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Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

THE SONG CONTINUES : MARILYN HORNE (Thu 1/21/2010)

2010-01-21 | マスター・クラス
マリリン・ホーン・ファンデーションによる”The Song Continues(歌は続く)”プロジェクト。
期間中はマスタークラスだ、リサイタルだ、と、毎日昼に夜にと何かあるので、
もはや”一週間半にわたる歌のお祭り”の様子を呈しているのですが、残念ながら私は、
働かないでもオペラを観たり、生命維持することが可能というような幸せな境遇にいるわけではないので、
今回参加できたのはかろうじて二つだけ。
一昨日のジェームズ・レヴァインのマスター・クラスに続き、今日は、ボス・キャラ、
つまり、マリリン・ホーンが講師をつとめるマスター・クラスです。

そのレヴァインのクラスの記事にも書いた通り、彼女はしばしばNYで行われるコンサートやリサイタルなどで、
姿をお見かけすることがあるのですが、いつも姿勢がよく、きりりとした厳しそうな雰囲気で、
ちょうど一年前のメト・オケ・コンで、いざディドナートのサインをもらえる!という瞬間に割り込まれた経験もある私としては、
きっと、生徒さんたちを締め上げる、怖い先生に違いないよ、これは、と思っていました。

それが、、、。

マリリン先生は1934年の一月生まれでちょうど76歳の誕生日を迎えたばかり。
一方、レヴァインは1943年の六月生まれだそうですので、10歳近くマリリン先生の方が年上なわけですが、
その元気さといったら、レヴァインとの年齢が逆に思えるほど矍鑠としています。
彼女はつい最近癌を経験しており、いわゆる”サバイバー”なんですが、
全くそんなことが嘘のように思えるほど元気そうで、椅子に座っている間も、
ぴしーっ!と背中が伸びていたのが印象的でした。

まず、意外だったのは、レヴァインは指揮者なので歌唱や声について、
ある程度意図的に避けているのも含めて、あまりコメントをしないのも不思議ではないのですが、
マリリン先生まで、発声についての発言は最小限な点。
発声はいつもついている先生にちゃんと習って下さいね、
ここではそこから先のことをやりますので、とでもいった雰囲気に近い。
彼女が今回の(もしくはすべての)マスター・クラスで生徒達に教えたいことは、
どのように曲を表現するか、曲のどういう部分をつかみどころとしてその曲の良さを引き出し、
観客に提示するか、そういうことにフォーカスされているように思いました。
昨年、日本で聴講したデヴィーアのマスター・クラスの時には、
受講生(実際に歌う生徒さんたち)が日本人のみだったわけですが、
日本の場合は、曲で何かを表現するには、まず技術がなければならない、
そこがないと表現に行けない、満足な表現というのは技術があってこそ、
という考えが、少なからず根っこにあるように感じました。
しかし、レヴァイン、それから今日のマリリン先生のクラスを見ていると、アメリカの場合は、
発想が逆なのかな?という気がします。
つまり、こういう表現をしたい!という意欲が強くなってきたら、
いつか、その表現をするためにマスターしなければならない技術に辿り着く、
技術はそこで習得すればよい、表現を伴わない技術だけを先に詰め込もうとするのは意味がない、
という、そういう考え方です。
もちろん、これは対比を明らかにするためにオーバーに書いている部分もあって、
アメリカの声楽教育も、技術の重要さを軽視しているわけでは決してないのですが、
歌の表現と技術の習得という点で、少しルートが違うように感じます。

なので、マリリン先生も、とにかく、曲の雰囲気とかスピリット、歌われている歌詞の内容、
各フレーズの歌い方を工夫することによって表現に深みを持たせる、
これを徹底的に生徒と詰めていく、そんなクラス内容になっていました。
なので、一部の参加者に、二曲、歌う曲の候補をあげている人もいましたが、
レヴァインの時とは違って、ほとんどの生徒が一曲歌うだけで時間切れになってしまう状態です。

最初に登場したのはカーティス音楽院在学中のバス・バリトン、ジョセフ・バロンで、
曲はブラームスの”あなたのところへはもはや行くまいと Nicht mehr zu dir zu gehen"。
早速マリリン先生から、”この曲はもっともっと重苦しく、焦燥感を持って歌わなければ。
あなたのこの曲は何かのんびりし過ぎ。”に始まって、
”テンポが早すぎる!もっと重厚に!!”、”ドイツ語の単語の発音をもっと歌に生かして!特に子音の使い方!”、
”曲の頭からそんなにやたら声をたくさん使わない!”、などなど、矢のような指摘の嵐。
こんなにたくさんのことを一気に言われると、頭がショートしそうですが、
実際、彼はショートしてしまったようで、何度言われても同じ個所の発音で失敗していました。
マリリン先生だけではなくて、優れた歌手はみんなそうだと思うのですが、
音を延ばしている時、休んでいる時、そういった時にもきちんとリズムを感じるような歌を歌うものです。
それをきちんと学生さんに伝えているのはさすがです。
最初のヴァースの最後の Denn jede Kraft und jeden Halt verlor ich
(なぜならどんな強さも決意も失ってしまったから)のHaltの後に、
”ん!ん!”というリズムを感じながら、verlorに入って行きなさい、など。

おそらく自身が色んなレパートリーに挑戦して自分のものにしていった経緯があるからでしょうが、
ドイツ歌曲、イタリア歌曲、黒人霊歌、エスニックな曲、そしてもちろんオペラの作品群、、
それぞれの曲で何が大切か、というのが、きちんと見えているのがマリリン先生の強みです。

特にドイツ歌曲では、子音の響きを表現に有効に利用しなさい、ということを何度もおっしゃっていました。
フィッシャー=ディースカウの録音なんかを聞いて勉強しなさい、本当に学べることがたくさんあるから!と。
他におっしゃっていた大事なことは、
”どんなフレーズでも、声のカラーを良く考えなさい。声そのものを変えるのではなくて、
カラーを変えるのです。”
”息の量を測ることを常に忘れないで。この後に何を歌わなければならなくて、
そのためにはどれくらいの息の量が必要かということを常に意識して。
特にこの曲ではいきなり声を目一杯使ってしまうのではなくて、たくさん後にとっておくの。”
また、二つ目のヴァースから曲の雰囲気が変わって、つい声を張り上げてしまうバロンくんに、
”大きな声で歌うのではなくて、声をサポートする気持ちで!”。

その上に、各フレーズの細かい指示もすさまじく、二つ目のヴァースの、
Möcht augenblicks verderben (すぐにでも死んでしまいたい)のaugenblicksのauを出来るだけ表情をつけて、
そして、Und möchte doch auch leben(それなのに、生きてもいたい)のundはdに向かって思い切り持ち上げるように、
そして、möcht、doch、auchの音をきちんと関連付けて、
第三のヴァースの頭のAchはそして、囁くように、など、それはもう注文の山!なのです。
しかし、それらを織り込むと、確かにさっきまでのっぺらぼうだった歌に、きちんと表情がついてきているではないですか。
もちろん、歌い手というのは、こういったことを自分でやってこそ、ですが、
それでも、マリリン先生がどういう風に曲を組み立てているのか、その一部を見れただけでも興味深かったです。

二番目に登場したのは、履歴が高卒になっているので、特に音楽系の学校に進まず、
フロリダのパーム・ビーチ・オペラなど、OJT(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)的に頑張っているベッツィー・ディアス。
選んだ曲はザビエル・モントサルヴァトゲという、スペイン(カタロニア)の作曲家の『五つの黒人達の歌』から、
”Canto Negro 黒の歌"。
ヤンバンボ、ヤンバンベ、など、私はアフリカの言葉がさっぱりわからないので、
本当にこんな単語があるのか、それとも彼らの話している様子を擬音化したものか、よくわかりませんが、
まるで早口言葉のような歌詞で、しかも、旋律をとるのが結構難しく、
これを下品にならず、チャーミングに歌うのは超至難の技だと思いますが、
ベルガンサがすごく素敵に歌っている映像があります。
(ちなみにバルトリがこの曲を歌っている映像もYou Tubeに上がっていますが、私は、、、。)




ベルガンサを見ていると、すごく楽チンに歌っているように見えますが(本当に驚異!)、
それがとんでもない勘違いであるのは、このディアス嬢が苦闘しているのを聴くとよくわかります。
いや、それはバルトリの映像を見てもわかるかもしれないほどで。
まず、このリズムに本当にのって歌う時点ですでに、大変な困難です。
リズムに乗せるというのは、単に言葉が音符にのっているということではなくって、
そこから、ちゃんとビートが感じられるか、ということです。

ディアス嬢はキューバ系移民の家庭に育ったらしく、マリリン先生が、
”あなた、キューバ系なの?それなら、こういう曲、もっとノッて歌えるでしょ!”。
いや、先生、いくらキューバがスペイン語を話す国だと言っても、
それだからスペイン語の曲は大丈夫でしょ!と一からげにするのはあまりにおおざっば、かつ乱暴過ぎるのでは、、、、
だし、歌詞の半分くらいはアフリカ語擬音系の単語みたいですし、、。
なんてことは誰も言ってはいけないのです。マリリン先生なんですから!

ディアス嬢は、ベルガンサと違って、高音域ではフル・ブロウンで歌いあげる方法をとっているんですが、
その音がややきつそう。
ソプラノなんですけれども、ちょっと高音に苦手意識があるのかな、、という感じがします。
そのため、ついそちらに気がとられてしまったり、また、いつも練習やレパートリーの中心になっていると思われる、
オペラ的レパートリーを歌うアプローチに固執しているために、勝手がきかずに苦闘している趣もあります。

すると、黙っていないのがマリリン先生です。
”あなた、どうしてこの歌をそんなにオペラっぽく歌おうとするのかしら?
まだ、本当にのれていないわね。
親戚中が集まった時のようなのりで、もっと楽しく、のびのびと歌いなさい!”

