Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

SEMIRAMIDE (Fri, Jul 31, 2009) 後編

2009-07-31 | メト以外のオペラ
前編より続く>

オケの演奏はオーケストラ・オブ・セント・ルークス。
NYで行われるガラ系の演奏会などでこれまでにも何度かその演奏を聴いたことがありますが、
もともと、キャラモア音楽祭を起源に生まれたオケだそうです。知りませんでした。
2001年から2007年にはラニクルズが首席指揮者を務めていたオケです。

今日の公演ではオケをやや少人数の編成にしていたように見受けたのですが、
プログラムにもそのあたりの説明はありませんでした。
木管楽器やホルンのソロも結構多いので、へなちょこな演奏になるのを覚悟でいたのですが、とんでもない!
歌手陣の熱気に引き摺られたのか、管楽器は安心して聴いていられました。
意外と荒れていたのは弦楽器の方かもしれません。
このオケはヴァイオリンのセクションに日本人の方が結構いらっしゃって、
今日の演奏もコンサート・マスターが日本人の女性の方だったのですが、
彼女が意図している方向に他の奏者が完全にはついていけていないようなもどかしさを、
特に序曲をはじめとする、前半で感じたのと、
ピチカートにも綺麗に入った音とそうでない音の落差が激しく、
セクション全体で少しテクニックにむらがあるのが気になりました。
かと思えば、後半で、歌手の声と呼応するメロディではものすごく色気のある音を出してきたり、
潜在的な力はあると思うのですが、、。

クラッチフィールドの指揮は、ベル・カントのスペシャリストを自認するだけあって、
”こういう風に演奏したい!”というヴィジョンはしっかり持っているように感じました。
指揮は非常にクリーンなんですが、少し学者的な演奏というか、
味わいにかけるところはあるかもしれません。
感傷的なのは嫌いなのか、割と音楽がさくさく流れていく感じです。
この作品に関しては、私はボニング指揮、サザーランド&ホーンのコンビのCDしか持っていないのですが、
ボニングの指揮のグランドに流れがちなのに比べると(まあ、演奏がロンドン響なので仕方がないのですが)、
ベル・カント的な軽さが出ていた点は好感が持てます。

今日の公演のチケットを手配した時には、ミードとジュノーの名前しか目に入っていなかったのか、
それとも実際に当時は名前が出ていなかったのか、ちょっと定かではないのですが、
ボニング盤のCDで予習をしているうちに、イドレーノの役が、出番がそれほど多くない割には、
超絶技巧連発で大変な役だということに気付き、一体、こんなの、誰が歌うんだろう?
力のないテノールが歌ったら、それこそ、崩壊ものだ、と思っていて、
二週間前の『愛の妙薬』でネモリーノをブラウンリーが歌うので、
彼が居残ってこの役も歌ってくれたらいいんだけど、無理かなあ、、と期待半分だったのですが、
公演前日に音楽祭のサイトで、その通り、ブラウンリーが配役されていることに気付き、小躍りしました。
特にCDのボニング盤での、ジョン・サージの歌唱が全くぴんと来ないので、
この役がきちんと歌われたらどういう風になるんだろう?と期待が高まります。

序曲が終わると、まず、オローエのパートから始まるわけですが、
このオローエ役を歌ったディカーソンというバスは、
シカゴのリリック・オペラの研修プログラムで研鑽を積んで来た人のようで、
無難には歌っているのですが、とにかく個性がなくて、この面子の中では完全に埋もれてしまって、
ほとんど印象らしい印象を残せないで終わってしまったように感じます。
声自体にそれほど魅力がないのが、これからのキャリアで命取りにならなければいいのですが、、。

合唱は各パートを足して男女それぞれ12名程度の編成なんですが(なので、各パート6名ずつくらい)、
おそらく、序編でふれた育成プログラムの歌手たちを連れてきていると思われ、
一人一人がしっかりした美声で、実際の人数以上の編成のような錯覚を覚えます。
例えば、アゼーマ役のヒルは、ついさっきまで合唱のエリアに座っていたのに、
いつの間にか舞台の中央でアゼーマを歌っていたりして、
小さい役は合唱とのかけもちになっていたりします。
ちなみに、前述のボニング盤のCDでは、アゼーマは、全員に混じって一言二言しか
歌わない埋没系の脇役ですが、
ゴセット版では、イドレーノに自分が愛しているのはアルサーチェである、と
宣言する部分もあって、それなりに目立つ脇役です。
少しアンダーリハース気味なのか、全幕で合唱に期待するような、
合唱の基本である、個を消して全体に寄与する、という点で今一歩
(言葉がぴったり揃っていない、とか)の面もありましたが、
非常にスリリングで面白い合唱ではありました。

そして、イドレーノ役のブラウンリー。さすがに登場時の落ち着きが他の歌手とは違います。
彼の歌にはフローレスのような緻密さとか繊細さはないのですが、
声の芯が太強くて、歌唱に独特のスリルがあるというか、
ひょい!と公演の熱気を一気にあげてしまうような個性があります。
今日は普通のタキシードなので、あの『チェネレントラ』の時のようなコスプレ的違和感もなく、
歌にしっかりと集中することが出来ました。



彼はルックスがこうなので、まじめな王子系の役は厳しいのではないか?という声を聴きますが、
今日の『セミラーミデ』を聴いたところでは、ブッフォ的レパートリーの王子より、
セリアの王子系の役の方が適性があるように思います。
アルサーチェに思いを寄せるアーゼマを見て嫉妬してしまう部分の表現なども上手いですし。
そういえば、ラミロ王子の時も真摯さが彼の役作りと歌唱のコアな部分を形成していました。
私はイドレーノ役については、
第二幕の”甘美な希望がこの魂を誘惑して La speranza piu soave"を楽しみにしていたのですが、
やや高音が不安定に入りそうになって、少し慌てたか、
前半でやや落ち着かない感じがありましたが、
後半にきちんと元に戻してくる辺り、精神力の強さを感じます。
むしろ、全体としての出来は、そのきらびやかな高音といい、
一幕でのアリアの方が断然出来が良かった。
ボニング盤のCDではカットが多く、この一幕のイドレーノのアリアも省略されているのですが、
これが、どうして全体の登場場面の少なさの割りに、異常に難しいアリアを与えているんだろう?という、
アンバランスな印象に繋がっていたようです。
ゴセット版では、イドレーノの登場場面がCDよりずっと多く、
彼は間違いなく四角の一角(他の三角はセミラーミデ、アルサーチェ、アッスール)を担う大事な準主役で、
ボニング盤のCDだけを聞いていると、この役のポジションを見失います。
ブラウンリーのしっかりした歌唱もあって、ゴセット版でこの役の良さを確認できたのは、
今日の公演の収穫の一つでした。

いよいよ、セミラーミデを歌うアンジェラ・ミードの登場。
もう私は今日は彼女を聴きにきたようなものですから!
映画『The Audition』をご覧になった方なら、あの『ノルマ』の”清らかな女神 Casta Diva"を歌った
大柄なソプラノ、、といえば思い出されることでしょう。



しかし、CDでサザーランドの軽い、上に上っていくような声に耳が慣れていたせいか、
ミードによる、セミラーミデ役の出だしのフレーズを聴いて思ったのは、
”映画を見て予想していたよりは重い声なんだな”ということでした。
正直に言うと、彼女はロッシーニ作品のソプラノではないな、と思います。
絶対的レベルでは非常に優れた装飾歌唱の技術を持ってはいるのですが、
ロッシーニの作品はその中でも、特別かつ特殊な能力を持った歌手を欲し、
それがガランチャをして”私はロッシーニ作品に向いたメゾではない”と言わしめ、
本当の意味でロッシーニ・テノールと呼べるのはフローレスなど、
実に限られた歌手に限られる事実と呼応しています。
ミードの技術は、こと装飾歌唱の技術に関して言うと、それこそ例えばフレミングなんかよりも全然確かなんですが、
それでもまだロッシーニ、こと、このセミラーミデ役には十分ではない、という感を持ちます。
(と、それをいえば、フレミングはメトの2009-10年シーズンに
ロッシーニの『アルミーダ』なんかを歌ってしまいますが、大丈夫なんだろうか、、?と本当に心配になります。)
特に二つの音の間を素早く行ったり来たりする技巧に、
独特のロッシーニ作品に似つかわしくない、ややねちっこい響きが生じるのは気になります。
上昇していくだけ、下降していくだけの音型は非常にピュアな響きで良いのですが、、。

また、サザーランドと違い、今日の彼女はことごとくアリアや重唱での終わりの音を上げずにいて、
セミラーミデ役の最大の聴かせどころの”麗しい光が Bel raggio lusinghier"もそうだったのですが、
では、高音がないかというとそうではなく、同アリアの途中のパッセージで、
びっくりするような超高音をアドリブで入れて、
観客の度肝を抜いていたのでわけがわかりません。
ただ、全体的にやや高音域でキレを欠いていた感もあったので、
少しコンディションが良くなく、ラストで延々と伸ばすような高音は無理だ、との判断があったのかもしれません。

しかし、私はこのあたりのことは全く気にしてません!
というのは、ロッシーニ作品に手を出さなきゃいいだけの話なんですから。
そんなことを越えて嬉しかったのは、やっぱり彼女は稀有の才能を持った歌手だということを確認できた点で、
上で書いたようなロッシーニ作品に特有の技術的にトリッキーな個所を除けば、
言葉の響きの美しさ、表現力、一音一音を考え抜いて歌っている点、など、どこをとっても申し分ありませんし、
ドラマティックな個所での声量も十分です。
いえ、彼女の場合、声量が十分なところがすごいのではなく、
実にその場面場面に適切な音量を出してくる、そのコントロールの上手さがすごいのです。
中でも歌による表現力、これは、今メトで歌っているメジャーなソプラノと比較しても一歩もひけをとるものではなく、
個人的には、重めのベル・カント・レパートリー(『ノルマ』など)から、
軽めの役をのぞいたヴェルディ・ソプラノの諸役で本領を発揮する人ではないかと思います。
彼女の声も歌唱スタイルもキャラクターも『椿姫』のヴィオレッタには全然向いてませんが、
『ドン・カルロ』のエリザベッタ、『仮面舞踏会』のアメーリア、
『アイーダ』のタイトル・ロールなどは射程距離にあると思います。
また、もしかすると、R.シュトラウスの作品なども良いかもしれないな、と思います。
今日の演奏を聴くに、スタミナとパワーもありそうなので。
彼女は、2007-8年シーズンの『エルナーニ』で突然病気に倒れたラドヴァノフスキーに代わって、
エルヴィーラ役を歌いメト・デビューを果たしています。
当ブログを読んで下さっている方の中にも、その公演をご覧になった幸運な方がいらっしゃいますし、
ローカルのオペラヘッドの方たちかも、彼女のこのメト・デビューが
いきなり大舞台に立ったとはとても信じられないほど素晴らしかった、と言う噂を度々聞いておりますが、
演目からして、納得できるものがあります。

日本の上映ではカットされてしまったようですが、『The Audition』の一般公開版には、
フレミング、グラハム、ハンプソンの対談が最後にくっついていて、
まさにその『エルナーニ』でカルロ役を歌っていたハンプソンが、
「当日にいきなりメトから電話があってね、ソンドラ(・ラドヴァノフスキー)が出演できなくなったから、
アンジェラ・ミードっていうソプラノをぶっつけ本番で投入するっていうんだ。
しかも、彼女、全幕でエルヴィーラ役を本番の舞台の上で歌うのは初めてだ、っていうんだよ。
まじかよ、、って思ったよ。それがあの出来でしょう?もうびっくりしたも何も、、。」と語っていたのを思い出します。
2009-10年シーズンのメトでは、一日だけ『フィガロの結婚』の伯爵夫人を歌うそうです。
12/4の公演で、ルイージの指揮、デ・ニース、レナード、テジエ、ピサローニらとの共演です。
彼女のモーツァルトというのはちょっと想像がつかないのですが、これは観に行かねばなりません。
同じ『The Audition』出身のシュレーダーがこの二年、ほとんど歌に成長の後が観られないのに対し、
彼女は着々と伸びているようで、明暗を分けた感があります。

彼女はAVA(Academy of Vocal Arts)の出身なんですが、そのAVAのプロジェクトで
『ルチア』を歌ったときの映像がYou Tubeにあがっていましたのでご紹介しておきます。
ルチア役も彼女の声に比して軽い役なので、あまり向いた役だとは思わないのですが、
声や歌唱スタイルの雰囲気は伝わるかと思います。
なんと、エドガルド役を歌っているのは『The Audition』の曲者キャラ、ファビアーノ君です。
二人は同級生だったんですね。




私は今日の公演では、ミードの歌が、もっとも音楽性があると感じたのですが、
一般に注目を集めていたのはアルサーチェ役のヴィヴィカ・ジュノーの方かもしれません。




彼女は発声の仕方によるものか、”うにょ~っ”というような独特の音が声に入り、
母音の音が変わるほどに感じられるのが、好き嫌いの分かれ目になるかもしれません。
アルサーチェが手紙を読むシーンでは綺麗な発音でしたので、ディクションの問題ではないと思います。

