本ブログでもときどき紹介しておりますが、三栄のGPCarStoryのシリーズにマクラーレンMP4/8が加わりました。昨年末に刊行されましたので、ご覧になった方も多いかと思います。ちなみに先日ご紹介した熱田護さんの写真展でも大雨のブラジルGPで疾走するマシンの写真が展示されていました。
F1の名門、マクラーレンチームは相思相愛とも言えるホンダとの関係が92年シーズンをもってホンダの撤退という形でピリオドを迎え、93年シーズンをフォードのV8エンジンと共に戦うことになりました。
マクラーレンのマシンというと、車体の進化が非常に保守的で、ライバルチームと比べて大胆な空力的な処理を施したりといったことがなく、ホンダパワーとドライバーの腕でマイナス面を補っているような印象がありましたが、93年のマシンは(あくまで私個人の感想ですが)マクラーレンにしてはあか抜けたというか、ホンダの12気筒エンジンのスペースを考える必要が無くなったからか、コンパクトにまとまっている印象でした。また、他のチームに倣い、アクティブサスペンションなど、ハイテクも投入したマシンとなっていました。本書では技術的な話について、デザイナー、エンジニアのインタビューを通して知ることができ、ウィリアムズ・ルノーの後塵を拝したとはいえ、きちんと「勝てるマシンに」なっていたのだなと思いました。
このマシンについてはイギリス・ドニントンで開催されたヨーロッパGPでのセナの見事な勝利がいまだに語り草になっているのをはじめ、セナはシーズン5勝を挙げています。私につられてF1をテレビで観るようになった家族も、ドニントンのレースについては「あれがセナのベスト」と言っています。雨がらみになったブラジル、ドニントンだけでなく、ライバルたちがセナの「見えない影」にプレッシャーを受けて自滅していったモナコ、そして終盤の鈴鹿、アデレードの連勝と、印象深いレースが多いです。おととし亡くなったニキ・ラウダもドニントンのセナの勝利を「レース史に残る」と称えたそうです。本書でも先日亡くなった今宮純さんがドニントンの週末のレポートを寄稿されています。これによるとオープニングラップでライバルをごぼう抜きにした「奇跡の1周」についてもフォーメーションラップから周到に準備されたものであったことが分かります。セナは天才と言われますが、勝つために何をすべきか、何をしなくてはいけないかが分かっていた天才なのです。現在のようにスパコンが最適な戦略を考えてくれるレースでは、あんなことはできないでしょう。
そしてセナのチームメイトのこともインタビューも含めて本書では触れられています。当初、セナは勝てるマシンかどうか分からない、とばかりに1年の休養もしくはアメリカのインディカー(CART)転向をちらつかせていました。セナのチームメイトにはそのCARTのチャンピオン、マイケル・アンドレッティが加入しました。また、セナが乗らなければミカ・ハッキネンがドライブすることになっておりましたが、セナは結局乗り続けることになりましたので、ハッキネンはしばらく「お預け」を食らうことになります。アンドレッティですが、お父さんのマリオはF1で長く活躍、王座にもついています。
子供のマイケルの方はというと、猪突猛進が仇となり、接触、クラッシュなどが続き、イタリアGPを最後に契約を解除、アンドレッティの後任にハッキネンが座ることになります。ハッキネンは本人にとってのシーズン初戦となったポルトガルでいきなりセナの予選タイムを上回るなどの活躍を見せます。シーズン終盤のマシンのアップデートがうまくいったということもあるようなのですが、今まで走れなかったうっぷんを晴らすかのようでした。 ちなみにF2/F3000からの「進級」ではありましたが、中嶋悟もルーキーとしてのF1デビューシーズンはセナと組んでいました。中嶋はとにかく(時には消極的と思われてしまうくらい)堅実にチェッカーを目指し、結果もついてきたのですが、アンドレッティは大きな期待とは裏腹にステディさを欠き、成績が振るいませんでした。大きな期待を受けた人が実際には振るわなかったり、環境になじめず、ますます孤立してしまうというのはどんな世界でもあることなのですが、することがすべて悪い方に進んでしまった感もあります。彼は父の生まれ故郷イタリアで表彰台に乗ったのを最後に、F1から去ったのでした。もし、セナとハッキネンが一年間チームメイトとして走っていたら、もし、アンドレッティがシーズン序盤はF1に「慣れる」ためにもう少しステディに走っていたらと、このマシンについてはいろいろifを考えてしまいます。