それでも高音域に上がってくると無意識に体が固まってなかなかリラックスできない彼女に、
マリリン先生は、おもむろに立ち上がって、のりのりの体でダンスをはじめ、
ディアス嬢のまわりをくるくると回り始めました。
お歳で多少身長が縮んだものか、もともと背が高くないほうなのかは不明ですが、
小柄なマリリン先生が、ここは常磐ハワイアン・センターか、というのりで、
楽しそうにこの歌に合わせて踊り狂う姿は壮観でした。
しかも、段々興にのってきて、ますます激しくなるマリリン先生のダンス。
ディアス嬢の目をじっと見つめながら、今、私がこうやって踊っているように歌うのよ!
という、強烈なメッセージを発しています。
思わず先生の振りに笑ってしまったディアス嬢がやっと少しいい意味で緩んで来た頃、
マリリン先生があるフレーズでピアノを止めさせ、一言二言、ここはこう歌った方がいいわね、と歌唱のアドバイスをした後、
まだはずむ息も荒く、ピアニストに向かって、”○×の部分から続きを!”と、ダンスのスタンバイに入ったところ、
あろうことか、このピアニストが入りの部分を混乱&勘違いして、違うポイントから弾き始めてしまいました。
すると、マリリン先生、突然、激冷め。
”さっきまで猛烈に楽しかったのに、もう楽しくなくなりました。”という表情で、
すたすたと、自分の座席に戻って着席してしまった様子が、まるで子供みたいでした。
でも、舞台芸術というのは、そうなんですよね。
せっかく来た良い波というのは、乗り逃がしたら、同じものはもう二度と帰って来ないのです。

あと、ディアス嬢に出たアドバイスは、こういう曲では胸声を使うのをおそれないで、というのがありました。
”あなた、いい胸声が出せるの、あたし、知ってるのよ。”
あたし、知ってるのよ、といわれちゃったら、ディアス嬢はそれで歌うしかありません!

それから、言葉遊び&早口言葉のような歌詞なので、つい口を大きく動かしたくなるのが人情ですが、
マリリン先生のアドバイスは、”顎をそんなに動かさないで!”でした。
そこからディアス嬢は顎と同時に頬骨を上から押さえて、出来るだけ、顔がガクガクと大きく動かないように努力していましたが、
その効果は、音同士の間に均質感が生まれ、安定して聴こえる、という形になって顕れました。

このちょっと特殊といってもよい山姥(Yambamboからの連想で)の歌のみで終わるのは気の毒と感じたか、
もしくは、マリリン先生自身も、今日のマスター・クラスの最初に、一昨日のレヴァインに続いて、
デュパルクの歌曲がいかに素晴らしいかということを語っていたんですが、その絡みもあってか、
ディアス嬢には、二曲目の選択曲として彼女が選んでいた、そのデュパルクの”悲しい歌 Chanson triste"にも
トライする機会が与えられました。

山姥の歌がマリリン先生に”しかつめらしすぎる”と言われただけあって、
この二曲を聞き比べる限りでは、声とか発声の面では、デュパルクの歌の方が彼女に向いているように思います。
それでも、マリリン先生からは”もっと内省的な感じが出た方がよいですね”とのアドバイス。
それから、さらにフランス語のディクションの悪さも指摘されてました。
私が聞いてもちょっとこのディクションはまずい、と思う位なのですから、これは相当頑張らなければならない部分だと思います。
それから、”あなた、音を間違ったまま覚えているわね。”なんて言われている個所もありました。

それで思い出したのですが、デヴィーアのマスター・クラスの時と大きく違う点がもう一つ。
それは、一昨日それから今日のマスター・クラスで、歌っている時に楽譜を見ないどころか、
楽譜を持ち込んで来る受講生すら一人もいなかった点です。
先生と一対一ならともかく、こうしてオーディエンスが入っている場所では、
マスター・クラスであっても、観客に歌を聴いてもらっているのだ、という意識が徹底しているのだと思います。
これはすなわち、歌詞や音が頭に入っているのは当然のこと、
先生がくれるアドバイスも、メモせずに全部頭で覚えて帰るということを意味します。
なので、ディアス嬢は、マリリン先生に”音が違っている”と言われると、
”ええ??!!”と言って、走って行って、先生が持っている楽譜をのぞきこんでいました。
確かに、覚え間違えていると、こういう事態になる恐れはあります。

例によって、第二ヴァースのMon amourを”ぽーんと空中に放り投げるように!”など、細かい指摘がありましたが、
一番手の男性と同様、彼女もフレーズの頭に息を使い切ってしまう傾向があって、
”息をちゃんとはかりなさい! Measure your breath!!"と言われていました。


(数年前のマスター・クラスからの写真)

三番目に登場したのはアリソン・サンダース。カーティス音楽院に在学中のメゾで黒人。
ディアス嬢に続き(とはいえ、ディアス嬢の場合は先に書いたように厳密な意味ではそうではないのですが)、
”私のヘリテージ”系の選曲で、”Ride On, King Jesus"。
ゴスペルのスタンダード曲で、ノーマン、プライス、バトルと行った黒人女性たちも取り上げていた曲ですが、
今回、ジョン・カーターの『カンタータ』という作品で、トッカータとして含まれている編曲に基づいた歌唱です。

カーターの版は後半にたたみかけるような高音が続いていて、歌う方にとっては、
このサンダースのようなすごいパワフルな声をしていても大変。
マリリン先生は、この彼女にも、”随分オペラちっくな歌い方ね。あなた、教会で歌ったりする機会あるでしょ?”
はい、と答える彼女に、”じゃ、教会で歌うように歌って頂戴。”
そして、上の写真のように立ち上がってサンダースの側までやって来て、彼女が歌う間に、
黒人キリスト信者ばりに、”Yeah!"といった合いの手を叫んだり、これまた大フィーバー。

曲の最後は高い音にあげた方が断然エキサイティングなんですが、
サンダースは声のテクスチャー的にはソプラノに近いと思うのに、
すごく高い音はまだ出せないため、妥協案としてメゾ扱いになっているのでは?と思わせる部分もあって、
この曲でも、高音を避けるため、通しの歌唱では、最後の音を上げないで終わっていました。
しかし、マリリン先生に、”これは最後に高い音出さないと、楽しくないわ。”とあっさり言われ、
多分、今までその高い音で閉めて、成功したことも、いや、もしかすると歌ったことすら、一度もないかもしれないのに、
それでも果敢にチャレンジしたスピリットは素晴らしいです。
出したかった音から1音ほど低いところに入ってしまいました(ので、ピッチが狂っているどころの話ではない。)が、
マリリン先生は、”ほらね、楽しかったでしょ?”と、そんなことは意に介してもいない様子でした。

ディアス嬢、サンダース嬢の2人へのアドバイスでマリリン先生が伝えたかったのは、
オペラ的歌唱にこだわらないで、どのように歌うのがその曲の良さを引き出すのか、
考えなさい、ということだったのだと思います。

本受講生最後はオクラホマ大に在籍中のテノール、ロドニー・ウェストブルックで、
選択曲はレオンカヴァッロ(『道化師』)の”マッティナータ(朝の歌)”。
シンプル(に聴こえる)な曲だけに、歌の表情とかさらりとした歌い回しが大切で、
そういったものがない時、これほど苦痛に感じる曲も少ない。

彼の最初の通しの歌唱では、異様にコロコロとした癖のある発声で、かつ、
どうしよう、と思わずこちらがうろたえるような”かっぺ歌唱”でびっくりしましたが、
マリリン先生が、”レガート!”、”ルバート!”、
”言葉を大切に!”、”だらだらと歌わないで、するべきところできちんとブレスをして!”、
といったアドバイスを具体的な個所に施しつつ手直しして行くと、どんどん良くなって行きました。
また、第二ヴァースの頭に出てくるCommosoという言葉のmmの、
イタリア語独特のはずむような語感を大切にして、という助言もありました。

古い音源ですが、このカルーソーの歌を聴くと、マリリン先生の言わんとしていることがよくわかります。




オルタネートの一人目は、すでにこのリサイタルの時点では地震で大変な事態になっていたはずのハイチ出身で、
ニュー・イングランド・コンサバトリーで勉強中のバリトン、ジャン・ベルナール・スラン。
彼は、コメディ映画に登場するギーキーな留学生を彷彿とさせる、
完全にはアメリカナイズされていない(そしてそれはいいことかもしれない、、。)ぎこちなさとか純真さがあって微笑ましいです。
声自体は一度聴くと忘れないような甘い音色で、非常に面白いものを持っているのですが、
シューベルトの”春に Im Frühling"での、奇々怪々なドイツ語のディクションと、
演技以前に、普通に立って歌う姿にすら漂っているぎこちなさ、
そのアンバランスさがなんともいえない味をかもし出しています。
彼は少し言語の習得に問題があるのか、何度同じことを言われてもなかなかそれをマスターすることが出来ないのが難点です。
それを克服できて、いい先生が付いたなら、穴馬的な面白い存在になると思うのですが、、。

二人目はピーボディ・インスティテュートに在籍中のソプラノ、エリザベス・ダウ。
”あなた、歌の先生は誰?”というマリリン先生の言葉に、ダウ嬢が”マイケル某”と答えると、
”知らない。そんな人。”
いやいや、客席に先生がいるかもしれないから!とマリリン先生には、こちらがひやひやします。
知らないから指摘してOK!と思ったか、”あなた、特に中音域ですごく空気が漏れているわね。先生に言われない?”
確かに私もそれは感じました。これ、デヴィーアのクラスの生徒さんたちに多かった症状です。
ただし、その問題を除くと、彼女は潜在的にはすごくいい声を持っている可能性があると感じました。
グリークの”夢 Ein Traum"で聞かせたドイツ語がこれまた学生さんの歌とは思えないほど、達者です。
今日のオルタネートは2人とも、まだ全然完成されていないですが、潜在能力という面では面白いメンバーでした。

今回のマスター・クラスでは、マリリン先生の意外にお茶目なキャラが垣間見れて、とても楽しかったし、
何より彼女の歌そのものを大切にする姿勢、いい歌を提供するためにどのような工夫をしているのか、
というのを断片的にでも知ることが出来たのは、大変貴重な経験でした。

Participating Artists:
Joseph Barron, Bass-Baritone
Betsy Diaz, Soprano
Allison Sanders, Mezzo-Soprano
Rodney Westbrook, Tenor

Alternates:
Jean Bernard Cerin, Bartone
Elizabeth Dow, Soprano

Pianists:
Adam Bloniarz
Adam Nielsen

Weill Recital Hall

*** The Song Continues... Master Class: Marilyn Horne
ザ・ソング・コンティニューズ マスター・クラス マリリン・ホーン ***

THE SONG CONTINUES:JAMES LEVINE (Tue Jan 19, 2010)

2010-01-19 | マスター・クラス
往年の名歌手、または彼らの家族によって設立された基金(ファンデーション)が、
アメリカの若手歌手の育成の中で果たしている役割は決して小さくありません。

リチャード・タッカー・ファンデーションによる、お馴染みタッカー・ガラは、
本来は彼らが一押しでサポートする期待の若手歌手のお披露目かつファンド・レイジングとしての場所だし、
ジョージ・ロンドン・ファンデーションは、自らがサポートして、大舞台に羽ばたいていった、
もしくは羽ばたきつつある歌手達にリサイタルを依頼し、
そのチケットの売り上げがまた次世代の歌手達への投資の一部を支えているといった具合です。
リチャード・タッカーとジョージ・ロンドンはもう亡くなっているので、
家族を中心としたスタッフによって運営されているのですが、
ここに、存命の歌手によるアクティブなファンデーションがもう一つ存在しています。
その名もマリリン・ホーン・ファンデーション。

