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Unknown
(
Unknown
)
2007-08-21 06:53:44
愚樵空論 時間が「情」を育む
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-35.html
愚樵さんの内田ブログの見立て
(
ゴンベイ
)
2007-08-25 23:40:42
愚樵空論 時間が「情」を育む
愚樵さんのコメント
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-35.html#comment152
>では内田さんの場合ですが、本の方を読む限り謙虚さを失っているという指摘はあたっていないと思います。『下流志向』の考えの中に私のオリジナルはほとんど無いとわざわざ断っていますし(そんなことは当たり前で、断るまでもないことですよね)、実際、「学びの場に消費主体として登場してしまった子どもたち」という認識も、諏訪哲二著『オレ様化する子供たち』から仕入れたもので、それも「過去十年間教育について読んできた言葉の中で、最も啓発的だった」と書いています。
>内田さんはこうした洞察を『下流志向』でより広く世間に知らしめたわけで、これは一定の役割を果たしたと素直に評価すべきだと思います。
>これは私の予断と断った上で申し上げて起きますが、布引さんが内田さんに傲慢さを感じる所以はブログという発信方法にあるのではないでしょうか。内田さんは、ブログはあくまでプライベートな発信方法であり、パブリックな発信方法である書籍とは一線を画しているように私には受け取れました。
内田氏の議論は精神論ですが
(
愚樵
)
2007-08-29 19:59:40
記事拝読させてもらいました。その上でコメントさせてもらいたいのですが、申し訳ありません、私はこの記事での内田論分析には大きな誤りがあるように思いました。僭越ですが、意見させてもらいます。
ポイントは
>パラサイトシングルというの~ ~余儀なくされている
という文章の捉え方です。これは氏の意見ではない。氏はその後に、「そういう説明がなされている」と書き(つまり氏以外の者たちがそういっている)、ここから「得られる結論は「もっと金を」しかない」、そして「それでいいのか」と疑問を呈しています。
内田氏も、ぷてらさんと同様、金だけという基準はおかしいといっているです。
内田氏の議論は精神論です。それはそうなのですが、多くの人が誤解しているように思うのは、内田氏の精神論は自分の基準で他人にああしろ、こうしろという精神論なのではなく、世の中の多くの人が知らずのうちに基準にしてしまっている精神論、つまり内田氏以外の者の精神論を議論しているという点、つまり他人の精神論批判をしているという点なのです。
この場合は拝金イデオロギーで、内田氏は「拝金イデオロギーがあまりにひろく瀰漫したことにあると考えている」と、自分以外の者たちに拝金イデオロギーが蔓延したと述べています。
ややこしいのは、内田氏が他人の精神と自分の精神とを比較してしまうことですが、しかしこれも対象が精神論ですからやむをえない。他人の精神論に対しては自分の精神論をもって比較する以外に方法がない。そうでなければ残された態度は、ぷてらさんがおやりになっているように、「それは精神論に過ぎない」と切り捨ててしまうことだけです。
内田氏の「私は金持ち」というのもそうです。このあたりはもう少し丁寧に表現できないものかとは思うのですが、これはおそらくブログという気軽さがあってのことでしょう。要は、内田氏が言いたいのは、そうした拝金イデオロギーという基準でいうなら、私(内田氏)はいつだって金持ちだ(でも、そうではないだろう?)ということなのだと思います。
>愚樵さん
(
これお
)
2007-08-29 21:44:54
お立ちよりいただき、その上ご意見までいただき恐縮です。
ご指摘いただいた点、たいへん参考になりました。ありがとうございました。
そこで、私の思うところを少しのべさせていただきます。
>パラサイトシングルというの~ ~余儀なくされている
という文章の捉え方です。これは氏の意見ではない。
そうなのでしょう。
私は、「パラサイトシングルというの~ ~余儀なくされている」という内田氏の表現があったことをのべたまでのことです。
ただし、氏が(自身がこれに同意しているか否かは別にして)格差社会を「すべて金の問題だととらえている」とのべているのです。
その前段で、つぎのように私はのべました。
=====
氏の格差社会観の核心はつぎのくだりにある。
<「格差社会」というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ「金の全能性」が過大評価され、その結果「人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会」のことではないのか。>
無理に定義づけようと思うと、こんな結果だ。何かしら変だ。
格差社会とよばれるものはたしかに所得格差が主たるもの(の一つ)かもしれないが、それは結果であって、
=====
氏が、格差社会を上記のように定義づけているわけですからね。換言すれば全てをカネで推し量る社会だということでしょう。この把握は、むろん氏がこれに賛成か反対かとはまったく別の問題ですね。
私が重要視するのは、やはり次の点です。
<人々が人間の価値について、それぞれ自分なりの度量衡をもち、それにもとづいて他者を評価し、自己を律するならば、「格差社会」などというものは存在しなくなるだろう>
私は、この点は自己責任論につながる無視できない論点だと考えているのです。また、貧困や格差から眼を覆うことにもつながるのではないでしょうか。
この視点は、その後の格差社会にかかわる氏のブログの基調をなしているように思うのです。
さらに、よろしいですか?
