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卵を割ったらヒヨコは飛び出すか?
(
ゴンベイ
)
2007-08-24 21:45:55
>大正デモクラシーと歴史教科書が言及する事実はあったとしても、戦前の日本が民主主義だったとはいえないでしょう。
生みたての卵をポンと割ったらヒヨコが出てきて歩みだすのでしょうか?
日本は江戸時代までにも名主や町衆といわれるリーダーを中心とする合議制の共同体運営の歴史を持っています。
明治維新により封建制身分社会が破壊される過程で既に民主主義への胎動は始まり、それは自由民権運動となりました。欧州ブルジョワ革命前のフランス三部会に相当する程度の権能しか持たないとはいえ、大日本帝国憲法で選挙制度を持つ帝国議会が成立、紆余曲折を経て大正デモクラシーと旧普通選挙法を獲得しました。
日本国憲法の成立による民主主義の保障というメルクマールをもって、それ以前を民主主義でなかったと切り捨てるように断言するのは、安倍らのアメリカからの押し付け憲法論と同様に、歴史から断絶した論説だと思います。
Unknown
(
これお・ぷてら
)
2007-08-24 22:20:24
>大日本帝国憲法で選挙制度を持つ帝国議会が成立、紆余曲折を経て大正デモクラシーと旧普通選挙法を獲得しました。
だから、明治維新によって、民主主義革命があえていえば「完全に」はもたらされなかった証左ではないのですか。
私は、その後の大正デモクラシーの歴史的位置付けも理解するつもりですが。ではゴンベイさんは、民主主義的革命はどの時点で日本にもたらされたと仰るのでしょうか。
たとえば一つだけあげれば、労働三法など戦前では考えられもしなかった。一定の政治的枠組みをもって民主主義が定着したなどというのはもってのほかではないのか。
ましてや、戦後においてさえ、階級的差別は厳然として存在しているのは明確でしょう。思想差別は現に今日でもある。私は、最大の差別はまさに階級的差別だと思うのです。たまたま私はその境遇にはないのですが、今日でも、特定の思想をもっているということで、分かりやすくいえば、なぜ思想差別、賃金差別を受けないといけないのか。
民主主義というのはよく言われるように、たたかってこそ民主主義に近づきうるのではないのか。与えられるものでは少なくともないですね。「卵をポンと割ったらヒヨコが出てきて」などと他人事みたいなことではありえないのです。
まあ、安倍氏と一緒にされては何をかいわんやですね(笑)。
ヒヨコは雌鶏に成長し卵を産むようになったか?
(
ゴンベイ
)
2007-08-25 01:17:01
>民主主義的革命はどの時点で日本にもたらされたと仰るのでしょうか。
何やらスターリンが定式化した発展段階説に則っているような気がしますが、それはさておき、卵の中には生まれ出てくるであろうヒヨコはいたということをお話したまでで、その後のことには私は触れていません。
>一定の政治的枠組みをもって民主主義が定着したなどというのはもってのほかではないのか。
法制度により民主主義を保障する枠組みが与えられたとか書いたまでで、民主主義が定着したなどとも書いてません。そこはお間違いないよう。
自力で殻を割ったヒヨコでなければ、まず成長しないという話を知っています。欧米の民主主義はブルジョワ革命で多くの民衆の血を流した歴史の上に成立しました。日本人も明治維新以来第二次世界大戦まで、欧米のブルジョワ革命以上に多くの血を流したと思います。ヒヨコが自力で殻を割るエネルギーに相当する血の量(私の伯父やその他の親族の血も含まれます。)だと思います。しかし、日本の民主主義というヒヨコは自分の力で殻を割らずに、この世に引きずり出されてしまった。
...