私がオペラを聴きはじめて比較的日が浅い時に購入したCDの一つに、
ジョーン・サザーランドとマリリン・ホーンが共演した『セミラーミデ』があって、
このCDで初めてマリリン・ホーンの歌声を聴いた時、私がまず思ったのは、
”これ、男、、、?”
そんな、まるで野郎のような野太い声で、ロッシーニおよびその他のベル・カント・レパートリーに必要な
テクニックを持っていたメゾ・ソプラノ、マリリン・ホーンは、今でもNYのヘッズたちに深く尊敬されている歌手の一人です。
今年、75歳になるホーンですが、癌を乗り越え、今でもオペラ界に睨みを効かせ、
リサイタルやコンサートで、観客席に姿を見かけることもしばしばです。

そのマリリン・ホーン・ファンデーションが一年に一度恒例で行っているのが、
”The Song Continues (そして歌は続く)”という企画で、1~2週間にわたって、
人気歌手を招いてのガラ形式の演奏会、若手歌手によるリサイタル、
学生対象のマスター・クラスなどが、連日開催されます。

今日はそのマスター・クラスの企画でジェームズ・レヴァインが講師に登場する日。
会場はカーネギー・ホール内にある、ザンケル・ホールで、
一般にカーネギー・ホールといって思い浮かべるスターン・オーディトリアムとは別の、
やや小ぶりで、音響はそれなりにしっかりしていますが、純粋な演奏会のため、というよりは、
今回のような講演目的に適したホールです。

舞台にあらわれたレヴァイン、何事もなく手を振って聴講客の拍手に答えてますが、
あの額に見えるのは一体何、、?
椅子から転げ落ちたか、メトのオケピに入る時に高さの寸法を測りそこねて、
鴨居で額を打ち付けたのか(って、あのオケピで演奏してきた年数の長さを考えると、
その寸法を測りそこねること自体、大丈夫?って感じですが、、。)、
ものすごい大きさのこぶと傷が額のど真ん中にあるのです。
”ちょっと頭を打ちまして。”というような言い訳や説明が何もないところが余計な邪推をかきたてます。

今日レヴァインにアドバイスを受けるのは、5人の本受講生。
さらに、加えてオルタネートと呼ばれる、時間が余れば歌を聴いてもらえる予備の受講生が2人。
それぞれ3~4曲の歌を受講候補曲として、2人のピアニストのうちのどちらかと準備して来ていて、
レヴァインがその中から、実際にここで歌って欲しい歌をその場で指定する、という手順です。

今回の聴講生の中にはデュパルクの曲を選択した人が数人いて、それにあたって、
彼は残された作品(注:彼は多くの管弦楽の作品を含む自分の作品の大半を自分の手で破棄してしまったという経緯がある。)
のうちに声楽曲が占める割合が猛烈に高いため、
今ひとつ一般の認知度が低いけれども、彼の書いた作品群は本当に素晴らしい、という話がレヴァインからありました。
ジョージ・ロンドン・ファンデーションのリサイタルで、
彼の作品の素晴らしさを知った私は、これには大きく頷きます。

第1の参加者は、メゾのジュリア・ドーソン。
オべリン大の音楽院に在学中の学生で、ブロンドの髪で可愛い感じの小柄な美人。
”ブロンドは頭が弱い”なんて俗説、は私はもちろん信じてないですが、
レヴァインに、”じゃ、シューベルトの若い尼僧 Die junge Nonne、行ってみようか。
まず、この作品についての君の考え(your take)を聴講しているみなさんに話した後、
歌ってもらいたいんだけど。”と言われ、
彼女が延々と歌詞の訳を語り始めたときには、あちゃーっ!、俗説にも真理はあるかもしれない、、、と思ってしまいました。
”Your take”と言われたら、自分はどのように歌の内容と登場人物について解釈したかを話さなきゃ!
単なる歌詞の英訳なんて、配られた資料にあるんですから。

そして、レヴァインは、あまり頭の回転が素早くない人には許容量が小さいらしく、
彼女の持ち時間中、ピアノの配置に延々こだわり続け、(このマスタークラスでは、ピアノの奏者にも、
伴奏者としてどうあるべきか、というアドヴァイスが与えられます。)
やっと一曲目を歌い終わったと思ったら、
”この曲は君にはテッシトゥーラが低いんじゃないかな。君は高音の方が綺麗だから
(と、そっと誉め言葉を挿入するのも忘れないし、この指摘は実に的確で、
レヴァインが声について、きちんとした理解を持っていることがわかります。)”
ここで、いつぞやのマスター・クラスで、”あなたはメゾでない!”と言われ、立ち往生した学生さんとは違い、
そこはきちんと候補の曲の中に、やや高めの音域で勝負できる曲を盛り込んでいるのはさすがなんですが、
その曲ですら、”あまり準備が出来てないみたいだから。”とおざなりなアドバイスしか出ません。
レヴァイン、冷たっ!
しかし、彼女の方にも考えるところがあるんじゃないかな、とも思います。
彼女の声自体は軽めながら高音も綺麗だし、むげに駄目出しされるようなものではなくて、きちんとした発声もしているんですが、
”君は何のために歌うのか?”
この問の答えで大失敗してしまったために、また、おそらくは彼女の歌からも、そのような意志を十分に感じられないがために、
せっかくレヴァインに貴重なアドバイスをもらえる機会を棒に振ってしまったのではないかと思います。

それと対象的だったのが、二番目に登場した、マンハッタン・スクール・オブ・ミュージックに在学中の、
ソプラノのロリ・ギルボー。
いわゆる”オペラ歌手”的体格で、なんだか、着るものによっては、
ヘビメタ姉ちゃんみたいな感じになりかねない風貌でもあります。
音域によってはすごく若くみずみずしくなったグレギーナのように聴こえる部分もあり、
実際、ものすごく声量もあるので、観客受けしやすいタイプの歌手ではあります。

まだ高音が完全には出来上がっていない感じがするのと、テクニックの面で磨いていかなければならない部分はありますが、
観客の耳を引くポテンシャルのようなものは持っていると思います。
何より、彼女のいい点は、きちんと何かを表現しよう、という意志を感じる点です。
レヴァインは彼女に関して、何かひかれる部分があったのか、
次々と色んな曲を歌わせてみたい、という感じで、3曲もトライさせたのは参加者の中で彼女一人だけでした。
その3曲目というのは、選択曲にも入っていない曲でしたが、何か英語の歌を、とリクエストされて歌ったもので、
”ここのフレーズを、最大の決心をもって宣言するような感じで歌って。”など、
次々とニュアンスを変えて歌うように指示されても、臆するどころか、
歌と表情の両方で、きちんとそれを表現できていたのは見事でした。
”誰か目の前に自分がものすごく恐れている人がいて、その人の前でおそるおそるおびえながら話すような感じで。”と言われた時には、
”まさしく今の(自分とレヴァインの間の)ような状況ですね。”と切り返す余裕まであるのですから、大したものです。
そんな彼女に、”今、君が操ったのは、母国語である英語だけれども、
そのような自由さで、どんな言葉の曲でも歌えるようになることが大事。”とレヴァイン。

レヴァインは具体的な歌唱テクニックについてのアドヴァイスはもちろん一切しないのですが
(それは声楽の先生の仕事の領域なので、、)、
微妙なリズムの取り方とか、アクセントなど表情のつけ方で、
どれほど曲の雰囲気や完成度が変わるか、ということを具体的に見せてくれる腕は本当に確かなものがあります。
彼女が一曲目に歌ったデュパルクの”フィディレ Phidylé”での、
Et les oiseaux, rasant de l'aile la colline(そして、鳥達は丘を翼でかすめながら)のrasant以降を
つい重くダダダダと歌ってしまう彼女に、気持ちテンポを前にとって!というだけで、
全然フレーズの雰囲気が違って聴こえたり、
また、二曲目のフォーレの”マンドリン”については、曲中に登場する連音符がどういう意味をもっているか考えなさい、
垂直に打ち付けるような音の取り方でなく、水平にしゃらんとなでるように、軽く!と説明するなど、
具体的なテクニックよりも、イメージを説明に多用して、歌手から望む歌を引き出すという手法です。
そして、能力のある歌手が歌うと、実際にそれですごく歌の雰囲気が変わるのが面白いのです。

ギルボーがエラルド・オペラ・コンペティションに登場した時に歌った、
ボーイトの『メフィストフェレ』から”いつかの夜、暗い海の底に L'altra notte in fondo al mare"の映像が
You Tubeにありましたので、参考までに紹介しておきます。




三番手のセシリア・ホールはジュリアード音楽院で勉強中のメゾで、
もちろんパートが違うせいもありますが、それよりも歌の持つ雰囲気の面で、
ギルボーと全く対照的な持ち味の歌手なのですが、地味ながらいいものを持っていると思います。
彼女は、ギルボーのように最初から観客に強い印象を残す声ではないのですが、
声がまろやか、歌唱が知的で、その歌には、いつの間にか引き込まれてじっと聴いてしまう、という種類の力があって、
私の真後ろで聴講していた女性も、”私、彼女の歌、好きだわ。”とおっしゃっていましたが、
それは、歌の内容を良く考えて歌っているからだと思います。
一曲目のブラームスの”永遠の愛 Von ewiger Liebe"での”相手の女性の答えが聞けないくらいなら
もう死んだ方がいい!”と思っているような切羽詰った男性の表現を含め、
緻密に物語を構築するのも上手いですが、
(ここではレヴァインから彼女に、男性、女性、
それぞれどのような気持ちが各フレーズにこめられているか、という質問が飛びました。)
マーラーの”Wer hat dies Liedlein erdacht? 誰がこの歌を作ったのだろう?"について、
レヴァインのお馴染みの”Your takeは?”の質問に、”おちのないジョークのような歌!”と答えながら、
そのナンセンスな歌をすごく魅力的に歌っていると思いました。

ただ一箇所、彼女はこの曲の最初のヴァースの最後に登場するHeideという言葉の長い音型を、
ワンブレスで歌うのが苦しいようで、ブレスできる個所になる前に、
溺れ死ぬ直前の遊泳者のように毎回空をもがいてレヴァインに助けを求めるのが面白かったです。
そんなにひどい切れ方ではないのですが、
フレーズの最初の方の音と質感を均質にしたいのに、それが出来なくて苦しんでいるんだと思います。
意識し過ぎて息を吸いすぎるのも良くない、など、色々アドバイスも出ましたが、
何度歌っても、ガス欠ならぬ、空気欠になってしまうので、
”しばらくは、もう一箇所ブレスしてもいいのでは?”という妥協案でおさまりました。

