ネトレプコ&ヴィラゾンのコンビで予定されていた今シーズンの目玉公演でもあった『ロミオとジュリエット』。
なんとヴィラゾンが体調不良により、全公演を降りることになり、
現在のところ、ヴィラゾンが演ずる予定だったロミオ役は、
アラーニャ、Kaiser、Polenzani、TBAと4分割されました。
TBAとはto be announced、つまり未定。
シーズン・オープニング公演でアルトゥーロという、比較的小さな役でありながら、
その美声と端正な歌唱で注目を集めたStephen Costelloが候補にあがっているという話もあります。
もともと、ジョルダーニとフィリアノーティの二人でわけあう予定だったルチアのエドガルド役が、
なんと10/25の公演一回きりですが、コステロが歌うことになり、
私の”情けないジョルダーニ=エドガルドよりも、コステロ=アルトゥーロをとる!”という言葉が、
ある意味、現実化してしまいました。
もし、ロミジュリのTBA=コステロの噂が本当だとすると、
うがった見方をすれば、この10/25のルチアは、ロミオTBA公演の試金石ともいえますが、
”そんなに急にいろいろ歌わせて、よい芽を摘み取っては!”と危惧する声もあり、
この後の展開が見逃せなくなってきました。
さて、そんな思わぬ展開の中で、全幕物のオペラでは圧倒的にヴィラゾンとの共演が多かったネトレプコが、
4人の違ったテノールを相手にどのように役を演じるかが楽しみ。
ネトレプコ&ヴィラゾンの、ゲオルギュー&アラーニャ化を心配していた私なので、
(時々、馴れ合いの雰囲気が見られる、ということと、
レパートリーが双方にとって真に自由ではなくなる、という意味で。
とはいえ、個人的には、ヴィラゾンの方は、全然ぴんでやっていける力があるのでアラーニャと一緒にするのもどうかと思いますが)
ヴィラゾンの体調不良&今回聞き逃したことは大変残念には思うのですが、
ネトレプコにはかえっていいことなのではないか、と思った部分もあります。
今日の公演は、そのアラーニャがロミオ役を歌うことになりました。
ところで、このグノーの『ロミオとジュリエット』、
はっきり言って知っているのはジュリエットのアリア、”私は夢に生きたい Je veux vivre"くらいの、
かなりやばい状態だったので、この一ヶ月ほど、予習に励んでみたのですが、
CD(ゲオルギューとアラーニャ共演盤)では、
なぜか、途中で、しかもいつも同じあたりの箇所で眠くなってしまって、一向に前へすすめないのでした。
はっきり告白してしまいましょう。フランスのオペラ、あまり好きでないのです。
確かに美しい旋律が多いですが、曲だけ聴いていると、
とてもあの劇的なロミ・ジュリの話だとは思えない。
さすが、あの『ファウスト』ですらこじゃれた話にまとめてしまった前科を持つ
グノーだけのことはあります。
これはいかん!ということで、DVDまで購入したが(ヴァドゥーヴァ、アラーニャ共演)、
こちらはヴァドゥーヴァが何とも田舎くさいジュリエットぶりで、
CDでとどまったところよりもさらに早いところであきてしまうのでした。
しかし、二つのアイテムの共通項はアラーニャだから、もしやアラーニャが元凶??
とにかく、そんなやばい状態でいよいよ当日を迎えてしまい、
しかも今日はマチネのアイーダとダブル・ヘッダー。
なので、予習断念。大丈夫か?
