黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

作家の感性?それとも……

2009-04-18 05:18:14 | 文学
 今以て僕によく分からないのは、何故あの石原慎太郎東京都知事が2016年開催予定のオリンピックにご執心なのか、ということである。昨年の北京オリンピックを持ち出すまでもなく、確かにオリンピックというのは「経済の好調振り」をPRしたり(併せて経済効果も期待する)、「国威掲揚」(ナショナリズムの鼓吹)にはうってつけの祭典と言うことができるだろう。その意味では、ネオ・ナショナリストの親玉(タカ派政治家の頭領)のような石原慎太郎がオリンピックの東京開催に夢中になっているのは、わからなくはない。
 また宮台真司首都大学東京教授が言っているように(確か、TBSラジオで聞いたのだが)、初代東京都市長の後藤新平の構想に倣って、オリンピック開催を機に東京を再開発し「理想の都市」建設を目論んでいる、とも考えられる。「作家」としては今一だから、首都改造を行った政治家として何とか「名を残そう」としているのかも知れない。
 しかし、いずれにしろ、北京オリンピックでもそうであったが、オリンピックが「国家的行事」として行われる以上、競技場建設(改装も)や交通アクセス、宿泊施設の整備のために犠牲になるのは、庶民=生活者である――北京オリンピックの前年に北京を訪れたとき、北京市の至るところが「工事中」であり、裏通りの古い街並みが(強制)撤去され、「建設途中」ということで荒れ放題になっている状態を目撃したが、東京は基本的には既存の施設を使用すると言っているとしても、どう考えても東京都民や関係者が「無傷」(全く犠牲を払うことがない)で済むわけがない――。石原都知事の「第三国人」発言などが象徴している「強者の論理」を知る僕らとしては、もし東京でオリンピックが開かれたとしたら、石原氏が「弱者」を置き去り・無視した方法で諸施設や交通手段などを建設・改修するのではないか、と思わざるを得ない。
 というのが、内心では「関係ないな」と思いながら、これまでにぼんやりと考えてきたことであるが、昨日の新聞を読んで、ああやっぱりな、衣の下の鎧が見えてきたな、と思ったのが、オリンピック(IOC)調査委員会の「韓国では、石原都知事が推進している東京オリンピック開催に反対する意見があるが」といった主旨の質問に関連して、戦前の36年間に及ぶ日本帝国主義の朝鮮支配(植民地化)に関して、「西洋のアジアにおける植民地経営に比べて、日本の場合、大変公平だった。そのように(暗殺された)朴大統領から直接聞いたことがある」というような問題発言を行った。死人に口なしだから、朴元大統領が石原氏に何を言ったかは今では不明だが、そのこととは別に、「事実」として日本の植民地となった朝鮮において日本帝国主義が何を行ったのか、そのぐらいは芥川賞作家としても、右派政治家としても知っておくべきなのではないか(あるいは、知っていながら、敢えて「右派」、「ネオ・ナショナリスト」として自己を定立させる必要があって、ということなのかも知れない)。石原氏が好きな「民族」を持ち出すまでもなく、日本語の強制(ハングルの使用禁止)、創氏改名、宮城遙拝、等々に象徴される過酷な「日本人化」政策が、なぜ「公平」なのか? もし、日本(人)がそのようなことを強制されたとしても、石原氏は「公平」だと言うのか? かれはかつてアメリカに向かって「NOと言える日本」という本を書いて、日本人の「矜持」(使いたくない言葉だが)を占めそうとしたが、作家ならば「想像力」を働かせて、かつての植民地宗主国の政治指導者に連なる自分に「あの植民地政策は公平だった」と言われた朝鮮民族がどのようなことを思うのか、考えてみればいいのである。
 しかし、「南京大虐殺はなかった」とか「日本も(共産主義勢力の核に対して)核武装で対抗すべきである」とか、全く先のアジア・太平洋戦争の「責任」を考えようともしない言動を繰り返してきた石原東京都知事、彼が主導する「2016年東京オリンピック誘致」、どう考えても賛成しかねる、というのが偽らざる心境である。オリンピックで、柔道や水泳、マラソンといったかつて自分も競技したことのある種目の勝ち負けに一喜一憂する自分を鑑みると、大金を使う(エコと真逆なことを行っている)オリンピックにいくらかな疑念を感じつつも、大筋では「いいじゃない」と思っている自分を発見するのだが、石原氏に主導されたオリンピックだけは認めたくない、と思ってしまうのである。
 あれほど「想像力」の欠如している石原氏が芥川賞の選者であること、いくら昔から「権力」が好きな文藝春秋の意向を反映したものとはいえ、これも納得いかないし、許せないことだと思うが、どうだろうか。