの一人です。

最も実演で観ているときと印象に相違がないのは、シャープレスを歌うクロフトかもしれません。
実演のレポートで、彼が緊張で、手紙のシーンで苦労していた、という部分は、
よーくご覧になると、緊張で手が震えてくると、すぐに腿などに手をおいて、
それを止めようとしていることから伺えます。
しかし、HDとは不思議なもので、劇場では少し離れた席でもあれほど震えているように見えたのが、
スクリーンではそこまでには見えない。
生の舞台というのは、物理的に目で見えることだけでなく、
歌手の感じている気持ちとか、エネルギーを感じる場なんだな、ということがよくわかります。

そして、実演より一層悪い出来に見えるアンラッキーな人はジョルダーニ。
彼はこの日、声の調子があまり良くなかったと思われ、声に独特のざらつき感が目立ち、
高音での勢いも全くなかったのですが、
この手の不調は、容赦なくHDに写し、録りこまれてしまっています。
むしろ、声量はある人なので、実演での方が、良く聴こえたかもしれません。
今日の映画館の客から多くのブーを食らってしまったのは彼一人でした。
(明らかに役のキャラクターに対するブーではなく、パフォーマンスに対するブーでした。)

SFOのシネマキャストの時の公演のラセットの演技が非常にintimate(親密)な感じがするのに比べ、
このメトの公演では、彼女の演技や歌が少しグランドな感じになっているのが興味深かったです。
結果として、SFOが泣ける蝶々さんであるのに対し、メトの蝶々さんは、
むしろ、観客は泣くことも忘れてその迫力に圧倒されて打ちのめされる、といった種類の公演になっています。
私個人的にはSFOのような種類の歌唱と演技の方が好きですが、
メトのこれはこれで、”パワーハウス仕様”といった感じで、また違った種類の歌唱として感銘を受けます。

その一つの原因は、やはりミンゲラの演出にあるように感じます。
ミンゲラはご存知、映画『イングリッシュ・ペイシェント』などの監督で知られる映画畑の人ですが、
彼の初のオペラ演出が、このメトでの『蝶々夫人』(2006年に新演出が初演)です。
彼の生前のインタビュー(彼は昨年、がんが間接的な理由となって逝去しています。)や、
出演者のコメントを聞くと、これでもかなり抜き・引きのコンセプトを演出に取り込もうとしたようですが、
私から見ると、まだまだ詰め込みすぎです。

そのことが、やたら蝶々さん(ラセット)を舞台上で動かす結果になっていて、
SFOがなしとげていた感情表現への集中というものを不可能なものにしています。
ラセットは、ばたばた動かさなくても、自分できちんと感情を歌や演技で表現できる人なので、
こんな枠は必要ありません。

また、この公演で使用されている文楽人形は、やっぱり怖すぎます。
二幕二場の初めに舞が入る部分でも、ピンカートンを演じているダンサーに
へばりついていく蝶々さん人形は、チャッキー(映画『チャイルド・プレイ』に登場する、
人形の形を借りた殺人鬼)も顔負けの怖さです。
しかし、私が言うのは、見た目の怖さだけではなく、蝶々さんの子供を演じる文楽人形について、
今まで何度も言ってきたとおり、大人が意図したとおりに動かせるゆえの、
不気味さを感じるのです。
生前のミンゲラやHDのインタビューでも登場する、彼の奥様であり、コラボレーターでもある、
カロリン・チョアが語っているところによると、
子役を使用すると、演出家が望んでいるとおりに芝居をしてくれない、という問題があり、
文楽人形の使用は、それを解決した、ということになっています。
でも、私は、子役は、自分の境遇をわかっていなければいないほどいい、と思っていて、
舞台で、蝶々さん役のソプラノに抱きしめられながら、身をすくめたり、
呑気に舞台で遊んでいたり、全くオペラで進行していることに興味のない素振りをしたりするのを見ると、
”おお、これだよ、これ!”とわくわくしてしまいます。
子供が自分の身の不幸をわかっていないからこそ、蝶々さんの
”お前のお母さんはお前を抱いて Che tua madre dovra"(シャープレスに、
ピンカートンが戻ってこなかったら?とほのめかされて、それなら、芸者に戻るか、
それかいっそ死ぬわ!”と歌う場面)や、
最後の”さよなら坊や Tu! Tu! piccolo iddio!"での絶唱が光るのです。
親の心、子知らず、、、そして、この子のアメリカでの運命はどうなってしまうのだろう、、。
それを、この文楽人形は、訳知り顔で、かわいこぶって蝶々さんにしっかりと抱きつき、
しなを作ったりして、その計算ずくの可愛らしさ、蝶々さんの気持ちをわかってそうな感じが、私には許せません。
怖すぎるのです。こんな子供いるかっての!と。

ラセットは普段から、非常にユーモアのある会話をする人で、
幕間のインタビューでもそれが全開です。
一幕の最後に、桜吹雪が舞台の床にふりしきって、すべりやすくなっているのを冗談に、
ジョルダーニに舞台袖まで彼女を抱えて行くように指示し、
(ラセットはがっちりしているので、それこそジョルダーニのような大きい男性でないと、
それも難しいと思うのですが)
ジョルダーニがインタビュアーであるフレミングのところまでラセットを連れて来て、
床に下ろすと、”Thank you for carrying my ass.”とジョルダーニに言い放ち、
映画館中大爆笑でした。
訳すと、”私のデカケツを運んでくれてありがとね!”というような意味ですが、
日本のHDではどのように訳されるでしょうか。

今回は彼女が主役ということで、彼女自身も一生懸命気をつかってアップビートな
受け答えに終始していましたが、
第二幕第二場(自決する場面の直前)のインタビューで、フレミングが話しかける前に、
顔の表情がすでに蝶々さんモードになっているのがみものです。
インタビューのおかげですっかり地に引き戻され、
インタビュー後、また一から役に入りなおしたんだろうな、と思うと気の毒でした。
このインタビュー、観ている方は楽しいですが、もうちょっと歌手のことを気遣ってあげてもいいのにな、
といつも思います。

まあ、好き放題書きましたが、どうか、映画館に足をお運びになり、
頭をがつんとやられて、しばらくは言葉も発したくなくなるような
素晴らしいこの公演をご自身で体験していただきたいと思います。


Patricia Racette replacing Cristina Gallardo-Domas (Cio-Cio-San)
Marcello Giordani (Pinkerton)
Dwayne Croft (Sharpless)
Maria Zifchak (Suzuki)
Greg Fedderly (Goro)
David Won (Yamadori)
Keith Miller (Bonze)
Conductor: Patrick Summers
Production: Anthony Minghella
Direction & Choreography: Carolyn Choa
Set Design: Michael Levine
Costume Design: Han Feng
Lighting Design: Peter Mumford
Puppetry: Blind Summit Theatre, Mark Down and Nick Barnes
ON

Performed at Metropolitan Opera, New York on Mar 7, 2009
Live in HD (encore) viewed at Chelsea Cinemas, New York

*** プッチーニ 蝶々夫人 Puccini Madama Butterfly ***

THE 125TH ANNIVERSARY GALA (Sun, Mar 15, 2009) 後編

2009-03-15 | メトロポリタン・オペラ
中編より続く>

疲れている暇はなし!フィニッシュに向けて猛ダッシュです。

ヴェルディ 『シモン・ボッカネグラ』より
この作品のアメリカ初演はメトでしたが、意外に遅くて、1932年1月28日。
(S,Cはその初演時のプロダクションより。Sはカミーロ・パッラヴィチーニのデザイン。)

 ”どうして一人離れて~娘よ、その名を呼ぶだけで胸が躍る 
Dinne, perche in quest'eremo...Figlia, a tal nome io palpito"
   Placido Domingo / Angela Gheorghiu



今回のガラではプッチーニ、ワーグナー、そしてヴェルディを二本歌うドミンゴ。
どの演目でもきちんと自分のものにしているのは感嘆します。
ただし、来シーズンは、この『シモン・~』のシモン役で、
バリトン・ロールを全幕で歌うことが話題となっているドミンゴですが、
どんなに彼の歌声にはバリトン的な響きがある、と感じさせられても、
やっぱり彼はバリトンではなく、まぎれもないテノールである、
そんな考えれば当たり前な事実を再確認させられたのがこの演目でした。
テノールにしてはどしーっと重く、渋さを感じる声をしている彼ですが、
こうしてバリトン向けに書かれた役で聴くと、本来のバリトン歌手によって歌われる歌唱との比較から、
逆にいつもより声が明るく、軽くなったように錯覚するほどです。
来シーズンの全幕上演では、そのテノール的な声で歌われるこの役を
観客側が好きになれるか否かで、若干評価はわかれるのかもしれません。
しかし、役作りの上手さは言わずもがな。
ゲオルギューと父娘というシチュエーションも全く無理なく、リアルです。
ゲオルギューは、しばしば所在無げな手の使い方や、逆に妙なオーバーアクティングなどで、
演技の面の不足が指摘されることがありますが(言っているのはお前だろう!と
私に人差し指を差し向けられる方もいらっしゃいましょうし、その通りでもあるのですが、
私だけではなく、批評家筋からもそういう批判が出ているのを目にします。)
今日のこの役での、上品で、かわいらしさを残した役作りは非常に良かったと思います。
高音もものすごく通っていましたし、やっぱり相手がハンプソン(メトの2006年シーズンの全幕公演)でなく、
ドミンゴだと、力が入るってものなのでしょう。
繰り返しになりますが、これこそがドミンゴ・マジック。
彼の歌だけでなく、共演者からも最高の歌が出てくるという、
一石二鳥、三鳥(入る数字は共演者数次第。)の魔法なのです。


ワーグナー 『ジークフリート』より
アメリカでリング・サイクルが初めて上演されたのはもちろんメトで、1889年3月のこと。
(Cは、ヴォイトのそれは、その1889年のプロダクションでリリ・レーマンが着用したものがモデル。)

 ”私は永遠でした、今も永遠です Ewig war ich"
   Ben Heppner / Deborah Voigt



減量に成功してからのヴォイトは声量に以前のウェイトがなくなり、
歌唱のスケールが小さくなった、と評する人が多く、私も、ここ数年の彼女の歌唱、
特に声のスケールの大きさが要され、彼女が従来得意としてきた役、
たとえば、昨シーズンの『ワルキューレ』のジークリンデや、『トリスタンとイゾルデ』のイゾルデなどを聴くに、
同意せざるを得ないな、、と思い始めていたところだったのですが、
今日のこの演目、彼女のワーグナー歌唱でも最高のものが飛び出しました。
ここ数年では聴いたこともない豊かな声量で、オケの大音量をものともせずオペラハウスを制圧し、
”ワーグナーはこうでないと!”とわくわくさせてくれました。
彼女のこの豊かな声量のせいで、ベン・ヘップナーの声が蚊のなくような声に聴こえたほどです。
ヘップナーも決して不調ではなかったのに、、。
まあ、それくらいヴォイトが会心の出来だったということです。
ヘップナーに関しては、喉の不調が突然の腰砕けを誘発することもあって、
今日も何かをやらかすんじゃないか、とどきどきしながら見守っていましたが、無事に切り抜けてくれました。
ヴォイトはこれが突破口になって、これから先の全幕公演で迫力のある歌唱を聴かせてくれればいいな、と思います。
ちなみに絵のように見える上の写真は、実際の舞台写真で、真ん中にいるのがヴォイトとヘップナーです。

ここから3つは、プッチーニの作品からのテノール・アリア三点セット。
いずれも現行(ただし『トスカ』に関しては、来シーズンの新演出によって
お釈迦になってしまうことが決定しています)のゼッフィレッリのプロダクションより、
彼自身のセットのデザイン画や衣装デザインが参考にされ、プロジェクターでもそれらの一部が紹介されました。

プッチーニ 『ラ・ボエーム』より

 ”冷たい手を Che gelida manina"
   Joseph Calleja
2006年シーズンの『リゴレット』でのマントヴァ公の歌唱が良く、
歌い方に若干癖があるものの、私は決して嫌いではないカレイヤなんですが、
この”冷たい手を”はいけてないですねー。
後に続くデッセイの『椿姫』の一幕からの抜粋で、舞台袖からアルフレードのフレーズを歌ったのが
カレイヤで(フル稼働!)、こういうアルフレードやマントヴァみたいな、
ヴェルディ作品の軽めの役はすごくいいのですが、、。
そういえば、同じヴェルディでも、『マクベス』のマクダフの歌唱は、印象が薄かった。
このブログでの以前の議論の流れから参考までに書いておくと、
このアリアをきちんと正調で歌ってくれてもいたのですが、(なので最高音は正真正銘のハイCでした。
ガラでこのアリアを歌うのだから、当たり前といえば当たり前ですが、最近のトレンドでは、
平気な顔して半音下げで歌う人が出てきても驚きませんよ、私はもう。)
むしろ、彼のこのアリアでの欠点は、高音とかそういったことでは全くなく
(それはむしろ安定していて危なげなし。)、
フレージングの色気のなさ、これに尽きると思います。
続いていく音に滑らかさがなく、個々の音がブツ切れ状態で提示されているような印象を持ちました。
それから彼の声質なんでしょうか?のほほんとしたボンのような役は上手いんですが、
ロドルフォみたいな貧乏人にはカラーがそぐっていない気もします。
アリア後の拍手、劇場は盛り上がってましたが(アリア自体の魅力、知名度もありますから)、
期待値が高かっただけに、いまいち盛り上がれないMadokakipなのでした。

プッチーニ 『トスカ』より

 ”星は光りぬ E lucevan le stelle"
   Aleksandrs Antonenko
現在『ルサルカ』に出演中で、そちらでも好評を得ているアントネンコですが、
私は正直彼の歌声には全く魅力を感じません。
『ルサルカ』の王子役について、ヘップナーに似た不自然な発声の仕方等、
こてんぱんに書いている私ですが、この”星を光りぬ”を聴いても、
やっぱりその印象は変わらないどころか、一層その思いを強くしたくらいです。
彼の歌声に混じる”無理矢理さ”、これが聴いていて、実に私を落ち着かなくさせます。
このアリアについても、”抜く”表現が一切なく、ただただいっぱいいっぱいに声を張り上げるだけ。
声量と表面的には男らしく聴こえる響きのせいで、劇場は大喝采でしたが、
こういう歌唱には、やる気のない拍手を送るのが精一杯の私です。

 プッチーニ 『トゥーランドット』より

 ”誰も寝てはならぬ Nessun dorma"
   Marcello Giordani



”もう、やだあ。”
ジョルダーニが舞台に出てきて、目を覆いたくなりました。
なぜって、コレッリばりに毛皮の帽子を被っているんですもの、、。
毛皮の帽子の着こなしで私が許せるのは、こちらの記事で紹介した、コレッリだけなのに!!!
そして、曲が始まり、いきなり、Nessun dorma, nessun dormaの、二度目の低音域でのnessun dormaに大ずっこけ。
だって、声が”全く”出ていないんですから。
彼はこのレンジ、低すぎて声が出ないんですね。じゃあ、なんで歌うんだよーっ!!!!
高音の方はなんとか切り抜けていましたが、オペラというのは、
単純に高い音が出るか、という問題と同等かもしくはそれ以上に、声の質感が大事にされる中にあって、
全く、この役に必要なクオリティが彼の声にはないと思いました。
さらに、これはもう彼についてはずっと長らく続いている問題ですが、
声についてまわるざらつき感と、強引に声を絞り出しているのがあまりにあからさまな様子に、
聴いているこっちが歌に集中できないくらい、気になります。
しかも、三点セットでこれまでに登場したカレイヤやアントネンコに混じると、
生涯教育のために高校に復学してきたおやじさんのような疲れた雰囲気が漂ってます。
実際の年齢ではもっともっと上のドミンゴの舞台プレゼンスには、
一本ぴしーっと筋が通っているのに、これはどうしたことでしょう?

しかし、ある作品やアリアを歌える歌手がいないなら、無理に歌うことない!というのが私の持論で、
”誰も寝てはならぬ”は素晴らしいアリアなだけに、人気もあるし、こういう場に
盛り込みたくなるメトの気持ちもわからないではないですが、
こんなのはこのアリアに対する冒涜です!!!
しかし、来シーズンの演目表とキャストを取り出してみると、
『トゥーランドット』に予定されているカラフ役は、
このジョルダーニ(まじかよ、、)、ポッレッタ、リチトラ、ウェッブとなっていて、
暗澹とした気分になります。
むしろ、これがメト・デビューとなる(ゆえに未聴の)ポッレッタあたりが
ダーク・ホースであってくれることを期待しています。
(ヴァージニア・オペラの『トスカ』の抜粋のYou Tubeではほんの少ししか聴けませんが、
それに限っていうと、なかなかの男前声です。)
このガラに行かれた方は、どうぞ、You Tube(コレッリの歌に関しては、
Corelli, Nessun dormaなどで検索すれば出てくるでしょう。)なり、
お手持ちのCDなりで、お耳直しされてください。
このジョルダーニの歌で、私から拍手を求めるなんて、ありえないことです。

と、本当はプッチーニの作品が大好きである私が大盛り上がりしている筈の場所で、
とんでもない仕打ちを受けてしまったので、すっかり盛り下がってしまいました。
しかし、気を取り直して、次!

