goo blog サービス終了のお知らせ 

工作台の休日

模型のこと、乗り物のこと、ときどきほかのことも。

ポポンデッタ 東急5200系がやってきました

2024年02月24日 | 鉄道・鉄道模型
 ポポンデッタの東急5200系についてはずいぶん前に製品化のアナウンスがあって、気長に待っていようというところでしたが、先日沿線在住ベテランモデラー氏から「出たよ」とメールをいただき、私も予約してあった模型屋さんに駆け込んだ次第です。
 私が購入したのは大井町線の5連です。中間に緑色の5000系を挟んでいるのが特徴のほか、5200系自身が後年の更新で車体裾のコルゲートがなくなった姿となっています。写真では別付けの東急のマークも車体に取り付けてあります(ユーザーの加工というとそれくらいなのですが)。

先頭車2輌も細かな違いがあるのですが、きちんと作り分けられています。
先頭車のアップです。パンタグラフがごついという感想も聞かれましたが、碍子のところが少々大きく感じられます。実物も縦方向に碍子が伸びていて、個人的には許容範囲ですが。


中間車2輌です。


こちらが5000系の中間車です。緑色がリアルに発色されている感じがします。


5200系の中間車と並べてみました。


模型屋さんでの試運転でも、また同社の西武20000系でも感じましたが、とにかく走行がスムースで静かです。なかなか製品化に恵まれなかった形式ですので、待っていたファンも多いことでしょう。
せっかくなので我が家の東急ステンレスカーたちと並べてみました。スペースの都合、5200系の現役と被る車輌たちです(厳密に言うと9000系も被っていますが)。

左から5200系、6000系(鉄道コレクション)、7000系(KATO)、7200系(クロスポイントキット)、8000系(GMキット)、8500系(クロスポイントキット)、8090系(GMキット)
こういうことができるのが模型の楽しさですね。
さて、実物の話も少ししておきましょう。東急では昭和29(1954)年に5000系という車輌が登場しています。こちらはモノコック構造、直角カルダン駆動という先進的な車輌で、航空機に範をとったとされるモノコック構造は鉄道車輛では普及しませんでしたが、直角カルダン駆動はいわゆる「新性能車」のさきがけとなりました。この時代、レーシングカーも多くが鋼管スペースフレーム構造を採用しており、本格的なモノコック構造のF1マシンが登場するのは1962年のロータスが最初、とされていますので、かなり「攻めた」設計だったことがわかります。

東急5200と5000、5000系の方はGMの板状キットを組んだもので、1998年に製作したものです。拙い旧作で失礼。


5200系は1958(昭和33)年に登場しており、普通鋼の骨組みにステンレス外板を貼った「スキンステンレス」とか「セミステンレス」と呼ばれる構造が特徴です。ステンレス車というと軽量化というイメージがありますが、こちらに関しては5000系よりも重くなっており、無塗装によるメンテナンスフリーが目的だったとも言われています。作られたのは4輌1編成のみで、試作的なところもあったのでしょう。東急車両の方だったかが以前話されていたのは、5200系は5000系の延長と言うか、5000系の最終グループのような位置づけ、ということでしたので、5000系の「ファミリー」に含まれるのでしょう。
東横線、田園都市線、大井町線などで活躍、昭和47(1972)年、昭和58(1983)年には更新工事を受けています。1972年の更新では客用扉の窓が小さなものになったほか、1983年には台枠の補修で車体裾のコルゲートがなくなったほか、前照灯がシールドビーム2灯化されています。私は1980年頃、東横線に乗っていてすれ違ったことがありました。模型は1983年の更新後の姿です。最後は目蒲線で3連で運用、昭和61(1986)年に東急での運用から離れ、先頭車2輌が上田交通に譲渡され、1993年まで走りました。私が上田交通を訪れた1986年夏に「別所線に新型電車登場」というポスターがありましたが、そこにも5200の姿がありました。上田から戻ってきた1輌は東急車両(現・総合車両製作所)で保存されており、日本機械学会から機械遺産としての認定を受けています。