(
愚樵
)
2007-08-29 22:36:01
う~ん、なかなか難しいですねぇ。
実をいいますと、私も最初は内田氏を自己責任論を唱える無責任精神論者かと思ったのですよ。それが変わったのが『下流志向』を読んでからで、そこで書かれていたのは環境責任論なんです。現代の子どもはあまりにも早くから消費者という立場になれてしまうために、その判断基準が金を基準にしたものになってしまう。そのように刷り込まれてしまうというのですね。
環境責任論に立ってこれお・ぷてらさんが最重要となさっている点を読み返して見ますとこんな具合になりましょうか。
<人々が人間の価値について、それぞれ自分なりの度量衡を持つことが出来るような環境が整い、それにもとづいて他者を評価し、自己を律することができるようになれば、「格差社会」などというものは自ずから存在しなくなるだろう>
少し訂正が過ぎるように感じられますか?
ご意見に深謝
(
これお・ぷてら
)
2007-08-29 23:10:29
私は氏の『下流社会』を読んでいませんので、申し訳ありませんが、これに言及できません。また、仰るところの環境責任論も今いちピンときません。
一般論でいいますと、モノを測るのに、質を問うことはありません。金属と紙は異質のものですが、重量という一つのスケールでその量的なちがいを私たちは知るのですよね。
氏の「自分なりの度量衡を持つ」というのは、どうでしょう。格差というものが仮に測定可能なものだとして、それぞれの異なるスケールをもてというのは論理的に成り立たないでしょう。測るのであれば、何か共通のスケールがいる。
自分なりの度量衡を持つとは自己完結的なものですから、もともと格差社会など論じること自体が無意味で論外となるわけです。
もっとも格差というのはもともと測定不可能と氏はいっているわけではないでしょうが。
格差は幻想?
(
これお・ぷてら
)
2007-08-30 09:27:59
あえてつけくわえれば、内田氏はこういっていますね。直接、格差が測定不可能だとはいってはいませんが。
ジニ係数って何?
http://blog.tatsuru.com/2007/08/25_1043.php
>私自身は「格差」というのは(ひろく「貧富」といってもいい)幻想的なものだと考えている。
まあ、これも当然の帰結だと私は思っています。
格差問題を論じて、批判対象とするべきは
(
ゴンベイ
)
2007-08-30 11:50:25
文藝春秋編 日本の論点PLUS
論 点「格差は実在するか」2007年版
所得だけで格差を論じる間違い。人生のスタートの格差こそ最小化すべき
大竹文雄 (大阪大学教授)
http://www.bitway.ne.jp/bunshun/ronten/ocn/sample/ron/07/002/r07002BNA1.html
はじめまして
(
papillon9999
)
2007-08-31 22:06:59
生理的に受け付けない内田氏の所論を何とか考察したものをTBさせていただきました.私のは単純ですが,ご批判を賜れば幸いです.