 ヴェルディ 『椿姫』より
(Cは、ジョネル・ヨルグレスコが1935年のプロダクションのためにデザイン、
1937年にはビドゥ・サヤーオが着用したものがモデルとなっています。)

 ”ああ、そはかの人か~花より花へ E strano!...Ah, fors'e lui...Sempre libera"
   Natalie Dessay / Joseph Calleja



この『椿姫』一幕からの抜粋で、一番印象に残ったのは舞台袖から歌う
アルフレード役のカレイヤの声だと言ったら、叱られるでしょうか?
品性があって、舞台袖であっても、ものすごくフレージングに細かい神経を使っていて、
素晴らしい歌唱だったと思います。
私は常日頃から、NYタイムズの音楽評のピントのぼけぶり、正々堂々とした間違いっぷりに、
湯気を立てている読者の一人ですが、そのNYタイムズのオペラ関係の評で
ずっとバンを張っているのが、トマシーニという人です。
彼は、ものすごく知識も豊富で、本当は公正な判断も出来る人だと私は思っているのですが、
個人的なお付き合いでもあるんでしょうか?
レヴァインと決まった一部の歌手への賛美が目に余るほどで、
それがしばしば、結果として記事をゆがめる結果となっていると感じます。
最近、NYタイムズでは大幅な人員削減があり、音楽評を担当するスタッフもカットされたりしたので、
さすがにこれはまずい、と感じたか、最近では若干それが修整され、
きちんとした公正な評が出てくることが多くはなりましたが。
今回のガラの評も、このトマシーニ氏が手がけていて、その中には、
このデッセイの歌について、”ドラマの面でも、歌の面でも、うっとりさせられるほど素晴らしかった”
と書いていますが、私は全く賛同しません。
まず、声については、特に今シーズンの『夢遊病の女』でもずっとその傾向が続いており、
心配しているのですが、高音域が空虚で、最高音では本当に絞り出さないと出てこない、という感じ。
彼女はもともとその傾向がありますが、ここまで行くと、辛いものがあります。
しかもヴィオレッタは、どんな男性でも買えるような安い売春婦とは違って、
ライフ・スタイル的には、半分社交界に足をつっこんだ高級娼婦なんであり、
その意味では、絶対に、一般女子には手も届かぬようなカリスマ性が必要なんですが、
デッセイのヴィオレッタには、それが残念ながら、ない。
彼女のヴィオレッタは普通の女の子の域を出ていないように私は感じます。
最後のオプショナルの高音を成功させた後(これに挑戦してくれるソプラノが
最近少ないので、その点ではエキサイティングではありましたが)、
デッセイが客に背を向け、片手を空にかざすと、いきなり、後ろにあったシャンデリアが爆発!
、、、、、、。
一体、どういう意味なんでしょう?それくらい、ヴィオレッタの恋心が燃え上がっている、ってこと??
このラス・ヴェガスも真っ青な、チージー(安っぽい)な演出には、鳥肌が立ちました。

ヴェルディ 『オテッロ』より
(1909年の演出から、ヴィットリオ・ロータ、マリオ・サラ、アンジェロ・パッラヴィチーニの
Sと、カランバによるCをリメイク。)

 ”何も恐れることはない Niun mi tema"
   Placido Domingo


(ガラの衣装合わせでオテロの衣装を身につけるドミンゴ)

ずっと彼が当たり役としてきた役なので、素晴らしい結果になるとは想像していましたが。
舞台が転換して、すでに絞殺された後のデスデモーナ(歌はないので、
ダンサーの方と思われます)がベッドに横たわっているおどろおどろしい場面からスタート。
実際の全幕公演では周りに人がいる状況で歌われるこの最後のシーンですが、
あえて、脇の登場人物を舞台にのせず、ドミンゴだけに仕切らせたのは大正解。
舞台にいるのは(死体以外)彼一人なのに、まるで、全幕の公演では一緒に舞台に立っているはずの、
部下やエミリアたちの様子が浮かび上がってくるような、完全なる”ドラマ”に昇華していました。
トマシーニ氏、ドラマ的に素晴らしい、というのは、こういうのを言うんではないでしょうか?
自分の命を絶って、床に崩れ落ちた後、立ち上がっては盛大な止まらぬ拍手が舞台の効果を半減すると思ったのか、
床に身を投げ出したまま、舞台を暗転させたのが一層効果的でした。
なので、客が彼を大喝采するチャンスはここではなし。
まるで、このシーンだけで、全幕を観たかのような、すごい歌唱でした。

コルンゴルト 『死の都』より
(Cは、アメリカ初演となったメトの1921年11月19日の公演で、マリア・イェリッツァが着用したのと同じデザイン。)

 ”私に残された幸せは(マリエッタの歌) Gluck, das mir verblieb"
   Renee Fleming



人気レパートリーではスタイル感のない歌を披露することがままあるフレミング。
そのあたりの自覚があってか、最近、ガラでは、どこでそんな歌拾ってきたの?という、
ややマイナーなアリアを披露することも。今日もそんなパターン。
これなら、他の歌手と不必要に比較されずに済みますしね。フレミング、冴えてます。
しかし、結果から言うと、この選曲は大正解。
レパートリーによっては、異常に気になる彼女のエキセントリックな発声や歌唱ですが、
今日は実際にエキセントリックさが薄かったのか、曲との相性か、全く気になりませんでした。
高音の扱いも非常に繊細で、彼女から聴ける歌唱の中では最良のグループに入るものが聴けましたので満足。

ワーグナー 『ラインの黄金』より
(Cは1889年の演出より)

 ”城へと橋は架かりました~夕べの空は陽に映えて
 Zur Burg fuhrt die Brucke...Abendlich strahlt der Sonne Auge"
   James Morris replacing Rene Pape / Yvonne Naef / Garrett Sorenson / Kim Gegley
   Kate Lindsey / Tamara Mumford / Lisette Oropesa
いよいよトリの演目。しかし、パペがいない上に、代役のモリスが好調ではなく、
彼以外に舞台にいる歌手たちの顔ぶれがやや地味だったために、
若干尻すぼみな印象に終わってしまったのは残念。
とはいえ、モリスの衰えは、『ドン・カルロ』に比べると、こちらの作品の方が目立たなかったので、
彼を今年のリング・サイクルで聴く予定である私はちょっぴり慰められました。

これで、全予定演目終了。
ジュディ・オングも真っ青の衣装を着た、天井から吊られた天使三人が
コンフェティを撒くなか、(またまたベガスのショー並みの悪趣味全開で私は泡を吹くかと思いました。)
全登場歌手が一人ずつ、舞台挨拶に出てきました。
この順番が結構微妙で、メトの苦労がしのばれます。
中ほどあたりに登場したクウィーチェンが遠慮して、列の端のほうに移動していく様子がかわいらしかったです。
まだまだ、自分は下っ端!という自覚があるんですね。謙虚な人です。
それに比べて、ゲオルギューの威光に傘を着て、ど真ん中に、ドミンゴと一緒に
陣取っているアラーニャ。この勘違いさが、私をいらだたせます。(↓ 証拠写真)



この後、N子さんKさんご夫妻と合流し、私の連れと4人でオペラハウスの近くでディナーを。
私の座っていたボックス席からほとんど真向かいのボックスにお座りになっていたお二人に、
”プッチーニの三点セットは不満でいらっしゃるんだな、とすぐにわかりました。”
と看破され、びっくり仰天。
やる気のない拍手のせいで何もかもお見通しだったようです。
舞台だけでなく、私の反応まで詳しく観察されていたBraviなお二人なのでした。
良い音楽と食事に、楽しいおしゃべり、最高の一日の締めくくりとなりました。


The 125th Anniversary Gala
And Celebration of Placido Domingo's 40 Years at the Met

(スタッフ・リストは字数制限のため省略いたします。前の記事をご参照ください。)

*** 125周年記念ガラ The 125th Anniversary Gala ***

THE 125TH ANNIVERSARY GALA (Sun, Mar 15, 2009) 中編

2009-03-15 | メトロポリタン・オペラ
前編より続く>

ヴェルディ 『リゴレット』より
(Sは、1951年のハーバート・グラフのプロダクションから、ユージン・バーマンがデザインしたもの。
Cは、1903年にエンリーコ・カルーソが着用したものと同じデザイン。)

 ”風の中の羽根のように(女心の唄) La donna e mobile"
   Juan Diego Florez



今日のガラの中でも、舞台に現れた瞬間、(歌う前から)観客から拍手が巻き起こったのは、
このフローレスとドミンゴくらいではなかったでしょうか?
『リゴレット』のマントヴァ公については、ついぞメトの舞台で歌う機会がないままに、
本人の弁によれば、”少なくともしばらくは歌うことがないと思う”と、
ほぼ役を封印するつもりであるような発言がありましたので、
彼の魅力を最大に引き出すレパートリーは他にあるとはいえ、
”女心の歌”を聴けるという意味では、貴重な機会となりました。
同役を歌うのを止めてしまう理由としては、重さではなく、
曲で必要とされる音域のせいだ、と説明していたフローレス。
確かに、この役をメインの持ち役にするであろうテノールが歌うそれに比べると、
逆に高音がやすやすと出すぎて、カタルシスがない、という面はあります。
また、重さについては、マントヴァ公がソロで歌う部分はオケがそれほど分厚くないので、
問題ではない、と語っていたフローレスですが、
声を聴くのに差し障りがあるような大問題はないですが、やはり、観客が通常この役に期待する
重さのレベルに比べると、”軽い”といわざるをえないでしょう。
ただし、彼の持ち味が最大に引き出される曲ではなかったとしても、
本人がきちんとスコアを勉強し、極めて丁寧に歌っていることは伝わってくる歌で、
フローレスらしいマントヴァではあったと思います。
最後のpensierのerを特大の大のばしにして(オケの最後の音が鳴り終わっても、
まだ伸びてました。)会場を沸かせたフローレス。
通常の全幕公演では、彼が得意としているレパートリーのせいもありますが、
通常よりも、音を増やしたり、音を高くしたりして難度をあげるのは聴いたことがありますが、
(というか、彼はそういう離れ業をしょっちゅうやってます。)
音伸ばしで湧かせた、というのはちょっと記憶にないので、新鮮でした。
ヴェルディ作品ならでは!ガラにはこういう遊び心はとってもいいと思います。
彼は、今日登場した歌手の中でも、もはや別格のオーラが漂いはじめています。


ヴェルディ 『ドン・カルロ』より
(Sは、1950年のマーガレット・ウェブスターのプロダクションから、ロルフ・ジェラールのもの。
Cは、そのプロダクションで、チェーザレ・シエピが着用したもののリデザイン。)

 ”もう彼女は私を愛していない~一人寂しく眠ろう Ella giammai m'amo"
   James Morris
この曲こそパペが歌うのかと思っていたのですが、最初からモリスが予定されていたようです。
彼は2006年シーズンの『マイスタージンガー』、その直後のパーク・コンサートの『ファウスト』
2007年シーズンの『ワルキューレ』あたりでは、衰えを感じるとはいえ、まだしばらくは歌えるだろう、と思っていたのですが、
今シーズンの『オネーギン』のグレーミンで信じられないほどよれよれな歌唱になっていて、
それこそ加速度という意味ではレイミーよりも高ピッチのものすごい勢いで、
声の老化現象がすすんでいるように思いました。
そして、残念ながらそれを確認することになってしまったのが、今日のこの曲。
フィリッポが枯れているほうがいいと言ったって、ここまで枯れてるのは問題。
すでに、声のコントロールが隅々まで及ばなくなっていて、
そのために、声が腰砕けをおこしそうになったり、細部の詰めがゆるい。
むしろ、高音に抜けてしまった方が、まだコントロールが効いているような気がしました。
彼の声域内での中低音の崩壊が激しいです。見た目や立派なたたずまい
(背が高くて、がっちりとしているけど太っていなくて、やっぱり素敵!)に、
加わった年輪は、ビジュアル的にはフィリッポにぴったりなだけに、いかにも残念。


R.シュトラウス 『ばらの騎士』より
1913年12月9日に、アメリカ初演をメトで迎えた作品。
(S,Cともに、そのアメリカ初演の際のプロダクションからで、
それぞれハンス・カウツキー、アルフレッド・ローラーのデザインが参考にされた。)

 ”私が誓ったことは Hab' mir's gelobt"
   Deborah Voigt / Susanne Mentzer / Lisette Oropesa
年齢による歌唱の衰退という、『ドン・カルロ』のようなパターンを除き、
今日最大の珍品は、この『ばらの騎士』からの三重唱。
レヴァインが途中で気合が入りまくり、
”うりゃーっ!”という声が指揮台から聴こえてきてびっくりしましたが、
この三人の組み合わせに最初から問題があったと思います。
まず、ヴォイトはマルシャリンには、声が強すぎ。
この役には、ただ高音が出るだけではなくて、”楽に”高音が出ているように聴こえることが大前提で、
それでこそ、このマルシャリンという大人の女性を描ききれるというものです。
高音が来るたびに、まるでワーグナーの作品かのように絶叫するヴォイト。
決して、『ばらの騎士』を全幕で歌おうなんて、妙な考えを起こさぬようお願いしたい。
そして、そんな彼女の横で、オクタヴィアンを歌うメンツァーの声はかき消されっぱなし。
一方、ゾフィーを歌ったオロペーザ。
彼女は本来はこんなガラに出てくるようなキャリアのある人ではないので、
歌がまだまだ稚拙。一生懸命声を張り上げて歌っているだけ、という印象。
彼女も割ときんきんした強い高音なので、ヴォイトとバッティングして、うるさいよ、もうっ!!って感じでした。
音がたくさん載っているこういう曲こそ、一人一人が繊細に歌わなければいけないのです。
オケも、サマーズが演奏した仰天するくらいひどかった『サロメ』に比べると、
まだレヴァインの方がましで、R.シュトラウスの作品が大好きである私は、
メトがシュトラウスの作品を上手く演奏できないというような悪夢のようなことは
信じたくない気持ちで一杯なのですが、
歌手側の問題と同様に、オケも全パートがいきみすぎなような気がしました。
音の渦の中から美しさがむらむらむらーっと立ち上がってくるのがこの曲なんですが、
残念ながら、混沌のままで終わってしまったような印象です。
しかし、そういえば、この曲では、もともと、ゾフィーをデッセイが歌う予定だったはずなんですが、、。
ま、彼女が入ったところで、珍品に仕上がったことには変わりないでしょう。

モーツァルト 『ドン・ジョヴァンニ』より
(Cは、エツィオ・ピンツァが着用したもののリメイク。)

 ”酒がまわったら(シャンパンの歌) Fin ch'han dal vino"
   Mariusz Kwiecien
ルチーチとならび、現役のバリトンの中では好きで、大期待しているクウィーチェンなんですが、
これはちときつかったか?
まだこの曲一曲で観客を興奮の坩堝に叩き込むほどのカリスマはないですし、
歌いまわしも荒い気がしたのは、レヴァインの猛スピード演奏のせいでしょうか?
ずっと、特にヴェルディとかワーグナー作品なんかでは、ゆったりのったりと演奏することの多かったレヴァインが、
最近、薬でラリってでもいるのかと思うくらい、激早な演奏を繰り出すときがあって、
その毒牙にかかってしまったのかもしれません。可哀想なマリウス、、。
ドン・ジョヴァンニの女性陥落好きのキャラにかけて、
背景に過去の歴史的な女性歌手の写真が18枚並びましたが、
アリアが終わって、クウィーチェンが客席に背を向け、写真に投げキスを送ると、
真ん中にあったマリア・カラスの写真がウィンクを返すようなCGが採用され、客席を沸かせました。
それにしても、彼の持ち味が完全には出なかったのが返す返すも残念。


ワーグナー 『パルシファル』より
バイロイト音楽祭以外で、演奏会形式でなく、きちんとこの作品を舞台にかけた初めての劇場が
メトでした。時は1903年12月24日。
(S,Cもその時のものに基づく。)

 ”哀しや、哀しや、この身の上!~願いをかなえる武器はただ一つ
 Ja, Wehe! Wehe!...Nur eine Waffe taugt"
   Placido Domingo / Thomas Hampson
オペラ好きになってからも、何年もの間、どうしてもイタリアもののようにワーグナーの作品に
入り込むことが出来なかったこの私に、ワーグナー作品への道を開いてくれたのがこの『パルシファル』で、
今でも、一番好きなワーグナーの作品は、リングでも、トリスタンでもなく、この『パルシファル』です。
しかし、私のそんな特別な思いがあるからだけではなく、最高に素晴らしかった今日のこの演目。
聴いているうちに涙が出てしまいました。
ドミンゴが舞台に現れるまで、合唱陣の前に立ち、一人で歌うアンフォルタス役のバリトン。
素晴らしい!!!
抑えた中にほとばしる感情が溢れています。
しかし、誰なんだろう?このバリトン。
あまりにアンフォルタスしていて、どの歌手だか全くわからないんですけど。
普通は、舞台に出てきて声さえ発してくれれば、どの歌手だかすぐわかるので、
プレイビルのキャスト表なんて、ほとんど見ていなかったのですが、
気になって、気になって、そっと膝においてあったプレイビルを見ると、
”アンフォルタス トーマス・ハンプソン”の文字。
きゃあああああああっっっっ!!!
危うく大声をあげそうになるところでした。
しかし、そう言われてじっと舞台に目をこらしても、これがあの俺様ハンプソンだとは絶対に信じられない!
完全に自分を捨て、役になりきってます。
本当に、あなた、ハンプソンよね?!と舞台に降りていって、肩を掴んでゆさぶりたい衝動にかられた位に。
声も良く出ていれば、歌も本当に丁寧。こんな歌、あなた、歌えたの?!
そして、聖なる槍を持って現れるドミンゴ。
もうただでさえ、この世のものでないような曲なのに、この二人が、本当に天上の音楽ともいえる
歌唱を聴かせてくれるもので、私は、このキャストで、『パルシファル』全幕を観たい!!と、
身悶えするような思いでした。
そうだ!素晴らしいクンドリを歌うマイヤーもせっかく揃っているんだから、彼女もキャストに入れて。
それにしても、後半の『シモン・ボッカネグラ』ででも言えることですが、
ドミンゴが舞台に立つと、同じ舞台に立っている他の歌手からも最高の歌が引き出されるような気がします。
誰がトーマス・ハンプソンから、あの俺様な空気を拭いさることができると予想したでしょう。さすが、ドミンゴ様。
今日のハンプソンの歌は”謙虚”という文字がぴったりでした。
鳩が舞い降りてきたときには、涙が溢れて来て、ガラではなく、全幕の最後を鑑賞しているような気持ちでした。
(ちなみにセットも、今日のガラの中ではかなり豪華でした。)
間違いなく、今日最高のパフォーマンスは、歌唱、オケ、合唱全ての面で、この『パルシファル』です。

ここでインターミッション。いつもは、一人で劇場に来て、一人で鑑賞して、
一人でブログに思いのたけをぶちまける!という、”寂しい人”している私ですが、
今日は我が家の犬のちびこい方(私の旧友は、私がアラーニャ嫌いなのを知っていて、
あえて彼に”アラーニャ二号”という源氏名をつけた。もちろん、一号は、兄貴の方。)のお世話を
長い間してくださり、二号の命の恩人である、N子さんとKさんのご夫妻と合流。
別の方のご意見を聞くのは本当に楽しい!
しかも、とてもよくご覧になり、よく耳を傾けられているうえに、
今日のプログラムや出演予定者までもよく予習されていて、
Madokakip、ご意見をチョロまかして、ここに書いてしまいたいくらいでした。
あっという間に時間が経ってしまいましたが、終演後にディナーをご一緒する約束をして、
後半のプログラムにむけ座席に帰還。いよいよ、後半のスタートです!


