Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

ROMEO ET JULIETTE (Sat, Sep 29, 2007)

2007-09-29 | メトロポリタン・オペラ
ネトレプコ&ヴィラゾンのコンビで予定されていた今シーズンの目玉公演でもあった『ロミオとジュリエット』。
なんとヴィラゾンが体調不良により、全公演を降りることになり、
現在のところ、ヴィラゾンが演ずる予定だったロミオ役は、
アラーニャ、Kaiser、Polenzani、TBAと4分割されました。
TBAとはto be announced、つまり未定。
シーズン・オープニング公演でアルトゥーロという、比較的小さな役でありながら、
その美声と端正な歌唱で注目を集めたStephen Costelloが候補にあがっているという話もあります。
もともと、ジョルダーニとフィリアノーティの二人でわけあう予定だったルチアのエドガルド役が、
なんと10/25の公演一回きりですが、コステロが歌うことになり、
私の”情けないジョルダーニ=エドガルドよりも、コステロ=アルトゥーロをとる!”という言葉が、
ある意味、現実化してしまいました。
もし、ロミジュリのTBA=コステロの噂が本当だとすると、
うがった見方をすれば、この10/25のルチアは、ロミオTBA公演の試金石ともいえますが、
”そんなに急にいろいろ歌わせて、よい芽を摘み取っては!”と危惧する声もあり、
この後の展開が見逃せなくなってきました。

さて、そんな思わぬ展開の中で、全幕物のオペラでは圧倒的にヴィラゾンとの共演が多かったネトレプコが、
4人の違ったテノールを相手にどのように役を演じるかが楽しみ。
ネトレプコ&ヴィラゾンの、ゲオルギュー&アラーニャ化を心配していた私なので、
(時々、馴れ合いの雰囲気が見られる、ということと、
レパートリーが双方にとって真に自由ではなくなる、という意味で。
とはいえ、個人的には、ヴィラゾンの方は、全然ぴんでやっていける力があるのでアラーニャと一緒にするのもどうかと思いますが)
ヴィラゾンの体調不良&今回聞き逃したことは大変残念には思うのですが、
ネトレプコにはかえっていいことなのではないか、と思った部分もあります。
今日の公演は、そのアラーニャがロミオ役を歌うことになりました。

ところで、このグノーの『ロミオとジュリエット』、
はっきり言って知っているのはジュリエットのアリア、”私は夢に生きたい Je veux vivre"くらいの、
かなりやばい状態だったので、この一ヶ月ほど、予習に励んでみたのですが、
CD(ゲオルギューとアラーニャ共演盤)では、
なぜか、途中で、しかもいつも同じあたりの箇所で眠くなってしまって、一向に前へすすめないのでした。
はっきり告白してしまいましょう。フランスのオペラ、あまり好きでないのです。
確かに美しい旋律が多いですが、曲だけ聴いていると、
とてもあの劇的なロミ・ジュリの話だとは思えない。
さすが、あの『ファウスト』ですらこじゃれた話にまとめてしまった前科を持つ
グノーだけのことはあります。

これはいかん!ということで、DVDまで購入したが(ヴァドゥーヴァ、アラーニャ共演)、
こちらはヴァドゥーヴァが何とも田舎くさいジュリエットぶりで、
CDでとどまったところよりもさらに早いところであきてしまうのでした。
しかし、二つのアイテムの共通項はアラーニャだから、もしやアラーニャが元凶??

とにかく、そんなやばい状態でいよいよ当日を迎えてしまい、
しかも今日はマチネのアイーダとダブル・ヘッダー。
なので、予習断念。大丈夫か?

指揮はドミンゴ。彼が出てきただけでオペラハウスは大興奮。
ただし、数日前、この演目の初日の演奏をラジオで聞いた限りでは、
かなり指揮が混沌としていた、とだけ申しておきましょう。
そのロミ・ジュリ初日のレビューでは、NYタイムズがルチアに続いてこれ以上ないほど絶賛の言葉を贈っていたのですが、
そんな絶賛の中にも、ドミンゴの指揮
”深みにかける”)とアラーニャの歌唱(”決して歌唱が完璧なわけではない”)にはやんわりと批判が入っていました。
この批判がこたえたのか、今日のドミンゴの指揮は前回よりはよかった。
またマチネのアイーダに比べると、やはりネトレプコとアラーニャの出演、
ドミンゴの指揮、といった話題性の多さという心理的な作用もあってか、
オケの音そのものが生き生きとしているように感じました。

しかし、この公演の最大の功労者は、演出と、そして、ネトレプコ。
この二者につきます。

このGuy Joostenによる演出は、
一歩間違えると自己満足の罠に落ちてしまいそうなところぎりぎりのところで、
オリジナリティを感じさせ見事。
なぜだか、このプロダクションでは、”天文学”や”星”といったものがテーマになっていて、
シーンごとにバックが、銀河になったり、皆既日食になったり。
また場のつなぎ目におろされるスクリーンには、机に向かう天文学者と思われる模様がほどこされています。
私のすぐうしろに座っていた老夫婦のおじいさんの方が、
”なんじゃ、ありゃ?”と問いかけると、
”家紋じゃありませんか?”とまじめに奥様が答えてましたが、
キャピュレット家もモンタギュー家も、
天文学者が家紋に織り込まれてるってことはないと思いますよ、おばあさん!

また、登場人物が立っている場所は舞台上に設置された、
半分にかちわった天体儀のようなもの。
これが微妙に角度を変えながらまわったりしていて、
ちょっと宇宙空間にまぎれこんだような不思議な浮遊感があるのです。

また、二人の寝室の場のデュエットでは、
なんと天井からつるされた真っ白なベッドがするする、っと空中におりてくるのですが、
そこにロミオとジュリエットが!
このベッド、四隅をピアノ線か何かでつっているだけなので、
まるで、宙に浮いているように見える仕組み。
ただし、そのために、空中でぐらぐらしていて、
ネトレプコが歌うために体勢を変えるたび、そのままベッドもろとも裏返りそうで、
はらはらしました。
一度、大きく揺れたときがあって、思わず隣の席の男性から、
"Be careful!"という声が漏れました。
すぐにまわりの観客にシーッ!といわれてましたが。
(今回は私もびっくりしたので、シーッ!なんていう余裕はありませんでした。)



うしろは満点の星で、シーツが風にたなびき。。と、
もしこの場だけこんなセットだと、はあ??という感じで、
あまりの安っぽいロマンティシズムに辟易するところですが、
不思議なことに、このシーンに至るまでのシークエンス、セットの作り、
雰囲気が、このシーンをそうは感じさせなくしているのがこの演出家の手腕と思われ、
全体を貫く独特のキッチュさで、観客をねじふせてしまっていました。
ものすごく不思議な舞台セットなのに、なぜか説得力がある。
むしろ、クラシックな演出に陥らないことで、
この作品の弱点をカバーしたというか、大変興味深い演出だと思いました。
(グノーの音楽自体にすでにちょっとチープなロマンチックさが備わっているので、
これを臆面もなくまじめに美しいセットでやられては、かえって赤面してしまう。
それを逆手にとった演出、というわけです。
例えばアイーダみたいな音楽にも重厚さがある作品だと、
オーセンティックな演出にも耐えられますが、
グノーの作品では、それはかえって滑稽になる可能性があると思います。)

そのまた一例が、ジュリエットのアリア、”私は夢に生きたい”を歌う場面。
現に例のDVDでヴァドゥーヴァが夢見る乙女!といった趣でまともにこのアリアを歌うのを見て、
”げーっ!”(すみません。。)と鳥肌が立つような思いで見守った私ですが、
この公演では、全く違う切り口で見せていて、その上手さに感心しました。
ネトレプコ演じるジュリエットが、乳母と二人っきりだと思いながら、
手に、仮面(よく貴族が仮面舞踏会でつけるようなハンドルがついたタイプ)を持って、
歌い始めるのですが、アラーニャ演じるロミオがそれを影で聞いています。
二度目のAh~で、
隠れているロミオを見つけて驚くジュリエット。
で、通例、いかに下降音階を上手く聞かせるかを示すのに使われる
このAh~の部分を、まるで、”びっくりするじゃないの!”という気持ちの表現であるかのように読み/歌い替え、
乳母を部屋から追い出したあと、二人で仮面でお互いの顔を隠してみたり、
しまいには剣に見立てて一戦を交え、ジュリエットが剣をロミオに突き立てて、
最後ジュリエットが技巧的な歌唱を繰り出すその音ごとにロミオを刺しまくり、
ロミオがおどけて死んだふりをする。
(冒頭の写真がそのシーン。)
字で書くと、何だそれ?という感じですが、
発想の転換だと思ったのは、技巧披露のための装飾部分を、
完全にコミカルに読み替えたこと。
その動作と音の動きがきちんとマッチしていること、
このシーンのみで、彼らの恋は一目ぼれに続く無邪気な遊びで始まったこと(なんせまだ14歳かそこらのはず。。)を一瞬にして描いたこと、
そして、そのジュリエットの剣は最後、自分に向けられるという伏線になっているのが実に心憎い。
ここはアラーニャもなかなかうまいおどけぶりで、
あまりのコミカルさに、最後は観客大笑い。
ソプラノの技巧を堪能するところで、観客から笑いを引き出したこのシーンの演出は本当にうまい!と思いました。
今シーズンに入って、ルチアのジンマーマンといい、このロミ・ジュリの
Joostenといい、
比較的新しい演出家が面白い演出を見せてくれているので、観客には嬉しい限りです。
ちなみにこのロミ・ジュリのJoostenのプロダクションはメトでは2005年にプレミアを迎え、
その時の主演がデッセイだったのがまた因縁を感じさせます。

今日のネトレプコ。
もう本当にひっさびさに素晴らしい歌唱を聴かせてくれました!
昨シーズンから、スランプじゃないか?と思えるほど不調な歌唱が多く、
聴いていて痛々しいときもありましたし、
初日のラジオ放送では立ち上がり、少し不安定なところもあったので、
まだ判断は尚早というものかもしれませんが、
今日のこの歌唱は、彼女が長らくみせていなかった本領発揮!という感じで、
本当に堪能しました。
彼女はあんまりフランス語が堪能じゃないようなので(特に母音が全くフランス語に聞こえない)、そこは目をつぶるとしても、
最初のアリアの一音目Ah~から、
あのガラのときとは雲泥の差の、正確な音程、かつ豊かな声で、
オーディエンスを魅了しました。
また、このジュリエット役は、彼女の個性、持ち味にあっていて、
作品と歌手、お互いがお互いを補いあう、いい相性だと思います。
先ほどのヴァドゥーヴァの例を持ち出すまでもなく、
この作品には絶対に見た目、歌唱ともに納得させられるソプラノがいないと
つまらない公演になってしまう。
無条件で愛されるようなかわいさがないといけないうえに、それでいて若々しさも必要、ということで、
今、彼女をおいてこの役にここまでぴったりくるソプラノはいません。
ゲオルギューですら、ちょっとこの役には”とう”がたっているように思えます。
(だし、彼女の声はちょっとジュリエットにはたくましすぎるように私には思えます。
その点、ネトレプコの方が、ずっと少女らしい雰囲気があって好ましい。)
デュエットのシーンも気合のこもった歌唱を聴かせてくれたし、
何よりも、きちんと役を勉強し消化していたのが、去年の『清教徒』との大きな違い。
このような歌を歌ってくれるのをずっと待っていたのです!

