黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

新芥川賞作家

2007-07-18 08:37:50 | 文学
 朝一番にPCを開けたら、ニュースの中に芥川賞と直木賞の受賞者が決まったというのがあった。
 直木賞は前に一度だけ書評したことのある坂東女史だったけれど、芥川賞は全くの新人で今年5月に「群像新人文学賞」を受賞したばかりの諏訪哲史という人。受賞作「アサッテの人」は群像新人賞をもらった作品ということで、思い出したが、これぞ「メタ小説」と言うべき小説で、これではますます現代文学が一部「好事家」のものになってしまうのではないか、という感想を抱いた記憶がある。もう一度ゆっくり読み直してみようとは思うが、村上春樹や吉本ばななといった「ポスト・モダン」文学ががこのような形に昇華したのであれば、日本の現代文学に未来はないのではないか、と思わざるを得ない。
 丁度この作品を読んだのが、「村上春樹論」の「第2部=書き下ろし部分」を書いた直後であり、中国へ行くことが決まり、彼の地で話すこと(日本の現代文学ー大江健三郎から村上春樹までー)も決まった時期だったので、この社会や現実とほとんど切り結ぶことのない「実験小説」的な作風には、違和感を覚えざるを得なかった。
 選考委員の人たちは、本当に現代文学の在り方と行く末を考えて、今度のような作品を該当作として選んだのだろうか。そのあたりのことについてはほとんど関心がないので、どうでもいいが、見せかけの「平和」と「豊かさ」の中で純粋培養されたような小説を、誰が、何のために読む、と選考委員たちは考えたのだろうか。「純文学衰退説」が言われるようになって久しいが、前回の青山七恵の「ひとり日和」はまだ許せるとして、今回の芥川賞はいただけない。と書くと、あいつに先端的な小説は分からないとか、相も変わらぬ戦後派的立場か、とか言うような反発・批判が寄せられるのは目に見えているが、「ギルド=文壇」とは無縁に生きている僕としては、それはどうでもいいことで、それよりは読者の「純文学」離れが加速されることを恐れる。
 この諏訪哲史というような作家は、例えば「新潟県中越沖地震」などと自分の作品との関係をどのように考えるのだろうか。あるいは、時間と共に明らかになる柏崎刈羽原発(東京電力)の地震による不具合やその報道と自分の文学との関係について、彼は文学の問題として考えることがあるのだろうか。
 どうも最近の現代文学は、「真空状態」あるいは「無菌状態」の中で、お仲間だけが集まってワイワイガヤガヤ言っているだけのように見えるのだが、本当はどうなのだろうか。
「メタ批評」から「メタ小説」、この流れが現代文学をつまらなくさせ、読者離れに拍車をかけたこと、文芸誌の編集者たちはもう一度考えた方がいいのではないか、と思うが、どうだろうか。

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