<前編より続く>
オケの演奏はオーケストラ・オブ・セント・ルークス。
NYで行われるガラ系の演奏会などでこれまでにも何度かその演奏を聴いたことがありますが、
もともと、キャラモア音楽祭を起源に生まれたオケだそうです。知りませんでした。
2001年から2007年にはラニクルズが首席指揮者を務めていたオケです。
今日の公演ではオケをやや少人数の編成にしていたように見受けたのですが、
プログラムにもそのあたりの説明はありませんでした。
木管楽器やホルンのソロも結構多いので、へなちょこな演奏になるのを覚悟でいたのですが、とんでもない!
歌手陣の熱気に引き摺られたのか、管楽器は安心して聴いていられました。
意外と荒れていたのは弦楽器の方かもしれません。
このオケはヴァイオリンのセクションに日本人の方が結構いらっしゃって、
今日の演奏もコンサート・マスターが日本人の女性の方だったのですが、
彼女が意図している方向に他の奏者が完全にはついていけていないようなもどかしさを、
特に序曲をはじめとする、前半で感じたのと、
ピチカートにも綺麗に入った音とそうでない音の落差が激しく、
セクション全体で少しテクニックにむらがあるのが気になりました。
かと思えば、後半で、歌手の声と呼応するメロディではものすごく色気のある音を出してきたり、
潜在的な力はあると思うのですが、、。
クラッチフィールドの指揮は、ベル・カントのスペシャリストを自認するだけあって、
”こういう風に演奏したい!”というヴィジョンはしっかり持っているように感じました。
指揮は非常にクリーンなんですが、少し学者的な演奏というか、
味わいにかけるところはあるかもしれません。
感傷的なのは嫌いなのか、割と音楽がさくさく流れていく感じです。
この作品に関しては、私はボニング指揮、サザーランド&ホーンのコンビのCDしか持っていないのですが、
ボニングの指揮のグランドに流れがちなのに比べると(まあ、演奏がロンドン響なので仕方がないのですが)、
ベル・カント的な軽さが出ていた点は好感が持てます。
今日の公演のチケットを手配した時には、ミードとジュノーの名前しか目に入っていなかったのか、
それとも実際に当時は名前が出ていなかったのか、ちょっと定かではないのですが、
ボニング盤のCDで予習をしているうちに、イドレーノの役が、出番がそれほど多くない割には、
超絶技巧連発で大変な役だということに気付き、一体、こんなの、誰が歌うんだろう?
力のないテノールが歌ったら、それこそ、崩壊ものだ、と思っていて、
二週間前の『愛の妙薬』でネモリーノをブラウンリーが歌うので、
彼が居残ってこの役も歌ってくれたらいいんだけど、無理かなあ、、と期待半分だったのですが、
公演前日に音楽祭のサイトで、その通り、ブラウンリーが配役されていることに気付き、小躍りしました。
特にCDのボニング盤での、ジョン・サージの歌唱が全くぴんと来ないので、
この役がきちんと歌われたらどういう風になるんだろう?と期待が高まります。
序曲が終わると、まず、オローエのパートから始まるわけですが、
このオローエ役を歌ったディカーソンというバスは、
シカゴのリリック・オペラの研修プログラムで研鑽を積んで来た人のようで、
無難には歌っているのですが、とにかく個性がなくて、この面子の中では完全に埋もれてしまって、
ほとんど印象らしい印象を残せないで終わってしまったように感じます。
声自体にそれほど魅力がないのが、これからのキャリアで命取りにならなければいいのですが、、。
合唱は各パートを足して男女それぞれ12名程度の編成なんですが(なので、各パート6名ずつくらい)、
おそらく、序編でふれた育成プログラムの歌手たちを連れてきていると思われ、
一人一人がしっかりした美声で、実際の人数以上の編成のような錯覚を覚えます。
例えば、アゼーマ役のヒルは、ついさっきまで合唱のエリアに座っていたのに、
いつの間にか舞台の中央でアゼーマを歌っていたりして、
小さい役は合唱とのかけもちになっていたりします。
ちなみに、前述のボニング盤のCDでは、アゼーマは、全員に混じって一言二言しか
歌わない埋没系の脇役ですが、
ゴセット版では、イドレーノに自分が愛しているのはアルサーチェである、と
宣言する部分もあって、それなりに目立つ脇役です。
少しアンダーリハース気味なのか、全幕で合唱に期待するような、
合唱の基本である、個を消して全体に寄与する、という点で今一歩
(言葉がぴったり揃っていない、とか)の面もありましたが、
非常にスリリングで面白い合唱ではありました。