四番目の参加者はシンシナティ・カレッジの音楽科に在籍中のポール・ショルテン。バリトン。
まず、ラヴェルの『ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ』から
”ロマンティックな歌 Chanson romanesque"を歌うようレヴァインに指示された彼。
しかし、この曲の彼の歌唱が、びっくりするほどつまらなくて、なんだか音まですべてフラット気味に聴こえるんですけれども。
お経か何かと間違えそうです。
二番手、三番手と優秀な参加者が続いて、レヴァインも精根を使い果たしたか、
ふと見ると、”しゅーっ!”という顔(瞼が閉じて口がとがっている)になっていて、
起きているのか、寝ているのか、よくわかりません。
曲が終わった途端、おもむろに、”これ、全然つまんないから他のにしよう。”
あ、聴いてたんだ。一応。
レヴァインは、以前はマスター・クラスでも、全然そんなことがなくてどんな時にも精力的だったように思うのですが、
年齢や健康問題のせいで、前ほど我慢がきかなくなった感じがあり、今日のマスター・クラスでも、
歌に聴くべきものがない、と感じると、それが、もろ、表情や言葉に出ます。
この『ドゥルシネア~』は三曲セットになっているんですが、真ん中をとばして、次は”乾杯の歌 Chanson à boire"に。
さすがにさっきのお経よりは歌唱はましになったんですが、まだレヴァイン的にはつまらないのか、
乾杯の歌というよりも、酔っぱらいの歌と言ったほうがよい感じな歌だけに、
”(歌の内容は)悪くないよ。後は、しゃっくりを一つか二つ入れれば完璧。”と、
冗談とも真面目ともつかないアドヴァイスを飛ばし、
(それでもやっぱり半分はまじめなのか、ちゃんと、”ここで、こうやって!”と、
場所ややり方まで、指定はしてました。)
挙句の果てには、あのギルボーの時に、”これ歌ってみて。””次はこれを聴かせて。”と言っていたのとは対照的に、
”じゃ、残りの選択曲のシューベルト、どれでも好きなの歌っていいよ。”
、、、、。 どうでも、よくなってますね、レヴァイン。

とはいいながら、ふと、こいつに魔王を歌われたら、名曲が、またどんな退屈なお経になるか、、と思ったか、
”ミューズの息子”はどう?と尋ねるレヴァイン。
すると、”ピア二ストのニールセン君の希望もあり、魔王がいいです。”
レヴァイン、”本当に魔王でいいの?”
ショルテンとニールセン・コンビが顔を見合わせて、がっちり。”はいっ!!”

これはとんでもない珍品になるんじゃ、、と聴講者が耳を澄まし始めたその”魔王 Erlkönig"。
いや、これが予想に反して、すごく面白かった!
ピアニストのニールセンが自分で弾きたい、と言っただけあって、緊張感のある伴奏だし、
語り手、父親、息子、そして魔王の四者を、顔と声色全部使って、くるくると変身するショルテンが強烈。
なんだか、一人マペット・ショーみたい、、。
おそらく一番地声に近い語り手の部分、それから少し深めに威厳をもって歌う父親のパート
(ここでの彼の声は魅力的でした。)はともかく、
魔王の姿(あるいは幻影)を見始めている病の息子に扮して、目をおっぴらいて頼りなげなちびっ子声で歌う子供のパートに至っては、
私の隣に座っていたおば様はあまりの強烈さに耐えられなくなったか、下を向いて肩をひくひくさせていました。
しかし、私が彼の歌で上手いと思ったのは、魔王の部分の味付けで、
最初の猫なで声で擦り寄ってくるところの不気味さは鳥肌が立ちましたし、
それが段々と子供を落す(つまり、死に至らせる)に至って地が出てくるかのように、
声に力が漲っていくところとか、すごく良い表現だと思いました。
こういう歌は、フィッシャー=ディースカウのような洗練された歌とは全く反対の極地にあるんでしょうが、
こういう歌が存在していて、どうしていけないのでしょう?
曲が終わった時に、この曲って、こんなにどきどきさせられるような歌だっけ?と思い、
家に帰ってから、色々音源を聴いたりしてみましたが、上手いな、と思う歌は数多あれ、
今日の彼の歌から受けたようなダイレクトな感じは味わえませんでした。
歌の最初から最後まで0.1秒ともだれる瞬間がなかったのですから、これはすごいことです。

レヴァインも曲が終わった瞬間、両手で親指をあげて彼の歌を賞賛し、一言。
”こういう歌へのコミットの仕方をされると細かいことはどうでもよくなるね。”
、、、誉めてるんだか、微妙にけなしてんだか、よくわからない表現ですが、
でも最後に、”でも、こういう歌への取り組み方は素晴らしいし、私は大好きだよ。”
また、ピアノの伴奏では定評のあるレヴァインが、
この曲の伴奏の基調になっている繰り返し現れるフレーズは設定が実は非常に難しいのに、
ピアノはよく頑張った!と、伴奏者にもお褒めの言葉がありました。

最後の本参加者は、オクラホマ大学に在学中のセリア・ザンボン。
英語に少し訛りがあるな、と思ったのですが、フランスの方のようです。
どこか、ジャッキー・O(ジャクリーン・ケネディ)を思わせるレトロな佇まいのソプラノ。
彼女が挑戦したのは、シューベルトのこちらも大メジャー曲、”ます Die Forelle"。
彼女の歌に関しては、”綺麗な声”としながらも、”少しプレゼン的すぎる”との指摘がレヴァインからありました。
そこで、英語で歌詞の意味を言ってみてくれる?と言われると、
”きらきら輝く小さなせせらぎに、、”とさらさらさら、と英語で歌詞の内容を喋り出した彼女。
するとレヴァインが、”そう!今話したような感じで歌ってみて。お友達に今日あった出来事を話すような軽い感じで。”
しかし、どうしても歌い始めると私、歌ってます!という感じになってしまう。
それから、彼女はある旋律に来ると、”きゃぴっ!”と両手を鞄を下げているような形に持ち上げる癖があって、
”そんな風に、この曲はかわいいの!とアピールすることはないんだよ。”とレヴァインにばっさり斬られてました。
少し声が浅い感じがするのと、本人の持ち味なのか、歌えるレパートリーに、
技術というよりはむしろ、このお嬢キャラのために限界があるのではないか、と感じる、
ちょっと不思議な、ある意味は個性の強いタイプの歌手です。

オルタネートにも、機会をあげたいのですが、というレヴァインの提案で、
ドミニク・ロドリゲス(オベリン大/テノール)はデュパルクの”ローズモンドの屋敷 Le Manoir de Rosamonde"を、
マシュー・ヴァルヴェルド(イーストマン・スクール・オブ・ミュージック/テノール)は
ドビュッシーの”憂鬱 Spleen"を歌いましたが、
本参加者に比べると、かなり技術が粗く、声もきちんと出来上がっていないような印象を持ちました。
ただ、レヴァインも気遣っていましたが、ここに至るまでには、
全く歌わずにおよそ2時間半座りっぱなしだったので、それでいきなり歌うというのは難しい面もあったかもしれません。


Participating Artists
Julia Dawson, Mezzo-Soprano
Lori Guilbeau, Soprano
Cecelia Hall, Mezzo-Soprano
Paul Scholten, Baritone
Célia Zambon, Soprano

Alternates
Dominick Rodriquez, Tenor
Matthew Valverde, Tenor

Pianists
Lio Kuokman
Adam Nielsen

Zankel Hall

*** The Song Continues... Master Class: James Levine
ザ・ソング・コンティニューズ マスター・クラス ジェイムズ・レヴァイン ***

マリエッラ・デヴィーア声楽公開レッスン 第二日目(Sat, Aug 15, 2009)

2009-08-15 | マスター・クラス
第一日目より続く>

しかし、それにしても東京は暑い!
NYの夏も実は結構湿度が高くて体感温度が高く、
私は暑いのも湿度が高いのも割と平気な方だと自負しているのですが、
それでも、成田で飛行機の外に足を踏み出した瞬間、
一息吸い込んだその空気の湿度の尋常じゃない高さに熱帯雨林かと思いました。

こりゃ、きつい 

で、デヴィーアも同じように感じたのかどうかはわかりませんが、昨日(14日)のマスター・クラスでは、
木綿の真っ白いワンピに、ウェッジソールのサンダルという、
これからビーチにでも行くのか?というような、ギャル的いでたちで登場。
でも、気持ちわかるなあ。この暑さじゃ、何にもまして快適なのが一番ですもの。

その昨日のマスター・クラスの後、当ブログが縁で初めて直接にお会いさせて頂いた方も含め、
何人かの方と駅ビルでお茶をしていたところ、向こうから、見覚えのある、白いはためく木綿の布が、、
ああああっっっ!!!! デヴィーアではないですか!!!
世界のベル・カントの女王が、小田急線新百合が丘駅の駅ビルを歩いてる!!
(っていうか、普通、車の送り迎えがついているものじゃないんでしょうか?ちょっとびっくりです。)
そのあまりにシュールな絵に、カメラもペンも手元にあったのに、
それもすっかり忘れて猿のように手を振るだけで精一杯、、。
デヴィーアの隣にいらっしゃったマネージャーかスタッフの方と思しき女性が
デヴィーアに”あそこにお猿さんがいますよ。”と教えてくださったおかげで、
にこやかに手を振り返してくださったデヴィーア。
だめ、、、あまりに不思議な図過ぎて、この世のものとは思えない、、
小田急線駅ビルを白いワンピと厚底サンダルで歩くデヴィーア、、
この像は一生瞼に焼き付いて離れないと思います。

というわけで、今日はどんなお洋服で登場されるのかしら?と、そちらも楽しみだったのですが、
今日は黒いフレアーのスカートに、黒をベースに赤など色々な色を散らしたニットのトップという、
昨日のギャル・ファッションから180度転換の大人モード。
それにしても、女性の年齢の話をするのは無粋ですが、
60歳を超えている(生まれは1948年だそうです)とは思えない姿勢の良さや筋肉の付き方に、
まさに、歌唱と同様、生活スタイルもストイックであることが見てとれます。