 モーツァルト 『魔笛』より 序曲
序曲が演奏されている間、前編でもふれた、メトのシンボルの一つである、
マルク・シャガールの絵”音楽の勝利”を使い、デッサンから、
段々絵の具が着色されていく過程をCGにしたものが、舞台上のスクリーンに映しだされました。
『ドン・ジョヴァンニ』に続いて、ラリるレヴァイン。
猛烈な速さで演奏されるこの序曲を、生き生きしている、ととるか、”病的だ、、”と感じるかは、観客次第。
私は、もちろん、、、ですよ。
しかし、こう見ると、レヴァインはモーツァルトで激早になりがち、ということなのか、。
壊れてしまったマリウスとは対照的に、オケは、よくついて行きました。

 プッチーニ 『ジャンニ・スキッキ』より
『ジャンニ・スキッキ』が含まれるプッチーニの『三部作』は、1918年12月14日に、
メトで世界初演を迎えました。

 ”私のお父さん O mio babbino caro "
   Maija Kovalevska
ドミンゴで資金を潤沢に使用したらば、どこかでセーブせねば。
というわけで、『アイーダ』のグレギーナ&ブライス組に続いて、安くあげられた組のコヴァレフスカ。
意味なく、暖炉やソファが動きだし、彼女の歌に聞き惚れている、という様子なんですが、
(スタッフが絵に書かれた家具を持って、右に左になびいている。)
寒すぎる!!こんなの、私が卒業した小学校の学芸会でも見れないくらいのしょぼさですよ!!
そして、これを”かわい~い!”と思うのか、なんなのか、観客にはうふふ、と笑っている人まで。
私、今、この瞬間の、オペラハウスの様子がすんごく、怖いんですが。
大体、このアリアに一体家具が何の関係があるのか?!
コヴァレフスカは、今シーズンの『ラ・ボエーム』で、少し声や歌い方に柔軟性が出てきたかな、と思ったのですが、
やっぱり駄目ですねー。声がかちかち。どうして彼女はこうも声が硬く聴こえるのでしょう?
高音も絶叫モードです。
このアリアは、もっと柔らかさを持って歌ってほしい。
それこそ、彼女の歌の先生、ミレッラ・フレーニのように。

チャイコフスキー 『スペードの女王』より
1910年3月5日に、メトでアメリカ初演。
(Cは、その時に着用された、E.S.フライジンガーがデザインしたものの再現。)

 ”あなたを愛しています Ya vas lyublyu"
   Dmitri Hvorostovsky
ロシアもので来てくれましたね!これは嬉しい!!
そういえば、彼も登場した瞬間に客席から拍手が巻き上がった歌手の一人。
『トロヴァトーレ』のルーナでは、声の重心が下がる場面が多くて、ひやひやさせられるところもありましたが、
この曲では中盤に一度だけ、音がサギー(重心が下がり気味)になった以外は、
その点で気になる部分はありませんでした。
端正な歌唱で、声もよく出ていたと思います。
(アリア単位では、彼は十分にメトのような大箱でも届く声量を持っているとは思います。)
今シーズンの『スペードの女王』でのストヤノフの歌唱に不満が残ったので、
この曲も、ホロストフスキーがこんな小さな役(エレツキー)で全幕に出演することは今後まずないでしょうから、
フローレスのマントヴァと並び、希少価値あり、◎な選曲でした。
観客からの大歓声に、『トロヴァトーレ』の時に続き、
またしても、にっかにかの満面の笑みのホロストフスキー。
私は、昨シーズンまで、彼の舞台挨拶といえば、ぶすーっとした、
”なんか、今日、機嫌悪いですか?”という感じのものしか記憶にないので、
このキャラ・チェンジに戸惑ってます。
きんきらの豪華な衣装、似合ってました。

(冒頭の写真はNYのローカル局、NY1で放映された
『ファウスト』のマルグリートの衣装合わせを行うラドヴァノフスキーと、
今回のガラの衣装担当キャサリーン・ズーバー。)


後編に続く>

The 125th Anniversary Gala
And Celebration of Placido Domingo's 40 Years at the Met

Conductor: James Levine
Director: Phelim McDermott
Associate director & set designer: Julian Crouch
Costume design: Catherine Zuber
Lighting design: Peter Mumford
Video design: Leo Warner & Mark Grimmer for Fifty Nine Productions Ltd.
Sound design: Scott Lehrer
Chorus master: Donald Palumbo
Grand Tier SB 35 Front
ON

*** 125周年記念ガラ The 125th Anniversary Gala ***

THE 125TH ANNIVERSARY GALA (Sun, Mar 15, 2009) 前編

2009-03-15 | メトロポリタン・オペラ
準備編から続く>

そんな風に青筋を立てながら準備をしている最中に友人から電話があって、
”ルネ・パペが降板。”とのこと。
まじかよー!!
ボリスはどうなる?
それから、トリの『ラインの黄金』のヴォータンはどうする?
しかし、私の準備の手を止めるわけには行かないので、
やっとの思いで”代わりは誰?”とだけ聞くと、その答えが、
”トーマス・ハンプソン。”
、、、、、、ひゅるるるる~。
しかし、ちょっと待って下さいよ。
ハンプソンはバリトンだし。
ボリスとか、ヴォータンとか、歌えないし。
ってことは演目ごと変更か?と思うと、ますます暗澹とした気分になってきました。
また彼の、俺様な歌をたっぷり聴かされるのか、と。

オペラハウスに到着すると、ここ最近では、見た事がないほど、
多くのチケット希望者が外に溢れていました。
華やかさでは似た雰囲気のものに、オープニング・ナイトがありますが、
しかし、オープニング・ナイトではこういう光景は(少なくともここまでの希望者の多さは)まず見かけません。

これはオープニング・ナイトがやや社交イベントと化していて、
そういう場が苦手なオペラヘッズは遠慮したり敬遠してしまうのと、
また、例年は今年のオープニング・ナイトのフレミングによるガラのような形式ではなく、
その後に一般のランで引き続き上演される全幕ものが舞台にあげられることが多いので、
同じキャストを後の公演でも観れるので、そういった人はそちらに流れてしまう、ということなどが考えられます。
しかし、今日のこのガラのような面子が、こんな数で、一夜にして揃うのは、メトでもそう頻繁にはないこと。
社交イベントには全く興味がないと思しき激しいオペラヘッズたちが、
正々堂々と、全くの普段着で、”チケット求む!”の紙を掲げ、目を血走らせているのも、当たり前といえば当たり前です。

ほとんど開演ぎりぎりでオペラハウスに入ると、
もらったプレイビルからぴらぴらしている紙片。これだなー、ルネのキャンセル通知は!
さあ、ハンプソンが何を歌うか見てやる!とページを開けば、そこには、
”病欠のパペに変わって、ジョン・トムリンソンがボリスを歌い、
ジェームズ・モリスがヴォータンを歌います。
また、モリスが当初歌う予定だったメフィストフェレスの黄金の子牛の歌は、
ジョン・レリエーが変わりに歌います。”の文字が。

ん、、?トーマス・ハンプソンのことなんて、どこにも書いてないんですけど。
しかし、よーく見ると、ジョン・トムリンソンと、トーマス・ハンプソン、、。
確かに、なんとなーくですが、名前の感じが似てる。
私の友人も、私と同様、全くハンプソンのことがぴんと来ない、というか、
はっきり言って苦手に思っている人なので、
トムリンソンでも、ハンプソンでもどうでもええわ!ってことだったのでしょう。
いいんですよ。そんなもんです、ハンプソンは。
(まあ、間違えられたトムリンソンは迷惑でしょうが。)

従来、メトのガラといえば、これだけ歌われる演目、アリアの数が多い場合、
数種の演目の固定したセットを次々と用い、
そこに、歌手たちが自前のドレスやタキシードを着て現れる、というのが一般的なパターンでしたが、
今回は、プロジェクターやアンプを通した効果音でプログラムをつなぎながら、
非常に簡素なものではありますが、時にはそのプロジェクターの助けも借りながら、
過去の舞台にインスピレーションを受けた、それぞれの場、アリアを想定したセットが組まれていました。
ゆるい構成ではありますが、今日のガラ全体については、
天使(ジュディ・オングの衣装を借りた蝶に見えなくもない)が
観客をショーにいざなう、というような大きなストーリーがあって、
最初と最後をはじめとする要所に彼らが登場。
各演目の前には、その演目がメトで初演された当時のキャスト表(新聞か何かでの告知か、
プレイビルのいずれかだと思われます)が、
また、『魔笛』序曲が演奏される間に、メトのシンボルの一つでもある、
シャガールの絵が段々ペイントされていくアニメーションなどが
プロジェクターに写されたりして、楽しめました。
(ちなみにそのシャガールの絵を銀行の担保に入れることをメトが考えているらしいことが、
少し前のNYタイムズに掲載されていました。そんなに現金の調達に困っているのか?!)

また、衣装に関しては、今日登場する歌手全員のために、
歌唱予定の作品それぞれにあわせたものを準備をしたようで、
ほとんど全てが、過去のプロダクションで着用されたものにインスピレーションを受けた
(おそらく、全くそのままではないが、大体のデザインは守られている、という意味だと思われます。)
ものとなっています。
各演目名の後の()内で、それぞれがどのプロダクションに基づいているか、表記します。
Sはセット、Cはコスチューム(衣装)を意味します。


 グノー 『ファウスト』
メトはここから始まった!といえる演目でガラはスタート。
ブロードウェイ39丁目の旧メトで、1883年10月22日、初年の、オープニング・ナイトの舞台にかかった
記念すべき演目が、グノーの『ファウスト』なのです。
(S、Cともに、その1883年シーズンのもの。)

 合唱 ”ワインでもビールでも Vin ou biere”
   Metropolitan Opera Chorus
今日は全プログラムをレヴァインが指揮したわけですが、ガラ系のイベントで、
これほどまでに彼の指揮の求心力の弱さを感じたのは初めてです。
以前は、特にガラなどの特別な場では、彼がぴしーっとオケを統制し、緊張感を生み出していて、
それがオケから、気迫のこもった音を引き出す理由にもなっていたのですが、
(音楽性がどうの、という話は別の次元の話になりますが、
まずは丁寧かつ気合の入った演奏であったことは、DVD化されている昔のガラの様子などからもわかります。)
しかし、今日は、体調が思わしくないんでしょうか?その指の先まで神経が行き届いた感じがありません。
結果として、オケの演奏も、いつになくバラバラな感じがしましたし、
それはこの曲で、合唱が全くオケとシンクロしていなかったことでも明らかだったように思います。

 ”黄金の子牛の歌 Le veau d'or"
   John Relyea replacing James Morris



今シーズンの『ファウストの劫罰』のメフィストフェレスの印象がまだ強烈なジョン・レリエーが、
先に説明したような事情により、グノーの『ファウスト』のメフィストフェレスとして登場。
また赤い衣装ですね。そして、相変わらずそれが似合ってしまってます。
ただ、声は、彼が絶好調な時は、もっとぱりっとクリスプで、深い声なんですが、
今日の彼は本領発揮とまでは行っていなかったように思います。
この役はまだ全幕では歌ったことがないんでしょうか?
あの『劫罰』のときの、迷いなきデモーニッシュな感じと比べると、
こちらのメフィストフェレスは少しキャラクターが薄かった気もします。
まだ役として、発展途上なのかもしれません。

 ”宝石の歌 O Dieu! que de bijoux...Ah! je ris de me voir"
   Angela Gheorghiu
かれこれ10年以上前になる日本公演の『カルメン』のミカエラ役のブロンドの鬘が気に入らない、と、
わがままを言って前支配人のヴォルピ氏を怒らせたのも今は昔。
ミカエラの鬘より、もっと似合っていないプラチナ・ブロンドの
おばさんパーマのような変てこりんな鬘にも文句を言わずちょこんと頭にのせて登場したゲオルギュー。
今日は彼女は高音の伸びが非常に良く、最近の中では最も好調な日の一つだったように思います。


 ”早く!早く! Alerte! alerte!...Anges purs"
   Sondra Radvanovsky / Roberto Alagna / John Relyea
アラーニャとゲオルギューの夫婦コンビは基本(『つばめ』以外は)ご勘弁!と思っている私なので、
アラーニャの、このラドヴァノフスキーとのコンビはいいかな、と思ったのですが、
どうやら少し無理があったようです。
アラーニャの割と線の細い声は、終始、ラドヴァノフスキーの大きな声の比較対照となってしまい、気の毒。
本来、このあたりのフランスものはアラーニャの歌唱が割と光るレパートリーなのに、、。
ラドヴァノフスキーは、この瓦も破る大声のせいで、逆にキャリア的に損をしているのではないかという気がします。
それこそ、デル・モナコのような声量の持ち主でないと、彼女には太刀打ちできないでしょう。
今、そういうテノールは実に少なく、彼女が全体のアンサンブルをぶち壊しにしてしまうことにもなりかねません。
全幕でキャスティングするのが、非常に難しい人だと感じます。
レリエーすら、影が薄く、何か、”マルグリートがとてもうるさい『ファウスト』”を聴いた感じでした。
もうちょっと優しいたおやかな『ファウスト』が聴きたい。

プッチーニ 『西部の娘』より
1910年12月10日にメトが世界初演の場所となったこの作品。
今回のガラは、ドミンゴのメト・デビュー40周年を記念したガラでもあるからか、
他の演目のセットがあくまで旧演出の雰囲気を残しているだけなのに対し、
こちらは豪華に、ほとんど忠実に再現されていたものの一つ。
(S、Cともに、その初演時のベラスコによるプロダクション。)



 ”やがて来る自由の日 Ch'ella mi creda"
   Placido Domingo
ドミンゴの現在の歌を、”過去のテノールのそれ”呼ばわりする輩は、
この歌唱を聴いてから、出直して来い!と言いたくなります。
細部にまで神経のこもった素晴らしい歌。
老人がフィギュア・スケートの世界大会に登場し、スピードでは上回る若者出場者と、
芸術性を武器に、首位を争っているような感じといいましょうか。
いや、はっきり言って、今日ガラに登場したテノールで、
彼とそういった意味で張り合っている若者出場者の例としてあげられるのはフローレスぐらいで、
(全然違うタイプの歌手ではありますが)
フローレス以外のテノールでは勝負にすらなっていないと言っても良いくらいです。
半分、自分が主役でもあるこの機会はすごく本人にとっても大事だったのでしょう。
その大事なときに、こうしてきちんと絶好調なところに自分のコンディションを持ってこれること自体もすごすぎます。
とにかく、彼が登場した演目は全て、全幕を見たくなった。
彼のようなピカ級の歌手と、そうでない歌手の差はそこにあるんだと思います。
高音も、まっすぐに飛んできていたし(ワブリングはほとんど感じられない。)、
声量も今日は全く問題がなく、観音様を見るように、思わず手を合わせてしまう私でした。
ああ、合掌。


ヴェルディ 『アイーダ』より
ここで安くメトにあげられた、グレギーナとブライスよ、怒れ!
というわけで、セットらしいセットはなし。
(S,なし。Cは1908-9年シーズンにエマ・イームズとルイズ・ホーマーによって着用されたものの復元。)

 ”静かになさい!アイーダが私たちの方にやって来ます Silenzio! Aida verso noi s'avanza!...Fu la sorte"
   Maria Guleghina / Stephanie Blythe
1908-9年という時代がなせるわざか、このエジプトやエチオピアに関する
勘違いなファッションにはちょっとひきました。
特にグレギーナが着用している虹のような布は一体何、、?
当時、アメリカの劇場がアフリカ文化に対して持っていた理解はこんなものか、とちょっと仰天です。
現在のプロダクション(来シーズンのHDに予定されています!)に感謝の念が湧いてきました。
いつもは、私の連れに、肩の肉の豊かさを理由に、アメフの選手呼ばわりされている
マリア・グレギーナですが(自家製の肩パッドに見えるらしい)、
そんな彼女も、ブライスの横に立つと、ものすごく小さく見えるから、あら不思議。
ブライスは、普段、たっぷりした衣装を着ることが多いので、ここまでとは思わなかったのですが、
ほんと、でかい!!!
でも、私は歌手については、歌さえよければ、巨体でも全然OKなので、ノー問題。
で、彼女は、私は才能豊かで、これからさらなる飛躍が期待できるメゾだと思ってはいるのですが、
このアムネリスはまだまだ”研究中””勉強中”の文字がちらちらしました。
フレージングに曖昧なところが散見されましたし、ある意味、魅力と背中合わせになっている、
彼女の少し下がりがちな声(しかし決して音が外れているわけではない)が、この役ではやや鈍重に感じます。
この役に関しては、もっと上に声をひっぱりあげることを心がけた方がいいかも。
もともと、メトでアムネリス!といえば、のザジックの歌と比べると、
高音でのキレは太刀打ちできないので、さらに研究を重ね、彼女の持ち味を高めていくことが大事です。
まだ、その、彼女の”これ!”というものが見えていないような感じのする歌唱でした。
それと、もっともっとこの役は、オケを聴いて遠慮しながら歌うのではなく、
自分がオケをひっぱるくらいに、”私はこう歌う!”というような、
確固としたフレージングや音の長さ(細かい意味での)への自信が必要だと思います。この役での彼女は遠慮しすぎ!
確か、近いうちにメトでこの役に挑戦するはずだと記憶しているので、それまでに彼女の確固としたアムネリスを
作り上げてくれることを期待しています。
一方、グレギーナは、逆にこれまで十分なアイーダ役での実演経験があるからか、
ずっとこなれている感じで、最近の彼女にしては高音も安定していましたし、悪くない歌唱だったと思います。


ムソルグスキー『ボリス・ゴドゥノフ』より
1913年3月19日、メトでアメリカ初演。
(Cのみ、その1913年のイワン・ビリビンの演出から。)

 ”ボリスの死 Death of Boris(Proshchai, moi sin, umirayu!)"
   John Tomlinson replacing Rene Pape / Jesse Burnside Murray
事前にプレイビルに目を通す習慣のない人は、
”なんかパペ、急に老けて、かつ、体が水気を失って、かすかすになってない?、、”と思わされる
ハンプソン、じゃなかった、トムリンソンの登場。
パペの若くて勢いのある声に比べると、おそらく歳はずっと上であるトムリンソンのそれは枯れ気味。
だけれども、その枯れが決して不利だけに終わらない演目というのが、
オペラにはあって、このボリスはその一つでしょう。(他には『ドン・カルロ』のフィリッポなんかもそう。)
声の深さも今一歩、という感じで、飛び切りの歌唱、というのにはちょっと躊躇しますが、
演技が割合に達者で、観客を最後までひきつけていたのは賞賛に値します。


ヴェルディ 『ナブッコ』より
(Cは、2001年のプロダクションから、アンドレアン・ネオフィトゥによるデザインのもの。)

 ”行け、わが想いよ、金色の翼に乗って Va, pensiero"
   Metropolitan Opera Chorus
オペラ、特にイタリアものが好きなら、この曲は絶対好きなはず!の定番メニュー。
絶対に一緒に歌いだす人がまわりにいるのもこの曲。
そういえば、昨夏のパーク・コンサートでも演奏したばかりでした。
しかし、今日の演奏、『ファウスト』からの合唱とほとんど同じ理由で、
私は、ゲオルギューのまぶだち指揮者マリンが引っ張ったパーク・コンサートの時の方が
ずっと出来が良かったと感じました。
せっかくの曲が、エッジを欠いたまったりした演奏のせいで台無しだったと思います。


 ビゼー 『カルメン』より
(S自体は簡素なものですが、1952年のタイロン・ガスリーのプロダクションから、
ロルフ・ジェラールの手によるセットのデザイン画がプロジェクションで使用されました。
Cは、カルメンの衣装のみ、1935年の公演でローザ・ポンセルが着用したヴァレンティナの衣装をもとに。)