そしてこのシーズンについてはテレビ中継を放送したフジテレビにとってもなかなか大変だったのではないかと思いました。前年から絶好調のウィリアムズ・ルノーと日本ではとかく敵役としてとらえられていたのプロストの独走の可能性が高く、セナも走らないかもしれない、となったら後はどうやって放送を盛り上げるのかということで、シーズン当初は当時の若手ドライバーにスポットを当てていました。シューマッハ、アレジ、片山右京、フィッティパルディ、アンドレッティ、ヒルら、若手やルーキーを取り上げてCMを流したりしていました。ところが、ふたを開けてみればシーズン序盤はフランスの教授とブラジルの天才の激突という(これまでと同じような)構図となったわけで、どことなく「軌道修正」したようににも思えました。このシーズン、プロストはヨーロッパラウンドのラストとなったポルトガルでタイトルを決めましたが、ヨーロッパでの各レースを「追っかけ」していたファンのためにも日本、豪州ラウンドの前にタイトルを決めたかった、と伝えられています。このエピソードをフジテレビの「ポールポジション」だったか日本GP前のスペシャル番組だったかで、フジテレビの中村江里子アナウンサーが正直な感想として「プロストっていい人ですねえ」とコメントしたところ、スタジオの古館、今宮両氏が下を向いて苦笑していたのを今でも覚えています。
さて、このマシンと93年シーズンの話に戻りますが、序盤こそ互角に戦えたマクラーレンとセナも、夏に向かうにつれ次第に差をつけられていくようになりました。この時代のグランプリではイモラ(サンマリノ)、カタロニア(スペイン)、マニクール(フランス)、シルバーストーン(イギリス)で強いドライバーとチームがシーズンを優位に戦っている印象がありましたが、このシーズンもウィリアムズ・ルノーとプロストがこれらのサーキットで優勝しています。また、プロストのチームメイト、デイモン・ヒルも実質的なデビューイヤーではありましたが、初優勝まで少し足踏みしたのちに3連勝を挙げ、チームのタイトル獲得に貢献しています。初優勝まで足踏みした後で連勝、というのは去年のルクレールもそうでしたね。ヒルに関しては日本のジャーナリストの中にはお父さんのグラハム・ヒル(主に1960年代から70年代半ばにかけてロータス等で活躍しF1は二度の王者。モナコGP、インディ500、ル・マン24時間の全てで優勝)のファンだった、という人も多く、親戚のようにデイモンのレースを見守っていた方もいたようです。欧州でもお父さんの活躍した頃から知っているというファンも多いでしょうから、アンドレッティと同様に二世ドライバーの重圧と戦っていたのかもしれません。
この年はルノーエンジンの「一強」というイメージがあり、同じルノーを積むフランス系のリジェチームも表彰台に届くレースを見せています。他のコンストラクター、エンジンについてですが、フェラーリは3年未勝利というどん底でしたし、フォードも非力を否めず、ということでマクラーレンは1994年に向けてランボルギーニをテストしたり、いろいろな動きをみせましたが、結果的にプジョーのエンジンを積むことになります。本書でもこのあたりのいきさつが関係者の証言等で紹介されています。これは失敗に終わり、1シーズンでメルセデスにスイッチします。マクラーレンが低迷から脱したのは1997年以降のことになります。最近もマクラーレンは苦戦が続いていましたが、過去にもこういうことはあったのです。
写真右は93年日本GPのプログラム。「SUZUKA」の文字はセナの筆によるものだそうです。この年の日本GPは、私の勤め先の同期のF1好き(セナファンでした)が観に行っており、とてもうらやましく感じました。私は抽選(当時は指定席が抽選だったのです)に申し込んだもののすべてハズレております。
