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Opera! Opera! Opera!

音楽知識ゼロ、しかし、メトロポリタン・オペラを心から愛する人間の、
独断と偏見によるNYオペラ感想日記。

ANDREA CHENIER (Sun, Jan 6, 2013)

2013-01-06 | メト以外のオペラ
OONY(オペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨーク)の今シーズンの演目は『アンドレア・シェニエ』と『イ・ロンバルディ』の二つです。
その案内を数ヶ月前に郵便で受け取った時、『イ・ロンバルディ』にはミードが登場すると書いてあって、
これは今年もサブスクリプションをリニューアルしなければ!!と舞い上がったのですが、
それも束の間、その横の『アンドレア・シェニエ』のキャストを見て固まりました。

アラーニャのアンドレア・シェニエ、、、?!
えええーーーっっ!!?ぜんっぜん聴きたくないかも。
さらにマッダレーナ役がクリスティン・ルイス、ジェラール役がゲオルグ・ペテアン、、、
んー、誰それ?って感じ?

私のギルティー・プレジャー(それを好き!と公言することにちょっぴり恥ずかしさを感じつつも、やめられない・とまらない)の一つは
何を隠そう、じゃじゃ~ん!!「ヴェリズモ・オペラ!」でして、
そう、奥深さのかけらもない単純なストーリー!どうにもこうにも3面記事なテーマ!べたなメロディー!
そんなでモーツァルトやワーグナーやヴェルディと同じオペラのカテゴリーを名乗ってしまってすいませんね~、なヴェリズモ・オペラが大好きなんです。
よって『アンドレア・シェニエ』も例外ではなく、メトでは2006/7年シーズンを最後に舞台にかかっていないこともあり、
久しぶりに全幕を生で聴きたい!という欲求は猛烈にあるのですが、
しつこいようですがアラーニャがシェニエなので、それだったらサブスクリプションのリニューアルは止めて、
『イ・ロンバルディ』単体のチケットを買ってもいいかな、、と思い始めたところ、さらに読みすすめた先にこんな一文がありました。
”お客様は昨シーズンキャンセルになった公演代金のクレジットがまだ残っておりますので、
サブスクリプションをリニューアルしてセット券をお買い求めの場合に限り、その購入代金に当てて頂くことが出来ます。”

おお!!そうでした、、
昨年のOONYはゲオルギュー&カウフマンの『アドリアーナ・ルクヴルール』(あ!これもヴェリズモでした。でもまだレポ書いてない、、)の後に
ドミンゴ様出演の演目未定の公演が予定されていたのですが、
この後者の公演が、OONY側の資金の問題でキャンセルになってしまって、そのチケット代返金依頼の手続きをずぼらしてまだ行っていなかったのでした。

よーく考えたら公演がキャンセルになったのは私のせいではなくOONYの責任なのだから、”セット券との相殺しか出来ません”
というのもかなり強引な話で、さすがおばちゃん(イヴ・クェラー女史)率いるOONY!という感じですが、
ま、一公演分の金額で二公演見れるなら、リニューアルしとくか、、、という気にさせられるトリックではあります。
(だから、そのセーブしたはずの金はそもそも私の財布から出たものだ、っつーに。)

今日の『アンドレア・シェニエ』はそんな風にまんまとクェラー女史のトリックに騙されたまま来てしまったので、
会場であるエイヴリー・フィッシャー・ホールに入る直前にふとアラーニャが主役なのだという事実をもう一度思い出して、
私に輪をかけたアラーニャ嫌いである連れに、”年に数回は今日なんでここに来てるんだろう?と思う公演があるものだけど、
今日がまさにそれだわ、、。”とテキスト・メッセージを送ってしまいました。

私がOONYのサブスクリプションを始めたのは2010/11年シーズンからなんですが、
その年は彼らが資金の問題から存続自体が危ぶまれた直後のことで、
しかも、不景気のあおりをうけてメトを含めたオペラの公演のオーディエンスが激減りした時期でもあり、
それでこれまでのサブスクライバーが保持していた良席が回ってきたのでしょう、
周りにはメトの関係者やパトロンが多く、以前ゲルブ支配人がすぐ側に座ってい(て、全幕鑑賞する辛抱なく、インターミッションで走って帰っ)たこともありますし、
今日も近くにアーティスティック部門のトップであるサラ・ビリングハーストの姿が見えます。
あ、その数列前には今はOONYの名誉音楽監督のポストにある”おばちゃん”イヴ・クェラーもいました。

舞台の両端には一幕で登場するキャスト達が開演前から座って並び、歌うパートが近くなると舞台の前方に用意された譜面台の方に出てくる
(ので、ジェラール役のぺテアンなんかはすでにオケの前に立っている)流れになっているのですが、なぜか前奏の部分が始まってもアラーニャの姿が見えません。
マッダレーナ役のルイスはもうちゃんと着席してるし、彼女からそう時間をおかずにシェニエと一緒に登場するはずの修道院長とかフレヴィルも全員舞台に登場しているのに。
まったくもったいぶるなよなー、蚊の鳴くようなファルセットしか出せないくせに!と、つい関係のないことまで思い出してしまいます。

大体年に二回公演があるかないかのOONYですので、オケも編成や練習ににわか仕込的なところがあるんでしょうが、
今日の演奏を聴くと、いつもに増して反応悪(わる)、、と思わされます。
指揮者のヴェロネージがどんな指示を出しても、全然それを見てないし、当然の帰結として、その指示に従わない。
特に今回のようなヴェリズモ系の作品だと、このオケは放っておくとどんどん歌手そっちのけの爆音になって行く傾向があって、
私は何度もヴェロネージが、”だめだめ!そんな大きな音出しちゃ!もっと静かに!!”という身振りをするのを目にしましたが、
まあ、オケはまったく彼の話を聞いちゃいないわけです。
それに、弦が甘美な旋律を演奏する箇所では、音が出てきてすぐ、彼がもう少し甘くキラキラとした音を、、という指示を出しているんですが、
どんな指示が出ても、指示前とまーったく音色に変化がなく、のほほーんとそのまんまの音で演奏を続けていて、
ま、でもその辺りはリハーサル中にちゃんと伝達してないの??とも思いますけど。
これらの例からもわかる通り、クェラーが指揮していた頃に比べて、指揮者とオケのラポートがあまり感じられなくなっていて、
オケが好き勝手にやっているのは、もしかするとヴェロネージとオケの間があまり上手く行っていないのでは、、?と勘ぐりたくなってしまいます。

この作品は始まってすぐにジェラール役のモノローグがあって、
このモノローグというのが、歌い手のバリトンの声質、この役への適性、高音をハンドルする能力、表現力などなど、
はっきり言ってこの役を歌うバリトンに必要な大方の資質・能力の有無を判断するのに十分な長さになっていて、
言い換えれば、今日のジェラール役のバリトンに期待できるか、できないか、が5分かそこらである程度判ってしまうという、
歌い手にとってもオーディエンスにとっても、怖く、また、楽しみな箇所です。

ペテアンに関しては、冒頭に誰それ?なんて失礼なことを書いてしまいましたが、謹んで撤回!
彼のモノローグを聴いてすぐ、今日の演奏会は少なくともジェラールに関しては失望させられることはなさそうだ、と確信しましたし、
こんな質の良い、しかもヴェリズモ作品を歌えるバリトン、どこに隠れてた!?いつメトに来る!?とついエキサイトしてしまいましたが、
後でプレイビルを見ると、メトにはマルチェッロ(2009/10年シーズンの『ラ・ボエーム』)と
ヴァランタン(2011/12年シーズンの『ファウスト』)で既に登場済みだったことがわかりました。
いずれの演目も私が見た公演の裏のキャストになってしまっていたようで、それでこれまで彼を生で聴く機会を逸してしまっていたようです。
こういうことがあると、やっぱりもっとメトで鑑賞する公演数を多くせねばならんな、と思ったり、、、。
しかも、私が無知だっただけで、彼はヨーロッパではすでにメジャーなオペラハウスで活躍中なんですね。

YouTubeで彼の映像をいくつかチェックしていたところ、行き当たったのが下の映像です。
ローザンヌでの『愛の妙薬』なんですが、なんで、こんな缶々みたいな戦車からベルコーレが出てくるの? 
なんでアディーナがこんなアマゾネスみたいな格好なの?? それにこの食人花みたいな芥子の花は何??(アマゾネスが阿片でも生産しているのか?)
なんだけど、、、、すごく面白い!!!
メトの今シーズンのオープニング・ナイトに現れた中途半端で陰気臭いシャーの新演出に欠けているのは、こういう種類の楽しさだと思うんですよ。



で、もちろん上の映像でベルコーレを歌っているのがペテアンなわけですが、そこでも伺われるように、
彼の強みは適度に厚みのある音を維持しながらそのまま高音域まで綺麗に上がっていけるうえに、
その聴かせどころの高音でオーディエンスが存分に楽しめるだけの長さだけ十分に音をホールドできるブレス・コントロールの能力を持っている点で、
YouTubeには2005年にディドナートやスペンスと共演している『セヴィリヤの理髪師』(フィガロ役)の映像が上がっていますが、
当時よりはずっと声が重くなって厚みが増しており、
今日のジェラールのような、ドラマティックさと充実した高音を兼ね備えていなければならない役は実に適性があります。

ヴェリズモの役を上手く歌える歌手に実力のない人はいない、というのが私の持論で、
ヴェルディやベル・カント・レップをそこそこ上手く歌えるからと言ってヴェリズモも上手く歌えるとは全く限ってませんが、
その逆に、ヴェリズモの役を上手く歌える歌手はまずヴェルディやベル・カント・レップも上手いと考えていい、と思っています。
それは別に不思議でもなんでもなく、ヴェルディや現在スタンダード・レパートリーとして演奏されているようなベル・カント作品とは違って、
ヴェリズモ・オペラには力のない歌手が歌うと、オーディエンスが聴いていられないほど下品な演奏内容になってしまう、という性質があるので、
ヴェリズモ作品をそう聴こえさせずに適度なエレガンスを保ちながら歌えるということは、
きちんとした歌唱テクニックとドラマティック・センスがあるということであり、
それがある歌手が、音楽がチープに聴こえる可能性がヴェリズモ作品に比べてより少ないヴェルディやベル・カントのレップで良い歌を聴かせられるのは当然のことなのです。
ガヴァッツェーニ指揮のスタジオ録音でデル・モナコやテバルディと共演しているバスティアニーニなどはその最たる例かと思います。

よって、ペテアンのようにヴェリズモを上手く歌うバリトンに出会った時には、
その喜びが単にヴェリズモを歌える人が現れた!ということだけに留まらず、
その期待はヴェルディやベル・カント作品にまで及び、楽しみが何倍にもなるのです。

また彼は上の『愛の妙薬』の映像ではなんだかすごい格好になってますけど、
タキシードを来て普通にしていると、決してイケ面ではないですが、いわゆるバリトン顔というのか、悪・敵・仇役に向いたルックスをしていて、
今日みたいな演奏会形式の歌唱でも少なくとも顔の表情を見ている限り割と演技力もあるように感じられ、
顔の表情がその場面その場面のジェラールの状況を実に的確に表現しています。
マッダレーナ役のルイスが”亡くなった母を La mamma morta"を歌い始めるそのイントロの部分で、
長い間恋焦がれたマッダレーナに自分の思いは絶対に届かない、そしてそれは身分の差とは何も関係がなかったことを悟りながら独り言のように歌う
”Come sa amare!(何と彼女は彼を愛していることか!)”
この声楽的には何と言うことのないフレーズに込められた表情(歌も顔も!)もとっても良かったです。

それからジェラールの一番の聴かせどころといえば”祖国の敵 Nemico della patrai!"ですが、
そこに至るまでの歌唱から想像・期待していた結果を裏切らない内容でした。
この日の演奏会のその”祖国の敵”のラストのたった一分ほどですが、カメラで隠し撮りしてYouTubeにアップして下さった方がいました。



音質が良くないので彼の声が実際にどんなトーンなのかはフルにはわかりにくいかもしれませんが、
彼の歌唱がこのアリアのグランドさ、良い意味でのベタさを保ちつつ、しかし、決して下品にはなっていない、その匙加減の上手さやセンス、
それを可能にするために、彼がどのようなスキルを用いているか、といったことは十分に伝わるかと思います。

このアリアは昨年11月のタッカー・ガラでケルシーが歌ってましたが、ケルシーの歌になかったのはこのグランデュアさなんだなあ、、、と思いました。
とにかく、今日の公演はペテアンの存在でだいぶ救われたところがあったと思います。

そして、ペテアンが公演を”救った”ということは、それを救わなければならないような状況にした人がいるわけで、、。

先にも書いたようになかなか舞台に出てこないアラーニャなんですが、シェニエが歌う場面の本当に寸前になってようやく登場。
ところが、舞台の中央に向かって歩いて来る様子がいつものヘラヘラしたそれとは違って、なんか表情がめちゃくちゃシリアスでこちこちなんです。
しかもチリ紙だかハンカチみたいなのでしょっちゅう鼻を拭いたりして、風邪気味?
しかし、シリアスな表情のアラーニャなんて、変なもん見てしまったわあ、今日は、、風邪気味で歌に不安があるのかな?
と思っているうちに、彼が歌い始めて、むむむ!!!です。

顔がスコアに糊付けしたみたいに張り付いていて、全然指揮者の方を見てませんけど!!!、、、、

まさか、アンドレア・シェニエのタイトル・ロールで、パートをちゃんと憶えてないとか、そういう恐ろしい事態ではないでしょうね?
他の歌手もスコアを持ち込んではいますが、例えばペテアンなんかは要所要所でちゃんと指揮のヴェロネージを見る余裕がありますし、
マッダレーナ役のルイスはほとんど暗譜しているみたいですし、それ以外の小さなロールの人の中にはスコアなしで完全暗譜の人もいます。
Madokakipがこいつ、まさか、、、という疑惑の混じったいやーな視線をアラーニャに向けた頃、
いよいよ作品の最大の聴かせどころの一つであるシェニエのアリア”ある日、青空を眺めて Un dì all'azzurro spazio”の前フリ部分にあたる、
Colpito qui m'avete, ov'io geloso celo il più puro palpitar dell'anima
(あなたは、私が最も純粋な感情のときめきを隠している心の奥深い場所をゆさぶった、、)と歌い出すところで、
急にアラーニャが、”え?なんで?”という表情をオケや指揮者に向けたと思うと、どんどんオケと歌が合わなくなっていって、
ついに"Sorry.."というオーディエンスに向けた言葉とともに歌を中断してしまいました。
ったく、”え?なんで?”はこっちの言いたい台詞ですよ!!!
今頃になって、”ここはこうなはずでは、、?”とヴェロネージと打ち合わせに入っているアラーニャを、
”あたしらはリハーサルを聴きに来たんじゃないよ!”とばかりに冷ややかな目で見つめているのがMadokakipだけでないことは言うまでもありません。

ようやく歌が再開し、”ある日、青空を眺めて”は、やはり風邪気味ではあるのでしょう、
声がかなり荒れている感じがあるのと、きちんと歌うのに精一杯でもう感情を込める余裕はどこにもない、という感じなんですが、
一応大きな破綻はなく歌い終え、ほっとした様子で、多くの観客からは拍手も出てました。
しかし、これがメトの舞台だったら!とおそらく冷や汗をかいて見ていたであろうビリングハースト女史は拍手などありえません!という様子で隣の女性に何やら耳打ちしていましたし、
拍手を受けながらも、さすがにこの事態はまずかった、、という自覚でほとんどシーピッシュといってもいい位の臆病なアラーニャの視線が私の目と合った時、
私からも”あんた、ふざけんじゃないわよ。”という一瞥を食らわしておきました。

今回の演奏会にはNYのオペラファンもたくさん来場していたわけですが、
”これまでアラーニャの舞台からは強い役へのコミットメントを感じることが多かったが、今回は心ここにあらずでどうしたのかと思った。”
という趣旨の意見が数多く見られました。
私はこれまでだって、アラーニャという人はいつも自我が役の前に立ってしまうタイプというか、
本当の意味で役に没入しているところなんて見たことも聴いたこともないので、そういう意見は”何を今更、、、。”と思って聞いていて、
むしろ、今回そのような印象を彼らに与えたのは、風邪のせいでなんとか破綻なく歌うことに精一杯でそれ以外のことには全く手が回らなくなったからであり、
彼の普段のへらへらしたステージ・マナーが嫌いな私としては、かえって今日のように歌うことに専念してくれる方が好感がもてるくらいです。
このアリアの後には頻繫に鼻をかんだり、咳き込んだりで、相当辛かったんだろうな、と思いますが、
その割には果敢に高音も挑戦していました(最後のマッダレーナとの二重唱では超特大のクラックになってしまいましたが)。

ただ、インターミッション中に連れに電話してこの話をした時には、”最初の失敗を風邪のせいにしようとフリしてるだけ。仮病!仮病!”とものすごい突き放し方でした。
さすが、私よりもアラーニャを嫌っているだけのことはあるわ、、、とその徹底ぶりに感心しましたが、
私の見た・聴いた限りでは、かなりひどい風邪をひいていたのは事実だと思います。

演奏家なら誰だって風邪やその他諸々の身体的な理由で不調な時があるし、簡単に代役が利かないシチュエーションだってあります。
だから、どんな歌手相手でも、風邪による歌唱の失敗や不調を非難するつもりはないし、心あるオペラファンなら、みんなそうだと思います。
だけど、それと役が頭に入っていない問題は全く別問題。
混同してもらっては困るし、役を引き受け、観客が決して安価でないチケットのために払った代金からギャラを受け取っておいて、
きちんとした準備すらして来ない、というのは、観客が怒っても全くおかしくない、卑しむべき姿勢だと思います。

そうそう、ニ幕でもこんなことがありました、そういえば。
一幕で上のような大失敗があって、しかも風邪気味、、しかもマッダレーナ役のルイスに微笑みかけてもシカトされ、、、で、相当へこんでいる様子のアラーニャ。
そこに、シェニエの友人ルーシェ役のバリトン、デイヴィッド・パーシャルが登場。
プレイビルに掲載されているパーシャルのバイオには、メトの許可を得て出演、となっていて、
おそらく現在メトのリンデマン・ヤング・アーティスト・プログラムに在籍しているのではないかと思うのですが、
今シーズンはメトの『マリア・ストゥアルダ』のセシル卿のアンダースタディもつとめているようです。
まだ20代の後半か30そこそこで、歌は相当荒削りなところがありますが、音の響き自体として持っているものは決して悪くなく、
ルックスも好青年風で、本人の人柄のせいもあるのか舞台マナーにチャーミングさがあって、
彼が一生懸命にアラーニャを守り立てようとしている姿は、シェニエの友人という設定とシンクロしているところもあって微笑ましいものがありました。
50歳のベテランが、パートもきちんと覚えて来ないで26,7の青年にサポートを受けるというのもどうなのよ?という気もしますが、事実なのだから仕方ありません。
それで少しリラックスした様子のアラーニャは、そのルーシェとの会話のシーンが終わると水でも飲みたくなったのか、舞台袖に消えて行ってしまったのですが、
実はその後すぐにまだ歌うパートが残っていて、見事にそこがカラオケ状態、、、。
ルーシェ役のパーシャルやベルシ役のラマンダをはじめ、舞台に残っている歌手たちが居心地悪そうに視線を交わしたり、
パーシャルが”どこ行っちゃったんでしょうね、シェニエは?”という感じで肩をそびやかすジェスチャーをオーディエンスに見せて、
何とかその場を切り抜けようとしていたのは涙を誘いました。
いよいよ今度は腹でも壊してトイレに駆け込みか?
まだまだこの後シェニエのパートが続くのにどうする気なのか、、?と心配した頃、慌ててアラーニャが走って舞台に戻って来ました。やれやれ。

こんなアラーニャを”スターだかなんだかしらないけど、超アンプロフェッショナル!超迷惑!私の大事なNYでの大舞台をこんな風にめちゃめちゃにして!!”
と冷ややかな目で見つめていたのが、マッダレーナ役を歌ったクリスティン・ルイスです。
彼女は黒人のソプラノで、メトのナショナル・グランド・カウンシルでも2度ファイナリストになったことがあるそうなんですが、
これまでどちらかというとヨーロッパの劇場での活躍の方が多いみたいです。
笑顔は素敵な人なんですけど、元々強くてクールな顔立ちなので、最初の方は緊張もしてたんだと思いますが、
アラーニャへの怒りと合体して、顔がかちこちに固まっていて、かなり怖かったです。
面白いのは、彼女の声がルックスとシンクロしている点で、エッジの効いた、固いクリスタルのような音色が持ち味で、
黒人のソプラノといえば、まったりクリーミー、、みたいな声質の人が方が傾向的には多いような気がするのですが、
彼女は真逆の方法で、これまた黒人らしい音を出す人だなあ、、と思います。
このパワフルでナイフで切りつけて来そうな音は、他のエスニシティのソプラノにはちょっと出せない質の音のような気がします。

声のパワーに比してコントロールが完全に効ききれていなくて音が飛び跳ね気味になったりしたところもありましたが、
リラックスするにつれて安定感が出て来て、最後のシェニエとの二重唱”僕の悩める魂も Vicino te s'acqueta"で、
高音の上にまたたたみかけるように更に高い高音、、となる部分では、音が高くなるのに伴って音の鋭さとボリュームが増す感じで、
相当パワーのある人なんだ、、とびっくりさせられました。

それだけ思い切りのある人だけに、ちょっと残念だったのは”亡くなった母を La mamma morta”のクライマックスの高音
(fa della terra un cielの後の AhのBの音)の処理の仕方でしょうか。
下の音源はカラスの歌唱ですが、彼女の歌唱のこの高音までの疾走感、
マッダレーナの感情がほとばしって、夢中になって一気に語りきっている様子が伝わってきます。
音楽には色んな解釈が可能と言いますけれど、ここの高音に関しては、こう表現するしかないと思うのです。



ところが、スコアにもフォルテとある、アリアの最大の山場であるはずのこのBの音を、
彼女は綺麗に確実に音を出すことに拘りすぎて、直前にブレーキがかかってしまい、結果として音を小綺麗に鳴らすことになってしまいました。
彼女はもしかするとこの高音がちょっと不安だったのかな、、?
何度も直前にブレスを入れてましたが、それも音が慎重な感じで鳴ってしまった一つの要因ではないかと思います。
(オケに前に突き進んでいくような疾走感を与えず、それに付き合ってしまったヴェロネージにも責任の一端があると思いますが。)
このBの音は綺麗になんて鳴らなくたって構わないから、マッダレーナの思いが金切り声をあげて噴出するようなそういう迫力がないといけないと思うのです。
ヴェリズモがヴェリズモである所以をどれだけ歌い手が理解しているか、というのはこういう一音に現れる、と思うのですよ。
ここで心配になってブレーキをかけて歌ってしまうようでは、まだまだヴェリズモ歌いとしてのセンスが足りん、、と思います。
まあ、まだまだ若い彼女なので、これからの成長に期待!ですが、
素材としては同じ黒人の若手歌手ラトニア・ムーアが柔らかさと大らかさを感じさせるのと対照的に、
一直線的で硬質なものをもっていて、面白い資質を持っている歌手ではあると思います。

演技に関しては、緊張のせいか、アラーニャにブチ切れ!(風邪をうつされたらたまらん!と思っているからか、
全幕を通して彼の方を見もしなければ、手を握られるのも迷惑!という感じでした、、。)のせいか、それとも演技をする気が全くない人なのか、
シェニエとマッダレーナのケミストリーは全く感じられませんでした。
この点については、また次に彼女を聴く機会に判断を持ち越したいと思います。

OONYの公演には時々あっ!と驚くカメオ出演があって、それも楽しみの一つなんですが、
今日は盲目の老婆マデロン役にロザリンド・エリアスが登場し、他のキャスト全員が木っ端微塵に吹っ飛ぶような迫力ある存在感・演技・歌唱で会場を沸かせました。
エリアスは1953/4年シーズンにメト・デビューし、1996/7年シーズンをもって定期的な出演にピリオドを打つまで、
メトでそれこそ数え切れないほどの舞台をこなしたメゾで、久しぶりに聴く彼女の歌声に観客は大喝采でした。
1929年3月生まれだそうですので、この演奏会の時点で83歳!
当然ながら、声は昔と同じではありませんが、会場の温度が一瞬に下がるような冷静さで自分の孫を役立ててくれ、と戦いに差し出す歌唱と、
それが生み出す不思議な熱さ!
冷たさで熱さを生む!すごいなあ、、と思いました。

それに終演後はなんだかんだ言っても、”やっぱりヴェリズモはいいわあ。”と思ってしまった自分もおり、
公演の内容にこれだけの問題があっても、それなりに聴かせてしまえるということは、
”好き!”と宣言するに何を憚る必要があるか?、、、ということで、今後は堂々と”ヴェリズモ好き”を公言したいと思います。

今日は風邪のおかげで珍しくアラーニャが静かで良かった、、、と思っていたのに、
最後のカーテン・コールでまた調子づいて、”一言みなさんに言わせてください。この方がいなければ今日の歌唱はありませんでした。”
と言ってイヴ・クェラーに投げキッスを送るアラーニャ。
今日の歌唱があった方が良かったのか、なかった方が良かったのかは、
イヴさんにとっても、彼自身にとっても、オーディエンスにとっても微妙なところではありますが、、。


Roberto Alagna (Andrea Chénier)
Kristin Lewis (Maddalena di Coigny)
George Petean (Carlo Gérard)
David Pershall (Roucher)
Jennifer Feinstein (La Contessa di Coigny)
Ricardo Rivera (Mathieu)
Renata Lamanda (Bersi)
Rosalind Elias (La Vecchia Madelon)
Don Barnum (Fouquier-Tinville)
Nicola Pamio (L'Incredible)
Angelo Nardinocchi (Pietro Fléville)
Ronald Naldi (L'Abate)
Eric Keller (Schmidt)
Michael O'Hearn (Dumas)
Philip Booth (Il Maestro di Casa)

Conductor: Alberto Veronesi
The Opera Orchestra of New York
New York Choral Ensemble (prepared by Italo Marchini)

Left Orch L Odd
Avery Fisher Hall

*** ジョルダーノ アンドレア・シェニエ Giordano Andrea Chénier ***

BEATRICE DI TENDA (Wed, Dec 5, 2012)

2012-12-05 | メト以外のオペラ
昨年の『モーゼとファラオ』の公演ではフレッシュな顔ぶれ(ただし老モリスは除く)の歌手たちが大健闘し、
聴きごたえのあったカレジエート・コラールによる演奏会形式オペラ公演シリーズ。
今年もアンジェラ・ミードが登場するとあっては当然鑑賞しないわけにはいかないのですが、ここで大問題発生。
ベッリーニの『テンダのベアトリーチェ』、、、? 実演どころかCDですら一回も聴いたことな~い!!!

それもそのはず、NYでは1961年のアメリカン・オペラ・ソサエティによる演奏(サザーランド、ホーンにレッシーニョの指揮という垂涎の組み合わせ!)以来、
一度も演奏されたことがないのではないか?と言われている、生で聴けること自体が非常に貴重な作品なのです。

ある演目を初めて鑑賞する時、ストーリーや歌われる言葉を全く知らないと、
その分音楽に向けられたはずの注意をかなり奪われてしまうような気がして損した気分になる貧乏性な私ですので、
初めて聴く演目については絶対にリブレット付きのCDで予習したい。
そこで、今やNYでオペラの全幕もののCDを店頭売りしている場所はメトのギフト・ショップとここだけなのでは?
と思われるダウンタウンの某電気屋のCD売り場に赴き、リブレット付きの『テンダのベアトリーチェ』という条件で探してみたところ、
在庫で該当した盤は一種類だけ。
ナイチンゲール・レーベルのスタインバーグ指揮オーストリア放送交響楽団(現在のウィーン放送交響楽団)の1992年のライブ盤で、
グルベローヴァ、カサロヴァ、モロソウというキャストです。
私はこれまでにも何度かこのブログで告白して来た通り、正直言うとグルベローヴァのベル・カントがあまり好きでないんです。
だけどそれはどちらかというと彼女の歌い方とか表現とかセンスに対する私のテイストの問題であって、
技術的には当時世界で最高レベルのものを誇っていたソプラノであることには代わりなく、
彼女が歌っているならば絶対にがっかりするようなことはないだろうし、
むしろ、『テンダのベアトリーチェ』がどういう作品なのかを知る、という目的のためには、
正確さに定評のある彼女のような歌唱を聴いておくのがかえってよかろう、と、何の迷いもなく購入したわけです。

ところが、家に帰って実際に盤に耳を通してみてびっくり仰天!
何なの!?これ!?!?
あまりにひどい、惨すぎる歌唱なのです。それもほとんどキャスト全員。
言っときますが、ヨーロッパの片田舎に二流歌手たちを集めて録音した廉価版CDじゃないんですよ。
天下のグルベローヴァに、カサロヴァがタッグを組み、音楽の都ウィーンで開かれた演奏会の録音で、
件の店では堂々と30ドル以上の価格をつけて販売されている代物なのです。
しかし、私などはまだラッキーなのかもしれない。なぜならば、CDならOFFボタン一つでストップ出来るんですから。
それに引き換え、この演奏会を実際にホールで聴いていたオーディエンスは延々この歌に付き合わなければならなかったわけで、
一体彼らはどんな思いでこの演奏を聴いていたのだろうか、、と、そこのところだけは心底興味があります。
ナイチンゲールって、ほとんどグルベローヴァの私設レコード・レーベルのようなものと私は理解しているのですが、
それならば最低限でもグルベローヴァの歌のクオリティだけは保証されているはず、、と思うじゃないですか?
ところがこの盤での彼女は全く冴えない。どころか、はっきり言ってその歌唱は聴くのが苦痛のレベルに達してます。
わざわざこんな歌唱の時の彼女をCDにして後世に残そうとする意味がわかりません、ナイチンゲール。
カサロヴァも本来はすごく良い歌手なのに、登場してすぐ歌う旋律のピッチがぼろぼろで、
良い感じでグルベローヴァとどっちが不調か?コンテストを繰り広げてますし、
モロソウに至ってはどっからこんな三流バリトンを連れて来たのか?と思うような、
まるで読経中の坊主って感じの歌唱でげんなりさせられます。唯一まともなのはテノールのベルナルディーニくらい。

またこのCDを買った最大の理由であるリブレット。これがまた信じられないくらい劣悪な品なのです。
ナイチンゲール・クラシックスのドクター・ウマン(フマン?ヒューマン?)・サレミという人物が翻訳したという英語訳、
これだったらまだグーグルの自動翻訳機能にかけた方がまだまともなものが出て来るんじゃ、、という位、
意味不明な英語のオンパレードで、誤訳・不適切な言葉はもちろん、英語としてちゃんとした文章になっていない箇所も数え切れないほどあって、
ドクターって一体何の??と聞きたくなります。
まさかこんなに粗悪な訳をリブレットにつけたものを商品として売るとはこっちは思いもしないので、
初めて意味不明な箇所が出てきた時には私の読み方が悪いのか、と何度も読み返してしまいましたが、
その後も、あるわ、あるわ、珍訳、誤訳の嵐!!!
ドクター・サレミの正体は実はグルベローヴァの故国の近所のおじさんか何かで、
翻訳代のコスト・セーブのために彼が辞書と首っ引きで適当に訳したものをリブレットに貼り付けたのだ、と聞いたとしても、私はちっとも驚かないでしょう。

そのあまりなことに、二枚組みCDの一枚目が終わらないうちにこれ以上聴き続けることは苦痛以外の何者でもない!というレベルに達してしまいました。
そして、もちろん、これまで書いて来た通り、歌手の不調や三流バリトンを混入するという痛いキャスティングも大きな理由ではあることに間違いないのですが、
もう一つ、とても重要で、とてもやばいことに気づいてしまうのでした、、。
『テンダのベアトリーチェ』の歌のパートは本当に半端なく難しい!!!
この作品がNYで60年代から一度も演奏されていないのも当然です。
こんな難しい作品、いくらミードが実力のある歌手だからと言っても、本当に歌えるんだろうか、、
いや、ミードだけじゃないです。メゾもバリトンも(テノールのパートは若干ましか?)大変ですよ。
これを、若手の歌手たちで演奏会にのせる、、、、ちょっと無謀過ぎやしないか?カレジエート・コラール、、、。

しかし、かといってこちらも予習で頓挫するわけにはいかないので、最後の頼みの綱として、
今度はサザーランド、ヴィセイ、オプソフ、パヴァロッティという組み合わせのボニング指揮ロンドン交響楽団盤をAmazonからダウンロードしてみました。
もしサザーランドも歌えない、、ということであれば、これはもう歌唱不能の作品として歴史に葬り去るしかないでしょう。
ところが、さすがはサザーランド!!!! 
いえ、サザーランドだけではありません。残りの三人も素晴らしい歌唱内容で、オケの演奏もちょっと音色が明るいですが悪くありません。
贅沢を言えば、もう少しアンブロジアン・オペラ・コーラス(特に男性)が頑張ってくれていたなら、、と思いますが、
この作品の難しさを考えると、ほとんど奇跡的な内容の演奏で、『テンダのベアトリーチェ』はこの音源さえ持っていれば他には何も要りません。
もちろんスタジオ録音で取り直しがある程度きく、ということもありますが、
さっきまで聴いていた苦行のような音楽と同じ作品なのか?と思う位素晴らしい演奏で、
こういう演奏を聴くと歴史に葬り去るにはもったいない面白い作品ではないか!と思います。
ベル・カント作品というのは他のレパートリー以上に歌唱・演奏する側の力量で、面白くもつまらなくも苦痛にもなるところが、
楽しさであり、また、怖ろしさでもあるわけですが、ナイチンゲール盤とサザーランドの盤はその良い見本でしょう。

では、この作品のどこが難しいのか、どうしてグルベローヴァやカサロヴァのような歌手でさえ手を焼くことになるのか、と言えば、
それは一言で言うとベッリーニが書いている音楽のawkwardさにあると思います。
例えば、カサロヴァが苦労していた、アニェーゼ役が一番最初に歌う”Ah! non pensar che pieno”、
この部分のテッシトゥーラの嫌らしさはどうでしょう?!
メゾにとって、すごく歌いにくい音域に旋律がのっかっているので、ピッチがぶらさがりやすい。
それから各パートの歌手にとって非常に歌いにくい種類の音のアップダウン、不自然な音程の移行、、、
これらがこの曲を大変難しいものにしていると思います。
いや、この曲、というより、ベッリーニの作品には若干その傾向があるように思うのは私だけでしょうか?