 ”あんたね! 俺だ! C'est toi?...C'est moi...Carmen, il est temps encore"
   Waltraud Meier / Roberto Alagna / Erin Morley / Kate Lindsey
タイのついたドレスと黒い髪をぴっちりとわけた髪型、まるで男装の麗人のような雰囲気でかっこよすぎのマイヤーと、
何となくたたずまいのかっこ悪い男、アラーニャの共演。
しかし、結果は全くの逆。
私は常日頃から、カルメンは、色気べたべたの女性ではなく、むしろ、非常に男性的な女性であると思っていて、
(そう感じ始めるようになってから、これと全く同じことを
カラスがインタビューの中で語っているのを聞いたことがあります。
また、実際、カルメン歌いとして名高かったバルツァの舞台からも、
私は女性特有のむんむんした色気というのを感じたことがありません。)
その意味では、カルメンの、孤独(自由であるということは孤独なのです)、
かつ、凛とした強さをきちんと演技で表現しているという点で、
演技面では、マイヤーのそれは、かなり私の好きなタイプのカルメンなのですが、
いかんせん、声の質と歌い方が、あまりに違和感がありすぎます。
その歌いまわしの妙さ、声の使い方の独自なことは、
ずっと聞いているうちに、『カルメン』ではない作品を聴いているような気がするほどです。
彼女はワーグナーなどの作品では本当に素晴らしい歌手なのですが、
この『カルメン』に関しては、歌唱面では同じレベルの興奮を求められません。
演技が達者なので、ホセに刺し殺されるところなんか、迫力満点でしたが、
全幕でこれを聴くのは辛いです。
(そして、それは、数日後の『カヴァレリア・~』の公演のサントゥッツァ役の歌唱で実証されてしまいます。)
逆に、格好良かった男が格好悪い男に転落していくというホセ役の、
まさに格好悪い方の極地にあたるこの場面を、アラーニャが上手くまとめていました。
マイヤーが相手だと、ラドヴァノフスキーの時のように声が小さく聴こえてしまう錯覚もなし。
ただ、マイヤーがものすごくクールで大人な感じのカルメンなので、
アラーニャとの組み合わせは、少しちぐはぐか?
来シーズンのメトではゲオルギューのカルメン(!)と共演する予定のアラーニャ。
ゲオルギューのカルメンなんて、全然想像できないので、アラーニャとのケミストリーがどうか、
なんてことも予想不可能。実際に観て確かめるしかありません。


中編に続く>


The 125th Anniversary Gala
And Celebration of Placido Domingo's 40 Years at the Met

Conductor: James Levine
Director: Phelim McDermott
Associate director & set designer: Julian Crouch
Costume design: Catherine Zuber
Lighting design: Peter Mumford
Video design: Leo Warner & Mark Grimmer for Fifty Nine Productions Ltd.
Sound design: Scott Lehrer
Chorus master: Donald Palumbo
Grand Tier SB 35 Front
ON

*** 125周年記念ガラ The 125th Anniversary Gala ***

THE 125TH ANNIVERSARY GALA (Sun, Mar 15, 2009) 準備編

2009-03-15 | メトロポリタン・オペラ
125周年記念ガラの日が近づき、てんこ盛りかつ長丁場の予定演目を眺め、
目標とされる寄付金のその多額なことや(ガラのチケット代は通常の座席代に、
寄付金分が加算されたものになっているうえ、さらにそれとはまた別に、
あの手この手の寄付金巻上げ作戦が展開した。)、
ガラに出演予定の歌手全員のために、それぞれ衣装が用意されたらしい事実などを聞くにつけ、
世の中の経済不況が別の世界のことのように思え始めていたところでしたが、
私の銀行口座だけが、まぎれもないこちらの世界のものであることを主張してやまないのでした。

5番街やパーク・アヴェニューに面したドアマン付きの高級アパートメントと違い、
ドレスを着るということが甚だ浮くことを意味する我がアパートメントにあって(大体エレベーターすらない、、。)、
オープニング・ナイト
ではすっかり弱気になってしまった私ですが、
この125周年記念ガラこそは、キャブに乗ってしまえばこっちのもの!
ドレスのまま大通りを渡ってキャブを捕まえてみせる!それだけの我慢!とすっかりやる気満々でいたのですが、
メトの2009年シーズンに自分がどれだけ公演を観に行くことになるか概算してみた途端、
ドレスを買っている場合ではない!という事実に改めて衝撃を受ける。

しかしです。こんな大イベントに、いつもと同じワンピでは気分が盛り下がるぅ!!
で、ふと思いついたのが、以前、テレビで見た、この不況の中で注目を浴びているという、
ノリータにある、イヴニング・ドレスのレンタル・サービス。
ウェブで見るとなかなか可愛いデザインのものもあり、レンタル代は3日で150ドルほど。
これなら来年の公演チケットのどれを削ることなくドレスを着れる~!と大喜びで、
ガラ前日の土曜に、ノリータに参上!
外から見ると、普通の洋服屋さんのようなかわいらしい店構えなのですが、
中は基本レンタルのドレスがぎっしり!(一部は購入することも出来ます。)

しかし、です。ことはそう簡単ではなかった、、。
ウェブで見るのと店頭で実物を見るのとは大違いで、
やはりレンタルで何度も着倒され、しかも一回一回クリーニングにかけるからか、
ドレスが非常にくたびれて見えるのと、
こんなに店内にたくさんあるように見えるドレスも、
結局サイズが合うものだけに絞るとそれほど数は多くなく、
またドレスというものは体育の授業のジャージを貸し借りするのとは違って、
きちんと体に合わないと、これほど不細工なことはないわけですが、
レンタルなので、当然お直しは不可。
しかも、ドレスが素敵になればなるほど、レンタル代が150ドルではなく、もっと高い値段がつけられていたり、と、
ちょっとこれって詐欺じゃない?なのでした。
ドレスって、買っても後で置き場所にも困るし、同じものを何回も着るものでもないので、
在庫さえもっとそろえることが出来れば、面白いビジネス・アイディアだとは思うのですが、
今回はご遠慮させていただくことにしました。

今年も髪で遊ぶしかないのか、、と、すっかり落胆して店を出たその時、ふと目の前に飛び込んできたのが、
NYの若手のデザイナーたちが経営しているブティックたち。
もちろん、高級メゾンのような贅沢な生地は使えないので、お値段もずっとリーズナブルですが、
それでいて、デザインの心意気では有名デザイナーに全然負けてません。
そして、その中の一軒で、実に素敵なデザインの、淡いパープル色のドレスを発見!!
”絶対これを明日のガラで着たい!!”と思ったのですが、店のお姉さんに、”お客さんのサイズは
ついこの間売れてしまいました。”と殺生な宣告を受ける。
一旦思い込んだら、滅茶苦茶しつこい私なので、唯一残っていた、
いつもの自分のサイズの2サイズ上のものを強引に売ってもらい、
”何が何でもこれを着てみせますの!!”と店員に大宣言。
さらに、意外と私は用心深いところもあるので、バックアップとして、
もう一着、お直しなしでそのまま着れる黒のドレスも購入。
ああ、若手デザイナーの商品だから、こんな大人買い(っていっても二着だけど。)も出来るのだわ!!

そのままその足で、いつもお世話になっている近所のテイラーへ。
ここは、ウェディングおよびイヴニングのドレスのお直しを得意としているお店で、
地元の人が色んなドレスを持ち込み、ところせましとドレスの展覧会になっています。
とても若いエレンちゃんという東欧系の女の子が、お針子さん兼経営者として切り盛りしているのですが、
彼女の才覚は、狭苦しい試着室で採寸するのではなく、ものすごい大鏡の前で、
客にあたかもどこかの有名メゾンでドレスを仕立ててもらっているような気分にさせるところ。
お直しの寸法をとる為にパープルのドレスを着て大鏡の前に出ると、
エレンちゃんが、何度も頷きながら、”これは素敵なドレスだわ!”と絶賛。
ホント、これで値段を知ったら、あなた、さらに卒倒するわよ!と心の中で呟く。
結局、丈は後でも靴に合わせて詰められるし、そのまま着れなくもないので、
脇の詰めだけで大丈夫なことになりました。
”で、いつまでに入用?”といわれたので、”明日。”と言ってみたら、
案の定、”無理無理”と笑われてしまいました。
というわけで、今回のガラは黒のドレスに決定。

そして、ガラ当日。
昨日購入したドレスがなかったら、もともと手持ちの洋服で行く予定だったので、
髪のセットは欠かせません。
今シーズンのオープニング・ナイトでお世話になったお兄さんは、
手早いわ、技術は確かだわ、センスはいいわ、で、ものすごく気に入ってしまったので、
週の頭にそのお兄さんを指名してサロンに電話すると、
”彼は日曜はお休みなんですよー。”、、、、がーん、、、、
”でも、他にもup-doを出来るものはおりますよ。”と、ある女性の名前を挙げられた。
まあ、大きいサロンはこうして代打の人がちゃんといるところがいいところだな、と、
大変な事件が近づいていることに気付かないMadokakipは、呑気にも、
”では、その方でお願いします。”と言ってしまったのです。

サロンにドレスを着ていくわけにはいかないので、ドレスをカメラにおさめ持参。
そして、担当者が登場して私は固まりました。
中国人の女性だ、、。
言っておきますが、私は”中国人”が嫌いなわけではありません。
お友達にも、昔の同僚にも中国人の方がいましたし、
行きつけのチャイナ・タウンの中華料理屋のスタッフの方にもいつも良くしていただいています。
しかし、”中国人のヘア・スタイリスト”は別問題。
なぜなら、私は、NYに来たばかりの頃、どうしても髪型をその日に変えたくなって、
道端のヘアサロンに入るという最大の間違いを犯し、
中国人系のスタイリストばかりのそのお店で出来上がった頭は、
”一体いつの時代ですか?”というようなもの。
かつ、かけたパーマが収集がつかなくなったか(日本人のスタイリストさんに比べて、
実に技術がなかったゆえ、、。)、ブロードライをしてくれ、と言っているのに、
これで帰ってください、と濡れ頭で店から無理矢理追い出された恐ろしい経験があるのです。
あの事件以来、信頼できない人には絶対髪を触らせるな!がモットーで、
特にカットとかパーマと言った長期にわたってその効果が持続するものは、
今定期的にお願いしている、日本人のスタイリストの女性(技術、センスともに◎)以外、
絶対にさわらせないことにしているほどです。

ああ、あの濡れ頭の記憶が蘇って来た、、。
まさかね、、ここは一応ちゃんとしたサロンなんだし、と気を取り直し、
黒のドレスの写真を見せながら、このドレスには長い髪も合うと思うので、
上を少しアップにしつつ、下は残してゆるやかにウェーブを、、などと注文を出していたら、
”OK,OK"とすっかりわかっている風で、安心。

そしていよいよスタイリング開始。
あれ?ものすごい細かいこてで巻いてますが、何でだろう、、?
前のお兄さんはup-doでも、大きなロッドのカーラーを使っていたのに、、。
いつの間にか頭には、『キャンディ・キャンディ』のイライザも泣いて逃げ出すほどの
縦巻きロールが無数に、、。一体何する気?!
でも、こういうときは途中でちゃちゃをいれず、スタイリストを信頼しなくちゃいけない。

そして、縦ロールが完成すると、あろうことか、猛烈なヘア・スプレーの嵐。
ふわふわのゆるやかウェーブって言ったのに、固めてどうする?!
しかも、このスタイリスト、全然神経が細かい人でないのか、こてのコードが私の顔を撫でようが、
スプレーが頂いているお水のグラスに噴霧状態になっていようがお構いなし。

髪がばしばしに固まって、かつそれを櫛でといてほぐしてしまったので、
メドゥーサのような頭になっている私が、自分の姿を鏡に見て呆然、顔から血の気を失っていると、



なんと、とどめに、櫛を髪の根元に入れてごしごし、、、逆毛立ててます!!
誰かもう止めてくれーっ!!

そして出来上がった髪は、まるで、80年代のパンクバンドの姉さんがこれからライブに行くか、
はたまた同じく80年代のファッション・ショーに出てくるモデル。
はっきり言って、この2009年という現代においては、
ファッション・ショーでもこんなアンナチュラルな頭でランウェイに出てくるモデル、いません!!
もしかしたら昔、上海の仮装パーティーあたりでこんな頭でドレスを着ている人はいたかもしれないけれども、、。
そして、とどめに、そのスタイリストのお姉さんが一言。
”髪っていうのはやっぱり楽しくなきゃ!!”
、、、この人と組まされたのがそもそもの間違いだった。
そして、ふと気付いたのでした。
最初のコンサルテーションで、このお姉さんに、
”どういう場所に出かけるんですか?”と聞かれていない、ということを。
オープニング・ナイトの時のお兄さんはそれを真っ先に聞いてくれたのに。
多分、黒いドレスだけ見て、ゴス・パーティーにでも行くと思ったに違いない。
メトにこんな頭でいけるはずがないじゃないのよーっ!!!

もう怒る気も失せ、いや、もしかしたら、私が思っているほどおかしくないのかも、、などと、
考えれば考えるほどわからなくなって来たので、
我が家に一旦戻るキャブの中で、連れに電話をして、泣きつく。
”じゃ、携帯で写真を撮って送って。正面とサイドと。正直に意見を言ってあげるから。”と言われ、
言われたとおりにキャブの中で、この奇妙な頭を撮影し、送信すると、すぐに電話があって、
”うーん、これセットした人、この間の男の人?なんか、今回は君の個性を掴み損ねてるね。”
そこで、”違うの!この間の人じゃないの!今回は中国系の女性だったのよー。”と泣くと、
”それは奇遇。だって、なんだか、別の文化の、別の価値観では、
これがシック、と思われないこともないような髪型だな、と思ってたんだ。”
ということは、ここアメリカもしくは日本など先進国の、現代の価値観では、
シックではないってことですね?
要は、やや微妙に昔(80年代)の、中国してるってことですね!!
だって、確かに、この髪型をしていると、自分が自分でなくなったというのか、
日本人のアイデンティティを失ったような、妙な気分ですもん。

連れの正直なコメントへのあまりのショックにそのままキャブで気を失いそうになりましたが、
メトに向かわなければならない時間まであと1時間。なんとかしなければ!!

帰宅して速攻バス・ルームに向かい、ピンを外して、自分なりにアレンジが出来ないか、色々模索。
だめだ。逆毛とスプレーがあまりにがっちりとしていて、どんなアレンジも受け付けない。
きーっ!!!!!!
そして、気がついたら、熱湯を出して、髪を洗ってしまってました。
時間までに髪を乾かすためには迷っている暇はないのです!!!
セット代がまさに水の泡となって流れていく~。
だけど、あんな自分らしくない髪型で私の大切な聖地、メトには行けません!

スプレーのごわごわ感を全て洗い流し、ウェーブも何もないけれど、とにかく丁寧に乾かす!
日本人は髪が綺麗なんだから、その素材感で勝負!という風に作戦を大転換。
なんとか時間ぎりぎりで間に合い、すっきりした気分でガラに臨めました。

”中国人スタイリストによる悪夢”シリーズに新しい章が加わったわけですが、
彼らの多くは、シンディとかキャサリンとか、英語名を通称としている場合があって、
サロンなどでも予約の際は名前だけで呼ばれることが多く、まぎらわしいのですが、
今後は新しい人にお願いする場合、苗字もきちんと確認する、というステップを加えたいと思います。
私個人の意見では、美容師さんは、日本人か、
アメリカ人ならゲイの男性(←神経が細かく、センスの良い人が多い。)が一番。
次のオープニング・ナイトは、またあのお兄さんに今から予約を入れておかなきゃ。

いよいよ、続く前編では歌についての感想に入ります!

The 125th Anniversary Gala
And Celebration of Placido Domingo's 40 Years at the Met

Conductor: James Levine
Director: Phelim McDermott
Associate director & set designer: Julian Crouch
Costume design: Catherine Zuber
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*** 125周年記念ガラ The 125th Anniversary Gala ***

RUSALKA (Thurs, Mar 12, 2009)

2009-03-12 | メトロポリタン・オペラ
しかし、ルネ・フレミングという人は録音しているCDの数が多い。
おかげさまで上演されることが少ない演目でも予習マテリアルの入手が簡単に済み、ありがたいことです。
『タイス』しかり、『ルサルカ』しかり。

我が家にある全幕盤の『ルサルカ』の一つは、フレミングが表題役を歌っているもの。
もうかれこれ10年ほど前に購入したセットで、月に寄せる歌
(”ヴェルヴェットのような空にかかる月よ Mesicku na nebi hlubokem ")以外は、
何度かさらりと聴き流しただけで、多分、実演予習に使われることは絶対にないであろうと
ずっと我が家の棚で冬眠生活を送っていたのですが、
ここ最近は一転、今日の公演のために俄然フル回転(まさにCDのターン・テーブルの上で)の日々でした。
あまりにも長い間聴いていなかったので、それまではすっかり忘れていたのですが、
この盤で王子を歌っているのはベン・ヘップナー、そして、イェジババがドローラ・ザジック(!)です。
実は私がはじめてルネ・フレミングの全幕の歌唱にふれたのは、メトの舞台ではなく、
この『ルサルカ』のCDなのですが、
この盤が録音された頃の彼女の歌唱は、”ルネ節”とでも呼びたくなる最近の
あの独特かつエキセントリックな歌い方がまだそれほど目立つものにはなっていなくて、
端正な歌を歌っており、私の中では比較的印象が良くて、そのために、
フレミングは『ルサルカ』のような演目では良い歌唱を聴かせる、という思い込みになっていたのですが、
その印象は久々にCDを取り出した今回も変わりませんでした。
マッケラス率いるチェコ・フィルも瑞々しい演奏を聴かせていますし、
もちろんイェジババのザジックは、役の方が彼女の偉大さに追いついていないような印象があるものの、
もちろん安定した歌を聴かせています。
こうして聴くと、彼女の特に高音で顕著な、クリスタルっぽい硬質な響きは、
こういったスラヴ系の音楽や言葉に相性が良いように思います。
ただし、王子役のヘップナー、彼に関しては非常に複雑な気持ちです。
というのも、彼は昨シーズンの『トリスタンとイゾルデ』もウィルスを理由に、
ほとんどの公演をキャンセルしてしまいましたし、
また、今シーズンの『スペードの女王』でも、声が腰砕け状態になって、
深刻な喉の障害を疑っているオペラヘッドが少なくありませんが、
その中に、”彼の声には(『スペードの女王』でそんなことになるずっと前から)
不自然な、無理矢理ものをこじ開けるような響きがあるとずっと感じていた。”という意見の人がいます。
そして、この『ルサルカ』CDの王子役での歌唱を聴くと、私もその意見に頷かざるをえません。
まさに、発声に関して”不自然”という言葉がぴったりで、
それが聴いているこちらを落ち着かせない、というのか、
段々と座り心地の悪い椅子に座っているときのような、妙な疲れと違和感を感じます。




このオペラは、簡単にかつ強引に説明すれば、スラヴ神話のルサルカ
(水の精のこと。なので、ルサルカというのは、人の名前ではなく、このオペラに出てくる
主人公のルサルカの姉妹たちもまたルサルカ、複数形はルサルキです。)に、
人魚姫の物語のプロットを持ってきたような作品で、細かい部分の違いはもちろんありますが、
大筋では、ほとんどアンデルセンの書いたそれにそっくりです。