紆余曲折はあれどヒヨコはヒヨコのまま還暦を過ぎるまで長生きしてしまったのではないか、というのが私の問題意識です。
先の加藤周一に対すると同様に、19世紀近代主義によるアプローチの限界を戦後民主主義のチャンピオンといわれる丸山真男へも感じています。
# 一部のAbEndブロガーが再燃させている御馬鹿なB層論の立役者として私が批判しているテサロニケは丸山真男の信奉者です。
この疑念は、社共が「還暦を迎えるまで長生きしたヒヨコ」の二羽であり、護憲の第三極には決してならないであろうという方向を指していることはお察しいただけるかと思います。
テサロニケの御馬鹿なB層論を奉じるネット水槽内回遊魚と違って、これお・ぷてらさんには教条論に疑念を突きつける事実の現場、働きかける現場があると思っています。しかし、現場に生じている事実を整理し、現場へ返していく運動の力とする観念・方法論が、プレカリアートが出現しているアノミー化した大衆社会の現状に応じたものでなく、プロレタリアート階級を想定できた19世紀に打ち立てられた古臭いものから一歩も出るものではないということを、これお・ぷてらさんの加藤周一「今・ここ主義」信奉と手を出せずに指を咥えて涎を流しているだけのような政局論への耽溺に感じました。伊東勉さん、あるいはBLOG BRUCEさんにも同じような方向性の喪失を感じます。
現在、状況が煮詰まってくる中で、いかに鈍な私の中でも、あらゆる点と線が結びついてきてグルグルし、まとまった言説にはできません。私の生煮えの疑念・無念を直接これお・ぷてらさんにぶつけたことは混乱を生じさせただけかと思います。現場を抱えているこれお・ぷてらさんを疲弊させたことと思います。このことはお詫びします。
中抜けの寓話、断章のままで申し訳ありませんが、これでコメントを終えます。
Unknown
(
ゴンベイ
)
2007-08-25 02:18:16
>労働三法など戦前では考えられもしなかった。
私の大叔父は戦前最後の大争議といわれた東京市電労組の指導者でした。争議が鎮圧された後、特高に見送られて帰郷したそうです。
山陽電鉄の車掌をしていた椎名麟三の作品に共産党での活動に触れたものがあり、これを話の枕に東京市電労組への共産党の関与はどうだったのかと尋ねたことがあります。
かなり強力なオルグがあったようですが、教条的で労働者の生活向上に利するものでないとして拒絶したそうです。
戦後になって再び社共双方から声をかけられたそうですが、戦前と変わらぬ教条主義を嫌って貧農を続けていました。話を聞いたときに、屈託は見せませんでしたが、インタビュアーの私の未熟さもあって、言葉は少なかったです。
1980年に出版された小室直樹の『ソビエト帝国の崩壊』を贈ったところ、全く僕と同じ考え方だとの感想を聞きました。その後暫くして亡くなりましたが、この本は大叔父の愛読書として棺に納められたそうです。
>ゴンベイさん
(
これお・ぷてら
)
2007-08-25 11:12:46
丁寧なコメントにあらためて深謝申し上げます。
また、ご親族にかんする記述は、緊迫した状況が、当時を知らない私にも伝わってくるようで興味深く拝読させていただきました。
話は、昔から語られてきた明治維新、そして敗戦の位置づけにかかわってくるのでしょう。敗戦を前後して断絶した部分と連続する部分がもちろんあると考えますが、要は、その2つの関係をどうとらえるのかにかかっているように思います。
ご明察のとおり、加藤は、丸山の「古層」概念をひきついで、「今・ここ主義」(と読んでいるのは私の勝手な呼称なのですが)を展開しています。
肝心なのは、変化の激しい時代にあって、具体的で限定された当面の目標だけを追求していると状況の変化に柔軟に対応はできないということでしょう。加藤がよく、全体をみずに部分をみる傾向を指摘するのは、このことでしょう。
もとより私は、ブログで政治がかわるとも、ましてや革命を起こせるなどの考えはもちあわせていません。正確にいえば現状ででしょうが。だから、B層などと一方で呼んでおきながら、ブログを過大評価する部分に滑稽さを正直感じるわけです。
いまは広い意味で多様な市民運動、行動をどう結集できるのか、それが課題でしょう。そのことは、おそらくゴンベイさんのいわれる「ヒヨコ」という言葉にもこれはつながっています。
田中宏和氏のことやB層を論じる一部ブロガーのエントリーにはほとんど興味はありませんが、加藤や丸山のこと、ヒヨコの話など、議論しだせば尽きないでしょう。
なので、ゴンベイさんのご指摘をひとまず正面から受け止めたいと思います。
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生みたての卵をポンと割ったらヒヨコが出てきて歩みだすのでしょうか?