(2019年9月1日のブログからの再録です)
試験的な位置づけと書きましたが、東急のステンレス車の歴史はこの形式から始まりました。5200系からもう一歩進んだ形で6000系が登場、セミステンレス車として5編成、20輌が投入されます。さらに、アメリカ・バッド社との提携により、昭和37(1962)年にはオールステンレス車の7000系が登場し、こちらは本格的なステンレス車として100輌以上生産され、成功を収めます。

(左から5200、6000、7000の各形式)
よく見ていただきますと5200と6000では客用窓と屋根上機器に、6000と7000では戸袋窓を廃したスタイルと両開きの扉にデザインの共通性が見て取れます。銀色の電車ではありますが、以前も書きましたように東急のステンレスカーはこういった「デザインの連続性」があって、そこがまたファン的には魅力であります。
そしてこの3つの形式とも、18mという短い車体が奏功したのか、地方私鉄でいずれも第二の人生を歩み、長きにわたって活躍しています。試作的かもしれませんが、後の東急=ステンレス車という方向性を決めた形式として、5200系は名車と呼ぶにふさわしいでしょう(ってどこかのプラモデルの実物説明みたいだな)。

参考文献・鉄道車輛ガイド vol.35 東急5000・5200系電車 ネコ・パブリッシング





  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

若き日のマエストロを魅了した楽団が乗った列車とは

2024年02月11日 | 鉄道・鉄道模型
 世界的な指揮者の小澤征爾氏が亡くなりました。私はクラシックについては門外漢もいいところで、とてもここで氏の業績などを語ることなどはできません。ただ、ときどきテレビで拝見する(歳をとってもなお)エネルギッシュな姿から、音楽に対する情熱がこちらにも伝わってくる感がいたしまして、それが記憶に残っています。
 さて、小澤征爾氏のインタビュー記事で、昭和30年に来日したアメリカのオーケストラ、シンフォニー・オブ・ジ・エアーの公演を聴いて海外に行ってみたい、という気持ちが強くなったというのを読んだことがあります。この楽団は前身をNBC交響楽団といって、もともと名指揮者トスカニーニを擁したことで知られていたそうで、トスカニーニは既に引退していましたが、戦後初めて来日した海外のオーケストラということで、多くの音楽ファンを魅了したようです。海外のオーケストラの生演奏にみんな「飢えていた」証拠でしょう。
 この楽団は東京をはじめ各地で公演を行ったそうで、移動の際には臨時列車が仕立てられていたようです。「鉄道ファン」1977年6月号が食堂車を特集しておりましたが、その中に食堂車の付いた客車列車編成記録という記事があり、昭和20年代から昭和50年頃までのさまざまな列車の編成表が掲載されています。食堂車を付けた臨時列車というページに、シンフォニー・オブ・ジ・エアーの列車の記録も載っています。
その編成ですが、マニ31+マイネ40+マイネ40+マシ38+マイネ41+マイネ41+スロフ30
ということで、昭和30年5月22日の先頭にはEF58-9号機が立っていたようです。記録を調べていきますとEF58-9号機はその年の秋に車体を流線形に乗せ換えているそうなので、この頃はまだ箱型・デッキ付きの姿だったということになります。
先頭の荷物車は当然楽団員の荷物の輸送に必要な車輌です。そしてほぼ一等寝台車だけで組まれた編成というのも壮観だったでしょう。マイネ40は2人個室と「プルマン式」と呼ばれた開放室(のちのナロネ21などに見られる線路の方向と平行に寝台を配置した2段寝台となっていました)のある寝台車でした。マイネ41はすべてプルマン式の寝台車でした。編成後尾のスロフ30は戦前派の客車でした。車掌室が必要で連結していたのか分かりませんが、古いタイプの二等座席車はどんな風に使われていたのでしょうか。また、マシ38は三軸ボギー台車を履いた重厚な食堂車です。
 この編成を見る限り、進駐軍の専用列車のような感じがしますが、戦後初めて来日した海外のオーケストラということで、招聘した日本側も使節をもてなすような感覚だったのではないでしょうか。当時まだ長距離移動で信用が置ける交通機関と言うと鉄道くらいしかありませんでしたから、快適な移動を約束するために、一等寝台車は不可欠だったのでしょう。
 こういった優等客車だけで組まれた臨時列車は昭和30年代には良く見られたようです。その後は東海道であれば新幹線が使われるようになったでしょうし、遠距離であれば飛行機と言う選択肢もあることから、見られなくなっていきました。また、この編成図に話を戻しますと、一等寝台車という種別は昭和30年7月に廃止され、「イネ」がついた寝台車は二等寝台車に格下げされ「ロネ」となっています。つまりマイネからマロネになったということであり、車体に巻かれた白い帯も青帯となりました。そういう意味でもこの編成の記録はなかなか貴重なものだったと言えるでしょう。


