黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

停滞の中で、何を?

2009-04-14 10:44:17 | 文学
 可もなく不可もなく、「日常」は常に音もなく過ぎ去っていくものだと思いつつ、あの意味もなくのけぞって笑う「権力亡者」としか思えない首相の姿をテレビの画面や新聞の写真で見ると、ついつい心穏やかならざる状況になるのは、何故なのか。
 頻繁に上京するわけではないが、上京する度に車内でアナウンスされるのは、東京に乗り入れているJRや私鉄、あるいは地下鉄のどこかで「人身事故」が起こり、そのためにダイヤが乱れている、ということである。あれを聞いていつも思うのは、これほどまでに毎日どこかで「人身事故=自殺」が起こっていれば、年間の自殺者数が3万人を超えるというのも実感できる。この社会の底辺で、あるいは内部で何かが確実に壊れつつあると思うのは、まさにそのような「人身事故」のニュースを聞いたときなどであるが、僕が首相の「意味のない笑い」を嫌悪するのは、あの「笑い」には「人身事故」を起こすような<弱者>に対する想像力が全く感じられないからに他ならない。
「政治」というのはまさにそのような<弱者>を切り捨てたところに成立するのかも知れない、と改めて思い知らされているのは、前にも書いたがこのところ辻井喬(堤清二)の小説をずっと読んでいて、その中で彼が東大生だったときに入党した日本共産党時代の体験を下敷きにした作品があり(処女作の「彷徨の季節の中で」意外にも、初期の作品には自分が「西武」グループの総裁であった堤康次郎の息子でありながら共産党員として革命運動(学生運動)に従事していたことが陰に陽に書き込まれている)、そこからも「政治」の酷薄さを知らされ続けているからに他ならない。
 また、辻井喬の小説と並行して、近日中に発刊される季刊雑誌「月光」の第3号で特集を組む予定の「全共闘と文学」のために(さらに、刊行が予定されている「桐山襲全集」2~3巻本のために)、僕らが学生時代を過ごした60年代後半から70年代初めにかけての「政治の季節」体験を下敷きにした作品を読みまくっている、ということがあって、その結果、更に強烈に「政治」の酷薄さを痛感している、といことがある。
 いずれにせよ、どのような時代であろうと人々の「不満」や「不安」は解消されることはない。そこに「政治」が浮上してくるのだろうと思うが、そのような原理から全く無関係を装っているように見える昨今の現代文学、一体全体どうなっているのだろうか、と思わざるを得ない。今、実はそのような現代文学の有り様について一文を書こうと、これまた準備している最中なのであるが、読まなければならない作品が山のようにあり、その山の前で佇んでいる、というのもまた僕の現実であって、なんだかんだ言っても、書いた物を読んでもらうしかないのだろう。僕としては、僕なりの視点で精一杯書いているつもりなのだが、内心「期待してください」と思いながら、日々を送るしかないと思っている今日この頃です。