指揮はドミンゴ。彼が出てきただけでオペラハウスは大興奮。
ただし、数日前、この演目の初日の演奏をラジオで聞いた限りでは、
かなり指揮が混沌としていた、とだけ申しておきましょう。
そのロミ・ジュリ初日のレビューでは、NYタイムズがルチアに続いてこれ以上ないほど絶賛の言葉を贈っていたのですが、
そんな絶賛の中にも、ドミンゴの指揮
”深みにかける”)とアラーニャの歌唱(”決して歌唱が完璧なわけではない”)にはやんわりと批判が入っていました。
この批判がこたえたのか、今日のドミンゴの指揮は前回よりはよかった。
またマチネのアイーダに比べると、やはりネトレプコとアラーニャの出演、
ドミンゴの指揮、といった話題性の多さという心理的な作用もあってか、
オケの音そのものが生き生きとしているように感じました。
しかし、この公演の最大の功労者は、演出と、そして、ネトレプコ。
この二者につきます。
このGuy Joostenによる演出は、
一歩間違えると自己満足の罠に落ちてしまいそうなところぎりぎりのところで、
オリジナリティを感じさせ見事。
なぜだか、このプロダクションでは、”天文学”や”星”といったものがテーマになっていて、
シーンごとにバックが、銀河になったり、皆既日食になったり。
また場のつなぎ目におろされるスクリーンには、机に向かう天文学者と思われる模様がほどこされています。
私のすぐうしろに座っていた老夫婦のおじいさんの方が、
”なんじゃ、ありゃ?”と問いかけると、
”家紋じゃありませんか?”とまじめに奥様が答えてましたが、
キャピュレット家もモンタギュー家も、
天文学者が家紋に織り込まれてるってことはないと思いますよ、おばあさん!
また、登場人物が立っている場所は舞台上に設置された、
半分にかちわった天体儀のようなもの。
これが微妙に角度を変えながらまわったりしていて、
ちょっと宇宙空間にまぎれこんだような不思議な浮遊感があるのです。
また、二人の寝室の場のデュエットでは、
なんと天井からつるされた真っ白なベッドがするする、っと空中におりてくるのですが、
そこにロミオとジュリエットが!
このベッド、四隅をピアノ線か何かでつっているだけなので、
まるで、宙に浮いているように見える仕組み。
ただし、そのために、空中でぐらぐらしていて、
ネトレプコが歌うために体勢を変えるたび、そのままベッドもろとも裏返りそうで、
はらはらしました。
一度、大きく揺れたときがあって、思わず隣の席の男性から、
"Be careful!"という声が漏れました。
すぐにまわりの観客にシーッ!といわれてましたが。
(今回は私もびっくりしたので、シーッ!なんていう余裕はありませんでした。)
うしろは満点の星で、シーツが風にたなびき。。と、
もしこの場だけこんなセットだと、はあ??という感じで、
あまりの安っぽいロマンティシズムに辟易するところですが、
不思議なことに、このシーンに至るまでのシークエンス、セットの作り、
雰囲気が、このシーンをそうは感じさせなくしているのがこの演出家の手腕と思われ、
全体を貫く独特のキッチュさで、観客をねじふせてしまっていました。
ものすごく不思議な舞台セットなのに、なぜか説得力がある。
むしろ、クラシックな演出に陥らないことで、
この作品の弱点をカバーしたというか、大変興味深い演出だと思いました。
(グノーの音楽自体にすでにちょっとチープなロマンチックさが備わっているので、
これを臆面もなくまじめに美しいセットでやられては、かえって赤面してしまう。
それを逆手にとった演出、というわけです。
例えばアイーダみたいな音楽にも重厚さがある作品だと、
オーセンティックな演出にも耐えられますが、
グノーの作品では、それはかえって滑稽になる可能性があると思います。)
そのまた一例が、ジュリエットのアリア、”私は夢に生きたい”を歌う場面。
現に例のDVDでヴァドゥーヴァが夢見る乙女!といった趣でまともにこのアリアを歌うのを見て、
