廃盤蒐集をやめるための甘美な方法

一度やめると、その後は楽になります。

紛らわしいジャケットだけど

2019年05月12日 | jazz LP (Atlantic)

Sonny Stitt / Stitt Plays Bird  ( 米 Atlantic 1418 )


コルトレーンのレコードも随分安くなったんだなあ、と手に取ってよく見たらソニー・スティットのレコードだった。 紛らわしいジャケットだ。
アルトのワンホーンでパーカー集を作っているというのは何となく知ってはいたけれど、これのことだったんだなと今更ながらに納得した。

聴けば聴く程パーカーには似ておらず、この手の話はもういいんじゃないかと思う。 この逸話がスティットの実像への理解をどれほど邪魔してきたか。
作品数がとにかく多くてとても全部には手が回らないし、プレス枚数も多くて中古も豊富に出回っているから大体がいつも後回しにされる。 本来であれば
日本のコアなジャズマニアが積極的に聴いて評価していくべきなんだろうけど、レコードが簡単に手に入る人というのはどうも有難がられない。

50年代初頭からこの64年の録音に至るまで、スティットという人は基本的には何も変わっていない。 テナーやバリトンも頻繁に吹くけれど、主軸はやはり
アルトで、それが一番魅力的に聴こえる。 快活で明るく、適度なキレとスピード感があり、何でも吹ける。 このアルバムも何のギミックもなく、ただ
ひたすらパーカー・ブルースを吹いている。 テナーと持ち替えしているアルバムが多い中で、このようにアルト1本で通しているものは少なく、そういう
意味では彼の持ち味が一番シンプルに堪能できるとてもいいアルバムだと思う。 ジェイ・マクシャンの "Hootie Blues" なんてシブい選曲もイケてる。

バックの演奏も良く、リチャード・デイヴィスの重たいベース、時折登場するジム・ホールのいつものいぶし銀的ソロが聴けるのも嬉しい。 録音も良くて、
気持ち良く最後まで聴くことができる。 ジャケットで損をしているような気がするけど、きっとこれからもふっと聴きたくなる類いのアルバムだろう。


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美しいロンリー・ウーマン

2019年02月02日 | jazz LP (Atlantic)

The Modern Jazz Quartet / Lonely Woman  ( 米 Atlantic 1381 )


オーネット・コールマンが大手レーベルからアルバムを出すことができて、好き嫌いはともかく、世間に広く認知されてプロとして活動できるようになったのは、
ひとえにジョン・ルイスのおかげだった。 彼がコンテンポラリーやアトランティックにアルバムを作ることを強力に働きかけなかったら、ジャズの歴史的様相は
今我々が知っているものとは少し違ったものになっていたかもしれない。 大衆向けのダンス音楽だったスイングジャズの中から突如現れたカルト・ミュージック
であるビ・バップの重要なピアニストとして活動し、その次は誰一人考え付かなかったクラシックへの接近を果たし、バンドを世界的な人気者に育てて、
若手の教育にも心血を注いだこの人の生き方は十分ラディカルだった。 無調の咆哮や破滅的な生活だけがラディカルというわけではない。

オーネットの "Lonely Woman" をここまで素晴らしい魅力的な楽曲として披露した例は他にはない。 オーネットがこの曲に込めた想いを正しく理解し、
楽曲としての美しい側面にスポットを当てて、物憂げな哀しみの音楽として見事なまでにまとめた本当に美しい音楽だ。 ジョン・ルイスがオーネットのことを
どういう風に捉えていたかが、これを聴けばよくわかる。 ジョン・ルイスの耳にはオーネットはちゃんと音楽として響いていたということだ。

このアルバムはそういうオーネットへの想いに感動するだけではなく、収録された他の楽曲も素晴らしい名曲ばかりで、アレンジもクラシカルな路線からは外れて、
普段よりもグッとポピュラーなタッチになっている。 演奏の纏まり具合いと高度さも圧巻で、アトランティック時代の最高傑作と言っていい。
音質も跳び抜けて良く、オーディオ的快楽度も文句なし。 通だけの秘かな愉しみにしておくのはあまりにもったいない、陽の当たる所に引っ張り出そう。


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短信~気長に探して

2019年01月23日 | jazz LP (Atlantic)