昨日に引き続き、今日も、デヴィーアが登場する前に、現在昭和音大の学長を務めている
五十嵐喜芳氏がデヴィーアの紹介も兼ねて挨拶を兼ねて短いスピーチを行ったのですが、
両日共に来場している人が多いこと位、想像のつきそうなものなのに、
内容が、一語一句に至るまで、ほとんど昨日と全く同じで、
(それもどこの劇場、何の演目でデヴィーアを聴いて感動した、といったそんなことばかり、、)
舞台芸術という客とコミュニケートしてなんぼ、の世界の指導にあたっている方が、
二日続けてテープを流しているかと勘違いするような、
ほとんど全く同じ内容(一つだけ新しいエピソードを加えてましたが)のスピーチを
デリバーできるということがすでに驚きです。
もう、この時点で、歌とかどうとかいう前に、客の前に立つ人間の心構えというものを、
学生に教えられていないんだろうな、ということが予想されてがっくり来てしまいます。
今回は歌手としてではなく、大学の学長という立場でスピーチをしているのだから、と言われるかもしれませんが、
かつて歌手であった人なら、こういうのはもう血のなかに埋め込まれているはずなのではないか、と思うのですが。

と、ちょっと”いらっ”とさせられてスタートした今日のマスター・クラスは、
受講生の年齢が少し上がって、音大の学部もしくは院卒で、すでにセミプロ、
もしくは完全なプロで歌っている方々。

さすがに昨日の受講生たちよりは、あまりに下品なポルタメントも影を潜め(とはいえ、その傾向はやはりあるのですが)、
歌のレベルは明らかに数段上なのですが、
その一方で、昨日と共通したところで、
問題の根深さがよりはっきりと見えていた部分もありました。
中にはこれまでの誤った訓練のせいで、非常に直すのが手強い、
性質(たち)の悪い癖が身についてしまっているように見受けられる歌手の方もいらっしゃいました。

まず、デヴィーアが爆弾を落としたのが、一人目の受講者である山邊さん。
(今日もデヴィーアの指摘やアドヴァイスを●で表示します。)

● あなたはメゾではない!!

ロッシーニの『アルジェの女』からメゾのピースを歌った山邊さんですが、
いや、私も全くデヴィーアの言葉どおりだと思います。
というか、この山邊さんの歌唱のどこをどう聴いたら彼女をメゾだと思えるのか?
山邊さんの弁によると、一時期ソプラノとして勉強していたこともあるが、
指導者と相談のうえ、メゾにスイッチしたとのことなんですが、
そうなると、指導者にソプラノとメゾの声質を見分ける能力がない、ということになるんですけれども。
メゾとソプラノをわける基準というのは、出せる最高音が何か?ということではなくって、
むしろ、声の持っている質感、つまりソプラノらしい声質であるか、
メゾらしい声質であるかということである、という点は、
声楽に携わっている方なら常識として知っていることだと思うので、
彼女をメゾに転換させたということは、指導者の方に声の質感への理解が欠けていると、
そう理解するしかなさそうなのですが、これはもう身の毛がよだつほど恐ろしいことです。

山邊さんの場合、確かに少し超高音に苦手意識があるのか、そこでは音が開拓されていない感じはありますが、
総じてソプラノにこそ求められるといって良い高音域での音の方が充実していて、
(スピントのかかったやや重めの高音で、なかなか魅力的です)
むしろ、メゾで充実していなければならないはずの低音域では、本来、彼女に合わない音域なので、
● 無理にメゾっぽい低音を作ろうとして、不自然な発声になっています。

正しい発声スタイルが身についていれば、出せる最高音を上げていくことは可能で、
実際、多くのソプラノたちは彼女たちの最高音を努力の末に手に入れています。
もし、歌うレパートリーで必要とされる最高音を獲得出来なければもちろん歌手としてやって行く事は難しくなるわけですが、
本来メゾではない声でメゾの役柄を歌っても、多分、それ以下に歌手として成功する可能性は低くなるだけですので、
恐れずチャレンジしてほしいものです。
もし指導者の方が、声質について良く理解されていて、その上で、
このような長期にわたるかもしれない苦労を避け、
インスタントな結果だけを求めるためにメゾへの転向をすすめたのだとしたら、
もっと性質が悪いです。

デヴィーアに、以前歌っていたなら、何かソプラノのアリアを歌ってみて欲しい、と要求されて戸惑うばかりの山邊さん。
ここ最近で集中的に準備・練習したソプラノのアリアがないのもわかるし、
ピアノの伴奏の兼ね合いもあるので、躊躇するのはわかるんですが、
こういう時は、ピアノなしでもいいから、ソプラノのアリアを披露できるような度胸がないと、
舞台に立つ人としてはちょっと厳しいよなあ、、と思ってしまいます。
というのは、デヴィーアが見たかったのは、曲の最高音がきちんと出るか、とか、
アジリタの技術の完成度がどうか?とかそんなことではなくって、
(天下のデヴィーアが、まだまだ未熟なアジリタの出来・不出来を細かく云々する気はないに決まっているじゃないですか!)
それよりも、むしろ、山邊さんがソプラノのアリアを歌った時に
どのようなサウンドを歌にもたらすのか、その雰囲気を知りたかったんです。
そして、そのことは、山邊さんにとって、装飾技巧についてのアドバイスを一つもらうよりも、
ずっとずっと大切なことを教えてもらえるチャンスであったかもしれないのに、、。
それなのに、”この曲しか準備していない”と、延々とこのロッシーニのアリアに拘り、
途方に暮れ続ける山邊さん、、、。
その様子を見ていると、こういう場で本当に大切なことは何か、
つまり、デヴィーアに褒めてもらうことが大切なのではなく、
自分にとって、もっと大きな視野で、いかに有益なアドバイスを引き出すか、
ということの方が大事であることを見落とし、
小手先の技術ばかりに目が向いてしまっているように思うのですが、
それは教える側がそういうことばかり求めているからかもしれません。
しかし、完全にパニックモードになってうろたえるばかりの彼女を見ていて、
本当に彼女の指導者とやらは、罪深い、、と感じました。
こういう指導者が、もしかすると才能のある若い歌手たちを遠回りさせて彼らの時間を浪費し、
さらに最後にはせっかく持っていた才能を潰しまくっているのではないかと思うと怒りすら感じます。

二人目に歌ったテノールの曽我さんは、私は彼の声を聴いて完全には快い気分になれず、
それはどこか無理がある部分があるからではないか?と個人的には感じ、
あまり好きな歌唱ではないのですが、
デヴィーアが比較的見込みのある参加者として、細かいアドバイスを与えていた受講者の一人でした。
彼の素晴らしい点は、果敢にイタリア語でデヴィーアとコミュニケートし、
また比較的勘が良いのか、デヴィーアが与えたコメントに対して、
比較的歌にそのレスポンスが素早く現れる点です。
今日のレベルの受講者になると、デヴィーアの言葉に対する理解力の良さ、
それをすぐ歌に反映させられる実行力、これらの差が受講者間で如実に現れていたように感じます。
テッシトゥーラ(曲の中で多用され、よって、中心となる音域の高さ)が猛烈に高いこの曲を
へとへとになるまで一生懸命歌っている姿も好感が持てるのですが、
ただ、そのために、心と体が構えてしまって、
● ソとラを歌っているときにも、すでに(それより高い方の)ドとレを歌っているような
ポジショニングになっている
という指摘がありました。
このアドバイスの後、何度か歌ううちに、構えて歌っていた最初の時よりも、
ずっと柔らかくて耳に優しい音が出てくるようになってきたのは印象的でした。
聴いている側に悪い意味での緊張を強いるような歌は、もうその時点で×なんだ、ということを再実感します。
他に、
● 子音と母音の間に不必要な音が入っている
という指摘があり、彼もまた、口の開け方が不必要に大きく、
音が日本人歌手一般の例にもれず、ぴゃら~っと平たくなる傾向があるので、
● 口を開けるのは響きを作るためであり、それ以上の何物でもない、
という説明と
● 少し音を暗くする気持ちで、後ろにではなく、前に音を飛ばすように心がけなさい、
という注意がありました。

三番目に歌った納富さん。
今日の受講者中、唯一私が本当のオペラ歌手らしい声だと感じた方。
といいますか、実際、かなり魅力的な声でいらっしゃいます。
納富さんの強みは、もともと声に備わっているトーンもさることながら、
発声が終わった後に独特の美しい残響がある点で、
ほとんどの場面で無理のない発声ができているので、聴いていて非常に快いです。
唯一の課題は、おそらくご本人が取り組んでいる真っ最中であるかもしれないので、
あえてここで書く事もないのかもしれませんが、高音です。
というか、潜在的には楽に出る能力をお持ちだと思うのですが、
まだそれを毎回再現できる方法を模索中であるように思います。
”高音が来るぞ”と思うと無意識にテンス・アップしてしまうようで、
それが一層、それまでの快く軽々と出ている音に比べて違和感を生む、固くて、
やや耳障りな音につながっています。
デヴィーアはこの点について、
● 音を支えるということと、押すということは違う
という見事な説明をしていました。
納富さんの優れた点は、曽我さん以上に、とにかく飲みこみが早いことで、
スポンジのようにデヴィーアのアドバイスを吸収し、歌に反映させていました。
高音も、デヴィーアのアドバイスを受けるうちに、何度かは美しく無理のない音が出始めていたので、
彼女のような人にこそ、デヴィーアのようないい先生がつけば、
素晴らしい歌手に成長する可能性があるのに!と思います。
基本的な発声が良く出来ているので、納富さんに関してはデヴィーアからも細かいアドバイスが出てくるようになって、
● レチタティーヴォ(アリアのように旋律がはっきりしている部分の前や間にある、旋律度の低い部分。
納富さんの例だと、Eccomi in lieta vestaから、Oh! quante volteに入る前まで。)は、
どうしても段々とテンポが遅くなりやすい傾向にあるので、もっと表情をつけた歌唱を心がけた方がよい、
というアドバイスもありました。
高音、それから細かい部分の装飾技巧の完成度をアップさせること、
これらを良い先生についてマスターされた暁には、是非全幕で聴いてみたい方です。

第四番目の受講者である丹呉さんは、歌に非常に悪い癖がついてしまっていて、
これを取り除いて再度正しい歌い方を身につけるのは至難の技だと思いますが、
山邊さんと同じく、恐れず挑戦していただきたい。
それにしても、なぜこんなになるまで、指導者の方は放っておいたのでしょう?
丹呉さんの場合、昨日の受講生で指摘されていた方の多かった、”声が喉にはりついている”パターンで、
ここをまず変える必要があると思います。
まずそこでつまずいているのに、パワーのある歌を歌おうと、
ガリガリばりばりと歌う癖がついてしまっているので、
● そんなに大きな箱は必要ないですよ!
という、デヴィーアの声が早速飛んでいました。
それから丹呉さんの歌唱のもう一つの大きな問題点は、
● 音が上下するたびに、声のカラーが変わってしまう
点です。
これは、丹呉さんが、歌っているときに、いつも持っていなければならない拠り所=正しいポジションを体得していないことを示していて、
それは、つまり、正しい発声が身についていない、ということになると思います。
● まずは、常に同じカラーで歌える練習をしなさい
というデヴィーアの言葉がありましたが、
これは昨日の受講生がしばしば注意されていたレガートの習得と同じことで、
まずは、均一に、安定した音色で次の音に移行していく訓練が出来ていないと、
ここに何を足しても崩壊してしまう、ということなのだと思います。