 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

YFSさんの「ノーまるフェス」で盛り上がってきたはなし

2024年02月07日 | 鉄道・鉄道模型
 1月の終わりのことになりますが、いつもお世話になっております御徒町のミニチュア模型のYFSさんで「ノーまるフェス」が開催され、私もお邪魔してきました。
 こちらのイベントですが、YFSさんではおなじみのクリエイターさんたちの作品の即売などがあって、小さな店内にたくさんの方が訪れるのですが、今回はなんと、渋谷のスクランブル交差点のジオラマでおなじみの「Cityscape Studio」様が新宿駅南口のジオラマを持ち込まれる上に、好きな車輌を持ち込んで写真撮影もできる、ということで私も車輌持参でうかがってきました。
 新宿駅南口は道路から上の部分を取り外すことができますので、線路に車輌を置いて上から撮影もできます。現在の車輌を持ち込まれる方もいらっしゃったようですが、私はそもそも持っていないし、こういう編成を持ち込みました。
 急行用の気動車と貨物列車です。

よく見ますとこのキハ58、両運転台です。


このキハ58、新宿駅にゆかりがございまして富士急行が運用しておりました。急行「かわぐち」として新宿~大月間を国鉄の急行「アルプス」に併結して運行、切り離して河口湖まで運転されていたそうです。キハ58ファミリーでは異彩を放つ私鉄のキハでございます。実際には富士急行のキハは甲府方に連結されているため、南口方向には顔を向けないのですが、そこは模型と言うことで・・・。1975年頃まで活躍したそうですが、さすがに私は覚えておりません。「アルプス」と言うとこちらもバラエティに富んだ165系を見るのが好きでした。
そしてキハ58の隣の線にはEF15に牽かれたタンク車が・・・。そう、合衆国陸軍輸送隊所属の「米タン」です。新宿で米タンのタキ3000というと横転・炎上という縁起でもない組み合わせになってしまいますので怒られるかと思いましたが寛大なご配慮で撮影を許していただきました。ありがとうございます。ちなみに新宿で貨物というと私の記憶にあるのはワム80000がずらりと並ぶ風景だったりします。いつものベテランモデラー氏の場合は、所在なげにたたずむ救援車も忘れられないということで、私も寂しい風景だった南口を思い起こしておりました。
そして鉄道ネタでもう一枚

山手線の外回りホームにいるのは小田急のキハ5100形です。御殿場線乗り入れの「芙蓉」のヘッドマークも誇らしいです。もちろん、小田急ですから壁をはさんでさらに向こう側でないといけないのですが、こちらも新宿にちなんだ車輌ということでご寛恕ください。

さて、駅前もにぎやかです。


バスや自動車は私が持ち込んだものです。えんじ色とアイボリー、えんじ色とクリームの大型バスは、私の架空の地方私鉄、埴原鉄道のバスです。日本海側の架空の地方都市・埴原(はにわら)を走る地方私鉄の模型を以前作っていたのですが、バスも欲しいよな、たぶん東京まで夜行バスとか運行しているんじゃないか、と思い立ち、バスコレクションから塗り替えたりして作りました。クリームとえんじ色で、漢字で「埴原鉄道」とある一台は昔の塗装の復刻バージョンという設定です。