”げーっ!”(すみません。。)と鳥肌が立つような思いで見守った私ですが、
この公演では、全く違う切り口で見せていて、その上手さに感心しました。
ネトレプコ演じるジュリエットが、乳母と二人っきりだと思いながら、
手に、仮面(よく貴族が仮面舞踏会でつけるようなハンドルがついたタイプ)を持って、
歌い始めるのですが、アラーニャ演じるロミオがそれを影で聞いています。
二度目のAh~で、
隠れているロミオを見つけて驚くジュリエット。
で、通例、いかに下降音階を上手く聞かせるかを示すのに使われる
このAh~の部分を、まるで、”びっくりするじゃないの!”という気持ちの表現であるかのように読み/歌い替え、
乳母を部屋から追い出したあと、二人で仮面でお互いの顔を隠してみたり、
しまいには剣に見立てて一戦を交え、ジュリエットが剣をロミオに突き立てて、
最後ジュリエットが技巧的な歌唱を繰り出すその音ごとにロミオを刺しまくり、
ロミオがおどけて死んだふりをする。
(冒頭の写真がそのシーン。)
字で書くと、何だそれ?という感じですが、
発想の転換だと思ったのは、技巧披露のための装飾部分を、
完全にコミカルに読み替えたこと。
その動作と音の動きがきちんとマッチしていること、
このシーンのみで、彼らの恋は一目ぼれに続く無邪気な遊びで始まったこと(なんせまだ14歳かそこらのはず。。)を一瞬にして描いたこと、
そして、そのジュリエットの剣は最後、自分に向けられるという伏線になっているのが実に心憎い。
ここはアラーニャもなかなかうまいおどけぶりで、
あまりのコミカルさに、最後は観客大笑い。
ソプラノの技巧を堪能するところで、観客から笑いを引き出したこのシーンの演出は本当にうまい!と思いました。
今シーズンに入って、ルチアのジンマーマンといい、このロミ・ジュリの
Joostenといい、
比較的新しい演出家が面白い演出を見せてくれているので、観客には嬉しい限りです。
ちなみにこのロミ・ジュリのJoostenのプロダクションはメトでは2005年にプレミアを迎え、
その時の主演がデッセイだったのがまた因縁を感じさせます。
今日のネトレプコ。
もう本当にひっさびさに素晴らしい歌唱を聴かせてくれました!
昨シーズンから、スランプじゃないか?と思えるほど不調な歌唱が多く、
聴いていて痛々しいときもありましたし、
初日のラジオ放送では立ち上がり、少し不安定なところもあったので、
まだ判断は尚早というものかもしれませんが、
今日のこの歌唱は、彼女が長らくみせていなかった本領発揮!という感じで、
本当に堪能しました。
彼女はあんまりフランス語が堪能じゃないようなので(特に母音が全くフランス語に聞こえない)、そこは目をつぶるとしても、
最初のアリアの一音目Ah~から、
あのガラのときとは雲泥の差の、正確な音程、かつ豊かな声で、
オーディエンスを魅了しました。
また、このジュリエット役は、彼女の個性、持ち味にあっていて、
作品と歌手、お互いがお互いを補いあう、いい相性だと思います。
先ほどのヴァドゥーヴァの例を持ち出すまでもなく、
この作品には絶対に見た目、歌唱ともに納得させられるソプラノがいないと
つまらない公演になってしまう。
無条件で愛されるようなかわいさがないといけないうえに、それでいて若々しさも必要、ということで、
今、彼女をおいてこの役にここまでぴったりくるソプラノはいません。
ゲオルギューですら、ちょっとこの役には”とう”がたっているように思えます。
(だし、彼女の声はちょっとジュリエットにはたくましすぎるように私には思えます。
その点、ネトレプコの方が、ずっと少女らしい雰囲気があって好ましい。)
デュエットのシーンも気合のこもった歌唱を聴かせてくれたし、
何よりも、きちんと役を勉強し消化していたのが、去年の『清教徒』との大きな違い。
このような歌を歌ってくれるのをずっと待っていたのです!
