黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

放送日(3月14日)が近づいてきました

2010-03-12 05:58:11 | 文学
 以前にもお知らせしましたが、大江健三郎さんと大江さんの最新作『水死』を中心に「おしゃべり」したNHK/FMの放送日が近づいてきました。
 番組名を改めてお知らせすれば、「トーキング ウイズ松尾堂」です。毎週日曜日のお昼12:15~1400まで、ホストの松尾貴史がゲストを招いて、その時々に話題となっていることについて「おしゃべりする」、というものです。今回は、「大江文学と時代を語る」と題して、難解と言われる大江文学について、本人(大江さん)の解説を交えて僕の解釈や文学史的位置(意味)、系統性を語ると同時に、『水死』がどのようなメッセージを発している作品なのかを話しました。
 『水死』に関しては、今回のこの放送の他に、大江さん自身が新聞や雑誌のインタビューでその創作意図を語ったり、多くのメディアに「書評」や論評が載り、その意味では『水死』に関して一大キャンペーンが展開されたという印象を持ったが、とかく「難解」と言われる大江文学について、どのような形であれ、読者に対して「親切」であるのは、決して悪いことではないと思っています。何故なら、『水死』の関する(たぶん)版元が仕掛けたであろう今度の一大キャンペーンは、出版不況の代名詞の如く言われている「純文学」作品の不振に対する「反攻」、あるいは「異議あり」の姿勢を示すものと言ってよく、文学作品を「読む』(つまり、「考える」)ということの意義・意味を改めて伝えるものになっていると思うからです。
 例えば、最近「電子書籍」(とそれを読む機器の進化)についての話題がマスコミ・ジャーナリズムを賑わしているが、IT端末で「本を読む」という行為は、真に「本を読む」ということなのか、と考えてしまうということがあります。これはもしかしたら、僕のように基本的にはアナログ人間の僻みかも知れませんが、どうもインターネットで得られる「情報」(電子書籍も「情報」として処理されているのではないでしょうか)は、「見る」あるいは「知る」ことには便利でも、「考える」という行為には不向きなのではないかと思っているからです。つまり、何年か前流行った「あらすじで読む日本文学(世界文学)と同じように、ミステリーやケータイ小説などのエンターテイメント作品などはいいかもしれないが、「純文学」作品を果たして「iPad」などの端末で「読む」(考える)ことができるのだろうか。1ページに大体700~800字ぐらい入っている書籍(冊子体)に対して、CMなどを見ていると、せいぜい1ページに100字程度しか入らない電子書籍は、小学校から大学まで冊子体の教科書で文章を読む(考える)ことに慣れてきた者にとって、「見る」ことはできても、「考える」のには不向きなのではないだろうか。僕らは、ケータイ小説が何故一部の若者にしか受け入れられないのか、僕の知る限り大学生になるとケータイ小説は完全に否定される(バカにされる)のは何故か、もう一度考え直さないと行けないのではないか、と思う。僕の知る限り、IT王国(先進国)のアメリカにおいても依然として「冊子体」の書籍の読者が圧倒的に多いのは何故か、繰り返しますが、今僕らはそういうことを根本的に考える必要があるのではないだろうか。

 なお、これもすでにお知らせしていると思いますが、3月14日(日)放送の大江さんとの「おしゃべり」、これはすでに1ヶ月前の2月15日に録音をしたものです。3時間近くのトークが1時間45分に編集されるというわけですが、どのように編集されたのか、楽しみです。因みに、このトーク番組では、「おしゃべり」だけでなく、僕と大江さんがそれぞれ思い出深い曲を2曲ずつ選んで放送するほか、もう1曲、確かモーツアルトの「交響曲第40番ト短調」の第1楽章が流れます。僕が選んだ曲は、秘密です。
 どうぞ皆さん、お時間のある方は日曜日の午後の一時、NHK/FMの放送をお楽しみ下さい。

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1 コメント

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Unknown (コウ)
2010-03-14 14:28:14
こんにちは。
NHK/FM「トーキング ウイズ松尾堂」、拝聴させていただきました。お二人の言葉に頷きながら聴いていました。大江さんの自作解題的な内容が興味深かったですね。

でも僕は黒古さんの「批判のための批評ではなく」との言葉や戦前・戦後に亘って依然として継続している部分についての話が印象に残っています。どうもありがとうございました。
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