しかし、彼女の横隔膜と口の使い方はすごくアクロバティックで唖然とさせられます。
というか、ちょっとすごすぎて、オペラを聴いているというよりは、
曲芸師の技を見ているような気がしてくるほどです。
一幕の”やっとバビロニアに着いた Eccomi alfine in Babilonia”の
彼女の歌で公演に本気で火が着いた感もあり、この曲での彼女のワイルドな歌唱は
会場全体が大喝采になりました。
二幕のクライマックスでも、表現力がありますし、悪くはないのですが、
私には歌がアクロバティックな割に、感情への訴えかけ方がややコンパクトに感じるという点で、
もう一つ、突き抜けて欲しい感がなくはありません。
ただ、すごく温かそうな感じの人で、経験不足ゆえに緊張するミードらを
一生懸命盛り立てているのが印象的でした。
アルサーチェという男性に扮するため、身につけた茶のコートのような上着に
前横の髪をひっつめにしたヘア・スタイルも素敵で、歌だけでなく、
全体として役の雰囲気を掴むのが上手い人だと思います。
ホーンみたいな重量級の歌ではありませんが、これはこれで魅力的な(そして多分原作の雰囲気にはより近い)
美少年風の軽めのアルサーチェです。

しかし、今日の聴衆は、ある意味、メトの観客より数段怖い。
ものすごく的確にBravo/a/iの相の手の入れ方や拍手の仕方で、
どのような感想を歌に対して持ったかというのを表現しているのです。
ここには、英語で言うb/s(ブルシット=くだらない、意味のない言葉や行為。)は
一切なく、アラーニャだから、ネトレプコだから、というそれだけで喝采してくれるような
観客は一人もいません。歌がすべて。
しかも、客席にはオペラの関係者なども多いですから、出演する側にとっては、
針のむしろのような舞台に違いありません。
その代わり、本当に素晴らしいと思ったら、それもきちんと伝えてくれる。
(ただし、拍手は割と短く、熱狂的ですが、だらだら打ち続ける、ということはありません。
舞台終了後の拍手の長さも実にあっさりしたものです。)
これは歌手にとってもきっとすごくやりがいのあることでしょう。
ジュノーが観客の喝采に心から嬉しそうにしていたのは、
このあたりをきちんと感じ取っていたからではないかと思います。

最後になりましたが重要なアッスール役のダニエル・モブス。
彼に関しては名前といい、このアンドロイドのような表情や体の動きといい、どこかで見た事があるような、、
と思っていたのですが、思い出しました。OONYのガラでした!
そのガラの時も思ったのですが、彼の歌は悪くはないのです。
(ただし、ロッシーニはやはりちょっと手に負えていない部分もあるのか、
一幕すぐの立ち上がりで、速い下降するパッセージでことごとくラストの音をすっ飛ばしていたのは気になりました。)
だけれども、彼の性格、これは何とかせねばなりません。
自信がなさすぎるんですよね。歌の内容のわりに自信満々過ぎるのも鼻持ちならないですが、
歌の割に自信がなさすぎる、これはオペラの世界では致命傷だと思います。
今日の公演は共演者の力もあって、すごく熱い公演になって、
それにのせられた形で、第二幕の四場以降、なかなかの歌唱を披露していたのですが、
前半の歌唱を聴くに、自分でそのレベルに持っていけないのが、
彼の最大の泣き所だと思います。
歌手として頭一つ抜き出るには、どんな場面でも自分が率先して
歌で公演を熱く出来るようなスピリットを持っていなくてはなりません。
その意味ではジュノーを見習ってほしいものです。

演奏会形式とはいえ、これほど充実した『セミラーミデ』を鑑賞できるとは。
さすがのヘッズたちも、お腹満杯になったか、帰りのバスでは爆睡する人続出でした。
まあ、終了したのが12時過ぎ、8時から、20分のインターミッションを除いて
(トイレの混み具合が尋常でなく、結局時間内に用を済ませられなかった人もいるのではないかと思います。)
ずーっと、テンションの高いロッシーニ節を聴きっぱなしだったので無理もありません。
15分で”ロッシーニは同じに聴こえる”という連れが全幕覚醒したままで、
最後には”すごい歌だったなあ、、”と呟いた位なのですから。

バスからマンハッタンの路上に放り出されたのは深夜の一時半。
(ものすごい車の量で、バスがキャラモアの敷地の外に出るまでにこれまた難儀でしたが、
一旦インターステートにのってしまえば、時間帯が時間帯なので、あっという間に
マンハッタンに着きました。)
オペラヘッドにはたまらない、わくわく感の詰まった玉手箱のような一日でした。大満足!

(冒頭の写真は左からブラウンリー、ジュノー、指揮のクラッチフィールド、ミード、モブス、ディカーソン。)

Angela Meade (Semiramide)
Vivica Genaux (Arsace)
Lawrence Brownlee (Idreno)
Daniel Mobbs (Assur)
Christopher Dickerson (Oroe)
Heather Hill (Azema)
John-Andrew Fernadez (Mitrane)
Djore Nance (The Ghost of Nino)
Conductor: Will Crutchfield
Orchestra of St. Luke's
Caramoor Festival Chorus

Bel Canto at Caramoor: Caramoor 2009 International Music Festival
ROSSINI: SEMIRAMIDE (in concert)
Critical edition by Philip Gossett

Center Orch Row T
Venetian Theater at Caramoor estate
Katonah, NY

** ロッシーニ セミラーミデ Rossini Semiramide **

SEMIRAMIDE (Fri, Jul 31, 2009) 前編

2009-07-31 | メト以外のオペラ
夕方四時過ぎ、グランド・セントラル駅ヴァンダービルト・アヴェニュー側出口。
未明から続き、今やますます激しくなった雨をものともせず、うようよと姿を現わし始めたオペラヘッド。
そう、今日は待ち焦がれたキャラモア音楽祭の『セミラーミデ』の上演日で、
マンハッタンから音楽祭会場への送迎バスが、ここから4時半に出発するのです。

今日はモントリオールで『ルチア』を見損ねた連れと一緒に鑑賞。
実は彼はベル・カント作品のような歌への比重が大きい作品よりは、
ヴェルディやワーグナーらの作品のようなオケへの比重が比較的高い作品の方が好きで、
『神々の黄昏』なら平気で何時間も座っていられる人ですが、
ロッシーニはものの15分もすると、全部同じに聴こえる、、と言い出します。
モントリオール旅行中も強制予習として、車の中でこの『セミラーミデ』のCDをかけていましたが、
1枚目のディスクが終わる頃にはぐったり、といった風で、
ちなみにディスクは2枚でなく、3枚あるんですが、、と打ち明けると呆然としていました。
そう、ロッシーニの他作品の例に漏れず、『セミラーミデ』も上映時間が長い!
今日の演奏予定は夜8時に開演して第一幕が1時間53分(分単位とは細かい!)、
20分の休憩を挟み、第二幕が1時間半と、休憩時間が一回しかないせいもあって、
各幕が結構ボリュームのある構成になってしまっていて、
それでも閉演時間は夜の12時あたりになってしまう有様です。

バスは開演時間の約2時間前に会場に到着するので、
芝生で持ち寄ったお弁当などを開いて、ピクニック気分を味わう、という楽しみもあったわけですが、
それもこの天候ではすっかり機会を奪われてしまい、オペラを楽しむことだけが唯一の楽しみとなりそうです。
相も変わらず高齢者が多数をしめ(私が最年少のグループに入っているところがいかにもおそろしい!)、
バスのタラップを上るのもやっと、という足取りも危なっかしいヘッズがポンチョに身をくるみ、
弁当が入っていると思われる大きなバッグを抱えてバスに乗りこまん、と我勝ちに争う様に、
”あんな年齢でこの天気の中をバスに乗ってまでオペラを観に行くとは、まさにオペきちだ、、”とたじたじの連れです。

バスはマイクロ・バスなんかではなく、いわゆる修学旅行に使われるような大型バス。
3台のバスにぎっちり押し込まれたヘッズたち、、
ここにいるヘッズたちが過去に観たオペラの公演を総計したらどんな数とバラエティになるだろうか?と
つい考えてしまう壮観な眺めです。
(ちなみに、キャラモア・キャラバンと呼ばれるこのバスによる
マンハッタンからの送迎サービスは往復26ドルで、当日までにソールド・アウトになっていました。)

バスが向かうのは、マンハッタンから40マイル北に位置する、
カトナー(トにアクセントがあるので、実際の発音はカトーナーに近いですが)という、
NY州ウェスト・チェスター郡にあるハムレット(村よりも小さい居住地単位)で、
キャラモアというのは、そのカトナーにある、ローゼン夫妻が所有かつ居住していた敷地全体の名称です。
村よりも小さい、といってあなどることなかれ。
というのは、このカトナーは、2008年現在、NY州中、家の売買において、
もっとも高額な市場を誇る土地で、こじんまりとしながらも入り込んだとたん、
その裕福さを肌で感じるような場所なのです。

渋滞がなければ車で1時間かかるかかからないか、といったロケーションなんですが、
金曜の夕方というのはラッシュアワーとウィークエンド用のセカンド・ハウスに向かう人たちの群れで
道路は異常な込み合いを見せます。
結局到着には2時間もかかり、開演前にすでに一苦労、という感じなのですが、
バスの中のヘッズたちは慣れたもので、思い思いに新聞や本を読んだり、
iPodなどで音楽を聴いたり(おそらく『セミラーミデ』の予習と思われる)、
お友達とおしゃべりする人、すでに待ちきれずに食べ物を広げる人、居眠りする人等々、
みなさん、くつろぎっぱなしです。

雨足が猛烈に強まる中、広大な敷地つきのカトナーの家々が現れ、
やがて、こんな大型バスでつっこんで行っていいんですか?とびっくり仰天の瀟洒な門を抜け、
林のような木立に囲まれたドライブウェイを通り抜けると、
今日の会場となるヴェネチアン・シアターをはじめとする建物が現れました。
すでに、門のところから、キャラモアの敷地だったようです。
これが個人の邸宅の敷地?!と思うほど広大で、
無料の駐車場あり、と、音楽祭のサイトに記述があったのですが、
確かに何台入っても大丈夫そうな広さです。
林のような木々の多さと芝生の緑が美しい、よく手入れのされたお庭があって、
天候が良ければここで弁当を広げられたのに、、と残念至極。

バスから下ろされて放し飼い状態になったヘッズたちは、
まるで自分の家ででもあるかのように、勝手知ったる、、という趣で、
傘を広げ、おもいおもいの場所に散って行きます。

庭にはテントがいくつか張られ、軽食や飲み物などの購入も可能となっています。
公演日の数日前までに予約すると、音楽祭側がピクニック用の食事を
ボックスに入れて準備をしておいてくれるサービスもあって、
そのピックアップもこのテントの中の一つで行われます。




キャラモアの敷地内のメインの建物は、ローゼン夫妻が実際に居住していた
ローゼン・ハウスと呼ばれる地中海スタイルで建てられたヴィラ。



このヴィラの中にも、スパニアード・ガーデンと呼ばれる中庭があり、
オペラの全幕演奏はすべてベネチアン・シアターで行われるのですが、
このスパニアード・ガーデンでも、歌とピアノの小規模なリサイタルなどが行われるようです。
雨のせいで、ヘッズが食事場所に選んだのはこのスパニアード・ガーデンを望むヴィラのスペースで、
係員の方が、”本来は演奏と鑑賞用のスペースなんですが、、、”と言ったようにも聞えましたが、
ヘッズたちは”雨だから他に食事する場所がないでしょうが。”といつもの強引さで突破し、
一瞬にして、我が物顔でヴィラを食堂化するのでした。
(手前に見える白い箱が、音楽祭側で用意されたピクニック・バスケット。)



冬にも使用できるようにとの配慮から暖炉も据えつけられたこのスペースで、
準備されたピクニック・バスケットやら、持参した食べ物やワインを広げ、
あちこちから、”ボクがわからないのは、なぜアルサーチェ(セミラーミデの中の登場人物)が、、云々”とか、
”私が観たアンダーソンのセミラーミデは、、”
といったオペラに関する議論を繰り広げるヘッズたち。
ああ、オペラ天国、、、



キャラモア音楽祭は、ローゼン夫妻が個人的なお客さまをもてなすなかで開いた音楽会の延長として、
1945年に始められたもので、今は故人となられたお二人に代わり、
キャラモア・ファンデーションという協会が運営を行っています。
クラシックからジャズまでをカバーしていますが、
特にオペラに関しては、1992年、ベル・カント・アット・キャラモアと名づけたプロジェクトを打ち出し、
積極的にベル・カント・レパートリーの演奏を行っています。
ただ、今年2009年は『セミラーミデ』と『愛の妙薬』という、こてこてベル・カントのカップリングですが、
一般的には、もう少しベル・カントを広義の意味で捉えているようで、
ヴェルディらの作品が取り上げられることもあります。