CDについてきた解説によると、ドヴォルザークという作曲家は異様なまでに
オペラ作品で成功することに執念を燃やしていた、といわれ、
同じ台本に全く違う曲をつけて、二本のオペラ作品として完成させたり、といったことまでしているのですが、
ずっと、オペラの作曲にはそれほど優れていない、というレッテルが貼られていた、といいます。
そして、まあ、残念ですけど、そう思われても仕方なし。
彼にはオペラの作曲家としての資質がないように私も感じます。
こんなことを書いて、またクラシック音楽のファンの方に銃殺されそうですが、
誤解のないように注釈しておくと、彼は優れた音楽家、オーケストレーターではあると思います。
でも、オペラという枠の中で音楽をどう鳴らせばドラマを伝達できるか、というセンスがとことん欠けている。
マ○ネなどのぷよぷよ音楽と違って、オーケストレーションの技術もしっかりしているし、
聴いていて、”なんだあ?このすかしっ屁のような曲は?!”といらいらさせられることもないし、
むしろ、音楽の肉付けはすごく達者で、その安定した技術はこちらに一切の不安を与えないほどです。
なのに、なんだろう、、?それ以上の何物でもない。
オケの演奏に関して言えば、CDのチェコ・フィルの演奏は、かなりいい方の部類に入ると思うし、
それなりに美しい個所もあるのですが、ドラマとしてのオペラとしてみたときに、
これほど退屈でつまらないオペラも少ない。
しかも長い。というか、とてつも長く感じる。
(同じCDの解説書によれば、彼の作品の中には、”厚顔なまでにワーグナー作品とそっくり”な
ものがあるそうですが、ワーグナーが実際に演奏時間が長いのにそう感じさせないのに対し、
この『ルサルカ』は実際はそう演奏時間が特別長いわけでもないのに、激長に感じる。)



おそらく、このオペラを有名にしているのは、あの美しいアリア、”月に寄せる歌”なんでしょうが、
第一幕の前半に登場してしまいますから、後は楽しみにするものがほとんどありません。

作品としてかように限界のあるこの作品で、それなりに劇場で観客が楽しめる公演となるには、
歌手の歌が優れていることももちろんなのですが、それ以外に、
① オケの演奏が優れていること
(ドラマが欠如しているのだから、後はオーケストレーションの妙を楽しむしかない!)
② この作品のスラヴ的雰囲気が上手く伝わる演出であること
といったことが重要です。

そして、今日の公演は、歌手と①の点に関しては、底辺を行く演奏でした。
オケが本当に疲れた音を出していて、聴いているだけで、こちらまで一層疲れたき分に。
日曜に迫った125周年記念ガラのリハーサルでこき使われて、疲労困憊しているのかもしれません。
オーケストレーションの妙なんていう話は今日はよしておくことにします。
時に”おや?”とちょっと耳をひかれる美しい部分もあったのですが、
まあ、全体的には、今日はとても悪い日に当たってしまいました。
それから、これは、疲れとか運には関係のないことだと思うのですが、
スラヴ音楽の独特の雰囲気がオケに染み渡っていない気がしました。
何やってんでしょうね、指揮者のベロラベクは?
わざわざチェコ人の指揮者を連れてきた意味ないし。
特に舞踊音楽的なエッセンスを感じさせる旋律に、どうしようもないアメリカらしさが漂っていて、
こういう微妙なニュアンスというのは簡単に再現することが出来ないものなのだな、と感じます。

一方、歌の方はといえば、こちらもまた温度の低い日に当たってしまいました。
非常に珍しいスケジュールの組み方なのですが、
この日からたった中一日をはさんで、また土曜日には『ルサルカ』がマチネの公演にかかることになっており、
さらに悪いことにはそのマチネが、全国ネットのラジオ放送の日にあたっています。
ということで、今日のフレミングは土曜に備えて終始省エネ節約モード。
これってちょっと本末転倒だ、と感じている人は私以外にもきっといると思うのですが、
最近ではHDとかラジオの放送の存在があまりに大きく、かつ、昔以上にそういった機会の頻度があがっているので、
歌手も人間、ラジオの放送などが全くない今日のような公演と、全国・全世界に歌声が
伝わってしまう日の公演と、どちらに力を入れるかは自明のことです。

彼女は普段は決して声量がない方ではないのですが、
今日の公演では音楽の盛り上がる部分だけを思いきった声量で歌い、
後は軽く流しているだけな感じがしたほどです。
コンディションの配分もあるからでしょうが、特に一幕での声量の不足は
フラストレーションを感じるほど。
一幕の前半は、写真にあるような木(リブレットでは柳)に座っているのですが、
あまりに声がか細いので、もしや、高所恐怖症なのかと思ったほどです。



それに加えて、最も恐ろしいのは10年の歳月。
ナショナル・カウンシルでまさにこのオペラの”月に寄せる歌”を歌い、
グランド・ファイナリストに選ばれたという経緯もあって、
フレミングにとっては特別思い入れの多いはずである『ルサルカ』なのですが、
たった10年で、これほどまでにこの作品にまでルネ節を炸裂させるようになっているとは、、。
もったりとした発声、はっきりしない発音、
どれをとってもこの役の、あの美しいけれど冷たそうな雰囲気とは全く相容れないと思いました。
10年前の歌唱の方が数千倍いいです、これでは。
月に寄せる歌に至っては、あまりに彼女が”ルネ”するもので、
もはや、月に寄せる歌ではない、何か彼女のオリジナル・ソングのような気すらしてくるほどです。
今の彼女のこの役の歌唱では、”彼女のルサルカはいい”とは私ももはや言えません。
彼女は年齢を経た方が綺麗になってきた、というラッキーな人なので、
見た目とか雰囲気はむしろ今の方がいいんですが、、、残念なことです。

彼女は演技の方が歌唱よりも説得力のあることがしばしばあるのですが、
ニ幕は、言葉を失ってしまっている(それを条件に、イェジババに
人間の姿にしてもらったから)ので、歌えないですし、演技が全て。
彼女の勝負のしどころです。

フレミングのルサルカの良かった点は、
”水の世界を捨てきれない”思い、これがよく表現できていたこと。
音だけで聴いていると、王子に愛されるために人間になりたいと言ったかと思えば、
今度は王子に捨てられたから元に戻してくれ、とイェジババに頼む、ということで、
すごくストーリーが唐突な感じがする個所が多い当作品ですが、
今日の公演のニ幕でのフレミングを見ると、王子を愛しながらも、捨てられる前から
すでにルサルカの心は水の世界を恋しがっていて、アンニュイな雰囲気すら漂っていました。
CDからは、王子にぞっこんで、そのためなら何を失っても怖くない、というような感じだと思っていたので、
今日のこの演技は新鮮で面白かったです。



歌で私が最も印象深く感じたのは、イェジババを歌ったブライス。
『オルフェオとエウリディーチェ』で格調高い歌を歌っていた彼女が、
一転、素もわからないほどの怪しげなメークで、魔法使いの老婆になりきってます。
彼女のすごさは、この間口の広さとそのどれをも非常に高いレベルで歌える実力、だと思います。
実際、彼女は少しコミカルな役の方が持ち味が出る部分があるのですが、
特にこのプロダクションでは、イェジババ役をかなりコミカルな路線で演出しているので、
彼女の本領発揮といったところです。



このかぶりもののネズミや蛙、ばった(?)らに混じって、クリ、ムリ、フック! Cury mury fuk
(日本語の、ちちんぷいぷいにあたる魔法を引き出す言葉)と歌う部分は、
あまりにインパクトが強くて、夢に出て来そうな気がしたほどです。
こうして、同じ役でブライスとザジックの歌を比べると、かなり声そのものの個性が
違っていることがわかり、ブライスは近々メトでアムネリスを歌う日が来るでしょうが、
ザジックとは全く違ったものを提示してくれそうで、とても楽しみです。
ブライスの声の魅力は、まるでぶら下がっているように聴こえて、それでいて外れていない音、というのか、
そのぶら下がる一歩手前の音色が何ともいえない彼女の個性になっているように思います。
ザジックがぴーんと突き刺すような、上に上がっていくような感じのする音とすれば、
ブライスは、声量はザジックに若干ひけを取るかもしれませんが、
その声の温かさが魅力となっていくでしょう。



『ルサルカ』初日の公演についてのNYタイムズの批評で、非常に高い評価を受けていた
アントネンコの王子は、私は全く評価しません。
それは、全く先に書いたヘップナーの歌唱を評価しないのと同じ理由です。
実際、声の出し方があまりにそっくりなので、ヘップナーが代役で上がっているのかと思うほどです。
今は若いですから、この強引な発声でもやっていけるかもしれませんが、
非常に危険な匂いを感じます。
というか、強引な発声でキャリアが短くなることは歌手本人の選択することですし、
それは観客がどうこう言えることではないですが、
しかし、また一方で、強引な発声というのは、聴いていて観客にとって心地よくないのであって、
この点において、観客が、もっと心地よいものを!と思う気持ちは当然のことだと思うのです。
ちなみに、声のカラーとか質感も、アントネンコの声はヘップナーにかなり似ていると感じました。
日曜の125周年記念ガラでは、”星は光りぬ”を歌うんですね、、
割と舞台で映えるルックスでは確かにあるのですが、、。

水の精たちの父親的存在であるノーム(CDの解説書ではゴブリンとなっていますが、似たようなものです。)
を歌ったジグムントソン。
昨シーズンの『ロミオとジュリエット』のローレンス神父など、脇役での出演が多い歌手ですが、
このノームの役はちょっと彼の手に負えていない感じがします。
ノーム役はそんなに脇といえるほど軽い役ではないので、もう少し力のある人を連れてきた方がよかったのでは、?
特にルサルカの身を最も心配し、最後に呪いを王子に落としたのは、
実はイェジババの魔法という鎧を借りた彼の親心でもあるはずなので、すごく重要な役だと思います。
その重要な役が力不足なので、なんともしまりのない舞台になってしまった、という一面もあったかもしれません。

それをいえば、外国の王女役のゲルケも、力不足。
パワフルな旋律でもって、人間の女性が持つ、”熱さ”、パッションを表現するのがこの役の最大の使命で、
人間と自分との強烈なギャップと敗北感をその結果ルサルカが痛感するという、
大事な場面を担っている役なのですが、ゲルケの奥行きのない声ではその使命が十分に果たせていません。



主役と準主役級に比べると、むしろ面白かったのは脇役のキャストたち。
まず、王子の台所を預かる少年として登場するズボン役のケイト・リンゼー。
以前、今”観て”聴いておきたいオペラ歌手の女性編で、ビジュアルの良い女性歌手の
若手のホープとして紹介した彼女ですが、最大のライバル、レナードが、
今年は『ドン・ジョヴァンニ』のツェルリーナを歌っているのに比べると、
リンゼーは『魔笛』の第二の侍女、そして今日のこの役、と、ほんのちょっぴり後を行っている感じがありますが、
私はやっぱりこのリンゼー、とてもいいものをもった歌手だと思います。
特に今日のこの演目では、彼女のパートはオケが割と厚い音で鳴っている上を歌わなければならない個所もあるのですが、
全く声量的に不足なく、しかも全く無理をせず綺麗な声を保ったまま鳴らせているので、
意外と歌えるレパートリーはレナードよりも広いかもしれないという気がしました。
声質も耳に心地よい響きがあって、少しずつステップアップして、いつか大きな役で聴いてみたい歌手です。

『蝶々夫人』のヤマドリや『つばめ』のぺリショーなど、
脇役専門で歌っているバリトンのデイヴィッド・ウォンが、狩人の役で舞台袖から聴かせた旋律も、
非常に美しく歌われていたと思います。



しかし、今日最大のびっくりは、第一の水の精のソプラノ、キャスリーン・キム。
ウォンと同じく韓国出身ということで、韓国は次々と力のある歌手を送り込んできます。
韓国のソプラノといえば、私は実演を観た回数が多いこともあって、
ヘイ・キョン・ホンを真っ先に思い浮かべるのですが、
そのホンさんを彷彿とさせる美しい声で、魅了されました。
水の精3人が全員で歌っていても、そのあまりに伸びのある美しい声でつい彼女だけが目だってしまうほどです。
退屈な『ルサルカ』で、唯一、ああ、この場面がもっと続いてほしい、と思ったのは、
彼女を含む3人の精のアンサンブルが聴ける第三幕のみとはなんと皮肉な、、。

最後に最も忘れてならないのは、②についての、オットー・シェンクの演出。
テクノロジーが発達した現在では、なんだかあまりにレトロな感じのするプロダクションでもありますが、
森の緑のまばゆいまでの美しさを表現した第一幕では思わず観客から歓声があがりました。
被り物の動物たちを登場させたり、ノームが河童のような化け物ちっくだったり、と、
ややユーモアに流れた部分をどう評価するかは、観る側に委ねられているかもしれません。
作品の持つ雰囲気を大事にしたこのセットは、
私はまさにそのレトロさゆえに孤高の場所を占めていると思いました。


Renee Fleming (Rusalka)
Aleksandrs Antonenko (Prince)
Stephanie Blythe (Jezibaba)
Kristinn Sigmundsson (Water Gnome)
Christine Goerke (Foreign Princess)
Kathleen Kim / Brenda Patterson / Edyta Kulczak (First/Second/Third Wood Sprite)
James Courtney (Gamekeeper)
Kate Lindsey (Kitchen Boy)
David Won (Hunter)
Conductor: Jiri Belohlavek
Production: Otto Schenk
Set design: Gunther Schneider-Siemssen
Costume design: Sylvia Strahammer
Lighting design: Gil Wechsler
Choreography: Carmen De Lavallade
Stage direction: Laurie Feldman
Grand Tier C Odd
ON

*** ドヴォルザーク ルサルカ Dvorak Rusalka ***

MADAMA BUTTERFLY (Sat Mtn, Mar 7, 2009)

2009-03-07 | メトロポリタン・オペラ
注:この公演はライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)の収録日の公演です。
ライブ・イン・HDを鑑賞される予定の方は、読みすすめられる際、その点をご了承ください。

現役でお気に入りの歌手というのは何人かいますが、
中でも、たった一人だけ好きな現役歌手を選べ、と言われれば、彼女の名前を出すかもしれないな、と
自分でも以前から思ってはいました。
しかし、自分が思っていた以上に彼女を好きであったことに、今さらながら気付いた私です。

というのも、ライブ・イン・HDの収録日でもある今日の公演の蝶々さんを、
予定されていたドマスに変わり、ラセットが歌うと知ってからというもの、
まるで私がメトの舞台に立って蝶々さんを歌うのか?と思うくらい緊張が高まり、
連れが仕事先から開演一時間前に”そろそろバタフライを観に行く準備してる?”と電話を入れてきたときには、
緊張がピークに達していて、
”だめ、胃にバタフライが、、!!(どきどきして不安で緊張することを英語で
I have butterflies in my stomach. と言います。)”と絶叫してしまいました。
演目が”蝶々さん”なだけに、胃の中で千羽くらい飛びまくってる感じです。
”なんで?自分が歌うわけでもあるまいし!!”と大笑いされましたが、
3/3の夜、私がバルトリのリサイタルなどにうつつを抜かしていたころ、
メトでは『蝶々夫人』がかかっていて、その公演はシリウスで放送され、
かつ、ライブ・イン・HDのカメラ・クルーのリハーサルも兼ねていたのですが、
ラセットが素晴らしい歌を繰り出したらしく、連れはそれを生で聴いて来たので、
”3日があんなに素晴らしかったんだから、大丈夫。心配無用!”と一言。
3日の公演がドマスからラセットに変更になったとわかった時点で、
私はカーネギー・ホールではなく、メトに足を向けるべきだったのだ!
バルトリのコンサートにこそ、連れを送り込めばよかった!と、どれだけ悔しかったことか、。

しかし。連れの言うことは実に正しい。
彼女の蝶々さんに今まで一度だって失望させられたことがあったでしょうか?
ない!!
だから、今日も絶対に大丈夫!!!と思うのだけれど、
ネトレプコやゲオルギューみたいに、ある日のコンディションが悪くても、
何度も何度もチャンスを与えられるスーパースターと違って、
ラセットはこれをしくじったら、そのまま二度とこんな大きなチャンスはめぐってこないかもしれない。
彼女ほど素晴らしい蝶々さんはオペラの世界にそう頻繁に出てくるものではなく、
世界からの賞賛にそろそろ報われるべきだ!!と私はずっと思って来たので、
もし、それが叶わないことにでもなったら、、、そう思うと、わがことのように緊張してしまうのです。
普段は誰がどんな歌を歌おうと割と冷静に受け止められる私なので、
こんな風に自分まで緊張してしまったのは初めてのこと。

前奏部分に入る前に、無音状態で、芸者に扮した女性が扇子を使って舞踊を披露するのですが、
あろうことか、扇子を取り落としそうになり、思わず息をのみました。
私は、2006年に、ミンゲラの演出がメトでプレミアを迎えたときから、
何度もこの演目を見ていますが、こんなことは初めてで、
今日はサイドのボックスから鑑賞したため、普段座ることの多い正面席と比べて、
歌手たちの表情も手にとるように見えましたが、
舞台に立つ人たちが、歌手以外の人も含めて、ものすごく緊張しているのが伝わってきました。
やめて!あなたが緊張したら、私も緊張するから!!!