ベッリーニとドニゼッティはキャリアがオーバーラップしていた時期があったせいで、
しばしば一緒に、もしくは比較して語られることが多いですが、
私の耳にはドニゼッティの音楽の方がずっとナチュラルで、歌を歌うということの生理に忠実に書かれているように思えます。
もちろんドニゼッティの作品も、絶対的なスケールでは決して歌うのは簡単ではないですが、
訓練に訓練を重ねた歌手の手にかかると、その歌唱は、とてもナチュラルで、ほとんど苦労して歌っているように聴こえなくて、
それで私などは催眠術にかかったようにうっとりしてしまったりするわけです。
ところが、ベッリーニの作品の中には、どんなにすごい歌手が訓練に訓練を重ねて歌っても、
どこか旋律の動き方が不自然に感じられる(音型として不自然なのではなく、歌唱のメカニズムに反するような音の移動の仕方をする)、
そのために歌手が苦労して歌っているな、、と感じられる箇所が存在するものがあって、
それはサザーランドが『ベアトリーチェ』のCDでほとんど信じられないような高レベルの歌唱を披露していても、
やっぱりそれをちらっと感じてしまう時があるし、”清き女神”のような名曲でもやはりそのawkwardさを感じる部分があって、
だからドニゼッティの作品を歌う難しさとベッリーニの作品を歌う難しさは厳密に言うと少し違っているな、と思うのです。
ベッリーニがドニゼッティほどには歌を歌うということのメカニズムへの理解もしくは作曲中に上手く取り込む能力に優れていないからなのか、
それともそれを十分持ちつつ敢えて、、なのか私にはわかりませんが、後者だとすると、相当なサディストぶりで、
今回の『テンダのベアトリーチェ』の予習・鑑賞を通じて、ベッリーニ=サディストという等式が私の頭に刻み込まれました。
それ位、この作品は歌うのが大変な作品なのです。

話のあら筋だけ聞くと、びっくりするほどドニゼッティの『アンナ・ボレーナ』に酷似していて(作曲は『アンナ・ボレーナ』の方が3年早い)、
舞台をイギリスからイタリアに変えただけやんけ!と突っ込みたくもなりますし、
『アンナ・ボレーナ』に比べると、かなり話の進行の仕方がぎこちなくて、
”んな馬鹿な、、。”と思うところや、正直、リブレットを読んでいるだけでは何が何やら、、のシーンもあります。
私の隣のボックスにいたおば様も、一幕が終わったところのインターミッションで、
”何だか全然意味が良くわからないんだけど、説明してくれる?”と一緒に鑑賞されていたお友達にヘルプを求められていました。
ということで、カレジエイト・コラールが作成してプレイビルに掲載しておいてくれたあらすじをこちらにつけておきます。
特にアニェーゼとオロンベッロの相手取り違えのシーンはリブレットからだけだとかなり意味が摑みずらいし、
ベアトリーチェと前夫のことやフィリッポとの再婚の経緯は詳しく語られないので
(いきなり前夫ファチーノの名前が出て来たりして、誰よそれ?って感じです。)おば様が混乱されるポイントとなっていました。

しかし、一方で『アンナ・ボレーナ』とは決定的に違っている部分がいくつか『テンダのベアトリーチェ』にはあって、
それがこの作品を非常にユニークなものにしています。
一番ユニークな点は、この作品における合唱の役割です。
さすがにカレジエイト・コラールが企画している演奏会だけあって、合唱が単なる添え物になってしまっている作品では全くないのです。
一幕の冒頭近くでは、まず宮廷のフィリッポ派として、フィリッポにベアトリーチェとの離縁をそそのかす邪悪な役割を果たしているのが印象的です。
その一方でベアトリーチェのお付きの女性たちがいかにベアトリーチェを慕い、最後に彼女の処刑を悲しむか、これを表現するのも合唱の役割だし、
かと思うと、兵士達としての合唱は、オロンベッロにはもちろん、フィリッポにさえ一歩退いた冷ややかな視点を持っていて、
この兵士の合唱の使い方はこの作品に独特のレイヤーを与えています。
しかもニ幕には男声合唱にオロンベッロが拷問に折れて虚偽の告白をしてしまうまでのいきさつを説明する語り部的な役割まで与えられているのです。
合唱の使い方に定評がある作曲家というとすぐにヴェルディが頭に浮かびますが、
彼の場合は民衆とか宮廷の人々といったマスを主役にした合唱(ナブッコ、アイーダ、オテッロ、ドン・カルロ、シモン・ボッカネグラ、、)で
オーディエンスがマスの一人になったような気分にさせるところに特異な才能があるわけですが、
(これまでアイーダを聴きながらエジプト人の気分になったり、ナブッコを聴きながらヘブライ人になったり、、ということが何度あったか。)
『テンダのベアトリーチェ』の合唱は、そういうヴェルディ型の合唱とは違って、
まるでソリストたちと並んで、フィリッポ派の宮廷人、ベアトリーチェのお付きの女性、兵士達という独立した、それも重要な役柄があって、
それをたまたま合唱という複数の人数で歌い演じている、そういう感じなのです。
ということなので、合唱は技術のみならず演じている役柄に合わせた表現力も求められるわけで、
そういう意味では前回の『モーゼとファラオ』よりも難易度が高いように思うのですが、
案の定というか、そこまでカレジエイト・コラールに期待するのが間違いなのかな、、
何とか楽譜を辿っている(いや、場所によっては辿れていないところもありましたが、、、)という感じで、
役の表現なんていうレベルには全然。

もう一つ、『テンダのベアトリーチェ』が『アンナ・ボレーナ』と決定的に違っている点は、
アンナ・ボレーナが最後にほとんど狂気と正気の境のような特殊な状態になって処刑台に向かって行くのに対して、
ベアトリーチェは徹頭徹尾正気のまま、その過程でアニェーゼやフィリッポを許しさえして、死に向かう、という、このキャラクターの差です。
アンナ・ボレーナの強さが彼女の片意地や気の強さに現れるとすれば(彼女は絶対にエンリーコやジョヴァンナを許したりはしない。)、
ベアトリーチェの強さは、正しい生き方をした人間には心の平安が訪れるという信条から来るもので、
それがあれば本来恨んで死んでいってもおかしくない相手ですら許すことが出来る、という独特のしなやかさに特徴があります。
この作品のベアトリーチェのパートは純粋な技術上の難易度だけ言っても成層圏外級ですが、
それ以上に、本当の難しさは、それをやりながら、ベアトリーチェのしなやかな強さを表現しなければならないところにあるんだと思います。
ナイチンゲール盤のグルベローヴァのような絶叫モードが延々続く、、という歌唱ではそれは絶対に無理なのであって、
サザーランドの独特のおっとりした雰囲気と、それから超難易度の高い歌をそうと感じさせず軽やかに歌いこなせる技術があってこそ、
この役の本当の姿が見えてくるというものです。
話の筋としては非常にドラマティックでありながら、ここが『ノルマ』のような作品とは決定的に違う点で、
ベアトリーチェ役はそのようなしなやかさをもって歌われるのが理想であり、
もし力のあるソプラノがこの役に入ったなら、そういう歌い方をするだろう、という理解と予想をもってオーケストラは演奏しなければならない。
ところが今回私がカレジエート・コラール以上に失望したのが、アメリカン・シンフォニー・オーケストラの演奏です。
小さな部屋で象が暴れまわっているかのような力任せの演奏に、歌手たちの歌唱が象の鼻やしっぽでなぎ倒される花瓶や額縁のように見えました。
例えば、第一幕第一場のフィリッポの最初の聴かせどころで、
最後に合唱を伴って大きく盛り上がる"ああ、神々しいアニェーゼよ Oh! divina Agnese"、
ここはバリトンが最後にハイノートを(おそらくオプショナルだと思いますが)決められる箇所で、
今日フィリッポ役を歌ったポーレセンは高音域に強みがある人ですので、当然のことながらここで高音を入れてくれたのですが、
あろうことか、アメリカン・シンフォニー・オーケストラのまるでワーグナー作品を演奏しているかのような大音響に完全にかき消されてしまい、
これはないよな、、、と本当に気の毒に思いました。
それから第四場の、こちらもハイライトの一つであるベアトリーチェの"私の悲しみと怒り、無為な怒りを Il mio dolore, e l'ira, inutil ira"は
ベアトリーチェ役のソプラノのパートとホルンとの掛け合いが非常に美しいんですが、
決してか細くないミードの声をいとも簡単になぎ倒す大音響のホルン・ソロに私が怒りで肩を震わせていたことは言うまでもありません。
アメリカン・シンフォニー・オケのメンバーのセンスの無さもあまりといえばあまりですが、
しかし、これは指揮のバグウェルがばしーっ!と、”ベル・カント・オペラの演奏はそんなに力任せでなくてよろし。”
というメッセージを出さなきゃいけないんじゃないでしょうか?
ベル・カント・オペラのオケ演奏は、歌手の歌の美しさを引き立てつつ作品のドラマを観客に伝えなければならない、という独自の難しさがあって、
ベル・カントのオケ演奏を簡単だと言ったり貶めたりする批評家や演奏家やオペラファンはなーんもわかってないのね、、と思います。

今日の演奏はおしなべて歌手の歌唱が力任せに寄っていたように思うのですが、
これはバグウェルとアメリカン・シンフォニー・オケのセンスない力任せ演奏に対抗しなければ、、
(じゃないとオーディエンスに声が聴こえないのではないか、、という心配で)と、歌手達の歌が押し気味になったのも一因だと私は思ってます。
これじゃしなやかに歌おうと思っても無理ってもんで、ほんと、ベル・カントの世界においては犯罪行為に等しい演奏でした。
バグウェルはオペラ刑務所行き確定。
こういうのを聴くと、キャラモアのクラッチフォード氏のベル・カントものの指揮は、オケの地力の差もあるかもしれませんが、
きちんとおさえるところをおさえてくれているな、、と思います。



今回の演奏で興味深いのはキャストに映画『The Audition』でとりあげられた
2007年のナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズのファイナリストが3名も含まれている点です。

フィリッポ役を歌うバリトンのニコラス・ポーレセン。
フィリッポ役はミラノ公としての威厳と気品を表現するためにも低音域がしっかりした成熟した感じのするサウンドが必要で、
それは『アンナ・ボレーナ』のエンリーコ役にも共通するところかな、と思うのですが、
フィリッポ役が大変なのはその上に先にも書いたような高音で勝負しなければならない箇所もある点で、
この両方を二つ満たすのはなかなかに大変です。
件のサザーランドの盤でこの役を歌っているコーネリアス・オプソフというバリトンはこの二つを上手くクリアしていて、
私は今回の盤で知るまで名前も存じ上げない歌手だったのたですが、カナダのバリトンで2008年にお亡くなりになっているようです。
ポーレセンは何と言ってもまだバリトンとしては年若いこともあって、成熟した男性というよりは若竹のようなサウンドで、
中音域以下にまだ魅力的な音が出来上がっていないのが残念。
役を良く準備して来たのは良く伝わって来るのですが、それだけではカバーし切れないサウンド面での不足が物足りなさを誘います。
またフレージングの固さも今後改善すべき課題かもしれません。
ただし、高音の美しさ、これは注目に値するものがあって、本当に響きの美しい音を楽々易々と出してくるので
(第二幕第一場のラストで合唱を伴って歌うNon son io che la condanno以降の部分の最後の高音なんか、本当に綺麗でした。)
彼の持っている音域は普通のバリトンよりもちょっと高い方に寄っているような印象を持ちます。

アニェーゼ役のジェイミー・バートンは先日のタッカー・ガラでの若手にしては非常に完成された『フォヴォリータ』からのアリアが印象に残っていて、
今日の公演での彼女の歌唱を大変楽しみにしていたのですが、
アリア一曲歌うのと、全幕を歌うことの違い、というのはこういうことを言うんだろうな、、と思います。
彼女は高音に関してはソプラノに負けない破壊力ある音を持っていて、これは今後のキャリアで大きな切り札で、
将来いつか、ミードのノルマ、バートンのアダルジーザで『ノルマ』なんてことも十分可能性があると思います。
第一幕の最後の合唱も加わった四重唱でのミードとの高音の戦いはまさにゴジラvsガメラ!で、一騎打ちという言葉がぴったりでした。
でも今回の彼女の歌唱に限って言えば、それが多少仇になった部分もあるかな、、と思います。
バグウェルの指揮が足を引っ張っていたのは承知で言うと、今日の彼女の歌には全く引きがなくてあまりに押して、押して、押して、で、
これじゃオーディエンスも疲れてしまいます。
全幕で主役・準主役級の役を歌う時は、単に旋律を歌うではなくて、やはり物語のストラクチャーとかそういうことも考えながら、
歌を構成していかなければなりません。
そう、彼女の全幕の歌にはまだストラクチャーが感じられない。
カサロヴァが苦労していた例の一幕でアニェーゼが初めて歌うフレーズは今回舞台袖から歌われたのですが、
バートンもやっぱりピッチを納めるのに苦労していて、その上に例の押して~が加わるので、全く美しくなかった。
ここって、先にも書いた通り、旋律がとても嫌らしい音域に乗っているので、歌うメゾも本当に大変だと思うのですが、
ここでフィリッポとオーディエンスを骨抜きにするような色気のある歌を歌うのと、
なんか聞苦しい音が必死の体で鳴ってる、、というような歌を歌うのでは、
その後のアニェーゼ像に大きなインパクトがあると思うのです。

それにしてもこのアニェーゼという人は、妙な突っ走り方といい、ああ勘違い!な度合いといい、
ヴェルディの『ドン・カルロ』のエボリと良い勝負をしてます。
いや、人のものを勝手に盗んだりするところなんか、実にそっくりで、まことにいやらしい!!!
でもオーディエンスに完全な勘違い女のレッテルを貼られないためには、歌で、この女性の魅力を100%伝えなければならない。
なんてったって、フィリッポはもうベアトリーチェからこのアニェーゼにすっかりほだされている状態で、
しかもオロンベッロさえ落とせる!と思っているらしい自信満々の様子からして、アニェーゼも相当美人のはずです。
こういう女が作品が違うと、”呪われし美貌”なんてアリアを歌ってしまうわけですな。
メトの2010/11年シーズンの『ドン・カルロ』ではスミルノヴァの歌があまりに駄目駄目なせいで、エボリの役に全く説得力がなく、
”美貌?何の話?”ってなことになってしまっていましたが、
魅力的な歌を歌わなければ、同じようなことがこのアニェーゼ役にも起こってしまうわけです。
その点で言うと、バートンの歌は、んな馬鹿な、、、というレベルにまでは落ちていませんでしたが、
じゃ、十分に説得力のある色気ある歌だったか、というと、そこまででもない、、という感じで、まだまだ精進の余地はありそうです。

難役ベアトリーチェにチャレンジしたミード。
オペラハウスでの全幕公演のように数公演回数があるものと違い、たった一回の演奏会形式での演奏のためだけに、
よくここまで準備のエネルギーを注ぎ込めたもの、と本当に感心します。
いや、この役で舞台に立つ勇気があるソプラノはどんなソプラノでも、まずその心意気だけで称賛されるべき。本当、それ位大変な役だから。
今まで彼女の出演しているオペラの公演や演奏会を鑑賞して、彼女がきちんと準備して来なかったな、と感じたことは一度もないのですが、
今回もその例に漏れず、音楽的にはかなりレベルの高い内容の歌唱で、特にベアトリーチェがフィリッポ、アニェーゼ、オロンベッロ、
すべての人間を許して死の場所に向かうニ幕ニ場(ここは『アンナ・ボレーナ』の狂乱の場に対応する場面なんですが、
先に書いた通り、ベアトリーチェは最後まで狂っているわけではないので、狂乱の場という呼称はふさわしくないのかもしれません。
しかし、ソプラノが持っている全ての歌唱技術を披露しつくす場面、という意味では、まさに狂乱の場以外の何物でもありません。)での歌唱の完成度の高さは、
多分、今、このような難役を歌わせてこんな内容の歌を歌える人が他に一体何人いるのか?と聞きたくなる位です。
しかし、表現の話をすると、このニ幕ニ場で彼女が見せた表現の豊かさに比べると、若干他の部分の味付けが薄かった感じがあって、
さすがに深くこの役を読み込んで、それを歌に反映し切るだけの時間はなかったのかな、
もしくは彼女のような技術的に卓越したものを持った人でもこの作品でそれを成し遂げるまでに至るにはさらに長い長い道のりが必要なのかな、と思います。
彼女がメトで『アンナ・ボレーナ』を歌った時は本当に一つ一つのフレーズが細かく練れていて、アンナの感情が歌に完全に織り込まれていたし、
今日も狂乱の場に関してはそれを成し遂げていたわけですから、それが出来る歌手であることは間違いないのですけれど。
後、ニ幕一場前半の重唱での彼女の歌唱もすごく良かったです。ここはオケなしでベアトリーチェの声一本で進んでいく箇所があったりして、
この作品の中でもすごく面白い箇所の一つ。
そういえば、ここの部分には、『ワルキューレ』の最後でヴォータンがブリュンヒルデを火で包むべく、ローゲに呼びかける直前の金管のフレーズまんまの部分があって、
ワーグナーが『ノルマ』を評価していたという話は聞いたことがありますが、この『テンダのベアトリーチェ』からも軽く失敬していることが発覚しました。
エボリやアニェーゼ並みのずる賢さですな。

ミードの歌唱がオケの薄い箇所ほど良かった、というこれらの事実により、再び罪状を重ねた感があるのはバグウェルです。
彼女も他の箇所に関してはバートンと同様に押しがちになる傾向があって、オケがあんなに爆音を立ててなかったら、
もうちょっと違う結果になったかもしれないな、、と思います。
ただ、バートンに比べると、ミードの方が作品の全体を考えながら歌う、ということが既に出来ていて、
『The Audition』組の中ではやはり頭一つ、二つ、三つ位図抜けていると言ってよいと思います。

ミード以外に面白い歌手がいたとすれば、それは『The Audition』組でなく、意外にもオロンベッロ役を歌ったマイケル・スパイアーズでした。
彼は今年のキャラモアの二つの公演の片割れ(ロッシーニの『バビロニアのシーロ』)にも出演していたそうなんですが、
私は『カプレーティとモンテッキ』の方を観に行って、バビロニア~の方を鑑賞しなかったので、彼の名前は今回全くのノーマークでした。
公演前にちらっと目を通したプレイビルにはミズーリ出身のアメリカ人とあって、
アメリカ人の歌手は大抵アメリカのオペラハウスのヤング・アーティスト・プログラム等でキャリアを積むケースが多いので、
ここアメリカであまり名前を聞かないということは、それほど期待できない、ということなんだろうな、、と思いつつ公演を聴き始めました。
ところが、これがどっこい、彼の歌唱を聴きすすめるうち、予想を裏切るしっかりした歌で、
彼も若手に違いないのに、バートンやポーレセンに比べて明らかにフレージングもこなれていて歌に落ち着きがあるし、
表現力もあるし、一体どこで歌って来た人なんだろう?と嬉しい驚きを感じました。
私はちょっと昔の歌手っぽい、レトロな感じの歌い方をする・ティンバーを持っているテノールに弱い(甘い)ところがあるので、
それも一因かもしれませんが、そんなに歌唱量の多くない、しかもダメ男の代表のようなこのオロンベッロという役で大きな印象を残すとは将来が楽しみです。
彼のトップのきちんと開いたサウンドは本当に魅力的ですので、このまま研鑽を続けて頂いて、ぜひメトにも登場して欲しいと思います。

YouTubeに彼の歌唱がアップされていましたので一つ紹介しておきます。
一緒に組んでいるソプラノが彼のレベルでないのが悲しいですが、グノーの『ロメオとジュリエット』からの二重唱で、
彼の歌唱の魅力の一部が良く出ている音源だと思います。



このスパイアーズとかコステロとか、若手で面白いロメオを歌えるテノールが出て来ているのに、
どうしてメトではひっきりなしにアラーニャとかジョルダーニとかおっさんテノールばっかり投入してくるんでしょう、、。
ロメオは何歳だと思ってんだ、って話ですよ、全く。


Angela Meade (Beatrice di Tenda)
Nicholas Pallesen (Filippo Maria Visconti)
Jamie Barton (Agnese del Maino)
Michael Spyres (Orombello)
Nicholas Houhoulis (Anichino)

Conductor: James Bagwell
American Symphony Orchestra
The Collegiate Chorale

Carnegie Hall Stern Auditorium
Second Tier Center Right Front

*** ベッリーニ テンダのベアトリーチェ Bellini Beatrice di Tenda ***

MOISE ET PHARAON (Wed, Nov 30, 2011)

2011-11-30 | メト以外のオペラ
ここ数年に渡って私がアンジェラ・ミードをフォローし続けていることはこのブログを継続して読んで下さっている方々には周知の事実だと思うのですが、
そうしているうちに、メトだけでなく、これまであまり聴く機会がなかった演目、オケ、合唱にふれることが出来るという楽しみが増えました。
ピッツバーグとかボルティモアとか、そうでなかったらまず聴きに行くことはなかっただろうと思います。

メトの『アンナ・ボレーナ』の公演を終えた彼女が、引き続きNYで歌ってくれることになったのは、
カレジエイト・コラールによるロッシーニの『モーゼとファラオ』の公演。
カレジエイト・コラールは今年で創立70周年を迎えるNYをベースとする合唱団で、指揮者のロバート・ショーによって創設された後、
トスカニーニ、ビーチャム、バーンスタイン、クセヴィツキー、マゼール、メータ、レヴァインといった名の知れた指揮者との演奏の経験を積み、
良く知られた合唱のための作品やオペラだけでなく現代作品に至るまで、広いレパートリーを誇る合唱団となっています。



しかし、『モーゼとファラオ』、、、? 微妙に聞いたことがあるようなないような、、。
確かロッシーニが書いたのは、『エジプトのモーゼ』というタイトルだったはずだったけど、、と思って調べてみると、その『エジプトのモーゼ』の改作なんですね。
アメリカでロッシーニ研究といえばこの人!ということで再びご登場のフィリップ・ゴセット先生
(シカゴ大教授。ロッシーニをはじめとするベルカント・オペラのエキスパートで、メトのルチアでネトレプコのためオリジナルのカデンツァを書いてあげたおじさん。)
がプレイビルに寄せて下さった文章によると、(ただし、()内は私が補足した部分です。)

*1824年からパリのテアートル・イタリアンで活動を始めたロッシーニは当時まだフランスで知られていなかったイタリア作品を上演することに心を砕いたが、
実は密かにオペラ座で自作のフランス語による作品を上演したいという野望を持っており、
このためにイタリアの声楽スタイルにも精通したフランス人の歌手たちの育成に励んでいた。
*(しかし意外に慎重なところのある)ロッシーニは、いきなりフランス語の新作にとりかかる代わりに、自作のセリアのうち出来の良かったニ作品をイタリア語からフランス語に変えてみることにした。
*ナポレオン政権の遺産で、当時のナポリはイタリアの中で最もフランス文化の影響を受けていた街であり、それもあって、サン・カルロ劇場時代の自信作二作、
『マホメット二世』と『エジプトのモーゼ』をチョイスし、それぞれを『コリントの包囲』と『モーゼとファラオ』としてフランス用に改作し発表した。
*リブレット上新しいテキストが追加されたほか、合唱の役割が大きくなり、バレエのシーンも追加された。
*すべての音楽上の変更はロッシーニ自身によってなされたが、”モーゼとファラオ”の方には署名入りの最終稿を作らず、
多くの、長いもしくは断片的な、マニュスクリプトをどさっと渡して、これで総譜を印刷してくれたまえ、、、と、ウージェーヌ・トルぺナス(フランスの楽譜の出版者)に依頼した。
(トルペナスの、ま、まじかよ、、という声が聞えるよう、、。)



*現在一般に(そして今日の公演にも)使用されているスコアは基本的にこのトルペナス版を元としているが、こういった事情から、スコアは間違いと誤った解釈だらけである。
*(どうやらブラウナーという人が現在クリティカル・エディションの完成発行に挑んでいるそうだが、ここで、”ロッシーニが辿った筋道を再現しながら、
一つ一つの音符を、オペラ座に現存するサイン入りのマニュスクリプトと丁寧に付け合せながら、リハーサル中に入れられた改訂・訂正も反映しなければならない。”と
いやーなプレッシャーをブラウナー氏にかけるゴセット氏。)
*ロッシーニが『エジプトのモーゼ』から『モーゼとファラオ』に加えた変更が成功しているかどうかは、この30年間、専門家の間でも議論が分かれるところで、
特に『エジプトのモーゼ』では、エジプト人が暗闇の中に放り出されているところから幕が開く、その素晴らしさに対して、
『モーゼとファラオ』では、この場面をニ幕の頭に移動させてしまった点を嘆く批評家が多い。
*しかし、その一方で、『モーゼとファラオ』は、ヘブライ人が自分の囚われの身を嘆き、モーゼの呼びかけで祈りが始まり、
その祈りが虹と”神秘的な声”によって答えられ、モーゼらが神託を受ける、、という非常に印象的な始まり方になっていて、
15年後に『ナブッコ』を書いたヴェルディがこの場面を念頭に置いていたことは想像に難くない。
*他にも『エジプトのモーゼ』と比べ、オペラ作品としてインパクトが弱くなっている箇所はいくつかあるが、
『モーゼとファラオ』は、それでも、『エジプトのモーゼ』に比べて”改善”と言ってよく、『エジプトの~』の最も弱かった点が取り除かれている。
また、アナイ役に与えられた新しいアリアはロッシーニが書いたアリアの中でも最良の一つと言ってよく、改訂の経過でなくなってしまったアリアを埋め合わせて余りあるものである。
*ただ、あまり違いばかりを強調するのも良くないであろう。(強調して来たのはあんただろう!とつっこみたくもなりますが、、、。)
オーケストラの楽器編成には一切変更がなく、それでいて、オーケストレーションに手が加わった部分は、より自信に溢れたものになっていて、
一言で言えば、変更はシンプルなものであって、音楽的な良さは失われていない。



と、簡潔ながらとても充実した内容で、他に付け加えることもありませんので、今日の記事はこれでお終い。
、、、にしたいな、出来れば。

なぜならば、私は『エジプトのモーゼ』もちゃんと聴いたことがない有様なので、さすがにブログで記事を書くのに、
こんなに全く作品を知らないというのはまずいだろう!と、CDを探し始めたのですが、これが、なんと!
『モーゼとファラオ』って、ほとんど全くと言ってよいほど音源がないのです!
ムーティの指揮によるスカラ座の公演がDVD化されていて、これはキャストも割りと良い歌手が揃っていて評価も高そうなのですが
(とはいえ、人気作品と違って他に比べる音源がないですから、その評価というのも怪しいものではありますが。)、
知らない作品はリブレットを読みながらじっくり音楽を聴きたいんだな、、、。
ところが、CDの方はもっと悲惨な状態で、ライブの海賊版と思しき音源が、評価者の”音質悪すぎ”の言葉と共にリストされていて、
どう考えても、このCDにはリブレットはついていまい、、と思わせる一品なのです。
うーむ、、、これは弱りました。
そして、弱っているうちにどんどん月日は流れ、気が付けば公演が明日に迫っているではありませんか!
唯一の救いはオペラの内容が旧約聖書の出エジプト記の前半部分(モーゼが海を割って道を作り、そこをイスラエル人が渡って行くというあの有名な紅海の奇蹟の場面。)
にのっとっていることがわかっている点で、こうなったら、音楽はぶっつけ本番、あらすじだけ完璧に、、と、久々に聖書を寝床に持ちこんでみました。

この聖書は私が学生時代に使っていたものなんですが、20年以上ろくにページを開くことがなく、もう記憶が完全に消え去りかかっていましたが、
これは何という因果でしょうか?
それとも私の大学時代の聖書のクラスの先生が単なる出エジプト記フェチだったのかな、、?
このmy聖書の、まさに『モーゼとファラオ』に関する部分だけにやたら激しい書き込みやアンダーラインがあって、読んでいるうちにすごい勢いで記憶が甦って来ました。
そうそう、空からいなごが降って来たりとか、大変なことになるんだよな、、
それにしても”私の力をとくと知らしめ、エジプト人の心に永久に私への畏れを刻み込むため、、”と言いながら、
10回も試練を与えるなんて、”主”って、やたらしつこくていやらしいおっさんだわ、、と思った記憶も合わせて甦って来ました。
モーゼがこれまた優柔不断で、もうあんたは主に選ばれてしまったんだから観念しなさいよ、と思うのに、
イスラエル人をエジプトから脱出させるという大変な重責に、”私には無理です、、。スピーチが苦手だからみんなをまとめられないし。”と情けなく逃げ腰になったりして、
これにもまたまた主はむかむかっと来て、”お前にはスピーチの得意な兄がいるだろーが!彼を使えばいいんだ!”と、怒りを爆発させたりするんですよね。
ああ、本当に気の短いおっさんだなあ、主。
ま、しかし、これならとりあえず、ストーリーがわからなくなって混乱するということはなさそうだ、と一安心。消灯。



そして当日。カーネギー・ホール。
プレイビルを見てびっくり仰天です。
なんだ、このあらすじは!!!!????(プレイビルに掲載されたカレジエイト・コラールが準備したと思われるあらすじの和訳を
”マイナーなオペラのあらすじ”のカテゴリーに転載した記事はこちら。)
ナイル河が血に染まる、とか、いなごの件は聖書で聞いてましたが、ピラミッドが火山になって噴火ぁ?!
なんか一層破天荒な筋立てになってませんか、、?
しかも、モーゼやアロン(しかもこれがフランス語でエリエゼルという名前になっていて、まぎらわしいことこのうえなし。)はいいとして、
アメノフィスとかアナイって、誰、、、?
”しかし、ユダヤ人を本当に解放するまでにはなんとさらに三つの幕が必要となる。”という言葉に、あらすじをまとめる係の人の”やってられん。”という本音が垣間見えて笑ってしまいましたが、
この作品を見ているうちに、その気持ちはよーくわかる気がしました。

そう。というのも、オペラ『モーゼとファラオ』が聖書と比べてオリジナルな点は、単にエジプト脱出を描いているだけではなく、
そこにエジプト国王の息子(これがアメノフィス)とイスラエル人であるモーゼの姪っ子(そしてこれがアナイ)の、いわばアイーダ的ロマンスが絡んでいる点で、
このアナイという女がこれまたおじのモーゼ似で、ええ、あなた(アメノフィス)とエジプトにとどまるわ、ううん、やっぱりおじさんたちとエジプトを出るわ、、と、
一生やってろ!と思うような優柔不断さなのです。
本当、彼女がもうちょっと竹を割ったような性格だったなら、三つとは言わなくても二つ位は幕をセーブできたかもしれませんよね、カレジエート・コラールさん!



と色々書いた後で何だ?という感じですが、しかし、私、この作品、実を言うとすっごく気に入ってしまいました。
今もこの作品のCDを後ろに流しながら感想を書きたい位の気分なのですが、やはりそれでもCDはこの世に存在しないのです。
仕方がない、ムーティの怖い顔付きでスカラの公演をDVDで見るしかないか、、。

さて、私がなぜそんなにこの作品を気に入ってしまったかというと、それはひとえにロッシーニの音楽の素晴らしさで、
私はロッシーニの作品について言うと、ブッファよりセリアの方が好きかもしれない、、と段々感じ始めているのですが、
この作品でさらにその思いが強くなりました。

いわゆるキャッチーな旋律のアリアの有無という点では他の作品に若干引けをとる部分もあるかもしれませんし、
また、アクロバティックな歌唱技術の誇示、という面でいうと、まず他の作品のアリアの方が先に頭に浮かぶ点は否めないです。
(同じセリア系の作品なら、『セミラーミデ』の”Bel reggio 麗しい光が”とか、、、。)
しかし、アナイ、アメノフィス、シナイーデに与えられているアリアは非常に格調高い旋律に溢れており、
また決して技術的に簡単でないところに優れたドラマティックな表現力が求められるため、単に技術に卓越しているだけでは手に負えない作品です。



この作品は今日のような演奏会形式ならともかく、オペラハウスで実際に全幕ものとして上演するのは非常に難しいと思うのですが、その理由は大きく二つ。
まず、内容があまりに突飛で超現実的なので(いなごの大群!血に変わる大河!爆発するピラミッド!割れる海!)、ステージングが極めて難しいということ。
もしかすると、ルパージュお得意の3Dグラフィックスを使えば何とかなるかもしれませんが、、、
あ、この際、リングのマシーンを使い回して、なんとかあの大きな板で割れた海とその間の道を表現してはどうでしょう?
あれだけ金をかけたんだから、もっと元をとらないと!!

それからもう一つ。もしかすると、実はこっちの方がステージングよりもずっと大変な問題かもしれない、、と思うのですが、
いつものロッシーニのパターンに漏れず、猛烈な数の優れた歌手がこの作品には必要です。
しかも、どの役にも穴があってはならず(あると作品としての均整が失われ、俄然つまらない上演になってしまう。)、
また、それぞれの歌手が舞台に持ってこなければならない、ものすごくはっきりとしたパーソナリティやカラーがあって、役の間でのそのバランスも非常に大事で、
つまり、歌が上手いのみならず、役によってかなり個性が限定されるので、キャスティングが本当に難しい。
実際、この作品はタイトルが『モーゼとファラオ』になっていますが、この二人よりもアメノフィスとアナイ、それからシナイーデの方が歌の負荷は高いように思います。
では、しょぼい歌手にモーゼとファラオを歌わせてOKか、というと、決してそうではなく、
この三人のようにどんぱちと歌唱で聴かせる要素が少ない分、余計に、限られたパートの中で威厳、恐れ、迷い、嫉妬、といった複雑な感情をお互いにぶつけ合わなければならず、
存在感のある歌手が求められる、という難しさがあります。
しかも、バス・バリトン同士の対決ということで、どういった声の持ち主をそれぞれの役に配するか、という難しさもあります。



今回の公演はいわゆるぴんで客を呼べるようなドル箱歌手は含まれていませんが(強いていうならジェームズ・モリスが大御所ですが、あのお歳ですから、
すでにキャリアの末期に入っていますし、彼の名前だけでチケットが売れるということは考えにくい。)、
中堅から若い方に寄った歌手(除モリス)を中心に力のある人を集め、またその彼らが揃いに揃ってきちんと自分の役割を果たしてくれたお陰でとても聴きごたえのある演奏となりました。
人気歌手がキャスティングされている華やかな公演も良いですが、こういう地味なキャストでも全員が全力を出して良い演奏だった時には、
オーディエンスの中に何か独特の温かい雰囲気が生まれて、こういうのもいいな、、と思わされます。今日の演奏はまさにそういう感じでした。

なかなか大変な演目であるにも関わらず、歌手は不思議なほど誰もが落ち着いていて、
一番のパニック・モードだったのは、カレジエイト・コラールの音楽監督であり、今日の指揮者であるジェームズ・バグウェルだったかもしれません。
一幕の前半なんて、ずーっと指揮棒の先がぷるぷると震えていて、見ているこちらまで意味無く緊張して来そうになりました。
オケはアメリカン・シンフォニー・オーケストラで、このオーケストラはサウンドも演奏の精度も残念ながらどこか少し緩いところがあり、
一級のオーケストラと呼ぶには苦しいものがあるのですが、この長時間の公演を大きな失敗もなくきちんと演奏しきったのですから、十分役目は果たしていたと思います。
後でも触れますが、特にこの作品は最後にオケの聴かせどころがあると言ってもよいのでスタミナの配分が大変なんですが、
その点は良くこなせていて、きっちりとクライマックスらしいクライマックスを聴かせてくれたのは大きく評価します。
指揮者の歌手への目配りも、まずは良く行き届いていたと思います。


歌手陣ですが、まず老モリス(最近、ジークフリートを歌う若い方のモリスが出て来てしまったので、若モリスと区別するためにあえて。)は、
やや曲の旋律がはっきりしないお経調気味ですが(お歳ですから、、)、さすがの存在感です。
彼自身のキャラクターから言えば、どちらかというとファラオの方が近い気がしないでもなく、やたら堂々としたモーゼでしたが、
彼の存在感にはやはり他の歌手達とは違う重みがあります。
ただ、ちょっと今日はお疲れだったんでしょうか?ミードが聴かせどころのアリアを歌っている時に、
客を正面にして気持ち良さそうに椅子でうつらうつらしている姿は”演奏会形式の舞台上なのにくつろぎ過ぎ!”と言いたくなりました。

今日のキャスティングで面白いな、と思ったのは、この老モリスのモーゼ相手に、若手のカイル・ケテルセンをファラオにもってきていた点でしょうか。
彼もナショナル・カウンシル・グランド・ファイナルズのオーディション出身で、メトではまだ『トスカ』のアンジェロッティのような脇役しか歌っていないのですが、
若干線が細く感じるものの、声にエレガントさがあって、音色自体はいいものを持っている人だと思います。
声のコントロールと歌唱の技術にはもう少し磨きをかける必要があるように思いますが、歌声にも舞台姿にもちょっと独特なクールさを感じさせる佇まいは面白い個性だと思います。
この公演でも、そのせいでファラオが非常に冷静沈着で頭の良い人物に感じられ、それだけに一層、最後の悲劇的な運命との対比が際立っていました。



若い恋人同士を歌ったのは今シーズン『ドン・ジョヴァンニ』でメト・デビューを果たしたばかりのマリナ・レベカと、
これまでこの人の良さがちーっともわからなかったエリック・カトラーのコンビです。
レベカは2009年のザルツブルクでムーティの指揮による『モーゼとファラオ』に出演して同じアナイ役を歌っているようで、
今回のキャスティングはその時の成果が買われた部分も大きいのかなと思います。
やはり彼女の歌声は私には非常に攻撃的に聴こえてあまり好きではないのですが(声量の問題ではなく、彼女の声が持っているアグレッシブで硬質な響きが苦手なんだと思います。)、
『ドン・ジョヴァンニ』でかなりNYのファン・ベースを増やしたようで、今日の公演でも最も拍手の多いキャストの一人でした。
このアナイ役は控え目でありながら、芯の強さを感じる、情熱的な女性の役で、アリアでもドラマティックさが求められるので、
ドンナ・アンナでは度を超えて感じられた激しさは、私にとっても少しは受け入れやすいものになってはいました。
彼女は舞台姿も綺麗で、顔もどこか憂いを湛えているような美人(ガランチャと同じラトヴィアの出身です)ですので、舞台ではすごくアドバンテージがあると思うのですが、
私がいつも不思議に思うのは、彼女がそれを全く有利に使わないことで、この人を見ていると、男性恐怖症か何かなのかな?と思ってしまうほどです。
一生懸命体にタッチしたり、視線を交わそうと涙ぐましい努力をしているカトラーにも、まったく暖簾に腕押し状態。
正面一点を見つめて、カトラーがそっと体を抱き寄せようとしても、体を固くして、これは嫌がっているのではないか、、?と思うようなリアクションなのです。
カトラーがアラーニャのように不必要なまでのボディ・コンタクトをとろうとしていたというなら、まだ話もわかりますが、
私の見る限り、カトラーは恋人同士としての適切な演技をしていただけで、ここまで頑なだと、ちょっと見ている方も気がそがれる域に達しているかもしれません。
でも、かと思うと、二人で歌う最後のパートを終えると、”終わったね。”という感じで微笑むカトラーに対して、嬉しそうににこにこと答えていて、わけがわかりません。
もしかすると、歌っている間、まだあまり余裕がない、というような単純なことなのかもしれません。
後、ラトヴィア出身のソプラノといえば、マイヤ・コヴァレススカがいますが(そういえば彼女も美人、、、)、
この二人は持っている声質は全然違うものの、発声の感じが少し似ているところがあって、
いつも必要な量よりも少し多めの空気が流れているような感触があり、これが極端になると音を無理やり飛ばしているようなサウンドとなって現れてしまうこともあって、
この無理に音を押し出しているような響きが、今一つ私がレベカの歌を聴いて心地よくなれない理由かもしれないな、、と思います。
しかし、さすがにムーティ帝王のご指導を受けただけのことはあり、歌唱の組み立てはしっかりしているな、と感じましたし、
『ドン・ジョヴァンニ』の時の印象とも共通するのですが、他のソプラノが苦労しそうな・する音や音域でのピッチが正確で、とてもセキュアな結果を出すのが面白いなと思います。