そして白地に青の「Senators」って何?と件のベテランモデラー氏からご質問をいただきました。

その昔「東京セネタース」という職業野球チームがありました。貴族院議員の有馬頼寧がオーナーだったことから上院議員を意味するSenatorという名称を使ったそうです。残念ながら無くなってしまった球団なのですが、今もその名前が生きていたら、という設定でバスコレを塗り替え、自作デカールを貼った選手バスです。車体後部の青い翼のような模様は、昭和15年に「翼軍」と改名した名残です。なお、セネタースに関しては戦後の一時期そういった名前を持つチームがありましたが、こちらは現在の北海道日本ハムファイターズの源流となっています。このバスを作った後に埼玉西武ライオンズが「ライオンズクラシック」としてセネタースが西武沿線の上井草の球場で試合をしていたという縁などから、戦前のセネタースのユニフォームを「復刻」して試合を行ったことがあり、これには驚きました。ゆかりのある昔の球団のユニフォームで試合を行う、というのはライオンズのみならずいくつかの球団で行われていますが、直系の子孫のない球団故、まず見ることができないと思っていたので、多少こじつけだろうが野球の歴史に興味がある者にとっては、こういうイベントは嬉しかったですね。
 
 話を戻しまして、上から撮った写真もあります。

埴原鉄道のバスもバスタ新宿に乗り入れているようです。乗用車はカトー、トミーテック、さらにはちょっと昔のトミー製品を塗り替えたものです。道路の表現もリアルですので、自動車の方も丁寧に塗りなおしたりしています。


 当日は鉄道模型ファンのみならず、ジオラマ好きの方、Cityscape Studioさんのファンの方も多く訪れておりました。私の拙いジオラマにも興味を示した方がいらっしゃったので、私から説明もさせていただきました。ありがとうございます。
 
 今回のようにCityscape Studioさんのジオラマに車輌を置けるなんて、夢のような経験ではありました。私もより精密に、丁寧に作ろう、と誓った日曜の午後でございました。YFS様、Cityscape Studio様、勝手なお願いをいろいろ聞いていただき、どうもありがとうございました。







 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鉄道博物館「大機関車展」を観てきました

2023年12月28日 | 鉄道・鉄道模型
 昨日池袋まで山手線に乗ったという話を書きましたが、そこから私は大宮に向かい、鉄道博物館・スペシャルギャラリーで開催中の「大機関車展」(来年1月29日まで)を観てきました。年の暮れにてっぱくに行くのがこのところ恒例になっております。
 鉄道博物館を入ると
EF58-61号機もこちらのヘッドマークでお出迎えです。ちなみにこちらのマークは12月13-28日まで限定だったようです。

1988(昭和63)年のオリエント急行のマークです。私も品川に見に行ったっけ。
 日本の鉄道の歴史は蒸気機関車が牽引する列車とともに始まり、そういう意味では鉄道の歴史=機関車の歴史でもあります。本展示では戦後の動力近代化以降の歴史にスポットをあてつつ、もちろん鉄道開業からの機関車の歴史も含め概観できるようになっています。館内に展示され、また最近では模型も発売されたEF55-1の履歴簿も展示されていました。履歴簿というのは一両ごとに作られ、配置はもちろんのこと、故障や部品の交換など細かな記載がなされており、特に昔の機関車は「生き物」であることを感じさせます。
 解説についても詳しく、戦後導入された交流電化による機関車の開発が、国鉄では長らく主流だった直流機関車にもフィードバックされた話などはなかなか興味深いと感じました。また、電気機関車に限らず悲運のディーゼル機関車と呼ばれたDD54について、本線を走る主力機の部品は国産品で賄う、という方針を曲げてまで外国製の部品を多用した機関車が入ってきたのはなぜだったのかなど、考察が試みられています。