そして、イドレーノ役のブラウンリー。さすがに登場時の落ち着きが他の歌手とは違います。
彼の歌にはフローレスのような緻密さとか繊細さはないのですが、
声の芯が太強くて、歌唱に独特のスリルがあるというか、
ひょい!と公演の熱気を一気にあげてしまうような個性があります。
今日は普通のタキシードなので、あの『チェネレントラ』の時のようなコスプレ的違和感もなく、
歌にしっかりと集中することが出来ました。
彼はルックスがこうなので、まじめな王子系の役は厳しいのではないか?という声を聴きますが、
今日の『セミラーミデ』を聴いたところでは、ブッフォ的レパートリーの王子より、
セリアの王子系の役の方が適性があるように思います。
アルサーチェに思いを寄せるアーゼマを見て嫉妬してしまう部分の表現なども上手いですし。
そういえば、ラミロ王子の時も真摯さが彼の役作りと歌唱のコアな部分を形成していました。
私はイドレーノ役については、
第二幕の”甘美な希望がこの魂を誘惑して La speranza piu soave"を楽しみにしていたのですが、
やや高音が不安定に入りそうになって、少し慌てたか、
前半でやや落ち着かない感じがありましたが、
後半にきちんと元に戻してくる辺り、精神力の強さを感じます。
むしろ、全体としての出来は、そのきらびやかな高音といい、
一幕でのアリアの方が断然出来が良かった。
ボニング盤のCDではカットが多く、この一幕のイドレーノのアリアも省略されているのですが、
これが、どうして全体の登場場面の少なさの割りに、異常に難しいアリアを与えているんだろう?という、
アンバランスな印象に繋がっていたようです。
ゴセット版では、イドレーノの登場場面がCDよりずっと多く、
彼は間違いなく四角の一角(他の三角はセミラーミデ、アルサーチェ、アッスール)を担う大事な準主役で、
ボニング盤のCDだけを聞いていると、この役のポジションを見失います。
ブラウンリーのしっかりした歌唱もあって、ゴセット版でこの役の良さを確認できたのは、
今日の公演の収穫の一つでした。
いよいよ、セミラーミデを歌うアンジェラ・ミードの登場。
もう私は今日は彼女を聴きにきたようなものですから!
映画『The Audition』をご覧になった方なら、あの『ノルマ』の”清らかな女神 Casta Diva"を歌った
大柄なソプラノ、、といえば思い出されることでしょう。
しかし、CDでサザーランドの軽い、上に上っていくような声に耳が慣れていたせいか、
ミードによる、セミラーミデ役の出だしのフレーズを聴いて思ったのは、
”映画を見て予想していたよりは重い声なんだな”ということでした。
正直に言うと、彼女はロッシーニ作品のソプラノではないな、と思います。
絶対的レベルでは非常に優れた装飾歌唱の技術を持ってはいるのですが、
ロッシーニの作品はその中でも、特別かつ特殊な能力を持った歌手を欲し、
それがガランチャをして”私はロッシーニ作品に向いたメゾではない”と言わしめ、
本当の意味でロッシーニ・テノールと呼べるのはフローレスなど、
実に限られた歌手に限られる事実と呼応しています。
ミードの技術は、こと装飾歌唱の技術に関して言うと、それこそ例えばフレミングなんかよりも全然確かなんですが、
それでもまだロッシーニ、こと、このセミラーミデ役には十分ではない、という感を持ちます。
(と、それをいえば、フレミングはメトの2009-10年シーズンに
ロッシーニの『アルミーダ』なんかを歌ってしまいますが、大丈夫なんだろうか、、?と本当に心配になります。)
特に二つの音の間を素早く行ったり来たりする技巧に、
独特のロッシーニ作品に似つかわしくない、ややねちっこい響きが生じるのは気になります。
上昇していくだけ、下降していくだけの音型は非常にピュアな響きで良いのですが、、。
また、サザーランドと違い、今日の彼女はことごとくアリアや重唱での終わりの音を上げずにいて、
セミラーミデ役の最大の聴かせどころの”麗しい光が Bel raggio lusinghier"もそうだったのですが、
では、高音がないかというとそうではなく、同アリアの途中のパッセージで、
びっくりするような超高音をアドリブで入れて、
観客の度肝を抜いていたのでわけがわかりません。
ただ、全体的にやや高音域でキレを欠いていた感もあったので、
少しコンディションが良くなく、ラストで延々と伸ばすような高音は無理だ、との判断があったのかもしれません。
しかし、私はこのあたりのことは全く気にしてません!