日本は江戸時代までにも名主や町衆といわれるリーダーを中心とする合議制の共同体運営の歴史を持っています。
明治維新により封建制身分社会が破壊される過程で既に民主主義への胎動は始まり、それは自由民権運動となりました。欧州ブルジョワ革命前のフランス三部会に相当する程度の権能しか持たないとはいえ、大日本帝国憲法で選挙制度を持つ帝国議会が成立、紆余曲折を経て大正デモクラシーと旧普通選挙法を獲得しました。
日本国憲法の成立による民主主義の保障というメルクマールをもって、それ以前を民主主義でなかったと切り捨てるように断言するのは、安倍らのアメリカからの押し付け憲法論と同様に、歴史から断絶した論説だと思います。
だから、明治維新によって、民主主義革命があえていえば「完全に」はもたらされなかった証左ではないのですか。
私は、その後の大正デモクラシーの歴史的位置付けも理解するつもりですが。ではゴンベイさんは、民主主義的革命はどの時点で日本にもたらされたと仰るのでしょうか。
たとえば一つだけあげれば、労働三法など戦前では考えられもしなかった。一定の政治的枠組みをもって民主主義が定着したなどというのはもってのほかではないのか。
ましてや、戦後においてさえ、階級的差別は厳然として存在しているのは明確でしょう。思想差別は現に今日でもある。私は、最大の差別はまさに階級的差別だと思うのです。たまたま私はその境遇にはないのですが、今日でも、特定の思想をもっているということで、分かりやすくいえば、なぜ思想差別、賃金差別を受けないといけないのか。
民主主義というのはよく言われるように、たたかってこそ民主主義に近づきうるのではないのか。与えられるものでは少なくともないですね。「卵をポンと割ったらヒヨコが出てきて」などと他人事みたいなことではありえないのです。
まあ、安倍氏と一緒にされては何をかいわんやですね(笑)。
何やらスターリンが定式化した発展段階説に則っているような気がしますが、それはさておき、卵の中には生まれ出てくるであろうヒヨコはいたということをお話したまでで、その後のことには私は触れていません。
>一定の政治的枠組みをもって民主主義が定着したなどというのはもってのほかではないのか。
法制度により民主主義を保障する枠組みが与えられたとか書いたまでで、民主主義が定着したなどとも書いてません。そこはお間違いないよう。
自力で殻を割ったヒヨコでなければ、まず成長しないという話を知っています。欧米の民主主義はブルジョワ革命で多くの民衆の血を流した歴史の上に成立しました。日本人も明治維新以来第二次世界大戦まで、欧米のブルジョワ革命以上に多くの血を流したと思います。ヒヨコが自力で殻を割るエネルギーに相当する血の量(私の伯父やその他の親族の血も含まれます。)だと思います。しかし、日本の民主主義というヒヨコは自分の力で殻を割らずに、この世に引きずり出されてしまった。
...