(DD54のNゲージ模型・カトー製品。模型では故障知らずですから、思う存分活躍させてあげたいです)
ディーゼル機関車については第一次世界大戦の戦時賠償という形でドイツから試験的に機関車を導入しており、そこから国産機も開発されましたが量産の域には達せず、広く投入されたのは昭和30年代以降です。DD51、DE10といった「働き者」たちが活躍を続けましたが、日本が採用して使い続けた液体式機関車は決して世界の「主流」ではなく(海外では「電気式」と呼ばれる内燃機関で発電機を回す仕組みが一般的)、それ故に中古車輌を海外に輸出するといったことも容易ではなかったというあたりに、日本の工業製品の特質が透けて見えるように感じました。また、大きな幹線以外ならどこでも、という役割を果たしているDE10について、1台で入換からちょっとした列車の牽引までこなしてしまう多才ぶりも、海外なら用途に合わせて何種類も機関車を開発するのに・・・というわけで日本独特の進化だったということがわかる話ではあります。
 ただ、日本の場合戦後10年余りで東京⇔大阪間の電化を完成させていますし、昭和30年代以降電化、無煙化の流れは加速します。人の流れだけでなくもの(貨物)の流れもスムーズになったことでしょうから、日本の経済成長がこうしたインフラ整備という下地が整っていたからこそ実現できたのだな、ということが分かります。インフラの整備、そして生産人口が増加したことなど、日本の成長には理由があったわけです。
 それまで蒸気機関車をはじめさまざまな車輌によって行われていた冬の雪かきについても、ディーゼル由来のロータリー除雪車が大きく貢献しているとしてスペースを割いての展示がありました。また、EF58-61についてもトリビア的な話も含めて解説がありました。私にとっては「へぇ」な話もありましたが、人気の機関車ですから多くのファンにとっては知っている話もあるでしょう。
 会場では博物館おなじみの大型模型も集められており、こちらも壮観でした。展示室が撮影禁止ですのでカメラを向けることができませんが、間近で見られますのでお勧めです。
 会場とは別にコレクションギャラリーの中でこんな展示もありました。大型ロータリー機関車、DD53の正面扉やナンバー、銘板等です。




DD53の正面扉とはナンバープレート下の扉部分です。

なお、DD53は除雪用の大型機関車で、ロータリーヘッドを付けた状態がこちらです。

(模型はワールド工芸のNゲージ製品です)

館内の機関車たちです。

もう1輌のEF58ですが、東海道本線全線電化を記念したマークをつけています。

C51はお召機の装飾ですね。


図録も充実しており、購入して帰りました。動力近代化以降の機関車の流れがつかめる内容となっているほか、コラム類も充実しています。
なお、EF58-61については新年はお召仕様の飾りつけになるそうです。


 

 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

模型で旅する鉄道 南部縦貫鉄道 実物編

2023年12月20日 | 鉄道・鉄道模型
 前回は南部縦貫鉄道の車輌模型をいくつかお目にかけましたが、今回は実物編です。
 そもそも、南部縦貫鉄道というのは青森県の南部地域において、鉄道路線が無かった内陸部に鉄道を通すことを目的としていました。発起人の中には憲法を学んだ方なら判例でよく名前を目にする苫米地義三ら当地の有力者が名を連ねていたそうです。また、この地域に鉄道を通すというのは、戦後の東北地方の開発にも関係がありました。沿線で産出した砂鉄から製鉄するという国の計画があり、国策会社の「東北開発」から南部縦貫鉄道も出資を受けています。こうして昭和37(1962)年に千曳~七戸間が開通しました。しかし、製鉄の話も海外からの鉄鉱石輸入が軌道に乗ると頓挫することになりました。開業から4年後の昭和41(1966)年には会社更生法適用の憂き目にも遭っています。
 昭和43(1968)年、国鉄東北本線の線路付け替えに伴い、廃止となった区間を借用する形で千曳から野辺地の間が延伸され、野辺地~七戸間として全通しました。その後は旅客輸送、貨物輸送で頑張っていたのですが、昭和59(1984)年に国鉄が貨物輸送の見直しを図る中、貨物取扱駅が大幅に削減されました。これは国鉄と接続する全国の地方私鉄にとっても貨物取扱ができなくなることを意味し、南部縦貫鉄道も収入の多くを貨物輸送に負っていたため、大きな打撃ではありました。合理化が進められる過程で前回のキハ104も燃料を食うからということで定期運用から外れるようになりました。
 私が南部縦貫鉄道を訪れたのは平成2(1990)年の夏でした。北海道に行った後、本州に戻り、野辺地で南部縦貫鉄道に乗り換えて七戸を目指しました。レールバスは80年代以降に登場した車輌に乗っていましたが、こちらはどこか心もとなく、もっとスパルタンな乗り心地だったことを記憶しています。車内も昭和30年代の車輌のそれであり、まばらな乗客の車内で車窓の風景を眺めながら野辺地と七戸を往復しました。