同音楽祭のオペラ部門の監督でもあり、今日の『セミラーミデ』(というより、
どの演目も、といった方が良いかもしれませんが)の指揮も行うウィル・クラッチフィールドは
かつてNYタイムズで音楽批評を担当していたこともある自称”ベル・カントのスペシャリスト”。
彼が企画の中心となっているベル・カント・アット・キャラモアは、
若手歌手の育成プログラムも含まれていて、例えば、今日の『セミラーミデ』も、
ジュノー、ブラウンリー、ミードといったすでにメトに登場済みの歌手を主役、準主役に据え、
育成プログラムからの歌手を脇の役に採用する、という方式をとっています。
ベル・カント・アット・キャラモアは、例年、メトからも注目される存在となっており、
今年のプログラム・ブックにメトのアーティスティック部門のアシスタント・マネージャーである、
サラ・ビリングハーストが寄せた文面の中に、
キャラモアで歌声を聴いてメトの舞台に採用した歌手がいることが明かされています。

食事を終えた頃、開演を知らせる鐘の音が鳴り、
いつの間にか、さっきまで大降りだった雨がやんでいました。

先述の通り、オペラの全幕公演はヴェネチアン・シアターという、半野外の劇場で上演されます。
冒頭の写真は過去の音楽祭の上演時のもので、ハドソン・バレー・ボイジャーのサイトからお借りしました。
下の写真は今年のオープニング・イヴニングのもの(NYソーシャル・ダイアリーのサイトから)で、
客席のスペースにダイニング・テーブルを入れてます。
この提灯のような飾り付けももちろんオペラの公演時にはありませんが、
会場設定の雰囲気は伝わるかと思います。




収容人数は2000人弱ほどと思われるこの劇場は、
平土間オンリーのスペースで、支柱の上にサーカスの時のような大きなテントを張っているのですが、
閉じられた空間ではなく、すべてすぐ外の庭の部分とつながったオープン・スペースになっています。
閉じられた空間ではないので、ホールのような音響の良さを求めることは出来ませんが、
床に木を使用し、音響効果用のブロックを積むなど、いろいろ工夫されている成果もあってか、
半野外であることを思えば、悪くはない音響です。
テントによって雨はしのげるので、どんな天候でも上演はされることになっていますが、
猛烈な雨がテントに降った場合、屋根でどのような音がするのか、は今回雨が止んでしまったため、
確認できませんでした。
ベネチアン・シアターに向かう小道には植物がぎっしり植わっていて、
雨がやんだ直ぐ後で、濃厚な植物の匂いがたっているせいもあって、
まるでチキ・ルームに向かっているような錯覚を覚えます。
見るのはファイヤー・ダンスではなく、オペラであることを一瞬忘れそうになりました。

劇場ではローカルのボランティアの方々と思しき若者やらおばさまらがスタッフとなって
席の案内等として立ち働いていて、素朴な案内振りがいい感じ。

後ろの方の座席を除き、チケットの売れ行きも好調だったようですが、
それにしても、この天候の中、ほとんどの客がきちんと鑑賞に来ているのがすごいと言えばすごいです。
NYのヘッズの間では知らぬものがいない有名オペラブログの管理人の姿やらも見られ、
とにかくヘッズ率の高さが尋常じゃない。
メトに来ている猛烈なオペラファンだけを凝縮したような客層で、
この濃さはとても筆舌に尽くせません。

ちなみにチケットは、我々が座った平土間(って全部平土間ですが、、)センター席が
最も高価な座席で、それでも86ドル。

キャラモア音楽祭で上演されるオペラは、セミ・ステージ形式と表示されている情報を
ネットなどで見かけるのですが、今日の上演は私なら演奏会形式に分類します。
衣装は歌手の自前の衣装で、セットらしいものは何一つなく、
エキゾチックな宮殿の柱模様をあしらった背景のライティングの色が変わるだけなので、、。
(上のオープニング・イヴニングの写真と全く同じ背景を使用しています。)
歌手同士が実際に触れあうような演技もほとんどありません。
実際に昔はセミ・ステージのものもあったのか、それとも今日のような上演をセミに分類しているのか、
はよくわかりません。
ただ、セミにしろ、演奏会形式にしろ、大掛かりな舞台セットや衣装がなく、
合唱もおそらく若手育成プログラムの歌手たちを寄せ集めたものとなっているため
(ややリハーサル不足気味ではありましたが、一人一人はとてもいい声をした実力者ぞろい。)、
コストが節約され、比較的良心的なチケット価格設定になっているのだと思われます。

また演奏開始後は、日本の字幕方式と同じように、
舞台の天井に吊り下がったスクリーンに英語訳が表示される方法が採用されています。

今回演奏に使用された版は、配布されたプログラムによると、
フィリップ・ゴセットによるクリティカル・エディションとなっています。
ゴセットは19世紀のイタリア・オペラ(特にロッシーニとヴェルディ)の研究で知られる音楽史研究家で、
現在はシカゴ大で教鞭をとっておられます。
ちなみに、シカゴ大のサイトによると、1990年にメトで初演された『セミラーミデ』は
ゴセットとアルベルト・ゼッダとの連名のクリティカル・エディションとなっていて、
これは、レラ・クベルリのセミラーミデとマリリン・ホーンのアルサーチェ、
それにレイミーが加わったキャストでの公演(指揮はコンロン)のことを指していると思われます。
その後、セミラーミデ役がジューン・アンダーソンに入れ替わった公演が映像商品化されていた時期がありましたが、
私は残念ながらその映像を見た事がないので、今回のゴセット版というのが、
そのメトで公演されたものと全く同じか、さらに手直しが入ったものなのかはよくわかりません。
ゴセット氏が書いた”Divas and Scholars"という本(一部ネットで閲覧が可能です)には、
『セミラーミデ』のクリティカル・エディションの作業にあたっての苦労話が披露されています。
大変だったのはオケやバンダのパートの部分で、オケとのリハーサルではじめて、
以前から使用されている楽譜に、弦の部分だけ明らかに間違って音を低く記載している個所があることがわかったりして、
いきなりピットに入って通しのリハーサルに近いものしか行わないメト・オケを相手に
こういった作業で時間がどんどんとられるのがいかにフラストレーションのたまる作業だったかが語られています。
ただ、メト・オケの場合、通しに近いリハしか行わないのは、あらゆるレパートリーにあてはまるわけではなく、
(ゲルギエフが指揮したメトの『オネーギン』のDVDのボーナス映像を見ると、
細かいオケとのリハーサルが行われているのがわかります。)
これは、一般にロッシーニ作品のオケは簡単に演奏できるものが多い、という間違った認識のもとに、
ミニマムなオケ用リハーサルのスケジュールしか組まなかったメトが悪い!とゴセット氏は同書で吠えています。
後、余談になりますが、このゴセット氏というのは、2008-9年シーズンの『ルチア』の狂乱の場で、
ネトレプコ仕様のカデンツァを作ってあげた、あのゴセット氏と同一人物です。

その後、1992-3年シーズンには、マリンの指揮で、
ヴェイディンガーのセミラーミデ、スカルキのアルサーチェ、
ロパルドのイドレーノ、トゥマニヤン(アライモとのダブル・キャスト)のアッスールで再上演されたようですが、
それ以降について、ネットでは資料が見つからず、
私の記憶では、メトの舞台には現在の2009年まで一度も再演されていないのではないかと思います。
(どなたかご存知の方がいらっしゃればご指摘お願いします。)

いずれにせよ、何を言いたいかというと、この『セミラーミデ』は、
特にセミラーミデ、アルサーチェ、イドレーノに強靭なロッシーニ歌唱のテクニックをもった歌手を必要とし、
さらにアッスール役にも表現力のある歌手が求められるなど、
力のある歌手を呼べる大歌劇場ですら、そう頻繁に舞台にかけることが出来ない難作である、ということなのです。
今日の公演が、ひどい天候にもかかわらず熱気を帯びているのは、
この滅多に聴くことが出来ない作品を体験できる!というヘッズの期待と昂揚感のせいでもあるのです。

『セミラーミデ』はもっと作品自体が知られれば、すごく評価があがる作品だと思います。
(というか、評価はすでに高いのかもしれませんが、
上演するのが難しい、という同じ問題に帰ってきてしまい、
ポピュラリティのなさにつながっています。)
興味深いのは、ヴェルディの諸作品にこの作品の影響が感じられる点で、
もちろん、ヴェルディは特に初期~中期の作品ではそこここにベル・カント・レパートリーの匂いをさせているのですが、
個人的に面白く感じるのは、その影響がヴェルディの中期~後期の作品に及んでいて、
むしろ、そちらの方で顕著に感じるほどである、という点です。

オペラのあらすじはWikipediaなどにあがっていますので、あえてここでは繰り返しませんが、
アッスールが王の亡霊を見て錯乱するあたりは『マクベス』、
序曲の後、すぐに荘厳な神殿のシーンに入るあたりは『アイーダ』、
死んだはずのニーノ王の声が轟く場面は『ドン・カルロ』の霊廟の場面とラストに現れる修道士/先帝など
その例はいろいろあげられ、
そして、何より、合唱が全編を通して非常に大事な役を請け負っているのは、
ヴェルディのトレード・マークと言ってもいい合唱場面の素晴らしさにつながっています。
作品を聴くと、ロッシーニが『セミラーミデ』の合唱で成し遂げている効果が、
ヴェルディの作品群のそれと非常に似通っている点も興味をひきます。
ということで、今まであまりヴェルディとロッシーニを強く結びつけて考えたことがなかったのですが、
イタリア・オペラを確立したヴェルディといえ、長いオペラの歴史の延長線上に存在している人なんだな、
と強く再確認できる、という点で、この『セミラーミデ』という作品はとても面白いです。

なお、日本版Wikipediaの同作のあらすじでは、
エンディングでアルサーチェが復讐として討つのはセミラーミデである、となっていますが、
これはゴセット=ゼッダ版(つまりメトで初演された版)に基づいたもので、
CDのボニング盤(メトの公演の前に録音された)では、セミラーミデではなくアッスールが殺されて幕、となっており、
二つの違ったエンディングがあります。
最後にアルサーチェの即位を喜ぶ人々の合唱(これはいずれのエンディングにも含まれている)が入るので、
場面のつながりからいうと、アッスールが殺される方が自然に流れるのですが、
物語的にはセミラーミデが殺された方が劇的で、どちらが良いかという判断は難しいところです。
今日のキャラモアでの『セミラーミデ』は、もちろん、ゴセットの版ですので、
セミラーミデが殺されるエンディングになっています。

後編に続く>


Angela Meade (Semiramide)
Vivica Genaux (Arsace)
Lawrence Brownlee (Idreno)
Daniel Mobbs (Assur)
Christopher Dickerson (Oroe)
Heather Hill (Azema)
John-Andrew Fernadez (Mitrane)
Djore Nance (The Ghost of Nino)
Conductor: Will Crutchfield
Orchestra of St. Luke's
Caramoor Festival Chorus

Bel Canto at Caramoor: Caramoor 2009 International Music Festival
ROSSINI: SEMIRAMIDE (in concert)
Critical edition by Philip Gossett

Center Orch Row T
Venetian Theater at Caramoor estate
Katonah, NY

** ロッシーニ セミラーミデ Rossini Semiramide **

パペはキャンセル、アラーニャが追加(ええっ!?) タッカー・ガラ出演者変更

2009-07-28 | お知らせ・その他
メトのシーズンが終わったのに伴い、すっかりブログが冬眠ならぬ夏眠モードに入っておりましたが、
以前にお知らせしました今年(2009年)の11月22日に催されるタッカー・ガラについて、
案の定といいますか、早くも出演者の変更の情報が
リチャード・タッカー・ファンデーションのサイトに発表されています。

まず、そのお知らせの記事で、キャンセルが最もありえそうな人として心配を集めていたルネ・パペですが、
やはり、キャンセルが確定したようです。、、、どさくさにまぎれましたね。

で、その穴埋めではないでしょうが、タッカー・ファンデーションが
以下の歌手たちを追加で発表しています。

① ロベルト・アラーニャ(!!!)

冒頭の写真。約二年前に、”スターシステムを考える”という記事をあげましたが、
覚えていらっしゃいますでしょうか?
その中で、アラーニャがセントラル・パークで譜面をさらって、、云々、という記述がありますが、
それを裏付ける写真を発見いたしました。
こんな感じの人、セントラル・パークにたくさんいるので、
うちのわんことの散歩中に見かけたとしても、
若作りなおっさんが楽譜読んでる、、ってな具合で、絶対に気付かないと思う。
シティズンサイドという、一般人が撮影したスクープ写真を掲載しているサイトからお借りしました。
この写真がスクープかどうかは別として。
それにしても、どうしてこうも彼からは逃げられない運命なのか、、、?

追記:2009/10/1現在、アラーニャの名前がタッカー・ファンデーションのサイトから消えていますので、
キャンセルになったものと思われます。ほっ。


② バルバラ・フリットリ



写真は2006-7年シーズンのメトで、『三部作』の『修道女アンジェリカ』より。
ここ最近少しコンディションの波が大きいように思ううえ、
彼女の強みはこういうガラ的シチュエーションではなく、全幕の方で断然発揮されるものだとは思うのですが、
それでも、彼女の登場は嬉しい!

追記:アラーニャはいいとして、フリットリの名前までタッカー・ファンデーションのサイトから消えているとはどういうこと!!??
残念ながら、彼女までキャンセルになってしまったようです(2009/10/1現在)。しゅん、、

③ マリア・グレギーナ



リリコなフリットリに対し、ドラマティコは彼女で!ということなんでしょうか?
ソプラノ二人目の追加はマリア・グレギーナ。
写真はメトの『ナブッコ』の舞台より。
彼女は一昨年のタッカー・ガラに続く再登場です。

③ マシュー・ポレンザーニ



写真はメト2007-8年シーズンの『後宮からの逃走』の舞台より。
彼も一昨年に続く再登場組。
キーンリサイドと組んだ”真珠とり”の二重唱での美しい歌唱がまだ記憶に残っています。

もともとの出演者の発表では、ソプラノとテノールの層が少し薄いな、と感じていましたが、
そこをしっかり抑えた追加メンバーとなっています。
現在のところ、パペ以外はキャンセルなし、となっています。

このままで行くと、かなり強力な顔ぶれなので、
チケットを購入される方は早めの手配をおすすめします。
チケットの発売は当初の予定より少し遅れ、8月の開始になるそうです。

追記:
さらに、2009/10/1発表現在、スーザン・グラハムとヘイ・キョン・ホンの二人が
予定出演者リストに加わりました。

MET SUMMER RECITAL SERIES (Mon, Jul 13, 2009) 本編

2009-07-13 | メトロポリタン・オペラ
オロペーザのアンコール曲名がわかりましたので書き加えました。

序編に書いたような理由より、いまいち心が盛り上がらなくて、
長らくチケットの手配もほったらかしにしてしまっていたこのイベントですが、
こんなことではいかん!と一念発起して3日前にメトに電話したところ、
”入場券は無料だったものですからあっという間になくなってしまったんですよ。”
、、、、

気乗りがしていなかったくせに、入れません、と言われると俄然行きたくなってきた!
こうなったら、”最後は金で解決!”といういやらしい手法に頼らざるをえません。
というのは、毎年、このサマーステージのコンサートでは若干のキャンセルが出るのですが、
このキャンセルのチケットはセントラル・パークに寄付(150ドル)をし、
年間会員になった人から優先的に配られることになっています。
セントラル・パークには、普段からうちのわん達もお世話になっていることですし、
これならお金を無駄にした気もしません。
というわけで、早速セントラル・パークに電話。
質問を多発する私に、R嬢という方が実に感じよく対応してくださり、
会員費支払いのためにクレジット・カードの番号を渡すのと引き換えに、
メンバーシップ獲得の確認メールをすぐに送ってもらいました。
これで、このメールを持って会場に行けば、キャンセルのチケットがあり次第、
手に入るのです!



8時10分前に会場に到着すると、チケットは手に入らなかったけれど、
キャンセル待ちもやだ!という方たちでしょうか?
会場の外の芝生にシートを敷いて、そこで鑑賞する準備をしている人の姿も少なくありません。
思わず、私の会場に向かう足が速まります。
会員用のテントで名前を告げ、メールを見せ、キャンセルはありますでしょうか?と聞くと、
”私があのお電話の時のRです!!”
見ると電話の応対時のイメージ通りの感じ良さげな女性が目の前に立っていました。
電話の際に私があまりに熱く、いかにこのコンサートを見なければいけないか、を語ったせいか、
どのブロックのチケットになるかは、余った座席の采配権を握っている彼女次第なのですが、
そっと回してくれたチケットには”VIP"と印刷されていました。VIP用のエリアをまわしてくれるなんて、、
ありがとう、R嬢 

会場に入ると、スカイシートとかなんとかいう、一段高くしつらえられた、
VIPをもってしても敵わない超特等席エリアがあって、
そこでは優雅に食べ物やワインをつまみ・飲みながら、幅広の木製チェアでゆったりと鑑賞できます。
上には上がいた、、

しかし、その横にしつらえられた、我がVIP席エリア、こちらも悪くありません。
優雅に食事を出来るほどのスペースはありませんが、
何と言っても地面に直にすわるのではなく、列毎に段差のついた椅子に着座できるので、
視界がすごくいいし、座っていて疲れにくい。

さて、いよいよリサイタルの内容と感想についてですが、
ガラ系の公演のいつもの曲目順に感想を書くスタイルを変え、
歌手別に曲名を交えながら、感想を書いてみたいと思います。
あまり印象に残らなかった歌唱については、ほとんどふれられない場合もあるかもしれませんが、
曲目リストを最後につけておきますので、ご参照下さい。

 リゼット・オロペーザ

リンデマン・ヤング・アーティスト・プログラム出身のアーティストで、
レヴァインに可愛がられているのか、ここ数年で、
『フィガロ』のスザンナ、『つばめ』のリゼット(本人と同名役!)、
リングのラインの乙女、『ヘンゼルとグレーテル』の露の精など、で何度もメトの舞台に立っている彼女。
さすがに、今日の3人の中では最も落ち着いていて、オペラ歌手らしい歌唱
(いや、本当にオペラ歌手なんですけれども、、他の二人との比較で、、。)を聴かせてくれました。



彼女の声には少しユニークなコケティッシュで可愛らしいトーンがあって、
クレッシェンド、デクレッシェンドのコントロールも上手です。
一方、初めて私が彼女を聴いたとき以来、私が彼女の歌唱で今ひとつ夢中になれない理由は
かなり高めの音が連続・持続して求められる曲での、すかすかした音色にある
(一つだけ高い音にアタックするときはそれほど気にならないのに)のですが、
今日はそれをそのまま反映したような歌唱だったと思います。
特に『リゴレット』の”慕わしい人の名は”は、二、三、音が高めに入っていましたが、
美しいロング・トーンでのクレッシェンド/デクレッシェンドをはじめ、
この位のテンポの曲だと、彼女の技術が十全に発揮できるので、とってもいい選曲だったと思います。

一方で、何でこんなの歌っちゃうの?とびっくりさせられたのは、
『後宮からの逃走』の”ああ、私は恋をして幸せでした”。
ここでは、高音域のすかすか感、輪郭のはっきりしない旋律、
アジリティの不足、など、”私の欠点はこんなです”というのを一覧にしたようなあちゃちゃ!な選曲でした。
特にメト・ファンは昨シーズンの同作品の全幕公演でのダムローの超絶技巧歌唱を聴いてますから、
こんな生半可な出来では、とてもいい印象を残すことはできません。
これは当分リサイタルの曲目としては選ばない方がいいでしょう。



今回のリサイタルが始まる前に、彼女が予定されていた『ホフマン物語』のアリアを取り下げて、
『ラ・ボエーム』の”私が街を行くと”に差し替えられることを告げるアナウンスがありました。
後者の方がポピュラーなせいか、客席からは”やったー!”という声があがりましたが、
技術的には(表現の面ではどんな曲も難しい。)ホフマンの方が難しい曲ですし、この『後宮からの逃走』のアリアを聴く前なら、
すごく楽しみにしたであろう曲なんですけど、結果としてこの差し替えは正解だったと思います。
なかなかチャーミングな"Quando m'en vo"でした。

あと、意外といいな、と思ったのは、ミュージカル・ピースなんですが、
『マイ・フェア・レディ』の”踊り明かそう”。
これは彼女の声の質感が曲の雰囲気にあっているせいもあって、
彼女ならではの良さがすごく出ていたと思います。


 アレック・シュレーダー

今日登場する3人の中では初めて生声(とはいえ、マイクを通してなのが悔しいですが、、)を聴くこと、
また、これから先聴ける可能性のレア度(つまり、メトに登場する可能性が薄いかもしれない)という観点で、
今日、最も楽しみにしていたのはアレック・シュレーダー。
そう、映画『The Audition』のメザミ君です。
あの映画が撮影された時期からおよそ二年半。
なんだか、貫禄 ~歌のではなくって体格の~ がついて来たように見えるのは気のせいではないはず、、。



しかし、体の方は二年半で成長しているのに、歌の方は、はっきり言って、
『The Audition』の時以来、怖いくらい進歩してません!!(笑)
というか、、、先生、ちゃんといるんですよね、、?
先生の教え方がよっぽど下手なのか、本人が全く物覚えが悪いのか、、。
というのも、彼は努力だけではどうにもならない部分の方がむしろ才能があって、
ディクションやフレージングなど、後天的な努力で比較的獲得が可能な
テク二カリティの方がぼろぼろなのは何としたことでしょう?

言うまでもなく、彼の場合、”努力だけではどうにもならない部分”というのは、
十八番の『連隊の娘』のアリアでも聴ける通りの、ハイCを初めとする超高音で、
これは彼の場合、もはや”ハイCが出ている”というレベルを越えて、
ものすごい声量でそれを鳴らせるというのが、マイク越しからも感じられてかなりスリリングです。
彼の場合、超高音があまりに危なげがないので、かえってすごく簡単なことをしているような錯覚をおこすほどです。

しかし、一方で、何語で歌っても、数ヶ月前にその言語を習い始めたような、ディクションの悪さが耳につき、
怖いのは、『マリア』を歌っても、最初のMariaの呼びかけの部分が、
まるで外人が歌っているように聴こえるということ。
あんた、アメリカ人でしょうが!!
これはディクションが悪いと生涯叩かれ続け、母国語である英語で歌っても、
”ところで何語でお歌いになったのですか?”とファンに質問されたという、
ジョーン・サザーランドを彷彿とさせます。

しかし、サザーランドのようにディクションが悪くても、彼女ほど他のテクニカルな部分がしっかりしていれば、
素晴らしい歌唱にもなりえますが、彼の場合、
より大きい問題は歌唱技術そのものがあまりに未熟なところにとどまっている点にあります。
彼はあの高音の強みがあるせいで、ベル・カントの超絶技巧系の作品やアリアに次々手をかけているようなんですが、
これは逆に彼を抜けられない罠にはめることになるのではないか、と危惧します。
つまり、高音が含まれているゆえに、どんどんベル・カントの難度の高い曲が
レパートリーに加えられるのだけど、
どの曲も完成度が中途半端で、真に観客の心にふれるような歌をうたえない、という罠です。




今日の彼のプログラムは非常に野心的と言って良く、
ロッシーニの『セヴィリヤの理髪師』からの、全幕公演ではカットされることも多い
”もう逆らうのをやめろ Cessa di piu resistere"という、
後半は『チェネレントラ』のNon piu mestaのメロディーになってしまう、
ロッシーニお得意の自己パクリ曲(ただし、このメロディーに関して
どちらの作品に先につけたかという順序については、ロッシーニの場合、
作品への完成後の手直しがままあるため、すみませんが私は存じ上げません。)
まで盛り込んでいるのですが、
これらの曲を高音のみで乗り切ろうというのは、無理がありすぎです。
もっともっと一つの音を丁寧に歌う、音と音のつなぎにいかに美しさをこめるか、
そんな鍛錬を積むまで、人様の前で聞かせるような曲では本来はないはずです。
今はせっかくフローレスなど、こういったレパートリーで素晴らしい歌唱を歌える人がいるんですから、
しっかり勉強しなければいけませんし、また、彼のような歌手たちとオペラの舞台で主役を取り合うようになるためには、
そこを省略して抜け道を通ることなどは許されないのです。

今の状態では、メト・クラスの劇場に全幕で登場できる可能性はゼロと言ってもよい。
せっかく、磨きようによってはいいものを持っているし、
今回のこのコンサートは彼にとって大きなチャンスだったと思うのですが、残念なことです。
アンコールのロッシーニ”La Danza"の、はちゃめちゃな歌い方に呆然とさせられながら、
そんな風に感じました。

 パウロ・ショット
(序編にも付け加えた通り、彼の名前はゾットではなく、ショットという発音が正しいそうです。)

今日のコンサートで実はもしかすると最も観客に期待されていたのは彼だったかもしれません。
ミュージカル『南太平洋』への出演とそれに於けるトニー賞の受賞などで、
一般的な知名度は彼が最も高いはずです。
しかし、オペラヘッズには別に彼をチェックしなければならない理由があります。
それは、彼が来る2009-10年シーズンに、ゲルギエフ指揮の『鼻』で主役でメトの舞台に立つからです。
私はちなみに彼のオペラの舞台に関しては、いまのところ、懐疑派ですが。



驚くことには、US版のWikipediaを見ると、彼がメトに登場したような印象を与える一文があって、
『南太平洋』も、最初、オペラ歌手が主役を歌う、というのが売りにもなっていたようです。
しかし、”メトって、、、私は一度も彼がメトの舞台で歌うのを観た記憶がないんだけど、、”と思って調べたら、
Playbillのサイトにある彼のバイオによると、『ドン・ジョヴァンニ』表題役のカバー、
『フィガロの結婚』フィガロ役のカバーとなっていて、どうやらカバー・オンリーだったようです。
ちなみにNYシティオペラの方では、『愛の妙薬』のベルコーレ、
『フィガロ』のアルマヴィーヴァ伯爵、『カルメン』のエスカミーリョで、
実際の舞台に立っています。

今日の公演、やたら『ドン・ジョヴァンニ』がフィーチャーされているのも納得。
彼が歌ったオペラ系のピースはほとんど上の演目のどれかに当てはまってもいます。

さて、カバーの中にも実力がある人はいるでしょうが、
彼のように、割とルックスがいいのに、カバーを脱出できなかった、というのは、あまりいい予兆ではありません。
だいたい『鼻』への出演も、『南太平洋』があってこそ。
もし、彼がカバーですでに頭角を現わしていれば、こういう順序にはならなかったように思います。

それは彼のオペラ系のピースでの歌唱を聴くと何となくわかる気がします。
オロペーザとシュレーダーは、マイクを通すと、かえって音がはっきりと聞き取れなくなるほどの
声量なのに対し、
ショットがマイクを通して歌うと、”丁度良い”のです。
この発声でメトのオペラハウスに十全に響き渡るかといえば、私はかなり懐疑的で、
彼は基本的な声量の面で若干の不安があります。

それから、彼の歌はどこかのぺーっ!としているというか、音が落ちるように感じる瞬間がよくあって、
特にそれは『ドン・ジョヴァンニ』の”手を取り合って”や『真珠とり』の二重唱などで顕著で、
彼の歌うパートが始まると、ずっこけさせられるような気がします。
例えば、シュレーダーが歌っているところに、まるでお経のようなショットの歌がのってくるのですから。
彼はオペラの作品では、もうちょっと意識して音を上に引き上げるような気分で歌う必要があると思います。



彼の歌うオペラのピースで、比較的良かったのは、エスカミーリョの闘牛士の歌でしょうか?
彼はフランス語をはじめ、ディクションはシュレーダーより全然良い。
ただ、モーツァルトは正直、どれも今ひとつぴんと来ませんでした。
すごく表現がモノトーンで、聴いていて面白くなかったです。



しかし、彼が突然水を得た魚のようにいきいきしたのは、
もちろんといえますが、『南太平洋』の”魅惑の宵 Some Enchanted Evening”。
曲の良さもあるのですが、これは、さすがによく歌いこまれていて、素晴らしい歌唱でした。
彼は声量の面、落ちる声質といい、絶対にミュージカルの方が向いていると思います。
渋めの低声で、落ちる声質は、オペラだと、”下手な人”に聴こえてしまう可能性大ですが、
マイクを通して、この声で、少し音を放射線状に投げるような感じで
ミュージカルのピースを歌うと、これはこれで大変色気があって素敵です。
『キャメロット』からの曲や、ダンスを交えてのアンコール『ベサメ・ムーチョ』、
いずれもオペラの作品よりずっと魅力的な歌を聞かせてくれましたが、
何と言っても『南太平洋』からの曲は、”その歌を生きる”とでも言うのか、
歌からそのシーンの”空気”が感じられる。
他の曲での歌唱とは格の違う、次のレベルに歌唱が行っていると感じました。
『鼻』も”役と歌を生き”てくれるといいのですが、、。

曲目リスト
 モーツァルト
『ドン・ジョヴァンニ』より”酒がまわったら(シャンパンの歌)Fin ch'han dal vino"(ショット)
『ドン・ジョヴァンニ』より”手を取り合って La ci darem la mano" (オロペーザ&ショット)
『ドン・ジョヴァンニ』より”わたしの恋人を慰めて Il mio tesoro" (シュレーダー)
『後宮からの逃走』より”ああ、私は恋をして幸せでした Ach, ich liebte" (オロペーザ)
『ドン・ジョヴァンニ』より"おいで窓辺に Deh, vieni alla finestra(ドン・ジョヴァンニのセレナード)" (ショット)
 ドニゼッティ
『ドン・パスクワーレ』より”もう一度愛の言葉を Tornami a dir che m'ami" (オロペーザ&シュレーダー)
『愛の妙薬』より”昔 美しいパリスがしたように Come Paride vezzoso" (ショット)
 ヴェルディ
『リゴレット』より”慕わしい人の名は Caro nome" (オロペーザ)
 ロッシーニ
『セヴィリヤの理髪師』より”もう逆らうのをやめろ Cessa di piu resistere" (シュレーダー)
『セヴィリヤの理髪師』より”黙って、黙って、静かに、静かに Zitti, zitti, piano, piano" (全員)
 ビゼー
『カルメン』より”闘牛士の歌 Votre toast" (ショット)
 ドニゼッティ
『連隊の娘』より”ああ、友よ!何と楽しい日! Ah! mes amis" (シュレーダー)
 プッチーニ
『ラ・ボエーム』より”私が街を行くと Quando m'en vo" (オロペーザ)
(予定されていたオッフェンバック『ホフマン物語』”生垣には小鳥たち Les oiseaux dans la charmille”より変更)
 ビゼー
『真珠とり』より”聖なる神殿の奥深く Au fond du temple saint" (シュレーダー&ショット)
 バーンスタイン&ソンドハイム
『ウェスト・サイド・ストーリー』より”マリア Maria" (シュレーダー)
 ラーナー&ロウ
『マイ・フェア・レディ』より”踊り明かそう I Could Have Danced All Night" (オロペーザ)
 ロジャース&ハマースタイン
『南太平洋』より”魅惑の宵 Some Enchanted Evening"(ショット)
 ラーナー&ロウ
『キャメロット』より”もしもあなたと別れるようなことがあったら If Ever I Would Leave You"(ショット)

アンコール
 ロッシーニ
歌曲集『音楽の夜会』より”La Danza ダンス”(シュレーダー)
 ルーナ
サルスエラ『ユダヤの若者(El Niño Judío)』より"スペインからやって来た娘 De España vengo, soy española”
(オロペーザ)
 ヴェラスケス
”ベサメ・ムーチョ Besame Mucho" (ショット)

Lisette Oropesa, soprano
Alek Shrader, tenor
Paulo Szot, baritone
Vlad Iftinca, pianist

Stage director: Stephen Pickover
Stage manager: Scott Moon

Performed at Central Park SummerStage
Section B

** メト サマー・リサイタル・シリーズ Metropolitan Opera Summer Recital Series **

MET SUMMER RECITAL SERIES (Mon, Jul 13, 2009) 序編

2009-07-13 | メトロポリタン・オペラ
なんでグレート・ローンじゃない!?
なんでオケ付きじゃない!?
なんで全幕じゃないっ!?
ぶーっ!!!!

と文句をたれながらもやっぱり行ってしまった今年のメト・サマー・リサイタル・シリーズ。
1967年から続いて来た歴史あるこのパーク・プログラムで、いくら経済状況が厳しいと言ったって、
これほどまでにシャビーなステージ、今まであったでしょうか?いや、ない。

このプログラムは無料でメトやNYフィルの演奏(別々の日程ですが)を、
セントラル・パークのグレート・ローンで、夕涼みがてらに、ピクニック気分で楽しみ、
かつ、鑑賞するスポットによっては犬同伴もOK!という素晴らしいプログラムだったのに、
ゲルプ氏が支配人になってからというもの、昨年はブルックリンのみの開催になるわ、
今年はサマー・ステージ(会場名)での開催になるわ、でろくなことがありません。

グレート・ローンというのはセントラル・パークの中にある、
野球のグラウンドが4つほど入る広大な芝生のスペースですが、大体にして、
その最もキャパの大きい場所を捨て(かつて、全幕の公演を行っていたころは、3万5千人もの集客を誇っていた)、
たった4300人程度しか収容できないサマー・ステージで、
オケの演奏もないリサイタルに毛が生えたようなものを披露するとはどういうことか?!

リサイタルが悪い、と言っているのでは決してありません。
でも、ピアノ伴奏でのリサイタル、というのは、小さめの室内の、親密な空間の中で良さが生きるもので、
それを質の悪いヘッドセット型マイクをつけた歌手に屋外で歌わせ、
これまた質の悪いスピーカーを通して鳴らしてみても、
歌手の個性や声の魅力なんて全く伝わりません。
(グレート・ローン時代の音響設備の方が数倍良かった!)

しかも、何度も言っているように、オペラは単なるルックスの良い歌手の寄せ集め大会じゃないんです!!

『南太平洋』な男、ショット(冒頭の写真。来シーズンはメトで『鼻』に出演予定。
これまで当ブログでは彼の名前をゾットと表記してきましたが、
実はショットというのが本当の発音らしいので今回の記事からそのように表記いたします。)、

『つばめ』のおてんば女中、オロペーザ、



『The Audition』のメザミ君、シュレーダー



見た目は素敵な彼らだし、一生懸命歌ってくれてはいるのですが、歌唱の方は課題も多い、、。
今までで最も観客の反応が寂しい公演でもありました。
(まあ、万単位の人数の観客と千単位の人数の観客ではそもそも差があるのだけれど、
それを差し置いても。)

ゲルプ氏はこの後、リンカーン・センターのプラザ内で野外のHDアンコール上映大会を企画しているそうですが、
テレビ放送やメト・プレイヤー、DVD化されたものはDVD、などで、
何度も再視聴が可能なものをそう何度も見せられても、、。

オペラのライブ性故の素晴らしさへの認識の甘さ、ルックスのいい歌手だけ並べておけばOK!という
ハリウッドも顔負けの浅はかなマーケティング戦略に依存したやり方等には本当、うんざりです。

奇しくも、翌14日に愛息たち(犬)の散歩に出かけたところ、
グレート・ローンで、NYフィルのサマー・コンサートが始まるところでした。
かつて見た事がないほどのものすごい集客率で、グレート・ローンに人が入りきらず、
まわりのスペースはもちろん、グレート・ローンからさらに池をはさんだベルベデール・キャッスル、
それからそこから池にせりだした岩場にまで人がぎっしり!!
流れ始めたモーツァルトの『ジュピター』のメロディーに静かに耳を傾ける人々の姿を見ていると、
実に多くの人が生の(マイクを通してではありますが)
音楽そのもののよさを楽しみたいがためにその場に集まっていることが感じられ、
メトもこういう風に、HDなんかじゃない生で、かつ、できるだけたくさんの聴衆と、
出来るだけ本来のオペラに近い形(つまり全幕)で接するべきじゃなかったのか?何とふがいないことか!と感じます。
いや、きっとメトがグレート・ローンでの演奏を取りやめたために、NYフィルに流れた人もいたはずです。

しかし、二年ぶりに、愛息と、蛍(そう、池のそばなので、蛍がたくさんいるのです)
に囲まれながら聴く音楽は最高。最近ABTオケばかりで、まともな演奏を聴いていなかったので、、。
ちなみにギルバート指揮の『ジュピター』はなかなか上品で素敵な演奏だったことを付け加えておきます。

肝心のサマー・ステージの内容の詳細は後日にupする予定の本編で!

Lisette Oropesa, soprano
Alek Shrader, tenor
Paulo Szot, baritone
Vlad Iftinca, pianist

Performed at Central Park SummerStage
Section B

** メト サマー・リサイタル・シリーズ Metropolitan Opera Summer Recital Series **

2008年。150万ドル。36%アップ。

2009-07-13 | お知らせ・その他
今日、仕事中に、こんなニュースをブルームバーグで見てしまいました。
仕事中にまでメトがとりついてます。
(ちなみにブルームバーグとは、同名の会社が提供している、金融業界などで広く使われている情報端末で、
現在のNY市長のマイケル・ブルームバーグは同社の設立者です。)

7月13日にリリースされた、フィリップ・ボロフという人が書いたニュースで、
題して”ゲルプ、2008年にメトの支配人として、前年比36%アップの150万ドルを稼ぐ”。

メトに通いつめる資金捻出のため、汗水たらして働いている最中にこんなニュースを見せられて、
特に個人の収入の額には思わず眉毛がぴくりとしましたが、
メト全体としては、私と同様に苦労しているようです。
(2008年から2009年は一層そうなることでしょう、、。)
では意訳を。

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2007年8月から2008年7月の期間についてメトロポリタン・オペラが税金申告したところによると、
ピーター・ゲルプは支配人就任二年目にあたるその一年で、150万ドルを稼ぎ出した。
これは前年比36%アップである。
ゲルプ(55歳)は新演出の数を増やし、世界中の映画館に、HDによるライブ映像の配信を導入した。
彼の報酬の内訳は、140万ドルの給料、4万1千100ドルの受取年金、7万1千731ドルの必要経費、となっている。
前年の報酬パッケージの総額は110万ドル相当だった。

ただし、この数字は、リンカーン・センターに位置するメジャー・オペラハウスのメトが、
去年の秋以降の経済不況に伴ってロスを出し始める前の数字である。
その後、ゲルプや他の上級職のスタッフは10パーセントの減給をのんだ。

2008年7月以降のここ一年については、スポークスマンのピーター・クラークによると、
メトの赤字は”低めの一桁(訳注:ここでいう一桁の一単位は1ミリオン=百万ドル)”、つまり、数百万ドルになる模様。
運営予算は2億9100万ドルであった。
具体的な赤字総額については、決算年が終了する今月を過ぎるまで不明。
とりあえずはさらなるコスト・カットを目指し、6月には、ゲルプが舞台係のスタッフについて、
予定されていた2.5%の増給を延期した。