The Modern Jazz Quartet / One Never Knows ~ Original Film Score for No Sun in Venice  ( 米 Atlantic 1284 )



気長にMJQを探して、安いのがあれば拾って聴いている。 別に慌てる必要もないし。

MJQは聴けば聴くほどジャズだ、と思う。 昔はこんなのジャズじゃない、と思ってた。

あの頃はジャズの何たるかが全然わかっていなかった。 


アトランティックは、びっくりするくらい綺麗なのがよく転がっている。 まるで新品のような。

こういうのは、他のレーベルじゃ考えられない。 よっぽど人気がないみたい。

この「たそがれのベニス」、アトランティックの中では珍しく音もまずまずの仕上がり。


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残念に思う気持ち

2018年12月09日 | jazz LP (Atlantic)

Tony Fruscella / S/T  ( 米 Atlantic 1220 )


たまたまアトランティック盤が続いてちょうどいいので、トニー・フラッセラを。 こういうタイミングを逃すと、もうブログにアップしようがない。
このアルバム、内容については語るべきことがほとんど何もない。

よくもまあ、ここまで無名の人ばかりを集めたものだ、と感心するメンバー構成で、レコードコレクターが唯一アレン・イーガーの名前を知っているくらいだろう。
その割には演奏が全体的にかなりしっかりとしているなあ、と感心するにはする。 フィル・サンケルが自作の楽曲を提供し、且つアルバム全体のアレンジを
やっていて、これが影の主役になっていてアルバムとしての成功要因になっている。 

個別に見ていくと、ピアノのビル・トリグリアが特にいい。 抑制されて無駄な音がなく、非常に趣味のいいピアノを弾いている。 そしてアレン・イーガーの
静かで枯れた演奏もこのアルバム・コンセプトと上手くマッチしてる。 柔らかくなめらかでくすんだトーンにも耳を奪われる。

フラッセラのトランペットも語り口のしっかりとしたもので、もっとたくさんのアルバムを残すべき人だった。 にもかかわらず、重度のジャンキーで且つ
アルコール依存症でまともに活動できず、42歳で亡くなった。 多くの才能がこうして無意味に失われていった。 秀逸なジャケットデザインとそこから受ける
印象を損なうことのないいい演奏で忘れ難い1枚になっているのに、1枚しか残せなかったというところにいつも後味の悪さがついて回る。
演奏を聴けば聴くほど、残念だという気持ちが音楽から受ける感銘を上回ってしまうのが何ともやり切れない。


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セロニアス・モンクが評価した音楽

2018年12月08日 | jazz LP (Atlantic)

Jukius Watkins & Charlie Rouse / The Jazz Modes  ( 米 Atlantic 1306 )


ジャズ界きっての迷バンドの一つが、この "Jazz Modes"。 定冠詞は "Les" だったり "The" だったりする。 このバンドが褒められた文章を見たことがないけど、
まあ当然だろうと思う。 何がやりたかったのか、何を目指したのか、聴いていてもよくわからない。 最初のアイデアそのものは良かったけれど、
それは発展性がない種類のものだった。 但し、バンド自体は長くは続かなかったものの、レコードは複数のレーベルにそこそこ残っている。 
アトランティックは元々新しいものを厭わないレーベルだったし、当時は面白い試みの一つとして批評家筋の評判も悪くなかったようだ。

この2人は1955年にオスカー・ペティフォードのバンドに在籍した時に仲良くなった。 互いに似たような音楽観を抱いていたらしい。 そのバンドが解散した後、
ワトキンスが住んでいたアパートの近くのナイト・クラブで演奏する仕事を得たラウズは、アフター・アワーズにワトキンスと2人で演奏するのを楽しんだ。
ドラムレスで演奏されたそのサウンドはマイルドでソフトにブレンドされた素晴らしい響きだった。 2人はアイデアは語り合い、バンドを組むことにした。

確かにラウズの柔らかいトーンはフレンチ・ホルンと相性がいい。 ただ、このバンドはそれだけでは終わらなかった。 曲によってはソプラノ歌手を招いて
楽器とユニゾンで声楽スタイルで歌わせたり、サヒブ・シハブにバリトンを吹かせたりと様々な工夫を施して、何とも不思議な音楽を展開している。