写真はいずれも七戸で撮影


運転台の様子

七戸からはバスで十和田観光電鉄の十和田市まで出ることもできましたが、なぜか私は往復を選んでいます。きっとちゃんとキハ101に乗っておきたいという気持ちが働いたのでしょう(十和田観光の方は後に訪れています)。レールバスのうち1両の前面ガラスにはヒビが入った箇所があり、保守もなかなか大変なのかなと思いました。
私が訪れてからしばらくして、南部縦貫鉄道の周辺は東北新幹線延伸の話でにぎやかになっていました。ご存じのとおり、現在では北海道まで「フル規格」で延伸されましたが、当初はミニ新幹線などさまざまな案が出ておりました、しかし、鉄道にとっては厳しい現実が待ち受けていました。旧国鉄から借り受けた土地(野辺地~千曳間)を買い取るよう国鉄清算事業団から迫られました。買取ができないと土地を返還する必要も出てくること、また、車輛の方もキハ101、102は開業時から変わらず走りつづけ、老朽化も目立つほか、交換部品も払底するようになっていました。とうとう平成9(1997)年、南部縦貫鉄道は「休止」という扱いで運行を止めました。休止の直前には多くのファンが訪れ、大型のキハ104もフル活用されたようです。
休止の後も観光路線としての復活、新幹線が七戸を通ることになるのでそれに合わせて復活など、いろいろと検討されたようですが平成14(2002)年に正式に廃止となりました。小さな鉄道は40年の歴史に幕を下ろしました。思えば、砂鉄からの製鉄という国の開発事業に翻弄され、後年は新幹線の延伸に翻弄されという、地方私鉄の悲哀を感じさせる話ではあります。
時は流れ、七戸には「七戸十和田」という新幹線の駅も生まれています。しかし、既にあの好ましい車輌と鉄道が見られないというのは、本当に残念です。せめて模型の世界ではずっと走りつづけることができるように・・・。

さて、私の手元にこんなグッズがあります。

「休止」の手前だったか廃止の手前だったか正確に覚えていませんが、南部縦貫鉄道でさまざまなグッズを販売し、その収益を鉄道の運営資金に充てるということで、今ならクラウドファンディングでできそうなことをこのような形で行っていました。
定番のTシャツです。



こちらもよくみかけるグッズの一つ、タイクリップです。

当時、郵便局に振り込みに行った際に窓口の方が「私も青森でこの沿線の出身なんですよ、鉄道なくなっちゃうんですね」と言っていたのでびっくりしました。

余談ですが「青森好き」はその後も変わらないようで、うちの家人も気に入っています。先日も都庁で行われた青森の物産展にお邪魔してきました。青森県の観光キャラクター「いくべぇ」です。


参考文献 RM LIBRARY 136 南部縦貫鉄道 寺田裕一著 ネコパブリッシング、とれいん1991年10月号・南部縦貫のキハ104が走った日 野村和広

令和5年12月30日に参考文献を追記しました。








 

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする