McCoy Tyner / The Real McCoy ( 米 Blue Note BLP 4264 )
「新主流派」は果たして主流だったのか、という疑問や論争にはもはや意味はない。 主流ではなかった、という結論は歴史が証明しているからだ。
アイラ・ギトラーが "Miles Smiles" を聴いてそう言った時、そこには「これからはこういうのが主流になるんだろう」という予想が込められていた。
でも、彼は根本的な所で躓いている。 いずれ主流や傍流という独立した流れなんかは消えて無くなってしまう、ということに思い至らなかった。
コルトレーンの暑苦しさから袂を分かったはずのマッコイが、結局はその影から逃れられなかったのは皮肉だ。 ジョー・ヘンダーソンのバックで弾いている
マッコイのピアノは、コルトレーンのバッキングの時と何一つ変わっていない。 コルトレーンに教えられ、鍛えられて一人前になったのだ。 今更逃げようとしても
それは無理な話だった。 コルトレーン・スタイルのジョー・ヘンダーソンやエルヴィンのドタバタ太鼓を入れたことで、益々コルトレーン・サウントへ近似していく。
新主流派と言われた音楽はモードによる主題と調性の抽象性に加えて、フル・パワーで楽器を鳴らし続ける強圧な演奏に特徴がある。 それまでのハード・バップは
どんなに熱い演奏であっても、それは絶対的に冷静な抑制の下でのブローだったけれど、新主流派の音楽は制御というタガを緩め過ぎたことが主流から
離れてしまう原因となったのだと思う。 そして、その1点こそがマイルスの第2期クインテットの音楽とその後の新主流派と呼ばれた音楽を決定的に
決別させたポイントだったのだろうと思う。
新主流派という言葉が使われるのはブルーノートの作品に対してであることが多い。 そして、それらの作品がブルーノートの中で乱立し始める契機となったのが
マイルスが入院中にハービーやトニーやショーターが作った作品だった。 そこでの彼らのフリーへの戯れがこのレーベルのあちこちで芽吹き、抽象性は
コピーされたが制御は置き去りにされた。 そうさせたのは、コルトレーンやオーネットやフリージャズである。 そうやって本来の「新主流派」とは違う
新たな新主流派が大量に生まれた。 この "The Real McCoy" も、そういう状況の中で出来上がっている。
コルトレーンというバックグラウンドを引きずりながら、当時のブルーノートの中で流行っていたトーンでまとめられたのがこのアルバムだ。 だから、
ブルーノート4000番台のサム・リヴァースやボビー・ハッチャーソンやアンドリュー・ヒルが苦手な人には当然楽しめない。 名盤100選には必ず登場するけど、
行き場を失った新主流派を象徴するような作品で、万人に薦められるような音楽ではない。 私に言わせれば、これはちょっと特殊な種類の音楽なのだ。
でも、私はこのアルバムが好きだ。 どれくらい好きかと言えば、金曜日の夜、仕事から帰る途中に大音量で聴いて、翌日の土曜日の朝にもまた聴きたくなって
今度はレコードで聴くくらい好きだ。 とにかく、ジョー・ヘンダーソンのテナーがいい。 スローの時はショーターのようで、速いときはコルトレーンのようだ、
と揶揄されるけれど、ここでの演奏は音の粒揃いが良く、フレーズもなめらかで歯切れがいい。 4人の高度な演奏が奇跡的に上手く纏まっている。
これはアルフレッド・ライオンがブルーノートを売却し、リバティーを辞めて引退する3カ月前に録音されている。 私が惹かれるのは、ここには彼の最後の炎が
ゆらゆらと揺らめいているからかもしれない。