そんな不可思議な音楽に私が興味を持ったのは、セロニアス・モンクが関係している。 モンクが晩年の相方になぜチャーリー・ラウズを選んだのか
その理由を知りたいと長年思っていたのだが、去年翻訳が出たセロニアス・モンクの分厚い伝記を読んだ際に、積年のその謎が氷解した。 

このバンドが活動していたちょうどその頃、モンクはあの伝説のファイブ・スポット公演をしていた。 コルトレーン~グリフィン~ロリンズというテナー奏者の
バトン・リレーが終わり、次の後任が中々決まらなかったモンクは、メアリー・ルー・ウィリアムズがドラッグ中毒に苦しむミュージシャンを救うために立ち上げた
"ベル・カント基金" を支援するためのコンサートに参加した時に、同じく参加していたこの "ル・ジャズ・モード" の演奏を聴いて気に入り、ラウズに白羽の矢を
立てた、というのだ。 当時、その空席を狙ってアメリカ中の若いテナー奏者たちが売り込みをかけていて、その中には何とウェイン・ショーターもいたらしい。
そんな過熱した競争が繰り広げられる中、チャーリー・ラウズはこの不思議な音楽を通じて羨望の眼差しの的であった特等席を得ることができたのだ。

この話はかなり説得力がある。 モンクとラウズは過去に共演歴もあり、元々互いに顔馴染みだったようだが、それでもこの不思議な音楽とそれを演っている
テナー奏者をモンクが気に入ったというのは、おおいにあり得る話だろうと思う。 こんな風変わりな音楽をやるヤツなら、というのが決定打だったのではないだろうか。
これは聴かないわけにはいかないぞ、ということでそのレコードを探すようになったわけだ。

ちなみに、この伝記本は翻訳がとても上手で、非常に読みやすい。 分厚さを意識せず読み終わることができる素晴らしい翻訳書なので、お薦めです。




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短信 Atlantic 1

2018年12月02日 | jazz LP (Atlantic)

Modern Jazz Quartet / European Concert  ( 伊 Atlantic 2K 60008 )


アメリカ盤のジャケットでは買う気になれず、と思っていたところにイタリア盤が。

いいジャケットだ。 これなら買おうという気になる。

1960年ストックホルムでのライヴ、ジョン・ルイスが北欧の人々に1曲ごとに丁寧に曲を解説してから演奏に入る。

MJQのライヴは "The Last Concert" が最高だけど、これも負けず劣らず素晴らしい。


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クセは強いけれども

2018年12月02日 | jazz LP (Atlantic)

John Lewis / Piano  ( 米 Atlantic 1272 )


ジョン・ルイスは最初からこんな朴訥としたピアノを弾く人だったわけではない。 ビ・バップ初期からプロとして活動していて、普通にバップの演奏をしていた。
その頃の演奏は例えば初期ブルーノートの管楽器奏者のアルバムで聴けるし、結成直後のMJQでの演奏なんかもそうだ。 モンクやシルヴァーらに混じって
演奏しているのを聴く限りではとても上手いけれど特に個性的ということはなく、平均的なバップ・ピアニストだったと思う。

それがMJQがクラシック音楽との融合というコンセプトを固めた辺りから当然のようにルイスのピアノも変化し始める。 饒舌なミルト・ジャクソンに手綱を掛けて
背後から締めるかのようにグッと音数を落として感情的なものも排して弾くようになり、ここにジョン・ルイス・ピアノが誕生する。 つまり、このピアノスタイルは
速く走りがちなヴィヴラフォンとの対比のために編み出されたのであり、ある意味ミルト・ジャクソンがいたから出来上がったと言っていいかもしれない。

その究極の姿がこのアルバムで聴ける。 思慮深いチェス・プレーヤーが考え抜いた末に動かす駒ように、ピアノは一音ずつゆっくりと進む。 足早に家路に着く
人々の流れの中をただ一人物思いに耽りながらゆっくりと歩いている人のように、その姿は際立って目立つ。 

スタンダードも演奏されているが、原曲のメロディーは曖昧にぼかされている。 だから自分の中にジャズという音楽のストックがたくさんないと、この演奏の良さ
みたいなものを享受するのは難しいかもしれない。 雰囲気だけで楽しむには、いささか独特過ぎるだろうと思う。