というのは、ロッシーニ作品に手を出さなきゃいいだけの話なんですから。
そんなことを越えて嬉しかったのは、やっぱり彼女は稀有の才能を持った歌手だということを確認できた点で、
上で書いたようなロッシーニ作品に特有の技術的にトリッキーな個所を除けば、
言葉の響きの美しさ、表現力、一音一音を考え抜いて歌っている点、など、どこをとっても申し分ありませんし、
ドラマティックな個所での声量も十分です。
いえ、彼女の場合、声量が十分なところがすごいのではなく、
実にその場面場面に適切な音量を出してくる、そのコントロールの上手さがすごいのです。
中でも歌による表現力、これは、今メトで歌っているメジャーなソプラノと比較しても一歩もひけをとるものではなく、
個人的には、重めのベル・カント・レパートリー(『ノルマ』など)から、
軽めの役をのぞいたヴェルディ・ソプラノの諸役で本領を発揮する人ではないかと思います。
彼女の声も歌唱スタイルもキャラクターも『椿姫』のヴィオレッタには全然向いてませんが、
『ドン・カルロ』のエリザベッタ、『仮面舞踏会』のアメーリア、
『アイーダ』のタイトル・ロールなどは射程距離にあると思います。
また、もしかすると、R.シュトラウスの作品なども良いかもしれないな、と思います。
今日の演奏を聴くに、スタミナとパワーもありそうなので。
彼女は、2007-8年シーズンの『エルナーニ』で突然病気に倒れたラドヴァノフスキーに代わって、
エルヴィーラ役を歌いメト・デビューを果たしています。
当ブログを読んで下さっている方の中にも、その公演をご覧になった幸運な方がいらっしゃいますし、
ローカルのオペラヘッドの方たちかも、彼女のこのメト・デビューが
いきなり大舞台に立ったとはとても信じられないほど素晴らしかった、と言う噂を度々聞いておりますが、
演目からして、納得できるものがあります。
日本の上映ではカットされてしまったようですが、『The Audition』の一般公開版には、
フレミング、グラハム、ハンプソンの対談が最後にくっついていて、
まさにその『エルナーニ』でカルロ役を歌っていたハンプソンが、
「当日にいきなりメトから電話があってね、ソンドラ(・ラドヴァノフスキー)が出演できなくなったから、
アンジェラ・ミードっていうソプラノをぶっつけ本番で投入するっていうんだ。
しかも、彼女、全幕でエルヴィーラ役を本番の舞台の上で歌うのは初めてだ、っていうんだよ。
まじかよ、、って思ったよ。それがあの出来でしょう?もうびっくりしたも何も、、。」と語っていたのを思い出します。
2009-10年シーズンのメトでは、一日だけ『フィガロの結婚』の伯爵夫人を歌うそうです。
12/4の公演で、ルイージの指揮、デ・ニース、レナード、テジエ、ピサローニらとの共演です。
彼女のモーツァルトというのはちょっと想像がつかないのですが、これは観に行かねばなりません。
同じ『The Audition』出身のシュレーダーがこの二年、ほとんど歌に成長の後が観られないのに対し、
彼女は着々と伸びているようで、明暗を分けた感があります。
彼女はAVA(Academy of Vocal Arts)の出身なんですが、そのAVAのプロジェクトで
『ルチア』を歌ったときの映像がYou Tubeにあがっていましたのでご紹介しておきます。
ルチア役も彼女の声に比して軽い役なので、あまり向いた役だとは思わないのですが、
声や歌唱スタイルの雰囲気は伝わるかと思います。
なんと、エドガルド役を歌っているのは『The Audition』の曲者キャラ、ファビアーノ君です。
二人は同級生だったんですね。
私は今日の公演では、ミードの歌が、もっとも音楽性があると感じたのですが、
一般に注目を集めていたのはアルサーチェ役のヴィヴィカ・ジュノーの方かもしれません。
彼女は発声の仕方によるものか、”うにょ~っ”というような独特の音が声に入り、
母音の音が変わるほどに感じられるのが、好き嫌いの分かれ目になるかもしれません。
アルサーチェが手紙を読むシーンでは綺麗な発音でしたので、ディクションの問題ではないと思います。
しかし、彼女の横隔膜と口の使い方はすごくアクロバティックで唖然とさせられます。
というか、ちょっとすごすぎて、オペラを聴いているというよりは、
曲芸師の技を見ているような気がしてくるほどです。
一幕の”やっとバビロニアに着いた Eccomi alfine in Babilonia”の
彼女の歌で公演に本気で火が着いた感もあり、この曲での彼女のワイルドな歌唱は
会場全体が大喝采になりました。
二幕のクライマックスでも、表現力がありますし、悪くはないのですが、
私には歌がアクロバティックな割に、感情への訴えかけ方がややコンパクトに感じるという点で、
もう一つ、突き抜けて欲しい感がなくはありません。
ただ、すごく温かそうな感じの人で、経験不足ゆえに緊張するミードらを
一生懸命盛り立てているのが印象的でした。
アルサーチェという男性に扮するため、身につけた茶のコートのような上着に
前横の髪をひっつめにしたヘア・スタイルも素敵で、歌だけでなく、
全体として役の雰囲気を掴むのが上手い人だと思います。
ホーンみたいな重量級の歌ではありませんが、これはこれで魅力的な(そして多分原作の雰囲気にはより近い)
美少年風の軽めのアルサーチェです。