しかし、メトの代役専門係、ジョルダーニは、だてに神経が図太いわけではない。
(注釈しておくと、今日の公演は最初からジョルダーニが予定されていたので、
代役ではありませんが、今、メトでは、誰かが病欠となると、真っ先にジョルダーニに
連絡が行くのではないか?と思うほど、代役に立つ回数が多く、頼れる男としての地位を着々と築いてます。
それも同じ時期に大変な役を他の演目で歌っていても、かけもちしてまでも歌ってしまう。
ほとんどリハも何もなく、、。ゆえにかなり神経が太いのではないかと私は見ているのです。)
彼はここ数年、声が多少荒れて聴こえることが多く、今日も例外ではないのですが、その落ち着きぶりは見事。
代役という数々の茨の道をくぐりぬけてきた彼ならではの堂々とした歌いっぷりです。
ピンカートンはそれほど奥深いキャラクターではないですし、全幕出ずっぱりの役でもないので、
多少声が荒れていても、こうして引き換えにキャストに安心感を与えてくれるなら、
まずまずのトレード・オフではないかと思います。

シャープレス役を歌うクロフト。
彼は2006年シーズンの時からずっとこの役を歌っていますが、いつもどおり、
非常に堅実で安定した、地味ながらキャラクターにあったいい歌を聴かせています。
彼は役によっては、声がものすごく薄っぺらく感じることがあるのですが、
この役で彼の歌がひどかったことは一度もないので、声質にもキャラクターにも合っているのでしょう。
彼の持ち役の上位リスト入りです。

そしてスズキを歌うジフチャック。
昨シーズンは一度、オーバーアクティング過ぎてひいてしまったことがありますが、
それ以降、軌道修正して、今シーズンはいつも安心して聴いていられるようになりました。
西洋人なのに、親しみやすい”スズキ顔”で、蝶々さんより少し年上のスズキとしては、
少し若い蝶々さんをそっと支える肝っ玉スズキという感じで、
ある意味、典型的な役作りなのかもしれませんが、私は嫌いではありません。



そして、いよいよ、舞台奥から、Ah! Quanto cielo! quanto mar!
(ああ!なんてきれいな空、すばらしい海!)という合唱の声が聴こえて、
ラセットがAncora un passo or via. Aspetta.(もう一息だわ、ちょっと待って。)と歌う。
坂のむこうから扇を持った左右の手を合唱のメンバーに支えられながら、
少しずつ姿を現したラセットを見て、私は心臓が止まるかと思いました。
扇がものすごく震えてるではありませんか!!
ラセットなのか、合唱の女性なのか、どちらのせいなのかわかりませんが、
これを見て、私はまたしても猛烈な緊張に襲われ、そのまま真後ろに倒れそうな気分に。
私の方が心臓発作を起こしてしまいそうです。
(緊張といえば、シャープレスが蝶々さんにピンカートンからの手紙を読んで聞かせる場面で、
クロフトの手がこれまた思いっきり震えていて、胸ポケットから手紙を取り出して、
それを膝の上に開いて持つ、というたったこれだけの単純な動作すら困難に見えたほどです。
今まで観た公演では、彼がこんなに震えていたことはありません。
HDというのは、かようなまでに歌手や演奏する側に多大なプレッシャーを与えるものなのだ、と実感します。)

そして、この登場の場面のラセットの歌を聴いただけで、確信しました。
今日の彼女は本調子じゃない。がーん、、!!!!
やはり緊張が大きなファクターなんでしょうか?
一生懸命正しい音に当てに行っているんですが、どうしても、ど真ん中に入ってくれないのです。
彼女は普段から少しピッチが甘いときがある、という指摘がヘッズからあって、
それが彼女の歌を苦手だとする理由とする人も多いのですが、
その彼女でも、ここまで外したことは私は聴いたことがありません。
あと、緊張だけではない、別のファクターもあったと、鑑賞を終えた後は思っていて、
この頭の部分だけでも、少しいつもの彼女に比べると、声に(ごくわずかではありますが)
すかすか感があるのが気になったのですが、
緊張が解けたであろうニ幕以降でも、ずっとその傾向が見られたので、
単純にコンディションがベストでなかった、と言った方が、正確かもしれません。

このことが私をどれだけ残念な思いにさせたか、皆さまに伝わるでしょうか?
彼女のベストの歌唱を私は世界に聴いてほしかったのですから、、。
(今日の公演も連れは聴いていましたが、3日の公演のほうが、歌唱の面では圧倒的に良かったと断言しています。)
インターミッションでは周りの観客が”素晴らしい公演ね!”と盛り上がる中、
”彼女のバタフライはこんなもんじゃねーんだよ!ばかやろう!!”と心の中でやさぐれるMadokakipなのでした。



しかし、言っておきますが、歌唱が彼女のベストではなかった、と言うだけで、
絶対的な基準でいえば、素晴らしい蝶々さんであったことに間違いなく、
それは、ヘッズがたむろするフォーラムなどでも、
”私は今までの人生で何度も蝶々夫人を鑑賞してきたけど、こんなに感動的な公演はなかった。”とか
”今までに観たHDのベストワン!”という意見が多く見られ、
この公演の次の火曜日にあった『ルサルカ』のシリウスの放送中にも、
ホストのマーガレットが、”うちの母が土曜にHDで蝶々さんを見たのだけれど、
今日、電話で話した際、今でも思い出して涙が出るの、なんて言ってましたよ。”と紹介したほどです。
マーガレットのお母様、、土曜から火曜まで泣きっぱなしとは、、。
また、普段はラセットのピッチの問題、イントネーションの問題、
それから、好き嫌いが分かれるであろう、独特の鼻にかかった声、などに否定的なヘッズですら、
”役作りは本当に素晴らしかった。”と異口同音に語っており、
公演全体に否定的な意見は私はまだ一つも目にしていません。

日本人として、彼女のような蝶々さんが今舞台で観れるということは喜びです。
西洋人から見た奇妙な化け物としての、頭のゆるい東洋人でも、
ナイーブで、西洋人にはその文化構造と国民性が理解不能な日本人少女でもない、
プッチー二の作品の素晴らしさと同じレベルに、この役の日本人としての独自性をきちんと守りながら、
それでいて、人間すべてに共通する感情の表現の部分では、
きちんとユニバーサルさ、普遍性を引き上げた、そのことが彼女の蝶々さんのすごさであり、
これほどまでにこの役と日本人へのリスペクトを感じる歌唱というのは稀です。
スコットとか、テバルディとか、フレーニとか、歌唱だけの面でこの役を上手く歌う人はいるでしょうが、
彼女たちの役作りがラセットの上を行っていたとは私にはどうしても思えません。
HDを観た人は、口を揃えてミンゲラのプロダクションもまた素晴らしい、と言いますが、
忘れてならないのは、ラセットが彼のプロダクションを次の高みに持っていった、という事実で、
実際、ドマスが歌っていた2006年とは、作品としての説得力が全く違います。

とにかく、HDをご覧になってください。
その後で、まだ、こんなものを奨めるなんて、Madokakipは何を考えとるんだ?!というご意見があれば伺いましょう。
ヘッズの方の一人が言っていた言葉、これが一番この公演にぴったり来る言葉だと思います。
”ピッチ・パーフェクト(注:音程・ピッチが完璧に正しいこと)でなくとも、
これほどまでに感動的な公演なら、私は喜んでこちらをとる。”
まあ、私が悔しがっている点は、ラセットが普段は今日ほど
ピッチ・インパーフェクト(注:音程・ピッチが不完全であること)ではない、という、まさにその部分なのですが。

私に超バニラ男というあだ名を献上されている指揮のパトリック・サマーズ。
(バニラというのは、元来、普通の、という意味なのですが、このブログでは、
転じて、私が勝手に、面白みのない、つまらない指揮をする人、という意味で使っています。)
前半はそのバニラぶりがはじけているばかりか、指揮からは、
本人が一体何をしたいのかわからないように見える部分もあったりして、
こちらの歯の奥がぎりぎりしそうでしたが、ニ幕第二部の始まりでサマーズがオケのメンバーを立たせた途端、
猛烈な拍手が観客からあがり、それでオケが気をよくしたか、
ここ以降は、演奏が急にしまって、特に最後の蝶々さんの自害場面以降にオケが立てる轟音は聴きもの。
血管の中で血が沸騰するとはこのことです。

嬉しいことに、来週には、アメリカ国内でHDのアンコール上映が予定されており、
もう一度冷静にこの公演を鑑賞するべく、当然、チケットを購入済みです。
まあ、そうは言っても、ラセットが蝶々さんを歌う限り、冷静でいるのは私には難しいのですが。

後注:これと同じ公演をライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)のアンコール上映で鑑賞しての感想はこちら


Patricia Racette replacing Cristina Gallardo-Domas (Cio-Cio-San)
Marcello Giordani (Pinkerton)
Dwayne Croft (Sharpless)
Maria Zifchak (Suzuki)
Greg Fedderly (Goro)
David Won (Yamadori)
Keith Miller (Bonze)
Conductor: Patrick Summers
Production: Anthony Minghella
Direction & Choreography: Carolyn Choa
Set Design: Michael Levine
Costume Design: Han Feng
Lighting Design: Peter Mumford
Puppetry: Blind Summit Theatre, Mark Down and Nick Barnes
Grand Tier SB 39 Front
ON

*** プッチーニ 蝶々夫人 Puccini Madama Butterfly ***

LA SONNAMBULA (Fri, Mar 6, 2009)

2009-03-06 | メトロポリタン・オペラ
注:この記事は演出に関するネタばれ全開です。
これから実演またはライブ・イン・HD(ライブ・ビューイング)をご覧になる方は
その点をご了承の上、読みすすめられますようお願いします。

初日の公演(3/2)では、演出家のジンマーマンがカーテン・コールに現れた途端、
客席から大ブーイングがとび、デッセイが”No, no, no, no, no!!! これは素晴らしいプロダクションよ!”
とでもいう風に、ジンマーマンに拍手を盛大に送る仕草をしたとつたえられる、『夢遊病の女』の新演出。
今日は続く二日目の公演で、客席にもどことなく、
”どんなものが飛び出るんだろう?”という不安感が漂っているのは気のせいでしょうか?

主演のデッセイとフローレスを招いて行われたメトのオペラ・ギルドの座談会でも、
今回の演出について語られましたが、デッセイの言葉からイメージしていたのと少し違ったのは、
実はそれほど、劇中劇としての『夢遊病の女』と、
それを舞台にかけるオペラ・カンパニー(合唱)、スタッフ(アミーナの育ての母テレーザ役や恋敵のリーザ役)、
そして主役の二人(デッセイ演じるアミーナとフローレス演じるエルヴィーノ)といった
外枠側の話の筋が交錯するわけではないこと。
外枠の方でも、いろんな話(例えば主演の二人の恋とか)がすすんでいくのかな?と期待していた私は、
少し肩透かしを食らわされた形です。

むしろ、構成自体はすごく単純で、『夢遊病の女』を上演するオペラカンパニー云々、という外側の殻は、
あくまでこのオペラを現代の時代設定で上演するための足場、くらいの意味しかないです。

この公演を見る人は大きく二つのタイプに分かれると思うのですが、すなわち、
① 私はベッリーニの『夢遊病の女』を聴きに来たのよ!文句ある? というタイプと、
② ベッリーニとか、ベル・カントとか、よくわからないし、とりあえず、楽しければいいんじゃない? というタイプ。
結論から言うと、この公演は①のタイプの人には逆上必至、
②のタイプの人には、小さな問題こそあれ、そこそこ楽しめるのではないか?と思います。




この『夢遊病の女』の筋書きは、

● 舞台はスイスののどかな村。
● この村に相思相愛のアミーナとエルヴィーノという二人がいる。
● アミーナは孤児だが優しくて純真でとってもいい娘である。
エルヴィーノもちょっぴり嫉妬深いところがあるが、基本、いい人である。
● 二人は結婚する寸前である。
● しかし、いいことばかりではないもので、エルヴィーノに横恋慕しているリーザという旅館を営む女がいる。
● そこに、侯爵のロドルフォがあらわれ、この村に一夜の宿をとる。村人から村をさまよい歩く幽霊の話を聞く。
● リーザはチャンスとあらばすぐに飛びつく準備のある女なので、夜、ロドルフォの部屋におしかける。
● もうちょっとで既成事実完成!のところで、人の気配。びっくりして逃げるリーザ。
● 現れたのは夢遊中のアミーナ(なので幽霊騒ぎの正体はアミーナ)で、
そのままロドルフォの部屋に居座り眠り続けてしまう。
ロドルフォは、彼女が夢の中でもエルヴィーノのことを愛しく語っているのを聞き、彼女を置いて部屋を出る。
● 翌日、村人たちがロドルフォの部屋にアミーナを発見し、大問題に!
● エルヴィーノ、アミーナの無実の訴えも聞かず、婚約破棄!
しかも、あてつけにリーザとの婚約を発表。
● ロドルフォがアミーナの身の潔白を証明しようとするが、アミーナが自分の部屋にいた理由を
”夢遊病のため”と説明した途端、村人にそんな馬鹿なこと、あるわけなかろう?と逆ギレされる。
● と、その時、婚約破棄のショックと疲れから昼寝に入っていたはずのアミーナが村を徘徊している姿を村人全員目撃。
● 村人全員の目の前で、夢遊状態のアミーナがエルヴィーノとの幸せな日々を思いながら、彼への愛を語る。
(これがこの作品の最大の聴き所である夢遊の場”おお花よ、お前に会えるとは思わなかった Ah! Non credea mirarti")
● これで心を動かされない男がいたら鬼!もちろん、エルヴィーノはアミーナを目覚めさせ、
(一般には夢遊病の症状を見せている最中の人を突然眠りから覚ますのはよくないとされるが、
ベル・カント作品だもの、そんなこと気にしちゃいません。)めでたし、めでたし、、

という、人によっては”たったこれだけかよ?ふざけるな!”という声も出そうなものです。
その”たったこれだけ”な単純な筋でも大丈夫なのは、①のタイプの人にとっては
一にも二にも歌があるから、で、逆を言うと、このタイプの人は歌が素晴らしければ、
ほとんど紙芝居のように動きのない舞台でもそうは気にならないはずです。

初日の公演で演出家にブーが飛んだことで問題の所在が全てジンマーマンにあるような印象になってしまいましたが、
私は実は問題の一部はデッセイの歌にもあるのではないか?と感じました。
昨シーズンの『ルチア』や『連隊の娘』では、あれほど役をきっちりと咀嚼した歌を歌っていた彼女が、
なぜか、このアミーナは何かを掴み損ねている感じがして仕方がありません。
初日の歌をシリウスで聴いて、歌が荒れている個所が多いな、と感じ、
それはきっと演技やアクションが大きいためにぶれてしまうのだろう、と思っていましたが、
今日、実際に舞台を見てみて、そうではないと感じました。
実際、飛んだり跳ねたりしているところでは、どうやってその動きの隙間に
きちんと音を落としているんだろう?と思うほど、うまく声を出している個所が多かったです。
むしろ、直立不動で歌に集中できる場所こそに”???”と思わされる個所が多く、
また、彼女は役作りに非常に説得力のあるものが多いので、問題にされることが少ないものの、
純粋な歌唱の面では、いわゆる正統的なベル・カントのスタイルからすると
彼女のそれはややエキセントリックな方に寄っている、と、私は以前から感じているのですが、
それが悪い意味で目立つ歌になってしまっています。
このアミーナという役は、同じベル・カントの作品でも、
ルチアのような役より技術やスタイルを一層誤魔化しにくいという意味で、曲者な役だと感じます。
デッセイの声やフレージングは、”丸い”感じがあって、それが独特の優しさのようなものを感じさせ、
長所に働く場合もありますが、逆にそれは場面によっては、音が曖昧、エッジが不明確に聴こえるということでもあり、
それは例えば、登場してまもない頃に歌われる村人と一緒に歌うカバレッタの

Sovra il sen la man mi posa 私の胸に手をあてれば
Palpitar, balzar lo senti どきどきしているのがわかるでしょう
Egli e il cor che i suoi contenti この心に感じる喜びが大きすぎて
Non ha forza a sostener もう耐えられないくらいだわ

の部分の歌唱が、高音に昇っていく部分も含め、あまりにさらり、と曖昧に流されたのには、
マリア・カラスのような一音一音が明瞭に聴こえる歌唱を期待していた私に、
”えー、それはないだろうよー!”と、ぷーっ!とふぐ面にさせたくらいのもので、
ここだけではなく、夢遊の場も含め、全体的にやや歌唱がゆるい感じがしてしまうのです。
彼女ほど力のある人がこのような丸いゆるい歌になってしまうというのは、どういうことなのか、、。
で、もしかすると、彼女自身、歌のみでこの作品を維持することは難しい、と感じていて、
それで、この演出で見られるようなどたばたな演技に流れているような気がしないではありません。
しかし、またその一方で、『夢遊病の女』の中のアミーナという人間像と、
外枠のアミーナ役を演じる歌手としての人間像がうまく統合されておらず、
役としても、非常にとっちらかってしまった印象を受けます。

対照的に、この作品とはなんぞや、ということがわかっているからか、
もしくは、それ以外のスタイルで歌うことは出来ないからか、理由がどちらかはわかりませんが、
いずれにせよ、結果として素晴らしい歌を聴かせているのはエルヴィーノ役を歌っているフローレス。
彼がこの作品で歌う一フレーズ、一フレーズ、これ全て”宝石”です。



私はアミーナ役についてはマリア・カラスが大、大、大好きですが、
彼女が全幕の録音で共演しているニコラ・モンティというテノールの声が、
聴くたびに、そこらにある雑誌を数冊掴んで投げ飛ばしたくなるほど勘にさわります。
彼の声そのものが、エルヴィーノらしく思えないうえに、
張り上げた高音のそのおぞましいことといったら、
私は通勤列車のiPodでこれを聴いている途中にその個所に至ったときには、
隣に座っていたお兄さんの新聞紙をつかんでびりびりに引きちぎってやりたい衝動にかられたほどです。

それに比べてフローレスの声は、、、ああ、至福
ちょっぴり嫉妬深くて、子供っぽくて、あわてんぼうなエルヴィーノですが、
この声のおかげで、素はチャーミングな男性なんだろうな、ということがわかる。嫉妬深さも可愛く見えてくるから不思議です。
それに比べて、前述のモンティのエルヴィーノは、嫉妬深くて子供っぽいうえに、
きっと不細工に違いない、と断罪したくなります。それでいいの?アミーナ?!と。




”この指環を受け取っておくれ Prendi l'anel ti dono"のフレーズが始まったときには、
私の目がオートマで潤む、潤む!シーズン開始前のプレビューのレクチャーで、
バーンハイマー先生が紹介してくださったフリッツ・ヴンダーリヒの歌も素敵でしたが、
フローレスの歌はもう少し線の細い感じで、デリケートな陶器を思わせる歌です。
フローレスは『連隊の娘』のメザミのような、ハイC連発大花火ももちろん打ち上げられる歌手ですが、
彼の歌が本当に光るのは、同作品の”マリーのために”とか、この指輪の歌のような歌だと心から思います。
こんな歌をひざまずいて歌われた日には、Madokakipがいきなりアミーナの前に飛び出て
指輪を横からかっさらうってもんです。
一音一音を大事にする姿勢、これが、この作品を”ベッリーニの作品”として聴く、
つまりこの作品の音楽(主に歌)の真価を味わうには、絶対に不可欠です。
一にも二にも正確かつ繊細な歌。これがなくては①のタイプの人は絶対に不満を感じるはずです。
演技や演出による穴埋めでは追いつかないのです。
というのは、この作品のドラマは、演技や演出といった外側にではなく、歌の中にあるので。

デッセイとフローレスのスタンスの差がどうしようもなく明らかになってしまうのは、
一幕一場の終わりの二重唱”そよ風がうらやましい Son geloso del zefiro errante"。
(君の髪をなびかせる風すら僕はうらやましいんだよ、と自分の嫉妬を正当化かつ詩的化するエルヴィーノの言葉から始まる二重唱。
ここでアミーナも、”この人、ちょっとしつこくない?やばくない?”という反応ではなく、
”私が風に愛されているのは、あなたの名前を口にしたからよ。”と答えて二人の世界は盛り上がるのです。)
デッセイは自分のパートを歌うときに、体をいっぱいに使った演技を繰り広げていて、
フローレスは自分が歌わなくていいときには、それに付き合って一生懸命
踊ったり、飛び跳ねたりしているのですが、一旦自分のパートが始まると
どうしても歌唱以外のことは出来ないようで、しかし、それは、彼の歌唱の繊細さを聴くと、
ほんの少しの体の動きすら、歌に影響を与えてしまいそうなのがわかります。
この場面では、彼のような素晴らしい歌を聴けるなら、私は飛んだりはねたりよりも、
喜んで直立不動状態の歌を取ります。



この演出は、フィナーレの部分を除き、全て、『夢遊病の女』を上演しようとする
オペラ・カンパニーの稽古場が舞台になっているのですが、
このセットはものすごくリアルでびっくりします。
窓から見える通りをはさんだビル、これはおそらくNYのどこかに実際にあるビルを
モデルにしているのではないかと思うのですが、
その窓から見える景色とか、稽古場に何気なく置かれたもの、時計やパイプの設定の仕方、
ロッカーのくたびれ具合などが一々リアルで(実際にメトのロッカーを失敬したか?)、
オペラハウスに座って鑑賞しているのに、まるでNYのどこかのビルの中にいるような、不思議な感覚に陥ります。
いつものことですが、大道具、小道具の係の方のこだわりには感心してしまいます。

