とら箱

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49-4から50-3までのオロ11について(オロ11の終焉)④ 最終回

2021-09-23 18:00:00 | 客車・貨車
 

「ひかりは西へ」山陽新幹線全通前夜になります。

「桜島」の2号車が下り2/19、上り2/21から自由席になりました。  この頃は改正前なので記録を取った方も多く資料があり、75年2月13日2030レ「雲仙2号」にスロ622110 北オク、が連結されてます。 「雲仙2号」は上り2/18、下り2/19から12系客車に置き換えられます。 長崎客貨車区受け持ちのオロ11の運用がなくなります。  「日南3/1」は号車変更があったものの、最後までオロ11が運用されました。 宮崎回転の車両もなくなりました。 公開されている記録を見れば、2月22日に熊本駅で1101列車にオロ1129が連結されたのがあります。

 ナロ10の冷房化の後に12系客車の新造が始まりました。 ここからは自分の憶測ですが、ナロ10の冷房化改造は軽量客車が車体全体で強度を保つ構造なので、屋根の改造に無理があったと思われます。 最初の12系客車は軽量客車に冷房をつけた設計でクーラーを載せるのに強度の問題があって補強をして製造されたと思われます。 しかし同時期に作られたキハ65は動力を持つのでそれなりの強度があります。 それを踏まえて昭和47年に特急型の14系座席車が設計されて昭和51年以降の12系増備車新製にに反映されたと思われます。 12系客車のスハフ12の100番代、オハ12の313番以降は従来の12系客車と全く別の車両と言うことでしょう。 またオハフ13は汎用性もなくオハ12を代用するにしても車掌室の分定員が少なかったので増備されなかったと思われます。 またスハフ12は組成を容易にするのに前位(トイレ側)に尾灯を設けたのもオハフ13が増備されなかった理由でしょう。 固定編成客車で前位(トイレ側)に尾灯を設けた24系25形(昭和49年)以降になります。

 昭和50年3月の改正で山陽筋の急行列車は大幅に整理され関西九州間の列車は「阿蘇」(熊本)「くにさき」(大分)「雲仙」(長崎)「西海」(佐世保)(「雲仙」「西海」は併結)に集約され14系座席車が使用されます。 残されたのは大阪で印刷された新聞を岡山や広島方面に輸送する目的があったと思われます。 その為に5両のマニ37が14系座席車に連結される改造をされ200番代になりました。 片デッキのマニ37も新たにデッキを増設されました。 また特急用の14系の座席車が定期急行列車に運用され始めました。 そして昭和53年10月改正で「阿蘇」「くにさき」が併結になり更に削減されました。 「いい日旅立ち」と紀勢線新宮電化の改正でした。

 山陽筋の急行列車の定期運転廃止は55-10改正になります。 そして九州の14系座席車の一部はは改造の上北上し「ニセコ」で運用されることになります。 また55-10改正は国鉄始まって以来の「減量ダイヤ」の改正で昭和39年に年度赤字がはじまりそれが積もりに積り、そして昭和59年2月の貨物輸送のヤード廃止、昭和61年の荷物列車廃止、そして分割民営化に至ります。

 思い出せば50-3改正までは山陽本線の最後の黄金時代でした。 しかし新幹線の開通は発展的なことなので喜ばしいことです。 平成6年の秋に博多「あさかぜ」が廃止されたのも「のぞみ」が東京を同じ時刻に出発して11時間も先に博多に到着すれば当然のことと言えましょう。 昭和が終わりを迎えるころ「北斗星」が3往復新設されても20年前の車両を改造してまかなったのも、新しく設計しても採算が取れなかった、それなら新幹線に移行するのは当然のことです。

 東京オリンピックが開催された年の年末、「高千穂」の寝台車から降りてきた宮崎で生まれた子供は京都駅の1番ホームから新幹線をみあげて電気で走る最高峰の車両の魅力に取りつかれました。 そのあと甲子園に引っ越し、身近にあった大阪から神戸まで走る路面電車や急加速する電車にも魅力を感じました。 そしてモーターを回すことに取りつかれることになりました。 結局その道には進みませんでしたが「夢の超特急」は今でも憧れの車両なのです。
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