内田樹もおかしくなったなあ
(
門前の中年
)
2008-01-09 14:02:44
内田氏の格差=金って、めちゃくちゃな論理だと思う。
この論理が通用するのなら、ある経路を経れば、
格差=命である。
内田氏の論理の「金」を命に替えてみれば内田氏が知らずに怖ろしいことを言っていることがわかる。
大学教授になるとここまで感性が鈍るのかと思いました。
>門前の中年さん
(
これお・ぷてら
)
2008-01-09 14:13:20
こんにちは。コメントいただき、ありがとうございました。
>内田氏の格差=金って、めちゃくちゃな論理
ですね。内田氏はこうもいっていますね。
>私自身は「格差」というのは(ひろく「貧富」といってもいい)幻想的なものだと考えている。
まあ、だから広い意味での事故責任論といえるかもしれません。
系統的に彼の著作をよんでいるわけではないので、教授になって鈍ったのかどうかは、私には分かりませんが。
失礼しました
(
門前の中年
)
2008-01-09 23:43:11
どうも挨拶もなく突然不躾な書き込み失礼いたしました。
内田樹氏のブログで格差についてかなり無茶なことを書いていたのでムッとしていまいしたところ、ここでちゃんと間違いを指摘されている方がいらっしゃり、ほっと安心しました。
内田氏は大学教授ですが、あのブログを読むと、学生が先生の考え方を無批判に受け入れているようで気が気でなりません。
ちなみに最新の発言(1/9)「変革が好きなひとたち」
を読んでみるとやはり自己責任論で、それもかなり無茶な論理の飛躍を相変わらずやっている。この社会には良いところも悪いところもあってそれがふつうなんだから「根本的改革」なんて必要ないという意見を開陳している。
せっかくあった好いところまで悪くしているから国民が怒っているということが内田氏にはわかっていないようですい。そして自民党の偉いさんのように最後はこう締めくくる
《「「なんとかしろ」と怒鳴っていると、「誰か」が私たちの代わりに「世の中をよくするプログラム」をさらさらと書いてくれると思っているのだろうか?
そんな「誰か」はどこにもいない。》
国民は税金を払ってそのために政治家や官僚を養っているはずではなかったのかと言いたいのでがすね。
いや、また腹が立って書き込んでしまいました。
失礼しました。
>門前の中年さん
(
これお・ぷてら
)
2008-01-10 00:06:26
いわゆる新自由主義の残したものがここにきて矛盾として現れてきているように思います。最近の政府の政策的な「譲歩」や修正にそれが表れているように私は思います。
自己責任論がこの新自由主義を下支えしてきたのも事実だと思いますし、これは相当の程度はびこっている考え方ではないでしょうか。内田氏の議論もその一つでしょうが。
事実をもって、自己責任論に反論していく必要があると思いますね。
先のコメントで事故責任論としていますが、変換ミスですね。ご容赦ください。
格差社会論の欺瞞
(
宮本顕示
)
2008-09-11 00:02:00
近年喧伝されている「格差社会」論が「ためにする」議論であることは、まともな論者(内田氏も含め)の説くところからも分かってはいたが、このブログやこことつながっているブログを覗いてみて確信できた。我が国が格差社会であるとすれば世界中ほとんど全部がもっと高度な格差社会である。この何十年間、何が起こっても「自己責任」を排して体制や政府のせいにしてきた安直な感情論が、またぞろ息を吹き返してまともな言論を封殺しようとする恐れを感じる。もっと世界に目を見開いて合理的にものを考えてほしいと思うが、無理か?
>宮本顕示さん
(
これお・ぷてら
)
2008-09-11 00:36:28
古い記事にお立ち寄りいただき、ありがとうございました。
批判するためには、概念を整理しないといけないのでしょうが、指摘されている一つひとつに理解しがたいものを感じます。その結果、「安直な感情論」などと仰る、当の宮本さまの所説がまさに感情のとりこになっているのではないでしょうか。
ご指摘の「格差社会」論と内田樹氏の「格差社会観」のちがいは。
何十年、何が起こっても「自己責任」を排した…感情論とはいったい何ものか、などなど、意味不明ですね。
あなたがいうように「まともな」をいうのなら、大竹氏くらいを引っ張り出してきてもよさそうなものに。
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http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-35.html
愚樵さんのコメントhttp://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-35.html#comment152
>では内田さんの場合ですが、本の方を読む限り謙虚さを失っているという指摘はあたっていないと思います。『下流志向』の考えの中に私のオリジナルはほとんど無いとわざわざ断っていますし(そんなことは当たり前で、断るまでもないことですよね)、実際、「学びの場に消費主体として登場してしまった子どもたち」という認識も、諏訪哲二著『オレ様化する子供たち』から仕入れたもので、それも「過去十年間教育について読んできた言葉の中で、最も啓発的だった」と書いています。