エリック・カトラーについては、今回初めて、”こんなに歌えることもあるのか、、。”と思いました。
メトでのネトレプコとの『清教徒』での歌唱とか、今となっては見事に記憶に残ってないし、『ばらの騎士』のイタリア人歌手の歌唱も、大丈夫かな、、と思いながらどきどきして聴いたし、
もうこうなったらタッカー賞も剥奪した方がいいんじゃない?、、と思ったり、、、。
でも、今日くらいの歌唱を聴けば、タッカー・ファンデーションはこういうのを耳にして彼の受賞を決めたんだろうなあ、、ということはやっと納得でき、
彼の受賞が2005年ですから、なんと6年越しで謎が解けた感じです。
他のロッシーニのテノール・ロールに負けず劣らず、このアメルフィス役も多くの旋律が高めの音域にあって、すごく大変な役です。
つまり、これらの音域での発声がきちんと出来上がっていないと、喉への負担が大きくて、たちまちのうちに疲れて潰れてしまう役。
カトラーは最後の1/4ぐらいで少し疲れが見えなくもありませんでしたが、全体的には、ラダメスの兄弟のようなこの頑固頭なエジプトの王子を、
情熱的に表現していて、それをやりながら難しい高音もきちんとこなし
(すっと抜けるような音ではなく、ばりばりとした男性的な音色ではあるので、フローレスのようなスタイルのある歌唱と比べると少し違和感はありますが、
この役ならこれもまたよし、、と私は思います。)
しかもロッシーニに必要なスキルもそこそこきちんとしたものを持っているのは意外で、今日の彼の歌唱には大変楽しませてもらいました。
ただ、彼は舞台上で本当落ち着きがなくて、軽いADD(注意欠如障害)なのかな、と思ってしまいます。
自分の歌になかなか自信が持てないからなのか、歌った後におどおどと周りを見回したり、聴かせどころが近くなるとすごく落ち着かない様子になったり、
体が大きくて熊みたいなだけに、一歩間違うと、鈍くさい感じになってしまうので要注意です。
他の歌手のように、きっ!と前を見据えられる訓練をしましょう。(あ、そういえば、アラーニャもだな、、。)
逆に言うと、そういった落ち着きが身に付けば、無意味にひょろ長くてきりん系の鈍臭さを感じさせるヴァレンティとは違い、
決して太ってはいないだけに、舞台で非常に見栄えがする(今日のような役にはぴったりです。)という大きなメリットを持っていると思います。



私個人的には今日一番楽しみにしていたミードのシナイーデ。
シナイーデはファラオの奥さん(よってアメノフィスのお母さん)で、なぜかユダヤ教を信じているという、この作品の中では複雑で奥深い役です。
息子の愛する気持ちを応援してやるべきか、それとも夫についてゆくべきか、そこに彼女自身の信仰の気持ちも絡まって、、。
母親という立場上、ある程度、年齢を経ないと出せない表情があるのがこの役の難しいところで、
ミードは相変わらず歌唱は達者ですが、ちょっとその辺で背伸びなキャスティングだったかな、、という風に思います。
当たり前といえば当たり前なんですが、30をやっと出たばかり位(のはず)のミードの声は、こういう役で聴くと、やっぱり響きがすごく若いんだなあ、、としみじみ感じます。
ま、実際若いですからね。
まだまだ先は長いんですし、こういった老け役、お母さん系の役はもう少し先に回して、
アンナ・ボレーナのような、自分の年齢としっくり来る役を歌っていって、その先で再チャレンジしたところをまた聴いてみたいと思います。

モーゼの兄エリエゼール(アーロンとしての方が良く知られていますが)を歌ったミケーレ・アンジェリーニはアメリカ出身の若手のテノール。
私はこれまで名前すら聞いたことがなかった人なんですが、素直な発声で、舞台上での佇まいにも清潔感があって好感が持てます。
私は今日は前から4列目という至近距離で鑑賞しましたが、遠くから見てもはっきりわかるに違いない、と思うほどの、
ジョン・トラボルタ真っ青の割れた下あごがトレード・マークです。
今日の役はどちらかというと小さな役で、それほど歌うパートが多くなく、特にトリッキーな技巧があるわけでもなかったのですが、
YouTubeでリサーチしたところ、『チェネレントラ』のラミロなんかも歌えるみたいでびっくりです。
ということは、ロッシーニをレパートリーの中心に据えていこうとしているのかな、、



この映像でも伺えますが、少しほわんとしたたおやかさと優しさのある響きが特徴で、真っ直ぐ伸びていけば面白い個性を持っている人だと思います。
でも、このまっすぐ伸びていけば、というところが難しいんですよね、、。
今までだって、いいなと思っても、”どうしてそっちに行っちゃうの~?”という感じで駄目になっていった人が一人や二人ではないですから、、。

『モーゼとファラオ』の作品の白眉はなんといってもラストで、ここのオーケストレーションはロッシーニってこんな音楽も書ける人だったんだ!と本当びっくりしました。
ゴセット先生の文章にもヴェルディの『ナブッコ』との繋がりを指摘する部分がありましたが、
『ナブッコ』だけではなくて、この音楽にはヴェルディの作品全部に脈々と受け継がれていったのと同じ種類のものすごいパッションとドラマがあります。
オペラでこんなに後奏が長い作品って、私は他にあまり思いつかないのですが、(普通、最後に歌う歌手の最後の音符の後は、割りと手早く手仕舞うのが一般的ですよね。)
紅海が開けてそこを渡り始めるイスラエル人、彼らを追いかけて次々波に呑まれていくエジプト人、、、
この場面がはっきりと瞼に浮かぶ位しっかりと音楽に描き込まれていて、これが演奏会形式であることはちっとも問題ではなかったです。
ま、最近のメトの演出を見るに、下手なセットやら演出やらがあるよりは、こうやってオーディエンスに自由に想像させてくれる方がよっぽど効果的、ということもあるかもしれませんが。

あらすじを読んだ時は、なんでモーゼの奇蹟にロマンスが絡んでくるんだ??と疑問でしたが、
この音楽と一体になると、あまりにも有名になりすぎてしまった聖書の一つのお話の中が、俄然リアリティを持つというか、
単なる宗教上の説話ではなくて、もっとパーソナルな人間の物語となる(それが架空のロマンスであっても)、ここが面白いな、と思いました。
単にエジプトの王子が海に呑み込まれる、という話を聞くのと、
アナイへの狂おしい恋に悩まされながら海にひきずりこまれるアメノフィスを音楽の中に聴くとでは全然インパクトが違う、ということです。

今日の公演をCD発売してくれたなら、時に取り出して聴きたい作品になるのにな、、。


James Morris (Moïse / Moses)
Kyle Ketelsen (Pharaon / Pharaoh)
Angela Meade (Sinaide)
Eric Cutler (Aménophis)
Marina Rebeka (Anaï)
Michele Angelini (Éliézer / Aaron)
Ginger Costa-Jackson (Marie / Miriam)
John Matthew Myers (Ophide)
Joe Damon Chappel (Osiride)
Christopher Roselli (Une voix mystérieuse)

Conductor: James Bagwell
The Collegiate Chorale
American Symphony Orchestra

Parquet D Odd
Carnegie Hall

*** ロッシーニ モーゼとファラオ Rossini Moïse et Pharaon ***

L’AFRICAINE (Wed, Mar 2, 2011)

2011-03-02 | メト以外のオペラ
今週は二夜連続で”おフランスな夜”、つまり、フランスものの鑑賞が続きます。
今日はオペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨーク(以降OONYと表記)による演奏会形式の『アフリカの女』。
マイアベーアの作品で、メトではなんと1934年を最後に全幕上演が行われていない、という、どマイナー作品です。
というわけで、内容についてはマイナーなオペラのあらすじのコーナーをご覧下さい。

カーネギー・ホールにたどり着くと、着席したすぐ斜め後ろの席にどこかで見たことのあるおやじ、、、と思ったら、ゲルブ支配人でした。
メトの今夜の『タウリスのイフィゲニア』を放り出して、よそのカンパニーの上演を観に来てる場合か??と思いますが、
もしかすると、この『アフリカの女』がどのような作品であるのかを偵察し、
ポテンシャルを感じれば、新演出でメトで再演を!というようなことを考えているのかもしれません。とすれば、これもお仕事のうちか。

オーディエンスが客席に揃い、開演時間になると、1972年にOONYが初めて行った演奏会で取り上げられた作品がまさにこの『アフリカの女』で、
今日はその公演でヴァスコ・ダ・ガマ役を歌ったリチャード・タッカーの歴史的名演を記念する演奏会であることが告げられました。
そして、それに続いてスピーカーからタッカーが歌う”ああ、楽園よ O Paradis!"が流れて来ました。
ライブの音源ではありましたが、私の記憶が正しければ、はっきりと72年の公演からの音源であるという説明はなくて、
なんとなく1972年の音源なんだろう、と思い込まされたまま聴いていましたが、
もし、本当に72年の録音だったとすれば、彼が心臓発作で亡くなるたった3年前の、彼のキャリアの中では後期の録音(当時59歳)ということになるのですけれども、
とてもそんな風に思えない、パッションとコントロールが隅々に行き渡った歌唱で、
こんな公演がきちんと録音に残っているのでしたら、OONYはどうしてCDか何かでリリースしないのか!と思います。
それにしても、ものすごい迫力!ただ単に声量が大きいだけでなく、録音で聴いていても、
どこまでもがっちりと身がつまった感じのするすごく肉厚な声です。
それに彼はライブだと一際燃える歌手というか、高音なんかも全然おっかなびっくりじゃなくて、”どうだ!”という感じの、
すごい度胸ある歌い方なんですよね。
もうスピーカーが耐えられません、、、という感じでびりびり言っている中、
タッカーの声がエイヴリー・フィッシャー・ホールに延々轟き続けました。
OONYのオケの奏者の方も、”すげえ、、、。”という表情で聞き入ってらっしゃいますが、ここでふと思う。
ジョルダーニがヴァスコ役を歌う前にこんなすごいもの聴かされてもねえ、、、ジョルダーニもプレッシャーじゃないのかな、、と。



と思っているうちに、指揮のイヴ・クエラー女史が登場です。
私がクエラー女史を最後に観たのはもう三年前!2008年3月のOONYのガラの時のことです。
その時に比べると、ああ、随分お老けになったなあ、、と感じたのですが、それも道理か、1972年のOONY創設時から、
創設者および指揮者として尽力されて来たクエラー女史が、なんと今回の『アフリカの女』を持って、音楽監督からは引退され、
次回からは半年前の『カヴァレリア・ルスティカーナ/ナヴァラの娘』でOONY指揮デビューを果たしたヴェロネージが代わりをつとめるそうです。
女史が登場した瞬間に、ものすごい拍手が会場から沸き起こります。
1972年以来、一年にほんの数本のペースではありますが、力のある歌手を招聘し、あまり演奏されない演目にも意欲的に取り組んで来たOONY。
例えばストヤノヴァのような歌手がNYデビューしたのはメトではなく、このOONYであったことなどを見ても、クエラー女史の慧眼が伺われますし、
それこそ、今日の『アフリカの女』のような演目は、こうしてOONYが取り上げてくれなかったら、もしかすると私には一生見る機会が訪れなかった可能性もあるわけで、
今日、ここにいる観客のほとんどはみんなそういう経験をOONYと分かち合っているため、クエラー女史への感謝の気持ちが大きいというわけです。
NYのオペラ・シーンがメトに牽引されていることはもちろんまぎれもない事実ですが、
キャラモアとかこのOONY、それから以前紹介させて頂いた今は失きアマート・オペラのような団体が、それをさらに奥深いものにしているといえ、
クエラー女史はただの人のよさそうなおばさんではない!NYのオペラ・シーンに貴重なものを与えてくれた人物の一人なのです。



相変わらず地元有志のアマチュア・ママさんコーラスを取りまとめるリーダーのごとく、とても緩~く見える女史の指揮なのですが、
面白いのは、半年前の『カヴ/ナヴァラの娘(略してカヴ・ナヴ)』のヴェロネージの指揮に比べると、
オケが女史の元での方がより活き活きと楽しそうで、よっぽど良くまとまっている点です。
この作品は上演時間が本当に長くて、練習も大変だったのではないかと思いますし、
マイアベーアのオーケストレーションそのものに非常に不自然・ぎこちない部分があったりして、
(しばしば歌手にノー・アカンパニメントでしばらく歌わせた後、オケの合奏や独奏が入ってくる、というパターンが見られるのですが、
ここでピッチが少しでも緩いと非常に締まらないことになって、歌手にとってもなかなかに気の抜けないスコアです。)、
スタイルも継ぎ接ぎ的なので、演奏するのが易しい作品であるとは決して思いません。
当然ながら、細かいミスはありましたが、総合的にはクエラー女史の最後の公演ということで
奏者が今出来る最良の演奏をしようという意志が感じられる、後味の良い演奏でした。

前回の『カヴ/ナヴ』でぼろくそにけなしまくってしまったニュー・ヨーク・コーラル・ソサエティ。
今回の合唱はニュー・ヨーク・コーラル・アンサンブル。
後者はウェブサイトも存在しておらず、両者の名前が似ているのは何か関係があるのか、それとも全く別の団体なのか、私には良くわからないです。
後者が前者の選抜組とか、もしかすると、『カヴ・ナヴ』でのあまりにも恥ずかしい合唱の結果に、
全く同じメンバーのくせに”ソサエティ”とは他人の振りを装って”アンサンブル”と銘打っているのかもしれません。
”アンサンブル”は、”ソサエティ”に比べ、歌唱のクオリティはいくらかましでしたが、褒めちぎるほどの内容でもなく、
特にフル・コーラスになった時の音の雑な響きはもうちょっと練習を積んで欲しかったな、、と思わせるものです。



この『アフリカの女』は、あらすじをお読み頂くと明らかな通り、オペラにありがちな、都合のよいストーリー・ライン炸裂!な作品で、
その上に、『アフリカの女』と言いながら、なぜかセリカはインド人であるという、かなり意味不明なことになっていて
(イネスはポルトガルのお嬢なので、タイトルが指す”女”というのはセリカであることは明らかです。)、なかなかの混迷ぶりです。
ヴァスコ・ダ・ガマの、どんな逆境にも必ず一人生き残り、必ず作品に戻って来るという、ゴキブリ並みの生命力も凄いです。

フランスのオペラというのは、綺麗なメロディーを延々聴かせる、という冗長な作品が少なくなくて、
冗長さといえば、この『アフリカの女』も全く負けておらず、昔の劇場のように、社交場としてそこにいて、
なんとなく演奏を聴いている、という感じなら良いのかもしれませんが、
現代の鑑賞スタイル、つまり集中力を持って延々と全幕じっと座って聴きとおすには若干辛いところもあり、
そのあたりにあまりリバイバルされない原因があるかな、と思います。
特に一~三幕。一応あらすじ的には前に進んでいるのに、なぜか演奏を聴いていると、全然話が前に流れて行かないような錯覚が起こります。
ちなみに今回の演奏は三幕の後にインターミッション一回きりで、それまででも相当退屈だったのか、
ゲルブ氏が私の眼の端で激しい貧乏ゆすりを繰り返し、眠気防止のためか、座席で座る姿勢を何度も変える姿がキャッチされましたが、
インターミッションになると、オリンピックの短距離走者のごとく、ものすごい勢いで隣のメトに逃げ帰って行き、
後半の演奏には姿を見せませんでした。
というわけで、この作品がメトの舞台にあがることは、少なくともこれからしばらくはないと思われます、、。

で、そのくせ、意外(?)にも歌唱には高度なテクニックや表現力、パワーが求められるし
(技巧では特にイネス、表現力ではセリカ、パワーではヴァスコ)、
また配役の面、特にイネスとセリカの女声の対比という側面で、キャスティングのセンスも求められるし、
それらがさらに全幕上演のハードルをあげているように思います。
これは演奏形式が前提の話で、実際の劇場での全幕公演ともなると、さらに演出面での問題も加算されますから大変です。



しかしですね、第四幕以降!ここからは良い!ラストまであっという間に時間が経ってしまって、
一幕から三幕までが辛かった事実も、一気に報われます。ゲルブ支配人、一番良いところを見逃してしまいましたね。
四幕以降に見ごたえがあったのは、今回セリカ役を歌ったタイージが表現力に秀でているタイプの歌手であったおかげも大きいですが、
『アイーダ』のアムネリスのインド版的な雰囲気もあって、
(そういえば、この作品は音楽的にもところどころヴェルディの中後期の作品の影響を感じないではなく、
最初はマイアベーアがヴェルディをパクッたのかと思いましたが、こと『アイーダ』と比較した場合、
この『アフリカの女』の方が初演ベースでは6年ほど先なので、当時の流行という側面もあったのかもしれません。
私は愛しても愛してもその気持ちが報われない恋する人間が大好きで(アムネリス、フィリッポ、、、)、
特に彼らがその葛藤に苦しみ、何かをやらかす時は胸がわくわくしてしまいますので、
このセリカ役は私の好みの王道を行っているといえます。
特にセリカの、思っても思ってもヴァスコに振り向いてもらえず、ついに運の助けで彼の心を摑んだか?!と見えた瞬間に、
またしても決定的にヴァスコの気持ちは自分にないことを思い知り、
一旦はイネスとヴァスコ、両方殺してしまえ!とネルスコに命令しながら、
最後には、やはりヴァスコへの思いゆえに、彼が一番幸せになる方法を選び、
彼が人生からいなくなるということは、自分の死を意味するのだ、、ということを証明するために毒の香りを飲んでしまう、、、
この一連の流れは実にドラマチックで、見終わった後に何ともいえぬ余韻もあり、
後半だけをとればよく出来たオペラで、前半の重さと作品全体の長さが惜しいな、と思います。

それに、あてのない航海の日々で、偶然が重なって流れ着いたインドの土地に、自分が追い求めて来た楽園を見る、という、
ヴァスコのロマン気質が全開な"O Paradis"が歌われる時の設定もなかなかにドラマチックで良いです。

この場面までのヴァスコはこと恋愛に関すると本当に優柔不断で、その上に彼の人物像の描写が希薄なので、
見ているだけできーっ!!となってしまうのですが、
このアリアの登場によって、彼のパーソナリティの中で大きな比重を占めるこのロマン的気質が前面に押し出され、
それゆえにセリカが恋心ゆえにオファーする人情味溢れる申し出の数々に、ついノーと言えなくなってしまうのだな、ということがわかって、
ここを境にして彼の人物描写がずっとスムーズに進んで行くような感じがする、
このオペラの中で、声のディスプレイだけとしてでなく、ドラマ的にも非常に大事な機能を果たしているアリアです。
というわけで、今回の公演の趣旨からタッカーに敬意を表し、彼の”ああ、楽園よ”を。
ただし、この録音はイタリア語版(よってO Paradiso)によるスタジオ録音ですので、
我々が今日の演奏会の冒頭で聴いたのとは違う音源です。



ジョルダーニのキャラクターに、なんとなく優柔で人情味溢れるヴァスコはなかなか適役であるのですが、
この"O Paradis"については、この日、彼の歌は何とかきちんとこの曲を歌っています、という以上のものではなかったな、と思います。
本来、彼のキャリアのもう少し前の方だったならば、声質的なレパートリーの選択としてはそう的外れではないとは思うのですが、
現在の彼の声はすでにかなりウェアが激しく、声の美しさを楽しむ、という面では非常に厳しいものがある、と、私の感覚では思います。
この日はさらにその上に風邪気味であることがうかがわれ、舞台上で鼻をかむ姿が何度か見られましたし、
後半、"O Paradis"でかなり無理な声の出し方をしていたことも祟って、声の荒れが激しくなったと思います。
"O Paradis"の直後では、喉がかなり荒れたのか、舞台裏に水を飲みに行ったと見られ、
そのすぐ後にある、セリカがヴァスコに話しかけるという、本来なら彼が舞台上にいなければならないはずの場面に
ジョルダーニの姿はなく、セリカ役を歌うタイージが、その部分の歌詞を歌いながら、”といいつつ、彼はここにいないけど。”
というジェスチャーを作って見せ、やっとジョルダーニが舞台に戻って来た後は、自らのパートを歌い終えると、
”大丈夫?”とジョルダーニの調子を気遣う様子も見せていました。



イネスを歌ったエリー・ディーンは今シーズンのBキャストの『ラ・ボエーム』でなかなか魅力的なムゼッタを歌ってみせたので、
注目かつ楽しみにしていたキャストだったんですが、今回の演奏では、ここまで長い演目で、かつかなり歌うパートが多く、
そして、かなりの歌唱技巧も求められる(この作品で、もっとも歌唱のヴィルトゥオーゾ的要素が求められるのがイネス役です)役では、
まだちょっと安定感を欠くかな、という風に思いました。
すごく魅力的な音が出てくるかと思うと、そのすぐ後で不安的になる、、というような。
(魅力的な方の音は、シャープな魅力があって声量にも事欠きません。)
決して言及せねばならないような大きなミスがあったわけではないので、
それだけでも彼女のまだ比較的浅いキャリアを考えれば賞賛に値しますが、
私は高度な装飾技術を一つミスすることよりも、彼女がパッセージの中で音色を完全には統一しきれていない点、
こちらが気になるし、また、マイナスに感じます。
相変わらず、舞台プレゼンスはいいものを持っているのですが、顔がほっそりしていて貴婦人顔であるにも関わらず、
腕が意外とたぷたぷしているのにはびっくりしました。
衣装や演奏会のドレスは二の腕まる出しのデザインのものも結構ありますから、ちょっとワークアウトして、
もう少し腕にトーンをつけた方がいいかもしれません。

今回、私が最も面白い歌手だと感じたのは、この演奏会がアメリカ・デビューとなったイタリア人ソプラノ、キアラ・タイージです。
残念ながら、彼女が真にインターナショナルな、それこそオペラ・ファンなら誰でも知っている、
というような歌手になる可能性はおよそゼロです。
というのも、彼女の声には大きな欠点があって、ほとんど響き的にはメゾと言ってもよい彼女の声は中音域までは非常に魅力的なんですが、
90%の高音で、ものすごく無理をして押していることから生じる、嫌なざらっとした響きが混じるからで、
つまり、ソプラノとしては、最低限備えていなければならない音域を持っていない、と、そういうことになるかと思います。
それにも関わらず、私が彼女を面白い歌手だと思う理由は、ひとえに、彼女の持つ素晴らしい表現力です。
というか、彼女の表現力があまりに素晴らしいので、つい、声の欠点に目をつぶりたくなる気がするほどなんですが、
それは私の真のオペラへッドとしてのアイデンティティーゆえに出来ない相談であるのが、本当に本当に残念です。
これまで、こんなに表現力のある歌手が、声楽面での欠点に邪魔されるケースを、私は見たことがありません。
大体声の能力に限界があると、ここまで表現力がつかないのが普通だと思うんですが、
彼女はその常識を覆していて、ちょっとそういう意味では特異な例と言え、彼女の歌を聴くにつけ、
”ああ、もったいない、、、もうちょっとしっかりした高音さえあれば、、。”と臍を噛むような思いに浸されます。
特に四幕以降でのセリカの感情の表現は感動的で、特にラスト、五幕でのモノローグのシーンは、多くの観客が
セリカの実らぬ恋心に限りないシンパシーを禁じえず、
また失恋してなおプライドを感じる、あのきりりとした美しさには心を打たれたはずです。

彼女は元はなかなかの美人であるはずなのですが、ものすごい化粧の厚さとプラチナブロンドの髪と相まって、
オペラ界のシンディ・ローパーのような形相を呈していますが、なかなか性格も熱血な人のようで、
舞台上を仕切る仕切る、、、先ほども書いたように上演中にジョルダーニの健康を気遣ったり、
幕の終わりでは、あまりこういう機会に場慣れしていないディーンの手をとって仲良く退場してあげたり、
最後の舞台挨拶では邪魔になっている楽譜台を道具係のように自らばっさばっさと横に片付けたり、と、忙しく働きまわっていました。
まるで肝っ玉母さんのようなキャラクターです。
(私など、脇の男性陣、女性にそんなことさせてないで、もっと気を遣って動けよな、、と思ってしまうのですが、
まあ、彼女にそれだけ余裕があるということでしょう。)

この作品があまり上演されないだけに興味を引かれるのは、
イネスとセリカ、この2人の役にはどういう声質の歌手を持ってくるのがいいのだろう?という点です。
今回の上演では、重くはないけれどややシャープでエレガントさを感じる声質を持っているディーンをイネスに、
ほとんどメゾのような声質のタイージをセリカに持ってきて、対比をつけているのですが、
おそらく唯一の全幕のDVDと思われるSFO(サン・フランシスコ)での公演では、
ルース・アン(・スウェンソン)姉さんのイネスとシャーリー・ヴァーレットのセリカという組み合わせになっています。
(ヴァスコはドミンゴ。)
ルース・アン姉さんはディーンよりは声が柔らかくて軽いですが、
セリカにメゾっぽいドラマティックなトーンのある歌手を選んでいるという点では共通しています。
ちなみに下がそのルース・アン姉さんのイネスなんですが、最初の方に書いた、ピッチが狂うと悲惨なことになる箇所の例として、
こちらをあげておきます。(姉さんは上手く切り抜けてますが、、。)
一幕のイネスのアリア、”さよなら、私の美しい浜辺よ Adieu, mon beau rivage”です。 



イネスとセリカには、ドラマ的にも重要な”おお、長い苦しみよ O longue souffrance"という二重唱があるので、
この2人の声の相性、コンビネーションはすごく大事だと思うのですが、
YouTubeに三つの違った組み合わせ(ヴァーレットとマンダック、バンブリーとリナルディ、ノーマンとシゲーレ)で
この二重唱の歌唱を比較した興味深い音源もあります。



しかし、同じドミンゴがヴァスコを歌ったリセウ劇場の映像ではセリカ役をカバリエが歌っていたりして
(カバリエが全幕でセリカを歌ったのは一シーズンきりだったようですが)、
彼女はメゾ的なサウンドがある歌手とは言い難いですし、上演の歴史が豊かとはあまり言えない作品だけに、
まだ、この二つの役については、例えばアイーダとアムネリスの場合のような、
普通オペラ・ファンが思い浮かべる、典型的なこれらの役に向いた声質のコンセプトというものが緩くしか定まっていないような気もします。


Chiara Taigi (Sélika)
Marcello Giordani (Vasco de Gama)
Ellie Dehn (Inèz)
Fikile Mvinjelwa (Nélusko)
Daniel Mobbs (Don Pedro)
Giovanni Guagliardo (Don Diego)
Taylor Stayton (Don Alvar)
Djoré Nance (Grand Inquisitor)
Harold Wilson (High Priest of Brahma)
Gabriela Garcia (Anna)
Lázaro Calderón (Matelot)
Conductor: Eve Queler
The Opera Orchestra of New York
New York Choral Ensemble (prepared by Italo Marchini)

Left Orch L Odd
Avery Fisher Hall

*** マイアベーア アフリカの女 Meyerbeer L'Africaine ***

TOSCA (Sun, Feb 20, 2011) 後編

2011-02-20 | メト以外のオペラ
前編より続く>

しかし、おまるの指示にのってオケから出てきた音を聴いて思ったのは、ああ、音がスカラしている!&劇場の音響がやはりメトとは全然違うということ。
私がスカラのオケを生で聴いたのはムーティが率いた来日公演での演奏が最後で、それ以降、最近の演奏は全てHDやラジオなどマイクを通したものなので、
今日のように単発で演奏を聴いただけで、このオケの現在の特徴や良し悪し云々を判断するのは良くないことだとは思いますが、
少なくとも今回の公演では、良く聴いていると、金管楽器に結構凡ミスが多く(この日はトランペットがかなり不調だと思いました。)、
私の経験では、メトの『トスカ』の演奏でオケがこんなに多くの凡ミスをかますことはまずないぞ、、と思うのですが、
スカラには、他のオケには真似し難いサウンドのカラー、それから凡ミスといったものを越えて、団員達の統一した作品への理解というものが感じられ、
それがこの劇場のオケを、特にイタリアものの演奏においては素晴らしいオケにしているのだと思います。
おじ様はおまるの指揮がお気に召されたようで、インターミッション中にしきりにお褒めになっていて、
私も確かに、彼の、基本的なテンポやダイナミズムの設定、作品の流れ、ポイントの置き方などはなかなか優れたところがあると思うし、
演奏に”俺の指揮を聞け!”というようなわざとらしいところがおよそなく、ドラマを殺さずにきちんと音楽が流れている点、
また演奏にきちんと熱さがある点は評価するのですが、その一方で、彼はまだまだ指揮に未熟・稚拙なところがあって、
歌手とのコーディネーションがぎくしゃくしたり、(特に三幕。カウフマンのような歌手とすら上手く合わせられない部分があるんですから、
下手くそな歌手が舞台にいたらどんなことになっていたか、、と思います。)、
時々オケ内でのアンサンブルが崩れそうになったりしていましたが、オケの方が”ここはこうやって演奏するんだぞ!”という感じで、
強引に引っ張ってくれた箇所が結構あって、今回はだいぶそれに助けられていたと思います。
エージェントが雇ったサクラなんでしょうか、やたらおまるに対する終演後の喝采が大きかったのですが、
センスはいいものを持っているとはいえ、まだまだ技術的に精進して身につけていかなければならない部分が多いと思います。

一方音響の話をすると、オケの音も歌手の声も、メトの音響に慣れた耳にはものすごくダイレクトに、かつ豊潤に聴こえ、
最初は”音、でか、、。”と思うのですが、これがそのうち病みつきになって、やがて、まるで雨のように降り注ぐ音と声に、
”もっと降り注いでちょうだい、、。”と恍惚の表情を浮かべ、音の雨に身を任せる怪しいMadokakipなのでした。
ただ、この劇場で、瓦も割るようなでか声(ソンドラ・ラドヴァノフスキーとか?)は無用かもしれません。
これだけ音響に差があると、それは確かに、スカラで受ける歌手がメトで今ひとつ受けなかったり、とか、
スカラの舞台ではリラックスして歌える歌手が、メトではプレッシャーを感じる、といったことは、十分あるだろうな、と思います。
不思議なのは、HDの映像を見ても、また実際に劇場で見ても、スカラの舞台の幅は私にはメトより狭く見えるし、一列の客席数も少なく感じるのですが、
ネットの情報では、舞台の幅54フィート(約16.5メートル)でほぼ同じなんだそうです。これいかに、、?



スカラについては、彼らの底力は脇の役や合唱に現れている、、と思っていたのですが、今回もアンジェロッティ、堂守、スカルピアの手下たち、といった、
主役以外の歌手達が演技も含めて非常に味のある表現を見せていて、さすがだなと思います。
オケと同じく、脇をはる彼らたちが作品を良く知り尽くしている、というとことが、演奏の底を厚くしているのだなあ、、と。
今回のスカラの公演では、照明にメトの時とは違うデザイナーを起用しているせいで、舞台の雰囲気が随分違っていて、
全体的に暗く、影を強調したライティングになっているんですが、メトよりもこちらの方が話の内容に合っていると思います。
やがて、片胸出しのマリアの絵の奥から、笑いながら、舞台前方に向かって歩いて来て、堂守に近づくカウフマン!
まさか、カウフマンの被り物を着たヴェントレじゃないよね?本物のカウフマンなんだよね?
"Che fai?(何をしている?)”
嗚呼!!カヴァラドッシのこの第一声、まぎれもないカウフマンの声だーっ!!!本物だーっ!!!!ミラノに来て良かったーっ!!
と、彼の登場に思わず拍手を始める観客が。いや、私もですね、心の中では大拍手ですけど、ちょっと黙って下さる?聴こえないじゃないのよ
、彼の歌が!!
私と同じように思った観客は多かったようで、その無言のしーっ!に威圧され、拍手もぱらぱらぱら、、という寂しい音を残して消えて行きました。
スカラの客席には、音楽が流れている間、こういう無言の圧力がちゃんと働いていて、ドラマを壊すような拍手はご法度、
メトでは”星は光りぬ”はもちろん、”妙なる調和”の最後ですら客が大騒ぎだったんですが(それを締めのピアニッシモに被せて来た時、
私が彼らに殺意を感じたというのは、その時の記事に書いた通り。)、スカラではいずれも拍手なし。全くのゼロ。
”妙なる調和”は綺麗なピアニッシモを聴けたのは良いですが、そのピアニッシモの後、しーん、、、と水を打ったように静かになってしまって、
しかも、幕の本当に最初の方なので、スカラの客がどういう時にどういう反応をするか、ということに精通していない私は、
”もしかすると、スカラの客はこの歌にも満足していないのだろうか、、。”とびっくりすると同時に不安になってしまった位で、
私ですらそうなのですから、客の反応が読めないカウフマン本人の不安はいかばかりか、、という感じでしたが、
幕が進んでいくうちに、スカラの客の反応の仕方のパターンが少しずつわかってきて、
(意見が分かれるような内容の歌唱には存分に拍手や怒号が飛ぶ、それぞれの幕の終わりではオケの最後の音が消えるまで拍手をしない、など、、。)
”星が光りぬ”が終わった時には、全く拍手がないというのも、これまた大きな賛辞の一つである、ということがわかりました。



さて、先ほど、カウフマンが”笑いながら”舞台に登場した、と書きましたが、何も彼が爽やか君であることをここでアピールしたいのではなく、
メトの上演の時と、彼のカヴァラドッシの基本的なトーンの設定の仕方がかなり違っていることを強調したかったのです。
メトの時は、最初の公演は、どこかぴりぴりと張り詰めた革命かぶれのアーティストという側面を押し出した表現、
後になると、段々と、そのトーンが少し抑えられ、トスカを優しく見守るカヴァラドッシ、という表現に変わって行きました。
しかし、今回の公演では、そのどれとも違って、なかなか快活で、少しいたずらっ子のような茶目っ気のある役作りに変わっており、
これは、おそらく、トスカ役を歌ったオクサナ・ディーカの雰囲気に合わせたものではないかと思います。

さて、このオクサナ・ディーカというソプラノなんですが、私は今回の公演のキャストを知るまで名前も聞いたことがない人だったんですが、
スカラでは今年、『トスカ』のほとんど直前に、『カヴ・パグ』のパグ(『道化師』)にも出演していて、こちらはHDの上演もあったようです。
ありがたいことに、ミラノに出発する前に、その映像を拝見させて頂く機会に恵まれまして、彼女のネッダ役の歌唱を聴くことが出来たのですが、見終わって呆然。
この人が今度トスカを歌う人?やばーい、、、、、これが私の感想でした。
声は若いだけあって、瑞々しいのですが、声のコントロールの仕方が全然わかっていないというか、かなりはちゃめちゃな状態だったからです。
また、録音では、トスカを歌うに十分なサイズがあるか、今ひとつ把握しきれず、そこも不安な点の一つでした。



その彼女のトスカなんですが、結論を言うと、まだまだ危なっかしいところや、演技で言うところの棒読みにあたるような平べったい歌唱部分があって、
フレージングもまだまだ未熟なところがあるし、間違っても味わい深い歌唱だとか、トスカの役のドラマを十全に表現し切った歌唱だとは言えませんが、
一方で、その若さ、未熟さが魅力になっている部分もあって、三幕のカヴァラドッシとオケの伴奏なしでユニゾンで歌う場面、
そこで思いっきり音を外して客席から転げ落ちそうにさせられた以外(あんなに音を外されて、一緒に歌っているカウフマンも良くわけがわからなくならなかったものだと思う、、。)は、
大きな失敗もなく、”歌に生き、愛に生き”もとりあえずはきちんと歌っているし(マッティラよりは全然まとも!
ただし、観客の評価はわかれ、ブーが飛び出て、他の観客が拍手で押し戻し、、。)、
三幕のカヴァラドッシとのシーンの難しい高音も非常に上手くこなしていて、
声だけに関して言うと、少なくとも現在は非常にトスカに向いた声質を持っていると思います。
いや、彼女の場合は、非常に伸びやかで若さを感じさせる艶のある声で、
考えてみると、最近、あまりこういうタイプのトスカっていなかったかも、と思うので、ある意味は多少個性的だとも言えるのかもしれませんが、
普通、こういうタイプの声は、トスカを歌うには若干パワーやサイズの面で不安があるものですが、
彼女の場合、その面でも全く不安を感じさせない、そこが強みだと思います。
また、上背があって(少なくとも舞台ではそう見える)、舞台で映える容姿で、顔の表情のパターンが彼女はまだ少なくて、
(特に頻発する、口が半開きの痴呆のような表情はやめてほしい。)顔の表情を含めた演技力はもっと頑張らなければなりませんが、
ギアが入ると、演技にきらりと光るものが見えるときもあって、最後のカヴァラドッシの銃殺が”振り”ではなくて本物だったとわかった時の
錯乱振りなどは、観客の胸に迫るものがありました。もしかすると、これからの精進次第では化ける可能性がある人かも知れないな、と思います。
第一、カウフマン、ルチーチといった力のある歌手に囲まれて、すっかりトスカが霞むのではないかと思っていたのに、
彼らを相手に、きちんと存在感を持って舞台を務め上げているのですから、それだけでも、新進の歌手にしては肝が据わっていて、
あの『道化師』のHDの映像で激しいブーイングが彼女に浴びせかけられているというのに、恥ずかしそうな顔一つしないという厚顔ぶりが、
今日に限っては良い方向に転んでいたと言えます。