F1の名門、マクラーレンチームは相思相愛とも言えるホンダとの関係が92年シーズンをもってホンダの撤退という形でピリオドを迎え、93年シーズンをフォードのV8エンジンと共に戦うことになりました。
マクラーレンのマシンというと、車体の進化が非常に保守的で、ライバルチームと比べて大胆な空力的な処理を施したりといったことがなく、ホンダパワーとドライバーの腕でマイナス面を補っているような印象がありましたが、93年のマシンは(あくまで私個人の感想ですが)マクラーレンにしてはあか抜けたというか、ホンダの12気筒エンジンのスペースを考える必要が無くなったからか、コンパクトにまとまっている印象でした。また、他のチームに倣い、アクティブサスペンションなど、ハイテクも投入したマシンとなっていました。本書では技術的な話について、デザイナー、エンジニアのインタビューを通して知ることができ、ウィリアムズ・ルノーの後塵を拝したとはいえ、きちんと「勝てるマシンに」なっていたのだなと思いました。
このマシンについてはイギリス・ドニントンで開催されたヨーロッパGPでのセナの見事な勝利がいまだに語り草になっているのをはじめ、セナはシーズン5勝を挙げています。私につられてF1をテレビで観るようになった家族も、ドニントンのレースについては「あれがセナのベスト」と言っています。雨がらみになったブラジル、ドニントンだけでなく、ライバルたちがセナの「見えない影」にプレッシャーを受けて自滅していったモナコ、そして終盤の鈴鹿、アデレードの連勝と、印象深いレースが多いです。おととし亡くなったニキ・ラウダもドニントンのセナの勝利を「レース史に残る」と称えたそうです。本書でも先日亡くなった今宮純さんがドニントンの週末のレポートを寄稿されています。これによるとオープニングラップでライバルをごぼう抜きにした「奇跡の1周」についてもフォーメーションラップから周到に準備されたものであったことが分かります。セナは天才と言われますが、勝つために何をすべきか、何をしなくてはいけないかが分かっていた天才なのです。現在のようにスパコンが最適な戦略を考えてくれるレースでは、あんなことはできないでしょう。
そしてセナのチームメイトのこともインタビューも含めて本書では触れられています。当初、セナは勝てるマシンかどうか分からない、とばかりに1年の休養もしくはアメリカのインディカー(CART)転向をちらつかせていました。セナのチームメイトにはそのCARTのチャンピオン、マイケル・アンドレッティが加入しました。また、セナが乗らなければミカ・ハッキネンがドライブすることになっておりましたが、セナは結局乗り続けることになりましたので、ハッキネンはしばらく「お預け」を食らうことになります。アンドレッティですが、お父さんのマリオはF1で長く活躍、王座にもついています。
子供のマイケルの方はというと、猪突猛進が仇となり、接触、クラッシュなどが続き、イタリアGPを最後に契約を解除、アンドレッティの後任にハッキネンが座ることになります。ハッキネンは本人にとってのシーズン初戦となったポルトガルでいきなりセナの予選タイムを上回るなどの活躍を見せます。シーズン終盤のマシンのアップデートがうまくいったということもあるようなのですが、今まで走れなかったうっぷんを晴らすかのようでした。 ちなみにF2/F3000からの「進級」ではありましたが、中嶋悟もルーキーとしてのF1デビューシーズンはセナと組んでいました。中嶋はとにかく(時には消極的と思われてしまうくらい)堅実にチェッカーを目指し、結果もついてきたのですが、アンドレッティは大きな期待とは裏腹にステディさを欠き、成績が振るいませんでした。大きな期待を受けた人が実際には振るわなかったり、環境になじめず、ますます孤立してしまうというのはどんな世界でもあることなのですが、することがすべて悪い方に進んでしまった感もあります。彼は父の生まれ故郷イタリアで表彰台に乗ったのを最後に、F1から去ったのでした。もし、セナとハッキネンが一年間チームメイトとして走っていたら、もし、アンドレッティがシーズン序盤はF1に「慣れる」ためにもう少しステディに走っていたらと、このマシンについてはいろいろifを考えてしまいます。