ラストの正岡さんは、納富さんの温かい響きとは対照的な、
少し硬質な音色が特徴のように感じられ、
本当は、今日歌われた『愛の妙薬』のアリアなんかはあまりご自身の個性にマッチしたレパートリーではないように感じます。
いや、それを言うと、いわゆるベル・カント・レパートリーにはあまり向かない方かもしれません。
それでも、ベル・カント歌唱をマスターすることはどんな歌手の方にとっても有益なはずです。
正岡さんに関しては、私はもっといい声と歌唱が隠れているのに、
何かがそれを覆ってしまっていて、そこに完全には到達できていないようなもどかしさを感じました。
時々出てくる音は硬質ながら面白いトナリティーを持っていて、
訓練の仕方によってはもっといい発声が出来る方ではないかと思うのですが、、。
デヴィーアが何度も指摘していたのは、
● 音に空気が入っている
ということ。
ご自身はそうしないと声が届かない、という不安があるのか、
全ての音に一杯一杯空気を消費していて、そのことが常にかすかに空気の音が聴こえるような発声につながっています。
特にこの”Prendi”がどんな場面で歌われるか、ということを考えると、
熱さの中にもしなやかさが絶対に必要で(特に最初の部分)、
こんなにいっぱいいっぱいに聴こえてしまう歌唱は全くふさわしくありません。

ずっと自分を愛してくれていたネモリーノを、うすのろで自分には似つかわしくない、
と退けて来たちょっぴり高ビーなアディーナが(しかし、完全に嫌な女なのではない)、
彼の真剣な思いに心を動かされ、初めて自分も彼を愛しているたことに気付いた、ということを、
ネモリーノに告白するに至るまでの場面です。




(上の『愛の妙薬』の映像はメトの1998年の公演からで、現行の演出と全く同じです。
アディーナを歌っているのはルース・アン・スウェンソン姉さん、ネモリーノは言うまでもありませんが、パヴァロッティです。)

丹呉さん、正岡さんに共通して言えるのは、
一度、こうした間違った発声が身についてしまうと、
悪い部分を指摘されても、そこを自在に変えることが非常に難しくなっている点で、
曽我さんや納富さんがデヴィーアのアドバイスに柔軟に対応できているのに比べて、
お二人がなかなかご自身の癖を抜くことが出来ない様子は、見ている私もいたたまれないものがありました。
ここに至るまでには長い道のりがあったでしょうから、
もっと早い時期に、今日のデヴィーアのような適切なアドバイスを与えられる指導者がいたなら、、と、本当に残念です。

ただ、私は今回、指導者側の問題が大きい、ということを書き、
また、それにはいささかの疑いも持っていないのですが、一方で、
歌の道で身をたてていく決意をしたら、究極的には自分の声や歌唱を守るのは自分自身です。

ビルギット・ニルソンの自伝”ビルギット・ニルソン オペラに捧げた生涯”
(原題:La Nilsson: My Life in Opera)には、あのニルソンが、
音大時代、いや、その後も、指導者に恵まれず、自分で正しい発声を模索していった姿が描かれています。
彼女の人柄でしょうか、ユーモアを交え、何でもないことのように書いていますが、
良く読んでみると、その苦闘は壮絶ですらあり、
その渦中にあった彼女の苦しみと努力は想像を絶するものであったはずです。



私達オペラを聴かせて頂く側は、拍手を送る時、
その声の美しさを賞賛しているのももちろんなんですが、それと少なくとも同程度、
いえ、私を含め、多くの方はそれ以上に、その歌唱に至るまでの苦労と努力を思って、
それを賞賛したくて拍手を送るのです。

どうか、歌の道を進むと決めたら、それが時に大変な迂回を意味することになっても、
また茨の道であっても、
どうぞその困難な試練から逃げ出さないで、全力で戦って頂きたい、と思います。
私が生きている間に、いつか、メトで、日本の歌手の方の大活躍に、
それまで払われた努力を思って精一杯の拍手を送れる日が来ることを心から願っておりますので。


山邊聖美 Kiyomi Yamabe (メゾソプラノ)
ロッシーニ『アルジェのイタリア女』より”祖国のことを思って Pensa alla patria”

曽我雄一 Yuichi Soga (テノール)
ロッシーニ『どろぼうかささぎ』より”さあ私の腕の中に Vieni fra queste braccia”

納富景子 Keiko Noudomi (ソプラノ)
ベッリーニ『カプレーティ家とモンテッキ家』より”私はこうして婚礼の衣裳を着せられ~ああ!幾度か
Eccomi in lieta vesta ~ Oh! quante volte”

丹呉由利子 Yuriko Tango (メゾソプラノ)
ベッリーニ『カプレーティ家とモンテッキ家』より”たとえロメーオがご子息を殺めたとしても
Lieto del dolce incarco ~ Se Romeo t'uccise un figlio”

正岡美津子 Mitsuko Masaoka (ソプラノ)
ドニゼッティ『愛の妙薬』より”受け取って Prendi”

伴奏:浅野菜生子 Naoko Asano
講師:マリエッラ・デヴィーア Mariella Devia
解説:小畑恒夫 Tsuneo Obata
昭和音楽大学 テアトロ ジーリオ ショウワ

*** Mariella Devia Master Class at Showa Academia Musicale 昭和音楽大学 マリエッラ・デヴィーア 声楽公開レッスン”

マリエッラ・デヴィーア声楽公開レッスン 第一日目(Fri, Aug 14, 2009)

2009-08-14 | マスター・クラス
マスター・クラスを開くとは、素晴らしい。昭和音大。
そして、それを私のようなパンピー(一般ピープル)に公開してくれるのもありがたい、昭和音大。
しかも、その講師にマリエッラ・デヴィーアを呼んでくるとは、信じられないような機動力!の昭和音大。
でも、一つ聞きたい。学校で一体何を教えているのでしょうか、、?

オペラ鑑賞の牙城が現在メトにある私にはいくつか夢があって、
そのうちの一つは、メトの、比較的メジャーな演目の全幕公演(出来ればAキャストが望ましい)で、
主役~準主役級の役をはれる日本人歌手がリアル・タイムで登場し、
その彼(女)が出演する公演を鑑賞し、さくらでなく心からbravo/aと叫ぶこと。
なんですが、少なくとも今の日本の声楽の世界の状況を見るに、
正直、あまり期待していない自分もいます。
この”世界のオペラ界における日本人歌手”という話題は、
ワタクシ的にすでにパンドラの箱化している部分もあって、
メト関連ですでに十分、誰に刺し殺されてもおかしくないほど、
自由自在に言いたいことを言っているので(アラーニャとか、昔のクーラとか、
最近のネトレプコとか、、)
ここに日本の声楽関係の方まで入れる必要もあるまい、と思い、今まで言い控えて来た部分もあるのですが、
大体が、今まで観たワーク・ショップやナショナル・カウンシルと比べて、
日本人に対してだけは、極端に低い水準を前提にするというのも変な話ですし、
そんなことをしていては、私の夢は一生叶わないのです!
今回のマスター・クラスは、かねがね私が考えていたことをまとめるいい機会でもありました。
というわけで、いつも通りの水準で、つまり、メトのナショナル・カウンシルを見ているのと同じ気持ちで、
(一方はオーディション、一方はマスター・クラスという違いはありますが。)
いつもと同じように、思ったことをそのまんま書きたいと思います。

日本で上演されるオペラ公演で、メインが日本人キャストだと観に行く気がしない、という方、
結構おられると思います。
その中には、そもそも日本人がメイクや鬘で西洋人化しようとする試み自体が痛い、という方もいらっしゃるかもしれません。
私も何を隠そう、メインが日本人キャストの公演はできるだけ避けていたクチですが、
私はこのブログを定期的に読んでくださっている方はすでにご存知の通り、
生まれつきの、よって本人の力ではどうしようもないビジュアル面の問題、
つまり太っている、とか、不細工である、とか、については非常に寛大です。
よって、”日本人は生まれつき西洋人ではない”、という当たり前の事実には目をつぶる準備もあります。
私が日本人歌手の出演するオペラを好まない理由はたった一つで、
”声も演技も私が考えるオペラのそれとあまりに異質な人が多く、鑑賞していて気持ちが悪い。”
この一点につきます。

まず、日本人全体として見たとき、
相対的に本来オペラを歌う声がどんなものか、という理解が不足していることが大きな問題の一つだと思います。
千の風になっているテノールとか、ネッスンドルマでブレイクしたネスカフェなテノール
(前者はオペラの舞台には立っていないようですが、それでもクラシックの声楽を勉強した、という経歴になっています)
の声を、これがオペラを歌う声なんだ、と一般的に思っている人が多いと思うと、
本当に暗澹とした気持ちになります。
私がオペラ好きであることをカミング・アウトすると、
”あ、こういうのね。”と言って、オペラ歌手の歌真似をするいまどき信じられないようなリアクションをする人がいるのですが、
その時に出てくる声が、彼らの発声を真似したものになっているのに気付き、さらにがっくり来てしまいます。

それは、あまりオペラを良く知らない人の話なんじゃないの?と思われる方も多いかもしれませんが、
それがそうではなく、声楽の道を志す、つまり、いつかはオペラの舞台に立ちたい、
と思っている若い人たちの声や歌い方に影響を与えているのを今回このマスター・クラスで目撃し、
私は愕然としたのです。