ルチアのデッセイを見て火がついたか、ネトレプコ。
ネトレプコは、デッセイのような女優的表現が出来るソプラノではありませんが、
彼女独特の華と持ち味があるので、その個性をうまく生かして、
来年のレパートリーでまた素晴らしい歌を聴けるのを楽しみにしています。
この公演の成功のもう一つの要因は、主役以外のキャストががっちり脇を固めていたところにもあります。
ステファーノを歌ったメゾ、レナードは、
ジュリアード音楽院を出たばかりでこの役に抜擢された幸運の持ち主ですが、
今は比較的軽い声のため、スーブレット系の役が持ち役になっていくのでしょうが、
立ち姿がモデルのように美しく、(針のように細くて、まるでバレリーナのよう。
実際、歌の前に、ダンスからスタートした人らしいです。)
ちょっと特異な個性を放っていました。
アラーニャに関しては、もともと全く期待をしていなかったので、
期待よりはむしろよかったと思ったくらいです。
ただ、隣席の男性はわざわざこの公演のために西海岸からやってきたそうですが、
”アラーニャがなあ。。。”とお嘆きになってました。
彼は声そのものに少し問題があると思います。
出ている声の70%くらいに、がらがらした音が混じるのはあれは何でしょうか?
1%くらいなら、”ああ、声がいがいがしたのね。”で素通りできても、
70%ですから、絶対に素通りなんてできません。
これが、アラーニャの声、と思うべきなのか?
”いがいがしたのがアラーニャの声の個性”。
それでいいんだろうか。。。
Anna Netrebko (Juliette)
Roberto Alagna (Romeo)
Isabel Leonard (Stephano)
Stephane Degout (Mercutio)
Kristinn Sigmundsson (Friar Laurence)
Marc Heller (Tybalt)
John Hancock (Capulet)
Louis Otey (Paris)
Jane Bunnel (Gertrude)
Conductor: Placido Domingo
Production: Guy Joosten
Grand Tier B Even
OFF
***グノー ロメオとジュリエット ロミオとジュリエット Gounod Romeo et Juliette***
なんとヴィラゾンが体調不良により、全公演を降りることになり、
現在のところ、ヴィラゾンが演ずる予定だったロミオ役は、
アラーニャ、Kaiser、Polenzani、TBAと4分割されました。
TBAとはto be announced、つまり未定。
シーズン・オープニング公演でアルトゥーロという、比較的小さな役でありながら、
その美声と端正な歌唱で注目を集めたStephen Costelloが候補にあがっているという話もあります。
もともと、ジョルダーニとフィリアノーティの二人でわけあう予定だったルチアのエドガルド役が、
なんと10/25の公演一回きりですが、コステロが歌うことになり、
私の”情けないジョルダーニ=エドガルドよりも、コステロ=アルトゥーロをとる!”という言葉が、
ある意味、現実化してしまいました。
もし、ロミジュリのTBA=コステロの噂が本当だとすると、
うがった見方をすれば、この10/25のルチアは、ロミオTBA公演の試金石ともいえますが、
”そんなに急にいろいろ歌わせて、よい芽を摘み取っては!”と危惧する声もあり、
この後の展開が見逃せなくなってきました。
さて、そんな思わぬ展開の中で、全幕物のオペラでは圧倒的にヴィラゾンとの共演が多かったネトレプコが、
4人の違ったテノールを相手にどのように役を演じるかが楽しみ。
ネトレプコ&ヴィラゾンの、ゲオルギュー&アラーニャ化を心配していた私なので、
(時々、馴れ合いの雰囲気が見られる、ということと、