それでも、一度ハマれば繰り返し聴きたくなるアルバムになる。 アトランティックにしては珍しく残響の濃い音場感で聴かせるところも良い。
深夜に灯りを落として、一人で静かに聴くのがこのアルバムには相応しい。


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再来の歓びを噛みしめる

2018年12月01日 | jazz LP (Atlantic)

John Lewis / Improvised Meditations & Excurtions  ( 米 Atlantic 1313 )


ジョン・ルイスは高名なピアニストだから、いろんな立場の人が興味を持って聴く。 ただ、MJQから離れた一人のピアニストとしてこの人を鑑賞しようとする場合、
果たして適切なアルバムがあるかということになると、はたと困ってしまう。 "Afternoon in Paris" や "Grand Encounter" が名盤となっているのは
バルネやビル・パーキンスの名演がそうさせているのであって、これらを聴いてもジョン・ルイスの良さは何もわからない。 じゃあ、晩年のバッハ集を聴く?
いやいや、まさか。

ジャズ・ピアノを聴くなら結局のところ、ピアノ・トリオを聴くしかない。 そうするとこのアルバムなんかにぶつかることになる。 で、ジョン・ルイスはつまらない、
ということになってしまう。 もちろん、私も若い頃はそう思っていた。 特にこのアルバムはA面を聴いただけで投げ出してしまい、その後手にすることは
ついぞなかった。 今思えば、これは当然の反応だったろうと思う。 20代の若者がこれを褒めたりすれば、何か下心があるんじゃないのか?と勘繰ってしまう。

でも、歳を重ねて枯れてくると、この演奏の良さがじんわりと心の中に沁み込んでくるようになる。 人は外見も内面もどんどん変わっていく。 それに合わせて
自分に合う音楽も変わっていく。 そういう当たり前の事に、このレコードは気付かせてくれるのだと思う。 若い頃には高額過ぎてとても買えなかったレコードも
今なら少しは買えるようになって、そういう高額盤を手にして感慨に耽ることもある。 それはそれでいいことなんじゃないかと思う。 それは、まあいろいろあったけど、
何とか乗り越えてここまでやってこれた、一つの証の形じゃないか。 でも、昔は聴いてもその良さがわからなかった音楽が今は身に染みてわかるという体験は
内面の充実感を伴ったもっと違う形の感慨が沸いてくる。 それは他のものでは代替が効かない種類の想いだ。 だから、私はレコードをこうして漁り続ける。

古いスタンダードを気の知れた仲間と演奏したピアノトリオで、ジョン・ルイスなりの進化を遂げた個性的な演奏。 ポツリポツリと言葉少な気に物語を語るような
様子をじっくりと味わうことができる。 1度聴いてつまらなかったら、しばらく時間を置いて、忘れた頃にもう1度聴いてみるといいかもしれない。

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洗練されたポーギーとベス

2018年06月30日 | jazz LP (Atlantic)

The Modern Jazz Quartet / Plays The Music From Porgy And Bess  ( 蘭 Philips 840 234 BY )


どのアーティストがどんなスタイルでやっても素晴らしい音楽になるのは、やはり原曲が素晴らしいからに他ならない。 決定的名盤はたくさんあるけれど、
このMJQのアルバムも他とは一線を画す。 様式美と自由なアドリブラインの混ざり合い加減はもはや神業と言いたくなる。 必要最小限の音数で静かに
進んで行くこの音楽には究極の洗練がある。 ジャズという音楽にこういうアプローチで臨むこのグループの姿勢には逆説的なアブストラクトさが充満しているけど、
それが嫌味なく徹底されていて高次元に音楽として結実しているというのは驚き以外の何物でもない。

ゆったりと静かで優雅にスイングする。 まるで、眠っている赤ん坊を起こさないように静かに揺り籠を揺らすように。 原曲のメロディーを大事にしながら
ジョン・ルイスの音楽の統制とミルト・ジャクソンのひんやりと冷たいシリンダーの音色が音楽全体を支配する。 パーシー・ヒースとコニー・ケイのデリケートな
リズムが背景に映し出された影絵のようにゆったりと動いている。 ガーシュインのメロデイーがゆっくりと流れて行く。

