先に「大山鳴動して鼠一匹、出た」と書いたが、どうやら「鼠」は一匹だけでなく何匹もいたようで、その中でも一番滑稽な顔(実は恐ろしい顔)をしていたのは、この機会を捉えて「やられる前にやれ」といったような、まさに「喧嘩の論理」としか言いようのない「敵(ミサイル)基地攻撃論」を堂々と主張する「若手政治家」達であった。何かあると直ぐにマスコミに登場して「若手論客」などともてはやされている我が群馬県選出の二世議員を代表とする若手政治家達、彼らはどんな「歴史教育」(日本国憲法に基づく「平和教育」、あるいは先のアジア・太平洋戦争に関わる歴史に関する教育)を受けてきたのだろうか、と思わずツッコミを入れたくなるような存在であるが、彼らのような「若手政治家達」の存在があるが故に、石原慎太郎東京都知事に代表されるような「核武装論」者が一定の支持を得ていると思うと、彼らを単に「便乗主義者」「お調子者」といって片付けてしまうことはできないのではないか、と思う。
彼らには、万が一にも「核戦争」が起こったら、というような想像力が欠如しているのではないか。前にも書いたように「冷戦」構造が残っている東アジアでは、北朝鮮だけでなくロシアの極東部隊をはじめ中国人民軍が日本(及びアメリカ)を「仮想敵国」としており、彼らが保持する「核弾頭」を搭載したミサイルは日本(就中、自衛隊基地及び在日米軍基地、主要施設)をターゲットにしていることを、まさかネオ・ナショナリスト顔を隠さない若手政治家達は知らないというわけではないと思うが、先のアジア・太平洋戦争もABCD包囲網を敷かれた「窮鼠・日本」が苦し紛れに「やられる前にやれ」ということで、破滅への道を歩んだことを思うと、何だか不気味な気がしてならない。単なるパフォーマンスであればいいのだが……。
と、そんなことを思いつつ、新学期を迎えて何かと気ぜわしい大学から帰って溜まっていた新聞を読んでいたら、東京新聞の文化欄(4月9日)に比較的若い作家の星野智幸が「なぜ理性は働かなかったのか―北朝鮮「ミサイル」発射 日本社会の反応」を書いているのに気付いた。星野は、なぜ「振り込み詐欺」の被害がなくならないのかという問題と今度の北朝鮮「ミサイル」発射事件とを重ねて、それは「パニック」に陥ったから(マスコミ・ジャーナリズムによってパニックが作られたから)と分析し、「われわれ日本社会の住人は、あまりにも安易にパニックや感情の爆発に身を委ねる癖がついてはいないだろうか」と結論していた。どちらかといえば、「政治」や「今日的状況」に対して声高には発言してこなかった(と記憶している)星野智幸のこの文章を読んで、何だかほっとした気分になった。星野も偉いが、日本中がこぞって「北朝鮮、撃つべし」という風潮に染まっているときに、星野にこのような文章を書かせた東京新聞の記者も偉い、と思わざるを得なかった。
折しも、1年間の懸案であった「村上龍論」を書き上げ、文章の見直しをしながら、村上龍のように「日本(の現状)」を相対化することにその創作のモチーフを置いている作家が最近は少なくなった、と思っていたところだったので、最近の芥川賞受賞作家が「外界・外部」を遮断している(ように、僕には思える)女性に集中していることと合わせて、大江健三郎ではないが、このままでは現代文学は「窮境」に陥るのではないか、と懸念していたということもあって、星野の文章は爽快感すらもたらすものになっていた。
それにしても、苛立ちを押さえることのできないこの「閉塞感」と、そんな状況とは全く無縁な場所で生きているように見える人々の暮らし、それが「庶民の生活」・「日常」ということなのかも知れないが(僕自身もそのような「矛盾」を引き受けて生きていると自覚しているのだが)、そのような「日常」をいかに突破していくか、僕らの前には課題山積だと思わざるを得ない。
彼らには、万が一にも「核戦争」が起こったら、というような想像力が欠如しているのではないか。前にも書いたように「冷戦」構造が残っている東アジアでは、北朝鮮だけでなくロシアの極東部隊をはじめ中国人民軍が日本(及びアメリカ)を「仮想敵国」としており、彼らが保持する「核弾頭」を搭載したミサイルは日本(就中、自衛隊基地及び在日米軍基地、主要施設)をターゲットにしていることを、まさかネオ・ナショナリスト顔を隠さない若手政治家達は知らないというわけではないと思うが、先のアジア・太平洋戦争もABCD包囲網を敷かれた「窮鼠・日本」が苦し紛れに「やられる前にやれ」ということで、破滅への道を歩んだことを思うと、何だか不気味な気がしてならない。単なるパフォーマンスであればいいのだが……。
と、そんなことを思いつつ、新学期を迎えて何かと気ぜわしい大学から帰って溜まっていた新聞を読んでいたら、東京新聞の文化欄(4月9日)に比較的若い作家の星野智幸が「なぜ理性は働かなかったのか―北朝鮮「ミサイル」発射 日本社会の反応」を書いているのに気付いた。星野は、なぜ「振り込み詐欺」の被害がなくならないのかという問題と今度の北朝鮮「ミサイル」発射事件とを重ねて、それは「パニック」に陥ったから(マスコミ・ジャーナリズムによってパニックが作られたから)と分析し、「われわれ日本社会の住人は、あまりにも安易にパニックや感情の爆発に身を委ねる癖がついてはいないだろうか」と結論していた。どちらかといえば、「政治」や「今日的状況」に対して声高には発言してこなかった(と記憶している)星野智幸のこの文章を読んで、何だかほっとした気分になった。星野も偉いが、日本中がこぞって「北朝鮮、撃つべし」という風潮に染まっているときに、星野にこのような文章を書かせた東京新聞の記者も偉い、と思わざるを得なかった。
折しも、1年間の懸案であった「村上龍論」を書き上げ、文章の見直しをしながら、村上龍のように「日本(の現状)」を相対化することにその創作のモチーフを置いている作家が最近は少なくなった、と思っていたところだったので、最近の芥川賞受賞作家が「外界・外部」を遮断している(ように、僕には思える)女性に集中していることと合わせて、大江健三郎ではないが、このままでは現代文学は「窮境」に陥るのではないか、と懸念していたということもあって、星野の文章は爽快感すらもたらすものになっていた。
それにしても、苛立ちを押さえることのできないこの「閉塞感」と、そんな状況とは全く無縁な場所で生きているように見える人々の暮らし、それが「庶民の生活」・「日常」ということなのかも知れないが(僕自身もそのような「矛盾」を引き受けて生きていると自覚しているのだが)、そのような「日常」をいかに突破していくか、僕らの前には課題山積だと思わざるを得ない。
星野智幸さんですが、しばらく新聞記者をされていましたし、政治的な発言も多いですね。心ある作家たちは世界(と、その中に含まれる日本)のことを、当然考えているはずです。
そういう意味での「連帯」は現在でも「アリ」だと信じているんです。決して死語にしてはいけないと思いますね。