レパートリーが双方にとって真に自由ではなくなる、という意味で。
とはいえ、個人的には、ヴィラゾンの方は、全然ぴんでやっていける力があるのでアラーニャと一緒にするのもどうかと思いますが)
ヴィラゾンの体調不良&今回聞き逃したことは大変残念には思うのですが、
ネトレプコにはかえっていいことなのではないか、と思った部分もあります。
今日の公演は、そのアラーニャがロミオ役を歌うことになりました。
ところで、このグノーの『ロミオとジュリエット』、
はっきり言って知っているのはジュリエットのアリア、”私は夢に生きたい Je veux vivre"くらいの、
かなりやばい状態だったので、この一ヶ月ほど、予習に励んでみたのですが、
CD(ゲオルギューとアラーニャ共演盤)では、
なぜか、途中で、しかもいつも同じあたりの箇所で眠くなってしまって、一向に前へすすめないのでした。
はっきり告白してしまいましょう。フランスのオペラ、あまり好きでないのです。
確かに美しい旋律が多いですが、曲だけ聴いていると、
とてもあの劇的なロミ・ジュリの話だとは思えない。
さすが、あの『ファウスト』ですらこじゃれた話にまとめてしまった前科を持つ
グノーだけのことはあります。
これはいかん!ということで、DVDまで購入したが(ヴァドゥーヴァ、アラーニャ共演)、
こちらはヴァドゥーヴァが何とも田舎くさいジュリエットぶりで、
CDでとどまったところよりもさらに早いところであきてしまうのでした。
しかし、二つのアイテムの共通項はアラーニャだから、もしやアラーニャが元凶??
とにかく、そんなやばい状態でいよいよ当日を迎えてしまい、
しかも今日はマチネのアイーダとダブル・ヘッダー。
なので、予習断念。大丈夫か?
指揮はドミンゴ。彼が出てきただけでオペラハウスは大興奮。
ただし、数日前、この演目の初日の演奏をラジオで聞いた限りでは、
かなり指揮が混沌としていた、とだけ申しておきましょう。
そのロミ・ジュリ初日のレビューでは、NYタイムズがルチアに続いてこれ以上ないほど絶賛の言葉を贈っていたのですが、
そんな絶賛の中にも、ドミンゴの指揮
”深みにかける”)とアラーニャの歌唱(”決して歌唱が完璧なわけではない”)にはやんわりと批判が入っていました。
この批判がこたえたのか、今日のドミンゴの指揮は前回よりはよかった。
またマチネのアイーダに比べると、やはりネトレプコとアラーニャの出演、
ドミンゴの指揮、といった話題性の多さという心理的な作用もあってか、
オケの音そのものが生き生きとしているように感じました。
しかし、この公演の最大の功労者は、演出と、そして、ネトレプコ。
この二者につきます。
このGuy Joostenによる演出は、
一歩間違えると自己満足の罠に落ちてしまいそうなところぎりぎりのところで、
オリジナリティを感じさせ見事。
なぜだか、このプロダクションでは、”天文学”や”星”といったものがテーマになっていて、
シーンごとにバックが、銀河になったり、皆既日食になったり。
また場のつなぎ目におろされるスクリーンには、机に向かう天文学者と思われる模様がほどこされています。
私のすぐうしろに座っていた老夫婦のおじいさんの方が、
”なんじゃ、ありゃ?”と問いかけると、
”家紋じゃありませんか?”とまじめに奥様が答えてましたが、
キャピュレット家もモンタギュー家も、
天文学者が家紋に織り込まれてるってことはないと思いますよ、おばあさん!
また、登場人物が立っている場所は舞台上に設置された、
半分にかちわった天体儀のようなもの。
これが微妙に角度を変えながらまわったりしていて、
ちょっと宇宙空間にまぎれこんだような不思議な浮遊感があるのです。
また、二人の寝室の場のデュエットでは、
なんと天井からつるされた真っ白なベッドがするする、っと空中におりてくるのですが、
そこにロミオとジュリエットが!