ただ、今回の公演で一番私が感銘を受けたのは、スカラのスタッフの力でしょうか、、
ディーカの歌や演技できらりと光る部分は、もしそれを彼女自身が切り開いて得たものとしたら、一層彼女を私は評価しますし、その可能性もゼロではないでしょうが、
まずは、あれは彼女が自力で考えたことではなく、スカラのスタッフの助言に寄るものではないかと私は思っています。
例えば、トスカがスカルピアを刺す場面。
ここ、メトのマッティラやラドヴァノフスキーは、あるヘッドに”まるで肉に楊枝をさして焼け具合を確認しているような”と形容されてしまうようなせこい刺し方で、
はっきり言って、客席からは何が起こっているのか良くわからない状態です。
唯一、演技能力の高いラセットだけが、あえて左手でナイフを握ることで、ナイフを大回しにして刺す行為の動きを強調し、
そのインパクトを客席に十全に伝えることに成功していました。
この公演のディーカも右手でナイフを持って背中に隠し持ったので、”あーあ、マッティラと同じか、、。”と一瞬がっくり、、、
よって刺す時は”肉に楊枝”だったんですが、逆に、ナイフをスカルピアの体から抜く時に物凄く大きなモーションで処理していて、
そのナイフの抜けていく感触が自分の体に感じられて、つい、”いたたたた、、。”と言ってしまいそうになるほどリアルなのです。
(この感じは時代劇で優れた立ち回りを見た時にも感じられるものです。)
またナイフを抜くタイミングの長さが、オケが奏でている一つの音の長さと完全にシンクロしていて、ああ、そうか、この手があったか!と思わされました。
これはたった一つの例で、これ以外にもプッチーニが書いた音楽と演技が、心憎いほどぴたっと一致している場面が再三見られ、
これはどう考えても、誰か、非常にこの作品と音楽を良く理解している人が、演出と演技指導に関わったことは間違いありません。
もちろん、メトにだって、そういう優れたスタッフはいるのですが、ことこの『トスカ』という作品については、
スカラのスタッフのその理解の度合いの凄さ、それを的確に演技や歌唱に載せさせる力に圧倒されます。

もう一つ、彼らの優れたセンスを感じさせられた場面と言えば、二幕のカヴァラドッシがVittoria!の後、トスカから引き離されて行く場面、
ここは、メトではいつも、やたらぎこちなくなってなってしまう場面で、”なぜトスカはぼっと突っ立ってないで、
カヴァラドッシにすがってでも追いかけない?”と観客に思わせつつ、トスカが能無しのように舞台の真ん中で立ちすくんで歌い、
カヴァラドッシがドアに向こうに消えた後で、やおらドアの方に駆け寄って、con te, con te(あなたと一緒に!)と言うので、
だって遅すぎるもの、あんたの行動が、、、と、いつも突っ込みたくなるのですが、
スカラが潔いのは、トスカが舞台の真ん中で半狂乱になって歌い続けるのは同じなのですが、con teの部分になっても、
下手にドアに走り寄らせないで、そのままの場所で、カヴァラドッシが連れて行かれたショックで床に突っ伏しながら、con teと歌わせた点で、
メトでのcon teは、あくまでスカルピアの手下への実際的な呼びかけ(私も一緒に連れて行って!)のまま発せられているのに、
そのタイミングがあまりに悪いため、極めて中途半端なことになってしまっているのに対し、
スカラはその実際的な問いかけという側面を切り落として、彼女のカヴァラドッシへの心の叫びとしてcon te(私も一緒に!)と歌わせ、
ボンディ演出のタイミングの悪さから来るぎごちなさを抹消した、この発想の切り替えが上手いな、と思います。
ボンディはメトの演出時、”ここはリブレットではどうなってたかな、、。”なんて言いながら演出していたらしいので
(つまり、この作品を良く消化しないまま、演出していたことになります、、。)、
それが突然にこんな風に、オケの音と演技のタイミングを合致させるだとか、リブレットの言葉の意味を違った角度から捉えるとか、
そんな高度な技を繰り出せるわけはないと思います。
実際、ボンディが関わったはずの今年のメトの再演でも、このような優れた音楽や言葉と演技の一致は見られませんでした。
ですから、これはスカラのスタッフの力であると考えるのが自然だと思います。

カウフマンは、メトのラセットの時とよりも、ディーカとのコンビの方がより恋人同士としての親密で温かい雰囲気を上手く作り出せていたと思います。
一番、メトの公演時と比べて変化した点といえば、先に書いたようにカヴァラドッシが若干陽気な人物になったことと、
それがディーカのトスカとの恋人同士としてのケミストリーに影響を及ぼしたこと位で、
実は思ったほど、カウフマンのカヴァラドッシが変わったわけではなかったので、そこはちょっと拍子抜けでした。
今年のメトでの『トスカ』の再演(ドレス・リハーサル)の記事に書いた通り、三幕の冒頭、
ボンディ演出初演時は、舞台の前の方でカヴァラドッシが地べたで眠りほうけている、その後ろで銃殺隊が銃殺の稽古をするという、
何とも意味不明で、何・誰の気持ちの表現にも貢献しない、間抜けな演出になっていたのですが、
今年からは、ここでカヴァラドッシが牢獄の守衛とチェスをするという場面に変更されていて、
まだ、この方が、少しはカヴァラドッシの人に好かれやすい性質と、この後に指輪と交換にトスカに手紙を書くことを守衛が許す、という話の流れに少しは上手く繋がるのでましだと思いますが、
同じチェスの場面がスカラでも用いられていました。ただ、メトと違うのは、メトでは手紙を書く場面まで友好的に事が進んで行くのに対し、
スカラでは、カウフマンが”チェス程度でこの心の憂いが癒されてたまるか!”と、いきなりきれて、チェスボードをなぎ倒す、
守衛はこずるい様子で指輪をひったくる(またこの脇の歌手が良い味を出しているんです。演技が本当細かい!)、と、
人生最後まで色々あるわなあ、と思わせる内容になっています。
カヴァラドッシが守衛に指輪を渡した後、”星は光りぬ”を歌い始める前に、ゆっくりと空を見上げる演技があって、
間抜けにも、私は何で空を見ているのか?UFOでも飛んでいるのか?と一瞬思ったのですが、そうか、”星は光っていた、、”という歌詞で始まるのですものね。
このアリアはあまりにメジャーで、今やルーティン化するあまり、メトで歌うテノールも、大して歌詞の内容を考えず、
ただそこに立ったまま、さくっと歌い始めることが多いので、逆に空を見られると、”なんだ?”とびっくりしてしまいましたが、この仕草は大変新鮮でした。
カウフマンの声は、昨夏、ラジオで聴いた『レクイエム』と共通するような荒れが軽く感じられなくはなく、
声のコンディションで言うと、メトで『トスカ』を歌った時の方が良かったかな、と思いますが、
Vittoria!は劇場がびりびりびり、、と振動するような音を出していましたし、相変わらずdolci maniでの弱音は身もだえするほど美しく、
力強く、同時に繊細で、かつ作品の全体を見据えた、非常に安定感のある歌唱だったと思います。
今後、願うのは、過度に忙しいスケジュールで、声を酷使しないことだけ!



実はカウフマンと同じ位、嬉しかったのは、ルチーチのスカルピアの出来で、ヴェルディの作品での彼の素晴らしさは何度か体験しているのですが、
プッチーニの作品はまた求められる資質が少し違うので、大丈夫かな、、、とちょっと不安でした。
しかし!私、彼がこんなに舞台で燃えたところ、見たことがありません! 
本気を出せばこんな舞台を務められるなんて、お前さん、NYではいつも手抜きかい?と思わされます。
彼のスカルピア役へのアプローチは非常に正攻法で、私がこの役に絶対備わっていて欲しいと思うエレガンスさもきちんとありつつ、
時に見せる彼の残虐な表情に、”これまた素敵!”と盛り上がるのでした。
虐待を受けるカヴァラドッシの様子に心悩ませるトスカを、薄笑いを浮かべて眺める演技をする歌手が多く、上手く演じられれば、それはそれで怖いですが、
ルチーチが目を三白眼状態にして、他には一切の感情を浮かべず、じっとトスカを観察している表情、これは本当怖くて背筋が寒くなりました。
彼はもともと声がエレガントですから、このスカルピアのローマ警視総監という地位にはぴったりだとは思っていたのですが、
彼はメトでは決して声のサイズが特に大きいと聴こえたことはないゆえ、その点が特に”テ・デウム”のような場面で若干心配だったのですが、全然問題がありませんでした。
スカラの音響ともあいまって、もう音と声の大洪水!合唱をバックにしても、彼の声ががんがん聴こえてきて、またしても音のシャワー状態を満喫しました。
後、彼のスカルピアの表現でいいな、と思ったのは、ナポレオン侵攻に関する報を受けた時の彼のリアクションで、
これがスカルピアの自信と威信に大きな波紋を投げたことが感じ取れ、その後の一連の出来事にも、どこか、彼の破れかぶれな風が感じられ、
トスカが”歌に生き~”を歌っている時にも、隣のソファで寝そべって空っぽな表情で空を見つめていたりとか、
スカルピアの弱さと孤独が垣間見れるといいますか、この役でそこを転機にしてこういう表現をした歌手は私は初めて見る・聴くので、非常に興味深く思いました。
また、テ・デウムの後にマリア像に抱きつくという例の馬鹿なアイディアは、このカトリックの国では誰にも受け入れられなかったと見え、完全抹消。
ルチーチがそっと像を見上げて暗転、という、極くまっとうな演出に変わっていました。
一言で言いますと、彼のスカルピアは大変良い!この演出でも十分以上に堪えうることを証明したわけですから、もういつでもメトに来てこの役を歌って頂きたいと思います!

終演後、主役の3人、それからおまるには盛大な拍手が送られ、スカラの観客も公演の内容には十分満足したようでした。
(カウフマンに対して、一人、ブーを叫びまくっている人がいましたが、他の観客がふざけるなよ!と、更に大きな拍手と歓声でかき消したことは言うまでもありません。
まあ、どこにでもこういうわけのわからない人はいるので、こんな人、いちいち気にしちゃ、歌手もやってられません!)


Oksana Dyka (Tosca)
Jonas Kaufmann (Cavaradossi)
Zeljko Lucic (Željko Lučić) (Scarpia)
Renato Girolami (Sacristan)
Dejan Vatchkov (Angelotti)
Luca Casalin (Spoletta)
Alessandro Calamai (Sciarrone)
Ernesto Panariello (Jailer)
Elena Caccamo (Shepherd)
Conductor: Omer Meir Wellber
Production: Luc Bondy
Set design: Richard Peduzzi
Costume design: Milena Canonero
Lighting design: Michael Bauer
Platea Fila E

Teatro alla Scala, Milan

*** プッチーニ トスカ Puccini Tosca ***

TOSCA (Sun, Feb 20, 2011) 前編

2011-02-20 | メト以外のオペラ
昨シーズン(2009-10年)のメトのオープニング・ナイト以来、
何度思い出してもその度に私の頭頂部から怒りの蒸気を吹き出させるボンディ演出の糞『トスカ』。
NYだけでは飽き足らず、その後、ミュンヘン(バイエルン歌劇場)でも破壊行為を繰り広げ、今シーズンに至っては性懲りもなくメトに再登場
その上、スカラにまでその魔の手を伸ばすというのですから、なんとも身の毛のよだつ話ではありませんか。(同演出はこれらの劇場の共同制作。)
確かに、オープニング・ナイトから約半年後のメトのBキャストでカウフマンが出演した時には、共演者のラセットやターフェル、
それから指揮のルイージの力もあって、Aキャスト(オープニング・ナイトを含む)とは雲泥の差の結果を出したとはいえ、
こんな力のある歌手を揃えても、それでも演出そのものの欠陥がどうしようもない障害になっていることが露呈している部分があるんですから、
何と罪深い演出なことよ、、と思います。
私にとってはメトからも消えて欲しい位の演出なものですから、スカラのキャストにカウフマンが入っていると聞いても、
当初は、”ふーん、今年はスカラの観客の皆様もあの地獄絵図を目の当たりにすることになるのね、ご愁傷さま。”としか思っていませんでした。

しかし、あれは去年(2010年)の10月頃のこと。
たまたまネットでこんな内容の文章を目にしてしまったのです。(残念ながら、英文の記事だったことしか記憶がなく、出自は忘れてしまいました。)
カウフマンがボンディに”あなた、まさか、メトでの演出をそのままスカラに持って行く気じゃないでしょうね?
そんなことをしたら、どんなことになるか、もう想像がお付きになりますね?”と詰め寄り、
スカラの舞台に立つには、ボンディが再びリハーサルに参加し、キャストと共に、もう一度演出を練り直し、必要とあらば変更を加えることを条件に入れさせた、と、、。

もうこんなものを読んでしまったものですから、Madokakip、大変です。
これは面白いことになった!! あの糞『トスカ』に手が加わる、、、!!
メトのBキャストの舞台で、糞を何とか鑑賞に耐えうる舞台に仕立て上げた原動力の一人であるカウフマンが、
ボンディとのリハーサルを得て(メトのBキャストでは、ボンディは不在で、舞台監督とキャストで演技を練って行ったと聞いています。)
どのように糞から金を生み出すのか?それともやはり糞は糞のままなのか??!!!
もし、糞のままだったならば、スカラのロッジョニスタ達に、罵詈雑言を浴びせかけられるのだろうな、、。その罵声を生で聞くのもそれはそれで楽しそう。
ああ!!!もう考え出したら興奮して来て、居ても立ってもいられなくなって来ました。

なので、早速スカラ座のウェブサイトを訪れ、トスカ役は誰なのかをチェック。オクサナ・ディーカ。知らん、そんなソプラノ。
しかし、スカルピア役のところに来て、目玉が飛び出るかと思いました。ジェリコ・ルチーチ。
なにー!?私が現役で最も好きなバリトンと言ってもよいルチーチがスカルピアだとー!?
もうこうなったら、後の問題は日程だけなんですが、毎週毎週メトの公演、メト以外の演奏会、レクチャー等々で、これ以上鑑賞演目をねじ込むのはただでさえ難しいというのに、
ミラノに行くとなったら最低でも端を入れて3日は必要なので、”まず無理だろうなあ、、。”と予定表を開けてびっくりです。
『トスカ』の公演日周辺だけ、まるでモーゼの一行が歩いて海の真ん中に道が出来たように、カレンダーが真っ白なんですから。これは、スカラに行けるんじゃ、、、?

カウフマンとルチーチの二人が揃って出演するのは、2月の15、17、20、22日のたった四日だけ。
演出への反応が一番如実に現れるのは何と言っても初日ですから、私の希望としては15日の公演を一番鑑賞したかったのですが、
曜日の関係から、一番仕事(本業)の休みを取る数が少なくて済むのは20日なので、
初日での観客の反応次第では、カウフマンが嫌気をさして後半の日程を降板してしまうのでは、、、?
ただでさえも糞な演出なのだから、これに代役で糞なテノールが加わった日には、どんなことになってしまうのか?
いや、そもそも、カウフマンとボンディがあのメトの時とはどのように違った舞台を作り出してくれるのか、それを見る・聴くのが
今回の鑑賞の最大のポイントなんであって、この演出で一度も歌ったことがないようなテノールに出てこられても困る!
などと、逡巡しつつも、まあ、心配ばかりしてもいられません。
というわけで、チケットの発売開始日には朝の3時からネットに張り付いて(イタリア時間の朝9時が発売開始で、NYとは6時間の時差。)、
3時になっても一向にオーダーの画面がリリースされないので、”どうなってるのよ!!きーっ!!”となっていると、突如10分後位に画面が現れました。
ちょっと時間にルーズすぎやしないか、スカラ座。

このブログが縁で知己を得た方に、オンライン予約時の注意事項を事前に教えて頂いていたこともあり、至ってスムーズにプロセスは進み、
無事に平土間の座席を獲得!後はもう出発を待つのみ、、と、すっかり浮かれ気分でいたところ、
なんと、出発の数日前に、こちらの記事のコメント欄に頂いたニュースを読んで、私はもう泡を吹いて倒れるかと思いました。
カウフマン、15日の公演、キャンセル 
代役はアンドルス・アントネンコ。彼は確かに今、カヴァラドッシを歌うテノールの代役としては決して悪くはない選択ですが、
先ほども書いたように、今回のスカラでの鑑賞は良い歌唱を聴けるかどうか、というのは二次的なことで、第一のポイントではない。
今回の旅の趣旨からすると、良い歌唱を聴けるとしたら、それはカウフマンの歌唱でなければならないのです。
単にカウフマンの良い歌唱を聴くことが最大の目的なら、何もわざわざ糞トスカじゃなくて、別の演目で、別の劇場で、聴く選択肢だってあるわけですから。

それにしても、いやー、危なかったー。仕事との兼ね合いさえなければ、絶対に15日の公演を観に行っていたはずですから。
私が鑑賞する日までにはカウフマンも大丈夫でしょう、楽しんで来てください、という、コメント欄での皆様の温かいお言葉に望みをかけ、すっかり荷物もまとめ、
NY出発当日の朝、念のため、スカラ座のサイトをのぞいてみて、今度は白目を剥いたまま椅子ごと後ろにひっくり返りそうになりました。
下がその日の告知をコピーしたものです。



ぎょええええええええーーーーーーっ!!!カウフマンってば、15日のみならず、17日もキャンセルになってるーーーーーっ!!
しかも、代役はカルロ・ベントレ。って、Who are you???って感じなんですけど!
”カウフマンは20日と22日の公演には出演する旨を確認致しました。”って書いてありますが、
ウィルスが原因なだけに、そんなの、どこに100%の保証があるんだ?と私は聞きたい!

もうこのあまりにもの事態に、私はPCを閉じながら心を決めました。
この後は、公演の当日、開演時間まで何が起こっているかネットでチェックはすまい。
オペラの神様のご加護が私にあれば、カウフマンはきっと20日にスカラの舞台に立ってくれるはず、
どうか、"Che fai? (何をやっている)”という言葉(カヴァラドッシが『トスカ』で一番最初に発する、堂守に向けての言葉)が、彼の声でありますように、、
それだけを願って、とりあえず出発することにしました。

往路の飛行機はまさかまさかのすし詰め状態。というのも、ゲートのあたりにものすごい数の、制服を身に着けた男子高校生がたむろっています。
”まじかよ、、、。”と一瞬どんよりしましたが、話を聞くと、ロング・アイランドにあるカトリック系の私立高校の生徒たちで、
これからローマ法王の前で歌の御前演奏をするためにイタリアに向かうところなんだそうです。
御前演奏といえば、ピッツバーグ交響楽団の『レクイエム』を聴きに行った時に、
”アメリカの交響楽団の中で初めて法王の前で御前演奏を行った楽団”というのが誇らしげにプレイビルに書かれていましたっけ。(2003年のことのようです。)
法王もこんなアメリカくんだりからやって来たオケや挙句の果てには高校生の演奏にまで耳を傾けにゃならんとは、いくらお体があっても足りますまい、、と気の毒になります。
しかし、かように旅行の目的が目的で、神父服姿の先生達が厳しく目を光らせているため、生徒達の機内でのマナーはすこぶる良く、実に快適なフライトでした。
どうやら、兄妹校にあたる女子校の生徒達も御前演奏に加わるようで、一般客と全部の学生の数を合わせると飛行機がキャパ・オーバーになってしまったのか、
アリタリアがもう一機、全く同じ時間帯に、臨時特別便を追加したようなのですが、
男子生徒達は私の乗っていた便に、女子生徒達はもう一方の便に、ときっぱり分割させられていたそうで、
その話を聞いた時には、隣の座席の女性と、”まさか、飛行機で隣り同士に座っただけで子供が出来るわけでもあるまいし、、。”と笑ってしまいました。

今回は日程も短いので、ミラノだけで一杯一杯、、と思っていたのですが、出発直前に連れに、NYタイムズの旅のページにこんな記事が出てたよん、
良かったら行っておいでよ、と、ベルガモについての記事と写真の切抜きを渡されました。
最初はそんな時間ないでしょ、と思っていたのですが、良く考えてみれば、ミラノから電車で1時間といえば、通勤で我が家からコネチカットに行くよりも短い時間、、、
せっかくなんだし、、と、唯一全日フリーになる日をベルガモ行きにまわしてみたのですが、これは本当に大正解でした。
このブログのどこかで書きました通り、私のヘッド人生は、カラスの『ルチア』のライブ盤を聴いて、
雷に打たれたような衝撃に見舞われた瞬間に本格的にスタートしましたゆえ、
この地でドニゼッティは生まれ、没したのだわ、、、そして、さらには、彼が『ルチア』という作品を書かなかったら、そもそもヘッドにすらなっていなかったかもしれないわけで、
スカラに『トスカ』を観に来ることも、ここベルガモに足を延ばすこともなかったのかも、、と思うと、何ともいえぬ感慨が押し寄せて来て、
彼が存命していた頃から、ほとんど様子が変わっていないのではないか?と思わせるこの街の美しさ(もう街そのものが博物館&美術館みたい!)ともあいまって、
朝から夕方まで、一日中いたというのに、”一日では全く時間が少な過ぎた、、。”と、後ろ髪を引かれる思いでベルガモを後にしました。
いつか必ず再訪したいと思います!

翌日はいよいよ公演当日の日曜日。開演は3時からなので、午前中遅くにスカラ座の博物館に行ってみました。
というのも、博物館のコースの途中で、客席から劇場をのぞかせてもらえるはず、、ということは、この時間に行けば、、、
そうです!!!ちょうど、今日の公演の『トスカ』のセットを組み立てている頃のはずなのです!!!
開放されているいくつかのボックスの一つに忍びこむと、とんかちと電動ねじ回しの音が舞台から響いて来ました!!
ああ!組み立ててる、組み立ててる!
スカラの大道具のスタッフが、あのだっさいボンディ・トスカ(はっきりさせておくと、セット・デザインはぺドゥッツィ。)の一幕のセットを一生懸命組み立ててます。
いやー、スタッフの方も組み立てていて嫌にならないのでしょうかね、、こんな醜悪なセット。
あ、あの片胸出しのマグダラのマリアの絵はメトと全く同じじゃないの。
ったく、ボンディめ、一体これのどこに手が加わっているというつもりなのか!?

この公演の日は朝から雨が降っていたので、朝の街歩き仕様の格好からオペラ仕様の服に着替えるため、一旦ホテルに帰還。
十分歩いてスカラに行ける距離ではあるのですが、靴は女の命!というわけで、フロントにタクシーを呼んでもらい、
スカラの前に乗り付けるというこの行動パターンは、良く考えれば悲しいくらいいつもと同じ、、、。
(このブログで、自宅からメトにキャブで参上するという描写が多いので、私の友人は私がメトからそこそこ離れた場所に住んでいると思っていたらしいのですが、
彼女がNYに滞在した際、実はメトまで歩いても15分かかるかかからないか、という場所であることに気づかれてしまい、
”あなた、これ位歩きなさい!”と呆れられてしまった、、。)

しかし、NYにいる時と同じように調子にのってタクシーを乗り回していると降りる時にびっくり仰天!なのがミラノのタクシー代の高さで、
ミラノのタクシーは、日本と同じか、もしかするとそれ以上の、ちょっと贅沢な移動手段と見た方が良いのかもしれません。
例えば、今回のホテルからスカラ座までの距離と、私の家からメトまでの距離はほとんど同じ位だと思うのですが、
ミラノではNYの1.5倍から2倍の間くらいの料金を取られるように思います。
まあ、こんな歩いて15分位の距離の料金の2倍なんて、大した額ではありませんが、私はこんなにミラノのタクシーがNYに比べて高いと知らなかった故、
ミラノに到着した際、ああ、市中心部への直行電車なんてものもあるのね、、と思いながらもそこを素通りし、タクシー乗り場に直行してしまったのです。
どうしてこんなにタクシー乗り場が閑散としているのかしら、、?とちょっと不思議に思ったものの、、、、
その謎はホテルについてドライバーに”90ユーロです。”と言われた時に一瞬にして解けました。
90ユーロって、あーた、現在のレートで約123USドル、日本円にして10,081円ですよ!!!!
最初はぼられたかと思いましたが、2、3年前に発行されたガイドブックにも空港からの料金は一律85ユーロと書いてありますから、
これがきちんとした正規の料金なんだと思います。
まあ、確かに考えてみれば、日本でも東京の都心部から成田までタクシーに乗ろうという人は余程裕福か、何か事情がある人なんであって、普通はまあ乗らないですよね。
その感覚を忘れて、すっかりNYと同じノリでタクってしまった、、そこに私の今回の敗因がありました。
(ちなみにNYは一応エアトランが地下鉄に接続したり、空港から安くマンハッタン入り出来る方法もあるのですが、とにかく時間がかかるのと、
満員の地下鉄にスーツケースを持って乗り込んでくる旅行者は白い目で見られること間違いなく、
料金と時間のバランス、目的地まで一気に行ける手軽さから言って、やはりキャブが一番一般的な移動手段なのではないかと思います。
後はシャトルバスなんかもありますが、発着場所が限られていて、結局そこから本来の目的地までキャブで行かなければならないことを思うと、私はあまり使う気になれません。)

タクシーの運転手さんが、”今日はスカラで何の公演?誰が歌うの?”と言うので、”『トスカ』で、ディーカ、ルチーチ、カウフマン(のはず、、)なんです。”と言うと、
”へえ、カウフマンかい、それはいいねえ、楽しんでおいでね。”
リンカーン・センターにほとんど毎回キャブを走らせても、オペラの公演のことを聞いてくれる運転手なんてほとんどいないし、
トスカ、ディーカ、ルチーチ、カウフマンなんて言ったって、どうせ”は?”と流されるのが関の山なのに、さすがミラノ!!
仮にこの運転手さんが、たまたまオペラ好きだったに過ぎないにしても、いや、もしかすると、やっぱり”は?”と思いつつ、
単に適当に話を合わせてくれていただけだとしても、今やスカラ座の前に降り立ち、胸が高鳴っているMadokakipは、このまま、”さすがミラノ!”と勘違いしたままでいたいのです!

出来るだけ早く入って、劇場の様子を少し見て回ってみよう、と思っていたのに、習慣とは実に恐ろしいもので、スカラ座に到着したのは開演の約5分前。
やっぱりメトに行く時と同様、開演ぎりぎりになってしまうのでした、、。
座席に着くと、隣の男性はフランスのリヨンの近くの田舎(本人談)にお住まいの獣医さんで、スカラの年間サブスクライバー。
”田舎ですからね、犬や猫だけじゃなくて、牛とか馬とかも見るんですよ。
リヨンからミラノはね、三時間半位で来れますから、週末の公演に合わせて予定を組むと、丁度良い感じの週末旅行になるんです。”
仕事で存分に動物と戯れた挙句、週末にはスカラでオペラ!!!!なんというファビュラスな人生なのか!!
このおじ様はスカラのことはもちろん、最近のオペラ事情についてもなかなか良く精通されていらっしゃっている様子。
今回のスカラでの鑑賞はカウフマンとルチーチ、そしてボンディの演出、この三点が理由で実現したようなものなので、
指揮者に関しては、”おまるみたいな名前”としか私の頭の中には記憶されていなかったのですが、おじ様情報によると、
このオマー・メイール・ウェルバーというイスラエル人指揮者は現在若干30歳(!)、
アッシャー・フィッシュやバレンボイム(それでスカラに起用されてるんだな、、。)について指揮を勉強したということで、
おじ様は非常にこのおまるの指揮を楽しみにしていらっしゃるんだそうです。
ボンディの演出がニューヨークで大ブーイングを浴びたということも、また、15日と17日のカウフマンの降板の件もご存知で、
”私の友人の女性が15日の公演を見にきたんだけどね、カウフマンの降板に打ちひしがれていたよ。彼の舞台は見たことある?僕は初めてなんだけど。”と仰るので、
メトのオープニング・ナイトでのボンディの演出がどれほどダメダメだったか、それをBキャストのカウフマン・チームがどれだけひっぱりあげたか、
また、今回の演出にはNY上演時よりも多少手が入るらしい、ということを聞いてはるばるミラノまで駆けつけたこと、などを懇々とおじ様に話して聞かせてしまいました。

と、言っているうちに、いよいよ指揮台におまるが登場!!!



上の写真は彼のエージェントのサイトからのもので、今回の『トスカ』の公演のものではないのですが、
今回もやはりこんな風にスーツの下にボタンを開けたシャツを着ていて、まるでくたびれたサラリーマンのようだったのですが、
この着こなしが彼のトレードマークなのかもしれません。


後編に続く>


Oksana Dyka (Tosca)
Jonas Kaufmann (Cavaradossi)
Zeljko Lucic (Željko Lučić) (Scarpia)
Renato Girolami (Sacristan)
Dejan Vatchkov (Angelotti)
Luca Casalin (Spoletta)
Alessandro Calamai (Sciarrone)
Ernesto Panariello (Jailer)
Elena Caccamo (Shepherd)
Conductor: Omer Meir Wellber
Production: Luc Bondy
Set design: Richard Peduzzi
Costume design: Milena Canonero
Lighting design: Michael Bauer
Platea Fila E

Teatro alla Scala, Milan

*** プッチーニ トスカ Puccini Tosca ***

ROMEO ET JULIETTE (Sun, Feb 13, 2011)

2011-02-13 | メト以外のオペラ
三年半前に初めて彼の歌声を聴いた時(『ルチア』のアルトゥーロ役エドガルド役)の、あの清水のような響きが段々となくなって来た、とか、
スタミナ増強・レパートリーの拡大・声のロブスト化を狙う”改造計画”が間違ったペースや方向で進んでいるのではないか?などなど、
色々(この記事あの記事、、)苦言を呈しつつ、なぜかその動向を追い続けてしまうスティーヴン・コステロです。

今日はオペラ・カンパニー・オブ・フィラデルフィアの『ロミオとジュリエット』で、アイリン・ペレーズと夫婦共演なんですが、
フィラデルフィアといえば、コステロの出身地であり、二人が知り合う場所となったAVA(アカデミー・オブ・ヴォーカル・アーツ。
アメリカで屈指の声楽の学校。)の所在地でもあって、2人のホーム・グラウンドと言っても良い場所ですが、
夫婦揃って少しずつ活躍の場を広げていることもあり(コステロは来シーズンのメトのオープニング・ナイト演目『アンナ・ボレーナ』にも出演する予定。)、
彼らの今後の頑張り次第によっては、フィラデルフィアでも、夫婦共演という形で登場する機会はそう多くはなくなってしまう可能性もあるので、
出来ることは出来るうちに!の精神で、再びフィラデルフィアに日帰りでやって参りました。

前回、やはり彼ら夫妻の歌を聴きにこの地にやって来た際の貴重な失敗経験がありますので、
今回は、前に座っている金持ちに視界をブロックされることがないよう、
バルコニー・ロージュのサイド、つまり、メトでいうところのパーテールのサイド・ボックス席にあたる部分の、ステージ寄り最前列を押さえてみました。
通常は、舞台にあまり寄り過ぎると、視覚的に端が見切れたりして、理想的な席とは言い難いのですが、
私にとっては、ビジュアルよりもある程度のクオリティの音がきちんと保たれていることの方がプライオリティが高く、
このアカデミー・オブ・ミュージックの音響が非常に乾いているということを、前回、平土間の後方座席に座っていやほど体験しましたので、
今回は”これだけ近くに座ったら手も足も出まい、、。”と自信たっぷりに、この最前列の座席に座っています。



最近では、どこのオペラハウスも若年層を取り込むことに躍起になっているようで、
冒頭の写真のような、ファッション紙の記事かと見紛う、異様に気合の入ったコステロ/ペレーズ夫妻のスチール写真に加え、
この公演には地元の学生さん達から衣装を一般公募する企画がタイアップされていると事前に聞いていました。
まあ、こういう企画は若い人にチャンスを与え、地元を活性化する、ということで、良いことのように見えますが、
私は、このクラスのオペラハウスの公演では、そんなトーシロの仕事より、プロの仕事を見せてくれよ、、と思ってしまううえ、
(実際、舞台に出て来た衣装に、これは、、と思わせるものは一つもありませんでした。)
主役・準主役だけでは、とてもさばききれないような数の衣装デザインがカンパニーのサイトにあがっていたので、とてもいやーな予感がしていたのですが、予感的中!