MJQのアルバムは結構出来不出来があって何でもかんでも素晴らしいと言うわけにはいかないけれど、これは無条件に素晴らしい。 楽曲の良さを上手く
描いていて、このグループにしかできない新しいポーギーとベスの世界を作っている。 オリジナルのアトランティック盤は未聴だけど、このフィリップス盤は
音質も良好で、雑念に気を取られることなく音楽の世界観に集中できる。


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ゴールデン・ウィークの成果 ~その2~

2018年05月02日 | jazz LP (Atlantic)

Lee Konitz / The Real Lee Konitz  ( 米 Atlantic 1273 )


これもようやくニアミントを見つけた。 ありふれたものだけど、状態のいいものとなると途端にハードルが上がり、買えない状態が長く続いていた。
盤もジャケットもまるでデッドストックかと思うようなきれいな状態で、こういうのはうれしいものだ。


今回は暇に任せて、中央線沿線(立川、中野、新宿、お茶の水)、井の頭線沿線(吉祥寺、下北沢、渋谷)の普段行かないような所も含めて時間をかけて
丁寧に見て回った。 関東エリアの全店を覗こうかとも思ったけど、さすがに千葉や大宮や関内は遠くて、行ききれずに断念。
それに、時間はあるけど金はないといういつものパターンで、これじゃ学生時代と何も変わっていないじゃないか、とその進歩の無さに呆れてしまう。


アトランティックのコニッツは、これが1番好きだ。 曲単位で言うと、"Inside Hi-Fi" の "Kary's Trance" が最高だけど、あのアルバムは半分がテナーで、
それらがぼよよ~んと間延びした感じの演奏になっていて、そこが好きになれない。 アルトだけでアルバムを作っていたら、あれが最高作になっていた。

ライヴ演奏で且つ演奏の途中でテ-プに鋏が入るという乱暴な建付けだけど、コニッツの演奏には初期の狂気をはらんだ妖しさの残り香があり、そこがいい。 
このレーベルの欠点である高音域帯をカットしたようなデッドな音場のせいで再生上はアルトの音の鋭角さが失われているけれど、それでも彼にしか出せない
独特の危ない雰囲気が溢れていて、とてもいい。 この感じを聴くためだけに、私はコニッツのレコードを買うのだ。 


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変なサウンドの意味

2018年02月24日 | jazz LP (Atlantic)

John Coltrane / My Favorite Things  ( 米 Atlantic 1361 )


とにかく変なサウンドである。 私が初めてこれを買って聴いた18歳の時もそう思ったし、今聴いてもそう思う。 名盤100選に当然のように載っていたから
買ったわけだけど、本当にこれが名盤なのかどうか未だに私にはよくわからない。 

でも、このアルバムはたまに無性に聴きたくなる。 この変なサウンドがどうしても聴きたくなる。 どうやら自分の中でクセになっているらしい。
つまり、この「変であること」に重要な意味があるようだ。 そこには何かのコードが隠れているのをはっきりと感じる。 だから聴きたくなるらしい。

これはコルトレーンがスタンダードを美しく演奏することを完全に放棄した最初の作品と言っていいかもしれない。 プレスティッジ時代は一人前になるために
ひたすらスタンダードを上手く演奏しようとした。 プレスティジ最終期に残したスタンダードの演奏は無骨ながらも独特の美しさに貫かれた世界を創り上げる
までに至っている。 ところが、アトランティックに移籍して、彼は変わる。 ようやく楽器を思うように吹けるようになったこともあり、再現ではなく
創造に踏み出すようになる。 このアルバムに何か意味があるのだとすれば、それは「美しさを放棄する」と宣言したことかもしれない。

コルトレーンのロリンズ・コンプレックスは相当なもので、"Giant Steps" なんていうロリンズ・コピーの極北のような作品を作るほどそれは凄まじかった。
晩年になっても、欧州へ演奏旅行に出かけている間は妻にロリンズの動向を調べさせてはその内容を欧州にいる彼に逐一報告させたりしていて、
ちょっと病的な感じだった。