* 譲歩 *

7月9日に、歌手、ダンサー、演出スタッフの組合である
AGMA(アメリカン・ギルド・オブ・ミュージカル・アーティスツ)が、
ゲルブによる契約期間中途譲歩(訳注:メトと組合との間に交わされた契約について、
満期になる前に内容を反故にしたり、変更を加えること)の要求を、
メト側が会計内容の調査を組合側に許可し、またその経費を賄わない限り、拒絶するとの意向を示した。
組合のナショナル・エグゼクティブ・ディレクター、アラン・ゴードンは言う。
”ゲルプ氏は受け取っている報酬分の仕事はしているでしょう。
ボックス・オフィスの売り上げをアップさせ、メトをNYタイムズのトップ・ページに据えることに成功したんですから。
しかし、彼よりもずっと稼ぎの少ないスタッフからお金を取り上げるのは間違っています。
特に、どんな譲歩の内容であれ、組合側にとって有利になるわけがないのですから。”
2008年秋に金融市場が混乱を迎える前は、ニューヨークにある芸術関係の
代表的なノンプロフィット団体は、
毎年トップ・マネジメントには昇給か、悪くて据え置きの報酬を与えてきた。
ゲルプの前任者であるジョセフ・ヴォルピは、2006年7月に終了した彼の最終任期の年に、
前年比26%アップの170万ドルを受け取っている。

かつてはメトの大道具主任であったヴォルピは、引退後、2007年7月から2008年8月の一年間に、
44万4640ドルの年金を受け取っており、これは16%のアップである。
ただし、クラークの説明によると、これは、たまたま年金の支払いの記録の仕方の違いによるもので、
同年は13ヶ月分の総額になっているのに対し、前年は11ヶ月分だったため、とのことである。

* 寄付をする側からの抵抗 *

”私自身は、年収7桁以上(訳注:日本円で言うと約一億円以上)をもらっている
ノンプロフィット団体のリーダーには疑問を感じますね。”
ニュージャージー州マーワーにある、チャリティー・ナビゲーターという、
他のノンプロフィット団体の財務の健全性を調査するノンプロフィット団体の代表者で、
年収14万ドルのケン・ベルガーは言う。
”わが社のサイトで最も多く見られるコメントは、
こんなに世の中のCEOが儲けてるんだから、なんで私が寄付をしなきゃいけないんだ?というものです。”

ノンプロフィット団体には、法律により、要望に応じて、税金の還付を行う義務がある。

かつて、ソニー・クラシカルというレコード・レーベルのトップを務めていたゲルプでも、
最も高給取りであったわけではない。
1976年以来、メトの音楽監督を務めているジェームズ・レヴァインは、170万ドルの報酬を受けているし、
また、Guidestar.orgに掲載された直近の税申告内容によれば、
レヴァインは、2006年9月から2007年8月の一年で、ボストン交響楽団より190万ドルの報酬も受け取っているそうだ。

* 報酬額の変動 *

(訳注:こちらも2008年夏における、過去一年の数字です。)

メトの技術サイドのディレクターであるジョセフ・クラーク
給与など込みで、45万2845ドル。2%アップ。

チーフ・フィナンシャル・オフィサーのウィリアム・トーマス
37万2738ドル。6%アップ。

相談役 シャロン・グルービン
36万6606ドル。3%アップ。

オペレーション・アシスタント・マネージャー、スチュワート・パース
37万5412ドル。6%ダウン。

コーラス・マスター ドナルド・パルンボ 42万2431ドル。
小道具主任 ジェームズ・ブルメンフェルド 43万1949ドル。
この二人については、前年度額は公表されていなかった。

メト全体の収益は、3億940万ドルで、これにはチケット・セールス、
投資による収益、寄付(先のシーズンのために行われたものも込みで)らが含まれている。
支出は2億7440万ドル。

今年の頭に、メトはロビーの壁に飾られている二つのマルク・シャガールの絵を、
JPモルガン・チェイスからの3億5千万ドルの貸付の担保として差し入れた。
税申告によると、この貸付の期限は2011年まで、となっている。
クラークによると、この貸付はゲルプの支配人就任前から話があったことだが、
なぜメトが絵を担保に入れなければならなかったについては、コメントを避けた。
申告によると、貸付は”市場で売買可能な証券”つまり、株式や債券などによって、
保証されている、となっている。

2008年7月31日現在、メトが有価証券の形で保有していた財産は2億1730万ドル相当。
その後、同年にS&P500銘柄のインデックスが13%下降した時点で、メトは投資によって3350万ドルの損失を出した。
S&Pの落ちが30%になっている今、過去11ヶ月のメトの損失はさらに大きなものになっていると考えられる。

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それにしても、ゲルプ氏はともかく、こんなたくさんの人の収入を開陳してしまうとは!
しかも、ただ一人ダウンのパースさん、、、。嫌よね、こんな屈辱的なの。私ならやだ。

ROMEO AND JULIET - ABT (Sat, Jul 11, 2009)

2009-07-11 | バレエ
恐れ多すぎて、今まで当ブログに書けなかったことですが、、。

二年前のフェリのABTフェアウェル公演(そして私の記憶が正しければ、それは彼女の最後の全幕公演でもあった)
『ロミオとジュリエット』のパートナーに、なぜ、フェリが、
ABTのダンサーではなく、わざわざボッレを選んだのか、私にはちっともわかりませんでした。
『ロミ・ジュリ』での最高のパートナーであったボッカがすでに退団していたから、という事情を差し置いても。
(ボッレは当時はABTのダンサーではなく、ABTのプリンシパルになったのは今シーズンからのことです。)、
そしてその気持ちは、今日の公演が始まるまで、ずっと変わらずにいました。
つまり、フェリほどのダンサーのフェアウェル公演で
パートナーを務めるほどの力があったかどうか、フェアウェル公演を観た後でも懐疑的だったということです。

さらに、これまた彼のファンであるバレタマンの方に刺されるのを覚悟でいうと、こういう風にも思っていました。
ABTで今、人気が頭一つ飛び出ている感のある男性ダンサーはゴメスとボッレ。
(ま、この前提自体にも、異論がある方がいらっしゃるかもしれませんが、、。)
いずれも美形ダンサーですが、ゴメスは実力にルックスがたまたまくっついて来たタイプ
ボッレは断然ルックスで得しているタイプ、と。

今日のソワレがラストの公演となるABTメト・シーズンは、
そのボッレとイリーナ・ドヴォロヴェンコによる『ロミ・ジュリ』。
私はもともと今日の公演は全く観に行く予定にしていなくて、
サブスクリプションの一部で、月曜の公演のみを一人で観る予定でした。
しかし、その月曜の公演がゴメスとヴィシニョーワのコンビであると知って、
これは連れにも見せてあげたい!と、サブスクリプションのチケットをエクスチェンジして、
新たに月曜の公演のチケットを二枚並びの席で押さえなおしたのです。
で、もとの一枚のチケットをどの公演にエクスチェンジしよう、、?という段階で、
ボッレをもう一度観ておいてもいいかな(この時は白鳥のお誘いをM子師匠に頂く前だった)、
シーズンラストの公演でもあるし、くらいな気分でした。




私はドヴォロヴェンコ(↑)に関しては、今までラッキーだったようで、
『ドン・キホーテ』『バヤデール』など、彼女が絶好調の時に鑑賞する機会に恵まれているのですが、
それでも、彼女はどちらかというと妖艶さや華の部分で見せるタイプで、演技にも彼女らしい若干のクセがあるので、
ジュリエット役のようなタイプはちょっと違うかなあ、、という気持ちも強く、
他に惹かれるキャストがあればそっちを取ったかもしれない、という程度のものだったのです。

ところが予想に反して、私には月曜のゴメスとヴィシニョーワの『ロミ・ジュリ』は今ひとつ心が昂揚するものでなく、
私は、ゴメスLOVE!、ダックスフントLOVE!であるゆえに、余計に気分が落胆してしまって、
ゴメス王子ですらこれなのだから、ボッレでは何をか言わん、、
このまま土曜には”悪くはないが、そこそこ”の『ロミ・ジュリ』を観て
シーズンを終えることになるのかしら、、?と気分が沈んでいました。

しかし、そんなところに同じ主役キャストで週頭に上演された『ロミ・ジュリ』を鑑賞したM子師匠からメールが。
”火曜のボッレは素晴らしかった。まるで、今までの彼とは違うレベルに進んだよう。”
そして、ドヴォロヴェンコをそれほど好きではないとおっしゃる師匠をして、
”イリーナは、この役の、火曜の公演に限って言えば、表現が繊細でこれまた大変素晴らしかった。”

ああ、私の曇った心に一縷の光が
だけれども、そもそも疑り深いオペラヘッドである私であるうえに、
舞台芸術というのは、一回一回が生ものであり、同じキャストであっても、
日によって全然結果が違う!ということがありえるのは、何度もオペラで体験してきたことなので、
過度な期待を抱かぬよう、自分を抑えることも忘れない、ぬかりないMadokakipなのでした。

で、結果から言いますと、そんな風に自分を抑える必要は全くない、M子師匠のお言葉通りの公演でした。
月曜日の『ロミ・ジュリ』の、ゴメスのロミオに欠けていたもの、
私が今ひとつあの公演でのれなかった理由となっていた”あるもの”の不在、
それが、ボッレのロミオには完全な状態で存在していました。
そして、思ったのです、、、ボッレ、あなどれじ!!!

それは、もう、最初から明らかでした。
彼のロミオには、ゴメスにない、軽やかさとか柔らかさとナチュラル感があるのです。
これは単にがっちりした体格のゴメスに対し、ボッレの方が細身で、、などという体型のことを言っているのではなく、
彼の演技や踊りのスタイルから来るものです。
『白鳥の湖』のジークフリート役では、まさにそこが
オペラヘッドの常でこてこてのドラマが好きな私にとって、物足りなく感じてしまう側面だったのですが、
なぜか、ほとんど演技していないのではないか?と思えるような彼の演技の薄さが、
この『ロミオとジュリエット』という作品(ここではマクミランの振付に限定しますが)では実にふさわしい!!

ゴメスとボッレ、どちらが正確な振りを見せているか、といわれれば、
それはゴメスなのかもしれませんが、彼のロミオはまさにそこが非常に暑苦しい感じを与えていた、と
言わねばなりません。
逆にボッレの方はいい意味で抜きどころを心得ていて、例えば、回転する際も、
ゴメスは回転の速度がどれも同じで息詰まるような感じだったのですが、
ボッレはふっと力が抜ける瞬間があって、かと思うとその後に続く部分で
スピード感が出たり、と、その羽毛が舞うような自由自在さが魅力で、
まさにこの雰囲気こそ、この物語前半の持つ雰囲気であり、
ヴェローナの、そしてマキューシオ、ベンヴォーリオとの3人組との友情と、
そして、何よりもジュリエットの恋に有頂天になっているロミオの心に似つかわしい!!

今日の公演の、主役二人以外の最大の貢献者はマキューシオを踊ったサルステインで、
彼の踊りからは、彼が一生懸命、自分のマキューシオはどんなマキューシオ?
というのを考え、努力している様子がいい意味で伺われます。
踊りそのものの全体の完成度や緻密さはさすがにこの役を踊りなれているコルネホの方が上かもしれませんが、
(ただし、今日のサルステインは、第二幕の同役の最大の見せ場のソロで、
素晴らしい技を披露していたことは付け加えておきたいと思います。)
月曜のコルネホからは、惰性のようなものが感じられたのに比べ、
サルステインの方は、全くコルネホとは違う、コミカルな色の強いマキューシオ役を打ち出していて、
大変魅力的でした。
(例えば、そのソロは相当体力を消耗しますが、最後にマンドリン・ダンスのメンバーを使って馬飛びをする場面で、
二人目の馬のところで、”へとへとだからさ、もうちょっと低くないと飛べないよ!”というジェスチャーをして、
飛ばずに済ませてしまう場面の笑いの呼吸など、絶妙なものを持っています。)
他にも彼がアドリブで入れている演技や振りはどれも気が利いていて、
(キャピュレット家の舞踏会に忍び込もうとしている3人が、家の門のところで、
右に行こうか、左に行こうか、と、3人が首を振って、”よっしゃ、右だ!”と決める場面は、
彼が通常よりタイミングをずらせて遅く頭を振ったことで、この場面のおかしみが増しました。
こういうのは舞台本能とでも言うべきもので、彼のすぐれたリズム感を見るにつけ、今後が楽しみです。)
お仕着せでなく、自分で役を作っていこう、というこの姿勢はとっても素敵です。

このサルステインの力もあって、男子三人組のシーンは、つい見ているこちらも微笑んでしまうような、
浮き浮き感があります。これですよ!これ!!!!私が月曜に見たかったのは!!