なぜか、この『ロミオとジュリエット』では、ジュリエット父の職業がファッション・デザイナーで、
ファッション・ショー当日でばたばたするキャピュレット家の、そのショー後の祝賀パーティーに、ロミオたちが正体を隠して紛れ込む、、というような設定になっています。
ショーで給仕するウェイターたちが、全員、カール・ラガーフェルドのように、白髪+サングラスなのはちょっとした洒落でしょうか。
で、そのショーの中で、モデルたち(地元フィラデルフィアのモデル・エージェンシーに所属するモデル達だそうです。)が着るのが、
学生たちがデザインした衣装、というわけなんですが、この衣装一般公募企画を成立させるがためだけに、
無理やりファッション・ショーのシーンを埋め込んだり、ジュリエット父をデザイナーに仕立てあげたのがみえみえで、
一幕ではそれが非常にぎこちない感触を生み出してしまっているかと思えば、
幕が進むうちに、いつの間にか演出家すらそんな設定が面倒臭く、かつ、どうでもよくなってしまったのか、
いつの間にか、モード界云々という設定はどうした?と思うような、いたってオーソドックスな『ロミオとジュリエット』に移行してしまっていて、
全体的にまとまりを欠いた、中途半端なものになってしまっていたと思います。
現代に舞台を移した『ロミオとジュリエット』というのは、『ウェスト・サイド・ストーリー』をはじめとする派生作品や、
ディカプリオらが出演していた映画等を例に出すまでもなく、珍しくも何ともないですが、
ステファーノ役がドレッド頭のラッパーで、アリア(Que fais-tu, blanche tourterelle)を歌いながら、ヒップホップダンスを繰り出したり
(あの曲で?と思われるかもしれませんが、あの曲で!なのです。ベルフィオーレというイタリアの若手メゾが、地のかわいらしい顔の跡形もないヘアメークで、
エミネムの友達か?と思うような、ホワイト・トラッシュなラッパーに扮して頑張ってます。)、
マキューシオとティボルトの決闘シーンでは、剣ではなくて、道路工事のために積まれていた鉄パイプで殴りかかるなど、
家対家、というよりは、地元”チーム”同士の決闘という感じなんですが、現代的なリアリティを求めるオーディエンスにとっては、こういった設定の方が共感しやすいのかな、とは思います。
必ずしもそういう読み替えは必要がない、というのが持論の私でも、物語のコアを見失っているようには感じられませんでしたし、
今回の演出は、予算が限られていたのか、なかなかに寒い(=お金がかかってなさそうな)プロダクションではあるものの、
”モードの呪縛”を切り抜けた後の部分については、寒いなりに楽しめる部分もあったので、前半でとっちらかってしまったのは少し残念です。



先ほど、”これだけ近くに座ったならさすがに大丈夫なはず、、”と書いたアカデミー・オブ・ミュージックですが、やはり侮れませんでした。
恐ろしいのは、これだけ近くに座っても(舞台から高さを除いた純粋な水平距離だけで言うと、5メートルも離れていない。)、
乾いた音響であることにはいささかの間違いもなく、この音の響かなさ・届かなさは尋常じゃありません。歌う側にとっては本当に大変な会場だな、と思います。

ペレーズは声が乗り出してくるまでに少しタイムラグがあって、”私は夢に生きたい Ah! je veux vivre”あたりまでは声もか細い感じがして、心配させられましたが、
歌いすすめてきちんと音が開いて来ると、間違ってもサイズが大きいとは言いかねますが、この劇場でも十分聴こえるのですから、
このあたりのレパートリーを歌っている分には、声量的には致命的なほどの問題はないと思いますし、
声に温かさやしなやかさがあって、フランスものと彼女の声質はまずは相性が良いといってよいと思います。
彼女は”私は夢に~”で判断するに、それほどコロラトゥーラの技巧が卓越して上手い、というタイプではないので、
ベル・カント・ロールも色々歌っているようですが、彼女の声の質と合わせても、私はもう少しリリカルな、
それこそ、フランスものあたりを中心としたレパートリーを組んで行くのが今の彼女には良いのではないかな、と思います。
『ロミオとジュリエット』は結構長丁場ですが、後になるほど歌が良くなって行く感じで、なかなかに疲れ知らずでスタミナもきちんとありそうな彼女ですので、
こんなに元気なら、もう少し、”私は夢に生きたい”から突っ走れるようなコンディションの持って行き方をしたなら、尚良かったと思います。
今回の公演にも、メトの公演時と同様に、毒薬のアリア("Amour ranime mon courage")が含まれているのですが、
ネトレプコの迫力で押しまくるそれ(彼女の毒薬のアリアでの強靭な高音は、客席で聞いているだけでこめかみが痛くなってくるほどです。
私は決してそういうのが嫌いでないですが。)とはまた違った、しなやかさと軽さのあるポイズン・アリアで、ペレーズも健闘していたと思います。

むしろ、私がペレーズの歌で危惧するところは、器用貧乏な感じがする点です。
彼女は歌に大きな失敗がなく、精神力も強く度胸もありそうですし(これは大きな劇場で歌っていくには非常に大事な資質。)、一生懸命さもあるし、
演技もスムーズで、特にあげつらって書きたくなるような欠点は何もないのですが、といいつつ、オペラのことになると、意地の悪い姑キャラになる私ですので、
あげつらってしまうと、彼女の歌には、オーディエンスとして本当に心を打たれる、”真実の瞬間”というのがない、そこが私には一番気になる点です。



で、一方のコステロ。
彼はペレーズと共演する度に、レビューなどに、必ずと言ってよいほど、歌はまあまあ~上なのに、
”ペレーズの自然で淀みのない演技・舞台所作に比べて、とてもぎこちない。”と書かれていて、そのうち、名前ではなく、
”夫婦のうちのぎこちない方”と呼ばれてしまうようになるのではないかと心配するほど、不器用な人のポジションを着々と固めています。
私は実は彼がペレーズと組まずに、他の歌手と組んで歌っている舞台を観たこともあって、
その時にはそこまで彼の舞台所作が不器用だとは感じなかったんですが、今日の彼は確かに歩けば右の足と右の腕が同時に出てしまいそうなほどのそれで、
もしかすると、本人も、いつもペレーズとセットで”彼女は優れているのに、彼の方は、、”と書かれていることをある程度知っていて、
余計、彼女と組むと舞台で硬くなるのかな、、と感じる部分もあります。

それにしても、良くこんな舞台セット、カンパニーや劇場が許可したものだ、と、私が驚き、最初からとても怖い思いで見つめていたのが、
すぐ下の写真にある、片側に全く手すりも柵もない狭い螺旋階段で、この階段がセットのメインなものですから、
大事なシーンのほとんど全てで、ロミオとジュリエットがこの階段の上に立って歌うのですが、
後ろも見ずに距離勘だけで立ち回って演技しているペレーズが、いつ、足を踏みはずして、私達のつい眼の前位の高さ(優に6-7メートルはある高さ、、)から、
ネットもクッションもない、板張りの舞台に叩きつけられるのではないか、と、気が気で仕方がなく、私は全然歌に集中できませんでした。
一幕終了後のトイレの列で、”ご感想は?”とたまたま前に立っていた隣の座席の女性に尋ねられたので、
”歌は楽しんでいるのですが、私はもうあの階段が怖くて!”と、その女性のみならず、周りにいるフィラデルフィアのおば様たちに向かって訴えてみたのですが、
皆様、”落ちる時は落ちる時でしょ。”とでも思っていらっしゃるのか、”あら、そう。”と微笑まれるばかり、、。



しかし、その休憩後、二幕のいわゆるバルコニーのシーンで、恐れていた事態が発生してしまうのです。
彼が蔦のからまった外壁の梯子をのぼり、ジュリエットのいる場所にたどり着くと、セットが反転して、例の階段になるのですが、
かなり上段の方で、シェイクスピアの戯曲の、”どうしてあなたはロミオなの?”の部分に対応する、2人を引き裂く家への思いをジュリエットが吐露し、
それでもお互いを愛していることを確認する、この切ない二重唱を歌う二人、、。
コステロが歌いながら、数段階段を下がり、また上がろうとしたその時、なんと、コステロが階段につまずいてしまったではありませんか!!
息を呑む周りの観客!!
私は、体勢を失ったコステロが、そのまま階段の端に座っていたペレーズの肩を摑んでしまって、そのまま2人で下に真っ逆さま、、
てなことになるのではないか、と、思わず出かけた悲鳴を抑えるべく、手で口を覆ってしまいました。
しかし、コステロは批評家が思っているほど反射神経が鈍いわけではないらしく、ペレーズには指一つ触れずに自らの体勢を建て直し、
何事もなかったように、いえ、それどころか、このドジで体の力が抜けたのか、かえって歌に関しては余計な力が抜けて、
この地点以降、久々に彼らしい歌を聴かせてくれたと思います。
結果、このシーンの2人の歌唱は今日の公演のハイライトと言ってもよい、素晴らしい場面になりました。
レパートリーによっては、本来の声よりも強い声を作っているような作為を感じるコステロの最近の歌唱ですが、
今回の『ロミオとジュリエット』に限って言うと、それはほとんど気にならず、一つ高音で音程を外してしまった以外は、高音の響きも、
以前のような涼やかな感じはやはり減退していて、ほんの少し骨が太くなったような音色ですが、そう悪くはなかったと思います。




コステロの演技と歌には、とんでもなく鈍臭いところも、大きな欠点もあるのですが、その一方で、緊張がとれて彼本来の力が出てくると、
彼の歌と声にロミオの心情が生き移っている瞬間、つまり、これこそが、私がペレーズの歌からはなかなか感じることが出来ない”真実の瞬間”と私が呼んでいるものなのですが、
それが確かにあって、クレシェンド、デクレシェンドの本当に微妙なコントロールの仕方、延ばす音を、ほんの心持ち長く、とか、
またはこの表現にはこの声のカラーを、、といった、スコアで全てを書き記すことのできないニュアンス、”真実の瞬間”のマジックを引き起こせるセンスというものは、
どんなに学習しても後付ではなかなか学ぶことが難しい、もって生まれたものだと思います。
例えば、最後の、ジュリエットが死んだと信じている時の深い嘆き、悲しみ、それから、彼女を追って死を決意する時の表現、
そして、ジュリエットが生きていることを知った時の喜び(ロミオの彼女への愛が利己的なものを越えていることを表している大事な瞬間)、
最後にほんの短い瞬間でもジュリエットと再び生を共有できた喜び、そして、死に対する万感の思い、、。
短い時間の間に刻々と変化するロミオの感情を非常に豊かに表現していたのが印象的でした。



私はペレーズの方には、(もちろん元々持って生れた才能がゼロとはいいませんが)どちらかというと、学習したことや自分の努力で歌を作り上げている、
良い言い方をすれば利口な、悪い言い方をすれば計算高い印象を彼女の歌から受けるのとは対照的に、
コステロは、その鈍臭い演技と、学習能力の遅さ、計算能力ゼロのその向こうに、何か特別なものが眠っている感じがあって、
最近の彼の迷走っぷりを見るにつけ、いつもの私ならとっくに”見込み違いだった、、。”と思うところなのですが、
何か、そう思い切らせないものが彼の歌にはあって、その特別なものを引き出す技をなかなか身につけてくれない
(どころか、最近では遠回りしているような気すらする、、。)ところが、本当にもどかしいです。
実際、今日の全幕を聞いて、内容が良くなければ、彼を今後ウォッチすることはないな、、と思いながらやって来たのですが、
そう思った時にこういうポテンシャルを感じる歌を歌って来るのが、実に悩ましい。
バルコニーのシーンの最後、再び蔦の絡まる外壁の梯子を降り、地面にたどり着いたロミオ。
その足に蔦が絡まってしまって、舞台の中央に歩いて行こうにも行けず、蔦に絡めとられた片足を浮かせたまま、もがき苦闘するコステロの様子を見つつ、
”いつか、その不器用さの殻を破って、本来の自分を解放するのよ!”と心の中で呟いてしまうMadokakipなのでした。

逆隣に座っていたおじい様は地元の大学で心理学を教えている教授とかで、”人の身の上を聞くのは魅惑的なんだよ。”と言いながら、
私のプライベートなことまで根堀り葉堀り聞いてきます。
パートナーはいますが未婚です、というと、私が30をやっと出たところくらいだと勝手に思い込んでいるようで、
”女性はね、40を越えると何もかもが終わりだからね。彼と早く人生計画を立てた方がいいよ。”
、、、、。
このじいさん、まじで殺す!!と一瞬思いましたが、あえて気まずい思いをさせるのも面倒なので、
私の年齢については、もう勘違いさせたまま放っておこうと思ったのですが、さらに彼の根堀り葉堀りは進んで、
ついに、”で、君のパートナーの年齢はいくつ?”
正直に彼の年齢を言うと、”(頭で数を計算している様子で)おやおや、随分君と年齢が離れていないかい。”
そこで、じい様の目をじっと見据えて言いました。”ええ、確かに少し離れていますけれども、あなたが思われているほどには離れていませんのよ。私、41ですから。”
2人の間にひらひらと一匹蝶が舞っていったような微妙な間があって、
”そうかい、、、。そうすると、君はもう人生計画は立て済みなんだね。明らかに、、。”としどろもどろになる教授。
”ええ。もう、’何もかもが終わる’前にすっかりと。”と畳み掛けておきました。
私は実際自分で選んだ人生ですから気にしてませんが、気をつけましょうね、男性が女性を相手に年齢の話をするのは。



デザイナーのキャピュレット父を歌ったモブスは、キャラモア音楽祭の準主役系でお馴染みのバス・バリトン。
キャラモアでは『セミラーミデ』、『ノルマ』と、セリアが続いているので、その役柄のまま、
いつも眉間に皺が寄った感じの、堅苦しい陰気臭い人と思いこんでいましたが、
今日の公演では、地元のデルモたちを両手に抱え、鼻の下を延ばしながら、実に楽しそうに歌ってました。こっちの方が地だな、きっと。

ローレンス神父はメトではベテランの老齢歌手によって歌われることも多いですが、ホプキンスは若い黒人歌手。歌は取り立てて書くほどの内容ではありませんが、
気は良さそうなのだけれど、いつも煙草を手放さず、もしかするとサイド・ビジネスとしてドラッグの売買にも手を染めてそうな、
ストリート系やさぐれ神父風にこの役を演じていて、面白いな、と思いました。眠り薬も、この人の手から出てくると、妙に納得してしまいます。

オケはそもそもの演奏能力にもんだ、、、、いや、あえて、書くのは控えておきましょう。ただ一言、指揮者のラコンブが気の毒だった、、とそれだけで十分。

Ailyn Pérez (Juliette)
Stephen Costello (Romeo)
Marian Pop (Mercutio)
Elena Belfiore (Stephano)
Daniel Mobbs (Capulet)
Olivia Vote (Gertrude)
Justin Hopkins (Friar Laurence)
Taylor Stayton (Tybalt)
Siddhartha Misra (Paris)
Jeffrey Chapman (Gregorio)
Paul Vetrano (Benvolio)
Frank Mitchell (Duke of Verona)

Conductor: Jacques Lacombe
Production: Manfred Schweigkofler
Set design: Nora Veneri
Costume design: Richard St. Clair
Lighting design: Drew Billiau
Chorus Master: Elizabeth Braden
Wig & Make-up design: Tom Watson
Choreography: Myra Bazell
Fight direction: Charles Conwell

Opera Compnay of Philadelphia
Balc Loge AA Even
Academy of Music, Philadelphia

***グノー ロメオとジュリエット ロミオとジュリエット Gounod Romeo et Juliette***

CAVALLERIA RUSTICANA/LA NAVARRAISE (Mon 10/25/10)

2010-10-25 | メト以外のオペラ
オペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨーク、略してOONY。
その公演の歴史はなんと1971-2年シーズン(実際の公演日は1972年)までさかのぼり、
毎年ニ、三本の演目を、演奏会形式ではありますが、
時に驚くようなビッグ・ネームの歌手を取り揃えつつ、公演の歴史を重ねて来たことは賞賛に値します。
このOONYの創設者かつ音楽監督であり、私の知る限り、ほとんどの公演で指揮を行ってきたのが、
イヴ・クエラーという女性で、こんな団体を40年にわたって率いて来た人なのだから、
どんな厳しそうな、怖い感じの人だろうと思ったら、
実物の彼女は指揮棒を持った優しそうな近所のおばちゃん、といったような雰囲気の人で、拍子抜けしたものです。

かように長い間、メトとは違うスタンスで、NYのオペラ・ファンに充実したオペラ体験を提供して来たOONYですが、
実は今シーズンの予定が発表される前に、おそらく財政的な理由が大きいのでしょうが、
存続の危機が叫ばれていた時期がありました。
なので、その後まもなく、まるで不死鳥のように今シーズン演奏されるニ演目(正式には三演目ですが、、)が発表され、
しかも、そのキャストの豪華さを見た時の我々の驚きと言ったら!
特に一本目のプログラムは、アラーニャ、ガランチャ、グレギーナによる
『ナヴァラの娘』と『カヴァレリア・ルスティカーナ』のダブル・ビル
(よって、後日の『アフリカの女』とあわせて三演目です。)!
アラーニャはOONYとの共演はもちろん、意外にもカーネギー・ホールで歌うのも今回が初めてなんだそうです。
でも、そんなことよりも!ガランチャを連れて来たというのはすごい機動力!OONY、あなどれじ、です。

さらにクエラー女史自身の方にも、そろそろ後継者を作らなければ、という考えがあるのか、
今年から、音楽監督代行としてアルベルト・ヴェロネージの名前が加わっていて、
来シーズンからは、彼が正式に音楽監督になるそうなんですが、
今日のダブル・ビルは、このヴェロネージのOONY指揮デビューの日でもあります。
今回の演奏会のチケットを手配するために、OONYに電話をした時にも、
電話を受けてくださった女性が、”ヴェロネージにも注目してくださいね、
良い指揮者ですから!”とおっしゃっていましたので、その点も楽しみです。



シーズンの演目が発表された時に、『ナヴァラの娘/カヴァレリア・ルスティカーナ(以下カヴと表記)』の順だったので、
てっきり『ナヴァラの娘』の演奏が先だと思い込んでいたのですが、
今回実演で接するのがはじめてで、全く聴きつけない『ナヴァラ』の方ではなく、
なじみのある『カヴ』の冒頭のあの美しい弦のメロディーが出てきました。

それにしても、『カヴ』という演目に手をつける勇気のあるオケと合唱は、
自分たちがどんな困難に足をつっこんでいるか、という、そのことを自覚して欲しい。
ヴェリズモ作品については、どこかヴェルディらの作品に比べると格下で、
演奏も簡単だろう、みたいなイメージを持っている方がいらっしゃるように思うのですが、
『カヴ』ほど演奏が難しい作品もないんです。
メトのような超プロ集団ですら、『カヴ』で良いオケの演奏が出る日というのはそう多くはないんですから、、。

OONYは自己付きの合唱団を持っていないので、ニューヨーク・コーラル・ソサエティが合唱に入っているんですが、
まあ、OONYオケとNYコーラル・ソサエティまとめて、全くこの演目が手に負えてないです。
リズムが変わる場所(この作品はこれが多いのが一つの難関)では脱線列車のようにぐちゃぐちゃ、
個々の楽器の名前を出すのは避けますが、本当に練習して来たの?というような出来のセクションもあるし、
合唱は合唱で、こんな下手くそなイタリア語、一体誰が教えているんだ?と憤慨したくなるようなディクションの悪さ、
その上、本当にもうこれは驚き以外の何物でもないのですが、どのパートも、全く発声の基礎が出来ていない。
彼らのサイトを見てもよくわからないんですが、この団体って、完全なアマチュア合唱団なんでしょうか?
いや、別にプロでなかろうと、人前で歌うからには、この発声のなってなさは、許しがたいものがあります。
特に男声の情けない音色には、いないほうがましだ!帰っちまえ!と叫びたくなるほどです。

はっきり言いまして、オケや合唱があまりにひどすぎて、ヴェロネージの指揮がどうのこうのと判断できるレベルじゃないです。
むしろ、よくこんなひどいオケと合唱をまとめて、一応(ほんとに、一応、ですから、、)演奏会の形にしましたね、と、
そっちの方で賞賛したくなるほどです。
私の見る限りは、ヴェロネージは決してついていくのが難しい指揮者ではなく、指示も非常にはっきりしているんですが、
それでもその指揮とは全く違うテンポや入りで、勝手に演奏している奏者が多数ですから、、。
ただでさえ、演奏するのが難しい『カヴ』で、そんなことをやっている奏者があちこちにいるんですから、
これはもう当然の結果といってもよい演奏内容なわけです。

そんなあまりにも多い障害の中から、私が感じた範囲では、ヴェロネージの指揮は、
強弱の変化が非常にはっきりしていて、(ま、しかし、これもオケが単にその間の微妙な表現を出来ないだけかも、、。)
でも、かと思えば、間奏曲では、普通あまり強調しない楽器を強調したりしていて、
オケに力さえあれば、これもあれもやってみたい、、というアイディアはあるんだろうなあ、、と思って、
また気の毒な気持ちが噴出して来ました。
後、彼はイタリアの地方の劇場を中心にキャリアを築いて来た人のようなんですが、
演奏の端々に、あまりメジャー歌劇場のオケでは聴けないような、
独特の少し寂れたような(決して悪い意味ではなく)ローカル色があるのが面白いな、と思います。

さて、こんな演奏をバックにサントゥッツァ役を歌うのはマリア・グレギーナ。
以前、このブログのどこかで書いたことがあると思うのですが、
グレギーナと『カヴ』といえば、私の生舞台鑑賞の原点となっている組み合わせです。
それまでにも、ビッグ・ネームが登場したものも含めて、生の舞台は見ていましたが、
彼女がメトの日本公演(1997年)に歌った『カヴ』、あの公演ほど、
演技と結びついた優れた歌唱がどれほど観客をノックアウトできるものなのか、ということに
目覚めさせてくれた公演は、それまでにありませんでした。
舞台上で飛ぶエネルギーがすごくて、まさに私は座席でオールモスト感電死状態でした。
休憩でトイレに立つのも億劫に感じるほどに。
トイレで順番を待って立っている間も、指の先まで自分の体に電気が通っているような感触でした。
あの時を境に、私のオペラ鑑賞が極端に”生”重視に移っていったのです。

彼女はその日本公演の後、サントゥッツァはもう歌わない、と宣言していたのですが、
結局、またこの役を歌うようになっていて、メトでも2006-7年シーズンに同役で登場しています。
私もその公演は見ましたが、残念ながらあの日本公演から10年経った彼女の声はもはや同じではなく、
そのせいで演技にも身が入っていないような、残念な結果でした。

彼女の声の衰えは確実に進行していて、最近では聴いていて辛い演目もあります。
私がここ数年、彼女が出演する公演に特にシビアな書き方をしているように聞こえたとしたら、
それは、あの1997年の、プライムにいた頃の彼女を聴いたことがあるゆえに、
それを帳消しにするような最近の歌には余計いたたまれないものを感じる、ということなんだと思います。

もちろん、声の衰えが突然に逆行するようなことは決してないですから、
今日の彼女は、歌声に関しては、2006-7年の公演から比べてもさらに衰退していますし、
それに合わせて歌唱面で、各フレーズの処理の仕方も調節しているのが良くわかります。
1997年の頃なら、無理にねじ伏せてでも大声量で処理していた箇所を、柔らかく歌って見せたり、といった風に、、。
普通に考えれば、こういう制限はやはり少ないほど良いものですが、
一つだけ、2006-7年の公演から、彼女のこの役での歌唱には大きな変化が生じていて、
それゆえに、私は今日の彼女の歌唱に、1997年の頃の歌唱とは全く違った意味で心を打たれたのです。

それは、”自分の声の衰えを受け入れる”ということです。
残念なことですが、プライムの時期の声をずっとキャリアの終わりまで保つことの出来る歌手なんて、
プライムの時期の真っ只中に逝去するのでもない限り、あり得ないことです。
特に、プライムを過ぎ、それにつれて活躍する劇場がマイナーになっていればそうでもないかもしれませんが、
メジャーな歌劇場からオファーが舞い込み続ける歌手ほど、この事実と折り合いをつけることは難しい。
2006-7年の彼女のサントゥッツァは、まだ彼女自身にその折り合いがついていなくて、
全てを昔と同じように歌おうとして、声が思い通りにならない、
そのジレンマから演技まで中途半端になっている、という感じでした。

今回の公演については、玄人および素人の評のいずれの中にも、
彼女の声の衰えを嘆き、よって、演奏自体も今ひとつ、と結論づけているものが少なからずありました。
プライムを大きく越えた歌手の歌は聴く価値がない、最高の時期の声を聴いてこそ、
というオペラの聴き方も確かにこの世の中に存在しますし、そういう聴き方をとやかく言う気は全然ないのですが、
私は全く違う考え方を持っていて、プライムの声を失った後ほど、
その歌手がそれまで素晴らしくあり続けた理由はなんなのか、ということが、はっきりわかる時はないと思っています。
だから、私は、どんなに歳をとった歌手の歌唱でも、その点がはっきりと見える内容の歌であれば、
聴いてよかった、、と思えるのです。

で、グレギーナなんですが、彼女はあの迫力ある声で、長らくドラマティコの世界では並ぶもののないソプラノでした。
けれども、その迫力が去りつつある今の歌唱からわかることは、
声のパワー以前に、彼女が役の中に入り込むことを非常に大切にしていた歌手であった、という事実です。
1997年には、舞台上を走り回り、激情溢れるサントゥッツァを熱唱していた彼女。
役作りも若々しく、リブレットのイメージにより近いのはそちらだったかもしれません。
あれはあれで素晴らしい役作りだったのですが、
今回、演奏会形式のためにほとんど物理的には動けないという制約にも関わらず、
さらに歌の表情と演技の深みが増しているように思えました。
この作品では、合唱と舞台裏から聴こえてくるトゥリッドゥの歌をのぞけば、一番最初に歌うのはサントゥッツァです。
”Dite, mamma Lucia..”(ルチア母さん、教えて)と歌い始める瞬間から、
グレギーナのサントゥッツァは重々しく、疲れ果てていて、すでに相当の期間、
ローラとトゥリッドゥの不倫に心を痛めていたことがわかります。
それから、彼女がトゥリッドゥを呪う”A te la mala Pasqua, spergiuro!”
(”最悪の復活祭を迎えるがいいわ。あたし、呪ってやるから。”)という言葉の直前に、
すっと片手を挙げて、まさに天に誓う、という感じのポーズをとったまま、
上の言葉を歌い終わった後、オケが後奏を奏でるなか、そのまま、天を仰ぎみながら、高笑いして、
その笑い顔が少しずつ泣き顔に変わっていくという演技は、
自分の愛する男性が自分を完全には愛していないことへの怒りとやるせなさが十全に表現されていて、
特に笑っている時は悪魔がとり憑いているのかという迫力で背中に寒気が走るようでした。
最後にトゥリッドゥが殺されたと知る時も、大袈裟な悲しみ方をせず、
まるで彼女自身がその結末を知っていたように、マンマ・ルチアの胸にそっと頭をのせる演技。
確かに彼女自身が呪って、その通りになったわけですから、この演技こそ適切だし、より一層、味わいが出る気がします。
彼女のそういった作品の細かい部分への目配りは、プライムの当時、
あの迫力いっぱいの声の方に圧倒されるあまり、はっきりとは見えなかった、、。
でも、1997年の公演だって、私が感電死寸前まで行ったのは、
やはりそこに緻密な役の分析があって、それが演技や歌とがっちり結びついていたからなんではないか、と思います。

プライムを越えたといえば、マンマ・ルチア役でミニョン・ダンが登場したのには観客が大喝采でした。
彼女はメトで、35年以上に渡り、650を越える公演に出演し続けたメゾです。
1964年にフィラデルフィアでコレッリ、テバルディと共演した
『ラ・ジョコンダ』からの音源がYouTubeにありましたので、ご紹介しておきます。




素晴らしい。なんてコレッリ、素敵なの、、、と、予想通り話がそれてしまいましたが、
ダンの話に戻ると、さすがにもう相当なご高齢ですので、この音源で伺えるような綺麗な歌声の跡形はもはやなく、
マンマ・ルチア役ですら、ほとんど音が棒読み状態でした。
でもいいんです。彼女の場合は、もうそこに立っているだけで喜ばしい、というステータスですから。

アラーニャは一人、大きな楽譜持参で歌ってました。
演奏会形式ですし、別に楽譜を見て歌っちゃいけないとはいいませんが、
つい2008-9年シーズンにメトで歌ったばっかりですし、その後もどこかで歌っていた記憶があるんですけど、
もう忘れちゃったんでしょうかね。『ナヴァラの娘』と違って『カヴ』はメジャーな演目でもあるのに、、。
ちなみに、アラーニャ以外は皆さん暗譜でした。

ただ、一つ気づいたのは、アラーニャの歌は、楽譜を見ながらいっぱいいっぱい状態で歌っている時の方が
かえって良いという点です。
しかし、もう、ここからは大丈夫!と思ったのか、アラーニャが後半でぱしっ!と楽譜を閉じて、
その後に続く ”母さん、この酒は強いねMamma, quel vino e generoso"も含めて暗譜だったんですが、
楽譜を閉じた途端、感情表現が過剰になって、一気にしらけてしまいました。
ふと、思ったのですが、私は彼の声そのものが苦手なわけではなくて、彼の表現のセンスが嫌いなのかもしれません。
ローラを歌ったスワンとアルフィオを歌ったアルマグエルは役目をきちんと果たした、以上のものは特に感じませんでした。


(ローラ役のスワン)

休憩をはさんで『ナヴァラの娘』。
ガランチャって今日のように舞台から近いところで見ると、すごくごつい人なんだなというのを実感します。
彼女は背も大柄ですけれど、肩周りがとてもたくましい。
彼女の高音の豊かな音色は貧相な体躯の人では出ない音だよな、、と前から思っていましたが、案の定です。

オケはこちらの作品の方がだいぶ出来が良い。ナヴァラに時間をかけすぎて、カヴが時間切れになったんだな、、。
それでも、時々金管がすかたんなミスをかまして、アラーニャに我々観客の方を見ながら、
眉をゆがめて、”困っちゃうよね。こういう演奏、、。”という表情をされる始末。
でも、まあ、こういうところがアラーニャもプロ意識に欠けてます。
ガランチャなんか、宙をじっと見つめて全くの無表情ですから。
そして、もちろん、合唱は相変わらず噴飯もののへたくそさ。
そういえば、彼らはタッカー・ガラにも出演するんでした。
彼らのサイトには、メンバー・オーディションの告知が出てましたが、
この際、メンバーを全員総とっかえした方がいいのでは?
こんな一流の歌手を招いておいて、オケや合唱がこういう出来なのは、彼らに失礼もいいところだと思います。

この作品、私はこの演奏会がきっかけで初めて聴いた作品で、今まで全く知らなかったのですが、
短いながらなかなかに魅力的で、かつドラマチックです。
何か別の短めの演目とカップリングして、ぜひ演奏会形式でなく、舞台で一度見てみたい。

マスネが書いた作品なんですが、同じフランスの作曲家(ビゼー)によるエスニックな演目で、
かつ、ガランチャがまもなくメトで歌う作品である『カルメン』を引き合いに出すと、
もう一歩荒々しくて、良い意味で洗練されていないエスニックさが特徴なように思います。
この『ナヴァラの娘』のストーリーは、身分違いのために恋人である軍人アラクィルの父親に結婚を反対された娘アニータが、
その状況を打開し結納金を手に入れる唯一の手段として、
敵対する軍の将軍の陣地に乗りこんでいって賞金がかかっている彼の首を切り落とすのに成功するものの、
その行為が、戦いで致命傷を負ったアラクィルに将軍の愛人兼スパイなのではないかと誤解され、
最後の虫の息の中でアラクィルが聞いた敵方主将暗殺の報と血まみれのアニータの姿が結びつき、
やっと彼が真実を悟るときには、彼は死を迎え、アニータは気がふれてしまっている、、
という実にドラマチックなストーリーです。

ガランチャは声楽的には申し分なくこの作品を歌っているのですが、
カルメン役に比べて、アニータ役に関しては、一番肝心な部分が表現しきれていない感じがします。
それは、カルメンと最も大きな違い、アニータが最後に発狂してしまう女性である、という点です。
カルメンは死の間際まで自分の理性を失わず、自分の生き方も変えない、非常にクールな女性であるのに対して、
アニータは、アラクィルのためには自分自身の生き方も捨て
(彼女が賞金狙いで敵方に女一人乗り込むのはもう正気の沙汰でないし、アラクィルの上司もそう言っている。)、
そして、アラクィルに自分の行動の本当の意図を理解してもらえなかった時には発狂してしまう、、。
カルメンとは全然違うキャラクターであることがわかります。
私はガランチャのカルメンは結構好きで、それはガランチャ自身の知的なところと、
カルメンの決して理性を失わない強さが呼応しているせいでもあるのかな、と思うのですが、
こと、このアニータのようなカルメンとは全く違った種類の濃い情熱を持った女性は、
まだガランチャが表現しうる範疇にはないような気がします。
これからガランチャが年齢を経て、こういったタイプの役をどのように歌いこなしていくようになるか、
楽しみにしながら待ちたいと思います。

『ナヴァラの娘』でのビッグ・サプライズはガリードという、アラクィルが属する軍の将軍役を、
決してそう大きな役ではないにも関わらず、イルダル・アブドラザコフが歌ってくれた点で、
これはもう贅沢以外の何物でもありませんでした。

この作品の中でちょっとした遊びどころとなっている、軍人が歌う踊りの歌のリードをとるブスタメンテ役を歌った
マイケル・アンソニー・マッギーは髪が寂しくなったヴィラゾンみたいなルックスで、かなり強烈ですが、
若手にしては、この歌を魅力的に歌いこなしてみせました。

それにしても、面白かったのは舞台上での各歌手の、自分の歌うパートを待っている間の態度でしょうか。
きっ!と空を見据えて、役に没頭しているガランチャの横で、
ADDでもわずらっているのかと思うほど、ひっきりなしにガランチャの顔を覗き込んだり、
前方に座っている観客とアイ・コンタクトをとったりして落ち着きないことこのうえないアラーニャ、
そして、他の歌手が歌っている間にも、一生懸命楽譜に目を通して自分のパートを予習している様子のアブドラザコフ、、。
(こちらはあまり演奏される演目ではないので、ほとんどの皆さんが楽譜を見ながらの歌唱でした。)
三人の個性がまんま現れていて、おかしかったです。


(今回、ガランチャ、アラーニャ、グレギーナら、メジャーな歌手たちとは、
写真撮影不可という条項でも契約の中にあったのか、彼らの写真が全く見つからなかったので、
冒頭の写真はメトの2009-10年シーズンに『カルメン』で共演した際のアラーニャとガランチャです。)

CAVALLERIA RUSTICANA
Roberto Alagna (Turiddu)
Maria Guleghina (Santuzza)
Mignon Dunn (Mamma Lucia)
Carlos Almaguer (Alfio)
Krysty Swann (Lola)

LA NAVARRAISE
Elīna Garanča (Anita)
Roberto Alagna (Araquil)
Ildar Abdrazakov (Garrido)
Michael Anthony McGee (Bustamente)
Brian Kontes (Remigio)
Issachah Savage (Ramon)

Conductor: Alberto Veronesi
The Opera Orchestra of New York
The New York Choral Society

Parq L Odd
Isaac Stern Auditorium / Ronald O. Perelman Stage, Carnegie Hall

*** マスカーニ カヴァレリア・ルスティカーナ Mascagni Cavalleria Rusticana
マスネ ナヴァラの娘 Massenet La Navarraise ***

NORMA (Sat, Jul 10, 2010)  後編

2010-07-10 | メト以外のオペラ
前編より続く>

キャラバンに乗り込む数時間前、連れが思い出したようにこんな質問を発しました。
”ところで今日の『ノルマ』で、ポッリオーネを歌うテノールは誰?”