そしてこのシーズンについてはテレビ中継を放送したフジテレビにとってもなかなか大変だったのではないかと思いました。前年から絶好調のウィリアムズ・ルノーと日本ではとかく敵役としてとらえられていたのプロストの独走の可能性が高く、セナも走らないかもしれない、となったら後はどうやって放送を盛り上げるのかということで、シーズン当初は当時の若手ドライバーにスポットを当てていました。シューマッハ、アレジ、片山右京、フィッティパルディ、アンドレッティ、ヒルら、若手やルーキーを取り上げてCMを流したりしていました。ところが、ふたを開けてみればシーズン序盤はフランスの教授とブラジルの天才の激突という(これまでと同じような)構図となったわけで、どことなく「軌道修正」したようににも思えました。このシーズン、プロストはヨーロッパラウンドのラストとなったポルトガルでタイトルを決めましたが、ヨーロッパでの各レースを「追っかけ」していたファンのためにも日本、豪州ラウンドの前にタイトルを決めたかった、と伝えられています。このエピソードをフジテレビの「ポールポジション」だったか日本GP前のスペシャル番組だったかで、フジテレビの中村江里子アナウンサーが正直な感想として「プロストっていい人ですねえ」とコメントしたところ、スタジオの古館、今宮両氏が下を向いて苦笑していたのを今でも覚えています。
さて、このマシンと93年シーズンの話に戻りますが、序盤こそ互角に戦えたマクラーレンとセナも、夏に向かうにつれ次第に差をつけられていくようになりました。この時代のグランプリではイモラ(サンマリノ)、カタロニア(スペイン)、マニクール(フランス)、シルバーストーン(イギリス)で強いドライバーとチームがシーズンを優位に戦っている印象がありましたが、このシーズンもウィリアムズ・ルノーとプロストがこれらのサーキットで優勝しています。また、プロストのチームメイト、デイモン・ヒルも実質的なデビューイヤーではありましたが、初優勝まで少し足踏みしたのちに3連勝を挙げ、チームのタイトル獲得に貢献しています。初優勝まで足踏みした後で連勝、というのは去年のルクレールもそうでしたね。ヒルに関しては日本のジャーナリストの中にはお父さんのグラハム・ヒル(主に1960年代から70年代半ばにかけてロータス等で活躍しF1は二度の王者。モナコGP、インディ500、ル・マン24時間の全てで優勝)のファンだった、という人も多く、親戚のようにデイモンのレースを見守っていた方もいたようです。欧州でもお父さんの活躍した頃から知っているというファンも多いでしょうから、アンドレッティと同様に二世ドライバーの重圧と戦っていたのかもしれません。
この年はルノーエンジンの「一強」というイメージがあり、同じルノーを積むフランス系のリジェチームも表彰台に届くレースを見せています。他のコンストラクター、エンジンについてですが、フェラーリは3年未勝利というどん底でしたし、フォードも非力を否めず、ということでマクラーレンは1994年に向けてランボルギーニをテストしたり、いろいろな動きをみせましたが、結果的にプジョーのエンジンを積むことになります。本書でもこのあたりのいきさつが関係者の証言等で紹介されています。これは失敗に終わり、1シーズンでメルセデスにスイッチします。マクラーレンが低迷から脱したのは1997年以降のことになります。最近もマクラーレンは苦戦が続いていましたが、過去にもこういうことはあったのです。
写真右は93年日本GPのプログラム。「SUZUKA」の文字はセナの筆によるものだそうです。この年の日本GPは、私の勤め先の同期のF1好き(セナファンでした)が観に行っており、とてもうらやましく感じました。私は抽選(当時は指定席が抽選だったのです)に申し込んだもののすべてハズレております。