ただ、ソプラノを吹くようになってからは、落ち着いて自分の音楽をやることができるようになったように見える。 このアルバムも出来上がったサウンドは
異化されて聴き手を緊張させるような雰囲気になっているけれど、コルトレーン自身はリラックスして演奏している。 それまでのテナーのフレーズは
ワンパターン(ロングトーンの後にクシュクシュっと駆け上がる)で、聴いていてうんざりするところがあったけれど、ソプラノを吹き出した頃から
その悪しきワンパターンは影を潜めるようになった。 そういういろんな変化が顕著に始まったのもこの辺りかもしれない。

そうやってつらつらと変なサウンドの意味を考えていくと、それなりにいろんなことに気が付くけれど、やっぱり変であることには変わりはない。
そして、その変なサウンドは私の無意識下で長年に渡って私を虜にしているのもこれまた変わりはないのだ。


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例え作品数が少なくても

2017年05月14日 | jazz LP (Atlantic)

Lennie Tristano / The New Tristano  ( 米 Atlantic 1357 )


トリスターノはどうやらメロディーは必要ないと考えていたらしい。 ジャズをやる上では、コード進行とリズム、そしてアドリブラインだけでいい、と。
だから、左手でコード進行をウォーキングベース的に弾いてリズムを指定し、右手でアドリブラインを被せていく。 和音はあまり弾かない。 だから、
ここで演奏されているのは休符記号のない「線の音楽」だ。

"G Minor Complex" は "You'd Be So Nice To Come Home To" のコード進行を使って、いわゆるメロディーは一切弾かずにアドリブラインだけで
曲を構成する。 そうすることで位相がずれて、まったく別の曲になる。 あらゆるミュージシャンがこの曲のバリエーションのすべてをやりつくしてしまって、
もうこの曲の新しい解釈やこの曲の中でできることはない、という既成概念を鮮やかに裏切ってみせる。 まだまだこんなこともできるんだよ、ということを
無言で提示しているのだ。 そこに、トリスターノが本当にやりたかったことがあるのだと思う。

トリスターノ名義の公式アルバムはこれらアトランティックの2枚しかない。 後は何枚かの編集盤に数曲ずつ半端に収められえているくらいで、まともに
聴ける作品が少ないというのが、この人の音楽の認知度の低さの原因になっている。 後年になって未発表の掘り起こしが進んで、映像も含めていろいろ
手に入るようになったけれど、あまり積極的に手を出す気にはなれず、この2枚とDVDで観る映像くらいしか手許にはない。 だから、私のトリスターノに
関する知識はたかが知れているけれど、それでもこれら2枚のLPは濃密な内容で、トリスターノという人の重みを十分伝えてくれる。

トリスターノはパーカーと親交が深かった。 ある日、トリスターノがトリオでライヴを行っているのをパーカーが聴きに来ていて、演奏が終わった後に
ベース奏者とドラマーが先にステージから降りて、トリスターノが1人だけ残された。 すると、パーカーは慌ててステージへと駆け上がって、如何に今の演奏が
素晴らしかったかを丁寧に話しながら、盲目のトリスターノの手を取ってステージから一緒に降りた。 そうやって2人は親しくなり、パーカーが亡くなった時、
葬儀の後の棺桶の運び出しの一角をトリスターノが受け持つまでの仲になった。 そういう逸話も、トリスターノの音楽を理解する上では役に立つように思う。







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ピアニズムの結晶

2017年05月13日 | jazz LP (Atlantic)

Lennie Tristano ( 米 Atlantic 1224 )


レニー・トリスターノが指導を乞う若きミュージシャンたちに何を教えていたのかはよくわかっていない。 教えを受けた者は誰もその内容を具体的には
語らなかったし、トリスターノ自身もそれを著作として残した訳でもないからだ。 でも、ドレミファソラシドというスケールやⅠ-Ⅳ-Ⅴ-Ⅴ7-Ⅰという
和声進行など、既存の西洋音楽のルールとは違う旋律観や和声の概念の芽を説いていたのは間違いないようだ。 そして、そういう自身の概念をパーカーの
吹いたフレーズが終わった後に残るあの独特の余韻や、パウエルのアドリブラインが興に乗った時に発する無重力感からヒントを得てエッセンスを抽出したのも
どうやら間違いなさそうだ。 とにかくパーカーのレコードを聴くよう弟子たちに言っていたそうだし、このアルバムの最初の4曲を聴けばそのことは簡単にわかる。 