今回私がオペラの声として気持ち良く聴けたのは、
第一日目、第二日目合わせ(つまり学生とプロを合わせて)、たった二人だけでした。
この二人だけが、いわゆるマスケラの部分を使って、真に共鳴する音を作っていました。
こういう音を作れないと、オペラハウスのどこにも心地よく届く声というのは出せません。
実際にオペラハウスでオペラを聴くと、声と言うのは、
いわゆるデシベルで計れるような、物理的な音量が問題なのではなくって、
いかに空気を共鳴させられるか、これが大事で、
これが出来ていないと、逆に、全幕の主役なんかだと最後に至る前に声が疲弊してしまいます。
デヴィーアのような歌手はもちろんですが、
ここ最近色々ネガティブなことを書いたネトレプコでもオペラハウスで聴くと、
これがきちんと出来ているので、劇場では豊かでニュアンスに富んだ声に聴こえるのです。
また、昨日、MetPlayerに新しくアップされた『チェネレントラ』を流しがけしていたのですが、
ガランチャもお手本のようなそれを見せています。
マスター・クラスに話を戻すと、それ以外の方は、しばしばデヴィーアが指摘していたように、
● 声が喉にはりついている
状態です。
(これ以降、デヴィーアが指摘した言葉、アドヴァイスなどを●付きで表示します。)
その状態で無理に音を出そうとしているため、音が平べったく、母音に
● エの音が入ったように聴こえます。
また、フル・スロットルで出さなくてもいいような音にまで、
本来必要な空気の量以上に空気を送り込もうとするので
(それは喉から声が出ているからだと私は思うのですが)
● 空気の流れが必要以上に大きく、
デヴィーアが、何度も、”そんなにたくさんの空気は必要ありませんよ!”と指摘する原因となっていました。
それを修整するため、デヴィーアから複数の参加者に出たアドヴァイスをまとめると、
● 口のあけ方を少し小さめにして、母音をo(オ)に近く発声し、やや暗めの声を出すようにしてみなさい、ということでした。
先に書いた『チェネレントラ』でも、ガランチャがほとんど口を開けていないように見えるのに、
しっかりした音を出している場面があって、声量をコントロールするのは口の大きさではなくって、
むしろ、マスケラへの音の当て方とそこに送り込む空気の量のコントロールではないか?と思えます。

● イタリア語は喉でなく、舌と唇で音を出す
というデヴィーアの指摘がありましたが、これは適量な空気が体の中を流れていてこそで、
今日の参加者のように、空気の流れよりも喉から出す音で音が作られている場合は、
逆に舌と唇で音を作ろうと思っても、音が出ないのではないかと思います。
それでもって、正しい発声ではない、という証明にはなるでしょうが、、。

今回のマスター・クラスは、第1日目が高校生と大学生および院生、
そして、第二日目が学卒もしくは院卒のセミプロ及びプロの方が受講生(実際に歌う受講生。
我々聴いているだけの人間は聴講生です。)だったのですが、
特にこの第1日目では、高校生の一人を除き、あまりに発声が耳障りな方たちばかりで、
これは私にとっては、まさに黒板に爪を立てられているのと同じ位の拷問で、
本当に文字通り、何度も鳥肌が立ち、耳を覆いたい衝動にかられました。
むしろ、高校生の方がまだ発声自体は若干、素直だったかもしれません。
ということは、学費を払って歌を悪くしている、ということ、、、?!ええっ!?

しかし、高校生、大学生、院生、いえ、のみならず、今回参加したすべての歌手たちに多かったのは、
● 妙なポルタメント(注:ある音から別の音に移行する際に、滑らかに徐々に音程を変えること)のつけ方
です。
というか、私に言わせれば、一言、悪趣味もいいところ!
ポルタメントはスパイスのように、ちょろっと聴かせどころで使用するから良いのであって、
これは、何でしょう、、これがオペラ的な歌唱と勘違いしているのでしょうか?
多用しすぎなんですよね。
デヴィーアも言っていた通り、
● ポルタメントの多用はセンスが悪いです。
といいますか、これは今回、少し物理的時間的に日本と離れていて逆にはっきりと気付いたのですが、
日本人の歌唱って、オペラの曲を歌っていても、すごく演歌調、和製ポップ調なんですよね。
デヴィーアは多分演歌や和製ポップスにはなじみがないので、
これをポルタメントの多用と形容するしかなかったようですが、
要は、和製歌唱から脱却しなければいけない、ということなんだと思います。
こういうものは、生まれ育った環境によってハード・コードされたものなので、
知らず知らずに耳に体についていくものですから、意識するのはすごく難しいのはわかるのですが、
将来オペラを歌いたい、ましてや、世界レベルで活躍したいと思うなら、
絶対に抜かなくてはなりません。
こんな演歌みたいなオペラを聴きたいオペラヘッドはいませんから。
特に後半で歌った駿河さんという方、私には彼の”人知れぬ涙”がスピッツの新作に聴こえました。
実際、メロディのまわし方が、草野マサムネにそっくりです。
こういう歌い方、オペラではやめましょうね、本当に。エキセントリックすぎます。

いくつかデヴィーアが強調しても強調しすぎではない!という位に熱く繰り返していた点がありましたが、
その一つが、
● 一にもレガート、二にもレガート
ということ。
彼女には、ほとんどの参加者の歌が普通に歌っているつもりでもスタッカート気味に聴こえたようです。
で、”レガート!”とデヴィーアが言うと、無意識にポルタメントがかかってしまう参加者もいたりして、
またポルタメントかい!という、、(笑)。
レガートというのは、あくまでその音の高さを保持しながら、滑らかに次の音につなぐことなんですが、
彼女がこう何度も何度もレガート!と連呼していたのには、
日本人の言葉(今回の場合はすべてイタリア語)の習得の仕方が深く関係しているのではないか、と思います。
というのは、日本人の外国語の習得の方法として、今だ、カタカナで音を書く、というのは
メジャーな手法だと思うのですが、
この方法には、おのずと限界があります。
カタカナで表記する、ということ自体、そもそも日本語の枠に収めようとする行為であり、
むしろ、その枠に収まりきらない点にこそ、一番習得が難しい個所が隠れていると思うのです。
で、そうしてカタカナで音を表記すると、どうしても音符それぞれに、そのカタカナ表記の音をあてはめようとするので、
それで音が全部スタッカート気味になってしまうのではないかな?と推測します。

二重母音の問題もありました。
『アンナ・ボレーナ』に関しては
Piangete voi? D'onde tal pianto?(泣いているの?どうしてそんな涙を?)の部分からが
レッスンの対象だったのですが、
● Piangeteの最初のpiaは”ピーア(二音)ではなくって、もっと早いピア(一音)です、それから
● piantoの方はピにアクセントがないといけないので、ピーアントに近い、
と、同じ語源の”泣く”と”涙”という単語ですらこれなので、
カタカナ表記で全てをカバーするには厳しいものがあることがよくわかります。

また、
● tの前にはっきりしたnがあるのも気になる。なぜなら、そんな音はイタリア語にはないから
という指摘もありました。
指摘があったのはpiantoとは違う単語でしたが、引き続きpiantoを例にとると、
強いてカタカナで書くとどうしてもピーアントになってしまうのですが、
ンというのは一つの独立したシラブルではなくって、最後のトとくっついた(ン)トという音です。
日本語の”ん”の感覚で音をはっきり出してしまうと、音数にすら影響を与え、
違和感のある歌唱になってしまいます。

一日目の参加者の方全員について言うと、言葉が全くイタリア語らしくないと言ってもよいと思います。
高校生はともかく、学部生、院生までそうとはどうしたことなんでしょう?
私は日本のクラシック音楽に携わる人、また好きでそれを聴く人ともども、
鑑賞している分には、異常なまでに演奏や歌唱に、
”イタリアらしさ””ウィーンらしさ””ドイツらしさ”を求める傾向があるくせに、
演じる方、歌う方にまわると、突然、
”自分たちにイタリア人と同じように歌えるわけがない”ということを言い訳にして、
なかなかそこから出てくる工夫や努力をしないように見えます。
いや、もしかすると、完璧主義なゆえなのかもしれないですが、、。
でも、語学と一緒で、ネイティブと全く同じには喋れないから、とあきらめるよりは、
少し訛っていても、喋れるようになった方がいいのではないでしょうか?
ネイティブに近づくには、まず何と言っても喋り、歌わなくては。
おしのように黙っていながら、突然雷鳴が轟いてネイティブのように喋ったり歌ったり出来る、
なんてことは、絶対に、絶対にないのです。

私は時々日本人の歌手でアメリカにキャリアを求め、
または研修で滞在していらっしゃる方のサイトなんかをのぞかせていただくことがありますが、
以前にイタリアにいらした方なんか、特にそうなんですが、
そこには、”アメリカの(まあ、メトですが、、)演奏は、何かイタリアとは違う。”とか、
そんな言葉ばっかりで、嫌になってきます。
日本はオペラに関しては主要レパートリーに自国語のものが極めて少ない、という点で、
アメリカと非常に似ています。
アメリカは、”ネイティブみたいでなくても、喋れないよりは、歌えないよりは、演奏できないよりはまし”を実践し、
独自の路線で、少なくとも世界の歌劇場で歌える歌手を輩出するようになっています。
また、オケもイタリア的、ドイツ的、ウィーン的ではないかもしれませんが、
しかし、今のオケの音が出来あがって来たその根底には、
特に第二次世界大戦後、それらの国も含め、
あらゆる国や地域からやって来た奏者の音がごちゃまぜになっているという歴史的背景や、
各歌劇場固有のニーズなどが深く関わっているわけで、そういったことを理解しないで、
アメリカのオケはイタリアっぽくない、といった議論をするのはお門違いもいいところで(だって、そんなの当たり前、、)、
それを突き詰めると、極論は、
作曲された国以外の国には、その作品の演奏をすることは出来ない、ということになってしまいます。
もちろん、イタリア・オペラにはイタリア固有の、ドイツ・オペラにはドイツ固有ゆえの素晴らしさがありますから、
それしか受け付けない、という方は、その国のオケと歌手による公演だけ観ていればいいでしょう。
でも、今のオペラを取り巻く状況は、もう自国だけ、と言っていられない状況なわけで、
(大体、どの国のオペラをとっても、自国の奏者や歌手のみで、
その演奏を高い水準でまかなえるほどの数を生み出すことが出来なくなっているのは明らかです。)
そこはきちんと観る側も区別する必要があります。
つまり、どういうものが真にイタリアっぽい演奏なのか、ドイツっぽい演奏なのか、
ということを知っていることはとても大事ですし、
その国のオペラを演奏する限り、出来る限りそこに近づく努力をすることは大事ですが、
それだけが公演の良し悪しを判断する基準にならないことが大事だというのが私の考えです。

アメリカに何十年と住んでいる方でも、大抵、
どこの出身の方かということが、かすかな(時にはものすごい)アクセントでわかってしまう通り、
言葉の習得というのは簡単なものではありません。
しかし、今回、ショックだったのは、このマスター・クラスで見る限り、
日本の声楽教育が、こと言葉の習得という点においては、
”完璧でなくても喋れないよりはマシ”というレベルではなく、
”完璧でないから、押し黙っていよう”というレベルにとどまっている点なのです。
上達をあきらめているような雰囲気さえ漂っています。
正直、大学で何を勉強したのか?と聴きたい。
発声というのは非常にデリケートで複雑なものなので、
努力しても後退する、ということもままあって、(特に良くない先生についた場合、、。)
単純なことは言えませんが、
外国語の習得というのは、あまり後退するということがなく、
やればやるほど身につくはずのものなので、
ご自身が勉強をしていらっしゃらないか、教える側が余程何も教えていないか、いずれかだと思います。