ルチアのデッセイを見て火がついたか、ネトレプコ。
ネトレプコは、デッセイのような女優的表現が出来るソプラノではありませんが、
彼女独特の華と持ち味があるので、その個性をうまく生かして、
来年のレパートリーでまた素晴らしい歌を聴けるのを楽しみにしています。

この公演の成功のもう一つの要因は、主役以外のキャストががっちり脇を固めていたところにもあります。
ステファーノを歌ったメゾ、レナードは、
ジュリアード音楽院を出たばかりでこの役に抜擢された幸運の持ち主ですが、
今は比較的軽い声のため、スーブレット系の役が持ち役になっていくのでしょうが、
立ち姿がモデルのように美しく、(針のように細くて、まるでバレリーナのよう。
実際、歌の前に、ダンスからスタートした人らしいです。)
ちょっと特異な個性を放っていました。

アラーニャに関しては、もともと全く期待をしていなかったので、
期待よりはむしろよかったと思ったくらいです。
ただ、隣席の男性はわざわざこの公演のために西海岸からやってきたそうですが、
”アラーニャがなあ。。。”とお嘆きになってました。
彼は声そのものに少し問題があると思います。
出ている声の70%くらいに、がらがらした音が混じるのはあれは何でしょうか?
1%くらいなら、”ああ、声がいがいがしたのね。”で素通りできても、
70%ですから、絶対に素通りなんてできません。
これが、アラーニャの声、と思うべきなのか?
”いがいがしたのがアラーニャの声の個性”。
それでいいんだろうか。。。


Anna Netrebko (Juliette)
Roberto Alagna (Romeo)
Isabel Leonard (Stephano)
Stephane Degout (Mercutio)
Kristinn Sigmundsson (Friar Laurence)
Marc Heller (Tybalt)
John Hancock (Capulet)
Louis Otey (Paris)
Jane Bunnel (Gertrude)
Conductor: Placido Domingo
Production: Guy Joosten
Grand Tier B Even
OFF

***グノー ロメオとジュリエット ロミオとジュリエット Gounod Romeo et Juliette***

AIDA (Sat Mtn, Sep 29, 2007)

2007-09-29 | メトロポリタン・オペラ
すでにメトの定番メニューと化した観もあるFrisell演出によるアイーダ。
アイーダはCD、DVD共に名演が揃っているので、次回の”家で聴く~”はアイーダを勝手に予定していたにも関わらず、
シーズンが始まってしまい、忙しさにかまけて手がつけられずじまいです。
すみません。
実はそこで大フィーチャーしようと目論んでいた(そして今も目論でいる)メトのライブのDVDが1989-1990年シーズンの公演のものなのですが、
これがすでにFrisellによる演出なのです。
(頭の写真はそのDVD。)

ということは、少なくとも18年は生き延びてきたプロダクションというわけで、
いかに長きに渡って愛されてきたプロダクションかわかるというもの。
このDVDでは、私が偏愛するメゾ・ソプラノ、ザジックのまだデビュー間もない頃のアムネリスが聴け・見れますが、
ドミンゴやミッロすらもかすむほどの一生一代ともいえる気迫のパフォーマンスで、
特に第四幕の素晴らしさは筆舌に尽くしがたい。
生の舞台ではさすがに平土間の前方に座らない限り確認不能ですが、
彼女は意外と顔の表情、演技が上手なので、このDVDは、私の”無人島に持っていくものリスト”の一つなのです。
これを観ると、なぜ『アイーダ』の真の悲劇の主人公はアムネリスである、といわれるかが、本当によくわかります。

以前にも書いたことですが、その後、彼女のアムネリスは幾度か生で聴く機会に恵まれましたが、
その完成度の高い歌唱と、
上品さを失わないクリスタルを思わせる響きにとんでもないサイズを兼ね備えた声で、
毎回私を感嘆させてくださったのでした。

そのザジックがアムネリスを歌い、同じFrisellのプロダクションに、
この公演でメト・デビューを果たす大野和士指揮となれば、
期待がいやがおうに高まろうとも誰も私を責めることはできますまい。

大野和士、といえば、忘れもしない私の生オペラ・デビュー、
ハンブルク歌劇場の『リゴレット』の指揮者だったのも、感慨深いところですが、
しかし、あの頃の私はオペラの右も左もわからぬ超初心者。
はっきり言って、どんな指揮だったか、ぜーんぜん、覚えてません。すみません。
ということで、今日は大野氏の指揮をはじめて聴かせて頂くような気持ちで、
この公演に向かいました。

前奏曲。
この短い曲で一気に我々をエジプトの地に連れていっていただきたい!
いただきたいのだが、、、なんか、連れて行くのはいやいやですか?と問いたくなるほど、足どりが重い。
テンポが私の好みにしてはほんの少しおそい、というのもあるのですが、
テンポだけの問題ではなくて、なんというかやや鈍重な感じがする。

この前奏曲から始まって、凱旋の場の終わりまで、
一貫した印象は、ややもすると音楽にブレーキをかけてしまうことにもなりかねないほどの
この足どりの重さでした。
大野さんの個人的趣味なのか、そこかしこである楽器の旋律を強調する傾向があって、
その強調される旋律がいつもレガート気味なので、
常にだらだら~、だらだら~と聞こえがちになっていたのが残念。
もう少しめりはりがあってもいいかな、と思いました。

さて、ラダメス役のベルティ。
いやー、この人の声は、あの大きなメトのオペラハウスの中ですら、
思わず耳を覆いたくなるほど大きい。
一人でマイクロフォンをつけて歌っているのか?と思うほどです。
その尋常でない声のサイズのせいだと思うのですが、
特に、”Celeste Aida(清きアイーダ)”では、声のコントロールがままならない、という感じで、
一フレーズの終わりごとに、ぴょろん!と声が微妙にひっくりかえるのが気になりました。
Celeste Aida~ (ぴょろん)
forma divina~ (ぴょろん)

ひ弱なラダメスは論外なので、大きな声はまだよいとしても、
もう少し繊細な歌いまわしと特に立ち上がりでの声のコントロール、これが重大課題!とベルティに一方的に課題をつきつける私なのでした。
(後ろの方の幕では、コントロール面ではやや良くなっていたとはいえ。。)

ブラウンの声は、黒人女性独特のややくぐもった響きを有していますが、
決してアイーダ役には悪くない声質だと思いました。



特にえてしてスピント気味に走りがちで、上品さを欠いた歌唱が一部のアイーダ役の歌手に見られるように思うのですが、
(もともとアイーダを歌う予定にされていたグレギーナはそういった意味で、
私はこの役での彼女が好きではないのです。)
彼女の声にはどこかしらほわんとした上品さがあるのが、
エチオピアの女王という役柄にそぐわしくて、好感度高し。
ただし、今日は高飛車な気分の私から、ベルティに続いて課題を二つ。
一つ目は、最高音での土台がよわいこと。ピッチそのものは正確なのですが、
突然音の響きが弱くなる。
この欠点は絶対に何とかしないと、今後キャリアをふんでいくうえで命取りになる気がします。
二つ目は、これから経験次第でおおいに何とでもなると思いますが、
(まだ彼女は3年前にメト・デビューを果たしたばかりの若手)
もう少し声そのものの要素以外のものを巧みに使ってほしい気がします。
たとえば、間とか、演技といったもの。
演奏会形式ばりの直立不動の歌唱、またはまるで形式だけなぞったような演技だったのがやや気になりました。

さて、肝心のザジックですが、今日はおそらく今まで聴いたなかで最もコンディションが悪かったのです、残念なことに

ラダメスの”清きアイーダ”のあとの、
アムネリスの最初のフレーズ、
Quale insolita gioia
Nel tuo sguardo!
を聴いて、ああ、今日は厳しいなー、と思いました。
調子がいいときの彼女はもうここの部分だけで、豊かな響きで、うっとりさせられるのですが、
今日は、一枚スクリーンをはさんでむこうにいるのかと思うほど。




いつだったか、一幕を歌ったところでアレルギーがひどくなって、
ニ幕以降、アンダースタディと交代したことがありましたが、
その時をも思わせるような。。
多分、今日は今シーズンのアイーダのプレミアだったこともあって、
降板しにくかったのか、無理を押して歌ってくれたようですが、
後半に力を残しておけるよう、一幕目、ニ幕目と、かなりセーブして歌っていました。
そこは長年この役を歌って掌中におさめている彼女なのでなんとか無難にまとめていましたが、
彼女の実力はこんなものじゃありませんのよ!とほぞを噛む思いでした。

第一幕第二場の巫女のシーンでは、
リンデマン・プログラムの参加者のCourtney Millsが巫女役で頑張ってました。
この役で音がはずれる(結構難しいフレーズなのです)、声が小さい(舞台裏で歌う役なので客席までほとんど声が聞こえてこない人もいる)、などというのは当たり前によくあることを思えば、
声も十分通っていて、フレージングも丁寧で、なかなかよかったです。
新進のソプラノが起用されることも多いこの役、
カラスがアイーダを歌った公演で、なんと、サザーランドが巫女役だった例もありますし、
それにあやかって今後の活躍を期待します。

さて、王(アムネリスの父)役のKavrakos。
この人こそは、ちょっとやばいのではないでしょうか?
上のDVDでも同じ役を歌っていたのですが、あれから18年。
声にとてつもない衰えが見えます。
あまり出番がないとはいえ、エジプト王がこんな情けないの、私はいやです。

それにひきかえ、司祭役のコロンバーラは、
出すぎず、しかし要所をおさえた歌唱で安心して聞くことができました。

第一幕が終わったところで、お隣に座っていたご夫妻のだんなさんの方が、
はじめてメトでアイーダを鑑賞するとみえ、
”やー、すごいですねー”とおっしゃるので、”はい”と答えておきましたが、
このプロダクションの白眉は第二幕、まだまだいいところはこれからです!

第二幕第一場、
アムネリスがアイーダを罠にひっかけて、二人がラダメスをめぐって恋のライバルであることが明らかになる大切な場面。
少しザジックが声量を増やしてきましたが、まだまだ本領の半分くらい。
このシーンはアイーダ、アムネリスとも、もう少し熱くなってほしかった。
特に”戦況さえ違えば私だって王女なのよ!”とアイーダがアムネリスに口答えをするシーンは、
もっともっと緊張度があってよいはず。
一因は、ぬかるみに足を取られたようなオケの演奏にもあるのですが。
アムネリスの、mi segui e apprendrai se lottar tu puoi con me !
(私に刃向かったら、どんなことになるか思い知らせてあげるから)というとどめの言葉の、
最後のmeで、オペラハウスを震撼させたザジックの歌唱を知る私としては、
今日の彼女のこの場面はちょっと寂しかったです。

第二幕第二場、凱旋の場。

このシーンは何回見てもこのメトのプロダクションにはわくわくさせられます。
まず、頭がいい。
このシーンのセットを楽しむには、できればパーテール、グランド・ティア、バルコニーのいずれかで正面から見たい。
平土間では全体を満喫できません。
DVDでも、このシーンの出だしのわくわく感を十分に伝えきれていないのが残念。
ここのシーンはメトの舞台の高さを生かした設備とセットなのですが、
今テレビがいかに大画面になっているとはいっても、メトの舞台とは大きさが違う。
あのDVDからは舞台で何が起こっているのか、いまいちわかりにくい、
それがこのDVDの唯一の難点といえるでしょう。
(まるで、カメラのほうが上がっていっているような印象を与えますが、
あれは実はステージの方が動いているのです。)

メトの舞台は何面かがエレベーターのようにローテーション可能になっていて、
その仕組みを利用して、
一場のあと、あの凱旋の場冒頭の金管のメロディーをバックに二場のセットが上から降りてきます。
手前に観客に背中をむけて、やりをもって立つ数人のエジプト軍の兵士。
やがて、そのむこうに王の玉座とおびただしい数のエジプト市民、司祭たちの姿が見えます。
凱旋帰国したエジプト兵たちが下手から上手へ次々と行進し、
ついには馬まで!
ここでは私のお隣の例のだんなさまも”ほほほーっ!”と感心+あきれ返るのみでした。
だから言ったではありませんか!いいところはこれからだと!!
その方のリアクション、まさに、”よくもまあ、ここまで!”という感じだったのですが、
メトの良さは、そのよくもまあ、ここまで!というのを実現し続けているところでしょう。
オペラは絶対にエンターテイメントなのであって、それを忘れた自己満足的な演出が最近世界のオペラハウスの赤字経営に言い訳を得て
のさばっているのは私のような人間から見ると嘆かわしいかぎり。
このよくもここまで!というover the topさこそが、オペラの魅力の一つ。
メトには頑張り続けてほしいです。