紆余曲折はあれどヒヨコはヒヨコのまま還暦を過ぎるまで長生きしてしまったのではないか、というのが私の問題意識です。
先の加藤周一に対すると同様に、19世紀近代主義によるアプローチの限界を戦後民主主義のチャンピオンといわれる丸山真男へも感じています。
# 一部のAbEndブロガーが再燃させている御馬鹿なB層論の立役者として私が批判しているテサロニケは丸山真男の信奉者です。
この疑念は、社共が「還暦を迎えるまで長生きしたヒヨコ」の二羽であり、護憲の第三極には決してならないであろうという方向を指していることはお察しいただけるかと思います。
テサロニケの御馬鹿なB層論を奉じるネット水槽内回遊魚と違って、これお・ぷてらさんには教条論に疑念を突きつける事実の現場、働きかける現場があると思っています。しかし、現場に生じている事実を整理し、現場へ返していく運動の力とする観念・方法論が、プレカリアートが出現しているアノミー化した大衆社会の現状に応じたものでなく、プロレタリアート階級を想定できた19世紀に打ち立てられた古臭いものから一歩も出るものではないということを、これお・ぷてらさんの加藤周一「今・ここ主義」信奉と手を出せずに指を咥えて涎を流しているだけのような政局論への耽溺に感じました。伊東勉さん、あるいはBLOG BRUCEさんにも同じような方向性の喪失を感じます。
現在、状況が煮詰まってくる中で、いかに鈍な私の中でも、あらゆる点と線が結びついてきてグルグルし、まとまった言説にはできません。私の生煮えの疑念・無念を直接これお・ぷてらさんにぶつけたことは混乱を生じさせただけかと思います。現場を抱えているこれお・ぷてらさんを疲弊させたことと思います。このことはお詫びします。
中抜けの寓話、断章のままで申し訳ありませんが、これでコメントを終えます。
私の大叔父は戦前最後の大争議といわれた東京市電労組の指導者でした。争議が鎮圧された後、特高に見送られて帰郷したそうです。
山陽電鉄の車掌をしていた椎名麟三の作品に共産党での活動に触れたものがあり、これを話の枕に東京市電労組への共産党の関与はどうだったのかと尋ねたことがあります。
かなり強力なオルグがあったようですが、教条的で労働者の生活向上に利するものでないとして拒絶したそうです。
戦後になって再び社共双方から声をかけられたそうですが、戦前と変わらぬ教条主義を嫌って貧農を続けていました。話を聞いたときに、屈託は見せませんでしたが、インタビュアーの私の未熟さもあって、言葉は少なかったです。
1980年に出版された小室直樹の『ソビエト帝国の崩壊』を贈ったところ、全く僕と同じ考え方だとの感想を聞きました。その後暫くして亡くなりましたが、この本は大叔父の愛読書として棺に納められたそうです。
また、ご親族にかんする記述は、緊迫した状況が、当時を知らない私にも伝わってくるようで興味深く拝読させていただきました。
話は、昔から語られてきた明治維新、そして敗戦の位置づけにかかわってくるのでしょう。敗戦を前後して断絶した部分と連続する部分がもちろんあると考えますが、要は、その2つの関係をどうとらえるのかにかかっているように思います。
ご明察のとおり、加藤は、丸山の「古層」概念をひきついで、「今・ここ主義」(と読んでいるのは私の勝手な呼称なのですが)を展開しています。
肝心なのは、変化の激しい時代にあって、具体的で限定された当面の目標だけを追求していると状況の変化に柔軟に対応はできないということでしょう。加藤がよく、全体をみずに部分をみる傾向を指摘するのは、このことでしょう。
もとより私は、ブログで政治がかわるとも、ましてや革命を起こせるなどの考えはもちあわせていません。正確にいえば現状ででしょうが。だから、B層などと一方で呼んでおきながら、ブログを過大評価する部分に滑稽さを正直感じるわけです。
いまは広い意味で多様な市民運動、行動をどう結集できるのか、それが課題でしょう。そのことは、おそらくゴンベイさんのいわれる「ヒヨコ」という言葉にもこれはつながっています。
田中宏和氏のことやB層を論じる一部ブロガーのエントリーにはほとんど興味はありませんが、加藤や丸山のこと、ヒヨコの話など、議論しだせば尽きないでしょう。
なので、ゴンベイさんのご指摘をひとまず正面から受け止めたいと思います。