このベッド、四隅をピアノ線か何かでつっているだけなので、
まるで、宙に浮いているように見える仕組み。
ただし、そのために、空中でぐらぐらしていて、
ネトレプコが歌うために体勢を変えるたび、そのままベッドもろとも裏返りそうで、
はらはらしました。
一度、大きく揺れたときがあって、思わず隣の席の男性から、
"Be careful!"という声が漏れました。
すぐにまわりの観客にシーッ!といわれてましたが。
(今回は私もびっくりしたので、シーッ!なんていう余裕はありませんでした。)
うしろは満点の星で、シーツが風にたなびき。。と、
もしこの場だけこんなセットだと、はあ??という感じで、
あまりの安っぽいロマンティシズムに辟易するところですが、
不思議なことに、このシーンに至るまでのシークエンス、セットの作り、
雰囲気が、このシーンをそうは感じさせなくしているのがこの演出家の手腕と思われ、
全体を貫く独特のキッチュさで、観客をねじふせてしまっていました。
ものすごく不思議な舞台セットなのに、なぜか説得力がある。
むしろ、クラシックな演出に陥らないことで、
この作品の弱点をカバーしたというか、大変興味深い演出だと思いました。
(グノーの音楽自体にすでにちょっとチープなロマンチックさが備わっているので、
これを臆面もなくまじめに美しいセットでやられては、かえって赤面してしまう。
それを逆手にとった演出、というわけです。
例えばアイーダみたいな音楽にも重厚さがある作品だと、
オーセンティックな演出にも耐えられますが、
グノーの作品では、それはかえって滑稽になる可能性があると思います。)
そのまた一例が、ジュリエットのアリア、”私は夢に生きたい”を歌う場面。
現に例のDVDでヴァドゥーヴァが夢見る乙女!といった趣でまともにこのアリアを歌うのを見て、
”げーっ!”(すみません。。)と鳥肌が立つような思いで見守った私ですが、
この公演では、全く違う切り口で見せていて、その上手さに感心しました。
ネトレプコ演じるジュリエットが、乳母と二人っきりだと思いながら、
手に、仮面(よく貴族が仮面舞踏会でつけるようなハンドルがついたタイプ)を持って、
歌い始めるのですが、アラーニャ演じるロミオがそれを影で聞いています。
二度目のAh~で、
隠れているロミオを見つけて驚くジュリエット。
で、通例、いかに下降音階を上手く聞かせるかを示すのに使われる
このAh~の部分を、まるで、”びっくりするじゃないの!”という気持ちの表現であるかのように読み/歌い替え、
乳母を部屋から追い出したあと、二人で仮面でお互いの顔を隠してみたり、
しまいには剣に見立てて一戦を交え、ジュリエットが剣をロミオに突き立てて、
最後ジュリエットが技巧的な歌唱を繰り出すその音ごとにロミオを刺しまくり、
ロミオがおどけて死んだふりをする。
(冒頭の写真がそのシーン。)
字で書くと、何だそれ?という感じですが、
発想の転換だと思ったのは、技巧披露のための装飾部分を、
完全にコミカルに読み替えたこと。
その動作と音の動きがきちんとマッチしていること、
このシーンのみで、彼らの恋は一目ぼれに続く無邪気な遊びで始まったこと(なんせまだ14歳かそこらのはず。。)を一瞬にして描いたこと、
そして、そのジュリエットの剣は最後、自分に向けられるという伏線になっているのが実に心憎い。
ここはアラーニャもなかなかうまいおどけぶりで、
あまりのコミカルさに、最後は観客大笑い。
ソプラノの技巧を堪能するところで、観客から笑いを引き出したこのシーンの演出は本当にうまい!と思いました。
今シーズンに入って、ルチアのジンマーマンといい、このロミ・ジュリの
Joostenといい、
比較的新しい演出家が面白い演出を見せてくれているので、観客には嬉しい限りです。
ちなみにこのロミ・ジュリのJoostenのプロダクションはメトでは2005年にプレミアを迎え、
その時の主演がデッセイだったのがまた因縁を感じさせます。
今日のネトレプコ。
もう本当にひっさびさに素晴らしい歌唱を聴かせてくれました!