しかし、今日の聴衆は、ある意味、メトの観客より数段怖い。
ものすごく的確にBravo/a/iの相の手の入れ方や拍手の仕方で、
どのような感想を歌に対して持ったかというのを表現しているのです。
ここには、英語で言うb/s(ブルシット=くだらない、意味のない言葉や行為。)は
一切なく、アラーニャだから、ネトレプコだから、というそれだけで喝采してくれるような
観客は一人もいません。歌がすべて。
しかも、客席にはオペラの関係者なども多いですから、出演する側にとっては、
針のむしろのような舞台に違いありません。
その代わり、本当に素晴らしいと思ったら、それもきちんと伝えてくれる。
(ただし、拍手は割と短く、熱狂的ですが、だらだら打ち続ける、ということはありません。
舞台終了後の拍手の長さも実にあっさりしたものです。)
これは歌手にとってもきっとすごくやりがいのあることでしょう。
ジュノーが観客の喝采に心から嬉しそうにしていたのは、
このあたりをきちんと感じ取っていたからではないかと思います。
最後になりましたが重要なアッスール役のダニエル・モブス。
彼に関しては名前といい、このアンドロイドのような表情や体の動きといい、どこかで見た事があるような、、
と思っていたのですが、思い出しました。OONYのガラでした!
そのガラの時も思ったのですが、彼の歌は悪くはないのです。
(ただし、ロッシーニはやはりちょっと手に負えていない部分もあるのか、
一幕すぐの立ち上がりで、速い下降するパッセージでことごとくラストの音をすっ飛ばしていたのは気になりました。)
だけれども、彼の性格、これは何とかせねばなりません。
自信がなさすぎるんですよね。歌の内容のわりに自信満々過ぎるのも鼻持ちならないですが、
歌の割に自信がなさすぎる、これはオペラの世界では致命傷だと思います。
今日の公演は共演者の力もあって、すごく熱い公演になって、
それにのせられた形で、第二幕の四場以降、なかなかの歌唱を披露していたのですが、
前半の歌唱を聴くに、自分でそのレベルに持っていけないのが、
彼の最大の泣き所だと思います。
歌手として頭一つ抜き出るには、どんな場面でも自分が率先して
歌で公演を熱く出来るようなスピリットを持っていなくてはなりません。
その意味ではジュノーを見習ってほしいものです。
演奏会形式とはいえ、これほど充実した『セミラーミデ』を鑑賞できるとは。
さすがのヘッズたちも、お腹満杯になったか、帰りのバスでは爆睡する人続出でした。
まあ、終了したのが12時過ぎ、8時から、20分のインターミッションを除いて
(トイレの混み具合が尋常でなく、結局時間内に用を済ませられなかった人もいるのではないかと思います。)
ずーっと、テンションの高いロッシーニ節を聴きっぱなしだったので無理もありません。
15分で”ロッシーニは同じに聴こえる”という連れが全幕覚醒したままで、
最後には”すごい歌だったなあ、、”と呟いた位なのですから。
バスからマンハッタンの路上に放り出されたのは深夜の一時半。
(ものすごい車の量で、バスがキャラモアの敷地の外に出るまでにこれまた難儀でしたが、
一旦インターステートにのってしまえば、時間帯が時間帯なので、あっという間に
マンハッタンに着きました。)
オペラヘッドにはたまらない、わくわく感の詰まった玉手箱のような一日でした。大満足!
(冒頭の写真は左からブラウンリー、ジュノー、指揮のクラッチフィールド、ミード、モブス、ディカーソン。)
Angela Meade (Semiramide)
Vivica Genaux (Arsace)
Lawrence Brownlee (Idreno)
Daniel Mobbs (Assur)
Christopher Dickerson (Oroe)
Heather Hill (Azema)
John-Andrew Fernadez (Mitrane)
Djore Nance (The Ghost of Nino)
Conductor: Will Crutchfield
Orchestra of St. Luke's
Caramoor Festival Chorus
Bel Canto at Caramoor: Caramoor 2009 International Music Festival
ROSSINI: SEMIRAMIDE (in concert)
Critical edition by Philip Gossett
Center Orch Row T
Venetian Theater at Caramoor estate
Katonah, NY
** ロッシーニ セミラーミデ Rossini Semiramide **
オケの演奏はオーケストラ・オブ・セント・ルークス。
NYで行われるガラ系の演奏会などでこれまでにも何度かその演奏を聴いたことがありますが、
もともと、キャラモア音楽祭を起源に生まれたオケだそうです。知りませんでした。
2001年から2007年にはラニクルズが首席指揮者を務めていたオケです。
今日の公演ではオケをやや少人数の編成にしていたように見受けたのですが、
プログラムにもそのあたりの説明はありませんでした。
木管楽器やホルンのソロも結構多いので、へなちょこな演奏になるのを覚悟でいたのですが、とんでもない!