(アイーダ役のアンジェラ・ブラウンとアモナズロ役のDobber)

しかし、残念ながら、指揮とオケの演奏が一番しっくり来なかったのも、
このシーン。
とにかく、重い!重すぎます!!!
ここは、最も大野氏のやりたいことがオケの人たちに伝わっていないように感じられた場面でした。
っていうか、私も何がやりたいか、よくわからなかったので、オケの人たちを責められますまい。
その微妙な迷いが、同じ楽器で複数演奏者がいるパートで音の出だしが完全には合っていなかったり(本当に微妙でしたが)、
あとはザジックの歌の入りが遅れたり、といった、細かい乱れの原因になっていたと思います。
あとは、少し表現がこじんまりとまとまりすぎているかな、という気もしました。
この場の最後の、何とびっくり、王の、
”ではラダメス君はご褒美にうちの娘アムネリスと結婚するがよい”という、
ラダメス&アイーダにとっては、超びっくり+大迷惑なご褒美宣言に、
二人が苦悩し、アムネリスが”おほほほ、そーれ御覧なさい、だから言ったでしょ!”と喜ぶシーンは、
このオペラの最大の見所の一つ、
大爆発してほしいところなのだが、歌唱陣、オケもおとなしすぎた。

さて、そんな指揮とオケでしたが、
三幕と四幕以降は、大変ソリッドな、いい演奏だったと思います。
特に、四幕第二場の、ラダメスとアイーダが一緒に墓室で死んでいくシーンの処理はなかなか。
アイーダとラダメスの唱和が終わって、
アムネリスがPace t'imploro(安らかに眠りたまえ)と歌うのに掛け合う
弦のメロディーでは、ヴァイオリンのセクションが鍛冶場の馬鹿力をだして、
ほとんど消えそうな弱音で美しくしめてくださって、
もう、ここだけでも私は満足でした。
また、アイーダとラダメスの対話のシーン(第三幕)でのトランペットの二人の掛け合い、よかったです。

ニ幕での登場場面でもあまりぴんと来なかったアモナズロ(アイーダの父)役のDobberですが、
第三幕でますますその感が強くなりました。
この役は短い出番の間に、とにかくその存在感で勝負しなければいけないのですが、
今まで見たどんなアモナズロよりも存在感薄し。
”お前は単なるエジプトの奴隷になりさがったのか!”と自分の娘アイーダを罵倒するシーンでも、
怒りが十分に伝わってこない。
それよりも何よりも、私が一番頭に来たのは、この人、どんな時にものらりくらりと動いて、
全然急いでくれないこと。
三幕の最後、アムネリス&司祭組の追っ手が、すぐそこに迫ってきているのに、
悠々と岩山を歩いて登ってる!!
少しは急いでくれよ!!!こういうストーリー・ラインを全く無視した演技、許せません。
おかげで追っ手は走るに走れず、”とっつかまえな!”と命令されているのに、
その場でおろおろするのみ。
一時期のパヴァロッティのように、太りすぎて動けません、っていうならまだしも、
どちらかというとひょろりとした体型なのに、怠惰なアモナズロ。。。ありえない。
別キャストの時に見れるポンスに期待することにしました。

第四幕第一場は、このオペラの中で私の最も好きなシーンで、
ザジックが本領を発揮していれば、素晴らしいシーンとなることは間違いなかったのですが、
今日は残念ながら熱く語ることができません。

と、こういうことで、前半のオケの演奏の重さと、歌唱陣の意外な苦戦で、
本来のこの作品の良さが生きていなかったのが本当に残念。
時に、立派なセットがこころなしか、疲れて、しかも数日前に見たルチアなんかと比べると古く見えたのは気のせいか?
いえ、どんな立派なセットも、素晴らしい音楽を伴ってこそ生きるというもの。
それを忘れてはいけませんでした。


Angela M. Brown (Aida)
Dolora Zajick (Amneris)
Marco Berti (Radames)
Andrzej Dobber (Amonasro)
Carlo Colombara (Ramfis)
Dimitri Kavrakos (The King)
Courtney Mills (A Priestess)
Conductor: Kazushi Ono
Production: Sonja Frisell
Grand Tier D Odd
ON

***ヴェルディ アイーダ Verdi Aida***

LUCIA DI LAMMERMOOR (Mon, Sep 24, 2007) Part II

2007-09-24 | メトロポリタン・オペラ
Metropolitan Opera Opening Night Gala

<Part Iから続く>

第三幕の嵐の場。
巨大な壁にほんの小さな窓があいただけのエドガルドの城。
その壁に稲妻が映されました。
ここでもちゃんと折り目を正してくれないジョルダーニに、
体に虫か何かが這い上がってくるような気持ち悪さを感じる。
お願いだから、正確に歌ってください!!!
Kwiecienは、相変わらず体の動きがぎこちないものの、安定した歌唱を披露してくれました。

舞台は変わって、レーヴェンスウッド城。
舞台中空に横に走る廊下と手すり、そこかららせん階段がみんなが集まっている広間に下りています。
後ろには巨大な月。
婚礼を祝う客に、即刻中止を命ずるライモンド。ルチアがアルトゥーロを殺害したこと、
正気を失ってしまったことが明らかに。

いよいよ最大の見所、狂乱の場。
デッセイ、この人の演技力は、本当に本当に必見です。
くだんの廊下を狂気の様子で歩きながら、片手に持ったナイフを何度も何度も
もう一方の手に持った花嫁衣裳のベールでふき取っているのですが、
その動きがまさに狂人なのです。
歌が始まる前にすでに私は怖くなりましたです。
螺旋階段途中に待機している給仕の男性に、これまた狂気のおももちで近づいていくと、男性はあまりの怖さにちりぢりになってしまいます。



演出ということを忘れるくらいの怖さ!!
そこから、血が塗りたくられたヴェールを階下に落としてみせるルチア。
ヴェールが落ちてきたのを見て、下にいた招待客は飛び逃げます。
”彼の優しい声が Il dolce suono”。
もう、デッセイはこ憎たらしくなるくらい、今日は絶好調。
ユニークだったのは、通常フルートとのかけあいとなる部分で、
わざとオケに何も演奏させず、彼女が本来オケの楽器が担当するメロディーまで歌った点。なので、同じ旋律を二回とも彼女が自分で自分を繰り返すわけです。
また、一部のフルートの旋律のかわりに、グラス・ハーモニカ(Cecilia Brauerという演奏家を特別に呼んだらしい。)という楽器を使っているのですが、
これが、何とも幻想的な、味わい深い音がするのです。
デッセイのCDで、彼女がなんとフランス語でルチアを歌っているものがありますが(これまた、かなり強烈なしろものです。)、
ここで確か、このグラス・ハーモニカが使われていたと記憶しています。
私は実演でこの楽器を聴いたことが今までなかったので、大変に新鮮でした。
それから、もう一つは狂乱の場の前半最後の高音を出さなかったこと。
むしろ、あっさり終わらせていて拍子抜けでした。
今日の彼女のコンディションを考えると、難なく出せたはずなので、
タイミングがあわなかったか、後半との兼ね合いを考えてあえてそうしたのか、そこは少し図りかねます。

狂乱の場後半の、”この世の苦い涙を Spargi d'amaro pianto"。
もうここは私、寒気すら覚えました。
最初のSpargi d'amaro piantoを歌いながら、ヴェールをずたずたに手で裂いていくのですが、
その裂いていく様子が、もうまさに狂人!で、こう、取り付かれたように、
同じ動作を意地になって繰り返しているのですが、
すごいのが、歌のリズムと、ヴェールを裂くリズムが違うのです。
だけど、どちらもそれぞれはまるで正確に繰り返しいて、あまりの怖さにぞっとしました。
で、そんな狂気満点なのに、歌は歌でとてつもない完成度なのです。

おそらく、この”この世の苦い涙を”が、最もコンヴェンショナルなヴァリエーションでしたが、
最後階段を飛び上がり始める前に、”ぎゃーーーっ!”(まさに狂人。。これには観客の中にも飛び上がるくらいびっくりしている人がいました。)
というものすごい叫び声をあげたあと、



最後の高音を叩きのめし(ここは高音出してくれました。しかも、それがあの大きいメトをゆるがす高音ですから半端じゃありません)、
狂気から気を失って招待客の腕に倒れこむと、
観客から嵐のような拍手が沸き起こりました。



ここでの拍手があまりにすごかったため、なんと次の場で、
ジョルダーニがまさかまさかの大拍手をもらうというアフターマスが。
嘘でしょ?彼は音、外しまくってたのに!
しかも、このシーンでいきなり聴こえてきたチェロの旋律。
ああ、これは私のお気に入りの!!
この人のチェロ、すごい存在感なんです。
ああ、麗しい音。。とうっとりしているところに、なんとエドガルド(=ジョルダーニ)の旋律がかぶってきた!
げっ!折りの甘い歌唱で、この美しい旋律を汚すんじゃないわよ!

最後、エドガルドが自分の命を絶つシーンで、先ほど一幕のところでふれた亡霊が再登場するのです。
今回は女優さんではなくて、なんとデッセイ本人が白塗りで亡霊を演じています。



今回は前回と違ってルチアの霊と考えるのが自然だと思うのですが、
すーっと亡霊が後ろに現れたかと思うと、つつーっとエドガルドのそばによって、
彼が自分の命を絶つ決心を歌うのと前後して、ゆっくりと彼のナイフをつかんで、
彼にナイフを持たせて、刃をたてるのを手伝うのです。
まるで、ルチアがエドガルドを自分のそばに呼び寄せたくて、殺してしまうかのように。。



台本そのものがスリリングな他のメジャー作品とちがって、
下手な演出と下手な歌手(特にルチア役)が揃うと、惨憺な結果になりえたルチア、
これはメトにとってかなり大きな賭けだったと思うのですが、ものすごい勝ち星をあげてくれました。
私個人的には去年のプレミアの蝶々夫人よりも、数段観る価値のある公演でした。
この好調なメト・シーズンの滑り出しに、私も大変嬉しい思いです。
(今年のプレミアもリンカーン・センター前の広場とタイムズ・スクエアの大スクリーンで生中継されました。)



カーテン・コールにあらわれたデッセイは、わざとすっ転んだ振りに続いて、
身振りで、”転ぶのはちょっとだめだったわよねー”とおどけて見せてました。
(一幕の最初のアリアでのラストの部分のこと。)

また、よっぽど今日の歌唱が自分でも満点だったのか、ガッツポーズまで!
この人、公演が終わるとものすごいハイパーなちょっと不思議ちゃんキャラともいえるキレぶりなのですが、
その普段のキレぶりとは全然違う種類のキレぶりを舞台では見せてくれたのでした。
ここまで本当に気が狂っているように見えたルチアは私、今までの鑑賞歴で一度もありません。
また、今日のように調子のよい時の彼女はあの細い体のどこからこんな声が出てくるんだ?というくらい響きのしっかりした、
音量的にも不足ない声を聞かせてくれます。



歌唱的なことをいうなら、デヴィーアとかカラスなど、正統ベル・カントが好みの私ですが、
彼女は全く違うベクトルのルチア像を、とんでもない完成度の高さで今日、見せてくれたように思います。
この公演を見るに、彼女はアリアだけを聴くよりも、
絶対に全幕を通して見たい歌手、その思いを強くしました。