さて、このように舞台をスイスの山村からオペラ・カンパニーの稽古場に置き換えてしまったことにより、
見る人によってはこの作品の大事な要素となっているスイスののどかな雰囲気は全く失われてしまっています。
また、夢遊のシーンの頭では、リブレットではそのスイスっぽい風物を生かして、
壊れそうな木の橋をアミーナが渡りながら、その横で大きな水車が回っていて、
彼女が一歩足を踏み外そうものなら、その水車に潰されてしまう、と、
村人がどきどきはらはらしながら見守る、という場面になっているのですが、
当然、この演出では橋だの水車だのはありません。
で、どのようにはらはら感を出すかというと、アミーナが、
稽古場(雰囲気からいって少なくともビルの4階とか5階くらいの高さはありそう)の窓の外の狭い外壁をふらふらと歩いてくるのです。
この部分に関しては、水車と橋が使えない、という枠の中で、
比較的上手くこのシーンのエッセンスを掴んだ演出になっており、この公演で成功している個所の一つです。
リーザが彼女が転落してしまうのではないかとおっかなびっくりで窓を開き、
カーテンがたなびく中をなんとかアミーナの腕をつかむまでの流れも、それなりに幻想的です。
ここで止めておけばいいのに、私がわからないのは、
”おお花よ、お前に会えるとは思わなかった”が始まると、
オーケストラ・ピットの上にデッセイをのせた板がせり出して来たこと。
言ってみればオケの上で彼女が歌うことになるのですが、 
私にはこれが一体何の意味があるのか、皆目わかりません。
そのまま稽古場で歌わせても何の問題もなかった、いや、むしろ、その方が良かったと思います。



某かの意味があったとしたら、それは観客サービス(?)みたいなものだと思うのですが、
そういえば、この演出ではもう一つ観客サービスがあって、それは、
ロドルフォの部屋にアミーナが夢遊してくるシーンで、
デッセイが平土間の下手寄りの客席通路から現れ、平土間一列目の観客の前、
それから平土間から舞台に即席でかけられた階段を舞台まで上りながら”夢遊”します。
スポットライトを当てられて、客席通路をごそごそ歩きまわるデッセイの姿に、
”八時だよ!全員集合!”のドリフのメンバーの姿がダブる日本人は私だけではないでしょう。
コマ劇場に登場する演歌歌手でもあるまいし、ここまで観客におもねった趣向が必要かどうか、
①のタイプの観客は思いっきり首をひねるはずです。

また、最後のフィナーレは、カンパニーの『夢遊病の女』の実際の公演の舞台、という設定になっていて、
全登場人物がカラフルなスイスの民族衣装を着けて登場するのですが、
これもまた極めてデフォルメされたスイスっぽさで、①のタイプの観客が思っているスイスらしさとは
全く異質のもので、これもまた①型の観客をむかつかせる一因となっていると思います。

しかし、例えばこんなたとえはどうでしょう?
映画『13日の金曜日』を観るのに、重厚なスリラーを期待する人はいないはずです。
見る前に、ある程度、これは馬鹿馬鹿しいホラー映画である、という認識を持って臨めば、
『13日の金曜日』なりに楽しめてしまうわけです。

で、このジンマーマン演出の『夢遊病の女』にも同様の心構えが必要です。
ベッリーニの音楽と作品の雰囲気が十全に生かされた演出ではなく、
あくまで観客参加型の『13日の金曜日』的『夢遊病の女』として鑑賞すれば、
この演出はこの演出で、想像していたほどひどいものではなかった、というのが私の感想です。
メトの歴史上、もっとひどい演出は他にもあります。
なので、②のタイプの人は、この演出でも結構楽しめてしまうのではないかと推測します。
多分、①のタイプにとって、混乱の源は、その『13日の金曜日』に、
ものすごい名優(フローレスの歌)が混じってしまったために、
他のあらゆる部分にも、それと同等のものを求めてしまいたくなる点にあると思います。

ちなみに、ロドルフォ役を歌ったペルトゥージは、昨シーズンの『フィガロの結婚』で、
めちゃくちゃ素敵な伯爵を演じていて、私も彼の領地に住みたい!と大興奮でしたが、
今回はがらりと雰囲気が変わって、ちょっと怪しげな雰囲気すら漂う”業界人”を公演。
つくづく、上手い人です。

テレーザ役のバネルは、メトの舞台で脇を固めることが多いベテランですが、
意外と技術がしっかりしていて安心して聴けました。
逆にリーザ役のブラックは少し細かい技術に不満が残ります。



指揮のピドは、色々な歌劇場でしっかりした経歴を作り上げてきた人のようなんですが、
振っている様子からはそれが全く感じられず、そのどんくさい雰囲気は
ドミンゴの指揮を彷彿とさせます。
不思議に非常に美しい音をオケから出してはくるのですが。
(なぜあんな指揮でそんなことが可能に、?と思いますが、
メト・オケは指揮者が駄目だと、時々自分で勝手に上手く演奏してしまうときもあります。)

合唱のシーンでは、しばしば、すぐ目の前にピドがいるのに、
コーラスの全員の視線が舞台袖に向かっているのが気になりました。
コーラス・マスターのパルンボ氏の指揮を見ているんだと思います。
すぐそこにいるピドを見ないのはなぜ、、?
舞台上での立ち位置のせいで、ピドの指揮を見て歌わなければいけない場面が
一番合唱の出来が落ちたように感じましたが、もしかするとそれは偶然ではないのかもしれません。


Natalie Dessay (Amina)
Juan Diego Florez (Elvino)
Michele Pertusi (Count Rodolfo)
Jennifer Black (Lisa)
Jane Bunnell (Teresa)
Jeremy Galyon (Alessio)
Bernard Fitch (Notary)
Conductor: Evelino Pido
Production: Mary Zimmerman
Set design: Daniel Ostling
Costume design: Mara Blumenfeld
Lighting design: T.J. Gerckens
Choreography: Daniel Pelzig
Grand Tier B Even
ON

*** ベッリーニ 夢遊病の女 Bellini La Sonnambula ***

CECILIA BARTOLI (Tues, Mar 3, 2009)

2009-03-03 | 演奏会・リサイタル
飛行機に乗るのが嫌いらしい、とか、声のサイズが小さいため、
本人がメトで歌うのを避けているらしい、などの噂があるバルトリ。
なんと、私、今回初生バルトリです。

連れに、”今日の夜はバルトリのリサイタルに行って来るからね。”と言ったら、
”あの、頭に小さい蝶リボンをいっぱいつけて歌う人?”と返されました。
彼女のシグネチャー・ロールであるチェネレントラの頭にのっている布のことを言っているんだろうか、、?
しかし、彼女のキャラクターの雰囲気から言って、リサイタルで、
”いっぱい蝶リボン”状態で歌っていてもおかしくはなさそうに思えるところがなんともいえません。



私の連れのように、海といえば山、バルトリといえばチェネレントラ!という連想が働く人は
特にNYでは少なくないでしょう。
というのも、彼女は、メト・デビューとなった1996年の『コジ・ファン・トゥッテ』(デスピーナ役)、
1997年の『チェネレントラ』(表題役)を経て、1998年の『フィガロの結婚』(スザンナ役)を最後に
メトでは一度もオペラの舞台に立っていないからです。
リサイタルでも数年に一度しかNYでは歌っていないという彼女。
今回は、歴史的なオペラ歌手であるマリア・マリブランをテーマにしたCD『マリア』のプロモーションも兼ねた
”200年のマリア・マリブラン”と銘打ったリサイタル・ツアーの一貫でNYに登場です。

メトの舞台で毎年歌声を聴ける歌手と違い、この貴重な機会に熱気ムンムンの聴衆たち。
ものすごくコアなファンと思しき、濃い目の聴衆の姿が多くてびっくりしました。
人気あるんですね、バルトリ。
まるで、ロック・スターのコンサートのようです。

そのバック・バンド、、じゃなかった、バックのオケ演奏をつとめるのは、
既述のCDで演奏をしているのと同じラ・シンティラ・オーケストラ。
チューリッヒ歌劇場付きの、17~18世紀の作品を専門に演奏しているオケで、
通常の(現代楽器を使う)オケとは別に、古楽器のスペシャリストたちが集まったグループです。
CDの方では指揮者がいますが、今回のリサイタルでは、アダ・ペシュというヴァイオリン奏者の方が、
いわゆるコンサート・マスター(CDで紹介されているタイトルはリーダー)で、
バルトリに合わせて全員をひっぱっていく形で演奏されたのですが、
歌うときにも身振り手振りの大きいバルトリが、段々と主導権を握っていくのがおかしかったです。
いつのまにか、身振り手振りという名の指揮で強引にオケをひっぱるバルトリ、、。

私はピリオド楽器とその演奏には全く詳しくなく、生で聴くのも今回初めてなのですが、
実際に音を聴いて、現代の楽器よりも音が素敵だな、と感じたのは、
プログラムの中でソロ演奏もフューチャーされていたハープ(奏者は日本人の方)とクラリネット。
今の楽器のぴーんと張り詰めた音に比べて独特の温かさがあります。
逆にトランペットなどは、現代のきんきらな音になれた耳にはあまりにしょぼい感じがして、
私は好きになれませんでした。

バルトリの歌をさておいて、このような話を先にするとは、彼女の濃いファンに叱られそうですが、
私は今日のリサイタルは、彼女の歌だけというよりは、むしろ、全体のプログラムの妙を楽しみました。

ほとんど交互にオケのみによるピースが噛んでいるので、彼女が実際に歌ったのは、
短い曲も含め、全9曲+アンコール3曲。
オケのピースの中で、すごく新鮮で楽しかったのはロッシーニの『セヴィリヤの理髪師』からの嵐の音楽。
『セヴィリヤ~』は今まで現代楽器のオケによる演奏しか聴いたことがなく、
メトの舞台を中心に鑑賞し続ける限りは、これからも、ロッシーニだけでなく、
どんな作品も現代オケ的な演奏で聴くことになるはずで、こういう機会は滅多にないので。
すごく音がコンパクトなんですが、私はこれはこれで嫌いじゃありません。
(ちなみに、最近、バルトリとフローレスのコンビによる『夢遊病の女』のCD全幕盤がリリースされましたが、
こちらも演奏がラ・シンティラ・オーケストラ。現代オケの演奏に慣れた耳には
音作りにエキセントリックさを感じる部分がいろいろあるのですが、
全体としてはやはり私はこれも嫌いでなく、ピリオド楽器を楽しめる自分の意外な一面にびっくりです。
むしろ、このCDで好きになれないのはバルトリのアミーナ。
この役はソプラノが歌った方がいい。
技術があって、一応高音が出るから誰でも歌っていいという種類の役ではやっぱりないのです。
一応、と書いたのは、もちろんオプショナルで出される高音などは一切チャレンジしていないので。
何より、彼女のしっかりした野太い中低音にげんなり。
筋を知らずに聴いていると、可憐な少女というよりは、恋の手練手管にたけた
年増のおばさんが若い男性=フローレス歌うエルヴィーノ役を落としている場面かと
勘違いしそうになります。歌唱技巧にたけているだけ余計に、、。)

あと、オケの演奏で印象に残ったのは、ドニゼッティの
『クラリネットのためのコンチェルティーノ 変ロ長調』からのアンダンテ・ソステヌート。
ドニゼッティのオペラ以外の作品は今まで聴いたことがなかったのですが、
クラリネット奏者のロバート・ピカップのソロがとても美しく、
ドニゼッティのオペラ作品の歌のパートがクラリネットに置き換わったとでもいうのか、
すごく歌心のあるメロディで、器楽曲でもドニゼッティはドニゼッティしてます。

肝心のバルトリの歌のことについてふれる前に、少し、テーマの”200年のマリア・マリブラン”の話を。
マリア・マリブランというのは、実質たった10年ちょっとという短いキャリアで名声を築いた、
オペラ史上の伝説のプリマドンナの一人。
1808年にパリに生まれ、1836年に亡くなっていますが、ということは、
ドニゼッティやベッリーニの作品がリアル・タイムだった頃の人、ということになります。
彼女のために書かれた、という作品もたくさんあるソプラノです。
正式なオペラの全幕デビューはロンドンでの、『セヴィリヤの理髪師』のロジーナ。
その後、チェネレントラ、タンクレーディ、セミラーミデ、オテロといった、
ロッシーニの作品で名声を高めていきます。
(オテロは今ではヴェルディのそれが有名ですが、
ヴェルディのキャリアが本格的に始まったのはマリブランが亡くなった後です。)
その後NYに移り住み、28歳年上の銀行家(彼の姓がマリブラン)と結婚し、
一時、舞台に立つのをやめていましたが、旦那が破産。
生活のために再び舞台に立ち始め、旦那と離別。
以降、ヨーロッパに戻って、そこから華々しい大スターとしての地位を確立していきます。
ナポリのサン・カルロ劇場は当時拍手喝采が禁止されていたそうなのですが、
それを解除するまでは王の前では歌わない!と宣言してみたり、
ミラノでは、『マリア・ストゥアルダ』を検閲なしで上演するよう官僚に要求したりと、
なかなか根性の入った人でもあります。
17~18世紀に全盛期を迎えていたカストラートたちに負けない人気を持った、
最初の女性歌手、といわれるのが、このマリブランですが、
ベルギー人のヴァイオリニスト、ドゥ・ベリオと再婚し、お腹に子供もできた幸せの絶頂期に、
落馬による怪我がひきがねとなって、たった28歳の若さで命を落としています。
そのマリブランの生誕200年にあたるのが2008年で、彼女を偲ぶイベントがフランスで行われたり、
バルトリが前述の『マリア』を発売したりしているのはこういう経緯です。

で、今日のリサイタルの演目は、ほとんどマリブランに縁のある曲目となっており、
また、そのほとんどが、CD『マリア』に収録されている曲でもあります。

最初の歌唱は、マヌエル・ガルシア作曲の、『女神ユノの復讐』(と、
バルトリのレコード会社であるユニヴァーサル・レコードのオフィシャル・サイトに表記されているのですが、
なぜ、La figlia dell'ariaという原題がそんな邦題になるのかは、私にはよくわかりません。)から、
”でも彼は見えない~私は女王”。
ガルシアはマリブランのお父様のことで(なので、マリアの旧姓はガルシア)、
一家がNYに移り住んで、イタリアのオペラを紹介する公演をうっていた頃の、
娘マリアをフューチャーするために、父親の手によって生み出された家内式手工業的オペラ。
ちなみに、しかし、残念ながら一番NY人に人気のあった演目はこれではなく、
ロッシーニの『セヴィリヤの理髪師』だったそうです。(まあ、そりゃそうでしょうとも、、。)

舞台にあらわれたバルトリは、どこの舞踏会にいらっしゃるの?と聞きたくなるような
ボリュームのある、ネイビーがかったブルーの、裾に銀色の刺繍が入ったいわゆるお姫様ドレスで、
このセンス、確かに頭に蝶リボンを一杯つけてる、と形容されても無理からん。
ファンからの熱狂的な”Welcome back to New York!”の拍手と喝采に、
胸をバシバシ!と叩いて感謝の念を表わし、一層大きくなる拍手の音に、
つづいて、”こうしたい位あなたたちのことを愛してる!”とばかりに一人ハグ・ポーズを決めるバルトリ。
なんか、まだ若いのに、ものすごい貫禄とこちらが押しつぶされそうなほどの濃さ。
こういうのを見ると、オペラの全幕の舞台が活躍の中心の場になっている歌手は、
ディーヴァちっくと言っても(ゲオルギューとか?)、たかが知れてるな、と思ってしまいます。
ソロのリサイタル中心にやって行くには(バルトリはヨーロッパでは全幕ものの舞台にも立っているのかもしれませんが)
これくらいの濃さがないと駄目なのでしょう。
ちなみにインターミッションをはさんだ後は、同じデザインの色違いのドレス(赤)。
ちょっとそれはバルトリ姐さん、手を抜きすぎなんじゃ、、。

で、ガルシアの曲に話を戻すと、曲の成り立ちが成り立ちなので、
旋律の美しさを楽しむというよりは、どちらかというと技巧の妙を楽しむタイプの曲。
バルトリは、技術の方は、もう私があえて重ねて言う必要もないくらいに、
皆様もご存知の通りに実に達者なんですが、声のサイズが想像していた以上に小さくてびっくり。
カーネギー・ホールでこれでは、メトなんかでは聴こえないんじゃないか、と思うくらいに。
特に高音域で音が薄くなる傾向が顕著で、これは以前からそうだったのか、
最近になって見られるようになったことなのか、これが生歌初体験なのでなんとも言えません。
同じボックスに座っていた超バルトリ・ファンのおじさんは、
なんと、ロング・アイランドの東端ハンプトン(金持ちの別荘地として良く知られる。貧乏なNY人の憧れの場所。)から、
ジトニーと言われる長距離バスでかけつけたそうで、そのおじさんが言うには、
98年に観たメトの『フィガロ』では何の問題もなく、きちんと声は通っていた、という話です。
ま、でも、ファンの方のいうことですからね。鵜呑みは危険かもしれません。
ちなみに、おじさんの帰りのジトニーは11時台のマンハッタン発。
ハンプトンご帰着は朝の2時だそうです。バルトリへの愛がなきゃ出来ませんね。

また、これはロッシーニの『チェネレントラ』からの
”悲しみと涙のうちに生まれ~もう火のそばで寂しく”などでも強く感じたのですが、
歌がとても表面的な気がします。
彼女の場合、あまりに技巧への依存性が高いからでしょうか?
特に『チェネレントラ』に関しては、歌っている主がチェネレントラという役ではなく、
バルトリになってしまっています。
最近、同じ曲をコンサート形式で披露したディドナートと比べてもそれは明らかで、
ディドナートの歌からは、きちんとその歌を歌っている役のキャラクターが感じられるのと対照的です。

それから、技術の巧みさに比べると、歌にパンチがないのも意外でした。
私はこの一曲目や、『チェネレントラ』、『セミラーミデ』といった演目からの曲では、
どかーん!と行ってくれるもの、と思っていたのですが、とても大人しい。
私の好きな歌手は、アリアや公演のどこかに、たとえ短い時間であっても、
まるで、この人は私のためだけに歌ってくれているのではないか?と思わされる瞬間がある人がほとんどです。
ディドナートしかり、フローレスしかり。
それは、歌手がこっちを向いて歌ってくれている、というような単純なことではなくて、
歌から感じるパーソナルなコンタクトのレベルというか、これが高い人と、低い人って絶対いる、と思うのです。
そのコンタクトされた感じが、私達聴衆に、”何かが伝わった”という感覚となって体に残るわけですが、
ここらあたりのレパートリーを歌うバルトリからは、
このパーソナルな波長というものが、ほとんど入って来ずじまいでした。
上手いけど、すごく自己完結している歌手なような気がします。
それは、早いパッセージを伴う快活な技巧的に忙しい演目で特に顕著だったように思います。

むしろ、彼女の歌の素晴らしさは、ペルシアー二の『イネス・デ・カストロ』の”いとおしい日々よ”や、
ロッシーニの『オテロ』からの”柳の根元に腰を下ろし~ああ、神様、眠りの中で”
(ヴェルディの『オテロ』の柳の歌とアヴェ・マリアのシークエンスに相当する部分で、
歌詞の内容も大意はほとんど同じです。ヴェルディのそれと同等に美しく感動的な曲です。)
の二曲に集約されていたように思います。
彼女は、静かな曲の時に出てくる声の方が、音色が瑞々しく、またサイズの不足を感じさせない。
会場中に歌声がそっと染み付いてなかなか消えないような歌を歌います。
今までバルトリに関しては、とにかく技巧の人、という印象が強かったのですが、
この二曲での表現力は素晴らしいものがあり、彼女個人が消えて、
オペラの中の人物を舞台に感じることが出来ました。
しかし、皮肉なことに、聴衆からはやはりスーパー技巧の曲の方が受けがいい。
なんと、嘆かわしいことでしょう!