、、、、、。

ミードがノルマ役を歌うという事実のみに夢中で、すっかりポッリオーネの存在を忘れてました。
キャラモアのサイトをチェックすると、エマニュエル・ディヴィラローザと表記されてますが、
知らないなあ、そんなテノール。
却って一度も聴いたことのない歌手というのは好奇心が募るので、家を出る前に、彼のサイトに行ってみました。
まあ、写真で見る限り、ルックスは中の上、もしくは上の下といったあたりの、微妙な位置か。



そして、どうやら、アリア集を(多分限りなく自家発売に近い形で)発売するらしく、
各曲からのサンプル音源がのっているページがあったので、少し聴いてみると、、、
うーむ、これは今日の公演、やばいかもしれない!!(笑)
なんというか、、音の芯がきちんと座らないときがあって、非常に不安定なのですね、このテノールの発声は。
なので、収まり悪く、音が微妙に行ったり来たりする感じで、実に聴いている側を落ち着かなくさせます。
不調だったんですと言い訳の利くライブの公演の音源ならともかく、こんなのCD化して一体どうする気なんでしょう?
”世界中の劇場で非常に高い需要のあるテノール!”というウェブ上の言葉がむなしくモニターに光ります。
溜息をつきながら他のページに移動してみると、彼は2007年のキャラモアの『運命の力』でアルヴァーロ役を歌ったようなんですが、
その時の評は実に好意的で、メディア評をすべて信じるのは間違っている!という考えの私ですら、
いくらなんでも、CDのサンプルで聴けるような歌唱に、ここまで好意的な評はつけないだろう、、と思えるくらいの内容で、
私は少し混乱してきました。あのCDが不調な時の歌唱なのか、、、?
だが、それなら一層、なぜ、それを音源化する!?私にはわからない!!
謎を探るべく、さらに良くサイトを見ると、いくつかYouTubeの映像へのリンクがあって、
その中に、『カルメン』のホセのアリアがありました。
”どうせカウフマンのホセにはかなわないでしょうけど。”と思いながら聴き始めたこの音源は、
確かに曲全体を通しての表現力では全然カウフマンの比ではありませんが、そう悪くはない出来ですし、
最後のBフラット、これがなかなか聴かせる音で、謎が解明されるどころか、ますますわけがわからなくなりました。
結局私が下した判断は、”よくわからないテノール”。
おそらくは、歌の技術がセキュアじゃないために、歌う度に内容に格差があるタイプの歌手なんではないかと予想するのですが、
焦りは無用。今日の『ノルマ』には、十分すぎるほど、それを確かめる時間があります。

なので、開演前に座席で、プログラムをぱらぱらと眺めつつ、
歌手のプロフィール欄に掲載されたディヴィラローザの、上にあるのと同じ写真を見咎めた連れが発した、
”ところで、このテノールは良さそう?”という質問には、
”当たればラッキー、外れるとまずいことになります。爆弾のようなテノールです。”と答えておきました。



オケは例年通りセント・ルークス。
私たちが座っているところからはオケの全体像が見えないので、
セクションの人数を縮小した編成なのかどうか、確認できなかったのですが、
座っている座席が舞台に近いせいと、おそらくは演奏のスタイルのせいでしょう、
とても音が親密な感じがする演奏で、メトで聴くグランドな感じの演奏とはまた違った味わいがあります。
この作品の序曲はドラマティックでもともと私は大好きなんですが、
メトのシーズンが終わって久々に生でオペラを聴くという喜びとあいまってか、ここですでに胸がいっぱいになってしまいました。

このオケはメト・オケのように猛烈な回数の演奏とリハーサルが年間にあるわけではなくて、
メンバーはおそらくこのオケの仕事だけをしているわけではなくて、掛け持ちの仕事があるからでしょう、
オケの各セクションには結構な数の方(ヴァイオリン・セクションは日本人多し!)の名前がリスト・アップされていて、
ホルンの首席奏者には、メト・オケの首席の名前もあったりして、彼が今日の演奏のメンバーに入っているといいなと思いましたが
(残念ながら、違う方だったようです。)、
これは同じオケでもどのメンバーが演奏するかで、また演奏の内容もかなり違ってくる可能性があるということを示唆していて、
実際、去年『セミラーミデ』で聴いた時よりも、オケの印象が少し違いました。
今年の演奏では弦楽器のセクションと金管はなかなかに良かったと思いますが、
木管が少し足を引っ張っていた部分があったように思います。
旋律が少しもつれている箇所なんかもあって、そのような場面では指揮のウィル・クラッチフォードも苦労してましたが、
全体的には私は彼の設定しているテンポなんか、なかなか好きですし、
猛烈に音楽性が高い、というようなタイプの演奏ではないかもしれませんが、
ベル・カント作品の良さを引き出す指揮をしていると思います。
彼は以前書いた通り、もともとは批評家だったんですが、ベル・カントへの愛が昂じて、
キャラモアのプロジェクトに関わり、指揮までしてしまっているんですね。
でも、これって、すごい度胸と勉強を要することだし、素直にすごいな、と思ってしまいます。
指揮に、そのベル・カントへの思いが溢れていて、自己満足的な突飛な演奏をしたりすることがないのが、
彼の指揮の一番良いところかもしれません。



個々の能力が高くて、去年の『セミラーミデ』では感心させられたキャラモアの合唱陣ですが、
今年は変な新人でも入って来たんでしょうか?
出の合唱から、一人、全体の出来をかき乱しているメンバーが、男声の、テノールのセクションにいる!と、
それが気になって気になって、どのメンバーよ!?と躍起になって探してしまいました。
後の場面でいよいよ、その人物を特定できた時、全く指揮を見て歌っていないため、
(クラッチフォードがかなりぶち切れて彼の方に体を向けて振っているのに、全く介していないのですからいい度胸してます。)
言葉のシラブルが他のメンバーと全くそろっていない様子を目撃したMadokakipが、
手元に弓矢の一本でもあれば今頃は、、と歯軋りしたことは言うまでもありません。
合唱をこれだけ少ない人数で賄っている場合、
たった一人発声のタイミングがあっていないことがどれだけ大きな致命傷となるかという、いい見本です。
彼は、最後の幕でも、指揮者よりも一人立ち位置が前に飛び出ていて、”全く彼は終わってる、、。”と思わされました。
しかし、女声の方は相変わらずまろやかで綺麗な声の、いいメンバーを揃えていますし、
こちらはアンサンブルもしっかりしてます。
メトの合唱も、少しずつ、こういう若手を入れて、声を少し若返らせる必要はあるかもしれません。

オロヴェーゾ役を歌うのは、去年の『セミラーミデ』にも出演していたアンドロイド系のバス・バリトン、ダニエル・モブス。
本来は、この役はバスの、もっと声の深い歌手が歌ったほうがいいと思いますが、
彼の持つ声の範囲内では健闘していたと思います。
ただ、彼の歌はいつも表情に乏しいというか、相変わらず歌の出来そのものは悪くないのに、
全体の印象として可もなく不可もなく、、という路線をひた走っているようです。

そしてフラーヴィオ役のランドリーとポッリオーネ役のディヴィラローザが舞台に現れた時には、
我々、目が釘付けになりましたです。
ランドリーはスキンヘッドで、すごい巨体だし(横に。背は高くない。)、
そしてディヴィラローザは無精ひげで、写真からはまったく予想できませんでしたが、背ちっさ、、。
ローマの将軍とその友人というより、ニュージャージーあたりにたむろっている
さえない下っ端ストリート・ギャングのような風貌なんですけど。
上のプロフィール写真は嘘もいいところ。こりゃもう一挙に中の下~下の上あたりに格下げでしょう!!
連れも幕の後、あまりに写真と違うので、”代役が出てきたのかと思った。”と言っていた位です。

そして肝心な彼の声と歌唱なんですが、
私の”当たればラッキー、外れるとやばい”という予想は外れ、
むしろ、彼の発声に付随している問題を考えれば、落ちるべきところに落ちた、といった方が適切だと思います。
ネットで聴いて推測していた問題に関しては全く予想通りでした。
彼の発声は技術として確固としたものが出来上がっておらず、非常に不安定なので、
もろにコンディションやプレッシャーの影響を受けやすいと見受けます。
技術を確固として持つということは、どんなに悪いコンディションや猛烈なプレッシャーの中でも、
理想の発声を再現する、もしくはそれに出来るだけ近づける、ということを意味するのですが、
彼にはまだ、一級のオペラハウスで歌っていけるほどの確固とした、よるべきものがしっかり出来上がっていないように思います。
なので、例えば今日のポッリオーネ役の歌唱でも、自分が楽に歌える音域ではまあまあな発声なのですが、
(ただ、彼はもともとの声質も、他のテノールにないような際立った特別な個性や美しさがあるわけではない。)
第一幕第一場のアリアの後半”より強い力が Me protegge”で、
最後のabbateroの高音が気になるのか、どんどん発声が不安定になっていって、
その少し前から高音が出始めますが、音がチョークしてしまったり、大変なことになってしまい、
肝心のabbateroは、高音を狙いに行っても音が思ったところに入ってくれなくなったようで、
不思議なオリジナルの旋律でアリアが終わってしまいました。

キャラモアの観客はダイ・ハードなヘッズの集まりであることは去年のレポートでも書きましたが、
このような危うい歌唱への対処もなかなか手馴れたもので、すばやく拍手をして終わり。
ここはメトじゃないんだし、若手を育てることの大切さと何よりオペラを楽しみに来ているんだ、という意識を忘れていないので、
無粋なブーを出す人もいません。

ただ、連れの意見では、そして私も全く同じ意見なのですが、
彼の歌と演技には今日出演していた他の歌手に比べ、ドラマというものがおよそ感じられず、
高音の失敗よりも、そちらの方が痛いということなのですが、
彼の場合、高音の失敗も、そのドラマの欠如も、結局のところ、
しっかりした発声が確立していない、というところに帰っていくのではないかと思います。
スコアはよく勉強してきたように見受けましたが、どんなにイメージとして、
こういう風に歌いたい、というものがあっても、それを実現する手段=自由自在な発声がなかったなら、
それを観客の前に提示することはおそらくは難しいでしょう。

この演目でもう一人大切な人物といえば、いうまでもなくアダルジーザ役。
同役を歌ったのは、ケリ・アルケマという歌手なんですが、
彼女は先シーズンNYCO(ニューヨーク・シティ・オペラ)で歌った『ドン・ジョヴァンニ』の
ドンナ・エルヴィーラ役で非常に高い評価を受けています。



彼女はつい最近、メゾからソプラノに転向したということで、今回の公演のプログラムでは、
一応ソプラノという風に記載されていましたが、うーん、私の感覚では彼女はやっぱりメゾですね。
このブログでも以前から何度か書いていますが、ソプラノとメゾの差というのは、
音域の問題よりもむしろ、声のテクスチャーの問題なんですが、
そうはいっても、ソプラノと名乗るからには、それなりにソプラノのレパートリーで要される高音は出さなきゃいけないわけで、
その割には、彼女はまだちょっと高音の開拓のされ方が十分でないように思います。
もちろん、声のテクスチャーに関しても、私なら彼女はメゾに分類しますが。

二幕でのノルマとの二重唱のラストでユニゾンで挑戦した高音も彼女は最後まで音を伸ばしきれなくなって、
途中で歌うのをやめてしまいました。
眉一つ動かすことなくきちんと最後まで音を一人で延ばしているミード相手に、
”まだ高音では彼女にはかなわないわ。”というお茶目なジェスチャーで切り抜けようとしていましたが、
例えば、メトで、ソプラノが途中高音をあきらめるようなことがあったら(もちろんメゾだってそうなんですが)、
ヘッズに袋に合いますから気をつけてくださいね。

ただし、アルケマの声は非常にリッチでクリーミーで耳に心地よい響きがあり、
彼女が歌うのをやめるまでは、その音はミードの音を掻き消すくらいごっついものがありましたし、
しばらくはきちんと音が出ていて、しかも音程もデッド・オンでしたので、
彼女が高音をきっちりと開拓しきったなら、メゾ的テクスチャーの声を持つ強力なソプラノになる可能性はあります。

しかし、声そのものの魅力もさることながら、彼女が最も優れている点はドラマをきちんと歌に織り込める点です。
一幕のソロの”聖なる森は静まり Sgombra è la sacra selva"では、
若干旋律の取り方、言葉の入れ方がだらだらとして感じられた部分があったのですが、
それ以降は全くそんなことがなかったので、立ち上がり部分特有の問題なのかもしれません。
このソロ以外、重唱が中心で、一人で歌うアリアのようなものは全くない役柄なのにも関わらず、
彼女が非常に強い印象を残したのは、一見何でもない旋律にすら巧みに感情を織り込んで歌っているからで、
アダルジーザに説得力のある歌手を得れるかで、こんなに作品の奥行きに違いが出るものか、と実感します。
彼女はやや大柄ですが舞台プレゼンスが大きく、舞台で映えるルックスなので、
この三角関係に陥ったノルマの妹のような存在という難しい設定も、難なく簡単に信じられるものにしてしまいました。
ローマの将軍さえ、あんなちんちくりんでなく、もうちょっと格好良かったなら、、。
考えてみれば、この公演は演奏会形式で衣装もセットも何もないんですよね。
それでも、これだけドラマを感じさせるというのは、彼女の力だと思います。
またNYで全幕を歌う機会があるようなら、ぜひもう一度聴いてみたい歌手です。

ミードのノルマはこれが全幕通しで歌うのが初めて、ということですが、
総括すれば、とてもそんな風には思えない、素晴らしい出来だったと思います。
映画『The Audition』のエンディングのクレジット・ロールのバックに流れているのも『ノルマ』で、
誰が歌っているかというクレジットがなく、もしかすると、あれもミードなのかな?と思うのですが、
あそこで聴ける少し歌唱的におぼつかない部分というのは、全部、本当に全部、解決されていました。
ベル・カント・レップの素晴らしさと怖さというのは、
それなりに素質のある歌手が歌うという前提はありますが(誰にでも歌えるという類のものでもないので)
たえまなく鍛錬したか、それとも適当にさぼってきたか、というのが如実に出る点で、
今日の公演を聴けば、彼女がどれほど今日まで努力して来たかということが、手にとるようにわかります。



ヘッズの中には(批評の中にすらもそんなものがありましたが)、
彼女をいきなりカラスやカバリエやサザーランドと比べようとする人もいますが、
それはちょっと待ちましょうよ、と思います。
共演したアルケマですら、ミードに比べたらキャリア的にはお姉さんなくらいで、
何といっても、ミードはまだ名の通ったオペラハウスの全幕公演の本キャストとしてランを通して歌ったこともないんですから。
(今までメトで歌ったのは、『エルナーニ』の代役一公演、
『フィガロの結婚』Bキャストの一公演のみ、のたった二回だけ。)
そして忘れてならないのは、ベル・カントは一にも鍛錬、二にも鍛錬、時間がかかる、ということです。
他のレパートリーなら、もしかしたら、もう少しインスタントに結果を出せたとしても、
ベル・カントに絶対に近道はない。
彼女がきちんとしたペースで前進している、それだけでも素晴らしいことだと思います。
いきなりカラスみたいな歌が歌えたら、誰も苦労しませんって。
しかし、今頃から大真面目に彼らの名前と比してミードの歌を批評しようとする人がいること自体、
いかに彼女が優れた逸材かということを物語ってもいるわけですが。



彼女は本当に技術がしっかりしていて、他には特に私が指摘したくなるような不備はないのですが、
たった一つだけ、他の技術の堅固さに比べて意外な感じがするのがトリルで、
以前よりは音が移る早さといい、格段に進歩しているのですが、
本人に相当な苦手意識があるのか、トリルが出てくると音が下がり気味になるのが、
唯一、今後修復を要する大きな課題かもしれません。
一番最初に出てきたトリルは音の高さも完璧で、速さ、イーブンさといい、
申し分ないものでしたから、練習あるのみ!です。

今回の公演に関しては、フィリップ・ゴセット氏がプログラムに文章を寄せていますが、
特に彼が今年の公演での歌手のオーナメンテーションを手伝ったという記述はなく、
その点は、今年はクラッチフォード氏が担当したという風に聞きました。
今回、ミードの力を存分にアピールしたい、という目論見があったのかもしれませんが、
Casta DivaのTempra~以降で相当複雑なオーナメンテーションを投入していて、
ちょっとこれはミードにはtoo muchだったんじゃないかと思います。
彼女は『The Audition』で、”自分の好きな歌手がカラスとカバリエ”で、
二人が得意としていた役だからなのか、ノルマという役に思い入れがある、と語っていましたが、
実際、第一ヴァースの歌を聴くと、音のとり方や呼吸など、非常にカラスの歌い方に似ていて、
相当彼女の音源を聴いて練習したんだろうな、というのが伺えます。
それで歌いなれているからか、クラッチフォードのオーナメンテーションでこてこてになったTempraは非常に歌いにくそうでした。
今は背伸びせず、歌いやすい旋律で歌って、少しずつ難しい装飾を入れていくスタンスでもいいのではないかな、と思います。

連れも指摘していましたが、前半ではややドラマ的にアルケマに押されていた部分もあったり、
(インターミッション中にアルケマの方がいい、、と言い出す連れと
”ミードの方がいい!”と言い張る私の間で軽く日米戦争が勃発しました。)
少し高音がシャローになっている部分もあって、スタミナは大丈夫だろうか、と心配しましたが、
一幕のラストで特大級のつんざくようなハイD(三点二)をミードが決め、
私の斜め前に座っていたおばさまも目ん玉をひんむいて、”あなた、今の聴いた?”という様子で、
横に座っていただんな様の顔を覗き込んでいました。
私が連れに向かって、”ちょっと!今の聴いた?”とやっぱり目ん玉をむいていたことは言うまでもありません。

彼女が登場して来た時にドレスの上に金属のベルトをしていて、
大柄な女性はそんな余計なものつけずにシンプルにするのが一番なのに、、と思っていたら、
演技の小道具であるナイフをひっかけるために必要だったようです。それにしても、、。

彼女はあとこの体格のせいなのか、恋する女性の役を演じるのにまだ照れがあるように見えますが、
これは絶対に克服しなければなりません。
こんなに素晴らしい声と歌唱力は、それに見合った、役になりきる力を必要とするのですから。
後半の彼女の歌唱はすごくドラマティックで、ラストでは私は思わず涙してしまいました。
アルケマ優勢を彼女が後半でひっくり返したかな、と連れも同意せざるを得ない内容でした。
彼女の場合、今でも、作品のドラマのテンションが照れの範囲を突き抜けると、
歌唱の熱さと声の響きまで(さらに良いほうに)変わるので、後は少しずつ、
それを自力で行う(照れを抜く)ことも必要になってくるでしょう。

それにしても、本当になんという才能でしょう。
この高音から低音までイーヴンな響きの声(彼女は低音もしっかりしているのでその点もノルマを歌うのに貢献しています。)、
高音の凛とした美しさ、それからどんな時にも気品を失わないフレージング。
彼女の素晴らしさを再び堪能し、これからの行く末が本当に楽しみになりました。


Angela Meade (Norma)
Keri Alkema (Adalgisa)
Emmanuel di Villarosa (Pollione)
Daniel Mobbs (Oroveso)
Sharin Apostolou (Clotilde)
Brian Landry (Flavio)

Conductor: Will Crutchfield
Orchestra of St. Luke's
Caramoor Festival Chorus

Bel Canto at Caramoor: Caramoor 2010 International Music Festival
BELLINI: NORMA (in concert)

Right Orch Row I
The Venetian Theater at Caramoor estate
Katonah, NY

*** ベッリーニ ノルマ Bellini Norma ***

NORMA (Sat, Jul 10, 2010) 前編

2010-07-10 | メト以外のオペラ
オペラヘッドとは、オペラを愛し、自分が素晴らしいと信じる歌手や公演に関して、
突然とてもおせっかいかつ強引になる人種のこと。

ですから、発売早々こっそりと購入した公演チケットとキャラモア・キャラバンの往復券2セットについて、
”ベル・カント作品は基本あまり好きでない。”と公言する連れに、どうやってカミング・アウトし、
さらにその2セットというのは、彼と私の2セットである、つまり、
彼も今年のキャラモア音楽祭に同行することが仕組まれていることを理解してもらうかが、
ここ一週間ほどの私の課題でした。

一週間かけてじくじくと今年のキャラモア音楽祭でのベル・カント・アット・キャラモアのイベントが
なぜ見逃せないかを語り、彼を洗脳する算段です。
ことあるごとに、”去年のキャラモアの『セミラーミデ』に出演したアンジェラ・ミードが再登場し、素晴らしい演奏になるのは間違いないこと、
彼女はまだメトではアンダーが中心で本格的なキャリアが開ける前の段階にいるので、
こうして全幕を聴ける機会自体がまだ非常に貴重であること、
彼女が先シーズン、一度だけメトで歌った『フィガロの結婚』では、私は彼女ゆえに出待ちまでしてしまったこと、
先シーズンの『アルミーダ』では、彼女がルネ・フレミングのアンダーをつとめていたので、
ランの間中、毎公演、オペラハウスで鑑賞している友人に電話して、
ミードが代役をつとめる告知が出たら、すぐに連絡して欲しい、とお願いしてあったこと、
それなのに、フレミングと来たら、一日も休んでくれなかったこと(まったくのありがた迷惑!)、
西海岸や地方のヘッズの中には、今年のベル・カント・アット・キャラモアに行ける人が羨ましい!と、
羨望の声を上げている人たちがいること、などはもちろん、
しまいには、今回は舞台に近くて、脚も斜めにのばせる通路側の席を準備した、というような細かいどうでもいいことまで列挙し、
最後にとどめの一言。 ”だから、これはもう行くよね?”




”去年の『セミラーミデ』の演奏は確かに素晴らしかったけど、、、”といいつつ、
ベル・カントなあ、、、と、まだ心を決めかねている様子の連れが、
”それで今年の演目は何?”

ああ、これでもう絶対絶命かも。だって、ベル・カントもベル・カント、これ以上の王道はないくらいの、『ノルマ』なんですもの、、、。
”演目はね、『ノルマ』。(←ちょっと小さい声になった。)
確かに物語は馬鹿馬鹿しい。それは私も認めます。
でも、『The Audition』の中で、ミードが、清き女神(Casta Diva)を歌った場面覚えてるでしょ?
(↑ どうやら、すでにこれも強引に見せたらしい、、。)
あれを生で、オケ付きで聴けるんだよ!!!
彼女は『ノルマ』を全幕歌うのは今回が初めてだから、すごい『ノルマ』の誕生を見れるかも知れないんだよ!!
これを見逃していいの?よくないっ!”と一気にまくしたて、
彼が”えええ?『ノルマ』なんかやだ。”という答えた時に備えて、さらに洗脳モードを強めようとしていると、
”ん。わかった。行く。”

あれ、、、?
ちょっと待って。『ノルマ』なんですけど。ベッリーニなんですけど。超ベル・カントなんですけど!!
”いいの?”
”うん。『ノルマ』は好き。”
、、、、。ったく、それを早く言ってちょうだいっての。




NYはこの一週間ほど、連続二日で気温が40度に達したり、極暑のうえの晴れ続き。
それが、天気予報によれば今日はいよいよ夜から久しぶりに雨が降るということです。
確か去年もキャラモアの『セミラーミデ』の日は雨が降っていて、
楽しみにしていた公演前の敷地散策や庭でのピクニックもできなかったし、
暗過ぎてまともな写真もとれなかったので、今年こそは!と思っていたのに、実に残念だわ、、と思いつつ、
今回はなぜか待ち合わせ場所がレキシントン・アベニューに変更になったキャラモア・キャラバンに連れと乗り込む。
おお!!いるわ、いるわ、中にはヘッズがうじゃうじゃと、、、!!
(直前に待ち合わせ場所の連絡が葉書で来たけれども、そんなにUSPS(アメリカの郵便局)を信じていいものなのか、、。
葉書が事故で届かなかった人は、去年と同じ待ち合わせ場所に行って、
あれ?バスがいない、、と戸惑ってしまうことでしょう。
ということで、キャラモア・キャラバンに関しては、
発車時間も発車場所も毎年違っているようなので、念のため、事前に確認をした方が良さそうです。)

去年は金曜の夜の公演だったのですが、今日は土曜ということもあって、道路が比較的空いており、
家畜、、いえ、ヘッズを大量に載せて午後4時にグランド・セントラル駅そばを出発したキャラバンは
すごい勢いで、カトナーにある旧ローゼン邸の瀟洒なゲートに到着しました。
(所要時間は一応マンハッタンから1時間10分の予定でしたが、そんなにかからなかったと思います。)



それにしても、相変わらず平均年齢の高さをものともしないヘッズたちの元気さには唸らされます。
私より少し年齢が上の連れですら、この群れの中では若年層に入っているところも恐ろしいですが、
その彼ですら、3時間弱の公演に備えてキャラバン内では仮眠をとっているというのに、
コアの年齢層(65から70あたり)にあたる我々のすぐ後ろにいるヘッズ・グループの喋り声のにぎやかでノン・ストップなことときたら、
私のiPodから流れるカラスの『ノルマ』の歌声もたじたじ、、っていうか、はっきり言って全然聴こえないんですけどっ!
こんなにしゃべる人たちが、オペラの間、よく3時間も黙っていられるものだと、不思議といえば不思議です。

窓からいやーな感じの黒雲が見えていた時もあったのですが、
この元気いっぱいなヘッズの気合に押されたか、
キャラバンが木立に囲まれたローゼン邸の門をくぐる頃にはいつの間にかすっかり晴れあがっていて、
結局オペラの終演まで天候はそのままで、半野外でオペラを鑑賞するには最高の天候となりました。


(↑ キャラバンを降りた足で、エサを求め、キャラモア特製ピクニック・ボックスのピック・アップ・ポイントを襲撃するヘッズたち。)

キャラバンから放たれたヘッズたちは昨年と同じく、まるで自分が所有するヴィラでもあるかのように、
マイ・スポットに向けて散っていきます。
自宅からサンドイッチだのワインやシャンパンだの、ピクニック・バスケット一式を持参し、
広大な芝生に直行!のヘッズもおれば、
事前にオンラインの予約のみ可な(よっていきなりその場で購入することは出来ない)
キャラモア音楽祭特製のピクニック・ボックスをピック・アップしにテントに向かうヘッズなど、
とりあえず、オペラの前に腹ごなし!なのでした。

私も今年こそはこのキャラモア特製のピクニック・ボックスとやらに挑戦してみたい!と思っていたのですが、
25ドルから40ドル(日本でいうところの松竹梅のようにいくつか違ったコースがある)というのは、
ちょっとキャラモア価格入ってるわね、、(すなわち、中身に比してちょっとお高い)と思っているうちに、
すっかり予約する機会を逸してしまいました。来年こそは。
ただし、敷地内ではこの予約制のピクニック・ボックス以外は、
コーヒーやクッキー、またごく簡易な食べ物しか販売がなく、何も持参しないと食いっぱぐれるので要注意です。


(↑ 開演までピクニック気分を満喫するヘッズたち。)

今回はキャラバンの集合時間そのものが早かったことと、実際の走行時間も短かったこともあり、
開演まで、食事に、敷地散策に、庭でのおしゃべりに、と、ピクニック気分を十分すぎるほど満喫できました。
というか、十分すぎて、早くオペラを見せてくれ~!と、
ゲートが開く前の闘牛場の牛のようになりつつあるヘッズたちです。
怖いです。早くゲートを開けないと血を見るわよ!という感じなのですが、
闘牛場ならぬ、公演会場であるヴェネチアン・シアターは開演の30分前まで入場できません。
というわけで、開場前に近寄れるだけ近寄って撮影したのが下の写真です。
左手に見えているのがステージ。
座席は折りたたみ椅子(長い間座っているとお尻が痛いのなんの、、)なんですが、
ヘッズの自分勝手になりがちなキャラを見事に主催者側が読んでいるのか、
好き勝手な場所に移動できないよう、一脚一脚足のところでプラスチックの留め具により
隣の椅子にがっちりと接続されてしまって、言ってみればつながったソーセージのようになっています。
席を動かしたら、全列もろとも移動してしまうという、、。
さすがにそこまで自分勝手なヘッズは皆無で、終演まで列は綺麗に保たれているのですが、
今、この写真をよく見てみると、前方ブロック最後列が、これ以上下がって来ないよう(通路を挟んで後方ブロックがいるので、、)
重しのようなものを置くという念の入れようですね。
確かにこれがなかったら、下がってくるでしょうね、このけだものたちは。
ヘッズのパーソナリティを本当に良くわかってます、キャラモア音楽祭運営委員会。



後、もう一つ、必ず開演前に行っておかなければならない場所はおトイレです。
昨年のレポートにも書きましたが、どんなに長い作品でもキャラモアのオペラ公演のインターミッションは1回が基本のようで、
かつ、時間が15分ほどしかありません。
結構な数の個室を備えているように見えるトイレですが、
緊急事態に陥ったヘッズ全員をこの短いインターミッションで賄えるほどの数ではなく、
あっという間に長蛇の列になり、時間が来ると容赦なく次の幕が始まりますので、
事態を解消できないまま、座席に戻るヘッズも多数です。
尿意に煩わされながら聴くオペラほど辛く、長い時間はありません。
インターミッションの時間までには日も暮れているので、男性なら最悪の場合、
少し離れた場所に行って、闇夜にまぎれて、、、というオプションもあるかもしれませんが、
(こんな文章を見たらキャラモアのスタッフの方は卒倒するかもしれませんが、
それなら、もう少しトイレの数を増やした方が良いと思います。)
女性の場合(さすがにこの私でも、、)、それは難しいので、開演前に必ず一度トイレ詣でをしておくこと、
それから、尿意が近い方や、なんとなく心理的に、インターミッション毎にトイレに行かないと気が落ち着かない方は、
インターミッションに入ったら、猛ダッシュでトイレに走ること、この二つをおすすめします。
ほとんどのヘッズは足腰弱ったお年寄りなので、座席の列から早く抜けさえ出来れば、余裕で彼らを抜かして一番乗りです。
トイレはヴェネチアン・シアターから少し離れたところにあるうえ、暗がりの中を走らなければならないので、
座席に着く前に、トイレから自分の座席エリアへの最短コースを確認しておくとよいかもしれません。



いよいよ開演30分前になり、闘牛場=ヴェネチアン・シアターのゲートが開くと、
メトのアッシャーのようには仕事慣れしていない、
地元のボランティアと思しき方たちによる素朴な座席案内に伴われて、会場入りです。
今回はミードの『ノルマ』ということで、張り切ってチケット販売開始当日に、
座席が選べるキャラモアのウェブのオンライン予約システムで、
舞台からそう遠くなく(ミードがどのような発声と表情をしているかを近くで見たい)、
かつ、演奏が始まったら、割と大柄な連れが足を伸ばせる、通路よりの座席をゲットして、
理想の座席取りと浮かれ気分で座席まで案内されて、我々は固まりました。
ちょうど、座席から舞台への視界の間に、舞台前にある天井照明を支えるでかい柱がそそり立っているではありませんか!
思わず、”何これ!”という私の叫び声と完全に固まっている連れの様子に、
ボランティアのアッシャーのおば様は、
”Well, it's very close to the stage, that's for sure.(まあ、とても舞台に近い、それだけは間違いありませんわね。)"
とのみ言い置いて、慌てて逃げ去ってしまいました。

この柱は盲点だった、、、。
今改めて見るに、予約システムの座席表のどうやら黒い点が、
照明やテントを支える支柱の場所をあらわしているようなんですが、
それが、どの座席の視界に影響を与えるかはこの表から判断するのは非常に難しく、
この先何度か鑑賞して、経験で学んで行くしかなさそうです。

私の座席はちょうど柱が指揮者を覆い隠すような感じで、歌手は大体問題なく見れたので、
主にミードを聴きに来た私としては、まだ我慢できましたが、
連れの座っている座席からは、ミードを含めた歌手が柱の陰になることが結構あったみたいです。
すまないねえ、、、。

私の写真ではこのローゼン邸の美しさを全くもってうまく捕らえられていないので、
キャラモア音楽祭のオフィシャル・フォトグラファーであるパラシオさんのサイトからの
スライド
をお楽しみください。(音楽付きですので、勤め先でご覧になる方はミュートをお忘れなく!)

(冒頭の写真はノルマ役を歌ったアンジェラ・ミード。ただし、この公演からではありません。)


<公演の内容については後編に続きます。>


Angela Meade (Norma)
Keri Alkema (Adalgisa)
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SEMIRAMIDE (Fri, Jul 31, 2009) 後編

2009-07-31 | メト以外のオペラ
前編より続く>

オケの演奏はオーケストラ・オブ・セント・ルークス。
NYで行われるガラ系の演奏会などでこれまでにも何度かその演奏を聴いたことがありますが、
もともと、キャラモア音楽祭を起源に生まれたオケだそうです。知りませんでした。
2001年から2007年にはラニクルズが首席指揮者を務めていたオケです。

今日の公演ではオケをやや少人数の編成にしていたように見受けたのですが、
プログラムにもそのあたりの説明はありませんでした。
木管楽器やホルンのソロも結構多いので、へなちょこな演奏になるのを覚悟でいたのですが、とんでもない!
歌手陣の熱気に引き摺られたのか、管楽器は安心して聴いていられました。
意外と荒れていたのは弦楽器の方かもしれません。
このオケはヴァイオリンのセクションに日本人の方が結構いらっしゃって、
今日の演奏もコンサート・マスターが日本人の女性の方だったのですが、
彼女が意図している方向に他の奏者が完全にはついていけていないようなもどかしさを、
特に序曲をはじめとする、前半で感じたのと、
ピチカートにも綺麗に入った音とそうでない音の落差が激しく、
セクション全体で少しテクニックにむらがあるのが気になりました。
かと思えば、後半で、歌手の声と呼応するメロディではものすごく色気のある音を出してきたり、
潜在的な力はあると思うのですが、、。

クラッチフィールドの指揮は、ベル・カントのスペシャリストを自認するだけあって、
”こういう風に演奏したい!”というヴィジョンはしっかり持っているように感じました。
指揮は非常にクリーンなんですが、少し学者的な演奏というか、
味わいにかけるところはあるかもしれません。
感傷的なのは嫌いなのか、割と音楽がさくさく流れていく感じです。
この作品に関しては、私はボニング指揮、サザーランド&ホーンのコンビのCDしか持っていないのですが、
ボニングの指揮のグランドに流れがちなのに比べると(まあ、演奏がロンドン響なので仕方がないのですが)、
ベル・カント的な軽さが出ていた点は好感が持てます。

今日の公演のチケットを手配した時には、ミードとジュノーの名前しか目に入っていなかったのか、
それとも実際に当時は名前が出ていなかったのか、ちょっと定かではないのですが、
ボニング盤のCDで予習をしているうちに、イドレーノの役が、出番がそれほど多くない割には、
超絶技巧連発で大変な役だということに気付き、一体、こんなの、誰が歌うんだろう?
力のないテノールが歌ったら、それこそ、崩壊ものだ、と思っていて、
二週間前の『愛の妙薬』でネモリーノをブラウンリーが歌うので、
彼が居残ってこの役も歌ってくれたらいいんだけど、無理かなあ、、と期待半分だったのですが、
公演前日に音楽祭のサイトで、その通り、ブラウンリーが配役されていることに気付き、小躍りしました。
特にCDのボニング盤での、ジョン・サージの歌唱が全くぴんと来ないので、
この役がきちんと歌われたらどういう風になるんだろう?と期待が高まります。

序曲が終わると、まず、オローエのパートから始まるわけですが、
このオローエ役を歌ったディカーソンというバスは、
シカゴのリリック・オペラの研修プログラムで研鑽を積んで来た人のようで、
無難には歌っているのですが、とにかく個性がなくて、この面子の中では完全に埋もれてしまって、
ほとんど印象らしい印象を残せないで終わってしまったように感じます。
声自体にそれほど魅力がないのが、これからのキャリアで命取りにならなければいいのですが、、。

合唱は各パートを足して男女それぞれ12名程度の編成なんですが(なので、各パート6名ずつくらい)、
おそらく、序編でふれた育成プログラムの歌手たちを連れてきていると思われ、
一人一人がしっかりした美声で、実際の人数以上の編成のような錯覚を覚えます。
例えば、アゼーマ役のヒルは、ついさっきまで合唱のエリアに座っていたのに、
いつの間にか舞台の中央でアゼーマを歌っていたりして、
小さい役は合唱とのかけもちになっていたりします。
ちなみに、前述のボニング盤のCDでは、アゼーマは、全員に混じって一言二言しか
歌わない埋没系の脇役ですが、
ゴセット版では、イドレーノに自分が愛しているのはアルサーチェである、と
宣言する部分もあって、それなりに目立つ脇役です。
少しアンダーリハース気味なのか、全幕で合唱に期待するような、
合唱の基本である、個を消して全体に寄与する、という点で今一歩
(言葉がぴったり揃っていない、とか)の面もありましたが、
非常にスリリングで面白い合唱ではありました。

そして、イドレーノ役のブラウンリー。さすがに登場時の落ち着きが他の歌手とは違います。
彼の歌にはフローレスのような緻密さとか繊細さはないのですが、
声の芯が太強くて、歌唱に独特のスリルがあるというか、
ひょい!と公演の熱気を一気にあげてしまうような個性があります。
今日は普通のタキシードなので、あの『チェネレントラ』の時のようなコスプレ的違和感もなく、
歌にしっかりと集中することが出来ました。



彼はルックスがこうなので、まじめな王子系の役は厳しいのではないか?という声を聴きますが、
今日の『セミラーミデ』を聴いたところでは、ブッフォ的レパートリーの王子より、
セリアの王子系の役の方が適性があるように思います。
アルサーチェに思いを寄せるアーゼマを見て嫉妬してしまう部分の表現なども上手いですし。
そういえば、ラミロ王子の時も真摯さが彼の役作りと歌唱のコアな部分を形成していました。
私はイドレーノ役については、
第二幕の”甘美な希望がこの魂を誘惑して La speranza piu soave"を楽しみにしていたのですが、
やや高音が不安定に入りそうになって、少し慌てたか、
前半でやや落ち着かない感じがありましたが、
後半にきちんと元に戻してくる辺り、精神力の強さを感じます。
むしろ、全体としての出来は、そのきらびやかな高音といい、
一幕でのアリアの方が断然出来が良かった。
ボニング盤のCDではカットが多く、この一幕のイドレーノのアリアも省略されているのですが、
これが、どうして全体の登場場面の少なさの割りに、異常に難しいアリアを与えているんだろう?という、
アンバランスな印象に繋がっていたようです。
ゴセット版では、イドレーノの登場場面がCDよりずっと多く、
彼は間違いなく四角の一角(他の三角はセミラーミデ、アルサーチェ、アッスール)を担う大事な準主役で、
ボニング盤のCDだけを聞いていると、この役のポジションを見失います。
ブラウンリーのしっかりした歌唱もあって、ゴセット版でこの役の良さを確認できたのは、
今日の公演の収穫の一つでした。

いよいよ、セミラーミデを歌うアンジェラ・ミードの登場。
もう私は今日は彼女を聴きにきたようなものですから!
映画『The Audition』をご覧になった方なら、あの『ノルマ』の”清らかな女神 Casta Diva"を歌った
大柄なソプラノ、、といえば思い出されることでしょう。



しかし、CDでサザーランドの軽い、上に上っていくような声に耳が慣れていたせいか、
ミードによる、セミラーミデ役の出だしのフレーズを聴いて思ったのは、
”映画を見て予想していたよりは重い声なんだな”ということでした。
正直に言うと、彼女はロッシーニ作品のソプラノではないな、と思います。
絶対的レベルでは非常に優れた装飾歌唱の技術を持ってはいるのですが、
ロッシーニの作品はその中でも、特別かつ特殊な能力を持った歌手を欲し、
それがガランチャをして”私はロッシーニ作品に向いたメゾではない”と言わしめ、
本当の意味でロッシーニ・テノールと呼べるのはフローレスなど、
実に限られた歌手に限られる事実と呼応しています。
ミードの技術は、こと装飾歌唱の技術に関して言うと、それこそ例えばフレミングなんかよりも全然確かなんですが、
それでもまだロッシーニ、こと、このセミラーミデ役には十分ではない、という感を持ちます。
(と、それをいえば、フレミングはメトの2009-10年シーズンに
ロッシーニの『アルミーダ』なんかを歌ってしまいますが、大丈夫なんだろうか、、?と本当に心配になります。)
特に二つの音の間を素早く行ったり来たりする技巧に、
独特のロッシーニ作品に似つかわしくない、ややねちっこい響きが生じるのは気になります。
上昇していくだけ、下降していくだけの音型は非常にピュアな響きで良いのですが、、。

また、サザーランドと違い、今日の彼女はことごとくアリアや重唱での終わりの音を上げずにいて、
セミラーミデ役の最大の聴かせどころの”麗しい光が Bel raggio lusinghier"もそうだったのですが、
では、高音がないかというとそうではなく、同アリアの途中のパッセージで、
びっくりするような超高音をアドリブで入れて、
観客の度肝を抜いていたのでわけがわかりません。
ただ、全体的にやや高音域でキレを欠いていた感もあったので、
少しコンディションが良くなく、ラストで延々と伸ばすような高音は無理だ、との判断があったのかもしれません。