Natalie Dessay (Lucia)
Marcello Giordani (Edgardo)
Mariusz Kwiecien (Lord Enrico Ashton)
John Relyea (Raimondo)
Stephen Costello (Arturo)
Michaela Martens (Alisa)
Michael Myers (Normanno)
Conductor: James Levine
Production: Mary Zimmerman
Dr Circ A Odd
ON
***ドニゼッティ ランメルモールのルチア Donizetti Lucia di Lammermoor***

LUCIA DI LAMMERMOOR (Mon, Sep 24, 2007) Part I

2007-09-24 | メトロポリタン・オペラ
Metropolitan Opera Opening Night Gala

浜にうちあげられた魚のごとく、オペラという水にふれることができず、息も絶え絶え、
まさに白目をむいてえら呼吸、だったこの4ヶ月。
遂に、遂に、その私が海に戻る日がやってまいりました。

そう、いよいよメトの2007-2008年シーズンの到来です!!
しかも、去年のシーズン・プレミアで私の大好きな『蝶々夫人』が観れたのに続いて、
なんと今年はこれまた私の大好きな『ランメルモールのルチア』(理由はこちら)でキック・オフ。
幸せすぎる。

思い返せば去年の『蝶々夫人』では、仕事を終わらせてからぎりぎりでオペラハウスに向かったため、座席にかけこみ。
ゆっくりと雰囲気を楽しむ暇もなかったので、今年は少し早めに到着して、
正面階段を上がったところからピープル・ウォッチングをすることにしました。




見渡す限りの人、人、人。
そんなわけはないのですが、普段の公演の倍くらい人がいるような印象を受けます。



とにかくこの日は、みんなこれでもか、というくらいドレス・アップしていて、
見ているだけで楽しいのですが、
ふと隣を見ると、なんと、びっくり、シャンパン片手にオースティンが立っているではありませんか!
ああ、あれから一年経ったのね、と感慨深い気分に。
だけど、なんでまたしてもあなたが!と軽い驚きを覚える。

いよいよオペラハウスに到着した人々の怒涛のような波が押し寄せ、なんとその中にネトレプコ発見!



しかし、あまりにものイモ洗い的状態に、意外とオペラハウス内のまわりの人は気付いていない様子でした。
(二度目のインターミッションでは、女子トイレでジェーン・フォンダと遭遇。



映画 Monster in Lawそのままのルックスでしたが、雰囲気はむしろ、気さくな感じでした。)

いよいよ着席の時間になり、支配人ゲルプ氏の”ルチアーノ・パヴァロッティとビヴァリー・シルズという、
この夏に亡くなった二人の偉大な歌手に黙祷を捧げましょう”という言葉のあと、
オペラハウス内は30秒ほど、完全な沈黙に。
こんなにたくさんの人がいても、こんなに静かになれるんだ、と驚くほどでした。
そして、オケの伴奏によるアメリカ国歌 The Star-Spangled Bannerの斉唱があり(シーズン・プレミアの日には必ず演奏される)、
おもむろに指揮のレヴァインがオーディエンスの方を振り向いて指揮をとり始めたのですが、
いやー、聴衆の歌のそれはひどいこと!
舞台に乗るのが我々でなくて、本当によかった。。
無事(?)国歌の斉唱が終了し、いよいよ開演です。


前奏曲の管楽器の音に、天にものぼる思い・・が、
あれ?オケが少しかみ合ってないかも。

前奏曲のみならず、通しでのオケの演奏の印象を先にいうと、
部分的にはいいところもあったのですが、
特に公演の前半、ホルンがやや不安定なのが気になったのと、
公演全体を通しての、レヴァインのスタイル感の欠如が痛かった。
このあたりのベル・カントものって、歌唱のみならず、
オケの演奏にもスタイルが要求されると思うのだけど、全然、らしく聞こえない。
一生懸命いろんな細かい細工をしたりしているんですが、どうもぴったり来ないのです。

そんな中歌いだしたノルマンノ役のMyers。
大きな役ではないとはいえ、もうちょっといい人いなかったんですかね?
出だし、大切なのに、声がオケに埋もれてます。
あんた、隊長でしょうが!もうちょっとしっかりしてよね!

ただし、合唱は新しいコーラス・マスターになったせいもあってか
昨シーズンより随分いいです。
去年までは男声はまずまずとしても、女声の乱暴な発声がとっても気になっていたのですが
今日の公演ではむしろ、男声の方で、少し子音の発音のタイミングがあっていないのが気になる部分もありましたが、
女声が、去年より格段によくなっていて、これは嬉しい驚き。
今後のレパートリーに期待が高まります。

冒頭の男声合唱の後、エンリーコとライモンド登場。
この二人、Mariusz Kwiecien (エンリーコ) とJohn Relyea (ライモンド) は、
声量も十分だし、見ていて、全く危なげがない。

厳しいことをいえば、歌唱には関係ないのですが、
エンリーコのKwiecienは、もう少し、舞台での歩き方を研究しなければいけないと思います。
なんだか猫背気味なうえに、歩くたびに蹴ったほうの足の裏が後ろにいる人に見えるような妙な歩き方で、
これからノーブルな役柄を演じていくためには、絶対に矯正していただきたい。
(私のような観客はそっちに気がとられて歌に集中できない。)

そして、いよいよハープの音が流れて、ルチアの登場。

Ancor non giunse!(あの方はまだいらっしゃらない)

この第一声で、今日のデッセイは調子よさそう!と思いました。
そして続く”あたりは沈黙に閉ざされ Regnava nel silenzio”。
ビヴァリー・シルズの追悼会での歌に関しては、少し高音がシャローに聞こえる、と書きましたが、
今日は全くのびやかで、高音もよく通っています。
今日の歌唱の方が、CDで聴いていた歌唱に近い感じ。
声の質に関しては、若干好みが分かれるかもしれません。
声そのものに、少しぴゃら~っという響きがなきにしもあらずで、
デヴィーアやカラスのような骨格のしっかりした声が好きな向きには
何これ?という拒否反応がおきるかもしれませんが、
それで聴かずにおいてしまうのは、勿体ないです。

彼女のヴァリエーション(自分でつける自由な装飾)もまた、結構独特で、
カラスやデヴィーア、サザーランドあたりを聴きなれている耳には、
ちょっと、ちょっと、どこにいくんですか?!と思わされるような節回しもあるのですが、
彼女のすごいところは、自分のしている演技と、ヴァリエーションがちゃんとリンクしているところ。
技巧を見せるための装飾歌唱ではなく、あくまで演技を支えるための装飾歌唱なのです。
これは、ラジオやCDからでは絶対に感じられない部分なので、ぜひ実演を、
できれば全幕で見ていただきたい!
オペラを初めて観る人が、ベル・カントとはどういうものか、というのを知るのに、
一番最初に彼女を聴くのは危険かもしれませんが(あまりに独特なゆえに。。)、
少しでもオペラになじみのある人なら、この強烈な個性は無視できないものだと感じました。

”このうえない情熱に心奪われた時 Quando rapito in estasi”の、
最も盛り上がる部分では、舞台の奥から前に走り出してきたのですが、
板にゆるい勾配がついていたために、勢いがつきすぎて、
デッセイ転倒!というハプニングもありました。
しかし、そんなアクシデントはものともせず、あたかももともとそういう振り付けであったかのように、
柔軟体操の開脚のような姿勢のまま(お尻を床につけたまま)最後まで歌いきった舞台度胸はさすが。
もちろん、歌唱の方にはまったく影響なし!すごい人です。
今日の彼女は本当に絶好調ともいえる出来で、最後の高音もものすごいボリュームでたたき出してくれました。
しばらく鳴り止まない拍手に、本人も会心のできだったのか、その場で飛び上がって喜んでました。ちなみにまだ舞台は続いてるんですが。。
(そう、彼女は結構エキセントリックで、それ、普通のオペラ歌手はしないでしょ!ってことを結構やってくれます。)

エドガルド登場。
もう、本当に、私、このジョルダーニというテノール、苦手なんです。
私が小さいころ、折り紙の千羽鶴がうまく折れずにふてくされていると、父にこういわれたことがありました。
”最初から一つ一つ丁寧に正確に折らへんから、出来上がったときにぶさいくになるんや。”
まさに、この言葉、ジョルダーニに捧げたい!
いや、実は、今日の彼は、今まで聴いた中で最高の部類の出来でした。
声には今までになく張りがあったし。。。
しかし、そんな最高の部類の出来が、これか!と思わずにはいられない。
彼の特徴は、リズムが甘い、メロディーの取りかたが甘い。
もうちょっとでいい歌唱になるのに、どこか折り目が甘いんです。
だから、できあがった千羽鶴=全体の歌唱がどこかぴりっとしない。
今日も、ルチアとの二人のシーン、ルチアの家系への恨みもたっぷりに、
Io potrei, si, si, potrei compirlo ancor!(私は誓いを果たすことができる、
そうだ、まだあの誓いを果たすことができるのだ)
と歌い上げるところ、
それから、エンリーコに向かって、”お前を殺す!”と宣言するところ、など、
大事なところでことごとく外してました。



ここまで第一幕は、舞台上手に泉(井戸)を配したお庭が背景。
第一幕 第一場では、このセットの上手側を隠して、緑だけが見えるように、
第二場ではその隠していた壁を取り払って、泉を見せ、
バックには下手側に一本の木の陰(影絵のように映し出された)を配置、
だんだん明かりの色が変わって、夜が明けていく様子が表現されました。
色使いが大変美しく、またストーリーの邪魔立てをしない演出で、
なかなかよろしかったと思います。

また、きわめて効果的だったのは、ルチアが最初のアリアを歌う際に、
真っ白い衣装を着けて、顔も白塗りの亡霊を登場させたところ。
(女優さんが演じている。歌の中で、ルチアが語っている失恋して命を絶った女性の霊だと思われる。)



ただ、舞台をななめにゆっくりと歩いて行くだけなのですが、
これがなんだかウォルター・スコットの原作のビクトリアン・ゴシックとでも呼びたくなる雰囲気をうまく伝えており、
またこれが最後の幕に生きてきます。詳しくは後ほど。

第二幕の、エンリーコとルチアの対話のシーン。
家系断絶の危機に、政略結婚に協力しないとは何事!とお冠のエンリーコ。
ここでも、Kwiecienが歌っている間に、大きな窓(メトの舞台の上まで届きそうな窓なので、かなり大きい。)にかかったカーテンがいきなり外れて床に落ちるというアクシデント発生。
あまりのことに観衆から笑いがもれる。
Kwiecienは歌い終わった後、窓の外を見る演出だったのが、
足元にどっさりと布がたまっているため、窓に近寄れなかったのを逆手に、
カーテンがあった場所を上から下まで眺め回して、
”どうしてこんなものが落ちてきたかな?”という演技をして笑いを誘ったのは機転上手。

エンリーコに代わって、ライモンド登場。
ルチアにとって、ショックだったのは、
どうせ兄貴はあの性格なんだから、と流してしまえるエンリーコの反対よりも、
むしろ、唯一の味方とルチアが信じていたライモンドの反対の方ではなかったか?
そんな解釈を押し出したのがJohn Relyeaの歌唱。
特に、”私たち(ルチアとエドガルド)は結ばれる約束をしたのです”
(実際のところは、指輪と口頭での結婚の約束を交わしたのみ)とルチアが訴えるシーンで、
”神の御前でなされなかった約束は約束のうちにはいらないのです”と、
ライモンドがおそらくこのオペラ中最初に最後にして、ルチアの意見を一蹴するのですが、
Relyeaがこの部分を、唐突と思えるほどの激しい怒りをこめて歌ったことにより、
もしも、ライモンドがルチアの肩を持ってくれていたら、どんな風に違う結末を迎えていただろうか?
と考えさせられずにはいられなかった。
むしろ、この話の中で、もっともルチアに残酷なことをしたのは、
エンリーコではなく、ライモンドではなかったか?と。。

ここで、家具にかかっていた白布、窓にかかっていたカーテンが取り払われ、
(外れるように作ってあったために、落ちてきてしまったと思われる。)
婚礼の場のシーンへ。

ここで登場する人々の衣装やら、結婚誓約書を書いた後、みんなの集合写真をとらせるために、写真屋を登場させていることから、
どうやら、原作の17世紀から、19世紀の半ばに舞台を移しているように見受けられました。



セットが大変美しいため、余計に、写真屋が道具を担いであらわれたときは、
”それはどうなの?”とちょっと懐疑的だったのですが、
演出上の欠点となるぎりぎりのところで踏みとどまっていたようには思います。
それにしても、多少微妙なアイディアかもしれません。

さて、アルトゥーロという、比較的小さな役ながら、好印象を残したのが、Stephen Costello。
素直な美しい声で、歌いまわしも丁寧。これがメトデビューだそうなので、
これからどんどん活躍の場を広げていってほしい。
私はこの人の、きちん、きちんと、決めるところを決めてくる歌唱を聴いて、
あんな肝心なところでいつも失敗!のエドガルドより、普通、こっちのアルトゥーロと結婚するでしょ?と思ったくらいです。

ルチアが無理やり結婚誓約書にサインをさせられるシーンは、
他の演出では、無理やりエンリーコに腕をつかまれてサイン、というのもありますが、
むしろ、周りの人間が精神的にルチアを追い詰めて、ルチアがやけを起こして
一気にサインをしてしまう、という流れになっていたのが興味深かった。
デッセイが、いきなり紙をひったくるようにしてサインをしたあと、
ペンを机に投げつけたまさにそのときに、エドガルドが館にあらわれるのです。
何という運命の皮肉!!