歌手陣の熱気に引き摺られたのか、管楽器は安心して聴いていられました。
意外と荒れていたのは弦楽器の方かもしれません。
このオケはヴァイオリンのセクションに日本人の方が結構いらっしゃって、
今日の演奏もコンサート・マスターが日本人の女性の方だったのですが、
彼女が意図している方向に他の奏者が完全にはついていけていないようなもどかしさを、
特に序曲をはじめとする、前半で感じたのと、
ピチカートにも綺麗に入った音とそうでない音の落差が激しく、
セクション全体で少しテクニックにむらがあるのが気になりました。
かと思えば、後半で、歌手の声と呼応するメロディではものすごく色気のある音を出してきたり、
潜在的な力はあると思うのですが、、。
クラッチフィールドの指揮は、ベル・カントのスペシャリストを自認するだけあって、
”こういう風に演奏したい!”というヴィジョンはしっかり持っているように感じました。
指揮は非常にクリーンなんですが、少し学者的な演奏というか、
味わいにかけるところはあるかもしれません。
感傷的なのは嫌いなのか、割と音楽がさくさく流れていく感じです。
この作品に関しては、私はボニング指揮、サザーランド&ホーンのコンビのCDしか持っていないのですが、
ボニングの指揮のグランドに流れがちなのに比べると(まあ、演奏がロンドン響なので仕方がないのですが)、
ベル・カント的な軽さが出ていた点は好感が持てます。
今日の公演のチケットを手配した時には、ミードとジュノーの名前しか目に入っていなかったのか、
それとも実際に当時は名前が出ていなかったのか、ちょっと定かではないのですが、
ボニング盤のCDで予習をしているうちに、イドレーノの役が、出番がそれほど多くない割には、
超絶技巧連発で大変な役だということに気付き、一体、こんなの、誰が歌うんだろう?
力のないテノールが歌ったら、それこそ、崩壊ものだ、と思っていて、
二週間前の『愛の妙薬』でネモリーノをブラウンリーが歌うので、
彼が居残ってこの役も歌ってくれたらいいんだけど、無理かなあ、、と期待半分だったのですが、
公演前日に音楽祭のサイトで、その通り、ブラウンリーが配役されていることに気付き、小躍りしました。
特にCDのボニング盤での、ジョン・サージの歌唱が全くぴんと来ないので、
この役がきちんと歌われたらどういう風になるんだろう?と期待が高まります。
序曲が終わると、まず、オローエのパートから始まるわけですが、
このオローエ役を歌ったディカーソンというバスは、
シカゴのリリック・オペラの研修プログラムで研鑽を積んで来た人のようで、
無難には歌っているのですが、とにかく個性がなくて、この面子の中では完全に埋もれてしまって、
ほとんど印象らしい印象を残せないで終わってしまったように感じます。
声自体にそれほど魅力がないのが、これからのキャリアで命取りにならなければいいのですが、、。
合唱は各パートを足して男女それぞれ12名程度の編成なんですが(なので、各パート6名ずつくらい)、
おそらく、序編でふれた育成プログラムの歌手たちを連れてきていると思われ、
一人一人がしっかりした美声で、実際の人数以上の編成のような錯覚を覚えます。
例えば、アゼーマ役のヒルは、ついさっきまで合唱のエリアに座っていたのに、
いつの間にか舞台の中央でアゼーマを歌っていたりして、
小さい役は合唱とのかけもちになっていたりします。
ちなみに、前述のボニング盤のCDでは、アゼーマは、全員に混じって一言二言しか
歌わない埋没系の脇役ですが、
ゴセット版では、イドレーノに自分が愛しているのはアルサーチェである、と
宣言する部分もあって、それなりに目立つ脇役です。
少しアンダーリハース気味なのか、全幕で合唱に期待するような、
合唱の基本である、個を消して全体に寄与する、という点で今一歩
(言葉がぴったり揃っていない、とか)の面もありましたが、
非常にスリリングで面白い合唱ではありました。
そして、イドレーノ役のブラウンリー。さすがに登場時の落ち着きが他の歌手とは違います。
彼の歌にはフローレスのような緻密さとか繊細さはないのですが、
声の芯が太強くて、歌唱に独特のスリルがあるというか、
ひょい!と公演の熱気を一気にあげてしまうような個性があります。