本プログラムの最後の三曲は、ファン・サービスともいえる軽めの曲で、
まず、バルフの『アルトアの乙女』から”月は彼方の山の上で”。
NYということで、英語の曲を入れたのでしょうか?
来日した外タレが、コンサートで”さくら さくら”を歌うのと似た感じ?
しかし、辞めたほうがいいです、今後は。
彼女の英語は、何を歌っているんだか、さーっぱりわかりません。
母音の発音に問題があると思います。
初めは耳だけで聞いていたのですが、全然何を言っているのかわからないので、
”私が歌詞を知らないからだろう”と、歌詞カードを見ながら聴き始めたら、
さらに、”見ても、その言葉を発しているとは思えん、、”と二度びっくり。
言葉が音にきちんと乗っていないので、表現という前のレベルで止まってしまっています。
これはさすがに彼女を愛する聴衆もちょっと引いてしまい、一番聴衆からの反応の薄い一曲となってしまいました。
チェチーリアがせっかくサービスしたのにぃ。
(と思ったら、私の持っている『マリア』にこの曲は入っていないのですが、
発売国によっては収録されている盤もあるようで、単なる観客サービスではなかったようです。
もしや、英語圏で発売される盤だけこの曲を抜いたんじゃ、、。)

二曲目はフンメルによる、”チロル風のメロディー(ヴァリエーション付き)”。
まさにタイトルの通り、チロル風のヴァリエーションが入っていて、
楽しい歌なので誤魔化されそうになりますが、かなり歌うのは難しそうな曲です。

最後はマリブランが作曲したと言われる『ラタプラン』。
ラタプランというのは太鼓の音を表わす擬音語で、
機関銃のような速さでRRRRRと発音される様子がおかしく、
会場からの受けも良い、アンコール・ピースなどに最適な曲。
しかし、こちらも歌の上手い人が歌わないと、とても聴いてられない曲です。

これらの曲に、すっかりアンコールも終わってしまったような錯覚をおこしそうですが、
本当のアンコールはここからで、一曲目は、ドニゼッティの『愛の妙薬』を歌うにあたって、
差し替えのためにマリブランが作曲したと言われる、”ああ、甘い誘惑”。
歴史的な意義や面白さはあるのかもしれませんが、残念ながら曲としてはあまり印象に残りませんでした。

二曲目は、ネタが切れたか、もう曲の準備がないの!というような仕草をしながら、
すでに本プログラムで歌った『チェネレントラ』のアリアから、
後半の”もう火のそばで寂しく”だけをもう一度。
本プログラムで歌ったときよりも、いい意味で力が抜けて、
声も楽に出ていたような気がしました。
歌の出来は、こちらのアンコールの方が良かったです。

あまりの聴衆からのラブ・コールに、もう一曲、クルティスの”忘れな草”。
本当はこれがアンコールの二曲目で終わる予定だったのかもしれません。
(なので、Non piu mestaがおまけだったのかも。)
男性歌手によって歌われることが多い印象があったのですが、
バルトリのフォームが極端に綺麗な歌唱で聴くと、また全然違う魅力が曲から引き出され、楽しみました。
女性が歌う”忘れな草”もいいな、と。


CECILIA BARTOLI "200 YEARS MARIA MALIBRAN"

Cecilia Bartoli, Mezzo-Soprano
Orchestra La Scintilla of Zurich Opera

GARCÍA Overture to La figlia dell'aria
GARCÍA "E non lo vedo...Son regina," from La figlia dell'aria
PERSIANI "Cari giorni," from Ines de Castro
MENDELSSOHN Scherzo from Octet in E-flat Major, Op. 20 (orch. Mendelssohn)
MENDELSSOHN "Infelice," Op. 94
ROSSINI Tempest from Il barbiere di Siviglia
ROSSINI "Nacqui all'affanno...non più mesta," from La Cenerentola
DONIZETTI Andante sostenuto from Concertino for Clarinet in B-flat Major
ROSSINI "Bel raggio lusinghier...Dolce pensiero," from Semiramide
ROSSINI Overture to Il Signor Bruschino
ROSSINI "Assisa al piè d’un salice...Deh, calma," from Otello
BÉRIOT Andante tranquillo from Violin Concerto No. 7 in G Major, Op. 73
BALFE "Yon Moon o'er the Mountains," from The Maid of Artois
HUMMELL "Air a la tirolienne avec variations," Op. 118
MALIBRAN "Rataplan"

Encore:
MALIBRAN "Oh dolce incanto"
ROSSINI "Non più mesta accanto al fuoco" from La Cenerentola
CURTIS "Non ti scordar di me"

First Tier Box 39 Back
Carnegie Hall Stern Auditorium

*** チェチーリア・バルトリ CECILIA BARTOLI ***

嬉し死にします! ラセットがHDの蝶々さんに!!!

2009-03-02 | お知らせ・その他
嬉しさのあまりに死んでしまう、というようなことがこの世の中にあるとしたら、
まさに今日のこの瞬間がそうかもしれません。

こちらの記事に頂いたコメントで教えていただいたのですが(本当にありがとうございます!)、
ライブ・イン・HDの収録日も含む、残りの『蝶々夫人』の公演の蝶々さん役は、
二日(3/3と3/7のマチネ)とも、クリスティーナ・ガイヤルド・ドマスにかわり、パトリシア・ラセットが歌うことになりました!!
メトのサイトのキャスト表の表示が変わっており、今日の『夢遊病の女』のシリウスの放送でも
案内がありましたので、確定です!!!

すでに、このブログで、何度も、何度も、何度も、
彼女の蝶々さんがいかに素晴らしいかを説いてきた私なので、もうあえて何もいいますまい!!!
(右上の検索の欄にRacetteと入れ、プルダウンで”このブログ内で”を選ぶと、
彼女に関する過去記事が検索できます。)

とにかく嬉しいです。
よくぞ、彼女のスケジュールを押さえてあったものです。でかした、メト!!!
いつものように、彼女の蝶々さんを歌ってくれれば、素晴らしい公演になるはずです。
もちろん、当日はオペラハウスで鑑賞です。もう今からどきどきしてきました。
ああ、早く来てっ、土曜日!!!!

追記:
ライブ・イン・HDの収録日であった3/7の実演についての感想はこちら
また、ライブ・イン・HDのアンコール上映についての感想はこちらにupしました。

VIENNA PHILHARMONIC ORCHESTRA (Sun, Mar 1, 2009)

2009-03-01 | 演奏会・リサイタル
今年も3月頭恒例のイベント、カーネギー・ホールでのウィーン・フィルの演奏会がやって来ました。
このブログを始めてから気付いたのですが、本当に見事なまでに、
毎回、三月の最初の日曜をかませた公演スケジュールで、
まるで、”日曜の2時には必ずあそこを散歩せねばならんのじゃ!”と日々の行動予定にこだわる
頑固じじいのような柔軟性の無さです。
しかし、ああ、またウィーン・フィルの季節になったな、という感慨はあります。

すべてのプログラムを鑑賞できればそれに越したことはないのですが、
例年、数日あるプログラムのうち、一つか二つを選ぶことになるのですが、
これが、大体の場合、困難な作業となります。
私はホモ・サピエンスである前に、オペラヘッドであるので、
まず、オペラの序曲、前奏曲、間奏曲、抜粋の類が入っていると、これはそれだけで、かなりポイントが高い。
それから、このブログをしばらく読んでくださっている方にはもうばればれでしょうが、
私は無調音楽以降の現代音楽が苦手なので、そのあたりのレパートリーが入っていると、
逆にかなりポイントは低くなります。
と、嗜好がはっきりしているので、じゃ、選択は簡単なのでは?と思われそうですが、
問題は一つのプログラムに、二つか三つの曲が入っているのが普通なので、
どちらも含まれていたり、また、どちらも含まれていない、というケースが多発。
それで頭を悩まされることになるのです。

しかし、今年は実に簡単に解決!
今年はオーストリアの作曲家たちで完全武装された、
ローカル・プログラムともいえるもので、実に興味深いのですが、
一日目はシェーンベルクの名前が見えた途端、パス。
(演目の”浄められた夜”は完全な無調ではないですが。)
カップリングされているブルックナー(9番)も私はあまり好きな作曲家ではないのでこりゃ好都合!
二日目の、ヴォルフ+マルクス+シューベルト(『ザ・グレート』)も、
モーツァルトの『フィガロの結婚』序曲(◎!!)でキック・オフし、
完全に私のクライテリアを満たしている今日、三日目のプログラムの前にはひとたまりもありません。
そのフィガロ序曲の後に、ハイドンの交響曲第104番ニ長調『ロンドン』、
R.シュトラウスの『英雄の生涯』と続く魅惑のプログラムです。

今日は久しぶりに連れと一緒の鑑賞で、自分以外の人の感想を聴けるのも楽しみ。

ズービン・メータという人は、私の思い込みかもしれませんが、
三大テノールのコンサートの指揮をした過去と、
オペラ全幕の指揮でも、『トゥーランドット』みたいなきんきらした演目が得意なので、
本人も、派手なイベント好きの、きんきら指揮者に違いない!
ゆえに、きっとウィーン・フィルの怖い楽団員たちにも、きんきら指揮者として、
軽くあしらわれているのではないか?よって、演奏も期待できないかも、、と思っていたのですが、
結果から言うと、私は、このブログを書き始めてからウィーン・フィルが組んだ
バレンボイムやゲルギエフより、このメータの方が相性がいいのではないか?と思いました。

バレンボイムが指揮したときは、何か、ウィーン・フィルの嫌な部分、
悪い意味での優越感やおごりを引き出しているような気がして、全く感心しませんでしたし、
ゲルギエフが指揮したときは、おごりはなくなりましたが、
どこか、オケ側の戸惑いのようなものを感じなくもありませんでした。
その点で、メータは、特別に大感動させるような大技はありませんでしたが、
指揮については、ウィーン・フィルの、過去の自信満々的なそれとは違う、
素朴さを引き出した、やや地味かもしれないですが、手堅い、いいものだったと思います。
むしろ、オケ側に問題があった個所があるのですが、それは追々ふれることにします。

モーツァルト 『フィガロの結婚』序曲。
各セクション間のバランスが実に巧みで(指揮だけでなく、各団員レベルの能力が大きいと思う。)
簡単そうに演奏しているけれど、さりげなくこれほどまでに上手くこの曲を演奏できる
劇場付きオケはやはりそうはないと思います。
というか、むしろ、あまりにこなれていて、心がわくわくする感じに多少欠けるかも。
この曲でのメータの指揮は、少し収まりが良すぎて、型にはまった感じを受ける方も多いかもしれません。
洗練された演奏ではありますが、オペラの全幕がこの後に続くとしたら、もうちょっとわくわく感がほしい!
しかし、全体的な流れの面では巧みなこのオケが、なぜか、
細かいレベルでの演奏ミスで苦労しているような気がしたのが今日の演奏会。
以前からずっとそうだったのか、ここ最近に始まったことか、よくわかりませんが、
ウィーン・フィルはミスを出さない!という次元の話では、
実は鉄壁の技術を誇るタイプのオケではないように感じました。
そういう意味ではベルリン・フィルの方が鉄壁度が上ですし、NYフィルも、ザ・鉄壁です。
(でも、それが音楽性と必ずしもイコールでないのは言わずもがな、、ベルリンは音楽性も高いですが。)
この『フィガロ』序曲のフィナーレの部分で、金管がもたもたしたのはちょっとびっくりでした。

ハイドンの『ロンドン』。
この曲で聴くものの心を動かすような名演の録音があれば、ぜひ教えていただきたいです。
聴くたびに、ホテルのロビーでかかってそうな曲だな、
通称”ホテル”でいいや、と思ってしまいます。
しかし、ホテルのロビーでそれこそ胸ぐらをつかまれるような感動的で
ドラマチックな曲・演奏が流れていたら、客は落ち着けないでしょうから、
こんなホテルのロビーでかかってそうな曲は、
まさにホテルのロビーでかかっているように演奏するのでいいのかもしれません。
そして、そういう意味では今日の演奏は、これでいいのだ!です。
フィガロ序曲とこの曲の二つは、もしかしたら、メータが指揮台にいなくても、
オケが勝手にこういう風に演奏してくれるんじゃないか?と思わせる瞬間がしばしばあったのですが、
その指揮者による強烈なドライブの無さ、というのが、
オペラの演目である『フィガロ』では、多少問題に感じられましたが(だから
わくわく感がない、という不満になってしまう。)、ホテル音楽にはOK!です。
『ロンドン』ファンの方、すみません。私にはこれ以上、この曲から何かを感じることは不可能です。

インターミッションでは、連れと大体同じ意見であることを確認。
つまり、メータの指揮があまりに構築性に走りすぎていて、
生き生きとした感情を引き出すのに失敗している、というもの。
だから、演奏は洗練されているけれど、興奮とか型破りな感じに欠ける。
それじゃ、全然メータだめじゃん!って感じなのですが、
R.シュトラウスの『英雄の生涯』、これを聴いて、ああ、今日の公演は悪くないな、という結論に落ち着きました。
連れによると、メータは割とシュトラウスを得意としているようなんですが、なるほどな、と思います。

まず、この作品、私はカラヤンがベルリン・フィルを指揮した録音を持っているのですが、
シュトラウスの音楽は大好きな私が、なぜか、この一枚には燃え上がれない、という不思議な盤になってました。
聴くたびに、本当にこんな曲なんだろうか?と疑ったほどです。
(帝王カラヤンにそんな疑いを、、!)

そして、今日の演奏会でこの作品を聴いて、
やっぱり、そんな曲ではなかったんだ!!という結論に至りました。
まず、この曲には、この曲を演奏するにあったサウンド、まずそこからスタートしなければいけないんだ!と
いうことを、今日の演奏から痛感しました。



私は、イタリア・オペラはやっぱりイタリアのオペラハウスのオケ、
ワーグナーはドイツのものじゃないと!とは思わないし、
(そんなこと思っていたらメトには通えません。)
実際、他国のオペラハウスが演奏しても、たとえ、少しスタイルが違っているとはいえ、
いい演奏、興味深い演奏ができる作品・演目はたくさんあると思っています。

しかし、時にそれが全く当てはまらない作品というのがあって、
この『英雄の生涯』はまさにそんな作品であるように思います。
どんなに演奏が上手いベルリン・フィルでも、
(少なくともカラヤンとの録音では)この作品が必要としているカラーがないのです。
その点、今日のウィーン・フィルの演奏は、音が出てきた途端、”ああ、これだったんだ、
この音色が必要だったんだ!”と思わされました。
ベルリン・フィルが演奏している曲とは全く違う感じがするほどです。

このカラヤンのベルリン・フィルが陥っている、そして、おそらく、NYフィルのようなオケがこの曲を演奏したなら、
間違いなく同じところで陥るであろう罠は、
タイトルの”英雄”という言葉と大編成のオケのために、
演奏が必要以上に男性的で力強くなってしまう点にあると思います。
ウィーン・フィルの演奏を聴いて面白かったのは、必ずしも男らしい恰幅のいい英雄としてだけでなく、
どこかセンチなロマンチスト(コンマスによる、”伴侶”の部分でのヴァイオリンの独奏)で、
コミカルなところのある(”戦場”の打楽器の扱い方にそれが現れていると感じました。)
普通の人間らしさみたいなものがきちんと表現されている点でした。

”戦場”では、トランペットのセクションがいきなり立ち上がって舞台袖に向かって歩いて行くので、
どこに行っちゃうの?と思いましたが、舞台横のドア
(カーネギー・ホールは押しドアが舞台袖についている)を開いたままの状態にして、
ドアの向こうから敵との戦いの開始をあらわす旋律を演奏。
私はこの作品を今まで実演で聴いたことがないので、舞台裏には別のトランペット奏者たちがいて、
演奏するのだろう、と勝手に思い込んでいたので、
ドアの裏での演奏を終えた演奏者たちがまたいそいそと舞台上に現れて演奏をし続ける様子が
けなげで可愛らしかったです。”忙しそうですね。”と一声かけたくなるほどに。

私はウィーン・フィルが押しも押されぬ地位を保っていた頃の演奏を生で聴いたことはないですが、
俗に言われる、一糸乱れぬ弦セクションの音、というそこまでの緻密なアンサンブルは、
失われつつあるように感じます。
それでも、弦以外の楽器のセクションから、旋律が弦セクションにリレーされるときの、
そのバトンの受け取り方はさすがで、そういう個所で、何ともいえない美しさを感じました。

”隠遁と完成”での、ホルンのソロは素晴らしかった。
金管で最も不安のあったセクションはトランペットで、
もともと私がメト・オケなどで聴く、アメリカ風の強力な演奏の仕方に耳が慣れているせいもあるでしょうが、
ダイエットが過ぎて腹を空かせた人間が演奏しているような力強さのない演奏に、
”え??”という感じ。
最初はスタイルの差かと思いましたが、聴き進めるうちにそれだけではないような気がしてきました。
それが一番望ましくない形で露呈してしまったのが、あろうことか、
”隠遁と完成”の最後、つまり作品全体のラストの部分でもある個所の、
金管の全奏部分で、トランペットがスカ音(まともに音が出ていない)を出して、
思わず連れと私は顔を見合わせてしまいました。
こんな肝心な場所で、ウィーン・フィルが、こんな、、、。

このようなミスはあってはならないものですが、しかし、この作品本来の良さを
きちんと観客に伝えていた、という点では、地味ながら、私はこの演奏は悪くなかったと思います。

私の連れは、メータということで、もう少し爆発的なものを期待していたようですが、
(彼はやや指揮が荒いところがありますが、それがいい方に転ぶと、
エキサイティングなものが出てくるので、それを期待していたようです。
良いときは、”荒いがエキサイティング”、悪いときは”荒くてめちゃくちゃ”、
それがメータ、、。)
私は逆に、そのらしくなさがこの作品のいいところを引き出した気がします。

アンコールは、お得意の、ニュー・イヤー・コンサート系レパートリー。
こういう他のオケには絶対真似のできない一芸を持っているのは本当に強い!と思わされます。
観客の中にも、今にも踊りだしそうな人がたくさん。
しかし、二曲目のアンコール、エドワルト・シュトラウス作曲の”バーン・フライ・ポルカ”には、
各楽器が、わざとソロで下手くそな音を出す個所があって、
それが合奏では、綺麗なウィーン・フィル・サウンドになるところが楽しくて肝なんですが、
あの、『英雄の生涯』でのトランペットの大ちょんぼの後では、全然洒落になっていません。


MOZART Overture to The Marriage of Figaro
HAYDN Symphony No. 104 in D Major, "London"
R. STRAUSS Ein Heldenleben, Op 40

Encores:
HELLMESBERGER JR. Leichtfüssig
EDUARD STRAUSS Bahn frei Polka

Conductor: Zubin Mehta
Center Balcony J Odd
Carnegie Hall Stern Auditorium

*** ウィーン・フィル Vienna Philharmonic Orchestra ***