ここから、二幕の終わりまでは、主役級の歌手たちのアンサンブル力とあいまって、
公演中もっともオケの演奏も引き締まった部分で見ごたえがあったのですが、
いきなり私のななめ後ろで気を失われた方が発生!同伴していた人が、またその気を失った人の名前を連呼するもので、
心臓発作で亡くなられたりしては!とこちらまで肝をつぶしました。
結局はまもなく意識を戻され、ことなきを得ましたが、気がついたら、
一番盛り上がった部分が終わろうとしていました。涙です。

<Part IIに続く>


Natalie Dessay (Lucia)
Marcello Giordani (Edgardo)
Mariusz Kwiecien (Lord Enrico Ashton)
John Relyea (Raimondo)
Stephen Costello (Arturo)
Michaela Martens (Alisa)
Michael Myers (Normanno)
Conductor: James Levine
Production: Mary Zimmerman
Dr Circ A Odd
ON
***ドニゼッティ ランメルモールのルチア Donizetti Lucia di Lammermoor***

A TRIBUTE TO BEVERLY SILLS (Sun, Sep 16, 2007)

2007-09-16 | 演奏会・リサイタル
今年のオフ・シーズンは、ビヴァリー・シルズに続いてパヴァロッティが亡くなるというオペラ・ファンにとっては大変寂しい出来事が続きました。

世界的な知名度では、パヴァロッティに敵いませんが(というか、オペラ界で彼に敵う人はほとんどいない。)、
ビヴァリー・シルズはニューヨークのオペラ・ファンにとって特別な存在でした。

① 生粋のニューヨーカーである(ブルックリン育ち)。
② ルドルフ・ビング(メトの歴史上、いい意味でも悪い意味でも最も有名な総支配人)のご寵愛がなかったために、
テレビやらで全国的な知名度を誇りながらも、メトに呼ばれたのは引退のたった5年前。
それまではずっとニュー・ヨーク・シティ・オペラのスターとして活躍。
③ プライベートでの不運(お子さんは耳が不自由)にも関わらず、いつも明るいパーソナリティで知られていた。
④ 引退後はメトのボード・メンバーとして、幅広いネットワークを駆使して寄付金調達に尽力。
メトのギルド・メンバーだった人なら、彼女の署名入りで送られてきたいくつもの寄付金依頼の手紙を覚えている人も多いはず。。
⑤ 引退後は、メトの土曜マチネのラジオ&テレビ放送でも活躍。ライブHDで、ドミンゴなどにインタビューしていたおばちゃんが彼女です。

一時期、NYのイエローキャブに、扉が閉まる度に、”安全のために、シートベルトをしましょう”という録音メッセージが流れるものがありましたが、
(そういや、最近見ない。あれはドライバーの間での一時の流行だったのか?)
男性版はドミンゴ、女性版はビヴァリー・シルズの声でした。
あの頃は、ドミンゴはともかく、なんでビヴァリー・シルズ??と思ったものですが、
こうやって彼女の経歴を見ると、なるほどなー、と思います。

その彼女をしのぶ会が今日行われました。
チケットは何と無料で、12時から配布開始。
一人二枚限定、早い者勝ち。
ドミンゴやらネトレプコ、デッセイといった豪華な布陣もあって、
チケットがまたしても熱い争奪戦になることは間違いないものの、
歌の数が極めて少なく、四曲中一曲しかオペラのアリアではないこと、よってオケが入っていないこと(私は”オペラ”が好きなので、それではちょっと物足りない。贅沢言ってすみません。)
また、週末はmyわんことの時間を大切にする!というのが私のモットーであることなどにより、
チケットが取れなければ、ラジオの生放送を聴くというチョイスもあるので、
9時半までは犬の散歩を実行し、その後オペラハウスに向かいました。
当然のことながら、すでに長蛇の列で、”7時から並んでんのよ、私たち。”と言うギャルたちも。
本を読みながら2時間過ごす。とうとう列が動き始め、先頭の方がオペラハウスに入り始めたものの、ここからがさらなる拷問。
即席で作られた順路をこれでもか、というほど歩かされ、やっとボックス・オフィスまでたどり着く。
ああ、この調子だと、もう上の方の席の、それも後ろの方しか残ってないだろうな、と思いながら、
”一枚お願いします”と言って、受け取ったチケットを見てびっくり!
平土間の7列目!端の方だが、フルのオペラだとセット全体が見れなくて、いまいちだけど、
今日は、歌手が常に真ん中で歌うので、ぜんぜん関係ない!
なんてついてるの~
家に向かうバス停で、私のはるか前方に並んでいたはずの女性のチケットが見えたのですが、
2枚、バルコニー席でした。
いい席を取りたいなら一人で行動すべし!一枚だけならいい席を取れる可能性が俄然高くなります。
(この法則は、今まで普通の公演のチケットを間際で買う際にも証明済み。)

朝方並んでいたときは、みんなキャンプにでも行くようなカジュアルな格好で、
しかも、お風呂に入ってない人がいるのか、すえた匂いがどこからか漂ってきて、
こんな人の隣になったらしゃれになんない、お願いだから、会の前にはシャワー浴びてきてよね、
という人が何人か列に混じっていたのですが、
夕方5時前に、オペラハウスに再度あらわれると、なんだか、みんな着替えてきたのか、
朝の格好はどこへやら、みんなちゃんとした格好してる。ほっ。

席に着くと、なんと私のすぐ前に、”7時から並んでんのよ、私たち”のうちの二人が!
この二人がいかにもいまどきの若い子たち、という感じで、
その片方は、これからクラビングですか?とたずねたくなるような赤いワンピ。
その二人の会話中、いきなりブロンドの小娘が
”なんか私たちより全然後ろにいた人がこのあたりにいるけど、なんで?”
と失礼なことを抜かしたので、
”ふん!一人で行動する人へのご褒美なのよ!
だけどさ、あんた、なんで追悼の会で、赤のドレスなんか着てくるわけ?
このTPOをわきまえない馬鹿娘が!”と心の中で叫んでおきました。

やがて、スクリーンにビヴァリー・シルズの昔の映像が映し出され、
彼女の歌声をしばし楽しんだ後、ピーター・ゲルプ支配人からのスピーチ。

そして、ドミンゴとレヴァインが登場。



レヴァインのピアノ伴奏(!!)により、ヘンデルの『セルセ』から、”オンブラ・マイフ”。
選曲によってはまだまだ元気な歌を聞かせてくれるドミンゴなのに、
(ヴォルピ支配人の引退ガラでのサラスエラからの曲なんか、本当に聴かせてくれた!)
この曲が合わないのか、少し元気がない感じがしたのが残念。
だけど何よりも今日の聴衆は一体!
いくら無料でオペラに興味がなく、ドミンゴを聞きにきたんです!という人が混じっているとはいえ、
最後の、二回繰り返される、soave piuの、一回目で拍手が出るという、これは一体何?
っていうか、どうやったらここが曲の終わりと思えるのだろう?
携帯電話の電源を切ってない人もいるし、最悪です。
無料のイベントって、親切な考えだとは思うけれど、私はお金をとった方がいいと思う。
この世の中、お金を払わない限り、与えてもらっているものの価値がわからないという人が多すぎです。
レヴァインのピアノがなかなか良くて驚いた。
(しかし、贅沢な伴奏はドミンゴにしかつかないみたいで、
後の歌手はCraig Rutenbergというアカンパニストによって演奏されました。)

その後、ブルームバーグ市長、バーバラ・ウォルターズ、キャロル・バーネットのスピーチがあって、ネトレプコが登場。
グレーのドレスが似合っておりました。



曲はリムスキー=コルサコフの”夜鳴き鶯(東方のロマンス)”。
彼女はなんか、貫禄が出てきましたねー。
舞台で一瞬にして曲の雰囲気を作り出すところはさすが。
私はRCWSのガラの時に、
彼女に一番合っているのはロシアもの!との思いを強くし、
そのロシアものを歌ってくれたのは嬉しかったのですが、
ただし、変化してしまった声をまだうまく御しきれていないような、若干の違和感が残る歌唱だったのが悔やまれる。
一曲だけ歌うというのは結構難しくて、まだ声が乗り切れていない部分もあったのかも知れませんが、
少し声量のコントロールも、らしくない乱れが見られました。
声変わりしてしまった少年が、新しく手にした大人の声をどうコントロールすればいいのか四苦八苦している、
というのに近いイメージか。
そう遠くなく、時が解決してくれるのを祈ります。がんばれ!

リンカーン・センターのチェアマンBennack氏と、シティ・オペラからSusan Bakerがスピーチを行った後、
John Relyeaが登場。
Susan Bakerが彼を紹介した際の発音では苗字の発音はラリーエに近いのですが、
ここではRelyeaと英語表記にします。

彼の歌は素晴らしかった!
もともとネイサン・ガンの出演(シューベルトのRosamundeからRomanzeを歌う)予定だったのが病気により、
Relyeaが急遽代役で立ったのにもかかわらず、
選曲のよさ(シューベルトの”音楽に寄せて”に変更)と、非常に謙虚な折り目正しい歌唱で、
この会の精神を最も忠実に体現していたのが彼の歌だったと思います。
この豪華な出演者の中で、観客から思わずBravo!の声がとんだのは彼ただ一人。
本人もびっくりしたのか、嬉しそうに顔を紅潮させて退場する姿がほほえましかったです。
いやいや、Bravoに値する素晴らしい歌唱、well-deserved!です。
でもその謙虚さもいつまでも忘れないで~!