ドヴォロヴェンコについては、頭の方のソロで踊っている部分に関して言うと、
ステップに独特のねちっこさがあり(足が床から離れるまで、そこに吸い付いているような錯覚を覚える)、
また、とてもジュリエットがローティーンの少女には見えず、ハイティーンのような雰囲気なのですが
(その点は、ヴィシニョーワの方がずっとローティーンらしさを表現しえていたと思います。)、
それは若さの象徴である伸びやかさを表現するには、もっともっと腕を遠くに届く感じで踊ってほしい、というのが、
私の希望としてはあるのですが、彼女は少し腕の伸びが小さいというか、
コンフォート・ゾーンでちまっと踊っているような印象を受けます。

ところが、ロミオと絡むシーンから、彼女の踊りはぐっと良くなります。
というか、ボッレとドヴォロヴェンコ、この二人、すごく相性が良いように思うのは私だけでしょうか?
二人のどちらもが伸び伸びと踊っていて、PDDなどでの足の揃い方、
ポーズの一体感など、うっとりさせられ、唸らされること、一度や二度ではありませんでした。
ドヴォロヴェンコに関しては、ボッレと一緒に踊る場面から、四肢に伸びやかさが加わったような気がするほどです。
また、この二人はスピード感がすごく合っているのか、
じっくり見せるところ、スピーディーに技を決めるところ、というのが、
いちいち心憎いくらいに息が合っていて、バルコニーのシーンのPDD、これは秀逸でした。

このバルコニーのシーンも、しかし、場面のトーンというか、美しさを決定付けていたのは、
ボッレだったと思います。
バルコニーに現れたドヴォロヴェンコ、彼女の動きには最初に危惧した妖艶さがちょっぴりあって、
私はここはもっと無邪気なフェリのような動きが好みですが、
そこに、あの不安げな誰だ?という音をオケが奏でる中、ボッレ・ロミオが出現、
そして、ジュリエットを真正面に、つまり客に完全に背中を向けて
マントに身を包んだままジュリエットと見詰め合うシーンは、
マント越しに彼の心の高鳴りと、それと同時になんともいえない繊細さを感じる瞬間でした。
そう、ボッレのロミオには、たおやかさと繊細さを感じるのです。

そして、ジュリエットのいるバルコニーに近づき手を差し伸べる。
優しいんだなあ、、この手の動きが、、。
ロミオのやんちゃさの後ろにある本当の性格がふっと伝わってきます。
月曜のゴメスの情熱的な差し伸べ方は対照的ですが、この役に関しては私はボッレの表現の方が好き。

そういえば、前後しますが、ボッレのシャイなロミオが、
ジュリエットにキスをして、彼女が有頂天となるシーン、これも初々しくて説得力がありました。
ゴメスは思い起こせば、月曜の舞台で情熱的に何度もジュリエットにキスしてましたが、
ボッレ・ロミオのこのたった一度のシャイなキス、
こちらの方がずっとこの物語を語るのに効果的に思えるのは示唆的です。

それから、ボッレのジュリエットへのサポート、これが大変良くなっていて、びっくりしました。
フェリとの公演の時に、もたもたしたり、また手持ち無沙汰に見えた腕の置き方、
これらはほとんど100%改善されていたと言ってよいと思います。
また、回転のきれが良く、安定感、美しさも二年前よりずっとアップしています。

とにかく今日の二人からは恋する二人の心の高鳴り、そしてそれはこのPDDのすべてだと私は思うのですが、
それが痛いほど伝わってきました。

ゴメスの回転が慎重すぎたのに比べて、段々と早くなるその様子がロミオの気持ちを上手く表現しているボッレ、
そう、この演目では慎重なのは似合いません!
そして、そこに駆け込んでくるジュリエットを受け止め、
くるくる回す(再び擬態語!)時のあのどきどき感!!

惜しむらくは、ボッレは少し細身なことが関係しているのか、
腰まわりの力が少し心もとない部分もあって、ジュリエットをリフトしながら、
座って腰を上げ下げする場面では、若干辛そうだったのが惜しい!
ここはゴメスが逞しい体格にものをいわせ、楽々とこなしていました。
一瞬、ふっと現実に引き戻された瞬間で、これは何としてでも、
今後、腰周りと腿の筋トレに励んで克服してほしいものです。

私のボキャ貧を補うべく、このバルコニーのシーンがどのような振付であるか、の参考に、
引退するまで最高のジュリエットとして君臨していたフェリと
ボッカ(彼を生で観たことがないのは、私が墓場まで持っていかねばならない悔い!)による
過去のABTの舞台の映像をご紹介しておきます。(振付はもちろん、セットも現在と同じです。)
なぜか肝心のラストがぶちきられているのには噴飯ものですが、映像の質が一番良いのでこちらを。




最後にジュリエットがまたバルコニーに駆け昇り、ロミオが再びジュリエットに手を伸ばす、
これがこのPDDのラストの振りでがそこで幕が降りるのですが、
ここも、ボッレの手の伸ばし方がたおやかでいいです。
墓場で二人が手を取り合って(というか、そうしようとして、と言った方が適切かもしれませんが)死ぬラストの伏線を感じます。
ここもゴメスはちょっと表現が闇雲に情熱的過ぎたと思います。

インターミッションでお話させていただいた隣席の男性の感想は、”素晴らしいが、暴力的な作品だねえ。”
これが、褒め言葉でなくて何でしょう?
下手な公演だと、それすら伝わってこないのですから。

第二幕はそのヴァイオレントさが炸裂したシーン。
サルステインの演じた鬼気迫るマキューシオの死に際は、すごかった。
刺された苦しみに悶えながら、”なんてね!大丈夫だよーん!”とおどけて見せるシーン、
しかし、力尽き、自分を刺したティボルト(私が全くぴんと来ていないサヴェリエフが、
いつもと同じ、やっぱりぴんと来ない、エッジの甘いパフォーマンスを見せていました。)のみならず、
ロミオまでに怒りをあらわにする場面、
そして、何の身を庇う素振りもなく、吹っ飛んで息絶える壮絶な最後、、。
私の逆隣のおばさまはつい、"Oh, my god!"と叫び声をあげてしまわれたほど。
最初から最後までピントの合った大熱演で、
今回の『ロミ・ジュリ』の公演は、おそらくサルステインにとって大ブレイク・ポイントともなりうる、
重要な公演だったのではないか、と感じます。

そして、その彼が倒れてすべての人間が息をのんだ瞬間、
私を驚かせたのは、ボッレがその驚きと嘆きを背骨で演技をしたことです。
つい熱い演技をしたくなるこの個所で、ほんの少し背骨をひきあげる、
たったそれだけの仕草でロミオの感情を表現しきったボッレ。
いつからこんなに演技が上手くなったのか?
少なくとも二年前はこんなに上手くなかったと思う。
それとも、私が盲目だったのか、、?

今シーズンが始まる約半年前、USヴォーグ(2008年12月号)で
アニー・リーボヴィッツがボッレらをモデルに『ロミオとジュリエット』からの代表的なシーンを撮影した写真を使用した、
”一生に一度の恋(Love of a Lifetime)"という記事が組まれました。


(右のロミオを演じているのがボッレ)

その記事の中で、フェリがこう言ってます。
”ロベルト(・ボッレ)には何かとても若々しくて、ピュアな部分があるの。
彼の力強い姿を目にすると、とても信じられないかもしれないけれど。
でも、彼のハートにはすごく柔らかな部分もあって、
そういった性質は、すべて、ロミオにもまたあてはまるのよ。”
彼女の言葉は何と真実だったことか!
今になって、フェリがボッレに何を見ていたのか、それがわかる気がしました。
情熱に流されずに、たおやかで優しくて、もっと複雑なロミオ像を築き上げた今回のボッレを見て、
ゴメス・ファンの私には悔しいのですが、今のところ、ロミオは彼の役である、と認めざるを得ません。



サルステインに次いで、目を引いたのは、パリスを演じたアムーディ。
遠めで観るに、気品があって、こうでないと、ロミオ、ジュリエットとの三角関係が
笑い話になってしまいます。
しかも、今日のロミオは素敵さでは只者でないボッレ。
その彼と張り合って一歩も引いていない存在感は賞賛に値します。

終演後に拍手が多かったのは主役二人のうち、ドヴォロヴェンコの方でしたが、
この作品の大切な根幹、つまり、若さゆえの純粋な恋とそれが引き起こす悲劇という枠を、
きちんと作り出したのはボッレの力で、ボッレが相手役でなかったなら、これほど良い公演になったかは疑問です。
もちろん、彼の役作りにきちんと呼応しながら、ジュリエット役を踊りきった
ドヴォロヴェンコの力を過小評価するものではありません。

この公演を観ると、月曜のゴメスのロミオの役作りは最初から少しずれてしまったのかも、、とも思う。
ゴメスと張り合えるABTのダンサーは誰かしら?と余裕をかましていましたが、
とんでもないところから凄腕のライバルが現れた感じ。
いや、いいライバルは技を磨く原動力とも言いますから、二人の今後が楽しみです。


Irina Dvorovenko (Juliet)
Roberto Bolle (Romeo)
Craig Salstein (Mercutio)
Gennadi Saveliev (Tybalt)
Blaine Hoven (Benvolio)
Alexandre Hammoudi (Paris)
Roman Zhurbin (Lord Capulet)
Kristi Boone (Lady Capulet)
Maria Bystrova (Rosaline)
Karin Ellis-Wentz (Nurse)
Frederic Franklin (Friar Laurence)
Amanda McGuigan (Lady Montague)
Vitali Krauchenka (Lord Montague)
Clinton Luckett (Escalus, Prince of Verona)
Misty Copeland, Stella Abrera, Melanie Hamrick (Three Harlots)

Music: Sergei Prokofiev
Choreography: Kenneth MacMillan
Conductor: Ormsby Wilkins

Metropolitan Opera House
Grand Tier A Even

***ロミオとジュリエット Romeo and Juliet***

ROMEO AND JULIET - ABT (Mon, Jul 6, 2009)

2009-07-06 | バレエ
とうとうラストの週になってしまったABTメト・シーズン。
最後の演目は『ロミオとジュリエット』で、私は今日のゴメス/ヴィシニョーワ組と
土曜夜、つまりシーズン最後の公演のボッレ/ドヴォロヴェンコ組の公演を観に行きます。
この演目は2年前のシーズンのコレーラとヴィシニョーワのそれを観て、
バルコニーのシーンで涙目になってしまったという、思い出の作品でもあるのですが、
そのヴィシニョーワが、今回ゴメスという別のパートナーを得て、どうジュリエット役を表現するか?
そして、何よりもゴメスとボッレという、現在ABTの男性ダンサーの中でも
最も華やか、つまり平たく言うと”いけてる”二人が、
同じ役をそれぞれどのように違って演じるか、これは大変楽しみなところです。

バレエのシーズンになるといつも声高に吠えまくっているので、
もう繰り返す必要がないほどだと思われますが、私がABTで最も好きな男性ダンサーはゴメス。
今日も連れとの鑑賞なので、開演前に、”今日のロミオは、『白鳥』の紫の人だからね、
超期待していいから!”とぶちあげておきました。

今日は前から三列目だったため、幕が開いた瞬間から大変なことに。
というのも、ABTの『ロミ・ジュリ』はマクミランの振付によるもので、
この版は、他のバレエ団による公演の映像がDVDになったものなどでおなじみの方が多くいらっしゃると思いますが、
一幕一場は市場の場面で、ヴェローナの街の賑わいを表現するため、
かなりの数のダンサーが舞台に上がっています。
しかも、それぞれのグループが(女性、男性、モンタギュー家寄りのもの、キャピュレット家寄りのもの、、)
違った振りをしているので、もう追うだけで大変、というか、こんなの全部追えません。
舞台に近すぎて追いづらい、というのもあるのですが、
もちろん、最大の理由は、すでにこの場からロミオ、マキューシオ、ベンヴォリオの3人が登場し、
私は練り飴のようなしつこい視線をロミオ=ゴメスに集中投下していたからです。
ああ、舞台の他で起こっていることを観ようとすると、ゴメスから視線が外れてしまう、、
何と言う歯痒さ!ジレンマ!!!

しかし、今日の男友達三点セット、つまり、
ゴメスのロミオにコルネホのマキューシオとロペスのベンヴォリオが加わった三人ですが、
この3人の間の呼吸に、どこかぎこちないものを感じてしまうのはなぜなのか、、?
いや、はっきり言ってしまうと、一番浮いているのがゴメスのような気がする、、。
この公演の後に私の師匠M子さんとメールのやり取りをしていて、
その中で、この3人がいかに生き生きと楽しそうに踊るか、というのがポイントの一つ、
というような話になったのですが、実にその通りで、この場面が噛みあわないと、
ジュリエットと出会った後の話の展開との対比が薄くなって、
物語自体が持っている素晴らしさが生きてこないと思います。

ジュリエットに出会って、ロミオが変わる、、
それまでの無邪気な女性との戯れが楽しく感じられなくなったり、
キャピュレット家の人間と和解を試みたり(まったく長くは続かないのですが)、
ジュリエットと会えないことが苦しくなる、
これらの、ロミオが恋をすることで成長した、変わった、ということを表現するには、
ジュリエットと出会う前に、いかに無邪気で何も考えない毎日を過ごしていたか、という、
その軽さを、3人で踊る楽しさの中に表現されていなければならないと思います。

その点で二年前のコレーラは秀逸で、本人のキャラも大いに手伝っているのですが、
とにかく生き生きとして楽しそうで、どこかやんちゃ坊主でフットワークが軽そうな雰囲気もあり、
私が持っているロミオのイメージにぴったりでした。
そういえば、この時にマキューシオを踊ったのはやっぱりコルネホで、
そこにマシューズのベンヴォリオが加わった三人組でしたが、
この三人の間には傑出したケミストリーがあって、彼らが登場するシーンはいつも引き込まれたのを思い出します。