>内田さんはこうした洞察を『下流志向』でより広く世間に知らしめたわけで、これは一定の役割を果たしたと素直に評価すべきだと思います。
>これは私の予断と断った上で申し上げて起きますが、布引さんが内田さんに傲慢さを感じる所以はブログという発信方法にあるのではないでしょうか。内田さんは、ブログはあくまでプライベートな発信方法であり、パブリックな発信方法である書籍とは一線を画しているように私には受け取れました。
ポイントは
>パラサイトシングルというの~ ~余儀なくされている
という文章の捉え方です。これは氏の意見ではない。氏はその後に、「そういう説明がなされている」と書き(つまり氏以外の者たちがそういっている)、ここから「得られる結論は「もっと金を」しかない」、そして「それでいいのか」と疑問を呈しています。
内田氏も、ぷてらさんと同様、金だけという基準はおかしいといっているです。
内田氏の議論は精神論です。それはそうなのですが、多くの人が誤解しているように思うのは、内田氏の精神論は自分の基準で他人にああしろ、こうしろという精神論なのではなく、世の中の多くの人が知らずのうちに基準にしてしまっている精神論、つまり内田氏以外の者の精神論を議論しているという点、つまり他人の精神論批判をしているという点なのです。
この場合は拝金イデオロギーで、内田氏は「拝金イデオロギーがあまりにひろく瀰漫したことにあると考えている」と、自分以外の者たちに拝金イデオロギーが蔓延したと述べています。
ややこしいのは、内田氏が他人の精神と自分の精神とを比較してしまうことですが、しかしこれも対象が精神論ですからやむをえない。他人の精神論に対しては自分の精神論をもって比較する以外に方法がない。そうでなければ残された態度は、ぷてらさんがおやりになっているように、「それは精神論に過ぎない」と切り捨ててしまうことだけです。
内田氏の「私は金持ち」というのもそうです。このあたりはもう少し丁寧に表現できないものかとは思うのですが、これはおそらくブログという気軽さがあってのことでしょう。要は、内田氏が言いたいのは、そうした拝金イデオロギーという基準でいうなら、私(内田氏)はいつだって金持ちだ(でも、そうではないだろう?)ということなのだと思います。
ご指摘いただいた点、たいへん参考になりました。ありがとうございました。
そこで、私の思うところを少しのべさせていただきます。
>パラサイトシングルというの~ ~余儀なくされている
という文章の捉え方です。これは氏の意見ではない。
そうなのでしょう。
私は、「パラサイトシングルというの~ ~余儀なくされている」という内田氏の表現があったことをのべたまでのことです。
ただし、氏が(自身がこれに同意しているか否かは別にして)格差社会を「すべて金の問題だととらえている」とのべているのです。
その前段で、つぎのように私はのべました。
=====
氏の格差社会観の核心はつぎのくだりにある。
<「格差社会」というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ「金の全能性」が過大評価され、その結果「人間を序列化する基準として金以外のものさしがなくなった社会」のことではないのか。>
無理に定義づけようと思うと、こんな結果だ。何かしら変だ。
格差社会とよばれるものはたしかに所得格差が主たるもの(の一つ)かもしれないが、それは結果であって、
=====
氏が、格差社会を上記のように定義づけているわけですからね。換言すれば全てをカネで推し量る社会だということでしょう。この把握は、むろん氏がこれに賛成か反対かとはまったく別の問題ですね。
私が重要視するのは、やはり次の点です。
<人々が人間の価値について、それぞれ自分なりの度量衡をもち、それにもとづいて他者を評価し、自己を律するならば、「格差社会」などというものは存在しなくなるだろう>
私は、この点は自己責任論につながる無視できない論点だと考えているのです。また、貧困や格差から眼を覆うことにもつながるのではないでしょうか。
この視点は、その後の格差社会にかかわる氏のブログの基調をなしているように思うのです。
実をいいますと、私も最初は内田氏を自己責任論を唱える無責任精神論者かと思ったのですよ。それが変わったのが『下流志向』を読んでからで、そこで書かれていたのは環境責任論なんです。現代の子どもはあまりにも早くから消費者という立場になれてしまうために、その判断基準が金を基準にしたものになってしまう。そのように刷り込まれてしまうというのですね。
環境責任論に立ってこれお・ぷてらさんが最重要となさっている点を読み返して見ますとこんな具合になりましょうか。
<人々が人間の価値について、それぞれ自分なりの度量衡を持つことが出来るような環境が整い、それにもとづいて他者を評価し、自己を律することができるようになれば、「格差社会」などというものは自ずから存在しなくなるだろう>
少し訂正が過ぎるように感じられますか?