昨シーズンから、スランプじゃないか?と思えるほど不調な歌唱が多く、
聴いていて痛々しいときもありましたし、
初日のラジオ放送では立ち上がり、少し不安定なところもあったので、
まだ判断は尚早というものかもしれませんが、
今日のこの歌唱は、彼女が長らくみせていなかった本領発揮!という感じで、
本当に堪能しました。
彼女はあんまりフランス語が堪能じゃないようなので(特に母音が全くフランス語に聞こえない)、そこは目をつぶるとしても、
最初のアリアの一音目Ah~から、
あのガラのときとは雲泥の差の、正確な音程、かつ豊かな声で、
オーディエンスを魅了しました。
また、このジュリエット役は、彼女の個性、持ち味にあっていて、
作品と歌手、お互いがお互いを補いあう、いい相性だと思います。
先ほどのヴァドゥーヴァの例を持ち出すまでもなく、
この作品には絶対に見た目、歌唱ともに納得させられるソプラノがいないと
つまらない公演になってしまう。
無条件で愛されるようなかわいさがないといけないうえに、それでいて若々しさも必要、ということで、
今、彼女をおいてこの役にここまでぴったりくるソプラノはいません。
ゲオルギューですら、ちょっとこの役には”とう”がたっているように思えます。
(だし、彼女の声はちょっとジュリエットにはたくましすぎるように私には思えます。
その点、ネトレプコの方が、ずっと少女らしい雰囲気があって好ましい。)
デュエットのシーンも気合のこもった歌唱を聴かせてくれたし、
何よりも、きちんと役を勉強し消化していたのが、去年の『清教徒』との大きな違い。
このような歌を歌ってくれるのをずっと待っていたのです!
ルチアのデッセイを見て火がついたか、ネトレプコ。
ネトレプコは、デッセイのような女優的表現が出来るソプラノではありませんが、
彼女独特の華と持ち味があるので、その個性をうまく生かして、
来年のレパートリーでまた素晴らしい歌を聴けるのを楽しみにしています。
この公演の成功のもう一つの要因は、主役以外のキャストががっちり脇を固めていたところにもあります。
ステファーノを歌ったメゾ、レナードは、
ジュリアード音楽院を出たばかりでこの役に抜擢された幸運の持ち主ですが、
今は比較的軽い声のため、スーブレット系の役が持ち役になっていくのでしょうが、
立ち姿がモデルのように美しく、(針のように細くて、まるでバレリーナのよう。
実際、歌の前に、ダンスからスタートした人らしいです。)
ちょっと特異な個性を放っていました。
アラーニャに関しては、もともと全く期待をしていなかったので、
期待よりはむしろよかったと思ったくらいです。
ただ、隣席の男性はわざわざこの公演のために西海岸からやってきたそうですが、
”アラーニャがなあ。。。”とお嘆きになってました。
彼は声そのものに少し問題があると思います。
出ている声の70%くらいに、がらがらした音が混じるのはあれは何でしょうか?
1%くらいなら、”ああ、声がいがいがしたのね。”で素通りできても、
70%ですから、絶対に素通りなんてできません。
これが、アラーニャの声、と思うべきなのか?
”いがいがしたのがアラーニャの声の個性”。
それでいいんだろうか。。。
Anna Netrebko (Juliette)
Roberto Alagna (Romeo)
Isabel Leonard (Stephano)
Stephane Degout (Mercutio)
Kristinn Sigmundsson (Friar Laurence)
Marc Heller (Tybalt)
John Hancock (Capulet)
Louis Otey (Paris)
Jane Bunnel (Gertrude)
Conductor: Placido Domingo
Production: Guy Joosten
Grand Tier B Even
OFF
***グノー ロメオとジュリエット ロミオとジュリエット Gounod Romeo et Juliette***