ただ、そういう抽象的な楽理に惹かれたから人々が彼の下に集まったということではなく、そこが当時の金のない貧しい若者たちが無償で音楽理論を学べる
数少ない場だったからというのが実態だったようだけど、リー・コニッツのようにきちんと修了した人もいた。 彼のトリスターノ・マナーが最も端的に
現れたのはヴァーヴの "Motion" での演奏だろう。 トリスターノがこのアルバムの "Line Up" や "East Thirty-Second" で演奏したアドリブの考え方は、
コニッツの "Motion" の中でそのまま引き継がれているし、ベースとドラムが背後で不気味に煽る中、トリスターノが和音を排して単音で切れ目のない
フレーズを紡ぐ様子とコニッツが同様の演奏をする様子がそっくりなのだ。

一般的には定着しなかったトリスターノの考え方も、自身が演奏すればさすがに見事に音楽として結実している。 ここで聴かれる4曲のピアノ曲はとても
素晴らしくて、特殊な理論や録音技法の話を持ち出す必要のないピアニズムの結晶のような音楽だと思う。 残りのコニッツの入った5曲は私には退屈で
あまり聴く気にはなれないものばかりだけれど、それでもトリスターノのヴォイシングの特殊さやアドリブ・フレーズの独特さはよくわかるので、資料としての
価値が十分あるというのは理解できる。

アルバムとして見た時に名盤と言っていいのかどうかは微妙だけれど、この中には最高の出来の音楽が含まれているというのは間違いない。


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ビ・バップへの目配せ

2017年02月19日 | jazz LP (Atlantic)

Ornette Coleman / Change Of The Century  ( 米 Atlantic 1327 )


"来たるべきもの" が発表されて、ニューヨークを中心にして各地で騒ぎになっていた最中に録音されたアトランティック第2弾。 いろんな意味で相当
注目されていた作品だっただろうと思うけれど、前作はオーネットの作品の中ではかなりポップな(と言っていいだろう)作風だったのに対して、この
アルバムは本格的にジャズを演奏することに真剣に取り組んだ辛口な内容だ。 明らかにパーカーとディジーの演奏を意識していて、それが裏コンセプトに
なっているのは間違いない。

前作で見せた音楽の形式へのこだわりをここでは鮮やかに脱ぎ捨てて、楽曲の主題をすべて拭い去っている。 だから音楽はより抽象的になっている。
その中でオーネットはかなり力強くアルトを演奏していて、時にはパーカーのようにファットなトーンで、時にはドルフィーのように咆哮してみせる。
スピード感もあり、前作のどこか子供が遊んでいる時に見せるような遊戯感のようなものは今回は影を潜め、大人のジャズを聴かせてくれる。

このアルバムを聴いた後にパーカーのサヴォイのレコードを聴いてみると、この2つはさほど距離が離れていないということがよくわかる。 見かけ上の
形式は似ても似つかぬものではあるけれど、核心部分には共通したものがある。 オーネットの音楽には革新と保守の要素が必ず奇妙に同居していて、
それを感じ取ることができさえすればこの人への抵抗感は消える。 そういう意味では、このアルバムはジャズを演奏することによりこだわっているので、
そういうマーブルなブレンド感がくっきりとしている。

聴き終えた後に残る充実感は前作を上回る。 とにかく真面目に真剣に取り組んだ音楽で、後の彼の音楽の原石のようなラフカットされてざらりとした質感は
他ではなかなか聴けない。 折に触れてこういう音楽に接しておかないと、自分の中で上手く音楽への感性を維持し続けられないような気がするのだ。



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ショーウィンドウに映った本当の自分の姿

2016年01月30日 | jazz LP (Atlantic)

Ornette Coleman / The Shape Of Jazz To Come  ( Atlantic 1317 )


ジャケットの写真に写るオーネットが大事そうに抱えているアルトサックス、ボディーの色が白いのに気が付く人が果たしてどれだけいるでしょう。
このサックス、実はボディーが金属製ではなく、プラスティック製なのです。 当時のオーネットはお金がなくて、普通の金属製のサックスが買えなかった。

テキサス州フォートワースに生まれたオーネットは7歳の時に父親が亡くなり、家は「ど」が付くほど貧乏で、その時から一家の大黒柱にならなければ
いけなかった。 学校に通いながら仕事を始め、やがてアルトサックスを手に入れて高校時代から街の場末の安酒場で踊る人達を相手にR&Bやジャンプ
ミュージックを演奏して家計を支えるようになった。