しかし、特にジュリエットに出会うまでのゴメスは、
彼のまじめさと品の良さが、”重さ”となって感じられ、かつ、そこに、
演技面でのオーバーアクティングさが被さっているのを感じました。
それは、踊りの面でも共通していて、私は基本的にはゴメスの、一つ一つの動きを決して
おろそかにしない姿勢は大きく支持するのですが、一方で、
このマクミランの振付には、独特の軽さとスピーディーさが重要なように私は感じられます。
オケよりステップのタイミングが遅れる場面もありましたが、
絶対に一つ一つの細かい動きを省略しない彼なので、
”ああ、ゴメスらしい、、!”と微笑ましく思う一方で、当然その分音楽からは乗り遅れているわけで、、、。
また、遅れていない個所でも、彼の割と隆とした体型がそう感じさせるのか、
背の高さがそう感じさせるのか(←この点については、同様に背が高いが、
体型ではかなりスリムな感じがするボッレの公演を見たうえで、比較をしたいところ。)
コレーラに比べると、どこかフットワークの重さみたいなものを感じるのです。

男子3人組とからむ『積み木崩し』のような髪型の女性(これまた3人組)は娼婦なわけですが、
後の幕でロミオがジュリエットに出会ってから以前のように構ってもらえなくなってふくれたかと思うと、
構ってもらえなくなったのではなく、彼が本気の恋に落ちたんだ!というのを鋭く察知し、
本気で寂しげな表情(顔も踊りも)をしたりするのが味のあるキャラになっているのですが、
わざわざ娼婦と絡むシーンを作っているのも意味があって、
キュピュレット家の人たちが、家が仇同士である事実ゆえのみならず、
”あんな子達と付き合っちゃいけませんっ!”と、ジュリエットに言うのも無理からぬような、
やんちゃな雰囲気が欲しい。(もちろん根はいい男の子なのだが。)

そして、そのゴメスがその雰囲気を今ひとつ掴み損ねている感じは、
これはかつてどこかで体験したような、懐かしい感じがするな、、と思えば、
それは、去年の『海賊』でした!!!
あの『海賊』のコンラッドも、振付の感じは当然のことながら、
マクミラン作品とプティパらのそれの間では全然違いますが、
”生き生きとして”、”ちょっとやんちゃで”、というような言葉がキーワードになるのは、
ロミオと共通しています。
この似たクオリティのある役の両方でゴメスが違和感を感じさせるというのは、面白いことです。
って、面白い、などと言っている場合ではない!!
それは、彼がこういう軽妙さを感じさせる役や部分を苦手としている、ということではないか!!!

一つには先に書いたように、演技への指向性が強い彼の場合、
軽妙な場面でも、どうしてもオーバーアクティングに寄りがちになるので、
高度な要求であるのを承知の上で、今後、必要な場面では、逆にいかに”抜く”か、ということに
フォーカスしてもいいのではないかな、と思います。
ゴメスは演技の勘がとてもいいので、きっといつか、それを掴めると期待しています。
これがマスターされた暁には、まさにどんなジャンルの作品でもござれ!の、
脅威の”鬼に金棒ダンサー”になるのです。
今、私が知る限り、彼のアキレス腱(弱点)は、この軽妙キャラのみですから。

逆にジュリエットと一目で恋に落ちる場面、
マキューシオを殺された怒りについ我を忘れ、
愛するジュリエットの身内であるティボルトを殺してしまう場面、
それから寝室の場面からラストまでの部分は、ゴメスの演技力が良い方に作用する場面で、
大変見応えがありました。こういうドラマティックな表現の上手さは
彼が最も得意とするところで、全く心配の余地なし!

ただ、バルコニーの場面。これは、私にはまだ課題があるように思われました。
パ・ド・ドゥであり、相手があってのことなので、ゴメスだけのせいではなく、
ヴィシニョーワも含めた、コンビネーションとか相性の問題なのだと思いますが、
やはりここでも肝心なときにスピードが上がりきらないというのか、、、一言、重い。
特に途中で、女性ダンサーが片足を伸ばし、床に足を触れさせたまま
男性ダンサーにリードされる動きがありますが、
ここも、二年前に観たコレーラの方が適切なスピード感を持ってヴィシニョーワを引っ張っていた
記憶があります。

このバルコニーのシーンのような、見せ場で炸裂するマクミランの振付は、
特にリフトされた女性に課せられた独特のポーズから生まれる美しさが大きな魅力の一つであるわけですが、
今回は、どこか少し線がずれているような感じがするのが気になりました。
一言で言うと、あまりポーズが綺麗に決まっていない、ということなんですが、
フェリの引退公演でのジュリエットがあまりにも強烈だったので、
それを経過した今、私があまりに多くのものを求めすぎているのか、、?
いや、そんなことはないと思う、、
二年前のヴィシニョーワのポーズからは、もっと筋の通った美しさを感じた記憶がありますから。

一つ気付いたのは、ゴメスがドラマティックな表現のために、
つい、余計に細かい体の動きを入れてしまうことで、
十分にそれを行うだけのマージンが振付に備わっている作品では、
一般にはそれはいいことだと思うのですが、
これがマクミラン版のバルコニーのシーンではマイナスだと感じます。
その度に細かく美しく保たれていた線がずれ、かえってわずらわしく感じられるからで、
このシーンは、むしろ、感情表現をおさえて、二人のラインを調和させ、
いかにシンプルにするか、ということに専念した方が振付の美しさが出てくるように私は感じます。



ヴィシニョーワは素晴らしいダンサーであることには間違いないのですが、
フェリ、ニーナ、そしてもう少し若い世代ではドヴォロヴェンコ、パルトらの表現力とその濃さを体験して、
それから久しぶりにヴィシニョーワを観ると、意外と踊りがさらり、としていて、
あれ、こんなだっけ?と驚かされました。
彼女の場合、彼女の身体能力が生かせるようなスピーディーなパートナリングを
この作品で出来る男性ダンサーが必要かもしれません。
二年前のコレーラはその点で、この作品では彼女にマッチしていたように感じます。
彼女自身は、どちらかというとヴィジュアルの美しさで作品を表現するようなところがあって、
濃いドラマティックな表現があまり感じられないのも彼女の個性なのかもしれません。

例えばラストの墓場の場面は、ジュリエットが目を覚ました後からオケが最後の音を出すまでの実に短い時間で、
あら、なぜ私はここに?→そうだ、眠り薬を飲んだんだ!→
ああ、でも生きてる!良かった!→あ、ロミオがここにいる(すでに死んでますが)→
これでやっと一緒になれる!→ロミオが死んでいることに気付きショックを受ける→
絶望する→自分の命をとる決意をする→死に際してもなおロミオを愛していることを表現する

これを全部、しかも、走馬灯的なスピードで、しかし、どれもきちんとした意図をもって行わなければならず、
ポイントがずれていたり表現が曖昧だと、一気にこのシーン全体の素晴らしさが失せてしまいます。
フェリが一つ一つ的確に感情の変化を表現しえていたのに比べると、
ヴィシニョーワの表現は少しだらだら~と流れてしまった感があります。
もちろん、絶対的なレベルでいうと、素晴らしいのですが、
また、ヴィシニョーワのクラスになると、観客もそれ以上の何か究極的なもの/表現を求めてしまうのです。

表現方法一つをとっても、ゴメスは熱血系で、彼女はヴィジュアル系。
今日の公演を観ていても、二人の間にいわゆる本物のfireがないというか、
もしかすると、本来はヴィシニョーワのようなタイプは、
ゴメスとはあまり合わないのではないかな、と思うのですが、
彼女級のダンサーのパートナーをきちんと務め上げることが出来る男性ダンサーとして、
彼に白羽の矢が立つのはしょうがないことなのかもしれません。
ただ、この二人はお互いにベストなパートナーではないのかも、と、個人的には感じます。

他の役についても少し。
マキューシオ役を踊ったコルネホは安定した技を見せましたが、
以前のような爆発的なキレがないのは、たまたま今日が不調だったのか、、、。
ロペスのベンヴォリオは、残念ながら、強い印象を持ちませんでした。

嬉しいキャスト変更は、レディ・キャピュレット役で、アブレラに変わり、
パルトが入ることが当日に発表されました。
プリンシパルであるパルトがレディ・キャピュレットだなんて、なんて贅沢な!
彼女からは、今シーズン、以前とは違う気合を感じます。
今日のレディ・キャピュレットの表現も、二年前の公演より、ずっと緻密で丁寧で、
情感を持って演じていたと思います。
今年、彼女の『白鳥』を観れたのは、必ずしも彼女一番の出来でなかったとしても、収穫でした。

ジュリエットの従兄弟(になるんだと思う、、)、ティボルト役はスタッパス。
なんだか漫画のような悪人メイクで、自分でメイクしたのかな?
何もそこまでしなくても、、と笑ってしまいましたが、
(そういえば、メイク下手なのに自分でメイクをしたがって係を困らせたという、
パヴァロッティの逸話を思い出す、、。)
昨年の『ジゼル』のヒラリオンに引き続き、何の役をやっても強烈になってしまうのが彼の特徴、、?
漫画メイクにつられて、踊りの方もいかつい悪人系でした。
もうちょっと、微妙さ、繊細さがあってもいいかもしれません。
ティボルトはティボルトで、彼の考えのもと行動しているだけで、決して単純な悪人なわけではないですから、、。

そして、観客から大きな拍手をさらっていたのが、ローレンス神父役のフレデリック・フランクリン。
我が家にあるバレエ・リュスについてのDVDの中にも登場していて、
そのDVDの収録時ですら、すでにかなりのお歳なのに、矍鑠として舞台に立っていて、
連れと”このおじいちゃん、いい味出してるわあ!”と語り合っていたものですが、
本当はなれなれしくおじいちゃんなどと呼べないような、すごい経歴を持った、
バレタマンから熱い敬意を集めているダンサーで、なんと、今年の6/13に95歳になられたそうです。
昔の映像や写真を見ると、均整のとれた素晴らしい体をしていらっしゃいます。
今は、さすがに全く昔と同じ体型というわけには行きませんし(なんといっても95歳ですから、、)、
年齢のせいで、動きが制限される部分もありますが、この役では逆にそれが似つかわしい。
舞台に立つのが本当に幸せ、とご自身が感じてくるのが伝わってくるような、
可愛らしいおじいちゃま(こら!また!)です。

バレエでもオペラでも、このように年齢の高いパフォーマーから、次の世代にバトンが次々と
渡されていくのを見るのは非常に感慨深いものがありますが、
世代のバトンが受け渡されずにどこかで取り落とされたままになっている
(か、そもそもバトンが存在しなかった)のでは?と思わされるくらいひどかったのが、
またしても登場!のABTオケ。

今日の演奏はもう怒りを通り越して、あきれてます。
だって、まともに演奏できてないんですもの。
金管はリズムはめちゃくちゃで、あちこちで適当な音をたてているし、
元々ユニークなところのあるプロコフィエフの音楽ですが、
何が何だか、原型をとどめていないような部分まであるし、
肝心な個所で、ソロはミスる、、、
指揮者は必死でまとめようとしているんですが、オケそのものに能力がないから、無意味です。
っていうか、一体どういうメンバーなんでしょう、このABTオケは。
まさか、家族や友達の寄せ集め?それくらいへたくそです。
いや、まじめに、このオケは解体した方がいい。それも至急に!

最後に連れの意見を紹介しておくと、
”前半は、主役の二人が上手くかみ合っていない感じがしたし、
特に一幕のロミオには、ゴメスの地がスウィート過ぎるのか何なのか、しっくりこない感じがあった。
(だって、基本は王子様キャラなんですもの、、by Madokakip)
しかし、後半はすごく良かったと思う。”

ちなみにNYタイムズのダンス評では、この日の公演、特にゴメス、が絶賛されていて、
いかに女性ダンサーの間で彼がひっぱりだこになっているか、というようなことまで書いてあるのですが、
私は彼が素晴らしいダンサーであるのを確信してはいますが、
それでも、彼が触るものはなんでも魔法のように素晴らしいものになる!というような、
安易な評には反対です。
彼、いや、どんなに優れたダンサーや歌手誰にも弱点はあるし、
そんな弱点や本来の力が発揮されていない公演を素晴らしい!と呼ぶことは、
逆に彼らが真に持っている能力の素晴らしさ
(合ったレパートリーや役での素晴らしさ、真価を発揮した公演)に対してフェアでない、と思います。

先述の通り、土曜の夜はボッレのロミオ、ドヴォロヴェンコのジュリエット。
週の頭の方の公演で二人を観たM子師匠によると、
その日の彼らは素晴らしかったらしいので、期待が高まります!!


Diana Vishneva (Juliet)
Marcelo Gomes (Romeo)
Herman Cornejo (Mercutio)
Isaac Stappas (Tybalt)
Carlos Lopez (Benvolio)
Gennadi Saveliev (Paris)
Victor Barbee (Lord Capulet)
Veronika Part replacing Stella Abrera (Lady Capulet)
Maria Bystrova (Rosaline)
Susan Jones (Nurse)
Frederic Franklin (Friar Laurence)
Elizabeth Mertz (Lady Montague)
Roman Zhurbin (Lord Montague)
Clinton Luckett (Escalus, Prince of Verona)
Luciana Paris, Anne Milewski, Melanie Hamrick replacing Kristi Boone (Three Harlots)

Music: Sergei Prokofiev
Choreography: Kenneth MacMillan
Conductor: Charles Barker

Metropolitan Opera House
ORCH C Even

***ロミオとジュリエット Romeo and Juliet***