ビヴァリー・シルズのお兄さんのスピーチがあった後、
ビヴァリー・シルズが8歳の頃に"Uncle Sol Soves It"という映画に出演し、その中で、
"Il Bacio"という曲を歌うシーンが写しだされました。
その後の声の片鱗はあるのだけれど、持っている技術以上の歌に挑戦しているために崩壊寸前!
”まあ、子供のころのかわいい映像ということで。。”と観客が流しているところに、
その後すぐにスピーチに立った元リンカーン・センターの代表Leventhal氏が、
”ま、完璧なピッチで歌えるまでにはまだだいぶ道のりがあったわけで。。”
といきなり辛口なコメントを!
あの、これ、しのぶ会なんです。。身内の人も出席してるんです。
空気を読めない恐ろしい人です。

続いてシティ・オペラの指揮者、Rudel氏のスピーチがあって、
いよいよトリのデッセイが登場。
ああ、初の生デッセイ。
曲は、R.シュトラウスの”私は花束を編みたかった”。
彼女の声は、CDで聴くのとは全然印象が違いました。
弱音での高音がすこしシャロー(豊かでなくやや空虚な音)になる傾向があり、
声量そのものもはっきり言ってものすごく軽いのですが、
歌へののめりこみはすごいです。
わりと直立不動で歌う人ばっかりだった今日の会で、
一人、身振り手振り熱いしぐさを加えて歌う様子がいじらしい。
しぐさ、というよりも、彼女の場合、内からでてきて押さえられない、といった感じに近い。
弱音でない高音に独特の温かみがあるので、レパートリーによってはいい歌唱が聴けるのではないか、と思いますが、
プレミアのルチアでどんな歌を聴かせてくれるのか、ちょっと想像がつきません。
CDでは軽くても、割とシャープな感じの声質なように聞こえたので、
むしろ温かい声音なのが意外でした。
やっぱり、生で聴くまではわからないものです。

最後にはなんと、ヘンリー・キッシンジャー氏が登場。
ものすごく体に対する頭の比率が大きくてびっくりしましたが、
そのせいなのか何なのか、そのスピーチが、マイクロフォンなしでもOKに思える豊かな声量で、
この人が歌手になってたら、名バス・バリトンになってたんじゃないかと思えてきました。
彼を政治家にしておいたとはなんともったいない!


HANDEL "Ombra mai fu" from Serse
Placido Domingo/James Levine

RIMSKY-KORSAKOV "Nightingale and the Rose (Oriental Romance) - Plenivshis 'rozoy, solovey Op.2 No.2"
Anna Netrebko

SCHUBERT "An die Musik D.547 (Op.88 No.4)"
John Relyea

R. STRAUSS "Ich wollt'ein Strausslein binden Op. 68-2"
Natalie Dessay

Metropolitan Opera House
Orch G Even

***ビヴァリー・シルズ 追悼会 A Tribute to Beverly Sills***

家で聴くオペラ (4) リゴレット 後編

2007-09-09 | 家で聴くオペラ
では見所を頭から。

前奏曲
印象的な金管のフレーズ(呪いの動機と呼ばれ、オペラ中、再々テーマ曲のように現れる。)で始まりますが、ここで公演自体の印象が決まるといってもいいすぎではない。
すかしっぺ(失礼!)のような芯のない音が出てきた日には悲しくなります。
前奏曲が長々としていなくて、観客をすんなりと舞台の世界に放り込むという素晴らしい離れ業をヴェルディがなしとげてくれています。

第一幕 第一場
あれかこれか Questa o quella
マントヴァ公の初の聴かせどころとなる箇所。
パーティーでにぎわう公爵邸で、いきかう女性を品定めしながら、
いきなり遊びと本気は一体!とばかりに一般市民とは違う恋愛感を歌い上げる。
ここで聴衆は、だめだ、こいつは!と悟るのである。
この短い曲に彼の生き方、恋愛観を押し込むというまたしてもの離れ業。
ヴェルディおそるべし。
あっけらかんとした曲ながら、真に軽やかに歌いこなせているテノールは実は少ないように思います。



リゴレット、モンテローネ伯爵に呪われる
モンテローネが娘の身を案じている様子を笑いのネタにしようとしたリゴレットが、
モンテローネから呪いの言葉をはかれる場面。
この呪いをかけられた、という衝撃が、リゴレットの心に以後暗い雲を落としていくのです。意外と小心者なリゴレット。
モンテローネ役は実演ではかなりのおじさんが担当することが多く、
時々こけそうに弱々しい声だったりして、がっくりさせられることがあるのですが、
大事なシーンなので、張りのある声で、Sii maledetto!とリゴレットを呪っていただきたい。


(写真は呪いの言葉を受けたリゴレット。メトの2006年の公演から。マントヴァ公はCalleja。
なんと、マントヴァ公の奴、横でせせら笑ってますぜ!なんて極悪人なんだ!!)

第一幕 第二場
リゴレット、殺し屋スパラフチーレに遭遇 
~二重唱 あの老いぼれは呪いおった Quel vecchio maledivami!
呪われた事実をまだくよくよと考えて、や~な気分に陥りながら、帰路を急ぐリゴレット。
そんなところに殺し屋のスパラフチーレがあらわれて、
”ご希望とあれば、金次第でご主人の嫌いな人間を殺してさしあげますぜ!”とリゴレットに知恵をつける。
こんな人が帰り道にこっそりあらわれるなんて、なんて恐ろしい場所なんだ、マントヴァ公国とは。
公爵め、女に血道をあげる時間があったら、治安を何とかしろよ!と言いたくなるが、
リゴレットは今は用はない、とお断りする。

リゴレット独り言をかます
~おれたちは同じ穴のむじな Pari siamo!
このモノローグで、リゴレットが自嘲的に口にする”俺は舌で人を殺し、
奴(スパラフチーレ)は短剣で殺す”というフレーズは、
この一言で、リゴレットが、道化という仕事を全く好きでやっているわけではないことをあらわしつくした素晴らしい一句。

娘ジルダ登場
~二重唱 娘よ、お前は私の命 Figlia! - A te d'appresso
この二重唱の直前、Mi cogliera sventura? Ah, no. e follia.(何か悪いことが?いやそんな馬鹿な!)と、
まだ心にかかる呪いのことを心からふりおとすかのように最後の音を高らかに歌い上げたそのままに、
この二重唱に突入していく構成は本当に素晴らしい。
この二重唱は、今までのリゴレットの外での仮面がはずれて、娘を愛する父親の顔にならなければならないところで、
その突然の変化を観客に違和感抱かせることなく、かつ説得力をもって歌わなければいけない、
第一幕の至難の箇所。
ここで、ジルダのお母さんの話が出てきて、今でもリゴレットが深くこの女性を愛していることがわかるという感動的なシーンでもある。
外に出たがるジルダをとんでもない!!(そりゃ、毎日あのマントヴァ公の悪行を目にしていれば、それは箱入りにでもしたくなるでしょうとも!)
と、”教会だけしか行っちゃいけないよ”、と諭すリゴレット。
だがしかーし!その教会が最も危険な場所だったとは誰が想像したでしょうか?
そう!なんと、マントヴァ公の奴は、そんな教会という神聖な場所でさえ、
女性狩りに励んでいるのであります。
すでに、マントヴァ公は、そのフランスっぽい響きもうそ臭い偽名、
グァルティエル・マルデという貧乏学生のふりをして、
ジルダを引っ掛け済み。ジルダはすっかり彼に夢中になってしまっています。

マントヴァ公、ジルダを自宅までストーキング!
~二重唱 あなたは心の太陽だ E il sol dell'anima
リゴレットがいなくなるのを待って、ジルダの家にしのびこむマントヴァ公。
ここで、要注意は、家の外から二人の会話を盗み聞きして、ジルダがリゴレットの娘であることをマントヴァ公は知っています。
つまり、知ってて自分の身近な使用人であるリゴレットの娘をおとそうとしているわけで、
まあ、もちろんあんな人のことですから、当たり前といえば当たり前なのですが、
それにしてものろくでなしです、マントヴァ公。
しかも、なんだかこの人、女性をおとすプロセスが楽しいと見えて、
いきなり身をあかして詰め寄れば、身分の高さ、金持ちっぷりに近寄ってくる女性もあるだろうに、
わざわざ手をかけて貧乏学生のふりまでしてジルダに忍び寄るという、周到さ。
しかし、この後、ジルダによる、
”あなたが貧乏なのが、いっそういいの”(本当にジルダってば、あなたはどこまでねんねなの!!)という台詞があるので、
相手に合わせてきわめてすぐれた分析をほどこし、作戦を実行したともいえるのである。
やるな、マントヴァ公。



しかし、この計画に手を貸したのがジルダの乳母。おせっかいは本当にやめていただきたい!
外で物音がしたため、リゴレットが戻ってきたのだと思い、あわててずらかるマントヴァ公。

恋に有頂天のジルダ
~アリア 慕わしき人の名は Caro nome
そんな父親が戻ってきたかもしれない、というときに、
恋に血迷って頭がおかしくなったか、グァルティエル・マルデ=マントヴァ公の仮の姿への、思いを歌い上げるジルダ。
素晴らしい名曲です。
ジルダ、あんたはだまされてんのよー!!と喝を入れてあげたい気持ちが、
まあ、でも人は恋をするとこんな風に盲目にもなるわよね、とものわかりのいいおばさんのような気持ちになってくるから不思議。
それほど、恋に夢中になっているジルダの様子が愛らしいのです。
しかし、その愛らしさとは裏腹に歌唱的にはものすごい技巧を要される難曲。
ジルダ役のソプラノのコロラトゥーラの技術がここで試されます。
家に消えていく直前の部分の装飾部分は、歌手に裁量が与えられているので、センスよく歌ってほしいところ。

 ジルダ、誘拐される!
~ 静かに、静かに Zitti, zitti
上のアリアの最後の部分、家の奥に消えながらジルダが歌い終わるところで、
父親だと思っていた物音が実はリゴレットにしっぺ返しをしてやろうとジルダ誘拐(もちろんそのままマントヴァ公行き。)をたくらむ延臣たち
(ただしマントヴァ公と違って、彼らはジルダが娘だとは知らず、
愛人だと勘違いしている。)で、
その延臣たちが誘拐を実行するひそひそ声が、かぶってきて、
ものすごい効果をあげています。
オケの伴奏をミニマムに抑えて、イタリア語の響きを利用したこのシーンも本当によくできてます。
そこにリゴレットもなぜだか戻ってくるのですが(一体どこに行ってたんだか。)、
暗闇にまぎれて彼に目隠しをして、チェプラーノ伯爵夫人を誘拐しているふりをしながら、
その実、実の娘ジルダを誘拐する計略にうまくのせてしまいます。
はしごを押さえながら、自分の娘がまさにそのはしごを通って誘拐されようとしているのもしらず、
”まだかな、長いな”と悠長なことを言っているリゴレット。
みんなにおいてきぼりをくらい、ようやく様子がおかしいことに気付いたリゴレットは目隠しに気付き、それを外すと、
とうとう自分が自身の娘の誘拐に加担してしまったことを知ります。
気も狂わんばかりで娘を探し惑うリゴレット。
時遅しと理解したリゴレットは、これこそあの呪いだ!と呆然とします。

第二幕 
本気遊び男の憂鬱
~ アリア 頬の涙が Parmi veder le lagrime
もうちょっとのところで不本意にもジルダ宅を去らなければいけなかったマントヴァ公は、
柄にもなく、ジルダのことを案じてアンニュイになってます。
まさに本気遊び男特有の性質ですな。
その思いを歌いあげるのがこのアリア。
ちょっとはかわいいところもあるんじゃん!と思いきや、そんな同情は無用!
例の延臣たちが公爵邸にもどってきて、”いいササゲモノがありますぜ!”
と”リゴレットの愛人”=もちろん娘のジルダをマントヴァ公に捧げだします。
ジルダがリゴレットの娘であることを知っているマントヴァ公は、
延臣の勘違いにほくそえみつつ、るんるん気分で寝室に消えていきます。
ここは、憂鬱な気持ちから一転、生き生きと”自分にもツキが向いてきたぜ!”
と、
このムードの変化が重要。
この、どうしようもない単細胞のマントヴァ公を、しかし、観客に完全には嫌われることなく演じなければいけません。
なんていってもジルダの心を落とした男性なのですから。
最後の高音が決まると観客が嬉しくなる箇所でもあります。