当時のフォートワースは人種差別に歪んだ街で、白人と黒人の居住地区は分けられ、黒人は大学(もちろん黒人専用の)を出てもまともな人生を送ることは
できない仕組みになっていた。 彼らは毎日を生きるのに精一杯で、自分が何者なのかなんて考えない。 だからオーネットは西海岸へ行く決意をします。

オーネットの演奏はその頃から既に変わっていて、西海岸に行っても誰からも相手にされなかった。 だからミュージシャンとしての仕事は滅多になく、
他の仕事と掛け持ちをして食べていくのがやっとだった。 ロサンゼルスの繁華街にある大型デパート"バロックス"で在庫品係として働いていた1954年の
ある日、昼休みに街を歩いていると、通りに面した画廊のショーウインドウにとても裕福そうな白人女性の肖像画がかかっていた。 その女性は目に涙を
浮かべて座っていた。 その絵を観たオーネットは心を打たれ、この絵から何か曲ができないだろうかと考え、そして "Lonely Woman" という曲が生まれた。

この曲は2本の管楽器が演奏するメロディーとベースとドラムが演奏するリズムの小節の長さが違うところに特徴があります。 つまり、リズムセクションが
演奏している小節の長さを100とすると、アルトとトランペットが奏でる旋律の小節の長さは130だったり150だったりと不安定で、常にズレていて重なる
ことがない。 時たまその公倍数のところでうまく帳尻が合いますが、すぐにまたズレて進んでいくという具合で、これが時間の感覚が喪失したような
印象を与え続けて聴き手を不安状態に陥らせるわけです。 オーネットの音楽はこういう具合に、「不協和音」というよりは時間が伸び縮みして一定に
流れない「平衡の喪失」のほうがベースになっていると思います。

ただ、この曲以外は割と小気味良いリズムを持った纏まりの良い曲が多く、彼がフォートワース時代に金を稼ぐために酒場で演奏していた踊るための音楽
を思わせるようなところがあり、このレコードをフリージャズの夜明けとするには強い違和感を覚えます。 オーネットの場合は、楽理を突き詰めた末に
辿り着いた姿というのではなく、明らかにセロニアス・モンクと同じで、生来備わっていたユニークな感覚に素直に、そして頑固なまでに従った結果だった
のではないでしょうか。 だから、私は彼の音楽のことを「フリージャズ」とは言わず、「頑固ジャズ」と呼びたい。

ルイジアナ州のダンスホールでブルースを演奏する仕事にありついた時に、演奏の中で自分が思いついたフレーズを挟んだらバンドのメンバーたちは
演奏を止めてステージから降りてしまった。 その後に会場の外に出ると、6人くらいの大柄な黒人のミュージシャンたちに囲まれて、オーネットは腹や
尻を蹴りあげられて、サックスを抱えたまま血まみれになって倒れて意識を失った。 また、ロサンゼルスでは無一文だったせいで車も買えず、あの
広大な街を雨が降る中でも何キロも歩いて家と演奏するクラブを往復していた。 私には、その姿はまるでゴッホの生涯を思い起こさせます。

ショーウィンドウに置かれた女性の肖像画を観ていたオーネットの眼は、そこに自分の姿が映っているのを見たわけです。 だから、"Lonely Woman"
という曲は当時の彼の孤独がありのまま描かれた曲で、作曲してから5年後の1959年のニューヨークでのレコーディングにこの曲を持ってきたのは、
そういう自分の孤独と向き合える力を感じ始めたからなのではないでしょうか。 オーネットの音楽を考える場合、これよりも先に録音されたL.A時代の
コンテンポラリーの2作のほうが私には重要な気がします。 この "きたるべきもの" というアルバムはどちらかというと、オーネットの内面の変化や成長が
克明に刻まれた極めてパーソナルな内容で、親密な雰囲気が出た作品だという気がするのです。 歴史に残る傑作という評価はそれはそれでいいけれど、
それは「フリージャズ」としての話ではなく、オーネットという音楽家の本当の姿がようやく世に出てみんなが認識することができた最初の作品である、
という意味での話だと思います。


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