しかし、私はこのあたりのことは全く気にしてません!
というのは、ロッシーニ作品に手を出さなきゃいいだけの話なんですから。
そんなことを越えて嬉しかったのは、やっぱり彼女は稀有の才能を持った歌手だということを確認できた点で、
上で書いたようなロッシーニ作品に特有の技術的にトリッキーな個所を除けば、
言葉の響きの美しさ、表現力、一音一音を考え抜いて歌っている点、など、どこをとっても申し分ありませんし、
ドラマティックな個所での声量も十分です。
いえ、彼女の場合、声量が十分なところがすごいのではなく、
実にその場面場面に適切な音量を出してくる、そのコントロールの上手さがすごいのです。
中でも歌による表現力、これは、今メトで歌っているメジャーなソプラノと比較しても一歩もひけをとるものではなく、
個人的には、重めのベル・カント・レパートリー(『ノルマ』など)から、
軽めの役をのぞいたヴェルディ・ソプラノの諸役で本領を発揮する人ではないかと思います。
彼女の声も歌唱スタイルもキャラクターも『椿姫』のヴィオレッタには全然向いてませんが、
『ドン・カルロ』のエリザベッタ、『仮面舞踏会』のアメーリア、
『アイーダ』のタイトル・ロールなどは射程距離にあると思います。
また、もしかすると、R.シュトラウスの作品なども良いかもしれないな、と思います。
今日の演奏を聴くに、スタミナとパワーもありそうなので。
彼女は、2007-8年シーズンの『エルナーニ』で突然病気に倒れたラドヴァノフスキーに代わって、
エルヴィーラ役を歌いメト・デビューを果たしています。
当ブログを読んで下さっている方の中にも、その公演をご覧になった幸運な方がいらっしゃいますし、
ローカルのオペラヘッドの方たちかも、彼女のこのメト・デビューが
いきなり大舞台に立ったとはとても信じられないほど素晴らしかった、と言う噂を度々聞いておりますが、
演目からして、納得できるものがあります。

日本の上映ではカットされてしまったようですが、『The Audition』の一般公開版には、
フレミング、グラハム、ハンプソンの対談が最後にくっついていて、
まさにその『エルナーニ』でカルロ役を歌っていたハンプソンが、
「当日にいきなりメトから電話があってね、ソンドラ(・ラドヴァノフスキー)が出演できなくなったから、
アンジェラ・ミードっていうソプラノをぶっつけ本番で投入するっていうんだ。
しかも、彼女、全幕でエルヴィーラ役を本番の舞台の上で歌うのは初めてだ、っていうんだよ。
まじかよ、、って思ったよ。それがあの出来でしょう?もうびっくりしたも何も、、。」と語っていたのを思い出します。
2009-10年シーズンのメトでは、一日だけ『フィガロの結婚』の伯爵夫人を歌うそうです。
12/4の公演で、ルイージの指揮、デ・ニース、レナード、テジエ、ピサローニらとの共演です。
彼女のモーツァルトというのはちょっと想像がつかないのですが、これは観に行かねばなりません。
同じ『The Audition』出身のシュレーダーがこの二年、ほとんど歌に成長の後が観られないのに対し、
彼女は着々と伸びているようで、明暗を分けた感があります。

彼女はAVA(Academy of Vocal Arts)の出身なんですが、そのAVAのプロジェクトで
『ルチア』を歌ったときの映像がYou Tubeにあがっていましたのでご紹介しておきます。
ルチア役も彼女の声に比して軽い役なので、あまり向いた役だとは思わないのですが、
声や歌唱スタイルの雰囲気は伝わるかと思います。
なんと、エドガルド役を歌っているのは『The Audition』の曲者キャラ、ファビアーノ君です。
二人は同級生だったんですね。




私は今日の公演では、ミードの歌が、もっとも音楽性があると感じたのですが、
一般に注目を集めていたのはアルサーチェ役のヴィヴィカ・ジュノーの方かもしれません。




彼女は発声の仕方によるものか、”うにょ~っ”というような独特の音が声に入り、
母音の音が変わるほどに感じられるのが、好き嫌いの分かれ目になるかもしれません。
アルサーチェが手紙を読むシーンでは綺麗な発音でしたので、ディクションの問題ではないと思います。

しかし、彼女の横隔膜と口の使い方はすごくアクロバティックで唖然とさせられます。
というか、ちょっとすごすぎて、オペラを聴いているというよりは、
曲芸師の技を見ているような気がしてくるほどです。
一幕の”やっとバビロニアに着いた Eccomi alfine in Babilonia”の
彼女の歌で公演に本気で火が着いた感もあり、この曲での彼女のワイルドな歌唱は
会場全体が大喝采になりました。
二幕のクライマックスでも、表現力がありますし、悪くはないのですが、
私には歌がアクロバティックな割に、感情への訴えかけ方がややコンパクトに感じるという点で、
もう一つ、突き抜けて欲しい感がなくはありません。
ただ、すごく温かそうな感じの人で、経験不足ゆえに緊張するミードらを
一生懸命盛り立てているのが印象的でした。
アルサーチェという男性に扮するため、身につけた茶のコートのような上着に
前横の髪をひっつめにしたヘア・スタイルも素敵で、歌だけでなく、
全体として役の雰囲気を掴むのが上手い人だと思います。
ホーンみたいな重量級の歌ではありませんが、これはこれで魅力的な(そして多分原作の雰囲気にはより近い)
美少年風の軽めのアルサーチェです。

しかし、今日の聴衆は、ある意味、メトの観客より数段怖い。
ものすごく的確にBravo/a/iの相の手の入れ方や拍手の仕方で、
どのような感想を歌に対して持ったかというのを表現しているのです。
ここには、英語で言うb/s(ブルシット=くだらない、意味のない言葉や行為。)は
一切なく、アラーニャだから、ネトレプコだから、というそれだけで喝采してくれるような
観客は一人もいません。歌がすべて。
しかも、客席にはオペラの関係者なども多いですから、出演する側にとっては、
針のむしろのような舞台に違いありません。
その代わり、本当に素晴らしいと思ったら、それもきちんと伝えてくれる。
(ただし、拍手は割と短く、熱狂的ですが、だらだら打ち続ける、ということはありません。
舞台終了後の拍手の長さも実にあっさりしたものです。)
これは歌手にとってもきっとすごくやりがいのあることでしょう。
ジュノーが観客の喝采に心から嬉しそうにしていたのは、
このあたりをきちんと感じ取っていたからではないかと思います。

最後になりましたが重要なアッスール役のダニエル・モブス。
彼に関しては名前といい、このアンドロイドのような表情や体の動きといい、どこかで見た事があるような、、
と思っていたのですが、思い出しました。OONYのガラでした!
そのガラの時も思ったのですが、彼の歌は悪くはないのです。
(ただし、ロッシーニはやはりちょっと手に負えていない部分もあるのか、
一幕すぐの立ち上がりで、速い下降するパッセージでことごとくラストの音をすっ飛ばしていたのは気になりました。)
だけれども、彼の性格、これは何とかせねばなりません。
自信がなさすぎるんですよね。歌の内容のわりに自信満々過ぎるのも鼻持ちならないですが、
歌の割に自信がなさすぎる、これはオペラの世界では致命傷だと思います。
今日の公演は共演者の力もあって、すごく熱い公演になって、
それにのせられた形で、第二幕の四場以降、なかなかの歌唱を披露していたのですが、
前半の歌唱を聴くに、自分でそのレベルに持っていけないのが、
彼の最大の泣き所だと思います。
歌手として頭一つ抜き出るには、どんな場面でも自分が率先して
歌で公演を熱く出来るようなスピリットを持っていなくてはなりません。
その意味ではジュノーを見習ってほしいものです。

演奏会形式とはいえ、これほど充実した『セミラーミデ』を鑑賞できるとは。
さすがのヘッズたちも、お腹満杯になったか、帰りのバスでは爆睡する人続出でした。
まあ、終了したのが12時過ぎ、8時から、20分のインターミッションを除いて
(トイレの混み具合が尋常でなく、結局時間内に用を済ませられなかった人もいるのではないかと思います。)
ずーっと、テンションの高いロッシーニ節を聴きっぱなしだったので無理もありません。
15分で”ロッシーニは同じに聴こえる”という連れが全幕覚醒したままで、
最後には”すごい歌だったなあ、、”と呟いた位なのですから。

バスからマンハッタンの路上に放り出されたのは深夜の一時半。
(ものすごい車の量で、バスがキャラモアの敷地の外に出るまでにこれまた難儀でしたが、
一旦インターステートにのってしまえば、時間帯が時間帯なので、あっという間に
マンハッタンに着きました。)
オペラヘッドにはたまらない、わくわく感の詰まった玉手箱のような一日でした。大満足!

(冒頭の写真は左からブラウンリー、ジュノー、指揮のクラッチフィールド、ミード、モブス、ディカーソン。)

Angela Meade (Semiramide)
Vivica Genaux (Arsace)
Lawrence Brownlee (Idreno)
Daniel Mobbs (Assur)
Christopher Dickerson (Oroe)
Heather Hill (Azema)
John-Andrew Fernadez (Mitrane)
Djore Nance (The Ghost of Nino)
Conductor: Will Crutchfield
Orchestra of St. Luke's
Caramoor Festival Chorus

Bel Canto at Caramoor: Caramoor 2009 International Music Festival
ROSSINI: SEMIRAMIDE (in concert)
Critical edition by Philip Gossett

Center Orch Row T
Venetian Theater at Caramoor estate
Katonah, NY

** ロッシーニ セミラーミデ Rossini Semiramide **

SEMIRAMIDE (Fri, Jul 31, 2009) 前編

2009-07-31 | メト以外のオペラ
夕方四時過ぎ、グランド・セントラル駅ヴァンダービルト・アヴェニュー側出口。
未明から続き、今やますます激しくなった雨をものともせず、うようよと姿を現わし始めたオペラヘッド。
そう、今日は待ち焦がれたキャラモア音楽祭の『セミラーミデ』の上演日で、
マンハッタンから音楽祭会場への送迎バスが、ここから4時半に出発するのです。

今日はモントリオールで『ルチア』を見損ねた連れと一緒に鑑賞。
実は彼はベル・カント作品のような歌への比重が大きい作品よりは、
ヴェルディやワーグナーらの作品のようなオケへの比重が比較的高い作品の方が好きで、
『神々の黄昏』なら平気で何時間も座っていられる人ですが、
ロッシーニはものの15分もすると、全部同じに聴こえる、、と言い出します。
モントリオール旅行中も強制予習として、車の中でこの『セミラーミデ』のCDをかけていましたが、
1枚目のディスクが終わる頃にはぐったり、といった風で、
ちなみにディスクは2枚でなく、3枚あるんですが、、と打ち明けると呆然としていました。
そう、ロッシーニの他作品の例に漏れず、『セミラーミデ』も上映時間が長い!
今日の演奏予定は夜8時に開演して第一幕が1時間53分(分単位とは細かい!)、
20分の休憩を挟み、第二幕が1時間半と、休憩時間が一回しかないせいもあって、
各幕が結構ボリュームのある構成になってしまっていて、
それでも閉演時間は夜の12時あたりになってしまう有様です。

バスは開演時間の約2時間前に会場に到着するので、
芝生で持ち寄ったお弁当などを開いて、ピクニック気分を味わう、という楽しみもあったわけですが、
それもこの天候ではすっかり機会を奪われてしまい、オペラを楽しむことだけが唯一の楽しみとなりそうです。
相も変わらず高齢者が多数をしめ(私が最年少のグループに入っているところがいかにもおそろしい!)、
バスのタラップを上るのもやっと、という足取りも危なっかしいヘッズがポンチョに身をくるみ、
弁当が入っていると思われる大きなバッグを抱えてバスに乗りこまん、と我勝ちに争う様に、
”あんな年齢でこの天気の中をバスに乗ってまでオペラを観に行くとは、まさにオペきちだ、、”とたじたじの連れです。

バスはマイクロ・バスなんかではなく、いわゆる修学旅行に使われるような大型バス。
3台のバスにぎっちり押し込まれたヘッズたち、、
ここにいるヘッズたちが過去に観たオペラの公演を総計したらどんな数とバラエティになるだろうか?と
つい考えてしまう壮観な眺めです。
(ちなみに、キャラモア・キャラバンと呼ばれるこのバスによる
マンハッタンからの送迎サービスは往復26ドルで、当日までにソールド・アウトになっていました。)

バスが向かうのは、マンハッタンから40マイル北に位置する、
カトナー(トにアクセントがあるので、実際の発音はカトーナーに近いですが)という、
NY州ウェスト・チェスター郡にあるハムレット(村よりも小さい居住地単位)で、
キャラモアというのは、そのカトナーにある、ローゼン夫妻が所有かつ居住していた敷地全体の名称です。
村よりも小さい、といってあなどることなかれ。
というのは、このカトナーは、2008年現在、NY州中、家の売買において、
もっとも高額な市場を誇る土地で、こじんまりとしながらも入り込んだとたん、
その裕福さを肌で感じるような場所なのです。

渋滞がなければ車で1時間かかるかかからないか、といったロケーションなんですが、
金曜の夕方というのはラッシュアワーとウィークエンド用のセカンド・ハウスに向かう人たちの群れで
道路は異常な込み合いを見せます。
結局到着には2時間もかかり、開演前にすでに一苦労、という感じなのですが、
バスの中のヘッズたちは慣れたもので、思い思いに新聞や本を読んだり、
iPodなどで音楽を聴いたり(おそらく『セミラーミデ』の予習と思われる)、
お友達とおしゃべりする人、すでに待ちきれずに食べ物を広げる人、居眠りする人等々、
みなさん、くつろぎっぱなしです。

雨足が猛烈に強まる中、広大な敷地つきのカトナーの家々が現れ、
やがて、こんな大型バスでつっこんで行っていいんですか?とびっくり仰天の瀟洒な門を抜け、
林のような木立に囲まれたドライブウェイを通り抜けると、
今日の会場となるヴェネチアン・シアターをはじめとする建物が現れました。
すでに、門のところから、キャラモアの敷地だったようです。
これが個人の邸宅の敷地?!と思うほど広大で、
無料の駐車場あり、と、音楽祭のサイトに記述があったのですが、
確かに何台入っても大丈夫そうな広さです。
林のような木々の多さと芝生の緑が美しい、よく手入れのされたお庭があって、
天候が良ければここで弁当を広げられたのに、、と残念至極。

バスから下ろされて放し飼い状態になったヘッズたちは、
まるで自分の家ででもあるかのように、勝手知ったる、、という趣で、
傘を広げ、おもいおもいの場所に散って行きます。

庭にはテントがいくつか張られ、軽食や飲み物などの購入も可能となっています。
公演日の数日前までに予約すると、音楽祭側がピクニック用の食事を
ボックスに入れて準備をしておいてくれるサービスもあって、
そのピックアップもこのテントの中の一つで行われます。




キャラモアの敷地内のメインの建物は、ローゼン夫妻が実際に居住していた
ローゼン・ハウスと呼ばれる地中海スタイルで建てられたヴィラ。



このヴィラの中にも、スパニアード・ガーデンと呼ばれる中庭があり、
オペラの全幕演奏はすべてベネチアン・シアターで行われるのですが、
このスパニアード・ガーデンでも、歌とピアノの小規模なリサイタルなどが行われるようです。
雨のせいで、ヘッズが食事場所に選んだのはこのスパニアード・ガーデンを望むヴィラのスペースで、
係員の方が、”本来は演奏と鑑賞用のスペースなんですが、、、”と言ったようにも聞えましたが、
ヘッズたちは”雨だから他に食事する場所がないでしょうが。”といつもの強引さで突破し、
一瞬にして、我が物顔でヴィラを食堂化するのでした。
(手前に見える白い箱が、音楽祭側で用意されたピクニック・バスケット。)



冬にも使用できるようにとの配慮から暖炉も据えつけられたこのスペースで、
準備されたピクニック・バスケットやら、持参した食べ物やワインを広げ、
あちこちから、”ボクがわからないのは、なぜアルサーチェ(セミラーミデの中の登場人物)が、、云々”とか、
”私が観たアンダーソンのセミラーミデは、、”
といったオペラに関する議論を繰り広げるヘッズたち。
ああ、オペラ天国、、、



キャラモア音楽祭は、ローゼン夫妻が個人的なお客さまをもてなすなかで開いた音楽会の延長として、
1945年に始められたもので、今は故人となられたお二人に代わり、
キャラモア・ファンデーションという協会が運営を行っています。
クラシックからジャズまでをカバーしていますが、
特にオペラに関しては、1992年、ベル・カント・アット・キャラモアと名づけたプロジェクトを打ち出し、
積極的にベル・カント・レパートリーの演奏を行っています。
ただ、今年2009年は『セミラーミデ』と『愛の妙薬』という、こてこてベル・カントのカップリングですが、
一般的には、もう少しベル・カントを広義の意味で捉えているようで、
ヴェルディらの作品が取り上げられることもあります。

同音楽祭のオペラ部門の監督でもあり、今日の『セミラーミデ』(というより、
どの演目も、といった方が良いかもしれませんが)の指揮も行うウィル・クラッチフィールドは
かつてNYタイムズで音楽批評を担当していたこともある自称”ベル・カントのスペシャリスト”。
彼が企画の中心となっているベル・カント・アット・キャラモアは、
若手歌手の育成プログラムも含まれていて、例えば、今日の『セミラーミデ』も、
ジュノー、ブラウンリー、ミードといったすでにメトに登場済みの歌手を主役、準主役に据え、
育成プログラムからの歌手を脇の役に採用する、という方式をとっています。
ベル・カント・アット・キャラモアは、例年、メトからも注目される存在となっており、
今年のプログラム・ブックにメトのアーティスティック部門のアシスタント・マネージャーである、
サラ・ビリングハーストが寄せた文面の中に、
キャラモアで歌声を聴いてメトの舞台に採用した歌手がいることが明かされています。

食事を終えた頃、開演を知らせる鐘の音が鳴り、
いつの間にか、さっきまで大降りだった雨がやんでいました。

先述の通り、オペラの全幕公演はヴェネチアン・シアターという、半野外の劇場で上演されます。
冒頭の写真は過去の音楽祭の上演時のもので、ハドソン・バレー・ボイジャーのサイトからお借りしました。
下の写真は今年のオープニング・イヴニングのもの(NYソーシャル・ダイアリーのサイトから)で、
客席のスペースにダイニング・テーブルを入れてます。
この提灯のような飾り付けももちろんオペラの公演時にはありませんが、
会場設定の雰囲気は伝わるかと思います。




収容人数は2000人弱ほどと思われるこの劇場は、
平土間オンリーのスペースで、支柱の上にサーカスの時のような大きなテントを張っているのですが、
閉じられた空間ではなく、すべてすぐ外の庭の部分とつながったオープン・スペースになっています。
閉じられた空間ではないので、ホールのような音響の良さを求めることは出来ませんが、
床に木を使用し、音響効果用のブロックを積むなど、いろいろ工夫されている成果もあってか、
半野外であることを思えば、悪くはない音響です。
テントによって雨はしのげるので、どんな天候でも上演はされることになっていますが、
猛烈な雨がテントに降った場合、屋根でどのような音がするのか、は今回雨が止んでしまったため、
確認できませんでした。
ベネチアン・シアターに向かう小道には植物がぎっしり植わっていて、
雨がやんだ直ぐ後で、濃厚な植物の匂いがたっているせいもあって、
まるでチキ・ルームに向かっているような錯覚を覚えます。
見るのはファイヤー・ダンスではなく、オペラであることを一瞬忘れそうになりました。

劇場ではローカルのボランティアの方々と思しき若者やらおばさまらがスタッフとなって
席の案内等として立ち働いていて、素朴な案内振りがいい感じ。

後ろの方の座席を除き、チケットの売れ行きも好調だったようですが、
それにしても、この天候の中、ほとんどの客がきちんと鑑賞に来ているのがすごいと言えばすごいです。
NYのヘッズの間では知らぬものがいない有名オペラブログの管理人の姿やらも見られ、
とにかくヘッズ率の高さが尋常じゃない。
メトに来ている猛烈なオペラファンだけを凝縮したような客層で、
この濃さはとても筆舌に尽くせません。

ちなみにチケットは、我々が座った平土間(って全部平土間ですが、、)センター席が
最も高価な座席で、それでも86ドル。

キャラモア音楽祭で上演されるオペラは、セミ・ステージ形式と表示されている情報を
ネットなどで見かけるのですが、今日の上演は私なら演奏会形式に分類します。
衣装は歌手の自前の衣装で、セットらしいものは何一つなく、
エキゾチックな宮殿の柱模様をあしらった背景のライティングの色が変わるだけなので、、。
(上のオープニング・イヴニングの写真と全く同じ背景を使用しています。)
歌手同士が実際に触れあうような演技もほとんどありません。
実際に昔はセミ・ステージのものもあったのか、それとも今日のような上演をセミに分類しているのか、
はよくわかりません。
ただ、セミにしろ、演奏会形式にしろ、大掛かりな舞台セットや衣装がなく、
合唱もおそらく若手育成プログラムの歌手たちを寄せ集めたものとなっているため
(ややリハーサル不足気味ではありましたが、一人一人はとてもいい声をした実力者ぞろい。)、
コストが節約され、比較的良心的なチケット価格設定になっているのだと思われます。

また演奏開始後は、日本の字幕方式と同じように、
舞台の天井に吊り下がったスクリーンに英語訳が表示される方法が採用されています。

今回演奏に使用された版は、配布されたプログラムによると、
フィリップ・ゴセットによるクリティカル・エディションとなっています。
ゴセットは19世紀のイタリア・オペラ(特にロッシーニとヴェルディ)の研究で知られる音楽史研究家で、
現在はシカゴ大で教鞭をとっておられます。
ちなみに、シカゴ大のサイトによると、1990年にメトで初演された『セミラーミデ』は
ゴセットとアルベルト・ゼッダとの連名のクリティカル・エディションとなっていて、
これは、レラ・クベルリのセミラーミデとマリリン・ホーンのアルサーチェ、
それにレイミーが加わったキャストでの公演(指揮はコンロン)のことを指していると思われます。
その後、セミラーミデ役がジューン・アンダーソンに入れ替わった公演が映像商品化されていた時期がありましたが、
私は残念ながらその映像を見た事がないので、今回のゴセット版というのが、
そのメトで公演されたものと全く同じか、さらに手直しが入ったものなのかはよくわかりません。
ゴセット氏が書いた”Divas and Scholars"という本(一部ネットで閲覧が可能です)には、
『セミラーミデ』のクリティカル・エディションの作業にあたっての苦労話が披露されています。
大変だったのはオケやバンダのパートの部分で、オケとのリハーサルではじめて、
以前から使用されている楽譜に、弦の部分だけ明らかに間違って音を低く記載している個所があることがわかったりして、
いきなりピットに入って通しのリハーサルに近いものしか行わないメト・オケを相手に
こういった作業で時間がどんどんとられるのがいかにフラストレーションのたまる作業だったかが語られています。
ただ、メト・オケの場合、通しに近いリハしか行わないのは、あらゆるレパートリーにあてはまるわけではなく、
(ゲルギエフが指揮したメトの『オネーギン』のDVDのボーナス映像を見ると、
細かいオケとのリハーサルが行われているのがわかります。)
これは、一般にロッシーニ作品のオケは簡単に演奏できるものが多い、という間違った認識のもとに、
ミニマムなオケ用リハーサルのスケジュールしか組まなかったメトが悪い!とゴセット氏は同書で吠えています。
後、余談になりますが、このゴセット氏というのは、2008-9年シーズンの『ルチア』の狂乱の場で、
ネトレプコ仕様のカデンツァを作ってあげた、あのゴセット氏と同一人物です。

その後、1992-3年シーズンには、マリンの指揮で、
ヴェイディンガーのセミラーミデ、スカルキのアルサーチェ、
ロパルドのイドレーノ、トゥマニヤン(アライモとのダブル・キャスト)のアッスールで再上演されたようですが、
それ以降について、ネットでは資料が見つからず、
私の記憶では、メトの舞台には現在の2009年まで一度も再演されていないのではないかと思います。
(どなたかご存知の方がいらっしゃればご指摘お願いします。)

いずれにせよ、何を言いたいかというと、この『セミラーミデ』は、
特にセミラーミデ、アルサーチェ、イドレーノに強靭なロッシーニ歌唱のテクニックをもった歌手を必要とし、
さらにアッスール役にも表現力のある歌手が求められるなど、
力のある歌手を呼べる大歌劇場ですら、そう頻繁に舞台にかけることが出来ない難作である、ということなのです。
今日の公演が、ひどい天候にもかかわらず熱気を帯びているのは、
この滅多に聴くことが出来ない作品を体験できる!というヘッズの期待と昂揚感のせいでもあるのです。

『セミラーミデ』はもっと作品自体が知られれば、すごく評価があがる作品だと思います。
(というか、評価はすでに高いのかもしれませんが、
上演するのが難しい、という同じ問題に帰ってきてしまい、
ポピュラリティのなさにつながっています。)
興味深いのは、ヴェルディの諸作品にこの作品の影響が感じられる点で、
もちろん、ヴェルディは特に初期~中期の作品ではそこここにベル・カント・レパートリーの匂いをさせているのですが、
個人的に面白く感じるのは、その影響がヴェルディの中期~後期の作品に及んでいて、
むしろ、そちらの方で顕著に感じるほどである、という点です。

オペラのあらすじはWikipediaなどにあがっていますので、あえてここでは繰り返しませんが、
アッスールが王の亡霊を見て錯乱するあたりは『マクベス』、
序曲の後、すぐに荘厳な神殿のシーンに入るあたりは『アイーダ』、
死んだはずのニーノ王の声が轟く場面は『ドン・カルロ』の霊廟の場面とラストに現れる修道士/先帝など
その例はいろいろあげられ、
そして、何より、合唱が全編を通して非常に大事な役を請け負っているのは、
ヴェルディのトレード・マークと言ってもいい合唱場面の素晴らしさにつながっています。
作品を聴くと、ロッシーニが『セミラーミデ』の合唱で成し遂げている効果が、
ヴェルディの作品群のそれと非常に似通っている点も興味をひきます。
ということで、今まであまりヴェルディとロッシーニを強く結びつけて考えたことがなかったのですが、
イタリア・オペラを確立したヴェルディといえ、長いオペラの歴史の延長線上に存在している人なんだな、
と強く再確認できる、という点で、この『セミラーミデ』という作品はとても面白いです。

なお、日本版Wikipediaの同作のあらすじでは、
エンディングでアルサーチェが復讐として討つのはセミラーミデである、となっていますが、
これはゴセット=ゼッダ版(つまりメトで初演された版)に基づいたもので、
CDのボニング盤(メトの公演の前に録音された)では、セミラーミデではなくアッスールが殺されて幕、となっており、
二つの違ったエンディングがあります。
最後にアルサーチェの即位を喜ぶ人々の合唱(これはいずれのエンディングにも含まれている)が入るので、
場面のつながりからいうと、アッスールが殺される方が自然に流れるのですが、
物語的にはセミラーミデが殺された方が劇的で、どちらが良いかという判断は難しいところです。
今日のキャラモアでの『セミラーミデ』は、もちろん、ゴセットの版ですので、
セミラーミデが殺されるエンディングになっています。

後編に続く>


Angela Meade (Semiramide)
Vivica Genaux (Arsace)
Lawrence Brownlee (Idreno)
Daniel Mobbs (Assur)
Christopher Dickerson (Oroe)
Heather Hill (Azema)
John-Andrew Fernadez (Mitrane)
Djore Nance (The Ghost of Nino)
Conductor: Will Crutchfield
Orchestra of St. Luke's
Caramoor Festival Chorus

Bel Canto at Caramoor: Caramoor 2009 International Music Festival
ROSSINI: SEMIRAMIDE (in concert)
Critical edition by Philip Gossett

Center Orch Row T
Venetian Theater at Caramoor estate
Katonah, NY

** ロッシーニ セミラーミデ Rossini Semiramide **

LUCIA DI LAMMERMOOR (Sat, May 23, 2009) 後編

2009-05-23 | メト以外のオペラ
前編より続く>

追記:前編に参考の音源と映像(コステロとグティエレス)を加えました!
追々記:コステロに彼に合った歌唱を思い出してもらうため、『スターバト・マーテル』の抜粋も同じく前編にupしました。

座席に着席してまず違和感があるのが、緞帳にプロジェクターで投影されているBellの大きな文字。
このBellというのはどうやらBell Canadaという、
カナダで最大の電話通信会社(日本のNTTみたいな感じと思われます。)なんですが、
いくら大手のスポンサーといえ、民営の会社のロゴがオペラの公演の緞帳に写されているというのは、
非常に違和感があります。
メトも民営の会社から多額の寄付金を受けていますし、プレイビルやイヤーブックには
それらの会社の広告が入っていることがありますが、緞帳に彼らのロゴが写されることは決してありません。
(メトに関しては同額位の寄付をしている会社があまりに多いので、
こんなことをしたら誰のロゴを写すかでもめて大変なことになってしまうでしょうが、、。)
最近ではアメリカの野球のチームなど、
ホームのスタジアムにスポンサーの名前を冠することが普通になっていますが、
なんだかそれに通じる商業主義を感じます。

それからさらにびっくりしたのは、オケがチューニングを始めた頃に舞台を見ると、
なぜか下手に演壇のようなものが設定されていること。
メトではチューニングが始まる頃に、例のシャンデリアがするすると天井に上がって劇場内が暗転し、
”ああ、いよいよ公演が始まる!”とわくわくしながら指揮者の登場を待つ、、、
これが鑑賞の時間の中でも最高に素敵な瞬間の一つなんですが、
なぜか、ここモントリオールでは、チューニングの音が消えると、
”あんた、誰よ?”と思わず聞きたくなる、カンパニーの関係者と思われる男性がおもむろに演壇に立ち、
”今日はお越し頂きありがとうございます。”に始まり、軽く『ルチア』という演目の位置づけを
語ったりしているのです。最初はフランス語で、そして続いて英語で。
彼が語り終わると彼の部下なんでしょうか?二人の男性が演壇をかついで舞台袖に消えていきました。
もちろん、チューニングで盛り上がっていた私の心はこの間抜けな一連のプロセスによって、すっかり腰砕け。
スティーブン・ホワイトという、ホロストフスキーばりの銀髪の指揮者が現れても、
いつものような興奮状態に自分を持っていくことが難しかったです。

しかし、幕が開いて再び心が昂揚しました。
前編に続き、何度も貶めて申し訳ないのですが、メトという、
大道具の豪華さと、デザインを実際に形にするエグセキューション能力では
現在間違いなく世界のトップを走っている歌劇場に普段から甘やかされているせいもあって、
モントリオールの舞台セットなんて猛烈にしょぼく見えるんだろうなあ、、と覚悟していたのですが、
これが大間違い。
ヘンリー・バードンがダラス・オペラのためにデザインしたものをそっくり拝借してきたそうで、
いまどき珍しいほど古典的なセットなんですが、ベル・カントのレパートリー、
特にこの『ルチア』のような作品は、歌手陣に力があるという条件付きで、
私はこのような演出の方が好きなのです。
一昔前の世代の舞台セット、という感じで、
特別に唸るような工夫もギミックも何もありませんが、色彩の美しさと、
それから、舞台のアクセントになっている巨大な柱の使いまわし方の上手さ
(最初の泉のシーンでは、屋外に、その後のシーンでは同じ柱が館の中の柱となる、など。)で、
メトのように各幕毎に舞台を大きく組み立てなおす資金も人材もない制限の中で
最大限の工夫がされています。
衣装も変な遊びがなく、オーソドックスで安心して見れます。



この感想を書き始めたのと丁度時期を一にして、
私が観たのと同日の公演について、モントリオール・ローカルのガゼット紙(The Gazette)の
アーサー・カプテイニス氏が書いた批評が上がっているのを見つけました。
公演全体に対しては好意的である、という点では共通するのですが、
個々のポイントで、私の意見と彼の意見が全く違うのが”同じ公演を観てるのに、、”と、
逆に面白く、今回はそのカプテイニス氏の評と並行する形で感想を書いてみたいと思います。

このカプテイニス氏、なかなか正直な点に好感が持て、批評の一番最初に、
ものすごく昔の前のことですが、と言い訳した上で、
”自分の名前のもとにこれまで世に出た文章のうちで最大に愚かだったのは、
『ルチア』のことを、ヴェルディ、ワーグナー、モーツァルト、シュトラウス作品を愛聴する
耳の肥えたオペラファンにはほとんど何の利益もない、カナリヤ(技巧だけに富んだ歌手たち)のための作品、
と貶めてしまったことである。”

、、あんた、そんなこと公衆に向けて言っちゃったんですか(笑)。批評家失格!!