今日は普通のタキシードなので、あの『チェネレントラ』の時のようなコスプレ的違和感もなく、
歌にしっかりと集中することが出来ました。
彼はルックスがこうなので、まじめな王子系の役は厳しいのではないか?という声を聴きますが、
今日の『セミラーミデ』を聴いたところでは、ブッフォ的レパートリーの王子より、
セリアの王子系の役の方が適性があるように思います。
アルサーチェに思いを寄せるアーゼマを見て嫉妬してしまう部分の表現なども上手いですし。
そういえば、ラミロ王子の時も真摯さが彼の役作りと歌唱のコアな部分を形成していました。
私はイドレーノ役については、
第二幕の”甘美な希望がこの魂を誘惑して La speranza piu soave"を楽しみにしていたのですが、
やや高音が不安定に入りそうになって、少し慌てたか、
前半でやや落ち着かない感じがありましたが、
後半にきちんと元に戻してくる辺り、精神力の強さを感じます。
むしろ、全体としての出来は、そのきらびやかな高音といい、
一幕でのアリアの方が断然出来が良かった。
ボニング盤のCDではカットが多く、この一幕のイドレーノのアリアも省略されているのですが、
これが、どうして全体の登場場面の少なさの割りに、異常に難しいアリアを与えているんだろう?という、
アンバランスな印象に繋がっていたようです。
ゴセット版では、イドレーノの登場場面がCDよりずっと多く、
彼は間違いなく四角の一角(他の三角はセミラーミデ、アルサーチェ、アッスール)を担う大事な準主役で、
ボニング盤のCDだけを聞いていると、この役のポジションを見失います。
ブラウンリーのしっかりした歌唱もあって、ゴセット版でこの役の良さを確認できたのは、
今日の公演の収穫の一つでした。
いよいよ、セミラーミデを歌うアンジェラ・ミードの登場。
もう私は今日は彼女を聴きにきたようなものですから!
映画『The Audition』をご覧になった方なら、あの『ノルマ』の”清らかな女神 Casta Diva"を歌った
大柄なソプラノ、、といえば思い出されることでしょう。
しかし、CDでサザーランドの軽い、上に上っていくような声に耳が慣れていたせいか、
ミードによる、セミラーミデ役の出だしのフレーズを聴いて思ったのは、
”映画を見て予想していたよりは重い声なんだな”ということでした。
正直に言うと、彼女はロッシーニ作品のソプラノではないな、と思います。
絶対的レベルでは非常に優れた装飾歌唱の技術を持ってはいるのですが、
ロッシーニの作品はその中でも、特別かつ特殊な能力を持った歌手を欲し、
それがガランチャをして”私はロッシーニ作品に向いたメゾではない”と言わしめ、
本当の意味でロッシーニ・テノールと呼べるのはフローレスなど、
実に限られた歌手に限られる事実と呼応しています。
ミードの技術は、こと装飾歌唱の技術に関して言うと、それこそ例えばフレミングなんかよりも全然確かなんですが、
それでもまだロッシーニ、こと、このセミラーミデ役には十分ではない、という感を持ちます。
(と、それをいえば、フレミングはメトの2009-10年シーズンに
ロッシーニの『アルミーダ』なんかを歌ってしまいますが、大丈夫なんだろうか、、?と本当に心配になります。)
特に二つの音の間を素早く行ったり来たりする技巧に、
独特のロッシーニ作品に似つかわしくない、ややねちっこい響きが生じるのは気になります。
上昇していくだけ、下降していくだけの音型は非常にピュアな響きで良いのですが、、。
また、サザーランドと違い、今日の彼女はことごとくアリアや重唱での終わりの音を上げずにいて、
セミラーミデ役の最大の聴かせどころの”麗しい光が Bel raggio lusinghier"もそうだったのですが、
では、高音がないかというとそうではなく、同アリアの途中のパッセージで、
びっくりするような超高音をアドリブで入れて、
観客の度肝を抜いていたのでわけがわかりません。
ただ、全体的にやや高音域でキレを欠いていた感もあったので、
少しコンディションが良くなく、ラストで延々と伸ばすような高音は無理だ、との判断があったのかもしれません。
しかし、私はこのあたりのことは全く気にしてません!