一般論でいいますと、モノを測るのに、質を問うことはありません。金属と紙は異質のものですが、重量という一つのスケールでその量的なちがいを私たちは知るのですよね。
氏の「自分なりの度量衡を持つ」というのは、どうでしょう。格差というものが仮に測定可能なものだとして、それぞれの異なるスケールをもてというのは論理的に成り立たないでしょう。測るのであれば、何か共通のスケールがいる。
自分なりの度量衡を持つとは自己完結的なものですから、もともと格差社会など論じること自体が無意味で論外となるわけです。
もっとも格差というのはもともと測定不可能と氏はいっているわけではないでしょうが。
ジニ係数って何?http://blog.tatsuru.com/2007/08/25_1043.php
>私自身は「格差」というのは(ひろく「貧富」といってもいい)幻想的なものだと考えている。
まあ、これも当然の帰結だと私は思っています。
論 点「格差は実在するか」2007年版
所得だけで格差を論じる間違い。人生のスタートの格差こそ最小化すべき
大竹文雄 (大阪大学教授)
http://www.bitway.ne.jp/bunshun/ronten/ocn/sample/ron/07/002/r07002BNA1.html
この論理が通用するのなら、ある経路を経れば、
格差=命である。
内田氏の論理の「金」を命に替えてみれば内田氏が知らずに怖ろしいことを言っていることがわかる。
大学教授になるとここまで感性が鈍るのかと思いました。
>内田氏の格差=金って、めちゃくちゃな論理
ですね。内田氏はこうもいっていますね。
>私自身は「格差」というのは(ひろく「貧富」といってもいい)幻想的なものだと考えている。
まあ、だから広い意味での事故責任論といえるかもしれません。
系統的に彼の著作をよんでいるわけではないので、教授になって鈍ったのかどうかは、私には分かりませんが。
内田樹氏のブログで格差についてかなり無茶なことを書いていたのでムッとしていまいしたところ、ここでちゃんと間違いを指摘されている方がいらっしゃり、ほっと安心しました。
内田氏は大学教授ですが、あのブログを読むと、学生が先生の考え方を無批判に受け入れているようで気が気でなりません。
ちなみに最新の発言(1/9)「変革が好きなひとたち」
を読んでみるとやはり自己責任論で、それもかなり無茶な論理の飛躍を相変わらずやっている。この社会には良いところも悪いところもあってそれがふつうなんだから「根本的改革」なんて必要ないという意見を開陳している。
せっかくあった好いところまで悪くしているから国民が怒っているということが内田氏にはわかっていないようですい。そして自民党の偉いさんのように最後はこう締めくくる
《「「なんとかしろ」と怒鳴っていると、「誰か」が私たちの代わりに「世の中をよくするプログラム」をさらさらと書いてくれると思っているのだろうか?
そんな「誰か」はどこにもいない。》
国民は税金を払ってそのために政治家や官僚を養っているはずではなかったのかと言いたいのでがすね。
いや、また腹が立って書き込んでしまいました。
自己責任論がこの新自由主義を下支えしてきたのも事実だと思いますし、これは相当の程度はびこっている考え方ではないでしょうか。内田氏の議論もその一つでしょうが。
事実をもって、自己責任論に反論していく必要があると思いますね。
先のコメントで事故責任論としていますが、変換ミスですね。ご容赦ください。
批判するためには、概念を整理しないといけないのでしょうが、指摘されている一つひとつに理解しがたいものを感じます。その結果、「安直な感情論」などと仰る、当の宮本さまの所説がまさに感情のとりこになっているのではないでしょうか。
ご指摘の「格差社会」論と内田樹氏の「格差社会観」のちがいは。
何十年、何が起こっても「自己責任」を排した…感情論とはいったい何ものか、などなど、意味不明ですね。
あなたがいうように「まともな」をいうのなら、大竹氏くらいを引っ張り出してきてもよさそうなものに。