でも彼はカミング・アウトしてその恥ずかしむべき事実と、後になってそれが間違いだったと気付いた、
ということをきちんと認めているだけ、えらいです。
正直、特にクラおた寄りのオペラ・ファンや、もしかすると一部の批評家も、
まだ昔の彼と同じように思っている人が実はたくさんいるんではないか?と思っている私です。
ベル・カント・レパートリーがなかなか正当な評価を勝ち取れ得ないというのはいかにも残念なことです。

で、さらに言ってしまうと、このカプテイニス氏は間違いを訂正したところまではいいんですが、
しかし、このルチアに求められる歌唱というのが本当には理解できていないのではないかな?
というのが私の感想です。
というのも、彼はこの公演では、一番非力だったのがルチア役を歌ったグティエレスと感じているらしく、
”タイトル・ロールに弱いソプラノが入っていても、素晴らしいルチアの公演は可能か?”という問題を提起し、
今回の公演に基づき答えをYesとする、そんな文章を書いているのです。嗚呼。



まず彼がしょっぱなに褒めているのが、例の銀髪のアメリカ人指揮者、スティーブン・ホワイトが率いるオケ。
冗談きつい。
このホワイトという指揮者は主にアメリカの地方都市のオペラ公演などを振って来ているようですが、
2008-9年シーズンに、『夢遊病の女』のカバーの指揮者として、初めてメトに採用されています。
(ちなみに表の指揮者はピドでした。)
彼のオフィシャル・サイトには、これまでの公演のレビューの抜粋が掲載されていますが、
もちろん、好意的なものしか採用していないわけで、
その好意的な評によると、彼の指揮振りは、ベル・カント・レパートリーの熱さを巧みに表現し、云々、
みたいなことになっているのですが、私は逆にそここそが最も彼の指揮で苦手に感じた部分で、
ものすごくテンポを熱く煽るんですが、オケがついていけていない。



演奏しているのはオーケストル・メトロポリタン・ドゥ・グラン・モントリオールというオケで、
このオケの首席指揮者であるヤニック・ネゼ=セギャンという超若手指揮者は、
昨年のザルツブルク音楽祭の『ロミオとジュリエット』を指揮した今ちょっとした話題の人で、
彼は2009-10年シーズン、ゲオルギューが出演する『カルメン』でメト・デビューすることが決まっています。
彼は他にもロッテルダム響やロンドン・フィルの指揮もしているのですが、
私は『ロミオ~』も含め未聴なので、彼の実力がどんなものかは来るメト・シーズンで確認するしかありません。
そんなわけで、ネゼ=セギャンがどれほど実力があるかは知りませんが、
オケは音色そのものはそう悪くはないものの、メト・オケと比べてしまうと、
アンサンブルの点でかなりの問題があり、ホワイトの指揮についていけてない個所が散見され、
これがもしメト・オケのようなオケが演奏していたなら、ホワイト氏のサイトにあるような、
”ベル・カント・レパートリーの熱さを表現した演奏”にもしかしたらなりえるのかもしれませんが、
このモントリオール版メト・オケ(ややこしい名前をつけるな!)の演奏では、
”熱い”はずの演奏も、ただ”むやみに急ぎ、そして時に崩壊している”という風にしか聴こえませんでした。
特に六重唱のところでそう感じました。
カプテイニス氏はここが一番良かったと感じたようですが、ベル・カントの演目だって、
ただ早く演奏すればそれで熱さを表現できる、というような単純なものじゃないと思うのです。
オーケストラがきちんとついて演奏できてなんぼ、演奏が素晴らしいとすれば、
それはその先にあるもののはずです。



次にカプテイニス氏のお褒めに預かったのは、スティーブン・コステロ。
”美しく良く鳴る声”と”ルチアへの愛情をリアルに演じた”点が褒められています。
本来なら、大喜びしたいところなんですが、私は実はこの公演を聴いて彼の将来に一抹の不安を覚えています。
まず、カプテイニス氏の後半の言葉、これは間違いなく正しく、
数シーズン前まででくの棒のようだった演技が目覚しく進歩しています。
メトの舞台で同じエドガルド役を歌った時は、あまりの演技のつたなさにこちらがどきどきしてしまいましたが、
実際に演技力が向上したのか、メトよりはモントリオールの方が緊張せずに演じられるからか、
とにかく演技に関しては堂々としていて、微妙なニュアンスもあり、特に気になる欠点はありませんでした。
しかし、心配になったのは声と歌唱の方です。
カプテイニス氏の彼の声への評、”美しく良く鳴る”という言葉は、
メトでアルトゥーロを歌った時の彼にこそ捧げたい言葉です。
今日の公演では、その彼の最大の美点であったものがだんだん消えつつあると私は感じました。
というか、非常に間違った方向に彼の歌唱が進んでいる、とすら言ってもいいかもしれません。

彼がメトでエドガルド役を歌ったのを聴いた際、でくの棒演技の他に気になったのは
スタミナの配分のまずさと絶対的なスタミナ量の欠如でした。
おそらく彼自身、この点についての自覚があったと見られ、
表面的には、かなりその点が改良されており、スタミナ不足に感じられた場面は一度もなかったのですが、
しかし、それを達成する過程で、何か、彼の歌唱の根本的な何かが変わってしまったように思います。
実際、今の彼の歌唱を初めて聴いたとしたら、彼の声に特別なものがあるようには
私は感じないかもしれません。
発声の仕方そのものがかなり変わってしまって、そのために声がややロブストになった感じがしますし、
それに伴って高音に以前のような自然に湧き上がってくるような美しい響きがなくなり、
どこか辛そうで、この歌唱のスタイルでずっとこの先押し通すのは、どう考えても無理があります。

本人自身、歌唱にものすごく迷いがあるのが、
終演後の舞台挨拶でほとんど笑みを見せなかった彼の複雑な表情に表れていました。
メトではあれほど繊細で美しかった”神に向かって飛び立ったあなたよ Tu che a Dio spiegasti l'ali”も、
まるで違うテノールの歌唱を聴いているようでした。
一日も早く彼の迷いが吹っ切れるような、本来の美声を活かせる発声が戻って来ることを心から願っています。



この演目の裏主人公と言ってもよい、ある意味、エドガルドよりも重要なエンリーコ役を歌った
メキシコのバリトン、ホルヘ・ラグネスもカプテイニス氏的には
OKらしいのですが(”無情さを火のような声で表現した”)、Madokakip的には全然駄目。
彼は声にバリトンらしさがなく、軽すぎるように思います。
声域が下がったテノール、とでも呼びたい声の質感で、
その声でエンリーコのパートを歌っても曲が活きないのが最大のネックです。
それから彼はリズム感が最悪ですね。一つ一つの音の長さが実にいい加減。
こんなにリズム感が欠如している人、国際的なレベルで活躍する歌手の中にはちょっと珍しいんではないでしょうか?
カットされることもままある”嵐の場面”もいつもの私なら聴きたいんですが、
彼がこの役を歌う限りにおいては、ここモントリオールでその場面がカットされていたのは正解。
メトの公演はこの嵐の場面も演奏されますが、それ以外の個所で、若干のカットがあります。
モントリオールは嵐の場面はないかわりに、メトが施した細かいカットを
ノーカットで演奏している場面が多かったです。

残る脇男性三役、つまりライモンド、アルトゥーロ、そして、ノルマンノを歌った歌手たちは、
プレイビルによると全てカナダ人で、
名前から判断するにフランス系(なのでおそらくモントリオール出身、、?)なんですが、
ディクションがものすごくフランス語っぽいのには苦笑させられました。
言葉のつなぎが非常にだらだらして聴こえて、イタリア語の持つ語感が全く活きません。
特にライモンドを歌ったアラン・クロムは、声そのものはなかなかいいものを持っているのに、
このディクションの悪さのせいでだいぶ損をしていると思います。
びっくりはノルマンノ役で、通常この役はテノールが歌うはずなのですが、
なぜか、バス・バリトンのベルジェロンが担当。コストカットの一策なのか、
もともと高い声域も出る歌手だからなのか、、?
公演中はあまり違和感がなかったので、後者かもしれません。
カプテイニス氏も、彼ら地元ボーイズには冷たくできないのか、好意的な評でした。

同じくカナダ出身、ただしこちらはイギリス系ではないかと思われるサラ・マイアット。
彼女が歌うアリーサ。これはなかなか良かったと思います。
美しい声質、適切なディクション、舞台姿のちょっと地味目の美人という感じもこの役にぴったりです。
カプテイニス氏も地味目の美人に弱いのか、”ルチアよりも輝かしく明るい声”と評しています。

そして、氏は最後のポイントで一気に攻撃に出ます。
”キューバ出身のソプラノ、エグリーズ・グティエレスは第三幕の狂乱の場を
ピュアなサウンドと確かな技巧で歌ってのけた。
しかし、このルチアというキャラクターにはそれ以前に表現すべき音楽と言葉がある。
最初のニ幕で力をセーブするようなルチアは観客の忍耐を試し、信頼を損なうリスクすら犯すことになるのに。”

、、、、、何を言ってるんだ、ルチアをカナリヤのための作品呼ばわりしたおっさんが。

まず、言っておきますが、グティエレスの歌は一幕の”あたりは沈黙に閉ざされ Regnava nel silenzio”でも、
絶品でした。
思わず溜息と共に、終わった瞬間、”アウェイ”であるモントリオールで、
Brava出ししてしまいましたから。
声には適度な温かさがあり、この巨大なホールでも響き負けしないいい声をしています。
正直、ネトレプコはもちろんのこと、あのデッセイと比べても、
彼女の方が真性のベル・カントに近いところにいるような技巧を持っていて、
今、こういう技巧を聴かせることのできる歌手は本当に数が少ないので、耳への最大のご馳走です。

ただ彼女はものすごく歌が上手いですが、その中でもものすごく特別な域に飛び込む瞬間があって、
その域以外では若干、本当に若干ですが、音がシャローに響く傾向があります。
この日の公演でも特別な域に入ったのは、狂乱の場の前半
(”この世の苦い涙を Spargi d'amaro pianto"に入る前の部分)のうちの後半部分で、
しかし、残りの部分が本当の意味で特別な域に行けないのは、
それは”力をセーブする”という問題なんかではなく、
いつも歌唱をミクロの穴に糸を通すような繊細さで同じコンディションに持っていけるか、という話であって、
そういう意味で彼女はまだ完全に彼女の最高の歌を何度でも再現できる、というレベルには達しておらず、
デヴィーアやグルベローヴァといった人たちと同じレベルで語ることはできないのですが、
もし本人が精進したならば、もしかしたらそこに到達してしまうのでは?と思わせるような
優れた素材の持ち主です。



特別な域に入った時の彼女は本当にすごくて、こちらの体を焼きつくされそうな
強力なビームのような高音を出してきますし、
何よりも細かい音の扱いが舌を巻くほど上手い。
彼女に関してはOONYガラのような下品な装飾歌唱だけを予期しているとびっくりさせられるような、
極めて品の良い歌も歌える人です。
彼女のルチアはYou Tubeにも上がっていますが、私が見た映像は相変わらずちょっと下品な装飾があったりするのですが、
今回の公演では全くそれらが影を潜め、とても品良い歌でした。
基本に忠実で、どの音も本当に大事に歌っていて、、。
演出により歌い分けているのか、気分によるのか、それとも長期的な流れとして、
段々ださい装飾歌唱がそぎ落とされてきたのか(最後のケースだと喜ばしいですが。)、それは謎です。
それにしてもOONYガラの時は彼女がこんな歌を歌えるとは見破れなかった、、。
私の目もたいがいの節穴です。

そして、カプテイニス氏の言葉が演技の欠如も含めているのだとしたら、それは私もある程度は同意します。
確かにコステロの演技に比べると、歌に完全にウェイトが寄った、硬い演技だったとも思います。
でも、歌唱がこれだけ良かったら、私には文句をつける気になれません。
カナリヤもここまで歌が上手いカナリヤだと、その歌自体に演技以上の意味が生まれるのです。



カプテイニス氏がお茶目なのは、自分の意見にフォローを入れてしまう点で、
”しかし、もしかすると、グティエレスはモントリオール初登場なので、
客席数が多く、音響的にもあまり恵まれていないホールの状況をテストしていたのかもしれない。
彼女には素晴らしい声とルックスが備わっている。私の予想ではこの後に続く公演で
もっと歌と演技がオープンになるはずだ。
いずれにせよ、狂乱の場は間違いなく目も眩むような素晴らしい場面があり、
後半に入る前の喝采は雷のようにホール中にとどろいていた。”

もちろん、私のBrava!の絶叫もそれに貢献してました。

最後のカプテイニス氏の言葉は、
”アルトゥーロ(カプテイニス氏の名前アーサーのイタリア語読みがアルトゥーロ)の意見は、
今すぐ皆さん、チケットを買いに急ぎなさい!だ。”

この点については全く同意。
ルチア役の歌唱だけに絞っていうなら、今まで観た全てのルチアの公演の中でも最高の興奮を味わいました。
ほとんど偶然に観に行ったモントリオールの『ルチア』で、こんな幸せに恵まれるとは。
やはりバケーション中でもオペラと縁が切れるわけなんてないのです。


Eglise Gutierrez (Lucia)
Stephen Costello (Edgardo)
Jorge Lagunes (Enrico)
Alain Coulombe (Raimondo)
Antoine Belanger (Arturo)
Pierre-Etienne Bergeron (Normanno)
Sarah Myatt (Alisa)
Conductor: Steven White
Stage direction: David Gately
Set design: Henry Bardon for Dallas Opera
Lighting design: Anne-Catherine Simard-Deraspe
Chorus master: Claude Webster

Opera de Montreal
Orchestre Metropolitain du Grand Montreal
Chœur de l’Opéra de Montréal
Parterre Pair C Even
Salle Wilfrid-Pelletier, Place des Arts, Montreal

*** ドニゼッティ ランメルモールのルチア Donizetti Lucia di Lammermoor ***

LUCIA DI LAMMERMOOR (Sat, May 23, 2009) 前編

2009-05-23 | メト以外のオペラ
メトのシーズン中は公演とブログにまみれ、
いい加減、我が家の2ワン(プロフィール参照)と連れに呆れられる日々。
そんなわけで、今回、彼らへの罪滅ぼしも兼ねて、一週間ほど、
カナダのモントリオールまで車の旅に出ておりました。
この一週間だけはオペラとPCから離れ、ゆっくりと愛息たちと戯れようという計画です。

しかし、往路途中で一泊したサラトガ・スプリングスの道端ではレーク・ジョージ・オペラの
『蝶々夫人』の公演のビラに目が釘付け。
気がつけば、じっと連れと愛息たちにその様子を観察されてました。
”あんた、またオペラのこと考えてるね。”といわんばかりに、、。

さて、ホテルを通して、信頼できるドッグ・シッターを部屋に数時間手配できるようであれば、
モントリオール滞在中にモントリオール響の演奏会に行こう!と連れと盛り上がっていたのですが、
翌日、サラトガ・スプリングスから約四時間のドライブと、
パスポート・コントロールでの驚異の2時間15分待ちで、
夕方の6時半頃やっとたどり着いたモントリオールのホテルで、
夕食の前に一休み、、と、部屋に備え付けのタウン誌に目を通したのが間違いのもとでした。

オペラ・ドゥ・モントリオール、、、。



『ランメルモールのルチア』、今日がシーズン初演か、、、うーん、観に行きたい!
しかし。今日の初日の公演日を逃すと、二日目の公演は我々がモントリオールを去った後、、。
連れと一緒に観に行けるならともかく、
今から一時間そこらでドッグ・シッターを手配できるわけもなく、
とすると、今夜観に行くとなれば、彼を2ワンと共にホテルの部屋に放置し、一人で観に行くしか手はない、、。
そんなひどいこと、いくら私でも出来ません、、、、よね、、やっぱり、、。

”いくらなんでもねーっ!旅行の相手をほっぽり出してオペラに行く人いないよね。ははは。”
と本気だか冗談だか自分でもよくわからない状態で言ってみたらば、
連れが一言、”実はすごく行きたいんでしょ?”
、、、
さすが、知り尽くしているな、、私という人間を。

”いやいや、そんなことは。モントリオール・オペラだもん、
どうせ、キャストも大したことないと思うし。”(←相変わらず超失礼。)と、
ガラにもなく、一応遠慮してみたのですが、
”じゃ、電話して、キャストだけ確認して決めたら?
夕食の途中や、夜中に起き出して、やっぱりルチア、見ておくんだったー!と
泣き叫ばれても、ボクも困るからさ。”
いいとこついてる。

しかし、キャストの確認は確かにグッド・アイディア!
きっと、なーんだ、そんな名前を聞いたことのないキャストばかりなら、あきらめもつくわ、
ということになって、きっと一時間後には連れとご飯してるんだろう、と予想しつつ、
NYのリンカーン・センターに相当するプラース・デザール(Place des Arts)に電話。
オペラ・ドゥ・モントリオールに関する質問やチケットの手配もここが処理してくれます。

フランス語ネイティブと思われる女性
(ちなみにモントリオールはご存知の通り、公用語はフランス語ですが、
私が予想していたよりは、英語の勢力が意外に大きかったです。)が、
一生懸命フランス語訛りの英語で親切に答えてくれます。

”今日のルチアのキャストを教えてくださいますか?”
”ルチアはですね、、、エグリーズ・グティエレスです。”

なんと!グティエレス!
OONY(オペラ・オーケストラ・オブ・ニューヨーク)ガラでなかなかの美声を聴かせていた、、。
モントリオール、、もっと寒いキャスティングかと思ったら、やるではないですか。
やばい。まじで行きたくなってきた。

”そして、エドガルドが、ステファン・コステロです。”
ステファン、、、、?
フランス語でステファンって、、、、ちょっと、待って!
それって、英語読みでスティーブンってこと、、、???!!!
”ええええええっっっ???!!!!い、今、何と??
もしかして、スティーブン・コステロって言いました!!!??”
気が付いたら受話器に向かって絶叫してしまっていました。
その興奮ぶりについ相手の女性も笑い出して、”はい、スティーブン・コステロです。
で、エンリーコがですね、、、”

しかし、もうこの時点でエンリーコのことなんか全く聞いちゃいないことは言うまでもありません。
つい数週間前にフィラデルフィアまで出かけていった理由の一つが彼を聴くことだったわけですが、
図らずもモントリオールで、それもエドガルド役で再びコステロを聴ける!
これが運命でなくて何なのか!?

一応ライモンドまでキャスト説明がすすんだところで、”チケットは残券ありますか?”
すると、”お得な割引セットがあるんですが、失礼ですが、年齢は何歳でいらっしゃいますか?”
(年齢によって割引セットがあるようだが、もう話が耳に入ってこない。)
もうお得なセットなんてどうでもいいから、早くチケットが残っているかだけ教えて!!!
”はい、残っております。チケットはボックス・オフィスでもご購入いただけますので。”

受話器を置くと、連れが、
”いいよ、行って来なよ。僕、犬と留守番してるから。”
いやーん、まじでー!!??本当にいいのー?!
”うん、まあ、車の運転で疲れたのもあるし、ご飯食べたらすぐに眠たくなると思うから。”
ああ、なんという深い愛
では、お言葉に甘えて行って参ります!!

モントリオールでオペラを観に行くことになろうとは全く予想していなかったので、
持参したカジュアル寄りな服の中からなんとかオペラハウスに入っても大丈夫そうな組み合わせを編み出し、
モントリオール一日目の夜を一人、プラース・デザールに向けてキャブを走らせるMadokakipなのでした。
オペラの極道に身を売り渡した人間の悲しい性よ、、。

プラース・デザールはリンカーン・センターなんかに比べるともっと近代的な雰囲気。



ボックス・オフィスも、いかにもマニュアル作業してます!的なメトのそれと比べると
(とはいえ、私はそれも味があって好きなのですが)、
ブースの数も多く、公演直前駆け込みでチケットを
購入もしくはピックアップする観客たちにも余裕で対処できるようになっていて、
特に今回の私のように窓口で購入する人間には、コンピューターのスクリーン上で
空席状況を見せながら説明してくれるのが非常にありがたいです。
今回、事前には全く劇場自体のサイズとか、どの席が良席なのか、といった予備知識がなかったので、
”とにかく値段は気にしないので、良く舞台が見える席を。”とお願いしたところ、
窓口の担当の方が、平土間の前から数列目という席を推薦してくれたのですが、
それで140カナダ・ドルでした。
現在1カナダ・ドルは1USドルよりほんの少し弱いですが(今日のレートで140カナダ・ドルは約128USドル)
値をほぼそのままアメリカ・ドルに置き換えても、金額が巨大でなければそれほど支障がないので、
旅行中も計算が楽ちんでした。
メトの平土間前列の座席なら200ドルはするので、オペラ・ドゥ・モントリオールは価格設定がやや低め。
いい歌手が登場している公演ならお得感があります。

プラース・デザールは複数のホールを抱えているのですが、
オペラ・ドゥ・モントリオールの公演は、ウィルフリッド=ペルティエール・ホール
(Salle Wilfrid-Pelletier)という一番大きなホールで行われています。



メトに比べるとかなり近代的なホールで、座席の幅が非常に広く、
また座席の配列も巧みで、観客にとっては非常に観やすくできているのですが、
ホール全体が横に広く、かなり規模が大きいので
(高さだけはやや低いかもしれませんが、目計算ではほぼメトと同じくらいの大きさに感じます。)
歌う方にとっては結構大変な会場かもしれません。

ここでも、着席した周りの観客からはフランス語と英語がちゃんぽんに聴こえてきて、
なんとも不思議な感じがするのですが、
英語ネイティブのおやじがフランス語ネイティブの、全くオペラに興味がなさそうな
付き合って間もないと思われる彼女に、
熱く”ベル・カントとは”を語っている姿やらが見られ、いずこもオペラファンは同じ、、と
微笑ましい気持ちにさせられました。

コステロの歌唱にはいろいろと思うところがありましたが、
グティエレスの素晴らしい歌唱には、久々にきちんとした『ルチア』を聴いた!と
血が沸騰しました。
モントリオールでこんな歌を聴けるとは誰が予想したでしょうか!

詳しい公演の感想は後編に続きます。

後注:
後編のコメント欄に頂いたコメントに関し、いくつかコステロの音源をご紹介します。
(後編は字数制限一杯なので前編で紹介させていただきます)

1)2007年シーズンのルチアの公演時のアルトゥーロ。
ナタリー・デッセイがルチアを歌った年の公演です。(この抜粋には残念ながら
彼女の歌声はありませんが。)
2007年10月9日の公演のシリウスの放送からで、
指揮はレヴァイン、エンリーコを歌っているのはクウィーチェンです。
1分20秒あたりからがコステロの歌声で、
合唱と重なる部分(2分53秒から)でもはっきりと声が聞き分けられます。
メトで聴いたみずみずしい清水のような声が懐かしく思い出されます。




2)そしてこちらが今回のモントリオールの公演のゲネプロと思われる映像。
”我が祖先の墓よ Tombe degli avi miei"~”やがてこの世に別れを告げよう Fra poco a me ricovero"
声のテクスチャーが若干変わっているのがわかります。




3)おそらくメトの『ルチア』に登場したのと同じ頃か少し前に歌ったと思われる、
ロッシーニの『スターバト・マーテル』。
ちょっと最後の高音が苦しいですが、こういう歌い方こそが彼の良さが活きる歌唱だと思います。
歌いだす前に猛烈に緊張している様子が微笑ましい。




2009年のリチャード・タッカー賞も受賞したことですから
(今年のタッカー・ガラに彼が登場するのは間違いなさそうです。)、頑張ってほしい!

おまけでグティエレスの映像も紹介しておきます。
You Tubeにあがっているルチアは私が聴いたものより出来が悪く(装飾歌唱は
モントリオールでの方法が全然冴えていて、文句のつけようがないくらいでした。)
気の毒なのでこちらを。
ルチア役とは全然違うリュー役のリハーサル時の歌唱であるうえに
ダニエル・オーレンの解説がうざいですが、
この感じで狂乱の場を歌われたらどんな感じか?というのを想像されると、
モントリオールで聴いた彼女の歌に近いです。
1分10秒、それから2分26秒が彼女が歌っている個所です。





(冒頭の写真は本公演リハーサル中のグティエレスとコステロ。)


Eglise Gutierrez (Lucia)
Stephen Costello (Edgardo)
Jorge Lagunes (Enrico)
Alain Coulombe (Raimondo)
Antoine Belanger (Arturo)
Pierre-Etienne Bergeron (Normanno)
Sarah Myatt (Alisa)
Conductor: Steven White
Stage direction: David Gately
Set design: Henry Bardon for Dallas Opera
Lighting design: Anne-Catherine Simard-Deraspe
Chorus master: Claude Webster

Opera de Montreal
Orchestre Metropolitain du Grand Montreal
Chœur de l’Opéra de Montréal
Parterre Pair C Even
Salle Wilfrid-Pelletier, Place des Arts, Montreal

*** ドニゼッティ ランメルモールのルチア Donizetti Lucia di Lammermoor ***

L'ENFANT ET LES SORTILEGES (Sun, May 3, 2009) 後編

2009-05-03 | メト以外のオペラ
前編から続く>

『ジャンニ・スキッキ』はプッチーニの三部作 Il Trittico の一部として、
『外套』と『修道女アンジェリカ』と合わせて演奏されるのが本来の姿なのですが、
三作とも全く雰囲気の違う作品、かつ、全部を合わせると、かなりの数の有力なキャストが必要で、
かつオケに力がないとこれまた厳しいという、
実力のあるオペラハウスでもいい上演をするのが難しいトリプル・ビルです。
二シーズン前のメトの公演はそれを考えると非常に充実した公演でした。)

そんな事情もあってか、三作揃って上演する代わりに『ジャンニ・スキッキ』
(なぜか、他の二作品ではなく、『ジャンニ・スキッキ』が多い。)と、
全く三部作以外の小品を組み合わせたダブル・ビルという苦肉策が時々見られます。

今回のフィラデルフィア・オペラの公演もまさにその苦肉策系で、
組み合わされた相手というのが、ラヴェルの『子供と魔法』。
作曲家の出身地と歌われる言葉も違えば(『子供と魔法』はおフランス。『ジャンニ・スキッキ』はイタリア。)、
取り扱っている内容も、曲の雰囲気も全く違うという、一体、どんな発想をしたら
こんな組み合わせになるのかという奇天烈なコンビネーション。
二つを足して適当な上演時間になるように、くらいなことしか頭になかったのではないか、と思えて来ます。

そもそも今日の公演に足を運んだのは『ジャンニ・スキッキ』に、
スティーブン・コステロが出演するからだったというのは前編に書きましたが、
予想に反して、私、このダブル・ビルでは、『子供と魔法』の方を面白く観ました。

『子供と魔法』は1925年のモンテカルロで、デ・サーバタの指揮のもとに初演を迎えた、
上演時間45分ほどの短い作品です。
初演時の演出にはバレエのシークエンスもあって、その振付を担当したのはバランシンでした。
リブレットはフランスの女流作家コレットによるもので、
言葉遊びに満ちた(韻を踏むため、早川雪洲なんて言葉も飛び出します。)詩のような会話は、
音楽とならんで、この作品の大きな柱になっています。

この作品は短いのでもちろん休憩なしで通しで演じられますが、
内容的には第1部と第2部にわかれていて、
第1部では、家にある家具やら、ティーポットやカップやら、絵本の中から飛び出して来た姫の証言により、
この家のクソがき(正しくはただ、子供 l'enfantという役で、クソなんて言葉はどこにもついてませんが)の、
ものを大事にしないわ、他の生き物を冷酷に扱うわ、といった素行の悪さが次々に観客に明るみにされていきます。
しかし、この”子供”は母親に叱られても一向に反省をしないとんでもないガキです。



この作品について、作曲したラヴェル自身は、”これまでになく、メロディを重視した。
そう、メロディ、ベル・カント、ヴォカリーズ、声楽的なヴィルティオーゾさ、、”なんて語っていたそうですが、
もちろん、ドニゼッティやベッリーニのようなベル・カントはもちろんのこと、
ヴェルディやプッチーニの作品のようなものすら、期待してはいけません。
あくまで、ラヴェルのスタンダードによるそれです。
さらに、彼の言葉によると、声によるメロディを大切にするため、
あくまでオケは二次的なものにとどめた、とのことですが、
これもまた、ベル・カント作品のようにオケが伴奏に徹しているかというと、決してそうではなく、
この作品の中でオケは非常に大事な位置を占めていると私は感じます。

フィラデルフィア・オペラはロヴァリスという指揮者が音楽監督で、今日の公演の指揮も担当しているのですが、
彼は、今シーズンのタッカー・ガラでメト・オケを指揮した人物で、
その時は、なかなか堅実で悪くない指揮振りで、
音楽監督になったのも、地元の強力な引きがあったからなんでしょうが、
このフィラデルフィア・オペラのオケは一流のオペラ・オケと呼ぶには憚られる実力で、
ロヴァリスが力をもてあましているような感じがします。
プレイビルには、劇場関係者の、”フィラデルフィア・オペラに客を惹きつけるには、
彼くらいのクラスの指揮者がぜひとも必要である”みたいな発言が掲載されていましたが、
指揮がいくら良くったって、演奏するのはオケの奏者なんだから、
もうちょっと、オケ側の実力をアップさせることが必要だと思います。
まあ、それもロヴァリスにやってもらおう、という算段なんでしょうが、、。
ちなみに、フィラデルフィア管とフィラデルフィア・オペラのオケとは全く別物で、
メンバーも全く重なっていません。(プレイビルで付け合せて確認してみました。)

で、話を戻すと、結論としては、このオケでは、
オーケストレーションを十全に味わうところまではいかなかった、ということです。


(子供の蛮行を暴く二脚の椅子。こういった物を擬人化したキャラクター多し。)

さらについでに、このアカデミーの音響の話をすると、”最悪”といってもいいでしょう。
事あるごとに、持ち主であるフィラデルフィア管は、音響がいい、とアピールし続けてきたそうですが、
US版のウィキペディアによると、各指揮者はアカデミーのことをこのように形容しています。

● フリッツ・ライナー
”アカデミーはいい音響をしていると思うが、やや乾いた音だ。イタリアのオペラハウスみたいな。”

● ピエール・モントゥー
”このホールは音が乾きすぎてる。音がすぐに止まってしまうんだ。本来ならば、
もっと音が生きるような残響があるべきだ。”

● ヘルベルト・フォン・カラヤン
”バランスはいいが、音が小さい。音楽のクライマックスを迎えても、これでは客は十全にパワーを感じることができない。”

また、日本版のウィキペディアには、フィラデルフィア管弦楽団について、
”かつての本拠地、アカデミー・オブ・ミュージックの音響が非常にデッドだったために、
フィラデルフィア・サウンドとも呼ばれる明るく色彩的な響きが発達し”た、と表記されています。

この後、1994年に音響を改善する試みがなされ、幾分ましにはなったそうですが、
私の意見は、モントゥーとカラヤン二人の意見を足したものと全く同じです。
この劇場は舞台上の歌手の声も、オケピから聴こえるオケの音も、
その場で上に立ち上って、その場でぼとっ!と落ちてしまうというのか、
全く客席に向かって飛んでこないような印象を受けます。
よって、なんだか前の方で何かが起こってるなあ、というような、
まるで柵越しか何かに舞台を観ているような気がしてきます。
『ジャンニ・スキッキ』に登場したコステロの声は、彼が今日は本調子でなかったことを考慮しても、
記憶にあるメトで聴いたそれと比べ、ここでは同じ人が歌っているとは思えないくらいに小さく聴こえたことでも、
カラヤンの意見は裏付けられます。
また、空気が音を食べてしまう、というのか、音が劇場中に抜けていかずに、
その場で消えてなくなってしまうような感覚もあるのですが、
これはモントゥーが語っていることとほぼ同じと考えられます。


(こちらはガキに壊された時計。ひげがへし曲がった時計の針になっている。)

さらに、この作品は、一貫して登場する主役と呼べる人物は子供一人だけ。
数多い他の役は、すべて、短い登場時間で次々とバトンをリレーしていくような感じで、
キャラクターがあまりに多いので、一人の歌手が2役、3役を兼演するのが普通です。
それでも10人以上のソリストが公演に関わっているのですが、
この公演で、”おっ?”と思うような実力を感じさせる人は、私が聴く限り、ほとんどいませんでした。
強いてあげれば、子供の役を歌ったマクニーズが声が温まるにつれ、
徐々に声に美しさが出てきていて、他の歌手陣よりは頭半分くらい上に出ている感じがした、
ということくらいでしょうか?


(ティーポット~それもウェッジウッドとの注釈つきなので裕福な家のガキなのだろう~と壊れた陶器のカップ。)

それでは、オケやソリストはメトと比べてかなりおちる、
オペラハウスに音響のハンデがある、などといった状況の中、
なぜ、この演目を楽しめたか、というと、それはひとえに演出、
それも、特にロレンツォ・クローネのビデオ・デザイン、これに尽きます。
この公演で、ビジュアル効果がなく、オケとソリストの力だけで持たせなければならなかったとしたら、
ここまで楽しめたかどうか、、。

クローネのビデオ・デザインは、これはオペラだから、趣味良く少しだけ
ビデオを挿入しよう、などと中途半端なことを考えず、
ビデオデザインだけで一つの作品にしてしまったような感がするほど
徹底して場面を網羅したのが潔い。
オペラを見ているというより、まるで遊園地のびっくりハウスにいる気がするような、
体感型のビデオ・デザインの多用に、ちょっとした、”不思議の国のアリス”体験が出来ます。
このイタリア出身のビデオ・デザイナーは色彩感覚に優れ、
音楽とのバランスがよく、この公演では残念ながら、振付や演技のせいで寒く見えてしまったシーンや、
コスト不足のため、舞台の作りや衣装がチープに見えてしまった点があるのが残念ですが、
力のあるオペラハウスが、その辺りを練り直せば、ちょっとした面白い公演になるのではないか、と思います。


(暖炉の火も怒ってます。)

メトは毎年クリスマスあたりに、キッズ向けの公演を打っていますが、
既存のキッズ向けプロダクション『魔笛(英語版)』や『ヘンゼルとグレーテル』に加え、
ビデオ・デザインをそのまま拝借して、
この『子供と魔法』あたりをレパートリーに入れればいいのに、と思います。
テーマが子供にも向いているし、このビデオ・デザインなら見ているだけでも楽しいはずです。


(クソがきが破った数学の教科書もクソがきにリベンジ!
数字の精を演じるペンシルベニア女子合唱団、彼らはなかなか上手でした。)

とこうして、モノや動物たちの恨み言を聴いて最後まで終わってしまうのかな、と思い始めた頃、
二匹の猫のシーンを最後に第二部に突入します。
ちなみに、この猫のシーンは歌われる言葉がすべて”にゃおーん”と言った擬声語なのがユニークです。

で、この第二部から、この作品は音楽の面でも非常に美しい様子を呈していきます。
場面はいきなり緑多い庭に移り、ここでは、子供がこれまでに、
自分の楽しみのために意味なく虐待し、殺戮した動物や昆虫たちが再び現れ、
子供にせまるというちょっとしたオカルト・シーンなんですが、
彼らの苦悩をやっと理解するに至った子供が傷ついたリスの手当てをすると、
動物や昆虫たちは子供をそっと”ママン”(母親)のもとに返してやるという結末になっています。



この第二部は歌の旋律もオーケストレーションも非常に美しく、効果的なビデオ・デザインとも
あいまって、ひきこまれました。

フィラデルフィア管の『劫罰』の演奏会のレポでかなりネガティブな意見を書いたラトルですが、
その彼がベルリン・フィル、そしてコジェナー、マシス、シュトゥッツマンらを揃え、
この『子供と魔法』のCDをこの3月にリリースしています。



ベルリン・フィルと比べるのが間違いなんでしょうが、
やっぱりこの作品はいいオケの演奏で聴くもんだ!と確信しました。
『劫罰』ではなんだこれは!?と思った指揮ですが、
今、iTunesで購入しPCのスピーカーで一聴した限りでは、この『子供と魔法』はそう悪くありません。
実際にCDを購入して、きちんとオーディオ・システムで聴いてみたいと思います。

ただ、改めてこうして音楽だけ聴くと、音楽だけ聴く作品でもないのかも、、と言う気もしています。
まさに、この公演のビデオ・デザインのような強力な助っ人を得て輝く作品かもしれません。

続いてダブル・ビルのもう一方の片割れ、『ジャンニ・スキッキ』。
こちらは一転して、黒を多用したシンプルでモダンなセット。
演出上、時代を1940年とか50年あたりに移しているのは、二シーズン前のメトと似ています。
実際、細かい点でメトのプロダクションを意識していることが伺われる部分があり、
せっかくこのような中堅のオペラハウスなのだから、
いい意味でイマジナティブなものが出てくるか、と思ったのですが、
極めて没個性でちょっとがっかりでした。
『子供と魔法』のプロダクションが実に個性的だったので、余計に。



リヌッチオとラウレッタを歌ったのは、スティーブン・コステロと、
プライベートでは彼の奥様であるアイリーン・ペレーズのAVA出身コンビ。
コステロは今日は風邪気味だったんでしょうか?
明らかにトップに精彩を欠いており、昨シーズンのメトの『ルチア』で聴けた彼の力からすると、ちょっと残念な出来。
むしろ、ペレーズの方が声に伸びがあって、出来は良かったです。
中音域に、どことなくルネ・フレミングを思わせる、もこもこっとした感触があるのが、
彼女の特徴でもあり、嫌いな人には耐えられない部分になる可能性もあるのですが、
高音に抜けた方が声が綺麗。
ただ、本来声のサイズがそう大きくないのか、この草木も生えない不毛の地を思わせる
アカデミーで、必死で声を張り上げようとすると、耳障りな響きが入るのが気になります。



スキッキ役を歌ったマーク・ストーンは、声もしっかりしているし、
決定的な欠点はないのですが、実に器用貧乏な感じのする歌手です。
そして、この真性イタリア人親父のスキッキを演じるには
どこかうそ臭い感じがしてしまうのが最大の泣き所かもしれません。
この数日後に観た『チェネレントラ』でも感じたのですが、喜劇を得意としている
イタリア人歌手というのは、何か派でもあるのかと思うくらい、笑いを誘う演技にスタイルがあって
小気味がいいです。(コルベリしかり、アルベルギーニしかり、でした。)
アメリカ人の歌手のコミカルな演技は、彼らと何かリズムが違うというのか、
お約束に陥ることを恐れて、それが却って演技をつまらなくしているようなジレンマを感じます。
お約束大いに結構!ののりではじけてほしいものです。



残念ながら、こちらの演目でも、心をときめかせる歌手はいませんでした。
といいますか、実は『子供と魔法』とかなりキャストが被っているので、
それも当たり前といえば当たり前です。



メトよりもずっと限られた規模の予算で運営しているフィラデルフィア・オペラのような
中堅オペラハウスには、彼ら特有の悩みがあるんだな、というのを感じました。
力が限られている歌手陣やオケ、、。
その中でどれくらい客をとりこめるかは、演目の設定とデザインも含めた演出次第なのかもしれません。
実はこのような中堅オペラハウスの方が、演出が果たす役割の比重が大きいのかな、と感じた次第です。

そして、そんなフィラデルフィア・オペラで来シーズンの
『蝶々夫人』のセットと衣装のデザインを担当するのは金子潤氏、
また、タン・ドゥン作曲の”茶:茶は魂の鏡 Tea: Mirror of Soul”は、
宮本亜門氏をはじめとする日本人チームがディレクションやデザインを担当するようです。
蝶々さんをエルモネラ・ヤホが歌うというのはちょっとびっくりですが、
金子氏のデザインはオマハのプロダクションでデビューした際、
その美しさが話題になったそうですので、スケジュールがあえば、ぜひ、再び
フィラデルフィアの地を訪れたいと思っています。

L'ENFANT ET LES SORTILEGES
Lauren McNeese (The Child)
Margaret Gawrysiak (Mama/The Chinese Cup/A Shepherd/The Dragonfly)
Jeremy Milner (The Armchair/The Tree)
Tammy Coil (The Sidechair/The White Cat)
Dayja Chaney replacing Tammy Coil (The Squirrel)
Marian Pop (The Grandfather Clock/The Black Cat)
David Portillo (The Teapot/The Little Old Man/The Tree Frog)
Jamie-Rose Guarrine (The Fire/The Princess/The Nightingale)
Karen Rogers Blanchard (A Shepherdess/The Bat/The Screech-Owl)
Angel Oramas, Maren Montalbano, Rebecca Siler, Lourin Plant (Animals)
Pennsylvania Girlchoir (The Numbers)

GIANNI SCHICCHI
Mark Stone (Gianni Schicchi)
Stephen Costello (Rinuccio)
Ailyn Perez (Lauretta)
Margaret Gawrysiak (Zita)
Jeremy Milner (Simone)
Lauren McNeese (Ciesca)
Marian Pop (Marco)
Jamie-Rose Guarrine (Nella)
David Portillo (Gherardo)
Stephanos Tsirakoglou (Betto)
Adam Butz-Weidner (Gherardino)
Christopher Hodges (Spinelloccio)
Thomas Shivone (Amantio di Nicolao)
Frank Mitchell (Pinellino)
Robert Phillips (Guccio)
Jim Hutchison (Buoso Donati)

Conductor: Corrado Rovaris
Director: Robert B. Driver
Set design: Guia Buzzi
Video design: Lorenzo Curone
Costume design: Richard St. Clair
Lighting design: Drew Billiau
Chorus master: Elizabeth Braden
Choreography: Amanda Miller
Wig & Make-up design: Tom Watson
Opera Compnay of Philadelphia
Parq Circ
Sec E, Row T
Academy of Music, Philadelphia

*** ラヴェル 子供と魔法 プッチーニ ジャンニ・スキッキ Ravel L'Enfant et les Sortileges
Puccini Gianni Schicchi ***