黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

表現の自由・思想の自由

2009-04-04 09:41:34 | 近況
 昨日ある会合があって上京したのだが、その席である女性から「ごめんなさい。ブログの混乱(たぶん、炎上のことを指しているのだろう)に手を貸すようなことをしてしまって」と言われた。彼女も「匿名」(実際は、本名の下の名をひらがな書きしていたのだが、どんな職業や年齢、立場であるかを明らかにしていない点で、「匿名」と言えるだろう)でコメント欄における「論争」に参加していたらしいのである。彼女に言われて直ぐにどのような発言をしていたのか分かったが、彼女にとって「匿名」で投稿したことをすごく気にしていたようなので、「気にしないで、僕は大丈夫だから」と言っておいたが、「ブログ炎上」がブログの主宰者だけでなく、心ある人を傷つけてしまったことを思うと、ネット社会の「闇」というか、「負」の部分を改めて考えざるを得なかった。
 そこで、なぜ僕が「匿名性」の陰に隠れた「筆=言論の暴力」に批判的か、と言い点に関してもう一度言っておけば、本来「匿名」で主義主張を述べたり批判を展開するのは、権力との関係において「弱い立場」の人間が本名を名乗ることで不当な弾圧を受ける可能性があるからで、「弱い立場=権力の側に立っていない人」を誹謗・中傷するためではない。このような「言葉」による権力批判は、江戸時代以降(もしかしたらそれ以前から? 「枕草子」や「方丈記」、「徒然草」などのエッセイには明らかに時の権力への反意を読み取ることができる)現代までずっと続いていることであるが、現在ネット社会で行われている「匿名」による他者の批判・誹謗・中傷は、「学校裏サイト」などが象徴するように、(たぶん)弱者が弱者を「いじめる」構造になっており、そのような構造を(意識的・無意識的を問わず)容認した上で成り立っているものである。
 例えば、このところこのブログに、何が気に入らないのか(たぶん、僕が国立大学の教員であることが最大の「不満」、「気に入らないこと」なのだろう)、「四条烏丸」と名乗る人(京都のお人か)の、執拗な「黒古批判」、この人など何方か(この人も匿名だったが)に、「高所・高見」からもの申しており、嫌らしいというような意味の言葉で批判されていたにもかかわらず、相変わらず、自分の身分や思想信条を明らかにしないまま、僕が大学教師でいることに対する「不満」を縷々述べている。もしかしたら、国立大学の教師になりたくてなりたくて仕方がなかったのに、なれなかったので、その「怨念」を僕にぶつけているのかも知れないが、もしそうでなくて、本当の「正義感・理想」から、国立大学の教師に「あるべき姿」を求めているのだとしたら、現実を知らない脳天気な人だな、という感想を述べるしかなく、僕にそんな「理想」や「正論」を求めないでよ、と言うしかない。
 「匿名」が問題なのは、件の「四条烏丸」氏の場合のように、批判された側(例えば僕)には批判した人に対する判断材料が全くなく(匿名だし、隠している節もあるので)、論争が本来持っている「対等・平等」の原則を著しく損なっているからに他ならない。そのことに「四条烏丸」氏は気付いていないから(気付かないふりをしているから)、「高見・高所」からものを言っているのだ、と氏の言説を読んだ人から批判される羽目になったのだろう。「四条烏丸」氏のような考え方で国立大学の教員を「恫喝」するから、大学から「大学の自治」も消え、「自由」な雰囲気も消えていくのではないか(僕は、ある教員が「論文審査」において、<この論文が載っている雑誌は「左翼的」だから考えなければならない>、と発言したとき、ぞっとしたが、国立大学の教員はおしなべて「体制追従」(権力に協力する)でなければ行けないと読める「四条烏丸」は、そのような教員ばかりが国立大学の教員になればいいと思っているのだろうか。)
 いずれにせよ、原則的に「匿名氏」にはコメントで応えることはしない、ということを再度確認しておきたいと思う(このような「一般論」で、例として取り上げることはあるかも知れないが)。

 それにしても、北朝鮮の「人工衛星打ち上げ実験」(弾道ミサイル発射実験)が今日にも実行される段階になってきたが、ここにきてこの問題に関わる防衛省・防衛族議員・軍需産業(に加えてネオ・ナショナリストたち)の「思惑」が徐々に明らかになってきたように思う。秋田県沖、と言われているのも関わらず、東京は市ヶ谷のこれ見よがしに配備されたPC3(パトリオット、1発2億円だそうだ。因みに、イージス艦の装備されているMS3は1発20億円だという)、この異様な姿が何を意味しているのか。ミサイルが発射されたとき、もう一度考えてみたいと思う。