リゴレットの独壇場 はじまる
~ ララ、ララ La ra, la ra
そこへとうとう一部始終を推測しつくして、怒り心頭に達したリゴレットがあらわれます。
しかし、ここはあくまで公爵邸。
自分を失ってはいけないので、あくまでさりげない様子を装いながら、
ジルダを探します。
前編で紹介した②のディスクのゴッビが歌うリゴレットのこのララの部分を聞くと、
沈鬱な気持ちに交差して、他人に弱みを見せたくないゆえに空元気を見せてみたり、
また怒りとフラストレーションがあらわれたり、
ララという単純な、かつその言葉自体には何の意味もない音の中に、
無数の感情が込められていて、胸が締め付けられます。

ついにジルダがマントヴァ公の寝室にいることを知ったリゴレットは、
寝室に乱入しようとしますが、主人の寝室、しかも使用中の寝室に、
臣下が乱入するなんて、当然のことながら許されることではありません。
延臣にはがいじめにされ、ついに”彼女は自分の娘なんだ!”と怒りを爆発させます。
思いがけない事態に、”やべー。。。”という面持ちの延臣たち。

リゴレットの最大の見せ場あらわる
~アリア 悪魔め、鬼め Cortigiani, vil razza dannata
怒りを爆発させる前半から、どうか娘をいまからでも救ってほしいと一人一人の延臣に泣いて頼むラストまで、
息をつかせぬアリア。
思い起こせば、まわりの延臣やら貴族たちを笑いものにして生きてきて、
心の底では最大級に軽蔑しまくってきたこの人たちに、
何かを泣いて頼まなければいけない、こんなことは今まで一度もなかったはずのリゴレット。
そんなリゴレットの様子をみて、途方にくれ、あさっての方向を見て、
我関せずをきめこむ延臣たち。
彼らにも言い分はあります。
あのマントヴァ公からジルダを取り返そうとしたところで、自分の身に災難がふりかかっても、
いいことなんて何ひとつない。
だし、リゴレットだっていままでさんざんみんなを嘲笑しまくって、
嫌な思いをさせてきたのだから、お互い様だ。
ここは、そんな矛盾だらけのリゴレットという人物を十分に描きつくさなければいけない、
バリトン役、最大かつ最高の見せ場です。
リゴレット役のバリトンが真の役者なら、とんでもないものが見れるでしょう。

ジルダ、寝室からあらわる
~いつも日曜に教会で Tutte le feste al tempio
~二重唱 娘よ、お泣き Piangi, fanciulla
寝室からあらわれたジルダ。事態を理解したリゴレットは延臣を追い払い、娘と二人っきりになります。
ジルダはとつとつと貧乏学生マルデと教会で知り合ったいきさつやら、
この公爵邸に誘拐されてきた経緯を話します。



厳密な意味ではアリアではないのですが、単独でも歌われることのある泣き調子のメロディーが印象的な曲です。
必死でジルダをなぐさめるリゴレット。

復讐の鬼と化すリゴレット
そんな優しい父親の顔を見せるリゴレットの目に、
マントヴァ公から牢獄行きを言い渡され、”わしの呪いも無駄であったか”
とつぶやくモンテローネ公の言葉を耳にして、
”いいや、この娘を奪われたあなたと私の仇は(って、モンテローネのそれにはあんたが荷担してたでしょうが!)
この私が討とう!
といきなりリゴレットの目に復讐の炎が宿ります。
歌の中でも、”お父様、なんだか怖いわ”とジルダにまで恐れられる本気ぶり。
必死にとめようとするジルダに聞く耳を持たず、
マントヴァ公への殺意をつのらせるリゴレットなのでした。
ここはその狂気というか、マントヴァ公を殺すという考えにリゴレットが喜びをいだいている様子を歌いだしてほしいです。
音楽はすでにその不気味な喜びを表現しつくしていて、ヴェルディ、またしても素晴らしいのです。



第三幕
なんと、あんなひどい目にあったというのに、
”まだ彼を愛しているんです。。”とのたまうジルダ。
そこで、ジルダの節穴のような目をぱっかり開かせようと、
リゴレットはあるいかがわしい居酒屋兼宿屋にジルダを連れて行きます。
つくづく、マントヴァ公国、あやしい場所です。

よっぽど公爵邸の暮らしがひまで退屈なのか、
その宿屋でくつろいでいる様子のマントヴァ公。

マントヴァ公、最大の聴かせどころ
~カンツォーネ 風の中の羽のように(女心の歌)La donna e mobile
もしや過去に女性からひどい仕打ちでもくらったのか?と深読みしたくなるような
”女の気持ちなんて風の中の羽のように気まぐれで信用ならない”と歌うマントヴァ公。
そういうあんたはどうなんだ?とつっこみたくなるが、
この曲はきっと誰もが聴いたことがあるはずの名曲。
テノールの力量次第で、素晴らしい歌唱を聴けることもあれば、
惨憺な結果に終わることも。
ここは、マントヴァ公の鼻歌程度の歌だと思われるので、
あんまり思いいれたっぷりに歌われると逆に興ざめしてしまう。
あくまで軽やかに、朗らかに歌われるべき。

なんと、この宿屋、例の殺し屋スパラフチーレとその妹、マッダレーナが経営する宿屋なのです。
どうりでいかがわしいはず。
このマッダレーナは育ちが悪いなりに魅力的な女性。
可憐な花のようなジルダとは対照的な、酸いも甘いも経験つくしたっぽい、色っぽくって、だけど情のある女性です。
この役はメゾによって歌われ、このジルダのキャラとのコントラストをはっきりさせるため、
ねっとりまったりした声質のメゾが配役されることが多いです。

最も美しい四重唱あらわる!
~四重唱 美しい愛らしい娘よ Bella figlia dell'amore
マッダレーナに迫るリゴレット。
その様子をこの目で確かめさせて、ジルダのマントヴァ公への愛をあきらめさせようと目論む宿屋の外のリゴレットと
それを驚きの様子で見守るジルダ。



この4人のそれぞれの心情を歌わせたのがこの四重唱で、オペラの全作品の中でも
最も美しい四重唱との誉れも高い名曲です。
重唱で、それぞれのパートが違う歌詞を歌えるという特質に目をつけて、
それぞれの役にそれぞれの気持ちを吐露させるという、素晴らしいアイディア!
各パートの掛け合いが素晴らしく、それぞれのメロディーがまるで、お互いの気持ちをなぞるかのように絡み合う様子は圧巻。
こんなシーンにこういう曲を持ってくるヴェルディ、あなたは本当に天才です!!
4人に歌唱力と、かつアンサンブル能力があると、
この世のものとは思えぬ響きが展開し、至上の喜びが体験できます。

さあ、これで懲りたろう?俺は一仕事すませてから追いかけるから、
お前は先にヴェローナに向かってなさい、とリゴレットはジルダを先に発たせます。
スパラフチーレに公爵殺しを依頼し、死体は自分に確認させてくれ、と条件を出すリゴレット。
スパラフチーレはもちろんこの依頼を受けます。
公爵がほろ酔い気分で寝室にあがると(って、公爵邸に帰んなくっていいんですかい?)、
外はだんだんと不穏な嵐の様子を帯びてきます。

雨、風、雷、そして殺人
~三重唱 嵐が来るな La tempesta e vicina!
~嵐の音楽
着々と殺しの準備をすすめるスパラフチーレに、
公爵の魅力に参り気味のマッダレーナは、”命は助けてあげようよ”と持ちかけます。
”だけど死体を依頼者にわたさなきゃいけないんだぞ!”と断るスパラフチーレに、
”じゃ、あのせむしを殺しちゃえばいいじゃないの。”と提案するマッダレーナ。
そこで切れる兄、スパラフチーレ。
”俺は殺し屋であって、盗人じゃないんだ!依頼人を殺すような卑怯な真似はせん!”
とびっくりな論法で反論してきます。
しつこくくいさがる妹に、どうせ、こんな嵐の中、誰も来るまい、とたかをくくっていたスパラフチーレは、
”もし、真夜中までに誰かがこの宿に訪れたら、そいつを身代わりにして、彼を助けてやろう”
と同意します。
しかし、そんなスパラフチーレの読みは甘かったし、
娘がヴェローナに向かっていると信じ込んでるリゴレットも甘かった。
なんと、ジルダはちゃーんと舞い戻って、その兄妹の会話を一部始終、建物の外で盗み聞きしていたのでした。
”あのマッダレーナも彼を救おうとしているのだもの。私だって!”
とこれまたとんでもない論法で、自分が身代わりになることを決心するジルダ。
これらすべてのやりとりが三重唱の中につめこまれています。
特に、身代わりになろうと決意しながらも、これでいいのか、と逡巡するジルダのメロディーがせつない。
いよいよ、真夜中30分前を告げる鐘の音を聴いたジルダは、
荒れ狂う嵐の中、宿のドアをノックします。
一度目のノックで、スパラフチーレが風の音だろう、といってとりあわないのもリアリティ満点。
二度目のノックで、いよいよ風のせいではないことがわかって、
マントヴァ公の命を救える興奮からマッダレーナが喜びを爆発させます。
このシーンはまるで、私たち聴衆もが、犯行現場に一緒に息をひそめて隠れているような、ものすごい緊張感です。

ジルダ:(建物の外から中に向かって)貧しいものにお情けを。
マッダレーナ:(中から)どうぞ、でも今夜は長い夜になるよ!(意味深で怖い!)
スパラフチーレ:ちょっと待てよ。
マッダレーナ:さあ、早くやっちまうのよ。他の誰かの命で彼の命を救うのよ!
スパラフチーレ:わかった。用意はいいぞ。戸を開けろ。金さえ入れば、後はどうだっていいさ。
ジルダ:こんなに若いのに死のうとしている私。神様、どうかこの悪い人たちを許してあげて。
そして、お父様、この不幸な娘を許して。
私が助けようとしている人よ(マントヴァ公)、どうぞお幸せに!

この後、開かれた扉に向かってジルダは吸い込まれていきます。
ものすごい暴風雨の中、ジルダが刺殺され、その後、だんだん嵐はおさまっていくのですが、
オーケストラのその嵐の描写がまたすごい。
また、台詞が本当によくできているのです。
このシーンが終わる頃には、まるで自分が犯罪シーンにいあわせたかのように、
心臓がばくばくしてしまいます。

嵐が静まるとリゴレットが戻ってきて死体の入った袋をスパラフチーレから受け取ります。
早く証拠隠滅をしたいスパラフチーレは、
誰かに会う前にとっとと川に捨てちまいなよ!とリゴレットに言います。
その助言どおり、リゴレットが死体を川に投げ入れようとした途端、遠くから(舞台では舞台裏から)きこえる、
女心の歌、まぎれもないマントヴァ公の声。
オケの伴奏なしで歌われるこの二度目の女心の歌のあとに始まる弦の音に、
”じゃ、一体この袋の中の死体は誰の?!!”
という恐れが聞こえてきます。

呪いの完成
~二重唱 おお、わしのジルダ Oh mia Gilda!
~ああ、あの呪いだ Ah la maledizione!
中からは虫の息状態のジルダが。
リゴレットに許しをこいつつも愛した人のために死ねる喜びをかみしめるジルダ。
(って、マントヴァ公がそんな価値のない奴であることはいうまでもないが、そこがまたせつないのだ。)
父リゴレットの悲しみと怒りが胸に沁みる。
こんな不幸を招いたのは自分であることを後悔しながら、
ああ、あの呪いが!と崩れ落ちるリゴレット。

どうしてこんな不幸の螺旋階段になってしまったのか、
我々観客も呆然としてリゴレットを見つめるのみ。宿命とはかくに残酷なものなのです。

***ヴェルディ リゴレット Verdi Rigoletto***

家で聴くオペラ (4) リゴレット 前編

2007-09-08 | 家で聴くオペラ
前回、イタリアオペラの最後の大作曲家といえるプッチーニにふれてしまったので、
これで”家聴く”も第三回にして早くも最終回か?と思いきや、
前に進めなきゃ、後ろに下がれ、で、またしてもヴェルディです。
今回は『リゴレット』。

私人生初の生オペラは、ハンブルク国立歌劇場による『リゴレット』でした。
久しぶりにプログラムを眺めてみると、
指揮は、奇しくも2007-2008年シーズン、メトデビューを『アイーダ』で飾ることになった大野和士だったのですね。
バーバラ・ヘンドリックスがジルダを歌ったほかは歌手は今でも名前を聞いたことのない人ばっかり。
正直言って、あまりにあまりの演出のせいで、歌の出来なんか全然覚えてないのです。
そう、このアンドレアス・ホモキという変な名前の演出家。
今の私なら間違いなく即刻オペラ刑務所行きにさせているところですが、
当時の私は、”これがオペラというものなのか・・”とただただ唖然とするばかり。
ドイツのオペラハウスが得てして前衛に走りがち、などということを
いかに当時の私が知りえたというのでしょう?
舞台上には大きな王冠やら箱やらが置かれて、その中にリゴレットが入っていったり出てきたり。。
ジルダとリゴレット二人のシーンでは、天井からつるされた赤いボーリング玉がくるくるしているし、
こちらの頭もくるくるしてきました。
このときに得た教訓。
前衛とか抽象といった事柄はオペラを見るなら避けるべきキーワード。
この体験のおかげで、その後は、予告のステージ写真を見ただけで、
ある程度、どんな舞台になってしまうか予見できるようになりましたが、
そんな教訓や技能はいらん!いい舞台を見せてくれ!!