というのは、ロッシーニ作品に手を出さなきゃいいだけの話なんですから。
そんなことを越えて嬉しかったのは、やっぱり彼女は稀有の才能を持った歌手だということを確認できた点で、
上で書いたようなロッシーニ作品に特有の技術的にトリッキーな個所を除けば、
言葉の響きの美しさ、表現力、一音一音を考え抜いて歌っている点、など、どこをとっても申し分ありませんし、
ドラマティックな個所での声量も十分です。
いえ、彼女の場合、声量が十分なところがすごいのではなく、
実にその場面場面に適切な音量を出してくる、そのコントロールの上手さがすごいのです。
中でも歌による表現力、これは、今メトで歌っているメジャーなソプラノと比較しても一歩もひけをとるものではなく、
個人的には、重めのベル・カント・レパートリー(『ノルマ』など)から、
軽めの役をのぞいたヴェルディ・ソプラノの諸役で本領を発揮する人ではないかと思います。
彼女の声も歌唱スタイルもキャラクターも『椿姫』のヴィオレッタには全然向いてませんが、
『ドン・カルロ』のエリザベッタ、『仮面舞踏会』のアメーリア、
『アイーダ』のタイトル・ロールなどは射程距離にあると思います。
また、もしかすると、R.シュトラウスの作品なども良いかもしれないな、と思います。
今日の演奏を聴くに、スタミナとパワーもありそうなので。
彼女は、2007-8年シーズンの『エルナーニ』で突然病気に倒れたラドヴァノフスキーに代わって、
エルヴィーラ役を歌いメト・デビューを果たしています。
当ブログを読んで下さっている方の中にも、その公演をご覧になった幸運な方がいらっしゃいますし、
ローカルのオペラヘッドの方たちかも、彼女のこのメト・デビューが
いきなり大舞台に立ったとはとても信じられないほど素晴らしかった、と言う噂を度々聞いておりますが、
演目からして、納得できるものがあります。
日本の上映ではカットされてしまったようですが、『The Audition』の一般公開版には、
フレミング、グラハム、ハンプソンの対談が最後にくっついていて、
まさにその『エルナーニ』でカルロ役を歌っていたハンプソンが、
「当日にいきなりメトから電話があってね、ソンドラ(・ラドヴァノフスキー)が出演できなくなったから、
アンジェラ・ミードっていうソプラノをぶっつけ本番で投入するっていうんだ。
しかも、彼女、全幕でエルヴィーラ役を本番の舞台の上で歌うのは初めてだ、っていうんだよ。
まじかよ、、って思ったよ。それがあの出来でしょう?もうびっくりしたも何も、、。」と語っていたのを思い出します。
2009-10年シーズンのメトでは、一日だけ『フィガロの結婚』の伯爵夫人を歌うそうです。
12/4の公演で、ルイージの指揮、デ・ニース、レナード、テジエ、ピサローニらとの共演です。
彼女のモーツァルトというのはちょっと想像がつかないのですが、これは観に行かねばなりません。
同じ『The Audition』出身のシュレーダーがこの二年、ほとんど歌に成長の後が観られないのに対し、
彼女は着々と伸びているようで、明暗を分けた感があります。
彼女はAVA(Academy of Vocal Arts)の出身なんですが、そのAVAのプロジェクトで
『ルチア』を歌ったときの映像がYou Tubeにあがっていましたのでご紹介しておきます。
ルチア役も彼女の声に比して軽い役なので、あまり向いた役だとは思わないのですが、
声や歌唱スタイルの雰囲気は伝わるかと思います。
なんと、エドガルド役を歌っているのは『The Audition』の曲者キャラ、ファビアーノ君です。
二人は同級生だったんですね。
私は今日の公演では、ミードの歌が、もっとも音楽性があると感じたのですが、
一般に注目を集めていたのはアルサーチェ役のヴィヴィカ・ジュノーの方かもしれません。
彼女は発声の仕方によるものか、”うにょ~っ”というような独特の音が声に入り、
母音の音が変わるほどに感じられるのが、好き嫌いの分かれ目になるかもしれません。
アルサーチェが手紙を読むシーンでは綺麗な発音でしたので、ディクションの問題ではないと思います。
しかし、彼女の横隔膜と口の使い方はすごくアクロバティックで唖然とさせられます。
というか、ちょっとすごすぎて、オペラを聴いているというよりは、
曲芸師の技を見ているような気がしてくるほどです。
一幕の”やっとバビロニアに着いた Eccomi alfine in Babilonia”の
彼女の歌で公演に本気で火が着いた感もあり、この曲での彼女のワイルドな歌唱は
会場全体が大喝采になりました。
二幕のクライマックスでも、表現力がありますし、悪くはないのですが、
私には歌がアクロバティックな割に、感情への訴えかけ方がややコンパクトに感じるという点で、
もう一つ、突き抜けて欲しい感がなくはありません。
ただ、すごく温かそうな感じの人で、経験不足ゆえに緊張するミードらを
一生懸命盛り立てているのが印象的でした。
アルサーチェという男性に扮するため、身につけた茶のコートのような上着に