今アメリカに研修でいらっしゃっている方は、
イタリアではなく、アメリカに来られた以上、
”イタリアとは違うんだよなー”と嘆いている暇があったら、
なぜ、日本と似た状況でありながら、アメリカはそれなりに独自の路線を確立し、
声楽教育に関しても、日本よりはずっと優れた歌手をコンスタントに出せるようになっているのか?
そういうことを勉強され、ご自分なりに答えをお出しになって、
日本の声楽教育に還元して頂きたいものです。

今回のマスター・クラスでは、私は実際に歌われた生徒さんには、
気の毒に感じています。
というのは、彼らたち、彼女たちは、(特に第1日目のような若い世代の方たちは)、
本人の努力もさることながら、むしろ、実際に評価されていたのは、
彼らを教えた先生たちであったと思うからです。

特に高校生の部では同じ学校から3名の生徒が参加されていましたが、
(受講者の高校生5名はいずれも、昭和音大が実施している高校生のためのコンクールの優秀賞受賞の生徒さんたちです)
この学校は先生が自分の趣味をひけらかす選曲を生徒に押し付けている感じがして、
大変不愉快でした。
もっと身の丈にあった、彼らの良さが引き立つ曲があったと思います。
また、第1日目で唯一聞いていて快い発声を行っていた中山さんなんですが、
発声そのものは大変良いと思うのですが、声が明らかにソプラノのそれなのに、
メゾの歌う”恋とはどんなものかしら?”を選んだのは、これはいかに、、?
(デヴィーアからも、”あなたはソプラノだと思うけれど”という指摘がありました。)
オペラの声には種類があって、それぞれの役や曲というのは合った声質で歌われてこそ、
良さが出る、ということを知るのもとても大事なことだと思います。
ご本人はまだ高校生なのでともかく、指導されている先生がそのあたりのことをご存知ないとか、
もしくは知っていても大した問題じゃない、と感じられているとは、思いたくないのですが、、。

アジリタの技術を身につけるとか、表現とか、そういった問題の前に、
一番基礎になる、スポーツでいえば基礎体力になる部分の脆さが明らかになった今日のマスター・クラスでした。
土台がしっかりしていないところに、どんな高音や装飾技術を重ねても、
いつか崩れ落ちてしまいます。
デヴィーアが少しアドヴァイスをしただけで、見違えるほど歌が良くなる生徒さんもいて、
今、指導にあたっている方たちにこそ、しっかりと見ていただきたい内容でした。

それから、歌の世界を目指す学生さんには、
実際にオペラハウスで、世界のレベルで活躍し、きちんと評価を受けている
優れた歌手の声とその音や語感を体感する機会をもっと与えてあげてほしいと思います。
(新国立劇場とか、海外の歌劇場を招聘している会社が協力して、、。)
発声が正しくない歌手の発声を何度聴いても、何のためにもなりませんから。

第二日目に続く>


浅沼雅 Miyabi Asanuma
モーツァルト『ドン・ジョヴァンニ』より”ぶってよ、マゼット Batti, batti, o bel Masetto”

中山華子 Hanako Nakayama
モーツァルト『フィガロの結婚』より”恋とはどんなものかしら Voi che sapete che cosa e amor”

小野寺光 Hikaru Onodera
トスティ ”夢 Sogno”

川目晴香 Haruka Kawame
ヘンデル『ジューリオ・チェザーレ』より”この胸に息のある限り Piangero la sorte mia”

野間知弘 Tomohiro Noma
ヴェルディ『6つのロマンツァ』より”墓に近寄らないでほしい Non t'accostare”

(休憩)

石岡幸恵 Yukie Ishioka(ソプラノ)
ベッリーニ『カプレーティ家とモンテッキ家』より”おお、幾たびか Oh! quante volte, oh! quante"

中畑有美子 Yumiko Nakahata (ソプラノ)
ベッリーニ『清教徒』より”ここであなたの優しい声が Qui la voce sua soave”

駿河大人 Daijin Suruga (テノール)
ドニゼッティ『愛の妙薬』より”人知れぬ涙 Una furtiva lagrima”

吉田明美 Akemi Yoshida (ソプラノ)
ドニゼッティ『アンナ・ボレーナ』より”私の生まれたあのお城 Al dolce guidami, castel natio”

伴奏:酒井愛可 Aika Sakai
講師:マリエッラ・デヴィーア Mariella Devia
解説:小畑恒夫 Tsuneo Obata
昭和音楽大学 テアトロ ジーリオ ショウワ

*** Mariella Devia Master Class at Showa Academia Musicale 昭和音楽大学 マリエッラ・デヴィーア 声楽公開レッスン”

LINDEMANN OPERA WORKSHOP (Fri, Apr 27, 2007)

2007-04-27 | マスター・クラス
Lindemann Young Artist Development Program
In an Opera Workshop with James Levine and members of Metropolitan Opera Orchestra

リンデマン・ヤング・アーティスト・デベロップメント・プログラムとは、
有能な若いアーティストを発掘する目的で1980年にメトの音楽総監督レヴァインによって始められたプログラムです。
ステファニー・ブライス、ドウェイン・クロフト、アンドレア・グルーバー、
ネイサン・ガン、アプリーレ・ミッロ、ドーン・アップショー、
ソンドラ・ラドヴァノフスキといった、今メトをはじめとするアメリカの主要歌劇場で活躍しているアメリカ人アーティストたちが、このプログラムの出身だそうです。
プログラムは最長で三年間、音楽様式、違った国の言葉で歌うスキル、
舞台上での動きや演技などをメトのスタッフや外部の講師の先生にコーチングしてもらえるというシステム。
こういうところから歌手の層を厚くしていくという試みは素晴らしいことだと思います。

今日はそのプログラム生のための、レヴァインによるオペラ・ワークショップが
アッパーイーストサイドにあるディカーポ・オペラの劇場を借りて開催されました。今日はメトのオケ伴奏つきです。(前回はピアノ伴奏。)

まず、レヴァインによるワークショップということで、
往年(現役でもよいのですが)の歌手がコーチングする歌唱が主体のワークショップとは一味違って、
オケと一緒に音楽を作っていく、と言う観点からのアドヴァイスが多くて大変興味深かった。

もちろんレヴァインは歌手でもなければ歌のコーチでもないので、
当然といえば当然なのですが、ほとんど、歌唱のテクニックとか発声についての指摘はなし。
オケの指導も入っていたので、歌手のためのワークショップというよりは、
全体のワークショップという雰囲気でした。
でも、間の取り方やリズムについては、参加者にも、かなり細かいアドヴァイスが出ました。
特に、あるアリアで、オケが全停止、歌手の声だけになる場があったのですが、
つい急いで歌いがちな歌手を制して、
”オケの音が止まったとき感情がもっとも高まっているはずで、
その間こそ大切”と言う指摘には、そうそう!!と同感。
またアンサンブルのプログラムで、つい4人全員の声がわれがちに!と
場面に不釣合いなほど大きくなってしまったのですが、
”もうちょっと4人でかたまって顔を寄せてみて!”という指摘が。
すると、つい自然にひそひそ話をするかのような雰囲気になって、
丁度その場にふさわしい声量に。
これらはほんの氷山の一角ですが、
ほんのちょっとのアドバイスで、がらっと歌の雰囲気が変わるのが本当に面白かったです。

プログラムで歌われた曲は、
ナクソス島のアリアドネから "Schlaft Sie?"
ラ・ボエームからミミのアリア "さようなら、あなたの愛の呼ぶ声に Donde lieta"
ランメルモールのルチアから ルチアのアリア "あたりは沈黙に閉ざされ Regnava nel silenzio"
セビリアの理髪師から フィガロのアリア "町の何でも屋に Largo al factotum"
皇帝ティトの慈悲から セストのアリア "ああこの瞬間だけは Deh, per questo istante solo"、ヴィテッリアのアリア "もはや皇后の座は望めない Non piu di fiori"
シモン・ボッカネグラから アメーリアのアリア "暁に星と海は微笑み Come in quest'ora bruna"
ばらの騎士から 三重唱と二重唱”私が誓ったことは、彼を正しいやり方で愛することでした Marie Therese... 夢なのかしら Ist ein Traum"

参加者の人数がわりと少ないために、重唱などでは役が持ち回りになっていて、
はからず合わない役、あまり練習したことのない役がまわってきたせいか、
重唱ではいまいちぱっとしなかった人が、突然ぴんのアリアでは
水を得た魚のように素晴らしい歌を繰り出したり、と、
いかに自分に合った役選びが大切か、ということ、
またこのようなブログを書いている身では、一回歌唱を聴いたきりで判断を下すことの危険さ、など、
数々の発見があり、大変に勉強になりました。

まだブレークする前の若手といえ、かなりレベルが高く、
”どうですか?こんなにこのプログラム、成果が出てます!”と、
ほとんどメトのパトロンで埋められた客席に向かって発表する様子は、
なんだか株主総会をも思わせました。

それぞれの歌手とも、それぞれ大変良いところがあって甲乙つけがたいのですが、
私がマークしたのは、音楽性の豊かなSasha Cooke(声のテクスチャーは素晴らしいのですが、ほっそりした体型のせいか、
少しボリュームが足りないのが残念。しかし、それを補ってあまりある音楽性が強み!)と、
Wendy Bryn Harmer(まだ荒削りなところはありますが、絹のようなきれいな声質にボリュームも十分。しかも、高音から低音まで、声質に切れ目がなく、
メゾも歌えそうな低音の美しさ。)の二人。
これからどんどん活躍の場を増やしていってほしい!!

やはり、各人のアリアでは、それぞれの人が私の技を見よ!と言う感じで、
丁々発止の力比べで、それはそれで楽しかったのですが、
最後のばらの騎士がとてもよかった。
他のプログラムは全部、歌手の歌を聴く、という雰囲気でしたが、
唯一このばらの騎士で、オペラの舞台が目の前に広がるのを感じました。

株主の期待に沿って、皆さんどんどん活躍されることを祈ります!!



Jennifer Black (Soprano)
Sasha Cooke (Mezzo Soprano)
Wendy Bryn Harmer (Soprano)
Courtney Ann Mills (Soprano)
John Michael Moore (Baritone)
Lisette Oropesa (Soprano)
Dicapo Opera Theatre open seat
***リンデマン・オペラ・ワークショップ Lindemann Opera Workshop***