しかし、その後は堅実に、メトやスカラ座の舞台で、
スタンダードな演出のもとにこの作品を見ることができて、この作品そのものの素晴らしさに開眼。
今では大好きなオペラの一つです。

あらすじはこちら

もうこの作品はそこかしこに有名なアリアがちりばめられているのですが、
それらのアリアもさることながら、全編ほとんど出ずっぱりのリゴレットに求められる”役者度”と、
それから第三幕できける重唱の美しさ、嵐のシーンのテンションの高さも聴き所です。
特にテノールやソプラノに比重がかかりがちなオペラ作品の中にあって、
ヴェルディこそは、バリトンの魅力をオペラの聴衆に知らしめる作品をいくつも書いています。
また彼は魅力的なメゾの役(『アイーダ』のアムネリス、『ドン・カルロ』のエボリ、『トロヴァトーレ』のアズチェーナなど)も作りだしていて、
この低声へのこだわりようは、ちょっと他の作曲家では見られないほどです。

そのヴェルディ・バリトンの役中でも、最もドラマティックなのが、このリゴレット役。
リゴレットは宮廷で皮肉な冗談をとばしては宮中、いや究極的にいえば、
マントヴァ公爵一人の笑いとご機嫌を誘うのが仕事という道化です。
笑いをとるためなら人をコケにしたり、恨みを買うのもいとわないため、
はっきり言って宮廷に出入りする人からは嫌われ者扱い。
そんな人たちを見ては、ふんっ!と鼻で笑っているリゴレットなのでお互い様と言う感じなのですが、
その彼には目の中に入れても痛くないジルダという娘がいて、
彼女に対するリゴレットの愛情の深さと、ジルダが生まれた経緯を聞くにつれ、
だんだんと聴衆には、せむしでうまれたせいと職業柄、表は嫌な人間を演じている彼ですが、
本来は愛情深い人間であることが明らかになっていきます。
そして、そんないやな職業も、せむしである彼には選択の余地のないものであることも。。
ここには、人間の逃れられない宿命が、凝縮されています。
また、しばしばマントヴァ公爵にとって、ジルダは遊びだったのか?
本気だったのか?ということが論点になったりもしますが、
私は遊びか本気かは関係ない、と思っています。
つまり、マントヴァ公爵はマントヴァで誰よりも強大な力を持っている人間。
当時ではやりたい放題をやれる地位にあるのが彼なわけです。
そんな人間に本気か遊びか、なんて区別があるとは思えません。
すべてが本気の遊び、遊びの形をした本気、というのか。

すでに亡くなられたオペラ評論家で河合秀朋さんという方がいらっしゃいますが、
この方が書かれた文章の中にパヴァロッティのマントヴァ公爵についての面白い記述がありました。
河合氏曰く、
”パヴァロッティも高音の輝きがすこぶるつきのうえに、自信に満ちた鷹揚で
余裕のある語り口も殿様役向きで、好色漢の雰囲気といい、
表現の見事さといい、驚くべき出来栄えだ。
ただし、彼の公爵は二重人格ではない。ジルダの家を訪れた時の表情もお遊びだということがアリアリとしているし、
第二幕冒頭でも、ジルダへの愛情を口にしてはいるが、すべてをほしいままにしてきた支配者の妨げられたことへの怒りと映るし、(中略)恋はあくまでお遊びだということが明白だ。(中略)パヴァロッティの歌い口は、どんなに情熱的に愛を訴えるときでも、イタリア人にしては珍しく醒めてクールなところがあって、どうもしっくりこないことが多いのだが、
そういう点では、もしかすると、マントヴァ公爵は適役なのかもしれない。”

河合氏は”恋はあくまでお遊び”という書き方をしていますが、ようはマントヴァ公の恋に本気はないということ、
つまり遊びとか本気とかいう線引きがない、といえます。
後半の分析は本当にお見事で、私も強く同感しました。

こんなマントヴァ公は、彼への愛は本当の愛!などとのぼせあがっているジルダとは
全然住む世界の違う人。
こんな二人の恋がうまくいくはずもなく、この出自の決定的な違いも宿命の一つとなって、
モンテローネが吐いたリゴレットへの呪いの言葉がきっかけとなり、
避けられない運命にリゴレットとジルダは巻き込まれていきます。
そして、そんな二人の犠牲など関係なく、
変わらず好き放題を続けていくであろうマントヴァ公、この理不尽さ、
このやるせなさがこの作品をドライブする大きな力となっているのです。

素晴らしい作品でありながら、もしくはそれゆえに、というべきか、
あまりに名演に必要なファクターが多くて、正直言って、
”これさえあれば他はいらない!”と呼べる一枚がない。
なので私は4枚+1枚の計5枚を気分によってききわけています。

その① 魅力的なオケと鉄壁のリゴレットを聴く



ここでリゴレットを歌っているカプッチッリというバリトンはリゴレットを当たり役としていただけあって、
模範的ともいえる素晴らしい歌唱を聴かせてくれます。
ただしドミンゴのマントヴァ公はちょっとイメージが違うかも。
頭と人がよさそうなドミンゴが歌うと、マントヴァ公が素敵になりすぎるきらいがあり。
さきほど河合氏がおっしゃっていたようなむかつくような醒めた部分をこの役には残して欲しいところ。
それからコトルバスというこのソプラノ、私、あまり好きでないのです。
何を歌っても魅力的でない。錚々たる指揮者と組んだレコーディングがあるのだけど(クライバーとの椿姫、このジュリーニとのリゴレットなど)、
一体なぜ彼女なんかが?と思ってしまうのです。
指揮は自由自在で素晴らしいのだけど、少し私の好みにしてはやりすぎ感がなきにしもあらず。
ちょっと交響楽団っぽい演奏というのか。好き嫌いが分かれる演奏かもしれません。

その② 渋いオケの演奏とゴッビの性格描写に酔う



①のディスクのカプッチッリが一徹な性格に聞こえてきてしまうほど、
こちらのディスクのゴッビのくるくる変わる歌の表情はすごい。
特に”悪魔め、鬼め”で聞かせる一語一句に、リゴレットの気持ちの変化が焼き付けられたものすごい性格歌唱は特筆もの。
さらには、スカラ座のオケがすばらしい。こういう演奏を聴くと、
オペラ専門の指揮者としてならしたセラフィン(カラスを見出した指揮者としても有名)の実力に恐れ入るのみです。
決して歌より出過ぎず、しかしすみずみまで的確な感情表現がいきわたっていて、
私はこのような演奏こそ、オペラのオケとして理想だと思います。
このディスクの痛いところはカラスか?大のカラスファンを自認する私ですが、
この役は彼女の声とベストマッチではないことは認めなければなりません。
コロラトゥーラのテクニックや感情表現は素晴らしいのですが、いかんせん、
着物を着た日本人がアフリカの砂漠にあらわれたような声質そのものと役との違和感は否めないのでした。

その③ モッフォのB級映画的演技、クラウスの洗練された声、メリルのじわじわとくる歌唱を楽しむ



実は意外にも総合点でトップを行くのはこのディスクかもしれません。
ショルティの指揮は部分的に??ってところもありますが、
全体的には悪くなく、またオケの音色も私好み。
スカラ座ほど洗練されていないのですがそこがまた愛嬌あり。
マントヴァを歌うクラウスの男前な声は何と形容すればよいか。
全然パヴァロッティなんかとタイプは違うが、こういう公爵もありかも、と思わせる。
ジルダを歌うアンナ・モッフォはそのピンナップ・ガール的ルックスで人気を博し、
(今でいうネトレプコのような感じだが、ネトレプコよりもちょっとB級な雰囲気がある。)
歌はいまいちなのに、なんて陰口をたたかれたこともありましたが、
このディスクではなかなかがんばってます。
ただし、芝居はださださ。嵐のシーン、自分で死を覚悟でとびこんでおいて、
”きゃーっ!”(その叫び声もなんだかB級映画風で悲しい。)って、
あんた、それはないでしょう。。
このモッフォによる”きゃーっ!”の一言で一瞬興をそがれるが、
メリルが洗練度ではカプッチッリの比ではないものの、どこか優しいお父さんを感じさせて、
あとでじわっとくるするめのような歌唱を聴かせてくれます。
完璧じゃないところがいとおしくなる、奇特なディスク。

その④ 醒めた公爵パヴァロッティとサザーランドの美声を聴く



このディスク、どこかかたわ的なところがあるので、入門盤としては適していないものの、
上でふれた醒めたパヴァロッティのマントヴァ公爵が聴けます。
ミルンズのリゴレットは特筆するべきことはないのですが、
ジルダを歌うジョーン・サザーランドの声の美しさはさすが。
嵐のシーンの最後では、珍しく高音でしめてくれます。(とはいえ、別に高音でなくてもいいのにな、と私は思ってしまいました。悪趣味ぎりぎりです。)
オケの演奏はこの4枚中、一番私の好みでない。
しかし、四重唱Bella figlia dell'amoreが、4人中、
パヴァロッティとサザーランドという二人の稀代の美声を得て、
(そして残りの二人も悪くない。)ものすごく聞き応えがあります。
このディスクは、四重唱だけ取り出して聴く専用。


プラス① 新潮オペラCDブックの付録でぶっとぶ

どこかの海賊盤専門レーベルから同じ音源が発売されているかと思ったのですが、
見つけられませんでした。
今や廃刊となってしまった新潮オペラCDブックのリゴレットの回に付録としてくっついていた、ライブ盤。
これが素晴らしい。
1970年4月6日、スカラ座のライブで、指揮はパタネ。
①のジュリーニ盤でリゴレット役を歌うカプッチッリのライブでの歌唱を聴けますが、
これが本当に素晴らしくて、どぎもを抜かれます。
マントヴァ公爵がアラガル、ジルダがグリエルミ。
音質はひどすぎる!の一言ですが、オケの時として白熱して暴走するところも含め、
それは熱い演奏が聴けます。
どこかの古本屋が、このディスクの価値を知らずに安値をつけて店先においていたらば、
迷わずゲットしてください。
(アマゾンの中古ではなんと11000円という高値がついていました。地道にローカルの古本屋をあたるべし。)

<後編ではききどころをおさらい!>

***ヴェルディ リゴレット Verdi Rigoletto***