前横の髪をひっつめにしたヘア・スタイルも素敵で、歌だけでなく、
全体として役の雰囲気を掴むのが上手い人だと思います。
ホーンみたいな重量級の歌ではありませんが、これはこれで魅力的な(そして多分原作の雰囲気にはより近い)
美少年風の軽めのアルサーチェです。
しかし、今日の聴衆は、ある意味、メトの観客より数段怖い。
ものすごく的確にBravo/a/iの相の手の入れ方や拍手の仕方で、
どのような感想を歌に対して持ったかというのを表現しているのです。
ここには、英語で言うb/s(ブルシット=くだらない、意味のない言葉や行為。)は
一切なく、アラーニャだから、ネトレプコだから、というそれだけで喝采してくれるような
観客は一人もいません。歌がすべて。
しかも、客席にはオペラの関係者なども多いですから、出演する側にとっては、
針のむしろのような舞台に違いありません。
その代わり、本当に素晴らしいと思ったら、それもきちんと伝えてくれる。
(ただし、拍手は割と短く、熱狂的ですが、だらだら打ち続ける、ということはありません。
舞台終了後の拍手の長さも実にあっさりしたものです。)
これは歌手にとってもきっとすごくやりがいのあることでしょう。
ジュノーが観客の喝采に心から嬉しそうにしていたのは、
このあたりをきちんと感じ取っていたからではないかと思います。
最後になりましたが重要なアッスール役のダニエル・モブス。
彼に関しては名前といい、このアンドロイドのような表情や体の動きといい、どこかで見た事があるような、、
と思っていたのですが、思い出しました。OONYのガラでした!
そのガラの時も思ったのですが、彼の歌は悪くはないのです。
(ただし、ロッシーニはやはりちょっと手に負えていない部分もあるのか、
一幕すぐの立ち上がりで、速い下降するパッセージでことごとくラストの音をすっ飛ばしていたのは気になりました。)
だけれども、彼の性格、これは何とかせねばなりません。
自信がなさすぎるんですよね。歌の内容のわりに自信満々過ぎるのも鼻持ちならないですが、
歌の割に自信がなさすぎる、これはオペラの世界では致命傷だと思います。
今日の公演は共演者の力もあって、すごく熱い公演になって、
それにのせられた形で、第二幕の四場以降、なかなかの歌唱を披露していたのですが、
前半の歌唱を聴くに、自分でそのレベルに持っていけないのが、
彼の最大の泣き所だと思います。
歌手として頭一つ抜き出るには、どんな場面でも自分が率先して
歌で公演を熱く出来るようなスピリットを持っていなくてはなりません。
その意味ではジュノーを見習ってほしいものです。
演奏会形式とはいえ、これほど充実した『セミラーミデ』を鑑賞できるとは。
さすがのヘッズたちも、お腹満杯になったか、帰りのバスでは爆睡する人続出でした。
まあ、終了したのが12時過ぎ、8時から、20分のインターミッションを除いて
(トイレの混み具合が尋常でなく、結局時間内に用を済ませられなかった人もいるのではないかと思います。)
ずーっと、テンションの高いロッシーニ節を聴きっぱなしだったので無理もありません。
15分で”ロッシーニは同じに聴こえる”という連れが全幕覚醒したままで、
最後には”すごい歌だったなあ、、”と呟いた位なのですから。
バスからマンハッタンの路上に放り出されたのは深夜の一時半。
(ものすごい車の量で、バスがキャラモアの敷地の外に出るまでにこれまた難儀でしたが、
一旦インターステートにのってしまえば、時間帯が時間帯なので、あっという間に
マンハッタンに着きました。)
オペラヘッドにはたまらない、わくわく感の詰まった玉手箱のような一日でした。大満足!
(冒頭の写真は左からブラウンリー、ジュノー、指揮のクラッチフィールド、ミード、モブス、ディカーソン。)
Angela Meade (Semiramide)
Vivica Genaux (Arsace)
Lawrence Brownlee (Idreno)
Daniel Mobbs (Assur)
Christopher Dickerson (Oroe)
Heather Hill (Azema)
John-Andrew Fernadez (Mitrane)
Djore Nance (The Ghost of Nino)
Conductor: Will Crutchfield
Orchestra of St. Luke's
Caramoor Festival Chorus
Bel Canto at Caramoor: Caramoor 2009 International Music Festival
ROSSINI: SEMIRAMIDE (in concert)
Critical edition by Philip Gossett
Center Orch Row T
Venetian Theater at Caramoor estate
Katonah, NY
** ロッシーニ セミラーミデ Rossini Semiramide **